歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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カテゴリ:城址・要塞・史跡・伝統文化 > 史跡・古戦場

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玉縄桜と言う平成に成ってから種苗登録された新しい早咲きの桜を皆さん御存知ですか?
写真が玉縄桜です。
2021年02月28日に訪問した際に9部咲き~満開を迎えていましたので今週末までが最盛期だと思います。
この桜が今、日比谷花壇が支援している元:神奈川県立大船フラワーセンターで見頃を迎えています。
ここの良い所は同時期に沢山の品種の梅が50m程度の梅の並木道として整備されていて、玉縄桜と各種の梅が同時に満開に成る様子を楽しめる事です。
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大船駅から徒歩で15分くらい、車も駐車場が完備されていて首都圏から行きやすい場所です。
大船フラワーセンターだけでは物足りない人は、直ぐ近所に良い御寺も有りますので推薦したいと思います。
日比谷花壇 大船フラワーガーデン
上記公式ホームページて季節ごとの展示や催事を確認できます。
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入口のゲートをくぐると上の写真の一株だけ玉縄桜が有りますが当然これだけではなく、時計回りで園内を見学すると外周沿いにずっと玉縄桜が見れて最後に温室で熱帯植物を見学し、ゲートの売店の前に辿り着き鉢植えの花を購入する事が出来ます。
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他にも花桃の花等も見頃でした。
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おかめ桜もとても綺麗で近所の鎌倉女子大の生徒やデートに来たカップルの若者が非常に喜びながら写真を撮影していました。
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綺麗でしょう?
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梅は梅林と言うほどには植樹されていませんが、様々な種類を一度に観賞出来るように並木道が整備されています。
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温室の展示もとても綺麗ですよ!
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とにかく一見の価値が有るので、大船駅で昭和のスター達に愛された大船軒の鯵の押寿司を購入してお弁当持参して来たりしても良いピクニックに成るかと思います。
でも・・・
「お花だけじゃ物足りないよ~!」
・・・と言う人や小生のブログの読者には歴史ファンも多いかと思います。
御安心下さい。
「あるよ、近くに歴史史跡」
みたいな?
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曹洞宗 陽谷山 龍寶寺
龍寶寺(りゅうほうじ)と言う戦国時代の関東最強の武将だった北条綱成公や江戸時代の徳川家宣公~家継公を支えた側用人の新井白石が支援した御寺があり、玉縄北条家の墓所もあり、旧御廟のあった尾根道も散策する事が出来ます。
更に境内の民俗資料館には上杉謙信公も攻略を断念し包囲を解かざるを得なかった玉縄城の縄張図(なわばりず:設計図)や地形の復元模型、そして鎌倉市の特産品で北条家の武将が愛用した雪ノ下胴と兜の具足一式や出土品も展示されています。
他にも近所に見所が有りますよ~。
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日蓮宗 光圓山 久成寺
この御寺は永正十七(1520年)に足利義澄公の家臣、梅田家によって開基されており鎌倉市内では比較的歴史は新しいとは言うものの既に500年余り地域に根付いた御寺です。
この足利義澄公は小田原城主北条氏綱公の父上で関東の英雄となる北条早雲(伊勢宗瑞)公に大名化の機会を与えた将軍です。義澄公は伊豆の堀越公方足利茶々丸の異母兄弟で、足利茶々丸に実弟の潤童子と御母堂の円満院を殺害されてしまいました
名前が茶々丸とか可愛いくせに全然可愛くないクソです。
これが元々永享の乱が発端となり関東から始まった戦国時代が東海や近畿より一足早く本格的に独立大名同士の領地争いに発展する契機になる事件でした。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公

この時に足利義澄公に堀越公方討伐を命令されたのが今川家で家老に成っていた伊勢宗瑞公です。
つまり状況的には久成寺を開いた梅田サンの祖先は伊勢宗瑞公に与力し一緒に関東に来た元は足利義澄公家臣の同僚で後の北条家臣だった事が解りますね。北条氏綱公
伊勢宗瑞公が伊豆韮山城主として隠居し二代目北条氏綱公の時代にかけて鎌倉の防衛拠点築城改修した御城が2城有り、それが住吉城と玉縄城です。
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上の写真に見える断崖絶壁の鉄壁の地形が住吉城です。
鎌倉防衛網の最東端を担っていた要害で昭和までは下のマンションは海で波が岸壁を洗っていた堅城です。
城記号これは城を示す記号。
明治時代の迅速測図でも源氏谷(げんじがやつ)と呼ばれる崖上の谷にこの本丸マークが有るのですが、三菱財閥や大物政治家が別宅を建ててしまったせいで城として発掘されない時代が長く続いて巨大な城郭なのに開発の波にさらされてしまいました。
鎌倉防衛網 住吉城址 久良岐のよし
この通りです。
住吉城址の西に延びる岩の海岸は源実朝公が築いた人工的に造成された築港である“和賀江島(わかえじま)=わかえのしま(若江ノ島)”です。
現在は“ワカエジマ”で呼称が統一されている鎌倉時代に作られた日本初の人工埠頭の跡です。
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城址の前の小坪飯島公園は富士山の眺望が良く、稲村ケ崎と江ノ島と夕陽が一度に見える景勝地としても知られています。
まぁ埋立地なので関東大震災が起きたら津波に飲まれるのでしょうが。
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この写真は光明寺裏の天照山展望台から撮影したもので、神奈川の景勝50選にも選ばれています。
住吉城址の山は浄土宗大本山光明寺の山号に成っている天照山を含みます。
そもそも山の中腹に光明寺の守護神として天照大神を祀った事に山号が由来している訳で、山の名前ではなかったんですね。
鎌倉市街は実は鎌倉時代~室町時代の最後の鎌倉公方足利成氏公の長い時代をかけて所々が要害化されていて、小田原城を遥かに凌駕する広範囲が防衛網に組み込まれていました。
鎌倉防衛網 久良岐のよし
上は鎌倉防衛網をGoogleEarthで再現した画像です。
範囲は凄まじく鎌倉市街を超えて横浜市金沢区~栄区~港南区にかけて尾根道沿いに切通しや要害が築かれていました。
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先日、同じ南朝系の大名の子孫で歴史仲間の人間と、朝の9時に鎌倉駅に集合して鎌倉要害の主要部分を稲村ケ崎からスタートして登りルートでハイキングした際には歩行距離が21kmに及び、住吉城址に到着した時には日没直後の17時半くらい・・・
総合格闘家ばりの肉体を維持している友人はピンピンしていたのに対して柔道体型にリバウンドした小生は脱水症状と自分の体重で足攣(つ)ったりヘトヘトでした。
住吉城は鎌倉市の光明寺~逗子市の住吉神社にかけて広がる台地で伊勢宗瑞公によって改修される以前も古くは平安時代末期に三浦義澄公によて要害として取り立てられて、当時、平清盛の配下だった畠山重忠公率いる2万余りの代軍勢を三浦義澄公と和田義盛公が3千で迎撃した舞台として吾妻鑑に登場します。
・・・この光明寺や住吉神社は住吉城址ですが、もう一つの北条早雲(伊勢宗瑞)公が築城したのが長尾台の城塞と村岡城を取り込んで作った巨大城郭の玉縄城です。
長尾城~玉縄城跡~二伝寺砦~村岡城 久良岐のよし
長尾台と村岡の要害は平安時代の城ですが、それを取り込んで築いたのが玉縄城でした。
久成寺や龍寶寺、村岡の二傳寺や長尾台の古城の丘を取り込み築かれた城ですが、長尾台は由緒正しい場所で実は上杉謙信の御先祖に当たる長尾家本家の歴代の本拠地でした。
そんな地縁も有って、長尾台に日蓮宗徒の檀家さんの多かった久成寺が長尾台に荒れ果てていた長尾家歴代の墓所を引き取り、供養塔を祀ったそうです。
戦と流通経済の天才、上杉謙信こと長尾景虎公の御先祖の長尾定景公の菩提を現代に弔う御寺が、この久成寺な訳です。
更に源頼朝公の御先祖の源義家公に仕えた長尾家の御先祖の鎌倉景正公や更にその御先祖の鎮守府将軍を務めた平良文(たいらのよしふみ)公の本拠地だったのが村岡城で、その城域の一部と考えられており戦国時代の玉縄城の村岡砦としても機能したのが藤沢市域に入りますが、やはり日比谷花壇大船フラワーセンターからそう遠くない浄土宗の法戒山二傳寺(二伝寺)です。

おの御寺の直ぐ近くに村岡城址公園が有り、東郷平八郎元帥の祖先でもある平良文公や鎌倉景正公の居城でした。
ニ傳寺には平良文公達の上杉謙信公の御先祖の供養塔が有り、全部ひっくるめてゆっくり玉縄城巡りなんてしても大船フラワーセンターの満開の玉縄桜と梅と合わせて散策すると歴史好きにはたまらない一時に成るかと思います。

天気が良い日も多い春真っ盛り、皆さん車でも電車でも行ける日比谷花壇大船フラワーセンターにちょこっと桜と梅をいっぺんに見る贅沢な時間を過ごしに訪れて見ては如何でしょうか?

では、また次のブログ記事で御会い所ましょう~♪
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茅ヶ崎市に旧相模川橋脚遺跡と言う場所が有ります。
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旧相模川橋脚(FRP模造展示)
大正十二(1923)年の関東大震災で水田に橋杭が出現した遺跡。
そのまま本物が展示されていると思っている人が多いみたいですが大間違いです。
これを本物と勘違いしてネットで情報書いてる人って、何を見てるんですかね?
「じゃあ、これは何なんだよ!」
・・・って思う人いますよね?
現地訪問した人の中でちゃんと観察したり看板読んだりする人はイライラせずに「だよね~」と思うと思いますが。
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これ、ちゃんと見れば直ぐに誰でも解ります。
歴史オタクの彼氏に付き合わされて嫌々見に来た彼女サンとかなら小生同様に瞬殺で・・・
「アレ?これ木じゃないよね?」
・・・と気が付くと思いますよ。
小生の感想はこうでした・・・
「あ~、これ上行寺東遺跡と同じアレだ、偽物だ。」
・・・ってね。

他人の書いたネットの情報や大正昭和の学者のレポートを脳内にコピペし「遺跡だ!」と先入観を持って見に来る人の中には看板読むまで気が付かない人も多いかと思います。
読まない人も多いはず、だから「遺跡そのもの」として情報を誤って拡散するんでしょうね。
そう、これ木じゃないんです、ちゃんと5秒くらい観察すればきっと皆さんも看板読まなくても解ります(笑)。
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めっちゃテカテカしてるジャン!年輪無いジャン!みたいな?
プラスティックなんですよ。
実はコレ、発見当時の実物は何故かコールタールでベッチョベチョに塗ったくられて放置されてしまって腐食が進んでしまったのでプールの中に沈められ再度空気から遮断され保存されています。
そして実物の姿をプラスティックでコピーして、現代人にも実物に近い形で展示する。

これ大正時代の人のミスをカバーする現代の茅ヶ崎市教育委員会の学芸員サン達のファインプレイだと、個人的には思います。

「ブラボー!平成令和の茅ヶ崎市の学芸員サン

昔の人や上司の適当な仕事と間違いや権威に囚(とら)われず、事実を見て誤りは誤りとして現代で是正しリカバリーする、これ大切。

いくら積み上げた物があろうが、その積み上げた土台が間違ってるなら破却して再構築するか旧状に復し保存し、更に未来に優れた保存展示手段が確立されるまで繋ぐのも心ある考古学の志士の仕事。
改善はトヨタ生産方式の基本。
ちなみに小生の宗旨はトヨタ生産方式教です(笑)。

下らない誰かのメンツの為に皆が実害を被るのは御門違い。
どうやら茅ヶ崎市役所の学芸員サンや市長サンには東日本最大の蹈鞴製鉄遺跡の上郷深田遺跡の破壊容認や続日本100名城の小机城を未だに史跡文化財指定してしない、どこぞの横浜市役所とは違って強い良心が有る様です。

これ⤴️以前、鎌倉の製鉄遺跡の上郷深田遺跡の事を書いた記事。

さてさて、ここからが本題です。

茅ヶ崎市の学芸員サン達の大正時代の学者のミスに対しリカバリーのファインプレイで済ませましたが、小生は大正時代の文献コピペ学者様の間違いを指摘したいと思います。
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現在“旧相模川橋脚”と言われている遺跡は当時の歴史学者沼田頼輔サンによって、鎌倉時代の建久九(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証されたとされています。
本当でしょうか?
多分、沼田サンは文献考古学者で地形をちゃんと見てないんじゃないだろうか?
少し範囲を広げて鎌倉や平塚等の周辺の伝承も拾うと当時の地形が見えるんですけどね~。
近代の自己顕示強い学者学者した妙な権威の有る人は何故か皆やらかしてるんですよね・・・

これ⤴️とかね。

そもそも論で大正時代の沼田頼輔サンが吾妻鑑から引っ張って来た文章は小出川の流路が相模川の本流なんて一文字も書いてないので平安末期~鎌倉時代の相模川の流路は特定出来ていない訳です。
そして小生に言わせれば・・・

小出川の橋その物のではない事も証明されていない。

・・・小出川が相模川の支流では無く今と同じく海に注ぐ河口でしか合流していなかった可能性の方が高いんです。
これどうすんの?
旧相模川橋脚とか名前付けちゃって。
クールポコ
「なぁ~にィ~やっちまったなぁ~!」
と、クールポコに言われても仕方ないくらい。

小生は現地を訪問してみた感想として、ここは地形的に現代に再考証が必要な場所だと思います、多分ここは相模川では無い。
先ず重要な事実を突きつけると、大正時代に沼田等が発掘調査した後に“コールタールを塗ったくった”影響で炭素年代測定法で橋脚その物を測定すると橋脚の加工された年代が弥生時代~古墳時代初期と驚愕の年代に成ってしまうwww
そしてコールタールの影響を考慮して推測しても“古くてザックリ1000位前~その後の時代の間”とスンゴイ広い振り幅でピンポイントで1200年代とは言えない。これは茅ヶ崎市教育委員会に炭素年代測定の結果を確認済みの事実だ。
・・・次に同時代の鎌倉市街地や古墳時代の平塚の地形を例に挙げて話をしてみたいと思う・・・
鎌倉城塞網 国立歴史民俗博物館を参考 久良岐のよし
上の画像は現在の鎌倉市の中心部に当時の海岸線と鎌倉防衛網の“鎌倉城”を再現した画像です。
国立歴史民俗博物館の研究報告第118集の絵を元にGoogleEarthで加工しました。
由比ヶ浜の砂浜は現在の“下馬”の交差点辺り、つまり鶴岡八幡宮の大鳥居の辺りに入り込んでました。
これより前の時代、現在の材木座と呼ばれる地域は入江を形成していたので文字通り貯木場として利用されていたのかも知れないですね。
そして昔から陸地だった部分の滑川の流路も川幅も現在と変化は有りませんでした。
鎌倉を例にとると、地盤のしっかりした場所から流れ下る部分では河川の流路は大きく変化する事は無さそうな事が解ります。昭和の河川工事を除いては。
GoogleMapに表示すると当時の名残が解ります。
材木座 久良岐のよし
※マーカーが入ってる場所は小生が訪問済みの場所なだけなので気にしないで下さい。

