歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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カテゴリ: 城址・要塞・史跡・伝統文化

今回は連休中や週末に毎日お金をかけてられない時に御金がかからず、かつ今では穴場に成ってしまった灯台の公園を紹介したいと思います♪
実は以前も紹介している場所ですが、夏季営業で夜景が見られるように成ったので再度、紹介記事を書きます。

2020年は新型肺炎対策で三密回避が出来て、カップルデートや子連れの家族団らんに最適の場所ですよ~!

・・・さて、では紹介文に移ります・・・

皆さんは横浜港シンボルタワーと言う場所を御存知ですか?
実は横浜のシンボルはマリンタワーではなく、横浜港シンボルタワーなんです。
しかも!入館無料(笑)~♪
公園だけでなく灯台の展望室まで登れます。
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横浜港シンボルタワー
【交通】
桜木町駅前バス停~30分~徒歩10分
※車は駐車場入口が2個並んでるから要注意してね!
※間違って海釣り公園駐車場に入っても問題ないけど、1km位歩く事に成るよ~(笑)。
海釣り公園駐車場
横浜シンボルタワー駐車場←コッチ!
2つ並んだパーキング入口の奥の方。
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 昭和の近未来建築で動画撮影に♪◎
 本来の港ヨコハマの景色が奇麗◎
 夏は横浜港物流拠点の夜景観賞◎
 広ぉ~い芝生でゴロゴロ出来る◎
 恋人や家族とピクニックに最適◎
 現代では穴場で人が少ないよ◎
 駐車場1日最大500円◎
☞注意するpoint(•ω•)       
 夏期開園時間09:30~20:00
 展望台は最終入場19:30
 バスの最終便が早い!
 夜景見るなら車で来園必須
 運行時間確認必須⤵
https://www.google.co.jp/maps/place/
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この横浜港シンボルタワー・・・
みなと未来21地区の商業の町ではなく、本来の横浜の姿である“海運業の横浜港”と“ベイブリッジの夜景”を見渡せる景色の良い場所なんです。
先に夜景の写真を2枚御覧下さい。
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どうです?
みなと未来21地区より“本来の横浜”らしい~景色でしょ?
余り仕事で港湾に行く用事の無い人は来る機会が無い場所だと思います。それだけに一般の方には珍しい景色が見られて特別な時間を過ごせる場所でもあります。
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連休とは言え毎日お金を使って家族でレクリエーションしてらんないですよね?三蜜回避出来る場所、そして穴場として紹介したいと思います。
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ここは芝生の広場が気持ちよく、しかも平成生まれのルーキー社会人や学生世代には余り知られていない“昭和時代(笑)”の公園なんです。
天気の良い日にレジャーシートと好きなお弁当持って来て、家族やカップルなら凧(カイト)やサッカーボールや野球ボールとミット持って来ても楽しいし、一人でも本とiPod持って来てゴロゴロしながら本を読んでも気持ちが良いんですよ~!
駐車場の空きスペースでラジコンカー走らせても楽しいかも!
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もう建物が昭和のウルトラマンの基地でしょう?
このシンボルタワーの展望台は無料で入れるので夜景や横浜港のコンテナヤードを見渡す事が出来て夜景の穴場スポットでもありますが、車が無いと来るのに難易度が高いので、余り車を持つ事に関心が無い平成世代には知られなくなっちゃったんですよね~。
小生の様な最後の昭和世代の“ハマっ子”でも知らない人も多いくらいです。
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なかなかコンナ風にガントリークレーンと積み上がれたコンテナの風景を見る機会って無いでしょ?
ただ御弁当を持参しないと公園内には食堂やコンビニはありません。
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波止場食堂
車なら、ここに来る途中に波止場食堂と言う海の男達が食事する場所も近くに有ります。
連休中や週末の営業状況は分かりかねますので確認してみて下さい。
いわゆる食堂ですが、子供連れならカツカレーとか凄く喜びそうですよね~。
小生は数年前まで通関士の友達がこの近くに住んでいたので、一緒に三浦半島に遊びに行く時とかに良く迎えに来て、ここで待ち合わせしていました。
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シンボルタワーですが、駐車場も結構あるので車で来た方が良いでしょう。
若い子で車が無い子は無理して、ここに来るだけの為にレンタカーを借りる必要は無いと思う。
たまには御父さんや御母さんと家族で散歩しにピクニックに連れってって!
・・・と御願したら御両親も喜ぶんじゃないかな~?
勿論、友達同士で自転車で来るのは有りだよね。小生も中学生の頃に丹沢のキャンプ場や小田原城を見に普通の自転車で60kmとか走って友達とヘロヘロに成って内股と御尻が真っ赤に腫れた思い出有るし。冒険も楽しいから。
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で、夏季営業で20時閉場、シンボルタワーに登れるのは19:30までだから気をつけてね!

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ちゃんと休憩所も有って食堂の機能は備わってないけど、ジュースや17アイスの自動販売機も有るし、記念品の物販も有るよ~。
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中は普通の会社の会議室みたいなテーブルと椅子(笑)だけど、もう何十年も経(た)ってる建物だけどちゃんと奇麗な状態で清潔感有るしエアコン効いてる(笑)。
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だから、暑ければママやパパはここに退避出来ますよ~。
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でシンボルタワーに登るとこんな風に景色が少しづつ広く見え始めます・・・
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陽が落ち始めると、景色が更に奇麗に成ってきます。
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07月末~08月01日前後の日没時間は19時±10分。
これに留意して風景を見に行くと良いよ!
ベイブリッジに灯(ひ)が点(とも)り白い姿が強調されて見えます。
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コンテナヤードも奇麗だよ。
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ガントリークレーン越しには皆良く行く、みなと未来21地区。
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クイーンズスクエアとランドマークタワーが見える。
そしてベイブリッジから視点を右下の横浜港の入口に向けて見ると~
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写真の右側に海を塞(ふさ)ぐように波止場が有りますよね~?
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実はここに、とっても“色白で青い目をした美人サン”が佇(たたず)んでいます。
この横浜シンボルタワーが有るのは“D突堤”と言う場所なのですが、その先にある“第一新堤”の灯台さんです。
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奇麗でしょう~?
是非、夜景を見に行った人は、この美人サンも見て来てあげて下さい。
でもちょっと一人で寂しそう。
実はこの青い目の美人サンの対岸に赤い灯台さんもいます。
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シャア専用灯台みたいな(笑)。
・・・まさか“連邦の白い灯台”と“赤い彗星の灯台”とか裏コンセプト有るのか⁉とガンダム好きな人は思いそうですが(笑)、これは港に入港する際に船の位置が判(わか)る様に入口に向かって右手が赤、左手が白と成る様に“航路標識法”で規定されているから、必ず大きな港湾の入口には紅白の灯台がsetで設置されているそうです。
決してコンナ⤴赤いシャアザクと白いガンダムを意識して横浜港に紅白の灯台作った訳じゃなく、どこの港湾都市も同じ様に紅白の灯台が有ります。
都市計画した人がガンダム好きだったら楽しいのに(笑)。
そう言えば・・・
・・・本当に横浜港の山下埠頭に以前お台場海浜公園に在(あ)った18mの実物大ガンダムが設置されるそうですよ!
まぁ紅白の灯台は、あくまで外洋で入港待ちしている船舶が港の入口の為に法律で規定されている訳ですが・・・
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・・・横浜港沖には、こんな風に多くの巨大な貨物船が入港待ちしています。
世界中の主要港で同様の状況が起きるので、船舶が港の運河に入る際に混乱しない様に入口の表裏が確認できる様に成ってるみたいですね。
ここに来ると森鴎外サンが作詞した横浜市歌の意味が現代人にも解かるかも知れないですねぇ。
昔は・・・
“山下埠頭=江戸幕府神奈川運上所”
“みなと未来21地区=新港埠頭=赤煉瓦倉庫”
・・・の直ぐ沖合まで船が入って来て、その写真みたいに大きな蒸気船が沢山順番待ちしていた風景が見れたんでしょうね~。
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横浜港シンボルタワーに登るなら、塔の中に入る前に紅白の灯台も是非探して見て下さい♪
横浜港の入口のマークですから必ず、そこをライトアップされている遊覧船も通過しますから、白い灯台サンと観光船とのコラボの写真が撮れたりします。
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そして完全に陽が落ちると横浜ベイブリッジとD突堤新堤の灯台サンの白亜の色が、宇宙の濃紺に染まった空とのコントラストで強調され美しさが更に際立ちます。
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まぁ~正直、ここだけで丸1日時間を潰すのは結構ムツカシイ(笑)です。
でも昼下がりに御弁当持って来てレジャーシート敷(し)いて、広々とした芝生の広場で御昼御飯を食べてからボール遊びしたり小生みたいに教材の本とCD持って来たり小説読んで過ごして夕景見て帰るのも気持ちが良いし、御金を本当に使わないで済むし(笑)。
大桟橋とか赤煉瓦倉庫とか何回も行ったなら、横浜中華街のディナーとか山手地区の洋館観光と合わせてコッチに来ると良い休日や連休のレクリエーションにも繋げれますよね。
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シンボルタワーも格好良いしね!
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展望台にあがらなくても、ここのベンチで彼女や奥さんとユックリ海を暫く眺めても良い時間に成りますよ~。
小生は今一人で寂しく御散歩しに来るだけですが(笑)。
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小生は21日に行った時は帰りに17アイスのブルーベリーチーズケーキを食べて帰りました。
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この自販機のアイスね~、昭和世代には観光地で良く売ってた思い出が有ると思う。
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普段、駄菓子屋で買って食べてたガリガリ君とかホームランバーとかと違って、ちょっとした御馳走みたいな感じだったのかな~?
まぁ~こんな感じで今の季節、夏季営業中だけ夜景を見られるので紹介してみました。
もちろん、日中の芝生遊びも楽しいので、是非、皆さんいらしてみて下さい♪
ハマっ子ローカルな穴場情報でした~♪

