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カテゴリ: 城址・要塞・史跡・伝統文化

九品山 唯在念佛院 淨眞寺
奥沢城址の紅葉名所
(吉良家重臣大平家居城)

【景観】★★★★★
 寺院建築&紅葉の美しさ堪らん!
【電車】 
 九品仏駅 ・・・徒歩03分
 自由が丘駅・・・徒歩10分
【  車  】★★
 駐車場40台前後。
 ※オンシーズン入庫待ち必至。
【休憩】★★
 境内には自動販売機程度。
 駅周辺にレストラン多数。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 戦国期の奥沢城を寺院化した庭園◎ 
 寺院建築+紅葉のコラボが素敵💛◎
 住宅街なのに境内広く紅葉が多い◎
 九品仏再建の特別御朱印有り◎
 自由が丘駅近くレストランが多い◎
注意するpoint(•ω•)       
 紅葉シーズン駐車場メチャ待つ。
 三脚立てて止まるなよ。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
淨眞寺(浄真寺)の広い境内庭園と寺院建築に紅葉する樹木の景色がとにかく美しい。
現在、九品仏再建に際して特別な金の台紙の御朱印を拝受する事も出来る。
駅から徒歩直ぐで交通面でも優れており、紅葉の名所として東京都民には昔から有名。
御寺としての歴史は江戸時代に始まった。延宝六年(1678年)、徳川家綱公の統治下で江戸幕府より奥沢の庄屋七左衛門が寺地として江戸時代以後廃城に成っていた戦国時代の城郭、奥沢城廃城を拝領し淨眞寺が開かれた。
淨眞寺として寺院化された奥沢城は戦国時代に江戸城を最初に近世城郭化した築城と野戦の名人で戦国時代の関東最強の無敗の軍師、太田道灌公の親友として記録に残る蒔田吉良成高(まいたきらしげたか)公の家老、大平家の居城だった。
紅葉を見ながら淨眞寺の歴史を辿(たど)ると江戸時代には帰農し庄屋に成っていた世田谷の室町時代の武士団が、そもそも鎌倉時代足利義兼公の時代からの武士団で徳川家臣団より格式の高い家柄だった事にも触れる事が出来る。
【偉人】
世田谷城主吉良成高公、吉良氏朝公、奥沢城主大平家歴代当主、徳川家綱公。
世田谷区の寺社や横浜市南区蒔田城下の勝國寺の檀家氏子と周辺には今でも喜多見(北見)、大場、佐々木、上保、並木、森、杉田の姓の旧吉良家臣団の御子孫が多く残る。
蒔田吉良家は室町幕府将軍の足利一族で、今川家とも同族。
大平家の主君、吉良成高公の頃は淨眞寺と同じ紅葉の名所の豪徳寺=世田谷城を居城としていた。
太田道灌公が江戸城を空にした際に敵軍が来襲した際に吉良成高公が援軍に駆け付け道灌公に代わり防衛戦の指揮を執(と)り、撃退した事を万里集句と言う二人の共通の親友だった臨済宗の文化人高僧が日記に書いていたりする。
蒔田吉良家は戦国時代に吉良頼康公が横浜市南区蒔田城を本拠地にし、室町幕府足利家の鎌倉公方が空位の期間に公方代理を務めた事から当時の居城の名前をとり蒔田吉良家と呼ばれ、忠臣蔵で有名な同族の吉良上野介の三河吉良家とは呼び方を分けられている。
豊臣秀吉の小田原攻めの際に最後の蒔田吉良家当主に代わり軍勢を率いて伊豆下田城を守備する名将、清水康英公の援軍に駆け付ける等の記録が有り大平家の歴代当主は武勇に優れた家柄だった事が解る。
淨眞寺の前身となった奥沢城主大平家が下田城の援軍に駆け付けた当時、蒔田吉良家は同族の今川家から婿養子に入った吉良氏朝公の統治下で吉良家の本拠地を再度、家老の大平家はじめ家臣団の本拠に近い世田谷城に戻していた。
東京都無形文化財に指定されている‟ボロ市”は吉良家の庇護者である小田原城主北条氏政公から御隠居の吉良頼康公が許可を得て始めた‟楽市楽座”が始まりだったりする。
氏朝公の時代には天皇を軽視する将軍足利義昭が織田信長公の諫言を無視し戦を度々起こして京都から追放され足利幕府は滅び、吉良家の足利血族ブランドの優位性も無効に成り北条家の従属大名から北条直属の家臣化が進み、豊臣秀吉の小田原攻めの後、江戸時代に蒔田吉良家臣団は解体され大平家は等々力で庄屋に成り、蒔田吉良家は房総半島で小規模の旗本として辛うじて存続するのみに成った。
同じ家臣団の喜多見家は大名家に成功するが幕府内の権力構想で婚姻外交の失敗から報復事件を起こして解易され、北海道の大名松前家家臣として存続し明治に北海道北見を開拓した。
【見所】
とにかく何処を切り取っても綺麗な寺院建築と豊富な紅葉の景色。
現在に注意して観察すると戦国時代の防御壁の土塁に取り囲まれていたり、淨眞寺北側が奥沢城の外郭の形のまま道路化していたりする。
【名物】
すんごく綺麗な九品仏再建の納経で拝受出来る金色の御朱印。
【交通】
自由が丘駅からも九品仏駅からも徒歩10分以内と非常に便が良い。
駐車場は40台前後しか停めれないのでオンシーズンは入庫待ち必至、公共交通機関の方が圧倒的に便が良い。
【周辺
自由が丘駅が近いので周辺に小洒落(こじゃれ)たレストランが多く、電車での来訪なら飲食店に寄る楽しみも有る。世田谷区のもう一つの紅葉の名所、豪徳寺も車なら20分と近いので合わせて見物しても良いかも知れない。
【関連記事】
  
 
——東門~閻魔堂~開山堂——
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——紫雲楼(山門)周辺——
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——奥沢城遺構土塁——
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—下品堂~上品堂~中品堂—
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——本堂周辺——
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——御朱印——
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紅葉の名所一覧へ⤵
 
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豪徳寺と世田谷八幡宮
徳川四天王井伊家の豪徳寺
(世田谷城址)

世田谷八幡宮
(鎌倉将軍代理吉良家の守り神)
【世田谷八幡宮】
【景観】★★★★
 紅葉と寺院仏塔の景観凄い。
【電車】★★★ 
 東急世田谷線宮の坂駅~
 ~徒歩5分
 小田急小田原線豪徳寺駅~
 ~徒歩8分
【  車  】
 豪徳寺境内に10台程度。
 世田谷八幡宮に10台程度。
【休憩】
 周辺に数件レストラン有り。
 豪徳寺境内に自販機有り。
 世田谷八幡宮近くにタコ焼き屋。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 紅葉と仏塔や御堂のコラボが綺麗◎
 ❝招き猫❞発祥の御寺だよ

 大名井伊家の菩提寺で建物凄い◎
 豪徳寺は戦国時代の世田谷城址◎
 八幡宮は江戸三大相撲の内の1つ◎
注意するpoint(•ω•)       
 駐車場少ないし解り難いよ!
 住宅街だから運転注意!
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
豪徳寺の三重の塔がコラボした風景がとても美しい御寺。
この御寺は招き猫発祥地でもあり紅葉を楽しめるだけでなく招福祈願の寺院としても有名。
近年ではNHK大河ドラマ“女城主直虎”の人気で観光客も増えている。都心から近いのに京都や鎌倉の様に美しい紅葉の景色が撮影出来るので外国人観光客にも人気。
世田谷城鎮守の世田谷八幡宮は源義家公が開き、戦国時代に足利幕府鎌倉将軍の代理を勤めた吉良頼康公によって復興されたと伝わる由緒ある八幡宮な上に、江戸時代に徳川家康公に支援されると現在の大相撲興行の元に成った江戸三大大相撲の内の一つの開催地に成った。
【偉人】
源義家公、蒔田吉良成高公、吉良頼康公、吉良氏朝公、井伊直孝公、井伊直弼公等。
歴史も由緒正しく、戦国時代には鎌倉公方の代理も務めた蒔田吉良家最期の本拠地として機能した世田谷城址の持仏堂から大寺院化した御寺で、更に江戸時代初期に成ると徳川四天王の井伊直政公の跡継ぎ、彦根藩第二代藩主の井伊直孝公によって井伊家菩提寺に定められた。
井伊直弼公は横浜(東海道神奈川宿)の開港を決めた人物で近代日本発展の門を開いた人物だが、桜田門の変で攘夷派志士達に江戸城桜田門外で邸宅への帰路に暗殺された人物。
豪徳寺境内には井伊直孝公以来、歴代当主と奥方様達の立派な御廟所が現存し、参拝客に一般公開されている。大出世した井伊家の殿様達を御参りし御線香上げたら立身出世の御利益有るかも♪
【名物】
招き猫
井伊直孝公と当時の御住職の逸話の中で、井伊直孝公を御寺に招き入れた猫チャンが招き猫の由来に成った。
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彦根城の‟ゆるキャラ”の‟ひこにゃん”は招き猫が井伊家の殿様の兜を被(かぶ)ったデザインに成っている。豪徳寺の寺務所では現在も招き猫の置物や御守りを販売しており、参拝者は購入する事が出来ます。御朱印も拝受出来ます。
【交通】
駐車場は台数少なく直ぐに満車に成る上に周辺に駐車場が無い住宅街なので電車での訪問が良い。
電車での交通の便は非常に良い。
【周辺】
戦国時代は世田谷城と言う御城だったので、近くには世田谷城址公園として一部空堀と土塁が保存されている。
世田谷城址公園と豪徳寺と世田谷八幡宮は徒歩直ぐの距離なので歴史好きなら全部廻(まわ)りたい所。
隣町はサザエさん一家の住む桜新町だったりする。
——豪徳寺境内の紅葉——
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——招き猫の招福殿——
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——世田谷八幡宮——
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紅葉の名所一覧へ⤵

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一昨日の夜にブログ更新するはずだったのにすみませぇ~ん!
最近、色んな町の学芸員サンが資料準備して色々と城址について解説して下さる機会を頂いたり、自分も違う事で急用で資料作って郵送したり他にも色々(昔の初代プレステ引っ張り出してファイヤープロレスリングGやったりwww)していて記事更新遅れました!

今回、本当はこの記事⤵
これ⤴の続きの後編で深沢城を紹介するつもりだったのですが、現地学芸員の方が資料を下さったり発掘の状況を口頭でも解説して下さったのと、地主の御爺ちゃん2人からも農地として重機を入れて地形を変えてしまう以前の話や御爺ちゃんが子供の頃の城址の話をしてくれたので、休日雑記とは別に‟深沢城”として独立記事にする事にしました。
休日雑記の後編は改めて書きます。

さて・・・
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深沢城跡
皆さんは御殿場市に深沢城と言う名城が存在した事を御存知ですか?
城郭ファンや戦国時代ファンには有名な城でマニアック度を5段階で評価するなら交通の不便さや知名度から言ってLV4位の比較的上級者向けの城跡と言っても良いかと思います。

実はこの御城、堅城と知られ物凄い武将の間で攻防戦が行われた場所だったりします。
先ず一人目、御城を作ったのは今川氏親公。この方は日本史で誰もが習う分国法の‟今川仮名目録”を制定した内政に秀でた名将でした。
内田対馬守家感状 久良岐のよし
北条早雲公~北条氏綱公の時代、川崎駅辺り~横浜市沿岸部の寄親(軍団長)だった間宮信親=間宮信冬公に恐らく名の一字を下賜(かし:目下に報償を与える事)したと思われる殿様が今川氏親公でもあります。
間宮家は佐々木氏で間宮の苗字は伊豆の国市間宮(馬宮)を領有した時に名乗り始めたので、今川家臣化し北条早雲公の与力に成って以後の時代、北条家二代目の北条氏綱公の時代の武将が間宮信親公と言う事も解ったりします。つまり小田原城主北条家が誕生し、相模国最大の国人だった間宮一族が武蔵国南部制圧時代に活躍し、後に沿岸部の間宮軍団や内陸部の太田軍団が解体されて小机衆や玉縄衆が編成されていってる変遷も何となぁ~く見えてきたりします。
小生は個人的な推測では、間宮信親=間宮信冬=間宮彦四郎=海老名市・磯子区東部~港南区北部~南部・神奈川区富屋~斎藤分町・鶴見区末吉~川崎市川崎区の領主と同一人物だろうと考えています。
この間宮家の旧主の氏親公の母方の‟舅(おじ)”が、後に間宮家の主君と成る北条早雲の通称で有名な伊勢盛時‟宗瑞”公でした。
新九郎奔(はし)る!
漫画の‟新九郎奔(はし)る!”で主人公に成っているのが北条早雲公です。
新九郎奔(はし)るは平成初期に大ヒットした漫画‟機動警察パトレイバー”の作者、ゆうきまさみ先生により現在ビックコミックスピリッツで連載中です

パトレイバーは数年前に真野恵里菜サン主演で実写化されたりもしていますので、20~30代くらいなら結構知っている人もいるかも知れませんが現役大学生位に成ってくると知らない方も多いかも知れませんね。
新九郎奔(はし)るの主人公、北条早雲こと伊勢盛時公の肖像画は実際はコンナ感じです・・・
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
・・・この北条早雲公が今川氏親公の‟舅(おじ)”な訳ですが、先程から小生が舅(しゅうと)の字を小生が舅(おじ)と読み仮名を振っている事にツッコミ入れようとしたアナタの為に、ちょっと深沢城から話を逸(そ)らして舅の漢字の意味を解説させて貰います。
実は舅の字は現代日本語の‟夫の父”と言うのは大間違いで、本来の漢字の意味では‟母方のオジサン”を意味する字です。
儒教由来の中国文化の漢字なので華語文化圏の表記が正しいのですが、何で日本の現代国語学者が字を誤植し夫の父を舅を‟しゅうと”と読ませてしまっているか誰も間違いに疑問を感じず既成事実化してしまっているだけなんです。
中国語の家族の呼び方
画像掲載元→http://chugokugo-script.net/kiso/kazoku.html
現代中国語の漢字を旧血縁の漢字に変換してみましょう。

