歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

カテゴリ:神社仏閣聖地霊場 > 三浦半島(横須賀市)の神社仏閣

鎌倉御家人の主力、三浦氏の菩提寺 

…清雲寺
鎌倉幕府御家人の中心を担った三浦家の開祖〜3代目と分家の佐原家の御一門の御寺に行ってきました。

    
三浦家は皇族から武士に成った平高望(たいらのたかもち)王の御子孫です。

平高望王の御子孫の平良文(たいらの よしふみ)公が醍醐天皇に「賊を討て!」との綸旨(りんじ=天皇の命令)を受けて陸奥守(むつのかみ=東北地方の長官)と鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん=幕府を開く資格のある将軍)に任じられ、関東を統治する事に成りました。

その平良文公の曾孫(ひまご)の平為通(たいらの ためみち)公が三浦郡を治める様(よう)になり、役職の三浦介(みうらのすけ=三浦郡知事)から三浦の苗字(みょうじ=分家の姓)を名乗るようになりました。
三浦氏の中で歴史上初めて活躍したのが"平朝臣(たいらのあそん)三浦介(みうらのすけ)義継(よしつぐ)公です。一般的に三浦義継公と呼ばれる武将で陸奥話記等に登場します。
この人物が源頼朝公の家系の御先祖で河内源氏(かわちげんじ)最強の武将である源義家公に協力した御縁で、以降、源氏と三浦家の結びつきが発展して後の鎌倉幕府樹立の原動力に繋がって行く訳です。

坂東の平氏は有名な源氏の棟梁、源八幡太郎義家(みなもとの はちまんたろう よしいえ)公より先に関東に土着して土地を開拓し支配地域を拡大していったんですね。


この日は午前中、仕事前に朝出発して訪問して参りました。

で、御朱印を頂いて来ました。
神奈川県民としては非常に名誉な事で感慨深いです。 
何故なら三浦義継公は、従兄弟で御霊神社の祭神となった鎌倉景政(かまくらかげまさ)公と共に、前九年後三年の役で、軍神とも呼ばれる源義家公に与力(よりき=指揮下に入るが家臣ではない協力者)として大活躍された名将だからです。
そして、義継公の御子孫は戦国時代にも大名として多く生き残りました。
為継公が活躍と御子孫の繁栄は、後の鎌倉幕府は成立の一翼を担った訳です。
ですから神奈川県民として、清雲寺で御朱印を頂き三浦宗家の御廟所を参拝出来た事は非常に名誉な訳です。

清雲寺には為通公、為継公、義継公の初代~三代までの立派な墓所が有りますが、実は三浦家の菩提寺は元は「圓通寺」と言う別の御寺でした。
明治政府の数少ない愚かな政策の一つ「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく=仏教迫害)」により貴重な建築文化遺産と共に圓通寺は荒廃し、廃寺に成ってしまいました。
しかし、子孫の佐原氏系三浦家の菩提寺だったこの清雲寺に三浦家初代~三代様の御廟所は移築され菩提を弔う事になりました。

 
ですから清雲寺の本殿は「圓通閣」と言います。
そして御本尊の瀧見観音様は元々圓通寺に御祀(まつ)りされていた物を廃寺に成る際に、三浦家草創の御三名の菩提を弔うためにこちらへ移されて来ました。


この御寺を開基(かいき=寺院や神社を建てる)した佐原家の佐原義連公は、とても判断力と智謀に優れた鎌倉時代の名将名軍師で、源平合戦で源義経による兵庫県神戸市の福原攻めの際、有名な「鵯越の逆落とし」の実行を具申した人物です。

お墓じゃないよ、灯篭だよ!
御廟所の写真も撮影させて頂いたけど、掲載しません。
自分で行って拝んで下さい。
関係ないけれど蝶々や蜂が蜜吸ってて可愛らしかった…

また、お参りに来よう。
御近所には有名な三浦義明公の菩提を弔う為に源頼朝公が開基した御寺の満昌寺も在ります。
藪蚊が少ない季節に成ったら、三浦家の居城衣笠城址とあわせて訪問したい。
そして、また、清雲寺にもお参りに来よう。
御寺の公式ホームページは「ココ」←クリック!


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以下、後日追記
●三浦家で一番有名な武将「三浦義明公」の菩提寺の満昌寺に2014年11月訪問して来たので記事リンクを追記します!→ココ 」←クリック!

