歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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カテゴリ:神社仏閣一覧 > 鎌倉市

皆さんは鎌倉に宝戒寺と言う立派な御寺が在る事を御存知でしょうか?
多分、歴史が好きだったり御朱印受領の神社仏閣巡りをしている人なら知ってる人は多いと思います。
しかし歴史を知らない人は全く知らない御寺でしょう。
鎌倉江の島七福神巡りの一所として有名で、毘沙門天様の御朱印を頂く事が出来ます。
この毘沙門天様を崇拝する事で勝運来福の御利益に預かれる訳ですが、他にも具体的にこの御寺に関わった歴史偉人の実績からも、その偉人達の勝負運と幸運に肖(あやか)れるのかも知れません。
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この御寺、正式な名称は・・・
金龍山(きんりゅうざん)釈満院(しゃくまんいん)圓頓寶戒寺(えんどんほうかいじ)と言って鎌倉幕府第二代執権(しっけん:幕府の首相)の北条義時の邸宅跡で、その邸宅は小町邸と呼ばれていました。その小町邸は彼以後も歴代の北条得宗家(とくそうけ:北条家の本家)の邸宅として使用された土地でした。
しかし鎌倉幕府の歴史にも終焉の時が来ます。
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上の写真の七里ヶ浜から干潮の稲村ヶ崎の干上がった海辺を通り新田義貞の大軍が鎌倉市街地に乱入して鎌倉幕府を滅亡させます。その際の彼の行いは極悪非道で鎌倉に至るまでも多くの神社仏閣で略奪放火をして回ったので幕府軍は劣勢に立たされても降伏する選択肢は無く、全員が執権の小町邸に集結すると、その背後に在った東勝寺の矢倉(やぐら:墳墓を置く横穴式人工洞穴)に移動し集団自決しました。
宝戒寺と東勝寺跡と腹切り矢倉の位置関係 久良岐のよし
位置関係は御覧の通り。
さて、そんな後醍醐天皇と新田義貞によって滅亡させられた北条家ですが元寇の際に朝鮮軍と元朝の中国軍の侵略から日本を守った功労者一族として現代でも評価されており、勿論(もちろん)、後醍醐天皇も北条一族を滅ぼしても功績に対して敬意を払っていました。
そんな訳で滅ぼした北条一族を無碍(むげ)にする事無く、鎌倉幕府の滅亡後、臣下の足利尊氏公に命じて旧北条家小町邸に北条家の菩提を弔う為(ため)の菩提寺として開かせたのが現在の宝戒寺です。
後醍醐天皇は、どちらかと言うと天台宗よりも修験道や真言宗と日本古来の神様の神話を大切にされた方でした。しかし、この宝戒寺の面白い所は後醍醐天皇と天台宗のコラボした御寺である事です。
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宝戒寺では素敵な亀甲型の巨石の石畳と豊かな緑の参道が参拝客を出迎えてくれます。
そんな宝戒寺ですが、後醍醐天皇が天台宗の御寺として宝戒寺を開いたのは恐らく北条家の宗旨が現在の臨済宗の元に成った天台宗の一派の禅宗臨済派だったからでしょう。
後醍醐天皇は政治面では腐れ貴族達に利用され、実際は権力を持てず結局は妃(きさき)を嫁がせた北畠家の利権の為に利用され、後醍醐天皇による建武の新政権樹立、俗に言う建武親政の開始に貢献した武士達には公平な新恩給与つまり新たに倒幕の褒美として給与地と成る所領の分配が行われずに武士達の不平不満が募り、建武政権は事実上破綻します。
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この時に利権を貪った北畠家は村上源氏の出身の為、同族であり後に多くの名将を輩出する事に成る村上源氏の武将達も後醍醐天皇側に与力(よりき:味方する事)して、北畠一族及び貴族と新田義貞達と南朝政権を維持する軍閥化していきます。
北畠家勢力と腐れ利権貴族の排除の兵を挙げた足利尊氏公を旗頭とする勢力は北畠氏排除にまで力及ばずに後の北朝政権を樹立して後醍醐天皇を手放さない南朝勢力と対立して行く事に成ります。
そんな経緯も有って、対立の激化の過程で一時的に関東の統治者として派遣された後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりながしんのう)もやはり外祖父が北畠一族の源朝臣(みなもとのあそん)北畠師親(もろちか)でした。更に護良親王の妃(きさき:妻)も北畠師親の孫の北畠親房の息女(そくじょ:娘)でした。
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この北畠一族に実質乗っ取られていたのが後醍醐天皇の建武政権だった訳ですが北畠一族は更に統治者の不在と成った陸奥国(東北地方)で産出される金の利権を押さえる為か策を巡らして、近親者で皇子の護良親王を介して後醍醐天皇に陸奥将軍府を設置させ上で北畠一族の北畠顕家(あきいえ)を東北地方の事実上の総帥である陸奥守に推薦させます。そして、まんまと北畠顕家に陸奥守補任(ほにん:官職に任命される事)を成功させます。
この北畠顕家、実は護良親王の御妃とは兄妹の関係です。つまり完全に北畠家が鎌倉幕府の武士達から奪取した利権を公益の為に分配せずに私物化してしまった訳です。
事ここに至って、後醍醐天皇に味方した武士達の心は離れて更に多くの者が足利尊氏公と光厳天皇の樹立した北朝派に靡(なび)いて行く事に成り南朝と呼ばれた後醍醐天皇の系統の勢力は減衰して行く事に成ります。
もし北畠家が私腹を肥やさず、後醍醐天皇が平等に武士達の功績を評価して土地を分配していれば間違いなく南北朝の動乱は発生せず室町時代の応仁の乱の動乱を招く事も無く、日本文化も更に発展したかも知れませんね。
そして神仏習合の文化を大切にした後醍醐天皇の偉大さは評価され歴代天皇が大切にした神仏を分離する事無く仏教文化と神道文化は共存したままの伝統が明治時代の西暦1900年代以降も続いたのかも知れません。もっとも建武政権が成功したifが発生する時点で明治政府も存在しないので「if」を語る価値は毛程も無く、北畠家が私腹を肥やし腐れ貴族が楠木正成公の戦略を否定したせいで南北朝の動乱が発生した事実だけが残る訳ですが・・・
そう言った意味では日本レベルに国賊に値するのが北畠家であり、後醍醐天皇から見て逆臣に当たるのが足利尊氏公に成る訳です。そして後醍醐天皇も古来の中国皇帝や日本の天皇家の悪例を踏んでしまい外戚(がいせき:嫁方縁者)の暴走を治めれなかった時点で統治者としては無力だったのかも知れません。
しかし、初期段階で後醍醐天皇は足利尊氏公を非常に評価していたので、宝戒寺の建立を命令したり節目で宗教的に精神的に大切な役割を御命じに成ったのでしょう。

まぁ~ここまで書くと「何だ久良岐のよしってのは南朝を罵倒する不届き者か!」と思う人もいるかも知れませんんが実は小生の祖先は南朝方の大功臣です(笑)。
大切な事は、本来の日本文化と言うのは腐れ儒教に毒された年功序列江戸時代や特に明治以降の価値観とは異なって、家柄の他にも実力や功績によって評価されて引き立てられる文化が存在したと言う事実を示した訳です。
更に勇敢に戦った戦没者や結果的に国と国民の為に成る功績を残した者は敵味方の分け隔てなく経緯を以(もっ)て仏教に基づいて供養したり神道に基づいて御霊を御祀(まつ)りすると言うのが日本人の精神文化だと言う実例が、この宝戒寺の存在であると言う結論に至る訳です。
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この宝戒寺は日本の為に力を発揮した鎌倉幕府執権北条家、そして後醍醐天皇と足利尊氏公と言う現在の日本の形を作り上げた礎の一端を担った英雄偉人達の関わった凄い御寺なのは伝わったでしょうか?
更に戦国時代が終焉を向かえると、天台宗の高僧であり徳川家康公の軍師でもある南光坊 天海 大僧正によって宝戒寺の保護が願い出られて幕府によって存続させられて現在に至ります。
そんな凄い所縁(ゆかり)を持つ御寺なのに、現代では庶民の我々に優しい御寺で御朱印を頂きに上がったり景色を見て参拝に上がると本殿の中に上がらせて頂く事が出来ます。
下の写真は上野の寛永寺の開山堂両大師様。
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この寛容さは天台宗の凄い御寺に良く有る事なのですが、例えば天海大僧正が開いた江戸城鎮護の大寺院、上野の寛永寺の開山堂である両大師様も御参りすると御本堂に上げて頂けます。
天海大僧正は神様も大切にされた方なので、家康公を祀る東照宮の造営にも関与したのか参道に塔頭寺院を建立していたりします。
下の写真が久能山東照宮の参道に在る塔頭の徳恩院です。
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そんな天台宗の文化と英雄達の関わった鎌倉の宝戒寺は花の綺麗な御寺としても知られています。
今の季節、秋だと・・・宝戒寺様も御花の紹介に力を入れてらしゃるので季節ごとに纏めてみましょうか?
【秋】
彼岸花・ホトトギス・つわぶき・酔芙蓉(すいふよう)・萩・紅葉
【初春】
水仙・蝋梅(ろうばい)・梅・福寿草
【晩春】
桜・木瓜(ぼけ:素戔嗚尊の神話の花)・無患子(むくろじ:子供の疫病除けの花)・白木蓮
【夏】
水蓮・百日紅(さるすべり)・花虎の尾
こんな花を見る事が出来るそうです。
小生は2014年の7月21日、夏の真っ盛りに訪れたので余り多くの御花を見る事は出来ませんでした。
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しかし緑豊かな御庭を散策させて頂き、暑い中清々しい気持ちに成りました。
この日は、宝戒寺様への参拝の後、確か本覚寺様を御参りして同じく鎌倉江の島七福神の夷(えびす)尊神様の御朱印を頂いてから鶴岡八幡宮を参拝して大鞆別命(おおともわけのみこと)=応神天皇と源頼義公と源義家公と源頼朝公と頼家公の御霊に御挨拶をして帰りました。

そうだ!
もし鎌倉江の島七福神に御興味有る方、是非、関係先の御寺で販売している専用の色紙を購入して下さい!
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とっても可愛い七福神様の絵が描かれていて額装すれば記念に部屋に飾って毎日拝めば諸々の御利益にも預かれるかも知れませんね!そして・・・
この神社仏閣を我々現代人に残し日本文化と自然と風景の美しさを残して下さった先人に感謝する事も出来ます。
鎌倉江の島七福神会様の公式ホームページより拝借 久良岐のよし


宝戒寺様のアドレスも以下に掲載します。
【金龍山釈満院圓頓寶戒寺(略称:宝戒寺)】さて皆さん、宝戒寺が歴史的にも関与した人物達も御利益も素晴らしく雰囲気の良い御寺さんである事は伝わったでしょうか?鶴岡八幡宮からも近い立地なので、是非、鎌倉観光の際は鎌倉・江の島七福神巡りと専用御朱印色紙、頭の隅に置いておいて参詣して見て下さいね!
そして出来たら仏様と神様に御参りした際に歴史偉人達にも今の私達の生活が先人の御蔭で有る事を感謝してみて下さい。

では!又、次の解説記事で御会い所ましょう!