現代中国口語     →漢語        →日本語

妈妈(マーマ)   →母親(ムーチン)  →母/母親

爸爸(バーバ)   →父親(フゥチン)  →父/父親

舅舅(ジィウジィウ)→舅父(ジィウフゥ) →叔父※誤植
※母の兄弟

舅母(ジィウムゥ) →舅母(ジィウムゥ) →叔母※誤植
※母の兄弟の妻

老爷(ラオイエ)  →外祖父(ワイズーフ)→祖父(母方)
※母方祖父

姥姥(ラオラオ)  →外祖母(ワイズーム)→祖母(母方)
※母方祖母

姑姑(グーグー)  →姑母(グームー)  →叔母※誤植
※父方叔母

姑丈(グージャン) →姑丈(グージャン) →叔父※誤植
※父方叔母の夫

・・・まぁこんな感じで全然現代の日本語に誤植されている漢字の意味は本来の漢字の意味は異なっていて、更に父方の叔父も父より年長か年下かで漢字が異なってきます。
漢字の血縁の話に脱線しましたが漢字の意味的には北条早雲公は深沢城を築城した今川氏親公の舅(おじ)だったって話だけです(笑)。
さて、そんな訳で名将今川氏親公と、その家臣だった伊勢宗瑞(北条早雲)公の甥とオジチャンがコンビだった時代に築かれたのが御殿場の深沢城だった訳です。
この深沢城、何で今川→北条→武田→徳川→廃城と強豪大名達によって争奪戦が繰ひげられたのでしょうか?
深沢城は現代では御殿場市に存在しますが、これは縄文~平安時代以前から存続する神社と遺跡と道を重ね合わせると一目瞭然に理解できます。
先ずは深沢城と古社と縄文時代~弥生時代の海岸線をGoogleEarthで重ね合わせて見ましょう。
古代の街道と深沢城
※画面をクリックして拡大して見て下さい。
この通り海岸線が現在の位置に近づいた古墳時代に創建された伝承のある平塚八幡宮と前鳥神社を除いて古代の海岸線の湾の最深部や半島の付け根と先端に存在し、内陸部が古代の矢倉沢往還や中原街道の通過点に存在している事が解ります。
実は現在の東海道は江戸時代に再整備された道の近くに作り直された道なのですが、平安時代以前の主要街道は海沿いの古代東海道と内陸の矢倉沢往還の2本でした。
矢倉沢往還は・・・
御殿場市の山側北部を通過する矢倉沢関所を通過し足柄郡から国道246に合流する道で足柄峠~足柄関~寒田神社~比々多神社~五社神社~杉山神社~橘樹神社と続き悉(ことごと)く国府や郡衙(市役所みたいなの)と延喜式内社の近所を経由する街道です。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
古東海道は・・・
綾瀬市五社神社辺りで矢倉沢往還と分岐~神崎遺跡~藤沢市宇都母知神社~大庭神社~村岡城~鎌倉市御成町(推定郡衙)~逗子市岩殿寺~桜山古墳(蘆花記念公園)~葉山町下山口~神武寺~上山口~横須賀市走水神社~房総半島富津市の文字通り東の海沿いの尾根道と海を船で越える海路で、悉く平安時代以前から存在する倭建命(やまとたけるのみこと)神話や弥生時代~古墳の重要な遺跡の残る地域の神社を通過します。中世に成ると古代の尾根道から山麓の平地に人の流れが変わり道が開かれ、山上の古道は修験者の山岳聖地巡礼の順路に成った様です。
その古道の‟矢倉沢往還”の起点と古東海道からの敵軍の小田原城防衛ラインの前線が深沢城と山中城だったんです。
近くの小山町は古代駅伝制の横走関=店屋(てんや=兵站)と考えらている上横山遺跡も有り深沢城は重要な街道を防衛する城でした。
小田原城防衛網
そしてこの足柄峠の古東海道と箱根の中世東海道を守る城が深沢城の後ろにも幾つか存在し、戦国時代の大名北条家の本拠地‟小田原城防衛網”を形成していました。
深沢城の北西の甲斐国には北条家と敵対する武田家がいました。
武田菱
  武田VS北条
   三つ鱗紋
深沢城を攻略されると一番ショートカットで小田原城を襲撃されてしまう訳です。
武田信玄
この肖像画は風林火山で有名な武田信玄ですが、特に武田信玄は・・・
「疾き事風の如く」
「侵略する事火の如く」
・・・のキャッチフレーズの通り侵略戦争をする際は用意周到に街道整備をする等、毎回必ず最短ルートで速攻するのが得意な名将である反面、他の地域の農民から見て武田信玄は攻め込んだ先では当時の価値観でも激しい凄惨な略奪や放火をしてまわる苛烈な悪の武将でもありました。
北条や今川から見ると武田軍が甲斐国都留郡経由で小田原城や今川館(駿府城)に攻めてくる可能性が高く、深沢城は特に重視された訳です。
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この写真は戦国時代、城として機能していた時代に根小屋(ねこや)と呼ばれた兵士や武将達の詰所(兵舎)が置かれていたと考えられている場所から城跡の主郭を見上げた写真です。
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今回は城址の構造は触れず、この城に関する資料の文書等を紹介しますが、ここまでで地理的に深沢城が重視されていた歴史は御理解頂けたでしょうか?
では本当にここは、戦争が起きるような場所だったの?と思う人が小生の海の景色の紹介記事等から読者に成って下さった歴史に余り関心が無かった人に証拠の文書を紹介したいと思います。

禁制
右當手之軍勢甲乙人等濫妨(乱暴)狼藉堅令停止早若違犯之輩有之者速可処罪科猶寺中門前共ニ
自今以後於竹木等も不可剪者也仍如件
奉之
江雪
壬(永禄十二年:1569年)五月十六日 宝持院
内容を簡単に今の会話に翻訳するとコンナ感じです・・・
右(禁制=禁止命令)は、ウチ(北条)の軍勢甲乙(みんな)に「乱暴な事しちゃイケねぇ~よ!」ってキツク命令する。
もし(禁止命令を)守らね~奴がいたら、ソッコーでシバクかんな。
それと寺の中も門の外も、今から(寺の土地で)竹も木も伐採するんじゃねぇ~ぞ!
まぁ、そんな感じだからよ。
江雪より~
1569年05月16日 宝持院(へ💛)
・・・この文書に登場する‟江雪”は板部岡江雪斎と言う北条家重臣で、以前大河ドラマ‟真田丸”にも登場した人物ですね。
そして文末に登場する宝持院と言うのは深沢城の近くに今も存続している寺院です。
更に宝持院の近く大雲院には安土桃山時代に徳川家が城を復興した頃の城門を移築され今も当時の門が御寺の山門として現存しています。
この文章は御寺の人が深沢城に駐留する北条軍に乱暴されない様に、北条家の殿様が御寺に配慮して、和尚さんが北条軍の司令官宛てに「ウチは北条家の殿様に守って貰える確約ありますよ!」って見せれる財産安全の保障の証拠として重臣の板部岡江雪斎サンに書かせた物です。
この時に駐留した軍勢は横浜市と鎌倉市の兵隊で、率いていたのは玉縄衆大将、北条綱成(ほうじょうつなしげ)公です。
北条綱成
この人⤴※KOEI信長の野望画像
この綱成公の率いる玉縄衆は異名が黄備え隊で、軍旗が朽葉色で統一された軍隊でした。
朽葉色ってのは9月中旬が見頃の黄花秋桜(キバナコスモス)の色ですね。
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この花⤴が黄花秋桜。因(ちな)みに、この写真は北条綱成公が建てた鎌倉市の龍寶寺の綱成公の御墓の前に咲いている黄花秋桜の写真です。
 これ⤴以前書いた北条綱成公の紹介記事ですが、ブログ書き始めたばかりの頃に書いたので内容が薄っぺらく何の参考にも成らないかと思います。
黄備えの副将は横浜市磯子区~港南区にまたがる笹下城主の間宮康俊公と間宮康信公の親子でした。
これ⤴以前に間宮家を紹介した記事。
実はこの書状で北条の殿様の代理で板部岡江雪斎サンが1569年5月に宝持院に対して近い将来大軍勢が来て駐留する事を見越して御寺に安全保証する文書を書いているのは翌月6月に武田家が深沢城に攻めて来たので事前に危機を察知して防衛強化を始めた時期だった事が解ったりします。
そして、ちょっと長いですけど、もう1通こんな文書が残っています・・・
急度(きっと)令啓候、仍(=なお)信甲之人衆、今十六、駿州之内號(号)深澤新地寄來(来)候、左衛門大夫(北条綱成)、松田(松田憲秀)以下楯籠(=立てこもり)候間、不可有別條候、伹(※誤字→但)只今之時分出張爲(為)如何(いかが)子細(しさい)候哉、何篇二も、今明行之様子見届、重而可及註進(注進)候、然而、始小幡動衆之由申候間、新太郎(北条氏邦)申付、向西上州及行候、哀其父子一人有出陣、万端(ばんたん=何でも)新太郎被相談ニ付而者、動可爲思儘(まま)候、若(もし)横合(よこあい=邪魔する)有之者、可然人衆數(数)多可有加勢候、必々(必ず×2)有遲(遅)々者、不可有曲候、如何様ニも、廿(二十)日廿一日之間ニ御動専一候、委細新太郎可申候、恐々謹言<br />追而越國(越後国)へも及飛脚候間、相心得被申入、任入候、以上
  六月十六日 氏政(北条氏政)
    由良信濃守(由良成繁)殿
・・・これ、1569年当時の北条家の当主の北条氏政公が傘下の小大名の由良成繁(なりしげ)公に送った手紙なんですが、この時攻めて来た武田信玄によって深沢城は落城します。
この差出人が北条氏政公の手紙を要約すると・・・
武田信玄KOEI
武田信玄⤴️※KOEI信長の野望画像
「長野県と山梨県の武田軍が攻めて来ちゃった!」
「ヘルプ!」
「ダメ、援軍遅刻、絶対!」
「同盟者の上杉謙信(この人)⤵にも緊急拡散して!」
上杉謙信KOEI
上杉謙信公⤴️※KOEI信長の野望画像
・・・と由良サンに対して書いているのですが、氏政公自身が2万の大軍の本隊を率いて大遅刻したせいで武田軍の2万に深沢城は取り囲まれたまま籠城不可能な状態に追い込まれ敗戦しました。
良くいるでしょ・・・
「遅刻するなよ!」
「30分前出社!」
・・・とか言いながら自分がルーズな経営者(笑)。
小生はこの北条氏政公は思考パターンと行動が適応障害者だったと推測してるんです。
変な拘りに完璧主義過ぎて毎回、十分に軍勢が揃って自分が安全に戦える状況に成らないと援軍行かないせいで肝心な合戦で何回も敗戦し北条家が勢力伸長に失敗する事に成るんですよ。
コレ⤴とかね。
玉縄衆は善戦し北条綱成公と間宮家はかなり粘ったのですが、武田信玄配下の鉱山衆によって破壊工作が行われ俗説には水の手(給水施設)を破壊されて籠城不能に成ったと言われています。
小生は個人的に玉縄衆だけでなく、裏切るマン松田憲秀親子が一緒に籠城していたので松田が撤退を主張したんじゃないかなぁ~?とか思っていたりします。
実際に当時、北条家の同盟者だった上杉謙信公は上州方面から武田家にプレッシャーかけるか直接援軍を送るつもりだったらしくコンナ事を言っています・・・
上杉謙信KOEI
KOEIのゲームの上杉謙信公⤴
肖像画の上杉謙信公⤵
上杉謙信
上杉謙信「(自分にも勝った)地黄八幡(北条綱成)が負けたちゃったYo~!」
実は上杉謙信公、北条綱成公の息子さんの北条康成公が3千で守る鎌倉市JR大船駅近くの玉縄城を15万の大軍で攻めたのに攻め落とせず撤退したり、まだ北条家と武田家が同盟者だった時代に長野の上田城に援軍に来た北条綱成公や千葉県方面の戦争で玉縄衆に結構苦戦させられてる歴史が有るんですね。
・・・なので上杉謙信公ですら北条綱成公が負けると思ってなかったらしいですね。
なんせ上杉謙信公が上杉家を継ぐ前の話ですが、河越城の攻防では北条綱成公達は3千だけで8万の上杉軍相手に半年間も籠城に成功した挙句・・・
北条氏康
綱成公の義理のお兄ちゃん⤵⤴北条氏康公
北条氏康公
・・・綱成公は小田原から当時の主君で義兄弟の北条氏康公の本隊8千を迎えて合計1万1千で上杉軍8万夜襲して挟み撃ちにしてギッタンギッタンにして壊滅させてる名将なんですね。
なので小生は深沢城の敗戦原因をずっと・・・
「(裏切気質の)松田憲秀が撤退主張したやろ(怒)!」
・・・と思ってました(笑)。
実は今回、定説の水の手云々(うんぬん)の話しと異なる可能性を知る事が出来ました。
御殿場市の学芸員サンと地元の地主さんへの取材で小生が本丸跡と推定している二の丸の空堀で焼けて炭化した米が発掘調査で見つかっているんですね。
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※クリックして拡大して見て下さい。
この縄張り図で真ん中の‟二ノ丸”と書いてある場所と上の‟本丸”と書いてある場所の間、左側にクビレてる空堀ですが、そこから炭化した米が調査でも発掘されているし、仲良くなった地主の御爺ちゃんも子供の頃にそこを「掘ると焼けた米が出て来たんだよ」って教えてくれたんですね。
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この2号堀て辺りだそうです。
2号堀の上側が小生は三の丸だと思ってるけど、地元では本丸と呼ばれている場所。
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その城櫓(しろやぐら)辺りは‟二ノ丸”と呼ばれている場所で、下の縄張り図のⅠ郭(本丸)とⅡ郭(二ノ丸:小生はⅡ郭が本丸だと思う)の間の②の空堀の本丸側。
仲良くなった地元のオッチャンの話では田んぼにする前の地形では棚田3段分くらい約3mくらい今より高い地形で城の地形の中で最高所だったそう。
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‟Ⅱ郭”が縄張り的にも小生はこの辺りが本丸だったろうと思ってます。
ここからは写真で見る限り八王子城の御主殿(城主屋敷)と酷似した構造物も見つかってます。
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完全にここ二ノ丸が政庁であり城代の屋敷だったと個人的には考えています。
下に見えてるのが根小屋と呼ばれていた地形なので兵舎の並ぶ区域だったんだろうと思う。
で、焼けた米が出土する訳ですが、小生は実際は武田家の鉱山衆は水の手を切って落城させたんじゃなくて、二ノ丸の下の根小屋側・・・
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ここの‟水の手の根小屋側”から武田家の鉱山部隊が弓矢の届く範囲まで仕寄り(塹壕)を作りながら攻城陣地を築いて来て、火矢や火薬で二ノ丸食料庫を放火し北条軍の戦闘を継続不能にしたんじゃないかと新しい説を考えました。
この焼けた米の話を学芸員サンに聞くより早く、地主のオッチャンに教えて貰った際に・・・
小生「こんにちわ~」
・・・って声掛けたら未だ何にも言ってないのに・・・
オッチャン「横浜から来たの?」・
・・って聞いてきてビックリ!何で分かったんだろう?と思いながら・・・
小生「そうだよ横浜から来たよ~」
・・・って言ったら珍しい奴だなって喜んでくれて、オッチャンが子供の頃の土塁とか地形を削って農地にする前の話を沢山聞かせてくれて「又遊びにおいでね~、ここにいるから!」って言ってくれて嬉しかったんだ。
凄い偶然だけどオッチャンのムスメさんが小生の家の近所の港南台高島屋で働いてたそうだ。
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で、この写真の左側辺りが焼けた米の出た空堀だったかな?
後から学芸員サンにも凄く丁寧に教えて頂く事が出来ました。
実はこの深沢城ちゃんと(笑)火災に遭っている記録が有るのですが、それは北条家と武田家の合戦の時ではなく、織田信長公と徳川家康公の連合軍が武田領に一斉に攻め込んだ際に深沢城代だった武田家臣の駒井昌直が自ら放火して城を放棄した記録だけが残っています。しかし小生が思うに未だ徳川軍に攻め込まれてない時間的に余裕の有る状況で撤退する際に兵糧と金銭を焼き捨てるとは考え難いので、炭化した米は北条家と武田家の戦闘で焼け、更に武田家臣駒井が城を放棄した際に建物が焼かれ、徳川家が安土桃山時代に改修し再利用後、再度放棄され廃城に成った一連の土木事業の中で細かい時代考証が出来ない状況に成ったんじゃないかな?と個人的には感じました。

さて、城の構造の説明が入口からではなく、状況説明のついでに成ってしまったので見学コース沿いに紹介して見ます。
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入口がここ。
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現在地の場所ですね。
この看板の裏にも三ノ丸の三日月堀と表記されている空堀が有ります。
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少し解り難いでしょうか?
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御城行くのが好きな人は良く解ると思うのですが、城址公園化されてない空堀って写真じゃ伝わり難(にく)いんですよ。
その看板の横側から農道兼散策路に成っていて、入って直ぐに空堀が見えます。
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これは比較的状態が良い。
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ここは‟丸馬出し”と呼ばれる半月状の出撃口の遺構です。
本来、我々城郭ファンはこの丸馬出しの空堀の事を三日月掘りと言います。
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その馬出しの削平地には石碑が立っています。
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昔は東名高速道路が無かったから深沢城の前の足柄峠を通過する際に観光で立ち寄る人もいたのかも知れませんね。
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その下の空堀。
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二ノ丸の手前、‟下馬溜め”と言われている構造体の空堀が雑木林化してるが現存。
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ここは小机城の構造に似た構造が有るけど、変形の食い違い虎口(敵の侵入を制限し迎撃する構造体)だと思う。
下は小机城の現存部分の縄張り図。
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これの②の構造に深沢城現存部の‟下馬溜め”は似てる。
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下馬溜めの空堀だけど写真じゃやっぱり訳が解らないね。
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下馬溜めから二ノ丸に繋がる武者走り&空堀&土塁
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そして二ノ丸入口。
更に奥に本丸。
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本丸に続く土橋。両脇は空堀。
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本丸側の城櫓とされる削る前は場内最高所だった郭。
下に根小屋地形が見える。確かに小机城の根小屋とも酷似する。
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本丸は今では風に靡く稲波美しい。
地主のオッチャン、色々と親切に教えてくれてありがとうね!
色々と発掘調査資料を提供して下さった御殿場市教育委員会様、ありがとうございました。
御殿場の皆さんはとても温かったです♪

さて、深沢城この様に結構空堀は立派に残っています。もし御殿場方面に行く機会が有って本当に御城が好きな人は立ち寄る価値が有ると思います。

きっと皆さんの御近所の神社や御寺や公園の山も、元々は御城だった場所が有ると思います。
気分転換したい時にちょっと御近所の神社や御寺や城山を歩いて看板を読んでみませんか?
きっと皆さんと歴史偉人を繋ぐタイムマシーンみたいに感じ自分の町を更に好きに成るかも知れませよ~?

