歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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カテゴリ: 寺社/仏閣/城址/有形文化財/伝承と伝統文化

朝方、伊勢原市の伯父宅で浴衣に着替えた。
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平塚七夕祭りに行く為にお着替え。
そこから岡崎城址の本丸址に建つ無量寺に御参り。
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尊敬する三浦義意公と義意公の御父君で岡崎城主だった三浦道寸公の御霊に御本堂で御参りしてから平塚八幡宮に向け移動。
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事前に平塚市観光協会に問い合わせし、崇善小学校が臨時駐車場に成るのを確認しておいたので難無く駐車完了。
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平塚八幡宮で御参りを終えると・・・
怒濤の食倒れ開始!
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78kg体脂肪率12%骨格筋肉量40kgに絞った身体が4000円分の飲み食いで帰宅したら5kgリバウンドしてたで御座る(笑)。
因みに食べた物と風景はこんな感じ・・・
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これ以外に大量に液体摂取してました。

平塚七夕祭りは今夜一杯が最高潮の盛り上り、皆さんも暴飲暴食に要注意(笑)。

では!

皆さんは平安時代末期~鎌倉時代を通じて❝坂東武者の鑑(かがみ)❞と評された名将の畠山重忠公を御存知でしょうか?
きっと少し歴史が好きな人ならば必ず名前を聞いた事の有る名将だと思います。清和天皇の直系子孫で臣籍降下した源氏一族を代表する武将であり鎌倉幕府を樹立した征夷大将軍の源頼朝公に最も信頼された人物が畠山重忠公でした。重忠公の所領は今の埼玉県南西部辺りでしたが、実は畠山家の御一族が鎌倉市や横浜市に御縁が深かった事を知る人は移住者だらけの現代横浜市民には❝知る人ぞ知る❞と言った所でしょうか?
横浜市金沢区釜利谷南と鎌倉市の鶴岡八幡宮の直ぐ隣りに現在も伝承地の石碑や供養塔が残っています。
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江戸時代の歴史学者地理学者であった間宮士信サンが❝新編武蔵風土記稿❞と言う文書の中で疑いの余地有りと推測しているものの❝畠山重保公墓❞として紹介している場所です。
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伝畠山重保墓
※住所クリックでGoogle mapにリンクします⤴
普段は御墓の写真は掲載しないのですが、史跡としても又、現代では余り横浜市との関係を語られ無くなった武家の名家畠山家との御縁を再認知して貰う為に畠山重保公の御霊に御活躍して頂きたく、敬意を込めて供養塔の在る御廟所の写真を掲載させて頂こうと思います。
この畠山重保公は鎌倉武士を代表する名将の畠山重忠公の御子息でした。
今日は横浜市金沢区の史跡であり畠山家の武将、畠山重保公の❝御霊を供養する御廟所❞の紹介をする為に、少し源頼朝公と畠山家と源氏最大の協力者の三浦家との因縁(いんねん)を交えて解説したいと思います。
さて、源頼朝公の最初期の協力者として有名な武将は以下の方々でしょうか?

【坂東平氏の祖、桓武天皇の孫の平高望王の後裔達】
●三浦家・・・三浦半島を治めた一族。
三浦義明公、岡崎義実公、三浦義澄公、和田義盛公、佐原義連公、真田義忠公等・・・
●鎌倉家・・・旧鎌倉郡の鎌倉市~藤沢市域を治めた一族。
村岡家(鎌倉の権五郎御霊神社の2015年迄の宮司家)、懐島(大庭)景義公、梶原景時公等
●中村家・・・伊勢原市~小田原市~湯河原等の西湘を治めた一族。
中村重平公、土肥實平公、土屋遠宗公等
●千葉家・・・房総半島北部を治めた一族。
千葉常胤公、千葉胤正公、相馬師常公等
●秩父家・・・埼玉県域を治めた一族
熊谷直実公等。

【宇多源氏の祖、醍醐天皇の皇子の敦実親王の後裔達】
●佐々木秀義公、佐々木経高公、佐々木盛綱公、佐々木高綱公等

【秀郷流藤原氏の後裔】
●比企尼、比企能員公等。
さて、冒頭で鎌倉武士を代表する名将の畠山重忠公や今回の主役の畠山重保公の名前は源頼朝公最初期の協力者として登場しませんが、歴史好きなら誰でも知ってる石橋山合戦で源頼朝公が反平家政権の挙兵を行った際、以前は源氏の家来だった畠山家は平治の乱での源氏が衰退すると平清盛公に従属して平家政権の豪族として武蔵国の軍権を任せられる程に❝平家側❞から信頼されていました。
まぁ、能力高く真面目な人でもあった様なので源氏からも平氏からも重用された人物だった訳です。
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その当時の重忠公を模写した人物画や彫像は小生の知る限り現存していないと思いますが、畠山重忠公が着用した武具は現在も武蔵御嶽神社に奉納された物が現存し、真紅の威しで結った煌(きら)びやかな鎌倉武士らしい甲冑を着用した華実兼備(かじつけんび)の武者だった事が窺い知れます。
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写真は鎌倉市歴史文化交流館に展示されているレプリカ。同館は写真撮影自由の珍しい博物館。
鎌倉市歴史文化交流館この畠山重忠公の母上は三浦義明公の姫君でしたが、源頼朝公が兵300を率いて石橋山で挙兵した時に京都で勤務していた畠山重忠公は平清盛公に代わって武蔵国の兵20000の大軍を率いて源氏討伐を任されてしまう立場に成りました。真面目だった畠山重忠公は職務を全うしますが、祖父の三浦義明公率いる三浦党は三浦半島の衣笠城(横須賀市)で挙兵し源頼朝公を支援しました。
そして畠山重忠公の大軍は鎌倉逗子境の住吉城を手始めに三浦家の葉山町桜山の鐙摺城~本拠地の衣笠城を攻める事と成ります。
三浦義明公は衣笠城に手勢で籠り、子息の三浦義澄公や佐原義連公や孫の和田義盛等の三浦一族を久里浜の怒田城の舟倉から水軍で房総半島に逃がす時間稼ぎをして最期は自害したと伝わります。
コレが後の畠山家と三浦家の決定的な対立関係を生む因縁と成りました。
因みに三浦義明公がいなければ源頼朝公は佐原義連公や和田義盛公等の軍略家や軍政家を配下に出来ず、組織立ち上げすら出来なかったかも知れないし横須賀市佐原城主の佐原義連公と横浜市茅ヶ崎城主の多田行綱公が献策した鵯越の逆落としと曲解された迂回挟撃も発生せず源義経公と源範頼公兄弟による挟撃は成功するはずも無く日本は東西に分れ戦況は膠着し鎌倉幕府は樹立されなかったでしょう。
この話は以前に幾つか書いた関連記事が在るので下記にリンクを貼って置きます。
●三浦義明公と衣笠城址。源家最大の盟友、坂東武者の鑑。…三浦半島横須賀市。
●満昌寺…源頼朝公の開基の三浦義明公菩提寺…横須賀市衣笠
●清雲寺…三浦(横須賀市大矢部)…三浦家の菩提寺
●平良文公と二傳寺。日本全国の平氏系大名の祖先。…藤沢市渡内〜村岡。
さて、この真面目で華やかで高い能力の有った畠山重忠公には汚れ役も任された逸話も残されています。
その舞台は鶴岡八幡宮と美しい由比ヶ浜です。
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鎌倉市を代表する鶴岡八幡宮、その朱漆塗りの舞殿は現代では結婚式が執り行われる場所として、参拝客も新郎新婦から幸せの御裾分けをして頂ける場所ですが・・・
ここは鎌倉時代には拝殿や舞台の役割をした施設で、この舞殿から鶴岡八幡宮の本殿の台地を取り囲む様に渡り壁が伸びていました。そして、ここは頼朝公の実弟の源義経公の側室だった❝静御前❞が義経公の子を妊娠した身体で舞を舞った舞台でもありました。
当時、源義経公は源頼朝公に反逆し奥州に逃げていました。そんな中で身重の静御前は逃避行から脱落して頼朝公側に捕縛され鎌倉に連行されてきました。静御前が子を妊娠している事や義経公と一緒に逃避行した愛情の深さに対して、女性として恋愛に情熱的な人物だった北条政子様は大変に同情されて源頼朝公に対して静御前の助命嘆願を自ら行いました。すると源頼朝公はこう条件をつけました・・・
1、生まれて来る子が女子なら生かす。
2、男子が生まれて来たら敵対するので殺害する。
・・・これは頼朝公にしても鎌倉幕府を運営する武士達にとっても非常に静御前に対して寛容な条件で許している事が判ります。何たって敵対勢力に成った人物の奥さんの命と生まれて来る子も女児なら助けると保証している訳ですからね。
しかし不幸な事に生まれて来た義経公と静御前の子供は姫ではなくて男児でした。
この死刑執行を任せられたのが源頼朝公から❝生真面目さ❞と❝能力❞を信頼されていた畠山重忠公でした。静御前の生んだ男児は由比ヶ浜に生き埋めにされたと伝承しています。
もしかしたら・・・殺したと幕府御家人達には報告させて頼朝公の密命で助けたかも知れませんが、まぁ伝承では由比ヶ浜に埋めた事にされています。
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今では夏が来ると海水浴客で賑わう材木座~由比ヶ浜の砂浜や砂丘は実は平安時代頃からは❝公共墓地❞として利用された土地だったので、最近でも発掘調査をすると人骨が普通に出て来たりするのですが❝霊感が有るニセ霊能者(笑)様達は、この辺で何も感じない霊感音痴だらけ❞の様ですね(笑)。
ついでに言えば鎌倉市で戦火に巻き込まれていない場所の方が少ないし、昔は鎌倉の小学校の校庭に砂には普通に風化した昔の人の人骨が混じってるのなんて有名な話だったんですよ!
小生達、地元神奈川の人間だけでなく関西人の司馬遼太郎先生ですら、この事を御存知で❝街道をゆく❞シリーズの鎌倉散策の巻で逸話として紹介していたりします。
さて、この義経公と静御前の嬰児の話の舞台の一つが由比ヶ浜なのは恐らくは❝嬰児の処分❞の命令を受けた畠山家の鎌倉市内での御屋敷が由比ヶ浜と鶴岡八幡宮の隣接地に存在した事に由来すると小生は推測しています。
正確に言うと幕府に出仕していた畠山重忠公の御屋敷が鶴岡八幡宮の横に存在し、海側にも畠山家の別宅が在り畠山重保公等の家族も住んでいた様です。
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大蔵幕府跡鶴岡八幡宮から東に行くと源頼朝公の邸宅兼幕府役所の機能が在った大蔵幕府跡の清泉小学校一帯に大正時代の郷土愛の強かった生粋の神奈川県民の鎌倉町青年会によって建てられた顕彰碑が有ります。
ココと鶴岡八幡宮を結ぶ謂(い)わば源頼朝公の邸宅の最終防衛ラインに成る中間地点の横浜国大付属中学の一帯が畠山重忠公の屋敷地と伝わり、やはり大正時代に鎌倉町青年会が建立した顕彰碑が今も観光客が歩く景色の一部として現存しています。
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畠山重忠邸址さて、源頼朝公は相模川に架けた大きな橋の開通式に参列した際に前日から❝ヒ素中毒❞ぽい症状の記録が残る状態で式典中に馬上から落馬して死んだ事にされていますが、小生は北条時政と稲毛重成の義理の親子による暗殺事件だったと推測しています。小生と同じ説の歴史ファンも結構多いんですよ。
この頼朝公の死の後、鎌倉幕府の御家人達は各家毎に集団として分裂の様相を呈して有力武家vs有力武家の権力抗争が始まってしまいました。鎌倉幕府最初の危機ですね。
この権力闘争で最も権力に執着した梶原景時公は実務力と謀略に優れた知将で頼朝公亡き後も跡継ぎで二代将軍の源頼家公を補佐していましたが、最初期から他の武将をハメてまで出世に執着したので最初の犠牲者に成り、鎌倉御家人66将連名による連判状で弾劾され幕府を追放、更に殺害されました。
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因(ちな)みに相模国一之宮の寒川大社の門前に梶原景時公晩年の居館が在りました。
梶原景時公の次に犠牲に成ったのは比企能員(ひきよしかず)公でした。
比企能員公の実伯母(おば)であり養母の比企尼は源頼朝公の乳母(うば=授乳係兼養育担当者)だった御縁で頼朝公と非常に信頼関係が深く、比企尼の三女の平賀義信公に嫁いだ姫も二代将軍と成る源頼家公の乳母を務めた家柄でした。源頼家公が不可解な危篤状態に陥ると更に不可解な事に未だ頼家公が亡くなっていないのに北条時政が独断で源頼家公の財産分与を取り仕切る事態が発生しました。これも小生は北条時政によるヒ素を用いた暗殺未遂だと推測しています・・・
頼家公は運よく回復すると事の顛末(てんまつ)を比企能員公から聞かされるや北条時政討伐の謀略を比企家や近臣と計画します。
・・・しかし、これが運悪く母で北条家の人間の北条政子様に聞かれ北条時政に通報されてしまいます。北条家との縁が深い源実朝公擁立を鼻から画策していた北条時政は先手を打って比企能員公を北条家の邸宅と要害城を背後に抱えた名越邸に「仏事で相談があるからチョット来てyo~♪」と軽く、且(か)つ本当は源頼家公と比企家と頼家公近臣達が北条家討伐を画策している事を知っているのを微塵も感じさせない様に呼び出し、比企能員公を逆に暗殺してしまいました。
そして・・・
その次に標的に成ったのが頼家公の近臣だった畠山重忠公です。
畠山重忠公史跡二俣川古戦場 久良岐のよし
今の神奈川県運転免許試験場から程近い帷子(かたびら)川~二俣川や鶴ヶ峰は八王子街道から連結する渡河地点でした。「鎌倉で事件が発生した!」と北条家に嘘の連絡をされた畠山重忠公は130騎の兵で埼玉県の菅谷館から馬を走らせ駆け付ける途中、二俣川の河畔で対岸に北条家率いる鎌倉幕府軍20000の大軍を目の前にして全てを悟り、潔(いさぎ)く「ここを死地とする」と覚悟を決めて応戦しました。
因みに、この合戦で畠山重忠公は弓の名手の愛甲季忠公に射殺され討死しました。
愛甲季忠公は現在の厚木市一帯に勢力を誇った古豪で、鎌倉幕府で糟屋有季公等と並び屈指の弓射の名人でした。
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小野神社
愛甲季隆公は神奈川県内で14座しかない延喜式内社の神社の一つ、閑香大明神小野神社を平安時代に支援した事でも有名な人物です。
さて、二俣川の合戦で圧倒的な劣勢の畠山重忠公は自ら弓を取り奮戦し、鎌倉時代を代表するスナイパーの愛甲季隆公に射殺されて討死にしたのですが、御子息で鎌倉にいた畠山重保公も殺害されました。
その異変の発生を鎌倉で察知した畠山重保公は「鎌倉から山中を逃げて来て、この辺りで自害した」と横浜市金沢区釜利谷一帯には古くから伝承しています。
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でも新編武蔵風土記稿の編集者だった間宮士信サンの部下の記者は、この伝承を以下の文章で否定しています・・・
「按に東鑑(吾妻鏡)元久二年六月二十二日の條に、寅刻、鎌倉中驚遽軍兵競争于由比濱之邊、可被誅謀叛之輩、畠山六郎云々・・・(以下省略)」
・・・つまり、❝「鎌倉の由比ヶ浜辺りで謀反を画策した畠山六郎が誅された」と書かれているから、金沢区の畠山重保公がここで自害したのは誤りだ❞と指摘しているのですが、これは悪いが間宮士信公と部下の記者の推測がいい加減だと言えるだろう。
まず、吾妻鏡の内容は「誅罰の兵が差し向けられ戦闘に成った」情況の説明しか書かれておらず、又、討死したとも書かれていない!
そして記者が理解していないのは、この墓所の有る場所は立地が鎌倉~横浜市旧久良岐郡域~八王子~埼玉に抜ける八王子街道への最短ルートだったりする。
この記者の意見は一帯の南部には❝金澤道=六浦道❞と言う主要街道と円覚寺方面に抜ける鎌倉道が存在する先入観からの推論だろう。
伝畠山重保公御廟所位置関係 久良岐のよし
しかし、この畠山重保公の御廟所の場所は❝白山道❞と言う、新編武蔵風土記稿が書かれた頃にはマイナーな道に成ってしまっていた古道が眼前を通り、鎌倉の玄関口である朝比奈峠の切通しへ直結する最短ルートであり、更には久良岐郡の氷取沢へ抜ける六浦道のショートカットコースでもあり、六浦湾から船で逃亡も図れる逃走経路としては打ってつけの道なのだ。
由比ヶ浜の畠山邸から朝比奈峠を超えようとすると北条家の名越邸の眼下を通る必要が有るので、その道は恐らく通れなかっただろう。
当然ながら鶴岡八幡宮の横を抜ける巨福呂坂の切通も兵が待機していただろう。残る八王子街道へ抜けて~埼玉の畠山重忠公に危険を知らせる事が出来る逃走経路は❝金沢区の伝承どおり山中を超える❞しかない、即(すなわ)ち大蔵幕府背後の未開発だった地域の鎌倉カントリークラブや鎌倉霊園の獣道を無理矢理でも越えればショートカットの❝白山道❞まで逃げて来れる訳だ。
白山道は鎌倉幕府が滅亡して室町時代に成っても重視されていたので、最後の鎌倉公方で初代古河公方の足利成氏公が重視して宿泊所としても機能を持つ寺院を開基している。
以前紹介した禅林寺だな。
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竹嵓山 禅林寺そして❝伝畠山重保墓❞の地形を改めて見ると、ここが切腹するに相応しい❝施設❞が在ったであろう事が神社仏閣参拝や御朱印集めが趣味の人なら一目瞭然だと思おう。
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谷戸に囲まれてるんだよね、明らかに谷間を削平して丘陵を裾切りした人工地形。
しかも昭和の埋め立て迄は、この直ぐ近くまで海の入江が迫っていた。
平安~鎌倉~室町時代初期の鎌倉文化を受け継いだ神社仏閣と武士団の邸宅跡は修験道と真言宗の施設以外は十中八九が❝谷戸❞に邸宅や御堂が作られる場合がほとんどだったんだな。
だから、ここには江戸時代には名前も記録も伝わらなくなっていた寺院の跡か畠山家の景勝地金沢における船着き場近くの別邸が在り、畠山重保公は山を越えて来たものの菅谷館まで辿(たど)り着く困難を悟り、ここ白山古道前の六浦❝山中❞に在った何某(なにがし)かの施設内で自害したのではなかろうかと小生は推測する。因(よ)って新編武蔵風土記稿の❝この場所に対する解説に関しては❞解釈も地形と古道への理解も中途半端だと小生は断言出来る。
では、金沢区の禅林寺以外にも室町時代以前、鎌倉時代初期の武士達の横浜市や鎌倉市内における武士邸宅跡の伝承地を既に紹介した事が有る場所の記事で実例として列挙しておこう。
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鳥山八幡宮
・・・佐々木高綱公/佐々木泰綱公邸址、背後の鳥山地区は詰城で神社の前は旧道。正に金沢区の伝畠山重保墓と同様の立地。
※クリックで記事にリンク⤵
●横浜市港北区鳥山の八幡神社…鎌倉幕府の名将:佐々木高綱公の城跡
●2015/04/02時点の横浜の桜名所状況
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稲荷山 浄妙広利禅寺(略寺名:浄妙寺 旧寺名:極楽寺)
●浄妙寺 足利将軍家の祖先の菩提寺にして臨済宗鎌倉五山の一つ。紅葉も綺麗だよ!…鎌倉市浄明寺地区。
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亀谷山 寿福金剛禅寺
源家の本拠地…寿福寺。鎌倉市亀ケ谷。…北条政子様と源実朝公の菩提寺。
まぁ~他にも例を挙げればキリが無い。
そんな訳で、小生は伝畠山重保墓との現代の仮名で登録されている御廟所の主は伝承通り畠山重保公が自害した❝屋敷か御堂❞の跡地だと推測する次第だ。
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今では目の前はマンションが立つ。
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しかし隣接地の宅地の崖には、近くに寺院が有った証拠である矢倉=鎌倉文化の横穴式の御廟所跡が有る民家も在る。
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法輪塔も恐らく後世に再建立されている物だが、デザイン自体は三浦家の三浦義澄公や清雲寺の歴代三浦家御当主の物に酷似しているので最初の墓石を模造したか、谷戸なので劣化のスピードが遅かったのだろうか?
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卒塔婆(ストゥーパ)にはメジャー文献だけ読んでいても伝わらない畠山六郎重保公の戒名がちゃんと書かれています。
大圓鏡智 為 重安(=重保)院 龍嶽雲公大居士 祥月
ね?文献だけ読んでても現地に行かないと歴史には解らない事も有るでしょう?
だから歴史オタクは行動力が有る人が多いんですよ~。城ファンとか神社仏閣ファンとかね。
さて、この畠山重保公や御父上の畠山重忠公が領地の埼玉県西部や鎌倉市だけでなく横浜市一帯にも深い御縁が今では何気ない場所に成っている所で有った事を確認出来るの皆さんにも伝わったでしょうか?
きっと皆さんの御近所にも平安~戦国時代の武士達の城跡の山や歴史偉人の関わった神社仏閣や、古代からの聖地の池や泉や奇岩が有ったりすると思います。そして、そう言う場所は豊かな緑が残っていたりして散歩すれば疲れをすっ飛ばして癒してくれる、先人が我々に残して下さった文字通りのパワースポットや、昔の人が日本文化を残してくれた感謝を感じられる空間に成ってくれます。
・・・みなさんも御近所の山や神社や御寺を散歩してみませんか?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう・・・って!
前回のこの休日雑記で⤵
【休日雑記】2018年05月13日の訪問先・・・友人と鎌倉の幻の遺跡ハイクと横浜駅で火鍋晩餐。
「さて、今回の休日雑記はここまで!
次は多米元忠公の解説記事の最終章を書きたいな~と思います!
その翌週からは暫く繁忙期と私用と神事と仏事が立て込んでブログ更新遅れたらすみません!」
・・・なぁ~んて書いてたのに全く関係ない鎌倉時代の史跡と偉人紹介してますね(笑)。

多米元忠公の記事、又、ゆっくり書きますよ~♪
では、今日は趣味の外国語学校とジムに行ってきますので、今週の記事はこれで!
皆さんにとっても、小生にとっても今日が良い日に成り、新たな1週間が実り有る時間に成ります様に~♬



