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カテゴリ:神社仏閣一覧 > 横浜市南区

横浜市南区には横浜橋商店街と言うTVも撮影に度々(たびたび)来る横浜市で最大級のアーケード商店街が有ります。
調べているうちに解ったのですが、その商店街は江戸時代に舞田湾を埋め立てて造成された“吉田新田”の中に有るのですが、横浜橋商店街は元々どうも立地的に近くに在る中村八幡宮の参道門前町として吉田新田側の橋の延長線上に発展して来た様です。
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中村八幡宮
新橋の芸子衆も御参りに来るほど昭和の横浜大空襲まで大規模な社殿を持って栄えていたそうで、その参道の商店街が今の横浜橋商店街の原型の様です。
ちょっとパンフレットの画像も見にくいのですが、たしかに台地に在る凄く立派な社殿が、随神門と壁に囲まれているんですよね。
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現在の中村八幡宮の宮司サンにも色々伺ったのですが、元々は舞岡八幡宮を本拠地に旧鎌倉郡と旧三浦郡を含め60余社の神社の宮司を務めた関家が元々の宮司様だった様です。
中村八幡宮の宮司だった関家は戸塚区の品濃白幡神社や港南区の永谷天満宮や永谷神明社、横須賀汐入の諏訪大神社等の宮司職も兼務されていたのですが、品濃白幡神社や関家についても以前、解説記事を書いていたので御興味有る方は以下の記事タイトルをクリックして御覧下さい。
旧宮司家の関家は社家としての格が高かった訳で、そんな関家でなければ宮司を任せられない程の規模を誇っていたのが、この中村八幡宮な訳です。
何でこの神社が第二次世界大戦の横浜大空襲とGHQによる戦後政策で境内地が縮小するまで大変繁栄していたかと言いますと昭和初期まで真金町や中村町には劇場や料亭が沢山有り、多くの御金持や芸妓(げいこ)衆で賑わっていたからなんですね。
今でも日本語だけでなく中国語も韓国語もタイ語も飛び交い異国情緒溢れ賑わう商店街は有りますが、それも比に成らない程の遊興地として栄え人と御金が集まっていたんですね。
ちょっと行けば幕末~明治~大正~昭和まで外国人居留地として始まり多くの外国の商社が集まった山手地区や日本大通りも有りましたからね~。
それは以前、映画“L💛DK”のロケ地解説で色んな洋館を紹介しています。
御興味有る方は是非、読んで横浜山手地区デートを彼氏彼女さんと楽しんでみて下さい♪
中村八幡宮からそんなに遠くない場所には凄い御寺も有ります。
真言宗の52ヵ寺の本山だった寶生寺さんですね。
他にも沢山の神社仏閣がある風流な京都の祇園とか清水坂みたいな場所が戦前の明治~昭和初期の中村町~真金町だったみたいです。京都の祇園も八坂神社の参道として栄え清水坂も清水寺の参道として栄えた門前町ですからね。
横浜橋は江戸に出来た新しい埋め立て地だから門前町の歴史が京都と違い浅いのですが、横浜の中村八幡宮は元々延喜年間から存在した事が地域にも宮司家にも伝承しており、恐らくそれは本当でしょう。
この地域を開拓したのは坂東平氏ですが、当時既に鎌倉の御霊神社に祀られる平良文公と、その甥で神田明神の御祭神の平将門公等によってこの地域は支配されていました。中村町辺りは平安時代末期には平良文公の御子孫に当たる三浦一族の久良木三郎通継公が支配していました。この武士団が信仰したのが海神で疫病治癒の神でもある素戔嗚尊と習合された牛頭天王を祀る牛頭信仰=八坂神社や祇園社や八王子社と、同じく治水の水神であり破魔の神様である大鞆別命=応神天皇に習合された八幡大菩薩信仰つまり八幡信仰でした。
中村八幡宮と本牧半島の反対側に当たる八幡橋八幡神社も更に古い欽明天皇の頃に開かれている事が伝承しています。なので平安時代から中村に八幡信仰が有るのは極々自然な訳です。
実は各時代の度重なる戦乱で史料が残らないこの地域ですが、古くから朝廷の軍馬生産地として久良岐屯倉(みやけ)が置かれ天皇家直轄地の郡だった歴史が有るんです。
ですから門前町は新しく、外国人文化の色濃い横浜元町に近い地域ですが文化歴史は京都にも負けない古代からの歴史の醸成地でもあるんですね。
つまり中村八幡宮のある中村町や真金町辺りは今でこそ庶民的で異国情緒溢れる町ですが、イメージ的には和風な街並みと大正ロマン溢れる服装の人が行き交う風景が戦前まで広がっていたみたいですね~。
現在の地図と明治初期の迅速測図と言う地図で町の様子を見比べてみましょう。
中村八幡宮周辺 迅速測図 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
これを見ると解かりますが、明治の最初頃はまだまだ八幡宮周辺の参道だった横浜橋商店街辺りは出来て歴史浅い埋め立て地なので未だ何も有りません。日本初の石鹸工場何かが有ったらしいです。
この迅速測図の書かれた明治時代の終わりから次第に人が増え大正時代には色町として発展した横浜らしい新しい街だと言う事が解ります。
そして遊郭が立ち並ぶ過程で中村八幡宮も繁栄し戦前の巨大な社殿が造営されていった訳ですが、遊郭の建築ラッシュや元々、真言宗の大寺院だった寶生寺や蔵徳院と言う大寺院が御近所に有ったからこそ宮大工が集まる文化素地が形成されていたのでしょうね~。
横浜市に限らず色町の文化と史跡研究に関しては小生よりも“知の冒険”と言うブログを運営してる丹治君の方が詳しいので、彼のブログを見ると真金町界隈の事を沢山書いて有ると思いますよ~。

彼はラジオにも呼ばれる人物なので、色町の文化研究のセミプロです。行動範囲も広く小田原の色町跡を探索に行ったり、関西や中部地方も良く取材に行ってます。
花街の文化に興味が有る方は彼の記事を読んで見て下さい。
まぁ~、そんな明治大正昭和初期のいなせな男女の風流さと悲哀と失敗と成り上がりが複雑に混じった素敵な雰囲気が漂う風流な和風の街並みが広がっていた中村町と真金町ですが、戦後昭和三十三年の風営法施行により遊郭が経営不能に成り閉鎖し、そこに根付いていた宮大工の方々の技術が幾つかの銭湯建設を通じて今も残っています。
それが中村八幡宮の近くの仲乃湯さんです。
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記事⤵️
仲乃湯 凄い宮大工が建てた銭湯でドラマやCMのロケ地
今では中村八幡宮の社殿は縮小はしていますが、仲乃湯に御風呂に入りに行くと立派な建物から往時の中村町の雰囲気を垣間見る事が出来ます。
神社好きの皆さんも、御朱印を拝受に参拝したり横浜橋商店街とかに買出しに行く事が有ったら是非!お風呂入りに行って見て下さい~!
きっと建物の凄さに感動しますよ!

