歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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カテゴリ: 休日雑記

前回の❝休日雑記❞これ⤵
【休日雑記】07月11日~14日・・・三浦半島景勝地と聖地の旅(その①小網代海蔵寺~油壷扇谷上杉流三浦家御廟所~荒井浜~弁才天矢倉~ザ作兵衛)。
それ⤴の続き・・・

11日、油壷マリンパークの半島に在った新井城の落城した日、三浦義意公と道寸公の親子の命日に御廟所に御参りした。そこから帰宅し、改めて週末に三浦半島訪問。
この日の午前中は用事が有って中区にお出掛け、午後も良い時間に成り日没の2時間位前を目標に宿泊予定の城ヶ島に到着する様に中区を出発。
横浜横須賀道路で三浦市を目指す。
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夕刻近く、まだ昼食を食べていなかった小生は横浜横須賀道路の横須賀PAで昼食を食べる事にした。
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上下線ともに売っている名物の❝横須賀海軍カレーパン❞を食べたかったので。
本当は午前中に急な用事が入っていなければ、朝から横須賀で軍港ツアーのクルージング観光をしてドブ板通りでネイビーバーガー食べる予定だったが時間無く実行に至らなかったので、せめて横須賀らしい物を食べて置きたかったから。

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葉山みかんサイダーと鮪カツと海軍カレーパンを購入。

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う~ん・・・
個人的な感想としては上り線の売店の海軍カレーパンの方が美味しい様に感じた。まぁ、個人の感想なので皆さんは気にしないで良いと思う(笑)。
食事を終えて、少し休憩してから再出発。

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城ヶ島バス停傍に広がる城ヶ島の御土産物屋の商店街、ここは昭和の趣の中に何だか明治大正の文豪達が歩いた事の雰囲気が残る様な気がするのは小生の思い込みだろうか?
江ノ島の江島神社の参道~奥津宮に続く商店街や鎌倉市長坂の下地区~長谷観音~下馬の商店街に似た雰囲気が有るかな?
城ヶ島の商店街を抜けて直ぐの所に宿泊予約した港屋は在る。

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港屋この港屋、2年前に三崎漁港のサンポート三崎に宿泊した際に早朝城ヶ島散歩に来て・・・
「あ~、風景の良い旅館だな。ここに宿泊して夕焼けを見て、早朝に磯を散歩したらさぞ気持ち良かろう」
・・・と思い、後日、偵察も兼ねて昼食を食べに訪れたらとても美味しくて今度は宿泊しようと決めていた場所だった。
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その日食べた料理の一部、シラス丼と❝あまがに❞の味噌汁。城ヶ島では❝ヤドカリ❞を❝あまがに❞と呼び料理の食材としている。味噌汁も美味しい出汁が出ていた。
その時の思い出は御主人が調理場を切り盛りしておられ、奥様が旅館全体を仕切りながら調理場もフォローしていると言う印象だった。
元々、河内源氏の棟梁で鎌倉幕府初代征夷大将軍と成った源頼朝公の最大の支援者であり平安時代を代表する忠義の名将の三浦義明公や、その孫で実務力と戦略眼に長けた和田義盛公を非常に尊敬している小生、その故地である三浦半島には小生個人的に恩義が有る。
過労で元気が無くなっていた時に休みに三浦半島に来て何もせずに1日海を見て過ごしていると頭真っ白のままでも何となく穏やかな時間が過ぎて行き、又は当時はまだミシェランガイドに掲載されておらず客の少なかった鎌倉の報国寺の竹林で抹茶を飲みながら緑の笹の葉から差す優しい木漏れ陽を見ていると心が落ち着い少しづつ元気に成り本来の行動力を取り戻す事が出来た。
だから三浦半島には恩義が有り、だからこそ年に数回三浦半島の小さな旅館を宿泊して廻っては紹介したり、現代の若い衆が余り知らないインスタ映えする様な景勝地を紹介したりしている。先々出版物で三浦市の観光業の一助に成れば良いなとも・・・
それで今年は港屋に来た。この港屋はとにかく眺望が良い。
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部屋は全室オーシャンビューで目の前は城ヶ島の長津呂と言う景勝地だ。
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この先、港屋は定宿にしたいなと思うし、年に数回三浦半島に泊まるから城ヶ島の他のホテルやペンションにも宿泊して宣伝出来たら良いなと念願している。
少し話は港屋からズレるが、小生は坂東平氏の祖先で日本を乗っ取ろうとした藤原一族と宗教的政治的に❝遷都❞によって戦いを繰り返した桓武天皇と、その皇孫である平高望(たいらのたかもち)王と鎮守府将軍の平良文(たいらのよしふみ)公と、御子孫の三浦家の殿様をリスペクトしている。だから三浦に恩返しするのは当たり前なんだな。それは小生に御利益を授けて下さった神社仏閣の神仏に対する恩義と同じ程に感じている。
港屋、宿泊して見たら小生一人にはとても部屋が広かった!
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デッカイ関東の畳で8畳も有った。部屋も綺麗。景色も綺麗。
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御茶菓子、御茶、コーヒーが有った。
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バスタオル、タオル、浴衣。これなら日帰り旅行に来た恋人同士で当日いきなり宿泊したくなっても大丈夫だね。下着はコンビニで売ってるし・・・て城ヶ島コンビニ無いから島外の三崎町で買わないといけないけど。
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部屋風呂は無いものの洗面所含め部屋の施設は綺麗だ。
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トイレもウォシュレット。民宿的な規模の旅館としてはかなり頑張ってる事が解かる。
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館内も白基調で明るい感じ。
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ゴテゴテしてなくて落ち着いていて小生は好きかな。
部屋に荷物を置くと夕日の時間に海を眺めながら夕食をとる予定で散歩に行く事にした。

そうそう、以前は昼食時の食堂としてもやってらっしゃったのだが現在は宿泊客しか受けないとの事、港屋サンの御飯を食べたいなら宿泊して夕食を食べるしか今は無い。小生は当初は❝朝食のみ❞の単独宿泊9000円のプランで予約して、夕食は三崎漁港に行こうと思って。無論、一人だから割高なだけで二人以上で宿泊ならかなり安い。二人以上で一泊二食付で9000円で泊まれて更に立派な食事が付く訳だ。
小生は独りの一泊朝食付で予約していたのだがチェックインした際に・・・
「あ~、どうせ御金を払うなら城ヶ島で食事をした方が地域の為に成るし、三崎はしょっちゅう行ってるから夕方~日没までゆっくり城ヶ島を満喫して過ごした方が良い。」
・・・と思い直した。
到着して直ぐ女将さんに唐突に・・・
「やっぱり港屋サンの夕食を食べたいと思い直したのですが、急遽何か準備して頂く事は可能でしょうか?」
・・・と御相談差し上げたら「良いですよ、それでしたら3000円のコース等準備できますが如何でしょうか?」と言う趣旨の事をもっと優しい口調で提案して下さったので、それで食事時間を日没の19時に御願いしてプランを変更して頂いた。わがまま言ったのに臨機応変に対応して下さってありがたい。
港家を出て先ず、商店街に戻り御土産物屋サンを物色した。
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うん、この雰囲気大好きだ。まだ夏休み前だし、もう日没も近い時間だったのでバスも少なくなる事も有り観光客は少なく昼の賑やかな感じとは違い❝鄙びた雰囲気❞を醸し出していて、コレも情緒有り良い。
そこから城ヶ島灯台に登って見た。
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ここも夕方来ると雰囲気が違うんだね~!
昼来ると真っ青な空と、周りの海と暑い夏の空気感が凄い場所だけど夕方、何だか泣きそうな位の不思議な懐かしい雰囲気が出迎えてくれた。
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夕日が真っ赤じゃなくて未だ黄金色に光り、翼の様にV字に広がる白色と灰色の雲と相まって、映画の1シーンでも使えそうな感じ。
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灯台から港屋が見える。
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灯台から海岸の法に降りて来ると、2年前と同じ真っ赤な御花が出迎えてくれた。
う~ん・・・今年は梅も桜も躑躅も薔薇も紫陽花も開花が早かったから、名前も知らないこの赤い娘達ももう見頃が少し過ぎた位だった。でも綺麗だね。
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海岸を歩く。
翌朝、改めて山百合を見る散策をする予定は有るが、夕刻の長津呂~馬の背洞門を歩いた事が無かったので散歩して見た。
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夕日がハッキリ見えないけれど、優しい光を感じられる天気だった。
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港屋が見える。港屋の前には長い自然地形の入江が広がる。
この手前の入江が恐らく❝長津呂❞なんだろう。
地名の由来は良く解らないが恐らくこんな感じだろう・・・
長・・・長い。
津・・・港や船溜まりの意味、つまり津波だと港で破壊的な威力に成る波の意味が有る。
呂・・・古来は岩屋(いわや)や岩窟(がんくつ)の意味。
・・・漢字本来の意味のままだろう、この長細い自然の隆起して露出した海底の柔らかい地層が海蝕され出来た入江が昔は漁師の船溜まりとして利用されていたんだろうと推測する。詳しい事を地元の人に聞くのを忘れたので実際の所は未だ解らない。又、改めて聞いてみようと思う。
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馬の背洞門目指して歩くと、自然の岩盤を明らかに四角いプール状にくり抜いた岩場が有った。
何だろう?昔何かに利用する目的が有って削岩された場所なのは間違いない。今では穴が開いて海に繋がっている様で波に合わせて水面が満ち引きしていた。
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磯釣り客がいた。波にさらわれないか見ている方がハラハラする。
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少し東に向けて海辺の磯を歩くと馬の背洞門が見えて来た。
もっと先に進む。
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お!っと思った。今年の城ヶ島も岩場には山百合が沢山!
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うん、綺麗だ!この子達に会いに来たんだ今年も夏の三浦に♪
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でもユックリ鑑賞するのは真っ青な快晴の天気予報の翌朝に、日没も近いので先を急ぐ。
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小生は写真撮影が下手くそだが、今時女子や学生諸君はスマホでももっと上手に撮影出来るだろうねぇ~!絶景!
更に前にズンズン進む。
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・・・と、ここで更に先に進み全部見てしまうと翌朝の楽しみが減るので旅館に戻る事にした。
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戻る時もチラホラ山百合サン達・・・
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う~ん綺麗だ!
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馬の背洞門は城ヶ島の中央南、港屋は西南側に在るので帰路は西を向く事に成る。自然に夕陽に向かって歩みを進める訳だが、陽光を背にした岩礁の景色も美しい。
穏やかさと荒々しさが両立されている余り見られない景色。これも夕陽だから出る雰囲気なのかも知れないと思うとラッキーに感じ散歩していて独りの寂しさも紛れた(笑)。
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港屋の近くに観光案内図も有って参考に成った。
旅館に戻り御風呂をに入った。
風呂は現在は内風呂だけ、以前は露天風呂も利用できたが今は暫時人手不足で利用中止との事。でも内風呂が貸し切りなので満足。
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早い者勝で鍵かけて自由に入浴して良いんだって♪
風呂の場所を聞く時に従業員の方に初めて聞かされた・・・
実は港屋、一昨年の7月小生が食事に訪れた後に大将が亡くなってしまったそうだ。そして暫く営業休止していたのが数ヵ月前から再開したのだが、再開以来、女将さんが一人で頑張って切り盛りし従業員さんと一緒に料理も質を落とさず頑張っている。
・・・こう、頑張ってる人の話を聞くと本当に応援したくなる。泊まる事が出来て良かった。
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御風呂は流石に内風呂とは言え一人では広すぎる位。
これなら家族で来ても子供2人~3人+夫婦で皆一緒に仲良く入っても大丈夫!宿泊していれば目の前の長津呂で海水浴&シュノーケリング楽しんでから海の家代りにも御風呂に入れるね。
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旅館食堂前の風景。露天風呂からもこの風景と夕陽が見えるのだが、今は管理者が女将さん一人なのと人手不足で残念ながら露天風呂は暫時使えないが食事しながら同じ風景が楽しめる。
いつか女将さんを慕う御客サンに港屋再開が更に周知され、そして料理と景色を気に入る若いカップルの宿泊も増えて、更に人を雇える様に成り、そしてこの景色を又露天風呂で楽しめる日が来る事を切に願う。
そう言えば女将さんにチェックインの時に言われた!
「独りはダメですよ~(笑)!」
・・・って、独身の小生に向けて「早く恋人連れてきてください(笑)」ってジョークと合わせた言葉かと思ったけど、もう会えない御主人の為にも頑張って旅館再開した女将さん御自身の事も表した言葉だったんだね。
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食堂からも御覧の景色。
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部屋も別の客とはパンテーションで部屋ごとに仕切られているので家族連れや恋人同士で他を気兼ねせずに食事が楽しめる様に配慮されていた。
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小生は❝アンチ❞アルコール人間なので旅先気分だけ楽しめれば充分、なのでノンアルコールビールを注文した。もしかしたら夜中に車で三崎町に行くかも知れないと思ったしね。
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そしてカンパーイ♪独り旅だけど楽しい。
本当はちゃんと大切にしなきゃいけない伴侶と結ばれて夫として奥さんを週末の小旅行御泊りデートで連れて来て「奥さんが一緒に居てくれたらもっと楽しいだろうな」とも思いながら・・・
料理は3000円のコースだが充分品数が出て来た。
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先ず、自家製イカの塩辛、アカモク、鮪角煮、サラダ。
このイカの塩辛が港屋オリジナルの自家製で絶品!御土産でも販売しているのだが、小生は実は市販のイカの塩辛が生臭く感じ食べられない。しかしコレは一口食べて「うんまぁ~(*´ω`*)♡」と思った。
そして・・・
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バチ鮪、イカの刺身。一人分にしては多くて嬉しい♪当然ながら美味い!
何を隠そう、鮪も獣肉も油の多い部位より赤身が好きな小生、これは本当に御馳走なのだがバチ鮪の赤身として港屋サンの御刺身美味しかった!
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そしてメインディッシュの鮪のカマ焼き!
本当ね、これ全部三崎漁港でアラカルトで頼んだらエライ値段に成るよ。
ほぼ体重80kgの男の小生1人分でも少し多く感じる位の量で色んな種類食べれて3000円なら、一人での宿泊で朝食付き9000円+3000円コース=12000円でも安いよ。
これで普通に2人以上で宿泊すれば更に良い料理で1泊1人9000円でしょ?良心的過ぎる!
御主人亡くなったばかりで大変なのに、料理の内容下げないで頑張ってる女将さんの努力を感じる。
写真撮影し忘れたけど、美味しい味噌汁と御飯も出て来たよ。
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そして食後はココアムース。
これで3000円は凄い!この品数を三崎漁港で一人で食べたら凄く高く成ってしまうし量が多く成り食べきれないだろう。このコースを気転を利かせて提供して下さった女将さんに感謝!
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部屋に戻り陽が沈んで濃紺の宇宙の色に戻りつつある空を眺めた。
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夜、部屋に戻ると持ち込んだPC広げて少し物書きしてからPCは片づけ、TVを付けてから海蔵寺で受け取った写経の台紙と御住職が抜粋した金剛般若波羅蜜経の御手本を広げチャレンジした・・・
ここが前回の休日雑記で行ってた「結論から言うと写経は3枚とも書き損じた(笑)」の部分。
・・・3枚とも書き損じて失敗、それから「まぁ~失敗したら日を改めて納経するか!」と直ぐに思い直し、「どうせなら金剛般若波羅蜜経の全文、自分で読んで見て抜粋じゃなくて全部分写経しよう!」とポジティブな方針転換を決めた。改めてPC開いて未読の金剛般若波羅蜜経を調べると全文が愛知県西尾市の岩瀬文庫サンが画像データ化して公開して下さっていたので、改めて写経する御手本も見つかった。
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この後は御土産物屋で購入していた❞いか太郎❞を食べながら、部屋のTVを見て、暫くすると眠く成ったので就寝した。
実は自宅の自分の部屋で寝るのは落ち着かず寝付き悪い小生、この旅館では本当にグッスリと眠れたのだが、不思議とそれ以後、自宅に戻ってもグッスリ眠れる様に成った!
城ヶ島の風土が小生の不眠症気味に成っていたのを解消してくれた様だ。城ヶ島に感謝!

