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カテゴリ: 神様・武将・歴史偉人の解説

名刀「正宗」をご存知ですか?
鎌倉時代から日本中に知れ渡った名刀で、安土桃山時代には豊臣秀吉が天下一の名刀と認定したことから全国の大名がこぞって入手した日本刀です。
正宗工芸美術製作所
今でも鎌倉駅のすぐ近くに工房があり、初代様から代々製法を受け継ぎ御子孫のダンディな刀匠が正宗を製作されています。
写真がそのお店です。
正宗工芸
今では規模は小さくなってしまいましたが、工房併設の店舗で日本刀も販売しています。
ここ、映画もののけ姫で刀の鍛造の参考にロケハンに協力した工房でもあります。
現在は日本刀以外にも普段使いの包丁も製作されており、購入すれば日常生活に日本文化を取り込め有る意味財産で作る料理を食べれますね(笑)。
価格も1万数千円〜有り、少し良いお値段だけど手の出る値段です。しかも刀工の御店なので、ちゃんとメンテナンスもしてくださいます。
研(と)いで下さったり、研ぎ減り包丁の刀身が小さく成ったら「小刀」や「ペーパーナイフ」に改造して下さったりもします。
だから刀剣女子には持って来い(笑)!
小生は趣味で歴史散歩やグルメ以外にもシルバーアクセサリーを作るのですが、銀粘土を加工するのに正宗のペーパーナイフを使っています。
皆さん、鎌倉に訪れる際は是非立ち寄って見てください。
正宗工芸美術製作所がある事は神奈川県にとっては誇らしい文化的歴史的な遺産でもありますね。
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因みに、正宗工芸から歩いて15分位の鎌倉歴史文化交流館では正宗が展示してあります。
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そして平安末期~鎌倉時代の名将、畠山重忠公着用の鎧が武蔵御嶽神社に奉納されているのですが、甲冑制作師が制作した完レプリカの赤糸縅(あかいとおどし)大鎧も展示されています。
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この鎌倉歴史文化交流館の素晴らしい所は展示物が全て写真撮影可能な所です。
是非、鎌倉歴史文化交流館と正宗工芸、鎌倉観光の際にセットで訪れて見ては如何でしょうか?
CIMG3955
鎌倉歴史文化交流館
何でここを紹介するかと言うと、実はここは元は無量寿寺と言う大寺院の跡で、御寺が廃れた後は鎌倉時代~江戸時代迄正宗工芸の親方(社長)の御先祖様が住んでいて、ここで名刀正宗が生み出されていたんです!
CIMG4001
鎌倉歴史文化交流館の広い御庭の谷の奥、そこに刀の工房が在りました。
今は小町通の近くに在りますけどね~。
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無量寿寺跡の谷の台地の上には、名刀正宗の工房の守り神だった御稲荷様の台座だけが現存しています。神様はここが公共の施設に成る際に法律の問題で葛原岡神社に遷宮されました。
さて、実はこの正宗や平安時代の鎌倉で武士が佩刀した刀の鉄の産地も鎌倉郡に在りました。
上郷深田遺跡
上郷深田遺跡
飛鳥時代から平安時代の製鉄遺跡が発掘されており、後に武士達から軍神と呼ばれた源❝八幡太郎❞義家公達、古代の豪族や坂東武者達の武具の玉鋼の根源地だった場所があります。
ここは神奈川県現存唯一、関東最大の蹈鞴(たたら)製鉄遺跡である事が判明しています。更に30年前の調査発掘で最大規模だったのが更に追加調査で範囲も広がっています。また、山裾伝いに更に後の時代の蹈鞴遺跡も近在する可能性があり、その山の向こうには鍛冶ヶ谷地区が存在しています。
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
2019年05月現在、上郷深田遺跡も東急建設の開発計画で消滅の危機にされされています。
出来れば坂東武者達が身に付けた刀剣武具の産地であり、現在は横浜市に入っている栄区~港南区~磯子区~金沢区~鎌倉市にまたがるこの緑地、刀剣の文化と共に永久に存続する様に文化財指定して保護するべきだと思います。
ホタル10
ホタルが飛ぶ姿も見られるしね。
これから6月初旬、第二週の週末位になると蛍の飛び交う姿が最盛期を迎え、下旬に入り7月には蛍達は次第に命を終え数を減らします。
そんな蛍も生きる川を破壊されてしまえば、翌年から見る事も出来なくなります。
さて、正宗工芸!
小町通からも直ぐ近く!
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是非是非、鎌倉観光の際には訪れて、もし刀剣女子が彼女さんの男性や奥様が刀剣乱舞ファンの旦那様はプレゼントに❝正宗❞の包丁なんて如何でしょうか~!







前回の記事⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説②
・・・保福禅寺の解説。

・・・コレ⤴の続き。

前回の記事では中田家の菩提寺の一つで、中田加賀守の墳墓跡の直下に在る保福禅寺を紹介しました。
今回の記事ではいよいよ❝慶応大学敷地内❞と❝保福禅寺❞が慶応大学に貸している一之谷一帯に残る矢上城址=谷上城址の遺構を写真と古地図と色別立体図とGoogleMapの四段構えで解説して行きたいと思います。
小生は中田家の菩提寺の保福禅寺の山号が谷上山である事、矢上城跡の慶応大学が谷に囲まれた台地に存在する事から本来の城名は谷上城だったと推測し、以後、矢上城ではなく谷上城の名で紹介します。
先ずおさらいですが現在の城址周辺の航空写真です。
矢上城址 日吉駅 久良岐のよし
これでも御城が好きな人は「あ~食違いの大堀切が有るな~」とか「竪堀が有るな~」とか、結構見て取れます。でも余り御城の地形に詳しく無くて自然地形と見分けが付かない人の方が多いと思いますので、どんな地形が自然地形化を確認する所から始めましょう。
日吉周辺の地形 久良岐のよし
ボンヤリとした場所がザックリとした地形、矢上城址に関わる部分は詳細な地形を国土地理院の色別標高図から拝借し切り貼りして繋げてGoogleearthに表示してみました。
これを見ると良く解りますが、矢上城址は周辺の大河川が各時代に複雑に流路を変えて削られた地形である事、そして恐らく古代には矢上城址の慶応大学日吉キャンパスと矢上キャンパスの間の保福禅寺の存在する谷間には矢上川が流れていた時代が有った事が地形から解ります。
平らな部分は縄文時代には海だった部分で、弥生時代には隆起したり土砂の堆積で湿地帯に成り漸(ようや)く人が往来出来る様に成り始めた場所で、まぁ~人が住むには古墳時代位まで不向きな場所だった様で日本神話の日本武尊(ヤマトタケル)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)伝説のある近郷の川崎市高津区橘樹神社辺りまで西暦200年前後まだ海水の入って来る湾があった事が伝わっていたりします。
実は明治時代の迅速測図では更にハッキリ地質や地形が読み取れたりします。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
この地図は国土交通省国土地理院の電子国土賞と言うサイトで公開されている明治時代の迅速測図を転載したものです。
御覧の通り、本来は古い地盤である丘陵には水田は全く有りませんが谷間には水田が広がります。
実は一般的に南関東は平野部でも稲作には適していません。それは富士山が噴火する度に火山灰をまき散らして田圃(たんぼ)を作るのに適さない関東ローム層と言う地質が露出しているからです。そして台地上に用水路を引っ張る技術は当時まだ小田原城下にしか普及しておらず、江戸市街地の用水網に引く水が60km先の奥多摩地方、東京都羽村市に取水関が作られサイフォンの原理を用いて整備されるのは江戸時代に成ってからの話しです。その羽村市の取水関から水を引く用水道網のモデルは実は戦国時代に矢上城主だった中田加賀守の主君、小田原城主の北条家が既に確立していて小田原用水として日本史上初の飲用水道が戦国時代に整備されていました。
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小田原用水
※住所クリックすると位置が地図で確認できます。
小田原市と箱根山系の間を流れる早川から取水して小田原市街に引いた戦国時代の用水網は今も現地に残っていたりします。まぁ、実は小田原城の城下町も元々は古代に海だった場所な上に、谷上城より更に海岸から近いので井戸を掘ると海水が出てしまい飲み水を確保するのが困難だったので、戦国時代に既にあの狭い城下町で3万人の人口を維持する為に飲用用水路が必要に迫られて発展し北条家のインフラ整備技術が他大名家よりも頭一つ抜けて発展し水道網整備に至った訳ですね。
でも谷上城は多摩川と矢上川と鶴見川を利用した流通網を押さえ、渡河地点と今の綱島街道等の陸路を防衛にかかる要所で防御に適した地形を優先して築城された所謂(いわゆる)城堡(じょうほ)とか城砦(じょうさい)と位置づけする町を守るより道を守る城だったので用水網の整備も必要が無く、普段は中田家の殿様達も平地の谷地形、つまり保福禅寺~慶応大学の一之谷~蝮谷に谷戸(やと=谷の入口に城門を築いて守りを固めた居住区)に住んでいた様(よう)です。
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
しかし御覧の通り谷上城は多摩川、矢上川、早淵川、鶴見川の氾濫原(洪水の被害に遭いやすい場所)の山崎=つまり内陸の川に挟まれた半島状の丘地形に存在しているので海水の影響を受けるよりも淡水の河川流域地下水で飲用に適した水質の井戸を掘ったり、大河川の氾濫で出来た比較的新しい肥沃な地質の恩恵で水田耕作地帯として開墾する事が可能だったようです。
逆に言えば繰り返しに成りますが、湿地帯で人が住むには余り向かず、日吉の台地の丘の上も飲み水の確保が困難だったので明治時代まで人が余り住んでいなかった事が解かります。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
もう一度、谷上城だった慶応大学周辺の地勢を明治時代の迅速測図見て見ると解かりますが、明治時代にも人は住んでいなかったので江戸時代にも開発が入らずに近代も畑地にしかならず慶応大学が出来るまで山の山林として谷上城址が綺麗に保存され、第二次世界大戦の頃に横須賀鎮守府の海軍司令部が日吉の台地の地下に基地を作り台地上に軍人サンの宿舎や軍人サン達を相手にして商店街が形成されて行き現代に成って人が住む住宅街として開発されて来た事も読み取れます。
この人が長い間住めなかった城砦の丘は関東ローム層・・・
この関東ローム層が石垣を必要としない南関東独自の土を削り出し石垣よりも防衛堅固な城郭築城技術を生み出した地層でした。
そんな訳で、この平地部分には泥岩の層と砂岩が重なっていてとっても水捌けが悪かった事から戦国時代に成っても湿地が広がっていました。迅速測図でも関東平野なのに畑地ではなく水田が広がっている事が確認できますね。
そんな訳で、地質と地形の説明が完了したので、ここから小生の推測する矢上城域と遺構残存部を見比べて見ましょう。
色別立体図に小生色分けした茶色の部分が一目瞭然、大空堀の人工地形です。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
日吉Googlemap 久良岐のよし
GoogleMapの衛星写真と見比べると位置関係が良く解りますね。
恐らく守りの薄い比較的なだらかな丘陵の続く日吉駅の西側は矢上城の主要な防御施設は❝1つ❞だけしか無かったと思います。それが上の小生が色別立体図に書き込んだ一番左側の大空堀ですね。現代では日吉本町1丁目公園~日吉本町三丁目第二公園にかけて住宅街の道路に成っている谷地形が人工地形なのは色別立体図でもハッキリ解かりますが、これが現代の道路開削では無く、既に江戸時代にも存在したことが明治に成って直後の色別立体図でも解ります。
下の図のを見て下さい。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
このの大空堀が西の端の丘を断ち切り尾根伝いに敵が侵入出来なくする堀切りと呼ばれる空堀です。
「これ空堀なの?」
・・・と城に興味ない人は思うでしょうが、これは小田原北条家臣団と扇谷上杉家の南関東の城に多く見られる構造体です。現代では日吉の宅地化で真っ先に削られた場所なので比較的なだらかに成ってしまっていますが、地形のレントゲンと言うべき色別立体図と江戸期の地形を残した迅速測図の二つが証拠に成る上に迅速測図では北と南が掘り切られ、今では平坦な日吉駅から放射状に住宅道路が広がる場所には食違いに山を削り残された地形があった事が解かります。
拡大して見ましょう。
矢上城址周辺迅速測図① 久良岐のよし
道の場所で等高線が凹んでいて切通し状の道だった事が解かります。この堀切自体もL字に屈曲していますが、丘の下から登って来るで囲んだ登城口に当たる部分は直角にS字の食違いに成っています。
あからさまな人工地形ですね。
道を屈曲させる事で縦列で侵入して来る敵が細長く伸びる様にした上で敵は直進できずL字に屈曲した正面の崖の上から防衛側は弓や鉄砲で侵入者を❝なぶり❞獲物を狩る様に射殺して行く構造体です。
これが❝食違い❞や❝枡形❞と言われる城の防衛構造の一つです。
ここが西側の端っこで、まあ第一防衛ラインだった筈です。
2番目の防衛ラインは日吉駅の開かれた谷地形です。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の場所ですね。ここは現代に住宅街が造成される以前から広く比較的なだらかな台地だった様で、迅速測図でも等高線の緩やかな畑地が広がっています。
矢上城址西の堀切虎口地形 久良岐のよし
その欠点を改善する為に南北に大きく谷を掘り切って敵の侵入経路に成る丘をクビレさせて防衛戦としている事が解かります。
この大堀切地形には明治まで水源も在り用水地も存在したので戦国時代には堤を作って堀底が水堀か沼掘りに成っていた難攻不落の大堀切だった事が推測出来ます。
言うなればの日吉本町1丁目の最初の大外の堀切~この日吉駅南北の堀切までの範囲が谷上城の外郭だった事が解かります。無論、そこも平時は当時から畑地として利用されていたんでしょうね。
さて・・・
この範囲に外郭が存在する規模だと、関東以外の戦国武将の常識では3万石相当の代官の中田家に不釣り合いな城規模だったと感じますが、実はここには戦国時代の早い時期に重要な城を造る理由が有ったんです。
再度、谷上城の位置を見て見ましょう。
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
実は北条家の大曾根城と鶴見川を挟んで扇谷上杉家が周辺地域で争っていた時期が有った事が横浜市港北区大倉山~大曾根~太尾地区の旧家の深谷家や長光寺等には伝わっていて、その頃は綱島台地にも城砦が有ったそうです。
下は綱島台地の迅速測図です。
綱島台の城砦地形 久良岐のよし
今回は面倒臭いので(笑)綱島の城址は解説しませんが、迅速測図で見ると確かに見事なまでに連郭式(れんかくしき)城砦が明治に成っても綺麗に残っていた事が解かります。城の構造からみると掘り切りと竪堀が多用されている連郭式山城で、横浜市金沢区の称名寺裏山の金沢城址や三浦半島の衣笠城址、又は城址としては有名ではない鎌倉市の杉本城や逗子市桜山~葉山堀内に股がる鐙摺城の地形と全く似たような構造に成ってるので、多分、平安末期~鎌倉時代には存在したんじゃないかと思います。戦国時代にも改修されて利用されたんでしょうね。
綱島の城砦を含めて周辺を守る拠点が鶴見川と多摩川に挟まれた陸路の要所でもある矢上城だった筈なので、中田加賀守が三万石の代官だった時代と言うのは、扇谷上杉家と北条家が対立していた頃の話しなのかも知れません。そして東海地方や近畿の大名の城は配下の各豪族が私財で築城修築を行いますが、関東では北条家の支城なら北条家が、扇谷上杉家の支城なら扇谷上杉家での防衛拠点として大名によって築城され在地の城代を任されると言うのがセオリーだった様です。
又、北条家は経済規模に関係無い現在の会社員と同じ寄親(よりおや=上司)と与力(よりき=部下)制度でしたから、配下武将から大名が誕生する事はなく、配下武将の一族も細切れに別々の軍団に配置する事で謀反を防ぐ効果も有って、織田家の様な配下武将の大名取り立ては皆無でした。代わりに軍団を編成し更に軍団の下に中田家の様な代官による統治で配下の一族を細切れに分けて小机衆の様な大軍団の下に中規模部隊を編成していた様です。
なので代官個人の所得に不相応な城が北条家臣団の居城に成っているケースが多く見られます。
CIMG1239
これは上杉禅秀の乱、永享の乱、江の島合戦等が原因で関東が西国よりも先に戦国時代に突入する原因に成った事が関係しているでしょう。
戦国時代初期の関東の合戦は西日本の様な大名vs大名規模合戦では収まらず、常に関東八州を治める鎌倉公坊vs大勢力(室町幕府or関東管領)の衝突だった為(ため)に陣取り合戦で城が築城or改修される際に仮想敵数が万余で想定されていたので、神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県は特に巨大な城郭が多く成って行った事が分かります。
神奈川県でも・・・
平塚市岡崎城
伊勢原市糟屋館
藤沢市大庭城
鎌倉市玉縄城
逗子市住吉城
三浦市新井城
横浜市笹下城
横浜市蒔田城
横浜市小机城
横浜市榎下城
川崎市小沢城等
・・・どれも東海や関西の城と比較するととんでもなく巨大な城郭です。まぁ、日本城郭大系では土地開発する土建屋や不動産屋に配慮してか城域を伝承と実際の地形より狭く紹介したりしていますが。これ等の城は守備側は数千単位で守れる様に主要部分に近づく程に堅固な断崖で沼か大河川か海に囲まれた場所に在り南関東平野ならではの地質と地形が活かされた他地域では作りたくても同じ地盤と地形が無く同じ構造を土で造成するのは不可能だった訳です。だから富士山より西では高い城壁を作る為には石垣を用いらなければならず築城コストが関東の城よりかかってしまう経済的な理由もあったかと思います。更に同じ高さの石垣と土塁では土塁の方が登る事が出来ず殺傷能力の高い防御装置に成る訳です。
築城コストが安く防御能力高い南関東の扇谷上杉流&北条流築城術は富士山のお陰なんですね~。
まぁそんな訳で繰り返しに成りますが、矢上城=谷上城の中田家の最大時の経済規模は3万石相当と伝承しますが、それは代官として治めた領域の話しなので中田加賀守独力には不釣り合いな巨大な城規模を任されていたのだと思います。まぁ中規模部隊を任せられたんで配下の与力合わせたら3万石だと北条家では1500~2000が兵士の動員数に成ります。それでも城の守備範囲は広大なので独力では守れないので、北条家では初期には五色備え軍団や後に小机衆や江戸衆や玉縄衆が編制され軍団単位で守備した訳です。
余談ですが北条所領役帳には面白い事に中田家が旧扇谷上杉家の宿老だった太田家と北条家の両方から給料を貰っている事が記載されています。つまり、これを根拠に小生は戦国時代初期の中田家は扇谷上杉家の家臣で太田康資公の与力だったと推測する訳です。そして中田❝加賀守❞は一人の名前では無く中田家の殿様が祖先の官途の加賀守を代々世襲して名乗った屋号の様な通称だったと推測しています。なので江戸時代には既に資料の余り残らなかった中田加賀守に関する記載も北条家臣時代と話がゴッチャに成り「よくわからん!」と書かれたりしてしまってるのだと思います。中田加賀守が1人の人物として考えるとかなり混乱しますからね。
さて、谷上城に話を戻します。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
慶應大学日吉キャンパスの建設によって校舎の建ち並ぶ区域には余り地形は残存していませんでした・・・
が!
・・・蝮谷体育館~保福寺から借地してる一之谷、東側の熊野神社側の日吉町宮前自治会館側等には多数、大空堀と帯曲輪の地形が現存確認出来ました。先ず城の残存地形を見たいならば保福寺を御参りしてから下の写真の今は入口が封鎖されている中田加賀守の墓所入口側から散策すると良いと思います。
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この位置がの位置に当たります。
大学の敷地内は建造物に入らなければ自由に散策して良いと慶応大学には確認して有りますので、大学生じゃなくても自由に行内を散歩出来ます。
日吉台野球場 久良岐のよし
この上が日吉台野球場でキャンパス側よりも遺構が残りますが、中田加賀守御廟所の階段は封鎖されているので、野球場の下の人工的に切岸にされた谷底の道を左回りに進みます。
CIMG9308
すると・・・
KIMG0502
直ぐに左手に最初の堀切が見えます。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の場所です。でもココは登るの面倒くさそう(笑)なのでスルーします。
CIMG9314
もう少し進むと❝普通部の森❞と名付けられた谷が有ります。
位置的にはの空堀の間の扇形に凹んだ窪地(くぼ)です。
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白いハンドボール部の建物が普通部の森の遊歩道入口の目安に成ります。
CIMG9315
ここから登って行くと上の野球場とアメフト場の台地に出れます。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
恐らくここも空堀で東西に丘をブった切った堀切だったはずですが、上のアメフト場の造成の時に重機で空堀の土を幾らか削り出されて、ココの堀切のアメフト場部分を埋め立てたのだと思います。
それ故(ゆえ)に防御力が低くなる傾斜の少ない地形に今は成っているのかも知れません。
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しかし帯曲輪にも見え、現代の掘削なら遊歩道を真っすぐ付ければ良いのですが、階段よりも緩やかな路盤は右に折れて削平された土地と、今の遊歩道を進むと食違い状の大空堀④の真上のアメフトグランドに出る事が出来ます。
谷上城址最初の谷 久良岐のよし
の食違い状の大空堀が弓道場やボクシング部の道場が在る谷です。
普通部の森はアメフト場の左右をブチ抜いた堀切だった事が衛星写真だと良く解りますね。また、堀切右側の普通部の森は城としては不自然になだらかに左手内側に向かい逆扇型に整地されている事も解るので、やはり上のアメフト場の建設時に堀を埋める空堀の土を削り出した跡かも知れません。
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の谷、弓道場の更にもう一つ南側の谷が⑥の蝮谷と呼ばれているようです。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
その蝮谷との谷の間の地形も同じく扇谷上杉家と北条家が改修した小机城に同地形の空堀と空堀を繋ぐ細長い曲輪の防御構造が存在します。
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上は小机城の縄張り図、この小机城②や③の部分と・・・
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
・・・谷上城址である慶応大学日吉キャンパスの弓道場の谷と蝮谷の間の構造に酷似しています。
小生は恐らく谷上城はその部分、現在の慶応大学自動車部の敷地辺りが本丸だったんじゃないかな?と思いますが・・・
自動車部推定矢上城本丸? 久良岐のよし
でも慶応大学付属高校側の城の構造は現在では失われて確認できないので、其方側にも複雑な土塁やなんかが更に広大に広がっていて主郭だったかも知れませんね。
・・・普通に考えて主郭は余り大きくなく、外曲輪が一番大きく内側に來るほど小さく成ります。
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野球場やアメフトグラウンド側は現代の地形ではない、やや斜面がかった有る程度の広すぎないけど建造物を作ったり百人単位の兵士を駐屯されれる削平地が何段か存在します。
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誰もいない野球場からは元住吉や武蔵小杉方面が見えました。あちら側は戦国時代には蒔田吉良家の領地。
小生は現地に行くまで、迅速測図や色別立体図の地形からアメフトのグラウンド辺りが本丸だったかな?と推測していたのですが、慶応義塾大学高校の辺りと慶応大学の立派な陸上グランウンドの間の崖地も立派に裾切りされて崖に成っていたので、意外と宅地化された辺りも防御構造が豊富だったのかも知れません。でも扇谷上杉家の城の構造だと三浦半島の新井城址=油壷マリンパークを参考にするとやはり野球場やアメフト場や自動車部の在る側が重要だったので手薄な西側を厳重に大空堀で幾重にも断ち切り敵の侵入を防ぐ構造体を作っているのだと思います。
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一応、弓道場の横には住民も使う生活道路に降りる林道みたいな道が有りますが、今は学生は余りこの道を使っていない様です。
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弓道場の前に降りて自動車部側の複雑な大空堀に挟まれた重要そうな曲輪跡を見上げる所に何の神様かは判りませんが石祠が有りました。昔は神社でもあったのかも知れませんし、城跡なので諏訪神社や八幡様が祀られているのかも知れませんね。
弓道部の学生達は城跡の神様なのだから、この石祠の神様を大切にしたら武芸上達するんじゃないのかな~?日本文化の一部だから大切にしてあげて欲しい。
さて、ここから自動車部側に行きたい所ですが実際は登れません。てか登ったところで上にはフェンスが有って削平地に出られない(笑)。
そちらの側に❝弥生式住居跡群❞も在る事は解っているんだけど。困っていたらカメラを首にかけた絶対に怪しい小生を優しい慶応大学の女子大生が道案内を買って出てくれた。
ヒルサイド日吉側登城口 久良岐のよし
やはりボクシング部や弓道部の大堀切からは直接自動車部の方には登る道は無いそうで、そこの堀底道から階段を降りて一度、日吉町宮前自治会館側の平地に出てから、ヒルサイド日吉と言うアパートの裏の凄く目立たない階段を再度登らないといけないそうだ。
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こんな場所絶対に一人じゃ分からね~(笑)。
ありがとう!親切な慶應の女学生さん♪
この道も武者走りと思しき構造なんだけど、その話の前に④の谷の事を構造を考えたい。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
現地に行く前はの大空堀には自動車部の削平地とアメフト場の削平地を結ぶ❝引き橋❞が平時には掛かっていたんじゃないかと思ったけれど、良く考えると台地上は当時は人が住むには適さない場所だったからコストのかかる木製の橋を作る重要性が有ったかは疑問で、だとすると土橋が存在したのを弓道場を建設する際に切り崩してしまったんでは無いかと思い、帰宅して迅速測図を見直した。
矢上城址弓道部の大堀切④ 久良岐のよし
すると何やら完全に分断はされておらず、土橋の名残らしい距離感の等高線が刻まれていた。
恐らくこの構造からすると、やはり大堀切で断ち切られた自動車曲輪(笑)とアメフト曲輪(笑)には両者を繋ぐ土橋が有った様だ。今は底を断ち切ってしまったので、日吉四丁目側から箕輪町一丁目側に行くのに野球グランド側から丘伝いに行く事が出来ず、一度、日吉五丁目に降りてから階段を上がらなければいけなくなってしまったらしい。
CIMG9334
でもここ、アパート側の階段こそ現代の構造と道の付き方で判るんですが・・・
少し進むと途中から竪堀状の構造に付けられた武者走り城の道を利用した生活道路なのが解かった。
CIMG9338
登りながら途中で複雑な合流地点が有ったので「ん?これU字に掘られた竪堀の堀底道じゃね?」と思って少し道の横の藪を観察して見たら・・・
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ビンゴ!腰曲輪状の削平地が存在。絶対に現代人はこんな狭い湾曲した削平地をわざわざ作らない。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
ここがの場所。
城址を竹林にするのも土留めの為の昔の人の知恵。
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手前側U字に崖側面を抉(えぐ)った竪堀を挟む様に前後に削平地が有る。上の写真、見にくいかも知れないけれど奥にも削平地が有る。
そして、階段横の削平地が城だった当時を彷彿とされる物がたまたま現代にも存在した。
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境界を仕切る木柵が板塀になっていて、戦国時代の城の防御体を下から見上げている様な、竹藪を丸裸にした姿を想像すればリアルな復元城址みたいに成ってる(笑)。
因みに、日吉五丁目から登って来る階段の中腹で面白い物も見れた。
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丁度、新幹線の架橋線路のトンネルの真上!
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なのでコンナ写真も撮れた!
この新幹線の線路の真直ぐ先に見える丘が古代から水が湧き縄文時代から人が住んだ遺跡が発掘され天皇家の崇敬を集めた師岡熊野神社の森だな。つまり、綱島街道を押さえる陸路の要所である事を知れる指標になるのが谷上城址から見た新幹線の線路の先の森だったりする。
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上に出た。何か自動車部の方は入れなかったので取り合えず進んで見る。
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分かれ道にも微妙な勾配が有る。でも緩やか。
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テニスコートの横に大空堀状の地形をなだらかに盛土して作った様な住宅街。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
迅速測図で見るとやはり箕輪町一丁目の大空堀だった。ここ、迅速測図では判り難いが実際は鍵状L型に人工的に抉られてて、やはり自動車部側への侵入経路を狭くする構造に成っている。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の間が自動車部。今見てるのはの谷。
CIMG9349
宅地化されてない部分は角度がキツイまま。
慶應大学寄宿舎 久良岐のよし
そこをもっと南側に戻って進むと慶応大学の寄宿舎のある削平地に出る。
恐らくこの慶応大学寄宿舎の有る場所も曲輪だったと思うが、斜面を大胆に削ってしまってるはずだし、こちら側は防備の堅い断崖の北側と東側と異なって西側の坂から侵入経路に成ってしまう。なので小規模な曲輪がいくるも有った筈で、その曲輪の削平地が住宅地に成って行ったのだと思う。
因みに寄宿舎の庭からも新幹線が見える。
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むしろアングル的に斜めで、ここからの方がカッコよい新幹線の写真が撮れる。
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写真が良くないのは小生の腕がショボいから(笑)。
慶応義塾大学付属高校周辺 久良岐のよし
そこから慶應義塾大学付属高校を経由して大学側に行こうとすると、途中に弥生時代の住居跡が在る。
・・・と言うか、看板が有ると言われたのだが、何処にも見当たらず解らんので地元の御婦人に質問した。
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そしたら、このコンクリで固められてるのが竪穴式住居跡らしい。
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こんなん看板無いと解らん!小生、小さい時から縄文遺跡で遊んで育ったので山の中でも地面の凹みだけで住居跡判るが、こんなコンクリで固められてたら逆に解らんし!
でも面白い物が横に有った。
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たぶん、第二次世界大戦中の海軍の地下基地の遺構。通気口だと思う。コンクリートの劣化具合から判断したのと、こんなん意味不明な構造物他に無いわ(笑)。
ここを通り過ぎる。
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物凄く綺麗な慶應大学日吉グラウンド。・・・県立高校とは違うね。
少し住宅街の道路を通り慶應大学の校内に復帰する途中、可愛い洋館が在った。
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慶應大学のキリスト教会らしい。多分、昭和初期とか大戦後直ぐに作られてると思う。山手地区の洋館街の建物と外観の古さ比較したらそんな感じ。
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慶應大学の陸上競技場が下に有るんだけど、やはり古い地形が残る部分は人工的に裾切りされている。
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ので崖地。
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腰曲輪状の部分も有ったけど詳細は当然不明。
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慶應大学をゆっくり散歩しに来たの初めてだけど、高校も立派!なんかアメリカのゴシック建築の美術館かなんかみたい。
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映画の撮影にも使えそう。
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凄いね。横浜市中区の日本大通りとかだと、こんな感じの古い近代西洋建築沢山有るけど、それが高校なんだもんね(笑)。頭良くないりそう嫌味じゃなく(笑)。
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天文台まで有るし!
まぁ~そんな訳でだいたい、主だった谷地形と曲輪らしい場所を略(ほぼ)一周して来た。
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後は一の谷を降りて保福寺に戻るだけ。
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てか「東急グループよ~、官僚の子弟のいる慶應大学でだけ自然保護アピールですか(笑)?」あなた達は今現在、横浜市最大最後の蛍の群生地の磯子区~栄区~港南区~金沢区の円海山瀬上沢と同所の関東最大の蹈鞴製鉄遺跡の深田遺跡を開発の為に破壊しようとしてますよね~?
何の偽善ですかイヤらしい。浅ましいにも程がある。
コレな⤵
東急建設による蛍生息地と日本国内最大級のタタラ製鉄遺跡破壊計画を暴露します。
瀬上沢一帯に広がる日本最大級の蹈鞴製鉄遺跡の紹介パンフ転載。
円海山で蛍が観察出来る季節です。横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。
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東急の金持向け偽善の谷、一の谷を降りる。
ここを大切にする前に、横浜市の自然保護や日本レベルの貴重な蹈鞴史跡の歴史文化的な価値観を考えるなら、早く瀬上沢開発案を中止できる様に横浜市に代替地を要求したり、県内外の蹈鞴製鉄と古代史の専門家を連れて来て第三者による発掘調査しなさいよ。やらせたのヨコハマふるさと歴史財団って、よく貴重な遺跡を破壊容認する所でしょうよ(笑)。開発利権と密接な稲川会系埋地組組長の息子が最大支援者の某市長とズブズブだな~!
赤字事業なんだから、ちゃんと担当者は自分の責任隠さないで総本山に報告しなさいよ、それで経済世民、継往開来を実践して日本を守った東横神社の渋沢栄一公に謝れ!東急建設が円海山でやろうとしてる事は渋沢栄一公が嫌悪してた極左唯物主義者や無道徳な極右政治団体と同じだわ!
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ここを抜ければ保福寺に戻りますよ。
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さて、皆さんにも慶應大学に矢上城=谷上城の遺構が今も地形として残っている事が伝わったでしょうか?

