歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

カテゴリ:旅館・飲食店・土産店 > 拉麺店

今回の記事は横浜ベイサイドマリーナや横浜市南部市場での買物を休日に楽しまれる人向けの記事です。
小生の記事はGoogleMapにリンクさせてあります。
住所
下の様な各所の紹介で、住所をクリックするとGoogleMapが起動して乗換案内やカーナビとしてそのまま利用する事が出来ますし、徒歩経路も調べる事が出来ます。

さて、横浜市民に限らず市内外の人は週末に横浜八景島シーパラダイスでのレジャー―やベイサイドマリーナで服飾品や横浜市南部市場での新鮮な鮮魚や青果の買い物を楽しむ方々も多いかと思います。
でも、何回も行ってると施設内の御店の御飯も食べつくして飽きちゃったな~と言う人も少なくないのでは?
そこで・・・
「もうフードコートの料理食べつくしたしな~」
 とか
「せっかく横浜に来たら美味しい本場の家系拉麺食べたいなぁ~」
 とか
「家系以外で美味しい拉麺も食べたいなぁ~」
・・・と言う人には今回の紹介する拉麺屋さんが参考に成ると思います。
また、歴史オタク視点での家系総本山吉村家と杉田家が繁盛した理由を解説もしたいと思います。

まず今回紹介する御店はベイサイドマリーナや南部市場近くの2店舗です、車かシーサイドラインで訪問される方には参考に成るかと思います。
1つは家系総本山吉村家直系の暖簾分け1号店、杉田家。
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ラーメン 杉田家
家系総本山吉村家直系1号店

シーサイドライン、京急、JR京浜東北線根岸線の利用客に便利な新杉田駅の直ぐ近くに存在しています。

2つ目はベイサイドマリーナの直ぐ近く、少し目立たない場所に有るけど美味しい拉麵を提供している❝らぁめん こもん❞です。
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らぁめん こもん
こちらは本当に目立たない場所でラーメン屋と認識できるのは木陰に隠れたラーメンの赤いのぼり旗だけ、決して大繁盛店ではなく知る人ぞ知る名店ですが金沢区や磯子区の地元民とベイサイドマリーナ勤務者には知られている御店です。

先(ま)ず2つの御店の位置関係を見てから御店の紹介、そして次に家系創業地や繁盛店共通店を歴史オタク視点で解説します。
では2つの拉麵店と周辺3つの観光拠点+α名所を地図で位置関係を見てみましょう。
※下の図をクリックして拡大して見て下さい。
位置関係
Googleの衛星画像の左手に❝杉田家❞、上部の右寄りに❝こもん❞が有りますね。
周辺に歴史史跡や商業施設も表示してあります。
さて、御覧の通りベイサイドマリーナや南部市場に非常にアクセスの良い立地に二つのラーメン店が有る位置関係は御理解いただけたかと思います。
次に各店舗を紹介します。
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ラーメン 杉田家
家系総本山吉村家直系1号店

【交通】
—電車&徒歩—
JR新杉田駅~徒歩03分。
京急杉田駅 ~徒歩11分。
— 車 —
専用駐車場無し。
周辺のコインパーキングを利用。
自己責任で路駐。
——店構え——
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——拉麺——
拉麺(並)+味玉
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——サイドメニュー——
御飯(まぶし)
御飯注文して「まぶし」と伝えると煮豚の端切れで牛丼風にしてくれます。
 +
チャンジャ(干鱈のキムチ)
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元々工場地帯の従業員に好まれて繁盛した吉村家創業地の地盤で客を引き受けている直系店らしく鶏油と醤油タレは調整出来る上に、豊富な鶏ガラと豚骨のスープはガツンと本当に美味い。
時間帯によってもガラの投入タイミングにより味が若干変わるので、好みを伝えて調整する域に成ると本当の通らしいですよ。
小生は深夜しか行かないので味は普通(少し濃い目かな?)で一貫してます。
歴史の解説に関しては後程行います。
こちらはシーサイドライン利用客なら八景島、ベイサイドマリーナ、南部市場全ての利用客に便利な立地ですし、車も車道に皆自己責任で路駐してますwww。

では次に、ベイサイドマリーナ近くにありベイサイドマリーナ職員や周辺工場のOLに人気だけどランチタイムしか営業しないから余り地元以外には知られていない❝こもん❞を紹介します。
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らぁめん こもん
※営業時間ランチタイムだけ。
【交通】
—電車&徒歩—
シーサイドライン鳥浜駅~徒歩03分。
— 車 —
駐車可能スペース若干有り。
直ぐ近くに横浜ベイサイドマリーナ
ベイサイドマリーナ~徒歩03分。
——店構え——
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——拉麺——
濱塩白湯 700円
 +
味玉 100円
 +
肉1枚 100円
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——サイドメニュー——
ランチごはん(ミニ肉めし) 100円
ランチごはんの食券を購入して「ミニネギめし」か「ミニ肉めし」かを伝えるとトッピングしてくれます。
ラーメンは麺は細縮(ちぢ)れ麵、スープはコクもあるけどクドくなく香りも良いので全部飲み干しても美味しい(笑)。
子供にも安心させて食べさせられる食べる人を選ばない美味しさのラーメン。
ベイサイドマリーナから徒歩圏内なのでフードコート飽きた人にはお勧め!
御店は一昔前の田舎のオシャレ崩れ食堂(笑)みたいな雰囲気だけど、御店主のオッチャンと店員のオバちゃん真面目な人で良き店。デート向きの雰囲気では無いけど店はいわゆる拉麺店よりくつろげる。

——こっから歴史や拉麺店繁盛理由の解説——

さて、御店の紹介はここまでにして、少しラーメン屋の立地を歴史オタク視点で解説します。
拉麺フリークは拉麺にしか興味が無い人が多いのですが、歴史オタクには地政学的に拉麺店の立地に興味が有ったり、歴史旅行の先でラーメンを食べる事を楽しみにしている人が多くいて、今回は杉田家=吉村家が繁盛した理由も少し解説したいと思います。
家系ラーメン発祥地と言えば横浜市磯子区新杉田駅前に嘗(かつ)て存在した家系総本山❝吉村家❞の最初の店舗なのを知る人は多いかと思います。

2023年03月、杉田からの移転先、横浜駅西口の鶴屋町交差点から2度目の移転をする事に成り話題に成ってましたねぇ~。
吉村社長は最早、横浜在来種の横浜拉麺を発展させた家系を作り上げ、拉麺業界の歴史人物と言っても過言では無いかと思います。

さて、その吉村家の最初の店舗の地盤は吉村社長の最も有名な直弟子の津村さんに引き継がれています。
正確に言うと、津村さんが開いた杉田家の前の道路を挟んで斜向かいの位置に元々は吉村家が存在していたのですが、横浜駅西口へ移転の際に現在の杉田家を吉村家直系最初の暖簾分けとして開く事を許されたのが杉田家でした。
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繁盛する店は勿論❝美味しくて当たり前❞、実は立地には戦国武将の城作りと同じ❝交通の要所❞や❝産業拠点❞である必要が有ります。
では杉田家に地盤を受け継がせた吉村家は何故繁盛したのでしょうか?
小生の理論が正しいか、少し一緒に見てみましょう。
もう一度、周辺地理画像を見て下さい。
位置関係
周辺に色んな史跡が表示してありますよね~?
では別角度で画像を見てみましょう。
杉田家周辺
実は杉田は徳川幕府で最初の鷹匠頭(奉行)を務めた2000石の大身旗本、杉田間宮家の陣屋(城館)が有りました。
その事は古参の読者さんは御存じですが以前紹介したことが有りますね~。
間宮家関連の記事は以下のカテゴリー「間宮家」の一覧から読みたい物を探して見て下さい。
もしかしたら皆さんの御近所にも紹介済みの場所が有るかも知れません。