●三浦家の本拠地「衣笠城」を2014年11月に訪問して来たので記事リンクを追記します!→「ココ 」←クリック!
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先週、衣笠城址を訪れた際に、近くの大矢部地区にある鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公が開基(かいき=建立)した満昌寺と言う御寺にも行ってきました。
こちらの御寺には平安時代後期の名将:三浦"大介"義明公の御廟所があります。
頼朝公お手植えの躑躅(つつじ)も境内に残っています。
坂東八平氏の一家である三浦義明公の三浦家だけあり、同族の鎌倉景政公を祀る御霊神社と同じく三浦義明公の御廟所も御霊神社でした。
当時の武士は自害を余りしなかったので、もしかしたら義明公の外孫でもあり討ち取った張本人でもある畠山重忠公が首供養していた義明公の御首(みしるし)を、源頼朝公が感謝の意を込めて手厚く再度供養したんでしょう。

満昌寺さんには、その御霊神社の建て替えの際に伝承の首塚附近から出土した遺品や義明公の等身大木造等の遺品も多く収蔵されています。
事前に電話で連絡を差し上げ、御住職の都合が宜しければ見学さして頂けます。

写真撮影は不謹慎なので御廟所は撮影しませんでしたが、此方(こちら)の鳥居の上にある御霊神社の裏に墓石が有ります。
此方で義明公への衣笠城址登城の御挨拶と、仏教的な意味でのお参りもさせて頂きました。

満昌寺の御住職はとても声が通りハキハキとされた方でした。
お忙しい中、御好意で親切に接して頂き色々と御話しを聞かせて頂き御朱印を頂く事も出来ました。

春に成って桜の季節に成ったら衣笠城址の桜を見に行きたいな〜。
そして満昌寺の義明公に御挨拶に伺う事が出来れば嬉しいなと思います。

近くのセブンイレブンの裏の住宅地の中の旧薬王寺(廃寺)の敷地だった場所には三浦義明公の次男で、三浦の家名を継いだ三浦荒次郎"新介"義澄公の立派な御廟所も有ります。
しかし、此方は教育委員会が保護を怠り、墓石には破壊され盗掘されてしまった跡があります。
平安時代の骨壷を花器として盗掘し投機対象として転売する不届き者がいる様です。
…そう言う無文化で不敬な犯罪者がいる事は悲しいですね。
そんな奴はバチが当たれば良い。

※関連記事リンク
●衣笠城址の記事は「ココ」←クリック!
●義明公以前の三浦家の菩提寺青雲寺さんの記事は「ココ」←クリック!
●三浦家の祖先の鎮守府将軍平良文公の菩提寺二傳寺の記事は「ココ」←クリック!
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2008-08-03-04-55-06
実は坂本龍馬の奥さんの御龍サンの終焉の地が神奈川県だと言う事を皆さん御存知でしょうか?
横須賀市大津町と言う所に在る信楽寺は、お龍サンの眠る御寺です。
2015-10-28-16-59-09
宮谷山 至心院 信楽寺

正式な寺名は宮谷山至心院信楽寺。
信楽寺と書いて「しんぎょうじ」と読みます。
お龍サンは、坂本龍馬サンと死別後、高知の龍馬さんの身内に龍馬サンの名跡乗っ取られたり、龍馬サン没後に支援者だった西郷隆盛サンも西南戦争で亡くなってしまったり、龍馬サンの師匠の勝海舟サンの紹介で横浜の「田中家」と言う料亭で働いた後、再婚した相手が実の妹と不倫をして又、独身に戻ったり…
まだ坂本龍馬サンの偉業を世間が知る前だったので、この横須賀市で政府の支援を受けられないまま、壮絶な人生を送って亡くなりました。
坂本龍馬サン
明治政府内や世間で坂本龍馬サンの偉業が漸く認識され、世間で「お龍サン」の事も話題に成りだした頃には既に、お龍サンは余命僅かでした。
お龍サンが亡くなる直前、坂本龍馬サンの霊が当時の明治天皇の御妃の昭憲皇后(美子皇后)の夢枕に現れ、危篤のお龍サンの身の上を案じられた昭憲皇后から御見舞いの電報が届けられたり、海軍大将だった井上良馨公が発起人となり見舞金の募金が集められ届けられましたが、時既に遅く、お龍サンは亡くなってしまいました。

晩年は幸せでは有りませんでしたが・・・
お龍サンが、この「大津町にいる!」と解って以来、没後も、町の人はその事を忘れていません。
全国的には有名でなくても横須賀の信楽寺のある大津町の地元の人は今でも、お龍サンがこの町で暮らした事を誇りに思っています。

…大津の人が誇りに思うお龍サンの話をする前に先ずはこの信楽寺サンの歴史と外観から紹介したいと思います。この信楽寺サン、今では一般的な御寺程の大きさの敷地ですが、恐らく昔は可也(かなり)の規模を有していたのだと思います。


