2年前に京都に転勤してしまった歴史仲間の車懸がゴールデンウイーク中当家へ3泊滞在し、一緒に歴史散策久しぶりにした2日目の6回目の記事。
この⤴前回の続き・・・
01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
07味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
——前回ココ⤴——
車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が大量なのは前回の説明通り。
——今回はココから⤵——
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11塚山公園と三浦按針・お雪サンご夫妻の墓所の安針塚。
12王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
13仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)
・・・今日は前回の続きで横須賀観光の一部分を書きたいと思います。
先ず今回のシリーズ一覧から・・・
・・・まぁ上記の5回に分けて書いた通り、車懸来浜2日目は金沢区の史跡~横須賀の走水周辺と歴史散策して廻り、その後で浦賀港に回り今回書く千代ケ崎砲台を訪れた。
千代ヶ崎砲台
上の写真はメインストリートの様な場所なので、色々と順を追って説明していきたいと思う。
先ず、車懸と小生は神社仏閣城塞が好きな歴史オタクなので、普通だったら車懸が千代ヶ崎砲台の様な場所に来ない訳が無いのだが、彼奴(キャツ)の転勤前には海自の施設として機能してたのが横須賀市の所有に移管されたばかりで未だ一般公開されていなかった。
そこから運よく今現在が上地市長と言う歴史文化財の保護に熱心な市長だったので、前回の記事で紹介された走水低砲台とココ千代ヶ崎砲台が史跡として一般公開する為の再整備が上地市長と横須賀市議の皆さんの御尽力と横須賀市教育委員会の努力によって週末限定だが公開に漕ぎつけた。
ただ、ここはアクセスが悪かった!
※クリックして拡大して下さい。
現在、元は私営の駐車場だった千代ヶ崎砲台駐車場が直ぐ近くに存在するが、千代ヶ崎砲台の公開開始当初はその駐車場は存在せず、御覧の通り最寄りは徒歩13分かかる燈明堂海岸の駐車場だった。
浦賀駅からバスだと最寄りバス停からも20分以上歩かなければならず、中々、本当の歴史好きでも無いと行く気に成らない立地に所在する。
でも私営の駐車場が開いた後で横須賀市がソコを借り上げてくれたので今では無料で車を直ぐ近くに止める事が出来る様になり自動車での訪問ならアクセスが格段に向上した。
更に開業当初から来客が少ないので(笑)、無料のボランティアガイドさんがマンツーマン状態で詳しい解説や見所を抑えて案内してくれるので非常に有難い。
例え男女2人のデートで行っても、絶対にガイドを付けた方が有意義な時間を過ごせるし思い出に成るので下心は一端押させて(笑)ガイドさんに案内してもらった方が絶対に良い!
駐車場から坂を上って来ると、この様に土塁(どるい)を切通(きりとおし)した正門が有る。
其処を入ると城郭で言う所の‟食い違い虎口”の構造に成っており敵兵が直進出来ない構造に成っている。
砲台とは言え、縄張り(なわばり:城の設計)的にも一応陸戦を想定した防衛機能を十分に持たせて作られている。
以前、小生はハツ訪問時にガイドさんに対して、これ等の構造体を見て小生は「戦国時代からの城塞を転用してませんか?」と質問していたのだが、わざわざ防衛省に問い合わせて調べて下さっていたそうで、当時は帝国陸軍に「築城部」と言う部署が有り、明治時代の陸軍は戦国時代の城塞跡を熱心に測量して廻っていた。なので一見すると千代ヶ崎砲台は西欧かぶれの西洋式近代要塞の様でも戦国時代の城の構造がふんだんに流用されており敵軍による砲台占拠に備え籠城戦も想定して戦国時代の城の殺人防衛機構が活用されているらしい。
但し、小生はここも浦賀城と対を為す要塞が平安末期~鎌倉時代~戦国時代を通じて存在していない訳が無いと地形的にも考えているので前身の無名要塞がだったと言う自説を曲げるつもりは毛頭も無いwww。
その証拠にここは幕末にペリー提督が横浜港に来た際に、幕府によって当地防衛担当の藩によって千代ヶ崎台場が築かれている。
ちなみに正門の正面の虎口の土塁の下に見える井戸は雨水の貯水槽で、ここの建設時に最初に作られた飲用水確保の為の物だったとか。
この幕末の台場建設地はだいたいが平安時代や南北朝時代の戦乱期に要害化されていた場所が多い。
なので、千代ヶ崎台場建設以前に、鎌倉~室町時代にも三浦一族で浦賀城主だった横須賀氏や北条氏康公奏者で西浦賀の領主だった間宮宗甫公辺りによって前身の要塞は築かれていただろうな~と推測している。
その先にボランティアさん待機してる展示室が有って、色々と展示物も無料で見学出来る。
ここからボランティアのガイドスタッフさんの案内が開始される。
いや~構造的にも緑に覆われてる部分は本当に戦国時代の城にしか見えないんだわwww。
でも、この直ぐ先から景色が一変する。
石積みが始まった途端に、もうこれはフランス積みで日本の築城技術ではない。
これは確かに俯瞰した時の縄張りは日本の城に似ているけれど、中に入ると立派な西洋式の要塞でしかも近代の軍事遺跡として保存状態が関東圏で随一の良い状態を保持している事が一目瞭然だ。
車懸もボランティアさんの解説を熱心に聞き入っていたので、京都からわざわざ来てくれて満足して貰えている様で一安心した。
以前、猿島要塞を休日雑記のカテゴリーでブログに書いて紹介した事が有るのだが、猿島はジブリの天空の城ラピュタでロケハンされた場所とされているのだが、猿島より正直言って千代ケ崎砲台の方がラピュタ感が半端ない!
