歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

カテゴリ:休日雑記 > 国内

家の事が忙しく結局、車懸と昨年に河村城~深沢城~山中城~箱根権現~大涌谷~箱根関所を廻った記事を書く時間を確保できませんでした。
これ⤵の続きは随時書く事にします。


明日から仕事な上に今日も未だ勉強しないといけなくて余り時間が無いのでサクッと年末年始に何してたかを書きます。
——年末の行動——
実は年末に親が入院して手術して、実家で家事やったりしてました。
それで南部市場の買い出しは例年だと両親の分や弟家族の分とか、妹への差し入れも買っていたのですが今年は親が片方入院中なので2人分だけ購入してました。


だから購入した毛蟹2杯だけだったんです(笑)。
昨年は除夜の鐘は小生が尊敬する北条綱成公の付家老だった間宮康俊公ゆかりの弘明寺で突いたのですが、今年は向かう途中で雨が降ってしまい、止む無く家に帰りました。
北条綱成公や間宮康俊公を御存知ない方は、下の記事を読んでみて下さい。



弘明寺に行く途中、南区の最戸で土砂降りに遭ってしまい、円海山方面に帰る途中にマックに退避して雨宿りして少ししたら上がりました。
でもウェザーニュース見たら大晦日23時~元日01時まで弘明寺はピンポイントで1mmの雨だったので、この日は車じゃなく原付で行動してましたし諦めて帰宅しました。
いつもは自転車なんですが、夜で濡れてクッソ寒いしフルフェイスのシールドが雨露でなんも見えなくて危ないので、その様に判断しました。
帰宅したら昔からよく知る地元の御寺サンの檀家さんに声をかけて頂いて鐘突かせて頂けました。
何とか除夜の鐘タスク達成出来て良かったです。

——元日の行動——
朝起きて、とりあえず御節モドキと御雑煮モドキを作りました。
小生は料理は効率重視で余り見た目は普段気にしないので、綺麗な料理は彼女がいる時に彼女が家に遊びに来た時か同棲してる時にしか作りません。
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買っておいた蟹を・・・
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鍋で蒸しながら・・・

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時短御雑煮の為に本来ウチは京都風の白味噌だけど面倒なので液状マルコメ味噌+イオンの下茹で野菜(ポトフ/カレー等用www)+油揚げ+切り餅。
自転車で爆走すれば近くにスーパーとか沢山有るし歴史の有る地域にもアクセス良いので生活には便利かも。
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熱を加える方は出来上がり。
御節も南部市場で購入した単身者用のセット×2を並べただけ(笑)。
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しいて言えば好きな小田原の籠清の蒲鉾だけは今年も購入した。PXL_20240101_000016318
蟹と御雑煮もどき⤵
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鶏肉買うの忘れて鍋用の鶏団子で代用してしまったwww。
ちなみに上の「寿」は姪達の御年玉袋にくっつけて転用したwww。
御節もどき30分で調理?終了www。
まぁ、自分の彼女や奥さんと二人だったらもっとちゃんと作ります。

昼からは除夜の鐘の時間に弘明寺で2年参り出来なかったので、もう一度行って見たら何か市営地下鉄の駅の辺りから500mくらい参拝客がズラっと並んでたので又もや弘明寺の初詣は諦めて退散。
そこから親の入院してる病院に見舞いに行き、小生、一応今は兼業で学生なので横浜市一の学問の神社である永谷天満宮に参拝しようと思ったら、こっちも旧別当寺の曹洞宗の貞昌院さんの駐車場のずっと向こうまで参拝客が並んでたから警備員サンに聞いたら1時間以上待つよって言われたから「明日で良いや~」って思って退散。
永谷天満宮に関してはブログ開始初期の頃に記事を書いているので興味が有る人は読んでみて下さい。
これ⤵


日本100名城の1つ、八王子城の設計をした間宮綱信サン(間宮康俊公の実弟で今の磯子区の氷取沢領主)の奥さんが、この永谷天満宮にを開いた宅間上杉家の宅間上杉規富公の御姫様だったので、小生はこの永谷天満宮もとても好きなんです。
結局、永谷天満宮にも御参りせず家に真っ直ぐ帰るのは嫌なので、そこから近い(と言っても自転車で10分位、バイクで5分)の日限山地蔵尊に御参りに行きました。
久しぶりの参拝、多分2年ぶりかな?
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ここは昭和10年(1935年)に横浜貿易新報社(現:神奈川新聞)が県民から投票で選定した県下名勝史蹟四十五佳選の1つに選ばれた場所でもある。
素晴らしい場所ばかりなのに廃れてしまっている場所や、戦後のGHQによる宗教法人の土地の没収等で宅地化されてしまい何の風情も無くなってしまった所が多かったりするのだが、日限山地蔵尊も周辺の宅地化と昔は富士山が見えた西側の林が手入れされず伸びきって大木に成ってしまい景観も失われてしまった場所だったりする。


何か小生が昔GoogleMapに口コミ書いてたから興味が有る人は読んで下さい。
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今では参拝客は普段は多くないけれど、正月は多くの人で賑わってて何だか少し嬉しかった。
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拝受できる御朱印も可愛いね。
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で、そこから又、円海山に戻って少し遠回りして富士山を見て途中で京都知恩院の四十六世住持(浄土宗で一番偉い人)の了鑑大僧正の出身地で有る阿弥陀寺と昔は阿弥陀寺持ちだった峰白山神社にも御参りしたけど写真撮り忘れたwww
以前書いた阿弥陀寺の記事⤵

そこから帰宅して入院中の親に連絡して洗濯して乾燥機かけて風呂あらってお湯張って夕食作って食べて風呂入って元日は終了。

——2日の行動——
午前中は家の事やって昼過ぎに入院中の親の病院にまた会いに行って、そのまま大晦日と1日に御参りしなかったから先ず車で弘明寺に移動。
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割とスンナリ御参りで来た。
御御籤で末吉で内容悪かったから引き直したら凶が出たからもう一回引いて大吉。
今年は大吉にする為に頑張るのです。
昔書いた弘明寺の解説⤵

運は努力しないとついてこないので、内容が良いのが出るまで引くんです!
ちなみに、他の神社仏閣でも引いてるから全部まぁ、内容の良し悪し両方書いてある事は誰が読んでも教訓に成る事が書いて有る(笑)訳で、ちゃんと神頼み的な意味ではなく心得として参考にします。

そっからスッ飛んで伊勢原市にワープwww
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例年御参りしてる延喜式内社にカテゴライズされる神社。
まぁ、古参の読者の方は記事よんだ事有ると思う。
これ⤵

相模国設立時に初代の国司の布施色布智公に崇敬され、後の時代にも征夷大将軍の源頼朝公と北条政子様御夫妻が子宝祈願&安産祈願デートに来た神社で、その更に後の戦国時代は関東管領も務めた扇谷上杉家や近くの岡崎城を本拠地にした扇谷上杉家から三浦家に養子入りした名将の三浦道寸公等の崇敬を集めた場所でもある。
ちょっと伊豆の国主で相模国西半分を支配した小田原城主の伊勢宗瑞公と北条氏綱公の親子と三浦家が対立した時に御世話に成ってた三浦家に味方したら神社の旧境内の現在の奥宮の場所の社殿が放火されちゃったり大変な事も有ったけど、北条家にちゃんと現在地で復興されたりしてる。
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御参りすると巫女ちゃんに御祓い無料でして貰って御守り貰えるので少し御得感も有る神社。
神社の背後の奥宮の山に向かって農道を進むと、途中聖地化した所以である古墳や出土した縄文時代のストーンサークル等が展示してあったり、旧境内地の廃校に成った某女子短大の敷地にも埒面(らちめん)古墳と言う古墳の跡が展示されてたりする。
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旧本社跡の奥宮、祠が祀られている。
この祠と現在の本殿の真っ直ぐ先に大山の頂上が有る。
奥宮の丘から見下ろす伊勢原市と平塚市の街灯り。
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眺めが良いよ。
あの平地は遠い縄文時代には海で、その影響で平塚市や伊勢原市の岡崎辺りは戦国時代も土腐(どぶ)や湖の多く有る湖沼地帯と砂丘なんかだった。
そこら辺りは現代、旧相模川橋脚と誤認されている鎌倉時代の小出川の橋脚の話しや高部屋神社の神事の事で解説した事が有るので興味が有る人は読んでみて下さい。


比々多神社での初詣が終わってから伊勢原の叔父の家に正月の挨拶に移動。
叔母と従姉も元気そうだった。叔母達に上がって夕食食べてけって言われたけど、この後で前鳥神社の18時に閉まる前に何としても間に合わなければならず、この時点で17:15とギリギリだったので・・・
「前鳥神社毎年御参りしてるけど、今年は親の見舞いで出発2時間おくれてギリギリだから」
・・・と事情を話したら従姉(ねぇ)ちゃんに「え~上がらないの!作っちゃったよ!」と顰蹙(ひんしゅく)買ってしまったが3人とも笑顔で送り出してくれたので良かった。
・・・そもそも「今年は玄関先で挨拶だけしに行くからね」と伝えておいたんだけどな(笑)。
でも、ありがとう。
で前鳥神社。
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日没が16時40分なんだきゃらソリャ真っ暗だよね、18時まで社殿の雨戸閉めないでくれてるだけ有難い。
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相変わらず雰囲気良くて好き。
この前鳥神社も延喜式内社で、比々多神社は相模国三之宮、ここは四之宮、だから前鳥神社の有る地域の住所は今でも四之宮と呼ばれている。
仁徳天皇の実弟である菟道稚郎子が主祭神の神社。
菟道稚郎子は仁徳天皇に対して反乱を企てた母違いの別の兄弟を討伐し内乱を治めた名将であり、日本初の中国の学問つまり天文学の暦や漢詩や兵法を学んだ人物として知られ、菅原道真公登場以前の学問の神様として信仰されてきた。境内社には仁徳天皇と菟道稚郎子の学問の師である阿智使主(あちのおみ)も祀られている。
前鳥神社に関しては、以前に記事を書いているので詳しい事を知りたい人は下のリンクの記事を読んでみて下さい。


 御本殿なんか中国チックな変な正月の絵が飾られてた。
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でも辰年の絵だしおめでたいね。
主祭神の菟道稚郎子の学問の師である阿智使主(あちのおみ)は、中国の三国志の物語の始まりの頃の漢王朝の皇帝だった霊帝の子孫で、つまり漢王朝劉氏の子孫に当たる人物と伝わる。
でも小生が思うに、恐らく直系的には霊帝ではなく、霊帝の時代に帯方郡と楽浪郡の太守として赴任し劉氏なのだと思っている。
この帯方郡と楽浪郡は卑弥呼が魏に使いを送った時代の太守で、祖先は漢王朝の皇族で楚王の劉紆(りゅうはん)王の御子孫と考えた方が自然だろうと思う。
霊帝の時代に遼東半島に赴任した話が伝言ゲームで間違って伝わってるんじゃないかな?と思う。
ちなみに卑弥呼は神道的で倭姫と呼ばれる人物に当たると考えている。
倭姫の甥っ子が倭建(ヤマトタケル)だったりするが、倭建と言うのは倭国の長(おさ)=軍事長官と言う古代の官職の漢字の当字称号で複数人の皇族大将軍が一人の神格と誤解されて纏められてしまった為に意味が解らなく数百年に及ぶ事業が一人の偉業にされていると思っている。
卑弥呼にしても、恐らく近畿以東の勢力に大和朝廷が九州北部まで押し込められて魏に当時最新鋭の屯田兵制度等を技術供与して貰い、関西まで取り返した人物なんだろうな~と個人的には推測してる。
卑弥呼の頃の伊勢神宮は実は現在の三重県には無かった。
今の伊勢神宮は古墳時代の雄略天皇=大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)=中国史料記載:倭王武=考古学名:獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)の時代頃に遷宮させられて現在地移っている。
この伊勢神宮の天照大神の神話では神様が色んな場所を転々として最後に「私ここが良いわ!(意訳)」と言ったので、現在地に成ったと、少し濁して遷宮の歴史も伝わっている。
この神話の様に当時の女王は後の時代に祭祀を司るだけに成った斎王の前身で、卑弥呼の時代には丹波国か丹後国に在ったので、そのどっちかの元伊勢にいたのが時代に的には倭姫なので倭姫=卑弥呼になる。
すると東征神話=甥の倭建、卑弥呼が死んで男王に成ったら再び国内大混乱に陥ったので再び女王が就任したって三国志の魏志に書いて有ったりするのだが、それが女王 臺与(とよ) なのだが神道で神功皇后と呼ばれてる人物と倭姫と倭建と成務天皇辺りの男系天皇の短命で殺し合いしてる様子等が垣間見えたりして、卑弥呼=倭姫・臺与=神功皇后ってのがシックリぴったり当て嵌まったりするんだな。