その証拠に鎌倉光明寺の末寺だった歴史を有しており、更に周辺地形からも往時の範囲は容易に推測出来ます。
鎌倉の光明寺と聞いても歴史に興味が無い方には良く解らないと思うので御説明差し上げますと、鎌倉〜室町時代の御寺は幕府等の行政機関が御寺の収入源である土地の保護をしたり和尚様の就任を承認したり文章で手続きを管理していました。
鎌倉の光明寺と言う御寺は格が高いので一般的な行政官僚では取り扱いが許されない程で、鎌倉公方や、その権力代行者の関東管領(かんとうかんれい:首相)、又は関東管領の執事(しつじ:官房長官)等の高い身分の執政者が行政文書の発行を行なっていた様です。
光明寺と言う御寺はそれ程の御寺だった訳ですが、現在でも大本山格の御寺として鎌倉材木座に存続しています。
光明寺は信楽寺の本山でしたから、信楽寺は光明寺の直接影響下に置かれていた事に成ります。つまり住職が世襲制に成る前の信楽寺は光明寺の偉い和尚様が赴任して来ていた訳です。
本山⇄末寺の関係と言うのは本社⇄支店の様な関係なので、当然、本山の格が高ければ末寺も栄えていた訳です。
これで信楽寺の権威は御理解頂けたでしょうか?
次ぎに、どれだけ栄えていたかを推測する物証(地形)です。
信楽寺には素敵な鐘楼が有ります…
…御寺の裏の鎮守の山の尾根筋に、水墨画に出て来そうな素敵な佇(たたず)まいで存在しています。
今では背後の山の周辺は削平され宅地化されてしまっていますが…
つまり、この鐘楼の存在が示す通り、昔はこの背後の山も寺領だったはずです。
それでは、この鐘楼が在る山の地形を見てみましょう…
信楽寺がマークされている右手の山に鐘楼が在ります。
そして信楽寺は鐘楼の山に囲まれていますが、これは鎌倉時代〜室町時代の谷戸構(やとかま)えと呼ばれる山を城壁代わりにして谷間に建築物を建設する南関東の丘陵地独特の文化で、信楽寺は周辺の山を谷戸として所有する造りだった推測が成り立ち、大寺院だった事が推測出来ます。
下の写真は鎌倉の浄妙寺です。
綺麗にスッポリ山に囲まれていますね。
谷間に作り、谷の入口に門を設ける事で外部と遮断され防犯や火災の類焼避けに成る訳です。
鎌倉の報国寺や寿福寺も、この様な作りに成っています。

話しを信楽寺に戻します。
信楽寺は多くの檀家さんがいらっしゃる様で大きな観音様?が、お庭にいらっしゃったり土地は全盛期より縮小されても栄えていらっしゃいます。

う~ん、素敵な観音様だ♪
信楽寺には、他に保久利(ぽっくり)地蔵さんと言う六地蔵が祀られています。 2015-12-16-13-40-20
説明の文章によれば、人間が動物的な下等な習性を抑制し成長を助けてくれる御地蔵さんと言う事でしょうか?
昭和52年の建立ですので割と新しい御地蔵さんですが、6体とも、とても御優しい御顔をしてらっしゃいます。
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この保久利地蔵を建立する事に成った切っ掛けは、実在した農家の御婆ちゃんがとても人から尊敬される人格者で長生された方だったそうです。その御婆ちゃんを偲(しの)んで建立されたのがこの御地蔵様だそうで、その言われが下の写真の説明銘板に書いて有りました。
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粗衣粗食…
小生も見習わないといけないなと本気で思います。でも食欲に負けてばっかりです。
…なんかこの食欲をコントロールする方法な無いもんだろうか?
生前の行いを周囲の方々に有り難いと感謝され御地蔵様として祀られるなんて、本当に人格者だったんでしょうね。
本当に見習わないといけない。小生は短気ですからね。