※スマホで見た方が読みたい記事を一覧で表示出来るので探しやすいかも知れません。
笹下城や間宮家本家に関しては下の記事を読んで下さい。

杉田間宮家の菩提寺の妙法寺も以前紹介してますが、一帯は倭建神話の舞台でもあり、小生の見立てでは妙法寺の裏山の舌状丘陵は戦国時代には間宮家の詰城として要害化されていたと推測しています。
近代にも軍事的に重要視されて戦時中は高射砲の砲台が設置されていました。
実は陸軍や海軍は明治時代から戦国時代の城塞跡を調べさせて近代戦争に転用出来る地形を必死に探していました。
敗戦直前にも日本帝国軍に横須賀飛行場や横浜飛行場の防空/海防の防衛拠点の一つとして整備されて居た訳ですね~。
何故ここが重要視されていたかと言うと、それは優れた港湾だったからです。
戦国時代に武蔵国~相模国三浦半島一帯は房総半島の里見水軍により海賊行為で度々略奪放火されており、今の磯子区洋光台1丁目~港南区笹下~港南区港南の広大な範囲に及ぶ通称:笹下(ささげ)城の城塞群が築かれると里見海賊の東京湾久良岐郡側への略奪放火は治まりました、それが凡(おおよ)そ西暦1530年代の話ですね~。
里見家により鎌倉市街地が略奪放火され鶴岡八幡宮までも戦火で灰燼に帰した際も、横浜市南区の蒔田城主で北条家従属大名だった吉良家の吉良頼康公が鎌倉公方代理の権威で材木を集めさせ水軍で海運で運搬しました。
蒔田吉良家の事は下の記事を参考にして見てください。

それ等の材木は間宮家の属した黄備え隊の寄親(方面軍団長)で鎌倉復興の材木奉行を務めた北条綱成(つなしげ)公の代理として、間宮家が材木を集積させ鎌倉に輸送する貯木場に使われたのが、間宮家が支配した杉田湊(みなと)でした。

戦国時代の人物関係ついでに城と江戸時代の館跡が杉田家の近くには存在していた事を紹介してみた訳ですが、更にここは間宮家だけが重視していた訳ではなく、鎌倉時代にも杉田の中原地区の熊野神社は源義朝公が元々鎌倉時代に鎌倉の山崎に存在した泉蔵院と言う修験道の大寺院の支院の熊野社として開き、後に戦乱によって鎌倉の山崎に在った泉蔵院が本院としての機能を磯子区杉田駅近くの熊野神社に移転して来た場所でした。

水田が少なく耕作に向かない本来は農業生産力の低い杉田が重要拠点だったのは杉田が良港であり鶴岡八幡宮の直轄地=社領だった時代も有るし、北条家相模十四騎筆頭と呼ばれた間宮家の支配地として水軍の軍港だった歴史に裏付けでされた海陸交通上の立地の良さが現代にも受け継がれているからと言う戦略上の重要度が解って頂けたでしょうか?
ですから周辺には優れた水源地の有る港湾機能を利用して昭和の戦前戦中には軍事拠点、戦後には多くの大規模造船工場や家電製品や自動車工場が作られていたんですね。

さて、この段階でラーメン繁盛店が有る場所は略(ほぼ)、中世の御城の近所と言う話しに到ります。
つまり御城の有る場所は現代でも交通の要所だったり産業の拠点に成る訳です、すると多くの工場従業員やトラックドライバーやタクシードライバーをリピーターとして獲得出来るチャンスが大きく有る訳です。

吉村家も産業道路沿いの為、ネットの無かった時代に多くのトラックドライバーに口コミで全国へと噂を広げて貰え、尚且つIHIや日本飛行機や東芝の従業員がJR新杉田駅や京急杉田駅への通勤前、帰路寄って貰えて繁盛する足場を確保出来た訳ですね。
無論、肝心のラーメンが不味いと繁盛はしませんから家系創始者吉村社長のラーメンは今や直弟子数百人を数える程の従業員を育てて来れただけ美味しかった訳ですね。
因(ちな)みに港の話に少し戻ると、杉田家の近くの金沢区長浜地区は明治時代には未だ海で、東京湾に入港する貿易船の検疫を行う港が有りました。

そこに勤務していたのが野口英世さんで、世界で初めてペストを検疫で中国人船員から検出して日本へのペスト流入を防いだんですね。
まぁ、林文子前市長と厚生労働省はダイヤモンドプリンセスでの対応失敗して2020年にワクチン接種前の日本人をコロナ拡散の危機に晒した訳ですけど。

まぁ、そんな訳で実はラーメン店は交通の要所や産業の生産拠点の近くに有る方が繁盛しやすいんですよ。
さてさて、そんな訳で産業拠点の杉田駅や商業拠点の南部市場やベイサイドマリーナの近くにある拉麺店は、それ等の施設の利用客に便利な立地なので今回紹介してみました。

花粉症酷い季節、皆さん季節の変わり目ですから体調に気をつけて下されやぁ~。

では又、次のブログ記事でお会いしましょう~♪
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G麺7
神奈川端麗系異端の個性的なスープの名店
横浜市港南区は京急上大岡駅近く・・・
中村屋の日本撤退後、神奈川端麗系を代表する5本指の内の1本の地位にあると言って過言ではないと思う。
個人的には5本の指に数えられる神奈川端麗系の名店を挙げるなら以下の様なイメージ。
志那そばや 
中村屋⇨ZUNDBAR/阿夫利 
飯田商店 
くじら軒 
G麺7

【店舗】
注文は店外の券売機で。
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店は余り大きくないけどオシャレで女性1人でも入り易い良い雰囲気です。
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比較的、大学生位のラーメンフリークやカップルの来店が多い人気店。
昼か18時位に行ければ落ち着いて食べれる。
駅から徒歩05~08分。
車なら目の前に大きなイトーヨーカ堂が有るので、そこの有料駐車場に停めると便利。

【商品】
醤油と塩がある。
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醤油拉麺のスープは甘味を感じて旨味もしっかり。
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スキ焼をすっきり端麗にしたようなスープは色も濃い目だが綺麗。
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麺はツルっとした感触でモチモチ感も強い麺で、これも個性的な印象。
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追い鶏節と言うのがあり、鰹節ではなく鶏燻製の鶏節を追加したメニューがある。
鶏節自体も美味しい。
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味玉も普通に美味しい。
叉焼は基本は鶏叉焼。
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トッピングで豚肉の叉焼が有る、そちらは昔ながらの回りが赤みの有る叉焼。
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あと、お冷やの代わりの無料のジャスミン茶が中華街の店並みに美味い(笑)。
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スープに甘味を感じるのでジャスミン茶が余計にスッキリ美味しく感じるのかも?

【周辺情報】
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源為朝之廟社
余り歴史興味無い人にはショボい史跡ですが源頼朝公の叔父で名将として名高い源為朝(ためとも)公を御祭神として祀る御霊社の祠(ほこら)がG麺7の最寄り駅上大岡駅の裏側に有ります。
鎌倉殿の13人で言うと人間関係はコンナ感じ・・・
        ↙(遠縁の親戚)↘ 
鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿上総広常
 (三浦家二男)↘ ↙(有力者)(後見)
          ↙協力↘    ⇩
    (三男)    ⇔     (父親)   ⇩
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿源義朝
    ⇩     ↘↙   (長男) ⇩
   (叔父) (弟) ↙↘   (叔父)  (弟)
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源行家
   (兄)   ⇔   (弟)
伊豆大島に島流しにされた後で、軍人として優れた資質と人望で瞬く間に島を支配下に治めてしまい更には伊豆諸島の離島も支配下に治めた事が京都の朝廷に伝わり後白河天皇が焦って討伐命令を出して殺害されたと京都の歴史観では表向き成っていますが、実は源氏の本拠地に成っていた神奈川県や東京都や埼玉県の旧相模国と武蔵国では兄の源朝公と三浦義明公&三浦義澄公の三浦一族の助けで朝廷軍の追討を逃れて三浦半島横須賀市浦賀港に上陸してから鎌倉、そして上大岡に来た事を窺わせる伝承地が夫々(それぞれ)に残っています。

