歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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カテゴリ:神社仏閣聖地霊場 > 相模原市緑区の神社仏閣

神奈川県と言うと県外からの移住者や旅客は❝武士文化の根拠地❞と言う文化的なイメージや勇壮な鎌倉武士団や戦国時代関東最強だった北条武士団のイメージを持って下さる人は少なくて、横浜の港のほんの一部分の都会的なチャラついたイメージしか浮かばない人の方が多いんですが・・・
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実際はこんな写真みたいに長閑(のどか)でゆったりとした時間の流れる田舎も沢山のこっていまして、不自然に狭い横浜市に人口が密集する開発をする必要が無く、もっと郊外の周辺都市を開発した方が良いんじゃね?
・・・と言うのが神奈川県民として思う所だったりする訳です。
鎌倉時代は当然ながら神奈川県鎌倉市が日本の武家文化と国土防衛の中心地だっただけでなく、戦国時代の北条家も日本の大名の中で抜きんでた善政と統治を行い、防衛戦と攻城戦を得意とした戦国時代の先駆けとなる集団戦術や鉄砲を早くから導入した軍団として歴史好きには知られていたりします。
そんな小田原北条家は初期には❝五色備え❞と言われた仏教五色に準(なぞら)え軍旗が色分けされた主力軍団が5軍団在り、どうも1560年頃には五色備えの軍団編成は解除されていた様で各方面軍として再編成されていたらしい事が❝北条所領役帳❞と言う資料を見ると各家臣一族がバラバラに配置されている事からも推測出来たりします。
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相模原市津久井は、そんな北条家後期の安土桃山時代には成立していた❝津久井衆❞と呼ばれる軍団の根拠地である津久井城が存在し、現在は神奈川県立津久井湖城山公園として緑地保存されています。
津久井城については改めて内藤家の事と一緒に紹介したいと思います。
まぁ、余談ですが武田信玄の家臣団には北条家臣津久井城主❝内藤❞家と同姓を自称する偽❝内藤❞とか、美濃国源氏の分家❝山縣(やまがた)❞姓を自称する❝飯富(おぶ)❞とかニセモノが多くいるんですが、戦国時代当時は領土支配は侵略戦争を起こすには大義名分が必要でして、例えば北条家なら現在の神奈川県の旧武蔵国域沿岸部の支配の大義名分には鎌倉時代に源頼朝公の命によりその辺りを領土に持っていた渋谷氏や佐々木氏の血を引く佐々木氏支族間宮家を領主に置く事で北条家による支配の大義名分としたり、武蔵国西部北部への支配の大義名分として小机城代に神話の時代の武蔵国国造の族姓、笠原氏を配置する事で大義名分と出来た訳です。
ところが武田家臣団はカッペ集団で、ほとんどが茨城県と千葉県にしか血縁地縁がない家臣団しかいなくて教養も低く血統的な貴種もいなかった為、他地域への侵攻の大義名分を得るには例えば信濃に侵攻したいなら信濃守(しなののかみ)の官職を得るか幕府の信濃守護の役職を得る事でしか支配の大義名分を維持できず中央の政局次第では永続的な大義名分に成らないので無理矢理❝食品偽造❞❝ブランド偽造❞みたいな家臣の苗字偽造(笑)をして支配の大義名分にした訳ですね。
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まぁ、北条家臣内藤家は北条家臣化する以前の中世から小大名として津久井城主として居城し愛甲郡北部一帯を支配ていました。武田の偽内藤(笑)とは血筋が全く異なり由緒正しく、鎮守府将軍藤原秀郷公の御子孫に当たる家系な訳です。
元々小大名だったので当然、北条家の従属勢力化しても独自の家臣団を編成しており、その軍団が津久井衆と呼ばれた訳です。
津久井城に関しては今回の記事の2016年に根小屋諏訪神社参詣した際に城址も散策し写真を撮影して有りますので改めて記事に書きたいと思います。今回は根小屋諏訪神社だけですね。
その津久井衆の武士達が駐在する武家屋敷が立ち並んでいた名残の地名でもある根小屋(ねこや)と呼ばれる地域が周辺に有り、そこには根小屋諏訪神社と言う軍神建御名方神を祀る武家文化に相応しい神社が今も存在しています。
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根小屋諏訪神社
&神奈川の名木100選“根小屋諏訪神社のスギ”