→その③に続く・・・



















2018年07月11日・・・
新井城落城の日、尊敬する三浦義意公と御父上三浦道寸公の命日に三浦市油壷の新井城址の御廟所への献花と油壷の湾を挟んだ対岸の小網代に在る網代山海蔵寺に御参りに上がった。
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海蔵寺に向かう前にイナゲヤで仏花を購入、まぁ、仏花と言っても本当に仏花じゃなくて道寸公と義意公のイメージに合った切り花を購入した。
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そこから❝なこう❞と言う和菓子屋さんで海蔵寺様への御土産に道寸公にちなんだ❝道寸餅❞を購入して持参。
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網代山海蔵寺
※一般参詣不可(新興宗教信者による縁結びを謳った悪質な独身女性宗教勧誘団体の乱入が頻発した為)
※本来の仏教徒と神道の信者は納経可能。
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訪問すると奥様が応対して下さり、暫くして御住職が準備を整えて今年も色々と御教授下さいました。そして三浦道寸公と義意公と三浦家北条家諸将の供養と三浦の産業発展を願う為の写経を行う台紙を3枚頂いた。
今年は御住職から金剛般若波羅蜜経を写経してみないか?と提案があったので御住職が抜粋された部分の手本と合わせて頂いた。
先に結論を言うと慣れない初見の御経の写経で3枚とも書き損じ失敗した(笑)!
そこから小生は海蔵寺の飛び地境内地である油壷マリンパーク駐車場周辺の立ち入りを許されているので、御住職に御廟所へ献花に行く旨お伝えして、海蔵寺を出発した。
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今年もやって来た油壷マリンパーク横の御廟。ここで蚊取り線香を滅茶クソ大量に焚いて蚊を追い払ってから(笑)少し高い御香を上げて、献花した。
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そこから少し海側に降りて道寸公にも献花。
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御廟所に行く途中には城址としての遺構と思われる食違い状の堀切と小さな曲輪と思われる、かつての裏門であろう場所が残っている。
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その先に道寸公の御廟所が有るが、ここも左右を裾切りされた細い断崖の先に見張り台の様な御廟所が存在しているので嘗(かつ)ての曲輪遺構だろうと思う。右手は竪堀に成っている。左手は胴網海岸と言い、ここで部下達を船で逃がし、自分は最後まで戦い果てたそうな。
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御廟を取り巻く様に右手側には土塁と思われる名残りが見て取れる。左手胴網海岸側には無いので撤去されたか当時から左手は城内側で右手竪堀が船着き場だったのかも知れない。
またまた蚊取線香だらけにして少し高い御香と花を御供えして、油壷荒井浜の縁結びと遭難した漁民を助けた強い御利益で有名な200年弱の歴史があるパワースポットの❝弁才天矢倉❞を目指して移動開始。
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荒井浜
推測だが三浦義澄公以来、代々の三浦家当主が❝荒次郎❞を名乗ったのは本来は荒(あらい)次郎と読み、元々は三浦義澄公が荒井(新井)城主だった事に由来するのかも知れない。
後に新井城と呼ばれるのは荒(あらい)と一文字では読めなかったので発音を明確にする為に荒井城とされ更に新井に転化したのだろう。今でも現地には三浦家子孫と思われる新井サンがいたりする。
油壷荒井浜は神奈川県内でも屈指の水質の良さを誇りフグが産卵に来る海岸としても知られている。
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オシャレな海の家も民宿も有る。だから知る人ぞ知る海水浴場ながら比較的裕福な階層の海水浴客が油壷湾にヨットで乗り付けて、ここに来てBBQを楽しんだりしている。
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弁天矢倉へ向かう途中、今年も綺麗な山百合が出迎えてくれた。
うん、健康的で可愛い!
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弁才天矢倉は満潮に成ると通れない磯の先の更に崖っぷちに有るのだが、ここも海蔵寺と同じく明治のエセ霊能者の書いた霊能本を元に独身女性の婚活意欲を利用した悪質な宗教勧誘する新興宗教カルトに迷惑な独身女性勧誘旅行コースにされている。
ソイツ等は歴史知識が欠如しており平安末期と室町時代の区別すら出来ず(笑)三浦義意公の奥方をモデルにした明治時代の架空歴史小説の架空の人物❝小桜姫❞をモデルにしたアホの妄言も見抜けず多くの独身女性が騙されてカルトに勧誘される被害の舞台に成っている。
因みにソイツ等の宗派は仏教や神道を普段は邪宗扱いしてる癖に都合の良い所だけ❝他宗派の神社仏閣を自分達の宗教施設の様に惹起させる宗教活動❞をここや海蔵寺や城ヶ島観音洞や岬の本瑞寺や走水神社で傍若無人に宗教勧誘旅行を勝手に行っている。厚顔無恥。
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この崖の上の洞穴が弁才天矢倉。
最も、昔から縁結びの御利益で知られていた弁才天矢倉、遭難して藤沢辺りまで漂流した漁師の命を助けた強い御利益が有るので仏教や神道に敬意を持って正しい認識で参拝すれば御利益有るだろう。
だから普通に地元の人もカルトに依存せず、縁結びの祠として宣伝して良いと思う。弁才天矢倉の正しい名前で。
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入口は崩落のせいでクッソ狭い。閉所恐怖症の人や最近のタイの洞窟の事件の事で恐怖を感じるなら入らない方が無難だろう。明かりも無いしな。
入口には勝手にカルト信者が色んな物を置いて行ってる。
卒塔婆も戒名すらない不自然さに疑問を持たない馬鹿さ。戒名が無いのは歴史上実在した人物では無く、実在の人物の真里谷城主武田家から三浦家に嫁いだ姫様をモデルにした架空の人物だから。
歴史上女性が実名が伝わる事は一般的に無い。特別な人物は伝わるが、その場合は菩提寺に伝わるので必ず戒名で伝わる。身分がハッキリした人だと実名も残るが小桜姫は明治時代の小説で作られた名前なので当然ながら戒名が無い。又、真里谷武田家も滅亡しているので記録も余り残らない。
真里谷武田家から間宮林蔵の祖先の一族の間宮家に婿に入った人物も間宮に改姓した後に無嗣断絶したので、その系統は残らない。真里谷武田家の一族の子孫は恐らく笹下間宮家臣と成って笹下城出城松本城を任されたであろう武田家と、戦国時代には❝勝❞姓を名乗って北条家臣化した幕末に活躍した勝海舟の祖先位だろう。
もっとも松本城址の武田家は何を血迷ったのか有り得ない武田勝頼舎弟の子孫を自称しているが、当時の北条家と武田家は敵対関係に有り、江戸時代初期にも旧北条家臣団と旧甲斐武田家臣団は幕府内で対立していたので甲斐武田家の子孫を間宮家が家臣に迎える筈もない。これは同族有名な系統の子孫を僭称した結果だろう。武田家と隣接する小中沢家も武田家忍者の子孫を自称しているが、そもそも、忍者ではなくて鷹匠の技能を持った武士の子孫だろう。忍者なんて職業は戦国時代に存在していない。スパイも武士だったからな。
まぁ~取材もしないガクシャ先生は松本城址に真里谷武田にしろ甲斐武田にしろ一族がいて、その家臣の子孫もいるなんて知らんだろうな。
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本当に真っ暗だよ。今年も来て、三浦の観光振興祈願と自分が成長し大願成就出来る様に祈願したけれどね。
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今ではmobile🔦ライトと言う便利な物が有るので大丈夫だけど。昔は蝋燭の火を頼りに参拝したもんだ。

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※アホが心霊写真と騒ぎそうだから前もって言っとくが、体重78kg筋肉量65kgの基礎代謝高い小生の身体から出てる❝湯気❞で霊気じゃね~からな(笑)!
・・・まぁ霊気だとしたら小生の霊気だろうか(笑)。
9回轢き逃げされて擦り傷以外に怪我した事無いし、霊夢見た事有るしな・・・
だから偽霊能者死ねと思うは本当。でもソレって感だったり、格闘技やスポーツやってたから身体が柔軟で受け身もとれただけなんだわ。
まぁ・・・金縛りも般若の面見たのも茶運び人形見たのも疲れてた時だから全部科学的に説明尽くしな。
そもそも凄い修行した高僧や高位の神官でもソンナよオカルト能力無ぇ~わ!
何の修行もしてない茶髪デブやババアが、高位の神官や高僧、天皇家に連なる血筋を超える力持ってると自称する時点でデマ。霊なんてそんな具体的なもんじゃ無いわ!何となく縁も繋がるし自然に結ばれるし、小生みたいに交通事故でも怪我しないとか、霊夢みたいので本当に問い合わせすると現実に直結するとか、そう言った物が本来の霊感なんじゃないの?
そんな見えたりしてたらよ、鎌倉市街なんかどれだけ合戦で人死んでんだ馬鹿か!
・・・とか思う。
今年も弁才天様に参拝。御参りの機会を頂きありがとうございます。
ここにちゃんと❝弁才天様❞として御参りに来る正しい仏教徒と神道の信者の女性の縁結びを成就して下さいます様お願いします。新興宗教に騙される様な女はどこいっても無責任な男に騙され遊ばれ終りだろう。
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御参り終えて・・・
やばいよやばいよ~潮が満ち始めてるよ(笑)。
ね?だからちゃんと干潮時刻みて御参り来ないとダメ!あとカルトに騙されず自分で来て、ちゃんと御参りしないとダメ!
三浦義意公と小桜姫のモデルの真里谷武田の姫に縁結び御願いするなら、ちゃんと関係する場所の歴史を勉強してからじゃないとダメ!

興味有るならコレ読んで勉強しなさいyo~♪⤴

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帰りも健康な山百合ちゃんを発見。可愛いな~。
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油壷湾側の東京大学の敷地横を通ると、遊歩道横のこの土手が実は新井城の大土塁の跡なんだが、この中には今も空堀や曲輪跡が少しだけ残ってるのを知る人は現代では少ない。
駐車場に戻り車に乗ると、一端、ザ作兵衛という行きつけの直売所で西瓜とメロンを購入。
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それが前回の記事の部分だな⤴
そこから更に三崎生鮮ジャンボ市場に移動・・・
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三崎生鮮ジャンボ市場
御昼食べてなかったので、ここで握りずしセット買って車中食べました。
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美味しかった!ここのスーパー、三浦の水産品を直売してるので御土産購入にも便利なんですよ。
そして下道で横浜市栄区方面を目指す途中、横須賀で更に買い食い。
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中井パン店
ここ、小泉孝太郎君とか、ふなっしーの中の人が学生時代にオヤツ代わりに食べた❝ポテチパン❞を売ってる店として神川県民と何故か台湾人に有名(笑)な場所。
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ポテチパン頬張りながら帰路に着く。

【休日雑記】07月11日~14日・・・三浦半島景勝地と聖地の旅(その②城ヶ島宿泊:港屋)に続く・・・




朝方、伊勢原市の伯父宅で浴衣に着替えた。
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平塚七夕祭りに行く為にお着替え。
そこから岡崎城址の本丸址に建つ無量寺に御参り。
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尊敬する三浦義意公と義意公の御父君で岡崎城主だった三浦道寸公の御霊に御本堂で御参りしてから平塚八幡宮に向け移動。
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事前に平塚市観光協会に問い合わせし、崇善小学校が臨時駐車場に成るのを確認しておいたので難無く駐車完了。
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平塚八幡宮で御参りを終えると・・・
怒濤の食倒れ開始!
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78kg体脂肪率12%骨格筋肉量40kgに絞った身体が4000円分の飲み食いで帰宅したら5kgリバウンドしてたで御座る(笑)。
因みに食べた物と風景はこんな感じ・・・
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これ以外に大量に液体摂取してました。

平塚七夕祭りは今夜一杯が最高潮の盛り上り、皆さんも暴飲暴食に要注意(笑)。

では!

