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カテゴリ: 歴史偉人

一昨日の夜にブログ更新するはずだったのにすみませぇ~ん!
最近、色んな町の学芸員サンが資料準備して色々と城址について解説して下さる機会を頂いたり、自分も違う事で急用で資料作って郵送したり他にも色々(昔の初代プレステ引っ張り出してファイヤープロレスリングGやったりwww)していて記事更新遅れました!

今回、本当はこの記事⤵
これ⤴の続きの後編で深沢城を紹介するつもりだったのですが、現地学芸員の方が資料を下さったり発掘の状況を口頭でも解説して下さったのと、地主の御爺ちゃん2人からも農地として重機を入れて地形を変えてしまう以前の話や御爺ちゃんが子供の頃の城址の話をしてくれたので、休日雑記とは別に‟深沢城”として独立記事にする事にしました。
休日雑記の後編は改めて書きます。

さて・・・
KIMG0522
深沢城跡
皆さんは御殿場市に深沢城と言う名城が存在した事を御存知ですか?
城郭ファンや戦国時代ファンには有名な城でマニアック度を5段階で評価するなら交通の不便さや知名度から言ってLV4位の比較的上級者向けの城跡と言っても良いかと思います。

実はこの御城、堅城と知られ物凄い武将の間で攻防戦が行われた場所だったりします。
先ず一人目、御城を作ったのは今川氏親公。この方は日本史で誰もが習う分国法の‟今川仮名目録”を制定した内政に秀でた名将でした。
内田対馬守家感状 久良岐のよし
北条早雲公~北条氏綱公の時代、川崎駅辺り~横浜市沿岸部の寄親(軍団長)だった間宮信親=間宮信冬公に恐らく名の一字を下賜(かし:目下に報償を与える事)したと思われる殿様が今川氏親公でもあります。
間宮家は佐々木氏で間宮の苗字は伊豆の国市間宮(馬宮)を領有した時に名乗り始めたので、今川家臣化し北条早雲公の与力に成って以後の時代、北条家二代目の北条氏綱公の時代の武将が間宮信親公と言う事も解ったりします。つまり小田原城主北条家が誕生し、相模国最大の国人だった間宮一族が武蔵国南部制圧時代に活躍し、後に沿岸部の間宮軍団や内陸部の太田軍団が解体されて小机衆や玉縄衆が編成されていってる変遷も何となぁ~く見えてきたりします。
小生は個人的な推測では、間宮信親=間宮信冬=間宮彦四郎=海老名市・磯子区東部~港南区北部~南部・神奈川区富屋~斎藤分町・鶴見区末吉~川崎市川崎区の領主と同一人物だろうと考えています。
この間宮家の旧主の氏親公の母方の‟舅(おじ)”が、後に間宮家の主君と成る北条早雲の通称で有名な伊勢盛時‟宗瑞”公でした。
新九郎奔(はし)る!
漫画の‟新九郎奔(はし)る!”で主人公に成っているのが北条早雲公です。
新九郎奔(はし)るは平成初期に大ヒットした漫画‟機動警察パトレイバー”の作者、ゆうきまさみ先生により現在ビックコミックスピリッツで連載中です

パトレイバーは数年前に真野恵里菜サン主演で実写化されたりもしていますので、20~30代くらいなら結構知っている人もいるかも知れませんが現役大学生位に成ってくると知らない方も多いかも知れませんね。
新九郎奔(はし)るの主人公、北条早雲こと伊勢盛時公の肖像画は実際はコンナ感じです・・・
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
・・・この北条早雲公が今川氏親公の‟舅(おじ)”な訳ですが、先程から小生が舅(しゅうと)の字を小生が舅(おじ)と読み仮名を振っている事にツッコミ入れようとしたアナタの為に、ちょっと深沢城から話を逸(そ)らして舅の漢字の意味を解説させて貰います。
実は舅の字は現代日本語の‟夫の父”と言うのは大間違いで、本来の漢字の意味では‟母方のオジサン”を意味する字です。
儒教由来の中国文化の漢字なので華語文化圏の表記が正しいのですが、何で日本の現代国語学者が字を誤植し夫の父を舅を‟しゅうと”と読ませてしまっているか誰も間違いに疑問を感じず既成事実化してしまっているだけなんです。
中国語の家族の呼び方
画像掲載元→http://chugokugo-script.net/kiso/kazoku.html
現代中国語の漢字を旧血縁の漢字に変換してみましょう。

現代中国口語     →漢語        →日本語

妈妈(マーマ)   →母親(ムーチン)  →母/母親

爸爸(バーバ)   →父親(フゥチン)  →父/父親

舅舅(ジィウジィウ)→舅父(ジィウフゥ) →叔父※誤植
※母の兄弟

舅母(ジィウムゥ) →舅母(ジィウムゥ) →叔母※誤植
※母の兄弟の妻

老爷(ラオイエ)  →外祖父(ワイズーフ)→祖父(母方)
※母方祖父

姥姥(ラオラオ)  →外祖母(ワイズーム)→祖母(母方)
※母方祖母

姑姑(グーグー)  →姑母(グームー)  →叔母※誤植
※父方叔母

姑丈(グージャン) →姑丈(グージャン) →叔父※誤植
※父方叔母の夫

・・・まぁこんな感じで全然現代の日本語に誤植されている漢字の意味は本来の漢字の意味は異なっていて、更に父方の叔父も父より年長か年下かで漢字が異なってきます。
漢字の血縁の話に脱線しましたが漢字の意味的には北条早雲公は深沢城を築城した今川氏親公の舅(おじ)だったって話だけです(笑)。
さて、そんな訳で名将今川氏親公と、その家臣だった伊勢宗瑞(北条早雲)公の甥とオジチャンがコンビだった時代に築かれたのが御殿場の深沢城だった訳です。
この深沢城、何で今川→北条→武田→徳川→廃城と強豪大名達によって争奪戦が繰ひげられたのでしょうか?
深沢城は現代では御殿場市に存在しますが、これは縄文~平安時代以前から存続する神社と遺跡と道を重ね合わせると一目瞭然に理解できます。
先ずは深沢城と古社と縄文時代~弥生時代の海岸線をGoogleEarthで重ね合わせて見ましょう。
古代の街道と深沢城
※画面をクリックして拡大して見て下さい。
この通り海岸線が現在の位置に近づいた古墳時代に創建された伝承のある平塚八幡宮と前鳥神社を除いて古代の海岸線の湾の最深部や半島の付け根と先端に存在し、内陸部が古代の矢倉沢往還や中原街道の通過点に存在している事が解ります。
実は現在の東海道は江戸時代に再整備された道の近くに作り直された道なのですが、平安時代以前の主要街道は海沿いの古代東海道と内陸の矢倉沢往還の2本でした。
矢倉沢往還は・・・
御殿場市の山側北部を通過する矢倉沢関所を通過し足柄郡から国道246に合流する道で足柄峠~足柄関~寒田神社~比々多神社~五社神社~杉山神社~橘樹神社と続き悉(ことごと)く国府や郡衙(市役所みたいなの)と延喜式内社の近所を経由する街道です。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
古東海道は・・・
綾瀬市五社神社辺りで矢倉沢往還と分岐~神崎遺跡~藤沢市宇都母知神社~大庭神社~村岡城~鎌倉市御成町(推定郡衙)~逗子市岩殿寺~桜山古墳(蘆花記念公園)~葉山町下山口~神武寺~上山口~横須賀市走水神社~房総半島富津市の文字通り東の海沿いの尾根道と海を船で越える海路で、悉く平安時代以前から存在する倭建命(やまとたけるのみこと)神話や弥生時代~古墳の重要な遺跡の残る地域の神社を通過します。中世に成ると古代の尾根道から山麓の平地に人の流れが変わり道が開かれ、山上の古道は修験者の山岳聖地巡礼の順路に成った様です。
その古道の‟矢倉沢往還”の起点と古東海道からの敵軍の小田原城防衛ラインの前線が深沢城と山中城だったんです。
近くの小山町は古代駅伝制の横走関=店屋(てんや=兵站)と考えらている上横山遺跡も有り深沢城は重要な街道を防衛する城でした。
小田原城防衛網
そしてこの足柄峠の古東海道と箱根の中世東海道を守る城が深沢城の後ろにも幾つか存在し、戦国時代の大名北条家の本拠地‟小田原城防衛網”を形成していました。
深沢城の北西の甲斐国には北条家と敵対する武田家がいました。
武田菱
  武田VS北条
   三つ鱗紋
深沢城を攻略されると一番ショートカットで小田原城を襲撃されてしまう訳です。
武田信玄
この肖像画は風林火山で有名な武田信玄ですが、特に武田信玄は・・・
「疾き事風の如く」
「侵略する事火の如く」
・・・のキャッチフレーズの通り侵略戦争をする際は用意周到に街道整備をする等、毎回必ず最短ルートで速攻するのが得意な名将である反面、他の地域の農民から見て武田信玄は攻め込んだ先では当時の価値観でも激しい凄惨な略奪や放火をしてまわる苛烈な悪の武将でもありました。
北条や今川から見ると武田軍が甲斐国都留郡経由で小田原城や今川館(駿府城)に攻めてくる可能性が高く、深沢城は特に重視された訳です。
KIMG0519
この写真は戦国時代、城として機能していた時代に根小屋(ねこや)と呼ばれた兵士や武将達の詰所(兵舎)が置かれていたと考えられている場所から城跡の主郭を見上げた写真です。
KIMG0526
今回は城址の構造は触れず、この城に関する資料の文書等を紹介しますが、ここまでで地理的に深沢城が重視されていた歴史は御理解頂けたでしょうか?
では本当にここは、戦争が起きるような場所だったの?と思う人が小生の海の景色の紹介記事等から読者に成って下さった歴史に余り関心が無かった人に証拠の文書を紹介したいと思います。

禁制
右當手之軍勢甲乙人等濫妨(乱暴)狼藉堅令停止早若違犯之輩有之者速可処罪科猶寺中門前共ニ
自今以後於竹木等も不可剪者也仍如件
奉之
江雪
壬(永禄十二年:1569年)五月十六日 宝持院
内容を簡単に今の会話に翻訳するとコンナ感じです・・・
右(禁制=禁止命令)は、ウチ(北条)の軍勢甲乙(みんな)に「乱暴な事しちゃイケねぇ~よ!」ってキツク命令する。
もし(禁止命令を)守らね~奴がいたら、ソッコーでシバクかんな。
それと寺の中も門の外も、今から(寺の土地で)竹も木も伐採するんじゃねぇ~ぞ!
まぁ、そんな感じだからよ。
江雪より~
1569年05月16日 宝持院(へ💛)
・・・この文書に登場する‟江雪”は板部岡江雪斎と言う北条家重臣で、以前大河ドラマ‟真田丸”にも登場した人物ですね。
そして文末に登場する宝持院と言うのは深沢城の近くに今も存続している寺院です。
更に宝持院の近く大雲院には安土桃山時代に徳川家が城を復興した頃の城門を移築され今も当時の門が御寺の山門として現存しています。
この文章は御寺の人が深沢城に駐留する北条軍に乱暴されない様に、北条家の殿様が御寺に配慮して、和尚さんが北条軍の司令官宛てに「ウチは北条家の殿様に守って貰える確約ありますよ!」って見せれる財産安全の保障の証拠として重臣の板部岡江雪斎サンに書かせた物です。
この時に駐留した軍勢は横浜市と鎌倉市の兵隊で、率いていたのは玉縄衆大将、北条綱成(ほうじょうつなしげ)公です。
北条綱成
この人⤴※KOEI信長の野望画像
この綱成公の率いる玉縄衆は異名が黄備え隊で、軍旗が朽葉色で統一された軍隊でした。
朽葉色ってのは9月中旬が見頃の黄花秋桜(キバナコスモス)の色ですね。
KIMG0286
この花⤴が黄花秋桜。因(ちな)みに、この写真は北条綱成公が建てた鎌倉市の龍寶寺の綱成公の御墓の前に咲いている黄花秋桜の写真です。
 これ⤴以前書いた北条綱成公の紹介記事ですが、ブログ書き始めたばかりの頃に書いたので内容が薄っぺらく何の参考にも成らないかと思います。
黄備えの副将は横浜市磯子区~港南区にまたがる笹下城主の間宮康俊公と間宮康信公の親子でした。
これ⤴以前に間宮家を紹介した記事。
実はこの書状で北条の殿様の代理で板部岡江雪斎サンが1569年5月に宝持院に対して近い将来大軍勢が来て駐留する事を見越して御寺に安全保証する文書を書いているのは翌月6月に武田家が深沢城に攻めて来たので事前に危機を察知して防衛強化を始めた時期だった事が解ったりします。
そして、ちょっと長いですけど、もう1通こんな文書が残っています・・・
急度(きっと)令啓候、仍(=なお)信甲之人衆、今十六、駿州之内號(号)深澤新地寄來(来)候、左衛門大夫(北条綱成)、松田(松田憲秀)以下楯籠(=立てこもり)候間、不可有別條候、伹(※誤字→但)只今之時分出張爲(為)如何(いかが)子細(しさい)候哉、何篇二も、今明行之様子見届、重而可及註進(注進)候、然而、始小幡動衆之由申候間、新太郎(北条氏邦)申付、向西上州及行候、哀其父子一人有出陣、万端(ばんたん=何でも)新太郎被相談ニ付而者、動可爲思儘(まま)候、若(もし)横合(よこあい=邪魔する)有之者、可然人衆數(数)多可有加勢候、必々(必ず×2)有遲(遅)々者、不可有曲候、如何様ニも、廿(二十)日廿一日之間ニ御動専一候、委細新太郎可申候、恐々謹言<br />追而越國(越後国)へも及飛脚候間、相心得被申入、任入候、以上
  六月十六日 氏政(北条氏政)
    由良信濃守(由良成繁)殿
・・・これ、1569年当時の北条家の当主の北条氏政公が傘下の小大名の由良成繁(なりしげ)公に送った手紙なんですが、この時攻めて来た武田信玄によって深沢城は落城します。
この差出人が北条氏政公の手紙を要約すると・・・
武田信玄KOEI
武田信玄⤴️※KOEI信長の野望画像
「長野県と山梨県の武田軍が攻めて来ちゃった!」
「ヘルプ!」
「ダメ、援軍遅刻、絶対!」
「同盟者の上杉謙信(この人)⤵にも緊急拡散して!」
上杉謙信KOEI
上杉謙信公⤴️※KOEI信長の野望画像
・・・と由良サンに対して書いているのですが、氏政公自身が2万の大軍の本隊を率いて大遅刻したせいで武田軍の2万に深沢城は取り囲まれたまま籠城不可能な状態に追い込まれ敗戦しました。
良くいるでしょ・・・
「遅刻するなよ!」
「30分前出社!」
・・・とか言いながら自分がルーズな経営者(笑)。
小生はこの北条氏政公は思考パターンと行動が適応障害者だったと推測してるんです。
変な拘りに完璧主義過ぎて毎回、十分に軍勢が揃って自分が安全に戦える状況に成らないと援軍行かないせいで肝心な合戦で何回も敗戦し北条家が勢力伸長に失敗する事に成るんですよ。
コレ⤴とかね。
玉縄衆は善戦し北条綱成公と間宮家はかなり粘ったのですが、武田信玄配下の鉱山衆によって破壊工作が行われ俗説には水の手(給水施設)を破壊されて籠城不能に成ったと言われています。
小生は個人的に玉縄衆だけでなく、裏切るマン松田憲秀親子が一緒に籠城していたので松田が撤退を主張したんじゃないかなぁ~?とか思っていたりします。
実際に当時、北条家の同盟者だった上杉謙信公は上州方面から武田家にプレッシャーかけるか直接援軍を送るつもりだったらしくコンナ事を言っています・・・
上杉謙信KOEI
KOEIのゲームの上杉謙信公⤴
肖像画の上杉謙信公⤵
上杉謙信
上杉謙信「(自分にも勝った)地黄八幡(北条綱成)が負けたちゃったYo~!」
実は上杉謙信公、北条綱成公の息子さんの北条康成公が3千で守る鎌倉市JR大船駅近くの玉縄城を15万の大軍で攻めたのに攻め落とせず撤退したり、まだ北条家と武田家が同盟者だった時代に長野の上田城に援軍に来た北条綱成公や千葉県方面の戦争で玉縄衆に結構苦戦させられてる歴史が有るんですね。
・・・なので上杉謙信公ですら北条綱成公が負けると思ってなかったらしいですね。
なんせ上杉謙信公が上杉家を継ぐ前の話ですが、河越城の攻防では北条綱成公達は3千だけで8万の上杉軍相手に半年間も籠城に成功した挙句・・・
北条氏康
綱成公の義理のお兄ちゃん⤵⤴北条氏康公
北条氏康公
・・・綱成公は小田原から当時の主君で義兄弟の北条氏康公の本隊8千を迎えて合計1万1千で上杉軍8万夜襲して挟み撃ちにしてギッタンギッタンにして壊滅させてる名将なんですね。
なので小生は深沢城の敗戦原因をずっと・・・
「(裏切気質の)松田憲秀が撤退主張したやろ(怒)!」
・・・と思ってました(笑)。
実は今回、定説の水の手云々(うんぬん)の話しと異なる可能性を知る事が出来ました。
御殿場市の学芸員サンと地元の地主さんへの取材で小生が本丸跡と推定している二の丸の空堀で焼けて炭化した米が発掘調査で見つかっているんですね。
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※クリックして拡大して見て下さい。
この縄張り図で真ん中の‟二ノ丸”と書いてある場所と上の‟本丸”と書いてある場所の間、左側にクビレてる空堀ですが、そこから炭化した米が調査でも発掘されているし、仲良くなった地主の御爺ちゃんも子供の頃にそこを「掘ると焼けた米が出て来たんだよ」って教えてくれたんですね。
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この2号堀て辺りだそうです。
2号堀の上側が小生は三の丸だと思ってるけど、地元では本丸と呼ばれている場所。
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その城櫓(しろやぐら)辺りは‟二ノ丸”と呼ばれている場所で、下の縄張り図のⅠ郭(本丸)とⅡ郭(二ノ丸:小生はⅡ郭が本丸だと思う)の間の②の空堀の本丸側。
仲良くなった地元のオッチャンの話では田んぼにする前の地形では棚田3段分くらい約3mくらい今より高い地形で城の地形の中で最高所だったそう。
KIMG0783~2
‟Ⅱ郭”が縄張り的にも小生はこの辺りが本丸だったろうと思ってます。
ここからは写真で見る限り八王子城の御主殿(城主屋敷)と酷似した構造物も見つかってます。
KIMG0784~2
完全にここ二ノ丸が政庁であり城代の屋敷だったと個人的には考えています。
下に見えてるのが根小屋と呼ばれていた地形なので兵舎の並ぶ区域だったんだろうと思う。
で、焼けた米が出土する訳ですが、小生は実際は武田家の鉱山衆は水の手を切って落城させたんじゃなくて、二ノ丸の下の根小屋側・・・
KIMG0551
ここの‟水の手の根小屋側”から武田家の鉱山部隊が弓矢の届く範囲まで仕寄り(塹壕)を作りながら攻城陣地を築いて来て、火矢や火薬で二ノ丸食料庫を放火し北条軍の戦闘を継続不能にしたんじゃないかと新しい説を考えました。
この焼けた米の話を学芸員サンに聞くより早く、地主のオッチャンに教えて貰った際に・・・
小生「こんにちわ~」
・・・って声掛けたら未だ何にも言ってないのに・・・
オッチャン「横浜から来たの?」・
・・って聞いてきてビックリ!何で分かったんだろう?と思いながら・・・
小生「そうだよ横浜から来たよ~」
・・・って言ったら珍しい奴だなって喜んでくれて、オッチャンが子供の頃の土塁とか地形を削って農地にする前の話を沢山聞かせてくれて「又遊びにおいでね~、ここにいるから!」って言ってくれて嬉しかったんだ。
凄い偶然だけどオッチャンのムスメさんが小生の家の近所の港南台高島屋で働いてたそうだ。
KIMG0548
で、この写真の左側辺りが焼けた米の出た空堀だったかな?
後から学芸員サンにも凄く丁寧に教えて頂く事が出来ました。
実はこの深沢城ちゃんと(笑)火災に遭っている記録が有るのですが、それは北条家と武田家の合戦の時ではなく、織田信長公と徳川家康公の連合軍が武田領に一斉に攻め込んだ際に深沢城代だった武田家臣の駒井昌直が自ら放火して城を放棄した記録だけが残っています。しかし小生が思うに未だ徳川軍に攻め込まれてない時間的に余裕の有る状況で撤退する際に兵糧と金銭を焼き捨てるとは考え難いので、炭化した米は北条家と武田家の戦闘で焼け、更に武田家臣駒井が城を放棄した際に建物が焼かれ、徳川家が安土桃山時代に改修し再利用後、再度放棄され廃城に成った一連の土木事業の中で細かい時代考証が出来ない状況に成ったんじゃないかな?と個人的には感じました。

さて、城の構造の説明が入口からではなく、状況説明のついでに成ってしまったので見学コース沿いに紹介して見ます。
CIMG0064
入口がここ。
KIMG0526
現在地の場所ですね。
この看板の裏にも三ノ丸の三日月堀と表記されている空堀が有ります。
KIMG0524
少し解り難いでしょうか?
KIMG0525
御城行くのが好きな人は良く解ると思うのですが、城址公園化されてない空堀って写真じゃ伝わり難(にく)いんですよ。
その看板の横側から農道兼散策路に成っていて、入って直ぐに空堀が見えます。
CIMG0066
これは比較的状態が良い。
KIMG0530
ここは‟丸馬出し”と呼ばれる半月状の出撃口の遺構です。
本来、我々城郭ファンはこの丸馬出しの空堀の事を三日月掘りと言います。
KIMG0532
その馬出しの削平地には石碑が立っています。
KIMG0534
昔は東名高速道路が無かったから深沢城の前の足柄峠を通過する際に観光で立ち寄る人もいたのかも知れませんね。
KIMG0535
その下の空堀。
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二ノ丸の手前、‟下馬溜め”と言われている構造体の空堀が雑木林化してるが現存。
KIMG0538
ここは小机城の構造に似た構造が有るけど、変形の食い違い虎口(敵の侵入を制限し迎撃する構造体)だと思う。
下は小机城の現存部分の縄張り図。
2014-04-06-17-30-26
これの②の構造に深沢城現存部の‟下馬溜め”は似てる。
KIMG0540
下馬溜めの空堀だけど写真じゃやっぱり訳が解らないね。
KIMG0541
下馬溜めから二ノ丸に繋がる武者走り&空堀&土塁
KIMG0544
そして二ノ丸入口。
更に奥に本丸。
CIMG0074
本丸に続く土橋。両脇は空堀。
KIMG0552
本丸側の城櫓とされる削る前は場内最高所だった郭。
下に根小屋地形が見える。確かに小机城の根小屋とも酷似する。
KIMG0549
本丸は今では風に靡く稲波美しい。
地主のオッチャン、色々と親切に教えてくれてありがとうね!
色々と発掘調査資料を提供して下さった御殿場市教育委員会様、ありがとうございました。
御殿場の皆さんはとても温かったです♪

さて、深沢城この様に結構空堀は立派に残っています。もし御殿場方面に行く機会が有って本当に御城が好きな人は立ち寄る価値が有ると思います。

きっと皆さんの御近所の神社や御寺や公園の山も、元々は御城だった場所が有ると思います。
気分転換したい時にちょっと御近所の神社や御寺や城山を歩いて看板を読んでみませんか?
きっと皆さんと歴史偉人を繋ぐタイムマシーンみたいに感じ自分の町を更に好きに成るかも知れませよ~?