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北鎌倉には建長寺と言う大寺院が在ります・・・
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正式名称は巨福山建長興国禪寺と言い、京都南禅寺を別格として除いた鎌倉五山、つまり関東の臨済宗寺院の内で五つの筆頭寺院の内の第一位に位置づけられた寺院です。
・・・この鎌倉五山の凄さと言うのは征夷大将軍しか歴代住職の任命権を有していなかった事からも解ると思います。
さて、この建長寺、鎌倉時代~戦国時代当時は多くの学僧や武士が修行に集まっていた大寺院でした。
ですから現代でも日本有数の規模を誇る大寺院として存在しています。
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とは言え、この北鎌倉周辺には他にも先月紹介した円覚寺と言う鎌倉五山第二位の大寺院も在ったりして、北鎌倉を散歩していると少々感覚がマヒして他の大寺院が小さく見えてしまったりします(笑)。
円覚寺の記事はココ→
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天下禪林・・・つまり天下に名の轟いた学問所寺院と言う事です。
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これでも現代は開基(かいき=神社仏閣を造営する事。日本語で使う創建は漢字の意味の誤用)当時と比べて明治政府の宗教政策や、太平洋戦争敗戦後に規模が縮小しているんです。
信じられない位、昔は広大な境内地を有しており、更に寺領と呼ばれる御寺の収入源となる寺院の領地も昔は境内地と別に存在していました。まぁ、それは明治政府の宗教政策で没収され、そのせいで多くの御寺のみならず神社も荒廃した所が多かったんですが・・・
とりあえず、今回は建長寺と建長寺に関わった歴史偉人の紹介だけして行こうと思います。
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さて、略称建長寺の山号は巨福山(こふくさん)と言いますが、これは鎌倉幕府を開いた源頼朝公が鎌倉市街地防衛の為に築いた市街をスッポリ取り囲む丘陵城塞群の中の7つしかない入口の一つ、巨福呂坂(こぶくろざか)の切通しの近くに在ったからです。
現在の鶴岡八幡宮の西側を通る巨福呂坂は近代に成って開削された新しい道で、トンネル入口に有る石碑は歴史に疎(うと)い現代人が設置すべき場所を間違ってしまっている訳ですが、小生の様な歴史好事家(オタク)や建長寺や鶴岡八幡宮の鶴岡文庫や鎌倉国宝館の様な文化と歴史を守ってらっしゃる組織の職員サンの多くはこの事を知っています。
巨福呂坂切通し位置 久良岐のよし
現代では住宅街に埋もれている谷間の細い道が、本来の鎌倉防衛の要だった巨福呂坂切通しの跡です。
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さてさて、そんな鎌倉防衛拠点の手前に立つ関東最大で最高格の臨済宗寺院、建長寺は昔は鎌倉武士達の学問所としても機能していた訳ですが、この御寺を最初に造営した開基様が鎌倉幕府第五代執権の北条時頼公です。
そして、モンゴルによって滅亡した南宋国から亡命してきた四川省出身の名僧で日本武士に禅の精神と故国の情報を叩き込んだ蘭渓道隆和尚が開山(かいざん=初代住職)と成りました。
つまり、当時はモンゴルやモンゴルに服属している朝鮮人によって何時、侵略戦争を仕掛けられるか解らず日本は周辺国から危険に晒されていた状況でした。
ですから、鎌倉幕府を蘭渓道隆和尚が頼ってきたのも、故国の南宋王朝が如何(いか)にして滅亡したか日本に伝え備えさせる目的が少なからず有ったと推測出来る訳です。
そして、当然、武士達も蘭渓道隆和尚を師と仰ぎ、和尚が伝えた学問を取り入れ日本人としての武士の気概と禅の平静を保つ精神と中国渡来の兵法を融合させ、モンゴルの威を借りる朝鮮人とモンゴル人征服王朝の中国元朝の侵略に対して備えた訳です。
事実、この時期には朝鮮がモンゴルの名を挙げ日本を外交的に脅迫し始めていた時期でした。
・・・まぁ、今も昔も朝鮮半島の政府は古代からずっと隙有らば日本を侵略しようと何度も攻めて来たり日本を裏切って来た歴史が有るので彼らは鎌倉時代も通常営業、今と同じですね。
まぁ、日本は蘭渓道隆和尚の教えによって戦場でも冷静に敵と対峙した鎌倉武士達の準備の甲斐有って、元寇で朝鮮軍と江南水軍を2度に渡って日本の武士団が撃退します。
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この座禅を取り入れた精神修養は後に鎌倉文化や武士文化の形成に大きな影響を与えて行く事に成ります。
鎌倉時代以来~室町時代そして江戸時代に成るまでは、禅と言うのは武士の精神修養の嗜みとして武士文化に取り込まれ現代に残りました。
当時の武士達は例え信心する宗派が臨済宗でない武士も平素、参禅して修行に励んだ様です。
そして、建長寺では蘭渓道隆和尚の影響も有り、禅の他にも中国語も教養として学び武士達に易学や兵法を学ぶ場としても機能していました。
蘭渓道隆和尚については、以前、常楽寺の記事でも紹介したので興味の有る人は読んで見て下さい→
因(ちな)みに建長寺、“けんちん汁”の発祥地だったりします。
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写真の画像は建長寺の物とは違いますが、建長寺近くに在る“鎌倉五山”と言う和食屋さんで提供しているケンチン汁です。
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建長寺では参禅すると、本家本元の“けんちん汁”を食べさせて貰う事が出来ます。
まぁ、なかなか観光でしか普通の人は鎌倉に行く用事も無いので、北鎌倉駅周辺の和食屋サンで提供している店に入るのがデートや家族連れだったら無難でしょう。
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建長寺に話を戻しますと、多くの武士から崇敬を集め、その武士達の子弟が幼い頃に入門し学問と精神修養に励む場所であり、日本中の学僧が集まる場所でもあったので現代でも国宝や重要文化財の建物が多く現存しています。
そんな建長寺なので、鎌倉武士達のみならず戦国時代にも名将を輩出しています。
その名は太田道灌(どうかん)、江戸城や河越(川越)城を築城した名築城家であり戦っては無敗を誇った名軍師で、扇谷上杉家の執権(しっけん)でした。
太田道灌公
今の政権に例えると官房長官や幹事長みたいなもんです。
当時、日本を統治していたのが君主=天皇家。
その統治を代行していたのが征夷大将軍足利家。
足利家の政治を分業実行していたのが管領と関東管領。
その関東管領を務めた家が犬懸(いぬかけ)上杉家、宅間(たくま)上杉家、扇谷(おおぎがやつ)上杉家、山内(やまのうち)上杉家の上杉家の筆頭4家。
その家、室町時代中盤~戦国時代に関東管領と務めたのが扇谷上杉家と山内上杉家。
その扇谷上杉家の軍事と政治を取り仕切っていたのが、この太田道灌公でした。
この太田道灌公は幼い時から非常に頭が良かったそうで、幼少期には大人も論戦で言い負かす事が度々有ったので、道灌公の父上の道真公が「この子、将来、人を見下す子に育たない様にしないと危ない」と感じて、建長寺に入門させて幼い時は建長寺で僧侶達から人としての道や学問を教わって育ったと言われています。
残念ながら建長寺も数度の戦火や火災に遭っており、建長寺で道灌公が具体的にどんな生活をしていたかは今の職員さん達も解らなく成っています。
戦国時代末期に成ると、扇谷上杉家も滅亡寸前、関東の覇者は小田原城を本拠地にする北条(伊勢)家に変わっていました。
戦国時代に関東で随一の学者文化人としても有名だった建長寺の玉隠英璵(ぎょくいんえいよ)和尚は、太田道灌公とも親交が有った人物なのですが、この玉隠英璵和尚と北条家の治世化で交流の有ったのが北条家相模十四騎筆頭の間宮家でした。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
横浜市南区に今も在る真言宗の名古刹で、弘法大師空海和尚所縁の弘明寺の江戸時代までの扁額は、間宮家が寄進した物でしたが、その扁額を揮毫(きごう=字を書く)したのが玉隠英璵和尚で、90歳の時の事と絵図が文献の挿絵で残っています。
まぁ、昔の禅宗は武士の嗜みだったので、他宗派の僧侶からも歓迎されていた様です。
徳川家と間宮家に所縁深い静岡市の華陽院も浄土宗ですが、家康公の祖母の戒名も“禅尼”となっていたりしますからね。
そんな建長寺と関わった間宮家からは有名な北条綱成公の副将として稀有な活躍をした間宮康俊公や、その孫で徳川家康公に重用されて佐渡奉行、但馬奉行として金山や銀山経営で他の代官より抜きん出た実績を残し更には大坂城総掘りと真田丸埋め立ての作戦を立案した間宮直元公を輩出しています。
つまり、建長寺は名軍師を生みだして来た御寺な訳です。
これは蘭渓道隆和尚や北条時頼公が後世に残したソフト面での偉大な功績でしょう。
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さて、そんな建長寺、ソフト面だけでなくハードも立派な事は冒頭で申し上げた通り。
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凄く立派な仏様が参拝客を出迎えて下さいます。DSC_2102
仏様も立派なのですが、天井の装飾も立派ですよね?
実はこの仏殿、元は江姫の御廟所だった建物で、江戸時代の徳川将軍家の菩提寺、芝の増上寺に在ったのを御夫君で二代将軍の徳川秀忠公から建長寺の建替えに際して移譲され移築された建物なんですね。
徳川秀忠公の奥さんの江姫と言うのは別名で御江与様、つまり織田信長公の姪っ子で、浅井長政公と信長公の妹の市姫様の娘さんに当たる人物でした。
元々霊廟だったので、少し普通の仏殿と違った造りに成っているそうです。
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仏殿の横には何故(なぜ)か梟(ふくろう)の置物が・・・。
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仏殿の奥には金ピカの門が在ります。
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これも徳川秀忠公の寄進した唐門で、龍王殿の入口に成っています。立派ですね。
黒と金のデザインが、江戸時代初期、安土桃山時代の文化の雰囲気がまだ残る色使いに成っていますね。
徳川政権の前、豊臣秀吉が北野天満宮や二条城の伏見城遺構や大坂城天守を見る限り黒と金の組み合わせを好んで使っていた様です。
さて、建長寺は他にも立派な建物が現存しますが、小生は特に紹介して置きたい場所が有ります。
それは建長寺の“守護神”の半蔵坊という“神社”です。
日本の文化は本来は神仏習合と言って神様も仏様も同じ様に大切にしたり、水が湧く場所聖地や霊場として大切にされた山も崇拝対象にしていました。
ですから、明治時代の神仏分離令までは御寺にも沢山神社が在って、御寺の中で神官が神事を行ったり、逆に神様に和尚様達が御経を読んで天下万民の安寧を祈願したりしていたんですね。
明治時代の神仏分離令で多くの神社の中の仏様や、御寺の中の神社の神様は撤去されてしまいましたが、臨済宗や曹洞宗や浄土宗や真言宗と言う武家文化と密接な宗派は神様を今でも大切にしている場所が多く有ります。
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半蔵坊へは少し判り難い上の写真の参道が建長寺境内の左側に在ります。
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そこを進んで行くと、御寺なのに立派な鳥居が見えてきます。
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半蔵坊は天狗(てんぐ)様を祀る建長寺の守護神なので、鳥居をくぐり御社を目指すと沢山の天狗様が御出迎えして下さいます。
天狗信仰は関東では古い文化で、延喜式内社の大山阿夫利神社も江戸時代には大天狗と小天狗も崇拝対象に成っていました。
源義経が鞍馬山で天狗に剣術を教わったのは有名な話ですね。
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さて、この半蔵坊、現代に凄い御利益を発揮した事で有名だったりします。
実は阪神淡路大震災の時に、この建長寺を参拝して半蔵坊の災難除けの御守り札を頂いて来た人達の家は、一軒も被害に遭わなかったそうです。
まぁ良い地盤の地域に御住まいの方が多かったのかも知れませんが、普段から古い習慣を大切にして、心に一本、神様仏様への信仰を持っている様な人だからこそ地震被害の多い埋め立て地を居所にしなかったりしたのかも知れませんが、こう言うのは信じて厄除けして頂いて、自分の心を安らかにする事が既に御利益なんだと思います。
そして、神様仏様の御利益が実際に授かれれば、それに謙虚に感謝して、日々生かされていると感じれたら良いのだと思います。
小生も自分の土地神様と仏様の厄除け祈願の御守り以外に、家の玄関には半蔵坊様の御札と氏神様の御札を掲げています。
お蔭様で、何とか無事に生きています。そして遊び友達みたい浅い関係ではない、日本の親友と国境を越えた親友にも恵まれています。
そんな訳で、建長寺守護神の半蔵坊大権現は災害除けの御利益が有るので、建長寺に参拝するならば一緒に是非参拝する事をお勧めしたい場所だったりします。
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ここからの眺望や良く、写真の日は生憎(あいにく)の曇天でしたが、晴れていると相模湾も一望出来る景勝地でもあります。
ただ、ここに御参りするには建長寺オリジナルの御朱印帳が必要です。
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御朱印授与の場所で売っているので、半蔵坊の御札も頂くならば、鎌倉五山や鎌倉の臨済宗寺院巡りの為にも購入すると丁度良いかも知れませんね!
小生は建長寺と半蔵坊の御朱印を頂いてから、鎌倉五山の御寺を順位の順番に再訪しました。
残念ながら、寿福寺の現御住職は昨年くらいから御高齢で御体が不自由になられた様で、御朱印の対応が困難だと奥様から伝えられ、再度御朱印をこの朱印帳に頂くには至っておりません。
寿福寺も由緒正しく、昔は歴代御住職様は猊下(げいか)と武士や僧侶から敬称で呼ばれた御寺なので、早く御住職様の体調が良くなり復帰される事を祈るばかりです。

さて、建長寺、立派で御寺でしょう?
半蔵坊からの眺めも良いので、北鎌倉散歩の際は是非、訪れて見て下さい!
・・・まぁ、円覚寺や東慶寺や浄智寺、明月院や長寿寺って他にも御参りして置きたい御寺が沢山有るのが北鎌倉なので、鎌倉江ノ島七福神の御朱印巡りがてら、数度に分けて鎌倉訪問して建長寺も浄智寺と一緒に訪れたり、明月院の紫陽花観賞と一緒に訪れるのも良いかも知れませんね!