この赤線の枠内が材木座と呼ばれる地域。
その赤枠中の現在東海道線の横須賀線が走る場所より南側~当時の海岸線の内側に入江が広がってい現在よりも1~1.5m高い位置に海が有りました。付近は鎌倉時代以前に近い平安時代、つまり材木座入江が広がってた当時に開かれたと伝わる神社仏閣が有ります。
由比若宮こと元鶴岡八幡宮は鶴岡八幡宮が現在の小林丘に移転する以前に源頼義公によって開かれた八幡宮です。
甘縄神明宮は鎌倉市内最古の神社で和同年間に行基菩薩によって開かれ、源頼義公が再興開基して子宝祈願をして源義家公を授かったと伝承しています。
鎌倉の光明寺は寛元元年(1243年)に前身寺院が現在地に移転し開かれた場所ですが、実は光明寺よりも先に現在は塔頭寺院と成っている蓮乗院が真言宗寺院として存在し弘法大師の霊場でした。この光明寺の裏山は鎌倉防衛網を担う要害化されており戦国時代まで住吉城として機能していましたが、その山腹にある桟道(さんどう)状の切通しで古代の東海道とされており、弘法大師の教団は古道の整備と布教を行っていたので此方も奈良時代には存在した事に成ります。
鎌倉市街 久良岐のよし
つまり、これらの寺社の立地と同じ標高の場所は平安時代末期の材木座入江が存在した時代には間違いなく陸地だったと言う事に成ります。更に、それらの鎌倉市内の場所と同じ標高の茅ヶ崎市の地形は旧相模川橋脚とされる物が建築された時代には既に陸地だったと解り、その標高が相模川の河岸段丘面と同等の高さであれば相模川の本流が当時の段丘面を超える事は無いと言う証明にも成る訳です。
これらを確かめる方法が有ります。
迅速測図(明治時代の帝国陸軍測量図)
※歴史的農業環境閲覧システムhttps://habs.dc.affrc.go.jp/
GoogleEarth衛星画像
※小生はGoogleEarthPRO版を使用
※WEB版https://earth.google.com/web/
国土地理院色別標高図
※地理院地図電子国土web版https://maps.gsi.go.jp/では小生と一緒に材木座入江の名残りと当時の陸地と同じ地形を標高から特定して見みましょう♪

材木座入江特定 久良岐のよし
※上の画像をクリックして拡大して見て下さい♪
一番下の色別標高図で蓮乗院、元鶴岡八幡宮、甘縄神明社と同じ色の場所が鎌倉幕府が開かれる以前から間違いなく陸地だった場所です。
これを見ると解りやすいですね~♪
一番上の迅速測図で“材木座村”と表記された地区の南側に岩礁と砂丘が有り、横須賀線の線路辺りは陸地だった事が解ります、そして材木座地区の真ん中辺りに水色の地盤の窪地(くぼち)が有るのが一目瞭然ですねぇ~。
ツマリそう言う事。そこが平安時代の入江だった場所です。
材木座地区の海抜 久良岐のよしその周りの薄い黄緑色が湾を形成した陸地、水色の部分が古(いにし)えの材木座入江と干潟。
これで鎌倉時代、稲毛重成が“相模川”に頼朝公が暗殺されたかも知れない橋を立てた時代の海岸線が解りましたよね?
この材木座の入江が有った時代は現在よりも1~1.5m高い位置に海が有りました。
入江が消滅した時期ですが、大正時代の関東大震災では三浦半島は西側が50cm隆起して東側は逆に沈下しました。つまり1回大地震が起きると神奈川県の旧相模国域は50cm前後隆起する様です。
関東大震災よりも前の応長元年(1311年)に現在の金沢区長浜~並木地区に在った長浜千軒と言う大海運拠点が津波と記録される天変地異で海没しました。
応長の大津波で長浜千軒はずっと海の底に沈んだままだったので、津波ではない事が解ります。
そして津波なら反射津波が房総半島も襲撃する筈なのに千葉県側には全く記録や伝承が残っていません。
どうやら横浜市の屏風浦と言われた地形が大断層で海に面した地盤が沈下し海に沈んだだけの様です。
この時代は花園上皇と後醍醐天皇の生きた時代で当時の京都では大地震が起きた記録が有り8ヵ月間余震が続きました。
これにより延慶四年四月(1311年5月)に縁起が悪いので元号が応長に改元されました。
つまり応長大津波とされる横浜市金沢区沿岸を直撃した天変地異は先に京都で起きた大地震に連動して関東の地盤も動き三浦半島東岸の付け根の横浜市沿岸部が沈下した様です。
当然ながらこの際にも神奈川県域の相模湾側は50cm前後隆起したんでしょう。

以前、富岡八幡宮の解説⇗を書いた時に少し触れた事が有るので興味がある人は下のリンクから記事を読んでみて下さい。
さて、関東大震災と応長大津波でザックリ合計1m隆起したとして未だ完全に材木座が隆起するには届きませんね?他に地震が起きたかも見てみましょう。

仁治鎌倉地震・・・M7クラス
仁治二年四月三日(1241年5月22日)に発生し由比ヶ浜の大鳥居が流され大鳥居の場所に在った八幡宮の施設も消失。
永仁鎌倉地震・・・M8クラス
正応六年四月十三日(1293年5月27日)に大地震が発生し火災により建長寺が倒壊し火災発生、死者2万3千人。参考までに当時の鎌倉市中心部の人口は3万人と言えば被害規模が解りやすい。この地震は相模トラフが動いたと考えられているので“鎌倉時代の関東大震災”でしょう。
つまり、材木座に入江が有った時代から令和まで応長~仁治~永仁~大正と都合4回の大地震が発生し相模湾を直撃しており1.5m以上の隆起は余裕で有った可能性が高い訳ですね~。
では次に茅ヶ崎市~平塚市の方を見てみましょう~♪
橋脚遺跡衛星写真 久良岐のよし
今はこんな感じ。旧相模川の橋脚とされる遺跡は小出川沿いに有りますね?
この小出川を大正時代の沼田頼輔博士が相模川と言ってるのはオカシイと言った訳です。
衛星写真を見てみましょう。
橋脚向き 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
旧相模川橋脚と呼ばれる遺跡は、橋脚が1列3本10m間隔×4set有ります。この事から橋の長さが40m前後、川幅が30m前後と解ります。そう、小生と同じ事を皆さんも思うでしょう?
「あれ?相模川、こんな細い訳ねぇ~じゃん(笑)?」
「丁度小出川と同じ川幅くらいにピッタリの橋じゃん(笑)。」
・・・と大正時代の沼田学者様の説に小生の中では既に草が生え始めますwww。
では川幅を見てみましょう・・・
小出川川幅 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
うん、27.5mだね、だいたい30m(笑)。
最初の方でも触れましたが、鎌倉時代の川幅と流路、似たような地形の鎌倉市内でも余り変わって無かったですよね?
そしてこの橋脚を見ると解りますが何故か小出川に並行して有りますよね?
つまりこの橋を元に考えると小出川の旧流路がこの位置で右に切れてれば10中8~9は小出川旧流路に架橋された橋と言う事が見えてきます。
未だ皆さんに昔のこの一帯の地形を御見せしてませんでしたので、一緒に昔の地形を見てみましょう。
さて迅速測図の出番です。
小出川旧流路比較 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
※クリックして拡大して見て下さい。
現在、小出川の横の橋脚遺跡はニトリ茅ヶ崎店の真横に所在しています。
小生の予測はドンピシャ!
きっと皆さんも同じ事を考えたのではないでしょうか?

明治時代の流路も橋脚の遺跡の辺りで右折している事が解ります。
更に明治時代の流路が現在のニトリの前の道に成っているようですね。
現在直進している小出川ですが、これも藤沢土木事務所に確認済みです。
昭和30年代~40年代に河川改修工事によって直進にされたそうです。
そして昔の微妙な河川の位置のズレですが、橋脚の出現当時、現地は水田でした。河川敷の湿地が工作地帯に開墾されていた様です。つまり旧流路の誤差範囲内。
「おんや~?もうこれ、小出川の昔の橋でしょう(笑)?」
・・・と普通は思うでしょ?
次に相模川本流を見てみましょう!
平塚市相模川河口(迅速測図)久良岐のよし
橋脚遺跡衛星写真 久良岐のよし
小出川と目久尻川は河川改修部分以外の上流で大きな変化はないのに相模川本流はだいぶ現在と異なり真っ直ぐに成っていますね?
実はこれ・・・橋梁の遺跡が出現した際に関東大震災で河口部の砂丘が隆起して堰止湖が出来てしまったり水害の危険性が高まった為に大正時代から直進流路化の工事が行われたそうです。
これも茅ヶ崎市教育委員会から確認をとっています。
さて、先に長々と鎌倉市での鎌倉時代の陸地の標高の基準を解説しましたよね?
今度は平塚市域と茅ヶ崎市域で見てみましょう!
とその前に、先に鎌倉時代に陸地だった場所の色別標高図の色を思い出してみましょう。
材木座入江特定 久良岐のよし
鎌倉市⤴️
黄緑色
が陸地、水色が海。
茅ヶ崎市・平塚市⤵️
平塚市相模川河口(迅速測図)久良岐のよし橋脚遺跡衛星写真 久良岐のよし
橋脚遺跡付近の色別標高図 久良岐のよし
御覧の通り、明治時代までは河口部分は複雑は汽水湖を形成していた湖沼地帯だった事が解ります。
そして、その地域を除いて相模川の東側は河岸段丘が有り、現在“旧相模川橋脚”とされる遺跡の部分に相模川本流が鎌倉時代に流れていた事が有り得ないと言う事実が地形からも確認できましたね?
極め付きは、とどめの一撃に古墳時代に開かれた平塚八幡宮を表示して置きました。
そうすると平安時代以前の古墳時代に既に陸地だった地域が特定出来る訳です。
平塚八幡宮を基準にすると、現在の相模川東岸の北緯が橋脚遺跡と同緯度の地域は、平安時代末期には明らかに海岸段丘が存在した事が解りますね。そして相模川河口部分の蛇行してた旧流路や汽水湖だった部分も標高が低い地形として形が見えますね。
現在の柳島スポーツ公園総合競技場東側の畑地域と西側のゴルフ場、浜見平団地が汽水湖や干潟に成っていた湾部だった様ですね。ちょっと次の関東大震災で液状化が心配な地域でもあります。
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更に言えば液状化して橋脚が現れるのであれば、それは東日本大震災でも解ったように液状化により水が抜けた地盤沈下の影響なので一帯に他にも橋脚が有れば更に多くの橋脚が露出するので、この橋脚の本数が当時のままなのだと言う事も当然ながら周囲くまなく発掘調査されてますし推測出来ます。
つまり小出川の川幅は全く変わっていない訳です。平塚市河口付近海抜分析 久良岐のよし
ちなみに小出川と相模川の水面や昔の流路や入江だった地域の標高は1~3mです。
明治時代の陸地部分の海抜も概ね低くて5m~8mは有ります。
つまり現在は1.5m水位が下がってると考えて当時は4~4.5mの位置に水面が有ったとしてもやはり陸地だった事が解りますね。
平塚市河口付近海抜分析2 久良岐のよし
こちらは東西の地形の断面ですが、北緯が橋脚遺跡と同緯度の相模川は海抜1mとほぼ海面の海抜0mと変わらない高さで川底は深いままの様です。
つまり現在“旧相模川橋脚”とされる遺跡辺りは小出川の3mの水面に対して、相模川の1mの水面の位置では明らかに小出川が相模川が乗り越える事の無い河岸段丘の上を流れている事も解りますね。

やはり客観的に古墳時代まで遡(さかのぼ)って地形を見ても、現在、旧相模川橋脚とされる遺跡は・・・
相模川河口周辺地形 久良岐のよし
①小出川露出した橋脚の幅が川幅な訳だから正に現在の小出川の幅と整合している。
②ニトリと橋脚遺跡の間の道路が明治時代の流路で正に橋脚の列の向きとも仮定流路の向きもピッタリ整合し鎌倉時代の小出川の流路も明治時代の流路と同方向と考えるのが自然。
③鎌倉の材木座旧入江地区より上流の明治時代の流路を例にしても②を踏まえて相模川河口旧入江部より上流の小出川は余り変化をしていないと考えるのが自然。ただし河口部については地盤が砂丘だった為に浜見平団地の場所に有った湖では変化が多かったと推測出来る
④明時代に既に陸地だった地域の相模川の河岸段丘は古墳時代に開かれた平塚八幡宮や平安時代8世紀に開かれた三嶋神社と同程度の標高が有るので、昔の河口部の柳島~南湖にかけて存在した汽水湖部分を除いて鎌倉時代の相模川が橋脚遺跡の北緯以北で小出川に流れ込んでいたとは考え難い。
【小生の見解】
どうやら大正時代の沼田頼輔サンが旧相模川橋脚と断定した物は鎌倉時代も小出川にかかるだけの橋だった可能性の方が遥かに高そうと言うか、それ以外に無さそうです。
平塚市相模川河口(迅速測図)久良岐のよし
昔の幕末~昭和初期の近代の歴史学者さんって、よくこの手の事をしたみたいです。
なんせ判断材料が少なかったですからね、日本の発掘を主体とした考古学や地質学なんて明治十年(1877年)にモースさんが蒸気機関車に乗って新橋駅~初代横浜駅(桜木町駅)に行く時に車窓から大森貝塚を発見してから漸(ようや)く始まった位に歴史が浅くて未だ150年位しか情報の蓄積が無いですからね。だから未だに嘘か真か解らない文献考古学が中心で、学芸員サン達は古文書に書かれている事が嘘か本当か見抜く時代を超えた知恵比べを昔の人達としている訳です。
大和市の深見神社の社伝も神話時代の神様の話と古墳時代の人物を混同していたり全く海に成り得ない海抜標高80mの位置を海と断定したり・・・
横浜市戸塚区の徳翁寺は宅間上杉家の上杉乗国(乗忠)公の子、宅間上杉乗方(のりまさ)公の開基なのにも関わらず、この宅間上杉家の敵対勢力の山内上杉家を継いだ上杉謙信(長尾景虎)公の曾伯父(そうはくふ:曾祖父の兄弟)として意味不明な解説をしています。

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実際には上杉謙信は彼は実家が長尾家なので宅間上杉家と血縁は無いんですよ。
養子に入った山内上杉家に由来を求めても上杉謙信公の養父となった上杉憲政公の6代も前に上杉憲忠公が居ますが、この人物が別家の宅間上杉乗忠公と発音的には同性同名なので宣伝の為か間違えたのかは知りませんが混同して事が現代の歴史オタクには鼻の先で笑う位に間違った歴史認識である事が一瞬で見破れたりする訳です。
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宅間上杉乗国(乗忠)公は憲忠とは同一人物では無いですからね。
宅間上杉家の直接の祖先は京都の観修寺家ですし、宅間上杉家初代の上杉重兼公の母上と足利尊氏公と山名政氏公の母上が3姉妹で、その母達の実家が上杉家だったと言う程度の血縁です。
更に別流の犬懸上杉家から上杉憲政公の曾祖父の代前後に山内上杉家と血縁に成った人物はいますが、全然宅間上杉家じゃないですからね。特に江戸時代初期~中期と明治時代と昭和初期に書かれた古文書と論文には意図したデマと悪意の無い間違いがとにかく多い。
今回の“旧相模川橋脚”と決めつけられてしまった事は吾妻鏡を持ち出して文章の一部しか読まず地形を見なかった当時の沼田頼輔サンの検証不足の仕事の粗さが問題なだけ。

こんな事を小生も例えば寛政重修諸家譜の歴史人物の名前すら間違ってたり、江戸時代の役人が御寺に寺領を保証する朱印を発行する際に寺院名を間違って発行しちゃったり、昔の古文書の草書体を昭和初期の出版社が読めずに間違って違う漢字に誤植してしまったり、素人でも資料読んでて良く見つけるので、今回も御世話に成った色んな学芸員サン達から御教示頂いたり意見交換していると、本当に頭が下がるばかりです。
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特に茅ヶ崎市の現在の遺跡のレプリカ使って実物は水中に密閉する保存方法は、昔の人がコールタール塗ったくって雨ざらしにして腐らせた物を未来に繋ぐ改善を施し現代人にも展示を見られる様にしたファインプレイでしたね。
ただ茅ヶ崎市と言うよりは・・・
国の文化庁さん旧相模川橋脚と言われている場所は相模川じゃないですよね、何で調べないんで国指定史跡天然記念物にしたんでしょう?
別にここが鎌倉時代も小出川だったとしても、鎌倉時代の大規模橋梁が有った遺跡な事には変わりは無いのですから間違いを再検証し名称も変えるべきではないでしょうか?

