歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

カテゴリ: 城址・要塞・史跡・伝統文化


皆さん鎌倉殿の13人はご覧に成ってるでしょうか?
源頼朝公や源範頼公、義経の兄弟は歴史上でも個性を活かして活躍しましたが、ドラマでも夫々(それぞれ)史実と異なる描写は有りますがドラマのキャラクターとして人を引き付ける演出がされていましたよね〜?
鎌倉殿源頼朝3
鎌倉殿源範頼2鎌倉殿源義経2
実は彼等よりも武将として優れた人物が彼等の近親にいたのを御存じでしょうか?
しかも、その人物は京都から見た中央史観では伊豆大島で死んだ事に成っているのですが、どうも源氏の根拠地に成っていた相武地域、つまり現在の神奈川県〜東京都〜埼玉県では状況的に・・・
「あれっ・・・これ生きてたんじゃね?」
・・・と言う複数の繋がりが出来る史跡が有るんです。
その源氏最強武将と言うのが、京都から追放されるたびに流刑地を一人で征服して領地にしてしまう凄まじいバイタリティーと指揮官としての軍才と個人戦闘能力の高さを合わせ持っていた武将で名前を源鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)と言います。
鎌倉殿源為朝
「ん・・・呼んだ?」
この人の事を知らない人の方が余り歴史に興味の無い人は多いと思いますので、皆さんも見ているかも知れない鎌倉殿の13人の登場人物紹介を拝借して人間関係を整理するとコンナ感じの相関図です・・
↙(遠縁の親戚)↘ 
鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿上総広常3
 (三浦家二男)↘ ↙(有力者)(後見)
         ↙協力↘     ⇩
  (三男)    ⇔      (父親)  ⇩
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿源義朝
   ⇩     ↘↙  (長男) ⇩
  (叔父) (弟) ↙↘  (叔父)  (弟)
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源行家
(兄)   ⇔   (弟)
さて、朝廷側の史観からは源為朝公は伊豆大島と伊豆諸島を征服した後で後白河天皇から討伐軍を送り込まれて死んだ事に成っています。
しかし神奈川県内には、彼が匿われながら移動していたと解る点が線で繋がる生存伝承地が幾つか現存していて、伊豆大島から横須賀市浦賀港~鎌倉市材木座/逗子市飯島地区~横浜市上大岡と一筋に繋がる生存ルートの為朝公伝承地が有ります・・・

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鎮西八郎為朝神社
(濱町の為朝神社)

この鎮西八郎為朝神社は実は伊豆大島に討伐軍を差し向けられた際に彼が浦賀に逃げて来たと伝わり、彼の武勇を慕った地元の方達の御先祖様が源為朝公を御祭神として神社を開いたそうです。この鎮西八郎為朝神社は西叶神社の宮司様が兼務されていますが、神社庁に属さない地域持ちの神社なので余り知られていない上に、地域の人達に取材しないと説明書きも無いので由来も解らず終わってしまします。
この場所は完全に三浦家の支配圏内ですから、状況的には彼は保元の乱では対立した源義朝公や三浦家によって救出されて死んだ事にされた上で、横須賀の浦賀港に上陸し更に鎌倉に一度入った様です。
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ですから源為朝公は、目立つ三浦半島西海岸の三崎港や新井城下の小網代港や諸磯港ではなく、伊豆半島の網代港でもなく、平塚市の須賀港等の古代からのメジャーな風待ち港ではなく、この地域に上陸し密かに匿われた様です。
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源義朝
「兄上HELP!」「もぅ仕方無いなぁ」
         「三浦サン頼むわ!」
            ⇩
         鎌倉殿三浦義澄
       「・・・合点でぇい!」
鎌倉の方の話しに移る前に・・・
余談ですが鎮西八郎為朝神社は以前紹介した燈明堂海岸の比較的近くに存在しています。


もし源為朝公ファンの方は上大岡の歴史散策とSETで浦賀も訪れ、千代ヶ崎砲台や燈明堂海岸や西叶神社と東叶神社を散策すると非常に充実した1日に成るかと思います。

千代ヶ崎砲台は見学済みですので又、改めて解説記事を書きたいと思います。
江戸時代にも千代ヶ崎台場が築かれ明治時代には砲台化され、更に対岸の東浦賀の叶神社の背後の山稜は三浦氏の浦賀城として城塞化され戦国時代にも北条家によって配下武将が配置される等、浦賀は重要な港湾であり尚且つ平安時代には既に海上交通の要衝に成っていました。
それを説明するのに保元の乱の話しをしたいと思います。
保元の乱では兄の源義朝公の敵側である崇徳上皇に父の源為義公と共に与力してしまい、後白河天皇に与力した義朝公と平清盛と戦う事に成りました。
鎌倉殿後白河法皇
鎌倉殿平清盛鎌倉殿源義朝
鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿大庭景親
VS
鎌倉殿源為朝

崇徳上皇、藤原頼長、源為義(義朝/為朝/行家実父)、源頼憲、平忠正、平家弘等・・・
この戦いで源為朝公は善戦しますが、彼と父の源為義公等の与力した崇徳上皇の軍勢は、為朝公の実兄の源義朝公や平清盛公の軍勢に大敗します。
結果的に源為義公と平家弘公は斬首に成り、源為朝公は逃走して近江国に隠れていた所を捕縛されて、三浦家や伊東家等の水軍を持っている武家しか行く事の出来ない伊豆大島に島流しに成りました。
伊豆大島に島流しに成った源為朝公は元々個人的な武勇が優れているだけでなく可也(かなり)指揮官として優れた軍人で人望も有ったので瞬く間に伊豆大島を支配下に治めてしまうと、今度は伊豆諸島の離島まで征服してしまいました。その為に追討軍を差し向けられて殺害されたとメジャーな話では伝わるのですが、伊豆大島から横須賀~逗子鎌倉~上大岡に足取りを辿れる様に中継地点の史跡が幾つか残っています。
鎌倉市の材木座海岸と逗子市の小坪の丁度、境界線に当たる地域にも源為朝公の足跡を辿る事が出来ます。
当時の旧鎌倉郡は逗子市も含まれていました。戦国時代頃には三浦郡に成っていた様です。
江戸時代の三浦郡小坪村飯島には鎌倉十井の一つに数えられる六角井が有り、この井戸が現存しているのですが、実は源為朝公の伝説が残っている場所です。
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鎌倉十井の1つ 六角ノ井
すみません、しょっちゅう行ってる場所なのに史跡としては鎌倉市が管理を怠っていてブルーシートで覆われている様な状態でショボ過ぎる写真しか有りません(笑)。
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この六角井は伊豆大島から放った為朝公の屋が井戸の中に落ちた云々の非現実的な伝承が伝わっていますが、現実的な解釈をすれば伊豆大島で戦乱を起こした為朝公は実兄の源頼朝公と三浦義明公義澄公に救出部隊を送られ浦賀に上陸してから、更に海路で小坪か材木座に上陸し、この付近に一時期潜伏していた時に、当時は井戸を掘る時に水神様や土地神様への御供物として武具や調度品を入れたり神事を行う習慣が有ったので、為朝公が六角井の建設に関わったのかも知れないのが死んだ事に成っていたので伝承が間違って伝わったと考えると現実的ではないでしょうか?
この六角井辺りは丁度最近、富士山の景勝地として3ヵ所に分けて紹介しています。

凄く綺麗な場所なので天気の良い日に逗子〜鎌倉観光をされる人は是非、源為朝公の六角井や富士山の景色を見に訪れてみては如何でしょうか?
さて、この六角井は現代の鎌倉と逗子の境界線に成る訳ですが、鎌倉郡と三浦郡と久良岐郡は共に三浦家の氏族の領地が多く有りました。
今回紹介する場所には上大岡も有ります。六角ノ井の所在地は当時の鎌倉郡に当たる訳ですが、もう1つ為朝公の隠れ里の伝承が有る上大岡は久良岐郡に在り鎌倉郡に隣接します。
ここまで伊豆大島⇨浦賀港⇨小坪港西浜〜材木座と着実に上大岡に近づいてきていますね〜。
これね、メジャー文献しか読まずコピペばっかして自分で歩いて見て取材しないガクシャ様は知らない伝承なんです。
文献考古学で解る範囲の事は必ず為政者や筆者にとって都合の悪い事って書かれないんですよ、ほとんどね。だから歴史民俗は状況判断にとっても重要。
現代だって御役所の中でソンナ事は沢山有るし、公務員に限らず民間人の皆さんだって小生と違って自覚が有るんじゃないですか〜?
上司の命令で法律や規定を逸脱した方法で仕事したりしてませんか?
契約の評価基準下回ってるのに良品として納品したりしてませんか?
中小企業の社長サンにも求人は偽の雇用条件が堂々と記載されていて労働条件通知が出されると全然内容が違ったり、労基法すら全く順守せずブラックな労働条件で働かせたりする人沢山いるでしょ?

中小企業の社長サンには労働基準法を順守せずに新しい親日国のベトナムの友人達を技能研修性と称する❝奴隷化❞して反日ベトナム人を増やして将来の反日国を増やす事を何とも思わず日本の国防と国益を脅かす❝国賊❞の様な真似をしておきながら「自分は普通の市民」面して生きてる人もいるでしょ?
日本の国力を衰退させ友好国を非友好国に変えてしまう「外患誘致」ならぬ「外患製造装置」みたいな中小企業の経営者が現代の日本にも沢山いるよね〜。
ハッキリ言って中道保守派の小生から見てソイツ等悪人中小企業経営者は、友好国ベトナムの方々を奴隷化して友好国を減らし反日装置を製造する❝国賊❞だわな。
そんな連中は日本人失格。
武士も嘘を吐きますけど家族みたいに部下を大切にして部下が死んでも収入を保証して結婚相手まで面倒見たり、当主が討死した家の子の後見人に成ったり配下武将の家族の面倒を見たりするから、武士の棟梁に対する忠誠ってのは強固だったんです。
この理念を常日頃言っていたのが松下幸之助師匠ですね。

つまり松下幸之助師匠や町単位で市民の生活を考える豊田章男社長の様な人は、現代人ですがやっている事は丸っきり武士の発想なんですよね。

皮肉な話ですが、この御二人は紀州人と三河人なので平安末期の感覚で言う所の三河以東や関東地方以東を意味する坂東人ありませんが、東海地方や畿内に平安時代の武士イズムが脈々と受け継がれているのは、逆に腐れ儒教の影響を色濃く受けた江戸幕府の影響下に無かったから平安武士と同じ感覚が企業経営理念に残っているのかも知れませんね~。
小生の雇い主は客観的に見て松下幸之助サンに理念が似ている上に営業職の小生が加工技能習得の研修を志願したら意を組んで下さったり豊田章男社長の理念も持ってらっしゃいます。
頼朝公や信長公が頼りにした平安時代~室町時代の熱田神宮の宮司家であり武装豪族だった千秋家や、平安末期の坂東武者の棟梁の様に兄貴的な人なので、小生は雇用主の配下として三國志の孫策・孫権に仕えた呂蒙や関東地方の北条綱成公や梶原景時公や長尾定景公の様に働く存在に成りたいと思えたりします。
小生の雇用主御本人には、直接こんな小生が思ってる事なんて言いませんけどね、なぜなら小生は上司に媚び売る姦賊が大っ嫌いなので。
実力でサポートし、雇用主が言い難い事ややり辛い事を先陣切ってやったり、実力を付けて時には雇用主が危険な判断をしそうな時は数パターンの諫言を用意出来る様な人材でありたいと思う、今直ぐじゃなくても。
立派に業績を打ち立てる日本を代表する経営者は坂東武者に似ていると言う話をした訳ですが・・・
まぁ、武士の時代以前の神話の神様に神格化された古代の豪族の時代~現代まで人材を人材として家族の様に扱わない集団、過去の成功パターンに固執して新しい事に挑戦しない集団、家族や配下を食わせる為に必要な潮流を読み時流が動き出す前に機会を先取りしない集団は必ず滅びた例が現代企業でも溢れているって事です、歴史を見れば。
現代の日本企業は外資系企業と比較して人を大切にしないし従業員の家族なんて眼中に無い場所ばかり。古い事に固執して発展を止め、挙げ句の果てにデータの数値改竄や労基法違反隠蔽し更に友好国から来た研修生を奴隷にし反日国を増産してる国賊経営者もいる訳で、ソンナ連中は昔風に言うなら国賊です。
鎌倉殿源頼朝2
鎌倉殿源範頼2鎌倉殿源義経3
鎌倉殿源大姫鎌倉殿源頼家鎌倉殿源実朝

鎌倉殿北条時政2鎌倉殿牧りく鎌倉殿北条政範
鎌倉殿北条政子2鎌倉殿北条義時小鎌倉殿北条時連
鎌倉殿北条泰時

そんな現代日本人の悪人首領と同じように吾妻鏡だって北条家にとって都合の悪い事は粉飾したり削除してる形跡だらけですしねぇ〜。
恐らく源頼朝公も北条家が主導した暗殺だったでしょうし、源実朝公を殺害させた主犯も北条家でしょう。何だったら大姫だって毒殺で殺されたかも知れないし、上総広常公の暗殺も北条家や三浦家の主導だった可能性が可也高く有ります、だって上総広常殺害して奪った領地を給与されたのは三浦一族と北条一族と千葉一族ですからね。
まぁ、北条家は謀略で沢山の主家源氏の忠臣である同僚を謀殺し、更には主君の源家を暗殺で根絶やしにし、発言権の強い別の鎌倉御家人を全てから滅ぼして❝身内人❞と呼ばれる自分の家族に等しい北条家臣団中心の幕府運営に組織を作り替え、従属する源氏の御家人も大切にして日本を纏め上げた結果、元寇襲来時に武士団がバラバラにならず指揮系統が強固に保たれ世界最強のモンゴル軍を追い返せた訳です。
現代の国賊中小企業経営者とは違いますね・・・
今の日本企業経営者は海外に技術流出させまくり。
親日国の人々を技能研修生の名目で奴隷化して反日国を量産、日本の発展と日本国民の生活を脅かす内憂であり国賊でしたかない。
・・・とは言え先述の通り吾妻鏡は北条家にとって都合の悪い事は省かれている様に、メジャー文献からは消されたり違う事を書かせたり愚管抄の様に他人の又聞きを書いてるに過ぎなかったり粉飾や隠蔽で辿れない事も多いんです。
例えば愚管抄は比企氏と源頼家公を守ろうとして死んだ小生の尊敬する武将の一人である糟屋有季公の子等の伝聞で書かれた物で、多くの❝鎌倉時代の研究者❞を自称する文献考古だけでは見落としがちなのですが・・・
広範囲に調べたりせず自分で地元を歩いて廻ったり別の時代の史料を読まないタイプの文献考古のセンセイ様(笑)は愚管抄を妄信したり思い込みで伊勢原市の糟屋氏は相模国では滅亡したと思っている人が多いのですが、実際は室町時代にも相模国に一族が生き残り扇谷上杉家の家臣団として藤沢市域に残っていたり、室町時代後期にも小田原北条家臣として所領役帳に記載が有ったりします。
ましてや畠山重忠公討伐の北条家による騙し討ちの二俣川の合戦では愛甲季隆公が活躍していますが、この時に活躍したのが伊勢原市~厚木市の軍勢だったのは有名な話ですね。

そりゃそうですよね~、三浦家だって本家は滅亡しても分家の佐原義連公の家系が存続して活躍し苗字を佐原から三浦に復しているのですからwww。
和田義盛公の御子息の朝比奈義秀公の御子孫と思しき三浦一族も戦国時代に北条家の主な根拠地の1つになっていた駿河国に戦国時代も存在して今川家臣団として登場します。
吾妻鏡の隠蔽については以前に書きましたが、上総広常公の死に様の1年間の削除なんて代表例でしょ?
この人⤵
鎌倉殿上総広常3
「え、俺の話?」

だから色々と古文書に書かれた事なんて検証せずに鵜呑みにしてコピペして本にしたら❝OUT❞なんですよねぇ〜。
本物の歴史家を尊敬する小生は素人歴史オタクとして数人の歴史かの知り合いがいます。
尊敬するプロの歴史家の博士や学芸員サンとダメな❝歴史ガクシャ先生❞化した人を見て来て思うのは、歴史のプロの方々にとって大切な刑事の様な人の嘘を見抜いて情報を収集し取捨選択して、現代の行政区分の市境や区境の範囲や地形の先入観にも捕らわれず、自分の興味や研究の対象外の雑談からも情報を吸収し関連付けてから立証していくエジプト考古学の様なスタンスが必要なのだと思います。
だから小生が尊敬する歴史家ってのは現地を実際に見て廻ったり現代に成っても御子孫達に聞き取りをして廻ってる人ばかりなんですが・・・
神奈川県には鎌倉殿の13人に登場した源氏の人物に関連する武家の御子孫が2家現存しています。
その鎌倉殿の13人に登場した重要な人物はこの人です・・・
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源頼家
※故人:息女が嫁ぐ↗     ⇩
    実弟  甥    親子
    ⇩     ↘    ⇧
2鎌倉殿源行家鎌倉殿源頼朝
「挙兵しろぉ〜」⇨「煩い叔父だ」
    ⇩        ⇩
鎌倉殿源行家鎌倉殿源頼朝2
「領地よこせぇ」⇨「オッサン邪魔」
この源為朝公の子孫が海老名の大島家や源頼朝公に伊豆大島の代官に任じられた大島家な訳ですが、もう一人の頼朝公と対立した源行家の関係先と伝わる家が、為朝公生存説の史跡の有る地域に存在します。
それが源行家公の家臣団と伝わる家柄の田野井家、山野井家で、この家が為朝公の隠れ里と伝わる当時は三浦一族の領地だった大賀郷と呼ばれた地域一帯に現存しています。
山野井と田野井って何だか童話に出て来る金閣・銀閣のコンビ名の様な苗字ですが(笑)、横浜市の郷土史では田野井家と山野井家は新宮十郎行家の家臣と伝承しています。

横浜市会議員だった田野井一雄サンは源行家公の御家臣に当たる訳ですね。
この田野井家は現在の港南区日野と言う旧鎌倉郡との郡境に根付き室町時代には豪農的な立場に成っていた一族の様で、その一帯は室町時代に成ると地域的に戦国大名の北条一族で北条本家の軍師を務めた北条幻庵公の所領に成っていたので小机衆として動員されていた可能性が有りますが、その地域一帯は概ね間宮林蔵の祖先の間宮康俊公の領地にも被っていたので玉縄衆だったかも知れません。
玉縄衆や間宮家に関しては以前紹介した記事が有るので、御興味有る方は以下の過去記事を参考にして下さい。


山野井家の方はと言いますと現在のG麺7の有る上大岡地区、旧久良岐郡禅馬郷大賀村とか平子郷大賀村とか大賀郷大賀村上大岡村とか地名が何回か変わってり村区分が分割されたりしたらしい京急上大岡駅の辺りにいて、その辺りは平安時代末には源頼朝公の父君の源義朝公と源行家公の実弟の源為朝(ためとも)公の所領だった様です。

以前、G麺7の紹介記事や、この地域の丘を登った場所にある森浅間神社の記事では上大岡は少し紹介した事があります。
今回は源氏最強の源為朝公の史跡紹介で上大岡に辿り着いた訳ですが、本題の源為朝公の史跡の話に戻ります。
G麺7から上大岡駅東口の方へと戻る途中、駅の右手は丘に成っているのですが上大岡駅を少し過ぎて右手のビル1Fに❝花ともだち大塚❞と言う生花店が有りますので、そこを右折して少し上がると駐車場の中にヒッソリと源為朝公の御霊社が現存しています。恐らく江戸時代に作られた供養塔の祠ではありますが、この地域は大昔から源為朝公の隠れ郷と伝承していた様です。
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源為朝之廟社
この一帯は律令制度では武蔵国久良岐郡に当たり郡役所の郡衙は弘明寺だったと考えられています。その久良岐軍を平安時代に治めたのが坂東平氏であり、大江山の鬼退治で活躍した三浦一族初代の平為通(ためみち)公の子孫の久良木三郎通継(みちつぐ)公でした。三浦為通公の御子息に三浦為継公がいますので、その子供の三浦義継公の御兄弟が久良木三郎通継公に当たる様です。
この久良木三郎は後にこの地域を治めた平子家の祖先でも有るので平子の苗字で江戸時代には記録されているケースも有る様です。
鎌倉殿源義朝鎌倉殿源行家鎌倉殿源為朝
源為朝公達兄弟の父上の名は源❝為❞義ですから、三浦氏の家祖である三浦大介(三浦郡知事)を務めた平❝為❞通(ためみち)公の代から既に三浦家と源頼朝公の家系の河内源氏は関係が有った事が窺えます。
その様な状況から久良木三郎公の治める久良岐郡に源為朝公の所領が有り、三浦家が当初は為朝公を後見していた可能性も有るかも知れませんね。
この上大岡一帯が源為朝公の隠れ郷だったそうです。
久良木通継公に関しては、未だちゃんと紹介した記事を書いていないので何(いず)れ久良岐郡の中で現在の磯子区~中区と南区の本牧半島を治めた三浦一族の平子家の紹介記事を書いて又いつか歴史を今回みたいに無理やり絡めて紹介したいとおもいます・・・いつかね(笑)。

さて、ここで源為朝公の消息は途絶えますので、もしかしたら死没地はここだったのかも知れません。
上大岡の丘の周りには御寺が沢山有りますし、近くには久良岐郡衙(ぐんが:郡役所)跡と伝わる弘明寺も有りますから、もしかしたら弘明寺は源為朝公の菩提寺だったりしたかも知れませんね~。
源為朝之廟社の近所には初夏には3万本の向日葵(ひまわり)が咲き誇る❝大賀の郷ひまわり畑❞も有ります。
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大賀の郷ひまわり畑
3万本の向日葵が咲き誇り入園無料

この大賀の郷は現代では横浜市港南区と南区と磯子区の区界の地域で港南区に属しますが、公式の広報ページが無く港南区も2021年度の❝ひまわりフェスタ❞中止と言う告知しか無かったので下のInstagramの♯大賀の郷で皆さんが投稿している一覧を表示するリンクを貼って置きます。
Instagram⤵の皆サンの投稿
https://www.instagram.com/explore/locations/676722655/?hl=ja
小生の写真⤵
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近所の人に親しまれているイベントのようで、為朝公の史跡巡りがてら初訪問だった2021年には多くの親子連れや女性同士で写真撮影している姿を見かけました。
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是非、源為朝之廟社と合わせて大賀の郷ひまわり畑で写真撮影やTOHOシネマズ上大岡で映画デート~G麺7でのランチ等と合わせて休日の歴史散策をされては如何でしょうか?
映画館の話しをしてて思い出しました。

東野圭吾原作小説のドラマ、ガリレオの映画「沈黙のパレード」を土曜日に見て来たのですが凄く楽しかったですよ!ロケ地巡りをもししたら、いつか記事にしたいと思います~。
話を上大岡に戻します。
大賀の郷まで行くと、徒歩の距離に❝ゆず❞の地元の岡村町も有ります。

その周辺には先に紹介した玉縄衆の総大将の玉縄北条家所縁(ゆかり)の龍珠院と言う御寺も有ります。

更に歩けば未だ紹介して無い平子家の菩提寺の真照寺や戦中戦後のブラックマーケットから商店街化した浜マーケットも在ります。

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浜マーケット
さて、横浜市は他都市からの移民だらけで郷土史は忘れ去られがちですが、こうやって実は伊豆大島や横須賀市の浦賀や鎌倉市や逗子市とは源氏と北条家の歴史で密接に繋がっているんですね~。
浜マーケットの直ぐ近くの金蔵院も未だ紹介していませんが北条泰時公が磯子区広地町のマンションが建っている場所に前身寺院を開基(かいき:社寺を開く事)した御寺だったりします。

今回は伊豆大島~三浦半島の横須賀市浦賀港~鎌倉市材木座/逗子市飯島地区~横浜市上大岡と源為朝公の史跡を辿ってみましたが、きっと皆さんの地元にもスゴイ歴史偉人との繋がりが有る伝承地の史跡が有る筈です。
だから皆さん、ちょっと近所の城跡の公園や山、神社や御寺を参拝して説明書きの看板を読んでみませんか?
散歩すると気分も良いですしね~♪

さて、今日はここまで!
では皆さん、又、次の記事で御会いしましょう~♪
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前回の記事⤵

コレ⤴の続き・・・
前回の記事で逗子市の六代山不動院が天台宗密教寺院の名古刹である神武寺の御住職が兼務する重要な不動堂で、その不動堂が平維盛公の遺児である六代御前様の供養をする寺院で有る事を紹介しました。
六代御前の御師匠は文覚上人です。
文覚上人は鎌倉殿の13人のドラマ上の悪意の有るデタラメ演出と異なり真言宗密教の高僧で朝廷からも信頼されただけでなく源頼朝公の親友でした。
頼朝公と文覚上人は神奈川県東部の各所で寺院や神社を開いています。
有名な浦賀の東叶神社西叶神社も彼によって聖地に御堂が建てられた場所ですし、戦後に東大の教授等が重要性を説いた金沢六浦に存在した浄願寺跡を頼朝公と共に開いています。
この浄願寺跡からは大量の人骨が矢倉から発掘された他、浄願寺跡からは庭園跡も出土する等大きな発見が有りましたが横浜市が保護しなかった事で消滅しました。

