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カテゴリ: 初詣向け神奈川県の神社仏閣の概要一覧

大山阿夫利神社(延喜式内社)
雨降山大山寺(関東三不動の一つ)
石山権現(大山山頂の縄文時代~の祭祀遺跡の聖地)

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大山夜間ライトアップ 公式拝借 久良岐のよし
  御利益:天候・交通安全(陸・海)・縁結び・ボケ防止・厄除け
  御祭神・陪神・仏様等:
  高龗神(たかおかみ/たかみのかみ)・大雷神・石山権現=大山祇大神・石長比売・木花之佐久夜毘売・思金神・不動明王
  関係者:
  開基:石山権現=大山祇大神・高龗神・大雷神
  中興:征夷大将軍   源  頼朝公
     相模守護代   太田 道灌公 
     相模守     北条 氏政公    
     征夷大将軍   徳川 家光公
  旧郡名:大住郡
  所在地:伊勢原市大山国定公園の大山ケーブル終点駅
  所在地:伊勢原市大山国定公園の大山ケーブル大山寺駅直ぐ
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
大山山頂奥社に石山権現大山祇神(おおやまずみのかみ)を祀る古い神社で、神社としては社殿が西暦3世紀頃に成立した。出土物は更に歴史を遡(さかのぼ)る事が出来て山頂からは古代人の大山祇神の信仰を証明する様に縄文時代~奈良時代の祭祀場が発掘されており土器等の祭器が出土している。 
富士山の神様の木花咲耶姫のお父さんの神様として武士や庶民の信仰対象に成った。 
源頼朝公をはじめ、名軍師太田道灌公や徳川家康公等、多くの成功者が大山阿夫利神社を度々訪れ信仰した。江戸時代以降は江ノ島参りや富士山登山、御伊勢参りと並び、江戸市民の憧れの観光地として栄えた。
その参道には現代も温泉街を抱え先導師(御師)の経営する宿坊が立ち並ぶ。        
天候の神様でもあり、古来、相模湾からの位置を知るランドマークが大山だったので築地市場関係者等、漁業と商船や商社の関連業界から信仰が厚い。又、日本の歴代統治者が信仰を集めた歴史から、多くの講が組まれ現在も大山詣は企業単位でも盛ん。 
周辺には樹齢千年を超す大山桜があり、秋には紅葉でも有名な観光地。       
参道の温泉宿坊は、どこも大山名物の豆腐料理と猪鍋、神代から続く酒造り文化の清酒を提供していますので日帰り湯や豆腐料理を堪能して見て下さい。
※大山阿夫利神社は下社で、御神体は大山の山頂に存在します。

有鹿神社奥宮(延喜式内社)・・・古代一之宮
有鹿谷(湧水聖地)
勝坂遺跡(縄文時代~の集落遺跡)
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  御祭神御本尊等:
  有鹿比売命(あるかひめのみこと)・有鹿谷湧水の聖地・勝坂遺跡(縄文~集落遺跡)
  御利益:雨乞い/農業豊作/縁結び/夫婦円満
  関係者:
  開基:有鹿比女と有鹿比古(あるかひこ)の夫婦神
  中興:天智天皇
     孝謙天皇
     清和天皇
     相模国司 歴代
     権守     海老名 季定 公
     海老名家   歴代当主
     相模守    北条 氏政 公
  旧郡名:高座郡
  所在地:相模原市南区磯部、勝坂遺跡の有鹿谷
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
主祭神の有鹿比女命(あるかひめのみこと)が湧水の聖地を神格化し御祭した神社で、神奈川県下最古級の歴史を持つ。神社の上の丘には勝坂遺跡も有って、縄文時代の生活を学べる竪穴式住居等が再現されている。縄文時代~の遺跡のど真ん中に存在する古社で古代からの聖地として存在した。湧水は有鹿谷から流れ出し鳩川と成りやがて大河川の相模川と合流する。古代大和朝廷の時代に開かれた海老名市の条里制区画が残る海老名耕地を潤す農業用水でもある事から豊穣の神としての意味も強い。
その歴史の古さと有鹿谷の神秘性から歴代天皇から崇敬された幣帛を賜わり国家鎮護の祭祀が行われた歴史記録も残る。古代からの‟水引神事”が行われていたが中世に一時途絶え、後、戦国時代に関東覇者で小田原城主の北条氏政公によって神事が再興された。有鹿神社本宮の在る旧海老名郷は北条家臣で鶴岡八幡宮再建に携わり一族が江島神社別寺の修験道岩本院別当職を務めた間宮家の惣領である笹下城主間宮康俊公の所領だったので、間宮康俊公と江ノ島岩本楼の岩本(間宮)家の一族の関与が有り北条氏政公に由(よ)る水引神事復興が行われた事が推測出来る。
有鹿神社奥宮は現在では社殿こそ存在しないが、奥宮として鳥居と石の祠(ほこら)が鎮座しており湧水地と祠を御参りすれば古代からの強い聖地で御利益を授かれる。近くには延喜式内社の石楯尾神社の論社も在り、邪馬台国時代の古代大和朝廷との関係性が深い土地である事も垣間見える。