先月の話・・・
関西の親友で妹の次に小生の性格の理解者だろう人間のデザイナーITが展示会の東京出張で来訪。
来訪の1ヵ月以上前から「宿泊地決めないと予約難しいぞ~」と散々せっついたのに直前の1週間前までノンビリ屋で決めてなかったIT・・・
その結果、廃墟マニアと変わった趣味で今回は鎌倉の❝廃墟?❞的な場所を観光地として希望してた割には出張先の渋谷区からも、小生の地元横浜で一番の蛍の大生息地である円海山の在る栄区界隈からも、横浜の中心街で一番便利な横浜駅や関内界隈からも❝中途半端❞な鶴見区と言う謎の立地のホテルを予約しやがった。鎌倉行くのに迎えに行くのが少々面倒(笑)。
・・・まぁ、鶴見なら今のNHK大河でタイムリーな薩摩藩関連の史跡や、鎌倉向かう途中で横浜中華街の朝食も食べれるので「楽しみを詰め込めば良いか!」と前向きな発想が直ぐ湧く。
待ち合わせはAM:08:00、ホテル前。
この日も小生は当日の夜中03時に仕事から帰宅し風呂入ったり何かしてたら既に朝の5時、もう目が冴えたまま寝るのも諦めて「ホテルの前に車停めて仮眠しよう」と6時に移動。7時には到着した。
しかし車中でも眠れず、諦めてITにLINEする・・・
「もう着いたけど寝てるから準備できたら適当に出て来てユックリしてて良い」
・・・とは送りながらスマホ弄(いじ)くり当日の不安定な天候も有り到達地点別の天候に訪問地分岐案の再確認をGoogle mapでしておいた。こう言った❝遊び❞は「手伝うよ~」と適当な事して邪魔する同僚の介入も無いので❝好きに完璧に予定を組める❞から好き(笑)。
ホテル前でITをピックアップ、御土産に太らない京都の宇治の御茶とかくれた。
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生麦事件発生地
・・・と言う訳で、最初にITをピックアップして連れて来た❝観光地❞がこの住宅街(笑)。
ITには来る途中で交差点の看板とか電信柱の看板とかを故意(わざと)音読させてヒントを出したのだが現地に着(つ)いても解らない(笑)。まぁ~そりゃそうだ。今じゃ只の住宅街の道だから。
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・・・実はここ、薩摩藩が参勤交代中に乗馬した白人至上主義の白人連中に隊列に侵入されテロ排除の為に数度のジェスチャーと日本語による警告の上でも騎乗した白人は止まらず薩摩藩の隊列に突入、島津久光公の籠に迫ったので止む無く惨殺したと言うのが真相の❝生麦事件❞の発生現場なのだ。
ITは別に歴史好きと言う訳では無いが廃墟好きなので小生の話題にも少し付いて来られる、まぁ京都育ちだし神社仏閣歴史史跡に囲まれて育った❝文化的歴史的素養❞と言うのは移住者だらけの普通のハマっ子よりは並の京都人の方が遥かに高い。
歴史に特別関心が無くても義務教育で習う生麦事件程度は当然知っている訳だ。だからもう直ぐNHKの❝西郷どん❞で登場するであろう、この事件現場を見て「ほ~」と言う感じの反応をしていた。
まぁ、鶴見から中華街に向かう通り道を少し裏の旧道に入っただけ、途中に立ち寄った場所なので凄い場所と言う訳ではない。
しかしこの後、小生がやらかす。
散々地図を見て予備学習して置いたのにGoogleMapのカーナビではなくてポンコツの純正カーナビに任せて音声に合わせて道を走ったら関係の無い側道に入らされたり住宅街をグルグル・・・
朝食を買う予定の中華街まで大分と遠回りになってしまった。
ナビを放棄し自分の目視と記憶で大黒ふ頭に経由地を変えて海沿いの道を選択、多分横浜市民以外は知る人の少ない大黒ふ頭を経由して横浜ベイブリッジの一般道~新山下へ抜けて早朝の中華街に到着した。
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道を迷ったせいで鶴見駅近くを8時に出発したのに到着したのはAM:09:00位に成ってしまった。
しかし普通の中華街の店は10時~11時開店なので人気は極端に少ない。
中華街の加賀町警察の前には小生が立ち食い点心を購入する際に行きつけにしている店の内の一軒が有る。そこの大根餅や肉と高菜の細切り炒めが入った揚げ饅頭が美味いんだな。
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金福粥記
ITは服飾関係のデザイナーと言う仕事の都合上中国にもよく出張するのだが、中国では現地企業に接待される側に成るので中々こう言った普通の中国の朝食を食べたり好きな火鍋とか庶民的な料理を食べる機会が無いとの事。慌ただしい鎌倉へ向かう車中での朝食と成ったが「美味しい!」と喜んでいたので何より。
中華街近くの石川町入口から横浜横須賀道路に入り高速で横浜市金沢区の朝比奈峠へ抜け鎌倉に侵入、鎌倉市街の手前の報国寺近くの駐車場に車を停めた。ここの辺りは実は凄く安いタイムズ駐車場とか浄妙寺の駐車場も有り、朝比奈~十二所~浄妙寺地区~名越地区の観光の基点とするのに適している。
2008-12-12-15-13-37
最初、報国寺を訪問し御本尊の御釈迦様に御参りしたが竹林は後回しにした。
この日の目的地はあくまで❝廃墟散策❞が主旨なので、報国寺の散策は後、でも御本尊を拝まずに素通りすると、この後❝少し危ない山の中❞を散策するので❝旅の安全祈願❞も含めて先にちゃんと御挨拶する事にした次第だ。
この日の主要目的地の廃墟と史跡を目指すのには新幹線で関西から来たITをわざわざ山登りさせる必要が有る、観光じゃないんだな最早(笑)。
最初に目指したのは、その廃墟と史跡の入口と成る木々の枯れる❝冬季ならば❞鎌倉市で一番眺望の良いであろう衣張山の山頂だ。
その道は巡礼古道と呼ばれ、報国寺の所在する宅間谷(たくまがやつ)から鎌倉武士達が三浦半島の逗子方面に抜けたり、名越邸こと鎌倉幕府執権の北条時政館の史跡に行く間道として利用された古道を通る。
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目標的には報国寺~かまくら幼稚園を目指すと緑地帯から自然に衣張山入口の公園に出る事が出来る。
この日に備えてITには❝運動靴❞❝Gパン等の歩きやすい服装❞をちゃんと指定しておいた。
まぁ~この辺は廃墟観光に成れたITだから言わないでも大丈夫なのだろうが、山歩きの度合いを軽視されて準備不足に成ると本人が楽しめなく成るので敢(あ)えて念を押した訳だ。
衣張山は城郭オタクが登れば一目で判るが、山道が裾切りされて人工的に鋭角な崖地化された登山道が多く足を滑らせると死ぬ構造に成っている(笑)。
平安以来の鎌倉武士、三浦家の居城だった衣笠城と同じ構造だな。
衣笠城址に関しては以前書いた記事が有るので御興味有る方は御覧頂くと平安~鎌倉時代の武士の城の構造が良く解ると思う。
これ以前の記事⤵
三浦義明公と衣笠城址。源家最大の盟友、坂東武者の鑑。…三浦半島横須賀市。
かまくら幼稚園側から20分も登ると衣笠山山頂に着いた。
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衣張山山頂
材木座~由比ヶ浜~名越~雪ノ下~扇谷地区が一望できる絶景だが、この辺りは❝神奈川県の富士山100景❞にも選ばれた景勝なのだ。本来、天気が良ければもっと遠く伊豆半島なんかも綺麗に見える。
生憎(あいにく)と当日の天気予報は降雨、幸い登山中は天候が持ってくれたが曇天で遠くは見渡せなかったが、それでも綺麗だった。この辺りから獣道を通って行くと現在は鎌倉市によって通行者の安全確保が十分でないとの判断から仮設封鎖柵が設置されている❝釈迦堂切通し❞や❝釈迦堂遺跡❞へも通じる抜け道が有る。
その抜け道へ行く為にわざわざ衣張山へ上った訳だな。
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色んな場所に鎌倉時代~室町時代の矢倉(やぐら)と言う名の武士の御廟所である横穴式墳墓が在る。
これも有る意味❝廃墟❞だが、先人を尊敬する小生は一々、ここに埋葬されていたであろう名を知らない御霊にお祈りすると京都育ちのITも心得ていてちゃんと手を合わせていた。
因みに、一々拝みながら「通行者を御守り下さい」「鎌倉の住民を御守護下さい」「御霊が大切にされますよう、安らかに過せます様に」とお祈りした。
鎌倉幕府を運営し、朝鮮人と中国人とモンゴル人による日本侵略戦争の元寇を撃退する基盤と成ってくれた人達だから感謝と尊敬の念を御伝えするのは当然の事だと小生は思う。
程なくして落ちたら死ぬ犬懸谷(いぬかけがやつ)の奥の山から釈迦堂口に出て、釈迦堂切通しに到着した。
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釈迦堂切通し
ここは先述の通り先年の落石発生以来鎌倉市が封鎖しているのだが、周辺住民の生活道路なので金網の無い場所を通行する人は今でも多い。まぁ、山越えて抜け道を通ればそんな事する必要も無いが労力が大変な訳だ。
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「お~凄いな」
・・・と男前な感想のIT、こう言った史跡も有る意味廃墟、ここは恐らくは鎌倉市街地~名越北条家の居宅と成った北条時政邸と詰城(つめじろ)だった衣張山登城口への関門だったので名ばかりは❝切通し❞だが隧道(すいどう=トンネル)形状にした上で入口に梁(はり)を渡して櫓門(やぐらもん)が築かれていたのだろうと城好きの小生は予想している。恐らく多くの城郭ファンも同じ推測をするだろう。
だから上部左右には梁を通した様な材木を打ち込んでいたであろう穴跡も見て取れる。
ここから又、獣道に戻ると今度は別の名越側から封鎖された❝幻の釈迦堂跡❞の釈迦堂遺跡へ行くことが出来るが、私有地側から入る人がいると困るので詳細は掲載しない。
山頂からの行き方をネットでも生き方を書いている人もいるので探して見ると良いと思うけど、途中には崩落した橋の欄干を渡らなければいけないデンジャラスゾーンが有ったりするので、やはり小生は道順はボヤ化して置こうと思う。
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釈迦堂口遺跡
釈迦堂遺跡は山の中に削平地が広がる。
名越邸跡と伝わり鎌倉幕府二代執権と成った北条義時公が、そこに北条時政公の没後に供養の為に釈迦如来を安置した御堂を建てたのが始まりとか何とか伝わるのだが、大半が私有地と言う事も有り現在の鎌倉市教育委員会や神奈川県教育委員会はその場所をちゃんと公開していない。しかしながら昔の鎌倉市教育委員会は無文化な部類の一部土建屋による鎌倉市の森林と史跡破壊を糾弾し新聞社と一緒に吊るし上げたり、この私有地を保有する国際自動車タクシー会社さんも一般に公開したりしていた。
前代の鎌倉市長主導で封鎖された次第だが、何と言うか民間会社の方が文化史跡保護と公益に資する公開の意識が高いと言う・・・皮肉な話だ。
釈迦堂遺跡の奥に山道から降りて来る昔の登山道である❝抜け道❞が有る。まぁたまに見学会も開かれるので鎌倉市のホームページをチェックしてると良い。団体で見学希望申請何かすると、鎌倉市教育委員会もガイドしてくれる可能性も有るかも知れない。
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登山道には昔の看板も残っているのだが鎌倉市の前の市長が封鎖してしまって通行量が減っているので❝廃道❞寸前の状態。貴重な遺跡が保護管理されず放置される悲惨な状況に成っている・・・
「訪問したい人は安全管理は自己責任でどうぞ」
・・・と言っておこう。
まぁ❝廃道寸前の道❞含めてITの趣味に合わせたチョイスなのでそうなるな。
こちら側から登って行くと唐糸矢倉と言う、源頼朝公と源義仲公の間の悲しい同族同士の争いの終結の場所となった史跡が在る。
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説明の看板の通り、源義仲公の家臣の娘の唐糸サンが源頼朝公の様子を探る為に侍女と成り、源頼朝公が源義仲公討伐の相談をしていたのを聞いてしまい頼朝公暗殺を企て幽閉された場所だそうだ。
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どうも看板の矢倉よりも直ぐ右隣の矢倉の方が土牢としては適した構造だと小生は思う。
そして看板の伝承は少し違うと思う、状況的には源義仲公の御子息で源頼朝公に人質として預けられていた源義高公が頼朝公によって処刑されそうに成ったので、義高公に仕えていた唐糸サンが頼朝公の暗殺を企てたと考えた方が状況的には自然だろう。当時の伝承も後世に伝える伝言ゲームで行き違いが有ったのかも知れないし、小生の予測が外れているかも知れないが郷土の伝承レベルの事なので事実は今では確認しようも無いが小生の予測通りならば源義仲公と源頼朝公の因縁の終わりの場所と成るだろう。
事実、三浦半島の初瀬和田の和田城には元は源義仲公の側室だった巴御前が和田義盛公に惚れられて側室として同居したと伝わり、源義仲公の乳兄弟(乳母の子)で重臣の今井四郎兼平公は横浜市保土ヶ谷区の今井城址に居住したと伝承するので、実際は平家物語では書かれていない木曾(源)義仲公の家臣団は頼朝公に降伏し鎌倉幕府の幕臣と成っていたのだろう。
・・・源義高公の命と引き換えに信濃の武士団は命を助けられ、源義高公に仕えていた唐糸サンは納得が行かず組織としての正義よりも忠義としての正義を優先したんだろうね。
この唐糸矢倉を過ぎると人工的な切通し状の堀切(ほりきり=尾根道を断ち切り敵の侵入を防ぐ構造)が在る。
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そこに橋が架かるが、最大の見どころ。廃道化の原因の床の抜けた通行不可能な橋。
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でも欄干と橋梁は鉄筋コンクリートなので❝自己責任❞で渡りたい人はどうぞ。
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ここさへ渡れば釈迦堂遺跡も釈迦堂切通しも衣張山から来られるからね~。・・・落ちたら運が良くて骨折かな?
ここに来たい人は、ちゃんと安全確保のワイヤーとか準備してね。
でも一番、城郭としての構造が解り易い。
ここを通らないと詰城の山頂側に行く事は出来ない。そして平時は引橋(ひきはし=戦時に引いて撤去出来る橋)が架けられていて戦闘時には堅固な防御構造と成った事だろう。
唐糸矢倉に降りて来る分岐点の前に衣張山登山道の休憩所跡が有る。
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途中には廃墟化した東屋。これも有る意味廃墟かな。
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さて、東屋の下の分岐点から唐糸矢倉方面と反対に行くと釈迦堂切通しの真上に出る事が出来る。
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落ちたら死ぬから気を付けてね、あくまで自己責任でどうぞ(笑)。
本当に気を付けて。
そして釈迦堂切通しの上を通り抜けると、重要文化財にするべき❝日月矢倉❞に抜けれる。
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恐らく名の有る武士の御廟なのだろう。
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壁に穿った穴の形状に矢倉の名前が由来する。
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日輪と月を模した意匠が施されているので、そう名付けられたようだ。
恐らくこの月の意匠からして、千葉家所縁の武将の矢倉かも知れない。千葉家一族と家臣団には月の家紋と九楊紋を家紋にする武将が多い。ここは大町に抜ける場所でもあるし、大町には戦国時代に成っても千葉一族臼居家の菩提寺であり平安時代の武将の千葉常胤公と千葉家所縁の寺院でも有った蓮乗院が存在する。
蓮乗院は元は弘法大師空海和尚所縁の真言宗の寺院だったが、直ぐ隣に浄土宗の大本山の天照山光明寺が開かれると浄土宗に改宗し、その光明寺の重要な塔頭寺院と成った。
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因みに今回紹介している衣張山も山頂の風景が綺麗だが・・・
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光明寺の天照山から見た風景は❝神奈川の景勝50選❞にも選ばれ、最近では映画シン・ゴジラでゴジラの上陸地点としてロケハンされたりしている。非常に風景が美しい。
そこ等辺りは以前に記事に書いているので興味の有る人は読んで頂くと解ると思う。
以前の記事⤵
休日雑記 2017年01月25日の訪問先・・・【鎌倉市】住吉城址前の材木座海岸と和賀江嶋と江ノ島と富士山と夕陽の見える場所。
●臼井城主の子孫の店❝Cafeこやぎ❞は旧鎌倉郡域にある緑に囲まれたカフェ。美味しい葛餅と焙茶(ほうじちゃ)が頂ける店。ランチも人気。…横浜市。
・・・さて、日月矢倉に話を戻す。
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風雨に晒された矢倉は風化が激しい。
ここ数年、鎌倉市は釈迦堂切通し仮封鎖後に訪れる人が少なくなったせいで樹木の浸食が早く少しでも早く釈迦堂切通しと釈迦堂遺跡側の遊歩道の再整備を急ぐべき理由の一つでも有る場所なのだ。
ここを見学した後で、元来た道を抜けるのが面倒臭くて鎌倉市の設置したフェンス側の❝抜け道(笑)❞を通って大町に出て、谷底側の住宅街から又かまくら保育園の方に戻り報国寺に戻って抹茶を頂く事にした。
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途中、せせらぎに綺麗な花が咲いていた。
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その川沿いに黄金矢倉の跡が有る。
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黄金やぐら
昔は光苔(ひかりこけ)で綺麗に輝いていたらしいが、今では御覧の通りシダ類に浸食されてしまって光苔は死滅したようだ。
そこから宅間谷に戻る長い階段の遊歩道に復帰した。
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かまくら幼稚園近くに戻ると可愛い御地蔵様が出迎えてくれるのが、巡礼古道に復帰した目印。
そこから報国寺に戻る時に最近ドラマ❝モンテクリスト伯ー華麗なる復讐ー❞でもロケ地に成っている旧皇族華頂宮邸が在る。
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旧華頂宮邸
この時既に11時半位だったろうか?
予定通り(笑)丁度公開されている時間、廃墟では無く綺麗な文化財の洋館だがITを案内。
薔薇の見頃の季節だったので御庭が綺麗だった。
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今年は横浜イングリッシュガーデンに薔薇を見に行かなかったので、ここで見られて良かった。
本当は、この後で天候が雨が降らず持てばITを鎌倉市の薔薇の名所として有名な❝鎌倉文学館❞に連れて行く計画だったのだが、後で大雨に成ってしまったのでここで薔薇を見て置いて良かったと思う。
報国寺に戻ると抹茶付の拝観券を購入し報国寺の竹林を散策・・・
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功臣山 報国寺
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以前と違って経路が定められており、小生が通い出した10年前の様な自由度は昨年末のリニューアルから無くなったが、それでもここは良い。
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抹茶を一服頂きながら景色に心を落ち着かせ和んだ。ここを開いた足利尊氏公の御祖父さんの足利家時公と宅間上杉重兼公に感謝!
いい加減に昼食の時間と成ったのでITに「地魚海鮮の和食と、地魚地野菜のイタリアンとどっちが良い?」と選択肢を質問、イタリアと言ったので車で少し葉山方面に移動し秋谷海岸の行きつけのイタリアンの店❝DON❞に到着。
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DON秋谷店
残念ながら当日、予約がいっぱいで1時間半待ちとの事でウェイターの青年がとても丁寧に申し訳なさそうに状況を説明してくれた。
「まぁ、和食も美味しいし!」
・・・と言う事で小生と同じく美味しい物が大好きで男前(笑)なITは、せっかくの観光を楽しむベクトルで納得してくれて、DONから車で5分と直ぐ近くの佐島マリーナの❝海辺❞と言う、これまた小生行きつけの海鮮和食屋サンに移動する事に成った。
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海辺ここは本当に海の目の前のレストラン。
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デッキ席からは海が一望出来る。天神島が見え、ともて清々しいのだが・・・
この写真は生憎当日の物では無い。IT連れてった時は既に雨がポツリ来た後で店内で食事と成った。
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それでも特別セット(刺身盛り合わせ+ブリ角煮+アラ汁+金目鯛煮付け+米お代わり可能)が来ると「美味しい!」と満足してくれた様で何よりだ。
京都育ちで舌が肥えているITが納得してると自分も嬉しいもんだな。
他の親友も何人か連れて来た事が有るが、やはり皆美味しいと喜んでくれる、そして自分が美味しいと思う物を一緒に美味しいと親友達が感じてくれると皆の喜ぶ様子を見て自分も嬉しく成る。
そう言う意味において小生と親友の共通点は皆、食べる事が好きだと思う。
だから小生デブったりジムでダイエットしてシボんだり繰り返すんだな(笑)。
この後、鎌倉市街に戻り扇谷(おおぎがやつ)地区と小町通と若宮大路と鶴岡八幡宮を散策する予定だった。
しかし雨が・・・
扇谷地区から正宗工芸を見学したり若宮大路に抜け鳩サブレ―の豊島屋サンや鎌倉彫りの店を見物してから鶴岡八幡宮に着き御参りを済ませると、もう雨がドシャ降りに成り散歩どころではなくなってしまった。雨傘さしているのに二人共靴下までビッチョビチョ、止むを得ず車に戻った。夕飯は小町通のマザーズオブ鎌倉で葉山牛の鉄板焼きを食べる予定だったが、それまで時間を潰すのは無理。
小生も徹夜で一睡もしていない事をITが配慮してくれて「神奈川東京名物の黒湯炭酸泉のスーパー銭湯に行こう」と予定していたコースの前倒しを提案してくれた。
・・・仕方が無いし夕方にも成っていたし、帰りも渋滞するだろうしスーパー銭湯での時間も含めて夕飯時に成る事を想定して夕食は横浜駅で中国の火鍋の名店❝小肥羊❞で食べる予定に切り替えた。
前もって色々と候補地を準備して置いてITに通知していたのと、ITが小生の体力も考慮してくれた事と辛い物好きのITの全ての折衷案でそうなった訳だ。
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極楽湯 横浜芹が谷店
※写真撮影し忘れたので冬の写真。
港南区の極楽湯へ移動。鎌倉街道から少し環状二号線を入った場所に在るので横浜横須賀道路で横浜駅に戻るには別所インターへのアクセスも都合が良い立地だし、この先は南区の弘明寺の三浦湯か、川崎まで行かないと無いし三浦湯よりは広いのでコチラにした。
風呂上がりは1時間後の待ち合わせ。
しかし、この日は男子風呂は子供だらけ、しかも親のマナーが悪く子供が露天風呂で行儀悪く風呂にバシャ―ン!バシャ―ン!と飛び込み台の様にしており親の集団は注意せず放置。
仕方なく小生が「お風呂では飛び込んじゃダメだよ~♪」と言うと固まる子供・・・
そこへ別の年配の男性客が「オイ、ガキ!あぶねーぞ!怪我すんぞ!」と凄みながら注意した。
・・・するとマナーの悪い子供は、これ又、行儀悪く風呂場を走って室内浴場へ❝逃げた❞のだが、一体全体、あの子供の親はどんな家庭環境で育ったんだろうな?と思った。
騒がしくユックリする気分でも無いし凄まじく眠かったのでITの配慮を無駄にしない様に10分で風呂を上がると、待ち合わせ場所のマッサージチェアにしこたま100玉を投入し40分位マッサージされたまま寝た。
人間40分も仮眠すると結構頭がスッキリするもんで、目も覚めてスマホ弄くりながら小肥羊の場所を確認しているとITが風呂から上がって来たのでソフトクリームを食べながら関内店が良いか横浜駅東口店が良いか相談し、横浜駅へ移動。
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地下駐車場に愛車を停めるとモアーズ側の出口から小肥羊に移動。
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中国火鍋専門店 小肥羊 横浜店火鍋と言う料理を御存知無い方もいるかも知れないが、これは中国でポピュラーな料理で薬膳スープと辛みスープの二種類に羊肉や牛肉や野菜を浸して加熱して食べる中国東北地方の料理で、言わば中国版のシャブシャブと言った感じの料理だ。
小生は辛い物は嫌いでは無いが得意でも無いので、辛いスープはもっぱらITの担当に成った。
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4000円弱のコースを頼んで二人で「肉少なくね?」と思って追加注文したらトンデモない!コースはやはりちゃんと考えられていて、二人共追加分は腹一般で可也(かなり)無理しないと胃袋に入らない量に成ってしまった。
しかし、とても美味しく、又何回でも食べたいと思う中国に良く出張していた小生にも懐かしく、中国にしょっちゅう出張しているのに接待漬けのせいで食べる機会が少ないITにとっても神奈川旅行を喜んで貰える一助に成った様でとても良かった。
二人とも満腹で満足すると、翌朝早くには表参道に出張出勤せねばならないITを眠気もすっかり覚めたので安全に鶴見のビジネスホテルまで送り届けると小生は下道で帰宅した。
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帰宅してITに貰った御土産を開くと冒頭で紹介した宇治茶と山椒昆布だった。
「ありがとう」と感謝の念を持ちながら有難く頂き、御蔭で体型も理想体型に成る事が出来た。
毎回、東京出張の旅に訪ねてくれる親友で理解者の存在は、人としてとても有難い。
ありがとう。

ITや千葉に引っ越してしまった後でなかなか会えなくなっていた親友O型君等の様に、常日頃から馬鹿みたいにつるまなくても、大切な人間と言うのは信頼出来るしバカ騒ぎしなくても楽しめるもんなんだよな~。

親友だけでなく、普段、御世話に成っている師匠の様な宮司様達や和尚様達や、尊敬する歴史偉人や神話の残る神達様や武将達が拝んだ仏様達、御先祖様や小さい時に可愛がってくれた義祖母はじめとした恩人の皆さん、学生時代からの恩師達に感謝をも再確認する一日と成りました。
ITありがとな~!

さて、今回の休日雑記はここまで!
次は多米元忠公の解説記事の最終章を書きたいな~と思います!
その翌週からは暫く繁忙期と私用と神事と仏事が立て込んでブログ更新遅れたらすみません!

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪

恋は雨上がりのように紹介した記事⤵️
恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 桜木町駅 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 能見台 久良岐のよし
今日は公開日です。
ロケ地は小生の地元の円海山周辺・・・
残念ながら栄区は有りませんでしたが旧鎌倉郡の栄区的には鎌倉市由比ガ浜もある意味地元(笑)。
ロケ地、判るだけでも以下の場所が有りました~。
鎌倉市由比ガ浜
横浜市金沢区能見台
横浜市金沢区冨岡
横浜市磯子区氷取沢
横浜市港南区港南台円海山
横浜市中区桜木町駅

この他に埼玉県とか千葉県我孫子市でもロケされてます~。
全部、横浜の殿様、間宮康俊公に縁がある土地の近く。


さて、旅行ブログか歴史解説ブログ、今夜書いて明後日位には更新します~。

因みに今日は休日の小生の1日行動報告・・・
午前中~
爆睡&某外国語学校

昼過ぎ~
目黒区の妹の夫の歯科医院で定期受診
昼食に目黒駅近くの宮崎県産直の農産品が食べれる宮崎県日南市じとっこ組合
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鳥の叩き
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馬刺
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目黒駅界隈散歩&誕生八幡宮と高福院参詣DSC_0781
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此方は享保の改革を行った水野忠邦公等の関わった神社、今では小さいけど歴史偉人と所縁有る凄い場所。
水野忠邦公、松平定信公の様に己の正義を貫く強さと、間宮林蔵公や杉田玄白公や河井継乃助公や高田屋嘉兵衛サンや近藤サン土方サン高杉サン西郷サン桂サンみたいに新しい事と古い事を共に活かし社会の為に立功する人間でありたいと願うので御詣り出来て嬉かった。
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隣には元は八幡宮の別当寺だった高福院さんが在った。ここは何と真言宗の聖地高野山の重要な塔頭だった寺院が江戸時代に移転されて来た大切な御寺で、明治以前は関東における高野山の窓口として機能したそうだ。



夕方~
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恋は雨上がりのように パンフレット購入し鑑賞!
夜~
今から帰宅して少しユックリしたらブログ書くよ!