先月の話・・・
関西の親友で妹の次に小生の性格の理解者だろう人間のデザイナーITが展示会の東京出張で来訪。
来訪の1ヵ月以上前から「宿泊地決めないと予約難しいぞ~」と散々せっついたのに直前の1週間前までノンビリ屋で決めてなかったIT・・・
その結果、廃墟マニアと変わった趣味で今回は鎌倉の❝廃墟?❞的な場所を観光地として希望してた割には出張先の渋谷区からも、小生の地元横浜で一番の蛍の大生息地である円海山の在る栄区界隈からも、横浜の中心街で一番便利な横浜駅や関内界隈からも❝中途半端❞な鶴見区と言う謎の立地のホテルを予約しやがった。鎌倉行くのに迎えに行くのが少々面倒(笑)。
・・・まぁ、鶴見なら今のNHK大河でタイムリーな薩摩藩関連の史跡や、鎌倉向かう途中で横浜中華街の朝食も食べれるので「楽しみを詰め込めば良いか!」と前向きな発想が直ぐ湧く。
待ち合わせはAM:08:00、ホテル前。
この日も小生は当日の夜中03時に仕事から帰宅し風呂入ったり何かしてたら既に朝の5時、もう目が冴えたまま寝るのも諦めて「ホテルの前に車停めて仮眠しよう」と6時に移動。7時には到着した。
しかし車中でも眠れず、諦めてITにLINEする・・・
「もう着いたけど寝てるから準備できたら適当に出て来てユックリしてて良い」
・・・とは送りながらスマホ弄(いじ)くり当日の不安定な天候も有り到達地点別の天候に訪問地分岐案の再確認をGoogle mapでしておいた。こう言った❝遊び❞は「手伝うよ~」と適当な事して邪魔する同僚の介入も無いので❝好きに完璧に予定を組める❞から好き(笑)。
ホテル前でITをピックアップ、御土産に太らない京都の宇治の御茶とかくれた。
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生麦事件発生地
・・・と言う訳で、最初にITをピックアップして連れて来た❝観光地❞がこの住宅街(笑)。
ITには来る途中で交差点の看板とか電信柱の看板とかを故意(わざと)音読させてヒントを出したのだが現地に着(つ)いても解らない(笑)。まぁ~そりゃそうだ。今じゃ只の住宅街の道だから。
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・・・実はここ、薩摩藩が参勤交代中に乗馬した白人至上主義の白人連中に隊列に侵入されテロ排除の為に数度のジェスチャーと日本語による警告の上でも騎乗した白人は止まらず薩摩藩の隊列に突入、島津久光公の籠に迫ったので止む無く惨殺したと言うのが真相の❝生麦事件❞の発生現場なのだ。
ITは別に歴史好きと言う訳では無いが廃墟好きなので小生の話題にも少し付いて来られる、まぁ京都育ちだし神社仏閣歴史史跡に囲まれて育った❝文化的歴史的素養❞と言うのは移住者だらけの普通のハマっ子よりは並の京都人の方が遥かに高い。
歴史に特別関心が無くても義務教育で習う生麦事件程度は当然知っている訳だ。だからもう直ぐNHKの❝西郷どん❞で登場するであろう、この事件現場を見て「ほ~」と言う感じの反応をしていた。
まぁ、鶴見から中華街に向かう通り道を少し裏の旧道に入っただけ、途中に立ち寄った場所なので凄い場所と言う訳ではない。
しかしこの後、小生がやらかす。
散々地図を見て予備学習して置いたのにGoogleMapのカーナビではなくてポンコツの純正カーナビに任せて音声に合わせて道を走ったら関係の無い側道に入らされたり住宅街をグルグル・・・
朝食を買う予定の中華街まで大分と遠回りになってしまった。
ナビを放棄し自分の目視と記憶で大黒ふ頭に経由地を変えて海沿いの道を選択、多分横浜市民以外は知る人の少ない大黒ふ頭を経由して横浜ベイブリッジの一般道~新山下へ抜けて早朝の中華街に到着した。
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道を迷ったせいで鶴見駅近くを8時に出発したのに到着したのはAM:09:00位に成ってしまった。
しかし普通の中華街の店は10時~11時開店なので人気は極端に少ない。
中華街の加賀町警察の前には小生が立ち食い点心を購入する際に行きつけにしている店の内の一軒が有る。そこの大根餅や肉と高菜の細切り炒めが入った揚げ饅頭が美味いんだな。
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金福粥記
ITは服飾関係のデザイナーと言う仕事の都合上中国にもよく出張するのだが、中国では現地企業に接待される側に成るので中々こう言った普通の中国の朝食を食べたり好きな火鍋とか庶民的な料理を食べる機会が無いとの事。慌ただしい鎌倉へ向かう車中での朝食と成ったが「美味しい!」と喜んでいたので何より。
中華街近くの石川町入口から横浜横須賀道路に入り高速で横浜市金沢区の朝比奈峠へ抜け鎌倉に侵入、鎌倉市街の手前の報国寺近くの駐車場に車を停めた。ここの辺りは実は凄く安いタイムズ駐車場とか浄妙寺の駐車場も有り、朝比奈~十二所~浄妙寺地区~名越地区の観光の基点とするのに適している。
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最初、報国寺を訪問し御本尊の御釈迦様に御参りしたが竹林は後回しにした。
この日の目的地はあくまで❝廃墟散策❞が主旨なので、報国寺の散策は後、でも御本尊を拝まずに素通りすると、この後❝少し危ない山の中❞を散策するので❝旅の安全祈願❞も含めて先にちゃんと御挨拶する事にした次第だ。
この日の主要目的地の廃墟と史跡を目指すのには新幹線で関西から来たITをわざわざ山登りさせる必要が有る、観光じゃないんだな最早(笑)。
最初に目指したのは、その廃墟と史跡の入口と成る木々の枯れる❝冬季ならば❞鎌倉市で一番眺望の良いであろう衣張山の山頂だ。
その道は巡礼古道と呼ばれ、報国寺の所在する宅間谷(たくまがやつ)から鎌倉武士達が三浦半島の逗子方面に抜けたり、名越邸こと鎌倉幕府執権の北条時政館の史跡に行く間道として利用された古道を通る。
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目標的には報国寺~かまくら幼稚園を目指すと緑地帯から自然に衣張山入口の公園に出る事が出来る。
この日に備えてITには❝運動靴❞❝Gパン等の歩きやすい服装❞をちゃんと指定しておいた。
まぁ~この辺は廃墟観光に成れたITだから言わないでも大丈夫なのだろうが、山歩きの度合いを軽視されて準備不足に成ると本人が楽しめなく成るので敢(あ)えて念を押した訳だ。
衣張山は城郭オタクが登れば一目で判るが、山道が裾切りされて人工的に鋭角な崖地化された登山道が多く足を滑らせると死ぬ構造に成っている(笑)。
平安以来の鎌倉武士、三浦家の居城だった衣笠城と同じ構造だな。
衣笠城址に関しては以前書いた記事が有るので御興味有る方は御覧頂くと平安~鎌倉時代の武士の城の構造が良く解ると思う。
これ以前の記事⤵
三浦義明公と衣笠城址。源家最大の盟友、坂東武者の鑑。…三浦半島横須賀市。
かまくら幼稚園側から20分も登ると衣笠山山頂に着いた。
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衣張山山頂
材木座~由比ヶ浜~名越~雪ノ下~扇谷地区が一望できる絶景だが、この辺りは❝神奈川県の富士山100景❞にも選ばれた景勝なのだ。本来、天気が良ければもっと遠く伊豆半島なんかも綺麗に見える。
生憎(あいにく)と当日の天気予報は降雨、幸い登山中は天候が持ってくれたが曇天で遠くは見渡せなかったが、それでも綺麗だった。この辺りから獣道を通って行くと現在は鎌倉市によって通行者の安全確保が十分でないとの判断から仮設封鎖柵が設置されている❝釈迦堂切通し❞や❝釈迦堂遺跡❞へも通じる抜け道が有る。
その抜け道へ行く為にわざわざ衣張山へ上った訳だな。
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色んな場所に鎌倉時代~室町時代の矢倉(やぐら)と言う名の武士の御廟所である横穴式墳墓が在る。
これも有る意味❝廃墟❞だが、先人を尊敬する小生は一々、ここに埋葬されていたであろう名を知らない御霊にお祈りすると京都育ちのITも心得ていてちゃんと手を合わせていた。
因みに、一々拝みながら「通行者を御守り下さい」「鎌倉の住民を御守護下さい」「御霊が大切にされますよう、安らかに過せます様に」とお祈りした。
鎌倉幕府を運営し、朝鮮人と中国人とモンゴル人による日本侵略戦争の元寇を撃退する基盤と成ってくれた人達だから感謝と尊敬の念を御伝えするのは当然の事だと小生は思う。
程なくして落ちたら死ぬ犬懸谷(いぬかけがやつ)の奥の山から釈迦堂口に出て、釈迦堂切通しに到着した。
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釈迦堂切通し
ここは先述の通り先年の落石発生以来鎌倉市が封鎖しているのだが、周辺住民の生活道路なので金網の無い場所を通行する人は今でも多い。まぁ、山越えて抜け道を通ればそんな事する必要も無いが労力が大変な訳だ。
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「お~凄いな」
・・・と男前な感想のIT、こう言った史跡も有る意味廃墟、ここは恐らくは鎌倉市街地~名越北条家の居宅と成った北条時政邸と詰城(つめじろ)だった衣張山登城口への関門だったので名ばかりは❝切通し❞だが隧道(すいどう=トンネル)形状にした上で入口に梁(はり)を渡して櫓門(やぐらもん)が築かれていたのだろうと城好きの小生は予想している。恐らく多くの城郭ファンも同じ推測をするだろう。
だから上部左右には梁を通した様な材木を打ち込んでいたであろう穴跡も見て取れる。
ここから又、獣道に戻ると今度は別の名越側から封鎖された❝幻の釈迦堂跡❞の釈迦堂遺跡へ行くことが出来るが、私有地側から入る人がいると困るので詳細は掲載しない。
山頂からの行き方をネットでも生き方を書いている人もいるので探して見ると良いと思うけど、途中には崩落した橋の欄干を渡らなければいけないデンジャラスゾーンが有ったりするので、やはり小生は道順はボヤ化して置こうと思う。
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釈迦堂口遺跡
釈迦堂遺跡は山の中に削平地が広がる。
名越邸跡と伝わり鎌倉幕府二代執権と成った北条義時公が、そこに北条時政公の没後に供養の為に釈迦如来を安置した御堂を建てたのが始まりとか何とか伝わるのだが、大半が私有地と言う事も有り現在の鎌倉市教育委員会や神奈川県教育委員会はその場所をちゃんと公開していない。しかしながら昔の鎌倉市教育委員会は無文化な部類の一部土建屋による鎌倉市の森林と史跡破壊を糾弾し新聞社と一緒に吊るし上げたり、この私有地を保有する国際自動車タクシー会社さんも一般に公開したりしていた。
前代の鎌倉市長主導で封鎖された次第だが、何と言うか民間会社の方が文化史跡保護と公益に資する公開の意識が高いと言う・・・皮肉な話だ。
釈迦堂遺跡の奥に山道から降りて来る昔の登山道である❝抜け道❞が有る。まぁたまに見学会も開かれるので鎌倉市のホームページをチェックしてると良い。団体で見学希望申請何かすると、鎌倉市教育委員会もガイドしてくれる可能性も有るかも知れない。
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登山道には昔の看板も残っているのだが鎌倉市の前の市長が封鎖してしまって通行量が減っているので❝廃道❞寸前の状態。貴重な遺跡が保護管理されず放置される悲惨な状況に成っている・・・
「訪問したい人は安全管理は自己責任でどうぞ」
・・・と言っておこう。
まぁ❝廃道寸前の道❞含めてITの趣味に合わせたチョイスなのでそうなるな。
こちら側から登って行くと唐糸矢倉と言う、源頼朝公と源義仲公の間の悲しい同族同士の争いの終結の場所となった史跡が在る。
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説明の看板の通り、源義仲公の家臣の娘の唐糸サンが源頼朝公の様子を探る為に侍女と成り、源頼朝公が源義仲公討伐の相談をしていたのを聞いてしまい頼朝公暗殺を企て幽閉された場所だそうだ。
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どうも看板の矢倉よりも直ぐ右隣の矢倉の方が土牢としては適した構造だと小生は思う。
そして看板の伝承は少し違うと思う、状況的には源義仲公の御子息で源頼朝公に人質として預けられていた源義高公が頼朝公によって処刑されそうに成ったので、義高公に仕えていた唐糸サンが頼朝公の暗殺を企てたと考えた方が状況的には自然だろう。当時の伝承も後世に伝える伝言ゲームで行き違いが有ったのかも知れないし、小生の予測が外れているかも知れないが郷土の伝承レベルの事なので事実は今では確認しようも無いが小生の予測通りならば源義仲公と源頼朝公の因縁の終わりの場所と成るだろう。
事実、三浦半島の初瀬和田の和田城には元は源義仲公の側室だった巴御前が和田義盛公に惚れられて側室として同居したと伝わり、源義仲公の乳兄弟(乳母の子)で重臣の今井四郎兼平公は横浜市保土ヶ谷区の今井城址に居住したと伝承するので、実際は平家物語では書かれていない木曾(源)義仲公の家臣団は頼朝公に降伏し鎌倉幕府の幕臣と成っていたのだろう。
・・・源義高公の命と引き換えに信濃の武士団は命を助けられ、源義高公に仕えていた唐糸サンは納得が行かず組織としての正義よりも忠義としての正義を優先したんだろうね。
この唐糸矢倉を過ぎると人工的な切通し状の堀切(ほりきり=尾根道を断ち切り敵の侵入を防ぐ構造)が在る。
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そこに橋が架かるが、最大の見どころ。廃道化の原因の床の抜けた通行不可能な橋。
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でも欄干と橋梁は鉄筋コンクリートなので❝自己責任❞で渡りたい人はどうぞ。
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ここさへ渡れば釈迦堂遺跡も釈迦堂切通しも衣張山から来られるからね~。・・・落ちたら運が良くて骨折かな?
ここに来たい人は、ちゃんと安全確保のワイヤーとか準備してね。
でも一番、城郭としての構造が解り易い。
ここを通らないと詰城の山頂側に行く事は出来ない。そして平時は引橋(ひきはし=戦時に引いて撤去出来る橋)が架けられていて戦闘時には堅固な防御構造と成った事だろう。
唐糸矢倉に降りて来る分岐点の前に衣張山登山道の休憩所跡が有る。
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途中には廃墟化した東屋。これも有る意味廃墟かな。
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さて、東屋の下の分岐点から唐糸矢倉方面と反対に行くと釈迦堂切通しの真上に出る事が出来る。
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落ちたら死ぬから気を付けてね、あくまで自己責任でどうぞ(笑)。
本当に気を付けて。
そして釈迦堂切通しの上を通り抜けると、重要文化財にするべき❝日月矢倉❞に抜けれる。
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恐らく名の有る武士の御廟なのだろう。
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壁に穿った穴の形状に矢倉の名前が由来する。
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日輪と月を模した意匠が施されているので、そう名付けられたようだ。
恐らくこの月の意匠からして、千葉家所縁の武将の矢倉かも知れない。千葉家一族と家臣団には月の家紋と九楊紋を家紋にする武将が多い。ここは大町に抜ける場所でもあるし、大町には戦国時代に成っても千葉一族臼居家の菩提寺であり平安時代の武将の千葉常胤公と千葉家所縁の寺院でも有った蓮乗院が存在する。
蓮乗院は元は弘法大師空海和尚所縁の真言宗の寺院だったが、直ぐ隣に浄土宗の大本山の天照山光明寺が開かれると浄土宗に改宗し、その光明寺の重要な塔頭寺院と成った。
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因みに今回紹介している衣張山も山頂の風景が綺麗だが・・・
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光明寺の天照山から見た風景は❝神奈川の景勝50選❞にも選ばれ、最近では映画シン・ゴジラでゴジラの上陸地点としてロケハンされたりしている。非常に風景が美しい。
そこ等辺りは以前に記事に書いているので興味の有る人は読んで頂くと解ると思う。
以前の記事⤵
休日雑記 2017年01月25日の訪問先・・・【鎌倉市】住吉城址前の材木座海岸と和賀江嶋と江ノ島と富士山と夕陽の見える場所。
●臼井城主の子孫の店❝Cafeこやぎ❞は旧鎌倉郡域にある緑に囲まれたカフェ。美味しい葛餅と焙茶(ほうじちゃ)が頂ける店。ランチも人気。…横浜市。
・・・さて、日月矢倉に話を戻す。
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風雨に晒された矢倉は風化が激しい。
ここ数年、鎌倉市は釈迦堂切通し仮封鎖後に訪れる人が少なくなったせいで樹木の浸食が早く少しでも早く釈迦堂切通しと釈迦堂遺跡側の遊歩道の再整備を急ぐべき理由の一つでも有る場所なのだ。
ここを見学した後で、元来た道を抜けるのが面倒臭くて鎌倉市の設置したフェンス側の❝抜け道(笑)❞を通って大町に出て、谷底側の住宅街から又かまくら保育園の方に戻り報国寺に戻って抹茶を頂く事にした。
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途中、せせらぎに綺麗な花が咲いていた。
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その川沿いに黄金矢倉の跡が有る。
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黄金やぐら
昔は光苔(ひかりこけ)で綺麗に輝いていたらしいが、今では御覧の通りシダ類に浸食されてしまって光苔は死滅したようだ。
そこから宅間谷に戻る長い階段の遊歩道に復帰した。
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かまくら幼稚園近くに戻ると可愛い御地蔵様が出迎えてくれるのが、巡礼古道に復帰した目印。
そこから報国寺に戻る時に最近ドラマ❝モンテクリスト伯ー華麗なる復讐ー❞でもロケ地に成っている旧皇族華頂宮邸が在る。
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旧華頂宮邸
この時既に11時半位だったろうか?
予定通り(笑)丁度公開されている時間、廃墟では無く綺麗な文化財の洋館だがITを案内。
薔薇の見頃の季節だったので御庭が綺麗だった。
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今年は横浜イングリッシュガーデンに薔薇を見に行かなかったので、ここで見られて良かった。
本当は、この後で天候が雨が降らず持てばITを鎌倉市の薔薇の名所として有名な❝鎌倉文学館❞に連れて行く計画だったのだが、後で大雨に成ってしまったのでここで薔薇を見て置いて良かったと思う。
報国寺に戻ると抹茶付の拝観券を購入し報国寺の竹林を散策・・・
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功臣山 報国寺
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以前と違って経路が定められており、小生が通い出した10年前の様な自由度は昨年末のリニューアルから無くなったが、それでもここは良い。
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抹茶を一服頂きながら景色に心を落ち着かせ和んだ。ここを開いた足利尊氏公の御祖父さんの足利家時公と宅間上杉重兼公に感謝!
いい加減に昼食の時間と成ったのでITに「地魚海鮮の和食と、地魚地野菜のイタリアンとどっちが良い?」と選択肢を質問、イタリアと言ったので車で少し葉山方面に移動し秋谷海岸の行きつけのイタリアンの店❝DON❞に到着。
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DON秋谷店
残念ながら当日、予約がいっぱいで1時間半待ちとの事でウェイターの青年がとても丁寧に申し訳なさそうに状況を説明してくれた。
「まぁ、和食も美味しいし!」
・・・と言う事で小生と同じく美味しい物が大好きで男前(笑)なITは、せっかくの観光を楽しむベクトルで納得してくれて、DONから車で5分と直ぐ近くの佐島マリーナの❝海辺❞と言う、これまた小生行きつけの海鮮和食屋サンに移動する事に成った。
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海辺ここは本当に海の目の前のレストラン。
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デッキ席からは海が一望出来る。天神島が見え、ともて清々しいのだが・・・
この写真は生憎当日の物では無い。IT連れてった時は既に雨がポツリ来た後で店内で食事と成った。
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それでも特別セット(刺身盛り合わせ+ブリ角煮+アラ汁+金目鯛煮付け+米お代わり可能)が来ると「美味しい!」と満足してくれた様で何よりだ。
京都育ちで舌が肥えているITが納得してると自分も嬉しいもんだな。
他の親友も何人か連れて来た事が有るが、やはり皆美味しいと喜んでくれる、そして自分が美味しいと思う物を一緒に美味しいと親友達が感じてくれると皆の喜ぶ様子を見て自分も嬉しく成る。
そう言う意味において小生と親友の共通点は皆、食べる事が好きだと思う。
だから小生デブったりジムでダイエットしてシボんだり繰り返すんだな(笑)。
この後、鎌倉市街に戻り扇谷(おおぎがやつ)地区と小町通と若宮大路と鶴岡八幡宮を散策する予定だった。
しかし雨が・・・
扇谷地区から正宗工芸を見学したり若宮大路に抜け鳩サブレ―の豊島屋サンや鎌倉彫りの店を見物してから鶴岡八幡宮に着き御参りを済ませると、もう雨がドシャ降りに成り散歩どころではなくなってしまった。雨傘さしているのに二人共靴下までビッチョビチョ、止むを得ず車に戻った。夕飯は小町通のマザーズオブ鎌倉で葉山牛の鉄板焼きを食べる予定だったが、それまで時間を潰すのは無理。
小生も徹夜で一睡もしていない事をITが配慮してくれて「神奈川東京名物の黒湯炭酸泉のスーパー銭湯に行こう」と予定していたコースの前倒しを提案してくれた。
・・・仕方が無いし夕方にも成っていたし、帰りも渋滞するだろうしスーパー銭湯での時間も含めて夕飯時に成る事を想定して夕食は横浜駅で中国の火鍋の名店❝小肥羊❞で食べる予定に切り替えた。
前もって色々と候補地を準備して置いてITに通知していたのと、ITが小生の体力も考慮してくれた事と辛い物好きのITの全ての折衷案でそうなった訳だ。
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極楽湯 横浜芹が谷店
※写真撮影し忘れたので冬の写真。
港南区の極楽湯へ移動。鎌倉街道から少し環状二号線を入った場所に在るので横浜横須賀道路で横浜駅に戻るには別所インターへのアクセスも都合が良い立地だし、この先は南区の弘明寺の三浦湯か、川崎まで行かないと無いし三浦湯よりは広いのでコチラにした。
風呂上がりは1時間後の待ち合わせ。
しかし、この日は男子風呂は子供だらけ、しかも親のマナーが悪く子供が露天風呂で行儀悪く風呂にバシャ―ン!バシャ―ン!と飛び込み台の様にしており親の集団は注意せず放置。
仕方なく小生が「お風呂では飛び込んじゃダメだよ~♪」と言うと固まる子供・・・
そこへ別の年配の男性客が「オイ、ガキ!あぶねーぞ!怪我すんぞ!」と凄みながら注意した。
・・・するとマナーの悪い子供は、これ又、行儀悪く風呂場を走って室内浴場へ❝逃げた❞のだが、一体全体、あの子供の親はどんな家庭環境で育ったんだろうな?と思った。
騒がしくユックリする気分でも無いし凄まじく眠かったのでITの配慮を無駄にしない様に10分で風呂を上がると、待ち合わせ場所のマッサージチェアにしこたま100玉を投入し40分位マッサージされたまま寝た。
人間40分も仮眠すると結構頭がスッキリするもんで、目も覚めてスマホ弄くりながら小肥羊の場所を確認しているとITが風呂から上がって来たのでソフトクリームを食べながら関内店が良いか横浜駅東口店が良いか相談し、横浜駅へ移動。
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地下駐車場に愛車を停めるとモアーズ側の出口から小肥羊に移動。
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中国火鍋専門店 小肥羊 横浜店火鍋と言う料理を御存知無い方もいるかも知れないが、これは中国でポピュラーな料理で薬膳スープと辛みスープの二種類に羊肉や牛肉や野菜を浸して加熱して食べる中国東北地方の料理で、言わば中国版のシャブシャブと言った感じの料理だ。
小生は辛い物は嫌いでは無いが得意でも無いので、辛いスープはもっぱらITの担当に成った。
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4000円弱のコースを頼んで二人で「肉少なくね?」と思って追加注文したらトンデモない!コースはやはりちゃんと考えられていて、二人共追加分は腹一般で可也(かなり)無理しないと胃袋に入らない量に成ってしまった。
しかし、とても美味しく、又何回でも食べたいと思う中国に良く出張していた小生にも懐かしく、中国にしょっちゅう出張しているのに接待漬けのせいで食べる機会が少ないITにとっても神奈川旅行を喜んで貰える一助に成った様でとても良かった。
二人とも満腹で満足すると、翌朝早くには表参道に出張出勤せねばならないITを眠気もすっかり覚めたので安全に鶴見のビジネスホテルまで送り届けると小生は下道で帰宅した。
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帰宅してITに貰った御土産を開くと冒頭で紹介した宇治茶と山椒昆布だった。
「ありがとう」と感謝の念を持ちながら有難く頂き、御蔭で体型も理想体型に成る事が出来た。
毎回、東京出張の旅に訪ねてくれる親友で理解者の存在は、人としてとても有難い。
ありがとう。

ITや千葉に引っ越してしまった後でなかなか会えなくなっていた親友O型君等の様に、常日頃から馬鹿みたいにつるまなくても、大切な人間と言うのは信頼出来るしバカ騒ぎしなくても楽しめるもんなんだよな~。

親友だけでなく、普段、御世話に成っている師匠の様な宮司様達や和尚様達や、尊敬する歴史偉人や神話の残る神達様や武将達が拝んだ仏様達、御先祖様や小さい時に可愛がってくれた義祖母はじめとした恩人の皆さん、学生時代からの恩師達に感謝をも再確認する一日と成りました。
ITありがとな~!

