歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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カテゴリ: 休日雑記

前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先③・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、七人塚~上粕屋神社~関東屈指の大城郭糟屋館遺構)←これの続き・・・
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
糟屋舘周辺の散策を終えて洞昌院に戻り御住職に非売品の御守りを授与されてから車に乗り出発、10分程度で次の参拝先の相模国三之宮の比々多神社へ到着した。
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延喜式内社 三之宮 比々多神社
この神社は有鹿神社や寒川神社や大山阿夫利神社等の古社に比肩する凄い場所で、旧境内地からは縄文時代からの祭祀遺跡や古墳時代の豪族の墳墓が多数出土している聖地に存在している。
そこら辺りは以前に紹介記事を書いたので読んで貰えると解り易いかと思う。
以前書いた記事→比々多神社…縄文時代~現代まで存続する神社…神奈川県伊勢原市。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
何でここが古代早くから開けていたかと言えば、目の前を街道が通っており、更に現在の平塚市域等の県央平野部は縄文時代まで海だった影響で湿地帯が広がっており弥生時代に成るまで人が住める場所が少なかったので、現在では大山山系麓の丘陵地帯に位置する比々多神社周辺が人の住める地域だったと言う地形的な理由にも起因している。
そして郡衙が近くに存在していた事も推測されている。郡衙と言っても相模国成立以前の豪族首長が住む小国の国府が起源に成っている訳で、それ故に金環鉄刀やら勾玉やら大量の出土品が出る聖なる土地な訳だ。この一帯は古代人が聖地として崇拝した大山の山頂へ続く参道でもあったので尚更栄えた訳だ。
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この様な場所が神奈川県には多数有り、それ故に仁徳天皇の弟皇子である莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)も古墳時代に現在の神奈川県域に移住して来た訳だ。横浜市本牧や武蔵国南部では軍馬生産が盛んな朝廷の牧場が存在していた事も判っているし、鉄器の製造も比較的早くから盛んな地域だった。
なので天智天皇が馬で山科方面に外出したまま行方不明に成り(暗殺だろう)、弟皇子の大海人皇子が兄帝の天智天皇の子で甥に当たる大友皇子に反逆し軍を率いて蜂起した際に与力したのが東海・関東の豪族達だった。特に現在の千葉県は強大な軍事力を持つ土地だったので、後に上総国下総国等は“親王赴任国”となり皇族しか国守に成れない制度が確立される程だった。
まぁ、天皇家の歴史に関しては各時代の天皇にとって先帝の血筋を武力や陰謀で絶やしたり不都合な事も有って諸説有り正直な所現代ではどの記録が本当の事かは解らない。
まぁ、天智天皇は相模国を重視していたので古代一之宮、今五之宮である有鹿神社で国家鎮護の祭祀を執り行わせ海老名を国府にしたり、古墳~奈良時代の天皇家は特に熱心に神奈川県中央部の延喜式内社や神仏習合の聖地霊場にも関与している事が書物や各神社の伝承から読み取れたりする。
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比々多神社始め神奈川県内の延喜式内社は天皇家が神仏供に大切にした歴史と同じく、神仏習合時代の文化も大切にしているので比々多神社には鐘楼も現存していて、昨年大晦日は除夜の鐘を突かなかったので訪問した正月2日にして心願を込めて比々多神社で鐘を突かせて頂いた。
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寒い1月、境内の焚火が参拝客の手を温めてくれる。
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現在の本殿は古代から戦国時代までの境内地の元宮の遥拝所に当たる位置に存在する。
この比々多神社では御正月に御参りすると横にテントが在り、そこで小さな御守りを無料で授与して下さる。
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御正月の間だけ、臨時の学生巫女さんと神職君が多数雇われており、本殿横のテントでは巫女さんが無料で簡易的な御祓いをして下さり、それが終わると神の護符を授与して下さるんだな。
小生は毎年、これを受領しに参拝している。
参拝を終えて巫女さんに御祓いと比々多神社の護符の授与をして頂き、近くに比々多神社元宮に移動した。
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元宮に行く途中に、古代比々多神社で聖地として大切に守られて来た“埒免(らちめん=囲われた土地=聖域)”の地名が残っていたのに神奈川県教育委員会が保護も事前調査もせずにキリスト教系の恵泉女子学園に破壊容認してぶっ壊した埒免古墳の旧蹟地が在る。
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このキリスト教系大学にも卒業生にも罪は無い。しかし教育委員会には罪が有る。教育委員会は日本文化に無知なキリスト教系大学による神道の聖地の破壊を誘引してしまった訳だ。
この罰当たりな行為のせいか恵泉女子学園は閉校してしまった。これを祟りと感じる人もいるだろう。
でも通った学生さんや働いた職員は例えクリスチャンでも歴史と事情を教育委員会から知らされていたら比々多神社にも敬意を払っただろうし、無碍な古墳破壊もしなかっただろう。
まぁ、こんな神奈川県の教育委員会の罪は比々多神社一箇所に止まらず死ぬ程有って、例えば現在進行形で他府県なら史跡指定受ける筈の続日本100名城の一つに選定されている小机城を開発利権絡みか未だに史跡認定せずに放置していたりする。横浜市最大の蛍の生息地で古代遺跡が大量に出土する地でもある円海山の瀬上沢周辺も東急不動産の開発利権の為に保護を怠り開発容認する発言を林文子市長が行っており、市民から大バッシングを受けている真っ最中だったりする。
更に戦国時代の小田原城の虎口跡の百姓曲輪と、戦国時代初期の関東最大級の規模を誇った扇谷上杉家の大城郭糟屋舘跡の開発許可も昨年、黒岩県知事が陣頭指揮をとって保護すべき所なのに逆に肝腎な城砦遺構残存部分は未調査なまま開発許可が出され現在進行形で破壊の真っ最中だったりする。
昨年は傾きマンションで有名な三井不動産レジデンシャルが、北条家相模十四騎筆頭、間宮家の居城の横浜市笹下城址の伝:本丸と大空堀地形を掘削したり盛土して破壊した宅地化が林文子横浜市長の統治の下で行われ消滅してしまった。
残念ながら神奈川県や横浜市でまともな歴史教養と古来の日本文化と宗教に対する敬意を持っているのは有吉忠一先生や細郷横浜市長や高秀横浜市長くらいだった。
後は博徒系ヤクザ組長の息子が支持者でカジノ作りたがったり海の埋め立て工事の開発利権で建設業界の支持基盤にする市長みたいな売国奴や奸族ばっかりだ。
コイツ等のせいで日本有数の景勝地だった金沢八景の眺望も消されたり、日本有数の霊場だった弘明寺は境内地を大幅に接収されて縮小したり、源頼朝公が開き皇族が宮司を務めた森浅間神社や修験道の大道場だった泉蔵院等も同様の被害を受けて来た。
森浅間神社からは比々多神社同様に古墳が出土している事から鎌倉時代以前から聖地霊場だった場所を頼朝公が修験道系神社として整備させた事も推測出来る。
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現在では埒免古墳のレプリカさえ一般人は近寄る事が出来ず、旧恵泉女学園大学のフェンスの外から写真を撮影する事しか出来ない。
でも元宮は社殿こそ戦国時代の三浦家と北条家の抗争に巻き込まれ焼失したまま復興されなかったが、旧境内地が明治昭和の宗教政策で一般人の土地と成っても徳の高い地元民に守られて旧境内地として存続した。
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近年では元宮の祠(ほこら)がパワースポットとして若者に知られる様に成り(小生の拡散も有り(笑))眺望の良さからも比々多神社参拝のデートコースに成り恋人同士の参拝者を見かける事が多く成った。
少しでも日本文化の役に立ち神格を得て拝み奉られる古代人や歴史偉人に今の日本が有る事と平和を享受出来る事へ恩返しが出来たら嬉しい・・・それが小生の願い。
そして多くの人が神社や御寺を御参りする事で不安感を抑えられたり、生きる活力に成ると嬉しいとも思う。
小生もカップルと親子連れの参拝者に続いて比々多神社元宮を御参りして駐車場に戻ると、次は伊勢原市中心部に在る伊勢原大神宮に向けて移動した。
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伊勢原大神宮伊勢原大神宮は江戸時代に開かれた神社なのでハッキリ言って歴史は薄い。
でも町中の普通の規模の神社としては大変に多くの参拝客で賑わう場所で、境内社の御稲荷様の鳥居も小さいながら立派な明神造りで扁額が掲げられ大切にされ御金もかかっている事が解ったりする。
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伊勢原大神宮は現代では縁結びの神様として有名だが、小生は別の用事が有って参拝した。
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実は伊勢原大神宮の宮司様が延喜式内社高部屋神社(旧社名:高部屋八幡宮)の宮司を兼務されておられる都合で、高部屋八幡宮の御朱印はこちらで授与して頂く事に成っているのだ。
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境内には市の私邸保存樹木の大銀杏が有る。
御正月なので先に参拝した比々多神社同様に巫女さんが沢山いらっしゃって、この日は御屠蘇を巫女さんが振舞って下さった。
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小生は車なので口を付けて終り。でも御口清めれて嬉しい。
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御朱印帳を社務所にお預けし待つ間、ここまで珈琲を飲んだのみで朝食も食べていなかったので屋台で売っていた磯部餅と甘酒を購入し朝食代わりに頂いた・・・この時11時半位だったろうか?
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家を出発したのが3時位だったので腹ペコだった。
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甘酒を飲んだのは久しぶりなのでともても美味しかった。
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境内ではダルマさんの製造元が直売も行っていた。荒井だるま屋さんだな。
気さくな社員さんが色々と詳しい説明をして下さった。創業150年の老舗だそうだ。略、横浜開港と同じ程の歴史が有る訳だな。
神様への御参りを終えて社務所に行くと御朱印も書きあがり受付に準備されていた。
高部屋神社御朱印 久良岐のよし
実は以前、糟屋有季公の顕彰活動で別に高部屋神社の御朱印は受領していたのだが、今回は延喜式内社と式外社専用の御朱印帳に改めて頂に上がった次第だ。
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この日は丁度、箱根駅伝の開催日だったので宮司様の取り計らいで神楽殿のプロジェクターを使って中継の様子が上映されていた。
小生はこの後の訪問予定がギッシリ埋まっていたので、箱根駅伝に後ろ髪を引かれながら伊勢原大神宮近くのコインパーキングに移動し車に乗ると、次の訪拝予定の高部屋神社へいどうした。
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高部屋神社
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高部屋神社は昨年、社殿が国指定有形文化財に認定された神社で、古代から存続する延喜式内社の一つだ。
社殿の周りを取り囲むのは聖なる木、1円玉のデザインにも成っている招霊樹(おがたまのき)だな。
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この神社は明治時代まで古代からの宮司が海まで海藻を採取しに行く塩汲み神事が行われていたが明治の宗教威嚇で一時断絶していたのを150年ぶりに復活さえた。
現代の伊勢原大神宮の宮司様が兼務されているのだが、古代からの神事を現代に復活させる試みは本当ん素晴らしく、神職として日本文化を守る気概に満ちていると思う。
東京新聞の記事→伊勢原の高部屋神社 大磯の海岸で執り行う
以前、小生もこの神事を記事に書いて紹介した甲斐が有ったと思うし、この神事が中絶しても語り継いで下さった氏子さん達には敬意を感じている。先一昨年だったろうか、この古代から続く神事の事を小生に伝えて下さった氏子さん、本当に良かったですね!
以前書いた高部屋神社の記事→
高部屋神社で氏子さん達と「文化財登録おめでとうございます」等と雑談を色々と10分程話し込み、次の目的地であり戦国時代の毛利家の発祥地愛甲郡毛利台へ移動した。

・・・・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑤に続く。










 

前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先②・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、大師堂~華厳山金剛寺~蟠龍山洞昌院公所寺~太田道灌公御廟)
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
洞昌院で御住職に新年の挨拶をし太田道灌公の御位牌を拝ませて頂く許可を頂き、御位牌で太田道灌公に御挨拶。その後に道灌公胴塚御廟にて、太田道灌公を供養した北条早雲公と万里集九禅師にも改めて道灌公と合わせて新年の御挨拶と、歴史オタクとして社会の役に立てる様に心願成就の御加護を御願いしたりした後の続き・・・。
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洞昌院の周辺は神話時代に当たる縄文~弥生時代からの祭祀遺跡やら古墳時代の墳墓が沢山発掘されていて、それ等の聖地を昔は境内地として守っていた神社やら、早くから人が住み着いた耕作地帯であり交通の要所でも有るので室町幕府鎌倉公方家の重鎮で関東管領も務めた扇谷上杉家の本拠地も一時、この直ぐ近くに置かれていた。それが糟屋館だな。
せっかく洞昌院に参拝したので、散歩がてら周辺の神社や史跡を散策する事にした。
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道灌用水と言われる。今、空堀と伝わる地形・・・
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
この用水路は空堀の在る洞昌院側の台地に存在するのだが、実は元々、この水源は外堀側に向かって流れていたそうだ。それを上流で空堀側に流し湿地化させて沼堀として機能させていたそうだ。
これは現地を歩かず民話を取材しないメジャー文献テンプレ学者は知らん事なのだが。扇谷上杉家臣の太田流の築城術の特徴は周りが沼地の台地を選んで城を作る、もしくは水を引き込み堰堤を作り水を堰(せ)き止めて強制的に沼地にするんだな。
これは扇谷上杉家の戦国時代以前の本拠地だった大庭城や、扇谷上杉家が乗っ取った佐原三浦家つまり三浦道寸公の本拠地だった伊勢原市~平塚市に跨る巨大城塞の岡崎城なんかがこの全てこの構造だった。太田道灌公の御父君の道真公が縄張りした川越城も、太田道灌公が江戸家から接収して改修した江戸城も同じ立地だな。
ついでに言えば旧扇谷上杉家家臣大森家の本拠地だった小田原城も小田原北条家によって総構えが建造される以前から湿地に囲まれる要害だった。
[小田原城]
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[江戸城]
江戸城
[川越城]
河越城縄張り図
[岡崎城]
岡崎城主要部分縄張り図
それに合わせて喰い違い状に屈曲させた大空堀で丘陵上に堀切と土塁を築くのが大庭城や長尾台城や高月城にも見られる構造で、この3城は地形も糟屋舘大城廓に似ている。
※以下日本城郭大系より拝借。
[大庭城]
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[長尾台城]
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[高月城]
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糟屋館跡は昭和の農地改良で見事なまでに台地上の遺構は削平破壊され土塁は削られ堀は埋められサッパリ解らなく成っている、が!この喰い違い構造の名残りと思しき物が上の画像で糟屋館の立原で不自然な直線がクランクしている農道が拡張されて道路だろう。
扇谷上杉家糟屋館地形 久良岐のよし
そして、この糟屋館の規模は神奈川県教育委員会は❝故意にか?❞言及しないが関東での戦国時代における城郭として、小田原城>岡崎城=江戸城=糟屋館=滝山城>河越城と推定城域が同程度の規模が有る名城なのだ。山内上杉家に糟屋館が狙われた際は、この城を守る為に扇谷上杉定正公は出張先から200騎だけの手勢だけで自ら危険を冒(おか)して急行し、1000余の山内上杉軍の先手を迎撃、撃破している・・・これが実蒔原合戦と呼ばれる扇谷上杉定正公が戦上手と呼ばれる所以の勝利なんだな。
まぁ・・・ここを守る間に弟の扇谷上杉朝昌公の守備する厚木丹沢方面の要所の七沢城は救援出来ずに失陥しているんだが。
この糟屋館と“館扱いされている”台地と周辺の寺院や外郭を含めた日本で最先端の❝平山城形式の大城郭❞は扇谷上杉家にとって重要な場所であり、佐原上杉家没落後に相模守護代と扇谷上杉家執事を兼務した太田道灌公が公務を行ったのが洞昌院であり主家は糟屋館にいた訳だ。
本来ならば規模からも歴史的意義からも伊勢原市役所に任せる様な場所では無くて“文化庁が介入すべき案件”であり“黒岩知事御自身が破壊容認する前に陣頭指揮を執って神奈川県庁が発掘と保護と公園化すべき場所”なんだが。
まぁ、そんな訳で洞昌院一帯を散策すると神奈川県と黒岩知事が認めず公表しない城跡と、古代からの神社が有るので散歩には事欠かないし伊勢原は大山の御膝下なので空気が綺麗で清々しい。
洞昌院から糟屋館の馬攻口へ向かって歩いて行くと、途中に七人塚が在る。
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七人塚CIMG6155
この七人塚は太田道灌公の忠臣達が一部のアホの歴史学者の不見識を暴露してくれる場所でもある(笑)。
大田道灌公は湯殿入(地名)側から馬攻口を降る道すがら、宿舎の洞昌院の塔頭寺院に向かう途中で主君の扇谷上杉定正公の手勢に襲撃された。風呂に入ってる最中に殺されたって通説は大間違い(笑)。
因(ちな)みに虎口ってのは小口が転訛した言葉でとどのつまり、敵勢を殺す機能を持った城門や通路の事だな。
一部のアホの歴史学者が「太田道灌公は湯殿入りで襲撃された」と言う記述を「入浴中に襲撃された(笑)」と頓珍漢な解釈をしているが、コイツ等は如何に現地取材をしていないかが良く解る(笑)。
❝湯殿入り❞ってのは郵政法制定以前に残っていた地名の字(あざ)の小名(こな)で台地上、空堀近くの地域の地名なんだな。
糟屋舘大城郭の虎口に当たる辺りの湯殿入り、つまり湯殿入りってのは糟屋舘の湯殿方面の虎口な訳だが、主君との面会を終えて宿舎の洞昌院の塔頭へ帰り際、その城門か食違い虎口の中で太田道灌公は恐らく弓矢で襲撃され一先ず堅固な洞昌院に瀕死の様態で逃げた訳だが、その時に自らも傷を負いながら主君の太田道灌公を逃がす為に追っ手を迎撃妨害した7人の忠臣達が眠るのがこの7人塚な訳だ。
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こうやって正しい事件の全貌を辿らせてくれる場所に眠る忠臣の名も伝わらない武士達に敬礼の意味を込めて参拝した。
七人塚の直ぐ近くには凄く立派な参道が残る上粕屋神社が在る。
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上粕屋神社CIMG6147
冬に来たから立派な木々の参道しか目に付かないが実はあの参道は桜の木々で春にはとても美しい景色に成る…
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・・・ほらね?だから皆さん、洞昌院一帯をお散歩するなら春が御薦めなんだな。
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この地域は“山王”と呼ばれる地区なのだが、現代では上粕屋神社と呼ばれるこの神社は本来は神仏習合の山王権現だった。
大同弘仁年間(大同806~810年、弘仁810~824年)に開かれた神社で、つまり延喜式式外社と成る古社な訳だ。延喜式神名帳に掲載されなかったのは山王❝権現❞として神仏習合のどちらかと言うと天台宗に近い修験道の道場だったのだろう。この小生の推測を補強するのが新編相模風土記稿に掲載されている方の異なる上粕屋神社の縁起で、そちらでは天平年間(729~749年)に良弁大僧都(だいそうず:超エライ和尚さんの役職)が開いたと伝わる。
恐らく上粕屋神社の始まりはこうだ・・・
良弁(ろうべん)和尚は東大寺を開いた歴史偉人だが、この伊勢原市を聖地として密接に関わり訪問している。伊勢原市の大山は現代では国定公園だが、古代からの聖地で大山山頂には神の化身の岩が祀られ縄文時代からの祭祀遺跡が出土する聖地なのだが、そこを守っていたのが大山寺石山権現大山阿夫利神社なんだな。
良弁の滝 Googlemap 久良岐のよし
そして大山には良弁大僧都が滝行を行った場所も今でもあるのだが、良弁大僧都は華厳宗の僧侶なのだが日本神話や聖地霊場を後の空海和尚様や蘭渓道隆和尚様や道元禅師同様に大切にされた人物の様だ。
だから大山にも来たし、上粕屋神社の前身の山王権現の更に前身と成った霊場を開いたのだろう。そして、その霊場と成った所縁の古墳や古代からの祭祀場が一帯には存在したのかも知れない。
もっとも、良弁大僧都がこちらにいらした理由は現実的な理由が大きかった筈だ。行基大僧正も近く八菅神社七所権現を天皇家勅願所に定めている・・・
古来、伊勢原市大山や愛甲郡愛川町八菅山は自然信仰と神話の聖地として古代豪族や天皇家から崇拝され祭祀が執り行われたので“寄進(きしん=浄罪=金銭宝物)”も集め易かった訳だ。良弁大僧都と行基大僧正には金が、こと銅銭がこの時期必要だった。
・・・即ち東大寺の造営と東大寺大仏の建立だな。つまり伊勢原市大山や愛川町八菅山は行基財団の重要な拠点として機能していたのだろう。多分ね~(笑)。
そして上粕屋神社の始まりは恐らくこうだ・・・
伊勢原市周辺聖地史跡MAP 久良岐のよし
・・・現実的には目の前を旧大山街道が通るので、大山参詣の宿泊所として良弁大僧都が草庵として天平年間に開いて神様を祀っていた場所に、後に大同年間に天台宗系僧侶が大山詣りの修験道場や宿坊として運用する様に成り、比叡山の山王権現日枝神社を勧進したと推測すれば風土記と伝承の矛盾が解消され極自然な成り立ちと成るだろうとも思う。
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境内には立派な楠木も在り、参拝客に歴史を感じさせてくれる。
この上粕屋神社が大山詣り参道の脇の宿舎だったと推測する理由はもう一つある・・・
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神社の裏は糟屋館の空堀なのだが、この神社一帯が糟屋館の裏口、馬攻口だからだ。
堀は戦国時代当時は堀底道として機能していただろう。
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今でも食違い状に道がクランクしている。
そして糟屋館の台地~上粕屋神社の山王地区の台地には引橋(ひきはし=戦時に収納できる橋)が架かっていたかもしれない。
恐らくこの道は戦国時代から存在する道なのかも知れない。今も糟屋館の台地から続く比較的太い道が有り、近年開削された道も直ぐ近くを通る。
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上粕屋神社裏から堀底に続く道。これが道より以前の本来の“古代の道”だろう。
アスファルトの道は恐らく引橋で連結されていたであろうと小生が推測する理由は、台地と台地の同じ高さで連結出来る高さに合わせ開削されているので橋を架ける前提の構造なのだ。だから城砦化されて以後の道だと思う。
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降りて来ると空堀に出る。空堀を進んできてから上粕屋神社側一度登り、引橋を渡って湯殿入り虎口に入る構造だったのだと小生は現地を歩いて推測している。
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今では道路が大空堀を断ち切る様に有るが、これは後の人によって盛土されている事が明治時代の地形図を見ると未だ存在していないので良く解る。
迅速測図 上粕屋神社周辺 久良岐のよし
まぁ、そんな訳で小生はここに引橋が在ったと推測する訳だな。
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正月2日目、畑地と成った大空堀には霜が降りていた。
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ここを過ぎると食い違う道、そして右手には削平地が永遠段々に続く。これは城マニアが見るとどっからどうみても食違い虎口を開削して広げた道だろう。そして削平地は帯曲輪群が畑に成った物だろう。
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扇谷上杉家糟屋館大城郭址現在、黒岩知事に由る糟屋館大城郭は県道バイパス建設中で金網で仕切られ入れない場所が多いが、“城跡が現存するのは台地上では無く側面の崖地”なのでグルッと廻れる所まで周って見る事にした。
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小生が子供の頃にも伊勢原の義叔父の家に遊びに来ると、こうして畑の農道を散歩し田圃の用水路でザリガニ釣りをしたもんだ。
金網の範囲外でも結構歩ける場所が有った。
まぁ、大人に成ってカメラ持ちながら歩くと有るわ有るわ城の遺構。
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武者走り。
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破壊真っ最中の外堀側にも土塁が残っている部分も結構ある。
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黒岩知事が破壊承認した外堀を見下ろす農道に成っている武者走り状の地形。
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その下にも帯曲輪群が沢山現存していた。
実は2016年に神奈川県は道路建設による破壊に伴って“名目的に発掘せねばならず”発掘調査を行ったのだが、これが笑い話にも成らない発掘チーム編成で、発掘したチームの中には“1人も城郭専門家が含まれていない”まま行われた。結果的には当然、彼等が地形を見ても城の構造を理解出来る訳も無く、肝心の側面の帯曲輪群と武者走り群、そして彼等が自然地形としか認識できなかった城マニアが笑う(笑)顕かに裾切りされている地形は一切報告されていない。
「あれ?学者じゃない小生が歩いても沢山有るんですけど?巨大な城だった遺構が(笑)?」
これは考古学のチーム編成で発掘調査させた“神奈川県教育委員会が故意に城の専門家を入れなかった”んじゃないかと小生は容疑をかけている。
小生の推測通りならば極めて悪質だと思うし、巨大な城の存在なんて知らなかったんなら教育委員会は不見識で大学生からやり直した方が良いし、道路建設に伴って掘削しコンクリ擁壁で破壊する心算で故意に触れていないなら黒岩知事と教育委員会の担当者と開発担当者と土建屋には扇谷上杉定正公と太田道灌公と実蒔原合戦戦没者の英霊御霊の祟りと山王権現と大山祇神の天罰が落ちるかもな・・・なんてな(笑)。
まぁ、本当に黒岩知事や配下の役人が故意に城郭専門家をいれなかったんなら祟りに遭うだろう。
太田道灌公は北条早雲公と万里集九公によって神格として勧進され、現代では神様に成っている人物だし、扇谷上杉定正公も武勇采配に長けた歴史偉人なのだから御霊は“神道的な考え方ならば”荒神様として御神威が在る訳だ。
まして、ここを開発してる連中は地鎮祭すら行ってないし、太田道灌公にも扇谷上杉定正公にも御参りしてない訳だ。
・・・まぁ、神仏に天誅受ければ良いさ。天誅ってのは自分の心の中から沸いて来てとんでもないミスや事故を引き起こしたり、注意力が散漫に成って隠していた不正が露見したりする事にも繋がるからな。
確か黒岩知事は創価学会だったはずだ。彼は日蓮聖人の聖跡を歩いた事があるのだろうか?
日蓮聖人は非常に日本神話を大切にされ先人を尊敬していた人物として、日蓮宗以外の僧侶や神職の人々にも知られている。千葉神社を信奉し妙見大菩薩=天皇家を守護神と崇め、八幡大菩薩の御神威を崇拝し命を長らえた人物なんだな。そして立正安国論ってのは神仏への理解と愛国心から鎌倉幕府北条政権に提出された物だった訳だ。
神に成った東京横浜に所縁深い歴史偉人太田道灌公が大切にした場所、主の扇谷上杉定正公の御霊が坐す城跡を無かった事にして、そのまま破壊すれば、更に日蓮聖人も御怒りに成るだろうな。
・・・まぁ~、開発の認可を出した政治家と役人と業者が不幸に成ろうが小生には知ったこっちゃないので別に良い。大城郭糟屋館の遺構が存在する事実と破壊時の為政者の悪名と企業担当者氏名を個人的に記事にし公開したり関係先の神社仏閣の檀家サンや氏子サンと共有し子子孫孫まで伝え、末代まで黒岩家や担当者の子孫達に祖先の悪名を晒すだけだな。
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糟屋舘の台地から洞昌院へ向かって戻る途中、江戸時代の関東の人々が伊勢神宮、富士山、江の島と並び死ぬまでに行って見たいと人気の観光地化した聖地だった大山が綺麗に見えた。う~ん、太田道灌公も崇拝していた大山祇神様がいつも神奈川県民守ってくれてるんだな。

