歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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カテゴリ: 寺社・仏閣/城址・文化財の解説と紀行文

最初に蛍の飛ぶ綺麗な写真と今の現地の様子を見て下さい。

瀬上沢の蛍
IMG_8761
https://youtu.be/cf_cBo0nwEY
蛍の生息する栄区上郷の瀬上沢流域西側も、東日本最大の世界遺産登録すべき上郷深田遺跡も消滅の危機に瀕しています。

問題はこう⤵
●そもそも上郷~港南台の自然は昔を100として既に30%に縮小している事。
東急建設は20haの緑地を残すと言う開発すれば以前の20%に更に緑地が縮小する事。
●円海山の範囲は金沢区~磯子区~港南区~栄区に及ぶ。
  1960年代と比較すると残存森林面積30%に縮小どころか更に縮小している事。
●そもそもの目的が環状4号線の渋滞緩和なのに環状4号線が片側1車線で意味が無い事。
東日本最大級のタタラ製鉄遺跡の上郷深田遺跡が開発計画では切土(削り取られて)で消滅させる事。
●横浜市最大最後の蛍の大生息地の瀬上沢流域の西側も調整池の建設で自然の川を消滅させる事。
●開発計画支持者は「東急建設が緑地保全をしてくれるから東急に任せた方が良い」と主張していますが、東急建設自身が開発計画説明会で開発開始後は緑地や瀬上沢の保全は横浜市に任せ、東急は行わない」と丸投げを宣言している。つまり開発して掘ってコンクリで川と遺跡を潰した後の自然保全は一切しないと言う事を言ってるのを開発賛成派は理解出来ていない事。
●上郷深田遺跡の完全調査も保護も東急建設は行う気が無く「合法的に開発します」としか答えないが、未調査地域にも遺跡が広がってると普通に考えられ文化財保護法に抵触する可能性が高い事。
●開発自体が東急建設にとって不採算事業である事。
●横浜市民は代替地として横浜港と本牧の再開発を提案出来る事。そちらの方が東急グループにとって有利な事。横浜市と国の政策にも合致する事。

以下、東急建設が配布した開発説明資料と地図画像で解説します。

【現在の開発計画】
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
御覧の様に現存する森林湿地帯と横浜市最大最後の蛍の生息地域の瀬上沢の西側が削られ調整池にされてしまいます。
現段階で発掘された場所だけでも東日本最大の蹈鞴(タタラ)遺跡の上郷深田遺跡&上郷猿田遺跡の製鉄炉が集中する上郷深田遺跡は削られて無く成ります。

以前の写真と現在の写真、更に開発計画予定地を比較して見ましょう。
1960年代の円海山
1960年代の航空写真。まだまだ円海山の西側の上郷も緑豊かです。
2019年現在の円海山
現在では開発計画地点周辺だけでも既に円海山の森林が宅地化され大減少している事が解かります。
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
更にこれだけ開発されてしまうと、もう円海山西側の自然が蛍や遺跡を抜きにしても潰滅状態なのが御理解頂けるでしょうか?

では掘削と埋立地の計画を見て見ましょう。
これは東急の開発計画の説明会で配布された資料です。

2019年時点の切土盛土計画断面図
ここに上郷深田遺跡や瀬上沢西側の蛍生息地の地名は一切登場しません。
深田遺跡掘削範囲
しかも❝2019年5月時点の計画で変更される可能性もある❞と東急建設が明記しています。
つまり、現時点で緑地を残すと言っている東側も「いつでも開発予定地に組み込めますよ」と言っている訳です。加えて、そちら側は横浜市に買い取らせようとしてますがソレさえ上手く行っていません。

ではこの開発する場所が本当に遺跡や蛍の生息地とカブっているのか「東急建設の用意した遺跡と蛍の生息地が表示されていないワカリにくい断面図」ではなくて衛星写真に表示して解り易くして見てみましょう。
2019年時点の東急の開発範囲
写真をクリックして拡大して見て下さい。
赤い線―が開発範囲。この森と遺跡と川が削られ商業地と宅地と公園と調整池と公園にされてしまいます。
青い線―が東急が用意した断面図のラインです。これを見て見れば遺跡の位置と蛍の生息地に丸カブリなのが一目瞭然ですね。
ちなみに下の画像で左側の蛍の生息地で今年多くの人が衛星で位置確認をしながら蛍を鑑賞して下さっていますので、「この画像の蛍生息地がデタラメだ」等と東急建設の上郷開発事務所担当者や横浜市役所の役人が林市長や筆頭株主の東急電鉄に報告すれば虚偽の報告に成ります。
この青い線と遺跡の位置を見た上で、もう一度断面図を見て見ましょう。
2019年時点の切土盛土計画断面図
下の断面図の黄色い部分が削り取られる場所、上の衛星写真と比較すると本当に遺跡の溶鉱炉部分やら現段階で発掘された部分の主要部が丸々無くなる事が解かりますね。

では次に、本当にココに遺跡が存在しているのか知らない人の為に遺跡の過去の発掘調査資料の発掘結果の位置を表示して見ましょう。
まず遺跡の発掘調査状況です。
第1期
深田遺跡調査1期
第2期
深田遺跡調査2期
これを現地の衛星写真と等高線図に重ね合わせて見ましょう。
2019年時点の遺跡の発掘箇所分布図
御覧の通り、先に衛星写真で見た遺跡の表示地点が遺跡出土地点である事が解かりますね。
部分的な発掘しかされてない今現在で既に周りの建物と比較して巨大、東日本最大規模で世界遺産クラスのタタラ遺跡である事が一目瞭然となります。
しかも!まだまだ隣の丘にも未発掘の遺跡が広がっている可能性が高く有ります。
山手学院側にも存在しているはずですが、山手学院は遺跡の発掘調査要請や保存、瀬上沢や円海山の緑地保護の活動団体には非協力的だそうです。
県立栄高校の方が熱心とか笑えるwww事に成っているそう。
加えて・・・
2019年時点の東急の開発範囲
この通り山手学院の方まで森林が伸びていますが・・・
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
現段階の❝東急建設側だけの開発計画❞には含まれていませんが、山手学院の宿舎棟も再開発計画に含まれているとの事で、実際に不動産屋が視察に来ているのも瀬上沢基金の方々が目撃しています。
まぁ、そちらは既に自然がないので良いのですが、何となく非協力的な理由も見え隠れしますね。
運営は有隣堂が関わっているとか・・・
成る程、横浜市の地区センタ―や図書館の運営にも有隣堂が関わっているとの事を聞いた事が有りますので、昔は県の歴史等を出版していた有隣堂も今では不動産部門が横浜市や東急建設と連携して瀬上沢の蛍生息地や上郷深田遺跡破壊を容認している可能性も連想させてしまうエピソードですね。
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こっちの栄高校と舞岡上郷線を挟んで反対の上郷深田遺跡側の森は埋め立てられて消滅します。
湿地帯なので地下水をどうするのか謎ですが、昔、舞岡上郷線の建設時に産業廃棄物を道路に埋めた事を地元民は認識しているのですが、その舞岡上郷線を擁壁にするのが現在の計画です。
更に西側の川は川ごと掘削される&埋立られ消滅します。
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これで自然保護してると言い張ってる訳です。
因みに、過去、東急建設の説明会では賛成派に総会屋みたいな奴が動員されて「反対派がこの世から消えるのが自然保護」と「瀬上沢開発の反対はは死ね」と遠回しにいってる脅迫の様な発言をした事もあります。

実は開発計画以外に・・・
もう一つ深刻な問題が発生しています。
今現在、上郷深田遺跡の位置を確認したり蛍を見たい人が現地に行けない様にされる嫌がらせが組織的な規模でしか行えない速さで展開されています。
GoogleMap瀬上沢地図登録抹消現状
しかもGoogle mapで検索できない様に「瀬上沢蛍生息地」や「上郷深田遺跡」が削除されてしまいました。有志が何度も復元を試みましたが、毎回復元した地図登録が数十人単位のチームでしか行えない速度で削除されてしまいます。
の登録で文字が表示されない場所が何者かの「悪意で削除された」上郷深田遺跡や蛍の生息地の地名削除された場所です。今年、GoogleMapのナビ機能で現地に蛍を見に行くのに「お気に入り登録」された方も地点だけが表示されている状態のまま名前が非表示になっている筈です。
深田遺跡周辺、瀬上沢流域を破壊して造る調整池
こんな嫌がらせをする必要が有るのは「開発したい人」しかいないでしょうね。
ん~東急建設よりは横浜市役所かな?いやいや東急・・・www

まぁ、登録しなくても地図の座標でナビ機能が利用出来ますから、今回のブログにもYahoo!MapとGoogleMapのナビ機能を使える位置表示のリンクを貼って置きますね!
蛍が見れる場所!栄高校直ぐ下の瀬上沢
2019年現在蛍の生息地
栄高校の坂を下り切った場所が蛍の見える場所です。
画像左側瀬上沢の西側の木のトンネルは蛍を触れる距離で見れます。
画像右側瀬上沢の東側の森の方は高い位置に飛ぶ蛍を見れます。
yahoo map
 https://map.yahoo.co.jp/maps?lat・・・
●Google map
https://goo.gl/maps/bMKnCMMvQzg4GBX49
もし又、瀬上沢を開発したい集団のイヤガラセで上のリンクから蛍の生息地が表示されない場合栄高校の周囲の道の坂道沿いに下まで来てください
下りきった目の前の沢が瀬上沢です。
※2019年は7月位まで蛍が見られそうですよ!
さて・・・

こんな感じで2019年時点での東急側が用意した建設計画資料を使って(笑)彼等の現段階の計画のままでは神奈川が誇る世界遺産級の遺跡と蛍の生息する西側の瀬上沢が破壊される事が皆さんにご理解頂けたかと思いますwww。

あと追加で気に成る事が発覚しました。
放射能汚染土
横浜市は林市長と彼女の支持者の藤木企業の藤木会長が放射能汚染物焼却灰の受け入れを推進する発言を311東日本大震災当時話していましたが、それと無関係では無さそうですね。
実際に港湾地域にガイガーカウンター持って行くと放射線が普通より高いと、今日も港湾関係の知人に話を聞いたら言ってました。
このタイミングで瀬上沢を開発し、深田遺跡の森を“盛土”で埋め立てる開発計画を強行したい理由と、この放射能汚染土の問題の関連性を普通の人なら連想する様な出来事だと思います。
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この谷を11m近くの高さまで埋め立てるってのはナカナカの事ですよね~。
そして丘は遺跡もろとも削り取ってしまう。
因みに同時期に廃墟マニアに有名だった横須賀市の“田浦廃村”の谷の再開発も再燃しています。
そして最近は三浦市の小網代の森の横の蛍の谷が埋め立てられました。
・・・誰かガイガーカウンターで測った方が良い様な~。
なんせ横浜市内の放射能汚染土の一時保管されていただけの保育園の園児が同時期に2人白血病が発症した訳です。偶然とは思いにくい。

以前も書いたのですが、東急建設サンにとってこの瀬上沢開発は不採算事業な上に、既に芸能人にも知ってる人が広がりつつある訳です。横浜市民では当該地の栄区の総人口と同じ11万に及ぶ反対署名が集まっています。
一昨年までは東急建設の親分の東急電鉄さんの株主総会では瀬上沢開発計画は緑地を保護する活動と印象操作した動画広告を堂々と行っていたそうですが、昨年に凄まじい件数の反対署名が提出されると東急建設はその宣伝動画を東急電鉄さんの株主総会で展示しなくなったんですね。

小生が直接確認した訳ではないので「どことは言わない」ですが、小生達、横浜市や東急建設の強引な開発計画と説明会の不誠実な対応と日本規模の遺跡なのに横浜市全体に周知しない不見識さに怒った歴史ファンや瀬上沢西側にも蛍をずっと残したい人の中にも、まぁどことは言いませんが先方の職員もいる訳ですよ。
まぁ~市民の反感買いながら中国共産党の情報統制みたいな言えない事やってると大変に成るよ。
その内。

今年、蛍を見に来てくれた人は多かったですね。
ありがとうございました。
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ホタル3
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上郷深田遺跡の溶鉱炉跡の発掘時の写真。
上郷深田遺跡
※横浜市歴史博物館のページより転載。
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/qa/detail.php?seq=50
質問に曖昧にしか答えてませんが、鈴木館長は保護活動に協力しないと立場を明言しています。
上郷深田遺跡側の森
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さて本題に入ります。
瀬上沢と円海山の水源と森と遺跡破壊する開発を止めて市民の支持を得てIR事業と、みなとみらい線の延伸と本牧駅開設&A突堤周辺の再開発しちゃいなyo~♪
そしたら親分の東急電鉄サンが儲かるでしょ?
市長san~(笑)
東急建設上郷開発事務所の松尾san~鈴木san達yo~♪
・・・て事www。

皆さん、この記事で蛍の大生息地と東日本最大の蹈鞴遺跡を守るため❝本記事の拡散の救援❞を要請します!
これから6月初旬、第二週の週末位になると蛍の飛び交う姿が最盛期を迎え、下旬に入り7月には蛍達は次第に命を終え数を減らします。
そんな蛍も生きる川を破壊されてしまえば、翌年から見る事も出来なくなります。

緊急性の高い意見書の提出と署名活動の存在を以下にPDFやホームページリンクで纏めますので、拡散を御願いします!



出来れば意見書提出や署名活動その物にも御協力にも御願い申し上げます!
以下は資料、及び意見書と署名フォーマットのリンクと説明。

これは皆も読んで見て下さい!⤵
東急建設意見書の素案のPDF
https://drive.google.com/file/d/1zymGCllhGO-_Gl7oWW61nYzzpOaBSfNN/view?usp=sharing
郵便なら上記のURLをクリックしてPDFを印刷して同封下されば簡単です。
同封する場合は意見書に「別紙に意見内容文書を同封」と書いて下さい。
・公的機関へのweb上の意見書は今回の公的機関用に意見書の素案の要件だけを纏めた文章を書いておきますので、それをコピペして貼り付けて頂くと便利です。
・むろん皆さん御自身の素晴らしい提案をされるのも好ましいです。


●東急建設への意見書提出フォーム【緊急!】
意見書フォームPDF⤵
https://drive.google.com/file/d/1FdbEU1o8K_ISN-KOxJo3lhkvN3QI06Ek/view
※A4サイズで印刷の上、郵便で2019年05月23日までに記載した住所への必着〆きり。
※宛先・・・〒247-0013横浜市上郷町725番 東急建設株式会社 上郷開発事務所
                担当:松尾、須藤、小林
※これを最優先で御願いします!
※小生の意見書素案PDFを提案される方は意見欄に「別紙意見同封」と書き添えて下さい。

付属の資料として以下の上郷深田遺跡の簡単な史料と過去の発掘調査記録も有ります。同封するかは皆さんにお任せします。
・上郷深田遺跡発掘調査概報PDF→リンク
・古代の製鉄所『上郷深田遺跡』を守ろう!+追加限定調査部分報告→リンク

●上郷深田遺跡製鉄遺跡の現状保存と公開を求める署名
書式PDF⤵
https://drive.google.com/file/d/1w25i423VDydeVcNckSj4nhHFSN9YqR5r/view
※A4で印刷して下さい。
※宛先はフォームに記載住所ではなく以下に記す“瀬上沢基金事務所”の住所に送付して下さい。
 基金事務所で集積してから代表者に追加提出をして貰います。
宛先・・・〒2340054 港南区港南台9-30-31 NPO法人ホタルふるさと瀬上沢基金事務所 角田まで