では!又、次の記事で御会いしましょう~。


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胴網海岸&横堀海岸
古代の風待ち港小網代湾(こあじろわん)
知る人ぞ知る新井城址の2つの隠しビーチ
【横堀海岸】
【水質】
 胴網海岸★★★★
 横堀海岸★★★★
【景色】
 胴網海岸★★★★
 横堀海岸★★★
【電車】 
 両方とも三崎口駅~バス20分、
 油壺マリンパーク降車
 胴網海岸・・・徒歩10分
 横堀海岸・・・徒歩05分
【  車  】
 公共油壺駐車場
 マリンパーク駐車場
【休憩】
 周辺に宿泊施設多数。
 観潮荘に日帰り温泉有り。
 胴網海岸
 予約制の手ぶらBBQ施設有り。
 施設利用者トイレシャワー使用可。
 横堀海岸
 食事と飲酒出来る飲食店併設。
 施設利用者トイレシャワー使用可。
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 両方とも知る人ぞ知る隠れビーチ◎
 小さいけれど砂浜と磯が有るよ◎
 胴網は予約制の手ぶらBBQ有り◎
 横堀は常設の飲食店あるよ◎
 両方とも城跡の一部で歴史が凄い◎
 胴網海岸は海からの城門地形だよ!
 横堀は御城の堀切状空堀跡だよ!
※3つの海岸が近くにあるから混雑
 しても空いてる場所を選べるよ◎

☞注意するpoint(•ω•)       
※コロナ禍中は三密対策に不向き。
 隠れビーチだけにキャパ少ない。
※城跡だけに超判り難い場所だよ。
 初訪問で行くのにGoogleMapの
 ナビ機能使うと迷わない。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
胴網海岸・横堀海岸は両方とも地元の三浦市民でも若い世代には知らない人も多い知る人ぞ知る穴場の文字通り隠れた場所に在(あ)る海岸。
両方とも砂浜と岩礁の磯が有り、二つの海遊びが出来る。
近くにヨットハーバーが有るのでヨットの⊿三角形のマストが海を走って行く優雅な景色を眺めながら飲食したり、物凄く夏らしい事が出来る。
又、胴網海岸には“Step camp base”と言う予約制の手ぶらBBQ施設が有り便利で利用客は建物内のシャワーと更衣室も利用させてもらえる。
横堀海岸にも常設の飲食店“みなと屋”が在り、海を眺めながら居酒屋の様にリラックス出来る。こちらも利用客は飲食店内のシャワー室を借りる事が出来る。
ただし穴場なだけに海岸としては小さく、行く前に混雑状況を上記の御店に確認した方が良い。
胴網、横堀に加えてすぐ近く徒歩圏内に荒井浜も在り3つの海岸が近在している。
もし目的地の一つが混雑していても3箇所とも海水浴場の過去実績が有るので移動しても安心して遊べるので、各海岸に有る飲食店に当日や前日に混雑状況を聞く事で混雑回避して空いてる場所に移動も出来る。
※狭いだけに2020年は三密に要注意
油壺や小網代の混雑時には車での来訪なら30分以内で行ける距離に大浦、三戸浜、和田長浜の海水浴場も存在するので混雑していた場合の訪問先変更の選択肢が多いのも、この油壺や小網代地域の利点。
歴史的な解説をすると、この一帯全て城跡だったりする。
この胴網海岸と横堀海岸は名前から何となく解かる人もいると思うが、実は新井城と言う平安武士~戦国大名化した三浦氏の拠点で日本最長、4年弱の籠城期間を誇った名城の一部だった。
ここに拠点が置かれた理由は古代から三浦半島新井城址の小網代(こあじろ)湾、平塚市側の相模川河口の須賀港、伊豆半島熱海市の網代港の3港が船の係留に適した地形で風力と海流を利用して船足を高め輸送力と出来た地点だったので、平安時代から戦国時代にかけて海運拠点として栄え重視されていたので水軍基地としても発展した歴史が有る。
平安時代以前、縄文や弥生時代にも当然ながら海上交通の要所だったようで、この航路を利用し伊豆諸島から“黒曜石”が輸送され交易に使われていた。
この石⤵️
黒曜石はオニキスみたいに綺麗な石だけど強度がガラス位で加工しやすく金属器が無い時代に刃物に加工された。
戦国時代には伊豆大島の染物は特産品として重宝された事もあり新井城主の三浦家が北条氏綱公に伊豆大島を奪われるまで代官を置き支配し、小網代湾から須賀、網代、伊豆大島を船が行き交っていた。
江戸城を築いた太田道灌公も主家の居城、伊勢原市の大城郭糟屋館に赴く際この海路を利用していた事が菩提寺の胴昌院にも伝わっている。
戦国時代の三浦家の最重要拠点だった新井城址の横堀海岸は文字通り城の主郭(しゅかく:本丸)へと続く道の地面を削って空堀にして侵入路を断ち切り、行軍可能な人数を制限する真横に半島を断ち切る堀切の空堀に由来する地名。
ー横堀海岸入口が“堀切”状空堀名残りー
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新井城の岬を分断する構造体なので、横堀海岸由来の空堀跡は道の反対側にも続きが現存する。
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つまり戦国時代には、横堀海岸入口~道の反対を空堀がブチ抜いて掘られていて、戦時に撤去出来る引橋がかけられるか土橋が削り残された城外から城内主要部に侵入する外側の最終関門だった事が解る。
ー胴網海岸の“食違い虎口”地形ー
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胴網海岸は小網代湾側の城に直接登城する船着き場だった様で、砂浜から居住区域だった丘の上に続く山裾が削り取られ城壁化された切岸に成っており、道が人工的に鋭角にL字型に九十九折(つづらおり)にされており、侵入する敵を常に正面と側面から弓矢や鉄砲で十字砲火攻撃し防衛する“食違虎口(くいちがいこぐち)”構造に成っていたりする。
ちなみに三浦義意公の時代にまだ鉄砲は武士に普及してないので、防衛の主力兵器は弓矢だった。
ー胴網海岸上の名将道寸公の御廟横の“竪堀”地形ー
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三浦道寸公の御廟の横の谷も人工の竪堀が残り、胴網の食い違い虎口から敵が山腹をよじ登り真っ直ぐ丘上の曲輪群に侵入出来ない様にしてある。

こうして“城”として現地を見ると一見、古戦場で「怖そうだ」と歴史を知らない人は思いがちだが、実はここは最後の城主の三浦義意公と奥さんの真里谷(まりやつ)武田家の姫の御夫妻の縁結びで有名な地域なのでデートやBBQ合コンで来たら良縁に恵まれる事で、縁結び祈願の女性に周辺の神社仏閣と合わせてマリンパーク一帯は有名だったりする。
周辺には京急の運営する観潮荘と言う日帰り温泉施設も備えたホテルも有る。
観潮荘の他にも周辺一帯に料理の美味しい民宿やペンションが多数有るので、滞在費用を抑えて数日間三浦で夏を満喫するのも良いかも知れない。
ー胴網海岸ー
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ー横堀海岸ー
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穴場海岸の紹介一覧へ⤵
人工的に地形を切り出した戦う為の戦国時代の御城に興味ある人は・・・
コレ見て見てくだされや~⤵
これも初心者にわかりやすいサイト⤵ 
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荒れまくりぃ~☝️=☝️⤴️
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・・・とIKKOの声が聞こえそう。
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荒くれ具合がカッケェ~ぜ!素敵♪
砂鉄の黒砂も鬼気迫る色合い。

こんなんでもサーファーいるよ~。
強ぇ~なぁ~!
良い波だけど気を付けてねぇ~。

七夕祭りは中止だけど、例年七夕の頃に平塚八幡宮に行ってるから御参りしに行った帰りの七里ヶ浜でしたぁ。
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屋台出てないから七夕に御参り行かないんじゃ毎年夏に御参りしてる応神天皇八幡大菩薩様にも何だか失礼だし・・・

織女(棚機津女:たなばたつめ)と牛朗(牽牛彦)も1年に1日漸(ようや)く夫婦一緒に過ごせる日に、知らない奴等がアレやコレや縁結びや大願成就の御利益に肖(あやか)ろうと集(タカ)られつつも何だかんだ皆で祝ってくれてたのが、今年は屋台出ないから誰も御目出度いの共有しないとか理不尽過ぎでしょ。

織女様~牛朗さん~今年は屋台で飲んだくれてる酒乱もいない七夕祭りです。
・・・暫し女夫(めおと)でごゆっくり~!
( ´꒳` )ムフっ♪

サムネのフリー素材⤵️
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※2020年新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。

神奈川の景勝50選の荒崎
(江戸幕府海防陣所跡)
なんやの浜
【荒崎公園】
【なんやの浜】
【水質】★★★★
【景色】★★★★★
【電車】★★★
 三崎口駅~バス25分
 荒崎公園降車 
【 車 】 ★★★
 荒崎公園駐車場有り 
【休憩】★★
 海の家無し、公共トイレ有り。
 付近に眺望の良い旅館有り。
 半径500mに海鮮料理店2軒有り。 
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 神奈川の景勝50選の一つだよ。
 海岸と松は浮世絵の様で絶景。
 なんやの浜は小さいけど泳げるよ。
 なんやの浜の奥の夕陽は絶景だよ。
 公園に隣接し風景の良い旅館有り。
 1km以内に長井漁港と飲食店有る。
☞注意するpoint(•ω•)       
 昔は海の家有ったけど今は無い。
 季節と曜日によって駐車場有料。
 公園なのでキャンプBBQ禁止。
 海藻や貝類の採取禁止。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
荒崎は神奈川の景勝50選の一つ。
三浦半島のみならず南関東のどの海の景色とも異なる威厳と美しさを持っている。海底の地層が縦に捲れ上がりそそり立ち、岩々の間に波が砕け海水が小川の様に潮目と異なる方に流れる。
海水も透明でかなり奇麗な水質。
公園内は遊歩道が設置され海辺の散策コースとして整備されており、ゆっくりと散策できる。
ピクニックの丘~潮風の丘~荒崎弁天島~夕陽の丘と有り、それぞれに特徴が有る。
ピクニックの丘から弁天島を歩けば海蝕洞窟が沢山有り、ちょっとした探検気分を楽しめる。そこから見る松の生えた弁天島が海波に洗われる景色は正に江戸時代の風景画の様で必見。
夕陽の丘は文字通り夕陽と富士山と相模湾を一望出来る。
荒崎公園の海岸は海水浴には向かないが、駐車場手前の長井荒井漁港の奥にある“なんやの浜”は長さ50m程度と小さいが良い水質を保ちながら穏やかな砂浜で子連れで安心して遊ぶ事が出来、平成の初期までは公設海水浴場として機能し海の家も出店していた実績も有る。なんやの浜の更に奥には真西に向かって捲れ上がった岩盤地層の海岸があり、そこから眺める夕陽は絶景。
歴史的にはここは平安時代からの要衝で長井城として機能していた。それを幕末に江戸幕府が外国船に対する警備陣地として砲台に再整備し利用した。
荒崎公園は景勝地なので“公園”として整備されておりキャンプとBBQは禁止されている上に、周辺は漁業権の必要な漁場なので条例順守を。
近くには明治生まれの海軍大将として活躍しながら、英語仏語独語をネイティブレベルで使いこなし日米開戦と共産党弾圧に反対し終戦交渉で活躍した井上成美大将の邸宅も有り2011年迄は記念館として機能したが東日本大震災後に閉館した。
荒崎公園内には公共トイレと自動販売機のみだが食事も出来る海音相模屋と言う風光明媚な旅館が隣接して存在する。
他にも荒崎公園の近所に長井荒井漁港や南関東では有名なブランド漁港の長井漁港が有るので半径1km以内に数軒のGoogle口コミ高評価の和食料理店や寿司屋が有る。
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※なんやの浜
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※ピクニックの丘~荒崎弁天島
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※ピクニックの丘と潮風の丘の間の海岸
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※潮風の丘
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※夕陽の丘
穴場の海岸の紹介一覧へ⤵️
 