蟠龍山洞昌院公所寺に戻ると、小生の姿を見かけた御住職が出て来られて「ちょっと待ってな!」と小生に声を掛けて下さった。
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そして非売品の洞昌院の御守りを授与して下さった。何だか御住職を介して太田道灌公に正月参詣の御褒美に護符を頂いた様でとても嬉しかった。
駐車場で車に乗り込むと、次の目的地で毎年参拝している聖地、比々多神社に向けて出発した。
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ここから又、神社巡りに復帰する。

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先④に続く。









前回の休日雑記→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先①・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、永谷天満宮、円海山、有鹿神社編、八菅神社編)
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
・・・日本武尊によって開かれた明治以前まで修験道が管理した日本神話の聖地の八菅山七所権現こと、現在の愛甲郡愛川町八菅山に在る八菅神社を参拝し正月2日目にして日の出を拝んで出発した所からの続き。

八菅神社から車で20~30分も走ると次の目的地に予定していた華厳山金剛寺に到着する。
市を跨いでいるけれども旧愛甲郡の郡内を移動している上に正月早朝の田舎道なので渋滞どころか余り車とスレ違う事も無く順調に到着した。
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冬に来てもパットしないが此処(ここ)は桜の名所として知る人ぞ知る場所で、近所にも温泉が有り桜の季節には背後の飯山観音と合わせて桜鑑賞を兼ねて散策に来る客が多い。
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華厳山金剛寺
春には同じ参道の景色も全く違って見える場所。
歴史は古く、弘法大師空海和尚様が修行の為に滞在した草庵が寺の起源に成っている。でも現代人は余りこの御寺が凄い事を知らないし、神奈川県民でも存在すら知らない人が多い。
早くから宗教的な集落として開かれたので、鎌倉時代には養蚕が盛んな土地に成っており有名だった。
そして、ここを鎌倉時代に支援した武士が有名な安達盛長公で、この武士は源頼朝公の秘書官兼ボディーガードの様な役割を担っていた人物だった。安達家は鎌倉市街で発生した宝治合戦では当時最強と言われた三浦武士団を圧倒する戦上手振りを発揮し北条家の執権体制を確固たる物にし、結果的に元寇で日本を守った北条時宗公を執権にせしめた日本人にとっても功臣と言える偉人一族だな。
無論、その鎌倉幕府樹立の一番の功労者である三浦家がいたので現在日本が有る事も忘れてはいけない。だから小生は源氏将軍家も執権北条家も三浦武士団も安達家も其々の偉人を尊敬している。
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現代では金剛寺は衰退し別寺院の御住職の兼務と成っており庫裡には管理人サンが御住いだが農村部で過疎化が進み山門の修復も行き届いていない。
厚木市の財産と言える御寺なんだけれどね。
この山門の横には御墓が在る。
普段は御墓や御廟所の写真は殿様を盗撮する様な行為だと思っており掲載しないのだけれど・・・
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・・・大変に重要な御寺の実情を知ってもらう為にも殿様に失礼して御力添え頂こうと思う。
安達盛長公の物と伝わり、3年前だったろうか檀家サンと御話しした際もやはり、その様に伝承している事を説明して下さった。
盛長公の戒名も現代に伝わっており“盛長院三空道無大居士”と記した御位牌も有るそうだ。
源頼朝公は神道と修験道と真言宗と法華宗を支援した方なので、安達盛長公も当初は真言宗寺院‟だった”ここを大切にしたのだろう。
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御寺の寺紋は足利家の❝二つ両引紋❞、鎌倉幕府滅亡後は恐らく室町幕府の鎌倉公方足利家によって支援されたのだろう、学問所としてそれだけの重要な寺院だったから、しかし・・・
もしかすると、安達盛長公の法名が❝道無❞と成っている事から、源頼朝公の亡き後は北条家と縁戚の安達家は臨済宗に改宗していたかも知れない。
❝道〇❞と言うのは鎌倉で興隆した臨済宗の信徒が用いる法名だからな、有名な大田道灌公や同時代の横浜の間宮家の間宮道圓公がその代表例だ。因みに二人とも戦国時代初期の関東の武将だな。
・・・実は戦国時代に突入する契機と成った上杉禅秀の乱で最後の鎌倉公方足利持氏公と犬懸上杉家上杉禅秀公が対立した合戦や、後に残忍な人物として有名に成る室町幕府クジ引き将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏公の対立した事から永享の乱が勃発すると、現在の神奈川県央部一帯から横浜市域まで広大な範囲が戦場に成ってしまった。
その後も扇谷上杉家と山内上杉家が直ぐ近くの七沢城や糟屋館で合戦を行って荒廃した時期が有った。
・・・そんな度重なる戦乱で荒れた後に戦国時代に北条早雲=伊勢盛時公と北条氏綱公の頃に愛甲郡一帯が小田原城主北条家の勢力下に組み込まれた際に北条家の支援を受けた様で、北条家の宗旨である曹洞宗寺院として再興開基された。もう、この頃には真言宗時代と同じ学問所としての機能は消失していただろう。
小生は伊勢原市の比々多神社にもここ数年間初詣を行っているので、八菅神社からの途中に在る金剛寺を素通り出来る筈も無く、弘法大師様と安達盛長公と釈迦牟尼仏様に御参りに来た訳だ。
山門の手前、参道左手には真言宗時代からの大切な御堂が神奈川県教育委員会が保護もせずに放置しておりボロボロに成っている。
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大師堂だ。
もう名前で解ると思うが、ここは弘法大師様が開いた草庵の場所で大同年間(806~809年)に現在の御堂が建てられ、弘法大師様が自らの容姿を写して木造を彫ったとか彫らせたとされる大師像が“散々な状況のまま”祀られている。
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今は御経をあげる仏僧も参拝者も来なくなったが、昔のままの御堂の中で弘法大師様が自ら手彫りされた御影彫像が周辺の人々を見守っている。
その左側には閻魔様=ヤマ(ヒンドゥー教の冥界の神様)と・・・
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右側には武将だか御公家さんだかの彫像。
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・・・前から思っていたのだが誰(笑)
この絶対に偉い人(笑)?家紋も見た事ない家紋で解らない。安達盛長公だったら御寺の由緒的にも自然なんだが眉毛が「麿(まろ)でおじゃる」とか言いそうな人なんだよな。でも公家にしては威厳が有る。

