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カテゴリ:初詣向け神奈川県の神社仏閣の概要一覧 > 平塚市

前鳥神社(延喜式内社・相模国四之宮・応神天皇の皇子の莵道稚郎子が住んだ聖跡)
真土神明神社(近年建築業者に破壊され消失した真土大塚古墳:莵道稚郎子の御陵跡)
真土大塚山公園(真土大塚山古墳の偽物を模造した公園)
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  御祭神・御本尊等:莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)・日本武尊  
  御利益:交通安全(陸)・戦勝・学問向上・合格祈願・開運・適職就職
  関係者:
  開基:莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)・・・応神天皇の皇子、仁徳天皇の実弟。
  中興:征夷大将軍 源  頼朝 公
     左京大夫  北条 早雲 公
     征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡
  所在地:前鳥神社・・・平塚市四之宮の古代の海岸線上の、現在の河岸段丘上の微高地
  所在地:真土神明神社・・・古代の砂丘上に存在した前方後円墳を近年土建屋が破壊して造成した宅地
  所在地:真土大塚山古墳のニセモノ・・・真土神明神社の北に徒歩3分の公園
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
応神天皇の皇子である‟莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)”様が移住した場所。
前鳥神社の伝承と日本神話を考古学的に証明する真土大塚山古墳と言う古墳時代初期に造営された大古墳が、前鳥神社の1.5km西の近所に存在している。古墳からは大和朝廷の王族と緊密な繋がりを示唆する三角縁神獣鏡が発掘され国立博物館に持ち去られ収蔵されている。この銅鏡の存在からも莵道稚郎子命の御陵とされる伝承とも合致している。又、日本武尊が当地に滞在したのの伝承も有る事から、日本武尊(ヤマトタケル=倭建)と言う神号は一人の古代の王族に対して用いたものではなく征夷大将軍の様な古代の官途名に当たる神号であり古代の四道将軍成立以前の大将軍を務めた複数人の皇族将軍を1人の神格として習合している事も示唆される。
莵道稚郎子命は日本で最初に大陸由来の漢学や工業技術を学んだ実在した皇族の歴史偉人で、更には摂社に菅原道真公も御祭する事から前鳥神社は古くから学問の神様としても有名。現代では合格祈願に来る学生も多い。
源頼朝公が北条政子様からの崇敬も有り、戦国時代初期には北条早雲公と北条氏綱公の父子の名将が前鳥神社の宮司家の支持を受け、当時戦略家の名将として有名だった三浦道寸公の居城を岡崎城を落城させ三浦家を三浦半島の油壷マリンパークの半島に存在した新井城まで追い詰め勝利した歴史が有る事から勝負運向上の戦勝祈願や合格祈願の御利益も期待出来る。

平塚八幡宮=鶴峯山八幡宮(式外社・一国一社八幡宮・相模国五之宮格・凄い地鎮の神様)
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平塚八幡宮様公式拝借画像七夕祭り 久良岐のよし
  御祭神・御本尊等:大鞆和気命(おおともわけのみこと)=誉田別命(ほんだわけのみこと)=応神天皇  
  御利益:関東最高級の地鎮・治水・工業発展・交通安全(海)・海外渡航安全
  関係者:
  開基:大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)=仁徳天皇
  中興:推古天皇
     天武天皇
     文武天皇
     聖武天皇
     征夷大将軍     源  頼朝 公
     征夷大将軍     徳川 家康 公
     徳川幕府関東代官頭 伊那 忠次 公
     周宮 房子 内親王 様
  旧郡名:大住郡
  所在地:平塚市浅間、平塚駅近く古代の砂丘上。
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
平塚八幡宮は明治時代まで鶴峯山八幡宮と言う名前だった。古墳時代に大地震が起きた際に仁徳天皇が国土安穏を祈り應神天皇の御神霊をお祀りされたのが始まりで、各国に一社づつ勧進された相模国八幡宮の本来の元締め。鶴岡八幡宮は平安時代末期の造営で、歴史的に一国一社八幡宮は鶴嶺八幡宮だった。
後に推古天皇の時代にも大地震があり、人々を案じられた推古天皇は「鎮地大神」の御宸筆を捧げて国家安泰を祈願して社殿を造営した。天武天皇はこの地租を寄進、文武天皇は宝剣「天晴彦(あめのはるひこ)」を奉納、そして聖武天皇は相州一国一社の八幡宮(霊場)として法華経を奉納した。
寛治元年(西暦1087年)には平塚八幡宮の御分霊が岐阜県高山市山口に桜ヶ岡八幡神社として分祀された。
鎌倉時代以降も源頼朝公が夫人政子様の安産を祈願して神馬(白馬)を献上した。
江戸時代に慶長年間も徳川家康公により社領が寄進と参拝を賜り、関東総奉行の伊奈忠次公社殿を再建を御命じに成られた。徳川幕府治世下では
東海道8番目の宿場として賑わい門前の大門通りは東海道、須賀港、厚木往還、大山道の重なる交通の要衝として発展した。
明和2年平塚宿の僧本誉還真が18年間集めた浄財で青銅製の二の鳥居を奉納。
大政奉還の後、明治政府の宗教政策により社名を「八幡宮」から「八幡神社」と改称させられた。
明治27年には明治天皇の王女常宮昌子内親王、周宮房子内親王の御参詣を賜り、社頭に松樹を御手植えされ、御神池に緋鯉を放生された。
大正12年、関東大震災の震災で社殿が倒壊、再建が昭和三年に完成した。
第二次世界大戦後の昭和53年8月に表記を「八幡宮」へ戻した上で、現在の平塚八幡宮に改称した。
7月7日には日本三大七夕祭りの一つ“平塚七夕祭り”が門前町で開催され大変賑わう。
8月15日の
例大祭、5月5日に斎行される千数百年来の歴史を持つ“国府祭(こうのまち)”の他の5社宮司家との問答神事が行われる。席次の譲り合いの神事は神揃山に移動して行われる。
9月中旬に行われる“
ぼんぼり祭”が行われる
※ロシア帝国が日本を含む東アジアの植民地化を狙いバルチック艦隊を東アジアに遠征させた際に、日本の東郷元帥率いる日本初の連合艦隊が対馬海戦でロシア帝国海軍を撃破した際の旗艦:戦艦三笠は、八幡宮の御祭神、大鞆和気命(誉田別尊)の神仏習合時代の尊称、‟八幡大菩薩の名の御分霊”を艦内に守護神として安置していました。太平洋戦争で戦艦大和や武蔵が撃沈された際は軍部は信仰心薄く戦艦内から各御神霊を撤去していたのは知る人ぞ知る史実だったりします。

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