歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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カテゴリ:神社仏閣聖地霊場 > 歴史千年以上の神社(式内社/式外社)と古刹寺院


前回、解説記事で大庭神社には大庭神社と大庭神社舊跡の2箇所が近在している事を歴史踏まえて解説しましたが…
内容は大庭神社の元宮と、大庭神社2ヶ所有る理由でした。つまり最初に大庭神社の社殿が在り、神社が古代に造営された聖地とされた場所だったのが舊跡=元宮で、立派な大庭神社は移転後の場所と推測されている理由でした。
※御興味有る方は「ココ」←クリックして前回の記事を御覧下さい。
さて、今日は大庭神社舊跡(きゅうせき)その物と近くの臺谷戸稲荷の様子を写真で解説したいと思います。
この大庭神社舊跡は、所謂(いわゆる)神社で言う所の元宮(元々神社が移転前に在った場所)な訳ですが…
現在の本宮と比定されている稲荷地区の大庭神社より、だいぶ寂れているものの清々しい聖地の雰囲気を醸(かも)し出しています。
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長い参道は竹林に覆われ、幻想的な雰囲気です。
こちらの御祭神は熊野久須比(クマノクスビ)の命(みこと)です…

本来の熊野大社や熊野那智大社の主祭神だったと考えれている神様。つまり、大庭神社の歴史が熊野大社の主祭神が入れ替わる以前から存在した証明に成ります。
遅くとも飛鳥時代より前の造営でしょうから、神話が始まる考古学的は縄文時代が終わる西暦紀元前400年頃の神様を祀(まつ)っていたようですね。
余談ですが、実は神道の宮司様にも考古学を御存知無く、神話と実際の日本文化の変遷を理解していない人が多いんですが、日本神話と考古学の歴史って整合性が有るんですよ。
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※写真は横浜市緑区の延喜式内社、御祭神は五十猛(いそたける=素戔嗚尊の子)の杉山神社。
神話が始まったのが西暦紀元前600年頃、縄文時代の終焉が紀元前400年頃、素戔嗚尊が古代日本で活躍するのが丁度その頃。そして弥生時代が始まるのですが、関東各地の古社の御祭神は悉(ことごと)く素戔嗚尊の御神孫なんですよ。つまり関東の古社の神話では出雲神族が関東を開拓した神話が有り、最近の発掘成果では、その頃に稲の水田耕作も伝播してる事が解っています。
そして弥生時代の終焉、古墳時代の到来が西暦100~200年代と言うのも古い古墳の発掘で推定されていますが、実は神奈川県の走水神社の伝承では日本武尊が三浦半島の走水に仮御所を置き、そこから房総半島に船で渡ったのが西暦110年か114年の正月だと伝承しています。つまり青銅器の導入や古墳文化の伝播が日本武尊神話と整合性が有るんですね。
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さて、話を神話と考古学から、大庭神社の元宮に戻します。
畑地と住宅街の在る山に所在し入口が解り難いのですが、上の石碑が目印です。
船地蔵周辺
最寄りのバス停は❝船地蔵バス停❞か❝第六天バス停❞です。
電車の最寄りの駅は無いので、藤沢本町とか辻堂駅等の周辺からバスでの訪問か車を大庭城址公園、もしくは近所のコンビニに停めるしか無い、少々不便な所です。
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さて、ここは嘗(かつ)て大庭御厨(おおばのみくりや)と呼ばれた地区で、縄文時代~人が住んだ地域でした。
その大庭御厨を水田耕作に適した土地に開拓したのが、戦国武将上杉謙信の祖先で、平安時代の名将の鎌倉景正公です。
鎌倉景正公は坂東武者達から武士の鑑(かがみ)として尊敬され軍神として鎌倉市坂ノ下の御霊神社で崇拝されました。
失明した際に供養した目を埋めた土地から瞬く間に樹木が成長した逸話から❝眼病治癒の神様❞、そして御霊神社周辺で多くの貴族や武士が恋愛の詩歌を詠(よ)んだ舞台だった事から❝縁結びの神様❞として人々に信奉されています。
※権五郎御霊神社については「ココ」←クリックして以前の記事を御覧下さい!
現在ではこの地区、船地蔵地区と呼ばれています。
その由来は大庭城址落城の秘話と密接に関係が有ります。
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上は大庭城址の空堀と土塁。
大庭城は引地川辺りに堤防を作る事で、城の周辺を湖沼化し守りを堅めていたそうです。
しかし・・・
この引地川の堤防と言うのは、引地川に注ぐ川を堰(せ)き止めた堤(つつみ)なのか、それとも引地川の水を引き込んで沼にしたのか現代には伝わっていません。
そこで地形を見てみましょう。するとある程度は推測が出来ます。
もう一度衛星画像で位置関係を確認してみましょう。
船地蔵周辺
大庭城址東側は元々湿地帯です。ですから水を堰き止める必要は有りません。
東側より西側が標高が高いので、西側を湿地にする程の大堤防を築けば南側の街道全て使用不能に成ってしまいます。
西側は湿地では無いのですが、滝ノ沢が流れ、更に江戸時代に❝熊野社❞と呼ばれた大庭神社舊跡が在ります。
恐らく、そこに嘗(かつ)て存在した滝や、湧水地の流れを引地川に入る前に堰き止めて西側一帯を湖沼化させていたんでしょう。
熊野社と言うのは、古来の神聖な湧水地や滝の傍に造営される神社でした。つまり、西側は湿地では無いにしろ当時は湧水池か豊富な水量を誇る滝が有る川だった可能性が有る訳です。川の名前がそもそも滝ノ沢だった訳ですしね。
そして、この地域からは多くの縄文~弥生文化遺構が出土しています。
これは説明するまでも無いのですが熊野那智大社は聖地である那智の滝の傍に在り、紀元前からの貝塚史跡が出土している丘を境内に抱える師岡熊野神社も聖地である池の傍にあります。そして両方とも天皇家の崇拝を受けました。
ここ大庭神社旧跡は、その前を流れる川の滝か、滝の傍の湧水地で聖地として後に熊野社が勧進され名前は大庭神社と呼ばれていたのでしょう。
そして、前回の解説記事でも推論を述べましたが、足利幕府の重鎮であった山名家と別当寺の都合で後から現在の稲荷地区に移転した筈です。
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この元宮と推測される大庭神社は参道が二段階に成っていて奥まで行かないと御社(おやしろ)が見えません。
恐らく、この御社の神様を奉る理由に成った、神社その物より大切な聖地とされた滝や池が昔は存在した筈なのですがね。現在は地殻変動か宅地開発かで往時の面影は解りません。
とは謂(い)えども、ここはヒッソリとしている物の、醍醐天皇の時代、西暦900年代の京都の貴族達にも神聖な場所として認識されて延喜式神名張に記載されている神社だったので、神奈川県下現存14座の延喜式内社+数社の式外社と数少ない悠久の歴史を持つ神社な訳です。
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現在では、本当に御社(おやしろ)と言う他無い規模の神社ですが、昔の人から我々が受け継いだ聖地である事には変わり有りません。そして、神様の御利益や聖地としての大切さに神社その物の規模など微塵も関係が無いんです。
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是非、ここ大庭神社の元宮と、現在の大庭神社両方を合わせて御参りして欲しいです。
そうする事で、ここを大切にしてこられた縄文~弥生~古墳~奈良~平安~鎌倉~戦国~江戸~明治大正昭和の人々の生きた歴史を感じ、平成の時代に我々が土地の文化を守る大切さと、神社の伝統を守る大切さの両方を引き継ぐ事が出来るんだと思います。

こ大庭神社の元宮近くには、この地が古来早く開けていた証拠と成る神様も鎮座しています。
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臺谷戸稲荷神社です。
この稲荷社の名前の由来は、大庭神社の所在する台地が古来❝臺(だい)❞と呼ばれ、北側が谷戸(やと=谷を利用した集落)だった事に由来しているそうです。
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古来、稲荷社の御祭神は宇賀神(うがじん/うかのかみ)や宇迦之御魂神/倉稲魂命(うかのみたまのかみ)と呼ばれた豊穣の象徴の神様でした。後に平安時代末期に成ると中国から輸入した貨幣❝宋銭❞での経済活動が始まり、穀類や海産物の物資その物から貨幣経済へ社会構造が変革した事で富の象徴が❝貨幣❞と成りました。その過程で、印度(インド)から中国経由で渡って来た七福神の弁天様が❝戦の女神❞❝美の女神❞❝財運の神❞❝水の女神❞としての多くの御利益が在った事から、女神でもあり似た御利益宇賀神と習合され一緒に崇拝される様に成った歴史が有ります。
宇賀神は半蛇半女の姿で描かれる事の多かった神様なので、蛇神=水神としても信仰されたので弁天様は水辺に祀(まつ)られている訳です。
そして更に明治時代の廃仏棄釈(はいぶつきしゃく=仏教弾圧)思想と明治政府による神仏分離令(しんぶつぶんりれい=日本の神様と外国から来た神様を再分離してしまう政策)によって、弁財天や弁天社として日本全国に存在した神社を破壊から守る為に、全国の弁天信仰の神社の氏子サン達が、弁天様と日本古来の海上交通=水の女神である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を同一として習合する事で神社を存続させた訳です。
そんな訳で、明治時代に成って宇賀神も宇迦之御魂神も弁財天様も市杵島姫命も別々に成ってしまったので、逆に古代から明治時代まで受け継いだ歴史が寸断されて訳が解らなくなってしまった訳です。
まぁ、市杵島姫命自体は名前や御神威からして福岡市沖に浮かぶ聖なる島の❝壱岐❞に古代いらっしゃた神様(古代天皇家の王族の姫、もしくは壱岐国の女王か王族の姫様がモデルか?)か、島自体を神格化した神様でしょうから、とても大切な神様である事には変わり有りませんが…。
そんな、縄文~明治時代直後までの富の象徴としての宇賀神信仰の歴史を全て残しているのが鎌倉の銭洗い弁天様です。
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ですから先日、休日雑記 2016/06/15の訪問先…鎌倉市雪ノ下~小町通り~扇ヵ谷~佐助地区でも書いた鎌倉の銭洗い弁天の正式名が宇賀福神社も名前は宇賀神を元々祀っていた事が解りますね。同一視された辨財天が、源頼朝公によって御神体として祀られ、更に後に明治時代に市杵島姫命が祀られた歴史が全部詰まっている、財運の女水神様です。
話を臺谷戸稲荷其の物に戻します。

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この御稲荷様の御社の直ぐ手前に大木が有ります。
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この臺谷戸稲荷神社を覆い隠している大木ですね。
銘板が見当たらなかったのですが、ここは小生の行く先々の城址や神社仏閣で度々登場する❝神奈川の銘木100選❞の一つ❝臺谷戸稲荷の椨(たぶ)の樹❞です。
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小さい御社ですが、大木が育つ環境と言う事は古代~近代に成っても地元の人々に愛されてきた場所なんでしょうね~♪

きっと、皆さんの家の御近所にも、この大庭神社みたいにヒッソリとした場所に在りながら、とてつもない歴史や偉人達との関わり合いが有る神社や御寺、城址や史跡の山が有ると思います。
ですから…
皆さん、御近所の神社仏閣や里山を散歩して見ませんか?

今回はここまで!
次回は現在の立派な方の大庭神社の社殿を写真で紹介します。
では!又、次の解説記事で御会いしましょう♪

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藤沢市大庭地区が、古代から戦国時代の初期まで神奈川県内でとても大切な場所だった事を知る人は、現代では多くは有りません…
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その大切さがどれほどの物かと言うと、大庭には縄文時代の遺跡が大量に出土しているだけでなく平安時代の醍醐天皇の時代、延喜年間の日本人から見ても「古い」「聖地」として認識され後世の人間に「保護しなさい」と言う意味で❝延喜式神名張❞に記載され我々に託された神社の一つ❝大庭神社❞が有るんですね。
上の写真が大庭神社です。
実は大庭神社は藤沢市内に2箇所あり、江戸時代に横浜の殿様間宮家の子孫で江戸幕府の昌平坂学問所で地誌を編纂した間宮士信(まみやことのぶ)達の新編相模風土記公でも、この件を取り上げています。

その2箇所の場所は…
藤沢市大庭…
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大庭神社舊蹟(きゅうせき=旧蹟)、つまり元々大庭神社が有ったとされ、後に熊野社と呼ばれた神社。
そして藤沢市大庭の大庭神社。
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新編相模風土記稿で、ここを取材した記者は、まだまだ考古学の❝こ❞の字も学問としての考古学が発展していなかった時代の人間なので、古代の大庭の様子も解らなかった結果、「舊蹟は元宮とは疑わしい」と言う事を言ってしまっています。
でも小生、この江戸時代の学者を論破できます「解ってねぇ~なオマエ(笑)」とね。
小生は断言します。
古代関東開拓の歴史と、旧跡が熊野社と呼ばれた事を証拠に大庭神社舊蹟こそ本来の大庭神社の元宮だと。
先ずはコレ↓を見て下さい。
大庭神社周辺
大庭神社と大庭神社舊蹟の位置を、古代の海岸線に重ねた地図です。
白い部分が神話の時代に海だった所」です。
解り易いように現代の鉄道も表示します。
これを見ると解ると思いますが、現代の藤沢市の中心を為(な)す平地は古代の海底です。
この藤沢本町一帯の地域が開拓されるのは大分遅く平安時代末期、鎌倉時代の少し前の話です。
もっと具体的に言うと、藤沢本町を開拓したのは平安時代の名将、鎌倉景正公です。
鎌倉景正公については以前に御霊神社の解説で紹介したので興味の有る人は当該記事を御覧下さい。
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※鎌倉景正公の記事は「ココ」←クリック!
さて、大庭神社に話を戻します。
大庭神社周辺
古代、日本人が住めた地域は現代人から見て丘や山の上の地域だけです。
だから縄文時代~弥生時代~古墳時代の遺跡は、山や丘の上から出てくるんですね。
そこで大庭神社の位置を見ると、やはり古代の海岸線にあります。
左上の同じ延喜式内社である宇津母知神社も、やはり古代の入江の付け根に所在しているのが解ると思います。
この海岸線は縄文時代の海岸線です。つまり古い神社と言うのは日本人本来の縄文文化を継承している場所でもある事が解るかと思います。だから日本人は沖縄やアイヌの人と古代は同族だったんですよ。