・・・では、次は前回の休日雑記の続きか銭湯の記事で御会いしましょう~♪
mixiチェック

観音崎灯台、海水浴場の記事⤵
コレ⤴で少し触れましたが未だ単独の記事に書いていなかったので今回、観音崎灯台単体で解説する事にします。
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観音崎灯台
小生は最近まで知らなかったのですが、日本全国で中に入れる灯台は16ヶ所しか現存していないそうです。
その中の一つが観音崎灯台で、観音崎灯台は日本最初の近代灯台で、慶応二年(1866年)にアメリカ・イギリス・フランス・オランダと日本の間で締結された江戸条約に基づいて建設されました。
この観音崎灯台には多々良浜側からも観音崎海水浴場側からも行く事が出来ますが、風景が綺麗なのは観音崎海水浴場側の遊歩道でしょう。
CIMG9859
この海岸沿いに観音崎灯台に至る階段まで遊歩道が整備されています。
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この神奈川の景勝50選の碑文の奥に見える海岸沿いを歩けるんですよ。
少し歩き進めてみましょうか♪
DSC_1192
この突き出した構造物は戦時中の海堡(かいほ)と呼ばれる防衛施設の一部の跡です。
形状からすると小田原の御幸浜と同じ様な砲台の跡でしょうかね~。
もう少し海沿いを歩くと下の写真の様な場所に出ます。
CIMG0790
別日に撮影した写真ですが、観音崎灯台に向かう途中には砂浜だけでなくて、こんな岩礁も有ります。小さな御子さんのいる家族連れでの訪問なら網と虫かご持ってきて水辺を観察したりすれば良い思い出作りも出来るでしょう。
CIMG0791
夏場海水浴シーズンなら綺麗な野莞草(のかんぞう)の花を見る事も出来ます。
更に奥の方へ歩いて行くと道は石畳の遊歩道に変わります。
観音崎灯台は東京湾の入口に有るので房総半島まで直線距離で8kmしかない場所なので、倭建と弟橘姫の夫婦神が東京湾を船で横断した神話の舞台だったりします。
CIMG9862
観音崎灯台の有る丘の上に繋がる階段を登る前に公衆トイレと自動販売機も有るので写真の女の子達の様に東京湾を見てユックリ休憩できます。
そんな場所なので当然、房総半島も三浦半島も見渡す事が出来てとても風景の美しい場所なんですよ。
実はこの辺りには明治時代までとっても立派な神社と御寺が一体に成った神仏習合の寺院が存在しており、景勝地として大変に栄えていました。
観音寺絵図
現代では絵図にしか残りませんが、この御寺は“観音寺”と言う御寺で観音菩薩像が御本尊だったので、これが観音崎の地名由来に成りました。
この観音寺は明治時代に成ると観音崎要塞の建設で隣の亀崎に移転させられ、更に現代に至り火災で完全に消失してしまいました。
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しかし名残も有り、この海蝕洞窟の中に地元の方によって奉納された観音菩薩像と説明の看板が立てれれており昔の歴史を垣間見る事が出来ます。
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元々は奈良時代の行基大僧正が関わった場所だった様なので、倭武命が走水に来た弥生時代末期~古墳時代の聖地ですが、奈良時代の人にも大切にされた聖地であり海上交通の要所だった様です。
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この洞窟の前を通過して直ぐに公衆トイレが有り、写真のベンチがさっき、女の子達が座っていた場所ですね。その更に少し奥の右手側に灯台に上る階段が有ります。
この遊歩道を真っ直ぐ行くとトンネルが有って多々良浜側に歩いて行けるのですが、2020年8月現在は2019年の台風の土砂崩れの影響で未だに通行止めのままです。
ちなみに復興の責任者は上地横須賀市長では無く、黒岩神奈川県知事です。
鎌倉市のハイキングコース遊歩道や釈迦堂切通しも未だ復興していないので知事には頑張って頂かないと困りますね。
CIMG9886
この海岸の道が灯台から見下ろすとコンナ感じです。
高所恐怖症の小生には玉ヒュンの絶景です(笑)が、散歩したら気持ち良さそうな道なのは伝わるかと思います。
CIMG9865
その遊歩道の階段を丘の上に登ってくると灯台が有ります。
入場料金300円と安いのですが観音崎灯台の構造や歴史を開設した小さな博物館を併設しており、更に灯台の上にも登れますし灯台の下にも展示物が有る他、展望台に成っているので綺麗な景色を見渡す事も出来ます。
では、先ずは灯台の周囲を見学して見ましょう~。
KIMG0091
灯台下の展望台はコンナ感じで房総半島の鋸山が見えたり・・・KIMG0101
・・・フェリーが東京湾を行き交う様子が一望出来ます。
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そして昔使われていた灯台の設備の一部が常設展示されており、触れて見る最近の歴史博物館と同じコンセプトの展示がされています。
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上地市長は文化史跡の保護や再利用に熱心な方だそうで、江戸時代の浦賀奉行所も復元して子供達の教材や史跡として再整備する計画を構想してらっしゃるそうです。
早くから外国と関わっていた横須賀市の市長らしく、東京から来て横浜市長に成った人より郷土愛が有る上に子供達の教育に熱心ですね♪
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灯台の受付の有る建物には展示館も併設されているので、灯台の事を学習出来ます。
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こんな感じで昭和初期まで手動で動かしていた灯台のレンズの構造を触って理解する展示物や・・・
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昔の設備とかも展示されてます。
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この模型が初代の建物の復元模型だそうです。関東大震災で倒壊して現在の建物に建て替えられたそうです。
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映像解説等も有るので、中高大学生位が来ると近代史の学習の一助に成り理解を深める事が出来ますね。
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初代の灯台を設計したヴェルニーさん。汐入のヴェルニー公園の元に成った江戸幕府横須賀製鉄所=現在の海上自衛隊横須賀基地のドッグや城ケ島灯台なんかを設計した人物で、今の日本が存続しているのはこの方と小栗上野介サンがいたからと、対馬海戦でロシア帝国のバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎元帥が証言しています。

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ヴェルニーさん無くして近代日本ナシ!
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ネトウヨは日本人が単独で近代化した様な妄想を信じ込んでる比率が高いんですが、実際はイギリスとフランスの協力無くして近代日本は成立して無い事が、この観音崎灯台や横須賀市の歴史史跡を巡(めぐ)ると良く理解出来ます。
観音崎灯台は日本最初の近代灯台で、慶応二年(1866年)にアメリカ・イギリス・フランス・オランダと日本の間で締結された江戸条約に基づいて建設されました。

この記事⤴で少し触れましたが三浦海岸駅前にも三浦海防陣屋が置かれ、三浦各所に東京湾と相模湾を守る陣地が設けられた砲台が建設され、三浦海防陣屋が各所の海防陣地をコントロールしていました。
幕末当時、そこには横浜を開港した井伊直弼公や明治政府を設立する事に成る桂小五郎(木戸孝允)公や伊藤博文公も勤務したそうです。
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さて、そろそろ灯台の中を見てみましょう。
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灯台の内部は当然ですが螺旋階段に成っています。
その階段の壁にも掲示物が有り、観音崎灯台を含めた今でも内部に入る事が出来る16ヶ所の灯台の写真や各灯台の比較等の解説がされています。
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小さな子連れならパパやママが読んであげないと子供には読めない高さかな?
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これが観音崎灯台のレンズ。

・・・ZZガンダム世代には解るだろうけど、連邦軍のバイザータイプの顔に見えて仕方ないのコレ。
前に横浜シンボルタワーの記事でも書いたのだけど港の入口は船舶は右側通行に成っていて、港に向かって右手が赤い灯台、左手が白い灯台って法律で決まってるんだけど・・・
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これが小生にはシャアザクとガンダムを意識している様にしか見えない(笑)。

その時の記事はコレ⤴ね。
何で海関係ってどこもかしこもガンダム的なんだろうか(笑)。
横浜港シンボルタワーは明日08月31日で夏季営業終了で来年まで横浜港のコンテナヤードの夜景は見れなくなりますので、写真撮りたい人は明日時間注意して行ってみて下さい。
灯台の上まで登ると外に出て写真を撮影出来ます。
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御船がいっぱい♪
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この写真の右手は富津岬、左に見える島みたいのが富津岬の展望台。
そこから目線を左に移動すると・・・
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東京湾第一海堡。

海堡の奥に見える船のマストみたいのが、東京湾アクアライン海底トンネルの通気口。シン・ゴジラが最初に登場した場所。
ゴジラシリーズは何故か神奈川県三浦半島~東京の間が破壊される事が多い(笑)。
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こっちは第二海堡。要塞としては関東大震災で崩壊して放棄され現在は史跡として再整備中だけど、たまにツアー組まれて船で観光に行けるけど通常は上陸禁止地域。
海堡とは何ぞや?と余り知らない人は過去の記事を参考にしてみて下さい。

この海堡も実は観音崎灯台と同じ明治時代に作られた施設で、観音崎に点在する煉瓦の史跡も同時期に建設された観音崎砲台の跡だったりする。
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こんな場所全部が砲台の跡で貴重な近代西洋文化の遺跡なんだね。
観音崎灯台も当然ながら日本最初の近代西洋建築の灯台なので歴史史跡な訳です。
観音崎灯台から見える景色はとにかく綺麗!
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したの岬の先端に少し見えるコンクリート製の建物の名残も観音崎要塞の海堡の一部。
反対側の景色がさっき歩いて来た道。
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高所恐怖症だから本当に、この写真撮るの怖かった・・・。
観音崎灯台付近、とっても景色が綺麗でしょう?
観音崎海水浴場から走水神社まで歩く途中の走水観音崎ボードウォークも景色がとても綺麗です。
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もう海水浴シーズンは終わりに入りますが、まだまだ暑さも続きそうです。
まだ暫くの間は潮風に当たりながら散歩するのが気持ち良い季節ですね。

どうです?皆さん、観音崎良い場所でしょ?
近くには走水神社や“味美食堂”や“かねよ食堂”と言った観光名所や美味しいレストランも有ります。
是非、夏の終わりの思い出に御散歩に来て見ては如何でしょうか?

では、又、次の記事で御会いしましょう~!



mixiチェック

前回の磯子の夜景の記事でベイサイドマリーナで撮影した2020年08月04日の満月の写真を載せた時に少し指摘した事なんだけれど・・・
陰暦の睦月の起点を太陽暦の1月に当てはめると漢字の意味が整合性が無くなり大混乱します。
和暦は旧正月を起点にし陰暦で用いないと意味が無いんです。
前回コンナ⤵事書いてました。
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お月様メチャ奇麗ね~!
イケメン!
「何でイケメン?」と思った人は欧米の文化を基準に生活してらっしゃる方かセーラームーン見て育った世代の女性でしょうか?
ギリシャ神話では月の神セレーネとアルテミスは女神様ですが、日本神話では御月様は太陽神の天照大神の弟神の月読神とされています。
月読は読んで字の如(ごと)く、日本は米国に開国させられる迄の暦(こよみ)はアジア諸国と同じ陰暦だったので昔は月を基準に生活していたんですね。
欧米諸国は太陽暦で、現在の日本は明治時代以降に太陽暦を導入し、中国の春節と同じ春の節分を行う春分が本来の“迎春”だった訳ですね~。
コレ⤴だけだと・・・
「ちょっと言いっ放なしで不親切だ」
・・・と思ったので
何が問題なのか解説を追記したいと思います。

歴史と長文嫌いな人は、ここで読むのを辞めて逃げて下さい(笑)。

今の日本は太陽を基準にしてカレンダーの日付を作ります。
しかし本来の日本はアジア諸国と同じで陰暦で1年の行事を行っていましたが現代では意味の有る旧暦は廃(すた)れてしまい、例えば睦月=太陽歴の1月と誤解している人もいます。
本来の和暦を陰暦で見れば漢字の意味で何で年始が睦月で何で年末が“しわす”と言うのかスッキリ解ります。
因みに師走の通説は間違いでしょう。
日本人は暦(カレンダー)の決め方すら長い歴史の中で数回変更している事を古代史で解説したいと思います。

まず睦月は和暦1月と言う表現で本を書いている人がいるから誤解を産む。
睦月は1月でなく睦月は睦月です。
陰暦の睦月でしかありません。 
閏月があるので太陽暦の12分割には当てはまらないんです。
陰暦と太陽暦は、そもそも元日の始まる時間軸から全く異なる別物です。

そして中国由来の陰暦導入以前の古代日本では1年を6ヶ月で区切っていたんですね。だから昔の事を現代の標準で話すのは根本的に無理な訳です。

先ずは写真を見て下さい。
冬に海ほたるPAの朝陽
満月の相模国一之宮寒川大社。
海ほたるの日の出と寒川大社のスーパームーン 久良岐のよし
当たり前ですが、太陽は昼に、月は夜に昇り二つは全く別物!
月と太陽をそれぞれ観測し暦を作り比較すると時間軸にズレが生まれ違う結果に成ります。
それが現在の元日と旧正月の差です。

イスラム圏ではキャラバン(商隊)が交易で長い長い距離、砂漠を旅する際に月と星の位置から現在地を割り出して次の目的地まで通う道標(みちしるべ)としました。
だから今もイスラム圏は月と星を重視していて国旗の意匠(いしょう:デザイン)に取り入れてる国が凄く多いですよね。
トルコ共和国トルコ
シンガポールマレーシア
パキスタンパキスタン
トルコの様な日本の無二の親友国も、マレーシアの様に成長目覚ましい国も、日本とは微妙な関係のパキスタンも、色んな国がイスラム教の考えを重視して国旗に取り入れてます。
極東アジアではイスラム教とは関係なく、月を観測して暦を区切っていました。

中国や台湾では陰暦の事を“農歴”と言い、作物の栽培の為に天体観測をして季節を定めていたので根本的に陰暦は季節感と切っても切り離せません。しかし農歴=陰暦には欠点もあり太陽暦よりも時間の誤差が生じるので、昔は閏葉月、つまり現代の感覚だと7月の延長期間が設けられたりしていました。
なのに1年間を12分割し今の1月1日が起点の太陽暦で決めた西洋由来の暦の月の区切りに対して、陰暦の睦月の名称を当て嵌めるのは根本的に成立しない訳です。
ついでに言えば中国文化が導入されるより更に古い時代の日本ではどうも12ヶ月で1年ではなく6ヶ月で1年としていた事が考古学的に解かって来ています。
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ですから今も日本の神社では夏越大祓と冬越大祓、2回に分けて行います。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が伝えて下さった祝詞(のりと)を唱えながら悪い物を切り裂く茅の葉で作った茅の輪を3回くぐる事で、半年間の自身の業(ごう:カルマ)により溜(た)まった心身の穢(けが)れを素戔嗚尊の御神威で払い清め、長寿健康と心の洗濯を行う季節行事として半年1年区分の古い時代の名残に現代人も触れる事が出来ます。

本当にそうなの?と思いますよね?
小生も思った事が有ります。

日本の歴史を見るには歴代天皇の寿命を見ると古代の時間軸が良く解ります。

   伝承没年齢 → 1歳=12ヶ月変換
神武天皇 127歳 → 63.5歳
綏靖天皇   84歳 → 42.0歳
安寧天皇   67歳 → 33.5歳
懿徳天皇   77歳 → 33.5歳
孝昭天皇 114歳 → 57.0歳
孝安天皇 137歳 → 68.5歳
孝靈天皇 128歳 → 64.0歳
孝元天皇 116歳 → 58.0歳
開化天皇 111歳 → 55.5歳
崇神天皇 119歳 → 59.5歳
垂仁天皇 139歳 → 69.5歳
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
履中天皇   70歳 → 35.0歳
反正天皇   75歳 → 37.5歳
允恭天皇   78歳 → 37.5歳
安康天皇   56歳 → 28.0歳
雄略天皇   62歳 → 31.0歳

この寿命の比較は後で解説しますが、差異を再計算すると面白い事に神話と考古学に整合性も出て、伝承を現実的に再解釈すると、途端に物凄くリアルな歴史の話に変わって来たりします。
中国文化を導入したと伝わる応神天皇と、中国の学問を学んだと伝わる仁徳天皇と菟道稚郎子御兄弟の次世代、履中天皇の世代から古代日本の6ヵ月=1年の暦が破棄され年齢の加算が12ヶ月=1年に成っている事が一目瞭然ですね。

日本の天皇家は公称でスタートしてから西暦2020年時点で
2680年継続しているとされています。
“天皇”の尊称を用いるのは天智天皇からです。白村江の戦で唐帝国と国交断絶して以後に成立した尊称です。
それ以前の時代の歴代天皇の尊称は大王(おおきみ)でした。
つまり、天智天皇以前の天皇の称号は、飛鳥時代以後に後から追贈された天皇号です。
例えば応神天皇の本来の和名は大鞆和気命や誉田別尊と言われ複数名前を変えていた様です。
応神天皇は古墳時代の天皇です。
弥生時代~古墳時代は日本では卑弥呼が活躍した時代です。
中国では漫画“キングダム”の秦の始皇帝や“赤龍王”の項羽と劉邦、横山光輝が漫画化した吉川英治の小説“三国志”の曹操・劉備・孫権の生きた漢帝国や晋帝国の時代に相当します。
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横山光輝三国志は平成一桁の生まれの人はギリ“三国志大戦”で知ってる人もいるかな(笑)?
日本の旧暦は中国から古代に導入された文明の一端ですが、漢の時代と日本の古墳時代の武装を比較すると日本は中国の影響を受けているのが一目瞭然です。
前漢時代の鎧
画像掲載元⤵
https://vitomag.com/military/gayow.html
これは中山靖王劉勝、つまり三国志の主人公に成る劉備玄徳の御先祖様で紀元前100年頃、正に日本の神話の時代に相当する人物の古墳から出土した甲冑の復原品です。小札(こざね)を皮鎧に赤糸で威(おどし)し編み付けた精巧な鎧ですね。中国が漢朝の時代、我々日本人の御先祖様は金属器は未だ少なく、一部の北九州や出雲地方で青銅器が使われていましたが、弥生時代の兵器は石斧や石鏃つまり石で作った刃物しか汎用されていませんでした。
下は古墳時代の日本の豪族の鎧で挂甲(けいこう)と言いますが、前漢の時代の鎧と構造が酷似していますね。
挂甲
画像掲載元⤵
https://costume.iz2.or.jp/costume/559.html
古墳時代に成っても金属鎧は豪族の王の古墳などから出土する程度でとっても高級品でしたが、西暦300年~500年頃の古墳時代の鎧に成って漸(ようや)く紀元前110年の漢帝の皇族である劉勝サンの鎧とデザインやクオリティが似てきます。
古墳時代の埴輪は甲冑を来ていますが、中国の甲冑を導入して改良を加えている事が判ります。
恐らく女王卑弥呼サンと臺与サンの時代に三国時代の魏の皇帝曹叡と
丞相司馬懿に邪馬台国の使者が曹叡の亡くなる1年前に謁見している事が三角縁神獣鏡に彫られている景初三年の元号から判(わか)りますが、魏の同盟国に成った際に様々な金属加工技術を技術供与され、そのまま魏の挂甲の軍装の設計が古墳時代の人に少しだけ改変されて形をほぼ変えずに使い続けられたんでしょう。この挂甲は上下にも伸縮するので騎乗した武者が着用するのに適した構造に成っており、恐らく弥生時代の終わり頃には九州や中国地方に馬も輸入されて軍馬の生産が開始されていた事が判ります。
下は昨年、上野の国立博物館で開かれた三国志展で展示されていた中国三国時代の古墳の副葬品です。
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三国時代の中国の古墳から発掘された工芸品の精巧さ、金属加工技術や宝石も当時の日本とはとてつもない技術力の差を感じざるを得ません。
更に驚愕するのは当時の中国の家屋を模した土器の建物は瓦葺屋根で2階建てや3階建ての御屋敷で、現代の京都の祇園とかに有ってもおかしくない外観。しかも今の神社建築が中国文化の影響をふんだんに受けている事が判る極彩色で、なんと残飯や人間の出す屎尿を利用して庭で養豚してる様子まで土器に作られていました。
そんな三国時代の魏から技術供与を受けた邪馬台国が今度は卑弥呼の没後に内紛が再発してしまい、女王の再登板が必要な事態が起きて臺与(とよ)ちゃんが出て来る訳ですが、その卑弥呼サンよりもチョビっとだけ早く中国との交流が始まっていた事が福岡で出土した金印の存在から判ります。

漢委奴国王印(
福岡市博物館所蔵 )
画像掲載元URL⤵
http://museum.city.fukuoka.jp/gold/
漢委奴国王印
この金印の“
漢委奴国王”を学者サン達はアレコレ深読みして邪馬台国近畿説と北九州説の論争の具にしていますが、小生は普通に“漢(皇帝)が奴婢の国の王に委(ゆだ)ねる”としか読みようが無いんですよね。
当時の日本は先程の武装の製造技術でも分かる通り未開の地でしたから、当然中国から見れば奴婢=野卑な蛮族の土地にしか見えなかったでしょう。
この金印は建武中元二年(西暦57年)に有名な中国の光武帝劉秀から贈られた物です。
ここで遅くともこの時代に中国文化の影響が日本に入り始めた事が判(わか)ります。

実は日本神話と中国の史書にかかれた古代日本の記述に、太陽暦だけでなく古代日本の暦の概念を当てはめると、面白い様に神話と中国古代史に登場する日本の歴史が符号したりします。

神奈川県~千葉県には倭建(ヤマトタケル)が東征に来ていた事が古事記や各神社仏閣の伝承に残ります。
三浦半島の走水に滞在した伝承が今でも有り太陽暦で逆算すると西暦2世紀の1月に当たると伝わります
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つまり関東地方に大和朝廷の国としての統治機構を設置しにいらっしゃった訳です。
卑弥呼達よりちょびっと早い時代の話に成りますが、しかし小生は神奈川に来た倭建は卑弥呼の時代の人だと考えています。

それは天皇家の寿命の解釈が間違って伝わってると思っているからです。
そこで、夏越大祓/冬越大祓の所で話題にした“昔は1年が半年だった”と言う事が関係して来る訳です。

では先ずは倭建と卑弥呼が何故同時代の人と思うのか、ちょっと当時の状況を整理してみましょう。

【卑弥呼】
倭姫=倭建の叔母で伊勢神宮の斎王
当時の伊勢神宮は今の三重県の伊勢神宮ではなく、まだ旧丹波国の元伊勢神宮だったかも知れない。
※斎王の原型が一代限りの女王職で神職の女性長官でしょう。
※斎王と同じく当時の女王は未婚の皇族から選ばれる、女性上位だが世襲ではなくローマ法王の様に大凡(おおよそ)の意思決定だけする神職に徹した歪(いびつ)な女王統治の社会と推測出来る。
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写真は伊勢神宮と同じく平安時代初期以来~室町時代迄の期間、皇女の斎王が祭祀を司る斎宮が置かれていた京都市の下鴨神社。
室町時代の足利家は宮中儀礼を軽視する政権だったのは有名で、斎宮は消滅したまま放置されました。
室町時代以前には下賀茂神社~伊勢神宮を斎王が季節ごとに往来したのが現在の京都の葵祭の原型に成っていて、下鴨神社の斎王は戦後に祭りの中で代理の女性が選出される形で名前だけ復興されました。
現在は三重県の五十鈴川沿いが伊勢神宮と呼ばれていますが、元々は丹波国の元伊勢神宮が置かれていました。
今の京都府に組み込まれている地域が宗教的にも当時の重要な地域だった時代が有った様です。
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※百度より画像転載
三国時代の魏皇帝が曹叡だった景初二年(238年)に遼東半島で公孫淵が魏朝に反逆し公孫淵に呼応した朝鮮半島の部族集団も加わり大規模な反乱に発展しました。魏の丞相司馬懿は兵を率いて北伐して公孫淵を討伐すると、公孫氏に横領されていた元々漢帝国の領土である楽浪郡~帯方郡を取り返し漢朝から政権を禅譲され引き継いだ魏朝の直轄地と成りました。
当時は古代中国人の歴史認識で倭国の一部だった朝鮮半島南部を経由して~帯方郡~楽浪郡~魏の首都洛陽に卑弥呼が朝貢(従属同盟)の使者を送っています。
“韓国北朝鮮の独自歴史解釈”を除いて東洋史の常識として楽浪郡帯方郡を含めた朝鮮半島には当時は朝鮮の統一王朝どころか朝鮮族もまだまだ存在しておらず、部族の首長が割拠していた状態で、そこを“漢帝国が帯方郡・楽浪郡を朝鮮半島に置き支配”していました。
なのでソウルは数年前に首尓と無理矢理漢字表記を変える以前には“漢城”と書いていましたし、今でも中国・台湾・香港は一般的にソウルを漢城と書きます。
又、中国の歴史書を見ても当時の“朝鮮半島南部は倭人(日本)の土地”と認識されており史書にも記録されています。
漢の時代から朝鮮半島では地元の部族が度々太守を殺害し反逆する等、魏にとっても害悪な地域だったので、卑弥呼が魏に冊封を求めて来た朝貢は軍事同盟としても朝鮮半島の土着豪族を背後から牽制するのに心強いWin-Winの同盟関係だった事が理解できます。
実際に司馬懿が卑弥呼との同盟の事を大変に喜んでいた記載も残ります。

【卑弥呼に唯一会える男性】
景行天皇=倭姫の兄弟で倭建の実父。倭姫が卑弥呼なら実質的に政務と軍事を司った“首相”の役割を果たしていた事に成る。
この頃の卑弥呼が当時の標準寿命の60年前後生きたとしても景初二年(238年)に魏に使者を送った当時には成人して国家元首に成っていたはずなので、少なくとも年齢は昔の成人年齢15歳以上で卑弥呼は290年頃には亡くなってるのでしょう。
247年の3月と9月に日蝕が発生しているので、天照大神の化身として権威を持っていたであろう卑弥呼(ヒミコ=日巫女)は少なくとも25歳以上に成っていましたが、大陽の化身を祀る存在だったので宗教的な求心力を失ったかもしれませんね。
卑弥呼以死大作家径百餘歩殉葬者奴婢百餘人
卑弥呼サンが亡くなって大墳墓が造営される様子が記録されていますが、死亡時期の記載は無くヒントも有りません。彼女が倭姫と同一人物だとすれば倭建の東征に力を貸す役割が残っているので、政治的な権力は失っても斎王として権威は持ち続けもう少し先まで生きたのかも知れません。
いずれにせよ卑弥呼さんは247年の日蝕で死んでいなくても、同一人物と思われる倭姫は太陽信仰の天照大神を祀る斎王だったと記録が有るで、日蝕により信頼を失い女王としての役割に抑えられ、中国風に男系男子が皇帝として国を取り仕切る制度に移行し卑弥呼さんの役割は宗教だけの斎王に抑えられたのかも知れませんね。
天照大神の神話に天照大神の憑代(よりしろ)である卑弥呼の話自体が習合されて伝わっている可能性が有るので、天岩戸神話は当時の日蝕と天照大神の失脚もしくは蟄居を比喩した伝承と考えると神話に現実味が吹き込まれて政争の話に変わりますね。
実務を執り仕切っていた景行天皇の権限が強くなり卑弥呼から宗教よりも強い決定権を禅譲されたかも知れない。もしかしたら、宗教的な求心力を失った卑弥呼は責任を感じて自害したかも知れない。
臺与まで景行天皇~成務天皇~仲哀天皇と三代は、魏志倭人伝の“男王の時代に再び倭国大乱と成った”記載とも合致してきます。
魏の滅亡は265年その政権を重臣司馬懿の一族に奪われ晋が建国されます。
晋朝は家祖の司馬懿が邪馬台国支持者だった上に朝鮮半島の諸部族に対する牽制に邪馬台国は必須です。
晋からすれば卑弥呼だろうが実弟の景行天皇だろうが晋にとっては邪馬台国が纏(まと)まる事の方が状況的には重要で、晋から見れば女王でも男王でも実力が有れば良く、司馬氏一族にとっては倭国が纏まらず朝鮮半島を挟撃出来る状況が整(ととの)わない事の方が問題だった訳です。
なので倭国の動向をずっと注視していた事が判る一文が魏志倭人伝に記載が有りますね?
この文章の情報は魏の倭国の支援を担当した帯方郡勤務の軍人である張政サンの報告だと思います。
卑弥呼以死大作家径百餘歩殉葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千余人復立卑弥呼宗女臺與年十三為王國中遂定政等以檄告喩臺與
この文章を解り易く砕けた武州弁に翻訳してみます♪
いやぁ~卑弥呼サン死んじゃってさ~!デッカイ家(古墳)作ってさあ~、直径100歩位の!
殉死者は奴隷(恐らく宮廷の女官か巫女)100人位だってョ!
更に後釜に男王に成ったんだけどさ、これが国全体に不人気で支持されなくてよぉ~。
(就任)当時に千人位(の豪族)で御互いの主張で殺し合いに成っちまってよ~。
しゃぁ~ねぇ~から又さ卑弥呼の親戚の女の子連れて来てヨ、十三歳なんだけど女王に就任してもらってよ!
そしたら、やっとこさ国中の混乱落ち着いてよ!
ウチから出張してる塞曹掾史の張政達が臺与チャンに演説で励ましてやったんだけどな。
つまり卑弥呼が倭姫だとすると卑弥呼が亡くなってから景行天皇が王に就任したけれど男王じゃ全く纏まらず、恐らく倭建と政務天皇の後継者争いの問題だと思いますが、その時に其々(それぞれ)を支持する派閥の豪族が1000人も暗殺や粛清し合って、卑弥呼サンの存在で纏まってた邪馬台国=大和朝廷が又荒れちゃったみたいですね。
本当に男ってバカ。
更に張政サンは帯方郡から出張して来てた魏の塞曹掾史と言う役職の軍人で、どうやら見るに見かねて卑弥呼サンの一族で才能有りそうな人材の臺与ちゃんを発掘してきて説得して女王に成って貰ったみたいな展開だった様ですね。
304年頃から劉淵の一族が晋国内で反乱を起こしまくって混乱を起こしているので、本来なら邪馬台国に朝鮮半島から北上して、帯方郡と楽浪郡を経由して今の北京辺りまで援軍を寄こして欲しかったのが晋朝の意図する所だったの思うのに、何だか知らないけど卑弥呼サン亡くなった後で景行天皇が継いだら成務天皇と倭建を支持する派閥に豪族が割れちゃって、全然ダメダメになっちゃったみたいですね。
そんで・・・
「男駄目なら元の女王に戻しちゃえよ!」
・・・って張政サン達が怒って、卑弥呼(倭姫)の跡継の臺与(神功皇后)を発掘して来た様です。
下は当時の天皇の寿命で、後で他の天皇と合わせて比較しますが、年齢左側が1年を6ヵ月換算で記録されていたであろう没年齢の記載、右がそれを1年を12ヶ月で再計算した没年齢です。
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
これを見ると当時の混乱の様子がうかがえます。
実績を上げた兄の倭建ではなく、何にもしてない弟の成務天皇が後継者に成り、更に成務天皇が倭建の遺児の仲哀天皇を後継者にせざるを得ない状況が発生し、その跡を継いだ仲哀天皇が不審な短命で亡くなっている一連の不可解な権力移譲の様子を忖度無しに簡潔に書いているのが張政さんの報告なんでしょう。
更立男王國中不服更相誅殺當時殺千余人
この一文ですね。
どうやら三国志の著者の陳寿さんが存命中に発生した事件の当事者の様な報告内容なので、魏に仕えていた張政さんも陳寿さん同様に晋にそのまま仕えたみたいですね。
しかし景行天皇の時代の歴代天皇の寿命を“1歳=6ヶ月”の換算で数えでは、遅くとも三浦半島走水神社の倭建命来訪の伝承が西暦109年に成るのと比較して、史実の卑弥呼の時代とは誤差150年前後が発生する事に成ります。
これが先程、景行天皇達中国の暦導入以前の寿命を昔のまま6ヵ月計算した誤差だとすると、中国文化制度を本格的に導入した伝承の有る応神天皇―仁徳天皇以前の天皇の寿命を古代の1年=6ヵ月→12ヶ月に変換するとピッタリ景行天皇=卑弥呼の時代と整合します。