時代劇の“柳生一族の陰謀”に登場する烏丸少将みたいな人なら貴族でも納得なんだが(笑)。
日本に仏教文化の礎の一端を齎した歴史偉人であり日本神話を大切にする空海和尚と非常に関連深い御堂と大師像をこの様な環境に放置するのは正直、如何な物かと思う。これは曹洞宗云々と言うよりも県の教育委員会の保護意識が低く県の文化財指定を受けれない事や明治時代と第二次世界大戦敗戦後の宗教弾圧が関係していると思う。
昔の人は歴史を知っていたので神話の祭祀場後も自然信仰の聖地も神様も仏様も全部古代からずっと江戸時代が終わるまで大切にされたが、明治時代にプロテスタントと密接なキリスト教徒の政府高官達が教育改革と宗教改革を担当したせいでプロテスタントが自然崇拝と偶像崇拝を否定するのと同じように、明治に成り成立した国家神道では古来の神道の自然崇拝と仏教哲学は否定された上に神社の御神像は廃棄され、歴代多くの天皇が支援した自然崇拝の修験道は禁教にされ神社では御神鏡を御神体とする事が義務化された上に、仏教施設祀る神様も強制的に分離させられた。
この時に多くの文化財が日本から失われた。
そして社領寺領と言う収入減を取り上げられ衰退した場所が多い。
丸で戦国時代のバテレンの宣教師が豊後国で大友宗麟にやらせた寺社破壊を彷彿とさせる大惨事が明治時代に起こっていた訳だ。
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この金剛寺も同じく寺領を取り上げられた上に塔頭寺院は神社に鞍替えしたり、神社化したので御堂に安置出来なく成った寺宝の“仏像”を当時の宮司に成った人間が持ち去って自宅で私物化したり、もう悲惨な事に成った。
更に敗戦後の宗教政策で県がハチャメチャな地元民の勝手な土地登記を認めて御寺の境内地が勝手に切り取られ乗っ取られ縮小した。
これは日本全国の神社仏閣で起きた大惨事だったんだな。特に神社は社領が乗っ取られたり武士階級がいなくなった事で小さな神社は支援者を失った上に、一村一社と言う庶民の信仰を集めた町中の神社を破壊する政策が成立され、それまでの各村の中の各地域で姓を同じくする一族の固まっている場所の氏神様の祠なんかが破壊対象にされて名目的には“合祀”や“習合”と言う言葉で誤魔化されて丸でキリスト教会の様に村の比較的大きな神社に集約され庶民が集まる形の信仰に模様替えされてしまい、逆に日本人と神様の距離が遠くなってしまった。そして御寺も悲惨な事に成った訳だ。
金剛寺の境内は現代でも町中の並の普通の寺院よりは比較的広い規模だが、元の広大な関東有数の仏僧の学問所として機能した頃の金剛寺からは考えられない程狭い境内地に成ってしまった。
実に開発利権の政治家と土建屋に都合の良い状態だな。そう言う目的も有っただろう。
京都市内の神社仏閣も大分と、この宗教改革で被害に遭っている。
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例えば京都の御土産購入スポットとして有名な錦市場近くの西京極商店街にある錦天満宮だが…
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境内地を乗っ取られたり接収されたりして石鳥居がビルに食い込む惨状。
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・・・錦天満宮の直ぐ近所の華嶽山東北寺誠心院も和泉式部と多くの人がその名を知る平安時代の才女で女官の歴史偉人の菩提寺なのだが錦天満宮と同じ悲惨な有様。全く明治時代のキリスト教派政治家の罪は重い。
そして多くの神社が戦後に、この金剛寺や錦天満宮と同じく有象無象の輩に土地登記を勝手にされ社領を乗っ取られたり、市に接収されたりした。
神奈川県には江戸時代まで誇張抜きで日本有数の聖地だった場所が有る・・・
愛甲郡愛川町“八菅山”と、伊勢原市‟大山”だ。こちらも神仏習合だったので弾圧の対象となり歴代天皇や将軍たちから支援され数十の社殿や御堂で満ちた山は荒廃してしまった。
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・・・そんな歴史を辿れる場所が、この金剛寺の大師堂な訳だ。
真言宗だった当時の名残で御堂を取り巻く様に石仏群が鎮座しているが、やはり粗末な扱いを受けている。本当、神奈川県か厚木市は白山温泉の金剛寺大師堂と御堂の仏像を調査して文化財指定出来ないか検討して欲しい。
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弘法大師様と安達盛長公に丸2年ぶりの御参りをしてから、御本堂に向かった。
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足利家の家紋だな。
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まぁ、散々プロテスタントと英米批判したのでフォローしておくと、英国が戦艦三笠を売ってくれたり東郷平八郎元帥の留学を受け入れて下さったので日本は明治時代にロシア帝国の植民地にされずに済んでいる。
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英国は日中開戦前夜も日米開戦前夜も仲裁に奔走していてくれた事実も有る。
それにアメリカの軍人サンは、日本軍人を非常に高く評価していて下さった。だから戦艦三笠の存続もニミッツ元帥達が中心と成って保護活動が広まり欧米社会の支援を受ける事も出来たんだな。
当然ながら敗戦からの復興にODAを注入してくれたのも欧米だ。
生麦事件を契機に江戸幕府に難癖付けて脅迫し慰謝料を脅し取ろうとしたのも英国だが、日本の近代化を支援してくれたのも英国、日本人を結果的に一番評価してくれた白人国家も英国だったんだな。
そして宗教改革に失敗した明治政府だって、経済改革と近代化を見事成功させ、階級差別を撤廃し法治主義を浸透させ見事に日本をアジアを代表する押しも押されぬ先進国に変貌させた訳だ。
・・・物事には万事一長一短有ると言う事だな。
御本堂でも釈迦牟尼仏様に御参りしてから次に七沢城址を目指すべくカーナビで目的地設定し出発した、とここで問題発生・・・
2018年01月02日 訪問先順路一覧 久良岐のよし
小生が実際に当日廻ったルートに七沢城は入ってない。実は小生の自動車企業純正カーナビが実にフザケタ無能な物で、iPod繋げればバグるわ~、首都高乗れば変な出口で降ろそうとするわ~で実に仕えない。そして又、やらかしてくれた。
・・・遠回りして目的地を行き過ぎる誘導しやがった(笑)!
金剛寺から丹沢方面経由で行けば直ぐに行けるのにカーナビの通りに走ったら、何故か遠回しされ伊勢原まで来てしまった。
七沢城周辺位置関係
小生は織田信長公や徳川家康公や北条早雲公等の歴史偉人を崇敬しており毎日神様仏様と等しく拝んでいる。その中には横浜や神奈川県と関係の深い無敗の名軍師で築城家で高い教養の持ち主として有名だった太田道灌公も含まれるのだが、本来向かおうと思っていた七沢城址は太田道灌公を殺害した主君の扇谷上杉家の持ち城で城主も当主の扇谷上杉定正公の実弟の上杉朝昌公だった。
そこで思った・・・
「あ~太田道灌公や神様仏様が“ソッチ行くな”と言ってるのかも知れない(笑)」と、道を逆戻りするのが面倒なので勝手な解釈をして(笑)、反対に予定に組み込まれている伊勢原市三之宮比々多神社と途中に在る太田道灌公の菩提寺の洞昌院に正月の参拝に行く事にした。
洞昌院の正式名称は蟠龍山(ばんりゅうさん)洞昌院(どうしょういん)公所寺(ぐぞじ)と言う。
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蟠龍山洞昌院公所寺
ここは正に太田道灌公が生前に相模守護代として主君に代わって政務を行っていた御寺なので公所寺と言うのだろう。
・・・そして大城塞の糟屋館で主君に面会してから帰路、城の虎口で襲撃され、深手を負ったまま逃げて来てがたまたま御寺の山門が閉まっていて力尽きて息絶えた現場。御寺の境内では無く小生が写真を撮影している場所が太田道灌公が絶命した、その場所なんだな。小生の尊敬する先人の1人が絶命した現場。
詳しい事は御住職から御教授頂いた寺伝や現地の地名を含めて以前書いた解説記事が有るので、其方(そちら)を読んで頂ければ解り易く、江戸時代に現地訪問も取材もせずに適当に書かれ通説の解釈が誤りで有る事もスパッと御理解頂けると思う。
コレ→【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
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さて、現在の山門代りの石柱の横には立派な枝垂桜が有り、近くの上粕屋神社の桜並木や糟屋館と合わせて春には良い歴史散策の散歩コースと成るが、現在、太田道灌公を暗殺した主君の扇谷上杉家の居城だった糟屋館の巨大な城砦の舌状台地は神奈川県の黒岩知事による破壊の真っただ中に晒されている。
新東名に接続するバイパス工事で壁面の帯曲輪群や土塁が城跡認定されないまま既に掘削開始されているんだな。
昨年、発掘調査結果が出たが発掘調査した学芸員サン達の中には意図的にか城郭の専門家はおらず、調査報告の内容も既に農地改良された削平地の“道の跡しか無い”と言う事に成ってしまった。
実際に城好きが歩けば一目瞭然、彼等素人が❝自然地形❞と勘違いした大空堀は明らかに裾切りされているし壁面は帯曲輪や武者走りが沢山残っていて更には一部土塁も有るのに、故意にか解らないが調査対象から外されていた。伊勢原市サンの方では県の事業なので横槍も出せない状況なんだな。
・・・だから、カーナビに任せて遠回りしてコチラに来させられたのは「正月の間に城址の残存地形探して写真撮っとけ!」って太田道灌公に言われた様なもんなのかな?とか思ったりした。
・・・まぁ、車の純正ナビがクソ性能なだけだけど(笑)。有る意味丁度良かったのかも知れない。
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太田道灌公をリスペクトしていたライバルの北条早雲公が伊勢原市や厚木市一帯を支配地域に組み込むと、太田道灌公の親友だった万里集九と言う禅僧文化人を招待して太田道灌公の菩提を弔った。
北条家は曹洞宗に帰依していたので当然、こちらも復興される際は厚木白山温泉の金剛寺と同じく曹洞宗寺院に成った様だ。御住職の御話しでは建長寺で学問を治めた太田道灌公の御存命時は太田家所縁の寺らしく臨済宗だったそうだ。そもそも“道灌”の“道”は臨済宗に多い入道号だからな。
御住職様と面識が出来て以来、太田道灌公の文書で解った事の報告に来たりローカルな情報を色々と御教示頂いたりしているんだな。だから御正月に太田道灌公の御霊と御住職に挨拶差し上げに来れたのは有る意味幸運だったのかも知れない・・・ぽんこつカーナビの御陰(笑)?
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御本堂には太田家の太田桔梗紋。
庫裡に行く前に本堂で金剛寺に続いて釈迦牟尼仏様に改めて御参りしていたら御住職様がヒョコっと横から出て来られたので、はからずも立ち話しをする事に成り、そのまま新年の御挨拶をしたのだが・・・「太田道灌公の論文を週刊プレイボーイが掲載し写真使用許可の挨拶に来て読んだけど面白かったよ」
・・・と、まさかのグラビアとゴシップ中心の雑誌(笑)で真面目な太田道灌公がらみの記事が掲載された事を知らされた。全く縁の無い方面の雑誌なので意外だったが、やはり実際に色んな人に有って話をして回らないと自分だけで取捨選択する情報と言うのは偏りがちになるので幅が広がらないな。
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暫く話し込んで、再度新年の挨拶をしてから道灌公の御位牌が安置されている霊廟(歴住の御廟も兼ねる)への参詣許可を御住職に頂いた上で御堂の扉を開いて先ずは御位牌に新年の挨拶をした。
中には❝洞昌院殿心圓道灌大居士不退位❞と書かれた位牌が安置されている・・・
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つまり太田道灌公の戒名であり、普通見慣れないであろう❝不退位❞号は菩薩様の入口段階の位階を表す。太田道灌公は幼少期より鎌倉の巨福山建長興国禅寺=建長寺で学問学び精神を修練された“禅僧”でもあったんだな。
アホのWikipediaでは伊勢原の大慈寺が道灌公の首塚と伝わる事から大慈寺殿心圓道灌大居士と戒名を書いてしまっているが、近年の研究で大慈寺の道灌さんは江戸時代の別人じゃないのと疑義がかかっている(笑)。江戸時代にいた下糟屋の高部屋神社界隈を開拓した道灌さんと混同している可能性が高いんだな。
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写真は鎌倉市の英勝寺、徳川家康公の愛妾で太田道灌公の御子孫に当たる於梶(おかじ)の方が尼住職を務めた御寺だったが、この境内は室町時代の太田家の屋敷跡だったりする。
・・・そして決定的な事実として、道灌公の首塚は鎌倉市の太田道灌公の屋敷地である英勝寺に守られていて、昔から道灌公の鎌倉邸の直ぐ裏の鎌倉山に御首(みしるし)は埋葬されていると、鎌倉市と英勝寺と徳川幕府は認識していた。まぁ、そこ等辺は置いておいても大慈寺の件は地元民の太田道灌公リスペクトが生んだ伝承なので悪意も無いし、間違えられている人も有る意味光栄だろう。
・・・歴史学者の中は宗教に対する信仰心も先人へのリスペクトも無い人が可成りの割合でいて、御子孫や御霊を守る社寺の宮司様や和尚様や氏子サン檀家サンに向かって其処(そこ)に関わる歴史人の名を呼び捨てにする不届き者が沢山いる。それが小生は気に食わないので昔、とある歴史学者と喧嘩した事も有る。自分だけでも偉人の俗名を呼ばせて頂く際は“公”を付け様と心がけているし、世間に先人の正しい戒名も伝えたいと思っている。戒名には色んな意味が含まれているし、徳川幕府役人の中には教養が無い奴も仕事が出来ない奴も当然いて社寺領安堵の御朱印で寺社の名前を間違って発給したり法名の抜粋すべき所が解らず見当違いな部分を戒名から抜き取っていたり、有ろう事か戒名=入道号だと思っている奴までいて誤った記録が幕府編纂の諸家系図にも記載されてしまっていたりするんだな。
太田道灌公と歴住の御位牌を拝んでから御廟を離れ、境内に有る太田道灌公胴塚に向う途中で境内社の吉祥弁才天様に参拝。
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弁天様に昨年一年御加護御守護頂いた御礼を申し上げ新年の祈願を御伝えした。
弁天様と言えば江ノ島の八臂弁財天様と天皇家勅願所の岩屋だが、これを管理した別当岩本坊は代々、横浜の殿様の間宮家の同族の岩本坊間宮家が別当職を務めたので、横浜市民の小生にとっては弁天様は何よりも代えがたい勝利と開運の女神様なんだな。
吉祥弁才天様の奥に太田道灌公の胴塚が存在している・・・
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太田道灌公とライバルであり道灌公をリスペクトしていた北条早雲公と、道灌公の親友だった万里集九禅師が御一緒に道灌公の御首の無い胴体を改葬され御廟所とされた場所。
ここは小生にとっては思金神や莵道稚郎子命や天満大自在天神菅原道真公に次ぐ知恵を授けて頂く仏様であり高い教養と無敗の軍師としての道灌公に文化と勝負の御利益を授かる為の場所でもあり、何より尊敬する道灌公に御挨拶と報告と御礼をする場所なんだな。
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御廟所の枯れた大木は北条早雲公と万里集九禅師が二人で道灌公の供養に植えた松の枯れ木だ。
500年の時を超えて今も幹が大切にされており、ここでは太田道灌公、北条早雲公、万里集九公と時間を超えて空気を共にする事が出来るんだな。
今年は正月から御参りで来た御礼と、再び新年の心願を伝えた。
扇谷上杉家糟屋館周辺地形 久良岐のよし
この公所寺から太田道灌公が主君の扇谷上杉定正公に襲撃された糟屋館の湯殿入りの虎口は近い。
付近には道灌公の7人の配下武将が敵勢を食い止めようとして落命した場所の七人塚や、延喜式には掲載無いが延喜年間以前から存在した式外社の山王権現、現在の上粕屋神社も在る。
せっかくカーナビの御蔭で(笑)七沢城に行かなかったので糟屋館城址周辺で規制のかかってない無い地域を歩いて廻る事にした・・・

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先③に続く。





結論から言うと正月1日は横浜市栄区と港南区近辺をウロチョロしていた。
小生が横浜で1番の知恵の神様と崇拝する永谷天満宮に参拝客の少ない早朝に参拝してから、夜明けの時間に合わせて円海山に富士山を拝みに行った。
永谷天満宮では神職の方々が早朝の5時頃なのにも関わらず詰めておられた。
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永谷天満宮
大変だな…御正月とは。
御神籤を引きに社務所に行ったら禰宜サンがもの凄く眠そうだった(笑)。
「ご苦労様です、当直ですか?」と御声掛けした所・・・
「2日間泊まり込みなんです~」との事。
・・・こうやって神社の場合は神職の方々の御苦労と氏子サン達、御寺の場合は和尚サンや檀家サン達の努力がそれぞれ有るから一般参詣者は御祭りや神事や様々な行事に参加し日本文化を感じられるし、神仏に祈願する事で何だか安心する事も出来る訳だな。
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社務所の前では焚火の火も絶やす事なく燃えていて冷えた参拝者が手を温める事が出来た。
永谷天満宮の神職氏子の皆さん年末年始御疲れ様でした。小生が横浜に置ける知恵の神として崇敬する菅原道真公と菅原景行公と菅原淳茂公の御陰様で昨年1年間過し無事に新年を迎える事が出来ました。
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社殿に移動し天神様に参拝し、1年間の御礼と自分の祈願と諸外国の親日家の人々の平安祈願をした。
因(ちな)みに・・・
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御神籤は大吉だった(笑)!素直に喜んでおこうかな♪
栄区方面に戻り円海山で初日の出を見るのと土地神様の思金神社に御参りに行く為に車に乗り移動・・・
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円海山

う~ん、今年は少しガスってたけれど綺麗に雪化粧した富士山を拝む事が出来た。
富士山は只単に美しいと言うだけでなく明治時代までは自然信仰で神道修験道仏教の全てで此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の化身として崇拝の対象に成っていたんだな。そしてココは奈良時代の人達も製鉄を営みながら灌漑水田を開発し、鎌倉武士が使った間道が幾本も現存し、現代では横浜市最後の蛍の大生息地体でもある、貴重な自然と文明の史跡であり自然公園なんだな。
有る意味、横浜における聖地とも言える。そして此花咲耶姫命を拝む事の出来る場所なんだな。
だから涼しく気持ちの良い晴天の御正月に御化粧した綺麗な富士山を拝めて、とても晴々した気持ちで新年を迎える事が出来た。
・・・ちなみに日の出はポジション取り間違って見えなかった。円海山から日の出を見たかったら金沢区側の展望台じゃなきゃダメだな。

日は変わって正月2日目。
この日の早朝出発~深夜帰宅する約20時間で怒涛の19箇所の神社仏閣聖地と史跡を廻って来た。
この日は地元横浜の神社の思金神様や天満大自在天神菅原道真公や・・・
金沢北条実時公、蒔田御所吉良成高公、吉良頼康公、宅間上杉重兼公、上杉規富公、間宮康俊公、間宮於久様、間宮於継様、間宮綱信公、間宮常信公、間宮信繁公等の侍大将や姫様達。
渋沢栄一サン、原三渓サン、浅野総一郎サン等の横浜の発展と復興に力を尽くされた商人達。
・・・崇敬する横浜市に御縁深い歴史偉人のこれらのと同じく尊敬し毎日、心の中で拝んでいる神様仏様と県内他地域所縁(ゆかり)の歴史偉人に出来るだけ多く御参りしたいと思い訪拝先の予定を組んだら、当初の予定でも既に20個所ととんでも無い件数に成ってしまった(笑)。
多分、過去最多の1日での訪問件数、内容的にはコンナ感じ・・・
2018年01月02日 訪問先順路一覧 久良岐のよし
・・・我ながら良く廻ったもんだと思う(笑)、ちゃんと御参りして時間かけて廻ったし。
寝なければ時間は作れる(*´ω`*)!
実際には最終目的地の寒川神社までの順路は移動時間だけで4時間近く、家を出発したのは朝の3時少し過ぎた位、帰宅したのは23時位だったろうか?移動時間以外も略(ほぼ)現地を歩き回ってるので当然ながらつまり休憩した2時間を除いて18時間は運転するか、歩くか、買い食いしてるか、宮司サンか和尚サンと御話ししてた訳だな。
ジム行ってる御蔭で何とか成ったし(笑)。
経路をGoogle mapで可視化するとコンナ感じ・・・
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
神奈川県の中部と東部を略グルっと回ったらしい。
上の一覧表は実際に回った場所だが、予定は少し違って伊勢原市の糟屋館と上粕屋神社は廻らずに厚木市七沢の徳恩寺、拉麺の名店ZUNDO BAR、七沢城址を廻るつもりだった。
・・・これは後で書く事に成るが、神様に「そっちでは無いヨ」仏様に「こっちに来なさい」と言われる様に道を間違った(笑)ので流れと直感に任せて洞昌院優先~糟屋館周辺散策ルートに変更した訳だ。

さて、2018年01月02日03時ちょっとに自宅を出発すると、有鹿神社には4時ちょっと過ぎに着いた。
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参道が雪洞(ぼんぼり)代りの提灯に照らされてとても美しい・・・
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有鹿神社本宮
有鹿神社様への初参拝は3年前、愛川町に三増峠合戦の現場歩き取材に行った帰りに、聖地として名高い有鹿谷と勝板遺跡を訪問し奥宮を御参りし、その勢いのまま海老名の本宮を御参りに来て、御朱印頂に宮司様の別事務所を訪問したのが最初だった。
それ以来、小生は有鹿比賣(あるかひめ)様と有鹿比古(あるかひこ)様の御夫婦の神様も崇拝する様に成り、頂いた御朱印を大切にしている。
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本殿で有鹿の夫婦神様に御参りし、昨年1年間の御礼と今年の小生個人の心願と友人家族恩人恩師の平安祈願と親日諸外国民の平安祈願をした。
本殿も幻想的に提灯の明かりで浮かび上がって美しかった。
所で初めて正月に御参りに来たのだが…
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何か狛犬サンの御胸の辺りがウルトラ怪獣のゼットンみたい光ってて(笑)
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・・・コチラの禰宜さんの遊び心。
天智天皇が国家鎮護の勅願所にする前から庶民に寄り添い農耕を守護し家内安全と良縁結びの神様として存続して来た人懐っこい神様の神社らしい遊び心。
古社なのに偉ぶらず、尚且つ水引き神事の様に古代からの神事を大切にする、こんな柔軟な場所も有って良いと思う。石清水八幡宮の宮司様も神社本庁トップだけど歴代天皇の御意思を尊重され古来の神仏習合時代の文化も大切にされたり新しい催しにも協力されたり色んなアイディアを出されているので現代の柔軟な神社本庁トップの方針にも合っているんじゃないかと思う。
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有鹿神社の境内には有鹿天神社が在り、此方でも前日元旦に永谷天満宮で正月の御参りをした菅原道真公に改めて参拝し、新年の御挨拶と2日当日の旅の無事を祈願した。
車に乗り八菅山に移動。
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八菅山は明治時代に日本の宗教が森有礼(ありのり)等、キリスト教信者政府高官等によってプロテスタント国の英米の猿真似で自然崇拝の神様と平和の哲学の仏様が引き裂かれ宗教自体が作り替えられるまで日本神話の聖地で神職のみならず修験者や仏僧からも聖地として崇拝され多くの寄進が集り物質的にも興隆し、神仏ともに尊重する修験道が仕切る日本屈指の大道場だった。そして行基大僧正が来訪し天皇の勅願を祈願した神仏ともに大切にされた天皇家の勅願所としても機能した霊場でもあった。
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始まりは日本武尊の来訪に由る・・・
「山体の形状が蛇に似ている」
・・・と言う主旨の発言を日本武尊がして聖地として大切にされる様に成ったそうだ。しかし今では山での採石やゴルフ場の乱立で美しさが無いし宅地化で細かい地形は良く解らないが、確かに河岸段丘で細長い形はしている。八菅神社周辺地形 久良岐のよし
宅地化した部分も昔は山でもっと長い山体だったのかも知れない。
まぁ~小生は相模川の大きな支流が八本有って八岐大蛇(やまたのうきろち)の様に見えたんじゃないかな~とか伝承と違う山の名の由来を考えたりした。菅(すげ)は菅(すが)とも読むし菅は須賀神社の須賀に通じるからね~。
須賀神社の御祭神は素戔嗚命だし元は相模川を八岐大蛇に見立て河の氾濫を抑える祈願所で、だから日本武尊が東征の折りに立ち寄ったんじゃないの?多分、古代は渡河地点が付近に有ったんじゃなかろうか?
・・・とか考えてしまう。日本武尊は走水にも須賀社を開いて軍神海上交通の神様として素戔嗚命を祀ってるからね~。
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何にせよ修験道や神職や僧侶の聖地として栄えたので明治の破壊までは神廟や御堂合わせて50余りの大小神社仏閣が混在し大変多くの参拝者と修行者で賑わっていたそうで、この愛川町の八菅山と伊勢原市の大山、そして京都の男山に在る石清水八幡宮等と合わせて日本で5本の指に入る大聖地だったそうだ。
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そして、参道を奥に進み、そんな歴史を説明している看板の写真を撮ろうとした際に気が付いた・・・
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「夜明け前で何も見えねぇ~」
「階段超急だし!」
「クロックスで夜に来る所じゃねぇ~(笑)」
・・・う~ん、甘かった。
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本殿に着いたがハッキリ言って真っ暗で何も見えない(笑)!
でもちゃんと参拝して御賽銭を払って日本武尊と弟橘姫様と神様達に諸々の祈願をして、一度山を下りて車まで戻って1時間程待機してから日の出を待って再度、参拝して写真撮影する事にした。
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そして夜明け到来。
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八菅神社(八菅山七所権現:天皇家勅願所)
当たり前だが朝を迎えると自然豊かな参道が良く見える。
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夜は何がなんだか解らなかった鐘楼の文化財として解説も読める様に成り・・・
石段もちゃんと見える様に成った。
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本殿は木々に囲まれまだ薄暗かったが、造りが観察出来る様に成った。
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改めて社殿を見ると、どうも神社と言う感じでは無い。元々は修験道の御堂の一つだったんだろうか?
しかしながら規模は大きい方だ。
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御賽銭箱には八菅山七社権現=八菅神社の社紋・・・九曜紋だな。
これ、後日03日にPCに写真を取り込んでいて気が付いたのだが、八菅山の神様が参拝を歓迎してくれた様な写真が撮影出来ていたのと関係してる紋様なんだな。
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額の字の色は薄く成っていた。
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さて、ここは凄い人物が関わっている事が説明書きにも有る。
小生は以前、愛川町の観光課の職員さんと教育委員会の職員さんに愛川町ガイドブックを頂いたり解説をして頂いていたので少し知っている。
小生が尊敬する戦国時代の北条家とも関係が有る。
先ず、ここの凄い所は関わった人物達だ・・・
日本武尊に始まり、
行基大僧正(日本最初の大僧正)
源頼朝公(征夷大将軍)
足利尊氏公(征夷大将軍)
足利持氏公(鎌倉公方)
遠山綱景公(北条家重臣、江戸城代)
徳川家康公(征夷大将軍)
・・・等々、名だたる歴史偉人が崇敬し支援していた歴史が有るんだな。そりゃそうだ、日本有数の聖地だったのだから。
まぁ、そんな訳で八菅山の修験道と神話の聖地は明治以降、英国の猿真似をやった役人によって寂れてしまったけど神様達は今もここで愛川町の人々や参拝客を守って下さっている様だ。
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まぁ、そんな場所だが明るい朝陽に照らされている八菅山の神社の在る場所を改めて見ると、三角形をしていて丸で奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)の様な佇(たたず)まいなのが理解出来た。
帰ろうとして駐車場に向かう前に鳥居の前で朝陽の方を振り返ると日の出が見えたので写真を撮影して置いた。
どうやらこれが八菅山七社権現の神様達から小生への御褒美だったんだな。
八菅神社の御神紋は九曜紋・・・
九曜紋
そして3日に成って気が付いたが、八菅神社の前で撮影した日の出の光が九曜紋に成っていた。
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神様、御褒美ありがとうございます~♪
まぁ偶然レンズに写り込んだ光だけど、御参りした八菅神社の御神紋と同じ九曜の朝陽の写真、縁起良いよね。
こんな幸運にその時は気が付かないまま駐車場に戻り車に乗ると、次の目的地の厚木市飯山温泉の華厳山金剛寺に向けて出発した。