さて、では何で小生が大庭神社舊蹟を元宮だと思うか、状況証拠を箇条書きにしてみます…
1,縄文時代の遺跡は新旧大庭神社の在る入江の左岸から多く出ている。
  西岸に在る平安末期~戦国時代の大庭城の丘も縄文時代の遺跡が出土している。
2,東岸が開拓されるのは平安時代以降。
坂東平氏の祖である平良文(たいらのよしふみ)公が村岡城址を拠点に開拓を始めた。その後、東西北に子孫が拡散して行き関東全域に開拓地を広げていき武士文化の基礎を坂東平氏が築いた。
3,大庭神社舊蹟が❝熊野社❞と呼ばれたから。
熊野社とは新鮮で清潔な水の湧く場所や滝を聖地として開かれる神社。現代人も誤解しがちだが古代人は川の水をガブガブ飲んでた訳じゃなくて、自然湧水の有る地域にいついています。そりゃそうです、古代は抗生薬なんて無いですから腹壊す(=感染症や寄生虫)事は死に直結するんですよ、川の水なんかそのまま飲んだら。
だからこそ、井戸の掘削技術を手に入れた平安時代に至っても古代の聖地である自然湧水の有る神社を霊場として崇敬していた事実が有る。
つまり、大庭神社舊蹟が熊野社と呼ばれた以上、付近に古代は遊水地が有ったはず。遊水地が有れば古代人が住み着いた訳で、事実縄文時代の遺跡が周辺に在る。
…まぁ、挙げればキリが無い。

では、何で現在の大庭神社が新宮だと推測するかと言うと、理由は上記の2が絡んできます。そして大庭神社の別当寺だった稲荷山成就院宝染寺が原因だと思います。
成就院は、室町時代初期に山名氏公が造営した真言宗の御寺です。真言宗の開祖弘法大師空海和尚は日本神話や神様も大切にされた人物だったので、明治時代以前まで真言宗自体が神仏習合の要素の強い宗派でした。
よく有る事なのですが、武士が自分の領地の中心に守護神として近所の御利益の有る神社を移転させる事が良く有りました。室町時代にも成ると本来の自然信仰から御神体や偶像崇拝へと日本の宗教観も変化していたので、当時の人は罪悪感も無く聖地と神社を切り離してしまう事が有りました。
同じ延喜式内社の高部屋神社もその典型ですね。
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※高部屋神社の記事は「ココ」←クリック!
平安末期、源頼朝公の随兵も務めた糟屋有季(かすやありすえ)公は、本来、大山山系の渋田山に所在した高部屋神社が御自分が支配した糟屋郷の鎮守に相応しいとの独自判断から自分の居城だった千鳥ヶ城(糟屋城)の丘陵を通る大山街道前に遷座した歴史が有ります。
平安時代にも成ると、御神体が聖地で有る事を認識できなく成っていた人々も多かったと言う事でしょうね。
だからこそ、醍醐天皇が延喜式神名張を編纂させて保護すべき神社を指示したんですがね~。
源頼朝公も醍醐天皇と同じく自然信仰や古代の宗教観を引き継いでらっしゃったので、大山や富士山を登山し頂上で礼拝しています。

又々、解説が大庭からずれていたので話を大庭に戻します。
戦国時代初期まで鎌倉が東日本の首都だとすれば大庭は南関東の首府だった時代が有るんですね。
鎌倉公方足利家に忠誠を誓っていたのは、戦国時代の関東管領山内上杉家ではなくて、鎌倉公方配下の扇谷上杉家と宅間上杉家でした。
その内、宅間上杉家は足利尊氏公と母方従兄弟の血縁関係であり、扇谷上杉家は鎌倉公方の本拠地である相模国を拠点にしていました。
その初期の居城が藤沢市の大庭城と伊勢原市糟屋(上杉)館だったんですね。
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写真は大庭城址に昭和9年、当時の神奈川県知事や職員や教育者が、この城址の重要性を後世に伝える為に建てた石碑です。
残念ながら現代の教育委員会は無知無文化な上に土木事務所は❝土建会社に不利に成る事を妨げない様にする反日本文化的❞な連中なので、大庭城址も北半分が宅地開発され消失してしまいました。
大庭城址の南西は船地蔵地区と呼ばれ、大庭城落城の時の詳細な状況が伝承している船地蔵が地名の由来です。
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東の引地川は名前からして水掘りに水を引き込める程の河川の水量があったようです。
こちら側、船地蔵地区は古代から自然湧水の沢があり、そこを堰き止めて大庭城西側を湿地にしていた事が伝承から解ります。
つまり、寄生虫の危険の有る川の水では無く、古代人が飲料水に用いる湧水池が在った可能性が高い地域なんですね。
だからこそ縄文遺跡も、こちら船地蔵地区側や大庭城址から出土する。
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上の写真は扇谷上杉家の重要拠点だった糟屋館(上杉家の大城郭)の跡地の台地ですが現在の神奈川県の黒岩知事は、この糟屋館の丘を破壊して県道を通そうとしています。
そして、教育委員会は地元住民が伝える城址の地名を無視して、既に開発された産能大学の敷地だけが城址だと日本城郭体系や郷土史と異なる戯言を並べて黒岩知事の破壊行為支援をしているようです。
さて、こんな訳で県央の伊勢原市~大庭は古代から中世、関東で重要な場所だった事は御理解頂けたと思いますが…

糟屋館には大手を守る寺院、蟠龍山洞昌院公所寺が有ります。
実は、大庭神社舊蹟の在る船地蔵側には大庭城の鎮護だったと思われる寺院が有ります…
しかも山号が伊勢原市糟屋の寺院と同じなんです。
その名も❝蟠龍山❞宗賢院。
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この二つの御寺には更に凄い共通点が有ります。
…両方とも御寺の寺紋(じもん=御寺の家紋)が太田桔梗なんですね。
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上は藤沢市大庭の宗賢院。拡大して見ると太田桔梗紋が屋根の上に見える。
下は伊勢原市上粕屋の洞昌院、太田道灌公の菩提寺。同じく拡大して見ると、そこかしこに太田桔梗があしらわれている。
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この2つの御寺は、大庭城、糟屋館の鎮護の役割をしていたと推測できます。
扇谷上杉家は禅宗の臨済宗の信徒だった。同じく太田道灌公も鎌倉の建長寺で修業した臨済宗の信徒だった。しかし、この2つの御寺は北条家の時代に曹洞宗として中興している。
宗賢院に関しては、曹洞宗以前の記録が残っていないので開基を1505年としている。しかしながら、平安時代末期の当地大庭の領主大庭景親公の遺物が寺宝として伝わっており、更に太田道灌公ゆかりの桔梗紋が寺紋である事から、現在では名の伝わらない太田道灌公が支援したであろう前身寺院が間違えなく平安時代末期には存在した事が確実なんだな。
では何故現在、宗賢院も洞昌院も同じ禅宗でも曹洞宗かと言うと、太田道灌公亡き後に、道灌公をリスペクトしていた北条早雲公が曹洞宗の信徒で、北条早雲公が後に関与した寺院の殆どが北条家の庇護下に入る際に曹洞宗に改宗している。だから大庭城や糟屋館の落城後に御寺を復興したのは北条早雲公や北条氏綱公達だったからこそ現在は曹洞宗なんだな。

何でこの宗賢院と洞昌院の歴史に話を掘り下げたかと言うと…
これで、大庭地区の昔は海の入江だった東西どちら側が先に発展して来たか、関与した偉人達の足跡を辿(たど)る事で推測する事が出来るでしょう?完全に西側から発展してますね。
いよいよ本題です。
大庭神社の舊蹟が元宮だとするのは、ここまで話した通り県央から徐々に文化は東に伝播して行ったからです。
舊蹟と現大庭神社の間には湾があり、大庭城址や船地蔵地区の古代の湾の西側から人が住み始めたのは出土した史跡から明白である以上、考古学的にも大庭神社舊蹟=元宮=本来の大庭神社が有った場所=現在の大庭神社は後の支配者によって遷座された…
と周辺状況をまとめると容易に推測出来る訳です。

完全に西側から発展してるんですよ、縄文時代の古代だけでなく中世もね。
東側が開拓されるのは、坂東武者の鑑や軍神として鎌倉武士達に崇拝された鎌倉景正公が本藤沢を開拓して以降の話し。
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※写真は鎌倉市の御霊神社。本藤沢を開拓した鎌倉景正公を御祭神として祀る神社。
そして恐らく、大庭神社が現在の地に移されたのは、明治時代まで別当寺であった成就院との関係によると推測出来るんですね~。
下の写真が大庭の成就院。
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この成就院、足利尊氏公と母方の従兄だった山名時氏公が開基したと伝わっています。正確には山名伊豆守。
開基(かいき=寺社を造営する事)は1352年頃とされています。
…つまりね、平安時代の人から見ても古いと思われていた古代から存続する大庭神社の別当寺の割には歴史が凄く浅いんですよ、この成就院は。
でも、足利尊氏公や山内上杉重房公や宅間上杉重兼公と縁戚の山名時氏公の開基だから、否応無しに格式が高く成る訳です。そうなってくると当然、付近の神社の別当寺に成って管理業務を担う様に成った訳ですよ。
でも、御寺の傍に管理する神社が無いと不便でしょう?そこで二つの仮説が立つ訳です。
1、御寺の傍に大庭神社を移しちゃった。
2、本藤沢側の台地が後に発達したから、元々船地蔵地区に在った御寺が本藤沢側に移転して、その際に一緒に神社が移転されられた。
小生、この仮説を立てた時に気が付いたのですが、藤沢の成就院は御寺の山号が稲荷山です…
しかし御寺の有る地区は地名こそ❝稲荷❞ですが、この地区に稲荷社が在った歴史は無い!
ところがところがぁ~♪
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船地蔵地区の大庭神社舊蹟の直ぐ近くには❝臺谷戸稲荷❞が鎮座しています。
しかも、こちら側の大庭神社舊蹟の大庭神社(熊野社)も別当寺は成就院でした。
…もう、これで状況証拠は集まったでしょう。
恐らく、この地区に成就院の前身だった宝染寺が在った。そして当然、大庭神社舊蹟が元宮であり、古代から船地蔵地区に存在したので、宝染寺が別当寺に成った。
その後、1352年頃に鎌倉に近い現在の稲荷地区に山名時氏公が何らかの関わりが有って、宝染寺と大庭神社を東側の丘の麓に遷座し、宝染寺も成就院と院号に寺名を改める事に成ったが山号は船地蔵地区に在った時のまま稲荷山を引き継いだ。
結果的に成就院が移転して来た丘陵地帯の地名が御寺の山号をとって❝稲荷❞と呼ばれる地区に成った。
だから、現在の大庭神社は若宮で、地元の伝承の通り江戸時代に熊野社と一時期呼ばれた大庭神社舊蹟こそ元宮そのものだと推測が成り立つ。
そして、この大庭神社舊蹟や臺谷戸稲荷や大庭城の在る、古代の湾の西側の陸地からは縄文時代~弥生時代の史跡が出土している…
ダメ押しすると、大庭神社舊蹟の住所は藤沢市❝大庭❞。
つまり、伊勢神宮直轄地だった大庭御厨(おおばのみくりや)は大庭神社舊蹟の側一帯の丘を指す訳ですよ。
どうでしょう?
…以上が周辺の歴史ですが、もう元宮は大庭神社舊蹟で決定ですよね?
江戸時代の間宮士信先生の弟子の三文学者が、江戸時代に東海道が通っていた本藤沢側が栄えていたからって勝手に地元の伝承を否定したのは、現代の発展した考古学と古代からの地勢を見れば誤りだったのが良く解る訳ですね~。

次は大庭神社元宮と近所の稲荷社を写真で紹介します。
では次回の記事で御会いしましょう~♪
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平安時代の人からも古くて由緒有る神社と思われていたのが延喜式内社と呼ばれる普通の神社とは比べ物に成らない❝別格❞の神社です。
醍醐天皇が編纂させた延喜式と言う律令制度の改正法に定められた保護すべき対象の神社一覧が延喜式神名張に載る延喜式内社です。
又、延喜式成立以前から存在するが、当時は修行場や祈祷所と機能していたので祖先や神を奉る神社とは意味が若干異なっていていたり藤原家に不都合な歴史が有り掲載できなかった神社を延喜式内社に対して式外社と言います。
その神様の御神威と歴史が別格の意味に社殿の大小や現代の参拝客の多さは関係有りません。
多くの延喜式内社には縄文~弥生文化の遺跡が近在し、又、神社の宝物に日本神話の時代に当たる弥生時代に作られた祭器が有る所も少なくなく更には考古学的にも、その祭器が弥生時代や古墳時代初期の物だったり境内の遺跡が縄文文化の史跡と確認されている場所が多く有ります。

そんな延喜式内社が神奈川県には旧相模国内に13座、旧武蔵国(横浜市)に1座、式外社で古事記に登場する様な霊験あらたかな場所や歴代天皇の勅願所も数ヵ所有ります。
その中の一つで、現在も比較的大きな規模を誇るのが大和市の深見神社(ふかみじんじゃ)です。
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ここ深見神社は雄略天皇の時代(西暦500年前後)に闇神(くらおかみ)と倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を御祭神として創建された事が関係文献から解っている様です。
神は水神=雨乞いの神様として信仰されたそうですが、似た名前の神様に高神(たかおかみ)と言う神様が雨乞いの聖地だった大山阿夫利神社の御祭神として祀られています。
この二神は名前も似ていますが同じ様な御神威を御持ちの様です。
今年2016年の夏は水不足なので神奈川県知事や自治体の首長には御参りして欲しい所ですね。
さて…少し脱線します。
延喜式内社も凄いのでですが、式外社にも凄い場所が有ります。