以前の記事⤵
それも海上自衛隊が近代の要塞を平成期に成っても丁寧に維持しながら利用していてくれていたからに他ならない。
海上自衛隊の皆さんに感謝!
で、どれくらいラピュタ感が有るかと言うと写真見て貰った方が早い(笑)。
下のは雨水を煉瓦の積み方によって集める貯水槽。
ちなみにこの煉瓦の積み方はイギリス積み。
フランス積みは煉瓦の長辺と短編を一つづつ入れ替えて積み上げる。
対してイギリス積みは一つの段を全て長辺、次の段を短編と言った具合に並べて積み上げる。
どちらが強度的に強いかの議論も有るが、単純に元は徳川幕府に協力していたのがフランス人技師達だった事と、薩長土肥の倒幕派新政府の元勲達が幹部である明治政府は英国と親密だったので、この要塞を作る際に動員された日本人技師達が当時、英仏どちらの技術を学んだ人だったかで「場所により担当した人が異(こと)なるので建築方法も異なっただけ」と言うのが通説だそうだwww。
ところで貯水槽には今でもちゃんと雨水が集まり、澄んだ水を湛(たた)えている。
結構深いので落ちたら溺れると思う。
このトンネル状の両脇に兵舎や弾薬庫の機能を持つ部屋が設置されていた。
こんな⤴感じ。
壁が白いのは湿気対策の漆喰が塗られていたから、ペンキじゃないよ。
ちょっと特別感もあるでしょ?西洋の御城の中見たい。
この正面の明かりの灯(とも)った凹みは昔は分厚いガラスがはめ込まれており、手前の広い空間は弾薬庫だった。
明かり窓は弾薬に引火してはいけないので、わざわざ反対側に通路が作られガラスで遮断された上で裏側から照らす構造に成っていたそうだ。
よく考えられており、横浜に傾くマンション建てるような平成や令和の杜撰な土建屋の仕事より想像力をフル稼働した丁寧さだと思う。
天井の穴には走水低砲台でも見た様なホイストの滑車が付いていて、ここから弾薬を上部砲台に荷上げしていた。
通路を進み歓談を登ると砲台部分に出る。
う~ん、良い廃墟感。
砲台部分の基礎の石がレリーフの様に模様に成っていて綺麗でしょ?
この様な立派な砲台遺構が千代ケ崎砲台には複数個所、良好な状態で現存されている。
そしてこのラピュタ感。
巨神兵は頭ぶつかって歩けない高さだと思うけどwww。
普通に近代西洋建築の遺構としても美しく見応えも有る。
これも滑車のついていた跡かな?