【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先②・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、大師堂~華厳山金剛寺~蟠龍山洞昌院公所寺~太田道灌公御廟)に続く。

年末の横浜南部市場に2日間に分けて蟹と鮪の柵を仕入れに行った。
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30日、場内市場の鮮魚棟。
年内営業最終日の店が多く、売れ残りを避けたい店が鮮魚を値引きしてくれるんだな。
今年は蟹が種類問わず不漁で値段が若干昨年より高め。
まぁ、毛蟹も店で値段はマチマチ・・・
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2500円・・・
冷凍の毛蟹だけどソコソコ。
次の店・・・
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1800円。
質が悪い訳じゃなくて元からのランクと在庫数の兼ね合い、それと本当に営業終了予定時間が差し迫ってる店から安く成っていく。
でも昨年、市営から外れ公設市場では無く成ったせいで逆に民間化して客足が増え(た笑)、それで今年は店も強気で値下げしてくれない(-_-;)。
そして・・・
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昨年も値下げしてくれた店で活毛蟹が1500円!まぁ、昨年より最終値200円高いがそれでも安いよね~。
即決で4杯購入。
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本日、31日大晦日。
早朝04時に自宅を出発し川崎市高津区の橘樹神社に向け出発・・・
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橘樹神社
この神社は御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)の奥さんの弟橘媛(おとたみばなひめ)。
実は神社は遥拝所。
今では住宅街に成ってしまった背後の丘が昔は巨大な円墳で弟橘媛の遺品が埋葬されていると伝承する。
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神社は真っ直ぐ背後に円墳の頂点を背負って存在する。
先ずは神社で弟橘媛様に1年間の御礼参り。
その事、弟橘媛御陵の登頂部に移動。
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本来なら橘樹神社の本宮に当たる古墳の残存部に登り、弟橘媛様に御詣りし感謝と心願と来年又、参拝に来ますと御伝えし南部市場に向けて出発。
途中で大倉山のセブンイレブンに寄道・・・
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・・・実は大倉山梅林の梅酒“梅の薫”が“いつもなら”売っているのだが、今年は眞子様の婚約で贈物として大倉山の梅の薫が選ばれたとTVで紹介されてしまったせいで売り切れだった。残念❕
そのまま下道の綱島街道沿いに横浜市磯子区を目指す。
延喜式内社と式外社と寺院と古代の海岸線 久良岐のよし
実は橘樹神社~綱島~神奈川区三枚橋交差点~六角橋の道は恐らく日本武尊と弟橘媛御夫妻も走水を目指して当時は港だったであろう宝秀寺の在る六角橋まで歩いた道のはずなんだな。
しかし今回は三枚橋交差点~六角橋には向かわずに片倉町経由で三ツ沢を通り横浜駅前を通過し保土ヶ谷区の洪福寺方面に行き、そこから南区堀之内に至り中村川沿いに磯子区に入った。
三枚橋交差点の在る三枚町は江戸時代までは三枚田村と呼ばれ一帯は“店屋(てんや)”と言う古代大和政権の駅伝制の中継集落で行政区域だった名残の“天屋”の地名が旧住所の小名に残っていた。
小生が今日通った三ツ沢方面の道を日本武尊が歩かなかったと断言出来るが、それは横浜駅が開かれて以降に主要街道として開かれた道だからだな。
何故なら江戸時代にもまだ横浜駅周辺は平沼や岡野の先、天王町の手前まで海で根本的に陸ではなかった。
当然ながら弥生時代~古墳時代の皇族である日本武尊の時代も横浜駅辺りは海の底。
東海道五十三次 神奈川宿 田中家
江戸時代の歌川広重が描いた神奈川宿の浮世絵。
今は台町と呼ばれる丘が江戸時代の東海道で旅籠が並んでいた。絵に描かれた海が今の横浜駅辺りだな。
因(ちな)みに坂本龍馬サンの没後に未亡人お龍サンが働いていたのも、ここの田中家だった。
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葛飾北斎が描いた富嶽三十六景:神奈川沖浪浦もこの辺りの海。本牧半島辺りの風景だろう。
江戸時代には東海道は陸の道に成っていたが、実は日本武尊と弟橘媛御夫妻の時代の東海道は今とは大分異なる。
古代の街道と延喜式内社&式外社&遺跡の分布 久良岐のよし
そもそも昔は富士山の北側~御殿場を抜け~寒田神社~比々多神社~有鹿神社本宮~神崎遺跡~宇都母知神社~大庭神社~鎌倉~逗子駅辺り~葉山町~上下の山口地区~を経て走水神社に至り海を越えて房総半島の富津に至る文字どおり海の道が東海道だった。
古代東海道ほぼこんな感じ・・・
矢倉沢往還
     +
高座郡を貫く県道406号
     +
鎌倉郡を貫く県道43号
     +
三浦半島内の国道16号線
・・・これが大凡(おおよそ)の古代の東海道なんだな。
日本武尊はモデルが数人いる筈で古代の大将軍に相当する官職名に由来する神号だと推測している。
そして小生は素戔嗚命の後に軍を司った卑弥呼が倭姫、卑弥呼の弟が景行天皇で九州で活躍した初代日本武尊、二代目が走水に来た日本武尊、三代目が菟道稚郎子命、四代目が恐らく武蔵国造の乱を調停したであろう雄略天皇だろうと何となく神話、各神社の社殿、考古学、地理と地形の情況から推測している。
この内、綱島街道沿いを歩いたり船で往来した可能性が有るのは恐らく大伴部と吉備氏を与力とし后が弟橘媛だった景行天皇の皇子で2代目かも知れない弥生時代末期の一般的に日本武尊の神話として知られる最初の東征を行った皇族の大将軍と、四代目で武蔵国造の乱を調停したかもしれない古墳時代の雄略天皇だろう。
まぁ現代では川崎市高津区や横浜市港北区からは横浜駅前を通り磯子に抜けるのが磯子区・横須賀への1番のショートカットだ。
途中で又、寄道し神社に参拝・・・
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八幡橋八幡神社だな。
八幡橋八幡神社・・・ここは古代には現代の陸地から見て上空に社殿が在ったであろう場所(笑)。
ラピュタ的な意味では無くて江戸時代に現在の関内辺り~吉野町の海だった吉田新田地域を埋め立てる際に八幡橋八幡神社の辺りの久良岐の丘を一部開削し、その土で海を埋めたんだな。
だから八幡橋八幡神社は現在では低い場所に在るが昔は本牧半島の付根に存在したはずだ。
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この神社は奈良時代には存在していたと伝わる。古代から存続する神社はだいたいが古代の半島の付根か先端、若(も)しくは湧水地や奇岩や古墳の傍に所在する。
だから神社の歴史を踏まえると、成立時は開削前の久良岐の丘の在ったので今の位置より“上空に在った(笑)”事に成る訳だな。
実は小生の血が繋がらない義祖母の実家は元は横浜のシルク商で、この八幡神社を崇敬していた。八幡宮の神様は海上交通と治水と産業と軍事の神様なんだな。
だから古い八幡宮は海に付き出した半島の付根や川や湖の港だった場所に多く分布している。
小さい時に義祖母と一緒に御詣りした神社で神様に1年の御礼を伝えて御参りを終えると横浜南部市場に移動した。
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行きつけの場外市場の鮮魚店に又、最終日の弱味にツケコミ(笑)買付に。
南部市場で職場の同僚と待合せし、鮮魚店を見て廻るが余り安くない。
今年は客足が伸びて値下がりするタイミングがまだ来ていない。イブリガッコ等を購入して同僚とは解散、時間を空けて又、後で小生が再訪問し同僚にはLINEで値段を伝えて買い付ける算段に予定変更。
そこで、値下がりするまでの時間稼ぎに後で訪問する予定だった三浦半島の横須賀市域に在る走水神社に向け出発・・・
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走水神社
朝から氏子サンがお掃除してらした。
年越しの御詣りに備えての準備かな。
一般参詣者が神社で初詣出来るのは、こんな祭事の準備や神社の維持の努力をして下さる各神社の氏子サンの御蔭様。感謝。
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本殿で日本武尊と弟橘媛様と大伴黒主様と天磐楯命に改めて1年の感謝を伝えてから来年の心願成就をお助け下さる様、そして国籍人種問わず日本の自然と文化と歴史史跡を大切にする“親日の人間”の平安を祈願した。
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ちゃんと東郷元帥や乃木大将が大切にした奥宮にも参詣した。
参拝後に暖かい珈琲が飲みたくて近くのコンビニに行くと人懐っこくて毛並みの綺麗な柴チャンがいた。
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尻尾振って寄って来てくれたのでモフらせて頂いた🎵
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そう言えば新年は戌年だっけ?
縁起が良いね、ありがとワンちゃん!
南部市場に戻る途中で横須賀名物のポテチパンを販売する中井パンに寄道・・・
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中井パン店
朝御飯食べてなかったからオナカ空いちゃったよ。
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大晦日だけど御客さん来てたね、大晦日も昼まで営業されるそう。
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朝食代わりにポテチパンを食す。
海苔塩味。
車中ポテチパンを頬張りながら運転し30分位?南部市場に到着したのが10時前後。
でも安くなるの待つのに持久戦、先に車の中でスマホでFF3やりながら時間を潰し11時位、早めの昼食に市場の食堂で鯵・シラス丼食べて時間稼ぎ・・・
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・・・攻城戦と同じで相手=市場の店は営業最終日の今日中に在庫を売り尽くすと言う勝利を得なければいけないのだが、戦う為の残り時間と言う名の兵糧が切れる時刻はあと数時間でやってくる。ソレを恐れ必ず買物客(敵)に和平の値下をしてくるはず(笑)。
対してコチラは相手が兵糧が僅(わず)かに成り“音(ね)を上げて値を下げる(笑)”のを悠々と食堂と言う名の付城で暖房に当たりながら食事と言う名の兵站(へいたん)を確保し対陣(笑)。
値下げしてくると踏んだ営業時間終了の1時間前位に行動開始、そして・・・
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・・・勝利の瞬間到来(*´∀`)」❗️
値下してくれた社長さん、ナイスガイのニイチャンあんがとな!
皆さん、この店の名は場外市場の浜光水産ですよ~♪
浜光水産
真実一路、新鮮な魚を取り扱い客に親切に心地光明の精神で対応して下さる最良の鮮魚店です。新年の買出し何卒贔屓にして上げて下さい♪
・・・何て御膳立てを魚屋さんにしてみる(笑)。
タラバ足を2つ買い、あと場内で作業してたこの浜光水産の社長さんから事前に御薦めとしてリサーチしていた特選の鮪の柵、それと刺身用の帆立貝柱を購入した。
因みに頼むと店頭に並ばない魚も用意出来るか調べてくれたりする本当に親切な店なので小生は家で魚食べたいと良く円海山の麓の家から買い出しに来るんだな。

・・・ふむ、横浜での土地神様の神社の宮司様と御世話に成ってる御寺の和尚様に先週挨拶も済ませたし、今日は小生が崇敬する夫婦神様と与力の神様にも挨拶を済ませれたし、カニも鮪も正月に備えて補充出来たし・・・
良い1年の締め括りに成った。

神様と仏様と御先祖様と恩人と恩師と家族と同僚に感謝!

追記
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蒸し上がったでござる。
生きたまま蒸した蟹サン、美味しく御命頂きます🍴🙏。
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蟹サンの分も善き人と日本文化と親日の人の為に自分の命を使わねば。

前回
 ↓
【休日雑記】2017年11月22日の訪問先その③源実朝公首塚~金剛寺・・・源氏将軍暗殺ミステリーの史跡と御寺と解説編。
 ↑
コレの続きの記事・・・
22日訪問その③
前回の記事で紹介した金剛寺を出発してから弘法山に向けて暫く車を走らせるとカーナビの「まもなく右折です」のガイドが自分の思ってる道と違って何だか無視したくなり(笑)、そのまま暫く直進してから弘法山方面に行く別の道を進むと偶然とても気に成る店構えの建物と看板が目に入って来た・・・
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強烈に目立つ「ゆばとうふ」&「とうふ」「とうふ」「とうふ」「とうふ」「とうふ」の看板と幟(のぼり)のラッシュ(笑)・・・
これを見た瞬間に妙に印象に残り「そう言えば秋なのに今年は大山阿夫利神社に紅葉見に行ってないし、丹沢山系大山名物の大山豆腐食べてないなぁ」
・・・と今回の小旅行で何にも特産品を食べていない事を思い出し、無性に丹沢山系の美味しい水で作られた名物豆腐を夕食に買って帰りたくなったので店を過ぎてからUターンして(笑)戻って来た。
幸い店の前に駐車場が在った。
店の名前を五右衛門と言うらしい。
(株)五右衛門 本店店の中に入ると意外な光景が小生を待っていた。
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何と只の小売店では無く客の目の前で豆腐や湯葉を生産しているのだ。これは外国人の来客が有った際に弘法山の桜や紅葉見物と合わせて連れてきたら喜びそうだ。
無論、小生も帰宅してから夕飯(減量中)と家族の御土産にする為に❝石臼なまゆば❞・❝石臼とうふ❞・❝生揚げ❞・❝なめらか絹揚げ❞の4品を購入してみた。
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帰宅してから小生は湯葉と豆腐を食べたら当然ながらメチャクチャ美味しかった♪
質問に色々と親切に答えて下さった店員のお姉さん、ありがとう。
遠回りで思わぬ美味しい発見。
五右衛門本店サンから車で僅か10分の距離に弘法山は在る・・・
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弘法山に夕方に差し掛かる15:30頃に到着。当日は天気予報が晴れ後→雨だったので心配していたが、やはり雨が降り始めた。
この弘法山は春が特に綺麗な富士山の景勝地として有名で、天気が良ければハイキングを楽しむ人と多くすれ違う。
因(ちな)みに春の風景はコンナ感じ・・・
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弘法山展望台そう言えば一昨年に弘法山で桜と富士山を見た時も天候が芳(かんば)しく無かったんだ(笑)。
まぁ、あと4ヶ月も過ぎると桜が咲くので、ここは新たに見つけた五右衛門本店サン、そしてこの後で訪問する“鶴巻温泉”と合わせて行くと良い休日に成るだろうと推薦できる場所だな。大山も近いので車での移動の人なら合わせて訪問しても良いかも知れない。
さて、22日に話を戻す。
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天気も悪く日暮れも近いので車を駐車場に停めて展望台まで10分位急いで登ると慌ただしく紅葉の写真を撮り始めた。
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一応、ハイキングコースとして有名で紅葉も楽しめる。
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ここはやはり展望台に登のが御薦めで・・・
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丹沢山系~箱根山系~(晴れてれば富士山)~伊豆半島の山並みの絶景が一望できるんだな。
そして春には手前に桜が、秋には紅が差した山の木々が景色を化粧してくれる。
この日は生憎天気が悪かったが、それでも爽やかな空気と箱根の絶景を楽しめて大満足だった。
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曇りのせいで余計に光を感じれたし、山々に雲が掛かり、これはこれで楽しめた。
まぁ、正直この日の最大の目的は最初の大雄山最乗寺の紅葉(笑)と、弘法山の後に訪問する予定の鶴巻温泉の秦野市市営銭湯“弘法の里湯”だったので、多少天気が悪いのも風情の内と楽しめる余裕が有ったんだな(笑)。
これが一人だから自己責任で良い訳で、外国の友人やらと一緒に来ていたらエスコートする責任から正直、悪天候を楽しめなかったかも知れないな。
弘法山の駐車場に戻り、車に乗るとナビでは弘法の里湯まで15分と出た。
しかし実は小生、以前来た時は弘法の里湯への道が解らず、時間的にも余裕が無かったので小田急鶴巻温泉駅周辺まで来てもスルーしてしまった事が有る。
今回はカーナビ先生に事前に位置登録しておいたのだがこれが実際に車で走ると路地の細い変な道に入られるわ~、温泉街じゃなくて住宅街化していて全然解らん!
仕方ないのでスマホのGoogleMap先生に登場して貰った。
鶴巻温泉周辺 久良岐のよし
あっさり到着(笑)。
小生の車の某自動車メーカー純正カーナビはクソだ(笑)。iPhoneとの接続不良も度々起こすし変な道走らされたり高速の出口を変な場所で降ろされたりするので、基本的に旅に出る前には小生は道順をだいたい地図見て丸暗記する様にしている。でも、こういった住宅街の路地はどうにも成らん!
そこの当たり、スマホの登場でGoogle mapが使える時代に成り非常に重宝する。
行きたい場所を事前にやたらめったら登録して置くと、距離感が解り易くて道路状況に合わせて柔軟に計画の変更も出来るし。
Google先生にガイドを頼んだらアッサリ到着(笑)。
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弘法の里湯何だか思っていたのと違う、銭湯と言うよりスーパー銭湯だな。
でも駅前なのだが駐車場もそれなりに有り交通の利便性は良い。
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綺麗だし。
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秦野市の御土産も売っていた。小生は秦野市と言うと特産品は“煙草の葉”と“美味しい水”のイメージなんだが店員さんに聞いたら落花生も有名だそうだ。
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まぁ当然混浴では無い(笑)。
中は箱根の中堅ホテルの内風呂位の大きさの大浴場と、小さな露天風呂が一つ。
料金は2時間と1日の2種類、曜日によって違う。
平日は2時間800円、1日1000円(秦野市民は800円)。
土日は2時間1000円。
フロントに最初に申し出れば駐車場料金のサービスも受けれる。
弘法の里湯の温泉は横浜・川崎市民や東京都民に馴染み深い黒湯炭酸泉と全く異なり、無色で若干硫黄ぽい匂いがする気がする物だった。何でも世界有数のカルシウム含有量が有る温泉で、擦過傷や打ち身とリウマチの治癒に効果が有るそうだ。昔は湯治場でも有ったので飲湯すると薬代わりとしても持てはやされたそうで胃腸病の回復にも効果が見込めるそうだ。
・・・朝から山を2つ登り、史跡と御寺を廻って書いた汗をゴシゴシ洗い落とし、鶴巻温泉のサッパリした湯で疲れを癒すとリフレッシュし、睡眠不足の帰路の運転に堪えるだけの鋭気を養う事が出来た。
メンバーカードみたいのも頂いたので、又来年の紫陽花の季節に開成町の紫陽花祭りと寒田神社参拝の帰りに寄らせて頂こう。