さて、今回の休日雑記はここまで!
次は多米元忠公の解説記事の最終章を書きたいな~と思います!
その翌週からは暫く繁忙期と私用と神事と仏事が立て込んでブログ更新遅れたらすみません!

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪

前回の記事⤵
北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説②】・・・多目元忠公が活躍した河越夜戦と敵対勢力の解説。
コレの続き⤴

今回は河越夜戦で全軍の総指揮を執り北条11000vs上杉80000で北条家に奇跡の勝利を齎(もたら)した多目元忠公の隠居地であり菩提寺でもある神奈川区三ッ沢西町の豊顕寺(ぶげんじ)を紹介します。
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法照山 豊顕寺・・・三つ沢壇林旧蹟
(だんりん=江戸時代の仏僧の大規模学問所)
北条五色備え 黒備え隊大将 多米元忠公と多米家の菩提寺
恐らく、この豊顕寺の寺名の読み方すら御存知無い方も幾らかいらっしゃると思います。
そして豊顕寺さんが多目元忠公の隠居地とは知らない人も多いでしょう。訪問さえすれば秀吉の小田原攻めで小田原城に籠城した❝多米長宗❞公が多米元忠公では無い事や、そもそも歴史学者が江戸時代の誤植した❝多目(ため)❞姓を現代では正式認定していますがコレが誤っており、正式には小田原所領役帳や新編武蔵風土記稿の記載の通り❝多米(ため)❞である事が直ぐ解ります。
又、小田原北条家の滅亡後は多米家は消息不明的なアホな事をテンプレ書き込みしている馬鹿学者もいますが大きな誤りであり、ソイツ等は先人を尊敬して文書にする際に菩提寺や氏神の神社を参拝して仁義を通したり取材して事実確認をしていない三文学者な事が歴史オタクには一目瞭然だったりもします。
今回、戦国時代の北条家研究をされる方にとって、多米家の事でとても大事な報告も有るので是非読んで頂きたいと思います。

27日の深夜にブログ更新する心算でしたが豊顕寺サンへ未取材のまま結局記事に書きたくなくて28日土曜日に御住職様に御朱印の拝領と合わせてアポをとり取材をして参りました。
色々と御話を聞けたし、実際に江戸時代までは江戸上野の寛永寺に匹敵する超大規模な壇林の三ッ沢壇林だった名残りが❝横浜市教育委員会が保護もせず放置したまま部分的に現存している❞事も確認して参りました。
そして、多米家嫡流の御子孫が戦国時代から現在まで筆頭の檀家として豊顕寺サンを歴代菩提寺にして来て御寺の歴代御住職も多米の殿様の御子孫の来訪時には丁重にもてなし続けている事も教えて頂く事が出来ました。そして今現在、❝多米家の直系最期の御子孫❞がいらっしゃり・・・

う~ん、多米の❝お姫様❞の話は先ずは置いておいて、御寺の歴史紹介から多米家のルーツを解き明かし、北条家臣化の通説とは違うプロセスの方が現実的と指摘したいと思います。
豊顕寺周辺 久良岐のよし
豊顕寺は正式名称を法照山 豊顕寺と言います。
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2018年04月28日(土)の躑躅が綺麗な日に訪問、横浜市営地下鉄ブルーラインの三ッ沢上町駅の目の前で、豊かな緑に囲まれた素敵な市民の憩いの場にも成っており、本日の参拝の折も横浜国大の生徒と思しきカップルが境内で仲良くデートしていました。
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なにやらスマホをいじくっていたのでポケモンGOでもやってたのかな?
この豊顕寺サン、元は三河国八名郡多米村(現:愛知県豊橋市多米町)に多米家の祖先の多米元興公が永正十二年(1515年)に多米家菩提寺として建てた❝本顕寺❞が存在しました。この永正年間に活躍した元興公の御父上の多米元益公には❝伊勢七騎❞と言う異名が有り、既に伊勢盛時宗瑞公の時代の元益公の代には北条家と“関わりの有る家”として活躍し重臣だった事が確認出来る訳です。しかし家臣かは別の話し。
多米家は伊勢国で伊勢姓時代の北条早雲の名で知られる本名:伊勢新九郎盛時公と出会ったと何だか書いているガクシャ先生もいますが、これは恐らく江戸時代に作られた俗説のデマを事実考証もせずにテンプレした結果の誤りでしょう。
そもそも永正十二年(1515年)頃に三河国に菩提寺を作っている多米家が永正年間頃に伊勢国で伊勢新九郎公と出会う訳が無いんです。
実は小生が間宮林蔵の祖先であり多米家と同じ横浜の戦国武将で笹下城主の間宮家の顕彰活動をする過程で、多米家が伊勢(北条)家の臣下に成る理由を発見していました。
永正年間の伊勢家は今川家臣ながら伊豆国と相模国西部の小田原城を手中に収めて今川家の従属大名として活躍していました。そして当時の伊勢家は北条早雲公の代には北条姓を名乗っておらず早雲公も正式な名前は伊勢盛時 入道号:早雲庵宗瑞が当時の御名前でした。
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この頃の伊勢家は永正三年(1506年)~永正四年(1507年)か永正五年(1508年)迄の足掛け3年間に渡って伊豆と相模の与力武将と今川家からの与力武将を従えて❝徳川家の祖先❞松平家と長期合戦の真っ最中でした。松平家初期の本拠地だった三河国碧海(へきかい)郡=現:愛知県三河安城市の安祥(あんじょう)城を攻め落とすべく今川家総大将として出陣しているんですね。
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現在、安祥城の本丸跡には大乗寺と言う浄土真宗の御寺が在ります。
この頃の今川家は東三河一帯を勢力下に置いていたので当然ながら多米元忠公の御父上と思しき多米元益公や多米元忠公御本人の別名と思われる多米元興公は、この時期に今川家臣と成ったと考えた方が自然でしょう。そして後に東三河は徳川家康公の祖父で戦上手で少々乱暴な人としても有名な松平清康公によって征服されて今川家が三河の領地を失陥(しっかん=戦に負けて城や領地を失う事)していますが、その前に松平家と当初は敵対していた戸田家によって先に豊橋市一帯は征服されているので、多米家は今川の勢力を離れた後で一時的に戸田家に従属し、更に今川家時代からの仇敵の松平家が一帯を征服したタイミングで出奔したタイミングもこの頃かと推測出来ます。
その時期は享禄二年(1529年)の松平氏による現在の豊橋市周辺併呑の頃でしょう。
当然ながら以前に松平家と敵対した今川家の総大将の伊勢盛時公に与力した多米家も松平家から領地を奪われて浪人したでしょう。
小生の推測では、この時に優秀だった多米元益公と多米元忠こと多米元興公は伊勢家を頼って伊豆の韮山城の北条早雲公こと伊勢盛時公か小田原城主で伊勢家二代目の北条氏綱公を頼ったのでしょう。小生思うに、親子は実力を買われたのと伊勢家が敗戦と浪人の責任から多米家を召し抱え重臣として取り立てたと考えれば伊勢家家臣化が極々自然に繋がると思います。
さて、小生が何故この事を気が付いたかと言えば全然関係ない久良岐郡の間宮家居城の笹下城の事を調べていて、中世武士の文化や北条家研究家として間宮家や中田家の事や久良岐郡研究で多大な成果を収められておられる盛本昌廣先生の論文と新編武蔵風土記稿の久良岐郡の笹下城下の事を読んでいたからでした。
内田対馬守家感状 久良岐のよし
この古文書の写しが新編武蔵風土記稿に紹介されています。
この内田対馬守は間宮家臣として笹下城下では代々続いた家でして、分家も多く本家は古門内田対馬守家として近年で知られた地主サンでした。
小生はこの古文書の写しを読んで間宮家臣古門内田家の御子孫を探しに港南区笹下町を訪れ朝から夕方まで内田姓の家を訪ね歩き回りピンポンしまくる怪しいセールスマン状態(笑)で御自宅を見つけ出し訪問していた事が有ったので多米家のルーツと繋がる❝今川家&伊勢家連合軍の松平家安祥城攻め❞に行き着いた訳です。まぁ、世界屈指のメーカーさん相手に企業営業の経験を積んだ小生に掛かればコンナ事は朝飯前(笑)!何にも恥ずかしくないし飛び込み営業と取材は何にも変わらん(笑)!
これが歴史オタクに活かせるスキルだとは思いもよらなかったし、研究職しか経験の無い学者サンが肩書が無いと仕事が捗(はかど)らないと思い込んでるのとの違いだなと今にしては思う。
この感状の古文書、年号が有りませんが寅三月ニ十八日と書いて有りますよね?
実はこれ、三河国碧海郡の安祥城攻めが終了した翌年の発行なんです。そしてこの寅三月の寅年がいつだったかは内田対馬守サンの死没年から特定できるんです。
三河安祥城攻めが終了したのは永正四年(1507年)とも永正五年(1508年)とも言われていますが、内田対馬守が死没したのは新編武蔵風土記稿に永正五年(1508)三月二日と記されています。つまり1508年を含むそれ迄の寅年、かつ永正年間で感状(かんじょう=感謝状と御褒美)を与えられる様な合戦が有った年と考えると推測が着きます。
この感状は死亡前の活躍に対して数ヵ月のタイムラグが有り、亡くなって初七日も終え暫くしてから今川家から送られている事も判ります。戦傷が元で亡くなったんでしょうかねぇ~?
内田対馬さんが感状には御大途(大殿様)と言う表現が有りますね?これは伊勢(北条)家が今川家の家臣だった頃に今川家から伊勢家与力の間宮家に発行されている事が解ります。当時の北条家臣団は北条早雲公に対して大殿様と言う表現を用いていなかったそうなので、間宮家の殿様の伊勢家の更に殿様の今川氏親公から下賜された官位に付随した書状である事が解ります・・・
「では質問!内田対馬さんが無く亡くなり今川家&伊勢家連合軍の松平家安祥城攻めが遅くとも終結した永正五年(1508年)の干支は何でしょうか!?」
・・・答えはね❝丙寅(ひのえとら)年❞、つまり寅年なんですよ!
だから今川家の殿様から内田対馬守の死没以前の活躍に対して感状が発行される寅年か前年の合戦は今川&伊勢連合軍の三河安祥城攻めしか無い事が解る訳です。
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※写真は駿府城、今川家の拠点が駿府城の前身とも言われるが定かでは無いと駿府城の学芸員サンがおっしゃってました。
この時期、今川家臣だった伊勢家は今川家の名代と言う名目と幕府の公認を受けていた古河公方家の支援と山内上杉家と扇谷上杉家の内紛鎮圧を大義名分に相模国東部~武蔵国久良岐郡に侵入し橘樹郡~都築郡と、武蔵国南部も浸食し始めていました。そして❝永正の錯乱❞と呼ばれる室町幕府管領細川家の内紛が起きて応仁の乱の西軍側の足利義稙公によって当時の室町将軍の足利義澄(よしずみ)公が征夷大将軍の職位を奪われ京都を追われる事件が発生します。
実は北条家が伊豆国を支配で来たのは、足利義澄公の母上の仇(かたき)であった異母兄の堀越公方足利茶々丸を討ち果たし仇を取ると言う❝大義名分❞が有ったからでした。その足利義澄公が将軍職を追放されてしまったので、伊勢家としては堀越公方やそれを支援する山内上杉家と戦い伊豆国と相模国の支配権を保持する正当性が無くなってしまいました。そして伊勢家の主君だった今川家は幕臣として室町幕府に仕えていましたが、足利義稙公と今川家との主従関係が確立されると山内上杉家は西軍との関係が良好であったので伊勢家と今川家の関係も問題に成って来てしまう訳です。
そして永正六年(1509年)頃から伊勢家は今川家臣としての活動を一切行わなくなり、この頃に断交している事も判ります。

さて、ここから多米家と北条家の歴史が繋がります・・・
この頃の永正五年(1508年)に徳川家康公の祖父の松平清康公が生まれ、大永三年(1523年)に清康公は父の松平信忠公の隠居を受けて15歳で松平家当主に就任すると享禄二年(1529年)頃に多米家の領地の有った三河国八名郡や宝飯郡を含む今の豊橋市界隈で一番有名な御城の吉田城の城主:牧野家も今川家臣でしたが松平家と縁戚の戸田家との合戦に敗れて降伏しています。そして八名郡や宝飯郡一帯は松平家の盟友の戸田家の領土と成ります。当然ながら今川家臣で旧伊勢家与力の多米家もこの時期に三河国の所領を失った筈です。
・・・そして永正十六年(1519年)に伊勢盛時入道宗瑞公も死没しているので、多米家は北条家二代目頭領で❝小田原城主の北条氏綱公を頼って北条家臣と成った❞と考えた方が通説よりも自然でしょう。
そこで大切なのが横浜市神奈川区三ッ沢西町の豊顕寺サンが三河国八名郡多米村から移転して来た時期です。
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恐らく多米元忠公の初名と思われる多米元興サンは天文年間(1532~1555年)に青木城主を隠居して、三河国の多米家菩提寺の本顕寺を現在の神奈川区三ッ沢上町駅前に移転させて、自分の隠居所としている事が寺伝や新編武蔵風土記稿の記載から解っています。

【新編武蔵風土記稿 橘樹郡之十三 小机領 豊顕寺の項】
豊顕寺
~冒頭省略~
もとは三河國八名郡多米村にありて、本顕寺と云(言い)てかの地の士多米権兵衛(元益サン?)が世々の菩提寺成り(豊顕寺伝承では1515年造営)、
~以下中略~
長氏(北条早雲公の本名:伊勢盛時の別名)後に相武等を併呑せしかば、権兵衛かの家人となりて一方の大将を承(賜わ)れり、(※この時点で北条家の相武併呑後(北条氏綱公の代の事業)に北条家臣化している事が書かれているが、早雲公が今川家臣だったの頃からの与力としての付き合いである事が先に紹介されているので現代の解釈の混乱に繋がっている模様)天文年間中よりこの地(青木城一帯)の領主となりしゆへ、かの本國(三河国八名郡多米村)にありし本顕寺を當(当)所へ引うつして名を豊顕寺と改めしとぞ、
~以下省略~
ここまで読めば今川時代に伊勢七騎と呼ばれた多米元益の世代から多米家と伊勢家の付き合いは有って、でも北条家の家臣化したのは北条家が武蔵国まで勢力拡大した頃の話である事が解ります。
更に多米❝権兵衛❞の様に当時の武家の各家系が名乗る屋号や官職名は代々引き継がれる物だったので、世代的に多米家で北条家臣と成ったのは天文十四年(1546年)に活躍した多米元興(元忠)公の時代の話である事も推定できます。そして青木城主に成ったのは天文年中での事で、その頃に隠居所の草庵の所に三河国の多米家菩提寺の本顕寺を三ッ沢に移転している事が解ります。
もしかしたら多米元忠公が御隠居されたのは河越夜戦で指揮をとった記録が有るので、天文十四年か翌年の天文十五年(1545年)かな?と考えれば自然ですよね。

つまり、豊顕寺サンとしての横浜市神奈川区三ッ沢西町でのスタートは、多米元忠公の引退時期の天文十四年~2年間の間の話だと推定できます。

そうそう、小生が参考にしている新編武蔵風土記稿ですが、そもそも新編武蔵風土記稿の近代の役人と出版社が編集した❝活版印刷版❞では❝本顕寺(ほんげんじ)❞の寺名すら誤植しています。❝本顕寺❞の草書体を本❝願❞寺と誤読した挙句に出版してしまっているんですね。更にソレを知らずにテンプレする歴史学者やら多米じゃなくて多目と書いてしまう学者やら・・・
コイツ等のせいで小生も豊顕寺の御住職に事実確認するまで「❝多目❞が正しいのかな?」と柄にも無く少数派で「❝多米❞だコノ馬鹿が!」とガクシャ先生を罵倒する事が出来なかった事を恥ずかしく思います。
よって今回の記事以降から多米家は全て多米姓で統一したいと思いますが、過去の記事の絡みも有り検索タグは❝多目元忠❞のままにして置きたいと思います。
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さて、多米家のルーツと豊顕寺の移転開基年代がだいたい推測出来た所で、もう一度御寺の参道の紹介から御寺その物の風景と施設を紹介しなおしたいと思います。
豊顕寺は市営地下鉄三ッ沢上町役を降りて国道一号線側から入ってくると外の大門代わりの石柱が有り、そこを入ると正面では無く右手に御寺が在(あ)ります。
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昔は大門を入ってくると真直ぐに丘の上に4万5千坪もの壇林(だんりん=学問所僧院の集合体)が存在していたのですが、明治のキリスト教徒政治家や戦後の宗教改革でアホの横浜市に接収され文化も史跡としての価値の高い大寺院群は上野の寛永寺同様に一部を残して徹底的に弾圧破壊されてしまいました。
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だから今も昔の壇林へと続く参道は豊顕寺市民の森の中に石畳と赤門だけが真直ぐ続き現存しています。
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先ずは御寺の風景を見てみましょう。
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緑豊かな豊顕寺の森に落ち着いた雰囲気の山門、昔は間宮家の杉田妙法寺や間宮家臣荒井家が鎌倉時代に中興した金沢区上行寺と同じく千葉県の中山法華経寺を開いた富木(とき)家出身の御住職が開いた前身寺院が存在しました。恐らく多米元忠公が御隠居された場所と言うのは、その前身寺院の事でしょう。
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山門をくぐると東を向いた御堂は初夏の午後16時頃の西日を背負って御寺に相応しい表現化は微妙ですが何だか神社の様に緑豊かな豊顕寺本堂は神々しい雰囲気に包まれていました。
山門から入って左手の竹の柵に囲まれた井戸が有りますが・・・
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この井戸はまだ現役で活用されています。
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手動ポンプで水も勢いよく出ました。
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・・・実はこの井戸の背後に歴代住職様と多米家嫡流で豊顕寺檀家の歴代御廟所が存在します。
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浄財寄進者名にはちゃんと多米家❝最後の御当主❞の御名前も刻まれていますが、予想外に❝間宮姓❞も多くいるので「何でだろな?」と思ったら、そう言えば神奈川区斎藤分町は間宮家の御分家の間宮宗甫サンの所領だったんです。これも御住職に取材をして解ったのですが、昭和初期まで神奈川区の間宮一族の中には大邸宅に住み使用人を住み込まれている家も有ったとの事なので地主と言う事を考えれば豊顕寺檀家の間宮さん達は笹下城主間宮康俊公の親戚の間宮宗甫公の御子孫達と考えられるでしょう。
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御本堂は戦災で焼けたのか鉄筋コンクリート造りの外観でしたが、屋根瓦に刻まれた地紋は北条家の三鱗紋でした。
丸に三ツ鱗紋
そして多米家の御廟所を参拝してから御住職にも確認しましたが、多米家の家紋は❝丸に北条三ツ鱗紋❞だそうです。
実は多米家の家紋を御存知無いガクシャ先生達が多いのですが、まぁ小生も昨日まで知らずにいたのですが、こうやって現地に行けば取材も出来るし、先人や歴史偉人や神仏を尊敬して神社や御寺を開いた殿様や歴代御住職様や宮司様に御参りするれば直ぐに家紋は判明するんですけどね。
ちゃんとした学者さんや博物館の学芸員サンは論文書く時に御墓参りしたり宮司様や御住職様に連絡したり御参りに行くから、素人の只の歴史オタクの小生と同じ程度の事は御存知なんですよ。
信仰心も先人への尊敬も無く、ただ飯のタネにしてる他地域からの移住して来たのに横浜を郷土として馴染み認識出来ない人ばっかの横浜市教育委員会の人達は知らないんですがね。
山門入って右手、多米家御廟所と反対側に庫裡(くり=居住空間)が在ります。
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庫裡の前にも真っ白な可愛い御花が咲いていました。
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とっても綺麗。
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その御花の前のベンチで和やかに時間を過ごす仲良さそうな大学生位のカップル。
羨ましいぞ!
誰か日本文化と歴史と散歩と旅行先の郷土料理食べるのと綺麗な風景好きな水商売経験や酒乱癖や違法薬物使用経験の無い真面目な女性、小生を婿にもろうてくれ(笑)。
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御寺の本堂の扁額には山号の法照山(ほうしょうざん)と書かれています・・・
読み様によっちゃ悩める人々の味方の「法テラス」とも読める(笑)。
・・・まぁ、弁護士サン達とは違う意味で人を精神的に助けれるのが宗教の良い所、ある意味で法テラスと同じ人助けの組織だね。
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御本堂の左手には日蓮上人像。あ、紹介し忘れていたけれど豊顕寺サンは法華宗です。
・・・豊顕寺サンの御本堂と庫裡の有る山門内はこんな感じ。
山門を出て旧三ッ沢壇林への参道の赤門前に戻ります。
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この赤門は江戸時代から第二次世界大戦の戦火も免れ存続し、老朽化で一度部材を解体して修理すべき箇所を手入れして組みなおした修復後の姿です。赤門と言うのは幕府の許可が無いと作れない寺格の高い御寺や医学書や大名屋敷にだけ許された特別な門でした。東京大学の赤門も加賀前田家の邸宅の門だったから朱塗りが許された門だったんですね。
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さて、豊顕寺から続く三ッ沢壇林の参道、横浜市は緑地として一部だけ残しましたがその山林の中には貴重な三ッ沢壇林の史跡が有るのを小生は確認してきましたが❝横浜市教育委員会は全く史跡として保護をしていません❞でした。アホなのかな?
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赤門をくぐると江戸時代からの壇林の参道を利用した遊歩道が在ります。
これを真っすぐ進まずに、最初の右手の削平地へ進んでみて下さい。
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左手に人工的に切岸にしてある段地を見ながら進むと・・・
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初夏には真っ赤な躑躅が咲く場所が在り、更に人気の少ないその奥には何やら削平地が有ります。
更にその奥に進んで下さい。
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・・・するとおそらく旧塔頭へと続く石段だったと思われる階段が登場します。
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近くで見ると石材を人力で加工した跡が有り、小生は江戸時代の石段だと思います。
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登り切ると不自然に階段は途切れ、少しずれて何かの私設の裏口が有ります。
これ、Google mapで見ると国土交通省関東地方整備局の施設らしいです。
三ッ沢壇林旧蹟衛星画像 久良岐のよし
この画像では北側が下に成っています。
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同じ角度で見た江戸時代の絵図だと、現在の豊顕寺サンの位置は手前右側の小さな御堂の集合体みたいな辺りで昔とは位置が違う様です。そして現代の立派な石段跡に続く国土交通省関東地方整備局の建物辺りに何か立派な御堂が有る事が解ります。
しかしこれ、何の御堂か新編武蔵風土記稿の豊顕寺の項目を読んでも良く解らないのですが、如何にざっと記述を載せて見ます。

