皆さん鎌倉殿の13人はご覧に成ってるでしょうか?
源頼朝公や源範頼公、義経の兄弟は歴史上でも個性を活かして活躍しましたが、ドラマでも夫々(それぞれ)史実と異なる描写は有りますがドラマのキャラクターとして人を引き付ける演出がされていましたよね〜?
実は彼等よりも武将として優れた人物が彼等の近親にいたのを御存じでしょうか?
しかも、その人物は京都から見た中央史観では伊豆大島で死んだ事に成っているのですが、どうも源氏の根拠地に成っていた相武地域、つまり現在の神奈川県〜東京都〜埼玉県では状況的に・・・
「あれっ・・・これ生きてたんじゃね?」
・・・と言う複数の繋がりが出来る史跡が有るんです。
その源氏最強武将と言うのが、京都から追放されるたびに流刑地を一人で征服して領地にしてしまう凄まじいバイタリティーと指揮官としての軍才と個人戦闘能力の高さを合わせ持っていた武将で名前を源鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)と言います。
しかし神奈川県内には、彼が匿われながら移動していたと解る点が線で繋がる生存伝承地が幾つか現存していて、伊豆大島から横須賀市浦賀港~鎌倉市材木座/逗子市飯島地区~横浜市上大岡と一筋に繋がる生存ルートの為朝公伝承地が有ります・・・
鎮西八郎為朝神社
(濱町の為朝神社)
この場所は完全に三浦家の支配圏内ですから、状況的には彼は保元の乱では対立した源義朝公や三浦家によって救出されて死んだ事にされた上で、横須賀の浦賀港に上陸し更に鎌倉に一度入った様です。
ですから源為朝公は、目立つ三浦半島西海岸の三崎港や新井城下の小網代港や諸磯港ではなく、伊豆半島の網代港でもなく、平塚市の須賀港等の古代からのメジャーな風待ち港ではなく、この地域に上陸し密かに匿われた様です。
余談ですが鎮西八郎為朝神社は以前紹介した燈明堂海岸の比較的近くに存在しています。
もし源為朝公ファンの方は上大岡の歴史散策とSETで浦賀も訪れ、千代ヶ崎砲台や燈明堂海岸や西叶神社と東叶神社を散策すると非常に充実した1日に成るかと思います。
千代ヶ崎砲台は見学済みですので又、改めて解説記事を書きたいと思います。
江戸時代にも千代ヶ崎台場が築かれ明治時代には砲台化され、更に対岸の東浦賀の叶神社の背後の山稜は三浦氏の浦賀城として城塞化され戦国時代にも北条家によって配下武将が配置される等、浦賀は重要な港湾であり尚且つ平安時代には既に海上交通の要衝に成っていました。
それを説明するのに保元の乱の話しをしたいと思います。
保元の乱では兄の源義朝公の敵側である崇徳上皇に父の源為義公と共に与力してしまい、後白河天皇に与力した義朝公と平清盛と戦う事に成りました。
結果的に源為義公と平家弘公は斬首に成り、源為朝公は逃走して近江国に隠れていた所を捕縛されて、三浦家や伊東家等の水軍を持っている武家しか行く事の出来ない伊豆大島に島流しに成りました。
伊豆大島に島流しに成った源為朝公は元々個人的な武勇が優れているだけでなく可也(かなり)指揮官として優れた軍人で人望も有ったので瞬く間に伊豆大島を支配下に治めてしまうと、今度は伊豆諸島の離島まで征服してしまいました。その為に追討軍を差し向けられて殺害されたとメジャーな話では伝わるのですが、伊豆大島から横須賀~逗子鎌倉~上大岡に足取りを辿れる様に中継地点の史跡が幾つか残っています。
鎌倉市の材木座海岸と逗子市の小坪の丁度、境界線に当たる地域にも源為朝公の足跡を辿る事が出来ます。
当時の旧鎌倉郡は逗子市も含まれていました。戦国時代頃には三浦郡に成っていた様です。
江戸時代の三浦郡小坪村飯島には鎌倉十井の一つに数えられる六角井が有り、この井戸が現存しているのですが、実は源為朝公の伝説が残っている場所です。
鎌倉十井の1つ 六角ノ井
この六角井は伊豆大島から放った為朝公の屋が井戸の中に落ちた云々の非現実的な伝承が伝わっていますが、現実的な解釈をすれば伊豆大島で戦乱を起こした為朝公は実兄の源頼朝公と三浦義明公義澄公に救出部隊を送られ浦賀に上陸してから、更に海路で小坪か材木座に上陸し、この付近に一時期潜伏していた時に、当時は井戸を掘る時に水神様や土地神様への御供物として武具や調度品を入れたり神事を行う習慣が有ったので、為朝公が六角井の建設に関わったのかも知れないのが死んだ事に成っていたので伝承が間違って伝わったと考えると現実的ではないでしょうか?
