前回の記事⤵
コレ⤴の写真撮影行った時に“田浦引込線横須賀鎮守府十字交差線路”の存在は知らず、普通に引込線を見に行ったんですが、行く際に先入観に囚われない様に先ずは他の人の記事とか全く読まない様にして、田浦駅から引込線が横須賀鎮守府に伸びていた“七釜トンネル”の写真撮って、現地でGoogleMap見ながら・・・
「ん~当時の路線今の地図じゃ解らんな」
・・・と思いながら方角と地形で当り付けて写真撮影してたら色々と発見が有ったんですね。上の十字交差とか。
で、ちゃんと複数人の詳しい人に話しを聞きに行ってから資料集め始めて、当時の組織の後継団体とか会社とか、国の機関とかスンゴイ色んな所の学芸員とかに・・・
「何か記録無いっすか~?」
「史料無いすか~?」
「教えて下せ~!」
・・・とかの基本中の基本の質問から始めて、軍事機密の史料に行き着いたり、付随する情報として横須賀海軍飛行場(現日産自動車追浜工場)とかに話しが波及したり、今回転載許可出なかったんで掲載できないけれど終戦直後の横須賀飛行場で艦上爆撃機“彗星”が武装解除されてプロペラ外された写真が掲載されている書籍とか、空撮で野島公園にある零式艦上戦闘機を空爆から守る格納庫として造られた掩体壕と横須賀飛行場を繋ぐ土橋に彗星が写っている史料とか教えて貰ったりしました。
「掩体壕って何?」
・・・って人は過去記事⤴に少し写真掲載して書いているので興味有る人は読んで下さい。
で、教えて貰った史料を探して、史料見っけて、関係機関に掲載許可取り、その次は史料がデカイからスキャンする為に自動車部品製造業で設計部門にしか無い様な巨大なスキャナー使わして貰える場所探したり、そこまでやってゲンナリwww。
「あ~歴史面倒臭っ!」
・・・って成って記事の続き書くの放置して暇があると逗子とか葉山行って、ずっと森戸神社とか真名瀬の砂浜で宝貝拾って磨いてましたました(笑)。
これ⤴ね。磨いた中で綺麗なの全部親類の子供達にあげちゃったけど。
因(ちな)みに貝殻拾ってた真名瀬海岸は葉山マリーナも近く綺麗な場所なので、興味が有る人は下の紹介記事を読んで見て下さい。
これ⤴真名瀬海岸の記事ね。
ちゃんと明治の鉄道関連の史跡も行って来ましたよ写真撮影し直しに。
ここ⤴赤煉瓦倉庫(新港埠頭引込線税関倉庫)とかね。
赤煉瓦倉庫も次回解説する高島線の引込線鉄道史跡の一つだったりします。
今回はコッチ⤵田浦引込線・・・
では~気まぐれクック風にぃ~1ヵ月半ぶりに歴史解説して行くっ♪
さて、JR田浦駅で皆さん電車を乗降した事はありますか?
多分ほとんどの人が無いですよね~?
上の写真は今回のJR線ではなく京急田浦駅近くの田浦梅林の写真ですが、ここJR田浦駅を利用する人も地元田浦の人達か、梅の季節に田浦梅林にピクニックに行くハイカーくらい、後は海上自衛官だけですからね~。
で、既に“海上自衛官”と言うワードが出て来るわけですが、田浦駅は明治三十七年(1904年)、国内で早い時期に鉄道省に由(よ)って横須賀駅~逗子駅が開業した際に付属駅として開かれたそうです。
そこら辺は疑問が有ったら小生に聞くより鉄道オタクに聞いた方が早いかも知れません。
この神⤴とかね。
横浜国大留年してまで電車乗りまくってただけでなく、旧中山道をチャリで走破しようとする良い意味で変人要素の強い鉄道古道オタクなハイスペック紳士の動画は“ウメゴールド”さんの動画と双璧を成して歴史オタクの皆さん、街道好きの皆さんにオススメです♪
この二人の動画、小生のブログより100倍面白いと思うので時間が有る人は是非視聴して見て下さい(笑)。
小生は鉄道全体は詳しくないので今回は引込線の中の“十字交差線路”が文化財指定するべき場所として紹介する為に解説させて頂きます。
んな訳で田浦駅のプラットホームに戻りましょう~!
左に見えている途中でブッタ切られてる線路が昔の引込線で、横須賀鎮守府の弾薬庫や水雷艇訓練学校方面へ続いていました。
先ずは全体像を皆さんに見て貰いましょう~♪
※クリックして拡大して見て下さい。
上の画像のGoogleEarthの画像に小生が調べた全時代の横須賀鎮守府の引込線を時系列無視して黄色い線で全て表示した物です。
複雑に線路が有ったのが良く解りますよね~!
この貨物線用の引込線が廃線に成ったのは平成十八年(2006年)の事でした。個人的にこの決定は海上自衛隊にとっても米海軍第七艦隊にとって後々打撃に成ると思います。何故なら化石燃料を使ったトラック輸送は運用比率が下げざるを得なく成ると思いますからね、物理的にコンテナ輸送の運用方法が昭和初期の頃の方法論に戻さないといけなくなる様な気がします。
リチウム使った燃料電池は仮想敵国が産出国で相手にイニシアティブ握られますからね、かと言って水素エンジンを本気で日本政府がやる覚悟が無いしアメリカも全然水素エンジンに興味が無い。
だから将来的に環境問題でトラック輸送は減らさざるを得なく成り、コンテナ車輛の輸送は鉄道が主流に成り、貨物駅から中型の電気自動車か水素エンジン自動車に荷役業者がパレットで積み替える昔の手法に回帰すると個人的には思うんです。
まぁ、そんな訳で貨物線をバッツバツに廃線にしまくってる連中は「海外の思惑踏まえた長期的な視野有る?」と思う訳です。
継往開来と言う言葉を知らない連中が多いみたいですね、今の地方自治体の役人や経営者。
目先の事しか見ておらず都市計画と兵站をマイナーチェンジじゃなくてデチューンしまくり。
そんな感じで貨物線路が神奈川県内の特に横浜と横須賀で撤去されまくっている中、JR田浦駅から延びていた引込線は廃線に成って20年以上経ちますが“七釜トンネル”は今も健在です。
七釜トンネルこの3つ並んだトンネルは実は戦争遺産の引込線のトンネルとして文化財として価値が有るだけに留まらず日本でも珍しい明治~大正~昭和と武士の時代が終わり日本が近代化を果たした3つの時代の建築遺産が揃っている場所なんです。
右の赤煉瓦のトンネルが明治時代の建造、真ん中のトンネルが大正時代、左端が昭和初期の建造のトンネルで引込線の為に作られた場所です。
ここでチョット、帝国海軍で軍事機密扱いにされていた当時の地図を見てみましょう~。
※ここから登場する軍事機密の測量図は各時代の測量図の権利者の後継団体である国土地理院に許可を得て掲載しまています。
ん~データ化してスマホやPCで見ても細かすぎて良く解らんでしょうか(笑)?