三十番神堂 ・・・門を入りて左にあり
多米氏墓  ・・・門を入りて左にあり
多米彌七郎墓・・・同並の内にあり
蓮秀墓   ・・・前に言へる二基の間
運信齎日領墓・・・同並にて北のはしにあり
三澤壇林  ・・・境内の南の山上にあり
(赤)門    ・・・柱間一丈腕木つくり山上にあり
講堂 本院寮・・・講堂の表通りにあり今は廢せり
玄講寮   ・・・講堂の北下表通りの西側にあり
集講堂   ・・・同所の北の側にあり
條講堂   ・・・講堂の北下裏通北側にあり
自寮    ・・・十四棟
長屋    ・・・七軒

これを見る限り国土交通省関東地方整備局の辺りには講堂が在った様です。
その左手には何やら基壇が有りました。
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恐らくこれ玄講寮とか言う奴の基壇だと思うんですが、何んの説明も無いので不明です。
何故横浜市はこんな立派な基壇を保護も発掘もせずに風化させ放置するのだろう?
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周辺に削平地はまだまだ有るので、講堂周辺の御堂のいずれかの跡でしょう。
そして赤門をくぐり真っすぐ上まで行くと三ッ沢壇林の中心の御堂の石段と基礎が残っていました。
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これも保存する気無しの教育委員会、馬鹿なの?
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八幡広場と書いて有るので、往古は三ッ沢壇林の中心は多米元忠公の北条家が大切にした八幡大菩薩応神天皇が祀られた御神廟だったのかも知れませんね。日蓮上人と鶴岡八幡宮の結び付きも強いですし、法華宗の豊顕寺としても大切な場所だったのでしょう。
この様に、史跡としても学僧の聖地としても横浜市に破壊された三ッ沢壇林ですが、現在も放置された名残りは有るし深緑のとても気持ちの良い散歩道としても楽しめます。
そして豊顕寺を御参りすれば北条家の軍師だった多米元忠公に知恵の御利益を授けて頂く御釈迦様や八幡大菩薩応神天皇との橋渡しをして下さるかも知れませんね!

最後に戦国時代の北条家研究をしている歴史学者さんが見て下るかも知れないので一つ報告をします・・・
三ッ沢の豊顕寺で多米元忠公以来檀家として存続した多米家嫡流はもう直ぐ途絶えます。
御先代の男性当主がつい7年前に亡くなりました。そして現在の御当主は女性で残念ながら御子様に恵まれませんでした。
文字しか読まないタイプの学者には歴史上、江戸期の動向が良く解らないから断絶したとか言う人もいたりなんかする多米家ですが、ちゃんと多米家菩提寺豊顕寺では歴代の御当主を戦国時代からずっと事有る毎に来訪される旅にお迎えして来ました。
多米家を研究されたい学者さん、いますか?
もしアナタが本当に歴史が好きで先人を尊敬しているのならば、歴史偉人を呼び捨てにせずに敬称を付けて名を御呼びする様に態度を改め、豊顕寺を参拝し現在の御住職様に多米家最後の御姫様の女性当主様に連絡を付けて頂き家系図を見せて頂いたりする最後のチャンスですよ。
今やらないでいつやるの?
素人の小生が出来る事をアナタ達は何で出来ないの?
先人をリスペクトせず、神奈川県の史跡が開発の邪魔だから触れず?
歴史は飯の種で歴史人物も飯のタネだから敬称付けず人扱いせず呼び捨て?
それってさ、御子孫も菩提寺の御住職様も氏神様の宮司様も檀家サンも氏子サンも怒るよね?

歴史偉人も生きていた事を思い出し、そして子供の頃に憧れた戦国武将達への尊敬と日本の歴史を刻んで現在に繋げて下さった御恩を思い出して、敬称付けて名前を御呼びして自分で御墓に御参りする所から取材始めてみませんか?
多米家の事を調べるのは今しか無い最後のチャンスですよ。失礼な呼び捨てをするなら御寺とも御子孫ともコンタクト取るなよ。

・・・さて豊顕寺と多米家の歴史解説と推測の記事はここまで。
次回は多米元忠公の御子息達の重臣にしては所得が低めな理由を考察したいと思います。

北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説④】へ続く。



先ず最初に御寺の解説よりも先に関東屈指の躑躅(つつじ)の景勝地の青梅市塩船観音こと大悲山観音寺で2018年04月26日現在、見頃で各種の躑躅がいっぺんに見られる最盛期を迎えている事を報告します。
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大悲山 観音寺
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今回、少しだけ御寺の紹介文を書いて、解説記事は金曜日に改めてこの記事をリニューアルする形で書く加えたいと思います。

さて、この観音寺、日本で初代の大僧正である行基大僧正が開いた凄い御寺で御寺の地形が船形の様に窪地なので地域一帯が塩船と呼ばれる様に成ったそうです。
青梅の山奥の御寺なのですが関わった人物は行基大僧正だけでも凄いのですが、実は人魚伝説のモデルでもある八百比丘尼(やおびくに)が住職を務めた時代も在ったと伝わる御寺です。
人魚と言えば昭和生まれは高橋留美子さんの❝人魚の森❞シリーズとか・・・
人魚の森 高橋留美子
・・・平成世代ならルパン三世の❝血の刻印 永遠のマーメイド❞とかで見た事も有る人もいるかな?
一応、近畿地方では若狭国(福井県の西部)が人魚姫と八百比丘尼伝説の舞台ですが、関東にも八百比丘尼が来ていた伝承が有るのが、この塩船観音こと大悲山観音寺なんです。一応、1000年の寿命の内200年を他人に譲って800生きて亡くなった八百比丘尼さんの供養塔か御廟所かは判りませんが塩船観音寺には墓所も存在しています、一般非公開だけどね。
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とっても広い御寺で、修験道の影響も受けた御寺なので神社も在り、更には近代化で破壊されずに奈良時代から続く山寺の雰囲気がすっごく素敵な御寺です。
戦国時代に北条家の家臣として白備え隊小机衆の与力に加えられ新横浜駅裏の篠原城代を任された金子十郎と言う殿様がいるのですが、その御先祖様の方の金子十郎公が平安時代末期~鎌倉時代に支援し、戦国時代には領主は代り勝沼城主の三田(さんだ)氏の庇護を受けた御寺でした。

・・・と、解説を書いていると寝る時間が無くなるし週末の皆さんのレクリエーションの参考に成る様にUPが間に合わなく成るので今回は御寺の雰囲気と開花状況だけ優先的に紹介する為に先ずは御寺と境内の多くの躑躅に囲まれた御堂のとても綺麗な2018年04月21日に撮影した写真を掲載します。

すご~い本当に躑躅が綺麗な御寺なのでゴールデンウイークの小旅行の参考にして下さい!
近くの二俣尾には天皇家の勅願所だった海禅寺さんや、羽村市は縁結びの武蔵阿蘇神社や、あきる野市には延喜式内社で武蔵国二ノ宮だった小川大明神こと二宮神社、秋川渓谷や高月城址の下の秋川ではバーベキューも出来たり圏央道あきる野インターチェンジ近くには東京都で珍しい千代鶴の酒蔵の中村酒造も存在し試飲も出来ますよ。
風景も空気も水も綺麗な奥多摩地方、是非塩船観音寺の躑躅見物と合わせて遊覧されては如何でしょうか?

こっからは写真だけ!最初に躑躅の写真を、後から御寺の参道から本堂までの写真を掲載します!
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・・・では金曜日にこの記事の文章をもっと関わった人物の事とか書き足します。
それと出来たら多目元忠公の記事も第③部を書きたいと思います。














今回、多目元忠公の記事をリニューアルするに当たり余りにも膨大な情報量に成ったので、今回はユックリと記事を三部に分けて解説をしたいと思います。
①北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。
今回の記事⤴

今後追記予定の記事2部⤵
②多目元忠公が活躍した河越夜戦と山内/扇谷上杉家解説。
③多目元忠公は大活躍したのに子孫と思われる一族の禄高が低く抑えられている原因の推理。

そして、未訪問の三ッ沢に在る多目家菩提寺の豊顕寺さんの紹介記事もいずれ書きたいなと思います。

さて、では今回は多目元忠公の基本的な情報と当時の北条家の状況の解説、居城青木城と青木城前身の権現山城の構造と周辺の歴史を解説します・・・

戦国時代に神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県北部を統治した大名の北条家が100年後に日本を統治した徳川家よりも優れた政治で内政と軍政を行っていました・・・
三つ鱗紋北条家三鱗紋
小田原北条家というのは戦国時代に既に初期の江戸幕府を凌駕する善政の統治機構を持ち、各方面で有事に別々に運用できる軍団制度を織田信長公の登場よりも早くから導入した内政と軍政に優れた大名家でした。
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現在も部分的に現存する❝小田原用水❞は日本初の上水道(飲用水道)として歴史学者には知られている存在です。又、城郭建築に長けた家臣団を多く持ち、更には修験道や神道の宮司も兼ねる有職故実に通じた由緒正しい教養高い家柄の重臣も多くいる民政と教養と城郭建築に特に長けた家柄でした。
この事は余り現代では歴史好き以外には知る人も少ないのですが、その北条家には五色備(ごしきそな)えと呼ばれた色別編成の主力部隊がいました。
この五色備えとは軍旗の色を、青色・黄色・白色・赤色・黒色の各色に分けて部隊編成された軍団で、この五色は仏教五色と呼ばれ当時神仏混合だった宗教観では仏教的な思想では唐時代の中国の高僧の不空三蔵法師が訳した経典で以下の意味が有り、その軍団には役目が有りました。
黄・・・皇帝
中心を指す、物事の本質を見抜き統率する知恵・・・北条綱成公、家中最高の統率力の名将
青・・・青龍
東方を指す、此の世の出来事を公平に見る知恵・・・富永直勝公、家中初期功臣家系の名将
白・・・白虎
西方を指す、此の世の全てを見極める為の知恵・・・笠原信為公、家中最高の文化人の名将
黒・・・玄武
北方を指す、此の世の物を完成させる為の知恵・・・多目元忠公、家中最高の知恵者の名将
赤・・・朱雀
南方を指す、此の世が平等である事を知る知恵・・・北条綱高公、文武の両面で優れた名将

この色分けと其々の方位を守る聖獣は横浜市民と神戸市民は良く知っていると思います。
横浜中華街仏教五色四方聖獣の門と黄色の善隣門位置 久良岐のよし
横浜中華街には東西南北の四方を守護する青龍・白虎・朱雀・玄武の門が在り、中心には善隣門が据えられており、この善隣門の屋根瓦は正に日本の神道にも影響を与えた中国道教と仏教で皇帝を表す黄色の瓦が用いられています。
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そして海側の大手口と成る朝陽門は鯱鉾(しゃちほこ)の部分の飾瓦が青龍のデザインで屋根瓦全体も仏教五色の青に成っています。
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安土桃山時代~江戸時代初期に織田信長公や豊臣秀吉や徳川家康公や徳川家光公によって寄進され神社建築遺産や居城だった安土城や伏見城等、海外との貿易が活発で華やかな色合いが好まれた当時の建築文化や仏像の極彩色装飾では、正にこういった道教と仏教の影響を受けた華やかな仏教五色を彩色された場所が多く有りました。
明治に廃仏毀釈で多くの華やかな社殿が消え官製神社に質素な色の鳥居や社殿が増えたのは実は明治の宗教改革をやった政治家がプロテスタントキリスト教徒で仏教を弾圧した影響なんですね。
日光東照宮の陽明門が正に現存する極彩色に装飾された建築文化財の代表例でしょう。
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織田信長公が社殿再建した京都府八幡市の男山、石清水八幡宮や・・・
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秀吉が社殿寄進した織田家所縁の愛知県津島市の津島大社とか…
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静岡市駿河区の久能山東照宮とか…
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神奈川県鎌倉市扇ヶ谷に在る徳川家康公に勝利の女神として大切に愛された側室の太田お梶の方の御廟所とかですね。
当時は神社仏閣で白黒と赤の基調の差は有れど、華やかな極彩色に彩られた場所が多く有った訳です。
色には宗教哲学や易学的な意味で方位守護を目的とした鎮護の意味が込められていたんですね。
北条家初期の北条五色備え軍団奇(く)しくも各軍団と大将は不空三蔵法師の仏教解釈の通りの色に符号した役割と能力を有しており、その為に軍団長として任命されている事も解ります。
北条氏綱公
そして
北条家二代当主でこの軍団編成をした北条氏綱公時代は、実際に色別に方角的な意味でも、それぞれの軍団は重要な合戦で各方角に出張する事が多く有りました。つまり、この五色備えは方角別に防衛や侵攻を担っていた事が解ります。
例えば青備え隊は初期は江戸城を後に葛西城を本拠地にしており、現在の東京都葛飾区辺りに居り北条氏綱公時代の領地の最東端に位置する地域の防衛を担(にな)っていました。
黄備え隊は武家の本拠地である鎌倉郡玉縄城に在り、主だった合戦では各方面に援軍として出張し主力として戦っていました。
白備え隊は甲斐武田家や後に徳川家に対する備えとして伊豆と相模の国境を守備する事が多い部隊でしたし、徳川家と北条家が激突した黒駒合戦でも黄備え隊と合わせて2万の大軍で相模国の西側の駿河国から甲斐国へ侵攻しました。
赤備え隊は初期の北条綱高公の時代には南方の要として江戸城で里見海賊の来襲に備え且つ、伊豆方面を守備する事が多く有りました。北条綱高公が江戸城で没した頃に小大名から北条傘下の軍団に組み込まれた世田谷城主蒔田吉良氏朝公の与力武将は江戸衆に成っていた様で豊臣秀吉の北条征伐の際には、やはり伊豆国下田の下田城防衛を担当し、城将清水康英公と共闘しています。又、蒔田吉良家には喜多見江戸家や河野家や杉田家や並木家等の水軍も保有しており江戸城周辺と品川港一帯東京湾中央部の防衛の要として機能していました。
そして多目元忠公の黒備え隊は北条家の知恵袋として良く本隊に組み込まれていましたが、北条早雲公や北条氏綱公の時代の初期の北条家北限が青木城周辺でした。北条家は当主自ら本隊を率いて敵軍と激突する事が多く、黒備え隊は遊軍でありながら隊長の多目元忠公が戦全体をコントロールする軍師としての役割を本陣で担う事が多かった軍団でした。秀吉の小田原攻めの際も多目家は小田原城に籠城していますし、小田原に籠城しなかった者は蒔田御所こと室町時代まで鎌倉公方代理だった蒔田吉良家の吉良頼康公の保護の為に近くの南区蒔田の蒔田城にもかけつけています。この時、吉良頼康公は水軍で城下の蒔田湾や磯子から出陣して単独で鎌倉防衛しようと無謀な構えを豊臣軍に対して準備していたので、もし多目一族が吉良頼康公を止めていなけらば、その後の江戸幕府高家の蒔田家→吉良家は存在しなかったでしょう。
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南区蒔田城跡の城下には太田道灌公の親友で戦上手として記録の残る吉良成高公が開いた勝國寺が現存しており、吉良成高公の先代の吉良政忠公から吉良頼康公までの御廟所と家臣団である佐々木家、森家、並木家等の御子孫達檀家サンの御墓が今でも殿様の御廟所を囲む様に存在しています。
以前書いた記事⤵
三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区の笹下川~大岡川流域蒔田湾の流通の拠点。
世田谷八幡宮所縁の殿様、吉良頼康公…東急世田谷線宮の坂駅と横浜市営地下鉄蒔田駅の殿様。
招き猫発祥の寺、世田谷区の豪徳寺…彦根藩井伊家の菩提寺で、蒔田吉良家所縁の大寺院。

今回紹介するのは北条家で最も有名な北条早雲公の時代の話でも無く、民政化として最も有名でありながら軍才に長けて北条家最強時代を築き上げた北条氏康公の時代の五色備えの黒備え大将だった武将の話です。
北条氏康
※KOEIさんのゲームより画像拝借。
・・・北条氏康公が小田原北条家第三代当主と成った頃、五色備え軍団の大将の内の3人の殿様と2人の名副将が現在の横浜市と成った昔の鎌倉郡・久良岐郡・橘樹郡・都築郡に居住していらっしゃいました。
 
1人目は旧鎌倉郡の内横浜市栄区長尾台に在った長尾城を外郭とし鎌倉市植木~玉縄~藤沢市村岡~小雀に跨る巨大城郭だった玉縄城主の北条綱成公。
北条綱成
※KOEIさんのゲーム画像拝借。
玉縄城主、黄備え隊の大将として活躍し各ゲームでも関東最強の武勇の評価をされる武将です。
そしてこの綱成公には名副将が二人いました。
実弟の福島勝広と北条本家家臣で付家老の間宮康俊公です。
弟の福島勝広公は河越夜戦で活躍した美少年として有名ですが、江戸時代の福島家の一族の中には現在の観光地デートスポットとして有名な江ノ島の江島神社の中津宮別当を務めた家もおり、明治以降は旅館を営みましたが廃業しました。
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豊臣秀吉子飼いの名将、福島正則公が少年時代に名古屋の甚目寺で殺人事件を起こして同族福島氏出身の北条綱成公を頼り駿河伊豆に落ち延びた際、当時深沢城代だった兄北条綱成公に代り直接福島正則公の面倒を見たのが小生はこの福島勝広公だと推測しています。
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愛知県あま市の福島正則公生誕地に在る菩提寺の菊泉院もやはり北条家の武将達が関わった御寺に多い曹洞宗で、御住職に面会に行った際に福島正則公の家臣団に伝わった北条家臣福島家との関わりを色々と教えて頂きました。
そして黄備え隊の副将で付家老が横浜市港南区~磯子区に跨る大城塞の笹下城主、間宮康俊公でした。
この間宮家は祖先が近江国の大名である宇多源氏佐々木家で、佐々木家氏神の延喜式内社沙沙貴神社宮司家を務め修験道にも通じた神道と仏教に精通し更には城砦建築と宗教建築の土木と海運と水軍と鷹の飼育、更に武勇に優れた武将を多く輩出した家柄で、学問気質でありながら豪胆な人物の多い家柄でした。子孫には学者の間宮士信や地理学者で探検家の間宮林蔵公や医学者の杉田玄白公がいます。
鶴岡八幡宮再建でも水運を利用して材木奉行を務めた北条綱成公の任務を代行している事が改元僧都記や蒔田吉良家臣団の伝承からも判っています。
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実際、間宮家江戸時代の当主で真田丸や大坂城総掘り埋め立て作戦を立案した徳川家康公の軍師の間宮直元は間宮康俊公の嫡孫(ちゃくそん=孫で跡継ぎ)に当たりますが彼は横浜市域の多くの神社仏閣を復興したばかりでなく、同族間宮一族の岩本間宮家(佐々木家=明治以降岩本に改姓)は江ノ島の奥津宮(本来の江島神社)と欽明天皇以来の勅願所の江ノ島の洞窟を管理する岩本坊で別当を務め、その家は明治に成るまで存続しましたが、明治政府の政策で仏教と神道的な場所が分離されると寺院機能を停止して宿坊として旅館業を営み始め有名旅館❝岩本楼❞として現代も江島に存続しています。初代江ノ島郵便局長で俳人としても有名だった間宮霞軒さんも御一族でした。
更に間宮家より家紋を下賜された久良岐郡松本村の松本家は笹下間宮家の陣屋を守っていた武内家に伝わる家系図でも間宮家から養子が入っている事が確認できるのですが、この家は源頼朝公が開いた修験道の大道場で門跡寺院だった鎌倉亀谷山福禅寺配下の重要な武蔵国域の大道場権現堂別当職を明治まで受け継ぎ、明治の廃仏毀釈後に権現堂は廃寺に成ったものの森浅間神社として権現堂の修験道場機能は神社化し存続しました。
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以前書いた記事⤵
森浅間神社…鎌倉幕府の陣所跡。磯子区屏風ヶ浦。
この歴史からか森浅間神社の所在地の横浜市磯子区森には神奈川県神社庁が置かれており、間宮家が室町時代から関東で担っていた宗教的な役割の重要さを窺い知る事が出来ます。
又、磯子区には福禅寺と同じく元々は鎌倉市山崎に所在し源頼朝公から崇敬を集め修験道の大道場だった山崎泉蔵院の重要道場だった中原村(磯子区中原)の熊野神社は後に泉蔵院が鎌倉から機能移転したことで大霊山泉蔵院桐谷寺と改名し室町時代から間宮家が領主となり保護し福禅寺権現堂と同じく明治の廃仏毀釈で泉蔵院が廃寺になり熊野神社に名を改めるまで存続していました。
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以前書いた記事⤵
横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。
福禅寺の寺院機能は東京都青梅市二俣尾に扇谷上杉家によって機能移転され三田氏が奉行と成り寺院が造営されたと小生は推測しており、同地には間宮一族と伝わる杉田家の初代が三田領に居た事も間宮家の子孫の間宮士信さんが新編武蔵風土記稿に書いています。
そんな青梅市二俣尾の福禅寺は江戸時代のアホの幕府役人が寺領保証の御朱印書きで寺名を誤記したせいで海禅寺と名前が変わってしまいました。
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以前書いた記事⤵
【第2部:海禅寺編】休日雑記 2017年04月19日の訪問先…【青梅市】辛垣城址~海禅寺~へそまんじゅう総本舗~【羽村市】阿蘇神社~チューリップ祭~【あきる野市】中村酒造
そう言えば、この二俣尾の江戸時代の名主さんも福島姓だったので、もしかしたら北条綱成公の御先祖様と二俣尾や近い立川市周辺の室町時代以前に福島郷と呼ばれた柴崎~昭島辺りは関係が有ったかも知れないと小生は推測していますが調べても文献が無く僅かな状況しか無いのですが、この海禅寺の前身の福禅寺からわざわざ間宮家は菩提寺と成る鶴見区下末吉の寶泉寺初代の住職を迎えているので福島家と間宮家の関わりからも亀谷山福禅寺と青梅の海禅寺は無関係では無い可能性が有ります。
さて、黄備え隊の事は又、色々記事が有るので御興味有る方はそちらを読んで見て下さい。