根小屋や根古屋と言う地名は全国に在りますが、それは❝城山の根❞=裾野の部分に構えられた家臣団の家屋が構えられたので根小屋と成った事に由来する地名です。
実は津久井城、鎌倉時代には既に城の原型が存在していたと言われています。
そもそも津久井の地名が三浦半島の横須賀市津久井に由来しており、平安時代末期まで相模国三浦郡を本拠地にした坂東平氏の名家、三浦氏頭領三浦義澄公の子の1人、三浦義胤公が横須賀市津久井浜辺りを領地としていたので筑井義胤と名乗った事に由来し、その後現在の相模原市緑区辺りを領地にした事で津久井の地名と成ったと考えられます。
因(ちな)みに三浦の津久井浜今ではイチゴ狩り農園で有名な場所です。
まぁ、津久井の郷土史では筑井義胤と書かれ、三浦家の系譜では三浦胤義と書かれている物も有る様(よう)で正直な所、津久井の地名についても三浦が先か相模原が先かは卵が先か鶏が先かみたいな感じで小生は詳しくは調べておらず判別尽きません。ですが三浦家の通名として義の字は普通、三浦義明、岡崎義實、真田義忠、三浦義澄、和田義盛、佐原義連、朝比奈義秀みたいに義の字が名の頭文字に成るので津久井領主の名に関しては相模原市の郷土史に書かれる筑井義胤の方が正しそうです。
そして佐原家が所領とした千葉県の佐原市も先に存在した三浦の佐原城が有る事や、鎌倉市の朝比奈と関係する朝比奈義秀公の所領が千葉に有る事から、神奈川県の武士団の出身地である三浦郡や鎌倉郡由来の地名がその後の各武士の入植地に地名として移植されたと考えた方が自然でしょう。
つまり相模原市の津久井は三浦半島の津久井由来と考えられる訳です。
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根小屋諏訪神社の伝承では、その筑井義胤公が建久三年(1192年)に津久井城築城の際に鎮護の神様として諏訪大社から建御名方神の御分霊を勧請されたと伝承します。
恐らく本当でしょう、源頼朝公が日本国総追捕使、征夷大将軍に任命されて幕府を開き領地を自由に与えられる守護の設置が可能に成った頃の話しなので三浦半島の津久井浜から筑井義胤公が領地として預かり移住し、鎌倉時代当時に武神として崇敬されていた長野県の諏訪大社から建御名方神を勧請し霊的な領地の守りとして背後の険阻な山に津久井城を築城したと言うのは合点が行く訳です。
明治時代以前の別当寺は井木山壽性院と言う真言宗の御寺だったので、神道と修験道や真言宗や法華経の信者だった源頼朝公御存命の時代の宗教的な歴史背景とも整合性が有りますね。
残念ながら壽性院はダム湖の造成で大井村もろとも湖底に沈み、その檀家サンの菩提は津久井城近くの大蔵寺に合祀されました。
まぁ、正直現代では相模原市緑区一帯は人口減少が進み過疎化も酷いのですが、明治時代以前は甲斐国への街道も付近を通り徒歩の移動がメインだった時代には重要な拠点だった訳です。
ですから苗字詐欺師の武田信玄も津久井城を度々攻めていますし※失敗しまくりだけど(笑)、豊臣秀吉の北条征伐戦では籠城兵僅(わず)かの津久井城に対して徳川家臣随一の合戦上手として知られる本多忠勝公率いる20000超の大軍によって攻城が行われ、武田信玄も落とせなかった名城津久井城は小田原北条家本隊による援軍も無く陥落しました。
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そんな津久井城の歴史を三浦家支配の時代より見守って来たのが、この根小屋諏訪神社な訳です。
明治以前の源頼朝公の時代~鎌倉幕府北条家の時代~室町幕府鎌倉公方足利家の時代~北条家臣内藤家の時代~徳川幕府の時代には神仏混交だったので神社には神様と仏様が仲良く一緒に祀られていらっしゃったので、今では過疎の根小屋地区にヒッソリ佇(たたず)むこの神社にも神様と仏様が仲良く並んでいる姿を見る事が出来ます。
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本当に隣同士仲良し・・・明治維新以前の古き良き日本人の感性を垣間見えてホッコリする。
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御地蔵様もいらっしゃいます。
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街道を守って来た馬頭観音様も。
もしかしたらこれらの石仏群は津久井湖造成で水没した、かつての津久井城下の村落から諏訪神社境内に移されて来たのかも知れませんね~
社殿は参拝客も少なくなっても氏子さん達によって立派に守られてらっしゃいます。
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社殿の覆殿の中に小さな朱漆の本殿が見えます。
戦国時代の北条家も武神として諏訪神社を崇拝していたので、やはり三崎城址や山中城址等の重要な場所には必ず諏訪神社が在りました。
根小屋諏訪神社では御神輿も拝む事が出来ました。
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煌びやかで色の剥落も無く、現代でも集落の氏子さん達によってちゃんとメンテナンスされているのが判りますね~。こうやって氏子サン達の経済力と言う名の努力によって鎌倉時代の神社造営以来、長野県の諏訪湖の畔の諏訪大社からいらっしゃった神様の御分霊は守られて来たんですね~。
さて、今は目立たなくても昔は多くの鎌倉武士達や江戸時代に帰農し農家と成った旧北条家臣団の御子孫によって守られて来た神社だけあり、境内には立派な御神木も存在します。
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神奈川県の名木100選の一つ、❝根小屋神社のスギ❞です。
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推定樹齢500年・・・
つまり北条家臣団として活躍し、武田信玄を幾度も苦戦させた名将の津久井城主内藤綱秀公も幼少期に諏訪神社を参拝して、この杉が普通の背丈だった頃に木陰で御女中達と散歩して遊んでらっしゃったかも知れませんね~。
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本当に立派な大樹です。
今はひっそりした神社でも、源頼朝公御家人で三浦氏の筑井義胤公や、戦国時代の名将の内藤綱秀公と一緒に歴史を歩んで来た事を証明してくれる御神木。
神奈川県内にはまだまだ、こういった何気ない神社でも凄い歴史偉人と関係の有った場所が沢山有ります。
ですから皆さん、気分転換ついでに近所の神社や御寺や城跡の公園や山を御散歩してみませんか?
きっと神社や御寺を参拝して神様仏様に御挨拶すれば、我々にはもう見えない歴史偉人も神様仏様と一緒に笑顔で喜んで我々を歓迎してくれているかも知れませんよ~♪