以前紹介した戦国時代の玉縄北条家の家老だった横浜市の笹下城主間宮家の笹下城内に存在する旧寺名を曲田山帶行寺と言った成就院でも護摩行を行う等、平安末期〜鎌倉時代初期に源氏の再興と坂東武者の平家討伐成功や国家万民の安寧祈願を願い、鎌倉幕府成立以前から源氏を支えた名僧でした。


前回の記事で六代御前が文覚上人の直弟子だった話を御紹介させて頂き何故、文覚上人と六代御前が関係が有ったかを皆さんと見て行きましたが、今回は本当に源頼朝公が彼等を助ける可能性が有るかと言うのを郷土史から見て行きたいと思います。
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六代山不動院と六代午前の墓
ここまで紹介した通り逗子市はリゾート地ですが歴史も深いんですね〜。
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桜山古墳へは芦花公園の上にある旧徳川家逗子別邸(旧郷土資料館)に登山口が有るので上の画像を拡大してみるか、下のリンクをクリックして見て下さい。
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旧徳川家逗子別邸
さて、逗子市が鎌倉武士団にとってとても重要な場所であり、六代山不動院は六代御前様の史跡であるわけですが・・・

ここから本題に戻ります。
六代御前は平清盛公の一族の数少ない生き残りで、伝承では平維盛公の嫡子の平高清と伝わり文覚上人の弟子に成り僧籍に入る事で源頼朝公の存命中に生き延びる事を許されたと伝わります。
しかし北条家が政権を簒奪すると処刑されたと平家物語に伝わります。
が!
これは鎌倉幕府を制圧した北条家による隠蔽で、実際は北条家臣化し身内人に成ったと個人的に推測しています。
徳川家が織田家や豊臣家に敵対し滅ぼされた大名家の遺臣をリクルートしまくったのと同じロジックでしょう。
つまり北条時政が後白河法皇に対面した時点から平清盛公の同族の伊勢平氏である北条は、源家を根絶(ねだ)やしに殺害し尽くすか傀儡化し幕府を簒奪する野望を計画的に準備していたので、源家に改易されたり冷遇された武家を身内人に取り込み原動力にしたと思います。
鎌倉殿源頼家2鎌倉殿源実朝
鎌倉殿北条時政2鎌倉殿牧りく鎌倉殿北条政範
鎌倉殿北条政子2鎌倉殿北条義時2鎌倉殿北条時連鎌倉殿北条金剛泰時
更に北条家内でも北条義時公は北条時政の後妻の鎌倉殿の13人では❝りく❞と呼ばれる牧の方の子ではないので非嫡子で、そもそも江間を苗字として名乗っていました。
この時点で北条義時公にとって同母姉の子である源頼家公は自分にとって出世の道なので頼家公を殺害したのは普通に考えて北条時政であり、その証拠に実際に毒殺未遂と思われる源頼家公の危篤事件の際にはドラマの演出と異なり北条政子様の付きっ切りの看病で意識が戻ったと伝わっています。
トリカブトか何かで殺そうとしたんでしょうかね?頼家公は体調がおかしくなった際に戦国時代の伊達政宗公と同じく咄嗟に嘔吐していたのかもしれません。
ただ、胃に流れ込んで吸収されてしまった毒薬があり危篤に陥り、尚且つ毒薬が致死量に成らず助かったのかも知れません。
この北条政子様の行動と伝わる只のミーハーなパリピかジャニオタ女子みたいな性格だけど思い人の頼朝公に逢いたい一心で山越えしてしまうような情の深さや、父の北条時政に冷遇されていた源頼朝公の参謀だった岡崎義実公の領地加増を実家の北条家に談判する様な性格が郷土史伝承や文献で伝わっているので、彼女や実弟で同母弟の北条義時公にとっても頼家公は出世の鍵だったでしょう。
鎌倉殿北条政子2鎌倉殿北条義時2
鎌倉殿源頼家2鎌倉殿源実朝
鎌倉殿三浦岡崎義実
岡崎義実公の居城の伊勢原市と平塚市にまたがる岡崎城は戦国時代にも大城郭化されて扇谷上杉家一族に乗っ取られた佐原三浦家の本拠地として活用された堅城でした。
岡崎城の解説⤵️
彼は鎌倉郡にも領地が有った様で、旧鎌倉郡の横浜市栄区上郷には、彼が石橋山の合戦で亡くなった御子息の佐奈田義忠公の供養の為に鎌倉郡での佐奈田義忠公の菩提寺として開いた五峯山證菩提寺が現存しています。
・・・が、この旧境内地は現在の山手学院〜付近一帯の親水公園の全てが境内地だったと伝わるので現在の上郷町一帯は三浦氏族岡崎家の領地だった事が窺い知れます。
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五峯山 證菩提寺
残念ながら、この證菩提寺は神社を大切にして歴史偉人の菩提を守る事に熱心な真言宗のはずなのですが、大正時代の御住職が全く歴史に興味が無かったようで御寺の守護神だった琴平神社は平成期に廃社になってしまい、更には新編相模風土記稿にも挿絵に描かれた明らかに佐奈田義忠公の墓石のパーツが石灯籠に組み替えられてしまっており現在の御寺の方に聞いたら・・・
「石材やが転がってたから灯篭に組み替えてくれたんだよハハハぁ〜!」
・・・と事の重大さを理解していない様でした。
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灯篭は琴平神社廃社の参道入口階段に2基作られているので、小生の見立てでは佐奈田義忠公の墓石が作られた後で岡崎義実公の没後に、彼の供養墓も義忠公と同じ形式で作られていたと思います。
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現在、全く解ってない今の御寺の石材屋が作った由緒もなんも無い形式だけの供養塔が作られていますが、これには文化的に価値は無く、岡崎義実公と佐奈田義忠公の供養に成ってないと思います。
この様な事態が発生したのは横浜市教育委員会の不熱心から来る対応の悪さと、鎌倉市教育委員会も旧鎌倉郡の歴史に関心が無く全く横浜市との連携が取れていないからですね。
逗子市とは偉い差です。
さて、岡崎義実公は北条時政に虐げられていたのに北条政子様には助けられていた訳です。
北条時政は幕府を専横したので、それを口実に北条家の家督を義時公と北条政子様の姉弟が実父から奪い取る手段が幕府から追放すると言う政治対立であり、正に北条義時公も陰謀を使って自分の出世の道を切り開いたに過ぎないと言う事です、ですから源頼家公を暗殺するのは北条義時公にはデメリットでしかなく、北条義時公と北条政子様は前妻の子達であり、源頼朝公が自分の出世の道で継母の牧氏と父親北条時政を抑える権威の柱である事は実感していた様です。
北条政子様の性格については彼女が隠棲していた旧鎌倉郡と久良岐郡の郡境に在る横浜市南区井土ヶ谷の乗蓮寺の記事で解説した事が有るので、御興味が有る方は読んで見て下さい。

鎌倉殿の13人で北条時政を操り暗躍する牧の方の子で義時公とは異母弟に当たる北条政範公は早世するので、或いは北条義時公に暗殺されているかも知れませんね。
鎌倉殿牧りく鎌倉殿北条政範
この様に謀略に優れ時勢を読む事に優れていた北条家ですが、決定的な欠陥が有って彼らは桓武天皇の子孫で平清盛公と同じ伊勢平氏でしたが家格と文化教養は低い家柄でした。
貴族の教養や宗教的儀礼を極めている源家を滅ぼした事で教養の模範を欠如し只の田舎侍に戻った北条家をサポート出来たのが北条家の内管領と成った平盛綱~平頼綱の血脈の存在でしょう。
平盛綱公は北条家の宿老にも関わらず出自不詳と不可解な経歴ですが、平安末まで旧鎌倉郡だった逗子市の郷土史と幕府と平家の関わりを追えば、六代午前=平維盛公の実子=平盛綱公の実父と考えるのが自然だと感じます。通説では平資盛公の家系とされますが、資盛公も又、平維盛公と同じく平清盛公の嫡子だった平重盛公の子で、伊勢平氏の平清盛公の家系で重盛公亡き後に実権を握った平宗盛公に維盛公、資盛公兄弟には宗盛系の一族から冷遇された経緯が有ります。
鎌倉殿安徳天皇鎌倉殿平清盛鎌倉殿平宗盛鎌倉殿平知盛鎌倉殿平清宗
少しこの平家内の諍(いさか)いを頼朝公と後白河法皇と文覚上人との関係から紐解くために六代御前の郷土史から探って行きましょう。
鎌倉殿後白河法皇
鎌倉殿平維盛鎌倉殿文覚2
鎌倉殿源頼朝4

先ず、六代御前が神奈川県に定住していた証拠として、頼朝公は六代御前の父である維盛公を助けて鎌倉幕府に亡命させている事が伝承しています。その伝承通り助けるだけの証拠が史実でも歴史民俗LVの伝承でもふんだんに残されています・・・
先ず、六代御前が神奈川県に居た証拠として、頼朝公は六代御前の父である維盛公を助けて鎌倉幕府に亡命させている事が伝承しています。その伝承通り助けるだけの証拠が史実でも歴史民俗LVの伝承でもふんだんに残されています・・・
では頼朝公は情の深い人物だったのでしょうか?
・・・頼朝公、三谷演出の鎌倉殿の13人のハチャメチャなドラマ演出と実際には違い可也(かなり)情が深くて多くの敵を助けたり登用し女性も❝北条義時公より大切にしています❞が、ドラマの演出は主人公を立てる為の歴史改竄して面白く良く出来たシナリオにしているフィクションなので本気にしないで下さいね。
まず最初の話しですが石橋山合戦で伊藤祐親公も当初は助命しようとしたり、自分を射殺しようとした山内首藤家を許して重用したりしています。
鎌倉殿大庭景親鎌倉殿伊東祐親鎌倉殿河津祐泰鎌倉殿伊東祐清
頼朝公は非常に温情深い人物だったので敵対した人間を毎回許し、その親族に「処罰するか?反省を促し活躍の場を与えるか?」と確認した上で、処断しています。
例えば大庭景親公には実兄の大庭景義と言う人物がいました。
鎌倉殿源義朝鎌倉殿源為朝
   交戦勢力  ⇨ 保元の乱 
         ⇩  ↘           
       平治の乱
      ⇩     ↘               
鎌倉殿後白河法皇鎌倉殿平清盛
大庭景義公は元々大庭家の惣領で頼朝公の父上の源義朝公の代に源家の猛将として活躍した人物でしたが、保元の乱で源頼朝公の父上の源義朝公が弟の源為朝公と戦った際に、為朝公の放った矢を膝に受けてしまった事と、保元の乱の後に平氏に対する恭順の意味で惣領の座を実弟の大庭景親公に譲っていた様です。
大庭景義公は源頼朝公が最初に挙兵した石橋山の戦いの際に既に不自由な足で源頼朝公の旗下に馳せ参じて平清盛政権の弟の大庭景親公とは道を別に進む事に成りました。
鎌倉殿源頼朝3鎌倉殿上総広常3
やがて源頼朝公が房総半島に逃げてから上総広常公の大軍勢の後援を受けて相模国に攻め上がってくると大庭影親公はドラマとは異なり自ら降伏しますが、源頼朝公は大庭景義公に・・・

「助命嘆願するか?」
・・・と確認をしています。
しかし石橋山の合戦では既に源頼朝公と婚姻関係に有った北条政子様の実兄の北条宗時公が大庭家と伊東家のの軍勢によって殺害されていたので、主君の妻女の兄の仇に当たる北条宗時公を殺害した大庭景親公は兄から助命嘆願はなされず処刑されています。
鎌倉殿北条宗時
この北条義時公のお兄ちゃんの宗時公の死亡経緯については以前検証した記事を書いているので、御興味有る方は御覧下さい。

更に富士川の戦いでは頼朝公と八重さんの子の千鶴午前を殺害し、石橋山の戦いで自分を敗走させた伊東祐親公の親子を逮捕した際もドラマの展開と異なり、八重さんの父親の伊藤祐親公の姫を娶っていた三浦義澄公の助命嘆願を承認して伊東家の親子を助命しています。
鎌倉殿源義朝
↙父の代から協力↖
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿三浦義澄
  助命判決←助命嘆願←妻の実父 
   ⇩  ↓  ↘           ⇩  
    命の恩人   八重との子の仇   ⇧   ⇩  ↓       ↘     婿
平家に忠誠 孫殺害を恥て自害
鎌倉殿伊東祐清鎌倉殿伊東祐親

伊東祐親公は責任をとって自害しますが伊東祐清公は助命されて尚、武士らしく平家に忠誠を誓い続け源頼朝公の許しを得た上で平家陣営に再度参加し、北陸で源義仲公の軍勢と交戦して討死にしました。
しかし祐清公は平家陣営に赴く前に妻(比企禅尼の三女)を離婚し、その比企禅尼三女は伊東祐清公との間に産んだ子を連れて源氏一族の平賀朝雅公に再嫁し、伊東家の子が生き延びる事を頼朝公は承認しています。
更に伊藤祐清公の遺児で平賀朝雅公に養育された伊東祐光公が元服(成人)すると源頼朝公は伊東祐光公に伊豆国伊東庄を与えて、伊東祐清公が浪人時代の自分を助けてくれた恩に報いています。
——さぁ〜て皆さん——
これだけの状況が有って頼朝公がドラマ主人公の北条義時公を引き立てるために演出された三谷脚本と180°正反対の人物像が史実から見えて来たのでは無いでしょうか?
これだけの状況が有れば、当然ながら平宗盛から離脱し自分を頼って来た平維盛公を頼朝公が助けるのが性格的に自然の流れと言えるのではないでしょうか?
鎌倉殿源頼朝2鎌倉殿文覚2
「立派に育てて」⇨「承知した」
維盛公を助けて相模国に住む事を許し、彼が無く成ると遺児の六代午前を文覚上人に養育させた源頼朝公の性格を理解する為に少し頼朝公を取り巻く恋愛と家族関係を整理してみましょう。
頼朝公は更に口説いた女性は全員必ず大切にしていました。
源家を利権化して専制したい北条家から他の側室が迫害されても、正妻の実家から側室を守る為に御家人達に保護する様にちゃんと命令を下しています。
源頼朝公は本妻の実家から側室を守り大切にして子供を産める環境を準備し、生まれた子供は九州に土地を与えられ島津家や大友家等の戦国大名に成りちゃんと存続しています。
例えば鎌倉殿の13人で登場した江口のりこサン演じる❝亀の前❞は逗子市小坪に匿われていた人物で当時の小坪領主は小坂太郎光頼公で、ドラマの演出とは異なり記録上は性格が優しく美人で大和撫子を絵に描いた様な人物だったそうです。
鎌倉殿亀鎌倉殿比企丹後局
更にもう一人の丹後の局は源頼朝公の乳母の比企禅尼の息女である丹後の局は源頼朝公が愛した女性の一人であり、そもそも北条家よりも恩が有り頼朝公にとって大切な人物でした。
頼朝公にとって自分の大ファンで可愛くて仕方なくて結婚した奥さんの政子サン以外の義理の家族は余り心の休まる存在ではなく、色々と激しい伊豆国人気質の典型的な特徴が有ったようですね。
鎌倉殿北条政子2鎌倉殿北条義時小
鎌倉殿北条時政2鎌倉殿牧りく
「娘とヤレ♂」「元浪人の癖に」
(只の神輿が誰の御蔭だと?)
↘傀儡化に成功↙
鎌倉殿源頼朝5
「政子は愛してるけど・・・」
「義理親ガチャ・・・最悪」
「血筋しか必要とされてない・・・」
「優しくて美人の小坪村の御亀は良く癒してくれたなぁ〜」
(そう記録が有る)
「亀の前の事、義父の家族達から襲撃された時に守ってやれなかったな・・・」
鎌倉殿亀
「自分の本当の居場所は幼馴染で本当の家族みたいな比企禅尼の娘の丹後の姫だなぁ〜」
「比企の家と一緒に暮らしたいなぁ〜昔みたいに。丹後は全部自分の事を解ってくれる」
鎌倉殿比企禅尼鎌倉殿比企能員
  頼朝公の乳母  ⇨ 比企禅尼の子息
 ⇩     ⇧    ↙ ⇩
  支援  大恩人  乳兄弟   兄妹
 ⇩     ⇧ ↗       ⇧
鎌倉殿源頼朝4鎌倉殿比企丹後局
妹みたいな幼馴染⇄憧れの兄的な
↘相思相愛↙
「政子は愛してるんだけど・・・実家の家庭環境が良くないなぁ〜文化素養も低いし」
「息子の万寿は利己主義な北条の影響から離して暖かい比企家で育てて貰おう・・・」
鎌倉殿比企能員鎌倉殿源万寿頼家

・・・と言うのが史実から見える流れで、今回の三谷脚本は恐らく当初から北条家を顕彰する目的で鎌倉殿の13人と言う大河のドラマとして良く出来て面白い演出で描かれていますが、史実から見える源頼朝公周辺の流れとは正反対だったんですね。比企さんは全く狡賢くとも何ともない、唯々(ただただ)、比企サン家は家族全員で頼朝公を血縁の家族の様に支えただけです。
また、北条政子様が嫉妬深かいから側室を攻撃したと粉飾されていますが、後の比企氏潰し、畠山家潰、梶原家潰しと全ては北条時政公主導による鎌倉幕府内の権力闘争と北条家以外の子を頼朝公に作らせない為にドラマでは根拠なく温厚に描かれている北条時政の主導で❝亀の前❞や❝丹後の局❞等の当時の常識で何の問題も無い頼朝公の側室が迫害されていた状況証拠が成立する訳です。
鎌倉殿北条時政2鎌倉殿牧りく
この夫婦は毒親であり、悪人でしかない。
そして丹後の局には後日談も有ります・・・
旧鎌倉郡、今の横浜市戸塚区上矢部は丹後局が隠れ住む屋敷を与えられて子供を出産したと言われている丹後山神明社の敷地が有り、直ぐ近くには横浜市教育委員会が保護を怠りルネサンス戸塚テラスと言うマンション建設で破壊された墓所代わりの顕彰碑が有ります。
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丹後の局供養塔
更に頼朝公が丹後の局を大切にした話は残ります・・・
戸塚で出産する前の段階で丹後局は畠山重忠公に身柄を預けられ、畠山家臣の本田次郎が丹後局を難波(今の大阪市)に送り届けたフリをして偽装し川上酒匂の小野の屋敷で匿ったと伝わります。
鎌倉殿畠山重忠vs鎌倉殿北条時政2
義理家族対決
恐らくこの伝聞は単語が前後して伝わり混乱を産んでいますが、この文章は本田次郎が源頼朝公の名を受けた畠山重忠公の命令で難波に丹後局を連れて行く様に見せかけ北条家を欺き、酒匂川上流の河村家の河村城辺りへ一時匿わせ、更に同じく頼朝公の御家人で愛甲郡(厚木市一帯)の領主だった愛甲季隆公が密かに身柄を引き受けて厚木市小野で匿ったと文章を並び替えると極々自然に神奈川県の民話に整合性が出る訳です。CIMG2457
閑香大明神 小野神社
延喜式内社相模国十三座の内の一社
この小野には平安時代の醍醐天皇が国策で保護させた❝延喜式内社❞と呼ばれるカテゴリーの日本の神社の中でも特に古い神社の一つ小野神社が存在します。この小野の土地は非常に古い歴史が有り平安時代の文筆家で美女としても名高い小野小町の出身地として知られているのですが、この小野が愛甲家の所領であり、小野の地名を冠した古代豪族小野氏の末裔が愛甲季隆公と伝わります。

更に小野神社は鎌倉殿の13人では悪人演出される大江広元公も崇拝していた事が知られているので、そもそも丹後局を生かし島津忠久公を出産させる計画を立てたのは大江広元公だったかも知れませんね。
つまり、この計画は・・・
鎌倉殿大江広元鎌倉殿比企能員
鎌倉殿畠山重忠鎌倉殿安達盛長
+
愛甲季隆公
この人達が共謀して北条家を欺いて頼朝公の女性を守ったのかも知れません。
この愛甲家、愛甲季隆公は和田合戦で和田家や相模国の豪族に味方して反北条家の戦いを北条義時公に仕掛けますが和田勢は敗北し愛甲季隆公も討死しています。
しかし丹後局を匿った伝承を証明する子孫が何と丹後局が産んだ島津忠久公の領地となった薩摩国に生き残っていた事から、愛甲郡と旧鎌倉郡横浜市戸塚の伝承は正しく源頼朝公が畠山重忠公に丹後局を北条家の手の届かない場所に移し、無事に子供を出産させてから旧鎌倉郡の戸塚区上矢部に移り亡くなったと考えるのが自然でしょう。
鎌倉殿安達盛長鎌倉殿比企丹後局
この丹後局は北条家の追っ手を逃れた後、割と早い段階で安達盛長公に再嫁して安達景盛公等を出産する事で源頼朝公の跡継ぎの生母に成る野心が無い事を示し、安達家の人間に成っていた事で❝比企氏の乱❞で北条家に実家の比企家が滅ぼされても生き残る事が出来た様です。
余談ですが丹後の局は小野にいた際に、北条家の追っ手と北条政子様の怒りを恐れる余り精神的に参ってしまって髪の毛が白髪に成ってしまったと伝承しています。
その際に平安美女として名高い小野小町の神格化された小町姫に十七日間も熱心に祈った所、髪色も黒く戻ったと伝わります。
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対して北条義時公、この人は何人も妻を娶(めと)っては簡単に❝ポイっ❞っと離婚して捨ててしまう男性としてはハッキリ言ってクソな人間で誠実そうなドラマの演出と史実は真反対側の人間でした。
史実ではこうです・・・
鎌倉殿伊東八重 2鎌倉殿比企姫の前比奈
 (阿波局)      (姫の前) 
(第一犠牲者)  (第二犠牲者)
⇧      
離婚してポイっ
鎌倉殿北条義時小
「のえタン可愛い〜んじゃ〜
鎌倉殿北条義時妻のえ
因(ちな)みに、この❝のえ❞サンが伊賀朝光の息女ならば、北条家が執権としての地位を確立して専横し始めた後、北条時政ー義時公父子が源氏を傀儡にしたのと同じ様に北条家を傀儡にしようとしたと伝承する❝伊賀の方❞と言う人物の筈ですが、北条義時公は更に別に伊佐朝政と言う人物の姫とも結婚しているので、菊池凛子サンの❝のえ❞が❝伊佐の姫❞か❝伊賀の方❞に当たるかは不明です。
鎌倉殿北条時政2鎌倉殿牧りく鎌倉殿北条政子2鎌倉殿北条義時2鎌倉殿北条実衣2
そもそも論から言って北条家自体が節操無く妻女を簡単に離婚したり再婚を繰り返したり普通に側室もいたりしている上に、当時は一夫一婦制ではなく一夫多妻の文化だったので関東の文化云々の解釈も嘘でしかなく、北条義時公が妻をとっかえひっかえ離婚し再婚しまくってる時点で、あくまで北条家が源家を利権化する為に他の女性を政治的に或いは軍事的に排除して幕府の権力を横領していただけの悪事でしか無い訳です。
側室と言う制度が有る中で北条義時自身が側室の八重サンを娶って気に食わない事(曾我兄弟の敵討)が有ると自分に責任追及が及ばない様に離婚してポイってして千葉常胤公にに救われて千葉家の非嫡子の相馬師常公に再嫁する迄不幸にするってのはどうなんですかね?男として。
鎌倉殿千葉常胤
「大変だったのぅ・・・」
「バカ息子の支えに成ってくれんかのぉ?」
    ⇩
鎌倉殿伊東八重
「千葉様・・・」
「父も兄も殺害され行く所もございません」
「・・・御世話に成りまする(;_;)。」
当時の価値観からしてもハッキリ言ってオカシイのは無責任な北条家の価値観だと思います。
相馬師常公の御屋敷跡は今も鎌倉市に現存しています。
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相馬天王 八坂神社
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2022年も世界遺産級史跡の蹈鞴(たたら)製鉄遺跡で飛鳥時代〜平安時代の百年単位で稼働した歴史が有り尚且つ旧鎌倉郡唯一、日本国内最大級の刀剣の故郷、上郷深田遺跡猿田遺跡の一帯に流れる瀬上沢の下流〜上流でホタル観賞最盛期を迎えています。
2022年は06月第3週末〜第4週末の現在の見頃だと思います。


円海山
 の麓にある 上郷深田遺跡 近くの 瀬上沢 で 蛍 鑑賞、リンクの記事内に見れる場所が書いてあります。

蛍を鑑賞しやすい場所の解説は上のリンクから過去記事を御覧ください。

解説のリンク内には現地の地図と住所緯度経度をクリックするとGooglemapナビに繋がるリンクが張ってあります。

2019年秋の台風時に土砂崩れで一旦蛍が減ってしまいましたが、逆に新しい土が柔らかくよく繁殖に適したらしくて、今年の蛍は素晴らしく2017年〜2019年にツイッターを見た皆さんが数万人単位で見に来て下さった頃と同程度に蛍の数も回復し、小生が一昨昨日見に行った時は30分の滞在時間で50匹位見る事が出来ました。

最盛期を終わりに以後どうかは解らないので、皆さん足を運んでみては?