特に凄い場所は以前も紹介した…
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日本武尊の仮御所近くに、日本武尊の冠を御神体として地下に埋蔵して創建された横須賀市の走水神社。
ここは最近の社殿建て替えの際に本当に地下に石室が有る事が確認されています。
※記事は「ココ」←クリック!
2015-02-04-10-37-49
日本武尊の御妃様の弟橘姫の古墳が神社社殿の背後に控える川崎市の橘樹神社。
神奈川県教育委員会の怠慢と不見識で、大古墳は一部を除いて宅地化されてしまいましたが、古墳頭頂部の一部がかろうじて現存しています。
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そして歴代天皇が勅願所道場として信奉した師岡熊野神社です。
歴代の天皇家と源氏や小田原北条家、徳川家から信奉され、特に光孝天皇から「関東随一大霊験所熊野宮」の異名を与えられ、その勅額を頂いた周辺に聖なる池を多数抱える神社でもあります。
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今回紹介する深見神社は、この師岡熊野神社と同じ雨乞いの神様として古代人からも信奉された古社な訳ですが…
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伝承や郷土史研究者の意見では、この辺りも古代に海が入り込んだ入江だったので❝深い海❞が地名の深見に転化したと考えられていますが、小生の意見は少々異なります。
何故かと言うと古代の海岸線と深見神社の位置は離れているからです。
神奈川県名の延喜式内社と古代の海岸線 久良岐のよし
そこで小生が推測するのは、深見(ふかみ)の地名由来は❝深水(ふかみ)に嵌(は)まる❞の方の深水だと思うんです。
実は、この深見神社は重要な場所に在(あ)りまして、すぐ近くを❝境川❞が流れています。
延喜式内社と河川の位置 久良岐のよし
※拡大して見ると、河川と延喜式内社の位置が解ります。
古代は橋を架橋する技術が無かったので、大河川を渡河するには舟での移動しか有りませんでした。
若しくは…徒歩で渡れる浅瀬を探すかですね。
残念ながら神奈川県には相模川や鶴見川の様な巨大河川が幾筋も有り古代人にとっては交通の便の良い土地では有りませんでした。
それ故、この道を❝東海道=東の海の道❞と古代人が名付けた訳です。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
古代の東海道は何筋もの大河川を船で渡り、最後は走水から海を越えて房総半島に渡っています。
さて、そんな訳で深見神社の眼前には今も昔も境川が流れているのですが、これが上流部分が旧相模国と旧武蔵国の国境と定められた川だから❝(国)境(の)川❞と成った訳です。
この境川も相当な下流域は海でしたが、実際の所は深見神社の氏子サンや郷土史家の推測は海岸線の歴史事実と異なり、深見神社の眼前に入江が広がっていた歴史は存在しえません。
そこで小生の説は「❝川の深水❞が有ったから深見神社と名付けられた」と成る訳ですが…
「え?深水なんて別にありがたくも何も無いじゃん?」
…と思ったら、貴方は神道と日本の祭祀の歴史を全く解ってない。
古代人にとって川の❝淵❞や❝深水❞と呼ばれる地勢は聖地として信仰対象に成っていたんですよ!
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上の写真は江戸市民の水の供給源だった東京都羽村市の多摩川上流にある根搦前水田を横断している雨乞い街道です。旱(ひでり)の日は、聖地とされた深い淵で雨乞い儀式を行う習慣が有りました。
そして深見神社の御祭神の名前の❝闇神(くらおかみ)❞です。
神(暗い場所の水神様)と解釈出来る御名前から、鬱蒼とした樹木の下に流れる境川の水深の深い水辺を連想させますよね。
似た名前で同じ雨乞いの神様の高神は大山阿夫利神社の神様ですが、実は大山は標高1000mを超す場所に沢山の自然湧水や滝が有るんです。❝高❞い場所に水を湧かせる❝神(おかみ=龍神)❞様だから高神なんでしょうね。
恐らく、ミシェランガイドで三星の観光地認定された東京都日野市の高尾山の❝高尾❞は、大山阿夫利神社の❝高龗❞神と同じ神様を奉っていた歴史が古代に有ったんじゃないかと思います。多分高尾山は山岳信仰と雨乞いの対象だったんでしょう。大山と同じ様に天狗(てんぐ)信仰も盛んですからね。

話を深見神社その物に戻します。
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深見神社は北西から入ってくる変則的な表参道の横に石碑が有ります。
これは、この深見の江戸時代の領主が、この神社と周辺を大好き過ぎてアレやコレや寄進しまくった時に建てたそうです(笑)。
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その近くに立派な狛犬さんも鎮座していて参拝客を御出迎えしてくれます。
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凛々しい狛犬様。
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めっちゃ筋骨隆々だね。
参道から、社殿正面へ続く駐車場の傍(かたわ)らには大和市の保護指定を受けている大樹があります。
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すんごい立派ですね。
駐車場に車を止めると富沢稲荷と言う小さい摂社が有ります。何故か境内には遷座されていない。
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こちらは参拝客もまばらそうですが、小生は御城や神社や御寺を御参りする度に御稲荷様が鎮座していて、参拝客や地域の方々を守って下さっているのでちゃんと御挨拶をして御参りして来ます。
勿論、この時も御挨拶しました。
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現在では一見すると普通の少し広めの神社程度の境内ですが、参道の向きや周辺の森と道路の敷設されたルートを見ると、明らかに昔は周辺の住宅街全部が深見神社だった事が見てとれます。
深見神社推定旧境内 久良岐のよし
こんな感じかな?
ちゃんと現在の社殿前の鳥居の反対側にも、昔の参道が有り、先にも廃道が有る。
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現在は私有地に成ってしまっているので通れない。
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こう言うのは明治政府のせいなんだよ。
明治政府が神社の土地を接収しちゃって、更にその後で太平洋戦争で負けた時にも米軍に神社の土地は大きく接収されてしまったので、こんな風に古い参道が使えなく成って家が建っちゃった場所は少なくないんだな。

さて深見神社の社殿はとても立派です。
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造りからすると多分新しい。ごく最近の再建。
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この時は春に差し掛かった頃に訪れたので、桜の花が咲いていてとても綺麗でした。
深見神社は江戸時代に周辺領主だった坂本家が武神の武御雷神を鹿島神宮から勧進した歴史も有るので一時、鹿島社の別名で呼ばれていた事も有ります。
そっちの神様はハッキリ言って深見神社や深見の土地と関係が無い。
寧(むし)ろ、相模国の延喜式内社と関係が有る戦神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)と五十猛(いそたける)神日本武尊と弟橘姫だからね。平安時代にも関東では武御雷神じゃなくて、八坂神社や浅間神社で素戔嗚尊が崇拝されたし、西暦700年頃からは弁才天様も崇拝されだした。
後から深見神社に引っ越して来たのが武御雷神。
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そこ等辺の事は説明の看板にも書いて有るけれど、元に成った記事を読みたい人は横浜の殿様間宮家の子孫の間宮士信が編纂した新編武蔵風土記稿を読むと、周辺の歴史も解って楽しいですよ♪
深見神社は手水舎にはちゃんと水道から新鮮な水が流れていて身を清めれます…
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…多くの延喜式内社が伊勢と関係ない神様で宮司様不在で寂れて水道も流れてないからね。
ここは他にも施設が沢山有ります。
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靖国社。靖国神社の末社かな?と思ったら全く違いました。
元々、この大和市や厚木市は大日本帝国海軍時代の厚木飛行場が有ったので、そこに空の神様として神社が建てられた航空神社を、戦後厚木基地が米軍に接収される際に引き取って当地に遷座したそうです。
それと、さっきの富沢稲荷様とは又違う境内社の稲荷大明神。DSC_0552
御倉大明神と言って、一時期、闇神がこちらに移されて、本殿には明治時代の国家神道と関係が深い武御雷神が本殿に祀られて優先順位と歴史的にアベコベにされていた様です。
現在は闇神様は本殿に無事帰還されています。

それと御神木…
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出ました!神奈川県の銘木100選。
小生の行く先々でちょくちょく登場する銘木100選、その一つが深見神社の現在の御神木の春楡(はるにれ)の大樹。
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春楡(はるにれ)が❝春を❞❝諭す=楡❞、つまり春の訪れを知らせる様に花が咲くからだそうです。
深見神社では種類が解らず「なんじゃもんじゃの木」と渾名されていたようです(笑)。

ここには、古代の文化を伝える神様がいらっしゃいます。
そして江戸時代に武士に崇拝された戦神様も後に同居されました。
古代から近代まで、色んな時代の人の記憶がつまった大切な場所、そして古代人の聖地だったはずの境川の淵の横に建てられた神社だったんだろうなと思います。

きっと皆さんの御近所にも、あんまり大きくなくても凄い歴史偉人との繋がりや、古代からの文化や遺跡を継承しているとんでもない神社や御寺が在ったり、近くの公園や山に行くとソコが平安時代~江戸時代に日本の文化を発展させた武士達の御城の古址だったりするかも知れません。
…御近所の神社仏閣や城址を散歩して、昔の人事を少し思い出してあげませんか?そして文化を大切にしてみませんか?
御参りして先人に「日本の発展に寄与して下さりありがとう」と御礼を伝えれるだけでも、偉人達や神様や仏様は喜んで下さるかも知れませんよ。

では、今日はここまで!
又、次の解説記事で御会いしましょう♪

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藤沢市打戻地区に宇津母知(うつもち)神社と言う、とても古い神社が在ります。
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それはそれはとても古い神社で、古文書に記録では既に西暦500年より前、雄略天皇の時代、つまり古墳時代には既に存在した事が確認出来ている神社です。
この宇津母知神社の在る現在の藤沢市打戻及び神奈川県中央部周辺は、古墳時代当時大きな入江が可成り内陸まで入り込んでいました。
古代の海岸線と延喜式内社 久良岐のよし
御覧の通り、日本神話より遥かに昔の縄文時代6000年前の海岸線に、延喜式内社と式外社は存在しています。
ただ1社、前鳥神社だけを除いて。
実は前鳥神社が他の延喜式内社と違って縄文時代の海の真ん中に在りますが、これは既に考古学的、地形、文献の3つから説明が付きます。
まず、現代伝わっている「前鳥神社」の名前が誤りです。平安時代の誤記が元で現在の名前の字が変わってしまっています。正しくは「前❝島❞神社」だった様です。
…つまり、昔の字の意味からすると佐賀牟国の❝海の前に浮かぶ島❞で島自体が御神体だった神社と解釈出来ます。では、本当に島だったのでしょうか?
前鳥神社の地形 久良岐のよし
はい、前鳥神社は本来の前島神社の名の通り、相模川の浸食を受けない自然堤防の上に立つ神社でした。
つまり、海に浮かぶ島だった地形上に在る訳です。
そんな訳で、延喜式内社を回ると、悠久の縄文からの文化を受け継いで弥生時代に何某かの偉人達の事績が神話に成って日本文化として僅(わず)かでも現在に伝わっている事が容易に想像出来ますね。
さて、延喜式内社が古い神社と言うのは解ったと思います。
そもそも延喜式と言うのは平安時代の醍醐天皇が纏めた政令で、その内の延喜式神名張と言う文書に当時の人から見ても古いと思っていた神社を保護の為に列挙したのが延喜式内社と言う訳です。

そこまで話した所で、話を宇津母知神社に戻します。DSC_0422
この神社は交通に若干不便な農村に在るので車で行くか本数少ないバスで行ってから徒歩に成りますが、駐車場側から行くと入口近くには立派な御神木が出迎えてくれます。
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そこを通り過ぎると、表参道に回れます。
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この宇津母知神社の境内は、延喜式内社だけあり可成りの広さが有ります。
ですから、参道も歩くと普通の神社より長く感じます。
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現在は鎌倉に近く小田原に向かう途上に在る事もあり、武士達の度重なる戦火に巻き込まれたせいか敷地だけ立派で古来の建物は現在では残ってはおらず、氏子サン達の努力で再建された御社と社務所が鎮座しています。
しかしながら、明治政府による神仏分離令や国家神道による統制以前の建築遺産が表参道とは異なる西側に残っています。
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鐘楼ですね。
明治政府によって伊勢神道を基本にした国家神道で神仏習合の歴代天皇家が守って来た価値観は破壊されましたが、奈良時代~江戸時代の終わりまで日本人は天皇家と共に、弁財天様などインド神話由来の神様や仏教文化もひっくるめて日本の神様として受け入れて大切になさっていたんですね。
現在の表参道が南側に在るのは、日本神道のセオリーで社殿は南側を向かせているので、その社殿に合わせて参道を付け替えた為でしょうか?
本来の街道は西側に在るので、この鐘楼の在る昔の表参道も西側に面しています。
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鐘楼の近くには、昭和の土地改良の石碑がありました。
この昭和の土地改良は、それまで水稲耕作に向かなかった全国の土地を稲作に出来る水田に生まれ変わらせましたが、同時に小生達歴史オタクから見ると弊害もありまして本来の古道や城址の痕跡が完全に破壊された場所も少なくなかったんですね。
とは言っても、国民が飢えなく成る事が一番大切なので、これはこれで偉大な事業だと思います。
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その土地を耕しながら、この土地の人々が社殿が老朽化する度に再建し、古代からの伝統と神話に成っている先人の事を伝えて下さったんですね~。
本殿は現在はトタン屋根です。
多分、昔は茅葺か檜皮葺だったんだと思いますが、信仰心の薄くなった現代人の更に過疎に成った現在の藤沢の農村では、大変高価な茅葺や檜皮葺を維持するのは困難だったんでしょうね。
でも、こうして社殿を守って下さっている事が大切なんですね。
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因みに、この規模の屋根を茅葺で吹き替えると4000万円超かかるそうです。これは以前、横浜市栄区の古民家、旧小岩井家住宅の職員さんに教えて頂きました。
※小岩井家住宅の記事は「ココ」←クリック!
さて、本殿の左隣には神輿か山鉾(だし)をしまってある建物でしょう。
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右側には神楽殿。
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この規模の神社に宮司様が常駐していないのが真に残念。
しかし、神奈川県は何故か醍醐天皇以来歴代天皇や統治者が御守りに成られた延喜式内社を伊勢系の神社より荒廃してしまったり宮司様がいらっしゃらない場所が多い様です。
ですから宮司様では無く氏子様達が良く守ってらっしゃっておられる神社が少なくありません。
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この狛犬様達は、造りからして江戸時代~明治時代初期の彫刻でしょうか?
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下の基礎部分に何某かの刻銘が有るのですが、石が剥落して読めない字も多いですね…
「宮〇家」は❝宮丞家❞か❝宮司家❞と書いて有るのかな?
その下は二世彦次郎と書いて有りますね~。
姓の刻銘が無いので戦国時代は武士だった家系の江戸時代の地元の豪農の氏子サンとかかな?
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社務所は立派なのですが、電話してもやはり宮司様御不在で御朱印は頂けませんでした。
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残念、再訪する前にアポとれたら良いなぁ~。
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う~ん、この御祭りに合わせて行くしか無いのかな?
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宇津母知神社の御祭神は稚産霊神か、若日下部命、天照大神。摂社の菅原道真公と御稲荷様。
んな訳で、菅原神社。
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実は関東には菅原道真公の御子息が御二人移住して来た伝承の有る神社があり、それが横浜市港南区の永谷天満宮と茨城県坂東市の大生郷天満宮です。
大生郷天満宮は菅原道真公の御三男の菅原景行公、永谷天満宮には五男菅原敦茂公が移住して来られた伝承が有ります。
小生は、周囲の武士団の子孫の名前から関東に来たのは菅原景行公の説が特に有力だと思っています。
関東の平良文系の坂東平氏の武士団が盛んに天神様=菅原道真公を信奉していた節が有ります。
どこの城の址の近くにも、古い城程、御稲荷様と天神社が有りますからね。
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そして稲作と所縁深い御稲荷様。
これも平氏系の武士団が大切にした神様。関東は平安時代に鎮守府将軍平良文公の御子孫が水田を開いた土地が多いですからね~。
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この藤沢市しかり。
藤沢を開いたのは、平良文公の御子孫で、名将の鎌倉景正公です。
鎌倉景正公も又、鎌倉市の権五郎御霊神社で軍神・縁結び・眼病治癒の神様として祀られています。
※御霊神社の記事は「ココ」←クリック!
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意外なところに古代に続く凄まじい歴史を持つ神社が有るでしょう?