さて皆さん、今日はここまです!

夏に入りますが新型肺炎も未だ終息していませんし、気温も上がり熱中症にも注意しないといけませんね~。
次の記事で御会いするまで健康に実り有る日々を御過ごしくだされや~♪
では又!
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神奈川県で厄除けの御寺と言うと歴史を余り知らない人は立派な川崎大師に行く人が多くいますが、実は川崎大師の御利益は漁民の豊漁や徳川幕府11代征夷大将軍の徳川家斉公から深く崇敬され家斉公が子供28人も授かった子宝の御利益が江戸時代まで有名で厄除が御利益で有名だった訳じゃないんですね。
明治時代以前、本当に神奈川県の御寺の中で厄除けの御利益が有名で江戸の町民も知られた御寺が旧武蔵国久良岐郡に2箇所も在りましたが、旧武蔵国久良岐郡てのは今の横浜市南東部の地域です
そして、そのいずれの御寺も現在の横浜市南区の御寺である事を知っている人は今では横浜市民にも多くは無いでしょう。
一つは西向山乗蓮寺・・・
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西向山 乗蓮寺
・・・京神急行の駅名で有名な井土ヶ谷の地名由来に成った井戸の有る御寺で❝承久の乱❞の際に北条政子様が仏教草庵を建て疎開し戦勝祈願と厄除けを祈願した寺院です。
そして、ここに北条政子様が避難し鎌倉武士団の戦勝祈願をする理由だったと推測出来るのが直ぐ乗蓮寺の直ぐ近くの更に歴史の古い❝厄除け❞の御利益で有名な寺院が有ったからだと推測出来ます。
ここ等辺の事情は以前、乗蓮寺の解説を記事に書いて有るので御興味の有る方はそちらも御覧下さい。
クリックで記事にリンク⤵
西向山乗蓮寺…源頼朝公妻女北条政子様が開き、江戸時代の名奉行間宮忠次公が支援した、南区井土ヶ谷地名の由来の寺。