【再び倭国大乱に陥った原因の男王】
成務天皇=倭建の異母弟。
成務天皇は立太子され大王に成りましたが先代の景行天皇には他にも倭建等の子息がいた上、彼等は異母兄弟であり更に双方の母はそれぞれが異なる豪族の姫でした。
普通に功績を上げたのは倭建の方なので景行天皇の跡継ぎに関して望むと望まざると後継者争いが勃発するでしょう、それが魏志倭人伝に有る、卑弥呼の後に男王が就任したが再び世が乱れたの記載だと推測出来ます。
卑弥呼(倭姫)の跡を継いだ景行天皇が就任した時は混乱なく天寿を全うしている様ですね。
恐らく卑弥呼(倭姫)の跡を景行天皇が継いだ時はずっと補佐をしていた実力も有って纏まったみたいです。しかし子供の代で後継者争いが発生してしまった様です。
東征を無事に終えた倭建は恐らく戦争らしい戦争にすら成らず武威と統治能力で地方の郡衙(ぐんが:市役所みたいなの)と兵站(へいたん:補給網)となる駅=店屋(てんや:駐屯地)の設営に成功して凄まじい武勲を立てた後で暫く後の四道将軍や鎌倉公坊に似た役割で東日本に駐留していたんでしょうね。
父大王の景行天皇の危篤か崩御の一報が有り、重臣引き連れて東山道から帰還しようとし、関ヶ原を経由して畿内(関西)に入ろうとしたんでしょう。
来る時に通った東海道の海路や薩垂峠は焼津で焼き討ちされてるから二度と通りたくないでしょ(笑)。
ところが東山道を進んだら今の神話で伊吹山の神と表現される土地神(かみ:督=豪族)に軍事的に阻止され、倭建は武装せず敵対心が無い事を示して説得に行ったら、暗殺未遂で外傷を負ったか毒を盛られたかは解りませんが重症を負った様です。
二俣川で討死した畠山重忠公みたいな状況。
普通に神話を現実的に解釈すればそうなるし、美濃国~近江国境でそれを画策出来るのは只1人、成務天皇だけでしょう。
成務天皇の母は美濃の豪族の娘で八坂入媛(やさかいりひめ)ですから、異母兄の倭建を排除しないと自分が廃嫡されるか、既に景行天皇が崩御されている状況だったなら最初から後継者争いが起きる前に母方の豪族の協力を得て倭建の帰還を阻止したと考えられます。
最悪、倭建(ヤマトタケル)が立太子された嫡子だったのに、景行天皇が崩御した直後に成務天皇派は倭建の不在を好機として自派で武力クーデター起こして朝廷を制圧したか、存外、東征に参加が許されず朝廷に待機し武功をあげれなかった西日本九州の豪族王達から成務天皇は支持されたのかも知れませんね。
実際、東日本に開拓に入ってた豪族の苗字は各神社の伝承に残りますが九州系は皆無・・・
磯長国造(五十猛?)・鈴木・紀=熊野系(諏訪神系?)
古墳時代~奈良時代
((根国・狗奴国)→駿河~伊豆~相模西武(磯長国)・武蔵東部(橘樹郡・都築郡))
大伴=大鞆
古墳時代~鎌倉時代(神職化)
(摂津住吉郡・相模三浦郡~武蔵橘樹郡=佐賀牟国)
日下部
古墳時代~飛鳥時代
(高座郡南部)
丸子・小野=和迩
古墳時代~平安時代
(相模愛甲郡~相模高座郡~武蔵荏原郡=佐賀牟国→前九年後三年の役頃に東北に移住か?)
下毛野・上毛野・坂田=毛野
古墳時代~平安時代
(上野国・下野国・相模足柄郡・近江坂田郡)
笠原・布施=諏訪神族
古墳時代~奈良時代
(武蔵南部~相模東部~相模中部=佐賀牟国→武蔵と相模に分裂?)
若光=高句麗王族
飛鳥時代
(相模餘綾郡・武蔵高麗郡)
・・・ざっとこんな感じで、それ以後は桓武平氏と河内源氏が支配者として赴任定着しており、唯一九州と無理矢理結び付くのは大伴家=佐伯一族のみ。
天智天皇も天武天皇も後白河法皇も後醍醐天皇も後の天皇家も皇族間で権力闘争を行っている歴史事実から、この大王(天皇)家と各親派の政争→軍事衝突として見た解釈は極自然でしょう。
ウチの某国造系先祖もず~っと室町時代まで似た様な事してたし(笑)。
倭建を陥(おとしい)れた伊吹山の神とは美濃の豪族である成務天皇の母方勢力の軍勢を率いた人物でしょう。
倭建が丸腰で美濃の豪族王(伊吹山の神)を説得に行ってるのは、状況的に自分がそれを出来る“地位を既に景行天皇に与えられていたから”つまり本来の皇太子は倭建の方だったかもしれませんね。
いずれにせよ倭建は重症を負い、更に関ヶ原通過を諦めて、鈴鹿の関所側に遠回りして畿内に帰還を試みながら死亡しています。
この政争は神功皇后が出るまで続いた様で、更に後の時代の筑紫の国造はじめ邪馬台国黎明期の功臣である北九州の諸豪族が大和朝廷に反抗的に成るのは、この頃に成務天皇派についた事で仲哀天皇の代に政治体制から北九州の豪族が排除され関西優位化が進んだりした可能性も発生して来ます。
神功皇后は自分達とパイプの太い卑弥呼の一族だから成務天皇派は矛を納めたのに、倭建の皇子の仲哀天皇とまさかの婚姻関係に成り、北九州の諸豪族の既得権が失われた事が古墳時代~飛鳥時代の北九州勢力が大和王権に楯突く原因としてシコリに成った可能性が有ります。
香椎宮とか、元は伊都国とかの首府だったんじゃね?とも思ったり。
成務天皇は不可解に倭建の実子の仲哀天皇を後継者指名しなければいけない状況に成り、それでも国が纏まらないので張政サン達が卑弥呼サンの親戚で13歳の臺与ちゃんを見つけて来て卑弥呼さんの跡継の女王(斎王)に成って貰い、再び混乱しない様に仲哀天皇と結婚させて倭建の遺臣達の派閥を納得させるしか無かった、この一連の騒動が中国側の歴史記録や当時の天皇の寿命から読み解けたりする訳です。
成務天皇の業績とされている地方の政庁の整備は、どっからどう考えても日本中を転戦した倭建=日本武尊の功績が大王に就任した成務天皇に横領されていると考えた方が自然でしょう。
そりゃ~、東日本の地方豪族達は成務天皇を支持出来ないでしょうね。
そんでも和睦する為に仲哀天皇を跡継ぎに指名する条件を出したけど、成務天皇派は倭建派に権力が集中するのを成務天皇派が恐れたのか、仲哀天皇は他の天皇と比較しても異常に短命な26歳で亡くなっているので、神功皇后が応神天皇を妊娠した段階で暗殺されてしまったのかも知れませんね。
倭建派が主流に成るのを恐れた勢力がいたとしか状況的には考えられません。

【男系王朝が上手く行かず、一代女王(斎王)に就任した人物】
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写真は神奈川県大磯町の高麗権現社(現:高来神社)、昔は裏山の高麗山の上に社殿と僧坊が広がる神仏習合の修験道の聖地で、元は神功皇后の朝鮮征伐の際に倭国に服属した朝鮮半島からの帰化民が周辺に定着し神功皇后を御祭神に祀る神社。百済滅亡時も百済王族の若光が関わった場所でも有る。
神功皇后=臺与。景行天皇と倭姫を卑弥呼の記載に当て嵌めると、丁度時代的に神功皇后に合致する。
神功皇后は仲哀天皇の皇后で、景行天皇が西日本を再統一した卑弥呼の世話をする男性(男王)だとすれば、神功皇后は景行天皇の二世代後の西暦300年代後半位の人物と成る。そうなると正に広開土王碑文の年代と整合性が出て来て極めて神功皇后と臺与が同一人物の可能性が高く成る。
神功皇后がピンチヒッターとして当番せざるを得なかった理由も当時の天皇の年齢を1歳=6ヶ月で換算すると・・・
仲哀天皇の崩御年齢が53歳 →26.5歳となるので、まだ跡継ぎが幼齢だった為に皇后が大王代理を勤めるしか無い状況に陥っていた事も解る。
仲哀天皇は成務天皇に殺害されたであろう倭建の子なので、仲哀天皇自身も不自然な短命な事から何か政争に巻き込まれ暗殺されたのかも知れない。
その原因が、もしかしたら朝鮮半島の勢力や政治とも関係が有ったので邪馬台国の臺与=神功皇后による朝鮮征伐が敢行されたのなら、司馬氏の晋朝の不安定な政情ともつじつまが合ってくる。神功皇后の渡海北閥は、晋の司馬氏に反逆した匈奴の劉淵を背後から挟撃し牽制、晋朝を救援する目的が有ったと考えられる。
夫の仲哀天皇の子、応神天皇が日本で最初に本格的に漢学を導入した人物と伝わり、孫の菟道稚郎子が日本で最初に漢学を学んだ人物と伝わり延喜式内社の相模国四之宮である前鳥(さきとり)神社で仕事と学問の神として御祭神に成っており、菟道稚郎子の兄王である仁徳天皇は日本で最初に父である応神天皇を八幡宮の御祭神として祀らせる一国一社八幡宮設置の政令を出した事が、神奈川県の平塚八幡宮に伝わっている。この平塚八幡宮は相模国国府祭の神事に登場する八幡社でもある。
つまり、卑弥呼が始めた中国の工業技術や軍事制度の導入は卑弥呼の実弟の景行天皇、更に甥の成務天皇を経て、三代後の子孫の応神天皇と更に皇子の仁徳天皇の代に本格的な中国の国家制度や学問を含め暦や年齢の導入が始まり、仁徳天皇の子の履中天皇の代で"1歳=6ヶ月"とカウントする文化が廃止され、中国風の暦が導入され1歳=1年に移行しているんだろうと言う事が推測出来る。

【魏から下賜された魏の皇軍軍旗(黄幢)、金印、200枚の鏡、“二振りの神剣”】
ーー草薙の剣と天叢雲剣ーー
呉王宝剣 蘇州市博物館
写真は呉王剣と呼ばれる中国に現存する春秋戦国時代の青銅合金製の宝剣で三国時代には上級将軍達は鉄剣を装備したが、剣の形状自体には大きな変化は無い。
恐らく魏から下賜された2振りの宝剣が草薙剣と天叢雲剣の名前で伝わる天皇家の神剣の可能性が有るので熱田神宮に現存する倭建の佩刀だった草薙剣は呉王剣と似た形状だろう。
古代中国では王が配下の武将を大将軍に任命する際、戦斧を貸与する習慣が有った。倭建が叔母の倭姫から草薙の剣を拝受し天皇家の近衛部隊である大伴一族の水軍と先進知識に明るい吉備氏の軍勢を与力として元伊勢神宮で付けられたと伝承するのは、正に中国文化に由来する大将軍として統帥権を与える為に宝剣を与える一連の儀式を模している事も推測出来る。
この宝剣は魏から贈られた2振りの宝剣の内の一振りだったはずだ。
現在の天皇家の神剣に天叢雲剣と草薙の剣異なる2つの名前が有るのも、元々魏から贈られた宝剣が2振り有ったからと推測出来る。実は現在も熱田神宮と皇居にそれぞれ存在し、熱田神宮では新羅人の盗賊に盗難未遂に有った一度を除いて倭建の用いた草薙の剣は一度たりとも熱田神宮から持ち出された事は無いと主張している。それに矛盾して源頼朝公が実弟の源義経公に壇ノ浦の合戦で平家を討伐させた際に平家が持ち出した“天叢雲剣”は安徳天皇と共に関門海峡の海に沈み永久に失われている。これを怒った頼朝公が捜索させるが見つからず、後鳥羽天皇は三種の神器の一方の天叢雲剣が無いまま皇位継承の儀式を行う羽目に遭っている。仕方が無いので朝廷では伊勢神宮にレプリカを作らせたのか関係無い剣を献上させる形で失われた天叢雲剣とした歴史事実が有る。
つまり今現在、天皇家は源義経の失態のせいで本物の神剣ではなくレプリカと言う事に成るが、この事から元々神剣は二振り有り、倭建が倭姫=卑弥呼から拝受した神剣が草薙剣で、倭建が岐阜の豪族(伊吹山の神)の妨害により畿内に帰還できず、鈴鹿の関辺りで(暗殺か傷病死だと思うが)病没した際に、豪族尾張氏の拠点だった熱田神宮に草薙の剣が移され、以後門外不出が熱田神宮の伝承通り石棺に入れられ守られていると言う事に成る。
ちなみに走水神社の本殿の地下には倭建の冠を奉納した石棺が埋められていると伝承しているが、近年の社殿建て替えの際に神話通り本当に石棺の存在が確認されているので熱田神宮と走水神社の神器の状況的な整合性から熱田神宮の伝承は事実だろう。
石棺に納められている事実からも、正に倭建や卑弥呼が弥生時代から古墳時代への転換期の人物と言う事に成る。
天叢雲剣と草薙剣は最初から別々の剣で大和朝廷には天皇が所持する神剣と、大将軍に貸与する為に所持していた熱田神宮の草薙剣の二振りが存在している事が判る。
ーー神社で御神鏡を祀る習慣ーー
三角縁神獣鏡
恐らく魏から下賜された金色に輝く青銅の銅鏡200枚が卑弥呼配下の有力豪族に配布され、卑弥呼(日巫女)の主祭神である天照大神を崇拝する太陽神信仰の象徴として祀られたのが始まりだろう。
青銅は鋳造直後は黄金色に輝くし、金属の鏡は陽の光を反射して輝くので弥生時代末期の人には小さな太陽の化身の様に感じる貴重品だった事は容易に想像がつく。
魏皇帝曹叡が景初三年1月末に亡くなっている事から景初三年の三角縁神獣鏡が日本製とのたまう頭デッカチの学者がいるが、当時の魏の経済状況や倭国に朝鮮半島を挟撃して貰いたい状況を考えれば容易に景初三年の銅鏡が倭国に贈られた事が説明出来る。
司馬懿の公孫淵討伐と卑弥呼の使者が魏に到達したのが景初二年なのだから、普通に考えれば魏皇帝曹叡と丞相司馬懿が倭国の卑弥呼に朝貢の返礼と冊封の証として下賜する為に景初二年に製造を始めさせ景初三年に倭国に届けるつもりだったのが、景初三年の1月22日に死没したが、当時の魏は改めて銅鏡等の下賜する礼品に対して製造コストをかけれない状況に置かれていました。
洛陽の宮殿建設と度重なる戦争で経済が逼迫し内乱が起こり呉とも激しく戦を繰り返しており北にも南にも敵に囲まれていた魏にとって背後の朝鮮半島の安定化を急ぐ状況で景初三年のままの銅鏡で出荷せざるを得なかったと考えるのが一番自然です。
ーー幣殿に旗と鉾と楯を祀る習慣ーー
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社殿の内部で本殿前の幣殿部分に楯、鉾(ほこ)、旗を祀るが、これは明ら様(あからさま)に魏から贈られた黄幢(魏皇帝の錦の御旗)、漢代の中国兵が楯と剣or槍or戟(げき)or鉾で武装していたのを卑弥呼の頃に導入していた事に由来するだろう。つまり卑弥呼の時代の軍装が神社の神様を守る様に一揃え設置されている。
漢代の中国大陸では楯は歩兵の標準装備だったので、卑弥呼の時代には邪馬台国兵も魏の軍装を導入していた事が推測出来て、現代でも武具を神社に奉納するのと同じ様に、古墳時代に漢代の軍装を神様に奉納し社殿に設置する習慣が出来たのだろう。
平安末期に成ると日本では武士文化が開花し、攻撃特化した武装に変性していき鎌倉時代の武士は次第に歩兵が木楯を携行する事は無く成った。
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代わりに、日本刀の発展により刀身の側面の鎬(しのぎ)が頑丈に成り太刀打ちの際に楯を持つより刀で相手の刀を弾き返す耐久性が獲得された。
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大鎧の弓矢に対する防御力が向上され首を守る兜の錣(しころ)や流れ矢の顔面被弾を防ぐ吹き返し、前屈すると正面に対して隙間が無く体を覆い楯代わりになる大袖や草摺(くさずり)の構造が発展し楯は無用の長物に成った。
矢合戦の際に前線陣地に押し並べ据え置いて防御壁代わりに用いる程度に役割は衰退したが、卑弥呼の次代~古墳時代~飛鳥時代の軍装は、神社の中に神様を祀る文化の中で形式化され温存された。
ーー鳥居ーー
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中国の古い街の大通りには石造りの鳥居に似たゲートが必ず設置されているので、鳥居は中国文化由来で東アジア諸国に広まった街道や邸宅の入口に設ける門の習慣の名残りなのかも知れない。
そもそも日本の古代信仰はランドマークとなる奇岩や湧水地や川や入江の岬の先端などの自然信仰で、建造物すら存在しなかった事が考古学的にも解かっている。

しかし、これだけ状況証拠が残っていても卑弥呼と臺与の生きた西暦230年代~300年代と倭建が走水に来た109年では、走水の伝承をまま採用すると100~200年の差が発生してしまいます。
この誤差200年が、正に卑弥呼と臺与による中国式の制度が導入され、更に応神天皇の時に本格的な中国文化の暦が導入が開始されている事により発生する誤差に成るのが歴代天皇の寿命で説明できます。

中国の暦が導入されて・・・
1年=12ヶ月=1歳
・・・の基準が決まり、それ以前の・・・
1年=06ヶ月=1歳
・・・と差違が生じて誤解を生んだ境目なのだと思います。

応神天皇の頃まで歴代天皇の寿命は100歳超だらけ不自然な年齢ですが、それが1年=06ヶ月=1歳でカウントされてるからと原因が解れば話しは一気に超現実的に成ります。
1年=12ヶ月=1歳に圧縮するとザックリ見積もっても200年弱の歴史が短縮され現実的な歴史に成り倭建神話に卑弥呼の時代と整合性が出ます。

では、本当にこの推論が当てはまるか歴代天皇の古事記での寿命の記載を見て見ましょう。

※縄文→弥生時代の平均寿命30歳
     伝承年齢 → 1年=6ヶ月説適応
神武天皇 127歳 → 63.5歳
綏靖天皇   84歳 → 42.0歳
安寧天皇   67歳 → 33.5歳
懿徳天皇   77歳 → 33.5歳
孝昭天皇 114歳 → 57.0歳
孝安天皇 137歳 → 68.5歳
孝靈天皇 128歳 → 64.0歳
孝元天皇 116歳 → 58.0歳
開化天皇 111歳 → 55.5歳
崇神天皇 119歳 → 59.5歳
垂仁天皇 139歳 → 69.5歳
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳👈注目①!
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
履中天皇   70歳 → 35.0歳👈注目②!
反正天皇   75歳 → 37.5歳
允恭天皇   78歳 → 37.5歳
安康天皇   56歳 → 28.0歳
雄略天皇   62歳 → 31.0歳

こうやって見比べると、本当に中国の学問を学び導入した応神天皇、仁徳天皇の次代、注目②の履中天皇の寿命が急にそれ以前の天皇より短く成ってしまっているので、履中天皇の時代から日本人の年齢の数え方や暦の数え方が中国の制度が導入されている事が理解できます。
これは神話と成った伝承の通り、応神天皇の方針により中国の制度を学んだと伝わる仁徳天皇と菟道稚郎子の皇子御兄弟時代から国家運営に中国式の暦の制度や国家運営が本格的に導入され始めているようです。
この事から履中天皇~倭建の生きた時代の天皇、景行天皇の半年:1歳の和暦寿命と中国式の1年:1歳の差異を合計すると、倭建が西暦109年に走水に来たと逆算で伝承しているのが更に短縮される事も解かる訳です。
    古代和暦→陰暦年齢
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
年齢合計 557年 → 278.5年

昔の人が結婚するのは15歳~20歳が適齢期でしたから、子供を作る年齢もだいたいそれ位でしょう。
なので中国から導入された1年1歳の陰暦年齢合計から子作り年齢を引けば歴史の年代的な誤差が算出出来る事に成ります・・・

寿命合計278.5
この時代の天皇の人数(5人) × 20=100年
~すると~
278.5年ー誤差100年=178.5年

おんや~⁉
・・・何やら丁度、倭建の走水の逆算年代の伝承と三国時代の誤差200年に極めて近い“178.5年”と言う数字が出て来ましたね。

1歳=12ヶ月で数えた場合に倭建が走水に来たとされる109年に、この誤差178.5年を足してみましょう!

109 + 178.5 = 287~288年

つまり走水に倭建命と弟橘姫夫妻は287~288年前後に来ている事が推測出来ます。
完璧に倭建の父の景行天皇と倭姫=卑弥呼であろう倭姫の弟姉が活躍した三国志の魏朝が滅亡するまでの235年~265年~司馬氏の晋朝と時代が符号します。

三国志の著者である陳寿は233年生まれ~297年を生きて64歳で亡くなっている人物です。
238年に使者を送った卑弥呼が当時15歳~25歳の倭姫と景行天皇姉弟だとすれば、当時の結婚適齢期から倭建と三国志を書いた陳寿は略(ほぼ)同世代だろうと言う事も何となく見えて来ます。
となれば倭建が活躍したのは238年前後生まれ+20~50歳の間に当たる西暦250~290年頃の話と言う事が逆算出来ますね。

走水に倭建が奥さんの弟橘媛(おとたちばなひめ)と走水神社近くの御所ヵ崎で共に夫婦生活を送った西暦109年が古代日本1年=半年を踏まえると完全に三国志の直後の時代の287年位の話になります。
倭建命が40代後半、弟橘姫は恐らく年の離れた異母妹であり妻女でしょう。
景行天皇の皇女(姫)には“弟姫(おとひめ)”が存在します。古代は異母兄妹で近親婚する事が良く有ったので、弟姫と弟橘姫は同一人物でしょう。
1年=12ヶ月に古来の1年=6ヶ月の部分を修正すると、途端に神話が神話ではなく成り、天皇家の偉業と日本文化が古代から引き継がれている事が歴史事実となり、倭建と弟橘姫夫妻の功績を川崎市高津区橘神社~横浜市神奈川区六角橋~横浜市磯子区杉田~三浦半島横須賀市走水の人達が年代誤差も修正され1800年間も話の内容は変らず正確に口伝で伝承させてきている事が証明されます。

時系列を古代:6ヶ月=1年⇔現代:12ヶ月=1年の誤差修正すると、こんな感じなのかも知れません。
                                 
卑弥呼(倭姫)
(220~230年出生→247年禅譲→290年頃没?)