以下公的機関への意見フォーム
公的機関へ投稿する際は以下の文章をコピペして頂いても結構です。

【以下は自民党と各省庁向け要件コピペ用の素案】
「政府自民党政策‟文化財危機宣言”に基づいて以下の要請をします」
横浜市栄区に東日本最大のタタラ遺跡上郷深田遺跡と、横浜市最大最後の森林円海山の瀬上沢流域の蛍の群生地が、開発計画で消滅の危機に瀕しています。保護を要請します。
横浜市と開発を担当する東急建設は不採算事業に陥っており、又、世界遺産級の遺跡は開発計画で掘削と商業地建設で基礎によって破壊される区域に該当します。蛍の生息域も調整池の建設で川は消滅し別に人工川を設ける計画ですが蛍は死滅します。
都会に希有な水源森林と東日本最大のタタラ遺跡保護の国策での代替地提案として稼働率の低い横浜港の新山下~本牧埠頭への代替地準備助成金交付やIR事業推進を含め東急建設と横浜市へのIR事業発注を行い、円海山全域の森林と水源と瀬上沢流域の都会に希有な森林として国定公園化、日本屈指の上郷深田遺跡の国指定史跡化と博物館と史跡公園化による畑地利用を御検討頂きたく御願い申し上げます。
許諾が可能であれば市民活動でも保護の為の誘致の署名を行います。

 ●自民党へのご意見フォーム
リンク→https://ssl.jimin.jp/m/contacts?_ga=2.26174973.1582204468.1558159906-1246993790.1558159906

●文部科学省文化財全般ご意見
リンク→https://inquiry.bunka.go.jp/InputForm.aspx

●国土交通省・関東地方整備局:お問い合わせフォーム
リンク→https://www.ktr.mlit.go.jp/kyoku/contact/mail/index.htm


__以下横浜市の各所意見窓口__

【以下は横浜市と市長向け要件コピペ用の素案】
「政府自民党政策‟文化財危機宣言”に基づいて横浜市に要請をします」
横浜市栄区に東日本最大のタタラ遺跡上郷深田遺跡と、横浜市最大最後の森林円海山の瀬上沢流域の蛍の群生地が、開発計画で消滅の危機に瀕しています。
開発企業様の利益を保護しつつ当該地の自然と史跡の保護と国指定史跡、国定公園登録申請を要請します。
以下の案を提案します。
・❝政府自民党の政策のIR事業と文化財危機宣言❞を活用して助成金要請
・東急には現在の開発計画の用地を横浜市と代替地との交換を提案。横浜市では無く国策のIR事業推進の為に港湾の稼働率の低いA突堤か風光明媚なC突堤等の埠頭に等価値の代替地を用意する。
・環状四号線の渋滞問題解消によって金沢区~戸塚区~大船への利便性を向上し、上郷開発では阻止できない既に空家が増加してる桂台や本郷台地区の利便性を向上し栄区全体の人口増加につなげる。その際に渋滞の解決策として片側1車線の環状四号上郷区間の道路を高架化して片側2車線にする。上郷町199番地付近と上郷町1173番地付近に出入口を設ける事で環状四号線沿いの緑地も保護出来る。
・保護した上郷深田遺跡の完全な調査を行い、横浜市初の世界遺産登録を目指し第三セクターの史跡博物館を併設した上で上郷開発賛成派の住民も史跡保護の功績から運営側として雇用する。また他の大都市に類を見ない国定公園円海山全域の大森林を保有する市として世界にもアピールを行う。
以上ご検討御願い申し上げます。
横浜市と開発を担当する東急建設は不採算事業に陥っており、又、世界遺産級の遺跡は開発計画で掘削と商業地建設で基礎によって破壊される区域に該当します。蛍の生息域も調整池の建設で川は消滅し別に人工川を設ける計画ですが蛍は死滅します。更に東急建設の取得した緑地の大部分を現計画では横浜市が買い取る必要が有ります。ならば代替地を用意して史跡と自然環境の完全保護を目指した方が市政の評価も上がりますし国政としてIR事業を推進する事が可能に成り本牧地域の再開発で東急建設も横浜市と将来的な利益を享受出来ます。
都会に希有な水源森林と東日本最大のタタラ遺跡保護の国策での代替地提案として稼働率の低い横浜港の新山下~本牧埠頭への代替地準備助成金交付やIR事業推進を含め東急建設と横浜市へのIR事業発注を行い、円海山全域の森林と水源と瀬上沢流域の都会に希有な森林として国定公園化、日本屈指の上郷深田遺跡の国指定史跡化と博物館と史跡公園化による畑地利用を御検討頂きたく御願い申し上げます。
許諾が可能であれば市民活動でも保護の為の誘致の署名を行います。

●横浜市「市民からの提案」投稿フォーム
・横浜市役所市民局広聴相談課→mailto:kouchou2@city.yokohama.jp
 スマホ用→https://www.e-shinsei.city.yokohama.lg.jp/yokohama/uketsuke/sform.do?acs=shiminteiansmart
・栄区役所    区政推進課→mailto:sa-shiminteian@city.yokohama.jp
・港南区役所   区政推進課→mailto:kn-shiminteian@city.yokohama.jp

●市長の部屋 横浜市長 林 文子ー共感と信頼の行政を目指してー
・政策局秘書部秘書課→ss-hisyo@city.yokohama.jp
        FAX→045-641-2628



Twitterでリツイートしてくれた皆!もう一度だけこれを拡散して世界遺産級のタタラ製鉄遺跡である上郷深田遺跡と蛍群生の地の瀬上沢流域を含む円海山を助けて!

出来たら署名や意見書提出にも協力して下さい!

そして意見を支持してくれたら東急建設も横浜市も賛成派も反対派の地権者も歴史ファン刀のファンももアニメとゲームのファンも蛍を子供にみせたい若い御母さんも御父さんも皆で幸せに蛍と遺跡を見に来られて、誰も損をしないで済むと思う。

どうか御協力お願いします!
上郷深田遺跡
ホタル10
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こうやって夜景が綺麗なのは手前の円海山の森林が有るからです。
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いつまでもこの風景と武士文化の醸成地の東日本最大の蹈鞴遺跡の上郷深田遺跡と蛍が舞い飛ぶ瀬上沢と円海山の大森林を皆さん一人一人の行動で守ってください。

誰も損をしません様に、皆仲良く出来ます様に、後世に貴重な自然と遺跡を残せます様に~♪
東急サンへの意見書の提出期限が郵送で23日〆切と成っています。何卒よろしくお願い申し上げます。

・・・只の歴史オタク、~久良岐のよし~より

















名刀「正宗」をご存知ですか?
鎌倉時代から日本中に知れ渡った名刀で、安土桃山時代には豊臣秀吉が天下一の名刀と認定したことから全国の大名がこぞって入手した日本刀です。
正宗工芸美術製作所
今でも鎌倉駅のすぐ近くに工房があり、初代様から代々製法を受け継ぎ御子孫のダンディな刀匠が正宗を製作されています。
写真がそのお店です。
正宗工芸
今では規模は小さくなってしまいましたが、工房併設の店舗で日本刀も販売しています。
ここ、映画もののけ姫で刀の鍛造の参考にロケハンに協力した工房でもあります。
現在は日本刀以外にも普段使いの包丁も製作されており、購入すれば日常生活に日本文化を取り込め有る意味財産で作る料理を食べれますね(笑)。
価格も1万数千円〜有り、少し良いお値段だけど手の出る値段です。しかも刀工の御店なので、ちゃんとメンテナンスもしてくださいます。
研(と)いで下さったり、研ぎ減り包丁の刀身が小さく成ったら「小刀」や「ペーパーナイフ」に改造して下さったりもします。
だから刀剣女子には持って来い(笑)!
小生は趣味で歴史散歩やグルメ以外にもシルバーアクセサリーを作るのですが、銀粘土を加工するのに正宗のペーパーナイフを使っています。
皆さん、鎌倉に訪れる際は是非立ち寄って見てください。
正宗工芸美術製作所がある事は神奈川県にとっては誇らしい文化的歴史的な遺産でもありますね。
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因みに、正宗工芸から歩いて15分位の鎌倉歴史文化交流館では正宗が展示してあります。
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そして平安末期~鎌倉時代の名将、畠山重忠公着用の鎧が武蔵御嶽神社に奉納されているのですが、甲冑制作師が制作した完レプリカの赤糸縅(あかいとおどし)大鎧も展示されています。
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この鎌倉歴史文化交流館の素晴らしい所は展示物が全て写真撮影可能な所です。
是非、鎌倉歴史文化交流館と正宗工芸、鎌倉観光の際にセットで訪れて見ては如何でしょうか?
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鎌倉歴史文化交流館
何でここを紹介するかと言うと、実はここは元は無量寿寺と言う大寺院の跡で、御寺が廃れた後は鎌倉時代~江戸時代迄正宗工芸の親方(社長)の御先祖様が住んでいて、ここで名刀正宗が生み出されていたんです!
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鎌倉歴史文化交流館の広い御庭の谷の奥、そこに刀の工房が在りました。
今は小町通の近くに在りますけどね~。
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無量寿寺跡の谷の台地の上には、名刀正宗の工房の守り神だった御稲荷様の台座だけが現存しています。神様はここが公共の施設に成る際に法律の問題で葛原岡神社に遷宮されました。
さて、実はこの正宗や平安時代の鎌倉で武士が佩刀した刀の鉄の産地も鎌倉郡に在りました。
上郷深田遺跡
上郷深田遺跡
飛鳥時代から平安時代の製鉄遺跡が発掘されており、後に武士達から軍神と呼ばれた源❝八幡太郎❞義家公達、古代の豪族や坂東武者達の武具の玉鋼の根源地だった場所があります。
ここは神奈川県現存唯一、関東最大の蹈鞴(たたら)製鉄遺跡である事が判明しています。更に30年前の調査発掘で最大規模だったのが更に追加調査で範囲も広がっています。また、山裾伝いに更に後の時代の蹈鞴遺跡も近在する可能性があり、その山の向こうには鍛冶ヶ谷地区が存在しています。
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
2019年05月現在、上郷深田遺跡も東急建設の開発計画で消滅の危機にされされています。
出来れば坂東武者達が身に付けた刀剣武具の産地であり、現在は横浜市に入っている栄区~港南区~磯子区~金沢区~鎌倉市にまたがるこの緑地、刀剣の文化と共に永久に存続する様に文化財指定して保護するべきだと思います。
ホタル10
ホタルが飛ぶ姿も見られるしね。
これから6月初旬、第二週の週末位になると蛍の飛び交う姿が最盛期を迎え、下旬に入り7月には蛍達は次第に命を終え数を減らします。
そんな蛍も生きる川を破壊されてしまえば、翌年から見る事も出来なくなります。
さて、正宗工芸!
小町通からも直ぐ近く!
2015-01-07-17-11-56
是非是非、鎌倉観光の際には訪れて、もし刀剣女子が彼女さんの男性や奥様が刀剣乱舞ファンの旦那様はプレゼントに❝正宗❞の包丁なんて如何でしょうか~!







これから6月初旬、第二週の週末位になると蛍の飛び交う姿が最盛期を迎え、下旬に入り7月には蛍達は次第に命を終え数を減らします。
そんな蛍も生きる川を破壊されてしまえば、翌年から見る事も出来なくなります。
恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし

昨年公開の映画、❝恋は雨上がりのように❞でもロケ地に成った横浜市最高峰の山の円海山の麓、まだ宅地開発されず❝横浜市最大最後の蛍の群生地❞である瀬上沢流域と、日本屈指、❝関東最大で神奈川県現存唯一の蹈鞴(タタラ)製鉄遺跡の深田遺跡~猿田遺跡❞の森が、今年、東急建設と林文子市長によって破壊消滅の危機に晒されています。
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円海山 瀬上沢流域一帯 蛍群生地
例年、瀬上沢では5月中旬~6月中旬にかけて夕方~宵の頃、写真の様な蛍の乱舞を見る事が出来ます。
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この横浜市歴代市長が守って来た横浜市最後の水源地の原生林に住む蛍の群生地を東急建設が破壊を強行しようとしており、今年、是非皆さんに見て置いて欲しいんです。
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葉っぱに泊まり淡く光りメスを呼び、短い命を懸けて恋をする蛍は以前、円海山の麓の川では多く見られましたが今では庄戸地区の宅地化、港南台の宅地化で数は激減し森の面積も30%まで縮小しました。
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横浜市教育委員会は弱腰で林市長の開発容認と東急建設の開発計画にストップをかけませんでしたが、昨年まで神奈川県教育委員会が開発を反対し、何とか東急の三十年に及ぶ開発計画を阻止して来ました。横浜市も市長以外の有識者が毎回反対票を過半数投じて下さっていたので、市長の開発容認も実行されませんでしたが、昨年、林市長の支持派の横浜市議の松本研議員の兄の松本純国会議員が、横浜市長の裁量で開発を強行できる法案を可決させてしまいました。
2015-06-08-02-56-19
今年、皆さんが少しでも多くの蛍を見て感動してくれたら、出来たら横浜市に電話やファックスや手紙や署名で、東急建設による宅地開発の許諾をしないよう、又、他の大都市に誇れる自然保護区として自然公園指定と関東最大の蹈鞴遺跡の保護を陳情をして頂かないと、この蛍はもう、子供達も子孫も見る事が出来なくなり死滅します。
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この幻想的な風景、横浜市と鎌倉市が共有する最大最後の蛍の群生する地、円海山の瀬上沢流域。
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そして坂東武者達の関東最大の蹈鞴遺跡である上郷深田遺跡の周辺にはまだまだ鎌倉時代と室町時代の製鉄所遺跡が未発掘の可能性もあります。
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この遺跡の存在は既に30年前の発掘調査時に知られており、横浜市は建設計画の為に史跡認定をしてきませんでしたが日本有数の規模を誇り、現存する蹈鞴(タタラ)製鉄遺跡では神奈川県唯一、関東では最大規模を誇ります。しかも飛鳥時代~平安時代の数百年間に渡って大和朝廷や坂東武者達に軍備や農具の元になる鋼(ハガネ)を供給して来た歴史を持つので、本来はユネスコに世界遺産登録申請を行うべき所でもあります。
しかし横浜市教育委員会は完全に市長に対して弱腰忖度し破壊を容認しています。
瀬上沢西の森1112エンゼル
この森と道を挟んで同じ面積の森の二つの大森林の蛍生息地と蹈鞴遺跡を東急不動産と横浜市の都市計画課は消滅させようとしています。

下の衛星写真には蛍の生息範囲や蹈鞴遺跡の出土範囲もわかる地点登録がされています。
Google earthでも誰でも見れます。
円海山瀬上沢流域ホタル群生地と上郷深田遺跡の森蛍群生地衛星写真
衛星写真と東急建設の破壊予定範囲を比較して見ましょう。
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
御覧の通り!東急が遺跡や蛍の生息区域の保護に配慮しているなんてのは真っ赤な嘘です!
完全に❝計画❞には遺跡と蛍の群生地の瀬上沢が入っており、森林の伐採で鉄砲水の危険が生まれる為に川の流路すら破壊して人工的に溜池を作る計画です。つまり周辺住民の安全すら脅かすような宅地計画の為に川と森を伐採し人口の溜池をつくり本末転倒な事態に計画その物が陥っています!
CIMG4615
ホタルが存続できる様にする為には、先ず、皆さんに見て貰わないといけないんです。
そして興味を持ってくれたら、関係先に問い合わせて見て下さい。
SAVE!SEGAMI
SAVE! SEGAMI 
協力:パタゴニア社 
https://www.patagonia.com/home/

上郷・瀬上の自然を守る会©2017 認定NPO法人 ホタルのふるさと瀬上沢基金 
http://savesegami.com/

上郷深田遺跡を守る会
https://kana-reki.jimdo.com/
 
他賛同して下さっている名を明かせない日本の企業様達と一般の方々。

今週、5月17日(金)19時~と、18日(土)10時~に横浜市栄区栄公会堂で東急建設による一方的な開発計画説明会が行われますが、まだ横浜市は認可してませんし神奈川県教育委員会は大反対しています。

自然破壊の東急建設説明会
この東急建設に対する開発反対や、横浜市に不採算事業な上に市民を敵に回す事業を押し付けられた彼等の立場を考慮しての代替地提案の意見等は多く出た方が良いので、御興味の有る方は是非、17日と18日の開発❝計画❞説明会に参加して下さい。
東急建設による宅地開発で円海山瀬上沢の蛍群生地及び、日本屈指の規模の古代タタラ製鉄遺跡破壊する為の説明会開催日程は以下の通りです。