この六角井辺りは丁度最近、富士山の景勝地として3ヵ所に分けて紹介しています。
凄く綺麗な場所なので天気の良い日に逗子〜鎌倉観光をされる人は是非、源為朝公の六角井や富士山の景色を見に訪れてみては如何でしょうか?
さて、この六角井は現代の鎌倉と逗子の境界線に成る訳ですが、鎌倉郡と三浦郡と久良岐郡は共に三浦家の氏族の領地が多く有りました。
今回紹介する場所には上大岡も有ります。六角ノ井の所在地は当時の鎌倉郡に当たる訳ですが、もう1つ為朝公の隠れ里の伝承が有る上大岡は久良岐郡に在り鎌倉郡に隣接します。
ここまで伊豆大島⇨浦賀港⇨小坪港西浜〜材木座と着実に上大岡に近づいてきていますね〜。
これね、メジャー文献しか読まずコピペばっかして自分で歩いて見て取材しないガクシャ様は知らない伝承なんです。
文献考古学で解る範囲の事は必ず為政者や筆者にとって都合の悪い事って書かれないんですよ、ほとんどね。だから歴史民俗は状況判断にとっても重要。
現代だって御役所の中でソンナ事は沢山有るし、公務員に限らず民間人の皆さんだって小生と違って自覚が有るんじゃないですか〜?
上司の命令で法律や規定を逸脱した方法で仕事したりしてませんか?
契約の評価基準下回ってるのに良品として納品したりしてませんか?
中小企業の社長サンにも求人は偽の雇用条件が堂々と記載されていて労働条件通知が出されると全然内容が違ったり、労基法すら全く順守せずブラックな労働条件で働かせたりする人沢山いるでしょ?
中小企業の社長サンには労働基準法を順守せずに新しい親日国のベトナムの友人達を技能研修性と称する❝奴隷化❞して反日ベトナム人を増やして将来の反日国を増やす事を何とも思わず日本の国防と国益を脅かす❝国賊❞の様な真似をしておきながら「自分は普通の市民」面して生きてる人もいるでしょ?
