歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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カテゴリ:寺社/仏閣/城址/有形文化財/伝承と伝統文化 > 神社

まだ未参詣なのですが、海老名市今泉に浅間大神と言う神社様が在りまして、Twitterで御話してたら面白い事が解ったんで転載して見ます。
久良岐のよし 自作指輪アイコン
小生。自作の指輪をアイコンにする一般人素人歴史オタク。だから失礼な質問もしてしまいます。
間違いを色んな宮司様や和尚様に指摘して頂きながら民俗伝承史書実情を繋げるのが好きな人。

有鹿神社宮司様
有鹿神社宮司様、海老名の郷土史に御詳しく歴史学者よりも周辺民俗学に御詳しい方々と勉強会を開かれる熱心な方。

小生と有鹿神社宮司様とは直接関係有りませんが、有鹿神社奥宮の神秘的な様子が好きで参拝以来、Twitterでフォローしています。

さて、有鹿神社宮司様が海老名市今泉の浅間大神が農業にとってとても大切な神様だとTwitterで解説してくださっていました。しかし素人の小生には浅間権現=此花咲耶姫(このはなさくやひめ)命=富士山とステレオタイプで余り海老名の事はまだまだ知らないので普通にこんな疑問が湧きました。
「絶対に富士山が見える場所のはず」
所が御当地の“浅間大神様では富士山が見えない立地!”と衝撃の事実を御教授頂いた小生、そこから少し調べものしたら色々繋がりました…

以下はTwitterのやり取りの転載。

有鹿神社宮司様
浅間大神は、木花咲耶姫を祭神とし、また、海老名耕地の用水を守る位置に鎮座する、という問題について用意した回答です。
「山の森林に雨が降ると、雨は浸み込み腐葉土などで濾過され、酒清水の湧き出す泉となり、川となり、大地を潤し、また、海に流入し、漁場を形成する。 そうすると、山と水は関係するので、浅間大神は、山の神であって、水の神ということになります。」
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有鹿神社宮司様
海老名耕地は、今も、碁盤の目のように、古田条里制の名残りを示しています。古くは、有鹿の泉を水源の一つとする鳩川を用水としていました。いや、鳩川沿いに農耕地が広がり、海老名耕地にまで到達しました。 そのため、この用水の節や分岐点に鎮座する数多くの神社があり、浅間大神も一つです。
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有鹿神社宮司様
かって、世の男性が細君を「山の神」といっていたことがあります。 山の神の娘は、美人の「木花咲耶姫」ですね。自慢しているのでしょうか。 実は、もう一人娘がいます。それは、醜女といわれる「磐長姫」(磐長姫)です。 どうも、夫が謙遜して、こちらの方を行っているように思われます。
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久良岐のよし 自作指輪アイコン※ここで無学な小生がしゃしゃり出る。
木花咲耶姫命の存在そのものが神仏集合時代の富士山信仰の対象でして浅間権現と呼ばれていますので、寧ろ世の男性は御妻君を建てたのが山の神かなと。 そして・・・
山の神なので抗う事の出来ない存在=独裁者=恐妻=かかぁ天下 ・
・・と比喩で自分の存在を矮小化して失笑を誘う洒落かとも。
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宮司様には釈迦に説法、神に道を説くような無礼を失礼致します。 余談ですが磐や巖は山の象徴とされますから、磐長姫も含まれているかも知れませんね~。
結局、美人でも非美人でも奥さんには抗えない男性が今も昔も多いのかも。
小生は美人だろうが権力だろうが理不尽に従いませんが。
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(※小生の思考なぞどうでも良い余計な事を書く。馬鹿丸出し。)
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有鹿神社宮司様※ここで寛大な宮司様が無礼を看過下さりレスポンス下さる。
その通りです。有難うございます。
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有鹿神社宮司様
浅間大神は、古くは、海老名耕地の用水を守る神として祀られていたと考えられます。 その後、水神としての性格を維持しつつ、時の領主が信仰する浅間神社の神霊を勧請し、特に、浅間大神という名称で地域性を出しています。 神社の名称は、地名と同様に、時の権力者により変更されて来ました。
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久良岐のよし 自作指輪アイコン※ここで疑問を質問する。文字数都合で話し言葉の失礼な文。
富士山が見える場所に鎮座してらっしゃるんじゃないですか? 江戸時代の旧甲州街道沿い相模川上流の桂川沿いなんかも富士講の富士山遥拝地の御祓をした河原近くとか遥拝地跡には必ず浅間権現の石碑が在りますよ! もしかしたら、その浅間権現の在所は旧甲州街道に通じた道では?海老名だし。
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※本当は敬語で書きたかったんです(泣)!
   

有鹿神社宮司様※又も寛大に小生の無礼口調を見逃して下さる宮司様。
ところが、富士山が見えないのです。だから、富士塚をつくりたいと願っております。
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ここから少し調べ物を始める小生…
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面白い事が解りました。 海老名市今泉の浅間大神からは間違いなく富士山が見える様です。 正確に言うと、昔の人は富士山の位置を正確に把握していらっしゃった様です。 未だ参詣していなので余計に先入観無く調べる事が出来ました。 さて、御当社からは添付の風景が見える筈です。 大山。
海老名市今泉浅間大神は大山と富士山の遥拝所① 久良岐のよし
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御存知の通り、石山権現大山阿夫利神社上社の御祭神、大山祇大神様と大雷神様が祀られてらっしゃいますが、浅間権現此花咲耶姫命様の御父神様に当たられます。 実は海老名市今泉の浅間大神から大山阿夫利神社上社を遥拝すると、その背後には富士山が存在しており、昔の人はこれを知る術がありました。
海老名市今泉浅間大神は大山と富士山の遥拝所② 久良岐のよし
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現代人の我々にとって富士山は休火山です。死火山ではありません。 古来の名の通り富士山は不死山な訳ですが… 浅間大神の御社が成立した時期をずばり質問致します。
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富士山の延暦十九年~二十一年(800年 - 802年)の噴火の頃か…
貞観大地震が起きて噴火した貞観噴火の年、貞観六年~八年(西暦864年~866年)中もしくはその直後、或いは…
江戸時代の宝永四年(1707年)の富士山の宝永噴火の直後、そのいずれかの頃の成立ではありませんか?
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有鹿神社宮司様
延暦元年(782)と言われています。
※この成立年代で延喜式神名帳に掲載は無いが式外社だと間接的に教えて頂いている事に成る。
   

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お!じゃあそれより前の噴火が有るかも知れませんね!

今検索した所、天応元年(781年)に大噴火が起きていますね! これに対応して神社が開かれたと推測出来ますね!
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この歴史事件や地理に基づき考えると自ずと昔の人がどうやって大山山頂と富士山がピッタリ重なって見える位置に浅間大神様の御社を開いたかも解りますね。 つまり噴煙の位置が大山山頂から見える位置まで徒歩で移動して勧進した御分霊を祀ったと考えられます。
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そして富士山と相模川と鳩川を挟んで反対側なのは、二段構えの火砕流防壁の願いも込められていたのではないかと思われます。 源頼義公が鎌倉材木座、昔は由比と言った場所に八幡社を勧進し源頼朝公が横浜市金沢区富岡に兵庫県西宮市の西宮神社から蛭子神様を勧進した防潮の願いと同じ防災祈願かと。
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恐らくこうなる訳です。
①正確に富士山の位置が判る時代、噴煙の上がっていた時代に浅間大神の御社は造営された。
②富士山の噴火を恐れた防災の為の神社で、富士山と大山の遥拝所であり祭祀場所としてスタート。
③立地は火砕流予防の願いを込めて大河川のこちら側。
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④天応元年(781年)に大噴火があり、社伝に延暦元年(782年)の造営と伝わるそうで、天応大噴火の鎮化を願った神様の可能性が高い。
⑤娘(富士山)さんが怒っているので御父(大山)さんに守ってもらおうとした。
⑥恐らくは江戸時代に宝永噴火等あり富士講に大切にされた。
※この段階で浅間大神の神様の農業用水守護としての役割が頭からすっ飛んでる小生。
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こんな感じだと思いますが、夜分失礼しました。 宮司様、地理関係と噴火年代と神社の造営年代の一致、小生は偶然では無いと思いました。
ちょっと面白かったので、ブログにそのまま転載して掲載してみます。
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有鹿神社宮司様※寛大な宮司様、小生に農業用水守護の役割を思い出させて下さる。
いろいろと推測していただきましたが、有鹿神社から国分寺に続く一大縄を底辺とする三角形の頂点にあります。また、海老名耕地の用水の分岐点にあります。そこで、海老名耕地の稲作のための用水事情を背景として、水の神と考えています。
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※この宮司様のご指摘はとても大切で、農業用水に限らず小田原用水や玉川上水等の上水道も全ては最初の用水の幹線からの分岐点が最重要、そこに鎮座している事が凄く大切。
   

※これを受けて小生は思った。海老名の用水路はわざわざ富士山と大山が重なって見える場所に噴火の跡の農地復興の為に、噴火の鎮化と農業守護の目的で“有鹿神社~国分寺に続く一大繩を底辺とした大三角形”そこを頂点として浅間大神の神社が開かれ、そして神社の勧進と供に現在の用水路網の原型の建設が始まり、用水路と供に現在に至るのではないかと。
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確かに農業用水の神様としての機能は主要な御神威だったでしょうね! 何せ富士山と大山が重なる。 富士山噴火開始の翌年の創建。当然、火山灰が大変な事に成って農地も存続の危機だから水の神様の大山阿夫利神社の大山祇大神と高お神様に富士山が隠れる位置が大切。 そして農業の聖地鳩川。その水で復興する海老名の農地。用水路も水田も再建され、復興の願いの込められた浅間大神様な訳ですね。
※鳩川は有鹿神社奥宮、縄文時代の遺跡のど真ん中に在る聖地の断崖から水の湧く有鹿窟を水源とした聖なる川で、流域の農業用水として活用されていた。
※大河川の相模川の河川敷からそう遠く無く、川近くの平原に弥生時代に人の定住は無かったと少し前まで歴史学者は発掘調査もせずに一笑に付していたが昨今、海老名市を始め相模川等の大河川近くの平原部からどんどん弥生時代の遺跡が発掘され神奈川県の古い神社の伝承が正しい事が多い。県内の河川近くの平地に従来の考古学の一般論が通用しない場所が多い事が近年、証明されている。
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この条件が全部丸っとスッポリ治まるのが今泉の浅間大神様に成りますね。 恐らく宮司様達の伝承が主要な目的で、その為の鳩川を守る場所に富士山鎮火と大山阿夫利神社の降雨の御神威を勧進したのかなと。 それで富士山山頂、大山山頂の真っすぐ延長線上で、海老名の三角形頂点に置かれたのかなと。
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凄く神秘的な立地でとても楽しかったです。 では本当に夜分失礼しました。また、重ね重ね御教示賜りありがとうございます。

以上、Twitterでのやりとり。
やはり地元の古い神社や御寺の当人や博物館の学芸員さんや御詳しい人と話すと、嘘も多い文字から想像するよりも発見が多い。無論、文書を読み込むのもすごく大切で、両方しないとダメ。
小生はいつもなら直接突撃訪問して色々と御教授頂くのだが、今年は何だか体力も無く仕事も忙しく自分の副業もやらないといけず、ジムにも行く暇が余り無い。
去年はそれでも仕事終わってから風呂だけ入って徹夜で遠出し、車中泊で1時間くらい仮眠したら朝から夜まで活動で来たのに…
今年は無理だ。体調悪いのかな?
う~ん楽しみたい。


さて、今回、有鹿神社の宮司様に色々とヒントを頂いたり、無知のままに偶然地図を見て位置関係を把握したり、こう言う楽しみが有るのが郷土史なんだな。
だから皆さんにも御近所の神社や御寺や御城の跡を散歩して、古代の人の痕跡と接して見たり、思いがけない場所でトンでもない歴史偉人の足跡を見つけたりしたら良い気分転換に成りますよ~って御薦めしたい!

そう言えば、2016年と2017年、神奈川県と横浜市によって破壊された史跡や破損させられた古文書も盗難に遭った文化財も沢山有りましたが、国や民間に寄って文化財指定や特別な場所として認定された場所が少し有るので紹介します!
●高部屋神社の社殿…国登録有形文化財 伊勢原市下糟屋
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●高麗寄日本書… 国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
●大乗起信論別記…国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
●華厳経問答…  国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
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●小机城…続日本100名城125番 横浜市港北区小机
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※小机城は全国的に横浜市内に在って奇跡的な保存状態である事や、歴史的にも北条家の軍団の小机衆の拠点として重要性が知られているのだが、未だに横浜市教育委員会が史跡登録や歴史文化財指定申請を行わない不可解な状態が続くので、市による建設利権の為の破壊が懸念される。

是非みなさん、お散歩に行って見て下さい~♪
無論、海老名の浅間大神の御社で神様にも御参りして大山を遥拝してみて下さいね~!