有鹿神社本宮(延喜式内社・奈良時代の天皇勅願所)
有鹿森(弥生時代からの聖地)
有鹿神社中宮(聖地有鹿池の古址) 
海老名山 総寺院 満蔵寺(旧有鹿神社別当寺)
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  御祭神・御本尊等:
  有鹿比古命(あるかひこのみこと)・有鹿比売命(あるかひめのみこと)・天満大自在天神(菅原道真公)・虚空蔵菩薩
  御利益:雨乞い・農業豊作・縁結び・夫婦円満
  関係者:
  開基:有鹿比古・有鹿比売
  中興:天智天皇
     孝謙天皇
     清和天皇
     相模国司 歴代
     海老名郷司藤原 廣政 公
     権守     海老名 季定 公 
     海老名家   歴代当主
     相模守    北条 氏政 公
  旧郡名:高座郡 海老名郷(古代相模国府に近在)
  所在地:有鹿神社本宮・・・海老名市上郷の鳩川と相模川の合流地点、有鹿森
  所在地:有鹿神社中宮・・・海老名市上郷1丁目の住宅街の中
  所在地:総寺院・・・有鹿神社の旧参道住宅街の道路左手
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
古代の相模国国府から徒歩30分程、奥宮の在る聖地有鹿谷から流れ出でる鳩川と相模川の合流地点の古代の有鹿森に有鹿神社本宮が所在し国府鎮護の祭祀が行われた記録が有る。現代では住宅街に成ってしまった場所に中宮が在り、有鹿神社本宮の旧参道沿いには有鹿神社の別当寺だった真言宗の総寺院が存在する。
有鹿神社の御祭神は夫婦神で夫神の有鹿比古は太陽神、女神の有鹿比売は水神。古代大和朝廷の時代に開かれた海老名市の条里制区画が残る海老名耕地を潤す農業用水でもある事から豊穣の神としての意味も強い。
その歴史の古さと有鹿谷の神秘性から歴代天皇から崇敬された正一位の位階と幣帛を賜わり国家鎮護の祭祀が行われた歴史記録も残る。古代からの‟水引神事”が行われていたが新田義貞による倒幕の際に多くの神社仏閣が彼に襲撃略奪放火されたが、有鹿神社と総持院も同様に兵火に遭い水引神事は中世に一時途絶えたた。しかし戦国時代に関東覇者で小田原城主の北条氏政公によって神事が再興された。有鹿神社本宮の在る旧海老名郷は北条家臣で鶴岡八幡宮再建に携わり一族が江島神社別寺の修験道岩本院別当職を務めた間宮家の惣領である笹下城主間宮康俊公の所領だったので、間宮康俊公と江ノ島岩本楼の岩本(間宮)家の一族の関与が有り北条氏政公に由(よ)る水引神事復興が行われた事が推測出来る。
別当寺の総寺院は明治時代の神仏分離令で規模縮小させられる以前、江戸時代迄は塔頭寺院12坊を境内に持ち、更に末寺19ヵ寺を抱える大規模な神宮寺として機能していた。