さて、今日も残り時間僅かに成りましたが世界中の日本文化と自然を大切に思う皆さんにとっても小生にとっても善良な部類の法治主義者にとっても神様仏様歴史偉人皆様にとっても、今日も良い日で1日が☀️終わり明日も健やかな良き日でありますよに~🎵

では!又明日か明後日の記事で!

先月04月21日に一人で訪問した青梅市塩船観音の躑躅がとても綺麗だったので・・・
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「こんな所に行って来たヨ~」
・・・と実家のテーブルにパンフレットを置いておいた所、母と母の友人に・・・
「私達も行きたい、連れてって!」
・・・と言われた。
なので、たまには親と一緒に行動するのも良いかと思い立ち、塩船観音だけでなく旧庄屋の福島家住宅や清酒千代鶴の中村酒造見学などを含めて計画を練って、早朝6時半に自宅を出発して奥多摩観光に行って来た。
無論、小生の組む予定に相手の年齢や性別や体力等は僅(わず)かな考慮しか無く(笑)、容赦なくギッチギチにスケジュールを組んで置いた。
当初の予定では塩船観音と3個所+母達のニーズに現地で応える臨機応変候補地だけの訪問だったので、GoogleMapに行きたい場所リストを登録して置いた上で更に現地の観光案内看板で臨機応変に行動した所、訪問先は9箇所に増えた。
先に訪問先を列挙すると以下の通り・・・
・AM:06:30円海山の麓の自宅を出発
・AM:07:00能見台の母の友人宅へ迎えに行く
・圏央道厚木PAで朝食
・青梅市 塩船観音寺
・澤乃井櫛かんざし美術館
・福島家住宅(古民家)
・澤乃井酒造と多摩川の渓流と寒山寺
・海禅寺(天皇家勅願寺)
・奥多摩かまめし←小生は昼寝タイム
・へそ饅頭総本舗とへそ観音
・武蔵阿蘇神社
・千代鶴 中村酒造
・PM19:30位に能見台に到着
さて、当日の行動と訪問先を写真で紹介すると・・・
この日の前日と言うか当日の午前のまだ夜明け前、小生は深夜に仕事から帰宅。
そしてAM:05:00に成っても結局目が冴えて寝れず。
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レッドブルを2本飲んで脳味噌を強制起動、結果的には小生だけ昼食を取らず車で仮眠したので睡魔にも襲われず良い旅行と成った。
最初に休憩したのは厚木PA、残念ながらここでは今回は写真は撮影しなかったがウチのBBA共が未だ奥多摩の観光地にも着いてないのに神奈川県内のしょっぱなの休憩所で阿呆(アホウ)の様に御土産(みやげ)を買い漁ろうとしたので「説教するハメ」に成った・・・
「これから沢山、神奈川県では買えない物を売っている場所に行くのにいきなり神奈川県内の土産を買って、先の事を考えて計画的に買い物する場所連れてくから今飲食する物だけ買ってね!」
・・・と。BBA共は無計画、特にウチの実家では母は最近は冷蔵庫の在庫管理も出来ない人なので小生が消費期限の切れた食品は容赦なくポリ袋に入れて捨てないといけない。その度に母には「毎日食品買物したいのならば在庫を手帳にメモって仕事に行きなさい」と説教をしないといけない。
それと同じ行動パターンだな。
オバさんも軽く凹ませたが小生は「この先もっと良い物を売っている場所に行き小生の説教に納得する」と確信していたので意にも介さず、取り合えず二人に朝食を買い与えてお腹を満たさせ機嫌を回復させて再出発。
最初に二人を連れてったのは青梅市勝沼城址近くの塩船観音寺だ。
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小生が前回訪問したのは04月21日、そしてその時が見頃だったので二人には予(あらかじ)め警告しておいた「ゴールデンウイークの頃にはもしかしたら見頃が過ぎてるかも知れないよ~」と。
その懸念は現実の物と成ってしまい、母とオバさんとの訪問前日の05月03日の台風の様な天候で咲いていた躑躅は大半の花弁が散ってしまったそうだ(笑)。
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いくらか咲いていたが略(ほぼ)全滅。
でも塩船観音寺はとても雰囲気の良い山寺。
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そもそも日本初代の大僧正と成り東大寺大仏建立の立役者である行基大僧正が開いた御寺と伝わる。
行基大僧正が開いたと言うのは有る意味本当だろう。❝有る意味❞ね。
当時、行基大僧正は日本神話の聖地保護や寺院建立の為に❝行基集団❞的な現在で言う所のNPO法人の財団の様な巨大な組織を擁(よう)していた。なので行基集団のボスの行基大僧正は保護すべき聖地霊場の報告を取捨選択した上で保護する目的で修験道的な仏教寺院を大分多く造営している。
神奈川県だと修験道や神道や仏教の聖地だった八菅七所権現(現:八菅神社)や石山権現大山寺と阿夫利神社等が神奈川県では最たるものだろうか?
鎌倉市長谷地区近くの坂ノ下地区にも虚空蔵菩薩堂を造営したりしている。
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大悲山 観音寺(塩船観音寺)


そんな行基大僧正の関わられた塩船観音寺を人魚姫の不老不死伝説の有る八百比丘尼様が再興したそうだ。この御寺の雰囲気は、本当に往古の山寺の雰囲気と、観光地化されたエリアの棲み分けと保護がバランスよく素晴らしい。
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だから躑躅の花は散っても雰囲気を楽しめる。
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いぬケツ(笑)、可愛い(笑)。
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しかし母達は躑躅が咲いていない様子を見るや真っ先に売店に走り、又、衝動買いを始めた。
・・・流石に、ここの物はここでしか買えないので、ここから先は止めないで置こうと思い放置した。
まぁ、買い物が楽しかった様で機嫌を悪くする事もイジケル事も無く、二人共それなりに満足した様で駐車場に戻っても機嫌は良かった。二人して巨大な筍(たけのこ)とか刺身蒟蒻とか買っていた。
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小生も梅漬けの沢庵と自分様に刺身蒟蒻を購入、これ、どちらもスンゴイ!美味しかった。
青梅市観光の際はおススメ!
さて次の目的地は吉川英治記念館だ。
目的地に向かい青梅街道に車を進ませると、青梅市が力を入れている❝昭和の街並み❞と❝映画のロケ地&映画の街❞のコンセプトの実現されている素敵な商店街を通り抜けた。
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母の友人は大興奮、まぁ又、来年に二人を塩船観音の躑躅を見に連れて来てあげたいと思うので、その時にはユックリとこの街を散歩しても楽しいかも知れない。
今回はスルーし、車を先に進ませた。
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吉川英治記念館に到着。
吉川英治記念館
小生は横浜の戦国時代の殿様の間宮康俊公の顕彰活動で横浜市鶴見区の間宮家菩提寺の寶泉寺の初代住職が青梅市二俣尾の福禅寺(現:海禅寺)から御招きした歴史を知って昨年に海禅寺の御住職様に会いに来た際に、ここの存在を知って来てみたいと思っていた。
吉川英治先生事は小生達昭和生まれ世代の男子ならば、漫画の横山光輝サンの著作の三国志の原作者として知らない人間はいないだろう。小生は政治外交軍事を民間交流に持ち込み反日感情を利用する中国の現政権が嫌いで良く批判を展開するが、基本的に三国志の英雄達や南宋の岳飛将軍や明の鄭成功将軍が好きで中国料理屋中国文化はリスペクトしている。端的に言えば日本の共産主義はクソだと思っている。
その日本共産党なんかを日本経済破壊的政策の指示を煽る煽動に利用する今の中国政府も嫌いなだけ。
元寇を撃退出来たのも蘭渓道隆和尚や兀庵普寧和尚等、南宋からの亡命者達が情報を齎していたから鎌倉武士達の作戦と精神修練が成功したのを鎌倉市に良く足を運ぶ神奈川県民として当然ながら知っているから。鎌倉文化は南宋と仏教文化との繋がりと反元朝無しには、あの形に落ち着かなかっただろうから。今の悪い面と過去の良い文化はソレはソレコレはコレと分けて考えているし、中国人に対しても反日中国人と親日中国人と中立中国人で関わるスタンスをコチラも相応にやり方を変えている。
目には目をひん剥いてやる歴史事実を突きつけ、歯には歯を叩き居る鉄球を叩きつけオーバーキルしてやり、友情と恩義には友誼と恩返しで報いる訳だな。
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さて、この吉川英治記念館は実際に戦時中に吉川英治先生が東京から疎開する為に買い取った絹糸生産者の豪邸なので非常に見応えの有る日本家屋と庭園として保存公開されている。
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入口から既に御金持ちの象徴の❝長屋門❞だ。
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本当に立派な古民家なのが、この時点でお解り頂けるだろう。
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幕末~明治初期の昔、日本は世界有数の良質な生糸の輸出国だった。だから八王子の旧家には蔵屋敷も有る。吉川英治記念館も例に漏れず。
特に八王子~群馬県にかけての奥多摩や上州では生糸生産が特産に成っていた。
実はこれ、戦国時代に善政を布いて産業振興や荒川の治水や税率軽減や農地開拓や領民に優しい法制度の公平性等で実績を残した偉大な北条家の殿様達の遺産なのだ。
特に八王子を治めた北条氏照公と埼玉県北西部を治めた北条氏邦公は生糸の殖産振興を政策として実施して農民達は潤った。そして、それが近世~近代にまで経済基盤の屋台骨となり世界にまで進出する特産品と成った訳だな。
本当に小田原北条家の政治は素晴らしく、後の江戸幕府は北条家と比較して劣っている面が非常に多かったりする(笑)・・・のだが関西や濃尾三遠方面の人はソレを知らない。
余談だが、横浜三渓園を自宅としていた原財閥の原三渓サンが上州に開いたのが世界遺産と成った富岡製糸場で、アレは原財閥の持ち物だったのだがソレを群馬県の人は余り知らない。
横浜銀行も原財閥の持ち物だったんだな。
何故、原財閥が群馬に生糸の製糸工場を作ったかと言えば、それはシルクは全て横浜港から出荷されヨコハマシルクとして世界に有名なブランド化に成功していたからだ。
間宮家の居城、笹下城下の笹下川~蒔田吉良家の蒔田城下の大岡川~蒔田湾(現:横浜中華街~吉野町は海だった)の河川では戦国時代より染物が産業として有り、昭和初期までシルク等を染色する捺染工場が多く残っていたが、20年程前に全滅したそうだ。
こんな生糸の歴史を通じても青梅市と横浜市は北条家の殿様達の御恩と御縁で繋がっていたりする。
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母屋は昔は現在とは違って草葺きだった様だ。
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御庭は本当に手入れが行き届き美しい。
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母とオバちゃんは大喜びで・・・
「素敵な場所ねぇ~」
「連れて来てくれてありがとう~」
・・・と言ってくれていたのだが、小生も正直、ここまで見応えが在るとは思わなかった!
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玄関の土間までは入る事が出来るが建物の内部は拝観不可。
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でも各部屋の当時の生活の様子の写真と解説が展示されており、これはこれで良かった。
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本当に立派な建物なんだなぁ~。
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御庭は新緑で美しかった。後で知るが、この庭の大きな木の下で吉川英治さん達家族は良く一家団欒を楽しんでいた様だ。
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執筆活動をする書斎は洋風の増築だった。
ここが又素晴らしい。
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床のモダンなタイルと・・・
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母屋との渡り廊下の細かい格子戸。
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庭からの入口には立派な漆喰彫刻。
本当に素晴らしい!
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書斎の中はコンナ感じだった。
地図を見ながら執筆するスタイルだったんだろうか?小生達旅行や歴史ブログ書く人と同じスタイルだねぇ~♪
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母屋から展示館の方へ抜ける道。
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中国から輸入したと思われる石像。
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ここから多摩川の方を望む景色も良い。
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展示館は内部が撮影禁止なのだが、見学して初めて知った・・・
吉川英治先生って横浜市中区の出身、しかも超低学歴なのに独学で会社経営して一定の成果を上げた特異な経歴を持ち、しかも作家として一流の成功を収めていらっしゃると言う。
・・・凄まじい才能の塊、小生、吉川英治先生に肖りたい。一番現代に近い人物で尊敬する歴史偉人がここへの訪問で吉川英治先生に成った。
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一頻(ひとしき)り見終わり母達も大満足で一先ず、塩船観音の次は幸先(さいさき)良い再スタートを切る事が出来た。
そこから昼食を❝奥多摩かまめし❞に行こうかと思ったが、吉川英治記念館に来る途中で渡った鉄橋に有った❝澤乃井櫛かんざし美術館❞と言う看板に母とオバさんが「行きたい!」と食いついていたのと、吉川英治記念館到着直後に澤乃井櫛かんざし美術館が近い事も地図で確認していたので次の訪問地と定めた。
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澤乃井櫛かんざし美術館吉川英治記念館から本当に近い、渋滞したが車で10分かかっただろうか?
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残念ながら展示物の写真撮影は不可との事、先に結論を言うと「ここの櫛と簪(かんんざし)の展示物は美しさも展示数も櫛と簪に特化すれば東京国立博物館を凌ぐ素晴らしさ!」だった。
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ここの紹介の跡で紹介するが、実はここ入口で日本酒を打っているので店員さんに「何で日本酒売ってるんですか?」と質問した所、澤乃井酒造の経営者の開いたコレクション展示館だそうだ。しかも存じ上げなかったが、直ぐ近くの吊り橋を渡った先が澤乃井酒造の酒蔵だそうで、そちらも見学したり試飲したり出来ると聞いた。
恐らく、吉川英治記念館や天皇家勅願寺の海禅寺と合わせて躑躅や桜の時期に訪問すると、ゆっくりするなら半日は余裕で楽しく過ごせるだろう。
展示物の写真は撮影出来ないが、館内から見る青梅市沢井地区の多摩川の渓流は一端の景勝として成立しておりとても美しかった。
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川面(かわも)は碧(あお)く、透き通り、そして優しい。
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つり橋の傍に何か御堂の様な建物が見えたので店員サンに質問した所、そちらも澤乃井酒造さんの建立された御寺で❝寒山寺❞と言う寺名だそうだ。・・・寒山寺は昭和の歌手の渡辺はま子サンと平成の歌手の平原綾香サンが歌った蘇州夜曲にも登場する春秋戦国時代の呉王国の首都だった中国蘇州市の名古刹寺院と同じ名で、蘇州と御縁の有る小生は「奇遇だなぁ~」と思った。
下の階に降りると切り絵の様な物の製作展示販売を行っていた。
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この方、高井先生とおっしゃる東京都調布市で代々続く着物の柄の染色型紙の作家の先生だった。
色々と横にいた綺麗な秘書の様な方に御話をお伺いして居た所、実はその女性は娘さん、そして高井先生御本人から「弟子募集中」との事、小生が趣味で指輪作ったり小さい時から美術造形を勉強していたので趣味として好きな事を話したら「是非、習いに来ませんか?」とリクルートされた(笑)。
弟子と言っても後継者がいないので教室を開くそう。横浜でもやろうかと思っているそうなので、もし横浜で開くなら参加して見たい。
ジムで身体づくりを完遂したら日野市の天然理心流の道場にも通いたいので、日野市の隣の調布市ならついでに車で通えると思う。工作好きだしねぇ~♪
高井先生の作品については写真撮影しても良いとの御許可を得たので、その緻密で精密な江戸時代から受け継がれている幾何学模様の型紙を沢山写真撮影した。
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驚く事に、この神は新聞紙だそうだ!
それを柿渋に付けて乾燥させると極薄で凄い強度の紙に変化するそうだ。
良い事を聞いたが、横浜では柿渋は手に入らないだろう。やはり先生の弟子に成るか別の代用紙を探す必要が有る。
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これ、もし作る事が出来たら銀粘土で指輪に模様を転写したらとても美しいデザインに成ると思う。
こんど写真を紙にプリントしてトレッシングペーパーに写しとって見ようと思う。
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う~ん綺麗だ。
外国人が御土産として喜んで買っていきそう。羽田空港とかに取り扱って貰えないのかな?
さて、一頻り見学が終わり澤乃井酒造へ移動しようと思い地図を見たら、実は当初の訪問地として定めていた福島家住宅の古民家の目の前が澤乃井酒造の酒蔵だと気が付いた。
なので先に澤乃井酒造の駐車場を目指し、車を降りてから福島家住宅を見学した。
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福島家住宅
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ここは東京都青梅市の奥多摩、昔の多摩郡三田領二俣尾村の庄屋だった福島家の古宅だ。
小生はこの福島家と玉縄城主北条綱成公の生家は何某か関係が有ると感じているのだが、まだ福島家の御子孫と面会に至らず御話を聞けずにいる。ちゃんと家系図も有るそうなのだが、東京都ロケーションなんちゃらが間に入って来て一個人での面会を勝手に拒否るのでまだ会えない。
こんど海禅寺の御住職経由で御話を通して貰おうと思う。
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う~ん…酒林が吊るされており尚且つ澤乃井酒造さんの隣って事は、福島家は澤乃井酒造と関係が深いのだろうか?確認出来ないので何とも言えない。
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澤乃井園(澤乃井酒造)澤乃井酒造は本~当~ぉに!立派だった。
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この昔ながらの酒造の蔵や漆喰の蔵や茅葺の母屋等と道を挟んで反対には食事処や試飲出来るスペースや売店なんかが有り、それが一つのテーマパークの様に完成されていている。
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家族連れと恋人達で山奥なのに大変な賑わい!ゴールデンウイークだしね。
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ここで御猪口を買うと試飲出来る。
無論小生は運転手だし御酒は梅酒以外は好きでは無いので飲まないが、母は試飲したがり何種類か有料だが試飲を楽しんだ。
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食事も出来る。
又、こことは別棟でちゃんと和食レストランと軽食の売店も有る。
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櫛かんざし美術館から見た寒山寺の水墨画。
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やはり蘇州市とも御縁が有る様だ!奇遇だなぁ~。
両方とも風景の美しい場所として有名。
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この軽食をとれる❝ままごと屋❞の横が日本酒の売店に成っている。
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小生は梅酒を見つけたので購入しようと決めたが、母もオバさんも自分も小腹が空いてきたので酒饅頭を購入した。
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ここの直ぐ下の渓流にも降りる事が出来る。
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う~ん!良い眺め!
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家族とカップルが水遊びをする様子は微笑ましい♪
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吊り橋の先には青梅市の寒山寺が見える。
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ここの多摩川の水は本当に綺麗!
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もし彼女が出来たら是非、泊りがけで青梅市~羽村市~あきる野市観光に来て飲酒もしたいと思う。
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この橋の後ろに澤乃井櫛かんざし美術館は在る、歩いて10分位なので美術館に車を停めて来ても良いかも知れない。
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皆ゆっくりと良い時間を過ごしているね。
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小生も母もオバさんも大満足で、食事の為に車に戻った。
食事場所に決めていた❝奥多摩釜めし❞に行く途中に間宮家の殿様が戦国時代に御世話に成った天皇家勅願寺だった福禅寺(海禅寺)が在るので、二人にも付き合って貰い御参りに立ち寄った。
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瑞龍山 海禅寺(天皇家勅願寺:旧寺名:福禅寺)御住職には御挨拶はしなかったが御参りに上がった所、予想外にオバさんが大変喜んでくれたので良かった。躑躅も少し残っていたが、綺麗な花が咲いているのが嬉しかった様で嬉々として写真を撮っていた。
御本堂で御本尊の釈迦牟尼仏様と三田綱秀公と間宮家歴代の殿様達に御参りし、いつもの御礼とこの日1日の旅の無事と海禅寺と海禅寺関係者と二俣尾地域の皆さんの無事を祈願した。
母達には付き合って貰ったのだが喜んでくれて良かった。
車に乗り昼食目的地に移動・・・
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奥多摩釜めし❝奥多摩釜めし❞に到着。
実はここで小生は食事をしなかった。
徹夜が限界に来て睡魔を感じ始めた・・・
「これ以上無睡眠は危なぇ~なぁ~」
・・・と思い、海禅寺で三田と間宮の殿様と御釈迦様に旅の無事を祈願したばかりだし、母達には好きに食事して貰う事にして自分は車中で仮眠する事にした。
1時間位は寝れただろうか?御釈迦様と殿様達の御利益か、1時間寝てスッキリ!眠気も覚めた♪
母達も「それなりに美味しかったよ(笑)」とそこそこ田舎の釜飯屋サンとして美味しかったそうで笑顔で店を出て来た。
小生、ここで食事をしなかったのは、直ぐ近くに❝へそまんじゅう総本舗❞が存在しているのを前回の訪問で知っていたので、そこで小腹を満たせば良いし母達にも良いデザートに成ると考えての事だった。
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へそまんじゅう総本舗ここは隣に旅の安全を見守る観音様が鎮座するので、御土産物屋として饅頭屋が名物に成った様だ。
歴史的には100年続くとか凄い古い訳では無い。
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ちゃんと御参りしました。
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「観音様、無事へそ饅頭本舗まで辿り着かせて下さりありがとうございました、二人を家に送り届けるまで御加護御願い致します。そして観音様が多くの人にずっと大切にされます様に」
・・・とお祈りして、御饅頭を購入!
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ここは蒸(ふ)かしている暖かい物を出してくれる。
母達も喜んで食べていた。素朴だけれど美味しくて、奥多摩観光に来る人達で賑わっている店なんだな。
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三田綱秀公の紹介が店頭に有った。
この殿様は責任感が強くて誠実な人だったんだな。以前書いた唐垣山城の記事が有るので、ブログのタグで唐垣山城と検索してくれれば以前の記事を読めると思います。御興味の有る方はどうぞ。
再び出発・・・
最後の目的地はあきる野インターチェンジ手前の清酒千代鶴の中村酒造、その途中に先の熊本大地震で熊本県民を僅かな犠牲者で抑え神様が自らを犠牲にして熊本県民を守る様に社殿崩壊した阿蘇神社の関東唯一の分社、武蔵阿蘇神社が在るのでそこに寄る事にした。
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武蔵阿蘇神社ここは関東人にとっては、とっても由緒正しい聖地だ。
神社前の多摩川に在った淵は古代からの龍神信仰の舞台であり、何と平将門公が肥後国阿蘇大社から建磐龍神(たけいわたつのかみ)の御分霊を勧進された由緒ある神社だ。
そして羽根用水と言う❝と~っても古い!❞現役の灌漑用水史跡が現存する場所でもある。
平将門公は腐れ藤原貴族には自分達の既得権益を脅かした悪人だが、実は桓武天皇の末裔で親王赴任国の上総国下総国を治める権限も有していた。そして関東人にとっては善政を布いた名統治者でもあったので東京都のみならず埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県、福島県でも今現在に至っても慕われ、東京の神田明神では経済の神様としても民衆の信奉厚い。
武蔵阿蘇神社は目の前の多摩川対岸がパワースポットで古代からの聖地だったのだが、平安時代の渡河地点に平将門公が神社を築いたのだろう。そして平将門公が戦死された後は、将門公を討ち取った将軍の藤原秀郷も阿蘇神社を大切にし将門公の意思を継いで関東の民を安んじた。だから羽村市の阿蘇神社には藤原秀郷手植えの古木も現存する。
ここを御参り出来て母の友人も母も、羽根用水と多摩川の風景の綺麗さも有り喜んでくれた。
阿蘇神社を出発し最後の目的地の中村酒造に到着・・・
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清酒千代鶴 中村酒造(千代鶴酒造り資料館)DSC_0668
ここは売店に酒造の道具の展示が有るし❝試飲も無料❞なので運転手以外には見学する価値が絶対に有る場所だ。小生は無論飲まないが、文化的な物が好きなので3年前に始めて立ち寄って御土産に清酒と梅酒を購入して以来、羽村市チューリップ祭りを見物に来る度に立ち寄る様に成った。
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展示物色々。
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色んな賞で金賞も受賞している酒蔵だ。
母と母の友人は色んな清酒を試飲して、数本づつ御土産に購入していた。
「ね?最初に余計な物を買わなくて良かったでしょ?」
・・・と言う所だね。
母と母の友人も結果的に今回の小旅行全体をとても喜んでくれたので良かった。

