歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

カテゴリ:神社仏閣聖地霊場 > 海老名市の神社仏閣

まだ未参詣なのですが、海老名市今泉に浅間大神と言う神社様が在りまして、Twitterで御話してたら面白い事が解ったんで転載して見ます。
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小生。自作の指輪をアイコンにする一般人素人歴史オタク。だから失礼な質問もしてしまいます。
間違いを色んな宮司様や和尚様に指摘して頂きながら民俗伝承史書実情を繋げるのが好きな人。

有鹿神社宮司様
有鹿神社宮司様、海老名の郷土史に御詳しく歴史学者よりも周辺民俗学に御詳しい方々と勉強会を開かれる熱心な方。

小生と有鹿神社宮司様とは直接関係有りませんが、有鹿神社奥宮の神秘的な様子が好きで参拝以来、Twitterでフォローしています。

さて、有鹿神社宮司様が海老名市今泉の浅間大神が農業にとってとても大切な神様だとTwitterで解説してくださっていました。しかし素人の小生には浅間権現=此花咲耶姫(このはなさくやひめ)命=富士山とステレオタイプで余り海老名の事はまだまだ知らないので普通にこんな疑問が湧きました。
「絶対に富士山が見える場所のはず」
所が御当地の“浅間大神様では富士山が見えない立地!”と衝撃の事実を御教授頂いた小生、そこから少し調べものしたら色々繋がりました…

以下はTwitterのやり取りの転載。

有鹿神社宮司様
浅間大神は、木花咲耶姫を祭神とし、また、海老名耕地の用水を守る位置に鎮座する、という問題について用意した回答です。
「山の森林に雨が降ると、雨は浸み込み腐葉土などで濾過され、酒清水の湧き出す泉となり、川となり、大地を潤し、また、海に流入し、漁場を形成する。 そうすると、山と水は関係するので、浅間大神は、山の神であって、水の神ということになります。」
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有鹿神社宮司様
海老名耕地は、今も、碁盤の目のように、古田条里制の名残りを示しています。古くは、有鹿の泉を水源の一つとする鳩川を用水としていました。いや、鳩川沿いに農耕地が広がり、海老名耕地にまで到達しました。 そのため、この用水の節や分岐点に鎮座する数多くの神社があり、浅間大神も一つです。
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有鹿神社宮司様
かって、世の男性が細君を「山の神」といっていたことがあります。 山の神の娘は、美人の「木花咲耶姫」ですね。自慢しているのでしょうか。 実は、もう一人娘がいます。それは、醜女といわれる「磐長姫」(磐長姫)です。 どうも、夫が謙遜して、こちらの方を行っているように思われます。
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久良岐のよし 自作指輪アイコン※ここで無学な小生がしゃしゃり出る。
木花咲耶姫命の存在そのものが神仏集合時代の富士山信仰の対象でして浅間権現と呼ばれていますので、寧ろ世の男性は御妻君を建てたのが山の神かなと。 そして・・・
山の神なので抗う事の出来ない存在=独裁者=恐妻=かかぁ天下 ・
・・と比喩で自分の存在を矮小化して失笑を誘う洒落かとも。
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宮司様には釈迦に説法、神に道を説くような無礼を失礼致します。 余談ですが磐や巖は山の象徴とされますから、磐長姫も含まれているかも知れませんね~。
結局、美人でも非美人でも奥さんには抗えない男性が今も昔も多いのかも。
小生は美人だろうが権力だろうが理不尽に従いませんが。
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(※小生の思考なぞどうでも良い余計な事を書く。馬鹿丸出し。)
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有鹿神社宮司様※ここで寛大な宮司様が無礼を看過下さりレスポンス下さる。
その通りです。有難うございます。
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有鹿神社宮司様
浅間大神は、古くは、海老名耕地の用水を守る神として祀られていたと考えられます。 その後、水神としての性格を維持しつつ、時の領主が信仰する浅間神社の神霊を勧請し、特に、浅間大神という名称で地域性を出しています。 神社の名称は、地名と同様に、時の権力者により変更されて来ました。
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久良岐のよし 自作指輪アイコン※ここで疑問を質問する。文字数都合で話し言葉の失礼な文。
富士山が見える場所に鎮座してらっしゃるんじゃないですか? 江戸時代の旧甲州街道沿い相模川上流の桂川沿いなんかも富士講の富士山遥拝地の御祓をした河原近くとか遥拝地跡には必ず浅間権現の石碑が在りますよ! もしかしたら、その浅間権現の在所は旧甲州街道に通じた道では?海老名だし。
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※本当は敬語で書きたかったんです(泣)!
   