皆さんの御近所にも必ず御城が在ったはずなので、興味が有る人は少し日本城郭大系と言う本を大きい図書館で調べて見たり、ネットで情報を見て見るのもいいかも知れませんよ!
まぁ・・・日本城郭体系はある種の「配慮」からか、実際より城規模を矮小化したり触れていない御城すらありますが。
でも地元に凄い殿様と関係の有る場所が有ったと解かれば、皆さんも郷土愛が深まると思います。

ですから是非、地元の神社仏閣や御城の跡の山や公園を散歩してみては如何でしょうか?

余談だが中田加賀守公の一連の調べ物で取材してた事も有り、保福寺の御住職や保土ヶ谷区の中田家の菩提寺の正觀寺の御住職に期間限定の御朱印とかお茶菓子とか沢山頂きました(笑)。
本来は中田加賀守公の所属した北条家の小机衆と言う軍団の軍団長だった笠原信為公や笠原康勝公の与力武将達所縁の寺院、旧小机領三十三ヶ所霊場の保福寺でも普段は御朱印をやってない御住職様からも御朱印を頂けた。
正觀寺の観音様の御開帳は来年なんだけど御住職様からも色々と親切にして頂いて、何だか中田加賀守公に「良く来たね~」と言われてる様で嬉しかった。
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殿様から御褒美を頂いた様に感じとても嬉しい。
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しかもこの前日は久しぶりに港北区鳥山の三会寺の御住職に会いに行って、真言宗の大僧侶、印融法印様の非公開の肖像画を拝見させて頂けたりした。

小生は殿様をリスペクトしてるから、殿様達が関係した神社仏閣に文献に残らない話も有るかも知れないと人に会いに行って見聞きしたり、御子孫に会ったりするんだけど・・・こういうささやかな御褒美みたいな事が有ると嬉しいね、やっぱり。

では又、次の記事で御会いしましょう~♪




















ネットで横浜市には武将もいないし城も無いと言う無知な人の書き込みが有るのを見かけたので、知らない人の為に有名な人達が居城した城が沢山、横浜市内に在った事を列挙してみようと思う。

平安時代末期~鎌倉時代末期

源範頼公・・・鎌倉武士団の北関東軍団長
※平安時代末期~鎌倉時代前期
埼玉県比企郡吉見領主
・・・源頼朝公の腹違いの弟。武将としての軍才に兄弟中最も優れていた名将で大軍団を任され敗戦する事が無かった。当初は源頼朝公の南関東武士団とは別派閥の北関東武士団から大将として人望を集めた。源頼朝による幕府の成立以前、まだ関東の平定戦が行われていた頃には常陸国の志太義広率いる三万の大軍を、与力の小山家と共同で撃破している。
平氏追討戦線では常に堅実な戦果をあげ平氏を滅亡寸前まで追い詰めるが、政権内での政治的な背景があり壇之浦の合戦では弟の源義経公に職務を引き継いだ。結果的に源義経公は朝廷と接近し過ぎる等の政治的な姿勢が鎌倉幕府内で武士団から反感と不信を産み対立が表面化、鎌倉幕府へ反乱を起こす事になる。
源範頼公も南関東武士団と北関東武士団の権力闘争から北条家の謀略に巻き込まれ吾妻鑑では殺害された事に成っているが、実際は横浜市金沢区の太寧寺での蟄居中に自ら切腹した。当時の太寧寺の所在地は関東学院大学の敷地、昭和初期の大戦中に海軍によって飛行場建設の為に現在地の金沢区片吹に縮小移転させられた。
神奈川県での菩提寺は金沢区太寧寺。

佐々木高綱公・・・長門守護・備前守護
※平安時代末期~鎌倉時代前期
横浜市港北区鳥山城主、川崎市川崎区川崎館城主
・・・宇多源氏佐々木氏、宇治川合戦等で活躍した名将。
鳥山八幡宮と背後の鳥山が鳥山城跡と伝わる。鳥山八幡宮の前には旧街道が通り、近くには源頼朝公から高綱公が恩賞として授けらた名馬の池月を埋葬し奉った馬頭観音の祠がある。
また、源頼朝公の命令で鎌倉の北東の鬼門の街道上に当たる鳥山を佐々木高綱公が任せられた際に頼朝公の名代で鎌倉鬼門鎮護の寺院として開いた三会寺も存在する。三会寺の寺紋は源頼朝公に使用を許された源氏の笹竜胆の家紋。

佐々木(六角)泰綱公・・・近江守護 
※鎌倉時代前期
佐々木高綱公の兄佐々木定綱公の嫡孫で高綱公の武蔵国域の遺領を継ぐ。
・・・宇多源氏佐々木氏六角家初代、神奈川区~港北区の新田開発を行った人で、六角橋地名由来の説の一つにも成った人。
子孫には六角定頼公等、太平記や信長公記等の軍記書物に登場する名将が多い。川崎市川崎区の宗三寺の梵鐘には佐々木泰綱公の奉納と記されていた事が記録に残る。

多田行綱公・・・摂津国総追捕使 
※平安時代末期
横浜市都筑区茅ヶ崎城主
・・・摂津源氏の棟梁。源義経公の功績と誤認されている❝鵯越逆落とし❞奇襲の実際の主導者。作戦立案は三浦一族で名軍師の三浦半島佐原城主佐原義連公だった。横浜市での菩提寺は都筑区の寿福寺。

和田義盛公・・・鎌倉幕府初代侍所別当 ※平安時代末期~鎌倉時代前期
横浜市港南区野庭関城主、三浦市初声和田和田城主、横須賀市吉井怒田城主
・・・源頼朝公の忠臣で鎌倉幕府成立時に軍事長官である侍所別当の初代に任命される。戦国武将の様な経済観念と築城技術を持っていて、彼の築城した城は何処も戦国時代の縄張りに近い平山城に食違い虎口を用いた上に江戸時代の城の様に港を城下に備えており、防衛だけではなく流通経済も掌握していた事が解かる。更に内陸の城も街道を押さえる場所に立地しており、城以外にも幕府成立以前に鎌倉街道旧道に
港南区餅い坂等の関所を設けて治安向上と通過税の徴収で経済的な利益を得ていた事が史跡から解る。武勇に優れた武将として有名だが、実は神奈川県内の義盛公関連の史跡を見て廻ると軍政家として実務力に長けていた武将だった事が良く解る。
菩提寺は三浦半島横須賀市長坂の無量寺、三浦市初声和田の白幡神社等。

金沢北条実時公・・・引付頭人・評定衆
※鎌倉時代前期
横浜市金沢区金沢城主、青ヶ台城主
・・・鎌倉幕府の引付頭人、評定衆として幕府の中枢で活躍した人物。日本初の私設図書館である金沢文庫を邸宅である金沢山稱名寺の隣の谷戸に開いた人物で、高い教養を持ち全時代の武士文化を通じて細川幽斎公をも上回る教養を証明する和漢の蔵書と仏具美術品を収集した人物でもある。その文化財は明治時代に金沢区野島に別宅を構え大日本帝国憲法を起草した伊藤博文公によって保護され金沢文庫は現代では日本のみならず中国台湾のシルクロード研究等の歴史学者からも❝東日本の正倉院❞の異名で呼ばれ、大量の古文書を保有する博物館の神奈川県立金沢文庫に継承されている。
子孫は六波羅探題として関西地方を統治する役割を担った。
菩提寺は金沢区称名寺。

金沢北条顕時公・・・引付頭人・評定衆
※鎌倉時代後期
横浜市金沢区金沢城主、青ヶ台城主で北条実時公の子で跡を継いだ。
・・・幕府で重鎮として舅の安達泰盛公と主君で本家の北条貞時公の時代に活躍したが、北条貞時公の内管領である平頼綱の陰謀で安達泰盛公が攻め殺されると自身も下総国埴生の所領に蟄居(ちっきょ=謹慎)を命じられた。
菩提寺は金沢区称名寺。

金沢北条貞顕公・・・六波羅探題南方探題 
※鎌倉時代後期
横浜市金沢区金沢城主、青ヶ台城主で北条顕時公の子で跡を継いだ。
・・・鎌倉幕府の西日本を統治する機構の六波羅探題南方の探題を務めた人物で鎌倉幕府の重鎮だった。統治能力だけでなく教養が高く、兼好法師こと吉田兼好の兄が金沢北条家の執事を務めていた経緯から所領の金沢領六浦(横浜市金沢区)の浄願寺(上行寺東遺跡の跡地)に兼好法師が住職として長期滞在して金沢八景の景勝を遊覧した記録が、浄願寺の再興寺院である金沢区町屋の真言宗の龍華寺や日蓮宗の上行寺等に伝わる。鎌倉幕府滅亡時も重鎮として活躍し、兵を率いて小袋谷(こぶくろたに)方面から侵入しようとする新田義貞率いる倒幕軍を一歩たりとも巨福呂坂(こぶくろざか)切通しから内側に侵入させず鎌倉城防衛網を堅守し活躍したが、新田軍本隊が幕府軍の別部隊の守備する極楽寺坂の切通し方面へ回り稲村ヶ崎の干潮時に潮の引いた由比ヶ浜の海中から鎌倉市街に侵入された凶報を聞くと本家の北条高時公の籠城する衣張山~大町の名越城の防衛網の市街地側の山裾にある東勝寺で一族と共に自害した。
菩提寺は金沢区称名寺。

