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カテゴリ: 神様/偉人/武将

毎日新聞記事 日中国交正常化45執念記念鑑真東渡
毎日新聞記事:[鑑真東渡]・・・日中国交正常化45周年記念オペラ
日中国交正常化45周年を記念した中国のオペラ「鑑真東渡(とうと)」日本公演(中日友好協会・江蘇省人民政府主催、ポラリス・毎日新聞社協力)が5日、東京都渋谷区のBunkamuraオーチャードホールで初日を迎えた。約1800人の観客は、苦難の末、日本に渡り戒律を伝えた鑑真和上の生涯を描いた叙情詩を楽しんだ。
    ↑  
小生はこの記事を読んで中国共産党に対して非常に憤りを覚えた。
鑑真和尚は日本の仏教文化のもたらした建築技術向上や精神教育や学問の発展に寄与して下さった偉人である。
小生の個人的な感覚から、その鑑真和尚を中華人民共和国の中国共産党が日中友好の題材にする事は非常に‟違和感と憤り”しか感じない。

鑑真和尚様は尊敬しているが、日中友好の演目に相応しくない。
現代の中国共産党は宗教と文化破壊集団でしかない。
中国共産党は信教の自由を保証しないどころか宗教に政治的に介入し恣意的に宗教指導者を選出しているんだがな?
また、イスラム教の新疆ウィグル自治区での新疆人への弾圧・・・
ウィグル自治区 Googlemap 久良岐のよし
及び仏教国チベットへの軍事侵略と併合と弾圧そして傀儡僧侶の擁立等々を行っている。
チベット自治区 Googlemap 久良岐のよし
どれをとっても、仏教的な事を含めて宗教的な要素を日中友好の演目にする資格は中国共産党にも中国人にも無い。

南宋が蒙古族により滅亡させられた際に、生粋の華人文化国再建を志した本来の仏僧や儒学者や忠義の士達は源頼朝公が開闢した日本武士の政権鎌倉幕府を頼り多く今の鎌倉市に亡命して来た。
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頼朝公が鎌倉の市街地整備の中心に据えたのが現在の鶴岡八幡宮だ。
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そして、その鎌倉に亡命してきた南宋の文化人であり元に屈服しなかった忠義の人々の中でも有名なのが蘭渓道隆和尚様や兀庵普寧和尚様達だ。
鎌倉幕府の第五代執権北条時頼公や跡を継いだ時頼公の子で第八代執権の北条時宗公に請われ世界最強の坂東武者が構成する鎌倉武士団に蒙古族が中国に建てた征服王朝の元朝の情報や兵法や中国語を教授し禅による精神力を叩き込んだ。
特に蘭渓道隆和尚様は鎌倉に住み、日本で最初に法治主義思想を政治的に実現した第三代執権の北条泰時公の菩提寺でもある粟船山常楽寺(鎌倉市大船)に住んだ。
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※粟船山常楽寺の山門、往古の様式を守り茅葺屋根のまま現存する。
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後に北条時頼公の庇護下に在った時に巨福山建長興国禅寺(北鎌倉の建長寺)を開いて武士に仏教、禅の精神、兵法、天文学、中国語等の学問と中国の惨状や蒙古の戦法を日本人に叩き込み、日本防衛と後の明帝国初代皇帝朱元璋による元朝打倒に繋がる偉大な一助を為し遂げられた訳だ。
この建長寺は鎌倉防衛最後の拠点と成る巨福呂坂(こぶくろざか)の切通しの手前に存在し、位置的にも鎌倉市街地にとって重要な場所だった。
更に蘭渓道隆和尚様は日本文化を大切にもされたので現在も神仏分離令の影響を乗り越え建長寺境内には稲荷社や近代に成って新たに建長寺守護神と成った半蔵坊権現等も存在し修験道や神道の文化も大切に受け継がれている。
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この建長寺は戦国時代にも偉大な武将を多数輩出しており中でも太田道灌公、間宮士信・間宮林蔵・杉田玄白の祖先に当たる間宮信冬公に学問を叩き込んだ寺院として依然として機能していた訳だ。
一方、兀庵普寧和尚様も北条時宗公の師として帰依を受け瑞鹿山円覚興聖禅寺(北鎌倉の円覚寺)を開いて日本独自の文化と成った鎌倉文化の醸成と学問の発展に寄与され訳だ。
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尚、円覚寺は後に北条時宗公の菩提寺とも成り御廟が開基廟として築かれている。
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仮に鎌倉幕府執権の北条家が宝治合戦で三浦家の諸将に負けていたら今日の日本が存在したかは解らない。なんせ、臨済宗を保護して蘭渓道隆和尚様や兀庵普寧和尚様から中国兵法や仏教等の学問を導入したのは北条時頼公と北条時宗公な訳だし、何よりも蘭渓道隆和尚達のもたらした蒙古軍の様子や中国語の学習も、戦時に敵の言語を理解し作戦を阻止し戦う為に斥候(せっこう)で非常に役に立った事だろう。

明帝国の滅亡時にも日本に亡命して来た偉大な仏僧がいる。隠元隆琦和尚様だ。いんげん豆の名の由来の歴史偉人だな。
京都府宇治市の黄檗山萬福寺を開き、祖国の文化を日本でbackupした人物だ。黄檗宗は上杉謙信が真言宗と並んで帰依した宗派だったりするが今日の京都料理の発展に影響を与えたのが、隠元隆琦和尚様のもたらした明の発展した精進料理文化だった訳だ。
そして、明の忠臣であり日本人と華人混血児の名将軍、朱成功(初名:鄭森、後に鄭成功に改名、朱姓の名乗りを皇帝より許された忠義の名将軍)将軍は臺灣島をポルトガル植民地支配から奪還し根拠地を確保すると日本に度重なる援軍要請を出している。
仮に織田信長公や豊臣秀吉や徳川家康公が御存命、若しくは徳川忠長公が第三代江戸幕府将軍に就任していたら日本は明を助け、明と日本、南北から後の初代清帝国皇帝のヌルハチを挟撃し撃破した事だろうよ。
ヌルハチの元々の王都は現在の瀋陽市、昔の奉天市で当時は盛都と呼ばれていた。
瀋陽の位置 久良岐のよし
明を裏切った朝鮮人と征服者の清を、明が江南地方(江蘇省、浙江省、福建省、臺灣)から攻め上がり、織田軍団乃至徳川幕府が裏切り常習犯の犯徒朝鮮を攻め下り、嘗(かつ)て日本人大量虐殺と拉致をやった女真族の末裔のヌルハチを明に協力して撃破した筈だ。
そして明の復興を助け、白人によるアジアの植民地化を阻止した事だろう。
余談だが、徳川家光公と権力争いに敗れ切腹させられた徳川忠長公は鄭成功将軍支援に非常に熱心だった事が有名な人物なのだが、今は御廟所は群馬県高崎市に在るのだが、本来ならば静岡市の浄土宗の玉桂山華陽院に成った筈だ。
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華陽院は徳川家康公の祖母の菩提寺であり、又、徳川家康公が今川家人質時代に読み書きを習った御寺でもあり、徳川忠長公が生前に大変に大切にされた御寺だったので忠長公の御存命中は日本中の大名から寄進が相次いで一時期は寺領2万石と驚異の勢力を誇った名刹だ。しかし忠長公の切腹時に当時の御住職が幕府と家光公に対して忠長公の影響力で得た寺領を返還したので、現在は広大な境内を有している訳では無い。
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徳川家康公を可愛がり教育を施した祖母の源応尼様の御廟所や、近代の徳川家当主の徳川家正先生の御手植えの松等も存在する。
更には家康公の愛妾となり姫を生んだ"於久の方(おひさのかた)"こと"間宮於久"様の菩提寺でもある。
そして、間宮於久様の御父君は豊臣軍を痛撃した北条家の忠臣の間宮康俊公であり、間宮康俊公の曾祖父が建長寺で学問を学んだ間宮信冬公に当たる。
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※上の写真は間宮康俊公が城将の松田康長公と300の寡兵で籠城し豊臣秀次の大軍2万6千を痛撃し活躍した山中城址。
更に康俊公の姫である於久の方と同時期に駿府城で徳川家康公の寵愛を受けていたのが間宮信冬公と同時期に建長寺で学問を学んだ関東最強の名軍師だった太田道灌公の曾孫に当たる"於梶の方(おかじのかた)"こと後の英勝院様な訳だ。その法名の英勝院から隠居地の鎌倉市扇ヵ谷にある菩提寺は英勝寺と名付けられた。
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英勝寺の境内は本来は太田道灌公の鎌倉における邸址と伝わる。
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境内の竹林の辺りが、室町時代初期の太田家の御姫様達の居住区域だったそうだ。
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徳川家との縁から寺紋に太田桔梗紋と徳川葵の両方の使用を認められており、背後の源氏山には太田道灌公の供養塔も在る。
そして於梶の方、於久の方と徳川家康公の暮らした駿府城を後に治めたのが徳川忠長公であり、駿府城の経済を担う蒲原奉行を務めたのが間宮康俊公の曾孫の間宮忠次公だった。
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駿府城下の華陽院と徳川忠長公には各時代の徳川家攻防の記憶と建長寺以来の太田家と間宮家の国防意識の高さが受け継がれていた訳だ。
だからこそ、徳川忠長公の鄭成功将軍支援に繋がるのだろう。これは奇しくも明治天皇の明治政府による孫文先生支援にも繋がる訳だ。
中国南京市紫禁山中山陵 久良岐のよし
※上の写真は中国江蘇省南京市の中山陵、孫文先生の陵墓。同じ紫禁山の山中には明帝国の初代皇帝の朱元璋の陵墓である明孝陵と、三国志の英雄で呉の皇帝の孫権の陵墓の築山梅林も存在する。
今、中国に残る宗教指導者は南宋を裏切り、明を裏切り、華人の明帝国を滅ぼした満州族の清を取込み愛新覚羅溥儀を抑留し国家運営の大義名分とした逆徒「共産党」の建てた「中華人民共和国」に媚びへつらって今に至る連中な訳だ。
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※上の写真は台北市の中山記念堂。孫文先生や歴代中華民国総統に関する展示物が有る。
更に言おう。
鑑真和尚始め、歴代の華人の文化を取り戻したのは中華民国だ!
日本に留学し、小生の住まう横浜市の中の中華街等で漢族や日本人の支援を受け、満州族による征服王朝の清を政治的に打倒し華人の下に万里の長城内側の明帝国時代の国土を取り戻し 近代民主主義国家の中華民国の成立に寄与されたのは国民党初代総統の孫文先生だ!

つまり鑑真和尚や蘭渓道隆和尚や兀庵普寧和尚様や隠元隆琦和尚様の法脈を受け継いでいるのは中華民国臺灣の友人達しかいない!
南京の中山陵には先述の通り三国時代の呉皇帝孫権の陵墓址も存在するが、多くの三国時代の英雄達の陵墓や御廟は中華人民共和国に成ってから破壊され埋葬品は略奪された。
例えば江蘇省蘇州市、ここは古くは春秋戦国時代の呉の首都だった場所だが、三国時代にも建業の町が今の南京市に造営される以前の呉の首都として機能していたので多くの名将達の居宅や陵墓や御廟が“中華民国時代まで存在した”のだが文化大革命等の現代中国人による破壊で消滅した。
そもそも蘇州市中心部自体が呉王国の首都、姑蘇(グースー)城址であり、中国共産党の統治まで各時代に増築されたり改修された城壁等も現存した。
その失われた場所は・・・
・陸遜の陵墓
蘇州大学園区校区周辺、葑門址の近く。その門は春秋戦国時代の名将の伍子胥の死亡後にその目が吊り下げられた門でもある。
・周瑜の陵墓
蘇州市呉中区。
・孫権邸址
蘇州市議会の会議中心ホテル一帯。
・・・超有名どころだけでもゴロゴロ、他にも沢山の名将達に関する霊廟と宗教施設が中国共産党によって破壊され略奪された。

そして、今回の毎日新聞の記事で紹介されている「鑑真東渡」の上演は蘇州市の共産党の連中の支援で行われる訳だ・・・矛盾だらけ。

中国共産党は仏教にも全ての宗教にも関与するのを止めて信教の自由を保証すべきだ。
チベットとウィグル族への弾圧も止めるべきだ。
自国の文化財と自然環境を保護し、共産党の唯物主義、拝金主義、軍国主義、民族主義による侵略を止め改めるべきだ。

現代の中国共産党は日中友好の演目に鑑真和尚様を取り上げる資格は皆無だ。



平安時代末期~戦国時代まで続いた相模国の小大名、三浦家の聖地と江戸時代に庶民の信仰を集めた神社仏閣や弁財天を祀る洞穴が、ねつ造された嘘の歴史を流布するカルト信仰によって乗っ取られる危機に瀕しています!