——さて——

上の記事の記載の通り、現地は林文子前市長が容認した現在開発計画に巻き込まれており5月下旬に蛍の鑑賞のピークを迎える栄高校下の瀬上沢入口の東側一帯の瀬上沢は人工河川化と溜池にされる計画に成っている上に、日本最大級の蹈鞴遺跡である上郷深田遺跡は削取られた上に水源地である谷底は10mも盛土されて嵩上げされる計画で、SDGsの流れに逆行している状態です。
今の山中市長は前の市長さんより文化的な側面を大切にして広く市民の御意見を拾う姿勢が今の所有るように見受けられます。

山中市長SDGs 実現の代表例に成ります、神奈川県や埼玉県の本来の武州の自然と町の住み分けをする里山思想で東京都心の人間に対して横浜が先駆けと成って手本を示してあげましょう。
東日本最大のタタラ製鉄遺跡である上郷深田遺跡完全保護と横浜市南部最大の広域蛍生息地の瀬上沢全域の日本遺産級の環境保護、世界遺産級の史跡保護を実現し、東急サンにも不採算事業の上郷深田遺跡破壊と瀬上沢人工河川化を中止させる代替地に新山下を提案交渉する等頑張って下さいねぇ〜!

以下は過去の関連記事です。

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皆さんは京浜急行横浜駅と平沼橋駅の間に戦争中に廃駅に成り更に横浜大空襲で被害を受けて再利用計画も無くなった鉄道史跡が現存している事を御存知ですか?
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平沼駅跡
太平洋戦争中の横浜大空襲で被害を受けた戦争史跡である京浜急行の平沼駅は昭和六年(1931年)12月26日に開業しましたが、戦時中の昭和十九年(1944年)11月20日に廃駅に成りました。
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今も当時のプラットホームが残っています。
丁度、現在の平沼商店街の上を通過するのですが、この平沼商店街は実は横浜市の埋立地域で最初期に整備された野毛の富豪達が住んでいた旧高級住宅街~新規開業された横浜駅を結ぶ“横浜道”と呼ばれた近代の道がそのまま商店街に成っているんです。
有名な話ですが横浜駅は現在で三代目です。
初代が桜木町駅、二代目がほぼ市営地下鉄高島町駅一帯、今が三代目。

武蔵野鉄道(西武鉄道)の初代社長や貴族院議員(参議院議員)を務めた平沼専蔵の住宅跡の野毛山住宅亀甲擁壁辺りは浅野財閥や原財閥の当主の屋敷地で、その名残が野毛山公園に成っています。
そんな高級住宅地から現在はJRで寸断されてしまった初代平沼橋=元平沼橋まで一直線に“横浜道”が通っていました。
「何でコンナ場所に御金持ちが切通し道や埋立地の道を作ったの?」
・・・と皆さん思いますよね?
先程のGoogleMapのナビで表示した経路に高島町駅を組み込んで有る事に皆さん気付きましたか?
初代横浜駅が出来てから、明治時代初期には既に“横浜道”は旧東海道保土ヶ谷方面からの旅客用の道と、御金持ちの住んでた野毛から初代横浜駅~東海道に向かう道として整備されている事が明治時代の地図を見ると良く解ります。
下の迅速測図は明治時代の帝国陸軍が製図した物で、現在、農研機構サンがWeb版とGoogleEarth版のアプリを無料提供して下さっています。
※クリックして拡大して見て下さい。
横浜道と初代~三代横浜駅 久良岐のよし
横浜道と初代~三代横浜駅衛星画像 久良岐のよし
衛星写真と見比べると、現在の戸部通りと名前を変えている道が昔の横浜道だった事と、その道が元平沼橋に繋がっていた事が一目瞭然ですね。
二代目横浜駅が完全に海だった場所に作られていたので関東大震災を乗り切る事が出来ず倒壊してしまった原因が地盤の弱さだった事も解ります。
この道は現在の三代目横浜駅が出来てからも活用されていた様ですが平成の中頃にJR線の踏切が撤去され通行不可に成ってしまった時点で平沼商店街の先で行き止まりにされてしまい、元平沼橋とは分断され商店街の賑わいは衰退してしまいました。
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元平沼橋側に残る平沼商店街の角には戦後直ぐに開業した昭和二十五年(1950年)創業の日本蕎麦の名店、角平が今でも営業しており多くのビジネスマンに愛されています。

他にも様々な賞を獲得している和菓子の名店、寿ヾ㐂(スズキ)家菓子舗も有りますが、当時の賑わいを辿れる街並みは令和四年(2022年)現在、ほぼ無くなってしまいました。
平沼駅に話しを戻しますと、こちらはJRではなく京浜急行電鉄の駅でした。 
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この平沼駅の廃止の経緯は戦争と密接に関係していました。
開業からの変遷を箇条書きにしてみましょう。
昭和六年(1931年)12月26日に京急平沼駅開業。
昭和十二年(1937年)07月に日中開戦。

昭和十六年(1941年)に日本の中華民国侵攻に対して、元同盟国のアメリカ・イギリス・中華民国・オランダ等の連合国による経済制裁“ABCD包囲網”が行われ原油輸入が途絶えて日本のエネルギー政策が立ち行かなくなる。


昭和十七年(1942年)4月にはABCD包囲網の影響から、日米開戦直前に配電統制令が施行され電気発電会社が統合され国の管理下に置かれた。
配電統制令は日米開戦を想定した制度だった様で12月に真珠湾攻撃しアメリカに対して宣戦布告を行わず開戦するに至る。

昭和十七年(1942年)の日米開戦後のミッドウェー海戦大敗北に始まる太平洋戦争での戦況悪化で燃料不足から電力確保が困難な状況に陥る。
昭和十八年(1943年)06月30日から戦局の悪化により平沼駅は休業。
昭和十九年(1944年)11月20日に平沼駅は廃止。
昭和二十年(1945年)05月29日に米軍による横浜大空襲。

――横浜大空襲の彼我の損害――
ー日本軍ー
[戦力]
厚木海軍飛行場所属
第三〇二海軍航空隊
航空機数不明。
横浜市、横須賀市、三浦市、鎌倉市、藤沢市内各地に高射砲配備
[死者]
10,000人/横浜市総人口951,000人
※死亡率1.05%
[被災]
311,218人
※被災率32.7%
ー米空軍ー
[戦力]
マリアナ基地所属
米第21爆撃機集団
B-29爆撃機・・・517機
P-51戦闘機・・・101機
[損害]
航空機合計・・・175機
戦況としては厚木の海軍航空部隊の活躍や横浜市内~三浦半島各所に設けられていた高射砲部隊が善戦して米軍航空機へ大損害を与えたが、いかんせん大軍団には太刀打出来ず横浜市の生活インフラが徹底的に破壊されて、平沼駅も廃止後も再建待望論が有ったが空襲の被害を受けた事も有り、廃駅後は駅敷地にくっつくように私有地の建物が駅と同じ高さまで建ち並んでしまい駅拡張も再開も困難に成り現代に至ります。
戦争史跡としても価値が有るが整備公開の予定は無く、京急としては駅を再開業したい所だけれども既に私有地が駅跡を取り囲んでいて不可能な状態。
昭和後期の好景気の時代に再開待望の機運も有りましたし、もしJRが平成14年に踏切を存続し横浜道を分断せずにいれば更に需要が高くなり京急平沼駅は再開業出来たかも知れませんね。
隣に橋をかければ良いと言う訳ではなく、別に開かずの踏切は歩行者専用に変える等して残し対応すれば良かったのにねぇ~と個人的には思います。

世間では戦争をしたがる国がいて、攻め込まれた国が似た様な状況に成っているのを見て、ふと横浜大空襲の歴史と平沼橋と近代の成長著しかった時代の横浜の歴史を思い出してブログに書いて見ました。

以前書いた鬼滅の刃の時代考証も合せて読んで頂けれたら昭和の時代の農村の生活が良く解ったりするかと思います。
鬼滅の刃の主人公達が生きた時代に多くの人が行き交った横浜道ですが、元平沼橋と反対側の野毛側についても少し紹介して置きたいと思います。
実は野毛地域は御金持ちが沢山住んでいたからかは解りませんが、横浜の国家神道の中心として伊勢山皇大神宮が開かれたり有名な成田山の別院が開かれたりして、横浜のみならず神奈川県内外からの観光客が集まる様に成り、成田山横浜別院や伊勢山皇大神宮の参道には旅館街が形成される程でした。
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成田山 横浜別院 延命院
通称:野毛山不動尊

横浜市民なら1度は横浜市立中央図書館か野毛山動物公園に行った事が有るとは思うのですが、伊勢山皇大神宮よりも図書館と成田山の所在する側に近代に野毛地区が栄えた旅館街の名残が残っています。
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何だか雰囲気の有る路地ですよね~?
この路地沿いに今でも時代が止まったかのような看板が、旅館が消滅した後も幾らか残っていたりします。
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最近では古い建物がエモく感じる人が多いらしく、センスに富むユトリ世代くらいの経営者達の飲食店がポツポツ入居し始めています。
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小生は幼かった頃に野毛山動物園に連れて来られたり学生時代に予備校に行った帰りや予備校の無い日に自転車で中央図書館まで遠距離はるばる来て自習してた思い出が有ります。
まぁ~当時の小生のグループはキチガイな程にチャリの行動範囲が広くて、中学生の時に自転車こいで茅ヶ崎市のキャンプ場に行ったり伊勢原市の日向薬師まで行ったり小田原城を見に行ったりした事も有りますし、自転車で鎌倉市の由比ヶ浜にもしょっちゅう行ってました。
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野毛山住宅亀甲積擁壁
旧平沼専蔵邸石垣
普通の観光客はこの地域を自転車でプラプラはしないと思いますが、横浜道から野毛山住宅亀甲擁壁(旧平沼専蔵邸石積み)まで来ると、目の前は横浜市立中央図書館で昔の写本を閲覧したりDVDで映画鑑賞も出来ます。
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車だと駐車場が近くに無くて不便ですが日ノ出町駅から直ぐ、桜木町駅からも徒歩圏内なので野毛の飲食店街で夕食の前に昼下がりフラっと散歩するには適している立地です。
野毛はコロナ禍で寿司居酒屋の名店❝秀吉❞が聘珍樓横浜本店同様に倒産してしまい、樹木希林サンの御実家の叶家までも一度閉店しましたが、叶家については自社ビルだった事や復活を望む声が多かった事から規模縮小し復活しています。
他にも戦後直ぐに開かれた洋食店のセンターグリルやミツワグリル、美味しい鯨肉の刺身を食べさせてくれる文次郎野毛店や横浜くじら、昔からリーズナブルで知られる焼き鳥と満州焼きの庄兵衛・・・

御酒を飲まない小生でも通う御飯の美味しい店が昔から野毛地区には沢山有り、紹介していない場所にもホルモン専門店や焼肉屋、美味しい中華店や居酒屋やスナック等が沢山あります。
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ですから例えば横浜駅西口から昼過ぎに散歩開始~元平沼橋~平沼商店街の名残を散歩し~横浜道を辿り~伊勢山皇大神宮と成田山を参詣し~野毛山動物園を見物~野毛商店街に夕方到着し夕食~そのまま福富町の韓国人街の韓国料理や伊勢佐木長者町の中華料理店で飲みなおしJR関内か市営地下鉄伊勢佐木長者町から帰宅なぁ~んてのも良いかと思います。

逆回りで散策しても良いかも知れませんね!
なんせ無料で散歩できる野毛山動物園は横浜道や野毛商店街の目と鼻の先、近代横浜の名残散歩にはもってこいの目的地です。
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横浜市立野毛山動物公園
(入園無料)
野毛山動物園は気分転換をするには良い場所です。
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何か昔と比べて大分と動物が減らされてシロクマ舎なんてハリボテに成ってしまいました。
ズーラシアとか金沢自然動物公園とか交通の不便な動物園じゃなくて、こっちに力入れたら良いのになぁ~と思うんですよねぇ~。
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実は野毛山公園は日本初の近代上水道遺跡でも有り、動物園が撤去された公園側には、その史跡が残っていたりします。
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更に野毛山公園には展望台も有ったりします。
まぁ、みなと未来21地区や桜木町の高層ビル街化で眺望は悪く成ってますが無料なので横浜道と水道道散策や野毛山動物園デートに行かれたカップルや家族連れは一見して置いても良いかと思います。
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野毛山公園展望台
(入園無料)
野毛山~平沼の発展した時代、日本はチャレンジし変わる事で強い経済力を持っていた訳ですが・・・
天皇家を軽視し世の中を混乱させ各地の神社の儀式を途絶させて日本文化を衰退させた室町幕府足利家を追放して古来の宮廷祭祀を復活させた織田と国内の戦乱を収束させた豊臣政権。
江戸幕府否定し日本が外国の植民地に成らない様に明治維新後の近代化を進めた薩長土肥同盟を中心に設立された新政府。
それ等の時代の様に昭和の良い部分だけ残しつつ、昭和〜平成時代の悪しき部分とデジタル導入の情報管理手段更新が遅れた部分と未だに労基法違反ブラック体質な生産効率の悪い仕事の仕方をマルッと意識ごと捨て去り改めて、現役世代が下剋上し頑張ってみるっきゃ無さそうですね・・・
江戸時代生まれ近代文明開化を成し遂げた散切り頭のサムライ達みたいに。
・・・じゃないと日本は東芝、SANYO、SHARP、レナウン、山一證券みたいに外国に食い物にされて死ぬ。

では皆さん、日本は死にそうですが自分は死なないで下さいね、辛い事が有っても。
辛い事が有ったら平沼駅跡見て空襲が無い時代に生きている平和を噛みしめ、野毛山動物園で動物に癒されて忘れちゃってください!
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鎌倉殿の13人、04月17日の上総公暗殺の回、御家人の反応はどこかのO塚家具とかO戸屋とかイニシャルがOの現代の会社でも創業家追い出しでたまにニュースに成ってたのと同じロジックでしたね。
今回先ずは史実の話はしないとして、当初は上総広常公が頼朝公陣営からの埋伏の毒として御家人に送り込まれている筈でした。
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿源阿野全成鎌倉殿源範頼鎌倉殿源義高

鎌倉殿北条政子2鎌倉殿北条実衣2鎌倉殿北条義時2鎌倉殿比企能員

鎌倉殿安達盛長鎌倉殿大江広元鎌倉殿梶原景時鎌倉殿上総広常
        VS
鎌倉殿千葉常胤鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿三浦義村鎌倉殿三浦岡崎義実

鎌倉殿和田義盛鎌倉殿畠山重忠鎌倉殿土肥実平
最近だとO戸屋創業家vsCロワイドとかO塚家具の創業家vsKみこサン所みたいな感じですね~。
いつの時代も人間て進歩して無いんですね~。


この❝ひろゆき❞サンが言ってる人材処遇の話は歴史オタクなら結構知っていて私もちょくちょく人の種別で話すのですが、O塚家具の話のKみこサンの話でまさか出て来ると思いませんでした。
皆で仲良くする事なんか出来ないのかね?
人間のドロドロめんどくさっ!って思ってるので宝くじ当たったら三浦の休耕地買って家建てて毎日釣りと畑仕事して隠棲生活するか、学生に戻って奈良大学に入学して千田先生の弟子に成りたい久良岐のよし・・・
鎌倉殿源頼朝小鎌倉殿北条時政小
   ⇧将来邪魔に成る関係性 ⇧
鎌倉殿北条義時小鎌倉殿三浦義村小
創業者が最初は利用していたはずの幹部社員にいつのまにか依存し過ぎて業務を丸投げしてる内に、部下達が担ぐ神輿別にコレじゃなくても良いよね?と気が付いてしまう。
しかも上の状態から更にドラマでは上総広常公と梶原景時公が御家人側に埋伏の毒として送り込まれてグチャグチャしたダメな中小企業の主導権争いみたいなゲスい状態に成ってました。
鎌倉殿源頼朝
「んじゃ、任せたよ!」
     ⇩
「解りましたぁ~♪」
鎌倉殿梶原景時鎌倉殿上総広常
関東平野と言う限られた土地のピザ🍕の再分配が必要だったんですかねぇ~。
結果の良し悪しは別にして、ドラマではこの時に上総広常公は既に殺される運命だった事に成っています。

余談ですが、この上総広常公の居城は千葉県の一之宮町、高藤山城と伝わります。
城の周りには神話の舞台の鵜羽神社と玉前神社が存在し、そちらは以前解説記事を書いた事が有りますので御興味が有る方は以下のリンクから記事を御覧下さい。

いつの時代、どこの国でも同じ人間の成長しない限界。
能力が衰えると人は防衛本能が強く成り猜疑心が強く成ってしまったり攻撃的になってしまうそうです。
それは、この二人も御互いにそうだったかも知れません。
織田信長明智光秀公
前線に出なくなった大将は部下とのパワーゲームに成ってしまい部下粛清か頭領が隠居して代替わりしてリフレッシュするか部下の下剋上や外部の乗っ取りが待っている。
上司や部下の感情や悩みが共感出来なく成っちゃったり、傍にいないと信頼関係も薄れてきちゃうのよね、人間様は。
まぁ~織田家の本能寺の変に関しては個人的には明智光秀個人の野心とか感情も有った上で当時の近衛前久も足利義昭も細川幽斎も本願寺も堺町衆も全てが関わってたと思いますが。
個人の器にもよるのだけど目標(ビジョン)が低く小さい人程、仲間を仲間と意識できなくなるのが早く自己保身や他人を陥れる事を始めるみたいですね。
ピザ🍕の分配にすると自分の食べる分を多くするには大きく分けて2つの方法が有ります。
①美味しいピザの生産性を皆で協力して向上させて少しでも増やすか1つのピザを大きくして皆で分ける量自体を増やす。
②今あるピザ🍕を少しでも多く食べたいから他人の取り分を横取りするか、自分以外の人間を消す。
決められた利益のピザ🍕を少しでも多く獲りたいと思う②の目標が小さく利己的な人がいると、ピザ🍕全体の出来栄えを考えて作る前に作った後で独占する為に人を陥れたり排除しようとするんですね。
この人⤵みたいにね。
鎌倉殿源義経
「義円、戦ガンバ!」 
(邪魔だから死ね・・・) 
    ⇕
「兄上の為に頑張る!」
(義経あんがとっ!)
鎌倉殿源義円
義経に⤴騙されて死んだ人。
世間では協調性と言う簡単な言葉で片付けるけれど、完成するピザを100点にしたいと思ってるリーダーや優秀な部下がいて、60点の能力しかない人間が多いと60点のピザで終わらせない人間に対して自分達が出来ない事をやるのは「協調性が無いよオマエ」と負の作用をする事もあるので難しいですね。
小生現実社会でこんな事が有りました。
自分が営業職なのに生産管理支援をやっていた時に生産効率を改善して1時間の生産数を例えば100個作れるようにしたんですね、すると生産管理の管理職からこう言われたんです・・・
「報告する生産数、1時間当たり80個で書いておいてね」
「皆でそういう事にしてるから」
これね~、会社の経営者が実力主義で査定したいと思ってても、皆が同じ様にお給料を貰えれば良いと言う負の協調性が働いてる会社なんですよね~、昔の会社の話だから言いますけど「クソ」ですよね。
こう言う事も有って人間は分かり合えないんだと思います。
鎌倉殿源頼朝
「上総56してね~」
    ⇩
「えぇっ・・・ラジャっ!」    
鎌倉殿梶原景時
「双六やりませんか?」
(皆(自分)の為に4ね)
    ⇩
「おっ強いね梶原君」
鎌倉殿上総広常
双六好きで⤴殺されちゃう。
ドラマを見ても見なくても、結果は皆さん御存知の通り。
今回の上総サンの暗殺動機に関してはリーダーが2人いるみたいな状態に成っちゃったからとか諸説有るので話すだけ無駄として、三谷幸喜本人がTV業界で政治ゲームを生きてるだけあり説得力ある話に成っていて良かったと思います。
ただ個人的には鎌倉の伝承を聞いて回ったり自分で古道を歩いて回ってる小生としては地理的に納得いかないのは殺害場所です。

鎌倉殿の13人の脚本では京都人が伝聞で書いた愚管抄の大蔵幕府が暗殺場所として記載が採用されていました。
大蔵幕府は鶴岡八幡宮の東側の清泉小学校の辺りに~横浜国大付属中の手前くらいの辺りに存在しました。
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大蔵幕府𦾔跡
しかも現代の道で3kmも先の上総邸で刀洗って帰って来るとか余り現実的では無く意味不明ですよねぇ~?
当時の京都人が伝言ゲームで書いた愚管抄を無視すると鎌倉の伝承では十二所、明王院裏の谷戸の梶原景時邸に招いて双六をして暗殺した説と上総広常邸で双六をした殺害した説の二つが有ります。
これ恐らく2つの伝承が1つでセットに成っていて正解だと思います。
上総広常公の暗殺場所・・・梶原邸
上総家臣団の粛清場所・・・上総邸
相手の家に行って暗殺をすると言うのは余り現実的では有りませんねぇ~?
梶原景時公が単身で上総邸に乗り込んだら殺す事は出来ても先ず生きて帰れないでしょうし、これから逃げるのに上総邸の前の川で悠長(ゆうちょう)に太刀を洗ってる余裕は無いでしょう。
位置関係を見て見ましょう。
※クリック⤵して拡大して見て下さい。
大蔵幕府~上総邸
現実的な事を考えると大蔵幕府で殺害してわざわざ相手の家まで3km歩いて行って太刀を洗う事は無いので愚管抄は伝聞の間違いでしょう。
相手の家に乗り込んでも御覧の通り上総邸は山深く谷の1本道、梶原景時公が単身上総邸に乗り込んで暗殺を行ったとしても、上総家の家人が血眼(ちまなこ)に成って刀や弓を手にして追いかけて来るので自分の生存率自体が下がってしまいますね。
なので小生は現実的に梶原邸に呼び出して接待して飲みながら双六を行って殺害⇨その後に十二所の上総邸(後に朝比奈峠切通の入口に成る地域)へ武装した兵士を引き連れて襲撃し上総家の人間に対する掃討戦が行われたと考えるのが自然だと考えています。
そうすれば当然ながら上総邸の横の滑川の三郎の滝で梶原景時公と彼が率いた兵卒は血濡れた太刀や衣類と体の汚れを行水して落としたでしょう。十二所と呼ばれる地域の明王院と言う格の高い真言宗寺院に正対して左手に梶原景時公の邸宅が有ったと伝わり、梶原井戸と言う井戸が現存しています。

仮に梶原単独犯で大蔵幕府で暗殺を行ったとなると問題は雪ノ下地区~上総邸の在る十二所まで上総家の郎党を掃討しに行く訳ですから、数十人の武装兵を連れて行くので行軍する途上には畠山邸~足利邸~梶原邸~大江邸~上総邸と御家人の邸宅が並び守衛が立っている訳です。
物々しい数十人の武装兵の集団が大蔵幕府から3kmも上総邸まで歩けば直ぐに騒ぎに成る訳です。
2万の兵を束ねる上総邸の奉公人の人数に対して、武装しても梶原家の単独犯で兵士を引きて襲撃したとしても簡単では無いでしょう。しかし御家人やその家臣達が行軍を目撃した記録が残っていない。と、言うか北条家が編纂した吾妻鏡では上総広常公暗殺の年の記録が丸っと抜け落ちています。
でも上総家では生存者は逮捕されている事は解っているんですよ?逮捕者がいるなら普通に掃討戦が行われている訳です。
この行軍ルートにかんしては当時は真っ直ぐ3km便利に直進とは行きませんでした。
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歌之橋
当時は未だ渋川家によって源実朝公の時代に架橋された歌之橋は存在していませんし、朝比奈切通も開削されていませんでした。
太刀洗の方に行く道は十二所~朝比奈に抜ける熊野神社の古道抜けて鎌倉の外港として機能した六浦(昭和の埋め立てで消滅した湾)を目指すルートでした。上総家は房総半島が本拠地なので海に行き易い一番熊野神社に行き易く尚且つ比較的平坦な道で大蔵幕府に出仕出来る当時のセレブ住宅街の一番奥に居館を構えていた事が解ります。
大蔵幕府~上総邸2
下手すると当初は鎌倉の港は由比ヶ浜だけで良いと考えられていた所を上総家が六浦~熊野神社~大刀洗~浄妙寺地区のルートを開拓して六浦港の使用権を上総家が独占していたのだとしたら、その六浦の利用権共有を求める鎌倉御家人達や幕府との軋轢を生んだ一端何て説も有りかも知れませんねぇ~。
なんせ源実朝公が造成した築地(埋め立て地)港の和賀江島の使用を巡っても出入り口一つで裁判が起こされていた程なので港の利用権と言うのは大きな権益な訳です。

和賀江島は今では港の機能は失われ景勝地として地元民や観光客に広く愛される場所ですが、何の因果か鎌倉幕府にとって重要だった六浦も昭和に埋め立てられ消滅し港としての歴史を閉じました。
六浦港を上総家が支配していたとすれば後に千葉家が六浦に勢力を持っていた事にも説明が着きます。
港に通じる朝比奈切通と切通開削以前の熊野神社の古道を押える位置に上総家の邸宅が陣取っていますが、この道は室町時代にも重要だったので鎌倉市街地側で朝比奈切通の本来の道筋だった場所に存在する時宗の岩蔵山光触寺は、この古街道を往来する製塩業の商人達に信仰され御地蔵様に塩を備える風習が残っている他、室町時代の関東を支配する将軍だった鎌倉公方足利持氏公によって御本尊の御厨子が寄進されていたりします。
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岩蔵山 光触寺(こうそくじ)
時宗の開祖の一遍上人と御弟子サン達は交通の要所の出入口にある御堂や荒廃した寺院を復興して布教拠点化していた事が各寺院の場所と地理から解るので、この光触寺は往来する人々に休憩場所として提供されつつ布教の拠点にも成っていたのでしょう。
六浦の港は戦国時代の北条所領役帳に北条家に亡命し家臣化した上総国の大名真里谷武田家の所領として登場します。

