今回の記事は横浜ベイサイドマリーナや横浜市南部市場での買物を休日に楽しまれる人向けの記事です。
小生の記事はGoogleMapにリンクさせてあります。
住所
下の様な各所の紹介で、住所をクリックするとGoogleMapが起動して乗換案内やカーナビとしてそのまま利用する事が出来ますし、徒歩経路も調べる事が出来ます。

さて、横浜市民に限らず市内外の人は週末に横浜八景島シーパラダイスでのレジャー―やベイサイドマリーナで服飾品や横浜市南部市場での新鮮な鮮魚や青果の買い物を楽しむ方々も多いかと思います。
でも、何回も行ってると施設内の御店の御飯も食べつくして飽きちゃったな~と言う人も少なくないのでは?
そこで・・・
「もうフードコートの料理食べつくしたしな~」
 とか
「せっかく横浜に来たら美味しい本場の家系拉麺食べたいなぁ~」
 とか
「家系以外で美味しい拉麺も食べたいなぁ~」
・・・と言う人には今回の紹介する拉麺屋さんが参考に成ると思います。
また、歴史オタク視点での家系総本山吉村家と杉田家が繁盛した理由を解説もしたいと思います。

まず今回紹介する御店はベイサイドマリーナや南部市場近くの2店舗です、車かシーサイドラインで訪問される方には参考に成るかと思います。
1つは家系総本山吉村家直系の暖簾分け1号店、杉田家。
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ラーメン 杉田家
家系総本山吉村家直系1号店

シーサイドライン、京急、JR京浜東北線根岸線の利用客に便利な新杉田駅の直ぐ近くに存在しています。

2つ目はベイサイドマリーナの直ぐ近く、少し目立たない場所に有るけど美味しい拉麵を提供している❝らぁめん こもん❞です。
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らぁめん こもん
こちらは本当に目立たない場所でラーメン屋と認識できるのは木陰に隠れたラーメンの赤いのぼり旗だけ、決して大繁盛店ではなく知る人ぞ知る名店ですが金沢区や磯子区の地元民とベイサイドマリーナ勤務者には知られている御店です。

先(ま)ず2つの御店の位置関係を見てから御店の紹介、そして次に家系創業地や繁盛店共通店を歴史オタク視点で解説します。
では2つの拉麵店と周辺3つの観光拠点+α名所を地図で位置関係を見てみましょう。
※下の図をクリックして拡大して見て下さい。
位置関係
Googleの衛星画像の左手に❝杉田家❞、上部の右寄りに❝こもん❞が有りますね。
周辺に歴史史跡や商業施設も表示してあります。
さて、御覧の通りベイサイドマリーナや南部市場に非常にアクセスの良い立地に二つのラーメン店が有る位置関係は御理解いただけたかと思います。
次に各店舗を紹介します。
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ラーメン 杉田家
家系総本山吉村家直系1号店

【交通】
—電車&徒歩—
JR新杉田駅~徒歩03分。
京急杉田駅 ~徒歩11分。
— 車 —
専用駐車場無し。
周辺のコインパーキングを利用。
自己責任で路駐。
——店構え——
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——拉麺——
拉麺(並)+味玉
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——サイドメニュー——
御飯(まぶし)
御飯注文して「まぶし」と伝えると煮豚の端切れで牛丼風にしてくれます。
 +
チャンジャ(干鱈のキムチ)
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元々工場地帯の従業員に好まれて繁盛した吉村家創業地の地盤で客を引き受けている直系店らしく鶏油と醤油タレは調整出来る上に、豊富な鶏ガラと豚骨のスープはガツンと本当に美味い。
時間帯によってもガラの投入タイミングにより味が若干変わるので、好みを伝えて調整する域に成ると本当の通らしいですよ。
小生は深夜しか行かないので味は普通(少し濃い目かな?)で一貫してます。
歴史の解説に関しては後程行います。
こちらはシーサイドライン利用客なら八景島、ベイサイドマリーナ、南部市場全ての利用客に便利な立地ですし、車も車道に皆自己責任で路駐してますwww。