以下の事を行って、史跡乗っ取りを阻止して頂きたく、歴史好きの皆さんに拡散致します!

Google mapで以下の●の地名の場所を検索して見て下さい。
( )内が正式名称
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
以上の場所が明治時代設立のカルトを踏襲した新興カルトに乗っ取られ、Google map上で●表記の施設名称に書き換えれたり、小生や仲間達で正しい歴史を警告するとレビューから削除されます。

実は最後の三浦家の頭領の三浦義意公と房総半島の真里谷武田家出身の側室をモデルにして明治時代に書かれた架空歴史小説「桜の御所」に登場する架空ヒロイン小桜姫をカルトを用いて実在したかの様に広めカルト組織がそれぞれの史跡や別の神仏の崇拝場所を乗っ取ろうとしています。
実在せず、時代設定もハチャメチャな話をさも実話の様に信者や歴史に無知な女性に「縁結びの神」と悪質な情報で勧誘しては自分達の宗教施設の様に事実上乗っ取りにかかっています。
独身女性の結婚願望に付けこみ信者を増やそうとしている訳です。
ソイツ等は❝神奈川県神社庁や菩提寺、菩提寺宗派の曹洞宗とは全く無関係❞の新興宗教系統のカルトです。にもかからず、さも自分達の宗教施設の様に佐原三浦家関係の宗教施設へ、縁結び願望の有る女性達を連れまわしては歴史事実と異なる解説をして信じ込ませています。
このせいで、佐原三浦家最後の武将、三浦道寸公と三浦義意公の菩提寺の三浦氏三崎町小網代に在る海蔵寺は一般参詣不許可の対応をせざるを得ない状況に追い込まれています。

そこで以下のお願いです。
①下記3ヶ所をGoogle mapで検索して、小生達の歴史解説レビューに「」を押して頂けませんか?
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
②出来れば「情報の修正を提案」から小生が( )に示した正しい名前に戻すように名前を提案して下さい。
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
③可能ならばレビューに三浦家の歴史書に小桜姫の名前は登場しない事、三浦義意公の妻は真里谷武田家の姫である事、桜の御所の時代設定で架空人物の小桜姫の実家とされる金沢北条家は戦国時代の三浦義意公の佐原三浦家滅亡より200年も前に滅亡した事実、この三点をレビューに書いて頂ければ幸いです。

目的としては、縁結び目的の独身女性達がカルトに入信するのを防ぎ且つ正しい神社の名前と仏教施設としての名前をGoogle mapで取り戻し、史実を周知して頂いた上で女性の皆さんには縁結び祈願に安心して自分で来て頂ける様にする為の対抗策です。
ひいては三浦半島の観光が小説桜の御所の舞台として、そして源頼朝公や三浦家所縁の観光地として正しい形で活性化するのが最終的な目的でもあります。

無論、皆さんのお手を煩わせたく無いので出来る範囲の協力、又は拡散で結構です。

すみませんが、拡散協力願います。

三浦家について詳しい歴史は以下に纏め解説してあります。
http://yoshi-kanagawa.blog.jp/archives/64025466.html
上記URLの解説を参考にして頂ければ幸いです。

仮にカルトを利用してでも観光振興の為にやっているのならば、カルトを巻き込むのは三浦ブランドを落とすマイナス効果しか生まず、周辺自治体にも迷惑をかける行為に成ります。
三浦半島には元々源氏と平家の三浦家所縁の豊富な史跡群に加え、近代の要塞や、アメリカ文化の観光地、そして問題の三崎周辺は風光明媚な夏の観光地や冬のミカン狩りや鮪や松輪鯖や三浦大根のブランドが元々有名な場所です。もっと真っ当な宣伝をして城ヶ島や三崎をアピールして欲しいと願うばかりです。
三浦家滅亡の新井城址は日本最長の4年間に及ぶ籠城戦が展開された名城として歴史好きには有名な場所です。カルトが小桜姫の祠と名を変えて宗教活動に利用している場所も江戸時代に遭難した漁民を助けた強い御利益の在る弁財天様として庶民から崇敬された場所です。
諸磯神明社も天照大神を祀る大切な神社ですし、三浦義意公の奥方が北条勢に捉えられたと伝承する諸磯神明社摂社の若宮社も、鶴岡八幡宮の誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇=八幡大菩薩)の御分霊以外に何者でもありません。神道の信者にとってとても大切な神様達の御社です。
そこをカルトで汚さないで下さい。

三浦には沢山の景勝地と近代公園や自然公園、そして史跡とヤマトタケル神話や三浦家歴史の舞台の神社やと寺も有ります・・・
三浦海岸(海水浴場)
三浦市下浦町~三崎町周辺(西瓜と三浦大根の名産地、冬季はミカン狩り、初春は苺狩り)
江奈漁港(高級ブランド鯖の松輪鯖の漁港)
剣崎灯台周辺(神奈川の景勝50選)
盗人狩り(神奈川の景勝50選)
城ヶ島大橋と城ヶ島の景勝(神奈川の景勝50選)
城ヶ島のホテルや旅館(海に面したホテル、旅館、ペンション多数)
城ヶ島公園(景勝地、自然公園)
城ヶ島灯台(景勝地)
城ヶ島長津呂崎(景勝地)
城ヶ島北原白秋記念館(北原白秋三崎在住時代の解説展示館)
三崎漁港(鮪の水揚げ漁港、昔からの名産地)
三崎銀座商店街(鮪料理専門店が並ぶ商店街)
三浦映画社(三浦半島に映画ロケとドラマを誘致するNPO、過去ロケの作品の紹介場所)
三崎城址(北条氏規公居城)
本瑞寺(源頼朝公別荘跡、後に入舩地区に三浦義意公が開基し江戸時代に現在地に移転た寺院)
油壷湾(神奈川の景勝50選:昭和の映画スターのヨット遊び場)
油壷マリンパーク(皇太子殿下と雅子妃殿下始め皇族の方々のデート場所)
新井城址(佐原三浦家終焉の城)
荒井浜(流鏑馬神事が行われる)
海蔵寺(三浦道寸公開基の寺院、三浦道寸と三浦義意公の菩提寺)
小網代の森(原生林の遊歩道)
荒崎海岸(神奈川の景勝50選)
諸磯隆起海岸(フィリピン海プレートと太平洋プレートの衝突による隆起地形観察公園)
葉山マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場、商業施設)
大楠山(神奈川の景勝50選)
森戸神社(源頼朝公勧進の三島大社御分霊)
名島(源頼朝公別荘跡の水没した島)
森戸の夕照(神奈川の景勝50選:森戸神社から名島を見た夕景)
鐙摺城址(三浦義澄公拠点)
鐙摺城址出丸旗立山(伊東祐親公御廟所)
秋谷の立石(神奈川の景勝50選)
秋谷海岸(景勝地)
長者ヶ崎(神奈川の景勝50選)
佐島マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場、リゾートホテルとレストラン)
天神島臨海自然教育園(自然観察公園、佐島マリーナ横)
関口牧場(酪農家、アイスクリーム製造直売)
ソレイユの丘(BBQ等の複合レジャー施設)
披露山公園(神奈川の景勝50選)
住吉城址(平安時代末期三浦義澄公が籠城し、戦国時代に北条早雲公が籠城した城址)
逗子海岸(昔は明治の侯爵達の遊び場、昭和期は太陽族、今はチャラ男にチャラ女の聖地)
逗子マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場)
逗子市郷土資料館(徳川家別荘)
衣笠城址(平安~鎌倉時代の三浦本家の居城)
大善寺(衣笠城址に在る、鎌倉時代の三浦本家の学問所だった寺院)
満昌寺(源頼朝公が鎌倉幕府設立の立役者の三浦義明公供養に開基した寺院)
清雲寺(佐原三浦家の鎌倉時代~室町時代初期の菩提寺)
怒田城址(和田義盛公の平安時代の居城)
佐原城址(源義経の鵯越の逆落としの作戦を立案した佐原義連公の居城)
田浦梅林(今上天皇生誕記念に植林された4000本超の梅林の公園)
塚山公園(神奈川の景勝50選)
塚山公園按針塚(徳川家康公外交顧問のウィリアムスアダムス=三浦按針公と奥方御廟所)
どぶ板商店街(アメリカ第7艦隊の将兵が遊ぶアメリカ文化の商店街)
戦艦三笠(世界三大旗艦の一つ、東郷平八郎元帥の乗艦)
三笠公園(戦艦三笠が展示された公園、猿島へ渡る船の桟橋)
猿島要塞(明治時代の要塞、日蓮聖人の史跡、縄文時代の遺跡)
信楽寺(坂本龍馬室お龍さん菩提寺、土肥実平公持仏を祀る寺)
走水海岸(日本武尊と弟橘姫の神話の舞台)
走水神社(日本武尊の冠を社殿地下石室に埋蔵した神話の神社)
御所ヶ崎砲台史跡(日本武尊と弟橘姫の仮御所が在った、明治期に神社を壊し砲台設置)
観音崎(神奈川の景勝50選、昭和の映画スター達のリゾート地)
観音崎要塞(明治時代の要塞史跡)
観音崎灯台周辺(今上天皇と皇后様も訪問)
多々良浜(景勝地:貝殻で出来た真っ白な砂浜)
・・・等々、挙げればキリが無く・・・
どこも昭和のリゾート地として映画スター達に人気だった場所や現在の天皇陛下や明治の東郷元帥や三浦家と源頼朝公の大切にされた御寺や御城や別荘の跡、ばかりです。
もしも三浦市非公認のままの観光振興の心算なら、歴史歪曲は三浦ブランドを貶め神仏と歴史偉人を愚弄する行為です。
仮に嘘の歴史を教えられて小桜姫は実在しなかった小説の架空の人物である事を知らず、モデルが真里谷武田家の姫だと知らずに信仰してしまったなら、これからは真里谷武田家の姫様として、小説桜の御所のロケ地として三浦義意公と奥方の真里谷武田家の姫に縁結びを御願いしてみて下さい。


三浦半島の横須賀市長坂には乳牛を飼育してアイスクリーム等の乳製品を直売している関口牧場と言う場所が有ります。
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小さい乳業会社なのですが口コミでアイスクリームが美味しい事が広まって、最近では休日とも成るといつも行列が出来ています。
入口が少し判り難い上に駐車場が少ないのも厄介なのですが、それでも大人気の店なんです。
関口牧場・無量寺・佐島マリーナ・海辺の位置 久良岐のよし
場所は上の地図を参考にして頂けると良いのですが、車で佐島マリーナから10分、衣笠ICから20分程度の距離に位置します。比較的交通は不便な場所ですが、これから夏に向けて佐島や長者ヶ崎や三崎に行く用事が有る人にはおススメのスポットです。
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    ↑
道の入口はこんな感じ。
店は少人数で切り盛りしててコンナ感じ。
    ↓
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お姉さんが1~2人で頑張ってるので、ちゃんと整列して煽らず(笑)出来るだけ運営に協力して上げて下さい。
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この日、小生はココア味とバニラ味のダブルを注文しました。
これ、上下にトッピングされてますがツイストにもして貰えて、子供に選ばせれば喜ぶかも知れませんね!
飯田牧場同様、自然の甘みを重視しており、人工的に脂分の添加をしておらず不自然なクリーミーさは当然有りません。甘いのにサッパリしていて量は多いのですが美味しく平らげる事が出来ます♪
小生は最近、可愛がっている甥っ子(4歳)が総合格闘技の道場でレスリングを習い始めて中々、オジサン(小生)と遊んであげる暇が無くなってしまい(笑)まだ連れて来てあげれておりません。
牧場なのですが、前回紹介した藤沢の飯田牧場と同じで広大な放牧地が有る訳では無さそうです。