伝承では上大岡は源為朝公の隠れ郷だったと古くは伝わっていたそうです。
上大岡は横浜市の中では比較的駅前の発展した場所ですが地元の人か歴史が好きな人位しか行く機会は無いと思いますから、市外からG麺7に拉麺を食べに行かれる御予定の有る方は、上大岡駅から徒歩圏内のヒマワリの名所の“大賀の郷”の向日葵や久良岐公園の桜が見頃に成ったら合わせて行くと良いかも知れないです♪

もし車での来訪でしたら、G麺7から車で5分の場所に東京神奈川千葉の東京湾岸の名物の❝黒湯炭酸泉❞の天然温泉の浴槽の有るスーパー銭湯❝みうら湯❞も有ります。

この他に一応、上大岡駅前には商業施設内にシネコンも入っており映画も見れるので、映画を見てG麺7で昼食か夕食と言うのも良いですね〜♪

拉麺だけじゃなぁ〜と言う人も、歴史だけじゃなぁ〜と言う人も、映画だけじゃなぁ〜と言う人も、温泉だけじゃなぁ〜と言う人も色々混ぜて訪問する理由を作れる場所が上大岡かも知れませんね(笑)。

さて、今回のラーメン屋紹介も、やはり郷土史歴史観光の小生の記事らしい展開に成りましたが皆さん良い休日を御過ごし下されやぁ〜♪
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拉麺好きなら誰でも知っている名店が神奈川県には多く有ります。
今、悲しい理由では無く海外に活動の中心を切り替えると言う意味で名店が一つ閉店します。
中村屋
ラーメンフリークなら知らない人のいない店、神奈川県海老名市の中村屋、神奈川淡麗系と言うジャンルの発祥地です。
実は神奈川県は拉麺の巨匠を輩出する地勢の様(よう)です。
これは主要な高速道路や国道が神奈川県を多く通る事から東京に入る前にドライバー達が車を停める場所の確保出来る神奈川県内で食事をする機会が多く拉麺文化の発展が他地域より少しだけ早く進みやすい環境が有ったみたいです。
偶然ですが、戦国時代の城や江戸初期の陣屋は町を守る為では無く敵軍の侵攻を阻止する為に交通の要所に作られます。ですから昔の繁盛店は近くに城跡や陣屋跡も有ったりします。
幹線道路や利用者の多い道沿いに有り必然的にドライバーが集まって来やすくなるので一目瞭然で繁盛しているのが判り、それを見た一般人から口コミが更に広まり繁盛店に成ると言うのが、ラーメンブーム初期の1980~1990年代の傾向だった様です。
ただ繁盛店も立地だけでは飽きられてしまう訳ですから、今も生き残っている店は当然ながら努力を止めなかった御店主の御店と言う事も判ります。

小生が一番好感を持っており、憧れと同時に尊敬もしている人物が拉麺職人であり拉麺と言うジャンルを和食並みに繊細で高度な「料理のジャンル」に革新昇華させてラーメン業界の「ニューウェーブ」と言われた中村栄利サンです。
2月5日にアメリカから帰国して、13日の閉店日の営業終了まで中村サン自ら昔の様に「天空落し」で麺上げを全て担当して下さるそうです。

この中村社長は拉麺職人と言う職業自体も「シェフ」と他の料理人やマスコミから言わ強(し)める存在に地位を向上させた現代の料理界の偉人の一人で既に歴史に名を刻んでいる人物です。
この中村サン社長に成り中村屋を最初に高座渋谷で開業した頃に成ると立地よりも味が完全に重視され、不便な目立たない立地でも東京の「六厘舎」、横浜の「くり山」等の繁盛店が登場してきます。
一気に日本のラーメンのクオリティが進化したのが「ニューウェーブ系」の時代だったと思います。
中村さんは未だ明確な神奈川淡麗系等のジャンル分けが浸透する前の「ニューウェーブ系」の一人として有名に成った人な訳ですが、ニューウェーブ以前の立地+味+拘りで繁盛した先輩達の中にも中村サン御自身がYoutubeのライブ配信で名を上げていた「御世話に成った」とする人が当然ながら何人かいます。
今回はその中で3人、神奈川県のシェフを紹介しますが日本全国区で有名な誰でも知っている方達ばかりです。

支那そばや 佐野実 社長
神奈川淡麗系と言う名が出る前からの醤油拉麺の名店。
藤沢に開業後、横浜ラーメン博物館に出店、その後、自分の地元の戸塚本店に本拠を移す。
つけ麺の神様の山岸サンが認めた天才にして拉麺にストイックな拉麺の鬼。多くの店に影響を与えた。
早くに亡くなってしまったが今でも佐野サンを慕って戸塚本店に拉麺を食べに来る客は本当に多い。
今でもその拘りは御弟子さんやご家族に引き継がれレシピの中で脈々と生きている。
この人の拉麺は人を感動させる事が出来るのは、ストイックで本当に研究熱心だった現実的な努力が惜しみなく注ぎ込まれているからだと思う。
小生も知らない藤沢店時代は相当厳しかったらしいけれども、晩年はだいぶ柔らかく成り後進の育成に活躍されていた。今の「支那そばや」は御家族と御弟子さんの代に成り店の雰囲気も和やかで女性客も非常に増えて、小生も関西や外国から友人が来るとここに拉麺を食べに連れて行くが皆賞賛すると同時に醤油拉麺に対するハードルが初回から爆上がりし他の店主が可哀想だったりもする。




吉村家   吉村実 社長
家系豚骨醤油拉麺の総本山。
吉村実社長が現在の新杉田駅近く、杉田屋の道を挟んだハス向かいに開業した店で在来の横浜拉麺を工夫して確立したジャンルが家系豚骨醤油拉麺だった。後に現在の横浜駅西口に移転するに際し、東大卒で会社員を辞してまで自分の弟子に成った津村サンに杉田の地盤を託して旧吉村家の近所に津村サンの杉田家が開かれ現存する。
吉村社長がいなかったら家系と言う単語すら現代に存在していなかった。
個人的な思い出として、小生は幼少期に屏風浦に住んでいて親が好きで良く食べに連れて行かれた店。
ある日に良くスープを吸う厚手の海苔を母が「海苔が美味しい」と言ったら吉村サンが「持ってけよ!」と言って束で海苔を分けてくれたり、子供ながらに「美味しい~」と言うとニコニコと声をかけてくれた優しいオジサンが目の前でたまに弟子をブン殴ってた(笑)。
良く弟子を殴るけど多くの弟子を独立冴えて自分でやってける所まで育て上げる「親方」。パワハラは現代では無理だけど(笑)、この人のは弟子と客の事をメチャクチャ考えてる人。
今でも尊敬している自分の幼少期に見たラーメン屋の優しいオジチャン。



なんつッ亭 古谷一郎社長
熊本県人吉市の名店の好来ラーメンで修行し、自身の故郷である秦野市で熊本豚骨ラーメンに「黒マー油」で豚骨ラーメンの獣臭さを香ばしい香味に変えた豚骨ラーメンを提供する女性ファンとファミリー層の需要を開拓した偉大な拉麺店。なのでラーメン屋なのにアイスクリームや子供が喜ぶ仕掛けもちゃんと有る。
ただ元ヤンキーなので周りの面倒をみたり仲間の事を考え過ぎる真面目男で拉麺業界の事を考え過ぎた結果、政治家に立候補した際に左派系野党側から立候補したもんだから一次期は右派の御客さんにソッポ向かれちゃったり、それなりにヤンチャな面も残している方。
御客様が「御馳走様」「美味しかったです」と言うと一人一人に対して「ありがとう」と声を返してくれる好人物でも有る。TV番組の企画で閑古鳥が無く高速道路のフードコートの再生でも安易にコスパしか考えない経営者に職人として料理にプライドを持つように諭したり、本当に面倒見の良くアイディアも豊富な人物で中村サンの少し上の兄貴分的な世代に当たる。


さて、そんな訳で皆さんもTVで見た事が有る様な拉麺に新たなジャンルを確立した巨匠達がいて、その中の一人がイケメンであり研究家として熱心な中村屋の中村栄利社長なのですが、この人の凄さは半端ない。何と特定の師匠がおらず、自分で1から研究し有りとあらゆるジャンルの料理の良さを研究し、23年前のオープンから暫くして世間に知られる様になると多くの評論家や各ジャンルの料理界の巨匠達から「若いのに大した奴だ」と可愛がられる様に成り、更にそのフレンチや拉麺界の巨匠達からもアイディアを吸収し「神奈川淡麗系」を確立させて、更に10年前に渡米し「NAKAMURAYA」をオープンし今でもニューヨークで成功を収めているラーメン業界の革新と進化の先頭に立ち続けている事に有ります。