2人目は笠原信為公です。
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※毎年4月初頭に開催される小机城址祭りでは港北区長サンが笠原信為公の役を演じています。
高文化の北条家中で宿老の北条幻庵公と並び屈指の教養を持つ人物で詩歌に通じるばかりではく、寄親で初期の小机城主と思われる北条幻庵公に代り小机城代を務め白備え隊大将として統率力と実務能力も高い人物でした。その実務能力の高さから、蒔田城主で鎌倉公方代理の蒔田吉良頼康公や北条綱成公付家老間宮康俊公等を纏め上げて鶴岡八幡宮再建総奉行を務め見事に成功させた名将でした。
又、笠原家は間宮家と共に北条家中を代表して対外的な外交を担う事の多い家系だったので、高い外交力を有した家柄でもありました。
恐らく初期の北条家に置いて最高の内政力の高さの両方を有した武将は、この笠原信為公だったのでしょう。そして謀略と外交に長けたのが北条幻庵公だった様です。そして御二人とも北条家中最高の文化人だった訳です。まぁ、宗教的な教養では間宮家と関家が北条家中では最高クラスだった様です。

さて、長い前振りでしたが多目元忠公の事を紹介します(笑)・・・

今回のブログ記事では戦国大名小田原城主伊勢氏流北条家の家臣中で最高の軍師、そしてゲームでも関東最高の軍師として能力評価される事の多い人物と、その居城の横浜市神奈川区青木城と権現山城の事を解説しますが、先に多目元忠公の時代の北条家周辺状況と、その状況の発端とを知る必要が有ります。

黒備え大将、青木城主、多目元忠公。

※KOEIさんのゲーム画像拝借
多米元忠公の居城だった青木城は今の京浜急行神奈川駅と横の権現山と本覚寺を繋ぐ昔の半島と背後の台町の丘に在(あ)った比較的大きな御城でした。
鎌倉時代末期~室町時代初期には後の征夷大将軍と成り室町幕府を開いた足利尊氏公が権現山を城塞化し籠城した記録が残ります。
新編武蔵風土記稿には以下の記載が在ります・・・
橘樹郡巻十三 七軒町の項
ー冒頭省略ー
本覺寺
西側にあり海道より少し引いりて石段ありそこを上(あが)りて山の上なり曹洞宗小机村雲松院の末青木山延命院と號す
ー以下中略ー
裏門は東の方にありて門外は陸田とうちひらけし地も今城跡と云(言う)所あり永正七年上田蔵人入道か當(当)所權(権)現山に砦をかまえあたり近き本覺寺の地蔵堂をとりこみて要害とせしなといへること古戦の記にも見ゆるはさもあるへく覺(おぼ) ゆ猶(なお)古跡の條合せ見るへし

権現山砦跡
宗興寺の山につ々(続)きたる所なり永正七年長尾爲景蜂起の時上杉高救(たかもと)入道建芳か被官上田蔵人入道北條早雲と議して當所へ砦をかまえしことあり小田原記等の書を閲(けみす)るに此(この)時蔵人入道は神奈川へ打(うっ)て出熊野権現山を城郭にとりたて、謀反の色をたてけれは管領家謀議し主の建芳を打手(うって)の大将として加勢には成田下総守渋江孫三郎藤田虎壽丸大石源左衛門矢野安藝入道成田中務丞を始(はじめ)として武州南一揆を催し雲霞の如く取(とり)巻けり時に永正七年七月一日なり
ー以下中略ー
寄手は大勢なれはこと々もせす喚(わめ)きさけんて切(きり)て入(いる=切りて入る=突撃する)神奈川の住人間宮の某と名のり黒鎧に四ツ目結びの笠しるし(印)濱風に吹かさし木戸を開(ひらい)て出寄手(よせて=攻撃側)も是(これ)を討とれとて射向いの袖を差かして一面に切むすふ城中のつわもの共間宮をうたすなと聲々(声々)に叫(さけび)て追(おい)つまくりつ戦いけるが遂に討(うち)まけて引(ひき)て入寄手彌(に)勝にのりつ々いて城へ入らんとする所に襄平木戸ををろして大石をなけ出す寄手先陣
ー以下省略ー
まぁ、こんな感じでかなり詳細に北条五代記や新編武蔵風土記稿には合戦の様子が紹介されています。
・・・新編武蔵風土記稿の編集長が何たって東大の前身の昌平坂学問所で頭取だった間宮士信さんで間宮家の子孫だからね。
簡単に説明すると青木城は元は権現山城って御城で、その権現山城で永正七年(1510年)旧暦七月一日に勃発(ぼっぱつ)したのが北条家vs扇谷(おうぎがやつ)上杉家の権現山合戦でした。
※扇谷上杉を知らない人「ココ」←クリックして扇谷上杉の説明文を探して!
この権現山合戦で北条早雲公側の城将として活躍したのが川崎駅前の堀ノ内に在った河崎館の城主間宮信冬公でした。

 
北条家が敗戦したものの、信冬公は単騎突撃で名声を獲得しました。
その間宮信冬公の子孫が後の笹下城主間宮康俊公です。
※笹下城を知りたい人は「ココ」←クリック!
さて、そんな権現山城の戦いは北条側の敗戦に終わります。
ココ↓辺り木々に覆われた場所が全部権現山城址で後の青木城址の外郭出城。
この戦いは現在の本覚寺側、台町の方から敵が丘伝いに侵入して来て籠城側は防戦に失敗したと言われています。その反省から城主が多目元忠公に成った時代には本覚寺側の丘に防衛機能の主要部を移動して村名から青木城と改名した様です。
権現山城址~青木城址遠景(Google map)
Google mapで衛星写真を表示すると現在は明治の国道1号線開削と鉄道建設で分断された昔の青木城~権現山城の地形が海に突き出した半島地形で要害性の高い断崖だった名残が見て取れます。
現在の横浜駅や金港町辺りは江戸時代までは海だったんですよ。幕末に勝海舟さんが神奈川台場と言う要塞を築くために権現山城址の山を削り、更に明治時代に成ってから周辺の海は神奈川台場もろとも埋め立てられました。

この青木城主の多目元忠公は北条氏康公の軍師(ぐんし=参謀)で、史実では河越合戦において北条氏康公の手勢8000の内、兵2000もの大部隊の指揮を任されていました。
また元忠公は全軍に作戦命令を出せる立場にあり、河越合戦でも殿様の北条氏康公と全軍に対し彼が独断で攻撃中止命令を出せる程に信頼されていた名軍師でした。
北条氏康公は内政に優れていただけでなく武将として優れた武勇と統率力を有し直接危険な合戦で部隊指揮を担う事も有り河越夜戦では主力の内、本隊御馬廻り衆を率いて敵の扇谷上杉家や山内上杉家の大軍に突貫し壊滅させた程でした。この時に北条氏康公と敵軍を挟撃して大混乱に陥れたのが僅(わず)か3000の兵で河越城籠城を本隊8000到着まで半年間持ち堪(こた)え成功させた黄備え隊北条綱成公でした。
しかし北条家で最強の二入は敵軍と交戦状態に在り、乱戦の中で全軍の指揮をとれなかったので本陣で戦況をコントロールしたのが多目元忠公だった訳ですね。
つまり三国志で言えば劉備の徐庶や諸葛亮の役割を、孫権における周瑜や呂蒙や陸遜や徐盛や丁奉の役割を、曹叡における司馬懿や満寵の役割を担ったのが北条家では多目元忠公だった訳です。
KOEIのゲーム信長の野望天道PKにも以下の超高スペックで登場しています。
統率73 武勇40 知略97 政治46 義理90
…凄いんだよ結構。

SEGAの戦国大戦でも低コストなのに高評価↓コレね。
 
ちなみに…
しかし彼の子供達と思われる人物の所領は総合計しても玉縄衆黄備え隊の付家老だった間宮家に遥かに劣り、軍団長としては不可解な冷遇をされている可能性が有り、それがもしかしたら北条為昌公が起こしたかも知れない北条氏康公廃嫡運動=謀反未遂事件に関与したからかも知れません。
これは解説③の回で小田原所領役帳で多目姓の武将の所得と立場を見ながら解説します・・・

ここからは青木城周辺の地勢と歴史を解説し、それから青木城の❝縄張(なわば)り=構造❞の推測を解説したいと思います。

・・・戦国時代の名将多目元忠公と居城の青木城も江戸時代に成ると廃城に成りますが古くから海運と陸運の交通の要衝だったので青木城の在った場所には東海道「神奈川宿(かながわじゅく)」が置かれ、旅客で賑わいました。
実は古代には恐らく一帯は港として流通拠点と成って開けており、直ぐ近くの六角橋と言う綱島街道の旧道と東横線の駅に沿って伸びる商店街の辺りには日本武尊(やまとたけるのみこと)が西暦100年代に滞在した伝承が御当地の久応山寶秀寺と三浦半島の走水神社の神話に残っています。
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※以前六角橋商店街や神話の土地を散歩した時の休日雑記⤵
休日雑記 2017年03月18日の訪問先…【神奈川区】昭和の風情漂う六角橋商店街と安くて美味いオデン屋"かずさや"さんと塩嘗め地蔵と寳秀寺参拝で美味しい神話探訪。

冒頭の方で室町時代にも足利尊氏公が青木城の前身と成った権現山を城砦化して籠城し、更に室町期も戦国時代に突入すると北条家臣間宮信冬公が籠城した事も少し触れましたが、この付近が重要な地域だった事が解るのが青木城址の在る神奈川区の隣接区である鶴見区の長谷山寶泉寺と間宮家の歴史です。
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寶泉寺と間宮家の関わりを解説した記事→【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
戦国時代の北条家にも江戸時代の徳川幕府にも重視された神奈川宿には幕末にも超メジャーな歴史人物が関わっています。
昔の神奈川宿の東海道旧道沿いに現代も存続する「田中家」と言う料亭で働いていた人物です。

その人は坂本龍馬の奥さんで未亡人の「お龍さん」です、意外でしょ?
京都生まれのお龍さんの終焉の地は神奈川県なんですよ。お墓は横須賀市大津に在ります。
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以前書いたお龍サンの菩提寺、横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)の記事。
これクリックで読めます⤵
坂本龍馬サンの奥さん、お龍サンの御廟所:信楽寺(横須賀市大津町)と、京都・神奈川で見る「お龍サン」の生涯。
こんな歴史偉人達が関わった神奈川宿、その神奈川宿の下に成ったのが青木城の一部が江戸時代には今の本覚寺です。本覚寺は幕末にアメリカ領事館として利用されアメリカ公使のハリスサンやドール領事が住んでいました。歴史で誰でも習う人ばかりでしょ(笑)?
この本覚寺の山門がハリスさん達が住んでた頃にアメリカの一般住宅風に白いペンキで塗ったくられてしまうなんて珍事も発生してるんですよ(笑)。まぁ、仏教寺院は平安時代の昔は五色彩色され華やかだったので白く塗られる位は何て事無いのだけれど・・・
黒備え隊、多目元忠公の本拠地だからどうせなら黒いペンキの方がマシだったのかな(笑)?
実はここが生麦事件の重要な現場の一つにも成っています。
薩摩藩の大名行列と英国民間人の間で生麦事件が発生した際に、薩摩藩士に斬りつけられた英国人が逃げ込んだのが、この本覚寺でした。
生麦事件が起きた事により薩英戦争が勃発し、それまで攘夷派(じょういは=外国人拒絶派)だった薩摩藩はヨーロッパの実力を思い知り政策を180°転換し近代化の道を歩むことに成りました。
この幕末の攘夷運動の生麦事件や鎌倉事件も間宮家と関連有るのでが以前解説記事を書いて有ります。
これ⤵
幕末の生麦事件と鎌倉事件、そして江戸時代の梅花山成就院と安土桃山時代~江戸時代の本牧奉行・但馬奉行の間宮家…横浜市港南区、鶴見区、鎌倉市雪ノ下。
さて、こんな重要な土地だったので古代には直ぐに近所の六角橋に日本武尊が滞在し~室町初期の足利尊氏公の権現山城籠城~戦国時代の間宮信冬公と上田蔵人vs扇谷上杉家山内上杉家連合の権現山合戦~江戸時代の東海道神奈川宿設置~幕末の勝海舟による神奈川台場建設~日本初の新橋~横浜(桜木町)間の鉄道建設と神奈川駅設置~現代の瑞穂埠頭米軍基地と横浜中央市場の開設と全ての時代を通じて重要な交通と海運の要所だった訳です。
ですから戦国時代にも権現山城の落城後に地続きの丘を主要部に城を改修して❝青木城❞が改めて築城された訳です。
権現山城址~青木城址遠景(Google map)
画像はGoogle mapに衛星写真を投影した物です。写真の中央には現在の国道1号線=東海道とJR・京浜急行の線路が通っており、線路と国道を挟んで左右に伸びる細長い緑地の右手が本覚寺と台町の丘で青木城址の主要部分、道を挟んで左手の幸ヶ谷(こうがや)公園の丘が昔の熊野権現社の跡であり権現山城跡の主要部分です。
北条家臣の間宮信冬公と上田蔵人が上杉家2万の大軍をここで迎撃した際は権現山城の丘周辺は海で僅(わず)かな砂浜が在る程度の険阻な海に突き出した要害性の高い半島でした。その麓の砂浜が平安時代~江戸時代末期までの旧東海道で、当時は海だった横浜駅周辺は通れないので料亭田中家の前の坂道を登って生野が当時の道順でした。つまり権現山城時代から街道を抑える重要な拠点であり、水神信仰の熊野信仰の場所でも有った事から海に突き出した半島にも関わらず飲み水に成る湧水の泉か滝が存在した事が推測出来ます。
海道を抑える場所な上に、三方を海に囲まれた険阻な場所ながら飲み水が確保出来たからこそ、足利尊氏公、そして後に北条早雲公の命を受けた間宮信冬公が城を築城して籠城する事が出来たのでしょう。
権現山城址遠景(Google map)
権現山城の地形は今でも険阻な丘ですが、幕末の神奈川台場建設で海の埋め立ての為にだいぶ削られたので昔の高さも城の遺構も残っていません。
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でも幸ヶ谷公園に行くと、権現山合戦の現場である説明の看板が有ります。
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幸ヶ谷公園に登ると昔は地続きだった本覚寺や背後のマンションを含めた青木城の主要部分が良く見えて平地からの高さを確認する事が出来ます。
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青木城部分の本覚寺は幕末にアメリカ領事館に成っていましたが、実は権現山部分も外国の大使館に成っていました。
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浄土真宗高田派の堪行寺サンです。フランス公使館として機能していました。
この辺り一帯が戦国時代の青木城址だった名残りは少ないので現代では城跡で、しかも北条家の重要拠点だった事なんて現代の横浜市外から移民して来た横浜市民には余り知る人も少ないでしょう。
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でも明治時代に丘を掘り切って削り込んだ鉄道の広い線路の上に架かる橋は❝青木橋❞と言う名前なんですよ!
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橋の両端の交差点の名前にも成っていて交差点の信号に付いている看板を見ると、ここが青木城だった事を知る事が出来ます。
迅速測図 神奈川宿周辺 久良岐のよし
権現山を削って作られた神奈川台場は明治時代の迅速測図でも形を見る事が出来ます。
画像の右下の海に飛び出した島が人工島の神奈川台場と言う大砲を何基も据えた近代海上要塞でした。この台場の大砲は、外国人居留地と成っていた現在の山手~元町~横浜中華街~日本大通りの関内地区に向かって設置されていて、外国人居留地に駐留する英国軍やフランス軍が争乱を誘発しようとした瞬間に横浜港に停泊する外国軍船や貨物船や居留地を「砲撃で打ち払い駆逐するぞコラっ(; ・`д・´)‼」と言う虚勢と言うか無意味では無い威嚇の役割が有りました。
今では神奈川台場建設の見て取れない幸ヶ谷公園側にも恐らく城の遺構と小生が推測する場所が辛うじて一箇所だけ存在します。
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幸ヶ谷公園と創価学会東神奈川平和会館の間を貫く微妙な深さの道路ね・・・
これ、もしかしたら権現山城の先端部分と当時の主要部分を曲輪として分断する為の堀切を兼ねた堀底道の名残で山の切削で堀が浅く成ったものの生活道路として利用されてるんじゃないのかな?
・・・と城好きの小生には見えました。
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今は削られて真っ平らだけどね。新編武蔵風土記稿の絵を見ると丸いラクダの背中みたいな形の山だったんですよ。
さて、地形の名残の余り無い権現山城時代の主要部分と違い、JRと京急線の線路を挟んで反対側の本覚寺側には恐らく城の曲輪跡と思われる地形が沢山残っています。
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先ず、この本覚寺の登り自体も青木城の大手口の名残だと思います。
御覧の通り登って来て、山門と本堂の在る一段高い削平地を横切る形でS字クランクしています。
これは❝食違い虎口❞の跡だと小生は推測します。
青木城主要部分明治期 迅速測図 久良岐のよし
明治時代の迅速測図でも同じ地形なので、これは近代土木技術の無かった室町~江戸時代に作られた地形だったと言うのが小生の推測の根拠ですね。
そして本覚寺の庫裡と本堂はL字に配置されていますが、左手の墓地や周辺の段地や断崖地形も迅速測図で確認出来ます。
これをGoogle mapの立体衛星画像で見て見ましょう。
青木城主要部(Google map)
小生と同じく城好きな人、これどう思います?
墓地の中で本堂側に突き出した小さな半島状の突起構造は本堂背後に上がる道を塞いでいた城門の枡形虎口の片側遺構だと小生は睨(にら)んでいます。つまり切り残された❝土塁❞ですね完全に。
本覚寺の墓地の段地は完全に帯曲輪と武者走りの遺構ですよね?そして恐らく当時の本丸は背後の住宅街なの略略(ほぼほぼ)間違い無いでしょう?地形的に。
当時の本丸へのアプローチは本覚寺本堂裏手の半島の上の更に半島の様な地形の墓地の段地でしょう。そこの墓地への登り口が武者走りで、本覚寺は三之丸の様な場所、権現山城は青木城時代は出丸として機能し本覚寺本堂裏の墓地から段々に本丸の集合住宅地の台地最後部へ続く❝連郭式(れんかくしき)城砦❞つまり細長く段々に兵を配置する曲輪が設けられ、曲輪を順番に突破しないと本丸に辿(たど)り着けない城の構造だったと推測出来ませんか?
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この本覚寺墓地裏手の白い集合住宅の在る削平地の台地が本丸でしょう。恐らく左手の坂道は裏手の門へと続いた別の道だと思います。
青木城址遠景(Google map)
この坂道の有る本覚寺入口側では無くて青木城址の台地を反対側の衛星写真で北側から見ると良く解りますが、この坂道の先には大きくくびれた人口の竪堀(たてぼり=山裾をえぐり取り丘の侵入経路を細くしたり、山の斜面で敵の横移動を防ぐ構造)の大空堀と思われる地形が有りますよね?
本覚寺高島山公園周辺地形 久良岐のよし
丁度、高島山公園の辺りです。ここが丘側の城門が在った要所であり、高島山公園横の台地がV字に抉れた地形は人口の大空堀だと小生は推測します。
これ程大規模なのは自然地形でしょ?と北条流の築城術を知らない他府県、こと中部地方の人は思うかも知れませんが違いますよ。これは恐らく人工地形です。
戦国時代の北条家が末期に水軍の拠点にしたのは久良岐郡杉田湊(みなと:横浜市の埋め立てで消滅)、三浦半島の三崎城の北条湾、伊豆半島の下田城の下田港が特に有名でした。
その三崎城にも同様の大空堀が存在し、自然地形に見えますがV字の人工地形と三浦氏教育委員会も認識しています。
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縄張り図の右上のV字の谷が大空堀で人工地形です。
北条流の築城では台地に築城する際は台地側面を深く抉(えぐ)って大手と反対の防御の弱い地形の侵入経路を細くして虎口を作る事が多かった様です。
さて、御城としての名残を辿れるのはここまででしょうか?
では次に本覚寺さんを見て見ましょう。
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山門の横には高度経済成長期に歴史と文化の史跡の名残を少しでも残そうと尽力された細郷市長が揮毫(きごう=言葉とか名前を記念に書く事)された石碑が有ります。
横浜開港の主導者だった肥後守、岩瀬忠震(ただなり)公の記念碑ですね。
幕末にペリー提督達が日本に開港を迫った際に、遠い下田じゃ嫌だと言い出し交通の要所で江戸からも近い神奈川宿を無理に開港させようと圧力をかけて来た時に、江戸防衛上非常に問題に成るので対案として埋立地の吉田新田の中の水堀と海で外部と隔離出来て外国人の安全も保障できる上に港としても適している横浜村の開港を対案として提唱したのが岩瀬忠震公でした。
明治時代の有吉忠一市長や昭和期の細郷道一市長や後の高秀秀信市長は、今の史跡と自然破壊容認が得意技でヤクザを勢い付かせるカジノ建設に躍起の林文子市長とは違い、歴史と文化の見識が深く多くの史跡を保護或いは記念碑の建設と歴史を後世に伝える努力と街作りを両立された方々でしたので、細郷市長はこの様に日本近代化の舞台と成った本覚寺にも関わってらっしゃったんですね。
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この山門がアメリカ合衆国の役人に真っ白に塗ったくられた物だそうです(笑)。
柱に名残が少し残っていますね。
本覚寺は曹洞宗の神大寺の末寺としてスタートした小机城下の雲松院の末寺でした。
雲松院は神大寺の廃寺後に神大寺の機能が移転され、周辺の本寺と成ったので古い御寺と誤解される事も多いですが実際の所は白備え大将で小机衆の副将だった笠原信為公が父上の菩提寺として開いた神大寺の末寺です。
さて、そんな経緯が有って雲松院の末寺として開かれた本覚寺ですが、現代では山も削られ背後も住宅街に成り城だった戦国時代どころか江戸時代の昔とも随分と風景も違うでしょうが、御本堂は立派です。
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記録に無い情報もちゃんと取材しないと気が済まず現地に行く主義の小生、数年前にちゃんと御寺に御参りに数年前の取材の際に行って奥様と話しましたが、多目家との関わりは無いそうです。
まぁ、菩提寺は三ッ沢の豊顕寺と解っているので、やはり戦国時代には寺院機能は無かった様ですね。
でも曹洞宗の御寺なので、北条家の支援した宗派の御縁である事は偶然とは言え運命なのでしょう。
御寺の寺紋も鶴見の曹洞宗大本山総持寺さん由来の桐紋です。
多目家の家紋、小生はまだ存じ上げません。いつの日か、ちゃんと多目家の御子孫に御会いして家紋の事もお伺いし皆さんにも紹介したいと思います。