まぁ、こんな感じで現在では広さは普通より少し広い位ですが、昔は立派な規模を誇っていた事を容易に想像出来る御寺な訳です。
しかも関係の有る歴史偉人も凄いんです。
実は、信楽寺の仏様は平安時代末期の鎌倉武士団の名将、熊谷直実公の守り仏だったそうで、それが後に熊谷直実公は浄土宗の開祖の法然上人お弟子さんとなり蓮生坊と名乗り以後も持仏として大切にされたそうです。
そんな歴史偉人達の大切にした仏様ですが、近江国大津の信楽寺に移送しようとした所、使者が誤って鎌倉から近い、この「大津の信楽寺」に安置して現在に至るそうです。
本当なら少し面白いですね(笑)?その間違いの御蔭で、小生達も御参り出来る訳ですから。
でも、この「大津」と言う地名が、この信楽寺に眠る「お龍さん」ととても因縁が有る地名なんですよ!
先ずは、お龍サンの旦那様の龍馬サンの活躍した京都の史跡の位置関係を見てみましょう…
龍馬災難の地 先斗町周辺
※画像をクリックして拡大して見て下さい!
写真上部に在る池田屋は有名な新選組の活躍した池田屋事件の舞台ですね。
今年の9月に、友人の結婚式で京都に久しぶりに帰った際に、丁度撮影しておいた写真が有るので…
三条大橋の近くに、池田屋の跡の石碑が在ります。
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その場所に建つ店は、全て長続きしなかったので「呪いじゃないの?」なんて噂も有りましたが…
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当時の池田屋と同じ名前の「池田屋」と言う居酒屋に成ってから潰れずに繁盛しているそうです!
…逆に池田屋リスペクトで存続出来てしまったら、呪いを証明している様な気が…
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ちゃんと説明の看板も有ります。当時の池田屋の見取り図や、事件の経過と攻守双方の犠牲者の名前も掲載されています。
こうやって双方ともに扱う姿勢は素晴らしいですね。立場の違いは有れど、お互い日本の事を本気で案じていた訳ですから。
この時の近藤さん達の活躍で、当時テロリストだった攘夷派の中の過激派による京都市街大放火のテロ行為が未然に防がれました。
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三条大橋の池田屋側から2番目位の欄干(らんかん)には、この池田屋事件の時に付いたと言われる刀傷が現在も残っています。
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そして、池田屋のある通りから延びる三条通りの三条商店街には、沖田総司の佩刀(はいとう)の菊一文字の名を冠した刃物屋さんが今も在ります。
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もう一度、衛星写真に戻りましょう…
龍馬災難の地 先斗町周辺
…池田屋から直ぐに衛星写真を南北に貫く緑に覆(おお)われた筋に見える道路が「木屋町通り」です。
木屋町通りの直ぐ横、川沿いが有名な観光地の先斗町(ぽんとちょう)です。
それと反対側、写真左側の「河原町通り」沿いに、龍馬サンが暗殺者に襲撃され落命した事件の舞台「近江屋」の跡が在ります。
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現地には龍馬サンの顕正の一環として、史跡として事件が発生した場所だと解る説明と石碑が建てられていて、商店街の皆さんによってちゃんと守られています。
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ファンが御墓参りしやすい様に、下の看板も有りました。
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因みに、お龍サンは亡くなってから、舎利が分けられ、この信楽寺の御廟所と更に今は龍馬サンの眠る京都で一緒に成る事が出来ました。…亡くなってからでも離れ離れじゃなくなって良かった(泣)。
さて、ここからが信楽寺の在る横須賀市大津町と、お龍サンの因縁の話に進みます。
衛星写真で見る京都の範囲を、もう少し広くしてみましょう…
龍馬関連地域
写真の下の方が現在の京都市伏見区です。そこに、お龍サンと龍馬サンとが夫婦生活を送った寺田屋が在ります。
ここは、お龍サンが入浴中に幕府の役人達が龍馬サンを逮捕に来ているのに気付いて、素っ裸のまま危険を伝えて龍馬サンを生きながらえさせた有名な寺田屋事件の舞台です。
でも、因縁の話の舞台はここではありません。
写真の右上、滋賀県の琵琶湖の畔(ほとり)に大津市が在りますよね?
お龍サンが眠る信楽寺の所有する元は熊谷直実公が所有した仏様は、本来、この滋賀県大津市に届けられる筈だった話は先にしましたよね?
つまり、御寺の在る大津町と滋賀の大津は仏さまで地名だけでなく仏縁も結ばれているのですが更に、お龍サンの旦那様の坂本龍馬サンの坂本家の御先祖様とも深く関係が有ります。
龍馬サン御本人の話では、坂本家の祖先は戦国時代に滋賀県大津市の坂本を本拠地にした明智光秀の一族だそうです。ですから、同じ大津の地名の、更に滋賀県の県名の由来に成った信楽(しがらき)の名を冠する宮谷山至心院信楽寺の在る大津町で、お龍サンが晩年を過ごされたのは…
龍馬サンの奥さんに成った御龍サンが、晩年この土地に行き着いたのは、龍馬サンの氏神様と信楽寺の仏様の御導きで呼ばれ守られていたと思いたく成るくらいの偶然が重なった諸縁で結ばれているんですね。
或(ある)いは…
もし死後の世界と言うものが本当に有るのなら、龍馬サンが氏神様や仏様の御力を御借りして、お龍サンを見守っていたのかも知れませんね。

さて、お龍サンと滋賀県と神奈川県の「大津」との因縁はここまでにして、ついでに横浜時代の御龍サンの働いた横浜の料亭の田中家(たなかや)もついでに話します。
冒頭で少し書きましたが、お龍サンは勝海舟先生の紹介で田中家で働き始めたそうです。