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でも牛舎が隣接していて、外から様子を見学できます。
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小さい子を連れてくれば、こうやって❝牛臭い(笑)❞場所で牛乳が生産されてる事を理解させる良い機会に成るかも知れません。
牛さんに感謝する心を教育する場としては良いと思います。
エサやり禁止なので厳守して下さいね~!
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もしかしたら牛舎の背後は放牧スペースかも知れませんが、店員のお姉さんが忙しそうだったので確認していません。
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牛の他にもヤギや鶏もいました。
三浦半島の南側の油壷マリンパークや三崎や城ヶ島、西側の葉山や長者ヶ崎や秋谷の海岸に行く機会が有れば、是非立ち寄って見て下さい!
【関口牧場】
業種:乳業、アイスクリーム製造と直売。
あと、車で10分と直ぐの佐島マリーナの入口に在る❝海辺❞と言う和食海鮮レストランも御薦めです!
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魚も美味しいのですがロケーションが綺麗なので、以下に各周辺観光地の過去記事と合わせてリンク紹介して置きます。
【海辺】
業種:和食海鮮レストラン(海に張り出したロケーションの眺望と新鮮な魚料理が特徴)
タグ:佐島マリーナの記事→一覧はココクリック!
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タグ:油壷マリンパークの記事→一覧はココクリック!
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タグ:秋谷海岸の記事→一覧はココクリック!
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タグ:長者ヶ崎と葉山の記事に→一覧はココクリック!
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さて、小生のブログは少しは郷土史要素も入れて置きたい・・・

話を関口牧場に戻すと、ここを知った理由は戦国時代の横浜を治めた間宮家の一族の分家で間宮造酒丞(みきのじょう)家の菩提寺であり、鎌倉時代の名将の和田義盛公が開いた御寺だからだ。
信高公の御父君は間宮康俊公、有名な関東最強の武将の北条綱成公の付家老で自身も鶴岡八幡宮再建や山中城で活躍した間宮康俊公の家系図上の御子息だ。信高公は武田家に転仕して武田信玄の水軍大将務めた。武田家滅亡後には徳川水軍の大将格で活躍した人物で所領が関口牧場の所在地の横須賀市長坂、昔の三浦郡長坂村だった訳だ。
だから、その信高公の菩提寺と関口牧場は徒歩数分の御近所さん。
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浄土宗の金剛山無量寺と言う御寺が間宮信高公の菩提寺。
元々は鎌倉幕府で初代の侍所別当(防衛大臣)を務めた和田義盛公が開いた御寺だった。
だから和田義盛公の守り仏が御寺に祀られている。
山号と三浦家初期の宗旨から察するに多分、最初は真言宗の御寺だったはず。
浄土宗に成ったのは間宮信高公が徳川幕臣であり、織田信長公と徳川家康公が熱心な浄土宗信徒だったので徳川家臣に成った時点で自分の所領の無量寺を改宗させた上で土地を寄進して復興させたんじゃないかと思う。
間宮信高公は御妻君が房総半島の小大名だった真里谷武田家の姫君だ。実は戦国時代初期、三浦半島がまだ三浦家と北条家の係争地だった際に三浦家の大将だった三浦義意公の御妻君も真里谷武田家の姫様だった。真里谷武田家は内紛を起こして真里谷武田信隆公が房総半島から逃げて北条家に一時的に亡命している。
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その場所が上の写真の横浜市金沢区に在る稱名寺一帯な訳だ。
なので、その御縁で金沢区の隣接地域の杉田や笹下の現在の港南区~磯子区の殿様だった間宮康俊公の御子息と真里谷武田家の姫君が婚姻を結んだんだろう。
最初に御住職様に御会いしたのは、和田義盛公の顕彰活動で訪問した際だった。
その時は未だ無量寺が間宮信高公の菩提寺とは知らなかった偶然の訪問だった。
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まぁ、御住職と少し御話して和田義盛公の事を聞いたり、特別に御本堂に上げて頂いて色々と見学させて頂いた際に、何を思ったのか突然御住職が「実は間宮家~云々」と小生の顔をマジマジと見ながら話し始めた際は正直、大変に「ドキっ!」としたのを覚えている。
御住職様も何で小生が一言も「間宮」とも発していないのに、その話を始めたか解らないが、今と成っては信高公の御導きだったんだと思う。
この偶然が有ってから、間宮信高公の事を寛政重修諸家譜等から読み調べ始め、そして死地が愛知県海部郡蟹江町に在った蟹江城址と知って現地の教育委員会様に様々な情報提供を頂き、昨年、間宮家の顕彰文に信高公の事を掲載すべく蟹江城址へ写真撮影に行って来た。
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今も運河沿いに酒蔵や米問屋が残り城下町の風情の残る良い処だった。
実は蟹江城は天正年間、つまり間宮信高公が討死にした合戦直後に大地震で崩壊し消滅したのだが本丸の井戸だけが現存しているのだ。
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この井戸の写真撮影に蟹江町を訪問して来た。ついでに甘強酒造と言う昔ながらの武士が高級酒として飲んでいた味醂を製造している酒蔵も訪問して味醂を購入して来た。
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これらの御縁は全て関口牧場と同じ長坂に在る無量寺の御住職と和田義盛公と間宮信高公が導いて下さった地縁だった。御蔭で良い旅行が出来た訳だ。
因(ちな)みに、ウチの母にも土産で甘強酒造の本味醂と津島市の鶴見酒造が作る味醂、神鶴を購入して渡したのだが、両方とも普段使ってる味醂とは全く別物の美味さに驚いて母は自分の友人達にも紹介していた。小生はリキュールとして炭酸割り等にして飲んだが焼酎で作られていて風味良く美味しかった。
織田信長公や徳川家康公も飲んだであろう旧海部郡の味醂を現代に飲めて幸せだった。
まぁ、そんな訳で関口牧場の在る三浦半島の横須賀市長坂地区は昔から水軍を率いた武士の根拠地だった訳だ。そして昔は牛では無くて馬を生産していた牧場も有ったかも知れない。
佐島と長坂の間には❝蘆名(あしな)❞と言う地域が有る。ここは和田義盛公の御子息が治めた土地で蘆名城と言う城が有った。その蘆名家の子孫は東北に移住して奥州探題等を務めた大名と成り名将の蘆名盛氏公を輩出した。蘆名盛氏公と言えば伊達政宗公のライバルだった人物だな。

皆さん、関口牧場や佐島を訪れる機会が有ったなら、是非!和田義盛公や間宮信高と言う名将が昔、長坂に居た事を思い出して見て下さい!

初めて卒倒した人がAEDで救助されてるのを見ました。
AED フクダ電子様画像拝借 久良岐のよし
昨日、出勤前に商業施設で後期高齢者の男性が倒れてAEDで救助されているのを見ました。
小生が見た時には自立呼吸をしていたのですが、意識が戻らない様でした。
この時に初めて知ったのですが、AEDは電気ショックだけでなく❝心電図❞の計測機能や❝救急救命処置の音声ガイダンス❞が流れ、素人の救助者が救護活動を適切に行える様にサポートする機能が備わっているんです。
これには不謹慎ですが非常に感心しました。
その施設のスタッフ数名がAEDを使い、必死に名前を呼んで❝命を繋ぐ呼びかけ❞をしていました。
AEDからは大凡(おおよそ)以下の様な内容で音声指示が流れていました…
「電気ショックの必要は有りません」
「心電図を計測します、身体から離れて触れないで下さい」
「人工呼吸をして下さい」
…命を繋ぐ機材でも、それが有効活用されなかったら意味が無いので、非常に有用な機能だと思い感心しました。

後は、患者さんが無事に意識を取り戻して下さり御家族に元気な姿を見せれる事を小生は願うしか出来なかったので、小生が信仰する日本の神々と仏様達、歴史偉人様達に患者さんが意識を無事に取り戻す様に願いました。

このAEDの機能は日本の歴史と同じできっと、多くの人の命が失われた上で追加され発展した機能なんだと思います。
過去に素晴らしい蘇生機材の機能が緊急時に一般人に使い方が解らず活用されず、きっと多くの心停止した助かる筈(はず)だった命の犠牲の上で追加された機能なんでしょう。
それはAEDを開発してきた技術者達の命を無駄にしたくないと言う義侠心と開発に対する情熱の結果なのだと思います。

我々、日本人の現在の生活もAEDの発展と同じです。
先人達の多くの失敗と災難と悲しみ、そして一握りの幸せの上で経験と技術と文化を積み重ねて成立している物なんです。
ですから歴史は技術の蓄積と同じく人間の失敗の歴史を知り、起こりうる天災に備え失敗を回避する手段を知る手掛かりでも有る訳です。
そして、その記録媒体に成っているのが日本全国の神社や御寺や歴史史跡で、それ等の宗教施設の伝承や古文書の中に過去の災害の情報が蓄積されている訳です。
東日本大震災で津波の被害が拡大したのは、昭和に成り無教養な政治家と教育委員会と土建屋が建設利権を優先させて先人達が残して下さった「これより下には津波が来るから住んではいけない」と言う❝多くの石碑の警告❞を無視して縄文時代に海だった低海抜平野を宅地開発した結果の❝人災❞でした。
大阪市内にも江戸時代の津波の被害を伝える多くの石碑が街角に建っていますが、その存在を知る人も戦前の繁体字の漢字の文章を読める教養が有る人も少なくなってしまいました。

無教養、歴史に対する無関心は罪です。
過去の人々が神社仏閣や史跡や街頭の石碑に残してくれた災害のメッセージを活用出来ませんから。
それと同じように素晴らしいAEDと言う装置が有っても使い方が解らなければ意味が無い訳で、その問題を解消した開発者サンは本当に尊敬に値すると思います。
政府は開発した業者では無くて、こう言った発想を実現した名も無き技術者を探し出し表彰するべきだと思います。
そして政治家と教育委員会は建設利権を抑制し、過去の史跡を大切に活用し先人の災害の経験から備えを構築するべきだと思います。

横浜市教育委員会、とりあえずオマエ等、金沢区並木町~八景島界隈の埋め立て地を住宅地にして人を住ませるのを止めさせるか埋め立て当初の計画通り堤防を再構築する様に無文化市長に過去の津波踏まえて提言しろや! 並木一帯の地盤は大地震が来る度に沈下するんだよ!その三浦半島東西で沈下と隆起する歴史を報告しろや!
城ヶ島砲台の放棄の歴史、そして三浦半島の相模湾側に何で磯が多く東京湾側に崖地と浜が多かったか、埋め立て前の地形を区分して報告しろ!
何の為に歴史を管理してんだオマエ等! 
応長の大津波の事、富岡八幡宮の本社である金沢区の富岡八幡宮つまり源頼朝公が西宮から勧進した蛭子神様の御社の歴史を調べて活用しろやボケ!
オマエ等大人数いる癖に、たった数名のAEDの開発した技術者や汎用性を追加した技術者より日本人の役に立って無いよな?
反省しろ!
そしてAEDと神社を見て良く自分達の行政に対する惰性で業務を行う姿勢と思考停止を省みろ!