この南区の平地一帯は古代は海だった地域で井戸を掘っても余り質の良い水が出ませんでしたが乗蓮寺の在る地域の地下水脈の水質が良くて北条政子様は化粧を含めた生活用水に適している事をしって草庵を建てたんですね。つまり乗蓮寺は元々は生活の拠点として開かれている訳です。
北条政子様木像画像
※写真は乗蓮寺に在る北条政子様の彫像、生前に模写されたた生き写しの木造です。
小生は御寺のホームページからの転用を御住職に取材した際に御許可頂いておりますので、この画像を転用する場合は読者の方は御自分で乗蓮寺御住職様に御挨拶の上、御了承頂ける様に努力して下さい。
さて、では彼女は何の為にここに住んだのかと言うのは、彼女は鎌倉幕府と旧政権藤原氏側の朝廷が対立して承久の乱が起きた不安な時期を亡夫である源頼朝公との夫婦の思い出を回顧して心の支えとして過ごしたかったのと鎌倉幕府の未来を憂(うれ)いて❝厄除け❞❝戦勝祈願❞をする場所に通う必要が有ったからでしょう・・・
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その異名も厄除け大師として江戸時代までは大変に賑わった真言宗の大寺院だった瑞應山 蓮華院 弘明寺です。この弘明寺と乗蓮寺は徒歩でも通える距離に近在しています。
弘明寺と乗蓮寺の位置関係 久良岐のよし
今では弘明寺と言えば地名位の認識の人が多いですが、京浜急行弘明寺駅や現在の弘明寺商店街はそもそも明治政府の仏教弾圧の時期や戦後の宗教弾圧で弘明寺の境内地を政府が接収して造った場所なんですね。
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この弘明寺商店街はそもそも弘明寺の参道だった訳です。
今では弘明寺の大岡川沿いは桜の名所としても有名ですね~♪
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あ~将来かけれる女性と観音様に縁結びして頂いて彼女成って貰って一緒に散歩したいな。毎年カップルと家族連れだらけ一人は寂しい・・・
んな事ぁ~今必要な話しじゃなくて御寺の解説。
・・・まぁ、弘明寺は明治時代には政府の宗教改革の失敗のせいで一時、無住職に成ってしまい戦国武将❝間宮宗閑の与力衆❞が寄贈した扁額や諸々の寺宝も散佚してしまいました。
そこ等辺の話しは多くの学者が間宮家の武将の戒名を間違って認識してる事を指摘した解説記事で紹介しているので専門的な話に興味が有る人は御一読下さい⤵
クリックで記事にリンク→【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
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さて、本当に桜の綺麗な大岡川を横断する弘明寺商店街を京急の弘明寺駅側に通り抜けると現代の弘明寺の山門に行き当たります。
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瑞應山 蓮華院 弘明寺ここは伝承では養老五年(721)年にインドから来日した高僧の善無畏三蔵法師が聖域を示す結界石を置いた事で仏教の道場として発展して行く事に成ったのですが、これは恐らく井土ヶ谷の乗蓮寺がヒントに成ります。要するに清涼良質な湧水が有ったのでしょう。現在は山の中腹に在る弘明寺ですが、背後の墓地や南図書館の用地に成っている場所は谷地形です。橘樹郡衙も丘の上に存在しますが水の湧かない場所に人は住めないので、弘明寺が聖地化したのは水脈が露出した場所だったからでしょう。
そして善無畏三蔵法師が結界を張った場所で弘法大師空海和尚が国家安寧国民鎮護の厄除け護摩行を行ったと伝承していますが、これは恐らく朝廷からの依頼による関東地方の旱魃か冷害による不作の飢饉に対応した❝雨乞い❞か❝豊穣❞祈願だったと小生は推測しています。
実は弘明寺は御寺ですが神仏習合時代の習慣が今も残っていまして、弘明寺鎮護の神様は御稲荷様と熊野権現と八幡大菩薩と天満大自在天神(菅原道真公)や他にも諸々祀られていた歴史が有り、特に御稲荷様が鎮守の神様だったようです。
実は今も稲荷神社と熊野神社は嘗(かつ)ての弘明寺の境内地だった丘に現存しています。
弘明寺、中里温泉、熊野神社位置関係 久良岐のよし
位置関係を見て見ましょう。弘明寺の山の裏側に両方ともあります。
稲荷社と熊野社はいずれも元来は水源地に祀られる神様です。
熊野神社はそのまま、稲荷社は中里温泉の中に残っています。
この中里温泉はお婆ちゃんの女将さんが檀那さんが倒れた後も健気に守っているのですが、ネット世代の阿呆どもがネットで予約出来ないのと女将さんが御高齢で電話で耳が多いのをちゃんと確認もせずに「休業と言うデマ」の心無い書き込みをGoogle mapにしていたのを小生が削除させるまで掲載されてしまったり可哀相な状態に成っていました。
古い温泉料亭旅館で昔は弘明寺の参拝客で賑わい、料理も有名で300人クラスの宴会もしょっちゅう開かれていたそうです。小生は宿泊したいのですが3年前に直接お話を聞きに伺って「いつか泊まらせて頂きたいです~」と雑談した所、女将さんに「2人で来てね~」と❝早う彼女つくれ❞と背中を押されてそのまま3年が過ぎて未だに泊まる機会を得ていません(泣)。
熊野神社も中里旅館も写真撮影した筈なのですが、iPhoneがぶっ壊れてデータが吹っ飛んだ時期だったらしく写真が残ってませんでした。
さて、そんな訳で古来重要な土地であり大和朝廷直轄地の久良岐郡の役所である郡衙が在った丘の上に在る御寺なのですが、では何でここが郡衙だったかと言うのは❝飲み水❞以外にもう一つ❝水❞の理由が有ります。
弘明寺主変古代の海岸線 久良岐のよし
この地図は、江戸時代に開削された八幡橋八幡神社の地域を除いて❝白い部分は全て古代海の底❞だった地域です。つまり弘明寺は重要な古代の港湾を御膝下に抱える地形で軍港や水運の物流拠点に適した場所だったので郡衙が築かれた可能性が有る訳ですね。そして対岸の本牧半島は朝廷の牧場が有りました。幕末~近代に吹奏楽発祥地で国家君が代とテニス発祥地にも成っている妙香寺も本牧に在りますが、やはり前身寺院は弘法大師空海和尚が開いた御寺だったと伝わっています。
重要な港湾を抱え、農業に適した沢が有る場所なので郡衙に成ったのでしょう。
そして古代人の集落を支えた湧水地は古代の宗教では必ずと言って良い程、聖地化しますので、郡衙が廃れた後も、そこを善無畏三蔵法師や弘法大師空海が聖地として訪れ国家安寧国民鎮護の厄除け祈願を行った事がなんとな~く解りますね。
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空海和尚は国の命令で干ばつ対策の雨乞いを行っていた事が解かるのですが、尾張国の神社の一之宮である真清田神社の池でも雨乞い神事を行っています。
さて、そんな訳で古代から重用視された聖地だったので弘明寺には北条政子様は御夫君の源頼朝公が健在の頃に御一緒に戦勝祈願に参詣されたそうです。
その際に北条政子様が馬を洗ったと伝承する滝が近年まで弘明寺の近郷に在りました。横浜市の河川改修で消え去った史跡の港南区野庭~上永谷の間の鎌倉街道下道に沿って流れる馬洗い川の滝ですね。
この北条政子様が通った道は途中に天谷(てんや)の地名が残っていたので、そこは古代大和朝廷の兵站である店屋(てんや=基地)だった事が解かります。
鎌倉街道は鎌倉幕府が整備した道と認識する人が多いですが、その鎌倉街道下道の先には天皇家の勅願所だった師岡熊野神社が在り綱島街道や中原街道や厚木街道や八王子街道や橘樹郡衙の橘樹神社の丘一帯に接続する重要な道でした。その沿線に在るのが弘明寺な訳です。
その道を北条政子さんは通り承久の乱の際に亡夫頼朝公が打ち立てた鎌倉幕府と子に等しい御家人達の家族を守る為に、弘明寺に戦勝祈願厄除けに長期継続的に参拝する必要が有って弘明寺近くに乗蓮寺を建てた事が解かりますね。
さぁ、弘明寺の施設その物の説明に移ります。
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山門は仁王門です。
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立派な金剛力士像が参拝者を出迎えてくれます。
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この山門は江戸時代迄有りませんでした。てか弘明寺商店街の入口辺りが本来の御寺の入口でしたからね。そこに山門が在った訳ですから別物です。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
そして、そこには間宮家の間宮宗閑同伴衆が奉納した❝弘明寺❞の扁額が有りましたが、現代ではこの扁額は失われ❝瑞應山❞の新しい扁額が有ります。
間宮家が奉納した物は臨済宗建長寺の高僧玉隠和尚が揮毫した物なので今でも現存していたら大変価値の有る文化財指定されてもおかしくない物でした。
因みに江戸幕府の役人のミスで間宮宗閑=間宮康俊公と言う認識を大半の歴史家は江戸時代の誤記の多い寛政重修諸家譜をテンプレ鵜呑みにしてますが、この弘明寺の扁額の存在が既にその認識が誤りである証拠に成り、年代的に間宮康俊公の父上の間宮信元公の法名が宗閑だった事が解かります。
間宮家臣団にとっての間宮康俊公菩提寺で江戸時代と通じて追善供養が行われた鶴見区下末吉の寶泉寺では❝宗覚❞が間宮康俊公の法名と伝わり、間宮家が申告した寛政譜でも宗覚が康俊公の法名として記されていますが、江戸時代後半の幕府の役人が江戸時代初期の幕府のミスを隠す為に改竄した寛政重修諸家譜では役人のミスで宗閑を康俊公の法名として徳川家が建てた伊豆の宗閑寺の名前をミスでは無く粉飾する為そのまま掲載して宗閑にしてしまっています。
山門と扁額の解説はここまでにして参道を進みましょう。
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山門左手には本堂とは別に御札や御守りの販売所が有ります。
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階段を上らなくても足腰の弱い御老人が観音様を御参り出来る様に、階段の下にも観世音菩薩様が祀られています。
そして石仏様・・・
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人々の往来を見守る馬頭観音様。小生がいつも祈りを捧げる神仏の一つ。
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よく道路沿いに祀られていて今では信仰心の無く成った日本人から見向きもされない事も多い仏様ですね。小生は大切にしています。
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階段を登り進めましょう!
左手に身代わり地蔵菩薩の看板が見えますね~。
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このお地蔵様は比較的新しい作りですが、身代わりに成って頂きたい事が有る人は是非、御参りされては如何でしょうか?
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御花がささげられて大切にされてますね~。
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弘明寺の顕彰碑かな?
山野井と見えます。この山野井さん、戦国時代にの御先祖は絶対に間宮家臣だった人で、上大岡の地主の一人で今では御子孫は不動産屋さんに成っています。
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階段を登りきると本来は護摩堂だったはずの御本堂が見えます。
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御庭には元々境内地を取り囲む様に善無畏三蔵法師によって配置されていた結界石が移設保存されています。
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その左手に鐘楼。
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大晦日に来た事無いので判りませんが、多分、除夜の鐘突きが行われるのでしょうね~。
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そこから見た御本堂。
この写真を撮った時は凄く朝早く参拝したので左手の寺務所は開いてませんがちゃんと御朱印や御守りを受領する事が出来ます。
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厄除け護摩炊きの時間などは弘明寺サンの公式ホームページをご覧頂ければ良いと思います。
護摩札も3000円~で授与して頂ける上に2つ迄祈願を祈祷して頂けますよ~。
ここ数年は毎年正月、檀家サンに混じって厄除けして貰ってます。それと厄除け開運は土地神様の神社でも御祈祷頂いてます。
尊敬する殿様が崇敬した御寺と、尊敬する殿様が開いた神社で開運厄除け受けたから昨年も生命に関わる怪我もせず無事に過せました。
御陰で昨年末も股間を大火傷した際もチ〇チ〇は無傷ですみました(笑)。
「愛人作って雇わせた」とかデマを一部のフザけた人の心も平気で無視して笑いの種にする人に拡散されて既成事実化しかけた誤解も無事に他の同僚達に解く事が出来て、寧(むし)ろ噂を流した年配男性や中年オッサンの方が酷いし君は絶対にそんな事はしないと既婚女性の同僚達からも擁護して貰えましたし。本当、弘明寺の仏様と土地神様の御陰。
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御本堂右手には説明の看板が有ります。
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この木造花瓶を修理したのが間宮信俊公で、修験道信者として真言宗寺院に関わる際は佐々木一族の通し名❝信❞の字の本来の名で署名していたと思われる❝間宮康俊❞公と同一人物でしょう。その証拠に間宮信俊公の戒名も❝宗覚❞で伝わっていますし、別人とするものも兄弟と伝わっているので本来の信俊の名と北条家臣としての康俊の名が別々に子孫に伝わり江戸時代に宗教的教養を失った子孫の間に混乱を生んだんでしょう。
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坂東第十四番霊場。御本堂はとても立派です。
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扁額も色んな種類が掲げられています。
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内陣遠景。
御本堂の左手にも別の御堂が在ります。
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この階段を登ると・・・
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大聖歓喜天の御堂が在ります。これが弘法大師空海和尚所縁の場所ですね。
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さて、御本堂の横の寺務所の対面にもう一つ建物が在ります。
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コチラには弘法大師様の木造が祀られています。
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厄除大師の扁額が有るので良く解ると思います。大正時代も有名だったみたいですね。
こちらには頼朝公が深く信仰の対象とした八臂弁財天様や・・・
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他にも閻魔大王とか・・・
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・・・奪衣婆とか色んな神仏の彫像が祀られています。
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あと御庭では御地蔵さんも参拝客を出迎えて下さいます。
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御地蔵さんて可愛いですよね~♪
さて、弘明寺、とっても歴史が有って庶民に馴染んで、その凄さに反して親しみ深い御寺でしょう?
そうそう、この御寺から駅に行く途中に美味しいタコ焼き屋サンが在ります。
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梅鉢流まみい

