歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

カテゴリ: 神社仏閣聖地霊場

大山阿夫利神社(あふりじんじゃ)を御存知(ごぞんじ)ですか?
まず、この↓写真を御覧下さい。
綺麗な夜景でしょう?
この写真、神奈川県伊勢原市の大山に在(あ)る大山阿夫利神社の下社から撮影した夜景です。

この夜景は毎年期間限定でしか見れない夜景なんです。
理由は足の大山ケーブルカーが日常は夜間営業してないので夜の暗い山中を登山する羽目に成るからです。
各季節、特定期間と大晦日しかケーブルカー動いてないんです。

大山は平安時代〜江戸時代末期まで、関東近辺の各都市の市民から信仰対象と温泉地として絶大な人気を誇っていたんです。
この↑写真は秋に撮影しました。
江ノ島が見えます。
古くは鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝が登山し礼拝し、戦国時代には江戸城を築き関東管領を補佐した上杉家執事太田道灌が信仰し、江戸時代には江戸幕府三代将軍徳川家光が大山に沢山(たくさん)の社殿を寄進(きしん:寄付する事)しました。
その名残で関東各所に大山街道と言う道が有ります。
その神秘的な夜景は今でも関東一円の住民の宝です。

ここは東京の築地市場関係者、大企業の経営者達から崇拝されている神社です。
参道には古くから続く温泉宿と大山の名水を活用した名物豆腐料理の店が軒を連ねています。
温泉宿はだいたいが宿坊(しゅくぼう)で、山路を案内する先導師(せんどうし)と言う山伏(やまぶし)の方々が経営されています。
そんな関連で、豆腐料理以外にも猪肉の鍋や鹿の刺身が食べられます。

いくつか大山ケーブルカーが夜間営業してる期間だけ見られる夜景を紹介しましょう…
これ↓です。
阿夫利神社の写真
参道の写真
大山の清水で作られた清酒や豆腐料理や蒟蒻の御土産屋さんと、温泉宿が立ち並びます。
灯籠祭りの期間だけ参道がライトUPされます。
神社の境内からの夕景
夜景
綺麗でしょ?

周辺には関東管領を務めた扇谷(おおぎがやつ)上杉家の元の本拠地:七沢城
関東の名将で江戸城主だった太田道灌が主君扇谷定正に暗殺された舞台の粕屋館
さらに
相模国の大名三浦氏の本拠地だった岡崎城がありました。
ちなみに、その岡崎城の最初の城主岡崎氏の分家の真田義忠は主君の源頼朝を石橋山の合戦で逃がす為に奮戦し討死した忠臣として有名です。
彼の領地は平塚市真田でした。

阿夫利神社に話を戻します。
阿夫利神社の阿夫利(あふり)は"雨降(あめふ)り"が変化した訛(なま)りに音読みの漢字で当て字したのが名前の由来と言われています。
ですから、大山の中腹に在る大山寺の山号(さんごう:別名の事)を"雨降り山"と呼びます。
大山の寺社名に見えるように、大山信仰は古代の干魃(かんばつ)予防の雨乞(あまご)いと深い関係が有りました。
ですから阿夫利神社の御祭神は大山祇神(おおやまづ(ず)みのかみ)と雨を降らせる雷様です。
又、大山はその標高が高い事や、山体の姿が三角である事から、古くから相模湾を航行する船からランドマークとされていました。ですので漁業関係者や海運業者から商売の神様として信仰を集めてきました。
現在でも築地市場の関係者の方々から熱心な信仰の対象に成っています。

ついでに神社の御利益か、小生はダイエット12kg成功しました。
同時期に鎌倉の御霊神社を含む鎌倉七福神の寺社と龍宝寺、横浜市港南区(旧鎌倉郡)の永谷天満宮を参拝したので全部回ればダイエット出来るかも知れませんよ(笑)?
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まず永谷天満宮と言う横浜市港南区にある神社をご存知でしょうか? 

天神様と言えば大宰府に左遷された菅原道真公を神様として祀(まつ)っている神社です。
ここ↓ね。

実はこの永谷天満宮は日本三躰(にほんさんたい)の一つと呼ばれますが、その由来は…
福岡の太宰府天満宮と大阪の道明寺天満宮、それとこちらの永谷天満宮が実はある事で他の天満宮と異なり特別な天神様なんです。 

他地域の方からすると…
「は?神奈川の天神様が凄いわけあらしまへん!」
とか
「天神様は太宰府天満宮だけが本物たい!」
とか
「何で歴史無いヨコハマのが特別なんだよ!」
…とか思うでしょうね。
特に歴史に興味が無い人なら尚更。
ヨコハマって実は…
旧相模国の「鎌倉郡の一部」
旧武蔵国「久良岐(くらき:倉巣)郡」
「都築(つづき)郡」「橘(たちばな)郡」
…から構成されていて、日本書紀にも頻繁に出てくる土地なんです。
日本武尊と弟橘媛の神話や浦島太郎の物語も舞台は神奈川県川崎市と横浜市と横須賀市なんですよ。 
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永谷天満宮の参道は春には桜に彩られます。
さて
歴史に興味が無かった人の為(ため)に菅原道真公の事を少しだけ説明しますね。
菅原道真公は右大臣(うだいじん:今で言ったら総理大臣みたいな役職)を務めた程の優秀な政治家・学者・歌人でした。
この↓人物画が道真公
ダンディーで優しそうに描かれてますね…
実際は、ふくよかな方だったみたいです。

平安時代当時、藤原家は天皇家に藤原一族の娘を代々嫁がせて天皇の外戚として朝廷(ちょうてい:政府)政治を乗っ取ろうとしていました。
当時の宇多(うだ)天皇も藤原氏を抑え込むべく、対藤原家の切り札として菅原道真公を重用(ちょうよう:信頼され重要な役職に就かされる事)し藤原一族から政治権力を取り戻させようとしました。
しかし道真公は藤原一族にハメられて、大宰府に左遷られてしまいました。
左遷されて今の福岡県で亡くなりましたが、死んだ後に雷神様に生まれ変わり悪行を働いた藤原一族に雷を落とし感電死させたり怪我人出したり天罰を与えました。
それにより菅原道真公の霊に祟(たた)りで呪われる事を恐れた藤原氏から霊を鎮(しず)める為に神様として崇拝される事になりました。
だからコンナ↑絵も残ってます。
優しい人ほどキレると手が付けられない…

じゃあ、何で関西や九州を舞台にして活躍した菅原道真公と関係無さそうなヨコハマの永谷天満宮が凄いのか?

それはですね…
実は菅原道真公の遺産と関係があります。
遺産と言うのは御神体が道真公がご自分で銅鏡を見ながら彫刻した自像の木製彫像の事なんです。
それが日本には3体だけあり、その収蔵され祀られている場所が…
太宰府天満宮…福岡県
道明寺天満宮…大阪府
永谷天満宮……神奈川県横浜市港南区
…なんです。 

しかも永谷天満宮は道真公の5男で菅秀才と呼ばれた菅原淳茂公が直接住んでいた場所と伝承してるんです。 
で、永谷天満宮では道真公の彫像を御神体として御祀りしてらっしゃいます。

なんで「そんな凄い」のが歴史無いヨコハマに有るんだよ!
…と、思う歴史を知らない人も多いと思います。
この謎は藤原氏の専横と、太平記と地理をちょっと知っていれば直ぐに謎解きが出来るんです。

それを以下に説明してみます。
長いですよ!
でも、見る価値ありますよ!
横浜市民や神奈川県内の人は必見だと思います。

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永谷天満宮と坂東八平氏、及び菅原景行公と菅原敦茂公の関連

[永谷天満宮の祖、菅原敦茂公とは?]  

菅原敦茂公は菅原道真公の5男で、醍醐天皇に仕えた方でした。 
菅秀才と言われ優秀な方だったそうですが、御父君の菅原道真公の左遷後に醍醐天皇に登用され、右少弁を務めました。
近畿では播磨国に左遷された後に京に戻ったとされていますが、永谷天満宮には同所は敦茂公晩年の居館跡との縁起が伝承しています。

 [敦茂公の官位「判官(じょう=丞)」とは?]  

左右大弁・左右中弁・左右少弁の官職は判官と別称され太政官の組織で、官位は少納言の上位。判官職の直属上司は太政大臣等最高位の者でした。 
左大弁・右大弁の官職に就く者は将来的に三位以上の官位を獲る可能性の有る部署であり、出世の王道で大弁職と参議や蔵人頭を兼任する者もおり頭弁とも呼ばれました。しかし、中弁職以下には参議に昇進する資格は有りませんでした。 

敦茂公は菅秀才と呼ばれた優秀な人物でありながら、その官職を右少弁に留められていた事から推察出来る事は、御父君道真公が左遷された影響か官職独占を狙う藤原氏の妨害が有ったと考えるのが自然です。 
藤原氏から迫害を免れ藤原家とは別の元皇族の臣籍降下貴族であり関東に一大勢力を築き始めていた平家と連携する為、菅原氏は多く関東に移住したようです。

特に永谷天満宮の近所には「釜利谷」・「鍛冶ヶ谷」・「日野(火野)」等(など)の製鉄や武具製造に関する地域がありました。
そのような関東の軍備増強拠点を抑えつつ、皇族出身貴族の平家と連携し醍醐天皇の密命を受けて反藤原勢力の組織を目指したのかも知れません、勿論、反藤原勢力結集はただの推測です。
菅原道真公の身内で関東に移住した人物の内、特に有名なのは道真公三男景行公です。
彼は最初に常陸国へ移住しました。
景行公と同様に、伝承通り敦茂公が晩年、永谷郷に移住してこられた可能性は有り得ると思われます。
しかしながら、日本に3体しか存在しない道真公の彫像が永谷天満宮に存在するならば、敦茂公が永谷天満宮に住んでいた可能性より、明確に関東に移住して来た記録の残る三男の景行公が上の兄弟二人から順番に三番目に分与された道真公彫像を奉戴し永谷に移住して来られた可能性も有るかも知れません。
その事は後で説明します。

さて、先ずは永谷天満宮そのものについて説明をします。
永谷天満宮を開基(社殿建造する事)したのは関東管領上杉家の養子に入った一族の人物で、祖先の元の名字は勧修寺(かんしゅうじ)姓でした。

[藤原北家勧修寺流とは?]  
勧修寺家は京都の公家で、藤原家主流の家系でした。藤原家の主流は藤原北家と呼ばれ、その分家が勧修寺家でした。
勧修寺氏の姓名の由来である勧修寺は京都市山科区に現在もある寺院の事で、醍醐天皇の勅願所でした。
この時点で、菅原家と宅間上杉家の祖先の接点が醍醐天皇だった事が解ります。
天皇中心の政権運営を目指した醍醐天皇が信頼した臣下が菅原敦茂であり、醍醐天皇の開基した勅願所の勧修寺が宅間上杉家の家祖の苗字の由来に成っているので既に、この時代に両者に交流が有った可能性が有ります。 
藤原北家の勧修寺流の藤原顕憲公と盛憲公親子は摂関家藤原頼長に仕えていたので保元の乱において崇徳上皇陣営に従い、乱の勝利者側の後白河天皇と敵対した為に、戦後に佐渡国へ流刑にされ凋落(ちょうらく:落ちぶれる事)しました。
しかし盛憲の子藤原清房の系統が後鳥羽上皇に仕え家名は存続しました。彼も又もや承久の乱に巻き込まれ、紆余曲折あったものの命脈を保ちました。
その後、子孫は現在の京都府綾部市上杉町周辺を本拠地にしました。
その為、重房の代に至り上杉家を名乗るように成りました。
後の室町幕府初代征夷大将軍である足利尊氏はその地で生まれたと伝わっています。 
重房の子が上杉頼重で、頼重の姉妹がそれぞれ山名政氏と足利頼氏に嫁いでいて、上杉頼重の「頼」は足利頼氏から一字偏諱を受けたとされています。 
上杉頼重の子が即ち足利尊氏の叔父である上杉憲房です。

ちなみに上杉家と言うのは代々関東管領(かんとうかんれい)と言う役職を世襲した家系で、のちに上杉謙信が養子に入り継いだ家ですね。

 [関東管領上杉家とは?]  