さて…
津波発生の可能性が有る金沢区富岡~並木~長浜千軒の地域に津波発生の100年前に海を鎮める蛭子神様を勧進された源頼朝公、そして蛭子神様、そして医療の神でもある素戔嗚尊様と五十猛様、どうぞ昨日の患者さんが意識障害無く救われます様に御加護下さいませ。

横浜市南区井土ヶ谷には、その井土ヶ谷の地名の由来に成った御寺が住宅街の中に鎮座しています。
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昔は周辺の山林、更にその周りも境内地だったそうです。
実はここ、横浜市民でも現代では余り知る人も少なくなったのですが鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の正妻、北条政子様が開いた御寺で一時暮らした場所でもあります。
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境内には化粧の井戸と言うのが有りまして、承久の乱の際に当時は引越村と言われたこの土地に逃げて来られたと伝承しています。
この地に逃れて来たものの、水質の悪い水ばかりだった引越村の中で、唯一、この乗蓮寺で掘った井戸だけが水質が良く化粧水に適していたので居所と定めたそうです。
つまり、この井戸が井土ヶ谷の町名の由来に成った訳です。
さて、北条政子さんは承久の乱が起きたから乗蓮寺に逃げて来たと伝わっていますが、この承久の乱と言うのは源頼朝公没後に、貴族達が失った既得権益を鎌倉幕府から奪還しようとして兵を起こした事件で、結果的には北条政子様が旧頼朝公の与力武将達に上方攻略の号令を激を飛ばして武士勢が逆襲し鎮圧に成功した日本国内の内戦の事を指します。
実は、この乗蓮寺の辺り直ぐ裏の山の反対側が弘明寺の駅名でも有名な、厄除け観音の瑞應山蓮華院弘明寺です。
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※弘明寺の山門の写真。
実は源頼朝公、北条政子様と生前に夫婦して弘明寺を熱心に戦勝祈願等の御参りに来ていたので、小生は乗蓮寺が成立したのは北条政子さんが「逃げて来た時に御寺を建てて住んだ」と言うのはちょっと違うと思うのです。
弘明寺は古代奈良時代の郡衙(ぐんが=市庁舎みたいな場所)だったと思われる場所の有力な候補地であり、御寺自体の歴史も既に1300年以上有る名古刹で、弘法大師空海和尚様とも関係の深い御寺なのですが…
この御寺には武士に軍神と財神として拝められた弁才天様も御まつりされているので、先述の通り頼朝公達御夫婦は戦勝祈願や厄除けに訪れていました。
承久の乱が起きた際、この弘明寺の直ぐ裏の乗蓮寺を北条政子様が開いたのは、小生は避難して来たのではなくて、承久の乱が起きていた間、毎日弘明寺に戦勝祈願に通う為だったのでは無いかと感じています。
そして、その場所を選んだのは、嘗(かつ)て亡夫と共に苦労を乗り越えた頃の思い出も有り、より御利益に強い思い入れが有ったのではないかと思う訳です。
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この写真の大木は“北条政子さんが御手植えした榧(かや)の樹”です。
本当に政子さんと御縁が深い御寺ですね~。
この乗蓮寺さん、井土ヶ谷幼稚園も経営してらっしゃるので、この御寺の幼稚園で育った子は、この木みたいにそして鎌倉武士の様に強い子に育ちそうですね♪
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境内にはお稲荷さんもいらっしゃいます。
神様も一緒に御祭するのは歴代天皇と同じく神仏習合の価値観を大切にする真言宗の御寺らしい所ですね。
このお稲荷さんは最近、こちらに御迎えし遷座したそうです。御寺の元々は御檀家さんの家が守って来たお稲荷様だったそうなんですが、子孫の代に守って貰えるか判らないと御住職様に相談に来られたので、御寺に御迎えして代わりに御住職様達で守る事にされたそうです。
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御地蔵様もいらっしゃいました。
御地蔵さまって何だか親しみを感じる仏様ですよね。道端でいつも庶民の安全を守ってくれる、丸い頭の少しユーモラスな優しい仏様。
さて、この御寺は最近、御寺の建替えの際に解体された「尼将軍堂」と江戸時代には呼ばれていた御堂が有りました。現代では「御影堂」と呼ばれていたそうです。
ここは御寺を開いた北条政子様を祀っていた御堂で、その中には“北条政子様が御自分の姿を彫刻した等身大の彫像”が安置され祀られていました。まぁ、言い換えると開山堂って所でしょうかね?
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御住職様に御好意で昔の写真を見せて頂き、更に今は非公開の北条政子様彫像も拝ませて頂きました。
その尼将軍堂が上の写真の手前の茅葺屋根の小さな御堂です。
解体された時に再建を目指して木材を捨てず保存していたそうなのですが、木の腐食が激しく再建を断念したそうです。
北条政子様木像画像
今は一般非公開なので、皆さんは拝む事は出来ませんが、上の写真が乗蓮寺さんのホームページに掲載されている北条政子様彫像です。
御住職様の御好意で、転載の許可を頂きました。
小生、拝ませて頂いて北条政子さんの印象が少し変わりまして・・・
なんだか寂しさを隠して冷静に気持ちを落ち着かせている様な御顔をされていたんです。
この彫像、北条政子さんが鏡を見ながら自分で自分を掘ったと伝承していますが、御住職様は「生前に自分をモデルにして仏師に彫刻させて作らせたから写実的でリアルな造りなんだろう」と推測されていました。
恐らくそうだろうと小生も感じます。だからこそ何だか悲しそうで少し遠くを見ておられる様な気持ちが伝わる様な気がするリアルなんだと思います。
この時期、既に政子さんは自分の二人の子供を、自分の父と兄に暗殺されています。
恐らく夫の源頼朝公も自分の妹婿の稲毛重成に毒を盛られた上、相模川の開通式の最中に暗殺されています。実は頼朝公は開通式の前日から体調不良を訴えていて、当日は意識障害も有ったそうなのでヒ素中毒の説が昔から有ります。そして、不可解な事に、橋の上で落馬して死んだとされていますが、その際に護衛の武士達が「頼朝公を守れなかった罪」で全員処刑されているんです。これは状況的に北条家が退路の無い橋の上で頼朝公を暗殺したと考えた方が自然でしょう。
さて、そんな事も有ったので、せめて夫が武士達と領民達を貴族の搾取から守る為に建てた武家政権を守る為に戦勝祈願に来て、この乗蓮寺に一時住んでいた時期の政子さんをモデルに掘られた彫像だから、この様な少し悲しい、でも凛々しい御顔立ちに成ったんだと小生は思いました。
今では、この彫像が安置された御堂は無いので御本堂の中で、日本の平和を見守って下さっています。
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昔、尼将軍堂の前に在った石碑はちゃんと墓地の中に移設され保存されています。これも御住職様が案内して下さったので写真に収める事が出来ました。一人では探せなかったと思います。
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今では御本堂はコンクリート製。これなら地震にも火事にも強く、周辺が火災に遭ってもちょっとくらいでは類焼する心配も少なく安心ですね。
多くの歴史を伝える為に、御寺の檀家さん達が御金を出して御寺を守って下さってるからこそ、小生の様な人間が尊敬する偉人の御廟所を拝ませて頂けたり、古文書を見せて頂ける訳です。本当に尊い努力をされていると思います。
腐れ学者は、神社の氏子さん達や御寺の檀家さん達が尊敬する偉人を呼び捨てにして、更には御寺や神社の皆さんが守って来たから読める古文書をさも自分の手柄の様に得意満面に解説していますが、奴等の態度には小生は宗教的にも日本人として先人をリスペクトする歴史好事家(オタク)としても、某古代豪族末孫の宮司家一族の子孫としても違和感しか感じません。
ですから、本当に和尚様や宮司様に御話を聞く事を大切に感じ、親切にして頂く度に御礼としての感謝に加えて尊敬する先人の偉業を伝え守って下さっている事への感謝もいつも感じます。

ところで江戸時代、この御寺を支援したのは間宮忠次公でした。
この方は本牧奉行として、今で言う横浜市の中区南区磯子区港南区の重要な地域を治めた知事さんでした。
そして、徳川家の旧本拠地、駿府城の経済を支えた今の静岡市清水区、少し昔の“ちびまる子ちゃん”が育った清水市を治めた蒲原(かんばら)代官の奉行職も務めた偉い人物でした。
この間宮忠次公の御父上の間宮直元公が初代の本牧奉行、更に但馬奉行と佐渡奉行も兼任して金山銀山経営で前任者から不調だった業績を改善させた名奉行で、大坂城攻めの際に銀山衆を連れて参戦し、徳川家康公に「大坂城総掘りと真田丸の埋め立てによる無力化」を進言した名軍師でした。
そんな御父上の血を引いた忠次公も名奉行で、駿河国蒲原の御代官として有名だったので、その屋敷地だった江戸の居所が「駿河台」の地名に成りました。
実は駿河台の地名は、横浜市港南区笹下を本拠地にした間宮忠次公由来なんですね。
そんな偉人達が関わった乗蓮寺、今では住宅街の御寺ですが・・・
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・・・この乗蓮寺の井土ヶ谷幼稚園で育つ子供達、日本の為にとは言わないけれど、周りの人を幸せに出来る、弱い人を守る為に正しい事を出来る言える、そして源頼朝公の様に苦境に在っても諦めずピンチを乗り越えて正しい事を行える鎌倉武士達の様に強い子供に成ってね!
そして間宮家の歴代武将の様に、仲間から信頼され実務力の高い誠実な大人に成って、家族を幸せにしてあげてね!

御寺や神社の価値は、建物の立派さではありません。どれだけ偉人との関りが有り、その伝統を受け継いで人々の心の支えに成り人間形成の役に立てるか、そしてどれだけ歴史的に重要な場所だったか、昔の人達になんで大切にされたか、その理由と結果が大切なんです。
御寺も神社も火事に遭いますし、御城の跡も風化します。でも、地元の人々に忘れられなければ、逆に心の支えや生きていく矜持を学ぶ事も出来る場所として今でも機能してくれるんです。
そして、それが先人達の願いなのだとも思います。
それは他人から言わされたり押し付けられるのではなく、自分で自然に感じるものだとも思います。

さぁ、皆さんの町にも絶対に凄い歴史偉人が関わった神社や御寺や御城の跡の山や畑が有るはずです。
是非、御近所の小さな神社や御寺や一見何も無い史跡を御散歩してみませんか?

では、又、次の記事で御会いしましょう♪

横浜市都筑区には茅ヶ崎城と言う、市内で三本指に入る保存状態の良い城址が在ります。
茅ヶ崎城を紹介した以前の記事→

その目の前には名前を現代の漢字を用いると正覚寺と書く、とても雰囲気の良い御寺サンが在る事を横浜市民にも、この地域住人以外には余り知られていません。
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この御寺は市内では珍しい天台宗寺院で、正式な名前を長窪山 總泰院 正覺寺と言います。
新編武蔵風土記稿には、江戸時代当時の境内地の“敷地面積5万7千6百坪”と記録が有り、途轍(とてつ)も無く広大な敷地に建物が建つ寺院だった事が解ります。
茅ヶ崎城から近く、茅ヶ崎城に来る度に門構えの立派さに感心させられる御寺だったのですが、面白い事に御寺を開いた人物が「岸清左衛門さんの御先祖様と」言う事しか解っていません。
なので小生は、てっきり茅ヶ崎城址からは煤けた米等が確か出土していたので、“戦火に巻き込まれて江戸時代の中興開基以前の事は解らないのだろう”と推測していましたが、改めて新編武蔵風土記稿を読むと以下の様な記載が有りました。
正覚寺文書 秀吉禁制
これ見ると解りますが、江戸時代の学者で新編武蔵風土記稿の編集長だった間宮士信さんの注釈で“秀吉の小田原攻めの時”に出した味方豊臣勢と敵軍の北条勢の両方に対して出した命令です。
内容は簡単にこんな感じです・・・
「小机(領)の中の茅ヶ崎の中の總泰院(正覚寺)と、その観音堂で乱暴狼藉(略奪)とか放火とか禁止するし、仮に命令違反したらソッコーぶっ殺すから」
・・・まぁ、そんな内容で秀吉が正覚寺を保護しているので、茅ヶ崎城は戦火に遭っても正覚寺は、戦国時代には燃えてなかったみたいですね。
つまり、間宮士信さんは安永6年(1777年)生まれの人なので、正覚寺は恐らく安土桃山時代~1777年の間に火災が発生して重要な文書なんかがあらかた無くなってしまったんでしょうね。
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とは言え、この御寺は素晴らしく雰囲気が良く、鎌倉の浄妙寺や報国寺、英勝寺に似た雰囲気を持っています。
と、言うのもこの御寺、山門をくぐって直ぐに竹林が参拝者を出迎えてくれるのと、鎌倉時代の寺院特有の谷戸構え(やとがまえ=山の尾根の谷間に建築物を構える)の御寺なんです。
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ですから、周りの住宅街の喧騒が響き伝わらず静寂で清々しい雰囲気がするからです。
正覚寺と茅ヶ崎城の位置関係 久良岐のよし
この様な谷戸の地形に御寺を建てるのは鎌倉時代に多く見られる特徴でもあります。
詳しい事は伝わっていないのですが、御寺の立地から推察して鎌倉時代の開基の寺院だと小生は思います。
恐らく、昔は茅ヶ崎城の武将と何か関係が有ったのでしょう。
所で、御寺を開いた岸清左衛門サンの御先祖様は座間家の可能性が間宮士信さんによって指摘されています。
座間家は今の座間市発祥の坂東武者で鎌倉武士ですが、この土地に移って来たのは戦国時代に北条家臣に成った頃か、鎌倉時代の話かは小生は把握していません。
鎌倉時代初期には直ぐ横の茅ヶ崎城は摂津源氏の惣領、多田行綱(ただゆきつな)公の居城だった事から、もしかしたら多田行綱公が正覚寺の前身寺院を開いていたのかも知れませんね。
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お寺に入ると直ぐ左右に御地蔵様と庚申塔の石仏が控えてらっしゃいます。
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御地蔵さんって、「可愛い」って言うと失礼かも知れませんが、赤い頭巾がが可愛らしいですよね~。
実は、この様に御地蔵様や多くの石仏群を参道に祀る習慣が有る宗派は天台宗や真言宗等の古仏教に多く見られる事なんです。
そして明治時代に神仏分離令が施行されても、真言宗と天台宗は歴代天皇家と関りが深かった事から歴代天皇の価値観を守る為に、神様を御寺から排除しなかった場所が多いので、やはり、この御寺も境内に神社が在ったりします。
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神社と御堂の分岐点までは雰囲気の良い石畳。
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右手に池と蓮、そして本堂と庫裡と鐘楼。
左手奥に神社が在ります。
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山王山大鷲神社(おおとりじんじゃ)。
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大鷲(おおとり)は鷲(わし)と書いて鷲(とり)と読ませます。
実は関東で最古の大社格の神社は埼玉県久喜市鷲宮の鷲宮神社(わしみやじんじゃ)でして、縄文時代~の遺跡を内包する聖地なのですが、この鷲(わし)は和邇(わじ/わに)=丸子(まるこ=わじ/わに)に繋がります。
この一族は出雲神族で、その御神孫が関東を開拓した歴史を鷲宮神社を含め関東の延喜式内社の中でも縄文時代の遺跡を抱える大山阿夫利神社や比々多神社等でも伝えています。
そして、この正覚寺の直ぐ近くには大塚歳勝土遺跡という場所が在って、そこからは多くの方形周溝墓が出土しています。
方形の古墳は朝鮮半島の影響を受ける以前、直接中国大陸の漢帝国と交易をしていた時代の文化です。
つまり藤原氏が朝廷を仕切りだす前後数百年の円墳より古い漢帝国と直接交易をしていた時代の文化が正覚寺近くに在ったのですが、この都筑区茅ヶ崎の正覚寺に大鷲神社が在るのも大塚歳勝土遺跡と無関係では無いかも知れませんね。
合祀され神社の名前に成っている山王権現は天台宗の守り神、比叡山の日枝神社の神様の山王権現こと猿田彦命ですね。
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この他にも現在は御堂こそ失われている様ですが馬頭観音様も石仏として祀られていました。
この土地を治めた鎌倉武士の騎馬供養でしょうかね~?
庶民には道中の守り神として人気の神様でした。
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この御寺は梅雨の頃には昔から紫陽花(あじさい)の御寺として地元民に親しまれて来たそうで、小生と同じく写真撮影をしていた初老の紳士がおっしゃるには「昔はもっともっと紫陽花が沢山あったんだ」そうです。
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池の前を通り本堂へ・・・
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う~ん住宅街に似つかわしくない立派な御寺なんです、本当に。
だからやっぱり戦国時代には座間家の菩提寺だったのかも知れませんね。
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扁額に揮毫したのは金子保さん、もしかしたら武蔵七党の坂東平氏の分家一族、金子家の御子孫かも知れませんね。
金子家は今の埼玉県、昔の武蔵国入間郡金子から発生した姓の武士です。
座間家と同じ程に由緒正しく、戦国時代には新編武蔵風土記稿を書いた間宮士信さんの御先祖様の間宮綱信公やその実兄の間宮康俊公等の間宮等と同様に、北条一門の方面軍を束ねる殿様の付家老として活躍した北条重臣の一族です。
戦国時代には金子家が新横浜駅直ぐ裏の篠原城の城代を務めていたりしました。
以前書いた記事→
因みに新幹線新横浜駅篠原口の名前の由来でもあったりします。
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池の前には阿弥陀堂が在りますが、近年の建築です。
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鐘楼はとても古寺の雰囲気を醸し出し、周囲を取り囲む谷戸の山林にマッチしています。

