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カテゴリ:神社仏閣聖地霊場 > 横浜市金沢区

前回の記事⤵

これの続き。

前回は寶樹院高照寺が元は侍従側沿い、昔の海辺に向かう谷の三艘谷戸に存在した事と、高照寺が隣の谷戸に有った廃寺常福寺の歴史と歴代住職の菩提を引き継いでおり、常福寺は元は室町時代の足利幕府鎌倉公方足利持氏公の祈願所で金沢文庫の由来に成った稱名寺の末寺だった事や今の大道一帯を寺領として所有しており関所を設けて関税を徴収して反映していた歴史を紹介しました。

今回はその寶樹院の現代の施設の様子を紹介したいと思います。
現在の寶樹院は高台の上に在ります。
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境内から見た景色はこんな感じで、昔はこの御寺の下の近くまで海が入り込んで来てたんですね~。
ここなら関東大震災が起きて昔の海の部分に津波が遡上して来ても安心ですね。

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高榮山 寶樹院 高照寺実は古代の‟延喜式内社”と呼ばれる西暦900年代の醍醐天皇が政令で‟朝廷で保護しなさい”と定めた神社や弘法大師様が開いた御寺は古代の海から湿地帯に成った場所を避けた丘の上の郡衙(ぐんが:郡庁舎)跡地や縄文弥生古墳時代の集落の跡地から聖地化された場所や、昔は山の尾根道が主要街道だったので山道の入口の飲用水補給基地に成る湧水の沢や滝や池が聖地化されて寺院が建てられる事が多いんです。
寶樹院の近くで弘法大師様が関与した場所だと、南区の弘明寺、鎌倉市の覚園寺、今は浄土宗で元は真言宗だった鎌倉今泉の称名寺なんかが正にそういった背景が有る場所ですね。
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でも高照寺の移転時期は江戸時代なので、もしかしたら三艘谷戸の旧境内が火災で焼失して移転して来たのは、地形的に最初から津波対策を期待されての事だったかも知れませんね。
実際、衛星画像に古代の海岸線の画像を張り付けると寶樹院の手前まで海だった事が解ります。
六浦周辺の古代海岸線 久良岐のよし
青い色の地域が昔の海なので、高照寺は安全圏ですね~。
大道の皆さんは大地震が起きたら高照寺に逃げ込んだら良いと思う。
さてさて、そんな訳で高台に移転している高照寺ですが、地形上参道の階段もちょっと長くしたからでは御堂が見えません。
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この下の階段を上って真っ直ぐな階段の下に行くと、小泉さん家の菩提寺なのが判ります。
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この階段の手すりの前の石柱に注目して見ましょう。
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もろに‟小泉家”って書いて有りますね(笑)。
実は小泉元首相の御爺さんの又次郎サンの代まで大道に住んでいた御縁で今でも菩提寺なんです。
昭和28年09月と彫って有るので、又二郎さんが亡くなって2年後に寄進されている様です。
つまり小泉孝太郎君の御爺ちゃんで又次郎サンの婿養子の小泉純也サンが寄進している事が解ります。
階段を上ると御本堂が有ります。
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寶樹院高照寺としての御本尊は大日如来様です。
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常福寺の歴史を受け継いでいるので、足利家に使用を許された足利家の家紋の‟二つ引き両紋”の寺紋に成っています。
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彫刻はシッカリした物ですが木材を見ると御堂が最近再建されている事が解ります。
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扁額は新しい様ですね。
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この家紋の由来も来たけれどちょっと忘れちゃいました(笑)。
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屋根の家紋も独鈷と余り見た事の無い寺紋が使われています。
昔御寺に関わった武家の家紋でしょうか?
御寺の奥さんに聞いたけど、こちらは良く解らなかったと思います。
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そして御寺には真言宗らしく御地蔵様も祀られています。
御本堂の前には小泉さん家との繋がりが良く解る物が有ります。
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小泉元首相が植樹した樹。
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立派な枝ぶりですね~。
元々どっかの造園屋サンが持ってた高価な庭木を買って来たんでしょうか?
御本堂の左手には阿弥陀堂が有ります。
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こちらが常福寺の歴史を引き継いでいる建物です。
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御堂の前には御由緒書きが有ります。
常福寺が鎌倉幕府設立前から有る由緒正しい御寺だった事が解りますね。
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阿弥陀堂と書いて有ります。
この中を覗かせて頂くと・・・
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鎌倉幕府や室町幕府鎌倉将軍府を守護して来た常福寺の偉い歴代住職の菩提が今も寶樹院高照寺の御住職によって祀られています。
ところで、この高照寺の裏手駐車場側に気に成る地形を見つけました。
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鉄塔の手前に削りの押された岩盤、明らかに元々はあの高さに矢倉(横穴式墳墓)が有った様なので、下の常福寺跡~この江戸時代に移転して来た高照寺の境内は一体に成っていたんでしょう、尚且つ、この高台には人の往来が有る道が有った様です。
つまり未開の山を開削して開いた寺院ではなく、もともと常福寺に纏わる御堂か有った削平地も有ったのかも知れません。
それと常福寺跡の奥の歴代住職の御廟所ですが・・・
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この場所の地形が明らかに要塞化されたいた様な形跡が有り、尚且つこの今は人の往来の無い場所は古道で朝比奈峠に繋がっていた間道だった様です。
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直角に切り抜かれた平場と裾切された地形が今も残っています。
なので高照寺の墓地の地形・・・
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こちら側の今は高い所に残された矢倉跡の位置を通る山道も昔は比較的人の往来が有り、もしかしたら足利持氏公か足利成氏公の時代に京都の幕府勢力に付いた上杉家との戦闘を想定して要害化されていた時代も有ったのかも知れませんね。
上行寺の伝承を見るに、状況証拠的に昔の海を挟んで対岸の御伊勢山と権現山は荒尾城として要害化されていた様ですから、こちら側にも防御構造は多少は作られていなければ可笑しいですから。

いずれにせよ、昔の平安時代には常福寺が存在していたので平安時代の道は尾根道ですから、普通にこちらの山も鎌倉に抜ける道だったんでしょう。
そして、その歴史を持つ地形から大地震の時の津波から逃げるのに適した場所でもある訳です。

昔は鎌倉将軍に大切にされ、最近では内閣総理大臣を輩出した御寺、強い御利益も有りそうですね。
今では住宅街の裏山の普通の規模の御寺ですが、スゴイ歴史が有るのが前回の記事と合わせて御理解頂けたでしょうか?

きっと皆さんの御近所にもスゴイ歴史偉人との関わりの伝承を持つ神社仏閣が有るはずです。
ちょっと街の中を御散歩して、城址の公園や御寺や神社を散歩してみませんか?
そこで説明の看板を読んでみて、凄い人との繋がりを知ると自分の地元をに誇りと愛着を更に感じれるかも知れませんよ?

・・・では今日はここまで。又次のブログ記事でお会いしましょう~♪

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今回は鎌倉公方足利持氏公が信奉した常福寺と寶樹院言う2つの御寺を2回の記事に分けて書きたいと思います。
今回は歴史解説、次回は寶樹院の様子を写真解説したいと思います。

横浜市金沢区には沢山の歴史が有る御寺が有る事を皆さん御存知でしょうか?
街の中の小さな神社や御寺や良く解らない御墓も実は凄い歴史偉人の関わった場所だったりしますが、そんな史跡の中でも鎌倉時代~室町時代の名将達が特に関わった場所が多いのが横浜市金沢区です。
そんな場所の一つが、金沢区六浦に在る高照寺と言う御寺です。
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高榮山 寶樹院 高照寺この御寺の高榮山 寶樹院 高照寺は現代の漢字にすると高栄山宝樹院高照寺と書きます。
宗派は古義真言宗です。
一般的には寶樹院の院号で呼ばれますが、小生は高照寺の寺号で呼ばせて頂きたいと思います。
高照寺の開基(かいき:御寺や神社を開業く事や開業した人)は恐らく宗派と周辺の状況から平安時代末期~鎌倉時代に遡れるはずです。
金沢区観光協会の方では慶安三年(1650)年と掲載していますが、この慶安三年開基は開基では無く再興された年を示しているので本来は‟再興開基”と書くべきなんですね~。
金沢区観光協会の解説は事実誤認生んでしまい良くない書き方です。教えた教育委員会が良くない。

では御寺の地形や施設より先に、歴史を解説したいと思います。
先ずは横浜市役所に‟再興開基と書くべき”とツッコミを入れたので御寺の旧境内地を見てみましょう~♪
高照寺の旧境内地は三艘(さんそう)と書いて三艘谷戸(さんぞうやと)と呼ばれている場所でした。
寶樹院旧境内地 久良岐のよし
今では住所として三艘の地名は消えてしまいましたが、現地の人は今でも旧字(あざ)の小名(こな)を伝えていて三艘町内会館が京浜急行六浦駅東側の線路沿いに残っています。
三艘谷戸(さんぞうやと)と言う地名から御寺を囲う様(よう)に山に囲まれた谷間に存在していた事が解ります。
正に画像で三艘町内会館の左奥(南西)が谷戸地形に成っていますねぇ~。
前を流れるのは侍従川(じじゅうがわ)ですが、この付近の川は現代に成って埋め立てられた海の名残りです。
昔、鎌倉時代~室町時代に御寺がここに有った時代は海に面した風景の綺麗な御寺だったようです。
ところで・・・
谷戸(やと)と言うのは馬蹄型のU字谷の谷底に寺院や城館を築いて谷の入口に門と塀を築いて塞ぎ、山を城壁代わりに使っていた事を示す地名です。
三艘谷戸 上 久良岐のよし
三艘谷戸は典型的なU字谷ですねぇ~。
横浜市や鎌倉市の鎌倉文化の影響を受けた地域の平安末期~室町時代に成立した寺院は凡(おおよ)そ、この地形に有ります。
現代人は勘違いしていますが、谷を谷戸と呼ぶわけでは有りません。山に囲まれたU字型の谷間を利用して御屋敷や神社仏閣や尾根に繋がる道を築く時に、U字谷の開口部を封鎖し門を築いていた場所を谷戸と呼びました。今では建物や古道が無く成り谷戸(やと)の地名だけ残った場所を現代人が谷=谷戸と勘違いしているんですねぇ~。
谷だけを示す場合は、例えば鎌倉だと・・・
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写真は犬懸谷(いぬかけがやつ)⤴の入口。
そして宅間谷(たくまがやつ)⤵
2008-12-12-15-08-33
旧相模国では‟谷”と書いて現代の書き方で~ヶ谷(がやつ)と読みます。
これは相模国の方言です。
谷の読み方は寶樹院の在る旧久良岐郡域に入ると方言で又変化します。
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写真は京急神奈川駅を青木城址の本覚寺から見下ろした写真です。青木城は戦国時代の北条氏康公の軍師だった多米元忠公が城主を務めた御城でした。
この写真の神奈川駅の裏に在る山が‟幸ヶ谷(こうがや)公園”です。
旧久良岐郡に入り武蔵国域南部に成ると方言で‟谷(~がや)”と呼び方が又変わるんですね。

青木城に興味が有る人はコレ⤴過去に書いた記事です。
ところで幸ヶ谷公園は青木城の前身と成った権現堂(権現山)城の跡です。
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今の横浜中央卸売市場の辺りに幕末に勝海舟サン達が神奈川台場を建設する際に権現堂城跡の権現山を削ってしまったので今では上の写真の様にちょっと段差が有る位になってしまってます。
この高さだと、丁度小生が夏に三浦半島で落ちて骨折した崖の高さ位(笑)。昔はもっと高い山と深い谷でした。
まぁ、幸ヶ谷の地形の話は置いておいて、そんな訳でU字谷と谷戸とは同じ地形でも別物です。
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上の写真は藤沢市の宗賢院です。曹洞宗でそれ以前の事は何にも古文書が残っていませんが、遺物の状況的には平安時代末期には前身寺院が存在し鎌倉武士の大庭家に保護されていた御寺の様です。
この写真の様にU字谷に御寺を築いて谷の開口部を土塀と門等で塞いだ場所を谷戸と言ったんですね。
U字谷でも只の谷は~谷(がやつ/がや)です。

さて、高照寺の旧境内地の場所と地形が解った所で移転先の現代の境内地の地形を見てみましょう。
寶樹院の地形 久良岐のよし
現在は山の上に御寺が有りますね~。冒頭で書いた通り慶安三年(1650)年に三艘谷戸から現在地に移転してきました。移転の理由は火災による旧境内の堂宇の消失です。
寶樹院の隣に何やら御寺が有ってもおかしくない怪しいU字谷が有るでしょう?
実はそのU字谷は谷戸の跡なんです。つまり御寺の跡です。
「え?こんな御寺の隣に御寺作るの?」
・・・と思いませんか?それには理由が有るんです。
実は今では何も無い住宅街のU字谷の真ん中に参道の様に真っ直ぐ道路が有るでしょう?
これが常福寺と言うとっても格式が高い御寺の跡です。
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写真の道が旧常福寺参道で、少し段差に成っている場所から旧境内。
この道を真っ直ぐ進むと、何やら雰囲気が変わってきます。
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遊歩道みたいに成ってますよね。この奥に常福寺の名残が今も有ります。
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歴代御住職や、恐らくここを支援した武将の御墓が今も残っていて高照寺の御住職によって守られています。
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字が磨滅してしまって読めない物ばかりですが、石塔の形状を見ると戦国時代~江戸時代にはちゃんと檀家さんがいた様です。
この場所が地図に登録されていなかったので小生が登録して置きました。
これ⤵