※拡大して見て下さい。
先程、田浦駅は明治三十七年(1904年)の開業と紹介しましたが、上の地図は明治三十六年(1903年)の地図です。確かに田浦駅は未開業の様ですし、引込線も存在しませんよね?
更に言えば先程見たGoogleEarthの地形とも全く異なっていますよね?
そう!これ海上自衛隊の方々は良く御存知なのですが現在の自衛隊の田浦基地は何と災害に弱い埋立地なんですよ!
岸田総理!海上自衛隊の基地は埋立地に置くのは危険ですよ!
関東大震災が来たら沈下して海没するか津波が来たら東日本大震災の様に地盤が液状化して建物が倒壊する可能性も多いに有ると小生は予測します。
これ海自の基地、嵩上げしちゃいましょう総理。
実は今リニア新幹線のトンネル掘削で排出される土砂の投棄場に困っています。
業務委託された会社が自然豊かな水源地の渓谷に熱海の土石流発生地点みたいに盛土による埋立てを行っており社会問題に成ったりしています。
水源や海の埋立てに関しては嘗て西武グループが三浦市の風光明媚な矢作湾を埋め立てた挙句、景観を破壊しただけで何にも活用せず今も負の遺産に成ってたりもしますよね?
下の古い地図は迅速測図です。
※農研機構が“歴史的農業環境閲覧システム”として製作した物で開発者の方から転載の許可を得ています。又、歴史的農業環境閲覧システムは皆さんも農研機構の名前を記載すれば転載して良いとも確認を得ているので是非、明治時代の地形と比較して災害発生予測等に活用して下さい。
そこで提案なのですが、この様に自然地形を埋めて風光明媚な景勝地や豊かな漁場を消滅させたり熱海の様に水害や土砂崩れ等の災害の要因を作り出すのを禁じる為にも埋立技術が未熟だった時代の埋立地である田浦港や横浜の関内地区や鶴見区沿岸部、古文書で海没して海中に消え失せた村が有った事が確認出来る横浜市金沢区並木や幸浦の埋立地を関東大震災に備えて嵩上するのにリニア新幹線と横浜の相鉄線と東横線の直結化と将来のミナト未来線の延伸で発生するトンネル工事の土砂を利用したら良いのでは?
・・・と今回、田浦の地形変遷を調べていて歴史オタクとして思っています。
岸田総理と山口代表、この提案目にしてくれないかな?
で、田浦付近は地形が変わりまくっている訳ですが・・・
ここで又、軍事機密扱いだった測量図を現代まで各時代で比較してみましょう。
明治三十六年(1903年)
大正十年(1921年)
昭和二十五年(1950年)
昭和三十五年(1960年)
うん!やっぱり全体図じゃサッパリ解らん(笑)。
では拡大して迅速測図、軍事機密測量図、国土地理院地図航空写真を比較して時系列で地形の変化を見てみましょう。
これを見ると横須賀線が無かった時代~田浦引込線の延伸~空爆による被害~再建~撤去の過程が有る程度は解ります。
【明治十九年(1886年)】
【明治三十六年(1903年)】
【大正十年(1921年)】
【昭和二十年(1945年)】
【昭和二十五年(1950年)】
【昭和二十六年(1951年)】
【昭和三十五年(1960年)】
【昭和五十四年(1979年)】
【昭和六十三年(1988年)】
【平成十九年(2007年)】
【令和元年(2019年)】
各写真を拡大して見ながら比較すると引込線の様子が有る程度は見えますよね?
どうやら終戦直前の航空写真では米軍による横須賀空襲で鉄道もバッキバキに破壊されている様です。
ところが1970年代には復興された引込線は再大化しています。
終戦直後の輸送網の再大戦力が鉄道輸送だったからですね。
でも、その後2007年には画面右側の吾妻島と新井掘割を挟んで対岸の現在の比与宇トンネルを抜けた先、線路が撤去されています。
比与宇宇トンネルは鉄道マニアには“スイッチバックする為に作られたトンネル”と言われていますが、この軍事機密の地図と衛星写真から解る通り、田浦駅から引込線は直ぐに更に2本に分岐し比与宇トンネルに向かう線路と直行する線路が存在し、新井掘割で掘り切られて丘に成った比与宇トンネルの山を1周する線路だった事が判ります。
つまり!鉄オタの認識は戦前の歴史を知らない人が流布した戦後の線路の話で、比与宇トンネルがスイッチバックの為に作られたと言うのはデマな事が判りますね。
小生が引込線の全路線を再現した上の再現図も同時代に全てが有った訳では無さそうです。
ここからは現地を歩いた小生の写真を交えて解説に移ります。
【明治三十六年(1903年)】
最初に田浦駅引込線が出来た当初は田浦駅も無く横須賀線は横須賀駅に直進しています。
【大正十年(1921年)】
大正十年では田浦駅も確認出来ますし引込線が敷設されています。
田浦駅から引込線が分岐して七釜トンネルを抜け、トンネルを抜けた先で小さな鉄橋を渡って真っ直ぐ進み右手の新井掘割水路に向かっています。
この鉄橋は草にまみれ線路の枕木は朽ちていますが現存しています。
鉄橋へは地図の青い屋根の堀硝子サンの工場と川の間の歩道を奥まで行くと鉄橋の手前まで辿り着けます。
ただ大正十年には比与宇トンネルは未だ無く新井堀割方面でスイッチバックしてこないといけない不便な構造だった様です。
更に時代が下って昭和に成ると戦時中には既に比与宇トンネルが完成しいた事が判ります。
【昭和二十五年(1950年)】
終戦直後の昭和二十五年の地図を見ると比与宇トンネルが山を穿(うが)って線路がグルッと1周回る構造に成っていますが、この地図のままだと田浦駅から直進して比与宇トンネルを通過する1周回るルートでしか地図上で“田浦港町”と記載された地区の方へ行けない不便な構造に成っていますが実際は記載されていない分岐点が有ります。
その場所が写真の曙機械さんの前にV字型の空き地と線路の2021年現在は未撤去部分が残っている場所で、このV字が正に分岐の有る場所でした。
ここで田浦駅から引き込まれた貨物線は2路線に分かれ、一方は比与宇トンネル方面に右折、一方は直進していた訳です。
つまり曙機械さんの前の分岐が有るので新井堀割へ直進せず比与宇トンネルに向かいトンネル内でスイッチバックすれば効率的に深浦船越方面(西側)の引込線に行く事が出来た様です。
最近までこの砂利に切替ポイントの器具が現存していた様です。
残念ながら名残りは線路の残存部分以外に残っていません。
比与宇トンネルに行く方面は少しだけ線路が残存していました。
曙機械さんの横から鉄橋への線路も現存していましたが藪化が激しく夏時点ではとてもじゃないけど歩ける状態ではありませんでした。
これが太平洋を守る自衛隊と米国第七艦隊の兵站をささえた線路へ何の感謝も無い酷い仕打ちに感じてしまいます。線路に乗ると枕木も腐って消滅していたり固定も外れてボヨンボヨンしていました。