どうですか?
皆さん、県内の延喜式内社御参りしてみたくなりませんか?
延喜式内社以外にも、きっと皆さんの御近所にも凄い歴史を持つ神社や御寺が在って、とんでもない歴史偉人との繋がりが有ったりするかも知れませんよ~?
だから、神社や御寺や城址や歴史史跡や古民家や里山とちょこっと散歩してみませんか?

では、また、次の記事で!










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皆さんは延喜式神名張と言う言葉を聞いた事が有りますか?

延喜式神名張と言うのは、醍醐天皇が編纂させた文書の題目です。
内容は平安時代、西暦900年代初頭の当時から見ても古い歴史を有する神社を列挙した物で、醍醐天皇が後世に古社を存続させる為に記録させたんですね。
延喜式と言うのは、元号の延喜年間つまり西暦901年~923年に当たる期間に、古来の律令制度では対応できなく成った法制度を改めて補足する為に作らせた制度や管理体制です。
その一環として作られたのが延喜式神名張です。
そして横浜市内にも、数少ない延喜式内社が一社現存しています。
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それが、横浜市緑区西八朔(にしはっさく)に鎮座する杉山神社です。
この神社の存在する住所その物が、この神社の由緒を表しています。
実は西八朔の八朔と言う地名は平安時代には❝都筑郡針斫(はりしゃく)❞と登場しているのです。
現在では神主不在ですが、境内はなかなか広く、管理は氏子様達の努力によって何とか行き届いています。
この神社の歴史は凄いんですよ。
語るについては、少々、神奈川県と東京埼玉の古代郷土史を解説する必要が有ります。

現在確認出来る文書でも杉山神社は西暦800年代には名前が登場します。
武蔵国(埼玉・東京全域と横浜市東部)の総社六之宮とされる神社なので、佐賀牟(さがむ)国が相模(さがみ)国と武蔵(むさし)国に分裂した際には六之宮に定められた歴史を持つ神社と言う事に成ります。
古代の武蔵国内で六番目の有力な郷(さと)だったと言う事にも成ります。DSC_0029
武蔵国の六之宮と言う事は…
佐賀牟国の相模と武蔵の分裂時期は西暦500年代の❝武蔵国造の乱❞のはずなので、武蔵国建国時に武蔵国六之宮に定められた杉山神社の歴史は以前と成ります。
つまり武蔵国成立時に六之宮とされているので、古墳時代~飛鳥時代まで神社の始まりを遡(さかのぼ)れると言う事が解ります。
他にも杉山神社と同じく古い歴史を有する神奈川県の古社は殆どの御祭神が出雲系の神様や日本武尊や伊邪那岐伊弉冉命です。
つまり、日本武尊を除いては、杉山神社を初めとして、古い神社程、出雲系の神様が多いんですね。
ですから、国家神道が160年前に成立し伊勢系の神様が尊いとされた為に、嘗(かつ)て醍醐天皇を初めとして歴代天皇が我々後裔に保存を託した延喜式内社の古社でさへ神主不在と成り荒廃してしまっている場所が少なくありません。
残念ですね。
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この手水、センス良いですよね!
自然石をくり抜いて、自然信仰と偉人崇拝を元に始まった日本古来の宗教観を代弁する様な存在。
最近作られた手水ですね。
幸い、杉山神社は、この様に氏子サン達によってちゃんと守られています。
杉山神社の在る旧都筑郡に当たる緑区や青葉区は隣の港北区と同じく住民の皆さんの郷土愛と文化度の高い地域でしたので、神主不在と成った現在でも、荒れ果てる事無く整備されています。
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…横浜市は移住者ばかりで住宅街の里山の中の神社が、そんな凄い歴史が有ると知る人も少なく、現在では活気は全く有りませんが。
さて、実は杉山神社、日本中で旧都筑郡にしか存在しませんが、その論社(ろんじゃ=記録から推定される場所)は他に数カ所有ります。
しかし記録上の地名から、小生も本社はこの緑区西八朔の杉山神社だと思います。
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神社の前には古道と思しき道も有りましたしね。
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昔の街道だった名残りをプンプン匂わせる石仏も残っています。
庚申塔が有るので間違いなく、ここは旧街道です。
平安時代には街道が通っていた地域だとすれば、それより前の古墳時代から人が住んでいた地域だったのかも知れませんねぇ~。
この杉山神社は歴史が有る神社に相応しい立派な社殿です。
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神主不在でも立派ですね。
この社殿を維持させんとする周辺地域の人々の歴史を愛する心と文化を残そうとする信仰心や気概が伝わってきます。
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この境内は、恐らく昔は神楽殿も有った広さが有ります。
社務所を立てて、宮司様が常駐したら良いのにな?
…と思いました。
神奈川県神社庁は延喜式内社をプッシュし、県民の信仰心と神話を伝承させる様な働きかけをしてくれたら、もっと日本人が本来の文化を大切にするきっかけに成るんじゃないかな~?
神主さんが普段から住んでいて、子供が遊びに来て、小さい時から神様の近くにいる、そんな環境が戻って来れば寂れた神社が復興して、一度は廃れた神社も夏祭りが行われたり活気が出て日本人にとっても精神的に昔の様に大切な存在に成り、祖先とのつながりを感じたり出来る様な気がします。
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摂社の前には梅も綺麗に咲いていて、背後の竹林と相まって美しく、里山の古社の雰囲気を醸し出していました。
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今ではひっそりとした神社ですが、ここがかつての天皇家や朝廷にも認知された古社だと考えると、この静けさも凛とした空気として身に沁みます。


では!又、次の解説記事で!



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横浜市には神奈川屈指、いやいや日本規模でも聖地(パワースポット)に挙(あ)げられる熊野社(くまのしゃ)が在るのを御存知の方は少ないと思います。
その名も師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)と言います。
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昨今、自作自演の詐欺紛いの偽パワースポットを捏造する新しい神社仏閣も多いですが、ここは光孝天王の勅願所だった由緒正しい熊野社です。
天皇家の勅願所(ちょくがんじょ)と言うのは、天皇自らが祈願する国の安寧や何某(なにがし)かの重要な御祈りを、その神社仏閣の宮司様や和尚様が天皇陛下に代わって神様や仏様に御願いする場所の事です。
つまり、この師岡熊野神社は古くは光孝天王の時代から、天皇家が祈願を依頼した霊験あらたかな場所と言う訳です。
境内には古代からの自然湧水のパワースポットも現存し、その聖地としての存在価値は光孝天王以来歴代天皇の勅願所だった事が示しています。
聖地や施設の説明は後回しにして…
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熊野社と言ったのは敢えてそう言いましたが、昔の人は神様ごとに神社の種類をちゃんと分けて呼んでいたので敢えて、昔の人の風習に従って熊野社と言ってみました。
神社を何でもかんでも一色単にして❝神社❞と言う様に成ったのは、たかだか150年ちょい前、国家神道と言う新しい神道を管理統合する為の宗教観が出来てからの話なので、本来、全ての神社はそれぞれの系統に従って区別された名前で呼ばれる方が相応しい訳ですね。
例えば…
●熊野社
熊野社なら水神様の御霊を御祀(まつ)りする御社(おやしろ)で、滝や自然湧水の聖地そのものが御神体であったり境内の聖地の場合が本来の形です。別名で十二所神社と呼ばれる場合も有ります。
正に、この師岡熊野神社は自然湧水の聖地が数カ所有りますし、鎌倉市十二所の十二所神社は周辺の朝比奈峠に小さいながらも滝や多くの沢の水源が有ります。
熊野社の総本山の熊野大社は、本来は聖地熊野三山から流れる熊野川の中州に在りました。
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上の写真は師岡熊野神社本殿裏の「❝の❞の池」です。
古代から自然湧水が枯れる事の無い、小さくとも聖なる池です。

●八幡社
八幡社なら誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇=八幡大菩薩を御祭りする御社で、古い八幡社は大河川や海辺の水害の多い地域や古代の港湾の近くに御祀りされています。
日本でも指折りの鶴岡八幡宮は本来は現在の位置では無く、鎌倉市の材木座海岸に面した土地に、源頼義公が石清水八幡宮の御分霊を勧進し社殿を建立しました。由比ガ浜や材木座の海の安寧を願っての正に高潮避けの治水の神様としての勧進なのが解ります。
平安時代からの八幡社の総本社格である石清水八幡宮は、その鎮座する男山に自然湧水の池と小規模な滝が有り水神の性格も有りますが、何よりも古代は眼前に巨椋池と言う巨大な湖が有り、その巨椋池から流れる木津川や淀川は度々決壊する大河川でした。八幡社総本社格だけあり典型的な八幡社の役割を期待され誉田別尊の御霊を勧進する事で治水を祈願した先人の苦労が判ります。
又、応神天皇の武勇に肖(あやか)り軍神としての性格も持ち合わせています。

●弁天社
現在では弁財天と書かれますが、本来は❝才天❞と書かれ後に日本で❝財天❞とも書かれる様に成ったインド神話の神様でサンスクリット語の名前はサラスバティーです。
明治時代に成ってから弁天社の神様は壱杵島姫が習合されました。
才天財天と敢えて書いたのは、この神様は御利益が多く、本来は軍才の神様の性格を持つ戦神でしたが後に江ノ島の弁天様を信仰した河内源氏の源頼朝公や、滋賀県の竹生島の弁天様を信仰した宇多源氏の佐々木家が大いに繁栄した事から財神としての性格がクローズアップされる様に成り日本で辨財天の字も当て嵌めれる様に成りました。
戦神だったので、鎌倉時代、頼朝公の成功に肖(あやか)って自領に弁天社を作る武将が多かったので鎌倉武士の居た土地には大体、弁天社が鎮座しています。
この様に、本来、神社は神様によって役割が異なり、やたらめったら縁結びを御願いしたり合格祈願をするもんじゃないんですね。

さて、神社の神様にはそれぞれに役割が有る事が解った所で、師岡熊野神社が何で聖地なのかに話を戻しましょう。
この師岡熊野神社は周辺が平地で、この岡は比較的高い場所に在るのに、その丘の上と周辺に自然湧水地が在るので聖地なんです。
「それの何が珍しいの?」
と思うでしょうか…
地理の歴史を説明します。
この師岡熊野神社の鎮守の森は権現山と言われています。
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熊野神社は、どこも奈良時代~江戸時代が終わるまで神仏習合の神様でしたから、師岡熊野神社の事も熊野権現と呼んだ訳で、つい160年前までの長い文化を引き継いだ名残りの地名がこの権現山です。
そして、この権現山からは貝塚が発掘されており、日本の神代に当たる縄文時代~弥生時代に既に人間の営みが行われていた場所なんです。
では何で、光孝天皇に聖地として勅願所に指定された、この師岡熊野神社の境内から貝塚が見つかるのでしょうか?


