歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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カテゴリ:城址・要塞・史跡・伝統文化 > 近代要塞・橋・灯台・港・鉄道・空港


茅ヶ崎市に旧相模川橋脚遺跡と言う場所が有ります。
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旧相模川橋脚(FRP模造展示)
大正十二(1923)年の関東大震災で水田に橋杭が出現した遺跡。
そのまま本物が展示されていると思っている人が多いみたいですが大間違いです。
これを本物と勘違いしてネットで情報書いてる人って、何を見てるんですかね?
「じゃあ、これは何なんだよ!」
・・・って思う人いますよね?
現地訪問した人の中でちゃんと観察したり看板読んだりする人はイライラせずに「だよね~」と思うと思いますが。
CIMG1858
これ、ちゃんと見れば直ぐに誰でも解ります。
歴史オタクの彼氏に付き合わされて嫌々見に来た彼女サンとかなら小生同様に瞬殺で・・・
「アレ?これ木じゃないよね?」
・・・と気が付くと思いますよ。
小生の感想はこうでした・・・
「あ~、これ上行寺東遺跡と同じアレだ、偽物だ。」
・・・ってね。

他人の書いたネットの情報や大正昭和の学者のレポートを脳内にコピペし「遺跡だ!」と先入観を持って見に来る人の中には看板読むまで気が付かない人も多いかと思います。
読まない人も多いはず、だから「遺跡そのもの」として情報を誤って拡散するんでしょうね。
そう、これ木じゃないんです、ちゃんと5秒くらい観察すればきっと皆さんも看板読まなくても解ります(笑)。
KIMG4023
めっちゃテカテカしてるジャン!年輪無いジャン!みたいな?
プラスティックなんですよ。
実はコレ、発見当時の実物は何故かコールタールでベッチョベチョに塗ったくられて放置されてしまって腐食が進んでしまったのでプールの中に沈められ再度空気から遮断され保存されています。
そして実物の姿をプラスティックでコピーして、現代人にも実物に近い形で展示する。

これ大正時代の人のミスをカバーする現代の茅ヶ崎市教育委員会の学芸員サン達のファインプレイだと、個人的には思います。

「ブラボー!平成令和の茅ヶ崎市の学芸員サン

昔の人や上司の適当な仕事と間違いや権威に囚(とら)われず、事実を見て誤りは誤りとして現代で是正しリカバリーする、これ大切。

いくら積み上げた物があろうが、その積み上げた土台が間違ってるなら破却して再構築するか旧状に復し保存し、更に未来に優れた保存展示手段が確立されるまで繋ぐのも心ある考古学の志士の仕事。
改善はトヨタ生産方式の基本。
ちなみに小生の宗旨はトヨタ生産方式教です(笑)。

下らない誰かのメンツの為に皆が実害を被るのは御門違い。
どうやら茅ヶ崎市役所の学芸員サンや市長サンには東日本最大の蹈鞴製鉄遺跡の上郷深田遺跡の破壊容認や続日本100名城の小机城を未だに史跡文化財指定してしない、どこぞの横浜市役所とは違って強い良心が有る様です。

これ⤴️以前、鎌倉の製鉄遺跡の上郷深田遺跡の事を書いた記事。

さてさて、ここからが本題です。

茅ヶ崎市の学芸員サン達の大正時代の学者のミスに対しリカバリーのファインプレイで済ませましたが、小生は大正時代の文献コピペ学者様の間違いを指摘したいと思います。
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現在“旧相模川橋脚”と言われている遺跡は当時の歴史学者沼田頼輔サンによって、鎌倉時代の建久九(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証されたとされています。
本当でしょうか?
多分、沼田サンは文献考古学者で地形をちゃんと見てないんじゃないだろうか?
少し範囲を広げて鎌倉や平塚等の周辺の伝承も拾うと当時の地形が見えるんですけどね~。
近代の自己顕示強い学者学者した妙な権威の有る人は何故か皆やらかしてるんですよね・・・

これ⤴️とかね。

そもそも論で大正時代の沼田頼輔サンが吾妻鑑から引っ張って来た文章は小出川の流路が相模川の本流なんて一文字も書いてないので平安末期~鎌倉時代の相模川の流路は特定出来ていない訳です。
そして小生に言わせれば・・・

小出川の橋その物のではない事も証明されていない。

・・・小出川が相模川の支流では無く今と同じく海に注ぐ河口でしか合流していなかった可能性の方が高いんです。
これどうすんの?
旧相模川橋脚とか名前付けちゃって。
クールポコ
「なぁ~にィ~やっちまったなぁ~!」
と、クールポコに言われても仕方ないくらい。

小生は現地を訪問してみた感想として、ここは地形的に現代に再考証が必要な場所だと思います、多分ここは相模川では無い。
先ず重要な事実を突きつけると、大正時代に沼田等が発掘調査した後に“コールタールを塗ったくった”影響で炭素年代測定法で橋脚その物を測定すると橋脚の加工された年代が弥生時代~古墳時代初期と驚愕の年代に成ってしまうwww
そしてコールタールの影響を考慮して推測しても“古くてザックリ1000位前~その後の時代の間”とスンゴイ広い振り幅でピンポイントで1200年代とは言えない。これは茅ヶ崎市教育委員会に炭素年代測定の結果を確認済みの事実だ。
・・・次に同時代の鎌倉市街地や古墳時代の平塚の地形を例に挙げて話をしてみたいと思う・・・
鎌倉城塞網 国立歴史民俗博物館を参考 久良岐のよし
上の画像は現在の鎌倉市の中心部に当時の海岸線と鎌倉防衛網の“鎌倉城”を再現した画像です。
国立歴史民俗博物館の研究報告第118集の絵を元にGoogleEarthで加工しました。
由比ヶ浜の砂浜は現在の“下馬”の交差点辺り、つまり鶴岡八幡宮の大鳥居の辺りに入り込んでました。
これより前の時代、現在の材木座と呼ばれる地域は入江を形成していたので文字通り貯木場として利用されていたのかも知れないですね。
そして昔から陸地だった部分の滑川の流路も川幅も現在と変化は有りませんでした。
鎌倉を例にとると、地盤のしっかりした場所から流れ下る部分では河川の流路は大きく変化する事は無さそうな事が解ります。昭和の河川工事を除いては。
GoogleMapに表示すると当時の名残が解ります。
材木座 久良岐のよし
※マーカーが入ってる場所は小生が訪問済みの場所なだけなので気にしないで下さい。

この赤線の枠内が材木座と呼ばれる地域。
その赤枠中の現在東海道線の横須賀線が走る場所より南側~当時の海岸線の内側に入江が広がってい現在よりも1~1.5m高い位置に海が有りました。付近は鎌倉時代以前に近い平安時代、つまり材木座入江が広がってた当時に開かれたと伝わる神社仏閣が有ります。
由比若宮こと元鶴岡八幡宮は鶴岡八幡宮が現在の小林丘に移転する以前に源頼義公によって開かれた八幡宮です。
甘縄神明宮は鎌倉市内最古の神社で和同年間に行基菩薩によって開かれ、源頼義公が再興開基して子宝祈願をして源義家公を授かったと伝承しています。
鎌倉の光明寺は寛元元年(1243年)に前身寺院が現在地に移転し開かれた場所ですが、実は光明寺よりも先に現在は塔頭寺院と成っている蓮乗院が真言宗寺院として存在し弘法大師の霊場でした。この光明寺の裏山は鎌倉防衛網を担う要害化されており戦国時代まで住吉城として機能していましたが、その山腹にある桟道(さんどう)状の切通しで古代の東海道とされており、弘法大師の教団は古道の整備と布教を行っていたので此方も奈良時代には存在した事に成ります。
鎌倉市街 久良岐のよし
つまり、これらの寺社の立地と同じ標高の場所は平安時代末期の材木座入江が存在した時代には間違いなく陸地だったと言う事に成ります。更に、それらの鎌倉市内の場所と同じ標高の茅ヶ崎市の地形は旧相模川橋脚とされる物が建築された時代には既に陸地だったと解り、その標高が相模川の河岸段丘面と同等の高さであれば相模川の本流が当時の段丘面を超える事は無いと言う証明にも成る訳です。
これらを確かめる方法が有ります。
迅速測図(明治時代の帝国陸軍測量図)
※歴史的農業環境閲覧システムhttps://habs.dc.affrc.go.jp/
GoogleEarth衛星画像
※小生はGoogleEarthPRO版を使用
※WEB版https://earth.google.com/web/
国土地理院色別標高図
※地理院地図電子国土web版https://maps.gsi.go.jp/では小生と一緒に材木座入江の名残りと当時の陸地と同じ地形を標高から特定して見みましょう♪

材木座入江特定 久良岐のよし
※上の画像をクリックして拡大して見て下さい♪
一番下の色別標高図で蓮乗院、元鶴岡八幡宮、甘縄神明社と同じ色の場所が鎌倉幕府が開かれる以前から間違いなく陸地だった場所です。
これを見ると解りやすいですね~♪
一番上の迅速測図で“材木座村”と表記された地区の南側に岩礁と砂丘が有り、横須賀線の線路辺りは陸地だった事が解ります、そして材木座地区の真ん中辺りに水色の地盤の窪地(くぼち)が有るのが一目瞭然ですねぇ~。
ツマリそう言う事。そこが平安時代の入江だった場所です。
材木座地区の海抜 久良岐のよしその周りの薄い黄緑色が湾を形成した陸地、水色の部分が古(いにし)えの材木座入江と干潟。
これで鎌倉時代、稲毛重成が“相模川”に頼朝公が暗殺されたかも知れない橋を立てた時代の海岸線が解りましたよね?
この材木座の入江が有った時代は現在よりも1~1.5m高い位置に海が有りました。
入江が消滅した時期ですが、大正時代の関東大震災では三浦半島は西側が50cm隆起して東側は逆に沈下しました。つまり1回大地震が起きると神奈川県の旧相模国域は50cm前後隆起する様です。
関東大震災よりも前の応長元年(1311年)に現在の金沢区長浜~並木地区に在った長浜千軒と言う大海運拠点が津波と記録される天変地異で海没しました。
応長の大津波で長浜千軒はずっと海の底に沈んだままだったので、津波ではない事が解ります。
そして津波なら反射津波が房総半島も襲撃する筈なのに千葉県側には全く記録や伝承が残っていません。
どうやら横浜市の屏風浦と言われた地形が大断層で海に面した地盤が沈下し海に沈んだだけの様です。
この時代は花園上皇と後醍醐天皇の生きた時代で当時の京都では大地震が起きた記録が有り8ヵ月間余震が続きました。
これにより延慶四年四月(1311年5月)に縁起が悪いので元号が応長に改元されました。
つまり応長大津波とされる横浜市金沢区沿岸を直撃した天変地異は先に京都で起きた大地震に連動して関東の地盤も動き三浦半島東岸の付け根の横浜市沿岸部が沈下した様です。
当然ながらこの際にも神奈川県域の相模湾側は50cm前後隆起したんでしょう。