この日、最終的には真土大塚古墳を訪問して写真を撮影する予定だった。
2017年11月22日訪問予定地
真土大塚古墳は日本に文字を齎(もたら)した神であり大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)=仁徳天皇の弟皇子の莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)の御陵(みささぎ)=古墳の跡で、アホの神奈川県教育委員会が一昔前に保護を怠り事も有ろうに農地改良と称して破壊してしまった歴史がある。
挙句の果てに教育委員会が伝承をナメてたら本当に古代王族と繋がりを示唆する三角縁神獣鏡が出てきてしまったから、さぁ~大変!
はからずも前鳥神社の由緒を証明する事に成り、神奈川県教育委員会は己らの不見識で天皇祖先御一族の皇子の被葬されたまま保存されていた古墳を破壊した訳だからな。
昭和中期から時代が経ち現代、市民が増えて認知度が上がる程に責められる訳だ。だから現代の古墳を復興した。
復興した古墳だが、それでも昔そこに莵道稚郎子命が眠っていた事には変わらない。
学問の神様として崇拝する莵道稚郎子命の復元御陵を改めて参拝し写真撮影したかったのだが、残念ながら弘法山の時点で既に日没を迎えタイムアップだった。
22日訪問その③
それでも帰りの順路に組み込んで横は通って見たが、やっぱり真っ暗で何にも見えなかった(笑)。
正月3賀日のどこかで伊勢原市の比々多神社と平塚八幡宮と前鳥神社も参拝する予定なので、その時に改めて訪問しよう。

さて、今回の旅、やはりハイライトは最初の大雄山だった(笑)。
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まぁでも“なんつっ亭”で久しぶりに美味しい九州風拉麺も食べれたし、出雲大社相模分祠も御参り出来たし、源実朝公にも命日の前日に御挨拶に伺え参拝で来たし、全体的には満足な旅と成った・・・

この後、日にちは前後したが訪問したのが下の記事で紹介した“三渓園”・“山下公園前銀杏並木”・“報国寺”・“鶴岡八幡宮白幡神社”での紅葉見物だったんだな。
コレがその時の記事
 ↓

更にその後日、小生が顕彰活動を行っている宅間上杉家の殿様所縁の神社である下永谷の神明社・・・
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そして三浦半島の富士山の絶景スポットにも行って来た。
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又、改めて解説記事で紹介したいと思います。

さて、これから年末年始に向けて、又、神奈川県内の凄い御利益の有る神社仏閣紹介記事をボチボチ更新して行きます。
コレね。
 ↓

何とかクリスマス25日の夜には更新完了できる様にしたいと思いますので、興味が有る人は年末年始の神社仏閣参拝の参考に紅白歌合戦でも見ながら片手間で見てやってください。

では!又、その記事で御会いしましょう♪良いお年を!










前回【休日雑記】2017年11月22日の訪問先その②震生湖~福寿弁才天社~八坂神社~出雲大社相模分祀編・・・秦野市北西部の震災の生んだ紅葉名所と神社編。←コレの続き。
22日訪問その③
出雲大社本社の分社であり関東における出雲大社の拠点である出雲大社相模分祠での参拝を終えると車に乗り込んで最初に向かったのが源実朝(みなもとのさねとも)公の首塚だ。
実は源実朝公が鶴岡八幡宮の階段の大銀杏横で暗殺され首を切断された際に、その御首は紛失して行方不明に成ったとする学者がいたりするが、ちゃんと鎌倉と一見関連の無さそうな地域でも歴史を紐解くと実朝公の首塚が記載されていたりするもんなんだな。
現在では、その首塚は秦野市の田原ふるさと公園と成った広場の片隅に御廟所と石塔が有り地域の人に鎌倉時代からずっと守られている。
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普段なら初見の人は解りづらい農道と住宅街の道なのだが・・・
小生の訪問した11月22日は初見でも訪問し易い状況だった。
市指定史跡源実朝公首塚(田原ふるさと公園)CIMG5612
翌日の23日が鎌倉幕府第三代征夷大将軍の源実朝公の命日なので地域の人が総出で八百回忌の供養と毎年行われる実朝公顕彰の御祭りである“実朝まつり”の準備をしている最中で天幕やら実朝まつりと書かれた看板が用意されていたのだ。
この日は土曜日、小生は翌日の日曜日は仕事だったので1日早い実朝公の追善供養の参拝と成った。
実は偶然の命日直前の訪問。こう言った尊敬する先人の命日には何故か御縁が有る小生・・・
オカルト的なものじゃなくて、普段の尊敬から来る行動と興味でエンカウントする確率が自然に高くなるんだろうと思う。
小生は毎日、祖先神と母方の祖先が崇拝していた神様、そして両系統の御先祖様、自分が崇拝する土地神様、それぞれの時代の神様と仏様、妙法蓮華経、般若心経、無量寿経の題目、それに加え尊敬する歴史偉人、幼少期に御世話に成った義祖母と、学生時代の恩師の名を念じ、或いは心の中で唱え毎日の御挨拶と前日1日無事に過せて新たに1日を迎えられた御礼をする。
・・・その歴史偉人の中に横浜に深く関わった河内源氏の殿様達も含まれていて、特に源頼義公・源義家公・源義朝公・源頼朝公・源頼家公・源実朝公にも名を唱え感謝を伝える様にしている。
無論、時間が無い時は「源頼義公、義家公、頼朝公始め河内源氏の殿様方」と簡略化させて頂く場合も多いが。
だいたいスポーツジムでウォームアップに30分走る間に丁度、全部言い終わる位だ。勿論、ジムでブツブツと独り言を言っていたら危ない人なので(笑)そんな事はしない。周囲に人がいるなら心の中で唱える。
そんな訳で、源実朝公の命日の前日に御参りで来たのが偶然でも良かった、普段から守って頂いていると勝手に思っている感謝を伝えられたから。
因(ちな)みに「念」と言う言葉について一つ解説をしておきたい・・・
余談だが頭の中で言葉を読む事を“念じる”事だと勘違いして“念”の動詞を使う日本人が多いが、これは誤用で漢字の意味を間違っている。念(ねん)は中国語の念(Nian=ニエン)を古代日本人が朝鮮訛りで読んだ結果、先ず発音が念(ニエン)○ではなく念(ねん)×で伝わってしまった。そして次に意味も間違って用いられる事が現代では多い。
中国語で学習を促す時に「念書(Nian Shu)」と現代でも言う事が有るが、これは丸暗記する為に音読して精読する事を指す。
本来の“念”と言うのは声に出して唱える事を意味する動詞なのだ。
だから「念じろ!」と言われたら言葉に出して唱えないといけないのだ。決して「頭の中で念じる」と言う事は成立しない。あくまで“声に出して言う”事を“念”と言う。
もし教養が無く嘘ばかり言ってる偽霊能者が「頭の中で念じる」とか言ったら「コイツ馬鹿な詐欺師だな」と思って置けば良い。
そんな“念”の一文字が動詞として浸透したのが、丁度、鎌倉時代、源実朝公が生きた頃の話で浄土宗の開祖の法然上人と直弟子の親鸞上人、そして日蓮上人と踊念仏の一遍上人達が布教した念を精神修養に取り入れた“法華宗”にカテゴライズされた仏教の影響だな。
現代では完全版が伝わらない法華経の教えを元にした宗派で、源頼朝公や源実朝公そして北条義時公も大切にしていた経典だったりする。源頼朝公や河内源氏の歴代殿様は、法華宗の他に真言宗と修験道と神道も非常に大切に信仰していたりする。
源実朝公は法華経を“転読”しているので、つまり“題目を念じた”らしい事も現代に伝わっていたりする。
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上の写真は鎌倉市浄明寺地区衣張山の釈迦堂切通し。
北条義時公の子で鎌倉幕府第三代執権と成った北条泰時公が、北条義時公の没後に供養の為に付近に釈迦堂を建立した事に名前が由来する。
話を源実朝公に戻す。
甥っ子で出家していた公暁(くぎょう)に暗殺された際に首は持ち去られたとされている。ここまでしか調べない或いはメジャーな文献しか読まない連中は「首は行方不明」で終わっている。
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上の写真は鎌倉市の寿福寺の参道、今の季節は多くは無いが紅葉も美しい。
現在の源実朝公の菩提寺は鎌倉の亀谷山金剛寿福禅寺とされているが実は全く関係無い。まぁ、鎌倉市の扇谷地区に存在する“臨済宗南禅寺別格 鎌倉五山の第三位”の格式を歴代将軍から与えられていた御寺で由緒正しい事と母親の北条政子様の菩提寺なので合祀されているのだろう。寿福寺の所在地は元は源氏の邸宅跡でもある。
しかし本来の御廟所は鎌倉市浄明寺地区大御堂谷(おおみどうがやつ)に存在した廃寺:阿弥陀山勝長壽院(しょうちょうじゅいん)に亡骸が葬られたと記録されている。しかし御首は見つから無いまま亡骸が葬られたので勝長壽院には“胴塚”が存在したのだろう・・・
まぁ、源実朝公暗殺には伯父の北条義時公が不可解に鶴岡八幡宮参拝の式を途中で早退したとか中門で待機していたとか各文献の記載が矛盾していたり、肝心の実朝公の“首が見つかっていない”とされていた事からミステリー満載で実は首謀者とされる義時公が暗殺を察知し実朝公を逃がした生存ルートも小生は推測していたり・・・
北条義時公と三浦義村公が結託して源氏の血を根絶やしにした従来の有力説も有り得るとも思っている。
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写真は横須賀市衣笠城址の衣笠山大善寺。
大善寺は三浦一族郎党の学問所として機能した元は真言宗で現代は曹洞宗の寺院。
小生が実朝公の生存シナリオも有り得ると思うのは、実は暗殺の前に源実朝公は朝廷から高い官位をバンバン与えられているが・・・
実はこれは日本の歴史を見ると解るのだが、天皇子孫の平氏源氏等の元皇族や古代豪族有力者を藤原家が暗殺する際の悪い兆候なのだ。官位を上げておいて朝廷に参内させたり、官位受領する相手へ使者を送っておき使者によって相手の側近を内応させる。そして毒殺させたり謀反を起こさせたり陰謀に嵌(は)めるのが汚い藤原家の常套手段な訳だ。小生と多くの歴史家が指摘するが藤原家は蘇我嶋大臣馬子=蘇我馬子を暗殺し蘇我の財産と地位を乗っ取った“百済王族”と言うのが現代では説の1つに成っているが、彼等藤原家は古代から天皇家と血縁の有る豪族を陰謀で暗殺したり、天皇家から臣籍降下して源氏や平氏として豪族に成った関東の武士を平安時代から度々陰謀に陥れている一族だったいたりする。
源頼朝公
実朝公の父上の源頼朝公も落命前日と当日の症状はヒ素中毒が推測出来て、暗殺の容疑者は北条時政の婿の稲毛重成だろう。首謀者は北条時政。そして北条時政は色ボケと勘違い権力欲から源実朝公も暗殺しようとした悪人で子の北条義時公や孫の北条泰時公からも嫌われてロクに供養もされていない。
この老害の北条時政は京都に滞在していた期間が有り、藤原貴族に欲を突かれて煽動される動機が有るし性格的にも自己中心的で利己的な面が強いのでやりかねない。
暗殺事件発生の数年前、源実朝公が急速に官位が上がると側近の大江広元公と北条義時公は“不吉=暗殺”を憂慮していたので諫めている。この憂慮が後に実際の事件に成ってしまう・・・
建保七年(1219年)に鶴岡八幡宮に参拝した際に暗殺される。この参内に先んじて源実朝公に対して側近の大江広元公は「腹巻(歩兵用の体にフィットした胴鎧)を衣服の下に来て下さい」と用心する様に進言していたりする。更に北条義時公も中門に待機しているが中には入れない。
・・・結果的に甥の公暁に暗殺された(事に成っている)。
つまり実は大江広元公も北条義時公もアンテナを張っていたので何か察知していたのだろう。源実朝公は血縁的に北条家と縁が深く、兄で先代将軍の源頼家公は北条時政に暗殺されたのだが頼家公の方は比企家との縁が深かった。つまり鎌倉御家人達の間では“兄弟のどちらを傀儡(かいらい=飾り)将軍にするか”で自分達の出世が関わり権力闘争に図らずも巻き込まれていたのだ。
①従来の説通り北条と三浦に煽動された公暁に殺された。
②藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が守ろうとしていたが失敗。
③藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が実朝公の影武者を用いて南宋に逃がした。
④暗殺を察知していた源実朝公は波多野家と共謀し影武者を立て自力で南宋に逃げた。もしくは別人と成って生き延びた。
上記のどれかだろう。
暗殺の数年前から実朝公は南宋に渡航つまり亡命しようと試みた節が有るのも暗殺の兆候が有ったからだろう。
一般的に源実朝公は文化傾倒し武人らしからぬ暗愚の“迷”君と認識されがちだが鎌倉の町を歩くとそうでは無い事が非常に良く解る。
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鎌倉市の二階堂川に有名な逸話を残す石碑が有る。
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澁河兼守(しぶかわかねもり)と言う武将が幕府重臣の合議で謀反人の嫌疑をかけられた。
この事件の発端は先代将軍の源頼家公に忠義を感じる御家人や、源実朝公ー北条義時公ラインによる権力占有を懸念した“反北条派閥”による謀反が発覚した際に、渋川兼守公は無実の罪を着せられた訳だ。しかし貴族カブレの振りをしながら藤原家による幕府御家人内部分裂誘発の陰謀を察知していたのか、源実朝公は御家人達の団結を促したり権力で冤罪を晴らしてやったりして度々、父の代からの御家人の命を救おうとしている。
この澁川兼守公も真実が伝わる様に和歌好きな実朝公の目に入る様に和歌を10首程詠んで暗号を入れたかして当時は鎌倉から東に向かう時に参道の前を通る荏柄天神社に和歌を描いた紙を掲げておいた。
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すると実朝公の耳目に触れ真実が伝わった様で、澁川兼守公は“実朝公の独断と権威による命令で命を助けられ”御礼に当時は通行不可能だった二階堂川に“歌の橋”を掛けて新たにショートカットの街道を開いて謝礼を表したりしている。
他にも畠山重忠公の御子息の畠山重慶公が謀反の容疑をかけられると、捕縛に向かう長沼宗政に「活かして捕縛する様」わざわざ指示を出したのに長沼は“将軍実朝公の命令を無視して畠山重慶公を殺害”してしまった。この際も実朝公は「何で殺したか!無実かも知れないだろう!」とかなり怒っているので、鼻から無実だと確証が有ったのだろう。
因みに長沼家は“藤原一族”であり反実朝公の人物だったんだな。
源実朝公は武士達の貴族の陰謀に乗っかった権力闘争に飽き飽きして南宋に亡命しようと画策した痕跡も有ったりする。
まぁ、そんな歴史が有って複雑なのだが、小生は実は実朝公暗殺は朝廷を私物化した藤原一族による御家人を巻き込んだ陰謀で、防げないと思っていた北条義時公により替え玉が準備されて“実は南宋に逃げた”ので“人物特定される首が行方不明”に成ったんじゃないか何て可能性も少しは有ると思っている。
仮に北条義時公が源実朝公暗殺の首謀者ならば、首を紛失させる意味が解らない。寧ろ、助ける側なら身代わりの人間の首を隠すのは意味が解る。
そして・・・
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そうだとしたら、替え玉と成って殺されたのは11月22日に訪問した、この実朝公首塚に眠っている人物のはず。
・・・実は首塚の有る“田原ふるさと公園”は鎌倉御家人で北条義時公に味方した波多野家の邸宅跡なのだ。
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ここの事を知らないメジャー文献しか読まない歴史学者も多いだろう。
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そして波多野家の詰め城も近い。
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仮に首塚に御首(みしるし)を葬られた人物が実朝公の替え玉なら、主君を藤原家の陰謀から救う為に北条義時公と隠密裏に実朝公を逃がす為に一族から犠牲を出した証拠に成り忠臣と成るだろう。
そして本当に源実朝公が暗殺された張本人ならば、御首を取り返し北条家に粗末に扱われない様に隠密裏に自家の邸内に埋葬した忠臣と成るだろう。
どちらの仮説を用いたとしても、実は当時の波多野家には源氏に対してそれだけ忠義を尽くす動機が十分に有る事を歴史オタクでもないと知らない。
波多野家は波多野義通公の姫が源頼朝公の御父上の源義朝公の側室と成って、頼朝公の兄の源朝長公を生んでいる。残念ながら源朝長公は保元の乱に参戦した際に傷を負い、それが元で発病し自害しています。そんな訳で源氏と縁が深い上に実朝公暗殺事件発生当時の当主の波多野義重公は妻が北条義時公の姪っ子だった。つまり北条義時公とも血縁が有った北条派=実朝派の先鋭だった訳だ。
・・・だから十分に一族から実朝公の替え玉を出すなり、首供養する成りの動機が有る。
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今では御廟所は綺麗にされて石碑も有る。
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立派な御神木も目印に成っている。実朝公は白幡神社の御祭神の内の一柱の神様なのでここは霊廟であり日本古来の価値観では白幡神社の代りの場所でも有る訳だ。
そんな首塚の近くには金剛寺と言う御寺が在る。
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正式名称は大聖山金剛寺・・・波多野家が建てた御寺であり、源氏所縁の笹竜胆を寺紋にする御寺だ。
大聖山金剛寺本来、笹竜胆紋は勝手に使って良い物ではない。だからコレも小生が「実朝公生き延びた説」と言う可能性の一つを示す証拠だと思う。つまり、実朝公御自身が自らの身代わりに成った波多野家の武者の供養の為に御寺の建立を事件直後に指示して源氏の笹竜胆紋の使用を許した可能性が有るなんて事も有るんじゃないかと少し思っていたりする。
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まぁ、今と成っては解らないから歴史は面白い。
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金剛寺は臨済宗の御寺なのだが、山門をくぐると右手に・・・

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御地蔵様がいらっしゃる。この様に御地蔵様が沢山入口にいらっしゃる場所は、元々は真言宗寺院か天台宗寺院だった場所が多い。河内源氏の殿様は真言宗と御縁が深く、古くから源氏の御家人だった武士の家は鎌倉時代初期までは真言宗を宗旨にしている武将達も多かったので秦野市東田原に在るこの金剛寺もスタートは真言宗だったのかも知れない。
なんと鎌倉の臨済宗の高僧の退耕行勇和尚様が中興開山と成って大きな寺院に成っているそうだ。
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鎌倉市大船に在る北条泰時公の菩提寺の粟船山常楽寺とも御縁の深い高僧だな。
つまり、この一、御家人の波多野家が開いた秦野の金剛寺には常楽寺と同等にする“それだけの格と意味が有る”と言う事だ。
実朝公を救ったか・・・実朝公を葬ったか・・・どっちにしても忠義に溢れた波多野家らしい御寺だな。

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現代の境内は整備されておりとても綺麗だった。
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可愛らしい小僧様。

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本堂も立派。

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本堂に向かって左手に寺務所。ここで御朱印を頂ける。
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生憎、当日は実朝公没800年の追善供養の前日で準備に慌ただしく、予め用意された紙の御朱印しか頂けなかった。
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又、桜の季節に弘法山を訪れて今度は御朱印帳に頂きたいと思う。
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金剛寺の御庭にもユーモラスな石仏?が有る・・・何だか千と千尋の神隠しに出て来る“坊”みたいだ(笑)。

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御庭はとても綺麗だった。
本堂の右手に庫裡(くり=厨=厨房=現代では居住部分の意)が在るのだが、その庫裡の裏にとても重要な神社の御社が在った。