武田殿
百廿七貫文 六浦木曽分
 自前々役無之 但御人数者可有其改

自前々役無之但御人数者可有其改の部分は現代口語訳にするとこんな感じです・・・
「前々から兵役は免除してたんだけど~人揃えて貰う事にルール変えっからヨロ~♪(亡命して来た盟友扱い止めるから君は家臣てことぉ~!)」
・・・みたいな感じです。この地名が木曽分と言うのは恐らく上総家が六浦を占有していたならが取り上げられた後、千葉家や木曽義高公へ再分配された名残りが地名の「木曽分」として残っているのでしょう。
鎌倉殿源義高鎌倉殿千葉常胤
木曽源氏の御曹司だった源義高公は誅殺されてしまい領地を引継ぐ人はいなかった訳ですが、一方で千葉家は六浦の権益を鎌倉時代にも維持しており、これが日蓮聖人の船中問答の舞台の一つである六浦山上行寺を千葉家臣富木胤継入道常忍公が日蓮さんと船に同乗して房総半島から任地の六浦に戻る際に教化されて真言宗から日蓮サンの法華経信仰に改宗し、入道号を日常と改めて市川市に在る日蓮宗大本山の中山法華経寺の前身と成った奥院の法華寺を自宅に開いた事が知られています。
木曽分の他にも鎌倉時代の御家人の所領の名残と思われる場所は鎌倉幕府設立から約400年も経過している1560年頃に検地をした北条所領役帳他に散見出来ます。

宗甫
八貫五百文 神奈川斉藤分

この宗甫は間宮宗甫と言う人物で北条氏康公の奏者(秘書)を務めた人物です。他に横須賀市の西浦賀にも所領を持っていて子孫は江戸時代に三ツ沢壇林と呼ばれ学問所化していた法華宗の豊顕寺の檀家に多く残っています。
豊顕寺について興味の有る方は以下のリンクの記事を御覧下さい。

戦国時代の間宮宗甫の所領の一つとして登場する神奈川区斎藤分町ですが、斉藤と言えば元は木曽の源義仲公の父の源義賢公の忠臣だった家系ですが他にも箱根駅伝で有名な戸塚区不動坂には鎌倉幕府滅亡前後に斉藤家の所領に成っていた様でして大塔宮護良親王が殺害された際に妻女ひなつる姫と侍女が斉藤家に助けを求めて逃げて来た伝承が有ります。

保土ヶ谷区に今井兼平の領地だったとされる今井城址も寺院化と宅地化されて曲輪一つしか現存しませんが今井の地名も残っています。
巴御前も降伏して和田義盛公に継室として嫁ぎ三浦半島の三浦市初声和田に存在した和田城で余生を過ごしたと神奈川県では伝承します。

実は通説と異なり木曽源氏の家臣団は木曽義仲公の滅亡後に巴御前を含めて悉(ことごと)く降伏し幕府に帰順して源頼朝公の家臣に成っていた様です。
鎌倉殿和田義盛鎌倉殿巴御前
和田義盛公も和田合戦で滅亡したとされていますが実際は鎌倉時代には北条家の所領だった駿河国に室町時代に今川家重臣には三浦、由比、朝比奈と和田家や三浦一族所縁の苗字が多く登場します。
更に横浜市港北区の大倉山~太尾見晴の丘の大曾根城の麓にある長光寺は木曽源氏所縁の御寺として知れています。
鎌倉殿木曽義仲
この様に木曽源氏旧臣達は実際には義仲公の討死後には源頼朝公に取り立てられ港や陸路の要衝を押える場所に所領を得ていた状況証拠が地名や社寺の伝承に残っていたりします。
これらの場所は若(も)しかしたら、一部は源義高公の祖父に当たる木曽源氏の家祖の源義賢公や上総家の治めたと思われる六浦の様な場所を、源頼朝公によって木曽源氏滅亡後に木曽源氏旧臣や千葉家に再分配されているのかも知れませんね。
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話しを鎌倉時代の上総家に戻すと、上総広常公の御屋敷は六浦と鎌倉の往来に便利だった十二所の中の太刀洗いと呼ばれる地域に所在し、鎌倉市街地側から行くと三郎の滝の手前辺りと伝わります。
大蔵幕府~太刀洗に至るには、当時は二階堂川を避けて二階堂地区永福寺方面を経由して山を越えて梶原邸の方に出るか、滑川の南岸を通過し大江邸を通過し少し奥の光触寺の前を通って川沿いに十二所太刀洗の上総邸に行くルートしかありません。
山越えで梶原邸に戻るルートなら暗殺し汚れた太刀や服は自宅で洗濯するでしょう(笑)?
滑川南岸を行くなら梶原邸に戻るまでに遠回りになり源氏の菩提寺だった勝長寿院の僧侶達や北条家や大江家の家人や御家人本人に目撃されるか騒ぎに成るでしょう?でも何にも記録が無いんです。
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大江広元邸址
オカシイですよねぇ~?
わざわざ自宅をスルーして単独で上総邸に乗り込む筈も無ければ殺した相手の家の前で刀洗って帰って来る事も無い訳です。
なので梶原単独犯は成立しません。
普通に考えて彼の単独犯だとして畠山、足利、北条、大江が梶原家の軍勢を黙って通過させるでしょうか?
いずれにしても大江さんと言う幕臣の重鎮の家が最終的に有るのですが梶原公による単独犯なら上総公暗殺の事後の上総家の家人による山狩り状態で大騒ぎに成っている描写も無い。
逆に最初から軍勢で攻めても双六やる伝承は残らないし、そもそも騒ぎを大江家の人間だけなく途中の武将の家人も見聞きしていないのはオカシイ。
大江邸での記録が無く素通り出来たならそれはもう幕府公認の活動でしょう。
もう一つクッソ遠回りのルートで大町方面小町大路から名越に向かい北条家の名越邸の下の釈迦堂切通や逗子ハイライドに有った巡礼道(三浦道)を通過する経路が有ります。
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釈迦堂切通
公認ならば梶原単独にやらせる訳が無い、と言うか大軍勢を領国に抱える上総家家臣団を絶対に討ち漏らす事は許されないので、源頼朝公や北条家が加担してない訳が無いでしょう。
そこ等辺りが吾妻鏡の抜け落ちた1年の記録で、あくまで梶原家に罪を着せた後世の偽書の要素が吾妻鏡には幾つか有ると言う事でしょうし、愚管抄は詳しく知らない御家人の糟屋有季公の更に子供からの伝聞を書いたに過ぎない伝言ゲームの結果と言う事なのかも知れませんね。
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飯盛山 明王院 寛喜寺梶原景時公が通説通り暗殺を明王院の付近に有った梶原邸で行い、独自に私兵を率いて上総邸襲撃も出来た可能性が高いので梶原家の単独犯なら普通に伝承が一番整合性が高いでしょう。
相手の多さに相当苦労すると思いますが奇襲で相手は普段着、自分達は甲冑着込んでる訳ですから勝機は十分ですよね。
より確実なのは暗殺と掃討を分業して北条家と大江家が手っ取り早く幕府の兵を率いて上総邸を襲撃する方法です。
鎌倉殿梶原景時
 暗殺の実行犯⤴
 掃討戦実行犯⤵
鎌倉殿北条義時2鎌倉殿大江広元
この構図が一番現実的だと思います。
暗殺と掃討を確実にするには有力御家人に共犯がいるなら役割を分業したら良いのです。
梶原サンが暗殺している内に、幕府の中枢の人間であり尚且つ上総邸を襲撃しても他の御家人に目撃されない場所に住んでる二人が手勢を率いて上総邸に駐在している上総家親族と家臣団を襲撃して抵抗する者は虐殺し、降伏した者の中で重要では無い者は追放するのが一番効率的で失敗も少ないでしょう。
吾妻鏡では上総サン暗殺の年の記録を削除しているので、大河ドラマとは正反対で北条家が共犯か主導していたと考えるのが自然ではないでしょうか。
何時の時代も官僚や政治家にありそうな証拠隠蔽ですよね。
鎌倉時代に限らず江戸時代に成っても幕府が寺社に発給した領地保証の朱印状ですら寺名の誤記も有るし寛政重修諸家譜でも人名の誤記も有ります。
いずれにせよ、梶原単独犯の凶行で大蔵幕府で殺害し自邸に戻らず、上総邸の目の前の滑川上流まで太刀を洗いに行く訳がないですし、梶原家が単独で攻め込むと言うのは多くの御家人が黙殺する必要が有るので地理的に非現実的ですね。
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蝉も鳴かない空気の澄んだ2月、切り合いと怒号と阿鼻叫喚の悲鳴は鎌倉の谷間では遠くまで良く響きますよぉ~(笑)。
横浜~鎌倉の細長ぁ~い谷で繋がる谷戸地形はね、夜になり往時の様に静かな時間帯に成ると5km先の電車の走る音も谷間に反響して良く聞こえてくるんですよ~www。
最後に上総広常公の跡地に跡に開削された朝比奈切通と、切通開削以前の古道だった熊野神社の参道の写真を見て今日のブログを終えたいと思います~。
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最近は春に成ったのに関東では天気の悪い日が続きますが天気が良く成ったら天園ハイキングコースの古道や朝比奈峠~鎌倉駅までの散策を楽しんでみては如何でしょうか~?
コロナに感染しない様に対策をシッカリしつつ歴史散策や鎌倉観光楽しんで下さいねぇ~♪

では皆さん、又、次の記事でお会いしましょう~。
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戦国時代の北条家には五色備(ごしきそな)えと呼ばれた色別編成の主力部隊がいました。
横浜と隣の鎌倉には、その内の3人の殿様と1人の名副将がいました。             



シリーズ化し個別に記事にします。 


関東最強武将だった1人を紹介します…
北条五色備えの“黄備え”!
 

※KOEIさんのゲーム画像拝借


玉縄城主:北条綱成(つなしげ)公
北条五色備(ごしきそな)えの"黄備え"を務めた。
渾名(あだな)は「地黄八幡(じきはちまん)」。

丸に三ツ鱗紋家紋は丸に三鱗紋。

北条"地黄八幡"綱成公が城主を務めた玉縄城は、今のJR大船近く玉縄地区〜横浜市栄区長尾台〜藤沢市二伝寺の広大な範囲にまたがって在った御城です。

鎌倉市一帯と相模湾を守る為に築城された難攻不落の城です。

城主だった綱成公は今でも有名でKOEIの信長の野望天道でも高評価されてます。

統率92 武勇96 知略79 政治60 義理89

…恐ろしく強いですね。

実績と比較して、まだ不足ですが。

SEGAでは更に高評価。

 

武力10…最高評価です。

まぁゲームの話はここまでにして・・・
玉縄城主だった北条綱成公と御子息達の墓所は、北条綱成公が開基(かいき:寺院を開く事)した龍寶寺(りゅうほうじ)に有ります。
下は龍寶寺の写真です。

 

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陽谷山 瑞光院 龍寶寺

この龍寶寺の裏山も龍寶寺城と言われ山が裾切されており尾根のところどころに平場が削平されていて玉縄城の一部を形成していました。

龍寳寺には玉縄民族資料館があり、玉縄城址の遺物や復元模型も展示されています。

これ↓玉縄城の復元模型。

 

保管されている↓城門と本丸の礎石 

 

 

あと鎧と兜 

 

 

これ↑雪の下胴と言って鎌倉特産の甲冑でした。 

伊達政宗もコレ着てましたよ。

玉縄城の本丸は今では女子校が建っていて、男性の歴史ファンにとっては有る意味「攻略不可能」な最強の城に成ってしまいました…。

綱成公は、まさにリアル戦隊5レンジャーでしたwww。

地黄八幡とアダ名で敵武将達から呼ばれた玉縄城主の北条綱成公は、小田原北条家2代北条氏綱公の婿養子でした。

北条家3代目の殿様北条氏康公とは義兄弟に当たり、最前線の防衛や外交を任され非常に信頼されてました。

上杉謙信公や武田信玄を合戦で撤退させる事数回、名実共に南関東最強で、戦国最強クラスの指揮力・統率力・判断力・カリスマ性を備えた名将でした。

無論、上杉謙信公や武田信玄は戦以外にも優れた能力が有り動員兵力も規模が異なるので比較出来ない部分も有ります。

綱成公は戦が始まると「勝ったぞ~(始まったばっかなのに)」と言いながら朽ち葉色の布に「八幡」と書かれた軍旗で統一した軍勢で攻撃をしかけ敵を撃破したそうです。
朽ち葉色と言うのは下の写真の黄花秋桜(キバナコスモス)と同じ色ですね。
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綱成公の余りの強さから綱成公の守備していた静岡県の深沢城から撤退した際に、城内に残されていた黄色の旗印を武田信玄が接収して持ち帰り、家臣の真田信伊(のぶただ※幸村こと真田信繁の叔父)に与えたそうで、この旗は今でも真田家の居城長野県松代城に保管されています。

この逸話や、河越夜戦や国府台の戦場で「勝ったぞ!」と叫びながら八幡大菩薩の旗印の黄備え部隊が敵陣を奇襲蹂躙し追撃する様から他家武将に"地黄八幡"の渾名(あだな)で畏敬の念を込め呼ばれていました。


綱成公の強さを示す1番の実績は"河越合戦での活躍です。

戦国時代、優れた民政により民百姓の支持を得た綱成公の主君北条氏康公は関東で勢力を拡大します。 

その過程で旧勢力の筆頭格関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市に在った)で激突します。

その兵力差たるや絶望的に綱成公の守る河越城が不利。

北条家兵力  3,000

上杉家兵力80,000

河越城の主将は北条幻庵公。

幻庵公は今の横浜市港北区の小机城主で風魔忍者の管理者でした。

それを補佐する玉縄城主綱成公。

両者の動員兵力はわずか。

対して関東管領上杉家&古河公方足利家の連合軍には関東地方の古豪大名達がこぞって参集し10万人に迫る勢いでした。


この圧倒的劣勢の中、河越城守勢は綱成公の活躍で半年間も敵を跳ね返し続けました。

そんな中、敵に厭戦(えんせん=ダラけ)氣分が蔓延し始めます。

それを待っていた綱成公の義兄で主君北条氏康公が小田原城より8000の兵を率いて来援します。

しかし綱成公と氏康公の兵力を合計しても敵の8分の1に過ぎません。

だからこそ、氏康公は敵勢がダラけるのを待っていたんですね。


敵勢が油断し酒盛りを始めたある晩、氏康公が夜襲で奇襲をしかけました。

同時に河越城から綱成公が出て敵に突撃します。

敵は多いが油断して規律も乱れボロボロだった状況で北条家の義兄弟コンビに奇襲挟撃(きょうげき=はさみうち)され瞬く間に壊滅しました。

上杉家連合軍側の被害は甚大で…


連合盟主:古河公方足利晴氏→捕虜

主要大名:扇谷上杉家→殿様死亡滅亡

主要大名:山内上杉家→壊滅勢力大幅縮小

その他の連合軍参加大名も散り散りに逃走し大幅に勢力縮小する事に成りました。


綱成公の強さは尋常じゃないですね。

こんな殿様が鎌倉にいたなんて、神奈川県民としてとても誇らしい。

さて、では玉縄城の現在の様子を見て見ましょう。
玉縄城は現代では宅地化により大部分が消滅しています。
下は玉縄城の要塞網です。
大船駅周辺
御覧の様に北は上杉謙信の祖先の長尾定景公の居城だった長尾台城~龍寶寺城~玉縄城主要部(清泉女学院高等学校周辺)~二傳寺一帯が全て玉縄城でした。
まずは龍寶寺からスタートしましょう。
龍寶寺の境内山門の近くには御寺の運営する郷土資料館が朝早くから無料開放されています。
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そこに玉縄城の縄張を再現した地形模型や簡単な解説の展示物が有るので、先ずここで視覚的に立体的な城の構造を復習してから見学すると理解がし易いかと思います。
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鎌倉市史考古編や日本城郭大系にも玉縄城の推定縄張図(なわばりず=城の設計図)が掲載されており散策の参考に成ると思います。
龍寶寺には平成の27年頃まで裏山の上に有った玉縄北条家の墓石が移設されており、供養塔が「玉縄城址町作り会議」の方々が出資して新造した供養墓が中心に、移設した墓石が右手に祀られています。
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玉縄城を見学するなら先ずは玉縄城主の北条家の殿様の供養塔を御参りして御挨拶差し上げるのが筋と言う物だと思います。

郷土資料館の展示を見てから訪問すれば解りやすいですしね。

順路としては・・・
お墓参りをして。

龍寶寺の裏山も龍寶寺城跡ですから、一般の墓地から登り山上の旧北条家墓所辺りの削平地や裾切りされた尾根を見てから降りて来て。

郷土資料館を見て。

先ず最初に七曲りの虎口を訪問。

こうすると無駄無く見学出来ます。

七曲り虎口の虎口と言うのはつまり城の入口を守る防御機構の事です。
基礎的な事は下のリンクから用語集を見ると図説が有るので初心者も解りやすいです。
 

余り歴史に関心が無かった人は「城=天守閣」と誤解してる方も多いので上のサイトで復習してから今から掲載する小生の解説と写真を見ると城の構造を理解し易いと思います。

龍寶寺から徒歩5分ちょいと直ぐの場所に玉縄城の中心部に登る最終関門となる七曲りが有ります。

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今は本丸は女子高で遺構は地形しか有りませんが男性には攻め込んだら警察に通報される法律的に難攻不落の城ですwww
しかし七曲りから主郭の清泉女学院の台地に登って行くと現代も物理的に難攻不落の地形を垣間見る事が出来ます。
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玉縄城七曲虎口
七曲りは深い谷から一気に本丸の大手門に登って行く道なのだが、谷の両岸は裾切(すそきり)と言われる山裾を直角に切り落とす土木工事がされているのが見て取れますね?
神奈川県を含む南関東の地層は他地域と異なり関東ローム層と言う富士山の火山灰で出来た堅い赤土の地層と隆起した砂岩の地層で出来ています。
下の写真は横浜市都筑区の茅ヶ崎城の曲輪(くるわ:兵士の待機スペース)と曲輪を分断する堀切と言われる空堀です。
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赤土が露出しているのが解るでしょうか?戦国時代の関東の御城は石垣では無くてこの様な土を削り出した城でした。この土壁に戦闘開始時に水を撒いてしまうと敵は登って来れない訳ですね。
更に!この空堀の底に「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれるさき先端を竹槍状に加工した木の杭や竹の杭の束を設置し、登ろうとする敵を槍等で突き落としたり敵が勝手に足を滑らすと堀底の逆茂木に・・・
「グサグサッ☠!」
・・・と勝手に串刺しに成って死んでくれる石垣城よりも恐ろしい防衛能力を発揮する訳ですね。
登ろうとすると滑る上に地盤としての耐久性は高く加工もし易いので傾斜角が45°~60°は確保されており、30㎏の甲冑や武器をフル装備した歩兵は絶対に道順通りにしか侵攻する事が出来ない訳です。
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当時はこの道ではなくフェンスの中に更に直進出来ない様にした九十九折(つづらおり)に農道として残る狭い武者走りと言われる細い道がジグザグを通らないと上に登って行けない構造でした。
そしてこれらの道も地盤も樹木を伐採してあり、先程の茅ヶ崎所の写真の様に赤土が露出していた訳ですね。
フェンス内の農道は段々に成っており武者溜(むしゃだまり)と呼称される段々に成った曲輪(くるわ)の連続に成っています。
この“武者溜”は日本城郭大系にも詳しい図は無く小生も予備知識無かったが見て段地の方が旧道と直ぐに理解出来たし、皆さんも現地看板に説明が有るので確認も出来ます。
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現代の道は明治時代の地図から改変は無いものの戦国時代の関東の城にしては道幅が2m以上あり虎口としては広過ぎる上に単純過ぎて写真でも解る通りフェンス内の段郭の防御機能を活かす事が出来ていないんですね。
恐らく北条家の支配が終わり徳川家臣団が後世に改変させたハッキリ言って城のデチューンが有ったのだと思います。
ここで明治時代の迅速測図と現代の地形を比較してみましょう!
玉縄城主郭周辺 久良岐のよし
現代の道も明治時代の測量図と近い長い直進とL字の連続する喰い違い構造に成っているので、恐らく江戸時代に成って本多正信公か大河内正綱公が城主によって守備力より御役所としての機能を重視する近世城郭に近い形に改編された道だと思います。
こんな単純構造には北条家は城を作りません。
下は北条家の山中城です。
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国指定文化財史跡
山中城跡
山中城を見ると良く解ると思いますが・・・
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「絶対に直進なんかさせねぇ~よ!」と言う構造体が北条家の御城には多数仕掛けれています。
何故L字にするかと言うと、こうする事で侵入する敵数を制限出来る上に、守備側は正面と側面から弓矢鉄砲で殺傷力の高い十字砲火で攻撃が可能に成るからなんですね。
以上が山中城の構造な訳ですが、全然真っ直ぐ進めないし赤土の城の殺傷能力の高さも御理解頂けたでしょうか?

玉縄城主郭周辺 久良岐のよし
これらを踏まえると「七曲り虎口」は元々「七曲り」なのが明時代の地図では「五曲り」位に簡略化された上に道幅も広い大手道に拡張されてしまっていますね。
・・・とは言っても七曲りは写真の通り空堀の堀底道として機能しており高い防御力を保っています。
ここを進軍すると両脇の城の山の尾根から弓矢鉄砲の集中砲火を受ます。
この様な地形は古代に海が入り込んでいた神奈川県沿岸部の平地、東京都南部~東部、埼玉県東部、千葉県西武~東部、群馬県南東部に多く見られます。
自然の谷を利用して山裾を裾切(すそきり)と言って削り取り崖にしてしまい、谷の入口に敵の侵入を防ぐ柵や塀と木戸を作って塞いでしまうので更に防御力が高く成ります。
この様な関東流の築城の仕方を「谷戸構(やとがま)え」と呼びます。
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七曲りを登りきると右手の変な崖の上に無理やり建てた(笑)民家が有りますが、これが三角平場と呼称された曲輪で、七曲りを登ってくる敵を攻撃すると同時に本丸に侵入した際に敵に側面から奇襲を仕掛ける兵士を待機させる構造体だった様です。
玉縄城は要害堅固で上杉謙信公の15万、武田信玄の2万8千の軍勢に攻められた際も守備兵3千で敵勢の撤退まで守り抜き逆襲に成功した実績が有る難攻不落の城でした。

武田菱竹に雀紋

武田家 四つ割菱紋 上杉家 竹に雀紋
無論、城の解説より先に紹介した城将の北条綱成(つなしげ)公や北条康成(やすしげ)公は、時には敵だったり時には同盟者だったりした上杉謙信公や武田信玄からも賞賛された名将です。
玉縄城縄張図
上は玉縄城址まちづくり会議の皆様が設置してくださっている縄張図です。
解りやすいですね。先程の写真の三角平場と言う場所が丁度、画面の真ん中辺りです。
実は以前、小生はブログ書き始めた頃で歴史も入門編くらいだった初訪問の際に・・・
「女子高だからどうせ中に入れないし~」
・・・とネットの不正確な情報を鵜呑みにして近づきませんでした。
この日は京都の友達と撮影に行ったのですが、再訪したら住宅街に成った場所にも意外に多く明確な遺構や地形が残っていたんだなぁ~と今更ながらに再認識させられた(笑)。
やはりネットで文章だけの情報を鵜呑みにしたらダメだですね。
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玉縄城は遺構こそ少ないものの玉縄城址まちづくり会議の荒井会長達の御尽力で解説が有り、残り少ない遺構も場所場所の看板を見ながら楽しく散策する事が出来るます。
七曲りの武者溜(段郭)を通過し三角平場の下を突破すると大手門に行く前に左手に太鼓矢倉の平場と堀切と硝煙蔵の平場が現存しています。
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説明が有るので良く解らない人でも構造の役割が理解できると思う。
下の写真で凄く深い堀切状の空堀が有るのが解るでしょうか?
写真にすると遠近感が無く成り良く解らないんですよ、土の御城の空堀って。
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太鼓矢倉の尾根が断ち切られた“堀切”には平時は“引き橋”と言われる仮設の橋が架かっていて、敵が攻めてくると橋を引っ込めてしまって敵が侵入出来ない鉄壁の防御構造に成っていました。
敵は堀底の道を遠回りして攻めるしかなく、下の空堀を敵が通過しようとする時に鉄砲や弓矢を雨の様に射撃して射殺してしまう訳ですね。
空堀の深さは堀底~太鼓櫓の曲輪(くるわ)まで比高8m程度と言った所。普通にこの高さを突き落されたら良くて骨折、悪ければ死にますwww。
この構造によって敵は山裾から尾根道伝(づた)いに真っ直ぐ本丸を目指す事は出来ず迂回して七曲りから登って来るか城主の館の道から遠回りして登って来るしかない訳ですね。
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これは清泉女学院高等学校の校庭の下の崖、このコンクリで塗り固められた場所が玉縄城の大手門だったのですが、残念ながら高校建設と宅地化の際に原型が無くなっています。