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※2020年新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。

諸磯磯崎灯台
諸磯神明社
【水質】★★★★
【景色】★★★★★
【電車】★★★
 三崎口駅~バス22分~浜諸磯降車
 +徒歩3分
【 車 】 
 民宿駐車場のみ。
 青少年センター駐車場要確認。 
【休憩】
 海の家無し。公共トイレ有り。
 飲食店無し。
 宿泊施設:近所1軒、1㎞圏内に数軒
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 諸磯崎灯台の景色凄く良いよ~◎
 釣船の仕立て屋いて釣り出来るよ◎
 磯遊びに最適だよ◎
 縁結びで有名な諸磯神明社◎
☞注意するpoint(•ω•)       
 海からトイレ遠いよ。
 海の家は無いよ~。
 磯遊び向きで遊泳は不向き!
 民宿の駐車場しか無いよ~。
 路上駐車スペース無いよ~!
 青少年センター駐車場は要確認。
 ウェットスーツ着ないで!
 キャンプBBQしないで!
 ゴミ箱無いから持ち帰り必須!
 海藻も貝類も採取禁止!

――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
公共のゴミ箱は無い地域なのでゴミは持ち帰り必須!
密漁する不届き者が増えたので地域の人がパトロールするから悪さしたら捕まるぞ!
密猟者がウェットスーツ着るのでシュノーケリングで着用しないで!
モラルの無いキャンパーが増えたので地域の人達はキャンプ禁止の意向!
個人的に神奈川の景勝50選+1で新たに追加して欲しい程に素晴らしい景観。
海上の水蒸気の少ない秋季~春季にかけて富士山と諸磯灯台のコラボが見られる。
水質は良いが海水浴場としての実績は無く砂浜は掃除されていないので磯遊び向き。
近所に民宿が1軒、半径1㎞圏内にも宿泊施設が多数と水族館の油壺マリンパークも有るので、マリンパーク観光と合わせて宿泊観光にはうってつけ。
釣船の仕立て屋も有るのでデートや家族で釣りレジャーも楽しめる。

バスだと三崎口駅から直通便が有るが便数が少ないので事前確認必須。
周辺民宿に宿泊なら駐車場に困らないので車で来れるが基本的に公共駐車場も私設駐車場も無いので車での来訪は民宿の駐車場利用に成る。
諸磯青少年センター駐車場は空いていれば利用出来るが封鎖されている事も有るので事前確認が必要。
だからこその穴場の絶景海岸なので、バスで苦労してでも富士山と灯台を見に行く価値有り!
ここ数年、BBQの機材やゴミを捨て密漁する低モラルキャンパーが増加した為に漁業権を持つ地元の地域民によりキャンプ禁止の意向。地域民とモメルのでキャンプ目的で来ない様に。
又、バス停に近在する天照大神を祀る諸磯神明社は縁結びの御利益で有名。
諸磯神明社は戦国時代の三浦義意公と奥方の真里谷武田家の姫の夫婦の悲恋の伝承の舞台で、明治時代に都新聞に連載され流行した架空歴史小説“桜の御所”に登場する歴史上実在しない小桜姫のモデルに真里谷武田家の姫が成っているので昭和初期位迄は多くの観光客で賑わった。
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穴場海岸の紹介一覧へ⤵️
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※2020年新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。

大浦海水浴場と間口漁港
劒崎と劒崎灯台
 (神奈川の景勝50選の一つ)
※個人的に推薦の避暑地。
【大浦海水浴場】

 大浦海水浴場
 劒崎灯台  
 ※劒崎は岩礁で遊泳不能
【景色】
 大浦海水浴場
 劒崎灯台  
【電車】
 大浦海水浴場
 三浦海岸~バス17分~徒歩13分。
 劒崎灯台  
 
三浦海岸~バス20分~徒歩14分。
【  車  】
 大浦海水浴場
 駐車場有り(夏季有料)。
 劒崎灯台  
 
私設駐車場有り(鈴木商店)。
【休憩】
 大浦海水浴場
 仮設トイレ有り。海の家有り。
 周辺に民宿と船宿多数。
 秋はブランド松輪鯖料理店開業。
 劒崎灯台  
 公共トイレ有り。海の家無し。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 大浦は海水めちゃ奇麗◎
 漁港営業日は13時位に魚買える
 劒崎は神奈川の景勝50選◎
 秋は漁港で松輪鯖を食べれる◎
 民宿が沢山有る◎
 全部歩いて廻れる近さ◎
注意するpoint(•ω•)       
 バス停からちょっと歩くよ。    
 劒崎は泳げない岩場だよ~。
 崖から落ちたら骨折るよ(笑)。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵―― 
例年海の家も出店し三浦海岸駅からそう遠くないのに海水浴客も適度な人数で酷く混まない。
水質も素晴らしい海な上に、神奈川の景勝50選の一つ劒崎も徒歩圏内、しかも民宿や船宿が周辺に多く有り夏季の避暑旅行に最適!農道から見る海の景色も美しいが、小生は落下して骨折したので気を付けられたし(笑)。大浦海水浴場は夏季のみ駐車場が有料に成る。
基本的に家族連れ、もしくはカップルしか来ないので逗子や由比ヶ浜のようにチャラい迷惑な客も少なく、まったりと時間を過ごせる観光地。
大浦~間口漁港~劒崎灯台は全て徒歩圏内なので1日ゆっくり海辺の景色を堪能出来る。
秋限定で間口漁港に鯖(サバ)のブランド魚として有名な“松輪鯖”を提供する料理店の“輪中”がオープンするので、海水浴Off-season限定でも海を眺めて劒崎散歩と美食を満喫できる。
歴史に興味の有る人は近くの農道に劒崎砲台跡が有る他、駐車場近くに夜間砲撃の為の探照灯格納庫も有ったりするので好奇心が高まる散歩コースかも知れない。
間口漁港は営業日の午後13時~14時位に行くと水揚げされる新鮮な魚を観光客にも販売してくれる。
劒崎は海水浴には適さないが釣りも楽しめる上、断崖と灯台の絶景は必見!
大浦海水浴と合わせて宿泊し民宿で海鮮料理を楽しんでも良い思い出になるし、バスでも松輪/劒崎バス停~鮪の水揚げ漁港の三崎漁港にも直通で行けるので日帰りなら夕食を三崎漁港で食べて帰るのも良いかも知れない。
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※大浦海水浴場
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※間口漁港
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※片谷浜から松輪を望む
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※矢の根~劒崎灯台
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※2020年新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。


燈明堂海岸と浦賀燈明堂
千代ヶ崎砲台
 (江戸幕府海防陣所跡)


【景色】
【電車】
 浦賀駅~バス6分+徒歩9分。
 徒歩で36分
【  車  】★★
 駐車可能台数30台のみ。
【休憩】☠️
 今は公共トイレすら無い。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 海が抜群に奇麗だよ~◎

 縁結びの西叶神社東叶神社が近い◎
注意するpoint(•ω•)       
 海の家は無いよ~。
 今は公共トイレすら無い。
 駐車可能台数が少ないよ~。
 三浦東岸で夕陽は見えないよ~。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
海はピカ一奇麗!子連れの親子が浜辺で遊ぶのに最適だが、過去に公設海水浴場としての実績は無い。
東京湾の入口に存在している為に海水が市街地化の影響を受けておらず透明、更に砂岩と粉砕された貝殻で出来た砂浜は真っ白で美しい。ボぉ~っとしてるだけで幸せになる場所。
海岸の名前の由来は江戸幕府によって灯台として建設された浦賀燈明堂に由来する。燈明堂はその後も明治時代初期まで稼働していた。
西側岩場にワカメやヒジキが自生している。
付近は戦国時代からの要所で浦賀港の対岸には戦国時代の浦賀城址が有り、燈明堂海岸には江戸幕府によって要塞化された千代ヶ崎台場が建設され、明治に成ると千代ヶ崎砲台に近代化改修された。立地と縄張り的に戦国時代にも名前の残らない城塞だったのかも知れない。

浦賀港には縁結びで有名な源頼朝公と文覚上人が開いた東叶神社と西叶神社が有り、両方の神社を浦賀港を渡し船で海を渡って御参りすると“縁結び”の御利益が有ると若者に人気。
東叶神社西叶神社と渡船のリンク⤵️

東叶神社の山が浦賀城址で、西側の燈明堂側には江戸幕府の浦賀奉行所が存在した。
燈明堂沖の海獺島(あしかじま)は徳川埋蔵金伝説が有り、沈没船に幕府の蓄財が満載されていたらしい。
海獺島の名前の由来は、海水の奇麗な一帯には明治時代まで海驢(あしか)が生息していた事に由来し一帯の海が自然豊かな漁場だった歴史も垣間見える。KIMG8027
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※燈明堂海岸
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※浦賀燈明堂跡
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千代ヶ崎砲台跡 久良岐のよし
※千代ヵ崎砲台跡