名越北条宗長公・・・能登国守護・安芸国守護・豊前国守護
 ※鎌倉時代後期
磯子区杉田領主(恐らく鎌倉幕府成立後は旧鎌倉郡と金沢領を除く横浜市全域が名越北条家の所領)
・・・名越北条家は本来は鎌倉幕府執権北条家の嫡流だが、父の北条義時公が再婚して腹違いの弟の北条泰時公が跡を継いだので家を相続する事が出来なかった。その火種が後々にも続き事有る毎に本家と成った北条泰時公の子孫の家系と権力争いをしたが祖先が本家から誅殺される事件が起きて以降は円滑な幕府運営に協力した。北条宗長公の頃には幕府の中でも三ヶ国の守護を任せられる等の厚遇を得ている。磯子区杉田にある臨済宗関東十刹の一つ、東漸寺は今では本寺の
東漸寺その物は巨大な釈迦堂と寺名を引き継いだ塔中寺院の真楽庵が残るのみだが名越北条家が支援した歴史が今に伝わる。

室町時代~安土桃山時代~江戸時代初期

足利尊氏公・・・室町幕府征夷大将軍(北朝)
横浜市神奈川区の権現堂(権現山)城に籠城
・・・旧東海道の通る神奈川区権現堂城に籠城し南朝と戦った。京急神奈川駅と国道1号線は権現堂城の権現山を掘削し掘り切った道で、以前は幸ヶ谷公園~江戸時代の東海道神奈川宿だった神奈川区台町の本覚寺にかけて全てが権現堂城だった。権現堂城は一般的に権現山城と呼ばれているが、戦国時代の間宮家の歴史から権現堂城が正しい名前である事が解かる。

足利直義公・・・左兵衛督(鎌倉府長官)
鎌倉城主(鎌倉市街地を囲む城塞群の歴史学的な呼称)、鎌倉郡秋葉郷領主(戸塚区東戸塚~品濃町一帯)
・・・兄で将軍の足利尊氏公の統治下で内政を担当しながら自身も軍団長としてかつやくした名将。観応の優乱で兄弟が北朝南朝に分かれ対立するまで活躍した。関東の統治を任されており、征夷大将軍しか住職を任命出来ない臨済宗鎌倉五山の大寺院5ヵ寺を保護し、現在の戸塚区品濃町界隈を5ヵ寺筆頭の建長寺の塔中に寄進した事が執事を勤めた斯波高経公の古文書に記録され伝わる。観応の優乱の後に暗殺され足利家の鎌倉時代の足利家邸宅跡の菩提寺鎌倉市浄妙寺に眠る。

ー以下戦国時代の人物ー

太田道灌公・・・扇谷上杉家家裁(関東管領代理)、相模守護代
東京都千代田区江戸城主、横浜市都筑区佐江戸城主、港北区篠原城主、南区太田館城主
・・・鎌倉公坊を支えた関東管領扇谷上杉定正公の執事を勤め、存命中は築城の名手としても名を知られ合戦では無敗を誇った名軍師。又、それまで武士の武具だった“大弓”を下級兵士にも配備し日本で最初に組織的な“足軽弓兵部隊”を用いた人物でもある。しかし主君の上杉定正公と鎌倉公坊に対する外交方針で軋轢があり伊勢原市に存在した大城郭の上杉家糟屋館の湯殿入り虎口で主君からの刺客に奇襲され七人の従者に逃げる時間を稼いで貰い宿所兼実務所だった洞昌院公所寺の山門まで退避したものの重症を負っており絶命した。
扇谷上杉家が古河公坊家から再度離反し北条家が扇谷上杉家討伐の大義名分を得て伊勢原市域から上杉家勢力が駆逐された後に、友輩の伊勢宗瑞(北条早雲)公と万里集九和尚により太田道灌公の首の無い遺骸が洞昌院公所寺に改めて埋葬され現在に至る。首塚は太田道灌公の鎌倉での私邸跡の鎌倉市扇ヵ谷鎌倉山に改葬され英勝寺初代尼住職で道灌公の子孫で徳川家康公の側室だった太田お梶=英勝院尼より首塚は守られ現在に至る。
菩提寺は伊勢原市洞昌院公所寺と鎌倉市英勝寺。

吉良成高公・・・左京大夫、左兵衛佐(鎌倉公坊代理)
横浜市南区蒔田(蒔田御所)城主、東京都世田谷区世田谷城主
10万石の勢力を誇った大名で太田道灌公と伊勢宗瑞公と臨済宗の高僧で雅人の万里集九和尚の共通の親友だった。特に太田道灌公との親睦が深く、戦上手な事が解る逸話が万里集九和尚の著書“梅花無尽蔵”で紹介されている。
太田道灌公が主君の上杉定正公に殺害されると上杉家従属下から離反し、同じく古河公坊を支えた北条家と従属同盟を結び北条家から姫を娶った。
暫時空白と成った鎌倉公坊代理を務めた。菩提寺は蒔田御所跡の城下に在る勝國寺。

吉良頼康公・・・左京大夫、左兵衛佐(鎌倉公坊代理)
横浜市南区蒔田(蒔田御所)城主、東京都世田谷区世田谷城主
吉良成高公の跡継ぎで高い内政力を持った高家大名。古河公方の跡継ぎだった足利義氏公が元服するまでの間、蒔田城で鎌倉公方代理を行った人物。家臣団には多摩川や荒川流域と東京湾の水軍衆が多くいる。物流によって高い経済力を保持した。房総半島の里見家や正木家の鎌倉市街地焼き討ちの際には、その家臣団と自らの権威で北条家に敵対する上杉方の大名にも鎌倉市街地と鶴岡八幡宮再建の資材や資金を供出させた上で、間宮家と協力し集積した材木を海運で5万人の人足を動員して間宮家の軍港だった杉田湊まで輸送する偉業を成し遂げている。
比較対照として織田信長公が安土城や二条城を建設した頃の領国石高は700万石超、対して当時の北条家の勢力圏は100万石未満だった頃に周辺の敵対勢力も外交的に屈服させて鎌倉再建の資材を供出させ集めた経済力と外交能力と権威は凄まじい。しかし全く合戦をしなかった小大名としても有名で、後に足利幕府が滅亡すると足利家一族の吉良家の権威も失墜したのか養子をとり北条家の姫と結婚させて隠居している。
世田谷のボロ市は頼康公の存命中に吉良家が北条氏政公に許可を貰って始めた楽市楽座が始まりで現在に続くイベントで無形文化遺産だったりする。
菩提寺は南区勝國寺と東京都世田谷区の勝光院。

多米元忠公・・・北条家五色備え黒備え大将
横浜市神奈川区青木城主(青木城は権現堂城の改修後の名前)
・・・北条氏綱公の代に三河国から移住して来た。父の代には父の元益公が今川家臣だった伊勢盛時(北条早雲)公の与力として❝伊勢七騎❞と呼ばれ今川家による松平家の居城三河安祥城攻めの頃に活躍していた事が多米家菩提寺の神奈川区豊顕寺の寺伝から確認出来る。一般的に父と誤認されている多米元興と言う人物は世代的に多目元忠公本人だろう。今川家による三河征服が失敗して松平家の勢力が拡張した事で領地を失陥し北条氏綱公の世代に小田原城に亡命して来ている。
後に北条氏綱公が危篤して山内上杉家・扇谷上杉家旧臣・古河公方が連合して北条家の河越城を攻めた際は、北条氏康公の軍師として❝日本三大夜戦❞と呼ばれ俗に河越夜戦と呼ばれる合戦で活躍している。
菩提寺は横浜市神奈川区の豊顕寺。

笠原信為公・・・北条家五家老の一人、小机衆副将、
北条五色備え隊白備え隊大将
横浜市港北区小机城代、横浜市港北区大曾根城主
・・・和歌等の文化教養に精通し外交官を務め、北条氏綱公の代には五家老の一人に数えられ五色備え軍団の内、白備え隊の大将も務めたので武将としての資質も高かった事が解かる。北条氏綱公による江戸城攻略の帰路、小机城代に任じられており、菩提寺は廃寺の神奈川区神大寺と伝わる。神大寺は支院の小机城下雲松院に現在では機能移転しているが、雲松院は笠原信為公が父君の笠原信隆公の菩提寺として開いた寺院でもある。
現在の菩提寺は港北区小机の雲松院。

笠原康勝公・・・小机衆副将、
北条五色備え隊白備え隊大将
横浜市港北区小机城代、横浜市港北区大曾根城主
・・・笠原信為公の跡継ぎ。北条家の織田家への外交使者を北条氏照公付家老間宮綱信公と供に務めた記録が残る。北条五色備え軍団の白備え大将を務め、小机衆大将の北条氏尭公等歴代の小机衆大将を補佐した。北条氏尭公は河越城に来襲した上杉謙信の大軍勢を撃退する活躍をした名将だった事から、その小机衆を実質的に取り仕切っていた笠原康勝公の武将としての資質も高かった事が解かる。
大曽根城下に龍松院を開いている。
菩提寺は港北区大倉山の龍松院と港北区小机の雲松院。

中田加賀守公・・・小机衆与力の官僚
横浜市港北区日吉矢上城主、川崎市高津区井田城主
・・・1560年頃は北条家臣として小机衆与力と成り内政を仕切った人物。元々は太田家の家臣だったと思われ、太田康資公が北条家から離反する以前は太田康資公の陪臣として家禄を与えられていた。
江戸時代の昌平坂学問所(東大の前身)の地誌編纂所の間宮士信と言う歴史学者が「中田加賀守は吉良家の与力だった」とも書いているので、小机衆に成る以前か、後に吉良家の与力として編成されていた時期も有った様だ。最大時には三万石相当の所領の代官を務めていた事が中田家関連の各所の寺院で伝えられている。中田加賀守の姫君の鶴野姫は北条家の港南区野庭関城下に住した下総国臼井城主名代で臼居衆を率いて武田信玄との三増峠合戦に参戦した臼居胤知公の妻女となる。
菩提寺は港北区日吉の保福寺と保土ヶ谷区東川島の正観寺。

間宮信冬公・・・古河公方家臣で小田原北条家与力相模十四騎筆頭
横浜市神奈川区権現山(権現堂)城主、鶴見区末吉(下末吉~上末吉~三ッ池)領主
・・・初期の小田原北条家臣団の中で相模十四騎と呼ばれた旗本中、筆頭の相模十四騎筆頭と呼ばれた武将。権現山城の戦いと俗に呼ばれる伊勢宗瑞(北条早雲)公と小沢城に逃げた扇谷上杉朝興公の残党の戦いで活躍し一騎駆けをして敵中に突撃した武勇が記録に残るが生死は不明。年代的には子息ではない親族と思われる間宮信盛公が間宮家の頭領と成っている。
尚、この時に反上杉家として北条側に内応した上田家と供に籠城した❝権現堂城❞だが、一般的に権現山城と歴史学者には呼ばれているが正しい名称は権現堂城と言うのが横浜市港南区の真言宗福聚院の寺伝に伝わっている。同地に籠城した間宮家臣の子孫には修験道の大家である権現堂松本家がいる。この松本家には間宮家子孫で江戸時代の間宮家の家譜から笹下間宮子孫の武内家の更に祖先で間宮家からも養子が入っている事が確認出来る。権現堂家は元修験道の法印で明治以降は社家と成った家で、元は鎌倉時代に鎌倉市扇ヵ谷地区の亀ヶ谷に所在した修験道の大道場で源頼朝公から深く信奉された修験道門跡寺院の亀谷山福禅寺の名代を室町時代に務めた権現堂の別当家に当たる。同じく頼朝公が信奉した修験道鎌倉山崎泉蔵坊から機能を移転した大靈山泉蔵院桐谷寺(現:熊野神社)が間宮家の旧領の磯子区中原に存在するが、江戸時代を通じて権現堂が旧久良岐郡の修験道系神社仏閣の大半を統括し、残りを泉蔵坊が管理した歴史が有る。
その権現堂松本家の深く関わった横浜市港南区の真言宗福聚院は明治の廃仏毀釈で鎌倉時代の福禅寺の本尊だった不動明王を権現堂家から譲り受けているが、福聚院の寺伝で「権現堂家は❝権現堂城の権現堂合戦❞で戦火に遭って港南区域に移転して来た」と伝わる事から権現山城の名は後世に❝権現堂の跡の山の城跡❞から伝え間違えられ江戸時代の風土記を元に現代の歴史学者が呼び始めた名前である事が名白。又、権現堂城跡は後に青木城として改修され北条五色備え軍団の黒備え大将を務めた北条家の名軍師である多米元忠公が城主を務めた。
菩提寺は鶴見区下末吉の宝泉寺。

間宮信盛 宗三公・・・古河公方家臣→小田原北条家臣相模十四期筆頭
横浜市磯子区杉田領主、川崎市川崎区堀之内城主
・・・権現堂城の敗戦で間宮家所領の久良岐郡杉田郷(磯子区杉田~中原~森~峯~洋光台~港南区の旧鎌倉郡を除いた地域)に退避して来て以来、杉田郷を間宮家の本拠地と定めた。
この人物を権現山合戦の間宮彦四郎とする説も有るが、その場合、間宮家の歴代当主は彦次郎(※次は継ぐの意味)を名乗るので、俗に権現山合戦と呼ばれる合戦で間宮彦四郎と名乗った事と整合性が無くなる。
菩提寺は川崎市川崎区の宗三寺。

間宮宗甫公・・・北条氏康公奏者(秘書)
神奈川区斎藤分(斎藤分町~白楽)、横須賀市紺屋(西浦賀)領主
・・・北条所領役帳に奏者として北条氏康公に検地の報告等を行っている事が確認出来る。北条氏康公の直属だったが西浦賀を領有している事から北条家の初期段階の軍団編成では北条氏康公の実弟で早世した北条為昌公本光院殿が三浦半島も統治していた様なので、元々その与力だった可能性が有る。
子孫は今も斎藤分町に多数在住している。間宮家は水運の要所を拠点にしており、水軍も持っていた事から間宮宗甫公も神奈川区神奈川と横須賀の西浦賀で水軍を管理していたと考えられる。
斎藤分町の間宮一族菩提寺は神奈川区三ツ沢西町の豊顕寺。

間宮康俊 宗覚公・・・小田原北条家五色備え軍団、黄備え隊玉縄衆付家老
横浜市磯子区~港南区笹下城主。
・・・北条氏康公の義弟で関東最強の武将だった北条綱成公の付家老を務めた人物。里見家正木家等の房総半島の大名による鎌倉焼き討ちの後の鶴岡八幡宮再建では間宮家の杉田湊に材木を集積して鶴岡八幡宮に海路輸送しているが、寄親の北条綱成公が材木奉行だった事から実務を間宮康俊公が取り仕切っていた事が解かる。その為か鶴岡八幡宮再建では北条家一族と共に築地塀の奉納する事を許されている。
合戦でも活躍しており、小田原北条家滅亡時も箱根山中の山中城に当時の玉縄衆大将の北条氏勝公や城主松田康長公と兵3000で籠城するが、北条氏勝公が籠城兵の大半を率いて所領の玉縄城に逃亡してしまう中で自身は手勢200騎を率いて松田康長公の手勢と合わせて兵300で敵軍豊臣秀次公の2万6千の大軍を迎撃し、敵大名の一柳直末公を討ち取る活躍をしている。この戦いでは同じく北条家臣の長谷川近秀公や多米長定公も討死している。
間宮康俊公の戒名は江戸幕府の寛政重修諸家譜を編纂した役人が誤って年代的に康俊公の父君に当たる信元公の戒名である❝宗閑❞としているが、これは明白な誤りで、横浜市南区の弘明寺の江戸時代の扁額や間宮家菩提寺で信冬公が開基して康俊公が再興した鶴見区下末吉宝泉寺の江戸時代の記録からも寛政譜の通り❝宗覚❞が正しい戒名である事が解かる。
娘の於久が徳川家康公の愛妾となり駿府城で姫を産んでいるほか、嫡孫の間宮直元公が徳川幕府初代の但馬奉行生野銀山代官を務め、更に二代目佐渡金山代官、本牧奉行(横浜市南部の支配)を務め大坂城攻めで生野銀山衆を率いて参戦し真田丸や総掘りの埋め立て作戦を徳川家康公に進言した名軍師として記録に残る。
間宮康俊公の菩提寺は鶴見区下末吉の宝泉寺、江戸幕府が戒名を誤って開いた菩提寺は三島市山中城跡の宗閑寺。
間宮直元公の菩提寺は間宮直元公の彫像を奉る御神廟が昭和初期まで在った磯子区田中の妙蓮寺。

間宮綱信公・・・滝山衆与力北条氏照公付家老、安土桃山時代の北条家外交官。
氷取沢陣屋領主(江戸時代)
・・・名前に間宮家が与力した玉縄城主北条綱成公から一字頂いている。自身は北条氏照公の付家老として日本100名城の一つ八王子城の設計者と伝えられる。内政を担当した記録が残るが北条家の外交官としても活躍しており、小机城代で白備え隊大将の笠原康勝公と共に織田信長公への使者を務めており、面会して褒美を賜わっている。安土では滝川一益公に接待を受けて上方を観光した記録が残っている。
徳川家康公と直接面識が有り、北条家滅亡後に小緑では在るが間宮家旧領の内磯子区氷取沢を与えられている。子孫に昌平坂学問所で頭取を務めた学者の間宮士信がいる。
間宮綱信公の菩提寺は磯子区氷取沢の宝勝寺で、同寺には伊藤博文公の武士時代の遺品も残る。
間宮士信公の菩提寺は千葉県八千代市の観音寺。

間宮信繁公・・・北条氏康公の御馬廻り衆、江戸幕府初代鷹匠頭
小田原市水尾城代、磯子区杉田(杉田~中原)領主
・・・始め北条家臣として間宮家の杉田湊を預かった。間宮信繁公の頃には笹下城主間宮家からは完全に分家して別家として成立していたが、当然ながら一族間で交流は有ったので関ヶ原合戦には徳川家康公の参謀、鷹匠頭として手勢50騎の鷹匠部隊全員を鉄砲で武装させ参戦しているが、この鉄砲は金山銀山の代官として実高5万石を誇った笹下間宮本家の財力で賄われている事が経済規模から解る。その鉄砲で武装した鷹匠の特殊部隊を率いて南宮山の毛利本隊を偵察して徳川本隊の前進行軍の本陣移動を上申し、それにより間宮家と同族の黒田長政公が行った小早川秀秋公の西軍大軍勢の徳川方への寝返りを成功させた名参謀でもある。この時の功績から江戸幕府成立後に徳川家康公が関東で鷹狩を行う度に関ヶ原の功績を話に挙げては鷹匠衆の家禄を増額した記録が残り、最終的に杉田間宮家は2000石の大身旗本に成り、歴代が徳川綱吉公による生類憐みの令発布まで江戸幕府の鷹匠頭を務めた。
菩提寺は杉田妙法寺。

安藤良整公・・・内政に長けた北条家中最高の名奉行
横浜市港南区野庭関城代
・・・善政を行った北条家でも特に内政に優れた武将として広く知られる。村同士の水利権争いを調停する等の北条家領国運営に寄与し、税率40%と徴税権が抑制され豊かではない北条家臣団が領民の百姓達から不当な搾取を行えない徴税システムを確率した。安藤升と呼ばれる徴税に用いる計測用の規格を北条家臣団の標準化させる等の公正公明な徴税機構を成立させた。
江戸時代の画家、歌川広重は好んで旧北条家所縁の地を描いて廻り、本名が安藤広重である事や名に古河公坊所縁の“重”の一字がある上、画の師匠は歌川=宇田川と同じく北条家臣団の子孫の姓である事から安藤良整に連なる人物かも知れない。

石巻康保公・・・北条氏康公、氏政公、氏直公三代の御馬廻り衆の重臣
横浜市港南区野庭関城代
・・・旧相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の国境で平安時代の鎌倉街道古道を守備する位置に鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛公が築城した野庭関城を戦国時代の北条家臣として城代を務め治めた人物。他大名家との外交官も務めた重臣。北条家滅亡後に早い段階で亡くなり、跡を弟の石巻康敬公が継いだ。
石巻康敬公は泉区中田を領有し江戸時代に土地開発を行い重税を課さず善政を行ったと現在も御当地に伝承する。
石巻家の江戸時代以後の菩提寺は泉区中田東の中田寺。

板部岡江雪斎公・・・北条家寺社奉行で外交官、豊臣家御伽衆
横浜市緑区長津田領主
・・・実家の田中家から板部岡康雄(実家は石巻家)に養子に入った人物。北条家の祐筆であり寺社奉行を務めた経緯で北条氏直公の代には北条家の外交を代表する人物に成り、豊臣秀吉との外交折衝に当たった人物として有名。武将としての事績は余り残らないが、外交能力が高かった事から北条家滅亡後に豊臣秀吉に抜擢されて山名家等の名族と並び御伽衆に登用されている。大河ドラマや小説にも良く登場する人物。
菩提寺は緑区長津田の大林寺。