中村屋  中村栄利社長
最初は由緒有る源頼朝公の配下として活躍した東郷平八郎元帥の御先祖様でもある渋谷重国公の治めた土地の高座渋谷に中村屋を開業した。
特定の師匠について拉麺を修行した訳では無くアメリカ留学中の4年間に自分で拉麺スープを研究し、帰国後に幼馴染でずっとフラれ続けてから交際した奥様と結婚する為にラーメン屋を開業した。
そこから御苦労もされながら研究を止めず、新たな工夫を加味して行き拉麺が料理として大きく評価される革新を成し遂げ「ニューウェーブ」を巻き起こした人物。
釜で焼いた叉焼や煮豚だけではなく今では当たり前の燻製させたり料理を提供する前に「炙り」温め芳(こう)ばしく焼いた香り付けまで行い提供する工程を取り入れたり、スープも様々な素材を研究し取り入れる等、開業からわずか23年間で日本の拉麺業界発展の中心に間違いなく居た内の一人で、その功績は例えるなら拉麺業界で渋沢栄一公までとは行かずとも原三渓サン、松下幸之助サンに匹敵する大勝軒の山岸さん、佐野実さん、吉村実社長、と並ぶ日本が世界に誇る拉麺職人だと断言できる。
世界に誇る日本のラーメンの革新的発展に貢献した歴史偉人の一人である事は間違いない。


そんな中村さんの御店があと2日、2022年02月13日で日本国内の店舗は完全休業に入ると衝撃の告知がホームページで有りました。
中村屋告知
日本の中村屋は、入居するAEONの立体駐車場が建物老朽化により解体工事が決まり、テナントの契約を更新せず撤退が決まりました。
中村社長の現在の本拠地であるニューヨーク店は継続されますが、02/13が国内で中村屋を食べられる最後のチャンスです。
小生のブログは観光地として歴史散策の場所としても価値の有り且(か)つ歴史偉人と御縁の有る横浜市の史跡や神社仏閣が消滅する事を嘆いたりする記事も多く有ります。
しかし今回の日本における中村屋の無期休業はラーメンファンにとって悲しい事では無く彼がニューヨークの店に今まで以上に専念する事で「日本のラーメン」を世界に広める花道が開かれた訳ですから、一つの節目でありおめでたい事だと思います。
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麺処 中村屋 海老名本店
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無性に家系総本山吉村家直系の拉麺食べたく成った。
吉村家直系伝統の朝5:00の開店を守る杉田家に行ったら相変わらず朝ラー食べに来た客で店外まで行列してたよ。


カロリー摂り過ぎだから昼抜き。
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うまいぜベイビー!
・・・突然で何のこっちゃか解らない人には解らないと思いますが。
実はこれ、秦野市の渋沢駅近くに在(あ)る拉麺の名店‟なんつッ亭”のキャッチフレーズなんです。
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なんつッ亭 本店
なんつッ亭は焦がしニンニクをペーストにして豚骨スープと合わせた拉麺で有名に成った名店で、元々不良だった店主の古谷一郎社長が熊本県人吉市の豚骨拉麺の名店、好来ラーメンで修業してから地元である秦野市で開業しました。
なんつッ亭公式画像拝借 久良岐のよし
※公式ホームページから画像拝借
この人が古谷社長、多分、皆さんTVで見た事が有ると思います。
TVの企画で客の入りの悪いフードコートに名物料理のレシピを作って再建したり活躍が有名です。
その時に自分が若い時の体験談を話してらっしゃったのですが・・・
「若い頃は楽して生きようとしたけど、拉麺の師匠の仕事を見て考え方を改めた」
「手を抜いて良い物は作れない。」
・・・当たり前の事なのですが、これを集客依頼をした作業効率だけに執着し料理の味よりも工程数を減らして単価当たりの人件費をカットする事にしか興味の無い経営者に対して懇々(こんこん)と説き・・・
「少し手間はかかるけど美味しいメニューを考えないで御客サンはつかない。」
・・・と、御客様第一を説いて結果的にフードコートの再建に成功したりした名社長でもあります。
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2017年には不正の出来ない東京ラーメンショーで蒙古タンタンメンの中本社長と同着優勝もしていて小生の好みを抜きにして‟美味しい店”として客観的な評価材料に成る栄誉も得てらっしゃいます。
ただ社長も人の子なので何でも完璧な訳ではなく選挙に立候補して落選したりしています(笑)。
飲食店で政治色出すのは危険なんですよね。
小生は中道保守ですが社長は立民から出馬しているので、例えば多数派で只の右派も多い自民党支持者に毛嫌いされてしまう可能性も有りますから。小生のようにソレはソレ、コレはコレと分けて考える人もいれば、そうでない人も保守派や右派には多いですからね~。
そして左派にも問題は多有り。
立民の枝野サンの支持者なんか公安に監視されてる昔鉄パイプや火炎瓶で武装していた極左政治団体もいたりしますから。
だから敢えて優しい純粋な拉麺ファンは「選挙出て落ちたんだ~!」で済ませてあげて、美味しい拉麺は「美味しいですよ!」と伝えてあげれば良いのだと思います。
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正直小生は約3年ぶりの訪問だったので社長が落選してたの知らなかった・・・
社長、もう政治に出ないでね。拉麺で十分に人を幸せにして活かす立派な仕事をしてらっしゃるんですから。
社長が御店にいてくれた方が僕らは嬉しい(笑)。
・・・小生は‟中道保守”で政治思想的には古谷社長と相いれないのかも知れませんが、古谷社長の‟食べた人を幸せに出来る拉麺”は大好きです♪
さて、そんな小生の好きで人間味溢れる(拉麺職人として)尊敬もしている人格者の古谷社長の御店を見てみましょう~♪
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店内の内装は個性的です。でも入りやすい雰囲気。
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この御店の特長は、子連れ客も意識していてアイスクリームも提供したりしている処でしょうか。
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一昔前の有名ラーメン店や最近の超高級志向の‟勘違い”拉麺店は子供そのものを毛嫌いする御店も多かったんですよね。
トタンの内装に掲(かかげ)げられているメニューもウケ狙いにいってる辺り社長の人柄を表してるかな?
ラーメン好きな子供にも優しい御店、昔の吉村家を思い出します。小生は家系総本山吉村家の吉村社長の御店が未だ新杉田駅近くに在った時に父にたまに週末に車で連れて行って貰って食べていたのですが、美味しい美味しいと言いながら食べていたら吉村社長が家系ラーメンのトッピングに使う海苔を一束くださった事も有り、当時の家系の店員の服装と古谷社長達の服装もとても似ている事も有って子供の頃を思い出したりします。