さて。

今回、この地域を調べたり散策していて茅ヶ崎市教育委員会さんも一つ間違いが有る事に小生気づきました。
皆さん、まず江戸時代の風景画を見て下さい。
Nango-HidariFuji~2
この絵は東海道五十三次の一つ“南湖の松原左不二(富士)”と言う絵で、江戸時代の画家、歌川広重サンの作品です。
横浜の金沢八景とかの絵を描いたのも歌川広重サンで、我々神奈川県民には馴染み深い絵師サンです。
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鶴嶺八幡宮
(鎌倉の鶴岡八幡宮の前身)

凄く素敵な神社で、鶴岡八幡宮と同じく源頼朝公の御先祖様の源頼義公によって京都の石清水八幡宮から御分霊を勧進して開かれた神社です。頼朝公も崇敬したので御手植えの銀杏が有ったりします。
この鶴嶺八幡宮を鎌倉に遷宮したのが何と由比若宮つまり鶴岡八幡宮の元宮の元鶴岡八幡宮なんです。
なので鶴嶺八幡宮の別称は本社宮でした。鶴岡八幡宮の元の元と言う意味ですね。
そんな神社ですが、戦国時代に小田原北条家が豊臣秀吉公に敗北して改易され関西に移住すると大きな後ろ盾が無くなり荒廃してしまったそうです。
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幕末に皇女和宮様が江戸城に嫁ぐ頃に領主だった山岡家と鶴嶺八幡宮の別当寺だった常光院の住職によって、皇女が東海道を通る際に再整備した立派な参道が700m超の松並木に成っているんですね。
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この松並木の入り口に大鳥居が有ります。
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確かに、ここからは松と富士山が両方見えました。
この写真を撮影した位置に“南湖の松原左不二”の紹介の看板がありました。
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この場所を“南湖の松原左不二”の“松原”を鶴嶺八幡宮の764mの参道の松並木と想定している様で、案内看板が鶴嶺八幡宮の大鳥居の交差点の鳥井戸橋に設置されていました。
ただね、この説明は位置関係がオカシイんです。
もう一度絵を見て下さい。
Nango-HidariFuji~2
根本的に松原が左に曲がってますよね?
説明は鳥井戸橋の位置としてますが仮にこれが鶴嶺八幡宮の松並木だとしたら、大鳥居側から松並木に向かって先には鶴嶺八幡宮、そして富士山も一直線に無いとオカシイ事に成ります。
そして下町屋が無いとオカシイ事に成りますよね?では迅速測図で位置関係を見てみましょう。
南湖の松原左不二 久良岐のよし
赤線が鳥井戸橋から富士山が見える方角です。
残念ながら富士山を絵の方角で見ると鶴嶺八幡宮の松原は絵の右手側に伸びて行かないといけないのが解ります。
Nango-HidariFuji~2
ね~これ場所が違うでしょう?
でも、これ、小生場所特定しましたよ!
大正時代の沼田サンの間違い検証の参考に迅速測図を見まくってたら場所が解っちゃいました。
そもそも南湖の"松原"左不二(富士)なのに何で参道の“松並木”を比定しちゃったんでしょ?
松原と松並木は大違いですよ。
それに当時の地形は当時の地形に近い地図を見ないと位置関係も解らないでしょ?
では場所です。
南湖の松原左不二特定 久良岐のよし
赤線が富士山の見える方向です。そして始点の‐‐‐‐‐‐で表示されている道の視点で現在の住宅を無視して地形だけの風景を見るとこうなります。
南湖の松原左不二特定② 久良岐のよし
この道路は1880~1886年に測量された迅速測図にも乗っている道なので歌川広重の生きた1797年~1858年の間の景色の道でもある訳ですね。では絵と見比べてみましょう♪
Nango-HidariFuji~2
もう、ここでしょ(笑)♪
歌川広重さん、又みっけ!
迅速測図でも松原の右手側に3軒並ぶ家が書かれてますしね~。
南湖の松原左不二特定 久良岐のよし
この絵の構図の地点はGoogleMapの下の地点です。

現代では松原は伐採され住宅が建ち並び、ここに立っても富士山は見えないし松も無いでしょう。
そもそも皇女和宮が関東に嫁いで来た際には駿府の相模川の氾濫を東海道を通りませんでしたし、年代も文久元年(1861年)の事なので、それ以前に鶴嶺八幡宮の参道を山岡家と常光院別当の朝恵上人が再整備するよりも早い1858年に亡くなってる歌川広重さんが当時の様子を荒れてると表現されている八幡宮をわざわざ見に行く必要もなければ鳥井戸橋の辺りは畑と川しかない殺風景な場所で絵の構図に成らないんですよね。
南湖の松原左不二特定 久良岐のよし
ところが南湖地区の南には大きな砂丘が有り、更には南湖地区と桺島(柳島)村の間の小出川河口は複雑な形の入江の干潟が広がる汽水湖に成っている上に“松原が広がっている”訳ですよ。
小生も4歳から絵画と彫刻の塾に通ってたのですが、今も綺麗な景色が好きなので自分が当時の茅ヶ崎市に行けるなら間違いなく南湖地区を旅して恐らく“南湖(なご)”の由来に成ってる複雑な汽水湖の景色や砂丘と松原を富士山の写真を撮影に行くでしょうね。
地形、当時の道路、GoogleEarthでの検証画像、全て丸っとパキっとひっくるめてココでしょ、歌川広重さんの描いた南湖の松原左不二。
小生が仮称:南湖(なご:なんこ)とした手の平型の湖は干拓され現代では浜見平団地に成っています。
旧相模川橋脚(絶対違う)の解説で少し話しましたよね?
・・・次の関東大震災が来たら液状化が心配だって指摘した団地です。
さて、広重サンの構図、現代でも綺麗なんですよ、神奈川県が地形消滅する開発許可を出して無い場所ね、この南湖松原も消えたけど。
ちなみに三浦の秋谷海岸の立石公園も歌川広重さん絵に描いてます。
まぁ、遠い富士山を近くに拡大して書いちゃったり漫画みたいな技法を凄く使うんですけどね。
相州三浦秋谷
秋谷の里広重構図 久良岐のよし
これが歌川広重さんの構図、綺麗でしょ?
こっち⇘は小生が選んだ構図。
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小生が当時の人間なら歌川広重さんに、いっぱい教えてあげたい構図が有る(笑)。
でも、もしタイムスリップ出来るなら中学時代に戻れるなら教師と親の言う事聞かずに中卒で鎌倉の正宗工芸に入門して包丁作りたかったかなぁ~。
でも、そうすると高校やアルバイトや留学で出会った親友や大切な人達にも出会ってなかったから、これからの人生をどうするかの方がやっぱり大切かな?

願わくば歌川広重さんや葛飾北斎さんが描いた景色や、彼等偉大な絵師が見つけられなかった綺麗な構図の景色が、これからもずっと残って欲しいと願います。

綺麗にまとめようと思ったけどやっぱり最後に小生らしく追撃の一言。

旧相模川橋脚は相模川の橋脚じゃなくて小出川の橋脚だよ(笑)。
ただし、こうも考えています。
小生は個人的に当時は暴れ川で川幅も広い相模川を跨ぐ様な大きな橋は建設する技術や財力が稲毛重成一人で揃えれたとは思えません。
現在も地名由来には諸説有りますが平塚市側に“馬入”の地名が有ります。明治時代の迅速測図を見ても、そして現代でもその一帯の相模川には中洲が多く有り比較的浅い馬で渡れる程の深さの場所が有ったのかも知れません。
だとしたら・・・
現在の旧相模川橋脚は相模川の橋脚では無くて小出川の橋脚だったとは思いますが、源頼朝公が落馬したのは小出川の橋の上だったかも知れないかな?とは少し思います。

special thanks!
鎌倉市藤沢市茅ヶ崎市平塚市の学芸員さんや土木事務所や発掘調査会社の元職員の皆さんのローカルな情報提供と御紹介頂いた資料と郷土史話も検証で役に立ちました。
ありがとうございました~♪

では皆さん、又、次の歴史解説記事か休日雑記か綺麗な景色の紹介か御料理のレシピ記事で御会いしましょう~♪
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鎌倉市浄明寺地区の紅葉②
報国寺~華頂宮邸~釈迦堂切通

功臣山報国寺
足利家時公、宅間上杉家、鎌倉公方の菩提寺
 ※ミシェランガイド☆☆☆の竹林の寺
旧皇族 華頂宮邸
【景観】
 報国寺   ★★
 ミシェランに掲載されてる竹林寺。
 華頂宮邸  ★★
 
紅葉少も立派な洋館と英国式庭園。
 釈迦堂切通し
 紅葉無いが壮大な史跡。
【電車】

 浄妙寺・報国寺・華頂宮邸★★
 鎌倉駅~徒歩27分
 鎌倉駅~バス乗車8分~浄明寺降車
 ~徒歩2分       ・・・所要時間10分
 金沢八景駅~バス乗車22分~
 ~浄明寺降車~徒歩2分
               ・・・所要時間24分
 浄妙寺⇔報国寺         ・・・徒歩05分
 報国寺⇔華頂宮邸  ・・・徒歩03分
 華頂宮邸⇔釈迦堂切通・・・徒歩35分
 釈迦堂切通し      
 ※2020年現在の釈迦堂切通し
 釈迦堂切通の北側落石で歩行不能。
 南側は近くに行ける。
【  車  】
 報国寺   ★★
 駐車場10台以下で秋は駐車困難。
 直ぐ近所に浄妙寺駐車場有り。
 徒歩10分圏内に有料駐車場複数。
 華頂宮邸  
 無し。
 釈迦堂切通し
 無し。
【休憩】
 報国寺   ★★★
 竹林庭園の茶庵で抹茶飲める。
 周辺に喫茶店数軒有り。
 華頂宮邸  
 公衆トイレ無し
 釈迦堂切通し

 公衆トイレ無し
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 報国寺
 ミシェランガイド★★★認定だよ◎
 竹林が素晴らしいく抹茶も飲める◎
 足利尊氏公の御爺ちゃん足利家時公
 が開いた由緒正しい御寺だよ~◎
 早朝座禅会やってるよ~◎
 華頂宮邸
 旧皇族が住んでた洋館と御庭◎
 モンテクリスト伯華麗な復讐ロケ地
 釈迦堂切通し
 もの凄い迫力の鎌倉時代の史跡◎
―――――――――――――――――
 上記3ヵ所の近所に浄妙寺が有る。

 浄妙寺と合わせて一緒に全部廻るの
 オススメ♪
注意するpoint(•ω•)       
 秋は報国寺竹林茶庵での喫茶は、
 待ち時間が長いが待つ価値有り。

 報国寺は食品持ち込み禁止。
 報国寺駐車場は秋は駐車混むので
 近所の浄妙寺駐車場が御勧め。

――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
【見所】
報国寺
報国寺はミシェランガイドで最高の★★★を獲得している。竹林の庭園はいつの季節も美しく、抹茶と落雁を食べながらユックリと秋の竹林の凛とした空気と緑の素敵な空間を楽しめる。竹林の奥の庭園も可愛らしい石仏と苔や、池と鎌倉時代~室町時代の矢倉の史跡を見る事が出来る。
御寺の山門~御本堂正面の参道の紅葉と庭の景色も美しい。
紅葉の名所としての評価は
★★★だが寺院の景観を総合評価するなら★★★★

華頂宮邸
旧皇族華頂宮(かちょうのみや)邸は戦前まで華頂宮家が住んでいた近代西洋建築の御屋敷で最近では❝モンテクリスト伯 華麗なる復讐❞で主人公の居館としてロケハンされていたりする。正門から入ると左手に立派な紅葉の樹が有り、その奥のイングリッシュガーデンでは庭のベンチに座って食事する事が許されているので、マナーを守れる人なら手作り御弁当持参してデートに来たらユックリ時間を過ごせる。

釈迦堂切通し
凄まじく壮大な鎌倉文化を代表する隧道型の切通しで、切通しの上には貴重な日月矢倉や北条時政邸跡に通じる衣張山(きぬはりやま)ハイキングコースが有る。多くの映画のロケ地に成っていて、二宮和也と松浦亜弥が主演した❝青の炎❞等も同地がロケハンされている。
浄妙寺⇔報国寺⇔華頂の宮邸は交通の便が良く合わせて見学するのがオススメ。
電車で来ている場合は帰路、鶴岡八幡宮までユックリ歩いても20分位なので良い散歩に成る。
ガッツが有るなら明王院口~天園ハイキングコースを登り~天園休憩所~建長寺半蔵坊~北鎌倉駅まで2時間位歩いても山の中を気持ち良い散策が出来る。
【交通】
浄妙寺⇔報国寺⇔華頂の宮邸
上記の三ヵ所はいずれも近在する。浄明寺バス停から全て近い。
鎌倉駅からバスで行っても良いし、鎌倉の街並みを散歩しながらユックリ歩いて来てもとても良いレクリエーションに成る距離感。
車なら浄妙寺の駐車場が駐車可能台数も多く通りに面していて便利。

釈迦堂切通
鎌倉市が落石や倒木の処理を怠り2012年くらいには名目上は通行止めのまま住民の生活道路なので地元民は自転車や原付で普通に往来していた。市役所担当部署が「整備がなかなか出来ない」と言い訳し続けて年月が経ってしまい、2019年の台風で更に浄明寺地区側の北側散策路が崩落して状況が悪化。
地元の方や見学したいハイカーは衣張山ハイキングコースから迂回したり大町地区に回り自己責任で南側フェンスの横から見物しに行くしかない。
釈迦堂切通しを見る経路(2020年時点) 久良岐のよし
華頂宮邸側から行く場合の順路⤴
 
華頂宮邸~真っ直ぐ南に歩いて巡礼古道を経由して釈迦堂切通南側に行く途中、天気が良ければ❝関東の富士見百景❞の良い景色を見る事も出来るし、そこから公園の階段を下り大町地区の住宅街を通り黄金矢倉を通過し釈迦堂切通の南側のフェンスの前に出るのが2020年時点での近づけるルート。
衣張山ハイキングコースからの眺望も鎌倉市街と相模湾を見渡せて気持ちが良い。
 