この分岐点で比与宇トンネルへ行かず直進した線路は比与宇トンネルを1周して帰って来た線路と交差する事に成ります。
旧海軍横須賀鎮守府
比与宇トンネル前引込線交差
これが横須賀鎮守府の比与宇トンネル前引込線十字交差です。
コレ⤴の写真撮影行った時に“田浦引込線横須賀鎮守府十字交差線路”の存在は知らず、普通に引込線を見に行ったんですが、行く際に先入観に囚われない様に先ずは他の人の記事とか全く読まない様にして、田浦駅から引込線が横須賀鎮守府に伸びていた“七釜トンネル”の写真撮って、現地でGoogleMap見ながら・・・
「ん~当時の路線今の地図じゃ解らんな」
・・・と思いながら方角と地形で当り付けて写真撮影してたら色々と発見が有ったんですね。上の十字交差とか。
で、ちゃんと複数人の詳しい人に話しを聞きに行ってから資料集め始めて、当時の組織の後継団体とか会社とか、国の機関とかスンゴイ色んな所の学芸員とかに・・・
「何か記録無いっすか~?」
「史料無いすか~?」
「教えて下せ~!」
・・・とかの基本中の基本の質問から始めて、軍事機密の史料に行き着いたり、付随する情報として横須賀海軍飛行場(現日産自動車追浜工場)とかに話しが波及したり、今回転載許可出なかったんで掲載できないけれど終戦直後の横須賀飛行場で艦上爆撃機“彗星”が武装解除されてプロペラ外された写真が掲載されている書籍とか、空撮で野島公園にある零式艦上戦闘機を空爆から守る格納庫として造られた掩体壕と横須賀飛行場を繋ぐ土橋に彗星が写っている史料とか教えて貰ったりしました。
「掩体壕って何?」
・・・って人は過去記事⤴に少し写真掲載して書いているので興味有る人は読んで下さい。
で、教えて貰った史料を探して、史料見っけて、関係機関に掲載許可取り、その次は史料がデカイからスキャンする為に自動車部品製造業で設計部門にしか無い様な巨大なスキャナー使わして貰える場所探したり、そこまでやってゲンナリwww。
「あ~歴史面倒臭っ!」
・・・って成って記事の続き書くの放置して暇があると逗子とか葉山行って、ずっと森戸神社とか真名瀬の砂浜で宝貝拾って磨いてましたました(笑)。
これ⤴ね。磨いた中で綺麗なの全部親類の子供達にあげちゃったけど。
因(ちな)みに貝殻拾ってた真名瀬海岸は葉山マリーナも近く綺麗な場所なので、興味が有る人は下の紹介記事を読んで見て下さい。
これ⤴真名瀬海岸の記事ね。
ちゃんと明治の鉄道関連の史跡も行って来ましたよ写真撮影し直しに。
ここ⤴赤煉瓦倉庫(新港埠頭引込線税関倉庫)とかね。
赤煉瓦倉庫も次回解説する高島線の引込線鉄道史跡の一つだったりします。
今回はコッチ⤵田浦引込線・・・
では~気まぐれクック風にぃ~1ヵ月半ぶりに歴史解説して行くっ♪
さて、JR田浦駅で皆さん電車を乗降した事はありますか?
多分ほとんどの人が無いですよね~?
上の写真は今回のJR線ではなく京急田浦駅近くの田浦梅林の写真ですが、ここJR田浦駅を利用する人も地元田浦の人達か、梅の季節に田浦梅林にピクニックに行くハイカーくらい、後は海上自衛官だけですからね~。
で、既に“海上自衛官”と言うワードが出て来るわけですが、田浦駅は明治三十七年(1904年)、国内で早い時期に鉄道省に由(よ)って横須賀駅~逗子駅が開業した際に付属駅として開かれたそうです。
そこら辺は疑問が有ったら小生に聞くより鉄道オタクに聞いた方が早いかも知れません。
この神⤴とかね。
横浜国大留年してまで電車乗りまくってただけでなく、旧中山道をチャリで走破しようとする良い意味で変人要素の強い鉄道古道オタクなハイスペック紳士の動画は“ウメゴールド”さんの動画と双璧を成して歴史オタクの皆さん、街道好きの皆さんにオススメです♪
この二人の動画、小生のブログより100倍面白いと思うので時間が有る人は是非視聴して見て下さい(笑)。
小生は鉄道全体は詳しくないので今回は引込線の中の“十字交差線路”が文化財指定するべき場所として紹介する為に解説させて頂きます。
んな訳で田浦駅のプラットホームに戻りましょう~!
左に見えている途中でブッタ切られてる線路が昔の引込線で、横須賀鎮守府の弾薬庫や水雷艇訓練学校方面へ続いていました。
先ずは全体像を皆さんに見て貰いましょう~♪
※クリックして拡大して見て下さい。
上の画像のGoogleEarthの画像に小生が調べた全時代の横須賀鎮守府の引込線を時系列無視して黄色い線で全て表示した物です。
複雑に線路が有ったのが良く解りますよね~!
この貨物線用の引込線が廃線に成ったのは平成十八年(2006年)の事でした。個人的にこの決定は海上自衛隊にとっても米海軍第七艦隊にとって後々打撃に成ると思います。何故なら化石燃料を使ったトラック輸送は運用比率が下げざるを得なく成ると思いますからね、物理的にコンテナ輸送の運用方法が昭和初期の頃の方法論に戻さないといけなくなる様な気がします。
リチウム使った燃料電池は仮想敵国が産出国で相手にイニシアティブ握られますからね、かと言って水素エンジンを本気で日本政府がやる覚悟が無いしアメリカも全然水素エンジンに興味が無い。
だから将来的に環境問題でトラック輸送は減らさざるを得なく成り、コンテナ車輛の輸送は鉄道が主流に成り、貨物駅から中型の電気自動車か水素エンジン自動車に荷役業者がパレットで積み替える昔の手法に回帰すると個人的には思うんです。
まぁ、そんな訳で貨物線をバッツバツに廃線にしまくってる連中は「海外の思惑踏まえた長期的な視野有る?」と思う訳です。
継往開来と言う言葉を知らない連中が多いみたいですね、今の地方自治体の役人や経営者。
目先の事しか見ておらず都市計画と兵站をマイナーチェンジじゃなくてデチューンしまくり。
そんな感じで貨物線路が神奈川県内の特に横浜と横須賀で撤去されまくっている中、JR田浦駅から延びていた引込線は廃線に成って20年以上経ちますが“七釜トンネル”は今も健在です。
七釜トンネル
右の赤煉瓦のトンネルが明治時代の建造、真ん中のトンネルが大正時代、左端が昭和初期の建造のトンネルで引込線の為に作られた場所です。
ここでチョット、帝国海軍で軍事機密扱いにされていた当時の地図を見てみましょう~。
※ここから登場する軍事機密の測量図は各時代の測量図の権利者の後継団体である国土地理院に許可を得て掲載しまています。
ん~データ化してスマホやPCで見ても細かすぎて良く解らんでしょうか(笑)?
※拡大して見て下さい。
先程、田浦駅は明治三十七年(1904年)の開業と紹介しましたが、上の地図は明治三十六年(1903年)の地図です。確かに田浦駅は未開業の様ですし、引込線も存在しませんよね?