では、又、次のブログ記事で!
次は多分、7月中旬の休日雑記。

前回の記事
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休日雑記 2017年06月24日の訪問先その①・・・【横浜市栄区~鎌倉市~藤沢市】JR大船駅~湘南モノレール江の島駅~レザークラフトすずき~江島道標~岩本楼
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コレの続き。
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前回、江ノ島の鳥居をくぐった直ぐ近くに有る旅館、岩本楼が明治時代まで江ノ島神社を含めた欽明天皇以来の天皇家の聖地としての江ノ島とその洞穴の管理を任されていた別当寺の‟岩本院”と言う寺院が前進だった事、明治以降に廃仏毀釈で旅館に転業し岩本楼と言う立派なホテルに成った事、そして岩本楼様の御厚意で宿泊客ではないのに資料館を見学させて頂き、又、昔の話もいくつか伺った事を書いて記事を一区切り着けた。
・・・現実社会での仕事が忙しく、そこから記事更新に10日間近く開いてしまったが、今日はそこからの続き。
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岩本楼さんの門を出て江ノ島神社の参道に復帰する。
すると目の前の階段の先に真っ赤な江ノ島神社下社の明神鳥居と唐様式の瑞心門が見えて来る。
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ふむ、美しい。ここに来ると一層「江ノ島に来たぞ~!」と言う感じに成る。
江ノ島神社の御祭神は恐らく最初は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)=宇賀神だったはずだ。
そこに源頼朝公によって、宇賀神と同一視された弁才天様が祀られ、江ノ島弁才天として有名に成った。
弁才天様は名前が御神威を中国語訳した名前で、本来は一部分が仏教の元に成った古代ヒンドゥー教の神様サラスヴァティー神だ。
大変に美人な神様で男の神様からモテモテだったので江ノ島神社は女性にとって縁結び、もとい女性的な魅力の向上の御利益が有る訳だが、それよりも本来は水神様、軍神、音楽神そして財神としての性格が強い神様だった。
・・・まぁ、こんな女性が奥さんだったら良妻賢母間違い無いだろうが釣り合いの取れる旦那様はヒンドゥー教でサラスヴァティ神の旦那様とされたシヴァ神こと大黒天様みたいに最強最高の喧嘩の強さと社会的な強さを兼ね備えた完全無欠の男性じゃないとダメなんだろう。
・・・はい、小生は弁天様みたいな女性の旦那様に成る資格落第ぃ~(笑)。
源頼朝公 拝借画像 久良岐のよし
まぁ、そんな弁天様なので水神様と同時に軍神として特に源頼朝公も信仰した訳だ。
ついでに宇迦之御魂神=宇賀神様は御稲荷様の神様として存続している。
そもそも古代人にとっての財産は飲んでも病気に成らず夏にも枯れない水源だった。だから宇賀神様が湧水地に祀られた。
弥生時代~古墳時代に成ると農耕が全国に普及し豊かさの象徴が米に変わった。だから宇迦之御魂神に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)の字が当て嵌められた。
そして更に平安時代末期に成り貨幣経済が導入されて豊かさの象徴が「金銭(きんせん)=貨幣」に成ると、財神で水神としての弁天様が倉稲魂神様に習合された。この段階が源頼朝公達の頃の話し。
ところが明治時代に成ると、森有礼等のキリスト教に改宗したりイギリスやら欧米列強の影響を受けた明治の政治家達がプロテスタントを模した国造りを進める中で、日本の宗教改革もとい弾圧を始めた。
神仏分離令と廃仏毀釈だ。
宗教改革と言いながら、アジア由来の仏教を弾圧し日本古来の神様と無理矢理切り離してしまった訳だ。
そして明治に正しい神仏分離に失敗し、弁天様は壱岐嶋媛(いちきしまひめ)の女神様が水神だったので、日本の神様の名前に変える為に歴史を知らない宗教改革者によって宇賀神では無くて壱岐嶋媛命とされた。

日本が有史で仏教を導入したのは西暦600年前後、しかし実際は応神天皇こと大鞆別命(おおともわけのみこと)は神託で自らの別名を“八幡大菩薩”と名乗っており更には、その皇子の菟道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命が日本で最初にアジアの学問を導入した事が知られている事から、西暦300年代には既に日本の神様の中には大陸から移住して来た人と供にインドや中国から大陸の神様も日本に移ってきて日本の神様と仲良く祀られ、そして日本の神社様式で正しく祀られていたり、奈良時代にも成ると御寺でも日本の神様も大切に祀られていた訳だ。
ところがプロテスタントは一神教であり救主キリストを生んだ女性マリア様を崇拝する宗教だ。だからか知らんが明治の浅はかな宗教改革者は本来は地位の序列等無い日本の神様、それぞれの個性を尊重し得手も不得手も有る神様達、助け合ったり喧嘩したりする日本の活きた神様を女性の太陽神である天照大神を頂点として再編成してしまった。
これは天皇家の祖先神なのでやむを得ない事なのだが、本来は大祓(おおはらえ)の祝詞(のりと)でも、古事記でもそうである様に国を生んだ神様は伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)だった訳だ。
その宗教改革のどさくさに紛れて明治政府は神社や御寺の収入源だった田畑や町の土地を没収し、結果的に神社も御寺も荒廃してしまった所が非常に多かった。特に神社は遷座(ぜんざ=神様の引っ越し)・合祀(ごうし=他の神様の神社に同居させる)の名の元に社殿を破壊され永久にこの世から失われた場所も多かった。
もっと酷いのは宗教改革をする立場の人間が神様の習合(しゅうごう=他の神様と同一視される事)の経緯を知らず、全く見当違いな神様を仏教と神道の分離時に海外の神様を日本の神様の名前に戻すのでは無く変更してしまった訳だ。
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現在の江ノ島神社は宗像三女神が御祭神とされるが、これは日本の天皇家の歴史の2600年の日本の歴史の中で明治以降のたかだか200年足らずの明治政府が唯一失敗した宗教改革の浅い間違った歴史でしかない。
本来の弁才天様の前身の神様はインドのサラスヴァティ神だが、日本では宇迦之御魂神に習合されている。だから日本全国の洞窟の湧水地に祀られていた宇迦之御魂神の神社に、弁財天様も祀られる様に成った訳だ。だから神仏分離を行うのであれば実際は弁天様は宇賀神に名前を改めなければいけなかったのだが、そんな事すら明治に宗教改革の名の下に多くの神社仏閣の規模を縮小させ、本来は自然崇拝の聖地と一体の神社をキリスト教の教会の様に神社の建物と十字架の代わりの鏡(かがみ)を拝む宗教に改革してしまった訳だ。
そもそも御神鏡が日本に最初に来たのは卑弥呼の時代、三国時代の中国の魏帝国からの下賜品が送られて以降でしかない。まぁ、古代豪族と直結した格式高い神社に鏡が祀られているのは、その神社の有る場所に宮殿を置いていた古代豪族が邪馬台国に直結した古い場所だとの証明に成る訳だが、そこから既に海外の影響を排除しきれていないし文化から海外の影響も受けながら発展して来た日本の歴史を切り離せていない。
ハッキリ言って中途半端で詰めが甘い。だから森有礼は不敬な人間で中途半端で、日本神道を利用して別物に作り替えようとしてプロテスタントの意識が抜けきれずボロが出て、伊勢神宮の社伝に靴を履いたままで土足参詣して保守派に切り殺された訳だ。
プロテスタントも素晴らしい面が有るが、彼の場合、プロテスタントを政治利用して己の思うが儘に文化を変えたのが天罰を受けた原因だろう。
因(ちな)みに森有礼等と異なり伊藤博文公は横浜市金沢区野島の金沢別邸で大日本帝国憲法の起草をした際に、二宮町の延喜式内社の二宮川匂神社や、金沢区の寶勝寺等を参拝しており古来の日本の宗教文化を大切にされていた。

日本の神様と仏教の仏様とインドの神様が仲良くしてからの歴史は約1700年、天皇家の2600年の歴史の中でも大半を占める。これを無理に引き剥がす理由は「西欧化」を目指した事以外に無い訳だ。
実際、明治以前は日本の神道も偶像崇拝の場所も多かった。仏像の様に御神像を御神体として祀っていた場所だな。鏡ではなくて。
所が明治以降、その御神像は日本社会から一斉に消えた。偶像崇拝を禁止するプロテスタントの影響をモロに受けた森有礼等大悪人達の所業だろう。
消えた御神像はどこに行った?転売されて利権に成ったよな?
もしくは心有る宮司様は御金を払って知り合いの御寺に管理を御願いして神様と「さようなら」する羽目に遭った訳だ。
だから言う、日本の宗教は江戸時代の価値観に戻すべきだ。
但し条件付きで、「本地垂迹」等とアホらしいどっちが上位かと議論する輩は僧籍も神職も取り上げてしまえば宜(よろ)しい。どっちも裏でどっちも表。もしくは別々だけれど一緒に祀るそれで良い。
大切な事は神様は日本文化に従って日本の神社様式で祀る事、御寺では仏様と同じ様に昔の和尚様達の様に仏壇に御祭りして御経をあげて庶民と世の中の平安を祈願して頂ければ宜しい。
そう、個人的に思う。
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さて、そんな事も有ったが江ノ島神社は日本古来の伝統を守り宇賀神様と弁天様を別々にしたがちゃんと両方とも大切に残された。残した上で明治政府の宗教改革者の不見識も飲んで、ちゃんと日本の古い神様として水神様としての宗像三女神様達を御祭した訳だ。
だからね、江ノ島神社の弁天様は仏教の法具を持ってらっしゃるんです。昔のままね。
こんな江ノ島神社、歴史を知らないネトウヨと新宗教にまみれ保守派に似て非なる右翼の石原慎太郎達の所属するカルト団体は江ノ島に来たら発狂するんじゃないかと思う(笑)。
しかし、ここはそんな偽保守派を頭から叩き潰す事の出来る歴史偉人が愛した場所で、日本を守った明治の元勲達が森有礼達とは異なり古来の価値観を大切にして来た事を知る事も出来るんだな。
児玉源太郎
ここは初代台湾総督を務めた児玉源太郎先生が愛した場所で、対ロシア戦略を練った島だった。
江ノ島の文化と風景と食べ物が大変に御好きだったそうだ。
台湾の初代総督も務めた方なのだが・・・
没後も台湾の人々から尊敬され、台湾の人により児玉神社が開かれ江ノ島から日本人を見守って下さっている。
今の石原慎太郎をはじめとした一派の自称保守の偽保守はハッキリ言って浅い。
奴等は西南戦争を起こした西郷さんや京都の文化財や天皇家を守った新選組の近藤さん達、幕末英雄の面々が既に明治天皇に赦免されている事すら知らずに「現代で罪を許し靖国に祀る云々・・・」あのな、明治天皇に許されていて、日本の為に命を落とした人も、敵国人で勇敢に戦った人も、あらゆる犠牲者も靖国に平等に祀られているんだからとっくに明治天皇に功績を認め許された時点で靖国に合祀されているんだよな、近藤さんも西郷さんも。もしされていないのなら、靖国の存在意義に疑問が出る訳だ。
そもそも児玉源太郎先生は日本文化も西洋文化も優れた物は隔(へだ)て無く愛された訳だ。
さて、そんなこんなで江ノ島は児玉源太郎先生が愛した場所なのだが、現代ではシラスが江ノ島や湘南の名物として有名だが当時~昭和初期まではサザエが名物だった。
そして明治時代に登場したのが親子丼、親子丼とサザエを合わせた名物が江ノ島の名物だったのだが、これはもう少し後で実物の写真を御店したいと思う。
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江ノ島は5ヵ所の聖地霊場から構成されている。
辺津宮・・・恋人達で賑わう一番神社らしい場所、ここで御朱印も頂ける。弁天様を祀る御堂も在る。
中津宮・・・慈覚大師が造営した御堂が前身。とても彫刻の綺麗な場所。
奥津宮・・・本宮。八方睨みの亀の天井絵や、源頼朝公奉納の石鳥居が現存する。
龍宮(わたつみのみや)・・・龍神を祀るとされるが綿津見大神の事、神話では素戔嗚命(すさのおうのみこと)が海の統治を任されている事や素戔嗚命の御神孫の安曇一族の祖先神が綿津見大神とされ、その前身が五十猛(いそたける)神なので、五十猛神の別名と考えた方が自然だろう。
岩屋・・・そもそもの江ノ島神社の始まりの聖地。ここを天皇家の勅願所に欽明天皇が定めた当時は神社は存在せず、洞穴そのものが聖地だった。海辺の洞窟にも関わらず飲用に耐える清涼な清水が湧き出る聖地。
・・・史実を元に話すと、大体そんな感じだな。
瑞心門を抜け、石像の弁天様の前の階段を過ぎると辺津宮の手水社が在る。