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でも玉縄城址まちづくり会議の方が説明を掲示してくれているので予備知識が無い人も当時の様子を想像する事が出来ますよ!
この大手門から城主の館が存在したマンション“ルネ鎌倉植木”辺りに降りる“陣屋坂”に向かう場所に玉縄城の石碑が有ります・・・
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・・・と偉そうに解説してますが、こんな見つけ難い場所だったので地元の方に教えて貰うまで見つかりませんでした(笑)。
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登ると上に小さな仏様と石碑が有ります。
玉縄城址の石碑。
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昭和三十一年 鎌倉友青会と書いて有るので昭和初期の青年会でしょう。
当時はここ等辺はド田舎でしたからね~。
でも大船駅前に松竹の映画撮影所が有って、そちらには映画スターが来るので商店街は賑やかに繁栄していました。
徳川氏の治世に成って直ぐに廃城に成ったと書いているが実際は徳川家康公の親友で謀将として活躍した本多正信公が城主に成り、更に松平の苗字の名乗りを許された大河内正綱公が城主に成っても城として機能は維持され廃城に成ったのは元禄十六年(1703年)つまり江戸時代も中期に差し掛かる話なので、天正十八年(1590年)に北条家が豊臣家に降伏して大阪で狭山藩1万1千石の小大名として移封されても実に113年間も存続していた事に成ります。
熱心なんだけど昭和初期の郷土史家に有りがちな間違い。
こう言う事が明治期~昭和初期の郷土史家や学者の書いた物には多く有るので文面をコピペせず御自分で史料を読まれる事が大切に成って来る訳です。
因みに先に少し触れましたが、この石碑の傍らの坂道が“陣屋坂”で下り切った先に有るマンション“ルネ鎌倉植木”辺りに城主の居館や庭園が有ったそうです。
玉縄城御主殿址周辺 久良岐のよし
玉縄城縄張図
本丸の清泉女子の北側の尾根には御花畑の地名も残り、勇将の北条綱成公が花を栽培して蝶と戯れている風景を想像すると少し笑える位にホッコリとした安らぎも地名から感じてしまう(笑)。
綱成公の御子息の北条康成公は奥方様が主君で義理の叔父の北条氏康公の御姫様の七曲殿だった。
七曲殿の名前からも解ると思うが、七曲り虎口の入口に有る館に住んでいたので地名由来の渾名で呼ばれた様だ。当時の女性はなかなか存命中の名前が記録される事が少ないので隠居後の法名や没後の戒名しか伝わらず、七曲殿もやはり法名の新光院としか伝わっていない。
墓所は鎌倉市内の大長寺で、この大長寺は康成公が実母で北条綱成公の正妻だった大頂院殿の供養の為に建てた菩提寺だったが徳川家康公によって現在の寺名の漢字に改名させらて現在に至る。


さて皆さん、玉縄城の解説どうでしたか?
JR大船駅に電車で来て時間が有れば、是非龍寶寺の郷土資料館や北条綱成公の御墓参り等してみては如何でしょうか?
龍寶寺~七曲り虎口や硝煙櫓辺りの空堀も歩いて10分程度です。

もし機会が有れば玉縄城散策をして北条綱成公と言う明武将が戦国時代の鎌倉市に居た事を思い出してあげて下さい。


では又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
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この動画⤵シーサードラインの前面展望の解説無しだけど景色が良い動画。

見ていると自分が乗車してる気分に成れて面白い。ただ地元横浜市南部の市民としては知らない人に解説してあげたくなるので、動画のコメント欄に各駅名由来や周辺の解説を書いたので、それをそのままスーツ氏の動画に書いた自分のコメントをブログにも転載し、彼の動画は独りよがりな動画では無く地域振興にも貢献している素晴らしい物なので、ちょっと紹介して見たいと思う。
先ず彼スーツ君は複数のチャンネルを持っています。

この中でスーツ旅行チャンネルは鉄道系Youtuberなのに何故か電車に乗らずチャリンコで東海道や中山道の旧宿場町を全て辿るとか意味不明に且つ緻密に計画を立てて身体を貼って郷土史と旧道の景色を紹介したりしています。
スーツ交通チャンネルは正統派の鉄道系チャンネルと言った風。
スーツ車窓チャンネルが今回の動画の様に無言で視聴者が自分が乗車している臨場感を疑似体験させてくれるチャンネル。
背広チャンネルは彼が主に悪態を吐くユーモラスなチャンネルです。
今回はたまたま横浜市民に馴染みのシーサイドラインの紹介だったので、コメント欄に各駅と周辺の歴史を紹介したので同じ物をここに転載しておきます。
市外から八景島等に遊びに来られる方の旅の薀蓄のネタに成れれば幸いです。
では!転載部分を動画再生しながら御覧下さい。


駅名と周辺歴史の解説をさせて頂きます

【金沢八景駅】00:00
金沢八景の由来は京急能見台駅の駅名由来と関係しています。
江戸時代に歌川広重が金沢八景の八ヵ所を絵に残している事でも有名ですね。
昔、能見堂と言う御堂の有る寺院が釜利谷と言う地域の山の上に有りまして、そこを訪問した中国の高僧が中国の「湘南八景」に匹敵する景色と評した事で、金沢山称名寺と言う鎌倉幕府の執権も輩出した金沢北条家が一帯を治めていて自邸に開いた御寺の金沢山弥勒院称名寺の山号から一帯が「金沢領」と室町時代にも呼ばれていた事で湘南八景と合わせて「金沢八景」と呼ばれる様に成りました。
金沢八景駅の目の前にある瀬戸神社と琵琶島弁財天は源頼朝公と北条政子様御夫妻が開いた神社で伊豆の三島大社の御分霊と滋賀県琵琶湖の竹生島弁財天の御分霊を勧進して開かれました。
三嶋明神/瀬戸明神社の社名の2つ名で呼ばれており、社格の高い神社だったので明治に宗教改革で明神信仰が弾圧されるまで鎌倉御家人千葉氏一族の社家と成った千葉家が歴代宮司を務めていました。実は同じ様に鶴岡八幡宮も正式名は鶴岡八幡宮寺で神仏習合の施設であり源頼朝公により古代豪族の末裔の大伴氏が宮司に任命されて以来、明治の宗教改革で大伴氏が追放されるまで宮司を務め境内には仏教施設が有りました。
京浜急行金沢文庫駅の名は、伊藤博文公が金沢八景駅近くに有った旅館で大日本国憲法を起草した際に非常に旧金沢領の景色を気に入って周辺を散策して称名寺に参拝した所、東の正倉院と呼ばれた文化財の収蔵量を誇っていた称名寺の寺宝が明治時代に成って僧侶によって大量売却されている実情を把握して憤慨し、国家権力で称名寺の文化財を大量に国宝指定し宝物殿である大宝院跡地に鎌倉時代の称名寺のオーナーだった金沢北条家の私設図書館「金沢文庫」を復興し称名寺の寺宝を収蔵保護した事で有名になり地名・駅名に成りました。大宝院に再建された金沢文庫は現在の神奈川県立金沢文庫に引き継がれ、金沢北条家時代の文庫の所在地の文庫谷(ぶんこがやつ)に移設され現在に至ります。
この金沢文庫には今上上皇陛下も過去に御来館されたそうです。
この一帯は江戸時代末の干拓、昭和に六浦や八景島の埋立されるまで海に多数の島と半島が入り組む景勝地だったで、「徒然草」の著者として有名な京都の高僧の“吉田兼好”が六浦山浄願寺と言う“源頼朝公”と“文覚上人”が開いた御寺に長期滞在した程でした。
この浄願寺跡は歴史学の最高峰である東京大学史料編纂所の山中教授等により当時、絶対に保護すべき鎌倉時代を代表する史跡と言わしめた場所でしたがマンション開発で消滅し現在は上行寺東遺跡と呼ばれています。
また八景駅直ぐ近くの金龍院には江戸時代まで「九覧亭」と言う眺望の良い展望所が有りましたが現在は埋め立てにより景勝は失われています。
金沢八景駅から徒歩で行ける町屋と言う地域の龍華寺は“太田道灌公”によって浄願寺を移転させ復興した当時は景勝の寺院として知られた事から北条早雲公、徳川家康公等が宿泊した歴史も有ります。
この町屋町にある安立寺は日蓮上人が船中問答の際に途中下船して立ち寄り説法をした寺院でもあります。
また八景駅の裏に有る横浜市大の近所には有名な江戸幕府の柳沢吉保公の御子息で大名の米倉家が開いた六浦藩陣屋が有りましたが、今も御子孫が住んでらっしゃいます。
市大裏の山の反対側は日蓮上人が船中問答の際に船の執着地で滞在した上行寺が有ります。
現代では金沢八景駅付近で特に歴史に興味の無い人にとっては横浜市大が有る事と隣の金沢文庫駅前に小田和正さんの御実家の薬局が有る事、ドラマと映画の“昼顔”のロケ地に周辺一帯が成っている事で有名です。


【野島公園駅】02:32
野島公園駅は“野島”と言う島に由来します。
歌川広重も絵に書いた「金沢八景」と呼ばれた8ヵ所の景勝地の内、実に2ヵ所がこの野島の景色でした。
「野島の夕照(せきしょう)」「乙舳(おっとも)の帰帆」です。
現在、野島公園駅と野島の反対側にかかる大きな白い橋は“夕照橋(ゆうしょうばし)”と言う名前なのは歌川広重の絵に由来している訳ですが、横浜市役所は役人が市外からの移民だらけなので夕照(せきしょう)と読めず誤読したまま橋の名前にしてしまった様です。
ついでに言うと金沢八景も本来は金沢(かなざわ)ではなく、正しくは金沢(かねさわ)でした。よって鎌倉時代に関西を統治する六波羅探題を務めた金沢北条家は金沢北条(かねさわほうじょう)と呼ばれています。つまり横浜市金沢区(かなざわく)の区名自体も市役所の役人の知識不足で誤読されたまま区名が名づけられてしまった訳ですね。
戦国時代の古文書を読むと房総半島を治めた里見家と神奈川県側の北条家が和睦した時代には、野島から定期船が出ていた様で、その船の復活に際して船大工が使う資材を鍛冶師に手配する様に指示した文書等が残っています。
この江戸時代まで尼寺が頂上に有りましたが廃寺に成り、その法脈は野島の麓(ふもと)の染王寺に受け継がれています。
江戸時代に成ると紀州藩徳川家の別邸が今のキャンプ場辺りに築かれて、その鎮守の神社として野島稲荷神社は紀州徳川家から崇敬されていた歴史も有ります。
明治時代に成ると野島に伊藤博文公が明治天皇の旧赤坂仮御所御会食所を下賜され移築し金沢別邸を築いて頻繁に訪れていました。大韓帝国最後の皇太子で伊藤博文公が後見していた李垠(りぎん)殿下も海水浴に訪れて滞在してらっしゃいます。シーサイドラインと関係無い話題ですが東京の赤坂プリンスホテルの旧館は実はこの李垠殿下が日本王族時代に御住まいだった御所でした。
野島は第二次大戦中に成ると尼寺の有った頂上に砲台が築かれ、山の中には掩体壕と言うデッカイ防空壕の様な零式艦上戦闘機の格納庫が作られていました。
現在の日産自動車テストコースが帝国海軍横須賀鎮守府の横須賀飛行場で、元々海だったキャンプ場側と飛行場の間に戦闘機が走行する土橋が作られ海が封鎖されてしまうので島の反対側の本来は半島だった現在の野島公園駅側の駅前の乙舳の水路が開削され皮肉にも地名通りに現在の島の様な形に成りました。
ちなみに日産自動車テストコースの飛行場跡地と野島を結んでいた土橋は漁業者にとって邪魔だったので戦後に撤去されましたが、終戦直後の航空写真に艦上爆撃機“彗星”が放置されている写真等が神奈川県立金沢文庫の史料に掲載されています。


【海の公園南口駅】04:26
昭和までは海の底でした。現在は海の公園と言えば八景島シーパラダイスが有名ですが、この一帯が海だった時代は豊かな漁場で「小柴の蝦蛄(しゃこ)」「小柴の穴子」「海鼠(なまこ)」が有名で、江戸時代に鎌倉観光に来る江戸市民が船で遊覧に来て八景観光をして六浦から朝比奈峠を越えて鎌倉入りする時に舌鼓を打った事でも知られており鉄腕DASH等でも紹介されたので若い方も御存知かも知れませんね。
この小柴~野島の海鼠(なまこ)は特に上物とされ幕末に清国公使館の有った横浜中華街で非常に需要が有り、神奈川県庁~山下埠頭(今の国際客船ターミナル大桟橋)に有った江戸幕府の神奈川運上所から清国向けに干し海鼠や干し鮑が輸出されていました。
この一帯は昔は海だった事も有り近くの町屋地区では水害が多かったそうです。


【海の公園柴口駅】06:15
この一帯の海は埋め立てられて今の海の公園が築かれましたが、小柴漁港の後継施設の柴漁港では毎週週末に水揚げされた「穴子天丼」を食べさせてくれる「天丼小屋」が営業されています。
天丼小屋の天丼は横浜市民には有名で正午12時前には売り切れる事が多いので、八景島シーパラダイス訪問等と合わせて食事に御興味の有る方は少し早目の11時には行かれる事をお勧めします。
直ぐ近くに海軍料亭の異名で呼ばれた金沢園と言う立派な料亭が有りました。昭和五年に金沢で開業していますが実はそれ以前に別の場所に開業していた建物を移築しており建物は余裕で100年以上の歴史が有り、文豪にも愛され与謝野晶子や高浜虚子等が訪れて歌会を開いたり会食を楽しんだり度々していました。
今は料亭の施設をそのまま利用して“カフェ金澤園”とだいぶ敷居も低く成っており素敵な近代日本の料亭建築でファミレス程安くは有りませんがちゃんとした食事をリーズナブルな価格で楽しむことが出来ます。


【八景島駅】08:09
八景島シーパラダイスの為に作られた駅です。
日本初の魚を見上げるアクアチューブで有名に成った水族館併設の遊園地ですが、現在ではイルカや魚類を見上げる展示方法は希少性は無く成ってしまいましたが、遊園地を併設している事でコロナさえなければ週末には多くの人で賑わう場所でした。
余り知られていないのですが、園内にBBQ施設や宿泊施設も備えています。地方からの横浜観光には宿泊拠点の候補として数えても良いかもしれませんが、ここの欠点は夜間に成ると八景島のゲートが閉じられ島外に夜間外出出来ない事です。
開園当初は八景島から横浜の山下公園や桜木町までシーバスが営業していましたが交通手段としては高く、観光としては夜間営業をやっていた訳でも無く地味だったので暫くして廃線になってしまいました。
ここも埋立地で建設中は砂塵の公害が酷かったそうですが、現代では緑地化されており海の公園とも繋がっているので週末には市内外からの散歩客や観光客で賑わっています。


【市大医学部駅】11:11
昔ぃ~昔ぃ・・・
そんなに遠く無い昔の話の事じゃった。
御医者様が手術の患者を取り違えてしまってのぉ~
・・・肺の健康な患者から右肺を切除してしまうと言う恐ろしい事件が有ったそうじゃぁ~。
・・・それから時間は経ってのぉ~、前市長の林文子と言うバア様の時代成るとに医療関係と教育委員会は予算を削減されまくり文化財保護や緑地保護や医療関連は大変な事に成っておるそうなんじゃぁ~。


【福浦駅】13:28
福浦の地名の由来は不明で明治十四(1881)年の陸軍の測量図である迅速測図では一帯の海は柴村に付属する海で有る事が判る。
この柴村~富岡村にかけて長い砂浜と切り立った断崖の丘が続く景勝地だったが、当時は浜辺だったので浦らしい地形は明治時点でも見当たらず福浦と呼ばれていたかは不明。
この地域は鎌倉時代末の応長元年に大変な事に成るのだが、それは並木中央駅の解説で語るとしよう・・・。


【産業振興センター駅】15:23
この一帯は埋立地の中でも工業団地の位置づけで駅前には出張者の滞在を前提として建設された物の閑古鳥が鳴いているテクノタワーホテルと言う名前が最先端なサイエンスな香りとどこか小室哲也を思い出す糞バブル時代を彷彿とさせる宿泊施設が有る。
実はこの一帯は重大な欠点が有り、埋立地としての嵩上(かさあげ)が高潮の想定が甘く2019年やそれ以前の台風と高潮でも度々道が水没している昭和埋立地に有りがちな場所なので工業団地にするにはどうかと客観的に思う今日この頃・・・。


【幸浦駅】17:18
福浦と同じく幸浦と呼ぶにしては迅速測図で“浦”の地形すら確認も出来ない上に砂浜なので命名由来は謎。
そもそも海を埋め立てて置いて浦もヘッタくれも無いと思うのは私だけでしょうか?
ところでここは日本にとって世界に誇る歴史偉人が活躍した場所でもあるのですが、その当時は陸地ではなく海と長い浜辺で港した。
幸浦駅の真西に徒歩10分程の距離に「長浜ホール」と言う横浜市の文化財に指定されている建物が有ります。そこに隣接する緑地に「旧細菌検査室」と言う洋館が横浜市によって保護されています。
実はこの「長浜ホール」「旧細菌検査室」は「野口英世博士」が勤務していた「旧長浜検疫所」の施設で、幸浦には埋め立てられるまで長浜港と言う人口地形の港が存在し横浜港入港前に貨物船の船荷や乗船員の検疫を行う国立の検疫所が存在していました。野口英世博士がここに停泊していた船の中国人乗組員から世界初「ペスト」の検出に成功して当時最凶の疫病“ペスト(黒死病)”の流入を阻止し日本国民と在日外国人の命を守ったんですね。
もし野口博士が現代の日本にいたら新型コロナ肺炎のゴタゴタをどう思ったかわ・・・歴史にifは無いので議論するだけ無駄ですね。
更に映画にも登場した施設がもう一箇所幸浦駅から西側を見た丘の上に存在します。
「小柴貯油施設」です。旧海軍の石油貯蔵庫で、後に米軍に接収され米軍施設として運営され2005年に横浜市に引き渡されました。
ここは出光興産の創業者である出光佐三サンの社史をV6の岡田君の主演で映画化した「海賊と呼ばれた男」で出光の創業メンバー達が油まみれに成りながら石油の回収をしていた舞台です。
現在時点では公園化の予定ですが、実際には進捗は遅々として進んでいません。

【並木中央駅】19:04
なぜ並木中央と言うか市外から移住して来た非ハマっ子は謎に思う地域ですが・・・
実はこの地域、先程の福浦の解説で少し触れましたが長い浜辺が富岡村~柴村にかけて明治期に存在していました。これが長浜と呼ばれた地域で、幸浦駅の解説で触れた野口博士が勤務されておられた長浜検疫所の長浜もその長い浜辺に由来しています。
その長浜は更に昔はもっと沖合まで陸地でして、今の並木中央駅辺りは実は鎌倉時代まで陸地で長浜千軒と言われる町が形成されており物流と漁業拠点として栄えていました。
そこには並木道が有ったと伝承しておりました。
そんな場所なので海と海沿いの村落の安寧を願い、「源頼朝公」が建久二(1191)年に源頼朝公が並木中央駅の西側、富岡に今の兵庫県西宮市の正月10日福男を決めるダッシュで有名な西宮神社から恵比寿様の御分霊を勧進して開かれたのが「富岡八幡宮」でした。
この富岡八幡宮は並木中央駅から北西の方角へ徒歩10分の距離に現存しています。
この並木道が有った長浜千軒の港町は「並木が海の中に有った!」と昭和後期まで伝承に成っていた原因の出来事が頼朝公の没後、約100年してから発生します・・・
応長元(1311)年、日本は各地で天変地異が現代日本と同じ様に起きて応長の元号は縁起が悪いと二年で改元されたのですが、長濱千軒でも大変な事が起きました。
突如陸上から人命と共に長浜千軒は海中に消えたのです。
大津波に襲われ一夜にして海没して村が陸地ごと消失し多くの人命が失われたと伝わり、長濱の生き残った被災者は富岡や町屋地区に移り住む事に成りました。
・・・これを応長の大津波と言いますが、実際は状況的に津波では無かった様です。
この海没が潮が引いてまた陸地に成っていない事や対岸の房総半島で返しの津波が観測されていない事から、長浜千軒消滅の正体は大津波ではなく町ごと地盤の大陥没に巻き込まれ海没している様です。
古来屏風浦と呼ばれた本牧~金沢西柴にかけての断崖絶壁は地盤の境目である事が推測出来てしまったりする場所なので、産業振興センター駅の解説でも高潮の影響を受ける地域と解説しましたがそれ以前の問題で、この地域は埋立地にしてはいけない地盤沈下する可能性が応長大津波から解る訳ですね。
ちなみに源頼朝公の開いた富岡八幡宮より内側の村々は頼朝公の地形を読む慧眼で一切の被害にも遭わず、それより「波除八幡」と呼ばれ現代にまで崇敬を集めているのですが、これが江戸時代に成り江戸初期には海だった今の江東区や墨田区が埋め立てられて深川や築地の町が形成されて行くと当時の未熟な埋立技術で度々高潮の被害に遭っていた事から、金沢八景や杉田梅林に遊覧に来る江戸市民に金沢区の富岡八幡宮が波除八幡宮として応長大津波で大きな御利益を発揮したと言う事が人気と成り、金沢区の富岡八幡宮から御分霊が深川に勧進され深川の富岡八幡宮が開かれました。現代では東京の富岡八幡宮の方が経済的に豊かに成ってしまい、余り本家の金沢区の富岡八幡宮の事を知る人は現地の住人か私の様なオタク位しか知らない穴場の神社に成ってしまいましたが地元ではソレなりに参拝客の多い神社に成っています。宮司家の佐野家は今では荒廃しつつある市内の神社を何社も兼務され守られてらっしゃいます。
並木中央駅の真下には掘割の様な水路が有りますが、実はこれは海です。富岡八幡宮の山の下には往時の景観を維持する為に嘗ての船溜まりが池の様に保存されており、そこへの水路として海が細長く埋められず残されているんですね。

【並木北駅】21:02
並木の地名由来は並木中央駅の解説で海没した「長浜千軒」に「並木道が有った」と伝承していたからと話しました。では何で地名に長浜ではなく並木中央・並木北とつけられたのでしょうか?
実は埋め立てる際に海水を抜けた部分から伝承通り長浜の並木道の木が出現したそうです。既に長浜と言う地域は地名が今も有るので嘗て並木が富岡八幡宮に続いていた頃に物流と漁業で繁栄した事を顕彰する地名が命名され、駅名にも採用されたようですね。
並木北駅も歴史偉人が関わった地域で、駅から真西に行くと慶珊寺(けいさんじ)と言う御寺が有ります。じつはここ、中国の清王朝を民主革命で打倒して中華民国を打ち立てた孫文先生が日本に密入国して亡命する際に長浜検疫港から密かに上陸された地点でして、慶珊寺には孫文先生の碑文が立っていたりします。
また東京都豊島区の領主だった豊島家の一族が太田道灌公に攻められ大名として滅亡した後で戦国時代の北条家に臣従し、この地域に北条本家の直臣として領地を与えられていた様で江戸初期にも住んでおり、この一族が慶珊寺を支援していたと伝わります。
では孫文先生が何故、ここに上陸されたかと言うと容易に理由が推測出来る人物が目の前に住んでいたんですね・・・
慶珊寺の目の前には当時、第四代内閣総理大臣で元は薩摩藩士の松方正義公の別邸が有りました。
明らかに横浜中華街の清帝国大使館を欺き直接日本政府が孫文先生を保護する目的で長浜の松方正義邸めがけてピンポイントで密航させた事が状況的に推測出来ますが、まぁ密航ですし当時国交が有った清帝国に難癖付けられると困るので現代にも公文書の記録に詳しい事が残されていないのでしょうね。
この慶珊寺の近くには長昌寺と言う御寺も有ります。
長昌寺は近所の廃寺に成った西源禅庵の御本尊の芋観音と言う現地人に親しまれ崇敬された観世音菩薩様も御祀りしているのですが、小田原北条家臣の柳下豊後守により開かれた御寺で、この地域が小田原北条家にとっても重要な拠点だった事が垣間見えます。柳下家は小田原市出身と伝わり、御子孫は横浜市緑区に多く存続し本柳寺と言う御寺は柳下家が開いたと伝わります。

【鳥浜駅】22:39
横浜ベイサイドマリーナアウトレットとベイサイドマリーナのヨットハーバーで有名な駅です。
横浜ベイサイドマリーナアウトレットは日本のアウトレットの最初期に作られた中の一つで、開業当初は相当な来場者数を誇りましたが御殿場や木更津に大規模アウトレットが次々と開業して行くと2018年頃には来場者数も相当減り一時閉業。2021年に他と遜色のない規模に拡大され1店舗あたりの面積を減らしながらも店舗数を増やす形でリニューアルオープンされました。
中のテナントに東横線白楽駅のつけ麺の名店“くり山”が入居しており、観光がてら来訪した市内外問わず来訪者に横浜の美味しいつけ麺や名物店舗の料理を召し上がっていただく機会や、クレープやコーヒーを購入してヨットハーバーを散歩するなんてリラックスした時間も過して頂ける場所です。
また鳥浜駅から海と反対側に行くと富岡総合公園と神奈川県警機動隊第一機動隊の基地が有ります。
実はこの富岡総合公園や機動隊の施設一帯、戦時中は帝国海軍の「横浜海軍航空隊」の基地で、敗戦後は米軍に接収され富岡倉庫地区と呼ばれていました。今も当時の名残で内陸の国道16号線側に向かって富岡総合公園沿いの歩道を歩くと横濱海軍航空隊隊門と言う基地の入口の門柱が残っています。
余談ですがJR根岸駅から山手への中程に有る工場地帯にも元は民間飛行場だった横濱海軍航空隊の根岸飛行場が有りました。
鳥浜は現在では地名由来も古地図からは読み解けませんが埋立以前に干潟があり鳥が群がる浜辺で鳥浜とか呼ばれたのかも知れませんね。