衣張山から獣道を通って降りる裏道も有るが、山一帯が北条時政によって城郭化されたり、後世の石切で崖地に成っており獣道を見失うと滑落して大怪我の元なので非推奨。
釈迦堂切通しの散策路の再整備要望される方は鎌倉市役所迄陳情をお願いします。
【偉人】
報国寺
足利家時公(足利尊氏公祖父)、歴代室町幕府鎌倉公方、宅間上杉重兼公(足利尊氏公母方叔母の夫)、宅間上杉家歴代当主、犬懸上杉禅秀公。
華頂宮邸
旧皇族華頂宮家、伏見宮博恭王
釈迦堂切通し
鎌倉幕府三代将軍源実朝公、北条時政、北条義時公、名越北条朝時公
【歴史】
報国寺や華頂宮邸の有る谷は宅間谷(たくまがやつ)と呼ばれた場所で、室町時代の足利家重臣、宅間上杉家の居館跡だった。その居館の敷地に開かれたのが報国寺で、足利尊氏公の祖父である足方家時公と叔母の夫の宅間上杉重兼公によって開かれた由緒正しい寺院。
宅間谷背後の山は衣張山と呼ばれ、釈迦堂切通しを抜けると北条時政邸だった名越邸や北条義時公が父の北条時政の菩提寺として開いた釈迦堂跡の遺跡群が群在する。名越邸のある衣張山は山裾が切り落された裾切りされ全山が城郭化されているが、明確に後世に石切場と判断できる場所も多く鎌倉石の石切場の史跡としての価値も有る。
華頂宮家から分家した伏見宮博恭(ふしみのみやひろやす)王は対馬海戦時に戦艦三笠に乗って活躍した海軍将校としても有名だったりする。
【名物】
報国寺の日曜坐禅会(食事は御粥と沢庵2枚で完全な修行体験)
報国寺の除夜の鐘
——報国寺の紅葉と竹林——
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——華頂宮邸の紅葉と英国式庭園——
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——釈迦堂切通し——
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【関連記事】


紅葉名所一覧へ⤵
 


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Twitterで朝日寺サンと言う志田峠に在る御寺の方に武田家vs北条家の大合戦、三増峠合戦の経過を時系列で話す機会が有ったので、そのツイートを画像に切り取って転載しときます。
    武田軍       北条軍
武田菱vs 三つ鱗紋
兵力  20,000                  20,000

死傷    1,000                    3,000
武田信玄が北条家の息子達を翻弄し、北条家も局地戦で黄備え玉縄衆大将の地黄八幡北条綱成公が活躍した合戦なのに結構、歴史ファン入門くらいだと知らない人も多い名合戦なんだけど。
因みに話題に登場する主要人物紹介。
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ゲームの武田信玄⤴
肖像画の武田信玄⤵
武田信玄

北条氏康
ゲームの北条氏康公⤴
肖像画の北条氏康公⤵
北条氏康公
北条氏政
高嶋政伸サンの北条氏政公(笑)
丸に三ツ鱗紋玉縄北条家

隅立て四ツ目結び紋間宮家
蔦の葉紋臼居家


では以下Twitterからの転載です。
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皆さんは横浜市旭区役所が歴史的に凄まじく重要な場所に建てられている事を御存知でしょうか?
旭区役所周辺畠山重忠公史跡 久良岐のよし
現代の地図を見ても何でここで畠山重忠公が討死する事に成ったかは、多分、旧相模国住吉郡と愛甲郡の住人の方は解るかも知れません。
小生は現地を訪れた時に地図を見ていて「アっ!」と直ぐに解りました。
畠山重忠公を射殺し討ち取った鎌倉時代の名将の領地と附近を通る街道の名前がリンクしたからです。
先ずは事変の遠因と二俣川合戦の発生経緯の推測を説明します・・・
鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝公には政権内に頼りにする武将と目の上のたん瘤(こぶ)の様な親族がいました。
菅谷館周辺 久良岐のよし
頼りにした武将の一人が畠山重忠公で、坂東一の武士(もののふ)と異名で呼ばれた程の統率力と武勇を誇り理知的な武将でした。本拠地は埼玉県比企郡の菅谷館です。
今でも八王子街道の先には菅谷館に続く八王子ー比企郡を結ぶ鉄道の八高線が運行していますが、彼が鎌倉に出勤する際は必ず八王子を通過する八王子街道を経由して町田市方面から鎌倉街道中道か、更に八王子街道を上り厚木街道~鎌倉街道下道に経由する区役所裏の二俣川の鎧の渡しを通過する事に成る訳です。
どちらかを通りますので厚木街道~鎌倉街道下道を目指して来て合戦に成ったんですね。


そして頼朝公に特に頼りにされた武将が他に3人いて、その内2人が三浦半島出身の鎌倉御家人でした。
1人が三浦義澄公で三浦半島を根拠地にする三浦党の大将で三浦本家の代々の根拠地だった衣笠城を相続した武将です。
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衣笠城址&三浦家学問所の大善寺
三浦党の大将は三浦義澄公ですが、実際に嫡流に当たるのは和田義盛公でした。
その和田義盛公が源頼朝公に頼りにされたもう1人の武将で、幕府で初代侍所別当と成り三浦初音和田の和田城址を根拠地にして三浦本家の衣笠城は相続せず旧鎌倉郡や久良岐郡や高座郡や房総半島に多くの領地を持って最初の領地の和田を苗字にし別家を打ち立てていました。
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和田城址空堀跡前石碑
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和田城址入口の和田義盛の碑と神社
更にもう1人は鎌倉郡梶原~村岡が根拠地だった梶原景時公です。
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村岡城址公園
祖先の平良文公や鎌倉景正公が本拠地とした村岡城址を相続していた武将ですが、現在、村岡城址は城址公園の名は残りながら藤沢市が保護を怠り城址としての遺構は地形以外に皆無に成ってしまいました。
さて、実はこの和田義盛公と三浦義澄公の三浦一族は畠山重忠公とも親族でありながら和田家・三浦家にとって旧惣領であり和田義盛公の祖父で三浦義澄公の父に当たる三浦義明公の籠城する衣笠城を攻め殺した敵(かたき)に当たるのが畠山重忠公でした。
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衣笠城址本丸跡の御霊神社前の記念碑
畠山重忠公は当時は平清盛の支配下で関東の平家軍の大将と成っていたのですが、源頼朝公が現在の神奈川県湯河原町で旗揚げし石橋山の合戦を起こすと、北関東の諸将を率いて源氏勢力を掃討する命令を受けて少なくても数千、多くて2万と言われている大軍を引きいて母方の祖父に当たる三浦義明公の籠城する衣笠城を攻めて落城させ、三浦義明公は息子の三浦義澄公や孫の和田義盛公を房総半島に逃がし自らは囮(おとり)と成って最後は自害しました。
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義明山 満昌寺
その三浦義明公は大恩人として源頼朝公によって三浦義明公の為に建てられた衣笠の満昌寺に首が埋葬され供養されました。
つまり、三浦一族にとって畠山重忠公は同僚でありながら憎らしい前当主三浦義明公を殺した仇(かたき)であり、そして源頼朝公亡き後の幕府内での政敵でした。
源頼朝公は生前、跡継ぎの源頼家公の事を信頼する畠山重忠公に託し、更に畠山重忠公と近い場所に領地を持つ比企能員(ひきよしかず)公の息女若狭局(わかさのつぼね)は源頼家公の妻と成っていました。
つまり源頼朝公の勢力が脆弱だった頃から支えた三浦家や頼朝公の親族である北条家からして見れば、後から源氏軍団に参加して来た秩父方面の武士達の政治力が高まる事は、私怨が在るだけでなく初期功臣達の政治権力を脅かす危険な存在に成っていた訳です。
因(ちな)みに比企能員公の娘は畠山重忠公を射殺する事に成る愛甲季隆公と並び鎌倉御家人の中で屈指の武勇を誇る糟屋有季公に嫁いでいました。
その糟屋有季公の本拠地は現在の神奈川県伊勢原市一帯で、延喜式内社高部屋神社の在る丘陵を城砦化した❝千鳥ヶ城❞現在の丸山城址でした。
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高部屋神社(旧社名:高部屋八幡宮)&丸山城址公園
高部屋神社は醍醐天皇が平安時代に制定した延喜式と言う政令で当時の人から見ても古い歴史の在る由緒正しい保護するべき神社のリスト❝延喜式神名帳❞に記された神社の一つで元宮は大山山系渋田山の山中に在りました。糟屋有季公が現在の高部屋神社の丘陵を城砦化した際に鎮護の神様として渋田山かから現在地に移転して今に至りますが、2016年、社殿が国定文化財となった神社です。
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近年、国道246号線の開削で道を隔ててしまいましたが、背後の丸山城址公園には糟屋有季公の時代~室町時代までの城址としての遺構が発掘保存されて誰でも見る事が出来ます。
そこから車で30分程の距離に愛甲季隆公所縁(ゆかり)の場所も現存しています。
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閑香大明神小野神社
それが小野神社で、愛甲季隆公の領地は今の厚木市の小田急線の愛甲石田駅一帯を中心とした愛甲郡一帯で、延喜式内社でもある愛甲郡の閑香大明神と呼ばれ修験道の聖地でもあった、今の厚木市の小野神社には愛甲季隆公や隣接する毛利荘(もうりのしょう)の領主だった大江広元公が信仰し支援していた歴史が現代に伝わっています。
小野神社~毛利台周辺 久良岐のよし 
余談ですが、この毛利荘を相続した大江広元公の四男の毛利季光公が、戦国大名の毛利元就公の御先祖様です。現在では毛利の地名が残る範囲は御覧の通り狭く成っていますが、昔は毛利荘と言いもっと広大な行政区域を指しました。
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今も毛利台と名を変え名残は地名に残されており、尚且つ小野神社宮司家は“毛利サン”だったりします。
さて・・・
北条義時公は幕臣である愛甲季隆公や糟屋有季公を含めた武士団に嘘の情報を流します・・・
「畠山重忠が謀反した!至急迎撃せよ!」
・・・と、しかしこれは全くの嘘で畠山重忠公は冤罪だったと後の三代将軍源実朝公も認識し明言しています。そして北条義時公は逆に畠山重忠公にはこう連絡します・・・
「幕府で事件が起きた、手勢を率いて急行せよ!」
・・・と。この連絡を受けた畠山重忠公は謀略と警戒していたかも知れませんが手勢の内133騎の配下武士を率いて鎌倉に向け先行して出発します。騎馬武者だけで急行したのでしょう。
・・・しかし、此の時既に事件は進行していました。
畠山重忠公の御子息、畠山重保(しげやす)公が由比ヶ浜に在(あ)った邸宅を北条家の手勢に襲撃され、畠山重保公は朝比奈峠山中~北に逃げると見せかけて横浜市金沢区側へ迂回し、間道の白山道を抜け金沢区釜利谷で自害します。
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畠山六郎重保公廟所
実はこの重保公の御廟所、新編武蔵風土記稿では疑義をかけられていますが、小生は事件の経緯からも地形からも、重保公の御廟所はこの場所で正しいだろうと思っています。
恐らく北条家と共謀したであろう三浦家等率いる幕府軍は当初は町田方面から真っすぐ八王子方面に続く一方の鎌倉街道で大軍で待ち構えていた筈です。
しかし、其方に手が回っている事を畠山重保公の配下で生き残った武将が命懸けで何とか畠山重忠公に伝えていたとすれば、やはりこの朝比奈~円海山越え~白山道~久良岐郡六浦~氷取沢~矢部野(洋光台)~鎌倉郡野庭~永谷~鎌倉街道下道~鶴ヶ峰~二俣川~鎧の渡し~八王子街道~武蔵国比企郡菅谷館へと至る逃げ道で情報を伝える以外に抜け道は無い訳です。更にこのルートは一度西に回り鎌倉街道中道に行くと見せかけ鎌倉街道下道に行けるので敵の追撃を混乱させる時間稼ぎに最適なルートに成っています。
しかも、この白山道旧道は狭隘な山道と谷間の道だったので、畠山重保公が北条の手勢を食い止め僅かな時間でも追っ手を足止めして急報を畠山重忠公に伝えるにはうってつけの場所だった訳です。
余談ですが白山道の名の由来は金沢区金沢文庫~円海山釜利谷経由~円海山栄区八軒谷戸側に抜け~朝比奈峠の切通しに至る間道で、その由来は明治時代の廃仏毀釈神仏分離令の影響で廃社に成った白山権現が山道を抜けた先に在った事が街道名の由来だと推測しています。
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白山権現旧蹟&神奈川の橋100選の一つ❝昇龍橋❞
廃社白山権現は今では神社の基壇が在るだけで社殿は無くなり神様は近くの庄戸地区に移りましたが・・・
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旧白山権現の目の前の参道にかかる昇龍橋は神奈川県内最古の石橋として“神奈川の橋100選”の一つに選定され、昔の名残を留めています。
さて、一方で幕府軍ですが、重保公の使者が菅谷館に急報を伝えたり重忠公が鎌倉に駆け付ける際は釜利谷の鎌倉街道下道経由~朝比奈峠の切通し以外もう一つの経路が有り、町田市方面から境川沿い旧鎌倉郡に当たる鎌倉街道中道~大和市~藤沢市~を通過し、そこから巨袋坂切通、化粧坂切通し、極楽寺坂切通しの何(いず)れかを通過する進路が有りました。幕府軍集合場所だったであろう鎌倉の西方に急行中の愛甲季隆公や糟屋有季公が、幕命で畠山重忠公の鎌倉の進路が鎌倉街道中道を通過しなかった場合は鎌倉街道下道通過を予測して迎撃する場所を想定し直すでしょう。鎌倉の北条₋三浦の率いる幕府軍本隊の大軍到着より早く畠山重忠を迎撃するのに最適で厚木街道一本で愛甲勢と糟屋勢は渡河地点の二俣川鎧の渡しに向かう事が出来る訳です。
八王子街道から南下して来て多摩方面から川崎街道~経由で東海道に来る、若しくは八王子街道から厚木街道の接続する旭区役所付近を通過する鎌倉街道下道を通ると予測でしょうから、当然ながら二俣川を挟んで鶴ヶ峰の対岸を通る八王子街道と鎌倉街道下道が合流して渡河地点と成る場所へ向かう訳です。
この時、畠山重忠公を討ち取る為に謀略を仕掛けた北条義時公は、畠山重忠公を目の仇にしている三浦義澄公の跡継ぎである三浦義村の娘と、北条義時公の跡継ぎである息子の北条泰時公が夫婦と成り縁戚で結ばれており❝反秩父勢力派❞を形成していました。
この北条義時公率いる幕府の大軍は畠山重忠公がどちらを通過するか哨戒させながら軍勢を向かわせる先を思案していたと思いますが、町田方面の鎌倉街道中道を通過せず畠山重忠公は迂回路である下道(奥州街道)経由で来る事を捕捉したのでしょう。そこから万単位の大軍を渡河地点で迎撃し易い旭区の二俣川~鶴ヶ峰に進軍させたのだと推測出来ます。
畠山重忠公古戦場周辺二俣川旧流推定 久良岐のよし
旭区役所の周辺、現在は河川改修され本川が左右に直線的に成っていますが旧流が蛇行した住宅道路と成って残っているのが衛星写真だと解り易いかと思います。
そして二俣川と下川の合流地点、ここが鎧の渡しと成る訳です。
この更に西方数百m、鶴ヶ峰本町公園周辺には❝矢畑❞の地名が残っていますが、ここは北条家の軍勢が放った弓矢が地面に突き刺さり矢の畑の様な凄まじい光景に成ったからと地名由来が有るそうです。
つまり、北条ー三浦連合の偽報の策略に嵌(はま)った畠山重忠公は配下を本拠の菅谷に向かわせ軍勢の手配を準備させながら、一方で町田より手前で畠山重保公からの急報で事実を知らされ鎌倉街道中道は敵勢が満ちている事を察知して迂回、しかしそれを更に察知した北条軍が鎌倉から中原街道や厚木街道で急行し易い場所に所領がある愛甲季隆公や糟屋有季公や住吉郡、愛甲郡、高座郡を領地とする武将達の軍勢を二俣川の鎧の渡しへ向かわせたと推測出来ます。
この中世を含めた日本の古道や街道について❝国土交通省 関東地方整備局❞サンは昔から積極的に子供にも判る歴史解説のホームページを開いているので、御子さんがいらっしゃるお父さんお母さんは子供と一緒に拝見すれば良く道の歴史が理解できて良い参考に成るかと思います。
国土交通省関東地方整備局 関東の道路ホームページ
リンク→国交省関東地方整備局制作❝関東の道路❞PDF資料。
恐らく、地名の通り八王子から来た畠山重忠公と幕府軍が川を挟んで会敵して弓合戦と成ったのは二俣川の矢畑だったのでしょう。そこから畠山重忠公含めた畠山勢134人の手勢は数を減らしながら敵が川を渡って来る場所に成る旭区役所裏の二俣川と下川の旧流合流地点に在った❝鎧の渡し❞を敵勢に橋頭堡として確保されない為に応戦しながら戦略的に東に移動して行ったのでしょう。
そして川を渡らせない様に強弓でも名の知られた重忠公は弓で敵を射殺しながら、持ち堪えていたものの、厚木街道を急行して来た愛甲郡・住吉郡の軍勢の中の愛甲勢や糟屋勢と弓合戦に成ったのでしょう。
三人にはこんなやりとりが有ったかも知れません・・・
重忠公
「やぁやぁ、其処(そこ)に見ゆるは強弓の御二人、愛甲殿と比企殿が婿殿の糟屋殿ではござらぬか!此(これ)は如何(いか)なる事哉!」
糟屋有季公
「逆賊重忠、申す事等無し、尋常に勝負!」
重忠公
「吾にニ心無し!鎌倉殿より頼家公の後事を託されているこの身、神仏の名にかけて潔白である!先ずは待たれよ!」
愛甲季隆公
「是非に及ばぁ~ず!勝負!」
・・・川を挟んでの戦い、決戦は太刀打ちによるものでは無く弓合戦に以外には有りません。
この状況、多勢相手に寡兵でも畠山勢が粘れたのは畠山勢が関東最強の軍勢だったからでしょう、しかし愛甲季隆公は那須与一宗高と並び源頼朝公の遺臣中で三本指に入る腕を誇った弓の名手です。もう、一騎打ちに成ってしまうと幾ら並みの武将と比べて弓の名手として名の知られた畠山重忠公でも、最高のスナイパー愛甲季隆公を相手にしては勝機は無い訳です。
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この三合橋の辺りが❝鎧の渡し❞、つまり当時の渡河地点。川の合流地点なので合理的に通行が出来る。
八王子街道から南に登って来て応戦する畠山重忠公が川を挟んで北側、厚木街道を東に下って来た愛甲季隆公や糟屋有季公が南側、恐らく当時の和弓の集団戦術での放った矢の到達距離は120m、動く敵を名手は60m以上の距離で射殺出来たそうなので御互いに川から30m程度離れた距離、つまり完全に相手の姿が見える程に近い距離で撃ち合いに成ったと推測出来ます。
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二俣川と下川の小生の推定旧流路を衛星写真に書き込んで見ました。
二間俣川鎧の渡し、推定旧流路 久良岐のよし
旭区役所の在る旧❝鎧の渡し❞は渡河地点でありながら川の合流地点で東西南を自然の水堀に囲まれている砦同様に一番防御に適した地形なのも判ります。
これが正しいか2020年12月05日に迅速測量図をGoogleEarthに表示してみた所ドンピシャ!
二俣川古戦場 久良岐のよし
全く予想通りの形に旧流路が流れていました。
タモリさんもそうだけど、小生も他の城ファンも、地形ばっか見てるから予備知識無くても河川の名残って現地歩くと解ってしまうんです。
丁度、八王子街道と厚木街道が合流する所で鎌倉道を避けて鎌倉を目指いしていた重忠公の行軍工程が幕府には逐一捕捉されてしまっていた事が実は、地図を見ると解ります。
少し範囲を広げてみましょう・・・
畠山包囲陣地 久良岐のよし
鎧の私が重忠公最後の交戦場所、結局もし愛甲・糟屋軍に勝利して突破し鎧の渡しで渡河しても正面の陣ヶ下渓谷には鎌倉幕府の侍所別当和田義盛公の陣城と、幕府本体を率いて来ている北条義時公の陣城が街道を抑える位置に作られていて突破は完全に無理でした。
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写真は和田義盛公の陣地の下を流れる陣ヶ下渓谷の沢ですが、ほぼ直角の高さ10mくらいの崖に挟まれた渓谷が2本合流する舌状丘陵に和田勢が陣取っていたので、畠山重忠公が仮に三国志の呂布の様に強くても愛甲勢を打ち破っても結局は次の和田勢の陣地を突破するのは不可能だったでしょう。
二間俣川鎧の渡し、推定旧流路 久良岐のよし
なので諦めて防戦に努めたのでしょう。
最後の場所は正に少数の戦いをするには、今の旭区役所の場所一帯が一番守り易い地形だった訳です。ここで130人で敵勢を向かい打てば渡河しようとする敵勢を狙い撃ちに出来ますし、少数の軍勢で高い防御力を発揮出来る❝円陣❞の防御陣形に成っています。
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ですから重忠公の首塚が討死地だとすれば、重忠公が合理的な守備陣形を取っていた事が推測出来ます。そして集団戦術では無く、スナイパーとして動く標的を狙う場合、弓の有効射程距離は名手で60m~鎌倉幕府最高のスナイパーの那須与一宗高公でも80m前後と伝承しますが、二俣川旧流路の一番くびれた南側から畠山重忠公首塚が丁度60m弱の位置に在るんですよね。
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もしかしたら本当に小生の推測通り首塚は戦死場所で、本当は首塚じゃなくて胴塚だったのかも知れません。首は万騎原に居た本隊の大将北条義時公に届けられた筈ですからね~。
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近くの薬王寺には重忠公の最後に鎧の渡しまで生き残って戦った畠山勢の最期134人の武士が葬られた土饅頭が6つ在ります。
更に近くには重忠公の奥方が逃げきれず自害し駕籠ごと埋葬された籠塚が近年まで在りました。
浄水場の建設で供養碑を場所を移されてしまいちゃんと発掘されたかは不明です。
この奥方の息子、重保公が自分の母と父への危急を知らせる使者を逃がす為の戦いが金沢区釜利谷、そして重忠公が最後まで戦ったのが旭区役所裏手の首塚の場所、訃報を聞いて奥方が駆け付け自害したのが籠塚の場所と言う訳ですね。
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さて、歴史的な教養が無い無学な阿呆や古来の日本神道の価値観を知らない無文化な馬鹿は、鎌倉武士達が各々正義と信念と勇気の為に戦って亡くなった聖地にも等しい場所を、何の霊力を持つ様な高貴な神職の血筋でも無いのに「幽霊が見える」とか先人の英霊を侮辱するデマを流しますが・・・
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古来の日本神道の価値観や仏教の価値観では、鬼神の様な活躍をした武将や信念をとして戦った英雄は荒神や武神として昇華され、その墓所や御廟所や祀られる御社は❝スポーツや勝負の御利益を下さる神様仏様❞として大切にされてきたものなんです。
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だからね!こうやって実際に現場に行くと神々しい光の玉が優しく出迎える様に写真に写り込んだりしていて、何だか重忠公と季隆公が「良く来てくれたね~」「我々の事を忘れないでくれてありがとう~」って言ってくれてるみたいでしょ?