今の関東地域に伊豆・新潟県・東北を加えた地域を支配するのが鎌倉公方で、その鎌倉公方の職務を実際に代行するのが関東管領職でした。
関東管領上杉家とは、即ち鎌倉将軍府の関東管領職に就任できる資格を有する上杉一門の内の筆頭格の4家の事で、犬懸(いぬかけ)上杉家・宅間(たくま)上杉家・扇谷(おうぎがやつ)上杉家・山内(やまのうち)上杉家の4家を指し、当初はその4家で交代で関東管領職を務めました。 

それぞれの家名は鎌倉近辺での居館の所在地名に由来し、扇谷(おおぎがやつ)や山内(やまのうち)は今でも鎌倉市内に地名が残っています。

[犬懸上杉]  
今の鎌倉市浄明寺と言う地区の犬懸ヶ谷(いぬかけがやつ)と言う所に邸宅があったので犬懸上杉と呼ばれています。
房総半島(下総国・上総国・安房国)一帯が根拠地でした。 
室町幕府初期には上杉家で一番勢力を誇りましたが、子孫の上杉禅宗が起こした「上杉禅宗の乱」で滅亡しました。

[宅間上杉]  
鎌倉市・横浜市・川崎市武蔵国西部一帯が支配域で横浜市港南区永谷が本拠地でした。 
上永谷にある永野小学校を含む丘陵一帯が本拠地の永野城址です。 
永享の乱の際、宅間上杉憲直が横浜市緑区にある旧城寺にあった榎下城址に籠城し、室町幕府と対立した鎌倉公方足利持氏を支援した事に因(よ)り、敗戦側に成ってしまいした。
後に降伏するが許されず、横浜市金沢区金沢文庫の称名寺で切腹し宅間上杉家は没落しました。 
しかし子孫は鎌倉府に継続し仕え、戦国時代には小田原北条氏に臣従しながら「宅間殿」と特別待遇で扱われていました。
安土桃山時代を経て徳川家旗本として存続しました。 
永谷天満宮を開基した人物が宅間上杉乗(憲)国です。

[扇谷上杉]  
現在の伊勢原市や湘南地域が元々の根拠地で伊勢原市の粕谷館で家臣太田道灌を暗殺した扇谷定正の話は有名です。 
伊勢原市の産能大学一帯に存在した大城郭糟屋館や藤沢の大庭城が各時代の旧本拠地で、後に小田原北条氏の圧迫により相模国から支配力を駆逐され、北に逃げる度(たび)に家臣太田道灌が築いた江戸城、更に河越城(埼玉県川越市)へと本拠を移し武蔵国南部を根拠地にしていました。
戦国時代の三大奇襲戦と呼ばれる「河越合戦」の時、小田原北条家の殿様北条氏康公とその家臣で義兄弟の鎌倉玉縄城主の北条綱成公に大敗北し、扇谷家の殿様は敗死し扇谷上杉家は滅亡しました。

[山内上杉]  
現在の埼玉県一帯~東京都北西部一帯が根拠地で本拠地は松山城址(埼玉県東松山市)でした。 
最終的に養子に入り、この家を継いだのが上杉謙信(長尾景虎)でした。 
戦国時代に成っても上杉家筆頭4家で勢力を保ったのは、この山内上杉家だけでした。
しかし家臣長尾景春の反乱が発生したり、小田原北条家に河越合戦で大敗した事で凋落(ちょうらく:落ちぶれる事)し当主の憲政が上野国に逃げ出した挙句(あげく)、更に越後の長尾景虎(ながおかげとら:後の上杉謙信)を頼り、最終的に養子にした上杉謙信に関東管領職を禅譲し本流の上杉家は滅亡しました。

 
[宅間上杉家の家系]

上杉重能(初代:勧修寺家出身)
※養子は無嗣断絶。
上杉重兼(二代:勧修寺家出身で重能実弟)
※重兼を初代とする説もある。
上杉能俊
上杉憲重
上杉憲俊
上杉憲能
上杉憲清
上杉憲直
上杉定重
上杉定朝
上杉顕重
上杉乗(憲)国→永谷天満宮を開基
上杉乗方
上杉房成
上杉富朝 →北条氏照付家老間宮綱信に姫嫁ぐ
上杉規(憲)富
※小田原北条氏家臣化→徳川家康に服属し旗本として存続

初代宅間上杉家当主の重能と二代当主の重兼は勧修寺別当職を務めた勧修寺道宏の実子で母は上杉頼重娘の加賀局だったので、同じく頼重娘の清子を母に持つ足利尊氏・直義兄弟とは血縁の従妹同士で一門衆待遇でした。 
後に母の兄弟である上杉憲房公の養子となります。
その後、永享の乱が起きます。
鎌倉公方足利持氏と山内上杉憲実が対立した際に、宅間上杉家は鎌倉公方に忠義を尽くしました。
その為に、鎌倉公方の力を削ぐ目的で、山内上杉憲実を支援する征夷大将軍足利義持(4代将軍で足利義満の子)の命を受けた今川範政率いる室町幕府と鎌倉府の連合軍に駿河より攻め入られ、宅間上杉家の当主上杉憲直は鎮圧され敗北し、横浜市金沢区の称名寺で切腹を命じられ勢力を失ってしまいました。 
しかし、その後も子孫は鎌倉府に仕え、戦国時代には小田原北条家に従い、後に徳川幕府の旗本として存続しました。

[宅間上杉初代:重能ってどんな人?]
勧修寺家に生まれ、後に母の兄弟である上杉重顕・憲房の養子となりました。
建武政権下では関東廂番六番の一員として鎌倉に下向。『太平記』には竹の下合戦において、偽の綸旨(りんじ:命令書)を作り足利尊氏を出陣させたとあります。
その後、足利直義の執事(しつじ:代理)として活躍するも、足利尊氏・高師直公が直義と対立すると高師直に捉えられ越前に配流殺害されてしまいました。
宅間上杉家の跡目は、山内上杉憲方の子で重能の甥に当たる山内上杉憲孝が継ぎ存続しました。
更に上杉憲孝も無嗣断絶してしまった為に、宅間上杉家は初代当主重能の実弟であった重兼の子孫が相続しました。
この為、重兼を宅間上杉家初代とする場合もあります。

さて、永谷天満宮を開基した上杉家の話はここまでにして、御祭神(ごさいしん)の菅原道真公の子孫が何故(なぜ)に横浜市や関東地方に移住して来られたかに話を戻しましょう。
その一例として、道真公の3男の菅原景行(かげゆき)公の例を挙げたいと思います。

[菅原景行公とは?]
菅原道真公の三男。 
駿河国に左遷された後、関東に下向し平将門公の御父君:良将公の根拠地であった下総国豊田郡に程近い常陸国真壁郡に移住しました。 
延長4年(926年)景行公は将門の叔父・良兼公らと真壁郡羽鳥(現:真壁町)に菅原天満宮(現在は茨城県水海道市大生郷に移転)を開きました。
この時代から坂東平氏と菅原家の深い繋がりが開始されたと推測できます。 
更にこの菅原氏と平氏の結びつきは当時の醍醐天皇の指令によるものだった節があります。
菅原氏の多くは藤原氏の専横により官位こそ抑えられていましたが、醍醐天皇に登用にされ有名な五男淳茂公をはじめ多くは朝廷にも残りました。
そして後の坂東八平氏の祖で平将門公の叔父良文公も醍醐天皇に重用され、関東の賊を討てと綸旨を頂き鎮守府将軍として東日本に下向し、旧鎌倉郡村岡郷、今の藤沢市村岡を本拠地にし関東に武士文化の基礎を築かれました。
この綸旨の「賊」とは「平将門公」ではなく、親王赴任国である上総国や下総国の荘園を支配する藤原氏の事だと思われ、つまり上総国下総国の支配権を取り返し藤原氏の軍事的勢力を削ぐ意図があったのだと思われます。
因みに上総、下総は音が皇室と密接な「宇佐八幡宮」の宇佐に通じますし、古語読みをすると「かみすさ」「しもすさ」と成るので素戔嗚尊とも所縁が有りそうです。
菅原家の主君の醍醐天皇とその御先代宇多天皇は藤原氏の専横に苦慮し御親政を取り戻すべく菅原道真公を重用しましたが、藤原氏の策謀により道真公はハメられ目論見が頓挫した経緯がありました。
それにより醍醐天皇と菅原氏が頼ろうとしたのが臣籍降下した元皇族の平氏だったのでしょう。
醍醐天皇と菅原氏と平氏の連携を示すのが正に、菅原景行公と平良兼公の逸話です。
当時まだ亡くなれて間も無い道真公を祀る天神様をいち早く常陸国に建立した事に両者の結びつきの真意が現れているのでしょう。
平将門の乱は、菅原道真公の左遷と同じく藤原氏の陰謀によるものだったと思われます。
藤原氏の挑発に乗ってしまい挙兵してでも反藤原連合を貫く将門公と、あったかも知れない醍醐天皇の関東制圧の密勅を実質的に維持する為に体面上、藤原氏=朝廷に従属するかの政策的な対立を生み出す藤原氏の陰謀だったと考えるのが自然です。
結果、醍醐天皇の策謀と藤原氏の陰謀は痛み分けで、藤原氏は関東の支配権を失い醍醐天皇も平将門公を失いました。
しかし平良文公を鎮守府将軍に任命していた事により関東の臣籍降下貴族支配には成功した訳です。
この流れを証明するように平将門公は当初朝廷公認で活動していましたし、将門公に同調していたはずの良文公は後に将門公の支配域の多くの支配権を与えられ、後々の坂東八平氏発展と鎌倉幕府御家人の基礎を築かれました。
平良文公が旧鎌倉の藤沢を本拠地にしていた事と、菅原景行公と坂東平氏の関係が深かった事から、永谷に移住した菅原道真公の御子息の正体は、三男の菅原景行公だった可能性は高いと思われます。
そう考えると、先程想定した日本に3体しか存在しない道真公の彫像が永谷天満宮に存在する理由、明確に関東に移住して来た記録の残る三男の景行公が上の兄弟二人から順番に三番目に分与された道真公彫像を奉戴し永谷に移住して来られた可能性も有るかも知れません。
その後、関東に下向した宅間上杉家が、関東に定着していた菅原氏より、醍醐天皇との御縁で菅原道真公の像を譲り受けた可能性が有るかも知れません。