景行天皇 71歳
(220~230年出生~290年頃崩御)

倭建(日本武尊)    
(250年頃出生→300年頃崩御)
※走水に在住時点
古代歴・・・西暦109年
太陽暦・・・西暦288年前後

成務天皇 53歳
(250年頃出生→300年頃崩御)

仲哀天皇 26歳
(270年頃出生→310年頃崩御)

神功皇后    
(270年頃出生→340年頃崩御)

応神天皇 55歳
(300年頃出生→360年頃崩御)

仁徳天皇 71歳
(320年頃出生→390年頃崩御)

まぁ~これは全部小生の「あれ?古事記の記載はおかしいぞ?」と思った事を現実的に解釈した持論なので、全然、皆さんは異論が有って良いと思います。

肝心な事は・・・
「本に書いて有るからって、全部正しい訳じゃねぇ~かんな!」
「上司や親が言ったからって言い訳に出来ねぇ~から後悔しない様に自分で確かめて判断しろよな!」
・・・て言う事例の一つとして、和暦も色々変化が有るよってのを天皇家の歴史で示してみました。

そして・・・
「卑弥呼様ぁ~!」
卑弥呼様ぁ~Q太郎
・・・の次代の人達よりも更に古い時代の天皇家の御先祖様の神武天皇は弥生時代真っ只中を生きた皇族だった事が判りますね。
三殿台遺跡 縄文人女 久良岐のよし
当時の人の服装はこんな感じ。
やっと狩猟採取の生活から、稲作に転換し始めた時期です。中国から輸入された米穀の栽培によって食料の備蓄が可能に成り生存率が向上した半面で“財産”と言う概念が生まれて、更に農耕は大きな集団で協力して土地を開墾したり稲作を行う必要が有ります。
備蓄可能な食糧の出現が、皮肉な事に
リーダーの出現と村より大きな単位での集団の形成と、争いの無い縄文時代終わりを迎えて‟国”と言われた豪族が治める地方の単位が生まれ、地方同士の武力衝突と財産の奪い合いに発展して行き弥生時代=神話の時代に突入して行った訳ですね。
古事記に書かれている天沼鉾(あまのぬぼこ)を用いて伊邪那美神と伊邪那岐神が混沌とした場所で掻き混ぜて島を生み出した国産み神話は、正に土地開拓と鉾を交え戦を行った古代豪族の伝承の比喩だと小生は考えています。
この伊邪那美神と伊邪那岐神が神武天皇の更に御先祖様に当たる神様ですが、弥生時代の始まりは紀元前10世紀頃と今の考古学で解っているので、その頃の話がかいつまんで口伝で伝承されて今の国産み神話に成っているのでしょう。
組織的な集団を作り出し農耕や交易で“勢力”と言う大きな単位を作り出した偉大な先人である事が判ります。

日本神話を纏めた古事記では
日本国の元に成る弥生文化の時代、神話の黎明期に相当する歴代天皇の寿命が異常に長い事も1年=半年で再カウントすると何とも現実的な没年齢に話が変わって来ると同時に、いつの時代から中国と文化を共有しだしたのかの基準が推定出来たりする訳です。
それと同じで現代の太陽暦の12区分で陰暦の月の和名を当て嵌めれないので、太陽暦基準で1月=睦月にしてしまうと“水無月(みなづき)”なのに梅雨の真っ最中みたいな矛盾が発生する訳です。

ここで、本来の月の暦の話に戻ります。

和暦の12ヵ月の漢字を見て見ましょう。

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睦月 むつき 睦つぶ月 
旧正月、01月下旬~2月中旬に始まる月
旧正月は陰暦の為に太陽暦より誤差が大きく毎年数日単位で開始日が異なる。
睦月の“睦”の字は親睦を深めるとか和睦するとか、交流を育む様子を意味する漢字。
本来の睦月の意味は雪解けと共に梅の花が咲き始め春の訪れを知り、人間そのものの往来が増える事が表現されたているのが漢字の意味から読み取れます。

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如月 きさらぎ (前)月の通り
太陽暦の02下旬~03月下旬位。
梅の季節から桜の季節に変わって来て本格的に春の訪れる頃。
漢字では後ろに付く漢字と合わせて〇〇の様だ。の様な意味を持つ。
如月では意味が成立しないので、季節感が睦月と同じと言う意味だろう。

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弥生 やよい いよいよ生まれる月 
太陽暦04月~05月くらい。
晩春で躑躅の花が咲き誇る頃。
弥生の弥は訓読みで“いよいよ”と読む。
弥生を読み下すと“いよいよ生まれる”と言う意味に成る。
春の盛りで花が咲き本格的に暖かくなり農耕の作業が本格化し動植物の繁殖も始まる様子が、もうそのまま漢字にされている。

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卯月 うづき 卯の花由来説は後付け
4番目の月と言う意味。
太陽暦の05月~06月位くらい。
菖蒲の咲く季節。
卯月の卯の字は只単に昔の時間割や方角の割り付けで十二支由来、
卯の刻とか卯の方角とか、羅針盤(指南机)上で四番目を指す意味が有る。
ちなみに日本語で教授する事を“指南”と言うが、これは中国の最初の皇帝の前身と成った人物の黄帝が、敵対者と戦争する際に濃霧が発生する場所に敵軍を誘い込み前後不覚に方向感覚を失わせ混乱させたうえで自軍は迷わない様に南の方角を指示する歯車の仕掛けを作り、敵軍を駆逐した事から指南=教えると比喩されやがて動詞として使われる様に成った。
卯の花が咲くから卯月と言うのは寧ろ、四番目の月の卯月に咲く花だから“空木(うつぎ)”が卯の花と呼ばれる様に後付けされたと考えた方が極々自然。

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皐月 さつき 皐月の花由来は後付け
太陽暦の06月~07月くらい、梅雨の季節。
紫陽花の咲く頃。
夏の始まりだから夏王朝の皇帝の名前を用いて5番目の月の異称にしたのが解かる。
春は動物が交配し繁殖する季節なので、言って見れば淫乱な繁殖期。
夏の皇帝皐の先代皇帝孔甲は性格が淫乱の極みの様な人物だった。
孔甲の跡は皇帝“皐(こう)”が継いだ。
生物にとって春の繁殖期が終わり夏に成る季節だからだから夏王朝の淫乱で交尾ばっかりしていた暴君の皇帝孔甲と、跡を継いだ皇帝の皐の故事から初夏の最初の月が皐月と命名されているのが解かる。
“梅雨(つゆ)”は中国語由来の季節の表現で、太陽暦の6月下旬の中国の雨季は、梅の実収穫時期でもあった事に由来する。当然ながら現代中国語の漢字でも梅雨は梅雨。
現代日本人にとっては芽吹きの春ではなく、夏休みと冬のクリスマスのイベントが繁殖期の様だ(笑)。

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水無月 みなづき 文字通りの意味
太陽暦の07~08月初旬くらい。
海辺に野莞草のオレンジ色の花が咲き誇る季節。
昔の通りに陰暦の春節を睦月の起点にすると、水無月は文字通り梅雨明けの乾期に相当する。
それ以上でも以下でもない。
古代の一年の区切りで、夏越大祓の神事が各地の神社で行われる。

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文月 中国由来で七夕の書物を防腐する月
太陽暦の08~09月くらい。
旧暦の七夕の季節。
七夕の日の由来ではあるけれども短冊の話は日本での後付け旧暦の七夕。
中国では七夕の頃に書物をカラっと晴れた日に天日に干して防腐する習慣が有った。
つまり文月の文はこの中国から受け継いだ書物や文書を管理する月だったから付けらた事が判る。
そもそも論だが七夕自体も中国から日本に輸入された習慣であり伝説でもある。
端午の節句もそうだし、中秋の名月も、旧正月もう色々と季節の節目の行事は中国文化由来だったりする。
最近じゃ日本人はバレンタインデーやクリスマスなんて習慣も新たに取り入れたりしてるよね。
一体、生粋の日本文化ってのは現在、どれだけ残っているんだろうか?と言う次元の話。
小生の知る限り、相模国国府祭や武蔵国国府祭、有鹿神社の水引祭り、高部屋神社の潮汲み神事、寒川大社の追儺祭は生粋の日本の神事かも知れない。
特に高部屋神社と寒川大社の神事は弥生時代~古墳時代の文化の名残りかも知れない。

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葉月 夏が終わり青々とした葉が朽ち始める
太陽暦の9~10月くらい。
台風が頻発して葉っぱが飛ばされたり、葉っぱの色が枯葉の色に変わり始める季節。
関東では海の空気が澄み始めて富士山が奇麗に見える日が段々増えて来る。

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長月 小生にはちょっと意味が解らない
太陽暦の10~11月くらい。
多分、中秋の名月の季節で、気温も少し過ごしやすくなり、昔の人は“秋の夜長”を楽しみ和歌を詠んだり自邸の庭の池に船を浮かべて遊んだり、松明(たいまつ)を炊いて庭の木々を照らし夜景を楽しんだり、笛を吹いたりして貴族が夜を長く楽しむ季節だったからじゃないかとしか思えない。

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出雲大社
※画像掲載元→https://www.izumo-kankou.gr.jp/676
神無月/神有月(出雲国) そのまんま
太陽暦の11~12月くらい。
山の木々が紅葉し美しく萌える季節。
全国の神(かみ=督:神格化された古代の軍属豪族)が、出雲大社に参集して日本全国の年次方針を決めたから各地は無監督状態で神様不在だった事に由来するのは有名な話。
逆に出雲大社には全国から豪族将軍達が集まって来るから神有月。

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霜月 滅茶寒くて地面霜だらけの季節
太陽暦の12~01月初旬。
そのまま真冬で霜が降りる季節だから。
関東では雪化粧した奇麗な富士山を色んな場所から眺める事が出来る季節。

一休さん
師走 中国経由の仏教用語“臘月”由来。
太陽暦の01月下旬~02月下旬。
1年の終わりの月と言う意味。
僧侶が走り回る様に忙しいとかは丸っきり後付けのデマ。
昔は中国で臘月(LaYue:ラーユエ⇒ロウゲツ⇒しわつき)と書いて陰暦で年末最後の月の事を意味したので、ずばり中国の臘月=臘数
(しわす)が由来。
臘数の臘(しわ/ロウ)は中国由来の仏教用語で僧侶が出家して具足戎を受けてからの年数を数える節目の単位でもある。庶民には覚え難(にく)い漢字だったから僧侶が忙しくなる季節と言う表現の師走と言う字に臘数(しわす)の発音だけ誤植した挙句、いつの時代にか師走の字のデマが広まってしまった様だ。


まぁ~そんな訳で、現代の価値観と現代の時間軸で陰暦の暦を当て嵌めたり、太陽暦の1月1日に真冬なのに年賀状に「迎春」とか書いちゃうと整合性が無くなってしまう原因だったりする訳です。
昔の事は現代の価値観で見ても全然違うって事ですね。
昔の人は農業社会で天候と密接に生活していたので季節感が大切だったんですね。
そして日本の制度自体も各時代、外国の影響を受けて色々変わっていると言う事です。


日本の神社の神様には、仁徳天皇と菟道稚郎子に中国の兵法や学問を享受した漢帝国皇族の末裔の阿智使主もいれば、高麗や百済の滅亡時に日本に移住して来て高麗神社を開いた人たちもいます。
南宋が滅亡した時に鎌倉幕府の執権、北条時頼公や北条時宗公も南宋の亡命高僧や文化人を受け入れ南宋の軍事知識と文化を取り入れ鎌倉文化を発展させ元朝と朝鮮連合軍の日本侵略から国民を守った訳です。
実は日本人が生粋の日本文化だと思い込んでいる事の多くは少なからずインドや中国や朝鮮の文化と共通する部分が有り、古代に影響を受けながら日本風に変化させ日本文化を一緒に作り上げて来たのが歴史を辿ると良く解りますね。
だから“外国人”と言う事や“人種が異なる”と言う理由で在日外国人やハーフを外見でイジメたり攻撃するのは、本当の保守派の小生には受け入れられない只の差別でしかなく、寧ろ外国人差別をする人間が真の保守派の敵だと思っていたりします。

そもそも本当の日本文化ってのは自然崇拝ですから。
だから延喜式内社と言うジャンルにカテゴライズされる古い古い歴史を持つ神社は、どこでも自然崇拝の聖地に存在するんです。

水無月や師走の現代人の誤りを紐解いていくと、日本人と言う人種ではない括りの人間は色んな国からの帰化人が在来種の縄文人と協力して国を開拓し文化を昇華させた歴史にも辿り着けたりしますよ~!

そして疑問に思った事は何でも自分で調べましょう確かめましょう、人の言う事鵜呑みにして結果間違ったり判断ミスって人のせいにしたく成ったり悔しい思いするより良いしね。
ネットで調べるより現地に行って自分の目で見て、そんでも解からない事は一番精度の高い現地の人を質問責めにするのが一番早い!

百聞不如一見(百聞は一見に如かず)とは昔の中国の人も良く言ったもんだ。

今の中国は日本人について情報管理されててMSNのページも日本のニュースにアクセス出来なかったり田舎では反日ドラマばっかりやっていて不正確な情報ばっかりで日本に対する偏見強い人もいるけれど、昔の中国人と同じ様に高文化で素養高く親切な人も多くいる。
TikTokやWechatや華微(ファーウェイ)のスマホなんか規制しても良いし、日本人を差別する外国人には容赦なく反撃しても良いと思う。
でも人間は個人単位で評価しないといけないし、先生が言ってるからとか、本や辞書に書いて有る事が必ず正しいとは限らない。
自分で見て経験した物を信じ、知らない事はガンガン直接、現地や現場に見聞きしにいけばよいよ。
仕事もそうでしょ?

・・・と、言う御話しでした。

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※2020年新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。

和田長浜(わだなはま)海水浴場
※個人的に一押しの海水浴場!
【水質】
【景色】
【電車】
 三崎口~バス5分、和田で降車。
 和田バス停~徒歩16分
【  車  】
 私設駐車場有り。
【休憩】
 海の家有り。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 海水透明で奇麗なのに客少ない◎
 海の家が駐車場の直ぐ隣りだよ◎
 縁結びの御利益有るかもの海岸◎
注意するpoint(•ω•)       
 バス停から少し歩くよ~。
 小さな砂利の浜辺だよ~。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
海の砂は小粒の砂利なので少し歩き難いが、それをカバーして余り有る水質と景色の良さ。
バスを降りてからの交通が少し不便で最寄りの三崎口駅から直通バスが無くなったので車で来るか最寄りの和田バス停から徒歩16分歩く上に幹線道路から離れた丘の裏側に在(あ)って目立たない。
その分、環境的にも良い事も有り自然の美しさもさる事ながらチャラい客が少ない落ち着いた場所な上にちゃんとした大規模な海の家も数軒設営されている。
更に車での移動の人に朗報なのは海の家の真横に駐車場が有り便利。
又、三浦海岸や逗子海岸や由比ヶ浜や江ノ島の海岸の様(よう)に騒ぎたい迷惑な人だらけにも成らないしアホみたいな人も集まらない、小さい子のいる家族やカップルが安心して遊べる環境なので昼前に来て夕方までユックリと半日過ごす事が出来る。
又、ここは平安時代末期~鎌倉時代の名将、和田義盛公が側室の巴御前と住んだ和田城の港でもあった砂浜だったりする。
来る途中の和田義盛の碑の有る八雲神社を御参りすれば和田義盛公と巴御前の再婚夫婦の歴史偉人なので御参りすれば縁結びして貰える御利益も有りそうだ♪
丘の上が御二人が暮らした和田城址。
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穴場海岸の紹介一覧へ⤵️
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横浜市磯子区杉田には杉田八幡宮と言う神社が在(あ)ります。
横浜市は他地域からの移住者が多く御存知(ごぞんじ)無い方も多いのですが…
実は此方(こちら)の八幡神社、宮司様から聞いた話によると鎮守府将軍も務め前九年後三年の役で活躍した源八幡太郎(はちまんたろう)義家(よしいえ)公が開いたそうで、本当にその通りなら、千年の歴史を有するとてつもなく由緒ある八幡社(昔の人は神社を一括りにはしなかった)なんです。
・・・江戸時代までの記録で小生は宮司様の話しと同様の記録を見た事が無いので正直ビックリしました。
江戸時代までの記録には有りませんが、宮司様曰く杉田八幡宮は鎌倉の鶴丘八幡宮と同時期に開かれた八幡様なんだそうです。
正確に言うと相模国鎌倉郡に鶴岡八幡宮を義家公の御父君の源頼義公が開き…
武蔵国久良岐郡に義家公が鶴岡八幡宮より御分霊を勧進された、それが杉田八幡宮だと社伝にはあります。
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※写真は現在の鶴岡八幡宮を若宮大路から見た風景。
しかしながら史実を解説しますと源義家公の時代に“鶴岡八幡宮”と言う八幡宮は鎌倉にも何処にも存在していなかったんですが・・・
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源義家公の御父君、源頼義公が鎌倉に開いた八幡社は材木座の元鶴岡八幡宮と最近まで呼ばれた場所の事です。
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今では鶴岡八幡宮により管理され“由比若宮”と名を改めています。
ですから源頼朝公が遷座した今の八幡宮は当初は若宮(新しい御宮)と呼ばれ鶴岡八幡“神宮寺”と言う正式名称で神仏習合の大規模な神宮寺でした。今も参道の名は若宮大路ですね。
当時は別名鶴岡若宮とも呼ばれています。
つまり“鶴岡八幡宮”の名は平安時代と言うより比較的最近の呼び方ナンですね。
因(ちな)みに杉田八幡宮の宮司様の言う時代に鶴岡八幡宮の名は存在しませんでしたが、似た名前の鶴岡八幡宮よりも遥かに古く平塚市に仁徳天皇=大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)により開かれた八幡宮が存在していました。
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現在は三大七夕祭りの一箇所として有名な平塚八幡宮ですね。源義家公の存命中の社名を“鶴峰山”八幡宮と言いました。平塚八幡宮と名を改めたのは第二次世界大戦後のつい最近の話です。鶴峰山八幡宮の格式は高く一国一社の八幡宮として開かれた場所です。
この鶴峰山八幡宮と鶴岡八幡宮の名は似ているので、杉田八幡宮に鶴峰山八幡宮の名が鶴岡八幡宮と誤って伝承し杉田八幡宮が開かれたならば時代的な整合性はつきますね。
しかし、その場合、源義家公との縁は無く説明はつきません。
杉田八幡宮の現在の伝承によれば開かれた年は康平6年(西暦1063)との事なので、間違い無ければ鶴岡八幡宮の元に成った材木座の八幡社の完成と同年ですね。 何故、杉田八幡宮に元鶴岡八幡宮や材木座の八幡社では無く鶴岡八幡宮とされて伝わったかは謎ですね。
杉田八幡宮の宮司様の話しが正しければ鶴岡八幡宮の元に成った材木座の元鶴岡八幡宮が開かれて直ぐに御分霊が勧進された事に成ります。
ただ、その事が何の古文書に書かれているかは不明です。 少なくとも江戸時代の幕府公認の歴史書の新編武蔵風土記稿には❝勧進の年代詳しならず❞と書いてあり、江戸時代には既に杉田八幡宮の元に成った八幡社にも別当寺の間宮山妙観寺にも伝わっていなかった事が記録されているので、何故、現代「康平6年の勧進」とされているか、いつからその事が判明したのか出典の文書を調べる必要が有ると思います。
※別当寺については後述します。
義家公の同様の伝承は他の八幡社にも見られるので、義家公が御分霊を頂き杉田八幡宮の元に成った八幡社を開いた可能性は有ると思います。
仮に源頼朝公が再建した鶴岡八幡宮なら他の場所では“若宮八幡宮”の名を継承している場所がよく有ります。
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横浜市南区の若宮八幡宮です。
南区の若宮八幡宮は、昔は近くまで蒔田湾の入江で港が在ったので、治水と海上交通の神様の八幡大菩薩が勧進されて開かれた様です。
小生は現在、個人的に記録を確認できる古文書が有るか義家公と武蔵国の各八幡宮の関係を調査中です。
伝承通り、源頼義公と義家公が親子で久良岐郡と鎌倉郡に同時に八幡宮を開いても全く不自然ではありませんからね。 
宮司様の話しの“時代設定”を根拠にすれば時代的に杉田八幡宮が頂いた御分霊は今の鶴岡八幡宮と言うのは史実と整合性は無く異なり、元鶴岡八幡宮の御分霊を指す事に成りますが、余り規模の大きな神社ではなかったでしょう。
源頼義公が同時代に鎌倉の葛原岡から扇ヵ谷地区に遷座した巽神社は一般的な町の中の神社と同規模ですし、本拠地の河内国の氏神として祀っていた壺井八幡宮は由比若宮を少し大きくした程度で巽神社と同じ程です。
恐らく杉田八幡宮が御分霊を勧進した元鶴岡八幡宮は材木座海岸の近くですが、源頼義公の時代には材木座は入江が有ったので更に海が近かった事でしょう。
※源頼義公が創建した元鶴岡八幡に関する記事は「ココ」←クリック!
この杉田八幡宮も昭和初期まで眼前に海が広がっており、現在の杉田駅近く暗渠(あんきょ=蓋のされた川)に成った聖天川の河口に船着き場が在りました。
杉田八幡宮と周辺位置関係
この杉田の八幡様、頼朝公の時代には今より社領も広かった痕跡が付近の地名に残ります。
それを示す様に近所には上の衛星写真に示した交差点に残る「神戸(ごうど)」と言う地名が有りまして、神戸は神社に寄進された土地と言う意味です。
昔の住所の❝字(あざ)❞や❝小名(こな)❞と呼ばれる今の番地みたいな地名は、結構、公園や交差点や電信柱の名前の中に残っていたりします。
因みに伊勢原市に在る古代存続する比々多神社にも付近に神戸と言う地名が有ります。
※比々多神社の記事は「ココ」←クリック!
神戸は神社の土地な訳ですが、義家公の御子孫、源頼朝公も土地を寄進し、この八幡社を久良岐郡の惣社として再興されたと、現在の杉田八幡宮宮司様より頂いた参考資料にも記載があり、付近の旧地名と神社と頼朝公の時事績の伝承には整合性が有ります。
ただ、先程も例に挙げた❝新編武蔵風土記稿❞と言う江戸時代の学者間宮士信が編纂した資料を見る限りでは、「久良岐郡の総社」ではなく「杉田郷の総社」と成っているので、どこかの時代で杉田郷から久良岐郡に誤解された可能性も有ります。
しかしながら、本当に義家公の創建ならば、伝承通り鎌倉時代に義家公の御子孫の源頼朝公により久良岐郡の総社に定められた可能性は十分有るので、時代によって社格が著(いちじる)しく異ったのかも知れませんね。
まぁ、平安時代の価値観だと総社とかより鎮守と言う表現が一般的でしょうか?後は規模を大社とか小社とか表現しました。各は他にも位階を与えられる場合が有りました。

杉田八幡宮は、本殿の前に控え御社を守っている狛犬が有形文化財に指定されています。
可愛そうなんですが、右の狛犬は上顎が割れて無くなっちゃってます(泣)。
痛々しい…
ちょこっとユーモラスなデザインで可愛らしい狛犬さんですね。

伝承によれば、以前記事に書いた間宮林蔵や一族の杉田玄白の祖先に当たる間宮家の殿様が、この杉田八幡宮を支援していたそうです。
その殿様の名前を杉田八幡宮では江戸時代の「間宮信廣(のぶひろ)」と伝えています。
確かに、この杉田の領主は戦国時代~江戸時代を通じて北条家の家臣で水軍も抱えた間宮家の領地でした。
新編武蔵風土記稿を編纂した学者は、実は間宮本家笹下城主間宮康俊公の弟で、織田信長公への外交使者を務めたり日本百名城の一つ八王子城を縄張(なわば)り=設計した分家の氷取沢間宮家間宮綱信公の御子孫でした。
その学者の名前は江戸幕府の歴史編纂機関であり学問所だった昌平坂学問所の地誌取調所で頭取を務めた「間宮士信(ことのぶ)」です。
間宮士信は、杉田八幡宮を中興した殿様を敢(あ)えて「間宮信広」ではなく「間宮某(なにがし)」と名が解らないと記録
しています。
つまり、江戸時代まで間宮家が支援していた事実は殿様の名前は解らなくても記録として残っていた訳です。
新編武蔵風土記稿にも「八幡社」として、現在の杉田八幡宮の元に成った「妙観寺」と言う御寺の敷地に在った「八幡社」の記載が有ります。
ですから…
神社の幼稚園の敷地内に昔の杉田八幡宮別当寺の顕彰石碑が有りまして…
八幡宮の別当寺の名前は新編武蔵風土記稿にも確かに間宮山妙観寺跡と書いて有ります。
記録によれば日蓮宗中山法華寺の末寺と言う事です。   
御寺の山号が間宮山(かんぐうさん)なのは間宮家が中興だからですかね〜。
間宮家は小田原北条家臣で、相模国十四騎筆頭と称された武家でした。
間宮家については別記事を以前書いてますので、そちらを御覧下さい。
※間宮家関連の記事は「ココ」←クリック!
この妙観寺、お隣の妙法寺と本山が同じ中山法華寺です。
妙法寺は、杉田八幡宮を再興したと伝わる杉田間宮家の菩提寺です。
何故に間宮家や法華寺が末寺を妙法寺の隣に造営したかは謎ですが、背後の山は江戸時代❝妙観寺山❞と呼ばれたそうなので、妙観寺が存在した事は間違い無く、杉田八幡宮の前身の八幡社が存在した事の証明にも成ります。
間宮家の祖先の近江源氏佐々木家は真言宗でしたが、江戸時代の間宮家の御子孫は法華宗(浄土宗・時宗・日蓮宗…等々の宗派をまとめて江戸時代までの人の認識では法華衆だった)の宗旨に改宗していたので、杉田八幡宮の前身の八幡社の御社の別当寺の妙観寺が中山法華寺の末寺だったと言う事は非常に信憑性が高い伝承だと思います。
別当寺と言うのは江戸幕府の方針で、神社は大小様々あり荒廃してしまう場所もあったりする関係で檀家を抱える寺院の僧侶に管理を委ねていたので、その管理人の事を「別当(べっとう)」と呼び、管理する本社機能の有る寺院を「別当寺」と呼んだ訳です。
更に明治時代以前は国家神道は成立しておらず、神仏習合が千数百年来の価値観だったので僧侶が神事も行えたし日本の神様も信仰していましたし、仏事と神事は融合していたんですね。
なぜ、仏教僧に別当職を任せ管理させたかと言うと、実は切支丹(きりしたん:キリスト教)の禁止令と関係が有ります。
江戸時代初期に発生した九州の天草四朗時貞の扇動した切支丹一揆が大規模な内戦に発展してしまい江戸幕府はその鎮圧に苦戦した経験から、キリスト教徒を改宗させたり農民や町民の宗旨を把握する為に文章による管理機構を有していた寺院に、一般人の宗教の管理を「檀家制度」を用いて行わせた為に、寺院が別当職を担っていたんですね。
これは、間宮家の家臣の御子孫に聞いたのですが、昔は武士の家だけが明確な自前の墓地を持ち、寺ではなく自分の敷地に祖先を埋葬していたので「死んだら自分家の山に放り込んでおいたんだよ(笑)」と冗談めかして御話しされていました。
そして、日本国民のキリシタン化阻止と戸籍管理も兼ねて、どの寺院の檀家かを明確にする事が義務化されたそうです。
確かに、古くから間宮家に仕えた武士団の御子孫達は皆さん自前の墓地を御持ちでした。
小生の一族も自家の墓地を田舎に所有していますし、一族同士の墓も隣り合って存在します。
ところで杉田八幡宮の本殿は御寺みたいに瓦葺です。
接写するの忘れましたが、本殿の彫刻も立派でしたよ!