【南部市場駅】25:00
名前の通り、横浜市南部を代表する庶民も買い物が出来て活気に溢れる公設市場と場外市場を併設した市場です。
年末年始は駐車場に入るのも苦労する程ですが、是非、横浜の八景島にレジャーに来られた観光客の方にはお立ち寄り頂きたい買物スポットです。
神奈川県内の有名ブランド漁港である小田原漁港、須賀港(平塚漁協)、長井漁港等横須賀漁協、三浦漁協の松輪漁港、横浜の小柴漁港等、築地や銀座の寿司職人にも名の知れたブランド漁港の魚を一般の方でも購入する事が出来ます。
私の御勧めは食事処としての市場でして、場外市場の横濱屋食堂や市場食堂に加えて場外市場から徒歩5分でいける場内市場の花板食堂(旧がってん食堂)の鮪丼セット(醤油ラーメン+鮪丼)850円は是非食べて頂きたい所ですが公設市場内なので12時前には終わります。
場内市場自体も朝8時位には終わりますが、場外市場では夕方も買物出来ます。
運が良ければ市場の海側に行くとIHIのドックに海上自衛隊のイージス護衛艦や軽空母(海自の人は空母とは言わない)の“いずも”等が整備の為に入渠している所を見る事が出来たりします。

【新杉田駅】28:00
新杉田駅は江戸時代までの杦田(すぎた)郷が由来に成っています。現在は杉田と表記していますが実はこの字は誤りが一般化してしまっています。
本来はスギタの地名は杉田ではなく杦田と書かれた事が戦国時代~江戸時代~明治時代初期の文書や地図からも解ります。
戦国時代に鶴岡八幡宮と鎌倉市街が房総半島の里見家により略奪放火され灰燼に帰した戦争が起きました。
その戦争は鶴岡八幡宮合戦と呼ばれています。鎌倉市街と鶴岡八幡宮の復興を北条氏綱公が行った際に杉田港に木材が集積されて鎌倉へと輸送されたそうです。
この事業には足利一族で市営地下鉄蒔田駅近くに有った蒔田城と世田谷区豪徳寺駅近くの世田谷城を拠点にした蒔田吉良(まいたきら)家の吉良頼康公が材木の海運で活躍しました。
材木奉行は北条綱成公でJR大船駅近く玉縄城主、南関東最強の武将でした。
その北条綱成公の付家老が氷取沢~杉田~上大岡~洋光台~港南台辺りと横須賀の不入斗一帯~海老名市中心部を治めた間宮家でした。
この間宮家の子孫は知識人が多く間宮士信や杉田玄白や間宮林蔵を排出しています。
新杉田駅一帯は昭和初期までは海でした。現在の国道16号線の辺りまで海岸で砂浜が正に国道の辺りだった事が迅速測図からも読み取れます。
安土桃山時代~江戸時代初期に徳川家康公の参謀・初代江戸幕府鷹匠頭として活躍した間宮信繁公がこの杉田一帯と滋賀県に飛び地の領地を持って治めていました。この間宮信繁公は関ヶ原の戦いで鷹匠部隊50人全員が鉄砲を装備すると言う当時の常識では有り得ない機動鉄砲部隊の様な物を編成し南宮山の毛利本隊の動向を偵察し家康公に毛利家は吉川勢が動きを封じ参戦出来ない状態だから本隊を前進すべしと進言した事でも知られる人物で、この徳川本隊3万の前進により三浦半島の横須賀市にある京浜急行安針塚駅一帯を治めた英国人侍の三浦按針公のリーフデ号より積み下ろしたカノン砲が小早川勢に打ち込まれたらしく“大砲”の威嚇射撃により小早川勢の大谷吉継陣地への裏切り突貫が起こり戦の雌雄を決する事と成りました。
間宮家と領地が隣接する三浦按針公も従軍していたそうなので間宮信繁公の南宮山偵察から按針公が連携し家康公や本多忠勝公を説得し、按針公が砲兵を指揮し砲撃を小早川勢に加えたのかも知れませんね。
この小早川勢の事前調略(ちょうりゃく:勧誘)には黒田長政公が活躍していた事が知られますが、この黒田家と間宮家は遠縁の親戚で、或いは連携していたかも知れませんね。
間宮家の本家は新杉田駅の次の駅、JR洋光台駅の近く~京急上大岡駅近くに跨る長大な城塞網“笹下城”を根拠地にしていた間宮康俊公で、戦国時代の南関東最強の武将、北条綱成公の副将として有名な人物です。スーツ氏がスーツ旅行チャンネル【東海道五十三次の旅】(4)で紹介した山中城に籠城して豊臣軍に大打撃を与えた武将として知られますが、山中城の戦いでは間宮家の寄親(上司)の北条氏勝公が総兵力3000で籠城したのですが豊臣軍の本隊が86000の大軍で現れるや、城主の松田康長公兵100を残して氏勝公は自分の拠点のJR大船駅前の玉縄城に逃げてしまいました。
結果的に間宮家は寄親に同行せず手勢200と留まり、そこに間宮家と縁の深い修験者を要する伊勢原市大山阿夫利神社と大山寺から僧兵達が救援に駆け付け松田康長公と共に総兵力300強の寡兵(かへい:敵勢より少数の軍勢)で豊臣秀次公率いる8万の大軍団を相手に3000もの豊臣兵を道連れに戦死させて玉砕します。
驚異の1人10殺の戦果を残した訳ですが、この戦いに加わっていた徳川家康公によって間宮康俊公の活躍が評価され御息女の於久(おひさ)サンが側室して召し出されて家康公との間に女児を生み、駿府城で亡くなっています。
更に間宮康俊公の嫡孫の間宮直元公が初代但馬代官(生野銀山奉行)として銀の産出量を増産に成功し、佐渡金山の初代奉行の大久保長安が着服等により解任されると間宮直元公は佐渡金山の第二代奉行も兼務しています。有名な真田丸の戦いで間宮直元公は戦死するのですが、実はそれ以前に参戦召集はされていなかったですが、大坂城総構えと決壊させられた淀川の水に徳川勢が苦労している事を知ると生野銀山衆を率いて間宮直元公は参戦し、旗本ながら叔母が家康公の側室と言う身分だった事から直接家康公に大坂城総構えの水抜きをする献策をして、後に大坂城総構えの埋立を徳川勢が実行し大坂城を無力化する事に成功する作戦を立案して居た事が生野銀山の有る兵庫県朝来市の郷土資料に記載されていたりします。
間宮本家や分家の氷取沢間宮家は本来召集されていなかったので井伊家や高木家に陣借りした様で実戦経験の乏しい井伊直孝公が歴戦の真田信繁(幸村)公の挑発に引っかかりまんまと誘引されて井伊軍が蜂の巣に狙撃された際に間宮家も巻き沿いを食って、本家の間宮直元公、分家氷取沢間宮家の間宮正秀公、間宮盛時公等の多くの武将が戦死してしまいましたが、これは徳川家康公、秀忠公の本意ではなかったようで寛政重修諸家譜には「御感(将軍の温情)」によって末期養子(本人の死後に養子として親族に家を相続させ家名を残す事)や、間宮正秀公に神格を与えて神社に祀る事などが許可されていたりします。
徳川幕府では原則として後継者指名をせずに当主が亡く成った場合、管理体制の不行き届きで改易(領地没収)に処せられるので間宮家は幕府から配慮され例外的な対応を受けた様です。
但馬奉行、本牧奉行、佐渡奉行を兼務した間宮直元公の奥方の墓所と直元公の彫像を祀っていた菩提寺が新杉田駅から徒歩20分の妙蓮寺と言う御寺です。
新杉田駅から徒歩10分の妙法寺と言う御寺には間宮信繁公と一族の立派な御墓が現存しています。
間宮信繁公は安土桃山時代に梅の植林を盛んに行った結果、これが杉田梅林と呼ばれる江戸市民の観光地として有名に成り昭和初期に伐採されるまで杉田梅林の梅は「杉田梅」と言う高級ブランドとして流通していました。
現代でも「杉田梅」は流通していますが杉田梅林が消滅したのに一帯どこで流通に乗せる程の栽培がされているやら横浜市民としては「不可思議」でしか有りません。
京急杉田駅から徒歩五分の場所には熊野神社が在りますが、ここは明治の仏教と修験道弾圧で廃寺になった源頼朝公が開いた「泉蔵院」と言う修験道寺院の熊野社でした。
この泉蔵院は元々は大船駅前の山崎と言う地区に在ったのですが、度重なる戦果を避けて室町時代に支院である熊野神社に本社機能を移転して源頼朝公に崇敬された文化と共に明治まで存続しました。現代の宮司様が一度は廃された泉蔵院の名前を境内社泉蔵社として現代に復興しました。
この泉蔵院から見る杉田梅林の景観が江戸市民に人気だったそうです。
当時は神奈川から船に乗船し本牧~杉田の屏風ヶ浦と呼ばれた断崖の景勝を海から楽しみながら、当時は聖天川と言う川だった杉田商店街入口に有った河口の船着き場で下船し杉田梅林の景色を楽しんだそうです。
明治天皇の御家族も杉田梅林を遊覧にいらっしゃった歴史があり妙法寺境内には記念碑が有ります。
当時は横浜市は未成立で久良岐郡の郡庁だった隣の笹下郷の関と言う場所に有った石川楼と言う料亭に滞在なさったそうです。

さて、駅名由来と周辺の史跡と観光地紹介は此処まです。

今回はスーツ氏がシーサイドラインの良い動画をUPされていたので解説してみましたが、彼の動画はどれも良い物ばかりなので是非見てみて下さい。
もう1つ小生の御勧めのYoutuberの“うめごーるど”サンの動画も良いので是非ご覧に成って見て下さい。


彼が無職だった時代に旧街道解説動画をUPしていたのですが特に甲州街道シリーズは楽しいので見て欲しい。
他にも最初に手掛けた日光街道シリーズ、次の奥州街道シリーズが有るのだけれど音楽的な権利申し立てか何かで動画がだいぶ削除されてしまっていて、今ではまともに見れるのが未完成の甲州街道シリーズだけに成ってしまってます。
でも楽しいので是非見て見て下さい。

コロナで何だか又、旅もしにくい雰囲気に成り始めてますからね~。
彼等の動画見て楽しむのも良いかも知れません。

では、又次の記事で御会いしましょう~♪



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漸く書きます米軍基地に繋がる国の重要文化財級の鉄道史跡、高島線瑞穂鉄橋の記事(笑)。
元は去年の夏に横須賀の旧海軍基地内の十字交差線路の紹介からシリーズ化していて、今回の横浜の瑞穂埠頭に繋がらる高島線引込線の瑞穂鉄橋の記事で完結です。
過去記事が下のリンクのです。
1つめが紹介したい場所2か所の概要。

2つめに書いた記事が海軍機密史料を使って帝国海軍横須賀鎮守府の田浦引込線十字交差線路を解説した記事。

3つめが昨日、ちょっとヤル気に成って自分への理由付け(笑)に書いた、あぶない刑事のTVK再放送最終回の拡散告知に無理やりブチ込んだ横浜の鉄道史跡の簡易解説。


今回は瑞穂鉄橋が重要文化財指定受ける必要が有る程大切な物ですよ~!と言う紹介に合わせて、この雰囲気が独特な事から“あぶない刑事”をはじめドラマ映画のロケ地に成った周辺のお店や名所も紹介をしたいと思います。
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旧高島線瑞穂鉄橋
神奈川の橋100選の一つ
そもそも皆さんは瑞穂埠頭や瑞穂鉄橋や高島線と言う言葉を聞いた事も無いかも知れませんね?
実は聞いた事は無くても見た事が有って昭和生まれも平成生まれも知ってる可能性が高いんです。
上の写真、何か見た事有りませんか?
この茶色い橋は線路が有るので電気機関車用の鉄橋なのかな?と、そんな感想が湧く程度でしょうか?
ちょっと車道に出て正面から見て見ましょう。
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もしかしたら“あぶない刑事”ファンの人は何だか何回か見た事が有るなぁ~?自分は行った記憶無いんだけどなぁ~?と思う人もいるかも知れませんね。
では写真の位置から右を向いて見ましょう。
すると・・・
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StarDust(右)
(左)POLESTARおんやぁ~?何か絶対に見た事が有る雰囲気の良いアメリカの町に有りそうなBarが有るじゃぁ~ありませんか!
そう、これが昨日公開した記事でも触れていた“あぶない刑事”で何回もロケ地に成ったBARの“StarDust”です。この御店、実は2つとも経営者が同じで普段はStarDustが開かれていてパーティー等貸切の際にPOLESTARを使うそうなんですが。
何でこんな場所に素敵な御店が有るんでしょうか?しかも横須賀じゃなくて横浜に。
実はこれ、理由が有ります。
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この瑞穂鉄橋の向う側は瑞穂埠頭と呼ばれ、“米軍”からはYokohama North Dockつなり横浜北埠頭と呼ばれている米軍基地なんですね。
なのでこの一帯は余り商業地化もせず独特の雰囲気が残り、昔の名残でStarDustの様な雰囲気の良い御店が残りながら最近ではミナト未来21地区側の海沿いオシャレなレストランや結婚式場等が建てられて来て本来の横浜らしい個性を残す地域性が確立されています。
この様な場所なので1986年にドラマ公開され劇場版を合わせると断続的に2015年まで続いた“あぶない刑事”でも主要なロケ地の一つに成った訳です。

ロケ地についてはYoutubeでも私より熱心な本物のファンがロケ聖地紹介の動画や纏めサイト等を後悔しているので私は解説を控えて置きます。
実はこの御店、俳優の小沢征悦サンが奥さんでNHKアナウンサーの桑子真帆サンと結婚前にデートに来ていた場所としても今では有名らしいです。

この御二人は文化人としても活躍していて雰囲気の良い御夫婦ですね!
何だかStarDustに彼氏彼女や夫婦でドラマの聖地巡りで御酒を飲みに行けば、縁結びの御利益まで有りそうです(笑)。
車で行ってもノンアル飲料もあるので、どちらかは御酒を飲まない人なら二人でも勿論1人でノンアル+ナッツで雰囲気を楽しみに行っても良いかも知れません。
この地域は夜に成ると又、雰囲気がガラっと変わります。
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StarDust
実は隣のPOLESTARもStarDustのオーナーさんの御店だそうで、貸切パーティー等の際にPOLESTARを開けるそうです。
御店の前から見る横浜港の雰囲気は昼とは一変して大人な感じに見えますね。
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まぁ冬は外出たらクッソ寒いんですけど~。
冬の夜に来るなら東神奈川駅から歩いて来るまでに景色を楽しんで下さい(笑)。
米兵が元々仕事上がりに友人同士でチョット飲みに来る御店だったの席数は多くないけど、とってもオシャレです。
まぁ、ジュークボックスは有りますよね。
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そして革張りのソファーもあります。タカとユウジはカウンターより寧ろソッチのイメージ。
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窓の有る席からは先程の夜景も見えますね。
ここで夫婦でユックリたまに来て御酒飲んだら仲悪く成る訳が無い(笑)。
あ~、だから小澤夫妻はここをデートに選んだのかな?
隠れ家的な御店だし。
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カウンターは確か8席くらいだったかと思います。
カウンター席の上が革張りに成っていて、高級感が有るのですが、どうも昔は喫煙が当たり前だったので光沢のある革張りで掃除をしやすい機能的な意味も有ったみたいです。
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昭和30年代に建てられた銭湯にも良く有るのですが、御酒を陳列するスペースのデザインがギリシャ芸術の裸婦みたいな絵が描かれていますが、昭和初期に流行した洋風のデザインが西洋の裸婦像画だったみたいですね。
画面の左端に見切れてるノートPCはオーナーのです(笑)。
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小さいけれどカッコ良い店なんですが初代のマスター、つまり今のオーナーのパパのこだわりが材料から素人でも伝わってきます。
写真が暗くて床が見えないのですが・・・
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この写真は少し写ってるか。この床は板張りなのですが桜の板だそうです。
良く解らないのですが昔でも桜の建材を探すのって大変だったんじゃないですかね~?
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カウンターはラワン材の1枚板。
知らなかったのですが、ラワン材は木造船の建材としても使われるものだったそうで、現代では1枚板のラワン材を目にする機会は無くどちらかというと合板しか見た事が小生はありませんでした。
写真のアルコールは「Yokohama」だったと思います。
下のカクテルは「カミカゼ」。
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てか米兵の人等、カミカゼなんて名前の御酒飲むのね(笑)。
価格帯は1000円前後です。
小生のブログは紹介する場所の冒頭に下の様なリンクを貼ってあります。
この上の情報で「住所」の部分をクリックして貰うとGoogleMapにリンクしてスマホのGPSを使えばカーナビや公共交通機関の乗換検索としても利用できます。
同様にホームページのクリックすればリンクしてページが開かれます。
このStarDustのホームページにはメニューも掲載されているので、そこで事前に価格を確認して行かれたら良いかと思います。
皆さん紳士淑女ばかりで御店の雰囲気だけでなくお客様達の雰囲気も良く、しかも写真撮影の許可を貰って訪れた際に小生はGパンでしたが、そもそも米兵が仕事帰りに立ち寄る御店だったので別に余所行きの格好でなくても皆さん仲良くして下さってとても良い時間をすごせました。
タカやユウジみたいに尖った雰囲気よりは(笑)、カッコ良くクラシカルで和やかで朗らかで少し静かな雰囲気の素敵な御店です。
先程の写真の鉄橋が瑞穂鉄橋、第二次世界大戦終結後に米軍に接収された瑞穂埠頭入口だった訳ですね。つまり米軍の基地としの瑞穂埠頭のゲートが鉄橋だった訳ですね。
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そんな外国情緒溢れる地域に成った訳ですが、日本でも早い時期に造船と倉庫街として整備され後に日本帝国軍の軍用地として使われ終戦後は米軍に引き継がれ、朝鮮戦争とベトナム戦争の頃まで一帯は人も今より多かったそうです。
朝鮮戦争
昭和二十五(1950)年~昭和二十八(1953)年

ベトナム戦争
昭和四十(1965)年~昭和五十(1975)年

特に朝鮮戦争の頃は人が多かったそうですがベトナム戦争の頃に成ると米軍の再編が行われたのか瑞穂埠頭に駐留する米軍兵士も人数が減っていたとStarDustのマスター達に教えて頂きました。
昔は東神奈川駅に近い方にもBarが数軒有ったそうですが、米軍の瑞穂埠頭駐留者が減った事でBarも軒並み無くなってしまい、今ではStarDustとPOLESTARを残すのみに成ったそうです。
更に国鉄が貨物列車が国営企業で殿様商売だった事から長期に料金設定をミスった事で物流会社から鉄道輸送利用が最低限に抑えられる様に成って行き自動車輸送が主流化が加速し・・・

国鉄本体も赤字路線の増加等を経(へ)てJR化して国営企業では無くりコストカットが始まると貨物線は衰退し鉄道輸送を前提とした港湾地域が荒廃し、横浜の新港埠頭や瑞穂埠頭が寂れたわけです。
その副産物で少し寂れた造船工場街の雰囲気+米国的な神奈川らしい文化、これが生まれて現在は文化財指定を受けている赤煉瓦倉庫ですら当時は暴走族の落書きに悩まされたり、その荒廃した感じや昭和初期の港の雰囲気が残る所がドラマのロケ地としてこの上なくマッチした様です。

・・・その当時の様子が昨日の記事でも航空写真を見ると良く解るかと思います。
下の写真は国土地理院地図(電子国土web)で閲覧できる航空写真を各時代別に比較したものです。
瑞穂埠頭周辺
※画像をクリックして拡大して下さい。
1945年
終戦直後は米軍の空爆も有ってか大分と貨物線の線路が寸断されているけれども敷設されていた名残は見て取れますね。非常に複雑に広範囲に蜘蛛の巣の様に線路が一帯に展開していたのが解ります。
1961年
ベトナム戦争の直前は線路も使える部分を復興され多くの倉庫が至る所に建っており労働人口も多く復興も進んだ事が見て取れます。
1974年
明らかに瑞穂埠頭内の施設の数が減っていますが、再整備され小さく大量に有った倉庫建物が大きな建物が置き換わっていますが増え未だ多くの線路が張り巡らされている事が見て取れます。
2019年、現代では既に倉庫街としては一部しか機能しておらず大分と高層住宅に置き換わったりしている事が見て取れます。貨物線の線路も撤去も進んでいます。
この内の1974年~2019年の過渡期が“あぶない刑事”の1期の撮影が開始された1986年ですね
ベトナム戦争が終結して瑞穂埠頭の役割が余り無く成り始めた時代に当ります。日本は好景気に沸いた時代から陰りが見え始めた時代ですね。
横浜駅周辺の衛星写真を見ると、ドラマが放映されていた時期の様子が解ります。
2019年横浜駅周辺
横浜地形変遷2019
1988年横浜駅周辺
横浜地形変遷1988
この時代に成ると今の赤煉瓦倉庫~横浜駅周辺も線路が撤去され始め、逆に桜木町辺りの海の埋め立てが加速し砂漠みたいに成っていますね(笑)。その辺りが高島町~臨港パーク一帯です。
画面中央上の瑞穂埠頭は何やら現代の方が少し拡張されていますが、瑞穂埠頭が商業利用と米軍の共存と住み分けの為に拡張したのかも知れません。
画面右下の横浜ベイブリッジも建設中な訳ですが、この頃に“あぶない刑事”の撮影が横浜の街中で良く目撃された訳です。
改めてみると舘サン、こんなジャッキーチェンみたいな事やってたんですね(笑)。

今の俳優さんでこんな事するの最近解散したV6の岡田君くらいなもんでしょう。
こんな事を町の中でしてたら目立ちますよね(笑)。
で、ロケ地として度々StarDust+高島線引込線瑞穂鉄橋の店内も景観も登場するので、リアルタイムで見てない平成生まれも昨日2022年01月19日で最終回を迎えた再放送を録画して見ていた人は何となく・・・
「あ、見た事有る!」
「ここあのシーンの場所だ!」
・・・と言う景色が横浜の市街地の至る所に在る訳です。で若い世代のファンが凄く多いらしいです。
実際にStarDustのママに聞いたらタカとユウジの愛車(警察車両)?として使用されていたレパードだけの集団で若い子達が来てノンアルを注文してまでロケの聖地巡りで来るし、仕事帰りや週末に飲みに来る客には若い子の比率が高いと聞きました。
小生の家は親族にトヨタ自動車社員がいたので車はずっとトヨタ車で日産車に縁が無いのですが、レパードってのはコレ⤵です。

こんな⤴車まで込みのコスプレをしてる人までYoutubeに動画をUPしてたりしてビックリしますね。
30年前の車ですよ?良く見つけて来てレストアし大切にしていると感心します。
この様に観光地としても瑞穂鉄橋周辺は知られる訳ですが・・・
瑞穂鉄橋と貨物線の高島線引込線の紹介の前に現在のStarDust+高島線引込線瑞穂鉄橋+瑞穂埠頭と周辺の位置関係を見て見ましょう。
高島線瑞穂鉄橋付近
※画像をクリックして拡大して見て下さい。
こうして見ると瑞穂埠頭と瑞穂鉄橋とStarDusの周辺がミナト未来21地区やランドマークタワー~インターコンチネンタルホテル~国際客船ターミナル~山下公園を見渡せる最高のロケーションの場所なのが一目瞭然ですね。
GoogleMapで周辺位置関係を見て見ましょう。

※地図は拡大縮小したり操作出来ますので、見たい所を見てみて下さい。
先程は夜の写真でしたが、この辺りは昼間でも本当に景色が良くThe Yokohamaと言った雰囲気です。
現代では米軍の艦船だけでは無くStarDustの隣が船舶免許講習所に成ったのでクルーザーの様な船も係留されていたりと周辺の景観は以前に増してオシャレに成りました。
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現代ではこの様に美しい景色ですが、JR東神奈川駅ー京急神奈川駅方面に向かって歩くと“あぶない刑事”の当時の景色が残る地域が有ります。寂れた古い倉庫街と造船の町だった頃の運河ですね。
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昔この辺りは三井の造船所や倉庫街だったようです。
この様な場所は確かに現代でもドラマや映画の撮影に使えそうな雰囲気です。
さて、この様にロケ地の雰囲気を未だ残しつつ、更に海側の景観が美しいのに余り現代では観光地としては地元民とアブ刑事ファン以外には知られていない地域に成っており隠れ家的な魅力が有る事は伝わったでしょうか?
ここから本題のStarDustが出来る要因と成った旧日本帝国軍施設瑞穂埠頭⇒米軍施設瑞穂埠頭へ物資を供給した国指定史跡にすべき価値の有る“瑞穂鉄橋”と高島線引込線残存部の紹介をしたいと思います。
先ず瑞穂鉄橋ですが・・・
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旧高島線瑞穂鉄橋この鉄橋、小生、ここを良く昔の彼女を横浜駅に迎えに行ったり職場が川崎だった時代に車で東神奈川方面との往来で通っていた時に「何か雰囲気良い場所と橋だな」位にしか思ってませんでした。これが実は凄い場所だと知ったのは米軍から返還が決まった後の話しでした。
つい去年の事です、あぶない刑事の再放送が始まって「あれ~この店知ってるなぁ~」と思ってフラっとロケ地特定に行った時に初めて目の前で貨物船の鉄橋を見て「こりゃ魅力的だなぁ~」と鉄道素人ながらに思ったんですね。それで鉄道マニアの情報をネットですけど読んでいたらこんな事が書いて有ったんですよね小生にしては珍しくネット情報ですが・・・
元記事⤵

