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カテゴリ:神社仏閣一覧 > 横浜市港南区

梅花山南無佛院成就坊と言う横浜市港南区に存在する御寺を御存知でしょうか?
きっと地図を見ても、ネット検索してもヒットする事はないはずです。
この御寺、現在は院号と寺号が簡略化され梅花山成就院とされているからです。
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実はここ、戦国時代には北条家臣として武勇と築城と鷹の飼育で名を馳せた間宮家の居城だった笹下城の本丸だった地形の真下に存在する御寺なんです。
そして現在では成就院とされていますが、本来の梅花山南無佛院成就“坊”の方が浄土真宗の宗主であり戦国時代には軍閥化していた一向宗門徒の総帥に当たる本願寺家当主から直々に名乗りを与えられた由緒正しい名前なんです。
さて、御寺なのに“成就坊”って何?・・・って思う人が歴史に興味の無い人には多いですよね?
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写真は笹下城の本丸跡。成就院の直ぐ裏手の地形ですが、本丸の右側切岸と大空堀地形は三井不動産レジデンシャルによって宅地造成され2017年に完全消滅しています。
さて、本来は江戸時代までは成就院は成就坊と呼ばれた浄土真宗高田派の御坊だった御寺です。
御坊とは浄土真宗の寺院や道場を指した総称の事です。
現代でも僧侶を“お坊様”と呼ぶのは、この御坊や、昔は浄土真宗以外でも大寺院の回りには支院の塔頭寺院が“○○院”や“○○坊”と呼ばれた場所が多く在ったので、今でも僧侶の俗称として“御坊さん”を用いますよね?
そんな浄土真宗の御坊の一つだった成就院は間宮林蔵や杉田玄白の祖先の一門、江戸時代の間宮家の惣領の笹下間宮家と関係が深い寺院なんです。
では何で、成就院は御城の一部に取り込まれる険阻な防御力の高い地形に存在していたのでしょうか?
実は浄土真宗は戦国時代には軍閥化して守護職の大名や地方領主を攻撃し国を乗っ取り完全に坊官(ぼうかん)と呼ばれる僧籍の軍人が治める形であちこちで飛び地を持つ大名化していました。
その為に室町幕府は浄土真宗を禁教にしていた時代も有り、特に越前国・加賀国・越後国の北国街道方面と三河国・伊勢国の東海道方面での一向宗の軍事クーデターは苛烈を極めて長享二年(1488年)には守護大名の富樫政親公を敗死させ国を乗っ取る程の勢力と成りました。
・・・まぁ、こんな事やってれば当然、室町幕府に弾圧されるわな。
同じ様に三河では徳川家康公が一揆勢に苦戦し、重臣の中にも多くの一向宗門徒がいたので家臣の離反も相次ぎ参謀の本多正信公まで一揆に加担して敵対する様な事態を招いてしまいました。
この本多正信公、恐らく後に港南区笹下城址の成就院に関わりが有った筈なのですが、その話はまた後で。
さて、そんな風に軍閥化した仏教勢力の一つが浄土真宗な訳ですが、実は浄土真宗に属し江戸時代以前に成立している寺院には特に城砦化の傾向が多く見られます。
そもそも城址や要塞址に建てられているんです。
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写真は三河安城市の安祥山了雲院大乗寺と言う浄土真宗の御寺です。
・・・もう見た目からして御城ですよね(笑)?実はこの御寺、徳川家最初の本拠地だった安祥城の城址を乗っ取る形で寺院化しているんです。
まぁ大乗寺は平和に成った江戸時代の寛政四年(1792年)に開かれた御寺ですので、一向一揆とは全く関係していない御寺なのですが、浄土真宗が好んで城砦址に御寺を建てたがる具体的な例として写真を保有しているので挙げて置きます。
三河国の浄土真宗の寺院は一向一揆を盛んに煽動して軍閥化していたので、小領主達が坊官に城を差し出し要塞化した寺院として布教と交戦の場として特殊な発達の仕方をしていく事に成りました。
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・・・もうね、大乗寺に関しては完全に本丸乗っ取ってるんですね。
因(ちな)みにここは間宮家とも関係が有ります。
安祥城は同時期の関東の城郭と比較すると規模は矮小ながら周囲を水田と沼地に囲まれた堅城でした。
眼前が耕作地であり街道にも面しているので当然ながら豪族達の勢力争いの舞台と成る訳で、織田家vs松平家&今川家&北条家が壮絶な戦闘を繰り返し行った城としても有名です。
ここは小田原城主の北条家がまだ今川家臣で苗字も“伊勢”を名乗っていた頃に、北条家の伊勢盛時(北条早雲)公が今川家の総大将として永正三年(1506年)~永正五年(1508年)にかけて伊豆と小田原の伊勢家与力衆の軍勢を率いて攻めています。
実は笹下城址に建つ成就院の大旦那(おおだんな=スポンサー)だったと伝わる間宮家も北条家がまだ姓を伊勢と名乗っていて今川家臣だった時代に伊勢家の与力として参戦している事を伺わせる感状(かんじょう=表彰状)が新編武蔵風土記稿の久良岐郡雑色村の項に以下の記載が有ります・・・

舊(旧)家者百姓利兵衛
氏を内田と云(言う)、居住の地を土人(どじん=地元民)古門(ふるかど)と呼べり
~以下中略~
先祖内田對馬守(つしまのかみ)某(なにがし=名称不明)は永正五年(1508年)三月二日卒(そつ=死)す、法名淨元居士
~以下中略(※下の添付画像が感状の文面)~
内田対馬守家感状 久良岐のよし

・・・まぁ内容を砕いて現代口語に翻訳するとコンナ感じです。
  ↓
「今回はスゲぇ~活躍してくれたみたいだね。
 御大殿(今川氏親)様がメッチャ褒めてくれて俺のメンツも内外に対して立ったよ。
 (なので内田さん)親子に(御褒美として)官職をあげちゃうZぇえ~♪
 まっ、そんな感じだよ~ん。
 寅(丙寅年=永正三年=1506年)三月二十八日 ♡(←間宮信親公の花押の代り)
                             内田對馬守殿へ
         同源左衛門殿へ」
この内田対馬守家は現在も笹下城城砦群の城域の一角に住んでらっしゃいますが江戸時代までの居所とは場所が若干違うそうです。本来の古門内田対馬守家は入口が切通し状に成っていたそうで、別の間宮家旧臣の市村家の御子孫から聞いた話では笹下城と北見掃部屋敷と出城松本城と旧鎌倉街道の間道を守る位置に在り、市村家と内田家で洋光台方面からの敵の進撃を阻止し内田家と市村家の配置は虎口状に成っており侵入した敵を挟撃する位置に屋敷地が置かれているそうです。
源左衛門家も“ゲンザムさん”の屋号で近年まで存続していたそうですが、借金で逃散し競売にかけられ断絶したそうです。
実はこの古門内田家に対して発給された感状に登場する“御大途(おおおとの)”と言う表現が当時の北条家では使われていないので、この文章は偽書だと推定する学者さんがいますが、その方々は肝腎な事を忘れてらっしゃって、この時期に伊豆と相模国に勢力を持っていた元は古河公方の家臣だった間宮家は当時は今川家臣です。
そして北条家もまだ伊勢を名乗り、1506年当時は今川家臣でした。
・・・ですからこの感状の示す御大途は、当時の間宮家の寄親だった伊勢盛時(北条早雲)公を指す言葉では無く更に上の今川氏親公を指す言葉と考えた方が自然でしょう。
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そして永正七年(1510年)に現在の京急神奈川駅に在った権現山城で起きた“権現山の戦い”迄の間宮家の棟梁は間宮彦四郎信冬公か間宮彦次郎信盛公と世代的にも文書からの生存確認でも推測出来ます。
では内田對馬家に対して永正三年(1506年)に“間宮信親”の名、この現代の間宮家系図では名前が掲載されておらず誰の旧名か伝わらない名乗りを使った殿様は信冬公と信盛公のどちらか?と謎が湧いてきますが・・・
これは小生の推測では恐らく、間宮信冬公の旧名でしょう。
実は笹下城の築城された笹下村は室町時代まで“杦(杉)田郷”の一部でした。そして間宮家が川崎駅前の堀之内の城砦から今の京急杉田駅前で昔は寺家町と呼ばれた地域に本拠を移したのは永正七年(1510年)の権現山合戦で扇谷上杉家に敗北して杦田郷に逃げて来て以降の話です。
そして杦田郷を本拠にした初代は間宮信盛公で、権現山合戦以後に間宮信冬公の名前は歴史に登場しなくなるので大活躍の記録が残るものの討死した様です。
つまり、間宮信冬公が信盛公以前の間宮家の当主だった可能性が高い訳です。
そして間宮信盛公の別名も伝わっていて、間宮信頼=間宮信盛公とされています。
更に間宮信盛公と直接的に血縁上の親子では無いものの系図上で父とされるのが間宮信冬公なのですが、間宮信冬公と北条家以前の小田原城主だった大森藤頼公は義兄弟だった事も判っています。
つまり、間宮信冬公は元々は古河公方足利家の家臣で格上の同僚の大森藤頼公と仲が良かったので義理の息子か後に末期養子(まつごようし=死後に跡を継いだ人物)と成る程に目をかけていた近親の信盛公が元服する際に大森藤頼公から一字を貰い初名を間宮信“頼”と名乗らせていたと考えると自然でしょう。
そうなれば伊勢盛時(北条早雲)公の存命中の間宮家当主の間宮信親公は当然、今川氏親公の存命中の人物でも有りますし、今川家と協力関係に有った扇谷上杉家とその与力の小大名の大森家とも関係が深いのも自然な話に成る訳ですね。
つまり、間宮信親公は当時の間宮家棟梁だった間宮信冬公の初名でしょう。
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大乗寺の場所に在った安祥城を北条早雲公が今川家臣として攻めた初年度(永正三年:1506年)に、今川家臣として伊勢家に与力して従軍した間宮信親公の部下だった古門内田家の内田對馬守サンは息子の源左衛門さんと大活躍して褒められて朝廷の官職を貰った訳ですね。
まぁ、この安祥城争奪戦は永正五年(1508年)まで続き、結果的に今川家が諦めて敗北している合戦で領地も増えていなので、今川家の殿様も官位しかあげられるモノが無かったんでしょう。
さて、こうやって見て見ると、“御大途(おおおとの)”様が北条早雲公ではなく今川氏親公で間宮信親が間宮信冬公と推定出来ると小生が個人的に思っている事も何となぁ~く皆さんに伝わったでしょうか?
こんな感じで三河安城市安祥城址の大乗寺はじめ、横浜市笹下城址の成就院だけでなく多くの浄土真宗の御寺は城砦の跡に存在しています。
こんな文献に登場する事を辿れる場所が現在も笹下城の跡を訪れに港南区笹下に行くと残っています。
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内田対馬守家の御廟所と、その入口に建つ庚申塔馬頭観音様です。
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御墓は私有地なので勝手に入る事は出来ませんが、馬頭観音様の足元には江戸時代の内田家の御子孫達の御名前が彫られていますね。
そんな内田さんの家は間宮家臣で成就院は一向宗と言われた浄土真宗の御寺な訳ですが、軍閥化した仏教宗派は浄土真宗だけでは無いんですよ。
それに浄土真宗の中にも当然ながら高田派や西本願寺派の様に学僧として又は僧侶として修行と学問と布教に励むタイプの御坊さん達も多かった訳で、軍閥化したのは特定派閥の問題でした。
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※写真は西本願寺内に在る重要文化財の飛雲閣。飛雲閣は一般非公開で不定期に公開される。
だから豊臣秀吉も西本願寺を支援して自分の居城だった聚楽第の飛雲閣を寄贈したりしてる訳です。
浄土真宗の中でも例えば今回の解説で取り上げる成就院の属す高田派や、後の本願寺十一世宗主の本願寺准如上人に始まる西本願寺派等は穏健派として知られ細川政権~織田政権時の室町幕府や後の豊臣政権とも友好関係を維持し布教活動で宗教としての信頼と勢力を拡大する事に成功しています。
そして当然ながら東本願寺も(主に本多正信公の影響で)徳川家の支援を受けて江戸時代には平和でとても立派な修行を重んじる宗派に成って行った訳です。
まぁ、各時代の人の価値観を現代人の価値観で見ても何にも共感できない部分が有って当たり前なんですよ。
日馬富士の暴行を「格上だからやってよい」と肯定するモンゴル国民が多いのを、法治主義国家の日本国民が理解不能なのと同じです。

