宇都母知神社(延喜式内社・天皇の平和と繁栄の願いを叶えた出世の神)
&1万5千㎡に及ぶ自然保全地域指定を受けた境内と御神木の大樹
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  御祭神・御本尊等:天照大神(あまてらすおおみかみ)・稚産土神(わくむすび)・若日下部命(わかくさかべのみこと)・天満大自在天神(菅原道真公)・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)  
  御利益:対人関係修復・家内安全・厄除け・立身出世・学業向上・農業豊穣
  関係者:
  開基:雄略天皇
  中興:朱雀天皇
     鎌倉幕府執権 北条 貞時 公
     丹南藩大名  高木 正次 公
  旧郡名:高座郡
  所在地:藤沢市、慶応大学湘南藤沢キャンパスの隣、古代の入江の最奥部だった微高地。
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
考古学的には獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)と実名が比定される雄略天皇より幣帛を賜り神事が行われた記録が有る由緒正しい古社。後に朱雀天皇によって大和国の泊瀬から若日下部命(わかくさかべのみこと)の御分霊が勧進され祀られた記録が残る。若日下部命は雄略天皇の皇后の事を指す。
日下部氏は屯田兵を率いた古代部族で軍事と開墾に従事した入植者を管轄する集団だった様だ。だとすると❝武蔵国造の乱❞を鎮定したと思われる雄略天皇によって前身の聖地が開かれていた可能性が推測され幣帛を賜わった伝承と整合性もある。又、一帯が武蔵国造の乱の頃から前線への食糧供給基地として店屋(てんや=兵站)の機能が設置され集落が出来たので宇都母知神社の前身の聖地が開かれた事も判る。つまり戦乱を治め相武国境の民に安寧を齎(もたら)した天皇の平和の願いが込められた神社であり事が解かる。
後の時代の朱雀天皇が関与した頃の歴史的な背景を見ると若日下部命と名が伝承する御祭神が実は聖地として雄略天皇によって開かれた宇都母知神社の神様が実は草壁皇子の事を指す可能性も高い。
この草壁皇子=若日下部命を御祭神として祀った朱雀天皇の時代は日本国内で立て続けに内乱が勃発し国内が疲弊し中央集権による地方統治が衰退した時期だった。関東八州(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)では藤原氏によって坂東平氏の内紛が誘引され平将門の乱が起き、四国や山陰地方では藤原純友の乱が起きて、戦乱状態が相次いだ。朱雀天皇がこれを憂いて民百姓と国家の安寧を由緒有る延喜式内社の一つ宇都母知神社に期待した事が解かる。
朱雀天皇が御祭神として加えた若日下部命=草壁皇子は和解の象徴の神と成り得る古代天皇家の皇子だった歴史事実が有る。
飛鳥時代、中臣の藤原氏によるクーデター誘発の煽動に乗って大臣の蘇我氏の実権を奪取した天智天皇と、その天智天皇に虐げられた弟皇子の天武天皇のニ系統の天皇家が対立し軍事衝突にまで発展した。藤原氏は朝廷権力を乗っ取り天智天皇を操ろうとしたのだが、天智天皇が崩御されるとそれまで権力争いを避け避難していた天武天皇が東日本の古代豪族の軍団の支援を受けて蜂起し藤原氏と天智天皇系統から権力を奪還した。古代天皇と言う称号はこの頃まで存在しておらず、それ以前は大王(おおきみ)=大君が天皇家に対する称号だった。歴史上最初の❝天皇❞の称号を用いたのは天智天皇だが、この最初の天皇と次代天皇の兄弟間抗争の融和の象徴が草壁皇子である。草壁皇子の母君は天智天皇の姫、父君は天武天皇と両系統の近親婚で生まれた和解の象徴たる存在だった。
その事から朱雀天皇は平和の象徴である雄略天皇や草壁皇子の御神威に授かろうと恐らく飛鳥時代に日下部氏を関係を示唆する名前の草壁皇子と、更に草壁皇子と名が同じ雄略天皇の皇后の一族の日下部氏の氏神である若日下部命の御分霊を主祭神に加えた事が推測出来る。
藤原家の専横されていた朝廷と、それに歯向かった本来は天皇家の協力者である皇族から臣籍降下した坂東平氏と関東に亡命した菅原氏の連合勢力と、対立した藤原氏政権との争乱後の和解や関東地方の平安を祈願した御心痛が垣間見える。
朱雀天皇の父上の醍醐天皇と祖父の宇多天皇は藤原氏の朝廷権力の横領に心を痛め、天皇による直接政治を目指された天皇だった。朱雀天皇は藤原氏の陰謀で国内で相次いだ天皇家の協力者潰しの兵乱を鎮めるべく宇津母知神社を重要視し、そこを根拠にする皇族から臣籍降下した坂東平氏で鎮守府将軍の平良文(たいらのよしふみ)公の協力を得ようとした事も判る。そして平安時代末期に成ると朱雀天皇の父天皇の醍醐天皇の御兄弟の子孫である宇多源氏の佐々木氏は関東の平良文公の御子孫を頼り協力する。