昔の海岸線
※ネット拝借地形画像
この師岡熊野神社の有る一帯は、古代、縄文時代~弥生時代位までは海でした。
つまり、古代から聖地であるこの場所は、周辺が海なのにも関わらず奇跡的に豊富な淡水の自然湧水が有ったので古代人も生活拠点を築けたんですね。
「は?」
「古代人が村作ってたから何なの?」
…と、思う人がいたら貴方の日本の神様に対する信仰心は偽物ですね。
関東最古の大社、鷲宮神社のある総国(下総上総)を鷲宮の土地から開発して行った神話の出雲族の御神孫達は、最初27人から土地開発を始めたんですよ。寧ろ、この人数は考古学的には村の初期の単位としては非常に信憑性が有る数字だとも言えます。
つまり、この師岡熊野神社の境内から貝塚が出て、嘗(かつ)ては海のど真ん中だった半島の上で貴重な飲み水が“こんこん”と湧き出ていたこと自体が当時の人からみても奇跡で、海が干上がって工作に適さないまだ塩分の多い土腐(どぶ)地帯に成っていた時でも平安時代の人々からすれば美味しい飲み水が有る事は奇跡で、そこを中心に街道が整備されて行って国が開拓されて行った訳です。
2014-03-23-05-54-06
※ネット拝借地形画像
縄文時代の横浜市北部は、半分は海の底で半分はリアス式海岸の体を成していました。
東急東横線の綱島駅一帯なんて、本当に綱❝島❞だったんですから。
師岡熊野神社の在る場所が、古代は❝太尾岬❞と言う半島だった平野にポコっとした丘陵地帯です。
古代は本当に❝太い尾っぽ❞の様な形状の半島だったので、太尾岬と呼ばれた名残が現代でも太尾と言う隣接地域の地名に留められている訳ですね。
この様に地名には本来の意味があるのに、勝手に大手開発業者や土建屋が「○○ニュータウン」とか「○光台」とか地名を変えてしまうのは日本宗教観から言っても不遜不敬極まりない行為な上に、その土地の特性を有耶無耶に隠してしまう彼等の悪事で詐欺的な土地評価額偽装行為なんですね。

この様に古い神社は大体が丘の上に在るのは、古代は海が今より内陸まで入り込んでいた為です。
その境内の古代人の生活跡の自然湧水の在る師岡熊野神社を光孝天皇が勅願所に定めたのは当然ですよね?昔は周りが海や土腐(どぶ)だったのに、枯れない清涼な飲み水の湧き続ける泉を有する神社なんですから。
ですから、恐らく、その光孝天王の祈願内容は旱魃(かんばつ)=旱(ひでり)による水不足が起きた際に対策としての❝雨乞い❞だったはずです。
この推測を証明してくれる神事が受け継がれている❝場所❞が、師岡熊野神社の「❝い❞の池」です。
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この「❝い❞の池」は古くから雨乞い神事が行われていたそうです。
他にも「❝ち❞の池」も有りましたが、例の如く文化史跡破壊が得意な横浜市教育委員会と神奈川県教育委員会が開発容認してしまいあろう事か埋め立てられ、現在では大曾根第二公園に成ってしまいました。
これらの池を並べると、❝い❞❝の❞❝ち❞と成るので、古来人々の命を繋ぐ水源だった事が伝承する神事と、記録と名前から解ります。

さて、古代の聖地と水源が関連深い事が御理解頂けたと思いますが、実は、この事が多くの平安時代~戦国時代の御城が神社や御寺の在る場所に建てられた理由でも有る訳です。
御城と言うのは敵が攻めて来た時に、領民の農民を匿(かくま)って防衛戦争を行う場所なので、険阻な丘陵地形と同時に❝飲み水の確保❞が第一条件に成る訳です。ですから、聖地に後に社殿が造営された神社仏閣の場所に御城が築城される事が多かった訳ですね。
その南関東での代表例が東京都の深大寺城、滝山城です。
深大寺城は豊富な水源を利用した水車動力の石臼で引く蕎麦切りが名物で現在もその伝統が受け継がれていますし、滝山城には弁天池と呼ばれる水源を堰き止めた池と山王権現社が有りました。
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さて、ここまで話して何故(なにゆえ)、師岡熊野神社の湧水が昔の人にとって聖地としての価値を有していたか、そして何故にそこに貝塚が有るかが御理解頂けたとも思います。
貝塚があり海の真ん中の半島に飲み水に成る自然湧水が有る事が聖地なのか、紐解けたと思います。
この聖地としての価値を証明する材料が冒頭で述べて歴史偉人の、この熊野社に対する信仰です。
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では、師岡熊野神社を勅願所にしたり、社殿を建設した歴史偉人を列挙してみましょう…
光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇…
歴史好きで感の良い人は直ぐに判(わか)ると思いますが、源氏の始祖の天皇ばかりです。
そして…
北条早雲公・徳川家康公・徳川家光公・徳川家綱公。
…関東の覇者達から、領地の安寧を願って信仰された訳ですね。
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それ故(ゆえ)、権現と呼ばれ自然崇拝の神仏習合の発想に基づいて❝関東随一大霊験所熊埜宮❞の異名を光孝天皇より賜(たまわ)っているんですね。DSC_0217
その異名は完全に聖地認定を天皇家より受けている証拠と成る訳です。西暦800年代後半の話です。
凄いでしょう?
古い神社ですので最初の本殿も光孝天皇の代に造営され、その後、幾度の再建を経ているとは雖(いえど)も現在の本殿も正徳4年(西暦1714年)の建立(こんりゅう)です。既に300年の歴史が有ります。
拝殿は明治17年(西暦1884年)の建立です。
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因(ちな)みに、この外観は覆(おお)い殿と言って昨今歴史有る神社仏閣で見られる建物ですが、本来の歴史有る神社仏閣の建物が文化財指定されたり貴重な建築文化財の場合に、本殿や御堂を丸ごと囲って保護してしまう建築物の事です。
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覆い殿の部分は材木が新しいので一目瞭然。
この師岡熊野神社の建築物と神事を後世に伝承させようと言う、宮司様や氏子サン達の気概を感じる覆い殿の増築ですね。
素晴らしい!
港北区民は郷土愛が深く実に文化と史跡保護に熱心な文化度の高い方が多い!実に素晴らしい!
この歴代天皇と関東統治者が大切にした師岡熊野神社を守って来た氏子さん、笠原家の大曾根城址の景観を守ろうとした大曾根商店街の皆さん、鎌倉時代の名将佐々木高綱公の居館跡の鳥山八幡宮や高綱公が源頼朝公の命令で開基した三会寺を守って来た鳥山地区の氏子サンや檀家さん、北条幻庵公が城主を務めた小机城址市民の森を守り通した区民皆さん、それ等全ての港北区民の心意気と言い、真に敬服するばかりです。
そんな郷土愛の強い港北区の師岡熊野神社の氏子サン達なので、明治時代の一村一社令と言う政令で破壊された周辺神社の御霊もちゃんと遷座した上で新たに綺麗な摂社の御社を建て、神仏習合文化の石仏も大切に保護されていました。
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この関東地方は出雲神族の御神孫が古代に開拓を行い、平安時代に菅原氏と桓武平氏と源氏の武将達が文化を昇華させたので、この摂社に御祭りされている神様はどれも坂東武者が進行した神様ばかりですね。
ここの説明では山王社は日吉神社とされているますが、関東の開発に貢献された河内源氏の御一族は神仏習合と自然神に対する信仰心が強く修験道の影響も受けていたので関東における山王社と呼ばれる神社は山王権現だけでなく蔵王権現を明治時代に習合している場合が多く、実際に軍神として武士団に崇められた名将の源義家公は八王子の滝山城址に蔵王権現の御堂を修復していたりします。源頼朝公も山岳信仰をされた方で伊勢原市の大山や富士山を登山したり富士山の化身とされた此花咲耶姫命を御祀りする浅間神社を横浜市内に造営されています。
その他に、海や大河川を鎮める鶴岡八幡宮を元とした八幡社も多く造営した伝承が関東各地の八幡宮に残ります。
八幡社も明治以前は御祭神の誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)は別名❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の天皇家の文化を代表する神様の一つです。京都府八幡市の石清水八幡宮や鎌倉市の鶴岡八幡宮には明治時代まで多宝塔も有りました。
師岡熊野神社を“大霊験所”として信仰した光孝天皇はじめ宇多天皇、醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇等源氏の始祖に成られた天皇のいずれも神仏習合の時代に生きた方々ですので、神職と仏僧の両方の特性を持つ修験道の山伏達や修行者も大切にされたのでしょうね。
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その影響を引き継いだのが源義家公や源頼朝公は自然信仰を大切にされたのでしょう。
日本人の宗教観は明治時代以前はおおらかなものだったので、八幡信仰や、この熊野神社に見られる権現信仰の様に自然崇拝や自分の祖先に当たる神様を祀る祭礼や歴史偉人を供養する菩提寺や仏教経典を全て、文化として等しく継承したんですね。
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そして、この師岡熊野神社は、周辺が海に囲まれていた縄文の古代からの聖地なので、裏の権現山に貝塚が有る訳ですが、この権現山は少し変わった風景を見る事が出来ます。
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新幹線が丘の下を走っているんですねぇ~。
望遠レンズを持ってる人なら、横浜~品川間の新幹線が住宅街の真ん中を走り抜ける様子を撮影する事が出来ます。
古代の人に大切だった、この師岡も…
平安時代~戦国時代には古代からの開拓された集落を結ぶ街道が出来て、その街道を抑える師岡付近には大曾根城や小机城、佐々木高綱公の鳥山城館が築かれました。
…現代には新幹線や第三京浜道路が通り人と物の輸送を担う日本の大動脈とも言える土地にまで成長した訳ですね。
最初に、この師岡熊野神社の神泉を見つけ飲料水を確保し集落を形成した先人への歴代天皇と関東統治者のリスペクトが、この❝関東随一大霊験所熊埜宮❞には沢山詰まっている訳です。

きっと、皆さんの御自宅の近くにも、思いがけない歴史を持つ神社や御寺さんや城跡の山が有ると思います。
町で買い物をするのも良いですが、ちょこっと都会の喧噪を離れて近所の鎮守の森を散歩してみませんか?
そこには先人とのタイムカプセルの役割を果たして来た歴史が詰まっているかも知れませんよ?

では!、又、次のブログ記事で御会いしましょう!








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埼玉県には鷲宮(わしみや)と言う土地が有ります。
この地名の由来は古代、日本史で言う所の土師(はじ)氏と言う部族が開拓したと伝わっている土地で、この“土師(はじ)”が悠久の年月を経て訛(なま)り“はじ”→“わし”と転化した事に由来すると言われています。
この伝承と符号する神話を持つ神社が、この鷲宮にはあり、その名も“鷲宮神社”と呼ばれている関東で最古の大社(たいしゃ)格の権威を持つ神社です。
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余談ですが鳥居には色々種類が有るの御存じでしたか?
大別すると、この鳥居の様に複雑な形をした物を明神鳥居と言います。
対して丸太を組み合わせただけの様なシンプルな鳥居を神明鳥居と言います。
どうも色んな神社を参拝した経験的に、出雲系の神様の鳥居には明神鳥居が多い様です。
さて、そこで、この鷲宮神社の神話と鳥居が結びつきます。
土師氏と歴史で位置づけられる、この土地を開拓した一族は、鷲宮神社の神話によれば出雲国出身の一族で27人の部族集団から始まったそうです。
この土地からは古代の遺跡が多く出土しており、この神話を証明するに十分な状況はそろっています。
つまり、この地は出雲族、素戔嗚尊の御神孫27人の部族が移住し開拓した“聖地”な訳です。
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27人と言うのは、国を開拓する規模で考えると人数と言うより27集団と考えた方が自然かと思いますが、縄文時代や弥生時代の集落と言うのは多くて100人超える規模、少なくて数世帯で数人なので考古学的にも、この鷲宮神社の伝承は信憑性の有る開拓者の人数だと思います。
最初は27人からスタートして、鷲宮に村が出来て、交易に来る人が定着し、大きな集落に発展して下総国周辺を開拓されて行かれたんですね。そして平成の世では、この出雲族の開拓地が聖地と呼ばれる程、神話上も考古学上も重要な場所に成った訳です。
だからか解りませんが…
この地域の特産品が“聖地酒”と言う日本酒のようです。
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昔の門前町に当たる商店街は何だか良くわからない女の子のキャラクターが、聖地酒と言う御酒のアイコンに成っているようで、商店街中至る所でプッシュしてました。
…年上好き非ロリコン、3次元の生身の触れるリア女性が好み(笑)の小生としては非常に、店に入り難(にく)く成ってしまう購買意欲を削がれる看板でした(笑)。
でも、商店街の人が頑張ってる感じは伝わって来たので、素晴らしい取り組みだと思います。
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看板はアレですけれど、小生的には好きな店構え。
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商店街は残念ながら過疎ってますが、この道幅の道路の両脇に古めかしい建物が在ったので、つまり江戸時代も当時もこのままの道幅だったと言う事ですね。
…と、言う事は、この道幅は昔からするとかなりの大通りに成るので、この鷲宮神社の門前町だった江戸時代は相当参拝客で栄えていた事が推測できます。
鳥居をくぐると、境内は趣の有る参道が参拝客を出迎えてくれます。
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良いでしょ?
左手の掲示板の様な物は所有する重要文化財の説明等が書かれています。
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まぁ、防犯上の都合も有り、通常宝物は市の博物館やなんかに保管委託して有ったりする物なんで、鷲宮神社も所有していても、まさか神社の境内に在る訳じゃないと思いますが。
神社の由来の説明も有ります。
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武蔵国造(むさしのくにつくりのみやつこ)と書いて有りますね。
これは間違いです。
武蔵国が成立した頃は既に国司(こくし)と言う名の知事職が存在していましたし、武蔵国の成立自体が西暦400年~500年頃の話しですので、この説明に書くべきは“佐賀牟(さがむ)の国造(くにつくりのみやつこ)”とです。
実際に初代佐賀牟国造は諏訪の建御名方神(たけみなかたのかみ)の御神孫5代目と伝承しています。
佐賀牟国が相模国と武蔵国に分裂した経緯(いきさつ)が伝承しているのが、恐らく神奈川県大磯町の神揃山で古来行われていた国府祭(こうのまち)と呼ばれる神様同士の喧嘩と仲裁の御話しです。
この鷲宮神社は関東総鎮守(かんとうそうちんじゅ)と異名の有る大社なのですが、神奈川県にも同じく縄文時代からの祭祀史跡を御神体の大山に抱える大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)と言う“関東総鎮護(かんとうそうちんご)”の異名で呼ばれる神社が在り、そちらの神話でも同様の伝承が有ります。
更に、縄文時代の祭祀場や古墳時代の古墳群を旧社地に抱える神奈川県の比々多神社も御祭神を豊国主(とよくにぬし)=大国主命としています。そして、恐らく佐賀国分裂のきっかけを伝承している神事の国府祭に登場する神様の一人が比々多神社の神様です。因みに、比々多神社一帯は有る時期、国府が置かれていただろうと推定されており三宮と言う地名にその名残も留めています。
つまり、関東の神話を証明する通り、鷲宮神社を含めた関東の古社では素戔嗚尊の御神孫達が関東を開拓した事に成っている訳です。
説明看板の通り、その由緒正しさを証明する様に関わられた偉人も日本武尊に始まり、源八幡太郎義家公、源頼朝公、北条時頼公等々…凄まじい歴史偉人達ばかりです。
因みに、日本武尊がこの地で社殿を造営した神話を補強する神社と御寺が神奈川県に3ヵ所有ります。
一つが…
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走水神社…神奈川県横須賀市走水、三浦半島の先端。
この場所から東の房総半島へ渡航を目指した日本武尊と御妃(きさき)の弟橘姫(おとたちばなひめ)様は一度、東京湾の激しい潮流に北に流され渡航失敗しました。
この時、日本武尊は素戔嗚尊を信奉していたそうで、現在も走水神社の奥宮には素戔嗚尊と奇稲田姫の御夫婦が建国された須賀国の名を頂く須賀神社と諏訪神社、神明神社の三社が明治時代に付近の元境内から明治政府の破壊から免れ遷座保護されています。
ちなみに破壊の原因は思想的な物では無く、防衛上の砲台の建設の為の用地接収でした。
遷座を実現し保護されたのが東郷平八郎元帥や明治の元勲達でした。