まぁ、浄土真宗だけが軍隊を持って暴れまわってた訳では有りません。
天台宗の総本山だった比叡山延暦寺も平安時代末期には軍閥化した上に度々、僧兵が京都市街で横暴を働いて困っていた様子が平安時代末期の白川天皇のこんな言葉として伝わっています・・・
賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの
・・・この山法師と言うのが比叡山延暦寺の僧兵で、彼らは延暦寺の守護神だった日枝権現の御神体を神輿に載せて担ぎだしては不敬にも天皇家に対して無理難題を強訴(ごうそ=武力で脅迫し採決させる事)していました。
比叡山は鎌倉時代には近江国守護の佐々木家と合戦をしたり・・・
鎌倉時代末期には天台座主として延暦寺に君臨した大塔宮(だいとうのみや)護良(もりなが)親王は軍事修練を好んだ人物で、自ら軍勢を率いて鎌倉幕府倒幕の戦争を起こしたり南朝の将軍として鎌倉に赴任すると北朝の光厳天皇派の足利尊氏公とも合戦をしています。
室町時代には天台座主だった足利義教がクジ引きで将軍に成ると、彼は無用な殺戮を繰り返し残虐さを露呈したり・・・
戦国時代にも延暦寺は佐々木家の子孫の大名の六角家と合戦を行ったり・・・
六角家が織田家によって近江から駆逐されると今度は織田家の対立勢力である朝倉家の軍勢を比叡山に招き入れ織田家に対して戦争を嗾(けしか)けたりしています。
・・・まぁ、結論から言うと天皇家の忠臣だった織田信長公によって御存知の通り誅され全山焼き討ちされ、その後に明智光秀公の女婿の明智秀滿が正体と言う説も有る天海大僧正と徳川家によって大復興されるまで、天台宗は完全に軍閥化していました。
因みに現代でも延暦寺はヤクザの山口組と関係が深かったりします。

他にも領土的な野心は無くても真言宗も紀州(和歌山県)の根来寺を本拠地にした根来衆と呼ばれた僧兵と傭兵集団は鉄砲で武装した強力な軍隊として存在していました。
この根来衆も後に徳川家臣の成瀬正成公の配下に組み込まれ活躍した“軍人”でした。成瀬家は後に犬山城主と成り尾張藩主徳川家の付家老を務めた徳川家の譜代大名ですね。

そんな訳で、戦国時代当時の仏教の宗派の中には武装して軍隊を持っている宗派もおり、中でも浄土真宗は城や要塞に寺院機能を置いて政庁や防衛拠点としていた訳です。
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さて、笹下城址の成就院に話を戻すと、隣には笹下城の大空堀の跡が近年まで有りました。
笹下城空堀の様子 久良岐のよし撮影
ここは港南歴史協議会が編纂した“こうなん道ばたの風土記”に挿絵があり、昔は畑地で良く空堀の形状が残っていたので、IHIが土地を買い駐車場にしても地形を見る事が出来ました。
この写真の風景も近年宅地化で盛土され消滅しました。
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写真の空堀跡の横のアスファルトの歩道は昔はもっと狭かったそうで、これが武者走りだったそうです。そしてこの空堀が畑地だった頃にはまだ梅の木も有ったのですが、実はこの梅の木が成就院の山号の由来と関係が有ります。
山号の由来は“杉田梅”です。
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写真は小田原市の曽我梅林に移植され今も残る“杉田梅”です。
室町時代~江戸時代初期の成就院(当時の名は“成就坊”)の大壇那だったとされる間宮家は主家が北条家の時代に北条家臣団に広まっていた梅の植林を実施していたので、成就院のみならず旧杦田郷の間宮領は全て広大な梅林が有り「杉田梅林」として有名でした。
間宮家と同時代の殿様で北条家臣化した蒔田吉良家の拠点にもやはり梅林が造営され今も梅林に関する地名や梅林そのモノが残っています。
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写真は世田谷の豪徳寺です。今の季節は紅葉の名所としても有名で、江戸時代は大名の井伊家の菩提寺だったので現在放映中の歴史大河ドラマ“おんな城主直虎”の影響で歴史に興味の有る観光客で賑わっています。
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招き猫発祥の御寺としても多くの参拝客で賑わいます。
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まぁ、本来の豪徳寺が発祥の招き猫は”厄除け”と“立身出世”の御利益で財運ではないんですがね(笑)。
豪徳寺は世田谷城だった訳ですが、そこを治めた蒔田吉良家は横浜市南区に存在した蒔田城を戦国時代まで本拠に後に、世田谷区の世田谷城(豪徳寺境内を含む一帯)を本拠にした小大名で足利家一族として高い家格を有した家でした。
そんな蒔田吉良家の居城跡の豪徳寺の周辺一帯の住所が今も“梅丘”で、蒔田城の近くの岡村天満宮には岡村梅林も残っています。
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成就院の梅林が杉田梅林と呼ばれたのは、先述の通り戦国時代には笹下村は杉田郷の一部だったからです。笹下村が笹下郷として分離するのは江戸時代に成って分家の杉田間宮家、氷取沢間宮家が成立してからの話で、それまでの北条家臣時代の古文書には杦田郷と笹下の地名の両方が登場します。
笹下と同じく間宮家旧領に当たる現在の港南台地域南西部にも近年まで梅林がいくつも存在していました。調べると港南台地区では小原サンと言う旧家が治めた一帯に特に梅林が多かったそうです。
これが小生の栄区に成ると、途端に梅林は無くなりますので間宮家が梅の生産に力を入れていた影響は近現代まで残っていた様ですね。
江戸時代には“杉田梅林”は日本規模で有名に成り笹下城址の梅花山成就坊や杉田の牛頭山妙法寺の杉田梅林は江戸からの観光客で大変に賑わい、第十三世本願寺家当主であり宗主の“本願寺良如上人は当時は日本屈指の景勝地だった金沢八景を遊覧した後に、杉田梅林に観梅に来られ成就坊に滞在された”歴史が有ります。
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特に杉田間宮家の菩提寺である杉田駅近くの牛頭山妙法寺はズバリ、杉田梅の名所として特に人気の有った観光地でした。しかしコチラも横浜市教育委員会が梅林を保護しなかったせいで戦後の宗教政策で御寺の土地を接収されて後に梅林は伐採され杉田の杉田梅林も消えてしましました。
現在の妙法寺の御住職様が境内地の山上に杉田梅林を僅かでも復興しようと努力されています。
この妙法寺は日蓮宗の御寺です。
杦田郷笹下村の梅林を見に来て成就院に滞在された良如上人は成就院の梅林の見事さに感動したそうで、以後、寺の山号を「梅花山」とし寺号を梅花山南無佛院成就坊と名乗らせました。
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※写真は曽我梅林、昔は笹下や杉田や港南台にもこんな広大な杉田梅林がそこかしこに広がっていて、明治には皇族も度々観梅に来た程でした。
しかし、その梅林を含む成就院の境内地は戦後の宗教政策で接収され、横浜市教育委員会が昭和中期に保護を怠りIHIに宅地開発されてしまった為に、悉く伐採され消滅してしまった訳です。