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石灯籠がとっても立派!欽明天皇、そして源頼朝公、北条時頼公、北条時宗公、そして戦国時代の北条氏康公が参詣して不利な合戦で奇跡の大勝利をした御利益に預かる人が鎌倉時代から絶えないので経済的にも豊かな神社として存続出来た訳だな。
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今回の辺津宮訪問は初夏の6月末、既にとても多くの人で賑わっている。
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辺津宮を正面に向いて右手に社務所が有り、そこで御朱印を頂ける。
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2種類有って、聖地としての江島神社の御朱印、そして昔は岩本楼が祀っていた弁天様の御朱印。
小生は両方拝領する事にした。
江島神社の御朱印を延喜式内社・式外社専用の御朱印帳に、弁天様を御稲荷様やなんかの御朱印帳に頂いた。
待つ間参拝・・・
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流石、弁天様を本来祀る神社だけあり、欄間には素晴らしい弁天様や天女達の彫刻。
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良く見ると彩色の名残が有るので、昔は朱・青・金等に彩られた極彩色の神々しい彫刻だったんだろうか?社殿は比較的新しく見受けられる。恐らく昭和の再建か改修が入ってるだろう。
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参拝を終えると御朱印も書き終わっていたので受領し、頼朝公が岩屋に祀った八臂弁財天様を拝みに弁天堂へ移動。
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写真撮影は出来ないので外観だけ。この中には文化財の八臂弁財天様と女体の弁天様像が鎮座している。
江島神社に来てココと洞穴を御参りしないのは全く意味が無いのと同じ。
ちゃんと御参りし、弁天様と、弁天様を信仰した頼朝公にも毎日御守護頂いている御礼を告げた。
弁天堂を出て山頂を目指す道に行くと直ぐに八坂神社が有る。
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余り大きくは無いが、町の中に在ったら普通に立派な規模に入る社殿だ。
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素戔嗚命が御祭神の神社、やはり海の神様なので江ノ島の漁民から崇敬を集めたようで、廃仏毀釈の影響もなんのその、牛頭天皇としての素戔嗚命を祀る天王祭りが今でも行われているそうだ。
これは尾張の津島大社と同じだな。
織田信長公
余談だが織田信長公の祖先は福井県劔神社の宮司家で代々、牛頭天王こと素戔嗚命を御祀りしていた事は小生のブログ読者の方々は既に知っていると思う。
だから尾張の津島大社の祭礼に、若い頃の信長公は飛び入り参加して庶民と一緒に踊ったり家臣達と笛を吹いたりして農民や町人と友達の様な関係を築いていたそうだ。
何とも、庶民を愛した信長公らしい逸話だ。
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八坂神社を後にして先に進む・・・
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・・・すると今度は秋葉社と稲荷社が合祀された御社が在る。
う~ん・・・弁天様と同一視されていた御稲荷様が更に別の御社にいらっしゃって各時代の変遷関係無いけど、これはこれで個性が有って良いかな。秋葉社は秋葉権現と呼ばれた火事除けの神様だな。軍神としても信仰された神様だ。
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これは南宋の文化人が寄贈した石碑らしいのだが、数百年の経過により字が磨滅して読めなかった。
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説明は有るので参考にすると良いかと思う。
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現代の石碑。
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猿田彦大神。山の神様。
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これを石碑に揮毫した阿部石年さんは儒学者で書道の名人でもあったらしい。良く知らん。
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江島神社のザックリした道案内が弁天様の琵琶に成っていて可愛かったりする。
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参道には紫陽花が咲いていて6月24日当日は見頃だった。まぁ、本来の目的は江ノ島の岩本楼と江島神社散策の後に鎌倉の長谷寺で紫陽花見物だったので、時期的には綺麗で当然だな。
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あと小さい花壇も有った。
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そうこうしていると中津宮への階段を上がり、大きな石灯籠が見えて来て、中村座の字が掘られている。ふむ、これが中村勘九郎さんの御先祖様が奉納した物なんだな。江戸時代の立派な灯篭。
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小生は辺津宮よりも中津宮の方が落ち着いているし神社らしい神社で好きだ。
ここでは結婚式も挙げられるそうだ。江ノ島は旅館も有るし観光地として有名なので、地方から友達や親戚を招いて江島神社で結婚式やって旅館に皆で泊まったら良い思い出に成りそうだな。
きっと、そうやって幸せな夫婦に成り添い遂げた男女も多いだろう。
そんな幸せを御裾分けして頂ける場所な訳だ。
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美しい恋したい・・・目下、独身の小生を代弁する言葉だが小生は美しくないので慎ましく幸せに恋したい(笑)。
中津宮を過ぎて山を登ると山頂のサムエルコッキング園と展望台。
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恋人達の聖地だ。小生には関係ない(笑)のでスルー(笑)。
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暫く行くと下り坂に成るが、この一角には多くの民宿や旅館、食事処が有って面白い。
妹が愛媛県松山市でまだ大学生だった頃、妹が友達を連れて帰省した際に二人をここに連れて来てあげたのを思い出し、当時食事した店を探す事にした。
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階段降りて直ぐ見つかった(笑)。
海花亭さん。ここで昔からの名物の江ノ島丼や現代の名物のシラス丼、他にもお刺身や色んな和食を食べる事が出来る。
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確か旅館もやってらっしゃったと思う。最初に来た時は浴衣の宿泊客がいたから。
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ここは展望席が有り涼しい浜風に当たりながら食事が出来て気持ちが良い。
小生は当然、江ノ島丼を注文。
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まぁ、最初の方で書いたけれども、江ノ島丼と言うのはサザエの卵とじ丼の事。
江戸時代~明治時代~昭和初期、まだまだ鶏卵は庶民は普段口にする事の少ない滋養強壮の食べ物だった。それに明治生まれの親子丼と江ノ島名物のサザエをアレンジして出来たのが江ノ島丼な訳だ。
きっと味は皆さんの想像通り・・・
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・・・親子丼(笑)。でもサザエ。
因みにサザエやカタツムリなんかは滋養強壮勢力増強の効果が有るので、卵と合わせて江戸庶民や明治の人々にとっては体力の付く食べ物だったんだろう。
現代人の小生には身近な味付けの食べ物だが。
きっと児玉源太郎先生も旅順攻略の作戦を立てながら、この江ノ島丼を食べたりしたんだろう。
同じ物を食べられたかも知れないと思うと何だか嬉しい(笑)。
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展望台を見上げながら清々しく食事をさせて頂きました。海花亭の皆さん、ありがとうございました!
海花亭を出ると横に御寺が在る。
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江ノ島大師、最福寺別院、真言宗。まぁ、近年の造営なので歴史は浅い。岩本楼が修験道寺院を止めて久しいので、修験道と関係の深い真言宗の寺院が開かれたのだろう。
そこの前を通り過ぎて注意しながら道の脇を見ていると、宗教史跡が有る。
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時宗を開いた一遍上人の所縁の場所。
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この付近は頂上で海辺の岩屋の水を汲みに行くのも不便だったのだが、一遍上人が井戸の水脈の掘りあて島民の生活を助けたそうだ。
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ふみ、庶民を助ける事を実践された素晴らしい逸話だな。
今回、改めてこうやって全ての石碑等を見て回ると時間が経つのが早く、実は島を離れるまで4時間位江ノ島の中を歩き回っていた様だ。
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更に先に進むと山二つと呼ばれる景勝地に出る。
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実はこの下にも古代からの霊場が有るのだが、降りる術が見つからない(笑)。
仕方が無いので先に進む。
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江戸時代からの鎌倉名物の女夫饅頭(めおとまんじゅう)の店が今でも沢山有る。
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そして又、宗教的な史跡。
今度は木食上人の所縁の場所。木食上人は真言宗の僧侶で法名を行勝とおっしゃった。
台風や長雨を止める祈祷等を得意としたそうだが、要は農民の味方、精神的な支柱だった人物な訳だ。
当然、祈祷をする以上、日本の神様への知識も深かっただろうし、だからこそ水に纏わる江ノ島の霊場に修行に来ていたのだろう。
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帰りに行こうと思って行くの忘れた(笑)。
この近くに凄い種類が豊富なソフトクリームの店が在った。
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これ、カップルならシェアして食べたら良い思い出に成りそうだ。
・・・ワサビ味とかシラス味は御免こうむるが(笑)。
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そして、もう一つ文化財。
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サルが沢山彫刻された珍しい庚申塔。
普通は見ざる聞かざる言わざるの三猿と、何か仏様や神様が彫られているんだけれど、ここは猿が沢山で可愛らしかった。
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謂(いわ)れは良く解らないらしい。
奥津宮に辿り着くと紫陽花が綺麗だった。
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もしかしたら長谷寺に間に合わないかも知れないので、ここで紫陽花をジックリ見学して置いた。
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健気に咲いてカップルを楽しませていた。偉いな君達。小生は中々人の役に立つ事を出来ず自分に不甲斐無さを感じる事が多いんだよ。君達は存在するだけで偉い。
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ふむ、心を癒してくれた紫陽花君達、ありがとう。
この場所が奥津宮の参道、神社の最深部の入口となる。CIMG4351
そして、この石の鳥居が源頼朝公の建てた物だそうだ。良くも応長の大地震、明暦の富士山噴火、関東大震災を乗り越えて現存していてくれた物だ・・・。
その手前右側に石碑が有る。
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字が摩耗して読めね~。
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ので看板を見てね(笑)。
その近くに亀石と言う名石がある。これも宝物の一つだ。CIMG4356
今は木に埋もれているが、これが鎌倉十石の一つに挙げられた名石らしい。
確かに亀に見えるんだな。これが天然の造形だから価値が有る訳だ。
その左手前に力石が有る。
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古い神社には良く有るのだが、昔の力持ちがこれを持ち上げて力比べをしたんだな。
多分、現代人の中で可成り力の有る小生でも持ち上がるかどうか。
実は江戸時代の人の男性平均身長は150~160cm程度。しかし飛脚の人達や肉体労働の町人の幕末の写真を見るとビックリするのだが、誰も彼もがプロレスラーの様なガタイをしている。
有名な話だが、武士は絶対に火消しやなんかに喧嘩を売らなかったそうだ。絶対に負けるから。
江戸時代当時の武士は既に官僚化が進んでモヤシが多かったそうだ。刀を抜けば殺人未遂だし、当時は士分は庶民を守るべき立場だったので庶民を傷つける事は実は当たり前なのだが許されなかった事を知る人は少ない。切り捨て御免なんてのを信じている奴はド阿呆で、武士側に落ち度が有れば普通に犯罪が成立する訳だ。
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そして山田検校の碑。
これ、①の記事で紹介した江戸時代の針治療のお医者様だね。江戸時代の名医らしい。
そしていよいよ奥津宮。
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明治以降の説明に価値を感じない小生。その前の1000年間の江ノ島の歴史の方が大切。
とは言え、宗像三女神様達も海上交通の安全を守って下さる大切な神様なので、ちゃんと御参りして来た。
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ここは拝殿の屋根に文化財が有るので絶対に御参りして天井を見上げて欲しい。
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八方睨みの亀。
ガメラみたいだ・・・
奥津宮の少し先に龍宮が在る。
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どうやらこの祠の真下が、江ノ島の古来からの聖地の洞窟らしい。
ここ自体は新しい礼拝所で、小生は特に・・・
御参りは外から拝んで岩屋を目指して先に進む事にした。
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にゃ~ん♡
江ノ島は島民に愛される猫ちゃん達が多くて癒される場所でもあるんだにゃ。
今回も歩く先々で猫ちゃんにモフらせて頂いた♡
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人懐っこい♪
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どの子も肥えとる(笑)。
それだけ可愛がられてるんだろう。
さて!
神社としての江ノ島はここまで、ここから先は原始宗教に繋がる岩屋部分、続きの③の記事で又、紹介します~♪
→その③

今日は休暇とってるので夜はユックリ某所旅館で過ごしながらブログ書きます。





横浜市磯子区中原に、今では住宅街の中の普通の神社に成ってしまった元々凄い修験道の道場の跡地が有ります。
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今では、ただ熊野神社としか名前の表記が有りませんが、少しややこしいのですが、ここは現在でこそ“熊野神社”と呼ばれていますが、そもそもは鎌倉市山崎に存在して源頼朝公から崇敬された山崎泉蔵院と言う由緒ある修験道の大寺院の熊野権現を祀った道場でした。
山崎と言うのは今も鎌倉市北鎌倉駅~大船駅近くにかけて地名も残る丘陵地帯の事です。
現在の磯子区の熊野神社の前身と成ったのは大霊山泉蔵院桐谷寺と言う修験道寺院です。
その大霊山泉蔵院桐谷寺の更に前身が、今の鎌倉市山崎に存在した山崎泉蔵院です。
源頼朝公 拝借画像 久良岐のよし
源頼朝公が平家を倒して征夷大将軍に就任した際に、国と民百姓の安泰を祈願する為に鎌倉郡山崎の泉蔵院の大僧都真諦智覚法印と言う高僧に命じて、熊野三所権現から御神霊を勧進させて山崎泉蔵院の熊野権現を祀った道場を、この熊野神社の境内に開きました。恐らく当時は周辺の住宅街も全て道場だったはずです。
熊野三所権現と言うのは今の和歌山県熊野三山に鎮座する由緒ある那智大社、熊野速玉大社、熊野神社本宮の三社の事です。
つまり、磯子区中原の熊野神社に御参りすると、その三座の大社に御参りしたのと同じ事に成る場所として泉蔵院の道場が開かれた訳です。
まぁ、磯子区中原に鎌倉時代、泉蔵院の道場として熊野権現が開かれた当時は相当な敷地を誇っていたでしょうし、参道の両脇には明らかに旧境内地と思える住宅が有ります。
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この家とか参道と直結してるし・・・
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このマンションかアパートだかも明らかに旧境内地の谷戸(やと)の中に不自然に立っています。
さて、鎌倉山崎に在った泉蔵院は後に現在の磯子区中原の熊野権現に機能移転し、室町時代以降は現在の熊野神社の場所が泉蔵院の本拠地と成りました。
その時に、この山に囲まれた谷間の地名が❝桐谷(きりがやつ)❞だった事から、武蔵国久良岐郡に移転後の泉蔵院の正式な名称は大霊山泉蔵院桐谷寺と改められました。移転後も宗派は勿論、修験道で本山は京都市左京区に有る南禅寺近くの聖護院でした。現在は神道の神社ですけどね。
後で触れますが、戦国時代に泉蔵院を支援したのは北条家重臣だった間宮家です。
笹下城主の間宮信元公、間宮与七郎公、代々徳川将軍家の鷹匠頭を継いだ分家の杉田間宮家の江戸時代の当主だった間宮信久公の関与が現代に伝わる文書で確認出来ます。
この間宮家は水軍を率いており、戦国時代には現在の浦賀港の西浦賀を領有した間宮宗甫公、江戸時代には徳川家の水軍大将を務めた間宮信高公が三浦の横須賀市長坂に所領を有していましたが、三浦半島に三浦大根とは別に昔、聖護院大根が生産されていたのは、もしかしたら、この泉蔵院と間宮家が関係有るかも知れませんね。