杉田八幡宮の記録が明確に記されているのは新編武蔵風土記稿な訳ですが…
現在の杉田八幡宮の認識では、間宮家分家の杉田間宮家7代目の間宮信広(のぶひろ)公と言う方が中興し9代目で無嗣断絶したと伝承しますが、実際は8代目で断絶の上に寛政重修諸家譜に当該人物の記録は有りません。
後世に縁起を書いた人の間違いなのか創作なのか不明で・・・
系図を簡単に纏めるとこんな感じです。
※系図の為に敬称略失礼。
兄:間宮信元____間宮康俊____本家笹下間宮。
弟:間宮信次_②間宮信忠_③間宮信繁_④間宮信之_⑤間宮信勝_⑥間宮信久
  (別名:常信)                           (別名:信盛)                     |__間宮俊信_⑦間宮敦信 _⑧間宮信勝_断絶
これは偽書と言う訳では無く、当時の殿様は普通に名前を何回も改名する文化が有ったので不自然では無い事で、加えて、この時代の間宮家一族は早世する人間が続発し、一族間で養子を出し合って家名を存続した事から混乱が有っても不思議では無いんです。
江戸時代に自分要因の過失事件を起こした場合は記録から抹消されますしね。
ただ、一つ気に成る事は有ります。
間宮士信は、実在したけれど諸般の事情で、例えば主家の北条家が今川家や古河公方等の旧主から鞍替えや独立した都合で当時の名前を誰と関連付けるのに不都合が有る祖先に関しては、「名は詳しならず」と濁すのですが
杉田八幡宮の中興者に関しては「間宮某」と敬意を表さない例外的な表現をしているんです。

因(ちな)みに江戸初期の笹下間宮本家の間宮直元公は佐渡奉行や但馬奉行も務め、大坂攻めでは坑道を掘って大坂城の櫓を破壊する作戦に従事した方です。大坂城総掘りを埋める作戦を進言したにも旧玉縄北条氏与力衆黄備え隊の間宮直元公と銀山衆と伝わり記録にも残ります。
※間宮直元公の事績に関しては「ココ」←クリック!
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因みに、間宮家で最初に歴史に名を残した人物は、伊勢氏北条家の家臣で「間宮信冬」公と言う人物です。
別の説ではこの人物を「間宮信盛」公とする説も有ります。
小生は「間宮信冬」とする説を基準にさせて頂いています。
信冬公は現在の京急川崎駅前の堀之内に城館を構えていた人物です。
「川崎の堀之内」の地名は間宮家の城跡だから、その「城跡の堀割りの名残り」に由来する地名です。
今の京浜急行神奈川駅の場所に在った「権現山城の合戦」で活躍した人物です。しかし合戦自体は北条家が敵方の上杉勢に敗北し、現在の杉田八幡宮や妙法寺や東漸寺の場所に移住してきた記録が残るのが間宮信盛公です。

その間宮家の子孫で、江戸時代に間宮家一族からも学者出世頭として一目置かれていたのが間宮士信なので、自分の一族の神社の社格を誤記する筈が無く、江戸時代には徳川幕府の管理下で間違いなく久良岐郡総社ではなく、杉田村の総社だった訳です。
ただ、源義家公や源頼朝公の時代には久良岐郡総社だった可能性は十分有ります。
何故かと言うと、江戸時代にはこの杉田八幡宮は「八幡宮」ではなく、ただの「八幡社」としてしか記載が無いのですが…
戦国時代には、この杉田八幡周辺の狭い範囲は鶴岡八幡宮の直轄領として記録が残っているからです。
これは、杉 田八幡宮が鶴岡八幡宮と伝承通り同時期に作られ管理されていた名残の可能性と言えなくもない訳です。
…確証は無いですけれどね。
戦国時代、杉田郷の八幡社周辺は房総半島の里見家の海賊に略奪された記録が有ります。杉田に隣接する中原町内の在った源頼朝公に大切にされた泉蔵院も海賊の被害に遭っています。
ですから杉田八幡宮が略奪さた後に規模が縮小されたまま、別当寺の妙観寺の一、摂社みたいな状態に成っていたのを間宮家の殿様が「八幡宮」と呼べる社殿に復興したのではないかとも推測が出来ます。

この状況を整理すると、近代に杉田八幡宮の歴史を編纂した人物が古文書を読まずに伝承を、平安時代の歴史と江戸時代の伝承を混同して伝えた結果、折衷された歴史が現在、杉田八幡宮の伝承として伝わったのでは無いでしょうか?
本殿の隣には不自然な空きスペースがあります。
小さな御社が見えますね?
あれは稲荷社で、地頭だった稲葉家の氏神様として存在している事を間宮士信もちゃんと書いているので江戸時代のままです。
もしかしたら、本来はこの空きスペースに何か、現在の本殿の大きさに等しい立派な建物が間宮家が支援した頃の江戸時代初期には在ったのかも知れませんね。
更に、現在の神楽殿か倉庫のような建物の裏の宅地まで、この削平地は続いているので昔は、その宅地も八幡社別当寺妙観寺の土地だった可能性は高いと思います。
でも、ここで又、現在の杉田八幡宮と江戸時代の杉田の八幡社の記録で異なる事が有ります。
江戸時代の記録では元来の社殿の位置関係上、本殿の位置は現在のこの空きスペースになければいけないんです。
江戸時代の杉田郷の八幡社(妙観寺)の記載ではこうあります。
       ↓
●小名(しょうみょう)宮原に所在
→現在の地名は杉田4丁目で位置関係は不明。
●例大祭は6月15日と9月25日
→6月15日の祭事は恐らく田植え神事か、素戔嗚尊に関する祭り。9月25日は収穫祭か中秋の名月。
※昔は氏子同士で農作業を協力して行ったので、神事は直接生活にも関係が有った。
村の総鎮守
→✖現在の伝承では久良岐郡の総鎮守
石段の所に鳥居が在る
→〇現在と同じ。
本殿は東向きに建っている
→〇現在と同じ。
稲荷社は本殿の右手に在る
→✖現在は本殿の左手に稲荷社が在る。
別当寺の妙観寺は本殿に向かって右手に在る
→△現在は本殿の東側石段の下に石碑が在る。石段を含めると右手。
※但し、稲荷社を見ると完全に✖
●御神体は❝法躰(ほうたい=仏僧の格好)軍扇(ぐんせん=)サイズは約八寸五分の像❞間宮某の寄贈。 
→彫像の外観と当時の間宮家の状況から推測して江戸時代の御神体の正体は法体の八幡大菩薩か?
 ※明治時代の廃仏毀釈と現在の宮司様が仏教嫌悪的御発言が有る方なので八幡大菩薩と思しき江戸時代の御神体が現在も存在するか不明。
江戸時代の記録に在る稲荷社の位置関係との整合性が無いですね。
では杉田八幡宮を見て見ましょう。
杉田八幡宮 
航空写真で見ると、杉田八幡宮の本殿は稲荷社の右手…
本来とは位置関係が異なり八幡社は外観から他の神社と違う構造をしていなければ成りません。
では上の杉田八幡宮の屋根の構造と、他の八幡宮を比べてみましょう。
京都の石清水八幡宮…平安時代以来の八幡宮総本社の様な存在。
石清水八幡宮
杉田八幡宮の伝承に登場する源義家公が元服、現代で言う所の成人式を挙げた場所として有名です。
この様に、石清水八幡宮の本殿の例に見られる屋根が二棟くっついた構造を「八幡造(はちまんつく)り」と呼びます。これが伝統的な八幡宮の建築様式です。
実は八幡宮は軍神であると同時に❝水神様❞です。つまり、水難を防ぐ神様です。
石清水八幡宮も戦国時代までは眼前に巨椋池と言う巨大な湖が広がっていました。
ですから、由比ガ浜と材木座海岸の広がる鎌倉の総鎮守も鶴岡八幡宮ですね。
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮は一見すると本殿が回廊で囲まれており石清水八幡宮とソックリですが、本殿屋根は一棟しか無く八幡造りではありません。
頼朝公の時代には八幡作りだったかも知れませんがん、その後の関東では八幡造りの様式が伝わら無かったようです。
現在の鶴岡八幡宮の社殿は江戸時代後期に徳川家斉公によって再建されています。
石清水八幡宮の場合、戦国時代に織田信長公による建築の寄進、江戸時代の徳川家光公の本殿の再建なので古い由緒正しい八幡造りが継承されたのでしょう。でも鶴岡八幡宮の本殿の江戸時代の再建の頃には「八幡造り」と言う形式が江戸や関東の職人には伝わっていなかったのかも知れませんね。
戦国時代の北条氏綱公による再建事業の際には、快元僧都記を読むと奈良から宮大工を集めていますから、石清水八幡宮の形状と同様の八幡造りによる再建だった可能性が有ると思います。戦国時代に鶴岡八幡宮再建を行った職人だけでなく、氏綱公の御父君である伊勢盛時(北条早雲)公は京都に勤務していましたし、古文書には再建事業の詳細は出て来ませんが室町幕府や石清水八幡宮から再建に差し当たって建築文化的な面でも支援を直接受けていたかも知れませんね。
横浜には、鶴岡八幡宮以外に河内源氏が開いた伝承の有る八幡宮が有ります。
南区の若宮八幡宮と金沢区の富岡八幡宮です。
富岡八幡宮はスタートが神戸の西宮神社から蛭子(えびす) 様を勧進した神社で、初期は八幡宮では無かったので少々事情が違います。
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兵庫県の西宮神社から源頼朝公が蛭子(えびす)様を勧進して開いた波除の神社としてスタートし、安貞元年(1227年)に「八幡大菩薩」と自らの神名を名乗った神様から自分を祀る様に神託が有り八幡様が習合されて以来、八幡社と成りました。
八幡様は蛭子様同じ海上航海と治水と雨乞いの水神様であり、軍神でもある誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)ですね。

下は最初から若宮八幡社として頼朝公によって建立された伝承の有る、南区の若宮八幡宮です。
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拝殿と幣殿は棟続きですが本殿は二棟分離しています。
この右手の建物は拝殿と弊殿、左奥に離れて本殿が在ります。
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以前は近郊の熊野神社の本殿がここに在ったそうですが、半世紀程前に再建の際に再建されたそうです。
江戸時代以降は関東では石清水八幡宮や河内源氏の殿様が伝えた文化が継承されず「八幡造り」と言う建築を東海地方出身の家柄の幕府寺社奉行や宮大工が理解しておらず関東の八幡宮神職の間でも知識が途絶えた可能性が有りますね。 
ついでにこの若宮八幡宮の眼下にも江戸時代初期まで「蒔田湾」の名で呼ばれた入江が広がっていました。
つまり石清水八幡宮や鶴丘八幡宮と同じく、水上交通の神様として交通の要所に勧進された事が解ります。
これらを見ると軍事や商業で重要な海や湖や河川の港湾の傍(かたわら)に八幡社が開かれた事も状況証拠として解ります。
蒔田湾は材木輸送の基地としても利用された港湾機能を有していた事が戦国時代の蒔田城主吉良頼康公や間宮家の参加した鶴岡八幡宮再建の事績からも、この一帯の土地が港湾として重要だった事が解ります。
そして、吉良頼康公が蒔田湾から本牧半島を経由して海から輸送した木材は、この杉田に在った杉田湊(みなと)に一旦集積された事が「快元僧都記」や「各寺院の間宮家関連の古文書」で記録されています。
杉田八幡宮も先に見て貰った位置関係の衛星図で、昔は海が眼前に広がっていた事や港が在ったを説明しましたが、やはり水神様としての性格が有ってこの杉田に勧進された事が窺(うかが)い知れます。
では、もう一度杉田八幡宮を見て見ましょう。
杉田八幡宮
やはり、本来の石清水八幡宮の様な八幡造りでも、若宮八幡宮の様な関東流?の八幡造りでもありません。
では、新編武蔵武蔵風土記公の八幡社(現杉田八幡宮)の配置を記した文章を見てみましょう。 

●石段に鳥居が在る。
●本殿は東向きに建ち右手には稲葉家の氏神の稲荷社が在る。
●本殿の右手に別当寺の妙観寺の本堂が在る。
先程説明した屋根の造り、江戸時代の建物の位置、現在の位置関係を改めて見るに、やはり現在の本殿は妙観寺の本堂だった可能性があり、現在の本殿と地続きの稲荷社左手の削平地宅地部分にに新編武蔵風土記稿の記載通り「旧八幡社」が在ったのでは?…と推測出来ると思います。
杉田八幡宮配置(新編武蔵風土記稿) 
現在の杉田八幡宮の本殿に向かって右に歴史記録と異なりスペースが無いので、石段の下の右側に妙観寺跡の石碑を立てたのかも知れません。 
この社殿の位置関係について2020年06月11日に本殿は明治に再建されたらしいと情報提供頂きました。
※情報提供者様に感謝!
つまり明治の再建で江戸期とは位置関係が変えられアベコベに成った様です。


さて、間宮家により保護されたり妙観寺が有って杉田八幡宮は現代に存続出来た訳ですが・・・
八幡信仰は漢学を導入した応神天皇=大鞆別(おおともわけ)命の皇子の仁徳天皇により始められた信仰で長らく仏教と一体でしたので、少し八幡宮信仰と言う文化について個人的な意見を書いておこうと思います。
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先ず、石清水八幡宮は平安時代に筥崎宮より八幡大菩薩の御神霊が神託によって遷座された聖地です。
現在の神社本庁の総長を御勤めに成っておられるのは石清水八幡宮の宮司様ですが、鶴岡八幡宮も御神霊は石清水八幡宮の御分霊を頼朝公が改めて勧進され鶴岡若宮八幡宮が成立したました。その石清水八幡宮は神職のみならず江戸時代まで修験者や僧侶達に等しく日本神話の八幡大菩薩の聖地として大切にされており、神様と仏教哲学とも結びついた神仏習合時代には多くの社殿僧坊が石清水八幡宮の在る男山に立ち並び、大変に多くの日本皇族や全国の有力武士から多くの寄進が集まり大変興隆しました。
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同じ様に神奈川県の延喜式内社である大山寺が神宮司だった石山権現大山阿夫利神社や修験者が守っていた式外社の八菅山七所権現八菅神社等は神仏習合の場ですが縄文の古代よりの祭祀場が出土したり日本武尊が行幸された聖地として古来より神職修験者僧侶や貴族武士庶民大切にされた場所です。
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現在も石清水八幡宮は当時の文化を尊重し重視されておられますし、鶴岡八幡宮も正式名称は源頼朝公の再興以来、明治政府成立までは“鶴岡八幡神宮寺”であり巨大な寺院機能が鎌倉国宝館や横浜国立大学附属中学校一帯の敷地に存在し、神様としても仏教施設としても武家の本地としても大切にされていました。
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筥崎宮には亀山天皇が書いた筥崎宮の八幡大菩薩の名で神様と成られた応神天皇へ祈願を書いた❝敵国降伏❞の起請文が社宝として伝わりますが、東郷平八郎元帥達は八幡大菩薩の御神威を得るべく、その起請文を復制した護符を御分霊として戦艦三笠に奉っていました。
同じ様に多くの神仏習合の八幡様が主祭神の八幡社では、江戸時代の記録を読めば御神体は御神鏡ではなく八幡大菩薩像等の神仏習合の神様として祀られていた事実が解ります。
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小田原市の曽我別所の八幡社では現在でも御神像が祀られています。
そもそも八幡信仰は大鞆別命=誉田別命=応神天皇(この時代に天皇号は未成立)に渡来思想と技術力と漢学を学んだ皇子の大鷦鷯尊=仁徳天皇と莵道稚郎子が父大王の命(みこと)=御霊(みたま)にヒンドゥー教由来の外国思想を取り込み八幡の神号を習合してスタートしているので弾圧される謂れは無い訳ですね。スタートから神仏習合だった皇族の祖先な訳ですから。
その仁徳天皇が開いたのが鶴峯山(平塚)八幡宮。
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そして弟皇子で兵法や文学等の漢学を導入したのが莵道稚郎子命で、延喜式内社四之宮前鳥神社の御祭神でもある訳です。
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根本的に応神天皇の御神霊は自らを「八幡大菩薩」と称した神託の記録が元に成り神号として定着している事を知らない神職もいますが、横浜でも八幡大菩薩と応神天皇が自称し神託を発した場所が富岡八幡宮な訳です。
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八幡信仰は、そもそも日本の自然崇拝や御霊信仰から始まった神様では無く外国の思想哲学や工業も象徴しつつ大鞆別命=応神天皇が事績から治水の御神威も持ち合わせた形で神格化され仁徳天皇や莵道稚郎子命によって八幡信仰がスタートしている事が解る訳ですが、明治以降の自然信仰や聖地崇拝や神仏混淆信仰を邪とする発想は江戸時代の水戸藩の借金増加戦犯である水戸光圀が始めた水戸学が原因で、明治政府を樹立した政治家が倒幕思想として学んだ事に由来している事を知らない人も多いのが現代の問題の原因です。 
彼は為政者としては民に重税を課した政治家としても有名ですが、思想家としても所領の八幡宮を打ち壊して回った人物でした。

そもそも明治の東郷元帥達海軍軍人は歴代天皇と同じく神仏や聖地自然を全て往古のまま大切にされて、明治の森有礼等キリスト教徒政治家による宗教改革に不服従で、戦艦三笠の守護神御神体は明治の宗教改革後も「箱崎神宮八幡大菩薩」だった事すら知らない人が嫌仏神職には多いのが現場です。

杉田八幡宮は配置から状況を整理すると、小生が杉田八幡宮は「社殿が御寺みたい」と感じた直感は正しくて妙観寺の本堂が現在の神社の本殿に転用されたんだと思います。 
因(ちな)みに、石清水八幡宮には仏様が祀られていたスペースが現在も残されています。
石清水八幡宮の仏間
正に、八幡大菩薩が元々神仏習合の象徴たる歴史を示しているのが、江戸時代と現代の杉田八幡宮の建物の位置関係の謎とも言えます。
明治時代まで日本人は神様も仏様も大切にしたんですね。
自然を敬い古代の祖先からの文化を継承する神社、哲学や学問を広め建築技術を発展させた御寺、その両方が協力し明治時代に成るまで歴史と伝統と祖先や古代の祖先に繋がる氏神様を守って来た
日本の文化の象徴的な存在が八幡信仰なのかも知れませんね。

杉田八幡宮は“間宮信廣”なる間宮家譜的には謎の某人が登場するので、間宮家の神道や御寺に対する一族の功績と血筋を箇条書きにして考察を〆ようと思います。

※小生の家は間宮及び宇多源氏の血は一滴も遺伝子に組み込まれておりませんし、もっと古い国造系宮司家の子孫ですが、個人的な意見として間宮家は神道的にも仏教的にも修験道的にも以下の理由で現代の神奈川県神社庁からも大切にされるべき家柄だと思っております。

1,間宮家は宇多源氏の氏神の沙沙貴神社宮司家の子孫ですし、沙沙貴神社の御祭神は文化の神様の敦実親王でありその御神孫にも当たります。佐々木高綱公や黒田如水公や乃木大将は遠い親戚ですが、その中でも宇多源氏氏神の宮司家直系子孫が船木・真野・間宮・杉田で初代鎌倉公方の直臣として関東に入り伊豆国馬宮を領して以後に間宮を名乗りました。
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※安土城下の沙沙貴神社随神門の写真。
江戸時代の学者の間宮士信公、杉田玄白、間宮林蔵公等も子孫に当たります。

2,間宮家は室町時代より代々一族が天皇勅願所だった江ノ島の岩屋を管理する江島神社別当の岩本坊別当職を世襲した家でした。
間宮家が別当職を務めて居た時代には古河公方足利成氏公が逆徒山内上杉家と扇谷上杉家の藤原家流血統の鎌倉府専横に対して圧倒的不利な状況下で江の島に籠城し、両上杉逆徒を撃破撤退させる事に成功した御神威を別当職として引き出しています。
戦国時代にも北条家の北条綱成公がが3000千の寡兵で川越城に籠城し上杉家連合の大軍8万相手に半年間の防衛に成功していますが北条綱成公の家老が間宮康俊公です。更に、主君の北条氏康公が救援に兵8000を率いて河越城に向かう2日前、江ノ島の岩本坊に滞在し江ノ島神社別当岩本坊に滞在し間宮家の祈祷によって八臂弁財天様と天皇勅願所の加護を得て河越城の北条綱成公と合わせ兵11000で上杉軍80000超の大軍を撃破しています。
当時の間宮家は恐らく修験道で江戸時代に成ってから幕命で真言宗に属していると思われますが、神職としも僧侶としても修験者としても、その能力は大変な物だと歴史事実から思います。
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※江ノ島の大鳥居。参道右手に在る旅館岩本楼は江島神社と勅願所岩屋の別当を務めた岩本坊が明治の基督教信者閥政治家の宗教改革による仏教弾圧寺に寺院を廃業して宿坊機能だけを活かし旅館業に転身した。社長の岩本家が本姓佐々木氏で一族には明治に分家し初代江ノ島郵便局長で関東俳画界の巨星と成った間宮霞軒翁がいる。現在の江島神社宮司家は間宮家とは無関係だが良く歴史を伝えておられる。

3,関東に於ける八幡宮と言えば武家の本地の鶴岡八幡宮が全国的に有名ですが、その八幡宮が鶴岡八幡宮合戦で里見家と正木家の海賊と狼藉者によって鎌倉市街地ごと放火略奪され灰燼に帰した際に、小机城代で北条家筆頭家老格で再建奉行の笠原信為公、海運を担当した蒔田御所吉良頼康公等と協力して寄親で材木奉行の北条綱成公の調達管理実務を間宮康俊公が行い杉田港に材木を集積し鎌倉まで輸送し、更には鶴岡八幡宮内の築地塀奉納に北条一門や家老衆と名を連ねている事実が快元僧都記や地理や家臣団の名から解っていますので、日本の八幡信仰に対して多大な貢献をしている事実から現代の神道に残した功績は少なくない思います。
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間宮康俊公は居城の笹下城下にも若宮八幡社を勧進し開き大切にされています。

4,間宮家は戦国時代に現在の海老名市、国分(現在の海老名市中心街)にも所領に持っていました。
この海老名市に在る延喜式内社の有鹿神社は古代一之宮で今五之宮ともされる上に天平年間には天智天皇より国家鎮護の勅願所として祭祀が行われましたが、新田義貞の鎌倉乱入戦時の社寺への略奪放火や室町時代の上杉禅宗の乱や永享の乱で荒廃し古代からの水引神事が中絶していました。有鹿神社は別当寺が真言宗成就院ですが、間宮家が海老名領主の時代に間宮家の主君の北条氏政公により水引神事が成就院の僧侶によって復興されました。間宮家と神事と真言宗の関係性を考慮すれば、この古代の神事復興に間宮家が関与した可能性は大いに有ります。神社と言う形式成立以前からの古代の神事祭祀を復興された事は神道的価値観からも修験道の価値観からも真言宗としても日本文化保護の見地からも大きな意義が有り、間宮家の関与が裏付けられれば寒川神社の追儺祭神事が古代の形式と言葉を用いて現在にも続いているのに匹敵するのと同じ程に素晴らしい事と言えるでしょう。
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5,間宮康俊公の姫の於継サンは古河公方足利家重臣豊前氏盛公に嫁ぎ、もう一人の姫の於久サンは東照大権現徳川家康公に側室として嫁ぎ姫を産み、康俊公の御子息の康次公の姫は延喜式内社で関東最古の大社の鷲宮神社宮司大内泰秀公に嫁ぎ、杉田間宮家の間宮信繁公の姫は久能山東照宮の初代大宮司榊原照久公に嫁ぎましたので宗教的に高い家格でした。
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さて・・・
新編武蔵風土記稿には、「八幡社の背後の山から下に見る梅林の風景が綺麗だ」と書いていますが、これが幻のブランド梅の「杉田梅」の梅林でした。
この杉田の梅林は杉田間宮家の間宮信繁公が植林された梅林で、江戸時代~昭和初期には一大観光地として栄え、明治天皇や皇族も見学に来られた程の規模でした。 
間宮信繁公は徳川幕府初代鷹匠頭で家康公の供を常に勤めた人物で関ヶ原でも活躍しました。
間宮信繁公の御墓は、近くの牛頭山妙法寺に在ります。
※妙法寺の記事は「ココ」←クリック!
杉田梅林は罰当たりな横浜市教育委員会が保護しなかったので、見事に宅地化され消滅してしまいました。
意外かも知れませんが、この旧杉田郷付近は重要な歴史史跡が多いんです。
弘法大師空海和尚様が開いた妙法寺も近所在ったり、この横浜~三浦一帯には日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝承も有ります。
杉田駅前の東漸寺も鎌倉幕府の名越北条氏の北条宗長公が開いた古い御寺です。
この名越北条家の殿様の移住先が現在の名古屋市で、古くは名越野と書き、後に那古野、更に江戸時代に那古やと成った名古屋の地名のルーツの殿様の御寺だったりします。
杉田の隣接地、磯子区峯~港南区港南台~栄区上郷~金沢区釜利谷に跨る円海山は、古代人が住み蹈鞴(たたら)製鉄を行った遺跡が出土し、古代神の思金神を祭る神社や鎌倉武士が使った間道史跡の鎌倉古道が林道に成っていたり、京都知恩院大僧正を輩出した由緒ある阿弥陀寺や古河公方の御子息が開いた寶勝寺も有ります。
そして東急不動産と今の林市長が開発してしまおうとしていますが、円海山の瀬上沢一帯では自然のホタルも見れます。
磯子区や港南区を含めた久良岐郡が古くから開けていた史跡が点在し、豊かな自然も円海山には残っています。
この伝統を守って下さっていたのが、明治時代以前までの神社の宮司様や御寺の和尚様達な訳です。
ですから杉田八幡宮にも源義家公との逸話や、間宮家の殿様との逸話も伝承する訳です。
屛風ヶ浦には源頼朝公の開いた森浅間神社も在ります。

もし、杉田駅の御近所に住んでらっしゃる方がいれば、杉田商店街で買い物ついでに歴史偉人の開いた東漸寺〜杉田八幡宮〜妙法寺を歴史散歩なんて贅沢な時間の過ごし方が出来ますね〜。

今回は杉田八幡宮を紹介させて頂きましたが…
皆さんの住宅街の中にも意外な偉人との関わりや深い歴史を持つ神社や御寺が有るかも知れませんよ〜?
…と、言うお話でした!