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ブログネタ
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横浜市港南区~磯子区峰~金沢区氷取沢にかけて円海山と呼ばれる山がありまして・・・

風景がとても横濱と思えない綺麗さなんです。 IMG_5684
今では静寂な森の中の古道沿いにある阿弥陀寺と言う御寺と、昔は阿弥陀寺の奥院だった護念寺と呼ばれる御寺ですが、実は江戸時代~昭和初期まで凄く有名で、日々参拝客が蟻の行列の様に大量に列をなして訪れた名古刹なんです。

実はこの護念寺ですが、お灸治療の大本山とも言うべき御寺でして、古典落語「強情灸」の舞台でもあるんですね。
ですから、この御寺は「峰の灸」の別名でも呼ばれています。
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嘗(かつ)て、磯子区杉田〜港南区笹下にかけて点在した広大な杉田梅林は、江戸からの江戸っ子観光客で賑わっていました。

船で磯子区杉田の聖天川までクルージングし海からの屏風ヶ浦の美しい風景を楽しみながら、杉田梅林を見学に来る訳ですね。残念ながら杉田梅林は教育委員会が開発容認し消滅しました。…明治天皇や皇族もよくいらっしゃった美しい風景と最高級の梅のブランド杉田梅を教育委員会が消失させたんですね。

で、その江戸時代から昭和初期の観光コースに峰の灸も入っていたし、純粋な治療客も沢山いました。

横浜横須賀道路と言う高速道路の開通で阿弥陀寺と鎌倉古道が寸断され、鉄道の駅からも遠い事から、昭和の高度経済成長期に成ると段々、参拝客も減ってきてしまいましたが・・・
今でも慢性的に体の痛みがある人がココに来て治療を受ける、お灸の本場なんです。

もっとも・・・
小生はソンナ歴史も知らなかった20歳の頃、原付バイクでフラっと田舎道の風景を探して立ち寄って、その聖地のような清々しい空気感に呼びこまれて迷い込んだ御寺なんです。
その時は、竹林の風景の美しさと、何だか…
「あ~横浜市が久良岐郡と呼ばれた頃の風景はこんな感じで美しかったんだろうな~」
・・・と思っただけでした。
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この護念寺は清浄園と言う公園墓地に至るまでのアプローチが昔の鎌倉古道なので、とても神秘的な風景が残っているんです。
でも今じゃ落語の“強情灸”を知らない人の方が多いですよね?
せっかくの機会ですし、強情灸を御存(ごぞん)じ無い方(かた)の為にその噺(はなし)を紹介します・・・
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【強情灸】 
通りかかった知り合いが唸っているので、気になった男、家に招き寄せる。 
聞けば何でも体がだるいので、""という店に灸を据えてもらいに行ったらしい。


「このお灸な、凄まじく熱いんで評判なんだよ。気の弱い奴なんかな、一つ据(す)えただけで… 
「ギャー!!」
なんて天井突き破って飛んでっちまうんだと」 

余りにも熱すぎるので、せっかく来た人が怖気づくぐらいだが… 
それでも"効く"という評判のおかげで店の前は長蛇の列。 
仕方がないから、番号札を配って据えてもらっているらしい。


俺がもらったのが"への36番"行列のどん尻だぜ?これじゃ日が暮れちまう… 
「帰ろうかな」 
…って思ったらよぉ! 
先に並んでた綺麗なお嬢さんが先客が熱がってるんで心配(不安)に成っちゃったんだろ? 
…俺に 
「ねえ、アタシと代わってくれませんか」 
なんて… 
「ええ!ようござんす♪」 
…と、喜んで代わりましたとも。 

早速内に入ると、店の者が… 
「うちの灸は熱いですよ。大丈夫ですか?」


頭にきた友人、上半身裸になるや… 
「さあ据えてくれぃ!」 
…と怒鳴る。 

灸を36箇所に据えると言われ、なおも意気がった友人… 
「全部いっぺんに据えろ(怒)!」と一喝。 
啖呵に店の者も釣り込まれ、本当に全部いっぺんに据えてしまった。 

一つで飛び上がるような灸を、36個いっぺんに据えたんだからどうなるか?


身体中から煙が上がる…不動明王みたいになっちまったが…"ここで逃げたらカチカチ山のおタヌキ様"だ。 
我慢して唸ってたら… 
店にいた奴らがみんな寄ってきてヨ! 
「この人、本当に人間かい?」 
「神様の化身でしょう」 
…なんて感心してやがんだよ。 
…その中にね、さっき俺と札を取り替えたお嬢さんがいてさ、俺の顔を見てポーッとなってんだ。 
「あぁ…たくましい人ね、お嫁になるならこんな人が」 
…なんて思ってやしないかと。 

自業自得で熱い目に遭ってきて帰り道で唸っているような間抜けの(笑)、体(てい)もないノロケ話を聞かされ、呼び込んだ方の男は面白くない。 
元来こちらも同類の馬鹿である… 
「たかだか灸ぐらいで威張るな!」 
…と、奥から藻草(もぐさ)を持ってきて、腕に山盛りに積み上げるや早速点火(笑)♪


「活火山だよコリャ(笑)…見てろ!今に火が回ってくるから(笑)」 
火勢が強まり、煙が上がる。 
男、脂汗を流しつつ歯を食いしばる。

「うう(汗)…」 
「…灸ぐらいで威張るな、石川五右衛門なんか、油で茹でられたのに平気で辞世の句を詠んでたぞ!」 
「石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ…ってな!」 
「八百屋お七なんか、15歳で火炙(ひあぶ)りだぞ?」 

…それに比べりゃこんな物…お七…五右衛門…お七… 

ぎゃぁあぁっつ!」

とうとう辛抱堪(たま)らず藻草を払い落とし、なおも「五右衛門んん…」と唸っている男に、友人が意地悪く声をかける…

「五右衛門がどうしたって(笑)?」 
「…」 
「……」

「………さぞ熱かったろう」 

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円海山 清浄院 護念寺

・・・どうです?強情灸、バカでしょう~(笑)?
いつの時代も男は可愛い女性の前で良い顔したがる見栄っ張りってネタでした(笑)。
ところで、この写真の建物はが仮本堂であり現在も御灸の施術をする建物でもあるそうです。
昭和の頃迄は沢山の御客さんで賑わっていたそうですが、現在は要予約だそうです。
定休日は月曜日。診療は午前中のみ受け付けているそうです。
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境内の雰囲気とても素敵でしょう?
丸で鎌倉の隠れ家に来たような・・・
神様の住んでる御社(おやしろ)でもありそうな雰囲気ですよね?
秋には紅葉もチラホラとあり、この季節はここに来てヒンヤリとした空気を吸い込むと、何だか生きてる感じが凄く静かに感じられるんです。
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少しこの御寺の歴史を見てみましょう・・・
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ハイキングコース地図の右下に阿弥陀寺、その少し真ん中寄りに護念寺、右側中央に“道場丸”と“いっしんどう=一心堂”の地名が残ります。この一帯は阿弥陀寺の奥院だった護念寺の寺領だったのでしょう。恐らく御寺の収入減は大岡川や鼬川の水運を利用した木材の売却だった筈です。二つの河川を使う事で相模湾側の鎌倉や、江戸湾の江戸方面に材木を出荷出来て昔は大いに繁栄したのでしょう。
新編武蔵風土記稿の護念寺の項目に“この一帯の緑は寺の敷地だったから残った”と言う記載に円海山の森林が残されていた理由と整合します。
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今でも樹木に囲まれた御寺です・・・
この、静かに遠慮気味に色づく紅葉達の奥に御念寺の現代の本殿があります。
撮影した日は法事の車が数台とまっていたので御本堂の写真は写しませんでした。 
御本堂を過ぎるとマイナスイオンでヒンヤリとし、静寂な神聖な霊気を感じる様な竹の隧道が出迎えてくれます。 
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さて、この護念寺には幾つかの由緒ある仏像が有り、その一つが薩摩の大名どうやら島津家から拝領した威徳明王の1寸八分(545mm)の伝弘法大師作の彫像らしいです。
元々は護念寺の向かいの山の上に堂が有って、そこに祀られていた物だけど御堂が壊れたから護念寺に移したと言う事が新編武蔵風土記稿に書いて有ります。
昔は坂下バス停辺りに本院だった阿弥陀寺が在りました。
そこから登って来る護念寺の清浄園墓地側の道は現在廃道ですが、恐らく、そちらが江戸時代の参道だった筈です。阿弥陀寺の方は1400年代には旧所在地に存在したと伝承しています。
鎌倉の戦火で矢部野(洋光台~峯)一帯が戦火に巻き込まれて阿弥陀寺が現在の山の上に移転したのが1400年代だと伝わりますので、この鎌倉の戦火は鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義教公が対立した永享の乱か、足利持氏公の御子息で最後の鎌倉公方と成った足利成氏公の頃の話でしょう。
護念寺とその谷を挟んで反対の山上は現在の阿弥陀寺に当たり、既に阿弥陀寺は1600年代の頭には現在地に移転していたので護念寺の威徳天が祀られていた向かいの御堂は阿弥陀寺ではなさそうです。
では、どこでしょう?
一心堂位置関係 久良岐のよし
※画像クリックして拡大して下さい。
この威徳明王が祀られていたのは恐らく円海山の一心堂広場だろうと思います。
丁度現在も参道に使われている谷筋を登る道以外に私道になり廃道化してる道が有ります。
その谷道を挟んで一段高いのが“いっしんどう広場”=一心堂でしょう。
現在の位置関係で見てしまうと阿弥陀寺の場所が向かいの山に見えてしまいますが、時代的にも威徳明王が祀られた江戸時代には既に阿弥陀寺が存在していた為、阿弥陀寺の山ではなさそうです。
となると、向かいの山で更に“堂”の名前が付くので一心堂がその場所だろうと推測出来る訳です。
ちょっと今の阿弥陀寺との位置関係だと護念寺が阿弥陀寺の奥院として機能していた事が理解し難いのですが・・・
護念寺参道 久良岐のよし
・・・昔の阿弥陀寺は洋光台6丁目坂下バス停辺りに存在したそうで、確かに、その位置からだと真っすぐ直線状の背後の山に護念寺は所在しています。
画像に赤く引いた線は現在は廃道に成っている古い道で、実はそちらは切通状に成っていて重要な道だった事も解かります。
阿弥陀寺~護念寺位置関係
この道は明治時代初期の迅速測図にも-----の点線表記で護念寺の右手の舌状丘陵の尾根道として記載されています。
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その道がこの解体屋サンが並ぶ丘の道を更に一本裏側に入った場所です。
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今では草が鬱蒼としてしまっています。
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その先は円海山清浄園の墓地の先っちょ、この道に繋がっています。
昔は小道だったようですが、もしかしたら墓地造成で開削され、更に丘の入口が解体屋サンに払い下げられ今は使われなくなったのかも知れません。
一心堂の場所ですが・・・
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氷取沢側から見た円海山、鉄塔の辺りが一心堂広場の近くです。
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現在は遊歩道としては整備されていませんが、氷取沢側の農道から続く江戸時代の道は今でも生きています。
この道を登ると・・・
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ちゃんと昔の道標がわりだった交通安全の仏様の馬頭観音様が多分、昭和時代位に上の部分だけ作り直されて今も有ります。この場所がT字路に成っていて富士塚休憩所を経由して護念寺の墓地に成っている円海山清浄園の古道や鉄の道の尾根道に通じていました。
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又、迅速測図を見ると古代の尾根道の街道が悉(ことごと)く護念寺の辺りに集まっているので、前身の御念寺は逗子の岩殿寺や金沢区の浄願寺の様に山岳信仰的な要素が有り弘明寺や八菅山の様に山全体が聖地化されていて各所に御堂や神社が有った事が推測出来ます。
製鉄有る所に豪族有り、豪族有る所に神社仏閣有り・・・と言った所でしょうか。