場所:栄区栄公会堂
※スマホ・PCで御覧の方は以下の住所をクリックして頂ければ地図で確認できます。
日時:2019年05月17日の19時~20時半
       05月18日の10時~11時半
※受付開始は説明会開始の30分前から。
問い合わせ先:045-892-4911
担当:東急建設株式会社 上郷開発事務所 松尾・須藤・小林
※この松尾・須藤・小林3名と面識の有る方は開発を止める様に説得を御願いします。又、横浜市最大最後の蛍生息地を破壊し、関東最大で神奈川県内現存唯一の蹈鞴遺跡を破壊する事に良心の呵責が無いか問いただして下さい。

瀬上沢の記事について興味が有る方は是非、以下のリンクから❝タグ❞が瀬上沢で縛ってある記事も御覧下さい!記事のタイトルをクリックするとリンクします♪
横浜の蛍生息地、各マスメディアと米国パタゴニア社等の雑誌記事で紹介!
瀬上沢一帯に広がる日本最大級の蹈鞴製鉄遺跡の紹介パンフ転載。
円海山で蛍が観察出来る季節です。
  横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。

東急建設による蛍生息地と日本国内最大級のタタラ製鉄遺跡破壊計画を暴露します。

前回の記事⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説②
・・・保福禅寺の解説。

・・・コレ⤴の続き。

前回の記事では中田家の菩提寺の一つで、中田加賀守の墳墓跡の直下に在る保福禅寺を紹介しました。
今回の記事ではいよいよ❝慶応大学敷地内❞と❝保福禅寺❞が慶応大学に貸している一之谷一帯に残る矢上城址=谷上城址の遺構を写真と古地図と色別立体図とGoogleMapの四段構えで解説して行きたいと思います。
小生は中田家の菩提寺の保福禅寺の山号が谷上山である事、矢上城跡の慶応大学が谷に囲まれた台地に存在する事から本来の城名は谷上城だったと推測し、以後、矢上城ではなく谷上城の名で紹介します。
先ずおさらいですが現在の城址周辺の航空写真です。
矢上城址 日吉駅 久良岐のよし
これでも御城が好きな人は「あ~食違いの大堀切が有るな~」とか「竪堀が有るな~」とか、結構見て取れます。でも余り御城の地形に詳しく無くて自然地形と見分けが付かない人の方が多いと思いますので、どんな地形が自然地形化を確認する所から始めましょう。
日吉周辺の地形 久良岐のよし
ボンヤリとした場所がザックリとした地形、矢上城址に関わる部分は詳細な地形を国土地理院の色別標高図から拝借し切り貼りして繋げてGoogleearthに表示してみました。
これを見ると良く解りますが、矢上城址は周辺の大河川が各時代に複雑に流路を変えて削られた地形である事、そして恐らく古代には矢上城址の慶応大学日吉キャンパスと矢上キャンパスの間の保福禅寺の存在する谷間には矢上川が流れていた時代が有った事が地形から解ります。
平らな部分は縄文時代には海だった部分で、弥生時代には隆起したり土砂の堆積で湿地帯に成り漸(ようや)く人が往来出来る様に成り始めた場所で、まぁ~人が住むには古墳時代位まで不向きな場所だった様で日本神話の日本武尊(ヤマトタケル)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)伝説のある近郷の川崎市高津区橘樹神社辺りまで西暦200年前後まだ海水の入って来る湾があった事が伝わっていたりします。
実は明治時代の迅速測図では更にハッキリ地質や地形が読み取れたりします。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
この地図は国土交通省国土地理院の電子国土賞と言うサイトで公開されている明治時代の迅速測図を転載したものです。
御覧の通り、本来は古い地盤である丘陵には水田は全く有りませんが谷間には水田が広がります。
実は一般的に南関東は平野部でも稲作には適していません。それは富士山が噴火する度に火山灰をまき散らして田圃(たんぼ)を作るのに適さない関東ローム層と言う地質が露出しているからです。そして台地上に用水路を引っ張る技術は当時まだ小田原城下にしか普及しておらず、江戸市街地の用水網に引く水が60km先の奥多摩地方、東京都羽村市に取水関が作られサイフォンの原理を用いて整備されるのは江戸時代に成ってからの話しです。その羽村市の取水関から水を引く用水道網のモデルは実は戦国時代に矢上城主だった中田加賀守の主君、小田原城主の北条家が既に確立していて小田原用水として日本史上初の飲用水道が戦国時代に整備されていました。
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小田原用水
※住所クリックすると位置が地図で確認できます。
小田原市と箱根山系の間を流れる早川から取水して小田原市街に引いた戦国時代の用水網は今も現地に残っていたりします。まぁ、実は小田原城の城下町も元々は古代に海だった場所な上に、谷上城より更に海岸から近いので井戸を掘ると海水が出てしまい飲み水を確保するのが困難だったので、戦国時代に既にあの狭い城下町で3万人の人口を維持する為に飲用用水路が必要に迫られて発展し北条家のインフラ整備技術が他大名家よりも頭一つ抜けて発展し水道網整備に至った訳ですね。
でも谷上城は多摩川と矢上川と鶴見川を利用した流通網を押さえ、渡河地点と今の綱島街道等の陸路を防衛にかかる要所で防御に適した地形を優先して築城された所謂(いわゆる)城堡(じょうほ)とか城砦(じょうさい)と位置づけする町を守るより道を守る城だったので用水網の整備も必要が無く、普段は中田家の殿様達も平地の谷地形、つまり保福禅寺~慶応大学の一之谷~蝮谷に谷戸(やと=谷の入口に城門を築いて守りを固めた居住区)に住んでいた様(よう)です。
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
しかし御覧の通り谷上城は多摩川、矢上川、早淵川、鶴見川の氾濫原(洪水の被害に遭いやすい場所)の山崎=つまり内陸の川に挟まれた半島状の丘地形に存在しているので海水の影響を受けるよりも淡水の河川流域地下水で飲用に適した水質の井戸を掘ったり、大河川の氾濫で出来た比較的新しい肥沃な地質の恩恵で水田耕作地帯として開墾する事が可能だったようです。
逆に言えば繰り返しに成りますが、湿地帯で人が住むには余り向かず、日吉の台地の丘の上も飲み水の確保が困難だったので明治時代まで人が余り住んでいなかった事が解かります。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
もう一度、谷上城だった慶応大学周辺の地勢を明治時代の迅速測図見て見ると解かりますが、明治時代にも人は住んでいなかったので江戸時代にも開発が入らずに近代も畑地にしかならず慶応大学が出来るまで山の山林として谷上城址が綺麗に保存され、第二次世界大戦の頃に横須賀鎮守府の海軍司令部が日吉の台地の地下に基地を作り台地上に軍人サンの宿舎や軍人サン達を相手にして商店街が形成されて行き現代に成って人が住む住宅街として開発されて来た事も読み取れます。
この人が長い間住めなかった城砦の丘は関東ローム層・・・
この関東ローム層が石垣を必要としない南関東独自の土を削り出し石垣よりも防衛堅固な城郭築城技術を生み出した地層でした。
そんな訳で、この平地部分には泥岩の層と砂岩が重なっていてとっても水捌けが悪かった事から戦国時代に成っても湿地が広がっていました。迅速測図でも関東平野なのに畑地ではなく水田が広がっている事が確認できますね。
そんな訳で、地質と地形の説明が完了したので、ここから小生の推測する矢上城域と遺構残存部を見比べて見ましょう。
色別立体図に小生色分けした茶色の部分が一目瞭然、大空堀の人工地形です。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
日吉Googlemap 久良岐のよし
GoogleMapの衛星写真と見比べると位置関係が良く解りますね。
恐らく守りの薄い比較的なだらかな丘陵の続く日吉駅の西側は矢上城の主要な防御施設は❝1つ❞だけしか無かったと思います。それが上の小生が色別立体図に書き込んだ一番左側の大空堀ですね。現代では日吉本町1丁目公園~日吉本町三丁目第二公園にかけて住宅街の道路に成っている谷地形が人工地形なのは色別立体図でもハッキリ解かりますが、これが現代の道路開削では無く、既に江戸時代にも存在したことが明治に成って直後の色別立体図でも解ります。
下の図のを見て下さい。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
このの大空堀が西の端の丘を断ち切り尾根伝いに敵が侵入出来なくする堀切りと呼ばれる空堀です。
「これ空堀なの?」
・・・と城に興味ない人は思うでしょうが、これは小田原北条家臣団と扇谷上杉家の南関東の城に多く見られる構造体です。現代では日吉の宅地化で真っ先に削られた場所なので比較的なだらかに成ってしまっていますが、地形のレントゲンと言うべき色別立体図と江戸期の地形を残した迅速測図の二つが証拠に成る上に迅速測図では北と南が掘り切られ、今では平坦な日吉駅から放射状に住宅道路が広がる場所には食違いに山を削り残された地形があった事が解かります。
拡大して見ましょう。
矢上城址周辺迅速測図① 久良岐のよし
道の場所で等高線が凹んでいて切通し状の道だった事が解かります。この堀切自体もL字に屈曲していますが、丘の下から登って来るで囲んだ登城口に当たる部分は直角にS字の食違いに成っています。
あからさまな人工地形ですね。
道を屈曲させる事で縦列で侵入して来る敵が細長く伸びる様にした上で敵は直進できずL字に屈曲した正面の崖の上から防衛側は弓や鉄砲で侵入者を❝なぶり❞獲物を狩る様に射殺して行く構造体です。
これが❝食違い❞や❝枡形❞と言われる城の防衛構造の一つです。
ここが西側の端っこで、まあ第一防衛ラインだった筈です。
2番目の防衛ラインは日吉駅の開かれた谷地形です。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の場所ですね。ここは現代に住宅街が造成される以前から広く比較的なだらかな台地だった様で、迅速測図でも等高線の緩やかな畑地が広がっています。
矢上城址西の堀切虎口地形 久良岐のよし
その欠点を改善する為に南北に大きく谷を掘り切って敵の侵入経路に成る丘をクビレさせて防衛戦としている事が解かります。
この大堀切地形には明治まで水源も在り用水地も存在したので戦国時代には堤を作って堀底が水堀か沼掘りに成っていた難攻不落の大堀切だった事が推測出来ます。
言うなればの日吉本町1丁目の最初の大外の堀切~この日吉駅南北の堀切までの範囲が谷上城の外郭だった事が解かります。無論、そこも平時は当時から畑地として利用されていたんでしょうね。
さて・・・
この範囲に外郭が存在する規模だと、関東以外の戦国武将の常識では3万石相当の代官の中田家に不釣り合いな城規模だったと感じますが、実はここには戦国時代の早い時期に重要な城を造る理由が有ったんです。
再度、谷上城の位置を見て見ましょう。
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
実は北条家の大曾根城と鶴見川を挟んで扇谷上杉家が周辺地域で争っていた時期が有った事が横浜市港北区大倉山~大曾根~太尾地区の旧家の深谷家や長光寺等には伝わっていて、その頃は綱島台地にも城砦が有ったそうです。
下は綱島台地の迅速測図です。
綱島台の城砦地形 久良岐のよし
今回は面倒臭いので(笑)綱島の城址は解説しませんが、迅速測図で見ると確かに見事なまでに連郭式(れんかくしき)城砦が明治に成っても綺麗に残っていた事が解かります。城の構造からみると掘り切りと竪堀が多用されている連郭式山城で、横浜市金沢区の称名寺裏山の金沢城址や三浦半島の衣笠城址、又は城址としては有名ではない鎌倉市の杉本城や逗子市桜山~葉山堀内に股がる鐙摺城の地形と全く似たような構造に成ってるので、多分、平安末期~鎌倉時代には存在したんじゃないかと思います。戦国時代にも改修されて利用されたんでしょうね。
綱島の城砦を含めて周辺を守る拠点が鶴見川と多摩川に挟まれた陸路の要所でもある矢上城だった筈なので、中田加賀守が三万石の代官だった時代と言うのは、扇谷上杉家と北条家が対立していた頃の話しなのかも知れません。そして東海地方や近畿の大名の城は配下の各豪族が私財で築城修築を行いますが、関東では北条家の支城なら北条家が、扇谷上杉家の支城なら扇谷上杉家での防衛拠点として大名によって築城され在地の城代を任されると言うのがセオリーだった様です。
又、北条家は経済規模に関係無い現在の会社員と同じ寄親(よりおや=上司)と与力(よりき=部下)制度でしたから、配下武将から大名が誕生する事はなく、配下武将の一族も細切れに別々の軍団に配置する事で謀反を防ぐ効果も有って、織田家の様な配下武将の大名取り立ては皆無でした。代わりに軍団を編成し更に軍団の下に中田家の様な代官による統治で配下の一族を細切れに分けて小机衆の様な大軍団の下に中規模部隊を編成していた様です。
なので代官個人の所得に不相応な城が北条家臣団の居城に成っているケースが多く見られます。
CIMG1239
これは上杉禅秀の乱、永享の乱、江の島合戦等が原因で関東が西国よりも先に戦国時代に突入する原因に成った事が関係しているでしょう。
戦国時代初期の関東の合戦は西日本の様な大名vs大名規模合戦では収まらず、常に関東八州を治める鎌倉公坊vs大勢力(室町幕府or関東管領)の衝突だった為(ため)に陣取り合戦で城が築城or改修される際に仮想敵数が万余で想定されていたので、神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県は特に巨大な城郭が多く成って行った事が分かります。
神奈川県でも・・・
平塚市岡崎城
伊勢原市糟屋館
藤沢市大庭城
鎌倉市玉縄城
逗子市住吉城
三浦市新井城
横浜市笹下城
横浜市蒔田城
横浜市小机城
横浜市榎下城
川崎市小沢城等
・・・どれも東海や関西の城と比較するととんでもなく巨大な城郭です。まぁ、日本城郭大系では土地開発する土建屋や不動産屋に配慮してか城域を伝承と実際の地形より狭く紹介したりしていますが。これ等の城は守備側は数千単位で守れる様に主要部分に近づく程に堅固な断崖で沼か大河川か海に囲まれた場所に在り南関東平野ならではの地質と地形が活かされた他地域では作りたくても同じ地盤と地形が無く同じ構造を土で造成するのは不可能だった訳です。だから富士山より西では高い城壁を作る為には石垣を用いらなければならず築城コストが関東の城よりかかってしまう経済的な理由もあったかと思います。更に同じ高さの石垣と土塁では土塁の方が登る事が出来ず殺傷能力の高い防御装置に成る訳です。
築城コストが安く防御能力高い南関東の扇谷上杉流&北条流築城術は富士山のお陰なんですね~。
まぁそんな訳で繰り返しに成りますが、矢上城=谷上城の中田家の最大時の経済規模は3万石相当と伝承しますが、それは代官として治めた領域の話しなので中田加賀守独力には不釣り合いな巨大な城規模を任されていたのだと思います。まぁ中規模部隊を任せられたんで配下の与力合わせたら3万石だと北条家では1500~2000が兵士の動員数に成ります。それでも城の守備範囲は広大なので独力では守れないので、北条家では初期には五色備え軍団や後に小机衆や江戸衆や玉縄衆が編制され軍団単位で守備した訳です。
余談ですが北条所領役帳には面白い事に中田家が旧扇谷上杉家の宿老だった太田家と北条家の両方から給料を貰っている事が記載されています。つまり、これを根拠に小生は戦国時代初期の中田家は扇谷上杉家の家臣で太田康資公の与力だったと推測する訳です。そして中田❝加賀守❞は一人の名前では無く中田家の殿様が祖先の官途の加賀守を代々世襲して名乗った屋号の様な通称だったと推測しています。なので江戸時代には既に資料の余り残らなかった中田加賀守に関する記載も北条家臣時代と話がゴッチャに成り「よくわからん!」と書かれたりしてしまってるのだと思います。中田加賀守が1人の人物として考えるとかなり混乱しますからね。
さて、谷上城に話を戻します。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
慶應大学日吉キャンパスの建設によって校舎の建ち並ぶ区域には余り地形は残存していませんでした・・・
が!
・・・蝮谷体育館~保福寺から借地してる一之谷、東側の熊野神社側の日吉町宮前自治会館側等には多数、大空堀と帯曲輪の地形が現存確認出来ました。先ず城の残存地形を見たいならば保福寺を御参りしてから下の写真の今は入口が封鎖されている中田加賀守の墓所入口側から散策すると良いと思います。
DSC_0285
この位置がの位置に当たります。