日本の国力を衰退させ友好国を非友好国に変えてしまう「外患誘致」ならぬ「外患製造装置」みたいな中小企業の経営者が現代の日本にも沢山いるよね〜。
ハッキリ言って中道保守派の小生から見てソイツ等悪人中小企業経営者は、友好国ベトナムの方々を奴隷化して友好国を減らし反日装置を製造する❝国賊❞だわな。
そんな連中は日本人失格。
武士も嘘を吐きますけど家族みたいに部下を大切にして部下が死んでも収入を保証して結婚相手まで面倒見たり、当主が討死した家の子の後見人に成ったり配下武将の家族の面倒を見たりするから、武士の棟梁に対する忠誠ってのは強固だったんです。
この理念を常日頃言っていたのが松下幸之助師匠ですね。
つまり松下幸之助師匠や町単位で市民の生活を考える豊田章男社長の様な人は、現代人ですがやっている事は丸っきり武士の発想なんですよね。
皮肉な話ですが、この御二人は紀州人と三河人なので平安末期の感覚で言う所の三河以東や関東地方以東を意味する坂東人ありませんが、東海地方や畿内に平安時代の武士イズムが脈々と受け継がれているのは、逆に腐れ儒教の影響を色濃く受けた江戸幕府の影響下に無かったから平安武士と同じ感覚が企業経営理念に残っているのかも知れませんね~。
小生の雇い主は客観的に見て松下幸之助サンに理念が似ている上に営業職の小生が加工技能習得の研修を志願したら意を組んで下さったり豊田章男社長の理念も持ってらっしゃいます。
頼朝公や信長公が頼りにした平安時代~室町時代の熱田神宮の宮司家であり武装豪族だった千秋家や、平安末期の坂東武者の棟梁の様に兄貴的な人なので、小生は雇用主の配下として三國志の孫策・孫権に仕えた呂蒙や関東地方の北条綱成公や梶原景時公や長尾定景公の様に働く存在に成りたいと思えたりします。
小生の雇用主御本人には、直接こんな小生が思ってる事なんて言いませんけどね、なぜなら小生は上司に媚び売る姦賊が大っ嫌いなので。
実力でサポートし、雇用主が言い難い事ややり辛い事を先陣切ってやったり、実力を付けて時には雇用主が危険な判断をしそうな時は数パターンの諫言を用意出来る様な人材でありたいと思う、今直ぐじゃなくても。
立派に業績を打ち立てる日本を代表する経営者は坂東武者に似ていると言う話をした訳ですが・・・
まぁ、武士の時代以前の神話の神様に神格化された古代の豪族の時代~現代まで人材を人材として家族の様に扱わない集団、過去の成功パターンに固執して新しい事に挑戦しない集団、家族や配下を食わせる為に必要な潮流を読み時流が動き出す前に機会を先取りしない集団は必ず滅びた例が現代企業でも溢れているって事です、歴史を見れば。
現代の日本企業は外資系企業と比較して人を大切にしないし従業員の家族なんて眼中に無い場所ばかり。古い事に固執して発展を止め、挙げ句の果てにデータの数値改竄や労基法違反隠蔽し更に友好国から来た研修生を奴隷にし反日国を増産してる国賊経営者もいる訳で、ソンナ連中は昔風に言うなら国賊です。
そんな現代日本人の悪人首領と同じように吾妻鏡だって北条家にとって都合の悪い事は粉飾したり削除してる形跡だらけですしねぇ〜。
恐らく源頼朝公も北条家が主導した暗殺だったでしょうし、源実朝公を殺害させた主犯も北条家でしょう。何だったら大姫だって毒殺で殺されたかも知れないし、上総広常公の暗殺も北条家や三浦家の主導だった可能性が可也高く有ります、だって上総広常殺害して奪った領地を給与されたのは三浦一族と北条一族と千葉一族ですからね。
まぁ、北条家は謀略で沢山の主家源氏の忠臣である同僚を謀殺し、更には主君の源家を暗殺で根絶やしにし、発言権の強い別の鎌倉御家人を全てから滅ぼして❝身内人❞と呼ばれる自分の家族に等しい北条家臣団中心の幕府運営に組織を作り替え、従属する源氏の御家人も大切にして日本を纏め上げた結果、元寇襲来時に武士団がバラバラにならず指揮系統が強固に保たれ世界最強のモンゴル軍を追い返せた訳です。