そんな間宮家が保護した成就院ですが、良如上人の逸話と浄土真宗が城跡を好んで御寺を建てる事を紹介したので成就院の宗旨の歴史についても調べてみましょう。
昔の宗旨と寺域についてですが、現在でこそ、明治政府の宗教政策と戦後の宗教政策で境内地を多く接収されてしまった為に境内の広さは普通の規模の寺院です。
しかし御寺の歴史は中世に浄土真宗に改宗するまで法相宗だった歴史が有る事から平安末期には存在した可能性が有あります。
法相宗だった当時の寺号は曲田山帶行寺と判明しています。
この曲田山の山号は地名由来です。新編武蔵風土記稿の久良岐郡雑色村の解説に以下の記載が有ります・・・
雑色村
高札場二ヶ所
 一は村の中程、
 一は北にあり、
小名(こな=住所の丁番地に相当) 曲田 村の東を云
・・・つまりですね、笹下郷の中の雑色村の中の東側だったそうです。そして、その更に東の先に立野(たての=館野)と呼ばれる地名が有ったのですが、これが現在のファミレスのバーミヤン等が在る辺りの様です。この曲田と立野の境目が笹下川だった様ですね。

成就院が“梅花山南無佛院成就坊”と呼ばれたのより更に昔の曲田山帶行寺と呼ばれた時代の宗旨だった法相宗は歴史の古い宗派です。奈良時代~平安時代初期が全盛期だった宗派で、その後は中国留学から帰って来た伝教大師最澄様が伝えた天台宗や、弘法大師空海様が伝えた真言宗が流行しました。
空海 公式ホームぺージより拝借 久良岐のよし
空海和尚と言えば来年公開される日中合作の映画の主人公に成っていたりします。
公式ホームページ→http://ku-kai-movie.jp/
まぁ、浄土真宗は空海和尚=弘法大師様の系統ではなく最澄和尚=伝教大師様の系統から分派した宗派です。成就院は鎌倉時代に親鸞上人の来訪時に法相宗から浄土真宗に改宗しています。
江戸時代の風土記稿の記録を見ると、最大時は本堂の他に、鐘楼、広大な境内地に塔頭寺院を境内に3寺持つ大寺院だった様です。
具体的に・・・
本堂 ・・・間口七間=12.7m、奥行き六間半=11.8、護摩壇が存在した。
     ※源頼朝公が一百座の護摩修行を行った日に壇上に守護仏の観音像を一体奉納。
鐘楼 ・・・享保五年鋳造の梵鐘
薬師堂・・・行基作の薬師如来を祀る。元は香林寺と称して境内の外の東側に在った塔頭。
     ※地震で倒壊し江戸時代も未再建。
     ※数度の賊難に遭っている
    (鎌倉時代に新田義貞が鎌倉幕府打倒で鎌倉に来襲した際に周辺に略奪放火を行ている)
    (戦国時代に房総半島の里見家の海賊が杦田郷で略奪放火繰り返す)
     ※承應年間に境内地に写し薬師堂と成った。
山門 ・・・四つ足の門、旧間宮家の笹下陣屋の邸門を、間宮家の下総転封時に移築した。
林貞寺・・・塔頭寺院。元和元年開基。
      境内の巽(たつみ=南東)の方向に在ったが江戸末期には建物は消滅。
乘船寺・・・塔頭寺院。艮(うしとら=北東)の方に在った。江戸末期には消滅。
      開基の乘船と言う人物は天文二年(1533年)八月二日に亡くなった人。
     ※実は乘船が実は墓所の解らない間宮信元公と同一人物の可能性有り。 

この様に全盛期には比較的大きな規模を有していた事が解る御寺なのですが、先代の檀家総代様に取材をした際に「無住職だった時代が有る」と教えて頂く事が出来ました。
実際、歴史的に間宮家主君の北条家は当初、室町幕府織田政権と同盟関係に有り浄土真宗と敵対関係に在ったので浄土真宗は禁教だった為に滞り無住職だった時期も有ったんですね。
織田政権以前も浄土真宗は越前国で朝倉氏と大規模な軍事衝突を起こしたり加賀国で富樫氏を滅ぼす等、軍閥化しており幕府から危険視されていましたから。
又、元は西本願寺派とされているのは良如上人の滞在で西本願寺だったと誤伝されたと考えた方が自然でしょう。
そもそも西本願寺派の成立は文禄元年(1592年)の本願寺光佐:顕如上人の入滅後に、教如上人が反織田~豊臣政権の姿勢を固持し穏健派坊官を悉(ことご)く排除した事に由来し本願寺光昭:准如上人が豊臣政権の支持で現在の西本願寺を建立して以降の歴史なので、それ以前の成立は有り得ない事を考えると当初から高田派として法脈は続いてんでしょうね・・・
高田派は織田政権や北条家に協力的な派閥で弾圧の対象にはされていませんから。
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その西本願寺派の初代と数えられる准如上人が、大阪佃村から移住した江戸の佃島の漁師達の協力で海を埋め立てて開いたのが現在の築地本願寺だったりします。まぁ、今の建物は近代建築ですが。
築地の名前の由来だったりもしますね。
・・・なので穏健派の高田派だったので、北条家に憚り大々的な間宮家の支援が無かった時代が有っても浄土真宗から改宗させられる事も無かったのでしょう。
しかし戦国時代を通じて破却も改宗もさせられずに存続した寺院なので当初から高田派に属し笹下城内の本丸や館地からも近い事から間宮家の持仏堂の様な役割で細々と存続していた訳です。
それが解るのが塔頭寺院として戦国時代に存在していた乘船寺の記載で、乘船寺を開いた乘船(間宮信元公か?)が天文二年(1533年)八月二日に亡くなったと書かれている事から北条家臣間宮家の時代に塔頭寺院を開く様な支援が有り成就坊が機能していた事が解る訳です。
信元公の御子息の間宮康俊公が天文五年(1536年)から間宮家を代表して鶴岡八幡宮の再建に参加しています。ですから間宮家が支援した成就院で塔頭乘船寺を開き1533年に亡くなったのは間宮信元公かも知れないと個人的に推測しています。
尚、間宮家旧主の足利成氏公が逆徒の上杉家により鎌倉から逐(お)われ移住した古河周辺は浄土真宗寺院が多い事から鎌倉(古河)公方の家臣時代の間宮家も浄土真宗を支援していたと考えると自然でしょうね。
後に支援者の間宮家が徳川家臣と成ると、徳川家重臣で熱心な浄土真宗門徒の本多正信公が玉縄城主成った事により、堂々と宗教活動を間宮家も支援出来る様に成ったと推測出来ます。
以後は江戸時代までは西本願寺派で、江戸時代初期には御門跡の本願寺良如上人や九条関白も成就院に滞在したとされ新編武蔵風土記稿にも“元は西本願寺派その後は高田派と成った”とされる解説が有る。
これについては先述の通り高田派だが同じ穏健派の西本願寺派からも重視された御坊だったと考えると、コレも自然。

ここからは成就院に関係した人物と関係者一族で歴史記録に残る人を見て見ましょう・・・
主たる支援者は室町時代からは間宮家と家臣団だった事は解っています。
間宮家は室町時代の初期には鎌倉公方の家臣、戦国時代に北条家臣だった。
北条氏康公の奏者を務めた間宮宗甫公。
玉縄城主北条綱成公の付家老間宮康俊公。
滝山城主後に八王子城主の北条氏照公の付家老として活躍した氷取沢間宮綱信公。
徳川家康公の参謀で江戸幕府初代の鷹匠頭と成った杉田間宮信繁公。
間宮家の一族は伊豆や神奈川県の二宮~大磯、海老名市国分寺、江ノ島界隈、横浜市磯子区~港南区~神奈川区~鶴見区、川崎市川崎区等に間宮一族の領土が有りました。
そして重要な江ノ島神社の別当も間宮一族が勤めていた。
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江島神社と聖地の岩屋の別当寺だった岩本坊は代々間宮家が宮司を勤め祭祀を勤める際は本姓佐々木を使い、明治に成ると間宮と岩本姓に分かれた。
岩本坊は廃仏棄釈で寺院機能を棄て宿望機能を活かし現代も名旅館岩本楼として存続している。
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室町時代に養子を送り込み縁戚と成っている相模国の二之宮の格を持つ川勾神社宮司家一族二宮家もいる。
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江戸時代には久能山東照宮宮司の榊原照久公の奥方に成ったのは杉田間宮信繁公の姫様だった。
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その東照宮宮司家初代の榊原照久公の菩提寺は浄土宗の宝台院別院。
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同じ浄土宗で駿府城近くの華陽院は徳川家康公の祖母の於満様の菩提寺であり、徳川家康公の愛妾となり姫を生んだ間宮康俊公の姫の於久様の菩提寺でもある。
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関東最古の大社の埼玉県久喜市の鷲宮神社宮司の大内泰秀公には間宮康俊公の御子息の間宮康次公の姫が嫁いでいます。
大内泰秀公は徳川家光公が利根川で溺れた際に救助して宮司ながら大名格を与えられた人物です。
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家臣の内田対馬守家の御子孫も旧蒔田吉良家重臣の森家に養子を出せる程の家格が有りました。