更に言えば先程見たGoogleEarthの地形とも全く異なっていますよね?
そう!これ海上自衛隊の方々は良く御存知なのですが現在の自衛隊の田浦基地は何と災害に弱い埋立地なんですよ!
岸田総理!海上自衛隊の基地は埋立地に置くのは危険ですよ!
関東大震災が来たら沈下して海没するか津波が来たら東日本大震災の様に地盤が液状化して建物が倒壊する可能性も多いに有ると小生は予測します。
これ海自の基地、嵩上げしちゃいましょう総理。
実は今リニア新幹線のトンネル掘削で排出される土砂の投棄場に困っています。
業務委託された会社が自然豊かな水源地の渓谷に熱海の土石流発生地点みたいに盛土による埋立てを行っており社会問題に成ったりしています。
水源や海の埋立てに関しては嘗て西武グループが三浦市の風光明媚な矢作湾を埋め立てた挙句、景観を破壊しただけで何にも活用せず今も負の遺産に成ってたりもしますよね?
下の古い地図は迅速測図です。
※農研機構が“歴史的農業環境閲覧システム”として製作した物で開発者の方から転載の許可を得ています。又、歴史的農業環境閲覧システムは皆さんも農研機構の名前を記載すれば転載して良いとも確認を得ているので是非、明治時代の地形と比較して災害発生予測等に活用して下さい。
そこで提案なのですが、この様に自然地形を埋めて風光明媚な景勝地や豊かな漁場を消滅させたり熱海の様に水害や土砂崩れ等の災害の要因を作り出すのを禁じる為にも埋立技術が未熟だった時代の埋立地である田浦港や横浜の関内地区や鶴見区沿岸部、古文書で海没して海中に消え失せた村が有った事が確認出来る横浜市金沢区並木や幸浦の埋立地を関東大震災に備えて嵩上するのにリニア新幹線と横浜の相鉄線と東横線の直結化と将来のミナト未来線の延伸で発生するトンネル工事の土砂を利用したら良いのでは?
・・・と今回、田浦の地形変遷を調べていて歴史オタクとして思っています。
岸田総理と山口代表、この提案目にしてくれないかな?
で、田浦付近は地形が変わりまくっている訳ですが・・・
ここで又、軍事機密扱いだった測量図を現代まで各時代で比較してみましょう。
明治三十六年(1903年)
大正十年(1921年)
昭和二十五年(1950年)
昭和三十五年(1960年)
うん!やっぱり全体図じゃサッパリ解らん(笑)。
では拡大して迅速測図、軍事機密測量図、国土地理院地図航空写真を比較して時系列で地形の変化を見てみましょう。
これを見ると横須賀線が無かった時代~田浦引込線の延伸~空爆による被害~再建~撤去の過程が有る程度は解ります。
【明治十九年(1886年)】
【明治三十六年(1903年)】
【大正十年(1921年)】
【昭和二十年(1945年)】
【昭和二十五年(1950年)】
【昭和二十六年(1951年)】
【昭和三十五年(1960年)】
【昭和五十四年(1979年)】
【昭和六十三年(1988年)】
【平成十九年(2007年)】
【令和元年(2019年)】
各写真を拡大して見ながら比較すると引込線の様子が有る程度は見えますよね?
どうやら終戦直前の航空写真では米軍による横須賀空襲で鉄道もバッキバキに破壊されている様です。
ところが1970年代には復興された引込線は再大化しています。
終戦直後の輸送網の再大戦力が鉄道輸送だったからですね。
でも、その後2007年には画面右側の吾妻島と新井掘割を挟んで対岸の現在の比与宇トンネルを抜けた先、線路が撤去されています。
比与宇宇トンネルは鉄道マニアには“スイッチバックする為に作られたトンネル”と言われていますが、この軍事機密の地図と衛星写真から解る通り、田浦駅から引込線は直ぐに更に2本に分岐し比与宇トンネルに向かう線路と直行する線路が存在し、新井掘割で掘り切られて丘に成った比与宇トンネルの山を1周する線路だった事が判ります。
つまり!鉄オタの認識は戦前の歴史を知らない人が流布した戦後の線路の話で、比与宇トンネルがスイッチバックの為に作られたと言うのはデマな事が判りますね。
小生が引込線の全路線を再現した上の再現図も同時代に全てが有った訳では無さそうです。
ここからは現地を歩いた小生の写真を交えて解説に移ります。
【明治三十六年(1903年)】
最初に田浦駅引込線が出来た当初は田浦駅も無く横須賀線は横須賀駅に直進しています。
【大正十年(1921年)】
大正十年では田浦駅も確認出来ますし引込線が敷設されています。
田浦駅から引込線が分岐して七釜トンネルを抜け、トンネルを抜けた先で小さな鉄橋を渡って真っ直ぐ進み右手の新井掘割水路に向かっています。
この鉄橋は草にまみれ線路の枕木は朽ちていますが現存しています。
鉄橋へは地図の青い屋根の堀硝子サンの工場と川の間の歩道を奥まで行くと鉄橋の手前まで辿り着けます。
ただ大正十年には比与宇トンネルは未だ無く新井堀割方面でスイッチバックしてこないといけない不便な構造だった様です。
更に時代が下って昭和に成ると戦時中には既に比与宇トンネルが完成しいた事が判ります。
【昭和二十五年(1950年)】
終戦直後の昭和二十五年の地図を見ると比与宇トンネルが山を穿(うが)って線路がグルッと1周回る構造に成っていますが、この地図のままだと田浦駅から直進して比与宇トンネルを通過する1周回るルートでしか地図上で“田浦港町”と記載された地区の方へ行けない不便な構造に成っていますが実際は記載されていない分岐点が有ります。
その場所が写真の曙機械さんの前にV字型の空き地と線路の2021年現在は未撤去部分が残っている場所で、このV字が正に分岐の有る場所でした。
ここで田浦駅から引き込まれた貨物線は2路線に分かれ、一方は比与宇トンネル方面に右折、一方は直進していた訳です。
つまり曙機械さんの前の分岐が有るので新井堀割へ直進せず比与宇トンネルに向かいトンネル内でスイッチバックすれば効率的に深浦船越方面(西側)の引込線に行く事が出来た様です。
最近までこの砂利に切替ポイントの器具が現存していた様です。
残念ながら名残りは線路の残存部分以外に残っていません。
比与宇トンネルに行く方面は少しだけ線路が残存していました。
曙機械さんの横から鉄橋への線路も現存していましたが藪化が激しく夏時点ではとてもじゃないけど歩ける状態ではありませんでした。
これが太平洋を守る自衛隊と米国第七艦隊の兵站をささえた線路へ何の感謝も無い酷い仕打ちに感じてしまいます。線路に乗ると枕木も腐って消滅していたり固定も外れてボヨンボヨンしていました。
この分岐点で比与宇トンネルへ行かず直進した線路は比与宇トンネルを1周して帰って来た線路と交差する事に成ります。
旧海軍横須賀鎮守府
比与宇トンネル前引込線交差
七釜トンネル方面、曙電気前の分岐点への線路は既に撤去されてしまっていますが比与宇トンネルを抜けて来て十字に交差した線路は少し残っていて往時の様子を想像できます。
この十字交差線路、現存日本最古の可能性が高いそうです。
なので横須賀市民のみならず、日本人にとって鉄道史跡文化財として非常に大切にすべき場所なんですね。
この状態のまま残しつつ残存部分も保護し活用して、横浜の赤レンガ倉庫や汽車道の遊歩道の様に都市計画すると仮に海上自衛隊の基地としての機能が無くなった後でも今のままで軍港としての観光地化に活かせて、まだ空白地の沢山ある一帯を観光商業街として再開発出来ると思うんですけどね~。
こんな⤵風にね⤴
まぁ、十字交差線路の有る田浦駅~長浦地区の再開発担当者にセンスが無いか目先の仕事しか考えておらず横須賀市の未来像なんて微塵も考慮してないのかな?文化財的な価値が有る事も知らないのに開発担当してるって事に成りますが、実際は誰が線路の撤去を決めてしまったんでしょうね~?