この後、神奈川県の藤沢市域に入ってからが凄まじい渋滞に巻き込まれ夕方17時位に出発したのだが、母の友人の住む横浜市金沢区能見台に到着した時は既に20時近くだった。

そう言えば能見台の地名が出たので今回の旅とは全く関係無いけれど別記事にもしますが少し映画の紹介を・・・
恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
恋は雨上がりのように
公式ホームページURL→http://koiame-movie.com/#/boards/koiame
2018年05月25日(金)、もう直ぐ公開のこの映画では能見台を中心に周辺地域がロケ地として頻繁に登場します。能見台駅や桜木町駅を皮切りに・・・
恋は雨上がりのように 能見台駅 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 桜木町駅 久良岐のよし
富岡~能見台~氷取沢に抜ける住宅道路をヒロインの❝橘あきら❞を演じる小松菜奈さんが疾走しまくす・・・
恋は雨上がりのように 能見台 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 氷取沢 久良岐のよし
恋は雨上がりのように ヒロイン 久良岐のよし
全然関係無いけど、この小松菜奈サン、小生の学生時代の彼女にソックリ(笑)。
恋は雨上がりのように 円海山 久良岐のよし
そしてもう直ぐ蛍の見れる季節に成る磯子区~栄区~港南区にまたがる円海山もロケ地に成っていますね。
蛍のいる瀬上沢から、このロケ地は徒歩8分くらいと直ぐ近く、更にはこのヒロインが走ってる道の左手の山の上は横浜市で最高所なので絶景の夜景スポットとして栄区上郷町と港南区港南台の地元民には知られています。
ついでなので以前、蛍を見られる❝瀬上沢❞と瀬上沢の綺麗風景や蛍の様子を紹介した記事のリンクと蛍の見られる場所も紹介して置きます。
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円海山の展望台とベンチ~横浜の大森林を守ろう
(洋光台地域ホームページから)

東急が開発破壊しようとしており林文子市長がそれを容認する様な発言をして横浜市民から大ヒンシュクなのも紹介しています。
こんな映画のロケ地に成ったり、横浜市最後の蛍大生息地が見られたり、横浜市一の夜景が見られる場所を横浜市役所に破壊されない様に、彼女さんや彼氏さんや奥さんや御子さんと❝恋は雨上がりのように❞の映画を見て聖地巡礼に円海山に来て、ついでに蛍と夜景を見て、その素晴らしさを感じて見ませんか?
横浜市にも奥多摩の様な最後の大自然が残っています、ここを破壊しようとする政治家と土建屋に止める様に、林文子市長には❝歴代市長が守て来た❞貴重な自然を子供達に開発の魔の手から守って下さる様に陳情して頂ければ幸いです。

●林文子市長への陳情窓口
林文子事務所 
〒231‐0007 横浜市中区弁天通4-53-2 DOMONビル2F
TEL:045‐228‐9780
横浜市教育委員会庶務課
TEL:045-671-3240
●東急建設
http://www.tokyu-cnst.co.jp/company/
〒150-8340 東京都渋谷区渋谷1-16-14 渋谷地下鉄ビル
代表番号 TEL:03-5466-5020
土木本部 TEL:03-5466-5152
建築本部 TEL:03-5466-6186
営業本部 TEL:03-5466-6299


ブログ更新するって言ってたのに・・・
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レディ プレイヤー1のレイトショー見に行ってたせいで更新してません!
・・・更新記事今から朝までかけて書きます(笑)。
先程横浜の都会から鎌倉近くの横浜の田舎の自宅に帰宅した次第です(笑)。
最近2ヶ月間で12kg痩せたせいで正午頃は服を買い直しにベイサイドマリーナのアウトレット行って・・・
夕方は図書館に歴史の調べ物をしに文献の写しを読みに行き、そして外国語教室やら・・・
学習タイムが終わった瞬間、横浜の都会都会に在る某外国語教室の近くにはシネコン有るので歴史と綺麗な風景と美味しい物と銀細工の他にガンダムも少し好きな小生いてもたってもいらなくなり暴走して映画見に行って来た次第です。
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レディ・プレイヤー1、昭和後期~平成初期生まれで日本アニメやハリウッド映画好きだった世代は見たら絶対に楽しいですよ!
あとね、ネトゲ中毒やネトゲ廃人やSNS廃課金者やパチ中毒やギャンブル中毒者も観た方が良いよ。
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メカゴジラとか・・・
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・・・ガンダムが登場します!
原作ではマクロスやウルトラマンも出るのですがウルトラマンは中国とタイの偽ウルトラマンが商標登録されたせいで訴訟に成るのを避けて映画版には登場しませんでした。
脇役が敵を倒す為に3分間限定で正義の味方に変身するシーンが有るのですが、登場させれなかったウルトラマンへのオマージュでしょうね。

さて以下は近況。

【以下ダイエット経過報告】
今年~本日の変化

Gパン 40inch→33inch
シャツ XL→M~S

現在の体組成
体重84~85kg
筋肉量67kg
脂肪量15kg
体脂肪率18%

今年に入り12kg減量、脂肪だけ。
筋肉で体重重いし胴にまだジムで指摘された理想体型まで不要な脂肪量が3kg、自分の目標まで8kg有りますが今日とうとうSサイズのシャツも着られる様に成りました。
今月に入り体重はほぼ変り無いのですがジムの先輩達にリサーチしてトレーニング方法で体の部位別に筋肉量を調整出来る様に成りましたよ~。だから体型変化出来ました。
ただSサイズのシャツを着ると大胸筋と広背筋で胸だけ良い具合にキツ目です。良いピチピチ感。外見も、ほぼ目標の仁王様には成っていますが・・・
Gパンのサイズ、29inchになんですが大腿筋が付き過ぎて太腿が入らないんです(。´Д⊂)
32inchでもパツンパツンで女性のレギンスみたいに成っちゃってます。
・・・しかしながら下腹も仁王様のままで悪戦苦闘中ですが、ここからの8kg の脂肪削りは持久戦で普段からジム通いを続けて運動量で半年かけてこうと・・・