以前、富岡八幡宮の解説⇗を書いた時に少し触れた事が有るので興味がある人は下のリンクから記事を読んでみて下さい。
さて、関東大震災と応長大津波でザックリ合計1m隆起したとして未だ完全に材木座が隆起するには届きませんね?他に地震が起きたかも見てみましょう。

仁治鎌倉地震・・・M7クラス
仁治二年四月三日(1241年5月22日)に発生し由比ヶ浜の大鳥居が流され大鳥居の場所に在った八幡宮の施設も消失。
永仁鎌倉地震・・・M8クラス
正応六年四月十三日(1293年5月27日)に大地震が発生し火災により建長寺が倒壊し火災発生、死者2万3千人。参考までに当時の鎌倉市中心部の人口は3万人と言えば被害規模が解りやすい。この地震は相模トラフが動いたと考えられているので“鎌倉時代の関東大震災”でしょう。
つまり、材木座に入江が有った時代から令和まで応長~仁治~永仁~大正と都合4回の大地震が発生し相模湾を直撃しており1.5m以上の隆起は余裕で有った可能性が高い訳ですね~。
では次に茅ヶ崎市~平塚市の方を見てみましょう~♪
橋脚遺跡衛星写真 久良岐のよし
今はこんな感じ。旧相模川の橋脚とされる遺跡は小出川沿いに有りますね?
この小出川を大正時代の沼田頼輔博士が相模川と言ってるのはオカシイと言った訳です。
衛星写真を見てみましょう。
橋脚向き 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
旧相模川橋脚と呼ばれる遺跡は、橋脚が1列3本10m間隔×4set有ります。この事から橋の長さが40m前後、川幅が30m前後と解ります。そう、小生と同じ事を皆さんも思うでしょう?
「あれ?相模川、こんな細い訳ねぇ~じゃん(笑)?」
「丁度小出川と同じ川幅くらいにピッタリの橋じゃん(笑)。」
・・・と大正時代の沼田学者様の説に小生の中では既に草が生え始めますwww。
では川幅を見てみましょう・・・
小出川川幅 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
うん、27.5mだね、だいたい30m(笑)。
最初の方でも触れましたが、鎌倉時代の川幅と流路、似たような地形の鎌倉市内でも余り変わって無かったですよね?
そしてこの橋脚を見ると解りますが何故か小出川に並行して有りますよね?
つまりこの橋を元に考えると小出川の旧流路がこの位置で右に切れてれば10中8~9は小出川旧流路に架橋された橋と言う事が見えてきます。
未だ皆さんに昔のこの一帯の地形を御見せしてませんでしたので、一緒に昔の地形を見てみましょう。
さて迅速測図の出番です。
小出川旧流路比較 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
※クリックして拡大して見て下さい。
現在、小出川の横の橋脚遺跡はニトリ茅ヶ崎店の真横に所在しています。
小生の予測はドンピシャ!
きっと皆さんも同じ事を考えたのではないでしょうか?

明治時代の流路も橋脚の遺跡の辺りで右折している事が解ります。
更に明治時代の流路が現在のニトリの前の道に成っているようですね。
現在直進している小出川ですが、これも藤沢土木事務所に確認済みです。
昭和30年代~40年代に河川改修工事によって直進にされたそうです。
そして昔の微妙な河川の位置のズレですが、橋脚の出現当時、現地は水田でした。河川敷の湿地が工作地帯に開墾されていた様です。つまり旧流路の誤差範囲内。
「おんや~?もうこれ、小出川の昔の橋でしょう(笑)?」
・・・と普通は思うでしょ?
次に相模川本流を見てみましょう!
平塚市相模川河口(迅速測図)久良岐のよし
橋脚遺跡衛星写真 久良岐のよし
小出川と目久尻川は河川改修部分以外の上流で大きな変化はないのに相模川本流はだいぶ現在と異なり真っ直ぐに成っていますね?
実はこれ・・・橋梁の遺跡が出現した際に関東大震災で河口部の砂丘が隆起して堰止湖が出来てしまったり水害の危険性が高まった為に大正時代から直進流路化の工事が行われたそうです。
これも茅ヶ崎市教育委員会から確認をとっています。
さて、先に長々と鎌倉市での鎌倉時代の陸地の標高の基準を解説しましたよね?
今度は平塚市域と茅ヶ崎市域で見てみましょう!
とその前に、先に鎌倉時代に陸地だった場所の色別標高図の色を思い出してみましょう。
材木座入江特定 久良岐のよし
鎌倉市⤴️
黄緑色
が陸地、水色が海。
茅ヶ崎市・平塚市⤵️
平塚市相模川河口(迅速測図)久良岐のよし橋脚遺跡衛星写真 久良岐のよし
橋脚遺跡付近の色別標高図 久良岐のよし
御覧の通り、明治時代までは河口部分は複雑は汽水湖を形成していた湖沼地帯だった事が解ります。
そして、その地域を除いて相模川の東側は河岸段丘が有り、現在“旧相模川橋脚”とされる遺跡の部分に相模川本流が鎌倉時代に流れていた事が有り得ないと言う事実が地形からも確認できましたね?
極め付きは、とどめの一撃に古墳時代に開かれた平塚八幡宮を表示して置きました。
そうすると平安時代以前の古墳時代に既に陸地だった地域が特定出来る訳です。
平塚八幡宮を基準にすると、現在の相模川東岸の北緯が橋脚遺跡と同緯度の地域は、平安時代末期には明らかに海岸段丘が存在した事が解りますね。そして相模川河口部分の蛇行してた旧流路や汽水湖だった部分も標高が低い地形として形が見えますね。
現在の柳島スポーツ公園総合競技場東側の畑地域と西側のゴルフ場、浜見平団地が汽水湖や干潟に成っていた湾部だった様ですね。ちょっと次の関東大震災で液状化が心配な地域でもあります。
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更に言えば液状化して橋脚が現れるのであれば、それは東日本大震災でも解ったように液状化により水が抜けた地盤沈下の影響なので一帯に他にも橋脚が有れば更に多くの橋脚が露出するので、この橋脚の本数が当時のままなのだと言う事も当然ながら周囲くまなく発掘調査されてますし推測出来ます。
つまり小出川の川幅は全く変わっていない訳です。平塚市河口付近海抜分析 久良岐のよし
ちなみに小出川と相模川の水面や昔の流路や入江だった地域の標高は1~3mです。
明治時代の陸地部分の海抜も概ね低くて5m~8mは有ります。
つまり現在は1.5m水位が下がってると考えて当時は4~4.5mの位置に水面が有ったとしてもやはり陸地だった事が解りますね。
平塚市河口付近海抜分析2 久良岐のよし
こちらは東西の地形の断面ですが、北緯が橋脚遺跡と同緯度の相模川は海抜1mとほぼ海面の海抜0mと変わらない高さで川底は深いままの様です。
つまり現在“旧相模川橋脚”とされる遺跡辺りは小出川の3mの水面に対して、相模川の1mの水面の位置では明らかに小出川が相模川が乗り越える事の無い河岸段丘の上を流れている事も解りますね。

やはり客観的に古墳時代まで遡(さかのぼ)って地形を見ても、現在、旧相模川橋脚とされる遺跡は・・・
相模川河口周辺地形 久良岐のよし
①小出川露出した橋脚の幅が川幅な訳だから正に現在の小出川の幅と整合している。
②ニトリと橋脚遺跡の間の道路が明治時代の流路で正に橋脚の列の向きとも仮定流路の向きもピッタリ整合し鎌倉時代の小出川の流路も明治時代の流路と同方向と考えるのが自然。
③鎌倉の材木座旧入江地区より上流の明治時代の流路を例にしても②を踏まえて相模川河口旧入江部より上流の小出川は余り変化をしていないと考えるのが自然。ただし河口部については地盤が砂丘だった為に浜見平団地の場所に有った湖では変化が多かったと推測出来る
④明時代に既に陸地だった地域の相模川の河岸段丘は古墳時代に開かれた平塚八幡宮や平安時代8世紀に開かれた三嶋神社と同程度の標高が有るので、昔の河口部の柳島~南湖にかけて存在した汽水湖部分を除いて鎌倉時代の相模川が橋脚遺跡の北緯以北で小出川に流れ込んでいたとは考え難い。
【小生の見解】
どうやら大正時代の沼田頼輔サンが旧相模川橋脚と断定した物は鎌倉時代も小出川にかかるだけの橋だった可能性の方が遥かに高そうと言うか、それ以外に無さそうです。
平塚市相模川河口(迅速測図)久良岐のよし
昔の幕末~昭和初期の近代の歴史学者さんって、よくこの手の事をしたみたいです。
なんせ判断材料が少なかったですからね、日本の発掘を主体とした考古学や地質学なんて明治十年(1877年)にモースさんが蒸気機関車に乗って新橋駅~初代横浜駅(桜木町駅)に行く時に車窓から大森貝塚を発見してから漸(ようや)く始まった位に歴史が浅くて未だ150年位しか情報の蓄積が無いですからね。だから未だに嘘か真か解らない文献考古学が中心で、学芸員サン達は古文書に書かれている事が嘘か本当か見抜く時代を超えた知恵比べを昔の人達としている訳です。
大和市の深見神社の社伝も神話時代の神様の話と古墳時代の人物を混同していたり全く海に成り得ない海抜標高80mの位置を海と断定したり・・・
横浜市戸塚区の徳翁寺は宅間上杉家の上杉乗国(乗忠)公の子、宅間上杉乗方(のりまさ)公の開基なのにも関わらず、この宅間上杉家の敵対勢力の山内上杉家を継いだ上杉謙信(長尾景虎)公の曾伯父(そうはくふ:曾祖父の兄弟)として意味不明な解説をしています。