市の教育委員会も残したいと言っているのだし、地権者が誰かは港湾台帳を見せて貰わないと解らないが、是非残して活用する方向に持って行って欲しい。
今の上地市長は史跡を都市計画に取り込んだ再開発が非常に得意な方なのに何で末端の役人か業務請け負ってる業者は、横須賀市役所の今までの努力を無駄にする様な事をここでしているのかちょっと理解出来ないですね。
ちなみに開発を請負ってるのは五洋建設らしい。
十字交差線路の南の方に進むと比与宇トンネルが自動車専用道路として今も現役で活躍している。
比与宇トンネル
この十字交差線路、現存日本最古の可能性が高いそうです。
なので横須賀市民のみならず、日本人にとって鉄道史跡文化財として非常に大切にすべき場所なんですね。
この状態のまま残しつつ残存部分も保護し活用して、横浜の赤レンガ倉庫や汽車道の遊歩道の様に都市計画すると仮に海上自衛隊の基地としての機能が無くなった後でも今のままで軍港としての観光地化に活かせて、まだ空白地の沢山ある一帯を観光商業街として再開発出来ると思うんですけどね~。
こんな⤵風にね⤴
まぁ、十字交差線路の有る田浦駅~長浦地区の再開発担当者にセンスが無いか目先の仕事しか考えておらず横須賀市の未来像なんて微塵も考慮してないのかな?文化財的な価値が有る事も知らないのに開発担当してるって事に成りますが、実際は誰が線路の撤去を決めてしまったんでしょうね~?
市の教育委員会も残したいと言っているのだし、地権者が誰かは港湾台帳を見せて貰わないと解らないが、是非残して活用する方向に持って行って欲しい。
今の上地市長は史跡を都市計画に取り込んだ再開発が非常に得意な方なのに何で末端の役人か業務請け負ってる業者は、横須賀市役所の今までの努力を無駄にする様な事をここでしているのかちょっと理解出来ないですね。
ちなみに開発を請負ってるのは五洋建設らしい。
十字交差線路の南の方に進むと比与宇トンネルが自動車専用道路として今も現役で活躍している。
比与宇トンネル
線路が撤去されて往時の様子はサッパリ想像つかないけれど、この中に線路が巡らされていて車とトンネルを共有してたらしいので現代では考えられない事ですね~。
トンネルの手前に信号も当然あったんでしょうね。
ただ、ここが「スイッチバックする為に作られた」と言うのはデマだと今回見つけて来た旧軍の測量図で判明しているので、ここはあくまでグルっと吾妻島方面へ行って1周回る為に築かれたトンネルな訳です。
恐らく戦時中に吾妻島の対岸の線路が空爆で被害を受けた時期か縮小された時期に曙機械の前に地図に表記されていない切替ポイントが作られて1周する様に線路を復旧しなくても済む様に効率的にスイッチバックして西側の引込線に行く様に成ったのかな?と言うのが小生の推論です。
そもそも戦後完全に引込線が復旧しても1周するよりスイッチバックする方が効率良いですしね。
既に引込線十字交差から比与宇トンネルに続いていた部分の線路は撤去されてしまっていました。
勿体無い。この殺風景な場所が将来、横浜の汽車道みたいにオシャレな雰囲気の町並みや横浜の海岸通りみたいにオシャレな商業街に出来たか知れないのに。
観光資源としても現存部分を活用して欲しいですね~。
トンネルと反対方面にはまだ部分部分残っていますが寸断されています。
ここを石畳か花崗岩とか石英が沢山混じった化粧石ぽいコンクリートの歩道にしたら美しいでしょうね~。
その少し先に橋が有るのですが、写真の手前側、橋の横に何やら正方形の鉄板が2枚有る川に少し突き出した部分が有りますよね?
実はここに昔、鉄道用の橋が架かっていました。
今ではちょっと想像がつかないですけど、横浜の汽車道の橋梁と似た様な物だったのかも知れません。
コンナ⤴感じの小さな鉄橋が有ったのかな~?
当時の写真がちょっと見つからなかったので、良く解りませんが。
まぁ七釜トンネルの手前にある鉄橋を見ると・・・
・・・コンナ⤴感じの橋だった可能性の方が高いのかな?
まぁ、そんなこんなで現地を歩いた結果、軍事機密の地図にも記載されていない線路も有りましたし、全ての線路を記載した小生の復元図も時系列は無視してる有った物を全て描き込んでいる訳です。
これ⤴ね。
でも今回、余り知られていない近代の地図を見つけた事で発見も有りました。
1つ目は現在の住所の田浦駅側の長浦の住所は、地名の割り振りを誤った結果定着してしまっている事。
2つ目は海軍の横須賀飛行場の造成前の地形と、造成後の地形が現在と違う事を確認出来た事。
3つ目はJR横須賀駅の横のマンションが昔は電車の留置線が有った事。
以上の事が確認出来ました。
なのでちょっと、そちらも一緒に見てみましょう~♪
先ずは今では余り知る人のいない、日産の追浜工場が元々横須賀飛行場だった事が判る地形の変遷を比較してみましょう。
上の地図を比較すると野島公園の地形が迅速測図と2枚目の明治時代の地図では半島状に成っているのに、3枚目と4枚目では半島が掘り切られてしまい完全に島に成っている事が判りますね。
実はこれ、3枚目で横須賀空港の地形が既に野島の南側に造成されていて野島に艦上戦闘機の格納庫の掩体壕が掘り抜かれており掩体壕と飛行場との間にある海を土橋で埋めてしまったんですね、すると野島の漁業関係者が海に出られないので北側の半島の尾根に水路を開削した結果、野島は本当に島の地形に成ったんですね。
4枚目の現代の画像を拡大して見ると、その土橋が戦後に撤去されている事が判るかと思います。
1枚目の迅速測図は江戸時代と余り変わらない地形なので海岸線がまだまだ自然のままの場所が多いのが解りますね~。
4枚目の現代の地図は過去の地図と比較して埋立地が多く仮に津波等が発生したら如何(いか)に災害に弱い場所かが判別出来たりもします。
歴史はね~、こうやって昔の地形や地面の性質を知る事が出来るので防災に凄く使えるんですよ。
次に長浦と田浦の住所についてです。
実は明治初期に陸軍によって測量された迅速測図を見て海軍のせいで今の長浦の住所が旧田浦村に誤って定着してしまった事も解りました。
横須賀線(当時の鉄道省建設路線)が作られる前の横須賀市中心地の地形と現代の地形も比較してみましょう~♪
コレ⤴は現代のGoogleEarthの衛星画像です。
中央に島が有りますよね?現在では吾妻島と言うこの島は実は元々島では有りませんでした。
そんで、もう一つ見て貰うのが迅速測図、明治十三年(1880年)~明治十九年(1886年)に測量された地図です。
あれあれ~、吾妻島が島じゃないですね~?