頼朝公が没すると、鎌倉幕府は内戦が頻発し、鎌倉山崎の泉蔵院は戦火を逃れて、磯子区中原の熊野神社の道場に寺院機能を移転しました。その時に同地が桐ケ谷と呼ばれた場所だった事から寺名を大霊山泉蔵院桐谷寺と改めました。
しかし明治時代に成ると神仏分離令が発布され国策で当時の御住職は僧籍を返上し、桐谷寺は廃寺に成り熊野神社だけが残りました。
山崎地区
上は元々泉蔵院の所在した鎌倉市山崎地区の境界線を衛星写真上に再現した画像です。
北鎌倉駅を挟んで円覚寺と反対側の山、玉縄城址や大船駅の近くまでの山一帯が山崎と呼ばれた地域です。この山崎の“崎”と言う字には岬">(みさき)<と言う意味が有ります。
実は弥生時代位まで大船一帯は大船湾と呼ばれた海だったので、同地が昔は海に突き出した半島だった名残りに由来する地名でしょう。
古代の大船湾 久良岐のよし
緑色の地域が縄文時代に陸地だった場所で、白い場所は海底だった場所です。
山崎地区は見事に古代の大船湾に突き出した小さな半島=岬だった事が解ります。
修験道は山伏の神仏習合の宗派だったので日本古来の神道的な価値観に仏教の哲学と信仰を融合させていました。ですから延喜式内社と呼ばれる古代から存続する神社と同じ様に湧水地や山上の奇岩を御神体とし、自然に纏(まつ)わる神様の御分霊や仏様を祀り、修行の為の道場を開く宗派でした。
さて何故源頼朝公が、この磯子区中原に修験道の道場を開いたと言うと、頼朝公は日本神話を大切に信仰しておられ、更に神話を大切にする仏教の真言宗も大切にしておられました。
頼朝公は其(そ)れ故(ゆえ)に山岳信仰者でもあり、自ら神奈川県伊勢原市の大山や富士山の山頂まで当時の貧弱な装備で登山された史実が残っています。
泉蔵院(熊野神社)の地形 久良岐のよし
現在は熊野神社と成った泉蔵院は、頼朝公の時代には京浜急行に❝屏風ヶ浦❞の駅名が残る事からも察しがつくと思いますが海に切り立った断崖が現在の中区元町~金沢区六浦まで実に10kmに渡って続いていました。
この風景は江戸時代にも現在の神奈川区や関内に在った横浜の地名に成った半島の辺りから船に乗船して現在の京急杉田駅前を流れたいた聖天川までクルージングするのが観光コースに成っていたそうです。
そして熊野神社の出来る場所は湧水地と滝の有る場所なのですが、現在でこそ、それらしい物は現存しませんが周辺は中原四丁目緑地として遊歩道が設置されていて、壁面からの湧水でいつも地面がぬかるんでいます。
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今ではこの緑地帯の存在自体を知る人も少なく、歩く人も少ない。
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もし、この熊野神社に御参りされる方は是非、この辺りも散歩してみて下さい。
さて、現在の熊野神社其の物に話を戻します。
参道には様々な石碑が並んでいます。
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歌碑だったり、泉蔵院時代からの歴史を書いて有ったり・・・
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この関寅吉さんは、杉田浦が埋立られる以前の一大産業だった海苔の養殖を近代に発展させた人物でした。
今では豊かだった杉田や屏風ヶ浦の海はアホの横浜市が埋め立てて消えてしまいました。
東京湾京浜地区の海苔の養殖は今では、金沢区の野島と三浦半島横須賀市走水で一部行われており、特に走水産の海苔は美味しいので小生は毎年冬に走水神社の年末年始の御参りを兼ねて買いに行っています。
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この、ながつか水産等で、昔のままの江戸前の美味しい海苔を購入する事が出来ます。
実は屏風ヶ浦一帯の海は海苔よりも鮑(あわび)や海鼠(なまこ)の漁獲量が豊富で特上の品質を誇っていた事で勇名でした。幕末には清国向けの輸出品として大変に重宝され、現地でも最高級品扱いされたそうです。
アホの横浜市が海を埋め立ててしまったので、当然、鮑等が生息できる環境ではなくなりました。
内陸部に平地の耕作地が沢山余っていたのだから、ハッキリ言って埋め立てる必要は無かった訳で、これは当時の市長が建設利権と結びついていた人物だったからと言うのも、泉蔵院の歴史を現代から鎌倉時代まで順番に周辺の環境の変化も含めて追っていくと解る事だったりします。
今の林文子横浜市長も、する必要の無い埋め立て工事を本牧沖で行っていますね。
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まぁ、そんな感じで、この地域は昔、現代の政治家と違って心から地域発展に力を尽くされた民間人を多く輩出しているので沢山、偉人達の石碑が有ります。
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修験道の道場だった場所なので熊野神社の在る場所も崖地で、参道の後半は階段に成っています。
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横には神仏習合時代の名残の石塔。
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階段を中段まで登ると本殿が見えます。
この中段の左手に、明治時代に政府の命令で僧籍を捨て神職に成られた元い泉蔵院の初代熊野神社宮司様が昔、頼朝公が開いた修験道の大道場だった事を伝える為に名残を残して下さっています。CIMG1475
その名も泉蔵社と言う摂社です。
ここに神仏習合時代の仏様達が祀られているそうですが、それが御分霊を祀っているのか、将又(はたまた)仏像その物が収蔵されている訳ではないそうです。
恐らく神仏分離令が発布されて熊野神社だけを残し泉蔵院が廃寺に成った際に、周辺の御寺サンに仏様達は譲って守って頂いたのかも知れませんね。
まぁ、泉蔵院も戦国時代に房総半島の里見家の海賊に略奪された記録が有るので、その時に仏様ももしかしたら持ち去られていたのかも知れません。
戦国時代には間宮家が奉納した太刀が有り、江戸時代にも存在した事が記録されています。
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この中段を一段上がった場所に御本殿が在ります。
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ふむ
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真新しいけど立派な扁額。
本殿へ参拝して左手に目をやると他にも摂社があります。
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摩利支天・・・
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仏教の仏様で元々はヒンドゥー教の神様の戦神。武士に多く崇拝された神様。
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そして御稲荷さん。
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どこの神社に行っても、大きな御寺に行っても、御城の址に行っても、いつもお稲荷さんに御参りする機会が有る。必ずと言って良い程に御社が有る。それだけ昔は庶民に愛された日本人と近しい神様。
小生は毎日、御稲荷さんを行く先々で見かける度に、今日も御参りの機会を頂けてありがとう御座いますと御礼を伝えています。

さて、熊野神社さん、今でこそ小さいけれど、そもそもは泉蔵院と言う大道場の跡だった訳ですが、今では映画やアニメのロケ地に使われてもおかしくない雰囲気の、町の中に残された中原緑地に佇む雰囲気の良い神社で有る事は伝わったでしょうか?
もし、屏風ヶ浦地区や杉田駅周辺に御住まいの方は、是非、御散歩がてら御参りされてみては如何でしょうか?

・・・昨年末に書き書けの神社仏閣まとめて紹介一覧記事、今週から少しづつ更新します。
季節柄税務関連の申告書作成とか忙しく、中々更新できておらず申し訳ありませんね(笑)。


では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!



野島稲荷神社
【御祭神】宇迦之御魂神=倉稲魂命(うかのみたまのかみ)・・・伏見稲荷大社の御分霊。
【御利益】経済的な繁栄(弥生~古墳時代に於いては食料の豊穣の神、更に古代には清涼な飲み水の神)
【開基】西暦1227年、鎌倉時代に長島頼勝による勧進。※泥亀新田開発者の永島祐伯の祖先か?
【中興】紀州徳川家
【住所】横浜市金沢区野島町23
【アクセス】シーサイドライン野島公園駅~徒歩10分。京浜急行金沢八景駅~徒歩20分。有料駐車場有り。
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野島と言う、昔は島だった場所に野島稲荷神社と言う規模の余り大きくは無く目立たない稲荷社が在ります。
その場所、実は紀州徳川家初代藩主の徳川頼宜公が崇敬した神社なんですが・・・
「何で紀州徳川家と横浜が関係有るの?」
・・・と思う人がきっと多いと思います。
そこで神社の説明の前に、先ずは野島の説明からしようと思います。

京浜急行電鉄に金沢八景と言う駅が有りますが、この駅名が昔、金沢区に在った八ヶ所の景勝地に由来する事を知っている人は現代では余りいないかも知れません。
その場所は・・・
●小泉夜雨(こいずみやう)=小泉弁才天(現:手子神社)の周辺の埋め立て前の風景。金沢文庫駅辺り。
●称名晩鐘(しょうみょうばんしょう)=称名寺の山を埋め立て前の海の公園辺りの海上から見た遠景。
●洲崎晴嵐(すざきせいらん)=現在の町屋町の龍華寺前に在る洲崎神社周辺の埋立前の景色。
●瀬戸秋月(せとしゅうげつ)=金沢八景駅前の瀬戸神社周辺の埋め立て前の景色。
●乙艫帰帆(おっともきはん)=現在の海の公園~洲崎辺りの埋め立て前の海から野島の乙艫町を見た風景。
●平潟落雁(ひらがたらくがん)=現在の野島周辺の宅地に在った湾の埋立前の風景。
●野島夕照(のじまゆうしょう)=野島の埋め立て前の風景。
●内川暮雪(うちかわぼせつ)=現在の内川橋周辺の埋立前の風景。
・・・歌川広重と言う江戸時代の著名な画家が、その景色を浮世絵にして販売した事で江戸市民にも大人気の旅行地と成りましたが、現在では昭和の埋め立て工事等で永遠に完全に消失してしまいました。
歌川広重 金沢八景:称名晩鐘
上の画像は今の八景島辺りが海だった時代、そこから見た金沢称名寺の山の風景です。
この風景はもう、現代人は永久に見る事が出来ません。
過去の風景を知るには、過去の人が残してくれた資料からしか様子を知る事が出来ないんですね。悲しいけれど。
金沢八景を知りたければ、3箇所、その風景画を見られる場所が有ります。
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1つは八景島シーパラダイスに架かる連絡橋。
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その欄干に歌川広重の金沢八景を金属板に起こした物が展示されています。
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この展示はカラーでは無いので今一つ解らないかも知れませんが、絵の由来が説明されていて理解しやすいかと思います。
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2ヵ所目の金沢八景を見られる場所は、上の称名寺と下の金沢文庫博物館を繋ぐトンネルです。
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このトンネルの壁に、金沢八景の画の複製がはめ込まれています。
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※称名寺の記事は「ココ」←クリック!
このトンネルで見なくても、金沢文庫博物館に原本も所蔵されているので閲覧申請をすれば見られるかも知れませんが小生は試した事は有りません。
そして、詳しい情報が解る場所がもう1ヶ所あります。
そこが野島公園内に在る、初代総理大臣、伊藤博文公の別宅です。
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江戸時代の紀州徳川家の別荘地だった野島は、明治時代に伊藤博文公の別荘地でもあった訳ですが、この別宅の中に金沢八景を詳しく紹介した展示物が有ります。
※伊藤博文公の金沢別邸の記事は「ココ」←クリック!
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こんな感じ。八景島の橋の欄干のカラー版と言った所でしょうか?
因(ちな)みに、鎌倉時代~戦国時代にも金沢八景は景勝地として有名だったので、八景の一つ、洲崎の地に建つ龍華寺は兼好法師の別名で有名な吉田兼好、北条早雲こと伊勢盛時公や徳川家康公の宿泊地でもありました。
※龍華寺の記事は「ココ」←クリック!
ここまで読んで頂ければ、野島が如何に風光明媚な土地だったかが解るかと思います。
そんな訳で景勝地の一つだった野島に、徳川頼宜公が別荘を建てて風景を楽しんでいた訳ですが、その鬼門鎮護として紀州徳川家の崇敬を受けたのが野島の御稲荷様だった訳です。