ですから皆さん、受験生や武道やスポーツに励む学生は、文武両道活躍された畠山重忠公の旭区役所一帯の首塚や古戦場で重忠公を御参り尊敬の念を伝えたり、県外の御廟所や重忠公を討ち取った愛甲季隆公や初代政所別当の大江広元公の信仰した厚木の小野神社で神様と二人の御霊に御挨拶したら文武両道の御利益が有るかも知れませんね~。

あそうそう、畠山重忠公と愛甲季隆公が戦った二俣川古戦場の旭区役所裏に美味しい御飯屋さんを見つけました!
❝旬菜旬魚ほまれ❞と言う居酒屋が昼は定食屋さんを営業してました。
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旬菜旬魚ほまれ

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丁度御腹が空いたので小生は鰺フライ定食と別注で❝ちょこっとカキフライ❞だったかなんか2つカキフライを食べました。
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どちらもスンゴイ熱々で美味しかったですよ!
そうだ。
畠山重忠公に興味がある人は是非、旭区役所の生涯学習課に行ってみて下さい。
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こんな子供にも解りやすい刷子を無料で貰えますよ!この冊子には簡単な畠山重忠公の伝記や関わった事件の位置関係、そして旭区役所周辺の戦場史跡のアクセス等が親切に掲載されていました。
あと鎌倉市の鎌倉歴史文化交流館に行けば畠山重忠公の鎧兜の精巧な復原品を見る事が出来ますよ!
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鎌倉歴史文化交流館
ここは鎌倉時代の遺物を展示解説しているのですが、館長の青木先生や学芸員の大沢先生や最近国立博物館に転職された高橋先生が「子供にも歴史を身近に感じて欲しい」とのコンセプトを御持ちでスタートしたので博物館には珍しく展示物の写真撮影可能な上に、一部展示は直接触る事が出来る瓦や焼物の出土品も有ります。

旭区に御住まいの幼稚園~小学校の小さな御子様がいるお母さんお父さん、是非、鎌倉の紅葉の綺麗な華頂宮邸や鶴岡八幡宮白幡神社とか紅葉散策ついでに鎌倉歴史文化交流館で武士の文化に触れて、それから旭区役所で刷子を貰いお子さんと地元を散歩すれば、きっと親子で地元に関わった名将に敬意が沸き郷土愛も深まるかも知れませんよ~。

さて、きっと皆さんの御近所にも凄い歴史偉人の足跡を辿れる場所が有る筈です。
町中の御地蔵様にも石碑にも、すごい歴史が有り凄い偉人と現代を繋ぐタイムマシーンみたいな役割を果たしてくれるかも知れません。
ですから地元をちょこっとお散歩して見ませんか~?