新編武蔵風土記稿では阿弥陀寺の奥院だった護念寺の項目にこう書いて有ります。
コレ⤵️
宝暦二年(1752年)地頭星谷治兵衛智久志願に因(よっ)て、長野山(円海山)の内十丁四段二畝十九歩の地を寄付し、
又別に山、畠(畑)、永錢(永楽銭=戦国時代の通貨)一貫文を寺費に充(あて)つ、
且(かつ)當(当)寺城山に據(より)て往還便ならざれば、捷徑(ショウケイ/近道=間道)を開闢(カイビャク=開拓)して攀躋(ハンセイ=よじ登る=登山)の便宜(べんぎ=便利)とす。


要約すると・・・
「護念寺の在る円海山は城址」
「だから往来が不便で星谷智久公がショートカットの道を御寺の為に作りました」
・・・つまり円海山=長野山は城でした。
合わせて、この文書から調査した末端の記者か編集した人のミスも解かります。
永楽銭は明の皇帝、永楽帝が発行し日本では室町時代に輸入され江戸時代初期まで流通した通貨です。
織田信長公が積極的に経済活用に利用し旗印にまで使った事の有る通貨です。
そして一貫文と言う金額の単位も室町時代~安土桃山時代の貨幣の通貨単位です。
永楽銭
画像引用元⤵
https://shop.ginzacoins.co.jp/
星谷家が足利幕府の時代の輸入通貨の永楽銭を寄付しているのに、江戸時代も中期の宝暦二年(1752年)と調査した江戸時代の記者も編集者の間宮士信公も昭和の出版社も何故注意が向かなかったのでしょう?
その時代には既に江戸幕府発行の貨幣が流通しており単位も両・朱・分でしたし、永楽銭は廃れています。
つまり宝暦二年(1752年)に星谷家が永楽銭を寄付する事自体が変な訳です。
調べた記者か編集者かが他の元号と読み間違えた事は明らかです。
永楽帝の在位期間は1402年~1424年永楽銭の発行開始は1411年ですから、逆にそれ以前の話でもない事が判ります。なので宝暦の書体を読み間違えそうな元号を探して、取捨選択すれば正体が判明しますね。
康暦二年(1390年)→1411年以前
宝徳二年(1450年)→1411年以後
・・・宝徳を読み間違えたんでしょう。
では本当に徳と歴は草書体が似ているのでしょうか?
徳と歴 久良岐のよし
右の四角い枠で囲ったのが“歴”の字、左ので囲ったのが徳。
行書体が酷似してるので宝徳を宝暦と読み間違えて記者が取材し風土記の編集に間違えたまま峰村の説明にも反映されたみたいですね。
そのせいで現代にも混乱を及ぼしているのでしょう。
「そんな学者や編集者が間違える事有るんかい?」
・・・と思う人がいると思いますが、そんな事は現代でもしょっちゅうです。
江戸幕府の役人が書き間違えた杉田間宮家初代の名前を菩提寺や御子孫に調査すらせず間違えたままコピペ出版してる人もいます。
地名でも例えば阿弥陀寺や護念寺は昔は杉田郷と呼ばれた行政区分の地域でした。所が昔は現在とは字が異なります。
杉田=杦田
杉ではなく杦の字で表記したんですがコレが読めない学者サンが・・・
「“松”田とか書き間違えてる」
・・・と杦=杉を読めず杦を松と勘違いし“間違いじゃないのに間違えた指摘をする”事も有ります。
昭和のいい加減な仕事の出版物をコピペして終わってる学者サンいるんですね、それと武将の名前も江戸時代の幕府の誤記を子孫や御寺や神社に確認しないで誤記のまんまコピペしてる人もいます。
誰とは言いませんが横須賀市やNHKの歴史解説員をしていると自己顕示満々のプロフで宣伝してる勲章貰った学者サンとか。本当に歴史偉人をリスペクトしていて御墓参りすれば一発で気が付く事なんですんが。
さて、今回の間違いですが・・・
永錢が永楽銭と言う事は、戦国時代を好きな人は大概知っています。
徳と歴 久良岐のよし
永楽銭なら宝暦ではなく宝徳だと歴史学者でもなんでもない小生でも、この様に気が付きます。
これにより阿弥陀寺と奥院の御念寺は宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。
そして、この阿弥陀寺の奥院御念寺への寄進は応永二十三年(1416年)の戦闘によって阿弥陀寺は焼失後現在地の山の上に新しく御堂を建てて復興されたけれど、奥院の御念寺は一時は城塞化されていた不便な立地なので復興が遅れ、永享十一年(1439年)に永享の乱が終わり、鎌倉公方が一端途絶して平和な時代が来た宝徳二年(1450年)に漸(ようや)く再整備の手が回る様に成った状況が理解出来ますね。
余談ですが、戦国時代に旧間宮領にいて江戸末期に里正(庄屋)に成っていた旧北条家臣団の名字に星谷はいません。
ただし越前朝倉家臣に星谷家がいると沼津市では伝承しているそうですから、そもそも朝倉家の旧主斯波家臣に星谷家がいた可能性はあります。
北条家臣にも朝倉家がいるのは斯波家が南北朝時代に関東執事を務めていた名残りでしょう。
以前にコレ⤴️品濃白旗神社の記事で少し書いていますが、南北朝時代に近くの秋葉郷(戸塚区東戸塚~品濃辺り)に柴田勝家高経公が関わっていたり、足利尊氏公の御実弟足利直義公の頃に星谷家が杉田郷に関わっていてもおかしくはありません。
そして朝倉家は
右馬助(うまのすけ)朝倉政景が戦国時代の北条家臣として横須賀市の浦郷や追浜辺りや、伊豆半島三島市玉川辺りを支配していました。
この朝倉家の朝倉平次郎と言う武将が間宮家と玉縄衆と言う軍団で同僚だった事も解かっていますし、
南区太田にも朝倉又四郎と言う武将がいました。
ただ、峯町の星谷サンは北条家臣朝倉家の家来ではないでしょう。寧(むし)ろ旧間宮領にいる朝倉家は玉縄衆朝倉又四郎が豊臣秀吉による北条家改易後に本牧奉行、佐渡金山奉行、生野銀山奉行に成っていた間宮家を頼って江戸時代に移住して来て家臣化した一族かも知れませんね。

星谷の苗字を名乗る武将は戦国時代~江戸時代初期、そして現代に付近にいませんが、他の北条家臣団の苗字を持つ大地主達は現在も存続します。
この地域の地主は槙田家、塩沢家、大塚家、苅部(軽部)家、小原家です。
近くでは金子家、岡本家、野本家、内田家、市村家、荒井家、斎田家、北見(喜多見)家、朝倉家、笠原家、田野井家、山野井家、高梨家、武田家です。
もっと離れて南区まで行くと、森家、並木家、佐々木家等の蒔田吉良家臣団の名前が蒔田吉良家菩提寺の勝國寺の檀家さんに沢山いたりします。
加えて磯子区港南区地域では間宮一族分家や系図上養子が入っていると伝わる松本家、武内家、間辺家がいます。
沼津市の伝承では朝倉家臣星谷家がいるらしいですが朝倉はこの阿弥陀寺や護念寺近辺の峰地域に地主はいませんし、北条家臣朝倉家の更に家臣が杉田郷の地頭では北条家の公式記録の北条所領役帳に記載された間宮家の所領の歴史と整合性がありません。
どうも北条氏照公が元服前の藤虎丸時代に崇拝し、元服して北条氏照と名乗ってからも“陣屋”=“宿舎”としても利用していた座間市の星谷寺(しょうごくじ)辺りの現代の地名は“入谷”ですが、元々は星谷(ほしのや)が正式な地名なので、その辺りが出自でしょうか?
だとしたら、遠い祖先は横浜市港北区に移住して茅ヶ崎城代と成った座間家と親せきだったかも知れませんね。
この茅ヶ崎城主は平安時代末期~鎌倉時代初期には源頼朝公の協力者だった摂津源氏多田行綱公の関東における城館でしたが、戦国時代に入ると北条家臣座間家が城代を務めた場所でした。
 
駿河国戸倉城近く沼津市大平に、元今川家臣で後に北条家臣と成ったと言う星谷姓の武将がいて城館跡が有るものの出自は不明、沼津市では資料がなく、間宮や江川家と関わり深い伊豆の国市でも資料は無く、座間市にも全くありませんでした。
しかし現在も鎌倉時代位の星谷家の出身地域と思(おぼ)しき座間市~海老名市~寒川町辺りには星谷姓の家が点在するので、座間市入谷(旧:星谷)が出自“くさい”所ではあります。
偶然ですが、座間家の上官に当たる大曾根城主、小机城代だった笠原信為公の笠原家も伊豆出身で、その一族の笠原綱信公の養子、笠原政晴が戸倉城主を務めています。
何だか座間家と星谷家は笠原家与力として北条家で編成されてた家も存在した可能性があります。
しかし星谷家について現代では何も解りません。