そこ等辺りの解説は以前コレ⤴で日本の現在の太陽暦と昔の太陰暦の誤差と天皇家の上古天皇の不可解な年齢カウントの理由の解説で書いてるので興味が有ったら読んで下され。
で、前鳥神社に御札を返し参拝も終わり、寒川神社へ移動。
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毎年寒川神社の参道は沢山の屋台が並んで楽しいのだが、今年は寒川神社手前に毎年出店するラーメン屋台に入ってみる事にした。
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この屋台、毎年の御正月に車で寒川神社に行って参拝する人は見た事有ると思う。
店内に入ったら結構ちゃんとした席と豊富なメニューで居酒屋と比べても遜色ないレベルだった。
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小生は「もう毎年お好み焼きとタコ焼きはいいや」と思ってラーメンを目当てに入店。
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普通に拉麺として素朴で美味しい醬油ラーメンだったし、マスターや周りの御客さんが皆明るくて直ぐに話の輪に入れてくれて楽しかった。
何か御客さんはたまたま料理人の人達の毎年くる常連客だそうで、御客さんもマスターも小生が良く行く横浜南部市場で仕入れをしているらしく、その話で直ぐに意気投合してしまった(笑)。
接客するマスターの御嬢さんも美人で、5年前に好きだった〇見さんと言う女性にソックリで「美味しかったです、また来年も来ますね」とか言ってしまって「なんだかな~」と思いながら寒川神社の表参道に回った。
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相変わらず立派、延喜式内社で相模国一之宮の寒川神社、旧律令制の大社格の神社。
芸能人なんかも沢山来る。夫婦の神様で縁結びと夫婦円満と八方厄除けの神様でもある。
つまり色んな災難(家庭内のいざこざ)を纏めたい時は、それを心がける為にここ御参りしたら良い(笑)。
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ここの参道は本来の入口の一之鳥居がもっともっと南側に有って、そこから本殿まではまともに歩いたら1.2kmも有る。むろん、小生が先程お見せした写真は現在の入口なので数百mしかないがそれでも神秘的。
でも一本裏に入ると正月は・・・
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粉物と串焼きと甘い物の屋台が都合100軒は出ているだろうか。
すんごく楽しい!
ラーメン食べたのに・・・
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買っちゃったwww。
この寿串も南部市場で仕入れた奴だろうか?売ってた御節のセットと同じ飾り。
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食べ終わって表参道にも戻って・・・
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門をくぐって・・・
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御本殿で御参りして・・・
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追儺神事を見学して破魔矢と弓を頂いて帰宅。
追儺神事なんぞ?と言う人これ⤵
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もっと詳しく知りたい人は昔、書いた記事読んで下さい。
これ⤵

その後、体冷えてクッソ寒いから駐車場スルーして夢庵に入ってホットドリンクバーで温まってから帰ろうと思ったのに・・・
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何故かスイーツのセット注文してたwww。
美味しかった。結局ドリンクバー注文せず暖かい緑茶飲んでたし!
で、駐車場に戻り車に乗って帰宅して2日目終了。

——3日目——
家の事と親の見舞い。
あと、姪っ子達に未だ御年玉をあげて無かったので少しガッカリ➡喜ばせる悪戯(いたずら)の御年玉袋を作成。
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小生には弟と妹がいるんだけど、姪達に先ず茶封筒に御節の飾りつけくっ付けて(笑)、「超雑な御年玉じゃん」と思わせる第一段階。
次に開けてみたら駄菓子のコインチョコのお年玉袋www
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これ、姪達ひっかかって・・・
「なんか分厚い!硬い」
と騒いで開けたらチョコの駄菓子の袋で小学生の姪達は「あぁ~」と成ってた。
作戦通り。
でも、オジちゃん、時間かけて裏のシールめっちゃ綺麗に剥がして中にちゃんと現金5000円づついれてたので見つけた瞬間に・・・
「あ~貰えないかと思った」
・・・とデカい方の姪が言っててオジちゃんはシタリ顔に成ってしまった。
実は、弟妹が親が入院してから4日まで一度も親の見舞いに行ってなかったくせに元日に姪達連れて実家に御年玉だけせびりに来たので、内心キレてた小生は弟妹だけでなく子等も無視して「おじさん洗濯物乾かしにコインランドリー行かないといけないから」と言って放置して出てってそのままにしてたのだ。
それで弟妹はヤバいと思ったらしく、弟は3日に子を連れて親の見舞いに漸く行き、妹も家族と4日に行ったので小生も気が変わり御年玉上げる事にしたのだ。
帰りに家から比較的近い場所にあるモスバーガーで限定の黒毛和牛バーガーなるものを食べてみた。
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まぁまぁ美味しかったと言うか、モスバーガーはマックより良いけどパティがそんなに美味しくないと個人的に思ってて、まぁジャンクフードのチェーンだし、横須賀のドブ板通りのネイビーバーガーみたいに価格帯的にも材料に金がかかってないから勝てる訳ないしと思ってたけど、これはソコソコ美味しかった。
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オニポテは安定の美味しさ。
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で、本日4日目。

——4日目——
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やっと横浜の学問の神様、永谷天満宮の参拝客が三賀日過ぎて減って参拝で来た(笑)。
今日は快晴だったので、永谷天満宮の境内地の裏山の富士山の化身である木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀る浅間権現様の祠の真後ろに富士山と横浜市営地下鉄ブルーラインが綺麗に見えました。
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永谷天満宮で御参りしてから親の病院に行き、明日から仕事開始で明日は来れない事を伝えました。
親の容体は回復が早いどうで御医者さんも良い評価をしているうよです。
親も後期高齢者なので、治療は大変だと思うけど頑張ってるので厳しい事は言いつつも励まし支えたいと思います。

そんな年末年始でした。
御城訪問の休日雑記ブログの続き、ちゃんと調べて書く時間取れなくて更新出来ませんでしたが、また少しづつ仕事と勉強の合間に書いていきます。

では読者の皆さん、今年1年間御互いに実りある進歩の歳にしましょう~♪
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突然ですが・・・
小生29日から1月第一週まで仕事が冬休みに成りました~🎉
学校も休み♪
で、正月の買い出しに南部市場に行ったら場内市場の水産棟の御店で毛蟹1杯1200円で買えました。
証拠写真⤵
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超ラッキー(笑)。
よくこの中⤵から見つけたと思う。
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ちなみに小生が買った時点で3杯しか無かったので30日にはもう無いと思いますが、他にもズワイガニ等が他店より安かったですよ。
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お店は水産棟の中の渡辺水産です。
明日30日もやってるそうなので、蟹を買いたい人にはお勧めです!
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他にも御正月の食材を売ってる山本水産さんとか横浜水産とかも30日迄営業してるそうです。
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それと鮪を目の前で解体して販売してくれる金鱗水産さんも有りますよ。
仮に御正月の買い出しに間に合わなくても、第2土曜、第4土曜には水産棟で早朝に買い物出来ます。

鮪巨大ですよね・・・
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そりゃパレット積みでフォークリフトじゃないと運べませんわ・・・
見た感じ100kgは無くても人間の小学生〜中学1年生くらいの重さ(笑)はありそう。
筋肉の塊だからもっと重いのかな?
さて南部市場の水産棟は明日30日含め、水産棟は仲卸し業者で普段は御店向けの鮮魚販売なので通常営業日も朝の7時開店~10時で閉まります買いたい人は8時には行った方が良いでしょうね。
店によっては31日まで営業してる場所も有りますから諦めずに行く価値はあると思います。

小生の本日の戦利品⤵
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左から・・・
毛蟹:1200円×2杯、
単身者~2人用のおせち詰め合わせ:1200円
小田原の蒲鉾の名店‟籠清”の板わさで食べる蒲鉾:1000円
激安っ!
でも明日30日~31日は水産棟に来なくても場外市場でも売れ残りの物が更に値引き成ると思いますよwww。

さて、水産棟の行き方が分からない人の為に地図で場外市場駐車場から歩いて行く方法を教示して差し上げます。
※クリックして⤵拡大して見て下さい。
南部市場
南部市場自体の入口は2カ所有り、いずれも首都高湾岸線の下を通る国道357号線の下り車線から入るのが便利ですが、年末は市場とベイサイドマリーナアウトレットへ向かう車で渋滞します。
少し早めに出発する事をオススメします。
場外市場の前は込みやすいですが、ブランチ棟の屋上駐車場は30日~31日位だと入りやすいかも知れません。
正月の買い出しに限らず、水産棟は月2回、第2、第4土曜に一般人も買い物出来ますから是非、訪れて見て下さい。ただし、先述の通り7時~10時しかやってませんから注意してください。
場外市場の方は普通にスーパーマーケットと同じ様に営業してますし、ブランチ棟でも小田原の干物の名店の‟山安”や、新鮮な魚を扱う神水産等が出店してます。

では皆さん、良いお年を過ごして下されや~。

PS
明日30日の夜か31日中に歴史仲間とのゴールデンウイークの近代要塞と山城巡りの旅行の記事。
これ⤵の続き

を書いてUPしますね!

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2年前に京都に転勤してしまった歴史仲間の車懸がゴールデンウイーク中当家へ3泊滞在し、一緒に歴史散策久しぶりにした2日目の5回目の記事。


この⤴前回の続き・・・
01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
07味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
——前回ココ⤴——
車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が大量なのは前回の説明通り。
——今回はココから⤵——
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
——ココまで⤴——
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11塚山公園と三浦按針・お雪サンご夫妻の墓所の安針塚。
12王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
13仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)
・・・今日は前回の続きで横須賀観光の一部分を書きたいと思います。
先ず今回のシリーズの説明から・・・  

ゴールデンウイークの車懸の拙宅滞在2日目の横須賀散策の後半部分・・・
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味美食堂
・・・走水神社参詣と味美食堂での食事を終えて、先ず向かったのが神話の舞台の走水低砲台。
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走水低砲台
実は倭建と弟橘姫神話の舞台の御所ヶ崎
ここは小生、過去の穴場の海水浴場記事や富士山の景勝地の記事で紹介していた場所でもある。

なので、車懸との散策も以前の内容と重複する部分も有るし、この日の写真より以前の写真の方が綺麗だったりするが古参の読者の方には既知の内容に成る事を御容赦願いたい。
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明治時代に陸軍が御所ヶ崎の走水低砲台建設で神話の舞台をぶっ壊すまで神社だったので参道みたいな名残が残っていて、そこが砲台の入口にも成っている。
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登るといきなり近代の遺構。
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ではなく、神社時代の階段の名残的な物が残ってる。
でもこの石段は古い物では無く、石材の感じからせいぜい江戸時代の物。
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上の作平地は恐らく神社が有ったと思うけれど、背後の壁面に近代砲台の弾薬庫が「非常に素晴らしい保存状態」で現存している。
以前は非公開で海上自衛隊の管理地だった事と、今の横須賀市の上地市長が非常に文化財活用と保護の両立に熱心な方で理想的な公開方法と保存が実現されている。
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中を見る事も出来るし、部分的には入れる所も有る。
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正面の上部に空いてる穴は軍艦と同じで伝声管の跡。
上部に27cm砲弾をブっ放すキャノン砲が有って、そこにいる砲手と連絡を取る為の物だった。
これらの話しは、以前ブログにも書いた学生時代の京都の友人のA・Iが遊びに来た時に猿島のボランティアガイドの方に教えて頂いた事だったりする。
弾薬庫なので・・・
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・・・当然、弾薬を上部砲台に釣り上げる人力滑車のホイスト(クレーン)が付いていた弾薬輸送の竪坑(たてこう)も現存していて上から下に今も穴が貫通している。
弾薬庫の上部⤵
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大きなキャノン砲だった事が良く分かる。
その横に弾薬輸送のホイスト竪穴が有る。
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で、滑車の跡も残っている。
興味が有る人には意味を解って見ると本当に面白いと思う。
なので小生は走水海岸かねよ食堂~破崎展望台からの富士山眺望~御所ヶ崎の走水低砲台~観音崎砲台と観音崎海水浴場や美術館と観音崎要塞を纏めて1日のデートコースや家族のレクリエーションとして推薦しているのだけど、なかなか若い学生世代のカップルにも小さな子のいる現役世代にも知名度は上がらず、しつこく推薦し続けている。
車懸は横浜勤務時代も横須賀観光も何回か来た事が有るが、京都転勤の2020年3月頃はまだココは非公開だったので初訪問だった。
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砲台の裏側には読売テレビ系列の鉄腕Dashと言う番組でも頻繁に紹介される150年間海軍用地だった事で人が立ち入っていない自然環境が保全された海が有る。
この日の写真は天気のせいで今一なので過去写真を・・・
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磯焼けが問題化している三浦半島にあって、こんなに透明度と豊かな海藻の森が広がる海が現存している。
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砲台もコンナ感じで保存状態が極めて良い。
因(ちな)みに、この御所ヶ崎の直ぐ近くに破崎展望台と言う富士山景勝地が有る。CIMG0542
【破崎緑地展望デッキ】
なんと三浦半島以東で唯一の海岸に対して左富士が見える場所なのだが、恐らく神話の時代(ヤマトタケルの叔母は倭姫で倭姫は卑弥呼に比定出来るので古墳時代初期)に倭建と弟橘姫がここを仮の滞在場所にした理由は景色故(ゆえ)だったと思う。
まぁ、そんな風光明媚な場所が古事記に登場する「走水」だったりするのだが・・・
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生憎(あいにく)車懸と言った時は早朝は雨天で御前は曇天だったのでそんな綺麗に見えなかった(笑)。
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でも頂上には当時の東京湾防衛網の砲台の個所が記された簡易地図が有り、こう言うのを読みながら散策すると楽しい。
ついでにGoogleEarthや農研機構サンがリリースしてる明治時代の帝国陸軍が測量した迅速測図を見比べて当時の地形を見てから行くともっと理解が深まって楽しかったりする。
走水周辺の近代要塞
まぁ、こんな感じで走水低砲台は小規模ながら見応えが有り、周辺に観光スポットも多いので合わせて行く価値が有るので車懸を連れて来た。
この後に更に大きな浦賀の千代ケ崎砲台を見学に行く予定も有ったのだが、ここは走水での食事と神社参詣だけでスルーするのは勿体無いので一応、案内した。
一頻(ひとしき)り見終わると車に戻り、次は鴨居八幡神社に移動した。
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鴨居八幡神社
ここは三浦一族で源義朝公に忠誠を尽くした、多々良家の開いた八幡宮として横須賀市では知られている。
治承四年(1181年)に多々良義春公によって源氏の影響下で開かれたと伝わる由緒有る八幡宮だったりする。
多々良家と言うのは余り歴史好きでも知らない人が多いかと思うけれども、三浦一族の武家。
三浦義明と言う高齢で戦死した源氏の忠臣がいまして、その孫に当たるのが多々良義春公なのだが・・・
普通の人は名前を聞いた事すら無いと思う(笑)。
・・・でも多々良義春公は海賊退治で活躍した伝承が有ったり、勇将として地元民に現代でも愛される人物だったりする。
この三浦家関連の事は石橋山の合戦は「鎌倉殿の13人」の解説記事を書いた時に三浦半島との関係を含めて書いているので興味の有る方は下のリンクから記事を御覧頂くと参考に成るかと思う。