・・・まぁ吉村社長は子供には優しいんだけれど、客の前で弟子ぶん殴るの当たり前だった、そして発言内容がよく理不尽(笑)。でも凄く良く弟子の面倒を見る。独立させたり店長にする所まで本当に良く面倒を見る。
東大卒業した津村サンとか、元チンピラの鶴巻サンとか有名な御弟子サンも容赦なく殴られてたけど、鶴巻サンは環2家の店長に成り今は独立し‟王道”を開いて、津村サンは吉村家の杉田の旧店舗地盤を譲られて杉田家を開き今では名社長になり出世したんだな。
そして津村サンも鶴巻サンも御客サンに凄く優しい。
ラーメン屋の有名社長って皆、人情厚くて拉麺に真面目で、少し欠点も有るから人間臭くて好きなんだなぁ。
話を‟なんつッ亭”に戻すと・・・
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メニューは何パターンかスープが用意されています。
1杯を分けて食べても怒られないしサイドメニューも有るので、小さい子連れの家族には本当に良いと思います。
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こがしニンニク黒マー油拉麺。
こんな風に本当に真っ黒なビジュアルです。
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凄いコッテリしてそうでしょ~?
ところが違うの!
熊本の豚骨ラーメンは福岡のと同じ純粋な豚骨スープだから味が尖がってて香りが獣臭くて毛嫌いする人もいるんだけど、この焦がしニンニクのペーストが良い意味で‟まろやか”に、そしてニンニク臭くないローストされた香りの良い所だけ残り豚骨の欠点の悪い獣臭さを香ばしいスープに変えてくれているんです。
しかも見た目よりアッサリしていて女性や子供にも食べやすい!
こっちは⤵2020年09月の写真。
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山梨観光~深沢城址散策の帰り久しぶりに食べたくて山中湖~深沢城経由でずっと下道で帰って来て‟なんつッ亭”に再訪した時の。
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麺は熊本ラーメンの系譜なので細麺。
当然、茹で方も御好みで調整して貰えます。小生はいつも麺硬め♪
本当に美味しいので、これから秋に入り紅葉シーズンに成って秦野の弘法山や震生湖、南足柄市の大雄山に紅葉を見に行く方は、是非少し遠回りして‟なんつッ亭”で拉麺食べて見て下さい!
ついでに秦野市周辺の紅葉の名所も紹介した過去記事のリンクと写真を張り付けておきます。
この記事にある住所をクリックするとGoogleMapで場所が表示されてカーナビや公共交通機関の乗換案内としても機能します。
——震生湖——
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——弘法山——
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——大雄山最乗寺——
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大雄山最乗寺の紅葉 久良岐のよし
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・・・こんな感じで‟なんつッ亭”のある秦野市~南足柄市は紅葉の綺麗な場所も有るので、車なら数か所一遍に廻(まわ)れますし、是非、黒マー油豚骨ラーメン、食べて見て下さい!

さて、今回の記事はコレ⤵
コレ⤴の続きの後編として書く予定の記事だったのですが前回の記事の深沢城⤵️
この記事⤴️を単独記事にしてしまったので、先に書いた休日雑記の中に深沢城の訪問と一緒に簡略化し追記して後編は書かない事にします。

では皆さん、いよいよ涼しく成ってきました。来週まで天気は良くない日が続きますが、これから来る秋の景色と美味しい秋の味覚を楽しみましょう~♪

では又、次の記事で御会いしましょう~♪

























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G麺7と言う拉麺ファンには良く知られる名店が、戦国の名将間宮康俊公の居館跡の笹下城出丸松本城の御膝元、上大岡駅近くに在ります。
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G麺7

支那そばや、吉村家、すみれ(野毛店)等の老舗で拉麺の神様の本店や直営店に加え・・・

その御弟子さんやニューウェーブ世代が開いた名店の杉田家、王道、くじら軒。

・・・そして、くり山、るい斗と第三世代に名を連ねる横浜の新世代ラーメン名店がこの“G麺7”。
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新世代と言っても拉麺ファンには結構昔から有名で、かれこれ10年くらい前から出店している名店。
小生は間宮家子孫で笹下陣屋を代々守っていた(2019年に歴史をろくすっぽ知らない子孫が陣屋址を分譲売却してしまった)武内廣吉先生が書いた❝久良岐郡地名考❞と言う本を片手に笹下城址散策で馬飼谷(うまかいがやつ)と言う地名を探して付近をプラプラしていた時に、この御店が丁度出店したばかりの時に一度来ていた。
でもあれからもう10年来ていなかったが、久しぶりに間宮家と関係が深い修験門跡寺院鎌倉郡亀谷福禅寺名代権現堂持ちの鹿島神社と森浅間神社が近在するこの土地をフラっと訪れて見た。

始めて食べた時は塩ラーメンで、神奈川端麗系に近い味だった。
神奈川端麗系ってのは横浜発祥の名店“くじら軒”のサッパリしながら旨味も深い拉麺から広がって行ったジャンル。
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それをニューウェーブ世代で超有名な海老名の“中村屋”の社長で拉麺革命児の超イケメン中村栄利クンが更に発展させたジャンル。
その系統の印象だったG麺7は以前のままでも美味しかったが久しぶりに訪れたら更なる改良を加え発展していた。
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御店は相変わらず広くは無い。
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でも奇麗だし調理工程が見えるオープンキッチンで御洒落。
今回注文したのは・・・

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醤油拉麺
所謂、東京醤油拉麺とは全く異なるスープ。
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醤油の甘めのスープがすき焼の様な感じでもあり、くどくなく、淡麗系に近いより上品な味わい。
麺は中細くらいの麺・・・
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これが美味い!とにかくコシがありモチモチ感も有る。
とても美味しい拉麺。
・・・何か以前と全然違うスーパー進化をしている気がする。
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肉も美味しい。肉に関しては“凄い!”と言う程では無いけど、スープと麺が抜群に美味しい!
う~ん・・・
開店当初に食べた時とは差が凄まじくLV‐UPしてる気がする。
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煮卵も安定の美味しさでした。
横浜市民が誇る名店の一つと言っても過言ではないと思う。

余談ですが・・・
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森浅間神社
源頼朝公によって開かれた森浅間神社、旧鎌倉郡修験系門跡寺院の福禅寺名代だった権現堂が治める神社ですが、管理人さんを募集しているみたいです。
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神奈川県神社庁の掲載は少し間違っていて、社伝や間宮家関連の話では正確には源頼朝公の命で当時鎌倉市扇ヵ谷の亀谷(かめがやつ)に存在した福禅寺の住職によって富士山の神様である浅間権現(木花之佐久夜毘売)の御分霊を勧進して開かれた聖地霊場です。
境内に“不動の滝”が有りまして、福禅寺の歴代住職は就任する際は先ずここの不動滝に来て神事を執り行い、それから鎌倉の福禅寺に入ったそうです。そして門跡寺院と言うのは、天皇家の皇族が住職を務める寺院を指します。現代、本願寺系が門跡の名を広く使いますが、本願寺は戦国時代に高い御金を朝廷に支払って門跡寺院の格を獲得したんですね。
門跡寺院ってのはそれだけ凄いと言う事なんです。
まぁ~、詳しい事は以前、森浅間神社単体の記事を書いて有るので御覧下さい。
コレをクリックすると記事読めます⤵
森浅間神社…鎌倉幕府の陣所跡。磯子区屏風ヶ浦。
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鎌倉に在った福禅寺の最後の御住職は長円親王、そして長円親王の兄君が鎌倉幕府最後の征夷大将軍だった守邦親王で、鎌倉幕府滅亡直前に守邦親王は鎌倉幕府森陣屋の在った森浅間神社に逃げて来て難を逃れているので凄まじい“災難除け”の御利益も有る神社でも有る訳です。
何故ここが幕府が陣屋を置いたり、聖地としても重要だったかと言うと、鎌倉時代の福禅寺の御本尊が不動明王だったから自然の湧水の滝のあるこの地が聖地として重要だったからです。
戦うにも堅固な海に面した断崖の丘で飲み水が有るので籠城できますし、飲み水が有るから古代人の集落も形成されて聖地化した訳です。
因みに明治時代の仏教弾圧の際に権現堂家は国の命令で僧籍を返還し神職に専念する事と成り、修験道の道場の内、寺院機能の建物は全て破却させられるか仏教寺院と神社として分離独立させらました。
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その際に権現堂の御本尊だった不動明王像は港南区港南の福聚院に寄託され今に至っています。
小生の独自調査ですが、東京都青梅市二俣尾の海禅寺が状況証拠的には鎌倉の福禅寺の移転先後継寺院のようです。
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この海禅寺は扇谷上杉家の命によってか与力大名で奥多摩の勝沼城主三田家によって開かれてますが、時期が福禅寺の鎌倉での受難の時期と重なっています。
又、間宮家と関わりが有った1570年代に突如として海禅寺が天皇家勅願寺として勅願を賜わっている事、その寺院から住職を招いて間宮家は鶴見区に菩提寺の宝泉寺を復興している事、江戸時代に徳川幕府の官僚が寺号を誤って“海禅寺”と誤記する以前の寺名が“福禅寺”だった事、間宮家の寄親(上官)である北条綱成公の実家の福島姓の帰農した一族が江戸時代を通じて二俣尾村の庄屋を務めています。
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間宮と福島の二家は江戸時代を通じて江の島でも別当を勤めています。
これらの事から十分過ぎる関連性が伺えます。