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実際には上杉謙信は彼は実家が長尾家なので宅間上杉家と血縁は無いんですよ。
養子に入った山内上杉家に由来を求めても上杉謙信公の養父となった上杉憲政公の6代も前に上杉憲忠公が居ますが、この人物が別家の宅間上杉乗忠公と発音的には同性同名なので宣伝の為か間違えたのかは知りませんが混同して事が現代の歴史オタクには鼻の先で笑う位に間違った歴史認識である事が一瞬で見破れたりする訳です。
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宅間上杉乗国(乗忠)公は憲忠とは同一人物では無いですからね。
宅間上杉家の直接の祖先は京都の観修寺家ですし、宅間上杉家初代の上杉重兼公の母上と足利尊氏公と山名政氏公の母上が3姉妹で、その母達の実家が上杉家だったと言う程度の血縁です。
更に別流の犬懸上杉家から上杉憲政公の曾祖父の代前後に山内上杉家と血縁に成った人物はいますが、全然宅間上杉家じゃないですからね。特に江戸時代初期~中期と明治時代と昭和初期に書かれた古文書と論文には意図したデマと悪意の無い間違いがとにかく多い。
今回の“旧相模川橋脚”と決めつけられてしまった事は吾妻鏡を持ち出して文章の一部しか読まず地形を見なかった当時の沼田頼輔サンの検証不足の仕事の粗さが問題なだけ。

こんな事を小生も例えば寛政重修諸家譜の歴史人物の名前すら間違ってたり、江戸時代の役人が御寺に寺領を保証する朱印を発行する際に寺院名を間違って発行しちゃったり、昔の古文書の草書体を昭和初期の出版社が読めずに間違って違う漢字に誤植してしまったり、素人でも資料読んでて良く見つけるので、今回も御世話に成った色んな学芸員サン達から御教示頂いたり意見交換していると、本当に頭が下がるばかりです。
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特に茅ヶ崎市の現在の遺跡のレプリカ使って実物は水中に密閉する保存方法は、昔の人がコールタール塗ったくって雨ざらしにして腐らせた物を未来に繋ぐ改善を施し現代人にも展示を見られる様にしたファインプレイでしたね。
ただ茅ヶ崎市と言うよりは・・・
国の文化庁さん旧相模川橋脚と言われている場所は相模川じゃないですよね、何で調べないんで国指定史跡天然記念物にしたんでしょう?
別にここが鎌倉時代も小出川だったとしても、鎌倉時代の大規模橋梁が有った遺跡な事には変わりは無いのですから間違いを再検証し名称も変えるべきではないでしょうか?

さて。

今回、この地域を調べたり散策していて茅ヶ崎市教育委員会さんも一つ間違いが有る事に小生気づきました。
皆さん、まず江戸時代の風景画を見て下さい。
Nango-HidariFuji~2
この絵は東海道五十三次の一つ“南湖の松原左不二(富士)”と言う絵で、江戸時代の画家、歌川広重サンの作品です。
横浜の金沢八景とかの絵を描いたのも歌川広重サンで、我々神奈川県民には馴染み深い絵師サンです。
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鶴嶺八幡宮
(鎌倉の鶴岡八幡宮の前身)

凄く素敵な神社で、鶴岡八幡宮と同じく源頼朝公の御先祖様の源頼義公によって京都の石清水八幡宮から御分霊を勧進して開かれた神社です。頼朝公も崇敬したので御手植えの銀杏が有ったりします。
この鶴嶺八幡宮を鎌倉に遷宮したのが何と由比若宮つまり鶴岡八幡宮の元宮の元鶴岡八幡宮なんです。
なので鶴嶺八幡宮の別称は本社宮でした。鶴岡八幡宮の元の元と言う意味ですね。
そんな神社ですが、戦国時代に小田原北条家が豊臣秀吉公に敗北して改易され関西に移住すると大きな後ろ盾が無くなり荒廃してしまったそうです。
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幕末に皇女和宮様が江戸城に嫁ぐ頃に領主だった山岡家と鶴嶺八幡宮の別当寺だった常光院の住職によって、皇女が東海道を通る際に再整備した立派な参道が700m超の松並木に成っているんですね。
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この松並木の入り口に大鳥居が有ります。
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確かに、ここからは松と富士山が両方見えました。
この写真を撮影した位置に“南湖の松原左不二”の紹介の看板がありました。
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この場所を“南湖の松原左不二”の“松原”を鶴嶺八幡宮の764mの参道の松並木と想定している様で、案内看板が鶴嶺八幡宮の大鳥居の交差点の鳥井戸橋に設置されていました。
ただね、この説明は位置関係がオカシイんです。
もう一度絵を見て下さい。
Nango-HidariFuji~2
根本的に松原が左に曲がってますよね?
説明は鳥井戸橋の位置としてますが仮にこれが鶴嶺八幡宮の松並木だとしたら、大鳥居側から松並木に向かって先には鶴嶺八幡宮、そして富士山も一直線に無いとオカシイ事に成ります。
そして下町屋が無いとオカシイ事に成りますよね?では迅速測図で位置関係を見てみましょう。
南湖の松原左不二 久良岐のよし
赤線が鳥井戸橋から富士山が見える方角です。
残念ながら富士山を絵の方角で見ると鶴嶺八幡宮の松原は絵の右手側に伸びて行かないといけないのが解ります。
Nango-HidariFuji~2
ね~これ場所が違うでしょう?
でも、これ、小生場所特定しましたよ!
大正時代の沼田サンの間違い検証の参考に迅速測図を見まくってたら場所が解っちゃいました。
そもそも南湖の"松原"左不二(富士)なのに何で参道の“松並木”を比定しちゃったんでしょ?
松原と松並木は大違いですよ。
それに当時の地形は当時の地形に近い地図を見ないと位置関係も解らないでしょ?
では場所です。
南湖の松原左不二特定 久良岐のよし
赤線が富士山の見える方向です。そして始点の‐‐‐‐‐‐で表示されている道の視点で現在の住宅を無視して地形だけの風景を見るとこうなります。
南湖の松原左不二特定② 久良岐のよし
この道路は1880~1886年に測量された迅速測図にも乗っている道なので歌川広重の生きた1797年~1858年の間の景色の道でもある訳ですね。では絵と見比べてみましょう♪
Nango-HidariFuji~2
もう、ここでしょ(笑)♪
歌川広重さん、又みっけ!
迅速測図でも松原の右手側に3軒並ぶ家が書かれてますしね~。
南湖の松原左不二特定 久良岐のよし
この絵の構図の地点はGoogleMapの下の地点です。

現代では松原は伐採され住宅が建ち並び、ここに立っても富士山は見えないし松も無いでしょう。
そもそも皇女和宮が関東に嫁いで来た際には駿府の相模川の氾濫を東海道を通りませんでしたし、年代も文久元年(1861年)の事なので、それ以前に鶴嶺八幡宮の参道を山岡家と常光院別当の朝恵上人が再整備するよりも早い1858年に亡くなってる歌川広重さんが当時の様子を荒れてると表現されている八幡宮をわざわざ見に行く必要もなければ鳥井戸橋の辺りは畑と川しかない殺風景な場所で絵の構図に成らないんですよね。
南湖の松原左不二特定 久良岐のよし
ところが南湖地区の南には大きな砂丘が有り、更には南湖地区と桺島(柳島)村の間の小出川河口は複雑な形の入江の干潟が広がる汽水湖に成っている上に“松原が広がっている”訳ですよ。
小生も4歳から絵画と彫刻の塾に通ってたのですが、今も綺麗な景色が好きなので自分が当時の茅ヶ崎市に行けるなら間違いなく南湖地区を旅して恐らく“南湖(なご)”の由来に成ってる複雑な汽水湖の景色や砂丘と松原を富士山の写真を撮影に行くでしょうね。
地形、当時の道路、GoogleEarthでの検証画像、全て丸っとパキっとひっくるめてココでしょ、歌川広重さんの描いた南湖の松原左不二。
小生が仮称:南湖(なご:なんこ)とした手の平型の湖は干拓され現代では浜見平団地に成っています。
旧相模川橋脚(絶対違う)の解説で少し話しましたよね?
・・・次の関東大震災が来たら液状化が心配だって指摘した団地です。
さて、広重サンの構図、現代でも綺麗なんですよ、神奈川県が地形消滅する開発許可を出して無い場所ね、この南湖松原も消えたけど。
ちなみに三浦の秋谷海岸の立石公園も歌川広重さん絵に描いてます。
まぁ、遠い富士山を近くに拡大して書いちゃったり漫画みたいな技法を凄く使うんですけどね。
相州三浦秋谷
秋谷の里広重構図 久良岐のよし
これが歌川広重さんの構図、綺麗でしょ?
こっち⇘は小生が選んだ構図。
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小生が当時の人間なら歌川広重さんに、いっぱい教えてあげたい構図が有る(笑)。
でも、もしタイムスリップ出来るなら中学時代に戻れるなら教師と親の言う事聞かずに中卒で鎌倉の正宗工芸に入門して包丁作りたかったかなぁ~。
でも、そうすると高校やアルバイトや留学で出会った親友や大切な人達にも出会ってなかったから、これからの人生をどうするかの方がやっぱり大切かな?