三浦家の惣領だった三浦義明公は源頼朝公が伊豆で蜂起した際に、三浦家は祖先の三浦義継公が源頼朝公の御先祖の源八幡太郎義家公や、頼朝公の父上の源義朝公等に与力していた縁を重視して石橋山の合戦発生時に源氏に付いて平家に対して反乱する事を決めた武将でした。
鎌倉殿大庭景親鎌倉殿梶原景時鎌倉殿伊東祐親鎌倉殿河津祐泰鎌倉殿伊東祐清鎌倉殿山内首藤経俊鎌倉殿畠山重忠鎌倉殿稲毛重成
           VS
鎌倉殿源頼朝5鎌倉殿北条時政2鎌倉殿北条義時2
三浦義明公⤵

2014-11-16-16-47-06

鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿三浦岡崎義実鎌倉殿三浦義村鎌倉殿和田義盛鎌倉殿土肥実平鎌倉殿安達盛長

源頼朝公達は石橋山で敗戦してしまい、伊東祐親や大庭景親等が源氏狩りの追悼戦を開始した頃に武蔵国の平家軍の総大将である畠山重忠公がタイミング悪く南下して鎌倉に至り、今の材木座を挟み極楽寺側と三浦家が陣取る住吉城側とで対峙する事に成ります。
鎌倉城塞網 国立歴史民俗博物館を参考 久良岐のよし
この戦いは和田義盛公の父上の杉本義宗公が鎌倉の杉本城(杉本寺の有る丘の全山が城塞化されていた)城主だった兼ね合いか、和田義盛公が裏切者の畠山重忠公に父の代から守っていた鎌倉市街地を蹂躙されたくなかったのか、20000の大軍に膨れ上がった畠山重忠軍に対して挑発行為を行い戦端が開かれます。
この合戦の詳細については、住吉城の近くに在(あ)る富士山の景勝地として有名な披露山公園の紹介記事を書いた際に郷土史として紹介している。
これ⤵

三浦家の軍勢は総兵力3000で住吉城から三浦半島の中心にあった衣笠城まで撤退戦を行い兵を集結させます。
その後、三浦家は義明公の嫡孫である和田義盛公の持ち城だった怒田城に三浦家の将兵を移動させます。
現代人は知らない人の方が多いのですが、戦前まで入江だった横須賀市の久里浜の怒田(ぬまた)城の船倉から水軍で三浦軍は房総半島まで更に撤退して伊豆半島の頼朝公を海上で接収し三浦家の軍兵を温存する事を決めます。
その際に三浦義明公と子の一人でもある多々良重春公等が衣笠城に僅かな手勢を率いて籠城し畠山重忠軍を釘付けにして、畠山軍が頼朝公達の追撃戦に加わる事と三浦家一族の将兵が房総半島に逃げる時間稼ぎを同時に成功させて、三浦家の兵力温存戦略を成功に導き御自分達は玉砕し討死にしました。
そんな名将が三浦義明公と多々良重春公だった。
因みに三浦義明公を討ち果たした畠山重忠公は三浦義明公の外孫だったりする。

三浦義明公には三浦市三崎町の現在の海南神社に当たる筌龍弁財天の元に成っている稲荷社で源氏に付くか吉凶占いをして、源氏に付くように神託を得る演出を一族に対して行って納得させたなんて逸話も有ったりする。
まぁ、そんな頼朝公の戦略的な命の恩人であり随一の忠臣でもある三浦義明公と行動を共にした多々良重春公も屈指の頼朝公の忠臣と言えるだろう。
それ故(ゆえ)に頼朝公のは三浦義明公の居所跡と考えられている場所の2箇所にそれぞれ寺院を開いていて・・・
1つは衣笠城近くの横須賀市大矢部の満昌寺、こちらは以前紹介しているので記事を御覧頂きたい。

もう一つは、三浦義明公時代の三浦家の鎌倉市街地における居所だったと思われる材木座の来迎寺。
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随我山 来迎寺
ここには三浦義明公と多々良重春公の立派な供養塔の他に、三浦家戦没者の墓石群が今も保存されています。
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※小生、以前は偉人の墓所を掲載しない主義だったのですが、この数年間の気候変動で神奈川県内各所の歴史偉人の墓所に黴(カビ)が繁殖して墓石に彫られた字が剥落し風化する速度が異常に早く成っているのを確認しており、映像として保存を兼ねて以後は偉人の墓所の写真を皆さんに共有します。
平安時代末期~昭和前期の戦前には背後の丘に奥院の観音堂が有って、そこを登る道が古代の街道の脇道の1つだった様で、観音堂へ続く丘の斜面に林道が昭和までは現存した。
その丘を越えると三浦半島の尾根道伝いに三浦郡の郡衙が有った曹源寺周辺にも行けるし古東海道に合流して走水に抜けて房総半島に渡る事も出来る。
この古街道は戦時中、砲台設営の為に観音堂は撤去されてしまい更に上部に公営墓地の建設で道の名残りも無くなっている。
まぁ、今回は多々良重春公の説明なので来迎寺さんは改めて別記事にして、その内に紹介したいと思っている所ではあります。
さて、鴨居八幡神社に話を戻します。
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この八幡宮を御存知の方は横須賀市民以外には余り多くないと思いますが、先程解説した多々良重春公の御子息の多々良義春公によって頼朝公の影響で開かれた八幡宮の1つな訳です。
この神社は色んな横須賀市内の神社を兼務していて、例えば浦賀にある頼朝公の叔父で猛将として名高い源為朝公所縁の鎮西八郎為朝神社や、頼朝公と真言密教の高僧である文覚上人が開いた東叶神社等を兼務されています。
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源頼朝鎌倉殿文覚2
偶然ですが源氏と三浦家所縁(ゆかり)の御利益の強そうな場所ばかりですね。
東叶神社は意外にも未だ個別の紹介記事を書いていませんでした。

何回も登場してるんだけど・・・
まぁ、そんな東叶神社とか凄い神社を数社兼務しているのが鴨居八幡神社の宮司家だったりします。
非常に歴史文化に対する保護に貢献されている社家の1つかも知れませんね。
で、鴨居八幡神社そのものに話を戻すと、この神社は景色がとても綺麗なので小生の好きな場所の1つだったりします。
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眼前がね、海なんです。
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この海岸は漁港でもあるのですが余り知名度が高くなく、海水浴に適している場所でもあります。

でも現代では海の家とか出店しない場所ですし、小生も気に成ってる美味しそうな海鮮料理屋サンも有りますが昭和の昔と違って飲食店も凄く少なくなってしまったので知名度が低いんですね。
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良い場所なんですけどね~、防波堤も有るから海も穏やかだし。
テントを持参して子供遊ばせるには適してますが、駐車場も有りませんしね。
もし駐車場が営業されたら海水浴場として経済的に地域活性化の影響を及ぼせる場所だとは思います。
まぁ、そんな感じで走水低砲台から浦賀の千代ケ崎砲台に向かう途上で鴨居八幡神社を初参詣の車懸と再訪してみました。
鴨居八幡神社は御朱印が有り、鴨居八幡神社でも東叶神社でも鴨居八幡神社の御朱印を拝受出来ます。
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叶神社も車なら近いので是非参詣されると良いかと思います。
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東叶神社⇔西叶神社は渡し舟で渡船して縁結びの御利益が有るのでカップル向けの八幡様でもありますしね~。
ちなみに走水海岸~破崎~走水低砲台~走水神社(旧名:走水権現社)~観音崎海岸~観音崎砲台~多々良浜~鴨居八幡神社位置関係はコンナ感じ。
2日目訪問箇所位置関係
2日目訪問箇所位置関係迅速測図
やっぱり江戸末期の地形とほとんど変わらない明治時代と、令和の地形では沿岸部が埋め立てられて少し違いますよね~。
でも鴨居八幡神社は素敵な場所で車懸も無事に御朱印を拝受し終えて、千代ケ崎砲台に向かいました・・・
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——次回に続く⤵——

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称名寺 横浜市金沢区
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昨日、散歩してきました。
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今年は1月から毎日、平日仕事から帰宅し夜は資格の授業を在宅受講。
土日は実習と学校で授業受講とテスト。
友達と遊んだのはゴールデンウィークに歴史仲間の車懸と遊んで以来もう、誰とも遊んでない。PXL_20231210_040423461
先月も新潟から女友達が突然鶴見のホテルに来て、観光案内して欲しそうだったり飲みに散々電話で誘われたけどテストと実習があるから準備しなくちゃいけなくて付き合って上げられなかった。
昨日、テストだったけど余りにもスケジュール過密で発狂しそうだったから、土曜日の実習の後でテストのスケジュール来年年初にスライドさせて貰い、昨日久しぶりに昼間に散歩した。
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久しぶりの称名寺は、池に青空が映り込み、とてものどかな景色でした。
帰路、寿司屋に寄り道して食事して帰りました。PXL_20231210_040533052
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ちゃんとした歴史ブログ、先月更新しなかったから16か17日と月末の2回書きますよ〜

では皆様、心身の健康大切にして良い年末をお過ごし下されや〜。
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2年前に京都に転勤してしまった歴史仲間の車懸がゴールデンウイーク中当家へ3泊滞在し、一緒に歴史散策久しぶりにした2日目の4回目の記事。

この⤴前回の続き・・・


01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
——前回ココ⤴——
車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が大量なのは前回の説明通り。
——今回はココから⤵——
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
07味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
——ココまで⤴——
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11塚山公園と三浦按針・お雪サンご夫妻の墓所の安針塚。
12王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
13仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)
・・・今日は横須賀観光の一部分をサクッと書きたいと思う。

前回、歴史仲間の車懸を旧北条家臣の柳下家菩提寺である長昌寺と、昭和の海軍飛行隊の拠点建設で同じ富岡の富岡総合公園の反対側から長昌寺に遷座した芋観音を観光した部分を書いて、そこから先に参拝して富岡八幡宮に戻った。

このブログが初見の人の為に念の為解説しておくと、この日は最初の歴史散策に長昌寺の直ぐ側の富岡八幡宮を参詣し、社務所で付近の歴史散策の間、車を駐車させて頂く許可を頂いていた。
富岡八幡宮に戻って車に乗り込むと、三浦半島の横須賀市側、走水へ移動した。
この日は未だ朝食も食べていなかった。
当初は杉田家で朝ラーメンを食べる予定だったのだが営業してなかったので、先に金沢区の歴史散策を済ませて横須賀市に移動してから横須賀市観光協会のボランティアガイドの皆さんも行きつけの“味美食堂”でブランチに海鮮を食べる予定だったからだ。
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走水神社
ここは倭建(ヤマトタケル)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)の聖地で、この神社の原型に成った現在では神明社とされている場所に御二人は参詣され、房総半島への渡海の準備を進める間、走水の御所ヶ崎を行在所(あんざいしょ)とされ滞在したそうだ。
そこ等辺の話しは何回も書いてる。

小生は倭建の叔母の倭姫は女王卑弥呼で伊勢神宮の斎王の原型の人物だと思っており、倭建と言うのは古代の大王(おうきみ=大君)の親族であり皇族将軍の総称で複数人の事業が一人の神の称号として混同されていると考えている話はチョクチョク持論を開陳しているので古参の読者の方々は良く知る所だろうか?
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この写真は本殿前から撮影した走水漁港の写真だが、この本殿は建替えの際に伝承通り地下に石棺が安置されている事が確認されている。
神話化された郷土伝承によれば、倭建が滞在中に奉納した冠が御神体として石棺に収められて埋蔵されていると伝わるが、その石棺なのだろう。
本殿裏の山頂には明治の帝国陸軍による御所ヶ崎と旗山崎の砲台建設や元は半島だった吾妻島が海軍に基地化される際に、それぞれの場所に有った神社が廃社にされた。
下の画像は明治時代初期当時の海岸線と現代のGoogleEarth衛星画像とを比較できる農研機構サンがアプリ化した帝国陸軍が明治時代に作図した迅速測図の比較。
位置関係:御所ヶ崎旗山崎走水神社吾妻者千代ケ崎砲台
その画像上にGoogleEarthを使って各所の位置を表示してある。
皆さんも自分の住んでる地域が地盤が弱くないか、元はどんな場所だったか知りたい人は農研機構サンの比較アプリを見てみると面白いかも知れない。