・・・星谷家が座間市出身と仮定してすると・・・

南北朝時代に鎌倉公坊足利義詮公家臣になり・・・
関東執事の斯波高経公の与力として配属され南北朝時代に峰町辺り旧矢部野村を治めた分家の星谷家がいて・・・

足利尊氏公の二男、足利基氏公が鎌倉公方になり伊豆国一帯を自身の与力で固めた際に伊豆に入植した星谷家と、磯子区峯町一帯に地頭として残り室町時代初期まで存在した星谷家がいて、それぞれ別々の運命をたどり・・・
横浜市に残った鎌倉公方与力だったかも知れない星谷智久公は宅間上杉与力となり・・・

更にその後、永享の乱頃には扇谷上杉派の与力となり、北条氏綱公が扇谷上杉家と対立すると湘南に勢力を張っていた北条家臣間宮家により駆逐されたのかも知れません。
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※写真は伊豆半島、田方郡函南町“間宮町”の“間宮南”交差点。
もし、このプロセスならば阿弥陀寺を江戸時代に中興した苅部家の領主、間宮家が足利基氏公の家臣として近江国から伊豆国田方郡間宮、今の函南町間宮に移住し神奈川県東部に勢力伸長したプロセスと酷似しており有り得ると思います。
しかし新編武蔵風土記稿に話を戻すと、星谷家は室町時代末期にも杉田郷には名が見えず、安土桃山時代にも、江戸時代初期にも名が見えず、現代の地主にも名が見えず・・・
新編武蔵風土記稿の記載通りなら地頭なのに江戸時代中期の一時代だけいるのはおかしな話しだと個人的には思います。
・・・星谷家は北条家が武蔵国域を支配し杉田郷が間宮家臣団の支配地に組み込まれた頃には磯子区磯子城主の平子家と同じ様に駆逐されたと考えた方が自然でしょう。
平子家については以前書いた記事があります。
コレ⤵
 
仮に江戸時代に“地頭”と言うか在郷武士だったなら、隣の六浦には今も江戸中期に大名として入って来た米倉さんが横浜市大の近所の六浦藩陣屋跡に普通に現代の家を建てて住んでいますし、江戸時代中期に地主侍なら今も間宮家臣団の他の地主同様に現代の大地主としているでしょう。
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※江戸時代の六浦藩陣屋跡の旧藩主米倉サン家の石段。
米倉サン家のこの石段は陣屋(邸宅)の裏口だったらしいです。。
ちゃんと米倉さん家の奥さんに許可貰って撮影してますよ!
だから間宮家臣団や六浦藩主米倉家の事を踏まえると江戸時代の大地主なら今も大地主として住んでいるはずですから、星谷氏が護念寺の前身、御念寺や阿弥陀寺に関与したのは風土記の“宝暦”の記載は誤りで“宝徳”年間、永享の乱前後の話だと個人的には思います。

又、隣村の栗木村の項目でこうも書いて有ります・・・

古(いにしえ)は御料にて元禄九年に星合摂津守に賜い、今子孫鍋五郎知行す

・・・江戸時代の元禄の頃、徳川綱吉公の頃に磯子区栗木村に移住して来た星合サンと峯村の多分、南北朝時代~室町初期にいた星谷サンの項目は話がゴッチャに成ってるぽい雰囲気を感じます。
この古は御料にて元禄九年に星合摂津守云々~の御料は将軍直轄地と言う意味で“天領”だった、と言う事に成ります。

実は!
間宮家は鷹狩りに秀でた一族で氷取沢間宮家を開いた間宮綱信公は北条家の外交使者として織田信長公に謁見し鷹を献上したり、分家杉田間宮家が代々、徳川幕府鷹匠頭の職位を継承する程だったのですが、戦国時代~江戸初期に港南区~磯子区一帯を治めた間宮本家の笹下間宮家は下総国に転封され栗木を支配していなかったので、星合摂津守が一時期いた可能性は有ります。

まぁ~十中八九、星谷サンの話は間宮家が来る前の護念寺の前身の御念寺を復興した話と、似た元号と、隣村栗木村の星合サンの話を記者が頭の中でゴッチャのまま勘違いを書いちゃったのを昭和の出版社がそのまま丸写ししてそうな気がします。

しかし星谷知久公が足利幕府鎌倉府の家臣で在地領主として阿弥陀寺の奥院だった御念寺を支援したのだとしたら、それはそれで素晴らしい史話だと思います。
因みに、栗木のバッティングセンターは松坂大輔選手が横浜高校時代に練習に来ていたそうです


・・・話は飛びましたが(笑)・・・


護念寺と本院の阿弥陀寺は阿弥陀寺の旧境内地の逸話と元号の問題、そして星谷智久公の奉納したお金が永楽銭だった事実から、永楽銭が使われなくなっていた江戸時代中期の宝暦年間1750年代ではなくて宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。

しかし1400年代の開基では、江戸時代の人から見て“古刹”にはならないでしょう。
ですから鎌倉時代より前の平安時代には御念寺と阿弥陀寺は存在していたのでは無いかと、近隣の御寺の文書に残らない寺伝からも予想がつきます。
例えば以前にブログで紹介した間宮家の笹下城跡の本丸直下にある成就院・・・
・・・ここは現在は浄土真宗高田派ですが草創期は法相宗だったと伝わるので、下手したら奈良時代~平安時代初期位の行基大僧正に開かれていて真言宗開祖の弘法大師空海和尚や天台宗開祖の伝教大師最澄和尚達の時代より古い可能性が有ります。
他にも・・・
・・・ここ杉田商店街の東漸寺は鎌倉幕府の重鎮、名越北条家の名越北条宗長公によって正安三年(1301年)に開かれたと記録上される臨済宗の寺院で関東十刹に挙げられる名古刹ですが、実は境内にある法輪塔は更に古い時代の物で御寺の伝承でも名越北条家によって臨済宗として再興開基される以前に天台宗だった事が伝わっています。つまり鎌倉時代以前の平安時代から存在する事が法輪塔から証明されている訳です。
更に・・・
・・・同じく杉田の妙法寺は前進の牛頭天王社が弘法大師空海和尚によって開かれた事が伝承しており、文和元年(1352年)に荒井光吉入道日荷上人によって立派な堂宇が建立され寺院化しています。
他にも幕末の吹奏楽発祥地で国家君が代とテニスの発祥地の本牧の妙香寺・・・
・・・ここも元は真言宗でしたが日蓮上人が自ら滞在した際に御寺の大檀那(オーナー)だった佐藤家が日蓮上人に惚れ込んで門徒になり、日蓮宗に改宗した歴史が有る御寺です。滞在時の浴衣姿の日蓮上人の彫像が祀られている変わった御寺だったりもします。
この様に、横浜市域だけでなく鎌倉幕府~室町幕府の武士が多くいた地域の臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、法華宗等の鎌倉時代に流行したり起こった宗派は元々は更に古い奈良時代に始まる修験道や法相宗、平安時代に始まった真言宗や天台宗の寺院だった場所が多くあります。

更に護念寺と阿弥陀寺の歴史の証明となる星谷智久と言う“地頭”が護念寺の長野山が元々御城で不便だから色々ショートカットの道作ってあげた・・・と書いて有ります。
地頭職は鎌倉幕府以来の武士です。つまり鎌倉時代に既に地頭だった星谷氏が室町時代の宝徳二年(1450年)城跡と言っていると言う事は、既に室町時代には使われなくなっていた鎌倉時代か平安末期の城跡と言う事を言っている事に成る訳です。
鎌倉城防衛網円海山 久良岐のよし

護念寺の在る円海山と尾根伝いの円海山山系の観音山、大丸山、関谷見晴台、荒尾城(御伊勢山、権現山)、青ヵ台城(能見堂~阿王ヵ台~赤井)は完全に人の手が入って城塞化されていると小生はずっと主張している通り、鎌倉防衛網を構築し所々の要所が城塞化されており、護念寺の洋光台側の急峻な崖や各所の尾根道の掘切りも城跡だからと、この文章で証明されます。
本当、護念寺を取り巻く竹林の中には、竹林に成ったが故(ゆえ)に高速道路をブチ抜かれたり墓地を造成した場所以外は旧地形が良く残り、恐らく江戸時代には畑にも成っていたであろう、明らかにお城の帯曲輪郡と竪堀が幾筋も現存しています。
ここ円海山は飛鳥時代から東日本最大のタタラ製鉄遺跡の上郷深田遺跡猿田遺跡一帯で鉄が生産され、刀槍の材料となる玉鋼(たまはがね)を輸送するのが尾根道でしたから、流通や軍兵の交通を監視する要塞や関所が必要だったのでしょう。
実際、この尾根道だけを伝って昔は鎌倉に行きるだけでなく、更に尾根続きの鎌倉十二所からは元は真言や天台の修験者が御参りしていた岩殿寺や神武寺や鷹取山、更に三浦半島まで山の中の道が繋がっていました。
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ですから現在も鷹取山~神武寺の尾根道は修験者の人達や娯楽としてハイキングを楽しむ人達を見かける事が出来ます。

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醫王山 来迎院 神武寺

神武寺は現在も山の中で神秘的な雰囲気を保っています。
神武寺は神亀元年(724年)の開基(かいき=開かれる事)と伝わっています。
古代の街道は尾根道だったので、その中継拠点や湧水地だったので飲用水補給の聖地として神武寺は開かれたのでしょう。
・・・同じ様な立地の護念寺も、もしかしたら前身の御念寺は相当古いのかも知れませんね。

威徳明王が祀られたであろう一心堂の場所の話から威徳明王の像に話を戻します。
威徳明王の彫像は弘法大師の手彫りと伝承しています。
天長年間(824~834年)に弘法大師空海和尚が守敏僧都と法力争い(密教の問答だろう)をして威徳明王の威力で勝った事、更に威徳明王に関する宗論で守敏僧都を言い負かす事が出来たので掘った像が護念寺の威徳明王で嶋津又三郎の姫の竹姫様から元は鎌倉の浄土宗大本山光明寺の僧侶だった護念寺中興開山の淸蓮社浄譽圓海和尚(明和三年:1766年没)が拝領したと記載があります。