足利家と小泉家の勝利の源泉はもしかしたら、この鎌倉公方祈願所だった常福寺の御利益かも知れませんね。
先程「常福寺歴代住職の菩提を寶樹院の御住職が守っている」と説明しましたよね?これが移転の理由でしょう。この理由の説明をするには常福寺の歴史を知る必要が有ります。
常福寺は江戸時代までは真言律宗で金沢文庫稱名寺の末寺でした。
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稱名寺は桜の名所として地元の人に親しまれている御寺で、真言律宗の別格本山です。
この称名寺の末寺だった事から、鎌倉時代の常福寺の支援者は六浦の支配者であり鎌倉幕府の重鎮であり稱名寺の大檀那(オーナー)だった金澤北条家だったはずです。それを示すのが江戸時代に編纂された‟新編武蔵風土記稿”の常福寺の項目に登場する室町時代の支援者の家格です。
実は常福寺は鎌倉幕府滅亡後、室町幕府足利家によって支援されていました。
記録に名前が残るのは関東を治めた鎌倉公方の足利持氏公です。
常福寺の項目にはこう書かれています。
境内年貢地、同所に在(あり)、眞言律宗金澤稱名寺末、大道山と號(ごう)す。
足利持氏の祈願所にて古(いにしえ)は寺分の地一圓(いちえん)に当寺領なりしと云(言う)。
金澤稱名寺に藏する應永廿九年の文書に、六浦庄の内常福寺云々とあれば古刹なる事は論なし。
又【北条役帳(小田原北条所領役帳)】に六浦大道分とあるは則(すなわち)當(当)寺の領せし所を云(言う)なるべし。後年次第に衰廢して寺領も皆失ひ、今は領主より阿弥陀免として~
~以下省略~
これを読むと解りますが、関東を統率する足利持氏公が祈願所に定める程の寺格を持っていた寺院だった事が解りますね。つまり足利家に匹敵する家格の武士が支援した事に結び付くので、鎌倉時代の金沢領主で常福寺の本寺だった稱名寺のオーナーの金澤北条家が支援していたと考えるのが極々自然な訳です。
更に何で現在は寶樹院高照寺が旧常福寺の境内を管理しているかも解る事が書いて有ります。
元々は今の住所で金沢区大道と呼ばれる地域は全部、常福寺の土地でした。
金沢区大道 久良岐のよし
赤い範囲が大道と呼ばれる地域。
地域名の大道の由来に成っている朝比奈峠~鎌倉に抜ける六浦道(むつらみち)をスッポリ持っていたので、道に関所を築いて通行税を徴収して栄えたりしていた様です。しかし‟後年次第に衰廢して寺領も皆失ひ、今は領主より阿弥陀免として~”と書いて有る通り何時の時代にか常福寺が所有していた大道の土地は全て失ってしまい、少なくとも戦国時代の小田原北条家が関東を統治した頃には別の御寺に土地を取られてしまった様です。
北条所領役帳の寺領の項目に大道分が一行だけ登場するので見てみましょう。
一 卅三貫文 六浦大道分 龍源軒
これしか大道分の地名は出てきません。歴史学者サンはこの‟龍源軒”を鎌倉の建長寺の塔頭、龍源軒だろうと推測しています。
小生は学者さんと違い、町屋の龍華寺の事じゃないかな?と思っています。
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六浦には源頼朝公と真言宗の文覚上人が開いた浄願寺と言う御寺が有りました。実はこの御寺を北条家が金沢一帯を支配する少し前に太田道灌公が龍源寺として同じ金沢区の町屋に復興しているんです。
恐らく龍源軒と言うのは江戸時代には名前が龍華寺に変わってしまっていた龍源寺を辿る事が出来なかったんじゃないでしょうか?
・・・とは言え臨済宗の建長寺にしろ、町屋の龍華寺にしろ、恐らく常福寺の土地を取り上げて勝手に他の御寺にあげてしまったのは関東管領上杉家や太田道灌公達でしょう。
太田道灌公
実は太田道灌公とその父上の太田道真公の家系は足利持氏公やその子の足利成氏公と対立した家柄でした。その対立が大規模合戦に発展したのが‟享徳の乱”と呼ばれる太田家&長尾家が仕えた上杉家連合軍vs鎌倉公方足利成氏公の軍勢の全面戦争でした。
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この抗争の結末は‟江ノ島合戦”で鎌倉公方の足利成氏公が関東東部の諸将に支持され勝利する等、最初は上杉家臣の太田家長尾家は敗北します。しかし上杉家の後援者が室町幕府征夷大将軍足利家本家だったので結局は政治的に足利成氏公は劣勢に成り、今の茨城県の古河市に在った古河城に移住する事に成ってしまいました・・・
すると当然ながら鎌倉公方家に支援されて戦勝祈願を行っていた常福寺は京都の将軍家や、その手先の関東管領上杉家や部下の相模守護代の太田家から目の敵(カタキ)にされる訳です。
・・・そして、そのタイミングで太田道灌公が当時六浦の廃寺になっていた龍源寺を町屋に復興したと成ると、眞言律宗の常福寺から取り上げた土地を真言宗御室派の龍源寺=龍華寺に寄進したと考えれば自然な事でしょう。
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でも学者サンの推測する建長寺塔頭龍源軒説も有りえる話です。なんせ太田道灌公は幼少期から思春期まで建長寺で修行して兵法や学問を身に付けた人物ですからね。
まぁ、正直な所は大道分の土地の持ち主が龍華寺の龍源寺の事か、建長寺の龍源軒の事かは今では解りません。
でも太田道灌公や上杉家によって懲罰的に常福寺の土地が取り上げられ、その数十年後に北条氏綱公がこの一帯を支配した頃には既に常福寺はヤバい状況だったのでしょう。
ちなみに龍華寺サンも北条氏綱公の頃に怒りを買って土地を取り上げられているようです。
この伝心寺⤴の記事で少しソレに触れています。
江戸時代の常福寺は横浜市域で唯一の大名だった六浦藩主米倉家(柳沢吉保の子孫)から支援されて細々と存続する位に衰退していた事も新編武蔵風土記稿の記録から解ります。
更に龍華寺も戦国時代末期には北条家の怒りを買ったらしく、土地を没収されていますので大道分は安土桃山時代位に北条家かその家臣団によって寶樹院高照寺に寄進されたのだろう事が江戸時代1650年には常福寺の真横に三艘谷戸の高照寺が火事で焼けて移転してきている‟土地の所有者”に成っている事から解る訳です。
寶樹院旧境内と現在地位置関係 久良岐のよし
実際、近いですしね。大道分の侍従川を挟んだ片側が高照寺の寺領に成ったみたいですね。
だから移転出来た。
そして幕末~明治時代に廃藩置県が行われ常福寺を支えていた米倉家が大名じゃなくなり常福寺の収入減が無く成り、更に明治政府の廃仏毀釈で維持困難に成り、その際に隣接する寶樹院高照寺サンに全てを託して廃寺手続きを行ったんでしょうね。
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でも今でもちゃんと、ここで寶樹院高照寺の御住職によって歴代住職の墓所が守られている訳です。
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ちゃんと高照寺の御堂の中には常福寺の歴代住職の御位牌が祀られていました。

今では地形と歴代住職の御廟しか常福寺の境内は残りませんが、ちゃんと高照寺の歴代御住職によって常福寺と足利持氏公の歴史は守られています。

その②に続く⤵

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金沢文庫称名寺で黄色の菖蒲が見頃と聞きましてお散歩して参りました~。
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金澤山 彌勒院 稱名寺
秋晴れと桜の季節の印象が強い称名寺。
今の季節と言えば例年、野島の伊藤博文金沢別邸やキャンプ場か三浦半島の海側に散歩に行く事が多く、蚊の出始める直前の称名寺の菖蒲をゆっくり見に来た事が有りませんでした。
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橋の両脇から池の畔(ほとり)のあらゆる所
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可愛らしい黄色い花が群生していて気持ちを明るく爽やかにしてくれます。
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参拝客もこの季節は多くはなく、ゆっくり散歩出来ます。
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でも菖蒲も少し有名らしく凄いカメラを持って来ている人が何人かいらっしゃいました。
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う~ん、桜も良いけど緑と黄色に朱塗りの橋、山の緑に空の青がとても綺麗~♪
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まだまだ蕾(つぼみ)の花弁が開いていない株も多く、あと1週間は楽しめそう♪
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来週、又、菖蒲を見に来よう!
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柴漁港 小柴のどんぶりや
柴漁港の天丼小屋に小柴の穴子の天丼食べて、ついでに海の公園をランニングしよかな!
小柴の穴子天丼と小柴の蝦蛄刺身 久良岐のよし
皆さんも称名寺と海の公園、セットでお散歩しては如何でしょう?
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喜多屋旅館 CaféDining ぼたん近くに在る明治時代の日本建築文化財の旅館、喜多屋のカフェ部門ぼたんでランチやお茶したりも出来ます。
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八景島シーパラダイスも近いですし、海でも遊べるので良い休日を過ごせますよ~♪
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本当は昨日、北条家臣中田加賀守の記事を書く筈だったのですが忙しくて今日も書けていません(笑)。
でも週末に行った横浜市金沢区の称名寺、金沢文庫駅の名前の由来の御寺サンの参道と境内の桜が丁度、9分咲きで見頃だったので、歴史解説記事代りにその写真を掲載します。

きっと今週中に見に行けば、まだまだ見頃だと思いますよ♪

御近所は喜多屋と言う明治時代の料亭を旅館&Caféに業種替えしたオシャレな店や、小柴の柴漁港天丼小屋、もう少し歩けば海の公園や八景島シーパラダイスが在り、レジャーやランチのついでに桜散策には持って来いの場所ですよ!
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金澤山 彌勒院 稱名寺・・・真言律宗別格本山
(きんたくさん みろくいん しょうみょうじ)
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とっても春は雰囲気の良い御寺なので、是非足を延ばして見ては如何でしょうか~?
この御寺は鎌倉時代の名将、北条実時公の邸宅跡を寺院化した場所で、真言律宗別格本山の格式を持つ御寺です。北条実時公の金沢北条氏は鎌倉幕府の重鎮で六波羅探題と言って今の関西地方を治める役職を担った家柄でした。
恐らく全時代の武士を通じて屈指の、戦国時代の細川藤孝公以上の文化人だったので北条実時公が収集した経典や花器仏具等は膨大な量に及び、更に後に鎌倉公方とも密接な関係に成った寺院だったので多くの古文書も残る事から歴史学者には「東の正倉院」の異名で呼ばれた場所でした。
御寺の境内の隣の谷に北条実時公が収集した文化財を保管するする称名寺の文庫が有ったので、そこが文庫谷(ぶんこがやつ)と呼ばれる様になり、それが地名と京浜急行金沢文庫駅の駅名由来に成ったんです。

実は今年に入ってから先月迄、国家資格をいっぺんに3つ取得したり、今月から仕事で使えそうな別の資格の勉強も始めるので今週末までちょっと忙しくて、中田加賀守の矢上城の記事を書けるか分かりませんが出来るだけ週末にはUPする様にしますね!余り濃い内容には成らないとは思いますが、久しぶりに地形の解説なんかも入れたいと思っています。