さて今日はここまで!
今週末は台湾の友人夫婦の来訪が有り、水曜日はその事を休日雑記に書くかも知れません。
では、又、次の解説記事か休日雑記で御逢いしましょう!

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北鎌倉駅の裏には円覚寺と言う御寺が在ります。
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と言うか、円覚寺の境内にJR横須賀線の北鎌倉駅が開業しちゃったんですね。
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ですから参道には踏切も在ります。
円覚寺は正式には瑞鹿山圓覚興聖禅寺と言う名前で、東日本の臨済宗の寺院に置いて2番目に高い格式を鎌倉時代に皇族将軍家に認知され、執権である歴代北条家からも、その後の室町幕府の京都の歴代将軍家からも支援されて来た由緒有る御寺です。
それもその筈、この御寺は鎌倉幕府第八代執権の北条時宗公が開いた御寺なんだから立派で当たり前なんです。
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時宗公は、モンゴル元朝の威を借りた朝鮮半島の朝鮮人の脅迫に屈せず、中国江南地方の水軍と朝鮮の略奪と侵略目的の軍勢を相手に交戦する事を決め、日本を守った名宰相です。
しかしながら身分的には皇族将軍の陪臣と言う立場だったので、官職は左馬権守(さまのごんのかみ)、相模守(さがみのかみ)、官位も正五位下に抑えられていました。
五位以上の官位でギリギリ内裏(天皇の御所の朝廷会議が行われる場所)に参内(さんだい=入る事)が出来る程度なので、日本への貢献度を考えると異常に低い官位でしょうね。
実際にやっている事は右大臣や太政大臣こそ相応な業績を残している訳ですから。
そんな訳で、没後に天皇家から征夷大将軍達と同じ従一位の官位を追贈されています。
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さて、そんな時宗公、何でこの御寺を建てたのかと言う理由が又、坂東武者らしい価値観に基づいており素晴らしい。
元寇の乱で亡くなった敵味方の戦士の慰霊の為でした。
本来の天皇家の血を引く「武士」と呼べる人々の考え方は神道的な考え方と仏教的な倫理観が融合していて、この北条時宗公も又、桓武天皇の御子孫に当たる人物なので、敵味方の区別なく勇敢に戦った武将や末端の兵士を分け隔てなく供養なさったのでしょう。
小生が時宗公を尊敬する所以(ゆえん=本来の中国語では「だから」の意味)でもあります。
小生は基本的に源氏の歴代殿様を暗殺して来た執権北条家は大嫌いです。
源頼朝公がいたから、今日の発展は有った訳です。しかも法治主義国家の基礎を築いたのも頼朝公ですからね。
北条時政や北条義時や北条政子と言うのは不義理で低文化な人間だと思っていますが、しかし彼らが合議制による民主主義の基本の様な価値観を武士に根付かせた事で、今日の日本人の思想は有るとも思っています。
小生は北条家の中でも、北条泰時公、北条実時公、北条時宗公は特に尊敬する人物でもあります。
ですから、小生は北条泰時公と北条実時公の名を菩提寺の御住職様に書いて頂いた色紙を大切にしています。
さて、円覚寺を開いた開基様=大旦那=オーナーが北条時宗公である事は説明しましたが、開山様=初代住職の話もしておきたいと思います。
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写真は円覚寺の山門。
この円覚寺の初代の御住職様は日本人ではありません。中国から来た無学祖元和尚が北条時宗公の要請で就任しました。
この無学祖元和尚は、モンゴル軍が日本の友邦であった南宋を攻めた際に、現在の温州にいましたが元の臣民に成るのを好(よし)とせず、日本に亡命してらっしゃいました。
これは鎌倉五山第一位、建長寺の蘭渓道隆和尚とも同じ経緯ですね。
蘭渓道隆和尚については以前、北条泰時公の菩提寺の大船に在る粟船山常楽寺の紹介を書いた時に少し紹介して有るので、興味の有る方は以下のリンクから記事を御覧下さい。
←ここクリック!
さて、上の写真の通り円覚寺の山門は大変に立派な物ですが、伏見上皇の勅願(天皇の要請により祈祷や物事を成す事)で再建された建築遺産です。
実は円覚寺は大火で一度灰燼に帰す憂き目に遭っています。
それでも尚、天明年間に当時の天皇陛下から再建の要請が有ったのは、この御寺を建てた北条時宗公の日本に対する勲功の大きさと御威徳によるものでしょう。
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円覚寺は写真の様に、歴史を余り詳しくない観光客も読めば大切さが判る説明看板が親切に設置されています。
こう言うのをちゃんと読むと、新編武蔵風土記稿や新編相模風土記稿にも載っていない大切な伝承が書いて有ったりして歴史好きにとっても楽しかったりするんですよ~。
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この訪問時、2月8日は鎌倉の梅も陽当りの良い場所は七分咲き位に開いておりとても綺麗でした。
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山門を抜けると佛(仏)殿です。
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ここは大正十三年(1923年)の関東大震災で倒壊し、現在は内側は鉄筋コンクリートで再建されています。
外観は見事に旧状を留めた再建と成っていて、円覚寺の職員の僧侶の方々の文化意識の高さと、再建に尽力され費用を拠出された檀家衆の皆様に時代を経て神奈川県民、日本国民としての後輩として頭が下がる思いです。
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最近、浜松市の禅宗の某寺が左巻き歴史学者と一緒に、天皇家が守り神として神号を追贈した織田信長公をコケにする発言をしましたが、明治以前、本来は禅宗寺院も天皇家や神道的な価値観を非常に大切にする宗派だったので御覧の通り、円覚寺の仏殿の御本尊、寶(宝)冠釈迦如来様の前にも今上天皇聖寿万歳と書いて有ります。
左巻きバカ学者は織田家や天皇家を侮辱する事が大好きなんですね、何故なら某国にはいない民草を大切にした織田家は天皇家を復権させた立役者であり、神道的な古代の儀式を復興したり朝廷内の乱れ廃れていた文化儀礼をも復興した極めて「日本の良い所」を集めた人物だったからでしょう。
さて、再建された佛殿の天井には立派な龍の絵が描かれています。
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御参りした際は是非、天井を見上げて下さい!
仏殿を左手側から出ると選仏場と言う名の茅葺屋根の御堂が在ります。image
座禅を行う場でしたが、その後、座禅を行う場所が正続院に機能移転したので、ここは御堂としてのみ現在は機能しています。
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元々は座禅を行う場であり、経典を保管する蔵としても活用されていたそうです。
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中にはとても美しい観音様と仏様が祀られてらっしゃいます。
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ここも円覚寺で必ず立ち寄って仏様を拝んでおきたい場所でもあります。
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この訪問時、鎌倉の梅は七分咲きと言った所でしたが、どうやら傾向としてどの梅林も紅梅は先に開花する様です。円覚寺の紅梅さんも可愛らしく咲いた姿を見せてくれました。
可愛いなぁ~!
本当、花に例えるなら梅みたいな御嫁さんと一緒にいられたら幸せだろうなぁ~。
実を結ぶ、御互いに成長する人間関係、季節の変わり目を楽しめる人。そんな女性を連想するのは多分、変態の小生だけですね(笑)。
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さて、一頻り(ひとしきり=頻の本来の意味は区切りの意味。現在の中国語では頻道と書いてTVのchannelの意味で使われたりもする)平地の建物を回るといよいよ、奥院に当たる黄梅院と言う建物を目指す為に、谷戸に囲まれた登坂を登って行く事に成ります。
余談ですが、ちょくちょく小生の記事に登場しますが「坂」と言う字は古代では下り坂の意味しか有りませんでした。現在は平地の意味で使われる「ひら」と言う言葉こそが本来の登り坂と言う意味の古代語で、これは琉球語や古い縄文語に通じる言語に残っていたりします。
さて、そんな訳で谷合の平(ひら)を上がっていくと途中、左手に妙香池と言う溜池が有ります。
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現在の姿は昔の絵図から旧状を発掘復元した姿だそうです。
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綺麗な池ですよね。
放生池と言うのは、生き物の命を大切にする日本の放生祭と言う神事仏事を行う池の事で、本来、武士にとって高級な食材だった鯉等を殺さずに放流したりする池の事です。
源頼朝公も三島大社で放生祭を行っていますし、織田信長公の青春時代の御膝元で愛妻の生駒お塁さんの実家の有った愛知県江南市の久昌寺一帯で馬を放つ放生祭を行っています。江南市の放生祭神事は、明治以降の神仏分離で神社も御寺も衰退して行われなく成ってしまいました。
しかし円覚寺には妙香池が有る事で、この説明を見て疑問に感じた人がいれば調べて仏事神事に興味の無い人も歴史偉人達の教科書には載っていない性格の側面を知る事が出来たりします。
もっとも、小生の場合は直接偉人達の関係者を訪問して、昔、どんな事をやっていたか先に教えて頂くのですが。
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妙香池を過ぎると、上の写真の説明石柱が有る丁字路に出ます。
左手に進むと舎利殿が有ります。
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この奥…
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国宝指定を受けている建造物。
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ここは鎌倉幕府第三代将軍で頼朝公の御二男の源頼朝公が南宋より贈られた御釈迦様の歯を祀っている場所です。
舎利とは「捨てる」と言う意味ですが、仏舎利と言うのは御遺体の事を指します。
仏様に成ると言う事は生物的には死んでしまう訳ですね。
成仏と言う言葉の通りでしょう。
それと悟りを開くと言うのは又、別の意味の様で、だからこそ「生き仏」なんて言葉も有るのかも知れません。
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一般人は入れないのですが、とても立派な茅葺屋根の建物と御堂が見えました。
見るに正面の建物の作りは江戸時代の建築様式ですね。
破風が付いてますから。
でも上部の屋根は旧来の構造を模している様に見えます。
さて、門の前から御釈迦様と源実朝公(菩提寺は寿福寺)に御参りしたら、元の丁字路に戻り坂を上ると直ぐに下の写真の場所に辿り着きます。
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ここは佛日庵と言われる塔頭で、中に開基堂が在ります。
開基堂は、その名の通り日本を守った名宰相で円覚寺を造営した北条時宗公の御廟所です。
入口の門は現在では侵入不可ですが、脇に観光客用の通用門が設置されています。
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ここも円覚寺に来たら絶対に立ち寄りたい、小生の御勧めの場所です。
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この写真撮影日はまだまだでしたが、今頃は梅も綺麗な事でしょう。
ここでは美味しい抹茶を頂いきながら、時宗公の偉業を思ったり静かな時間を過ごす事が出来ます。
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御干菓子も付いてますよ!
カップルで参詣にも適しているデートコースだと思います。
ゆっくり休まして頂き、その後、時宗公に日本を元朝の威を借りた朝鮮の蛮兵の略奪侵略から守って下さった御礼を申し上げると、時宗公も「うむ」と思って下さるか「お前もシッカリやれよ」と見守って下さるかも知れません(笑)。
小生はどうだったんでしょう?
「日本の前に御前、もっとシッカリせ~よ」
と言われた気がします(笑)。
頑張ろう・・・先ずはダイエットしてムキムキマンに復活するの。
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中心の御堂に、時宗公達の御姿を写した彫像が祀られています。
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その左手の建物、佛日庵も入らせて頂く事が出来ます。
その手前右手にはコケの庭園が在りますが…
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これ、笑点の林家木久扇師匠の作庭です。
正直・・・幼少期にずっと美大受験生のオネイサン達に混じって絵と造形を学んでいた小生とは個人的にセンスが合いません(笑)。コンセプト不明( ´艸`)。
佛日庵を出ると、直ぐ近くに白鹿洞が在ります。
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現在は崩落して人が入れるスペースも無い様ですね。
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無学祖元和尚が説法をした際に、この白鹿洞から沢山の鹿が出て来て人々と共に説法を聞いたと伝承するそうですが、これが円覚寺の山号「瑞鹿山」の由来だそうです。
この洞穴、埋もれた場所に水流の跡が在る事、手前に埋没しているものの、水を堰き止める構造の跡が在る事から、恐らく鎌倉に良く見られる洞穴式の湧水を集める井戸と溜池の跡だと思います。この水を集めて、下の妙香池等に配水していたのだろうと、城マニアの小生は考えました。
小生の推測通りに湧水が有ったのなら、伝承の様に洞穴が崩落する前に洞穴内の池で鹿達が水を飲んでいて、説法が始まり大きな声に驚いて一斉に洞穴から出て来たとのかも知れませんね。
ここを過ぎると、いよいよ円覚寺の奥院、重要な黄梅院と言う塔頭寺院に着きます。
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ここは東慶寺の初代尼住職で北条時宗公の奥方の覚山尼様が開いた塔頭寺院です。
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それ故、円覚寺の守護神的な位置に当たる場所なのかも知れません。
建長寺の場合は半蔵坊の神社が黄梅院の役割を果たしていますね。
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当初は時宗公の菩提を弔う場所だったのですが、円覚寺第十五代の住職にして枯山水様式の日本庭園作庭の大家(たいか)として有名な夢窓疎石(むそうそせき)和尚が塔頭寺院としての機能を備える御堂を建てたそうです。
この夢窓疎石和尚は近江国の大名、六角佐々木家の御一門でした。
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室町時代に入り、第二代室町幕府征夷大将軍の足利義詮公の御分骨が埋葬され、それ以後は足利将軍家の室町時代の関東における菩提寺的な宗教的な意味を持つ場所に成ったと説明が有ります。
まぁ、足利家の鎌倉時代の鎌倉に於ける菩提寺は浄明寺、そして足利尊氏公の菩提寺は長寿寺なので、二代目以降の話だと思います。
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この日、ここでもちゃんと御参りをして、から黄梅院を立ち去りました。
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黄梅院の山門をくぐり山を下っていく途中、下りの右手には「續燈庵」と言う塔頭寺院が在ります。
燈火(ともしび)と言う字は、仏教では教えを受け継ぐ法脈を形容したりするので、ここも昔の何(いず)れかの円覚寺の御住職様と関係の深い場所だったのかも知れませんね。
残念ながら一般人は門の近くに行く事も出来ない場所なので、写真は遠くから写しました。
さて、山門の近くまで戻ってくると、自販機や売店や御朱印受付所が在り、参道入口方向に向かって右手には閻魔堂桂昌庵と言う塔頭が在ります。
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中には閻魔様が祀られているのですが・・・
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御堂に向かって左手に御住職様が開かれた弓道場が在るので、御堂の内部には弓矢がこれでもかと言う程置かれていました。奉納されたと言うよりは、閻魔様に保管して頂いているのでしょうかねぇ~?
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さて、円覚寺の説明は大凡(おおよそ)こんな所です。
実は先日の訪問で、北鎌倉駅の直ぐ裏に素敵な御茶屋さんを見つけたので前回、別個に紹介記事を書いたんですが、香下庵と言う茶房です。
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冬期~初春の間だけ、北鎌倉名物のけんちん汁が食べられますので、御勧めです。
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春からは別メニューになるそうですが、あんみつや御団子も美味しそうでした。
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梅越しに北鎌倉駅と横須賀線を見られる立地の御茶屋さん、こちらも合わせて訪問されると良いかと思います。