大学の敷地内は建造物に入らなければ自由に散策して良いと慶応大学には確認して有りますので、大学生じゃなくても自由に行内を散歩出来ます。
日吉台野球場 久良岐のよし
この上が日吉台野球場でキャンパス側よりも遺構が残りますが、中田加賀守御廟所の階段は封鎖されているので、野球場の下の人工的に切岸にされた谷底の道を左回りに進みます。
CIMG9308
すると・・・
KIMG0502
直ぐに左手に最初の堀切が見えます。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の場所です。でもココは登るの面倒くさそう(笑)なのでスルーします。
CIMG9314
もう少し進むと❝普通部の森❞と名付けられた谷が有ります。
位置的にはの空堀の間の扇形に凹んだ窪地(くぼ)です。
CIMG9316
白いハンドボール部の建物が普通部の森の遊歩道入口の目安に成ります。
CIMG9315
ここから登って行くと上の野球場とアメフト場の台地に出れます。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
恐らくここも空堀で東西に丘をブった切った堀切だったはずですが、上のアメフト場の造成の時に重機で空堀の土を幾らか削り出されて、ココの堀切のアメフト場部分を埋め立てたのだと思います。
それ故(ゆえ)に防御力が低くなる傾斜の少ない地形に今は成っているのかも知れません。
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しかし帯曲輪にも見え、現代の掘削なら遊歩道を真っすぐ付ければ良いのですが、階段よりも緩やかな路盤は右に折れて削平された土地と、今の遊歩道を進むと食違い状の大空堀④の真上のアメフトグランドに出る事が出来ます。
谷上城址最初の谷 久良岐のよし
の食違い状の大空堀が弓道場やボクシング部の道場が在る谷です。
普通部の森はアメフト場の左右をブチ抜いた堀切だった事が衛星写真だと良く解りますね。また、堀切右側の普通部の森は城としては不自然になだらかに左手内側に向かい逆扇型に整地されている事も解るので、やはり上のアメフト場の建設時に堀を埋める空堀の土を削り出した跡かも知れません。
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の谷、弓道場の更にもう一つ南側の谷が⑥の蝮谷と呼ばれているようです。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
その蝮谷との谷の間の地形も同じく扇谷上杉家と北条家が改修した小机城に同地形の空堀と空堀を繋ぐ細長い曲輪の防御構造が存在します。
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上は小机城の縄張り図、この小机城②や③の部分と・・・
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
・・・谷上城址である慶応大学日吉キャンパスの弓道場の谷と蝮谷の間の構造に酷似しています。
小生は恐らく谷上城はその部分、現在の慶応大学自動車部の敷地辺りが本丸だったんじゃないかな?と思いますが・・・
自動車部推定矢上城本丸? 久良岐のよし
でも慶応大学付属高校側の城の構造は現在では失われて確認できないので、其方側にも複雑な土塁やなんかが更に広大に広がっていて主郭だったかも知れませんね。
・・・普通に考えて主郭は余り大きくなく、外曲輪が一番大きく内側に來るほど小さく成ります。
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野球場やアメフトグラウンド側は現代の地形ではない、やや斜面がかった有る程度の広すぎないけど建造物を作ったり百人単位の兵士を駐屯されれる削平地が何段か存在します。
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誰もいない野球場からは元住吉や武蔵小杉方面が見えました。あちら側は戦国時代には蒔田吉良家の領地。
小生は現地に行くまで、迅速測図や色別立体図の地形からアメフトのグラウンド辺りが本丸だったかな?と推測していたのですが、慶応義塾大学高校の辺りと慶応大学の立派な陸上グランウンドの間の崖地も立派に裾切りされて崖に成っていたので、意外と宅地化された辺りも防御構造が豊富だったのかも知れません。でも扇谷上杉家の城の構造だと三浦半島の新井城址=油壷マリンパークを参考にするとやはり野球場やアメフト場や自動車部の在る側が重要だったので手薄な西側を厳重に大空堀で幾重にも断ち切り敵の侵入を防ぐ構造体を作っているのだと思います。
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一応、弓道場の横には住民も使う生活道路に降りる林道みたいな道が有りますが、今は学生は余りこの道を使っていない様です。
CIMG9332
弓道場の前に降りて自動車部側の複雑な大空堀に挟まれた重要そうな曲輪跡を見上げる所に何の神様かは判りませんが石祠が有りました。昔は神社でもあったのかも知れませんし、城跡なので諏訪神社や八幡様が祀られているのかも知れませんね。
弓道部の学生達は城跡の神様なのだから、この石祠の神様を大切にしたら武芸上達するんじゃないのかな~?日本文化の一部だから大切にしてあげて欲しい。
さて、ここから自動車部側に行きたい所ですが実際は登れません。てか登ったところで上にはフェンスが有って削平地に出られない(笑)。
そちらの側に❝弥生式住居跡群❞も在る事は解っているんだけど。困っていたらカメラを首にかけた絶対に怪しい小生を優しい慶応大学の女子大生が道案内を買って出てくれた。
ヒルサイド日吉側登城口 久良岐のよし
やはりボクシング部や弓道部の大堀切からは直接自動車部の方には登る道は無いそうで、そこの堀底道から階段を降りて一度、日吉町宮前自治会館側の平地に出てから、ヒルサイド日吉と言うアパートの裏の凄く目立たない階段を再度登らないといけないそうだ。
CIMG9333
こんな場所絶対に一人じゃ分からね~(笑)。
ありがとう!親切な慶應の女学生さん♪
この道も武者走りと思しき構造なんだけど、その話の前に④の谷の事を構造を考えたい。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
現地に行く前はの大空堀には自動車部の削平地とアメフト場の削平地を結ぶ❝引き橋❞が平時には掛かっていたんじゃないかと思ったけれど、良く考えると台地上は当時は人が住むには適さない場所だったからコストのかかる木製の橋を作る重要性が有ったかは疑問で、だとすると土橋が存在したのを弓道場を建設する際に切り崩してしまったんでは無いかと思い、帰宅して迅速測図を見直した。
矢上城址弓道部の大堀切④ 久良岐のよし
すると何やら完全に分断はされておらず、土橋の名残らしい距離感の等高線が刻まれていた。
恐らくこの構造からすると、やはり大堀切で断ち切られた自動車曲輪(笑)とアメフト曲輪(笑)には両者を繋ぐ土橋が有った様だ。今は底を断ち切ってしまったので、日吉四丁目側から箕輪町一丁目側に行くのに野球グランド側から丘伝いに行く事が出来ず、一度、日吉五丁目に降りてから階段を上がらなければいけなくなってしまったらしい。
CIMG9334
でもここ、アパート側の階段こそ現代の構造と道の付き方で判るんですが・・・
少し進むと途中から竪堀状の構造に付けられた武者走り城の道を利用した生活道路なのが解かった。
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登りながら途中で複雑な合流地点が有ったので「ん?これU字に掘られた竪堀の堀底道じゃね?」と思って少し道の横の藪を観察して見たら・・・
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ビンゴ!腰曲輪状の削平地が存在。絶対に現代人はこんな狭い湾曲した削平地をわざわざ作らない。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
ここがの場所。
城址を竹林にするのも土留めの為の昔の人の知恵。
CIMG9342
手前側U字に崖側面を抉(えぐ)った竪堀を挟む様に前後に削平地が有る。上の写真、見にくいかも知れないけれど奥にも削平地が有る。
そして、階段横の削平地が城だった当時を彷彿とされる物がたまたま現代にも存在した。
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境界を仕切る木柵が板塀になっていて、戦国時代の城の防御体を下から見上げている様な、竹藪を丸裸にした姿を想像すればリアルな復元城址みたいに成ってる(笑)。
因みに、日吉五丁目から登って来る階段の中腹で面白い物も見れた。
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丁度、新幹線の架橋線路のトンネルの真上!
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なのでコンナ写真も撮れた!
この新幹線の線路の真直ぐ先に見える丘が古代から水が湧き縄文時代から人が住んだ遺跡が発掘され天皇家の崇敬を集めた師岡熊野神社の森だな。つまり、綱島街道を押さえる陸路の要所である事を知れる指標になるのが谷上城址から見た新幹線の線路の先の森だったりする。
CIMG9344
上に出た。何か自動車部の方は入れなかったので取り合えず進んで見る。
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分かれ道にも微妙な勾配が有る。でも緩やか。
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テニスコートの横に大空堀状の地形をなだらかに盛土して作った様な住宅街。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
迅速測図で見るとやはり箕輪町一丁目の大空堀だった。ここ、迅速測図では判り難いが実際は鍵状L型に人工的に抉られてて、やはり自動車部側への侵入経路を狭くする構造に成っている。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の間が自動車部。今見てるのはの谷。
CIMG9349
宅地化されてない部分は角度がキツイまま。
慶應大学寄宿舎 久良岐のよし
そこをもっと南側に戻って進むと慶応大学の寄宿舎のある削平地に出る。
恐らくこの慶応大学寄宿舎の有る場所も曲輪だったと思うが、斜面を大胆に削ってしまってるはずだし、こちら側は防備の堅い断崖の北側と東側と異なって西側の坂から侵入経路に成ってしまう。なので小規模な曲輪がいくるも有った筈で、その曲輪の削平地が住宅地に成って行ったのだと思う。
因みに寄宿舎の庭からも新幹線が見える。
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むしろアングル的に斜めで、ここからの方がカッコよい新幹線の写真が撮れる。
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写真が良くないのは小生の腕がショボいから(笑)。
慶応義塾大学付属高校周辺 久良岐のよし
そこから慶應義塾大学付属高校を経由して大学側に行こうとすると、途中に弥生時代の住居跡が在る。
・・・と言うか、看板が有ると言われたのだが、何処にも見当たらず解らんので地元の御婦人に質問した。
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そしたら、このコンクリで固められてるのが竪穴式住居跡らしい。
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こんなん看板無いと解らん!小生、小さい時から縄文遺跡で遊んで育ったので山の中でも地面の凹みだけで住居跡判るが、こんなコンクリで固められてたら逆に解らんし!
でも面白い物が横に有った。
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たぶん、第二次世界大戦中の海軍の地下基地の遺構。通気口だと思う。コンクリートの劣化具合から判断したのと、こんなん意味不明な構造物他に無いわ(笑)。
ここを通り過ぎる。
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物凄く綺麗な慶應大学日吉グラウンド。・・・県立高校とは違うね。
少し住宅街の道路を通り慶應大学の校内に復帰する途中、可愛い洋館が在った。
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慶應大学のキリスト教会らしい。多分、昭和初期とか大戦後直ぐに作られてると思う。山手地区の洋館街の建物と外観の古さ比較したらそんな感じ。
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慶應大学の陸上競技場が下に有るんだけど、やはり古い地形が残る部分は人工的に裾切りされている。
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ので崖地。
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腰曲輪状の部分も有ったけど詳細は当然不明。
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慶應大学をゆっくり散歩しに来たの初めてだけど、高校も立派!なんかアメリカのゴシック建築の美術館かなんかみたい。
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映画の撮影にも使えそう。
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凄いね。横浜市中区の日本大通りとかだと、こんな感じの古い近代西洋建築沢山有るけど、それが高校なんだもんね(笑)。頭良くないりそう嫌味じゃなく(笑)。
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天文台まで有るし!
まぁ~そんな訳でだいたい、主だった谷地形と曲輪らしい場所を略(ほぼ)一周して来た。
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後は一の谷を降りて保福寺に戻るだけ。
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てか「東急グループよ~、官僚の子弟のいる慶應大学でだけ自然保護アピールですか(笑)?」あなた達は今現在、横浜市最大最後の蛍の群生地の磯子区~栄区~港南区~金沢区の円海山瀬上沢と同所の関東最大の蹈鞴製鉄遺跡の深田遺跡を開発の為に破壊しようとしてますよね~?
何の偽善ですかイヤらしい。浅ましいにも程がある。
コレな⤵
東急建設による蛍生息地と日本国内最大級のタタラ製鉄遺跡破壊計画を暴露します。
瀬上沢一帯に広がる日本最大級の蹈鞴製鉄遺跡の紹介パンフ転載。
円海山で蛍が観察出来る季節です。横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。
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東急の金持向け偽善の谷、一の谷を降りる。
ここを大切にする前に、横浜市の自然保護や日本レベルの貴重な蹈鞴史跡の歴史文化的な価値観を考えるなら、早く瀬上沢開発案を中止できる様に横浜市に代替地を要求したり、県内外の蹈鞴製鉄と古代史の専門家を連れて来て第三者による発掘調査しなさいよ。やらせたのヨコハマふるさと歴史財団って、よく貴重な遺跡を破壊容認する所でしょうよ(笑)。開発利権と密接な稲川会系埋地組組長の息子が最大支援者の某市長とズブズブだな~!
赤字事業なんだから、ちゃんと担当者は自分の責任隠さないで総本山に報告しなさいよ、それで経済世民、継往開来を実践して日本を守った東横神社の渋沢栄一公に謝れ!東急建設が円海山でやろうとしてる事は渋沢栄一公が嫌悪してた極左唯物主義者や無道徳な極右政治団体と同じだわ!
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ここを抜ければ保福寺に戻りますよ。
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さて、皆さんにも慶應大学に矢上城=谷上城の遺構が今も地形として残っている事が伝わったでしょうか?