この御店、大阪の御店の系列店でして京都で生活していた事の有る小生が食べても安いのにとっても美味しいと思います♪
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たこ焼きだけじゃなくて今川焼も有ります。
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今川焼1個とタコ焼き6個のsetで確か380円だったかな?凄く美味しいので弘明寺参詣の際はおススメですよ~♪

さてさて、昔の人達が聖地として崇拝したのに庶民に距離の近い弘明寺、どうでしたか?
皆さんも毎年の厄除け開運や夫婦円満や色々、御祓いと心願成就の祈祷と、新年や4月の花見や周辺商店街の散歩のついでに厄除けの護摩炊きを受けて見て文化や散歩を同時に楽しんで見ては如何でしょうか?

弘明寺はとても歴史の古い御寺ですから当然関わった人も凄い人が多い訳ですが、きっと皆さんの御近所の何気ない御寺や神社や城跡の山や公園にも凄い歴史偉人と繋がりの有る場所も有る筈です。
皆さん、文化史跡や自然や城址の公園を散歩して気分転換してみませんか~?
きっと、そこで看板を読んで凄い人との繋がりを知れば、皆さんも自分の住む町に更に愛着が湧くはずですよ~♪

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪







 
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金沢文庫と言っても駅の名前でも土地の名前でも無くて博物館の金沢文庫ですが、そちらで現在、弘明寺と並んで横浜市を代表すると言っても過言では無い名古刹の寶生寺の文化財の数々が特別展示されています。
県立金沢文庫様より拝借 寶生寺特別展ポスター 久良岐のよし
画像は神奈川県立金沢文庫様の公式ホームページより転載させて頂きました。
県立金沢文庫様より拝借 寶生寺特別展ポスター裏面 久良岐のよし
【神奈川県立金沢文庫】 分類:博物館/史料館
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今回、金沢文庫で特別展を行っている寶生寺(ほうしょうじ)の文化財ですが、根本的に横浜には寶生寺と言う御寺が有ると言う事を御存知無い方も多いと思いますので以前書いた解説記事へのリンクを以下に貼って置きます。
リンク→寶生寺・・・横浜市南区に在る鎌倉~江戸時代の名将達が保護した古刹
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上の写真は寶生寺の石段と山門です。
実はこの御寺の文献が横浜の地名の登場する現存最古の古文書なんです。
今回の特別展での展示物は文献と経典がとても多く、通好みの展示と成っています。
特に有名な人物は二人・・・
1人目は太田道灌公。
歴史好事家(オタク)なら誰もが知っている関東最高の合戦無敗の名軍師で築城家。
この太田道灌公が小机城址包囲戦の最中に寶生寺の御住職から陣中見舞いに「山芋」を頂いていた返礼の手紙(笑)とか・・・
2人目は間宮直元公。
江戸時代の横浜市長の前身、初代の本牧奉行。本牧奉行だけでなく但馬奉行と生野(銀山)代官と佐渡(金山)代官を兼任した人物。
徳川家康公の軍師格で本領は1000石ながら多くの奉行職を兼任していたので実際の収入は現代の円に換算すると8億円近く(笑)。更に縁故も実力も凄く、伯母の“於久(おひさ)の方”は徳川家康公の側室に成り姫様を生んでいたので家康公の外戚扱い、経営手腕と実務力も素晴らしく有名な大久保長安が代官だった佐渡金山が経営不振に成ると家康公の命令で生野銀山の部下と工夫を引き連れて瞬く間に業績改善したばかりか、その人生の最後には“大坂城総掘り埋立作戦”を立案し直接家康公に進言した名軍師。
その間宮直元公が寶生寺の御本尊を極彩色に修理した際の修理願文が御本尊の解体修理の際に発見され今回展示されたいます。
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・・・上は今回の展示物一覧です。
すみません家のスキャナー壊れて使えないのでデジカメ写真で失礼。
つまり、横浜市に御縁の有る名将二人の手紙や起請文を始め恐ろしい数の古文書が展示されている訳ですが・・・
県立金沢文庫様より拝借 寶生寺特別展ポスター 久良岐のよし
一緒に今回特別展示されている寶生寺の御本尊が、その間宮直元公が修理させた仏像であり今回の特別展示のポスターのアイコンに成っている訳です。
太田道灌公の小机城攻囲中、今回の展示の寶生寺の高僧だけでなく、他に日蓮宗の寺格の高い御寺等からも高僧が食べ物持って(笑)陣中見舞いに太田道灌公に会いに来ている歴史事実も有るので、今回の寶生寺に対する太田道灌公の文書は、そんな小机城攻囲戦が太田道灌公の才覚によって相当な余裕を持って行われていた事を窺い知る事が出来ます。