現代の国賊中小企業経営者とは違いますね・・・
今の日本企業経営者は海外に技術流出させまくり。
親日国の人々を技能研修生の名目で奴隷化して反日国を量産、日本の発展と日本国民の生活を脅かす内憂であり国賊でしたかない。
・・・とは言え先述の通り吾妻鏡は北条家にとって都合の悪い事は省かれている様に、メジャー文献からは消されたり違う事を書かせたり愚管抄の様に他人の又聞きを書いてるに過ぎなかったり粉飾や隠蔽で辿れない事も多いんです。
例えば愚管抄は比企氏と源頼家公を守ろうとして死んだ小生の尊敬する武将の一人である糟屋有季公の子等の伝聞で書かれた物で、多くの❝鎌倉時代の研究者❞を自称する文献考古だけでは見落としがちなのですが・・・
広範囲に調べたりせず自分で地元を歩いて廻ったり別の時代の史料を読まないタイプの文献考古のセンセイ様(笑)は愚管抄を妄信したり思い込みで伊勢原市の糟屋氏は相模国では滅亡したと思っている人が多いのですが、実際は室町時代にも相模国に一族が生き残り扇谷上杉家の家臣団として藤沢市域に残っていたり、室町時代後期にも小田原北条家臣として所領役帳に記載が有ったりします。
ましてや畠山重忠公討伐の北条家による騙し討ちの二俣川の合戦では愛甲季隆公が活躍していますが、この時に活躍したのが伊勢原市~厚木市の軍勢だったのは有名な話ですね。
そりゃそうですよね~、三浦家だって本家は滅亡しても分家の佐原義連公の家系が存続して活躍し苗字を佐原から三浦に復しているのですからwww。
和田義盛公の御子息の朝比奈義秀公の御子孫と思しき三浦一族も戦国時代に北条家の主な根拠地の1つになっていた駿河国に戦国時代も存在して今川家臣団として登場します。
吾妻鏡の隠蔽については以前に書きましたが、上総広常公の死に様の1年間の削除なんて代表例でしょ?
だから色々と古文書に書かれた事なんて検証せずに鵜呑みにしてコピペして本にしたら❝OUT❞なんですよねぇ〜。
本物の歴史家を尊敬する小生は素人歴史オタクとして数人の歴史かの知り合いがいます。
尊敬するプロの歴史家の博士や学芸員サンとダメな❝歴史ガクシャ先生❞化した人を見て来て思うのは、歴史のプロの方々にとって大切な刑事の様な人の嘘を見抜いて情報を収集し取捨選択して、現代の行政区分の市境や区境の範囲や地形の先入観にも捕らわれず、自分の興味や研究の対象外の雑談からも情報を吸収し関連付けてから立証していくエジプト考古学の様なスタンスが必要なのだと思います。
だから小生が尊敬する歴史家ってのは現地を実際に見て廻ったり現代に成っても御子孫達に聞き取りをして廻ってる人ばかりなんですが・・・
神奈川県には鎌倉殿の13人に登場した源氏の人物に関連する武家の御子孫が2家現存しています。
その鎌倉殿の13人に登場した重要な人物はこの人です・・・
それが源行家公の家臣団と伝わる家柄の田野井家、山野井家で、この家が為朝公の隠れ里と伝わる当時は三浦一族の領地だった大賀郷と呼ばれた地域一帯に現存しています。
山野井と田野井って何だか童話に出て来る金閣・銀閣のコンビ名の様な苗字ですが(笑)、横浜市の郷土史では田野井家と山野井家は新宮十郎行家の家臣と伝承しています。
横浜市会議員だった田野井一雄サンは源行家公の御家臣に当たる訳ですね。
この田野井家は現在の港南区日野と言う旧鎌倉郡との郡境に根付き室町時代には豪農的な立場に成っていた一族の様で、その一帯は室町時代に成ると地域的に戦国大名の北条一族で北条本家の軍師を務めた北条幻庵公の所領に成っていたので小机衆として動員されていた可能性が有りますが、その地域一帯は概ね間宮林蔵の祖先の間宮康俊公の領地にも被っていたので玉縄衆だったかも知れません。
玉縄衆や間宮家に関しては以前紹介した記事が有るので、御興味有る方は以下の過去記事を参考にして下さい。