皆さんの御近所にも必ず御城が在ったはずなので、興味が有る人は少し日本城郭大系と言う本を大きい図書館で調べて見たり、ネットで情報を見て見るのもいいかも知れませんよ!
まぁ・・・日本城郭体系はある種の「配慮」からか、実際より城規模を矮小化したり触れていない御城すらありますが。
でも地元に凄い殿様と関係の有る場所が有ったと解かれば、皆さんも郷土愛が深まると思います。

ですから是非、地元の神社仏閣や御城の跡の山や公園を散歩してみては如何でしょうか?

余談だが中田加賀守公の一連の調べ物で取材してた事も有り、保福寺の御住職や保土ヶ谷区の中田家の菩提寺の正觀寺の御住職に期間限定の御朱印とかお茶菓子とか沢山頂きました(笑)。
本来は中田加賀守公の所属した北条家の小机衆と言う軍団の軍団長だった笠原信為公や笠原康勝公の与力武将達所縁の寺院、旧小机領三十三ヶ所霊場の保福寺でも普段は御朱印をやってない御住職様からも御朱印を頂けた。
正觀寺の観音様の御開帳は来年なんだけど御住職様からも色々と親切にして頂いて、何だか中田加賀守公に「良く来たね~」と言われてる様で嬉しかった。
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殿様から御褒美を頂いた様に感じとても嬉しい。
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しかもこの前日は久しぶりに港北区鳥山の三会寺の御住職に会いに行って、真言宗の大僧侶、印融法印様の非公開の肖像画を拝見させて頂けたりした。

小生は殿様をリスペクトしてるから、殿様達が関係した神社仏閣に文献に残らない話も有るかも知れないと人に会いに行って見聞きしたり、御子孫に会ったりするんだけど・・・こういうささやかな御褒美みたいな事が有ると嬉しいね、やっぱり。

では又、次の記事で御会いしましょう~♪




















ネットで横浜市には武将もいないし城も無いと言う無知な人の書き込みが有るのを見かけたので、知らない人の為に有名な人達が居城した城が沢山、横浜市内に在った事を列挙してみようと思う。

平安時代末期~鎌倉時代末期

源範頼公・・・鎌倉武士団の北関東軍団長
※平安時代末期~鎌倉時代前期
埼玉県比企郡吉見領主
・・・源頼朝公の腹違いの弟。武将としての軍才に兄弟中最も優れていた名将で大軍団を任され敗戦する事が無かった。当初は源頼朝公の南関東武士団とは別派閥の北関東武士団から大将として人望を集めた。源頼朝による幕府の成立以前、まだ関東の平定戦が行われていた頃には常陸国の志太義広率いる三万の大軍を、与力の小山家と共同で撃破している。
平氏追討戦線では常に堅実な戦果をあげ平氏を滅亡寸前まで追い詰めるが、政権内での政治的な背景があり壇之浦の合戦では弟の源義経公に職務を引き継いだ。結果的に源義経公は朝廷と接近し過ぎる等の政治的な姿勢が鎌倉幕府内で武士団から反感と不信を産み対立が表面化、鎌倉幕府へ反乱を起こす事になる。
源範頼公も南関東武士団と北関東武士団の権力闘争から北条家の謀略に巻き込まれ吾妻鑑では殺害された事に成っているが、実際は横浜市金沢区の太寧寺での蟄居中に自ら切腹した。当時の太寧寺の所在地は関東学院大学の敷地、昭和初期の大戦中に海軍によって飛行場建設の為に現在地の金沢区片吹に縮小移転させられた。
神奈川県での菩提寺は金沢区太寧寺。

佐々木高綱公・・・長門守護・備前守護
※平安時代末期~鎌倉時代前期
横浜市港北区鳥山城主、川崎市川崎区川崎館城主
・・・宇多源氏佐々木氏、宇治川合戦等で活躍した名将。
鳥山八幡宮と背後の鳥山が鳥山城跡と伝わる。鳥山八幡宮の前には旧街道が通り、近くには源頼朝公から高綱公が恩賞として授けらた名馬の池月を埋葬し奉った馬頭観音の祠がある。
また、源頼朝公の命令で鎌倉の北東の鬼門の街道上に当たる鳥山を佐々木高綱公が任せられた際に頼朝公の名代で鎌倉鬼門鎮護の寺院として開いた三会寺も存在する。三会寺の寺紋は源頼朝公に使用を許された源氏の笹竜胆の家紋。

佐々木(六角)泰綱公・・・近江守護 
※鎌倉時代前期
佐々木高綱公の兄佐々木定綱公の嫡孫で高綱公の武蔵国域の遺領を継ぐ。
・・・宇多源氏佐々木氏六角家初代、神奈川区~港北区の新田開発を行った人で、六角橋地名由来の説の一つにも成った人。
子孫には六角定頼公等、太平記や信長公記等の軍記書物に登場する名将が多い。川崎市川崎区の宗三寺の梵鐘には佐々木泰綱公の奉納と記されていた事が記録に残る。

多田行綱公・・・摂津国総追捕使 
※平安時代末期
横浜市都筑区茅ヶ崎城主
・・・摂津源氏の棟梁。源義経公の功績と誤認されている❝鵯越逆落とし❞奇襲の実際の主導者。作戦立案は三浦一族で名軍師の三浦半島佐原城主佐原義連公だった。横浜市での菩提寺は都筑区の寿福寺。

和田義盛公・・・鎌倉幕府初代侍所別当 ※平安時代末期~鎌倉時代前期
横浜市港南区野庭関城主、三浦市初声和田和田城主、横須賀市吉井怒田城主
・・・源頼朝公の忠臣で鎌倉幕府成立時に軍事長官である侍所別当の初代に任命される。戦国武将の様な経済観念と築城技術を持っていて、彼の築城した城は何処も戦国時代の縄張りに近い平山城に食違い虎口を用いた上に江戸時代の城の様に港を城下に備えており、防衛だけではなく流通経済も掌握していた事が解かる。更に内陸の城も街道を押さえる場所に立地しており、城以外にも幕府成立以前に鎌倉街道旧道に
港南区餅い坂等の関所を設けて治安向上と通過税の徴収で経済的な利益を得ていた事が史跡から解る。武勇に優れた武将として有名だが、実は神奈川県内の義盛公関連の史跡を見て廻ると軍政家として実務力に長けていた武将だった事が良く解る。
菩提寺は三浦半島横須賀市長坂の無量寺、三浦市初声和田の白幡神社等。

金沢北条実時公・・・引付頭人・評定衆
※鎌倉時代前期
横浜市金沢区金沢城主、青ヶ台城主
・・・鎌倉幕府の引付頭人、評定衆として幕府の中枢で活躍した人物。日本初の私設図書館である金沢文庫を邸宅である金沢山稱名寺の隣の谷戸に開いた人物で、高い教養を持ち全時代の武士文化を通じて細川幽斎公をも上回る教養を証明する和漢の蔵書と仏具美術品を収集した人物でもある。その文化財は明治時代に金沢区野島に別宅を構え大日本帝国憲法を起草した伊藤博文公によって保護され金沢文庫は現代では日本のみならず中国台湾のシルクロード研究等の歴史学者からも❝東日本の正倉院❞の異名で呼ばれ、大量の古文書を保有する博物館の神奈川県立金沢文庫に継承されている。
子孫は六波羅探題として関西地方を統治する役割を担った。
菩提寺は金沢区称名寺。

金沢北条顕時公・・・引付頭人・評定衆
※鎌倉時代後期
横浜市金沢区金沢城主、青ヶ台城主で北条実時公の子で跡を継いだ。
・・・幕府で重鎮として舅の安達泰盛公と主君で本家の北条貞時公の時代に活躍したが、北条貞時公の内管領である平頼綱の陰謀で安達泰盛公が攻め殺されると自身も下総国埴生の所領に蟄居(ちっきょ=謹慎)を命じられた。
菩提寺は金沢区称名寺。

金沢北条貞顕公・・・六波羅探題南方探題 
※鎌倉時代後期
横浜市金沢区金沢城主、青ヶ台城主で北条顕時公の子で跡を継いだ。
・・・鎌倉幕府の西日本を統治する機構の六波羅探題南方の探題を務めた人物で鎌倉幕府の重鎮だった。統治能力だけでなく教養が高く、兼好法師こと吉田兼好の兄が金沢北条家の執事を務めていた経緯から所領の金沢領六浦(横浜市金沢区)の浄願寺(上行寺東遺跡の跡地)に兼好法師が住職として長期滞在して金沢八景の景勝を遊覧した記録が、浄願寺の再興寺院である金沢区町屋の真言宗の龍華寺や日蓮宗の上行寺等に伝わる。鎌倉幕府滅亡時も重鎮として活躍し、兵を率いて小袋谷(こぶくろたに)方面から侵入しようとする新田義貞率いる倒幕軍を一歩たりとも巨福呂坂(こぶくろざか)切通しから内側に侵入させず鎌倉城防衛網を堅守し活躍したが、新田軍本隊が幕府軍の別部隊の守備する極楽寺坂の切通し方面へ回り稲村ヶ崎の干潮時に潮の引いた由比ヶ浜の海中から鎌倉市街に侵入された凶報を聞くと本家の北条高時公の籠城する衣張山~大町の名越城の防衛網の市街地側の山裾にある東勝寺で一族と共に自害した。
菩提寺は金沢区称名寺。

名越北条宗長公・・・能登国守護・安芸国守護・豊前国守護
 ※鎌倉時代後期
磯子区杉田領主(恐らく鎌倉幕府成立後は旧鎌倉郡と金沢領を除く横浜市全域が名越北条家の所領)
・・・名越北条家は本来は鎌倉幕府執権北条家の嫡流だが、父の北条義時公が再婚して腹違いの弟の北条泰時公が跡を継いだので家を相続する事が出来なかった。その火種が後々にも続き事有る毎に本家と成った北条泰時公の子孫の家系と権力争いをしたが祖先が本家から誅殺される事件が起きて以降は円滑な幕府運営に協力した。北条宗長公の頃には幕府の中でも三ヶ国の守護を任せられる等の厚遇を得ている。磯子区杉田にある臨済宗関東十刹の一つ、東漸寺は今では本寺の
東漸寺その物は巨大な釈迦堂と寺名を引き継いだ塔中寺院の真楽庵が残るのみだが名越北条家が支援した歴史が今に伝わる。

室町時代~安土桃山時代~江戸時代初期

足利尊氏公・・・室町幕府征夷大将軍(北朝)
横浜市神奈川区の権現堂(権現山)城に籠城
・・・旧東海道の通る神奈川区権現堂城に籠城し南朝と戦った。京急神奈川駅と国道1号線は権現堂城の権現山を掘削し掘り切った道で、以前は幸ヶ谷公園~江戸時代の東海道神奈川宿だった神奈川区台町の本覚寺にかけて全てが権現堂城だった。権現堂城は一般的に権現山城と呼ばれているが、戦国時代の間宮家の歴史から権現堂城が正しい名前である事が解かる。

足利直義公・・・左兵衛督(鎌倉府長官)
鎌倉城主(鎌倉市街地を囲む城塞群の歴史学的な呼称)、鎌倉郡秋葉郷領主(戸塚区東戸塚~品濃町一帯)
・・・兄で将軍の足利尊氏公の統治下で内政を担当しながら自身も軍団長としてかつやくした名将。観応の優乱で兄弟が北朝南朝に分かれ対立するまで活躍した。関東の統治を任されており、征夷大将軍しか住職を任命出来ない臨済宗鎌倉五山の大寺院5ヵ寺を保護し、現在の戸塚区品濃町界隈を5ヵ寺筆頭の建長寺の塔中に寄進した事が執事を勤めた斯波高経公の古文書に記録され伝わる。観応の優乱の後に暗殺され足利家の鎌倉時代の足利家邸宅跡の菩提寺鎌倉市浄妙寺に眠る。

ー以下戦国時代の人物ー

太田道灌公・・・扇谷上杉家家裁(関東管領代理)、相模守護代
東京都千代田区江戸城主、横浜市都筑区佐江戸城主、港北区篠原城主、南区太田館城主
・・・鎌倉公坊を支えた関東管領扇谷上杉定正公の執事を勤め、存命中は築城の名手としても名を知られ合戦では無敗を誇った名軍師。又、それまで武士の武具だった“大弓”を下級兵士にも配備し日本で最初に組織的な“足軽弓兵部隊”を用いた人物でもある。しかし主君の上杉定正公と鎌倉公坊に対する外交方針で軋轢があり伊勢原市に存在した大城郭の上杉家糟屋館の湯殿入り虎口で主君からの刺客に奇襲され七人の従者に逃げる時間を稼いで貰い宿所兼実務所だった洞昌院公所寺の山門まで退避したものの重症を負っており絶命した。
扇谷上杉家が古河公坊家から再度離反し北条家が扇谷上杉家討伐の大義名分を得て伊勢原市域から上杉家勢力が駆逐された後に、友輩の伊勢宗瑞(北条早雲)公と万里集九和尚により太田道灌公の首の無い遺骸が洞昌院公所寺に改めて埋葬され現在に至る。首塚は太田道灌公の鎌倉での私邸跡の鎌倉市扇ヵ谷鎌倉山に改葬され英勝寺初代尼住職で道灌公の子孫で徳川家康公の側室だった太田お梶=英勝院尼より首塚は守られ現在に至る。
菩提寺は伊勢原市洞昌院公所寺と鎌倉市英勝寺。

吉良成高公・・・左京大夫、左兵衛佐(鎌倉公坊代理)
横浜市南区蒔田(蒔田御所)城主、東京都世田谷区世田谷城主
10万石の勢力を誇った大名で太田道灌公と伊勢宗瑞公と臨済宗の高僧で雅人の万里集九和尚の共通の親友だった。特に太田道灌公との親睦が深く、戦上手な事が解る逸話が万里集九和尚の著書“梅花無尽蔵”で紹介されている。
太田道灌公が主君の上杉定正公に殺害されると上杉家従属下から離反し、同じく古河公坊を支えた北条家と従属同盟を結び北条家から姫を娶った。
暫時空白と成った鎌倉公坊代理を務めた。菩提寺は蒔田御所跡の城下に在る勝國寺。

吉良頼康公・・・左京大夫、左兵衛佐(鎌倉公坊代理)
横浜市南区蒔田(蒔田御所)城主、東京都世田谷区世田谷城主
吉良成高公の跡継ぎで高い内政力を持った高家大名。古河公方の跡継ぎだった足利義氏公が元服するまでの間、蒔田城で鎌倉公方代理を行った人物。家臣団には多摩川や荒川流域と東京湾の水軍衆が多くいる。物流によって高い経済力を保持した。房総半島の里見家や正木家の鎌倉市街地焼き討ちの際には、その家臣団と自らの権威で北条家に敵対する上杉方の大名にも鎌倉市街地と鶴岡八幡宮再建の資材や資金を供出させた上で、間宮家と協力し集積した材木を海運で5万人の人足を動員して間宮家の軍港だった杉田湊まで輸送する偉業を成し遂げている。
比較対照として織田信長公が安土城や二条城を建設した頃の領国石高は700万石超、対して当時の北条家の勢力圏は100万石未満だった頃に周辺の敵対勢力も外交的に屈服させて鎌倉再建の資材を供出させ集めた経済力と外交能力と権威は凄まじい。しかし全く合戦をしなかった小大名としても有名で、後に足利幕府が滅亡すると足利家一族の吉良家の権威も失墜したのか養子をとり北条家の姫と結婚させて隠居している。
世田谷のボロ市は頼康公の存命中に吉良家が北条氏政公に許可を貰って始めた楽市楽座が始まりで現在に続くイベントで無形文化遺産だったりする。
菩提寺は南区勝國寺と東京都世田谷区の勝光院。

多米元忠公・・・北条家五色備え黒備え大将
横浜市神奈川区青木城主(青木城は権現堂城の改修後の名前)
・・・北条氏綱公の代に三河国から移住して来た。父の代には父の元益公が今川家臣だった伊勢盛時(北条早雲)公の与力として❝伊勢七騎❞と呼ばれ今川家による松平家の居城三河安祥城攻めの頃に活躍していた事が多米家菩提寺の神奈川区豊顕寺の寺伝から確認出来る。一般的に父と誤認されている多米元興と言う人物は世代的に多目元忠公本人だろう。今川家による三河征服が失敗して松平家の勢力が拡張した事で領地を失陥し北条氏綱公の世代に小田原城に亡命して来ている。
後に北条氏綱公が危篤して山内上杉家・扇谷上杉家旧臣・古河公方が連合して北条家の河越城を攻めた際は、北条氏康公の軍師として❝日本三大夜戦❞と呼ばれ俗に河越夜戦と呼ばれる合戦で活躍している。
菩提寺は横浜市神奈川区の豊顕寺。

笠原信為公・・・北条家五家老の一人、小机衆副将、
北条五色備え隊白備え隊大将
横浜市港北区小机城代、横浜市港北区大曾根城主
・・・和歌等の文化教養に精通し外交官を務め、北条氏綱公の代には五家老の一人に数えられ五色備え軍団の内、白備え隊の大将も務めたので武将としての資質も高かった事が解かる。北条氏綱公による江戸城攻略の帰路、小机城代に任じられており、菩提寺は廃寺の神奈川区神大寺と伝わる。神大寺は支院の小机城下雲松院に現在では機能移転しているが、雲松院は笠原信為公が父君の笠原信隆公の菩提寺として開いた寺院でもある。
現在の菩提寺は港北区小机の雲松院。

笠原康勝公・・・小机衆副将、
北条五色備え隊白備え隊大将
横浜市港北区小机城代、横浜市港北区大曾根城主
・・・笠原信為公の跡継ぎ。北条家の織田家への外交使者を北条氏照公付家老間宮綱信公と供に務めた記録が残る。北条五色備え軍団の白備え大将を務め、小机衆大将の北条氏尭公等歴代の小机衆大将を補佐した。北条氏尭公は河越城に来襲した上杉謙信の大軍勢を撃退する活躍をした名将だった事から、その小机衆を実質的に取り仕切っていた笠原康勝公の武将としての資質も高かった事が解かる。
大曽根城下に龍松院を開いている。
菩提寺は港北区大倉山の龍松院と港北区小机の雲松院。

中田加賀守公・・・小机衆与力の官僚
横浜市港北区日吉矢上城主、川崎市高津区井田城主
・・・1560年頃は北条家臣として小机衆与力と成り内政を仕切った人物。元々は太田家の家臣だったと思われ、太田康資公が北条家から離反する以前は太田康資公の陪臣として家禄を与えられていた。
江戸時代の昌平坂学問所(東大の前身)の地誌編纂所の間宮士信と言う歴史学者が「中田加賀守は吉良家の与力だった」とも書いているので、小机衆に成る以前か、後に吉良家の与力として編成されていた時期も有った様だ。最大時には三万石相当の所領の代官を務めていた事が中田家関連の各所の寺院で伝えられている。中田加賀守の姫君の鶴野姫は北条家の港南区野庭関城下に住した下総国臼井城主名代で臼居衆を率いて武田信玄との三増峠合戦に参戦した臼居胤知公の妻女となる。
菩提寺は港北区日吉の保福寺と保土ヶ谷区東川島の正観寺。