そう、この通り吾妻島は小さな半島つまり岬(みさき)でした。そして吾妻島の地名は吾妻社と言う神社が存在した事に由来します。
画像を拡大して見て頂くと“吾妻社跡”と小生が表示した横に社名が記載して有るのが見えますね?
実は吾妻社の存在は横須賀市域が古代神話の聖地だった事に由来します。一般的に吾妻社には弟橘姫(オトタチバナヒメ)が御祭神として祀(まつ)られます。鉄オタではない以前からの小生のブログの読者の方は良く御存知かと思いますが横須賀市の南端には走水と言う土地が有り、走水神社が存在しています。
国道16号線は走水神社の前で唐突に終わるのですが、そこから海を越えて房総半島に又突然国道16号線が出現します。この道、実は倭建(やまとたける)神話の道で倭建軍勢が渡海した行軍ルートなんです。
この東京湾入口の海峡は浦賀水道と呼ばれ国内でも比較的潮が速く岩礁も多い難度の高い航路です。
倭建がここを軍勢を率いて往来したのは西暦109年と走水神社では伝承していますが、それは古代の暦が1年=6ヶ月と言う考古学的な知識が無く考古学が未熟だった明治政府の御役人が皇紀を制定する時に誤って逆算したから誤差が生まれています。
漢学を学んだ仁徳天皇と莵道稚郎子の御兄弟の次代の履中天皇の世代から導入された中国陰暦の1年=12ヵ月換算のまま逆算してしまっているのを仁徳天皇以前の歴代天皇の寿命を1歳=6ヶ月で再計算すると西暦280年前後、卑弥呼の時代に倭建が横須賀に来ている事に成ります。
上は冬季午前中の浦賀水道の潮流です。
当時の人は電気も無いし松明(たいまつ)に使う油も貴重品だった事から早朝に活動し始めるので、当時の後悔技術は未熟な訳で最初の渡航は失敗し北の方に流されてしまった様です。
走水神社でも「潮に流されてしまった」と伝承しています。そして一行は倭建の后(きさき)の弟橘姫が浦賀水道に入水自殺して人柱に成る神事を行った所、潮流が変わり房総半島に渡航出来たと神話が伝わっています。
神話通り弟橘姫が入水自殺する儀式を午前中に行い正午過ぎから活動すると、冬の走水神社の前の湾から難航路の浦賀水道を超えて房総半島に辿り着ける潮流が変わります。
潮流が時計と逆回りに成っていますよね?
この神話は恐らく事実で倭建は卑弥呼の甥っ子に当たる人物で恐らく卑弥呼は景行天皇の姉の倭姫に当たると時代的にも天皇家の系図的にも小生は考えているのですが、この倭建の后の弟橘姫を御祭神として祀っているのが関東に多く存在する“吾妻社”なんですね。
この吾妻社の存在した岬は“箱崎”と呼ばれていた事が迅速測図の上の方に記載されていますね?
なので本来、ここは吾妻島ではなく箱崎島とか箱島とか呼ばないといけないのですが地名を軍が吾妻島に改竄してしまいます。
実は明治政府が吾妻社をブっ潰して軍用地とした後で、本来は吾妻島じゃなく箱島とでも命名するべきだった箱崎の旧地形を真ん中に挟んで左の田浦村の湾と右の長浦村の湾をブチ抜く“新井掘割水路”が開削されました。
その際に田浦の“浦”と長浦の“浦”を一つの港として軍部が通称を長浦港に統合した事で、後から郵政省の前身の逓信省が住所を作る際に後から移住して来た歴史知識の全く無い担当者が長浦港と田浦港が別の港で有る事を知らず軍の通称として用いていた長浦港の名から地境を誤解したまま田浦港に長浦港の住所を割り振ってしまって、田浦港を地図上から消し去ってしまった様です。
倭建と弟橘姫が滞在した御所ヵ崎に有った神社が同様に山縣有朋によって破壊され陸軍の砲台が建設された際に御祭神だった弟橘姫の御分霊が走水神社に東郷平八郎元帥達によって合祀されているので、その際に吾妻島の御分霊も同様に走水神社に合祀されているのかも知れません。
まぁ~天皇家の祖先神かも知れない歴史偉人の祀られた神社を破壊して置いてシレっと元の神社の名前に地名をして本来の箱崎の地名を消し去ってしまった訳ですね。
陸軍の山縣有朋は海軍の東郷元帥達とは真反対で何故か倭建神話に関わる古社を方々で軍用地に変えて破壊して廻ったり、この時代には多くの延喜式内社で卑弥呼に辿りつきそうな倭建や臺予に関わる場所や雄略天皇に関わる場所も何故か不審火で火事に遭ったり古文書が紛失したりしています。
まぁ今回は鉄道史跡を説明する捕捉の地名由来の説明なので神話はコレ位にして置きましょう。
最期に横須賀の中心街とも言える横須賀中央駅~汐入駅~JR横須賀駅周辺の地形の変遷です。
先ず現代と明治時代初期ではこれだけ地形が変化してるのは先に見て頂きましたが、この地図右側の現在の横須賀市街中心地域の変遷も軍事機密の地図が有りました。
これを見ると箱崎辺りは入江の多い半島でとても風光明媚な地形であり豊かな漁場であったであろう事も解りますね~。
当然ながら昔は安浦や平成町の埋立地も無かったし、三春、田戸、堀之内は“公郷”の一部だった事も解りますね。公郷と言う位なので古代は三浦郡郡衙(ぐんが:郡役所)の直轄地だったのでしょう。
その証拠に現在は内陸に地名が取り残された公郷町ですが、公郷町に有る曹源寺付近は郡衙だったと考古学的には考えられています。
東光山 曹源寺今では外観的には普通の寺院ですが、昔は仏塔も建ち並ぶ大寺院だったと考えられており元々曹源寺のに祀られていた木造の十二神将立像が今は国立博物館に寄託されていたりします。
郡衙が有った“公郷”が昔は衣笠、三春、田戸、堀之内に及んでいた事は迅速測図を見ると解ります。
□で囲った場所に“公郷郷”と書いて有るのが読めるでしょうか?