ではでは!又、次の解説記事で御逢いしましょう!
三月中旬は忙しくてブログ書けないかも知れません、ご容赦を!





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稲荷山浄妙広利禅寺(旧名:極楽寺)
【御本尊】釈迦牟尼仏
【御祭神】淡島明神、鎌足稲荷
【御利益】婦人病治癒・立身出世
【開基】足利義兼公
【中興】北条政子、月峰了然
【住所】鎌倉市浄明寺3-8-31
【アクセス】浄明寺バス停で降車、徒歩3分。有料駐車場有り。
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鎌倉市の浄明寺地区に、地区名と鎌倉の地名の由来に成った御寺が在ります。
その由緒は凄まじく、室町幕府将軍家の足利氏が鎌倉御家人だった時代に足利家菩提寺として開かれました。
小生の嫌いな渡来人、中臣鎌足の伝説も有る事や足利家の事績から出世の御利益も有り、婦人病治癒の御利益の有る淡島明神も祀られている神仏習合の文化の残る禅寺です。
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元来、周辺山林含め全てが境内地でした。
始めは源氏らしい真言宗の寺院と開基され、名前も極楽寺と言う御寺でした。
その後、臨済宗に帰依していた北条政子を始めとした北条氏一族の支援があり、鎌倉幕府執権の北条時宗公か北条時頼公の頃に、著名な高僧の退耕行勇禅師、その御弟子さんによって足利貞氏公の法名の浄妙寺殿義観から寺名を現在の浄妙広利禅寺に改め禅宗である臨済宗の寺院に改宗されました。
ここはとても素敵な御寺で、秋には境内の本堂前や裏山に紅葉の朱色が栄(は)えます。
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※昨年2015年12月07日の写真です。
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※昨年2015年12月07日の写真です。
綺麗でしょう?
因(ちな)みに2016年11月12日現在の写真はこんな感じです。
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まだ少し、紅葉には早いですが既に色付き始めていますね。
多分、来週位末には見頃に成るでしょう。
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境内の本堂を正面に見て、右手の道路の向こうには離れた神社も在ります。
この神社も含め、明治時代以前は周辺の山も全ての浄妙寺でした。確か、北条政子の持仏を安置した御堂が建てられたのが記録上は写真の神社辺りだった筈(はず)です。
写真は現在手元に有りませんが、その小山の上に石碑が有った様な気がします。ここ最近は直に本堂を拝んだ後で境内の草庵に御茶を飲みに行ってしまうので余り記録が確かでは無いのですが。
今、少し話題に上げたので先に紹介すると、浄妙寺の境内には素敵な喜泉庵と言う和菓子と抹茶を頂ける素敵な日本庭園を抱える草庵が在ります。
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秋にはコンナ素敵な風景に成ります。
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外国人向けにテーブル席が今年から設置されましたが、日本人は今まで通り、望めば畳の上で御抹茶と和菓子を頂けます。
小生は今日は足利家の❝二つ両引き紋❞の家紋をあしらった落雁(らくがん)を頂きました。
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抹茶の御菓子は落雁等の干菓子のセットが600円、その日の和菓子のセットが1000円です。
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昨年秋の写真。秋らしい柿の形の練り切りでした。
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素敵な空間なので、ここで抹茶を飲んでユックリするのは幸せな時間を過せます。
直ぐ近所の報国寺も竹林の中の草庵で御抹茶と干菓子を頂く事が出来ます。2012-11-04-07-12-50
※報国寺の竹林。
※以前、報国寺を紹介した記事は「ココ」←クリック!
話を浄妙寺に戻しましょう。
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浄妙寺の本堂も、他の鎌倉五山の御寺と同様に立派です。
屋根の造りから想像するに、近年までは茅葺屋根だったと推測出来ます。
茅葺は屋根の吹き替えに数千万円単位の御金が必要なので、明治政府以前の様に将軍家の支援の無くなった現在では維持も難しく、管理しやすい銅葺き屋根に吹き替え本堂を維持しているのだと思います。歴代御住職様と檀家さんの努力の結果ですね。
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昔は数十の塔頭寺院を抱える大寺院だったので、この本堂の畳も朝に昼に、多くの学僧で埋め尽くされ禅問答や座禅が行われていたんでしょう。
現在のこの浄妙寺の魅力は歴史と、先に紹介した自然の風景にあります。
左手から奥の裏山に続く参道が有ります。
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紅葉の季節だと、参道をこんなきれいな紅葉が彩ってくれます。
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綺麗でしょう?
更に奥に進むと、素敵な洋館が見えてきます。
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この洋館は明治時代に建てられた文化財であり❝石窯ガーデンテラス❞と言う鎌倉の地野菜と石窯で焼いたパンを提供するレストランにも成っています。
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素敵な店構えですね。
石窯ガーデンテラスの詳細については公式ホームぺジ「ココ」←をクリックして御覧下さい。
この石窯ガーデンテラスを通り過ぎて山の奥からの眺望も素晴らしいんです。
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昔の鎌倉の山林を連想させる、大きな建物が視界に入らない風景が見られます。
そして、ここに祀られる鎌足稲荷は中臣鎌足の伝承が有り、鎌倉市の地名由来の伝説の内の一つ舞台でもあります。
実はこのもう少し先に行くと、室町幕府初代将軍の足利尊氏公の御実弟、足利直義公の御廟所が有ります。
そんな訳で、この浄妙寺は足利家の鎌倉御家人時代~室町時代初期の重要な御寺として機能していた歴史と、鎌倉五山の第五位の格式を持つ将軍家御声掛かりの凄い御寺と言う事が御理解頂けたでしょうか?
そんな格式と歴史を持ちながら、現在では小生達の様な一般の参拝客にも美しい風景と安らぐ御茶と空間を提供してくれる御寺として存在しています。

近くには先程紹介したミシェランガイド3星評価の報国寺が在りますし、明治の皇族の華頂宮邸の旧館の庭園が無料で公開されています。
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そして、浄明寺地区のもう少し先の十二所(じゅうにそ)地区まで歩くと、そこには鎌倉七口の一つ朝比奈切通しも在ります。
皆さん、是非、秋も深まり紅葉が綺麗に成った頃に、この浄妙寺周辺を散策して見ませんか?
きっと歴史を感じながらの鎌倉市の中でも自然豊かな地区を散歩すると、清々しくてリフレッシュ出来ると思いますよ!

では、又、次の解説記事で御会いしましょう!