この様な横浜市の景勝地は特に昭和期に多くが乱開発で消え失せました。
杉田梅林や、金沢の八景が最たる例です。
横浜市は現在の林文子市長を含め歴代に市長の中に、日本歴史文化や日本の風景を大切にしない土建屋や港湾関連の組織票を票田にしている人物が少なくありませんでした。つまり低文化で知識に欠け景色と歴史の重要性を理解出来ない風流を理解できない人達が歴代市長に居る訳ですね。
横浜市教育委員会を含めた横浜市職員は、当然ながら地方公務員なので市長によって人事権を掌握されているので、市長が無文化だったり反日的な人物だったりすると市長の意を組んで歴史遺産や景勝地や自然を土建屋に開発=破壊させての土建屋と政治家の建築利権を確保させてしまいます。
現在の林文子市長も、横浜市内で最大最後の自然植生の大森林で自然公園の円海山瀬上池~瀬上沢周辺を、東急グループに宅地開発させようと策動しています。現に、開発を擁護する発言をしてバッシングを受けているのは栄区民、磯子区民、港南区民、多くの神社や御寺の氏子檀家さん達の知る所です。
仮に開発されれば林文子市長や、与党の候補者は市民感情逆なでしヤリ玉に挙げられた上で、史跡と自然の破壊者として過去帳等に記録され後世に悪名を残す事に成るでしょう。

さて、そんな過去の景勝地野島に紀州徳川家と関連も有った野島稲荷神社が有る訳ですが、現在では参拝客も減ってしまい、本殿裏から野島の頂上に通じた道も通行止めに成ってしまったりしています。
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でも小生は、とても雰囲気の有るこの神社が好きです。
伊藤博文公の金沢別邸に抹茶を飲みに行くと、たまに野島の御稲荷さんにも足を延ばして散歩します。
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何だか、御狐様が巫女さんに化けて境内を箒(ほうき)で掃除してそうな雰囲気の有る神社なんですよ!
この本殿の裏に、小生の子供の頃まで登れた崖を削って作った小さな石段が有ったのですが、現在は通行禁止に成ってしまいました。
こうやって少しづつ寂れて、将来廃社に成ってしまうかもと思うと小生は凄く危機感を感じてしまいます。
現代人は神社や御寺で自分勝手に願掛けはするのに、昔の人の様に神仏に対して願いが叶った際の御礼参りと御布施すらしませんからね・・・。
そして学校教育には左派で日本文化迫害を好む教職者も多くいるようです。ですから、学校で歴史の話を語る時に絶対に御寺や神社の伝承や関わった人物なんて教えてもらえません。そうすると、自分の地元の神社仏閣が凄い歴史偉人と関わりが有ったり強い御利益が有ったり、古代の史跡の上に建っている事を知らずに育ってしまうので、反日的な教育を受けた某隣国系のヤクザが多く入り込んでいる土建屋と左派政治家の好き放題に日本の自然と史跡と宗教施設の旧境内地が破壊されて日本の風景がどんどん劣化して無機質な町が増えてしまい風流さも伝統の欠片も無いコンクリートだけの町に成ってしまうんですよ。

ですから皆さん、御近所の山や御寺や神社を是非散歩して見て下さい!
町中に残る山は平安時代~戦国時代の史跡で有る事が多いですし、神社仏閣は小さくても、鎌倉時代や戦国時代の英雄や御姫様と関わりが有る場所が沢山有ります。

この野島稲荷神社が、その典型的な例なので紹介して見ました。
町の中の小さな神様の御社や御地蔵様を見かけたら、心の中で声をお掛けして、手を合わせて見て下さい。

無論、神社仏閣だけでなく我々の住む横浜には幕末に英国によって建てられた山手聖公会教会等も横浜市の歴史の一部に成って行き、我々異国文化にも寛容な日本人に史跡/文化財として大切にされて行く事でしょう。

皆さん、町の中の御寺や神社や自然の湧水池や森や山を散歩してみませんか?
きっと其処は、過去の神様に成った縄文~弥生時代の偉人達や鎌倉武士や戦国武将と我々を繋ぐタイムマシーンに成ってくれるはずですから・・・
 

佐助稲荷神社
御祭神:宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)=倉稲魂神
開基:不明
中興:征夷大将軍 源頼朝公
住所:鎌倉市佐助2-22-10
アクセス:鎌倉駅から徒歩15~20分程度
映画ドラマのロケ:駆込み女と駆出し男
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この鳥居が連続する風景が京都ではなく鎌倉に在る事を御存知でしょうか?
皆さんは鎌倉市に観光に行かれたら、やはり由比ヶ浜の海や鶴岡八幡宮、または小町通りでショッピングや食事を楽しむんでしょうか?
小生は八幡様にも御参りしますが、浄明寺地区と扇谷地区と佐助地区を季節の変わり目に好んで散歩します。 その地域は鎌倉市がまだ郡だった頃の原風景が残る風致地区で、神社や御寺が緑に囲まれていてとても景色が良いんです。
佐助地区には源頼朝公が再興した佐助稲荷神社と言う御稲荷様が鎮座していて、ここが特に日本らしい清々しい神々しい雰囲気を漂わせています。
実はここ、昨年2015年公開の‟駆込み女と駆出し男”でも登場した神社なんです。
駆け込み女と駆け出し男
映画の舞台はこの佐助稲荷神社や北鎌倉の東慶寺と七里ヶ浜を中心に物語が展開します。
女性の主権が儒教のせいで軽視された江戸時代、DV夫から逃げた女性が離婚し、恋愛し再婚する物語。

女性救済の寺院、北鎌倉の東慶寺と映画「駆け込み女と駆け出し男」
映画に興味が有る人は↑上のリンクをクリックしてご覧下さい。
ここは伏見稲荷大社みたいに全山が稲荷社と言う訳ではありませんが、谷戸の奥、宅地開発が規制された場所に佇んでいます。

入口には下社と言うか社務所と縁結びの観音様が有るのですが、 そこに至る住宅街には少しお洒落な住宅兼店舗のカフェも数件有ります。
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 こんな感じ。この辺りは御金持ちの家が沢山(笑)。
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 この道の先が佐助稲荷神社。
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参道にこの御社が登場しますが、ここは下社ですから!この先にもちゃんと行ってくださいね!
ここだけ拝んで帰ったら、兼好法師の石清水八幡宮詣でみたいな事に成っちゃいますよ(笑)。
でも、ここも大切な場所ですから、拝んで下さい。そして横に在る祠(ほこら)にも注目して下さい。
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 この十一面観音菩薩様は“縁結びの御利益”で昔から有名な場所です。
今でこそ外に在りますが、恐らく明治時代に神仏分離令が出るまでは先程の御社の中に祀られて佐助稲荷神社を参拝する人々を見守って下さっていたんだと思います。
今は外に出て御参りしてくれる人に縁結びの御利益を授けてくれます。
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さて、何故(なにゆえ)、ここの地区名の由来に成った佐助稲荷神社が、この社名に成ったかと言いますと、源頼朝公の御父君の源義朝(よしとも)公が平清盛に合戦で敗れ、更に愛知県の知多半島で家臣の長田忠致(ただむね)に暗殺されると、源頼朝公は伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)、現在の伊豆の国市韮山に抑留され浪人生活を送る事に成りました。
この後、北条政子と婚姻関係と成り北条家や旧家臣団の一部と共に石橋山の合戦で挙兵し、その後の鎌倉幕府樹立と成るのですが・・・
この伊豆に居た時代の頼朝公の官職は右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)を辞職し無官だったので、頼朝公の通称は前(さきの)右兵衛権佐殿と呼ばれていました。
その頃、頼朝公は三日三晩夢にうなされ、この地の御稲荷様が老人の姿で頼朝公の夢に出て挙兵を促(うなが)したので石橋山合戦を起したそうです。
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つまり、ここは下社の十一面観音様は縁結び、奥社の稲荷大神こと宇迦御霊神は頼朝公を出世させた出世稲荷として御利益が昔から超有名だったんですね。
頼朝公=前右兵衛権‟佐”を‟助けた”から、この御稲荷様が以降、佐助稲荷神社と言う名で呼ばれる様に成ったそうです。
その御縁で頼朝公から社殿を再建され、現在の稲荷社の基礎が復興されました。
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ここは冒頭でも紹介しましたが自然豊かで静かな場所です。
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小さな鳥居のトンネルをくぐると参道の階段に辿(たど)り着きます。
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ものすご~く神社神社した神社でしょう?
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鳥居と夏の終わりの緑も綺麗ですが、この境内には楓が沢山有ります。
今年は昨年と異なり涼しい秋に成るのできっと、紅葉も色づきが綺麗な事でしょう。
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ちっちゃい御稲荷様が沢山!
鳥居を潜って正面の社殿は拝殿です。
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御本殿は、背後の階段の更に上に在ります。
でも先ずはこちらで御参りして、それから境内の本殿等を散策しましょう。
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小生、先週写真撮影に御参りに上がって新しい御朱印帳も延喜式内社以外の神社使用に購入しました。
ここは宮司様が坂ノ下地区の御霊神社と兼任で務めておられます。
実は御霊神社の先代宮司の小林前宮司様は昨年御隠居されてしまいましたが、その小林様はもの凄い家系の方だったんです。非常に引退が悔やまれる。
と、言うのも鎌倉の権五郎御霊神社は鎌倉景正(かまくらかげまさ)公とその祖先の平良文(たいらのよしふみ)公が御祭神で、この御二人は上杉謙信の御先祖様にも当たる方々です。
その平良文公の居城の村岡城を姓にした直系の御子孫で、代々村岡家が御霊神社の宮司様を平安時代以来務めていましたが、小林前宮司様は女性だったので結婚し姓が変わり、更に跡継ぎがいなかったので現在の宮司様が外部から赴任する事に成り、その1100年近い御祭神の直系子孫が宮司を務める伝統が途絶えてしまったんです。
しかし、職員様の御話しでは新しい宮司様あ血縁こそ無くとも、とても熱心な方でどうやったら廃(すた)れつつ有る古来の伝統を未来に残すか日々チャレンジされているそうです。
御朱印を頂きましたがとても新しい宮司様は字がとても綺麗でした。

←以前紹介した御霊神社の記事。

さて、佐助稲荷神社に話を戻します。
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小さな本殿には沢山の折なり様がビッシリ奉納されていました。
可愛いけど少し多すぎ(笑)。
佐助稲荷神社は境内の左手にも古い御社が在りました。
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なんだか童話に出て来そうな雰囲気の場所。
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小さな神様の祠が沢山在りましたので、恐らく昔の境内社の何某かの神様が祀られているんだと思います。
詳細は不明。
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下に又降りて来て拝殿の右側に廻り、その奥に行くと・・・
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こんな場所が有ります。
自然湧水。
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昔の宇賀神信仰に欠かせない自然の湧水。
現在の手水舎の水は、この水が引かれています。
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社務所で御守り等も販売しています。是非!恋人同士デートで御参りして見ては如何でしょうか?
近くには‟銭洗い弁天”として有名な‟宇賀福神社”も鎮座していて徒歩で直ぐに行けます。
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ここで御金を洗って金運アップを祈願して、佐助地区から武士達が往来した‟化粧坂(けわいざか)の切通し”を散歩すると鎌倉の原風景を巡るコースを散策できます。
化粧坂の切通しを抜けて扇谷地区まで行くと、海蔵寺が近くに在ります。DSC_2487
海蔵寺は十六井と呼ばれる文化財の井戸と春に咲くカイドウと言う花が綺麗で有名な御寺も近くに在ります。
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ここも観光客が良く訪れる場所です。
そこから小町通へ歩いて行く途中には英勝寺と言う御寺も有ります。
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ここは紫陽花(あじさい)で有名な場所ですが、実は徳川家康公の側室として寵愛された‟お梶の方”様の開いた御寺であり菩提寺でもあります。
だから、お梶の方の御廟所は東照宮の様な唐門でとても綺麗な建築物も有ります。そして御梶の方様の御先祖で関東一の名軍師だった太田道灌公の旧屋敷地でも有るので、こちらも御参りすると恋と知恵の面で御利益が期待できそうですね!
そして小町通を目指して歩くと、途中で名刀正宗を平安時代から製造する刀鍛冶の正宗工芸さんも在ります。
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ここでは日本刀を作る各段階の実物が店先に展示してあって自由に見学出来ますし、刀以外にも御子孫が正宗の技術で鍛える包丁やナイフも購入出来ます。夫婦の散歩なら包丁を買って帰るのも良い財産に成るかもしれませんね。
正宗工芸を過ぎればもう小町通・・・
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夕暮れ時の小町通は、ほんとに映画の世界に入り込んだような雰囲気ですよ!
そして日没直後の鶴岡八幡宮・・・
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なかなか日没後に参拝する人はいませんが、運が良いと夕暮れ時に松明(たいまつ)の中を歩く婚礼の儀式を見る事が出来ます。
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どうです?
佐助~化粧坂切通し~扇谷~小町通り~夜の八幡宮散歩、とても幻想的で良いでしょう?

もし気に入って頂けたら、是非!佐助稲荷神社、素敵な場所なので御稲荷様に会いにいってあげて下さい!
きっと御稲荷様も喜んでくれると思います。
・・・そして、鎌倉の武士達が歩いた空気を感じてみて下さいな。

では!又、次の記事で御会いしましょう!