以前、G麺7の紹介記事や、この地域の丘を登った場所にある森浅間神社の記事では上大岡は少し紹介した事があります。
今回は源氏最強の源為朝公の史跡紹介で上大岡に辿り着いた訳ですが、本題の源為朝公の史跡の話に戻ります。
G麺7から上大岡駅東口の方へと戻る途中、駅の右手は丘に成っているのですが上大岡駅を少し過ぎて右手のビル1Fに❝花ともだち大塚❞と言う生花店が有りますので、そこを右折して少し上がると駐車場の中にヒッソリと源為朝公の御霊社が現存しています。恐らく江戸時代に作られた供養塔の祠ではありますが、この地域は大昔から源為朝公の隠れ郷と伝承していた様です。
源為朝之廟社
この久良木三郎は後にこの地域を治めた平子家の祖先でも有るので平子の苗字で江戸時代には記録されているケースも有る様です。
源為朝公達兄弟の父上の名は源❝為❞義ですから、三浦氏の家祖である三浦大介(三浦郡知事)を務めた平❝為❞通(ためみち)公の代から既に三浦家と源頼朝公の家系の河内源氏は関係が有った事が窺えます。
その様な状況から久良木三郎公の治める久良岐郡に源為朝公の所領が有り、三浦家が当初は為朝公を後見していた可能性も有るかも知れませんね。
この上大岡一帯が源為朝公の隠れ郷だったそうです。
久良木通継公に関しては、未だちゃんと紹介した記事を書いていないので何(いず)れ久良岐郡の中で現在の磯子区~中区と南区の本牧半島を治めた三浦一族の平子家の紹介記事を書いて又いつか歴史を今回みたいに無理やり絡めて紹介したいとおもいます・・・いつかね(笑)。
さて、ここで源為朝公の消息は途絶えますので、もしかしたら死没地はここだったのかも知れません。
上大岡の丘の周りには御寺が沢山有りますし、近くには久良岐郡衙(ぐんが:郡役所)跡と伝わる弘明寺も有りますから、もしかしたら弘明寺は源為朝公の菩提寺だったりしたかも知れませんね~。
源為朝之廟社の近所には初夏には3万本の向日葵(ひまわり)が咲き誇る❝大賀の郷ひまわり畑❞も有ります。
大賀の郷ひまわり畑
3万本の向日葵が咲き誇り入園無料
Instagram⤵の皆サンの投稿
https://www.instagram.com/explore/locations/676722655/?hl=ja
小生の写真⤵
近所の人に親しまれているイベントのようで、為朝公の史跡巡りがてら初訪問だった2021年には多くの親子連れや女性同士で写真撮影している姿を見かけました。
是非、源為朝之廟社と合わせて大賀の郷ひまわり畑で写真撮影やTOHOシネマズ上大岡で映画デート~G麺7でのランチ等と合わせて休日の歴史散策をされては如何でしょうか?
映画館の話しをしてて思い出しました。
東野圭吾原作小説のドラマ、ガリレオの映画「沈黙のパレード」を土曜日に見て来たのですが凄く楽しかったですよ!ロケ地巡りをもししたら、いつか記事にしたいと思います~。
話を上大岡に戻します。
大賀の郷まで行くと、徒歩の距離に❝ゆず❞の地元の岡村町も有ります。
その周辺には先に紹介した玉縄衆の総大将の玉縄北条家所縁(ゆかり)の龍珠院と言う御寺も有ります。
更に歩けば未だ紹介して無い平子家の菩提寺の真照寺や戦中戦後のブラックマーケットから商店街化した浜マーケットも在ります。
浜マーケット
浜マーケットの直ぐ近くの金蔵院も未だ紹介していませんが北条泰時公が磯子区広地町のマンションが建っている場所に前身寺院を開基(かいき:社寺を開く事)した御寺だったりします。
今回は伊豆大島~三浦半島の横須賀市浦賀港~鎌倉市材木座/逗子市飯島地区~横浜市上大岡と源為朝公の史跡を辿ってみましたが、きっと皆さんの地元にもスゴイ歴史偉人との繋がりが有る伝承地の史跡が有る筈です。
だから皆さん、ちょっと近所の城跡の公園や山、神社や御寺を参拝して説明書きの看板を読んでみませんか?
散歩すると気分も良いですしね~♪
さて、今日はここまで!
では皆さん、又、次の記事で御会いしましょう~♪