師岡熊野神社(式外社・天皇勅願所・縄文からの湧水聖地)
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  御祭神・御本尊等:
  伊邪那美命(いざなみのみこと)・事解之男命(ことさかのおのみこと)・速玉之男命(はやたまのおのみこと)
  御利益:サッカー上達?・雨乞い・子孫繁栄・戦勝祈願
  関係者:
  開基:全寿仙人
  中興:光孝天皇
     宇多天皇
     朱雀天皇
     村上天皇
     左京太夫  北条 早雲 公
     征夷大将軍 徳川 家康 公
     征夷大将軍 徳川 家光 公
     征夷大将軍 徳川 家綱 公
  旧郡名:橘樹郡師岡村
  所在地:横浜市港北区師岡の縄文時代の遺跡上、新幹線の線路沿い
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
光孝天皇より「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を授けれれた朝廷公認の聖地。
縄文時代に海の真ん中に突き出した太尾半島の付け根だった部分に位置する神社で、「い」「の」「ち」3つの池を聖地として抱える天皇家の勅願所だった。海に突き出した半島だった地形なのに飲用に適した清涼な自然湧水が有る事から境内からは縄文時代の遺跡も発掘し保存されている。其の為、古代人にとっても霊場として大切な場所だった事が平安時代にも伝わっていて、源氏に繋がる歴代天皇からも信奉された。
朝廷から勅使が下向すると、「い」「の」「ち」の池で神事を行っていたが、神奈川県と横浜市の教育委員会が歴史的重要性を軽視した為に「ちの池」は埋め立てられて現在では大曾根第二公園に成ってしまった。
ここを支援した武将は不利な合戦でも奇跡的な逆転勝利を治め、子孫も大いに繁栄した歴史実績が有る。
近年はJリーグのアイコンが熊野社の御神紋の八咫烏である事から、サッカー選手を志す若者にも多く崇敬されている。

高部屋神社:高部屋八幡宮
(延喜式内社・古代神事を守る国指定文化財の神社)
丸山城址公園(鎌倉時代の名将、糟屋有季公の城址)
高部屋神社元宮(古代人の聖地、渋田山山腹の水源)
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2016-01-03-13-53-18高部屋神社本宮の位置 久良岐のよし
  御祭神・御本尊等:神倭伊波禮彦命(かむやまといわれひこのみこと:神武天皇)・息長長足媛命(おきながのたらしみめのみこと:神功皇后)・三筒男命(みつつおのみこと:住吉三神)・誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)・大鷦鷯尊(おおささぎのみこと:仁徳天皇)・磐之媛命(いわのひめのみこと:仁徳天皇皇后)
  御利益:武芸(スポーツ)上達・戦勝祈願・漁業豊漁・農業豊穣・治水・雨乞い・地鎮・交通安全(海)
  関係者:
  開基:聖地渋田山(奥津城)周辺の古代人
  中興:糟屋庄領主 糟屋 有季 公
     関東管領家 上杉 定正 公=扇谷上杉家当主
     相模守護代 太田 道灌 公
     左京大夫  伊勢 宗瑞 公=北条早雲
     北条家臣  渡辺 岩見 公
     征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡 
  所在地:高部屋神社と丸山城址公園・・・伊勢原市高部屋付近、国道246で分断された丘
  所在地:高部屋神社本宮・・・大山山系の伊勢原市下糟屋、渋田山の山腹
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
本来の神社の発祥地である元宮は関東総鎮護の聖地、大山山系の一つ、渋田山に紀元前より存在したと伝承する。
御祭神は三筒男命(みつつおのみこと=住吉大神)、神倭伊波禮彦命(かむやまといわれひこのみこと=神武天皇)、息長長足媛命(おきながのたらしひめのみこと=神功皇后=臺与?)、誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)、大鷦鷯尊(おおささぎのみこと=仁徳天皇)、磐媛之命(いわひめのみこと)と、いずれも海上交通や土地開発や海外渡航と戦争に関係の有る天皇や神様な上に、本宮の在った渋田山が弥生時代前後まで周辺が海だった事からも、水神様と土地開発と先勝祈願の神様としての性格が有る。
古来渋田山は奥津城と呼ばれた霊域だったので、古代人の関与が深い土地でもあった。
明治時代まで「汐汲み神事」が行われており、海岸線が後退し内陸16kmに神社が取り残されても歴代の宮司が徒歩で海まで海水を採取しに行く神事が続き明治時代に伊勢原皇大神宮の管理下に置かれ伝統神事は一時途絶えたが、現在の伊勢原皇大神宮の宮司家によって150年前に途絶えた神事が2018年から再開された。現在も海が近かった時代の風習を垣間見える風習が有り社殿の注連縄(しめなわ)に海藻の「神馬藻(ホンダワラ)」を飾る。
平安時代末期に成ると現在の社殿のある丘陵に要塞を築いて糟屋庄を領有した糟屋有季公が、所領の総鎮守として渋田山から現在の高部屋神社の所在地に社殿を移転させた。本来の渋田山の本宮跡には現在は社殿は無いものの御神霊を祭る祠(ほこら)が今も鎮座している。
糟屋有季公は武勇に秀で、源頼朝公による逆臣源義経討伐で活躍し、義経の重臣佐藤忠信を討取り堀景光を逮捕する事に成功している。
戦国時代に渡辺岩見守により社殿が再建し、江戸時代に成ると徳川家康公より社領安堵の御朱印を賜り江戸幕府より保護された。
この高部屋神社は式内社で有る事から古来より有名で、江戸時代に江戸の町人や武士に流行した「大山参り」のコースに組み込まれており、神社の鳥居前の道も旧大山街道だった事や下糟屋の宿場町だった事で、御利益に肖(あやか)りに来る非常に多くの参拝客で賑わった。
又、いずれも天皇も「天皇」の呼称が始まる前の古代の正式な名のまま祀られている事も、由緒有る古社である事を物語っている。江戸時代には高部屋八幡宮の名で親しまれ雨乞いの神様として有名だった。
高部屋神社の丘一帯は軍事拠点としても重要な場所だったので、鎌倉時代~戦国時代の歴代の領主によって城塞として使用され、各時代ごとに改修された事が解る城址公園として、近年国道建設で分断された丘陵の一方は丸山城址公園が整備されて見学出来ます。
海に関係する神社だけあり、屋根の唐破風部分には浦島太郎伝説にまつわる彫刻が有り、社殿は2017年に国の登録有形文化財に指定された。