この田中家の歴史は古く、江戸時代には存在していました。
東海道五十三次 神奈川宿 田中家
※拡大して見てみて下さい。
上は安藤広重の「東海道五十三次 神奈川宿 台之景」の浮世絵の風景画ですが…
この中に「さくらや」と言う旅籠(はたご:旅館)が描かれているのですが、この店が田中家の元に成った御店なんです!
浮世絵にのっちゃう位、昔から栄えた店だったみたいですね。
しかも、この田中家、今でも絶賛営業中なんですよ!
GoogleEarthの3Dモデル衛星画像で場所を見てみましょう。
田中家近景
上の浮世絵と同じ構図で見ると、やはり坂道に面しているのが解ると思いますが…
あれ?坂の左っ側は海なんじゃないの?と思いますよね?
…実は、この周辺は近世~現代にかけて絶賛埋め立て中なんですね!
では、もう少し地表から離れた田中家の衛星写真で位置関係を見てみましょう。
田中家周辺
写真中央が田中家です。御覧の通り、すぐ左上(東側)に横浜駅が在ります。
つまり、横浜駅周辺は埋め立て地な訳です。
ですから、この間の東日本大震災の際には、この横浜駅周辺で昔は海だった地域は、地震速報で示された震度より実際は強く揺れたみたいですね。
平地は全て昔は海だった訳です。だから、歴史の古い田中家は、元から陸地だった丘に沿った坂道の傍らに在るんですね。
埋め立て地に横浜駅が在るならば、当然、現在の東海道も、お龍サンが横浜で働いていた頃とは様子が違います…
神奈川旧東海道
昔の東海道は元々半島だった丘に沿って通っていました。
この丘は古くは室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公が築城し籠城した「権現山城」と言う城跡で、戦国時代にも横浜の殿様の間宮信冬(まみやのぶふゆ)公が「権現山合戦」で活躍された舞台にも成った場所で、旧東海道の元に成った街道が古来より存在し、交通の要衝(ようしょう:重要な場所)だったので軍事拠点としても重視された場所だった訳です。
更に戦国時代中期に成ると、権現山城は現在の本覚寺と言う御寺が在る辺りを中心に拡張され「青木城」と言う御城に改修されて小田原北条家の軍師だった多目元忠(ためもとただ)公が城主を務めていました。
ここら辺の歴史は以前書いた間宮家殿様の事績の顕彰文の中で説明しているので、御興味が有れば読んでみて下さい。
間宮家の事績のまとめ記事はココ」←クリック!
現在の東海道は、この青木(権現山)城の在った半島をブッた切る形で切通しが掘られ、そこに国道一号線(現在の東海道)と鉄道の線路が敷設されました。
ですから東海道は、お龍サンが生きていた時代とは違う位置を通っているのですが、昔の東海道は住宅街に埋没したので必然的に田中家も今では住宅街の中で営業する情況に成った訳ですね。

時代が変われば風景も道路も変わってしまう訳です。
では、ついでに、この旧神奈川宿一帯が最近40年間程度でもどれくらい風景が変化したか、1970年代の航空写真をGoogleEarthに張り付けて比較した画像で見比べてみましょう!
神奈川区昔の様子
ごく最近の写真なのに、たった数十年で横浜駅一帯はこうも風景が変わってしまったんですね…。
因みに、上の昔の衛星写真を継ぎ接ぎして作った画像に写ってる貨物列車の線路は、明治時代に伊藤博文公によって建設された新港埠頭に繋がる路線で、その路線は東日本大震災で東北地方の人々が燃料切れで凍死する恐れが有った時期に、日石とJR貨物職員による燃料緊急輸送作戦で横浜市磯子区根岸の石油コンビナートからの貨物輸送で利用され活躍した線路です。
お龍サンと同じ時代の伊藤博文公の偉業で、現代の東北の方々は命を救われた訳です。
※緊急燃料輸送の記事は「ココ」←クリック!
ですからね小生、よくブログで持論として言いますが…
現代の我々の生活は、昔の人の多くの悲しみと失敗と、少しの成功と幸せの結果、先人によって築かれたものだと言う事を忘れてはいけない
…そう思っているから、こうやって先人に感謝とリスペクトの思いを込めてブログの記事に拙い文章を感情のまま殴り書きしています。

今回は、お龍サンと、その人物の歴史を現代に伝えて下さる信楽寺の御話しをしました。
次は何を書きますかね~?
少し歴史偉人から離れて綺麗な風景の記事でも書きましょうか?
…とは言っても、どこに行っても偉人の皆さんの足跡だらけなんですが(笑)。

では、又、次の記事で御会いしましょう♪



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さて小生がこの記事を書いている2018年12月25日はクリスマスです。
残念ながら独身で恋人もいない悲しい小生はイブも仕事、本日も仕事です。
皆さんはクリスマスは如何お過ごしでしょうか?
今頃は家族で子供達とお腹いっぱい美味しいご飯を食べたり、恋人や夫婦でイチャイチャして疲れて寝てるんでしょうか?
シングルベルの小生、今なら悔しい総統閣下の気持ちが解かる・・・
総統閣下 久良岐のよし
唐突なヒトラーの登場で困惑する人は元ネタ動画見て下さい(笑)