さて、今回はアジサイの写真をまだ撮影していないので掲載出来ませんが、素敵な御寺なのはなんとなく伝わったでしょうか?
皆さん、もしセンター南駅に来る機会が有ったら、駅から徒歩10分と近いので正覚寺や茅ヶ崎城址を散歩して、歴史に触れてみては如何でしょうか?
そして自分の地元の御寺サンや神社や御城の跡の山や公園を散歩してみませんか?
きっと、正覚寺に豊臣秀吉の禁制古文書が伝わっていた様に、思わぬ歴史偉人と繋がりが有ったりするかも知れませんよ?
そして、説明看板を読んで、そんな発見が有ると更に地元にも愛着が湧き、誇りも感じる様に成るかも知れません。

さて、今日の解説はここまで。
では又、次の解説記事で御会いしましょう~♪


北鎌倉には建長寺と言う大寺院が在ります・・・
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正式名称は巨福山建長興国禪寺と言い、京都南禅寺を別格として除いた鎌倉五山、つまり関東の臨済宗寺院の内で五つの筆頭寺院の内の第一位に位置づけられた寺院です。
・・・この鎌倉五山の凄さと言うのは征夷大将軍しか歴代住職の任命権を有していなかった事からも解ると思います。
さて、この建長寺、鎌倉時代~戦国時代当時は多くの学僧や武士が修行に集まっていた大寺院でした。
ですから現代でも日本有数の規模を誇る大寺院として存在しています。
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とは言え、この北鎌倉周辺には他にも先月紹介した円覚寺と言う鎌倉五山第二位の大寺院も在ったりして、北鎌倉を散歩していると少々感覚がマヒして他の大寺院が小さく見えてしまったりします(笑)。
円覚寺の記事はココ→
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天下禪林・・・つまり天下に名の轟いた学問所寺院と言う事です。
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これでも現代は開基(かいき=神社仏閣を造営する事。日本語で使う創建は漢字の意味の誤用)当時と比べて明治政府の宗教政策や、太平洋戦争敗戦後に規模が縮小しているんです。
信じられない位、昔は広大な境内地を有しており、更に寺領と呼ばれる御寺の収入源となる寺院の領地も昔は境内地と別に存在していました。まぁ、それは明治政府の宗教政策で没収され、そのせいで多くの御寺のみならず神社も荒廃した所が多かったんですが・・・
とりあえず、今回は建長寺と建長寺に関わった歴史偉人の紹介だけして行こうと思います。
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さて、略称建長寺の山号は巨福山(こふくさん)と言いますが、これは鎌倉幕府を開いた源頼朝公が鎌倉市街地防衛の為に築いた市街をスッポリ取り囲む丘陵城塞群の中の7つしかない入口の一つ、巨福呂坂(こぶくろざか)の切通しの近くに在ったからです。
現在の鶴岡八幡宮の西側を通る巨福呂坂は近代に成って開削された新しい道で、トンネル入口に有る石碑は歴史に疎(うと)い現代人が設置すべき場所を間違ってしまっている訳ですが、小生の様な歴史好事家(オタク)や建長寺や鶴岡八幡宮の鶴岡文庫や鎌倉国宝館の様な文化と歴史を守ってらっしゃる組織の職員サンの多くはこの事を知っています。
巨福呂坂切通し位置 久良岐のよし
現代では住宅街に埋もれている谷間の細い道が、本来の鎌倉防衛の要だった巨福呂坂切通しの跡です。
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さてさて、そんな鎌倉防衛拠点の手前に立つ関東最大で最高格の臨済宗寺院、建長寺は昔は鎌倉武士達の学問所としても機能していた訳ですが、この御寺を最初に造営した開基様が鎌倉幕府第五代執権の北条時頼公です。
そして、モンゴルによって滅亡した南宋国から亡命してきた四川省出身の名僧で日本武士に禅の精神と故国の情報を叩き込んだ蘭渓道隆和尚が開山(かいざん=初代住職)と成りました。
つまり、当時はモンゴルやモンゴルに服属している朝鮮人によって何時、侵略戦争を仕掛けられるか解らず日本は周辺国から危険に晒されていた状況でした。
ですから、鎌倉幕府を蘭渓道隆和尚が頼ってきたのも、故国の南宋王朝が如何(いか)にして滅亡したか日本に伝え備えさせる目的が少なからず有ったと推測出来る訳です。
そして、当然、武士達も蘭渓道隆和尚を師と仰ぎ、和尚が伝えた学問を取り入れ日本人としての武士の気概と禅の平静を保つ精神と中国渡来の兵法を融合させ、モンゴルの威を借りる朝鮮人とモンゴル人征服王朝の中国元朝の侵略に対して備えた訳です。
事実、この時期には朝鮮がモンゴルの名を挙げ日本を外交的に脅迫し始めていた時期でした。
・・・まぁ、今も昔も朝鮮半島の政府は古代からずっと隙有らば日本を侵略しようと何度も攻めて来たり日本を裏切って来た歴史が有るので彼らは鎌倉時代も通常営業、今と同じですね。
まぁ、日本は蘭渓道隆和尚の教えによって戦場でも冷静に敵と対峙した鎌倉武士達の準備の甲斐有って、元寇で朝鮮軍と江南水軍を2度に渡って日本の武士団が撃退します。
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この座禅を取り入れた精神修養は後に鎌倉文化や武士文化の形成に大きな影響を与えて行く事に成ります。
鎌倉時代以来~室町時代そして江戸時代に成るまでは、禅と言うのは武士の精神修養の嗜みとして武士文化に取り込まれ現代に残りました。
当時の武士達は例え信心する宗派が臨済宗でない武士も平素、参禅して修行に励んだ様です。
そして、建長寺では蘭渓道隆和尚の影響も有り、禅の他にも中国語も教養として学び武士達に易学や兵法を学ぶ場としても機能していました。
蘭渓道隆和尚については、以前、常楽寺の記事でも紹介したので興味の有る人は読んで見て下さい→
因(ちな)みに建長寺、“けんちん汁”の発祥地だったりします。
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写真の画像は建長寺の物とは違いますが、建長寺近くに在る“鎌倉五山”と言う和食屋さんで提供しているケンチン汁です。
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建長寺では参禅すると、本家本元の“けんちん汁”を食べさせて貰う事が出来ます。
まぁ、なかなか観光でしか普通の人は鎌倉に行く用事も無いので、北鎌倉駅周辺の和食屋サンで提供している店に入るのがデートや家族連れだったら無難でしょう。
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建長寺に話を戻しますと、多くの武士から崇敬を集め、その武士達の子弟が幼い頃に入門し学問と精神修養に励む場所であり、日本中の学僧が集まる場所でもあったので現代でも国宝や重要文化財の建物が多く現存しています。
そんな建長寺なので、鎌倉武士達のみならず戦国時代にも名将を輩出しています。
その名は太田道灌(どうかん)、江戸城や河越(川越)城を築城した名築城家であり戦っては無敗を誇った名軍師で、扇谷上杉家の執権(しっけん)でした。
太田道灌公
今の政権に例えると官房長官や幹事長みたいなもんです。
当時、日本を統治していたのが君主=天皇家。
その統治を代行していたのが征夷大将軍足利家。
足利家の政治を分業実行していたのが管領と関東管領。
その関東管領を務めた家が犬懸(いぬかけ)上杉家、宅間(たくま)上杉家、扇谷(おおぎがやつ)上杉家、山内(やまのうち)上杉家の上杉家の筆頭4家。
その家、室町時代中盤~戦国時代に関東管領と務めたのが扇谷上杉家と山内上杉家。
その扇谷上杉家の軍事と政治を取り仕切っていたのが、この太田道灌公でした。
この太田道灌公は幼い時から非常に頭が良かったそうで、幼少期には大人も論戦で言い負かす事が度々有ったので、道灌公の父上の道真公が「この子、将来、人を見下す子に育たない様にしないと危ない」と感じて、建長寺に入門させて幼い時は建長寺で僧侶達から人としての道や学問を教わって育ったと言われています。
残念ながら建長寺も数度の戦火や火災に遭っており、建長寺で道灌公が具体的にどんな生活をしていたかは今の職員さん達も解らなく成っています。
戦国時代末期に成ると、扇谷上杉家も滅亡寸前、関東の覇者は小田原城を本拠地にする北条(伊勢)家に変わっていました。
戦国時代に関東で随一の学者文化人としても有名だった建長寺の玉隠英璵(ぎょくいんえいよ)和尚は、太田道灌公とも親交が有った人物なのですが、この玉隠英璵和尚と北条家の治世化で交流の有ったのが北条家相模十四騎筆頭の間宮家でした。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
横浜市南区に今も在る真言宗の名古刹で、弘法大師空海和尚所縁の弘明寺の江戸時代までの扁額は、間宮家が寄進した物でしたが、その扁額を揮毫(きごう=字を書く)したのが玉隠英璵和尚で、90歳の時の事と絵図が文献の挿絵で残っています。
まぁ、昔の禅宗は武士の嗜みだったので、他宗派の僧侶からも歓迎されていた様です。
徳川家と間宮家に所縁深い静岡市の華陽院も浄土宗ですが、家康公の祖母の戒名も“禅尼”となっていたりしますからね。
そんな建長寺と関わった間宮家からは有名な北条綱成公の副将として稀有な活躍をした間宮康俊公や、その孫で徳川家康公に重用されて佐渡奉行、但馬奉行として金山や銀山経営で他の代官より抜きん出た実績を残し更には大坂城総掘りと真田丸埋め立ての作戦を立案した間宮直元公を輩出しています。
つまり、建長寺は名軍師を生みだして来た御寺な訳です。
これは蘭渓道隆和尚や北条時頼公が後世に残したソフト面での偉大な功績でしょう。
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さて、そんな建長寺、ソフト面だけでなくハードも立派な事は冒頭で申し上げた通り。
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凄く立派な仏様が参拝客を出迎えて下さいます。DSC_2102
仏様も立派なのですが、天井の装飾も立派ですよね?
実はこの仏殿、元は江姫の御廟所だった建物で、江戸時代の徳川将軍家の菩提寺、芝の増上寺に在ったのを御夫君で二代将軍の徳川秀忠公から建長寺の建替えに際して移譲され移築された建物なんですね。
徳川秀忠公の奥さんの江姫と言うのは別名で御江与様、つまり織田信長公の姪っ子で、浅井長政公と信長公の妹の市姫様の娘さんに当たる人物でした。
元々霊廟だったので、少し普通の仏殿と違った造りに成っているそうです。
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仏殿の横には何故(なぜ)か梟(ふくろう)の置物が・・・。
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仏殿の奥には金ピカの門が在ります。
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これも徳川秀忠公の寄進した唐門で、龍王殿の入口に成っています。立派ですね。
黒と金のデザインが、江戸時代初期、安土桃山時代の文化の雰囲気がまだ残る色使いに成っていますね。
徳川政権の前、豊臣秀吉が北野天満宮や二条城の伏見城遺構や大坂城天守を見る限り黒と金の組み合わせを好んで使っていた様です。
さて、建長寺は他にも立派な建物が現存しますが、小生は特に紹介して置きたい場所が有ります。
それは建長寺の“守護神”の半蔵坊という“神社”です。
日本の文化は本来は神仏習合と言って神様も仏様も同じ様に大切にしたり、水が湧く場所聖地や霊場として大切にされた山も崇拝対象にしていました。
ですから、明治時代の神仏分離令までは御寺にも沢山神社が在って、御寺の中で神官が神事を行ったり、逆に神様に和尚様達が御経を読んで天下万民の安寧を祈願したりしていたんですね。
明治時代の神仏分離令で多くの神社の中の仏様や、御寺の中の神社の神様は撤去されてしまいましたが、臨済宗や曹洞宗や浄土宗や真言宗と言う武家文化と密接な宗派は神様を今でも大切にしている場所が多く有ります。
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半蔵坊へは少し判り難い上の写真の参道が建長寺境内の左側に在ります。
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そこを進んで行くと、御寺なのに立派な鳥居が見えてきます。
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半蔵坊は天狗(てんぐ)様を祀る建長寺の守護神なので、鳥居をくぐり御社を目指すと沢山の天狗様が御出迎えして下さいます。
天狗信仰は関東では古い文化で、延喜式内社の大山阿夫利神社も江戸時代には大天狗と小天狗も崇拝対象に成っていました。
源義経が鞍馬山で天狗に剣術を教わったのは有名な話ですね。
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さて、この半蔵坊、現代に凄い御利益を発揮した事で有名だったりします。
実は阪神淡路大震災の時に、この建長寺を参拝して半蔵坊の災難除けの御守り札を頂いて来た人達の家は、一軒も被害に遭わなかったそうです。
まぁ良い地盤の地域に御住まいの方が多かったのかも知れませんが、普段から古い習慣を大切にして、心に一本、神様仏様への信仰を持っている様な人だからこそ地震被害の多い埋め立て地を居所にしなかったりしたのかも知れませんが、こう言うのは信じて厄除けして頂いて、自分の心を安らかにする事が既に御利益なんだと思います。
そして、神様仏様の御利益が実際に授かれれば、それに謙虚に感謝して、日々生かされていると感じれたら良いのだと思います。
小生も自分の土地神様と仏様の厄除け祈願の御守り以外に、家の玄関には半蔵坊様の御札と氏神様の御札を掲げています。
お蔭様で、何とか無事に生きています。そして遊び友達みたい浅い関係ではない、日本の親友と国境を越えた親友にも恵まれています。
そんな訳で、建長寺守護神の半蔵坊大権現は災害除けの御利益が有るので、建長寺に参拝するならば一緒に是非参拝する事をお勧めしたい場所だったりします。
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ここからの眺望や良く、写真の日は生憎(あいにく)の曇天でしたが、晴れていると相模湾も一望出来る景勝地でもあります。
ただ、ここに御参りするには建長寺オリジナルの御朱印帳が必要です。
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御朱印授与の場所で売っているので、半蔵坊の御札も頂くならば、鎌倉五山や鎌倉の臨済宗寺院巡りの為にも購入すると丁度良いかも知れませんね!
小生は建長寺と半蔵坊の御朱印を頂いてから、鎌倉五山の御寺を順位の順番に再訪しました。
残念ながら、寿福寺の現御住職は昨年くらいから御高齢で御体が不自由になられた様で、御朱印の対応が困難だと奥様から伝えられ、再度御朱印をこの朱印帳に頂くには至っておりません。
寿福寺も由緒正しく、昔は歴代御住職様は猊下(げいか)と武士や僧侶から敬称で呼ばれた御寺なので、早く御住職様の体調が良くなり復帰される事を祈るばかりです。