さて、旗山崎、御所ヶ崎、吾妻島に有った神社が帝国陸軍によって廃社にされて要害化された際に、主に海軍の東郷平八郎元帥等が中心に成って遷宮と言う形で走水神社の裏山に作られた御社がある。
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ここ走水神社と奥宮は車懸と初対面の日に歴史散策で遊びに来た場所だった。
初対面が2016年だったと思う。
もうそれから7年の付き合いだ。
一昨年、車懸は京都に転勤で戻り時間的にも距離的にも1年に1回遊べるかどうか、という感じに成っているが、SNSでは話せる時に仕事の話しや最近の近況報告は不定期にお互いに連絡し合ってる。
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車懸と久しぶりの走水神社奥宮の参詣を終えてから、真っ直ぐ現代の参道には下りずに国道16号整備以前に走水から浦賀〜久里浜方面に抜ける古街道として利用されていた山道を下りる事にした。
走水神社奥宮の前に終戦直後まで使われていた古街道が有り、そこから現代では大泉寺の墓地に成った場所に古道の入口が繋がっている。
そこを下りて味美食堂に移動する事にした。
小生達の様に古道を山歩きをする人は歴史ファンには多くいて、その人種は予備知識が無くても地形を見た瞬間に「あぁ~そうね、古道だね」と思うだろう。
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まぁ、ここは恐らく戦国時代に山頂が要害化されていたはずなのだが防大建設や明治の付近の要害化で何も発掘されずに山頂地形は改変されていると思うが、当時は堀底道=切通として防衛の役割も担った道だと思う。
走水の古道
※クリックして拡大して見て下さい。
この道もシッカリ迅速測図に表示されている。現代の衛星写真と比較して、上の迅速測図で大泉寺の裏にS字クランクした黒線で表記されているのが古街道。
走水の古道2
以前、走水神社の現在70代後半の氏子サン達に色々と幼少期の話を教えて頂いた際に走水に学校が無くて、ここを通り山越えで通学していたそうだ。しかも山頂の畑には肥溜めが有って落ちる危険性が有ったと言う話を聞いた上で迅速測図で整合性を確認していた。
山城マニアの車懸もこの道は「戦国時代に要害化されてて空堀なのかな~」と感じていたそうなので、やはり走水は房総半島の里見家の海賊に備えて普通に要害化されていて古街道は防衛の都合も有り切通状を維持されたのだと思う。
一般に山道は人が踏み固めると、そこに雨の水が流れたりしてU字型に変形していき自然に切通化されて行く。
下の写真は横浜市磯子区と金沢区に跨がる観音山の林道。
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典型的な自然の切通と人工的に切通化された両方見れる古街道。
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現在は横浜横須賀道路の釜利谷ICと金沢自然公園に部分的に分断されてしまっているが、この道は鎌倉防衛網であり街道だった金澤道と六浦道の合流地点だった。
過去に観音山とか他の記事にも似た様な古街道の山道を写真で紹介してるので興味がある人はカテゴリーから過去記事を探してみて欲しい。
この切通状の地形が敵兵の侵入数を限定出来て縦列行軍しか出来なくさせる事で崖上の土塁から弓矢で敵兵を射殺しやすく防御力が高い事に武士達が着目した。
その結果、武士達により人工的に切通を掘り下げて造成され防衛施設に用いられたのが、鎌倉七口の切通だったりする。
鎌倉城防衛網
奥宮から古街道を通り大泉寺をサクッと参詣して、味美食堂に移動した。
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味美食堂
ここは小生のブログで何回も書いているので古参読者はアジフライの名店として良く御存知かと思う。
元々は漁師と兼業だった御店主が、余りにも需要が高いので食堂に専念して横須賀名物の鯵や地蛸の料理を提供している小さな名店で、小生は学生時代の京都の友人ITと猿島に行った時にボランティアガイドの方に推薦されて知った御店だった。
小生が好きな現代の政治家の一人なのだが元防衛大臣の小野寺五典サンが味美食堂までアジフライ定食を食べに来ていて店内にサインも有ったりする。
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このボリューム感で1000円。
車懸と小生はそれぞれアジフライ定食を注文、アジフライはサクサクのホクホク、身も甘さを感じて美味しい。
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これと別注で鯵刺し、アナゴ天も単品で注文してシェアした。
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アジフライがフワフワなんだから当然ながらアナゴ天もフワサクっ!として美味い。
小生の中で神奈川県アジフライ四天王の1つ(笑)なだけある。
因みに小生の中で横須賀の味美食堂、横浜野毛町の文次郎(咲良)、横浜洋光台のかつ亭、三浦市の地魚料理松輪、が、アジフライの美味しい店BEST4。

ちなみに「かつ亭」は洋光台駅近くで磯子区だが、実は御店主が走水での釣りが趣味でアジフライは御自身が釣った鯵を提供してるので、いつもアジフライが食べられるとは限らない。
まぁ、そんなコンナで食事していると、どうもトライアスロンが趣味の若い女子大生位の二人と引率の男性(お父さんかな?)も味美食堂で御食事されていて「美味しかったぁ~」と満足されて会計を済まされて店を出て行った。
まぁ、歴史好きな人や、カップルで縁結びの御利益で走水神社を参拝されたい人は是非、味美食堂や以前紹介した近くの「かねよ食堂」で御食事されて帰ると良い思い出に成ると思う。

食事を終えて店を出ると、車懸と次は走水低砲台へ移動した。
ここは車懸が横浜勤務中はまだ近代史跡公園として整備されておらず週末公開開始前だったので車懸には初見だった。
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さて・・・
今日の記事はここまで。
次回は走水低砲台~、浦賀の千代ケ崎砲台の部分を書きたいと思います。

さて、今日は2023年10月29日ですが、最近急に秋めいてきて涼しくなってきましたね。
皆さん風邪をひかない様に気を付けて下さい。

そうそう、11月04日に小机城址竹灯籠まつりが開催されます。
小机城址竹灯籠まつり1
御興味ある方、詳細については下記のリンク記事を御覧下さい。

ついでに、紅葉シーズンなので紅葉の名所纏めと個別の解説もリンク貼っておきます。

上記に書ききれなかった鎌倉市内の紅葉名所も以下の個別解説に数ヵ所紹介してます。 

秋の皆さんの余暇の参考に成れば幸いです。

では、次の記事は又1ヵ月1回ペースの更新に成ってしまうと思いますが、皆さん、味覚の秋おおいに楽しんで下されやぁ~♪

続き⤵
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ゴールデンウイークの歴史仲間との歴史散歩の記事

この⤴前回の続き・・・
2年前に京都に転勤してしまった歴史仲間の車懸がゴールデンウイーク中当家へ3泊滞在し、一緒に歴史散策久しぶりにした2日目の3回目の記事。

01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
——前回ココ⤴——
車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が大量なのは前回の説明通り。
——今回はココ⤵——
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
07走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11塚山公園と三浦按針・お雪サンご夫妻の墓所の安針塚。
12王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
13仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)
・・・今日はこの中の長昌寺の部分を書こうと思う。
京都の歴史仲間の車懸が来濱して小生の家に滞在2日目、前々回書いた富岡八幡宮を参拝後~前回書いた第四代、六代総理大臣の松方正義邸跡の石碑を見てから~中華民国建国者の孫文先生の日本亡命時の上陸地だった石碑の立つ慶珊寺を参詣し、慶珊寺に眠る戦国時代の旧北条家臣で江戸初期の徳川家旗本と成った豊島家の墓所を参拝した。

そこから徒歩5分程の距離に所在する、昔の人々から❝芋観音❞の通称で愛された長昌寺へと移動した。
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富岡山 長昌寺
通称芋観音の別称で地元民に愛された寺を合祀した
戦国時代の北条家臣柳下家と近代の文豪、直木三十五の菩提寺

この御寺は現代でこそ地元民しか知る人も少ないが、実は文化人にとっては非常に重要な御寺で直木賞の由来と成った直木三十五先生の墓所が在り、更に戦国時代に慶珊寺の豊島家と同じく小田原城主の北条家臣の中でも元々は北条本家の直臣だったと思われる柳下家の菩提寺でもあった。



現在の御寺のホームページは東大の前身に成った江戸時代の江戸時代の昌平坂学問所の頭取だった間宮士信サンが編纂した❝新編武蔵風土記稿❞の記載を元にしている様で、江戸時代の彼の存命した江戸時代の一時期は長昌寺は無住職だった。
無住職だったので詳しい御寺の歴史は江戸時代には既に里正(りせい:庄屋)の太左衛門(たざえもん)サンの家の口伝に頼っていた様(よう)で江戸時代に文字お越しする際には既に御寺の開いた時期の元号や時代背景は混乱していた事が現代の歴史オタクが無料で国立国会図書館のデータや横浜市立図書館の蔵書から容易に読み解ける。
つまり、小生の見立てでは長昌寺のホームページに記載の歴史は半世紀ほど間違っていて実際には戦国時代初期に開かれていたのは間違いないと先に結論を申しておきましょう。
では細かい話をる前に現代の御庭の景色の写真を挟み込み、一端区切りを作ってから歴史の話しに突入していきましょう。
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門を潜ると石畳の先の正面に御本堂があります。
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右手には庫裏(くり)。
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御本堂の前の御庭は広くはないけれど御手入れが行き届いています。
ここから歴史の話しに突入して行く・・・
この地域は慶珊寺の歴史からも江戸時代初期の領主は既に柳下家ではなく豊島家に移っている事が分かる。
長昌寺は無住職だった時期が有るので2つの時代の北条家臣の話しが混在して伝わっていて混乱を生んでいる訳です。
次に先に御寺の寺伝が嘘ではない事も解説したいと思います。
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長昌寺は元は長昌庵と言う仏堂で庵程度の規模だった事が分かります、後に御堂が建設される規模の寺院化されている様です。
新編武蔵風土記稿 久良岐郡 金沢領 富岡村の項目に長昌寺が紹介されています。

除地、村の東にあり、土人東の寺と呼、禅宗臨済派、鎌倉建長寺末、富岡山と號す、
開山仙渓、慶長十六年八月四日寂す、開基は村民太左衛門が先祖柳下豊後守なり文禄二年閏九月十七日死す
本堂五間に六間東向、本尊阿彌陀の立像、臺坐共二尺三寸餘、
此本尊は前に云文禄二年、盗賊亂妨せし時奪去りしが、祟ありしを以て再當庵へ返し安置すと云、
今は住僧なくして詳なることを知す、猶舊家太左衛門が條幷せ見るべし。
天神社。社破壊して未再建せず。

この新編武蔵風土記稿の記載を読むと、どうやら前回紹介した慶珊寺が西の寺と呼ばれていて、こちらの長昌寺は❝東の寺❞と呼ばれていました。
次にポイントを整理します。

開基は村民太左衛門が先祖柳下豊後守なり
御寺を開いたのは江戸時代には村民、つまり只の旧家程度の現地人に成っていた太左衛門(たざえもん)サンの御先祖で柳下豊後守(やぎした ぶんごのかみ)だった。戦国時代中頃には笠原家が領有し、どうやら江戸時代初期には慶珊寺を開いた豊島家が支配者に成っている事が分かりますから、北条家臣時代に既に領地替えが有った様です。
②③柳下豊後守なり、文禄二年閏九月十七日死す
柳下豊後は諱(いみな)、つまり実名は伝わっていない様です。しかし実は柳下家は現在の緑区鴨居に本柳寺を開いており現在も檀家に柳下姓の御子孫が多く存在しています。
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鴨居山 本柳寺
この本柳寺の一帯は港北区の小机城と緑区の榎下城、2つの戦国時代の重要な御城を繋ぐ河岸段丘に有り、街道を抑える防衛上の重要な位置に所在しています。

この小机城は1541年に亡くなった北条氏綱公の治世に北条領に組み込まれた城で、その前の時代には豊島家の勢力圏で太田道灌公によって攻め落とされていた交通と鶴見川の水運による流通経済上の重要拠点でした。
榎下城は日本で神奈川県が最初に戦国時代に突入した原因の永享の乱で室町幕府の将軍足利義教と対立した鎌倉府の鎌倉公方(東日本統治の将軍)の足利持氏公が対立した際に、足利持氏公の側近の宅間上杉憲直公が籠城して幕府軍を迎撃した重要拠点でした。
 今川赤鳥紋  竹に雀紋
今川赤鳥紋竹に雀紋
   今川家   山内上杉家
       VS
 鎌倉府足利家  宅間上杉家
二つ両引き宅間竹雀
 二つ両引き  宅間竹雀

鎌倉府足利家 宅間上杉家
宅間上杉家に関しては以前に紹介した永谷天満宮の記事を御覧下さい。


戦国時代も北条氏綱公~氏康公の時代に成ると既に緑区一帯は北条家の治世で平安な時代を迎えており、鎌倉の西方寺もこの地域に移転してきたりと繁栄し始めています。


初期の小田原北条家の主要五軍団である白・黒・黄・青・赤の五色の軍旗で色分けされた軍団の内、白備え隊の拠点に小机城も定まっていました。


どうやら柳下家の豊後守が亡くなった際に内陸の既に平穏な地域に配置換えが有った様です。
恐らく彼の死亡は戦死で一族内の惣領の世代交替があり、小机城落城の後で北条家臣化した豊島家が富岡に配属されたのでしょう。
北条所領役帳には、小机城代で大曾根城主だった笠原家の一族と思られる笠原平左衛門の所領に、柳下家のルーツの地名が登場します。

笠原平左衛門(小机衆の治安維持担当官僚)
九拾貫文 小机 師岡
十八貫文 西郡 柳下
以上百八貫文 知行役如高辻
弐拾貫文 御蔵出 此内六貫文引銭 以上

上の文中に登場する西郡の❝柳下❞が現在の小田原市の鴨宮~西酒匂~酒匂~小八幡の当時の地名だったと考えられており、尚且つ鴨居は初期の北条幻庵公の子で小机城主だった三郎殿=北条時長公の所領だった事も明記されています。

小机衆
  三郎殿(北条時長公/小机城主)
~省略~
廿八貫四百卅八文 鴨居

この所領役帳は永正十七年(1520年)~永禄二年(1559年)の間に編纂された物ですから、ちょうど柳下家が戦乱に巻き込まれ、尚且つ鴨居に移転したと思われる時期に重なります。
北条時長公は永禄三年(1560年)に亡くなっている事から、後で解説しますが柳下家は鴨居に享禄二年(1529年)~永禄三年(1560年)の間に領地替えされている事が推測できます。
笠原家は最初期に小机城主を務めたと思われる北条幻庵公と子の北条三郎時長公の付家老だったのですが、所領役帳では小田原市に当時存在した柳下の地名が笠原家の領地に成っているので、役帳の編纂時の検地が行われた時には既に笠原家との領地替えが有り転属している可能性が見て取れます。
そして柳下家は領地替えの際に太左衛門サンの一族だけが富岡に土着して平和な鴨居に転勤したのではないかなと思います。太座衛門サンの御一族は恐らく菩提寺を守る為に残ったのでしょうかねぇ。
柳下豊後が活躍した時代は伊勢から北条に改姓したばかりの小田原城主北条家二代目当主の北条氏綱公の時代に当たります。
まだ有名な氏康サン⤵の時代ではないですね~。
北条氏康公
恐らく北条氏綱公が亡くなって遺領が分配された時点で北条幻庵公の直臣に再編されたのではないかな?と思います。
所で、この領地替えの要因は恐らく柳下豊後の討死による当主交代で柳下家の戦力回復の為だったのではないかな?と思うのですが、では本当に風土記の記載の❝文禄❞の時代に東京湾に面した富岡で、現代の感覚で言う内戦が発生し得たのでしょうか?
小生の答えは「NO('ω')ノ!」です(笑)。bd222ce8
文禄二年(1593年)は既に豊臣家により天下統一されており、柳下家の主家である小田原城主の北条家の本家は改易されています。
太閤桐三つ鱗紋