願わくば歌川広重さんや葛飾北斎さんが描いた景色や、彼等偉大な絵師が見つけられなかった綺麗な構図の景色が、これからもずっと残って欲しいと願います。

綺麗にまとめようと思ったけどやっぱり最後に小生らしく追撃の一言。

旧相模川橋脚は相模川の橋脚じゃなくて小出川の橋脚だよ(笑)。
ただし、こうも考えています。
小生は個人的に当時は暴れ川で川幅も広い相模川を跨ぐ様な大きな橋は建設する技術や財力が稲毛重成一人で揃えれたとは思えません。
現在も地名由来には諸説有りますが平塚市側に“馬入”の地名が有ります。明治時代の迅速測図を見ても、そして現代でもその一帯の相模川には中洲が多く有り比較的浅い馬で渡れる程の深さの場所が有ったのかも知れません。
だとしたら・・・
現在の旧相模川橋脚は相模川の橋脚では無くて小出川の橋脚だったとは思いますが、源頼朝公が落馬したのは小出川の橋の上だったかも知れないかな?とは少し思います。

special thanks!
鎌倉市藤沢市茅ヶ崎市平塚市の学芸員さんや土木事務所や発掘調査会社の元職員の皆さんのローカルな情報提供と御紹介頂いた資料と郷土史話も検証で役に立ちました。
ありがとうございました~♪

では皆さん、又、次の歴史解説記事か休日雑記か綺麗な景色の紹介か御料理のレシピ記事で御会いしましょう~♪
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観音崎灯台、海水浴場の記事⤵
コレ⤴で少し触れましたが未だ単独の記事に書いていなかったので今回、観音崎灯台単体で解説する事にします。
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観音崎灯台
小生は最近まで知らなかったのですが、日本全国で中に入れる灯台は16ヶ所しか現存していないそうです。
その中の一つが観音崎灯台で、観音崎灯台は日本最初の近代灯台で、慶応二年(1866年)にアメリカ・イギリス・フランス・オランダと日本の間で締結された江戸条約に基づいて建設されました。
この観音崎灯台には多々良浜側からも観音崎海水浴場側からも行く事が出来ますが、風景が綺麗なのは観音崎海水浴場側の遊歩道でしょう。
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この海岸沿いに観音崎灯台に至る階段まで遊歩道が整備されています。
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この神奈川の景勝50選の碑文の奥に見える海岸沿いを歩けるんですよ。
少し歩き進めてみましょうか♪
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この突き出した構造物は戦時中の海堡(かいほ)と呼ばれる防衛施設の一部の跡です。
形状からすると小田原の御幸浜と同じ様な砲台の跡でしょうかね~。
もう少し海沿いを歩くと下の写真の様な場所に出ます。
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別日に撮影した写真ですが、観音崎灯台に向かう途中には砂浜だけでなくて、こんな岩礁も有ります。小さな御子さんのいる家族連れでの訪問なら網と虫かご持ってきて水辺を観察したりすれば良い思い出作りも出来るでしょう。
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夏場海水浴シーズンなら綺麗な野莞草(のかんぞう)の花を見る事も出来ます。
更に奥の方へ歩いて行くと道は石畳の遊歩道に変わります。
観音崎灯台は東京湾の入口に有るので房総半島まで直線距離で8kmしかない場所なので、倭建と弟橘姫の夫婦神が東京湾を船で横断した神話の舞台だったりします。
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観音崎灯台の有る丘の上に繋がる階段を登る前に公衆トイレと自動販売機も有るので写真の女の子達の様に東京湾を見てユックリ休憩できます。
そんな場所なので当然、房総半島も三浦半島も見渡す事が出来てとても風景の美しい場所なんですよ。
実はこの辺りには明治時代までとっても立派な神社と御寺が一体に成った神仏習合の寺院が存在しており、景勝地として大変に栄えていました。
観音寺絵図
現代では絵図にしか残りませんが、この御寺は“観音寺”と言う御寺で観音菩薩像が御本尊だったので、これが観音崎の地名由来に成りました。
この観音寺は明治時代に成ると観音崎要塞の建設で隣の亀崎に移転させられ、更に現代に至り火災で完全に消失してしまいました。
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しかし名残も有り、この海蝕洞窟の中に地元の方によって奉納された観音菩薩像と説明の看板が立てれれており昔の歴史を垣間見る事が出来ます。
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元々は奈良時代の行基大僧正が関わった場所だった様なので、倭武命が走水に来た弥生時代末期~古墳時代の聖地ですが、奈良時代の人にも大切にされた聖地であり海上交通の要所だった様です。
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この洞窟の前を通過して直ぐに公衆トイレが有り、写真のベンチがさっき、女の子達が座っていた場所ですね。その更に少し奥の右手側に灯台に上る階段が有ります。
この遊歩道を真っ直ぐ行くとトンネルが有って多々良浜側に歩いて行けるのですが、2020年8月現在は2019年の台風の土砂崩れの影響で未だに通行止めのままです。
ちなみに復興の責任者は上地横須賀市長では無く、黒岩神奈川県知事です。
鎌倉市のハイキングコース遊歩道や釈迦堂切通しも未だ復興していないので知事には頑張って頂かないと困りますね。
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この海岸の道が灯台から見下ろすとコンナ感じです。
高所恐怖症の小生には玉ヒュンの絶景です(笑)が、散歩したら気持ち良さそうな道なのは伝わるかと思います。
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その遊歩道の階段を丘の上に登ってくると灯台が有ります。
入場料金300円と安いのですが観音崎灯台の構造や歴史を開設した小さな博物館を併設しており、更に灯台の上にも登れますし灯台の下にも展示物が有る他、展望台に成っているので綺麗な景色を見渡す事も出来ます。
では、先ずは灯台の周囲を見学して見ましょう~。
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灯台下の展望台はコンナ感じで房総半島の鋸山が見えたり・・・KIMG0101
・・・フェリーが東京湾を行き交う様子が一望出来ます。
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そして昔使われていた灯台の設備の一部が常設展示されており、触れて見る最近の歴史博物館と同じコンセプトの展示がされています。
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上地市長は文化史跡の保護や再利用に熱心な方だそうで、江戸時代の浦賀奉行所も復元して子供達の教材や史跡として再整備する計画を構想してらっしゃるそうです。
早くから外国と関わっていた横須賀市の市長らしく、東京から来て横浜市長に成った人より郷土愛が有る上に子供達の教育に熱心ですね♪
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灯台の受付の有る建物には展示館も併設されているので、灯台の事を学習出来ます。
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こんな感じで昭和初期まで手動で動かしていた灯台のレンズの構造を触って理解する展示物や・・・
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昔の設備とかも展示されてます。
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この模型が初代の建物の復元模型だそうです。関東大震災で倒壊して現在の建物に建て替えられたそうです。
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映像解説等も有るので、中高大学生位が来ると近代史の学習の一助に成り理解を深める事が出来ますね。
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初代の灯台を設計したヴェルニーさん。汐入のヴェルニー公園の元に成った江戸幕府横須賀製鉄所=現在の海上自衛隊横須賀基地のドッグや城ケ島灯台なんかを設計した人物で、今の日本が存続しているのはこの方と小栗上野介サンがいたからと、対馬海戦でロシア帝国のバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎元帥が証言しています。

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ヴェルニーさん無くして近代日本ナシ!
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ネトウヨは日本人が単独で近代化した様な妄想を信じ込んでる比率が高いんですが、実際はイギリスとフランスの協力無くして近代日本は成立して無い事が、この観音崎灯台や横須賀市の歴史史跡を巡(めぐ)ると良く理解出来ます。
観音崎灯台は日本最初の近代灯台で、慶応二年(1866年)にアメリカ・イギリス・フランス・オランダと日本の間で締結された江戸条約に基づいて建設されました。

この記事⤴で少し触れましたが三浦海岸駅前にも三浦海防陣屋が置かれ、三浦各所に東京湾と相模湾を守る陣地が設けられた砲台が建設され、三浦海防陣屋が各所の海防陣地をコントロールしていました。
幕末当時、そこには横浜を開港した井伊直弼公や明治政府を設立する事に成る桂小五郎(木戸孝允)公や伊藤博文公も勤務したそうです。
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さて、そろそろ灯台の中を見てみましょう。
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灯台の内部は当然ですが螺旋階段に成っています。
その階段の壁にも掲示物が有り、観音崎灯台を含めた今でも内部に入る事が出来る16ヶ所の灯台の写真や各灯台の比較等の解説がされています。
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小さな子連れならパパやママが読んであげないと子供には読めない高さかな?
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これが観音崎灯台のレンズ。

・・・ZZガンダム世代には解るだろうけど、連邦軍のバイザータイプの顔に見えて仕方ないのコレ。
前に横浜シンボルタワーの記事でも書いたのだけど港の入口は船舶は右側通行に成っていて、港に向かって右手が赤い灯台、左手が白い灯台って法律で決まってるんだけど・・・
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これが小生にはシャアザクとガンダムを意識している様にしか見えない(笑)。

その時の記事はコレ⤴ね。
何で海関係ってどこもかしこもガンダム的なんだろうか(笑)。
横浜港シンボルタワーは明日08月31日で夏季営業終了で来年まで横浜港のコンテナヤードの夜景は見れなくなりますので、写真撮りたい人は明日時間注意して行ってみて下さい。
灯台の上まで登ると外に出て写真を撮影出来ます。
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御船がいっぱい♪
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この写真の右手は富津岬、左に見える島みたいのが富津岬の展望台。
そこから目線を左に移動すると・・・
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東京湾第一海堡。