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佐助稲荷神社
御祭神:宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)=倉稲魂神
開基:不明
中興:征夷大将軍 源頼朝公
住所:鎌倉市佐助2-22-10
アクセス:鎌倉駅から徒歩15~20分程度
映画ドラマのロケ:駆込み女と駆出し男
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この鳥居が連続する風景が京都ではなく鎌倉に在る事を御存知でしょうか?
皆さんは鎌倉市に観光に行かれたら、やはり由比ヶ浜の海や鶴岡八幡宮、または小町通りでショッピングや食事を楽しむんでしょうか?
小生は八幡様にも御参りしますが、浄明寺地区と扇谷地区と佐助地区を季節の変わり目に好んで散歩します。 その地域は鎌倉市がまだ郡だった頃の原風景が残る風致地区で、神社や御寺が緑に囲まれていてとても景色が良いんです。
佐助地区には源頼朝公が再興した佐助稲荷神社と言う御稲荷様が鎮座していて、ここが特に日本らしい清々しい神々しい雰囲気を漂わせています。
実はここ、昨年2015年公開の‟駆込み女と駆出し男”でも登場した神社なんです。
駆け込み女と駆け出し男
映画の舞台はこの佐助稲荷神社や北鎌倉の東慶寺と七里ヶ浜を中心に物語が展開します。
女性の主権が儒教のせいで軽視された江戸時代、DV夫から逃げた女性が離婚し、恋愛し再婚する物語。

女性救済の寺院、北鎌倉の東慶寺と映画「駆け込み女と駆け出し男」
映画に興味が有る人は↑上のリンクをクリックしてご覧下さい。
ここは伏見稲荷大社みたいに全山が稲荷社と言う訳ではありませんが、谷戸の奥、宅地開発が規制された場所に佇んでいます。

入口には下社と言うか社務所と縁結びの観音様が有るのですが、 そこに至る住宅街には少しお洒落な住宅兼店舗のカフェも数件有ります。
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 こんな感じ。この辺りは御金持ちの家が沢山(笑)。
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 この道の先が佐助稲荷神社。
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参道にこの御社が登場しますが、ここは下社ですから!この先にもちゃんと行ってくださいね!
ここだけ拝んで帰ったら、兼好法師の石清水八幡宮詣でみたいな事に成っちゃいますよ(笑)。
でも、ここも大切な場所ですから、拝んで下さい。そして横に在る祠(ほこら)にも注目して下さい。
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 この十一面観音菩薩様は“縁結びの御利益”で昔から有名な場所です。
今でこそ外に在りますが、恐らく明治時代に神仏分離令が出るまでは先程の御社の中に祀られて佐助稲荷神社を参拝する人々を見守って下さっていたんだと思います。
今は外に出て御参りしてくれる人に縁結びの御利益を授けてくれます。
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さて、何故(なにゆえ)、ここの地区名の由来に成った佐助稲荷神社が、この社名に成ったかと言いますと、源頼朝公の御父君の源義朝(よしとも)公が平清盛に合戦で敗れ、更に愛知県の知多半島で家臣の長田忠致(ただむね)に暗殺されると、源頼朝公は伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)、現在の伊豆の国市韮山に抑留され浪人生活を送る事に成りました。
この後、北条政子と婚姻関係と成り北条家や旧家臣団の一部と共に石橋山の合戦で挙兵し、その後の鎌倉幕府樹立と成るのですが・・・
この伊豆に居た時代の頼朝公の官職は右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)を辞職し無官だったので、頼朝公の通称は前(さきの)右兵衛権佐殿と呼ばれていました。
その頃、頼朝公は三日三晩夢にうなされ、この地の御稲荷様が老人の姿で頼朝公の夢に出て挙兵を促(うなが)したので石橋山合戦を起したそうです。
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つまり、ここは下社の十一面観音様は縁結び、奥社の稲荷大神こと宇迦御霊神は頼朝公を出世させた出世稲荷として御利益が昔から超有名だったんですね。
頼朝公=前右兵衛権‟佐”を‟助けた”から、この御稲荷様が以降、佐助稲荷神社と言う名で呼ばれる様に成ったそうです。
その御縁で頼朝公から社殿を再建され、現在の稲荷社の基礎が復興されました。
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ここは冒頭でも紹介しましたが自然豊かで静かな場所です。
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小さな鳥居のトンネルをくぐると参道の階段に辿(たど)り着きます。
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ものすご~く神社神社した神社でしょう?
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鳥居と夏の終わりの緑も綺麗ですが、この境内には楓が沢山有ります。
今年は昨年と異なり涼しい秋に成るのできっと、紅葉も色づきが綺麗な事でしょう。
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ちっちゃい御稲荷様が沢山!
鳥居を潜って正面の社殿は拝殿です。
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御本殿は、背後の階段の更に上に在ります。
でも先ずはこちらで御参りして、それから境内の本殿等を散策しましょう。
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小生、先週写真撮影に御参りに上がって新しい御朱印帳も延喜式内社以外の神社使用に購入しました。
ここは宮司様が坂ノ下地区の御霊神社と兼任で務めておられます。
実は御霊神社の先代宮司の小林前宮司様は昨年御隠居されてしまいましたが、その小林様はもの凄い家系の方だったんです。非常に引退が悔やまれる。
と、言うのも鎌倉の権五郎御霊神社は鎌倉景正(かまくらかげまさ)公とその祖先の平良文(たいらのよしふみ)公が御祭神で、この御二人は上杉謙信の御先祖様にも当たる方々です。
その平良文公の居城の村岡城を姓にした直系の御子孫で、代々村岡家が御霊神社の宮司様を平安時代以来務めていましたが、小林前宮司様は女性だったので結婚し姓が変わり、更に跡継ぎがいなかったので現在の宮司様が外部から赴任する事に成り、その1100年近い御祭神の直系子孫が宮司を務める伝統が途絶えてしまったんです。
しかし、職員様の御話しでは新しい宮司様あ血縁こそ無くとも、とても熱心な方でどうやったら廃(すた)れつつ有る古来の伝統を未来に残すか日々チャレンジされているそうです。
御朱印を頂きましたがとても新しい宮司様は字がとても綺麗でした。

←以前紹介した御霊神社の記事。

さて、佐助稲荷神社に話を戻します。
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小さな本殿には沢山の折なり様がビッシリ奉納されていました。
可愛いけど少し多すぎ(笑)。
佐助稲荷神社は境内の左手にも古い御社が在りました。
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なんだか童話に出て来そうな雰囲気の場所。
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小さな神様の祠が沢山在りましたので、恐らく昔の境内社の何某かの神様が祀られているんだと思います。
詳細は不明。
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下に又降りて来て拝殿の右側に廻り、その奥に行くと・・・
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こんな場所が有ります。
自然湧水。
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昔の宇賀神信仰に欠かせない自然の湧水。
現在の手水舎の水は、この水が引かれています。
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社務所で御守り等も販売しています。是非!恋人同士デートで御参りして見ては如何でしょうか?
近くには‟銭洗い弁天”として有名な‟宇賀福神社”も鎮座していて徒歩で直ぐに行けます。
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ここで御金を洗って金運アップを祈願して、佐助地区から武士達が往来した‟化粧坂(けわいざか)の切通し”を散歩すると鎌倉の原風景を巡るコースを散策できます。
化粧坂の切通しを抜けて扇谷地区まで行くと、海蔵寺が近くに在ります。DSC_2487
海蔵寺は十六井と呼ばれる文化財の井戸と春に咲くカイドウと言う花が綺麗で有名な御寺も近くに在ります。
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ここも観光客が良く訪れる場所です。
そこから小町通へ歩いて行く途中には英勝寺と言う御寺も有ります。
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ここは紫陽花(あじさい)で有名な場所ですが、実は徳川家康公の側室として寵愛された‟お梶の方”様の開いた御寺であり菩提寺でもあります。
だから、お梶の方の御廟所は東照宮の様な唐門でとても綺麗な建築物も有ります。そして御梶の方様の御先祖で関東一の名軍師だった太田道灌公の旧屋敷地でも有るので、こちらも御参りすると恋と知恵の面で御利益が期待できそうですね!
そして小町通を目指して歩くと、途中で名刀正宗を平安時代から製造する刀鍛冶の正宗工芸さんも在ります。
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ここでは日本刀を作る各段階の実物が店先に展示してあって自由に見学出来ますし、刀以外にも御子孫が正宗の技術で鍛える包丁やナイフも購入出来ます。夫婦の散歩なら包丁を買って帰るのも良い財産に成るかもしれませんね。
正宗工芸を過ぎればもう小町通・・・
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夕暮れ時の小町通は、ほんとに映画の世界に入り込んだような雰囲気ですよ!
そして日没直後の鶴岡八幡宮・・・
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なかなか日没後に参拝する人はいませんが、運が良いと夕暮れ時に松明(たいまつ)の中を歩く婚礼の儀式を見る事が出来ます。
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どうです?
佐助~化粧坂切通し~扇谷~小町通り~夜の八幡宮散歩、とても幻想的で良いでしょう?

もし気に入って頂けたら、是非!佐助稲荷神社、素敵な場所なので御稲荷様に会いにいってあげて下さい!
きっと御稲荷様も喜んでくれると思います。
・・・そして、鎌倉の武士達が歩いた空気を感じてみて下さいな。

では!又、次の記事で御会いしましょう!



 
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北鎌倉駅の近くには浄智寺と言う大寺院が在ります。
現在では自然に囲まれた、広大な敷地に静かに佇(たたずむ)む清々しい空気感に満ちた御寺です。
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この寺院は、鎌倉時代の名宰相北条時宗公が開基となり、当時モンゴル帝国に征服された南宗から亡命して来た兀庵普寧(ごったんふねい)和尚が開山と成られた由緒有る御寺ですね。
北条時宗公と言えば、朝鮮から日本討伐を提言された元帝国から降伏する様に脅迫の使者が送られて来た際に、モンゴル(元)に降伏せず戦う事を決定して日本を守った名宰相ですね。
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鎌倉五山のと言うのは建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺の五座の御寺の事です。
大変格式の高い御寺でして…
鎌倉時代は幕府の執権北条家の当主、室町時代に成ってからは京都の足利家の本家征夷大将軍しか、この鎌倉五山の御寺の御住職様を任命する事が出来ませんでした。
つまり、この歴代の住職は、室町時代までは将軍様の御声掛かりの御寺だった訳です。
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現代では6月にも成れば、参道境内の所々に紫陽花の咲く静かで素敵な御寺です。
ところで…
この御寺の開基(御寺や神社の造営者)の北条時宗公は開山(最初の住職)に招いた兀庵普寧和尚や蘭渓道隆和尚と言った中国大陸の漢族の和尚様達を大変尊敬していらっしゃった様ですが、同時に、南宗からの亡命者を受け入れる事で元の征服により滅びる南宋文化を保護し、更に元(モンゴル軍と朝鮮軍)の動向を詳しく聞いていたのだと思います。
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そして、元(の威勢を利用した朝鮮)との対決を決めたのだと思います。
なんだか今の台湾と日本の繋がりみたいですね。
日本に来た孫文先生がいなければ今の臺灣は無かったし、臺灣の蒋介石先生がいなかったら現代の日本も無かった。
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浄智寺は素敵な場所なのですが、若い世代に余り知られておらず観光客が少ないので、本当にゆっくり時間を過ごせます。
この御寺は、緑と花に囲まれた広大なスペースが有りますが、その規模を史実を用いて表現するなら・・・
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昔は鎌倉公方(かまくらくぼう=室町幕府鎌倉府の将軍)が役職を就任して、鎌倉に入る時や戦地から帰ってくると真っ先にこの御寺に逗留(とうりゅう)する仮御所に成る程、立派な建物が沢山建ち並んでいました。
時代が下り、鎌倉幕府滅亡時や室町時代の戦乱、その時々に支援者が滅亡する度に建造物が維持できなく成り、極め付けは明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈で御寺の領地が接収されてしまい、多くの建物を失いました。
小生は毎回批判しますが、当時の明治政府はキリスト教国を模した国家統治を目指し国家神道と言う新しい哲学に基づいた宗教統治をしたせいで、多くの延喜式内社と呼ばれる縄文文化を受け継いだ古代から続く神社や仏教関連の文化財が荒廃或いは消滅してしましました。
明治政府の唯一無二の失政は、この古来の伊勢系以外の神社弾圧と仏教弾圧により多くの文化財を消滅させた事だけだと思っています。
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ここまで説明すると、何となく御理解頂けたと思いますが、つまり…
この御寺に自然が多いのは、古来多くの堂宇(どうう)が立ち並んでいた場所の建物を、新田義貞軍よる略奪放火や明治時代の宗教弾圧による困窮から、建物が失われた訳です。
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そして、建物の在った場所に歴代の御住職がせめて文化的な心の休まる場に成る様にと、多くの御花や樹木を植えられた訳ですね。
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関東の紫陽花の名所として有名な御寺は鎌倉の長谷寺と、浄智寺と同じ北鎌倉地区の明月院が有名です。
この浄智寺は紫陽花の株は少ないのですが、境内の各御堂の散策路は本当に素敵な雰囲気を醸し出していて、一人でゆっくりしに来ても、カップルで手を繋いで歩いても、良い時間を過ごせます。
ついでに神奈川県の紫陽花の名所も三ヵ所紹介して置きます。
●【北鎌倉駅から徒歩10分の明月院ここクリック!
●【鎌倉市江ノ電長谷駅近くの長谷寺】←ここクリック!
●【横浜市港南区上永谷(旧鎌倉郡)の永谷天満宮】←ここクリック!
この内、明月院は浄智寺や2015年公開の映画「駆け込み女と駆け出し男」の舞台に成った東慶寺からも徒歩圏内です。
東慶寺を紹介した記事は「ココ」←クリック!
駆け込み女と駆け出し男
この浄智寺、是非、紫陽花の季節や鎌倉江の島七福神巡りで他の御寺や神社サンと一緒に散歩されてみて下さい。
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鎌倉江の島七福神は↑こんな可愛い専用の色紙を購入すれば、こちらに各寺社の御朱印を頂けます。
この七福神御朱印巡りは1日では回り切れないので鎌倉や湘南に遊びに行く良い口実にも成り、数回に分けて充実した休日を過ごせると思います。
鎌倉の各地域を散策する事が出来ますよ~。
話を浄智寺に戻します。
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本当に色んな草花樹木が植えられていて、目の保養に成ります。