間宮信冬公・・・古河公方家臣で小田原北条家与力相模十四騎筆頭
横浜市神奈川区権現山(権現堂)城主、鶴見区末吉(下末吉~上末吉~三ッ池)領主
・・・初期の小田原北条家臣団の中で相模十四騎と呼ばれた旗本中、筆頭の相模十四騎筆頭と呼ばれた武将。権現山城の戦いと俗に呼ばれる伊勢宗瑞(北条早雲)公と小沢城に逃げた扇谷上杉朝興公の残党の戦いで活躍し一騎駆けをして敵中に突撃した武勇が記録に残るが生死は不明。年代的には子息ではない親族と思われる間宮信盛公が間宮家の頭領と成っている。
尚、この時に反上杉家として北条側に内応した上田家と供に籠城した❝権現堂城❞だが、一般的に権現山城と歴史学者には呼ばれているが正しい名称は権現堂城と言うのが横浜市港南区の真言宗福聚院の寺伝に伝わっている。同地に籠城した間宮家臣の子孫には修験道の大家である権現堂松本家がいる。この松本家には間宮家子孫で江戸時代の間宮家の家譜から笹下間宮子孫の武内家の更に祖先で間宮家からも養子が入っている事が確認出来る。権現堂家は元修験道の法印で明治以降は社家と成った家で、元は鎌倉時代に鎌倉市扇ヵ谷地区の亀ヶ谷に所在した修験道の大道場で源頼朝公から深く信奉された修験道門跡寺院の亀谷山福禅寺の名代を室町時代に務めた権現堂の別当家に当たる。同じく頼朝公が信奉した修験道鎌倉山崎泉蔵坊から機能を移転した大靈山泉蔵院桐谷寺(現:熊野神社)が間宮家の旧領の磯子区中原に存在するが、江戸時代を通じて権現堂が旧久良岐郡の修験道系神社仏閣の大半を統括し、残りを泉蔵坊が管理した歴史が有る。
その権現堂松本家の深く関わった横浜市港南区の真言宗福聚院は明治の廃仏毀釈で鎌倉時代の福禅寺の本尊だった不動明王を権現堂家から譲り受けているが、福聚院の寺伝で「権現堂家は❝権現堂城の権現堂合戦❞で戦火に遭って港南区域に移転して来た」と伝わる事から権現山城の名は後世に❝権現堂の跡の山の城跡❞から伝え間違えられ江戸時代の風土記を元に現代の歴史学者が呼び始めた名前である事が名白。又、権現堂城跡は後に青木城として改修され北条五色備え軍団の黒備え大将を務めた北条家の名軍師である多米元忠公が城主を務めた。
菩提寺は鶴見区下末吉の宝泉寺。

間宮信盛 宗三公・・・古河公方家臣→小田原北条家臣相模十四期筆頭
横浜市磯子区杉田領主、川崎市川崎区堀之内城主
・・・権現堂城の敗戦で間宮家所領の久良岐郡杉田郷(磯子区杉田~中原~森~峯~洋光台~港南区の旧鎌倉郡を除いた地域)に退避して来て以来、杉田郷を間宮家の本拠地と定めた。
この人物を権現山合戦の間宮彦四郎とする説も有るが、その場合、間宮家の歴代当主は彦次郎(※次は継ぐの意味)を名乗るので、俗に権現山合戦と呼ばれる合戦で間宮彦四郎と名乗った事と整合性が無くなる。
菩提寺は川崎市川崎区の宗三寺。

間宮宗甫公・・・北条氏康公奏者(秘書)
神奈川区斎藤分(斎藤分町~白楽)、横須賀市紺屋(西浦賀)領主
・・・北条所領役帳に奏者として北条氏康公に検地の報告等を行っている事が確認出来る。北条氏康公の直属だったが西浦賀を領有している事から北条家の初期段階の軍団編成では北条氏康公の実弟で早世した北条為昌公本光院殿が三浦半島も統治していた様なので、元々その与力だった可能性が有る。
子孫は今も斎藤分町に多数在住している。間宮家は水運の要所を拠点にしており、水軍も持っていた事から間宮宗甫公も神奈川区神奈川と横須賀の西浦賀で水軍を管理していたと考えられる。
斎藤分町の間宮一族菩提寺は神奈川区三ツ沢西町の豊顕寺。

間宮康俊 宗覚公・・・小田原北条家五色備え軍団、黄備え隊玉縄衆付家老
横浜市磯子区~港南区笹下城主。
・・・北条氏康公の義弟で関東最強の武将だった北条綱成公の付家老を務めた人物。里見家正木家等の房総半島の大名による鎌倉焼き討ちの後の鶴岡八幡宮再建では間宮家の杉田湊に材木を集積して鶴岡八幡宮に海路輸送しているが、寄親の北条綱成公が材木奉行だった事から実務を間宮康俊公が取り仕切っていた事が解かる。その為か鶴岡八幡宮再建では北条家一族と共に築地塀の奉納する事を許されている。
合戦でも活躍しており、小田原北条家滅亡時も箱根山中の山中城に当時の玉縄衆大将の北条氏勝公や城主松田康長公と兵3000で籠城するが、北条氏勝公が籠城兵の大半を率いて所領の玉縄城に逃亡してしまう中で自身は手勢200騎を率いて松田康長公の手勢と合わせて兵300で敵軍豊臣秀次公の2万6千の大軍を迎撃し、敵大名の一柳直末公を討ち取る活躍をしている。この戦いでは同じく北条家臣の長谷川近秀公や多米長定公も討死している。
間宮康俊公の戒名は江戸幕府の寛政重修諸家譜を編纂した役人が誤って年代的に康俊公の父君に当たる信元公の戒名である❝宗閑❞としているが、これは明白な誤りで、横浜市南区の弘明寺の江戸時代の扁額や間宮家菩提寺で信冬公が開基して康俊公が再興した鶴見区下末吉宝泉寺の江戸時代の記録からも寛政譜の通り❝宗覚❞が正しい戒名である事が解かる。
娘の於久が徳川家康公の愛妾となり駿府城で姫を産んでいるほか、嫡孫の間宮直元公が徳川幕府初代の但馬奉行生野銀山代官を務め、更に二代目佐渡金山代官、本牧奉行(横浜市南部の支配)を務め大坂城攻めで生野銀山衆を率いて参戦し真田丸や総掘りの埋め立て作戦を徳川家康公に進言した名軍師として記録に残る。
間宮康俊公の菩提寺は鶴見区下末吉の宝泉寺、江戸幕府が戒名を誤って開いた菩提寺は三島市山中城跡の宗閑寺。
間宮直元公の菩提寺は間宮直元公の彫像を奉る御神廟が昭和初期まで在った磯子区田中の妙蓮寺。

間宮綱信公・・・滝山衆与力北条氏照公付家老、安土桃山時代の北条家外交官。
氷取沢陣屋領主(江戸時代)
・・・名前に間宮家が与力した玉縄城主北条綱成公から一字頂いている。自身は北条氏照公の付家老として日本100名城の一つ八王子城の設計者と伝えられる。内政を担当した記録が残るが北条家の外交官としても活躍しており、小机城代で白備え隊大将の笠原康勝公と共に織田信長公への使者を務めており、面会して褒美を賜わっている。安土では滝川一益公に接待を受けて上方を観光した記録が残っている。
徳川家康公と直接面識が有り、北条家滅亡後に小緑では在るが間宮家旧領の内磯子区氷取沢を与えられている。子孫に昌平坂学問所で頭取を務めた学者の間宮士信がいる。
間宮綱信公の菩提寺は磯子区氷取沢の宝勝寺で、同寺には伊藤博文公の武士時代の遺品も残る。
間宮士信公の菩提寺は千葉県八千代市の観音寺。

間宮信繁公・・・北条氏康公の御馬廻り衆、江戸幕府初代鷹匠頭
小田原市水尾城代、磯子区杉田(杉田~中原)領主
・・・始め北条家臣として間宮家の杉田湊を預かった。間宮信繁公の頃には笹下城主間宮家からは完全に分家して別家として成立していたが、当然ながら一族間で交流は有ったので関ヶ原合戦には徳川家康公の参謀、鷹匠頭として手勢50騎の鷹匠部隊全員を鉄砲で武装させ参戦しているが、この鉄砲は金山銀山の代官として実高5万石を誇った笹下間宮本家の財力で賄われている事が経済規模から解る。その鉄砲で武装した鷹匠の特殊部隊を率いて南宮山の毛利本隊を偵察して徳川本隊の前進行軍の本陣移動を上申し、それにより間宮家と同族の黒田長政公が行った小早川秀秋公の西軍大軍勢の徳川方への寝返りを成功させた名参謀でもある。この時の功績から江戸幕府成立後に徳川家康公が関東で鷹狩を行う度に関ヶ原の功績を話に挙げては鷹匠衆の家禄を増額した記録が残り、最終的に杉田間宮家は2000石の大身旗本に成り、歴代が徳川綱吉公による生類憐みの令発布まで江戸幕府の鷹匠頭を務めた。
菩提寺は杉田妙法寺。

安藤良整公・・・内政に長けた北条家中最高の名奉行
横浜市港南区野庭関城代
・・・善政を行った北条家でも特に内政に優れた武将として広く知られる。村同士の水利権争いを調停する等の北条家領国運営に寄与し、税率40%と徴税権が抑制され豊かではない北条家臣団が領民の百姓達から不当な搾取を行えない徴税システムを確率した。安藤升と呼ばれる徴税に用いる計測用の規格を北条家臣団の標準化させる等の公正公明な徴税機構を成立させた。
江戸時代の画家、歌川広重は好んで旧北条家所縁の地を描いて廻り、本名が安藤広重である事や名に古河公坊所縁の“重”の一字がある上、画の師匠は歌川=宇田川と同じく北条家臣団の子孫の姓である事から安藤良整に連なる人物かも知れない。

石巻康保公・・・北条氏康公、氏政公、氏直公三代の御馬廻り衆の重臣
横浜市港南区野庭関城代
・・・旧相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の国境で平安時代の鎌倉街道古道を守備する位置に鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛公が築城した野庭関城を戦国時代の北条家臣として城代を務め治めた人物。他大名家との外交官も務めた重臣。北条家滅亡後に早い段階で亡くなり、跡を弟の石巻康敬公が継いだ。
石巻康敬公は泉区中田を領有し江戸時代に土地開発を行い重税を課さず善政を行ったと現在も御当地に伝承する。
石巻家の江戸時代以後の菩提寺は泉区中田東の中田寺。

板部岡江雪斎公・・・北条家寺社奉行で外交官、豊臣家御伽衆
横浜市緑区長津田領主
・・・実家の田中家から板部岡康雄(実家は石巻家)に養子に入った人物。北条家の祐筆であり寺社奉行を務めた経緯で北条氏直公の代には北条家の外交を代表する人物に成り、豊臣秀吉との外交折衝に当たった人物として有名。武将としての事績は余り残らないが、外交能力が高かった事から北条家滅亡後に豊臣秀吉に抜擢されて山名家等の名族と並び御伽衆に登用されている。大河ドラマや小説にも良く登場する人物。
菩提寺は緑区長津田の大林寺。

宅間上杉規富公・・・初代関東管領の末裔
横浜市港南区伊予殿根永谷城主、旭区本村の二俣川陣屋領主。
・・・祖先は足利尊氏公の母姉妹の子孫で室町幕府初代関東管領を勤めた家系。鎌倉公坊に忠節を尽くし室町幕府の勢力争いに巻き込まれ永享の乱で宅間上杉家は勢力が縮小した。しかし家名は存続し古河公坊家臣から北条家臣化し、宅間殿と北条家の歴代当主から敬称で呼ばれた。安土桃山時代に成ると宅間上杉規富公が三崎城主と成った北条氏規公の付家老と成った。そのせいか宅間上杉家関連の神社仏閣の檀家氏子には三浦半島所縁の苗字を姓にする一族が多い。
徳川家康公の江戸入城時に小録ながら登用され旭区二俣川~本村一帯の領主と成った。徳川幕府の外交官として徳川家を代表し伊達家への使者も務めた。
菩提寺は旭区本村の三仏寺。


瀬上沢と言う横浜市最大最後の蛍の生息地が在り例年5月~6月は蛍の乱舞が観察できるのですが、東急建設と横浜市都市計画課と林文子市長が❝日本最大規模の蹈鞴遺跡❞もろとも破壊しようとしています。
教育委員会も建設関連部署との市庁舎内での部局間の政治力の問題で以前の市長の施政時代と異なり保護を強く市長に対して上申出来ない状況が発生しているそうです。
今回の試掘でも教育委員会の埋蔵文化財センターは発掘調査を一部だけ行い、全国の蹈鞴製鉄や工業史の学者や考古学者や製鉄文化の専門家に通知せず開催しました。それどころか遺跡が出土した主要な場所は埋め戻し公開せず、丸で日本全国の歴史学者や製鉄や工業の文化関連の有識者の耳目に触れない様に画策したかに思わる様に周辺住民が参加する慎ましやかな規模のまま説明会を行いました。
しかし林文子市長が統治する以前の横浜市長の施政下で教育委員会が行った試掘調査の資料を公開しており、それを元に瀬上沢の自然環境と合わせて猿田遺跡と深田遺跡の保護活動を行っている皆さんが作成した資料の転載の許可を頂いたので如何にスキャンした資料を添付し皆さんに紹介します。
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SAVE THE SEGAMI!ホームページ→http://savesegami.com/
瀬上沢の蛍生息地域と上郷猿田遺跡・深田遺跡の保護活動団体

下の衛星写真には蛍の生息範囲や蹈鞴遺跡の出土範囲もわかる地点登録がされています。
Google earthでも誰でも見れます。
円海山瀬上沢流域ホタル群生地と上郷深田遺跡の森蛍群生地衛星写真
衛星写真と東急建設の破壊予定範囲を比較して見ましょう。
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
御覧の通り!東急が遺跡や蛍の生息区域の保護に配慮しているなんてのは真っ赤な嘘です!
完全に❝計画❞には遺跡と蛍の群生地の瀬上沢が入っており、森林の伐採で鉄砲水の危険が生まれる為に川の流路すら破壊して人工的に溜池を作る計画です。つまり周辺住民の安全すら脅かすような宅地計画の為に川と森を伐採し人口の溜池をつくり本末転倒な事態に計画その物が陥っています!
さて、この❝上郷深田遺跡を守る会❞の資料より詳しい資料は、発掘調査を行った❝横浜市埋蔵文化財センター❞と❝横浜市教育委員会❞が情報を持っていますので、見学なさりたい方や詳細を知りたい方、はたまた保護活動に参加されたい方は要望や保護陳情を伝えたい方もいらっしゃると思うので以下に連絡先を紹介して置きます。

公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター

東急建設株式会社

横浜市建築局都市計画課

林文子市長への陳情窓口 

市長の部屋 政策局秘書部秘書課

横浜市教育委員会庶務課

税理士による林文子後援会

林文子市長支援者の黒岩神奈川県知事の窓口
黒岩裕治事務所

林文子市長を推薦した自民党の横浜市選出の菅義偉官房長官
横浜市部事務所
〒232₋0017 横浜市南区宿町2₋49
TEL:045₋743₋5550 FAX:045₋743₋5296
suga.yoshihide@gmai.com

ここに名の掲載の有る方々にも立場があるので保護を表立って表明できないものの水面下では協力して下さっている方もいらっしゃるので“迷惑に成る嫌がらせ行為は行わないで”下さい。
自民党や公明党に関係する議員の方が多くいますが、当然ながら自民党にも瀬上沢と猿田遺跡深田遺跡の保護に熱心な方もいらっしゃいますが横浜市役所と東急建設のシガラミで表立って批判を出来ずにいらっしゃる方もいますし、自民党と対立軸の共産党にも多く保護を表明して下さってる方もいますが逆に言うだけ番長で何も実行して下さらない方もいらっしゃいます。