これが裏付けられる様に朱雀天皇の先代天皇であり父君の醍醐天皇は藤原氏の専横から政権を奪還するべく活動し協力者だったのが坂東平氏や菅原道真公だったのだが、菅原道真公の一族は藤原氏の陰謀で失脚した際に多く御子息の菅原景行公や菅原敦茂公は関東に一時亡命し平氏の庇護を受けている。三男の菅原景行公は北関東に勢力を誇った嵯峨源氏の源護(みなもとのまもる)公や坂東平氏の平良兼(たいらのよしかね)公の居た父上茨城県桜川市真壁町に亡命し大生郷天満宮を開いた。
神奈川県横浜市港南区(旧鎌倉郡)の永谷天満宮には五男の菅原敦茂公が一時亡命していた伝承が有り、ここは坂東平氏の平良文(たいらのよしふみ)公の庇護を受けた事が解かる。
平良文公は神田明神の御祭神に成っている平将門公に協力し、その対立者だった平良兼公と源護公と対立し戦乱に発展する。これを平将門の乱と言う。丁度朱雀天皇の生きた時代の話しだ。
藤原氏は本来藤原一族が就任する権利の無い鎮守府将軍に同族の藤原秀郷公を強硬に任命して関東征服と皇族の親類であり天皇家の協力者であり政敵菅原氏の庇護者である平氏の弱体化と遺産横領を目論んだ。この宇都母知神社に祀られた若日下部命の御利益か平将門の乱は収束し更に藤原氏の専横を抑止する事に成功する。結果的に平将門公は敗死するが遺産は朱雀天皇の上意により藤原氏に横領される事は無く、又、藤原氏に組した平良兼公にも与えられず、平将門公に協力した平良文公が相続し鎮守府将軍に任命され関東で更に元皇族の坂東平氏による開拓が進み武家文化の基礎が築かれている。
余談だが平良文公が協力した平将門公は藤原氏による「平将門は❝しんのう(新皇)❞を僭称し朝廷に叛旗を翻した」との讒言で藤原政権によって討伐されたが、これは冤罪だっただろう。そもそも平将門公は元皇族の一族で有り、平将門公が治める上総国や下総国は元は総(ふさ)国=宇佐(うさ)国と言う古代の行政区分で皇族の子孫しか治める事の許されない❝親王(しんのう)❞赴任国だった。そして平将門公は曾祖父が親王の葛城親王であり祖父が❝平高望(たいらのたかもち)王❞なので❝親王(しんのう)❞の子孫であるから藤原氏よりも自分が上総介として活動する正統性を忠義を尽くす醍醐天皇や朱雀天皇に上奏したのを❝親皇❞と僭称したと藤原氏に改竄され謂(いわ)れ無き陰謀に巻き込まれ❝親皇❞を自称する逆賊として討伐されてしまった藤原氏による親天皇勢力潰しの謀略がよく解る。
もう一つ余談だが平良文公と源護公の一族の源宛(みなもとのあつる)公は平将門の乱で敵対し合戦した後に互いに認め合い、密かに関東で源氏と平氏が協力する密約を結び、これが河内源氏に引き継がれ源頼朝公と平良文公の御子孫の三浦氏、梶原氏、土肥氏、土屋氏等による鎌倉幕府開府の礎(いしずえ)に発展した。
更に余談だが、現在は藤原氏の氏神である春日大社、鹿島神宮、香取神宮の武御雷神は元々は蘇我氏の氏神であり古代邪馬台国からの功臣の家系に蘇我氏が繋がる可能性が高い。
春日大社は本来は鹿島氏の氏神で、鹿島(かしま)=しかのしま=志賀島=蘇我嶋=蘇我嶋大臣家の馬子の遺産だった事が近年の研究で明らかに成っている。蘇我氏の名から❝嶋❞と❝大臣❞の字を消し去った藤原氏は元々は❝中臣❞であり大臣より下の血筋であり更に苗字を持たない他国の王族で有った可能性が高いが、それを証明する様に大阪府羽曳野市にある初代中臣鎌足の古墳は朝鮮由来の円墳で、蘇我氏の蘇我稲目の大古墳は日本古来の方形周溝墓が発展した方墳だったりする。つまり藤原氏の祖先が渡来系だったのを蘇我氏に押し付け財産も天智天皇政権下で横領した事が考古学的に解る。
しかし、歴代天皇の願い通り藤原氏の陰謀を打ち砕き、平氏同士の内乱を鎮め源平協力体制を確立し次代の村上天皇の代で再び天皇家による朝廷権力奪還の御親政を実現した宇都母知神社は強い家内安全や争い事回避の厄除けと和解の御利益が期待出来る神社なのが歴史事実から辿れる。
そんな御利益の強い宇都母知神社なので鎌倉幕府の執権と成った北条家や、江戸時代の領主だった高木家から支援を受ける事に成る。
鎌倉幕府の第9代執権を務めた北条貞時公に信奉され社殿が改めて造営された。貞時公の父上の北条時宗公は、朝鮮人と中国人とモンゴル人による侵略の元寇から日本を守った歴史偉人でもある。
江戸時代に成ると旗本の高木正次公に信奉され支援を受けたが、この正次公があれよあれよと立身出世し旗本からとうとう大名にまで出世した人物でもある。
境内社には菅原道真公の御分霊も祀られており、学問での御利益も期待出来るが直ぐ横には慶応大学湘南藤沢キャンパスが在ったりする。
現代、15000㎡に及ぶ比較的広い境内地は風致地区指定を受け、神奈川県下の貴重な緑地と成っており御神木のみならず、周囲の木々はどれも立派な大樹で現代では寂れてしまった社殿も実は凄まじい由緒を持つ歴史の古さと聖地である事を物語っている。
他の延喜式内社同様に神仏習合時代の文化が残り、立派な鐘楼が現存している。