   豊臣家     北条家
つまり北条家臣として戦闘に巻き込まれる訳が無い時代です。
この時点で記載が誤りで有る事が解ります。


先に述べた通り既に北条家は改易され、この頃は豊臣家で1万石の大名として大阪府狭山市で小大名に成っていたので柳下家は既に北条家臣では無かった訳です。



更に皆さんも義務教育で習った歴史で御存知の通り、豊臣秀吉は❝惣無事令(内戦禁止命令)❞を出しています。
この豊臣家による北条家改易の頃の事は都筑区の茅ヶ崎城址近くの御寺、正覚寺の紹介記事で秀吉の文書を紹介しています。



しかも、この時期は文禄の役で朝鮮半島に日本国連合軍として各大名家が攻め込んでいる段階なので柳下家が富岡で戦闘行為に巻き込まれる訳が有りませんし、柳下家ではなく徳川家臣化した旧北条家臣の豊島家が既に領主に成っている時期です。
つまり時代の間違いが発生している事が分かります。
これに関しては似通(にかよ)った元号、閏月の有る年に富岡周辺が係争地に成っているかを検証すれば柳下豊後の死亡時期が特定出来る可能性が有ります。
そこで新編武蔵風土記稿の記載文禄二年、盗賊亂妨せし時の部分が鍵に成って来ます・・・
文禄二年、盗賊亂妨せし時
根拠は鶴岡八幡宮合戦大永六年(1526年)の戦闘後も、横浜市中区~磯子区~港南区辺りでは里見家の乱入は横浜市磯子区~港南区に跨る笹下城建設による東京湾~鎌倉市街への間道が防衛強化された時点まで続いたと伝わるので間違いないでしょう。



文禄二年閏九月十七日死すだと、文禄二年(1593年)閏九月十七日。
この日付が既に誤伝な事は豊臣家と北条家の歴史から御理解頂けたかと思います。
では、元号から歴史事実を突き止めて行きましょう。


文禄二年閏九月十七日死す
文禄二年閏九月十七日
これは恐らく享禄年間と文禄年間の話しが混ざって誤伝しています。
文禄は恐らく豊島家が徳川家臣化して慶珊寺と長昌庵の大檀那(だんな:檀家総代)に成った時期が文禄で、似た元号の享禄年間の話しが柳下家の伝承でしょう。

所で長昌寺の寺伝では柳下豊後守サンが亡くなったの槍による刺傷が原因と伝わります。
文禄三年時点での千葉県南部の大名の里見家の当主は里見忠義で、既に現在の神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県北部~群馬県の領主は徳川家です。
惣無事令を発効させた豊臣政権下で里見家が徳川家を襲撃する訳が有りませんね?
では文禄年間以外に閏月が有るか見て見ましょう・・・

文禄二年(1593年)閏九月十七日
享禄一年(1529年)閏九月十七日
ビンゴっ('ω')ノ!

享禄一年(1529年)閏九月十七日だとすれば、死因の槍傷は里見家の海賊との戦闘で受けた様ですね?
恐らく昔あるあるで閏月十七日だけ伝わってたので、江戸初期の大檀那が豊島家だった歴史の❝先入観❞から文禄と決め付けたんでしょうね。

実は享禄年間前後には富岡のみならず磯子区杉田~三浦半島走水が度々里見家の海賊に襲撃されています。
最たるものが鶴岡八幡宮合戦ですね。
房総半島の里見家や里見家の従属大名の正木家が享禄年間前後に東京湾沿岸南部~三浦半島に度々乱入し神社仏閣や商家や民家を襲撃して略奪放火を繰り返していた時期に当たり、その中でも最大規模の合戦に成ったのが鶴岡八幡宮合戦で、杉田~三浦半島に上陸した里見家が鎌倉市街まで攻め上がり鶴岡八幡宮と市街地を略奪放火して灰燼に帰してしまい、更に里見家が北条家の鎌倉の交通網の防衛拠点である玉縄城迄攻め込む事態が発生しています。
この話は源頼朝公が開いた磯子区中原の泉蔵院熊野神社や、鎌倉時代の名越北条家が支援した杉田商店街の中に有る東漸寺、戦国時代の北条家臣杉田間宮家の菩提寺の妙法寺の歴史で触れています。

では文禄二年、盗賊亂妨せし時、これが小生の推測通りに里見家の海賊の仕業なのでしょうか?
これもちゃんと元号は間違えたままですが新編武蔵風土記稿に記載が有ります。
但し、長昌庵(長昌寺)の部分ではありませんよ。

舊家(旧家)者百姓太座衛門
柳下氏なり、祖先を柳下豊後守と云(言う)、文禄(➡訂正:享禄)二年安房上総の盗賊此邊(この辺り)を亂暴(乱暴)せし時、村内長昌庵は豊後守が開基(かいき:寺院を開く事)の庵室(仏教系の草庵)なれば、其本尊を取とゝめ(とどめ)しとて今に家蔵(かぞう:家で保管)す、大身の槍なり、其由来(そのゆらい)を記(しる)せし一巻を添置(そえおけ)り、豊後守は其時(そのとき)の手疵(手傷:てきず)にて同き(同期:同時期)閏九月十七日死すと云う、夫(それ)より代々(だいだい)連綿(れんめん)として今の太座衛門に至る。

この通り、柳下豊後が槍傷を受けたのは安房・上総の海賊による攻撃だったと明記されていますね。
であれば文禄は無い。これは小弓公方(おゆみくぼう:足利家の分家)を支持する里見家と正木家等による鎌倉攻略を目論む戦闘行為以外に有り得ない訳です。
小弓公方と言うのは以前も北鎌倉の浄智寺、金沢区の禅林寺と常福寺廃寺跡の記事で紹介した鎌倉公方の足利持氏公や足利成氏公の御子孫で鎌倉公方家の分家に当たる家柄ですね。


この柳下家関連の元号の誤認の定着は新編武蔵風土記稿の編集の最高責任者の間宮士信サンの下で校閲担当した連中も悪いし、昭和に成って何の疑問も持たず検証もしいまま世間に流通させた出版社やコピペするだけの文献考古ニキ達も悪いし、江戸時代当時の屋号が太左衛門の柳下家の御子孫も悪い。
江戸時代から200年も皆してやらかしっぱなしを放置してた訳です。
・・・ってな訳で、長昌寺の開基年代は戦国時代初期迄半世紀チョイほど前倒しされて更に寺院としての古さが増す訳です。

でも、車懸と参拝した日は、柳下豊後の話しだけして掘り下げた歴史の話しまではせず、それよりも近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺である話や吉川英治先生も横浜市出身だった話しばっかりしていた気がする(笑)。
では御寺の景色紹介に戻りましょう。
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ここは金沢七福神の1つ布袋様の御寺でもあるんです。
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御庭には立派な瓦が飾って有ったり石仏様がいらっしゃいます。
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御本堂に向かって左手奥に進みましょう。
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更に進むと右手に元々は柳下豊後守の時代から鳥見塚、恐らく現在の富岡総合公園の池の畔に有ったはずの地元の方々に❝芋観音❞と親しまれていた観音様の御堂が在ります。
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この文章の中に登場する鳥見塚辺りは現代では富岡総合公園に成っていますが、戦時中は横浜海軍航空隊の基地に成っていました。
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芋観音様の話しなので、ソチラは改めて別の機会に紹介します。
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合唱一例、北条家の三鱗紋。
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御堂の中は見えますが、観音様の御厨子は普段は御開帳されていない様です。
この芋観音様に向かって左手に直木賞の由来の近代の文豪、直木三十五先生の墓所が存在しています。
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普通の人には柳下豊後の話しより、コッチの方が凄いかな?
まぁ、車懸も横浜の住宅街の中の余り大きくない御寺にコンナ偉人との関係が有るとは思っていなかった様だ。
当然だよね(笑)、でも実は平成世代には漫画の横山光輝三国志の原作小説の作家として認識されていて、昭和世代には歴史小説の大家(たいか)として有名な吉川英治先生も横浜市中区の出身だったりする。

有島武郎も横浜市出身、横浜市歌の作詞も森鴎外だったりするし大佛次郎も関係したりするので、実は何気にに横浜市は文豪と所縁深い。
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直木三十五先生の墓所を参拝し戦国時代の北条家臣の柳下家の歴史を車懸と散策してから次の目的地の三浦半島観音崎手前の走水、味見食堂~浦賀の千代ケ崎砲台に向けて出発した。

続く・・・

















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ゴールデンウイークの歴史仲間との歴史散歩の記事
これ⤵の続き・・・

2年前に京都に転勤してしまった歴史仲間の車懸がゴールデンウイーク中当家へ3泊滞在し、一緒に歴史散策久しぶりにした2日目。

01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
——前回ここまで⤴——
車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が・・・
——まだコンナ⤵に残ってる(笑)——
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
07走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11塚山公園と三浦按針・お雪サンご夫妻の墓所の安針塚。
12王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
13仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)
・・・今日はこの残り、慶珊寺の話の部分まで書きたいと思う。
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松方正義公別邸跡

第四代、六代総理大臣を務めた元薩摩藩士の松方正義邸跡の前に慶珊寺と言う御寺が有る。
松方正義
そこに満州族による征服王朝の清朝を辛亥革命で打倒して中華民国を設立した孫文先生の上陸地の碑文が有る事を書いて前回の記事は終っている。
孫文先生は顔がイケメン。
孫文
孫文先生が日本に来た当時の清国大使館は横浜中華街の中の現在の山下町公園の場所に在った。
なので、孫文先生が日本に密航するに当たって中華街の目と鼻の先の横浜港=山下埠頭=現在の山下公園~象の鼻パークの埠頭に孫文先生が上陸するのは高リスクだった。
だって山下埠頭の近くに清の役人がウロウロしてたからね。
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写真は中華街南門の青龍門。この目と鼻の先に当時は港だった山下公園が有る。
更に中華街の中には山下公園ではなく山下町公園が有る。


山下町公園
旧清帝国大使館跡地で日本ラグビー発祥地

明治時代、山下町公園には清の大使館が存在していたが大正時代に関東大震災で倒壊して移転した。
その後は日本におけるラグビーの発祥地に成ったりしたが、孫文先生が日本に来た時代には清朝の役所が有った訳だ。
その頃、今の金沢区富岡は松方正義邸の目の前は未だ海で風光明媚な別荘地として貴族の三条家や川合玉堂の別邸が有り、富岡や釜利谷辺りは室町時代にも中国明朝の禅僧の心越禅師が訪れて現在の能見台の地名由来に成った能見堂から当時は海だった金沢八景一帯の景色を見て漢詩に読んだ事から八ヵ所の景勝地が有名に成り、金沢八景の駅名に成ったりしている。
洲崎〜金沢八景や野島側辺りは戦国時代〜江戸初期には太田道灌公、小田原城主北条家歴代当主、徳川家康公が龍華寺に滞在して景色を楽しみ、江戸時代にも歌川広重が絵に描いている。
この記事で紹介した喜多屋は現在は名前を料亭だった時代の金沢園に戻し営業再開している。
昔は与謝野晶子等文化人が集い、海軍の将校も訪れる場所だった。
野島には伊藤博文公が金沢別邸を構え、朝鮮皇太子李垠殿下が庇護者の博文公の家に海水浴か遊びに行ったりしていた。

別の時代の富岡周辺地域の事は孫文先生の事とは別に以前も紹介した事がある。

鎌倉時代には六波羅探題として関西を統治した金沢北条氏の拠点、青ヶ台城が存在した。その青ヶ台城の一部が寺院化され先程話した能見堂が築かれた。
孫文先生の時代の富岡周辺にも歴史偉人がいた。
昭和の埋立まで海が眼前に広がっていた富岡の近くには長浜と言う地域があり、明治時代には横浜港に貿易船や客船を入港させる前の検疫専用の長浜検疫港が建設されていた。
実はそこで勤務していた野口英世先生が中国人乗船員から世界初のペストの病原体を発見特定をして隔離に成功した事から日本はペストのパンデミックから守られたりしている。

つまり日本と敵対し尚且つ中華民族にとって宿敵である満州族政権の清朝に対抗している孫文先生の支援者として日本政府が清朝の目をかいくぐって彼を日本に密航させるには長浜検疫港と松方正義邸は打ってつけの場所だった事が地理的要因と伝承から解る。
余談だが清を没落させたのは西太后だが、西太后が暗殺した皇帝の光緒帝は日本と連合国構想を持っていた人物だったりする。
公文書に孫文先生の密航の詳細がハッキリ残らないのは中国政府にも日本政府にも都合が悪い事だったからだろう・・・
中国共産党にとっては中華民国設立者の孫文先生の支援者が明治政府だった事が容易に分かり非常に都合の悪い歴史である。
現在では江沢民さんの政権、習近平さんの政権等の各時代に中国が反日外交軍事政策を政策の根本としているのにも関わらず自政権の設立にかかわっているのが敵対した近代日本政府で非常に不味いのだろう。
更に中華人民共和国の設立者に孫文先生の妻女の宋慶齢さんがいる事は日本の極右と極左の双方にとっても都合が悪いらしく積極的に話題にはしない訳だ。
何が怖いのか知らないけど横浜市教育委員会も、そこ等辺りの事情のせいかダンマリで孫文先生の話は積極的に紹介しない。
笑えますな。

・・・普通に松方正義先生が孫文先生の清朝からの日本亡命の手引きを金沢区富岡で行い、その後の明治政府の保護下で孫文先生が日本留学していた歴史に繋がる郷土史を横浜市民の歴史オタクは皆知っている。松方正義
因(ちな)みに松方正義公がどんな人かと言うと、これも以前に開港資料館や小生が学生時代の車懸とは別の京都の親友ITが来た時に書いた記事で紹介したことが有る記事で説明出来る。

生麦事件は日本の儀礼を知らない英米国の国民が騎馬のまま故意に島津家の大名行列に突撃し、それに対して何度も薩摩藩士達がジェスチャーでSTOPする様に制止したにも関わらず、ついには大名の島津久光公の籠に近づこうとしたために「松方正義公等によって切り付けられた事件」だったりする。
その松方正義公が後に英国と同盟国になる明治新政府で総理大臣を務めたのは数奇な運命だったりする。
この歴史を車懸にチャチャっと解説して、松方正義邸跡の前の慶珊寺散策をした。
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花翁山 慶珊寺
孫文先生密航来日の上陸地
旧北条家臣の徳川幕府旗本豊島家菩提寺