有鹿神社宮司様※又も寛大に小生の無礼口調を見逃して下さる宮司様。
ところが、富士山が見えないのです。だから、富士塚をつくりたいと願っております。
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ここから少し調べ物を始める小生…
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面白い事が解りました。 海老名市今泉の浅間大神からは間違いなく富士山が見える様です。 正確に言うと、昔の人は富士山の位置を正確に把握していらっしゃった様です。 未だ参詣していなので余計に先入観無く調べる事が出来ました。 さて、御当社からは添付の風景が見える筈です。 大山。
海老名市今泉浅間大神は大山と富士山の遥拝所① 久良岐のよし
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御存知の通り、石山権現大山阿夫利神社上社の御祭神、大山祇大神様と大雷神様が祀られてらっしゃいますが、浅間権現此花咲耶姫命様の御父神様に当たられます。 実は海老名市今泉の浅間大神から大山阿夫利神社上社を遥拝すると、その背後には富士山が存在しており、昔の人はこれを知る術がありました。
海老名市今泉浅間大神は大山と富士山の遥拝所② 久良岐のよし
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現代人の我々にとって富士山は休火山です。死火山ではありません。 古来の名の通り富士山は不死山な訳ですが… 浅間大神の御社が成立した時期をずばり質問致します。
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富士山の延暦十九年~二十一年(800年 - 802年)の噴火の頃か…
貞観大地震が起きて噴火した貞観噴火の年、貞観六年~八年(西暦864年~866年)中もしくはその直後、或いは…
江戸時代の宝永四年(1707年)の富士山の宝永噴火の直後、そのいずれかの頃の成立ではありませんか?
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有鹿神社宮司様
延暦元年(782)と言われています。
※この成立年代で延喜式神名帳に掲載は無いが式外社だと間接的に教えて頂いている事に成る。
   

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お!じゃあそれより前の噴火が有るかも知れませんね!

今検索した所、天応元年(781年)に大噴火が起きていますね! これに対応して神社が開かれたと推測出来ますね!
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この歴史事件や地理に基づき考えると自ずと昔の人がどうやって大山山頂と富士山がピッタリ重なって見える位置に浅間大神様の御社を開いたかも解りますね。 つまり噴煙の位置が大山山頂から見える位置まで徒歩で移動して勧進した御分霊を祀ったと考えられます。
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そして富士山と相模川と鳩川を挟んで反対側なのは、二段構えの火砕流防壁の願いも込められていたのではないかと思われます。 源頼義公が鎌倉材木座、昔は由比と言った場所に八幡社を勧進し源頼朝公が横浜市金沢区富岡に兵庫県西宮市の西宮神社から蛭子神様を勧進した防潮の願いと同じ防災祈願かと。
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恐らくこうなる訳です。
①正確に富士山の位置が判る時代、噴煙の上がっていた時代に浅間大神の御社は造営された。
②富士山の噴火を恐れた防災の為の神社で、富士山と大山の遥拝所であり祭祀場所としてスタート。
③立地は火砕流予防の願いを込めて大河川のこちら側。
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④天応元年(781年)に大噴火があり、社伝に延暦元年(782年)の造営と伝わるそうで、天応大噴火の鎮化を願った神様の可能性が高い。
⑤娘(富士山)さんが怒っているので御父(大山)さんに守ってもらおうとした。
⑥恐らくは江戸時代に宝永噴火等あり富士講に大切にされた。
※この段階で浅間大神の神様の農業用水守護としての役割が頭からすっ飛んでる小生。
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こんな感じだと思いますが、夜分失礼しました。 宮司様、地理関係と噴火年代と神社の造営年代の一致、小生は偶然では無いと思いました。
ちょっと面白かったので、ブログにそのまま転載して掲載してみます。
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有鹿神社宮司様※寛大な宮司様、小生に農業用水守護の役割を思い出させて下さる。
いろいろと推測していただきましたが、有鹿神社から国分寺に続く一大縄を底辺とする三角形の頂点にあります。また、海老名耕地の用水の分岐点にあります。そこで、海老名耕地の稲作のための用水事情を背景として、水の神と考えています。
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※この宮司様のご指摘はとても大切で、農業用水に限らず小田原用水や玉川上水等の上水道も全ては最初の用水の幹線からの分岐点が最重要、そこに鎮座している事が凄く大切。
   