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一応、金沢文庫自体を御存知無い方も多いと思いますので御説明致します・・・
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金沢文庫と言うのは元は鎌倉幕府で六波羅探題やブービー賞で執権を務めた日本武士最高の教養を誇った金沢北条家の邸宅の書庫から派生した日本最初の武家私設図書館の事で、金沢北条家の邸宅を寺院化した真言宗の別格本山の金沢山稱名寺(しょうみょうじ)と言う御寺に江戸時代まで管理されて西の正倉院に対して“東の正倉院”の異名で渾名(あだな)された多くの文化財を持つ文庫でした。
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ですから今も金沢文庫(博物館)の横には綺麗な稱名寺の庭園が広がっています。
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春には御覧の通り参道の桜も綺麗な御寺です。
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この稱名寺や金沢文庫の近く、歌川広重が描いた景勝地の“金沢八景の一つ野島”に別宅を構えていたのが明治の元勲伊藤博文公でした。
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野島の金沢別邸に住んでいた伊藤博文公は古来の天皇の価値観を大切にされ神仏共に大切にされた方だったので、明治に森有礼等によって宗教改革が行われ“廃仏毀釈”“神仏分離令”が発布され稱名寺が寺領を失ったり神社を取り壊されたり荒廃し、御寺に因(よ)る文化財売却が横行した際に非常に文化的に危機感を持たれ、金沢文庫の多くの文化財を守る為に稱名寺境内に“金沢文庫”を再建しました。
これが昭和5年に県立化され、更に本来の鎌倉時代の文庫の所在地だった稱名寺と隣の谷の“文庫谷(ぶんこがやつ)”に新築されたのが現在の神奈川県立金沢文庫(博物館)です。

金沢文庫の今回の特別展示は仏教文化的にも戦国好きにも堪らない展示内容と成っています。・・・興味無い人には可也(かなり)地味だけどね(笑)。
特別展示を見るだけでもとても価値が有りますが、隣の稱名寺も綺麗。
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【金沢山稱名寺】そして近くには元料亭の建築文化財の宿、喜多屋も有るのでランチタイムに喜多屋のcafeで食事する事も推薦します!
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もしランチタイムに伺う時に事前に食事を予約して、その際に客室に空室が有るか確認した上で「見学させて頂けませんか?」と御願いすると、客室の状況と従業員の方の状況次第では下の旧料亭部分の宿泊客室も見学させて頂けるかも知れません。
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【喜多屋】

以前喜多屋を紹介した記事リンクはコチラ→

そして、もう一つ・・・
もし皆さんが金沢文庫博物館に訪問するのが金・土・日曜日ならTV鉄腕ダッシュにも度々登場している金沢柴漁港の江戸時代からの名物の小柴の穴子を“小柴のどんぶりや”で天丼に調理して漁協婦人部が提供しているので朝水揚げされた新鮮な穴子天丼を食べる事も出来ます。
小柴のどんぶり屋 久良岐のよし
小柴の穴子天丼と小柴の蝦蛄刺身 久良岐のよし
※朝11時~13時位の間で売り切れますので御注意!
【小柴のどんぶりや】
八景島シーパラダイスも近いので、合わせて訪問すれば子供も楽しめますよ~♪

さて、金沢文庫の特別展示、寶生寺展に歴史好きなら一見の価値が有る事がお判り頂けたでしょうか?
展示解説も時間毎に有るので、訪れる前に事前に金沢文庫へ電話して確認するとより楽しめると思います。
そして周辺には綺麗な稱名寺や美味しい御店が沢山有ります!
是非!週末にでも訪れて見て下さい。