・・・では、次は前回の休日雑記の続きか銭湯の記事で御会いしましょう~♪
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観音崎灯台、海水浴場の記事⤵
コレ⤴で少し触れましたが未だ単独の記事に書いていなかったので今回、観音崎灯台単体で解説する事にします。
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観音崎灯台
小生は最近まで知らなかったのですが、日本全国で中に入れる灯台は16ヶ所しか現存していないそうです。
その中の一つが観音崎灯台で、観音崎灯台は日本最初の近代灯台で、慶応二年(1866年)にアメリカ・イギリス・フランス・オランダと日本の間で締結された江戸条約に基づいて建設されました。
この観音崎灯台には多々良浜側からも観音崎海水浴場側からも行く事が出来ますが、風景が綺麗なのは観音崎海水浴場側の遊歩道でしょう。
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この海岸沿いに観音崎灯台に至る階段まで遊歩道が整備されています。
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この神奈川の景勝50選の碑文の奥に見える海岸沿いを歩けるんですよ。
少し歩き進めてみましょうか♪
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この突き出した構造物は戦時中の海堡(かいほ)と呼ばれる防衛施設の一部の跡です。
形状からすると小田原の御幸浜と同じ様な砲台の跡でしょうかね~。
もう少し海沿いを歩くと下の写真の様な場所に出ます。
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別日に撮影した写真ですが、観音崎灯台に向かう途中には砂浜だけでなくて、こんな岩礁も有ります。小さな御子さんのいる家族連れでの訪問なら網と虫かご持ってきて水辺を観察したりすれば良い思い出作りも出来るでしょう。
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夏場海水浴シーズンなら綺麗な野莞草(のかんぞう)の花を見る事も出来ます。
更に奥の方へ歩いて行くと道は石畳の遊歩道に変わります。
観音崎灯台は東京湾の入口に有るので房総半島まで直線距離で8kmしかない場所なので、倭建と弟橘姫の夫婦神が東京湾を船で横断した神話の舞台だったりします。
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観音崎灯台の有る丘の上に繋がる階段を登る前に公衆トイレと自動販売機も有るので写真の女の子達の様に東京湾を見てユックリ休憩できます。
そんな場所なので当然、房総半島も三浦半島も見渡す事が出来てとても風景の美しい場所なんですよ。
実はこの辺りには明治時代までとっても立派な神社と御寺が一体に成った神仏習合の寺院が存在しており、景勝地として大変に栄えていました。
観音寺絵図
現代では絵図にしか残りませんが、この御寺は“観音寺”と言う御寺で観音菩薩像が御本尊だったので、これが観音崎の地名由来に成りました。
この観音寺は明治時代に成ると観音崎要塞の建設で隣の亀崎に移転させられ、更に現代に至り火災で完全に消失してしまいました。
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しかし名残も有り、この海蝕洞窟の中に地元の方によって奉納された観音菩薩像と説明の看板が立てれれており昔の歴史を垣間見る事が出来ます。
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元々は奈良時代の行基大僧正が関わった場所だった様なので、倭武命が走水に来た弥生時代末期~古墳時代の聖地ですが、奈良時代の人にも大切にされた聖地であり海上交通の要所だった様です。
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この洞窟の前を通過して直ぐに公衆トイレが有り、写真のベンチがさっき、女の子達が座っていた場所ですね。その更に少し奥の右手側に灯台に上る階段が有ります。
この遊歩道を真っ直ぐ行くとトンネルが有って多々良浜側に歩いて行けるのですが、2020年8月現在は2019年の台風の土砂崩れの影響で未だに通行止めのままです。
ちなみに復興の責任者は上地横須賀市長では無く、黒岩神奈川県知事です。
鎌倉市のハイキングコース遊歩道や釈迦堂切通しも未だ復興していないので知事には頑張って頂かないと困りますね。
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この海岸の道が灯台から見下ろすとコンナ感じです。
高所恐怖症の小生には玉ヒュンの絶景です(笑)が、散歩したら気持ち良さそうな道なのは伝わるかと思います。
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その遊歩道の階段を丘の上に登ってくると灯台が有ります。
入場料金300円と安いのですが観音崎灯台の構造や歴史を開設した小さな博物館を併設しており、更に灯台の上にも登れますし灯台の下にも展示物が有る他、展望台に成っているので綺麗な景色を見渡す事も出来ます。
では、先ずは灯台の周囲を見学して見ましょう~。
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灯台下の展望台はコンナ感じで房総半島の鋸山が見えたり・・・KIMG0101
・・・フェリーが東京湾を行き交う様子が一望出来ます。
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そして昔使われていた灯台の設備の一部が常設展示されており、触れて見る最近の歴史博物館と同じコンセプトの展示がされています。
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上地市長は文化史跡の保護や再利用に熱心な方だそうで、江戸時代の浦賀奉行所も復元して子供達の教材や史跡として再整備する計画を構想してらっしゃるそうです。
早くから外国と関わっていた横須賀市の市長らしく、東京から来て横浜市長に成った人より郷土愛が有る上に子供達の教育に熱心ですね♪
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灯台の受付の有る建物には展示館も併設されているので、灯台の事を学習出来ます。
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こんな感じで昭和初期まで手動で動かしていた灯台のレンズの構造を触って理解する展示物や・・・
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昔の設備とかも展示されてます。
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この模型が初代の建物の復元模型だそうです。関東大震災で倒壊して現在の建物に建て替えられたそうです。
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映像解説等も有るので、中高大学生位が来ると近代史の学習の一助に成り理解を深める事が出来ますね。
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初代の灯台を設計したヴェルニーさん。汐入のヴェルニー公園の元に成った江戸幕府横須賀製鉄所=現在の海上自衛隊横須賀基地のドッグや城ケ島灯台なんかを設計した人物で、今の日本が存続しているのはこの方と小栗上野介サンがいたからと、対馬海戦でロシア帝国のバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎元帥が証言しています。

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ヴェルニーさん無くして近代日本ナシ!
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ネトウヨは日本人が単独で近代化した様な妄想を信じ込んでる比率が高いんですが、実際はイギリスとフランスの協力無くして近代日本は成立して無い事が、この観音崎灯台や横須賀市の歴史史跡を巡(めぐ)ると良く理解出来ます。
観音崎灯台は日本最初の近代灯台で、慶応二年(1866年)にアメリカ・イギリス・フランス・オランダと日本の間で締結された江戸条約に基づいて建設されました。

この記事⤴で少し触れましたが三浦海岸駅前にも三浦海防陣屋が置かれ、三浦各所に東京湾と相模湾を守る陣地が設けられた砲台が建設され、三浦海防陣屋が各所の海防陣地をコントロールしていました。
幕末当時、そこには横浜を開港した井伊直弼公や明治政府を設立する事に成る桂小五郎(木戸孝允)公や伊藤博文公も勤務したそうです。
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さて、そろそろ灯台の中を見てみましょう。
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灯台の内部は当然ですが螺旋階段に成っています。
その階段の壁にも掲示物が有り、観音崎灯台を含めた今でも内部に入る事が出来る16ヶ所の灯台の写真や各灯台の比較等の解説がされています。
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小さな子連れならパパやママが読んであげないと子供には読めない高さかな?
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これが観音崎灯台のレンズ。

・・・ZZガンダム世代には解るだろうけど、連邦軍のバイザータイプの顔に見えて仕方ないのコレ。
前に横浜シンボルタワーの記事でも書いたのだけど港の入口は船舶は右側通行に成っていて、港に向かって右手が赤い灯台、左手が白い灯台って法律で決まってるんだけど・・・
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これが小生にはシャアザクとガンダムを意識している様にしか見えない(笑)。

その時の記事はコレ⤴ね。
何で海関係ってどこもかしこもガンダム的なんだろうか(笑)。
横浜港シンボルタワーは明日08月31日で夏季営業終了で来年まで横浜港のコンテナヤードの夜景は見れなくなりますので、写真撮りたい人は明日時間注意して行ってみて下さい。
灯台の上まで登ると外に出て写真を撮影出来ます。
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御船がいっぱい♪
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この写真の右手は富津岬、左に見える島みたいのが富津岬の展望台。
そこから目線を左に移動すると・・・
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東京湾第一海堡。

海堡の奥に見える船のマストみたいのが、東京湾アクアライン海底トンネルの通気口。シン・ゴジラが最初に登場した場所。
ゴジラシリーズは何故か神奈川県三浦半島~東京の間が破壊される事が多い(笑)。
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こっちは第二海堡。要塞としては関東大震災で崩壊して放棄され現在は史跡として再整備中だけど、たまにツアー組まれて船で観光に行けるけど通常は上陸禁止地域。
海堡とは何ぞや?と余り知らない人は過去の記事を参考にしてみて下さい。

この海堡も実は観音崎灯台と同じ明治時代に作られた施設で、観音崎に点在する煉瓦の史跡も同時期に建設された観音崎砲台の跡だったりする。
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こんな場所全部が砲台の跡で貴重な近代西洋文化の遺跡なんだね。
観音崎灯台も当然ながら日本最初の近代西洋建築の灯台なので歴史史跡な訳です。
観音崎灯台から見える景色はとにかく綺麗!
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したの岬の先端に少し見えるコンクリート製の建物の名残も観音崎要塞の海堡の一部。
反対側の景色がさっき歩いて来た道。
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高所恐怖症だから本当に、この写真撮るの怖かった・・・。
観音崎灯台付近、とっても景色が綺麗でしょう?
観音崎海水浴場から走水神社まで歩く途中の走水観音崎ボードウォークも景色がとても綺麗です。
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もう海水浴シーズンは終わりに入りますが、まだまだ暑さも続きそうです。
まだ暫くの間は潮風に当たりながら散歩するのが気持ち良い季節ですね。

どうです?皆さん、観音崎良い場所でしょ?
近くには走水神社や“味美食堂”や“かねよ食堂”と言った観光名所や美味しいレストランも有ります。
是非、夏の終わりの思い出に御散歩に来て見ては如何でしょうか?

では、又、次の記事で御会いしましょう~!



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前回の磯子の夜景の記事でベイサイドマリーナで撮影した2020年08月04日の満月の写真を載せた時に少し指摘した事なんだけれど・・・
陰暦の睦月の起点を太陽暦の1月に当てはめると漢字の意味が整合性が無くなり大混乱します。
和暦は旧正月を起点にし陰暦で用いないと意味が無いんです。
前回コンナ⤵事書いてました。
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お月様メチャ奇麗ね~!
イケメン!
「何でイケメン?」と思った人は欧米の文化を基準に生活してらっしゃる方かセーラームーン見て育った世代の女性でしょうか?
ギリシャ神話では月の神セレーネとアルテミスは女神様ですが、日本神話では御月様は太陽神の天照大神の弟神の月読神とされています。
月読は読んで字の如(ごと)く、日本は米国に開国させられる迄の暦(こよみ)はアジア諸国と同じ陰暦だったので昔は月を基準に生活していたんですね。
欧米諸国は太陽暦で、現在の日本は明治時代以降に太陽暦を導入し、中国の春節と同じ春の節分を行う春分が本来の“迎春”だった訳ですね~。
コレ⤴だけだと・・・
「ちょっと言いっ放なしで不親切だ」
・・・と思ったので
何が問題なのか解説を追記したいと思います。

歴史と長文嫌いな人は、ここで読むのを辞めて逃げて下さい(笑)。

今の日本は太陽を基準にしてカレンダーの日付を作ります。
しかし本来の日本はアジア諸国と同じで陰暦で1年の行事を行っていましたが現代では意味の有る旧暦は廃(すた)れてしまい、例えば睦月=太陽歴の1月と誤解している人もいます。
本来の和暦を陰暦で見れば漢字の意味で何で年始が睦月で何で年末が“しわす”と言うのかスッキリ解ります。
因みに師走の通説は間違いでしょう。
日本人は暦(カレンダー)の決め方すら長い歴史の中で数回変更している事を古代史で解説したいと思います。

まず睦月は和暦1月と言う表現で本を書いている人がいるから誤解を産む。
睦月は1月でなく睦月は睦月です。
陰暦の睦月でしかありません。 
閏月があるので太陽暦の12分割には当てはまらないんです。
陰暦と太陽暦は、そもそも元日の始まる時間軸から全く異なる別物です。

そして中国由来の陰暦導入以前の古代日本では1年を6ヶ月で区切っていたんですね。だから昔の事を現代の標準で話すのは根本的に無理な訳です。

先ずは写真を見て下さい。
冬に海ほたるPAの朝陽
満月の相模国一之宮寒川大社。
海ほたるの日の出と寒川大社のスーパームーン 久良岐のよし
当たり前ですが、太陽は昼に、月は夜に昇り二つは全く別物!
月と太陽をそれぞれ観測し暦を作り比較すると時間軸にズレが生まれ違う結果に成ります。
それが現在の元日と旧正月の差です。

イスラム圏ではキャラバン(商隊)が交易で長い長い距離、砂漠を旅する際に月と星の位置から現在地を割り出して次の目的地まで通う道標(みちしるべ)としました。
だから今もイスラム圏は月と星を重視していて国旗の意匠(いしょう:デザイン)に取り入れてる国が凄く多いですよね。
トルコ共和国トルコ
シンガポールマレーシア
パキスタンパキスタン
トルコの様な日本の無二の親友国も、マレーシアの様に成長目覚ましい国も、日本とは微妙な関係のパキスタンも、色んな国がイスラム教の考えを重視して国旗に取り入れてます。
極東アジアではイスラム教とは関係なく、月を観測して暦を区切っていました。

中国や台湾では陰暦の事を“農歴”と言い、作物の栽培の為に天体観測をして季節を定めていたので根本的に陰暦は季節感と切っても切り離せません。しかし農歴=陰暦には欠点もあり太陽暦よりも時間の誤差が生じるので、昔は閏葉月、つまり現代の感覚だと7月の延長期間が設けられたりしていました。
なのに1年間を12分割し今の1月1日が起点の太陽暦で決めた西洋由来の暦の月の区切りに対して、陰暦の睦月の名称を当て嵌めるのは根本的に成立しない訳です。
ついでに言えば中国文化が導入されるより更に古い時代の日本ではどうも12ヶ月で1年ではなく6ヶ月で1年としていた事が考古学的に解かって来ています。
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ですから今も日本の神社では夏越大祓と冬越大祓、2回に分けて行います。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が伝えて下さった祝詞(のりと)を唱えながら悪い物を切り裂く茅の葉で作った茅の輪を3回くぐる事で、半年間の自身の業(ごう:カルマ)により溜(た)まった心身の穢(けが)れを素戔嗚尊の御神威で払い清め、長寿健康と心の洗濯を行う季節行事として半年1年区分の古い時代の名残に現代人も触れる事が出来ます。

本当にそうなの?と思いますよね?
小生も思った事が有ります。

日本の歴史を見るには歴代天皇の寿命を見ると古代の時間軸が良く解ります。

   伝承没年齢 → 1歳=12ヶ月変換
神武天皇 127歳 → 63.5歳
綏靖天皇   84歳 → 42.0歳
安寧天皇   67歳 → 33.5歳
懿徳天皇   77歳 → 33.5歳
孝昭天皇 114歳 → 57.0歳
孝安天皇 137歳 → 68.5歳
孝靈天皇 128歳 → 64.0歳
孝元天皇 116歳 → 58.0歳
開化天皇 111歳 → 55.5歳
崇神天皇 119歳 → 59.5歳
垂仁天皇 139歳 → 69.5歳
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
履中天皇   70歳 → 35.0歳
反正天皇   75歳 → 37.5歳
允恭天皇   78歳 → 37.5歳
安康天皇   56歳 → 28.0歳
雄略天皇   62歳 → 31.0歳