ささ!今年は桜がベストコンディション!
皆さんにも小生にも今年の桜同様に元気いっぱい明るい良い年に成ります様に~♪







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さて、歴史が好きな人も嫌いな人もいると思いますが、皆さんは源頼朝公の弟で名将だった源範頼公を御存知でしょうか?
源範頼公
この人は兄である源頼朝公から軍才を信頼され、実際は源義経よりも高い統率力を発揮した名将でした。しかし恐らく源頼朝公をヒ素で暗殺した北条時政やその婿の稲毛重成、北条政子様と北条義時公の北条一族の謀略に巻き込まれ横浜市金沢区で自殺して生涯を終えた悲しくも潔かった私利私欲の無い名将です。この人がいたから鎌倉幕府は樹立され、その後にモンゴルと朝鮮人の元軍による侵略から我々の祖先の命は助けらた訳です。
だけど範頼公は死して尚、現代に至っても昭和期にバカ共のせいで悲しい目に遭っている悲惨な偉人でもあります。
今回はこの名将の菩提寺の紹介と歴史変遷の解説を書きます。
小生は❝中道保守派❞の人間なので平素よく日本文化を軽視し自然破壊する土建屋と結託し在日ヤクザ勢力を批判しない左派思想分子を批判しますが、今回の記事はこの偉人と御寺の歴史を通じて盲目的な右派に釘を刺し批判する事を書く事にも成ります。
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以前、欧米諸国の軍人さん達からその存在を称賛されている世界三大旗艦の一つ戦艦三笠の解説記事で書いた事が有るのですが、宗教を国内統制に悪用した一夕会独裁の昭和初期の軍事政権下の軍幹部は口では神に対して信仰を持っている様な事をのたまいながら大部分の連中は古来の神道に対する信仰心も日本文化を醸成して来た仏教文化に対する敬意も微塵も無く、国家神道と言う新興宗教に造り変えられた日本の神々を崇敬する様な事をしながら倒幕志士世代明治の政治家や軍人には実際は全く信仰心が有りませんでした。
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戊辰戦争世代の明治の帝国海軍軍人達は日本文化や古来の神様に対する崇敬の念が深く、奇跡的にロシア帝国に勝利した対馬海戦時の旗艦だった戦艦三笠は❝八幡大菩薩❞の神名で神仏習合時代の古来の文化で応神天皇に習合された水神様の御分霊や伊勢神宮の天照大御神の御分霊を戦艦内に祀っていました。
だから海軍設立の立役者に等しい坂本龍馬サンの奥さんの❝お龍サン❞が亡くなった際、横須賀市大津の信楽寺で海軍の軍人達が集めた寄付金によって仏教形式でお龍サンの葬儀が行われ墓所が造られました。
又、明治時代初期にプロテスタントに改宗したキリスト教徒日本人政治家達によって宗教改革や軍政が行われ日本神話の神様も弾圧されました。日本神話でとても重要な役割を果たしている日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)の夫婦神が滞在した三浦半島横須賀市走水の旗山崎、御所ヶ崎には弟橘姫を祀る神社が有りました。
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写真の船溜まりのある半島状の土地が御所ヵ崎です。
しかしこの御所ヵ崎、山県有朋と言う長州人の陸軍人の後に政治家に成る腐敗分子による立案で猿島や観音崎砲台が整備された際に、弟橘姫を祀っていた橘樹(たちばな)神社は破壊され砲台が据えられてしまいました。
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旗山崎こと御所ヵ崎に隣接する展望台からは三浦半島の海岸線の先に富士山と大山を眺める事が出来ます。
この御所ヵ崎の橘樹神社を破壊させる砲台建設をさせた山県有朋はクソ野郎で、明治時代に議会制民主主義導入されるまでの合議制時代、陸軍人だった頃に現代の貨幣価値で軍の予算120億円相当を着服し勝手に民間企業に投資した腐敗した政治家でした。しかも腐敗が発覚した際に命まで奪わなかった上官の西郷隆盛公を結果的に殺した人物だったりもします。
そんな明治時代の日本の神様や仏教の仏様を愚弄した蛤御門の事変や倒幕を経験した世代の利権主義腐敗政治家や腐敗軍人達に異を唱えたのが戊辰戦争世代の明治~大正に活躍した世代の軍人サン達でした。
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幕末~明治初期に活躍した外国かぶれ世代の軍人政治家達によって橘樹神社等の日本武尊と弟橘姫が滞在した行在所(あんざいしょ)だった神話の聖地が破壊されると、それに心を痛めた戊辰戦争世代の東郷平八郎元帥達によって神社を潰されてしまった日本古来の神様達の御神霊は走水神社本殿に合祀されたり奥宮と言う形式で走水神社背後の山に遷宮され祀られました。
その東郷平八郎元帥が司令官として乗艦したのが戦艦三笠だった訳です。ですから戦艦の守護神に神仏習合時代の習慣の御神名で❝八幡大菩薩❞が祀られていたんですね。
しかし昭和に成ると明治の腐敗政治家を批判して始まった一夕会と言う組織が台頭します。その組織を大戦末期に牛耳っていたのが東条英機等で、彼等は元々明治の元勲達の利権政治を批判して大義名分を得ていた筈が結局自分達が権力の座に着くと独裁政治を始め戦況報告ですら事実を伝えなく成りました。彼等の政治組織は軍人の任命権を独占し悪用、軍事政権が打ち立てられるのですが、彼等は共産主義者を弾圧しながら行った政治は計画経済、配給制度と共産主義その物、つまり同族嫌悪に等しい左翼弾圧を行い更には古来の神道も仏教も否定したり軽視した軍人を増産していった訳です。
大戦末期の右翼と左翼は天皇家を利用したいか排除したいかの差は有れど本質的にやってる事は何も変わらんかった訳です。
無論、井上成美先生の様に中道派の真ともな軍人さんもいた事も無視してはいけない事実です。
これは小生達生粋の古来の豪族の血を引き、天皇家と同じ神仏習合の日本宗教観を大切に思う保守派である本物の日本人から見るとチャンチャラおかしい政治で、一夕会のやった事はとても保守派とは言えませんでした。
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さて数年前、神奈川県立歴史博物館でも展示されたり小生が今から話す事と同じ内容の歴史事実の解説も行われましたが、第二次世界大戦で日本がアメリカに唯一勝機を見出す戦いで決選兵器となるべき戦艦大和の不戦撤退があった事は有名な話です。
実は、その当時の戦艦大和は東郷元帥達明治~大正時代の軍人達が見たら昭和の軍人を怒り罵倒しながらドツキ回すであろう状況に成っていた事を知る人は多くは有りません・・・
実はこの時、戦艦大和は海軍幹部達によって撃沈されたら困る内装の❝高級ソファー❞や守り神である❝神様達の御分霊❞が撤去されていたんですね。
・・・つまり対米戦線の火蓋を切った昭和の軍幹部、一夕会の影響下での出世に靡いた連中は❝最初から勝つ気も日本人を御守り下さる神仏に対する信仰心も無く負ける事を考えていた❞事が戦艦ヤマトへの❝仕打ち❞で証明出来る訳です。更に彼等は口先では国民や軍の低階級指揮官には「負ける訳が無い」とデマを流しながら自分達の司令部は海軍なのに海の無い慶応大学日吉キャンパスの地下に造られた地下道塹壕網の中に引き込もらせ空襲を警戒したり、最初から完全に勝つ気なんか無い癖に自分達の身体だけはシッカリ守ろうとしていた訳です。
マジで保守派から見れば勝つ為の信仰も捨て、不利な現実を直視し落し所を見つける努力もせず、下級職の部下を使い捨てにして、本当に統治崩壊していた訳です。
さて、今回紹介する御寺はアホな小説家達のせいで愚鈍なイメージで演出され、それを自分で検証確認もせず妄信する阿呆な半端な歴史好き共に実績を無視された平安時代末期の悲劇の名将❝源範頼❞公の菩提寺の御話ですが、その御寺は一夕会軍事政権の政治のせいで今では凄く解りずらい場所に在ります。
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御寺に行くには京急の隧道をくぐって、横浜市金沢区片吹と言う場所の住宅街の奥の谷地形まで行かなければいけません。横浜市歌を歌える生粋のハマっ子でも国道16号線が通り、一般住宅が立ち並ぶ普通の住宅街のイメージしか湧かない人の方が多い場所で、地元民でも無いとそこに由緒正しい御寺があるなんて気づく事も出来ません。昔は関東学院全ての敷地が広大な御寺の境内地だったのに昭和の一夕会軍事政権のせいで今の狭い敷地に不幸な移転を強要され縮小させられた凄い歴史偉人、源範頼公の菩提寺が在るんです。
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海蔵山 太寧寺その御寺の名は海蔵山太寧寺と言います。名将源範頼公の菩提寺で臨済宗の元大寺院でした。
元は今の関東学院の埋め立て地を除いた全域が境内地だったですが、今では無残な程に縮小されており小生は昭和の軍幹部と、敗戦後に寺境内地を勝手に登記する詐欺的な連中とそれを容認した明治大正生まれ世代で横浜市役所に勤務したクソジジイ共に殺意に等しい怒りを感じます。
そもそも源範頼公は源頼朝公の弟と言うだけでなく御自身が名将だったのに阿呆な江戸時代や昭和の小説家の演出を妄信する馬鹿共のせいで愚将のイメージを持つ奴ばかりで歴史事実と乖離した悲惨な待遇を現代人からも強いられています。
実際は実戦経験の豊富な平清盛や平宗盛旗下の平家軍を相手に堅実に大損害を受けずに勝ち続けた源氏勝利の立役者が源範頼公の実像で、兄君の源頼朝公も生前は範頼公を深く信頼していました。
源義経が名将の様なイメージで評価を混同する馬鹿が多くいますが、一之谷の合戦でも準備万端な平家軍を釘付けにして損害を最小に抑えたのは範頼公の統率力と作戦に由(よ)りますし、そもそも鵯越の逆落としと呼ばれる作戦を立てたり実行したのも源義経ではなく横浜市都筑区の茅ヶ崎城主だった多田行綱公と、名軍師で三浦一族だった三浦半島横須賀市佐原城主だった佐原義連公の功績による物です。
その作戦を採用したのが当然ながら源範頼公だった訳で、源義経公はその実行部隊の隊長を任せられて多田行綱公と佐原義連公の御膳立てに乗っかり、頼朝公の与力の名将、土肥實平公や畠山重忠公や熊谷直実公が軍勢を統率しての挟撃作戦成功に他なりません。
太寧寺周辺 久良岐のよし
そんな名将、源範頼公の菩提寺の太寧寺は現在では❝絶対に太平洋戦争中迄は全てが境内地だった狭い谷間❞の中に在ります。
しかし、この狭い谷間さえ戦後の混乱に乗じて土地が何某の連中に登記され宅地開発されてしまい見る影も無く縮小、御本堂と御住職の比丘尼様の住む庫裡が有るだけに成ってしまいました。境内の庭すらロクに有りません。
この御寺が移転縮小させられた原因は小生が批判する昭和の一夕会政権に責任が有ります。
昭和の一夕会政権下の軍幹部達は各地戦線の不利を正しく天皇陛下に上奏せず隠蔽し、しかも負けるが前提の勝つ作戦や落し所を合理的に見出す精神論では無い作戦とは乖離した、実際は逃げて回り兵站(へいたん=食糧軍需品の輸送路とその中継基地)すら確保せず兵糧も補給できない状況も直視せず末端の兵士を使い捨てにした現実逃避の隠蔽主義で軍政を行っていました。
自分達の司令部は横浜市港北区日吉の慶応大学地下に作ったり、東京都の高尾山の山中地下に作ったり、自分達の身を隠す事に執着しながらも、その圧倒的不利を直視していなかった訳です。
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そして自分達の身を守る為だけに首都東京の制空権を守ろうとして横浜市金沢区野島に零式艦上戦闘機通称❝零戦❞の格納庫がわりの大地下壕を建設開始します。
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その為に現在の日産追浜工場とテストコースとなった横須賀飛行場の拡張工事も始めました。
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金沢区は金沢八景の名で景勝地として知られた場所だったのですが、アホの昭和の軍事政権下の軍幹部と、戦後のアホの市長の政策で京都の天橋立以上に美しかった海や島々や半島が無残に埋め立てられてしまいました。この太寧寺もそんな一夕会軍事政権の❝現実逃避作戦❞と宗教に対する文化と信仰心の欠如で拡張された横須賀空港の犠牲と成りました。
太寧寺旧蹟周辺 久良岐のよし
太寧寺は元々は瀬ケ崎と呼ばれた土地だった関東学院小学校の敷地に在りました。
瀬ケ崎時代の太寧寺
そして今の日産の工場一帯と一緒に空港拡張の為に臨済宗の大寺院として各時代の歴史偉人達に大切に保護されて来た歴史を無視され、現在の片吹の奥の谷間の狭い敷地に追いやられ、その時に範頼公の墓所も止む無く一緒に掘り返されて現在地に墓石と一緒に移転して来ました。
しかも!例によって終戦直後に信仰心の無い左翼建設利権や外国勢力の強い横浜市は多くの神社仏閣の境内地が勝手に地元民によって土地登記されてしまい、縮小し衰退した場所が多く、太寧寺も例に漏れず現在の惨状と成ってしまいました。
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由緒ある御寺なので、源範頼公の菩提寺として鎌倉幕府執権北条家からも支援を受けていた為か御寺の寺紋も〇の囲いの無い三鱗紋の使用を許されています。
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小さくなっても文化を大切にしている御住職の比丘尼様の趣向で掲示板には博物館の広告も掲示されています。
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他にも、その日の法話みたいな良い心構えが掲示されていました。ここの御住職の比丘尼様は若かりし頃インドやタイやスリランカにも仏教寺院に留学したり、偉人の顕彰活動に訪れていた活動的な方でした。
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だからこそ源範頼公の菩提を弔うのに相応しく、座禅会を開いて御近所の子供に精神修養の機会を与える役割を担うのに相応しい人物ですね。
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御寺の規模は本当に往時の様子を窺い知る事は出来ません。
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でも御近所の子供のいる御父さん御母さんにとっては親しみ易い御寺として機能しているみたいです。
小生が訪問した時も御住職様が御菓子を出してくれたり、色々と熱心に説明して下さったり、若い頃の話をして下さったり・・・
「あなた、私の名前を出して良いからタイに留学しなさい。論文のコンペに出なさい」
・・・と言われてしまいましたが、すみません比丘尼様。小生俗物なのでこの間頭丸めるのが嫌で別の御寺で「寺継がない?」と言われたのを御断りしたばかりなんです(笑)。
そう言う貴重な機会は真面目に修行してらっしゃる御寺の跡継ぎとして修行している若様達に差し上げた方が宜しいかと思います。そもそも小生は神社も好きなので御寺だけは無理ぃ~(笑)。
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本堂の左手には今では見かけない井戸が現役で使われていました。
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その更に右手奥に、凄く窮屈そうに源範頼公の瀬ケ崎の丘から御引っ越しして来た御廟所が在りました。本当に現実逃避せず多数派に流されず自分で分析する軍人サンだったら源範頼公の功績を理解できて、こんな酷い扱いをしなかったはず。
終戦直後の横浜市の役人も同じ様に谷間の元境内地の住宅地登記を認めた罪は重い。

源範頼公の能力は中国の将軍に例えれば秦の王翦将軍に等しい素晴らしい物だっと小生は思います。
もっと大切にされて然(しか)るべきだと思う。

さて、この太寧寺みたいに今は小さく成っていても凄い歴史偉人と関係の深い神社や御寺や城跡の公園や山がきっと皆さんの家の御近所にも有る筈です。
だから皆さん、御近所御散歩して神社や御寺や城跡の公園や山の看板を少し読んで見ませんか?
そうすればきっと皆さんと歴史偉人を繋ぐ場所にそこが成って、自分の地元に更に愛情も湧くかも知れません。
そして、多くの苦労や悲しみや少しの成功と喜びを積み上げて今の私達の生活を作ってくれた先人達に感謝の気持ちを伝えてあげて下さい、きっと歴史偉人や神様や仏様も喜んで下さると思います。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪







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前回の記事⤵
瀬戸神社と手子神社・・・②瀬戸神社は歴代幕府と将軍家が大切にした神社(瀬戸神社歴史解説編)。
コレ⤴の続き・・・

前回の瀬戸神社の歴史解説と、前々回の瀬戸神社の御分祀された手子神社と小泉弁才天の歴史解説の記事で瀬戸神社や金沢の地が、源頼朝公と北条政子御夫妻はじめ鎌倉幕府執権北条家、鎌倉幕府を打倒して樹立された室町幕府の鎌倉公方足利持氏公、戦国時代の太田道灌公や北条早雲公や北条氏綱公、安土桃山時代から江戸時代の転換期に徳川家康公が関わり各時代の歴史偉人達から大切にされて来た事は御理解頂けたかと思います・・・
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・・・今回は歴史解説は少なめにして、いよいよ横浜市による金沢六浦の海の埋立や鎮守の杜の山の掘削された景観破壊後の現代の瀬戸神社と琵琶島弁才天の風景を御紹介したいと思います。
さて、現代では周囲の海が埋め立てられてしまった瀬戸神社の周りはとても美しい2つの湾の入口に在る半島と半島を橋で結んだランドマークであり歴史偉人も遊覧した観光地でした。
昔の海を再現した模型と地図でしか現代人の我々は当時の様子を知る事が出来ませんが・・・
金沢区昔の海岸線 久良岐のよし
金沢地形図 久良岐のよし
・・・実は、この島と半島が入り組み東京湾~六浦湾~瀬戸の3つの湾の金沢の海の大半が埋め立てられたのは極々最近の話しで、他都市からの移住者が役人として就職していて横浜=赤レンガと中華街程度の認識しかない無文化で日本の歴史文化に興味が無い横浜市役所役人達によって開発許可が出され昭和期に消し去られてしまいました。
正直、現代では過疎化の進む横浜市栄区や緑区等で貴重な自然とは無縁の真っ平らな開発し易い田園地域を宅地開発させれば良かったのに、現代でも横浜市は栄区の中でも横浜市最大最後の蛍の生息地の瀬上沢でさえ林文子市長が東急不ループの自然破壊宅地化容認の発言が飛び出していたりします。
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以前、瀬上沢を紹介した記事リンク⤵
円海山で蛍が観察出来る季節です。横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。
だから景観破壊される前に日本屈指の観光地だった金沢の八景が瀬戸神社の周辺一帯だったので、近代にも千代本楼や金沢園と言う料亭が直ぐ御近所に存在し、現在も名前を変えたり規模を縮小しながらも存続し昔の景勝地だった頃の名残を残しています。
下の写真が琵琶島弁才天から見た料亭、千代本楼。江戸時代の観光案内図にも載っている老舗。
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千代本楼

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喜多屋(金沢園)&ぼたん(Café部門)
喜多屋に関しては以前に喜多屋サンに取材をさせて頂き、ランチも食べれるCafé部門と料亭時代のまま残る元客室の宿泊部屋等も写真で紹介した記事を書いて有るので御興味の有る方は御覧下さい。
喜多屋の記事リンク⤵
金沢区の喜多屋は元料亭の日本建築文化財の旅館&cafe。
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さて、元は湾の入口の半島の山に囲まれた瀬戸神社は眼前の弁才天様を祀る琵琶島まで境内地にしていたのですが、日本古来の神社文化や自然信仰を軽視する役人によって瀬戸神社本殿参道と真直ぐ繋がっていた琵琶島弁才天の間には国道16号線開通の為に境内が接収され分断されてしまいました。
・・・本当に罰当たりですね。
昔の地形と現代の国道16号を見比べると良く解りますが・・・
瀬戸神社周辺の元の地形 久良岐のよし
瀬戸神社周辺の現代の地形 久良岐のよし
瀬戸神社の鎮守の山と洲崎の半島の近接する景勝地、その山を掘削しなくても国道16号線は別名❝横須賀街道❞ですので、どうせ横須賀方面に抜ける道ならば平潟~乙舳(おっとも)方面を経由させ室ノ木へ抜ける道を国道16号線を引けば良かったのは一目瞭然です。
もしかすると神仏習合の弁天様を日本の神様である大山祇大神(おおやまづみおおかみ)=三島大明神を祀る瀬戸神社と分断する意図が最初から有ったのかも知れないと、近代の宗教改革の歴史を考慮すると勘繰ってしまいますね。
そんな訳で、国道16号の開通も横浜市の海の埋め立てと同じ程に日本の宗教文化を愚弄し自然景観を破壊する失政だった訳です。もし国道16号が小生の案と同じ様に引かれていたら、瀬戸神社は源頼朝公北条政子様御夫妻や江戸時代までの日本の神社界の最高指導者だった卜部朝臣(うらべのあそん)吉田家の吉田兼敬公が愛した当時のままの美しい風景を平成に成っても見られた筈なんですね。