この煉瓦の色の違いは、強化煉瓦と普通の煉瓦の差で、積み上げた境目が色の違いでクッキリ見えているそうだ。
こんな情報も当時の築城部が経費削減も考えて外に面した部分だけを予算の高い強化煉瓦にしたんだろうとボランティアガイドさんの説明が有り、車懸や小生達には関心を引かれるところでもあった。
同一丘陵に3門の砲台が有ったので似た様な構造が連続する。
只(ただ)、上部から見ると又少し雰囲気が異なる。
何か古代神殿の跡みたいで不思議な空間。
でも私有地化している旧入口の方を見ると明らかに戦国時代の堀底道を兼ねた三日月堀と丸馬出し構造に成っている。
馬出しとか堀切とか土塁とか言われても東日本の戦国時代の御城を知らない人には何の事だかチンプンカンプンだと思うので、御興味有る方は下の解説図付きの用語集を見て見て下さい。
上の写真の煙突構造物は通気口の跡。
流石に東京湾防衛の拠点だったので眺望も良く房総半島まで見渡せる。
更に私有地側に通じていた隧道の入口がさ、もう完全に千と千尋の神隠しとかに出てきそうな入ったら変な世界に連れてかれそうな雰囲気で・・・
思わず音楽付けてインスタにUPしてしまった(笑)
一頻(ひとしき)り見終わりボランティアガイドさん達に御礼を述べて車に戻り、日没前に今度は塚山公園に移動した。
三浦按針お雪夫妻の御廟所
三浦按針公は戦国時代末期、安土桃山時代~江戸時代初期のイギリス人で本名はウィリアム・アダムスと言い、オランダの商船の航海士だったのが乗船していた船が遭難して日本に漂着した際に徳川家康公に信頼されて外交顧問として登用されて日本に帰化した人物だった。
因みに当時の台湾はオランダ植民地だった。
現在の横須賀市逸見に当たる当時の三浦郡逸見村を領地として与えられたので帰化した際に苗字を三浦にし、アダムスを漢字の当て字で按針にした。
按針は御本人の職業である航海士や貿易船に必需品の方位磁石(コンパス)の意味も込められている。
妻女の日本人のお雪さんを非常に愛してくれて、二人の間には子供も生まれたが徳川家康公程には能力の無かった徳川秀忠公の代に成ると外交的に外国人との交流に対する制限が強い政策が打ち出されて、三浦家(アダムス家)も家系が絶えてしまった。
もし明治時代まで混血のアダムス家が存続していたらきっと新政府の官僚として活躍したでしょうね。
この三浦按針公は英国人で乗艦もオランダ商船なのでキリスト教の英国国教かプロテスタントの信徒でしょうが、日本での宗派は浄土真宗でした。
だから彼は横須賀市逸見に在(あ)る浄土真宗の浄土寺を支援していました。
涛江山 浄土寺
因(ちな)みに、浄土寺は元々は平安末期~鎌倉時代初期の名将で源頼朝公の忠臣だった畠山重忠公により当初は天台宗の寺院として開かれた歴史が有る寺院です。
後の室町時代に蓮如上人により浄土真宗に改宗していますが、畠山重忠公の時代からの歴史も大切にしている名古刹なので御朱印も拝受させて頂けます。
未だ浄土寺は詳しく個別解説記事にしてない場所なので、ここもその内に独立記事にしたいと思っていますが、今までの神社仏閣城跡や建築文化財の訪問箇所総計が千単位+写真数万枚+古文書のコピーやら集めたものが大量に有るからいつの事になるやら(汗)。
さて、もし皆さんが浄土寺を訪れるならば、当然ながら塚山公園とセットでの訪問をオススメしますし、春の梅の季節に田浦梅林と合わせて訪問すると尚、良いと思います。
田浦梅林も景色が良いですしね。
田浦梅林に関しては本当に簡易的な紹介⤴を以前も書いているので御興味有る方は上のリンクから御覧下さい。
話を塚山公園に戻します。
三浦按針お雪さん御夫妻の御廟所である安針塚の在る塚山公園からは眺望が良く、横須賀の汐入の軍港が良く見えてます。
実はここから見た景色が三浦按針サンの英国の故郷に非常に似ている事を以前小生は気が付いて記事に書いているので興味が有る方は読んでみて下さい。
これ⤵
この三浦按針公は、九州の日本人がキリスト教のカトリック教徒達に奴隷として売買している事を知ると我が事の様に憤慨して日本人を守って下った人物でもあり、更に自身が乗船していた商船から下したキャノン砲を関ヶ原の戦いで小早川秀秋の陣営に向けてブッ放す事を徳川家康公に進言して関ヶ原の勝利を導いた可能性も考えられている人物でもあります。
三浦按針公に関してより史学的にちゃんと知りたい人は以下のリンクから日文研の先生の考察を読んでみると面白いと思います。
小生も尊敬しており、浄土寺で色紙に拝受した御朱印を他の歴史偉人が御祭神の神社や菩提寺の御朱印と一緒に壁に仏壇や神棚代わりに張り付けており毎日拝んでいたりする。
金八先生が坂本龍馬を拝んでいた様な感覚ですかね(笑)。
で、安針塚のある塚山公園は軍港が見えるので軍艦マニアの方々が海自の護衛艦や米海軍の空母を見に良く来る場所でもあったりします。
以前、米海軍のカールビンソンが寄港した時も、ここから写真撮影してる先輩方が沢山いました。
小生はカメラの性能が良くないのでアッサリ断念して普通に観音崎に移動して撮影しましたが(笑)。
春の桜の名所としても神奈川の景勝50選の1つにも選ばれています。
オススメの場所なので、是非皆さんも春に浄土寺~安針塚~塚山公園の展望所~田浦梅林とハイキングを楽しんでみては如何でしょうか?