更に清和天皇(850~881年)の守り本尊だったのを嶋津家に伝えられていたと記載が有ります。
弘法大師は承和二年(835年)に亡くなっている事から亡くなる直前に彫られた仏像と言う事に成りますね。
そして、その後清和天皇に渡り、清和天皇の子孫の島津家にどういった経緯かは判らないものの伝わり、円海山に御縁が有って祀られる事に成った訳です。

次に竹姫は嶋津家=島津家の姫様は誰かと言う話ですが、実はココに誤解を生む罠が有ります。

この場合の竹姫の“姫”は父子関係ではなく尊称の“姫”なんですね。つまり御妻君も姫様と呼ばれるケースが有る訳です。例えば北条家から蒔田吉良家に嫁いだ“さき姫”や、前田家から義叔父の秀吉公の仲介で宇喜多秀家公に嫁いだ豪姫等は有名です。これを考慮すると謎は直ぐに解けます。

1766年に亡くなった浄譽上人が竹姫様から威徳明王像を貰っているから、威徳明王像が伝えられたのは1700年代と言う事が判ります。

この竹姫の“御身内”の嶋津又三郎サンですが、実は島津家歴代当主は“又三郎”を名乗っているので世代的には第五代薩摩藩主の島津継豊公の時代位の話しと解かります。
そして島津継豊公の継室(後妻)が竹姫なんです。しかも竹姫の人脈から更に凄い人達の名前が登場します・・・

御実家は権大納言と非常に地位の高い京都の貴族で、竹姫のフルネームは清閑寺竹姫、戒名が浄岸院です。
尚且(なおか)つ!徳川綱吉公の養女と言う立場に当たる人物です。そして薩摩藩主の妻。
凄いですね~!
当時の阿弥陀寺と奥院の護念寺の寺格の高さが解かるエピソードです。
何で竹姫が威徳明王を護念寺に寄進したか不明です。
もしかしたら・・・
御父上の継豊公が護念寺の圓海和尚に鍼灸治療をして貰ったのかも知れないですね。
圓海和尚の弟子で実際に護念寺の再興開基に寄与した法雲和尚と言う方は鎌倉の光明寺の僧侶だったそうですし、関東の浄土宗は織田信長公や徳川家康公が浄土宗(当時は法華宗として時宗や日蓮宗と一緒の別派閥と認識されていた)の信徒だった事から特に江戸幕府開府以来、他宗派よりも強く徳川幕府の庇護を受けていたので、その様な御縁が有っても不思議では無いんですね。
続きの阿弥陀寺の記事で書きますが、なんせ本院の阿弥陀寺の戦国時代の御住職は浄土宗のトップと京都知恩院で務めた任蓮社然譽了鑑大僧正ですから、この方の繋がりが有れば当然ながら徳川幕府とのコネクションは深いでしょう。
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現代には護念寺の周りは私有地だらけになり横浜市の今の市長の政策では私道を遊歩道として通行出来なく成ってしまい円海山護念寺に通じる古道だらけですが・・・
今の道は今の道で素敵ですね。
この竹の道を過ぎると、清浄園と言う御寺の院号からとった墓地に辿(たど)り着きます。 
そこからは横浜港が一望でき、ランドマークタワーやベイブリッジが見えます。
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この日は生憎の曇天でしたが、紅葉に色づく円海山の眺望に満足できました。
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御住職は御灸の施術を予約すると直接面会出来ますし、色々と昔々の横浜の風景や文化の御話を聞けて楽しそうです。
今はこの奇麗な景色の中に有る古道は間にゴルフ場は横浜横須賀道路が出来たせいで完全に寸断されてしまっています。

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とにかく景色は良いですよ!
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実はこの円海山山系の大丸山含め、この地帯が昔の久良岐郡と現在の横浜市で一番標高の高い場所なんです。
・・・と、言っても海抜300mくらいですが、それでも海から2km程度内陸に入っただけの沿岸部なのでだいぶん高低差があります。
だから景色の素敵な場所でしょう?

護念寺の本院だった「阿弥陀寺」と「白山神社」の話は、また改めて別記事にまとめましたので別に御覧頂ければ幸いです! 


以上、久良岐のよしがお届けしました「強情灸」と「護念寺の凄い歴史」、楽しんでいただけましたでしょうか?
きっと皆さんの御自宅の近所にも凄い歴史偉人と繋がりの有る神社仏閣や御城の址の山が有りますよ!
ちょっと御近所を御散歩して、神社や御寺や城址の公園の看板を読んでみませんか?
思いがけず凄い人達と土地の繋がりを知れば、更に地元に愛着が湧くかも知れませんよ?

ではでは、次回は護念寺の本院だった円海山、峰の阿弥陀寺と白山神社の記事でお会いしましょう!


mixiチェック

「自粛やぁ~めた!」
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・・・で、車で30分の近くの海に潮風に当たりに行って来た。
三ヶ月前から中国から情報共有されてたし、中国反省してからの対応は参考に成った。中国から3月初旬には大量の検査キットや医療用具の提供も有った。
そもそも武漢肺炎爆発感染開始直後に上海の医療先進チームが100人編成で武漢入りした際の装備の不備で全員感染し壊滅した事実も、外務省から厚生労働省に情報共有されなかったのかダイヤモンドプリンセスの検疫に活かされてもおらず、厚生労働省と政府の相談役の有識者は自分達の方法に拘り全て後手後手に回り、現場の職員は感染リスクにさらされた。
台湾のサーズの経験活かした中国からの感染者流入阻止と感染者隔離と防疫も、1月初頭から良い御手本に成っていたにも関わらず、それも模倣出来なかった。

全て無視して対応が3ヶ月遅れたのは政府の責任。三蜜回避要請も1ヵ月の約束だったはず。
自営業の連中はどんどん倒産してる。

「阿呆(アホ)らしい」

スーパーに親子連れで買物来てて、あれだけ過密してて皆で商品べたべた触って三蜜回避も外出自粛も無ぇ~よな?
伊勢佐木長者町や曙町の性風俗店は普通に営業黙認してるよな?
黒岩神奈川県知事、林文子市長?
なんで真面目な洋食屋さんや居酒屋がダメで、濃厚接触どころか直接粘膜擦れ合う淫靡な接触でヤクザの資金源で最凶最悪の性風俗店が営業してるのを実名公表しないんですかね?

あ~御二人とも性風俗の常連客なんでしょうか?

性風俗に事実上の自粛無用の営業公認する黒岩知事と林市長。
約束守らないし、国民の生活守らないし、日本企業守らない政府。
特によくいる実力不足だけど自己顕示欲が強い“苛めっ子優等生”タイプの西村大臣の大阪府知事に対するマウント。
くだらねぇ~なぁっ、エライさん方!
末端の公務員と県民の事考えてなさそうだ。

「だから自粛やぁ~めた(笑)!」
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うひゃ~♪
人のほとんどいない海って気持ち良ぃ~(笑)!

どこの会社にもいそうな有能な後輩を潰しにかかる無能上司みたいな西村ってオッサンにクサクサしても意味ないし、安倍総理も約束と違う“緊急事態宣言延長”とか言い出したから、もう自分なりにしていた三蜜回避の為の自粛の御願い聞くも止めて飲食店にも行く事にした♪
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うぉ~!焼き鳥美味ぇ~(笑)♪
※店は後で紹介する。もろ三蜜♡で食べる立ち食いの御店!

感染源特定出来ない状況にまで事態が悪化してるのに、外出自由の現状で外出自粛要請は意味が無い。
一番ダメなのは電車バス通勤を禁止しない事。
もう手と手、頭髪と頭髪で間接接触も直接接触もしまくり!

でも庶民の小生がそんな事を考えても政治家じゃないから仕方ないもんね(笑)。
身の回りにいる“男性のバブル世代や団塊世代”に言っても・・・
「政府より偉いと思ってるの?」
「自分が政治家に成れば?」
・・・とか、民主主義の「み」の字も自覚してない自分達が国家運営を委託する人間を決める国家運営に関わってる一員と言う自覚が丸出ない、無責任な発言しか聞かなかった。