 

横浜市栄区長倉に江戸時代には経堂橋と呼ばれ、大正時代の補修以後は昇龍橋と呼ばれた橋が在ります。
この橋は上郷6号緑地沿いの遊歩道にかかっているのですが、旧鎌倉郡の原風景を見る事が出来る重要な場所で、上流の瀬上沢には自然の蛍も生息している貴重な自然公園に成っています。
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素敵な石橋でしょう?もう少し秋深く成った方が綺麗かも知れませんね。
石橋の左側の赤い筋は自然湧水の小さな滝です。
ここ等辺りの地盤は関東ローム層で鉄分が多く含まれているので鉄分のせいで酸化した赤い成分が沈着するんですね。ですから鎌倉は武士の首府だった時代に水質の良い井戸が少なくて、逆に水質の良い井戸には鎌倉十井と呼ばれた場所が出来たりしました。
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現地に行くと、栄区役所の熱心な御担当者がちゃんと調べた説明も有ります。素晴らしい。
この橋は横は風情があるだけでなく市内では最古の現存する石橋で、絶対に破壊させてはいけない文化財なんですね。
実はこの橋は白山社の旧参道で、その傍らには武士達が駆けた旧鎌倉街道の間道の1筋も残っていたりします。
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橋を渡った先に、白山社古址の石段が有ります。
何故、白山社“古址”と言う言い方をしたかと言いますと、もう廃社にされ神様は近隣の上郷地区の思金神社に合祀されてしまったんです。↓以前、思金神社を紹介した記事。

昔は、地域の殿様や庄屋さん達が神社に収入に成る土地を寄進して、その土地の田圃の年貢が神社運営費に成ったりしたのですが、明治政府の唯一の失政である宗教改革で、神社仏閣の土地は没収され多くの神社仏閣は運営困難に成り荒廃し、廃社や廃寺に成って行きました。
日本文化を大切にしようとした明治政府でしたが、この失敗で寧ろ日本文化と日本人の乖離(かいり)を招いてしまったんですね。そして多くの神社仏閣に止めを刺したのが敗戦後のGHQの統治とGHQ撤退後に行政に食い込んだ反宗教のマルクス主義者や左翼です。GHQは僅かに残った神社の土地の多くを更に奪いました。GHQの撤退後に市に返還されるのですが、この際、多くの市職員や政治家に戦時中の反動で左翼閥が多く成っており、GHQから返還された神社仏閣の土地を元に戻す事は無く、市の財産として売却してしまった場所がほとんどでした。
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この白山社も荒廃してしまったのですが、石段の様子を見るに古い時代からここに在った石材に見えます。
小生の経験だと摩耗の仕方から遅くても安土桃山時代か江戸時代初期ぐらいの石段じゃないでしょうか。
恐らく、鎌倉武士達も往来する際に、この白山社で御参りした事でしょう。
今では何も建物も石碑も、当然書物も無いですが、なんだか神秘的な雰囲気は漂っています。
何で小生が、ここを鎌倉武士達も拝んだと推測しているかと疑問に思う人もいるでしょうか?
ここには、鎌倉武士達が関与した証拠が残っています…
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最初の石段を登って境内に入ると左手には切り抜かれた箱状の穴が有るんですが、これは奈良時代~鎌倉時代末期までの武士の習慣で、矢倉と呼ばれる死者の供養塔を置くスペースだったんですね。
昔の鎌倉武士の御墓は御骨を骨壺に入れた後、地下に埋葬するのではなくて石塔(墓石とは形状が違う)の中の納骨スペースに骨壺を入れる事が多かったんです。
土地の狭い鎌倉に住んだ武士達らしい習慣ですね。
小生は偉人の御廟所の写真を普段は掲載しないのですが、一つ具体例として三浦義澄公の供養塔を皆さんに見て頂きたいと思います。
ちゃんと史跡保護しないと骨壺を海外への転売しようとする盗掘者や外国人犯罪者に破壊されるよと言う戒(いまし)めの意味も込めて…
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これは鎌倉武士の代表格、三浦家の棟梁、三浦義澄公の菩提寺だった薬王寺跡:横須賀市衣笠の写真です。
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御寺は明治政府の宗教政策の失敗で廃寺に成り、御墓は破壊され骨壺が盗まれてしまいました。
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納骨スペースが無残に叩き割られ石塔上部が直接おかれて中身が盗掘されています。
鎌倉武士達の御墓は西日本の文化と違って元来はこのような四角い石柱の中に空洞が彫られ、そこが納骨スペースに成っていて骨壺が納められていたんですね。
そして、供養の石塔が立てられる場所は先程の写真の様な壁面に掘られた矢倉と呼ばれる人工の半洞穴の中でした。
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だから、この矢倉が有る事で、この白山社が武士にとって大切な場所であった事が解るでしょうか?
この昇龍橋の少し下流には権現橋と言う橋が有ります。白山社はつい150年前に明治政府の宗教政策で神社と御寺が強制分離させられるまで多くが白山権現と呼ばれ神仏習合つまり神社と御寺の両方で祀られる神様でした。
そして、ここの昇龍橋も明治時代まで経堂橋と呼ばれた事から、この付近には御寺が在って白山社古址は白山権現を祀る御寺の経堂だった事が用意に推定出来ます。
白山社の矢倉は最初の矢倉を登った左手に在ります。正面を向くと、当たり前ですが神社?経堂?の跡の石段も現存しています。
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本当に残念ながら社殿は維持できずに取り壊されてしまい、今では武士達が歩いたであろう石段しか有りません。それでも、この境内に踏み入ると何だか陽が当たらずとも清々しい空気に満ちています。
さて、白山社古址と昇龍橋の説明からは少し離れて、周辺の遊歩道の風景を見てみましょう。
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白山社古址を正面に昇竜橋から左手を見た先が、遊歩道を瀬上池や瀬上沢に進む順路です。
それと反対方向の朝比奈峠側に歩いて行くと、下の風景が見られます。
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この一帯は小川の両岸が散策路に成っていますが、両岸に昔から道が有りました。
どっちかが崩壊してもどっちかが通れる様にする工夫でしょうかね?
暫く進むと権現橋が有ります。
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橋の先は今は民間に払い下げられてしまった様です。
橋の手前に辛うじて歩ける幅の遊歩道がギリギリ残っているだけ。
ふざけんな横浜市。
ところで、権現橋の奥には広い谷戸の削平地が広がっています。
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もしかしたら、ここに本来の白山社の仏教的な御堂や御本尊や御神体を祀っていた御寺が在ったのかも知れませんね。
今度、新編相模風土記稿を読む時に調べてみようと思いますが、果たして掲載されているかどうか…
さて、遊歩道として何となく歩いても良い場所ですが神社の建物は無くても雰囲気は残る事が伝わったでしょうか?
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川辺に降りる事も出来ますので、もし近くを通りがかったら散歩して見て昔の人の生活を連想してみて下さい。
この川辺で馬に水を飲ませる武士もいた事でしょうね…
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こんな恰好した鎌倉武士達が、ここを通って鎌倉と地元を往来したんですね。

さて、この昇龍橋が参道だった白山社は廃社に成ってしまった訳ですが・・・

神社や御寺と言うのは只の宗教施設では無くて、境内の石碑や建物、或いは所蔵されている文書に造営した武将達や地域の人々の生活が刻まれているタイムカプセルなんです。
そして、時に昔の人が未来の人、つまり私達へ当時の災害を伝えようとした警告の場所だったりする訳ですが…
残念ながら、現代人の信仰心が弱く成った事や、日本帰化民が多く働く土建屋にとっては邪魔な物が神社仏閣や城址で建設会社は史跡が出土しても教育委員会に届けずに破壊し宅地造成したり、史跡と解っていても届けずに破壊し宅地造成しようとします。

・・・悲しい事ですが、そうやって貴重な建築遺産や史跡が段々とこの世から消えていき、結果的に現代人にその代償が帰ってきます。

それが東日本大震災でした。

東日本大震災では昔の人々が経験した大津波の記録を石碑にして神社や道の傍らに建ててくれていたのに、多くの人間が神社仏閣に足を運ばなくなり、太平洋戦争の敗戦後GHQの制作で日本語の漢字の繁体字の使用が禁じられた為に石碑を読める人自体も少なく成っていたので、津波の到達地点の石碑より海抜の低い位置に多くの家が建てられており、1万3千人近くの人々が亡くなってしまいました。

小生は歴史偉人を尊敬し、神様と成られた前時代の日本人の偉人も崇拝しています。
それは現代人の生活が我々が突然手に入れた物では無くて、先人達の多くの悲しみと努力と別れの結果の少しの成功と喜びの上に成り立ってるからです。
今、小生が生きているのは神奈川県や日本を開拓して下さった神様に成った先人や武将達がいるからだと思っています。
ですから小生は歴史人物を尊敬しない人間以外、全て敬称を付けて呼びます。
歴史家は歴史偉人を物の様に呼び捨てにし、多くの観光協会は歴史偉人を商売で利用しても偉人の関わった神社仏閣は滅んでも良いと思っている連中ばかりです。特に先日喧嘩した社団法人〇〇県観光協会の管理職。
歴史オタクの小生と連中の違いは、歴史人物を生きていた人として尊敬して感謝しているかどうか、現実にいた人で御子孫達が居る事も考えて歴史に触れているかどうかだと思います。 
そして繰り返しには成りますが、先人が残して下さった物には東日本大震災で活用されなかった我々への警告も多く残っています。
だから大切にしたり、日頃から身近に感じる距離で散歩したりする事が 大切だったりすると思っています。

そんな思いで昇竜橋と白山社古址を紹介してみました。

では、次は愛知静岡旅行の休日雑記の続きを書きます。それでは又、次の記事で! 

野庭神社(のばじんじゃ)/旧名:野庭蔵王権現御嶽社
主祭神:蔵王権現(神仏習合の山岳信仰の神。明治期に日本武尊と習合)
御利益:勝負運?地鎮?交通安全?
開基:1570年、地主の臼居杢右衛門が金峰山寺より蔵王権現の御分霊を勧進。
場所:横浜市港南区野庭町1838
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最近(2016年現在)、旧神奈川県立野庭高校吹奏楽部の実話をモデルにしたドラマの❝仰げば尊し❞でロケ地にも成った野庭高校ですが、その旧野庭高校や近くの野庭団地一帯が戦国時代の野庭関城だと言う話を以前、ロケ地解説記事で書いた事が有ります。
⇐その記事リンク。
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その野庭関城の外郭、馬洗い川を利用した外堀の谷間、切岸の役割をした河岸段丘上に建つ野庭神社と言う神社が在ります。
田舎の鎮守の御社と言った雰囲気を醸し出す素敵な神社ですが、この丘の背後には宅地開発され消滅した野庭城が控えていました。つまり、こんな懐かしい雰囲気を漂わせていますが、背後は団地なんです。
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団地の中心の公園が本丸跡です。
神社前の谷間が沼掘りの役割を果たしていた。
この一帯は緑地として保護されているので横浜市の旧鎌倉郡域の風景を現代に留めています。
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出来ればこれ以上、開発されませんように。延喜式内社が沢山有る伊勢原や厚木の田舎に来た様な鎌倉の原風景が小生は好きです。
神社の鳥居の横には、熱心な町内会の方々が昭和後期に建てた解説看板が有ります。
昭和55年の事だそうで野庭地域が開発され城址が消滅したり宅地に成ったりして行った時期ですね。
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この説明には知識不足から来る誤りが多数あるので後で補足と訂正を小生の方でして置きます。

さて、そんなこんなで、ここは戦国時代から存続する神社な訳ですが江戸時代の寛政年間に現在地に移転された様ですが、何んで移転されたんでしょうね?
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石段を見ると、江戸時代の石材加工技術で作られています。風化具合から見て江戸時代~明治時代の物に見えます。
となると、戦国時代の御社は遷宮時には転用されず、新たに石材から集められて建てられたのかも知れませんね。
今度、新編相模風土記稿で記載を探してみますが掲載されているか解らないので、最悪、氏子さんか地元の古老に取材してみます。
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社殿は小さいながら立派ですね。瓦葺なのでもしかしたら建物も江戸時代の物が現存しているのかも知れない。
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扁額は立派です。でも社殿が江戸時代だとすると江戸時代には既に野庭神社と呼ばれていたのだろうか?
解らない。
この地域は都会化から保護された緑地帯で氏子サンも少なく成っているかも知れませんが、この立派な扁額を奉納された氏子サン達に敬意を抱きます。
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社殿が雑木林に囲まれています。
左側の雑木林は造営当初は無かったはずなので、伐採して神社の日当たりを良くするだけでも、通りがかる人々の目を引くと思います。
ともあれ、すっごく雰囲気の良い神社な上に戦国時代に繋がる場所、何かドラマのロケ地とかに成ってもおかしくない場所だなぁ~とか感じました。
銅葺(あかがねぶ)き屋根の緑の屋根の神社も素敵ですけど、江戸時代の大らかな庶民文化の御社も良いですね~。
周囲の風景も農道が残っていて良いし、とても横浜とは思えない元鎌倉郡の神社でした。