この寿命の比較は後で解説しますが、差異を再計算すると面白い事に神話と考古学に整合性も出て、伝承を現実的に再解釈すると、途端に物凄くリアルな歴史の話に変わって来たりします。
中国文化を導入したと伝わる応神天皇と、中国の学問を学んだと伝わる仁徳天皇と菟道稚郎子御兄弟の次世代、履中天皇の世代から古代日本の6ヵ月=1年の暦が破棄され年齢の加算が12ヶ月=1年に成っている事が一目瞭然ですね。

日本の天皇家は公称でスタートしてから西暦2020年時点で
2680年継続しているとされています。
“天皇”の尊称を用いるのは天智天皇からです。白村江の戦で唐帝国と国交断絶して以後に成立した尊称です。
それ以前の時代の歴代天皇の尊称は大王(おおきみ)でした。
つまり、天智天皇以前の天皇の称号は、飛鳥時代以後に後から追贈された天皇号です。
例えば応神天皇の本来の和名は大鞆和気命や誉田別尊と言われ複数名前を変えていた様です。
応神天皇は古墳時代の天皇です。
弥生時代~古墳時代は日本では卑弥呼が活躍した時代です。
中国では漫画“キングダム”の秦の始皇帝や“赤龍王”の項羽と劉邦、横山光輝が漫画化した吉川英治の小説“三国志”の曹操・劉備・孫権の生きた漢帝国や晋帝国の時代に相当します。
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横山光輝三国志は平成一桁の生まれの人はギリ“三国志大戦”で知ってる人もいるかな(笑)?
日本の旧暦は中国から古代に導入された文明の一端ですが、漢の時代と日本の古墳時代の武装を比較すると日本は中国の影響を受けているのが一目瞭然です。
前漢時代の鎧
画像掲載元⤵
https://vitomag.com/military/gayow.html
これは中山靖王劉勝、つまり三国志の主人公に成る劉備玄徳の御先祖様で紀元前100年頃、正に日本の神話の時代に相当する人物の古墳から出土した甲冑の復原品です。小札(こざね)を皮鎧に赤糸で威(おどし)し編み付けた精巧な鎧ですね。中国が漢朝の時代、我々日本人の御先祖様は金属器は未だ少なく、一部の北九州や出雲地方で青銅器が使われていましたが、弥生時代の兵器は石斧や石鏃つまり石で作った刃物しか汎用されていませんでした。
下は古墳時代の日本の豪族の鎧で挂甲(けいこう)と言いますが、前漢の時代の鎧と構造が酷似していますね。
挂甲
画像掲載元⤵
https://costume.iz2.or.jp/costume/559.html
古墳時代に成っても金属鎧は豪族の王の古墳などから出土する程度でとっても高級品でしたが、西暦300年~500年頃の古墳時代の鎧に成って漸(ようや)く紀元前110年の漢帝の皇族である劉勝サンの鎧とデザインやクオリティが似てきます。
古墳時代の埴輪は甲冑を来ていますが、中国の甲冑を導入して改良を加えている事が判ります。
恐らく女王卑弥呼サンと臺与サンの時代に三国時代の魏の皇帝曹叡と
丞相司馬懿に邪馬台国の使者が曹叡の亡くなる1年前に謁見している事が三角縁神獣鏡に彫られている景初三年の元号から判(わか)りますが、魏の同盟国に成った際に様々な金属加工技術を技術供与され、そのまま魏の挂甲の軍装の設計が古墳時代の人に少しだけ改変されて形をほぼ変えずに使い続けられたんでしょう。この挂甲は上下にも伸縮するので騎乗した武者が着用するのに適した構造に成っており、恐らく弥生時代の終わり頃には九州や中国地方に馬も輸入されて軍馬の生産が開始されていた事が判ります。
下は昨年、上野の国立博物館で開かれた三国志展で展示されていた中国三国時代の古墳の副葬品です。
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三国時代の中国の古墳から発掘された工芸品の精巧さ、金属加工技術や宝石も当時の日本とはとてつもない技術力の差を感じざるを得ません。
更に驚愕するのは当時の中国の家屋を模した土器の建物は瓦葺屋根で2階建てや3階建ての御屋敷で、現代の京都の祇園とかに有ってもおかしくない外観。しかも今の神社建築が中国文化の影響をふんだんに受けている事が判る極彩色で、なんと残飯や人間の出す屎尿を利用して庭で養豚してる様子まで土器に作られていました。
そんな三国時代の魏から技術供与を受けた邪馬台国が今度は卑弥呼の没後に内紛が再発してしまい、女王の再登板が必要な事態が起きて臺与(とよ)ちゃんが出て来る訳ですが、その卑弥呼サンよりもチョビっとだけ早く中国との交流が始まっていた事が福岡で出土した金印の存在から判ります。

漢委奴国王印(
福岡市博物館所蔵 )
画像掲載元URL⤵
http://museum.city.fukuoka.jp/gold/
漢委奴国王印
この金印の“
漢委奴国王”を学者サン達はアレコレ深読みして邪馬台国近畿説と北九州説の論争の具にしていますが、小生は普通に“漢(皇帝)が奴婢の国の王に委(ゆだ)ねる”としか読みようが無いんですよね。
当時の日本は先程の武装の製造技術でも分かる通り未開の地でしたから、当然中国から見れば奴婢=野卑な蛮族の土地にしか見えなかったでしょう。
この金印は建武中元二年(西暦57年)に有名な中国の光武帝劉秀から贈られた物です。
ここで遅くともこの時代に中国文化の影響が日本に入り始めた事が判(わか)ります。

実は日本神話と中国の史書にかかれた古代日本の記述に、太陽暦だけでなく古代日本の暦の概念を当てはめると、面白い様に神話と中国古代史に登場する日本の歴史が符号したりします。

神奈川県~千葉県には倭建(ヤマトタケル)が東征に来ていた事が古事記や各神社仏閣の伝承に残ります。
三浦半島の走水に滞在した伝承が今でも有り太陽暦で逆算すると西暦2世紀の1月に当たると伝わります
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つまり関東地方に大和朝廷の国としての統治機構を設置しにいらっしゃった訳です。
卑弥呼達よりちょびっと早い時代の話に成りますが、しかし小生は神奈川に来た倭建は卑弥呼の時代の人だと考えています。

それは天皇家の寿命の解釈が間違って伝わってると思っているからです。
そこで、夏越大祓/冬越大祓の所で話題にした“昔は1年が半年だった”と言う事が関係して来る訳です。

では先ずは倭建と卑弥呼が何故同時代の人と思うのか、ちょっと当時の状況を整理してみましょう。

【卑弥呼】
倭姫=倭建の叔母で伊勢神宮の斎王
当時の伊勢神宮は今の三重県の伊勢神宮ではなく、まだ旧丹波国の元伊勢神宮だったかも知れない。
※斎王の原型が一代限りの女王職で神職の女性長官でしょう。
※斎王と同じく当時の女王は未婚の皇族から選ばれる、女性上位だが世襲ではなくローマ法王の様に大凡(おおよそ)の意思決定だけする神職に徹した歪(いびつ)な女王統治の社会と推測出来る。
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写真は伊勢神宮と同じく平安時代初期以来~室町時代迄の期間、皇女の斎王が祭祀を司る斎宮が置かれていた京都市の下鴨神社。
室町時代の足利家は宮中儀礼を軽視する政権だったのは有名で、斎宮は消滅したまま放置されました。
室町時代以前には下賀茂神社~伊勢神宮を斎王が季節ごとに往来したのが現在の京都の葵祭の原型に成っていて、下鴨神社の斎王は戦後に祭りの中で代理の女性が選出される形で名前だけ復興されました。
現在は三重県の五十鈴川沿いが伊勢神宮と呼ばれていますが、元々は丹波国の元伊勢神宮が置かれていました。
今の京都府に組み込まれている地域が宗教的にも当時の重要な地域だった時代が有った様です。
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※百度より画像転載
三国時代の魏皇帝が曹叡だった景初二年(238年)に遼東半島で公孫淵が魏朝に反逆し公孫淵に呼応した朝鮮半島の部族集団も加わり大規模な反乱に発展しました。魏の丞相司馬懿は兵を率いて北伐して公孫淵を討伐すると、公孫氏に横領されていた元々漢帝国の領土である楽浪郡~帯方郡を取り返し漢朝から政権を禅譲され引き継いだ魏朝の直轄地と成りました。
当時は古代中国人の歴史認識で倭国の一部だった朝鮮半島南部を経由して~帯方郡~楽浪郡~魏の首都洛陽に卑弥呼が朝貢(従属同盟)の使者を送っています。
“韓国北朝鮮の独自歴史解釈”を除いて東洋史の常識として楽浪郡帯方郡を含めた朝鮮半島には当時は朝鮮の統一王朝どころか朝鮮族もまだまだ存在しておらず、部族の首長が割拠していた状態で、そこを“漢帝国が帯方郡・楽浪郡を朝鮮半島に置き支配”していました。
なのでソウルは数年前に首尓と無理矢理漢字表記を変える以前には“漢城”と書いていましたし、今でも中国・台湾・香港は一般的にソウルを漢城と書きます。
又、中国の歴史書を見ても当時の“朝鮮半島南部は倭人(日本)の土地”と認識されており史書にも記録されています。
漢の時代から朝鮮半島では地元の部族が度々太守を殺害し反逆する等、魏にとっても害悪な地域だったので、卑弥呼が魏に冊封を求めて来た朝貢は軍事同盟としても朝鮮半島の土着豪族を背後から牽制するのに心強いWin-Winの同盟関係だった事が理解できます。
実際に司馬懿が卑弥呼との同盟の事を大変に喜んでいた記載も残ります。

【卑弥呼に唯一会える男性】
景行天皇=倭姫の兄弟で倭建の実父。倭姫が卑弥呼なら実質的に政務と軍事を司った“首相”の役割を果たしていた事に成る。
この頃の卑弥呼が当時の標準寿命の60年前後生きたとしても景初二年(238年)に魏に使者を送った当時には成人して国家元首に成っていたはずなので、少なくとも年齢は昔の成人年齢15歳以上で卑弥呼は290年頃には亡くなってるのでしょう。
247年の3月と9月に日蝕が発生しているので、天照大神の化身として権威を持っていたであろう卑弥呼(ヒミコ=日巫女)は少なくとも25歳以上に成っていましたが、大陽の化身を祀る存在だったので宗教的な求心力を失ったかもしれませんね。
卑弥呼以死大作家径百餘歩殉葬者奴婢百餘人
卑弥呼サンが亡くなって大墳墓が造営される様子が記録されていますが、死亡時期の記載は無くヒントも有りません。彼女が倭姫と同一人物だとすれば倭建の東征に力を貸す役割が残っているので、政治的な権力は失っても斎王として権威は持ち続けもう少し先まで生きたのかも知れません。
いずれにせよ卑弥呼さんは247年の日蝕で死んでいなくても、同一人物と思われる倭姫は太陽信仰の天照大神を祀る斎王だったと記録が有るで、日蝕により信頼を失い女王としての役割に抑えられ、中国風に男系男子が皇帝として国を取り仕切る制度に移行し卑弥呼さんの役割は宗教だけの斎王に抑えられたのかも知れませんね。
天照大神の神話に天照大神の憑代(よりしろ)である卑弥呼の話自体が習合されて伝わっている可能性が有るので、天岩戸神話は当時の日蝕と天照大神の失脚もしくは蟄居を比喩した伝承と考えると神話に現実味が吹き込まれて政争の話に変わりますね。
実務を執り仕切っていた景行天皇の権限が強くなり卑弥呼から宗教よりも強い決定権を禅譲されたかも知れない。もしかしたら、宗教的な求心力を失った卑弥呼は責任を感じて自害したかも知れない。
臺与まで景行天皇~成務天皇~仲哀天皇と三代は、魏志倭人伝の“男王の時代に再び倭国大乱と成った”記載とも合致してきます。
魏の滅亡は265年その政権を重臣司馬懿の一族に奪われ晋が建国されます。
晋朝は家祖の司馬懿が邪馬台国支持者だった上に朝鮮半島の諸部族に対する牽制に邪馬台国は必須です。
晋からすれば卑弥呼だろうが実弟の景行天皇だろうが晋にとっては邪馬台国が纏(まと)まる事の方が状況的には重要で、晋から見れば女王でも男王でも実力が有れば良く、司馬氏一族にとっては倭国が纏まらず朝鮮半島を挟撃出来る状況が整(ととの)わない事の方が問題だった訳です。
なので倭国の動向をずっと注視していた事が判る一文が魏志倭人伝に記載が有りますね?
この文章の情報は魏の倭国の支援を担当した帯方郡勤務の軍人である張政サンの報告だと思います。
卑弥呼以死大作家径百餘歩殉葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千余人復立卑弥呼宗女臺與年十三為王國中遂定政等以檄告喩臺與
この文章を解り易く砕けた武州弁に翻訳してみます♪
いやぁ~卑弥呼サン死んじゃってさ~!デッカイ家(古墳)作ってさあ~、直径100歩位の!
殉死者は奴隷(恐らく宮廷の女官か巫女)100人位だってョ!
更に後釜に男王に成ったんだけどさ、これが国全体に不人気で支持されなくてよぉ~。
(就任)当時に千人位(の豪族)で御互いの主張で殺し合いに成っちまってよ~。
しゃぁ~ねぇ~から又さ卑弥呼の親戚の女の子連れて来てヨ、十三歳なんだけど女王に就任してもらってよ!
そしたら、やっとこさ国中の混乱落ち着いてよ!
ウチから出張してる塞曹掾史の張政達が臺与チャンに演説で励ましてやったんだけどな。
つまり卑弥呼が倭姫だとすると卑弥呼が亡くなってから景行天皇が王に就任したけれど男王じゃ全く纏まらず、恐らく倭建と政務天皇の後継者争いの問題だと思いますが、その時に其々(それぞれ)を支持する派閥の豪族が1000人も暗殺や粛清し合って、卑弥呼サンの存在で纏まってた邪馬台国=大和朝廷が又荒れちゃったみたいですね。
本当に男ってバカ。
更に張政サンは帯方郡から出張して来てた魏の塞曹掾史と言う役職の軍人で、どうやら見るに見かねて卑弥呼サンの一族で才能有りそうな人材の臺与ちゃんを発掘してきて説得して女王に成って貰ったみたいな展開だった様ですね。
304年頃から劉淵の一族が晋国内で反乱を起こしまくって混乱を起こしているので、本来なら邪馬台国に朝鮮半島から北上して、帯方郡と楽浪郡を経由して今の北京辺りまで援軍を寄こして欲しかったのが晋朝の意図する所だったの思うのに、何だか知らないけど卑弥呼サン亡くなった後で景行天皇が継いだら成務天皇と倭建を支持する派閥に豪族が割れちゃって、全然ダメダメになっちゃったみたいですね。
そんで・・・
「男駄目なら元の女王に戻しちゃえよ!」
・・・って張政サン達が怒って、卑弥呼(倭姫)の跡継の臺与(神功皇后)を発掘して来た様です。
下は当時の天皇の寿命で、後で他の天皇と合わせて比較しますが、年齢左側が1年を6ヵ月換算で記録されていたであろう没年齢の記載、右がそれを1年を12ヶ月で再計算した没年齢です。
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
これを見ると当時の混乱の様子がうかがえます。
実績を上げた兄の倭建ではなく、何にもしてない弟の成務天皇が後継者に成り、更に成務天皇が倭建の遺児の仲哀天皇を後継者にせざるを得ない状況が発生し、その跡を継いだ仲哀天皇が不審な短命で亡くなっている一連の不可解な権力移譲の様子を忖度無しに簡潔に書いているのが張政さんの報告なんでしょう。
更立男王國中不服更相誅殺當時殺千余人
この一文ですね。
どうやら三国志の著者の陳寿さんが存命中に発生した事件の当事者の様な報告内容なので、魏に仕えていた張政さんも陳寿さん同様に晋にそのまま仕えたみたいですね。
しかし景行天皇の時代の歴代天皇の寿命を“1歳=6ヶ月”の換算で数えでは、遅くとも三浦半島走水神社の倭建命来訪の伝承が西暦109年に成るのと比較して、史実の卑弥呼の時代とは誤差150年前後が発生する事に成ります。
これが先程、景行天皇達中国の暦導入以前の寿命を昔のまま6ヵ月計算した誤差だとすると、中国文化制度を本格的に導入した伝承の有る応神天皇―仁徳天皇以前の天皇の寿命を古代の1年=6ヵ月→12ヶ月に変換するとピッタリ景行天皇=卑弥呼の時代と整合します。