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余り目立たないし、鐘も突けない様に成っているが実は臨済宗にとってとても大切な神社なのだ。
もしかしたら現在の御住職の御家族は知らないのかも知れない。
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半蔵坊権現と言い、臨済宗鎌倉五山第一位の格を有する鎌倉の建長寺こと巨福山建長興国禅寺の守護神が奥院の半蔵坊権現なのだ。
下の写真は鎌倉建長寺の奥院、半蔵坊権現の参道の写真。
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山岳信仰の神様で、天狗信仰とも結びついている。だからもっと檀家さんにも御参りして貰いたいと個人的に感じた。
日本神話も大切にして来た臨済宗の寺院らしく、境内には稲荷社も在った。
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ちゃんと御参りして毎回行く先々で旅の安全を御守護下さる御礼を、この日も宇迦之御魂神に御伝えした。
その稲荷社の在る場所はどうやら“田原学校跡”と言う場所でもあるらしい。
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調べても判らなかったが、恐らく江戸時代末期か明治時代位に設立された学校の跡なんだろう。
寺子屋が昔は児童学問所の役割を果たしていたので、明治時代に小学校が設立される様に成ると多くの神社や寺院の境内が小学校建設に提供された歴史も有る。
まぁ、詳しい事は今もって何も解らない、今度、秦野市の教育委員会にでも聞いてみようと思う。
この金剛寺は当初の訪問予定には無かった場所だが車の中で地図を見ていて気が付き実朝公の首塚近くの御寺なので「もしや」と思い予定を変えて参拝したが、忠臣波多野家と実朝公の御縁を辿れてとても有意義な時間を過ごせた。
そう言えば波多野家の後日談だが・・・
波多野家は鎌倉幕府の中央ではなく、後に京都に赴任して六波羅探題(ろくはらたんだい=西日本監視の組織)に評定衆(ひょうじょうしゅう=役員)として活躍する事に成る。
室町幕府でも評定衆に成り、後に丹波国で大名化する。この大名化した波多野家と戦ったのが織田家臣だった明智光秀公な訳だ。明智光秀公は母親を波多野家に人質に出して、波多野家と停戦して織田家臣に成る様に独断で講和するが信長公は波多野家を許さずに決裂したことで明智光秀の母親も殺されてしまう。これが一説には本能寺の変の遠因に成っているとする場合も有るが、まぁ可能性の一つでもあるだろう。小生としては波多野家は足利家に忠節を示して足利義昭の煽動で反織田の姿勢を貫いたのだと言う可能性も有ると思うが、まぁ詳しい事は解らない(笑)。

こんな風に色々と歴史に思いを巡らす事が出来たり、実朝公に御挨拶出来て満足し、次の目的地の弘法山から見る紅葉と富士山の撮影、そして鶴巻温泉に日帰り入浴しに行く為に再び車に乗り込んだ・・・
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→次回その④へ続く。

前回の休日雑記→2017年12月01日

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コレの続き。

南足柄市の大雄山最乗寺、足柄上郡の寒田神社を巡拝し、秦野市渋沢の“なんつっ亭”で昼食を終えてから再び車で移動する事15分くらいだったろうか?
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震生湖の駐車場に到着すると、そこからは神奈川県で最古級の神社であり山体その物が御神体でもある大山が良く見えた。恐らく天気が良ければ西の方には富士山も見えたのだろう。
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東の方に目をやると遠く桜の名所の弘法山も見えた。天気が良ければ、その先に海の輝きも見えるのだろう。
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震生湖の入口は丸でキャンプ場の様な雰囲気。
自然災害で生まれた湖なのだが団塊世代達には紅葉の名所として知られデートコースだった様だ。
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なのでバブル期にも自然散策の客がいたので食事が出来るテーブルも備え付けられていたりする。
震生湖は大正十二年(1923年)09月01日に発生した関東大震災で生まれた自然の池である。
地震で起きた山体崩壊による土砂崩れで山の水源と沢が堰(せ)き止められて出来た小さな湖だ。
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まぁ、この湖の透明度は余り良くはないのだが、ここが凄いのはそもそも水源だった湧水地と沢が土砂崩れで生まれた堰き止め湖なのだが水源なので水の流入も無い代りに外に水が流れ出る川も無い。水は地下水脈で外に繋がってると解説されている。
だから水が澱んでんだな。
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この日、11月22日はまだ紅葉には少し早かったがそれでも少しは震生湖の樹々も赤く色づき始めていた。
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きっとこのブログを書いている12月第2週には見頃に成っているだろう。
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完全に釣り堀として営業している東側の方もそれなりに紅葉が有る。
きっと小さな子供がいる家族が釣りをしながら紅葉見物したりすれば良い思い出に成るだろう。
どうも小生は自分が結婚していないのに「子供を連れてきたら喜ぶだろう」とかいつも評価基準の一つにして見る癖がある。可愛い甥っ子と姪っ子がいるのだが、二人とも幼少ながら総合格闘技道場に通っていて忙しく中々“遊んでもらえない(泣)”。
先日は東京の目黒区に住む妹夫婦の所まで甥姪を迎えに行き、横浜市磯子区の科学博物館に二人を連れて行ったりした。
まぁ神奈川県民の小生から見れば、甥も姪も小さな時から格闘技をやっているとは言え東京のモヤシっ子(笑)。
自然の楽しさと綺麗さを教えてあげたいのでいつか震生湖や丹沢に釣りに連れて行きたいと思う・・・
まぁ、小生に釣りのセンスが無いのが一番の問題だな。
実は震生湖、湧水地なので自然信仰の対象にも成っている。
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福寿弁財天だ。
1974年の造営と非常に歴史の浅い神社なのに古来の湧水地に弁天様を祀る習慣を踏襲している正しい日本文化を継承した神社だな。
そもそも弁才天様はインド神話の神様で財神だが、本来は川の象徴だったり軍神や音楽神でもあり、更には男神にモテモテだった女神で女子力アップの御利益が期待出来たりする多くの御利益に預かれる神様なのだが特に財神としての性格が注目される事が多い。
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の原形と成った縄文時代の湧水地信仰は清涼な飲用に堪える洞穴の水源や泉が聖地化され神様が祀られたが、これが初期の湧水地に龍神が多く祀られる初期の日本の信仰に成り宇迦之御魂の原形神と成る。以後、室町時代まで宇迦之御魂神は女性の上半身又は顔面に龍又は蛇の身体を持つ御神像で表現され祀られていた。弥生時代位から稲作が普及し富の象徴が水から“稲”に変わると宇迦之御魂神は御稲荷様として祀られる様に成った。あくまで狐は神様の使いで神様ではない。
更に奈良時代に貨幣が中国から輸入され、平安時代末期に貨幣経済が浸透し富の象徴が稲から“貨幣”に変わった事で鎌倉時代に源頼朝公達武士や貴族によってインド神話の財神である弁天様も稲荷神社や宇賀神社に習合され、日本では弁天様は水源であり富の象徴である神社に祀られる様に成った訳だ。
福寿弁財天社の鎮座する場所は自然の堰止湖の傍らの森の中でとても神秘的な雰囲気だったりする。
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傍らには水子供養の御地蔵様もいらっしゃった。
御地蔵様はヒンドゥー教文化由来の閻魔(えんま=ヤマ)大王様の本地仏なので、中国渡来の解釈では冥界の裁判官であり、本来のインド神話ではヤマーとして死者の国の王であり、仏教的な解釈では全ての世界の人々を救う仏様だったりする。だから幼くして亡くなった子がちゃんと彼の世に行って次に幸せな運命に成る様に御地蔵様に御願いする訳だな。
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肝腎の弁天様だが、奈良県の天河大弁財天社から勧進したそうだ。
神奈川だから江島神社か、その元の滋賀県の竹生島の弁天様かと思いきや奈良から御分霊を頂いてるとはレアケースだな。
宮司様不在の神社だが良縁繁栄の御利益が有るそうだ。
震生湖の紅葉を見物し福寿弁財天様に御祈りすると車に戻り、近くに気に成る神社が前々から有ったので行って見る事にした。
出雲大社相模分祠(いずもたいしゃさがみぶんし)だ。
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この神社は一昨年の11月に大雄山の紅葉を見に来た際と、昨年10月初頭に愛知県旅行からの帰りに東名高速の片側車線規制渋滞に巻き込まれ、渋滞を避けて大井松田で下道に降りて伊勢原市の叔父の家に立ち寄り御土産を持って行く際に偶然前を通り看板を見かけていて非常に気に成っていた神社だった。
無性に気に成ったのだが、前の2回は当日の予定が逼迫していた事もあり前を通過してしまった。
この日は改めて訪れる計画は無かったのだが震生湖の入口へさしかかる時に再度看板を見て・・・
「そう言えば!」
・・・と思い出したので震生湖の紅葉見物の次に訪問する事に急遽決めた次第だ。
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しかしいざ駐車場に車を停めてから一度、神社の参道と思しき道へ戻り鳥居に正対して正面を歩いて見ると説明の看板が違う神社の名前に成っている。
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御嶽神社と八坂神社だ・・・
「おんやぁ~?」
・・・と思いつつも境内へ入ると立派な御神木が出迎えてくれた。
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どうも神奈川県下の古社はどこも楡(ニレ)の大樹が大切にされている。もしかしたら昔の習慣で何か神事と関係が有ったのだろうか?招霊(おがたま)樹等は古代の神事と関係が有ったのは存じているが、ニレについては余り解らない。今度、博学の師と仰ぐ宮司様に聞いてみようと思おう。
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御嶽神社は屋根が銅(あかがね)葺(ふ)きだが社殿その物は恐らく再建されたのものだろう。
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彫刻が立派だった。木材の状態を見るにこの欄間は比較的古いので江戸時代末位の部材を再利用しているのだと思う。
一方で拝殿と言うか覆い殿?は明らかに新しいので現代の再建か増築だろうと思う。
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扁額も真新しい
しかし現在も繁栄している神社なのが良く伝わる。
その隣には八坂神社が在った。
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小生の崇拝する神様の内の一柱、素戔嗚尊(すさのおのみこと)牛頭天王、武塔天神と各時代で色々な神号で呼ばれた武神であり疫病治癒の神であり荒神であり、御妻君の浅間権現と呼ばれる此花咲耶姫様と夫婦の縁結びの神様でもあったりする。
又、御妻君と成られた此花咲耶姫命を助けた神様なので女性を守護する神様とも言える。
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まぁ、小生は独身で守るべき妻もいない。
いつか素戔嗚尊様と此花咲耶姫命様、あるいは同じく崇拝する日本武尊様と弟橘姫様、又は崇敬する建勲神織田信長公と生駒御塁様御夫妻の様(よう)に、大切な家族を守る力と度量が備わり御縁の有る女性と神様を見習って伴侶ともども幸せを享受する運命を授かれたら良いなぁ~と思ってたりする。
・・・まだ自分の実力不足から時が来ないらしい(笑)。
御嶽神社と八坂神社を参拝し、拝殿の中を外から見学すると何やら画が飾って有った。
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見た感じ江戸時代末期位に書かれたものだと思う。京都の八坂神社こと元の祇園社の神楽殿か何かにも同じ様な風化具合の絵が有った。
こちらの八坂神社の絵には“笹竜胆紋”が刻まれている。(?)源頼朝公や頼家公、或いは実朝公と関係が有るのだろうか?まぁ、頼朝公は近隣の開成町の吉田島地区の吉田神社を伊豆の三島大社から御分霊を勧進し開いたりしているし、この出雲大社相模分祀の直ぐ北側には古来主要街道だった矢倉沢往還(古代東海道)が存在する。その矢倉沢往還と中原街道(古墳時代以後の主要街道)を接続するのが眼前の参道の先を通る街道なので、この御嶽神社その物は歴史が有るのかも知れない。
まぁ、定かでは無い。
一頻り参拝を終えて、駐車場の方に戻ろうと奥に進むとわき道から出雲大社の境内に繋がっていた(笑)。
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普通は出雲大社と言うと正真正銘の出雲国の出雲大社の事なので、何で出雲社を名乗ってないのだろう?と思ったが、美人さんの巫女の女の子に由来を聞いてパンフレットを頂戴し名前の由来を見た所、この出雲大社相模分祠(さがみぶんし)の出雲大社部分その物は歴史が浅いらしい。
明治ニ十一年(1888年)に出雲大社から勧進され開かれたそうだ。しかし由緒は凄まじかった。
出雲大社は代々、素戔嗚尊の御神孫である千家(せんけ)が宮司を務めているのだが、この家は国造(くにつくりのみやつこ)と言う古代の知事の役職を代々継いだ家であり神職でもある。
まぁ・・・小生の御先祖様も某国造なのだが、出雲大社は格が違うのね(笑)。
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その島根県の出雲大社の御本社の第八十代国造千家尊福さんの要請で出雲大社から直接分祀された場所だそうだ。仏教的な表現には成るが関東に於(お)ける出雲神族信仰の本山格として親分直々の命令で開かれ拡大された聖地と言う訳だな。
つまり出雲大社相模分祠は名前の通り、相模国に置ける出雲大社分社と言う高い格式を持つ神社と言う事実がそのまま社名に成っているそうだ。
そりゃ立派な社殿も境内も有る訳だよ。
そして歴史が浅いから風土記読んでる小生でもノーマークな訳だわ。
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ここは今話題の“暴行犯罪者”日馬富士も来たらしい。
後輩の頭を“同国籍”の癖に“態度が気に食わないから”と理不尽で犯罪的思考に基づき、武人にも関わらず感情の抑制も出来ず“殺傷能力の有る鈍器で殴打し”頭を割り血塗れに“暴行したのを「教育」と言い張った”挙句に、一般の会社なら解雇される暴行事件なのに引退(退職)願いを受理され退職金2億円せしめる大悪人だな。
こんな奴が塩を撒き退魔の弓を使う神事を行う相撲取りである事が小生は個人的に文化的側面から心情的に許せない。
そして法治国家の日本国民としても暴力肯定する日馬富士と白鳳、同席し傍観し警察への通報も救急車を呼ぶ責任も果たさず“保護責任遺棄”の犯罪を犯した鶴竜等同席者にも相撲とりたる資格は無いと個人的に思っている。
だから出来れば、出雲大社相模分祠からはコンナ非法治主義者で非武人倫理観の大悪人の写真は撤去して欲しいし相撲界からも懲戒解雇して欲しい。
朝青龍一般人暴行事件や時津風部屋門弟リンチ殺人事件後に改革も失敗したばかりか暴行犯日馬富士を擁護する相撲協会役員を全員解雇すべきだし、文部科学省から正式に非難して欲しいとも思っていたりする。なんなら相撲協会も一度公益法人格を剥奪し文部科学省の統括下に置いて、反社会的で暴力を肯定する様なヤクザや日本赤軍やオウム真理教と何ら変わらない価値観の親方連中を全員解雇して再建しても良いんじゃないかと個人的に思う。
出雲大社相模分祠に話を戻す。
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社紋は亀甲に剣花菱があしらわれた紋様だった。
出雲系の神々や大伴一族や吉備一族の関わる古社と弁天様には亀甲紋を用いる場所が少なくない。
小生は浦島太郎伝説にも関係が有ると推測しているが、それは川崎市と横浜市と横須賀市の神話に纏わる事なので今回は解説しないでおく。
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御霊社が本殿の横に鎮座していた。
ここは他にも小生の祖先神と共通性の有る龍神の神格を持つ水神様が祀られていた。
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龍蛇神の社だな。
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少し変わった現代芸術的な鳥居?の先に湧水地があり、そこが霊場に成っているらしい。
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先に進むと御社と水汲み場が有った。
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どうも江戸時代に掘られた井戸水で、清酒醸造にも用いられ“環境庁名水百選”にも選ばれているらしい。
歴史の浅い神社だが、縄文時代に始まる湧水地信仰から聖地化した古代神道のルーツの一つである文化をちゃんと守り伝えている様だ。流石、出雲大社様だけある。
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他にも平安時代に神様に成られた天満大自在天神こと菅原道真公や、筑紫社には宗像三女神様、そして祓社には祓い清めつまり退魔の御神威をもつ瀬織津姫等が祀られていた。
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様々な時代の神様が一同に会し大切にされている。
本当に素晴らしい神社を偶然でも御参り出来て良かった。
又来年に開成町の紫陽花祭りが開催される際には、出雲大社相模分祠に御参りに来ようと心に決めた。
新しいのに清々しい聖地だった。
出雲大社相模分祠御朱印 久良岐のよし
社務所で参拝の証、そして個人的には御分霊を勧進する心算で御朱印を受領し、社務所で売っていた美味しそうなお饅頭が有ったので一つ購入した。
出雲大社相模分祠の参拝を終え、次は秦野市東田原に在る源実朝公の首塚を目指し車に乗ると再出発した・・・
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訪問先その③に続く














2017年の神奈川県は、この記事を書いている11月29日現在が紅葉の最盛期と成った。
しかし小生はワラワラと集団移動する多数迎合主義が嫌いなので、一足早く紅葉の名所とマイナーな紅葉の景勝地を廻るついでに史跡も見学する計画を立てた。
当初の訪問予定はこんな感じだった・・・
2017年11月22日訪問予定地
しかし、実際は若干失敗が有った。
失敗と言うのは訪問地の訪問達成件数では無く、睡眠の事。
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前日は仕事は24時には終わり帰宅、そこから準備をして風呂に入り3時に出発した。
当初の計画通り最初の訪問地である大雄山最乗寺手前の東名高速の中井PAで車中泊(仮眠)を朝07:00位までとってから行動開始する予定だったのだが“全く眠れず(笑)”結局、少し早く6時過ぎに中井PAを出発して07:30くらいに最乗寺の駐車場に到着し、駐車場で漸(ようや)く意識が朦朧として来たので2時間程仮眠した。
結果から言うと変更が入り訪問地は予定より多く成った。
2017年11月22日実際の訪問地
実際には上記の訪問先の他に、大雄山の土産物屋、寿福稲荷神社、御嶽神社と八坂神社が加わる。
・・・さて最初の訪問地の大雄山最乗寺。
大雄山は2回目の紅葉見物の参拝、御寺の駐車場に至る途中、山の参道には立派な仁王門が在る。
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素晴らしい場所なのだが、地図を暗記せずカーナビで最乗寺に行く人や観光バスで紅葉見物に来る人はここを見過ごしてしまう事に成るのだが・・・
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もし今週末2017年12月02日に大雄山に紅葉見物で参拝する人は、是非、この仁王門界隈の雰囲気も味わって欲しいと個人的に思う。
この仁王門からずっと石畳の参道が約500年前から最乗寺まで続いているが、今では徒歩で参詣する人は略いない。小生も車での訪拝だ。
時間軸で言うと小生は最乗寺に着いて先(ま)ず車中で2時間寝た。
睡眠から目覚めると靴を運転用のシューズから、いつも史跡と城跡を見学する際のトレッキングシューズに履き替え、顔を洗う代わりに聖地大雄山の朝の清々しい冷気で深呼吸し精気を取り込んだ。
仁王門から石畳をづっと登って来ると下の素敵な三(山)門が参拝者を出迎えてくれる。
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無論小生は車での訪問、駐車場からも近いので先ずは本来の山門をちゃんと歩く事にした。
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紅葉はまだ少し早かったがそれでも綺麗だったので、12月初旬には見頃に成っているだろう。
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三門の近くには上の写真の相生橋が在り、その渡った先には大雄山最乗寺始まりの聖地でありパワースポットが在るのだが多くの“観光客”や“偽霊能者”は知らない。
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最乗寺開山、了庵慧明禅師が座禅を組み修行した岩が柵に囲まれた場所で聖地の1つなんだが、本当に霊能力や神通力が有ると“自称する人”が何でここに行きつかないかと言えば、彼等にはそういったモノと本当は“縁が無い”人間だからだろう。
神社仏閣を守って来た歴代宮司様や住職様、支援した歴史偉人達を崇拝して本当に大切に思う人間ってのは“導かれる”とかオカルトなもんじゃなくて色々と目に入って来る情報から当時の人の見た物を時代を超えて吸収しようとするから気が付くんだよ、こう言った場所に。
わざわざ御寺さんが石碑をたててもスルーする自称霊能力の高い人間が多いのは皮肉だな。
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三門へ戻り本来の参道を歩くと厳(おごそ)かな雰囲気・・・
マイナスイオンかな(笑)?を体中に浴びながら、この季節の美しい大雄山の紅葉の景色がいよいよ参拝客を出迎えてくれる。
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もし参拝する機会の有る人は、是非、駐車場からいきなり僧坊へと行かず、ここを歩いて自然美と山岳信仰を取り入れた修験道とも融合した曹洞宗大雄山最乗寺の宗教文化の美しさを目と肌と鼻で体感してほしい。
石畳の階段の先にいよいよ僧坊が立ち並ぶエリアへの入口、よく写真やテレビで紹介される紅葉の風景が改めて出迎えてくれる。
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ここは本当に美しい。
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階段を登りきると伽藍を結ぶ回廊と繋がった門が在る。