海堡の奥に見える船のマストみたいのが、東京湾アクアライン海底トンネルの通気口。シン・ゴジラが最初に登場した場所。
ゴジラシリーズは何故か神奈川県三浦半島~東京の間が破壊される事が多い(笑)。
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こっちは第二海堡。要塞としては関東大震災で崩壊して放棄され現在は史跡として再整備中だけど、たまにツアー組まれて船で観光に行けるけど通常は上陸禁止地域。
海堡とは何ぞや?と余り知らない人は過去の記事を参考にしてみて下さい。

この海堡も実は観音崎灯台と同じ明治時代に作られた施設で、観音崎に点在する煉瓦の史跡も同時期に建設された観音崎砲台の跡だったりする。
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こんな場所全部が砲台の跡で貴重な近代西洋文化の遺跡なんだね。
観音崎灯台も当然ながら日本最初の近代西洋建築の灯台なので歴史史跡な訳です。
観音崎灯台から見える景色はとにかく綺麗!
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したの岬の先端に少し見えるコンクリート製の建物の名残も観音崎要塞の海堡の一部。
反対側の景色がさっき歩いて来た道。
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高所恐怖症だから本当に、この写真撮るの怖かった・・・。
観音崎灯台付近、とっても景色が綺麗でしょう?
観音崎海水浴場から走水神社まで歩く途中の走水観音崎ボードウォークも景色がとても綺麗です。
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もう海水浴シーズンは終わりに入りますが、まだまだ暑さも続きそうです。
まだ暫くの間は潮風に当たりながら散歩するのが気持ち良い季節ですね。

どうです?皆さん、観音崎良い場所でしょ?
近くには走水神社や“味美食堂”や“かねよ食堂”と言った観光名所や美味しいレストランも有ります。
是非、夏の終わりの思い出に御散歩に来て見ては如何でしょうか?

では、又、次の記事で御会いしましょう~!



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以前投稿した記事ですが、スマホで撮影した写真に個人的に満足できていなかったので写真を撮影しなおし記事を加筆しました(笑)。

いつもの綺麗な自然の海岸とは違う磯子界隈の綺麗な夜景写真載せるだけの中身の無い記事ですが・・・
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・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・間違えた!
これじゃあ無ぇ~やwww!
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ハマっ子ガンダム※仮称(笑)
これは新型コロナのせいで公開延期に成ってしまったガンダムだった(笑)。

林市長が横浜港の機能をブッ潰してIR事業推進を名目にカジノ作ろうとしてるイワク付きの土地のイメージを消す為かガンダム置いて“土地洗浄”してるみたいな(笑)場所でした~www。
まだ埠頭の旧ゲート閉鎖されて内側に入れず遠目に見る事しか出来ませんが、ここより奇麗な場所が有りますよ。
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横浜ベイサイドマリーナ
ここでも無ぇ~(笑)。
これはベイサイドマリーナで、紹介したい場所とは又違った(笑)!
最近、夜に減量の為にベイサイドマリーナ迄歩いてます。
だいたい距離にして10km位。
それを毎日往復なんてしてらんないから、JR新杉田駅から帰り面倒なら電車乗っちゃえば地元直ぐ帰れるしね~(笑)。
夏に成って円海山~大平山~鎌倉駅まで歩くと山の中にスズメバチやアブやブヨが多過ぎて危険度高いので、とてもとても歩いてらんないんですよね。
なので夜、ベイサイドマリーナまで歩くと丁度良い運動に成るんですが、4日は満月なので徒歩では無く車で移動して満月の写真を海辺に撮影に行きました。
こっちが満月さん♪⤵
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お月様メチャ奇麗ね~!
イケメン!
「何でイケメン?」と思った人は欧米の文化を基準に生活してらっしゃる方かセーラームーン見て育った世代の女性でしょうか?
ギリシャ神話では月の神セレーネとアルテミスは女神様ですが、日本神話では御月様は太陽神の天照大神の弟神の月読神とされています。
月読は読んで字の如(ごと)く、日本は米国に開国させられる迄の暦(こよみ)はアジア諸国と同じ陰暦だったので昔は月を基準に生活していたんですね。
欧米諸国は太陽暦で、現在の日本は明治時代以降に太陽暦を導入し、現在は中国の春節と同じ春の節分を行う春分が本来の“迎春”だった訳ですね~。

この日は邪魔な建物の無い海辺で満月さんを見るだけで無く、以前この記事の元記事を書いた時に余り良い写真を掲載出来なかった新磯子埠頭の景色を改めて撮影しに行って来ました。
CIMG9823バス停 東京ガス前
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JR磯子駅から徒歩だと少し遠い距離、東京ガス前バス停、
そこから見たJXTG根岸製油所のプラントと磯子火力発電所の海の夜景。
奇麗でしょ?
好きでたまに夜景を見に夜中にドライブに来ます。
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ここは夜釣りしてる人も多くて、夜でも柵を超えず歩道から夜景を見る分には治安的にも安全なので前回の記事で酷評した某所海岸(笑)とは違い、安心してデートスポットとしても皆さんに紹介できます。
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海に浮かぶ京浜工業地帯の夜景が、更に海に映(うつ)り込み、レンズを通してみると海に反射したプラントの光が更に上空に向かってオーロラみたいに美しい。
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すっごく良いでしょう~?
この夜景の綺麗な場所は、東日本大震災発生当時に東北の人々を凍死の危機から救ったJR貨物と日本エネオス根岸製油所(当時)の人達の勤務場所なんだな。つまり現代の無名の英雄達の働く場所。
コレ⤴️は明治時代の伊藤博文公や、現代のエネオス根岸製油所やJR貨物で働く民間人の無名英雄達が東日本大震災の時に多くの人の命と生活を守った時の功績を紹介した記事。
新磯子周辺 東京ガス前バス停位置 久良岐のよし
位置的にはこんな感じ、地図中央が東京ガス前バス停。
横浜市民にも知っている人は少ないけれど、実は、この先には良い海釣り公園が有ったり、東京ガスのISOGOエネルギープラザってのが有って、日曜日以外に施設が開かれていて火力発電の仕組みやなんかの模型の常設展示が見学出来るので小学生か中学生位の子供のいる家のパパさんママさんが家族で来ると良い場所だったりします。
以前、記事にして紹介してます⤴なので御興味有れば御覧下さい♪
ISOGOエネルギープラザは予約すると火力発電所の施設も見学させてもらえるので、まだ幼稚園~小中学生子供のいる御家庭のパパさんママさんには子供の人生に影響を与えるかもしれない良い夏休みの思い出を作ってあげられるかも知れませんね。
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しかし綺麗だ。
昭和後期生まれには伝わると思うけれど“魔晄炉”みたいじゃない(笑)?
FF7ミッドガルの夜景 スクエア様より借り物
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結構、似てるでしょ?
小生のブログの読者は、どうやら小生より先輩の諸兄諸姉の方が学生世代よりも多くいらっしゃる様です。
もしFF7を知らない世代の方はゲームのオープニングを見て見て下さい。
このゲームは20余年前に発売されたゲームの令和に成ってリメークされ販売されたモノですが、最初の元のゲームが販売された時、関西の人は堺市がロケハンの場所だと思ってる人が多かったそうです。
普通に考えてスクエアエニックスは本社東京な上に堺市より京浜湾岸工業地帯は更に大規模ですし、夜景が奇麗だと評判に成りクルージングが流行したのも京浜工業地帯が先なので東京~川崎~横浜の方が参考にされているでしょうね~。
でも堺市の沿岸部の夜景も奇麗なのを若い頃に京都市左京区に住んでいた時期の有る小生も何回か堺市に行った事は有るので存じ上げてますよ。
今回、堺市説を否定するのは、あくまでスクエアの地理的な問題からの考察です。
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でも本当に奇麗でしょ?
車の中からこの景色を見て過ごすデートの〆は如何でしょう?
最近紹介した夏しか夜間営業しない横浜港シンボルタワーから見る港の夜景も、駐車場入場19時20分で終了、入館も19時30分で20時閉館と早いですが、結構奇麗なので横浜中華街で夕食食べる前に立ち寄ったり昼に芝生でゴロゴロして過ごすのもオススメですよ!
まぁ・・・
小生は今回こんなに綺麗な夜景を紹介しても、実際は一人で深夜に来て撮影し泣く泣く独りの時を過ごしているのですが(笑)。いいんです。
皆さんに情報を活用して貰い役に立てれば♪
・・・小生も奥さん出来たら大切にして、ちゃんとデートに誘って一緒に来るから。
良いんですっ(川平慈英風)!

ん?
その前に失業して骨折して骨折治ったばっかの状況を打開せねばいけないのだった(笑)!

まぁ、最後を劒崎の崖から落ちて骨を折った話で今回は自分は落ちずに話の落ちを作ってみました(笑)。

今回の記事は小生から皆さんへ夏の思い出になるかな~?と思う場所で、三浦半島の奇麗な海や自然とは又一味違った、横浜の“海の“景色”の奇麗な隠しスポット”の紹介でした~♪

では!又、次のブログ記事で!
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今回は連休中や週末に毎日お金をかけてられない時に御金がかからず、かつ今では穴場に成ってしまった灯台の公園を紹介したいと思います♪
実は以前も紹介している場所ですが、夏季営業で夜景が見られるように成ったので再度、紹介記事を書きます。

2020年は新型肺炎対策で三密回避が出来て、カップルデートや子連れの家族団らんに最適の場所ですよ~!