元々、郡庁舎の所在する“郷”として“公郷”と呼ばれていたのに、制度として“郷”を定めた際に地名として残っていた公郷の郷で公郷郷と無駄に字を重ねて地名にしてしまった様ですが、これを見ると現在の横須賀市の中心街は古代から大切だったことが江戸時代の地形が残った明治時代の迅速測図か読み解けたりするわけですね。
昔から重要な地域だったので軍港として整備されるのは必然だったのかも知れませんね。
今のヴェルニー公園辺りは江戸時代に作られた横須賀製鉄所だったのですが、そこに物資を運ぶのに鉄道が活躍した様で、JR横須賀駅裏には国土地理院のデジタル地図で年代別写真を見ると1970年代にも立派な貨物列車の留置線が有った様です。
上の写真が1974年、下が2019年令和元年です。
地形は余り変わっていませんが留置線が消滅したのと今のヴェルニー公園前のスターバックスもコースカも未だ無く倉庫街だったのが解りますね~。
さて皆さん、今回は農研サン、国土地理院サンに許可貰ってブログに写真や軍事機密指定だった地図を使って良い事も確認させて貰ったり、JR貨物サン、横須賀市の学芸員サン、神奈川県の学芸員サン達の協力も有って情報集めて古い地図も見つかって写真と地図で地形の変遷を見てみましたが、どうでしたか?
地形って面白くないですか?
きっと皆さんの地元も古い地図を探して見ると地図上に今は存在しない神社や御寺が存在している事に気が付いたり、昔は池や川が有った場所も見つかったりして面白いかも知れませんよ~?
ちょっと古地図を見て街を散策するのも楽しいので、是非皆さんもチャレンジしてみて下さい!
入門編には農研サンの運営してるWeb版の迅速測図が良いと思います。
面白いので是非⤴これを見てみて下さい。
不動産買う時に地震起きたら液状化する可能性の有る埋立地や水田跡、谷を盛土した人工地形の土地を特定して災害リスク回避にも利用出来るかも知れません。
では皆さん、寒く成って来たので風邪ひかないで下さいね~!
続きの記事⤵
ただ、ここが「スイッチバックする為に作られた」と言うのはデマだと今回見つけて来た旧軍の測量図で判明しているので、ここはあくまでグルっと吾妻島方面へ行って1周回る為に築かれたトンネルな訳です。
恐らく戦時中に吾妻島の対岸の線路が空爆で被害を受けた時期か縮小された時期に曙機械の前に地図に表記されていない切替ポイントが作られて1周する様に線路を復旧しなくても済む様に効率的にスイッチバックして西側の引込線に行く様に成ったのかな?と言うのが小生の推論です。
そもそも戦後完全に引込線が復旧しても1周するよりスイッチバックする方が効率良いですしね。
既に引込線十字交差から比与宇トンネルに続いていた部分の線路は撤去されてしまっていました。
勿体無い。この殺風景な場所が将来、横浜の汽車道みたいにオシャレな雰囲気の町並みや横浜の海岸通りみたいにオシャレな商業街に出来たか知れないのに。
観光資源としても現存部分を活用して欲しいですね~。
トンネルと反対方面にはまだ部分部分残っていますが寸断されています。
ここを石畳か花崗岩とか石英が沢山混じった化粧石ぽいコンクリートの歩道にしたら美しいでしょうね~。
その少し先に橋が有るのですが、写真の手前側、橋の横に何やら正方形の鉄板が2枚有る川に少し突き出した部分が有りますよね?
実はここに昔、鉄道用の橋が架かっていました。
今ではちょっと想像がつかないですけど、横浜の汽車道の橋梁と似た様な物だったのかも知れません。
コンナ⤴感じの小さな鉄橋が有ったのかな~?
当時の写真がちょっと見つからなかったので、良く解りませんが。
まぁ七釜トンネルの手前にある鉄橋を見ると・・・
・・・コンナ⤴感じの橋だった可能性の方が高いのかな?
まぁ、そんなこんなで現地を歩いた結果、軍事機密の地図にも記載されていない線路も有りましたし、全ての線路を記載した小生の復元図も時系列は無視してる有った物を全て描き込んでいる訳です。
これ⤴ね。
でも今回、余り知られていない近代の地図を見つけた事で発見も有りました。
1つ目は現在の住所の田浦駅側の長浦の住所は、地名の割り振りを誤った結果定着してしまっている事。
2つ目は海軍の横須賀飛行場の造成前の地形と、造成後の地形が現在と違う事を確認出来た事。
3つ目はJR横須賀駅の横のマンションが昔は電車の留置線が有った事。
以上の事が確認出来ました。
なのでちょっと、そちらも一緒に見てみましょう~♪
先ずは今では余り知る人のいない、日産の追浜工場が元々横須賀飛行場だった事が判る地形の変遷を比較してみましょう。
上の地図を比較すると野島公園の地形が迅速測図と2枚目の明治時代の地図では半島状に成っているのに、3枚目と4枚目では半島が掘り切られてしまい完全に島に成っている事が判りますね。
実はこれ、3枚目で横須賀空港の地形が既に野島の南側に造成されていて野島に艦上戦闘機の格納庫の掩体壕が掘り抜かれており掩体壕と飛行場との間にある海を土橋で埋めてしまったんですね、すると野島の漁業関係者が海に出られないので北側の半島の尾根に水路を開削した結果、野島は本当に島の地形に成ったんですね。
4枚目の現代の画像を拡大して見ると、その土橋が戦後に撤去されている事が判るかと思います。
1枚目の迅速測図は江戸時代と余り変わらない地形なので海岸線がまだまだ自然のままの場所が多いのが解りますね~。
4枚目の現代の地図は過去の地図と比較して埋立地が多く仮に津波等が発生したら如何(いか)に災害に弱い場所かが判別出来たりもします。
歴史はね~、こうやって昔の地形や地面の性質を知る事が出来るので防災に凄く使えるんですよ。
次に長浦と田浦の住所についてです。
実は明治初期に陸軍によって測量された迅速測図を見て海軍のせいで今の長浦の住所が旧田浦村に誤って定着してしまった事も解りました。
横須賀線(当時の鉄道省建設路線)が作られる前の横須賀市中心地の地形と現代の地形も比較してみましょう~♪
コレ⤴は現代のGoogleEarthの衛星画像です。
中央に島が有りますよね?現在では吾妻島と言うこの島は実は元々島では有りませんでした。
そんで、もう一つ見て貰うのが迅速測図、明治十三年(1880年)~明治十九年(1886年)に測量された地図です。
あれあれ~、吾妻島が島じゃないですね~?
そう、この通り吾妻島は小さな半島つまり岬(みさき)でした。そして吾妻島の地名は吾妻社と言う神社が存在した事に由来します。
画像を拡大して見て頂くと“吾妻社跡”と小生が表示した横に社名が記載して有るのが見えますね?