※注意!小生は保守中道派ですがナチは嫌いです(笑)。ロンメル元帥は尊敬していますけどね。
・・・さて、取り乱してしまいましたが今日はクリスチャンの皆さんと、全く宗教に信仰心が無い大半の日本人のカップルにも聖夜な訳ですが、実は神奈川県には江戸時代に既にクリスマスの習慣が有った事を知っている人が現代人の中にどれだけいるでしょうか?
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写真は神奈川県三浦半島の横須賀市吉井に在る怒田城址の一角に存在する眞福寺と言う寺院の抱子観音様です。
実はこの観音様、元々は江戸時代初期に開港して三浦按針ことウィリアム・アダムス公が活躍した浦賀港から江戸屋サンと言う廻船商人によって移され安置された観音様なのですが・・・
もう既にこの説明で勘の良い人は気づいていると思いますが、隠れ切支丹(キリシタン)や西洋人との関連が有ると言われている仏像で異名をマリア観音様と呼ばれているんですね。
障子の穴から撮影させて頂いたのでこの写真しか無いのですが、拡大して貰えるとマリア様と同じ様に赤子を抱きかかえています。
まぁ~只の観音様では無いですよね、仏教関係者なら尚の事理解出来ると思います。
しかしながら、日本神道も仏教もキリスト教徒も根源では人の幸せや安寧を願う宗派なのでこの観音様を見て嫌悪感を感じる人も少ないでしょう。
・・・さて、では何でこんな場所に隠れ切支丹のマリア様信仰に関係しそうな観音様が安置されているか解説させて頂きたいと思います。
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吉井山 眞福寺
この眞福寺、実は目の前に鎌倉街道の古道が通っているんです。
DSC_0118
この御寺の前の雰囲気有る道が平安時代末期~近代まで使われた鎌倉街道だそうです。
開基の時期は現在の御住職様は江戸時代に浦賀の廻船商人の江戸屋サンによって開かれたと申しておりましたが恐らく中興の時期が江戸時代と成るんでしょう。この江戸屋サンが浦賀港を本拠地としており現代で言う所の❝税関❞の役割を江戸幕府から委託されていたのですが、それだけでは食べていけないので廻船商人として海運で国内他地域と交易をして仕入れた物を流通に乗せ鎌倉方面や三浦半島に陸送する際に、この眞福寺の前の鎌倉街道を使って輸送したそうです。
浦賀~眞福寺 久良岐のよし
画像を拡大して頂ければ眞福寺と浦賀港が確かに近い位置に在る事が解かりますね。
でも当時は当然ながら車は有りませんので、馬に荷駄(にだ)を持たせて人が歩いて馬を牽引したので、この吉井地区の❝怒田(ぬまた)城址❞の丘を越えるのは一苦労だったのでしょう、この御寺は元々は休息用の目的も有って開かれたでしょうと御住職がおっしゃっていました。
江戸時代に御寺を再興したであろう江戸屋さんの別宅が直ぐ近くに在ったので、当時の地主サンの許可を得て江戸屋サンが御寺を整備したそうです。
ただ、御寺の開かれた年代については新編相模風土記稿では天文年間(1532~1555年)の開基と記載が有り、境内の説明では1522年、一方で横須賀市の認識としては1528年とされています。なので御住職の御話と風土記と横須賀市の話しを混ぜるとこんな経緯が見えて来ます・・・
CIMG2962
※写真は横須賀市安針塚に在る三浦按針公と日本人の奥さんの御廟所。
恐らく江戸時代以前、戦国時代の大永二年(1522年)~享禄元年(1528年)には御寺の前身と成る仏教系の草庵が存在し、天文年間(1532~1555年)に寺院化され、小田原北条家の滅亡により御寺を支援した領主が改易されると一時荒廃し、江戸時代初期に徳川家康公の外交参謀イギリス人サムライのウィリアム・アダムス=三浦按針公によって浦賀が諸外国向けに開港した頃に江戸屋サンが開業、禁教令と鎖国令が出て海外交易が長崎の出島に限定されてしまいます。すると三浦按針公や外国人が拝んでいたであろう抱子観音様も浦賀に置いておく訳にも行かず、かと言って廃棄する様な罰当たりも出来ず、江戸屋さんが江戸時代に自分の別荘の有る怒田城址の山深いけれど鎌倉街道伝いに日帰りで御参りに行ける場所に荒廃した眞福寺が在るに目を付けて、御寺を復興する資金を肩代わりして境内に観音堂設けて抱子観音様を密かに御守り移し安置されたのだろうと推測が成り立つ訳です。
眞福寺前の鎌倉古道と怒田城軍港跡の舟倉地区 久良岐のよし
地図を見ると眞福寺の前の林道の先に江戸幕府御用林の字も見えますよね?そして地図の左の赤く表示されている地区が舟倉で怒田城時代の海岸線で三浦水軍の軍港だった場所です。
・・・で、先程からシレっと怒田城の一部に眞福寺が在ると小生言ってますが、ここは平安時代末期に和田義盛公が築城した怒田(ぬまた)城の一角に当たり、新編相模風土記稿にも沼田城の当て字で記載が有るんですよ。
新編相模風土記稿 三浦郡巻之七 西浦賀分郷
このページに記載が在ります。