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瑠璃門だな。
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・・・この門をくぐった瞬間に別世界の様な風景を目にする事に成る。
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朝靄(あさもや)と落ち葉焚(た)きの煙の霞で丸で中国の水墨画の仙人の住まう霊場の様な佇まい。
まぁ、実際この最乗寺は禅道場として精神修養と学問の場として運営されていたのだが天狗信仰の舞台でも有る。
この最乗寺を支援した室町時代初期の古河公方足利家の家臣であり扇谷上杉家の与力だった大森家や、小田原北条家の支援を受けて繁栄して来た寺院であり山の中の御寺であり山岳信仰の場なので、自ずと神秘的な風景に成ったんだろう。
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この写真で見ている方向と真逆の後ろ側に寺務所が有るので、御守りや御朱印はそちらで授与して頂ける。
寺務所辺りの庭の紅葉越しに見る紅葉も美しい。
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この辺りまでは車椅子の人も入って来られる様に成っていたと思う。一般駐車場とは違う場所から入って来られる道が有ったと思うので、もし足の不自由な方が訪問される場合は事前に大雄山最乗寺に電話で問い合わせしてみると良いかも知れない。
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金剛壽院の前を通り過ぎると小生が一番お気に入りの紅葉の綺麗な階段が在る。
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右手奥に見えるのは鐘楼。左の建物は豊富な水量を誇り飲用に適した湧水を湛える井戸。
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本当に綺麗なのだけれど、これでも小生が訪れた先月22日はまだ紅葉見物には少し早かったので12月初旬の今はきっと見頃だろう。
階段を上がると又、紅葉の綺麗な場所が一つ在る。
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多宝塔だな。2年前の記憶でおぼろげだが歴代御住職の御廟所も兼ねていたと思う。
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同じ禅宗でも臨済宗寺院は夢窓疎水石禅師の影響で枯山水庭園が多いが、曹洞宗の場合は永平寺もそうだが神仏習合の文化を明治までは色濃く残し中でも修験道との関係が有る山岳信仰の対象だった白山権現を永平寺が守護神としていた事も有ってか、山伏文化を色濃く伝える寺院が大きい場所程多く山中に鎮座している場所も少なくない。後醍醐天皇をはじめ歴代の天皇は修験道や真言宗や曹洞宗と同じく神仏習合の文化を大切にされてこられた歴史も有る。
だから現代に成っても天皇家は古代から続く神社を大切にするし同じ様に仏教も大切にしていて例えば法然上人は鎌倉時代~現代の今上天皇に至るまで歴代の天皇から法諡(ほうし=法名)を追贈されていたりするし、言うまでも無く弘法大師様や伝教大師様の宗派の真言宗や天台宗寺院や臨済宗や曹洞宗の寺院も法相宗や華厳宗の寺院も日本文化の醸成の源として大切にされて来られた歴史が有る。
そもそも大雄山と最乗寺自体が山伏信仰の文化を持っているから、こんな風に山深い場所に神秘的な堂塔を構えているんだろう。
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先に進むと瀧の上には不動堂が有り、正に修験道や真言宗に通じる文化を引き継いでいる。
不動明王は火災除けの仏様として祀られる事が多いが、横浜の森浅間神社はじめ源頼朝公も湧水地こと滝の在る場所に不動明王を祀らせている。
不動堂の奥に進むと奥院に続く門前の開けた場所に出る。
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この日は霧に木漏れ日が差し込みとても神秘的な光の演出も見られ、少し早かった黄色い紅葉もとても美しく見えた。
この先に進むと大雄山が“縁結びの御利益”で有名な場所である天狗の下駄が沢山有る御堂やら凄まじい段数の奥院へと続いている。
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天狗信仰の舞台でもあるので門の左右には天狗様が坐す。
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う~ん・・・何で明の軍人の甲冑なんだろう?
日本の甲冑で良かろうに。天狗信仰の文化は中国には無いんだけどね。きっとこの銅像を作った人は仏師なんだろう。だから毘沙門天やなんかと同じ中国風の甲冑で天狗様を造形したんだろうな。
まぁ、これはこれで勇ましく格好良いと思う。岳飛とかこんな感じの鎧を着ていたんだろう。
実は曹洞宗が繁栄する切っ掛けに成ったのは神奈川県出身の鎌倉武士が非常に関係している。
大雄山の在る南足柄市の隣の秦野市を平安時代~鎌倉時代に領有していた波多野家だな。
この波多野家の領国が越前国にも有ったので北陸を本拠地としていた曹洞宗の永平寺や大乗寺を波多野家が支援した様だ。
一頻(しき)り紅葉を見物しながら御堂を礼拝して回り、次の目的地に向け出発する前に最乗寺の山門の少し下の方に在る土産物屋まで車で移動した。
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十八丁目売店と村上売店だな。小生は午前中早めの訪問だったので写真でもそれ程観光客はいないが、普段は元気なジジイとババア(笑)で賑わっている。
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因みに十八丁目売店と村上売店は隣同士で売っている物までほぼ同じせいで仲が悪い(笑)。
でも両方の店とも御客には親切で試食を薦めてくれて御茶を振舞ってくれる。
小生は両方の店で種類の違う御煎餅を買い、両方の店で御茶を頂き「ありがとう」と御礼を言って来た。
十八丁目売店の女将さんに「ウチの方が美味しいでしょ?」と聞かれたので「両方とも少しづつ味が違うし両方とも美味しいよ!親切にしてくれてありがとう♪」と御礼を伝えて来た。
大雄山を降りて足柄上郡松田惣領の寒田神社に移動した。
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寒田神社は日本武尊が東征の折に立ち寄った場所だ。神話を証明する様に平安時代の富士山の噴火以前の東海道は寒田神社の前を通る矢倉沢往還=大山街道が東海地方から現在の神奈川県域に至る陸の街道だった。
南足柄市~小田原市街を突っ切って相模湾に注ぐ酒匂川の川名由来はこの神社に伝わる神器に纏(まつ)わる日本武尊伝説で、この寒田神社の場所に在った集落で休息した際に木椀で酒を使った神事を眼前の川で行い、そのまま出撃し合戦が終わって戻るとまだ木椀に酒の香りが残っていたので、これが酒匂川の由来に成ったそうだ。因みに神奈川県域に十四座しか無い延喜式内社の内の一社だったりする。
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まぁ、寒田神社自体は3回目の参詣なのだが、宮司様の御家人はいつもいらっしゃるのだが御朱印は宮司様しか書けないらしく、何としても御朱印を頂きたいと思いの再訪だったが、生憎と翌日が新嘗祭だったり七五三で忙しく、又、品の良い宮司様の奥さんに丁寧に優しく「すいません」と謝られてしまい(笑)御朱印を頂く事を3回目にしても断念し、小生も特に「又来ますから~♪」と答え「来年も紫陽花の頃に開成町に来た時に参拝しますし、次回はちゃんと電話して御願いしますね~!」と5ヵ月先の行動を申告し変な意味では無く小生の顔と声を覚えて貰うべく「釘を刺し」て奥様に印象付けて置いた。
こうやって「横浜から来ました~」って何回も行って顔と声を覚えて貰えば、御縁もそのうちに出来るだろうと思う。
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ちゃんと日本武尊と弟橘姫様に御参りしてから寒田神社を後にした。
ここから次の目標地を秦野市の震生湖に定めていたのだが、途中で渋沢方面を経由する矢倉沢往還の順路を選択していたので「あぁ~そう言えば近くに拉麺の名店“なんつっっ亭本店”が有ったなぁ~」と一昨年立ち寄った事を思い出し、昼食を“なんつっ亭”でとる事にした。
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うまいぜベイビー!
これがなんつっ亭のキャッチコピーで看板に成っている。
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きっとこの名物社長さんの顔をTV番組で見た事有る人も多いかと思う。
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元々やんちゃしていた社長さんなんだが、師匠がとても実直な御人だったらしく感化され、それから仕事に妥協を許さない一途な拉麺職人と成った。その実直で誠実な性格が好感を持たれTV番組でも経営不振のサービスエリアの飲食店再建等を請け負い、今話題の暴行犯“日馬富士”みたいな暴力は使わず、いかつい外見とは裏腹に“優しい言葉遣い”と“味”と“仕事に対する姿勢を学んだ自分の体験談”を経営再建中の店の従業員達に諭し意識改革にも店の再建にも成功したりしている。
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メニューは数種類のスープが有りトッピングもサイドメニューも豊富でカレーライス等も子連れにも適している。ソフトクリームも有るしね~。
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人柄と優しさが滲み出てる御店。
拉麺ファンって味もさることながら大将の人格にも惚れ込んで店に通ったりするもんなんだよな。
だから小生も杉田屋の津村さんが好きで磯子区の杉田屋に通うし、大勝軒の山岸さんや支那そば屋の佐野さんが大好きだった。
この日は黒いマー湯の効いたスープの豚骨醤油拉麺を九条ネギ増しで頼んだ。
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とても美味しく頂きました。
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隣の席に座ってらっしゃった地元のビジネスマン二人組が「美味しい」と連呼し本当に幸せそうだった。
豚骨醤油は獣臭さで苦手な人も多いと思うが、このマー油は焦がしニンニクを手間暇かけてペーストにしているので獣の臭さを消し旨味だけを引き出し、かつローストして有る事でニンニク臭さ自体も無くさながら中華料理で良く使う芝麻酱(じーまーじゃん=胡麻ペースト)と似たような効果を発揮している。
2回目の来訪だったが、今回も美味しかった。御馳走様でした!
なんつっ亭を後にして震生湖に移動した。
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震生湖の駐車場からは神奈川県の守護神である石山権現大山祇神(おおやまづみのかみ)の化身とされる大山が良く見えた。
次回→その②へ続く

















留学初期にほぼ毎日食事通学旅行で皆でつるんでたいたのだが、その留学仲間の一人である大阪のITが都内に出張で来てるので先週末に観光案内して来た。
出張先が渋谷の近くだそうで田園都市線でアクセス便利だし新大阪から新幹線で一本と言う事で、宿を新横浜駅近くのホテルを予約したらしい。
一ヶ月前から小生が作成中の神奈川観光の刷子原稿を送り行きたい場所はリサーチ済み。
そのITの仕事はニッチな産業のデザイナーだが廃墟マニアと言う趣向が有ると今回、訪問に当たって事前に行きたい場所の趣向を聞いた際に発覚し、とても意外だった。
かれこれ人生の半分近くの年数関わり、歴代の彼氏がどんな人物かも知っているのだが廃墟が好きなんて趣向は全く知らなかった。

そんな訳で近代の廃墟廻りを今回の観光案内の目的地にした。待ち合せもホテルに朝9時に迎えに行くと申し合わせて有り万全だった。
後は天候次第で臨機応変に訪問地を雨天仕様に組み替えるだけ。
んな訳で時系列で当日の行動を紹介するとこうなる。

04:00前後
早朝、睡眠少しで起きてしまい、小机城の紹介記事のリニューアルの為に加筆していた。

08:00
自宅を出発。新横浜駅へ向かう途中のコンビニATMで現金引き出しノンカロリーのレッドブル飲んで無理矢理に脳内シャキッとさせる。
09:00
迎えに新横浜駅前に到着。
大阪の親友ITはちゃんと寝れた様でシャキッとしてた。因みに留学で知り合った親友だが、たまたま小生とは祖先が同族。でも外見は似ても似つかない。
しかし好きな物は割りと似ていて気は合うし漫画も好き、廃墟好きと歴史好きも似ている。
奴は家具や革製品を、小生は銀の指環や組紐のブレスレットを造るのが趣味と言う工作好きなのも似てる。
関西に土着した奴の祖先は弥生系と古墳時代の渡来系との混血が進んでおり小生の如き胴長短足の縄文遺伝子は最早体形にも頭蓋骨にも名残が無い(笑)。多分、はた目に見て美人の部類だろう。
同氏族だからでも外見でもなくリスペクト出来るし信頼もしている。
まぁ、気が合う訳だ。
小生の親友は皆、そんな奴が多い。
09:45
野島に到着。
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季節柄、野島の海には昭和まで江戸前と呼ばれた東京都大田区~神奈川県川崎市~横浜市~横須賀市~三浦半島の東京湾沿岸部で盛んだった“海苔ひび”を見る事が出来た。
海苔“ひび”の“ひび”は現在では国語辞書にも元の漢字が掲載されていないが、小生は竹で海を囲った様子から轞(ひび)が語源では無いかと思う。この轞と言う漢字は三国志好きなら知っている古代中国の囚人や罪人を護送する際に用いた轞(jian=和音読み:ケン/カン)の事だと推測している。
盧植
三国志演義で後の蜀の皇帝と成る劉備と同郷であり学問の師匠に当たる“盧植(ろしょく)”先生が朝廷を私物化した奸臣の董卓の事を大将軍の何進に諫言(かんげん=上司への忠告)をした事で後に逆に逮捕されてしまったのだが、その際に乗せられていた護送車のアレが“轞(jian)”だな。
轞は文字通り、檻(おり)+車の構造物だ。
罪人を護送しながら晒し者にする為に檻(おり)の下に車輪を付けた構造、解り易く言うと馬車の幌(ほろ)が監獄(かんごく)に成った物だ。
この轞(jian)を日本語では訓読みで“轞(ひび)き”と呼んだ様(よう)だが、日本語辞書の解釈では護送車を引く音の形容詞と説明している物も有るがハッキリ言って辞書の筆者が知らないだけで轞は護送車その物の事だ・・・
まぁ轞は日本語にするなら護送車しか今が無いのだが敢えて言うなら“見せしめ晒(さら)し囚人輸送車”とでも言う物だろうか。
・・・もしかしたら轞の漢字は“車”+“監”で轞だが、現代では失われた発音として海苔が東京湾の大森海岸で開始された当時には"監(カン)”の発音の訓読み自体が"監(ひび)”だったのかも知れない。
そう言えば格子(こうし)状に割れる事を“ヒビが入る”とも言う。
そうなると現代では漢字の伝わらない"海苔ひび”の"ひび”は檻(おり)に似ている事から檻(おり)と書いて檻(ひび)と読む訓読みがもう一つ有ったのかも知れないと思う。
まぁ、檻(おり/ひび)は監獄(かんごく)を指すし、監獄(かんごく)って書いて檻(おり)を指す時点で小生の推測は100%間違い無いだろう。
恐らく海苔ひびの漢字は“海苔ひび=海苔檻”か“海苔轞”だった筈だ。
因(ちな)みに、今現在、江東区と大田区で帰属を巡ってモメている埋立地の人工島一帯が昔は大田区の海域で江戸前海苔の生産で有名だった地域だ。
歴史好事家(オタク)として個人的な意見だが、江東区はどの面下げてアソコを江東区の区域と主張するのか理解出来ない、ハッキリ言って片腹痛い(笑)。
折衷案を出した裁判官は歴史的な素養が乏し過ぎる(笑)。
あの一帯は昔から大田区だったのだから、江東区は引き下がるべきだと同じ海苔の名産地だったのに自民党に漁業権を捨てさせられた横浜市民の漁民の心痛と大田区の漁民の立場を重ねて思う所が有る。

もっとも、この風景を見て一緒に来たITはソンナ事は微塵も考えていなかったかも知れない(笑)。
まぁ、今回大阪から出張に前乗りして神奈川に遊びに来た親友は女性ながら"廃墟マニア”と変わった趣味の持ち主なので、今回は先(ま)ず野島掩体壕(旧海軍零式艦上戦闘機の格納庫)に連れて来た訳だ。
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この掩体壕=格納庫は実際には零戦の格納庫としては使用されなかった。
隣の日産自動車追浜工場とテスト用走行コースの敷地が横須賀鎮守府海軍飛行場だったので、当時は滑走路から先に在る野島に格納庫を作り米軍のB21爆撃機から戦闘機を守る計画が進行していた訳だ。
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説明の看板でも解る通り、戦時中の物資不足でコンクリート擁壁は入口と出口の先に掘削された部分だけに止まり、中心部はまだ完全な幅に広げられてもいなかった。
幸い、この基地が利用される前に戦争は終結したので戦争史跡として現存している。
明治時代の軍人と違って太平洋戦争末期当時の無責任に成っていた海軍の上級将校達は内陸の現在の慶応大学日吉キャンパスの地下に基地を掘って隠れてしまっていた。
そうこうする内に末端の将校は頑張っていたが、無駄に本土に戦火を及ばせた戦争末期には物資が不足し、この野島掩体壕ばかりか日吉の海軍参謀本部でさへ物資不足で入口のみ煉瓦とモルタル造りで奥は素掘りのままと悲惨な状況だった訳だ。
こんな状況で勝てる訳が無い。
そもそも陸軍の暴走で英国との条約を無視して万里の長城を超えて中国侵攻をしてしまったので英国による日本の満州宗主国としての地位保証も破棄される事に成ってしまった上、素人の小生すら理解している“兵站”の確保を陸軍は楽観的に無視、結果、日中戦争は完全に無益な物で更に収拾不可能に成り海軍の足を引っ張り、真珠湾攻撃にしても有利な状況で和睦を成立させて満州利権を連合国に承認させると言う目的が有ったのだが、開戦前に「3年かかったら負けますよ」と言う主旨の発言をしていた山本五十六サンも既に戦死して連合国と不利な現実を直視し和睦を提言する人もいなかった。
その間にも今日左翼を煽る様に当時は“朝日新聞が軍部と民衆を煽り捲って戦争へと向かわせた”のだが、そんな痴れ者の朝日新聞がプロパガンダで支持した当時の陸軍政府(一夕会)は当時の外務省の外交敗北と責任をすり替えようとしたが、ハッキリ言って越権行為の外交交渉を陸軍が勝手にやった挙句に条約を無視して全てを水泡に帰したのが日本斜陽の始まりだったと言う歴史も知っておかないといけないと思う。
だからと言って“鼻から日本文化破壊と日本の共産主義国化を目指して中国共産党やソビエト(ロシア)を誘引しようとする日本共産党や極左テロリストの支援を受けている政党政治家の主張はそもそも“外患を招く内憂”であり獅子身中の虫でしかない。
実はそう言った近代の歴史を知れるのが、この野島掩体壕と伊藤博文邸だったりする。
野島掩体壕から南側に回り、時計回りに反対の西側の出口に行く途中に野島稲荷神社が在る。
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ここは旧紀州徳川家金沢野島屋敷の鎮守の神社だな。親友のITは横浜市に紀州徳川家と所縁の場所が在(あ)るとは知らず意外だった様だ。
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この野島稲荷は鎌倉文化の影響を色濃く残しており、境内社は壁面に掘った横穴の中に御社が其々(ぞれぞれ)祀られている。
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この横穴は“矢倉(やぐら)”と呼び、平安時代からの関東武士団の墳墓や宗教施設に見られる様式で壁面に人工的に掘られた横穴の事を指す。
鎌倉武士には矢倉に祠(ほこら)や石仏や供養塔を祀る事が多かった。関西や中部地方からは想像がつかないかも知れないが、鎌倉武士の葬送は火葬も多く五輪の塔の真ん中に骨壺を納骨する四角いスペースが存在しており、地下に埋める形式と五輪の塔の中に収納するケースが両方存在した。
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武士の墓の構造は横須賀市衣笠に在る薬王寺廃寺の三浦義澄公の御廟の墓石を見ると解り易い。
納骨スペースが大きな四角の箱状の造りに成っている。残念ながら不届き物が骨壺を盗掘する際に箱状の構造物を破壊されているが、そのせいで納骨スペースの存在が目視で理解出来る状態に成っている。
恐らく、身分の高い武士の御廟所が一人に一つの菩提寺(ぼだいじ=供養する為の御寺)が築かれる様に成って来た鎌倉時代初期に成ると寺院に御廟所を設(もう)ける際は矢倉の掘れない地形の場合、五輪塔に納骨し其処を築地塀(つきじべい=数層に土と瓦を重ねて作る土塀)や石柱で取り囲んだのだろう。
まぁ野島稲荷神社の場合は・・・
礼拝所である神社なので矢倉には神様が祀られている訳だ。