高麗権現 高来神社(神功皇后と渡来人が開いた神宿る山) 
鶏足山 慶覚院 高麗寺(行基菩薩が開いた高麗権現社の別当寺)
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  御祭神・御本尊等:神皇産靈神(かみむすびのかみ)・高麗大神和光(こまおおかみのわこう:高麗権現)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・応神天皇・神功皇后  ・東照大権現(徳川家康公)
  御利益:海外渡航安全・交通安全(陸海)・敵人懲服・子宝・安産・地鎮・技術発展
  関係者:
  開基:武内宿禰
     神功皇后
     古代渡来人
  中興:高句麗王族帰化人 若光
     日本初の大僧正  行基 菩薩
     征夷大将軍    源  頼朝 公
     源頼朝公室    北条 政子 様
     相模守      北条 氏綱 公 以下歴代当主
     征夷大将軍    徳川 家康 公
     慈眼大師     天海  大僧正
  旧郡名:淘綾郡
  所在地:高来神社・・・中郡大磯町の高麗山の国道一号線側、山全体が旧境内地
  所在地:慶覚院・・・高来神社の参道右手
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
明治時代以前の神仏習合時代の旧社名は高麗権現社。
神功皇后が三韓征伐の帰国時、当時はまだ日本の一部だった朝鮮半島南部から移住して来た人々と共に高麗山の山上に日本神話の神皇産靈神と高麗の神である高麗大神和光を共に御祭りしたのが始まり。
神功皇后の時代は丁度、臺与の頃、古墳時代初期に当たると考えられるが実は伝承を立証する様に高来神社周辺一帯は渡来人の遺跡が多く、例えば高麗山南部には釜口古墳、王城山横穴墳墓群、旧吉田茂邸や旧三井家別邸の在る大磯城山公園の城山にも横穴式墳墓が大量に存在する。
時代は下り日本が天智天皇の治世となって7年後の668年に朝鮮半島北部の古代日本の友邦だった高句麗が中国の唐帝国によって滅亡させられる。滅亡した高句麗から高句麗王族の若光が日本に亡命帰化し、大磯の高麗に定住したと伝わる。この頃の唐帝国はそれまでの周辺国との友好関係を破棄し侵略戦争を開始しており、その外交政策の転換には則天武后が台頭した時期と重なるので則天武后の影響力で唐が侵略政策を開始している中国の権力争い等政治的な背景が神社の歴史から見てとれる。
更に後、養老元年(717年)に日本初の大僧正に任命された行基菩薩によって高麗権現社を保護する鶏足山 慶覚院 高麗寺を造営し以後、高来神社の前身である高麗権現社の別当寺と成り神功皇后以来の日本と渡来人の文化が神仏習合の聖地として更に発展、最大時には境内に24の僧院社殿が建ち並ぶ大規模な神宮寺と成った。鎌倉時代にも源頼朝公と北条政子様御夫妻や幕府の御家人立からも崇敬を集めた。
しかし室町時代に成ると度々戦火に遭い、僧坊は焼失してしまった。小田原城主と成った北条家によって領地が寄進され存続し、豊臣家の天下が定まり関東の戦乱が就職した頃に徳川家康公が江戸に入ると徳川家から100石もの寺領を賜わった。普通は5~10石、歴史有る場所で20石程度、100石は異例。余談だが出雲大社は2000石で最早大身旗本なみの軍事力を持てる石高だった。
江戸時代には高麗山の前が東海道だった為、参勤交代する大名も必ず籠を降りて参拝するのが習慣化していた。
明治時代に成ると明治政府の宗教改革で神仏分離令が励行され、北条家や江戸幕府の支援で復興した高麗山山上に在った社殿や僧坊は撤去され、更に高麗権現と朝鮮半島由来の名前も高来神社と改めさせられた。山上の社殿で御神体とされた仏像や仏教由来の文化財は旧観音堂である下社に移された後、知足山慶覚院に移され現代に至る。
古来からの古代日本文化と渡来人文化が融和し、坂東平氏が相模国へ移住し日本独自の武家文化を発展させた基盤と成る騎馬文化や醸成した土地でも有る。