宅間上杉規富公・・・初代関東管領の末裔
横浜市港南区伊予殿根永谷城主、旭区本村の二俣川陣屋領主。
・・・祖先は足利尊氏公の母姉妹の子孫で室町幕府初代関東管領を勤めた家系。鎌倉公坊に忠節を尽くし室町幕府の勢力争いに巻き込まれ永享の乱で宅間上杉家は勢力が縮小した。しかし家名は存続し古河公坊家臣から北条家臣化し、宅間殿と北条家の歴代当主から敬称で呼ばれた。安土桃山時代に成ると宅間上杉規富公が三崎城主と成った北条氏規公の付家老と成った。そのせいか宅間上杉家関連の神社仏閣の檀家氏子には三浦半島所縁の苗字を姓にする一族が多い。
徳川家康公の江戸入城時に小録ながら登用され旭区二俣川~本村一帯の領主と成った。徳川幕府の外交官として徳川家を代表し伊達家への使者も務めた。
菩提寺は旭区本村の三仏寺。


横浜市港北区の慶応大学日吉キャンパスは戦国時代~太平洋戦争にかけて重要な❝城砦❞だった事を知っている人は横浜市民でも今では余り多くは有りません。
日吉キャンパスの地下には❝地下迷宮❞とも言えるトンネルを張り巡らせた地底基地が存在し、第二次世界大戦中に横須賀鎮守府から逃げて来た帝国海軍本部が置かれ海軍の幹部達が終戦直前まで作戦を立てていた大規模な司令所として機能していました。ですから石原裕次郎サンが若い頃に主演した映画では日吉キャンパスがロケ地に成っているのですが、海軍司令所の換気口の煙突が大学のグラウンドに残っている風景が見切れていたり(笑)するんですよ。
矢上城地形 色別立体図&Googleearth合成久良岐のよし
※国土地理院色別立体図&Googleearth合成
上の画像は色別立体図と言われる地形を見やすく色分けした地図で、国土地理院が制作した物ですがネットで誰でも自由に閲覧する事が出来ます。
この画像を見て頂けると一目瞭然ですが、日吉~矢上の丘は鶴見川支流の一つの比較的な大きな河川である❝矢上川❞に東側と北側を囲まれ、南側は急峻な崖地で実に守りの堅い地形に成っています。
この地形に大戦中の海軍が目を付ける以前、実は既に戦国時代の名将がこの地に❝矢上城❞と言う城を築城して居城としていました。
その武将が小生のブログでも何回か紹介している小田原北条家の官僚型武将の中田加賀守で、記録の残らない戦国時代末期には3万石相当の代官を務めていたと地元や関係する寺院に伝承する北条家の大物武将の一人でした。正確には状況的に室町時代末期には北条家の大軍団の一つで軍旗を白い旗で統一した白備え隊小机衆と呼ばれる横浜市港北区小机の小机城を拠点にした軍団で重臣として勤務した後、安土桃山時代に成ると北条家滅亡直前には世田谷衆とも言うべき北条家従属大名の蒔田吉良家の与力家老として転属していた様です。
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写真は横浜市港北区の小机城址で毎年桜の季節に行われる小机城址祭り。港北区長が小机城代の笠原信為公に扮して行われる祭りです。
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小机城は横浜市教育委員会が保護を怠り半分が高速道路と鉄道建設で消失しましたが、今でも残存部分の保存状態が良く❝続日本の100名城❞の一つに選ばれたりしています。
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その小机衆として活躍した中田加賀守が3万石の勢力を誇ったのは何とな~く解る程度しか文献の記録は残っていません。なんたって北条家の記録は豊臣秀吉に負けたせいで余り残らなかった上に、後に関東を統治した徳川家が政治力無くて江戸時代中期に成っても関東の領民が旧北条家臣団と北条家の善政を慕っていたせいでヤキモチ(笑)やいていたってのは幕末の勝海舟サンも認識していた事実ですからね~。
徳川家臣団が入ってくると北条家の史料は更に無くなってしまった様です。
今回はそんな中田加賀守の居城だった慶応大学日吉キャンパス=矢上城跡と、そのキャンパスの下に今も現存する中田加賀守の菩提寺の一つの谷上山保福禅寺と言う曹洞宗の御寺を紹介したいと思います。

以前、中田加賀守については紹介した別の記事も有るので、興味が有る方は下のリンクから過去記事を御覧下さい!
※記事タイトルをクリックすると過去記事にリンクします⤵
補陀山 正觀寺は北条家の吏僚、中田加賀守の菩提寺
・・・保土ヶ谷区東川島町

川崎市の井田城は小田原北条家の吏僚中田加賀守の城?
・・・川崎市高津区蟹ヶ谷~中原区井田。

❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。・・・横浜市港北区小机
今回は中田加賀守が戦国時代に開いたと伝わる保福寺を先ず紹介して、その後で御城の説明をしたいと思いますが・・・
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谷上山 保福禅寺(略称:保福寺)
・・・中田加賀守の戦国時代に矢上城跡の慶応大学日吉キャンパスと矢上キャンパス周辺がどんな感じだったのか先ずは少し現代の国土地理院色別立体図の地形上に周辺の御城の位置を表示して確認して戦国時代の流通の御話しからしてみましょう~♪
神奈川県東部の城 久良岐のよし
この画像は国土地理院色別立体図に神奈川県東部の主要な御城を表示して有ります。
矢上城は画面右上辺りに表示されています。
北条家はだいたい3キロ毎に一つの御城を建設して防衛に当たりました。まぁ、だいたい半径1.5km毎に地域を統治する役所としても機能していたんでしょうね~。そしてこの直線距離3㎞と言う距離は烽火台(のろしだい)として煙を確認出来る距離でもあるので、敵軍が攻めて来た時に早急に北条五色備えと呼ばれた初期の五軍団や、後の八王子衆・津久井衆・小机衆・玉縄衆・江戸衆と言った各軍団に情報伝達し迎撃態勢や攻撃態勢を整える役割も果たしていました。
そして地形を見ると一目瞭然ですが、全ては房総半島や鶴見川や多摩川上流の敵勢力、扇谷上杉家や山内上杉家(上杉謙信が継いだ家)や里見家と言った敵勢力の経済活動を阻害する様に配置されています。
何でこの御城の位置関係が敵勢力経済活動の妨げに成っていたか?って余り歴史に興味が無い人は思いますよね~?
実は大正時代ぐらい迄は物流の❝水運❞が占める割合はとても高く、特に明治時代以前は主たる流通網は海も内地も全て船や筏(いかだ)による運搬だったんですよ。
しかも北条家の城は大河川の渡河地点近くに設置されていますから、敵が攻めて来れる川の渡し場の先に城を築城して迎撃態勢を万全にしてあった訳です。
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大師の渡し川崎の多摩川なんかは今は橋を渡れますが、江戸~明治時代は川崎大師の前に大師の渡しと言う船着き場が有って船でしか渡河出来ませんでした。明治に成ると現在の羽田空港敷地に在(あ)った穴守稲荷神社への直行便が大師の渡しから出ていたりしましたが、実はこの大師の渡し場は戦国時代には主要な渡し場ではなくて現在の川崎駅近くに北条家臣間宮家の川崎館跡地の堀之内地区があり、その周辺まで海が入り込んで来ていて渡し場もその付近だった様です。
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瑞龍山 宗三寺
その城館の有った辺りが宗三寺で、この御寺の寺号も間宮信盛入道宗三公の法名に由来しています。周辺の地域が❝堀之内❞なのは北条家臣間宮家の城館を取り囲む水堀の内側の地域で城跡だった事に由来しているんですね。
直ぐ近くには京浜急行とJR線の川崎駅が在り、江戸時代にも東海道の川崎宿となり砂子商店街が今も残りますが戦国時代から流通の拠点だったので流通網を抑える地域に城が設けられた訳です。もっとも、この場所は元々は鎌倉時代の名将で間宮一族の名目上の祖先として仰がれた佐々木高綱公の城館跡で、後に佐々木高綱公の甥の系統の佐々木泰綱公が領主に成っている事が鎌倉時代の古文書や宗三寺の梵鐘の文字から判明しています。つまり鎌倉時代から交通の要所だったみたいですね。
そして矢上城ですが・・・
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
御覧の通り、鶴見川の上流を抑える位置に在ります。ここを抑える事で上流の川崎市麻生区を拠点にしていた扇谷上杉朝興公の海運の通商を阻害出来たんですね。そして川崎市麻生区~稲城市の❝よみうりランド❞に在った小沢城を居城にした扇谷上杉家当主の上杉朝興公は討死して神奈川県域から扇谷上杉家の勢力は駆逐される事に成りました。つまり物流と地形的な観点から経済的にも軍事的にも重要な場所が矢上城だった事が解かります。
そんな場所なので戦国時代末期には3万石相当の代官を務める北条家重臣に成っていた中田加賀守公は矢上城を居城にしたようです。
Googlemap矢上城址付近 久良岐のよし
とっても険阻な台地が矢上川に守られる地形なのがGooglemapでも良く解りますね~。
さて、ここから先は又、続きの記事で紹介したいと思います。
次に続く⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説②
・・・保福禅寺の解説。




新編武蔵風土記稿巻之八十二 都筑郡之二 川島村
そこに横浜の殿様の一人である中田加賀守の名前と菩提寺の正觀寺と言う御寺の名前が登場します。
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補陀山 正觀寺
(小机領三十三観音霊場の第五番)
御寺の正式名称は補陀山 正觀寺と言います。現代では略して正観寺と呼ばれ字体も正觀寺⇒正観寺の現代日本体字が普段使われています。
宗派は曹洞宗の寺院で、曹洞宗は中田加賀守が仕えた主家の北条家(伊勢氏)の宗旨ですので、この御寺が豊臣征伐による北条家改易(かいえき=廃業)の前後直ぐに建てられている事が判ります。
正確に言うと中田家の菩提寺で、中田加賀守公の独立した墓碑は港北区の矢上城址(慶應大学日吉キャンパス)に在ります。DSC_0287
慶応大学に境内地を貸与しているのが同じく中田家が戦国時代に建てた保福禅寺と言う同じ曹洞宗の御寺です。そして正觀寺サンと同じ旧川島村の中の瑞流院と言う御寺も中田家の菩提寺でそれぞれで中田加賀守の菩提を弔ってらっしゃる訳ですが、特に御本家子孫と現在も直接的な関わりが深いのが正觀寺サンなんです。
色々と中田加賀守や旧:都筑郡川島村について解説したい所ですが、先ずは御寺の説明がされている文書と今の御寺の様子を写真から一緒に見て行きましょう~♪
正觀寺 久良岐のよし
新編武蔵風土記稿に登場する正觀寺の解説はコンナ感じです。
中田藤左衛門サンが開いた事が解かります。
現在の御寺の様子ですが・・・
住宅街の中、旧八王子街道の直ぐ近くに存在します。
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門の横には御寺の掲示板。曹洞宗なので曹洞宗のイベント広告が掲示されてますね。
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門の横に御寺の簡単な解説が有ります。
大体の説明はここに書いて有る通りですが、現在も行われる小机三十三観音霊場巡りの御朱印の由来は、元々戦国時代の北条家の家老で小机城代、大曾根城主だった笠原信為公の奥さんと御姫様が立て続けに亡くなってしまった供養の為に始まった文化だそうです。これは御寺を訪問するまで小生も知りませんでした。
笠原信為公は鎌倉市街地と鶴岡八幡宮が房総半島の里見家や正木家と海賊達の攻撃と略奪放火で炎上、灰燼に帰し(かいじんきす=燃え尽くされた)た際に、鶴岡八幡宮再建の総奉行を務め北条家だけでなく敵対する関東の諸大名にも指示を出して再建事業と鎌倉の復興を成功させた偉大な統率力と、北条家の外交官を務める高い教養と政治力を持つ殿様でした。中田家は近くの港北区の小机城に勤務していましたが、そこを拠点にした“白備え隊”と言う軍旗を白色で統一した別名:小机衆と呼ばれた軍団を実質的に統率したのが笠原信為公と、その御子息の笠原康勝公でした。
つまり現代も正觀寺サンには北条家の名将だった中田加賀守公の時代の文化が残ってる訳ですね~。
小机城や笠原家に関しては以前に解説記事を書いたので、御城に興味が有る方は是非読んで見て下さい♪
コレをクリックで記事にリンク!
❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。
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門を入ると正面に観音堂と墓地の在る段丘が在ります。段丘と言うか人工的に掘削された切岸地形ですね。
正観寺地形 久良岐のよし
地形的には急峻な丘の裾を切り開いた立地に在り、目の前を八王子街道旧道が通るので戦国時代には砦を兼ねた烽火(のろし)台が山上に有った事も予想出来ます。
御近所には鎌倉時代に木曾義仲の副将の今井兼平が源頼朝公に帰属して居城したと伝わる今井城址もあり、今井城は戦国時代も活用されていましたが、正觀寺の丘と同じ様な街道を抑える急峻な丘の立地です。
今井城址も以前、簡単な紹介記事を書いているので興味の有る人は読んで見て下さい。
コレをクリックで記事にリンク!
●今井城址…横浜市保土ヶ谷区今井…破壊される城址。
昨年末の参拝時点は観音堂と墓地に登る場所が工事中で足場が組まれていました。
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手水社も有りますが、この御寺は戦国時代の殿様の文化を大切にしていて、今でも神仏習合時代のまま神様も大切に祀っているので境内に神社が有ります。
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階段を上ると観音堂を立て直してる最中でした。以前の御堂は老朽化したんでしょうね。ちゃんと立て直せるだけの檀家サン達が中田加賀守と藤左衛門サンと笠原信為公由来の歴史を守ってくれていて嬉しく感じました。
ここから振り返ると昔の川島村に当たる地域を一望出来ます。
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殿様が村を見守って下さるよう、中田藤左衛門サンはここに御寺を築いたんですね~。
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さて、左手が現代の本堂で立派な鉄筋コンクリート造りです。東向き。
正觀寺 久良岐のよし
昔の記録では東向きの客殿に御本尊の観音様を祀っていると書いて有るので、客殿が現代では本殿に成り、元来は本堂として機能していた客殿の右側に在る少し小さめの観音堂は観音堂として存続し現在になり新築され直してる最中の様ですね。
昔は神明社=天照大神を祀る祠(ほこら)も有った様ですが見当たりませんでした。
写真撮影し忘れたかな?
でも豊川稲荷サンと、弁財天様を祀る水源地が鎌倉武士以来の文化の形式でちゃんと祀られてました。
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御稲荷様は多くの御寺でも大切にされていますね~♪
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小生も行く先々で旅の安全を御加護頂いており感謝し崇敬しています。
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そして開運弁才天様。日本では水源地は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が最初に祀られ安全な飲み水に適した聖地として古代の信仰を引き継ぎ、そこにヒンドゥー教由来の同じ水神で財神で軍神でもあり文化と男性にモテモテの水の女神様でもある弁天様が源頼朝公等の鎌倉武士によって同一視されて祀られる様に成りました。
そして明治時代にプロテスタント国家のイギリスの支援下で近代化が推し進められ宗教改革も行われ、日本古来の自然崇拝と偶像崇拝仏教の弾圧が始まり国家神道が成立する過程で、ヒンドゥー教由来の仏教の神様として弁天様の名前のまま祀る事が良くないと考える人間が英国のプロテスタントに影響を受けたキリスト教に改宗した政治家やプロテスタント形式の国家神道を支持する神職によって日本の水神である“市杵島姫命(いちきしまひめ)”に挿(す)げ替えられてしまったのですが、仮に彼等が正しい歴史知識が有ったのなら、市杵島姫命ではなくて宇迦之御魂神に名前を戻せば良かっただけの話しなんですがね~。
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この御寺はちゃんと江ノ島の弁天信仰や鎌倉の宇賀福神社(銭洗い弁財天)と同じく湧水を大切にしている所からスタートしているので今も湧き水を大切にしています。
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掘りぬいた洞穴から水を獲得するのは鎌倉武士の知恵なので洞穴も御住職様が武士文化を理解されていて武士の信仰と同じ形式で横穴から水源を掘り当てたので弁天様を近現代に成って勧請したのかも知れませんね。
弁天様に関してまぁ詳しい事は風土記に書かれていないので、小生の予想としては恐らく新しい神社でしょう。
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う~ん・・・
それとも、もしかして正觀寺は再興開基で真言宗の前身寺院が存在したのかな?
観音様を祀る場所は真言宗に多いですからね。
この訪問日は中田家の殿様の事ばかり御住職に質問したので、御寺の起源の詳しい事は質問してませんでした。先に中田家が開いたという文献を読んで来てたので先入観が有ったのと、殿様の事で頭が一杯だったんですね(笑)。
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境内には色んな石仏様達がいらっしゃいました。
御寺の様子の解説はここまで!

では此処(ここ)からは、この御寺を開いた中田藤左衛門サンを皮切りに、いよいよ中田家の解説に話を進めます。
御住職の話しによると御寺を開いた中田藤左衛門サンは中田加賀守公の御子息、つまり北条家滅亡後、二代目の中田家当主に当たる方でして、以後、中田家の本家歴代当主は屋号として藤左衛門の名跡を継承したそうです。そんな訳で当初は正觀寺サンも開いたのが中田加賀守の御子息の二代目か嫡孫(ちゃくそん=跡継ぎの孫)の三代目か混乱したそうなのですが、近年、御本家で歴代御当主の戒名を確認した際に正觀寺を開基(かいき:御寺や神社を建てる事)したのが二代目で初代藤左衛門サンだった事が確認できたそうです。
中田藤左衛門サンは‟藤”左衛門と藤の字を含みますので中田家は藤原一族だと言う事も判ります。
ですから保土ヶ谷区~旭区一帯に多く現在も住む中田一族の皆さんは藤原家の末裔と言う事になるようです。因みに家紋は少し変わった沢潟(おもだか)紋です。
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抱き沢潟紋抱き沢潟紋と言います。
普通の沢潟紋はこんな感じ立ち沢瀉
少し違うのは何か意味が有ると思うんですが、この区別の由来は詳しくは知りません。
因(ちな)みに鎌倉市大町と横浜市港南区野庭地域には戦国時代に中田家から御姫様が嫁いだ遠い遠い親戚が今も住んでいます。
蔦の葉紋臼居家です。
臼居家は元は房総半島の小大名で、平安時代末期以来の武家の名門大名の千葉家の分家に当たります。
戦国時代に臼居杢右衛門(もくうえもん)サンが小学校~中学校位の年齢の時に、外祖父の原サンが孫の臼居家を乗っ取ってしまい、更にその城を房総半島南部の里見家に奪われてしまい支配権も治める土地も無くしてしまい最初鎌倉市大町に移住して北条家に臣従し、安土桃山時代に成ると北条家も滅亡してしまいましたので自分の領地の野庭の支配権を維持する為(ため)に、関東全域の女性を助ける寺院として有名だった北鎌倉駅近くの梅の綺麗な境内を持つ“縁切寺”の松岡御所こと東慶寺の寺領として野庭の統治をする政治工作をして徳川家に承認され帰農し、幕末を迎え、現代も大町と野庭に御子孫が住んでらっしゃいます。
この臼居杢右衛門サンの奥さんが中田加賀守の御姫様だったんですね。
つまり今の臼居家の御子孫達は中田サン一族と御姫様の血縁で繋がっている訳です。奇しくも中田家は戦国時代の北条家を代表する名将の北条綱成公とその副将の間宮康俊公と同じ官職の左衛門尉(さえもんのじょう)に由来する屋号を継承しています。
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三増合戦古戦場石碑
臼居杢右衛門サンは武田家と北条家の大軍団が神奈川県愛甲郡愛川町で激突した“三増峠合戦”で臼井衆の軍代として参戦し兵300の侍大将として北条綱成公の軍勢に与力しています。一緒に戦った上官の北条綱成(つなしげ)公が左衛門大夫(さえもんたいふ)だったので、この綱成公から左衛門尉の官位は、臼居杢右衛門サンと中田加賀守の姫様が結婚した時に北条綱成公から中田家の御曹司だった藤左衛門サンに官職が与えられたのかも知れませんね~。
もしかしたら・・・
中田加賀守の御姫様と臼居杢右衛門サンの仲人(なこうど)となり婚姻の話しを勧めた恋のキューピットは状況的に北条綱成公だったかも知れませんね~♪
・・・確証何にも無いですけど(笑)。
旧鎌倉郡の大町も野庭も守るのは北条綱成公の居城玉縄城と、北条綱成公の副将の間宮康俊公の笹下城でしたからね~。立地的にも笹下城と中田家の川島村は近いし、臼居家のいた野庭の野庭城と北条綱成公の玉縄城と間宮家の笹下城と中田家の川島村は全て御近所ですからね~。
臼居家の解説については以前書いた記事が有るので、御興味有る人はソチラも読んで下さい。
コレをクリックしたら記事読めます
●臼井城主の子孫の店❝Cafeこやぎ❞は旧鎌倉郡域にある緑に囲まれたカフェ。
美味しい葛餅と焙茶(ほうじちゃ)が頂ける店。ランチも人気。…横浜市。