日本武尊が房総へ渡航を目指した時、漂流して又走水に戻る際に通ったと思われる伝承が有るのが、横浜市磯子区杉田の妙法寺です。
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ここは戦国武将間宮家の分家杉田間宮家の菩提寺であり、北条家の重要な港湾拠点の一つだった地域でもあります。因(ちな)みに、鷲宮神社の古代から江戸時代までの宮司家は大内家で、その大内家に江戸時代初期に間宮本家の笹下間宮家から御姫様が嫁がれており、神話でも戦国武将の血縁でも不思議な御縁で結ばれていたりします。
この付近を日本武尊一行が通った伝承の有り、その伝承に基づいて弘法大師空海和尚が現在の妙法寺の境内に前身となる牛頭天王の御社(おやしろ)を勧進されたそうです。
牛頭天王は仏教名ですが、日本神話の素戔嗚尊を同一視した神仏習合の御名前です。
つまり、空海和尚は日本武尊の牛頭(素戔嗚尊)信仰を御存知(ごぞんじ)だった様ですね。
妙法寺は牛頭天社を本格的な寺に発展させ開基した荒井家が日蓮宗徒だったので鎌倉時代に日蓮宗の御寺として始まり、現在に至ります。つまり真言宗と日蓮宗両方の歴史を有しています。
さて、では何でここを日本武尊が通りがかったですが、実は走水神社の前の海を古代人の習慣に従って冬~早春の早朝に出港すると、神話通り激しい北向きの潮流に流されてしまうんです。
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その流される先が、正に、横浜市南部沿岸部、この杉田周辺に成るんですね。
そして、この付近は久良岐の丘と呼ばれる断崖絶壁の海岸に囲まれた丘陵地で、数少ない寄港可能な場所が、この六浦、金沢、杉田、屏風ヶ浦、蒔田と呼ばれる辺りだけに成る訳です。
つまり、流された日本武尊はこの付近から上陸し走水に陸路帰ったはずで、空海和尚の事績と整合性も有る訳ですね。
そして、そんな科学的な事を分析する術の無かった神話の頃の古代人は、海や川や火山の噴火を鎮める為に人柱(ひとばしら)=生贄(いけにえ)を差し出し自然の協力を得る訳です。
神話の時代の日本武尊一行も、セオリー通り人柱を海に捧げました…
と、言うより、奥さんの弟橘姫様が自ら海に飛び込まれて犠牲に成られ海を鎮められました。
そして、日本武尊一行は弟橘姫様の犠牲の上で房総半島への渡航に成功します。
では、何故(なぜ)、弟橘姫様が海に飛び込んだら日本武尊一行は渡航に成功したかですが、それも潮流と古代人の活動時間で説明が付きます。
古代人は電気が無いし、夜間行動は狼(おおかみ)や野犬等の猛獣に暗闇の中で襲われる危険が有るので、当然、朝早くから行動し、夕方日没には安全な拠点にて休息する訳です。
弟橘姫様の人柱の神事を早朝、冬なので夜明けの6時過ぎ~7時位から始めたとして、例えば儀式が一しきり終わるまで数時間かかって昼前か正午位に成るとします。
すると…
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冬の正午頃の東京湾の潮流は落ち着き、走水~日本武尊が上陸したとされる富津(ふっつ)半島の最短ルートは正に時計と反対回りの潮流で“水が走る”様に潮流が船団を自然に辿(たど)りつけるんですね。
ちなみに富津(ふっつ)は古来“布津”とかいて“布津(ふっつ)”と呼ばれていましたが、いつの時代からか字を変えられてしまいました。
その地名の由来は、入水した弟橘姫の衣(ころも=服)=布が流れ着いたのを発見された場所だから、布津と成ったとされています。
この布津と、神剣“布津の御霊”も何か関係が有りそうですね。
ついでに…
富津の北の❝君津❞は日本武尊が人柱に成った弟橘姫を思い悲しみ「君はもう帰らないんだね」と嘆いた場所。
更に北の❝袖ケ浦❞は❝弟橘姫の着用していた小袖(こそで=和服の原型)=下着が流れ着いた場所❞なので、その地名が袖ケ浦に成ったそうです。
この伝承も、潮流と整合性が有ります。布類では無い木製の櫛だけが布製品と違う潮流に乗って対岸の橘樹神社の辺りの古代の港に漂着したのでしょうか?
さて、これ等の根拠と走水神社の神話と妙法寺の空海和尚の事績伝承を更に補強する凄まじい神社が神奈川県川崎市高津区に在ります。
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その名も橘樹(たちばな)神社です。
名前の通り、弟橘姫を御祀(まつ)りする神社ですが、この地は古代の橘樹郡の政庁の跡と推測されている上に、神社の本殿の真っすぐ真裏の今は住宅街の山は巨大な円墳の跡なんですね。
その円墳が本来の御神体であり本宮の様な存在で、御神体の正体はなんと、弟橘姫の櫛(くし)だとされています。
入水した弟橘姫の櫛が流れ着いたのが、この高津区の橘樹神社の土地だとされています。
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円墳の頂上部分は現在も保護されています。
古墳時代は西暦100年代後半が現在の考古学で確認できる一番古い時期ですが、その時期の始まりは考古学の発掘が進むにつれて段々はやまっています。
日本武尊は西暦100年頃を生きていたと人物だと神話では動向を確認できます。
神話ですので誤差前後100年は有るかも知れませんが、古墳時代の始まりとほぼ整合性も有ります。
仮に神話が若干誤差が有るとして、近い時代の人物に卑弥呼がいます。卑弥呼には弟がいて政治や軍事を代行していた記録が、中国の史書三国志の魏志倭人伝に残っています。
もしかして日本武尊は、この卑弥呼の弟か弟の子だったりして…
もしそうなら…
倭媛命(やまとひめのみこと)=卑弥呼、景行天皇=卑弥呼の弟じゃないのか?
そう言えば景行天皇の皇后には弟姫皇女(おとひめのひめみこ)って人物がいるけれど、これって…
弟姫皇女(おとひめのひめみこ)=弟橘姫(おとたちばなひめ)なんじゃないの~?
そう言えば魏志倭人伝には、卑弥呼の後で男王が即位したが国が纏(まと)まらなかったと記録が有るけれど、景行天皇の代にも九州で再び反乱が起きたのを皇子の日本武尊が討伐してるよな~?
じゃあ!日本武尊は卑弥呼の甥っ子って事?
そうなると、魏志倭人伝による所では男王では混乱は収束せず再び女王が立王されて国が統一されたと有るから、景行天皇と日本武尊の兄弟の成務天皇の代では収束せず、神功皇后の代(仲哀天皇)の代で混乱が収束したと考えると、卑弥呼の跡を継いだ女王は臺予(よと/いよ)だから、神功皇后は臺予なのかな?
な~んて可能性も考えると浪漫(ロマン)が有りますね~。

話を橘樹神社に戻します。
古代、この高津区は海でした。
高津区の区名、高津は分解すると“高(たか)い場所”にある“津=港”と言う意味に成ります。
つまり、高津の地名を付けた人の時代より古代、この“高い丘は昔は港だった”と言う地理が良く解ります。
では、現在はこんなに内陸の川崎市高津区は本当に海だったのでしょうか?
昔の海岸線
はい!御覧の通り正に橘樹神社の所在地の川崎市高津区は半島でした。
そして、当時の千葉県の袖ケ浦は名前の通り“浦=湾”でした。
現在、この橘樹神社の在る川崎市の手前は横浜市鶴見区です。
鶴見の地名の由来は鶴見川と言う市境の川の名前に由来します。この川は別に昔、鶴が見れたから鶴見な訳ではありません。鶴見(つるみ)と言うのは、古代語に翻訳しますと❝ツル=渦を巻くほど速い❞+❝み=うみ=海❞と成り、流れの早い海と言う意味に成ります。
この鶴見川河口は古代は潮流が速い川の流れとぶつかり渦を巻くような交通の難所だった事が地名から推測出来ます。更にその奥には多摩川が有り、陸路で鷲宮神社の所在地である下総国鷲宮=埼玉県鷲宮へ渡るには大きく北上して鶴見川や多摩川の上流辺りのとか可能な場所まで遠回りする必要が有り、稲作が普及していなかった当時、携行できる食料に米は無く食糧事情で陸路東を目指すのは困難だったので、走水から1日で目的地の房総へ渡る事の出来る海路をとった訳ですね。

縄文海進 久良岐のよし
倭建命の神話の時代は丁度、弥生時代~古墳時代転換期の直前の数百年間位。
縄文海進の時代の関東平野は海の底。縄文時代に海だった所はまだまだ弥生時代には干潟や湿地や巨大河川やご紹介が多かった。
つまり、纏めるとこうなります。
1鷲宮方面を目指し走水で最初午前中に出港した日本武尊一行は
2一度渡航に失敗し東京湾を左回りで北に流され漂流し上陸し杉田の妙法寺辺り通って走水に戻り
3走水で弟橘姫が東京湾に入水し人柱の儀式を済ませた昼に日本武尊の軍勢は再度出港
4富津(布津)で上陸した後、君津~袖ケ浦と東京湾沿いに北上し、上陸後、今度は利根川と霞ケ浦に行く手を阻まれ、利根川の渡河地点を探しながら川沿いに鷲宮に辿りついた…
…と、推測が出来ます。鷲宮に出雲の御神孫の一族の集落が在ったので、その地に滞在し社殿=宮殿=仮御所を造営したのが鷲宮神社の始まりだとすれば、こららの事が全て鷲宮神社の神話の証明にも成るかも知れませんね。

では鷲宮神社の歴史から、話題を鷲宮神社の施設其の物に移しましょう。
由緒ある神社なので明治天皇も行幸されているようです。
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歴史家で政治家の徳富蘇峰が揮毫した石碑に明治天皇の行幸を賜った事が記されていました。
偶然ですが、小生の祖先と徳富蘇峰は同郷です。
そして鷲宮神社の江戸時代までの宮司家の大内家と同じく小生の一族も国造の官職を務めた一族の子孫です。御縁ですね。
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参道を進むと立派な狛犬が出迎えてくれました。
因みに左手は駐車場で、その間には催事の掲示板もあります。
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マラソンとか興味無いし。
問題はその近くには…
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デデン!…と、登場するこの石碑が、鷲宮神社が聖地である証拠の御題目ですね。
その名も鷲宮遺跡。
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この池が古代からの祭祀遺跡なのでしょうか?
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池の名前は❝光天之池❞と呼ぶ様です。
名前からは何の神事が行われていたかは想像がつきませんが…
例えば池で行われる神事と言うと、京都の下賀茂神社の御手洗池は古代、参拝前に禊(みそぎ)を行う場所でした。
横浜の師岡熊野神社の❝い池❞は雨乞い神事が行われる池でした。
…この光天之池はと言うと?
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名前は最近名付けられた様です。
しかし、この看板を見る限り龍神信仰と関係が有るので間違いなく池の神様は水神様、つまり雨乞いや治水等の目的の神事が行われていた可能性が有りますね。
これは大山阿夫利神社の御祭神、高Okami 10.5pt.png(たかお)神と言う古事記に登場しない神様と同じ龍神で水神信仰の対象だったと思われます。鷲宮神社も大山阿夫利神社も出雲系の一族が開拓した土地の神社ですからね。
この高Okami 10.5pt.png(たかお)神は、恐らく東京都多摩地区の観光名所の高尾山の地名の由来でもあるはずです。
高尾山は天狗神話の有る聖地ですが、大山阿夫利神社にも天狗の伝承が有るので類似点が多いので、間違いないと思います。
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池の直ぐ裏には摂社には、さいたま市岩槻区、旧岩槻市の総鎮守であった久伊豆(ひさいず)神社が鎮座しています。
久伊豆神社の御祭神も又、農耕の神様で出雲の神様の大国主命です。つまり、さいたま市一帯を開拓したのも出雲族と言う事が推測出来ます。
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絵馬奉納する処の後ろで立派な樹が参拝客を見守ってくれています。
境内の本殿の手前には八坂神社が在りました。
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八坂神社の御祭神は素戔嗚尊です。もう、出雲代表みたいな神様ですね。
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こちらは確か八坂神社の御神輿が保管されている御社だったかな?
しかし、この鷲宮神社自体の御神輿は更に立派で、保管庫の御社も立派でした。
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小さい一軒家くらい。
ガラス張りなので、保管されている御神輿も展示物の様に見る事が出来ます。
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立派ですね~♪
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御神輿の謂(いわ)れ。
社務所横には立派な神楽殿が在りました。
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その神楽殿の隣には、江戸時代に農民や力士が力比べした❝力石❞が保存されていました。
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いや~これ、かなりデカイんですよ。
この様な力石は、古い神社には良く有るんですが、現代一般人ではかなり力持ちに入る小生でも持てません。
昔の人はスンゴイ足腰丈夫で筋肉質だったんですよね~。
実際、江戸時代の飛脚の写真とか見ると、プロレスラーみたいな体系の人ばっかりなんですよね。
武士なんか江戸時代には軟弱な官僚化しちゃってて腕っぷしの強い江戸の町人や農民には絶対に喧嘩売れなかったって有名な話しです。
その力石の横には姫宮神社と言う摂社が在りました。
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名前からして姫神様を御祀りしてそうなので、この鷲宮が出雲系の神様の御神孫の土地と言う事を考えると、この姫宮神社の御祭神は素戔嗚尊の子の3柱の姫神様である宗像(むなかた)三女神様でしょうか?
もしそうなら、海上交通の神様で水神様ですね。
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御本殿はなかなかの規模です。
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中が拝める。
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正月の中頃に訪れたので、まだ初詣の名残が有りました。
この鷲宮神社は、明治政府樹立時や太平洋戦争終結時に社領を大分接収されてしまっていますが、今でも広大な敷地を誇り、その境内の鎮守の森の中には沢山の摂社が御祀りされていました。
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色んな神様が、なんだか昔話に出て来そうな雰囲気で参拝客を迎えて下さいます。
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こちらは神明鳥居。
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うん!神明鳥居だけあって、やはり神明神社と鹿島神社がある。
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森の中の摂社だけれど、綺麗な造りですね。
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こちらはひっそりと…
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この森の中の参道もなかなか雰囲気が有りました。
ちなみに、江戸時代には1000石の社領を誇ったそうで、旗本ならば大身旗本の規模の経済力を誇っていました。
恐らく戦国時代の北条家の庇護下や鎌倉時代の源頼朝公の庇護下に在っては、更に広大な社領を誇っていたのでしょう。
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この粟島(あわしま)神社と言うのは、淡路島を本宮とした神様なのですが、明治時代に成立した国家神道は伊勢神道をベースにして更に神仏習合の千数百年来の日本人の宗教観を否定しているので、国家神道の神話の世界観と、この粟島神社の存在がマッチングしないので明治時代には全国の粟島神社では似た御神威の少彦名(すくなひこな=一寸法師のモデル)を御祭りする事で存続を図りました。
本来の神様は淡島神(あわしまのかみ)なので、恐らくは淡路島を神格化した神様だったと思います。
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他にも沢山の摂社が鎮座しています。
どうですか?
由緒正しくて立派な神社でしょう?
もし、久喜市や古河や栗橋方面に出掛ける機会が有ったら、是非!御参りされて見ては如何でしょうか?