・・・さて、では紹介文に移ります・・・

皆さんは横浜港シンボルタワーと言う場所を御存知ですか?
実は横浜のシンボルはマリンタワーではなく、横浜港シンボルタワーなんです。
しかも!入館無料(笑)~♪
公園だけでなく灯台の展望室まで登れます。
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横浜港シンボルタワー
【交通】
桜木町駅前バス停~30分~徒歩10分
※車は駐車場入口が2個並んでるから要注意してね!
※間違って海釣り公園駐車場に入っても問題ないけど、1km位歩く事に成るよ~(笑)。
海釣り公園駐車場
横浜シンボルタワー駐車場←コッチ!
2つ並んだパーキング入口の奥の方。
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 昭和の近未来建築で動画撮影に♪◎
 本来の港ヨコハマの景色が奇麗◎
 夏は横浜港物流拠点の夜景観賞◎
 広ぉ~い芝生でゴロゴロ出来る◎
 恋人や家族とピクニックに最適◎
 現代では穴場で人が少ないよ◎
 駐車場1日最大500円◎
☞注意するpoint(•ω•)       
 夏期開園時間09:30~20:00
 展望台は最終入場19:30
 バスの最終便が早い!
 夜景見るなら車で来園必須
 運行時間確認必須⤵
https://www.google.co.jp/maps/place/
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この横浜港シンボルタワー・・・
みなと未来21地区の商業の町ではなく、本来の横浜の姿である“海運業の横浜港”と“ベイブリッジの夜景”を見渡せる景色の良い場所なんです。
先に夜景の写真を2枚御覧下さい。
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どうです?
みなと未来21地区より“本来の横浜”らしい~景色でしょ?
余り仕事で港湾に行く用事の無い人は来る機会が無い場所だと思います。それだけに一般の方には珍しい景色が見られて特別な時間を過ごせる場所でもあります。
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連休とは言え毎日お金を使って家族でレクリエーションしてらんないですよね?三蜜回避出来る場所、そして穴場として紹介したいと思います。
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ここは芝生の広場が気持ちよく、しかも平成生まれのルーキー社会人や学生世代には余り知られていない“昭和時代(笑)”の公園なんです。
天気の良い日にレジャーシートと好きなお弁当持って来て、家族やカップルなら凧(カイト)やサッカーボールや野球ボールとミット持って来ても楽しいし、一人でも本とiPod持って来てゴロゴロしながら本を読んでも気持ちが良いんですよ~!
駐車場の空きスペースでラジコンカー走らせても楽しいかも!
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もう建物が昭和のウルトラマンの基地でしょう?
このシンボルタワーの展望台は無料で入れるので夜景や横浜港のコンテナヤードを見渡す事が出来て夜景の穴場スポットでもありますが、車が無いと来るのに難易度が高いので、余り車を持つ事に関心が無い平成世代には知られなくなっちゃったんですよね~。
小生の様な最後の昭和世代の“ハマっ子”でも知らない人も多いくらいです。
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なかなかコンナ風にガントリークレーンと積み上がれたコンテナの風景を見る機会って無いでしょ?
ただ御弁当を持参しないと公園内には食堂やコンビニはありません。
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波止場食堂
車なら、ここに来る途中に波止場食堂と言う海の男達が食事する場所も近くに有ります。
連休中や週末の営業状況は分かりかねますので確認してみて下さい。
いわゆる食堂ですが、子供連れならカツカレーとか凄く喜びそうですよね~。
小生は数年前まで通関士の友達がこの近くに住んでいたので、一緒に三浦半島に遊びに行く時とかに良く迎えに来て、ここで待ち合わせしていました。
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シンボルタワーですが、駐車場も結構あるので車で来た方が良いでしょう。
若い子で車が無い子は無理して、ここに来るだけの為にレンタカーを借りる必要は無いと思う。
たまには御父さんや御母さんと家族で散歩しにピクニックに連れってって!
・・・と御願したら御両親も喜ぶんじゃないかな~?
勿論、友達同士で自転車で来るのは有りだよね。小生も中学生の頃に丹沢のキャンプ場や小田原城を見に普通の自転車で60kmとか走って友達とヘロヘロに成って内股と御尻が真っ赤に腫れた思い出有るし。冒険も楽しいから。
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で、夏季営業で20時閉場、シンボルタワーに登れるのは19:30までだから気をつけてね!

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ちゃんと休憩所も有って食堂の機能は備わってないけど、ジュースや17アイスの自動販売機も有るし、記念品の物販も有るよ~。
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中は普通の会社の会議室みたいなテーブルと椅子(笑)だけど、もう何十年も経(た)ってる建物だけどちゃんと奇麗な状態で清潔感有るしエアコン効いてる(笑)。
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だから、暑ければママやパパはここに退避出来ますよ~。
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でシンボルタワーに登るとこんな風に景色が少しづつ広く見え始めます・・・
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陽が落ち始めると、景色が更に奇麗に成ってきます。
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07月末~08月01日前後の日没時間は19時±10分。
これに留意して風景を見に行くと良いよ!
ベイブリッジに灯(ひ)が点(とも)り白い姿が強調されて見えます。
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コンテナヤードも奇麗だよ。
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ガントリークレーン越しには皆良く行く、みなと未来21地区。
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クイーンズスクエアとランドマークタワーが見える。
そしてベイブリッジから視点を右下の横浜港の入口に向けて見ると~
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写真の右側に海を塞(ふさ)ぐように波止場が有りますよね~?
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実はここに、とっても“色白で青い目をした美人サン”が佇(たたず)んでいます。
この横浜シンボルタワーが有るのは“D突堤”と言う場所なのですが、その先にある“第一新堤”の灯台さんです。
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奇麗でしょう~?
是非、夜景を見に行った人は、この美人サンも見て来てあげて下さい。
でもちょっと一人で寂しそう。
実はこの青い目の美人サンの対岸に赤い灯台さんもいます。
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シャア専用灯台みたいな(笑)。
・・・まさか“連邦の白い灯台”と“赤い彗星の灯台”とか裏コンセプト有るのか⁉とガンダム好きな人は思いそうですが(笑)、これは港に入港する際に船の位置が判(わか)る様に入口に向かって右手が赤、左手が白と成る様に“航路標識法”で規定されているから、必ず大きな港湾の入口には紅白の灯台がsetで設置されているそうです。
決してコンナ⤴赤いシャアザクと白いガンダムを意識して横浜港に紅白の灯台作った訳じゃなく、どこの港湾都市も同じ様に紅白の灯台が有ります。
都市計画した人がガンダム好きだったら楽しいのに(笑)。
そう言えば・・・
・・・本当に横浜港の山下埠頭に以前お台場海浜公園に在(あ)った18mの実物大ガンダムが設置されるそうですよ!
まぁ紅白の灯台は、あくまで外洋で入港待ちしている船舶が港の入口の為に法律で規定されている訳ですが・・・
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・・・横浜港沖には、こんな風に多くの巨大な貨物船が入港待ちしています。
世界中の主要港で同様の状況が起きるので、船舶が港の運河に入る際に混乱しない様に入口の表裏が確認できる様に成ってるみたいですね。
ここに来ると森鴎外サンが作詞した横浜市歌の意味が現代人にも解かるかも知れないですねぇ。
昔は・・・
“山下埠頭=江戸幕府神奈川運上所”
“みなと未来21地区=新港埠頭=赤煉瓦倉庫”
・・・の直ぐ沖合まで船が入って来て、その写真みたいに大きな蒸気船が沢山順番待ちしていた風景が見れたんでしょうね~。
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横浜港シンボルタワーに登るなら、塔の中に入る前に紅白の灯台も是非探して見て下さい♪
横浜港の入口のマークですから必ず、そこをライトアップされている遊覧船も通過しますから、白い灯台サンと観光船とのコラボの写真が撮れたりします。
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そして完全に陽が落ちると横浜ベイブリッジとD突堤新堤の灯台サンの白亜の色が、宇宙の濃紺に染まった空とのコントラストで強調され美しさが更に際立ちます。
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まぁ~正直、ここだけで丸1日時間を潰すのは結構ムツカシイ(笑)です。
でも昼下がりに御弁当持って来てレジャーシート敷(し)いて、広々とした芝生の広場で御昼御飯を食べてからボール遊びしたり小生みたいに教材の本とCD持って来たり小説読んで過ごして夕景見て帰るのも気持ちが良いし、御金を本当に使わないで済むし(笑)。
大桟橋とか赤煉瓦倉庫とか何回も行ったなら、横浜中華街のディナーとか山手地区の洋館観光と合わせてコッチに来ると良い休日や連休のレクリエーションにも繋げれますよね。
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シンボルタワーも格好良いしね!
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展望台にあがらなくても、ここのベンチで彼女や奥さんとユックリ海を暫く眺めても良い時間に成りますよ~。
小生は今一人で寂しく御散歩しに来るだけですが(笑)。
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小生は21日に行った時は帰りに17アイスのブルーベリーチーズケーキを食べて帰りました。
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この自販機のアイスね~、昭和世代には観光地で良く売ってた思い出が有ると思う。
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普段、駄菓子屋で買って食べてたガリガリ君とかホームランバーとかと違って、ちょっとした御馳走みたいな感じだったのかな~?
まぁ~こんな感じで今の季節、夏季営業中だけ夜景を見られるので紹介してみました。
もちろん、日中の芝生遊びも楽しいので、是非、皆さんいらしてみて下さい♪
ハマっ子ローカルな穴場情報でした~♪

では!又、次の記事で御会いしましょう~。


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※2020年新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。

諸磯磯崎灯台
諸磯神明社
【水質】★★★★
【景色】★★★★★
【電車】★★★
 三崎口駅~バス22分~浜諸磯降車
 +徒歩3分
【 車 】 
 民宿駐車場のみ。
 青少年センター駐車場要確認。 
【休憩】
 海の家無し。公共トイレ有り。
 飲食店無し。
 宿泊施設:近所1軒、1㎞圏内に数軒
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 諸磯崎灯台の景色凄く良いよ~◎
 釣船の仕立て屋いて釣り出来るよ◎
 磯遊びに最適だよ◎
 縁結びで有名な諸磯神明社◎
☞注意するpoint(•ω•)       
 海からトイレ遠いよ。
 海の家は無いよ~。
 磯遊び向きで遊泳は不向き!
 民宿の駐車場しか無いよ~。
 路上駐車スペース無いよ~!
 青少年センター駐車場は要確認。
 ウェットスーツ着ないで!
 キャンプBBQしないで!
 ゴミ箱無いから持ち帰り必須!
 海藻も貝類も採取禁止!