景行公以降も菅原氏の武将が東日本で活躍した記録が見えます。
その人物は鎌倉幕府初代征夷大将軍「源頼朝の"ひいひいおじいちゃん"」に当たる軍神:源義家(みなもとのよしいえ)公が活躍された前九年・後三年の役に参戦した武将として登場します。
彼は源義家公が率(ひき)いた「五陣の軍士」と言う源家直属部隊の武将として登場します。

[五陣の軍士の中の菅原氏の武将]  
軍神:源義家公の父君の源頼義公の与力衆と直属の軍勢で5備えに編成されていた部隊の総称で、旗下に以下の武将の名前が見えます。

平  眞平
菅原行基 
源  眞清
刑部千富
大原信助
清原貞廉
藤原兼成
橘  孝忠
源  親季
藤原朝臣時経
丸子宿禰弘政
藤原光貞
佐伯元方
平  経貞
紀  季武
安部師方 

この内、菅原行基公は御名前から推測して菅原景行公の御子孫に当たるのではないかと推定できます。 
関東において坂東八平氏の祖で相模国の開拓領主だった鎌倉郡村岡城(現藤沢市村岡)を本拠にした平良文公の御子孫は菅原家と平家の深い関係を裏付ける様に、関東の御霊神社の御祭神として広く信仰されている軍神:鎌倉景政公を筆頭に「景」の字を継承している武将が多数見られます。 
具体的には…

・鎌倉景政公 
 (村岡城:藤沢市村岡を含む横浜市旧鎌倉郡部と鎌倉市及び藤沢市の旧鎌倉郡部)

・大庭景義公
 (大庭城:藤沢市大庭~茅ヶ崎市一帯)

・梶原景時公 
 (村岡城:藤沢市村岡~鎌倉市梶原一帯)

・長江義景公 
 (横浜市栄区長江)

・長尾景弘
 (長尾城:横浜市栄区長尾台一帯~現JR大船駅周辺及び鎌倉郡玉縄地区一帯)

 ※長尾家の有名な子孫
・長尾景春
 太田道灌のライバル。長尾景春の乱を引き起し関東全土を席巻した張本人。
・長尾景虎(上杉謙信) 
 山内上杉家を継いで後に関東管領上杉謙信を名乗った。

以上の鎌倉氏子孫の名に見える事実から推察すると…

つまり、相模国に移住してきた平氏が、永谷や関東各所の菅原家との関係の中で氏子として天神様を崇拝していたのではないか、その経緯で菅原家より「景」の字を一字拝領したのが平良文公の系統の坂東八平氏だったのではないかと推測出来ると思います。
又、菅原景行公と平将門公の叔父上との逸話や、源頼義の奥州征伐の際の五陣の軍士に菅原氏と平氏の武将が名を共に連ねている事から、何らかの関係が有った可能性は高いと思います。
そして平家や源家が盟主として菅原姓や橘姓紀姓等の古代有力貴族の子孫の支持を得て彼等を与力と出来たのは、彼等の対藤原独裁連合的な共同出世目的の意味合いが有ったのではと推察しています。

――永谷天満宮の歴史全体像考察――  
以上の事を根拠に、永谷天満宮と敦茂公の伝承は、宅間上杉家の祖先勧修寺家が菅原家と同じく宇多天皇と醍醐天皇に共に御仕えした家系だった事に由来するのではないかと思います。
つまり永谷天満宮の御神体である菅原道真公が自らの姿をを彫られた木製彫像は宅間上杉家(勧修寺家)が在京中の南北時代、北野天満宮に有った物を動乱から保護する目的で勧修寺家が保有する事に成ったか、関東に定着した菅原家子孫から足利家と親密だった宅間上杉家に譲渡された可能性が有ると思います。
 
余談ですが北野天満宮は位置的に曾(かつ)て京のメインストリートだった千本通りに近く、少し北には平安京造営当初の御所が有った舟形山の南の地域へ通勤も便利な位置にあります。
そう考えると敦茂公の京都時代から、山科の勧修寺付近や朝廷の中で宅間上杉家の祖先である藤原北家勧修寺流上杉氏と菅原家の交流が有った可能性も有り、やはり、敦茂公そのものと宅間上杉家の祖先そのものの関係も有った可能性も有ると考えるのが自然だと思います。
保元の乱で出世コースを外れてしまった一族ですからね。
藤原本流に政争でハメられた家同士が仲良くしても全く不思議ではありません。
永谷天満宮の敷地に道真公の御子息のどなたかが住んで居た訳ですが、永谷天満宮の伝承では「菅秀才こと5男の菅原敦茂公」が住んでいた事になっています。
淳茂公の兄で三男の景行公のお住まいだった可能性から御二人の話が混同された可能性は高いと思います。
しかしながら、宅間上杉家の祖先が、ここまで説明した通り、菅原景行公と菅原敦茂公の両方と御縁が有った可能性は高いと思います。 
先にも具体例を挙げましたが、永谷郷と隣接する旧鎌倉郡一帯の開拓領主鎌倉景政公の一族とその祖先平氏と景行公の関わりと氏名に含まれる「景」の一字です。
一字拝領は古来の文化でもあります。 
景行公が中央では余り有名では無かった事や、宅間上杉家の祖先と菅原秀才敦茂公が醍醐天皇の繋がりで御縁が有る事、活躍した舞台が主に播磨国や京と言った関西地方だった事から後に関東に下向してきた京都の勧修寺家出身の宅間上杉家による永谷天満宮の造営時に旧領主菅原氏の顕彰が行われ、その際、菅原景行公と菅原敦茂公の逸話が糾合された可能性が有るのではないかと推測しました。 

又、日本参躰天満宮と言われる所以(ゆえん)である「道真公銅鏡写し自作の木製彫像」が何故永谷天満宮に存在するかも、先述のとおり…
①北野天満宮から→勧修寺家へ →上杉家から→宅間上杉家へ
②関東の菅原家から→宅間上杉家へ
①か②の推測が出来るのではないでしょうか。 
仮に景行公が永谷天満宮に居住していた説を支持するならば、永谷天満宮の縁起とは異なり些か不敬に当たるのかもしれませんが景行公の実績の再発掘と言う意味では無駄には成らないかと思っています。
そして3男景行公も5男敦茂公も、御両人(ごりょうにん)とも道真公にとっては御子息(ごしそく)に当たる訳で、天神様の名を傷つける事は無いかと思います。
敦茂公だったにせよ景行公だったにせよ、私達神奈川県民や関東人にとって坂東八平氏の祖である平良文公と共に神奈川県と関東地方の発展の基礎を築いて下さった大恩人である事は変わりません。
菅原道真公と御子息と平良文公に対し、永谷天満宮の存在がある事で感謝出来る事が大切なんだと思います。

和魂漢才
坂東武者の気概を大切に。
地元の文化と歴史を大切に。
あ!
この永谷天満宮は鎌倉の明月院や長谷寺程の大規模ではないものの、紫陽花の名所でもあります。
image
永谷天満宮の紫陽花を紹介した記事は「ココ」←クリック!
ちなみに永谷天満宮では今でも日本古来のお祭りを守っています。
これ「夏越(なごし)の大祓(おおはら)え」と呼ばれる祭りです。
茅で編んだ輪っかをくぐり抜け、半年間の厄落としをする古来から伝わるお祭りです。
ドンチャン騒ぎではなくて、昔からの儀式ですね。
でも蘇民祭と呼びフンドシ1枚で所謂(いわゆる)祭り的な催しをする地域もありますね。
皆さんの地元の神社も神主さんと氏子が守ってる神社は今でも茅の輪くぐる儀式をやってると思いますよ〜。

やってない神社は地域が移住者しかいなくて日本文化が廃れちゃったんですね。
皆さん、地元の偉人と歴史と文化を大切にしましょう。

永谷天満宮ホームページ
ココ」←クリック!
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鎌倉御家人の主力、三浦氏の菩提寺 

…清雲寺
鎌倉幕府御家人の中心を担った三浦家の開祖〜3代目と分家の佐原家の御一門の御寺に行ってきました。

    
三浦家は皇族から武士に成った平高望(たいらのたかもち)王の御子孫です。

平高望王の御子孫の平良文(たいらの よしふみ)公が醍醐天皇に「賊を討て!」との綸旨(りんじ=天皇の命令)を受けて陸奥守(むつのかみ=東北地方の長官)と鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん=幕府を開く資格のある将軍)に任じられ、関東を統治する事に成りました。

その平良文公の曾孫(ひまご)の平為通(たいらの ためみち)公が三浦郡を治める様(よう)になり、役職の三浦介(みうらのすけ=三浦郡知事)から三浦の苗字(みょうじ=分家の姓)を名乗るようになりました。
三浦氏の中で歴史上初めて活躍したのが"平朝臣(たいらのあそん)三浦介(みうらのすけ)義継(よしつぐ)公です。一般的に三浦義継公と呼ばれる武将で陸奥話記等に登場します。
この人物が源頼朝公の家系の御先祖で河内源氏(かわちげんじ)最強の武将である源義家公に協力した御縁で、以降、源氏と三浦家の結びつきが発展して後の鎌倉幕府樹立の原動力に繋がって行く訳です。