さて、こんな由緒だたしい森浅間神社ですが前任の管理人御夫婦が御高齢の為か離職され、現在新たに夫婦で住み込み出来る管理人サンを募集中の様です。
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"本物の拉麺"の蘭州拉麺を中国本場の味で食べれる貴重な店が横浜市の伊勢佐木長者町に在ります。
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中国蘭州牛肉ラーメン 国壱麺
日本ではまだまだ少ない本格的な“拉麺”を食べられるお店ですが、横浜市ではもしかしたら、まだここしか“本物の拉麺”を食べれる場所は無いかも知れません。
日本のラーメンは拉麺とは呼べないスープ中華ソバと言う広いカテゴリーなんですよ、細かい事を言うと。そこら辺りは後で“面の種類”の解説をします。
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価格帯もセットで1000円前後とお手頃。
この写真は牛肉拉麺とツマミのお肉と豆腐の細切りがついています。これで1050円!
本当に伊勢佐木長者町は中華料理安くて美味しいのよ。
山椒で酸味が少しあるスープ。
とっても美味しいです!
小生は面の太さを“中太”くらいで頼みました。
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更に!セルフの🍧かき氷は無料で食べ放題!
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麺は目の前で打ってくれるので、太さを自由に指定できる。 
券売機での注文なので、良く解らない人も写真を見ながら選ぶ事が出来ます。
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券売機の画面にも表示されてますが“横浜ベイスターズの観戦チケットを持参すると割引き”のサービスを受ける事が出来ます!
国壱麺の拉麺は本当に中国で食べる蘭州拉麺と同じで美味しいんです。 
それもそのはずで、調理は中国から来た麺打ちのプロが行っていますからね。 
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小生のオススメは中太だけど、御店のオススメの太麺もモチモチして美味しいですね~♪
小生が良く行ってた上海や深圳なんかの南の方だと細い面が好まれています。
でも小生は太目のモチモチが好きなので中太を毎回チョイス!
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御店も綺麗でしょう?
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中国ではどの都市にも蘭州拉麺の店が沢山有ります。
日本ではまだ見る機会が有りませんが、拉麺は本来騎馬民族の文化由来の料理なのでトマトをふんだんに使用したパスタと焼き饂飩の中間の用な味付けの料理も多いです。
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御店の運営方式的には日本の立ち食い蕎麦屋の“富士そば”とかドライブスルーのフードコートみたいな感じで、そのまま御店を中華街のレストラン並みに綺麗にした感じです。スタッフは日本語が話せますが発音は良くない人もいます。恐らく言葉の問題を解消するのに券売機方式にしたんでしょう。
券売機は日本語、中国語ともに対応しています。確か英語も有ったと思う。
オリンピックに向けて、日本のファミレスなんかも英語対応の券売機方式を導入するか、ホールスタッフに ポケトークを持たせるべきなんじゃないかと思う。
御店の紹介はここまでにして・・・

・・・さて最近、新横浜ラーメン博物館と某学者が拉麺の文化について間違った事を流布しているので少し拉麺の事を解説します。
日本人が“拉麺(ラーメン)”と誤解しているのは“湯麺(たんめん=スープそば)”の意味で正しい拉麺の漢字の意味ではありません。
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家系豚骨ラーメンも拉麺ではありません。
実は拉麺(ラーメン)と言うのは面の製麺方法の種類を指すのですが、それを戦時中に中国に行ってた人達がラーメン=スープ中華ソバと誤解したまま戦後に中国から帰還した人達が中華料理やを開いて提供したので文字の誤植が発生したんですね。

拉麺とは文字通り、拉(ひっぱる)麺(めん)と言う意味で“手で延ばし打つ手延べ麺”の意味であり、日本人が戦後に持ち込んだ拉麺は機械で製麺し裁断した物なので拉麺とは呼べないんです。
「日本のラーメンの元」と言うデマを新横浜ラーメン博物館と一緒に流布した文献しか読まない見聞乏しい学者に一言言わせて下さい。
拉麺は拉ひっぱる麺て意味で手延べ麺の事すよ。
あのね、文献ばっか見てるより、さっさと中国語勉強して現地取材して下さいね(笑)。
昔から百聞は一見に如かずと言いますけど、ラー博と某学者さん、それの悪例地で行ってますよ?
適当過ぎ。
歴史も文献ばっか読んで現地行かない、取材しない、子孫に聞き取りしたり保有してる文献を礼を尽くして見せて頂かず、ある文献の内容をコピペする学者ばっか(笑)。
そもそも、文献として残っているものは先人が先人に対して「騙す」為に書かれた物ばっか!その内容の真偽も調査せず・・・
見つかった!→はい、歴史認定~論文書いて発表ぅ~♪
・・・と言うロジックは普通に考えてバカ(笑)。数百年を経て又、騙されてるバカが権威を持ってると歴史が歪んで行く(笑)。やめてね本当に、ちゃんと現地行ったり当事者に聞いたり財産見して貰って確認して。
新横浜ラーメン博物館に「ラーメンのルーツ」て嘘を教えた文献しか見ないで現地の人にも聞かないし食べにすら行ってない学者(笑)さん、中国人に己の見聞の希薄さ晒して日本人に恥をかかせないで下さい。
中国人や中国駐在経験者なら「誰でも知ってる(笑)」事ですし、そもそも「漢字の意味見たら解りますよね?」て話しです。
拉麺てのは麺の製造の行程を表した言葉です(笑)。
日本人として他の日本人に恥をかかせないで下さいね、新横浜ラーメン博物館さん。
間違いは間違いです、さっさと訂正して下さい。

思うんだけど、日本の有名ラーメン店が国壱麺みたいな拉麺職人を導入したら工場制の物なんかよりコシが有って美味いスープに負けない最強の湯麵(タンメン)が出来ると思うんだけどな~。

では皆さん、百闻不如一见・・・百聞は一見に如かず。
是非是非、本物の面のモチモチを楽しんで見て下さい!
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日本で初めてラーメンを食べたのは誰なのか 水戸黄門だったという従来説が覆った?

経帯麺 東洋経済オンライン画像 

この記事読んで正直ラー博にも東洋経済オンラインにも失望した。

記事中、拉麺の起源を室町時代まで遡(さかのぼ)れるとし、その起源を「経帯麺」と解説している。
解説は中村正博さん、恐らく中国に行ってちゃんと食べ歩いた事も無ければ、麺料理のカテゴライズがちゃんと出来ていない程度の知識しかない「ラーメンオタク」であって「拉麺」を食べた事が無いひとなんだろう。

日本人が拉麺(ラーメン)と思っている食べ物は中国語で「湯麺」と呼ばれるスープに入った中華麺の事で文字の誤植だ。
一方、湯麺は何故か個別の中華ソバの料理名として成立してしまった。これは日本の中華屋に如何に本場で学んだ人間が昭和期に少なかったか解る事実だな。