前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑥・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、真土大塚古墳❝跡❞~偽真土大塚古墳~前鳥神社)←コレの続き。
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
前鳥神社への今年の初詣をし御守りを購入して後、車で正月二日最後の訪問地の寒川❝大社❞へと向かった。大社と書いたのには意味が有る。
寒川神社は現代では只の神社と名乗らされているが、これは欧米カブレのキリスト教徒政治家達が明治時代に行った宗教改革で名を改めさせられたのだ。古来よりの天皇家が延喜式神名帳に“大社”と記録してまで守って来た由緒正しい神社なのに。
延喜式神名帳と言うのは平安時代後期に律令制度では国家運営が難しく成って来た国政の問題に対応すべく醍醐天皇が追加した“延喜式”と言う政令で平安時代の人から見ても由緒正しく古く守るべき神社を纏めて記録した文書だ。これに寒川神社は“大社”としてちゃんと記録されており、尚且つ相模国一之宮の格式も有している訳だ。これを腐れ欧米かぶれ政治家が国幣中社等に貶めた。
全くけしからん!
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さて、正月に寒川神社を参拝したのは実はこれが始めてだった。
正月二日に来たのには特別な意味が有ったのだが、神社に着くまでに寒川神社の1km位手前から道路が物凄い参拝客渋滞しており、更に通常の神社専用駐車場が使えず、周辺に有料臨時駐車場が多数開かれていたので、その近辺の駐車場に小生も仕方なく駐車して歩く事にした。
参道は屋台が多数出店しており賑やかでとても楽しかった。
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拉麺屋の屋台とは現代では珍しい。食べなかったけどね。
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寒川大社(現:寒川神社)・・・延喜式内社 相模国一之宮立派な参道の石橋と大鳥居、でも実は寒川神社はここが入口では無くて、この1.5km位手前から昔の広大な境内地の名残の参道が残っているんだな。
まぁ、そこ等辺は過去に記事に書いたので興味の有る人は見て貰うと良いと思う。
延喜式内社、相模国一之宮の寒川神社と追儺(ついな)祭…古代からの神事を伝える一宮。高座郡寒川町。
現代でも寒川神社は立派で、恐らくは鶴岡八幡宮よりも❝御金が有る(笑)❞神社さんだ。
御利益は❝八方除け❞、そして寒川比女と寒川比古の夫婦神様の神社なので縁結びや夫婦和合の御利益、そして芸能の神様としても多くの芸能関係者から崇敬を集めている神社なだが、恐らく大半の参拝客は只「立派な神社だから~」と漠然とした理由と多くの出店が目的で初詣に来ている筈だ(笑)。
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スンゴイ密度の参拝客と出店!
でも脇道それると真っ暗。
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参道に戻ると本当に賑やか・・・
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小生、前鳥神社でケバブ食べただけじゃ物足りなく成り、美味しそうな焼きそばを購入・・・
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・・・屋台の焼きそばなのにとても美味しかった!と言う表現は失礼だろうか?
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多分、昔は仁王門だった只の楼門、でもこれ新しい平成の再建。立派なので本当に多くの氏子さんが寒川神社を崇拝している事が解る。
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この門をくぐると、いよいよ寒川神社の拝殿が見えて来る。
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この神社の拝殿や社務所前は結婚式でも人気の神社だけ有り服が汚れない為の配慮か綺麗な真っ平らな現代風石畳に成っている。中国の紫禁城の煉瓦石畳も広大で凄いが、それよりも日本人の精密な石畳で綺麗だな。
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社務所、ここもアルバイトの巫女さん達が真冬の19時半位の夜遅くなのに大層寒いだろう巫女装束で頑張って参拝者に御守り札を授与してらっしゃった。
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人の役に立つアルバイトとは言え正月休み返上で頑張ってる学生?巫女さん、偉い。
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拝殿の前には大きな御賽銭箱が用意されていたので、どこから投げ銭してもバッチリ(笑)。
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そして拝殿ごしに~幣殿~その奥に神様の御座所である本殿の階段が見える。
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今年はSuper moonで、この正月二日はとても明るかった。月明かりが拝殿の唐破風に映える。
現地で知り合いに成った氏子さんと色々話したが、今年はやはり例年よりも境内が明るく照らされてとても神秘的に感じたそうだ。
この方以外にも、周囲の参拝客から「今年は明るいわね~」と言う声が聞こえたのでよっぽどなのだろう。夜に神社を参拝する事は余り無いので、小生は実感が湧かないが神秘的な月明かりは素直に美しいと感じた。
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この日、小生が参詣したのは“追儺祭”の神事を見学する為だった。
実は寒川神社以外にも追儺神事を行う場所は多いのだが、日本全国大半の神社の追儺神事は仏教の影響を受けていたり、明治時代の宗教改革で廃れ行われなくなった場所が大半だ。
別名で“鬼やらい”と言うが、この❝鬼❞と言う漢字は大半の日本人は勘違いしているがの本来の意味では❝幽霊❞や西洋の❝悪魔❞の様な此の世に在らざる者を指す。
中国人が白人を西洋鬼子や日本人を日本鬼子と侮蔑するのは悪魔扱いしてる訳なんだな、中国人の覇権主義軍拡チベットやウィグルやブータン侵略を棚にあげて(笑)。
“追儺神事”=“鬼やらい”はつまり邪気を払う儀式なのだが、仏教の影響を受けて鬼退治の儀式に代わってしまっている神社ばかりで古来の恐らく縄文~弥生~古墳時代以前の儀式が続く場所は余り無い。
この寒川神社では今も古来の儀式が伝わっており、古墳時代以来の一之宮、そして大社だったのでキリスト教徒政治家達の国家宗教改革を無視しても彼等を介入させずにすんだのだろう。
実は寒川神社以外にも上賀茂神社でも同じ儀式が伝わり現代でも執り行われているそうだ。
神事の始まり・・・
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これまでの人生で見た事も無い人数の神職と氏子衆の行列が神社拝殿の中へと向かう。
総勢100人近くはいただろうか?
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何が始まるのか解らず、じっと見守る。
大体の内容は以前、こちらの神職様に口頭で御教授頂いていたので流れは把握しているのだが、やはり実際に見守ると緊張感も伝わり凛とした空気が一斉に張り詰める。
この神事が始まる直前から寒川神社は境内の全ての灯りが落とされ、屋台も発電機を停止させられ照明のみならず調理器具も電気をストップし神事に協力する。
灯りを消す事で、古代の神事を執行する環境を当時と同じ状態にする訳だな。
明るいのは社殿の中だけ。宮司様が祝詞(のりと)を読み上げ、境内の四方八方を清める聖水を神様の力で作り出す。
相模國一之宮 寒川神社 難波の小池 久良岐のよし
その御神水と成るのが寒川大社本殿裏に在る❝難波の小池❞の水なのだ。
この池を神職様達が「難波の小池ぇ~」と言いながら数周廻り竹筒で水を汲み、それを神前に奉納し祝詞(のりと)を念じる。
以前も話した事が有るが、❝念❞と言う字の❝本来の意味は声に出して読み上げる❞と言う意味なので、この場合は神様への祝詞を読み上げる動詞は念が相応しいだろう。
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そして灯りが消され、もう何が何だか意味不明(笑)!見ぇ~んwww!
・・・仕方ないので寒川神社様公式ホームページ画像を拝借させて頂きます。
寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 入場
楼門から社殿前の広場へ入場の様子。
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そして先程の清前(きよさき)精製の神事。
そこから神職様達が「難波の小池ぇ~」と言いながら境内を練り歩き、楼門や大鳥居の前等を移動しながら境内で清前を撒き、宝物数えを念じる。
寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 清前
この時に何と言ってるかハッキリは解らず、後日の電話取材でも電話対応された女性の事務員の方は御詳しくは無かったのですが、小生の聞こえた限りでは・・・
「〇〇矢」「〇〇〇矢」
・・・と言う様に聞こえたので、どうも弓矢が御神宝として古代には保管されていた用だ。
これが破魔矢の由来なのだろう。前回の休日雑記でも書いたが付近は莵道稚郎子命が弥生時代の終わり~古墳時代前期に介入している事が歴史と神話から判る。そして莵道稚郎子命と平塚八幡宮を開いた仁徳天皇大鷦鷯尊の父大王君が八幡大菩薩=応神天皇=誉田別命=大鞆別命なのだが、この応神天皇は現世で御存命の時には弓の名手として神話でも知られた大王(おおきみ)だった。当時は天皇号は存在しなかったので敢えて大王と書かせて頂く。
この神事、寒川大社で誰が始めたか、寒川神社を誰が一之宮として定めたか、察しの良い人は小生の推測と同じ事を考え付いただろう。恐らくは莵道稚郎子様だ。
当時の大王家の首都は京都でも奈良でも無かった。大阪の百舌鳥古墳群の辺りや大阪市の辺りと考えられている。
前回も紹介した真土大塚古墳・・・
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真土大塚古墳復元(模造)
まぁ~この写真は神川県教育委員会が莵道稚郎子御陵をぶっ壊すの容認して後から作った偽物だが、この古墳の本物だった破壊され此の世から消滅した真土大塚古墳は古墳時代前期の建造と判明しており誉田別命や大鷦鷯尊や莵道稚郎子命の時代と整合性が高い。
そして莵道稚郎子命は恐らく日本武尊に偉業が習合された人物の一人で、その仕事は佐賀牟国(相模国相模川以東+武蔵国)と磯長国(相模国相模川以西+伊豆国+駿河国)と毛国(上野国・下野国)の豪族の統制と北関東と東北地域の豪族の邪馬台国へ合掌を促し、参加した国には軍事外交と稲作農地開発と軍馬生産と金属加工技術の導入の技術支援事業と大王朝廷の屯倉(みやけ)の設置を行ったのだろう。
つまり以前から倭国に既に参加していた関東豪族を邪馬台国の末である古代大和朝廷の臣民化させ完全に大王の家臣化させ豪族の自治を終わらせ戦乱を終結させる役割を担って関東に四道将軍の内、東海道を管轄する日本武尊(ヤマトタケルノミコト)=倭建(ヤマトタケル)=倭長=倭(が軍の)長=稚(わか)郎子(いらつこ=王子)=宇治に領国を持つ郎子の倭の軍団長=莵道稚郎子(ウジのワキのイラツコ)となり、関東に下向し、その古代官職名が神号と成ったのだろう。
ところで日本武❝尊❞の❝尊(みこと)❞の当字は仏教文化の影響を受けているので日本で最初に漢学を導入した仁徳天皇の時代の莵道稚郎子以後の神号の当字と考えられるので、以後は莵道稚郎子命以前のヤマトタケルノミコトの当字は倭建と記そうと思う。
莵道稚郎子命の後の日本武尊も小生はいたと思っていて、その人物は雄略天皇=獲加多支鹵(ワカタケル)大王で佐賀牟国と磯長国の解体を行い相模国と武蔵国と駿河国と伊豆国の行政区域分離と再統合を行った人物と小生が推測しており、恐らくその発端は武蔵国造の乱だっただろう。
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小生が保有する縄文土器の破片。縄文時代~弥生時代既に横浜市域を含む神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県は多くの集落が在り箱根や伊豆大島で採取された黒曜石、金属刃登場以前の鋭利な刃物の素材と海産品と栗や団栗等の農産品の物々交換等、海を船で越え当時は内陸まで湾が入り込み激流だった相模川や鶴見川や多摩川の大河川に分断された地形を打ち越えて行きかった交易も盛んだった。
延喜式内社と式外社と寺院と古代の海岸線 久良岐のよし
※上地図の神奈川県域沿岸地域で白い部分が縄文時代の海岸線。
弥生時代に稲作が大々的に始まると空堀と土塁と木柵で村を囲んだ城砦集落が多く出現した。しかもどれも海に突き出した険阻な半島の丘の上で、内陸には元々海だった谷間の湿地が有り稲作に適し、貝塚から多くの海産物の残骸が出土する狩猟採集文化と農業草創期の生活に合った地形だった場所が多い。
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大塚歳勝土遺跡(集落+方形周溝墓古墳群)莵道稚郎子命の存命中の頃、つまり弥生時代~古墳時代前期の❝主力兵器は弓矢❞だった。まだ銅剣、銅戈(どうか)、銅鏃(どうぞく=矢尻)は高級品で、銅の鎧を身にまとう人物は大王や地方の豪族の王や高級将軍だけだった。
弥生時代には銅剣や銅鎧等は高級品で当然普及しておらず、一般兵の兵器はもっぱら磨製石器の石斧や石槍が武器だった。だからこそ、近接戦闘よりも弓矢での攻撃が主力だった訳だ。
一部の豪族の王達は弥生時代に中国の漢帝国との交易で青銅器やガラス製品や青銅製の剣も入手していたが、末端の兵士に行き渡る程は無かった。
古墳時代の王族の甲冑
この埴輪の人物は王侯諸将、つまり高位の将軍達や豪族の王達の姿なんだな。
それ故に北九州の邪馬台国の女王卑弥呼が魏から技術供与を受けて国家的に青銅器の大量鋳造が始まるとさしもの中国地方~関東地方まで開拓していた出雲国も太刀打ち出来なかった訳だ。
つまり小生が九州を制圧し中国地方を併呑した初代の倭建命と推測する景行天皇(卑弥呼の弟大王)と、二代目倭建命(倭姫=卑弥呼の甥)の古代大和朝廷の更なる東征だな・・・
初代倭建命が恐らく景行天皇で熊襲長(クマソタケル)達を討ち果たし、その熊襲の豪族の生き残った親族と和平し婚姻関係を結び邪馬台国に吸収連合し、南九州の隼人を打ち、魏への朝貢で受けた金属鋳造技術と農耕技術で遠征に堪える兵糧と軍馬の導入、恐らく同じ倭国を形成する別派閥の豪族だった出雲神族の治めた秋津洲(あきつしま=本州)へと東征し、出雲神族の中で不服従だった伊勢津彦=建御名方神を追い詰め伊勢国~尾張国まで制圧し建御名方神を三河~信濃以東に押し込め講和し古代大和朝廷を成立させたのが卑弥呼=倭姫と景行天皇=初代倭建命だろう。
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御所ヶ崎砲台遺跡(日本武尊と弟橘姫の行在所址の聖跡)そして今、現在倭建命の神号で一般的に呼ばれるのが実は景行天皇の王子の二代目の倭建命の事績だろう。走水に滞在し大伴久応黒主から歓待を受けた後、東京湾を船で横断し房総半島の富津へと渡った人物だな。
滞在されたのが倭建命の冠を社殿地下の石棺に埋蔵した聖地の走水神社の直ぐ左手前の海に突き出した御所ヶ崎で神話時代~江戸時代の人達までずっと守られてきたが、古代の聖地に否定的な宗教改革を行った明治政府によって接収され神社は破壊され倭建命と弟橘姫の行在所の聖跡は砲台にされ破壊されてしまった。まぁ、公開される時やツアーに入ると御所ヶ崎砲台は見学出来て神社時代の石段の跡が残っているのを見る事が出来る。
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この御所ヵ崎に来た恐らく二代目の倭建と弟橘姫の頃には鉄器も輸入されている。
卑弥呼が従属同盟した三国志の登場人物でもある漢帝国の丞相にして魏王の曹操孟徳、その孫で第二代魏皇帝の曹叡と丞相の司馬懿仲達からは卑弥呼に金印の他に銅鏡100枚の他に宝剣2振りが送られている。恐らく鉄製の剣だろう。この曹叡と司馬懿から送られた宝剣が天皇家や熱田神宮に収蔵されている神剣の正体では無いかと小生は考えている。鉄剣ではない銅剣や銅鏃でも当時は貴重品だっただろう。
日本には呉太伯の渡来の伝承が有り鹿児島県に呉太伯神社も存在するが、この呉太伯と言うのは春秋時代の名軍師孫武(孫子)が補佐した呉王国の呉王夫差の子孫に当たる人物だが、この呉王国の首都が現在の蘇州市に当たる姑蘇城だった。
呉王宝剣 蘇州市博物館
その呉は西暦紀元前600年頃には金属器の製造技術の先端を行く都市で、古来銅剣や鉄剣の産地として有名だったが、現在も蘇州市博物館に収蔵される呉王剣と名付けられた上将軍級の武将が携帯したであろう宝剣が展示されている。
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蘇州市には呉王夫差の父王である呉王闔閭の古墳❝虎丘❞が現存し観光地化しているが、当然盗掘され寺院以外は何も残ってはいなし。
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しかし蘇州市の中心部は今も姑蘇城時代の幅50mを超す水堀に囲まれた古代城塞都市の様子を残している。
因みに三国時代には古代日本と同盟した魏皇帝曹叡とは敵に当たる呉皇帝孫権の首都だった南京=建業以前の首府だった場所だ。だから中国共産党による文化大革命で破棄されるまで、中華民国時代までは孫権の邸址等が史跡指定を受けて保護されたいた歴史も有る。
小生は日本の狩猟採集文化の縄文時代から農業生産と言う弥生時代への生活基盤に革新をもたらしたのは呉からの亡命者達だったりするんじゃないかと考えている。実は蘇州は中国でも古代から有名な❝魚米之郷❞と呼ばれた中国における穀倉地帯開発の先進地域でも有ったりするからだ。
恐らく、天照大神や素戔嗚尊の時代は縄文時代から弥生時代の農耕文化の転換期に当たり呉王夫差が滅びて呉太伯が来日して帰化してから暫くした頃の話だろう。だから農耕に大切な太陽が重視され天照大神の神号が生まれたのかも知れない。
皇紀の開始時期は考古学的にも中国大陸との交易によって稲作水耕栽培の農業技術が大々的に日本に輸入されてきた頃の筈なので、弥生時代に当たる頃の神話に登場する太古の神剣と言うのは呉王剣の様な金属剣を鍛造する技術はおろか青銅器を鋳造する技術すら無かった時代の話なので、中国から輸入された物だっただろう。
その青銅器を大量鋳造出来る技術を手に入れた倭姫命の弟の大将軍たる倭建命が率いる邪馬台国の軍勢は部隊長が革鎧を容易に貫く銅戈や銅鉾を持ち、銅鏃の弓矢や鉄器で武装した精強な将軍が率いる精鋭部隊が兵法を踏まえ街道を守る環濠の陣城を兵站を確保しつつ馬による大量物資輸送を可能にし長期間遠征が可能に成る訳だから、さしもの素戔嗚尊の血を引く出雲神族の御神孫達も石器と僅かな兵糧太刀打ち出来なかった事だろう。
これが建御雷と建御名方神の一騎打ちに歪曲された戦争の真相だろう。武御雷の手が冷たい剣に成り云々と記載が有るが、これは本居宣長の翻訳の間違いで、本来の漢字の意味で重火器を除いた兵器を「冷兵器」と書くのだが、恐らく神話にちゃんと戦争の様子が伝承した鉄器の「冷兵器」と言うのが記載されていたのを勝手にオカルト的に翻訳して誤った神話にしてしまったんだろう。余談だが中国は三国時代に諸葛亮孔明が世界初の地雷を実戦使用していたり、通常兵器として石火矢が存在したり銃火器が既に存在した。だから日本の奈良時代に漢字で書物が書かれるように成った頃には中国には❝冷兵器❞と❝火器❞の区別が既に存在していた。古代日本は現代の欧米で称賛されている素晴らしい縄文文化や弥生文化は有ったが、当時は間違えなく農業でも工業でも技術レベルでは後進国だった。
皇居に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と熱田神宮に草薙剣(くさなぎのつるぎ)が其々(それぞれ)別に有る事を知る人が少なく2振の剣を同一の存在と思っている学者や神職すらいたりするが、実は別々の剣だったりする。
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熱田神宮
抽象化された神話を現実的に考えれば、成務天皇に与力した伊吹山神(恐らく関ヶ原を守備した豪族)に倭建命は毒を盛られ、体調を崩した上に交戦状態に陥り関ヶ原突破を諦め叔母の伊勢神宮経由で鈴鹿関から奈良への帰路を目指し、その前に拠点を熱田に置いたのだろう。しかし鈴鹿で毒が効いて没したのかも知れない。その際に遺品と成った草薙剣は熱田神宮内に保管されて以後、朝鮮(新羅)人に盗まれた1度を除いて門外不出を守られている。
・・・現代も韓国人や朝鮮人は日本で神像や石仏破壊したり骨董品として価値の有る仏像を盗んだり神社仏閣に油を撒いて損壊させるが古代から変わって無いんだよね。
皇族が天皇に即位する際に用いるのは天叢雲剣で皇居内に保管されているが、これは源平合戦で源義経の失態に因って伊勢平家の血を引く幼少の安徳天皇と共に馬関の海の底に沈んでしまい、後から作られたレプリカだ。古来の物は熱田神宮に存在する草薙の剣だ。
さて草薙剣の事を考えると、曹操は自らは倚天剣(いてんのつるぎ)を帯剣していた様だが、劉備元徳配下の名将の趙雲子龍に奪われた青紅剣は、趙雲を捕縛する命令を受けた大将であり曹操の親戚の子でもある夏候徳が命令の執行者の証として貸与されていた物だな。魏皇帝曹家か後漢では剣を2振り一対で主従様に作る習慣が有ったのかも知れない。古代の中国では石斧が君主の代行者の証だった。
この曹操の習慣を踏まえると、魏の儀式として重要な命令を自分の代りに遂行させる代理人に与える剣と対で君主が持つ剣が有り、その習慣が日本では天叢雲剣と草薙剣に残ったんだろうか?
・・・何で神剣が2振り有るんだろうね?これは魏皇帝の曹叡と丞相司馬懿から邪馬台国女王卑弥呼に送られた宝剣は刀剣収集家曹操孟徳の遺品で後の天皇家の神剣に成ったんじゃないのか?
曹操が三国志の英雄の趙雲子龍に強奪された青紅剣と倚天剣と同じ程の宝剣を魏皇帝曹叡から与えられる好待遇を卑弥呼はされたんじゃないだろう。だからこそ卑弥呼に金印を与えた魏以降の中国歴代王朝は古墳時代の倭国王を厚遇し日本列島と台湾諸島と朝鮮半島とを統治する❝使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王❞に任命し、奈良時代の唐も則天武后の登場まで安東都護府の運営を大和朝廷に任せていたんだろう。
そして古代の大将軍職の官職名が倭建(ヤマトタケル)だったから、倭姫(卑弥呼)によって草薙剣と大伴部と吉備家の豪族軍団が与力として二代目倭建に貸与されたんじゃないのか?
古代の大将軍職の官職名が倭建(ヤマトタケル)だったから、倭姫(卑弥呼)によって大伴部と吉備家の豪族軍団が与力として二代目倭建に付け、統帥権の印として草薙剣が貸与されたんじゃないのか?
余談だが倭建命の神号で呼ばれた人物が所持した神器は剣だけではない事を知る人は神奈川県民には少しはいるが他府県民には少ない。
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石楯尾神社石楯尾神社は倭建命が装備していた聖なる楯、天石楯を埋蔵した場所に社殿が築かれた聖地だが、現在ではその神社の存在を知る人は延喜式内社詣りをして御朱印を頂いて回ってる神社好きか、一部の地元民位なもんだろう。
しかし、ここは草薙剣と対を成した❝最強の楯❞の聖域として始まり源頼朝公達も支援した大きな神社だった。これを荒廃させたのは略奪迄婦女暴行奴隷売買の悪魔、武田信玄だった。武田信玄により石楯尾神社は略奪放火され一度荒廃し、その後、北条氏政公によって再建され現在至るが、戦後の主教改革で旧境内地は接収され源頼朝公が造営した石鳥居が並んだ参道址は破壊された。
ここを破壊した武田家が、倭建の神罰に遭ってどんな落ち目に成ったかは歴史好きなら周知の事実。
石楯尾神社の天石楯と対を成した熱田神宮の草薙剣を守る熱田神宮宮司千秋家に支持された織田信長公に敵対した武田信玄は三河から尾張に入る事も出来ず野田城で不審死、更には強大な勢力も次代の武田勝頼公の時代に一気に消滅した訳だ。
こう言った草薙剣や天石楯を装備していた倭建命の神話と当時の時代背景が全てリンクして、倭建命より少し後の時代の大王であった応神天皇=大鞆別命の王子である莵道稚郎子の古墳と伝わる真土大塚古墳からの出土品も古墳時代前期には貴重品だった金属製品が多数有り、破魔の銅鏃や三角縁四神四獣鏡が出土し王族や上将軍だった事の証明にも成っている訳だが・・・