坂東の平氏は有名な源氏の棟梁、源八幡太郎義家(みなもとの はちまんたろう よしいえ)公より先に関東に土着して土地を開拓し支配地域を拡大していったんですね。


この日は午前中、仕事前に朝出発して訪問して参りました。

で、御朱印を頂いて来ました。
神奈川県民としては非常に名誉な事で感慨深いです。 
何故なら三浦義継公は、従兄弟で御霊神社の祭神となった鎌倉景政(かまくらかげまさ)公と共に、前九年後三年の役で、軍神とも呼ばれる源義家公に与力(よりき=指揮下に入るが家臣ではない協力者)として大活躍された名将だからです。
そして、義継公の御子孫は戦国時代にも大名として多く生き残りました。
為継公が活躍と御子孫の繁栄は、後の鎌倉幕府は成立の一翼を担った訳です。
ですから神奈川県民として、清雲寺で御朱印を頂き三浦宗家の御廟所を参拝出来た事は非常に名誉な訳です。

清雲寺には為通公、為継公、義継公の初代~三代までの立派な墓所が有りますが、実は三浦家の菩提寺は元は「圓通寺」と言う別の御寺でした。
明治政府の数少ない愚かな政策の一つ「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく=仏教迫害)」により貴重な建築文化遺産と共に圓通寺は荒廃し、廃寺に成ってしまいました。
しかし、子孫の佐原氏系三浦家の菩提寺だったこの清雲寺に三浦家初代~三代様の御廟所は移築され菩提を弔う事になりました。

 
ですから清雲寺の本殿は「圓通閣」と言います。
そして御本尊の瀧見観音様は元々圓通寺に御祀(まつ)りされていた物を廃寺に成る際に、三浦家草創の御三名の菩提を弔うためにこちらへ移されて来ました。


この御寺を開基(かいき=寺院や神社を建てる)した佐原家の佐原義連公は、とても判断力と智謀に優れた鎌倉時代の名将名軍師で、源平合戦で源義経による兵庫県神戸市の福原攻めの際、有名な「鵯越の逆落とし」の実行を具申した人物です。

お墓じゃないよ、灯篭だよ!
御廟所の写真も撮影させて頂いたけど、掲載しません。
自分で行って拝んで下さい。
関係ないけれど蝶々や蜂が蜜吸ってて可愛らしかった…

また、お参りに来よう。
御近所には有名な三浦義明公の菩提を弔う為に源頼朝公が開基した御寺の満昌寺も在ります。
藪蚊が少ない季節に成ったら、三浦家の居城衣笠城址とあわせて訪問したい。
そして、また、清雲寺にもお参りに来よう。
御寺の公式ホームページは「ココ」←クリック!


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以下、後日追記
●三浦家で一番有名な武将「三浦義明公」の菩提寺の満昌寺に2014年11月訪問して来たので記事リンクを追記します!→ココ 」←クリック!

●三浦家の本拠地「衣笠城」を2014年11月に訪問して来たので記事リンクを追記します!→「ココ 」←クリック!
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首都圏の人が金沢文庫と聞くと…
京浜急行の駅でしょ?
…と歴史を知らないと思ってしまうかも。

今回のタイトルも称名寺の金沢文庫じゃなくて金沢文庫にある称名寺でしょ?
…とか思う人もいるかも。
違いますよ〜!
約700年前の鎌倉幕府の重鎮、金沢北条家の北条実時さんが住んでいた大邸宅を後に寺院化した場所が称名寺なんです。
その邸宅の山挟んだ隣の敷地に金沢北条家の私設図書館があったんです。
その図書館が「金沢文庫」で、金沢区金沢文庫の地名に成ったんですね。

この金沢北条家からは鎌倉幕府の執権(首相)も排出しました。

北条家の拠点なので御寺の結界と外を分けていた赤門の家紋も北条家の三つ鱗紋です。

赤門をくぐるとすぐに、文庫茶屋(ふみくらちゃや)と言う築百年超の日本家屋の和食と甘味のお店が有ります。
こちらでは関東では有名なブランド化に成功した漁港、地元の小柴漁港のアナゴと季節が合えばシャコも食べれます。

称名寺は風景がとても綺麗なんです。
特に春。
今の季節は↓こんな感じ
今の季節の深緑の参道も素敵ですよね。

この参道、実は横浜三渓園に移築されて来た文化財を除いて、横浜市内で一番古い木造建築文化財があります。
称名寺の塔頭(支店みたいな)の光明院の表門です。
この門は戦国時代が終わって江戸時代が始まったばかりの1665年に建て直されたそうです。

そこを通り過ぎると横浜市とは思えない立派な仁王門が見えて来ます。
称名寺の仁王門。
ここの仁王様が小生の理想のプロポーション❤️

…こんな体型に成りたい!ゴリマッチョ。

さて、称名寺、ここまでの風景も綺麗ですが中は更に綺麗です。
今でも復元された木造の眼鏡橋と平たい橋が池にかかり、大変綺麗な風景ですが北条実時公の邸宅だった当時は更に綺麗で大規模な伽藍(がらん=仏教建築の形態)に囲まれていました。
1300年代に描かれた称名寺の地図です。
当時は宮殿さながらの規模と美しさだったようです。

今日撮影した称名寺の風景と、秋と春の写真を載せます。

今日

秋の称名寺

春の称名寺

薪能(たきぎのう)が開催される頃の期間限定ライトアップ


綺麗でしょ?
数年間にかけて撮りためた写真ですが、全部携帯電話で撮影した画素数が粗末な写真ですいません。

ちなみに称名寺の裏山は称名寺を取り囲んでいるのですが、山を人工的に垂直に削り取り切岸(きりぎし)と言う城壁化しています。
裏の金沢山や稲荷山を含めた周囲全山が「金沢城」として機能する詰めの城に成っていたんですね。
その裏の金沢城址の金沢山からの眺望は素晴らしいので、是非、登って見て下さい!
ただ、もう少し寒くならないとスズメバチ多くて危ないです。
※ブログUP時現在は9月。
お弁当持ってちょっとした遠足に来るのも良いかも。
本堂から金沢文庫博物館に抜ける隧道(トンネル)行く途中に市民の森入りの看板があります。
ここから裏の金沢山に登れます。
一周して称名寺の右手に降りて来れます。
ここ↓ね。

さて、地名の由来に成った金沢文庫は今でも「神奈川県立金沢文庫」として博物館に成って存続しています。
鎌倉時代から称名寺と金沢文庫を繋いでいたトンネルも現存しています。
教育委員会が通行禁止にしたせいで余計に風化が進んでいます。

そして現在金沢文庫と称名寺を繋いでいるトンネル。
この金沢文庫には北条実時公の収集した文物や秘宝が沢山収蔵されていましたが…
上杉謙信
前田利家
徳川家康など…
中部北陸の大名に侵略される度に金銭的に価値の有る宝物を沢山略奪されてしまいました。
今でも一部収蔵されています。

前田利家が自らの領地の首府を金沢と命名したり兼六園を造営したり、今の東京大学の場所に在った加賀藩邸の門を赤門にしたのは100%この金沢文庫称名寺のデザインから宝物だけでなくアイディアから何からパクッた結果ですね。
この前田利家は11歳の嫁を妊娠させたり、戦争で何千人も敵領地の市民を奴隷にして連れてかえったり、主君の織田家を裏切り恩人の柴田勝家を裏切り親友の豊臣家を裏切った人物でした。
当時でも低年齢で結婚した場合は、女の子が妊娠適齢期の15歳以上になるまで手を出さないのが常識でしたからね…
前田利家を表現するならば乱世の奸雄と言うのが相応しいかと思います。

さて、称名寺関連の話はここまでにして、付近の観光地を少し紹介します。
⭐︎小柴漁港
鉄腕ダッシュでもよく出る漁港ですが、小柴のアナゴとシャコは築地でも高級品として流通しています。
毎週土日10:30〜13:00だけ、漁港婦人部の方々が食堂でその日の朝に水揚げされた地魚の天丼を販売しており大人気です。
是非お試しあれ!

それと八景島シーパラダイスと海の公園もすぐに近くですよ〜!