なので純粋に
集団見学の要請の他、関係先へは横浜市や神奈川県の❝オカカエガクシャ❞では無く日本の蹈鞴製鉄や考古学の権威による再調査要請や皆さん個人単位でも良いので保護の陳情を行って頂きます様に御願いします。

この保護活動には既に12万人の署名が集まっています。
菅官房長官の秘書官へも陳情を行ったのですが、菅官房長官の耳目にこの件が届いた形跡もないそうです。実は国の政策が変り、盛土による地形埋立土地開発が不可に決定したのですが、当該の瀬上沢と深田遺跡猿田遺跡の谷は横浜市の都市建設局のシガラミで東急建設さんは不採算事業にも関わらず撤退も出来ず、国の盛土建設否定政策が明示されても国の方針に逆らって盛土を推進するしか無く代替え地も用意して貰えないそうです。

党派を問わず自民党と共産党の政治家も保護に助力を表明して下さってる方もいます。自民党には反対に瀬上沢の貴重な自然と日本の遺産とも言うべき大規模蹈鞴遺跡の破壊を推進する法案を建議し通してしまった議員もいます。無論、自民党以外の議員にも賛成した議員はいます。
自民党の中区辺り選出の某国会議員の兄弟の市会議員が兄を通じて神奈川県庁が保護を指示していた瀬上沢区域を横浜市主導で開発が行える様に法案を通したせいで当該地域は昨年横浜市の林文子市長によって市街(緑)化調整区域から商業区域に登記を変えられてしまいました。

松本議員(あ言っちゃったwww)は横浜市南部の自然環境にも歴史文化や日本規模の遺跡にも全く興味が無い様で東急と林文子市長による最後の蛍大生息地の自然破壊と日本規模の蹈鞴製鉄籍の破壊に無頓着なのか意図的に法案を他の自民党議員に瀬上沢と日本有数規模の蹈鞴遺跡破壊を伝えずに通させてしまったのか分かりませんが、結果的に破壊容認を進めてしまいました。
対して高卒から一度就職してから夜間大学を卒業して政治家に成った苦労人の菅官房長官の地元の腹心的な瀬野間議員や田野井議員は保護に前向きだそうですし、党派を超えて共産党の皆さんも積極的に保護を訴えて下さってます。以前は民主党の議員も協力して下さっていたのに現在は民主党系議員は全く無関心に成っているそうです。
因みに瀬野間議員は室町時代初期の関東管領宅間上杉家の神社の氏子サンで、田野井議員の御先祖様は北条家臣の名将間宮康俊公の家臣の田野井家の御子孫です。

何で神奈川県選出、特に横浜市出身の政治家の皆さんは旧鎌倉郡に属す栄区と港南区に跨る横浜市に日本規模で貴重な大規模蹈鞴製鉄遺跡と、横浜市最大最後の自然と蛍の生息地が存在し、そこを完全保護すれば歴史的な偉業で後世に名を残せる上に12万人の票田に成り、更には瀬上沢と猿田遺跡深田遺跡の保護支援者12万人に留まらず円海山の保護活動を行う横浜市栄区民12万人・港南区民22万人・磯子区民16万人・金沢区民20万人の票田に波及し更に大きな支持を得る材料だと何故に気が付かないのでしょうか?
当該地域約70万人市民の内、瀬上沢の保護署名だけでも12万人です。
この活動は若い世代が加わりますので今年もの凄い速さで加速して波及して行きます。
左派の議員さんも口先の保護では無く実効性の有る協力をしないと信頼を失うし、仮に全国の左派系大学で考古学、特に渡来人と古代日本人が協力して文化を育んだ歴史の研究に熱心な学者さんに助力を仰ぐ等具体的な行動をして頂けて結果的に東急建設の瀬上沢と深田遺跡猿田遺跡破壊を止められれば、保護団体も日和ってる部類の自民党議員から票田を渡すとは何故に考えないのでしょうか?

・・・政治家の皆さん、そんなに横浜市民の為に自然環境と史跡を守るより港湾労働者のドンが怖いんですか(笑)?横浜市の第三セクターのFMヨコハマ、横浜スタジアム、TVKの経営トップが何で全部1人の林文子市長支援者の港湾労働者のドンなんでしょうか?
国会議員、県会議員、市会議員としておかしいとは思いませんか?
誰が市民の開発反対する瀬上沢開発の推進者か横浜市民は既に気が付き始めてますよ?
菅官房長官の秘書さん?何で菅さんに瀬上沢の問題が市民の反対票が凄まじい署名活動の数に成っている事実が耳に入らないんでしょうかね~?
さっさと菅官房長官に横浜市が部局越えて港南焼却場の跡地なり、埋め立て地なりに東急さんが瀬上沢の赤字事業を無理してやらなくて済む代替地用意できる様に横浜市に協力を要請して貰わないと東急さんも可哀相でしょ?

横浜市最大最後の蛍の群生地、瀬上沢。
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その瀬上沢と一帯の森林で繋がる遺跡。
タタラ製鉄遺跡の国内最大級関東最大規模、神奈川県内で唯一現存する遺跡の森。
瀬上沢西の森1112エンゼル

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以上遺跡や自然が東急建設及び東急グループによる破壊消滅の計画が進行中です。

下の衛星写真には蛍の生息範囲や蹈鞴遺跡の出土範囲もわかる地点登録がされています。
Google earthでも誰でも見れます。
円海山瀬上沢流域ホタル群生地と上郷深田遺跡の森蛍群生地衛星写真
衛星写真と東急建設の破壊予定範囲を比較して見ましょう。
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
御覧の通り!東急が遺跡や蛍の生息区域の保護に配慮しているなんてのは真っ赤な嘘です!
完全に❝計画❞には遺跡と蛍の群生地の瀬上沢が入っており、森林の伐採で鉄砲水の危険が生まれる為に川の流路すら破壊して人工的に溜池を作る計画です。つまり周辺住民の安全すら脅かすような宅地計画の為に川と森を伐採し人口の溜池をつくり本末転倒な事態に計画その物が陥っています!
円海山蛍の生息地 久良岐のよし
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概要説明

横浜市の有識者による開発可否決議で過半数が反対し、当該地の区民22万の内半数以上12万人の開発計画反対署名を横浜市“林文子”市長へ提出済みです。
しかし林文子市長に凄まじい数の反対署名が提出され東急建設も批判を受けながら民意を黙殺しました。
林文子市長と東急建設は開発をしたいが為か蛍群生地と遺跡の存在と重要性を内外に拡散周知せず、寧ろ林文子市長が市民の反対と歴代市長市民が守って来た遺跡と自然の蛍群生地の破壊容認する発言を行ったせいで、東急建設担当者による日本規模で貴重な巨大タタラ製鉄遺跡群と蛍群生地破壊計画が進行中です。     

1、平成3 1 年度

上郷開発に関する動き

平成 30 年

1月15日 

市都市計画審議会、多数決で都市計画方針の変更決定

3月15日 

横浜市都市計画方針の変更決定の告示

開発区域を市街化区域に編入、商業地区住宅地区等の指定


平成 31 年

 1 月中旬~ 

東急建設、開発申請に先立ち、製鉄遺跡試掘の為伐採開始

2 月~   

製鉄遺跡道路西側にもが存在するか試掘開始

神奈川県唯一、日本最大級のタタラ製鉄遺跡の存在は 30 年前の調査で判明している。


3 月 16 日 

試掘現場見学会実施、かなりの遺跡の存在が確認された。


2今後の予定

  

 4 月以降  

試掘結果により、本格的な発掘調査を行うか検討中

保存の重要性が区民以外にも知られる事が開発に不都合で消極的

発掘調査を行う場合は、 6 ヵ月から 1 年くらい要する


 5 月以降  

発掘調査を行わない場合、東急建設が開発工事申請

※東急建設及び東急グループの姿勢を見るに林文子市長と市教育委員会に邪魔をさせず規定路線にするつもりか?

        

横浜市建築局にて、開発工事申請書審査

市教育委員会が保護を上申しない。

横浜市は過去にも東大はじめ全国の学者が保護を要請した日本最大級の矢倉群と源頼朝公開基の浄願寺(上行寺東)遺跡も破壊容認し消滅させた前科有り。

審査項目:土木建築法適合審査、周辺住民の賛同、軟弱地盤の安全対策、

地盤問題

偏土圧

風害等


来年 3 月頃 横浜市、開発可否決定

  

来年 4 月頃 埋立て工事開始予定。

発掘調査実施の場合は約 1 年遅れる。

開発ありきで林文子市長と東急建設により計画遂行中

3 今後の問題

東急建設による埋立て工事申請後、工事説明会が行われる予定です。

上郷開発は、周辺住民の賛同を得なければ開発できないことになっています。

人口減少時代に突入し、新たな宅地開発は必要ありません。

一方温暖化対策には緑地の増加が必要とされています。

上郷開発が実行されれば、里山環境は失われ、ヒートアイランド化による温暖化、乾燥化、風害、生態系悪化など、周辺地域への直接的影響が現実のものとなります。また、市街地拡大は将来世代の税負担増となります。

周辺住民の賛同、軟弱地盤の安全対策、 30 年前の産業廃棄物を含む埋め立て地盤問題、偏土圧、風害問題、地主還元地で農業希望もあり市のまちづくりと不整合。

2015-01-31-16-04-09
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2015-01-31-16-02-50
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前回の記事⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説①
・・・城址(慶應日吉キャンパス)の地勢解説編。
矢上城地形 色別立体図&Googleearth合成久良岐のよし
前回の記事では・・・
1,北条家臣の中田加賀守が居城としていた矢上城の跡が現在の慶応大学日吉キャンパスや日吉駅一帯の台地である事。
2,その日吉の台地が城として防衛に適したとても険阻(けんそ)な地形である事。
3,矢上川や鶴見川と東京湾を利用した水運と交通の要所として経済活動でも重要な最良の❝地勢❞に当たる場所を押さえている事。
・・・この3点の内容を簡単に解説して見ました。
今回の記事は続きですが、引き続き国土地理院色別立体図に加え、実際の現地の写真を交えて御寺の歴史を紹介して行きたいと思います。

先ずは中田加賀守が城の大空堀部分に開いた保禅寺サンの現在の様子の写真と位置を見てみましょう。
DSC_0270
谷上山 保福禅寺(略称:保福寺)
矢上城址 日吉駅 久良岐のよし
保福禅寺サンは直線距離ですと日吉駅から非常に近い位置に存在しますが、旧境内地の丘や谷は大部分が慶応大学日吉キャンパスに成っていて駅から直接来る事は出来ず遠回りする必要が有ります。この慶応大学日吉キャンパス~日吉駅を挟んで反対側の丘の端っこまで城跡と推測出来る地形が今も現存しています。御寺の山号が❝谷上山(こくじょうさん)❞とされている事から、どうやら江戸時代には❝矢上❞と表記される様に成った矢上~日吉一帯の本来の地名は❝谷(たに)❞に❝上(うえ)❞と書いて❝谷上(やがみ)❞と呼ばれていた事が解かり、現在では矢上城と伝わる城名も本来は地形通りに❝谷上城(やがみじょう)❞だったと推測出来ます。
御城には殿様が祖先を弔ったり禅の道場として修行する御寺がよく作られました。保福寺サンも城の大規模な空堀だった谷底に存在しています。敵の侵入口とも成る空堀の先の坂道の手前で敵を迎撃する必要も有り、砦としても機能しながら人を住ませて常時警戒する役割も担う位置に保福寺サンが築かれた事が良く解ります。
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写真は保福寺サンの境内地で、現在は慶応大学に貸し与えてる野球場の城址側や少林寺拳法部の道場の空堀側に続く大空堀南側の岸壁です。
つまり戦国時代~安土桃山時代の廃城まで、この谷間の壁面の端っこから端っこまで塞ぐ形で保福寺の土塀が設置されていて、関東流の築城術である❝谷戸構え(やとがまえ)❞を形成していた事が解かります。ついでに言えば、ここは谷間の平地で入口を塞いでしまえば警備上も安全な上に当時は井戸を掘る技術が未熟で飲み水の確保が困難な台地上より居住し易い低地な上に矢上川を使えば船で鶴見川にでて更に間宮家の領地の鶴見川下流末吉や川崎館辺りで海の船に乗り換えれば主家の北条家の小田原城や、重要な江戸城にも直ぐに急行出来た交通の便の良さも判ります。
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御城の跡の慶応大学の野球場側からは保福寺の墓地が見えます。
余り御城や歴史に興味が無い人は・・・
「御城の中に御寺が在るのって変じゃない?」
・・・と思うかも知れませんが、実は鎌倉時代~安土桃山時代には良くあった事なんですよ!逆に室町時代なんかは御寺の立地が御城に適しているので御寺を移転させて御城を造る事も良くありました。代表的な例は戦国時代最高クラスの謀略家で梟雄(きょゆう=不正義な人)だった松永久秀公の居城の多聞山城が有名です。鎌倉時代から良くある事だったのですが、武家の学問所として臨済宗や精神訓練の場としての曹洞宗の禅宗が道場として機能し、それとは別に各武家に宗旨(しゅうし=祖先からの宗派)も両方とも大切にしていました。ですから面白い事に昔の殿様達の戒名には武士としての禅宗の法名と家系としての菩提寺の宗派の法名の両方が死後に戒名に併用されるケースも多々有りました。
例えば中田加賀守と一緒に黒駒合戦で戦った横浜市南部を治めた間宮家の末裔で、戦国時代から平和に成って色んな現代の文化の基礎が花開いた江戸時代の頃の人を戒名を例に挙げて見ましょう・・・

源朝臣 佐々木氏 間宮 孫太郎 俊信 入道 宗智
これは生前の名前です。この殿様の没後に和尚さんから贈られた戒名は以下の通りです。
正禮院殿 宗智 日惠 居士
〇〇院殿と言うのは家柄や高い役職ついて社会貢献した人物に送られる❝院殿号(いんでんごう)❞と呼ばれる名です。
❝宗智❞は禅宗の法名で一般的に曹洞宗で多く用いられる法名です。法名ですから、生前に精神修養の道場や学問所としての御寺で修行する際に貰う禅宗の弟子としての名前です。間宮家は鎌倉公方の家来を経て戦国時代には小田原北条家に仕えた武家なので、古河(鎌倉)公方家や小田原北条家の宗旨で学問所として機能してた曹洞宗と江戸時代に成っても深い関わりが有りました。
次に❝日惠❞は日蓮宗の法名です。日蓮宗の和尚さんに弟子入りして出家すると法名として❝日〇❞の様に❝日❞の名の付く法名を与えられる事が非常移多く有ります。家の菩提寺が日蓮宗だと没後に戒名として諡(おくり名)として付け加えられる事も多く有ります。この間宮俊信サンは杉田間宮家の一族なのですが杉田間宮家は室町時代に間宮本家から分家して以来ずっと日蓮宗の宗徒でした。
この様に武士の戒名からも現代と違って江戸時代迄は宗派間の争いも少なく平和で仏教同士だけでなく神社と御寺と修験道の道場は御互いに交流が有り、当時の人々も色んな宗派に勉強に行き来していた事実が戒名にも残っていたりします。
中田家も間宮家と同じく北条家臣だったので、ここ横浜市港北区矢上城址の曹洞宗保福寺サンや保土ヶ谷区の正觀寺サン随流院サンの他に日蓮宗の妙福寺サンとも関係が有ったりします。
間宮家の場合は本家の笹下城主間宮家が江戸時代に本牧奉行や摂津奉行等の地域単位を統括する知事を務めた時期も有るので、北条家臣化以前から関係の深かった天台宗系修験道、真言宗系修験道、真言宗、真言律宗の他に、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗の寺院とも関わりが有ったりしました。
まぁ、そんな訳で当時の御寺と言うのは御城の防備や殿様の学問所を兼ねる事があり、中田家の殿様の御子息や一族郎党の学問所としても城下の大空堀の谷にも保福禅寺が建立されたんでしょうね。
ここで御城の遺構残存部の話を始めたい所ですが、先ずは御寺を見て行きます。
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先に解説しましたが、この保福寺サン、山号を❝谷上山(こくじょうさん)❞と呼びます。谷上(矢上)城の御寺だから谷上城から山号を頂き谷上山なんですね。
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だから谷上山だけど谷間に在る(笑)。
さて山門に戻ります。
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この山門をくぐると右手に御堂が一つ有ります。
因みに小生の推測ですが、中田家は江戸時代の藤左衛門サン以前は歴代当主が❝加賀守❞を名乗ったはずなので、この御寺の開基は正直な所いつの時代かは判りません。
中田家の話しに関しては、以前書いたもう一つの正觀寺サンの解説記事を御覧頂けると解かるかと思います。