では、先ずは分断されてしまった琵琶島神社こと琵琶島弁才天の方から風景を見て見ましょう。
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琵琶島弁才天様の参道は現代では埋め立てられていますが、昔、ここが二つの島で荒尾城主の荒井家によって二重橋が掛けられていた歴史は前回の記事で解説しました。
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説明の看板にも当時の様子を知る事が出来る絵図が有りますが、図の真ん中左端に瀬戸神社と琵琶島弁才天が描かれていますね。江戸時代の絵図では既に二重橋では無くて一つの太鼓橋に参道を改造した様です。
良く見ると千代本楼も描かれていますね。
琵琶島弁才天様の入口手前、右側には福石が存在します。
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本来はこの福石は❝服石❞と書きました。
源頼朝公が弁天様に御参りする際に、福石に❝服を脱いでひっかけ❞当時は海だった福石の右側で禊(みそぎ=身体を洗い清める事)をしてから参詣した事に由来しています。
そして、この服石と元は書いた❝金沢十石❞の一つにも数えられた頼朝公由来の奇岩の傍で拾い物をすると必ず幸福な事が起こった御利益から❝服石→福石❞と書き方が変化したそうです。
そんな頼朝公が服を掛けた福石の右に存在した海は御覧の写真の通りに歴史も神道文化も軽視した役人によって埋立許可が出されてしまい無残に禊を行う聖なる海が消え去りビルに成ってしまいました。
弁天様の居らっしゃる琵琶島に向かい参道へ歩みを進めてみましょう・・・
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・・・松の木のみが景勝地だったらしい名残を感じさせます。
もう少し先に簡素化されてしまった橋が在ります。
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少しだけ昔の雰囲気を感じられるかな~?
先に在る弁天様この橋に対してソッポを向いた様に社殿が設置されていますよね?歴史や観光や御朱印集めが好きで神社仏閣を多く参拝する人は予備知識が無くても誰でも何となく知っているん事ですが、神社の御社や御寺の仏閣は大体が南向きか東向きの御日様の方向を向いて建てられているもんなんです。
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だから京都の有名な八坂神社=祇園社も祇園四条通りから延びる参道の先、西楼門=随神門(ずいしんもん)は西を向いて建てられていますが境内に入ると本殿は南を向いて建っているので、この琵琶島弁才天と同じく参道に対してソッポ向いた配置に成っています。
八坂神社周辺 久良岐のよし
ね?衛星写真を見ると解り易い。ちなみに明治の神仏分離令で素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る八坂神社に名前を改めされましたが、元は素戔嗚尊と同一視されたヒンドゥー教由来の牛頭天王を祀る神仏混交の仏教施設だったので江戸時代の終わりの昔迄は祇園社と呼ばれていました。
そんな訳で琵琶島弁才天を御参りすると日本の宗教施設が南や東を向いている事にも気が付ける訳です。
・・・あれ?結局歴史解説結構やってしまってる(笑)。
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社殿はとても小規模ですが、まぁ、頼朝公の時代もそんなに大きな社殿では無かったと思います。
頼朝公が復興した鎌倉の立身出世の御利益で有名な佐助稲荷神社や・・・
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佐助稲荷神社
近代のイギリス領事官(現:横浜開港資料館)の中庭の玉楠樹の下に源頼朝公が蒔田湾(横浜港の前身の湾、埋め立てられ消滅)の鎮守で海上交通安全の神様だった弁才天様の御堂も、現在の瀬戸神社の琵琶島弁才天様とほぼ同規模でした。
ペリー神奈川上陸
ペリーさんの横浜上陸の絵の右側に書かれているのが横浜の地名由来に成った蒔田湾の半島に頼朝公が建てた弁天様ですね。イギリス領事官建設の際に横浜市中区関内の羽衣町厳島神社と元町厳島神社に分祀され消滅しました。
神社の宮司様達の中には余り文化歴史に造詣が深く無い人もいて自分の神社が昔っから立派な社殿が在ったと誤認している人もいますが、そもそも日本古来の宗教は自然信仰で、そこに中国文化の影響を受けて御神像や御神鏡を祀る偶像崇拝が合わさり石祠(いしほこら)や社殿も建てられる様に成った訳ですから、金澤(かねさわ)の琵琶島弁才天様や横浜の元町厳島神社や羽衣町厳島神社の様に滋賀県琵琶湖の竹生島弁才天様の御分霊を頼朝公の時代に勧進した場所は概(おおむ)ね小規模な場所だったでしょうね。
昔の人は社殿の立派さよりも、自然信仰時代の影響も色濃く残し、特に修験道を大切にして神道仏教にアプローチした源頼朝公は神社の建物よりも神様その物を大切にされた訳です。
小生のブログを読んで下さってる方は記事で話題にしているので既知だとは思いますが、頼朝公は自然信仰で神仏共に大切にした希有な修験者でもあったので伊勢原市の大山阿夫利神社石山権現(大山山頂の神の依り代たる奇岩)を参拝に登山したり、富士山すらろくな登山装備の無い当時に踏破し富士山火口を一周回る荒行を成功させたアルピニストだったりするんですね。
瀬戸神社の神様は三島大社の大山祇大神です。
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三島大社
大山祇大神は神奈川県の延喜式内社で関東総鎮護とされた伊勢原市大山の神様でもあり、海を守る神様としても有名なので築地市場関係者も団体で昔から参拝に来る事で知られています。自然信仰で海の神様である大山祇大神と弁才天様、修験道にも仏教にも神事にも造詣が深く自然信仰を大切にされた源頼朝公。
・・・そんな頼朝公だったから海難事故防止や海の神様として有名な大山祇大神=三島大明神と竹生島の弁天様を六浦湾と金沢湾の2つの入江の接続点に勧進され、漁師や海運を生業とする人達の生活を守護して頂こうと考えた事が良く解りますね。
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今では狭くなった消滅した金沢湾ですが、琵琶島弁才天に御参りすれば六浦湾の一部が眼前に残っているので少しだけ往時に思いを馳せる事が出来ます。
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さて、琵琶島弁才天様から国道16号で分断された反対側の瀬戸神社に移動しましょう。
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社殿は遠目にも綺麗ですね!まぁ、裏山の鎮守の杜も一部だけ残っているので昔の風景を想像する事も出来ます。
鳥居の両脇にはとても立派な石灯籠が存在します。CIMG5077
大きいだけじゃなくて彫刻も良く出来ています。
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そこを通り過ぎると正面に社殿。右側に手水社(ちょうずしゃ)が在ります。
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更にその右側には市の名木古木指定を受けている楠(くすのき)が在ります。
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立派ですね~。他にも沢山、立派な大樹が有りました。
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犬槇(イヌマキ)と言う木だそうです。これも立派。
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社殿の拝殿へは入る事は出来ません。普通に社殿の前までは参拝出来ます。
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現在では瀬戸神社と書かれた扁額が掲(かか)げられています。揮毫(きごう=代筆)したのは内閣総理大臣在職中の小泉純一郎元総理ですね。小泉家の発祥は正に金沢で後に横須賀に移る訳ですが、小泉純一郎元総理は祖父の小泉又次郎氏が六浦大道の出身でした。そして小泉元首相のお母さんが祖父又次郎さんの娘で、そこに父親の純也氏が婿養子入りしたんですね。その頃には横須賀市に既に移住していました。
・・・多分、現在の瀬戸神社の扁額を揮毫したのは小泉家と金沢家にそんな地縁が有ったからかも知れません。まぁ、書くなら古来の風習に則(のっと)って❝三島大明神❞と書いて欲しかったなぁ~。
本殿の裏には沢山の社殿が在ります。
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これは祖霊社、氏子サン達の御先祖様を神様として祀っています。
そして背後の山を御覧頂けると解るのですが・・・
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・・・山の斜面を人工的に❝法切(のりき)り❞された垂直の❝切岸(きりぎし)❞に成っているのが判るでしょうか?
この様に山を削った直角な谷間に鎌倉文化では神社仏閣を建設します。これを❝谷戸構(やとがま)え❞と呼び、城壁の様に垂直に加工した山で施設を取り巻く事で防犯と火災類焼防止の効果が発揮される訳ですね。
そしてもう一つの鎌倉文化に良く見られる特徴が瀬戸神社にも有ります。
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矢倉(やぐら=人工横穴)です。
元は横穴式石室に仏教文化がが合わさった鎌倉武士独特の墓所でしたが、仏様を埋葬するのと同じく矢倉に神様の祠を治めて崇拝する習慣が鎌倉文化には有ったりします。
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ここは御狐様がいらっしゃるので御稲荷様ですね。御稲荷様は良く全国各地の城址にも祀られ、歴史好きを見守ってくれる神様だったりもします。
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これは瀬戸神社の主祭神の大山祇大神の御息女=姫神様の石長姫(いわながひめ)様と此花咲耶姫(このはなさくやひめ)様の姉妹神様を祀る御社(おやしろ)でした。
石長姫は不老長寿、ある意味美の女神なのにブスな可哀相な役割の女神様。きっとクソ美人以外の普通に可愛い位の女性には美容と長寿の女神として御利益の御加護を下さるかも知れませんね。
妹の此花咲耶姫命様は天皇家の御先祖様の邇邇芸命(ニニギノミコト)の奥さんに成って天皇家を発展させた祖先神ですので縁結びと家内安全の御利益を与えて下さるかも知れません。
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更に塞がれた矢倉も有りました。きっと何か神様が祀られていたのに戦後の法律で封鎖させられたんでしょう。こんな物防空壕では無いと否定して撤去してしまえば良い。
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服装の様子からして菅原道真公=天満大自在天神=天神様かな?
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あと小さな祠が3ヶ所並んでいました。
その背後・・・
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どうも此処(ここ)は背後の鎮守の山への登り口だったみたいですが、山を国道建設で掘削されてからは登る人もいなくなってしまった様で草ぼうぼうでした。
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階段地形が今も残っています。もしかしたら征夷大将軍源頼朝公や室町幕府鎌倉公方足利持氏公はここを登って金沢八景の景勝を遊覧したかも知れませんね。

さて、これで金澤瀬戸の三嶌大明神=瀬戸神社と琵琶島弁才天=琵琶島神社の施設の解説の記事は尾張です。
皆さん、如何でしたか?実はつい最近まで鎌倉時代のままの風景が残っていた事、今もその足跡が辿れて歴史偉人の歩いた場所を皆さんも歩ける事が伝わったでしょうか?
瀬戸神社は金沢八景駅の目の前に在ります。野島公園の伊藤博文公金沢別邸に抹茶を飲みに行ったり、神奈川県立金沢文庫(博物館)に見学に行ったり八景島シーパラダイスに遊びに行くのと合わせて参拝に行かれて見ては如何(いかが)でしょうか?
江戸時代までの日本の神道のボスや、各時代の将軍様達と同じ空間で御参りすれば、昔の人達が大切にした意味を身体で感じられるかも知れません、瀬戸神社がタイムマシーンの様な役割に成って。

きっと皆さんの御近所の城址の山や神社仏閣も、凄い歴史偉人と関係が有る場所が今もあるはずです。
・・・家を飛び出して少し気分転換に御散歩してみませんか?

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪・・・次は何を書こうかな~?












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前回の歴史解説記事⤵
瀬戸神社と手子神社・・・①金沢区の手子神社は瀬戸神社分社で東京の浅草寺の僧正が開いた神社。
コレ⤴の続き・・・