北条家が豊臣秀吉によって改易されると、北条家の後釜として関東を与えられた徳川家康公に直臣として取り立てられ一門からは家康公側室の於久の方や佐渡奉行-但馬奉行-本牧奉行を兼務した間宮直元公、江戸幕府初代鷹匠頭の杉田間宮信繁公等の名将を多数輩出しています。
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江戸時代に本家の笹下間宮家が奉行職を辞して、下総国に転封される際に笹下間宮陣屋の邸門を成就院に移築し、それが現在の山門である事は“新編武蔵風土記稿”に記載が有るのみで無く、戦後に成就院檀家と間宮分家と間宮家臣の子孫が資料提供や編纂に関わった“こうなん道ばたの風土記”にも記載が有ります。
しかるに第二次世界大戦の空爆による戦火で“山門は焼失した”とされますが、仏教用語で“山門不幸”等は御寺その物や御寺の家人に不幸が有った事を指す仏教用語です・・・
・・・戦災で焼けたのは本堂で、それは近年再建されています。
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しかし山門は戦後も存在していたのが“こうなん道ばたの風土記”に掲載されている事なんですけどね。
礎石を見ると修繕は間違いなくされています。
個人的な意見ですが、現代の山門は復興された門ではないかと感じる木材の腐食具合いと礎石の新しさなので、“こうなん道ばたの風土記”の記載は情報がアップデートされていないのだと思います。

さて、そんな浄土真宗高田派の成就院を支援した間宮家の宗旨についてですが・・・
実は浄土真宗以外の神道・仏教・修験道にも深く関わています。
・浄土真宗
先述の通り、徳川家臣化後は大々的に浄土真宗の寺院も派閥問わず支援して堂塔を復興して廻っている事も解る。
間宮家、本願寺良如上人、九条関白家と関わりの有った成就院の他に磯子区氷取沢の分家の菩提寺として江戸時代初期には宝勝寺が再興されているが、宝勝寺は伊藤博文公も度々参拝している。
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同じ笹下城砦群の中に位置する東福寺も間宮家との縁起を称する寺院で、間宮家分家で改姓した一族の菩提寺でも有り、旧間宮家臣も一部檀家に居る。内田家も御廟所は私有地だが東福寺檀家と新編武蔵風土記稿に書かれている。
・神道と修験道と真言宗
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間宮家は室町時代~江戸時代の終りまで天皇勅願所の江ノ島の岩屋を管理する奥津宮の別当職を間宮家の一族が代々継承した家系で、修験道や真言宗や神道とも関係が深い。

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祖先は近江源氏の氏神である敦実親王。その敦実親王の邸宅址で敦実親王を御祭神とする延喜式内社の沙沙貴神社宮司を出自とする武家でもある。沙沙貴神社は近江源氏一族の氏神であり佐々木家、六角家、京極家、間宮家、黒田家、乃木家等の氏神でもある。
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更に室町時代には相模国一~五之宮の内、二之宮川匂神社宮司家一族の北条家臣二宮家にも戦国時代に養子を出している。
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真言宗でも室町時代に横浜最古の寺院である瑞應山蓮華院弘明寺は間宮家が深く関わっていた寺で“宗閑”の名の初出展となる寺院だ。
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安土桃山時代には横浜最大の檀林で横浜の地名初出展の古文書や間宮直元公の古文書を所有する南区堀之内の寳生寺。
御本尊は間宮直元公が極彩色の檀那に成っている。
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江戸時代に蒲原代官を務めた間宮忠次公が南区井土ヶ谷の乗蓮寺を支援している。
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本来の名前を大靈山泉蔵院桐谷寺と言った磯子区中原の熊野神社。
ここは元々は鎌倉の山崎地区に在った修験道の大道場で源頼朝公の命令で当地に熊野権現が勧進され以来、泉蔵院の大道場として栄えた。鎌倉の本社である山崎泉蔵院が戦火で焼けると本社機能がここに移され、以後、大靈山泉蔵院桐谷寺と名乗った。ここも間宮家がずっと支援していた修験道の大道場で神谷信久公の古文書の記録も残っている。
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磯子区屛風ヶ浦の森浅間神社ここも又、戦国時代に間宮家が支援した修験道場の跡だが、鎌倉亀ヶ谷権現堂福禅寺の道場として源頼朝公によって開かれ霊場の滝に不動明王が祀られ、後に頼朝公の命令で富士山の化身である此花咲耶姫命の御分霊を勧進し浅間権現が開かれた。福禅寺はどうも鎌倉幕府最期の将軍守邦親王が森浅間神社に逃げて来ている事や弟君の長円親王が福禅寺の住職を務めている事や権僧都と比較的高い身分である事から“門跡寺院”だった事が推測出来る場所。
・曹洞宗
間宮家の旧主北条家の宗旨は曹洞宗で、家臣団は学問や精神修練の為に曹洞宗で禅問答等を行っていた様だ。
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間宮家も間宮信冬公が鶴見の寳泉寺を開き、曾孫の間宮康俊公が参禅したり堂宇を復興している記録が有る。そして旧家臣団によって毎年間宮康俊公の追善供養が行われた間宮康俊公の菩提寺でもある。
この宝泉寺を開く際に開山として招かれたのが青梅市の“福禅寺”の住職。
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福禅寺は今では瑞龍山海禅寺と称するが、これは江戸時代のアホで仕事の出来ない役人が朱印発給の際に寺号を誤記したせいで以後、この寺名を名乗らなければいけなかったから。
以前の寺号や戦国時代に突如天皇家の勅願所に成っている事から、室町時代にこの地で復興される以前の前身が鎌倉の権現堂福禅寺だった事が推測出来て、永享の乱の際に扇谷上杉家によって三田家を通じて当地に福禅寺の字名を復興した事が推測出来る。
つまり横浜の森浅間神社とは別れこそすれ同根から生じた由緒ある寺院と言う事だ。それを裏付けるのが宝泉寺開基の際に福禅寺の住職がわざわざ招かれていると言う事だと推測出来る。
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又、川崎駅前の堀之内は間宮家旧領で駅前の宗三寺を開いている。ここは鶴見区下末吉の宝泉寺の末寺として最初は開かれ、宝泉寺が火災に遭った後は氷取沢間宮家がこの宗三寺で間宮信盛公の追善供養を行っている。尚、宗三寺の寺名は間宮信盛公の戒名に由来し信盛公の菩提寺でもある。
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子孫の高津間宮家も千葉県八千代市高津に高津山観音寺を菩提寺として支援している。
高津間宮家は氷取沢間宮家の子孫に当たり、江戸幕府の昌平坂学問所頭取を務めた間宮士信を輩出した家だ。
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そして真田幸村隊と戦い討死した間宮正秀公は間宮士信公の祖先に当たり観音寺境内社の高秀霊神社に御祭神として祀られ墓所も兼ねている。
・日蓮宗
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安土桃山時代には旧主北条家が大阪の狭山市で小大名に返り咲くと、豊臣政権の影響からか日蓮宗寺院も支援して分家杉田間宮家が杉田の牛頭山妙法寺を菩提寺にしている。
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江戸時代初代当主間宮直元公の菩提寺として妙蓮寺も支援し境内に神道形式で直元公の彫像を祀っていた。
間宮直元公木造 妙蓮寺旧蔵も火災で焼失 久良岐のよし
他の旧北条家臣団の菩提寺で日蓮宗も多い。
幕末に活躍した間宮林蔵倫宋公の菩提寺の東京都江東区の本立院も日蓮宗。
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本立院の飛地境内には間宮林蔵公の被葬地の御廟所が有り東京府時代に史跡文化財していを受けている。
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間宮一族から帰農し江戸時代には豪農と成って東京の大森界隈を開拓し農民を旧北条家臣団の仲間五人と協力して守ろうとした間宮是信サンは悪人領主木原家に殺された後、一族にひっそりと大森の法光山善慶寺に埋葬された。
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明治に成り封建政治の終了とともにタブーが解禁されるや、義話伝承の通りに直訴状や遺骨が発掘され東京都指定文化財に成っている。
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この様に成就院を大切にした間宮家は他の宗旨の寺院や神社でも日本精神文化保護の事跡を残している。

なんにせよ、成就院は檀家にも間宮家臣の子孫が今もおり、更には幕末に当寺から還俗した僧侶が間宮家に養子入りしている事からも、間宮家が笹下を去って後も間宮本家と関りを深く持っていた事が御理解頂けたかと思います。
この成就院から還俗したのが間宮一さんで、鎌倉事件の犯人とされますが小生の予想では当時の神奈川奉行が依田盛克さんで、この依田家は武田家旧臣ながら氷取沢間宮家から江戸時代初期に養子が入っている家なので、江戸幕府と日本を守る為に間宮本家と所縁が深い成就院の身内が犯人として名乗り出て、英国政府との外交の為に人柱に成ったのかも知れないと小生は考えています。
まぁ、こんな風に成就院には間宮家に関する歴史資料が散逸してしまっている部分を埋めるかも知れないヒントが多く有る訳です。

面白い御寺ですよね?
きっと皆さんの御宅の周辺にも実は凄い歴史偉人と繋がりのある神社仏閣や城址が在ると思います。
是非、お散歩して見て下さい。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう♪
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野庭神社(のばじんじゃ)/旧名:野庭蔵王権現御嶽社
主祭神:蔵王権現(神仏習合の山岳信仰の神。明治期に日本武尊と習合)
御利益:勝負運?地鎮?交通安全?
開基:1570年、地主の臼居杢右衛門が金峰山寺より蔵王権現の御分霊を勧進。
場所:横浜市港南区野庭町1838
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最近(2016年現在)、旧神奈川県立野庭高校吹奏楽部の実話をモデルにしたドラマの❝仰げば尊し❞でロケ地にも成った野庭高校ですが、その旧野庭高校や近くの野庭団地一帯が戦国時代の野庭関城だと言う話を以前、ロケ地解説記事で書いた事が有ります。
⇐その記事リンク。
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その野庭関城の外郭、馬洗い川を利用した外堀の谷間、切岸の役割をした河岸段丘上に建つ野庭神社と言う神社が在ります。
田舎の鎮守の御社と言った雰囲気を醸し出す素敵な神社ですが、この丘の背後には宅地開発され消滅した野庭城が控えていました。つまり、こんな懐かしい雰囲気を漂わせていますが、背後は団地なんです。
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団地の中心の公園が本丸跡です。
神社前の谷間が沼掘りの役割を果たしていた。
この一帯は緑地として保護されているので横浜市の旧鎌倉郡域の風景を現代に留めています。
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出来ればこれ以上、開発されませんように。延喜式内社が沢山有る伊勢原や厚木の田舎に来た様な鎌倉の原風景が小生は好きです。
神社の鳥居の横には、熱心な町内会の方々が昭和後期に建てた解説看板が有ります。
昭和55年の事だそうで野庭地域が開発され城址が消滅したり宅地に成ったりして行った時期ですね。
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この説明には知識不足から来る誤りが多数あるので後で補足と訂正を小生の方でして置きます。