では!又、次の記事で御会いしましょう!








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ブログネタ
2015年の抱負は? に参加中!
神奈川県伊勢原市にそれはそれは凄い歴史を持つ神社が有ります。

比々多神社と言う神社です。
関東では安産祈願で有名な子易神社の本家本元も、此方(こちら)の管轄に成っている程の由緒ある神社です。

御祭神は…
●豊国主尊(とよくにぬしのみこと)
=土地開発の神様。
●大酒解神(おおさけとけのかみ)
  &小酒解神(こさけとけのかみ)
=酒造・防火・子宝・縁結びの神様。
●稚日女尊(わかひるめのみこと)
=紡績業服飾製造手芸の神様。
●天明玉命(あめのあかるたまのみこと)
=子宝の神様。
●日本武尊(やまとたけるのみこと)
=軍神・陸海交通・縁結びの神様。
…です。
何か若夫婦に人気の有りそうな神様が多いですね。

実はこの神社、もの凄い場所に在(あ)ります。
聖地?歴史遺跡の真ん中に在るんです。
周辺には縄文時代〜奈良時代の祭祀(さいし)場であるストーンサークルや、古墳等が沢山発掘されています。
そして近所には七沢城や岡崎城と言う重要拠点も戦国時代に有りました。


現在の社殿のすぐ裏にさえ、古墳が有ります。
発掘され復元されたストーンサークルも…
こんな風に縄文〜古墳〜平安〜戦国時代の遺跡が神社敷地内や周辺には沢山在(あ)り、神社に伝わる縁起(えんぎ=歴史)に登場する以下に記す歴史偉人との関係を証明してくれています。

開基(かいき=開いた人)
●神武天皇
中興(ちゅうこう=支援した人) 
●崇神天皇
●垂仁天皇
●持統天皇
●孝徳天皇
●聖武天皇
●淳和天皇
●相模国司       布施色布知公…持統帝時代 
●初代宮司       紀    益麿   公…聖武帝時代
●相模国司       橘    峯嗣   公…淳和帝時代    
●征夷大将軍   源    頼朝   公…鎌倉幕府
●相模守護       三浦道寸   公…室町幕府
●征夷大将軍   徳川家康   公…江戸幕府

凄まじく由緒正しいんですよ…

改めて社殿の写真を…
社殿の大きさは、普通の神社より少し大きめ位の規模ですが大山の麓(ふもと)に在るので、凛とした空気の清浄さを感じます。
大山は山自体が古代から信仰対象に成っている聖地です。
大山にも古い歴史を持ち、山伏達の修行場や温泉地として栄えた大山阿夫利神社と言う神社があります。
ココ↓ね。
※大山阿夫利神社の記事は「ココ」←クリック!
因(ちな)みに大山の神様の大山祇神(おおやまづみのかみ)は、富士山の神様の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の父神様です。
ですから、伊勢原市からは箱根山越しに富士山が綺麗に見えます。

しかし本当、この比々多神社の周辺遺跡から出土した埋蔵文化財は量も凄まじい…。
比々多神社の社務所の隣には三ノ宮郷土博物館が有り、埋蔵文化財や関わりの深い平安〜戦国時代の大名三浦家所縁(ゆかり)の武具が展示されています。
ここは必見ですよ!

比々多神社は皇室と関わりが深いので、神社の家紋に五三桐紋の使用が許されています。
また、平安時代〜戦国時代の三浦家との関わりから三浦家の「三つ引き両紋」も譲られている様(よう)です。

三浦家との関わりについてですが…
比々多神社の近所に岡崎城と言う城跡が有りまして、そこの初代城主の岡崎義実(よしざね)公と言う方が実は鎌倉幕府御家人筆頭格の三浦家の分家で、それ以来の関わりだと思われます。
征夷大将軍源頼朝公の御父君に当たる源義朝公の時代から岡崎義実公は、比々多神社周辺の領主でした。
義実公は鎌倉武士団中、最も源氏に対して誠実だった様で、頼朝公の父君源義朝公が平家に敗戦し愛知県の長田と言う家臣に裏切られ謀殺された際には、自らの保身に走る事なく現在の鎌倉市寿福寺の場所に義朝公の御廟所を建て弔った方(かた)でした。
※三浦家と祖先の坂東平氏については以下のリンクをクリックして過去記事を御覧下さい。
ココ」「ココ」「ココココ」←クリック!

戦国時代に成ると三浦本家は佐原三浦家が継ぎ、比々多神社近くの岡崎城を本拠地にしました。
しかし、小田原北条家が台頭すると三浦家は敗北してしまい、最後は三浦半島の油壺に有った新井城で滅亡してしまいます。
実はその三浦家と北条家の合戦の際に、比々多神社は三浦家に味方したので戦火に巻き込まれてしまったんです。
その際に昔の社殿は消失しました。

今、社殿の在る場所は、古代の本殿の在った位置から500m位南に再建されたんですね。
しかし現在地も古代比々多神社の境内域内だと思いますよ…
多分広大な範囲が神社だったんだと思います。
なんせ、周りは遺跡だらけですから。

今の境内の裏の女子大や畑を通り抜けた裏山が昔の本殿の跡です。
この↓畑の裏山
そこを通り過ぎると「埒面(らちめん」と
言われる昔の本殿跡地。

元々の本殿の在った場所には今ではミカン畑に成っていますが、祠(ほこら)が祀(まつ)られています。
で…
この元々の本殿の在った「埒面(らちめん)」と言う地名なんですが…
"埒"と言うのは「壁や柵など」の防御施設の事なんですが、解決の手段が見つからない時に使う「埒が開かない」てのは、つまり城を攻める突破口が見出せないと言うのが語素なんですね。
そして「埒面」と言う地名から元々の本殿の在った場所は門や防御柵に囲われた有る意味山城みたいな造りだったのかも知れませんね。
ですから埒面には建物が沢山有った形跡ぽい削平地だらけでした。
そして昔の本殿跡だけ有って風景が綺麗でした。

この丘の近くまで神話の時代に当たる縄文〜奈良時代は海だったんですよ。
ほら↓この通り。
だから古代の遺跡はだいたい丘陵の上に有りまして、必然的に見晴らしも良い場所が多く成ります…
それにしても綺麗な風景でした。

ついでに素晴らしい歴史を持つ比々田神社の巫女さんも綺麗でした(笑)
ん?
神社の歴史と巫女さん達の可愛いさは関係無いか(笑)。

ところで皆さん…
もし安産祈願で比々多神社や子易神社に参拝する機会が有ったり、大山や伊勢原市方面へ何か行く用事が有れば是非、比々多神社の三ノ宮郷土博物館も拝観して見て下さい。
そして…
本殿で神様に自分の御願いを願掛けする時に、神様に歴代の開基中興偉人へ現代の発展の基礎を作って下さった皆さんへの感謝の伝言も御願いしてみては如何でしょうか?
私達現代人の生活は突然発達した訳じゃなく、古代からの先人達の御蔭でもありますから…

あ、伊勢原市からの帰り道、比々多神社の近所の"ふじみ野"と言う地域で、夕暮れの富士山の綺麗な山陰を拝めました!
流石、大山のお膝元…
大山阿夫利神社の神様は富士山の神様のお父さんですからね。
富士山が綺麗に拝めます。
富士山の手前には箱根山系や伊豆の山々が広がっています。

では、長くなりましたが…
今年1年が皆さんにとって良い年に成ります様に〜♫
これが今年の対外的な願いかな?

では皆さん、又、次のブログ記事でお会いしましょう!
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日本武尊(やまとたけるのみこと)と
弟橘媛(おとたちばなひめ)の夫婦神
漁師と料理人の神様の大伴黒主(おおとものくろぬし)
…その三人の神様をお祀(まつ)りする神社が三浦半島の走水海岸の御所ヵ崎近くに在(あ)ります。

付近は風恋明媚(ふうこうめいび)な漁村です。
釣船屋さんと地魚料理の食堂が立ち並びます。

今回ご紹介する神社の神様は川崎市高津区子母口の橘樹神社とも同じ夫婦神様の日本武尊と弟橘媛です。
川崎市の橘樹神社には弟橘媛様の古墳も一部分現存しています。
詳しく知りたい方は以下の関連ブログのリンクをクリックして見て下さい。
橘樹神社のブログ記事はココ←クリック!

さて、横須賀市の走水神社の御祭神(ごさいしん)が日本武尊と弟橘媛と大伴黒主である理由は、実は御三方はここに住んでいらっしゃったからなんです。
日本武尊と言えば日本を代表する武神であり軍神です。
弟橘媛はそのお妃(きさき=王様の妻)で、海上交通の神様で、浦島太郎伝説の乙姫様のモデルでもあります。
夫婦が揃うと文字通り"日本最強の縁結びの神様"の御利益を発揮される訳です。

走水神社のすぐ近くに小さな半島の"御所ヵ崎(ごしょがさき)"が在ります。
正に其処(そこ)が御二人が夫婦生活を営まれた「御所=高貴な人の館」の所在地だったのです。
だから神社の目の前は海♪
写真左上が御所ヵ崎。

そして御二方に海鮮料理を作り接待したのが"大伴黒主"様なんですね。
走水神社の氏子さんの話では大伴黒主様は後に日本武尊にスカウトされて古代大和朝廷(やまとちょうてい)に仕え総料理長に成ったそうです。
だから料理の神様なんですね。

関係有るかは不明としておきますが…
逸話の内容や古代服装からして、"大伴黒主様は七福神の大黒天"の日本でのモデルだと思います。
大伴黒主の時代の服装の方がより大黒天に近いですからね。
ただ、大黒様はインドのヒンドゥー教由来の神様です。
歴史的には古代の豪族大伴氏は天皇の近衛兵と水軍の管理を任された名族です。

走水神社の上からは走水神社を中心にした漁村が良く見えます。
港の左手には御所ヵ崎…
…海面の高かった古代では"浦"に浮かぶ"島"…浦島に見えたでしょうね。
湾を挟んで対を成す神明神社の在った半島…
埋めたてられる前は、走水神社を中心にして鶴が羽を広げた様な風光明媚な海岸だったんでしょうね。
航空写真を見て頂ければ、その位置関係と地形も一目瞭然…
しかし
明治時代に御所ヵ崎と神明神社の半島は明治政府に接収され破壊され砲台が築かれたので、それ以来入る事は出来ません。
誠に不敬で遺憾な事です。
ですので、心を痛めた東郷元帥や乃木大将や伊東祐亨閣下等の有志により、湾の中心に有る走水神社に橘樹神社と神明神社を合祀(ごうし=同じ神社の敷地内に神様をお引越しする事)しました。
日本武尊と弟橘姫の仮御所だった走水海岸の御所ヶ崎周辺からの眺望は素晴らしく、海に突き出し昔は島だったであろう御所ヶ崎と地続きの丘の上から見る三浦半島の海岸線の先には富士山に夕日が沈む姿が見られ、正に乙姫伝説の海の中の竜宮城の形容に相応し場所です。
image
御所ヶ崎の社殿は砲台建設時に明治政府によって接収され破壊されました。
御分霊だけ明治の元勲の中の信仰心厚い面々によって奥宮に保護合祀されたが古代の仮御所の史跡は永遠に失われ訳です。
CIMG1998
冬季であれば雑草も枯れて門の入口から中の様子が少しだけ見えます。
見学されたい方は横須賀市公園管理課に問い合わせて予約すると、御所ヶ崎砲台史跡として見学する事が出来ます。
走水神社から御所ヶ崎に行く途中には下の看板も有り簡単な説明が掲載されています。
CIMG1996