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
・・・そう言えば、相模原の津久井城と内藤家の記事を書かないと(笑)。
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先月の話・・・
関西の親友で妹の次に小生の性格の理解者だろう人間のデザイナーITが展示会の東京出張で来訪。
来訪の1ヵ月以上前から「宿泊地決めないと予約難しいぞ~」と散々せっついたのに直前の1週間前までノンビリ屋で決めてなかったIT・・・
その結果、廃墟マニアと変わった趣味で今回は鎌倉の❝廃墟?❞的な場所を観光地として希望してた割には出張先の渋谷区からも、小生の地元横浜で一番の蛍の大生息地である円海山の在る栄区界隈からも、横浜の中心街で一番便利な横浜駅や関内界隈からも❝中途半端❞な鶴見区と言う謎の立地のホテルを予約しやがった。鎌倉行くのに迎えに行くのが少々面倒(笑)。
・・・まぁ、鶴見なら今のNHK大河でタイムリーな薩摩藩関連の史跡や、鎌倉向かう途中で横浜中華街の朝食も食べれるので「楽しみを詰め込めば良いか!」と前向きな発想が直ぐ湧く。
待ち合わせはAM:08:00、ホテル前。
この日も小生は当日の夜中03時に仕事から帰宅し風呂入ったり何かしてたら既に朝の5時、もう目が冴えたまま寝るのも諦めて「ホテルの前に車停めて仮眠しよう」と6時に移動。7時には到着した。
しかし車中でも眠れず、諦めてITにLINEする・・・
「もう着いたけど寝てるから準備できたら適当に出て来てユックリしてて良い」
・・・とは送りながらスマホ弄(いじ)くり当日の不安定な天候も有り到達地点別の天候に訪問地分岐案の再確認をGoogle mapでしておいた。こう言った❝遊び❞は「手伝うよ~」と適当な事して邪魔する同僚の介入も無いので❝好きに完璧に予定を組める❞から好き(笑)。
ホテル前でITをピックアップ、御土産に太らない京都の宇治の御茶とかくれた。
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生麦事件発生地
・・・と言う訳で、最初にITをピックアップして連れて来た❝観光地❞がこの住宅街(笑)。
ITには来る途中で交差点の看板とか電信柱の看板とかを故意(わざと)音読させてヒントを出したのだが現地に着(つ)いても解らない(笑)。まぁ~そりゃそうだ。今じゃ只の住宅街の道だから。
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・・・実はここ、薩摩藩が参勤交代中に乗馬した白人至上主義の白人連中に隊列に侵入されテロ排除の為に数度のジェスチャーと日本語による警告の上でも騎乗した白人は止まらず薩摩藩の隊列に突入、島津久光公の籠に迫ったので止む無く惨殺したと言うのが真相の❝生麦事件❞の発生現場なのだ。
ITは別に歴史好きと言う訳では無いが廃墟好きなので小生の話題にも少し付いて来られる、まぁ京都育ちだし神社仏閣歴史史跡に囲まれて育った❝文化的歴史的素養❞と言うのは移住者だらけの普通のハマっ子よりは並の京都人の方が遥かに高い。
歴史に特別関心が無くても義務教育で習う生麦事件程度は当然知っている訳だ。だからもう直ぐNHKの❝西郷どん❞で登場するであろう、この事件現場を見て「ほ~」と言う感じの反応をしていた。
まぁ、鶴見から中華街に向かう通り道を少し裏の旧道に入っただけ、途中に立ち寄った場所なので凄い場所と言う訳ではない。
しかしこの後、小生がやらかす。
散々地図を見て予備学習して置いたのにGoogleMapのカーナビではなくてポンコツの純正カーナビに任せて音声に合わせて道を走ったら関係の無い側道に入らされたり住宅街をグルグル・・・
朝食を買う予定の中華街まで大分と遠回りになってしまった。
ナビを放棄し自分の目視と記憶で大黒ふ頭に経由地を変えて海沿いの道を選択、多分横浜市民以外は知る人の少ない大黒ふ頭を経由して横浜ベイブリッジの一般道~新山下へ抜けて早朝の中華街に到着した。
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道を迷ったせいで鶴見駅近くを8時に出発したのに到着したのはAM:09:00位に成ってしまった。
しかし普通の中華街の店は10時~11時開店なので人気は極端に少ない。
中華街の加賀町警察の前には小生が立ち食い点心を購入する際に行きつけにしている店の内の一軒が有る。そこの大根餅や肉と高菜の細切り炒めが入った揚げ饅頭が美味いんだな。
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金福粥記
ITは服飾関係のデザイナーと言う仕事の都合上中国にもよく出張するのだが、中国では現地企業に接待される側に成るので中々こう言った普通の中国の朝食を食べたり好きな火鍋とか庶民的な料理を食べる機会が無いとの事。慌ただしい鎌倉へ向かう車中での朝食と成ったが「美味しい!」と喜んでいたので何より。
中華街近くの石川町入口から横浜横須賀道路に入り高速で横浜市金沢区の朝比奈峠へ抜け鎌倉に侵入、鎌倉市街の手前の報国寺近くの駐車場に車を停めた。ここの辺りは実は凄く安いタイムズ駐車場とか浄妙寺の駐車場も有り、朝比奈~十二所~浄妙寺地区~名越地区の観光の基点とするのに適している。
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最初、報国寺を訪問し御本尊の御釈迦様に御参りしたが竹林は後回しにした。
この日の目的地はあくまで❝廃墟散策❞が主旨なので、報国寺の散策は後、でも御本尊を拝まずに素通りすると、この後❝少し危ない山の中❞を散策するので❝旅の安全祈願❞も含めて先にちゃんと御挨拶する事にした次第だ。
この日の主要目的地の廃墟と史跡を目指すのには新幹線で関西から来たITをわざわざ山登りさせる必要が有る、観光じゃないんだな最早(笑)。
最初に目指したのは、その廃墟と史跡の入口と成る木々の枯れる❝冬季ならば❞鎌倉市で一番眺望の良いであろう衣張山の山頂だ。
その道は巡礼古道と呼ばれ、報国寺の所在する宅間谷(たくまがやつ)から鎌倉武士達が三浦半島の逗子方面に抜けたり、名越邸こと鎌倉幕府執権の北条時政館の史跡に行く間道として利用された古道を通る。
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目標的には報国寺~かまくら幼稚園を目指すと緑地帯から自然に衣張山入口の公園に出る事が出来る。
この日に備えてITには❝運動靴❞❝Gパン等の歩きやすい服装❞をちゃんと指定しておいた。
まぁ~この辺は廃墟観光に成れたITだから言わないでも大丈夫なのだろうが、山歩きの度合いを軽視されて準備不足に成ると本人が楽しめなく成るので敢(あ)えて念を押した訳だ。
衣張山は城郭オタクが登れば一目で判るが、山道が裾切りされて人工的に鋭角な崖地化された登山道が多く足を滑らせると死ぬ構造に成っている(笑)。
平安以来の鎌倉武士、三浦家の居城だった衣笠城と同じ構造だな。
衣笠城址に関しては以前書いた記事が有るので御興味有る方は御覧頂くと平安~鎌倉時代の武士の城の構造が良く解ると思う。
これ以前の記事⤵
三浦義明公と衣笠城址。源家最大の盟友、坂東武者の鑑。…三浦半島横須賀市。
かまくら幼稚園側から20分も登ると衣笠山山頂に着いた。
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衣張山山頂
材木座~由比ヶ浜~名越~雪ノ下~扇谷地区が一望できる絶景だが、この辺りは❝神奈川県の富士山100景❞にも選ばれた景勝なのだ。本来、天気が良ければもっと遠く伊豆半島なんかも綺麗に見える。
生憎(あいにく)と当日の天気予報は降雨、幸い登山中は天候が持ってくれたが曇天で遠くは見渡せなかったが、それでも綺麗だった。この辺りから獣道を通って行くと現在は鎌倉市によって通行者の安全確保が十分でないとの判断から仮設封鎖柵が設置されている❝釈迦堂切通し❞や❝釈迦堂遺跡❞へも通じる抜け道が有る。
その抜け道へ行く為にわざわざ衣張山へ上った訳だな。
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色んな場所に鎌倉時代~室町時代の矢倉(やぐら)と言う名の武士の御廟所である横穴式墳墓が在る。
これも有る意味❝廃墟❞だが、先人を尊敬する小生は一々、ここに埋葬されていたであろう名を知らない御霊にお祈りすると京都育ちのITも心得ていてちゃんと手を合わせていた。
因みに、一々拝みながら「通行者を御守り下さい」「鎌倉の住民を御守護下さい」「御霊が大切にされますよう、安らかに過せます様に」とお祈りした。
鎌倉幕府を運営し、朝鮮人と中国人とモンゴル人による日本侵略戦争の元寇を撃退する基盤と成ってくれた人達だから感謝と尊敬の念を御伝えするのは当然の事だと小生は思う。
程なくして落ちたら死ぬ犬懸谷(いぬかけがやつ)の奥の山から釈迦堂口に出て、釈迦堂切通しに到着した。
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釈迦堂切通し
ここは先述の通り先年の落石発生以来鎌倉市が封鎖しているのだが、周辺住民の生活道路なので金網の無い場所を通行する人は今でも多い。まぁ、山越えて抜け道を通ればそんな事する必要も無いが労力が大変な訳だ。
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「お~凄いな」
・・・と男前な感想のIT、こう言った史跡も有る意味廃墟、ここは恐らくは鎌倉市街地~名越北条家の居宅と成った北条時政邸と詰城(つめじろ)だった衣張山登城口への関門だったので名ばかりは❝切通し❞だが隧道(すいどう=トンネル)形状にした上で入口に梁(はり)を渡して櫓門(やぐらもん)が築かれていたのだろうと城好きの小生は予想している。恐らく多くの城郭ファンも同じ推測をするだろう。
だから上部左右には梁を通した様な材木を打ち込んでいたであろう穴跡も見て取れる。
ここから又、獣道に戻ると今度は別の名越側から封鎖された❝幻の釈迦堂跡❞の釈迦堂遺跡へ行くことが出来るが、私有地側から入る人がいると困るので詳細は掲載しない。
山頂からの行き方をネットでも生き方を書いている人もいるので探して見ると良いと思うけど、途中には崩落した橋の欄干を渡らなければいけないデンジャラスゾーンが有ったりするので、やはり小生は道順はボヤ化して置こうと思う。
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釈迦堂口遺跡
釈迦堂遺跡は山の中に削平地が広がる。
名越邸跡と伝わり鎌倉幕府二代執権と成った北条義時公が、そこに北条時政公の没後に供養の為に釈迦如来を安置した御堂を建てたのが始まりとか何とか伝わるのだが、大半が私有地と言う事も有り現在の鎌倉市教育委員会や神奈川県教育委員会はその場所をちゃんと公開していない。しかしながら昔の鎌倉市教育委員会は無文化な部類の一部土建屋による鎌倉市の森林と史跡破壊を糾弾し新聞社と一緒に吊るし上げたり、この私有地を保有する国際自動車タクシー会社さんも一般に公開したりしていた。
前代の鎌倉市長主導で封鎖された次第だが、何と言うか民間会社の方が文化史跡保護と公益に資する公開の意識が高いと言う・・・皮肉な話だ。
釈迦堂遺跡の奥に山道から降りて来る昔の登山道である❝抜け道❞が有る。まぁたまに見学会も開かれるので鎌倉市のホームページをチェックしてると良い。団体で見学希望申請何かすると、鎌倉市教育委員会もガイドしてくれる可能性も有るかも知れない。
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登山道には昔の看板も残っているのだが鎌倉市の前の市長が封鎖してしまって通行量が減っているので❝廃道❞寸前の状態。貴重な遺跡が保護管理されず放置される悲惨な状況に成っている・・・
「訪問したい人は安全管理は自己責任でどうぞ」
・・・と言っておこう。
まぁ❝廃道寸前の道❞含めてITの趣味に合わせたチョイスなのでそうなるな。
こちら側から登って行くと唐糸矢倉と言う、源頼朝公と源義仲公の間の悲しい同族同士の争いの終結の場所となった史跡が在る。
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説明の看板の通り、源義仲公の家臣の娘の唐糸サンが源頼朝公の様子を探る為に侍女と成り、源頼朝公が源義仲公討伐の相談をしていたのを聞いてしまい頼朝公暗殺を企て幽閉された場所だそうだ。
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どうも看板の矢倉よりも直ぐ右隣の矢倉の方が土牢としては適した構造だと小生は思う。
そして看板の伝承は少し違うと思う、状況的には源義仲公の御子息で源頼朝公に人質として預けられていた源義高公が頼朝公によって処刑されそうに成ったので、義高公に仕えていた唐糸サンが頼朝公の暗殺を企てたと考えた方が状況的には自然だろう。当時の伝承も後世に伝える伝言ゲームで行き違いが有ったのかも知れないし、小生の予測が外れているかも知れないが郷土の伝承レベルの事なので事実は今では確認しようも無いが小生の予測通りならば源義仲公と源頼朝公の因縁の終わりの場所と成るだろう。
事実、三浦半島の初瀬和田の和田城には元は源義仲公の側室だった巴御前が和田義盛公に惚れられて側室として同居したと伝わり、源義仲公の乳兄弟(乳母の子)で重臣の今井四郎兼平公は横浜市保土ヶ谷区の今井城址に居住したと伝承するので、実際は平家物語では書かれていない木曾(源)義仲公の家臣団は頼朝公に降伏し鎌倉幕府の幕臣と成っていたのだろう。
・・・源義高公の命と引き換えに信濃の武士団は命を助けられ、源義高公に仕えていた唐糸サンは納得が行かず組織としての正義よりも忠義としての正義を優先したんだろうね。
この唐糸矢倉を過ぎると人工的な切通し状の堀切(ほりきり=尾根道を断ち切り敵の侵入を防ぐ構造)が在る。
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そこに橋が架かるが、最大の見どころ。廃道化の原因の床の抜けた通行不可能な橋。
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でも欄干と橋梁は鉄筋コンクリートなので❝自己責任❞で渡りたい人はどうぞ。
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ここさへ渡れば釈迦堂遺跡も釈迦堂切通しも衣張山から来られるからね~。・・・落ちたら運が良くて骨折かな?
ここに来たい人は、ちゃんと安全確保のワイヤーとか準備してね。
でも一番、城郭としての構造が解り易い。
ここを通らないと詰城の山頂側に行く事は出来ない。そして平時は引橋(ひきはし=戦時に引いて撤去出来る橋)が架けられていて戦闘時には堅固な防御構造と成った事だろう。
唐糸矢倉に降りて来る分岐点の前に衣張山登山道の休憩所跡が有る。
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途中には廃墟化した東屋。これも有る意味廃墟かな。
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さて、東屋の下の分岐点から唐糸矢倉方面と反対に行くと釈迦堂切通しの真上に出る事が出来る。
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落ちたら死ぬから気を付けてね、あくまで自己責任でどうぞ(笑)。
本当に気を付けて。
そして釈迦堂切通しの上を通り抜けると、重要文化財にするべき❝日月矢倉❞に抜けれる。
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恐らく名の有る武士の御廟なのだろう。
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壁に穿った穴の形状に矢倉の名前が由来する。
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日輪と月を模した意匠が施されているので、そう名付けられたようだ。
恐らくこの月の意匠からして、千葉家所縁の武将の矢倉かも知れない。千葉家一族と家臣団には月の家紋と九楊紋を家紋にする武将が多い。ここは大町に抜ける場所でもあるし、大町には戦国時代に成っても千葉一族臼居家の菩提寺であり平安時代の武将の千葉常胤公と千葉家所縁の寺院でも有った蓮乗院が存在する。
蓮乗院は元は弘法大師空海和尚所縁の真言宗の寺院だったが、直ぐ隣に浄土宗の大本山の天照山光明寺が開かれると浄土宗に改宗し、その光明寺の重要な塔頭寺院と成った。
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因みに今回紹介している衣張山も山頂の風景が綺麗だが・・・
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光明寺の天照山から見た風景は❝神奈川の景勝50選❞にも選ばれ、最近では映画シン・ゴジラでゴジラの上陸地点としてロケハンされたりしている。非常に風景が美しい。
そこ等辺りは以前に記事に書いているので興味の有る人は読んで頂くと解ると思う。
以前の記事⤵
休日雑記 2017年01月25日の訪問先・・・【鎌倉市】住吉城址前の材木座海岸と和賀江嶋と江ノ島と富士山と夕陽の見える場所。
●臼井城主の子孫の店❝Cafeこやぎ❞は旧鎌倉郡域にある緑に囲まれたカフェ。美味しい葛餅と焙茶(ほうじちゃ)が頂ける店。ランチも人気。…横浜市。
・・・さて、日月矢倉に話を戻す。
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風雨に晒された矢倉は風化が激しい。
ここ数年、鎌倉市は釈迦堂切通し仮封鎖後に訪れる人が少なくなったせいで樹木の浸食が早く少しでも早く釈迦堂切通しと釈迦堂遺跡側の遊歩道の再整備を急ぐべき理由の一つでも有る場所なのだ。
ここを見学した後で、元来た道を抜けるのが面倒臭くて鎌倉市の設置したフェンス側の❝抜け道(笑)❞を通って大町に出て、谷底側の住宅街から又かまくら保育園の方に戻り報国寺に戻って抹茶を頂く事にした。
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途中、せせらぎに綺麗な花が咲いていた。
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その川沿いに黄金矢倉の跡が有る。
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黄金やぐら
昔は光苔(ひかりこけ)で綺麗に輝いていたらしいが、今では御覧の通りシダ類に浸食されてしまって光苔は死滅したようだ。
そこから宅間谷に戻る長い階段の遊歩道に復帰した。
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かまくら幼稚園近くに戻ると可愛い御地蔵様が出迎えてくれるのが、巡礼古道に復帰した目印。
そこから報国寺に戻る時に最近ドラマ❝モンテクリスト伯ー華麗なる復讐ー❞でもロケ地に成っている旧皇族華頂宮邸が在る。
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旧華頂宮邸
この時既に11時半位だったろうか?
予定通り(笑)丁度公開されている時間、廃墟では無く綺麗な文化財の洋館だがITを案内。
薔薇の見頃の季節だったので御庭が綺麗だった。
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今年は横浜イングリッシュガーデンに薔薇を見に行かなかったので、ここで見られて良かった。
本当は、この後で天候が雨が降らず持てばITを鎌倉市の薔薇の名所として有名な❝鎌倉文学館❞に連れて行く計画だったのだが、後で大雨に成ってしまったのでここで薔薇を見て置いて良かったと思う。
報国寺に戻ると抹茶付の拝観券を購入し報国寺の竹林を散策・・・
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功臣山 報国寺
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以前と違って経路が定められており、小生が通い出した10年前の様な自由度は昨年末のリニューアルから無くなったが、それでもここは良い。
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抹茶を一服頂きながら景色に心を落ち着かせ和んだ。ここを開いた足利尊氏公の御祖父さんの足利家時公と宅間上杉重兼公に感謝!
いい加減に昼食の時間と成ったのでITに「地魚海鮮の和食と、地魚地野菜のイタリアンとどっちが良い?」と選択肢を質問、イタリアと言ったので車で少し葉山方面に移動し秋谷海岸の行きつけのイタリアンの店❝DON❞に到着。
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DON秋谷店
残念ながら当日、予約がいっぱいで1時間半待ちとの事でウェイターの青年がとても丁寧に申し訳なさそうに状況を説明してくれた。
「まぁ、和食も美味しいし!」
・・・と言う事で小生と同じく美味しい物が大好きで男前(笑)なITは、せっかくの観光を楽しむベクトルで納得してくれて、DONから車で5分と直ぐ近くの佐島マリーナの❝海辺❞と言う、これまた小生行きつけの海鮮和食屋サンに移動する事に成った。
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海辺ここは本当に海の目の前のレストラン。
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デッキ席からは海が一望出来る。天神島が見え、ともて清々しいのだが・・・
この写真は生憎当日の物では無い。IT連れてった時は既に雨がポツリ来た後で店内で食事と成った。
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それでも特別セット(刺身盛り合わせ+ブリ角煮+アラ汁+金目鯛煮付け+米お代わり可能)が来ると「美味しい!」と満足してくれた様で何よりだ。
京都育ちで舌が肥えているITが納得してると自分も嬉しいもんだな。
他の親友も何人か連れて来た事が有るが、やはり皆美味しいと喜んでくれる、そして自分が美味しいと思う物を一緒に美味しいと親友達が感じてくれると皆の喜ぶ様子を見て自分も嬉しく成る。
そう言う意味において小生と親友の共通点は皆、食べる事が好きだと思う。
だから小生デブったりジムでダイエットしてシボんだり繰り返すんだな(笑)。
この後、鎌倉市街に戻り扇谷(おおぎがやつ)地区と小町通と若宮大路と鶴岡八幡宮を散策する予定だった。
しかし雨が・・・
扇谷地区から正宗工芸を見学したり若宮大路に抜け鳩サブレ―の豊島屋サンや鎌倉彫りの店を見物してから鶴岡八幡宮に着き御参りを済ませると、もう雨がドシャ降りに成り散歩どころではなくなってしまった。雨傘さしているのに二人共靴下までビッチョビチョ、止むを得ず車に戻った。夕飯は小町通のマザーズオブ鎌倉で葉山牛の鉄板焼きを食べる予定だったが、それまで時間を潰すのは無理。
小生も徹夜で一睡もしていない事をITが配慮してくれて「神奈川東京名物の黒湯炭酸泉のスーパー銭湯に行こう」と予定していたコースの前倒しを提案してくれた。
・・・仕方が無いし夕方にも成っていたし、帰りも渋滞するだろうしスーパー銭湯での時間も含めて夕飯時に成る事を想定して夕食は横浜駅で中国の火鍋の名店❝小肥羊❞で食べる予定に切り替えた。
前もって色々と候補地を準備して置いてITに通知していたのと、ITが小生の体力も考慮してくれた事と辛い物好きのITの全ての折衷案でそうなった訳だ。
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極楽湯 横浜芹が谷店
※写真撮影し忘れたので冬の写真。
港南区の極楽湯へ移動。鎌倉街道から少し環状二号線を入った場所に在るので横浜横須賀道路で横浜駅に戻るには別所インターへのアクセスも都合が良い立地だし、この先は南区の弘明寺の三浦湯か、川崎まで行かないと無いし三浦湯よりは広いのでコチラにした。
風呂上がりは1時間後の待ち合わせ。
しかし、この日は男子風呂は子供だらけ、しかも親のマナーが悪く子供が露天風呂で行儀悪く風呂にバシャ―ン!バシャ―ン!と飛び込み台の様にしており親の集団は注意せず放置。
仕方なく小生が「お風呂では飛び込んじゃダメだよ~♪」と言うと固まる子供・・・
そこへ別の年配の男性客が「オイ、ガキ!あぶねーぞ!怪我すんぞ!」と凄みながら注意した。
・・・するとマナーの悪い子供は、これ又、行儀悪く風呂場を走って室内浴場へ❝逃げた❞のだが、一体全体、あの子供の親はどんな家庭環境で育ったんだろうな?と思った。
騒がしくユックリする気分でも無いし凄まじく眠かったのでITの配慮を無駄にしない様に10分で風呂を上がると、待ち合わせ場所のマッサージチェアにしこたま100玉を投入し40分位マッサージされたまま寝た。
人間40分も仮眠すると結構頭がスッキリするもんで、目も覚めてスマホ弄くりながら小肥羊の場所を確認しているとITが風呂から上がって来たのでソフトクリームを食べながら関内店が良いか横浜駅東口店が良いか相談し、横浜駅へ移動。
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地下駐車場に愛車を停めるとモアーズ側の出口から小肥羊に移動。
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中国火鍋専門店 小肥羊 横浜店火鍋と言う料理を御存知無い方もいるかも知れないが、これは中国でポピュラーな料理で薬膳スープと辛みスープの二種類に羊肉や牛肉や野菜を浸して加熱して食べる中国東北地方の料理で、言わば中国版のシャブシャブと言った感じの料理だ。
小生は辛い物は嫌いでは無いが得意でも無いので、辛いスープはもっぱらITの担当に成った。
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4000円弱のコースを頼んで二人で「肉少なくね?」と思って追加注文したらトンデモない!コースはやはりちゃんと考えられていて、二人共追加分は腹一般で可也(かなり)無理しないと胃袋に入らない量に成ってしまった。
しかし、とても美味しく、又何回でも食べたいと思う中国に良く出張していた小生にも懐かしく、中国にしょっちゅう出張しているのに接待漬けのせいで食べる機会が少ないITにとっても神奈川旅行を喜んで貰える一助に成った様でとても良かった。
二人とも満腹で満足すると、翌朝早くには表参道に出張出勤せねばならないITを眠気もすっかり覚めたので安全に鶴見のビジネスホテルまで送り届けると小生は下道で帰宅した。
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帰宅してITに貰った御土産を開くと冒頭で紹介した宇治茶と山椒昆布だった。
「ありがとう」と感謝の念を持ちながら有難く頂き、御蔭で体型も理想体型に成る事が出来た。
毎回、東京出張の旅に訪ねてくれる親友で理解者の存在は、人としてとても有難い。
ありがとう。