実はここも車懸は初訪問だったので、来られて良かったと言っていた。
なかなか神奈川に遊びに簡単に来れる距離ではなくなってしまったし、小生も来年の秋まで資格の履修科目と国家試験の受験で忙しいので色々と時間も作れず、車懸だけでなく色んな友達に会う事も出来ず、今年は昔、天然理心流の稽古に参加させて頂いた際に同行したO型の経営していたカフェに今月学校が終わってから漸く日曜日に行けたのと、車懸がゴールデンウイークに来たのと、その後1回だけ出張で横浜に来た際に港南台のレストランで2時間だけ一緒に食べた以外、昼間仕事+夜オンライン学校+週末対面授業&毎回のテストで誰とも一切遊ぶ時間が無かった。
だから今月の中頃に発狂しそうになって(笑)、今月のテスト3件あった内1日分のテスト日程を来年に先延ばしして貰い、称名寺に突然散歩しにいったりしてた訳だ。
正直睡眠時間も今月今年の学校の授業が終わるまでは毎日4時間寝れるかどうかの生活をしてたので本当にキツかった。
で、ブログの更新も今年は皆さんに御容赦頂いて1ヶ月1回ペースに減らしていた訳です。
塚山公園での歴史散策も終えて車懸も満足してくれたので、自宅への帰路の途上、吉村屋で修業した弟子の家系ラーメンの店の中でも指折りの名店の1つである王道之印で夕食をとる事にした。
王道之印(王道横浜)
ここは家系創始者で家系総本山吉村家の吉村社長の下で長年重要な店舗を任せられていた鶴巻さんの御店で、吉村家発祥地杉田の地盤を引き継いだ津村さんの杉田家と吉村家は別格として横浜市内では双璧を為す家系の名店だったりする。
小生は海苔増し+味玉+まぶし飯を注文、車懸は何か良く分からんがセットを注文してた(笑)。
本当に杉田家と王道は美味しいので、もし八景島や金沢自然動物公園や横浜ベイサイドマリーナに用事が有って市外や市内でも遠方からくる方は召し上がって欲しい。
車懸は京都人のクセに(笑)豚骨醤油の濃い味も好きなので、ここは以前も一緒に来た事が有る。
食事が終わると、この日はせっかく横浜に来たんだから家風呂じゃツマランだろ!
・・・と言う事で、一度入浴用品を取りに家に戻ってから小生イチオシの名銭湯、南区の仲乃湯に向かった。
仲乃湯
ここは以前、ちゃんと取材許可を貰って詳しい記事に書いているので、詳細はソチラを読んで貰った方が良いと思う。
この記事⤴は組合公式より写真と解説でより詳しく紹介出来てると思います。
まぁ、とにかく凄い日本建築なので車懸も連れて行ってみた。
そんな感じで歴史観光2日目は終了し、帰宅して翌日は早朝から山北町河村城~御殿場市深沢城~三島市山中城~箱根神社~大涌谷と箱根の関所~大観山と・・・
・・・山城と神奈川のベタ観光スポット箱根をしたのだが、それは又次の記事で!
次回、車懸攻城用の後ろ姿だけ登場(笑)!
次回記事で紹介する訪問地⤵の写真一部
では皆さん、次の記事でお会いしましょう~♪
――追記――
2023年中は余り記事を更新する時間も無く、古参の読者の方には申し訳なく思うばかりです。
来年2024年も夏過ぎ迄このペースでの更新を続けさせて頂く事に成るかと思いますが、2023年程仕事と学業の兼業のスケジュールがタイトには成らない可能性も有るので、出来るだけ色んな場所を紹介したいな~と思っています。
しかも今回でゴールデンウイークの記事は書き上げてしまうつもりだったのですが、ちょっと実家の用事で色々と忙しく結局1部しか記事を更新できませんでした。
御正月休み中に、最後の3日目山城巡りの記事を書きあげられたら良いなと思っていますので、何卒よろしくお願い申し上げます。
では皆さん、現在令和五年(2023年)太陽暦の12月31日22時、太陰暦(農暦)令和五年 癸卯 霜月 十九日(2023年11月19日)、旧暦の農暦では正月は台湾や韓国と同じ春の節句=春節ですのでまだまだ先ですが、西欧化した日本では明日から真冬なのに正月です。
風邪を引かず、インフルとコロナに負けず、良い正月を迎えて皆さんにとって良い1年間に成りますよう、祈願致します。
では、本年もありがとうございました~!