瑞穂橋梁は日本初の溶接鉄道橋として知られる。神奈川県が選定している「かながわの橋100選」の説明資料などによると、同橋梁は溶接橋の試験橋梁として1934年に建造。トラスにはリベットが使われているが、鈑桁部と床組、対傾構の接合にアーク溶接が用いられている。


昭和9年(1934)です。両端はプレートガーダー、中心部は曲弦トラス、橋長は77.2m。横河橋梁製作所製。複線分となっていますが線路は単線です。最大の特徴である溶接部分は、両端のプレートガーター、床組(ゆかぐみ)、縦桁、対傾構(たいけいこう)で、トラス部分はリベットを使用しています。床組は鉄道車両の荷重がかかる部分で、レールと枕木部分が載る部分は縦桁。対傾構はトラス橋の変形防止のために用いられるもので、左右の桁を結んでいます。
気になるのは、米軍基地の一部施設が2021年3月末をもって日本へ返還されたことです。日本へ返還されたのは主に線路設備で、瑞穂橋も含まれています。基地返還後は現状復帰として「工作物は撤去する」のが通常であり、線路設備や橋梁は解体撤去される方針。
・・・これらの2つの記事を見たのが初夏、丁度米国空母のカールビンソンの写真撮影とかで横須賀市の汐入~観音崎周辺とか頻繁に遊びに行ってた頃でした。

偶然米軍つながりですね。
で、記事読んで横浜市役所の“無文化お役所仕事”対応に納得いかなかったんですよね。
何故ならこの旧高島線瑞穂埠頭引込線の瑞穂鉄橋は日本最古級のアーク溶接鉄橋と判明しているからです。しかも極左の人等は忌避しますが、ここは戦争遺産としての価値も有りますし、中道左派の方や小生の様に中道保守を自称する人間にとっても朝鮮戦争やベトナム戦争の影響で日本は経済復興出来た事も有るし、朝鮮とベトナムの人が分断された時代の世界的な史跡としても後に価値が加わってる訳です。
この価値については極左より極右の人が忌避しそうですが。
更に言えば、高島線瑞穂鉄橋は贔屓目に見なくても単純にカッコいい!
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こんな自動車道と鉄道が隣通し並んでて直ぐ近くに行ける場所横浜市内にも県内にも他に無いでしょ?
瑞穂鉄橋ですが、ここは引込線も廃線に成っているので歩ける場所が残っています。

神奈川駅から来るとこの引込線に繋がる高島線の踏切から切替ポイントを観察できます。
高島線の踏切から東京方面を見た景色です。
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何やら線路が右の方に上り線も下り線も続いていますよね?あそこから瑞穂埠頭の方に貨物船の線路が続いているのが解ります。良く見るとX字型に成っているのは、どうも昔その付近で3筋くらい分岐が有って小さな埠頭にも貨物船が入る構造に成っていた様です。
衛星画像だと解りやすいので一緒に見て見ましょう~♪
高島線引込線切替付近
赤いマーカーの線路と合わせて付近で3筋の線路や道路が円弧を描いているのが解ると思います。
この辺りも既に線路の撤去が進んでしまっている場所と現存している所が有ります。
このマーカーからで何やら下の方に緑の線がニョロニョロと伸びていると思いますが、これが高島線の瑞穂埠頭への引込線廃線区間のスタート部分です。
次にマーカーの位置に移動しましょう。
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すると、貨物列車の来る事の無くなった踏切までは歩いて入って来る事が出来ます。
この奥は米軍施設なのでそれ以上は中に入らないで下さい。
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この線路を使って運ばれた物資が第二次世界大戦の日本軍や朝鮮戦争やベトナム戦争中の米軍に供給されて現在が有る訳ですね。ここの貨物輸送が元気だった時代、朝鮮半島やベトナムや周辺の国は大国の思惑の中で大変な目に遭い、日本は平和を享受し始めていた訳です。
戦争はしないで済むならしない方が経済の為にも良いのでしょうが、日本人が敵意が無くても幾つかの外国は自国の軍事が増強されると瞬く間に態度を豹変させたり強行的かつ高圧的な態度に出て来る事を最近、日本人は良く学習する機会が有るので何とも色々と考えさせられる踏切でもありますね。
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草に埋もれた線路が何か懐かしくも物悲しい雰囲気に感じますが、社会背景に興味の無い子供なら純粋に線路の上に建ててうれしいだけでしょうね。
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ここからは高島線の本線も見えます。
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では線路を瑞穂埠頭の方に歩ける場所まで歩いて見ましょう。
ちょっと歩くと日塩サンと横浜屋サンの物流拠点の横に出ます。
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こんな感じ。
まぁ、何のストッパーも無かったけど、見る人が見たら不法侵入とかに見えて怒られるかもしれないですけど横浜市の土地に成っているので今では問題はなさそうです。
逆にストッパー等を設けて無かったので遊歩道として活用する計画がもしかしてあるのだろうか?
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更に進んで横浜屋サンの横位に成ると瑞穂鉄橋が見えてきます。
鉄橋の上はさすがに米軍基地ですし返還後の線引きとか良く解らんし怖い軍人サンが来たら英語で受け答えする自信がないので、ここからは来た道を引き返すか2mくらいの高さを飛び降りましょう(笑)。
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下から見るとコンナ感じですね。
ここ、横浜市が本当に瑞穂埠頭への遊歩道と言うか普通に人道として活用出来たら便利で理想ですね。
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しかも街灯をならべて間接照明も使いライトアップされた遊歩道化された瑞穂鉄橋を通って埠頭に入るとか、汽車道と同じ様な特別感が有ってとても再開発される町がオシャレになりそうです。
枕木を鉄筋コンクリートか金属製に変えるのが難しいから解体すると言ってるのなら、それこそ汽車道と同じ様な構造なのだから当時の担当者も生きている人は多く御存命でしょうし、再利用法を御教授頂けば問題無さそうです。
まぁ、こんな感じで昔は横浜市の港よりの町には道路沿いに子供が歩ける貨物線の線路が沢山有ったのですが、ここは未だ一部残っているのでまぁ、安全を考えて入口の踏切辺りを見学に来るだけでも電車好きな小さな男の子とかは喜びそうですね。
先程の物流倉庫横の土塁上の線路の横に登り下りする為の階段を設けたら遊歩道としてバッチリ活用出来そうです。
しかも神奈川県庁と横浜市庁にはコレ等を活用するノウハウが有る訳です。
なんなら鼻から経済産業省と文化庁が関わっても良い場所と言う前例も有ります。
横浜市は御存知の通り伊藤博文公の指示で建設された新港埠頭を都市計画に組み込み景観の一部として、そして町の価値を上げる観光資源と歴史遺産として活用する事に成功しており文化財として保護されている前例が有ります。
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旧税関保税倉庫(通称:赤煉瓦倉庫)
ユネスコ文化遺産保全のためのアジア太平洋遺産賞
経済産業省指定近代化産業遺産
この通り税関の保税倉庫だった赤煉瓦倉庫は荒れ果てた時代には坂本九サンの“上を向いて歩こう”の映画や“あぶない刑事”のエンディングや作中のロケ地として活用され、更に線路も含めて“ハマの地域性”を演出する“仕掛け”として見事に活用されている訳です。
潰させず映画の撮影地として歴史を繋いで下さった芸能人の方達もいました。
下のPVを見て下さい。


この通り倉庫の中も外観もロケ地にしょっちゅう成っています。
この赤煉瓦倉庫の横浜税関関連施設は他にも景観の構成に活用されています。
ハマっ子のみならず学生時代にデートで良く来た県外の方も御存知の事と思います。
ここからは瑞穂埠頭の周辺の文化財保護と都市の景観に組み込み活用した実例としての観光案内をしたいと思います。
先ずは旧税関保税倉庫の引込線ですね。
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旧税関倉庫街の建物その物も美しいですが、ここから高島町~瑞穂埠頭へと延びていた汽車道に繋がる場所も綺麗な事を皆さん良く御存知だと思います。
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ナビオス横浜
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汽車道
ナビオス横浜は横浜の新シンボルのランドマークタワーを上手く借景し更に新港埠頭の線路をデザインにも組み込んだホテルです。オシャレでしょ?
そのままナビオス横浜の線路を歩いて行くと桜木町駅に至る汽車道、つまり昔の線路が素敵な遊歩道に活用されています。
更に鉄道史跡や税関の建物だけじゃなく、近代造船の史跡として“ドックヤードガーデン”もコンサート等の野外イベント会場として活用出来る上に景観の美しいアクセントとして活用しています。
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国指定重要文化財
旧横浜船渠株式会社第二号船渠

通称:ドックヤードガーデン

この旧横浜船渠株式会社のドッグで“横浜市有形文化財”指定を受けている重要な船が昭和五年(1930年)の04月25日に完成しています。その船は今も横浜市観光の一翼を担っています。
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氷川丸
この船に乗ってチャールズ・チャップリンは日本に来訪しています。
当時は山下埠頭では無く赤煉瓦倉庫の有る新港埠頭から船を下りたと聞いた記憶が有りますが、文章で読んだ訳では無いので伝聞です。
宝塚歌劇団も新港埠頭から海外公演に行った事が有ると聞いています。
この様に1990年代後半~2000年代初頭の横浜は文化財を多く活用しながら保護を進め観光資源や町の景観として取り込むことに成功し魅力的な商業地観光地に生まれ変わる事が出来た訳です。
その御蔭で県内外から観光客も人が集まっている事を林文子が市長在任の頃から市政がおかしくなり自然や文化財は破壊容認するベクトルでクッソつまんねぇ~中国の新興都市みたいな東京のコピペみたいな建造物と町作りしか出来なく成ったんですよね。
きっと全く横浜市は理解していない、本当に横浜育ちなの?ってな人達が行政に食い込んでるんじゃないでしょうか?知らんけど。
で・・・
赤レンガ倉庫
ユネスコ文化遺産保全のためのアジア太平洋遺産賞
経済産業省指定近代化産業遺産

ドックヤードガーデン
国指定重要文化財
・・・この保護を受けているにも関わらず、同レベルに貴重な瑞穂鉄橋を破壊しようとする横浜市役所と現状田浦引込線の十字交差線路を保護していない海上自衛隊と横須賀市役所、それらに関与出来そうな神奈川県庁は動かないのは同時代の県内の各文化財と相対評価して整合性が無い訳ですね。
世界遺産レベルと言って過言では無い史跡他にも有ります、根岸競馬場一等馬見所と上郷深田遺跡と言う場所です。

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旧根岸競馬場一等馬見所
日本初の競馬場跡
絶対に文化財指定して保護した上で都市景観にも組み込むと価値が有る場所が瑞穂鉄橋と引込線、旧横須賀鎮守府田浦引込線十字交差線路、旧根岸競馬場一等馬見所なんです。
更に、横浜市役所が破壊させようとしている場所には近代史跡のみならず横浜市最大の森林で最大の蛍生息地の円海山山系と瀬上沢流域蛍生息地、旧鎌倉郡に跨り武士文化発祥に関係している蹈鞴(たたら)製鉄遺跡遺跡の上郷深田遺跡も有ります。



上郷深田遺跡は飛鳥時代~平安時代の長期間稼動し更に製鉄史跡であり規模が発掘で日本最大級と判明しているにも関わらず林文子が市長の時代に市役所では横浜市役所が不採算事業になるのを解っていながら東急建設に谷を10mも埋める盛土と遺跡を削り取り消滅させる事業を押し付けていました。
・・・これ等を踏まえ直ちに市や県を飛び越えて国指定重要文化財に成るべき場所が以下の通りです。
・旧高島線の瑞穂埠頭引込線と瑞穂鉄橋。

・田浦駅引込線、旧横須賀鎮守府引込線の十字交差線路と鉄道路跡。

・根岸森林公園の旧根岸競馬場一等馬見所。

・飛鳥~平安の数百年稼働期間を誇る日本最大規模の蹈鞴(タタラ)製鉄遺跡の上郷深田遺跡。

・横浜市最大最後の原生林の蛍生息地である瀬上川流域。


実は上郷深田遺跡に関しては代替地が用意できないから不採算事業なのに計画が残り続けてしまっているので、瑞穂埠頭が返還されるのであれば正に、みなと未来21地区のあの景観を整備する事に参画していた実績の有る東急サンに上郷深田遺跡と瀬上沢円海山の湿地と史跡を放棄して貰い等価値交換で瑞穂埠頭を代替地にすると、あの瑞穂埠頭の素敵な雰囲気と鉄道史跡群を活用した街づくり再開発を成功させてくれると思う訳です。
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先程も紹介した汽車道の様に瑞穂埠頭をオフィスなり高級住宅地にするなり再開発する業者としても、この線路を歩道として活用させて貰った方が自動車道の鉄橋と人道を遊歩道的に住み分けが出来て良い上に、景観も美しく成る訳です。
ここまで読めば皆さんも事の重大さが解ったかと思います。そう日本最古級のアーク溶接建造の瑞穂鉄橋は高島線引込線の廃線線路もろとも解体し消し去ろうと横浜市役所がしている訳です。
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旧根岸競馬場一等馬見所
日本初の競馬場跡
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長文ですが鎌倉時代のミステリー好きの皆さんに各地の史跡を交えて謎の多い人物の話を紹介したいと思います。

正直冒頭からディスってアレですがコレ⤴史実とはかけ離れているので“歴史”としては見ないで、歴史人物の名前を使ったコメディー“歴史ファンタジー”程度で見ないと大変な事に成ります。
ただ歴史人物は登場するけど小説や漫画と同様に「フィクション」として楽しめば良いかと思います。
例えばフィクションが嫌いな人にもNHK歴史大河には“坂之上の雲”の様に全ての人物を貶めない演出を採用し尚且つ歴史知識に裏打ちされた原作をドラマ化した良作も沢山有ります。

三谷脚本は演出とは言えないLVで笑いを取る為に史実に無い話の更に偉人を貶める描写を多量に差し込んでしまい歴史ファンタジードラマな訳ですが、知識が有ろうが無かろうが歴史偉人を特に尊敬していない人なら眉間にシワを寄せる事も無く楽しめるかと思います。
先人を尊敬している人や当該歴史偉人を祀る神社仏閣の等の関係先の御子孫や宗教者は悲しむ人が多く成る事でしょう。
古典芸能に例えると良く解ります。

司馬遼太郎原作は例えると神田伯山の講談です。
知識に裏打ちされた話しと演技力とオーラから客の感情を引き込みます。

三谷幸喜の脚本は林家三平の落語の様に本筋に関係の無い話を多用し爆笑を取る技術に長けると言った所でしょうか。ハッキリ好き嫌いの評価が割れる訳です。
小林聡美さんと離婚する前の三谷脚本は本筋と関係無い演出も歴史に無い部分を繋げる為に補填すると言った、人を貶めず好感を持てる部分を強調する演出は素敵でした。

更に彼の歴史と関係の無い古畑任三郎等は現代に見ても素晴らしい作品と言えるのではないでしょうか。
彼は歴史に成ると話を面白くする為(ため)に、歴史人物を使って史実で偉人達が話したりやった事と特に真田丸辺りから悪意の演出で真反対の事を脚本にしてしまう事も有るのですが、これは三谷脚本の大河ドラマはなく歴史人物ファンタジーとして視聴し史実と異なると思って楽しめば問題無いかと思います。
鎌倉殿源頼朝
特に小生はこの頼朝公を江戸時代までの人達と同じ様に宮司様に御分霊を勧進させて頂き白旗明神として自室に御祀りし拝礼ている人間なので、事前の告知番組で演者達が三谷脚本を史実として語り頼朝公を侮辱する言葉を連呼していたので見始める前から怒りが湧いていた口です(笑)。
そんな訳でして、三谷幸喜の脚本にも特色が有り視聴率を稼げるし面白おかしく描くので歴史に関心の無い人にもとっつき易い良い面。

悪い面として脚本を面白くする為に歴史偉人の行動や性格描写で史実に180°反する演出を加えて下衆な事をやらせる悪意の有る面。
この特徴から見る側によってハッキリ好みが分かれる訳です。
私は歴史偉人達の関係先の皆様に特に御恩が有るので偉人を貶め後子孫やそれぞれが祀られる神社や菩提寺の関係者の怒り悲しみを共有する側なので、ドラマの番宣を兼ねつつ史実と状況証拠と伝承を元にして解説し皆様に偉人達の実像を楽しんで頂きながら知って頂き偉人と関係者の名誉回復を図りたいと思います。
もしドラマより詳しく知りたい!と言う人は国立国会図書館デジタル図書で閲覧無料ですから以下のリンクから御覧に成ってみて下さい。
源平盛衰記⤵


で、今回の記事では史実に根本的に登場機会が少なく、作中に余り性格も描写されないまま多分“直ぐに死ぬ(笑)”から出番が無くなる北条義時公の片岡愛之助御兄ちゃんの宗時サンがどんな人だったか、皆さんと一緒に状況証拠から推測して見て次回の続きの記事では各地に伝わる伝承を交えて北条義時公に対して持つ皆さんの印象は善人か悪人かドッチですか?と皆さんに問いかけてみたいと思います。
では・・・
ここから、関係各所の小生が撮影した写真と史実とは関係無い面の多い歴史コメディー“ファンタジー”ドラマの“鎌倉殿の13人”の番宣を勝手に兼ねて、人物はキャストの画像を公式様より拝借し偉人たちの実像を皆さんと紐解いて行きたいと思います。
鎌倉殿北条宗時鎌倉殿北条義時
今回は先ずは小栗旬サン演じる北条義時公の御兄ちゃんの片岡愛之助サン演じる北条宗時公がどんな人物かを皆さんで考えてみましょう。
この人、あまり記録に残って無くて良く解らない人なんですよ。
北条義時公の墓所は源頼朝公の脇侍の様に頼朝公の墓所法華堂跡の丘の東面に存在します。

小生は北条義時公に関しては、もう既にコレが全てを物語っていると思うのですが、敢えて自分が義時公を善悪どちらで捉えているかは言わないで置きましょう。
北条義時公は鎌倉幕府を北条家中心の政権に変えた人物で有ると同時に、後に日本国がモンゴル帝国の植民地に成らずに済んだ元寇の戦いで元軍を個人戦闘力と作戦展開力で圧倒した鎌倉武士団の基礎を築いた歴史偉人ですが人物像については人によって意見が異なります。


コレ⤴くらい1人の人物について意見が違う事は現在も有りますよねwww?
まぁ、コレについては小生は「どっちもどっちだろ(笑)」?と思いますけど。
現代の話じゃないので、まぁ、これは見る人によって見え方が違いますよね?って具体例で挙げただけです。
鎌倉殿北条義時
北条義時さん、やった事は地味に凄い事してるんですが、そう地味なんです。
まともに肖像画も無い。
御兄ちゃんの北条宗時サンについては更に良く解らないんですよね~。
鎌倉殿北条宗時
結論から言うと⤴この人、ドラマで直ぐ死んでいなく成りますwwww。
と、言うか史実だとドラマ開始時点で既に亡くなってた可能性すら有る人物です。
登場したので石橋山の合戦と言う、後に頼朝公が反平清盛の軍勢を今の神奈川県足柄下郡湯河原町で挙兵して直ぐに敗北して箱根~甲斐国へ逃走する際に伊藤祐親公の軍勢に包囲されて殺害されます。
鎌倉殿伊東祐親
素人が編集しても良いアホのWikipediaでは宗時公は墓が伊豆半島の田方郡函南町に在ると言う先入観から函南町で死んだとか編集してる人がいますが、間違いだと思います。
頼朝公達と湯河原で分かれて箱根に入り山を下って桑原に出て早河で包囲され死んだとされていますが、これは普通に地理や当時の街道と装備の重さを解ってれば「違うんじゃね?地名の順番」とピンと来る事です。
鎌倉殿北条時政鎌倉殿北条義時
逃走経路を分けた兄⤵と親と弟⤴は生死の運命も分かれる。
鎌倉殿北条宗時
小生は戦国時代の北条綱成公と織田信長公から歴史好きなり、北条綱成公の副将間宮家の出身地が函南町間宮で有る事から、その一帯には良く行っており頼朝公が抑留された蛭ヶ小島周辺の事も有る程度は知っています。当然ながら小田原城下は観光地では無い場所も訪れているので偶然ですが自分の知る地名が伝承にリンクします。
実は現在も早河の地名は山梨県に存在しています。

しかし、こちらも早川で現在と字が異なる上に、普通に考えてここまで伊東家は追撃して来る訳が有りませんね・・・
「どんだけ兵糧持ったまま追撃戦やってんだよ(笑)?」
・・・と言う次元の移動距離ですから(笑)。この解釈を最初にした人間とソレをコピペしてる奴はハッキリ言って阿呆でしょう。
陸上自衛官のレンジャー部隊に聞いて見たらどうでしょう(笑)?私は自衛官、警官、医療関係が身内にも友人にもいますが・・・

「30kgのフル装備付けて、峠道往復220km追撃戦やれる?ねぇやれる?」
・・・と聞いたら即座に「アホか!敵を殺す前に死ぬわ!」と一蹴されるでしょうね(笑)。
先ず最初に平安末期は尾根筋が天候の影響を受けないので古代からの尾根道つまり峠道が未だに主要街道でした。
鎌倉幕府が出来てからは鎌倉周辺の尾根道も下の写真みたいに切通し状に岩盤が掘り抜かれて起伏も若干は歩きやすく成りますが、今みたいに平坦な場所が街道に成るのは江戸時代の話です。
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ちなみに上の道は円海山と言う横浜市最高峰の山系から尾根伝いに市境広場~鎌倉市街地に入る天園ハイキングコースの瑞泉寺口に繋がる道の途中、文献に乗らない無名の切通しです。
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まぁ、この道は鎌倉時代に再整備されておりなだらかなのですが箱根の古道は江戸時代の旧東海道の比でない難所です。
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鎌倉の古道ですらコンナ⤴道ばっかですからねぇ~、山梨県の早河で殺された説を言ってる人は体力がドラゴンボールの孫悟空やベジータ並みに有るから武士達の状況を考慮してあげれないんでしょうか(笑)?
そんな訳で・・・
「箱根山系越えで手荷物に持てるだけ兵糧で伊豆の伊東と山梨県の早川町を往復出来る訳が無いよね?」
「行軍は当時は1日15~30km程度、秀吉の中国大返しですら200km所要時間1週間」
「石橋山~山梨の早川片道110km往復220kmを各自腰巾着に携帯した兵糧だけで7日~10日かけて移動出来ると思いますか?」
「文献しか読まず当時の道を自分で歩いた事無いでしょ?」
・・・と隣に山梨県早河説を主張する人が居たら、私はその人に対する心の声が顔にも声にも態度にも出てしまうと思います(笑)。
鎌倉防衛網 久良岐のよし
この⤴鎌倉要塞網だって七里ヶ浜~大仏切通し~源氏山~浄智寺口~半蔵坊口~天園ハイキングコース~瑞泉寺口~釈迦堂切通し~祇園山~大町~名越切通し~住吉要害の市街1周すると、たった峠道24kmでも軽装で朝10時に稲村ヶ崎を出発して間に2時間弱の休憩挟んで住吉城下のリビエラ逗子マリーナに到着すると18時位に成るんだぞ(笑)?
峠道を実働5時間ちょい歩くだけで結構な疲労なのに、これと変わらん湯坂道の鎌倉古道で輜重隊(荷車輸送部隊)も使えないのに30kgの重装備付けて手持ちの食料だけで片道110km、休息無し徒歩24時間かかる山道を昼夜行軍出来るか!