では、皆さん、又次のブログ記事でお会いしましょう!
mixiチェック

前回のブログ⤵
コレ⤴で「峰の灸」こと古典落語「強情灸」の舞台が横浜市磯子区峰の「護念寺」である事と、その護念寺が城跡で風景の美しい古道が有る事等を紹介しましたが・・・

今日は、その続きです。

前回の記事で「護念寺」は元々は同じ磯子区峰と港南区港南台の中間にある「阿弥陀寺」の奥院だった事に触れました。
阿弥陀寺の正式な名前は・・・
安養山 浄土院 阿弥陀寺です。
・・・通称:峰の阿弥陀寺。
峰の地名に峯の灸:護念寺の本院だった頃の名残が有りますね。

ですから阿弥陀寺も歴史が有り御寺の雰囲気が、とても素敵です。
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古道だった昔の道からの参道はとても雰囲気が有ります。
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安養山 浄土院 峯の阿弥陀寺
※浄土宗総本山知恩院の直属末寺
夕方に近い頃に訪れると、境内の灯篭に火が点(とも)り、とても石畳も神秘的な雰囲気になります。
この右側には新編武蔵風土記稿にも記載が有る阿弥陀寺の境内本堂とは別に観音堂が在(あ)ります。
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そちらの石畳も良い具合に苔むして良い雰囲気です。
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観世音菩薩様が
誰でもいつでも御参りに来るのを待って下さっています。
観世音菩薩様の御堂から御本堂への歩道も灯篭が良い雰囲気を醸(かも)し出してくれています。
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新編武蔵風土記稿によると別に弁財天様を御祀りする弁天社も江戸時代には存在していましした。
ちょっと写真を撮り忘れてしまいましたが、後で紹介する元々は阿弥陀寺の境内社だった白山神社側の御寺の出入口の横に現在も石祠に姿を変えて弁天様は今も存在しています。
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因(ちな)みに阿弥陀寺の山門から古道へのアプローチは紅葉が奇麗です。
阿弥陀寺は江戸時代に苅部家によって開かれたと伝わりますが、実際はもっと早く恐らく最初は山の下に在り鎌倉時代には存在した筈(はず)です。
再興開基が江戸時代初期の苅部家の頃なのでしょう。
新編武蔵風土記稿の阿弥陀寺その物の記載でも以下の記述が有ります・・・

①本尊坐像にて長一尺餘、恵心の作、
當寺往古は村内小名道場と言う所にあり
本尊は其辺の田間より出現せるよし、故に鍬型の本尊とも呼べり、
鎌倉戦争の時火災に罹(かか)りてより以来、今の地に移れりと云(言)う、又里人の話に、鎌倉戦争死者の屍を埋め菩提の爲(ため)此(これ)に移せりと云、
⑤中興開山覺夢(覚夢)、寛永十八年(1641年)六月二十九日寂す、又第七世の僧淸譽(清誉)も寺に功勞(功労)あるを以て、是(これ)を中興と稱(称)すと云、
⑥地蔵堂
當寺の西の方一丁許隔てあり、もとより寺中のものなりと云、堂は二間に三間西向、本尊長二尺許の立像なり、此所の字を堂山と云、
これを読み解いて行きましょう。

①本尊坐像にて長一尺餘
現在も変わず阿弥陀様の座像です。
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②~③御本尊が出土した道場の近くの水田

境内地の道場の場所、実は現在も御近所に地名の名残が有ります。
前の護念寺の記事でも紹介しましたが・・・
護念寺参道 久良岐のよし
昔、阿弥陀寺の奥院だった護念寺に伸びる赤い線の右端、洋光台6丁目に“坂下”と言うバス停が有ります。この坂下はどこの坂の下で地名に残ったかと言うと、正に、このバス停の有る場所の坂道が道場坂と呼ばれ、そこに阿弥陀寺の前身が在りました。次の④で説明しますが旧境内が道場坂に在った時代に戦災で御寺が焼失しているので、その時に一回慌てて御寺の池か周りの田圃とかに御本尊を投げ入れて隠したのが、田圃に成ってから暫くして発見されたと推測できます。
火災が発生した時に仏像を池や近所の田圃に避難させたと言う話は良く聞く話ですしね。

④鎌倉の戦災で移転
古い記録が残っていないのですが御本尊の解説で話した通り、道場坂の辺りが旧境内で600年前位に戦災に遭い周辺で起きた戦闘で亡くなった人を弔う為に山上の現在地に移り戦没者の菩提を弔った事が伝わっています。ですから遅くとも1400年代の室町時代に御寺が既に開かれていた根拠に成ります。
また、この話から巻き込まれた戦争はいくつかに絞り込めます・・・

上杉禅秀の乱
鎌倉府公方の足利持氏公vs犬懸上杉禅秀公の鎌倉府内の権力闘争と戦闘
【応永二十二~二十三年(1415~1416年)】

永享の乱
鎌倉府公方の足利持氏公vs京都の公方“くじ引き将軍”こと征夷大将軍の足利義教の戦い
【永享十年~十一年(1438~1439年)】

享徳の乱
鎌倉府公方の足利成氏公vs京都の管領細川勝元と手下の関東管領山内上杉憲実の戦い
【享徳三年(1455年)~文明十四年(1483年)】

この内、阿弥陀寺の旧境内地が戦火で焼失したのは恐らく上杉禅秀の乱でしょう。
上杉禅秀公の犬懸上杉家の本拠地は今の房総半島で、彼を支持する武将も大半が房総と北関東の武将でした。この地域は当時、上杉禅秀公が敵対した足利持氏公の腹臣だった宅間上杉憲直公の本拠地が近くの横浜市港南区上永谷(旧鎌倉郡)に伊予殿根の城館が在りました。宅間上杉家は今の横浜市緑区三保町の榎下城も重要な拠点としており、鎌倉への東側の経路の防衛網の最終ラインが当時の円海山と朝比奈切通しでした。
この合戦は鎌倉を占領され更に藤沢の扇谷上杉家本拠地だった大庭城まで戦闘が起きている事から、鎌倉の東側、侵入経路に当たる円海山~十二所大平山の古街道と朝比奈切通に繋がる金沢道が集合する地域なので、ここを守る宅間上杉家vs房総&北関東の将兵との間で戦闘が起きていて当たり前なんです。寺伝は恐らく上杉禅秀の乱を指すと推測出来ます。

御寺の開基年代は護念寺の解説でもしたのと同じ解説のリピートに成りますが・・・

新編武蔵風土記稿では阿弥陀寺の奥院だった護念寺の項目にこう書いて有ります。

宝暦二年(1752年)地頭星谷治兵衛智久志願に因(よっ)て、長野山(円海山)の内十丁四段二畝十九歩の地を寄付し、
又別に山、畠(畑)、永錢(永楽銭=戦国時代の通貨)一貫文を寺費に充(あて)つ、
且(かつ)當(当)寺城山に據(より)て往還便ならざれば、捷徑(ショウケイ/近道=間道)を開闢(カイビャク=開拓)して攀躋(ハンセイ=よじ登る=登山)の便宜とす。


これ、凄い事が書いて有るんですよ・・・
「護念寺の在る円海山は城だよ!」
「そんで往来が不便だったから星谷サンが近道を色々と切り開いてあげたらしいよ!」
・・・ついでに新編武蔵風土記稿の記者のミスも解かります。
永楽銭は明の皇帝、永楽帝が発行し日本では室町時代に輸入され江戸時代初期まで流通した通貨です。
織田信長公が積極的に経済活用に利用し旗印にまで使った事の有る通貨ですね。
そして一貫文と言う金額の単位も室町時代~安土桃山時代の貨幣の通貨単位です。
永楽銭
画像引用元⤵
https://shop.ginzacoins.co.jp/
なんで星谷サンが足利幕府の時代の輸入通貨の永楽銭を寄付しているのに、江戸時代も中期の宝暦二年(1752年)としているんでしょう?その時代には既に江戸幕府発行の貨幣が流通しています。
これは多分、記者か編集かが他の元号と読み間違え更にそのまま風土記に編集された以外にないでしょう・・・
永楽帝の在位期間は1402年~1424年で永楽銭の発行開始は1411年ですから、逆にそれ以前の話でもない事が判ります。
では宝暦の草書体を読み間違えそうな元号を探して、取捨選択してみましょう!
康暦二年(1390年)→1411年以前✖
宝徳二年(1450年)→1411年以後〇
・・・多分、宝徳を読み間違えたんでしょう。では本当に徳と歴は草書体が似ているのでしょうか?

速攻で見ぃ~つけた(笑)♪
徳と歴 久良岐のよし
右の四角い枠で囲ったのが“歴”の字、左ので囲ったのが徳。
行書体が酷似してるんですぅ~(笑)!
ネットじゃなくてもちゃんと書体の辞書って販売してるのにねぇ~。
この調査をした記者の間違った取材の結果を風土記に編集する際に峰村の説明に反映して書いたから、もの凄い誤解が産まれたんでしょ。

更に現代人にも責任が有ります。

この手の江戸時代の役人や著者が誤記したり誤解した武士の名前や地名を一々整合性を確認するのを面倒臭がり、菩提寺や御子孫に取材確認せずに間違えたままコピペして論文書いたり出版してる現代の学者や編集者も沢山います。

・・・誰とは言わないけど。

永錢が永楽銭て現代人の戦国ファンですら誰でも知ってるのに。
よって!

護念寺と本院の阿弥陀寺は宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。

⑤中興開山覺夢(覚夢)が寛永十八年(1641年)六月二十九日に入寂(開基の時期)から再興時期を見る。
この中興開山の方の亡くなった年代から、宝徳二年(1450年)の星谷氏による復興から戦国時代の1500年代に突入すると再び荒廃していた事が判ります。
実は里見家と正木家が大永六年(1526年)に鶴岡八幡宮合戦を起こして房総半島から海賊集団を連れて上陸し杉田辺り~鎌倉の玉縄城下や鶴岡八幡宮と鎌倉市街で略奪放火をしまくり、鎌倉の市街地が焦土化してしまった事が快元僧都の手記から判明しています。この戦いでは阿弥陀寺を江戸時代に復興した苅部家の領主だった間宮一族が走水で防衛戦を展開し里見の海賊を撃破し敵軍船を大量に鹵獲(ろかく=奪取)した記録と、その際に杉田間宮家の間宮常信公が討死した事も伝わっています。
更に天正十八年(1590年)に起きた豊臣秀吉公の小田原攻めの際も、既に北条家と同盟していた里見家は北条家を裏切って、再度海賊集団を編成して三浦半島東岸~東京湾で略奪放火を行いました。もっとも、これには抵抗しない庶民を攻撃する意図の無かった秀吉公から激怒された様です。
実際、間宮家の本領の笹下城下の真言宗東樹院に対して秀吉公による安全保証の為の“東樹院に対する乱暴狼藉の禁止”の命令が布告されていたりします。
戦国~江戸時代の「杉田」の字体。 久良岐のよし
これ⤴
東樹院の昔の御住職が過去帳とか火事で焼ける前に念の為に一切合切、今でいうバックアップデータ(写し書き)して置いてくれたので、今の過去帳見せて貰ったらわざわざ公文書館に読みに行かなくても済んだヤツ(笑)。
素晴らしい危機管理能力!
それに反して里見と来たら・・・
「北条にやり返せるぜ!」
「ヒャッハ~!」
・・・て略奪放火しまくったら、そりゃ秀吉公が安全を担保してあげた地域にアホの里見家は略奪に行ったんだからブチ切れられますね。そんな訳で、恐らく阿弥陀寺も奥院の御念寺も里見のせいで荒廃し、それを佐渡金山奉行&但馬代官(生野銀山奉行)&本牧奉行を兼任し実高5万石に成っていた旗本の間宮家に家臣化していた苅部さん達によって御寺が再興されたのが覺夢和尚の時代の江戸時代初期に成ったんでしょう。
因みに秀吉公は信長公の跡を乗っ取っただけあって、信長公が戦闘員に成った一向宗門徒を伊勢長島や比叡山で撫斬り(なでぎり=皆殺し)にしたのと同じ様に、北条家の善政に恩義を感じて反豊臣の為に武装蜂起して小田原城に自主的に立て籠りに参加した3万人の半農半士の武装農民は全員皆殺しにしています。なので相模国~武蔵国の農村は、豊臣の小田原征伐の際にだいぶ働き盛りの人口が粛清されて復興が遅れたのだと思いますよ。
徳川幕府の治世が安定して来て平和な時代が訪れた事で漸(ようや)く阿弥陀寺を再々復興できたのでしょうね。
江戸時代の5代征夷大将軍で犬公方と揶揄された綱吉公の頃に成ると、阿弥陀寺は更に浄土宗総本山知恩院の第四十七世御門跡を務めた了鑑大僧正の出生地となります。
了鑑大僧正の話はもう少し後で話すとして、先に風土記の記載の解説に戻りましょう。
⑥地蔵堂の場所
江戸時代に記載されている地蔵堂が寺の西方、約1丁(109m)離れた所に在ると書いて有りますが、今は西側100mに地蔵堂や旧跡地は有りません。
実は地蔵堂の史跡は横浜横須賀道路建設で地形ごと消滅破壊されたんですね。
阿弥陀寺周辺 久良岐のよし
※クリックして画面拡大して下さい。
画面中央やや右の緑色の屋根が阿弥陀寺の本堂です。この左109mは何もありませんが、最初公共の水道配水施設の辺りかなと思ったのですが、御住職の話では横浜横須賀道路の場所が昔の地番の小名で“堂畑”と呼ばれ、そこに地蔵堂があったそうです。実際は50m位しか離れてませんね。
ただ、実際に歩いて見ると実際に感覚的には100m以上有ります。
なのでもし新編武蔵風土記稿のこの阿弥陀寺の取材をした記者が直線距離で書いているつもりなら少し距離感音痴だったのかも知れませんね(笑)。
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阿弥陀寺は
名前が南無阿弥陀仏の阿弥陀寺だけあって法然上人の開いた「浄土宗」に属す御寺です。
つまり、総本山が京都市東山区の知恩院、大本山には京都市左京区百万遍の智恩寺が在ります。
何と磯子区の鄙(ひな)びた山寺の阿弥陀寺、実は総本山の京都の知恩院の直接末寺と寺格がとても高いんです。
知恩院の直接末寺なのには理由が有ります・・・
実は2015年4月に御住職と面会の機会を頂き御朱印を頂き、この阿弥陀寺について御伺いした際に御教授頂いたのですが・・・
何と!

この阿弥陀寺からは浄土宗総本山知恩院の第46世住職を務めた了艦大僧正を排出しているそうです!
了鑑大僧正の御実家は今も阿弥陀寺の近くにも存続しています。
徳川家の宗旨は浄土宗なので当然ながら大きな人脈を持つ事と成りますね。
奥院だった御念寺を護念寺として再興した円海山の地名の由来と成った淸蓮社浄譽圓海和尚は薩摩藩主島津綱豊公の奥方の竹姫から仏像を寄進される等の支援を受けた様です。
竹姫はフルネームが清閑寺竹姫で、京都の貴族清閑寺家の出身で実父は権大納言を務めた程の家系で、後に徳川幕府五代将軍徳川綱吉公の養女に成っています。
徳川家の宗旨は浄土宗なので、竹姫が子供の頃にもしかしたら了鑑大僧正と面識を持ったかも知れませんね。

了鑑大僧正は阿弥陀寺の近所で生まれ、阿弥陀寺からスタートした人物です。
御近所の野村家が御実家と伝わります。
ただ、姓がずっと野村姓かは解りません。時代により養子縁組したり男系が耐え婿に譲る事もありますから。
或いは野村姓が元々は“星谷”だったかも知れませんし。
蒔田吉良家臣の森家の御子孫にも間宮家臣の内田対馬守の御子孫の家から養子が入っていたりします。この様な事はよく有りましたし、古文書に書き残していなかったり古文書が有ったけど長い歴史で捨てられたり火災で消える事も有ります。
だから現代でも歩いてピンポンしまくり確認して回る事が大切なんですね。
阿弥陀寺から知恩院四十七世と成った了鑑大僧正は慶安四年(1651年)~享保十二年(1727年)の人です。
島津家藩主の奥方で徳川綱吉公養女の清閑院竹姫は宝永二年(1705年)~安永元年(1772年)を生きた人。
護念寺中興の元光明寺の僧、淸蓮社浄譽圓海和尚は宝暦年間(1751~1764年)に亡くなった人です。
竹姫が子供の頃にもしかしたら了鑑大僧正と面識を持ったかも知れませんね。
だとすれば、竹姫は了鑑大僧正が亡くなった後、自分も老齢に成った頃にふと了鑑大僧正の故地を偲(しの)んで夫の島津綱豊公に阿弥陀寺と奥院の御念寺の支援をお願いしたのかも知れませんね~。

了鑑大僧正が住職を務めた知恩院の門前近くは日本神話に登場する牛頭天王=素戔嗚尊(すさのおうのみこと)の降臨神話の舞台でもあったりします。
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八坂神社(旧称:祇園社)
知恩院一帯が元々は牛頭天王降臨の神話の聖地だから、牛頭天王を祀る祇園社(ぎおんしゃ)が開かれ、更に門前町が京都で一番有名な“祇園”の門前町に発展した訳ですね。
そして明治時代の神仏分離令で神仏習合だった祇園社は八坂神社と改名し、牛頭天王と言う仏教の渡来神の漢字の名前から日本神話の素戔嗚尊の名前に御祭神の呼称を改めたので、現在は八坂神社が祇園の街を見渡す場所に存在する訳です。
因みに浄土宗の総本山知恩院ではなく、大本山の智恩寺の方ですが、そちらは徳川家の名将である鳥居元忠公の菩提寺だったりします。

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長徳山 功徳院 百萬遍 知恩寺
知恩寺の方は鎌倉時代末期~室町時代初期の変遷期、後醍醐天皇の治世に京都で疫病が流行った時に、後醍醐天皇の勅願(ちょくがん=直々の願懸け命令)で僧侶が疫病退散の御経を読み上げた所、その疫病が治まったので…
後醍醐天皇が僧侶に「いったい何回御経読んだら効果あったの?」
…と言う主旨の質問をされた際に、僧侶が・・・
「百万遍は読みましたよ」
・・・と言う様な事を答えたので、それ以降、百万遍知恩寺と呼ばれる様に成ったそうです。
小生は個人的に、この知恩寺がとても好きで、よく週末に近くの京阪電車出町柳駅から歩いて来る途中の商店街で「太巻き寿司」を買って、お散歩がてら知恩寺に行き、境内の御堂の階段に腰かけて御弁当代わりに食べてから、御堂に上がらせて貰って御参りしてました。
知恩寺は毎月縁日もやるんですよ。
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縁日やる位だから境内がとても広い!
色々有って当時人生の分岐点で疲れ切っていた時に知恩寺の和尚さんが・・・
「何にも無くてもいいから、疲れた時、何も考えたくない時はココに来てゆっくりしていったらえええんやで」
・・・と言って下さり、非常に安らぎの一助に成った事は今でも感謝しています。
実は!
この知恩寺に御廟所が在(あ)る鳥居元忠公は間接的に峯の阿弥陀寺と関係が有ります。
小生は戦国時代の建勲神:織田信長公と東照大権現:徳川家康公を崇敬し、地元玉縄城主の玉縄北条家の殿様の地黄八幡:北条綱成公と副将:間宮康俊公や北条氏康公の軍師:多米元忠公や笠原信為公や笠原康勝公を尊敬して顕彰しています。
なので横浜市域の、この殿様達の足跡を辿りに色んな場所に気まぐれで出かけます。
この阿弥陀寺を開いた苅部一族の戦国時代の領主が間宮林蔵や杉田玄白の御先祖の間宮康俊公で、間宮康俊公の御子息、間宮康信公が鳥居元忠公と戦った歴史が有るんです。
麒麟が来る 拝借画像 久良岐のよし
戦国時代に織田信長公が“麒麟が来る”の主人公、明智光秀公に本能寺で討取られると、当時の日本は大混乱に陥(おちい)りました。
この混乱を“天正壬午の乱”と言います。
織田家と同盟していたはずの、北条家は織田家を裏切ります。
百姓には優しいけど武将としては不義理な北条氏政公は織田家を裏切り織田家旧武田領、今の群馬西部に侵攻し、‟神流川の合戦”で織田家臣の滝川一益公率いる織田家関東軍と戦い、滝川一益公は敗走します。
その勢いのまま織田家の支配する旧武田領の信濃国に攻め込み佐久地方や諏訪地方を制圧、更に北条家は甲斐国に攻め込みました。
一方で織田家の同盟者であるはずの徳川家康公も織田家旧武田領に侵攻します。しかし徳川家は織田家の宿老と成っていた羽柴秀吉公に事前に外交的に織田家旧武田領を他の大名に奪取されない為に徳川家の方で接収する許可を取り付けての事でした。
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御坂城址(御坂峠)
この時、大船駅近くの玉縄城を治めた玉縄北条家の殿様の北条氏勝公や、新横浜の小机城主の北条氏光公は黒駒合戦と言う戦争の時に御坂城と言う標高1600mの山城に約1万の大軍勢で立て籠もって駿河国(静岡)と甲斐国(山梨)の県境の峠道の城を守備していました。
信じられない話ですが、この御坂城の所在する標高1600mの尾根道が古鎌倉街道の一つで、源頼朝公の時代の武士も江戸時代の庶民も険しい山道を普通に街道として往来していました。
富士三十六景甲斐御坂越え
この場所から見た風景を江戸時代に歌川(安藤)広重も絵に書いていますね。
・・・小生は上るだけでぜぇぜぇ大変でした(笑)。
ここを下ると甲州盆地で、小山城と言う城が在りました。
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小山城址
小山城は今では地形を活かして畑に囲まれた公園化しており、桜の名所として地域の人々の安らぎの場に成っています。
その小山城を戦国時代も終盤に差し掛かり黒駒合戦が勃発した天正十年(1582年)に守備していたのが鳥居元忠公と、徳川家の当時の無敗のエース水野勝成公でした。
御坂城を北条軍が降りて小山城を攻めに来る兆候(ちょうこう)を鳥居元忠公と水野勝成公が察知して峠道から降りて来たばかりの黒駒と言う谷間で待伏せし、北条軍に奇襲を仕掛けて“黒駒合戦”がは発生します。
御坂城周辺 久良岐のよし
谷間だから行軍中に隊列の側面を攻撃されたら兵の壁が薄く、又、態勢を立て直したくても陣形を展開出来ず瞬く間に壊滅してしまう訳です。
この合戦で上官の北条氏勝公や北条氏光公を逃がし徳川軍に討取られたのが、峯の阿弥陀寺を含む戦国時代の笹下郷を治めた玉縄衆副将の間宮康信公でした。
行軍中の敵に奇襲を仕掛ける際、敵の全体の中程を攻撃し前後の指揮系統を分断し混乱させ、指揮系統を失った敵を側面から順番に“狩り獲って行く”のが兵法の常套手段です。
ですから、討死した間宮隊は中軍~先方の何れかを担っていたはずです。
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竜玉山 称願寺
黒駒の麓には時宗の総本山遊行寺二代住職を務めた他阿真教和尚が開いた称願寺が在ります。
この御寺は戦国時代には武田信玄と対立して追放された武田信玄の父親、武田信虎公が支援した歴史も有る名古刹です。
現代人は野戦と言うと天幕(テント)を持参して野営するイメージが有るかも知れませんが、それは殆どの場合は間違いで、指揮所は普通に御寺や神社や屋敷に置かれる場合が多かったんですね。
恐らく北条軍は山を下りて来て峠道で伸び切った隊列を整え将兵に休息を取らせ軍議をする為に、この称願寺を目指したのだと小生は現地を歩いて推測しました。
他に目標物に成る建物も無いですからね、なので戦闘の火蓋が開かれた最前線は恐らくこの称願寺~御坂峠を降りて来たドライブイン黒駒の間くらいでしょう。
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桶狭間~田楽間と同じ兵を横に展開し難い地形で側面から攻撃されたらどうにもならない上に、恐らくまだ最後尾は峠を下りきってなかったんじゃないかと思います。
もしかしたら、苅部一族もこの合戦に従軍していたかも知れませんね。
黒駒合戦で鳥居元忠公と水野勝成公の奇襲により兵300と共に敗死した間宮康信公でしたが、実は合戦で物凄く強く武田信玄公にも勝っているんです。
武田信玄
武田信玄⤴
武田信玄が今川家との同盟を破棄して南下し、今川家の領国である今の富士宮市の富士浅間大社を代々治めていた富士氏を攻撃し更に駿河の重要な交易港だった蒲原を攻めた際に、間宮康信公が率いる部隊が武田家の軍勢を薩埵峠付近で撃破し更に撤退する武田軍を追撃して戦火を挙げた事が現代に伝わっています。
富士浅間大社周辺
苅部家は元々は鎌倉公方の代理を務めた蒔田吉良家の家臣団で恐らく更に以前は鎌倉公方の直臣だった代々の武士の家系なので、この合戦でも活躍したかも知れませんね。
間宮康信公の治めた
川崎市川崎区、鶴見区末吉、神奈川区富屋仲木戸一帯、旧杉田郷(磯子区~港南区)、戸塚区小雀、海老名市国分には間宮家臣に成っていた間宮・岩本・松本・武内・間辺の間宮一族の他に、荒井・斎田・金子・北見・苅部・岡本・槙田・野本・高梨・武田・笠原・内田・市村・山野井・田野井等の多くの大地主が現在も住んでいます。
この間宮一族以外の名字を見る人が見ると・・・
「あっ、鎌倉~室町時代からの武士の家ばっかだ」
「北条家臣の名字も凄く多い」
・・・と気が付くはずです。
実はこの間宮家旧領の大地主の内、苅部家が江戸時代に大檀那として再興開基した御寺が“阿弥陀寺”なんですね。
つまり、江戸時代の支援者は星谷サンでは無いと判ります。
星谷サンはもっと古い最初の阿弥陀寺~永享の乱頃しかも扇谷上杉側についた鎌倉以来の峰の小領主“地頭”だったんじゃないでしょうか。

小生は玉縄衆北条氏勝公の祖父の北条綱成公や副将間宮康俊公、臼井衆名代の臼居胤知公、小机衆の笠原信為公や中田加賀守をリスペクトしており、やたらめったら関係先をピンポンしまくり突撃していたら阿弥陀寺の歴史に行き着いた訳ですが・・・
何の因果か、小生が青春時代に御世話に成っていた京都の御寺と
鳥居と間宮と苅部一族の御縁で、横浜の阿弥陀寺は少しだけ歴史的に関係が有る訳です。