川勾神社(延喜式内社・相模国二之宮)・・・古代天皇~明治元勲にも大切にされた古社
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  御祭神・御本尊等:大名貴命(おおなむじのみこと)・大物忌命(おおものいみのみこと)・級津彦命(しなつひこのみこと)・級津媛命(しなつひめのみこと)・衣通姫命(そとほりひめのみこと)  
  御利益:安産・地鎮・技術振興・自然災害除け・農業豊穣
  関係者:
  開基:垂仁天皇=活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)
     磯長国国宰 阿屋葉造(あやはのみやつこ)・・・垂仁天皇の勅命で社殿造営。
  中興:日本武尊
     依通姫
     磯長国造   大鷲臣命(おおわしのおみ/おおとりのおみのみこと)=和珥(丸邇)氏=丸子氏
     相模国造   穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)=鈴木氏
     鎮守府将軍  源  義家 公
     征夷大将軍  源  頼朝 公
     征夷大将軍  宗尊   親王
     相模守    北条 氏政 公
     征夷大将軍  徳川 家康 公 以下歴代徳川家当主
     初代総理大臣 伊藤 博文 公
  旧郡名:淘綾郡
  所在地:中郡二宮町の内陸部の丘
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
佐賀牟(さがむ=武蔵国と相模国東部)国が分割されて、磯長(伊豆と相模西部)国も伊豆と相模西部に分割され、相模国東西が合併する際に、新設される国の国府=一之宮の座を佐賀牟国側の寒川神社と磯長国側の川勾神社が争ったと思われる神話が残る。これが神奈川県で行われる国府祭(こうのまち)と言う無形文化財の伝統神事に成っていて、一之宮寒川神社~五之宮平塚八幡宮までが神揃山に集まり論戦をする内容に成っている。
日本武尊を初め多くの古代からの支援者の名が伝わり、依通姫が安産祈願を川勾神社で行った伝承から、現在では広く安産の御利益で知られる神社と成っている。源頼朝公も妻君北条政子の出産の際に安産祈願を行い成就した事から社殿を造営寄進している。
上杉謙信と武田信玄の小田原侵攻時に放火され焼失、武田信玄との三増峠合戦が起きた1569年の翌年、北条氏政公によって社殿が再建された。徳川家康公も名護屋駐留前に祈祷を受けて、朝鮮出兵せずに済んでいる。明治時代には伊藤博文公等の参詣を賜わり直額に揮毫を頂いている。
宮司家は代々二宮家で、二宮一族は旧北条家臣団であり江戸時代の子孫に二宮尊徳もいる。同じく旧北条家臣で黄備え隊玉縄衆副将の間宮康俊を輩出した間宮家は合戦以外に外交・築城・修験道に通じた一族だが室町時代に間宮家から二宮家には養子が入っている事が間宮家関連の文献から辿れる。
歴史事実から厄除け、安産祈願の神社として特に強い御利益が期待出来る。