【再び倭国大乱に陥った原因の男王】
成務天皇=倭建の異母弟。
成務天皇は立太子され大王に成りましたが先代の景行天皇には他にも倭建等の子息がいた上、彼等は異母兄弟であり更に双方の母はそれぞれが異なる豪族の姫でした。
普通に功績を上げたのは倭建の方なので景行天皇の跡継ぎに関して望むと望まざると後継者争いが勃発するでしょう、それが魏志倭人伝に有る、卑弥呼の後に男王が就任したが再び世が乱れたの記載だと推測出来ます。
卑弥呼(倭姫)の跡を継いだ景行天皇が就任した時は混乱なく天寿を全うしている様ですね。
恐らく卑弥呼(倭姫)の跡を景行天皇が継いだ時はずっと補佐をしていた実力も有って纏まったみたいです。しかし子供の代で後継者争いが発生してしまった様です。
東征を無事に終えた倭建は恐らく戦争らしい戦争にすら成らず武威と統治能力で地方の郡衙(ぐんが:市役所みたいなの)と兵站(へいたん:補給網)となる駅=店屋(てんや:駐屯地)の設営に成功して凄まじい武勲を立てた後で暫く後の四道将軍や鎌倉公坊に似た役割で東日本に駐留していたんでしょうね。
父大王の景行天皇の危篤か崩御の一報が有り、重臣引き連れて東山道から帰還しようとし、関ヶ原を経由して畿内(関西)に入ろうとしたんでしょう。
来る時に通った東海道の海路や薩垂峠は焼津で焼き討ちされてるから二度と通りたくないでしょ(笑)。
ところが東山道を進んだら今の神話で伊吹山の神と表現される土地神(かみ:督=豪族)に軍事的に阻止され、倭建は武装せず敵対心が無い事を示して説得に行ったら、暗殺未遂で外傷を負ったか毒を盛られたかは解りませんが重症を負った様です。
二俣川で討死した畠山重忠公みたいな状況。
普通に神話を現実的に解釈すればそうなるし、美濃国~近江国境でそれを画策出来るのは只1人、成務天皇だけでしょう。
成務天皇の母は美濃の豪族の娘で八坂入媛(やさかいりひめ)ですから、異母兄の倭建を排除しないと自分が廃嫡されるか、既に景行天皇が崩御されている状況だったなら最初から後継者争いが起きる前に母方の豪族の協力を得て倭建の帰還を阻止したと考えられます。
最悪、倭建(ヤマトタケル)が立太子された嫡子だったのに、景行天皇が崩御した直後に成務天皇派は倭建の不在を好機として自派で武力クーデター起こして朝廷を制圧したか、存外、東征に参加が許されず朝廷に待機し武功をあげれなかった西日本九州の豪族王達から成務天皇は支持されたのかも知れませんね。
実際、東日本に開拓に入ってた豪族の苗字は各神社の伝承に残りますが九州系は皆無・・・
磯長国造(五十猛?)・鈴木・紀=熊野系(諏訪神系?)
古墳時代~奈良時代
((根国・狗奴国)→駿河~伊豆~相模西武(磯長国)・武蔵東部(橘樹郡・都築郡))
大伴=大鞆
古墳時代~鎌倉時代(神職化)
(摂津住吉郡・相模三浦郡~武蔵橘樹郡=佐賀牟国)
日下部
古墳時代~飛鳥時代
(高座郡南部)
丸子・小野=和迩
古墳時代~平安時代
(相模愛甲郡~相模高座郡~武蔵荏原郡=佐賀牟国→前九年後三年の役頃に東北に移住か?)
下毛野・上毛野・坂田=毛野
古墳時代~平安時代
(上野国・下野国・相模足柄郡・近江坂田郡)
笠原・布施=諏訪神族
古墳時代~奈良時代
(武蔵南部~相模東部~相模中部=佐賀牟国→武蔵と相模に分裂?)
若光=高句麗王族
飛鳥時代
(相模餘綾郡・武蔵高麗郡)
・・・ざっとこんな感じで、それ以後は桓武平氏と河内源氏が支配者として赴任定着しており、唯一九州と無理矢理結び付くのは大伴家=佐伯一族のみ。
天智天皇も天武天皇も後白河法皇も後醍醐天皇も後の天皇家も皇族間で権力闘争を行っている歴史事実から、この大王(天皇)家と各親派の政争→軍事衝突として見た解釈は極自然でしょう。
ウチの某国造系先祖もず~っと室町時代まで似た様な事してたし(笑)。
倭建を陥(おとしい)れた伊吹山の神とは美濃の豪族である成務天皇の母方勢力の軍勢を率いた人物でしょう。
倭建が丸腰で美濃の豪族王(伊吹山の神)を説得に行ってるのは、状況的に自分がそれを出来る“地位を既に景行天皇に与えられていたから”つまり本来の皇太子は倭建の方だったかもしれませんね。
いずれにせよ倭建は重症を負い、更に関ヶ原通過を諦めて、鈴鹿の関所側に遠回りして畿内に帰還を試みながら死亡しています。
この政争は神功皇后が出るまで続いた様で、更に後の時代の筑紫の国造はじめ邪馬台国黎明期の功臣である北九州の諸豪族が大和朝廷に反抗的に成るのは、この頃に成務天皇派についた事で仲哀天皇の代に政治体制から北九州の豪族が排除され関西優位化が進んだりした可能性も発生して来ます。
神功皇后は自分達とパイプの太い卑弥呼の一族だから成務天皇派は矛を納めたのに、倭建の皇子の仲哀天皇とまさかの婚姻関係に成り、北九州の諸豪族の既得権が失われた事が古墳時代~飛鳥時代の北九州勢力が大和王権に楯突く原因としてシコリに成った可能性が有ります。
香椎宮とか、元は伊都国とかの首府だったんじゃね?とも思ったり。
成務天皇は不可解に倭建の実子の仲哀天皇を後継者指名しなければいけない状況に成り、それでも国が纏まらないので張政サン達が卑弥呼サンの親戚で13歳の臺与ちゃんを見つけて来て卑弥呼さんの跡継の女王(斎王)に成って貰い、再び混乱しない様に仲哀天皇と結婚させて倭建の遺臣達の派閥を納得させるしか無かった、この一連の騒動が中国側の歴史記録や当時の天皇の寿命から読み解けたりする訳です。
成務天皇の業績とされている地方の政庁の整備は、どっからどう考えても日本中を転戦した倭建=日本武尊の功績が大王に就任した成務天皇に横領されていると考えた方が自然でしょう。
そりゃ~、東日本の地方豪族達は成務天皇を支持出来ないでしょうね。
そんでも和睦する為に仲哀天皇を跡継ぎに指名する条件を出したけど、成務天皇派は倭建派に権力が集中するのを成務天皇派が恐れたのか、仲哀天皇は他の天皇と比較しても異常に短命な26歳で亡くなっているので、神功皇后が応神天皇を妊娠した段階で暗殺されてしまったのかも知れませんね。
倭建派が主流に成るのを恐れた勢力がいたとしか状況的には考えられません。

【男系王朝が上手く行かず、一代女王(斎王)に就任した人物】
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写真は神奈川県大磯町の高麗権現社(現:高来神社)、昔は裏山の高麗山の上に社殿と僧坊が広がる神仏習合の修験道の聖地で、元は神功皇后の朝鮮征伐の際に倭国に服属した朝鮮半島からの帰化民が周辺に定着し神功皇后を御祭神に祀る神社。百済滅亡時も百済王族の若光が関わった場所でも有る。
神功皇后=臺与。景行天皇と倭姫を卑弥呼の記載に当て嵌めると、丁度時代的に神功皇后に合致する。
神功皇后は仲哀天皇の皇后で、景行天皇が西日本を再統一した卑弥呼の世話をする男性(男王)だとすれば、神功皇后は景行天皇の二世代後の西暦300年代後半位の人物と成る。そうなると正に広開土王碑文の年代と整合性が出て来て極めて神功皇后と臺与が同一人物の可能性が高く成る。
神功皇后がピンチヒッターとして当番せざるを得なかった理由も当時の天皇の年齢を1歳=6ヶ月で換算すると・・・
仲哀天皇の崩御年齢が53歳 →26.5歳となるので、まだ跡継ぎが幼齢だった為に皇后が大王代理を勤めるしか無い状況に陥っていた事も解る。
仲哀天皇は成務天皇に殺害されたであろう倭建の子なので、仲哀天皇自身も不自然な短命な事から何か政争に巻き込まれ暗殺されたのかも知れない。
その原因が、もしかしたら朝鮮半島の勢力や政治とも関係が有ったので邪馬台国の臺与=神功皇后による朝鮮征伐が敢行されたのなら、司馬氏の晋朝の不安定な政情ともつじつまが合ってくる。神功皇后の渡海北閥は、晋の司馬氏に反逆した匈奴の劉淵を背後から挟撃し牽制、晋朝を救援する目的が有ったと考えられる。
夫の仲哀天皇の子、応神天皇が日本で最初に本格的に漢学を導入した人物と伝わり、孫の菟道稚郎子が日本で最初に漢学を学んだ人物と伝わり延喜式内社の相模国四之宮である前鳥(さきとり)神社で仕事と学問の神として御祭神に成っており、菟道稚郎子の兄王である仁徳天皇は日本で最初に父である応神天皇を八幡宮の御祭神として祀らせる一国一社八幡宮設置の政令を出した事が、神奈川県の平塚八幡宮に伝わっている。この平塚八幡宮は相模国国府祭の神事に登場する八幡社でもある。
つまり、卑弥呼が始めた中国の工業技術や軍事制度の導入は卑弥呼の実弟の景行天皇、更に甥の成務天皇を経て、三代後の子孫の応神天皇と更に皇子の仁徳天皇の代に本格的な中国の国家制度や学問を含め暦や年齢の導入が始まり、仁徳天皇の子の履中天皇の代で"1歳=6ヶ月"とカウントする文化が廃止され、中国風の暦が導入され1歳=1年に移行しているんだろうと言う事が推測出来る。

【魏から下賜された魏の皇軍軍旗(黄幢)、金印、200枚の鏡、“二振りの神剣”】
ーー草薙の剣と天叢雲剣ーー
呉王宝剣 蘇州市博物館
写真は呉王剣と呼ばれる中国に現存する春秋戦国時代の青銅合金製の宝剣で三国時代には上級将軍達は鉄剣を装備したが、剣の形状自体には大きな変化は無い。
恐らく魏から下賜された2振りの宝剣が草薙剣と天叢雲剣の名前で伝わる天皇家の神剣の可能性が有るので熱田神宮に現存する倭建の佩刀だった草薙剣は呉王剣と似た形状だろう。
古代中国では王が配下の武将を大将軍に任命する際、戦斧を貸与する習慣が有った。倭建が叔母の倭姫から草薙の剣を拝受し天皇家の近衛部隊である大伴一族の水軍と先進知識に明るい吉備氏の軍勢を与力として元伊勢神宮で付けられたと伝承するのは、正に中国文化に由来する大将軍として統帥権を与える為に宝剣を与える一連の儀式を模している事も推測出来る。
この宝剣は魏から贈られた2振りの宝剣の内の一振りだったはずだ。
現在の天皇家の神剣に天叢雲剣と草薙の剣異なる2つの名前が有るのも、元々魏から贈られた宝剣が2振り有ったからと推測出来る。実は現在も熱田神宮と皇居にそれぞれ存在し、熱田神宮では新羅人の盗賊に盗難未遂に有った一度を除いて倭建の用いた草薙の剣は一度たりとも熱田神宮から持ち出された事は無いと主張している。それに矛盾して源頼朝公が実弟の源義経公に壇ノ浦の合戦で平家を討伐させた際に平家が持ち出した“天叢雲剣”は安徳天皇と共に関門海峡の海に沈み永久に失われている。これを怒った頼朝公が捜索させるが見つからず、後鳥羽天皇は三種の神器の一方の天叢雲剣が無いまま皇位継承の儀式を行う羽目に遭っている。仕方が無いので朝廷では伊勢神宮にレプリカを作らせたのか関係無い剣を献上させる形で失われた天叢雲剣とした歴史事実が有る。
つまり今現在、天皇家は源義経の失態のせいで本物の神剣ではなくレプリカと言う事に成るが、この事から元々神剣は二振り有り、倭建が倭姫=卑弥呼から拝受した神剣が草薙剣で、倭建が岐阜の豪族(伊吹山の神)の妨害により畿内に帰還できず、鈴鹿の関辺りで(暗殺か傷病死だと思うが)病没した際に、豪族尾張氏の拠点だった熱田神宮に草薙の剣が移され、以後門外不出が熱田神宮の伝承通り石棺に入れられ守られていると言う事に成る。
ちなみに走水神社の本殿の地下には倭建の冠を奉納した石棺が埋められていると伝承しているが、近年の社殿建て替えの際に神話通り本当に石棺の存在が確認されているので熱田神宮と走水神社の神器の状況的な整合性から熱田神宮の伝承は事実だろう。
石棺に納められている事実からも、正に倭建や卑弥呼が弥生時代から古墳時代への転換期の人物と言う事に成る。
天叢雲剣と草薙剣は最初から別々の剣で大和朝廷には天皇が所持する神剣と、大将軍に貸与する為に所持していた熱田神宮の草薙剣の二振りが存在している事が判る。
ーー神社で御神鏡を祀る習慣ーー
三角縁神獣鏡
恐らく魏から下賜された金色に輝く青銅の銅鏡200枚が卑弥呼配下の有力豪族に配布され、卑弥呼(日巫女)の主祭神である天照大神を崇拝する太陽神信仰の象徴として祀られたのが始まりだろう。
青銅は鋳造直後は黄金色に輝くし、金属の鏡は陽の光を反射して輝くので弥生時代末期の人には小さな太陽の化身の様に感じる貴重品だった事は容易に想像がつく。
魏皇帝曹叡が景初三年1月末に亡くなっている事から景初三年の三角縁神獣鏡が日本製とのたまう頭デッカチの学者がいるが、当時の魏の経済状況や倭国に朝鮮半島を挟撃して貰いたい状況を考えれば容易に景初三年の銅鏡が倭国に贈られた事が説明出来る。
司馬懿の公孫淵討伐と卑弥呼の使者が魏に到達したのが景初二年なのだから、普通に考えれば魏皇帝曹叡と丞相司馬懿が倭国の卑弥呼に朝貢の返礼と冊封の証として下賜する為に景初二年に製造を始めさせ景初三年に倭国に届けるつもりだったのが、景初三年の1月22日に死没したが、当時の魏は改めて銅鏡等の下賜する礼品に対して製造コストをかけれない状況に置かれていました。
洛陽の宮殿建設と度重なる戦争で経済が逼迫し内乱が起こり呉とも激しく戦を繰り返しており北にも南にも敵に囲まれていた魏にとって背後の朝鮮半島の安定化を急ぐ状況で景初三年のままの銅鏡で出荷せざるを得なかったと考えるのが一番自然です。
ーー幣殿に旗と鉾と楯を祀る習慣ーー
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社殿の内部で本殿前の幣殿部分に楯、鉾(ほこ)、旗を祀るが、これは明ら様(あからさま)に魏から贈られた黄幢(魏皇帝の錦の御旗)、漢代の中国兵が楯と剣or槍or戟(げき)or鉾で武装していたのを卑弥呼の頃に導入していた事に由来するだろう。つまり卑弥呼の時代の軍装が神社の神様を守る様に一揃え設置されている。
漢代の中国大陸では楯は歩兵の標準装備だったので、卑弥呼の時代には邪馬台国兵も魏の軍装を導入していた事が推測出来て、現代でも武具を神社に奉納するのと同じ様に、古墳時代に漢代の軍装を神様に奉納し社殿に設置する習慣が出来たのだろう。
平安末期に成ると日本では武士文化が開花し、攻撃特化した武装に変性していき鎌倉時代の武士は次第に歩兵が木楯を携行する事は無く成った。
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代わりに、日本刀の発展により刀身の側面の鎬(しのぎ)が頑丈に成り太刀打ちの際に楯を持つより刀で相手の刀を弾き返す耐久性が獲得された。
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大鎧の弓矢に対する防御力が向上され首を守る兜の錣(しころ)や流れ矢の顔面被弾を防ぐ吹き返し、前屈すると正面に対して隙間が無く体を覆い楯代わりになる大袖や草摺(くさずり)の構造が発展し楯は無用の長物に成った。
矢合戦の際に前線陣地に押し並べ据え置いて防御壁代わりに用いる程度に役割は衰退したが、卑弥呼の次代~古墳時代~飛鳥時代の軍装は、神社の中に神様を祀る文化の中で形式化され温存された。
ーー鳥居ーー
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中国の古い街の大通りには石造りの鳥居に似たゲートが必ず設置されているので、鳥居は中国文化由来で東アジア諸国に広まった街道や邸宅の入口に設ける門の習慣の名残りなのかも知れない。
そもそも日本の古代信仰はランドマークとなる奇岩や湧水地や川や入江の岬の先端などの自然信仰で、建造物すら存在しなかった事が考古学的にも解かっている。