因みに神社には弟橘媛と日本武尊の暮らした御所ヵ崎の砂を"縁結びのお守り砂として無料配付(はいふ)"しています。
スプーン一杯分くらい持って帰ってお守りにして良いそうなので、小さなジップロックみたいな袋か和紙を持参して行くと良いですよ!
この神社の手水(ちょうず)は正に御神水とも言える自然湧水で、富士山系の腐り難いバナジウム天然水らしいです。
ですので、昔は船に積み込むミネラルウォーターに用いられたそうです。
同じ泉質の横浜市中区の打越の霊水は、やはり明治時代に遠洋航海する船の飲水や、同横浜市中区に在った幕末のキリンビールの最初の本社工場で使われた水も同じ泉質でした。
走水神社本殿自体は建て替えられたばかりの綺麗な社殿です。
写真撮り忘れましたすいません…
…面目無い_| ̄|○
神社内には弟橘媛と日本武尊が詠(よ)んだとされる和歌が刻まれた石碑も有ります。
走水神社は古代から此方(こちら)に在ったそうで、伝説では日本武尊が来る西暦2世紀より以前の紀元前には有ったそうです。
建て替えの際に社殿の床から伝説通り日本武尊から奉納(ほうのう=神仏への寄付)された冠(かんむり)を保管する石室の壁が出て来たそうです。
本殿横には弟橘媛の侍女を祀るお社もあります。
今も古代の石造りのお社が走水神社の奥宮に移築され祀らています。
右から…
須賀神社=素戔嗚雨之命(すさのおうのみこと
神明神社=天照大御神(あまてらすおおみかみ)
諏訪神社=建御名方神(たけみなかたのかみ)
つまり…
須賀神社=軍神と水運=日本武尊の信仰した神様。
神明神社=大和朝廷皇族の祖先神
諏訪神社=弟橘媛と大伴黒主の祖先神と同じ渡来系技術の神様。
…と言う感じです。
大伴黒主は別名:久応と伝わります。は日本武尊達を歓待した地元の豪族で漁民で料理人。横浜市神奈川区六角橋の宝秀寺は大伴久応の邸址と伝わり、そこに日本武尊が滞在した伝承が有る。走水神社の伝承では大伴黒主は日本武尊を接待した後に請われて後に古代大和朝廷の料理長に成ったそうだが、日本神話では日本武尊は岐阜県と滋賀県の県境に在る伊吹山辺りの神(豪族)に帰路を阻まれ三重県の鈴鹿辺りで病没しています。
史実としては大伴一族は水軍を率いて天皇家の御林軍も率いた一族なので、走水で日本武尊を大伴黒主様が歓待された事は神話とも整合性が有り、六角橋の大伴久応の伝承とも整合性が有ります。
つまり、大伴久応黒主様の正体は、東京湾沿岸部西部を支配した豪族だったのでしょう。
六角橋の近くには塩嘗地蔵(しおなめじぞう)と呼ばれる御地蔵様が鎮座していて、そこは火事で戦国時代に廃寺に成った神大寺と言う大寺院の参道入口と伝承します。
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大伴久応邸址の在る六角橋近くには浦島町が在り浦島太郎伝説の舞台で有る事や背後の浦島町~新横浜駅近く篠原城址に繋がる丘は古代に海に面した半島で亀甲岬と呼ばれた事、その半島の一部だった鶴見区に亀甲山の地名が現存する事、現在の新横浜に太田道灌公が小机城攻略の前衛拠点として‟亀甲山城”を築いた記録が残る事、陸奥話記にも登場する源義家公与力武将の丸子宿禰家の所領も中原街道沿い川崎の対岸に丸子の地名が残り大伴家と同族である事から、古代の大伴家が支配した地域が陸海交通の要所だった事が解ります。
江戸時代に東海道神奈川宿が置かれた京急神奈川駅近くの幸ヶ谷~台町一帯は足利尊氏公の時代も交通の要所で権現山城が築城された亀甲岬の一部の小さい半島でした。
その重要性から古代に大伴家が支配したこの一帯は戦国時代も北条家臣で間宮林蔵や杉田玄白の一族の祖先に当たる間宮信冬公が活躍した権現山合戦の舞台に成っています。
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出雲大社はじめ古代の水軍を司った出雲神族の家系は家紋に亀甲紋を用いる事から、現在の浦島太郎の物語は関東の日本武尊神話が元に成っている事も判ります。
浦島太郎が帰る家が無くなる様は、兄王成務天皇に皇位継承権を巡って帰京を阻まれた日本武尊の悲運を抽象化したものでしょう。
そして、その東征の目的は佐賀牟国の国司の内紛鎮定だった筈で、現在の神奈川県の地名由来に成った神奈川と呼ばれた地域、久良岐郡~橘樹郡~多摩郡(川崎市域)は古代大和朝廷の直轄地とされ神(かみ=支配する豪族)奈(無し)の地域が川の様に細長く設置されました。
郡衙と国府と延喜式内社と古墳と縄文弥生遺跡 久良岐のよし
それは、あたかも国境非武装地帯の体を成し武蔵国と相模国の国境地帯に重っています。
この佐賀牟国が相模と武蔵に分割され争乱を鎮めた事が垣間見える神無しの地域こそ、‟初代か二代目の”日本武尊の偉業が豪族紛争鎮定であり、天皇家介入による非武装地帯の設置の聖跡だろうと推測出来ます。
それを示す様に同地域には延喜式内社が存在していません。
本来ならば、この走水神社も延喜式神名帳に載るべき場所なのに掲載が無いのは奈良時代~平安時代初期に支配者豪族不在で上奏が無かったか大和朝廷から派遣された代官が働くに郡衙政庁として機能していた為でしょう。つまり、古代からの政庁機能が生きたまま神社には成らなかった場所だと推測出来ます。
更に、日本武尊の人物像に習合されている可能性の有る人物がいます。
雄略天皇の時代450年代~500年頃にも武蔵国造(むさしくにつくりのみやつこ)の乱が勃発しており、埼玉県稲荷山古墳出土した金象嵌鉄剣に彫られた‟獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)”の名こそ雄略天皇であり多支鹵=武尊(たける)の名を継承した大将軍職の尊称だろうと推測出来て、日本武尊神話に複数人の事績が後から習合されているとされる説が根強く有る事も理解出来ます。
応神天皇の別名が大鞆和気命(おおともわけのみこと)や誉田(=多)‟別”尊(ほんだわけのみこと)である事から「和気(わけ)」「別(わけ/わか)」の「わか/わけ」が獲加多支鹵大王の「獲加(わか)」に通じ、「稚」にも通じる音である事から、「ワケ/ワカ」は仁徳天皇以降使われなくなり現代には伝わらない皇族の青年将軍に対する尊称であったと解釈出来ます。
下の写真は延喜式神名帳に掲載される相模国四之宮前鳥神社です。
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相模国四之宮前鳥神社の主祭神で京都の宇治市から神奈川県平塚市に移住した応神天皇の皇子、莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命(のみこと)は、やはり御名に「稚」の字を含んでいます。
前鳥神社の近くには、その御陵と推測される真土大塚山古墳も在り古代大和朝廷や卑弥呼が魏の皇帝曹叡と丞相の司馬懿仲達から送られた200枚の銅鏡に繋がる三角縁神獣鏡が発掘されています。
莵道稚郎子命は日本で最初に漢学(兵法や儒学や雅楽)を学んだ人物とされています。
中世~近世の武士達が当主の嫡子を「若(わか)様」と呼んだのも、この古語の名残でしょう。
この関東で活躍した日本武尊の叔母君の倭姫命が卑弥呼で景行天皇が卑弥呼の弟ならば、走水神社は初代日本武尊の聖跡となり時代的にも史実と誤差が近く成ります。
そもそも卑弥呼も卑弥呼(ヒミコ)=日巫女(ひのみこ)や媛御子(ひめみこ)の音に通じる事から、皇女(内親王)が受け継ぐ斎王職の原型の役職名だった可能性も有る。奈良~平安時代に斎王が支配した伊勢神宮で日本武尊が叔母の倭姫命から神剣を貸与され与力に大伴家を付けられている事からも、六角橋と走水の伝承に整合性が認められ、倭姫命は古代の斎王で正体は卑弥呼本人か、中国で卑弥呼の当て字に翻訳されたを官職名として斎王職の原型の女性宮司を継承し務めた皇女(内親王)でしょう。
この走水の海岸から日本武尊は房総半島の富津へ渡って行きました。
パワースポットでもありますが…
古代へのロマンを感じる場所です。
そんな訳で、景行天皇の皇子で関東鎮撫の大将軍を務めた初代の日本武尊であろう神様と、御妃様の弟橘姫様が仲睦まじい御夫婦の神様だった事と、更には走水神社の社伝で料理達者であったであろう大伴久応黒主様の家系は親衛隊や水軍の将を務めた歴史事実、東郷平八郎元帥達、対馬海戦でロシア帝国の大軍勢を撃破した名将達の崇敬した神社としての実績も有ったりする場所なので戦勝祈願の聖地として紹介しても過言では無い事、それら全ての御利益に預かれる場所である訳です。
皆さんもどうぞ、参拝して日本武尊と弟橘媛様と大伴黒主様に想いをはせてみては如何でしょうか?
近くには「かねよ食堂」と言う素敵なCafeレストランBarと、走水名物の海苔の生産直売をする「ながつか水産」さんも有ったり、昔から東京近郊の御金持ちにリゾート地として親しまれた観音崎灯台や観音崎要塞史跡、多々良浜も有ります。
走水神社に関連する橘樹神社さんもブログ冒頭でリンク貼った関連記事も読んで見て下さい!
きっと皆さん中で歴史の紐が結ばれ繋がりますよ〜♫


周辺の観光地も素敵な場所です。
皆さん、ここに来て散歩してみませんか?
そして、御近所の神社仏閣や城址も御散歩して見て下さい。
近所の小さな神社や御寺や御城の址の山にも思わぬ歴史偉人や武将との関わりが有るかも知れませんよ?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!
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朝から由緒ある神社にお参りに来ました。
橘樹(たちばな)神社と言う日本神話にも登場する神社で、弟橘媛(おとたちばなひめ)をお祀りしています。
この姫神様は日本の軍神:日本武尊(やまとたけるのみこと)の御后(おきさき)様です。
二柱(神様の人数を数える単位は"柱")は夫婦一組で"縁結びの神様"として御利益が有ります。
日本武尊は日本最強の軍神なので、弟橘媛御夫妻は文字通り"最強の縁結び"の神様なんです(笑)。

この神様、実は台湾の媽祖廟の神様とも同一視されており日本と台湾友好の神様でもあります。

そして、浦島太郎伝説の乙姫(おとひめ)様のモデルに成っている古代の人物で神様に成られた方です。
弟橘媛と日本武尊が一緒に過ごした場所が神奈川県の三浦半島の横須賀市にある走水海岸の御所ヶ崎(ごしょがさき)と言う場所で、そちらにも明治時代までは橘樹神社がありました。
明治時代、日本に来航する西欧列強の亜細亜侵略が激しく、外国軍船の侵略に備え御所ヶ崎の橘樹神社は明治政府に接収されてしまい砲台が築かれ破壊されてしまいました。
御所ヶ崎は正に「海中に浮かぶ島」=「海の中の島」と呼べる地形なんですね。
写真は走水(はしりみず)海岸。
此処(ここ)から日本武尊は房総半島の富津に渡りました。
今では公園化されていますが、神社の在った砲台跡には未だに入れません。
走水神社に伝承する御所ヶ崎と川崎市の橘樹神社の神話を説明します。
日本武尊が東征する際、奥さんの弟橘媛様と御所ヶ崎で3年間過ごした後、海路房総半島を目指すのですが今と同じくらい浦賀水道の流れは早く、当時は更に海が荒れ渡航できずにいました。
そんな中、弟橘媛は夫である日本武尊に愛してくれた事と三年間の生活が幸せだった事を告げると自ら東京湾に入水自殺し人柱(ひとばしら)に成る事で海の荒波を沈め旦那様の渡航を助けたそうです。
戦国時代もそうでしたが、今の東京と千葉の間には江戸川=隅田川と利根川が流れ江戸城や国府台城や葛西城等の要害地域が沢山あり陸路東征は困難だったのだと思います。
まして弥生時代〜古墳時代は今より海面が高く平地は少なかったですからね。

昔の海岸線
この通り…神話の頃の縄文〜弥生時代は殆ど海の底。

今も貝塚や神社のある地域は不思議と当時の半島の上。
…つまり、そう言う事なんですよ。
歴史を知っていれば分かりますが、二酸化炭素で地球温暖化なんて「大嘘」なんですよ。
寧ろ長い歴史の中で氷河期でもないのに今程に陸地が広いのが異常な状態。
水没地域が増えて正常なんですね。

さて…

弟橘媛入水自殺の、その7日後に弟橘媛様の櫛(クシ)が流れ着いたのが、今の橘樹神社のある橘樹郡だったそうです。
因(ちな)みに袖が流れ着いたのが千葉県の袖ヶ浦かな?
だからか、千葉県にも橘樹神社はあります。

話を川崎市高津区の橘樹神社に戻します…

橘樹神社は今では神主不在の住宅街の中の神社ですが…
昔は神域の規模も広かった様(よう)です。
しかし、大半が農地として開拓されてしまっていたので昭和の高度経済成長期に無文化な神奈川県教育委員会が宅地化を見過ごし乱開発され、結果的に旧社域内の小さい御社は散り散りに分散してしまいました。
この写真に写ってる範囲全てが昔の神社の敷地と推測され、尚且つ古代の橘樹郡の郡役所、つまり政庁機能を有した城だったと考えられています。
少し前までは有名な神社だったんですよ。
幕末に政治家/軍人としと勝海舟と供に活躍した剣豪で新撰組の前身:浪士組を編成した"山岡鉄舟"も、この神社を訪れ短歌を詠んでいます。

神社には今も彼が句に詠んだ御神木の"松"の大木の枯れ木が有ります。
上の写真で神社の背後に見える住宅街に成ってしまった丘には、今でも弟橘媛の御陵と伝わっている富士見台古墳の破壊された残った一部分が現存しています。

橘樹神社の裏の住宅街は弟橘媛の「巨大な円墳」の跡です。
写真見て貰った方が解りますね。
      
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写真の中心やや上寄りに「●子母口富士見台」と表示の有る場所がありますよね?
その直(す)ぐに左、十字路の直ぐ下の茶色畑みたいな色の場所が古墳円形部の最高部です。
そこから真下に行った写真一番下の緑の屋根が「橘樹神社の社殿」です。

「●子母口富士見台」の近くの古墳最高部、そこを中心に周りの住宅街を見て下さい…
円形に並び、古墳円形部の形と巨大さがそのまま見てとれますよね。
教育委員会は円墳と言っています。

皇族や神様の古墳は入口に神社や鳥居が有ります。
その背後には古墳を囲む「堀(ほり)」が置かれます。

橘樹神社の社殿の裏は正に堀割状(ほりわりじょう)の地形の「谷」に成っている上、先程説明した富士見台古墳残存部を中心にした巨大円形台地の下に入口の様に神社が有ります。

神社〜古墳の残存部分までの散歩道、付近には元々の地元民の皆さんの郷土愛と信心深さを感じられる程、散り散りに分散された旧神社域の小さな御社廟は今でも沢山残っていました。
昔は橘樹神社と一つだった、お隣の実相寺にも天神様の小さい御社があり…

住宅街の中には土地神様を祀る御社も在ります。

弟橘媛の御陵の残存部は、近年、県の教育委員会の怠慢で土建屋に半分削られて破壊されてしまいました。
写真左のコンモリした丘は弟橘媛様の御陵の一番高い部分のほんの一部の残存部です。

…てか!
これ…
…明らかに石室狙って土建屋に破壊→盗掘された痕(あと)じゃね〜か(´Д` )?

本当、神奈川県の教育委員会は土建屋の文化史跡破壊に協力的だな?
オイ!((((;゚Д゚)))))))マジメにヤレ!

古墳の説明看板

古墳の先端の削られてない側。

古墳の頂上。

頂上から見た朝日…

土曜日の早朝、橘樹神社をお参りし清浄な空気を感じれて幸せでした…。


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