横浜市は実は鎌倉幕府の将軍や執権、室町幕府の将軍や鎌倉公方や関東管領上杉家、江戸幕府の徳川家康公を始め歴代将軍達が愛した景勝地や神社仏閣や関わった城址が沢山❝在(あ)った❞のですが、残念ながら2018年現在の横浜市長もそうである様に他所からの移民が政治家や市役所役人として就職する事が多く、その中の横浜への郷土愛も日本史や日本文化や文化財への理解も無い人によって大切な神社も境内地を大きく削られ歴史偉人の愛した景観が損なわれた場所も少なく有りません・・・
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実は金沢八景駅の直ぐ目の前に、そんな横浜市による文化軽視の悪い例でもあり、鎌倉幕府征夷大将軍の源頼朝公や執権の北条貞時公、室町幕府鎌倉公方の足利持氏公、徳川幕府初代征夷大将軍の徳川家康公が風景を愛し保護した神社の❝瀬戸神社❞が存在します。
金沢区昔の海岸線 久良岐のよし
地図上の白い場所が金沢八景の地名由来に成った当時の日本に名を轟(とどろ)かせた景勝地時代に海だった範囲です。
瀬戸神社の山は元は半島の突端で金沢八景の海の入江と入江を繋ぐ半島と半島が近接し、そこに橋を架けられた❝ランドマーク❞と成る場所だったんですね。
今では面影も無く他都市からの移住者役人だらけの横浜市により瀬戸神社旧境内地の山は切り取られ見るも無残に僅かに社殿裏側の一部を残すだけに成ってしまいました。昔は金沢八景駅周辺までずっと続いていたんです。
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瀬戸神社(各時代の幕府の歴代将軍が大切にした神社)
さて、この神社は目の前の海に突き出した琵琶島弁才天と一体型の神社で、既にその事から昔は周辺をとりまく海の安全を守り且(か)つ周辺の海も山も含めて神社だった事が解かります。言葉を変えると自然信仰である神道の概念を無視し横浜市教育委員会が景観保護を怠り❝神社の一部を破壊した❞とも言えますね。
この瀬戸神社、最初は源頼朝公が伊豆の三島大社から大山祇大神(おおやまづみおおかみ/おおやまつみのかみ)の御神霊を分祀して頂き開いた神社です。
つまり・・・
源頼朝公が相武地方に三島大社から御分霊を勧進した10ヶ所の神社の一つである事が解かります。
足柄上郡開成町古田島の吉田神社や・・・
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吉田神社
三浦半島葉山マリーナ近く森戸海岸の森戸神社・・・
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森戸大明神(森戸神社)
・・・これらの源頼朝公が三島大社の御分霊を勧進して開いた神社と同時に源頼朝公によって開かれた事が由緒から解りますが、特に鎌倉市街の外港玄関としての機能が在った金沢の瀬戸神社三島大明神と琵琶島弁才天は別格に将軍家から大切にされた様ですね。
今でこそ❝瀬戸神社❞と呼ばれていますが、三島大社の御分霊なので江戸時代までは❝三島大明神❞とも呼ばれ、当時の扁額(へんがく)にも三島大明神の名前が彫られ文化財に成っています。
三島大社や瀬戸神社の主祭神である大山祇大神は、神奈川県最古級の神社である延喜式内社としても有名な大山阿夫利神社と大山山体の神様でもあり、相模湾と相模平野のランドマークとして❝関東総鎮守❞の異名を持つ❝海の守り神❞でもあります。
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そして眼前の琵琶島弁才天も源頼朝公と北条政子御夫妻が今の滋賀県、近江国の琵琶湖に浮かぶ竹生島弁才天様から御分霊を頂き開いた、水神様で軍神で音楽神で美の女神でもあります。
そんなとんでもない由緒が有る凄い神社が瀬戸神社と琵琶島弁才天なんですが・・・
そんな事を知らない役人が横浜市には多い様です。
そんな凄い神社だけに残る文化財の数も現代の境内の規模から想像もつかない程沢山残っています。
数えればキリが無い位なので、もし興味が有る人は❝神奈川県立金沢文庫博物館❞で2013年に行われた特別展❝瀬戸神社~海の守護神~❞の時の図録が金沢文庫博物館の図書室で閲覧出来るはずなので探して見ると良いと思います。
一応、神社の説明の看板に幾つか文化財の説明が有りますので写真を添付します。
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この神社の凄い所は、江戸時代迄日本の神道の親玉で今の京都市左京区の吉田山~京都大学一帯が全て境内地だった吉田神社との関係が深く、明治時代に成ると国家神道から目の敵にされ弾圧された吉田神道と言われる神仏習合の神道の長であり、明治まで歴代天皇と将軍家から神祇官を束ねる役割を仰せつけられていた吉田(卜部)家からも大切にされていた事が古文書から解っています。
実際に享保三年(1718年)に神祇管領長上だった卜部兼敬(うらべかねたか)公は❝三嶌(みしま)大明神❞の揮毫(きごう=記念に書く事)をし扁額の字を書いています。そして彼はわざわざ京都から瀬戸神社に参詣に来て初穂料(はつほりょう=御賽銭)に白銀1枚、当時の宮司家の千葉胤治(ちばたねはる)公に金と藤原定家や寂連法師や西行法師(和歌三夕と呼ばれた和歌の名人達)の和歌が書かれた色紙を与えています。
今の横浜市は瀬戸神社の文化歴史を理解できておらず景観も破壊しますが、昔は神社世界のトップが直々に来る程に大切な場所だった訳です。
そして横浜市や房総半島や日蓮宗の歴史に詳しい人は「ん?」と思ったかも知れませんが、大名としての地位は戦国時代に終了した平安時代以来の武家の名門の千葉家は、実は金沢区六浦や瀬戸神社ととても関係が深く、日蓮宗の聖地の一つであり日蓮上人の船中問答の舞台である六浦山上行寺は千葉家臣団が房総から鎌倉に出勤する際の船着き場で、そこを管理した富木(とき)家の屋敷が前身に成っている御寺です。
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六浦山 上行寺
千葉家が没落し富木家の後に鎌倉時代上行寺を支援したのは金沢北条家臣と思われる荒井家で、後に戦国時代の北条家臣間宮家の家老の一家と成る家ですが、この荒井家も瀬戸神社に関わりが深く瀬戸神社と琵琶島の弁天様の在る島を結ぶ二重橋だった琵琶島弁才天の参道の橋を単独で寄進したのも荒井家でした。上行寺の御住職様に取材した時にこの話を伺(うかが)ってたまたま小生はこの歴史事実を知っていますが、恐らく知らない歴史学者の方が多いかも知れません。
この荒井家は横浜市磯子区杉田の牛頭山妙法寺も開いており、今も檀家として荒井家の御子孫が妙法寺には残っておりますし、江戸時代に笹下城主間宮家から分家した杉田間宮家の菩提寺として妙法寺は今も立派な間宮家御廟所が存在しています。
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牛頭山妙法寺
妙法寺はヤマトタケル神話の舞台の一つでもある元は弘法大師様が牛頭天王の御堂を立てた事に聖地としての歴史が始まる御寺ですが、こちらも以前に解説記事を書いたので御興味御有りの方は合わせて御覧下さい。
妙法寺の記事はコレ⤵
妙法寺…日本武尊神話の有る後北条重臣間宮家の菩提寺…横浜市磯子区杉田。
多分、瀬戸神社の琵琶島に架かっていた太鼓橋を荒井家が単独で架橋奉納した歴史を御存知なのは上行寺の御住職と檀家役員さん達位でしょう。それと北条家臣団と間宮家研究の第一人者である盛本昌広先生なら御存知かも知れません。
鎌倉幕府将軍家や執権北条家が直接関与する程の格の「瀬戸神社」に単独で橋を寄進する事を許される家格と経済力が荒尾城主荒井家に有った事、そして千葉家が鎌倉時代~江戸時代末期までずっと金沢に宗教面で影響力を持ち続けて家も存続していた驚愕の歴史事実が、これらを繋ぎ合わせるとハッキリと解るんです。
因みに荒井家の荒尾城は幻の城ですが、小生は上行寺~横浜市大の裏山である御伊勢山~権現山一帯全てが荒尾城と推測し、実際に現地を歩いて城址としての削平地や竪堀や堀切の跡地形を見つけています。
それも以前、記事に書いて有るので興味の有る人は御覧下さい。
これ記事⤵
【城郭ファンへ拡散】六浦山上行寺の解説と、間宮家臣荒井家の鎌倉武士時代の幻の城址❝荒尾城❞発見?の報告と協力要請。
室町時代には最後の鎌倉公方(関東を治める鎌倉将軍)と成った足利持氏公も直接参拝に来ていてこんな古文書が残っています。
塙不二丸所蔵文書
これは塙不二丸氏所蔵文書の一通として残る古文書の写しを小生がタイピングした物ですが、文中に登場する❝上様(将軍様)❞はつまり足利持氏公です。
因(ちな)みに何で小生がこの文書を知ったかと言うと、盛本先生が書いた❝瀬戸神社に来た足利持氏❞と言う文章を読んだからで、盛本先生の受け売りですね(笑)。
そしてこの文書のあて先は鹿島神宮の大禰宜(大宮司)中臣家宛てと盛本先生は推測されています。
ね?
神社仏閣好き、御朱印好きなら、もうここまでの小生の説明で瀬戸神社がとんでもなく格の高い神社だった事が御理解頂けるかと思います。
そして横浜市教育委員会が景観保護しなかったせいで土建屋が景観ぶっ壊しまくった悪事が判るでしょう?
そんな瀬戸神社と日本屈指の景勝地だった金沢の八ヵ所の景勝地、略して金沢八景を徳川家康公も遊覧に来ていて、洲崎町屋地区の龍華寺に徳川家康公が滞在し、瀬戸神社にも社領100石と破格の待遇で瀬戸神社を保護をしています。
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知足山 龍華寺
龍華寺の歴史は以前紹介記事を書いているので、御興味の有る方はソチラも合わせて御覧下さい。
龍華寺の記事はコレ⤵
龍華寺…源頼朝公が開いた横浜市金沢区の古刹。
瀬戸神社の社領(神社の収入)は徳川家康公から100石分与えられていますが、普通の神社や御寺の収入は歴史が有る場所も普通は5~10~15石程度が標準的なので、瀬戸神社がとんでもない大切な場所だったのがその社領の多さからも判ります。余談ですが出雲大社は2000石で最早ちょっとした勢力でした。

さて、瀬戸神社の歴史解説どうでしたか?
とぉ~っても!日本レベルで大切な神社さんなのが御解り頂けたでしょうか?
次回は三島大明神と呼ばれた瀬戸神社~琵琶島弁才天の社殿や風景を写真と共に解説します!
今日帰ってきたら書けるかな~?
もし書けなかったら又、来週末にUPしますね!

瀬戸神社と手子神社・・・③瀬戸神社、源頼朝公北条政子様御夫妻の愛した神社の現代の風景。の記事に続く・・・






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皆さんは金沢区釜利谷南一帯が埋め立てられた元は海だった場所と言う歴史を御存知でしょうか?
小泉夜雨 葛飾北斎 
昔は小泉と呼ばれた地域なんです。その風景の美しさから旧北条家臣であり北条与力大名だった蒔田吉良家の家臣の子孫の画壇の弟子であろう歌川広重こと安藤広重が日本屈指の風景の美しい場所だった旧金沢地区の八ヵ所の景勝地を描いた❝金沢八景(かねさわはっけい)❞の風景で江戸時代に特に有名に成りました。
現代の横浜市役所は2018年時点の市長も築地育ちだったり役人も就職する為に市外からの移民してきた様な連中だらけのせいで金沢八景(かなざわはっけい)と❝誤った❞読み方が定着し、横浜の歴史や景観や文化を理解していない連中の政治のせいで、歌川広重よりも更に古くは源頼朝公や兼好法師や鎌倉公方足利持氏公や太田道灌公や北条早雲公や徳川家康公が宿泊して遊覧する程に愛した金沢八景の八ヵ所の海も埋立られて消えてしまいました。
しかし、歴史書を読むと現在も無文化政治で消された平安~明治時代の景勝地だった頃の名残りを辿れるタイムマシーンの様な場所が現存している事を知る事が出来ます。
今回と次回、2回に分けて紹介する金沢区釜利谷南の❝手子神社❞と金沢区瀬戸の瀬戸神社&琵琶島弁才天は正にそんな歴史偉人達が愛した神社であり眼前まで金沢の海の入江だった歴史を辿れる場所なんです。
さて、今回は先ずは規模が小さく地元民以外には知名度も低くなってしまった手子神社から紹介したいと思います。
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手子神社は現在の釜利谷南に存在し、湾曲する川の前に在ります。
実は現代では横浜市役所の人間ですら知る人も少ないのですが、この湾曲した川が昔の入江の海岸線の名残であり、小泉と呼ばれた陸地の場所なんです。
そして小泉(こいずみ)の地名の由来は手子神社に在る境内社の名❝小泉弁才天❞が関係してると推測出来ます。
先ずは昔の海岸線に金沢区の主だった神社仏閣を表示させて位置関係を見て見ましょう。
金沢八景位置関係
白い部分が昔の海岸線で、この様に多くの島と半島に囲まれた入江が複雑に入り組む京都の❝天橋立❞や静岡県浜名湖の❝今切❞の様な素敵な風景が広がる日本屈指の観光地だった事が旧地形からも窺い知る事が出来ます。この海の一番奥の部分、金澤の海で鎌倉からの間道を抜けて来て最初の港が小泉弁才天こと今の手子神社の在った辺りなんですね。
さて、では何で手子神社の境内社の小泉弁才天の御祭神が弁天様である事で地名の由来が推測出来るか解説しましょう。
弁天様は明治以降は厳島神社と名を変え御祭神も市杵島姫命に習合された場所が多くありますが、これは明治時代にキリスト教プロテスタント信者の政治家達が主導した神仏の宗教改革でヒンドゥー教系の神様である弁才天=サラスバティ―を否定する動きが有ったので水の女神様である市杵島姫命を歴史を知らない宗教家達が習合してしまったからなんですね。
弁天様を市杵島姫命に習合したのは明治時代に国家神道を作り上げたプロテスタントキリスト教徒政治家達の大きな誤りで、実際は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)に弁天様が習合された歴史が有るのだから、神仏分離を励行するのならば弁天社の御祭神を宇迦之御魂神に再度お戻しした上で弁天様としても祀れば良かったんですが、歴史を知らない明治のキリスト教徒と過激な水戸学に洗脳された連中はそんな事を理解も出来なかったみたいですね。
因みに水戸学を創始した水戸光圀は狂人でした。彼は藩政に末代まで残る借金を作り領民に重い重い課税を課した悪の政治家で、領内の八幡宮を全て破壊し、挙句の果てに犬を大量屠殺して生皮を剥いで将軍徳川綱吉に送り付ける残虐な人間でした。若い頃はヤンキーで、女とヤッたヤラないと言う下世話な会話を士分にも関わらず普段からヤンキー仲間として廻り、石合戦と呼ばれる暴走族同士の抗争の様な事をやっていたのが有名な話なのですが、明治の宗教改革をやった連中が水戸学信者だらけなので彼のイメージが全く実情と異なるイメージに造り変えられたんですね。

さて、水戸光圀が嫌ったヒンドゥー教由来の八幡信仰や弁天信仰ですが、弁天信仰を日本に浸透させた主だった人物の一人は実は源頼朝公です。他にも三浦半島の平氏の三浦家等もおります。
元々は財神と言うか生活に密着にした❝富=豊かさ❞の神様として日本では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が水源や湧水地の洞窟に祀られていました。
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鎌倉市には宇賀福神社や・・・
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・・・扇谷山海蔵寺と言う御寺が在り、今も鎌倉文化を良く守り伝えていますが、その境内には両方とも水が湧く洞窟が在ります。
海蔵寺の洞窟には蛇に身体に美女の顔の蛇神様が祀られています。
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一方、後に源頼朝公が弁天様を習合した宇賀福神社はどうでしょうか?
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御神体の蛇の神様は撤去されていますが、やはり銭洗い弁天と呼ばれる泉がありこんこんと湧く水で満たされていますね。
天皇家の勅願所だった歴史の有る江ノ島の岩屋、つまり江島神社の発祥地にもやはり泉が存在し欽明天皇や源頼朝公が聖地として大切に守りました。
その聖地では宇賀福神社と同じく現在も蛇美女の女神様の石像が散見されます。
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そして海に浮かぶ島なのに淡水の水の豊かな泉が現在も存在しています。

さて、小泉弁才天=手子神社に戻り境内を見て見ましょう、そうする事で小泉の地名と弁天信仰が関係する事が解かります・・・
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手子神社(別名:小泉弁才天)
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先ず最初に昔の海岸線の端っこの丘だった場所にあるので石段を登りますCIMG6702
前の橋が昔の海の名残。
石段の右手には社務所が在りますが普段は無人です。
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昔は宮司さんが住んでたのかも知れませんね。
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石段の横には立派な樹も生えています。
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社殿は現在では小規模、町の中の神社としては普通より少し小さい位ですが立派な彫刻の梁です。
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簡素な扁額には手子神社と書かれてあります。
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でも新編武蔵風土記稿等では手子明神(みょうじん)と書かれており、本殿の御祭神の大山祇命(おおやまづみのみこと)も明神様として祀られた修験道系の神社だった事が解かります。
それもそのはず、この神社を開いたのは戦国時代に金沢領主だった北条家臣伊丹家の子孫で、江戸時代初期に浅草の天台宗系の大寺院として有名な浅草寺の住職、僧正だった智樂院忠蓮僧正が父の伊丹昌家公の代まで伊丹家の所領だった釜利谷の総鎮守として金沢八景駅前の瀬戸神社から御分霊を勧進したのが始まりですからね。天台宗は真言宗と同じく修験道を重視する宗派でもあります。
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石段の左右には躍動感溢(あふ)れる狛犬さんが参拝者を威嚇しています。
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悪い者が来ない様に魔除けの聖獣として神社を守ってらっしゃるんですね。
本殿の左手に小泉地名由来の❝小泉弁才天の正体❞がいらっしゃいます。
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竹生島の弁才天様の御分霊ですね。
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そして手子神社の御神像はやはり海蔵寺や江ノ島と同じ蛇の女神様。
これが元々、先に紹介した小泉で有名だった❝瀟湘の松❞の下に水神様として祀られていた弁天様を享保八年(1722年)に❝宇迦之御魂神=弁天様❞を鎌倉文化形式で洞窟を穿って御祭りしたのに由来します。
つまり、最初の祀られた瀟湘の松の辺りにすでに入江を守る水神様として存在していた事が解かりますが・・・
鎌倉時代に弁天様として信仰された宇迦之御魂神は水神様でも泉の神様であり豊穣の神様=富の神様なので経済軍事音楽と美と水の女神の弁天様が習合された歴史が有ります。つまり小泉の地名の由来は海辺なのにも関わらず小さな泉が湧き出ていた場所に元々は存在したであろう歴史が推測出来る訳です。
その弁天様は昭和十五年に現在地に移転させられて来たので訳が解からなく成ってしまった訳ですね。
そして、この竹生島弁才天は恐らくは本殿の神様が瀬戸神社から勧進された様に、セットで瀬戸神社の琵琶島弁才天様から勧進された竹生島弁才天の御分霊の御分霊であろう事も推測出来ます。