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平良文(たいらのよしふみ)公と言う平安時代の皇族臣籍降下武将をご存知でしょうか?
今の藤沢市村岡を本拠地にされ、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)や陸奥守(むつのかみ)を歴任された名将です。
今現在、御廟所は藤沢市の二傳寺(にでんじ)に在(あ)ります。
この↓御寺
良文公の御子孫は日本全国で有力大名や各大名の重臣に成りました。
その一部有名な方を数名あげてみましょう。
※良文公については別に「永谷天満宮(←クリック)」に関するスレでも紹介しています。
●鎌倉景政公
…関東では鎌倉市坂の下の御霊神社の御祭神として祀(まつ)られ関東全域の御霊神社で崇めらている。源義家公の与力の名将。
鎌倉御霊神社(←クリック)は別スレで紹介しています。
●上杉謙信
…元の名前が長尾景虎で鎌倉氏の分家の長尾氏の生まれ。長尾氏のルーツは横浜市栄区長尾台にあった長尾城址で、長尾城址は戦国時代に玉縄城の一部だった。
上杉謙信は言わずと知れた野戦で最強だった名武将。
長尾城址(←クリック)は別スレで紹介しています。
●大庭景義公
…源頼朝公の父君源義朝公の与力として活躍した武将で、藤沢市大庭城を本拠地にしていた。保元の乱で膝を負傷し弟の大庭景親に党首の座を委譲し茅ヶ崎市に居館を構えた。
●梶原景時
…源頼朝公に一番忠誠心が高く陰謀に長けた武将で敵勢力の有力武将や頼朝公に忠誠心の薄い武将の暗殺を実行した。源義経との仲が悪く讒訴した事でスッカリ悪人評価が定着。鎌倉幕府内でも嫌われ者に成ってしまった。徳川幕府における本多正信的な存在。昼ドラでヒロイン虐めるライバルみたいな扱いをされているが子孫に名将も多く、子の梶原景季や小田原北条家の水軍大将梶原景宗などがいる。
●三浦義明公
…言わずと知れた源頼朝公の一の与力。頼朝公の石橋山合戦に参加すべく三浦半島の横須賀市衣笠城で呼応し挙兵。援軍に行くも間に合わず、一族を頼朝公に合流させるべく房総半島に逃がし一族で一人だけ衣笠城に籠城し平氏軍を釘付けにし玉砕した。
衣笠城址の近所には源頼朝公が三浦義明公の菩提を弔う為に開いた満昌寺が在る。
衣笠城址は別スレで紹介しています。
満昌寺は別スレで紹介しています。
●千葉常胤公
…千葉県の県名の由来に成っている源頼朝公の与力で房総半島を束ねた名将。
●畠山重忠公
…良文公の子孫の秩父平氏の更に子孫で、源頼朝公に最も信頼され坂東一兵(つわもの)と言われた。北条義時の謀略により二俣川で討ち死にする。
子孫は関東管領上杉家の重臣豊島氏がいる。豊島氏は戦国時代初期の大名で領地は東京都豊島区北区を本拠地にし、横浜市北部まで及び、拠点は現代の石神井公園にあった石神井城だったが、扇谷上杉家の執事で名将の太田道灌公と対立し最後は横浜市港北区の小机城址で滅亡した。
小机城(←クリック)は別スレで紹介しています。
●佐原義連(さはらよしつら)公
…三浦氏の分家の佐原氏の人物で、今の横須賀市佐原城址を本拠地にした武将。源義経の活躍した神戸市福原攻めで勝因と成った「鵯越の逆落とし」奇襲を立案した名軍師。分析力に優れ、一族の和田義盛公や本家の三浦義村が北条義時の陰謀に次々と滅ぼされる中、北条義時と上手く距離を測り鎌倉幕府内で生き残った。彼のお陰で佐原氏が存続し三浦家の血筋が絶えずに済んだ。佐原氏の開基した清雲寺は三浦一門の菩提寺として現在も存続している。
清雲寺(←クリック)は別スレで紹介しています。
●正木時茂公
三浦氏の分家佐原義連公の更に子孫の相模の戦国大名三浦時高の孫。戦国時代房総半島の名将で里見八犬伝で有名な大名の里見氏の盟友。
水軍を率いて父祖の故地である三浦半島の城ヶ島に上陸すると短期間で三崎城〜鎌倉市街までを制圧した軍才に秀でた武将。戦死した国府台合戦でも小田原北条家を散々に痛撃した。玉縄城主北条綱成公の迂回奇襲に敗死するも朝倉宗滴から織田信長公等名将と並び称せらた名将。
●和田義盛公
…三浦氏の分家で、鎌倉幕府初代侍所所司。彼の築いた怒田城の縄張りや野庭城の立地を見ると、鎌倉時代に既に戦国時代の様な山城を築城し尚且つ主要街道や港湾の入口を見事に抑えており軍政家としての手腕が高かった事が垣間見える。
また彼は平安時代の武士の中でいち早く街道に関所を設け通行税を徴収するなど
、経済政策能力にも長けていた。
●葛西高清
…平良文公の子孫の秩父平氏の子孫、その中で今の葛西臨海公園辺りを治めたのが葛西氏。その後、室町時代には宮城県北部〜岩手県南部を治める30万石相当の大大名に成っていたが、葛西氏は伊達政宗の軍門に下り没落した。
●朝比奈泰朝公
…和田義盛公の子、朝比奈義秀公の子孫。今川義元家臣。朝比奈義秀は和田義盛公と元:源(木曽)義仲の奥さん巴御前との間に生まれた猛将で和田合戦で散々に北条家の武将を追い詰めたが敗戦、逃亡した。子孫の朝比奈泰朝公も祖先よろしく名将で、没落した今川家を最後まで支え掛川城に籠城し、実に5ヶ月間も徳川家康の猛攻を耐え抜き和議を引き出し暗愚な主君今川氏真の命を守り切った。
●芦名盛氏
…和田義盛公の子孫で祖先は三浦半島佐島マリーナ近くの芦名城址を居城にしていた。芦名盛氏は今の会津若松城を本拠地にしていた大大名で伊達政宗のライバルだった。他国と外交で伊達政宗を孤立させ窮地に追い込んだ名将。

歴史の教科書に載る超有名人物とゲームに登場するようなメジャー武将だらけですね。
源家が鎌倉幕府を開き日本全国を統治出来たのも、その与力武士団として平良文公の御子孫が加わり戦で活躍されたからなんですね。

さて、平良文公の御廟所ですが、冒頭で紹介した通り二傳寺の中にあるのです。

この石碑の裏山に御廟所があります。
お姿を拝みたい方はどうぞ御自分でお参りしてみて下さい。

実はこの御廟所、二傳寺のご住職のお話によると標高が藤沢市内最高地点で相模湾防衛に適した場所だそうで第二次世界大戦のおりにも米軍の首都上陸は相模湾から行われる事が想定され陸軍が二傳寺の廟所に砲兵を配置していたそうです。
そして実は戦国時代も武田信玄や上杉謙信を撃退した玉縄城の一部の二傳寺砦として機能していました。
玉縄城(←クリック)については別スレで紹介しています。
流石、醍醐天皇の信任厚く鎮守府将軍や陸奥守を歴任された名将…
はるか昔の平安時代に戦国時代ばかりか近代戦争にも通用する防衛拠点になり得る村岡郷を本拠地されるとは…。

みなさん、平良文公がいらっしゃったお陰で鎌倉幕府が成立し、生粋の日本独自の武士文化が発展したんですが…
神奈川県や東京都、千葉県の今日の発展の基礎を作って下さった平良文公の事と御廟所のある二傳寺と居城の村岡城址を頭の片隅に留め、近くに立ち寄った際は是非!御墓参りし感謝を心の中で良文公にお伝えしてみませんか?

因みにご住職は御多忙な方ですが、明るく優しい気さくな方で、村岡の地勢を詳しく説明して下さいました。
御近所には玉縄城主北条綱成公が開基された龍宝寺と、徳川家康が鷹狩の拠点に利用した長尾家の菩提寺久成寺もあります。玉縄城址探訪として3つの名寺を合わせてお散歩訪問されても有意義かなと思います。
御近所には大船フラワーセンターもありますよ〜!

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北条泰時公を御存知ですか?
その北条泰時公の開基(かいき:建設する事)した常楽寺と言う名寺が鎌倉市大船に在(あ)ります。
現代では余り有名とは言えませんが、由緒正しい御寺なんですね。
しかも中国大陸の仏教寺院と開基以来、今でも縁があるんです。

もっとも…
私達日本人にとって明朝を受け継いだ正統な華人文化国は台湾なんですが。

御寺の在る「大船(おおふな)」の地名は元は「粟船(あわふね」と言い、平安時代には海面が今よりも高く、鎌倉市大船を流れる柏尾川が今よりも深かったので海からの輸送船の往来が有ったそうです。
戦国時代でも付近の玉縄城は輸送船が城下のお堀まで入って来ており、造船集団がいた事に由来します。

さて…
常楽寺は今でも立派な山門(さんもん:御寺の門)と御堂、泰時公の御廟所もあります。 
北条泰時公は"学校で必ず習う人物"です。
…もし御知り合いが知らないなら「学生の時、授業中に寝てたでしょ?」とツッコミ入れて下さい(笑)。

さて、北条泰時公は源頼朝公の奥さん北条政子さんのお兄さんの北条義時さんと離婚した奥さんとの間に産まれた御長男で、頼朝公に外甥っ子として幼少の頃は大変に可愛がられた人物だったそうです。
ややこしい血縁関係(笑)。
ですから最初の名前は叔父で主君に当たる頼朝公より一字拝領し「頼時」でした。
大人に成ってからは鎌倉幕府三代目の執権として清廉潔白な人柄で善政を行い武士達から慕われていました。
しかしながら父親の北条義時公の更に父、つまら北条泰時公の祖父の北条時政公は奸計(かんけい:汚い謀略)で幕府内の同僚達を次々と暗殺したり攻め滅ぼしたり政治的に粛清し排除して行く過程で当然、泰時公も作戦に参加させられていました。
その為か、祖父達が主家に当たる源氏を滅ぼすと名前も「泰時」と改めてさせられたようです。

もっとも、源氏より関東にいち早く根付いた"平氏の出身の鎌倉武士達"の視点では鎌倉幕府は「皇族出身武士による共和政権」で「源氏の家臣ではなく協力者」と言う観念を持っていたそうです。
この事は平良文公の御子孫で坂東武者の代表格の鎌倉景政公が祀られている御霊神社の方がおっしゃっていましたし、歴史の推移を見るに実際、鎌倉武士達の頼朝公への関わり方は実際そのような形だったので納得出来ます。

本来の武士は政治信条や信仰による己の思想を大事にし、誰と組むか誰と戦うか、都度(つど:毎回)、考えるものですからね。
保元の乱も平治の乱も武士達は正に己の思想に従い親兄弟に各家で別れ戦い合いましたし。

儒教を導入し独裁政治を行おうとした節がある源氏側に非がない訳とも言い切れませんね。
源頼家公しかり。

歴史は勝者のみ記録出来ます。
ですから吾妻鏡は当然、北条氏側の観点で書かれてると思います。
泰時公の人格の逸話の多くは、北条氏の制圧した鎌倉幕府側の書いた吾妻鏡の中の記載です。
しかし、泰時公が人格や能力から武士達から絶大に支持されていた事は事実でしょう。
でなければ、その後、藤原氏に朝敵にされた幕府軍を統率出来なかったでしょうね。

泰時公の活躍された時代に「承久の乱」と言う事件が起きました。
承久の乱は、鎌倉幕府成立以前に貴族の藤原一族が独占していた権利を、鎌倉幕府から奪い返そうと藤原氏が傀儡の天皇を利用し起こした政変に対し、醍醐天皇以来の悲願で全国の皇族臣籍降下武士達が協力して打ち立てたた鎌倉幕府側が逆襲し京都に攻め上がり朝敵扱いから大逆転した事件でした。

泰時公は教科書で誰しもが習う「御成敗式目」を制定したり法治主義により鎌倉幕府を運営されました。
その統治能力と裁判官としの実績と軍才が今日でも評価されているんですね。

さて、常楽寺の話に戻ります。
常楽寺は泰時公の開基ですが、実は非常に中国と所縁(ゆかり)がある御寺でして、中国の高僧の方が最初の御住職でした。
四川省出身の蘭渓道隆と言う方です。
当時の中国大陸は「南宋(なんそう)」と呼ばれた国家で、まだ中国が外国人に征服される前で本来の華人文化が残っていました。
しかし当時すでにモンゴル帝国が「宋」の北部を侵略し始めており、鎌倉幕府はその宋の文化人の亡命者達を多く受け入れ保護していました。
中華民国を作った孫文先生を保護した明治政府に関係が似ていますね。
さて、蘭渓道隆和尚も宋から日本に渡って来られた方でした。

この常楽寺の宗派の臨済宗は一番偉い御寺が鎌倉五山の一つの建長寺(けんちょうじ)なのですが、蘭渓道隆和尚は建長寺の御住職も務められていた経緯で、本山と末寺の立場的な問題から常楽寺の開山(かいざん:最初の住職)は退耕行勇和尚とされています。
いずれにせよ蘭渓道隆和尚と退耕行勇和尚と北条泰時公の三者がいらっしゃった御蔭(おかげ)ではじめて御寺が成立したので皆様等しく御寺にとっては大切な方ですね。
ちなみに建長寺は「けんちん汁」の発祥地です。