さて、そんなこんなで、ここは戦国時代から存続する神社な訳ですが江戸時代の寛政年間に現在地に移転された様ですが、何んで移転されたんでしょうね?
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石段を見ると、江戸時代の石材加工技術で作られています。風化具合から見て江戸時代~明治時代の物に見えます。
となると、戦国時代の御社は遷宮時には転用されず、新たに石材から集められて建てられたのかも知れませんね。
今度、新編相模風土記稿で記載を探してみますが掲載されているか解らないので、最悪、氏子さんか地元の古老に取材してみます。
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社殿は小さいながら立派ですね。瓦葺なのでもしかしたら建物も江戸時代の物が現存しているのかも知れない。
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扁額は立派です。でも社殿が江戸時代だとすると江戸時代には既に野庭神社と呼ばれていたのだろうか?
解らない。
この地域は都会化から保護された緑地帯で氏子サンも少なく成っているかも知れませんが、この立派な扁額を奉納された氏子サン達に敬意を抱きます。
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社殿が雑木林に囲まれています。
左側の雑木林は造営当初は無かったはずなので、伐採して神社の日当たりを良くするだけでも、通りがかる人々の目を引くと思います。
ともあれ、すっごく雰囲気の良い神社な上に戦国時代に繋がる場所、何かドラマのロケ地とかに成ってもおかしくない場所だなぁ~とか感じました。
銅葺(あかがねぶ)き屋根の緑の屋根の神社も素敵ですけど、江戸時代の大らかな庶民文化の御社も良いですね~。
周囲の風景も農道が残っていて良いし、とても横浜とは思えない元鎌倉郡の神社でした。

きっと、この神社を野庭関城の城将だった戦国時代の名奉行として有名な北条家臣の安藤良整公や、北条氏康公の馬回り衆(直属部隊)の侍大将だった石巻康保(いしのまきやすもり)公や、外交官として有名な板部岡江雪斎公も御参りした事でしょう。

町の中の小さな神社も歴史背景を辿ると、思いがけず歴史偉人との繋がりが有るかも知れない典型的な神社さんですね。
この田舎っぽい雰囲気の良い神社、地域の人には子々孫々まで大切に伝えて欲しいです。

以下は上野庭町内会文化部さんの作った野庭神社の歴史解説の誤り指摘と小生による訂正です。
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●開基された時期の説明訂正
1570年の室町幕府の将軍は足利義秋(改名:義昭)です。足利義明は小弓公方(おゆみくぼう)と呼ばれた房総半島の生実城(おゆみじょう)を本拠地にした鎌倉公方の一族で、同音ですが室町幕府将軍とは別人物です。
野庭神社を造営した臼居家は当時、小田原北条家の統治下に在ります。小弓公方は北条家と対立関係に有り尚且(なおか)つ足利義明は北条氏康公によって討ち取られているので、小弓公方を基準にして歴史を語る事は無いでしょうし1570年の話ならば足利義秋を基準にした話でしょう。
※よって、この説明は造営年代は1570年で足利義昭の時代と訂正するべき。足利義明ではない。
●御神体勧進の経緯についての訂正
この神社の神様は、吉野山の❝蔵王権現(ざおうごんげん)社から勧進した❞ものではありません。そもそも、吉野山で蔵王権現と呼ばれるのは、金峰山寺と言う名前の歴代天皇家が崇拝した神仏習合の現在では修験道の御寺に分類される大寺院です。和尚サンでもあり神主様でもある山伏(やまぶし)サン達の宗派ですね。
そこの御本尊が蔵王権現と言う日本独自の神仏習合の神様で、金峰山寺には蔵王堂が現在も在ります。この金峰山寺を特に崇敬したのが後醍醐天皇で、武士では源八幡太郎義家公を筆頭にした河内源氏の殿様方です。この事実を踏まえると、野庭の土地には平安時代~鎌倉時代には野庭関城を源氏の与力の和田義盛公が築城した歴史が有る事、この土地が執権北条家の所領だった事から蔵王権現社自体は源頼朝公の時代には前身の祠か何か存在した可能性も有りますね。
※よって、この説明は吉野山の金峰神社から勧進と言うのは誤りで、後醍醐天皇の守護神だった修験道の本山、吉野の金峰山寺から蔵王権現を勧進したと改めるべき。
●御祭神についての訂正
説明では御祭神は日本武尊とありますが誤りです。蔵王権現は蔵王権現と言う神様です。神仏習合の時代の神格でも蔵王権現は安閑天皇と同格とされ山岳信仰の神様です。つまり日本武尊は少しも関係が有りません。
実は蔵王権現は神仏習合の神様なので明治時代に弾圧対象にされました、歴代の天皇家が崇拝して来たのに明治時代に水戸学なんてカルトに基づいて宗教改革をした弊害ですね。その際に神仏分離令と廃仏毀釈の弾圧から逃れる工夫として全国の蔵王権現社は蔵王権現を日本武尊を祀(まつ)ったり社名を同じ山岳信仰の御嶽社(みたけしゃ/おんたけしゃ)と改める事で弾圧を免(まぬが)れました。
つまり、この野庭神社が野庭の蔵王権現社から野庭神社に名前を改めたのも御祭神を日本武尊に改めたのも、その歴史が端折られ、そのまま誤って記載されています。
※御祭神について金峰山寺から勧進された蔵王権現と改めるべき。
●社名について
古来、蔵王権現社として勧進されたのだから野庭神社から野庭蔵王権現社として説明するべき。

余談ですが臼居家の事も掘り下げてみたいと思います。
この神社を建てた臼居家の家紋は❝蔦(つた)の葉紋❞です。
蔦の葉紋
以前、港南区の間宮家関連の神社を訪れた際に区役所で郷土史研究家の方が発刊された❝先駆者と遺宝❞と言う港南区の歴史人物をまとめた本を購入しており改めて読みましたが、その本では千葉家の子孫で遠祖は平良久と書いてますが誤りです。
千葉家の祖先は平良文(たいらのよしふみ)公です。この野庭辺りの旧武蔵国久良岐郡~旧相模鎌倉郡を含めた神奈川県沿岸部域を開拓したのも平良文公の御子孫達です。
内陸に関しては早くから小野氏や出雲神族の御神孫が開拓しました。
そして神奈川県域の発展に寄与された平良文公の御子孫の内、❝蔦の葉紋❞は千葉家の家紋ではありません。また千葉家の家臣の臼井家は臼❝井❞であって臼居ではありません。
そして千葉家の家紋は❝九曜に半月紋❞です。
九曜に半月紋
これが千葉家の家紋。
千葉家臣臼井家の家紋は九曜紋。
九曜紋
なので、家紋からは野庭の臼居家は千葉家子孫とは考え難いですね。しかし鎌倉の浄土宗大本山光明寺に千葉家からの家系を辿れる資料が有るらしいので、可能性としては房総半島の臼居城を退去し野庭に移住し北条家に臣従した時代に上司や目上の外戚から蔦の葉紋を譲り受けた事が推測出来ます。
蔦の葉紋
では蔦の葉紋は千葉一族の祖先で鎌倉御霊神社の御祭神でもある平良文(たいらのよしふみ)流の坂東平氏の家紋ではないかと言えば、そうでもなく良文公の子孫の中で有名な蔦の葉紋を使う武士はいます。
しかも、その家系も千葉家と同格に由緒正しい血筋で、現在の高座渋谷や綾瀬市辺りを領地にした渋谷重国公の家系です。
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※写真は綾瀬市の早川城址公園。空堀土塁等が現存。
野庭の臼居は苗字が同族の千葉家の臼井に似てる事に肖(あやか)って臼居家が家系を誤って伝えたんでしょうか?何で千葉氏流臼井家が野庭の臼居家の祖先なら、九曜紋じゃないのか説明が出来ません。
小生が思うに、北条家臣時代に成ってから姓を臼井城に残った一族と区別する為(ため)に"臼居"と字を改め、更に家紋も先述の様に野庭関城の有力者で蔦の葉紋を使う武将と懇意に成り家紋を譲り受けたか、外戚の武将から譲り受けた事が推測出来ます。まぁ、あくまで小生の想像です。
戦国時代、臼居家は鎌倉の玉縄城主、北条綱成に従って武田信玄と戦ったと系譜上に記載しています。
これが正しければ深沢城の籠城戦か三増峠合戦でしょう。
北条綱成公に従っていたのなら玉縄衆だったはずで、手勢の武士30騎動員兵力300と書いて有りましたが少し疑問ですね。計算上おかしい。武士30人を配下に抱えていたなら、動員兵力は武士1人につき3人前後の足軽がつくので、実際の手勢300の半数の兵150以下が手勢と言う所でしょうか。それでも立派な侍大将です。北条綱成公の家老の間宮家でさえ笹下間宮家で動員兵力200弱ですからね。
玉縄北条家の石高が1万石~2万石、単体での動員兵力は300~600、そこに与力の間宮家や堀内家やらが加わり玉縄衆全体で兵3000前後、規模10万石な訳です。
だから野庭の臼居家のみで兵300と言うのは少し考えにくい話ですね。恐らくは手勢150に配下の与力武将の兵力を合わせた総数が300だったんじゃないでしょうか?