寒川神社(延喜式内社・相模国一之宮)・・・古代の追儺神事を行う大社
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寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 清前
  御祭神・御本尊等:寒川比古命と寒川比女命の夫婦神  
  御利益:八方除け(災厄避け・交通事故除け)・縁結び・夫婦円満・芸事上達・TV視聴率向上
  関係者:
  開基:寒川比古命・寒川比女命
  中興:雄略天皇
     征夷大将軍 源  頼朝 公
     左京大夫  北条 早雲 公・・・以下歴代北条家当主
     大膳太夫  武田 信玄 
  旧郡名:高座郡
  所在地:高座郡寒川町、古代の海岸線沿いの微高地
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
相模国十三座の内で早々朝廷から官位を与えられた3座の内の1座で、相模国の一之宮の格式を持つ。
追儺祭と言う神事が毎年1月2日に行われるが、現代の神道では仏教の様式の影響を受けた追儺祭を行う場所が多い中で、この寒川神社や京都の上賀茂神社等の生粋の古社は古代からの様式を継承しており境内に在る湧水池の水を夜中に神職が採取して神前に供える事で清前(きよさき=御神水)にした後に、境内の四方八方に清前を撒いて清める。
古代に一之宮にも定められた格式から朝廷や多くの武将に重視され雄略天皇を初め、源頼朝公や北条家歴代当主、武田信玄等から崇敬を集めた。
現代ではTV関係者の崇敬厚く、崇敬すると高視聴率が得られるとされ芸能人も多く信奉している。
又、長い参道は蛇行しており、古代の相模川河畔にそって参道が設置されていた名残と伝承しているが、実は丁度縄文時代の海岸線がこれに当たる。寒川神社が有る場所の目の前の相模川下流域は古代に海だった。一之宮だった歴史と大和朝廷に重視された八方除けの御利益は、日本武尊を幾度も戦場で守った天石楯を御神体として始まった石楯尾神社と並んで神奈川県のみならず日本屈指の災厄事故除けの御利益が期待出来る。
現在の社殿は平成に成って建て替えられた物だが、他の一般的な神社とは比較にならない規模を有している。現代の氏子衆の努力によって供出される資金力も豊富だが、崇敬した歴史偉人達も名将揃い。

冠大明神 比々多神社(延喜式内社・相模国三之宮・古代遺跡に囲まれた聖地)
比々多神社元宮(戦国時代の戦火で焼失した元の神殿が在った場所)
埒免古墳(建設業者に破壊された古代豪族古墳で旧境内の聖地)