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何だか鎌倉時代にタイムスリップした様な雰囲気です。
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この、植木の散策路を歩いていると、そのまま大木に囲まれた道に出ます。
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この日は御婦達のグループもいました。因みに2年前の2014年の6月。
北鎌倉は紫陽花の季節なのに、こんなにユッタリ散歩出来るんですよ。
勿論、この遊歩道も広大な浄智寺の境内の一部分で、この先には昔の武将達の矢倉(やぐら=廟所)や布袋様の祀られているエリアにもつながっています。
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この隧道(トンネル)の先が布袋様。
残念ながら、布袋様の写真は撮り忘れていました。
そして、その先が庫裏(事務所:住居スペース)に繋がる出口です。
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どうやら家康公がちょくちょく旧鎌倉郡の野庭城~玉縄城周辺に鷹狩に来られた際に、浄智寺に山門を寄進されたそうで、それ以来、葵紋の使用を許されたそうです。
徳川家康公と参謀の本多正信公は熱心に神仏を保護された殿様だったので、横浜市や鎌倉市や藤沢市には、結構、徳川家所縁の御寺が残っているんですよ~。

6月、紫陽花の季節に成ったら是非!御隣の東慶寺サンや、北鎌倉の紫陽花寺として有名な明月院と合わせて御散歩してみては如何でしょうか?

あ~!そうだ!
開山の兀庵普寧(ごったふねい/ごつあんふねい)和尚様!
実は現代の日本語のグチャ混ぜって意味で使う「ごっちゃごちゃ」とか「ごったごた」の語源に成った人物だそうです。
鎌倉時代の臨済宗は、講義を中国大陸の華語(中国語)で行っていたので、恐らく兀庵普寧和尚はまだ華語の出来ない若い僧侶の為に、華語だけでなく日本語を交えながら解り易く御講義された様です…
だから❝日本語と華語が、ごったごた混ざってた❞事から、混ざってる事が❝ごったごた/ごっちゃごちゃ❞と成った様です。
建長寺はケンチン汁の発祥地ですし、当時の鎌倉が日本文化を昇華させた強い影響力を持つ重要な場所だった事が解る話ですね♪

では、又、次のブログ記事で。
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北鎌倉駅から徒歩で行ける所に明月院と言う紫陽花(あじさい)の綺麗な御寺が在(あ)るのを御存知でしょうか?
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今、その明月院の紫陽花が見頃を迎えています。
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この明月院の歴史は平安時代末にまで遡(さかのぼ)れます。
御寺の起源は鎌倉幕府5代執権の北条時頼公の邸宅に仏様を祀(まつ)り、そこに8代執権の北条時宗公が南宋から亡命して来ていた中国大陸四川省出身の高僧の蘭渓道隆和尚を開山と定めて臨済宗の福源山禅興寺として再興したのが始まりです。
明月院はその禅興寺と言う御寺の塔頭(たっちゅう=会社で言ったら子会社みたいな感じ)として存在していました。
※蘭渓道隆和尚については以前記事、「常楽寺 」←ここクリックで関連記事へリンク。

しかし明月院は本院だった禅興寺よりも古く、そもそも平治の乱で源氏の源義朝公の与力として戦い討死にした首藤俊通(くどうとしみち)公の菩提寺の草庵として、その子の首藤経俊(つねとし)公が建てた明月庵が前身と言われています。
その明月庵を室町時代に明月院として立派な寺院化したのが山内上杉(やまのうちうえすぎ)憲方(のりかた)公でした。

しかし明治時代に廃仏毀釈と言う愚策が行われ、明治の初めに明月院の本院=本体であった禅興寺は廃寺に追い込まれましたが、明月院はその命脈を保つ事が出来ました。

この明月院は参道に素敵な洋館のカフェも在り、今の季節はデートや散策に最適の散歩道でもあります。
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さて明月院の庭園と紫陽花に話を戻します。 2014-06-14-15-34-54
明月院は中に入ると先ず最初に、日本庭園風の喫茶スペースがあり、その手前の植え込みでは色んな種類の紫陽花を観察出来ます。
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小ぶりな紫陽花ばかりでなく大きい花を咲かせているか株も有り、見ていて飽きません。
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入口から続く平地の散策順路を過ぎると、次の斜面を登る順路には野性的に咲く紫陽花達が出迎えてくれます。
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長谷寺の紫陽花とは又、異なった雰囲気をかもしだしており本当に野性味溢れる感じなので、長谷寺と明月院の紫陽花を見比べる為に両寺院とも回っても飽きません。
実際、小生は両方回りましたが、どちらも其々(それぞれ)素晴らしかったです。

明月院の奥には御堂があり、また紫陽花の散策路とは異なった鎌倉時代にタイムスリップした様な空間も広がっています。
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御堂の付近には矢倉(やぐら)が在り、こちらが首藤俊通公の御廟所と伝承しています。
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どうです?明月院、素敵な所でしょう?
この明月院の近くには最近の記事で紹介した女性保護の文化を持つ尼寺の「松ヵ丘御所こと東慶寺」も在ります。
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この東慶寺、記事にも書きましたが今、公開中の映画「駆け込み女と駆け出し男」の舞台でもあるので…
駆け込み女と駆け出し男
…明月院に紫陽花見物に行くのなら、是非東慶寺も参詣し、後日映画も見るとこの北鎌倉に思い入れを深め良いデートや散策に成ると思います。
「東慶寺」参詣と「駆け込み女と駆け出し男」の映画鑑賞、明月院に行くなら是非!推薦いたします。
※東慶寺の記事は「ココ 」←クリック!
※映画の公式サイトは「ココ 」←クリック!

東慶寺と明月院の途中には「鎌倉江の島七福神」の一つである「金宝山浄智寺」さんも鎮座しています。
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この鎌倉江の島七福神の御朱印専用台紙は七福神の各神社仏閣の社務所で販売しています。
可愛いデザインですよね~♪
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こちらも大変雰囲気の有る御寺ですし、布袋様の御寺なので開運の御寺でもあり縁起の良い御寺です。
鎌倉に紫陽花見物に行くのを契機に、鎌倉江の島七福神の御朱印集めを始めるのも良いかも知れませんね~♪
明月院ともう一寺、前々回の記事で紹介した別の紫陽花の名所長谷寺も七福神の内、大黒様の御寺に成っています。
※長谷寺の紫陽花の記事は「ココ 」←クリック!
この七福神御朱印、鎌倉に小旅行に行く良い口実になり風流な時間を過ごせる切っ掛けに成るのも心が爽やかに成れる清涼剤の様な役割に成ってくれました。
そして毎回、鎌倉に美味しい物を食べに行く理由にも成りました(笑)♪

さてさて、紫陽花を見に鎌倉に行ってみませんか?
もし鎌倉までは行けないと言う人も、明月院や長谷寺よりは規模は小さくなりますが…
前回の記事で紹介した横浜市営地下鉄上永谷駅から徒歩で行ける「永谷天満宮」の鎮守の森天神山でも紫陽花を見物出来ますよ~♫
※永谷天満宮の紫陽花の記事は「ココ 」←クリック!
皆さんが季節を感じ梅雨を楽しんで過ごせますように祈願いたします~♪

では、又、次の記事でお会いしましょう!




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ブログネタ
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鎌倉に海光山 慈照院 長谷寺と言う、それはそれ素敵な紫陽花(あじさい)が寺域を取り囲む御寺が有ります。
この長谷寺、実は鎌倉江ノ島七福神巡りの一つで縁起の良い御寺でも有ります。
この可愛らしい七福神様の書かれた専用色紙に御朱印を頂いて回るんです。
ですから紫陽花見物を切っ掛けに御朱印巡りを始める方も少なくない様(よう)です。
因みに御近所には同じ七福神巡りの一つで参道を江ノ電が通り抜ける鎌倉御霊神社さんもあり、由比ヶ浜まで散歩する良いコースでもあります。

長谷寺の紫陽花の見事さは西の三室戸寺、東の長谷寺と言ってもオーバーでは無いと思います。
個々の紫陽花もとても可愛いらしく…
絨毯の様に壁面に咲き誇る色んな紫陽花が見られますよ〜!
珍しいですよね?
恥ずかしながら小生、七福神の御朱印で昨年参詣するまで、こんな種類の紫陽花を観た事が有りませんでした!
この種類は開花前ですが可愛いと言うより何だか凛々しい印象ですかね〜?
紫陽花って女性的な種類や男性的な種類やら両方有り、何だかフェミニストな美男子や男装女子みたいな印象を個人的に受けます。

今の季節を感じるデートや鎌倉観光には持ってこい!…な御寺ですね。
参道にはお土産物屋さんも有りますし、由比ヶ浜まで歩いて行けます。
そして、長谷寺は展望デッキからの眺望も良いですよ〜♪
そりゃそうですよね?
この長谷寺周辺は良くドラマや映画のロケ地に成ってる位ですから。
この長谷寺の御近所には大仏様も鎮座しているので、江ノ電に乗るコースの鎌倉観光には本当にBestです。
江ノ電鎌倉高校前駅は風景の綺麗な駅100選で1位に成った眺望の駅であり、目の前の七里ガ浜から見る江ノ島と富士山がとても綺麗なので、江ノ電観光コースは「間違いない」鎌倉観光に成ります。
そして、鎌倉高校前駅の近くの踏み切りがアニメ「スラムダンク」のオープニングでロケハンされた場所で、台湾や東南アジアからの観光客が沢山来る名所にも成っています。

長谷寺に話を戻すと…
開基は貴族で藤原北家の藤原前房とされていて、藤原家の主流を築いた人物です。
皆さん、週末は鎌倉に紫陽花見物なんて如何(いかが)でしょうか〜?

では、又、次のブログ記事で〜!
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また小田原城の記事更新じゃなくてすいません(笑)。

女性の地位の事を少し書きたくて…
休日前夜?当夜なのに寝付けないので文字だけの記事を自分への子守唄代わりに書きます。

写真が無いので読者様におかれましては物足りなくお感じに成られるかも知れません。


結婚適齢期で離婚を考えている既婚女性は小生のブログ読者に果たしているのでしょうか?
小生のブログ、ばらつきは有りますが今は毎日100人位の方が見て下さっているようです。

前回、映画「駆け込み女と駆け出し男」の公開に合わせ、鎌倉東慶寺の記事を書きました。
ふと、映画の時代設定の江戸時代より昔の離婚歴や出産歴の有る女性の再婚の事を思い出したので書いてみます。

さて…
江戸時代の中頃〜明治に成るまで、離婚は女性側から申し出る事は出来なかったのですが、現代人から見て寧(むし)ろ深刻な問題は「儒教」が流行し浸透していたせいで夫婦間における女性の地位は男性より下に見られていました。

しかし、実は江戸時代に成ったばかりの頃まで女性は男性からも尊敬され対等の存在だったのを御存知でしょうか?
特に関東=坂東と呼ばれた静岡県の御殿場市以東〜の地域は武士文化圏で腐れ藤原貴族の価値観とはだいぶん異なる世界観で皆生活していました。

まず女性の地位ですが…
例えば、女性でも儒教が流行する以前、平安時代の坂東武者文化圏では、女性も一族の惣領=旦那に成る事が出来ました。
又、男性に劣る体格を武芸と智謀でカバーし実際に軍兵を率いて合戦で活躍したり、或いは一族の政治を差配(さはい=とりしきる)する女性もいました。
その様な女性は戦国時代まで、ちらほら見かけられました。
神話の時代の古代日本では寧ろ女性がリーダーに成った方が上手く行く事もしばしば有ったようです。