次回は青木城の解説から離れて城主の多目元忠公の活躍した合戦と、その合戦の事件背景を解説します・・・

北条家の五色備えは独立したカテゴリーにも成ってますので、御興味有る方はカテゴリー検索してみて下さいね!青備え隊の富永直勝公以外は既に紹介記事が幾つか有ります。
カテゴリー「戦国時代:北条家五色備え」
ここ⤴に記事有るので皆さんの興味を引く人物の事が書いて有るかも知れません。

その②に続く→北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説②】・・・多目元忠公が活躍した河越夜戦と敵対勢力の解説。





前回の記事→❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区←コレの続き・・・

大永峯嗣法山傳心寺・・・と言っても現代では判る人は少ないでしょうか?
もし新編武蔵風土記稿で久良岐郡の金沢領の項目を読んだ事が有る人なら「あ~!」と思い出す人もいると思います。
さて、この大永峯嗣法山傳心寺と明治時代以前まで正しい名前が伝わっていた御寺も、明治や戦後の宗教改革を経て寺院名は簡略化されて現代では昔とは大分異なっています。
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嗣法山 伝心寺(正式には大永峯嗣法山傳心寺)
さて、この御寺は❝北条氏繁公が開基(かいき=新設)したと❞神奈川県教育委員会や金沢区観光協会が間違った歴史を紹介しており、その事は前回の記事で書いた磯子区の龍珠院の伝承の勘違いと全く同じ❝文献の未確認❞❝歴史人物と伝承の生年の整合性の未確認❞と言う❝初歩的なミスを神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会の誰かサン❞が犯して適当な仕事のまま伝心寺サンや金沢区観光協会に報告してしまったので❝公式❞に歴史が誤認されてしまっている様です。
少し前回の龍珠院の記事と被りますが、何故、この伝心寺が北条氏繁公の開基と言うのは有り得ない事かを説明させて貰います。
前回龍珠院の記事→❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区←クリックで読めます。
さて、新編武蔵風土記稿には旧北条家臣間宮家の子孫で東京大学の前身と成った江戸幕府官営の昌平坂学問所の頭取を務め地誌編纂で多大な功績を残した間宮士信(ことのぶ)サンが伝心寺について以下の記載をしています。

~前略~
禪宗曹洞派相模國小田原香雲寺の末(すえ=末寺)、大永峯嗣法山と號(号)す本堂はなく本尊釈迦の坐(座)像は假(仮)堂に置(おけ)り、開山養拙宗牧、開基は北条左京大夫氏直、大永元年(1521年)の起立と傳(伝:つたわ)れと(ど)、大永元年は氏直未生の時なり、其頃は左京大夫氏綱の代なれば此(この)人の開基なるも知るべからず、
~以下省略~
因(ちな)みに江戸時代にも既に御寺を開いた人物についての認識に混乱が有った様で、どうも伝心寺の御住職は歴代伝える文書は無く口伝が中心だった用です。そして昭和に成ってからの御住職様は新編武蔵風土記稿も読んでらっしゃらなかったみたいですね~。御寺の復興に忙しかったんでしょうね。
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※伝心寺の参道、昔はこの辺りから御寺だった様です。道路の配置から一目瞭然。
まぁ、ちゃんと北条氏繁公や北条氏直公の誕生日を知っていればコンナ初歩のミスを犯さないんですが、何で歴代の和尚さんに御寺を開き寺領を与えて下さった大恩有る開基の御殿様の御名がちゃんと伝わらなかったか新編武蔵風土記稿の文中にヒントが有りましたね…

まず①で現代では簡略化され誤って伝えられている御寺の正式名称と字体が解ります。

そして伝承が正しく伝わらなかった原因が②に有ります。小生の推測では恐らく戦国時代末期に房総の里見家の海賊行為で御堂ごと焼け消失、江戸時代にも本堂は再建されずにいたから御寺その物が荒廃していたのでしょう。その為(ため)に造営から数年後には記録文書が消滅したと推測出来ますが、その原因と成ったであろう合戦の候補は二つ有ります。
●1つ目、永正十五年(1518年)八月二十七日に起きた三浦半島(横須賀市域)走水合戦
北条家臣で後の玉縄城主北条綱成公の付家老と成る前の時代の間宮家が単独で里見家を横須賀市走水で迎撃して殲滅した戦いです。この合戦では間宮家が水軍率いて横須賀市域で里見海賊を迎撃、特に活躍したのが走水を死守玉砕した間宮分家の杉田間宮家初代当主、間宮常信公でした。常信公は官途を兵庫頭(ひょうごのかみ)と名乗り、この合戦では海賊の大将の植松筑前守を討ち取った上に敵軍船14艘を奪い取った記録が残っています。間宮家は勝利したものの残念ながら間宮常信公は34歳の若さで戦死されその戦功が記録されています。常信公の菩提寺は磯子区杉田の牛頭山妙法寺です。
妙法寺の記事は→妙法寺…日本武尊神話の有る後北条重臣間宮家の菩提寺…横浜市磯子区杉田。←クリック!
・・・結論から言うと時代が合わない。なのでこの合戦では有りません。が!いつの時代も役所の役人と言うのは適当な仕事をする奴もいれば真面目な人もいると言うのが判る一例として晒(さら)し上げの代りに誤記だらけの内容を解説して置きましょう。
先ず、この記録が登場するのは寛政重修諸家譜と新編武蔵風土記稿と言う文献ですが、寛政重修諸家譜に関しては近代若しくは昭和期の国家公務員か出版社の人間が適当な仕事をして永正を天正と誤記しています。これは江戸時代の文書から活版印刷に文字を起こす際に起きたミスでしょう。
更には新編武蔵風土記稿でも間宮家の子孫である間宮士信サンが❝間宮常信❞と書いている御殿様の名前を江戸幕府の馬鹿役人は❝間宮信常❞と誤記しています。
更に平成の世と成った現代でも間宮常信の事に関して適当な事を執筆して本にしているNHK歴史解説員と研究家である事を誇張してWikipediaでツラツラと書いて有るガクシャの人がいるのですが、文献の内容の事実確認をされない上に御子孫への取材をする事も無く上記2つのミスをコピペして出版している本に事実誤認や誤記を丸写ししていたりします(笑)。
酷いですよね、いつの時代も❝適当な仕事をする部類の人種❞って。

2つ目、大永六年(1536年)の鶴岡八幡宮合戦
この合戦では恐らく、三浦半島と現在の横浜市域が里見家と正木家の軍隊と海賊に略奪されつくされ鎌倉市街地域に至っては放火され鶴岡八幡宮まで焼失してしまいました。
恐らく町屋地区も略奪放火され六浦から朝比奈峠を越えて里見の海賊は鎌倉市街に乱入し、正木の海賊は城ヶ島方面から北上して鎌倉に侵入したのでしょう。里見家も走水や金沢八景や杉田方面の各所から侵入を試みた様で、杉田に有る源頼朝公が開いた元は修験道の大本山だった熊野神社=大霊山泉蔵院桐谷寺も略奪に遭っています。
泉蔵院(熊野神社)の記事→横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。←クリック!
この鶴岡八幡宮合戦での略奪放火で八幡様が焼失した事件は北条家のみならず北条家と敵対していた小弓公方足利義明や関東武士団にとって文化的精神的なダメージと成る大事件で、里見家は失火の原因の責任から内紛が起こり、北条派の里見義尭(よしたか)が当主に成る程でした。
この際の鶴岡八幡宮と鎌倉市街地の再建事業では横浜の3人の殿様が活躍しているのを間宮家の事績解説で紹介しているので興味が有る人は御覧下さい。
鶴岡八幡宮再建事業関連記事→間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績←クリック!
※余談ですが、間宮家の事績はこの文章を叩き台にして何れ書籍化する予定では有りますが調べ物増えすぎてブログとシェイプアップと銀の指輪造りと季節の散歩と合わせて予定が伸びに伸びて未定です(笑)!
さて小生の推測、大永六年(1536年)の鶴岡八幡宮合戦で里見家の乱入が有った際に御寺も燃やされたので伝心寺は荒廃し書物も御堂も火事で無くなり御本尊の釈迦牟尼仏様だけが難を逃れていた事が皆さんにも「久良岐のよしの言ってる事は整合性有りそうだな?」と御納得頂けたかと思います。
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では新編武蔵風土記稿の伝心寺の解説の③と④ですが、もうそのままですね。
開基は北条左京大夫氏直、大永元年の起立と傳(伝:つたわ)れと(ど)、大永元年は氏直未生の時なり、其頃は左京大夫氏綱の代なれば此(この)人の開基なるも知るべからず
江戸時代には恐らく御寺を開いた殿様の名前が❝北条左京太夫(さきょうだいぶ)❞とだけ伝わっていたのでしょう、だから江戸時代の御住職が前代には御寺の歴史の引き継ぎが廃れていたのを何かの文献を読んで「あ!北条左京大夫って北条氏直公の事なのね?」と間違った解釈をして以後~明治まで御寺の歴史として伝わっていたんでしょう。しかし左京大夫は北条家歴代の殿様が名乗った官職名でした。
実は❝五位、左京大夫❞と言うのは元々は北条家の傘下の小大名で北条家より家格の高い蒔田吉良家の殿様の歴代が名乗った官途です。蒔田吉良政忠公の代まで左京大夫でした。しかし蒔田吉良家に北条家の姫君が嫁ぎ、吉良成高公や吉良頼康の代に成ると鎌倉公方の代理を務める様に成り官位も❝四位、左衛門佐(さえもんのすけ)❞に上がったので、その際に北条家に左京大夫の官職が譲られたのでしょう。
北条氏綱公
2代目の北条氏綱公の先代の初代北条早雲公は実は生前に北条姓を名乗っていませんでした。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
それどころか早雲公の代までは伊勢姓で伊勢盛時と名乗り僧籍に入ってからは伊勢宗瑞となのっていらっしゃったので官職も左京大夫ではなかった筈です。
ですから蒔田吉良成高公が初代鎌倉公方代理だとすれば正に北条氏綱公の世代に当たるので、北条家初代の左京大夫を名乗った殿様は北条氏綱公と成り、伝心寺が開かれた大永元年(1521年)ともドンピシャで整合性が有る訳です。
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さて、これで取り合えず❝傳❞心寺を開いたのが北条氏綱公が有力で有る事が解ったかと思います。
では、何故(なぜ)現代、この御寺が「玉縄北条家の北条氏繁公が開いた」と誤った伝承を現在の御住職様も伝えているのでしょう?これは一つは先代の御住職の頃の神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会の責任です。素人(シロウト)歴史オタクの小生でも調べられる程度の事すらちゃんと調べずに御寺に嘘を教えたんでしょうね。
そして御寺に伝わっていた❝歴史事実はこれだけ❞だと思います・・・
「玉縄北条家の殿様の菩提寺である、でも誰か今では解らない」
・・・と。
これは他宗派の真言宗で、伝心寺の直ぐ近くに在る龍華華サンが成り歴史を紐解くヒントに成りそうです。
2015-03-04-17-10-31
知足山 彌勒院 龍華寺
龍華寺を紹介したブログ開始初期の拙い記事→龍華寺…源頼朝公が開いた横浜市金沢区の古刹。←クリック!
龍華寺に関しては関連記事も有ります
【城郭ファンへ拡散】六浦山上行寺の解説と、間宮家臣荒井家の鎌倉武士時代の幻の城址❝荒尾城❞発見?の報告と協力要請。←クリック!
→休日雑記 2017年06月10の訪問先・・・【金沢区】上行寺~上行寺東遺跡(浄願寺跡)~伊藤博文金沢別邸~野島公園キャンプ場~野島稲荷神社←クリック!

・・・実はこの龍華寺は北条家の本拠地小田原城の前の城主の大森家の遺児が戦国時代初期に住職を務めていました。この御寺は扇谷上杉家と関係が非常に深く、大森家は扇谷上杉家の与力大名でしたし、同じく関東最強の無敗の軍師で築城の名手だった太田道灌公も扇谷上杉家の直臣で家宰(主将代理)でした。
太田道灌公
室町時代の太田道灌公と菅原道真公の御子孫の菅原朝臣(すがわらのあそん=菅原氏)中務丞の菅野資方(すけかた)公が御一緒に、鎌倉時代に源頼朝公と文覚上人が一緒に金沢区六浦に築いた浄願寺が新田義貞による鎌倉幕府討伐の戦火で略奪放火され廃寺に成っていたのを、現在地の洲崎地区に存在していた光徳寺と合祀して、復興された御寺が龍華寺で、江戸時代には龍源寺と呼ばれていました。
この龍源寺を道灌公と一緒に復興した菅野さんは今の東京都の浅草辺りに住んでいた道灌公の与力武将でした。
先に伝心寺は里見家が鶴岡八幡宮同様に放火略奪した可能性が有る事を指摘しましたが、ちょうど大森家の遺児が龍華寺に居たのはその時代の話です。
鶴岡八幡宮再建事業の頃、玉縄城主は北条為昌公でした。北条家3代目当主の北条氏康公の実弟ですが、どうも小生の見立てでは自分の家来や他勢力と共謀して実兄を差し置いて跡継ぎに成ろうとした形跡が残っている人物です。
鶴岡八幡宮再建では為昌公は鎌倉の玉縄城主だった事も有り、鶴岡八幡宮再建に携(たずさ)わる人々と緊密に成る機会が有ったのですが、当時のこんな話が有ります「氏康公はアホだから、弟が跡継いだ方が良い」と噂が広められていたようです。
実は北条為昌公は烏帽子親や後見人が北条家初期の重臣であった笠原信❝為❞公と大道寺❝昌❞公でした。この二人から名前を一字づつ貰って成人した事が解ります。そんな為昌公と鶴岡八幡宮再建で親密だったと推測出来るのが大道寺・笠原の他に❝神保輝廣❞公でした。この神保輝廣公、苗字が違うので歴史学者でも知らない人が多いのですが、実は北条早雲公の実子で2代当主北条氏綱公の実弟であり鶴岡八幡宮再建では檜皮奉行や財経担当として再建に携わっていたので北条為昌公を可愛がる動機が十分に有りました。
当時、北条氏康公は後の織田信長公の若い頃同様に評判が悪く奇行が多かったそうです。
北条氏康
※北条氏康公:KOEI信長の野望大志よりは画像拝借
そんな事も有り中の良かった人達だけで勝手に氏康公を廃嫡しよう等と言う協議がされたかも知れません、しかも敵方の小弓公方足利義明や里見家と結託した上で。
龍華寺の記録では北条家の前の小田原城主の大森家の生き残りである大森龍王丸が剃髪して龍華寺で僧侶に成り北条左京太夫が永楽銭7貫文と金沢権現堂山を寺領として保証している文書が紹介されています。
先に説明しましたが、北条早雲公の生前の名は北条姓ではありません。本名は伊勢 盛時 入道名:宗瑞だ。大森家を西湘から駆逐して相模国中央部の岡崎城を陥落させ、鎌倉郡の大庭城と大住城を陥落させ、三浦郡の新井城を陥落させ、この金沢区一帯に支配権を確立したのは“北条早雲公”の時代で、統治が安定して龍華寺に寺領保証の朱印を発給出来た人物は北条早雲公か跡継ぎの北条氏綱公だと解ります。
さて、玉縄城主だった人物が、兄の北条氏康公を差し置いて三代目当主に成ろうとした動きが後の玉縄城主北条綱成公と俗説では混濁されています。
北条綱成
これは有り得ない事で、北条綱成公は養子なので実子を差し置いて跡継ぎに成る権利は有り得ません。
これは恐らく同じ玉縄城主でも先代の北条為昌公の話が玉縄城主として余りにも有名な北条綱成公と混濁され誤認された事が推測出来ます。
北条為昌公は烏帽子親が筆頭家老の大道寺盛昌公、名を同じく筆頭格の重臣である笠原信❝為❞公と大道寺盛❝昌❞公から貰っているので、人脈的にも後ろ盾に成る人物がいて嫡男:氏康公の廃嫡を画策出来るのは彼以外におらず、更に1530年代後半に行われた鶴岡八幡宮再建では北条一族で伯父の神保輝廣公が買い会計関連と屋根に使う檜皮の調達と施工管理の奉行として頻繁に玉縄城近くの鶴岡八幡宮に出入りしていたので神保輝廣公とも兄の北条氏康公廃嫡の謀議を重ねれる状況に在(あ)りました。
小生はこの為昌公の菩提寺が、伝心寺なのだと推測しています。
実際に為昌公は1539年~公文書に登場しなく成り1542年に23歳の若さで亡くなっているのも1541年に北条氏綱公が没して後に兄の北条氏康公が跡を継いだ際に誅殺されたか自害したのかも知れませんね。
そして北条家所縁の傳心寺に葬られたのが、末寺の龍珠院開基の北条氏繁公の話とごちゃ混ぜに成り江戸時代以降に誤伝したのだろうと解る。
江戸時代の北条氏直公説なんぞ間宮士信サンが解説するまでも無く“事実誤認”で有る事は明白なので端折る。
話を傳心寺に戻すと・・・。
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つまり傳心寺は大永元年(1521年)の開基とされるので、その時期に付近に関わっていた北条家の人物が開基した事に成ります。
玉縄城主が開基したと伝わるならば、当時、永正十七年(1520年)に北条為昌公は生まれたばかりで1歳で御寺を開ける訳も無い。新編武蔵風土記稿ではこれを以て父親の北条氏綱公の開基だろうと指摘している訳です。
為昌公の祖父の北条早雲公は為昌公の生誕の前年、永正十六年(1519)に亡くなっているので当然北条早雲公の開基の筈も無い。だから小生も新編武蔵風土記稿の編集長だった間宮士信(ことのぶ)公と同意見で北条氏綱公の開基で間違い無いだろう事が判明します。
神保輝廣公も小田原所領役帳が編纂された1559年当時には北条一門なのに84貫32文と異常に低い中級武士待遇扱いをされている事が解り、これももしかしたら為昌公の陰謀に加担した懲罰としか思えない状況が有ります。為昌公の次の玉縄城主と成った北条綱成公は1370貫612文。
神保輝廣公と北条綱成公の所得を比較すれば、明らかに神保輝廣公が冷遇されており何某かの懲罰を受けて減封されている事が読み解ける訳です。
余談ですが伝心寺を開いたとか御廟所が有ると誤伝した北条氏繁公の菩提寺は鎌倉市玉縄の玉縄城下の龍寶寺で、氏繁公の母の大頂院様の菩提寺は鎌倉市大船の大長寺(大頂寺)で、子の北条繁廣公も大長寺にて菩提が守られている。
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※傳心禅寺、真新しい扁額にはちゃんとした字体で傳心寺の禅寺としての寺号が刻まれている。
さて、ここまで読んで頂けた人には少しは小生の説・・・
1伝心寺を開いたのは北条氏綱公
2伝心寺で菩提を弔われているのは北条為昌公
3北条氏康公を廃嫡させ三代目北条家当主と成ろうとしたのは北条為昌公
・・・この傳心寺の歴史を踏まえて小生の推測を納得頂けたんじゃないでしょうか?
更に伊勢原市の龍散寺の記事と丸々被(かぶ)りますが書き並べます。