さて、建長寺、立派で御寺でしょう?
半蔵坊からの眺めも良いので、北鎌倉散歩の際は是非、訪れて見て下さい!
・・・まぁ、円覚寺や東慶寺や浄智寺、明月院や長寿寺って他にも御参りして置きたい御寺が沢山有るのが北鎌倉なので、鎌倉江ノ島七福神の御朱印巡りがてら、数度に分けて鎌倉訪問して建長寺も浄智寺と一緒に訪れたり、明月院の紫陽花観賞と一緒に訪れるのも良いかも知れませんね!

さて今日はここまで!
今週末は台湾の友人夫婦の来訪が有り、水曜日はその事を休日雑記に書くかも知れません。
では、又、次の解説記事か休日雑記で御逢いしましょう!

神奈川県鎌倉市のJR大船駅駅から、近くも無く遠くも無い位の距離に神奈川県民から「大船フラワーセンター」の俗名で呼ばれる植物園が有ります。
正式名称は「県立フラワーセンター大船植物園」なんですが・・・
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・・・2017年の3月初旬現在、“玉縄桜”と言う早咲きの「桜と梅が満開で同時に見る事が出来る」珍しい場所でもあります。
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昨年、母が子宮癌を患い、築地市場近くの国立がん研究センター病院に入院し子宮摘出手術を受けたのですが、小生は鎌倉市浄明寺地区の浄妙寺で淡島大明神を参拝し母の子宮癌平癒の祈願をした上で淡島大明神の御守りを買って母に渡していたのですが、結果として手術は成功し転移も無かったので、母の体力が回復した先月末に母を伴って御礼参りに行って来ました。
浄妙寺は昔から「婦人病治癒、女性の味方の神様」の「淡島大明神を祀る御寺」として「御婦人達の崇敬を集めていた」歴史を、たまたま横浜の殿様の間宮家と宅間上杉家の顕彰活動を通じて訪問した事で知っていたので、その様な行動をした訳です。
その帰り、幼稚園の頃に母と来たのが最初だった大船フラワーセンターに立ち寄って来ました。
この直ぐ近くの龍寳寺にも用事が有り、ついでと言うか、丁度“玉縄桜”が満開に成っているのを知っていたので見てきました。
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玉縄桜の名前の由来は、この直ぐ近くに戦国時代に存在した玉縄城と言う難攻不落の城の在った地域名に由来します。
玉縄城は上杉謙信10万の大軍、武田信玄2万3千の大軍の攻撃を城兵3000で防衛し、2回とも敵軍の上杉勢や武田勢を撤退させた堅城でした。
この城を守っていたのが小生が個人的に尊敬している北条綱成公で、その綱成公の率いる部隊は「玉縄衆」と呼ばれ軍旗等の軍装を黄色で統一した部隊で別名「黄備え隊」と呼ばれた軍団でした。
この黄備え隊の副将が、小生が顕彰活動をする殿様の一人である間宮康俊公でした。
間宮康俊公の姫は徳川家康公の側室と成り子を産んだ於久(おひさ)様、そして嫡孫は徳川幕府の但馬奉行や佐渡奉行を務め金山銀山経営で他の鉱山奉行と比べ物に成らない程に功績を残された間宮直元公でした。
直元公は大坂城外堀や真田丸の埋め立てを家康公に立案した名軍師でもありました。
そんな玉縄衆の気概を名前に受け継いだ風流な桜が、この玉縄桜な訳です。
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黄備え玉縄衆は、関東の覇者、北条家の中で重要な合戦には必ず参戦し先陣を切って戦ったり、最前線での苦難な籠城戦を防衛し切ったり、他の部隊の追随を許さない功績を挙げ常に前線で戦う部隊でしたが、玉縄桜も河津桜同様に先頭を切って満開に成る品種でもあります。
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今、正に大船フラワーセンターでは、この玉縄桜と植樹された様々な梅を同時に見る事が出来ます。
園内手前の方には玉縄桜の他に、「おかめ桜」も遊歩道に沿って数か所植林されています。
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この桜、名前は純和風ですが、実は桜観賞の文化に惚れ込んだ英国人の植物学者イングラムさんが英国に日本の桜を数種類持ち帰って混合させ生み出した品種なんです。
つまり人間に例えると日系英国人留学生って感じでしょうか(笑)?
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ハッキリとしたピンクが目鼻立ちがシッカリした英国人女性の様ですね。
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そして日本と同じ海洋国家で近代日本の随一の友邦だった英国の桜らしく、戦国時代関東最強の北条綱成公の城名をとった玉縄桜同様に先陣を切って咲く凛々しさも持ち合わせています。
う~ん・・・
解る人には解るけれど、桜版の戦艦金剛かな(笑)?
さて、大船フラワーセンターは牡丹や蓮も有名なのですが、今は季節ではないのでそのエリアを通り過ぎて一番奥の方に行くと色んな種類の梅の樹が植えられた並木道に出ます。
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小生が訪れた先月2月末は枝垂れ梅が見事でした。
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多分、今時分は更に見頃に成っていると思います。
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このエリアにも玉縄桜が有ります。
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綺麗でしょ?
どうです?
ちょっとお散歩に行ってみませんか?
この他にも孟宗竹や唐竹等、色んな竹を植えた小規模な竹林や・・・
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台湾原産の紅葉ばふう。
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そして、小生が気に入っている場所がもう一つ有り・・・
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熱帯植物の温室です。
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いくつかの部屋を円形に配置して分けてあり、多種多様な植物を見る事が出来ます。
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完全に外国人ぽい花・・・
人の顔も違えば花の個性も同じ様に原産国で変わるんだなぁ~とか考えるのは小生だけでしょうか?
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可愛らしい花も有れば・・・
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毒々しい色の奴もいたりします。
見ていて飽きません。
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蓮の仲間の展示エリアにはメダカみたいな魚も沢山泳いでいます。
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わざわざ下田とか行かなくても、実は大船駅周辺にこんな場所が有るって、今の若い子達は知らないんですよ。
きっとバブル世代の親は若い頃に、こう言う植物を愛でる様な育ち方をしていかなったので自分達も子供達に植物を愛でる文化を伝えたり出来ない人が多いのかも知れないですね。
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小生は、玉縄桜と梅と、このエリアが御気に入りです。
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あと、部屋で育てる鉢植えの植物も温室に展示されています。
温室の先、一週回って入口近くには盆栽を展示したエリアも有ります。
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小生、この黄梅と言う品種を知りませんでした。
一瞬「蝋梅」かと思ったら違うらしいです。
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盆栽もユックリ見ると良いもんですね!
しかし子供にはツマラナイかも(笑)。
ここはちゃんと子供が来て御腹が空いても平気な様に、フードコートが無い代わりに移動式店舗が数店営業しています。
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小さい子に植物見せるだけとか、ちょっとした「苦行」をさせる様なもんですからね(笑)。
小生も幼稚園の頃に担任の先生や親なんかとここに来ても全く楽しく無かったですから。
大人になって、段々小さい頃に見せて貰った物の美しさや大切さが理解出来る様に成ると、ふとした切っ掛けでそこを再訪したりするもんなんですよ。
だから、今小さい子がいるパパやママさんは、ここに子供を連れて来て御散歩して欲しいなぁ~とか
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こう言う小さいなパンジーも子供の時に見ておくと、大人になって再訪した時に当時の記憶として思い出したりするもんなんです。
親は自分より早く死にます。
でも、親が見せてくれた物を大人になって見ると、親の事も思い出して感謝も出来るって思うんです。
実際、小生が幼稚園当時の記憶で一番覚えていたのは、このパンジーと入口の花時計でした。

実は大船フラワーセンターこと県立フラワーセンター大船植物園は今年2017年7月で一旦閉園します。
そして改装後、2018年03月31日の再開予定なんです。
つまり、早咲きの玉縄桜を見るチャンスは今回を逃したら2年後に成ってしまう訳です。
今幼稚園の子も2年たったら小学生、そうなると親と一緒に遊んでくれなく成ったり習い事が大変で時間が無くなったりしますよね?
デートで来たいカップルも、2年後は結婚して子供が生まれていてとてもじゃないけど外出する余裕が無いかも知れない。
それに今の大船フラワーセンターの春の姿を見られるのは、今だけです。

ですから皆さん、是非、大船フラワーセンターへ行ってみませんか?