・・・以前、ブログで紹介しましたが実は京都にも阿弥陀寺が有ります。
この記事⤴
そちらは曾(かつ)て織田信長公の兄君の織田信広公が開いた御寺で、更に織田信長公が亡くなった本能寺の変の際に、信長公と交流浅からぬ阿弥陀寺の当時の住職だった清玉和尚が明智軍の包囲してない竹林伝いに本能寺に侵入し、切腹し家臣に火葬されている最中の信長公の遺歯等を供養の為に持ち帰り埋葬した事でも知られる朝廷公認の織田信長公御本廟の御寺です。
実はこの織田信長公にも間宮家は関係していて、当時、滝山城主北条氏照公の与力だった磯子区氷取沢の領主で間宮康信公の叔父に当たる間宮綱信公は外交の使者として安土城に赴き織田信長公に拝謁し、更に滝川一益公の案内で京都観光をした事が現在にも伝わっています。
同じ名前の京都の阿弥陀寺に眠る織田信長公と、峯の阿弥陀寺は偶然同じ名前ですが、もしかしたら苅部家の御先祖様も当時関西に同行し安土城を見たかも知れませんね。
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横浜市の阿弥陀寺は、夕暮れ時の本堂もとても神秘的に暗がりの中に照らされた仏様がうかびあがって見えます。
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夕方の仏様も奇麗ですが、阿弥陀寺の境内は庭を彩る季節の花も奇麗です。
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う~ん、雰囲気いいね。
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小生は円海山にハイキングに来る度に山頂の尾根から一度降りて遠回りして阿弥陀寺に廻り御参りします。量が多い訳じゃありませんが、御花や紅葉が奇麗ですから。
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阿弥陀寺と白山神社を御参りしてから円海山護念寺も御参りして尾根道に戻ってから一心堂広場に戻り鎌倉まで歩いたりします。周辺は景色もとても奇麗です。
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阿弥陀寺から徒歩5分、護念寺からは10分の円海山の海上保安庁の通信施設近くの畑からは横浜港が奇麗に見渡せます。
この辺りは江戸時代にも眺望が良く駿河国、伊豆国、甲斐国、相模国、安房国、上総国、下総国、常陸国、上野国、下野国が見渡せた頃から“十国見”と呼ばれたそうです。
正直、本当にそんなに見えてるのか冬の空気の澄んでる時でも分かりませんが(笑)。
確かに海抜296mの横浜ランドマークタワー展望台からは筑波山が見えるので、海抜300m超の円海山からは本当に十ヶ国見渡せているのかも知れませんね。
実は了鑑大僧正だけでなく、この辺りは日本神話の神様も往来したりしています。
古代、日本武尊(やまとたけるのみこと)と、その御妃様の乙橘姫(おとたちばなひめ)が三浦半島や横浜市の基(もと)に成った久良岐(くらき)郡と橘(たちばな)郡を訪問しています。
横浜市も浦島太郎の舞台だったり何気に他府県に負けず劣らず神話や歴史偉人とな関わりが深いんですよ(笑)?
横浜に関わった小田原北条家も京都から様々な文化を吸収し領国関東の繁栄の為にアウトプットし、それが鉢型城主北条氏邦公が築いた荒川大堤防だったり八王子城主北条氏照公等が氏邦公と一緒に奨励した養蚕だったりします。
養蚕は幕末明治の主要産業と成り、横浜の原財閥が経営する群馬の富岡製糸場から横浜港にヨコハマシルクとして出荷され、海外輸出品の主要産品になり日本の近代化の礎(いしずえ)と成りました。
本当に神奈川県は京都文化や中央の神社仏閣や歴史偉人と縁が深いですね…。
さて・・・
昔は神仏習合と言いまして、大らかな日本人の性質に合わせて仏教は神道の神様の一部の様に神様と仏様とは等しく人々がら大切にされていました。
この阿弥陀寺も例外では無く、冒頭で解説しましたが境内には今も弁天社の祠(ほこら)が存在します。
なんせ、昔の仏教は学問所(学校)として機能していた上に、そこで勉強する殆(ほとん)どの仏教各宗派の和尚さん達のも御寺の守護神として神社を参拝していましたから。
それに昔の神社は祖先神や御近所や地域との繋がりを維持し季節の神事と合わせて共同で農作業を行ったりする組織の役割を「氏子」と言う形で担(にな)ってました。
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峰白山神社
阿弥陀寺の隣には白山神社が存在します。
実はこの白山神社は阿弥陀寺の昔々の和尚さんが開いた神社です。つまり昔この山全体が阿弥陀寺だった事が神社の歴史を通じて解ります。
ここからの眺望は非常に良く、富士山と相模国人と武蔵国人にとって大切な大山祇大神の権化である石山権現と呼ばれた大山を一望する事が出来ます。
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しかし峰白山神社は悲しい事に明治政府の唯一の失政である「一村一社」「神仏分離令」政策で一度無くなりました。上笹下(かみささげ)神社として、今の磯子区洋光台近くの栗木地区に在ります"栗木神社"に合祀されてしまい他の神社がそうであったように廃(すた)れてしまいました。
昭和中期に地元有志により、鉄筋コンクリートの本殿で復活する事と成りました。
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地元の方々の努力には頭が下がります。
主祭神は神社の名前の由来の昔の神仏混交時代の名前では白山権現と言われた神様ですね。
天皇家の祖先神の伊邪那美(いなざみ)命と呼ばれる神様で、眺望の良い山に相応(ふさわ)しく山の神様です。実はこの場所はとても風が強いので、江戸時代の阿弥陀寺の御住職が山の風害から集落の農民を白山権現の神様に守って貰う為に神社を開いたのかも知れません。
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・・・この神社の両脇、摂社には大地神と御嶽大神が祀られています。
一度合祀されていた栗木神社は国常立尊(くにのとこたちのかみ)を祀(まつ)っているそうです。
国常立尊は歴史的には天皇家の天照大神より先に誕生した神様だったりします。
ですので大地神=
国常立尊なのかも知れませんが国常立尊が出口王仁三郎と言う近代のカルト宗教家に勝手に崇拝対象として利用されてしまった歴史が有り、戦時中は伊勢神道の考え方から国常立尊は一時期弾圧されていた歴史も有るそうです。
本当カルト宗教とか迷惑ですね。勝手に他の宗教の施設を利用したり三浦半島でも問題起こしてますよ。
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まぁ、そんな経緯で大地神は多分、
国常立尊でしょう。
もう一つの摂社は御嶽大神ですので、これは恐らく蔵王権現です。蔵王権現はそもそも日本独自の仏教と神道の価値観を併せ持つ奈良時代から存在する修験道の神様なので、明治時代に日本武尊に御祭神の名前を改めさせられた歴史が有ります。
御嶽大神=蔵王権現については以前も別の神社の記事で解説しています。

御興味が御有りの方は御覧下さい⤴
今ではいくつかの神社が規模はつつましやかに成っても、改めて地域の氏子さん達に勧進されて、元の場所に帰って来ている例も多いみたいです。
笹下城の若宮曲輪(わかみやくるわ)跡にある若宮御霊神社の例も、こちらの白山神社と同様ですね。

笹下城の記事はコレ⤴
阿弥陀寺~護念寺に抜ける道が阿弥陀寺参道を降りた先に在ります。
白山神社と阿弥陀寺の横には今では横浜横須賀高速道路が、昔の村を分断するかの様に通っています。
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この道路が出来た事で潰れた古道も多くあります。ですが、港南台から程近い清水橋と言う地域に戦国時代の昔、箱根の風魔忍者を管理した北条幻庵公の別宅があり、鎌倉に続く円海山の尾根道を鎌倉武士団や戦国時代には風魔忍者達も歩いていた事を考えると・・・
コンクリートとアスファルトで舗装された道でもロマンがわずかばかり感じられますね。
阿弥陀寺~護念寺位置関係
古地図を見ると阿弥陀寺~護念寺に伸びる黒い線が古道ですが、この内の2本は手入れされず廃道同然に成り業者が廃車置き場にしてしまったりしています。更に1本は高速道路建設で寸断されてしまいました。
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昔は阿弥陀寺~護念寺~円海山峰の道へと接続し~更に鎌倉へと人が往来していました。
そこは現在の栄高校一帯に在った上郷深田遺跡でタタラ製鉄で製造された玉鋼を運ぶ鉄の道でもありましたが、上郷深田遺跡と言うタタラ製鉄遺跡で東日本最大規模を誇っています。
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念の為に言うと小生は仏教の殆どの宗派が好きですし、神社も大好きです。
仏教の果たした文化的な役割を評価しつつ、神道の自然崇拝と偉人啓蒙を大切にしている鎌倉武士と同じ様な宗教観なのだと思います。
今回、浄土宗の阿弥陀寺と智恩院の話から製鉄、鎌倉武士と話も広がったのですが・・・
実は以前紹介した、藤沢市渡内の二傳寺(にでんじ)も浄土宗でであり、鎌倉武士団の大半の武将の御先祖に当たる方の関係深い場所だったりします。
二傳寺は小生と御縁の有る鎌倉武士団と平氏系大名の祖先の鎮守府将軍平良文公の墓所のある御寺です。
平良文公と二傳寺の記事はコレ⤴
そして二伝寺の近くに戦国時代の苅部サンの上官の間宮家の所領も有りました。
まぁ、そんな訳で実は円海山の阿弥陀寺は浄土宗の大僧正を輩出した御寺でもあり、京都の御寺とも宗派的にも支援した人々の歴史でも御縁が有る御寺と言う事が伝わったでしょうか?

きっと皆さんの御家の近くにも、実はとんでもない歴史人物と関係ある神社仏閣や、御城の址の公園なんかが有るかも知れませんよ?
・・・だから、ちょっと御近所散歩して、たまには神社や御寺の看板を読んでみませんか?そしてら思いがけず自分の住む土地と殿様の御縁を知り、地元に更に愛着が湧くかも知れませんよ?

では皆さん、又、次の記事でお会いしましょう~♪
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名刀「正宗」をご存知ですか?
正宗工芸
※正宗工芸ホームページ画像
鎌倉時代から日本中に知れ渡った名刀で、安土桃山時代には豊臣秀吉が天下一の名刀と認定したことから全国の大名がこぞって入手した日本刀です。
正宗工芸美術製作所
今でも鎌倉駅のすぐ近くに工房があり、初代様から代々製法を受け継ぎ御子孫のダンディな刀匠が正宗を製作されています。
上の写真がそのお店の外観です。
今では規模は小さくなってしまいましたが、工房併設の店舗で日本刀も販売しています。
ここは映画もののけ姫で刀の鍛造の参考にロケハンに協力した工房でもあります。
現在は日本刀以外にも普段使いの包丁も製作されており、購入すれば日常生活に日本文化を取り込め有る意味財産で作る料理を食べられますね(笑)。
価格も1万数千円〜有り、少し良いお値段だけど手の出る値段です。しかも刀工の御店なので、ちゃんとメンテナンスもしてくださいます。
研(と)いで下さったり、研ぎ減り包丁の刀身が小さく成ったら「小刀」や「ペーパーナイフ」に改造して下さったりもします。
だから刀剣女子には持って来い(笑)!
小生は趣味で歴史散歩やグルメ以外にもシルバーアクセサリーを作るのですが、銀粘土を加工するのに正宗のペーパーナイフを使っています。
皆さん、鎌倉に訪れる際は是非立ち寄って見てください。
正宗工芸美術製作所がある事は神奈川県にとっては誇らしい文化的歴史的な遺産でもありますね。
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因みに、正宗工芸から歩いて15分位の鎌倉歴史文化交流館では正宗が展示してあります。
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そして平安末期~鎌倉時代の名将、畠山重忠公着用の鎧が武蔵御嶽神社に奉納されているのですが、甲冑制作師が制作した完レプリカの赤糸縅(あかいとおどし)大鎧も展示されています。
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この鎌倉歴史文化交流館の素晴らしい所は展示物が全て写真撮影可能な所です。
是非、鎌倉歴史文化交流館と正宗工芸、鎌倉観光の際にセットで訪れて見ては如何でしょうか?
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鎌倉歴史文化交流館
何でここを紹介するかと言うと、実はここは元は無量寿寺と言う大寺院の跡で、御寺が廃れた後は鎌倉時代~江戸時代迄正宗工芸の親方(社長)の御先祖様が住んでいて、ここで名刀正宗が生み出されていたんです!
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鎌倉歴史文化交流館の広い御庭の谷の奥、そこに刀の工房が在りました。
今は小町通の近くに在りますけどね~。
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無量寿寺跡の谷の台地の上には、名刀正宗の工房の守り神だった御稲荷様の台座だけが現存しています。神様はここが公共の施設に成る際に法律の問題で葛原岡神社に遷宮されました。
さて、実はこの正宗や平安時代の鎌倉で武士が佩刀した刀の鉄の産地も鎌倉郡に在りました。
上郷深田遺跡
上郷深田遺跡
飛鳥時代から平安時代の製鉄遺跡が発掘されており、後に武士達から軍神と呼ばれた源❝八幡太郎❞義家公達、古代の豪族や坂東武者達の武具の玉鋼の根源地だった場所があります。
ここは神奈川県現存唯一、関東最大の蹈鞴(たたら)製鉄遺跡である事が判明しています。更に30年前の調査発掘で最大規模だったのが更に追加調査で範囲も広がっています。また、山裾伝いに更に後の時代の蹈鞴遺跡も近在する可能性があり、その山の向こうには鍛冶ヶ谷地区が存在しています。
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
2019年05月現在、上郷深田遺跡も東急建設の開発計画で消滅の危機にされされています。
出来れば坂東武者達が身に付けた刀剣武具の産地であり、現在は横浜市に入っている栄区~港南区~磯子区~金沢区~鎌倉市にまたがるこの緑地、刀剣の文化と共に永久に存続する様に文化財指定して保護するべきだと思います。
ホタル10
ホタルが飛ぶ姿も見られるしね。
これから6月初旬、第二週の週末位になると蛍の飛び交う姿が最盛期を迎え、下旬に入り7月には蛍達は次第に命を終え数を減らします。
そんな蛍も生きる川を破壊されてしまえば、翌年から見る事も出来なくなります。
さて、正宗工芸!
小町通からも直ぐ近く!
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是非是非、鎌倉観光の際には訪れて、もし刀剣女子が彼女さんの男性や奥様が刀剣乱舞ファンの旦那様はプレゼントに❝正宗❞の包丁なんて如何でしょうか~!







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朝比奈峠等が鎌倉時代に整備される以前、平安時代の鎌倉武士達が鎌倉に集結する際に使っていたバイパスの古道が今も横浜市栄区~港南区~磯子区~金沢区~鎌倉市朝比奈~十二所にかけて幾筋も現存しているのを皆さん御存知でしょうか?
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この写真の尾根道も、谷筋に降りる道も、実は昔々、武士のみならず多くの人が往来した古道です。
そして円海山の富士山と夜景の絶景地でもあります。
今回は随分前に歩いた際の写真を用いて、そんな富士山の絶景地を古道のスタート地点として選び解説したいと思います。
先ずは少し尾根道の話をします。
円海山の尾根の農道は武士達が往来した脇道でした。川沿いの鎌倉街道が平和になった鎌倉時代に整備される以前に使われていた“鎌倉上道”、“鎌倉中道”、“鎌倉下道”の鎌倉古道が存在し、更に毛細血管の様(よう)に張り巡らされたショートカットの道は全て水害に強い尾根道でした。
ですから今でも、この道を伝って1時間半~2時間くらい歩くと鎌倉市街地⇔横浜市栄区港南区磯子区金沢区を往来する事が出来ます。
鎌倉武士早駆けの道尾根道 久良岐のよし
第三管区海上保安本部関東統制通信事務所
※画像クリックして拡大して下さい。
このスタート地点、実は海上保安庁の通信事務所で普段は無人なのですが、この円海山の山麓には飛鳥時代~平安時代の長きに渡り大和朝廷に金環太刀や鏃(やじり)や馬具や鎧の軍事物資の材料となる玉鋼(たまはがね)を生産する“東日本最大のタタラ製鉄遺跡”の上郷深田遺跡と上郷猿田遺跡が2020年03月現在ではまだ存在しています。この地域は古代には鎌倉郡に属していました。
また横浜市最大最後の蛍の大生息地である瀬上沢の西側蛍生息地域も“まだ”存在しています。
・・・まだ、と敢えて言うのは東急建設が4月に遺跡と蛍のいる瀬上沢西側を削り取り商業地と宅地と人工池にする計画を横浜市が承認してしまう可能性が有るからです。
そこら辺りの歴史は以前、記事にもしているので興味の有る方は下のリンクから御覧下さい。
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鎌倉にある天下一の名刀「正宗」の工房…正宗工芸美術製作所
クリックで記事にリンク⤴

さて、こんな風に古代から製鉄拠点としての文化歴史と、更に横浜市最大最後の自然林を残す円海山の尾根だから鎌倉市街に通じる道が当時のまま風化しながら現存しています。
今回は以前歩いた時の写真を交えながら解説したいと思います。
因(ちな)みに昨年9月の台風で倒木が多発しましたが、横浜市側は素早く倒木を撤去し遊歩道を再整備しました。
しかし鎌倉市の松尾市長は特に文化財の保護に不熱心な方で、貴重な文化財の釈迦堂切通や北條時政邸城塞跡の衣張山~名越の遊歩道の復旧を怠っています。
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未(いま)だに原状回復整備を怠っているせいで今は名目的に通行止めでハイカー達が自己責任で登山を楽しまざるを得ない状態が続いています。途中には私有地も有るので鎌倉市には史跡保護と生活道路保全の意味からも至急復旧する義務が有るのですが・・・
もっとも、昔から円海山のハイキングを楽しんでた横浜市民も、鎌倉市側から六浦や港南台方面にハイキングを楽しんでいた鎌倉市民も今でも横浜まで歩いてくるので、海上保安庁の通信事務所のあたりで富士山を撮影していると挨拶を交わす機会が良く有ります。
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さて・・・
スタート地点の海上保安庁の通信事務所から南に進みます。
円海山~大丸山~関谷見晴台 久良岐のよし
※クリックして拡大して下さい。
最初の目標地点となるのは大丸山、その次が関谷奥見晴台です。
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この少し左手前の農道を降りて行った先の丘からは横浜港の夜景が一望出来ます。
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ではズンズン進みます・・・
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分岐点の所々にちゃんと道標(みちしるべ)が有るので迷う事は有りません。
寧(むし)ろ現地案内図よりGoogleMapなんかを見ていると山では迷ってしまいます。
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ちゃんと案内図有るから安心してください。
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もし変な場所は入っちゃったらさきに進まずに元来た道を戻って下さいね。
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たかだが横浜市内の海抜300mの山でも昔の廃道とかに入ったら迷いますよ、本当に。
昨年、小生が昔の廃道を散策して遭難しかけましたから(笑)。
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こんな感じで景勝地や植生の解説も随所に有ります。
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横浜市でも貴重な自然が残されているのですが・・・
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・・・昭和期~平成の乱開発で庄戸地区等が宅地化され森林が消えた事で麓の生態系も変わってしまいました。
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でも歩いていると自然豊かで清々しい風景が続きます。
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道は前日の天候によってとんでもなくヌカるんでいたりしますので、いくら整備されていても注意して歩いてくださいね!
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横浜市側は割とサクサク歩けます。
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さて、看板に大丸広場と出て来ましたね。
前振りして置きますと、この大丸山は恐らく記録に残らない要塞の跡です。
それはもう少し後で話しましょう。
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荒れて通れなくなってる場所も有るので気を付けてください。
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こんな分かれ道もちゃんと手前の看板を見てくださいね!
間違えて降りた先が全然違う場所で目的地に行けなかったとか悲し過ぎますから(笑)。
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猿の腰掛が沢山木に寄生していました。
中国に売れば漢方薬ですね~。
さて・・・
そろそろ大丸山に話を戻します。大丸山一帯は恐らく周辺の地名“関”の由来になった尾根道を封鎖する関所=砦の跡でしょう。
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この付近で各方面に道が分岐するので、未だ鎌倉幕府が未整備で奥州だけでなく北関東武士団が敵だった時代に、円海山~天園ハイキングコースの鎌倉武士の古道を一歩鎌倉側手前の尾根が1本に纏まる大丸山に関所兼要塞を築いて鎌倉防衛網の一ヶ所としていたのでしょう。
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実は大丸山周辺まで来ると、尾根側面に人工的に竪堀(たてぼり)を掘って尾根道の道路を制限したような地形が増えます。そしてこの大丸山や見晴台は敵の襲来を伝える烽火台(のろしだい)の役割も有ったと小生は推測しています。
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何故なら・・・
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神奈川の橋100選の一つ“昇龍橋”と白山社古址という場所が有りますが・・・
ここと大丸山を経由し金沢区の白山古道に抜ける道が、どうやら平安時代末期に頻繁に使われ鎌倉時代初期に朝比奈峠の開通で廃れていた旧金沢湾に抜けるショートカットの道だった様です。
後に室町時代中期に戦国時代の発端となった永享の乱~享徳の乱頃に室町幕府最後の鎌倉公方と成った足利成氏公もこの古道を再整備して利用したようで、十二所~釜利谷~金沢称名寺や富岡並木千軒に通じる道の途中に“禅林寺”を、氷取沢側に“宝勝寺”を開いていたりします。
この道が大丸山一帯が旧尾根道古道の要所だった事を説明する為に鎌倉時代の事件を以前書いたブログの紹介を交えながら、少し解説します・・・
鎌倉幕府の成立数年後に鎌倉幕府執権北条家の陰謀で名将畠山重忠公が謀反の“冤罪”を着せられた事件が発生しました。
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※写真は旭区二俣川古戦場の畠山重忠公首塚。
御子息の畠山重保公は由比ヶ浜を北条家の手勢に襲撃されました。
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※引き潮の由比ヶ浜の風景
新編相模風土記稿では由比ヶ浜で交戦した伝承から重保公の討死の場所は恐らく由比ヶ浜の屋敷だろうと推測しています。しかし、それでは横浜市金沢区に畠山重保公が切腹した伝承地に供養の為の御廟所が昔から大切に地元民によって守られており由比ヶ浜での討死にでは整合性が無くなってしますます。
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※金沢区釜利谷の畠山重保公の御廟所
そこで小生が史跡と事件のパズルを組み合わせると、実は簡単に横浜市旭区と金沢区と鎌倉市の伝承の全てに整合性が有る事を開設する事が出来ます。
この伝承に、もう1つ、事件当日の伝承に登場していない場所を登場さてみましょう・・・
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実は鶴岡八幡宮の東側門前には畠山重忠公の館が存在しました。
恐らく鎌倉幕府執権北条家の与力武将達は、真っ先に鎌倉での畠山家武士団を無力化させる為に、留守居役であり指揮官の畠山重保公を討取るべく、鎌倉市での伝承通り由比ヶ浜の重保邸を急襲した事でしょう。所が当日もしくは翌日には畠山重忠公が鎌倉に入る予定だったので、重保公は恐らく自分の邸宅ではなく重忠公の屋敷で父上の到着に備えて色々と準備をしていたのだとしたら・・・?
由比ヶ浜の屋敷で畠山家臣団が襲撃され、北条家と交戦中に畠山配下の武士が鶴岡八幡宮横の畠山本宅に北条家急襲による危急を伝えたはずですね。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
※国土交通省関東地方道路整備局横浜国道事務所より拝借画像
上の画像は鎌倉街道が未整備だった平安時代初期くらいまでの主要街道です。
畠山重忠公は旭区の二俣川で八王子街道を下って来た愛甲季隆公や糟屋有季公の軍勢と衝突し討死にしていることから、埼玉県の秩父地方を出発して旧奥州街道から(町田の)店屋で鎌倉街道下道に迂回ないし、一度横浜市域のかなり鎌倉付近まで来てから知らせを聞いて秩父に戻る途中で交戦した事が判ります。
・・・すると由比の自邸が襲撃された事を知った重保公が逃げつつ父上に陰謀を知らせる為に進む道はおのずと大丸山に通じる“天園ハイキングコース”~“円海山”の平安時代の古道に限定されます。
大丸山地形 久良岐のよし
大丸山は今でも空堀地形が現存しています。そしてここを通過しないと鎌倉十二所方面から北側に抜ける事が出来ません。
畠山家史跡位置関係 久良岐のよし
※画像クリックして拡大し位置関係を確認して下さい。
新しく開削され通行しやすかった朝比奈峠は北条家の本拠地の衣張山直下の細い街道と歌の橋を越えなければ行けないので敵兵が待ち構えている事は間違いないでしょう。
更に円海山大丸山の要塞に北条家の兵士が既に配置されて居る事を想定すると、鶴岡八幡宮の横から畠山重保公が逃げ延びる道は鶴岡八幡宮から北東側の二階堂方面~十二所山中~円海山~白山古道1択しか残っていなかったはずです。
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今では畠山重保公が逃げた鎌倉武士の古道には横浜自然観察の森が有り、中にある上郷森の家には宿泊する事も出来ます。
白山古道周辺 久良岐のよし
この自然観察の森一帯が、北条家の陰謀で鎌倉に召還されて八王子街道~鎌倉街道下道を下って来ている最中の父上に北条家による罠だと言う緊急事態を伝える為に鎌倉を脱出した畠山重保公の逃走経路で、恐らく釜利谷西や関東学院大学金沢文庫キャンパス建設で消えた部分の白山古道でしょう。
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それよりも南に逃げてしまうと、浄願寺跡の上行寺東遺跡が存在する山が実は要塞でした・・・
六浦の港を守っていた権現山御伊勢山の荒尾城が存在し幕府の軍勢に捕まってしまいます。なので結局白山古道に入り、恐らく武士の屋敷か名も忘れられた寺院が有った様な谷戸地形の畠山重保公御廟所の場所に有った建物で束の間の休息をして、御父上に合流するのを諦めて自決したのかも知れませんね。
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大丸山の直ぐ近くには見晴台と言う広場があり、横浜港を遠望する事が出来ます。ですから、この一帯は烽火台にも適している訳です。
昔々、港南台や洋光台方面が開発される前は、ここの風景が東京湾を見る有名な場所だったのかも知れません。
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この見晴台の先に進むと鎌倉市との境目にたどり着きます。
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ここから先に進むには鎌倉市側の天園ハイキングコースに進まなければいけません。
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この先に進むと・・・
第一横浜霊園と鎌倉霊園の間を通過する鎌倉防衛網、鎌倉城の外郭にぶつかり、いよいよ鎌倉旧市街に入ります。
鎌倉市と横浜市の境、朝比奈トンネル 久良岐のよし
まぁ、実は自己責任で歩いてる人も多いしそんなに危ない訳でも無いので自分で行くか行かないかは判断してください。
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行く先には鎌倉武士が朝比奈峠開削以前に岩場を切り開いた切通も存在します。
さて・・・
長くなりそうなので鎌倉市域の天園ハイキングコースは、又、続きの記事を分けて書きたいと思います。次の記事、天園ハイキングコースで可愛い御婆ちゃんの休憩所を紹介するので楽しみにして下さい。

最後に今回解説した部分と関係の有る記事のリンクを以下に纏めて置きます。

興味の有る方は御覧下さい。
鎌倉にある天下一の名刀「正宗」の工房…正宗工芸美術製作所
蛍(ホタル)の季節到来!円海山瀬上沢で5月中旬から。
  東急建設の破壊計画で最後のチャンスかも?