――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
公共のゴミ箱は無い地域なのでゴミは持ち帰り必須!
密漁する不届き者が増えたので地域の人がパトロールするから悪さしたら捕まるぞ!
密猟者がウェットスーツ着るのでシュノーケリングで着用しないで!
モラルの無いキャンパーが増えたので地域の人達はキャンプ禁止の意向!
個人的に神奈川の景勝50選+1で新たに追加して欲しい程に素晴らしい景観。
海上の水蒸気の少ない秋季~春季にかけて富士山と諸磯灯台のコラボが見られる。
水質は良いが海水浴場としての実績は無く砂浜は掃除されていないので磯遊び向き。
近所に民宿が1軒、半径1㎞圏内にも宿泊施設が多数と水族館の油壺マリンパークも有るので、マリンパーク観光と合わせて宿泊観光にはうってつけ。
釣船の仕立て屋も有るのでデートや家族で釣りレジャーも楽しめる。

バスだと三崎口駅から直通便が有るが便数が少ないので事前確認必須。
周辺民宿に宿泊なら駐車場に困らないので車で来れるが基本的に公共駐車場も私設駐車場も無いので車での来訪は民宿の駐車場利用に成る。
諸磯青少年センター駐車場は空いていれば利用出来るが封鎖されている事も有るので事前確認が必要。
だからこその穴場の絶景海岸なので、バスで苦労してでも富士山と灯台を見に行く価値有り!
ここ数年、BBQの機材やゴミを捨て密漁する低モラルキャンパーが増加した為に漁業権を持つ地元の地域民によりキャンプ禁止の意向。地域民とモメルのでキャンプ目的で来ない様に。
又、バス停に近在する天照大神を祀る諸磯神明社は縁結びの御利益で有名。
諸磯神明社は戦国時代の三浦義意公と奥方の真里谷武田家の姫の夫婦の悲恋の伝承の舞台で、明治時代に都新聞に連載され流行した架空歴史小説“桜の御所”に登場する歴史上実在しない小桜姫のモデルに真里谷武田家の姫が成っているので昭和初期位迄は多くの観光客で賑わった。
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穴場海岸の紹介一覧へ⤵️
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※2020年新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。

大浦海水浴場と間口漁港
劒崎と劒崎灯台
 (神奈川の景勝50選の一つ)
※個人的に推薦の避暑地。
【大浦海水浴場】

 大浦海水浴場
 劒崎灯台  
 ※劒崎は岩礁で遊泳不能
【景色】
 大浦海水浴場
 劒崎灯台  
【電車】
 大浦海水浴場
 三浦海岸~バス17分~徒歩13分。
 劒崎灯台  
 
三浦海岸~バス20分~徒歩14分。
【  車  】
 大浦海水浴場
 駐車場有り(夏季有料)。
 劒崎灯台  
 
私設駐車場有り(鈴木商店)。
【休憩】
 大浦海水浴場
 仮設トイレ有り。海の家有り。
 周辺に民宿と船宿多数。
 秋はブランド松輪鯖料理店開業。
 劒崎灯台  
 公共トイレ有り。海の家無し。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 大浦は海水めちゃ奇麗◎
 漁港営業日は13時位に魚買える
 劒崎は神奈川の景勝50選◎
 秋は漁港で松輪鯖を食べれる◎
 民宿が沢山有る◎
 全部歩いて廻れる近さ◎
注意するpoint(•ω•)       
 バス停からちょっと歩くよ。    
 劒崎は泳げない岩場だよ~。
 崖から落ちたら骨折るよ(笑)。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵―― 
例年海の家も出店し三浦海岸駅からそう遠くないのに海水浴客も適度な人数で酷く混まない。
水質も素晴らしい海な上に、神奈川の景勝50選の一つ劒崎も徒歩圏内、しかも民宿や船宿が周辺に多く有り夏季の避暑旅行に最適!農道から見る海の景色も美しいが、小生は落下して骨折したので気を付けられたし(笑)。大浦海水浴場は夏季のみ駐車場が有料に成る。
基本的に家族連れ、もしくはカップルしか来ないので逗子や由比ヶ浜のようにチャラい迷惑な客も少なく、まったりと時間を過ごせる観光地。
大浦~間口漁港~劒崎灯台は全て徒歩圏内なので1日ゆっくり海辺の景色を堪能出来る。
秋限定で間口漁港に鯖(サバ)のブランド魚として有名な“松輪鯖”を提供する料理店の“輪中”がオープンするので、海水浴Off-season限定でも海を眺めて劒崎散歩と美食を満喫できる。
歴史に興味の有る人は近くの農道に劒崎砲台跡が有る他、駐車場近くに夜間砲撃の為の探照灯格納庫も有ったりするので好奇心が高まる散歩コースかも知れない。
間口漁港は営業日の午後13時~14時位に行くと水揚げされる新鮮な魚を観光客にも販売してくれる。
劒崎は海水浴には適さないが釣りも楽しめる上、断崖と灯台の絶景は必見!
大浦海水浴と合わせて宿泊し民宿で海鮮料理を楽しんでも良い思い出になるし、バスでも松輪/劒崎バス停~鮪の水揚げ漁港の三崎漁港にも直通で行けるので日帰りなら夕食を三崎漁港で食べて帰るのも良いかも知れない。
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※大浦海水浴場
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※間口漁港
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※片谷浜から松輪を望む
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※矢の根~劒崎灯台
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※2020年新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。


燈明堂海岸と浦賀燈明堂
千代ヶ崎砲台
 (江戸幕府海防陣所跡)


【景色】
【電車】
 浦賀駅~バス6分+徒歩9分。
 徒歩で36分
【  車  】★★
 駐車可能台数30台のみ。
【休憩】☠️
 今は公共トイレすら無い。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 海が抜群に奇麗だよ~◎

 縁結びの西叶神社東叶神社が近い◎
注意するpoint(•ω•)       
 海の家は無いよ~。
 今は公共トイレすら無い。
 駐車可能台数が少ないよ~。
 三浦東岸で夕陽は見えないよ~。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
海はピカ一奇麗!子連れの親子が浜辺で遊ぶのに最適だが、過去に公設海水浴場としての実績は無い。
東京湾の入口に存在している為に海水が市街地化の影響を受けておらず透明、更に砂岩と粉砕された貝殻で出来た砂浜は真っ白で美しい。ボぉ~っとしてるだけで幸せになる場所。
海岸の名前の由来は江戸幕府によって灯台として建設された浦賀燈明堂に由来する。燈明堂はその後も明治時代初期まで稼働していた。
西側岩場にワカメやヒジキが自生している。
付近は戦国時代からの要所で浦賀港の対岸には戦国時代の浦賀城址が有り、燈明堂海岸には江戸幕府によって要塞化された千代ヶ崎台場が建設され、明治に成ると千代ヶ崎砲台に近代化改修された。立地と縄張り的に戦国時代にも名前の残らない城塞だったのかも知れない。

浦賀港には縁結びで有名な源頼朝公と文覚上人が開いた東叶神社と西叶神社が有り、両方の神社を浦賀港を渡し船で海を渡って御参りすると“縁結び”の御利益が有ると若者に人気。
東叶神社西叶神社と渡船のリンク⤵️

東叶神社の山が浦賀城址で、西側の燈明堂側には江戸幕府の浦賀奉行所が存在した。
燈明堂沖の海獺島(あしかじま)は徳川埋蔵金伝説が有り、沈没船に幕府の蓄財が満載されていたらしい。
海獺島の名前の由来は、海水の奇麗な一帯には明治時代まで海驢(あしか)が生息していた事に由来し一帯の海が自然豊かな漁場だった歴史も垣間見える。KIMG8027
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※燈明堂海岸
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※浦賀燈明堂跡
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千代ヶ崎砲台跡 久良岐のよし
※千代ヵ崎砲台跡

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ヴェルニー公園で丁度、南極観測船の“しらせ”が入港してくる所を見れた。
動画撮影する事が出来た!ラッキー~♪
教えてくれたお弓姉さんに感謝!
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ビックリしたのは大戦中の戦艦大和と同じくらいデカイ空母型護衛艦に縦にも横にも高さでも匹敵して観測船のがデカく見えるのね!
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ふむ、運が良い1日に成りました。
おゆみ姉さんにも感謝!

そうそう、米軍人の知り合いがいる人のツテで本物と米国海軍第8艦隊の帽子入手出来た!
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ミサイル巡洋艦チャンセラーズビル
とかの帽子♥️
コピー商品じゃなくて正真正銘本物。中国に工場写す前の十数年前の物の中古。古着的な(笑)?
夏に成ったらかぶろ~♪

あと夜は東急ハンズに行って革細工の道具と銀細工の材料を買ってきました~♪
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皮の端切れ、皮用の縫い針、鳩目、ボタン、鳩目用の受け、ボタン用の受け、銀。
久しぶりに指輪作りたいのと、御守りが増えすぎたので御守り収納するキーケースみたいのを作る材料ね。
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前に海辺と河原で拾って自分で研磨した石クン達を嵌める指輪かペンダントトップを作る予定。
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あと手芸屋サンでも可愛いボタンと、蜻蛉玉を留めると綺麗そうな紐を見付けたので購入した。
このボタンはピアスやペンダントやブレスレット等の材料として万能に使えそうなデザインだった。
日本製凄いねやっぱ。中国でビーズとか買い付けすると必ずB品みたいに何かしら歪(いびつ)に歪(ゆが)みや欠けみいなの有るけど、日本の手芸屋サンで買うと全て良品でしかも細かい工芸品みたいに綺麗!

ふむ、可愛いブレスレットの材料が増えたぞ!
手が空いた日の楽しみが増えた。

しらせ、まだ暫く横須賀港に停泊するだろからヴェルニー公園に見に行ってみてはいかがでしょー?
デカクてビックリするよ!