さて、御寺の事が書かれている新編武蔵風土記稿では都筑郡川島村の項に登場する訳ですが、そもそも川島村が何処(どこ)か現代人は横浜育ちで小学校で横浜市歌を叩き込まれて横浜市かを暗唱出来るハマっ子ですら旧:川島村の範囲がどこか知らない人も多いので、川島村の範囲を一緒に見て見ましょう・・・
保土ヶ谷区川島町~東川島町~西谷町~旭区川島町~西川島町~三反田町~鶴ヶ峰~左近山~桐が作
kawashimamura
・・・ザックリこの地図一帯を指します。結構広い範囲ですよね。
御寺は現代では保土ヶ谷区に所属します。
しかし保土ヶ谷区で川島の地名の付く範囲は2箇所で、川島町と東川島町だけです。
川島村
白い範囲が川島町と東川島町。残りの旧川島村は全て旭区所属しています。
川島村は北条家の時代には川島村を中田加賀守と山川淸九郎の二人が所領として分けて持っていたと風土記に関わていますが、詳しい事は北条家が滅亡したせいで江戸時代には既に文献も残っていなくて山川淸九郎がどんな武将だったか分(わか)らなかった様です。
同じ様に中田加賀守は北条家滅亡直前には3万石の小大名に匹敵する所領を持っていた事も書かれていますが、北条家臣団の所領は1560年前後の所領役帳の更に写ししか現存しないので、安土桃山時代の頃の滅亡直前の各家臣の所得は現代では調べる事が出来ず、小生や盛本昌弘先生や正觀寺の御住職様の緒様に状況証拠を書き集めて推測するしか知る手立てが有りません。
まぁ~泉区に中田の地名が残るので中田家の発祥地は泉区で、戦国時代末期には現在の横浜市北部~川崎市西南部を最終的には治めていた代官と言うか、与力衆を付けられた部将に成っていたらしい事が何となぁ~く判ります。
所領役帳を見ると1560年頃は小机衆に所属している事が判りますが、他にも「中田家が蒔田吉良家与力だった」と言う事も中田家と同じ旧:北条家臣の間宮家の子孫で江戸時代の歴史学者の間宮士信サンが書いているので、紆余曲折有って軍団の中の部将級にまで最終的に出世していた事も推測出来る訳です。
軍団も小机衆から蒔田吉良家の世田谷衆と言うか江戸衆と言うか?蒔田吉良家与力に編成され、その段階で蒔田吉良家の現在の横浜市域北部の所領を管理する代官で部将に抜擢されていたらしい事も何となく解ります。
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蒔田吉良家は東京都世田谷区豪徳寺の世田谷城と、横浜市南区蒔田の蒔田城の2つの城を両方とも根拠地にしていました。
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前回書いた【休日雑記】でも書きましたが蒔田吉良家の蒔田城から程近い磯子区岡村町の岡村天満宮の旧参道大鳥居を昭和13年に単独で寄贈した中田サンと言う昭和初期の資産家がいるので、寄り親の蒔田吉良家の居城近くに所領を貰って土着した一族がいたのかも知れません。
因(ちな)みに以前、別の記事でも紹介しましたが中田加賀守の1560年頃の所領は以下の通りです・・・
拾壱(11)貫五百五十文 小机(領) 川島
 (※保土ヶ谷区~旭区の川島の地名の残る一帯)
 三貫八百七十文 小机(領) 矢上之内
 (※横浜市港北区日吉一帯)
           以上拾五貫四百弐拾文」
そして江戸衆の太田新六郎=太田康資公の所領にも中田領が登場します。
「一 太田新六郎知行
 (※以下中略)
   新六郎書立上被申員数辻 但此外私領之内を自分ニ寄子衆ニ配当候書立
 (※以下中略)
 稲毛(領)
 弐貫五百文 鹿嶋田借宿 中田分
 (※川崎市中原区刈宿一帯)
 同(稲毛領)
 小田中分 同人分」
どうやら最初は太田康資(やすすけ)公の配下で太田家から所領を貰っていたけど所領役帳の検地が終わる前に太田家が謀反して北条家を裏切って国府台合戦を起こした事で太田軍団が解体されて、それぞれ武士が北条家の直接雇用化して中田家の配下武将も与力から解体されて所領が少なかった時代の記録が上記の北条家所領役帳時点での所領にだったみたいです。
川崎市中原区に所領が有りますが、同じ地域は元々吉良家の殿様の領地だったので、やはり吉良家の与力に成っていた時期が有ると考えるのは自然ですね。すぐ近くに井田城も有り、中田加賀守の持ち城だった伝承も残ってますから。

そして先日書いた休日雑記、“ゆずの町”岡村町を散歩した時の記事でも触れましたが・・・
コレ⤵
●【休日雑記】2019年03月02日の訪問先・・・❝ゆず❞の磯子区岡村町(モンマルト・岡村天満宮・岡村梅林・久良岐能舞台)~小田原市曽我梅林。
どうやら南区~磯子区辺りにも御一族が住んでいて有る程度大きな財力を昭和初期まで持っていたみたいです。岡村町の岡村天満宮は料理業組合が支援した神社だったので、小生の予想では磯子~根岸が富豪の別荘地で花街も有った頃に中田家が料亭とかを運営したのかも知れません。
ブロガーで歴史仲間の“知の冒険サン”の話しでは昔は岡村の隣町の弘明寺にも花街が有ったそうなので、料理業組合はそちらの可能性もあるそうです。
知の冒険さんは小生とは異なり主に色町、大人の世界の花柳界の歴史を調べてる歴史オタク(笑)でして、全く女遊びに興味の無い小生ですが歴史として実際に現地に行き取材をするスタンスが小生と同じで記事を読んでいて楽しいんです。
智の冒険サンのブログのホームページ⇒https://chinobouken.com/
まぁ、だから弘明寺に花街が有った事とか御存知な訳です。

中田サンに関しては岡村天満宮の宮司様に御教授頂けました。
岡村天満宮の宮司様の話では、岡村天満宮の大鳥居を寄贈した中田家は杉田の中原に戦前までは居た家だそうで、戦国時代末期に岡村町辺りに所領を得ていて土着した分家子孫がいて第二次世界大戦以前まで地主として高い経済力を維持していたのかも知れませんね。
そして杉田は戦国時代~江戸時代中期の間宮家の領地でした。この間宮家が崇敬した修験道の神社が杉田の熊野神社(旧:大霊山泉蔵院桐谷寺)で、この宮司家の杉原家が平安時代末期に泉蔵院=山崎泉蔵坊を鎌倉市山崎で運営していて源頼朝公から修験道の大道場として崇敬を得ており、頼朝公の請願で泉蔵坊が中原の熊野神社を開き現在に至ります。
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泉蔵院についても解説記事を書いて有るので御興味有る方は御覧下さい。
これ⤵
●横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。
戦国時代の北条家は各家の舎弟を別の家臣の与力として付ける事で相互に謀反を抑止させたり、各家が得意とする分野の技術や知識を共有するパッケージみたいな感じで家臣団編成をどうもしていた事が、間宮家や宅間上杉家や蒔田吉良家の与力衆の苗字をみていると判ります。
つまり中原に近代まで網元として水軍の名残りを残しながら存続し今は市会議員をやっておられる関家や岡村天満宮の宮司様の御話しで中田家も中原に分家が移住し間宮家与力として水軍に編成され、房総半島の里見家の海賊の乱入に備える武士団を組織し、北条家の解体後も杉田に分家が残っていた事が解かる訳ですね。
そして岡村天満宮の杉原宮司様の御本家は泉蔵院熊野神社の社家でして、御爺様の代に熊野神社の方の神職を継ぐ方が居なく成ってしまったので岡村天満宮と宮司職を兼任したそうです。
つまり、その御縁で杉田中原の中田家が地元の泉蔵院と合わせて商業の神様でもある岡村天満宮の境内社稲荷社を崇敬していたので、隣町の岡村天満宮に石の大鳥居を寄贈したそうです。

恐らく中田家御一族は横浜市各所に御分家がもっと沢山存続している事と思いますが、今解るのはここまでです。

でも補陀山 正觀寺の歴史を辿るだけで横浜市の色んな歴史も判って周辺の町との繋がりも出て来て歴史好きには楽しくて堪らないでしょう?
きっと皆さんの御近所にも同じ様に今は住宅街の御寺だけど、実は凄い歴史偉人と関わりの有る場所が沢山あるはずです。

ですから皆さん・・・
御近所の御寺や神社や城跡の山や公園を散歩して見ませんか?凄い殿様との意外な結び付きを知ると地元に対する愛着も深まるはずです。
・・・では、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪

本日、日本は旧暦の小正月。
いよいよ、旧暦の正月も終わり季節も本格的に花やぐ春に入ります。
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今年は猪年。
因(ちな)みに日本で猪(いのしし)の意味で使われている“猪”の漢字ですが、本来の意味は“豚”です。
“豚”の本来の漢字の意味は日本語の“瓜坊(うりぼう)=子猪”の意味です。
日本人の言う所の豚は漢字では白猪と呼ばれています。黒豚なら黒猪に成るのかな(笑)?
中国、台湾、香港、マレーシア等の中華文化圏では豚は富の象徴であり財運と結び付けられています。
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日本で言えば井伊家の殿様を出世させた事で幸運の象徴化された世田谷豪徳寺発祥の“招き猫”文化みたいなモノかな?
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まぁ、だから彦根市のゆるキャラは彦根城主の井伊家の殿様、井伊直孝公の兜(かぶと)を被(かぶ)った豪徳寺の招き猫をデザインした“ひこにゃん”なんですよ。
そこら辺は以前、豪徳寺紹介記事で解説してるので御興味有る方は読んで見て下さい。
下⤵️クリックで記事リンク

それと小正月は満月を見る古代の祭事に由来しているんですよ~♪

明晩は満月🌕ですね~♪
だから猪=豚+金色の満月=金豚=発財=財運向上の日です(笑)。
なので写真も金豚(笑)。

神話の時代は考古学の縄文~弥生~古墳時代に当たりますが、当時の人々の生活と神社に残る神事は実は密接にリンクしてるんです。

現代の太陽崇拝の影響を受けた太陽暦で活動する欧州文化圏の暦に明治時代に改められる以前は、タイや台湾等のアジアの友邦と同じく日本でも月の満ち欠けを暦の基準にした陰暦(旧暦)で世界を見ていたんです。
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この間の皆既月食の写真ですが、古代の人にとって皆既月食はさぞかし恐怖に感じたんでしょうね~。
渡来人が来て稲作が持ち込まれる以前の我々日本の本来の在来種は縄文系の海洋民族遺伝子なので、海の潮の満ち引きに深い関係の有る月が生活の基準で、太陽信仰よりも月読(つきよみ)の神様つまり月読命(つくよみのみこと)が生活基盤だった名残りが今も有るんですよ~♪
今でも神職の方々が念じる蘇民祭=半年毎の大祓神事で祝詞(のりと)の口上は、天皇家の直接の皇祖神の天照大神ではなく、日本の原形=民族集団=各氏族の祖先神(部族長)の治める村々=原初の国々を生み出した、つまり初期の統治機構や交易の流通網を作り出したであろう伊邪那美命と伊邪那岐命の女夫(めおと)神様の名前ですよね。
その女夫神様から夜の世界を任せられたのが月読命で、大祓神事で半年間の“厄除”“魔除”“悪行をチャラ(笑)に”する御利益を授けて下さる素戔嗚命(すさのおのみこと)=牛頭天王(ごずてんのう)=武塔天神(むとうてんじん)様が治められた“海の世界”の生活にも深く関わっているんです。

あぁ~そうそう。
小生は敢えて夫婦(ふうふ)の字で夫婦(めおと)と書かずに江戸時代迄の人と同じ様に女夫(めおと)と書きます。
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“めおと”に夫婦の漢字を当て嵌めるのも近現代の漢字誤植ですから嫌いなんですよ。
同じ意味だから当て嵌めちゃったんですね。
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鎌倉観光すると昔からの鎌倉名物は女夫饅頭なので知ってる人も多いかも知れませんね。
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溝(みぞ)と書いて溝(どぶ)と読ませるのも近現代の漢字誤植です。
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田舎の人や城廓ファンは知ってますがドブは発音の通り“土腐(どぶ)”と正しくは書きます。
これは漢語ではなく、ずっと使われている日本語です。
よく城の沼堀の解説なんなかで目にします。

そして大祓は半年毎ですが、古代の人の1年は半年間でカウントしてたのだろうと言うのが最近の考古学の説だそうです。

途中から天照大神が重視されたのは、卑弥呼の頃の弥生時代の終わり~古墳時代の始まりに稲作が大々的に普及して生活基盤が農耕に移行したから、作物の実りや農耕に必要な灌漑用水の水の確保に支障が出る旱魃(かんばつ)=日照り=気温や日照時間、つまり天候と直接関係関係深い太陽信仰が重視されたからかも知れませんね。

さて!
今日、明日が発展と財運向上の金豚(笑)の日、御目出度(おめでた)い日です。
我々日本人の使う平仮名、片仮名、和体漢字のルーツ、漢字発祥地の漢人や友邦台湾の人なら日本の恭喜發財の日(笑)かな?

そして明日の満月の日~水戸市では水戸梅祭りが始まりますね~。
土曜日は皇太子殿下が天皇に即位される前の皇太子として最後のお誕生日でもあります。

皆さんにとっとも小生にとっても世界中の親日国の人にとっても向上と進歩と実りと幸の多い1年間に成ります様に~。



昨日は01月13日でした。
陰暦:建久十年一月十三日
陽暦:1199年02月09日
源頼朝公
820年前の昨日、源頼朝公が“落馬”して亡くなったと歴史に興味無い人は学校が教える事実確認してない適当な情報を擦り込まれる。

実は記録上は体調不良から死んでおり即死ではない。
頼朝公妻である北条政子様の妹、稲毛重成の妻が亡くなり供養も兼ねて相模川に橋がかけられ、その橋の開通式で落馬した。
昔の人は善行を行い死者を弔う事が有った。
つまり、開通式直前に稲毛重成の妻の、つまり義理の妹の供養の宴会に参加していた事が判る。そして体調不良に成る。
稲毛重成は後に源頼朝公の忠臣だった畠山重忠公に無実の罪を着せる讒言(ざんげん=他人を嵌めるデマ)を義理の父の北条時政等に言い、それにより畠山重忠公は殺害される。
更に稲毛重成自身がデマで畠山重忠を殺させたとして稲毛一族は北条家と当時はグルだった三浦家や伊豆の宇佐美に殺害される。
この時に稲毛一族を殺害して回った全員が工藤祐経公と伊東祐親公の遺産相続から発生した派閥抗争からみの人物だった。
曽我兄弟の敵討ち事件が北条時政による頼朝公暗殺未遂だと思われる一因でもある。
まぁ、この曽我兄弟事件の時は頼朝公の警護をした横浜市磯子区、歌手“ゆず”の岡村町一帯の殿様だった平子有長公の活躍で暗殺は阻止された。
そこ等辺は以前、平子有長公が開いた岡村天満宮の紹介記事でも触れている。
記事リンク⤵️
頼朝公の死亡の様子は小生は医療の専門化でも無く専門知識も無いが“落馬”する程の宴会からの急な体調不良は毒殺未遂だろう。
そこから急死してるので落馬に見せかけた脳挫傷や何かなら体調不良後→撲殺だろう。
“落馬”とされた相模川の橋の上の事件当時の随兵(親衛隊)が頼朝公を守れなかったと北条時政等幹部から言いがかりで、その場で全員粛清されてる。
これは随兵は戦闘に巻き込まれ殺害されていると考えた方が自然だろう。
状況的に法要の席で食事に混ぜたヒ素での暗殺が失敗し翌日式典で前後から視界を隠せる橋の上で随兵もろとも撲殺暗殺されたんだろう。 
実は頼朝公の没後に跡を継いだ御子息の源頼家公も同じ様に不可解な体調で危篤(きとく=意識不明)に成った事が有る。
そして頼家公は奇跡的に回復してから己が母方の北条家に暗殺されかけたと断定し「北条家討伐の密命」を和田義盛公等に出しているが、和田義盛公は三浦一族、そもそも、この時点で北条家のグルとまではいかなくても身内の三浦や縁の有る北条家を討つのに躊躇(ちゅうちょ)したのだろう。
和田義盛公の築城した城の造りは平安末期~鎌倉時代初期とは思えぬ、戦国時代の縄張りに酷似しており、所領は少なくとも街道に通行税を取り立てる関所を設けたり室町時代の武将の様に貨幣経済の概念を持っていたり理知的な人だった。だから和田義盛公は頼家公の密命の真相を“公平に確認しようとし”て北条家に密書を見せてしまう。
結果的に頼家公は北条家に薬殺ではなく、今度は入浴中に首を絞められ中々死なないので局部を切り落とされた挙げ句に惨殺される。
この直前、源頼朝公や頼家公が頼りにしていた比企能員公や梶原景時公も畠山重忠公同様に謀殺されている。
完全に計画的な将軍家潰しだろう。
欲にまみれた老害の北条時政とその子等が工藤兄弟や伊東祐親公の遺恨を利用した頼朝公暗殺による幕府横領を三浦一族と共謀したと考えた方が自然だろう。
そして、その陰謀の一つ畠山重忠公謀殺の実行犯が稲毛重成で稲毛重成の亡妻の父が北条時政に当たる。普通に考えて頼朝公は稲毛重成や北条時政に毒を盛られ暗殺未遂が起き、相模川の橋の上で護衛の武士もろとも殺害されたと考えた方が自然な訳だ。
そして全てを知る稲毛重成も謀殺された訳だ。

まぁしかし、北条家が天下を掌握しなければ北条時宗公は生まれなかったので、元寇から日本を守ったのは北条家とも言えるし、その政権の形を作り武士文化を生み出した源頼朝公はやはり偉大な人物だし、源頼朝公を初期に助けた最大の功労者の三浦義明公や三浦義澄公がいたから鎌倉幕府は成立した。
誤解される人も多いが実は源頼朝公は非常に恩情深い。敵対しても必ず事情を聞くし、相手側にやむを得ない事情が有り自分に矢を向けた武将も許し信頼し重用しているし、助命する事も多々有った。
畠山重忠公、伊東祐親公、大庭家なんかはその典型だ。
しかも頼朝公は口説いた女性は皆必ず大切にした。
決して冷淡な人ではなく理知的で人情にも厚い人だった。
逆に善玉と誤解する人の多い源義経は部下の手柄を自分手柄の様に報告するパワハラ、当時の武士は正義と礼儀が重要なのに戦いで打ち負かした敵の平家側の非戦闘員の女性をレイプした事がレイプされた女性の記録に残ってたり、口説いた愛人は何十人もいたり、その何十人の愛人を京都から逃げる時に同行させたのに脱落者を助けず見捨てたり。
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写真は金沢区の太寧寺。
別の弟の源範頼公は秦の翦将軍並みに優秀な大将だった上に、北関東の武士団に強く支持されていたので北条家や三浦家の南関東派閥から警戒され蟄居させられた上に、横浜市金沢区の太寧寺で自害に追い込まれた。
大寧寺の記事でその事は紹介しているので、興味の有る人は記事の下の“タグ「太寧寺」「源範頼」”をクリックすると太寧寺の記事を読めます。

色々、思惑が有り人の評価はねじ曲げられる。

一人一人の不幸なボタンの掛け違いが頼朝公暗殺や頼家公暗殺に繋がってしまったんだ。
ボタンの掛け違いは必ず最初からかけ直さないと大事故大事件に繋がる典型が源頼朝公の回りで起きた事件。

820年前の昨日はそんな日でした。

神奈川県で厄除けの御寺と言うと歴史を余り知らない人は立派な川崎大師に行く人が多くいますが、実は川崎大師の御利益は漁民の豊漁や徳川幕府11代征夷大将軍の徳川家斉公から深く崇敬され家斉公が子供28人も授かった子宝の御利益が江戸時代まで有名で厄除が御利益で有名だった訳じゃないんですね。
明治時代以前、本当に神奈川県の御寺の中で厄除けの御利益が有名で江戸の町民も知られた御寺が旧武蔵国久良岐郡に2箇所も在りましたが、旧武蔵国久良岐郡てのは今の横浜市南東部の地域です
そして、そのいずれの御寺も現在の横浜市南区の御寺である事を知っている人は今では横浜市民にも多くは無いでしょう。
一つは西向山乗蓮寺・・・
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西向山 乗蓮寺
・・・京神急行の駅名で有名な井土ヶ谷の地名由来に成った井戸の有る御寺で❝承久の乱❞の際に北条政子様が仏教草庵を建て疎開し戦勝祈願と厄除けを祈願した寺院です。
そして、ここに北条政子様が避難し鎌倉武士団の戦勝祈願をする理由だったと推測出来るのが直ぐ乗蓮寺の直ぐ近くの更に歴史の古い❝厄除け❞の御利益で有名な寺院が有ったからだと推測出来ます。
ここ等辺の事情は以前、乗蓮寺の解説を記事に書いて有るので御興味の有る方はそちらも御覧下さい。
クリックで記事にリンク⤵
西向山乗蓮寺…源頼朝公妻女北条政子様が開き、江戸時代の名奉行間宮忠次公が支援した、南区井土ヶ谷地名の由来の寺。