そもそも拉麺と言うのは文字通り拉(la)麺(mian)で、拉の字の意味は「引っ張る」と言う意味だ。
そして拉麺と言うのは古今ずっと中国や新疆ウィグル自治区や台湾では、注文してから作る「小麦の手延べ麺」の事だ。
更に言おう、拉麺の起源は中華料理ですら無い。新疆ウィグル族やトルコ人の祖先達の突厥達騎馬民族の料理文化だ。保存に手間取らず携行出来る小麦粉を生地にして、必要な人数分だけその場で手延べして作る麺料理が拉麺だ。
中国に行けば現代でも拉麺を提供する店は多く有り、拉麺は一貫して手延べ麺の事を指す。そして、その店の多くは新疆ウィグル族の店や、その文化を受け継いでいる事が解る「蘭州拉麺」と看板を出す店が多い。蘭州とは三国時代で言う所の西涼辺り涼州や、唐の時代に栄えた石窟大寺院で有名な敦煌(トルファン)辺りだな。つまりウィグル人由来の料理であり、小麦を使ったナン等も彼等の得意とする料理だったりする。
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例えば台湾に行くと牛肉麺と言う料理を出す店が多い。見た目は完全に日本の拉麺のソレだが、これは拉麺では無い。煮て味付けした牛肉や牛筋の入った麺、そのままの内容を形容した料理だ。
コレが拉麺の麺を使用していれば名前が「牛肉拉麺」に成る訳だが、どうも、そういった基本的な知識が新横浜ラーメン博物館の広報の中村正博さんには足らない様だ。
別に知識が無い、中国や台湾やウィグル自治区で様々な拉麺を食べ歩きした事無いのは恥では無い!職務特権を使い出張出来るなら出張して今からド素人の小生達、中国経験者を超える知識と美味い店を沢山発見して日本で紹介すれば良い。
ラーメンは拉麺で手延べ麺、そして麺の調理法で刀削麺や餃子の様に名前が変わり、今では新疆ウィグル族の住むタクマラカン砂漠~内モンゴル~モンゴル国~中国東北地方(旧:満州)の騎馬民族文化圏のみならず中国大陸北部でも主食として親しまれる様に成った訳だ。
餃子も麺料理と列挙したが、日本人は誤解しているがアレはイタリア料理のペンネの様に麺料理で主食なんだな。だから焼き餃子を食べながら白米を食べる日本人の姿は中国人や台湾人には滑稽に映るし、本来の餃子は水餃子で余った分を翌日に油で煎って食べるので煎餃(jianジェン jiaoジャオ)と言う訳だ。
もっとも点心の発達した広東料理では点心のメニューとして煎餃もラインナップされている事は少なくない。
同じく点心の発達している福建省では、蒸餃(蒸し餃子)が主流だったりする。
拉麺や餃子や刀削麺等は面の打ち方の種別を指す、そして全て主食な訳だ。

だから重ねて言うがラー博の広報の中村正博さんの認識は事実誤認であり経帯麺は拉麺とは別料理!
きっと中村さんの知識では中国料理の湯麺が全てラーメンに脳内変換される程度の知識しかまだ拉麺にかんしては無いのだろう。無論、日本のラーメンに関しては素晴らしい博識でらっしゃるのだろう。

余談だが、弘法大師空海和尚様が持ち帰った品種の小麦の遺伝子はウィグル自治区の物と一致するそうだ。中国の唐朝廷時代に既に首都の長安(現:西安市)で、ウィグル人の麺料理人達が拉麺や饂飩の原型の様々な料理を作って漢族の胃を満たし、商売繁盛大活躍していた事が窺い知れる史実だな。
空海和尚様は僧侶だったので肉を食べる訳にも行かず、ウィグル族の作る麺料理に舌鼓を打って精進料理の代わりに楽しんでおられたのだろう。

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ブログネタ
「食欲の秋」のはじめに食べたい物は? に参加中!
食欲の秋…拉麺美味しいよね。

横浜市港南区下永谷に神勝軒と言う「つけ麺」の店が在ります。
「つけ麺」と言うジャンルを拉麺界に創生した偉大な拉麺職人の故:山岸翁の御弟子サンの店です。
ちゃんと大勝軒で修行された事と山岸翁へのリスペクトを店内の看板にも掲示している大勝軒系の血脈の店。
この様に創始者をリスペクトする姿勢は素晴らしい。
御当地横浜の家系には、家系創始者の吉村社長の弟子でも無いのに自称家系名乗る不遜な輩が溢れかえり偽家系だらけ…
この神勝軒の山岸さんへのリスペクトは評価に値する。

正統の大勝軒の暖簾分け1号店も横浜駅西口に在り、其方の店長サンは今は山岸翁の跡を継ぎ横浜だけでなく大勝軒本店の大将に…
なかなか横浜駅西口や大勝軒本店に行けない時に、神勝軒で腹を満たし、つけ麺文化を残して下さった山岸翁に感謝を示すのも風流でよし。
店内は建築古材を活用した内装で、落ち着いて雰囲気が良いです。
カウンターは木製の一枚板で高そうな材木です。…写真撮り忘れました(笑)。
厨房はこんな感じ。
この日は…
特製つけ麺に
中盛り 味玉 焼豚 海苔増し
…を頂きました。
美味しそうでしょ?
麺を完食したら…
「スープ割りお願いします!」
…と、言うと、スープにネギ等を足して飲むスープにしてくれます。
コレはつけ麺店ならではの風習みたいなもんで、大概のつけ麺自慢の店はやってくれますよね。

こちらの店で山岸翁の血脈の味を身近に感じて、大勝軒本店や大勝軒横浜駅西口店近く行く時は其方にも寄りたい。

余談ですが神勝軒のお向かいに在った家系総本山の吉村家の直弟子が店長だった環2家が8月30日で閉店しました。
閉店日から2日後だったのですが、灯りがついていました。
吉村社長、店を売却するとブログに書いていたので、もう売れたんでしょうか?
吉村社長の直弟子の本物の家系だっただけに残念です。
環2家は店員同士が仲悪く接客の際に怒号が飛び最悪な雰囲気だったが美味しい日は美味しかっただけに、吉村社長の下で接客マナー再建し続けて貰いたかった。
吉村社長のブログに書いて有った「光くん」と言う店員が辞めたのが、環2家をたたむきっかけらしいが…