沼田城蹟
村の西界。山上ニアリ。字(あざ)臺崎ト云(いう)。
内川新田開墾前ハ入海の出崎ニシテ要害ノ地ナリ。相傳フ三浦大介義明ノ持城ナリト

怒田城に関しては又、別記事として改めて城址紹介の記事を書きますが、平安時代には水軍基地だった海が江戸時代に埋め立てられて耕作地に成っている事も判ります。風土記では三浦義明公の城と説明されていますが、正確には三浦義明公の嫡孫の和田義盛公の築城した城でした。これは司馬遼太郎先生も紀行文❝街道をゆく❞シリーズの❝三浦半島記❞で紹介しています。
先ずは眞福寺と怒田城主要部分の位置関係を見て見ましょう。
怒田城址周辺地形 久良岐のよし
眞福寺の目の前を浦賀~走水方面から鎌倉に通じる街道が通っているのですが、この街道を抑える為に築城されたのが画像で眞福寺の右手の丘一体に広がっていた大城郭❝怒田城❞でした。
この怒田城は平安時代末期の築城ながら安土桃山時代の平山城と同じ様な構造をしていて、和田義盛公の戦術眼と築城術が当時としては革命的に先進的な物だったのが解かります。
城は連郭式(れんかくしき)と呼ばれる段々に成っている構造です。
まぁ、昔から重要な街道が有り、平安時代には軍港でもあった訳です。
そんな場所だから当然ながら税務所役人であり通関業者であり運送屋であり商人の江戸屋サンや浦賀の廻船商人達はこの眞福寺を支援した訳ですね。
そして先述の通り三浦按針公と浦賀港の歴史を経て、眞福寺に抱子観音様が安置された訳です。
では今度は眞福寺サンの風景その物を見て頂きたいと思います・・・
眞福寺サンの在る山は城址なので当然ながら籠城に堪える湧水も有り、今も農業用水として御寺の近くを流れています。
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そして御城が防衛した鎌倉街道の古道が山に向かって伸びています。
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その右手に❝三浦三十三観音霊場第十五番❞吉井山眞福寺が在ります。
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眞福寺サンは現代では浄土宗です。
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階段を上って山門代わりの石柱の右手には御地蔵様が並んでらっしゃいます。
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境内の御庭に入ると左手には素敵な雰囲気の観音様のいらっしゃる庭園と観音堂が見えます。
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奥津城観音と言うらしいですが、実は奥津城と言うのは神奈川県の聖地の渋田山の別称でして伊勢原市に現存する延喜式内社の高部屋神社の元宮の祠が在る場所だったりします。まぁ、関係有るかは知りません(笑)。
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観音堂の階段の右手には御寺の歴史と聖観音様と抱子観音様の解説が有ります。
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いかにも古い石段を登ります。
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すると明らかに怒田城の曲輪の一角だったと思われる平場に聖観音様と抱子観音様が安置された観音堂が在ります。現代では御墓に囲まれていますが、それでも雰囲気良いでしょう?
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彫刻も立派!
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実は障子に穴が開いていて観音様を拝見する事が出来ました。
有難い。
新編相模風土記稿では現在、聖観音とされる仏様は瀧見観音とされています。瀧見観音は三浦一族の菩提寺圓通寺に祀られていた三浦一族の持仏で、現在は横須賀市衣笠の清雲寺に安置されています。
江戸時代までの仏様の名前からも、御寺に三浦一族との前身寺院が存在した様な関係性が臭いますね。
是非、御朱印頂きに参拝される方は観音様を拝して頂きたい。そしてイギリス出身の白人サムライ三浦按針公が日本人を欧州人の植民地化から守って下さった御恩も感じて頂ければなとも。
又、浦賀が欧州からの貨物の集積地として賑わっていた歴史もここで感じる事が出来ます。
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今でも満々と水を湛える池、そりゃ城作るよ。
観音堂の台地から御本堂を見下ろすと雰囲気が良いんですよ~。
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庫裡(くり)の入口が昔ながらの造りで素敵ですね~♪
さて、一応、今回の解説はこんな感じですが、歴史好きの方は怒田城址見物と合わせて是非御参りしては如何でしょうか?
怒田城址 久良岐のよし
因みに怒田城は吉井貝塚部分より眞福寺との間の谷間に良く城址の地形が残っています。
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食違い状の削平地ですね。
小生の推測では、恐らくここが人工的に開削された大空堀で大手道だったと思います。そして眞福寺側が西門だったんでしょう。
怒田城址に関しては余り遺構が無いとか書いている阿呆が多くいますが、それは日本城郭大系を書いた学者さんが恐らく京浜急行電鉄に❝配慮❞して開発の妨げに成るのを避けて城域として指定した極狭い範囲だけを馬鹿正直に見たからでしょう。実際は周辺の山を歩き廻ると城として十分な構造体がそこかしこに残っているんですよ~。

さて、今回はクリスマスにちなんでマリア観音様と眞福寺さんと周辺の歴史を紹介して見ました。
きっと皆さんの御近所にも深い歴史や意外な偉人と繋がりの在る神社仏閣や城址の山や公園があるかも知れません。
ですから皆さんも歴史散歩してみませんか?凄い歴史偉人と地元の繋がりをしれば、地元愛も深まりますよ~♪