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※写真は玉縄北条家が徳川家臣と成り1万石で転封された千葉県佐倉市弥富の岩富城址から見た風景。
信憑性が有る部分は中田加賀守の次女を妻にしていたのが野庭神社を開いた臼居杢右衛門と言う事でしょう。
中田加賀守は戸塚区の殿様なので地域的にも縁戚に成るのも自然な話です。そして東慶寺に300石を治めて地頭に成ったと有りますが、これには少し疑問が残ります。
この野庭辺りの旧住所で小名:政所(まんどころ)と言う場所は本当に東慶寺由来の土地なので地域的には整合性は有るのですが、そもそも野庭郷自体の石高が106貫307文と判明しており石高に換算すると1貫=2石なので約212.6石と言う計算に成ります・・・
野庭全体を東慶寺に寄進しても300石には成らない。この東慶寺に300石と言うのは、地頭=名主として治めた領地300石の内、東慶寺へ小名:政所領分の年貢を納めていた地頭と解釈した方が正しいと思います。
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※写真は東慶寺。開いた人物が鎌倉幕府の北条時宗公の御妻女で最初の尼住職。以後、後醍醐天皇の皇女の用堂尼や豊臣秀頼公の御息女の天秀尼が歴代住職を務めた女性や子供を保護する縁切り寺として機能した。
⇐東慶寺解説したブログ記事。

まぁ、こんな事を考えられるのも、野庭神社を氏子サン達が守って源氏以来の武士達の蔵王権現信仰を伝えて下さったからですね。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!
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ブログネタ
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永谷天満宮は…
室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公の従兄弟、宅間上杉(たくまうえすぎ)家の重兼(しげかね)公の御子孫が開いた天満宮です。
今、その永谷天満宮の裏山では今、山の片面一面に紫陽花(あじさい)が咲き誇りとても綺麗です。
永谷天満宮は勿論、拝観無料で市民が自由に紫陽花を鑑賞出来ます。

この鎮守の森、名前を天神山と呼び頂上には小さな浅間神社の祠(ほこら)と菅秀塚が有りますが、菅秀塚の菅秀とは元々この永谷天満宮と貞昌院の敷地にお住まいだった菅秀才こと菅原淳茂(あつしげ)公の事です。
この結界の中が天神山で、自由に散策出来ます。
御祭神菅原道真公の五男淳茂公が当地にお住まいだったと言う伝承が今に伝わっています。
今の季節、長谷寺や明月院程の規模は有りませんが紫陽花のトンネルの中を散歩出来ます。
とても綺麗ですよ!
横浜に住んでるけれど鎌倉まで紫陽花を見に行く暇が無い…
…と、言う方、紫陽花見るの諦め無いで永谷天満宮を散歩してみませんか?
以前書いた永谷天満宮の歴史を説明した記事は「ココ」←クリック!

では又、次の記事で!お会いしましょう…
mixiチェック

まず永谷天満宮と言う横浜市港南区にある神社をご存知でしょうか? 

天神様と言えば大宰府に左遷された菅原道真公を神様として祀(まつ)っている神社です。
ここ↓ね。

実はこの永谷天満宮は日本三躰(にほんさんたい)の一つと呼ばれますが、その由来は…
福岡の太宰府天満宮と大阪の道明寺天満宮、それとこちらの永谷天満宮が実はある事で他の天満宮と異なり特別な天神様なんです。 

他地域の方からすると…
「は?神奈川の天神様が凄いわけあらしまへん!」
とか
「天神様は太宰府天満宮だけが本物たい!」
とか
「何で歴史無いヨコハマのが特別なんだよ!」
…とか思うでしょうね。
特に歴史に興味が無い人なら尚更。
ヨコハマって実は…
旧相模国の「鎌倉郡の一部」
旧武蔵国「久良岐(くらき:倉巣)郡」
「都築(つづき)郡」「橘(たちばな)郡」
…から構成されていて、日本書紀にも頻繁に出てくる土地なんです。
日本武尊と弟橘媛の神話や浦島太郎の物語も舞台は神奈川県川崎市と横浜市と横須賀市なんですよ。 
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永谷天満宮の参道は春には桜に彩られます。
さて
歴史に興味が無かった人の為(ため)に菅原道真公の事を少しだけ説明しますね。
菅原道真公は右大臣(うだいじん:今で言ったら総理大臣みたいな役職)を務めた程の優秀な政治家・学者・歌人でした。
この↓人物画が道真公
ダンディーで優しそうに描かれてますね…
実際は、ふくよかな方だったみたいです。

平安時代当時、藤原家は天皇家に藤原一族の娘を代々嫁がせて天皇の外戚として朝廷(ちょうてい:政府)政治を乗っ取ろうとしていました。
当時の宇多(うだ)天皇も藤原氏を抑え込むべく、対藤原家の切り札として菅原道真公を重用(ちょうよう:信頼され重要な役職に就かされる事)し藤原一族から政治権力を取り戻させようとしました。
しかし道真公は藤原一族にハメられて、大宰府に左遷られてしまいました。
左遷されて今の福岡県で亡くなりましたが、死んだ後に雷神様に生まれ変わり悪行を働いた藤原一族に雷を落とし感電死させたり怪我人出したり天罰を与えました。
それにより菅原道真公の霊に祟(たた)りで呪われる事を恐れた藤原氏から霊を鎮(しず)める為に神様として崇拝される事になりました。
だからコンナ↑絵も残ってます。
優しい人ほどキレると手が付けられない…

じゃあ、何で関西や九州を舞台にして活躍した菅原道真公と関係無さそうなヨコハマの永谷天満宮が凄いのか?

それはですね…
実は菅原道真公の遺産と関係があります。
遺産と言うのは御神体が道真公がご自分で銅鏡を見ながら彫刻した自像の木製彫像の事なんです。
それが日本には3体だけあり、その収蔵され祀られている場所が…
太宰府天満宮…福岡県
道明寺天満宮…大阪府
永谷天満宮……神奈川県横浜市港南区
…なんです。 

しかも永谷天満宮は道真公の5男で菅秀才と呼ばれた菅原淳茂公が直接住んでいた場所と伝承してるんです。 
で、永谷天満宮では道真公の彫像を御神体として御祀りしてらっしゃいます。

なんで「そんな凄い」のが歴史無いヨコハマに有るんだよ!
…と、思う歴史を知らない人も多いと思います。
この謎は藤原氏の専横と、太平記と地理をちょっと知っていれば直ぐに謎解きが出来るんです。

それを以下に説明してみます。
長いですよ!
でも、見る価値ありますよ!
横浜市民や神奈川県内の人は必見だと思います。

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永谷天満宮と坂東八平氏、及び菅原景行公と菅原敦茂公の関連

[永谷天満宮の祖、菅原敦茂公とは?]  

菅原敦茂公は菅原道真公の5男で、醍醐天皇に仕えた方でした。 
菅秀才と言われ優秀な方だったそうですが、御父君の菅原道真公の左遷後に醍醐天皇に登用され、右少弁を務めました。
近畿では播磨国に左遷された後に京に戻ったとされていますが、永谷天満宮には同所は敦茂公晩年の居館跡との縁起が伝承しています。

 [敦茂公の官位「判官(じょう=丞)」とは?]  

左右大弁・左右中弁・左右少弁の官職は判官と別称され太政官の組織で、官位は少納言の上位。判官職の直属上司は太政大臣等最高位の者でした。 
左大弁・右大弁の官職に就く者は将来的に三位以上の官位を獲る可能性の有る部署であり、出世の王道で大弁職と参議や蔵人頭を兼任する者もおり頭弁とも呼ばれました。しかし、中弁職以下には参議に昇進する資格は有りませんでした。 

敦茂公は菅秀才と呼ばれた優秀な人物でありながら、その官職を右少弁に留められていた事から推察出来る事は、御父君道真公が左遷された影響か官職独占を狙う藤原氏の妨害が有ったと考えるのが自然です。 
藤原氏から迫害を免れ藤原家とは別の元皇族の臣籍降下貴族であり関東に一大勢力を築き始めていた平家と連携する為、菅原氏は多く関東に移住したようです。

特に永谷天満宮の近所には「釜利谷」・「鍛冶ヶ谷」・「日野(火野)」等(など)の製鉄や武具製造に関する地域がありました。
そのような関東の軍備増強拠点を抑えつつ、皇族出身貴族の平家と連携し醍醐天皇の密命を受けて反藤原勢力の組織を目指したのかも知れません、勿論、反藤原勢力結集はただの推測です。
菅原道真公の身内で関東に移住した人物の内、特に有名なのは道真公三男景行公です。
彼は最初に常陸国へ移住しました。
景行公と同様に、伝承通り敦茂公が晩年、永谷郷に移住してこられた可能性は有り得ると思われます。
しかしながら、日本に3体しか存在しない道真公の彫像が永谷天満宮に存在するならば、敦茂公が永谷天満宮に住んでいた可能性より、明確に関東に移住して来た記録の残る三男の景行公が上の兄弟二人から順番に三番目に分与された道真公彫像を奉戴し永谷に移住して来られた可能性も有るかも知れません。
その事は後で説明します。

さて、先ずは永谷天満宮そのものについて説明をします。
永谷天満宮を開基(社殿建造する事)したのは関東管領上杉家の養子に入った一族の人物で、祖先の元の名字は勧修寺(かんしゅうじ)姓でした。