では又~♪



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横浜ベイブリッジに一般道が有るのを横浜市民でも知らない人が多い。
下道で帰る時にそう言えば友人も知らなかったのでドライブレコーダーがわりにしてるスマホの画像をユーチューブにアップロードしてみた。
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横浜市栄区長倉に江戸時代には経堂橋と呼ばれ、大正時代の補修以後は昇龍橋と呼ばれた橋が在ります。
この橋は上郷6号緑地沿いの遊歩道にかかっているのですが、旧鎌倉郡の原風景を見る事が出来る重要な場所で、上流の瀬上沢には自然の蛍も生息している貴重な自然公園に成っています。
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素敵な石橋でしょう?もう少し秋深く成った方が綺麗かも知れませんね。
石橋の左側の赤い筋は自然湧水の小さな滝です。
ここ等辺りの地盤は関東ローム層で鉄分が多く含まれているので鉄分のせいで酸化した赤い成分が沈着するんですね。ですから鎌倉は武士の首府だった時代に水質の良い井戸が少なくて、逆に水質の良い井戸には鎌倉十井と呼ばれた場所が出来たりしました。
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現地に行くと、栄区役所の熱心な御担当者がちゃんと調べた説明も有ります。素晴らしい。
この橋は横は風情があるだけでなく市内では最古の現存する石橋で、絶対に破壊させてはいけない文化財なんですね。
実はこの橋は白山社の旧参道で、その傍らには武士達が駆けた旧鎌倉街道の間道の1筋も残っていたりします。
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橋を渡った先に、白山社古址の石段が有ります。
何故、白山社“古址”と言う言い方をしたかと言いますと、もう廃社にされ近隣の庄戸地区に移転してしまったんです。
昔は、地域の殿様や庄屋さん達が神社に収入に成る土地を寄進して、その土地の田圃の年貢が神社運営費に成ったりしたのですが、明治政府の唯一の失政である宗教改革で、神社仏閣の土地は没収され多くの神社仏閣は運営困難に成り荒廃し、廃社や廃寺に成って行きました。
日本文化を大切にしようとした明治政府でしたが、この失敗で寧ろ日本文化と日本人の乖離(かいり)を招いてしまったんですね。そして多くの神社仏閣に止めを刺したのが敗戦後のGHQの統治とGHQ撤退後に行政に食い込んだ反宗教のマルクス主義者や左翼です。GHQは僅かに残った神社の土地の多くを更に奪いました。GHQの撤退後に市に返還されるのですが、この際、多くの市職員や政治家に戦時中の反動で左翼閥が多く成っており、GHQから返還された神社仏閣の土地を元に戻す事は無く、市の財産として売却してしまった場所がほとんどでした。
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この白山社も荒廃してしまったのですが、石段の様子を見るに古い時代からここに在った石材に見えます。
小生の経験だと摩耗の仕方から遅くても安土桃山時代か江戸時代初期ぐらいの石段じゃないでしょうか。
恐らく、鎌倉武士達も往来する際に、この白山社で御参りした事でしょう。
今では何も建物も石碑も、当然書物も無いですが、なんだか神秘的な雰囲気は漂っています。
何で小生が、ここを鎌倉武士達も拝んだと推測しているかと疑問に思う人もいるでしょうか?
ここには、鎌倉武士達が関与した証拠が残っています…
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最初の石段を登って境内に入ると左手には切り抜かれた箱状の穴が有るんですが、これは奈良時代~鎌倉時代末期までの武士の習慣で、矢倉と呼ばれる死者の供養塔を置くスペースだったんですね。
昔の鎌倉武士の御墓は御骨を骨壺に入れた後、地下に埋葬するのではなくて石塔(墓石とは形状が違う)の中の納骨スペースに骨壺を入れる事が多かったんです。
土地の狭い鎌倉に住んだ武士達らしい習慣ですね。
小生は偉人の御廟所の写真を普段は掲載しないのですが、一つ具体例として三浦義澄公の供養塔を皆さんに見て頂きたいと思います。
ちゃんと史跡保護しないと骨壺を海外への転売しようとする盗掘者や外国人犯罪者に破壊されるよと言う戒(いまし)めの意味も込めて…
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これは鎌倉武士の代表格、三浦家の棟梁、三浦義澄公の菩提寺だった薬王寺跡:横須賀市衣笠の写真です。
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御寺は明治政府の宗教政策の失敗で廃寺に成り、御墓は破壊され骨壺が盗まれてしまいました。
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納骨スペースが無残に叩き割られ石塔上部が直接おかれて中身が盗掘されています。
鎌倉武士達の御墓は西日本の文化と違って元来はこのような四角い石柱の中に空洞が彫られ、そこが納骨スペースに成っていて骨壺が納められていたんですね。
そして、供養の石塔が立てられる場所は先程の写真の様な壁面に掘られた矢倉と呼ばれる人工の半洞穴の中でした。
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だから、この矢倉が有る事で、この白山社が武士にとって大切な場所であった事が解るでしょうか?
この昇龍橋の少し下流には権現橋と言う橋が有ります。白山社はつい150年前に明治政府の宗教政策で神社と御寺が強制分離させられるまで多くが白山権現と呼ばれ神仏習合つまり神社と御寺の両方で祀られる神様でした。
そして、ここの昇龍橋も明治時代まで経堂橋と呼ばれた事から、この付近には御寺が在って白山社古址は白山権現を祀る御寺の経堂だった事が用意に推定出来ます。
白山社の矢倉は最初の矢倉を登った左手に在ります。正面を向くと、当たり前ですが神社?経堂?の跡の石段も現存しています。
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本当に残念ながら社殿は維持できずに取り壊されてしまい、今では武士達が歩いたであろう石段しか有りません。それでも、この境内に踏み入ると何だか陽が当たらずとも清々しい空気に満ちています。
さて、白山社古址と昇龍橋の説明からは少し離れて、周辺の遊歩道の風景を見てみましょう。
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白山社古址を正面に昇竜橋から左手を見た先が、遊歩道を瀬上池や瀬上沢に進む順路です。
それと反対方向の朝比奈峠側に歩いて行くと、下の風景が見られます。
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この一帯は小川の両岸が散策路に成っていますが、両岸に昔から道が有りました。
どっちかが崩壊してもどっちかが通れる様にする工夫でしょうかね?
暫く進むと権現橋が有ります。
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橋の先は今は民間に払い下げられてしまった様です。
橋の手前に辛うじて歩ける幅の遊歩道がギリギリ残っているだけ。
ふざけんな横浜市。
ところで、権現橋の奥には広い谷戸の削平地が広がっています。
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もしかしたら、ここに本来の白山社の仏教的な御堂や御本尊や御神体を祀っていた御寺が在ったのかも知れませんね。
今度、新編相模風土記稿を読む時に調べてみようと思いますが、果たして掲載されているかどうか…
さて、遊歩道として何となく歩いても良い場所ですが神社の建物は無くても雰囲気は残る事が伝わったでしょうか?
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川辺に降りる事も出来ますので、もし近くを通りがかったら散歩して見て昔の人の生活を連想してみて下さい。
この川辺で馬に水を飲ませる武士もいた事でしょうね…
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こんな恰好した鎌倉武士達が、ここを通って鎌倉と地元を往来したんですね。

さて、この昇龍橋が参道だった白山社は廃社に成ってしまった訳ですが・・・

神社や御寺と言うのは只の宗教施設では無くて、境内の石碑や建物、或いは所蔵されている文書に造営した武将達や地域の人々の生活が刻まれているタイムカプセルなんです。
そして、時に昔の人が未来の人、つまり私達へ当時の災害を伝えようとした警告の場所だったりする訳ですが…
残念ながら、現代人の信仰心が弱く成った事や、日本帰化民が多く働く土建屋にとっては邪魔な物が神社仏閣や城址で建設会社は史跡が出土しても教育委員会に届けずに破壊し宅地造成したり、史跡と解っていても届けずに破壊し宅地造成しようとします。

・・・悲しい事ですが、そうやって貴重な建築遺産や史跡が段々とこの世から消えていき、結果的に現代人にその代償が帰ってきます。

それが東日本大震災でした。

東日本大震災では昔の人々が経験した大津波の記録を石碑にして神社や道の傍らに建ててくれていたのに、多くの人間が神社仏閣に足を運ばなくなり、太平洋戦争の敗戦後GHQの制作で日本語の漢字の繁体字の使用が禁じられた為に石碑を読める人自体も少なく成っていたので、津波の到達地点の石碑より海抜の低い位置に多くの家が建てられており、1万3千人近くの人々が亡くなってしまいました。

小生は歴史偉人を尊敬し、神様と成られた前時代の日本人の偉人も崇拝しています。
それは現代人の生活が我々が突然手に入れた物では無くて、先人達の多くの悲しみと努力と別れの結果の少しの成功と喜びの上に成り立ってるからです。
今、小生が生きているのは神奈川県や日本を開拓して下さった神様に成った先人や武将達がいるからだと思っています。
ですから小生は歴史人物を尊敬しない人間以外、全て敬称を付けて呼びます。
歴史家は歴史偉人を物の様に呼び捨てにし、多くの観光協会は歴史偉人を商売で利用しても偉人の関わった神社仏閣は滅んでも良いと思っている連中ばかりです。特に先日喧嘩した社団法人〇〇県観光協会の管理職。
歴史オタクの小生と連中の違いは、歴史人物を生きていた人として尊敬して感謝しているかどうか、現実にいた人で御子孫達が居る事も考えて歴史に触れているかどうかだと思います。 
そして繰り返しには成りますが、先人が残して下さった物には東日本大震災で活用されなかった我々への警告も多く残っています。
だから大切にしたり、日頃から身近に感じる距離で散歩したりする事が 大切だったりすると思っています。

そんな思いで昇竜橋と白山社古址を紹介してみました。

では、次は愛知静岡旅行の休日雑記の続きを書きます。それでは又、次の記事で! 
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