※これを受けて小生は思った。海老名の用水路はわざわざ富士山と大山が重なって見える場所に噴火の跡の農地復興の為に、噴火の鎮化と農業守護の目的で“有鹿神社~国分寺に続く一大繩を底辺とした大三角形”そこを頂点として浅間大神の神社が開かれ、そして神社の勧進と供に現在の用水路網の原型の建設が始まり、用水路と供に現在に至るのではないかと。
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確かに農業用水の神様としての機能は主要な御神威だったでしょうね! 何せ富士山と大山が重なる。 富士山噴火開始の翌年の創建。当然、火山灰が大変な事に成って農地も存続の危機だから水の神様の大山阿夫利神社の大山祇大神と高お神様に富士山が隠れる位置が大切。 そして農業の聖地鳩川。その水で復興する海老名の農地。用水路も水田も再建され、復興の願いの込められた浅間大神様な訳ですね。
※鳩川は有鹿神社奥宮、縄文時代の遺跡のど真ん中に在る聖地の断崖から水の湧く有鹿窟を水源とした聖なる川で、流域の農業用水として活用されていた。
※大河川の相模川の河川敷からそう遠く無く、川近くの平原に弥生時代に人の定住は無かったと少し前まで歴史学者は発掘調査もせずに一笑に付していたが昨今、海老名市を始め相模川等の大河川近くの平原部からどんどん弥生時代の遺跡が発掘され神奈川県の古い神社の伝承が正しい事が多い。県内の河川近くの平地に従来の考古学の一般論が通用しない場所が多い事が近年、証明されている。
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この条件が全部丸っとスッポリ治まるのが今泉の浅間大神様に成りますね。 恐らく宮司様達の伝承が主要な目的で、その為の鳩川を守る場所に富士山鎮火と大山阿夫利神社の降雨の御神威を勧進したのかなと。 それで富士山山頂、大山山頂の真っすぐ延長線上で、海老名の三角形頂点に置かれたのかなと。
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凄く神秘的な立地でとても楽しかったです。 では本当に夜分失礼しました。また、重ね重ね御教示賜りありがとうございます。

以上、Twitterでのやりとり。
やはり地元の古い神社や御寺の当人や博物館の学芸員さんや御詳しい人と話すと、嘘も多い文字から想像するよりも発見が多い。無論、文書を読み込むのもすごく大切で、両方しないとダメ。
小生はいつもなら直接突撃訪問して色々と御教授頂くのだが、今年は何だか体力も無く仕事も忙しく自分の副業もやらないといけず、ジムにも行く暇が余り無い。
去年はそれでも仕事終わってから風呂だけ入って徹夜で遠出し、車中泊で1時間くらい仮眠したら朝から夜まで活動で来たのに…
今年は無理だ。体調悪いのかな?
う~ん楽しみたい。


さて、今回、有鹿神社の宮司様に色々とヒントを頂いたり、無知のままに偶然地図を見て位置関係を把握したり、こう言う楽しみが有るのが郷土史なんだな。
だから皆さんにも御近所の神社や御寺や御城の跡を散歩して、古代の人の痕跡と接して見たり、思いがけない場所でトンでもない歴史偉人の足跡を見つけたりしたら良い気分転換に成りますよ~って御薦めしたい!