【県立フラワーセンター大船植物園】
住所:〒247-0072神奈川県鎌倉市岡本1018
電話:0467-46-2188
アクセス:駐車場有り
(徒歩)大船駅西口観音側下車16分
(バス)大船駅西口バスターミナル1番のりばから、神奈川中央バス「渡内経由藤沢駅行」または「公会堂前経由城廻中村行」、「岡本」下車徒歩3分
県立フラワーセンター大船植物園の地図 久良岐のよし
では皆さん!又、次の記事で御会いしましょう!


北鎌倉駅の裏には円覚寺と言う御寺が在ります。
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と言うか、円覚寺の境内にJR横須賀線の北鎌倉駅が開業しちゃったんですね。
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ですから参道には踏切も在ります。
円覚寺は正式には瑞鹿山圓覚興聖禅寺と言う名前で、東日本の臨済宗の寺院に置いて2番目に高い格式を鎌倉時代に皇族将軍家に認知され、執権である歴代北条家からも、その後の室町幕府の京都の歴代将軍家からも支援されて来た由緒有る御寺です。
それもその筈、この御寺は鎌倉幕府第八代執権の北条時宗公が開いた御寺なんだから立派で当たり前なんです。
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時宗公は、モンゴル元朝の威を借りた朝鮮半島の朝鮮人の脅迫に屈せず、中国江南地方の水軍と朝鮮の略奪と侵略目的の軍勢を相手に交戦する事を決め、日本を守った名宰相です。
しかしながら身分的には皇族将軍の陪臣と言う立場だったので、官職は左馬権守(さまのごんのかみ)、相模守(さがみのかみ)、官位も正五位下に抑えられていました。
五位以上の官位でギリギリ内裏(天皇の御所の朝廷会議が行われる場所)に参内(さんだい=入る事)が出来る程度なので、日本への貢献度を考えると異常に低い官位でしょうね。
実際にやっている事は右大臣や太政大臣こそ相応な業績を残している訳ですから。
そんな訳で、没後に天皇家から征夷大将軍達と同じ従一位の官位を追贈されています。
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さて、そんな時宗公、何でこの御寺を建てたのかと言う理由が又、坂東武者らしい価値観に基づいており素晴らしい。
元寇の乱で亡くなった敵味方の戦士の慰霊の為でした。
本来の天皇家の血を引く「武士」と呼べる人々の考え方は神道的な考え方と仏教的な倫理観が融合していて、この北条時宗公も又、桓武天皇の御子孫に当たる人物なので、敵味方の区別なく勇敢に戦った武将や末端の兵士を分け隔てなく供養なさったのでしょう。
小生が時宗公を尊敬する所以(ゆえん=本来の中国語では「だから」の意味)でもあります。
小生は基本的に源氏の歴代殿様を暗殺して来た執権北条家は大嫌いです。
源頼朝公がいたから、今日の発展は有った訳です。しかも法治主義国家の基礎を築いたのも頼朝公ですからね。
北条時政や北条義時や北条政子と言うのは不義理で低文化な人間だと思っていますが、しかし彼らが合議制による民主主義の基本の様な価値観を武士に根付かせた事で、今日の日本人の思想は有るとも思っています。
小生は北条家の中でも、北条泰時公、北条実時公、北条時宗公は特に尊敬する人物でもあります。
ですから、小生は北条泰時公と北条実時公の名を菩提寺の御住職様に書いて頂いた色紙を大切にしています。
さて、円覚寺を開いた開基様=大旦那=オーナーが北条時宗公である事は説明しましたが、開山様=初代住職の話もしておきたいと思います。
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写真は円覚寺の山門。
この円覚寺の初代の御住職様は日本人ではありません。中国から来た無学祖元和尚が北条時宗公の要請で就任しました。
この無学祖元和尚は、モンゴル軍が日本の友邦であった南宋を攻めた際に、現在の温州にいましたが元の臣民に成るのを好(よし)とせず、日本に亡命してらっしゃいました。
これは鎌倉五山第一位、建長寺の蘭渓道隆和尚とも同じ経緯ですね。
蘭渓道隆和尚については以前、北条泰時公の菩提寺の大船に在る粟船山常楽寺の紹介を書いた時に少し紹介して有るので、興味の有る方は以下のリンクから記事を御覧下さい。
←ここクリック!
さて、上の写真の通り円覚寺の山門は大変に立派な物ですが、伏見上皇の勅願(天皇の要請により祈祷や物事を成す事)で再建された建築遺産です。
実は円覚寺は大火で一度灰燼に帰す憂き目に遭っています。
それでも尚、天明年間に当時の天皇陛下から再建の要請が有ったのは、この御寺を建てた北条時宗公の日本に対する勲功の大きさと御威徳によるものでしょう。
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円覚寺は写真の様に、歴史を余り詳しくない観光客も読めば大切さが判る説明看板が親切に設置されています。
こう言うのをちゃんと読むと、新編武蔵風土記稿や新編相模風土記稿にも載っていない大切な伝承が書いて有ったりして歴史好きにとっても楽しかったりするんですよ~。
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この訪問時、2月8日は鎌倉の梅も陽当りの良い場所は七分咲き位に開いておりとても綺麗でした。
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山門を抜けると佛(仏)殿です。
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ここは大正十三年(1923年)の関東大震災で倒壊し、現在は内側は鉄筋コンクリートで再建されています。
外観は見事に旧状を留めた再建と成っていて、円覚寺の職員の僧侶の方々の文化意識の高さと、再建に尽力され費用を拠出された檀家衆の皆様に時代を経て神奈川県民、日本国民としての後輩として頭が下がる思いです。
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最近、浜松市の禅宗の某寺が左巻き歴史学者と一緒に、天皇家が守り神として神号を追贈した織田信長公をコケにする発言をしましたが、明治以前、本来は禅宗寺院も天皇家や神道的な価値観を非常に大切にする宗派だったので御覧の通り、円覚寺の仏殿の御本尊、寶(宝)冠釈迦如来様の前にも今上天皇聖寿万歳と書いて有ります。
左巻きバカ学者は織田家や天皇家を侮辱する事が大好きなんですね、何故なら某国にはいない民草を大切にした織田家は天皇家を復権させた立役者であり、神道的な古代の儀式を復興したり朝廷内の乱れ廃れていた文化儀礼をも復興した極めて「日本の良い所」を集めた人物だったからでしょう。
さて、再建された佛殿の天井には立派な龍の絵が描かれています。
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御参りした際は是非、天井を見上げて下さい!
仏殿を左手側から出ると選仏場と言う名の茅葺屋根の御堂が在ります。image
座禅を行う場でしたが、その後、座禅を行う場所が正続院に機能移転したので、ここは御堂としてのみ現在は機能しています。
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元々は座禅を行う場であり、経典を保管する蔵としても活用されていたそうです。
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中にはとても美しい観音様と仏様が祀られてらっしゃいます。
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ここも円覚寺で必ず立ち寄って仏様を拝んでおきたい場所でもあります。
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この訪問時、鎌倉の梅は七分咲きと言った所でしたが、どうやら傾向としてどの梅林も紅梅は先に開花する様です。円覚寺の紅梅さんも可愛らしく咲いた姿を見せてくれました。
可愛いなぁ~!
本当、花に例えるなら梅みたいな御嫁さんと一緒にいられたら幸せだろうなぁ~。
実を結ぶ、御互いに成長する人間関係、季節の変わり目を楽しめる人。そんな女性を連想するのは多分、変態の小生だけですね(笑)。
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さて、一頻り(ひとしきり=頻の本来の意味は区切りの意味。現在の中国語では頻道と書いてTVのchannelの意味で使われたりもする)平地の建物を回るといよいよ、奥院に当たる黄梅院と言う建物を目指す為に、谷戸に囲まれた登坂を登って行く事に成ります。
余談ですが、ちょくちょく小生の記事に登場しますが「坂」と言う字は古代では下り坂の意味しか有りませんでした。現在は平地の意味で使われる「ひら」と言う言葉こそが本来の登り坂と言う意味の古代語で、これは琉球語や古い縄文語に通じる言語に残っていたりします。
さて、そんな訳で谷合の平(ひら)を上がっていくと途中、左手に妙香池と言う溜池が有ります。
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現在の姿は昔の絵図から旧状を発掘復元した姿だそうです。
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綺麗な池ですよね。
放生池と言うのは、生き物の命を大切にする日本の放生祭と言う神事仏事を行う池の事で、本来、武士にとって高級な食材だった鯉等を殺さずに放流したりする池の事です。
源頼朝公も三島大社で放生祭を行っていますし、織田信長公の青春時代の御膝元で愛妻の生駒お塁さんの実家の有った愛知県江南市の久昌寺一帯で馬を放つ放生祭を行っています。江南市の放生祭神事は、明治以降の神仏分離で神社も御寺も衰退して行われなく成ってしまいました。
しかし円覚寺には妙香池が有る事で、この説明を見て疑問に感じた人がいれば調べて仏事神事に興味の無い人も歴史偉人達の教科書には載っていない性格の側面を知る事が出来たりします。
もっとも、小生の場合は直接偉人達の関係者を訪問して、昔、どんな事をやっていたか先に教えて頂くのですが。
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妙香池を過ぎると、上の写真の説明石柱が有る丁字路に出ます。
左手に進むと舎利殿が有ります。
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この奥…
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国宝指定を受けている建造物。
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ここは鎌倉幕府第三代将軍で頼朝公の御二男の源頼朝公が南宋より贈られた御釈迦様の歯を祀っている場所です。
舎利とは「捨てる」と言う意味ですが、仏舎利と言うのは御遺体の事を指します。
仏様に成ると言う事は生物的には死んでしまう訳ですね。
成仏と言う言葉の通りでしょう。
それと悟りを開くと言うのは又、別の意味の様で、だからこそ「生き仏」なんて言葉も有るのかも知れません。
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一般人は入れないのですが、とても立派な茅葺屋根の建物と御堂が見えました。
見るに正面の建物の作りは江戸時代の建築様式ですね。
破風が付いてますから。
でも上部の屋根は旧来の構造を模している様に見えます。
さて、門の前から御釈迦様と源実朝公(菩提寺は寿福寺)に御参りしたら、元の丁字路に戻り坂を上ると直ぐに下の写真の場所に辿り着きます。
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ここは佛日庵と言われる塔頭で、中に開基堂が在ります。
開基堂は、その名の通り日本を守った名宰相で円覚寺を造営した北条時宗公の御廟所です。
入口の門は現在では侵入不可ですが、脇に観光客用の通用門が設置されています。
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ここも円覚寺に来たら絶対に立ち寄りたい、小生の御勧めの場所です。
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この写真撮影日はまだまだでしたが、今頃は梅も綺麗な事でしょう。
ここでは美味しい抹茶を頂いきながら、時宗公の偉業を思ったり静かな時間を過ごす事が出来ます。
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御干菓子も付いてますよ!
カップルで参詣にも適しているデートコースだと思います。
ゆっくり休まして頂き、その後、時宗公に日本を元朝の威を借りた朝鮮の蛮兵の略奪侵略から守って下さった御礼を申し上げると、時宗公も「うむ」と思って下さるか「お前もシッカリやれよ」と見守って下さるかも知れません(笑)。
小生はどうだったんでしょう?
「日本の前に御前、もっとシッカリせ~よ」
と言われた気がします(笑)。
頑張ろう・・・先ずはダイエットしてムキムキマンに復活するの。
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中心の御堂に、時宗公達の御姿を写した彫像が祀られています。
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その左手の建物、佛日庵も入らせて頂く事が出来ます。
その手前右手にはコケの庭園が在りますが…
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これ、笑点の林家木久扇師匠の作庭です。
正直・・・幼少期にずっと美大受験生のオネイサン達に混じって絵と造形を学んでいた小生とは個人的にセンスが合いません(笑)。コンセプト不明( ´艸`)。
佛日庵を出ると、直ぐ近くに白鹿洞が在ります。
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現在は崩落して人が入れるスペースも無い様ですね。
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無学祖元和尚が説法をした際に、この白鹿洞から沢山の鹿が出て来て人々と共に説法を聞いたと伝承するそうですが、これが円覚寺の山号「瑞鹿山」の由来だそうです。
この洞穴、埋もれた場所に水流の跡が在る事、手前に埋没しているものの、水を堰き止める構造の跡が在る事から、恐らく鎌倉に良く見られる洞穴式の湧水を集める井戸と溜池の跡だと思います。この水を集めて、下の妙香池等に配水していたのだろうと、城マニアの小生は考えました。
小生の推測通りに湧水が有ったのなら、伝承の様に洞穴が崩落する前に洞穴内の池で鹿達が水を飲んでいて、説法が始まり大きな声に驚いて一斉に洞穴から出て来たとのかも知れませんね。
ここを過ぎると、いよいよ円覚寺の奥院、重要な黄梅院と言う塔頭寺院に着きます。
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ここは東慶寺の初代尼住職で北条時宗公の奥方の覚山尼様が開いた塔頭寺院です。
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それ故、円覚寺の守護神的な位置に当たる場所なのかも知れません。
建長寺の場合は半蔵坊の神社が黄梅院の役割を果たしていますね。
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当初は時宗公の菩提を弔う場所だったのですが、円覚寺第十五代の住職にして枯山水様式の日本庭園作庭の大家(たいか)として有名な夢窓疎石(むそうそせき)和尚が塔頭寺院としての機能を備える御堂を建てたそうです。
この夢窓疎石和尚は近江国の大名、六角佐々木家の御一門でした。
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室町時代に入り、第二代室町幕府征夷大将軍の足利義詮公の御分骨が埋葬され、それ以後は足利将軍家の室町時代の関東における菩提寺的な宗教的な意味を持つ場所に成ったと説明が有ります。
まぁ、足利家の鎌倉時代の鎌倉に於ける菩提寺は浄明寺、そして足利尊氏公の菩提寺は長寿寺なので、二代目以降の話だと思います。
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この日、ここでもちゃんと御参りをして、から黄梅院を立ち去りました。
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黄梅院の山門をくぐり山を下っていく途中、下りの右手には「續燈庵」と言う塔頭寺院が在ります。
燈火(ともしび)と言う字は、仏教では教えを受け継ぐ法脈を形容したりするので、ここも昔の何(いず)れかの円覚寺の御住職様と関係の深い場所だったのかも知れませんね。
残念ながら一般人は門の近くに行く事も出来ない場所なので、写真は遠くから写しました。
さて、山門の近くまで戻ってくると、自販機や売店や御朱印受付所が在り、参道入口方向に向かって右手には閻魔堂桂昌庵と言う塔頭が在ります。
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中には閻魔様が祀られているのですが・・・
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御堂に向かって左手に御住職様が開かれた弓道場が在るので、御堂の内部には弓矢がこれでもかと言う程置かれていました。奉納されたと言うよりは、閻魔様に保管して頂いているのでしょうかねぇ~?
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さて、円覚寺の説明は大凡(おおよそ)こんな所です。
実は先日の訪問で、北鎌倉駅の直ぐ裏に素敵な御茶屋さんを見つけたので前回、別個に紹介記事を書いたんですが、香下庵と言う茶房です。
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冬期~初春の間だけ、北鎌倉名物のけんちん汁が食べられますので、御勧めです。
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春からは別メニューになるそうですが、あんみつや御団子も美味しそうでした。
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梅越しに北鎌倉駅と横須賀線を見られる立地の御茶屋さん、こちらも合わせて訪問されると良いかと思います。