特に有名な代表格を挙げますと…

●神功皇后(じんぐうこうごう)…神話時代
卑弥呼や臺与にも比定されている神話の人物です。
日本全国の八幡神社の神様で軍神の「応神天皇」の生母とされています。
また古代日本軍を率いて朝鮮半島の三韓を征伐したと記録されています。
神功皇后が卑弥呼と推測される理由は卑弥呼の時代背景との合致にありますか個人的には卑弥呼の時代の臺与の方が整合性が高いと思っています
卑弥呼の時代の古代日本王朝邪馬台国は、中国三国時代の「魏」と友好関係に有りました。
この当時の朝鮮半島は魏やその前王朝の「漢」が楽浪郡や帯方郡を今の平壌(ピョンヤン)や漢城(ソウル)の辺りに置き支配していました。朝鮮半島には統一王朝は未だ未だ存在しない時代でしたが、その帯方郡と楽浪郡の原住民が漢帝国から赴任している太守を殺害したり魏から造反した公孫度と言う武将に加担し謀反したりと魏王朝の皇帝「曹叡(そうえい)」は朝鮮半島に非常に手を焼いていました。
曹叡政権の首相を務めたのが丞相(じょうしょう)の司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)でした。
238年に魏と従属同盟を求め卑弥呼は魏帝曹叡に使者を送り以下の宝器を賜わります。
「黄幢(こうどう)」=魏皇帝軍の軍旗
「宝剣(長さ115cm)×2振り」
「銅鏡×100枚」
日本で一番古い銅鏡は「景初三年」の魏の年号が入った物で、実は卑弥呼の外交使節が最初に魏を訪れたのが景初二年
、景初三年には魏帝曹叡は崩御(ほうぎょ=死去)しているので使節の来訪と同時に製作開始された物だと推測出来ます。
景初元号で製造されてしまった物を作り直す余裕は無いので、そのまま日本に寄贈されたのでしょう。
その頃、司馬懿は朝鮮半島の反乱分子の皇孫氏一族を討伐しています。
つまり、卑弥呼も魏の援軍として朝鮮半島の南側から攻め込み敵勢が纏まる事を阻止した可能性は高い訳です。
世代的には卑弥呼の代で国内を固め、臺与の代で外征が可能に成った頃でしょう
卑弥呼にせよ臺与にせよ女性皇族が神功皇后だとすれば神話とも整合性があり、正に女王として女性が日本を纏め、その実力を発揮した証拠にも成る訳です。

●巴御前(ともえごぜん)…平安時代末期
源(木曽)義仲の愛妾ながら武芸と統率力に優れた名将で、合戦に部将として参加し指揮官として実積が有るのみならず、男武将相手の一騎打ちで敵将を見事に討ち取っています。
その活躍から鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛に惚れられて、彼と再婚しています。

●赤井輝子…戦国時代
群馬県太田市一帯を支配した由良成繁の妻。
夫が死去すると小田原北条家が由良家の城に攻め寄せて来ました。しかも赤井輝子の息子二人が北条家に人質にされ、城を明け渡す様(よう)に降伏勧告して来たのですが、彼女は鎧兜を身に付けるや城兵を統率し北条家に大砲を打ち込み捲り降伏から和議に持ち込んだ女傑でした。
前回のブログで紹介した東慶寺の20世住職「天秀尼」様の教育係りと伝承する成田甲斐姫を教育した人物としても知られています。

●成田甲斐(なりたかい)姫…戦国時代
当時、「関東一の美人」と言われた人物。映画化された小説「のぼうの城」にも登場する姫武将の名将で、石田三成軍28000人に居住する今の埼玉県行田市に在(あ)った忍城を攻められた際、従兄弟の成田長親と共に3000人の兵士農民と籠城し戦の指揮をとり敵将を一騎打ちで討ち取り、更に指揮官としても遊軍200を率いて城内不利な味方の軍勢救援に縦横無尽に活躍した。
成田家が今の福島県に移転した際に家臣の浜田兄弟が200人の兵を率いて謀反し母親を殺害すると、自(みずか)ら武装し10人の手勢で浜田勢200人を苦戦させ成田軍本隊の到着まで時間稼ぎに成功する。しかも浜田兄弟の浜田十左衛門を追撃し斬り倒し討ち取り、浜田将監の右手を切り落とし生け捕りにする大武勲を発揮した。
後に豊臣秀吉の側室に成り、東慶寺20世住職で豊臣秀頼公の御息女の天秀尼様の教育係りを務め東慶寺に同行したと伝承する。

●吉岡妙林(みょうりん)尼…戦国時代
今の大分県の大名大友家の重臣吉岡長増公の息子の吉岡鎮興(しげおき)公の妻。
居住する鶴崎城が島津家に攻撃された際に城主不在の中、僅かな城兵と農民を率いて籠城する。事前に妙林尼の周到な準備の元、鶴崎城域には様々な罠が準備されゲリラ戦術を用いて島津軍を数度に渡り撃退に成功した。
極め付けは偽降(ぎこう=嘘の降参)をして島津家諸将を信じ込ませると、島津軍が城から出るのを待って、妙林尼は島津軍を背後から奇襲し敵大将を討ち取る大功を立てた。
美人としても知られ豊臣秀吉が側室にしようとしたが、妙林尼は亡夫を大切にし僧籍に入ると二度と俗世には出て来なかったと伝承する。

他にも沢山、一族を率いて活躍した女性はいました。
この様に、昔は姫でも妻でも実力が有れば兵を指揮し家政を執行し活躍しました。

では、結婚恋愛について男性との関係や立場はどうだったかですが…
古代は多夫多妻、男女平等でヤリたい(笑)相手とやって良かったようです(笑)。
今でも南太平洋の島国では村全体で村の子として子供を育てる習慣が有りますが、それに近い家族の価値観だったんでしょうかね〜?

平安時代は恋愛は対等で、婚前交渉なんかも当たり前に有った様ですね。
しかし貴族社会の女性を口説くには男性に教養や芸術的な才能が必要で、女性を口説く和歌を詠んだり楽器を演奏して文化的な才能を見せないと顔すら見せてもらえ無かった様です。
恋愛においては女性上位だったようです。
ただ、この頃には男女共に結婚は家同士でするもので、本人同士の意図より家対家と言う認識だった様です。
ただ、儒教に毒されていた近世・近代日本との違いは、この時代の武家や庶民の家に置いて妻の地位は極めて高いものでした。
また、武家の妻は現代でイメージする妻とはだいぶん役割が異なりました。
当時は武家の家の家事労働は全て使用人が担いました。主婦は経理や他家との外交、或いは主家で使用人として勤務していました。
収入は今のように金銭給与では無く、その家に対して土地を与えらるので「旦那の稼ぎ」とか「妻の稼ぎ」では無く「家族や使用人全員で稼いでいるもの」と言う共有共存対等の意識が強かった様です。
豊臣秀吉なんかは出世してからも、よく正妻のネネさんと名古屋弁で夫婦喧嘩をしていたそうで、時代劇なんかで描かれる架空の社会みたいに女性側が男性に服従する構図は事実と異なっていた様ですね。
恋愛に関しても、安土桃山時代には外国人宣教師の記録が有りまして、恋愛は自由で当時の日本女性は奔放に振る舞えたそうです。
…つまり女性側から告白したり別れを切り出すのも自由だった訳です。
因みに16歳の女性を昔は「破瓜期」と言いましたが、それは瓜を女性器に見立てた隠語でして、つまりは、だいたい16歳に成ると恋愛したり結婚したりして女性が女に成る事を表現しているそうです。
つまり、江戸時代以前は昔から恋愛が自由だったんですね。
ただし、結婚は恋愛結婚以前に生まれてすぐに許婚(いいなずけ)が決まっていたり、仲人による紹介など家対家で決まってしまう事の方が多かったようです。
もっとも、昔は今と結婚だけでなく根本的に環境が異なりました。
江戸時代には今と違い教育を受けれる身分の人間は男女問わず少なく、自立する能力や経済力を有する女性は少なかったので結婚してから離婚したい場合は「東慶寺」の様な尼寺で修行し教養や技術を身に付ける必要が有ったのだと思います。
学問も無く、職人としての技術も働き口も無い侭では実家に帰ってもニートにしか成れないですからね…それは男女問わず今と同じ。

結婚や恋愛事情は各時代、伝わりましたでしょうか?

さてさて…
次は離婚経験の有る結婚適齢期の女性や、子連れ女性の再婚に対する各時代の考え方ですが…
昔は熟年の女性が夫と一緒に居たくない場合は出家するんですよ。
つまり世を捨てる訳です。
コレは今みたいに自由に教育を受けて就職出来る機会が無かった時代の悲劇ですね。
まぁ、今でも男だろうが女だろうが必要な社会経験や技術の無い人間に行き場は無いですし、まして若手でも無いなら尚更、再就職先も無いですよね。
離婚し自立するには先ず仕事が必要な訳です。

次に結婚適齢期の女性の子連れ再婚場合です。
先ず儒教思想に毒される江戸時代以前は、離婚経験の有る女性は人生経験が豊かと肯定的に受け止められていましたので、再婚の際は寧ろ「(仕事が)デキル女」的な扱いでした。
子連れ再婚に関しても好意的で子連れ再婚の女性は「子供を産める」し「子育てにも成れている」ので引く手数多(あまた)でした。
別に、今の夫婦1組で子供1人に至ら無い現代的な価値観で子供を産む産め無いの話ではなく当時は乳幼児の死亡率が高いし平均寿命が短かったので、子供を産み育てた実績の有る女性は再婚相手として人気が有った訳です。
勿論!現代でもし「女は子供を産んでなんぼ」とか言うオッサンが居れば、ソイツは時代錯誤甚だしいアフォでしょう。
昔と今では事情が違い、昔は子供を残さないと一族が滅亡する衰退するってのが子供の出生が多ければ多いほど良かっただけで、現代はそうではない訳ですからね。
昔の価値観を実はを元に話せば、実際、小生の家系も系図を見るに祖父母の両親、つまり三代前の幕末生ま世代の祖先の兄弟は夭逝(ようせい=早く死ぬ事)している人物が少なくありません。
だから子供を多く生んで上手く育てる母親が大切だったのだと思います。
しかし別に昔の人が皆んな短命だった訳ではなく、真田幸村の兄君の真田信幸公は93歳で幕府に出仕(しゅし=出勤)していましたし。
現代では別に結婚しても子供を作らない夫婦もいますし、幸せの形は昔とは比較出来ませんし恋愛結婚も御見合い結婚も色々自由度が高いですし、現代人は色んな形の幸せを追及出来るのが昔と違う悩みでしょうか?

江戸時代は女性から離婚を請求出来なかったり、女性が自由に学問する機会が極端に少なかったり…
男尊女卑思想の儒教が横行して以来、女性の地位は抑圧され不平等に成りましたが、明治時代に成ると福澤諭吉先生らが儒教を猛烈に批判し女性が学ぶ機会が戦国時代以来復活させられました。
しかし…
明治政府は何で儒教を禁教にし焚書坑儒しなかたったんでしょうかね~?
逆に平和的な仏教を廃仏棄釈なんかしたんでしょうか?
神道を尊重するのは当然ですが、仏教は極めて神道と関連も深く融和していた平和的な宗教なんですがね…。
仏教を衰退させ腐れ儒教を否定せずもてはやした結果の、本来の日本神話や価値観とかけ離れた男性優位的な勘違いオッサンがまだまだ跋扈(ばっこ)する現代社会…
とりあえず、国語の教科書から儒教「論語」を削除しないと、今回書いた諸々の事情で女性は本来の地位に戻れないんじゃ無いかと思います。
あと、女性の立場を男性に男性より下と勘違いさせる原因の一端は女性側にも有ると思います。
何にもしないで家事使用人任せ収入も男の経済力に依存したいだけの依存心強いカン違い姫気取り女がいて、家庭を切り盛りする責任感も社会で活躍する気も無く、女を武器にして発言力を持つ様な無能なヤツがいる限り、社会で活躍したい女性の足を引っ張り続けるでしょうね。
そんなヤツを減らす為には、先ずは保育園の数を十分に増やし戦国時代以前の昔の日本の様に社会全体で子育てをする仕組みを作ら無いといけないかも知れませんね…。

そうすれば、女性側に離婚歴が有ろうが子連れだろうが、寧ろ再婚しやすい環境、子連れでも活躍出来る社会に成るのかも知れないですね。

…と言う独り言でした。
おやすみなさい。
今回のは記事にカウントしないで、今晩、小田原城の記事の続きを書きます。


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現在公開中の「駆け込み女と駆け出し男」と言う映画を御存知でしょうか?
主演:大泉洋さん、戸田恵梨香さんが主演の江戸時代が舞台のDV旦那から女性が逃げる為に鎌倉に実在する女性保護の尼寺「東慶寺」に逃げ込み、離婚成立までの2年間を過ごす物語です。
駆け込み女と駆け出し男
映画の公式ホームページは「駆け込み女と駆け出し男 」←ここクリック!