[藤原北家勧修寺流とは?]  
勧修寺家は京都の公家で、藤原家主流の家系でした。藤原家の主流は藤原北家と呼ばれ、その分家が勧修寺家でした。
勧修寺氏の姓名の由来である勧修寺は京都市山科区に現在もある寺院の事で、醍醐天皇の勅願所でした。
この時点で、菅原家と宅間上杉家の祖先の接点が醍醐天皇だった事が解ります。
天皇中心の政権運営を目指した醍醐天皇が信頼した臣下が菅原敦茂であり、醍醐天皇の開基した勅願所の勧修寺が宅間上杉家の家祖の苗字の由来に成っているので既に、この時代に両者に交流が有った可能性が有ります。 
藤原北家の勧修寺流の藤原顕憲公と盛憲公親子は摂関家藤原頼長に仕えていたので保元の乱において崇徳上皇陣営に従い、乱の勝利者側の後白河天皇と敵対した為に、戦後に佐渡国へ流刑にされ凋落(ちょうらく:落ちぶれる事)しました。
しかし盛憲の子藤原清房の系統が後鳥羽上皇に仕え家名は存続しました。彼も又もや承久の乱に巻き込まれ、紆余曲折あったものの命脈を保ちました。
その後、子孫は現在の京都府綾部市上杉町周辺を本拠地にしました。
その為、重房の代に至り上杉家を名乗るように成りました。
後の室町幕府初代征夷大将軍である足利尊氏はその地で生まれたと伝わっています。 
重房の子が上杉頼重で、頼重の姉妹がそれぞれ山名政氏と足利頼氏に嫁いでいて、上杉頼重の「頼」は足利頼氏から一字偏諱を受けたとされています。 
上杉頼重の子が即ち足利尊氏の叔父である上杉憲房です。

ちなみに上杉家と言うのは代々関東管領(かんとうかんれい)と言う役職を世襲した家系で、のちに上杉謙信が養子に入り継いだ家ですね。

 [関東管領上杉家とは?]  

今の関東地域に伊豆・新潟県・東北を加えた地域を支配するのが鎌倉公方で、その鎌倉公方の職務を実際に代行するのが関東管領職でした。
関東管領上杉家とは、即ち鎌倉将軍府の関東管領職に就任できる資格を有する上杉一門の内の筆頭格の4家の事で、犬懸(いぬかけ)上杉家・宅間(たくま)上杉家・扇谷(おうぎがやつ)上杉家・山内(やまのうち)上杉家の4家を指し、当初はその4家で交代で関東管領職を務めました。 

それぞれの家名は鎌倉近辺での居館の所在地名に由来し、扇谷(おおぎがやつ)や山内(やまのうち)は今でも鎌倉市内に地名が残っています。

[犬懸上杉]  
今の鎌倉市浄明寺と言う地区の犬懸ヶ谷(いぬかけがやつ)と言う所に邸宅があったので犬懸上杉と呼ばれています。
房総半島(下総国・上総国・安房国)一帯が根拠地でした。 
室町幕府初期には上杉家で一番勢力を誇りましたが、子孫の上杉禅宗が起こした「上杉禅宗の乱」で滅亡しました。

[宅間上杉]  
鎌倉市・横浜市・川崎市武蔵国西部一帯が支配域で横浜市港南区永谷が本拠地でした。 
上永谷にある永野小学校を含む丘陵一帯が本拠地の永野城址です。 
永享の乱の際、宅間上杉憲直が横浜市緑区にある旧城寺にあった榎下城址に籠城し、室町幕府と対立した鎌倉公方足利持氏を支援した事に因(よ)り、敗戦側に成ってしまいした。
後に降伏するが許されず、横浜市金沢区金沢文庫の称名寺で切腹し宅間上杉家は没落しました。 
しかし子孫は鎌倉府に継続し仕え、戦国時代には小田原北条氏に臣従しながら「宅間殿」と特別待遇で扱われていました。
安土桃山時代を経て徳川家旗本として存続しました。 
永谷天満宮を開基した人物が宅間上杉乗(憲)国です。

[扇谷上杉]  
現在の伊勢原市や湘南地域が元々の根拠地で伊勢原市の粕谷館で家臣太田道灌を暗殺した扇谷定正の話は有名です。 
伊勢原市の産能大学一帯に存在した大城郭糟屋館や藤沢の大庭城が各時代の旧本拠地で、後に小田原北条氏の圧迫により相模国から支配力を駆逐され、北に逃げる度(たび)に家臣太田道灌が築いた江戸城、更に河越城(埼玉県川越市)へと本拠を移し武蔵国南部を根拠地にしていました。
戦国時代の三大奇襲戦と呼ばれる「河越合戦」の時、小田原北条家の殿様北条氏康公とその家臣で義兄弟の鎌倉玉縄城主の北条綱成公に大敗北し、扇谷家の殿様は敗死し扇谷上杉家は滅亡しました。

[山内上杉]  
現在の埼玉県一帯~東京都北西部一帯が根拠地で本拠地は松山城址(埼玉県東松山市)でした。 
最終的に養子に入り、この家を継いだのが上杉謙信(長尾景虎)でした。 
戦国時代に成っても上杉家筆頭4家で勢力を保ったのは、この山内上杉家だけでした。
しかし家臣長尾景春の反乱が発生したり、小田原北条家に河越合戦で大敗した事で凋落(ちょうらく:落ちぶれる事)し当主の憲政が上野国に逃げ出した挙句(あげく)、更に越後の長尾景虎(ながおかげとら:後の上杉謙信)を頼り、最終的に養子にした上杉謙信に関東管領職を禅譲し本流の上杉家は滅亡しました。

 
[宅間上杉家の家系]

上杉重能(初代:勧修寺家出身)
※養子は無嗣断絶。
上杉重兼(二代:勧修寺家出身で重能実弟)
※重兼を初代とする説もある。
上杉能俊
上杉憲重
上杉憲俊
上杉憲能
上杉憲清
上杉憲直
上杉定重
上杉定朝
上杉顕重
上杉乗(憲)国→永谷天満宮を開基
上杉乗方
上杉房成
上杉富朝 →北条氏照付家老間宮綱信に姫嫁ぐ
上杉規(憲)富
※小田原北条氏家臣化→徳川家康に服属し旗本として存続

初代宅間上杉家当主の重能と二代当主の重兼は勧修寺別当職を務めた勧修寺道宏の実子で母は上杉頼重娘の加賀局だったので、同じく頼重娘の清子を母に持つ足利尊氏・直義兄弟とは血縁の従妹同士で一門衆待遇でした。 
後に母の兄弟である上杉憲房公の養子となります。
その後、永享の乱が起きます。
鎌倉公方足利持氏と山内上杉憲実が対立した際に、宅間上杉家は鎌倉公方に忠義を尽くしました。
その為に、鎌倉公方の力を削ぐ目的で、山内上杉憲実を支援する征夷大将軍足利義持(4代将軍で足利義満の子)の命を受けた今川範政率いる室町幕府と鎌倉府の連合軍に駿河より攻め入られ、宅間上杉家の当主上杉憲直は鎮圧され敗北し、横浜市金沢区の称名寺で切腹を命じられ勢力を失ってしまいました。 
しかし、その後も子孫は鎌倉府に仕え、戦国時代には小田原北条家に従い、後に徳川幕府の旗本として存続しました。

[宅間上杉初代:重能ってどんな人?]
勧修寺家に生まれ、後に母の兄弟である上杉重顕・憲房の養子となりました。
建武政権下では関東廂番六番の一員として鎌倉に下向。『太平記』には竹の下合戦において、偽の綸旨(りんじ:命令書)を作り足利尊氏を出陣させたとあります。
その後、足利直義の執事(しつじ:代理)として活躍するも、足利尊氏・高師直公が直義と対立すると高師直に捉えられ越前に配流殺害されてしまいました。
宅間上杉家の跡目は、山内上杉憲方の子で重能の甥に当たる山内上杉憲孝が継ぎ存続しました。
更に上杉憲孝も無嗣断絶してしまった為に、宅間上杉家は初代当主重能の実弟であった重兼の子孫が相続しました。
この為、重兼を宅間上杉家初代とする場合もあります。

さて、永谷天満宮を開基した上杉家の話はここまでにして、御祭神(ごさいしん)の菅原道真公の子孫が何故(なぜ)に横浜市や関東地方に移住して来られたかに話を戻しましょう。
その一例として、道真公の3男の菅原景行(かげゆき)公の例を挙げたいと思います。