門の右側に見えるのが孫文先生の上陸碑。
この御寺は現代では地方からの移民だらけの横浜市民は地元民以外は余り知る人もいない。
けれども、中世末期~近世は元は武州豊島郡の小大名だった豊島氏の一族で、恐らく小机城が太田道灌公によって落城させられた際に北条家を頼って家臣化した戦国武将で徳川幕府で旗本だった豊島家の菩提寺だっただけでなく近代に関わってる歴史人物が凄い。
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現在では同じく金沢区内の近所で豊島家が大檀那として支援した宝珠院の御住職が慶珊寺の運営を兼務しているが、孫文先生の上陸地で松方正義先生の家が目の前なだけでなく横浜で医療に活躍しヘボン式ローマ字の開発者でもあるヘボン博士が滞在していた場所でもある。
御寺に話を戻すと、御寺には管理人さんがちゃんと居て御庭も綺麗に保たれている。
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裏の墓地の中に、江戸幕府の旗本で旧北条家臣だった豊島家の墓所が在り、文化財に成っている。
御近所の方は機会が有れば是非、小机城落城の話を少し調べてから小田原所領役帳すら見ずに「豊島家は滅んだ」とか「小机城に逃げてない」と寝言を言うド阿呆が自称学者に多い事を知って欲しい(笑)。
結構、通説と異なり関東の武士団は大名としては改易されても縮小して各大名の庇護を受けて徳川家旗本にスライドして存続している家も多いし、北条家自体が本来は足利家の室町幕府で政所執事を勤めた伊勢家が本姓なので室町幕府時代の縁故を頼って現在の神奈川県域に移住してきている旧足利家幕臣や鎌倉公方足利家与力も多くいる。例えば朝倉家、荒川家、南条家、佐々木家、間宮家なんかが具体例だろうか。
御寺に話を戻すと、御本堂の裏の墓地に現在も豊島家の墓所はちゃんと守られている。
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ロクに自分の足でほうぼう廻って調べもしない学者と言う職業の人等が小机城落城の際に豊島氏は滅亡したとか秋田に移住したとか別系統の事を書いてるかせいで関西人の車懸もここ慶珊寺の話しを知らずにいたが、当時は統治機能の引継ぎ的にも敗軍の一族を意外に根絶やしにする事はなく、没落して他大名の家臣として生き延びてるので表舞台に出て来なく成るだけの場合が多く有るのを車懸も知ってるので「やっぱりね」とステレオタイプ学者は歴史民俗軽視で足元見てないテンプレに呆れつつ、豊島氏の存続を伝える金沢区の歴史を楽しんでいた様だ。
もし、読者で御興味が有る方は次回続きで書く近くの長昌寺も合わせて散歩すると良い歴史散策に成ると思う。
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慶珊寺から徒歩数分と直ぐ近くの長昌寺も旧北条家臣の柳下家が開いた歴史の有る御寺で柳下家自体は近世に緑区鴨居に多くが移住しており菩提寺として本柳寺を支援したりしてるが、長昌寺の方は現代では文豪の直木三十五先生の菩提寺として郷土史を知る人には有名だったりする。
この富岡の富岡八幡宮~慶珊寺~長昌寺は歩いて数分の距離で歴史散策に適している上に、車やバイクなら近くに野口英世先生の働いた旧長浜検疫所も無料公開されてるし、膨大な古文書を保管している神奈川県立金沢文庫と鎌倉幕府の重鎮で関西を統治した金澤北条家の邸宅跡の称名寺や、伊藤博文公の金沢別邸の現存公開されている野島公園、その野島公園にある戦時中のゼロ戦格納庫跡の野島掩体壕を見物して廻ると1日で有意義な歴史散策が出来るのでオススメだったりする。

さて、久しぶりの歴史散策記事更新ですが、今回はここまで。
また続きは長昌寺から順番に資格の勉強の合間を見て書ける時に書きますね~。

現在2023年08月06日、神奈川県はゲリラ豪雨に見舞われましたが全国気温が高いだけでなく蒸し暑く熱中症に成りやすい環境なので皆さん体調管理に気を付けて夏を乗り切って下さい。
学生の皆は青春を謳歌して、でも羽目を外し過ぎて人生台無しにしないように楽しんでね!

では又、次の記事でお会いしましょう~♪
続き⤵
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皆さん、お久しぶりです。
梅雨で体調崩してませんか?
小生は食当たりに成って仕事を休んだり、睡眠不足で頻繁に立ち眩みがする今日この頃です(笑)。
さて、久しぶりに2時間だけ前回の記事の続きブログを書きます。

前回の休日雑記⤵

これ⤴の続き・・・

京都の友達が来て2年ぶりに一緒に歴史散策をした記事の続きを書きますが、3日間の内の2日目は1日で12ヵ所と訪問件数が多かったので横浜市金沢区編だけにして、その他の場所は又次回に続きを書くさいに紹介したいと思います。

では・・・
歴史仲間の車懸(くるまがかり)は京都の会社に勤務しているのだが彼の神奈川転勤中に知り合い、歴史仲間として2015年か2016年頃にmixiで知り合って一緒に散策をする様に成った。
彼が神奈川に居た頃は休みが合うと、毎回1日の訪問件数を大量に計画して一緒に歴史散策をしまくってた。
しかし2021年、京都に転勤に成ってしまいコロナでなかなかコチラにも来れなくなり、小生も2023年から資格の学習で歴史散策をする暇が無くなりブログ更新すら滞っている事は読者の皆さんの知る所。

5月の連休初日、車懸がコチラに来れる事に成ったのと、ちょうど小生の資格の学校のテスト勉強をスライドさせれる連休だったので、久々に京都から遊びに来ていた車懸との神奈川県内歴史散策2日目。
この日訪問した歴史史跡の順番だけ先に列挙してみる・・・

01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
07走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
12仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)

・・・結構な訪問件数(笑)。
今回は上の内、写真のUPロードや画像切り貼りするのに01~02迄しか書く時間が無さそうだ。
申し訳ない、でも少しづつ書き足していこうと思う。

この日は本来、戦国時代の北条家臣筆頭格の松田家の重要拠点だった神奈川県足柄上郡山北町の河村城~静岡県御殿場市の深沢城~三島市の山中城~箱根神社~東海道箱根関所~大涌谷を観光する予定だったが一緒に遊ぶ3泊4日の2日目は生憎天気が❝曇天/雨天❞だったので臨機応変に予定を変更し雨でも影響の無い神社仏閣と要塞巡りに切り替えた次第(しだい)。

当日の朝、最初に杉田家に朝拉麵を食べに行こうと7時頃行ったら店休日だった!
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仕方ないので、後で横須賀で昼食を少し早くとる事にして先(ま)ずは周辺で車懸が行った事のない場所を小生が幾つか列挙して、彼が興味を持った場所を案内する事にした。
最初に訪問したのが杉田から車だと10分程度で到着する金沢区の富岡八幡宮。
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富岡八幡宮
源頼朝公開基の波除八幡

ここは小生が過去に紹介した事が有る八幡宮で、源頼朝公が神戸市の三宮神社から御祭神の恵比寿様を勧進し開かれた神社で、後に法形(ほうぎょう:仏僧の服装)をした八幡大菩薩(応神天皇が習合された仏神)の神託が有った事から八幡大菩薩も合祀されて恵比寿様と八幡大菩薩が両立し社名が八幡宮に変わった場所。
そこら辺の解説は以前書いた記事⤵を御覧下さい。

八幡大菩薩は本来は治水の神様、そこに応神天皇の破邪の逸話が合わさった。
更に源頼朝公の御先祖様が住んでいた大阪の羽曳野市時代の河内源氏の邸宅の土地神様が壷井八幡宮だった事から源氏と坂東平氏の武士達から崇敬を集めた事で日本では戦神としての性格を持ち合わせる崇拝対象と変質していった。
なので八幡神を拝んで戦神としての御利益を頂くよりも、地鎮や治水、正しい事を行いたい時に破邪の祈願をすれば強い御利益を得られるかも知れない場所。
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以前の記事を読んで貰えば解る通り、ここは海岸に突き出した岬の様な地形だった場所で当時の海岸線の平地から社殿の有る場所には少しだけ参道の階段を上って行く事になる。
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この社殿は❝覆(おお)い殿❞で拝殿を兼ねており中に本殿が有る。
頼朝公はここの地形が治水や海上交通のランドマークに成ると考えて神社を開いたようで、その地形は明治時代の迅速測図とGoogleEarthで地形を見て貰うと分かりやすいと思う。
下の画像がが現代の地形と明治の地図の比較、S字状の道路は明治時代までの海岸線。
富岡八幡宮周辺
下の明治初期に陸軍が製図した迅速測図を重ねると昔の海が水色で表現されていて失われた地形が良くわかる。
まぁ、そんな訳で修験道と密教系の仏教と日本神話を信仰していた源頼朝公は、神道や修験道で聖地に成りやすい象徴的な岬に港湾のランドマークタワーとしての神社を開き、海上交通と治水の安全を願った事が良くわかるんだな。
車懸が御朱印を拝受し終わり、社務所で神職の方々に周辺を散策する暫くの間、駐車場に車を停めさせて頂く許可を得て歴史散策開始。
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先ずは富岡八幡宮でトイレ(笑)を済ませてから昔の海岸線の道に出る。
上の写真を見て貰うと右側が傾斜しており微高地に成っているのが分かると思うが、これが海岸の砂浜との境界線だった。
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そして正面に見えているのが・・・
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松方正義公別邸跡

現在はケアセンターに成っており跡形もなく石碑のみだが、往時は第6代総理大臣松方正義公の別邸がここに存在していた。
この松方正義公の別邸の前まで海だったのだが、実はその目の前に更にもう一人、近代の歴史偉人と安土桃山時代~江戸初期の武将、豊島家の関わった御寺が有る。
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孫文先生の日本への密航地点に成った場所がここで、目の前の慶珊寺に石碑が有る。
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申し訳無いのですが、今日の記事更新は資格の学習の為にここまでにします。
また次の週末に続きを1時間か2時間くらい書けたら良いな~。

では皆さん、梅雨で体調管理や食べ物の腐りやすい季節で色々大変かと思いますが、体調に気を付けて6月末を乗り切って梅雨明けまで過ごして下さい。

小生も学習と仕事の両立し毎月のテスト頑張りますので、皆さん元気に過ごして下さいね♪

あ~!
横浜市の瀬上沢は蛍の季節です。
東急建設の新社長が開発を断念して下さり、横浜市の山中市長のSDG'sで政治手腕発揮の舞台も整い、日本最大級の蹈鞴製鉄遺跡の上郷深田遺跡~水源地瀬上沢の蛍生息地も守られて行きそうです。
せっかくですから皆さんも横浜市最高峰の山稜の円海山麓、瀬上沢にホタルを見に瀬上沢に行って見ませんか?
関連記事⤵



では又、次の記事でお会いしましょう~。
続く・・・
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最近、自分の取得しようとしている国家資格の学習もモチベーションが上がらず、歴史散策時間が無くなってエネルギーも充電出来ず、ブログ書くのに史料調べる時間も無く色々と悶々としてた。
今回書く記事で紹介する場所は各所いずれ独立記事にするつもりだけど、今回は訪問箇所が多いので歴史解説は大雑把に成ると思う。

んで先月末~のゴールデンウイークに歴史仲間の車懸(くるまがかり)が横浜から京都に転勤で帰ってしまって以来、2年ぶりくらいに遊びに来たので今回は小生の自宅に泊まって貰い以前の様に歴史バカ2人で鬼畜のスケジュールを4月29~5月1日に敢行して来ましたwww。
以前ブログに書いたIT含めて親友の部類は京都人が多い小生。
御先祖様のご縁だろうか?

因(ちな)みに車懸と小生は共通点は歴史オタと言う点以外に、実は二人とも南朝重臣の子孫と言う祖先の縁も有ったりする。
車懸は村上源氏でバキバキの南朝方の子孫なので、まぁ独立性の高かった小生の祖先よりもガチ勢だったりするのだが、そんな経緯も有って以前も一緒に鎌倉城と呼ばれる市街地を丸っと取り囲む鎌倉時代には要害化されていた山稜を1日でグルっと一緒に歩いたり、神社仏閣巡りを一緒によくしていた。
その時の事を少し書いた記事⤵

今回は半年位前から時期を決め1ヶ月前から計画の連絡を取り合い、車懸が行きたい場所もリサーチしていたので後は天候次第で廻る順番を入れ替えるだけに成っていた。
提案したのは未だ奴が行った事の無い場所ばかりにしたが、当初は初日に川崎大師連れて行こうかと迷ったが、彼は祖先の主君であり鎌倉で足利直義により暗殺された護良(もりなが)親王の御廟を御参りしたいと言う事だったので1日目のスケジュールは良く一緒に歴史散策してたけれど鎌倉市内の旅に決めた。

久しぶりに面会した初日の29日、小生が午前中は用事が有り午後から横浜で待ち合わせしてから鎌倉に行く予定だったので、車懸と落ち合ってから戸塚駅で途中下車し久々に二人で志那そばやへ昼食を食べに行った。
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待ち合わせ中買ったカルピス美味しかった(笑)。
戸塚を食事場所にした目的は、志那そばやの直ぐ隣の清源院と言う寺院が徳川家康公の側室の於満方(おまんのかた)が隠居寺として尼住職を務めた御寺だったり、戸塚の地名由来に成ってる鎌倉国造の一族である冨属彦の古墳の冨塚古墳を聖地御神体として開かれている冨塚八幡宮が近いので、時間次第(しだい)では鎌倉に行く前に歴史散策も出来るからだった。


そう言えば、この2ヶ所も随分前に訪問済みなのに未だ独立記事に書いていたいのでいつか紹介したいと思う。
で、戸塚に着いた時間は昼の13時位だったので、それらを参詣するかは時間次第と臨機応変に対応してあくまで鎌倉の妙法寺と安国論寺をメインに散策に時間を割く事にして志那そばやに入った。