ITや千葉に引っ越してしまった後でなかなか会えなくなっていた親友O型君等の様に、常日頃から馬鹿みたいにつるまなくても、大切な人間と言うのは信頼出来るしバカ騒ぎしなくても楽しめるもんなんだよな~。

親友だけでなく、普段、御世話に成っている師匠の様な宮司様達や和尚様達や、尊敬する歴史偉人や神話の残る神達様や武将達が拝んだ仏様達、御先祖様や小さい時に可愛がってくれた義祖母はじめとした恩人の皆さん、学生時代からの恩師達に感謝をも再確認する一日と成りました。
ITありがとな~!

さて、今回の休日雑記はここまで!
次は多米元忠公の解説記事の最終章を書きたいな~と思います!
その翌週からは暫く繁忙期と私用と神事と仏事が立て込んでブログ更新遅れたらすみません!

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
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皆さんは鎌倉市の二階堂地区に源頼朝公が建立した壮麗な“永福寺”と言う御寺が曾(かつ)て存在していたのを御存知でしょうか?
その御寺は有名な京都府宇治市の平等院鳳凰堂や奥州藤原氏の拠点平泉の毛越寺と比肩して壮麗と当時は言われた寺院でした。
近年その永福寺跡の発掘調査が進み、この度、鎌倉市によって史跡として整備された記念に鎌倉歴史文化交流館で企画展“甦る永福寺”が12月09日(土)まで開催される運びと成りました。
鎌倉歴史文化交流館 企画展甦る永福寺 
小生は直接知り合いがおり今回の招待券を頂いていたので企画展の見学に行って参りました。
知り合いの職員の方と情報交換も有ったり調べ物を御願いしてあったので丁度良かったんですね。

先ず、鎌倉歴史文化交流館自体が今年開館したばかりの博物館で余り知名度も高くないので全国的には御存知の無い人も多いと思いますが、小生の個人的な感想として・・・
中規模の博物館ながら「恐らく南関東で一番、展示と解説の見せ方が美しく解り易い」美術館の様な素敵な博物館なのです。
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それもそのはず、この場所は旧三菱財閥岩崎家が住んでいた邸宅跡にして鎌倉時代の大寺院、無量寿院の跡地でもあります。建物も岩崎家の後にココに住んだ某出版社社長の巨大な自宅を改装しているので現代建築としても見応えが有りますよ。
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どんな場所かは以前に“今年6月の休日雑記”の中で解説しているので、博物館自体の様子を知りたい人は御参考までに以下の記事タイトルをクリックして記事を御覧下さい。

さて、では今回の解説の本題に戻ります。

この鎌倉歴史文化交流館の素晴らしい所は“館内の展示物の全てが写真撮影OK!”な上に、“触れる為の展示物も存在している”所です。常設展の素晴らしさは休日雑記の中でも紹介して有るので、其方(そちら)を御覧頂ければ良く感じ取って頂けるかと思います。
学芸員さんは歴史の楽しさを伝える為に、来館者と鎌倉時代の人の“歴史の時間を共有して貰いたい”との思いから、今回は発掘された永福寺の瓦2種類を実際に触ったり持ってみたりする事が出来ます。
体験を大切にする素晴らしい学芸員さんの素晴らしいアイディアですね。
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ジムで筋トレしまくってる小生でも「ん?」と感じる程度の重みは有ります。
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これは女性や子供からしたらソコソコ重いんじゃないかと思いました。実際に持つ事で御寺の規模を感じられれば子供にも良い経験に成りますね~♪。学芸員さんGood job👍
他の博物館はショボいレプリカの写真撮影すら拒む場所が殆(ほとん)どですからね~。
企画展で最初にパネルの解説で興味を惹かれたのが源頼朝公の彫像の写真でした。
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色が落ちちゃってますが、造形は良く姿を留めていますね~。
甲斐善光寺に保存されているらしいので、本来は信州の大寺院の善行寺から武田信玄が略奪した彫像の様ですね。武田信玄は信州や関東に来ては略奪と強姦と腐女子の奴隷売買を行った悪逆非道な輩として有名です。まぁ、この頼朝公像も鎌倉時代のまま信州の善光寺に在ったら、武田氏の滅亡で後ろ盾を一時無くした甲斐善光寺に保存されるよりも色彩も状態良く残ったのかも知れませんね。
次に目を引いたのが宇治の平等院鳳凰堂と平泉の毛越寺跡の写真です。
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実はこの両方が鎌倉の永福寺に酷似しているのです。
鎌倉歴史文化交流館 永福寺CG 
それもそのはず、そもそも頼朝公は都の文化が御好きな風流人だったのですが、奥州征伐で藤原氏の拠点の栄え様をまざまざと見せつけられ、そして自分と同じ様に風流を愛した奥州藤原氏の文化をリスペクトし、“平等院と毛越寺の両方の良い所を取り入れて永福寺を造営した”と言うのが通説に成っています。確かに発掘調査後の予想復元CGは両方にソックリですからね。
そんな頼朝公に建てられた永福寺も各時代に火災で再建されたり規模も様子も少しづつ変化した様で、その調査結果も見取り図で解説されていました。
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こんな感じで説明が有るので、素人でも良く理解できます。
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他にも経塚から出土した経筒や龜も展示されています。
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とても美しい水晶と純金製の数珠や・・・
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・・・盒子(ごうす)等も展示されています。
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800年前の人も素敵な装飾品を身につけてらっしゃったんですね~。
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他にも出土した柱や永福寺の瓦を組み上げた展示物が有ります。
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屋根や柱の装飾品も。
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・・・う~ん、全部の写真を掲載してしまうと企画展の面白みが薄れてしまいますので、展示物の写真の掲載はここまでにして置きましょう(笑)。
実は学芸員サンのアイディアと大学生有志ボランティアで今回、この他にも見所が有ります!
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これらの復元CGをバーチャルリアリティーで体験出来るんです!
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台数は3台有り、上映時間は一人につき5分程度、恐らくこの企画展に人が殺到すると混みあうので、まだ博物館の知名度の低い(笑)今の内が、この体験をしに行く絶好のチャンスだと思いますよ~♪
なんせ博物館の中は風雨も寒さも関係無いので、これから秋冬に向けても良いレクリエーションに成ると思います。
今週末、又、天気荒れるらしいですがソレも関係無く楽しめますしね(笑)。

皆さん、どうでしょう?
企画展“甦る永福寺”を見学して見たく成りませんか?小生の様に招待される客で無くても、ここは広く歴史と鎌倉文化を広め様と言う志の高い経営方針の博物館なので一般来場者の入館料も500円と激安です!

そして鶴岡八幡宮の近くの鎌倉国宝館では今年の10月21日時点~12月03日(日)の間、「鎌倉公方足利基氏」企画展も開催されています。永福寺展と合わせて見に行くなら今がチャンス!
・・・まぁ、紅葉の季節に成ってから扇ヵ谷地区の海蔵寺や佐助稲荷神社界隈の紅葉散策や、反対側の浄明寺地区の浄妙寺や報国寺の紅葉散歩と合わせて見学に来るのもアリですね♪
一応、以下に鎌倉歴史文化交流館のアドレスと企画展のホームページ掲載して置きます。
【鎌倉歴史文化交流館】
【CGによって復元された永福寺ホームページ】
http://www.bukenokoto-kamakura.com/yofuku-ji/cg.html

皆さん、そろそろ肌寒さを感じる季節に成りました。風邪等引かれません様に~。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪



















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速報です!
戦国時代の小田原城虎口遺構部分の「百姓曲輪」が間も無く宅地開発され消失します!
※写真の赤字現在地」のすぐ上、「北条期虎口」と「百姓曲輪」と表記の部分です。

今発掘調査中で、調査後は跡形も無くなります。
小田原城は範囲が広大過ぎる為、八幡曲輪や今の城址公園部分以外は「調査→開発」は正常なルーチンなので止むを得ません。
本日確認してきました現状としては、既に更地化された部分の土砂崩れを防ぐ為に雨水の誘導溝が掘られてしまってます。
御近所の住人の方にも確認しましたが、空堀の発掘調査ではなく土建屋による土砂崩れ止めだそうで、遺構破壊ではありますが止むを得ないと思います。
樹木の無い裸の斜面を放置すると災害が起きますからね。

因(ちな)みに、八幡山古郭にある小田原城縄張り図と、今日、百姓曲輪と虎口を自分で見てきた結果、予想する縄張りの構造は下の衛星写真に枠線で記してみました。
戦国期小田原城 百姓曲輪 虎口
ただ、既にこの雨水の誘導溝、城史跡に無知な土建屋は発掘調査中にも関わらず、百姓曲輪の「右側の張出し形状の曲輪」跡や帯曲輪と思われる部分にも穿たれていました。
左側に至っては、既にだいぶ削られ原型は失われています。
ここ↓右側の張り出し構造
この百姓曲輪、戦国時代の詰めの小田原城本丸、八幡山古郭や本曲輪に攻め込もうとする敵軍を久野地区側から挟み撃ちにする位置に在ります。
ですので、此方(こちら)側の丘陵も嘗(かつ)て曲輪群が有りました。
百姓曲輪の頂上には当時の尾根伝いの土塁遺構と思われる地形と、その百姓曲輪虎口の出入口と思われる尾根伝い土塁の切れ目が残っていました。
それより重要そうな地形が百姓曲輪と土塁を挟んだ丘の反対側斜面の虎口に成る筈の場所にやはり残っていました。
城跡のセオリー通り、重要な登城口や曲輪の跡に在りがちな家臣や地元民の子孫が史跡を守る為に建てる小さな「御社(おやしろ)」を見つけたので…

その場所、人工的に横長の長方形に空堀と切岸で地面が削り込まれた地形でした。
現地写真だと垂直に地面が切り込まれているの分かりづらいでしょうか?
この↓部分です。
写真縄張り図の丁度中心部ですね。
ただ、小生の見た印象だと…
縄張り図のような土橋遺構の有るような地形では無く、寧ろ前面の切岸と側面の空堀状の地形から「角馬出し」の様に見えました。
角馬出しとは四角形の曲輪の両側が出入口に成っている出撃し易く守り易い防御施設の事です。
そこに柵列と門を当時は設けていました。

場所は「八幡曲輪」と「本曲輪」の在った神奈川県立小田原高校東側の谷を挟んだ反対の丘、養林寺と慈眼寺の間の更地一帯です。

小田原駅から、それ程は離れていないので歩いて行けますし、車なら小田原高校周辺のスポーツ公園駐車場も使えます。
もちろん小田原城からも徒歩で八幡山古郭や小峰の大堀切と合わせて訪問出来る距離です。
無論、ちょっしたハイキングくらい歩きますが。
距離的には現在の小田原城本丸から1kmくらい、直行するなら徒歩なら30分かかりません。

因みに江戸期小田原城の見物後のオススメの散策順路とは以下の通り!
逆に回れば戦国期小田原城遺構を見てから、今の小田原城址公園の江戸期小田原城を巡るコースに成りますよ!

本丸天守閣から古小田原城散策スタート!
徒歩5分→戦国期東曲輪
徒歩5分→戦国期三味線堀遺構(小田原高校南東)
徒歩1分→戦国期本曲輪土塁遺構
徒歩10分→小峰の大堀切
徒歩15分→戦国期百姓曲輪と虎口(角馬出し?)
徒歩20分小田原駅/徒歩30分超小田原城址公園

ですので、小田原名物お土産の「外郎家」の「お菓子のういろう」

と山一の蒲鉾

は小田原城見学前か帰りに買うのがオススメです!
外郎サンとこには駐車場が有ります。
鈴廣の蒲鉾が欲しい人は小田原駅東口駅前に店が有りますよ!
曽我梅の梅干しは小田原城本丸の売店で販売してます。

では皆さん!
この百姓曲輪と北条期小田原城虎口遺構を見れるのは今の内だけですので、是非見学されてはいかがでしょう?