[菅原景行公とは?]
菅原道真公の三男。 
駿河国に左遷された後、関東に下向し平将門公の御父君:良将公の根拠地であった下総国豊田郡に程近い常陸国真壁郡に移住しました。 
延長4年(926年)景行公は将門の叔父・良兼公らと真壁郡羽鳥(現:真壁町)に菅原天満宮(現在は茨城県水海道市大生郷に移転)を開きました。
この時代から坂東平氏と菅原家の深い繋がりが開始されたと推測できます。 
更にこの菅原氏と平氏の結びつきは当時の醍醐天皇の指令によるものだった節があります。
菅原氏の多くは藤原氏の専横により官位こそ抑えられていましたが、醍醐天皇に登用にされ有名な五男淳茂公をはじめ多くは朝廷にも残りました。
そして後の坂東八平氏の祖で平将門公の叔父良文公も醍醐天皇に重用され、関東の賊を討てと綸旨を頂き鎮守府将軍として東日本に下向し、旧鎌倉郡村岡郷、今の藤沢市村岡を本拠地にし関東に武士文化の基礎を築かれました。
この綸旨の「賊」とは「平将門公」ではなく、親王赴任国である上総国や下総国の荘園を支配する藤原氏の事だと思われ、つまり上総国下総国の支配権を取り返し藤原氏の軍事的勢力を削ぐ意図があったのだと思われます。
因みに上総、下総は音が皇室と密接な「宇佐八幡宮」の宇佐に通じますし、古語読みをすると「かみすさ」「しもすさ」と成るので素戔嗚尊とも所縁が有りそうです。
菅原家の主君の醍醐天皇とその御先代宇多天皇は藤原氏の専横に苦慮し御親政を取り戻すべく菅原道真公を重用しましたが、藤原氏の策謀により道真公はハメられ目論見が頓挫した経緯がありました。
それにより醍醐天皇と菅原氏が頼ろうとしたのが臣籍降下した元皇族の平氏だったのでしょう。
醍醐天皇と菅原氏と平氏の連携を示すのが正に、菅原景行公と平良兼公の逸話です。
当時まだ亡くなれて間も無い道真公を祀る天神様をいち早く常陸国に建立した事に両者の結びつきの真意が現れているのでしょう。
平将門の乱は、菅原道真公の左遷と同じく藤原氏の陰謀によるものだったと思われます。
藤原氏の挑発に乗ってしまい挙兵してでも反藤原連合を貫く将門公と、あったかも知れない醍醐天皇の関東制圧の密勅を実質的に維持する為に体面上、藤原氏=朝廷に従属するかの政策的な対立を生み出す藤原氏の陰謀だったと考えるのが自然です。
結果、醍醐天皇の策謀と藤原氏の陰謀は痛み分けで、藤原氏は関東の支配権を失い醍醐天皇も平将門公を失いました。
しかし平良文公を鎮守府将軍に任命していた事により関東の臣籍降下貴族支配には成功した訳です。
この流れを証明するように平将門公は当初朝廷公認で活動していましたし、将門公に同調していたはずの良文公は後に将門公の支配域の多くの支配権を与えられ、後々の坂東八平氏発展と鎌倉幕府御家人の基礎を築かれました。
平良文公が旧鎌倉の藤沢を本拠地にしていた事と、菅原景行公と坂東平氏の関係が深かった事から、永谷に移住した菅原道真公の御子息の正体は、三男の菅原景行公だった可能性は高いと思われます。
そう考えると、先程想定した日本に3体しか存在しない道真公の彫像が永谷天満宮に存在する理由、明確に関東に移住して来た記録の残る三男の景行公が上の兄弟二人から順番に三番目に分与された道真公彫像を奉戴し永谷に移住して来られた可能性も有るかも知れません。
その後、関東に下向した宅間上杉家が、関東に定着していた菅原氏より、醍醐天皇との御縁で菅原道真公の像を譲り受けた可能性が有るかも知れません。


景行公以降も菅原氏の武将が東日本で活躍した記録が見えます。
その人物は鎌倉幕府初代征夷大将軍「源頼朝の"ひいひいおじいちゃん"」に当たる軍神:源義家(みなもとのよしいえ)公が活躍された前九年・後三年の役に参戦した武将として登場します。
彼は源義家公が率(ひき)いた「五陣の軍士」と言う源家直属部隊の武将として登場します。

[五陣の軍士の中の菅原氏の武将]  
軍神:源義家公の父君の源頼義公の与力衆と直属の軍勢で5備えに編成されていた部隊の総称で、旗下に以下の武将の名前が見えます。

平  眞平
菅原行基 
源  眞清
刑部千富
大原信助
清原貞廉
藤原兼成
橘  孝忠
源  親季
藤原朝臣時経
丸子宿禰弘政
藤原光貞
佐伯元方
平  経貞
紀  季武
安部師方 

この内、菅原行基公は御名前から推測して菅原景行公の御子孫に当たるのではないかと推定できます。 
関東において坂東八平氏の祖で相模国の開拓領主だった鎌倉郡村岡城(現藤沢市村岡)を本拠にした平良文公の御子孫は菅原家と平家の深い関係を裏付ける様に、関東の御霊神社の御祭神として広く信仰されている軍神:鎌倉景政公を筆頭に「景」の字を継承している武将が多数見られます。 
具体的には…

・鎌倉景政公 
 (村岡城:藤沢市村岡を含む横浜市旧鎌倉郡部と鎌倉市及び藤沢市の旧鎌倉郡部)

・大庭景義公
 (大庭城:藤沢市大庭~茅ヶ崎市一帯)

・梶原景時公 
 (村岡城:藤沢市村岡~鎌倉市梶原一帯)

・長江義景公 
 (横浜市栄区長江)

・長尾景弘
 (長尾城:横浜市栄区長尾台一帯~現JR大船駅周辺及び鎌倉郡玉縄地区一帯)

 ※長尾家の有名な子孫
・長尾景春
 太田道灌のライバル。長尾景春の乱を引き起し関東全土を席巻した張本人。
・長尾景虎(上杉謙信) 
 山内上杉家を継いで後に関東管領上杉謙信を名乗った。

以上の鎌倉氏子孫の名に見える事実から推察すると…

つまり、相模国に移住してきた平氏が、永谷や関東各所の菅原家との関係の中で氏子として天神様を崇拝していたのではないか、その経緯で菅原家より「景」の字を一字拝領したのが平良文公の系統の坂東八平氏だったのではないかと推測出来ると思います。
又、菅原景行公と平将門公の叔父上との逸話や、源頼義の奥州征伐の際の五陣の軍士に菅原氏と平氏の武将が名を共に連ねている事から、何らかの関係が有った可能性は高いと思います。
そして平家や源家が盟主として菅原姓や橘姓紀姓等の古代有力貴族の子孫の支持を得て彼等を与力と出来たのは、彼等の対藤原独裁連合的な共同出世目的の意味合いが有ったのではと推察しています。

――永谷天満宮の歴史全体像考察――  
以上の事を根拠に、永谷天満宮と敦茂公の伝承は、宅間上杉家の祖先勧修寺家が菅原家と同じく宇多天皇と醍醐天皇に共に御仕えした家系だった事に由来するのではないかと思います。
つまり永谷天満宮の御神体である菅原道真公が自らの姿をを彫られた木製彫像は宅間上杉家(勧修寺家)が在京中の南北時代、北野天満宮に有った物を動乱から保護する目的で勧修寺家が保有する事に成ったか、関東に定着した菅原家子孫から足利家と親密だった宅間上杉家に譲渡された可能性が有ると思います。
 
余談ですが北野天満宮は位置的に曾(かつ)て京のメインストリートだった千本通りに近く、少し北には平安京造営当初の御所が有った舟形山の南の地域へ通勤も便利な位置にあります。
そう考えると敦茂公の京都時代から、山科の勧修寺付近や朝廷の中で宅間上杉家の祖先である藤原北家勧修寺流上杉氏と菅原家の交流が有った可能性も有り、やはり、敦茂公そのものと宅間上杉家の祖先そのものの関係も有った可能性も有ると考えるのが自然だと思います。
保元の乱で出世コースを外れてしまった一族ですからね。
藤原本流に政争でハメられた家同士が仲良くしても全く不思議ではありません。
永谷天満宮の敷地に道真公の御子息のどなたかが住んで居た訳ですが、永谷天満宮の伝承では「菅秀才こと5男の菅原敦茂公」が住んでいた事になっています。
淳茂公の兄で三男の景行公のお住まいだった可能性から御二人の話が混同された可能性は高いと思います。
しかしながら、宅間上杉家の祖先が、ここまで説明した通り、菅原景行公と菅原敦茂公の両方と御縁が有った可能性は高いと思います。 
先にも具体例を挙げましたが、永谷郷と隣接する旧鎌倉郡一帯の開拓領主鎌倉景政公の一族とその祖先平氏と景行公の関わりと氏名に含まれる「景」の一字です。
一字拝領は古来の文化でもあります。 
景行公が中央では余り有名では無かった事や、宅間上杉家の祖先と菅原秀才敦茂公が醍醐天皇の繋がりで御縁が有る事、活躍した舞台が主に播磨国や京と言った関西地方だった事から後に関東に下向してきた京都の勧修寺家出身の宅間上杉家による永谷天満宮の造営時に旧領主菅原氏の顕彰が行われ、その際、菅原景行公と菅原敦茂公の逸話が糾合された可能性が有るのではないかと推測しました。 

又、日本参躰天満宮と言われる所以(ゆえん)である「道真公銅鏡写し自作の木製彫像」が何故永谷天満宮に存在するかも、先述のとおり…
①北野天満宮から→勧修寺家へ →上杉家から→宅間上杉家へ
②関東の菅原家から→宅間上杉家へ
①か②の推測が出来るのではないでしょうか。 
仮に景行公が永谷天満宮に居住していた説を支持するならば、永谷天満宮の縁起とは異なり些か不敬に当たるのかもしれませんが景行公の実績の再発掘と言う意味では無駄には成らないかと思っています。
そして3男景行公も5男敦茂公も、御両人(ごりょうにん)とも道真公にとっては御子息(ごしそく)に当たる訳で、天神様の名を傷つける事は無いかと思います。
敦茂公だったにせよ景行公だったにせよ、私達神奈川県民や関東人にとって坂東八平氏の祖である平良文公と共に神奈川県と関東地方の発展の基礎を築いて下さった大恩人である事は変わりません。
菅原道真公と御子息と平良文公に対し、永谷天満宮の存在がある事で感謝出来る事が大切なんだと思います。

和魂漢才
坂東武者の気概を大切に。
地元の文化と歴史を大切に。
あ!
この永谷天満宮は鎌倉の明月院や長谷寺程の大規模ではないものの、紫陽花の名所でもあります。
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永谷天満宮の紫陽花を紹介した記事は「ココ」←クリック!
ちなみに永谷天満宮では今でも日本古来のお祭りを守っています。
これ「夏越(なごし)の大祓(おおはら)え」と呼ばれる祭りです。
茅で編んだ輪っかをくぐり抜け、半年間の厄落としをする古来から伝わるお祭りです。
ドンチャン騒ぎではなくて、昔からの儀式ですね。
でも蘇民祭と呼びフンドシ1枚で所謂(いわゆる)祭り的な催しをする地域もありますね。
皆さんの地元の神社も神主さんと氏子が守ってる神社は今でも茅の輪くぐる儀式をやってると思いますよ〜。

やってない神社は地域が移住者しかいなくて日本文化が廃れちゃったんですね。
皆さん、地元の偉人と歴史と文化を大切にしましょう。

永谷天満宮ホームページ
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