この南区の平地一帯は古代は海だった地域で井戸を掘っても余り質の良い水が出ませんでしたが乗蓮寺の在る地域の地下水脈の水質が良くて北条政子様は化粧を含めた生活用水に適している事をしって草庵を建てたんですね。つまり乗蓮寺は元々は生活の拠点として開かれている訳です。
北条政子様木像画像
※写真は乗蓮寺に在る北条政子様の彫像、生前に模写されたた生き写しの木造です。
小生は御寺のホームページからの転用を御住職に取材した際に御許可頂いておりますので、この画像を転用する場合は読者の方は御自分で乗蓮寺御住職様に御挨拶の上、御了承頂ける様に努力して下さい。
さて、では彼女は何の為にここに住んだのかと言うのは、彼女は鎌倉幕府と旧政権藤原氏側の朝廷が対立して承久の乱が起きた不安な時期を亡夫である源頼朝公との夫婦の思い出を回顧して心の支えとして過ごしたかったのと鎌倉幕府の未来を憂(うれ)いて❝厄除け❞❝戦勝祈願❞をする場所に通う必要が有ったからでしょう・・・
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その異名も厄除け大師として江戸時代までは大変に賑わった真言宗の大寺院だった瑞應山 蓮華院 弘明寺です。この弘明寺と乗蓮寺は徒歩でも通える距離に近在しています。
弘明寺と乗蓮寺の位置関係 久良岐のよし
今では弘明寺と言えば地名位の認識の人が多いですが、京浜急行弘明寺駅や現在の弘明寺商店街はそもそも明治政府の仏教弾圧の時期や戦後の宗教弾圧で弘明寺の境内地を政府が接収して造った場所なんですね。
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この弘明寺商店街はそもそも弘明寺の参道だった訳です。
今では弘明寺の大岡川沿いは桜の名所としても有名ですね~♪
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あ~将来かけれる女性と観音様に縁結びして頂いて彼女成って貰って一緒に散歩したいな。毎年カップルと家族連れだらけ一人は寂しい・・・
んな事ぁ~今必要な話しじゃなくて御寺の解説。
・・・まぁ、弘明寺は明治時代には政府の宗教改革の失敗のせいで一時、無住職に成ってしまい戦国武将❝間宮宗閑の与力衆❞が寄贈した扁額や諸々の寺宝も散佚してしまいました。
そこ等辺の話しは多くの学者が間宮家の武将の戒名を間違って認識してる事を指摘した解説記事で紹介しているので専門的な話に興味が有る人は御一読下さい⤵
クリックで記事にリンク→【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
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さて、本当に桜の綺麗な大岡川を横断する弘明寺商店街を京急の弘明寺駅側に通り抜けると現代の弘明寺の山門に行き当たります。
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瑞應山 蓮華院 弘明寺ここは伝承では養老五年(721)年にインドから来日した高僧の善無畏三蔵法師が聖域を示す結界石を置いた事で仏教の道場として発展して行く事に成ったのですが、これは恐らく井土ヶ谷の乗蓮寺がヒントに成ります。要するに清涼良質な湧水が有ったのでしょう。現在は山の中腹に在る弘明寺ですが、背後の墓地や南図書館の用地に成っている場所は谷地形です。橘樹郡衙も丘の上に存在しますが水の湧かない場所に人は住めないので、弘明寺が聖地化したのは水脈が露出した場所だったからでしょう。
そして善無畏三蔵法師が結界を張った場所で弘法大師空海和尚が国家安寧国民鎮護の厄除け護摩行を行ったと伝承していますが、これは恐らく朝廷からの依頼による関東地方の旱魃か冷害による不作の飢饉に対応した❝雨乞い❞か❝豊穣❞祈願だったと小生は推測しています。
実は弘明寺は御寺ですが神仏習合時代の習慣が今も残っていまして、弘明寺鎮護の神様は御稲荷様と熊野権現と八幡大菩薩と天満大自在天神(菅原道真公)や他にも諸々祀られていた歴史が有り、特に御稲荷様が鎮守の神様だったようです。
実は今も稲荷神社と熊野神社は嘗(かつ)ての弘明寺の境内地だった丘に現存しています。
弘明寺、中里温泉、熊野神社位置関係 久良岐のよし
位置関係を見て見ましょう。弘明寺の山の裏側に両方ともあります。
稲荷社と熊野社はいずれも元来は水源地に祀られる神様です。
熊野神社はそのまま、稲荷社は中里温泉の中に残っています。
この中里温泉はお婆ちゃんの女将さんが檀那さんが倒れた後も健気に守っているのですが、ネット世代の阿呆どもがネットで予約出来ないのと女将さんが御高齢で電話で耳が多いのをちゃんと確認もせずに「休業と言うデマ」の心無い書き込みをGoogle mapにしていたのを小生が削除させるまで掲載されてしまったり可哀相な状態に成っていました。
古い温泉料亭旅館で昔は弘明寺の参拝客で賑わい、料理も有名で300人クラスの宴会もしょっちゅう開かれていたそうです。小生は宿泊したいのですが3年前に直接お話を聞きに伺って「いつか泊まらせて頂きたいです~」と雑談した所、女将さんに「2人で来てね~」と❝早う彼女つくれ❞と背中を押されてそのまま3年が過ぎて未だに泊まる機会を得ていません(泣)。
熊野神社も中里旅館も写真撮影した筈なのですが、iPhoneがぶっ壊れてデータが吹っ飛んだ時期だったらしく写真が残ってませんでした。
さて、そんな訳で古来重要な土地であり大和朝廷直轄地の久良岐郡の役所である郡衙が在った丘の上に在る御寺なのですが、では何でここが郡衙だったかと言うのは❝飲み水❞以外にもう一つ❝水❞の理由が有ります。
弘明寺主変古代の海岸線 久良岐のよし
この地図は、江戸時代に開削された八幡橋八幡神社の地域を除いて❝白い部分は全て古代海の底❞だった地域です。つまり弘明寺は重要な古代の港湾を御膝下に抱える地形で軍港や水運の物流拠点に適した場所だったので郡衙が築かれた可能性が有る訳ですね。そして対岸の本牧半島は朝廷の牧場が有りました。幕末~近代に吹奏楽発祥地で国家君が代とテニス発祥地にも成っている妙香寺も本牧に在りますが、やはり前身寺院は弘法大師空海和尚が開いた御寺だったと伝わっています。
重要な港湾を抱え、農業に適した沢が有る場所なので郡衙に成ったのでしょう。
そして古代人の集落を支えた湧水地は古代の宗教では必ずと言って良い程、聖地化しますので、郡衙が廃れた後も、そこを善無畏三蔵法師や弘法大師空海が聖地として訪れ国家安寧国民鎮護の厄除け祈願を行った事がなんとな~く解りますね。
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空海和尚は国の命令で干ばつ対策の雨乞いを行っていた事が解かるのですが、尾張国の神社の一之宮である真清田神社の池でも雨乞い神事を行っています。
さて、そんな訳で古代から重用視された聖地だったので弘明寺には北条政子様は御夫君の源頼朝公が健在の頃に御一緒に戦勝祈願に参詣されたそうです。
その際に北条政子様が馬を洗ったと伝承する滝が近年まで弘明寺の近郷に在りました。横浜市の河川改修で消え去った史跡の港南区野庭~上永谷の間の鎌倉街道下道に沿って流れる馬洗い川の滝ですね。
この北条政子様が通った道は途中に天谷(てんや)の地名が残っていたので、そこは古代大和朝廷の兵站である店屋(てんや=基地)だった事が解かります。
鎌倉街道は鎌倉幕府が整備した道と認識する人が多いですが、その鎌倉街道下道の先には天皇家の勅願所だった師岡熊野神社が在り綱島街道や中原街道や厚木街道や八王子街道や橘樹郡衙の橘樹神社の丘一帯に接続する重要な道でした。その沿線に在るのが弘明寺な訳です。
その道を北条政子さんは通り承久の乱の際に亡夫頼朝公が打ち立てた鎌倉幕府と子に等しい御家人達の家族を守る為に、弘明寺に戦勝祈願厄除けに長期継続的に参拝する必要が有って弘明寺近くに乗蓮寺を建てた事が解かりますね。
さぁ、弘明寺の施設その物の説明に移ります。
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山門は仁王門です。
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立派な金剛力士像が参拝者を出迎えてくれます。
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この山門は江戸時代迄有りませんでした。てか弘明寺商店街の入口辺りが本来の御寺の入口でしたからね。そこに山門が在った訳ですから別物です。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
そして、そこには間宮家の間宮宗閑同伴衆が奉納した❝弘明寺❞の扁額が有りましたが、現代ではこの扁額は失われ❝瑞應山❞の新しい扁額が有ります。
間宮家が奉納した物は臨済宗建長寺の高僧玉隠和尚が揮毫した物なので今でも現存していたら大変価値の有る文化財指定されてもおかしくない物でした。
因みに江戸幕府の役人のミスで間宮宗閑=間宮康俊公と言う認識を大半の歴史家は江戸時代の誤記の多い寛政重修諸家譜をテンプレ鵜呑みにしてますが、この弘明寺の扁額の存在が既にその認識が誤りである証拠に成り、年代的に間宮康俊公の父上の間宮信元公の法名が宗閑だった事が解かります。
間宮家臣団にとっての間宮康俊公菩提寺で江戸時代と通じて追善供養が行われた鶴見区下末吉の寶泉寺では❝宗覚❞が間宮康俊公の法名と伝わり、間宮家が申告した寛政譜でも宗覚が康俊公の法名として記されていますが、江戸時代後半の幕府の役人が江戸時代初期の幕府のミスを隠す為に改竄した寛政重修諸家譜では役人のミスで宗閑を康俊公の法名として徳川家が建てた伊豆の宗閑寺の名前をミスでは無く粉飾する為そのまま掲載して宗閑にしてしまっています。
山門と扁額の解説はここまでにして参道を進みましょう。
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山門左手には本堂とは別に御札や御守りの販売所が有ります。
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階段を上らなくても足腰の弱い御老人が観音様を御参り出来る様に、階段の下にも観世音菩薩様が祀られています。
そして石仏様・・・
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人々の往来を見守る馬頭観音様。小生がいつも祈りを捧げる神仏の一つ。
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よく道路沿いに祀られていて今では信仰心の無く成った日本人から見向きもされない事も多い仏様ですね。小生は大切にしています。
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階段を登り進めましょう!
左手に身代わり地蔵菩薩の看板が見えますね~。
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このお地蔵様は比較的新しい作りですが、身代わりに成って頂きたい事が有る人は是非、御参りされては如何でしょうか?
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御花がささげられて大切にされてますね~。
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弘明寺の顕彰碑かな?
山野井と見えます。この山野井さん、戦国時代にの御先祖は絶対に間宮家臣だった人で、上大岡の地主の一人で今では御子孫は不動産屋さんに成っています。
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階段を登りきると本来は護摩堂だったはずの御本堂が見えます。
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御庭には元々境内地を取り囲む様に善無畏三蔵法師によって配置されていた結界石が移設保存されています。
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その左手に鐘楼。
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大晦日に来た事無いので判りませんが、多分、除夜の鐘突きが行われるのでしょうね~。
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そこから見た御本堂。
この写真を撮った時は凄く朝早く参拝したので左手の寺務所は開いてませんがちゃんと御朱印や御守りを受領する事が出来ます。
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厄除け護摩炊きの時間などは弘明寺サンの公式ホームページをご覧頂ければ良いと思います。
護摩札も3000円~で授与して頂ける上に2つ迄祈願を祈祷して頂けますよ~。
ここ数年は毎年正月、檀家サンに混じって厄除けして貰ってます。それと厄除け開運は土地神様の神社でも御祈祷頂いてます。
尊敬する殿様が崇敬した御寺と、尊敬する殿様が開いた神社で開運厄除け受けたから昨年も生命に関わる怪我もせず無事に過せました。
御陰で昨年末も股間を大火傷した際もチ〇チ〇は無傷ですみました(笑)。
「愛人作って雇わせた」とかデマを一部のフザけた人の心も平気で無視して笑いの種にする人に拡散されて既成事実化しかけた誤解も無事に他の同僚達に解く事が出来て、寧(むし)ろ噂を流した年配男性や中年オッサンの方が酷いし君は絶対にそんな事はしないと既婚女性の同僚達からも擁護して貰えましたし。本当、弘明寺の仏様と土地神様の御陰。
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御本堂右手には説明の看板が有ります。
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この木造花瓶を修理したのが間宮信俊公で、修験道信者として真言宗寺院に関わる際は佐々木一族の通し名❝信❞の字の本来の名で署名していたと思われる❝間宮康俊❞公と同一人物でしょう。その証拠に間宮信俊公の戒名も❝宗覚❞で伝わっていますし、別人とするものも兄弟と伝わっているので本来の信俊の名と北条家臣としての康俊の名が別々に子孫に伝わり江戸時代に宗教的教養を失った子孫の間に混乱を生んだんでしょう。
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坂東第十四番霊場。御本堂はとても立派です。
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扁額も色んな種類が掲げられています。
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内陣遠景。
御本堂の左手にも別の御堂が在ります。
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この階段を登ると・・・
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大聖歓喜天の御堂が在ります。これが弘法大師空海和尚所縁の場所ですね。
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さて、御本堂の横の寺務所の対面にもう一つ建物が在ります。
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コチラには弘法大師様の木造が祀られています。
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厄除大師の扁額が有るので良く解ると思います。大正時代も有名だったみたいですね。
こちらには頼朝公が深く信仰の対象とした八臂弁財天様や・・・
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他にも閻魔大王とか・・・
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・・・奪衣婆とか色んな神仏の彫像が祀られています。
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あと御庭では御地蔵さんも参拝客を出迎えて下さいます。
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御地蔵さんて可愛いですよね~♪
さて、弘明寺、とっても歴史が有って庶民に馴染んで、その凄さに反して親しみ深い御寺でしょう?
そうそう、この御寺から駅に行く途中に美味しいタコ焼き屋サンが在ります。
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梅鉢流まみい

この御店、大阪の御店の系列店でして京都で生活していた事の有る小生が食べても安いのにとっても美味しいと思います♪
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たこ焼きだけじゃなくて今川焼も有ります。
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今川焼1個とタコ焼き6個のsetで確か380円だったかな?凄く美味しいので弘明寺参詣の際はおススメですよ~♪

さてさて、昔の人達が聖地として崇拝したのに庶民に距離の近い弘明寺、どうでしたか?
皆さんも毎年の厄除け開運や夫婦円満や色々、御祓いと心願成就の祈祷と、新年や4月の花見や周辺商店街の散歩のついでに厄除けの護摩炊きを受けて見て文化や散歩を同時に楽しんで見ては如何でしょうか?

弘明寺はとても歴史の古い御寺ですから当然関わった人も凄い人が多い訳ですが、きっと皆さんの御近所の何気ない御寺や神社や城跡の山や公園にも凄い歴史偉人と繋がりの有る場所も有る筈です。
皆さん、文化史跡や自然や城址の公園を散歩して気分転換してみませんか~?
きっと、そこで看板を読んで凄い人との繋がりを知れば、皆さんも自分の住む町に更に愛着が湧くはずですよ~♪

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪







 

戸塚区品濃町は今では現代に成って地名を改竄された東戸塚の地名の方が有名ですが、実はそこに在る白幡神社を通じて室町時代初期~安土桃山時代~そして幕末の新選組に繋がるかも知れない歴史を辿る事が出来る由緒ある場所なんです。
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品濃白幡神社でも、今は品濃町と書かれる地名ですら江戸時代の人からみたら新しい当字だったんですよ!
江戸時代には永谷郷品濃村と書かれていましたが、これは元々は秋葉郷信濃村だったと新編相模風土記稿に解説が記載されています。
・・・横浜市民は移住者ばかりなので、昔の地名を知る人も少なくなってしまいましたので今回は品濃町の白幡神社と品濃の紹介を通じて少し東戸塚に関わった歴史偉人の紹介もしたいと思います。
その為(ため)に先ずは戸塚区を離れて神奈川区の歴史を少しだけ話す所から始めたいと思います・・・
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室町時代~戦国時代まで京急神奈川駅一帯に在(あ)った権現山城と言う海に突き出した半島に築かれた御城が在りました。この御城の築城者は何と室町幕府初代征夷大将軍と成った足利尊氏公でした。
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権現山城址(本覚寺~幸ヶ谷公園一帯)
この尊氏公が築いた御城は戦国時代にも再利用され、伊勢盛時 入道 宗瑞(そうずい)=北条早雲公の家臣で相模国十四騎筆頭に上げられた名将の間宮信冬公が籠城し扇谷上杉家の大軍相手に大活躍した舞台でも有ります。
実は品濃町の白幡神社、この足利尊氏公の実弟と、間宮信冬公の御子孫と関係が有ります。
更には足利尊氏公の宿老だった斯波高経(しば たかつね)公が発給した文書に品濃町の事が書かれていたりします。
現在、私達が郷里の歴史を簡単に知れるのは新編相模風土記稿と言う地誌を間宮士信(まみや ことのぶ)と言う人が東京大学の前身と成った昌平坂学問所の頭取と成って編纂して下さったからなのですが、この間宮士信サンは品濃や白幡神社の歴史紹介文も掲載して下さっています。
新編相模風土記稿 鎌倉郡巻之三十三 品濃村
このページに江戸時代よりも更にずっとずっと前からの事の記録や伝承を見聞きして編集してあります。
実はこの本を書いた間宮士信公が戦国時代に権現山城の戦いで活躍した間宮信冬公の御子孫に当たる人物で、そして間宮家は恐らく品濃の白幡神社を開いた新見彦左衛門サンとも戦国時代には同僚だったはずです。

さて、又、戸塚区品濃から少し離れて鎌倉市浄明寺地区の浄妙寺の御話をします。
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稲荷山 浄妙広利禅寺(略称:浄妙寺)
この鎌倉の浄妙寺は臨済宗鎌倉五山の第五位、つまり東日本の臨済宗寺院で第五位の格式を持っていた寺院なのですが、元々は足利義兼公が開いた御寺でした。
足利義兼と言う人物は足利尊氏公の御先祖様です。この浄妙寺は足利家がまだ鎌倉幕府の幕臣だった時代に足利家の別宅としての機能も持っていた大寺院でしたが、足利尊氏公が征夷大将軍に成り北朝の室町幕府が樹立すると、南朝の後醍醐天皇と対立し南北朝時代に突入します。その際に起きた軍事衝突の一つが観応憂乱(かんのうのゆうらん)と呼ばれた大規模で且(か)つ1349年~1352年にも及び長引いた戦乱でした。
この観応憂乱では足利尊氏公が北朝、尊氏公の実弟の足利直義(ただよし)公が南朝に付いた事で武士の親分である足利家兄弟間の大戦争に発展してしまいました。
初期の室町幕府では関東を治めていたのが足利直義公で、観応憂乱が起きると品濃の名が出る文書を残した斯波高経公は足利尊氏公と足利直義公の間で政治的にアッチに付いたりコッチに付いたりしていました。
結果的に観応憂乱は足利尊氏公の勝利に終わり、足利直義公は暗殺されます。そして足利家の菩提寺であり別荘でもあった浄妙寺の境内の裏山に菩提を弔う為に御廟所が築かれ現存しています。
実はその足利直義公が鎌倉の建長寺に御寺の領地=寺領(じりょう)として品濃を寄付した事が解かる文書の内容が新編相模風土記稿に紹介されています。
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巨福山 建長興国禅寺(略称:建長寺)
それによれば足利直義公が建武元年(1334年)に今も建長寺に存在する正続院と言う塔頭(たっちゅう=会社で言えば子会社みたいな感じ)の寺院に品濃村を寄付しています。
※建長寺に御参りした時に正続院も御参りに立ち寄ったのですが写真撮影してませんでした(笑)。
村を御寺に寄付するってのは現代人にはパッとしない感覚かも知れませんが、要は御寺の年貢=収穫される御米を税金として徴税する権利を建長寺の正続院にあげて御寺の収入源を確保してあげた訳ですね。この様な御寺の土地を❝寺領(じりょう)❞と呼びます。
それを受けて、足利直義公の腹臣だった斯波高経公は品濃村に乱暴狼藉(らんぼうろうぜき=略奪)をしてはいけないと言う禁制の掟書(おきてがき)を発行して村を守った事が記録に残っています。
この事から斯波高経公は内政でも活躍していた事が解かりますが、軍事面でも新田義貞公を倒した程の名将でした。
さて、現代の品濃町に風景を戻して、今度は安土桃山時代、天正十八年(1590年)つまり織田信長公が亡くなった天正十年(1582年)から8年後の話しに移ります・・・
当時の品濃は山坂がキツイ村で近くには東海道が通る要所でもありました。
現在では品濃は❝東戸塚オーロラシティ❞として開発されてしまい、AEONモール等の巨大商業施設の建設によって当時の風景は余り残っていません。
しかし、品濃白幡神社の鎮守の森、神社裏の白幡山公園に行くと当時の地形の様子が少しだけ残されています・・・
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白幡山公園
この公園は大きくはありませんが、昔の侭(まま)の地形が残っていて少し高台なので階段を上る必要が有ります。
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公園としては余り大きく有りません。
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でも昔から村を見渡せるビュースポットだったらしく、村民が建立した記念碑が今も残されています。
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夜景見るのに合わせて少し遅い時間に行ったので、碑文を読む事は出来ませんでした。
「夜景を見るのに合わせて」と書いた通り高台なので夜景を見る事も出来ます。
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今は手入れされていない林ですが、昔は神社の森として、村を見渡す場所としてちゃんと村民によって樹が伐採されて手入れされていたと思います。
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今でも手入れすれば、もっと綺麗な夜景を見られそうですね!
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階段横の花壇には綺麗なパンジーが咲いていました。
実はこの品濃を江戸時代に治めた新見さんが徳川家から領地として保証された1590年は、徳川家康公が関東に引っ越して来た年でした。この頃、家康公は現在の港南区の野庭や鎌倉市植木や藤沢市村岡、平塚市中原なんかに良く鷹狩に来られていた時期でしたが、この頃に新見家の御先祖様の新見彦左衛門さんは品濃町を知行されたそうです。その時の石高は250石と伝わります。
本牧奉行として今の横浜市長みたいな仕事を江戸時代にしていた間宮直元公は基本収入1000石で凡(およ)そ6000万円位の年収だったので、250石だとザっと1500万円位が新見サン家の年収だったみたいです。今の感覚で言うと村長さんみたいな役割ですので、その1500万円で村の開発や治水なんかも行わなくてはいけないので決して生活は楽では無かったと思いますよ。
さて、そんなに武士も生活は楽では無く村人に寄り添って村長さんみたいに働く訳ですから、その部下には町内会長みたいな庄屋さん達がいて一緒に村を運営し贅沢な食事も出来なかったと思います。
白幡山公園から坂を下り現在の白幡神社に向かう途中、昔の村人が拝んでいた石仏様が今も通行人を見守って下さっていました。
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御厨子を開いて御参りさせて頂きましたが既に日没で何の仏さまが祀られているか確認出来ませんでしたが、今も町の人に大切にされている様で御供え物がちゃんと有りました。
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更に神社に向かって歩くと昔は宮司様が住んでいたかも知れない氏子会館が在ります。
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昔は宮司様が住んでらっしゃったのかな?
実は横浜市南部の神社の多くは鎌倉時代から修験道の2系統の家系によって管理されていたんです。
1つ目は亀谷福禅寺権現堂(かめがやつ ふくぜんじ ごんげんどう)
2つ目は大靈山山崎泉蔵坊(だいれいさん やまざ きせんぞうぼう)
この二つは何(いず)れも修験道の大道場で、とても由緒有る神社であり寺院としての道場機能も有していました。新編武蔵風土記稿を読むと解かりますが、旧鎌倉郡と久良岐郡域の内、江戸時代に本牧奉行間宮家本家と、分家で江戸幕府鷹匠頭の杦田(すぎた)間宮家が支配した地域では、権現堂と泉蔵坊が神社を分けて統治していた記録が有ります。そして、この両社は源頼朝公が支援した修験道道場でしたので、その支配は間宮家の統治によるものと言うよりは鎌倉時代からの統治機構の名残りだったのかも知れません。
その泉蔵坊や富岡八幡宮や品濃白幡神社や永谷神明神社に影響力を持っていたのが間宮家と同じ旧北条家臣で北条家と同族の伊勢平氏の関家でした。
因みに家紋を比較すると色々と面白い宮司家の秘密が解かったりしますよ・・・