しかし、これだけ状況証拠が残っていても卑弥呼と臺与の生きた西暦230年代~300年代と倭建が走水に来た109年では、走水の伝承をまま採用すると100~200年の差が発生してしまいます。
この誤差200年が、正に卑弥呼と臺与による中国式の制度が導入され、更に応神天皇の時に本格的な中国文化の暦が導入が開始されている事により発生する誤差に成るのが歴代天皇の寿命で説明できます。

中国の暦が導入されて・・・
1年=12ヶ月=1歳
・・・の基準が決まり、それ以前の・・・
1年=06ヶ月=1歳
・・・と差違が生じて誤解を生んだ境目なのだと思います。

応神天皇の頃まで歴代天皇の寿命は100歳超だらけ不自然な年齢ですが、それが1年=06ヶ月=1歳でカウントされてるからと原因が解れば話しは一気に超現実的に成ります。
1年=12ヶ月=1歳に圧縮するとザックリ見積もっても200年弱の歴史が短縮され現実的な歴史に成り倭建神話に卑弥呼の時代と整合性が出ます。

では、本当にこの推論が当てはまるか歴代天皇の古事記での寿命の記載を見て見ましょう。

※縄文→弥生時代の平均寿命30歳
     伝承年齢 → 1年=6ヶ月説適応
神武天皇 127歳 → 63.5歳
綏靖天皇   84歳 → 42.0歳
安寧天皇   67歳 → 33.5歳
懿徳天皇   77歳 → 33.5歳
孝昭天皇 114歳 → 57.0歳
孝安天皇 137歳 → 68.5歳
孝靈天皇 128歳 → 64.0歳
孝元天皇 116歳 → 58.0歳
開化天皇 111歳 → 55.5歳
崇神天皇 119歳 → 59.5歳
垂仁天皇 139歳 → 69.5歳
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳👈注目①!
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
履中天皇   70歳 → 35.0歳👈注目②!
反正天皇   75歳 → 37.5歳
允恭天皇   78歳 → 37.5歳
安康天皇   56歳 → 28.0歳
雄略天皇   62歳 → 31.0歳

こうやって見比べると、本当に中国の学問を学び導入した応神天皇、仁徳天皇の次代、注目②の履中天皇の寿命が急にそれ以前の天皇より短く成ってしまっているので、履中天皇の時代から日本人の年齢の数え方や暦の数え方が中国の制度が導入されている事が理解できます。
これは神話と成った伝承の通り、応神天皇の方針により中国の制度を学んだと伝わる仁徳天皇と菟道稚郎子の皇子御兄弟時代から国家運営に中国式の暦の制度や国家運営が本格的に導入され始めているようです。
この事から履中天皇~倭建の生きた時代の天皇、景行天皇の半年:1歳の和暦寿命と中国式の1年:1歳の差異を合計すると、倭建が西暦109年に走水に来たと逆算で伝承しているのが更に短縮される事も解かる訳です。
    古代和暦→陰暦年齢
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
年齢合計 557年 → 278.5年

昔の人が結婚するのは15歳~20歳が適齢期でしたから、子供を作る年齢もだいたいそれ位でしょう。
なので中国から導入された1年1歳の陰暦年齢合計から子作り年齢を引けば歴史の年代的な誤差が算出出来る事に成ります・・・

寿命合計278.5
この時代の天皇の人数(5人) × 20=100年
~すると~
278.5年ー誤差100年=178.5年

おんや~⁉
・・・何やら丁度、倭建の走水の逆算年代の伝承と三国時代の誤差200年に極めて近い“178.5年”と言う数字が出て来ましたね。

1歳=12ヶ月で数えた場合に倭建が走水に来たとされる109年に、この誤差178.5年を足してみましょう!

109 + 178.5 = 287~288年

つまり走水に倭建命と弟橘姫夫妻は287~288年前後に来ている事が推測出来ます。
完璧に倭建の父の景行天皇と倭姫=卑弥呼であろう倭姫の弟姉が活躍した三国志の魏朝が滅亡するまでの235年~265年~司馬氏の晋朝と時代が符号します。

三国志の著者である陳寿は233年生まれ~297年を生きて64歳で亡くなっている人物です。
238年に使者を送った卑弥呼が当時15歳~25歳の倭姫と景行天皇姉弟だとすれば、当時の結婚適齢期から倭建と三国志を書いた陳寿は略(ほぼ)同世代だろうと言う事も何となく見えて来ます。
となれば倭建が活躍したのは238年前後生まれ+20~50歳の間に当たる西暦250~290年頃の話と言う事が逆算出来ますね。

走水に倭建が奥さんの弟橘媛(おとたちばなひめ)と走水神社近くの御所ヵ崎で共に夫婦生活を送った西暦109年が古代日本1年=半年を踏まえると完全に三国志の直後の時代の287年位の話になります。
倭建命が40代後半、弟橘姫は恐らく年の離れた異母妹であり妻女でしょう。
景行天皇の皇女(姫)には“弟姫(おとひめ)”が存在します。古代は異母兄妹で近親婚する事が良く有ったので、弟姫と弟橘姫は同一人物でしょう。
1年=12ヶ月に古来の1年=6ヶ月の部分を修正すると、途端に神話が神話ではなく成り、天皇家の偉業と日本文化が古代から引き継がれている事が歴史事実となり、倭建と弟橘姫夫妻の功績を川崎市高津区橘神社~横浜市神奈川区六角橋~横浜市磯子区杉田~三浦半島横須賀市走水の人達が年代誤差も修正され1800年間も話の内容は変らず正確に口伝で伝承させてきている事が証明されます。

時系列を古代:6ヶ月=1年⇔現代:12ヶ月=1年の誤差修正すると、こんな感じなのかも知れません。
                                 
卑弥呼(倭姫)
(220~230年出生→247年禅譲→290年頃没?)

景行天皇 71歳
(220~230年出生~290年頃崩御)

倭建(日本武尊)    
(250年頃出生→300年頃崩御)
※走水に在住時点
古代歴・・・西暦109年
太陽暦・・・西暦288年前後

成務天皇 53歳
(250年頃出生→300年頃崩御)

仲哀天皇 26歳
(270年頃出生→310年頃崩御)

神功皇后    
(270年頃出生→340年頃崩御)

応神天皇 55歳
(300年頃出生→360年頃崩御)

仁徳天皇 71歳
(320年頃出生→390年頃崩御)

まぁ~これは全部小生の「あれ?古事記の記載はおかしいぞ?」と思った事を現実的に解釈した持論なので、全然、皆さんは異論が有って良いと思います。

肝心な事は・・・
「本に書いて有るからって、全部正しい訳じゃねぇ~かんな!」
「上司や親が言ったからって言い訳に出来ねぇ~から後悔しない様に自分で確かめて判断しろよな!」
・・・て言う事例の一つとして、和暦も色々変化が有るよってのを天皇家の歴史で示してみました。

そして・・・
「卑弥呼様ぁ~!」
卑弥呼様ぁ~Q太郎
・・・の次代の人達よりも更に古い時代の天皇家の御先祖様の神武天皇は弥生時代真っ只中を生きた皇族だった事が判りますね。
三殿台遺跡 縄文人女 久良岐のよし
当時の人の服装はこんな感じ。
やっと狩猟採取の生活から、稲作に転換し始めた時期です。中国から輸入された米穀の栽培によって食料の備蓄が可能に成り生存率が向上した半面で“財産”と言う概念が生まれて、更に農耕は大きな集団で協力して土地を開墾したり稲作を行う必要が有ります。
備蓄可能な食糧の出現が、皮肉な事に
リーダーの出現と村より大きな単位での集団の形成と、争いの無い縄文時代終わりを迎えて‟国”と言われた豪族が治める地方の単位が生まれ、地方同士の武力衝突と財産の奪い合いに発展して行き弥生時代=神話の時代に突入して行った訳ですね。
古事記に書かれている天沼鉾(あまのぬぼこ)を用いて伊邪那美神と伊邪那岐神が混沌とした場所で掻き混ぜて島を生み出した国産み神話は、正に土地開拓と鉾を交え戦を行った古代豪族の伝承の比喩だと小生は考えています。
この伊邪那美神と伊邪那岐神が神武天皇の更に御先祖様に当たる神様ですが、弥生時代の始まりは紀元前10世紀頃と今の考古学で解っているので、その頃の話がかいつまんで口伝で伝承されて今の国産み神話に成っているのでしょう。
組織的な集団を作り出し農耕や交易で“勢力”と言う大きな単位を作り出した偉大な先人である事が判ります。

日本神話を纏めた古事記では
日本国の元に成る弥生文化の時代、神話の黎明期に相当する歴代天皇の寿命が異常に長い事も1年=半年で再カウントすると何とも現実的な没年齢に話が変わって来ると同時に、いつの時代から中国と文化を共有しだしたのかの基準が推定出来たりする訳です。
それと同じで現代の太陽暦の12区分で陰暦の月の和名を当て嵌めれないので、太陽暦基準で1月=睦月にしてしまうと“水無月(みなづき)”なのに梅雨の真っ最中みたいな矛盾が発生する訳です。

ここで、本来の月の暦の話に戻ります。

和暦の12ヵ月の漢字を見て見ましょう。

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睦月 むつき 睦つぶ月 
旧正月、01月下旬~2月中旬に始まる月
旧正月は陰暦の為に太陽暦より誤差が大きく毎年数日単位で開始日が異なる。
睦月の“睦”の字は親睦を深めるとか和睦するとか、交流を育む様子を意味する漢字。
本来の睦月の意味は雪解けと共に梅の花が咲き始め春の訪れを知り、人間そのものの往来が増える事が表現されたているのが漢字の意味から読み取れます。

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如月 きさらぎ (前)月の通り
太陽暦の02下旬~03月下旬位。
梅の季節から桜の季節に変わって来て本格的に春の訪れる頃。
漢字では後ろに付く漢字と合わせて〇〇の様だ。の様な意味を持つ。
如月では意味が成立しないので、季節感が睦月と同じと言う意味だろう。

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弥生 やよい いよいよ生まれる月 
太陽暦04月~05月くらい。
晩春で躑躅の花が咲き誇る頃。
弥生の弥は訓読みで“いよいよ”と読む。
弥生を読み下すと“いよいよ生まれる”と言う意味に成る。
春の盛りで花が咲き本格的に暖かくなり農耕の作業が本格化し動植物の繁殖も始まる様子が、もうそのまま漢字にされている。

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卯月 うづき 卯の花由来説は後付け
4番目の月と言う意味。
太陽暦の05月~06月位くらい。
菖蒲の咲く季節。
卯月の卯の字は只単に昔の時間割や方角の割り付けで十二支由来、
卯の刻とか卯の方角とか、羅針盤(指南机)上で四番目を指す意味が有る。
ちなみに日本語で教授する事を“指南”と言うが、これは中国の最初の皇帝の前身と成った人物の黄帝が、敵対者と戦争する際に濃霧が発生する場所に敵軍を誘い込み前後不覚に方向感覚を失わせ混乱させたうえで自軍は迷わない様に南の方角を指示する歯車の仕掛けを作り、敵軍を駆逐した事から指南=教えると比喩されやがて動詞として使われる様に成った。
卯の花が咲くから卯月と言うのは寧ろ、四番目の月の卯月に咲く花だから“空木(うつぎ)”が卯の花と呼ばれる様に後付けされたと考えた方が極々自然。

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皐月 さつき 皐月の花由来は後付け
太陽暦の06月~07月くらい、梅雨の季節。
紫陽花の咲く頃。
夏の始まりだから夏王朝の皇帝の名前を用いて5番目の月の異称にしたのが解かる。
春は動物が交配し繁殖する季節なので、言って見れば淫乱な繁殖期。
夏の皇帝皐の先代皇帝孔甲は性格が淫乱の極みの様な人物だった。
孔甲の跡は皇帝“皐(こう)”が継いだ。
生物にとって春の繁殖期が終わり夏に成る季節だからだから夏王朝の淫乱で交尾ばっかりしていた暴君の皇帝孔甲と、跡を継いだ皇帝の皐の故事から初夏の最初の月が皐月と命名されているのが解かる。
“梅雨(つゆ)”は中国語由来の季節の表現で、太陽暦の6月下旬の中国の雨季は、梅の実収穫時期でもあった事に由来する。当然ながら現代中国語の漢字でも梅雨は梅雨。
現代日本人にとっては芽吹きの春ではなく、夏休みと冬のクリスマスのイベントが繁殖期の様だ(笑)。

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水無月 みなづき 文字通りの意味
太陽暦の07~08月初旬くらい。
海辺に野莞草のオレンジ色の花が咲き誇る季節。
昔の通りに陰暦の春節を睦月の起点にすると、水無月は文字通り梅雨明けの乾期に相当する。
それ以上でも以下でもない。
古代の一年の区切りで、夏越大祓の神事が各地の神社で行われる。

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文月 中国由来で七夕の書物を防腐する月
太陽暦の08~09月くらい。
旧暦の七夕の季節。
七夕の日の由来ではあるけれども短冊の話は日本での後付け旧暦の七夕。
中国では七夕の頃に書物をカラっと晴れた日に天日に干して防腐する習慣が有った。
つまり文月の文はこの中国から受け継いだ書物や文書を管理する月だったから付けらた事が判る。
そもそも論だが七夕自体も中国から日本に輸入された習慣であり伝説でもある。
端午の節句もそうだし、中秋の名月も、旧正月もう色々と季節の節目の行事は中国文化由来だったりする。
最近じゃ日本人はバレンタインデーやクリスマスなんて習慣も新たに取り入れたりしてるよね。
一体、生粋の日本文化ってのは現在、どれだけ残っているんだろうか?と言う次元の話。
小生の知る限り、相模国国府祭や武蔵国国府祭、有鹿神社の水引祭り、高部屋神社の潮汲み神事、寒川大社の追儺祭は生粋の日本の神事かも知れない。
特に高部屋神社と寒川大社の神事は弥生時代~古墳時代の文化の名残りかも知れない。

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葉月 夏が終わり青々とした葉が朽ち始める
太陽暦の9~10月くらい。
台風が頻発して葉っぱが飛ばされたり、葉っぱの色が枯葉の色に変わり始める季節。
関東では海の空気が澄み始めて富士山が奇麗に見える日が段々増えて来る。

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長月 小生にはちょっと意味が解らない
太陽暦の10~11月くらい。
多分、中秋の名月の季節で、気温も少し過ごしやすくなり、昔の人は“秋の夜長”を楽しみ和歌を詠んだり自邸の庭の池に船を浮かべて遊んだり、松明(たいまつ)を炊いて庭の木々を照らし夜景を楽しんだり、笛を吹いたりして貴族が夜を長く楽しむ季節だったからじゃないかとしか思えない。

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出雲大社
※画像掲載元→https://www.izumo-kankou.gr.jp/676
神無月/神有月(出雲国) そのまんま
太陽暦の11~12月くらい。
山の木々が紅葉し美しく萌える季節。
全国の神(かみ=督:神格化された古代の軍属豪族)が、出雲大社に参集して日本全国の年次方針を決めたから各地は無監督状態で神様不在だった事に由来するのは有名な話。
逆に出雲大社には全国から豪族将軍達が集まって来るから神有月。

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霜月 滅茶寒くて地面霜だらけの季節
太陽暦の12~01月初旬。
そのまま真冬で霜が降りる季節だから。
関東では雪化粧した奇麗な富士山を色んな場所から眺める事が出来る季節。