※次回記事は書きかけの小田原城の記事を更新予定です!
その後は神奈川区神大寺跡の「塩嘗め地蔵尊」か、「小机城址祭りで見つけた美人ママさん女武者隊」の城と趣旨離れた記事書く予定です。
その他に持ちネタは…
⚫︎蒔田吉良家世田谷城址で招き猫発祥の地のである井伊家の菩提寺豪徳寺
⚫︎世田谷八幡宮を中興した吉良家と杉田八幡宮を中興した間宮家が鎌倉鶴岡八幡宮を再建した話し
⚫︎北条家赤備え大将北条綱高公の御廟が昔在った法華寺跡の東京都目黒区円融寺
…などです。
※書く順番は気分次第(笑)

では又、次のブログ記事で会いましょう♪

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ブログネタ
国内旅行 に参加中!
滝山街道と言う道が東京都八王子市に有るのですが、戦国時代に武田信玄が東京神奈川方面に略奪の為(ため)に攻めのぼって来る道でした。
武田信玄や上杉謙信って実は南関東の農民にとっては、鬼畜以外の何者でも無い存在だったんですよ。
冬に成ると略奪に来るんです。

上杉謙信のお家芸は略奪よりも人身売買でした…
合戦するたびに兵士達に婦女子を拉致させては奴隷公設市場を開いて人身売買していました。
鼻から関東管領の職務を全うする心算が無かったみたいですね。
茨城の小田城なんか悲惨な状況だったみたいですね。
彼が「義の人」と呼ばれたのは、室町幕府13代将軍足利義輝公から「忠義」を褒められたからで、「正義や仁義の義では全くありません」でした。

武田信玄については多摩地方の伝承にはこんな言葉があります…
甲州人の通った後には草も生えねぇ!
…どんだけ酷い略奪だったか伝わりますよね。

で、その武田信玄がよく略奪に来た場所が今の滝山町を含む八王子市や相模原市辺りなんです。
その滝山町には滝山城と言う名城と、城主の北条氏照(うじてる)公が開基(建設する事)した少林寺と言う御寺が有ります。
武田信玄が2万の大軍で滝山城に侵攻したものの、たった3千で守る北条氏照公の前に入口の三の丸迄しか進入を許さず防戦に成功した堅城でした。
しかも八王子市は史跡保護に熱心なので、滝山城址はかなり広大な規模で良好な状態で保護公開されています。
今回は滝山古道の事を話すので、少林寺と滝山城については又、次回にブログ記事にします。

滝山城や少林寺を見学に行くと、必ず通る道なのですが、今日は思いがけず恐らく戦国時代の滝山街道と思(おぼ)しき道を見つけたので、そこを写真付きの記事で紹介したいと思います。
その道を歩きたい方は、ここを目印にすると探しやすいですよ。
少林寺の入口、お地蔵さん達がいる辺り…
「不許葷酒入山門」の石碑。
不許…許さず
葷酒…くさい/臭う+酒=酒臭さ=酔って
入……入る
山門…御寺の門
「飲酒の上で寺に入る事は許さない」
…うん、素晴らしい。仏教の本分を守っている寺院ですね。「※訂正報告※小生ずっと「葷」を「当の旧字体」と見間違え恥を晒しておりましたが、神奈川区の人生の先輩より善意の御指摘を賜り訂正した事を書いて置きます。恥を無かった事にしては進歩無いですからね。」

つまりね、初詣なんかで寺の門前町なんかで酒飲んでから参拝する人がいますけど、アレは仏教的には禁忌を犯してるんですよね(笑)。
…まぁ、神社なら飲酒は失礼では無いんですが、そこら辺はちゃんと区別しないと、初詣するくらい神仏信じてるなら飲酒してから寺院参拝はバチ当るかも知れない。

さて、お地蔵さんの前を真っ直ぐ突っ切ると現在の滝山街道が有りますが、その手前に私有地みたいな路地が有ります…
この道。
何か庭みたいに見えるけど、歴史オタクの感が…
「この道幅とクネリ具合は旧街道くさい」
…と言ったので、滝山城址行くまで、この道?を歩いてみようと思いました。

で、その右手滝山城の丘の裾野に延びる道?を歩くと直ぐに、そこが旧街道である証拠が登場しました。
一段高い場所に小さな御社が有ります。
昔の人は街道沿いの少し高い場所に御社や、お地蔵さんを祀ったものなんです。

で、その庭化した様な道みたいな場所を過ぎると完全に旧街道の形状を残す場所に行き当たります。
昔の街道って河川の氾濫で被害を受けにくい様に少し高い位置に置かれたものなんです。
道幅もこれくらいなんですよ!
現代人の感覚だと狭いですよね?

「鎌倉古道」や「鎌倉武士早駆けの道」、箱根の「旧東海道」も道幅はこれくらいです。ただ、平安~鎌倉時代に開かれた道は尾根沿いが多かった。
これは当時の気候に関係が有ります。
弥生時代に近い程、時代を遡(さかのぼ)る程、海の位置が高く内陸まで海面が広がっていたり水の影響が人の生活範囲を限定してたんです。

室町時代~江戸時代くらいは、こんな河原より一段高い場所。
旧街道から私有地の向こうには今の滝山街道が見えます。

明治時代に成ると馬車道に成り、馬車に合わせて急勾配を避けた遠回りの道が多く成りました。
…馬が坂道で耐えらんないからね。

多分、この旧街道、明治時代に成るまで使われていたんだと思います。
並木が有りますしね~。
この並木の樹木は若いです。
昭和に植林されたんだろうけど、昔から杉を街道沿いに植える習慣が有るなら、江戸時代に始まった習慣ですから。
織田信長公は戦国時代に既に並木を街道沿いに設置してましたが…
北条家でその類の逸話は聞いた事がないので関東では江戸時代からの習慣。

そこを過ぎると学校の敷地に行き当たります。
道も左に急カーブし今の滝山街道に戻されます。
アレ?
…何か不自然だなと思い、道をカーブした所まで戻るとなるほど理由がわかりました。

旧道は学校に一部分払い下げられコンクリートに侵食され歩く人がいなくなってるんですね、多分。
※ピンク色の写り込みは小生の携帯外部バッテリー

しかし、この学校敷地横の登り坂、旧街道から続いていたと思われる並木が続いています。
で、この坂は旧街道だと予測して突っ込んでみたんですが…
先で完全に学校の物置場にされていて進入すると怪しい人になるんで、ひとまず断念し今の滝山街道に出ました。

でもね!
土地の登記簿見れば多分、「道」って書いてあると思いますよ!
学校が歴史を知らず不法占拠してるか、さもなくば現在の滝山街道が整備された時に払い下げられたかのどちらかでしょう。

今の滝山街道に出たら出たで楽しいモノを見つけました!
乗馬クラブがありました。
まさか、こんな街道沿いに有るとは…
土曜と言うこともあり、沢山乗馬してる人がいました。
旧道沿いに純真女子大ってのが有ったから大学生も多く通うのかな?

で旧道散策に話を戻します。
この時点で旧道散策まだ諦めきれない小生…
乗馬クラブさんが道を挟んで納谷(なや)代わりにしている建物の横に、道の名残りを見つけて入ってみるとビンゴ!
さっきの学校の敷地の方から伸びてくる路盤(ろばん)がまだ有りました!
この道の状態から察するに、この道が使われなく成ってからまだ日は浅そうです。
多分、あの学校の拡張工事が行われたであろう何十年前のつい最近の話でしょうね。

しかし、この先は完全に道は消失し墓地化したりしていたので室町時代~江戸時代の旧滝山街道散策はひとまずこれまで。

最初の方で「平安時代~鎌倉時代の道は尾根道だらけ」と言う話をしましたが…

実はその平安時代の道も今回見つけてきました。

…と、言っても滝山城址のある滝山の尾根全体その古道の尾根の一部分なんですが。
その事は滝山城の一部分でもある御嶽神社(みたけじんじゃ)に行くと解ります。
今の滝山街道を右手に滝山城址の丘を見ながら歩いて行くと途中、山裾に御嶽神社の入口を見つけれます。
近くに金藏寺ってのが有るはずで…
…したが有りませんでした!
地図上には金藏寺って御寺が有りますが、事実上の廃寺みたいで御堂がないのでランドマークにはなりませんでした。

ですから頑張って御嶽神社の入口石碑を見つけて下さい。
後の時代に作られた急な階段を登ると尾根道の左手側に、御嶽神社は在(あ)りました。
厳粛な雰囲気ですね。
本堂は最近建て直したようです。

この神社の由来を書いた石碑を読むと、滝山城築城以前は付近の丘一帯が古道だった事が解ります。
何故なら源義家公の逸話が記載されてまして…
少し、その話をからめて説明します。

この御社(おやしろ)の本堂は元は蔵王権現堂(ざおうごんげんどう)で、蔵王権現と言う日本独自の神道と仏教が融合した神様を祀っていました。
その蔵王権現って神様は南北朝時代に後醍醐天皇が御所にもした奈良県吉野の金峰山寺の本尊でもあるらしいです。
因みに、滝山町の金藏寺、昔は聖徳太子が作った仏像が御本尊だったらしく元は由緒ある御寺で、御嶽神社の別当寺でもあったらしいです。
ここの元「蔵王権現」の御嶽神社で石碑を読めば解ります。

この御嶽神社=蔵王権現堂は元々、滝山城に在りました。
…滝山城の曲輪(くるわ=防御施設)の名前からして「山の神曲輪」に在ったんだと思います。
もしくは本丸かな?
そこから移築されたんですが…
元の場所に在った時代、鎮守府将軍 源義家 公が立ち寄られ社殿を再建奉納し中興(ちゅうこう=復興)しているんです。
つまり前九年後三年の役の軍事行動の際に、ここ滝山城跡が尾根道の街道で、義家公が通ったと理解出来る訳です。

滝山城散策で御嶽神社をついでにお参りする心算が、思いがけない碑文に出会い大変嬉しかったですね~。
石碑を立てて下さった氏子さんに感謝!

義家公も関わられていたり、蔵王権現信仰の史跡でもあり滝山城址、本当、歴史的な価値が高い場所ですね。

では、次回は滝山城址そのものの記事を書きます。
今回はここまで!

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関東では節分に豆撒きをし、関西圏で恵方巻きを食べる様に、地域住民に根ざした文化は、それぞれ由来に成った文化醸成地が有ります。

横浜市港南区栄区金沢区磯子区にまたがり鎌倉に続く自然公園が有るのを皆さん御存知(ごぞんじ)ですか?
鎌倉横浜に古代文化の基礎を醸成した地域でもあります。
この円海山、実は横浜市で一番標高の高い山で、天気が良いとこの様に頂上近くからは富士山も綺麗に見えます。

実はこの山、歩いて鎌倉まで行ける遊歩道があり、それらは「鎌倉早駆けの道」と言う史跡でもあります。

更に‼︎

蛍(ほたる)の横浜市内での貴重な生息地なんです!
その場所は瀬上池と、その池に注ぐ自然の沢を集めた池から再び流れる貴重な水源地帯の瀬上沢です。
歴代市長から保護され多くの市民の憩いの場として解放されてますが、小生も子供の頃よく、ザリガニを採(と)りに来たり野山を駆け巡りに友達と遊びに来ていました。
子供が自由に川遊び出来る横浜南部の最後の水源地帯がこの円海山の沢で、特にこの瀬上沢と大岡川源流笹下川上流の金沢区の大谷戸(おおやと)側の沢が状態が良いんです。
写真は円海山大谷戸広場側です。
昔ながらの貴重な里山保存区域です。
綺麗な昔ながらの鎌倉近隣の原風景でしょ?
本当、貴重な自然と里山なんです。

今は冬で川で遊ぶ子供も流石にいませんが…
此処(ここ)瀬上沢には貴重な淡水の貝の化石群の地層が露出した場所があり、更に奈良時代の古代のタタラ製鉄の史跡も出土した場所でもあり…
灌漑水田史跡でもあり、重ねて言いますが平安〜室町時代の鎌倉早駆けの道と合わせて非常に貴重な史跡群でもあります。

以前の市長達により、瀬上池周辺は遊歩道や釣り用の桟橋が設けられていて新春にもなると釣りをする子供や、お弁当作ってピクニックに来た家族連れなんかで、ほのぼのとした空気が感じられる場所です。
今の横浜市長の林文子さんは、どうも保護に熱心ではなく寧ろ開発準備してる側のようですが、昔からの地域のボランティアが自主的に子供の遊び場を守って下さってます。
だから幼稚園小学生くらいのお子さんがいる御家族には暖かく成れば、オススメの自然の中の水遊び場ですよ!
この瀬上池は釣りが自由に出来て、フナや鯉なんかが小生子供の頃は釣れました。
…小生は、もっぱらザリガニ専門でしたが(笑)。

しかし、最近は今の林横浜市長の施政下で、倒木の処理などが放置され林道が通行止めにされてしまっている所が多くあります。
この下の写真の「尾根道から護念寺への道」も、さも通行出来るような案内板ですが、実際は鉄柵で封鎖され市民が通行出来なくされています。
別に道が崩落している訳ではありません。
横浜市が業者に開発させる前振り?

しかも、此(こ)の道の先は古典落語「強情灸」の舞台になり江戸時代から昭和初期まで、お灸治療の本場峰の灸として観光客と治療客で栄えた竹林の美しい円海山護念寺に通じているので、早く再開通させるべき所なんです。
※円海山護念寺の風景と歴史については「ココ」←クリック!

円海山で貴重な淡水の貝の化石群地層が露出している場所は、下の写真の場所です。
昔の人が、灌漑水田に水を引き入れる為に作った手掘りの隧道(すいどう=トンネル)のある壁面と地続きの山が全て化石群の地層です。

以前は子供も自由に出入りして遊べました。
周辺を東急が宅地開発しようとしはじめた頃に横浜市大が保護を試みましたが、最近は東急が自然環境保全地である事や市民の憩いの場である事を無視し、周辺から市民を締め出し開発準備を始めてしまっています。
マジなんだかな〜?
昔からの文化醸成地や市民の憩いの場を蹂躙する暴挙だろ、これ。

彼等がもし、無碍にこの瀬上沢一帯を開発したら、この自然環境は2度とは戻りませんね。

庶民に阻止は出来るか微妙ですが、もし開発すれば近隣に留まらず、貴重な自然公園に連なる遊歩道や沢の自然環境を破壊した歴史を事実としてどの政党が支持した、どの市長の時代に、どの土建屋が瀬上沢と遊歩道の自然環境を破壊したか我々で語り継いで行きたいと思います…
林市長、東急さん、きっと瀬上沢の重要性再認識してくれると…
…くれるかな〜?
皆んなで淡々と事実拡散するだけですね。
近隣の歴史を語り継いできた寺院や神社の鎮守の杜でもありますから。
過去帳にも歴史として残るし…。

さて、皆さん、円海山と瀬上沢の自然環境と風景と歴史が非常に貴重で、尚且つ子供が安心して遊べる自然公園である事は御理解頂けましたでしょうか?

瀬上池手前に使われていない畑があります。
あそこを自転車用の駐輪場にし、山頂のスポーツ広場を休日に駐車場として解放し尾根道に歩道を繋げ、昔みたいに家族連れも行きやすい環境を整えて欲しいな〜とか改善案はあるんですがね〜。

円海山は横浜市民や鎌倉市民にとって大切な場所なんですね。

この綺麗な風景と自然と歴史…
我々が先人から受け継いだ様に、何とか次代の更に先の子孫達まで残してあげたいですね。
円海山は文化なんです。

あ、そうだ!
前回の記事投稿から10日も間を空けて済みませんでした!

では皆様、又、次のブログ記事でお会いしましょう!
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