北条家:三鱗紋と対蝶文
三つ鱗紋対い蝶紋

関家 :揚羽蝶
揚羽蝶紋

揚羽蝶の家紋から両者が伊勢平氏で同族である事も判る様に成っている訳です。
では間宮家と福禅寺権現堂家の家紋も比較しましょう・・・
間宮家:隅立四目結紋
隅立て四ツ目結び紋
権現堂:丸に隅立四目結紋
丸に隅立て四ツ目紋

現代人には「家紋なんて好きに使えばよいじゃん?」って意味も理解していない教養も文化も無い人もいますけど、ちゃんと自分が何処の出身のどの家系か、いつの時代に分岐したり活躍したかを辿(たど)れる言うなればレポートの索引のページを表す記号みたいな役割が家紋には有るんですよ。
因みに〇で囲みの有る家紋は一般的に本家から独立する時に分家が与えられた家紋だったり、神社仏閣の寺紋や社紋なら支援した殿様に重視され大切にされた証として〇で囲んだ殿様の家の家紋の使用許可を頂く場合が多く有ります。
例えば・・・
三つ鱗紋
北条家の三鱗紋ですが、鎌倉時代の鎌倉幕府執権北条家や戦国時代の北条家や分家の玉縄北条家や神保家が支援した御寺や神社では下の家紋が使われます。
丸に三ツ鱗紋
丸に三鱗紋。
これを使う神社は鎌倉幕府執権の北条時頼公が支援した鎌倉の宇賀福神社(銭洗い弁才天)や、金沢北条実時公と戦国時代の北条家と江戸時代の間宮家が支援した南区の寶生寺、玉縄城主北条綱成公が支援した磯子区の龍珠院、金沢区の伝心寺等が有ります。
ね?家紋にも意味が有るんですよ、家系や神社仏閣の歴史を辿れる。
権現堂家と関家が横浜市南部の神社仏閣を守った歴史の解説は少し長くなりそうなので別記事にして解説します。
コレが追加解説記事リンク⤵
戦国時代~明治時代迄、横浜市の神社仏閣を守った旧北条家臣団。
権現堂松本(間宮)家と関家。

ちょと長くなりそうなので、商売繁盛の御利益が有る品濃白幡神社に話を戻します。
さて夜の神社もライトアップされていると幻想的で美しい物でして・・・
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・・・品濃の白幡神社もとても良い雰囲気です。
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掲示板に御正月に向けて巫女さんバイト募集の告知が有りました。
近隣の学生さん~主婦の方まで、28歳以下の方、御手伝いしてあげて下さい(笑)。
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今は開発されて住人も増えたので除夜祭は大変賑わうんでしょうね~!
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境内には由緒が説明されていますが、この説明で江戸時代迄と今では御祭神が変わった事が解かります。
先ず御祭神は源義経とされていますが、これは近代以降に祀られた神様です。
新編相模風土記稿にも書いて有りますが品濃白幡神社の御祭神は神社が開かれた時からずっと源頼朝公ですし、白幡明神とか白幡神社の神様は何処も源頼朝公です。
その証拠が源頼朝公の治めた鎌倉幕府の武士達の精神的な支柱とも言うべき鶴岡八幡宮の境内社である白幡神社です。
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鶴岡八幡宮 白幡神社
一般的に白幡神社と言うのは源頼朝公を神格化した神社で、鶴岡八幡宮から頂いた御分霊を祀る御社です。鎌倉の鶴岡八幡宮に在る白幡神社は紅葉の名所としても有名だったりします。
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ついでに言えば現在、品濃白幡神社では源義経公の名が御祭神として説明書きされていますが、源義経公は別に作戦立案、つまり軍事の天才ではありません。彼の実行した有名な鵯越の逆落としと言う奇襲作戦を立案したのは都筑区茅ヶ崎城主で摂津国多田荘出身の多田源氏の多田行綱(ゆきつな)公、その具体的な作戦を遂行プランを計画したのは三浦半島佐原城主だった三浦一族の佐原義連公で、この二人の名軍師の功績による物です。
源義経公は少数の部隊を率いて局地戦を実行する命令遂行能力の高い武将でした。
そもそも義経公には自分の軍団がいませんでした。ですから実際に兵の指揮をしたのは現在の神奈川県湯河原町一帯を治めた土肥實平(どい さねひら)公や秩父平氏の畠山重忠(はたけやま しげただ)公等の統率力に長けた名将達でした。つまり名将達に補佐されながら、困難な局地戦を遂行した能力に長けたレンジャー部隊の小隊長みたいなイメージをして頂ければ解り易いかと思います。
全軍を指揮する統率力では無く、難易度の高い局地戦の作戦を実行する能力に長けた武将。
ただ、性格的に承認欲求の強い人だった様で自分の率いた部隊の功績だから部隊の功績を自分の手柄として社長であり兄である頼朝公に報告したりしてます。
この義経公の行動は極めて政治的で、源頼朝公を総大将として仰ぐ鎌倉幕府の南関東の御家人達や、頼朝公を支持する次兄の源範頼公の後ろ盾である北関東の鎌倉武士団には看過出来る事ではありませんでした。何故かと言うと義経公を源氏の旗頭に据えて東日本の武士団をコントロールしたい奥州藤原氏の思惑と義経公の行動は極めてリンクしているからですね。後白河法皇に義経公こそ源氏の大将に相応しいと惹起させ源氏内の政治争いを誘発しかねない危険な認識が義経公には欠如していたか意図的に行ったとしか思えない訳です。
だから軍監(ぐんかん=査察官)の梶原景時公は源頼朝公に「弟さんの源義経さんが御自分の手柄として御報告された内容が全てではなく、頼朝公の部下の各武将達が立てた功績です」と事実を釘刺して報告されていたりします。

因(ちな)みに余り歴史に興味が無い人は御存知無いと思いますが、源義経公の奇襲部隊の作戦成功を生み出したのは、本隊の大軍を見事に統率して敵本隊を釘付けにし戦況全体をコントロールし完全制圧した陽動作戦や兵站の確保を務めあげた名大将の源範頼(のりより)公の功績による所が大きいのが歴史事実です。更に言えば鵯越の逆落としはやったは良いが奇襲をかけた先で少数過ぎて孤立し窮地に陥っており、範頼公の本隊の正面突破が少しでも遅れていたら義経公の率いた部隊は全滅する危機に瀕していたのが事実です。
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源範頼公に関しては先日、金沢区太寧寺の紹介記事でも書いので御興味が有る方は読んで見て下さい。
太寧寺の紹介記事リンク☞「ココ」クリック!

源義経公のイメージは平和になった時代に読み物として書かれた戯作(げさく)の中で演出されたイメージが大きく現代人に影響を与えていて、実像を現代社会に例えるならば差し詰め典型的な創業者一族の中の坊ちゃん上司、決断力に優れているけれど独力で得た地位では無いので例えば個人的な営業能力が高くても兄が居ないと地盤と職位が無いと言うのが実情でした。
しかも源義経公の後ろ盾には長兄の源頼朝公に非協力的な勢力の陸奥国の藤原氏がおり微妙な立場で、ややもすると兄弟間で争いに発展する危険性は当初から有った訳ですね。
だからこそ、兄の頼朝公や鎌倉武士団からは源義経が勝手に鎌倉幕府の許可なく独断行動で後白河法皇の家臣として検非違使(検察官・警視庁長官)の官職に任官した事を問題視され、後に敵対行動とみなされた訳ですし、彼は実際に後白河法皇に利用され鎌倉幕府御家人達を敵に回した訳です。
あと愛人を何十人も作っていた事も史実で知られているので、まぁ~女性視点から魅力的で非常にモテた様です。奥州への逃避行の際に愛人を沢山連れていた事が歴史事実として知られています。
だから歴史小説やドラマと違って静御前に一途だった訳ではありませんが、品濃白幡神社の御祭神なので男性からみたらモテ力向上とか縁結びの御利益を与えて下さる御祭神とも言えるかも知れません。
源頼朝公
まぁ、一般的に元々の品濃白幡神社の御祭神として先に祀られていた兄君の源頼朝公の方が愛人が沢山いるイメージ有りますが、それも歴史事実を調べなかったり面白く脚色する小説家のせいです・・・
歴史的には正妻の北条政子様以外は実は余り多くの女性と恋愛をした訳では無くて、北条政子様以前の本妻の伊東家の八重姫が1人、その後に側室の姫の1人が亀の前、もう一人、恋愛は合計4回しかしてないんですよ。当時の感覚としては異常に少ない恋愛経験だと思います。頼朝公については寧ろ奥さんを大切にした人ってのが実像で、強烈なイメージがついたのは奥さんの北条政子様のせいですね。
頼朝公が北条政子様の妊娠中ちゃんと当時の常識に則(のっと)って愛人とHしたら、当時の常識が通じない熱烈に旦那様の頼朝公が大好きだった奥さんの政子さんが独占欲強すぎて怒り狂い、政子サンが配下の武士団に頼朝公の愛人宅を攻めさせて打(ぶ)っ壊して燃やしてしまった事が吾妻鏡(あづまかがみ)と言う鎌倉幕府公認の歴史書に描かれているせいで‟頼朝公=不倫”のイメージが現代の感覚で誤認されてしまったからなんですね。
・・・現代人の感覚でも頼朝公は一般的現代人の生涯恋愛経験数よりも少ない位じゃないかな?
源頼朝公の場合は責任感も強く口説いた女性は大切にしましたし、当時としては珍しく奥さんと夫婦で神奈川県の神社や御寺を一緒に旅行して廻ってますし、とっても良い旦那様だったのが実像です。
仕事も出来ますしね。管理職としても部下を常に立てる素晴らしい人でした。経営に私情を挟まず、組織と部下の事を考える人だったので部下同士が対立した時も双方の言い分を公平に聞いてらっしゃったりします。猛将から浄土宗の僧侶に成った熊谷直実公の逸話や、頼朝公の最初の奥さんの八重姫の父親の伊東祐親公に対する助命処分等は相手の立場を良くお考えに成られてとても公平さが伝わるエピソードだったりします。
伊東祐親公は娘の八重姫と恋仲に成った頼朝公を蔑んで対立した事や、八重姫と頼朝公の間に生まれた子供を殺害させた己の判断ミスを源頼朝公と戦い負けた後に恥じて、頼朝公によって助命されますが結局は自分で自害してしまいました。
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旗立山(鐙摺城出丸)&伊東祐親公供養塔
その八重姫とは別のもう一人の祐親公の姫の嫁いだ三浦義澄公によって伊東祐親公の所領だった伊豆半島伊東市が見渡せる場所、今の葉山マリーナの裏の旗立山(鐙摺城の出丸)に供養塔が築かれ現存しています。
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小生の個人的な意見では有りますが、どう言った経緯で神社が開かれて以来数百年間主祭神だった源頼朝公よりも、近代に御祭神に加えられた源義経公が主祭神として祀られクローズアップされたか経緯は不明ですが、まぁ、名前は社頭掲示に掲載されていなくても元からの御祭神の源頼朝公は出世頭であり誠実さと実務力と法治意識富み経営手腕に優れた歴史偉人でしたし、今の御祭神としてクローズアップされている源義経公も女性にモテて決断力に優れ困難な作戦の遂行能力の高かった歴史偉人ですから、当然ながら御二人の御兄弟を御祭神として奉戴(ほうたい)する品濃白幡神社なので、それはそれは商売繁盛、縁結びの御利益が強い事が神格化された御二人の実績からも解かりますね!

神社の施設解説に話しを戻します。
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本殿の有る台地に登る参道階段の左手には小さな御社が有ります。
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戦没者慰霊碑も有ります。
鳥居の右手手前には氏子サン達の奉賛金の掲示。
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そして階段の両脇には立派な石灯籠が有ります。
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白幡神社なので頼朝公の家紋の笹竜胆が社紋に成っています。
階段を上ると本殿と東戸塚オーロラシティーの高僧ビル群が同居する不思議な夜景を見る事が出来ます。
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先に御祭神だった実務力や政治力が高く誠実な頼朝公と義経公が当初は力を合わせて成功した歴史を再現する様に、現代の品濃白幡神社に源義経公が御祭神に加えられてから周辺の東戸塚は頼朝公の政治手腕と義経の縁結びの御利益で人と経済が結び付き、猛烈な勢いで発展を続け今では高層ビルの商業施設と住宅施設が建ち並びます。

社殿の右手には何の神様かは夜で判読できませんでしたが境内社が有り、恐らく明治以前まで村内に分散して大切にされていた神様が一箇所に祀られています。
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そして本殿の左手にも小さな神社が二つ有りました。
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又、昼に改めて参拝したいと思います。
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さて、この神社を建てた新見彦左衛門は最初の名を勘三郎と名乗り天正二年から東照宮(徳川家康公)に仕えたとされていますが、これは恐らく間違いでしょう。
彦左衛門と言うのは今の横浜を治めた間宮家由来官職です。そして更に間宮家の戦国時代の上司で関東最強の武将だった北条綱成公の官途が❝左衛門大夫(さえもんだいふ)❞です。更に幕末の水戸藩出身者にも新見錦(にいみにしき)と言う新選組の初期の幹部だった人物がいますが、実は水戸藩の家老の中山家や間宮林蔵を始めとして旧北条家臣団が多く水戸藩には家臣や庄屋として取り込まれています。
更に幕末に日米修好通商条約を纏めた新見正興と言う人物は本性三浦で官途は豊前守です。この豊前守も又、本牧奉行を務めた間宮家所縁の官職です。新見一族の官職はどれもこれも神奈川県東部の旧北条家臣団の官職です。
更に言えば新見家は備中国出身の家柄と伝わる事から、戦国大名北条家の本姓の伊勢氏と同じ出身地の家柄と言う事も判ります。
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※写真は小田原城の模擬天主閣。戦国時代北条家の本拠地だった城。
つまり、話を整理すると良く解らない新見彦左衛門さんの家のルーツが旧北条家臣と言う事が何となく見えて来ます。
勘三郎サンと彦左衛門さんは同一人物とされている様ですが、多分、世代が違う親子か旧北条家臣と考えた方が現実的でしょう。
仮に徳川直参説を考えるなら彦左衛門と名乗る迄は恐らく元は北条家臣で(元亀三年)1572年に北条家に身を寄せていた今川氏真公が北条家と武田家の同名成立で駿河復帰の大義名分が無くたった際に、今川氏真公の奥方で北条氏康公の姫の早川殿(蔵春院)の世話役として今川氏真公と共に徳川家に仕える事に成った可能性が有るかも知れません。そして今川氏真公が武士を辞めた時期に徳川家臣化し関東に再入国すると、本牧奉行、生野銀山奉行、佐渡金山奉行を務めていた間宮直元公と近隣の誼(よしみ)で交流が生まれたか或いは家康公の命令で若い直元公の与力武将として間宮家の本拠地笹下城址本牧代官所から近い品濃を知行されたのかも知れません。そうすれば、それまで名前が勘三郎だったのに間宮家の官職の左衛門や豊前守を上司である間宮家から新見一族が譲られたであろう事も容易に推測が成り立つ訳です。
ペリー神奈川上陸
もう一つ、元北条家臣と言う説を成り立たせるのがペリーを接待した新見正興の出自です。
彼は三浦一族と伝わります。その家から大阪奉行の新見家へ養子に入ったとされます。
一般的に武士の家系は養子縁組する際に一族や同族間で養子をとりますし、近親者から養子をとれない場合は祖先に一族から姫が嫁いだ外戚血縁が有る家系から養子縁組します。
つまり三浦一族と新見家は同族と考えるのが自然でしょう。戦国時代には正木家や横須賀家や平子家や宮川家等の三浦一族は北条家に家臣化していました。
更に戸塚区品濃の隣接地、港南区永谷や戸塚区品濃の旧鎌倉郡永谷郷一帯は戦国時代の宅間上杉家の領地で、宅間上杉家は安土桃山時代、北条家の滅亡直前には三浦半島を統治する三崎城主の北条氏規(うじのり)公の付家老として宅間上杉規富(のりとみ)公が三崎衆に組み込まれています。
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※写真は鮪で有名な三崎漁港の北条湾から見た三崎城址の丘。北条湾の名は戦国時代に北条家の水軍基地だった事に由来する。
つまり、新見家のルーツが備中国に室町時代初期に移住した三浦家の子孫ならば、当然ながら三浦氏族新見家も伊勢姓時代からの北条家に武士として仕え関東に入り安土桃山時代には祖先の故地三浦半島の三崎衆に組み込まれ三崎城主北条氏規の付家老の宅間上杉家の与力として配置された可能性が出てきます。
すると江戸時代に入ってから宅間上杉家の旧領の永谷郷の中の一部だった品濃村に所領を得ている状況も情況と推測の整合性が出て来る訳ですね。そして宅間上杉規富公の姫は間宮家の間宮綱信(つなのぶ)公に嫁いでおり新見家と顔見知りだった可能性も高く成ります。
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※写真は八王子城の石垣
間宮綱信公は北条家の外交官として織田信長公への使者を勤めたり築城家として日本100名城の一つにも成っている八王子城を設計したと伝わる軍師で、八王子城主の北条氏照公の付家老でした。
そして、この間宮綱信公の直系御子孫が新編相模風土記稿や日本の地史を編纂した間宮士信サンです。
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因みに、新見正興公等のペリー提督との会談に差し当たり、接待の一切を取り仕切ったのが今の元町中華街駅近くに住んでいた庄屋の石川家でしたが・・・
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この石川家も又、旧北条家臣団の平子家の分家一族です。
平子家も新見家とルーツを同じくして三浦一族で一番有名な武将は鎌倉時代の曽我兄弟による源頼朝公暗殺計画の曽我兄弟の敵討ち事件で、曽我兄弟と抜刀して対峙し切り合いの末に逮捕して頼朝公の命を救った平子有長公です。
この平子有長公の建てた神社が岡村天満宮です。
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岡村天満宮については以前、解説記事を書いているので、それを参考にして下さい。
記事リンク→☞「ここ」クリック!
新見家に限らず、幕末に活躍した武士や文化人、面白い事に大半が旧北条家臣団の末裔だったり北条旧臣と同族ばっかりなんですよ…