では・・・又、次は解説記事で御会いしましょう~♪















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横浜市南区井土ヶ谷には、その井土ヶ谷の地名の由来に成った御寺が住宅街の中に鎮座しています。
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昔は周辺の山林、更にその周りも境内地だったそうです。
実はここ、横浜市民でも現代では余り知る人も少なくなったのですが鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の正妻、北条政子様が開いた御寺で一時暮らした場所でもあります。
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境内には化粧の井戸と言うのが有りまして、承久の乱の際に当時は引越村と言われたこの土地に逃げて来られたと伝承しています。
この地に逃れて来たものの、水質の悪い水ばかりだった引越村の中で、唯一、この乗蓮寺で掘った井戸だけが水質が良く化粧水に適していたので居所と定めたそうです。
つまり、この井戸が井土ヶ谷の町名の由来に成った訳です。
さて、北条政子さんは承久の乱が起きたから乗蓮寺に逃げて来たと伝わっていますが、この承久の乱と言うのは源頼朝公没後に、貴族達が失った既得権益を鎌倉幕府から奪還しようとして兵を起こした事件で、結果的には北条政子様が旧頼朝公の与力武将達に上方攻略の号令を激を飛ばして武士勢が逆襲し鎮圧に成功した日本国内の内戦の事を指します。
実は、この乗蓮寺の辺り直ぐ裏の山の反対側が弘明寺の駅名でも有名な、厄除け観音の瑞應山蓮華院弘明寺です。
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※弘明寺の山門の写真。
実は源頼朝公、北条政子様と生前に夫婦して弘明寺を熱心に戦勝祈願等の御参りに来ていたので、小生は乗蓮寺が成立したのは北条政子さんが「逃げて来た時に御寺を建てて住んだ」と言うのはちょっと違うと思うのです。
弘明寺は古代奈良時代の郡衙(ぐんが=市庁舎みたいな場所)だったと思われる場所の有力な候補地であり、御寺自体の歴史も既に1300年以上有る名古刹で、弘法大師空海和尚様とも関係の深い御寺なのですが…
この御寺には武士に軍神と財神として拝められた弁才天様も御まつりされているので、先述の通り頼朝公達御夫婦は戦勝祈願や厄除けに訪れていました。
承久の乱が起きた際、この弘明寺の直ぐ裏の乗蓮寺を北条政子様が開いたのは、小生は避難して来たのではなくて、承久の乱が起きていた間、毎日弘明寺に戦勝祈願に通う為だったのでは無いかと感じています。
そして、その場所を選んだのは、嘗(かつ)て亡夫と共に苦労を乗り越えた頃の思い出も有り、より御利益に強い思い入れが有ったのではないかと思う訳です。
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この写真の大木は“北条政子さんが御手植えした榧(かや)の樹”です。
本当に政子さんと御縁が深い御寺ですね~。
この乗蓮寺さん、井土ヶ谷幼稚園も経営してらっしゃるので、この御寺の幼稚園で育った子は、この木みたいにそして鎌倉武士の様に強い子に育ちそうですね♪
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境内にはお稲荷さんもいらっしゃいます。
神様も一緒に御祭するのは歴代天皇と同じく神仏習合の価値観を大切にする真言宗の御寺らしい所ですね。
このお稲荷さんは最近、こちらに御迎えし遷座したそうです。御寺の元々は御檀家さんの家が守って来たお稲荷様だったそうなんですが、子孫の代に守って貰えるか判らないと御住職様に相談に来られたので、御寺に御迎えして代わりに御住職様達で守る事にされたそうです。
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御地蔵様もいらっしゃいました。
御地蔵さまって何だか親しみを感じる仏様ですよね。道端でいつも庶民の安全を守ってくれる、丸い頭の少しユーモラスな優しい仏様。
さて、この御寺は最近、御寺の建替えの際に解体された「尼将軍堂」と江戸時代には呼ばれていた御堂が有りました。現代では「御影堂」と呼ばれていたそうです。
ここは御寺を開いた北条政子様を祀っていた御堂で、その中には“北条政子様が御自分の姿を彫刻した等身大の彫像”が安置され祀られていました。まぁ、言い換えると開山堂って所でしょうかね?
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御住職様に御好意で昔の写真を見せて頂き、更に今は非公開の北条政子様彫像も拝ませて頂きました。
その尼将軍堂が上の写真の手前の茅葺屋根の小さな御堂です。
解体された時に再建を目指して木材を捨てず保存していたそうなのですが、木の腐食が激しく再建を断念したそうです。
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今は一般非公開なので、皆さんは拝む事は出来ませんが、上の写真が乗蓮寺さんのホームページに掲載されている北条政子様彫像です。
御住職様の御好意で、転載の許可を頂きました。
小生、拝ませて頂いて北条政子さんの印象が少し変わりまして・・・
なんだか寂しさを隠して冷静に気持ちを落ち着かせている様な御顔をされていたんです。
この彫像、北条政子さんが鏡を見ながら自分で自分を掘ったと伝承していますが、御住職様は「生前に自分をモデルにして仏師に彫刻させて作らせたから写実的でリアルな造りなんだろう」と推測されていました。
恐らくそうだろうと小生も感じます。だからこそ何だか悲しそうで少し遠くを見ておられる様な気持ちが伝わる様な気がするリアルなんだと思います。
この時期、既に政子さんは自分の二人の子供を、自分の父と兄に暗殺されています。
恐らく夫の源頼朝公も自分の妹婿の稲毛重成に毒を盛られた上、相模川の開通式の最中に暗殺されています。実は頼朝公は開通式の前日から体調不良を訴えていて、当日は意識障害も有ったそうなのでヒ素中毒の説が昔から有ります。そして、不可解な事に、橋の上で落馬して死んだとされていますが、その際に護衛の武士達が「頼朝公を守れなかった罪」で全員処刑されているんです。これは状況的に北条家が退路の無い橋の上で頼朝公を暗殺したと考えた方が自然でしょう。
さて、そんな事も有ったので、せめて夫が武士達と領民達を貴族の搾取から守る為に建てた武家政権を守る為に戦勝祈願に来て、この乗蓮寺に一時住んでいた時期の政子さんをモデルに掘られた彫像だから、この様な少し悲しい、でも凛々しい御顔立ちに成ったんだと小生は思いました。
今では、この彫像が安置された御堂は無いので御本堂の中で、日本の平和を見守って下さっています。
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昔、尼将軍堂の前に在った石碑はちゃんと墓地の中に移設され保存されています。これも御住職様が案内して下さったので写真に収める事が出来ました。一人では探せなかったと思います。
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今では御本堂はコンクリート製。これなら地震にも火事にも強く、周辺が火災に遭ってもちょっとくらいでは類焼する心配も少なく安心ですね。
多くの歴史を伝える為に、御寺の檀家さん達が御金を出して御寺を守って下さってるからこそ、小生の様な人間が尊敬する偉人の御廟所を拝ませて頂けたり、古文書を見せて頂ける訳です。本当に尊い努力をされていると思います。
腐れ学者は、神社の氏子さん達や御寺の檀家さん達が尊敬する偉人を呼び捨てにして、更には御寺や神社の皆さんが守って来たから読める古文書をさも自分の手柄の様に得意満面に解説していますが、奴等の態度には小生は宗教的にも日本人として先人をリスペクトする歴史好事家(オタク)としても、某古代豪族末孫の宮司家一族の子孫としても違和感しか感じません。
ですから、本当に和尚様や宮司様に御話を聞く事を大切に感じ、親切にして頂く度に御礼としての感謝に加えて尊敬する先人の偉業を伝え守って下さっている事への感謝もいつも感じます。