❝北条氏康公を廃嫡して嫡子に擁立しようとする動きが一部の家臣団に有った❞なら❝画策する人物は北条為昌公だった❞だろうし、「嫡男の北条氏康公がアホ」等と敵と組んだり家臣団を分断してまでプロパガンダをやらかしたならば当然、犯人が北条氏綱公にバレて為昌公に懲罰を与える際は自分の所縁(ゆかり)の御寺に蟄居させるか仏門に入らせ世俗との縁を切らせる筈ですよね。
この政治的な北条家分裂の謀略を画策したのは反北条・反古河公方足利高基公の勢力となる訳で、小弓公方足利義明・扇谷上杉朝興・里見義豊だろう。
伊勢原市の龍散寺を再興開基した神保輝廣公は鎌倉の玉縄城主だった北条為昌公と会う機会が多かった事が快源僧都記を読んでも判ります。
そして北条為昌公は大雨で大船の戸部川(柏尾川)が増水して真直ぐ帰れないと言う理由で不可解に横浜市金沢区方面を経由して帰ったりもしています。
玉縄城~鶴岡八幡宮~金沢伝心寺位置関係 久良岐のよし
衛星写真で位置関係を確認すれば一目瞭然、いくら鶴岡八幡宮から玉縄城に戻るのに柏尾川が氾濫したからと言って、柏尾川は玉縄城の東を流れているのだから伝心寺の在る金沢区方面に行っても結局は柏尾川に阻まれるます。
ならば普通に鶴岡八幡宮の西側の巨福呂坂切通しを抜けて小袋谷方面から粟船(大船)で柏尾川の前に出て渡河可能な上流まで北上した方が効率も良いし、大雨で増水している様な悪天候に金沢六浦湊から船で杉田湊に上陸して、笹下城~永谷城を経由して柏尾川上流に出るなど不効率極まりなく更に海路を取る事は自殺行為でしかありません。
つまり❝金沢方面に行く❞と言う事は❝東京湾側に用事が別に有った❞と言っている様な物で、大雨で海も荒れて出航など出来ない時に港町の金沢六浦方面でわざわざ行き会いたい人間が居たと考えた方が自然に成ります。
しかもソレは・・・
父北条氏綱公や兄北条氏康公が来るかも知れない鶴岡八幡宮では不味かった訳です。
恐らく、向かった先は上杉家与力の小大名だった大森家遺児の龍王丸が住職を務める龍華寺でしょう。
そこで足利義明や扇谷上杉家や里見家と会合を開いたのではあるまいか?
・・・と小生は推測する訳です、その様に推測する理由もちゃんと有る。
北条家当主の左京太夫北条氏綱公が保証した龍華寺の永楽銭7貫と寺領の権現山(金沢八景駅~六浦上行寺背後の山)、1559年の所領役帳編纂時点で消滅しています。何らかの理由で没収されている事が解る訳です。
そして天文十二年(1543年)の段階では北条家ではなく❝中務小輔 古尾谷 重長❞が檀那(檀家総代みたいな)に成っている事が梵鐘に刻字されていると新編武蔵風土記稿に紹介が有ります。
この古尾谷家は元は入間郡出身の家で後に北条家臣と成ると三浦半島の警護を天文十年(1541年)に担っている事が解ります。余談ですが小田原北条家の直臣で玉縄北条家の付家老を務めた間宮家も入間郡の坂戸市戸宮に領地を持っていました。
つまり北条為昌公の没年である天文十一年(1542年)の翌年の天文十二年(1543年)には何らかの理由で大森龍王丸が住職を務めた龍華寺から北条家が支援を止めて寺領を没収し、代わりに家臣の古尾谷家が個人で支援を始めている訳です。
・・・北条家が直接の支援を止める理由は何らかの北条家中に不利益に成る事件を龍華寺が起こしたとしか思えず、これが北条為昌公が兄の北条氏康公廃嫡を関係の深い伯父の神保輝廣公や反北条勢力と謀議した舞台で、それが発覚したからだろうと思う。
仮に、出向前に滞在するだけなら北条家が開いた曹洞宗寺院の傳心寺に宿泊すればいいだけですからね。
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伝心寺の屋根や窓ガラスには北条家から下賜された北条家の家紋の三鱗紋が寺紋として装飾されています。
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さて伝心寺に眠る“玉縄城主だった北条家の人物”が北条為昌公と小生は推測する訳ですが・・・
伊勢原の龍散寺と同じく北条家所縁の傳心寺の寺紋は北条家の三鱗紋に〇を象(かたど)った物の使用を許されている。小生の推測通り北条為昌公が謀反を起こそうとしたのならば、将来の復帰を見据えた上で玉縄城からも近く北条氏綱公が直接支援した傳心寺に蟄居させるのが一番安全な訳です。その間に仏門に入り僧侶として修行して反省させたのかも知れませんね。
・・・そして1541年08月に父の北条氏綱公が亡くなる。
氏綱公の跡を兄の氏康公が跡を継ぎ10ヶ月が過ぎる。
年が明けて夏に差し掛かり氏康公の政権が万全に機能する。
邪魔な為昌公は自害させられたか誅殺されたのでしょう。伝心寺で蟄居させられ仏門に入っていたのならば、ここに眠っているのが為昌公であり玉縄城主だったので末寺の龍珠院を支援した氏繁公と勘違いされた事も納得が行きますよね?

叔父上の神保輝廣公は氏康公廃嫡と為昌公の嫡子推薦を主導したのかも知れない。
恐らく神保輝廣公の所得が84貫と一門衆なのに低くいが北条一門だから諸役免除と特別待遇は受けているのは、そんな背景が有ると小生は推察する。この所得は実際は政権から干されている状況で、会社で言えば北条屋の創業者一族なのに玉縄方面統轄支部の課長待遇で全く政治的な力を削がれた状態にされた訳だ。これは北条氏康公と、氏康公の実弟で玉縄城主だった北条為昌の跡継ぎ争いで為昌公に加担した懲罰的な待遇だったのだろうと思う。
この件は以前、新横浜の篠原城の解説記事で少し紹介しています。
コレ→篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。
文字だけ読んでいても、文書なんか戦国時代~現代の間に火災で焼失したり散佚した物だらけで歯抜けの情報しか無いのだから自分で歩いて取材して廻らないと解らない事の方が多い訳です。
そんな風に小生の尊敬する北条家の殿様達の御縁で横浜市と伊勢原市との歴史も繋がったりする。
そして鎌倉市と横浜市の金沢区と磯子区と港南区の歴史も繋がる訳です。
余談ですが、神保輝廣公の菩提寺は伊勢原市の龍散寺です。
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金鳳山 龍散禅寺・・・花の寺、伊勢原聖観音神保輝廣公の御寺だけ有り当時❝鶴岡八幡神宮寺❞と呼ばれていた鶴岡八幡宮の再建時には、この龍散寺に一時、鶴岡八幡宮の社宝や神器が保管された。更には北条家一門の御寺らしく北条早雲公の御位牌が安置されていたりします。でも早雲公の御位牌、小田原城に貸し出した際に教育委員会が破損させたので、「もう外部には貸し出したくない」って副住職様が仰ってました。
・・・お~い神奈川県教育委員会、不真面目な奴はさっさと止めて、真面目で現場で頑張ってる教育者や学芸員が出世出来る仕組みにサッサと改革しろや!みたいな風に一般人として思う事件ですね。

さて、同じ曹洞宗の伊勢原市龍散寺、横浜市磯子区龍珠院、そして金沢区の龍華寺と傳心寺の歴史が繋がった所で、北条氏繁公と間違われている為昌公と思われる人物の御墓の場所ですが…
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・・・今では歴代住職の御墓の中でどれか解らないみたいです。
小生の推測通り龍珠院に蟄居させられて僧侶に成っていたのなら歴代住職の御廟所に御墓が在るのも納得が行きますよね?
でも背後の墓石、これ間違いなく室町時代の頃に多い御墓の様式なんですよ~。正面の立派な墓石は代表した供養塔ですね。
この記事を書くために改めて写真の撮影に伝心寺を再訪した時は二月初旬でした。
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梅が咲き始めた頃で境内にもとても綺麗な梅花が開いて心を癒してくれました。

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横浜市には伝心寺と龍珠院、そして港北区の泉谷寺、3つも戦国時代の関東で一番❝侵略❞と❝善政❞に長けた名将の北条氏綱公が関わった御寺が有ります。
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庫裡では御朱印も頂けますよ~。
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きっと皆さんの御近所にも今は規模は大きく無くても本来は凄い歴史を持つ神社や御寺が有るかも知れません、御散歩した山や公園が実はそんな神社仏閣に関わった歴史偉人の御城の跡かも知れません。
少し歩いて御寺や神社の説明や、屋根の瓦の模様を見て見ると、途端に過去の歴史偉人とその場所が皆さんを繋ぐタイムカプセルに成るんですよ!
・・・さあ、天気が良くて気分転換したければ、御近所を散歩してみませんか?

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
次いつ更新するかは解りませんが(笑)!
肉体改造、四月一杯で形に成りそうです。少しだけ玉縄北条家と間宮家と太田道灌公と蒔田吉良家と宅間上杉家の殿様の顕彰文の原稿書くのとブログ更新のペース遅くなるの、猶予下さいね~。

んじゃ!

さて、今回はタイトルと記事こそ分けて書きますが2つの御寺と殿様の歴史を2回セットの記事にして解説したいと思います。
1つは龍珠院、横浜市磯子区の御寺です。2つ目は伝心寺、横浜市金沢区の御寺です。
今回の記事では龍珠院と玉縄北条家についての歴史を解説します。
ゆず

皆さんは❝ゆず❞の地元の横浜市磯子区岡村町に戦国時代関東最強の武将が開いた御寺が在る事を御存知でしょうか?その御寺の名前は泉谷山 龍珠院と言います。
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泉谷山 龍珠院龍珠院を開いたのは北条綱成と言う武将です。この方を果たして皆さんは御存知でしょうか?
北条綱成
※画:KOEI信長の野望創造戦国立志伝より拝借
戦国時代末期の関東最強の武将として戦国時代の歴史好きや歴史シミュレーションゲーム好きには有名ですが、教科書に載る事は無いので歴史に興味の無い人は全く知らない小田原北条家の武将です。
北条綱成公は今のJR大船駅近くに在った玉縄城主で重要な合戦には必ず参戦していました。
三つ鱗紋
北条家三鱗紋
竹に雀紋
上杉家竹に二羽飛び雀紋
関東管領上杉家連合軍と北条家の抗争では不利な河越合戦で3千の兵を指揮して上杉連合軍8万を相手に半年間も河越城(現:川越市川越城址)の防衛戦に成功します。
そして義兄弟で主君でもある北条氏康公の援軍8千と合わせ1万1千で上杉連合軍を壊滅させ関東を制覇する契機を作り出した名将です。
北条氏康
※画:KOEI信長の野望大志より拝借
ゲームだと若い頃の渡哲也さん似に描かれている強面(こわもて)イケメンの北条氏康公、実はこの絵、肖像画に似ていない事も無いんです(笑)が、今回は氏康公の回では無いので肖像画解説は無し(笑)。
その他にも玉縄城主北条綱成公は武田家と同盟後の北条家で陣代(主将代理)として武田家救援軍を指揮して信濃へ遠征したり、武田家と北条家の対立後は玉縄衆家老の間宮康俊公や其の子の間宮康信公と共に武田家が浸食した今川領駿河国北部を瞬く間に奪還した名将でした。
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隅立て四ツ目結び紋間宮(近江源氏佐々木)家:隅立て四つ目結び紋
間宮家は鎌倉時代の名将として名高い佐々木高綱公の同族の子孫で、近江源氏佐々木家の氏神である沙沙貴神社宮司家の子孫から武士化して室町時代に初代鎌倉公方の足利基氏公の配下と成って伊豆に移住した一族です。
綱成公は河越城の合戦の後に、第二次国府台合戦でも軍師間宮康俊公を始めとした黄備え隊と共に参戦し、本隊が苦戦する中、迂回奇襲を仕掛けて北条軍を勝利に導く大活躍をしています。
更には深沢城の籠城戦では深沢城代として善戦し、敵の武田信玄を相手に圧倒的不利な戦力差にも関わらず武田勢を苦戦させる事に成功し後は北条家当主の北条氏政公の本隊援軍の到着を待って挟撃する寸前に戦況を持ち堪えさせた程でした。
が!深沢城防衛は結果的に失敗で、軍才と統率力が無い新当主の北条氏政公が率いる本隊の出発も行軍も鈍重で間に合わず、その上、武田家の金山で鉱石採取をする特殊部隊の工兵による水脈断ちを受けて堀の水や井戸水が不足し戦線維持が困難に成り撤退する羽目に成りました。
しかし、この北条綱成公の歴戦の戦績と武勇を当時高く評価していたのが敵だった❝武田信玄❞と❝上杉謙信❞でした。
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※画:諏訪原寛幸先生
武田信玄は深沢城を北条綱成公から引き渡された際に、北条綱成公の玉縄北条家と家老の間宮康俊公率いる❝北条五色備え❞の部隊の内、❝黄備え隊❞の軍旗である朽葉色(くちはいろ:濃黄色)に八幡大菩薩と書かれた❝地黄八幡❞の旗印が城に残されていたのを見つけました。その旗を手に取り、武田信玄が重用していた真田一族に対して「地黄八幡の武勇に肖(あやか)り真田の家宝とせよ」と旗を信州まで持ち帰らせたほどのリスペクト振りでした。余談ですがその旗は今でも長野県松代市の真田宝物館で大切に保管されていたりします。
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※画:諏訪原寛幸先生
そして、この深沢城の落城と北条綱成公の敗戦を誰よりも悔しがったのが❝上杉謙信❞でした(笑)。
実は上杉謙信は鎌倉市の玉縄城を12万の大軍で攻めた際に玉縄城を攻めあぐねて落とせず、仕方なく撤退して小田原城を目指さざるを得ない煮え湯を飲まされた経験が有る上に、度々、玉縄衆黄備え隊に苦戦させられた武将の一人でした。よっぽど悔しかったのか玉縄城の要塞が存在する藤沢の土地を朝廷に寄進すると言って見たり実効性の無い嫌がらせもしています(笑)。
まだ北条家と武田家が同盟していた時代に上杉謙信が信濃国の上田方面を攻めた際に武田家を救援したのも正に北条綱成公と黄備え隊だったんですね。
因(ちな)みに玉縄城で上杉謙信を迎撃して撤退させた上に、上杉連合軍が占領した現在の神奈川県東部を取り返した猛将は北条綱成公では無く、その子息の北条氏繁公でした。北条氏繁公も又、名将として高い実績を誇っているのですが何故かゲームでは戦闘力70代後半と過小評価されていたりします(笑)。
上杉謙信は度々、北条家最強部隊の玉縄衆黄備え隊と北条綱成公と北条氏繁公親子に局地戦で負けた経験が有るので、深沢城で武田信玄が北条綱成公を撤退させた事が大変悔しかった様で「地黄八幡が負けた・・・」とボヤいた事が現代に伝わっていたりします(笑)。
北条氏綱公
そんな北条綱成公の才覚を見抜いて養子にとり娘の婿に迎えたのが北条家二代目の北条氏綱公でした。
北条氏綱公は余り知らない人も多いかも知れません。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
氏綱公よりも、その父の北条早雲公や息子で三代目の北条氏康公が日本屈指の内政力と善政と勝負強さで有名ですが、実は北条家の中でも岡崎城、糟屋舘、大庭城、新井城等の関東有数の規模の堅城への攻城戦で実績を残したのは時代的には北条氏綱公の代の出来事だと解っています。つまり北条家の中で善政に長けているだけなく一番❝侵略❞に長けていた武将が北条氏綱公だったのですが、その方に見込まれて婿養子に成ったのが北条綱成公だった訳です。
さて、戦国時代の歴史を好きな人には北条綱成公が関わった神社や御寺として鶴岡八幡宮や菩提寺の鎌倉市植木の❝龍寶寺❞は有名です。
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陽谷山 龍寶寺
ブログ開始初期に書いた拙い解説記事→JR大船駅の殿様!黄備隊大将の北条綱成公と玉縄城。上杉謙信や武田信玄より強い。←クリックすると読めます♪
その龍寳寺と同じく玉縄北条家の支援の下で寺院として成立したのが横浜市磯子区岡村の龍珠院です。
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龍珠院には歴史を書いた石碑が御庭の真ん中に立てられています。
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しかし、この解説は少し間違っています。では歴史事実を文献から紐解いてみましょう。
新編武蔵風土記稿によれば以下の解説が有ります・・・
~前略~
(久良岐)郡内町屋村傳心寺末、泉谷山と号す、本尊十一面観音を安(置)す、本堂七間に五間、開山を養拙宗牧と號す、
~中略~
開基は北條氏にて、大永二年(1522年)造立すと云(言う)、北条氏繁が文書に據(拠:よっ)て考ふるに、其父上総介綱成が開基せしにや、
~以下省略~
さて、この新編武蔵風土記稿を編纂したのは北条綱成公や北条氏繁公の家老だった笹下城主間宮家の子孫で江戸幕府昌平坂学問所の頭取だった間宮士信と言う人物なのですが、この間宮さんの解説だと現在の御寺の石碑で「北条氏繁公の開基」とされている一文は実際には御寺の開基年代が大永二年(1522)なので不可能に成って来ます。
北条氏繁公の生年月日は天文五年(1536年)なので、氏繁公が生まれる14年前に龍珠院を開く事は不可能です(笑)。
更に父上の北条綱成公も永正十二年(1515年)生れと判明しており7歳で寺院を支援したとは考えにくいです。実は龍珠院の開かれた大永二年(1522年)の前年、大永元年(1521年)に旧今川家臣だった北条綱成公の実父が戦死して綱成公は北条家を頼り亡命し氏綱公に気に入られ養子にとられています。
では御寺を開いた人物が誰かと考えると当然ながら、その(義理の)父上と考えれば自然でしょう、つまり北条綱成公の養父北条氏綱公です。
北条氏繁公の開基ではないと言う意見では小生と江戸時代の学者の間宮士信サンも同意見だった様で、こんな古文書を態々(わざわざ)紹介しています・・・
龍珠院氏繁公文書 久良岐のよし
この北条氏繁公が龍珠院に対して発行した文書に注目して貰うと「老父」と言う言葉がしきりに登場し、それが北条綱成公と言う事が解ります。そして北条綱成公の代に既に「老父直々御寄附」つまり御寺に対して寺領と成る土地を寄進している事が解り、つまりコレを示して東京大学の前身である江戸時代の昌平坂学問所の頭取の間宮士信サンは龍珠院=北条綱成公が最初の支援者と解説している訳で、小生の意見とも異なりますが少なくとも北条氏繁公以前の北条家の人物である事は間違いなさそうです。
そして文書の内容は・・・まぁ、何と言うか玉縄北条家の与力の武将が武士として恥ずかしい行為をしていて、氏繁公が上司として御寺にゴメンね俺がちゃんと御寺の土地守る為に怒っておくからって内容なんですね(笑)。
その悪さしたのが「行肥」と書かれている武将で、これは苗字と官途名の略称で彼の渾名(あだな)みたいなもんでしょう。北条家臣には行肥と言う苗字の武将は存在しませんが行方(なめかた)と言う武将が小田原所領役帳に登場しています。

玉縄衆
一 行方与次郎
三百六拾壱貫弐拾四文江戸六郷大師河原共ニ
此内
三百貫文      自前々致来知行役辻

 六拾壱貫弐拾四文 自昔除役間可為其分 
 但出銭着致三百六拾壱貫弐拾四文可懸之
此外
六拾貫文 葛西 寺島

北条家研究家の盛本昌広先生が六浦文化研究所時代に書かれた❝戦国時代の久良岐郡❞と言うレポートに書かれた推測でも彼の正体は「玉縄衆の行方で、行肥の肥は官途名の肥前か肥後の略称だろう」と言う主旨の事を書いてらっしゃいます。それ以外には考えられないですからね。
さて、この小田原所領役帳の成立は永禄二年(1559年)ですが、龍珠院と行肥がモメたのは天正六年二月廿六日つまり1578年の出来事です。つまり、龍珠院と玉縄北条家与力の行方と思われる人物がモメた頃には龍珠院の辺りが行方家の領地に成っていた事、そしてそれ以前には北条綱成公の領地で一部が龍珠院に寄進されていた事が解ります。
では何で、こんな場所に直接北条綱成公が関わったのかと言うと、恐らくそれは蒔田吉良家が関係しています。
岡村町の直ぐ隣の蒔田には戦国時代に蒔田城が在(あ)り、別称:蒔田御所と呼ばれていました。
そこには吉良頼康と言う殿様が住んでおり、蒔田城下には今も吉良家の菩提寺の龍祥山勝國寺と言う御寺が存在しています。
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龍祥山 勝國寺以前書いた解説記事→三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区←クリックで読めます。
この御寺の背後に蒔田城址が有ったのですが、鎌倉公方代理の殿が住んだ歴史的価値の高い蒔田城も横浜市が保護しなかったので完全消滅してしまいました。そして何故ここが蒔田❝御所❞と呼ばれていたかと言うと、実は河越合戦で北条家が上杉連合軍に大勝した際に北条家を裏切って上杉家についた古河公方足利晴氏公は小田原市に抑留され、北条家の姫との間に子(足利義氏公)を授かっていましたが鎌倉公方としての役職には復帰させて貰えず、義氏公が成人するまで代わりに足利一族で身分の高い蒔田吉良頼康公が鎌倉公方代理を蒔田城で務めていたんですね。
ですから鎌倉将軍の代理である吉良頼康公に訪問する用事が当然ながら北条綱成公には有るので、宿舎が必要なので宿泊所としての機能も有る龍珠院が支援されたのでしょう。そして本格的に寺院化したのが北条氏繁公だったので、氏繁公の生年以前に既に存在した龍珠院ですが現代に北条氏繁公開基と誤って伝わっているのでしょう。
さて、龍珠院と玉縄北条家の殿様の関係が解った所で龍珠院の施設その物を見て見ましょう。
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入口には石標が有ります。
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素通りしそうですが、出来たら拝んで見て下さい!御利益に預かれるかも知れませんね。護国般若塔と書いて有るので国を守る為に精進する必要の有る職種の方々、例えば公務員全般や最先端の学問の研究をされている研究者や警備保障会社の人なんか御利益が有るかも知れません。
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反対側は金剛般若塔
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金剛力士の代りかな?それともダイヤモンドの様に硬い意思とか強さの象徴?
良く解らないけど、強さの象徴みたいなものでしょうか?
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山門代わりの扉は普段開いているので境内に入ると真ん中にコンモリした築山が在ります。

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ここには石碑が立っています。
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これが玉縄北条家部分のの解説に関しては少し間違えているけど龍珠院の歴史が書かれている物です。
その下には江戸時代の宝永噴火の事や関東大震災の記録等も彫られています。
・・・私達後生の人間が生きる教訓に出来る様に災害の記録を先人が残して下さったんですね。
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境内の庭から山門方向を見て見える丘が平子家の磯子城址の一部ですね…
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・・・こちらも横浜市が発掘調査も保護もしていないので完全に消滅しました。磯子区腰越の公園辺りまで御城だったと推測されています。
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鎌倉~室町の文化を色濃く残す立地の谷戸構えの地形ですが、現代ではその谷戸は墓地として活用されています。
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現代の御本堂は鉄筋コンクリート造りですが、歴史の名残を伝えるのが丸に三鱗紋ですね。
玉縄北条家から下賜されたのでしょう。
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庫裡はとても綺麗で、丁度御住職様も数年前に代替わりした様で、以前訪問した際とは別の若い御住職様に変わっておられました。とても気さくに話して下さる和尚様で安心しました。
御朱印も改めて禅宗寺院用の御朱印帳に頂いて参りました。
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さて皆さん、磯子区、それも❝ゆず❞の地元に上杉謙信や武田信玄を翻弄した最強の戦国武将が関わった御寺が在るとは思わなかったんじゃないでしょうか?