この⤴前回の続き・・・
01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
07味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
——前回ココ⤴——
車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が大量なのは前回の説明通り。
——今回はココから⤵——
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11塚山公園と三浦按針・お雪サンご夫妻の墓所の安針塚。
12王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
13仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)
・・・今日は前回の続きで横須賀観光の一部分を書きたいと思います。
先ず今回のシリーズ一覧から・・・
・・・まぁ上記の5回に分けて書いた通り、車懸来浜2日目は金沢区の史跡~横須賀の走水周辺と歴史散策して廻り、その後で浦賀港に回り今回書く千代ケ崎砲台を訪れた。
千代ヶ崎砲台
0468-228-484
先ず、車懸と小生は神社仏閣城塞が好きな歴史オタクなので、普通だったら車懸が千代ヶ崎砲台の様な場所に来ない訳が無いのだが、彼奴(キャツ)の転勤前には海自の施設として機能してたのが横須賀市の所有に移管されたばかりで未だ一般公開されていなかった。
そこから運よく今現在が上地市長と言う歴史文化財の保護に熱心な市長だったので、前回の記事で紹介された走水低砲台とココ千代ヶ崎砲台が史跡として一般公開する為の再整備が上地市長と横須賀市議の皆さんの御尽力と横須賀市教育委員会の努力によって週末限定だが公開に漕ぎつけた。
ただ、ここはアクセスが悪かった!
※クリックして拡大して下さい。
現在、元は私営の駐車場だった千代ヶ崎砲台駐車場が直ぐ近くに存在するが、千代ヶ崎砲台の公開開始当初はその駐車場は存在せず、御覧の通り最寄りは徒歩13分かかる燈明堂海岸の駐車場だった。
浦賀駅からバスだと最寄りバス停からも20分以上歩かなければならず、中々、本当の歴史好きでも無いと行く気に成らない立地に所在する。
でも私営の駐車場が開いた後で横須賀市がソコを借り上げてくれたので今では無料で車を直ぐ近くに止める事が出来る様になり自動車での訪問ならアクセスが格段に向上した。
更に開業当初から来客が少ないので(笑)、無料のボランティアガイドさんがマンツーマン状態で詳しい解説や見所を抑えて案内してくれるので非常に有難い。
例え男女2人のデートで行っても、絶対にガイドを付けた方が有意義な時間を過ごせるし思い出に成るので下心は一端押させて(笑)ガイドさんに案内してもらった方が絶対に良い!
駐車場から坂を上って来ると、この様に土塁(どるい)を切通(きりとおし)した正門が有る。
其処を入ると城郭で言う所の‟食い違い虎口”の構造に成っており敵兵が直進出来ない構造に成っている。
砲台とは言え、縄張り(なわばり:城の設計)的にも一応陸戦を想定した防衛機能を十分に持たせて作られている。
以前、小生はハツ訪問時にガイドさんに対して、これ等の構造体を見て小生は「戦国時代からの城塞を転用してませんか?」と質問していたのだが、わざわざ防衛省に問い合わせて調べて下さっていたそうで、当時は帝国陸軍に「築城部」と言う部署が有り、明治時代の陸軍は戦国時代の城塞跡を熱心に測量して廻っていた。なので一見すると千代ヶ崎砲台は西欧かぶれの西洋式近代要塞の様でも戦国時代の城の構造がふんだんに流用されており敵軍による砲台占拠に備え籠城戦も想定して戦国時代の城の殺人防衛機構が活用されているらしい。
但し、小生はここも浦賀城と対を為す要塞が平安末期~鎌倉時代~戦国時代を通じて存在していない訳が無いと地形的にも考えているので前身の無名要塞がだったと言う自説を曲げるつもりは毛頭も無いwww。
その証拠にここは幕末にペリー提督が横浜港に来た際に、幕府によって当地防衛担当の藩によって千代ヶ崎台場が築かれている。
ちなみに正門の正面の虎口の土塁の下に見える井戸は雨水の貯水槽で、ここの建設時に最初に作られた飲用水確保の為の物だったとか。
この幕末の台場建設地はだいたいが平安時代や南北朝時代の戦乱期に要害化されていた場所が多い。
なので、千代ヶ崎台場建設以前に、鎌倉~室町時代にも三浦一族で浦賀城主だった横須賀氏や北条氏康公奏者で西浦賀の領主だった間宮宗甫公辺りによって前身の要塞は築かれていただろうな~と推測している。
その先にボランティアさん待機してる展示室が有って、色々と展示物も無料で見学出来る。
ここからボランティアのガイドスタッフさんの案内が開始される。
いや~構造的にも緑に覆われてる部分は本当に戦国時代の城にしか見えないんだわwww。
でも、この直ぐ先から景色が一変する。
石積みが始まった途端に、もうこれはフランス積みで日本の築城技術ではない。
これは確かに俯瞰した時の縄張りは日本の城に似ているけれど、中に入ると立派な西洋式の要塞でしかも近代の軍事遺跡として保存状態が関東圏で随一の良い状態を保持している事が一目瞭然だ。
車懸もボランティアさんの解説を熱心に聞き入っていたので、京都からわざわざ来てくれて満足して貰えている様で一安心した。
以前、猿島要塞を休日雑記のカテゴリーでブログに書いて紹介した事が有るのだが、猿島はジブリの天空の城ラピュタでロケハンされた場所とされているのだが、猿島より正直言って千代ケ崎砲台の方がラピュタ感が半端ない!