聖地の真土大塚古墳は神奈川県教育委員会と当時の神奈川県知事と平塚市長が保護せずに消滅した。

・・・その縄文~弥生~そして莵道稚郎子命の古墳時代の高級な武器の矢尻、それも破魔の効果が有り八幡大菩薩応神天皇の特技の弓だからこそ弥生時代後半~古墳時代に周辺に大古墳が多数造営され栄えた寒川大社でも神宝となり❝古代より存続する寒川神社の追儺祭❞の神事の宝物数えの言葉に成り伝わったのではないかと小生は推測している。
寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 清前
そして極めつけは神事で使う❝清前❞の下に成る❝難波の小池❞の存在と名前である。
日本武尊は伯母の倭姫から吉備氏と大伴氏の氏族軍団を与力に付けられている。
大伴氏は佐伯一族で古代水軍の一族で有り大王の近衛部隊も務めた一族で、早くから関東を開拓した一族だ。その大伴家の氏神が大阪の❝住吉大社❞で有る事を知っている人は神社と歴史好きには少なくない筈だ。
・・・つまり住吉大社の在るのは難波(なんば)とも難波(なにわ)=浪速(なにわ)とも呼ばれる現在の大阪府辺りだった。この神事、日本武尊の時代に古代大和朝廷の基礎と成った邪馬台国が九州から近畿を制圧し関東を平らげた頃には始まっていたのだろう。
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旧三浦郡、三浦半島の横須賀市走水の走水神社一帯は日本武尊一行が房総半島へ渡航する際に滞在した土地で❝大伴黒主❞と言う人物が一行を接待したと伝わり、漁師で料理人と伝わるがこれは戦国時代に成っても平時の水軍武将の生活の糧だったので、この大伴黒主公は大伴部の水軍武将だろう。
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そして横浜市神奈川区の久応山寶秀寺は❝大伴久応❞と言う人物が、この寶秀寺一帯に自邸を構える豪族で日本武尊一行を走水神社の神話と同様に歓待したと伝承し、その時に日本武尊が使用した六角形の橋が神宝とされ現地の六角橋の地名由来と成った説が有る。
恐らく、この大伴久応と走水の大伴黒主は同一人物の豪族王、大伴部の一族の将軍で関東に早くから土着して現在の東京湾の神奈川県域を領地にしていたのだろう。となれば日本武尊=倭建(ヤマトタケル)=倭長(やまとたける)=稚長(わかたける)=獲加多支鹵(わかたける)等の当字の名残りは色々考えられるが六角橋でも走水でも日本武尊を接待した人物の大伴久応は走水の大伴黒主は同一人物で不思議ではないどころか、寧ろ同一人物と言い切っても過言ではないだろう。
この時に恐らく走水~房総半島へ渡航したのは二代目の倭建(ヤマトタケル)と成った景行天皇の王子様と弟橘姫様で、大伴部と吉備氏を与力に付けた倭姫を小生は卑弥呼と推測する。その弟で初代の倭建(ヤマトタケル)と推測する景行天皇達の時代とも当時の主力武器と追儺祭で寒川神社に伝わる社宝の数え歌に登場する“矢”は時代的にも整合性が有る訳だ。
つまり古代の軍事力の象徴であり邪気を払い民を守る象徴でも有った筈。
余談だが、後の応神天皇の本来の神号が❝大鞆別命(おおともわけのみこと)❞なのは母方が大伴(おおとも)家の一族の姫だったのかも知れない。
平安時代末期~鎌倉幕府設立まで活躍した源頼朝公が造営した鶴岡八幡宮・・・
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鶴岡八幡宮(若宮八幡宮)
実はここの宮司家は頼朝公以来、少なくとも戦国時代の里見家と正木家による鎌倉市街と八幡宮への放火略奪による焼失後の北条家による鶴岡八幡宮再建時まで大友(おおとも)家が宮司を務めた歴史が有る。源頼朝公は神話に精通していたので、神話と関係の有る地域と神社に関係の有る氏族を送り込んだ様だ。応神天皇と関係不快一族だから大伴家=大友家を宮司に据えたのだろう。
天皇家と同じで本来、明治以前の神社は神主と言うのは血脈が大切だった事を今の神職には知らない人も多いが、出雲大社や宗像大社や阿蘇大社等の西日本の大社格の神社の歴史を見れば一目瞭然だな。
そんな応神天皇やそれ以前の神話の時代、つまり縄文~弥生~古墳時代初期の歴史的な背景が有ったからこそ、邪気=叛徒=戦乱=蛮族による略奪虐殺を抑え邪馬台国連合に参加した国民を安んじる為の神器が弓矢と成り寒川神社の追儺祭や日本中の神事では弓矢が重視され流鏑馬神事が奉納され破魔矢が参拝者に授与される習慣として残ったのではないだろうか?
もしかしたら古代は流鏑馬や軍事演習であり、破魔矢は各豪族への大和朝廷からの武器供与の都市初めの行政(まつりごと)=祭事がスタートだったかも知れない・・・

無論、往古の事は考古学で証明された範囲でしか学者は書けないし無責任に言えないので、コレ等は全て小生が勝手に歴史と文化と地理と状況証拠を繋げた只の妄言の推測と思ってくれて良い。

・・・では何故小生が寒川神社の神事を始めたのが弟橘姫様と走水でラブラブに過された二代目の倭建ではなく莵道稚郎子と思うかと言うと、それは古代の地理と関係が有る。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
現在の中原街道は江戸時代初期に徳川秀忠公が父の鷹狩場だった平塚市中原の御殿へ直結する道を再整備して❝中原街道❞と名付けられたが、実はこの道は古墳時代初期からの街道だった。延喜式内社の寒川大社を起点にして同じく延喜式内社の深見神社近くを通過し古代の橘樹郡の政庁だった橘樹神社へと直結している道なのだ。この道は❝古墳時代の道❞で、初代と二代の倭国の大将軍である倭建の頃の道は文字通り三浦半島~房総半島へと海を越える古代東海道だった。
弟橘姫は神話では東京湾の荒れ狂う海を鎮める為に走水沖で入水し人柱に成っている。
つまり寒川神社を重視し中原街道を整備させるのは弟橘姫の御陵であり政庁も在った橘樹神社裏の弟橘姫御陵が築かれた以後の人物であるはずなので、二代の倭建以後の人物の可能性が高く成る訳だ。
そして二代は卑弥呼の甥っ子でまだ弥生時代~古墳時代の転換期の人物なので中原街道を整備させたとは思いづらい。
しかしながら、この街道と古代一之宮だった有鹿神社を接続する道に在る綾瀬市の神崎遺跡は❝尾張地方の文化の土器が出土する❞上に人骨が出土していない事から小生は状況的には我々❝城マニア❞の言う所の❝陣城❞的な環濠要塞が神崎遺跡で、これは二代倭建が兵站を確保する陣城として築いた物だと思う。日本の稲作は縄文時代末期には開始されていた事が現代の考古学で証明されているので、恐らく米の生産に因って携行できる食料が確保出来る様に成った事で、倭建の時代には遠征を行い征服戦争や豪族同士の合戦への介入の為に在陣出来る様に❝食糧事情の革命❞と❝戦争の規模の拡大❞が起こったのだろう。
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国指定史跡 神崎遺跡綾瀬市の神崎遺跡は古代海だった湿地に囲まれた半島地形上に造られた環濠の要塞集落で古代の有鹿神社~鎌倉郡に続く街道と中原街道が接続する交通の要所に存在する。
ここは❝特異❞な遺跡で❝人が埋葬された形跡が無い環濠集落❞なのだ。
これはつまり生活の拠点では無く街道を制圧する為の陣城だろう。
卑弥呼の時代の倭国大乱と言うのは、それ以前の稲作の普及による軍事行動範囲の拡大に因って不幸にも広がって行ったのかも知れないと小生は考えている。
そして初代の倭建かも知れない景行天皇や二代の頃に築かれた兵站は、そのまま古代大和朝廷の駅伝制へと発展し、数代後の莵道稚郎子の頃には道が整備されたのかも知れない。
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
縄文時代には県央部は御覧の通り海だったので平塚市界隈は莵道稚郎子の古墳時代初期以後の発展と言うのも判る。だから平塚市辺りが湿地で干拓が進んでいなかった初代と二代倭建の頃にはまだまだ戦乱樹で東征の前線地域で干拓や街道整備の内政に力を注げたとは思えず、中原街道が初代の頃に大々的に整備され使われていたとは考え難い。なので平和に成った古墳時代以後の莵道稚郎子の事業と考えられなくも無いと思う。
そんな倭建命(ヤマトタケルノミコト)や莵道稚郎子命の時代の弓矢を主力にして応神天皇が得意とした兵器が弓射であり、弓矢が武器なので神事と御守りに成ったんだろうな。
まぁ、そんな訳で、莵道稚郎子の時代以前には寒川神社辺りが相模国の中心として機能していなかった筈なので、相模原の有鹿神社奥宮の勝板遺跡の有鹿郷~海老名市の有鹿神社本宮の海老名郷辺りが佐賀牟国府、伊勢原市の三之宮比々多神社辺りが大山守皇子の一族が関東統治の拠点にしていた国府、大磯町に在る後の相模国総社六所神社~二宮町の二之宮川勾神社辺りが磯長国の国府だったんじゃないかな~?と小生は妄想している。
つまり大鷦鷯尊仁徳天皇や莵道稚郎子に東海道の兵を動員し叛旗を翻そうとしたのが大山守皇子の外戚一族だったのかも知れない。

さて寒川神社の追儺神事は、古来神事に参加する参拝者には破魔の❝弓❞と❝矢❞の御神威の加護が付与された御守りが授与される。
まぁ、現代では恐ろしい数の参拝者が正月に殺到するので人数は限定されるがそれでも数百人分は無料で配布されている。

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弓矢を模した御守りだ。
小生は追儺神事に参加し寒川神社や上賀茂神社で古代の人々から現代に伝え守られた文化を体験したかったのと、この天下無双の破魔の御守りを受領したかったんだな。
この御守りは寒川大社らしく御祭神の寒川比女と寒川比古の夫婦神の御利益で❝子供の夜泣きを鎮める❞御利益と❝八方除け❞で有名な寒川大社らしく強力な❝厄除け❞の御利益が有る。
・・・小生は奥さんに成ってくれる女性と御縁無いので子供もいないが(笑)。
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Super moonの青く光る神秘的な正月二日の寒川❝大社❞での貴重な体験を終えて駐車場に戻り、横浜市の自宅への帰路に着いた・・・

(後書き)
さて、今回は2018年01月02日に訪問先が1日間で19箇所も訪問し自分の中でも過去最高の1日での訪問件数の休日雑記と成ったので書き上げるのに毎週2日間の休日で書くのに丸々1ヶ月間を要してしましました。
しかしながら神奈川県を始め千葉県や東京都や埼玉県が古代より大阪府~奈良県~京都府と繋がりが深く、日本武尊と弟橘姫様と大伴部一族と莵道稚郎子命と追儺神事の御縁で結ばれている事が多くの人に伝われば良いな~と思います。
何となく参加している神社の神事には実は多くの古代からの文化が残っています。
日本人が神社で拍手を2回、出雲大社では4回打ち神様に礼拝しますが、実はこの事も中国の歴史書に記載されており、それが三国志と俗に呼ばれる文書の日本と関わった魏国の魏志倭人伝に「日本人は偉い人にパチパチ拍手して拝む」事が書かれていて現在の神様への御参りが既に少なくとも弥生時代後半は存在した事が解っています。
そう言った事を踏まえて神職だけでなく、明治以前の真言宗の弘法大師空海和尚様や天台宗の伝教大師最澄和尚様も日本の神様を大変大切にされ信仰されていたので、現在も真言宗の寺院や天台宗寺院と天台宗から派生した中国人高僧の蘭渓道隆和尚様の臨済宗や彗光菩薩法然上人様の浄土宗の御寺には御寺の守護神として神社が残っていたりします。道元禅師様の曹洞宗も白山権現を守護神にしていたり、立正大師日蓮和尚様も千葉神社を妙見大菩薩を守護神にされていました。
本来の日本文化は明治時代にキリスト教信者の欧米かぶれ政治家達が、儒学者と結託して宗教改革を行うまでは共存し共栄して日本人の心と文化を守っていた訳です。
明治時代に多くの古代の神事が消されましたが、一部の神社や御寺はキリスト教徒政治家にも盾突く事が出来る格が有ったので、古来の習慣を守る事が出来ました。
屋台で買い食いしながら参拝する初詣や夏祭りを楽しみながら、何となぁ~く祭事の中には古代から続く神事が有る事を皆さんが思い出してくれたら良いなぁ~と思い、2018年1月2日の休日雑記の〆とさせた頂きます。

前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑤・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、龍散寺~式内社小野神社~毛利家発祥地)←コレの続き。
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
相模国延喜式内社十三座の一社、小野神社の宮司様の御宅へ御邪魔した後、次の目的地の真土大塚古墳の❝跡地❞を目指して車に戻り出発した。
宮司様の御宅から真土大塚古墳や前鳥神社辺りへは道が混んでいても30分とかからず比較的近い。
小生が目指した真土大塚古墳の❝跡地❞は前鳥神社の伝承では八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)=応神天皇(おうじんてんのう)=誉田別命(ほんだわけのみこと)等、後世に様々な神格や僧位や天皇号が追贈された大鞆別命(おおともわけのみこと)と言う神号で恐らく最初は呼ばれていた古墳時代初期の古代大王(おおきみ)つまり天皇家の御先祖様に関わりの有る場所だった。
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莵道稚郎子命御陵=真土大塚古墳❝跡❞(神明神社)ここに眠っていた人物は恐れ多くも京都の宇治神社と同じ御祭神の莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命と神奈川県に在る14社の延喜式内社の一つである前鳥神社に伝承する。莵道稚郎子命は仁徳天皇=大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)の弟皇子に当たる皇族、つまり八幡大菩薩=応神天皇=誉田別命=大鞆別命の王子だった人物だ。
この神明神社が真土大塚古墳❝跡❞と現地人にも神職にも小生からも❝皮肉を込めて呼ばれる❞には意味が有る。何と神奈川県教育委員会と平塚市教育委員会が保護を怠り、歴代皇族の中でも神格を与えられた偉大な古代人物の莵道稚郎子命の陵墓と前鳥神社に伝承しているのにも関わらず宅地造成許可を出して偉大な皇子の御陵(みささぎ)を削平し破戒し住宅街にしてしまったのだ。
だから古墳跡なんだな。
当然、引っ越してきた住民も、そんな事情を後から知ったら事の重大さを思い知る訳だ。古参の地元民と一緒に神様の眠っていた古墳の跡地に慰霊の為に立てたのが、この神明神社だった。
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ここからは中央の大和政権との強力な関係を裏付ける三角縁神獣鏡等、古墳時代初期としては珍しい副葬品が多数出土している・・・神話を考古学が証明した訳だな。
この莵道稚郎子命は日本初の❝漢学(漢字・兵法・漢詩・金属鋳造技術等)❞を治めた文化人にして学者、そして小生の推測では恐らく日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に偉業が習合された人物の一人の筈だ。
真土大塚古墳の写真 平塚市公式より拝借 
平塚市が破壊した後に申し訳程度に掲載している破壊前の真土大塚の写真。
平塚市の地名由来は、古代の大きな古墳が風化して平たく成った物が有ったからと言う説と、坂東平氏の祖と成った平高望(たいらのたかもち)王の一族の平家の姫様が相模国鎌倉郡村岡郷の移住先に辿り着く前に旅の途中で亡くなり葬られた塚が有ったからと2つの説が有るそうだが、古墳説をとるならば正に真土大塚古墳が由来だろう。御覧の通り前方後円墳が恐らく、台風や渋田川や相模川の氾濫などで削れて大分と平たく成っているのが写真から解る。
この戦後の教育委員会が破壊容認した真土大塚古墳の調査は昭和11年に行われた。
つまり、戦前の昭和初期までの県職員は城址や史跡や自然の美しい景勝地を積極的に保護したのと同じく、ここもちゃんと調査して保護していた訳だ。
三角縁四神二獣鏡 平塚市公式より拝借
三角縁四神二獣鏡
三角縁変形四獣鏡 平塚市公式より拝借
三角縁変形四獣鏡
銅鏃 平塚市公式より拝借
銅鏃(どうぞく=銅製の矢じり)
他にも鉄剣や鉄斧等、王族や高位豪族しか持ちえない副葬品が多くの出土し、どれも弥生時代後期~古墳時代初期では高貴な身分を示す物ばかりだった。
中でも三角縁四神四獣鑑には以下の銘文が造形されていたそうだ・・・

「陳是作鏡甚大好 上有王父母 左倉龍右白虎 宜遠道相保」

現代日本の漢字は奈良時代に藤原貴族によって改竄された日本の朝鮮訛りの漢字の意味に成っていて本来の中国の漢字の意味とは違うので、神話(弥生~古墳)時代の四道将軍の制度による東海道の統治を前提にして小生成りに意訳するとコンナ感じ。
  ↓
「古く造りが何もかも大変素晴らしい、上方には王父母(が描かれ)、左に倉(蒼)龍=青龍、右に白虎、遠い道(遠く離れた東海道)を保つには相応しい(物だ)」

・・・これね、もう完全に被葬者が誰だったか判るヒントでしょう。
古い中国語に近い漢字を使いこなせて、恐らく南関東で最初の漢字文化導入の証拠と成る物を製造或いは携行出来るのは莵道稚郎子命以外にいないでしょう。