さて、伊丹家にが同地の領主だった歴史は以前に禅林寺の歴史を紹介した時にも解説しているので御興味有る方は御覧に成って下さい。
これ記事リンク⤵
竹嵓山 禅林寺は最後の鎌倉公方足利持氏公と成氏公親子が開いた御寺、鎌倉公方の終わりの歴史解説と・・・金沢区釜利谷東
小生の推測では恐らくは浅草寺の伊丹入道智樂院忠蓮僧正と同じく、昨年悲惨な宮司の姐と弟で殺人事件が起きてしまった東京深川の富岡八幡宮の宮司家も伊丹家の御子孫でしょう。名前に伊丹家の通名の一字が御二人共に含まれていましたし、東京深川の富岡八幡宮は源頼朝公が開いた横浜市金沢区富岡の富岡八幡宮の御分霊でやはり伊丹家と関わりが深い場所ですからね。

そんな平安時代末期~江戸時代の歴史が辿れるのが、この手子神社なんです。

きっと皆さんの御近所にも小さくなっても凄い歴史偉人が崇拝した神社や御寺、そして御城の跡の山や公園が在ると思います。
・・・ですから皆さん、ちょこっと気分転換に緑の綺麗な神社や御寺や城跡を散歩して見ませんか?そうすれば皆さんと歴史偉人を時間を超えて結んでくれる、地域の誇りを見つける事が出来るかも知れません。悩んだ時に歴史偉人の御霊に話を聞いて貰うだけでも、悩みが楽に成るかもしれないし…


瀬戸神社と手子神社・・・②瀬戸神社は歴代幕府と将軍家が大切にした神社(瀬戸神社歴史解説編)。の記事に続く・・・







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前回の記事→❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区←コレの続き・・・

大永峯嗣法山傳心寺・・・と言っても現代では判る人は少ないでしょうか?
もし新編武蔵風土記稿で久良岐郡の金沢領の項目を読んだ事が有る人なら「あ~!」と思い出す人もいると思います。
さて、この大永峯嗣法山傳心寺と明治時代以前まで正しい名前が伝わっていた御寺も、明治や戦後の宗教改革を経て寺院名は簡略化されて現代では昔とは大分異なっています。
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嗣法山 伝心寺(正式には大永峯嗣法山傳心寺)
さて、この御寺は❝北条氏繁公が開基(かいき=新設)したと❞神奈川県教育委員会や金沢区観光協会が間違った歴史を紹介しており、その事は前回の記事で書いた磯子区の龍珠院の伝承の勘違いと全く同じ❝文献の未確認❞❝歴史人物と伝承の生年の整合性の未確認❞と言う❝初歩的なミスを神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会の誰かサン❞が犯して適当な仕事のまま伝心寺サンや金沢区観光協会に報告してしまったので❝公式❞に歴史が誤認されてしまっている様です。
少し前回の龍珠院の記事と被りますが、何故、この伝心寺が北条氏繁公の開基と言うのは有り得ない事かを説明させて貰います。
前回龍珠院の記事→❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区←クリックで読めます。
さて、新編武蔵風土記稿には旧北条家臣間宮家の子孫で東京大学の前身と成った江戸幕府官営の昌平坂学問所の頭取を務め地誌編纂で多大な功績を残した間宮士信(ことのぶ)サンが伝心寺について以下の記載をしています。

~前略~
禪宗曹洞派相模國小田原香雲寺の末(すえ=末寺)、大永峯嗣法山と號(号)す本堂はなく本尊釈迦の坐(座)像は假(仮)堂に置(おけ)り、開山養拙宗牧、開基は北条左京大夫氏直、大永元年(1521年)の起立と傳(伝:つたわ)れと(ど)、大永元年は氏直未生の時なり、其頃は左京大夫氏綱の代なれば此(この)人の開基なるも知るべからず、
~以下省略~
因(ちな)みに江戸時代にも既に御寺を開いた人物についての認識に混乱が有った様で、どうも伝心寺の御住職は歴代伝える文書は無く口伝が中心だった用です。そして昭和に成ってからの御住職様は新編武蔵風土記稿も読んでらっしゃらなかったみたいですね~。御寺の復興に忙しかったんでしょうね。
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※伝心寺の参道、昔はこの辺りから御寺だった様です。道路の配置から一目瞭然。
まぁ、ちゃんと北条氏繁公や北条氏直公の誕生日を知っていればコンナ初歩のミスを犯さないんですが、何で歴代の和尚さんに御寺を開き寺領を与えて下さった大恩有る開基の御殿様の御名がちゃんと伝わらなかったか新編武蔵風土記稿の文中にヒントが有りましたね…

まず①で現代では簡略化され誤って伝えられている御寺の正式名称と字体が解ります。

そして伝承が正しく伝わらなかった原因が②に有ります。小生の推測では恐らく戦国時代末期に房総の里見家の海賊行為で御堂ごと焼け消失、江戸時代にも本堂は再建されずにいたから御寺その物が荒廃していたのでしょう。その為(ため)に造営から数年後には記録文書が消滅したと推測出来ますが、その原因と成ったであろう合戦の候補は二つ有ります。
●1つ目、永正十五年(1518年)八月二十七日に起きた三浦半島(横須賀市域)走水合戦
北条家臣で後の玉縄城主北条綱成公の付家老と成る前の時代の間宮家が単独で里見家を横須賀市走水で迎撃して殲滅した戦いです。この合戦では間宮家が水軍率いて横須賀市域で里見海賊を迎撃、特に活躍したのが走水を死守玉砕した間宮分家の杉田間宮家初代当主、間宮常信公でした。常信公は官途を兵庫頭(ひょうごのかみ)と名乗り、この合戦では海賊の大将の植松筑前守を討ち取った上に敵軍船14艘を奪い取った記録が残っています。間宮家は勝利したものの残念ながら間宮常信公は34歳の若さで戦死されその戦功が記録されています。常信公の菩提寺は磯子区杉田の牛頭山妙法寺です。
妙法寺の記事は→妙法寺…日本武尊神話の有る後北条重臣間宮家の菩提寺…横浜市磯子区杉田。←クリック!
・・・結論から言うと時代が合わない。なのでこの合戦では有りません。が!いつの時代も役所の役人と言うのは適当な仕事をする奴もいれば真面目な人もいると言うのが判る一例として晒(さら)し上げの代りに誤記だらけの内容を解説して置きましょう。
先ず、この記録が登場するのは寛政重修諸家譜と新編武蔵風土記稿と言う文献ですが、寛政重修諸家譜に関しては近代若しくは昭和期の国家公務員か出版社の人間が適当な仕事をして永正を天正と誤記しています。これは江戸時代の文書から活版印刷に文字を起こす際に起きたミスでしょう。
更には新編武蔵風土記稿でも間宮家の子孫である間宮士信サンが❝間宮常信❞と書いている御殿様の名前を江戸幕府の馬鹿役人は❝間宮信常❞と誤記しています。
更に平成の世と成った現代でも間宮常信の事に関して適当な事を執筆して本にしているNHK歴史解説員と研究家である事を誇張してWikipediaでツラツラと書いて有るガクシャの人がいるのですが、文献の内容の事実確認をされない上に御子孫への取材をする事も無く上記2つのミスをコピペして出版している本に事実誤認や誤記を丸写ししていたりします(笑)。
酷いですよね、いつの時代も❝適当な仕事をする部類の人種❞って。

2つ目、大永六年(1536年)の鶴岡八幡宮合戦
この合戦では恐らく、三浦半島と現在の横浜市域が里見家と正木家の軍隊と海賊に略奪されつくされ鎌倉市街地域に至っては放火され鶴岡八幡宮まで焼失してしまいました。
恐らく町屋地区も略奪放火され六浦から朝比奈峠を越えて里見の海賊は鎌倉市街に乱入し、正木の海賊は城ヶ島方面から北上して鎌倉に侵入したのでしょう。里見家も走水や金沢八景や杉田方面の各所から侵入を試みた様で、杉田に有る源頼朝公が開いた元は修験道の大本山だった熊野神社=大霊山泉蔵院桐谷寺も略奪に遭っています。
泉蔵院(熊野神社)の記事→横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。←クリック!
この鶴岡八幡宮合戦での略奪放火で八幡様が焼失した事件は北条家のみならず北条家と敵対していた小弓公方足利義明や関東武士団にとって文化的精神的なダメージと成る大事件で、里見家は失火の原因の責任から内紛が起こり、北条派の里見義尭(よしたか)が当主に成る程でした。
この際の鶴岡八幡宮と鎌倉市街地の再建事業では横浜の3人の殿様が活躍しているのを間宮家の事績解説で紹介しているので興味が有る人は御覧下さい。
鶴岡八幡宮再建事業関連記事→間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績←クリック!
※余談ですが、間宮家の事績はこの文章を叩き台にして何れ書籍化する予定では有りますが調べ物増えすぎてブログとシェイプアップと銀の指輪造りと季節の散歩と合わせて予定が伸びに伸びて未定です(笑)!
さて小生の推測、大永六年(1536年)の鶴岡八幡宮合戦で里見家の乱入が有った際に御寺も燃やされたので伝心寺は荒廃し書物も御堂も火事で無くなり御本尊の釈迦牟尼仏様だけが難を逃れていた事が皆さんにも「久良岐のよしの言ってる事は整合性有りそうだな?」と御納得頂けたかと思います。
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では新編武蔵風土記稿の伝心寺の解説の③と④ですが、もうそのままですね。
開基は北条左京大夫氏直、大永元年の起立と傳(伝:つたわ)れと(ど)、大永元年は氏直未生の時なり、其頃は左京大夫氏綱の代なれば此(この)人の開基なるも知るべからず
江戸時代には恐らく御寺を開いた殿様の名前が❝北条左京太夫(さきょうだいぶ)❞とだけ伝わっていたのでしょう、だから江戸時代の御住職が前代には御寺の歴史の引き継ぎが廃れていたのを何かの文献を読んで「あ!北条左京大夫って北条氏直公の事なのね?」と間違った解釈をして以後~明治まで御寺の歴史として伝わっていたんでしょう。しかし左京大夫は北条家歴代の殿様が名乗った官職名でした。
実は❝五位、左京大夫❞と言うのは元々は北条家の傘下の小大名で北条家より家格の高い蒔田吉良家の殿様の歴代が名乗った官途です。蒔田吉良政忠公の代まで左京大夫でした。しかし蒔田吉良家に北条家の姫君が嫁ぎ、吉良成高公や吉良頼康の代に成ると鎌倉公方の代理を務める様に成り官位も❝四位、左衛門佐(さえもんのすけ)❞に上がったので、その際に北条家に左京大夫の官職が譲られたのでしょう。
北条氏綱公
2代目の北条氏綱公の先代の初代北条早雲公は実は生前に北条姓を名乗っていませんでした。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
それどころか早雲公の代までは伊勢姓で伊勢盛時と名乗り僧籍に入ってからは伊勢宗瑞となのっていらっしゃったので官職も左京大夫ではなかった筈です。
ですから蒔田吉良成高公が初代鎌倉公方代理だとすれば正に北条氏綱公の世代に当たるので、北条家初代の左京大夫を名乗った殿様は北条氏綱公と成り、伝心寺が開かれた大永元年(1521年)ともドンピシャで整合性が有る訳です。
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さて、これで取り合えず❝傳❞心寺を開いたのが北条氏綱公が有力で有る事が解ったかと思います。
では、何故(なぜ)現代、この御寺が「玉縄北条家の北条氏繁公が開いた」と誤った伝承を現在の御住職様も伝えているのでしょう?これは一つは先代の御住職の頃の神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会の責任です。素人(シロウト)歴史オタクの小生でも調べられる程度の事すらちゃんと調べずに御寺に嘘を教えたんでしょうね。
そして御寺に伝わっていた❝歴史事実はこれだけ❞だと思います・・・
「玉縄北条家の殿様の菩提寺である、でも誰か今では解らない」
・・・と。
これは他宗派の真言宗で、伝心寺の直ぐ近くに在る龍華華サンが成り歴史を紐解くヒントに成りそうです。
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知足山 彌勒院 龍華寺
龍華寺を紹介したブログ開始初期の拙い記事→龍華寺…源頼朝公が開いた横浜市金沢区の古刹。←クリック!
龍華寺に関しては関連記事も有ります
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・・・実はこの龍華寺は北条家の本拠地小田原城の前の城主の大森家の遺児が戦国時代初期に住職を務めていました。この御寺は扇谷上杉家と関係が非常に深く、大森家は扇谷上杉家の与力大名でしたし、同じく関東最強の無敗の軍師で築城の名手だった太田道灌公も扇谷上杉家の直臣で家宰(主将代理)でした。
太田道灌公
室町時代の太田道灌公と菅原道真公の御子孫の菅原朝臣(すがわらのあそん=菅原氏)中務丞の菅野資方(すけかた)公が御一緒に、鎌倉時代に源頼朝公と文覚上人が一緒に金沢区六浦に築いた浄願寺が新田義貞による鎌倉幕府討伐の戦火で略奪放火され廃寺に成っていたのを、現在地の洲崎地区に存在していた光徳寺と合祀して、復興された御寺が龍華寺で、江戸時代には龍源寺と呼ばれていました。
この龍源寺を道灌公と一緒に復興した菅野さんは今の東京都の浅草辺りに住んでいた道灌公の与力武将でした。
先に伝心寺は里見家が鶴岡八幡宮同様に放火略奪した可能性が有る事を指摘しましたが、ちょうど大森家の遺児が龍華寺に居たのはその時代の話です。
鶴岡八幡宮再建事業の頃、玉縄城主は北条為昌公でした。北条家3代目当主の北条氏康公の実弟ですが、どうも小生の見立てでは自分の家来や他勢力と共謀して実兄を差し置いて跡継ぎに成ろうとした形跡が残っている人物です。
鶴岡八幡宮再建では為昌公は鎌倉の玉縄城主だった事も有り、鶴岡八幡宮再建に携(たずさ)わる人々と緊密に成る機会が有ったのですが、当時のこんな話が有ります「氏康公はアホだから、弟が跡継いだ方が良い」と噂が広められていたようです。
実は北条為昌公は烏帽子親や後見人が北条家初期の重臣であった笠原信❝為❞公と大道寺盛❝昌❞公でした。この二人から名前を一字づつ貰って成人した事が解ります。そんな為昌公と鶴岡八幡宮再建で親密だったと推測出来るのが大道寺・笠原の他に❝神保輝廣❞公でした。この神保輝廣公、苗字が違うので歴史学者でも知らない人が多いのですが、実は北条早雲公の実子で2代当主北条氏綱公の実弟であり鶴岡八幡宮再建では檜皮奉行や財経担当として再建に携わっていたので北条為昌公を可愛がる動機が十分に有りました。
当時、北条氏康公は後の織田信長公の若い頃同様に評判が悪く奇行が多かったそうです。
北条氏康
※北条氏康公:KOEI信長の野望大志よりは画像拝借
そんな事も有り中の良かった人達だけで勝手に氏康公を廃嫡しよう等と言う協議がされたかも知れません、しかも敵方の小弓公方足利義明や里見家と結託した上で。
龍華寺の記録では北条家の前の小田原城主の大森家の生き残りである大森龍王丸が剃髪して龍華寺で僧侶に成り北条左京太夫が永楽銭7貫文と金沢権現堂山を寺領として保証している文書が紹介されています。
先に説明しましたが、北条早雲公の生前の名は北条姓ではありません。本名は伊勢 盛時 入道名:宗瑞だ。大森家を西湘から駆逐して相模国中央部の岡崎城を陥落させ、鎌倉郡の大庭城と大住城を陥落させ、三浦郡の新井城を陥落させ、この金沢区一帯に支配権を確立したのは“北条早雲公”の時代で、統治が安定して龍華寺に寺領保証の朱印を発給出来た人物は北条早雲公か跡継ぎの北条氏綱公だと解ります。
さて、玉縄城主だった人物が、兄の北条氏康公を差し置いて三代目当主に成ろうとした動きが後の玉縄城主北条綱成公と俗説では混濁されています。
北条綱成
これは有り得ない事で、北条綱成公は養子なので実子を差し置いて跡継ぎに成る権利は有り得ません。
これは恐らく同じ玉縄城主でも先代の北条為昌公の話が玉縄城主として余りにも有名な北条綱成公と混濁され誤認された事が推測出来ます。
北条為昌公は烏帽子親が筆頭家老の大道寺盛昌公、名を同じく筆頭格の重臣である笠原信❝為❞公と大道寺盛❝昌❞公から貰っているので、人脈的にも後ろ盾に成る人物がいて嫡男:氏康公の廃嫡を画策出来るのは彼以外におらず、更に1530年代後半に行われた鶴岡八幡宮再建では北条一族で伯父の神保輝廣公が買い会計関連と屋根に使う檜皮の調達と施工管理の奉行として頻繁に玉縄城近くの鶴岡八幡宮に出入りしていたので神保輝廣公とも兄の北条氏康公廃嫡の謀議を重ねれる状況に在(あ)りました。
小生はこの為昌公の菩提寺が、伝心寺なのだと推測しています。
実際に為昌公は1539年~公文書に登場しなく成り1542年に23歳の若さで亡くなっているのも1541年に北条氏綱公が没して後に兄の北条氏康公が跡を継いだ際に誅殺されたか自害したのかも知れませんね。
そして北条家所縁の傳心寺に葬られたのが、末寺の龍珠院開基の北条氏繁公の話とごちゃ混ぜに成り江戸時代以降に誤伝したのだろうと解る。
江戸時代の北条氏直公説なんぞ間宮士信サンが解説するまでも無く“事実誤認”で有る事は明白なので端折る。
話を傳心寺に戻すと・・・。
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つまり傳心寺は大永元年(1521年)の開基とされるので、その時期に付近に関わっていた北条家の人物が開基した事に成ります。
玉縄城主が開基したと伝わるならば、当時、永正十七年(1520年)に北条為昌公は生まれたばかりで1歳で御寺を開ける訳も無い。新編武蔵風土記稿ではこれを以て父親の北条氏綱公の開基だろうと指摘している訳です。
為昌公の祖父の北条早雲公は為昌公の生誕の前年、永正十六年(1519)に亡くなっているので当然北条早雲公の開基の筈も無い。だから小生も新編武蔵風土記稿の編集長だった間宮士信(ことのぶ)公と同意見で北条氏綱公の開基で間違い無いだろう事が判明します。
神保輝廣公も小田原所領役帳が編纂された1559年当時には北条一門なのに84貫32文と異常に低い中級武士待遇扱いをされている事が解り、これももしかしたら為昌公の陰謀に加担した懲罰としか思えない状況が有ります。為昌公の次の玉縄城主と成った北条綱成公は1370貫612文。
神保輝廣公と北条綱成公の所得を比較すれば、明らかに神保輝廣公が冷遇されており何某かの懲罰を受けて減封されている事が読み解ける訳です。
余談ですが伝心寺を開いたとか御廟所が有ると誤伝した北条氏繁公の菩提寺は鎌倉市玉縄の玉縄城下の龍寶寺で、氏繁公の母の大頂院様の菩提寺は鎌倉市大船の大長寺(大頂寺)で、子の北条繁廣公も大長寺にて菩提が守られている。
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※傳心禅寺、真新しい扁額にはちゃんとした字体で傳心寺の禅寺としての寺号が刻まれている。
さて、ここまで読んで頂けた人には少しは小生の説・・・
1伝心寺を開いたのは北条氏綱公
2伝心寺で菩提を弔われているのは北条為昌公
3北条氏康公を廃嫡させ三代目北条家当主と成ろうとしたのは北条為昌公
・・・この傳心寺の歴史を踏まえて小生の推測を納得頂けたんじゃないでしょうか?
更に伊勢原市の龍散寺の記事と丸々被(かぶ)りますが書き並べます。