以前の記事⤵
それも海上自衛隊が近代の要塞を平成期に成っても丁寧に維持しながら利用していてくれていたからに他ならない。
海上自衛隊の皆さんに感謝!
で、どれくらいラピュタ感が有るかと言うと写真見て貰った方が早い(笑)。
下のは雨水を煉瓦の積み方によって集める貯水槽。
ちなみにこの煉瓦の積み方はイギリス積み。
フランス積みは煉瓦の長辺と短編を一つづつ入れ替えて積み上げる。
対してイギリス積みは一つの段を全て長辺、次の段を短編と言った具合に並べて積み上げる。
どちらが強度的に強いかの議論も有るが、単純に元は徳川幕府に協力していたのがフランス人技師達だった事と、薩長土肥の倒幕派新政府の元勲達が幹部である明治政府は英国と親密だったので、この要塞を作る際に動員された日本人技師達が当時、英仏どちらの技術を学んだ人だったかで「場所により担当した人が異(こと)なるので建築方法も異なっただけ」と言うのが通説だそうだwww。
ところで貯水槽には今でもちゃんと雨水が集まり、澄んだ水を湛(たた)えている。
結構深いので落ちたら溺れると思う。
このトンネル状の両脇に兵舎や弾薬庫の機能を持つ部屋が設置されていた。
こんな⤴感じ。
壁が白いのは湿気対策の漆喰が塗られていたから、ペンキじゃないよ。
ちょっと特別感もあるでしょ?西洋の御城の中見たい。
この正面の明かりの灯(とも)った凹みは昔は分厚いガラスがはめ込まれており、手前の広い空間は弾薬庫だった。
明かり窓は弾薬に引火してはいけないので、わざわざ反対側に通路が作られガラスで遮断された上で裏側から照らす構造に成っていたそうだ。
よく考えられており、横浜に傾くマンション建てるような平成や令和の杜撰な土建屋の仕事より想像力をフル稼働した丁寧さだと思う。
天井の穴には走水低砲台でも見た様なホイストの滑車が付いていて、ここから弾薬を上部砲台に荷上げしていた。
通路を進み歓談を登ると砲台部分に出る。
う~ん、良い廃墟感。
砲台部分の基礎の石がレリーフの様に模様に成っていて綺麗でしょ?
この様な立派な砲台遺構が千代ケ崎砲台には複数個所、良好な状態で現存されている。
そしてこのラピュタ感。
巨神兵は頭ぶつかって歩けない高さだと思うけどwww。
普通に近代西洋建築の遺構としても美しく見応えも有る。
これも滑車のついていた跡かな?