戸田恵梨香さんと大泉洋さん、江戸時代の格好が良くお似合いです。
駆け込み女
この戸田恵梨香さんは、東慶寺に駆け込んで生活をしている様子でしょうか?剃髪(ていはつ)していませんが尼さんの格好ですね。

駆け出し男
なんだか人情あふれるシーンのようですが、大泉洋さんはこういった役柄が大変お似合いですね。

とつぜん「駆け込み寺」とか「縁切り寺」とか「東慶寺」と言っても解らない人の方が、男女問わず若い人には多いかも知れませんね。

実は江戸時代は儒教思想が流行したせいで、幕府の法律で女性から離婚を請求する事がタブーでした。
いくら夫のDVが酷かろうが借金まみれだろうが、儒教思想と言うのは男尊女卑甚(はなはだ)だしい悪法な訳ですがそんな思想のせいで女性は結婚してしまうと恋愛に関して男性と対等の自由は許されませんでした。

そんな江戸時代の唯一の女性救済方法だったのが「駆け込み寺」または「縁切り寺」と呼ばれた幕府に公認された尼寺に逃げ込んでしまう事だったんです。
この縁切り寺、関東には二か所公認されていました。
その一つが、今の神奈川県鎌倉市北鎌倉駅近くに現在も鎮座する「東慶寺」さんなんです。
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松岡山 東慶総持禅寺
(通称:松ヶ岡御所 東慶寺、元は女性守護の縁切の尼寺)

この東慶寺へは、北鎌倉駅から徒歩でも行けますし、これから紫陽花(あじさい)が見頃の季節になりますが、その紫陽花寺として有名な「明月院」も徒歩5分位の距離なので…

 
明月院の紫陽花を見に行くのなら、東慶寺にも立ち寄ると尚、鎌倉文化と日本文化の素敵な風景を楽しめると思いますよ♪
どうせ東慶寺や明月院に行くのなら、「駆け込み女と駆け出し男」を映画館で見てから北鎌倉散策に行けば映画の登場人物と自分の歩く道や見える風景がシンクロし、思い入れを持って小旅行を楽しめると思いますよ!

話を東慶寺に戻します。
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東慶寺は開基(かいき=御寺を建てた人)が鎌倉幕府第8代執権を務めた北条貞時(さだとき)公と、その生母の堀内殿(ほりうちどの)こと覚山尼様です。
覚山尼様の実家は安達家で、鎌倉幕府の有力御家人でした。
覚山尼様の旦那様は北条時宗(ときむね)公で、元寇の際、モンゴル軍と戦い日本を守る事を決めた名宰相です。
北条時宗公がいらっしゃった御蔭で今の日本国が存続している訳ですが、北条時宗公と覚山尼様の子、貞時公の代に義務教育でも習う平頼綱(たいらのよりつな)と言う内管領(うちかんれい=北条家の執事)を務めた悪人が貞時公を騙し引き起こした事件が「霜月騒動(しもつきそうどう)と呼ばれる内乱でした。
この内戦で、平頼綱はよりにもよって覚山尼様の実家の安達家を攻め滅ぼしてしまいました。
その際に、覚山尼は安達一族の子供達を匿(かくま)い育てたそうです。
その事が切っ掛けだと思いますが、覚山尼様は鎌倉幕府を取り仕切る立場だった息子の貞時公の許可を得て東慶寺を建立すると、立場の弱い人を助ける目的で様々な活動を実行されたそうです。
この活動が契機となって、DV旦那から当時の女性達を保護する「駆け込み寺」「縁切り寺」としての東慶寺の独特の女性救済文化が成立していったのだと思われます。

東慶寺は大変落ち着いた自然の美しい御寺です。
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そして明治の文豪達との関わりの深い御寺でもあります。
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看板の写真を拡大画面で御覧頂ければ解りますが、文豪達の菩提を弔う御寺でもあります。
夏目漱石先生も、こちらに座禅の修行にいらっしゃったそうです。
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それだけではありません…
この御寺は、幕府執権の奥方だった覚山尼様が開山(かいざん=最初の住職)だけあって、それ以降の歴代の尼御住職も全て格式の高い血脈の方達でした。
特に有名な人は2人います。

一人目は用堂尼(ようどうに)様…
用堂尼様は後醍醐天皇の皇女(こうじょ=天皇の娘)です。
兄の護良親王(もりながしんのう)が北朝の室町幕府将軍足利尊氏公と対立し、鎌倉に幽閉され尊氏公弟の足利直義(ただよし)に殺害されてしまった後で、菩提を弔う為(ため)に御父君の後醍醐天皇の命を受けて東慶寺に入られました。
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この階段の上に用堂尼様の御廟所があります。
先人に対し不敬に当たるのでお墓の写真撮影は今回も行いません。
お参りしたい方は、どうぞご自分で東慶寺を参詣されてみてください。

二人目は天秀尼(てんしゅうに)様…
天秀尼様は、なんと!あの豊臣秀頼公の御息女(そくじょ=むすめ)です。
伝承では大坂城での豊臣氏滅亡後、7歳の時に養育係だった成田甲斐姫に連れられて東慶寺に入り僧籍に入り、その後、元々父の豊臣秀頼公と婚約者だった徳川家康公の孫娘の千姫様が養女として天秀尼様を縁組し保護したそうです。
その後ろ盾の強力さから、東慶寺は天秀尼様が住職を務めた時代に様々な建築物が移築されて来て発展したそうです。
そして、この天秀尼様は「東慶寺らしい」「女性を守る文化」を発揮します。

下の写真は天秀尼様や用堂尼様、覚山尼様の御廟所が在る寺の奥の地区への入口
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天秀尼様の後ろ盾は凄まじく強力で、先に述べた徳川家康公の孫娘の千姫様の他に、あの春日局(かすがのつぼね)もいました。
その強力なコネクションで天秀尼様はある大名家を取り潰し女性と子供を助けました。
それが会津藩40万石の太守:加藤明成の改易事件です。
加藤明成は名将加藤嘉明(よしあきら)公の後を継いでいました。しかし明成の代に、家老の堀主水(もんど)と対立してしまいます。
堀主水は命の危険を感じたのか妻と子を鎌倉の東慶寺に逃がし匿ってもらい、自分は奈良県の仏教の聖地である高野山(こうやさん)に逃げようとします。
堀主水の妻子は無事に東慶寺に逃げ込めたものの、堀主水自身は加藤明成の追っ手に殺害されてしまいました。加藤明成は堀主水の妻子をも殺害しようと、刺客を東慶寺に送り込みます。そして追っ手は無礼にも東慶寺に対して堀主水の妻子を差出す様に要求しました…

しかし!

天秀尼様のすがすがしい事!追っ手に対し以下のタンカを切ります。
比丘尼(びくに=尼僧=天秀尼の事)大いに怒りて…
「頼朝より以来此の寺に来る者如何なる罪人も出すことなし。然(しか)るを理不尽の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退転せしむるか二つに一つぞと !!」

現代語訳するとこんな感じ⇒
「源頼朝公(統治=鎌倉幕府)の頃から、この寺に来た(寺の身内の)者から罪人を出した事は無い!」
「それなのに理不尽な事を言うお前らみたいな連中は外道極まりない!」
「(お前らの主君の)明成(←呼び捨て)を滅ぼすか!さもなくば、この寺を廃寺にさせるか二つに一つだ!」
…みたいな内容です。
しかも、タンカ切っただけで天秀尼様の会津藩主加藤明成の暴虐に対する怒りと堀主水妻子の保護の意志は収まらず…
「更に此の儀を天樹院殿(てんじゅいんどの=千姫=天秀尼の義母で徳川家康の孫)に訴へこれによって会津四十万石は改易」
…になったそうです。
実はこの話し、近年まで創作だと思われていましたが、証明する堀主水の妻子が逃げ込んだ事が判る古文書が近年発見され事実と判り、この妻子が30年間寺で生き延びた事も解っています。

さすが!織田信長公の妹君のお市様と名将浅井長政公の血を継ぎ、更に教育係に成田甲斐姫がついていた天秀尼様らしい逸話だと思います。
なぜなら成田甲斐姫は小田原城の記事でも少し書きましたが…
甲斐姫は北条家臣時代にわずか3000の兵を率いて今の埼玉県行田市にあった忍城に籠城し、石田三成軍26000の大軍を迎撃し散々に翻弄した女傑なんですね。
しかも、その後、成田家が蒲生氏郷公に従って東北に移住した際に家臣の浜田兄弟が謀反を起こし母が殺されると、再び浜田兄弟の軍200人に僅(わず)か手勢10人で敵討ちの合戦を挑み散々に浜田兄弟を打ちのめした実話が残る訳です。
つまり…
もし本当に!東慶寺に成田甲斐姫も在住していたならば天秀尼様の一連の言動や対応は至極納得が行くんですね。
…成田甲斐姫が天秀尼様の軍師を務めて堀主水の妻子を守り通したのでしょう。
…恐らく天秀尼様ご自身も御父君豊臣秀頼公の滅亡を体験し、自分と同じ境遇の人間を見捨てれなかったのでしょう。

この様に、東慶寺は明治時代になり尼寺でなくなるまで、ずっと関東人と鎌倉文化の気概(きがい)と仏教文化の慈悲の心で女性を保護する役割を担っていた訳です。
この東慶寺の文化と歴史、覚山尼様や用堂尼様や天秀尼様の気概は神奈川県民として非常に誇りに感じるものがあります。

さて、東慶寺の存在意義はなんとなく伝わったでしょうか?
話を 東慶寺の施設そのものに戻します。
東慶寺は山門の向こう側に、豊かな緑が広がっています。
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その山門を抜けると本堂や宝物殿がありますが、その参道の正面にお釈迦様の銅像が鎮座されていて、参拝客を出迎えてくださいます。
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で、少し進むと掲示板があって季報なんかが張り出され、御寺の行事などが解るようになっています。
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東慶寺は入口にギャラリーがあり、そこで地元の若手芸術家の鎌倉彫や陶器の展示会が開催されるので、その開催期間なども季報で解ります。
参道を過ぎると左手に立派な茅葺屋根の鐘楼があります。
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風情がありますよね?
手前に誰か、この御寺所縁(ゆかり)の文豪の歌碑もありました。
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本堂は竹林と紅葉に囲まれており、初夏の新緑の風景も素敵ですが、秋も又綺麗だろうなと想像できますね。 

明治時代に廃仏毀釈の影響を受けて、この東慶寺も荒廃しかけましたが原財閥の原三渓さんが自宅の横浜三溪園に東慶寺の建物を一部引き取り保護しました。
下の写真は横浜三溪園。 
 
この三溪園に旧東慶寺本堂があり、その本堂は本来なら第3代徳川幕府将軍に成っていた駿河大納言徳川忠長公の旧邸宅の一部でした。

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本当に落ち着いた素敵な御寺です。
ここでDV旦那から逃げてきた昔の女性達が修行しながら離婚成立を待って、その間に色んな学問に励んだんでしょうね・・・
女性保護と文化情勢地としての役割も果たされた御寺な訳です。

東慶寺、素敵な御寺でしょう?
是非!映画の「駆け込み女と駆け出し男」を御覧に成って、この東慶寺を御散歩されてみては如何でしょうか?
さっきも紹介しましたが、紫陽花の季節ももうすぐです!明月院とセットで見学でいくのも良いですし、東慶寺を見てから長谷寺に紫陽花を見に行くのも良いかも知れませんよ!

では!又、次のブログ記事で!

次こそ「小田原城」の記事の続きを更新します。










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