小生の記事は住所か下のリンクをクリックすると⤵GoogleMapで場所を確認できます。

志那そばや

入店迄は15分待ち程度だったかな?
小生が注文したのは今回は・・・
塩ワンタン麺+味玉+叉焼と名古屋コーチンのTKG。
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車懸は京都市内でも御所の近くの育ちで美味しい京都料理食べて育ってるから舌も肥えてるのだけど、この「❝志那そばや❞はスープまで飲み干したい!」と最高の賛辞を述べながら食べていたwww
車懸とは横浜に居た時にも色々と歴史散策ついでにラーメン屋も訪れたので懐かしい。
ところで小生は日本で一番美味しい拉麺店は❝志那そばや❞、2番目はNewYork店のみになり日本から撤退してしまった中村屋だと思っている。

この2店の特長は透き通った醤油と塩のスープの香りの良さと細麺と言う共通点。
志那そばやの創業者の佐野実サンが1980年代に創業、中村屋の中村栄利社長が開業したのが2000年代初頭、二人には20年の差が有るけれど❝神奈川淡麗系❞と言うジャンルを確立した功労者であり拉麺界のレジェンドなんだな。
志那そばやの拉麺はスープだけでなく麺を含め各食材の香りを感じる事が出来る。
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美味しそうでしょ~(笑)?
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そして食材に拘りのある佐野さんが始めた拉麺店では珍しい名古屋コーチンの鶏卵のTKGの提供。
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本当に美味しいので是非、読者で未だ訪れた事の無い方は食して頂き感動を共有して欲しい(笑)。
で、車懸がスープも全部飲み干したところで店を出て相談。
この時点で入店待ち時間含めて01時間程度と拉麺店にしては長居をしてしまったので店を出た時には14時を回っていた。
戸塚から鎌倉駅迄は乗換含めて30分、そこから妙法寺迄はゆっくり徒歩で20分と言う所。
当然ながら最重要訪問地である妙法寺には15時位の到着予想・・・
・・・と成ると、他の戸塚の史跡を見て廻る時間は無いので清源院と冨塚八幡宮は又の機会と言う結論に達した。
で、鎌倉直行に予定を変更。
先ずは東海道線から横須賀線に乗り換えるのと京都から3泊予定で到着したまま歩いている車懸の大荷物を預ける為に豊富に備えられたコインロッカーにブチ込める大船駅に移動。
幸い、大船駅のコインロッカーは空きが沢山有ったので荷物を預けて鎌倉駅に移動。
鎌倉駅から大町を経由して妙法寺に向かう途中で歴史上室町幕府で最後の鎌倉公方と位置付けられている足利持氏公の菩提寺である別願寺を参詣し北条政子様による開基で躑躅の名所として有名な安養院を通り過ぎながら妙法寺に向かう。
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時間が有れば安養院も参拝したかったのだけれど、如何(いか)せん時間に猶予が無いので仕方なく外から写真だけ撮影して先を急いだ・・・

妙法寺の近くに行くと寺院の直ぐ近くの住宅街の駐車場に自分の好きな旧車が打ち捨てられていた。
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NISSAN DATSUN 280Z、名車中の名車。
子供の頃に再放送で見ていた西部警察で渡哲也サン演じる大門刑事部長が乗車していたスーパーZがこの車種だ。

本当にカッコ良い!現代の車よりも昭和後期の車のデザインは本当にカッコよい。

てか今の車も旧車のデザインでボディだけ復興して車体は現代の技術で作って再販すればバカ売れするのにと本当に思う。
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ただ、この280Zは何年も放置されていた様(よう)でボンネットは鉄板が錆びて穴が空き、タイヤもゴムが劣化し空気が漏れて潰れていた。
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何だか景気の良かった時代の日本と、景気が悪くなってから社会人に成って給与も上がらなかった小生達との世代間のギャップと日本が弱まった歴史を感じて少し物悲しい気持ちに成りながら車には関心の無い車懸と改めて速足で歩き妙法寺に何とか15時半位に到着した。
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松葉谷 楞厳山 妙法寺 
まつばがやつ りょうごんさん みょうほうじ
日蓮聖人法難の草庵跡の寺院の1つにして護良親王菩提寺。
護良親王の子の日叡上人が住職を勤めた苔寺として有名な寺院。

妙法寺は旧参道が住宅街化してしまっており入口が少し分かり難いのが難点だが、この大町地区~浄明寺地区の寺院と景観は鎌倉市街西側の開発しつくされた地域と異なり趣が有って良い。
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入口で拝観券を購入して境内に入ると先ず本堂が正面に在る。
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この本堂の左手に庫裏(くり:僧侶の居住区)が有り、ソチラで御主題と御朱印を拝受出来る。
小生は以前既に拝受していたので車懸が御朱印帳を御住職にお預けして、先に護良親王の墓所と日叡上人の墓所を参拝する事にした。
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この建物は大覚堂。
護良親王の墓所に至るには本堂の前から大覚堂を通過して❝苔寺❞の異名の由来である仁王門の背後の参道階段を登り山頂に出る必要が有る。
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この日は小生達以外にも参拝客が数組いたのだが、若い高校生~大学生の女性の友人同士や年輩の御夫婦等とすれ違った。
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仁王門の後ろが良くカレンダー等の写真にも撮影されている場所。
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残念ながら安全の為に鉄の手摺(てすり)が付けられているのが景観には良くないけれど、本来は参拝が目的なので、まぁ~仕方ないのかなぁ~。
石段が磨滅してるのも、鎌倉石と言う現代では採掘禁止にされてしまった石材の交換が出来ないのでこう成ってしまった政治の責任と言うのも有るけれど、鎌倉石は鎌倉市~横須賀市~横浜市でしか採れない石材なので山を無尽蔵に切り崩す訳にも行かず、平成に入ってから古い鎌倉の寺院の石材は旧来の素材で補修が出来ないので、この様な対応を行うしかない。
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途中には矢倉と日蓮聖人の石仏が有る。
この石段を登りきると法華堂がある。
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御本堂より法華堂の方が古刹の寺院ぽいかな~。
法華堂から更に道なりに進むと日蓮聖人が居住したり説法をした草庵跡の平地が有る。
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そこを挟んで右側に階段を進むと護良親王の墓所、左手に進むと護良親王の奥方の❝南方(みなみのかた)❞と御二人の子の日叡上人の墓所が在る。
で、車懸が今回の関東訪問での1番の目的は護良親王の墓所参拝だったので先に右側に進む。
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二人で御互いの祖先の御主君の墓を参詣。
ここに恐らくは供養墓と思われる墓所が開かれたのは、当時は景観が良く鎌倉市街を見渡せたからだろうと思う。
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今でも墓所の前からは市街地が見渡せる。
ここから白旗明神の法華堂にいらっしゃる源頼朝公と共に護良親王は鎌倉市民と観光客を見守って下さっているんだな~。
さて、昔は山稜の尾根伝いに行けた南の方と日叡上人の御墓は現代では藪漕(やぶこぎ)して鎌倉時代に城塞化されていて傾斜を削って断崖にした尾根を参拝客が進み滑落しては困るので、下の小庵跡の道に戻り再度傾斜を登る様に成っている。
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・・・なので我々も道を戻り、南の方様と日叡上人に参拝。
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多分、歴代御住職の墓所であろう墓石もある。
他に背後に宝篋印塔も有った。
一応、最大の目的を完遂して妙法寺の庫裏に車懸の御朱印帳を受け取りに行き、妙法寺の直ぐ近くにあり同じく日蓮聖人が滞在し説法した小庵の1つが有ったと伝わる安国論寺へ移動。
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妙法華經山 安國論寺 
みょうほけきょうざん あんこくろんじ
日蓮宗日蓮聖人霊跡寺院の1つにして立正安国論起草の場所。
日蓮宗の高僧、日郎上人の菩提寺。

妙法寺を御参りしてコチラの安国論寺を御参りしないのは勿体無い!
更に時間が有り足が車か十分に時間が有るなら、先に妙本寺、そして妙法寺~安国論寺と参拝してから長勝寺~名越切通~法性寺をウォーキングしながら参拝して廻ると日蓮聖人の足取りを辿りながら、鎌倉時代~室町時代に活用された鎌倉城塞網を散策して巡る事も出来るので古い鎌倉の自然を感じる散策にはオススメのコースだったりする。
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安国論寺の方は妙法寺よりも建物の数が多く現存している。
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こちらが御本堂。
石畳も立派だが、安国論寺は江戸時代の尾張徳川家を始め有力者達から崇敬を集めたので大寺院として明治時代の廃仏毀釈迄、となりの妙法寺や鎌倉時代の比企家の邸宅跡の妙本寺ともども大いに栄えた。
妙法寺の方は薩摩島津家、妙本寺の方は前田家からそれぞれ崇敬され支援を受けていた。
本堂の右手に在る御小庵と呼ばれる御堂が安国論寺にも有る。
ただ、こちらは妙法寺とは少し異なり日蓮聖人が立正安国論を書いた洞穴(矢倉?)への参詣者を保護したり外側から参拝出来る様に拝殿として設けられた御堂が洞内へと続いている構造物。
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上の写真を良く見てもらうと分かる通り洞窟の中へと廊下が続いている。
この御小庵の右手の階段から山頂に上る事が出来るが、そこから天気が良いと富士山を見る事も出来る。
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ここは富士見台と地名も有るのだが生憎(あいにく)と車懸と参拝時は曇天だったので富士山は見えなかった。
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2021年の富士山の景勝地を探していた頃に小生1人で参拝した時も雲で富士山は見えなかったので、また何時(いつ)か海の水蒸気が少ない秋の天気の良い日に富士山を見に参拝したいと思う。
富士見台から境内の反対側へ尾根道から参道を進み、日郎上人の御廟所を参詣。
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一応、車懸が鎌倉でやりたかった事を完遂出来たので、時間も17時近く成っていたので鎌倉から横浜に戻る事にした。
夕食は中華街に行って食べる事に成っていたので一度大船駅へ戻ってから京浜東北線根岸線でJR関内駅に行く為、一先(ひとま)ず鎌倉駅へ来た道を戻るだけなのだが、車懸が昨年の歴史大河でも大活躍した和田義盛公と和田勢の将兵の被葬地である和田塚を拝みたいと言う事なので、其処迄また徒歩で移動する事にした。

和田塚へ向かう途中で又、別願寺の前を通過する際に別願寺の前の上行寺が何やら面白い事に成っているのに気が付いた。
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この御寺、普段は癌病治癒等の病気の治療に御利益が有ると地域の方々に愛される御寺なのだが、何やら❝物理的に参拝出来ない状態❞に成っていたwww。
丁度、御寺の方がいらっしゃったので聞いたら、地盤が少し沈下して基礎が傾いたので❝御堂ごとジャッキアップ❞して基礎を造り直すと言う荒業で修理するそうだ。
凄いね~、実際に建築物をジャッキで持ち上げてるの始めて見たよ。
車懸も珍しい物を見てビックリした様子だった。
やはり平安時代初期まで近くに海が迫り砂浜と湿地だった場所を鎌倉時代に埋め立てられたのが材木座地域~大町の西側なので、地盤が余り強くはないのかな?
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和田塚

この和田塚~六地蔵~鶴岡八幡宮一之鳥居~元鶴岡八幡宮こと由比若宮を繋ぐ曲線が平安時代末期の海岸線の砂浜から少し内陸に入った地域で、その辺りは更に前の時代には入江だったと言うのは小生のブログの古参の読者の方々は知る所だと思う。
鎌倉城防衛網
御家人の配置 久良岐のよし
この記事⤵でも少し触れたかな?

さて、そこから鎌倉駅に戻る途中、昨年までは車移動ばかりで余りじっくり町中を歩かなかったので今回面白い昭和感が満載の素敵な商店街を見つけた。
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丸七商店街

鎌倉駅側からの入口は中に楽しい空間が有るとは想像もつき難(にく)く分かり難い。
でもでも~中に入ってみると~・・・
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めっちゃ昭和レトロ感満載っ!
新横浜駅ラーメン博物館は作り物の昭和の商店街だけど、ここには完全に昭和の街並みが残ってる!
しかも駅から徒歩で直ぐだし立ち飲み屋も沢山有るので地元の人が沢山集まってるのが、より良い雰囲気を醸し出してるっ!
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で、車懸と中を歩いてたら何やら若い女性達が出入りしてる小洒落(こじゃれ)たスイーツ店を見つけたので覗いてみた。
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丸七商店 ちよのか

何と和菓子屋さんの様な造りながら洋菓子屋さんだった!
この地区の直ぐ駅の裏は御成町、比較的御金持ちが多く住んでいる地域なので御客さんの女の子も御洒落なのかな~?
とりあえずカヌレ二人分を購入して商店街を出て駅に向かう・・・
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歩きながら食べたけど、外側カリッカリで中はトロトロで美味しかった!
これ、鎌倉名物ではないけど御土産にオススメかも。
さて、そこから鎌倉駅に戻り、横須賀線に乗って大船駅で車懸の荷物を回収して京浜東北線に乗り換えて自分の住む円海山辺りの地域を通過して中華街に行く為にJR石川町駅へ移動。
食べる店も既に前もって車懸と話して決めていた。
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茂園 台湾美食

茂園は台湾人が経営する中華菓子と点心の生産直売店としてスタートして、伊勢佐木長者町にも御菓子のみの販売店舗も有る。
小生のブログでも伊勢佐木長者町の店舗はちょくちょく紹介してたので、知ってる人は知ってると思う。
この記事⤵とかね。