ところで江戸時代、この御寺を支援したのは間宮忠次公でした。
この方は本牧奉行として、今で言う横浜市の中区南区磯子区港南区の重要な地域を治めた知事さんでした。
そして、徳川家の旧本拠地、駿府城の経済を支えた今の静岡市清水区、少し昔の“ちびまる子ちゃん”が育った清水市を治めた蒲原(かんばら)代官の奉行職も務めた偉い人物でした。
この間宮忠次公の御父上の間宮直元公が初代の本牧奉行、更に但馬奉行と佐渡奉行も兼任して金山銀山経営で前任者から不調だった業績を改善させた名奉行で、大坂城攻めの際に銀山衆を連れて参戦し、徳川家康公に「大坂城総掘りと真田丸の埋め立てによる無力化」を進言した名軍師でした。
そんな御父上の血を引いた忠次公も名奉行で、駿河国蒲原の御代官として有名だったので、その屋敷地だった江戸の居所が「駿河台」の地名に成りました。
実は駿河台の地名は、横浜市港南区笹下を本拠地にした間宮忠次公由来なんですね。
そんな偉人達が関わった乗蓮寺、今では住宅街の御寺ですが・・・
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・・・この乗蓮寺の井土ヶ谷幼稚園で育つ子供達、日本の為にとは言わないけれど、周りの人を幸せに出来る、弱い人を守る為に正しい事を出来る言える、そして源頼朝公の様に苦境に在っても諦めずピンチを乗り越えて正しい事を行える鎌倉武士達の様に強い子供に成ってね!
そして間宮家の歴代武将の様に、仲間から信頼され実務力の高い誠実な大人に成って、家族を幸せにしてあげてね!

御寺や神社の価値は、建物の立派さではありません。どれだけ偉人との関りが有り、その伝統を受け継いで人々の心の支えに成り人間形成の役に立てるか、そしてどれだけ歴史的に重要な場所だったか、昔の人達になんで大切にされたか、その理由と結果が大切なんです。
御寺も神社も火事に遭いますし、御城の跡も風化します。でも、地元の人々に忘れられなければ、逆に心の支えや生きていく矜持を学ぶ事も出来る場所として今でも機能してくれるんです。
そして、それが先人達の願いなのだとも思います。
それは他人から言わされたり押し付けられるのではなく、自分で自然に感じるものだとも思います。

さぁ、皆さんの町にも絶対に凄い歴史偉人が関わった神社や御寺や御城の跡の山や畑が有るはずです。
是非、御近所の小さな神社や御寺や一見何も無い史跡を御散歩してみませんか?

では、又、次の記事で御会いしましょう♪

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ブログネタ
今年後半に向けての抱負は? に参加中!
横浜市南区堀之内、地下鉄吉野町駅から徒歩15分くらいの所…
江戸時代には近くに蒔田湾(古大岡湾)と呼ばれた入江が眼前まで広がっていた丘、今では埋め立てられ平地に突き出した丘の裾に青龍山寳生寺と言う古義真言宗の名古刹(こさつ=古い御寺)が在(あ)るのを御存知でしょうか?

雰囲気有る石段でしょ?
今は宅地に成ってしまった旧参道から山門に続く石段の立派さが、この寺院の往時の権威を今に伝えています。
季節柄、紫陽花も綺麗ですね〜♪
1171年(承安元年)の開基ですから…
鎌倉幕府を開いた源頼朝公の御父君、左馬頭(さまのかみ)源義朝公の頃の時代の話ですね。
山門も良い感じに風情ありますよね?
鎌倉時代には執権の北条貞時公や、横浜市金沢区金沢文庫の地名の由来に成った日本初の私設図書館金沢文庫を創設し称名寺の基に成った金沢北条家の邸宅を建設した文化人で鎌倉幕府の重鎮、北条実時公からも保護されました。
※称名寺の記事は「ココ」←クリック!

近くには戦国時代の武蔵蒔田吉良家の殿様の城、蒔田城も在りました。
戦国時代には蒔田吉良家は横浜市南区や川崎市高津区中原区、東京都世田谷区一帯を支配していました。
吉良家と友好関係にあり江戸城主だった戦国時代初期の名将太田道灌公からも崇拝されていました。
※吉良家の記事は「ココ」←クリック!

余談ですが南区には京浜急行の南太田駅が在りますが、この南太田の地名の由来は戦国時代に今の南区太田に太田道灌公の御城が有った事に由来します。
吉良家の殿様は吉良頼康公の頃から小田原北条家に協力していた関係からか、この寳生寺も戦国時代の名将北条氏康公からも保護されていました。
その鎌倉幕府金沢北条家〜戦国時代の北条氏康公に保護されて来た証拠が山門の上と手水舎に刻印された寺紋です…
北条家の家紋、三鱗紋の使用を許され今も御寺の寺紋として使われています。

さて、この寳生寺、昔は沢山の大建築を擁する大寺院で本山格の権威を誇っていたのですが…
最大時には本殿と鐘楼以外に惣門、長屋門、弁天堂で七福神の弁財天様も御祀(まつ)りしており、それ以外に客殿や熊野社、経蔵が有ったそうですが、明治政府の数少ない愚政の一つ「廃仏棄釈」により衰退してしまいました。
その影響で本殿と山門と鐘楼を除いて失われてしまいました…。
残念ですね。
歴史の古い本殿は、今も健在です。
 
本殿は立派な彫刻を施されています。
あと鐘楼も有ります。
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鐘楼の向こうに本堂を見ると、背後に山林が広がっているのが見えますよね。
 
寶生寺の山林は県の市の保護林にも指定されていて貴重な場所でもあり、保護林である時点でその広大さも窺(うかが)い知れると思いますが、衛星写真で見てみると解り易いですね。
寶生寺
寶生寺を中心に取り囲む山林が寺域です。
むやみに伐採出来ないので、御寺の参道も管理が大変そうですね。
少し雑草が生い茂っていたり落ち葉が多かったので次回訪問する際に、御住職に参道の掃除をさせて下さいと申し出て見ようかなと思いました…
広い御寺を老齢になられてから維持管理するのは大変ですからね…
動ける人間が横浜市の歴史を守って来た御寺や神社に恩返し出来る事をするのは当然だと思いますので。

さて、この寶生寺、戦国時代の終焉の頃には徳川家康公により、保護する旨の朱印状を与えられています。
恐らく、その橋渡しをしたのが寶生寺に深く関わっていた横浜の殿様、「間宮直元公」だと推測出来ます。
間宮直元公は、横浜市磯子区と港南区にまたがる広大な城、笹下城の最後の城主で北条家の滅亡後は徳川家康公に仕えて、笹下城址の麓(ふもと)に笹下陣屋を築いて、そこを拠点に「本牧奉行(ほんもくぶぎょう)」と言う役職を担(にな)っていました。