クリックで記事にリンク⤵
補陀山 正觀寺は北条家の吏僚、中田加賀守の菩提寺・・・保土ヶ谷区東川島町

但(ただ)し、新編武蔵風土記稿にはヒントに成りそうな記載が有ります・・・

新編武蔵風土記稿巻之八 矢上村の項
保福寺
村の中ほとにあり谷上山と號す曹洞宗小机村雲松院末寺なり開基は中田加賀守某なり八王子心源院第六世の僧春悦開闢なればもとより心源院の末に属せり然るに春悦後に當寺をもて小机雲松院の住僧楞室へゆつり與へしが今楞室をもて開山とし雲松院の末寺とはなれり楞室は寛永十五年七月二十九日寂せり、客殿七間半に六間半、本尊阿彌陀を安置す

これ、新編武蔵風土記稿は曹洞宗あるあるに嵌って時代をゴッチャにして誤った解説をしてしまってます。文章で赤字の部分寺を開いた人が中田加賀守曹洞宗雲松院末寺と解説していますが、この時点で既に間違っています。曹洞宗寺院として再興開基したのが中田加賀守です。何故そう言い切れるかと言いますと、緑字の部分小机雲松院の末寺として開かれたと書いていますが小机雲松院は歴史500年弱の比較的新しい御寺です。雲松院は中田加賀守の上司だった小机城城代家老で白備え隊副将の笠原家の菩提寺であり、元々は北条家宿老の笠原信為公の更に御父上が無く成った時に菩提を弔う為に開かれた寺院です。安土桃山時代を生きた中田加賀守と時代的に交流が有りそうなのは笠原信為公の跡を継いだ笠原康勝公ですが、笠原康勝公が開いた龍松院と言う同じ港北区内に在る御寺も笠原家の菩提寺の雲松院も更に又隣町の神奈川区神大寺地区に戦国時代初期まで存在した神大寺の末寺として開かれています。しかし青字部分で登場する八王子心源院と言う御寺は平安時代末期の西暦900年代初頭の延喜年間の開基です。その古い御寺の第六世住職が西暦1500年代末~1600年代初頭では歴史的経過年数に整合性が無い訳です。
しかし八王子の深澤山 心源院の歴史では最初は真言律宗の寺院として延喜年間(西暦901~923年)に智定律師が創建した一寺を醍醐天皇が官寺にして心源鎮静護国院と改めたと伝わるそうです。
更に後に扇谷上杉家の家臣武蔵国守護代の遠江守 大石定久公が(再興)開基となり遠州の高尾山石雲院より開山として李雲永岳禅師を請して曹洞宗に改宗した歴史が有ります。
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※写真は❝あきる野市❞の秋川。左手には高月城、更に日本100名城の一つ滝山城が在る。
高月城址と圓通寺 久良岐のよし
この大石定久公は後に扇谷上杉家が滅亡する過程で小田原城主の北条家に従属して、北条氏康公の子息の北条氏照公を娘の比佐(ひさ)姫の婿養子に迎えて家督を譲って隠居しています。
つまり中田家が横浜市港北区の保福寺を曹洞宗寺院として再興出来るのは、早くとも大石家が北条家に降伏して家臣化して以後のタイミングしか有り得ないので、永禄二年(1559年)11月に北条氏照公が17歳で多摩郡の大石家に婿養子入りして以降の話しなのが解かる訳です。
その大石家が心源院と同じく支援した御寺が戦国時代初期に大石家の居城だった高月城の真下に存在する天台宗の惠日山 觀音院 圓通寺です。
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惠日山 觀音院 圓通寺
この御寺の写真の背後の秋川に突き出した舌状丘陵が高月城跡です。
この八王子市界隈の大石家の歴史から解りますが、心源院は凄まじく古い御寺なので第六代目の住職の春悦開闢和尚は曹洞宗の寺院として再興されてから第六代目の住職だったと言うのが解かる訳です。1500年代初頭に曹洞宗に成っていたとすれば、当時の寺院は世襲制では無いので安土桃山時代頃に港北区の保福寺が曹洞宗として改宗の上で復興される際に心源院が曹洞宗と成って第六世の春悦開闢和尚が関わったとすれば時代的にも整合性が高くなり、極々自然な時間経過と成る訳です。
ですから、新編武蔵風土記稿の保福寺の解説に関しては時代を整理しないまま文章に書き起こしてしまって間違えているのが解かりますが・・・
結論から言うと、矢上城址の保福寺はどっちにしても凄く由緒正し御寺の末寺として開かれたと言う事が解かる訳です。
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そして安土桃山時代に曹洞宗として保福寺が再興されたのと前後して雲松院が開かれた後に、地域的に八王子の心源院より雲松院の方が保福寺から近い事や、北条家宿老で小机城代の笠原康勝公と北条家直臣で小机衆として勤務した中田加賀守公の関係性からも保福寺は中田家によって雲松院の末寺として改められた可能性が推測出来ます。
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御本堂は比較的新しい再建ですが、今も稲毛六阿弥陀の第一番霊場、都筑郡橘樹郡二十四ヶ所地蔵霊場の第十二番目としても由緒正しい歴史が有る事を伝えています。
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山門をくぐって直ぐ右手の御堂が
都筑郡橘樹郡二十四ヶ所地蔵霊場の第十二番目の御地蔵様が鎮座していらっしゃる場所です。
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昨年末の初参拝時にガラス越しですが拝む事が出来ました。
曹洞宗の御寺は余り御朱印目的の巡礼を感心されない和尚様が現代では多くいらっしゃいますが、この保福禅寺は昔からの真言律宗時代からの歴史が有るので御朱印を頂戴に来る参拝客も事前に電話で問い合わせして御住職様と予定を調整すれば快(こころよ)く受け入れて下さいます。
墓地側に廻ると、人工的な手の入っている長い谷地形を確認できます。
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この先は明らかに日吉キャンパス側と慶応大学の日吉キャンパス野球場の台地の通路を狭くする人工的に谷を拡張した上で裾切りして崖地=切岸にした地形が続いて来ます。
もうここら辺から城の解説に成ってしまうので、御城としての地形の観察は次回の記事で書きたいと思います。
最後に、保福寺の南東側の野球場には中田家の大切な場所が有ります・・・
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中田家の供養塔で、元々中田加賀守の墓所が在ったとされる当たりなのです。
この場所に上がる階段は保福寺の山門から見える場所に在ります。
旧境内地に当たりますが現在は慶応大学に安全上の理由で立ち入り禁止にされています。
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実はこの上にはアーチェリー部の練習場が有るので下手くそな学生の流れ矢が頭に突き刺さってしまう可能性が有る訳です(笑)。しかし保福寺から慶応大学が借りている土地なので、慶応大学の事務所に御願いをするか、保福寺の御住職様から話を通して貰えば大学側の都合の良い日に見学をさせて貰う事が出来ます。

さて、一つの御寺にも色んな時代に色んな宗派だった歴史が有るので、明治時代に成る前の江戸時代までの人達は色んな神道も仏教各宗派も修験道も御互いを尊重して共存していた訳ですが、中田家の菩提寺もそんな日本の宗教の変遷を辿る事が出来る由緒ある御寺なのが何となく皆さんに伝わったでしょうか?
次の記事では御城の遺構と思われる地形の解説をしていきたいと思います。

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪

横浜市港北区の慶応大学日吉キャンパスは戦国時代~太平洋戦争にかけて重要な❝城砦❞だった事を知っている人は横浜市民でも今では余り多くは有りません。
日吉キャンパスの地下には❝地下迷宮❞とも言えるトンネルを張り巡らせた地底基地が存在し、第二次世界大戦中に横須賀鎮守府から逃げて来た帝国海軍本部が置かれ海軍の幹部達が終戦直前まで作戦を立てていた大規模な司令所として機能していました。ですから石原裕次郎サンが若い頃に主演した映画では日吉キャンパスがロケ地に成っているのですが、海軍司令所の換気口の煙突が大学のグラウンドに残っている風景が見切れていたり(笑)するんですよ。
矢上城地形 色別立体図&Googleearth合成久良岐のよし
※国土地理院色別立体図&Googleearth合成
上の画像は色別立体図と言われる地形を見やすく色分けした地図で、国土地理院が制作した物ですがネットで誰でも自由に閲覧する事が出来ます。
この画像を見て頂けると一目瞭然ですが、日吉~矢上の丘は鶴見川支流の一つの比較的な大きな河川である❝矢上川❞に東側と北側を囲まれ、南側は急峻な崖地で実に守りの堅い地形に成っています。
この地形に大戦中の海軍が目を付ける以前、実は既に戦国時代の名将がこの地に❝矢上城❞と言う城を築城して居城としていました。
その武将が小生のブログでも何回か紹介している小田原北条家の官僚型武将の中田加賀守で、記録の残らない戦国時代末期には3万石相当の代官を務めていたと地元や関係する寺院に伝承する北条家の大物武将の一人でした。正確には状況的に室町時代末期には北条家の大軍団の一つで軍旗を白い旗で統一した白備え隊小机衆と呼ばれる横浜市港北区小机の小机城を拠点にした軍団で重臣として勤務した後、安土桃山時代に成ると北条家滅亡直前には世田谷衆とも言うべき北条家従属大名の蒔田吉良家の与力家老として転属していた様です。
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写真は横浜市港北区の小机城址で毎年桜の季節に行われる小机城址祭り。港北区長が小机城代の笠原信為公に扮して行われる祭りです。
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小机城は横浜市教育委員会が保護を怠り半分が高速道路と鉄道建設で消失しましたが、今でも残存部分の保存状態が良く❝続日本の100名城❞の一つに選ばれたりしています。
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その小机衆として活躍した中田加賀守が3万石の勢力を誇ったのは何とな~く解る程度しか文献の記録は残っていません。なんたって北条家の記録は豊臣秀吉に負けたせいで余り残らなかった上に、後に関東を統治した徳川家が政治力無くて江戸時代中期に成っても関東の領民が旧北条家臣団と北条家の善政を慕っていたせいでヤキモチ(笑)やいていたってのは幕末の勝海舟サンも認識していた事実ですからね~。
徳川家臣団が入ってくると北条家の史料は更に無くなってしまった様です。
今回はそんな中田加賀守の居城だった慶応大学日吉キャンパス=矢上城跡と、そのキャンパスの下に今も現存する中田加賀守の菩提寺の一つの谷上山保福禅寺と言う曹洞宗の御寺を紹介したいと思います。

以前、中田加賀守については紹介した別の記事も有るので、興味が有る方は下のリンクから過去記事を御覧下さい!
※記事タイトルをクリックすると過去記事にリンクします⤵
補陀山 正觀寺は北条家の吏僚、中田加賀守の菩提寺
・・・保土ヶ谷区東川島町

川崎市の井田城は小田原北条家の吏僚中田加賀守の城?
・・・川崎市高津区蟹ヶ谷~中原区井田。

❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。・・・横浜市港北区小机
今回は中田加賀守が戦国時代に開いたと伝わる保福寺を先ず紹介して、その後で御城の説明をしたいと思いますが・・・
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谷上山 保福禅寺(略称:保福寺)
・・・中田加賀守の戦国時代に矢上城跡の慶応大学日吉キャンパスと矢上キャンパス周辺がどんな感じだったのか先ずは少し現代の国土地理院色別立体図の地形上に周辺の御城の位置を表示して確認して戦国時代の流通の御話しからしてみましょう~♪
神奈川県東部の城 久良岐のよし
この画像は国土地理院色別立体図に神奈川県東部の主要な御城を表示して有ります。
矢上城は画面右上辺りに表示されています。
北条家はだいたい3キロ毎に一つの御城を建設して防衛に当たりました。まぁ、だいたい半径1.5km毎に地域を統治する役所としても機能していたんでしょうね~。そしてこの直線距離3㎞と言う距離は烽火台(のろしだい)として煙を確認出来る距離でもあるので、敵軍が攻めて来た時に早急に北条五色備えと呼ばれた初期の五軍団や、後の八王子衆・津久井衆・小机衆・玉縄衆・江戸衆と言った各軍団に情報伝達し迎撃態勢や攻撃態勢を整える役割も果たしていました。
そして地形を見ると一目瞭然ですが、全ては房総半島や鶴見川や多摩川上流の敵勢力、扇谷上杉家や山内上杉家(上杉謙信が継いだ家)や里見家と言った敵勢力の経済活動を阻害する様に配置されています。
何でこの御城の位置関係が敵勢力経済活動の妨げに成っていたか?って余り歴史に興味が無い人は思いますよね~?
実は大正時代ぐらい迄は物流の❝水運❞が占める割合はとても高く、特に明治時代以前は主たる流通網は海も内地も全て船や筏(いかだ)による運搬だったんですよ。
しかも北条家の城は大河川の渡河地点近くに設置されていますから、敵が攻めて来れる川の渡し場の先に城を築城して迎撃態勢を万全にしてあった訳です。
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大師の渡し川崎の多摩川なんかは今は橋を渡れますが、江戸~明治時代は川崎大師の前に大師の渡しと言う船着き場が有って船でしか渡河出来ませんでした。明治に成ると現在の羽田空港敷地に在(あ)った穴守稲荷神社への直行便が大師の渡しから出ていたりしましたが、実はこの大師の渡し場は戦国時代には主要な渡し場ではなくて現在の川崎駅近くに北条家臣間宮家の川崎館跡地の堀之内地区があり、その周辺まで海が入り込んで来ていて渡し場もその付近だった様です。
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瑞龍山 宗三寺
その城館の有った辺りが宗三寺で、この御寺の寺号も間宮信盛入道宗三公の法名に由来しています。周辺の地域が❝堀之内❞なのは北条家臣間宮家の城館を取り囲む水堀の内側の地域で城跡だった事に由来しているんですね。
直ぐ近くには京浜急行とJR線の川崎駅が在り、江戸時代にも東海道の川崎宿となり砂子商店街が今も残りますが戦国時代から流通の拠点だったので流通網を抑える地域に城が設けられた訳です。もっとも、この場所は元々は鎌倉時代の名将で間宮一族の名目上の祖先として仰がれた佐々木高綱公の城館跡で、後に佐々木高綱公の甥の系統の佐々木泰綱公が領主に成っている事が鎌倉時代の古文書や宗三寺の梵鐘の文字から判明しています。つまり鎌倉時代から交通の要所だったみたいですね。
そして矢上城ですが・・・
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
御覧の通り、鶴見川の上流を抑える位置に在ります。ここを抑える事で上流の川崎市麻生区を拠点にしていた扇谷上杉朝興公の海運の通商を阻害出来たんですね。そして川崎市麻生区~稲城市の❝よみうりランド❞に在った小沢城を居城にした扇谷上杉家当主の上杉朝興公は討死して神奈川県域から扇谷上杉家の勢力は駆逐される事に成りました。つまり物流と地形的な観点から経済的にも軍事的にも重要な場所が矢上城だった事が解かります。
そんな場所なので戦国時代末期には3万石相当の代官を務める北条家重臣に成っていた中田加賀守公は矢上城を居城にしたようです。
Googlemap矢上城址付近 久良岐のよし
とっても険阻な台地が矢上川に守られる地形なのがGooglemapでも良く解りますね~。
さて、ここから先は又、続きの記事で紹介したいと思います。
次に続く⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説②
・・・保福禅寺の解説。




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