きっと、この神社を野庭関城の城将だった戦国時代の名奉行として有名な北条家臣の安藤良整公や、北条氏康公の馬回り衆(直属部隊)の侍大将だった石巻康保(いしのまきやすもり)公や、外交官として有名な板部岡江雪斎公も御参りした事でしょう。

町の中の小さな神社も歴史背景を辿ると、思いがけず歴史偉人との繋がりが有るかも知れない典型的な神社さんですね。
この田舎っぽい雰囲気の良い神社、地域の人には子々孫々まで大切に伝えて欲しいです。

以下は上野庭町内会文化部さんの作った野庭神社の歴史解説の誤り指摘と小生による訂正です。
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●開基された時期の説明訂正
1570年の室町幕府の将軍は足利義秋(改名:義昭)です。足利義明は小弓公方(おゆみくぼう)と呼ばれた房総半島の生実城(おゆみじょう)を本拠地にした鎌倉公方の一族で、同音ですが室町幕府将軍とは別人物です。
野庭神社を造営した臼居家は当時、小田原北条家の統治下に在ります。小弓公方は北条家と対立関係に有り尚且(なおか)つ足利義明は北条氏康公によって討ち取られているので、小弓公方を基準にして歴史を語る事は無いでしょうし1570年の話ならば足利義秋を基準にした話でしょう。
※よって、この説明は造営年代は1570年で足利義昭の時代と訂正するべき。足利義明ではない。
●御神体勧進の経緯についての訂正
この神社の神様は、吉野山の❝蔵王権現(ざおうごんげん)社から勧進した❞ものではありません。そもそも、吉野山で蔵王権現と呼ばれるのは、金峰山寺と言う名前の歴代天皇家が崇拝した神仏習合の現在では修験道の御寺に分類される大寺院です。和尚サンでもあり神主様でもある山伏(やまぶし)サン達の宗派ですね。
そこの御本尊が蔵王権現と言う日本独自の神仏習合の神様で、金峰山寺には蔵王堂が現在も在ります。この金峰山寺を特に崇敬したのが後醍醐天皇で、武士では源八幡太郎義家公を筆頭にした河内源氏の殿様方です。この事実を踏まえると、野庭の土地には平安時代~鎌倉時代には野庭関城を源氏の与力の和田義盛公が築城した歴史が有る事、この土地が執権北条家の所領だった事から蔵王権現社自体は源頼朝公の時代には前身の祠か何か存在した可能性も有りますね。
※よって、この説明は吉野山の金峰神社から勧進と言うのは誤りで、後醍醐天皇の守護神だった修験道の本山、吉野の金峰山寺から蔵王権現を勧進したと改めるべき。
●御祭神についての訂正
説明では御祭神は日本武尊とありますが誤りです。蔵王権現は蔵王権現と言う神様です。神仏習合の時代の神格でも蔵王権現は安閑天皇と同格とされ山岳信仰の神様です。つまり日本武尊は少しも関係が有りません。
実は蔵王権現は神仏習合の神様なので明治時代に弾圧対象にされました、歴代の天皇家が崇拝して来たのに明治時代に水戸学なんてカルトに基づいて宗教改革をした弊害ですね。その際に神仏分離令と廃仏毀釈の弾圧から逃れる工夫として全国の蔵王権現社は蔵王権現を日本武尊を祀(まつ)ったり社名を同じ山岳信仰の御嶽社(みたけしゃ/おんたけしゃ)と改める事で弾圧を免(まぬが)れました。
つまり、この野庭神社が野庭の蔵王権現社から野庭神社に名前を改めたのも御祭神を日本武尊に改めたのも、その歴史が端折られ、そのまま誤って記載されています。
※御祭神について金峰山寺から勧進された蔵王権現と改めるべき。
●社名について
古来、蔵王権現社として勧進されたのだから野庭神社から野庭蔵王権現社として説明するべき。

余談ですが臼居家の事も掘り下げてみたいと思います。
この神社を建てた臼居家の家紋は❝蔦(つた)の葉紋❞です。
蔦の葉紋
以前、港南区の間宮家関連の神社を訪れた際に区役所で郷土史研究家の方が発刊された❝先駆者と遺宝❞と言う港南区の歴史人物をまとめた本を購入しており改めて読みましたが、その本では千葉家の子孫で遠祖は平良久と書いてますが誤りです。
千葉家の祖先は平良文(たいらのよしふみ)公です。この野庭辺りの旧武蔵国久良岐郡~旧相模鎌倉郡を含めた神奈川県沿岸部域を開拓したのも平良文公の御子孫達です。
内陸に関しては早くから小野氏や出雲神族の御神孫が開拓しました。
そして神奈川県域の発展に寄与された平良文公の御子孫の内、❝蔦の葉紋❞は千葉家の家紋ではありません。また千葉家の家臣の臼井家は臼❝井❞であって臼居ではありません。
そして千葉家の家紋は❝九曜に半月紋❞です。
九曜に半月紋
これが千葉家の家紋。
千葉家臣臼井家の家紋は九曜紋。
九曜紋
なので、家紋からは野庭の臼居家は千葉家子孫とは考え難いですね。しかし鎌倉の浄土宗大本山光明寺に千葉家からの家系を辿れる資料が有るらしいので、可能性としては房総半島の臼居城を退去し野庭に移住し北条家に臣従した時代に上司や目上の外戚から蔦の葉紋を譲り受けた事が推測出来ます。
蔦の葉紋
では蔦の葉紋は千葉一族の祖先で鎌倉御霊神社の御祭神でもある平良文(たいらのよしふみ)流の坂東平氏の家紋ではないかと言えば、そうでもなく良文公の子孫の中で有名な蔦の葉紋を使う武士はいます。
しかも、その家系も千葉家と同格に由緒正しい血筋で、現在の高座渋谷や綾瀬市辺りを領地にした渋谷重国公の家系です。
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※写真は綾瀬市の早川城址公園。空堀土塁等が現存。
野庭の臼居は苗字が同族の千葉家の臼井に似てる事に肖(あやか)って臼居家が家系を誤って伝えたんでしょうか?何で千葉氏流臼井家が野庭の臼居家の祖先なら、九曜紋じゃないのか説明が出来ません。
小生が思うに、北条家臣時代に成ってから姓を臼井城に残った一族と区別する為(ため)に"臼居"と字を改め、更に家紋も先述の様に野庭関城の有力者で蔦の葉紋を使う武将と懇意に成り家紋を譲り受けたか、外戚の武将から譲り受けた事が推測出来ます。まぁ、あくまで小生の想像です。
戦国時代、臼居家は鎌倉の玉縄城主、北条綱成に従って武田信玄と戦ったと系譜上に記載しています。
これが正しければ深沢城の籠城戦か三増峠合戦でしょう。
北条綱成公に従っていたのなら玉縄衆だったはずで、手勢の武士30騎動員兵力300と書いて有りましたが少し疑問ですね。計算上おかしい。武士30人を配下に抱えていたなら、動員兵力は武士1人につき3人前後の足軽がつくので、実際の手勢300の半数の兵150以下が手勢と言う所でしょうか。それでも立派な侍大将です。北条綱成公の家老の間宮家でさえ笹下間宮家で動員兵力200弱ですからね。
玉縄北条家の石高が1万石~2万石、単体での動員兵力は300~600、そこに与力の間宮家や堀内家やらが加わり玉縄衆全体で兵3000前後、規模10万石な訳です。
だから野庭の臼居家のみで兵300と言うのは少し考えにくい話ですね。恐らくは手勢150に配下の与力武将の兵力を合わせた総数が300だったんじゃないでしょうか?

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※写真は玉縄北条家が徳川家臣と成り1万石で転封された千葉県佐倉市弥富の岩富城址から見た風景。
信憑性が有る部分は中田加賀守の次女を妻にしていたのが野庭神社を開いた臼居杢右衛門と言う事でしょう。
中田加賀守は戸塚区の殿様なので地域的にも縁戚に成るのも自然な話です。そして東慶寺に300石を治めて地頭に成ったと有りますが、これには少し疑問が残ります。
この野庭辺りの旧住所で小名:政所(まんどころ)と言う場所は本当に東慶寺由来の土地なので地域的には整合性は有るのですが、そもそも野庭郷自体の石高が106貫307文と判明しており石高に換算すると1貫=2石なので約212.6石と言う計算に成ります・・・
野庭全体を東慶寺に寄進しても300石には成らない。この東慶寺に300石と言うのは、地頭=名主として治めた領地300石の内、東慶寺へ小名:政所領分の年貢を納めていた地頭と解釈した方が正しいと思います。
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※写真は東慶寺。開いた人物が鎌倉幕府の北条時宗公の御妻女で最初の尼住職。以後、後醍醐天皇の皇女の用堂尼や豊臣秀頼公の御息女の天秀尼が歴代住職を務めた女性や子供を保護する縁切り寺として機能した。
⇐東慶寺解説したブログ記事。

まぁ、こんな事を考えられるのも、野庭神社を氏子サン達が守って源氏以来の武士達の蔵王権現信仰を伝えて下さったからですね。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

東京都江東区に越中島と言う土地が在ります。
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上の写真がヒントかな?独力の成果ではないので一応ヒント代わりに御礼を…
江東図書館の司書様、個人名を出すのは控えますがありがとうございました!又、間宮家顕彰文に書き加える資料が見つかったのは、貴方の御蔭です。

さて、この越中島の土地は横浜市民には少々関係の有る土地である事を知る人は、今ではほとんどいません。
この越中島は、榊原照清と言う江戸時代初期の殿様の御屋敷が有った場所なのですが…
隅田川河口の守りを担う位置に江戸幕府より屋敷地を与えられて居住したのが❝榊原照清公で、その官途が越中の守だった事が現在の越中島の地名の由来”に成りました。
まぁ~郷土史だけ読んでも、照清公の御名前は出て来ないので郷土史家でも余り知らないでしょう。
ソースも意地悪で示さない小生(笑)。
越中島周辺
その屋敷地の所在地、元々の❝越中島❞と呼ばれた島は現在のヤマタネ株式会社の倉庫の所在地辺りです。
では何故、この越中島が横浜と所縁が深いかと言うと、それもやはり榊原照清公の御縁です。
実は、この照清公、母君が横浜の磯子区杉田出身の元北条家臣で徳川家康公の直臣にして鷹匠頭を務めた間宮家の分家杉田間宮家当主の間宮信繁公の御息女でした。
つまり、榊原照清公は横浜の間宮家の血を引いていた訳です。そして間宮信繁公の御姫様、つまり照清公の母上様が晩年住んでいた場所も、この越中島の御屋敷だったと成る訳ですね。
そして、何故、この場所が江戸幕府によって榊原越中守に当てがわれたかも、母上の家系、間宮家の家系を知っていると説明がつくわけです。
先に少し触れましたが、この越中島は江戸時代当時の江戸の大外堀りの役割を成した隅田川の河口に位置しています。
江戸時代の地図と現在の衛星写真を見比べてみましょう。
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現在では埋め立てが進み大分様子が異なりますが、下の江戸時代の地形図面の左下の四角い島が元々の越中島です。
正に江戸の海防を担う当時の❝台場❞の一つだった事が解りますね?
実は榊原照清公の母上の御実家の間宮家は❝築城技術❞❝鷹の飼育❞❝外交儀礼❞❝水軍❞に精通した武家でした。水軍に精通した家系であった事から、この位置に間宮家のノウハウを得れる照清公が住まされたと容易に推測が出来るんですね。
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現在、昔の越中島に当たる場所にはヤマタネと言う企業が在ります。そこに掛かる橋の名前が❝練兵衛(れんべえ)橋❞なのですが、幕末、ここ越中島が砲兵の練兵場として使用されていた事が橋の名前として残った訳です。
つまり、幕末には砲兵の訓練をする場所であり江戸を守る台場としても機能していた訳ですね。
そんな要衝に居住した間宮の血を引く榊原照清公ですが…
間宮一族からは合戦や鶴岡八幡宮の再建、築城で活躍した内政と武勇に秀でた玉縄北条家の付家老を務めた間宮康俊公…
武田信玄や徳川家康公の水軍大将を務めた間宮信高公、この信高公は間宮康俊公の系図上の御子息です…
北条氏照公の家老を務め、北条家の外交官として織田信長公への使者を務めたり日本100名城の一つ八王子城の縄張り(設計)をした間宮綱信公、間宮康俊公の弟…
そして、榊原照清公の祖父に当たり北条家臣を経て徳川家康公の直臣として鷹匠頭を包めた間宮信繁公、間宮康俊公のハトコ等がいらっしゃいます。杉田間宮家も又、初代間宮信次公が水軍を率いて活躍された武将です。
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ヤマタネと交差する橋は巽橋、更に近所には隅田川に掛かる永代橋があります。