一休さん
師走 中国経由の仏教用語“臘月”由来。
太陽暦の01月下旬~02月下旬。
1年の終わりの月と言う意味。
僧侶が走り回る様に忙しいとかは丸っきり後付けのデマ。
昔は中国で臘月(LaYue:ラーユエ⇒ロウゲツ⇒しわつき)と書いて陰暦で年末最後の月の事を意味したので、ずばり中国の臘月=臘数
(しわす)が由来。
臘数の臘(しわ/ロウ)は中国由来の仏教用語で僧侶が出家して具足戎を受けてからの年数を数える節目の単位でもある。庶民には覚え難(にく)い漢字だったから僧侶が忙しくなる季節と言う表現の師走と言う字に臘数(しわす)の発音だけ誤植した挙句、いつの時代にか師走の字のデマが広まってしまった様だ。


まぁ~そんな訳で、現代の価値観と現代の時間軸で陰暦の暦を当て嵌めたり、太陽暦の1月1日に真冬なのに年賀状に「迎春」とか書いちゃうと整合性が無くなってしまう原因だったりする訳です。
昔の事は現代の価値観で見ても全然違うって事ですね。
昔の人は農業社会で天候と密接に生活していたので季節感が大切だったんですね。
そして日本の制度自体も各時代、外国の影響を受けて色々変わっていると言う事です。


日本の神社の神様には、仁徳天皇と菟道稚郎子に中国の兵法や学問を享受した漢帝国皇族の末裔の阿智使主もいれば、高麗や百済の滅亡時に日本に移住して来て高麗神社を開いた人たちもいます。
南宋が滅亡した時に鎌倉幕府の執権、北条時頼公や北条時宗公も南宋の亡命高僧や文化人を受け入れ南宋の軍事知識と文化を取り入れ鎌倉文化を発展させ元朝と朝鮮連合軍の日本侵略から国民を守った訳です。
実は日本人が生粋の日本文化だと思い込んでいる事の多くは少なからずインドや中国や朝鮮の文化と共通する部分が有り、古代に影響を受けながら日本風に変化させ日本文化を一緒に作り上げて来たのが歴史を辿ると良く解りますね。
だから“外国人”と言う事や“人種が異なる”と言う理由で在日外国人やハーフを外見でイジメたり攻撃するのは、本当の保守派の小生には受け入れられない只の差別でしかなく、寧ろ外国人差別をする人間が真の保守派の敵だと思っていたりします。

そもそも本当の日本文化ってのは自然崇拝ですから。
だから延喜式内社と言うジャンルにカテゴライズされる古い古い歴史を持つ神社は、どこでも自然崇拝の聖地に存在するんです。

水無月や師走の現代人の誤りを紐解いていくと、日本人と言う人種ではない括りの人間は色んな国からの帰化人が在来種の縄文人と協力して国を開拓し文化を昇華させた歴史にも辿り着けたりしますよ~!

そして疑問に思った事は何でも自分で調べましょう確かめましょう、人の言う事鵜呑みにして結果間違ったり判断ミスって人のせいにしたく成ったり悔しい思いするより良いしね。
ネットで調べるより現地に行って自分の目で見て、そんでも解からない事は一番精度の高い現地の人を質問責めにするのが一番早い!

百聞不如一見(百聞は一見に如かず)とは昔の中国の人も良く言ったもんだ。

今の中国は日本人について情報管理されててMSNのページも日本のニュースにアクセス出来なかったり田舎では反日ドラマばっかりやっていて不正確な情報ばっかりで日本に対する偏見強い人もいるけれど、昔の中国人と同じ様に高文化で素養高く親切な人も多くいる。
TikTokやWechatや華微(ファーウェイ)のスマホなんか規制しても良いし、日本人を差別する外国人には容赦なく反撃しても良いと思う。
でも人間は個人単位で評価しないといけないし、先生が言ってるからとか、本や辞書に書いて有る事が必ず正しいとは限らない。
自分で見て経験した物を信じ、知らない事はガンガン直接、現地や現場に見聞きしにいけばよいよ。
仕事もそうでしょ?

・・・と、言う御話しでした。

mixiチェック

以前投稿した記事ですが、スマホで撮影した写真に個人的に満足できていなかったので写真を撮影しなおし記事を加筆しました(笑)。

いつもの綺麗な自然の海岸とは違う磯子界隈の綺麗な夜景写真載せるだけの中身の無い記事ですが・・・
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・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・間違えた!
これじゃあ無ぇ~やwww!
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ハマっ子ガンダム※仮称(笑)
これは新型コロナのせいで公開延期に成ってしまったガンダムだった(笑)。
林市長が横浜港の機能をブッ潰してIR事業推進を名目にカジノ作ろうとしてるイワク付きの土地のイメージを消す為かガンダム置いて“土地洗浄”してるみたいな(笑)場所でした~www。
まだ埠頭の旧ゲート閉鎖されて内側に入れず遠目に見る事しか出来ませんが、ここより奇麗な場所が有りますよ。
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横浜ベイサイドマリーナ
ここでも無ぇ~(笑)。
これはベイサイドマリーナで、紹介したい場所とは又違った(笑)!
最近、夜に減量の為にベイサイドマリーナ迄歩いてます。
だいたい距離にして10km位。
それを毎日往復なんてしてらんないから、JR新杉田駅から帰り面倒なら電車乗っちゃえば地元直ぐ帰れるしね~(笑)。
夏に成って円海山~大平山~鎌倉駅まで歩くと山の中にスズメバチやアブやブヨが多過ぎて危険度高いので、とてもとても歩いてらんないんですよね。
なので夜、ベイサイドマリーナまで歩くと丁度良い運動に成るんですが、4日は満月なので徒歩では無く車で移動して満月の写真を海辺に撮影に行きました。
こっちが満月さん♪⤵
CIMG9819
お月様メチャ奇麗ね~!
イケメン!
「何でイケメン?」と思った人は欧米の文化を基準に生活してらっしゃる方かセーラームーン見て育った世代の女性でしょうか?
ギリシャ神話では月の神セレーネとアルテミスは女神様ですが、日本神話では御月様は太陽神の天照大神の弟神の月読神とされています。
月読は読んで字の如(ごと)く、日本は米国に開国させられる迄の暦(こよみ)はアジア諸国と同じ陰暦だったので昔は月を基準に生活していたんですね。
欧米諸国は太陽暦で、現在の日本は明治時代以降に太陽暦を導入し、現在は中国の春節と同じ春の節分を行う春分が本来の“迎春”だった訳ですね~。

この日は邪魔な建物の無い海辺で満月さんを見るだけで無く、以前この記事の元記事を書いた時に余り良い写真を掲載出来なかった新磯子埠頭の景色を改めて撮影しに行って来ました。
CIMG9823バス停 東京ガス前
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JR磯子駅から徒歩だと少し遠い距離、東京ガス前バス停、
そこから見たJXTG根岸製油所のプラントと磯子火力発電所の海の夜景。
奇麗でしょ?
好きでたまに夜景を見に夜中にドライブに来ます。
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ここは夜釣りしてる人も多くて、夜でも柵を超えず歩道から夜景を見る分には治安的にも安全なので前回の記事で酷評した某所海岸(笑)とは違い、安心してデートスポットとしても皆さんに紹介できます。
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海に浮かぶ京浜工業地帯の夜景が、更に海に映(うつ)り込み、レンズを通してみると海に反射したプラントの光が更に上空に向かってオーロラみたいに美しい。
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すっごく良いでしょう~?
この夜景の綺麗な場所は、東日本大震災発生当時に東北の人々を凍死の危機から救ったJR貨物と日本エネオス根岸製油所(当時)の人達の勤務場所なんだな。つまり現代の無名の英雄達の働く場所。
コレ⤴️は明治時代の伊藤博文公や、現代のエネオス根岸製油所やJR貨物で働く民間人の無名英雄達が東日本大震災の時に多くの人の命と生活を守った時の功績を紹介した記事。
新磯子周辺 東京ガス前バス停位置 久良岐のよし
位置的にはこんな感じ、地図中央が東京ガス前バス停。
横浜市民にも知っている人は少ないけれど、実は、この先には良い海釣り公園が有ったり、東京ガスのISOGOエネルギープラザってのが有って、日曜日以外に施設が開かれていて火力発電の仕組みやなんかの模型の常設展示が見学出来るので小学生か中学生位の子供のいる家のパパさんママさんが家族で来ると良い場所だったりします。
以前、記事にして紹介してます⤴なので御興味有れば御覧下さい♪
ISOGOエネルギープラザは予約すると火力発電所の施設も見学させてもらえるので、まだ幼稚園~小中学生子供のいる御家庭のパパさんママさんには子供の人生に影響を与えるかもしれない良い夏休みの思い出を作ってあげられるかも知れませんね。
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しかし綺麗だ。
昭和後期生まれには伝わると思うけれど“魔晄炉”みたいじゃない(笑)?
FF7ミッドガルの夜景 スクエア様より借り物
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結構、似てるでしょ?
小生のブログの読者は、どうやら小生より先輩の諸兄諸姉の方が学生世代よりも多くいらっしゃる様です。
もしFF7を知らない世代の方はゲームのオープニングを見て見て下さい。
このゲームは20余年前に発売されたゲームの令和に成ってリメークされ販売されたモノですが、最初の元のゲームが販売された時、関西の人は堺市がロケハンの場所だと思ってる人が多かったそうです。
普通に考えてスクエアエニックスは本社東京な上に堺市より京浜湾岸工業地帯は更に大規模ですし、夜景が奇麗だと評判に成りクルージングが流行したのも京浜工業地帯が先なので東京~川崎~横浜の方が参考にされているでしょうね~。
でも堺市の沿岸部の夜景も奇麗なのを若い頃に京都市左京区に住んでいた時期の有る小生も何回か堺市に行った事は有るので存じ上げてますよ。
今回、堺市説を否定するのは、あくまでスクエアの地理的な問題からの考察です。
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でも本当に奇麗でしょ?
車の中からこの景色を見て過ごすデートの〆は如何でしょう?
最近紹介した夏しか夜間営業しない横浜港シンボルタワーから見る港の夜景も、駐車場入場19時20分で終了、入館も19時30分で20時閉館と早いですが、結構奇麗なので横浜中華街で夕食食べる前に立ち寄ったり昼に芝生でゴロゴロして過ごすのもオススメですよ!
まぁ・・・
小生は今回こんなに綺麗な夜景を紹介しても、実際は一人で深夜に来て撮影し泣く泣く独りの時を過ごしているのですが(笑)。いいんです。
皆さんに情報を活用して貰い役に立てれば♪
・・・小生も奥さん出来たら大切にして、ちゃんとデートに誘って一緒に来るから。
良いんですっ(川平慈英風)!

ん?
その前に失業して骨折して骨折治ったばっかの状況を打開せねばいけないのだった(笑)!

まぁ、最後を劒崎の崖から落ちて骨を折った話で今回は自分は落ちずに話の落ちを作ってみました(笑)。

今回の記事は小生から皆さんへ夏の思い出になるかな~?と思う場所で、三浦半島の奇麗な海や自然とは又一味違った、横浜の“海の“景色”の奇麗な隠しスポット”の紹介でした~♪

では!又、次のブログ記事で!
mixiチェック

今回は連休中や週末に毎日お金をかけてられない時に御金がかからず、かつ今では穴場に成ってしまった灯台の公園を紹介したいと思います♪
実は以前も紹介している場所ですが、夏季営業で夜景が見られるように成ったので再度、紹介記事を書きます。

2020年は新型肺炎対策で三密回避が出来て、カップルデートや子連れの家族団らんに最適の場所ですよ~!

・・・さて、では紹介文に移ります・・・

皆さんは横浜港シンボルタワーと言う場所を御存知ですか?
実は横浜のシンボルはマリンタワーではなく、横浜港シンボルタワーなんです。
しかも!入館無料(笑)~♪
公園だけでなく灯台の展望室まで登れます。
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横浜港シンボルタワー
【交通】
桜木町駅前バス停~30分~徒歩10分
※車は駐車場入口が2個並んでるから要注意してね!
※間違って海釣り公園駐車場に入っても問題ないけど、1km位歩く事に成るよ~(笑)。
海釣り公園駐車場
横浜シンボルタワー駐車場←コッチ!
2つ並んだパーキング入口の奥の方。
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 昭和の近未来建築で動画撮影に♪◎
 本来の港ヨコハマの景色が奇麗◎
 夏は横浜港物流拠点の夜景観賞◎
 広ぉ~い芝生でゴロゴロ出来る◎
 恋人や家族とピクニックに最適◎
 現代では穴場で人が少ないよ◎
 駐車場1日最大500円◎
☞注意するpoint(•ω•)       
 夏期開園時間09:30~20:00
 展望台は最終入場19:30
 バスの最終便が早い!
 夜景見るなら車で来園必須
 運行時間確認必須⤵
https://www.google.co.jp/maps/place/
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この横浜港シンボルタワー・・・
みなと未来21地区の商業の町ではなく、本来の横浜の姿である“海運業の横浜港”と“ベイブリッジの夜景”を見渡せる景色の良い場所なんです。
先に夜景の写真を2枚御覧下さい。
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どうです?
みなと未来21地区より“本来の横浜”らしい~景色でしょ?
余り仕事で港湾に行く用事の無い人は来る機会が無い場所だと思います。それだけに一般の方には珍しい景色が見られて特別な時間を過ごせる場所でもあります。
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連休とは言え毎日お金を使って家族でレクリエーションしてらんないですよね?三蜜回避出来る場所、そして穴場として紹介したいと思います。
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ここは芝生の広場が気持ちよく、しかも平成生まれのルーキー社会人や学生世代には余り知られていない“昭和時代(笑)”の公園なんです。
天気の良い日にレジャーシートと好きなお弁当持って来て、家族やカップルなら凧(カイト)やサッカーボールや野球ボールとミット持って来ても楽しいし、一人でも本とiPod持って来てゴロゴロしながら本を読んでも気持ちが良いんですよ~!
駐車場の空きスペースでラジコンカー走らせても楽しいかも!
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もう建物が昭和のウルトラマンの基地でしょう?
このシンボルタワーの展望台は無料で入れるので夜景や横浜港のコンテナヤードを見渡す事が出来て夜景の穴場スポットでもありますが、車が無いと来るのに難易度が高いので、余り車を持つ事に関心が無い平成世代には知られなくなっちゃったんですよね~。
小生の様な最後の昭和世代の“ハマっ子”でも知らない人も多いくらいです。
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なかなかコンナ風にガントリークレーンと積み上がれたコンテナの風景を見る機会って無いでしょ?
ただ御弁当を持参しないと公園内には食堂やコンビニはありません。
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波止場食堂
車なら、ここに来る途中に波止場食堂と言う海の男達が食事する場所も近くに有ります。
連休中や週末の営業状況は分かりかねますので確認してみて下さい。
いわゆる食堂ですが、子供連れならカツカレーとか凄く喜びそうですよね~。
小生は数年前まで通関士の友達がこの近くに住んでいたので、一緒に三浦半島に遊びに行く時とかに良く迎えに来て、ここで待ち合わせしていました。
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シンボルタワーですが、駐車場も結構あるので車で来た方が良いでしょう。
若い子で車が無い子は無理して、ここに来るだけの為にレンタカーを借りる必要は無いと思う。
たまには御父さんや御母さんと家族で散歩しにピクニックに連れってって!
・・・と御願したら御両親も喜ぶんじゃないかな~?
勿論、友達同士で自転車で来るのは有りだよね。小生も中学生の頃に丹沢のキャンプ場や小田原城を見に普通の自転車で60kmとか走って友達とヘロヘロに成って内股と御尻が真っ赤に腫れた思い出有るし。冒険も楽しいから。
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で、夏季営業で20時閉場、シンボルタワーに登れるのは19:30までだから気をつけてね!