※間宮家の記事は「ココ 」←クリック!
その本牧奉行の行政担当範囲を衛星写真でみると、大凡こんな感じです。
寶生寺周辺図
写真の中央に寶生寺の所在する横浜市南区、その上部、東京湾に突き出た半島を本牧半島と言います。
そして、本牧奉行の支配域は大凡、写真で見えている範囲で嘗(かつ)て日本神話の時代に神武天皇が城を造りたいと仰ったと伝承する「久良岐(くらき)の丘」と呼ばれる丘陵地帯です。
その丘陵地帯が正に、略(ほぼ)この写真の範囲で、この地域は神話の時代から明治時代に横浜市が成立するまで「久良岐郡」と呼ばれていました。
余談ですが久良岐郡の久良岐が小生のハンドルネームでもあります。
日本武尊と乙橘姫の二柱の神様が、旅されたのが久良岐郡と、隣の橘樹郡、三浦郡の地域で一帯には日本武尊神話がそこかしこに残り、それとリンクする様に浦島太郎伝説も残っている神話と伝承の地域でもあります。
そして平安時代~現代に至るまで坂東武者や戦国武将達の重要な水軍基地だった地域でもあり、現代の日本国の海上自衛隊と米国海軍にとって重要な基地やドッグの点在する地域でもあります。
それと同時に海外貿易を担う「国際港」横浜港の中枢でもあります。

さて、何で大大名でもない間宮直元公が直接、寶生寺と徳川家康公の橋渡しを出来る立場にいたかですが…
直元公の祖父は間宮康俊公と言い、豊臣秀吉の小田原城攻めの際に箱根の山中城の出城、袋崎出丸に籠城し大活躍の後に玉砕した功績から、その子弟の多くが徳川家康公の直臣として取り立てられていました。
そして直元公からして叔母に当たる「間宮お久」さんは家康公の側室に入っており、後に「於久(おひさ)の方」と呼ばれた人物で縁故も有った訳です。
そして直元公御自身も「本牧奉行」以外にも更に重要な役職に就(つ)いていました…
その役職と言うのが江戸幕府の「但馬奉行」と「佐渡奉行」と呼ばれる役職です。
但馬奉行は但馬銀山の鉱山開発、佐渡奉行は佐渡金山の鉱山開発を担う重要な役職で、直元公の前任者は学校の日本史でも習う「大久保長安」と言う江戸幕府の超有名な内政官僚でした。
その大久保長安が政治失脚した後に、最後の笹下城主だった間宮直元公が、その役職を継いだ訳です。

間宮家は室町時代~明治維新まで、横浜の多くの神社仏閣や文化財を守る気風を受け継いだ殿様が多く、この寶生寺にも現代に重要文化財が残りました。
寶生寺の説明看板の写真を、その文化財の説明として掲載します。
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看板の他にも江戸期の石塔が保護されていました。
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さて、何で寶生寺に関わっていた間宮家の直元公が、但馬奉行や佐渡奉行を担っていたかですが、それは今も横浜市港南区笹下に住む、間宮家臣の竹内家や市村家、内田家の其々(それぞれ)の御本家と分家の御子孫の御話しや、文献から容易に推測が出来ます…
間宮家は戦国時代、小田原北条家の家臣でした。
所属した部隊は、関東地方で最強の武将だった玉縄城主北条綱成公率いる「黄備え隊」でした。
黄備え隊は、北条家の国境前線で起きる重要な合戦に常に参戦する部隊でした。
その戦闘範囲は広く…
西は間宮家は家臣古角内田家が受領した感状に記載された年号から、北条早雲公が今川家臣だった時代には遠く三河国(愛知県安城市)に今川軍として遠征し松平家と交戦しています。
北は北条綱成公率いる黄備え隊が信濃国上田城(長野県上田市)の武田軍の救援に赴いています。
東は下総国逆井城(茨城県坂東市)にて頻繁に佐竹家や小田家と交戦していました。

そして間宮家臣の御子孫の皆さんの御話しでは、間宮家は合戦だけでなく築城技術集団だったそうです。
つまり、鉱山の開発を任されたのは土木建築技術集団としての評価も高かったからでしょうか?
因みに間宮家は合戦と土木建築技術の他にも織田家や神社仏閣との外交等でも活躍していました。
その家臣筋の皆さんの証言を証明するのが、1526年に戦災で焼失した鶴岡八幡宮の再建事業に1536年から間宮家の当時の惣領だった間宮康俊公が奉行として参加している事です。
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この鶴岡八幡宮再建には寶生寺近くの蒔田城主吉良頼康公も材木の調達で寄与されています。
間宮家は祖先を有名な鎌倉御家人「佐々木高綱」公と自認していた(実際は佐々木高綱公の叔父の家系)事から、敦実親王の王孫に当たり家格も高く、その上、間宮家の系統の祖先が近江沙沙貴神社の宮司家だった為、神事にも精通し、加えて土木技術集団であったので「鶴岡八幡宮再建事業」にはうってつけの集団だった訳です。
羽柴秀吉における蜂須賀小六に有職故実の知識を足した様な人物に当たるのが、北条綱成公における間宮康俊公だと言えば解り易いでしょうか?
※北条綱成公と玉縄城の記事は「ココ 」←クリック!

この推測を更に強化するのが、徳川家康公の大坂城攻め「大坂冬の陣」の史話です。
間宮直元公は大坂冬の陣に井伊直孝公の与力武将として参戦していました。
その際、徳川家康公に直々に呼び出され密命を命じられます。その内容が…
「坑道を掘り、大坂城の櫓を崩せ」
…と言うものでした。
残念ながら、この作戦の成功を見ずに直元公は在陣中、病没してしまわれました。
しかし、この逸話からも、直元公が家康公と直接話せる立場に在ったと言う事が立証出来る訳です。
なので、寶生寺と関わりの深い間宮直元公が徳川家康公に口添えし、御朱印発給を要請した事が推測出来る訳です。

この寶生寺は間宮直元公や北条家、徳川家康公とこの様に関わりを持って来た訳ですが…
南区に御住いの皆さん、寶生寺がそんな凄い御寺だって御存知でしたか?
小生は寶生寺を訪れて、ますます先人の残して下さった文化と神社の宮司さん氏子さん、御寺の和尚さんと檀家さんが守り伝えてきた歴史を大切にしなきゃいけないなと改めて思う休日に成りました。
どうやったら郷土史の伝承に貢献できるか、寄与できる方法や規模を充実させて行きたいなと思いました。

もし、これを読んで御興味を持たれたら是非!寶生寺や御近所の吉良家の蒔田城址に在る吉良政忠公の菩提寺である龍祥山勝國寺を御散歩して郷土の歴史を感じてみませんか?

では、又、次のブログ記事でお会いしましょう!
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