神奈川の橋100選の一つ“昇龍橋”と白山社古址。横浜市栄区長倉町
畠山重忠公の最期の時、畠山重忠公と愛甲季隆公の二人の名将が死力を尽くし戦いあった古戦場
  ・・・横浜市旭区役所周辺一帯。

畠山重保公の御廟所、横浜にも御縁が有る鎌倉武士の名門畠山家御曹司の供養塔
  ・・・横浜市金沢区。

【城郭ファンへ拡散】六浦山上行寺の解説と、間宮家臣荒井家の鎌倉武士時代の幻の城址❝荒尾城❞発見?の報告と協力要請。

では、皆さん、また次の記事でお会いしましょう~♪
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前回の記事⤵
千葉県の縁結びの聖地の玉前神社と鵜羽神社・・・②玉前神社の地形と境内施設の解説。
これ⤴の続き。

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前回は千葉県一宮町の玉前神社の境内施設と地形を解説しました。
今回は玉前神社に住んでいた玉依姫(たまよりひめ)と、その夫の鵜茅葺不合命(うかやぶきあわずのみこと)の育った場所と伝わる千葉県長生郡睦沢町の鵜羽神社を紹介したいと思います。
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鵜羽神社(式外社)※住所クリックするとGoogleMapで所在地を確認出来ます。
先ずはこの神社の周辺の美しい農道の風景を紹介したいところではありますが、その前に鵜羽神社の名前の横に書いた“式外社”と言うカテゴライズの意味を解説します。
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この神社の御祭神は鵜茅葺不合命です。命(みこと)と言うのは肉体的に亡くなった後も神様として祀られる御神霊を指すので、小生のブログでは敢(あ)えて未だ肉体が有った時代の古代の話しをするので鵜茅葺不合“神”と表記します。その鵜茅葺不合神の奥さんが玉前神社の玉依姫です。
この御二人の縁結びの神事が今でも鵜羽神社と玉前神社の間で行われており“十日祭(とおかまち)”と呼ばれています。古代から続いており、夫婦神の居所を往来する内容なのでつまり玉前神社が存在した当時にコチラの鵜羽神社も聖地化されていた宮殿ないし“郡衙”が存在したのだと思います。
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玉前神社の様(よう)に古代から存在し平安時代の延喜式神名帳に記載されている神社は“式内社”とカテゴライズされています。
普通に考えても千数百年の歴史と由緒有る神社が式内社な訳です。
その式内社と同時期に存在しながら、例えば神格化された古代の豪族や天皇家の祖先が住んでいた宮殿が神社に後の世に聖地に成る場合が有ります。
聖地では有るけれど神社には成らず例えば国衙や郡衙と呼ばれる役所に成っていたので神社として自体の歴史が短かったり奈良時代に聖地から仏教施設化したり、神仏習合の修験道の聖地化して大切にされていた場所が有ります。
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瑞應山 蓮華院 弘明寺例えば横浜市民に有名な川崎大師よりも先に厄除け大師と呼ばれ弘法大師空海和尚が国家鎮護国民災難退散の護摩炊きを行った事で知られており、毎月8の付く日に今でも参拝者に無料で護摩行を見学させて貰えますし護摩札を購入すれば護摩焚きの際に御祓いもして下さいます。
この弘明寺が正に先に述べた“郡衙(ぐんが)”と呼ばれる郡役所の跡地であり聖地でも有る事が考古学的な発掘から証明されていたりします。ここは稲荷社や熊野社が同一丘陵上に古来から存在し今も弘明寺の守神として護摩行の際に名前を読みあげられます。どちらも水の神様ですね。
ここは久良岐郡、天皇家の直轄地の屯倉(みやけ)の郡衙が置かれた場所でした。
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西向山 乗蓮寺(北条政子の別宅)
この丘の周辺平地部は古代の海の跡で井戸水は余り飲用に適さない水質なのですが、弘明寺と同一丘陵上に存在する南区井土ヶ谷の乗蓮寺は水質が良かったそうです。そこで鎌倉時代に京都の貴族と鎌倉武士の間で承久の乱が勃発した際に避難の仮御所を置いた場所が乗蓮寺でした。
北条政子様が化粧水に適した良い水質の水がこの丘の井戸だけに湧くとして、ここの井戸を愛用した事から“井土ヶ谷”の地名が生まれました。
この様に質の良い飲用水が古代より湧くので集落が出来て聖地化し、更に古代大和王権の統治が及び豪族の宮殿周辺に郡衙が置かれたのでしょう。弘明寺の対岸の港南区上大岡には横浜市教育委員会が保護せずに宅地開発で証明した横浜市内最大の前方後円墳が昭和初期まで存在していた事からも弘明寺=郡衙の歴史的な整合性が有る訳ですが、この様な仏教の真言密教系の聖地や修験道系神社だったから延喜式神名帳編纂時に記載から漏れた場所の御社を“式外社”と呼びます。
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七所権現八菅神社
代表的な場所に八菅神社が有ります。
玉前神社と同じ日本武尊(やまとたける)神話の舞台の一つであり、恐らく日本武尊が行軍中に相模川を渡河する際に在陣したであろう場所が八菅神社で、日本武尊が中津坂本を行軍中に八菅山を見て山体が龍や大蛇に似ているから神聖地化し、後に修験道の開祖の役小角(えんのおずの)によって修験道の聖地として神社と仏閣が両方備えられた大道場に発展させられ、関東有数の修験道、仏教、神道の聖地と成りました。
ここ等はつまり玉前神社と同じ時代に既に聖地として存在した事に成るので“式外社”となる訳です。
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そこで鵜羽神社に話を戻すと、正にここは玉前神社と同じ時代に鵜茅葺不合神の宮殿が存在したので“式外社”に当たる訳です。
では何で鵜羽神社は神社化せずに式内社に含まれなかったのか?それは恐らく弘明寺パターンと同じ事がここでも有ったのだと思います。つまり宮殿が郡衙に成ったからであろうと推測出来るからです。
長生郡 久良岐のよし
旧長生郡は茂原市を含みますが、そもそも長生郡が古代の長柄郡と埴生郡を明治期に合併して誕生した郡なので長生郡+茂原市を見ても余り郡衙位置特定の参考には成りそうに有りません。
この地域は最初に伊甚(いじみ)屯倉(みやけ)が置かれた場所で、その大半が古代の夷灊郡(いすみぐん)であり、その郡域は現在の長柄郡や夷隅市や勝浦市一帯だった様です。
実は平安時代中期の武士団は朝廷の律令制度の影響下にいましたので、平安時代中期当時の政治は古代のまま郡衙で行われていました。神田明神の御祭神でもある平将門(たいらのまさかど)公が平将門の乱を戦った際に国衙や郡衙を占領したのは正にその為でした。
なので平安末期に成っても有力な在地武士の本家筋は旧郡衙の土地に本拠地を構える人物もいました。上総広常(かずさのひろつね)も恐らくその一人だったでしょう。
鵜羽神社と高藤山城の位置関係 久良岐のよし
画像をクリックして拡大して見て下さい。
鵜羽神社と同一丘陵上には平安時代末期の有力武将、平氏の上総広常(かずさのひろつね)公の居城の高藤山城が存在しました。居城の名前からして高藤山・・・
つまり古代には富士山形状の巨大な円墳が存在したのかも知れませんが只の地名からの推測です。
古代からの聖地でしたが古代には眼前まで海が入り込み豊浦(とよのうら)と言う入江が存在した事が古代の海岸線からも玉前神社の伝承とも整合性が有り証明出来ます。
玉前神社と鵜羽神社と三之宮神社の位置関係 久良岐のよし
なので鵜茅葺不合神が御住いに成った恐らく高床式、草ぶき屋根か檜皮葺屋根の宮殿が存在した時代には未だそれ程に大規模な稲作農耕は行われていなかったでしょう。
鵜羽神社と高藤山城の位置関係 久良岐のよし
しかし平安時代には海だった入江の大半は地盤の隆起と土砂の堆積で湿地化し、古代大和朝廷や武士団による開拓が行われ生産力を備えた地域に変貌していた事でしょう。
そして恐らく鵜羽神社と高藤山城の丘あたりに神社の前身と成った宮殿が有り、そこが郡衙に成って行ったのかも知れません。なので郡衙を押さえる場所に上総広常公も居館を構えて郡の行政を取り仕切ったのでしょう。
上総国の国衙が市原市に国分寺跡が有るので市原市に国衙が存在したとする説も有りますが、相模国の例を見ても少なくても3回は国衙の位置が東に西に中央にとコロコロと移されているので、国分寺=飛鳥時代以後の国衙と考えた方が自然でしょう。
上総広常公の苗字は国名の上総です。実はこの名前の区切り方は間違っておりフルネームで読まないと正しい意味が解りません。
彼の本名は・・・
平 朝臣(たいらのあそん) 上総介(かずさのすけ) 八郎  広常
・・・です。
平は氏(うじ)です。朝臣は姓(かばね)で朝廷内での姓。上総介は上総国長官代理 八郎は八男と言う意味です。
ですので以後の表記は平広常と書きます。
本来、房総半島の平氏を治めていたのは平広常公の兄の印東常重公でした。しかし彼は残忍な性格だったので多くの親戚家臣団は弟の平広常公の所に亡命してしまいました。
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幕山公園湯河原梅林
源頼朝公が石橋山の合戦を神奈川県湯河原町で起こした際に、印東常重公は京都の平清盛側に付いて源頼朝公と敵対しますが人望が無さ過ぎて実弟の平広常公だけでなく息子達も頼朝公の側についてしまし、後に富士川の合戦で印東常重公は敗死する事に成りました。
すると房総の平氏の頭領を平広常公が務める事に成ったので、上総国長官代理の祖先の上総介の官位を苗字として上総国支配の正当性を演出したのかも知れませんね。
その際に高藤山城を居城にしたのは、もしかしたら一時期、この地域にも国衙が郡衙と一緒に存在したからかも知れませんが、残念ながら古来、房総半島は戦が絶えず古代の行政資料が残っていないので確証は有りません。
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ただまぁ、平安時代には豊かな穀倉地帯と古代の陸地の丘陵が堅固な要塞に成っていた事だけは間違いありません。
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鵜羽神社一帯には今も水田が沢山残り長閑な風景を見る事が出来ます。
さて、鵜羽神社の地形や恐らく郡衙や国に成っていた事の解説はこれくらいにして、神社の境内の説明に戻ります。
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鵜羽神社(式外社) ※住所クリックするとGoogleMapで所在地を確認出来ます。
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神社の鳥居は木造の立派な造形です。田舎の鄙(ひな)びた神社でありながら由緒正しい威厳を兼ね備えていますね。
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恐らく昔は手入れされて水質も良かった、豊富な水量の湧水も有ります。
今では飲むとか無理そうです。
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社殿は一台高い所に存在。
これは当たり前。昭和初期までその農家の家も水害対策で常識的にこうしていた。
現代の土建屋は昔の人の知恵を無視するばっかりに盛土せず、この間の台風の際の二子玉川界隈の様な水害に遭ってしまう。鵜羽神社や普通の神社が一段高い所に有るのは昔の人の知恵。
そりゃそうだ、古代は神格化された偉い豪族や天皇家の御先祖の王族が住んだ場所なのだから。
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拝殿、幣殿、本殿と全て木造。昔は多くの農民で賑わったんだろう、社殿の規模は結構立派です。
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摂社にも神様が祀られているけど、詳しくは解りませんでした。
明治時代に周辺の神社が廃社に成った際にコチラに合祀されたのだろうか?
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背後の神域の山頂に続く昔の登山口は長い年月、と言っても恐らく昭和以後の過疎化で人の往来も無く成り風化と雑木林化が急に進み道も風化し手入れされていない様だ。登れない。
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神社の前野農村は本当に長閑でゆっくりとした時間が流れ良い。
清々しい空気と柔らかな陽光に照らされた木漏れ日を感じられる神社。
そんな風景が広がる神話の舞台が、この鵜羽神社です。

きっと皆さんの御近所にも実は凄い歴史偉人と関わりの有った城跡の山や、古代からの聖地だったけど小さくなった神社や、凄い武士達が支援した御寺が有る筈です・・・

ちょっと、御近所の神社や御寺を散歩して、説明の看板を読んで見ませんか?
そこに書いて有る事を知ると、思いがけずその場所が皆さんと歴史偉人や神様とを繋ぐタイムカプセルの様な役割の場所に成り、郷土愛を持つ切っ掛けに成るかも知れませんよ?


では・・・
又、次のブログ記事で御会いしましょう♪


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前回の記事⤵
千葉県の縁結びの聖地の玉前神社と鵜羽神社・・・①玉前神社と鵜羽神社の関係と地形解説。
・・・その続きです。今回は延喜式内社で神話の舞台、玉前神社の境内の紹介です。
先ずは玉前神社の地形の解説から始めたいと思います。
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玉前神社(延喜式内社)玉前神社は大通りを1本横に入った住宅街の中に存在しています。地形的には微高地に成っており、背後には一宮城址も存在しており前回の解説でも説明した通り、神話時代に相当する弥生時代当時は海に浮かぶ半島状の先端に存在している事が解かります。
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玉依姫と鵜茅葺不合神の夫婦神の神話の舞台でも有り、その後の時代の日本武尊神話の舞台の一つでもあります。
式内社と呼ばれる平安時代の人から見ても凄まじく歴史の在った神社には、縄文時代や弥生時代の祭祀遺跡を内包している場所、又は古代の集落遺跡に隣接していたり、集落遺跡の中に存在している場所も多く有ります。
下の二枚の画像は前回でも使ったGoogleEarthに古代の海岸線と神話の舞台の玉前神社と鵜羽神社を重ね合わせた画像と人工衛星写真の比較です。
玉前神社と鵜羽神社と三之宮神社の位置関係 久良岐のよし
現在の上総国神社位置関係 久良岐のよし
奈良時代以前の祭祀遺跡が出土する地形や、式内社にはこの様に古代の海に浮かぶ半島の先端や島、港に成る入江の最深部、又は大きな山の山頂、その様なランドマークに成る地形を守るような場所が聖地化しているケースが多く有ります。
走水神社 久良岐のよし
日本武尊(ヤマトタケル)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)神話の舞台の一つである走水神社と御所ヵ崎等も全く玉前神社と鵜羽神社との地勢と同じですね。
走水神社は日本武尊の冠を収蔵した石棺が本殿下に埋蔵されており、御所ヵ崎は日本武尊と弟橘姫の夫婦神が一時住んだ行在所として機能していた神話が有ります。
この御所ヵ崎の地形は完全に上総国一之宮の玉前神社と地形も日本武尊伝説の舞台としても一致します。
古代の貴人の住まいや聖地は半島の更に先の先端、海に浮かぶ島の様な地形ですね。
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古代の玉前神社辺りは真鶴半島の三ツ石の様な地形だったんでしょう。
三ツ石は今も自然崇拝の対象に成っていて注連縄と御社が存在しています。
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玉前神社は真鶴の三ツ石程の峻嶮な地形では無く略(ほぼ)なだらかな岬の先端だったと思いますが、この様な半島の先端部が古代の港湾守護の聖地化しました。
次回の鵜羽神社の紹介記事で説明する予定ですが、鵜茅葺不合神の母君の“豊玉姫の神話”でこんな話が登場します・・・
「海の中じゃ子供産めない!」と不安に駆られて陸の鵜羽神社を建設して出産した。
・・・と伝承が有ります。海中に突き出した玉前神社は台風や大潮の影響をモロに受けたでしょうから、古代の玉浦(たまのうら)の湾の最深部のシッカリした陸地多い所に居を一時的に移した事が解かります。
この聖地の立地条件は横浜市域(鎌倉郡・久良岐郡・都築郡・橘樹郡)と川崎市域(橘樹郡・多摩郡)でも同様です。
旧久良岐郡橘樹郡の古社古刹 久良岐のよし
横浜市域と川崎市域は武蔵国造(むさしくにつくりのみやつこ)の乱以後に古代大和王権に接収され天皇家の直轄領に成っていました。
久良岐郡・都築郡・橘樹郡・多摩郡ですね。
店屋(てんや)と表示されている場所は、古代の店屋と言うのは大和朝廷の軍事や物流の駅伝中継基地の在った場所が地名として残っていると推測される場所です。表示した場所以外にも沢山存在していたと思います。
日本武尊伝説の舞台となった場所が横浜市内には2ヵ所伝承していて神奈川区の宝秀寺と磯子区の妙法寺です。
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宝秀寺の一帯は神大寺地区と呼ばれ、戦国時代まで神大寺と呼ばれる大寺院が存在し宝秀寺には日本武尊一行を歓待したと伝わる大伴久応と伝わる人物の供養の土饅頭が存在します。
その神話伝承から横浜市神奈川区六角橋の地名は日本武尊の使った六角形の橋が宝として大切にされたのが六角橋の地名由来と伝わりますが、別の説では戦国時代の近江の大名の六角(佐々木)家が鎌倉時代に一帯の領主だったので、それに由来する説も有りますが・・・
神大寺は名前から神様を祀る神社だった事が容易に推測出来るので、元々は日本武尊と大伴久応とを祀った神宮寺だったのでしょう。
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三浦半島の走水でも日本武尊と弟橘姫を歓待したのが“大伴”黒主と伝わるので、この大伴久応と大伴黒主は同一人物でしょう。
そして古代の大伴氏が現在の横浜市域から三浦半島を治めていた事も同時に推測出来ますね。
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走水海岸の御所ヵ崎側からは真っ直ぐ先には富士山と夕陽が見える。
宝秀寺の近所に存在する塩嘗地蔵・・・
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・・・この御地蔵様前の住宅道路が古代の街道であり神大寺の入口と伝わっています。
古代天皇家の直轄領で無主の土地と成り、古代豪族がいなかった事で古代から聖地だったり豪族王の宮殿だった場所も郡衙(役所)以外は放置されて神社化せず平安時代に至り、そこを真言宗の開祖の弘法大師空海和尚が牛頭天王社や太子堂を建立して仏教や神仏習合の聖地として牛頭天王=素戔嗚尊を御祀りして聖地を保護して廻っている事が、各宗派の再興開基以前の前身寺院の寺伝から読み解く事が出来ます。
同様に修験道の聖地化した八菅山七所権現(八菅神社)や・・・CIMG6079
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・・・石山権現大山阿夫利神社等も存在します。
そして空海和尚は佐伯氏の出身です。
この佐伯氏は大伴氏の同族で水軍を統括し、大伴氏は天皇家の近衛軍を務めた一族だった事から空海和尚は日本武尊に与力した古代豪族大伴家所縁の日本武尊聖地を巡礼しながら仏教教化しながら神様を祀る神社を改めて建設して巡ったのかも知れません。
日本神話に造詣が深かったので、古代の港湾を守護する聖地に須賀神社や牛頭天王社を開き神話通り、海の守護神で軍神の素戔嗚尊を御祀りして海上交通の安全を祈願したのかも知れませんね。
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中でも弘明寺は古代大岡湾の最深部に存在しますが、そこは久良岐郡郡衙(ぐんが:郡役所)と推定されている遺跡も出土した場所です。現代では“厄除け大師”のキャッチコピーを川崎大師や成田山にパクられてしまいましたが古来厄除け大師と呼ばれ戦国時代にも有名で武士の崇敬を集めたのは弘明寺でしたが、このキャッチコピーの由来は弘明寺の表記が求明寺と言う字だった時代に空海和尚がここで国民の為に“国家鎮護”“災厄退散”の護摩行を行った“天皇家勅願寺”だった事を推測させる歴史が有る事から“厄除け大師”と呼ばれる様に成った歴史が存在します。
又、横浜市磯子区の古代の本牧半島上に存在した八幡橋八幡神社は舒明天皇の時代、西暦600年前後の成立と伝わります。同じく八幡橋八幡宮と本牧半島を挟んで反対側の古大岡湾に面した中村八幡宮も同時期の成立の社伝が有ります。
海上交通の神様として素戔嗚尊から八幡大菩薩=応神天皇に次第に役割が移って行くのは応神天皇が古墳時代の天皇家の祖先なので当然ながら古墳時代以後の事で、八幡橋と中村の八幡宮の成立時期も地形も整合性が有ります。
以上の様な古代の半島や湾の最深部以外にも古代の聖地は有ります。
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横浜市港北区の師岡熊野神社がやはり古代の太尾半島の上に存在し、縄文時代の貝塚が境内から発掘されており更に集落を建設するのに必要な聖地が存在します。
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熊野神社は水神様なので聖地化する由縁に成ったのがこの飲用水に出来る湧水池の存在に有る事が解かります。
他にも河川の合流する三角地形が半島と同じ様に聖地化します。
京都の下鴨神社や熊野大社本宮旧境内地の様な場所ですね・・・
下鴨神社 久良岐のよし
熊野大社本宮旧社地 久良岐のよし
・・・この三角州のケースは今回の玉前神社とは違うパターンですね。
しかし武蔵国には同じパターンの神社が有ります。
多摩郡の式内社 久良岐のよし
武蔵国の一之宮小野神社と二之宮小川大明神二宮神社です。
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古代の人が集落を築ける湧水も沸いています。川の水は飲めないんですよ、寄生虫なんかで御腹壊して薬の無い古代の人は死んじゃいますから。
さて以上の聖地の条件がバッチリ重なるのが玉前神社な訳です・・・
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・・・では、ここから玉前神社の境内を写真で紹介して行きたいと思います。
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参道正面に戻ります。
立派な朱塗りの鳥居の横の石柱に玉前神社と書いて有ります。
裏側を見ると・・・
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石柱の玉前神社の字は当時神社本庁のトップだった徳川宗敬(むねよし)公の揮毫らしいです。
徳川幕府のトップだったのに大坂城からスタコラ1人で逃げ出しちゃって幕府滅亡させた徳川慶喜公の甥っ子。よくよく考えると慶喜公が不戦の姿勢に転じた御陰で日本の近代化も成功してたりするので、何だかんだ叔父ちゃんが功績が有ったりする人ですね。
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一段低い場所の社務所。
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玉依姫と鵜茅葺不合神の夫婦神の神話の舞台だから当然、縁結びの御利益は強い!
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扁額は銅製。
個人的に銅製の扁額は平塚八幡宮で見て以来かな?
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日本武尊伝説の湧水。自由に御汲み取り出来ます。
伝説では走水から富津方面に渡り、鴨川市吉浦(葦浦)に回り玉前神社の辺りまで来たと伝わります。
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更に北上すると、やはり日本武尊神話の残る関東最古の大社格と伝わる鷲宮神社が存在します。
このルートから察するに・・・
古代の房総半島は入江が入り組んでるので行軍し難かったでしょう。東京湾岸古社と海岸線の位置関係 久良岐のよし
・・・一度外房に出てしまって船で北上しながら利根川を遡った方が行軍し易かったのかも知れません。
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境内のさざれ石。土砂も堆積すれば古代の玉浦も玉崎もさざれ石の様に陸地に成る・・・
当時は軍馬が余り普及して無かった筈なので、軍事物資の補給を絶やさない為にも輸送力の高い船での移動が都合よかったのでしょう。
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・・・神話では日本武尊が白鳥に成って飛来し、その羽が落ちた事で御神水となり日照りが続いて旱魃(かんばつ)に成っても水が決して枯れなかったと伝わりますが、その神話を正しくはどう解釈するのが正解なのか小生にも理解は出来ません。しかし軍事行軍する際に軍船の船団にも個人でも給水が必須です。
ですから天皇家とは別系統の鵜茅葺不合神と玉依姫の在地豪族化した御神孫の協力を得て、飲み水に成る湧水の有るこの土地に立ち寄り暫く駐屯し、軍事物資や食料と飲料水を補給したのかも知れません。
白鳥は何を比喩しているんでしょうね~?
もしかしたら弥生時代~古墳時代当時は麻布が衣料品の素材だったで、その時代に日本武尊は三国時代の魏から輸入した絹衣、真っ白なシルクの衣装を正装として着用していたりして、玉前神社に来臨した日本武尊の御姿が「舞い降りた白鳥の様だ」とか伝承したのがストレートに言葉だけ伝言ゲームで伝えられて、いつの間にか白鳥に成って飛来したとか変わったのかも知れませんね。
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社頭掲示に日本武尊の神話は掲載していませんでしたが、令和の今上上皇陛下も御若い頃に参詣されています。
仮に日本武尊の時代に当たる古代大和朝廷の邪馬台国の頃、既に魏から養蚕技術が導入されていたのならば・・・
古墳時代に入る寸前の時代に真っ白なシルクの衣装を着て行くだけで、大和王権の産業の質の高さを誇示出来た事でしょう。
・・・衣装だけで戦争を回避し、将来的に技術供与して在地豪族王族に富をもたらすと良い印象を与え、尚且つキラキラ光るシルクの衣装は神秘的な清潔感と権威を兼ね備えた印象も与える事が出来るでしょう。白鳥伝説はそんな日本武尊の外交と統治の戦略が形を変えて伝わった伝承だと思います。
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井戸の後ろに、半島の先っぽの島状の岬だった本殿の所在する一段高い壇地、その参道階段前の鳥居の左側奥側には摂社が存在します。
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一つは玉前稲荷神社、宇迦之御魂神。湧水地の水神で有り農業と商業を含めた富の象徴の神様。
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あと三峯神社。
秩父地方の山岳信仰の対象であり、やはり日本武尊神話の神社でもあります。
神話に由れば上総国辺りから関東平野の縁(へり)の秩父山系の三峯神社辺りに山が三つ並ぶ様子が美しく見えたので、三峯宮と名付けられたと言うのが三峯神社の由来らしいです。
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多分、その伝承に上総国が関係しているので上総国一之宮である玉前神社に近代に氏子サン達が三峯神社の御分霊を勧進されたのでしょうか?
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社殿は黒基調に金色の金属が映え、凛とした佇まいです。
古代は海に突き出し海に囲まれた聖地で、豊玉姫や玉依姫が恐らく斎王を務めたであろう神社。
その雰囲気に相応しい社殿ですね。
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本殿の近くに御神木の説明等も有りました。
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力石。
江戸時代の力士や力自慢農民の氏子が祭事に力比べで持ちあげてた石。
ネットの借り物画像⤵
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https://ameblo.jp/asonde-spain/entry-10014704968.html
画像拝借先⤴スペインのバスク地方とかでも同じ様な力比べ今でもしますよね。
昔は力持ちの男の人がモテたのかな?
ちょっと歴史のある神社なら結構現存してる場所も多い力石。
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あと本殿の裏っ側に戦没者を祀った御社みたいのも有りました。
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それと軍艦の砲弾。
境内には御神輿を展示した資料館的な綺麗な建物も有ります。
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この建物にトイレも有るので、トイレ綺麗で女性も安心だと思う(笑)。
全体的に神話が歴史とも整合して素晴らしい雰囲気の息づく神社です。
是非、皆さんも千葉県東部に足を運ぶ機会が有れば御参りされては如何でしょうか?
別記事にしますが、御近所には嵯峨天皇に菓子屋として珍しい勅許を頂いてる御店も有ります。

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かねきち
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上皇陛下も召し上がったそう。
御店の方が店内の写真撮影許可して下さったんで、又玉前神社~鵜羽神社の記事と別に紹介したいと思います。
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さて、玉依姫と日本武尊、二つの異なる時代に渡って神話の舞台と成った玉前神社、どうですか?
本当に素晴らしい神社なので是非、御参りして縁結び祈願や夫婦円満、はたまた日本武尊の交通安全や勝負の御利益を祈願されては如何でしょうか?

では、次は鵜羽神社の記事で御会いしましょう~♪
又ね!
続く⤵️
千葉県の縁結びの聖地の玉前神社と鵜羽神社・・・③鵜羽神社の施設と景色の紹介。
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