さて、蘭渓道隆和尚のいらっしゃった頃の日本は、漸(ようや)く武士文化と言う完全独自の文化を持ち始めたばかりなの頃で、まだまだ一般人の識字率低かった時代でした。
そんな時期の日本にはるばるいらっしゃって、仏教文化を通じて日本人の識字率や文化度の向上に貢献して下さったんですね。
何だか鑑真和尚の逸話に似ています。
鑑真和尚の時代、仏教の伝来は日本の建築技術の飛躍的な向上をもたらしました。

確かに独自の神道と言う宗教とは異なりましたが、儒教や基督(キリスト)教と異なり神道を尊重し相互の良い部分を融合させ日本に定着しました。
仏教が攻撃的な宗教で無かった事や、仏教自体が多神教で日本に伝来する過程でヒンドゥー教や中国道教と融合し多様性に寛容な多神教でしたので、多様性を良しとする神道の価値観を持つ日本人に受け入れられ易(やす)かったのかも知れませんね。
近年でも常楽寺と中国の関わりが有りました。
以下は現御住職から聞いたお話しです。
中国が日本と国交正常化して暫くし中国の経済発展が始まった頃、常楽寺に知らない中国人僧侶が突然通訳を伴って来られたそうです。
当時のアメリカ大統領がパパブッシュだった頃だそうです。
その僧侶がおもむろに庭作業中の御住職に中国から来た経緯を通訳を介して話しだしたそうです。
実はこの中国人僧侶は蘭渓道隆和尚の中国時代の御寺の現代の高僧でしが、当然ですが御住職は最初相手が何者か解らなかったそうです(笑)。
相手も蘭渓道隆和尚の開山された常楽寺の御住職が、まさか庭作業なんぞするわけないないと思い最初は御住職を下っ端の僧侶と勘違いしたそうです。
よくよく話を聞いて、お互いの立場がわかると相手は蘭渓道隆和尚の足跡を辿り中国の御寺の記録を頼りに鎌倉市の常楽寺を訪ねて来られたそうです。
そして常楽寺と建長寺に、中国で廃寺に成っている蘭渓道隆和尚と所縁が有った寺院の再興式典に参加を要請に来られたそうです。
改革解放前の中国共産党は文化大革命により仏教を含めた全ての宗派を弾圧しましたからね。
改革解放が始まり漸く宗教活動が大々的に出来るように成った頃ですね。
常楽寺の御住職は要請に応じ、その後、船便で届いた招待状を手に上海に行くと日本の蘭渓道隆和尚と所縁のある御寺の和尚様達と共に国賓待遇で迎えられたそうです。

そうやって蘭渓道隆和尚の御縁で結ばれた中国と常楽寺(日本)の縁でしたが、御住職は最近、中国に対して気持ちは複雑だそうです。

実は小生も中国に留学していましたが、最近の習近平政権の排日政策と日本人差別に嫌気がさしてます。
小生は三国志好きで中国人の友達いますが今は中国に行く気には余り成りません。
商業工業で中国に拠点を持つのもお勧め出来ません。
韓国と中国とは国として政府間交流は挨拶するだけの苦手な隣人くらいの距離の取り方が無難だとも考える程です。
本当に行く必要のある家族が相手国にいる人と、相手の文化を尊重出来る人だけが往来すれば良いと思います。
中国人との関わりは個人単位で誰と付き合うかが大切ですから。
中国人にもモラルの高い階層は文化大革命を経ても生き残っています。

習近平政権は日本人排斥と日本企業弾圧しようとしていますが、宗教も弾圧し始めていますね。
何だか文化大革命の頃に逆行したいみたいだと感じてしまいます。
日本人は三国時代の魏の皇帝曹叡や丞相の司馬懿、隋や唐の歴代皇帝からは友好的な支援を受け国を発展し平安文化や武士文化を起こす技術支援を受けた感謝は有ります。しかし蘭渓道隆和尚の頃の生粋の中国人の面影は最早、今の中国大陸には価値観として余り残って無いのかも知れません。

北条泰時公と蘭渓道隆和尚と常楽寺を通じてモンゴル帝国に征服される前と後の中国人についても考えさせられ、その当時の蘭渓道隆和尚達、南宋亡命者の文化人達の情報により鎌倉幕府が元との対決を決めたのだろうなと…

ただ日本人は忘れないでおきましょう。
蘭渓道隆和尚の様に、日本の為に貢献して下さった華人がかつていらっしゃった事を。
正統な華人文化を受け継いだ台湾と、一部の高文化階層の親日派大陸人は大切にしましょう。
鑑真和尚や蘭渓道隆和尚の為に。
和魂漢才を唱えた菅原道真公の天神様を祀る日本人として。
神道と仏教の融合した八幡神を信仰した鎌倉武士達の意思を引き継ぎ。

最後に北条泰時公の御廟所前の説明石碑と鎌倉武士も見ていた今日の富士山の写真を載せます。
お墓の写真は失礼に当たるので掲載しません。
皆様、御自分で足を運ばれてみて下さい。
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横浜市港北区鳥山に残念な事に神主不在に成ってる、立派な八幡神社があります。
ここ、地元の人も移民だらけで知らない人が多いのですが、実は、征夷大将軍源頼朝公の与力で平安時代後期〜鎌倉時代の名将、佐々木高綱公の居館跡なんです。
高綱公と言えば源義経と共に京都に攻め上り、宇治川の合戦や木曽義仲追討戦で大活躍された滋賀県出身の名将です。
しかし周辺住民は、現在、鳥山八幡宮が高綱公の屋敷跡と知らない人だらけで神社の手入れも本殿以外は疎かにされ旧参道や周辺の環境は余り良くなく、神社の由来を記した看板さえありません。
移民の多い鳥山周辺の住民はほとんど御存知(ごぞんじ)無いようです。

実は、この一帯は、佐々木高綱公が源頼朝公の命令で開基した三会寺(さんねじ)が鎮座していたり、高綱公が宇治川の合戦の戦功により頼朝公から下賜(かし)され拝領(はいりょ)した名馬「生唼(いけずき)」が葬られた場所に建てられた馬頭観音(ばとうかんのん)の御堂も近くに在ったり、佐々木家所縁の史跡が沢山有ります。
陸上部の生徒や運動会で活躍したい学生サンは、この馬頭観音に御参りしたら"名馬生唼"の御利益に肖(あやか)れるかも知れませんよ?
歴史的にも高綱公の兄の佐々木家嫡流御曹司の佐々木定綱公の嫡孫に当たる佐々木泰綱公が幕府の命令で、この鳥山地区一帯を開墾した事も古文書に記されています。


この鳥山の八幡社の石段の手前右側には小さな祠(ほこら)があります。

実はこの祠も凄い場所の筈です。
源氏系の武士や、頼朝公の御家人の中には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ=八幡宮の御祭神)と、弁財天を信仰する武将が多くいました。
そして、弁財天様はだいたいが池の真ん中に島を築いて、そこに祠を築いて祀ったようです。
その事は、鶴岡八幡宮に白幡弁財天が祀られている事や、頼朝公が江ノ島弁財天を信仰した事、戦国時代の小田原北条家が八幡神を信仰した事も滝山城址に弁天池が設けられている事からも証明となります。
ご覧の通りの惨状で、鳥山の八幡社の弁天堂と思われる場所は荒れ放題です。
しかし良く見ると祠の手前には土砂に埋もれた石橋があり…
背後の「切岸(きりぎし=人工的に削った崖)」から湧き出る細い滝も確認出来ます。
今は手入れする氏子もいなくなり土砂で埋もれてしまってますが、恐らく昔は背後の滝から石橋まで池が広がっており、弁天様の祠と思われる場所は、多くの弁財天の祠と同じ様に池の中に浮かぶ島になっていたのでしょう。
この弁天様は財運の神様であり、強運付与の神様ですので、学生は勝負事や試験の前に御参りすると御利益が有るので受験前や部活の試合前に御参りしてみたら御利益有るかも知れませんよ~♫
しかも八幡神社の八幡神=応神天皇は軍神で勝負事にまつわる神様ですから。
だから源氏与力の鎌倉武士から崇拝された訳ですが…

さて、話を神社の地形と歴史に戻します。
神社本殿周辺の地形は鎌倉報国寺のように切岸に囲まれた谷戸(やと)状の館だったと推測が成り立ち、平安時代〜鎌倉時代の鎌倉武士の屋敷が谷戸に作られる事が多かった事から時代的にも佐々木高綱公の屋敷跡の伝承と符合します。
神社は鳥山の裾野部分にあり、恐らく位置的に平時の屋敷だったのでしょう。
背後の鳥山が詰めの城として機能していたのだとおもいます。
これは神奈川県藤沢市の大庭城址、同横須賀市舟倉の怒田城、同川崎市井田の井田城址、東京都日野市の平山城祉等の同時代の城とも地形的に相似しています。

神社は参道から立派だった名残があります。

いまでは鳥山山頂の住宅地への通り道としてしか認識されていないようですが…

どうぞ周辺住民の皆様
佐々木高綱公が残してくださった歴史と地域の誇りを、神社と馬頭観音、そして神社の御神木と共に大切になさって下さい。

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朝から由緒ある神社にお参りに来ました。
橘樹(たちばな)神社と言う日本神話にも登場する神社で、弟橘媛(おとたちばなひめ)をお祀りしています。
この姫神様は日本の軍神:日本武尊(やまとたけるのみこと)の御后(おきさき)様です。
二柱(神様の人数を数える単位は"柱")は夫婦一組で"縁結びの神様"として御利益が有ります。
日本武尊は日本最強の軍神なので、弟橘媛御夫妻は文字通り"最強の縁結び"の神様なんです(笑)。

この神様、実は台湾の媽祖廟の神様とも同一視されており日本と台湾友好の神様でもあります。

そして、浦島太郎伝説の乙姫(おとひめ)様のモデルに成っている古代の人物で神様に成られた方です。
弟橘媛と日本武尊が一緒に過ごした場所が神奈川県の三浦半島の横須賀市にある走水海岸の御所ヶ崎(ごしょがさき)と言う場所で、そちらにも明治時代までは橘樹神社がありました。
明治時代、日本に来航する西欧列強の亜細亜侵略が激しく、外国軍船の侵略に備え御所ヶ崎の橘樹神社は明治政府に接収されてしまい砲台が築かれ破壊されてしまいました。
御所ヶ崎は正に「海中に浮かぶ島」=「海の中の島」と呼べる地形なんですね。
写真は走水(はしりみず)海岸。
此処(ここ)から日本武尊は房総半島の富津に渡りました。
今では公園化されていますが、神社の在った砲台跡には未だに入れません。
走水神社に伝承する御所ヶ崎と川崎市の橘樹神社の神話を説明します。
日本武尊が東征する際、奥さんの弟橘媛様と御所ヶ崎で3年間過ごした後、海路房総半島を目指すのですが今と同じくらい浦賀水道の流れは早く、当時は更に海が荒れ渡航できずにいました。
そんな中、弟橘媛は夫である日本武尊に愛してくれた事と三年間の生活が幸せだった事を告げると自ら東京湾に入水自殺し人柱(ひとばしら)に成る事で海の荒波を沈め旦那様の渡航を助けたそうです。
戦国時代もそうでしたが、今の東京と千葉の間には江戸川=隅田川と利根川が流れ江戸城や国府台城や葛西城等の要害地域が沢山あり陸路東征は困難だったのだと思います。
まして弥生時代〜古墳時代は今より海面が高く平地は少なかったですからね。