では次に、ベイサイドマリーナ近くにありベイサイドマリーナ職員や周辺工場のOLに人気だけどランチタイムしか営業しないから余り地元以外には知られていない❝こもん❞を紹介します。
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らぁめん こもん
※営業時間ランチタイムだけ。
【交通】
—電車&徒歩—
シーサイドライン鳥浜駅~徒歩03分。
— 車 —
駐車可能スペース若干有り。
直ぐ近くに横浜ベイサイドマリーナ
ベイサイドマリーナ~徒歩03分。
——店構え——
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——拉麺——
濱塩白湯 700円
 +
味玉 100円
 +
肉1枚 100円
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——サイドメニュー——
ランチごはん(ミニ肉めし) 100円
ランチごはんの食券を購入して「ミニネギめし」か「ミニ肉めし」かを伝えるとトッピングしてくれます。
ラーメンは麺は細縮(ちぢ)れ麵、スープはコクもあるけどクドくなく香りも良いので全部飲み干しても美味しい(笑)。
子供にも安心させて食べさせられる食べる人を選ばない美味しさのラーメン。
ベイサイドマリーナから徒歩圏内なのでフードコート飽きた人にはお勧め!
御店は一昔前の田舎のオシャレ崩れ食堂(笑)みたいな雰囲気だけど、御店主のオッチャンと店員のオバちゃん真面目な人で良き店。デート向きの雰囲気では無いけど店はいわゆる拉麺店よりくつろげる。

——こっから歴史や拉麺店繁盛理由の解説——

さて、御店の紹介はここまでにして、少しラーメン屋の立地を歴史オタク視点で解説します。
拉麺フリークは拉麺にしか興味が無い人が多いのですが、歴史オタクには地政学的に拉麺店の立地に興味が有ったり、歴史旅行の先でラーメンを食べる事を楽しみにしている人が多くいて、今回は杉田家=吉村家が繁盛した理由も少し解説したいと思います。
家系ラーメン発祥地と言えば横浜市磯子区新杉田駅前に嘗(かつ)て存在した家系総本山❝吉村家❞の最初の店舗なのを知る人は多いかと思います。

2023年03月、杉田からの移転先、横浜駅西口の鶴屋町交差点から2度目の移転をする事に成り話題に成ってましたねぇ~。
吉村社長は最早、横浜在来種の横浜拉麺を発展させた家系を作り上げ、拉麺業界の歴史人物と言っても過言では無いかと思います。

さて、その吉村家の最初の店舗の地盤は吉村社長の最も有名な直弟子の津村さんに引き継がれています。
正確に言うと、津村さんが開いた杉田家の前の道路を挟んで斜向かいの位置に元々は吉村家が存在していたのですが、横浜駅西口へ移転の際に現在の杉田家を吉村家直系最初の暖簾分けとして開く事を許されたのが杉田家でした。
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繁盛する店は勿論❝美味しくて当たり前❞、実は立地には戦国武将の城作りと同じ❝交通の要所❞や❝産業拠点❞である必要が有ります。
では杉田家に地盤を受け継がせた吉村家は何故繁盛したのでしょうか?
小生の理論が正しいか、少し一緒に見てみましょう。
もう一度、周辺地理画像を見て下さい。
位置関係
周辺に色んな史跡が表示してありますよね~?
では別角度で画像を見てみましょう。
杉田家周辺
実は杉田は徳川幕府で最初の鷹匠頭(奉行)を務めた2000石の大身旗本、杉田間宮家の陣屋(城館)が有りました。
その事は古参の読者さんは御存じですが以前紹介したことが有りますね~。
間宮家関連の記事は以下のカテゴリー「間宮家」の一覧から読みたい物を探して見て下さい。
もしかしたら皆さんの御近所にも紹介済みの場所が有るかも知れません。