きっと皆さんの御近所にも今は小さかったり現代的な建物に成っていても、又は昔のままの雰囲気の神社仏閣も、実は凄い歴史偉人と関わりが有る場所が残っているはずです・・・
近所の山や公園も御城の跡かも知れませんし、何気ない池が古代から続く元は神社の聖地の池だった場所かも知れません。
・・・少し気分転換に御寺や神社や山を散歩して見ませんか?そして説明の石碑や看板を読めば、途端にその場所が歴史偉人と皆さんを繋ぐタイムカプセルの様な場所に成るんですよ~♪

さ、又、次は伝心寺の記事で御会いしましょう♪
では~!

この記事に続く→横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?









神奈川県横浜市金沢区は横浜市の中の旧久良岐郡域に属する地域ですが、鎌倉時代から金沢区六浦が鎌倉の東京湾側の港として機能していたので文化圏としてはもう完全に鎌倉文化圏に属しています。
そんな土地柄なので金沢区には平安時代末期~鎌倉時代~室町時代~戦国時代(室町後期)~安土桃山時代にも重要な歴史偉人達が関わった神社仏閣や史跡と自然が沢山現存しています。
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竹嵓山 禪林寺(ちくがんさん ぜんりんじ)最後の鎌倉公方足利持氏公開基、初代古河公方足利成氏公再興、小田原北条家臣伊丹永親公支援の寺。

そんな金沢区の中に釜利谷東と言う地域が有り、そこには竹嵓山禪林寺と言う御寺が存在します。
小泉夜雨 葛飾北斎 
この禅林寺が存在する地域は歌川広重の描いた❝金沢八景❞で❝小泉夜雨❞と呼ばれた海近くの景勝地として近代まで知られていましたが、その海も昭和に成り戦後に県外からの移民が教育委員会の席を占める様に成ると歌川広重の金沢八景すら知らない彼等は保護を怠り、埋め立て地利権によって海は消され宅地造成によってその景勝は失われました。
さて、そんな景勝地であり鎌倉市街へ抜ける間道が通る場所だったので、この地は文系で学生時代に真面目に勉強していた人なら誰でも知っていて当たり前の歴史偉人が御寺を開いたりもしています。
永享の乱で逆徒の山内上杉憲実によって切腹に追い込まれ最後の鎌倉公方と成った足利持氏公により開かれ、その遺児で生き残った足利成氏公の親子によって再興された御寺が釜利谷東の禅林寺です。
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山門や御堂は最近の建替えの様ですが、木造で鎌倉文化を良く再現した造りに成っておりとても落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
残虐非道で籤(くじ)引き将軍として有名な足利義教が自分の不安定な地位を確固たる物にする為に赤松家始め多くの忠臣を謀殺したり挑発して幕府軍を送り込み滅ぼし更に総仕上げとして自分の地位を一番脅かす存在だった鎌倉公方足利持氏公と対立している山内上杉憲実を後援して今川家に命じ今川範忠公引いる鎌倉公方討伐の幕府軍を上杉家の援軍として送り込みました。
足利持氏公は降伏を余儀なくされ、金沢文庫の金澤山彌勒院稱名寺で出家した後に東京都世田谷区の永安寺に移って完全に隠居したにも関わらず、上杉憲実に攻められ自害に追い込まれました。
その後、関東武士団は結束して足利持氏公の維持を保護し有名な❝結城合戦❞を起こしますが、その時に足利持氏公の遺児達も敗戦で殺害され、最後に生き残ったのが足利成氏公でした。
この永享の乱と直前の上杉禅秀の乱が戦国時代の幕開けとされており、関東は関西よりも早くに戦乱の時代を迎える事に成りました。
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写真は鎌倉市浄明寺地区犬懸谷(いぬかけがやつ)の上杉禅秀邸址入口。
少し金沢区から話を外します・・・

足利成氏公に関しては幼少期の生い立ちが諸説あり、詳しい所は最近まで解らなかったそうですが現在では信濃国佐久郡の大井家によって保護されていたとする説が有力だそうです。
この大井家は祖先が東京都品川区大井の出身で、古代より相模国~武蔵国に土着していた紀氏の子孫とされる一族です。
その大井家の下で残虐籤引将軍足利義教の難を逃れた足利成氏公は、室町幕府将軍が八代将軍の足利義成(足利義政)公に変わった頃に幕府に対して関東武士団の強い足利成氏公鎌倉公方への就任の承認要求有り関東武士団を懐柔したい足利義政公の思惑が一致した事に由(よ)って、足利成氏公は父の跡空位に成っていた鎌倉公方の座に返り咲き親孝行を果たします。
そんな足利成氏公に父の代の因縁のままに再度叛旗を翻したのが、山内上杉憲実の子の上杉憲忠でした。
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江島神社(えのしまじんじゃ)
逆徒山内上杉家が従属させている扇谷上杉家と供に足利成氏公に対して叛旗を翻し挙兵すると、足利成氏公は多くの関東武士団に守られ険阻な要害地形で豊富な湧き水が有り、海から海路補給を行える江ノ島に籠城しました。この江ノ島は舒明天皇以来の天皇家勅願所(ちょくがんじょ)で天皇家が国家鎮護や様々な祈祷を行って貰う場所として江ノ島の岩屋(洞窟)を定めていました。その岩屋に源頼朝公が水と戦と音楽と美の女神の弁才天様を祀ったのが江ノ島神社の起源です。
その江ノ島神社の別当職だったのが、後に横浜市域の南部を統治した間宮家の一族で本姓佐々木氏、江島の別当職は岩本坊(真言宗系修験道寺院)と言う僧坊の住職を務め❝俗名を岩本❞、❝普段は間宮❞、❝神事では佐々木❞の苗字をそれぞれ使い分けた近江源氏の一族でした。
岩本坊は現在では岩本楼と名を変え江ノ島の有名旅館として多くの宿泊客で賑わっています。
この間宮家は戦国時代に禅林寺を支援した伊丹永親公の同僚の北条家臣で玉縄衆黄備隊付家老の間宮康俊公や徳川家康公の側室と成り姫を生んだ間宮於久の方や、大坂城総掘り埋め立て作戦を進言し但馬奉行佐渡奉行本牧奉行を兼任した間宮直元公を輩出しています。
その天皇勅願所の聖地江ノ島と弁天様の御利益と、足利成氏公の人望と采配によって山内上杉&扇谷上杉連合軍は撃退されました。

ところが、この頃関西では京都を荒廃させる応仁の乱を引き起こした戦犯の細川勝元が管領(かんれい)職に就任すると、鎌倉公方よりも関東管領上杉家を自分の言いなりに成る手駒として重視し出して関東の将軍である足利成氏公を軽視する政策を指示してしまいました。
すると足利成氏公は親の仇でもある山内上杉憲忠が細川勝元と謀略を巡らしている事を察知し、逆に忠臣の結城成朝公と共に謀略をしかけ西御門の鎌倉公方邸に上杉憲忠を呼び出し暗殺しました。
鎌倉市西御門周辺 久良岐のよし
そして成氏公を支持する大名の多い関東の南部と東部で上杉派を連戦連勝で撃破して瞬く間に関東南~東北部を制圧し上杉家を追い詰めました。
これに怒った人望の無い細川勝元は自分の権威では収拾が着かない事を悟ると御花園天皇に鎌倉公方追討綸旨を出させてしまします。この追討の綸旨は相手を朝敵(日本国の敵)と天皇の公認で指定してしまう事を意味し、こうなると人望が高く戦も上手い足利成氏公でも離反する大名が現れ苦戦を強いられる事に成りました。
そして上杉家は相模国を制圧し、鎌倉公方足利成氏公は鎌倉に帰還する事無く古河を本拠地にして以後は古河公方と呼ばれ歴史の授業では鎌倉公方にカウントされず戦上手で人望が高かった事績も教えられる事の無い人物と成ってしまいました。
この戦乱は❝享徳の乱❞と呼ばれます。この戦乱が続いた事が、もう少し後の時代に戦国時代最高の善政を行った北条早雲(伊勢盛時公)や北条氏綱公や北条氏康公等の北条家の名君達が関東に勢力を広げる切っ掛けと成って行きました。
そして北条家が横浜市金沢区一帯も勢力下に収めると、北条家臣伊丹永親公が禅林寺を支援する時代が来ました。
・・・ここで禅林寺の境内その物の解説に戻ります。
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禅林寺は山門の左手に小さな神社が在ります。
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金毘羅宮つまり神仏習合時代には金毘羅大将を祀っていた神社ですが、元は仏教以前のヒンドゥー教の水神様で鰐(クンピーラ)が神格化された神様でした。釜利谷は小泉辺りまで海が広がっていたので、正に船着き場として水神様の御利益が必要だったのかも知れませんね。
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山門をくぐると境内は室町時代成立の禅寺らしい人工的に谷を広げる為に山の斜面を掘削する❝裾切り❞と言う加工がされた❝谷戸構え❞に成っています。人工的に直角にした谷に囲まれている事で入口に門を築いてしまえば頑強な防犯に成り、更に火事の類焼防止も期待出来る訳ですね。
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桜の木でしょうか?御庭はとても手入れが行き届いて綺麗です。
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御寺なんだけど、手水社が有ります。多分、明治以前は神仏習合だったんだと思います。
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その隣に小さな祠が有り、延命地蔵と書いて有ります。
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御地蔵さん祀ったりしてるのは、どうも金沢区の富豪だった永島家から移されたらしい。
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でも縁起を書いた墨書きが色落ちして良く読めませんでした。
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御本堂も横から見ると又、趣が違いますね。
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さて、この御寺の寺紋は足利家の二つ両引き紋ですが、これも足利持氏公と足利成氏公に使用を許されたのでしょう。御寺の格の高さが解りますが、この日、色々と書物に残らない寺伝を御教授して頂いた御住職様はとても口調も物腰も柔らかい和尚様で偉ぶった感じ等は少しも無い綺麗な御寺と同じ紳士な方でした。
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御本堂は恐らく再建だと思いますが、破風の梁(はり)部分の彫刻は素晴らしい物でした。
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浦島太郎伝説・・・神奈川県域で海と関係の有る古い歴史の有る神社仏閣は、この彫刻が有る処をちょくちょく見かけます。入口の金毘羅様と同じく禅林寺の近くまで昔は海だった名残ですね。
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龍の彫刻も素晴らしい。
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もう梅の季節ですね~。
そう言えば梅の名所一覧も観梅の季節の参考にして頂ければ幸いです。
神奈川県の梅花鑑賞に適した梅林一覧←クリックで記事にリンク!
綺麗な御寺でしょう?
何だか庫裡では地元の老人の皆さんの茶飲み場を提供していたりするみたいです。
静かでゆっくり出来て、海が近くに無くなった現在でも風流な御寺ですね。
そう言えば!
近くに和菓子屋さんが有りましたので紹介します。
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この御店、アパートの1Fのシャッター商店街(笑)に1軒だけ頑張ってたんで気に成って入って見たら、凄く可愛い和菓子が沢山有りました。
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小生は梅の和菓子を買い食いしましたが、上品で美味しかったですよ♪

さて、禅林寺は新編武蔵風土記稿にも登場し以下の解説が有ります。

下総国關宿(千葉県野田市関宿)東昌寺末、竹嵓山と號(号)す。
當(当)寺は源持氏の建立にて、開山は禪藝(禅芸)と云(言う)、本寺開山(かいざん=初代住職)艮庵(ごんあん)禅師の上足(じょうそく=優秀な弟子)なり、永正九年(1512年)十一月二十六日寂す(没)。
中興開基伊丹三河守永親は永禄六年(1563年)閏六月長暦に閏月は十二月とあり十八日卒す(没)。
禪林寺雲岸宗悦大居士と諡(おくりな)せりと云、又江戸浅草寺の傳(伝え)に云、智樂院權僧正忠尊は伊丹三河守永親が子にて、紅葉山東照宮の御別当を兼帶(けんたい=兼任)し寛永年中當村御神領となりし後、其父菩提の爲(為)禪林寺を草々し十石の地を寄付せしと云。當寺の傳と異なり・・・
--以下省略--

要するに、この御寺が鎌倉公方の足利持氏公が開いた御寺で、最初の住職は禪藝和尚様で本寺の艮庵禅師の偉い弟子で、戦国時代には伊丹永親公によって再興され支援されました~って事と「浅草寺の住職の智樂院權僧正忠尊和尚様の御父さんが伊丹永親公で紅葉山東照宮(江戸城内の東照宮)も管理していた偉い人だよ」って事とかが書いて有る訳です。
そうなんです、この伊丹家は北条家臣で後に江戸幕府時代には宗教的な儀式で重要な役割を担う天台宗系修験道の偉い智樂院權僧正忠尊と言う法名の和尚様を輩出し、付近の手子神社を開き浅草寺と江戸城内の東照宮のトップだった人物なんです。

戦国時代の伊丹家の記録も後北条所領役帳に残っています。

江戸衆
伊丹右衛門太夫(康信)
弐百五拾五貫四百六十弐文 久良岐郡釜利谷(横浜市金沢区釜利谷)
弐拾三貫五百五拾文    同所壬寅検地増
此増分役者惣検地上改而可被仰付
六拾九貫百八拾三文    常葉(鎌倉市常盤)
以上三百四拾八貫弐百文
--以下省略--

この所領役帳が成立したのが1559年なので、伊丹右衛門太夫は世代的に伊丹永親公の御父上に当たる世代の人物なので、まぁそう言う事なのかも知れません。つまり、伊丹家は北条氏康公の時代には釜利谷にいて活躍し、禅林寺で座禅組んで精神修養してらっしゃったり学問を学んだりされていたかも知れない訳ですね。
この伊丹永親公の妹君に於菊の前様がいらっしゃり、豊臣秀次公の側室だった人物で女性としては出世された後に秀次公の切腹で一緒に処刑され悲惨な目に遭ったかも知れません。そんな事も有って、伊丹家は宗教的な修行をする智樂院權僧正忠尊和尚と言う偉人を輩出したのかも知れませんね。
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伊丹永親公の御廟所は鎌倉~室町文化の色濃く残る金沢区の御寺らしい矢倉の中に現存しています。
御墓を写すのは殿様に失礼なので、矢倉の上部の写真だけ掲載せて頂きます。
さて・・・
新編武蔵風土記稿で伊丹永親公の戒名は禪林寺雲岸宗悦大居士と紹介されていますが、これは誤りです。新編武蔵風土記稿では取材した人間の質によって書き間違えがどうも多い様です。
正しい永親公の戒名は現在も御寺にちゃんと伝わっています。
禪林院殿雲峰宗悦大居士これが正しい永親公の戒名です。
恐らくこの雲峰宗悦の峰は、付近一帯の円海山の山々~金沢区辺りまでの地域の事を❝峰❞と言う渾名で指していた様で、金沢区町屋の伝心寺にも峰の字を含む江戸時代の山号が記載されていたりします。

まぁ、そんな訳で禅林寺は凄い御寺なんです。
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受領した禅林寺の御朱印。

きっと皆さんの御近所にも凄い歴史偉人が守って来た神社仏閣や公園や山になっている御城の跡や、古代人が大切にした聖地の森や泉が有ると思います・・・
皆さん、御近所の神社や御寺や里山を散歩して、少し説明の看板に目をやり昔の人と一瞬、時間を共有したり新鮮な空気を吸ってリラックスしてみませんんか?

・・・では、又、次のブログ記事で御会いしましょう♪


















横浜市金沢区長濱には長浜ホールと言うコンサートホールと長濱野口記念公園が在ります。
そこには❝旧長濱検疫所の細菌検査室❞が保護維持され無料開放されています。 CIMG6460
長濱野口記念公園内 旧細菌検査室
実はここ・・・
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野口英世記念公園内に保存される明治時代の建築遺産にして医療文化史跡。野口英世先生が検疫所職員時代に日本初❝ペスト❞の患者を臨港検疫で発見し日本へのペスト流入を食い止めた当時正に働いていた場所なんです。
CIMG6461 野口英世先生がここでペストを食い止めていなかったら
現在の日本人の多くは祖先が死んでいて生まれていなかったかも知れない、そんな医療の聖地でもある訳です。
CIMG6462 明治三十九年(1899年)明治政府に因って❝海港検疫法❞が公布されました、すると旧長濱検疫所は横濱海港検疫所として再スタートし、当時は北里研究所の北里柴三郎先生の開いた伝染病研究所で研究助手をしていた野口英世先生に白羽の矢が立って❝海港検疫医官補❞として入所赴任されたそうです。
この頃、野口英世先生は22歳。若い!
CIMG6467 すると横浜港に入港しようとし横濱海港検疫所に停泊していた❝亜米利加(アメリカ)丸❞の清国(中国)人乗船員がペストに感染しているのを野口英世先生が発見、ペストの日本侵入と蔓延を事前に食い止めた。
CIMG6468 その時に活躍の場と成ったのが正に、この❝旧細菌検査室❞であり、当時の横濱海港検疫所として機能し現在はコンサートホールとして改装され再利用されている長濱ホールだった。 CIMG6469 これらの建物はバブル時代に老朽化で破壊されそうに成ったのですが、野口英世先生の出身地の福島県民と横浜市民と北里大学の関係有志が義挙し保存活動に発展、実に18年間に及ぶ保存維持闘争を経た頃に、横浜市長が高秀秀信市長に成ったのが幸運でした・・・
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高秀市長は建築族であると同時に歴史知識と教養の深い人物で、この活動に賛同され保護に踏み切り現在では横浜市民に無料で開放され誰でも医聖:野口英世先生の日本防衛の医療聖地を見学する事が出来る様にして下さいました。 CIMG6459
※現在外装工事中の長浜ホール ・・・余談ですが高秀市長は他にも横浜市中区元町~山手地区の明治~大正~昭和初期の洋館群を横浜市で買い取り保護し、素敵な街づくりと近代西洋文化保護を行い、更には都筑区センター南駅までの茅ヶ崎城址保護整備により茅ヶ崎城址公園を開き日本の戦国時代の文化史跡保護にも活躍されました。
又、茅ヶ崎城から直ぐ近くの大塚歳勝土遺跡を保護し緑地公園と史跡公園として発掘調査させ整備し横浜市立歴史博物館を設立され高秀市長によって保護公園化された大塚歳勝土遺跡は❝国指定史跡❞と成り、素晴らしい商業街造成と史跡文化保護の両立を実現された名市長でもあります。 ●茅ヶ崎城址公園…横浜市内3本指に入る保存状態の城。←クリックすると記事を読めます。
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検疫所の前には澤を利用した水堀が在り、これで検査室と事務所の結界としていた様ですね。
高秀市長はこの様な素晴らしい遺跡や文化史跡や城址や自然を多く保護された上で横浜市の経済発展と両立された偉大な市長だったのですが、2018年現在の林文子市長は❝円海山瀬上池~瀬上沢❞の横浜市最大の❝蛍群生地❞の東急不動産による宅地開発を容認する発言をし高秀市長が自然公園化した現地を一部私有地払下げしたり借地権を放棄し封鎖させ、蛍は絶滅の危機に瀕しています。 同様に❝続日本100名城❞に選ばれた小机城址への横浜市史跡指定化を行わず、建築利権かさせ破壊してしまう可能性が有る。
ついでに関連記事のリンクも以下に貼って置きます。
●茅ヶ崎城址公園…横浜市内3本指に入る保存状態の城。
●円海山と瀬上池の沢…蛍が見れる横浜南部の最後の大森林。
●円海山の蛍が観察出来る季節です。・・・過去記事の転載も。
●❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。
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旧細菌検査室は小さな博物館に成っていて、当時の検査機材や書類、歴史解説が無料展示されていて誰でも野口英世先生の足跡を学ぶ事が出来ます。
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建物は高秀市長が保護した頃には放置され老朽化が激しかったのですが、有志の活動と高秀市長と当時の市長を支えた教養と志の有る一部職員によって修繕が段取りされ現在のの残されました。
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部屋は多くは有りませんので、長浜ホールに事前に見学可能か問い合わせし合わせて行くと良いと思います。小生はこの日は旧長濱検疫所の検査室だけを見学しました。
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このデカくて仰々しい物が当時の顕微鏡だそうです。今は大分小さく成りましたね。
医療の進歩は科学の進歩を一緒に進んでいく事を物語っていますね。
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他にも検査器具は野口先生が手で触れたかも知れいない擂鉢やら天秤やらシャーレみたいな物とか?色々有りました。
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これは医療関係者の人が見るべき場所なのだろうなぁと思います。
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何か昔の出入り口は地下室と兼用の地下道のみだったそうで、疫病が万が一蔓延しない様に有事は埋めて封鎖する目的でも有ったのでしょうか?今では別に玄関が付けられています。
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昔の検査風景。
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今も再現され保存されています。
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どうです?
小さいけれど医療関係者のみならず横浜市民も見学する価値は十分に有ると思います。
近くの長浜公園は昔海だった海岸線で干潟が保護されており野鳥の観察も出来て子連れでタコ上げしたりデートで散歩したり、ゆっくり遊べる場所でもあります。
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そうそう、自販機まで野口先生仕様でした(笑)。
さて・・・
林市長が長浜野口記念公園や茅ヶ崎城址公園や山手のエリスマン邸等、多くの市の建築遺産と史跡と自然と宗教の聖地を高秀市長の様に保護され活用される事を期待し、この記事を書きます。
円海山と瀬上沢と小机城址が横浜市指定史跡や自然保護区に成り、東急不動産さんが自然破壊開発を放棄、それ等の場所の保護にスポンサーに成り“浄願寺跡の上行寺東遺跡を破壊した横浜市教育委員会の罪滅ぼし”も兼ねて林市長と横浜市教育委員会と東急グループは自分の会社は文化と自然を保護しながら既存の宅地を有効的に再開発していますと方針転換の宣伝を率先して行って下さるよう、期待します。
●【城郭ファンへ拡散】六浦山上行寺の解説と、間宮家臣荒井家の鎌倉武士時代の幻の城址❝荒尾城❞発見?の報告と協力要請。
よもや、横浜市はこの過ちを繰り返さないよな?
多くの横浜生まれ横浜育ち世代の横浜市民と自然保護活動家、カルトセクトではない正統派の神道と仏教宗派の関係者も情報共有しながら❝円海山を見守っている❞事ですし。 この提案は政治家にも企業イメージ改善にも+に成ると思います、高秀市長時代を模範にしては如何でしょうか?

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