・・・と言うのが文献に書かれている事を検証もしない現場に行かない人間に対する小生の皮肉タップリ込めた見解です。
では何故この様に文章コピペニキが誤解をする文章に成ってしまっているのか?これは石橋山古戦場周辺、足柄下郡を含めた足柄地域のローカル地名を知っていれば直ぐに解ります。
では先ず一緒に下の地図を見て位置関係を確認して見ましょう!
古戦場位置関係 久良岐のよし
はい皆さん、この位置関係覚えて置いて下さいね~。
先ず早河で死んだと言うのを漢字をそのままに解釈すると彼は既に源氏与力の武田家支配地の甲斐国に到達しており、そこで敗死する意味が解らない文章でしか有りません。
次に口伝を文書化する際に登場する地名が前後した為に混乱していると考えてみましょう、すると極々自然に移動距離や逃亡経路的にも説明がつく文書に修正されます。
Before⤵
北条義時公等と宗時公は箱根の湯坂で逃走経路を別にして、宗時公は山を下りて桑原に出た。甲斐国へ逃走する途中、早河で討たれた。
After⤵
北条義時公等と時宗公は箱根湯本の湯坂道の鎌倉古道に入る所で逃走経路を別にして、宗時公は山を下りて“早川を下り”小田原に入り“桑原”に出たがそこで捕まって殺された。
ね?こうすると不自然に片道110kmも伊東祐親公が追撃戦をやる解釈にしなくて済むでしょう(笑)?
実はこれ、武士の所領配置を見ると意味が解ります。
では先程の位置関係を更に範囲を広げて見て見ましょう~♪
鎌倉御家人位置関係 久良岐のよし
画面左手小田原城の下に源頼朝公を旗頭にして北条宗時公らが挙兵した石橋山古戦場が在ります。
その下に土肥実平公の館と裏山に詰城(つめじろ)の土肥城が在りました。
しとどの窟(いわや)は修験道の聖地で、現地の地理に詳しい土肥実平公が頼朝公達を連れて隠れた洞窟です。
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土肥椙山巌窟(しとどの窟)
鳳巣院は寺伝では土肥実平公により開基(かいき)された寺院と伝わります。
開基とは御寺や神社を開く際の出資者の事です。

その南西側も御子息で石橋山で戦死した佐奈田義忠公の真田城。大庭城は以前に紹介記事を書いているので訪問して見たい方は上のリンクから記事を読んで見て下さい、大庭城址公園は管理事務所に城の模型や解説が有って、昔は巨大な規模だった事を理解してから散策すると面白いですよ。
鎌倉殿の13人では石橋山合戦と関連するけど未だ登場していない重要人物も沢山います。
三浦義明公、岡崎義実公、真田(佐奈田)義忠公、梶原景時公、俣野景久公、長尾定景公、渋谷重国公、佐々木盛綱公、佐々木定綱公、佐々木高綱公達ですね。もし三谷幸喜がこの人達を登場させなかった場合、彼は全く当時の事を調べていないと断言出来る程の重要人物達です。
この中で長尾定景公は上杉謙信の祖先に当ります。
佐々木兄弟は子孫が戦国大名の六角家、京極家、尼子家、黒田家や北条家臣間宮家、更に間宮家の子孫の杉田玄白、間宮林蔵や東大の前身の昌平坂学問所頭取の間宮士信や明治時代以前の江之島神社の別当(長官)岩本坊間宮家等を輩出しています。

その佐々木家が近江国から落ち延びて来た際に匿(かくま)い、宇治川の戦い等で戦功を立てる切っ掛けを作ったのが米軍厚木基地が有る綾瀬市の早川城主渋谷重国公でした。ちなみに東郷平八郎元帥の御先祖様でもあります。
それ等の事は上の各リンク⤴記事で紹介しているので興味の有る方は御覧下さい。

今の所公式で発表されてる配役で石橋山合戦に関わるのは以下の人達ですね。
【源頼朝公与党】
伊豆国西部~南部・相模国中部~西部の武将達
総兵力300
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿土肥実平鎌倉殿安達盛長
鎌倉殿北条時政鎌倉殿北条宗時鎌倉殿北条義時
【源頼朝公援軍】
相模国三浦郡・武蔵国久良岐郡の三浦一族
総兵力500
鎌倉殿和田義盛鎌倉殿三浦義澄
          VS
【平清盛与党(相模国・伊豆国)】
相模国鎌倉郡~高座郡の元源氏与力の坂東平氏と伊豆国の工藤氏
総兵力3000
鎌倉殿大庭景親鎌倉殿山内首藤経俊
鎌倉殿伊東祐親鎌倉殿伊東祐清鎌倉殿河津祐泰
【平清盛与党(武蔵国)】
武蔵国久良岐郡と荏原郡と足立郡を除いた全域の秩父平氏と北関東の豪族。
畠山単独手勢500、総兵力20000前後と伝承。
鎌倉殿畠山重忠
ちなみに鎌倉時代の総人口は約800万人なので兵士数が少ないのは当然で、尚且つこの記録上と伝承上の数字は源氏や北条家にとっては敗戦なので故意に自軍の数を少なく敵勢を多く粉飾している可能性も有ります。畠山軍は三浦氏の本拠地の衣笠城を攻めた際には兵力20000に膨れ上がっていたと伝承しますがコレは多過ぎる気がします。
衣笠城の戦いについてはコレ⤵を御覧下さい。

例えば三浦勢は500、畠山勢も500とされますが、彼等の領地を戦国時代の石高に換算すると三浦家も武蔵国南部の久良岐郡を支配している他に房総半島にも飛び地が有った様なので少なく見積もって10万石程度=総兵力3000程度を戦国時代なら保有していた事が推測できます。これを戦国期の安土桃山時代の総人口が1200万人なので、それを根拠に再計算すると・・・
三浦家の戦国時代相当の総兵力3000×2/3=3000×66%=鎌倉時代の総兵力1980人と換算できます。
三浦家の平安時代の推定総兵力=約2000と概算出来ます。
そして当時は武士1人に対して足軽が3~4人ついていましたので、それを元に源平盛衰記に書かれた500騎の武者を再計算すると・・・
武者500騎+500×3人の雑兵=動員数2000と言う事が判り、だいたい10万石で計算した時の数値に整合性の有る兵力だった事が推測出来たりします。
それに対して畠山軍勢が500騎と言うのは三浦家と同様に10万石程度の筈なので兵力2000と換算すると整合性が有りますが、秩父平氏一族が武蔵国の久良岐郡と足立郡を除いた大半を支配していたとは言え衣笠城攻め総兵力20000と言うのは誇張が有ると思う訳です。
秩父平氏が大半を治めた武蔵国の石高は安土桃山時代で66万石でした。1万石で侵略戦争動員可能兵力は300人と言われているので・・・
66万石×300人=動員兵力19800です、これを先程同様に鎌倉時代の総人口で換算してみましょう。

武蔵国総兵力19800×66%=兵力13000で整合性が有りません。
武蔵国は秩父平氏以外に比企氏や足立氏や三浦氏が治めた地域が有ったので、まぁ少なく見積もって石橋山合戦~衣笠合戦に動員されたのは“兵力数千”と言うのが実際の所だと思います。
まぁ、それでも大軍なので、畠山重忠公旗下の武蔵国の秩父平氏軍数千が総兵力たった2000の三浦勢の本拠地を陥落させ様と南下して来たので和田義盛公と三浦義澄公は頼朝公敗走の情報を聞いた時点で鎌倉の住吉城まで兵を戻してしました。
衣笠城の戦い 久良岐のよし
上の画像をクリックして拡大して見て下さい。
鎌倉の明月院は山内首藤家の菩提寺が前身なので元々は山内首藤家の邸宅跡だった可能性が有ります。後に北条時頼公の菩提寺に成り現代では紫陽花の名所に成っています。
画面左上の藤沢市の大庭城は戦国時代にも北条早雲公によって改修され使われ続けた大城郭で、鎌倉時代の大庭家の本拠地でした。
畠山重忠公は南下して来て由比ヶ浜の西岸に布陣して、由比ヶ浜東岸の崖上の小坪地区住吉城の要害から和田義盛公が出撃し畠山家に攻撃を加えた事で戦闘が開始され、三浦家は鐙摺城に退き更に本拠地の衣笠城に集結し、老齢89歳の三浦義明公が僅かな手勢で囮と成り衣笠城に畠山軍の大軍を引きつける間に当時は海だった横須賀市吉井の怒田城下の船倉から海路三浦一族は房総半島に逃げる事に成功し、和田義盛公は相模湾側へと回り源頼朝公を収用する事に成功し、三浦一族は後の鎌倉幕府創立に大きな功績を遺した訳です。
鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿三浦義村鎌倉殿和田義盛
この三浦家全体が行った畠山家への陽動作戦で源頼朝公達に大兵力が差し向けられずに済んだ訳ですが、この功績と同じ事を一人でやってのけたのが北条宗時公に成る訳です。
鎌倉殿北条宗時
既にネタバレしまくってますが、もし片岡愛之助お兄ちゃんが自分の命を使って単独で東側に逃げて捕まる事で伊東家と大庭家の軍勢を引きつけ陽動に成功していなければ、3000の大庭勢と伊東の軍勢は全力で箱根山中を昼夜問わず山狩りして源頼朝公達は全員捕まって処刑されていたでしょう。
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿安達盛長鎌倉殿土肥実平

鎌倉殿北条時政鎌倉殿北条義時
これBefore⤵
北条義時公等と宗時公は箱根の湯坂で逃走経路を別にして、宗時公は山を下りて桑原に出た。甲斐国へ逃走する途中、早河で討たれた。
・・・は明らかに伝聞間違いか読み間違えなのは地形と地理でもう納得して頂けたと思います。
なのでAfter⤵
北条義時公等と時宗公は箱根湯本の湯坂道の鎌倉古道に入る所で逃走経路を別にして、宗時公は山を下りて“早川を下り”小田原に入り“桑原”に出たがそこで捕まって殺された。
石橋山古戦場 久良岐のよし
・・・この説の解釈でなければ宗時公の別行動が成立しない訳です。その行動は恐らく三浦義明公と同じ敵の目を欺き味方が逃げる時間を確保する時間稼ぎだった事もボンヤリ見えてくる訳です。
異説では宗時お兄ちゃんは、そもそも以前の戦争で片腕を失っており信濃国安積郡に閑居していたとも伝承があるそうです。この話も更に折衷すると、陽動作戦中に伊東家の攻撃で片腕失って「どうせ死ぬだろう」と放置されたけど生き残って後に北条家の家督を継げる身体でもないので廃嫡されて弟の傍に居ても政権運営に悪影響なので信濃国に隠棲してとかも考えられるかも知れません。
でも、いずれにせよ、もしも石橋山の合戦に参戦してた説が史実ならば、宗時お兄ちゃんは頼朝公や弟や仲間の先輩達を逃がす為に命を投げ捨て自分が囮になって皆を助けた様な、正義感で優しい人だったのかも知れませんね。

多くの人が言ってるから権威の有る人が書いてるからでコピペすると痛い目に遭うのが歴史ですが、当時圧倒的不利で少数だった源頼朝公達の様に自分達でちゃんと分析して人と違う事も言ったりやったりする勇気が必要なんだよって言うのも北条宗時公の話を追うだけで知る事が出来る訳ですが、きっと皆さんの御家の御近所の御寺や神社や城跡の公園にも、実は凄い歴史偉人と関わりが有るかも知れません。
ちょっと説明の看板を読んで見て興味を持ったら図書館にいって調べてみて下さい。
すると時代を超えて昔の人達と時間を共有出来た様な、不思議と嬉しい気持ちになれるもんです。

さて、また高島線瑞穂鉄橋の記事書かなかった訳ですが・・・(笑)。

・・・絶対に続き書きますので待ってて下さい。ちょっとメンドクセーな。と思って書いてないだけです。

オミクロン株新型肺炎が流行しています、各自衛生管理に注意して過ごし、外国みたいにはさせず正常に近い経済活動を続けられる様に今の段階で協力して対処していきましょう~。

では皆さんにとって、本年が幸多い1年になりますよう。或いは昨年まで苦労した方は昨年までの分も取り返す程良い事が有ります様に~♪

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前回の記事⤵

コレ⤴の写真撮影行った時に“田浦引込線横須賀鎮守府十字交差線路”の存在は知らず、普通に引込線を見に行ったんですが、行く際に先入観に囚われない様に先ずは他の人の記事とか全く読まない様にして、田浦駅から引込線が横須賀鎮守府に伸びていた“七釜トンネル”の写真撮って、現地でGoogleMap見ながら・・・
「ん~当時の路線今の地図じゃ解らんな」
・・・と思いながら方角と地形で当り付けて写真撮影してたら色々と発見が有ったんですね。上の十字交差とか。
で、ちゃんと複数人の詳しい人に話しを聞きに行ってから資料集め始めて、当時の組織の後継団体とか会社とか、国の機関とかスンゴイ色んな所の学芸員とかに・・・
「何か記録無いっすか~?」
「史料無いすか~?」
「教えて下せ~!」
・・・とかの基本中の基本の質問から始めて、軍事機密の史料に行き着いたり、付随する情報として横須賀海軍飛行場(現日産自動車追浜工場)とかに話しが波及したり、今回転載許可出なかったんで掲載できないけれど終戦直後の横須賀飛行場で艦上爆撃機“彗星”が武装解除されてプロペラ外された写真が掲載されている書籍とか、空撮で野島公園にある零式艦上戦闘機を空爆から守る格納庫として造られた掩体壕と横須賀飛行場を繋ぐ土橋に彗星が写っている史料とか教えて貰ったりしました。
「掩体壕って何?」

・・・って人は過去記事⤴に少し写真掲載して書いているので興味有る人は読んで下さい。
で、教えて貰った史料を探して、史料見っけて、関係機関に掲載許可取り、その次は史料がデカイからスキャンする為に自動車部品製造業で設計部門にしか無い様な巨大なスキャナー使わして貰える場所探したり、そこまでやってゲンナリwww。
「あ~歴史面倒臭っ!」
・・・って成って記事の続き書くの放置して暇があると逗子とか葉山行って、ずっと森戸神社とか真名瀬の砂浜で宝貝拾って磨いてましたました(笑)。
KIMG7792~3
これ⤴ね。磨いた中で綺麗なの全部親類の子供達にあげちゃったけど。
因(ちな)みに貝殻拾ってた真名瀬海岸は葉山マリーナも近く綺麗な場所なので、興味が有る人は下の紹介記事を読んで見て下さい。

これ⤴真名瀬海岸の記事ね。
ちゃんと明治の鉄道関連の史跡も行って来ましたよ写真撮影し直しに。
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ここ⤴赤煉瓦倉庫(新港埠頭引込線税関倉庫)とかね。
赤煉瓦倉庫も次回解説する高島線の引込線鉄道史跡の一つだったりします。
今回はコッチ⤵田浦引込線・・・
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では~気まぐれクック風にぃ~1ヵ月半ぶりに歴史解説して行くっ♪

さて、JR田浦駅で皆さん電車を乗降した事はありますか?
多分ほとんどの人が無いですよね~?
2015-03-07-16-18-12
上の写真は今回のJR線ではなく京急田浦駅近くの田浦梅林の写真ですが、ここJR田浦駅を利用する人も地元田浦の人達か、梅の季節に田浦梅林にピクニックに行くハイカーくらい、後は海上自衛官だけですからね~。
で、既に“海上自衛官”と言うワードが出て来るわけですが、田浦駅は明治三十七年(1904年)、国内で早い時期に鉄道省に由(よ)って横須賀駅~逗子駅が開業した際に付属駅として開かれたそうです。
そこら辺は疑問が有ったら小生に聞くより鉄道オタクに聞いた方が早いかも知れません。

この神⤴とかね。
横浜国大留年してまで電車乗りまくってただけでなく、旧中山道をチャリで走破しようとする良い意味で変人要素の強い鉄道古道オタクなハイスペック紳士の動画は“ウメゴールド”さんの動画と双璧を成して歴史オタクの皆さん、街道好きの皆さんにオススメです♪

この二人の動画、小生のブログより100倍面白いと思うので時間が有る人は是非視聴して見て下さい(笑)。
小生は鉄道全体は詳しくないので今回は引込線の中の“十字交差線路”が文化財指定するべき場所として紹介する為に解説させて頂きます。
んな訳で田浦駅のプラットホームに戻りましょう~!
CIMG4069
左に見えている途中でブッタ切られてる線路が昔の引込線で、横須賀鎮守府の弾薬庫や水雷艇訓練学校方面へ続いていました。
先ずは全体像を皆さんに見て貰いましょう~♪
横須賀鎮守府 田浦引込線再現 久良岐のよし 
※クリックして拡大して見て下さい。
上の画像のGoogleEarthの画像に小生が調べた全時代の横須賀鎮守府の引込線を時系列無視して黄色い線で全て表示した物です。
複雑に線路が有ったのが良く解りますよね~!
この貨物線用の引込線が廃線に成ったのは平成十八年(2006年)の事でした。個人的にこの決定は海上自衛隊にとっても米海軍第七艦隊にとって後々打撃に成ると思います。何故なら化石燃料を使ったトラック輸送は運用比率が下げざるを得なく成ると思いますからね、物理的にコンテナ輸送の運用方法が昭和初期の頃の方法論に戻さないといけなくなる様な気がします。
リチウム使った燃料電池は仮想敵国が産出国で相手にイニシアティブ握られますからね、かと言って水素エンジンを本気で日本政府がやる覚悟が無いしアメリカも全然水素エンジンに興味が無い。
だから将来的に環境問題でトラック輸送は減らさざるを得なく成り、コンテナ車輛の輸送は鉄道が主流に成り、貨物駅から中型の電気自動車か水素エンジン自動車に荷役業者がパレットで積み替える昔の手法に回帰すると個人的には思うんです。
まぁ、そんな訳で貨物線をバッツバツに廃線にしまくってる連中は「海外の思惑踏まえた長期的な視野有る?」と思う訳です。
継往開来と言う言葉を知らない連中が多いみたいですね、今の地方自治体の役人や経営者。
目先の事しか見ておらず都市計画と兵站をマイナーチェンジじゃなくてデチューンしまくり。
そんな感じで貨物線路が神奈川県内の特に横浜と横須賀で撤去されまくっている中、JR田浦駅から延びていた引込線は廃線に成って20年以上経ちますが“七釜トンネル”は今も健在です。
CIMG4070
七釜トンネルこの3つ並んだトンネルは実は戦争遺産の引込線のトンネルとして文化財として価値が有るだけに留まらず日本でも珍しい明治~大正~昭和と武士の時代が終わり日本が近代化を果たした3つの時代の建築遺産が揃っている場所なんです。
右の赤煉瓦のトンネルが明治時代の建造、真ん中のトンネルが大正時代、左端が昭和初期の建造のトンネルで引込線の為に作られた場所です。
ここでチョット、帝国海軍で軍事機密扱いにされていた当時の地図を見てみましょう~。
長浦①明治三十六年第一回修正
※ここから登場する軍事機密の測量図は各時代の測量図の権利者の後継団体である国土地理院に許可を得て掲載しまています。
ん~データ化してスマホやPCで見ても細かすぎて良く解らんでしょうか(笑)?
田浦明治三十六年
※拡大して見て下さい。
先程、田浦駅は明治三十七年(1904年)の開業と紹介しましたが、上の地図は明治三十六年(1903年)の地図です。確かに田浦駅は未開業の様ですし、引込線も存在しませんよね?
更に言えば先程見たGoogleEarthの地形とも全く異なっていますよね?
横須賀鎮守府 田浦引込線再現 久良岐のよし 
そう!これ海上自衛隊の方々は良く御存知なのですが現在の自衛隊の田浦基地は何と災害に弱い埋立地なんですよ!
岸田総理!海上自衛隊の基地は埋立地に置くのは危険ですよ!
関東大震災が来たら沈下して海没するか津波が来たら東日本大震災の様に地盤が液状化して建物が倒壊する可能性も多いに有ると小生は予測します。
これ海自の基地、嵩上げしちゃいましょう総理。
実は今リニア新幹線のトンネル掘削で排出される土砂の投棄場に困っています。
業務委託された会社が自然豊かな水源地の渓谷に熱海の土石流発生地点みたいに盛土による埋立てを行っており社会問題に成ったりしています。

水源や海の埋立てに関しては嘗て西武グループが三浦市の風光明媚な矢作湾を埋め立てた挙句、景観を破壊しただけで何にも活用せず今も負の遺産に成ってたりもしますよね?
下の古い地図は迅速測図です。
矢作湾 久良岐のよし
※農研機構が“歴史的農業環境閲覧システム”として製作した物で開発者の方から転載の許可を得ています。又、歴史的農業環境閲覧システムは皆さんも農研機構の名前を記載すれば転載して良いとも確認を得ているので是非、明治時代の地形と比較して災害発生予測等に活用して下さい。
そこで提案なのですが、この様に自然地形を埋めて風光明媚な景勝地や豊かな漁場を消滅させたり熱海の様に水害や土砂崩れ等の災害の要因を作り出すのを禁じる為にも埋立技術が未熟だった時代の埋立地である田浦港や横浜の関内地区や鶴見区沿岸部、古文書で海没して海中に消え失せた村が有った事が確認出来る横浜市金沢区並木や幸浦の埋立地を関東大震災に備えて嵩上するのにリニア新幹線と横浜の相鉄線と東横線の直結化と将来のミナト未来線の延伸で発生するトンネル工事の土砂を利用したら良いのでは?
・・・と今回、田浦の地形変遷を調べていて歴史オタクとして思っています。
岸田総理と山口代表、この提案目にしてくれないかな?
で、田浦付近は地形が変わりまくっている訳ですが・・・
ここで又、軍事機密扱いだった測量図を現代まで各時代で比較してみましょう。
明治三十六年(1903年)
長浦①明治三十六年第一回修正
大正十年(1921年)
長浦②大正十年第二回修正測圖
昭和二十五年(1950年)
長浦③(田浦)昭和二十五年第三回修正測量
昭和三十五年(1960年)
長浦④(田浦)昭和三十五年史料修正(行政区画)
うん!やっぱり全体図じゃサッパリ解らん(笑)。
では拡大して迅速測図、軍事機密測量図、国土地理院地図航空写真を比較して時系列で地形の変化を見てみましょう。
これを見ると横須賀線が無かった時代~田浦引込線の延伸~空爆による被害~再建~撤去の過程が有る程度は解ります。
【明治十九年(1886年)】
迅速測図田浦 農研より拝借 久良岐のよし

【明治三十六年(1903年)】
田浦明治三十六年

【大正十年(1921年)】
田浦大正十年

【昭和二十年(1945年)】
田浦港周辺1945年

【昭和二十五年(1950年)】
田浦昭和二十五年

【昭和二十六年(1951年)】
田浦港周辺1961年

【昭和三十五年(1960年)】
田浦昭和三十五年

【昭和五十四年(1979年)】
田浦港周辺1979年

【昭和六十三年(1988年)】
田浦港周辺1988年

【平成十九年(2007年)】
田浦港周辺2007年

【令和元年(2019年)】
田浦港周辺2019年
各写真を拡大して見ながら比較すると引込線の様子が有る程度は見えますよね?
どうやら終戦直前の航空写真では米軍による横須賀空襲で鉄道もバッキバキに破壊されている様です。
田浦港周辺1945年
ところが1970年代には復興された引込線は再大化しています。
田浦港周辺1979年
終戦直後の輸送網の再大戦力が鉄道輸送だったからですね。
でも、その後2007年には画面右側の吾妻島と新井掘割を挟んで対岸の現在の比与宇トンネルを抜けた先、線路が撤去されています。
田浦港周辺2007年
比与宇宇トンネルは鉄道マニアには“スイッチバックする為に作られたトンネル”と言われていますが、この軍事機密の地図と衛星写真から解る通り、田浦駅から引込線は直ぐに更に2本に分岐し比与宇トンネルに向かう線路と直行する線路が存在し、新井掘割で掘り切られて丘に成った比与宇トンネルの山を1周する線路だった事が判ります。
つまり!鉄オタの認識は戦前の歴史を知らない人が流布した戦後の線路の話で、比与宇トンネルがスイッチバックの為に作られたと言うのはデマな事が判りますね。
横須賀鎮守府 田浦引込線再現 久良岐のよし 
小生が引込線の全路線を再現した上の再現図も同時代に全てが有った訳では無さそうです。
ここからは現地を歩いた小生の写真を交えて解説に移ります。
【明治三十六年(1903年)】
田浦明治三十六年
最初に田浦駅引込線が出来た当初は田浦駅も無く横須賀線は横須賀駅に直進しています。

【大正十年(1921年)】
田浦大正十年
大正十年では田浦駅も確認出来ますし引込線が敷設されています。
田浦駅から引込線が分岐して七釜トンネルを抜け、トンネルを抜けた先で小さな鉄橋を渡って真っ直ぐ進み右手の新井掘割水路に向かっています。
CIMG4104
この鉄橋は草にまみれ線路の枕木は朽ちていますが現存しています。
鉄橋へは地図の青い屋根の堀硝子サンの工場と川の間の歩道を奥まで行くと鉄橋の手前まで辿り着けます。
ただ大正十年には比与宇トンネルは未だ無く新井堀割方面でスイッチバックしてこないといけない不便な構造だった様です。
更に時代が下って昭和に成ると戦時中には既に比与宇トンネルが完成しいた事が判ります。
【昭和二十五年(1950年)】
田浦昭和二十五年
終戦直後の昭和二十五年の地図を見ると比与宇トンネルが山を穿(うが)って線路がグルッと1周回る構造に成っていますが、この地図のままだと田浦駅から直進して比与宇トンネルを通過する1周回るルートでしか地図上で“田浦港町”と記載された地区の方へ行けない不便な構造に成っていますが実際は記載されていない分岐点が有ります。
CIMG4108
その場所が写真の曙機械さんの前にV字型の空き地と線路の2021年現在は未撤去部分が残っている場所で、このV字が正に分岐の有る場所でした。
ここで田浦駅から引き込まれた貨物線は2路線に分かれ、一方は比与宇トンネル方面に右折、一方は直進していた訳です。
つまり曙機械さんの前の分岐が有るので新井堀割へ直進せず比与宇トンネルに向かいトンネル内でスイッチバックすれば効率的に深浦船越方面(西側)の引込線に行く事が出来た様です。
最近までこの砂利に切替ポイントの器具が現存していた様です。
CIMG4110
残念ながら名残りは線路の残存部分以外に残っていません。
比与宇トンネルに行く方面は少しだけ線路が残存していました。
曙機械さんの横から鉄橋への線路も現存していましたが藪化が激しく夏時点ではとてもじゃないけど歩ける状態ではありませんでした。
CIMG4112
これが太平洋を守る自衛隊と米国第七艦隊の兵站をささえた線路へ何の感謝も無い酷い仕打ちに感じてしまいます。線路に乗ると枕木も腐って消滅していたり固定も外れてボヨンボヨンしていました。
この分岐点で比与宇トンネルへ行かず直進した線路は比与宇トンネルを1周して帰って来た線路と交差する事に成ります。
CIMG4106
旧海軍横須賀鎮守府 
比与宇トンネル前引込線交差
これが横須賀鎮守府の比与宇トンネル前引込線十字交差です。
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