※スマホで見た方が読みたい記事を一覧で表示出来るので探しやすいかも知れません。
笹下城や間宮家本家に関しては下の記事を読んで下さい。

杉田間宮家の菩提寺の妙法寺も以前紹介してますが、一帯は倭建神話の舞台でもあり、小生の見立てでは妙法寺の裏山の舌状丘陵は戦国時代には間宮家の詰城として要害化されていたと推測しています。
近代にも軍事的に重要視されて戦時中は高射砲の砲台が設置されていました。
実は陸軍や海軍は明治時代から戦国時代の城塞跡を調べさせて近代戦争に転用出来る地形を必死に探していました。
敗戦直前にも日本帝国軍に横須賀飛行場や横浜飛行場の防空/海防の防衛拠点の一つとして整備されて居た訳ですね~。
何故ここが重要視されていたかと言うと、それは優れた港湾だったからです。
戦国時代に武蔵国~相模国三浦半島一帯は房総半島の里見水軍により海賊行為で度々略奪放火されており、今の磯子区洋光台1丁目~港南区笹下~港南区港南の広大な範囲に及ぶ通称:笹下(ささげ)城の城塞群が築かれると里見海賊の東京湾久良岐郡側への略奪放火は治まりました、それが凡(おおよ)そ西暦1530年代の話ですね~。
里見家により鎌倉市街地が略奪放火され鶴岡八幡宮までも戦火で灰燼に帰した際も、横浜市南区の蒔田城主で北条家従属大名だった吉良家の吉良頼康公が鎌倉公方代理の権威で材木を集めさせ水軍で海運で運搬しました。
蒔田吉良家の事は下の記事を参考にして見てください。

それ等の材木は間宮家の属した黄備え隊の寄親(方面軍団長)で鎌倉復興の材木奉行を務めた北条綱成(つなしげ)公の代理として、間宮家が材木を集積させ鎌倉に輸送する貯木場に使われたのが、間宮家が支配した杉田湊(みなと)でした。

戦国時代の人物関係ついでに城と江戸時代の館跡が杉田家の近くには存在していた事を紹介してみた訳ですが、更にここは間宮家だけが重視していた訳ではなく、鎌倉時代にも杉田の中原地区の熊野神社は源義朝公が元々鎌倉時代に鎌倉の山崎に存在した泉蔵院と言う修験道の大寺院の支院の熊野社として開き、後に戦乱によって鎌倉の山崎に在った泉蔵院が本院としての機能を磯子区杉田駅近くの熊野神社に移転して来た場所でした。

水田が少なく耕作に向かない本来は農業生産力の低い杉田が重要拠点だったのは杉田が良港であり鶴岡八幡宮の直轄地=社領だった時代も有るし、北条家相模十四騎筆頭と呼ばれた間宮家の支配地として水軍の軍港だった歴史に裏付けでされた海陸交通上の立地の良さが現代にも受け継がれているからと言う戦略上の重要度が解って頂けたでしょうか?
ですから周辺には優れた水源地の有る港湾機能を利用して昭和の戦前戦中には軍事拠点、戦後には多くの大規模造船工場や家電製品や自動車工場が作られていたんですね。

さて、この段階でラーメン繁盛店が有る場所は略(ほぼ)、中世の御城の近所と言う話しに到ります。
つまり御城の有る場所は現代でも交通の要所だったり産業の拠点に成る訳です、すると多くの工場従業員やトラックドライバーやタクシードライバーをリピーターとして獲得出来るチャンスが大きく有る訳です。

吉村家も産業道路沿いの為、ネットの無かった時代に多くのトラックドライバーに口コミで全国へと噂を広げて貰え、尚且つIHIや日本飛行機や東芝の従業員がJR新杉田駅や京急杉田駅への通勤前、帰路寄って貰えて繁盛する足場を確保出来た訳ですね。
無論、肝心のラーメンが不味いと繁盛はしませんから家系創始者吉村社長のラーメンは今や直弟子数百人を数える程の従業員を育てて来れただけ美味しかった訳ですね。
因(ちな)みに港の話に少し戻ると、杉田家の近くの金沢区長浜地区は明治時代には未だ海で、東京湾に入港する貿易船の検疫を行う港が有りました。

そこに勤務していたのが野口英世さんで、世界で初めてペストを検疫で中国人船員から検出して日本へのペスト流入を防いだんですね。
まぁ、林文子前市長と厚生労働省はダイヤモンドプリンセスでの対応失敗して2020年にワクチン接種前の日本人をコロナ拡散の危機に晒した訳ですけど。

まぁ、そんな訳で実はラーメン店は交通の要所や産業の生産拠点の近くに有る方が繁盛しやすいんですよ。
さてさて、そんな訳で産業拠点の杉田駅や商業拠点の南部市場やベイサイドマリーナの近くにある拉麺店は、それ等の施設の利用客に便利な立地なので今回紹介してみました。

花粉症酷い季節、皆さん季節の変わり目ですから体調に気をつけて下されやぁ~。

では又、次のブログ記事でお会いしましょう~♪