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  御祭神・御本尊等:豊斟渟尊(とよくむぬしのみこと:豊国主命)・天明玉命(あめのあかるたまのみこと)・稚日女尊(わけひるめのみこと)・日本武尊・大酒解神(おおさけとけのかみ:大山祇大神)と小酒解神(こさけとけのかみ:木花之佐久夜毘売)の父子神。  
  御利益:子宝・縁結び・子孫繁栄・地鎮・戦勝・酒造業繁栄・服飾業繁栄・交通安全(陸)・
  関係者:
  開基:神武天皇
  中興:崇神天皇
          垂仁天皇
          持統天皇
          孝徳天皇
          聖武天皇
          淳和天皇
          相模国司  布施 色布知 公
          初代宮司  紀     益麿 公          
          相模国司  橘     峯嗣 公                      
          征夷大将軍 源  頼朝 公
          相模守護  三浦 道寸 公
          征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡
  所在地:伊勢原市三ノ宮1472番地周辺の高速道路~丘一体全て旧境内地
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
比々多神社の縁起にある歴代天皇から信奉された逸話を証明するかの様に、神社の周辺のみならず旧本殿の在った場所や境内からも縄文〜奈良時代の遺跡や古墳が大量に発掘されている周辺地域を含めて文化的歴史的にも重要な神社。
古代より天皇家や将軍家から信奉され、背後に控える大山と大山阿夫利神社を信仰対象とした古代人の聖地を引き継いでいる神社。
また管轄する神社に関東で子宝安産の神様として有名な子易神社の本家本元を抱えている。
源頼朝公と北条政子様が御夫妻で子宝安産祈願をして成就した御利益が有る。そして関東の古豪名門武士団の三浦家からも崇敬された。由緒有り歴史的価値に富む神社。
裏山のミカン畑の中の古代社殿跡の元宮でだが、そこに至るまでの広大な範囲が旧境内地。
元宮に至るまでの広大な土地は前政府の宗教政策と太平洋戦争の敗戦時の宗教政策で土地が接収された。
元宮に祀られる祠も自由に御参り出来る。元宮に行く途中の恵泉女子短大園芸生活科伊勢原校舎は古代の比々多神社境内地で埒免(らちめん:埒=防護壁、免=面=削平地・・・壁で囲まれた聖域)の名で呼ばれた聖域だったが、神奈川県教育委員会がその重要性を無視したまま発掘調査を怠ったばかりか恵泉女子短大伊勢原校舎建設時にも事前調査を行わず、結果的に発掘中に古墳が破壊され土木作業者によって多くの出土物が略奪された。しかし一部は義挙した比々多神社宮司家と氏子衆によって作業者から買い戻され、比々多神社内に併設された郷土資料館に保管展示される事となった。
併設されている郷土資料館では、古墳群から出土した宝剣等を見学出来ます。

前鳥神社(延喜式内社・相模国四之宮・応神天皇の皇子の莵道稚郎子が住んだ聖跡)
真土神明神社(近年建築業者に破壊され消失した真土大塚古墳:莵道稚郎子の御陵跡)
真土大塚山公園(真土大塚山古墳の偽物を模造した公園)
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  御祭神・御本尊等:莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)・日本武尊  
  御利益:交通安全(陸)・戦勝・学問向上・合格祈願・開運・適職就職
  関係者:
  開基:莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)・・・応神天皇の皇子、仁徳天皇の実弟。
  中興:征夷大将軍 源  頼朝 公
     左京大夫  北条 早雲 公
     征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡
  所在地:前鳥神社・・・平塚市四之宮の古代の海岸線上の、現在の河岸段丘上の微高地
  所在地:真土神明神社・・・古代の砂丘上に存在した前方後円墳を近年土建屋が破壊して造成した宅地
  所在地:真土大塚山古墳のニセモノ・・・真土神明神社の北に徒歩3分の公園
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
応神天皇の皇子である‟莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)”様が移住した場所。
前鳥神社の伝承と日本神話を考古学的に証明する真土大塚山古墳と言う古墳時代初期に造営された大古墳が、前鳥神社の1.5km西の近所に存在している。古墳からは大和朝廷の王族と緊密な繋がりを示唆する三角縁神獣鏡が発掘され国立博物館に持ち去られ収蔵されている。この銅鏡の存在からも莵道稚郎子命の御陵とされる伝承とも合致している。又、日本武尊が当地に滞在したのの伝承も有る事から、日本武尊(ヤマトタケル=倭建)と言う神号は一人の古代の王族に対して用いたものではなく征夷大将軍の様な古代の官途名に当たる神号であり古代の四道将軍成立以前の大将軍を務めた複数人の皇族将軍を1人の神格として習合している事も示唆される。
莵道稚郎子命は日本で最初に大陸由来の漢学や工業技術を学んだ実在した皇族の歴史偉人で、更には摂社に菅原道真公も御祭する事から前鳥神社は古くから学問の神様としても有名。現代では合格祈願に来る学生も多い。
源頼朝公が北条政子様からの崇敬も有り、戦国時代初期には北条早雲公と北条氏綱公の父子の名将が前鳥神社の宮司家の支持を受け、当時戦略家の名将として有名だった三浦道寸公の居城を岡崎城を落城させ三浦家を三浦半島の油壷マリンパークの半島に存在した新井城まで追い詰め勝利した歴史が有る事から勝負運向上の戦勝祈願や合格祈願の御利益も期待出来る。

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