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ちゃんと休憩所も有って食堂の機能は備わってないけど、ジュースや17アイスの自動販売機も有るし、記念品の物販も有るよ~。
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中は普通の会社の会議室みたいなテーブルと椅子(笑)だけど、もう何十年も経(た)ってる建物だけどちゃんと奇麗な状態で清潔感有るしエアコン効いてる(笑)。
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だから、暑ければママやパパはここに退避出来ますよ~。
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でシンボルタワーに登るとこんな風に景色が少しづつ広く見え始めます・・・
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陽が落ち始めると、景色が更に奇麗に成ってきます。
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07月末~08月01日前後の日没時間は19時±10分。
これに留意して風景を見に行くと良いよ!
ベイブリッジに灯(ひ)が点(とも)り白い姿が強調されて見えます。
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コンテナヤードも奇麗だよ。
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ガントリークレーン越しには皆良く行く、みなと未来21地区。
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クイーンズスクエアとランドマークタワーが見える。
そしてベイブリッジから視点を右下の横浜港の入口に向けて見ると~
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写真の右側に海を塞(ふさ)ぐように波止場が有りますよね~?
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実はここに、とっても“色白で青い目をした美人サン”が佇(たたず)んでいます。
この横浜シンボルタワーが有るのは“D突堤”と言う場所なのですが、その先にある“第一新堤”の灯台さんです。
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奇麗でしょう~?
是非、夜景を見に行った人は、この美人サンも見て来てあげて下さい。
でもちょっと一人で寂しそう。
実はこの青い目の美人サンの対岸に赤い灯台さんもいます。
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シャア専用灯台みたいな(笑)。
・・・まさか“連邦の白い灯台”と“赤い彗星の灯台”とか裏コンセプト有るのか⁉とガンダム好きな人は思いそうですが(笑)、これは港に入港する際に船の位置が判(わか)る様に入口に向かって右手が赤、左手が白と成る様に“航路標識法”で規定されているから、必ず大きな港湾の入口には紅白の灯台がsetで設置されているそうです。
決してコンナ⤴赤いシャアザクと白いガンダムを意識して横浜港に紅白の灯台作った訳じゃなく、どこの港湾都市も同じ様に紅白の灯台が有ります。
都市計画した人がガンダム好きだったら楽しいのに(笑)。
そう言えば・・・
・・・本当に横浜港の山下埠頭に以前お台場海浜公園に在(あ)った18mの実物大ガンダムが設置されるそうですよ!
まぁ紅白の灯台は、あくまで外洋で入港待ちしている船舶が港の入口の為に法律で規定されている訳ですが・・・
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・・・横浜港沖には、こんな風に多くの巨大な貨物船が入港待ちしています。
世界中の主要港で同様の状況が起きるので、船舶が港の運河に入る際に混乱しない様に入口の表裏が確認できる様に成ってるみたいですね。
ここに来ると森鴎外サンが作詞した横浜市歌の意味が現代人にも解かるかも知れないですねぇ。
昔は・・・
“山下埠頭=江戸幕府神奈川運上所”
“みなと未来21地区=新港埠頭=赤煉瓦倉庫”
・・・の直ぐ沖合まで船が入って来て、その写真みたいに大きな蒸気船が沢山順番待ちしていた風景が見れたんでしょうね~。
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横浜港シンボルタワーに登るなら、塔の中に入る前に紅白の灯台も是非探して見て下さい♪
横浜港の入口のマークですから必ず、そこをライトアップされている遊覧船も通過しますから、白い灯台サンと観光船とのコラボの写真が撮れたりします。
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そして完全に陽が落ちると横浜ベイブリッジとD突堤新堤の灯台サンの白亜の色が、宇宙の濃紺に染まった空とのコントラストで強調され美しさが更に際立ちます。
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まぁ~正直、ここだけで丸1日時間を潰すのは結構ムツカシイ(笑)です。
でも昼下がりに御弁当持って来てレジャーシート敷(し)いて、広々とした芝生の広場で御昼御飯を食べてからボール遊びしたり小生みたいに教材の本とCD持って来たり小説読んで過ごして夕景見て帰るのも気持ちが良いし、御金を本当に使わないで済むし(笑)。
大桟橋とか赤煉瓦倉庫とか何回も行ったなら、横浜中華街のディナーとか山手地区の洋館観光と合わせてコッチに来ると良い休日や連休のレクリエーションにも繋げれますよね。
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シンボルタワーも格好良いしね!
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展望台にあがらなくても、ここのベンチで彼女や奥さんとユックリ海を暫く眺めても良い時間に成りますよ~。
小生は今一人で寂しく御散歩しに来るだけですが(笑)。
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小生は21日に行った時は帰りに17アイスのブルーベリーチーズケーキを食べて帰りました。
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この自販機のアイスね~、昭和世代には観光地で良く売ってた思い出が有ると思う。
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普段、駄菓子屋で買って食べてたガリガリ君とかホームランバーとかと違って、ちょっとした御馳走みたいな感じだったのかな~?
まぁ~こんな感じで今の季節、夏季営業中だけ夜景を見られるので紹介してみました。
もちろん、日中の芝生遊びも楽しいので、是非、皆さんいらしてみて下さい♪
ハマっ子ローカルな穴場情報でした~♪

では!又、次の記事で御会いしましょう~。


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胴網海岸&横堀海岸
古代の風待ち港小網代湾(こあじろわん)
知る人ぞ知る新井城址の2つの隠しビーチ
【横堀海岸】
【水質】
 胴網海岸★★★★
 横堀海岸★★★★
【景色】
 胴網海岸★★★★
 横堀海岸★★★
【電車】 
 両方とも三崎口駅~バス20分、
 油壺マリンパーク降車
 胴網海岸・・・徒歩10分
 横堀海岸・・・徒歩05分
【  車  】
 公共油壺駐車場
 マリンパーク駐車場
【休憩】
 周辺に宿泊施設多数。
 観潮荘に日帰り温泉有り。
 胴網海岸
 予約制の手ぶらBBQ施設有り。
 施設利用者トイレシャワー使用可。
 横堀海岸
 食事と飲酒出来る飲食店併設。
 施設利用者トイレシャワー使用可。
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 両方とも知る人ぞ知る隠れビーチ◎
 小さいけれど砂浜と磯が有るよ◎
 胴網は予約制の手ぶらBBQ有り◎
 横堀は常設の飲食店あるよ◎
 両方とも城跡の一部で歴史が凄い◎
 胴網海岸は海からの城門地形だよ!
 横堀は御城の堀切状空堀跡だよ!
※3つの海岸が近くにあるから混雑
 しても空いてる場所を選べるよ◎

☞注意するpoint(•ω•)       
※コロナ禍中は三密対策に不向き。
 隠れビーチだけにキャパ少ない。
※城跡だけに超判り難い場所だよ。
 初訪問で行くのにGoogleMapの
 ナビ機能使うと迷わない。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
胴網海岸・横堀海岸は両方とも地元の三浦市民でも若い世代には知らない人も多い知る人ぞ知る穴場の文字通り隠れた場所に在(あ)る海岸。
両方とも砂浜と岩礁の磯が有り、二つの海遊びが出来る。
近くにヨットハーバーが有るのでヨットの⊿三角形のマストが海を走って行く優雅な景色を眺めながら飲食したり、物凄く夏らしい事が出来る。
又、胴網海岸には“Step camp base”と言う予約制の手ぶらBBQ施設が有り便利で利用客は建物内のシャワーと更衣室も利用させてもらえる。
横堀海岸にも常設の飲食店“みなと屋”が在り、海を眺めながら居酒屋の様にリラックス出来る。こちらも利用客は飲食店内のシャワー室を借りる事が出来る。
ただし穴場なだけに海岸としては小さく、行く前に混雑状況を上記の御店に確認した方が良い。
胴網、横堀に加えてすぐ近く徒歩圏内に荒井浜も在り3つの海岸が近在している。
もし目的地の一つが混雑していても3箇所とも海水浴場の過去実績が有るので移動しても安心して遊べるので、各海岸に有る飲食店に当日や前日に混雑状況を聞く事で混雑回避して空いてる場所に移動も出来る。
※狭いだけに2020年は三密に要注意
油壺や小網代の混雑時には車での来訪なら30分以内で行ける距離に大浦、三戸浜、和田長浜の海水浴場も存在するので混雑していた場合の訪問先変更の選択肢が多いのも、この油壺や小網代地域の利点。
歴史的な解説をすると、この一帯全て城跡だったりする。
この胴網海岸と横堀海岸は名前から何となく解かる人もいると思うが、実は新井城と言う平安武士~戦国大名化した三浦氏の拠点で日本最長、4年弱の籠城期間を誇った名城の一部だった。
ここに拠点が置かれた理由は古代から三浦半島新井城址の小網代(こあじろ)湾、平塚市側の相模川河口の須賀港、伊豆半島熱海市の網代港の3港が船の係留に適した地形で風力と海流を利用して船足を高め輸送力と出来た地点だったので、平安時代から戦国時代にかけて海運拠点として栄え重視されていたので水軍基地としても発展した歴史が有る。
平安時代以前、縄文や弥生時代にも当然ながら海上交通の要所だったようで、この航路を利用し伊豆諸島から“黒曜石”が輸送され交易に使われていた。
この石⤵️
黒曜石はオニキスみたいに綺麗な石だけど強度がガラス位で加工しやすく金属器が無い時代に刃物に加工された。
戦国時代には伊豆大島の染物は特産品として重宝された事もあり新井城主の三浦家が北条氏綱公に伊豆大島を奪われるまで代官を置き支配し、小網代湾から須賀、網代、伊豆大島を船が行き交っていた。
江戸城を築いた太田道灌公も主家の居城、伊勢原市の大城郭糟屋館に赴く際この海路を利用していた事が菩提寺の胴昌院にも伝わっている。
戦国時代の三浦家の最重要拠点だった新井城址の横堀海岸は文字通り城の主郭(しゅかく:本丸)へと続く道の地面を削って空堀にして侵入路を断ち切り、行軍可能な人数を制限する真横に半島を断ち切る堀切の空堀に由来する地名。
ー横堀海岸入口が“堀切”状空堀名残りー
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新井城の岬を分断する構造体なので、横堀海岸由来の空堀跡は道の反対側にも続きが現存する。
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つまり戦国時代には、横堀海岸入口~道の反対を空堀がブチ抜いて掘られていて、戦時に撤去出来る引橋がかけられるか土橋が削り残された城外から城内主要部に侵入する外側の最終関門だった事が解る。
ー胴網海岸の“食違い虎口”地形ー
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胴網海岸は小網代湾側の城に直接登城する船着き場だった様で、砂浜から居住区域だった丘の上に続く山裾が削り取られ城壁化された切岸に成っており、道が人工的に鋭角にL字型に九十九折(つづらおり)にされており、侵入する敵を常に正面と側面から弓矢や鉄砲で十字砲火攻撃し防衛する“食違虎口(くいちがいこぐち)”構造に成っていたりする。
ちなみに三浦義意公の時代にまだ鉄砲は武士に普及してないので、防衛の主力兵器は弓矢だった。
ー胴網海岸上の名将道寸公の御廟横の“竪堀”地形ー
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三浦道寸公の御廟の横の谷も人工の竪堀が残り、胴網の食い違い虎口から敵が山腹をよじ登り真っ直ぐ丘上の曲輪群に侵入出来ない様にしてある。

こうして“城”として現地を見ると一見、古戦場で「怖そうだ」と歴史を知らない人は思いがちだが、実はここは最後の城主の三浦義意公と奥さんの真里谷(まりやつ)武田家の姫の御夫妻の縁結びで有名な地域なのでデートやBBQ合コンで来たら良縁に恵まれる事で、縁結び祈願の女性に周辺の神社仏閣と合わせてマリンパーク一帯は有名だったりする。
周辺には京急の運営する観潮荘と言う日帰り温泉施設も備えたホテルも有る。
観潮荘の他にも周辺一帯に料理の美味しい民宿やペンションが多数有るので、滞在費用を抑えて数日間三浦で夏を満喫するのも良いかも知れない。
ー胴網海岸ー
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ー横堀海岸ー
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穴場海岸の紹介一覧へ⤵
人工的に地形を切り出した戦う為の戦国時代の御城に興味ある人は・・・
コレ見て見てくだされや~⤵
これも初心者にわかりやすいサイト⤵ 
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荒れまくりぃ~☝️=☝️⤴️
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・・・とIKKOの声が聞こえそう。
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荒くれ具合がカッケェ~ぜ!素敵♪
砂鉄の黒砂も鬼気迫る色合い。

こんなんでもサーファーいるよ~。
強ぇ~なぁ~!
良い波だけど気を付けてねぇ~。

七夕祭りは中止だけど、例年七夕の頃に平塚八幡宮に行ってるから御参りしに行った帰りの七里ヶ浜でしたぁ。
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屋台出てないから七夕に御参り行かないんじゃ毎年夏に御参りしてる応神天皇八幡大菩薩様にも何だか失礼だし・・・

織女(棚機津女:たなばたつめ)と牛朗(牽牛彦)も1年に1日漸(ようや)く夫婦一緒に過ごせる日に、知らない奴等がアレやコレや縁結びや大願成就の御利益に肖(あやか)ろうと集(タカ)られつつも何だかんだ皆で祝ってくれてたのが、今年は屋台出ないから誰も御目出度いの共有しないとか理不尽過ぎでしょ。

織女様~牛朗さん~今年は屋台で飲んだくれてる酒乱もいない七夕祭りです。
・・・暫し女夫(めおと)でごゆっくり~!
( ´꒳` )ムフっ♪

サムネのフリー素材⤵️
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※2020年新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。

神奈川の景勝50選の荒崎
(江戸幕府海防陣所跡)
なんやの浜
【荒崎公園】
【なんやの浜】
【水質】★★★★
【景色】★★★★★
【電車】★★★
 三崎口駅~バス25分
 荒崎公園降車 
【 車 】 ★★★
 荒崎公園駐車場有り 
【休憩】★★
 海の家無し、公共トイレ有り。
 付近に眺望の良い旅館有り。
 半径500mに海鮮料理店2軒有り。 
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 神奈川の景勝50選の一つだよ。
 海岸と松は浮世絵の様で絶景。
 なんやの浜は小さいけど泳げるよ。
 なんやの浜の奥の夕陽は絶景だよ。
 公園に隣接し風景の良い旅館有り。
 1km以内に長井漁港と飲食店有る。
☞注意するpoint(•ω•)       
 昔は海の家有ったけど今は無い。
 季節と曜日によって駐車場有料。
 公園なのでキャンプBBQ禁止。
 海藻や貝類の採取禁止。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
荒崎は神奈川の景勝50選の一つ。
三浦半島のみならず南関東のどの海の景色とも異なる威厳と美しさを持っている。海底の地層が縦に捲れ上がりそそり立ち、岩々の間に波が砕け海水が小川の様に潮目と異なる方に流れる。
海水も透明でかなり奇麗な水質。
公園内は遊歩道が設置され海辺の散策コースとして整備されており、ゆっくりと散策できる。
ピクニックの丘~潮風の丘~荒崎弁天島~夕陽の丘と有り、それぞれに特徴が有る。
ピクニックの丘から弁天島を歩けば海蝕洞窟が沢山有り、ちょっとした探検気分を楽しめる。そこから見る松の生えた弁天島が海波に洗われる景色は正に江戸時代の風景画の様で必見。
夕陽の丘は文字通り夕陽と富士山と相模湾を一望出来る。
荒崎公園の海岸は海水浴には向かないが、駐車場手前の長井荒井漁港の奥にある“なんやの浜”は長さ50m程度と小さいが良い水質を保ちながら穏やかな砂浜で子連れで安心して遊ぶ事が出来、平成の初期までは公設海水浴場として機能し海の家も出店していた実績も有る。なんやの浜の更に奥には真西に向かって捲れ上がった岩盤地層の海岸があり、そこから眺める夕陽は絶景。
歴史的にはここは平安時代からの要衝で長井城として機能していた。それを幕末に江戸幕府が外国船に対する警備陣地として砲台に再整備し利用した。
荒崎公園は景勝地なので“公園”として整備されておりキャンプとBBQは禁止されている上に、周辺は漁業権の必要な漁場なので条例順守を。
近くには明治生まれの海軍大将として活躍しながら、英語仏語独語をネイティブレベルで使いこなし日米開戦と共産党弾圧に反対し終戦交渉で活躍した井上成美大将の邸宅も有り2011年迄は記念館として機能したが東日本大震災後に閉館した。
荒崎公園内には公共トイレと自動販売機のみだが食事も出来る海音相模屋と言う風光明媚な旅館が隣接して存在する。
他にも荒崎公園の近所に長井荒井漁港や南関東では有名なブランド漁港の長井漁港が有るので半径1km以内に数軒のGoogle口コミ高評価の和食料理店や寿司屋が有る。
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※なんやの浜
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※ピクニックの丘~荒崎弁天島
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※ピクニックの丘と潮風の丘の間の海岸
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※潮風の丘
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※夕陽の丘
穴場の海岸の紹介一覧へ⤵️
 
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