そう言えば、2016年と2017年、神奈川県と横浜市によって破壊された史跡や破損させられた古文書も盗難に遭った文化財も沢山有りましたが、国や民間に寄って文化財指定や特別な場所として認定された場所が少し有るので紹介します!
●高部屋神社の社殿…国登録有形文化財 伊勢原市下糟屋
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●高麗寄日本書… 国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
●大乗起信論別記…国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
●華厳経問答…  国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
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●小机城…続日本100名城125番 横浜市港北区小机
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※小机城は全国的に横浜市内に在って奇跡的な保存状態である事や、歴史的にも北条家の軍団の小机衆の拠点として重要性が知られているのだが、未だに横浜市教育委員会が史跡登録や歴史文化財指定申請を行わない不可解な状態が続くので、市による建設利権の為の破壊が懸念される。

是非みなさん、お散歩に行って見て下さい~♪
無論、海老名の浅間大神の御社で神様にも御参りして大山を遥拝してみて下さいね~!

では、又、次のブログ記事で!
次は多分、7月中旬の休日雑記。
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有鹿神社本宮(延喜式内社・奈良時代の天皇勅願所)
有鹿森(弥生時代からの聖地)
有鹿神社中宮(聖地有鹿池の古址) 
海老名山 総寺院 満蔵寺(旧有鹿神社別当寺)
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  御祭神・御本尊等:
  有鹿比古命(あるかひこのみこと)・有鹿比売命(あるかひめのみこと)・天満大自在天神(菅原道真公)・虚空蔵菩薩
  御利益:雨乞い・農業豊作・縁結び・夫婦円満
  関係者:
  開基:有鹿比古・有鹿比売
  中興:天智天皇
     孝謙天皇
     清和天皇
     相模国司 歴代
     海老名郷司藤原 廣政 公
     権守     海老名 季定 公 
     海老名家   歴代当主
     相模守    北条 氏政 公
  旧郡名:高座郡 海老名郷(古代相模国府に近在)
  所在地:有鹿神社本宮・・・海老名市上郷の鳩川と相模川の合流地点、有鹿森
  所在地:有鹿神社中宮・・・海老名市上郷1丁目の住宅街の中
  所在地:総寺院・・・有鹿神社の旧参道住宅街の道路左手
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
古代の相模国国府から徒歩30分程、奥宮の在る聖地有鹿谷から流れ出でる鳩川と相模川の合流地点の古代の有鹿森に有鹿神社本宮が所在し国府鎮護の祭祀が行われた記録が有る。現代では住宅街に成ってしまった場所に中宮が在り、有鹿神社本宮の旧参道沿いには有鹿神社の別当寺だった真言宗の総寺院が存在する。
有鹿神社の御祭神は夫婦神で夫神の有鹿比古は太陽神、女神の有鹿比売は水神。古代大和朝廷の時代に開かれた海老名市の条里制区画が残る海老名耕地を潤す農業用水でもある事から豊穣の神としての意味も強い。
その歴史の古さと有鹿谷の神秘性から歴代天皇から崇敬された正一位の位階と幣帛を賜わり国家鎮護の祭祀が行われた歴史記録も残る。古代からの‟水引神事”が行われていたが新田義貞による倒幕の際に多くの神社仏閣が彼に襲撃略奪放火されたが、有鹿神社と総持院も同様に兵火に遭い水引神事は中世に一時途絶えたた。しかし戦国時代に関東覇者で小田原城主の北条氏政公によって神事が再興された。有鹿神社本宮の在る旧海老名郷は北条家臣で鶴岡八幡宮再建に携わり一族が江島神社別寺の修験道岩本院別当職を務めた間宮家の惣領である笹下城主間宮康俊公の所領だったので、間宮康俊公と江ノ島岩本楼の岩本(間宮)家の一族の関与が有り北条氏政公に由(よ)る水引神事復興が行われた事が推測出来る。
別当寺の総寺院は明治時代の神仏分離令で規模縮小させられる以前、江戸時代迄は塔頭寺院12坊を境内に持ち、更に末寺19ヵ寺を抱える大規模な神宮寺として機能していた。
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