昔の海岸線
この通り…神話の頃の縄文〜弥生時代は殆ど海の底。

今も貝塚や神社のある地域は不思議と当時の半島の上。
…つまり、そう言う事なんですよ。
歴史を知っていれば分かりますが、二酸化炭素で地球温暖化なんて「大嘘」なんですよ。
寧ろ長い歴史の中で氷河期でもないのに今程に陸地が広いのが異常な状態。
水没地域が増えて正常なんですね。

さて…

弟橘媛入水自殺の、その7日後に弟橘媛様の櫛(クシ)が流れ着いたのが、今の橘樹神社のある橘樹郡だったそうです。
因(ちな)みに袖が流れ着いたのが千葉県の袖ヶ浦かな?
だからか、千葉県にも橘樹神社はあります。

話を川崎市高津区の橘樹神社に戻します…

橘樹神社は今では神主不在の住宅街の中の神社ですが…
昔は神域の規模も広かった様(よう)です。
しかし、大半が農地として開拓されてしまっていたので昭和の高度経済成長期に無文化な神奈川県教育委員会が宅地化を見過ごし乱開発され、結果的に旧社域内の小さい御社は散り散りに分散してしまいました。
この写真に写ってる範囲全てが昔の神社の敷地と推測され、尚且つ古代の橘樹郡の郡役所、つまり政庁機能を有した城だったと考えられています。
少し前までは有名な神社だったんですよ。
幕末に政治家/軍人としと勝海舟と供に活躍した剣豪で新撰組の前身:浪士組を編成した"山岡鉄舟"も、この神社を訪れ短歌を詠んでいます。

神社には今も彼が句に詠んだ御神木の"松"の大木の枯れ木が有ります。
上の写真で神社の背後に見える住宅街に成ってしまった丘には、今でも弟橘媛の御陵と伝わっている富士見台古墳の破壊された残った一部分が現存しています。

橘樹神社の裏の住宅街は弟橘媛の「巨大な円墳」の跡です。
写真見て貰った方が解りますね。
      
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写真の中心やや上寄りに「●子母口富士見台」と表示の有る場所がありますよね?
その直(す)ぐに左、十字路の直ぐ下の茶色畑みたいな色の場所が古墳円形部の最高部です。
そこから真下に行った写真一番下の緑の屋根が「橘樹神社の社殿」です。

「●子母口富士見台」の近くの古墳最高部、そこを中心に周りの住宅街を見て下さい…
円形に並び、古墳円形部の形と巨大さがそのまま見てとれますよね。
教育委員会は円墳と言っています。

皇族や神様の古墳は入口に神社や鳥居が有ります。
その背後には古墳を囲む「堀(ほり)」が置かれます。

橘樹神社の社殿の裏は正に堀割状(ほりわりじょう)の地形の「谷」に成っている上、先程説明した富士見台古墳残存部を中心にした巨大円形台地の下に入口の様に神社が有ります。

神社〜古墳の残存部分までの散歩道、付近には元々の地元民の皆さんの郷土愛と信心深さを感じられる程、散り散りに分散された旧神社域の小さな御社廟は今でも沢山残っていました。
昔は橘樹神社と一つだった、お隣の実相寺にも天神様の小さい御社があり…

住宅街の中には土地神様を祀る御社も在ります。

弟橘媛の御陵の残存部は、近年、県の教育委員会の怠慢で土建屋に半分削られて破壊されてしまいました。
写真左のコンモリした丘は弟橘媛様の御陵の一番高い部分のほんの一部の残存部です。

…てか!
これ…
…明らかに石室狙って土建屋に破壊→盗掘された痕(あと)じゃね〜か(´Д` )?

本当、神奈川県の教育委員会は土建屋の文化史跡破壊に協力的だな?
オイ!((((;゚Д゚)))))))マジメにヤレ!

古墳の説明看板

古墳の先端の削られてない側。

古墳の頂上。

頂上から見た朝日…

土曜日の早朝、橘樹神社をお参りし清浄な空気を感じれて幸せでした…。


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日本武尊(やまとたけるのみこと)と
弟橘媛(おとたちばなひめ)の夫婦神
漁師と料理人の神様の大伴黒主(おおとものくろぬし)
…その三人の神様をお祀(まつ)りする神社が三浦半島の走水海岸の御所ヵ崎近くに在(あ)ります。

付近は風恋明媚(ふうこうめいび)な漁村です。
釣船屋さんと地魚料理の食堂が立ち並びます。

今回ご紹介する神社の神様は川崎市高津区子母口の橘樹神社とも同じ夫婦神様の日本武尊と弟橘媛です。
川崎市の橘樹神社には弟橘媛様の古墳も一部分現存しています。
詳しく知りたい方は以下の関連ブログのリンクをクリックして見て下さい。
橘樹神社のブログ記事はココ←クリック!

さて、横須賀市の走水神社の御祭神(ごさいしん)が日本武尊と弟橘媛と大伴黒主である理由は、実は御三方はここに住んでいらっしゃったからなんです。
日本武尊と言えば日本を代表する武神であり軍神です。
弟橘媛はそのお妃(きさき=王様の妻)で、海上交通の神様で、浦島太郎伝説の乙姫様のモデルでもあります。
夫婦が揃うと文字通り"日本最強の縁結びの神様"の御利益を発揮される訳です。

走水神社のすぐ近くに小さな半島の"御所ヵ崎(ごしょがさき)"が在ります。
正に其処(そこ)が御二人が夫婦生活を営まれた「御所=高貴な人の館」の所在地だったのです。
だから神社の目の前は海♪
写真左上が御所ヵ崎。

そして御二方に海鮮料理を作り接待したのが"大伴黒主"様なんですね。
走水神社の氏子さんの話では大伴黒主様は後に日本武尊にスカウトされて古代大和朝廷(やまとちょうてい)に仕え総料理長に成ったそうです。
だから料理の神様なんですね。

関係有るかは不明としておきますが…
逸話の内容や古代服装からして、"大伴黒主様は七福神の大黒天"の日本でのモデルだと思います。
大伴黒主の時代の服装の方がより大黒天に近いですからね。
ただ、大黒様はインドのヒンドゥー教由来の神様です。
歴史的には古代の豪族大伴氏は天皇の近衛兵と水軍の管理を任された名族です。

走水神社の上からは走水神社を中心にした漁村が良く見えます。
港の左手には御所ヵ崎…
…海面の高かった古代では"浦"に浮かぶ"島"…浦島に見えたでしょうね。
湾を挟んで対を成す神明神社の在った半島…
埋めたてられる前は、走水神社を中心にして鶴が羽を広げた様な風光明媚な海岸だったんでしょうね。
航空写真を見て頂ければ、その位置関係と地形も一目瞭然…
しかし
明治時代に御所ヵ崎と神明神社の半島は明治政府に接収され破壊され砲台が築かれたので、それ以来入る事は出来ません。
誠に不敬で遺憾な事です。
ですので、心を痛めた東郷元帥や乃木大将や伊東祐亨閣下等の有志により、湾の中心に有る走水神社に橘樹神社と神明神社を合祀(ごうし=同じ神社の敷地内に神様をお引越しする事)しました。
日本武尊と弟橘姫の仮御所だった走水海岸の御所ヶ崎周辺からの眺望は素晴らしく、海に突き出し昔は島だったであろう御所ヶ崎と地続きの丘の上から見る三浦半島の海岸線の先には富士山に夕日が沈む姿が見られ、正に乙姫伝説の海の中の竜宮城の形容に相応し場所です。
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御所ヶ崎の社殿は砲台建設時に明治政府によって接収され破壊されました。
御分霊だけ明治の元勲の中の信仰心厚い面々によって奥宮に保護合祀されたが古代の仮御所の史跡は永遠に失われ訳です。
CIMG1998
冬季であれば雑草も枯れて門の入口から中の様子が少しだけ見えます。
見学されたい方は横須賀市公園管理課に問い合わせて予約すると、御所ヶ崎砲台史跡として見学する事が出来ます。
走水神社から御所ヶ崎に行く途中には下の看板も有り簡単な説明が掲載されています。
CIMG1996