この煉瓦の色の違いは、強化煉瓦と普通の煉瓦の差で、積み上げた境目が色の違いでクッキリ見えているそうだ。
こんな情報も当時の築城部が経費削減も考えて外に面した部分だけを予算の高い強化煉瓦にしたんだろうとボランティアガイドさんの説明が有り、車懸や小生達には関心を引かれるところでもあった。
同一丘陵に3門の砲台が有ったので似た様な構造が連続する。
只(ただ)、上部から見ると又少し雰囲気が異なる。
何か古代神殿の跡みたいで不思議な空間。
でも私有地化している旧入口の方を見ると明らかに戦国時代の堀底道を兼ねた三日月堀と丸馬出し構造に成っている。
馬出しとか堀切とか土塁とか言われても東日本の戦国時代の御城を知らない人には何の事だかチンプンカンプンだと思うので、御興味有る方は下の解説図付きの用語集を見て見て下さい。
上の写真の煙突構造物は通気口の跡。
流石に東京湾防衛の拠点だったので眺望も良く房総半島まで見渡せる。
更に私有地側に通じていた隧道の入口がさ、もう完全に千と千尋の神隠しとかに出てきそうな入ったら変な世界に連れてかれそうな雰囲気で・・・
思わず音楽付けてインスタにUPしてしまった(笑)
一頻(ひとしき)り見終わりボランティアガイドさん達に御礼を述べて車に戻り、日没前に今度は塚山公園に移動した。
三浦按針お雪夫妻の御廟所
046-822-8484
因みに当時の台湾はオランダ植民地だった。
現在の横須賀市逸見に当たる当時の三浦郡逸見村を領地として与えられたので帰化した際に苗字を三浦にし、アダムスを漢字の当て字で按針にした。
按針は御本人の職業である航海士や貿易船に必需品の方位磁石(コンパス)の意味も込められている。
妻女の日本人のお雪さんを非常に愛してくれて、二人の間には子供も生まれたが徳川家康公程には能力の無かった徳川秀忠公の代に成ると外交的に外国人との交流に対する制限が強い政策が打ち出されて、三浦家(アダムス家)も家系が絶えてしまった。
もし明治時代まで混血のアダムス家が存続していたらきっと新政府の官僚として活躍したでしょうね。
この三浦按針公は英国人で乗艦もオランダ商船なのでキリスト教の英国国教かプロテスタントの信徒でしょうが、日本での宗派は浄土真宗でした。
だから彼は横須賀市逸見に在(あ)る浄土真宗の浄土寺を支援していました。
涛江山 浄土寺
046-822-1033
後の室町時代に蓮如上人により浄土真宗に改宗していますが、畠山重忠公の時代からの歴史も大切にしている名古刹なので御朱印も拝受させて頂けます。
未だ浄土寺は詳しく個別解説記事にしてない場所なので、ここもその内に独立記事にしたいと思っていますが、今までの神社仏閣城跡や建築文化財の訪問箇所総計が千単位+写真数万枚+古文書のコピーやら集めたものが大量に有るからいつの事になるやら(汗)。
さて、もし皆さんが浄土寺を訪れるならば、当然ながら塚山公園とセットでの訪問をオススメしますし、春の梅の季節に田浦梅林と合わせて訪問すると尚、良いと思います。
田浦梅林も景色が良いですしね。
田浦梅林に関しては本当に簡易的な紹介⤴を以前も書いているので御興味有る方は上のリンクから御覧下さい。
話を塚山公園に戻します。
三浦按針お雪さん御夫妻の御廟所である安針塚の在る塚山公園からは眺望が良く、横須賀の汐入の軍港が良く見えてます。
実はここから見た景色が三浦按針サンの英国の故郷に非常に似ている事を以前小生は気が付いて記事に書いているので興味が有る方は読んでみて下さい。
これ⤵
この三浦按針公は、九州の日本人がキリスト教のカトリック教徒達に奴隷として売買している事を知ると我が事の様に憤慨して日本人を守って下った人物でもあり、更に自身が乗船していた商船から下したキャノン砲を関ヶ原の戦いで小早川秀秋の陣営に向けてブッ放す事を徳川家康公に進言して関ヶ原の勝利を導いた可能性も考えられている人物でもあります。
三浦按針公に関してより史学的にちゃんと知りたい人は以下のリンクから日文研の先生の考察を読んでみると面白いと思います。
そんな人物なので日本人の歴史家のみならず愛国者からも尊敬されており、三浦按針公の御廟所の入口には立派な顕彰碑も建てられている。ウィリアム・アダムス(三浦按針)は何を成し遂げたのか日欧交渉史における役割の再検討国際日本文化研究センター教授フレデリック・クレインスhttps://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/wp-content/uploads/50597e70ac9f48e3342eca4516dcd274.pdf
小生も尊敬しており、浄土寺で色紙に拝受した御朱印を他の歴史偉人が御祭神の神社や菩提寺の御朱印と一緒に壁に仏壇や神棚代わりに張り付けており毎日拝んでいたりする。
金八先生が坂本龍馬を拝んでいた様な感覚ですかね(笑)。
で、安針塚のある塚山公園は軍港が見えるので軍艦マニアの方々が海自の護衛艦や米海軍の空母を見に良く来る場所でもあったりします。
以前、米海軍のカールビンソンが寄港した時も、ここから写真撮影してる先輩方が沢山いました。
小生はカメラの性能が良くないのでアッサリ断念して普通に観音崎に移動して撮影しましたが(笑)。
春の桜の名所としても神奈川の景勝50選の1つにも選ばれています。
オススメの場所なので、是非皆さんも春に浄土寺~安針塚~塚山公園の展望所~田浦梅林とハイキングを楽しんでみては如何でしょうか?