伊能忠敬
伊能氏は旧千葉家臣で房総半島矢作城主の末裔。千葉家は北条家臣、桓武天皇の末裔。

高橋至時(天文学者)、高橋景保(天文学者)
北条一族、本姓高橋家の北条綱高公の子孫が北条家滅亡時に東京都三鷹市に移住して庶民と成り牟礼を開墾し旧姓高橋に復した古代九州豪族の一族。

間宮林蔵(地理学者)
間宮家は北条家五色備えの内、黄備隊玉縄衆の家老で築城・水運・外交・鷹匠に秀でる宇多源氏一族。

伊東甲子太郎(新選組)
伊東家は旧北条家臣で伊豆半島伊東出身の藤原一族。

近藤勇(新選組、剣術家:近藤家&豪農:宮川家)、近藤重蔵(探検家、徳川幕臣)
養子に入った近藤家は滝山(八王子)衆北条氏照公付家老の末裔。近藤家の祖先は遠州出身。
本姓の宮川家も三浦半島出身の北条家旧臣。宮川左近将監は1560年頃に葉山を領有している。その後に八王子衆に組み込まれ旧多摩郡に移動した事が推測出来る。武蔵阿蘇神社宮司家も代々が宮川家。

勝海舟(西洋兵学者)
勝家は房総半島真里谷城主武田家の分家。真里谷武田家は後に北条家臣化し横浜市金沢区釜利谷に移住している。勝とは別に本家の真里谷武田子孫は愛甲郡に住み間宮姓に改称し後断絶。真里谷武田家の子孫の一部は武田信玄の後裔を仮冒し間宮家所領の港南区松本城址に今も住する。桓武天皇の末裔。

松田伝十郎(探検家、徳川幕臣)
松田家は北条家宿老で平安時代の相模国の武士、波多野家の一族。現在の南足柄市辺りが領地だったが一族は北条家滅亡後に分散する。

平山行蔵(剣術家)、平山五郎(新選組)
平山家は平安時代末期の武蔵七党の一つで現在の東京都八王子市の平山城址を本拠地とした一族。戦国時代には北条家臣化して東京都桧原村や埼玉県坂戸市、毛呂山町を領有した平山長寿や平山善九郎の他に、三浦半島逗子市九木辺りを領有した平山源太郎がいる。武蔵七党、日奉家の末裔。

中山忠能(水戸藩家老)
中山家は北条家旧臣で八王子城主北条氏照公の付家老から徳川家臣化し、水戸藩付家老と成った一族。北条家解体後、江戸時代初期に中山家を頼って多くの北条家旧臣が常陸国に移住している。宣化天皇の子孫の古代豪族で武蔵七党の子孫。

芹沢鴨(剣術家/思想家)
芹沢家は常陸国の小大名の大堟(だいじょう)家の末裔で平安時代の桓武平氏の平国香の子孫。
小田原北条氏に味方して豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せずに大名として滅亡した家。

歌川広重(画家、本姓:安藤)
画壇の長である歌川は本姓:宇田川に通じ宇田川一族は東京都世田谷区界隈に居た土豪で戦国時代に北条家の従属同盟大名家から北条家臣化した蒔田吉良家の遺臣末裔。現在も世田谷区には宇田川姓の旧家が多い。又、安藤姓は旧北条家臣で名奉行だった安藤良整公が一族にいる。宇多天皇の末裔で宇多源氏。

二宮尊徳(農政家、思想家)
二宮家は旧北条家臣で北条家没落後に帰農した一族。小机衆に属した一族の他に、延喜式内社相模国二之宮川勾神社の歴代宮司家は二宮家が務める。二宮家には戦国時代に間宮家から養子が入っている。

まぁ、この幕末の人物達の姓と旧北条家臣団の繋がりは偶然かも知れませんが、彼等が立身出世する際に北条家ネットワークみたいな物が数百年間受け継がれてコネクションを活用していたとすれば、彼等の縁故も説明が行く訳です。
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これを踏まえると、新選組の新見錦、幕末のペリー来航で活躍した新見正興、この人達と品濃白幡神社を開いた新見彦左衛門サン、御先祖同士が血縁者だったかも知れないとか考えるとワクワクして面白いでしょう?
しかも歴史事実でも室町幕府の関東監督を務めた足利直義公や、新田義貞公よりも強かった斯波高経公が品濃町には関わっていた事も神社の歴史を調べると辿れたりする訳です。

さて、きっと皆さんの御近所にも凄い歴史偉人が関与した場所や神社仏閣が有ります。ですから少し御散歩して見て、町の中の城跡の公園や神社や御寺の看板を読んで見ませんか?
凄い歴史偉人との繋がりが解かると、きっと地元に対する愛着が更に強く成るかも知れませんから・・・

では、又次の歴史探訪記事で御会いしましょう♪

※来週、小生は某資格取得の為に多忙を極めてもしかしたら手抜きの料理記事に成るかも知れませんが御容赦を(笑)!

さて、歴史が好きな人も嫌いな人もいると思いますが、皆さんは源頼朝公の弟で名将だった源範頼公を御存知でしょうか?
源範頼公
この人は兄である源頼朝公から軍才を信頼され、実際は源義経よりも高い統率力を発揮した名将でした。しかし恐らく源頼朝公をヒ素で暗殺した北条時政やその婿の稲毛重成、北条政子様と北条義時公の北条一族の謀略に巻き込まれ横浜市金沢区で自殺して生涯を終えた悲しくも潔かった私利私欲の無い名将です。この人がいたから鎌倉幕府は樹立され、その後にモンゴルと朝鮮人の元軍による侵略から我々の祖先の命は助けらた訳です。
だけど範頼公は死して尚、現代に至っても昭和期にバカ共のせいで悲しい目に遭っている悲惨な偉人でもあります。
今回はこの名将の菩提寺の紹介と歴史変遷の解説を書きます。
小生は❝中道保守派❞の人間なので平素よく日本文化を軽視し自然破壊する土建屋と結託し在日ヤクザ勢力を批判しない左派思想分子を批判しますが、今回の記事はこの偉人と御寺の歴史を通じて盲目的な右派に釘を刺し批判する事を書く事にも成ります。
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以前、欧米諸国の軍人さん達からその存在を称賛されている世界三大旗艦の一つ戦艦三笠の解説記事で書いた事が有るのですが、宗教を国内統制に悪用した一夕会独裁の昭和初期の軍事政権下の軍幹部は口では神に対して信仰を持っている様な事をのたまいながら大部分の連中は古来の神道に対する信仰心も日本文化を醸成して来た仏教文化に対する敬意も微塵も無く、国家神道と言う新興宗教に造り変えられた日本の神々を崇敬する様な事をしながら倒幕志士世代明治の政治家や軍人には実際は全く信仰心が有りませんでした。
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戊辰戦争世代の明治の帝国海軍軍人達は日本文化や古来の神様に対する崇敬の念が深く、奇跡的にロシア帝国に勝利した対馬海戦時の旗艦だった戦艦三笠は❝八幡大菩薩❞の神名で神仏習合時代の古来の文化で応神天皇に習合された水神様の御分霊や伊勢神宮の天照大御神の御分霊を戦艦内に祀っていました。
だから海軍設立の立役者に等しい坂本龍馬サンの奥さんの❝お龍サン❞が亡くなった際、横須賀市大津の信楽寺で海軍の軍人達が集めた寄付金によって仏教形式でお龍サンの葬儀が行われ墓所が造られました。
又、明治時代初期にプロテスタントに改宗したキリスト教徒日本人政治家達によって宗教改革や軍政が行われ日本神話の神様も弾圧されました。日本神話でとても重要な役割を果たしている日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)の夫婦神が滞在した三浦半島横須賀市走水の旗山崎、御所ヶ崎には弟橘姫を祀る神社が有りました。
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写真の船溜まりのある半島状の土地が御所ヵ崎です。
しかしこの御所ヵ崎、山県有朋と言う長州人の陸軍人の後に政治家に成る腐敗分子による立案で猿島や観音崎砲台が整備された際に、弟橘姫を祀っていた橘樹(たちばな)神社は破壊され砲台が据えられてしまいました。
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旗山崎こと御所ヵ崎に隣接する展望台からは三浦半島の海岸線の先に富士山と大山を眺める事が出来ます。
この御所ヵ崎の橘樹神社を破壊させる砲台建設をさせた山県有朋はクソ野郎で、明治時代に議会制民主主義導入されるまでの合議制時代、陸軍人だった頃に現代の貨幣価値で軍の予算120億円相当を着服し勝手に民間企業に投資した腐敗した政治家でした。しかも腐敗が発覚した際に命まで奪わなかった上官の西郷隆盛公を結果的に殺した人物だったりもします。
そんな明治時代の日本の神様や仏教の仏様を愚弄した蛤御門の事変や倒幕を経験した世代の利権主義腐敗政治家や腐敗軍人達に異を唱えたのが戊辰戦争世代の明治~大正に活躍した世代の軍人サン達でした。
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幕末~明治初期に活躍した外国かぶれ世代の軍人政治家達によって橘樹神社等の日本武尊と弟橘姫が滞在した行在所(あんざいしょ)だった神話の聖地が破壊されると、それに心を痛めた戊辰戦争世代の東郷平八郎元帥達によって神社を潰されてしまった日本古来の神様達の御神霊は走水神社本殿に合祀されたり奥宮と言う形式で走水神社背後の山に遷宮され祀られました。
その東郷平八郎元帥が司令官として乗艦したのが戦艦三笠だった訳です。ですから戦艦の守護神に神仏習合時代の習慣の御神名で❝八幡大菩薩❞が祀られていたんですね。
しかし昭和に成ると明治の腐敗政治家を批判して始まった一夕会と言う組織が台頭します。その組織を大戦末期に牛耳っていたのが東条英機等で、彼等は元々明治の元勲達の利権政治を批判して大義名分を得ていた筈が結局自分達が権力の座に着くと独裁政治を始め戦況報告ですら事実を伝えなく成りました。彼等の政治組織は軍人の任命権を独占し悪用、軍事政権が打ち立てられるのですが、彼等は共産主義者を弾圧しながら行った政治は計画経済、配給制度と共産主義その物、つまり同族嫌悪に等しい左翼弾圧を行い更には古来の神道も仏教も否定したり軽視した軍人を増産していった訳です。
大戦末期の右翼と左翼は天皇家を利用したいか排除したいかの差は有れど本質的にやってる事は何も変わらんかった訳です。
無論、井上成美先生の様に中道派の真ともな軍人さんもいた事も無視してはいけない事実です。
これは小生達生粋の古来の豪族の血を引き、天皇家と同じ神仏習合の日本宗教観を大切に思う保守派である本物の日本人から見るとチャンチャラおかしい政治で、一夕会のやった事はとても保守派とは言えませんでした。
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さて数年前、神奈川県立歴史博物館でも展示されたり小生が今から話す事と同じ内容の歴史事実の解説も行われましたが、第二次世界大戦で日本がアメリカに唯一勝機を見出す戦いで決選兵器となるべき戦艦大和の不戦撤退があった事は有名な話です。
実は、その当時の戦艦大和は東郷元帥達明治~大正時代の軍人達が見たら昭和の軍人を怒り罵倒しながらドツキ回すであろう状況に成っていた事を知る人は多くは有りません・・・
実はこの時、戦艦大和は海軍幹部達によって撃沈されたら困る内装の❝高級ソファー❞や守り神である❝神様達の御分霊❞が撤去されていたんですね。
・・・つまり対米戦線の火蓋を切った昭和の軍幹部、一夕会の影響下での出世に靡いた連中は❝最初から勝つ気も日本人を御守り下さる神仏に対する信仰心も無く負ける事を考えていた❞事が戦艦ヤマトへの❝仕打ち❞で証明出来る訳です。更に彼等は口先では国民や軍の低階級指揮官には「負ける訳が無い」とデマを流しながら自分達の司令部は海軍なのに海の無い慶応大学日吉キャンパスの地下に造られた地下道塹壕網の中に引き込もらせ空襲を警戒したり、最初から完全に勝つ気なんか無い癖に自分達の身体だけはシッカリ守ろうとしていた訳です。
マジで保守派から見れば勝つ為の信仰も捨て、不利な現実を直視し落し所を見つける努力もせず、下級職の部下を使い捨てにして、本当に統治崩壊していた訳です。
さて、今回紹介する御寺はアホな小説家達のせいで愚鈍なイメージで演出され、それを自分で検証確認もせず妄信する阿呆な半端な歴史好き共に実績を無視された平安時代末期の悲劇の名将❝源範頼❞公の菩提寺の御話ですが、その御寺は一夕会軍事政権の政治のせいで今では凄く解りずらい場所に在ります。
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御寺に行くには京急の隧道をくぐって、横浜市金沢区片吹と言う場所の住宅街の奥の谷地形まで行かなければいけません。横浜市歌を歌える生粋のハマっ子でも国道16号線が通り、一般住宅が立ち並ぶ普通の住宅街のイメージしか湧かない人の方が多い場所で、地元民でも無いとそこに由緒正しい御寺があるなんて気づく事も出来ません。昔は関東学院全ての敷地が広大な御寺の境内地だったのに昭和の一夕会軍事政権のせいで今の狭い敷地に不幸な移転を強要され縮小させられた凄い歴史偉人、源範頼公の菩提寺が在るんです。
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海蔵山 太寧寺その御寺の名は海蔵山太寧寺と言います。名将源範頼公の菩提寺で臨済宗の元大寺院でした。
元は今の関東学院の埋め立て地を除いた全域が境内地だったですが、今では無残な程に縮小されており小生は昭和の軍幹部と、敗戦後に寺境内地を勝手に登記する詐欺的な連中とそれを容認した明治大正生まれ世代で横浜市役所に勤務したクソジジイ共に殺意に等しい怒りを感じます。
そもそも源範頼公は源頼朝公の弟と言うだけでなく御自身が名将だったのに阿呆な江戸時代や昭和の小説家の演出を妄信する馬鹿共のせいで愚将のイメージを持つ奴ばかりで歴史事実と乖離した悲惨な待遇を現代人からも強いられています。
実際は実戦経験の豊富な平清盛や平宗盛旗下の平家軍を相手に堅実に大損害を受けずに勝ち続けた源氏勝利の立役者が源範頼公の実像で、兄君の源頼朝公も生前は範頼公を深く信頼していました。
源義経が名将の様なイメージで評価を混同する馬鹿が多くいますが、一之谷の合戦でも準備万端な平家軍を釘付けにして損害を最小に抑えたのは範頼公の統率力と作戦に由(よ)りますし、そもそも鵯越の逆落としと呼ばれる作戦を立てたり実行したのも源義経ではなく横浜市都筑区の茅ヶ崎城主だった多田行綱公と、名軍師で三浦一族だった三浦半島横須賀市佐原城主だった佐原義連公の功績による物です。
その作戦を採用したのが当然ながら源範頼公だった訳で、源義経公はその実行部隊の隊長を任せられて多田行綱公と佐原義連公の御膳立てに乗っかり、頼朝公の与力の名将、土肥實平公や畠山重忠公や熊谷直実公が軍勢を統率しての挟撃作戦成功に他なりません。
太寧寺周辺 久良岐のよし
そんな名将、源範頼公の菩提寺の太寧寺は現在では❝絶対に太平洋戦争中迄は全てが境内地だった狭い谷間❞の中に在ります。
しかし、この狭い谷間さえ戦後の混乱に乗じて土地が何某の連中に登記され宅地開発されてしまい見る影も無く縮小、御本堂と御住職の比丘尼様の住む庫裡が有るだけに成ってしまいました。境内の庭すらロクに有りません。
この御寺が移転縮小させられた原因は小生が批判する昭和の一夕会政権に責任が有ります。
昭和の一夕会政権下の軍幹部達は各地戦線の不利を正しく天皇陛下に上奏せず隠蔽し、しかも負けるが前提の勝つ作戦や落し所を合理的に見出す精神論では無い作戦とは乖離した、実際は逃げて回り兵站(へいたん=食糧軍需品の輸送路とその中継基地)すら確保せず兵糧も補給できない状況も直視せず末端の兵士を使い捨てにした現実逃避の隠蔽主義で軍政を行っていました。
自分達の司令部は横浜市港北区日吉の慶応大学地下に作ったり、東京都の高尾山の山中地下に作ったり、自分達の身を隠す事に執着しながらも、その圧倒的不利を直視していなかった訳です。
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そして自分達の身を守る為だけに首都東京の制空権を守ろうとして横浜市金沢区野島に零式艦上戦闘機通称❝零戦❞の格納庫がわりの大地下壕を建設開始します。
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その為に現在の日産追浜工場とテストコースとなった横須賀飛行場の拡張工事も始めました。
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金沢区は金沢八景の名で景勝地として知られた場所だったのですが、アホの昭和の軍事政権下の軍幹部と、戦後のアホの市長の政策で京都の天橋立以上に美しかった海や島々や半島が無残に埋め立てられてしまいました。この太寧寺もそんな一夕会軍事政権の❝現実逃避作戦❞と宗教に対する文化と信仰心の欠如で拡張された横須賀空港の犠牲と成りました。
太寧寺旧蹟周辺 久良岐のよし
太寧寺は元々は瀬ケ崎と呼ばれた土地だった関東学院小学校の敷地に在りました。
瀬ケ崎時代の太寧寺
そして今の日産の工場一帯と一緒に空港拡張の為に臨済宗の大寺院として各時代の歴史偉人達に大切に保護されて来た歴史を無視され、現在の片吹の奥の谷間の狭い敷地に追いやられ、その時に範頼公の墓所も止む無く一緒に掘り返されて現在地に墓石と一緒に移転して来ました。
しかも!例によって終戦直後に信仰心の無い左翼建設利権や外国勢力の強い横浜市は多くの神社仏閣の境内地が勝手に地元民によって土地登記されてしまい、縮小し衰退した場所が多く、太寧寺も例に漏れず現在の惨状と成ってしまいました。
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由緒ある御寺なので、源範頼公の菩提寺として鎌倉幕府執権北条家からも支援を受けていた為か御寺の寺紋も〇の囲いの無い三鱗紋の使用を許されています。
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小さくなっても文化を大切にしている御住職の比丘尼様の趣向で掲示板には博物館の広告も掲示されています。
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他にも、その日の法話みたいな良い心構えが掲示されていました。ここの御住職の比丘尼様は若かりし頃インドやタイやスリランカにも仏教寺院に留学したり、偉人の顕彰活動に訪れていた活動的な方でした。
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だからこそ源範頼公の菩提を弔うのに相応しく、座禅会を開いて御近所の子供に精神修養の機会を与える役割を担うのに相応しい人物ですね。
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御寺の規模は本当に往時の様子を窺い知る事は出来ません。
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でも御近所の子供のいる御父さん御母さんにとっては親しみ易い御寺として機能しているみたいです。
小生が訪問した時も御住職様が御菓子を出してくれたり、色々と熱心に説明して下さったり、若い頃の話をして下さったり・・・
「あなた、私の名前を出して良いからタイに留学しなさい。論文のコンペに出なさい」
・・・と言われてしまいましたが、すみません比丘尼様。小生俗物なのでこの間頭丸めるのが嫌で別の御寺で「寺継がない?」と言われたのを御断りしたばかりなんです(笑)。
そう言う貴重な機会は真面目に修行してらっしゃる御寺の跡継ぎとして修行している若様達に差し上げた方が宜しいかと思います。そもそも小生は神社も好きなので御寺だけは無理ぃ~(笑)。
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本堂の左手には今では見かけない井戸が現役で使われていました。
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その更に右手奥に、凄く窮屈そうに源範頼公の瀬ケ崎の丘から御引っ越しして来た御廟所が在りました。本当に現実逃避せず多数派に流されず自分で分析する軍人サンだったら源範頼公の功績を理解できて、こんな酷い扱いをしなかったはず。
終戦直後の横浜市の役人も同じ様に谷間の元境内地の住宅地登記を認めた罪は重い。

源範頼公の能力は中国の将軍に例えれば秦の王翦将軍に等しい素晴らしい物だっと小生は思います。
もっと大切にされて然(しか)るべきだと思う。

さて、この太寧寺みたいに今は小さく成っていても凄い歴史偉人と関係の深い神社や御寺や城跡の公園や山がきっと皆さんの家の御近所にも有る筈です。
だから皆さん、御近所御散歩して神社や御寺や城跡の公園や山の看板を少し読んで見ませんか?
そうすればきっと皆さんと歴史偉人を繋ぐ場所にそこが成って、自分の地元に更に愛情も湧くかも知れません。
そして、多くの苦労や悲しみや少しの成功と喜びを積み上げて今の私達の生活を作ってくれた先人達に感謝の気持ちを伝えてあげて下さい、きっと歴史偉人や神様や仏様も喜んで下さると思います。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪







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