んで、この店は生粋の台湾人が台湾そのままの味を再現してくれてるとの前情報で、台湾人の友達も留学仲間に多く台湾に旅行経験も有る小生としては非常に楽しみにしていた。
店内の様子はコンナ感じ・・・
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・・・店綺麗で席数も比較的多い!
到着時は夕食としては未だ早い時間だったので他の客は一組だけでメチャ空いてた。
でも、コスパも良かった!
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このセットが凄い!
通常、中華街では青菜や空心菜や豆苗の炒めは1000円~1500円が相場。
このセットはメインの他に野菜の料理が2品+小籠包付いてくるメニューが有るし、チャーハンなどのメニューも有る。つまり、このセットを二人で頼むと普通に中華街の店でアラカルトを4品頼むのと同じ品数とボリュームの料理を2180円で食べる事が出来る訳だ。
これに1品、何か単品を注文すると1人3000円以下で完全にコース料理状態する事が出来るっ!
前菜も充実してるしピータンは600円と良心的だった。
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小生は魯肉飯(ルーローファン)、豆苗の炒め、青菜の炒め、小籠包のセット。
車懸は台湾牛肉麺のセットを注文。
それ+台湾料理で夜市料理の代表格ともいえる蛎オムレツを注文!
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いや~、どれも台湾の夜市やレストランで食べた料理のままと言うか日本人に媚びず台湾料理として台湾で食べたのより美味しかった(笑)!
蛎オムレツなんかチリソースでからめたオムレツの中に蛎が何個もゴロゴロ入ってて本当に美味しかったです。
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この後、良い年した男が二人で関帝廟を御参りしてから山下公園を散歩し(笑)、象の鼻パークに夜景を撮影に行き小生の自宅に帰りました。

さて、今回の記事は一先ずここまで、翌日は金沢区の歴史史跡や三浦半島の横須賀市の走水低砲台や千代ヶ崎砲台を見学して廻ったのを記事にしたいと思います。
今回書いた記事を元に又、改めて独立記事に書きたいと思いますが、毎回言ってるけれど未だに源義朝公の沼濱城館の解説も書いてないですし、書きたい物が多すぎて時間が無くて困ります。

続き⤵
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JRと相鉄線に乗って2年ぶりに西区の平沼を散策してきました。
小生は働きながら週末に国家資格取得のために学校に通っているのですが、それと合わせて今回は角平でランチするのと平沼の水天宮を御参りするのが目的でした。
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角平と言うのは横浜市南部の市民の間には有名な日本蕎麦店です。
その角平でのランチに合わせて平沼の水天宮を御参りしたいと思ったのは、7年前に戦国時代の蒔田湾と幕末の横浜開港の頃の歴史を調べていた際に現在の開港資料館に江戸時代末期まで存在した水神様の御社が有ったのを知り、その過程で平沼の水天宮をGoogleMapにチェックしていていつか参拝しに行こうと思ったからでした。
昔は平沼は平沼新田と呼ばれ吉田新田と同じく江戸時代以前には海でした。
江戸時代に先に新田開発されたのが洲乾湊(すがみなと)と呼ばれた砂浜の半島より内側に広がっていた蒔田湾とか考古学では大岡湾と呼ばれた入江でした。
個人的には洲乾湾と呼ぶべきと思うのですが。
幕末に成ると、この洲乾湊の半島の浜辺ににアメリカから来たペリー提督が上陸し、更に後に幕府によって外国人居留地に定められました。
ペリー艦隊の上陸
上のペリーさん上陸の有名な絵の右側の樹が今も開港資料館の中に現存する玉楠の樹の3代前の樹だそうで同じ位置に存在し、そお樹の麓の神社は横浜の水神社として知られた御社です。
また横浜村の有った洲乾浜の半島、その先端には淡水の湧水池が有り弁天様が祀られていました。
それ等は源頼朝公により開かれたそうです。

開港後に外国人居留地に定められた地域は旧半島と埋立地の間に残された海の名残りの運河がそのまま境界線に活用されました。
吉田橋の上に関所が設けられて外国人居留地は関内と呼ばれた事が今のJR関内駅始め関内と広く呼ばれる地域の地名由来に成っています。
関内周辺 久良岐のよし
上の明治時代初期の測量図ではまだ画面左下の平沼が今程には埋め立てられておらず海だった事が解りますね。
この関内の外国人居留地建設で移転した水天宮と現在の横浜市役所新市庁舎の場所に存在した弁天様の両方が源頼朝公が開いた物だと言うのを知った時に水神様の移転先を調べて、南区の河野サンと言う個人の御宅に移転し祀られた後で太田杉山神社に合祀されたのを色んな宮司様達に聞いて廻り辿(たど)り着きました。
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横濱水天宮太田杉山神社
元横浜村の水天宮を合祀した杉山神社
この杉山神社については改めて、今日の記事で書く平沼神社こと平沼水天宮の記事共々独立した紹介記事を書きたいと思います。
さて、この南区の水天宮は元々は杉山神社(ややこしい)で、今の関内地区や山下公園前の横浜村発祥地の砂州(さす)の半島だった洲乾湊(すがみなと)に存在したのですが、それは以前の横浜の戦国武将で江戸時代の本牧奉行や佐渡代官、生野代官、摂津代官、蒲原(駿河)代官を務めた間宮家や鎌倉時代に関西を統治した金澤北条家が支援した真言宗の江戸時代迄大寺院だった南区堀之内の寶生寺や北条政子様の隠居地で間宮忠次公が支援した寺院だった井土ヶ谷の乗蓮寺を紹介した時に少し書いた事も有りますね。


上の過去記事で少し触れた横浜村(関内地区の元町~中華街~日本大通り一帯~弁天町)には頼朝公のゆかりの神社が2つ在り、その内の一つの水天宮が現在の太田杉山神社に合祀されている横濱水天宮な訳ですが、横濱水天宮は外国人居留地に関内地区が成った際に旧家河野家へ引き取られ遷座を余儀なくされ更に現在の杉山神社に合祀されたそうです。
これについては平沼の水天宮の宮司様にも以前、色々と御教授頂いていたのですが実は電話で御話を教えて頂いただけで水天宮平沼神社様には未だ参詣した事が無かったんですね~。
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近くの平沼商店街を道筋に含む横浜道は調べたり散歩したりしたんですが・・・。

この過去記事で紹介した戦争史跡の平沼廃駅の直ぐ隣に西区を代表する日本蕎麦の名店の角平と近代の❝横浜道❞が有り、更にその辺りから徒歩5分程度に平沼神社こと平沼水天宮が鎮座しています。
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水天宮平沼神社
平沼新田鎮守の水神様
この水天宮は天保十年(1839年)、つまり江戸末期に開かれた比較的歴史は浅い神社ですが、それはその通りですね。
なんせここは地名に成った平沼家が埋め立てるまで歌川広重が東海道五十三次の神奈川宿の絵に描いた海だったんですから。
その頃の地形については、神奈川駅近く台町の江戸時代の❝さくら家=明治の田中家❞で働いていた坂本龍馬サンの未亡人お龍サンの記事でも触れた事が有りました。


つまり、お龍サンが神奈川宿に居た頃に漸く埋立地から人が住める状態に成りつつあった程度の人工の土地ですから、神社の歴史も比較的新しくて当たり前な訳です。
今回小生は初参拝だったのですが、開基(かいき:社寺を造営する事)から約200年間、地元の人にとても愛され続けて現在も参詣者が絶えない様で現代的に綺麗に石畳と新しい社殿で整備された、町の神社の境内としても綺麗な神社さんでした。
では神社の大まかな歴史の話はここまでにして、参詣して来た様子を紹介します。
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詳しい歴史については上の社頭掲示写真の内容を拡大して読んでみて下さい。
水天宮様は相鉄線の平沼橋駅から角平に行くために国道1号線に向かう途中に在ります。
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水天宮平沼神社
平沼新田鎮守の水神様
道路から見ても境内が綺麗に整備されている事が分かりますね。
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まぁ、石畳でガチガチに境内を固めるのは現代的な造りで古来の自然信仰とは異なるのですが、小生はこれはこれで綺麗で有りだと思います。

由緒正しい醍醐天皇の律令改正法である延喜式の延喜式神名帳に掲載されている御社(おやしろ)、相模国一之宮の寒川神社でも現代は同じように境内の拝殿周辺を石畳で境内を固めており雨天の参詣もし易くしてあったりするので、小生は自然なままの古来の神社も現代の石畳も両方良いと思います。
さて、平沼の水天宮様は鳥居をくぐって右手に神楽殿があります。
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御神輿の保管所も有りますね。
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神楽殿と名付けれられていますが、3階建てで立派な建物でした。
鳥居をくぐり正面に本殿。
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参拝した昨日土曜日は雨天だったのですが、小生が参詣した時は2組の和装の若夫婦が幼子を連れて御宮参りで祈祷を終えた直後だった様で微笑ましい光景を見る事が出来ました。
後からホームページを拝見したら平沼の水天宮様は子宝の御利益でも有名な様です。
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扁額は大正時代の物ですね。
この神社の社紋が変わっていて初めて見る家紋でした。
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平沼家の家紋なのでしょうか?宮司さんに聞けば良かったな。
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本殿の左手前には水天様、仏教やヒンドゥー教の元に成ったゾロアスター教や古代インド神話での龍神を束ねる神様でした。アスラ族=阿修羅様の部族の最高神として崇拝されていたそうです。
日本の宗教は古墳時代や飛鳥時代~明治初期迄は神仏習合で海外から渡来した神様も仏様や日本古来の神様と一緒に祀られていたので、同じくインド神話の女神様である弁才天=サラスヴァティー神と同じように近世日本では水天様として親しまれ特に武蔵国域では信仰されていた様です。
本殿に向かって右側に色々な境内社が祀られていたので江戸時代に周辺にあった小さな神社が遷宮されているのかも知れません。
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お稲荷様が2座あります。
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その内の1座の前には何か可愛い河童の石像。
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更に奥には小生が日頃崇拝する天神様こと菅原道真公=天満大自在天神様も御社も在りました。
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ふむ、こちらの平沼神社こと水天宮様は本来の治水と地鎮の御利益に加えて子宝と学業上達や就学と芸能上達の御利益が有る事が祀られている神様から解りますね~。
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これだけ御利益が集まっているのですから、そりゃ地域の人に大切にされる訳だ。

ちなみに、少し歩きますが近くには良い昭和の日本建築銭湯が3軒も現存していて、小生はソチラの銭湯も以前入浴に通い詰めて数ヵ所写真を撮影させて貰ってるので、それもいつか紹介記事を書きたいと思います。
その銭湯が有る側の地域にも古い戸部杉山神社が有るのですが頼朝公が開いた杉山神社が横浜市内に数ヵ所有ったので、その内の1つは西区の杉山神社だと思います。
その頼朝公が御分霊を勧進した大元の杉山神社本社は横浜市緑区西八朔に現存しており横浜市唯一の延喜式内社だったりします。

これも以前紹介記事を書いているので御興味が有る方は御覧下さい。
さて、平沼の水天宮平沼神社さんはとても綺麗で気持ちの良い神社でした。
ここから蕎麦を食べに角平に行く途中、平戸橋と言う橋の上から京急が帷子川の上を横切る鉄橋を走る景色を見付けたので撮影してみました。
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きっと鉄道写真撮影が趣味の方なら上手に撮影出来るんでしょうね~。
ここは丁度、水天宮様と角平の中間位の場所ですから、角平に御蕎麦を食べに行ってみたい方はついでに電車の写真を撮影に行っても良いかもしれません。
寒い時期の快晴の日で夕焼か朝焼けの時間帯なら、恐らく帷子川に綺麗に京急が写り込むんじゃないかな?と富士山撮影が趣味の一環の小生は予想します。
さて、そこから徒歩数分で角平に到着。
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この写真の平沼商店街の看板の道が横浜道なのですが、JRと相鉄線が線路を通してしまって踏切化していた横浜道を平成十四年(2002年)に踏切閉鎖してしまった事で、既に貴重な近代街道史跡だった横浜道は通れなくなってしまいました。当然ながら平沼商店街衰退の原因に成った事も先に紹介した平沼廃駅の記事で書いています。

相鉄とJRは横浜道である元平沼橋と平沼商店街をアンダーパスか歩道橋で再度繋いで街道を復旧する責任が有りますね。
さもなくば文化と歴史史跡の破壊者でしかない。
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角平 名代 元祖つけ天
文化人も愛するつけ天蕎麦の名店

この角平は有名人も来る御店でランチタイムは遠方から食べに来る御客さんとビジネスマンで常に満員なのですが、この日に小生が訪れた際には待ち時間もほとんどなく入る事が出来ました。
店内はこんな感じ。
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THEそば屋的な昭和の感じ。
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一応、有名人の来てる証拠写真。
まぁ、こんな感じで有名人も食べに来る御店なのです。
メニューは❝つけ天❞が有名。
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小生、かかり付けの病院の美人女医サン(笑)から「ヤックスを食べてみて!」と言われてたので今回はヤックスを注文。
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ヤックスってのは野菜天+海老天のつけ天ザル蕎麦。
メチャ美味っ!
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蕎麦は腰が有って香りも良い。小生、学生時代に蓼科のリゾートホテルに夏冬にバイトに行ったりしてたのですが、信州の蕎麦の有名店と比較しても美味しい。
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海老天も普通にプリプリで美味い。
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この他にミニ・ハイカラ丼を注文した。
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天かすに海苔とネギと天つゆを沢山かけた丼ぶり。
まぁ、これは別に注文しなくてよかった。
食べ過ぎ。
てか隣の人が食べてたカツ丼がメチャクチャ美味そうだったので次回は蕎麦ではなくカツ丼だけでもアリだな!と思いました。
つけ天を美味しく頂いた後、平沼商店街(横浜道)の国道1号を挟み反対側にある老舗和菓子屋に遠回りして立ちよりました。
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寿ゞ㐂家(すずきや)
横浜道を代表する和菓子の名店
すみません、何故かこの店に来る度に写真撮影する前に買ったお菓子食べてしまって写真有りません(笑)。
寿ゞ㐂家は明治三十三年(1900年)創業で2023年時点で既に123年の歴史を有しています。
オススメはドラ焼きと平沼の鈴と言う御菓子と、和菓子屋なのにシナモンドーナッツ(笑)。
もし時間が有って歴史散歩したい方は、このまま道を進んで野毛の伊勢山皇大神宮~成田山~野毛山動物園~野毛商店街へと歩いて飲んで帰っても良いかと思います。

さて、昨日の休日雑記はここまで。
では又、次の記事でお会いしましょう~♪
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