この地域、実は拉麺文化発展させる地域とも言えます。
実は御城の在った地域には、美味しい拉麺店が近くに在るんです!
そして、それは地勢上の必然なんです。
其れは神勝軒の附近の周辺 文化と地理の 情報を先ず見れば一目瞭然なんですが…
先ずは見ましょう。
有名ラーメン店と城址と交通の相関地図
永谷の周辺街道
⚫︎古鎌倉街道
江戸時代の鎌倉街道成立より更に以前、平安時代から使われた鎌倉街道の古道がこの地域を貫いている。
⚫︎鎌倉街道
鎌倉時代迄の古鎌倉街道とは違う筋だが、現代、整備された鎌倉街道が永谷地区近くに通る。
⚫︎古東海道/東海道
江戸時代以前の古東海道を江戸幕府が再整備した東海道が、永谷地区の直ぐ近くに通っている。
⚫︎環状2号線
神勝軒は環状2号線に在る。現代整備された横浜の中心部から放射状に続く国道16号線、横浜上麻生道路、川崎街道、中原街道、八王子街道、鎌倉街道の一般道に加え第三京浜高速道路、横浜横須賀高速道路、東名高速道路、首都高速道路湾岸線&横羽線等のアクセス向上を目指して造られた新しい街道。
永谷周辺の有名ラーメン店と城址
※超有名店だけとりあえず記載しますが、地図上の印つけた店は全て雑誌TVに良く掲載される有名店です。
⚫︎新横浜拉麺博物館
日本最初の拉麺博物館。
永谷地区からは車で環状2号線を15〜20分程の距離の新横浜駅附近には拉麺博物館が在る。
新横浜駅は東海道新幹線「のぞみ」の停車する重要駅でもある。
⚫︎支那そばや本店
※港南区永谷地区は隣区の戸塚区との境界に位置する。
永谷地区から東海道を車で15〜20分程の戸塚駅近く。山岸翁と同じく拉麺の大家として名の知れた「拉麺の鬼、佐野実」こと故:佐野氏の「支那そばや」本店。この店の支那そば(醤油ラーメン)は一般的な醤油ラーメンのイメージから想像も付かない発展をさせた拉麺で、拉麺ブームの火付け役に成った名店。
残念ながら、つけ麺の大家:山岸翁が没すると、後を追うように佐野氏も世を去ってしまったが、その味は御弟子さんがシッカリと受け継いでいる。 
⚫︎杉田家(元:吉村家本店)
永谷地区から環状2号線と国道16号線を車で15分の距離。
豚骨醤油:家系拉麺の創始者の吉村社長が最初に店を構えた店舗。今は直弟子が支店として引継ぎ店長を務める。 家系拉麺の発祥地。
吉村社長のいる吉村家は、横浜駅西口近くで営業中でいつも大行列。
⚫︎環2家
永谷の神勝軒の目の前。環状2号線を挟んで対面に在ったが、先月2015年8月30日を以て閉店した。
家系拉麺創始者の吉村社長直弟子が店長を務める吉村家直営店で毎日大行列だったが、従業員の離脱により吉村社長が店を閉めてしまった。吉村社長のブログによれば店舗売却予定らしい。
⚫︎
本牧家
元々、本牧家の屋号は吉村家の吉村社長の店だった事に由(よ)る。
元弟子の神藤隆が本牧家店長を任されていた時代に造反し、従業員引き連れて辞めて神奈川区六角橋に六角家を作ってしまった為、吉村社長が怒り狂って閉店、現在のオーナーに売却してしまった店。
正統な家系吉村家の系統とは別系統で「家系亜種」と呼ばれる家系の派生店。
六角家の方は新横浜ラーメン博物館の開店当初は、御当地横浜のラーメン店として同地には入店していたが現在は出店していない。六角家本店は名前の由来の神奈川区六角橋に営業中。
⚫︎壱六家
正統派吉村家系とは異なる家系亜種に分類される拉麺店。
昔からの人気店で、一時期は支店も多数出店した。現在は元々の国道十六号沿い磯子駅近くの本店は特に大人気営業中。
⚫︎貞昌院と永谷天満宮
永谷天満宮は全国の天神様の御祭神である菅原道真公の御子息5男、菅原淳茂公の居館跡の天神様。
そこに室町幕府足利尊氏公の従兄弟の御子孫で鎌倉府で関東管領も務めた家系の宅間上杉家の殿様が開いた天満宮。
御神体は道真公が鏡を見て遺品として自ら手彫りした道真公御自身の木製像。
この木像は日本に三体だけあり、福岡の太宰府天満宮、大阪の道明寺天満宮、横浜の永谷天満宮に其々安置され、以上三社の天満宮は日本三体天満宮と呼ばれる。
貞昌院は曹洞宗の寺院で永谷天満宮の別当寺。開基の宅間上杉家が曹洞宗に帰依した小田原北条家臣だった事による。
⚫︎永野城址
神勝軒の向い側の緑地は室町幕府創始者の足利尊氏公の従兄弟の血筋に当たる宅間上杉家の殿様の居城の永野城址。
⚫︎野庭関城址
永谷地区から車で5分の場所に曾て在った城。
鎌倉幕府の初代の侍所別当(防衛大臣)を務めた和田義盛公が築城した城で、鎌倉古道と鎌倉街道を押さえる位置に在る。
戦国時代まで活用され、安藤良整公等の名将が城代を務めた。
⚫︎笹下城址
永谷地区から車で5〜10分の笹下地区に曾て在った城で、北条家の水軍を纏めた間宮家の居城。杉田港や六浦道(笹下釜利谷道路)、鎌倉街道を押さえ鎌倉の防衛と東京湾防衛を担った城。
⚫︎今井城址
永谷地区から直ぐ車で10〜15分の環状2号線今井インター近く、保土ヶ谷区の平安時代末期の信州出身の武将の旭将軍こと源朝臣木曽義仲の重臣だった今井兼平の城址と伝わる。戦国時代末期まで城として機能し江戸時代に成り廃城すると陣屋が置かれた。
つまり当時も交通の要所だった。
義仲の妻の巴御前は幕府に投降し和田義盛公に再嫁しているので、今井兼平も投降した可能性は高い。又はその一族が城主か?
⚫︎鳥山城址と三会寺と鳥山八幡宮
全て 港北区鳥山地区、永谷地区から環状2号線を車で 15〜 20分程 離に在る歴史史跡
平安時代末期、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の与力、近江国宇田源氏の名将:佐々木高綱公が築城した居館が鳥山八幡宮の敷地で、その背後の丘は詰めの城。
三会寺(さんねじ)は源頼朝公が佐々木高綱公に命じて鎌倉の鬼門に当たる鳥山地区の旧街道沿いに築いた鎌倉鬼門鎮護の寺院。
⚫︎小机城址
永谷地区から車で20〜25分程の所。
新横浜日産スタジアム近く、室町時代〜戦国時代の城址で北条家白備え隊の居城。白備えは小田原北条家の主力部隊の1つ、北条家には五色の軍装で色分けされた5軍団が有り、その1つ。
城主は北条家の宿老であった北条幻庵公、城代は北条家の家老の笠原信為公。

※上記の城址は既に記事に書いてあるので
画面上、PCでは右側、携帯では下の方に表示される【カテゴリ】から「城址」「北条家五色備え」「神社」のいずれかから検索してみて下さい。
ここまで拉麺と関係ない事を、良く読んで下さいました(笑)。
では何で、この地域が拉麺文化発展の土壌に成ったかですが…
既に勘の良い方は地理と史跡を見て気が付いてますよね?
この地域は交通の要所だから、拉麺文化を客として下支えして来たトラックやタクシーの運転手の往来が多いんです!

この東海道(国道1号線)と環状2号線のクロスする附近は、拉麺文化醸成の地であり、奇しくも永野城、野庭関城、笹下城、小机城、鳥山城、今井城など交通の要所を押さえる位置に築かれた城が神勝軒の在る永谷地区や環状2号線周辺に在るのは当然!
現代の物流の観点と、武士達の街道を押さえる防衛観念はリンクしているからなんですね。
武士は敵軍の自領への侵攻を防ぐ為に、街道や水運の要所に城を築城(ちくじょう:城を造る事)します
そしてラーメン店はトラックの往来が多い街道沿いに運転手の来店が多く見込めるので、沢山の拉麺店が出店する事に成り、結果的に拉麺文化発展の土壌には城跡が近くに在る場合が多く成る訳ですね。

ね?
歴史と郷土の食文化って凄く関連が在るでしょう?
それが小生のブログタイトルの由来でもある訳です。

次は映画とドラマの「HERO」公開中につき、ロケ地の横浜の旧中心街の日本大通り地区の近代西洋建築遺産を紹介します。

では!又次の記事で!
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ブログネタ
気になる食べ物 に参加中!
小生、実は昔若い頃、京都に住んでいたので、京都の薄切りチャーシュー沢山載せた京都ラーメンが大好きなんです。
最近、川崎市の武蔵新城駅近くで京都市左京区北白川の「魁力屋」と言う店の支店を見つけました。
…と、言うか橘樹神社行くたびに前を通るので、京都時代を思い出し懐かしく入ってみました。
京都の本店と変わらず美味しかった。

唐揚げセット頼んだけど写真撮るの忘れました。
美味しいから御近所の人は是非食べてみたら良いと思う。
もちろん横浜市歌を歌って育った生粋のハマっ子なので家系総本山吉村家の闘将吉村社長さんの系統の 店も好きでよく食べに行きますよ。
とくに「環2家」に良く行く。
環状2号線の上永谷、太宰府天満宮、道明寺天満宮と並ぶ日本三躰天満宮の永谷天満宮の有る環2水田交差点から近く。
環2家は吉村家の直弟子の店だから再現度高いけど…
ちょくちょく店員同士が喧嘩してるのが気になる。サービス業なんだから説教や喧嘩はバックヤードでやれば良い。
そこら辺りが吉村家との決定的な違い。
ギスギスした雰囲気を客に感じさせるのは如何かと思う。
味は美味しいですよ。
横浜駅近くの総本山吉村家は文句の付けようは無く完璧。
因(ちな)みに近くの本牧家は吉村社長から造反した人の店で家系亜種。

千家も美味しい。
純粋な吉村さんの弟子じゃないから家系亜種だけどなかなか。
家系亜種では一番美味しいかな?
根岸駅近く。

でも頻度に行く家系でも家系亜種でも無くて…
港南台の桃太郎と南部市場のがってん食堂
桃太郎はワンタンをよく注文する。

これと餃子食べてる時は至福。

がってん食堂は市場ならでは刺身の丼セットが安くてボリュームあるだけじゃなく…
拉麺が美味しい。

あと杉田のガンコ亭も良い。
写真ないからまた今度。

またラーメンネタの記事も書きます。

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