人が一番怖いのは自分が死んだ後で自分の事を皆が忘れてしまったり、生きていた時に自分が大切に思う人の役に立ってあげれなかった事だと思います。
でも我々が近所の優しい御爺ちゃんや御婆ちゃんの家に遊びに行くみたいに神様仏様を拝みに行くついでに地域を今も見守って下さってるかもしれない歴史偉人に挨拶もすれば、きっと昔の武将や御姫様も喜んでくれると思います。

・・・では、次の記事で御会いしましょう~♪津久井城の事書こうかな~?

PS・・・昨日早朝、太腿に大火傷しまして仕事休んでいるので久しぶりに歴史解説記事ちゃんと書けました(笑)。
火傷のフザケた報告記事も読んでね⤵
熱いのぶちまけてやるぜ・・・ぐへへへへ





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石楯尾神社(延喜式内社・日本武尊の鉄壁無双の楯)
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  御祭神・御本尊等:
  石楯尾大神(いわたておおかみ)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・坂上石楯公・守良親王・他・・・
  御利益:厄避け・敵人懲服・戦勝祈願・学問上達・立身出世
  関係者:
  開基:日本武尊
  中興:崇神天皇
     応神天皇
     文徳天皇
     中衛将監  坂上 石楯 公
     征夷大将軍 源  頼朝 公
     左京大夫  北条 氏政 公
     神祇管領  卜部家(京都市吉田神社宮司家)
  旧郡名:高座郡
  所在地:相模原市緑区名倉の相模川沿いの丘の上
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
日本武尊が装備していた天磐楯(あまのいわたて)=石楯尾大神を御祀りしたのが石楯尾神社(いわたておのじんじゃ)の始まり。天磐楯が地下に埋蔵され神社が成立したとされ中央線の開削工事で破壊された烏帽子岩が聖地として近年まで鎮座していた。そこに応神天皇が東国へ行幸された際に行在所(あんざいしょ=仮御所)が建てられた場所が現在の神社の所在地と伝わる。
奈良時代には逆臣藤原仲麻呂を討伐した名将の坂上石楯(さかのうえのいわたて)公が当地に居館を構えていた。早くに朝廷から官位を賜り国家鎮護の神社として大切にされて歴代天皇に古代~近代に及び崇敬された。源頼朝公からも大鳥居を七基寄進された古社だが、武田信玄が三増峠合戦前の小田原城攻撃で進軍して来た際に武田軍に因(よ)る略奪で戦火に遭い古代からの社宝は消失した。この合戦については武田信玄の重臣高坂昌信が主君の行為を「何も得る物も無く身内もボロボロに成った」と酷評する程に武田軍は苦戦したが、その後の武田家の家運は御存知の通り一族ことごとく滅亡した。
日本武尊の災難を度々守った天磐楯を御神体として始まった神社だけ有り、八方除けの一之宮寒川神社と並んで神奈川県のみならず日本屈指の災厄事故除けの御利益が期待出来る。又、社殿を破壊した武田家を滅亡させ一族絶滅させた御神威、武田家による社殿破壊以前に石楯尾神社を保護した北条家が豊臣秀吉に改易されても北条家の一族と家臣団を生存させ多くの北条家家臣団を徳川幕府奉行職や学者として大成させた御利益は群を抜いている。
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