実はここも車懸は初訪問だったので、来られて良かったと言っていた。
なかなか神奈川に遊びに簡単に来れる距離ではなくなってしまったし、小生も来年の秋まで資格の履修科目と国家試験の受験で忙しいので色々と時間も作れず、車懸だけでなく色んな友達に会う事も出来ず、今年は昔、天然理心流の稽古に参加させて頂いた際に同行したO型の経営していたカフェに今月学校が終わってから漸く日曜日に行けたのと、車懸がゴールデンウイークに来たのと、その後1回だけ出張で横浜に来た際に港南台のレストランで2時間だけ一緒に食べた以外、昼間仕事+夜オンライン学校+週末対面授業&毎回のテストで誰とも一切遊ぶ時間が無かった。
だから今月の中頃に発狂しそうになって(笑)、今月のテスト3件あった内1日分のテスト日程を来年に先延ばしして貰い、称名寺に突然散歩しにいったりしてた訳だ。
正直睡眠時間も今月今年の学校の授業が終わるまでは毎日4時間寝れるかどうかの生活をしてたので本当にキツかった。
で、ブログの更新も今年は皆さんに御容赦頂いて1ヶ月1回ペースに減らしていた訳です。
塚山公園での歴史散策も終えて車懸も満足してくれたので、自宅への帰路の途上、吉村屋で修業した弟子の家系ラーメンの店の中でも指折りの名店の1つである王道之印で夕食をとる事にした。
王道之印(王道横浜)
045-353-9549
小生は海苔増し+味玉+まぶし飯を注文、車懸は何か良く分からんがセットを注文してた(笑)。
本当に杉田家と王道は美味しいので、もし八景島や金沢自然動物公園や横浜ベイサイドマリーナに用事が有って市外や市内でも遠方からくる方は召し上がって欲しい。
車懸は京都人のクセに(笑)豚骨醤油の濃い味も好きなので、ここは以前も一緒に来た事が有る。
食事が終わると、この日はせっかく横浜に来たんだから家風呂じゃツマランだろ!
・・・と言う事で、一度入浴用品を取りに家に戻ってから小生イチオシの名銭湯、南区の仲乃湯に向かった。
仲乃湯
045-251-9528
この記事⤴は組合公式より写真と解説でより詳しく紹介出来てると思います。
まぁ、とにかく凄い日本建築なので車懸も連れて行ってみた。
そんな感じで歴史観光2日目は終了し、帰宅して翌日は早朝から山北町河村城~御殿場市深沢城~三島市山中城~箱根神社~大涌谷と箱根の関所~大観山と・・・
・・・山城と神奈川のベタ観光スポット箱根をしたのだが、それは又次の記事で!
次回、車懸攻城用の後ろ姿だけ登場(笑)!
次回記事で紹介する訪問地⤵の写真一部
では皆さん、次の記事でお会いしましょう~♪
――追記――
2023年中は余り記事を更新する時間も無く、古参の読者の方には申し訳なく思うばかりです。
来年2024年も夏過ぎ迄このペースでの更新を続けさせて頂く事に成るかと思いますが、2023年程仕事と学業の兼業のスケジュールがタイトには成らない可能性も有るので、出来るだけ色んな場所を紹介したいな~と思っています。
しかも今回でゴールデンウイークの記事は書き上げてしまうつもりだったのですが、ちょっと実家の用事で色々と忙しく結局1部しか記事を更新できませんでした。
御正月休み中に、最後の3日目山城巡りの記事を書きあげられたら良いなと思っていますので、何卒よろしくお願い申し上げます。
では皆さん、現在令和五年(2023年)太陽暦の12月31日22時、太陰暦(農暦)令和五年 癸卯 霜月 十九日(2023年11月19日)、旧暦の農暦では正月は台湾や韓国と同じ春の節句=春節ですのでまだまだ先ですが、西欧化した日本では明日から真冬なのに正月です。
風邪を引かず、インフルとコロナに負けず、良い正月を迎えて皆さんにとって良い1年間に成りますよう、祈願致します。
では、本年もありがとうございました~!