❝北条氏康公を廃嫡して嫡子に擁立しようとする動きが一部の家臣団に有った❞なら❝画策する人物は北条為昌公だった❞だろうし、「嫡男の北条氏康公がアホ」等と敵と組んだり家臣団を分断してまでプロパガンダをやらかしたならば当然、犯人が北条氏綱公にバレて為昌公に懲罰を与える際は自分の所縁(ゆかり)の御寺に蟄居させるか仏門に入らせ世俗との縁を切らせる筈ですよね。
この政治的な北条家分裂の謀略を画策したのは反北条・反古河公方足利高基公の勢力となる訳で、小弓公方足利義明・扇谷上杉朝興・里見義豊だろう。
伊勢原市の龍散寺を再興開基した神保輝廣公は鎌倉の玉縄城主だった北条為昌公と会う機会が多かった事が快源僧都記を読んでも判ります。
そして北条為昌公は大雨で大船の戸部川(柏尾川)が増水して真直ぐ帰れないと言う理由で不可解に横浜市金沢区方面を経由して帰ったりもしています。
玉縄城~鶴岡八幡宮~金沢伝心寺位置関係 久良岐のよし
衛星写真で位置関係を確認すれば一目瞭然、いくら鶴岡八幡宮から玉縄城に戻るのに柏尾川が氾濫したからと言って、柏尾川は玉縄城の東を流れているのだから伝心寺の在る金沢区方面に行っても結局は柏尾川に阻まれるます。
ならば普通に鶴岡八幡宮の西側の巨福呂坂切通しを抜けて小袋谷方面から粟船(大船)で柏尾川の前に出て渡河可能な上流まで北上した方が効率も良いし、大雨で増水している様な悪天候に金沢六浦湊から船で杉田湊に上陸して、笹下城~永谷城を経由して柏尾川上流に出るなど不効率極まりなく更に海路を取る事は自殺行為でしかありません。
つまり❝金沢方面に行く❞と言う事は❝東京湾側に用事が別に有った❞と言っている様な物で、大雨で海も荒れて出航など出来ない時に港町の金沢六浦方面でわざわざ行き会いたい人間が居たと考えた方が自然に成ります。
しかもソレは・・・
父北条氏綱公や兄北条氏康公が来るかも知れない鶴岡八幡宮では不味かった訳です。
恐らく、向かった先は上杉家与力の小大名だった大森家遺児の龍王丸が住職を務める龍華寺でしょう。
そこで足利義明や扇谷上杉家や里見家と会合を開いたのではあるまいか?
・・・と小生は推測する訳です、その様に推測する理由もちゃんと有る。
北条家当主の左京太夫北条氏綱公が保証した龍華寺の永楽銭7貫と寺領の権現山(金沢八景駅~六浦上行寺背後の山)、1559年の所領役帳編纂時点で消滅しています。何らかの理由で没収されている事が解る訳です。
そして天文十二年(1543年)の段階では北条家ではなく❝中務小輔 古尾谷 重長❞が檀那(檀家総代みたいな)に成っている事が梵鐘に刻字されていると新編武蔵風土記稿に紹介が有ります。
この古尾谷家は元は入間郡出身の家で後に北条家臣と成ると三浦半島の警護を天文十年(1541年)に担っている事が解ります。余談ですが小田原北条家の直臣で玉縄北条家の付家老を務めた間宮家も入間郡の坂戸市戸宮に領地を持っていました。
つまり北条為昌公の没年である天文十一年(1542年)の翌年の天文十二年(1543年)には何らかの理由で大森龍王丸が住職を務めた龍華寺から北条家が支援を止めて寺領を没収し、代わりに家臣の古尾谷家が個人で支援を始めている訳です。
・・・北条家が直接の支援を止める理由は何らかの北条家中に不利益に成る事件を龍華寺が起こしたとしか思えず、これが北条為昌公が兄の北条氏康公廃嫡を関係の深い伯父の神保輝廣公や反北条勢力と謀議した舞台で、それが発覚したからだろうと思う。
仮に、出向前に滞在するだけなら北条家が開いた曹洞宗寺院の傳心寺に宿泊すればいいだけですからね。
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伝心寺の屋根や窓ガラスには北条家から下賜された北条家の家紋の三鱗紋が寺紋として装飾されています。
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さて伝心寺に眠る“玉縄城主だった北条家の人物”が北条為昌公と小生は推測する訳ですが・・・
伊勢原の龍散寺と同じく北条家所縁の傳心寺の寺紋は北条家の三鱗紋に〇を象(かたど)った物の使用を許されている。小生の推測通り北条為昌公が謀反を起こそうとしたのならば、将来の復帰を見据えた上で玉縄城からも近く北条氏綱公が直接支援した傳心寺に蟄居させるのが一番安全な訳です。その間に仏門に入り僧侶として修行して反省させたのかも知れませんね。
・・・そして1541年08月に父の北条氏綱公が亡くなる。
氏綱公の跡を兄の氏康公が跡を継ぎ10ヶ月が過ぎる。
年が明けて夏に差し掛かり氏康公の政権が万全に機能する。
邪魔な為昌公は自害させられたか誅殺されたのでしょう。伝心寺で蟄居させられ仏門に入っていたのならば、ここに眠っているのが為昌公であり玉縄城主だったので末寺の龍珠院を支援した氏繁公と勘違いされた事も納得が行きますよね?

叔父上の神保輝廣公は氏康公廃嫡と為昌公の嫡子推薦を主導したのかも知れない。
恐らく神保輝廣公の所得が84貫と一門衆なのに低くいが北条一門だから諸役免除と特別待遇は受けているのは、そんな背景が有ると小生は推察する。この所得は実際は政権から干されている状況で、会社で言えば北条屋の創業者一族なのに玉縄方面統轄支部の課長待遇で全く政治的な力を削がれた状態にされた訳だ。これは北条氏康公と、氏康公の実弟で玉縄城主だった北条為昌の跡継ぎ争いで為昌公に加担した懲罰的な待遇だったのだろうと思う。
この件は以前、新横浜の篠原城の解説記事で少し紹介しています。
コレ→篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。
文字だけ読んでいても、文書なんか戦国時代~現代の間に火災で焼失したり散佚した物だらけで歯抜けの情報しか無いのだから自分で歩いて取材して廻らないと解らない事の方が多い訳です。
そんな風に小生の尊敬する北条家の殿様達の御縁で横浜市と伊勢原市との歴史も繋がったりする。
そして鎌倉市と横浜市の金沢区と磯子区と港南区の歴史も繋がる訳です。
余談ですが、神保輝廣公の菩提寺は伊勢原市の龍散寺です。
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金鳳山 龍散禅寺・・・花の寺、伊勢原聖観音神保輝廣公の御寺だけ有り当時❝鶴岡八幡神宮寺❞と呼ばれていた鶴岡八幡宮の再建時には、この龍散寺に一時、鶴岡八幡宮の社宝や神器が保管された。更には北条家一門の御寺らしく北条早雲公の御位牌が安置されていたりします。でも早雲公の御位牌、小田原城に貸し出した際に教育委員会が破損させたので、「もう外部には貸し出したくない」って副住職様が仰ってました。
・・・お~い神奈川県教育委員会、不真面目な奴はさっさと止めて、真面目で現場で頑張ってる教育者や学芸員が出世出来る仕組みにサッサと改革しろや!みたいな風に一般人として思う事件ですね。

さて、同じ曹洞宗の伊勢原市龍散寺、横浜市磯子区龍珠院、そして金沢区の龍華寺と傳心寺の歴史が繋がった所で、北条氏繁公と間違われている為昌公と思われる人物の御墓の場所ですが…
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・・・今では歴代住職の御墓の中でどれか解らないみたいです。
小生の推測通り龍珠院に蟄居させられて僧侶に成っていたのなら歴代住職の御廟所に御墓が在るのも納得が行きますよね?
でも背後の墓石、これ間違いなく室町時代の頃に多い御墓の様式なんですよ~。正面の立派な墓石は代表した供養塔ですね。
この記事を書くために改めて写真の撮影に伝心寺を再訪した時は二月初旬でした。
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梅が咲き始めた頃で境内にもとても綺麗な梅花が開いて心を癒してくれました。

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横浜市には伝心寺と龍珠院、そして港北区の泉谷寺、3つも戦国時代の関東で一番❝侵略❞と❝善政❞に長けた名将の北条氏綱公が関わった御寺が有ります。
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庫裡では御朱印も頂けますよ~。
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きっと皆さんの御近所にも今は規模は大きく無くても本来は凄い歴史を持つ神社や御寺が有るかも知れません、御散歩した山や公園が実はそんな神社仏閣に関わった歴史偉人の御城の跡かも知れません。
少し歩いて御寺や神社の説明や、屋根の瓦の模様を見て見ると、途端に過去の歴史偉人とその場所が皆さんを繋ぐタイムカプセルに成るんですよ!
・・・さあ、天気が良くて気分転換したければ、御近所を散歩してみませんか?