因みに神社には弟橘媛と日本武尊の暮らした御所ヵ崎の砂を"縁結びのお守り砂として無料配付(はいふ)"しています。
スプーン一杯分くらい持って帰ってお守りにして良いそうなので、小さなジップロックみたいな袋か和紙を持参して行くと良いですよ!
この神社の手水(ちょうず)は正に御神水とも言える自然湧水で、富士山系の腐り難いバナジウム天然水らしいです。
ですので、昔は船に積み込むミネラルウォーターに用いられたそうです。
同じ泉質の横浜市中区の打越の霊水は、やはり明治時代に遠洋航海する船の飲水や、同横浜市中区に在った幕末のキリンビールの最初の本社工場で使われた水も同じ泉質でした。
走水神社本殿自体は建て替えられたばかりの綺麗な社殿です。
写真撮り忘れましたすいません…
…面目無い_| ̄|○
神社内には弟橘媛と日本武尊が詠(よ)んだとされる和歌が刻まれた石碑も有ります。
走水神社は古代から此方(こちら)に在ったそうで、伝説では日本武尊が来る西暦2世紀より以前の紀元前には有ったそうです。
建て替えの際に社殿の床から伝説通り日本武尊から奉納(ほうのう=神仏への寄付)された冠(かんむり)を保管する石室の壁が出て来たそうです。
本殿横には弟橘媛の侍女を祀るお社もあります。
今も古代の石造りのお社が走水神社の奥宮に移築され祀らています。
右から…
須賀神社=素戔嗚雨之命(すさのおうのみこと
神明神社=天照大御神(あまてらすおおみかみ)
諏訪神社=建御名方神(たけみなかたのかみ)
つまり…
須賀神社=軍神と水運=日本武尊の信仰した神様。
神明神社=大和朝廷皇族の祖先神
諏訪神社=弟橘媛と大伴黒主の祖先神と同じ渡来系技術の神様。
…と言う感じです。
大伴黒主は別名:久応と伝わります。は日本武尊達を歓待した地元の豪族で漁民で料理人。横浜市神奈川区六角橋の宝秀寺は大伴久応の邸址と伝わり、そこに日本武尊が滞在した伝承が有る。走水神社の伝承では大伴黒主は日本武尊を接待した後に請われて後に古代大和朝廷の料理長に成ったそうだが、日本神話では日本武尊は岐阜県と滋賀県の県境に在る伊吹山辺りの神(豪族)に帰路を阻まれ三重県の鈴鹿辺りで病没しています。
史実としては大伴一族は水軍を率いて天皇家の御林軍も率いた一族なので、走水で日本武尊を大伴黒主様が歓待された事は神話とも整合性が有り、六角橋の大伴久応の伝承とも整合性が有ります。
つまり、大伴久応黒主様の正体は、東京湾沿岸部西部を支配した豪族だったのでしょう。
六角橋の近くには塩嘗地蔵(しおなめじぞう)と呼ばれる御地蔵様が鎮座していて、そこは火事で戦国時代に廃寺に成った神大寺と言う大寺院の参道入口と伝承します。
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大伴久応邸址の在る六角橋近くには浦島町が在り浦島太郎伝説の舞台で有る事や背後の浦島町~新横浜駅近く篠原城址に繋がる丘は古代に海に面した半島で亀甲岬と呼ばれた事、その半島の一部だった鶴見区に亀甲山の地名が現存する事、現在の新横浜に太田道灌公が小机城攻略の前衛拠点として‟亀甲山城”を築いた記録が残る事、陸奥話記にも登場する源義家公与力武将の丸子宿禰家の所領も中原街道沿い川崎の対岸に丸子の地名が残り大伴家と同族である事から、古代の大伴家が支配した地域が陸海交通の要所だった事が解ります。
江戸時代に東海道神奈川宿が置かれた京急神奈川駅近くの幸ヶ谷~台町一帯は足利尊氏公の時代も交通の要所で権現山城が築城された亀甲岬の一部の小さい半島でした。
その重要性から古代に大伴家が支配したこの一帯は戦国時代も北条家臣で間宮林蔵や杉田玄白の一族の祖先に当たる間宮信冬公が活躍した権現山合戦の舞台に成っています。
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出雲大社はじめ古代の水軍を司った出雲神族の家系は家紋に亀甲紋を用いる事から、現在の浦島太郎の物語は関東の日本武尊神話が元に成っている事も判ります。
浦島太郎が帰る家が無くなる様は、兄王成務天皇に皇位継承権を巡って帰京を阻まれた日本武尊の悲運を抽象化したものでしょう。
そして、その東征の目的は佐賀牟国の国司の内紛鎮定だった筈で、現在の神奈川県の地名由来に成った神奈川と呼ばれた地域、久良岐郡~橘樹郡~多摩郡(川崎市域)は古代大和朝廷の直轄地とされ神(かみ=支配する豪族)奈(無し)の地域が川の様に細長く設置されました。
郡衙と国府と延喜式内社と古墳と縄文弥生遺跡 久良岐のよし
それは、あたかも国境非武装地帯の体を成し武蔵国と相模国の国境地帯に重っています。
この佐賀牟国が相模と武蔵に分割され争乱を鎮めた事が垣間見える神無しの地域こそ、‟初代か二代目の”日本武尊の偉業が豪族紛争鎮定であり、天皇家介入による非武装地帯の設置の聖跡だろうと推測出来ます。
それを示す様に同地域には延喜式内社が存在していません。
本来ならば、この走水神社も延喜式神名帳に載るべき場所なのに掲載が無いのは奈良時代~平安時代初期に支配者豪族不在で上奏が無かったか大和朝廷から派遣された代官が働くに郡衙政庁として機能していた為でしょう。つまり、古代からの政庁機能が生きたまま神社には成らなかった場所だと推測出来ます。
更に、日本武尊の人物像に習合されている可能性の有る人物がいます。
雄略天皇の時代450年代~500年頃にも武蔵国造(むさしくにつくりのみやつこ)の乱が勃発しており、埼玉県稲荷山古墳出土した金象嵌鉄剣に彫られた‟獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)”の名こそ雄略天皇であり多支鹵=武尊(たける)の名を継承した大将軍職の尊称だろうと推測出来て、日本武尊神話に複数人の事績が後から習合されているとされる説が根強く有る事も理解出来ます。
応神天皇の別名が大鞆和気命(おおともわけのみこと)や誉田(=多)‟別”尊(ほんだわけのみこと)である事から「和気(わけ)」「別(わけ/わか)」の「わか/わけ」が獲加多支鹵大王の「獲加(わか)」に通じ、「稚」にも通じる音である事から、「ワケ/ワカ」は仁徳天皇以降使われなくなり現代には伝わらない皇族の青年将軍に対する尊称であったと解釈出来ます。
下の写真は延喜式神名帳に掲載される相模国四之宮前鳥神社です。
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相模国四之宮前鳥神社の主祭神で京都の宇治市から神奈川県平塚市に移住した応神天皇の皇子、莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命(のみこと)は、やはり御名に「稚」の字を含んでいます。
前鳥神社の近くには、その御陵と推測される真土大塚山古墳も在り古代大和朝廷や卑弥呼が魏の皇帝曹叡と丞相の司馬懿仲達から送られた200枚の銅鏡に繋がる三角縁神獣鏡が発掘されています。
莵道稚郎子命は日本で最初に漢学(兵法や儒学や雅楽)を学んだ人物とされています。
中世~近世の武士達が当主の嫡子を「若(わか)様」と呼んだのも、この古語の名残でしょう。
この関東で活躍した日本武尊の叔母君の倭姫命が卑弥呼で景行天皇が卑弥呼の弟ならば、走水神社は初代日本武尊の聖跡となり時代的にも史実と誤差が近く成ります。
そもそも卑弥呼も卑弥呼(ヒミコ)=日巫女(ひのみこ)や媛御子(ひめみこ)の音に通じる事から、皇女(内親王)が受け継ぐ斎王職の原型の役職名だった可能性も有る。奈良~平安時代に斎王が支配した伊勢神宮で日本武尊が叔母の倭姫命から神剣を貸与され与力に大伴家を付けられている事からも、六角橋と走水の伝承に整合性が認められ、倭姫命は古代の斎王で正体は卑弥呼本人か、中国で卑弥呼の当て字に翻訳されたを官職名として斎王職の原型の女性宮司を継承し務めた皇女(内親王)でしょう。
この走水の海岸から日本武尊は房総半島の富津へ渡って行きました。
パワースポットでもありますが…
古代へのロマンを感じる場所です。
そんな訳で、景行天皇の皇子で関東鎮撫の大将軍を務めた初代の日本武尊であろう神様と、御妃様の弟橘姫様が仲睦まじい御夫婦の神様だった事と、更には走水神社の社伝で料理達者であったであろう大伴久応黒主様の家系は親衛隊や水軍の将を務めた歴史事実、東郷平八郎元帥達、対馬海戦でロシア帝国の大軍勢を撃破した名将達の崇敬した神社としての実績も有ったりする場所なので戦勝祈願の聖地として紹介しても過言では無い事、それら全ての御利益に預かれる場所である訳です。
皆さんもどうぞ、参拝して日本武尊と弟橘媛様と大伴黒主様に想いをはせてみては如何でしょうか?
近くには「かねよ食堂」と言う素敵なCafeレストランBarと、走水名物の海苔の生産直売をする「ながつか水産」さんも有ったり、昔から東京近郊の御金持ちにリゾート地として親しまれた観音崎灯台や観音崎要塞史跡、多々良浜も有ります。
走水神社に関連する橘樹神社さんもブログ冒頭でリンク貼った関連記事も読んで見て下さい!
きっと皆さん中で歴史の紐が結ばれ繋がりますよ〜♫


周辺の観光地も素敵な場所です。
皆さん、ここに来て散歩してみませんか?
そして、御近所の神社仏閣や城址も御散歩して見て下さい。
近所の小さな神社や御寺や御城の址の山にも思わぬ歴史偉人や武将との関わりが有るかも知れませんよ?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!
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先週、衣笠城址を訪れた際に、近くの大矢部地区にある鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公が開基(かいき=建立)した満昌寺と言う御寺にも行ってきました。
こちらの御寺には平安時代後期の名将:三浦"大介"義明公の御廟所があります。
頼朝公お手植えの躑躅(つつじ)も境内に残っています。
坂東八平氏の一家である三浦義明公の三浦家だけあり、同族の鎌倉景政公を祀る御霊神社と同じく三浦義明公の御廟所も御霊神社でした。
当時の武士は自害を余りしなかったので、もしかしたら義明公の外孫でもあり討ち取った張本人でもある畠山重忠公が首供養していた義明公の御首(みしるし)を、源頼朝公が感謝の意を込めて手厚く再度供養したんでしょう。

満昌寺さんには、その御霊神社の建て替えの際に伝承の首塚附近から出土した遺品や義明公の等身大木造等の遺品も多く収蔵されています。
事前に電話で連絡を差し上げ、御住職の都合が宜しければ見学さして頂けます。

写真撮影は不謹慎なので御廟所は撮影しませんでしたが、此方(こちら)の鳥居の上にある御霊神社の裏に墓石が有ります。
此方で義明公への衣笠城址登城の御挨拶と、仏教的な意味でのお参りもさせて頂きました。

満昌寺の御住職はとても声が通りハキハキとされた方でした。
お忙しい中、御好意で親切に接して頂き色々と御話しを聞かせて頂き御朱印を頂く事も出来ました。

春に成って桜の季節に成ったら衣笠城址の桜を見に行きたいな〜。
そして満昌寺の義明公に御挨拶に伺う事が出来れば嬉しいなと思います。

近くのセブンイレブンの裏の住宅地の中の旧薬王寺(廃寺)の敷地だった場所には三浦義明公の次男で、三浦の家名を継いだ三浦荒次郎"新介"義澄公の立派な御廟所も有ります。
しかし、此方は教育委員会が保護を怠り、墓石には破壊され盗掘されてしまった跡があります。
平安時代の骨壷を花器として盗掘し投機対象として転売する不届き者がいる様です。
…そう言う無文化で不敬な犯罪者がいる事は悲しいですね。
そんな奴はバチが当たれば良い。

※関連記事リンク
●衣笠城址の記事は「ココ」←クリック!
●義明公以前の三浦家の菩提寺青雲寺さんの記事は「ココ」←クリック!
●三浦家の祖先の鎮守府将軍平良文公の菩提寺二傳寺の記事は「ココ」←クリック!
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