恐らく百済王族か貴族出身であろう藤原貴族は初代の中臣鎌足は苗字も無く中臣(なかとみ)の古代官職しか伝わらず更には羽曳野市の古墳は朝鮮式の円墳な訳だが、彼等藤原家が自分達が殺した蘇我嶋❝大臣❞馬子つまり蘇我嶋大臣(大臣、鹿島馬子)を暗殺して鹿島家の領地財産地位を天智天皇の公認の下で乗っ取り自分達の家系を古来の日本人と粉飾するべく古事記を改ざんして国の公式史記として書かせたのが日本書紀な訳だ。
奈良時代が始まる最初に歴史改竄する為に書かせたのが日本書紀で、後に藤原氏は古代からの先住日本豪族の橘氏や大伴氏や紀氏や菅原氏、そして新興だが天皇家の平氏や源氏を悉く言いがかりと謀略で殺害したり左遷しまくり更に渡来人扱いして差別している。一方では天皇家に妃を送り込み続けて皇族を人質に取り続けた訳だ。
ところが応神天皇や仁徳天皇の時代には「天皇号」は存在しないし、当然、応神天皇=大鞆別命や大鷦鷯尊や莵道稚郎子命が大王や王族として生きていた時代には藤原氏まだ日本に居なかったので、真土大塚古墳の副葬品の漢文は限りなく中国語に近い。しかもアホの小生でも余裕で意味が解る程度の文章。
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莵道稚郎子命の被葬地と知ってか知らずか、神明社は古墳跡に現代人の破壊の跡に建てられた。
小生は真土大塚古墳から出土した、この鏡の銘文に有るロマンを感じる。
それは、この鏡の銘文は、もしかしたら仁徳天皇から莵道稚郎子命が送られた者物かも知れないと小生は想像するからだ。上方(近畿)の歴史では莵道稚郎子の消息は良く解らない位にあやふやだったらしく・・・
1異母兄の仁徳天皇と帝位を争う意図が無いのを証明する為に自殺した説
2早く死んだ説
・・・が有るが要はハッキリしない訳だ。因(ちな)みに自殺説は元朝鮮人の藤原が捏造した歴史の日本書紀にしか登場しない一説で、他の神話では❝自殺❞なんて表現は全くない(笑)。
まぁ何にせよ関西では恐らく天皇家に憚って語られずにハッキリ伝わらなかったので、宇治神社の御祭神と成っている位しかハッキリした事が解らない。ところが古来、東日本では神奈川県の前鳥神社の御祭神として祀られ真土大塚古墳が御陵と伝わっていた訳だ。

因みに神様と成った莵道稚郎子命の名前を中国語の意味と歴史を前提に解析すると以下の様に成る。
●莵道(うじ)
ウジ=宇治=京都府宇治市一帯を本拠地にしていた人物。
●稚(わき) 
ワキ/ワカ/ワケ=和気(わけ)=別(わか/わけ)。歴代天皇が天皇号成立以前の大王時代に名乗った名には“ワカ/ワケ”を含む名が多い。恐らく今は姓を名乗る必要の無い、古代天皇家の尊称的な姓がワカ。
別/稚(ワカ)=和家=和+家=倭+家と成り、漢字文化導入後の倭国の大王の姓だったかも知れない。
例:大鞆和気(おおともわけ)命、獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ=雄略天皇)他多数。
●郎子(いらつこ)
郎(いらつ)=男系の家系の子=大王の男系男子の王子。
●命(~のみこと)
漢字文化の神号成立以前の神格化された人物や聖地や神器等の神様の魂への尊称。
例えば漢字文化では詔勅(しょうちょく)の詔と書いて詔(みことののり)と訓読みさせるが、詔(みことののり)を分解すると・・・命+祝詞(のりと)=みことののりと=みことののり=神託・・・と成る。
詔勅は天皇の命令を指すが、これは神様=天皇と言う古来の考え方に当たる。天皇を御上(おかみ)と俗に呼ぶのもその為だろう。

・・・つまり、名前を分解すると莵道稚郎子命が神話通り天皇家の人間だった事が解るし、本拠地も神話通り宇治市辺りだった事が解る。もしかしたら皇太子だったかも知れない。
だから小生が思うに、莵道稚郎子命は中国の史書や儒学も学んだであろう人物なので兄弟間の争いで国が亡ぶ先例を踏まえて父大王の応神天皇=大鞆別命の崩御(ほうぎょ=亡くなる事)した時に兄に大王位継承権を譲り、自分は関西を離れたのだろうと思う。
そして神話では没した時の様子がこう続く・・・
莵道稚郎子には大鷦鷯尊とは更に別に異母兄の大山守(おおやまもり)皇子(みこ)がおり、大王位継承権を得られなかった事を逆恨みし反乱の兵を起こそうとした際に、兄の大鷦鷯尊がこれを莵道稚郎子に暴露して逆に莵道稚郎子が大山守皇子を討ち取っている。
これは思うに、大山守ってのは神奈川県伊勢原市大山を中心とした佐賀牟国や磯長国一帯を古代から支配していた大豪族の姫を母として生まれた人物だったのではないだろうか?
そして、この一連の事件は戦乱となり、莵道稚郎子は兄王の大鷦鷯尊に大王位を譲ると自らは四道将軍成立前の日本武尊(ヤマトタケル)=倭建(やまとたける)=倭長(わかたける)=軍団長と成って大山守皇子の外戚が治める東日本を平定に東征し、平塚に鎮守府を設置し関東の古墳時代突入の文明開化を成し遂げ、そのまま関東で没したのでは無いかと思う。
そして宇治から軍を率いて近畿を離れて東海道制圧と大和朝廷による支配制度確立を担う大将軍として東征に赴く際に仁徳天皇から送られたのが、❝あの三角縁四神四獣鏡❞だったとしたら・・・
陳是作鏡甚大好 上有王父母 左倉龍右白虎 宜遠道相保」
「古く造りがどれも大変素晴らしい、上方には王父母(が描かれ)、左に倉(蒼)龍=青龍、右に白虎、遠い道(遠く離れた東海道)を保つには相応しい(物だ)」
・・・この銘文には仁愛で有名な仁徳天皇の弟王子の莵道稚郎子への思いやりが垣間見えるのでは無いかと、近畿の宇治を離れて行く異母弟に父と義母との家族の思い出と、左に東の守り神であり皇帝の象徴である青龍、右に西の守り神である白虎が描かれている。つまり東を守る皇帝が左側(関西)にいて西を守る白虎が右側(関東)にいる、仁徳天皇と莵道稚郎子命が一心同体背中合わせに御互いを守っている事を描かせた鏡なんじゃないかと思う。
そして、この莵道稚郎子命は、初代日本武尊と思われる景行天皇と、二代目と思われる皇子の倭建命に続いて令外官として倭建(日本武尊)と同じ稚郎子(ワキノイラツコ)として磯長国・佐賀牟国・総国・毛国統治の為に赴任して来たのかも知れない。・・・兄大王の信頼を一身に背負って。

小生は学者じゃない。だから古文書の文字だけに拘らず状況証拠と伝承から自由に妄想と言う名の推測をしていたりする。
私利私欲無く学閥に属さない只の素人歴史オタク、学者じゃないから歴史偉人や神様や仏様や宮司様や和尚様を尊敬し、民間人と交流する学芸員サンを慕い歴史の楽しさを感じられる(笑)。

さて、そんな訳で前鳥神社の伝承の状況からも、出土品からも、前方後円墳の規模からも莵道稚郎子命が神格を追贈されて大和朝廷の権力によって古墳が造営され埋葬されたと考えれば極々自然な訳だな。
周りに水堀は無いが、これは古代は平塚市真土一帯が砂丘だったせいだろう。
まぁ、そんな訳で偉大な大王の大鷦鷯尊を支えた異母弟で元皇太子の莵道稚郎子の古墳を神奈川県教育委員会は保護せずにブッ壊した訳だ。・・・祟りに遭えば良い。
祟りが怖くて神明神社を開いたのだろうが、小生はツッコミ入れたい。
そもそも神明社の御祭神は天照大神で莵道稚郎子命じゃない!
ここは前鳥神社の別宮にすべき場所だろう!何で神明社なんだか訳分らんくてイライラする!
・・・和気郎子だけに。あ、神様に怒られそうだから冗談はここら辺までにして置こう。
そんな莵道稚郎子命と思金神と天満大自在天神菅原道真公の3柱の神様を小生は知恵と文化と智謀の神様として崇拝している。
だから2018年の正月二日に古墳跡に御参りに来た訳だ。

実はこの古墳の直ぐ近くに、後の平塚市が申し訳程度に作った偽物の真土大塚古墳のレプリカが有る公園が在る。
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真土大塚古墳復元(模造)
まぁ遊具が有り完全に県外からの移民だらけの地元民には大層な破壊の歴史を知る人も少なく、この公園の偽物見ても腹立つ人も少ないだろう。
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このコンモリした山を教育委員会は❝復元❞と言い張るが、城マニアや史跡マニアの我々に言わせれば❝復元❞と言うのは❝元有った場所に元通りの構造で再建する❞事を意味するので、この偽物は教育委員会と平塚市の欺瞞、自分達の罪悪感を和らげる免罪符、悪の権化の様なものだ。
・・・と怒りたいのだが。
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くそムカつく偽物から見える風景が美しく「あ~莵道稚郎子様は、富士山を拝みながら眠ってらしたんだなぁ~」とか感慨にふけってしまった。
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ここからは大山も見える。大山の山頂からは縄文時代以来の祭祀遺跡が出土し、麓の比々多神社も延喜式内社で大量の縄文時代以来の祭祀遺跡と古墳時代の遺跡から同製品や鉄器が見つかっている。
そして記録に残らない国府と思しき規模と推定される遺跡も発掘されており、これが小生の中で大鷦鷯尊と莵道稚郎子命と大山守皇子の神話と結びつき先程の推測に繋がる訳だ。
何にせよ、こんな重要な場所だが神奈川県教育委員会のせいで真土大塚古墳は消え去った。
近くの平塚八幡宮は元の名を鶴峯山八幡宮と呼び、やはり仁徳天皇が父大王応神天皇を御祭神として開いた場所だった。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
真土大塚古墳と平塚八幡宮の近くからは国府跡と推測される遺跡も発掘されている。そこに莵道稚郎子命の存命中に大将軍稚郎子として赴任していた鎮守府が存在したのかも知れない。
そう考えるとワクワクするし、神様と成った古代の天皇家の一族の傍に近寄らせて頂けた様な何と言うか嬉しい気持ちに成るんだな。
日も暮れて来て御腹も空いてきたし、神様としての莵道稚郎子命に参拝すべく、ついでに屋台での買い食いも楽しみに延喜式内社でもある前鳥神社へ移動した。
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前鳥神社・・・延喜式内社

ここも移動距離は短く車で真土大塚古墳から10分もかからずに到着した。
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参道に屋台は多くは無いが、まぁ、何か現代的なケバブ屋さんとか珈琲屋さんとか、少し小洒落た店がオーソドックスな屋台に交じって出店していた。
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ケバブとコーヒーを食べた。
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参道には神奈川県の古い歴史を持つ延喜式内社の多くで廃仏毀釈から保護された文化財の鐘楼を見かけるが前鳥神社もその一つだ。
実際、歴史の無い神社程、仏教を否定したがる。国家神道がキリスト教徒の政治家によって宗教改革されて出来た物だってのを知らないんだろうな、新しい神社や歴史の浅い所は。
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先鳥神社の境内地は現代では広い訳では無いが❝長い参道❞は奇跡的に残っている。
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神仏分離令以前の仏教文化の石塔もシッカリ残っていて日本文化の風情を守っているね。
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まぁ~日本近代化以後も文化人も多く訪れたらしい。
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この鎮守の森の参道を抜けると漸(ようや)く拝殿が見えて来る。
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途中には祖霊者も在る。
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住宅街の中の神社の正月2日目の夕刻なのに、まだ結構、参拝客が来ていた。
それだけ地元の人に大切にされていたり、学問の神様として受験間近の学生が合格祈願に来ていたのだろう。
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17時を過ぎても社務所も灯りは落ちていなかった。
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アルバイトの巫女さん達も頑張って参拝客に応対していました。偉いね、正月遊ばず働いて。
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ここは御本殿には小生が武神として崇拝する日本武尊と、そしてもう一柱、大山咋神が合祀されている。
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祈祷を受けに来た訳では無いので拝殿の中には入らずに外から普通に御賽銭を投げて神様に御挨拶をして心願成就の祈願と国籍人種問わず親日家の人々と国々の平和とか、御世話に成っている人や親友の幸福祈願をした。
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境内社には菅原道真公が祀られてらっしゃる。
小生は横浜市で知恵の神として地元の思金神社の思金神様と、文化と知識と実務の神様の菅原道真公も崇拝しているので当然ながら参詣し、有鹿神社の境内社有鹿天神社と合わせて当日2回目の菅原道真公への御挨拶をした。
参拝を終えて、巫女さん達がせっせか働いていた御守り授与の場所へ移動。
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小生も前鳥神社の御守りを購入した。
小生の文化と実務の神様は祖先も崇拝した菅原道真公、まぁ父方の氏神様はもっと古い御先祖の神様で某国造なのだが菅原道真公も実は父方のもう一方の氏神様なので、小生は神奈川県で一番の天神様と思っているのが旧鎌倉郡の永谷天満宮で良く御参りに行き厄払除け守りと取材活動用に足腰守りを大切に持ち歩いている。永谷天満宮は菅原道真公の御子息の菅原敦茂公が住んでいた由緒の有る天神様だったりする。思金神様は神様達の参謀だった神様だから横浜市民の知恵の神様だね。
そして前鳥神社の莵道稚郎子命が学問と兵法と仁義の神様と成る訳だ。

・・・参拝して駐車場に戻ると車中で財布に早速、莵道稚郎子命の御利益を授かる前鳥神社の御守りを付けた。その後、夜の20時頃から始まる追儺神事を見学すべく、そして昨年の八方除けの御利益の御礼参りと新年の御挨拶を寒川比女命と寒川比古命に申し上げるべく寒川神社へ向けて再出発した・・・
※本当は今回で寒川神社の追儺祭まで書き上げる予定でしたが、莵道稚郎子の神話解説が意外に長くなってしまったので寒川神社追儺神事見学は分けて書きます。

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑦に続く。
  

















本当は今日はコッチ
       ↓
【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑤・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、龍散寺~式内社小野神社~毛利家発祥地)
 ↑ 
コレの続きの記事を書かなきゃいけなかったんだけど、1月2日と同じSuper moonでの皆既月食が見れたので、そっちの事を少し書こうかなと。

2018年01月31日、この日はSuper Moonの皆既月食・・・
横浜市の最高峰の円海山へと登り月食の様子を撮影に夜9時半頃からずっと観察してた。
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スーパームーンの皆既月食を観察する為に夜ジムに行かずに、横浜市最高峰の円海山の中腹の在る所に・・・そこは円海山の木々が少し開けた場所で星空が良く見える。
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そこで寝そべりデジカメを両手でシッカリホールドして皆既月食を撮影してた・・・
「クッソ寒い(笑)」
・・・でも夜の冷気と古代人が大切にした円海山の清々しい空気で最近クサクサした心が少し晴れた。
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2万円の安いデジカメを持参、望遠レンズも無し三脚も無し、別に天体観察オタクでも無いので歴史オタクの小生はこのクオリティーで満足。
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思った以上に綺麗に撮影で来たかな?
でも手振れが激しく(笑)月が分身した写真が何枚も撮れてしまった(笑)!
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まぁ、これはこれで面白い(笑)!
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誰もいない夜の山の広場に寝転んで星空を見上げて見る満月はとても神秘的だった。
きっと古代人は月読(つくよみ)の神様の命(みこと)を拝んで皆既月食を観察して閏年の調整を行ったのだろう。
天体観測を通じて何だか古代人と繋がった様な気分に成れ嬉しかった。
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この❝円海山の瀬上沢”は❝横浜市最大最後の蛍の群生地❞として有名ですが、アホの東急不動産と横浜の林文子市長が開発しようとして横浜市民の保護活動と交戦状態の最前線に成っている場所で、古代人の聖地と鑪(たたら)製鉄遺跡と灌漑水田史跡、更には鎌倉武士達が有事に使っていた高速道路鎌倉早駆けの道の間道も幾本も林道として残るのですが、林文子市長に成ってから林道保持が怠られた状態に成っていたりもします。
現地には日本神話最古の知恵の神様の思金神を祀る思金神社や、浄土宗総本山の知恩院住職となった任蓮社然譽了鑑大和尚を輩出した❝峯の阿弥陀寺❞も現存しています。
以前書いた記事が有るので、御興味の有る人は以下の記事タイトルをクリックして読んで見て下さいね!
●円海山と瀬上池の沢…蛍が見れる横浜南部の最後の大森林。
●円海山の蛍が観察出来る季節です。・・・過去記事の転載も。
●古典落語「強情灸」の舞台と鎌倉古道①…円海山白山神社〜阿弥陀寺~護念寺。横浜市磯子区峯町・港南区港南台
●古典落語「強情灸」の舞台と鎌倉古道②…円海山白山神社〜阿弥陀寺~護念寺。横浜市磯子区峯町・港南区港南台
●思金神社…古代人の遺跡の有る横浜市内1番の自然のパワースポットの円海山に在る神社。
●神奈川の橋100選の一つ“昇龍橋”と白山社古址。横浜市栄区長倉町


あ、それと梅の季節ももう直ぐなのでそれのリンクも貼ります・・・
●神奈川県内の梅花鑑賞に適した梅林一覧。
※イベント日付が以前のままなので、詳細は御自分で記事に掲載されている電話番号までお問い合わせくださいね♪

次の❝【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑥❞はSuper moonの夜の日に訪問した、仁徳天皇=大鷦鷯尊大王の弟皇子で莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命が埋葬されていたのに神奈川県教育委員会が保護せず破壊された真土大塚古墳と莵道稚郎子命が御祭神の延喜式内社である前鳥神社、そして古墳時代初期の神事を行う神奈川県の寒川大社の追儺神事つまり神社文化成立以前の古代から続く神事の事を書きます。この神事は上賀茂神社や寒川大社などの一部だけで中国渡来の陰陽道や仏教の文化の影響を受けず、そして明治基督教徒の政治家による宗教改革でプロテスタント化した国家神道の影響を受けずに続く貴重な❝日本古来の進行の原型を残す神事❞だったりします。

・・・では!次の記事で又皆さんに報告したいと思います~♪

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