実は吾妻社の存在は横須賀市域が古代神話の聖地だった事に由来します。一般的に吾妻社には弟橘姫(オトタチバナヒメ)が御祭神として祀(まつ)られます。鉄オタではない以前からの小生のブログの読者の方は良く御存知かと思いますが横須賀市の南端には走水と言う土地が有り、走水神社が存在しています。
国道16号線は走水神社の前で唐突に終わるのですが、そこから海を越えて房総半島に又突然国道16号線が出現します。この道、実は倭建(やまとたける)神話の道で倭建軍勢が渡海した行軍ルートなんです。
この東京湾入口の海峡は浦賀水道と呼ばれ国内でも比較的潮が速く岩礁も多い難度の高い航路です。
倭建がここを軍勢を率いて往来したのは西暦109年と走水神社では伝承していますが、それは古代の暦が1年=6ヶ月と言う考古学的な知識が無く考古学が未熟だった明治政府の御役人が皇紀を制定する時に誤って逆算したから誤差が生まれています。
漢学を学んだ仁徳天皇と莵道稚郎子の御兄弟の次代の履中天皇の世代から導入された中国陰暦の1年=12ヵ月換算のまま逆算してしまっているのを仁徳天皇以前の歴代天皇の寿命を1歳=6ヶ月で再計算すると西暦280年前後、卑弥呼の時代に倭建が横須賀に来ている事に成ります。
上は冬季午前中の浦賀水道の潮流です。
当時の人は電気も無いし松明(たいまつ)に使う油も貴重品だった事から早朝に活動し始めるので、当時の後悔技術は未熟な訳で最初の渡航は失敗し北の方に流されてしまった様です。
走水神社でも「潮に流されてしまった」と伝承しています。そして一行は倭建の后(きさき)の弟橘姫が浦賀水道に入水自殺して人柱に成る神事を行った所、潮流が変わり房総半島に渡航出来たと神話が伝わっています。
神話通り弟橘姫が入水自殺する儀式を午前中に行い正午過ぎから活動すると、冬の走水神社の前の湾から難航路の浦賀水道を超えて房総半島に辿り着ける潮流が変わります。
潮流が時計と逆回りに成っていますよね?
この神話は恐らく事実で倭建は卑弥呼の甥っ子に当たる人物で恐らく卑弥呼は景行天皇の姉の倭姫に当たると時代的にも天皇家の系図的にも小生は考えているのですが、この倭建の后の弟橘姫を御祭神として祀っているのが関東に多く存在する“吾妻社”なんですね。
この吾妻社の存在した岬は“箱崎”と呼ばれていた事が迅速測図の上の方に記載されていますね?
なので本来、ここは吾妻島ではなく箱崎島とか箱島とか呼ばないといけないのですが地名を軍が吾妻島に改竄してしまいます。
実は明治政府が吾妻社をブっ潰して軍用地とした後で、本来は吾妻島じゃなく箱島とでも命名するべきだった箱崎の旧地形を真ん中に挟んで左の田浦村の湾と右の長浦村の湾をブチ抜く“新井掘割水路”が開削されました。
その際に田浦の“浦”と長浦の“浦”を一つの港として軍部が通称を長浦港に統合した事で、後から郵政省の前身の逓信省が住所を作る際に後から移住して来た歴史知識の全く無い担当者が長浦港と田浦港が別の港で有る事を知らず軍の通称として用いていた長浦港の名から地境を誤解したまま田浦港に長浦港の住所を割り振ってしまって、田浦港を地図上から消し去ってしまった様です。
倭建と弟橘姫が滞在した御所ヵ崎に有った神社が同様に山縣有朋によって破壊され陸軍の砲台が建設された際に御祭神だった弟橘姫の御分霊が走水神社に東郷平八郎元帥達によって合祀されているので、その際に吾妻島の御分霊も同様に走水神社に合祀されているのかも知れません。
まぁ~天皇家の祖先神かも知れない歴史偉人の祀られた神社を破壊して置いてシレっと元の神社の名前に地名をして本来の箱崎の地名を消し去ってしまった訳ですね。
陸軍の山縣有朋は海軍の東郷元帥達とは真反対で何故か倭建神話に関わる古社を方々で軍用地に変えて破壊して廻ったり、この時代には多くの延喜式内社で卑弥呼に辿りつきそうな倭建や臺予に関わる場所や雄略天皇に関わる場所も何故か不審火で火事に遭ったり古文書が紛失したりしています。
まぁ今回は鉄道史跡を説明する捕捉の地名由来の説明なので神話はコレ位にして置きましょう。
最期に横須賀の中心街とも言える横須賀中央駅~汐入駅~JR横須賀駅周辺の地形の変遷です。
先ず現代と明治時代初期ではこれだけ地形が変化してるのは先に見て頂きましたが、この地図右側の現在の横須賀市街中心地域の変遷も軍事機密の地図が有りました。
これを見ると箱崎辺りは入江の多い半島でとても風光明媚な地形であり豊かな漁場であったであろう事も解りますね~。
当然ながら昔は安浦や平成町の埋立地も無かったし、三春、田戸、堀之内は“公郷”の一部だった事も解りますね。公郷と言う位なので古代は三浦郡郡衙(ぐんが:郡役所)の直轄地だったのでしょう。
その証拠に現在は内陸に地名が取り残された公郷町ですが、公郷町に有る曹源寺付近は郡衙だったと考古学的には考えられています。
東光山 曹源寺
郡衙が有った“公郷”が昔は衣笠、三春、田戸、堀之内に及んでいた事は迅速測図を見ると解ります。
□で囲った場所に“公郷郷”と書いて有るのが読めるでしょうか?
元々、郡庁舎の所在する“郷”として“公郷”と呼ばれていたのに、制度として“郷”を定めた際に地名として残っていた公郷の郷で公郷郷と無駄に字を重ねて地名にしてしまった様ですが、これを見ると現在の横須賀市の中心街は古代から大切だったことが江戸時代の地形が残った明治時代の迅速測図か読み解けたりするわけですね。
昔から重要な地域だったので軍港として整備されるのは必然だったのかも知れませんね。
今のヴェルニー公園辺りは江戸時代に作られた横須賀製鉄所だったのですが、そこに物資を運ぶのに鉄道が活躍した様で、JR横須賀駅裏には国土地理院のデジタル地図で年代別写真を見ると1970年代にも立派な貨物列車の留置線が有った様です。
上の写真が1974年、下が2019年令和元年です。
地形は余り変わっていませんが留置線が消滅したのと今のヴェルニー公園前のスターバックスもコースカも未だ無く倉庫街だったのが解りますね~。
さて皆さん、今回は農研サン、国土地理院サンに許可貰ってブログに写真や軍事機密指定だった地図を使って良い事も確認させて貰ったり、JR貨物サン、横須賀市の学芸員サン、神奈川県の学芸員サン達の協力も有って情報集めて古い地図も見つかって写真と地図で地形の変遷を見てみましたが、どうでしたか?
地形って面白くないですか?
きっと皆さんの地元も古い地図を探して見ると地図上に今は存在しない神社や御寺が存在している事に気が付いたり、昔は池や川が有った場所も見つかったりして面白いかも知れませんよ~?
ちょっと古地図を見て街を散策するのも楽しいので、是非皆さんもチャレンジしてみて下さい!
入門編には農研サンの運営してるWeb版の迅速測図が良いと思います。
面白いので是非⤴これを見てみて下さい。
不動産買う時に地震起きたら液状化する可能性の有る埋立地や水田跡、谷を盛土した人工地形の土地を特定して災害リスク回避にも利用出来るかも知れません。
では皆さん、寒く成って来たので風邪ひかないで下さいね~!
続きの記事⤵