ではでは!又、次の解説記事で御逢いしましょう!
三月中旬は忙しくてブログ書けないかも知れません、ご容赦を!





鎌倉市には稲村ケ崎と言う、風景の綺麗な歴史史跡が在ります。
昨日2017年02月15日、横浜の歴史人物の顕彰で使用する風景写真撮影も兼ねて、昼に横須賀市の田浦梅林を訪れた後で七里ヶ浜の夕陽と稲村ケ崎の写真撮影で行ってまいりました。
良い機会なので少し解説と、沢山、稲村ヶ崎から見た夕陽の写真を掲載しようと思います。
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この写真だと少し判り難いのですが、江ノ島の右手には富士山が見えています。
右手は七里ヶ浜と呼ばれる浜辺で、手前の岩礁は今回紹介する稲村ケ崎へと続く七里ヶ浜の一番東の端っこの部分に当たります。
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この七里ヶ浜はとにかく風景が綺麗なので、台湾やアジア諸国からの観光客、そして日本の若いカップルがデートに来る場所でもあります。
七里ヶ浜は江戸時代の浮世絵に書かれている富士山遥拝の名所である事も以前も紹介しましたね。
そんな七里ヶ浜を見渡す一番の場所が下の写真の稲村ケ崎(鎌倉海浜公園)です。
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この入口から入ると左手に小高い丘が有り、公園と道路で隔たれた切通(きりどおし)状の地形の先に鎌倉の極楽寺坂の山々が連なっているのですが、この現代の道路の切通地形は鎌倉時代には存在せず、背後の山とは一体に連なっていました。
稲村ヶ崎と極楽寺坂切通しの位置関係 久良岐のよし
こんな感じ。
当時は西側から鎌倉市街に突入するには、極楽寺坂か化粧坂の切通しを突破するしか無く、更に市街地を取巻く絶壁の山々の全山を要塞化していたので、外敵は苦戦したんですね。
そして稲村ヶ崎の地形が、どれ程に堅牢な防衛拠点だったかは下の写真を見て貰えばわかります。
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先は海に突き出しており、軍勢はここを突破する事は常識では不可能な地形となっています。
そして背後の山々に連なる部分は山裾を人工的に直角に近く“のり切り”されて鎌倉市街地を守る城塞の切岸(きりぎし)として機能していました。
この写真で壁面に四角い窓穴が開いているのが判りますか?
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実は、ここは太平洋戦争でも西側の七里ヶ浜に米軍が上陸する事を想定されていたので、稲村ヶ崎に築かれたトーチカ(要塞)の砲撃用の窓なんです。
こんな事、歴史に興味が無いと見向きもしないんでしょうが、鎌倉幕府を築いた源頼朝公の着眼点は近代戦争にも通用する程に鋭い戦略だったと言う事の証明でもあります。
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大正時代に鎌倉の青年団が築いた史跡の石碑が公園内には在ります。
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そして現代では稲村ケ崎の岬の頂上へは登る事は出来ませんが、山腹の写真撮影に適した場所までは入る事が出来ます。
その遊歩道の傍(かたわ)らには水仙が植えられており、今の梅の季節の頃に咲いて良い香りを漂わせてくれています。
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うん、皆そろって美人さんだ!
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今日も良い香りをありがとうね~。
登りきると、又、石碑が在ります。
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北里大学の創始者、北里柴三郎先生の師匠、ローベルト・コッホ博士が来日した事を記念して北里先生と鎌倉市で建てたそうです。
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ちゃんと文語から現代語訳された説明も有ります。
この石碑が在る辺りで夕陽の撮影をする方も多くいます。
実は、この場所の崖側に、下の写真の穴が在ります。
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恐らく稲村ケ崎要塞の入口だった場所でしょうね。
現代では崩落も有り入口も狭く人が入るのは不可能な様です。
さて、話を鎌倉時代の終焉の頃に戻しましょう。
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新田義貞は鎌倉攻めを行いましたが・・・
巨福呂坂(こぶくろざか=鶴岡八幡宮裏手北側侵入経路)も・・・
化粧坂(けわいざか=扇谷地区侵入経路)も・・・
亀ヶ谷(かめがやつ=北西侵入経路)も・・・
極楽寺坂(ごくらくじさか=南西侵入経路)の全て突破出来ず、苦戦しました。それだけ源頼朝公が築いた鎌倉城の守りは難攻不落だった訳です。
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そこで、この稲村ケ崎で黄金の太刀を海に投げ入れて海の神へ、潮を引かせて鎌倉への侵入経路を開く様に祈願すると潮が引き海底が露出して大軍が稲村ケ崎の海側から鎌倉市街に侵攻する事に成功して鎌倉幕府執権北条家を滅亡させたと伝承が伝わります。
・・・まぁ、これは眉唾物の脚色でしょう。
しかし、この神事は実際に行ったと思います。
実は古代から平安時代は、鎌倉時代と違って海に囲まれた扇状地の様な湾の様な地形に侵入する経路は、海沿いの崖に切通しが作られた様です。
これは古代の東海道が残る、鎌倉市材木座~小坪の住吉城址と海前寺の切通しの事例を見ても明らかな歴史事実です。
恐らく新田義貞は、極楽寺坂や化粧坂の切通しを攻撃し北条家の注意を引く間に、工作兵を用いて稲村ケ崎の岸に兵士が通行可能な切通しを建設したのだと思います。
そして、そこを通行する際の安全祈願として神事を行ったのだと思います。
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近くに寄ると分かるのですが、特に上の写真の左手部分、人工的に少し平たく削平した名残りの様に傾斜が緩く成っているんですよね。
そして、近代要塞が築かれた辺りも崖の裾が今でこそ海波の浸食で崩落して歩く程幅は無いものの、その先には角度の緩い場所が復活しているんです。
今では渡れないこの比較的角度の緩い地形、実は新田義貞が突貫工事で削り出した道の跡なんじゃないかな~?
・・・と感じました。
まぁ、神様にお願いしたら海が引いて軍馬が通れる様に成った方が神秘的では有りますが、現実的では無いですよね。
さて、歴史解説は以上の通りですが、ここは小生の嫌いな勲章を粗末に扱った反日バンド“サザンオールスターズ”の歌「稲村ジェーン」のタイトルにも成っている景勝地。
他にも良い写真が撮れたので少し掲載したいと思います。
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波しぶきと江ノ島と夕陽。
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夕陽を見るカップルの後ろ姿と江ノ島。
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仲睦ましく、いつまでも御二人には幸せであって欲しいなぁ~と思いました。CIMG2573
富士山と七里ヶ浜と江ノ島と夕陽。
素敵な場所でしょ?
実は稲村ケ崎の目の前には素敵なレストランも在ります。
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MAINと言う御店です。
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御覧の通り素敵な内装なのですが、窓辺の席からは富士山と江ノ島と七里ヶ浜を見ながら食事を出来ます。
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昨日は小生、平日の休みを利用して田浦梅林の山登りをしていたので単独行動もあり、稲村ヶ崎も当然一人でしたが、この御店は一人で来てもユックリ落ち着いて食事して有意義な時間を過ごせますし、恋人や夫婦で来ても雰囲気の良い御店ですのでくつろげると思います。
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因(ちな)みに昨日は200gのステーキとカシスティーを注文しました。
この後でスポーツジムに行く予定が有ったので当然、炭水化物抜き(笑)。
とは言いながら、田浦梅林の近くの和菓子の名店、ふじみ屋で買った“梅どら焼き”を食べていたので山登り前に当分は補給済みでした。
もう、昨年凄い太ったので贅沢して美味しい物を食べるときは炭水化物は外さないといけないんです(泣)!
CIMG2586
お肉美味しかったですよ!
ウェイトレスのお姉さん、良い接客をありがとう♪。

今回の記事はここまでですが、稲村ヶ崎、良い所でしょう?
是非、皆さんもお散歩して見て下さい!推薦の場所です。


では次回は鎌倉の円覚寺の解説か、建長寺の解説か、田浦梅林の現時点の梅林の開花状況報告を書きます。
又、次の記事でお会いしましょう♪



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