照清公の榊原家そのものの血筋も凄く、御父君の叔父が徳川四天王と呼ばれた榊原康政公でした。
榊原康政公の兄上の榊原清政公が照清公の祖父に当たります。
この榊原清政公は、徳川家康公の御長男の徳川信康公に御仕えしていたのですが、その徳川信康公が織田信長公の敵である武田家に内通した容疑で切腹させられた際に、連座して責任を取らされて榊原家の惣領は後に徳川四天王と呼ばれた榊原康政公に移った訳です。
間宮の血を引く榊原照清公、その御父君で間宮信繁公の姫君を娶った人物は榊原照久公です。
以上の説明で、この越中島が横浜市とも殿様の御縁で繋がっている事は御理解頂けたでしょうか?
この江戸時代重要な場所だった越中島には現在、津波対策の水門と公園が整備されています。
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大島側水門です。
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越中島と永代通りを隔てる水掘りは現在では大島川と呼ばれているんですね。
後で説明しますが、これらの水掘りが江戸時代~昭和初期まで運河として活用されたので、この付近には昔からの商家が多く存在します。
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現在の越中島公園
満潮時には遊歩道まで海水に浸かるようですね、これは確かに水門を作らないと心配な地形です。
でも河口側は風景が綺麗な場所でしょう?
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屋形船も多く見られます。
そして、旧江戸の中心側を見ると…
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現在では高層ビルと美しい吊り橋の風景を見る事が出来ます。
川がこれだけ何本も集まる河口だったので軍事にも物流にも重要な場所だった訳です。
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現在では水運は余り利用されなく成り、隅田川にも多くの橋がかけられました。
さて、この越中島周辺は水運の拠点だったので、多くの商家の蔵屋敷が立ち並ぶ場所でした。
その名残を見る事が出来る場所が、越中島公園から徒歩5分の場所にあります。
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徳壽神社と言う名前の御稲荷様です。
実はこの神社の縁起(えんぎ=由来)その物がネタバレなので、先に史跡としての痕跡を紹介しますと…
この徳壽神社、実はですね、鰹節のメーカーとして現代でも有名な❝にんべん❞の発祥地に建てられた神社なんです。
ですから周辺には屋号や企業名のある自宅兼事務所みたいな建物だらけで蔵町の跡が残っているんでしょうね。
そして、この徳壽神社の縁起ですが…
江戸時代、稲荷大明神の御神像がこの付近で隅田川から引き上げられた際に、❝にんべん❞の境内に神社を建て祀ったのが、この徳壽神社の始まりでした。
つまり元々は、にんべん社や周辺の商家の守り神としてスタートしている訳です。
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思いがけない場所に、沢山の歴史が詰まってるでしょう?
これだから歴史訪問と神社仏閣の参拝や城址や史跡訪問は発見だらけで楽しいんですよ♪

きっと皆さんの御近所の神社にも、思いがけない歴史が詰まっていたり、歴史上の人物との繋がりが有るかも知れませんよ~?
ですから、御近所の御城跡や神社仏閣、里山を散歩して見ませんか?
…と言う、一、歴史オタクからの御誘いを以て今日の〆とさせて頂きます。

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう♪

ブログネタ
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古代神話時代に首相を務めた思金神を御祀りする、横浜市栄区(鎌倉郡域)の思金神社に初詣に行って来た。
横浜市は久良岐郡・鎌倉郡・都筑郡・橘樹郡から構成されて成立した土地。
横浜市と隣の川崎市と三浦半島、それと海を隔てて隣県の千葉は、中国史観での日本史の空白時代を埋める日本武尊神話と伝承の舞台の土地でもある。
最初は歴史人物としても尊敬する菅原道真公を御祭神とする日本三躰天神社の永谷天満宮に行ってみたけど最近は参拝客が多く待ち時間が長そうだったので、仕事が休みの明日改めて御参りする事にした。
そして思金神社へ…
今日は正月なので神楽殿や仮設売店には綺麗な巫女さんが何人かいました。
今日、御参りした思金神は、小生が崇拝する京都阿弥陀寺と建勲神社の建勲神(織田信長公)、三浦半島走水神社と川崎子母口橘樹神社の日本武尊と弟橘媛様、天満様の菅原道真公と共に尊敬し崇拝する存在。
天照大御神が天の岩戸に引きこもった際に、天の岩戸を開く手立てを立案し指揮された神様ですね。
お祭で天照大御神を誘いだした方なのでお祭り好き神様なんでしょうか?
 
思金神社の↑御神輿。
思金神は、その神話の経営者的、参謀的役割から、商工業や学問の神様としての御利益が有るとされています。

小生は先に述べた神様以外に、北鎌倉東慶寺の天秀尼様・鎌倉玉縄龍寶寺の北条綱成公・伊勢原上粕屋洞昌院の太田道灌公・横浜金沢富岡八幡宮の源頼朝公・鎌倉鶴岡八幡宮の源義家公・藤沢二傳寺の平良文公・京都誠心院の和泉式部様も神仏に等しく崇敬しています。
特に北条綱成公は信長公、菅原道真公に次いで崇拝する御方です。
無論、地元横浜の殿様の間宮康俊公も尊敬しています。
近世近代の偉人では、高田屋嘉兵衛さん、河合継乃助さん、坂本龍馬さん、孫文先生、柴五郎さん、東郷平八郎元帥、秋山好古さん、西郷菊次郎さん、原三渓さん、八田與一さんを特に尊敬しています。
神社や御寺は、古代人や有史以来の先人の記憶を伝える場所でもある訳です。
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初詣や節目節目の祭事は、先人の記憶を引き継ぐ意味も有ると個人的に思っています。
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神社に鏡が祀られるのも、卑弥呼の時代位に加わった習慣かも知れませんね。
あの時代から盛んに銅鏡が製造されだした様ですから。
思金神社本殿の前には霊石も展示してあります。
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自由に触って良いので小生もハグしてきました。

この思金神社は、横浜市鎌倉郡域の原風景を良く保存し留めている…
小生は、この神社の自然が好きです。
この思金神社周辺からは古代の踏鞴製鉄場遺跡も出土し古墳も多数在る古代からの文化醸成地でもある。
平安時代末期には、この鎌倉郡の村岡に平良文公が居城を置き、後の鎌倉武士団を形成する子孫達が南関東の土地を開拓して行きました。
この近所には公田や河内の地名が今も残り、源義家公の伝承の神社も近隣に点在し河内源氏の歴史の足跡を辿れる地域でもあります。
そして、横浜市内の貴重な原生林の自然保護区でもあるのが、この神社の在る円海山です。 
更には、円海山の沢の清流を集めた瀬上池から流れる瀬上沢は、横浜で絶滅寸前の貴重なホタルの生息地であると同時に、灌漑水田の史跡でもあります。
この丘の地盤の地下地層自体も貴重で保護すべき所で、淡水生の大型貝の化石が群在する地層が含まれています。
だから特別に自然を破壊せず保護しないといけない地域な訳です。
自然崇拝をした古代人達の史跡の近くの思金神社は、古代日本の宗教観と伝統を受け継ぐ神社らしく 、境内からは富士山が綺麗に見えます。
本殿横に看板が有ります。
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この道を通ると、途中にホタルの生息地の瀬上沢のせせらぎや、古代人の蹈鞴(たたら)製鉄場遺跡などを抱える古(いにしえ)からの文化と自然を有する横浜屈指のパワースポットの円海山に建つ神社らしく、展望台手前には水神様の御社も在ります。
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この奥が富士山の見える展望台です。
今日の富士山は頂上が雪化粧をしていて、特に美しかったです。
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今年一年間、自分は社会の為に役に立つ事を成し遂げられるだろうか?
出来る事はやってみよう…

皆さん、今年一年、又、宜しく御願いします!
御互いに実り多き一年に成ります様に~♪

では、又、次の記事で御会いしましょう!
次こそ観音崎灯台周辺紹介の記事の【後編】を書きます。

横浜市中区が、日本初の物や事が多いのは何となく御存知の方も多いと思いますが…
その中区の更に限定した地域、クレイジーケンバンドが自らの音楽活動の本拠地と標榜する「本牧半島」には、日本近代化の象徴とも言うべき発祥がやはり、幾(いく)つか有ります。
以前、ビール発祥地で麒麟麦酒前身会社のスプリングブルワリーと、そのオーナーのコープランドさんの記事を書いた時も少し触れているので御存知の読者もいるかと思いますが…
※ビール発祥地の記事は「ココ」←クリック!
本牧は「君が代」と「吹奏楽(ブラスバンド)」や「テニス」の日本における発祥地なんです。
…ついでに言うと日本初のフリーメイソンのロッジも同地。
其(そ)れ等の場所が半島の地名を山号に頂いた上の写真の「本牧山妙香寺」です。
 この地がブラスバンドや君が代の発祥地である事は今では学校で教わりません。
山門までには上の長い階段が有ります。
切通し状の階段の途中、壁面に石板が嵌(は)められています。
昔の人は商売人も学者も歴史や文化や自国発展に寄与した人物や場所を大切にしたので、この様な事をされたのでしょう。
今でこそ山門の大きさは普通、境内の御堂も鉄筋コンクリートですが、これは太平洋戦争の戦火に遭ったからです。
昔は隣の山手町公園を含めて広大な敷地を有する大寺院でした。
規模縮小の始まりの原因は江戸時代末期の横浜開港時に江戸幕府が、この御寺の敷地に駐屯した英王国軍と英国人の要望と圧力に応じて、寺敷地を無償貸借契約で接収した事に始まります。
衛星写真で見ると広大さがよく分かりますね。
左下、妙香寺と山手公園の敷地を合わせた範囲が本来の妙香寺でした。
しかし、こちらでも他の神社仏閣同様に不見識な横浜市行政が土地を寺に渡さず市の物にして接収してしまいました。
本牧の地名由来の由緒有る御寺なのにね、市の対応は意味が分からない。

そもそも、この妙香寺さんは日本仏教の二大開祖の一人、真言宗の祖師である空海和尚こと弘法大師様が開いた御寺です。
空海和尚と言えば日本神話の神様も大切にされ布教しながら日本の歴史を庶民に教えて回った方ですね。
その後、法華宗の高僧で日蓮宗の祖師である日蓮上人様が御宿泊された御縁で妙香寺さんは改宗し現在、日蓮宗と成っています。
因(ちな)みに日蓮サン(あえて親しみを込めて)、此方(こちら)に滞在中は浴衣で過ごされ本牧半島をリラックスして満喫されたそうで、御寺には日蓮サンが浴衣姿の木像が伝わっていたりするそうです。

…仏教史上、偉大な方が二人もこの御寺に関わりが有った訳です。

だから昭和中期までは本牧文壇とか異名で呼ばれた寺院でもあり、何百年も昔から〜最近までは多くの学僧が此方(こちら)に寄宿し仏法と諸学問の研鑽に励んでいたそうです。
そんな場所だったので広大な敷地を有していたんですね。
今では訪れる観光客は少ないですが、昔は有名な場所だしブラスバンドや君が代の発祥地としてハマっ子の誇りでもあったので、当然、昔の人は、その歴史と御寺の果たされた役割りを顕彰し境内に石碑を寄進しています。
この地に駐屯した英国軍人から薩摩藩士達が吹奏楽を習い、君が代を作曲しました。
日本吹奏楽発祥に関しては、又、別に山手町公園の記事を書くので、その時にテニス発祥と合わせて詳しく説明します。
薩摩藩士が何で英国軍人から吹奏楽習う事に成ったかは以前の書いた元英国領事館の記事を読んで下さい。
元英国領事館=横浜開講資料館の記事はココ」←クリック!
さて、有名で重要な役割を果たしてきた寺院だけあり、昔の檀家さんにも凄い人がいました。
日本の近代造船の父、渡辺忠右衛門さんです。
渡辺忠右衛門さんは現在も海上自衛隊や米海軍の建造や整備を行い、世界各地でエネルギープラントや航空機開発、重機開発で有名なIHI(石川島播磨重工)の前身である「石川島造船所」を開いた近現代日本に偉大な功績を残された人物です。
その事を詳しく書いた石碑が下の写真です。
…この石碑は墓地の入口前に在るので、訪れた方は是非、読んでみて下さい。
せっかく昔の人が我々に歴史を伝える為に残してくれた遺産ですから。

忠右衛門さんの他に、もう一人偉大な功績を残した方が此方に眠っておられます。
最近では歌手の平原綾香さんがカバーした「蘇州夜曲」を最初に歌った歌手の「渡辺はま子」さんです。
渡辺はま子さんは、太平洋戦争終結時にフィリピンで捕虜に成った日本人兵士達の解放と帰国に御尽力された偉大な人物です。
この方の御陰で、今、生を受けて人生を享受出来ている人が沢山います。
もし、この方がいなければ帰国出来なかった兵士達と奥様達の間に生まれてない人が沢山いる訳です。
蘇州夜曲の蘇州がどんな町が知りたい人は以前の記事を御覧下さい。
蘇州の記事はココ」←クリック!

…国歌や吹奏楽の発祥地である事も凄いけれど、この御寺に関わった人、みんな凄いでしょう?
近くをお散歩し通る際は是非!この妙香寺さんで歴史に触れてみては如何(いかが)でしょうか?

横浜は日本武尊と弟橘媛の神話や浦島太郎伝説が伝わり、旧鎌倉郡を含み、近代化の舞台なので、有名な神様や高僧や武士との関わりが深い妙香寺さんみたいな神社仏閣が沢山有ります。
是非、横浜に住んでいるなら御近所の神社仏閣をお散歩してみて下さい!
…今は小さい神社にも凄まじい歴史が有ったりします。それを知ると益々、地元に愛着が湧いて好きに成ると思いますよ〜♪

では、又、次の記事で!


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