野島稲荷神社から野島掩体壕の西側入口へ回る途中、野島掩体壕を含めた“野島砲台=野島要塞”の名残の塹壕が数ヵ所剥き出しで現存している。
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戦後に防空壕の入口はコンクリートで塞ぐ命令が施行されたので、中に入る事は現在では出来ない。
それでも戦時中に野島が要塞化されていた事を見る事が出来る訳だ。
そこから掩体壕西側の入口を見て、伊藤博文金沢別邸に移動した。
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余り日本国民のみならず、横浜市民でさえ知る人は少ないが金沢区の瀬戸神社の辺りと野島と夏島は昔は別荘地で、そこの宿を転々と変え宿泊しながら伊藤博文公等が明治憲法の草庵を起草した場所の一つが野島だったりする。
昔は金沢八景と呼ばれ源頼朝公以来、有力者と文化人に昭和初期のアホの横浜市の建設利権に因(よ)って海が埋め立てられるまで、その別荘地として景勝地としての文化は続いた。
伊藤博文公も野島の風景を紀州藩主徳川頼宣(よりのぶ)公と同じく愛されたので、終いにはここに金沢別邸つまり別宅を構えてしまった訳だ。
そして・・・
ここは日本と韓国が友好国で無二の友邦に成れたかも知れない韓国皇室のキーマンが愛した場所でも有ったのだが、それも知る人は少ないだろう。
・・・まぁ、“金沢八景”と“伊藤博文公金沢別邸”については以前に解説記事を書いているので御興味の有る方は以下の記事タイトルをクリックして過去記事を御覧頂くと良いと思う。





2015-08-19-16-46-38
さて、野島の伊藤博文公の別宅は実は明治天皇も利用した建築文化財であり“御所”だったと言う事実は伊藤博文金沢別邸の存在その物より更に知らない人が多い。
実は、この建物は明治天皇の旧赤坂仮御所の“御会食所”を解体移築した物である。
説明すると、明治天皇は赤坂の仮御所に御住いだったのだが、明治時代に欧米列強に倣(なら)って西洋式の御所と公館と接待所を新設するまでの御住いであり、接待所だった。
伊藤博文公御自身は神道形式の御廟所に埋葬されていらっしゃるが、実は仏教文化も大好きで金沢別邸からそう遠くない氷取沢の宝勝寺にも良く参拝してらっしゃって武士時代の遺物を奉納してらっしゃったりする。古来の神仏習合の文化が御好きだったようだ。だから明治時代の近代建築よりも和風の木造住宅が本当は好きだったみたいだ。
まぁ、こんな他府県民にとって意外な歴史が凝縮した場所が野島なのだ。
一頻り散歩して腹も減った(ITには朝食食べずに空腹にして置く様に要請してあった)ので昼食には少し早い11時少し前、ブランチに小柴の柴漁港へ移動し古来の横浜名物の穴子と地魚の天丼を食べに移動した。
11:00
鉄腕DASHで良く登場する芝漁港に到着。
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ここはTVでロケも来るが小生が好きで良く見るYouTubeのキャンプ動画投稿者“ソータロー”が漁協の許可を得た上で一般人が釣りが不可能な漁港内で夜釣りをした事でやっかみの対象と成り“密猟者”扱いされ“炎上した場所(笑)”だったりもする。

※一般釣りマニアのやっかみで炎上した動画は削除されてた(笑)。
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小柴のどんぶり屋で当日水揚げされた横浜名物の穴子を食べる事が出来る。
いつもは開店前に人が並びあっと言う間に品薄に成るのだが、ITの日頃の行いが良いのか運良く客は小生達を含めて未(ま)だ3組しか来店してなかった。
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穴子の三色天丼と地魚天丼を注文。
そして、この日はカワハギの煮付け定食が有ったので、カワハギの煮付けだけ食べたかったので米無しで注文をした。
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結果的に“かき揚げ”がもう一つ付いて来てしまい二人で朝から天麩羅三昧、胃袋もキャパオーバーに成った。腹も満たされ、次の廃墟、猿島へと向け移動。
11:20
横須賀海岸通りの駐車場に到着。
SAIKAYAパーキングと言う美少女アニメオタクが好きそうな(笑)アイコンが目印の駐車場はフェリーの乗船券が駐車料金割引券代わりに成るのを、去年の猿島散策で知っていたので今回も利用・・・
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何と300円も安く成るんだな。
・・・ITに小生の趣向と誤解されない様に(笑)ちゃんと割引券の説明した。小生はロリコンでは無いし、適齢期以上の女性にしか女性としての認識も持てない上に、どちらかと言うと同世代の女性が恋愛対象なのだが、そんな事を一々説明すると親友でもIT「何なんコイツ必死に弁解してホンマはロリコンとちゃうん⁉」と思われそうなので、2次元のSAIKAYAキャラ説明で深追いしないで置いた(笑)。
徒歩で三笠公園に移動。
ここから5分程度の距離と近く非常に便が良い。
11:30
三笠桟橋に到着。
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三笠桟橋は文字通り“世界三大記念艦の三笠”の横に有る桟橋で、桟橋の前で乗船券を購入出来る。
乗船券は純粋な船賃1200円(往復)+入島税300円と安い。
丁度タイミング良くチケット売り場に到着した頃に乗船時間と成り、ギリギリ待つ事無く猿島行きの遊覧船に乗船出来た。
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三笠桟橋~猿島は10分の航路と非常に近い。
この日は三連休最終日と言う事も有って大変な賑わいだった。
もう5分遅れたら定員オーバーで次便まで乗船出来なかっただろう。まぁ、そんな場合も想定して、その場合は三笠公園の売店で横須賀土産の物色と戦艦三笠に乗艦して時間を潰す計画だった。
バッチリ、小生の旅行は毎回ヌカリは無い(自画自賛)。
11:45
猿島桟橋に到着。
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今回初めて知ったのだが、何と猿島の休憩所兼売店の3F事務所でガイドツアー(200円)に入れる。
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小生は一度来ているし大体の解説を出来る知識を有している心算(つもり)だったので・・・
「ツアーに入る必要も無いかな。」
・・・と内心思いながら、ここはゲストであるITの意思を尊重すべきと思い確認。
小生「ツアーに入って専門的にガイド聞いて見たいか?それとも自分達で自由に回る?」
IT「ツアーに入ってみよう」
・・・このITの判断は正しかった。
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島内の明治時代の要塞跡を見学ツアーに入ると、一般では見学できない場所も入る事が出来たり小さな疑問も質問するとガイドさんが詳細な解説で回答を下さった。
例えば直接歴史とは関係無いが・・・

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・・・ツワブキの花。小生はこれが食べられる野草のツワブキと知らなかった。綺麗だなと思い写真を撮っていたら団体の先頭を歩くガイドさんが「黄色い花はツワブキです」と解説をして下さった。
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この構造物は通風孔かと思っていたら、中の穴は兵舎として利用されていたそうで明り取りの穴だったそうだ。
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この壁面の穴も質問する前に解説が有った。これは送電線を固定する金具を埋め込むモルタルのブロックが嵌(は)められて有った跡そうだ。
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この写真の様な金具が嵌っていたそうだ。
自然の砂岩の場所には煉瓦の様に直接金具を埋め込めないので方形のブロックに金具を取り付けてから砂岩に嵌め込んだ訳だ。
ここに島の浜辺近くの発電所から電気の送電線が伸びて、各砲台や兵舎へと電力が供給されていた訳だ。
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これはガイドさんがツアー客に質問する前に小生は正体を当てていた施設だ。
実はトイレの跡。
写真撮影するの忘れたが、実は下部に配水構造が有り便器が嵌っていた様な跡が有る左側のモルタルと、右側は壁状のモルタルの下が配水構造に成っていたので直ぐに解った。
三笠の小便のトイレに右側のモルタルの設計が似た構造だったのだ。
先に進むと今度はレンガの積み方に関して講義が始まった。
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この様に長辺と短辺を交互に並べ重ねて行くのを“フランス積み”と言うのだが、小生はこれを知らなかった。
これに対して横一列毎に長辺だけを並べ更に上に短辺だけを並べる積み方を“イギリス積み”と言う。
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このイギリス積みに関しては小生はたまたま本で見て知っていた。この写真の場所は変わっていてフランス積みとイギリス積みを両方一箇所で見られる日本でも珍しい近代史跡だそうだ。
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煉瓦の積み方の講義の次に、一般観光客は見学不可な弾薬庫内部の案内が始まり正直予想外の幸運。
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内部は漆喰で固められており、当時は白く綺麗な洋館の内部の様だ感じだっただろう事を推測出来る。
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天井には穴がポコポコ開いており、小生はコレをITに「空気孔かな?」と見当違いな予想を問いかけたらガイドさんによると“伝声管”の配管がココに通されていたそうだ。
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この弾薬庫は外部からは判り難いが2階建て構造に成っているらしい。
その2Fには砲台への弾薬補給の指示を出す人が居り、その伝令を配管を通じて糸電話の要領で行っていた訳だ。
だから当然ながら弾薬を2Fに送る人力のエレベーターも存在しており、今もその穴を見る事が出来る。
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こんな素晴らしい史跡なのだが、残念な馬鹿はいつの時代もいる様で、今の団塊~バブル世代が戦後に無断上陸して猿島要塞史跡に落書きをして回ったそうだ。
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おい石井智樹見てるか?
オマエのアンチモラルで低文化な落書きは、施錠の向こうで末代まで消される事無く晒し者にされ続けるぞ(笑)。反日文化テロリストと同類の己の傍若無人な振舞い、子々孫々まで恥として晒されれば良い。
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2Fと砲台の有る上部へは写真の様に階段を登って移動していたそうで、弾薬庫や兵舎の中から登れた訳では無いそうだ。
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今でも立派な煉瓦組みのトンネルも残っている。
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このトンネルの横にも多数の外へと通じる階段が設置されており、更に階段の途中にも先程の弾薬庫の様に横に伸びる穴状の構造物が有るそうだ。
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トンネルはともて趣が有り、ヨーロッパの城内を散策している様な感覚だな。
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最期に猿島の北端の砲台跡の開けた場所を抜け海辺に出て解散と成ったのだが、ここでも猿島要塞と同じ役割をした東京湾に浮かぶ明治時代の人工島要塞の東京湾第1海堡と第2海堡の解説が有った。
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実は東京湾には陸軍大将だった山縣有朋公によって建設された人工島の要塞が3つ在った。その内、第1海堡と第2海堡が現存していて第3海堡は前東京都知事の石原慎太郎に因って撤去された際にライオンズクラブによって解体され追浜の日産自動車の工場近くに移築され展示されていたりする。
そこ等辺の事も過去の記事で解説しているので、興味の有る人は以下の記事タイトルをクリックして解説を読んで見てくれると良いと思う。

望遠鏡やカメラのファインダー越しでないと目視し難いのだが、猿島からも第1海堡と第2海堡がガイドさんの言う通りに見る事が出来た。
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灯台が有る方が東京湾第一海堡。
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奥に見えるのが富津岬の直ぐ傍に在る第一海堡。
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繰り返しに成るが第三海堡は日産追浜工場近くの夏島地区の岸壁に移築されている。
ガイドさんの薦めもあり、島の海辺に在る通称“日蓮洞”と呼ばれる日蓮宗信者にとって聖地である縄文時代からの貝塚が発見されている洞窟も見学した。
島の北端の西側に当たる。
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この洞窟は江ノ島に繋がっていると昔から伝承しているが、ガイドさん曰(いわ)く・・・
「江ノ島の方では江ノ島の洞穴は富士山に繋がってると解説しています(笑)。」
・・・との事(笑)。江ノ島のガイドと真偽確かめ様と画策中らしい。
そこから日蓮洞と反対側の島の北東に移動。
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途中、又、要塞の中も通る。しかしココを抜けると入口に戻ってしまうのでトンネルは抜けないで山側に行った。
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・・・このショボい見張り台と言うか展望台、実は“仮面ライダーのロケ地”“ショッカーの秘密基地の入口”の設定の場所らしい(笑)。
ガイドさんによると、なのでコスプレイヤーの聖地に成っていて猿島全体含めてコスプレした女の子達が良く自分の写真集を作る際に撮影の為に来るらしい。実際、この日もコスプレした女性達が数人来ておりカメラマンが撮影していた。
まぁ、人畜無害な趣味なので、御寺や神社で撮影して場の雰囲気を乱すよりは猿島で撮影してくれた方が良いかと思う。
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こちら側から山の尾根伝いに島の桟橋方面に戻ると、砲台上部構造も見学出来る。
この穴を使い1F弾薬庫から弾薬を補給し、方形の小さい穴に弾薬を仮置きしたのだろう。
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関西には中々こう言った場所が残っていないらしく、和歌山県の方まで行かないと戦争史跡の廃墟は無いそうだ。
一頻(しき)り見学を終えて時間に合わせて桟橋に戻る。
14:45
ギリギリ乗船定員20人前位で乗船する事が出来た、ラッキー♪
14:55
三笠桟橋に到着。
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三笠公園に着いたら先ず、戦艦三笠の写真撮影タイム。そして三笠公園売店で御土産を物色。
余り興味を引く物は無かったようで、ITの要望で三笠公園前の古着屋に移動。
ここも気に入る衣服は見つからなかったそうで、駐車場に戻った。
15:30
駐車場から三浦半島三崎町へ出発。
16:10
城ヶ島第2駐車場に到着。
実は最初は城ヶ島公園の第1駐車場に行ったのだが、第1駐車場は17時で閉門施錠される為に管理人のオジちゃんのアドバイスで17時以降も出庫可能な第2駐車場に移動したと言う次第だ。
第2駐車場から城ヶ島公園はそれ程遠くない。
16:15
第2駐車場から徒歩で神奈川県立城ヶ島公園に到着。
すると綺麗な黒猫様が御出迎えして下さり、寛大な事におおいに“モフらせて”頂けた。


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凄く綺麗な毛並みと顔立ちの猫様。
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可愛かったな~。
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顔を洗っていたので「明日は雨だな」と言ったら、どうやら関東ローカルの迷信らしい。
それもとITが知らないだけなのだろうか。
取り合えず、翌日の天気は雨ではなかった(笑)。
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城ヶ島の海岸の夕景と富士山を見物予定が海がガスって秋季には珍しく富士山見えず。しかし夕陽と海と岸壁の風景は相変わらず綺麗だ。
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城ヶ島は展望台の近くに海岸に降りる階段が在る。
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そこを降りるとこんな風景が見れる。
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本当は今の季節、もっと水蒸気が少なく富士山も見えるのだが、生憎(あいにく)と低い所に雲が掛かっており富士山も今回は見られず日没も途中までしか見られなかった。
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釣り船は見えた。これはこれで風情が有る。
3月に台湾の友人夫妻を連れて来た時は雹(ヒョウ)が降った不運に比べれば綺麗な風景も見れて良かったのだろう。ITも満足してくれた様だ。
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日没後の夕闇迫る時間帯だが、小生達の他にも散策する観光客が数組居た。
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展望台に戻る階段は季節柄、薄木(ススキ)が茂って秋らしく綺麗な風景を見せてくれた。
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そして黒猫様と他の茶虎猫様達が再び見送って下さった(笑)。
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でもコイツ等、愛想悪かった(笑)。黒猫の神対応に感謝♪
写真を撮影するのを忘れたが実は城ヶ島も猿島や野島と同じく戦争史跡の廃墟が有り、明治~大正時代の砲台跡が花壇として保存されている他、岸壁には猿島要塞の弾薬庫と同じ構造物が残っているが弾薬庫の方は一般見学は不可能だ。
腹も空いたので夕食に三崎漁港に鮪を食べに移動する事にした。
17:10
駐車場に戻り城ヶ島を出発。
17:25
三崎漁港に到着。
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三崎漁港の鮪を夕食にしたのは、ITに折角なので神奈川名物を食べさせてあげたいと思い事前に・・・「葉山牛と、三崎漁港の鮪料理と、鎌倉野菜と海鮮のイタリアンとどれが良い?」
・・・とリサーチして「肉より魚、鮪食べたい」と回答が有ったからだった。
しばし三崎漁港の商店街を散策し鮪漁で栄えた頃の倉屋敷の外観を見物して廻り店の選定に入る。
17:45

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有名な鮪料理専門居酒屋の“黒羽亭”か・・・
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・・・鮪稀少部位を食べれる行き付けの寿司屋“紀の代”から好きな方をITに選ばせ“紀の代”に入店。
3月に台湾の友人もこの店に連れて来てあげたかったのだが生憎と当日は店が開いてなかった。ITはラッキーだったな。
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まぐろ寿司(インド鮪赤身漬け、中トロ、大トロ、備長鮪のトロの握り)、鮪サラダ、ワタ(鮪の胃袋湯引き)、皮ポン(鮪の皮のポン酢和え)、鮪のカマの焼き、鮪のツミレのお吸い物を食べる。
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鮪丼(大トロ、鮪ユッケ、漬け鮪、ネギトロ)、ネギトロ巻きを追加(笑)。
※因みに、この日、小生は先月ダイエット8㎏成功したのが1日で2㎏リバウンドした(笑)。
ITも美味しい美味しいと満足してくれた様で何より。
臺灣の友人が来た時も中国人の同僚が帰国する際もここに連れて来たが、一緒に来た人が自分の美味しいと思う店に連れて行って喜んでくれると嬉しいもんだな。
そして気兼ねなく安心して御腹いっぱに食べてくれる様子を見るのも嬉しい。
自分が大切に思う人達が幸せそうにしている様子を見るのは嬉しいもんだ。自分の御腹も幸せに成るしねぇ~(笑)♪
18:50
三崎町を出発。
19:20
横須賀PA(上り)に到着。
横須賀土産を物色。
海苔と葉山牛の佃煮と海苔と鎌倉の蛸の佃煮を購入し神奈川土産に渡す。
写真は撮り忘れた。
19:50
小生の地元、横浜最高峰の栄区の円海山(海抜たった300m)に到着。
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横浜の中心部の夜景を見物。去年の出張でITを案内した中華街~大桟橋界隈を指さし、みなと未来地区とベイブリッジの位置を解説。
一頻り夜景を見て新横浜のホテルへ送り届ける為に出発。
運転中に春に出張来るらしいので遊ぶ計画を相談。此方(コチラ)も間宮直元公の顕彰活動と城マニアの趣味で但馬地方に行く予定が有るので一応、ザックリと訪問予定地を伝え予定の擦り合わせを相談をしておいた。
20:20
新横浜駅近くのホテルに到着。
うむ、留学最初の半年の仲間達とは毎日皆で食事をし皆であちらこちら旅行して廻ったので、IT等初期の仲間と遊ぶと何だか留学中を思いだし面白い。
そして、未だに色んな事を相談する関係であり、ベタベタせず数ヵ月に一度のやり取りでも信頼関係が絶えない位信頼出来る奴。
それでなくても古馴染が訪ねて来てくれるのは嬉しいね。

子曰学而時習之不亦説乎
有朋自遠方来不亦楽乎
人不知而不慍不亦君子乎。

儒教は年長者の失態の責任追求を許さない組織の自浄能力を昨日不全させるばかりか実力主義も認めない年功序列の腐敗の温床で大嫌いだけど、論語のこの一文は気持ち解るかな~。
ITの御陰で有意義な時間を過ごす事が出来た1日だった。
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因みにITの土産は何故か鹿児島の醤油と煎餅だったが、この醤油がイカ刺しに付けて食べたら凄く美味かったので個人的に大瓶で取り寄せようと思う。
ありがとうIT!次は関西か又、神奈川か。又な!

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