では!又次の解説記事で!
・・・でも次は神社仏閣一覧を刷新するのに注力します。ですから御正月ですかね~、新しい記事を書くとしたら。

そんな訳で皆さん、本年中も御高覧ありがとうございました。
来る年が皆さんにとって小生にとっても発展の年と成り、健康を高める年と成り、自らを成長させる年と成ります様に♪
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走水神社(式外社・社殿地下に日本武尊の遺品の石棺を埋蔵)
奥宮(須賀社・神明社・諏訪社)
御所ヶ崎砲台史跡(日本武尊と弟橘姫の行在所跡)
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  御祭神・御本尊等:
  日本武尊(やまとたけるのみこと)・弟橘姫(おとたちばなひめ)・大伴黒主(久應)
  社殿の下に日本武尊の遺品の入った石棺が埋蔵され御神体とされる。
  御利益:縁結び・夫婦円満・交通安全・海外渡航安全・戦勝祈願・漁業豊漁・料理上達・立身出世
  関係者:
  開基:日本武尊と弟橘姫の夫婦神・大伴黒主(久應)
  中興:東郷平八郎 公
     乃木希典 公
     伊東祐亨 公
     上村彦之丞 公
     高崎正風 公
     井上良馨 公
     藤井茂太 公
  旧郡名:御浦郡
  所在地:走水神社・・・横須賀市走水の漁港の目の前の丘の中腹
  所在地:御所ヶ崎砲台跡・・・日本武尊と弟橘姫の仮御所跡の聖地に作られた明治時代の砲台跡の史跡
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
日本武尊と弟橘媛様の御一行が数日間滞在した場所に建てらた神社で神聖な場所。 
日本武尊達が房総半島へ渡る際に、こちらの走水神社の前の海の左側にある御所ヶ崎に数日間滞在していました。その事から同地は御所ヶ崎と呼ばれている。 
現代でも、この走水神社の前で神話の通り国道16号も東京湾をつっきって千葉県で国道16号が突然復活する。
大伴黒主(別名:久応)様は日本武尊達を歓待した地元の豪族で漁民で料理人。横浜市神奈川区六角橋の宝秀寺は大伴久応の邸址と伝わり、そこに日本武尊が滞在した伝承が有る。走水神社の伝承では大伴黒主は日本武尊を接待した後に請われて後に古代大和朝廷の料理長に成ったそうだが、日本神話では日本武尊は岐阜県と滋賀県の県境に在る伊吹山辺りの神(豪族)に帰路を阻まれ三重県の鈴鹿辺りで病没している。 史実としては大伴一族は水軍を率いて天皇家の御林軍も率いた一族なので、神話とも整合性が有る。
日本武尊と弟橘姫の仮御所だった走水海岸の御所ヶ崎周辺からの眺望は素晴らしく、海に突き出し昔は島だったであろう御所ヶ崎と地続きの丘の上から見る三浦半島の海岸線の先には富士山に夕日が沈む姿が見られ、正に乙姫伝説の海の中の竜宮城の形容に相応しい。
御所ヶ崎の社殿は砲台建設時に明治政府によって接収され破壊された。御分霊だけ明治の元勲の中の信仰心厚い面々によって奥宮に保護合祀されたが古代の仮御所の史跡は永遠に失われた。
日本武尊と、御妃様の弟橘姫様が仲睦まじい御夫婦の神様だった事と、更には走水神社の社伝で料理達者であったであろう大伴久応黒主様の家系は親衛隊や水軍の将を務めた歴史事実、東郷平八郎元帥達、対馬海戦でロシア帝国の大軍勢を撃破した名将達の崇敬した神社としての実績も有ったりする場所なので戦勝祈願の聖地として紹介しても過言では無い事、それら全ての御利益に預かれる場所である訳です。
※社殿を御参りするだけでなく、背後の鎮守の山に在る奥宮を御参りして下さい。そちらが日本武尊の時代の社殿跡と伝わり、日本武尊所縁の三柱の神様の祠(ほこら)が存在しています。
※御所ヶ崎は現在は御所ヶ崎砲台史跡と成っていて一般非公開。見学には横須賀市の公園管理課へ事前予約が必要です。
※近くには走水海岸や観音崎といった海水浴場、観音崎灯台もあり綺麗な風景を楽しめる観光地が多くあります。走水海岸には「やまに」と言う旅館や「かねよ食堂」といった地魚料理の有名な店もあり、観音崎にも料理が評判の京急観音崎ホテルが在ります。初詣に合わせて宿泊し、周辺の猿島や横須賀見物をするのも良いです。
※東郷元帥がバルチック艦隊を撃破した際の旗艦:戦艦三笠も走水神社から車で15分程の汐入地区に公開展示されています。
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※新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。
走水海水浴場と破崎展望台
神話の舞台の走水神社
【走水海岸】
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