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
次いつ更新するかは解りませんが(笑)!
肉体改造、四月一杯で形に成りそうです。少しだけ玉縄北条家と間宮家と太田道灌公と蒔田吉良家と宅間上杉家の殿様の顕彰文の原稿書くのとブログ更新のペース遅くなるの、猶予下さいね~。

んじゃ!
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神奈川県横浜市金沢区は横浜市の中の旧久良岐郡域に属する地域ですが、鎌倉時代から金沢区六浦が鎌倉の東京湾側の港として機能していたので文化圏としてはもう完全に鎌倉文化圏に属しています。
そんな土地柄なので金沢区には平安時代末期~鎌倉時代~室町時代~戦国時代(室町後期)~安土桃山時代にも重要な歴史偉人達が関わった神社仏閣や史跡と自然が沢山現存しています。
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竹嵓山 禪林寺(ちくがんさん ぜんりんじ)最後の鎌倉公方足利持氏公開基、初代古河公方足利成氏公再興、小田原北条家臣伊丹永親公支援の寺。

そんな金沢区の中に釜利谷東と言う地域が有り、そこには竹嵓山禪林寺と言う御寺が存在します。
小泉夜雨 葛飾北斎 
この禅林寺が存在する地域は歌川広重の描いた❝金沢八景❞で❝小泉夜雨❞と呼ばれた海近くの景勝地として近代まで知られていましたが、その海も昭和に成り戦後に県外からの移民が教育委員会の席を占める様に成ると歌川広重の金沢八景すら知らない彼等は保護を怠り、埋め立て地利権によって海は消され宅地造成によってその景勝は失われました。
さて、そんな景勝地であり鎌倉市街へ抜ける間道が通る場所だったので、この地は文系で学生時代に真面目に勉強していた人なら誰でも知っていて当たり前の歴史偉人が御寺を開いたりもしています。
永享の乱で逆徒の山内上杉憲実によって切腹に追い込まれ最後の鎌倉公方と成った足利持氏公により開かれ、その遺児で生き残った足利成氏公の親子によって再興された御寺が釜利谷東の禅林寺です。
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山門や御堂は最近の建替えの様ですが、木造で鎌倉文化を良く再現した造りに成っておりとても落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
残虐非道で籤(くじ)引き将軍として有名な足利義教が自分の不安定な地位を確固たる物にする為に赤松家始め多くの忠臣を謀殺したり挑発して幕府軍を送り込み滅ぼし更に総仕上げとして自分の地位を一番脅かす存在だった鎌倉公方足利持氏公と対立している山内上杉憲実を後援して今川家に命じ今川範忠公引いる鎌倉公方討伐の幕府軍を上杉家の援軍として送り込みました。
足利持氏公は降伏を余儀なくされ、金沢文庫の金澤山彌勒院稱名寺で出家した後に東京都世田谷区の永安寺に移って完全に隠居したにも関わらず、上杉憲実に攻められ自害に追い込まれました。
その後、関東武士団は結束して足利持氏公の維持を保護し有名な❝結城合戦❞を起こしますが、その時に足利持氏公の遺児達も敗戦で殺害され、最後に生き残ったのが足利成氏公でした。
この永享の乱と直前の上杉禅秀の乱が戦国時代の幕開けとされており、関東は関西よりも早くに戦乱の時代を迎える事に成りました。
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写真は鎌倉市浄明寺地区犬懸谷(いぬかけがやつ)の上杉禅秀邸址入口。
少し金沢区から話を外します・・・

足利成氏公に関しては幼少期の生い立ちが諸説あり、詳しい所は最近まで解らなかったそうですが現在では信濃国佐久郡の大井家によって保護されていたとする説が有力だそうです。
この大井家は祖先が東京都品川区大井の出身で、古代より相模国~武蔵国に土着していた紀氏の子孫とされる一族です。
その大井家の下で残虐籤引将軍足利義教の難を逃れた足利成氏公は、室町幕府将軍が八代将軍の足利義成(足利義政)公に変わった頃に幕府に対して関東武士団の強い足利成氏公鎌倉公方への就任の承認要求有り関東武士団を懐柔したい足利義政公の思惑が一致した事に由(よ)って、足利成氏公は父の跡空位に成っていた鎌倉公方の座に返り咲き親孝行を果たします。
そんな足利成氏公に父の代の因縁のままに再度叛旗を翻したのが、山内上杉憲実の子の上杉憲忠でした。
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江島神社(えのしまじんじゃ)
逆徒山内上杉家が従属させている扇谷上杉家と供に足利成氏公に対して叛旗を翻し挙兵すると、足利成氏公は多くの関東武士団に守られ険阻な要害地形で豊富な湧き水が有り、海から海路補給を行える江ノ島に籠城しました。この江ノ島は舒明天皇以来の天皇家勅願所(ちょくがんじょ)で天皇家が国家鎮護や様々な祈祷を行って貰う場所として江ノ島の岩屋(洞窟)を定めていました。その岩屋に源頼朝公が水と戦と音楽と美の女神の弁才天様を祀ったのが江ノ島神社の起源です。
その江ノ島神社の別当職だったのが、後に横浜市域の南部を統治した間宮家の一族で本姓佐々木氏、江島の別当職は岩本坊(真言宗系修験道寺院)と言う僧坊の住職を務め❝俗名を岩本❞、❝普段は間宮❞、❝神事では佐々木❞の苗字をそれぞれ使い分けた近江源氏の一族でした。
岩本坊は現在では岩本楼と名を変え江ノ島の有名旅館として多くの宿泊客で賑わっています。
この間宮家は戦国時代に禅林寺を支援した伊丹永親公の同僚の北条家臣で玉縄衆黄備隊付家老の間宮康俊公や徳川家康公の側室と成り姫を生んだ間宮於久の方や、大坂城総掘り埋め立て作戦を進言し但馬奉行佐渡奉行本牧奉行を兼任した間宮直元公を輩出しています。
その天皇勅願所の聖地江ノ島と弁天様の御利益と、足利成氏公の人望と采配によって山内上杉&扇谷上杉連合軍は撃退されました。

ところが、この頃関西では京都を荒廃させる応仁の乱を引き起こした戦犯の細川勝元が管領(かんれい)職に就任すると、鎌倉公方よりも関東管領上杉家を自分の言いなりに成る手駒として重視し出して関東の将軍である足利成氏公を軽視する政策を指示してしまいました。
すると足利成氏公は親の仇でもある山内上杉憲忠が細川勝元と謀略を巡らしている事を察知し、逆に忠臣の結城成朝公と共に謀略をしかけ西御門の鎌倉公方邸に上杉憲忠を呼び出し暗殺しました。
鎌倉市西御門周辺 久良岐のよし
そして成氏公を支持する大名の多い関東の南部と東部で上杉派を連戦連勝で撃破して瞬く間に関東南~東北部を制圧し上杉家を追い詰めました。
これに怒った人望の無い細川勝元は自分の権威では収拾が着かない事を悟ると御花園天皇に鎌倉公方追討綸旨を出させてしまします。この追討の綸旨は相手を朝敵(日本国の敵)と天皇の公認で指定してしまう事を意味し、こうなると人望が高く戦も上手い足利成氏公でも離反する大名が現れ苦戦を強いられる事に成りました。
そして上杉家は相模国を制圧し、鎌倉公方足利成氏公は鎌倉に帰還する事無く古河を本拠地にして以後は古河公方と呼ばれ歴史の授業では鎌倉公方にカウントされず戦上手で人望が高かった事績も教えられる事の無い人物と成ってしまいました。
この戦乱は❝享徳の乱❞と呼ばれます。この戦乱が続いた事が、もう少し後の時代に戦国時代最高の善政を行った北条早雲(伊勢盛時公)や北条氏綱公や北条氏康公等の北条家の名君達が関東に勢力を広げる切っ掛けと成って行きました。
そして北条家が横浜市金沢区一帯も勢力下に収めると、北条家臣伊丹永親公が禅林寺を支援する時代が来ました。
・・・ここで禅林寺の境内その物の解説に戻ります。
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禅林寺は山門の左手に小さな神社が在ります。
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金毘羅宮つまり神仏習合時代には金毘羅大将を祀っていた神社ですが、元は仏教以前のヒンドゥー教の水神様で鰐(クンピーラ)が神格化された神様でした。釜利谷は小泉辺りまで海が広がっていたので、正に船着き場として水神様の御利益が必要だったのかも知れませんね。
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山門をくぐると境内は室町時代成立の禅寺らしい人工的に谷を広げる為に山の斜面を掘削する❝裾切り❞と言う加工がされた❝谷戸構え❞に成っています。人工的に直角にした谷に囲まれている事で入口に門を築いてしまえば頑強な防犯に成り、更に火事の類焼防止も期待出来る訳ですね。
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桜の木でしょうか?御庭はとても手入れが行き届いて綺麗です。
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御寺なんだけど、手水社が有ります。多分、明治以前は神仏習合だったんだと思います。
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その隣に小さな祠が有り、延命地蔵と書いて有ります。
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御地蔵さん祀ったりしてるのは、どうも金沢区の富豪だった永島家から移されたらしい。
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でも縁起を書いた墨書きが色落ちして良く読めませんでした。
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御本堂も横から見ると又、趣が違いますね。
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さて、この御寺の寺紋は足利家の二つ両引き紋ですが、これも足利持氏公と足利成氏公に使用を許されたのでしょう。御寺の格の高さが解りますが、この日、色々と書物に残らない寺伝を御教授して頂いた御住職様はとても口調も物腰も柔らかい和尚様で偉ぶった感じ等は少しも無い綺麗な御寺と同じ紳士な方でした。
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御本堂は恐らく再建だと思いますが、破風の梁(はり)部分の彫刻は素晴らしい物でした。
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浦島太郎伝説・・・神奈川県域で海と関係の有る古い歴史の有る神社仏閣は、この彫刻が有る処をちょくちょく見かけます。入口の金毘羅様と同じく禅林寺の近くまで昔は海だった名残ですね。
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龍の彫刻も素晴らしい。
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もう梅の季節ですね~。
そう言えば梅の名所一覧も観梅の季節の参考にして頂ければ幸いです。
神奈川県の梅花鑑賞に適した梅林一覧←クリックで記事にリンク!
綺麗な御寺でしょう?
何だか庫裡では地元の老人の皆さんの茶飲み場を提供していたりするみたいです。
静かでゆっくり出来て、海が近くに無くなった現在でも風流な御寺ですね。
そう言えば!
近くに和菓子屋さんが有りましたので紹介します。
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この御店、アパートの1Fのシャッター商店街(笑)に1軒だけ頑張ってたんで気に成って入って見たら、凄く可愛い和菓子が沢山有りました。
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小生は梅の和菓子を買い食いしましたが、上品で美味しかったですよ♪

さて、禅林寺は新編武蔵風土記稿にも登場し以下の解説が有ります。

下総国關宿(千葉県野田市関宿)東昌寺末、竹嵓山と號(号)す。
當(当)寺は源持氏の建立にて、開山は禪藝(禅芸)と云(言う)、本寺開山(かいざん=初代住職)艮庵(ごんあん)禅師の上足(じょうそく=優秀な弟子)なり、永正九年(1512年)十一月二十六日寂す(没)。
中興開基伊丹三河守永親は永禄六年(1563年)閏六月長暦に閏月は十二月とあり十八日卒す(没)。
禪林寺雲岸宗悦大居士と諡(おくりな)せりと云、又江戸浅草寺の傳(伝え)に云、智樂院權僧正忠尊は伊丹三河守永親が子にて、紅葉山東照宮の御別当を兼帶(けんたい=兼任)し寛永年中當村御神領となりし後、其父菩提の爲(為)禪林寺を草々し十石の地を寄付せしと云。當寺の傳と異なり・・・
--以下省略--

要するに、この御寺が鎌倉公方の足利持氏公が開いた御寺で、最初の住職は禪藝和尚様で本寺の艮庵禅師の偉い弟子で、戦国時代には伊丹永親公によって再興され支援されました~って事と「浅草寺の住職の智樂院權僧正忠尊和尚様の御父さんが伊丹永親公で紅葉山東照宮(江戸城内の東照宮)も管理していた偉い人だよ」って事とかが書いて有る訳です。
そうなんです、この伊丹家は北条家臣で後に江戸幕府時代には宗教的な儀式で重要な役割を担う天台宗系修験道の偉い智樂院權僧正忠尊と言う法名の和尚様を輩出し、付近の手子神社を開き浅草寺と江戸城内の東照宮のトップだった人物なんです。

戦国時代の伊丹家の記録も後北条所領役帳に残っています。

江戸衆
伊丹右衛門太夫(康信)
弐百五拾五貫四百六十弐文 久良岐郡釜利谷(横浜市金沢区釜利谷)
弐拾三貫五百五拾文    同所壬寅検地増
此増分役者惣検地上改而可被仰付
六拾九貫百八拾三文    常葉(鎌倉市常盤)
以上三百四拾八貫弐百文
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この所領役帳が成立したのが1559年なので、伊丹右衛門太夫は世代的に伊丹永親公の御父上に当たる世代の人物なので、まぁそう言う事なのかも知れません。つまり、伊丹家は北条氏康公の時代には釜利谷にいて活躍し、禅林寺で座禅組んで精神修養してらっしゃったり学問を学んだりされていたかも知れない訳ですね。
この伊丹永親公の妹君に於菊の前様がいらっしゃり、豊臣秀次公の側室だった人物で女性としては出世された後に秀次公の切腹で一緒に処刑され悲惨な目に遭ったかも知れません。そんな事も有って、伊丹家は宗教的な修行をする智樂院權僧正忠尊和尚と言う偉人を輩出したのかも知れませんね。
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伊丹永親公の御廟所は鎌倉~室町文化の色濃く残る金沢区の御寺らしい矢倉の中に現存しています。
御墓を写すのは殿様に失礼なので、矢倉の上部の写真だけ掲載せて頂きます。
さて・・・
新編武蔵風土記稿で伊丹永親公の戒名は禪林寺雲岸宗悦大居士と紹介されていますが、これは誤りです。新編武蔵風土記稿では取材した人間の質によって書き間違えがどうも多い様です。
正しい永親公の戒名は現在も御寺にちゃんと伝わっています。
禪林院殿雲峰宗悦大居士これが正しい永親公の戒名です。
恐らくこの雲峰宗悦の峰は、付近一帯の円海山の山々~金沢区辺りまでの地域の事を❝峰❞と言う渾名で指していた様で、金沢区町屋の伝心寺にも峰の字を含む江戸時代の山号が記載されていたりします。

まぁ、そんな訳で禅林寺は凄い御寺なんです。
DSC_0305~2
受領した禅林寺の御朱印。

きっと皆さんの御近所にも凄い歴史偉人が守って来た神社仏閣や公園や山になっている御城の跡や、古代人が大切にした聖地の森や泉が有ると思います・・・
皆さん、御近所の神社や御寺や里山を散歩して、少し説明の看板に目をやり昔の人と一瞬、時間を共有したり新鮮な空気を吸ってリラックスしてみませんんか?

・・・では、又、次のブログ記事で御会いしましょう♪


















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