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カテゴリ:初詣向け神奈川県の神社仏閣の概要一覧 > 中郡大磯町

高麗権現 高来神社(神功皇后と渡来人が開いた神宿る山) 
鶏足山 慶覚院 高麗寺(行基菩薩が開いた高麗権現社の別当寺)
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  御祭神・御本尊等:神皇産靈神(かみむすびのかみ)・高麗大神和光(こまおおかみのわこう:高麗権現)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・応神天皇・神功皇后  ・東照大権現(徳川家康公)
  御利益:海外渡航安全・交通安全(陸海)・敵人懲服・子宝・安産・地鎮・技術発展
  関係者:
  開基:武内宿禰
     神功皇后
     古代渡来人
  中興:高句麗王族帰化人 若光
     日本初の大僧正  行基 菩薩
     征夷大将軍    源  頼朝 公
     源頼朝公室    北条 政子 様
     相模守      北条 氏綱 公 以下歴代当主
     征夷大将軍    徳川 家康 公
     慈眼大師     天海  大僧正
  旧郡名:淘綾郡
  所在地:高来神社・・・中郡大磯町の高麗山の国道一号線側、山全体が旧境内地
  所在地:慶覚院・・・高来神社の参道右手
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
明治時代以前の神仏習合時代の旧社名は高麗権現社。
神功皇后が三韓征伐の帰国時、当時はまだ日本の一部だった朝鮮半島南部から移住して来た人々と共に高麗山の山上に日本神話の神皇産靈神と高麗の神である高麗大神和光を共に御祭りしたのが始まり。
神功皇后の時代は丁度、臺与の頃、古墳時代初期に当たると考えられるが実は伝承を立証する様に高来神社周辺一帯は渡来人の遺跡が多く、例えば高麗山南部には釜口古墳、王城山横穴墳墓群、旧吉田茂邸や旧三井家別邸の在る大磯城山公園の城山にも横穴式墳墓が大量に存在する。
時代は下り日本が天智天皇の治世となって7年後の668年に朝鮮半島北部の古代日本の友邦だった高句麗が中国の唐帝国によって滅亡させられる。滅亡した高句麗から高句麗王族の若光が日本に亡命帰化し、大磯の高麗に定住したと伝わる。この頃の唐帝国はそれまでの周辺国との友好関係を破棄し侵略戦争を開始しており、その外交政策の転換には則天武后が台頭した時期と重なるので則天武后の影響力で唐が侵略政策を開始している中国の権力争い等政治的な背景が神社の歴史から見てとれる。
更に後、養老元年(717年)に日本初の大僧正に任命された行基菩薩によって高麗権現社を保護する鶏足山 慶覚院 高麗寺を造営し以後、高来神社の前身である高麗権現社の別当寺と成り神功皇后以来の日本と渡来人の文化が神仏習合の聖地として更に発展、最大時には境内に24の僧院社殿が建ち並ぶ大規模な神宮寺と成った。鎌倉時代にも源頼朝公と北条政子様御夫妻や幕府の御家人立からも崇敬を集めた。
しかし室町時代に成ると度々戦火に遭い、僧坊は焼失してしまった。小田原城主と成った北条家によって領地が寄進され存続し、豊臣家の天下が定まり関東の戦乱が就職した頃に徳川家康公が江戸に入ると徳川家から100石もの寺領を賜わった。普通は5~10石、歴史有る場所で20石程度、100石は異例。余談だが出雲大社は2000石で最早大身旗本なみの軍事力を持てる石高だった。
江戸時代には高麗山の前が東海道だった為、参勤交代する大名も必ず籠を降りて参拝するのが習慣化していた。
明治時代に成ると明治政府の宗教改革で神仏分離令が励行され、北条家や江戸幕府の支援で復興した高麗山山上に在った社殿や僧坊は撤去され、更に高麗権現と朝鮮半島由来の名前も高来神社と改めさせられた。山上の社殿で御神体とされた仏像や仏教由来の文化財は旧観音堂である下社に移された後、知足山慶覚院に移され現代に至る。
古来からの古代日本文化と渡来人文化が融和し、坂東平氏が相模国へ移住し日本独自の武家文化を発展させた基盤と成る騎馬文化や醸成した土地でも有る。

柳田大明神 六所神社(式外社・相模国総社・・・古代の相模国府制定神話の神社 )
神揃山(神々が集った聖地、国府祭神事の舞台)
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  御祭神・御本尊等:相模国一之宮寒川神社~五之宮平塚八幡宮の全ての御祭神  
  御利益:一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、五之宮平塚八幡宮の全ての御利益。
  関係者:
  開基:出雲神族の一族(関東最古の大社、鷲宮神社の伝承とも整合性有り。)
  中興:相模国歴代国司
   征夷大将軍 源 頼朝 公
   相模守   北条氏綱 公 以下歴代北条家当主
   征夷大将軍 徳川家康 公
  旧郡名:淘綾郡
  所在地:六所神社・・・中郡大磯町の沿岸部東海道本線が参道をぶった切る。
  所在地:神揃山・・・大磯町国府本郷1408‐2の丘、古代の半島上。
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
❝国府祭(こうのまち)❞神事に登場する由緒有る神社。
崇神天皇の頃に出雲神族の末裔が当地に移住して来た際に、奇稲田媛の御分霊を主祭神として祀ったのが起源で当初の社名は柳田大神だった。神話では紀元前50年頃となる。
この伝承は初代相模国司が建御名方神(伊勢都彦)=諏訪神系出雲神族の御神孫とする伝承とも整合性が有る。関東最古の大社格の神社である埼玉県久喜市の鷲宮神社の伝承とも整合性が有る。
この神社一帯を開拓したのが出雲神族なのは他の延喜式内社のとも相似性が有り縄文時代の終わり~弥生時代に関東に稲作を広めたのが素戔嗚尊の御神孫で有る事良く解り、素戔嗚尊が建国したとされる須賀国の国名の須賀の二文字を含む地名が三浦~房総半島~北関東~東北南部に多く残る事とも整合性が有り、この六所神社の縁起とリンクしている。言い方を変えれば縄文時代を終わらせ農耕を広めたのは素戔嗚尊の眷属と言う事に成り、米の生産によって財産としての食料の備蓄の習慣が生まれ大規模な集落が形成され小規模国家が生まれた経緯を辿る事も出来る。出雲神族が農耕を広めた故(ゆえ)に出雲大社に神々が参集する神有月の神事が行われる様に成った事も理解が出来るのが、弥生時代以降に造営された六所神社や鷲宮神社の伝承と神事でもある。但し、地形上は紀元前50年代当時の現在の六所神社の境内地は海の底か海波に洗われる磯辺だった筈なので、現在❝国府祭(こうのまち)❞神事が行われる六所神社近所の❝神揃山❞の存在と、六所神社の異名が❝相模国総社❞で有る事、御祭神に奇稲田媛の他に一~五之宮を祀る事実を考慮すると、柳田大神と言われた頃の古代の境内地自体は神揃山だったと推測出来る。尚、神揃山周辺の住所は国府本郷なので相模国府の海老名移転以前の所在地とも考えられている。
総社だけあり、ここに御参りすると一~五之宮の御参りをしたのと同じ事に成るので、とても有り難(がた)い古社である。

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