てなわけで、なんかクサクサした気分を「パっと!」晴れやかにしたい気分に気持ちの良い青空、三密回避に山歩き行くには雨翌日の泥濘(ぬかるみ)で無理なので海に行ってきた・・・
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浦賀燈明堂(とうみょうどう)
これどこよ?と歴史に興味ない人は思うだろうけど、歴史的に重要な場所で有りメチャメチャ奇麗な場所。
写真の右上を見ると和風の建物が見えるだろうか?それが復元された江戸時代の“灯台”なんだな。
浦賀城周辺 久良岐のよし
実はそこ、江戸時代初期はおろか平安時代から重要視された浦賀港の入り口で、岩礁が有るので慶安元年(1648年)に江戸幕府の命令で築かれた日本最初期の灯台で、近代の明治五年(1872年)まで稼働していた施設なんだな。
そして戦国時代には三浦水軍の重要拠点として浦賀港の入口東側の東叶神社の丘陵が城塞化され、神奈川県では有名な浦賀城が築かれ東京湾防衛を担った。
北条家臣間宮一族で北条氏康公の奏者(秘書)を務めた間宮宗甫公、そして平安以来の三浦郡領主の三浦氏の分家である横須賀氏が在番した水軍拠点の城だった。
城主の横須賀氏は元は鎌倉武士として源頼朝公の最大の協力者だった三浦義澄(よしずみ)公の支配した三浦一族の子孫で、三浦本家が滅亡して分家の佐原三浦家が三浦家の名跡を次いで室町時代に大名に返り咲くと横須賀氏も重要視され、三浦氏の戦国大名として最後の武将と成った新井城主三浦義意(よしおき)公の母君が横須賀秀連公の御息女だったりする。
つまり、この横須賀秀連公が北条氏綱公が相模を統一した頃の横須賀の浦賀城主で、間宮宗甫公は横須賀氏の目付(副将兼監視役)的な意味で配置されたのだろう。
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間宮宗甫公の宗甫は名前では無く入道号であり仏門に出家した法名だ。
1560年迄の領地も“北条所領役帳”に記載が有る。
八貫五百文 神奈川斎藤分
六貫文   鎌倉紺屋分
弐捨貫文  御蔵出し
この鎌倉紺屋分と言うのは鎌倉を支配した本光院殿(北条為昌)の死後に、その遺領が再分配された当時の軍団編成が“本光院殿衆=鎌倉領”だったから所領役帳を写本した人物が誤認して“鎌倉”の注釈を入れたのだろう。
小机領、神奈川領と似た様な編成由来だと思われる。
そもそも現存しない原本には各所領の郡名は書き記してなかった筈で、証拠に別の写本とは郡名の違う場所が有る。
間宮本家の間宮康俊公の所領に富屋とあるが、これの郡名が各写本で異なる。今の坂戸市戸宮としている学者さんもいるが恐らく違う。間宮家所縁の神奈川区に実は富屋は今も存在する。実はJR東神奈川駅一帯がそもそも富屋町で、今はだいぶ狭い範囲になり安土桃山時代か江戸時代には既に神奈川の名の方が有名に成り江戸時代に写本した連中が神奈川区富屋=そもそもの神奈川宿周辺に戦国時代今より大きく広がっていた富屋町を辿る事が出来なかったので、同時期に検地された埼玉県方面の中に戸宮の名を見つけて当て込んでしまったんじゃないだろうか?
学者さんが根拠にしているのは、その検地された時期だけで、同時期に離れた富屋の検地がされていてもおかしくない。寧ろ京急神奈川駅一帯の権現山城の合戦に間宮家が籠城側として参戦してる事も富屋は神奈川区の富屋と考えた方が極々自然だったりする。
権現山合戦を書いた記事⤴️
紺屋の地名で他に間宮家に所縁の有る場所は鎌倉市には無いが旧本光院殿衆の与力所領は三浦には沢山ある。宗甫公は氏康公の直属に成る以前は或いは本光院殿衆だったのかも知れない。
三浦半島の東岸は西浦賀の他にも不入斗一帯が間宮本家の所領で、杉田の間宮家は走水で里見水軍を一網打尽にし里見の軍船を多数滷獲(ろかく:乗っ取る)に成功した際に不運にも間宮常信公が討死にしている。浦賀の紺屋を除いて走水防衛を担う出撃拠点が見当たらない。
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斎藤分町と言うのは六角橋商店街で有名な近所の一帯だな。小生は学生時代に交通違反点数累積の1ヵ月免停で違反者講習を受けに行ったのも六角橋の斎藤分町側だった(笑)。
ところで間宮宗甫の宗甫と言う法名だが・・・
戦国時代の北条家臣団は多くは主家北条家の宗旨が曹洞宗だった事から、一般的に当時は臨済宗と一緒に“禅宗”で一括りにされていた禅宗曹洞派の寺院で学問や禅の精神を学び、入道号に臨済宗大徳寺系の“宗〇”と大徳寺で修業した主家の創始者である北条早雲(実名:伊勢盛時 入道号:宗瑞)に倣(なら)って師僧から“宗”の字を貰って法名を名乗る事が多かった。
当然ながら地元の由緒ある臨済宗の御寺が菩提寺だったり自分の領地内に在ったりすると“道〇”と臨済宗系の法名を貰っている人も多くいた。
それ以外にも千葉家臣団系や武蔵国南部を拠点にした武士は日蓮宗系の“日〇”と名乗る武将も多かった。
面白い事に、北条家臣団は禅宗で学びながらそれぞれの菩提寺の宗旨でも法名を貰っていた様で、戒名には禅宗系と日蓮宗系のMIX戒名(笑)も多く見られる。
例えば間宮宗甫公の一世代後の間宮家の同族でも北条氏康公直臣として横浜市磯子区杉田一帯を治め小田原水尾城代を務めた間宮信繁公の戒名が「法種院殿“道因”“日縁”大居士」と臨済系の道〇と日蓮宗系の日〇の両方が入っている。
これは簡単に説明がつく。
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霊桐山 東漸寺(臨済宗関東十刹の1つ)

寺領の陣屋に臨済宗の関東の十大道場の一つである東漸寺が存在したので、そこで平素は禅の修行をしたから師僧から“道因”の入道号を与えられたのだろう。
そして“日縁”の法名は・・・
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牛頭山 妙法寺
・・・同じ杉田に存在する実家の菩提寺である妙法寺が日蓮宗だったので、亡くなった際に日蓮宗の法名も加えて戒名の法種院殿道因日縁大居士に成っている事が判る。
日蓮宗の多い千葉家臣団の遺臣の末裔である房総半島の武将達も間宮信繁公と同じ様に鎌倉時代以来の日蓮宗系の日〇+臨済宗系の道〇の法名を持つ武将が多いのも同じ理由。

室町時代を通じて北条家は浄土真宗と敵対する足利幕府の方針に従っていたので、足利義明の将軍就任以前は浄土真宗とは敵対していたので、先ず、安土桃山時代になるまで浄土真宗に帰依している武将はいなかった。
間宮家でも豊臣秀吉による北条家改易後に徳川家臣となった間宮綱信公が氷取沢の寶勝寺を禅宗から浄土真宗に復興開基したりしているのは、正にその理由で徳川家康公の重臣である本多正信公が近くの玉縄城主に成り影響を強く受けたからだろう。本多家が没落すると今度は自分の領地の荒寺を徳川家の宗旨の浄土宗に改宗して復興開基した所が多い。

東漸寺と妙法寺の紹介記事は以前書いているので、御興味有る方は御覧下さい。
これ⤵


鎌倉時代に話を戻す。
源頼朝公と文覚上人は真言宗の密教と山岳信仰の修験道としての修行に造詣が深く、伊勢原市の大山や富士山を登って富士山の火口を一周する修行をしたりしている。
現代の様な登山靴も衣類も何にも装備がない時代に・・・
鉄人すぎる。
それ以外に二人は法華経を大切にしていた様で、頼朝公の御廟所も法華堂だったりする。
その後。源頼朝公の死を境に衰退しする。その頃に成ると源頼朝公の忠臣だった熊谷直実公や土肥実平公は法華経と阿弥陀如来を大切にする法然上人に帰依して、二人はそれぞれ浄土宗の僧侶に成ったり浄土宗の寺院に仏像を寄贈したりと支援を行っているが、二人を含めた源家の忠臣は鎌倉幕府を牛耳った北条家に政治的に干される。
恐らく、鎌倉で法然上人と弟子の親鸞上人が北条家から迫害されたのは武士同士の信仰的な結束とか政治的な結び付きが直結したのだと思う。
鎌倉幕府の執権と成っていた北条家が京都の藤原氏と組むと、藤原家が影響を及ぼしていた天台宗系の禅宗臨済宗を北条家が導入し、旧頼朝公の古参遺臣派と親北条派の政治的衝突に巻き込まれ熊谷家や土肥家と関係の深い法然上人の浄土宗の寺院が鎌倉で焼討された時期が有ったのだろう。
その後、執権の北条家が導入した臨済宗に宗旨替えをする武士が多く成り、その武士達が支援した寺院も臨済宗が多く成った。
だから神奈川県域の街道沿いや海沿いの早くから開けた場所だった寺院は臨済宗や元臨済宗が多く、杉田間宮家が支配した屛風ヶ浦辺りにも篁修寺や林光寺と言った臨済宗寺院が残っている。
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鳳林山 篁修寺KIMG6145
晴峯山 林香寺この二ヶ寺は北条家分家の名越北条家の丸に三ッ鱗紋の家紋を今も寺紋として使用しており、東漸寺の末寺として開かれた歴史が有る。
丸に三ツ鱗紋
一帯を鎌倉時代まで支配していた名越北条家の北条宗長公が、天台宗だった東漸寺を建長寺の末寺として再興したので、東漸寺から北条家の三ッ鱗紋を引き継いだ事も解かる。
因みに東漸寺の方はと言うと・・・
CIMG6785徳川葵紋
徳川家から葵の紋の使用を許されているので、現代では名越北条家より権威の有る葵の紋を使用している(笑)。
現代では鎌倉五山の第五位に列せられている東日本で5番目の格式を持つ臨済宗の浄妙寺・・・
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実はここも元は真言宗の大寺院だった。
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浄妙寺は足利家の鎌倉幕府征夷大将軍の家臣時代の居宅地であり鎌倉の菩提寺で、室町幕府初代将軍足利尊氏公の御舎弟(弟)である足利直義公の菩提寺だったりする。

三浦半島の浦賀湊に話に戻す・・・

源頼朝公御存命の平安末期以来の在地武士は真言系宗派を信仰する一族が多かった。だから三浦一族の拠点には真言宗寺院や元真言宗の御寺が多い。一部、天台宗の寺院も現存したり元は天台宗だった場所も多い。
鎌倉時代の三浦本家の学問所だった大善寺。
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金峯山 不動院 大善寺
ここは奈良時代に行基大僧正によって不動明王と蔵王権現が祀られて寺院の前身が出来て、後に真言宗の寺となり衣笠山が平安末期に三浦一族の居城となり衣笠城内に組み込まれると三浦家の学問所として一時は大いに繁栄したそうだ。戦国時代に三浦半島が小田原城主北条氏綱公の勢力下に入ってからは曹洞宗寺院に改宗したが、曹洞宗に成ってからも護摩壇が御堂に残されており真言宗時代の御不動様の護摩焚きを現在も行っていたりする。
神奈川県域にも弘法大師つまり空海和尚が布教活動に来られていたので比較的天台宗より真言宗が平安時代末期までの関東では勢力が強かったようだ。又、頼朝公の源氏が熱心な密教的要素の強い修験道の信者だった事もあり、真言宗と天台宗が残る原因に成ったのかも知れない。
更に古い時代には関東一円には法相宗の寺院も有った様だ。
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梅花山 成就院(現在の寺号)
(開基当時:曲田山 帶行寺→改宗後:梅花山 南無佛院 成就坊)
又、三浦半島から横浜に話を戻すが、港南区笹下の間宮家の居城笹下城跡に在る成就院は、現在は浄土真宗高田派だが平安時代の早い時代には法相宗だった事が書かれていたりする。そして文覚上人が源頼朝公の戦勝祈願の護摩焚を行ったと新編武蔵風土記稿に書かれている事からも鎌倉時代の頼朝公の時代には文覚上人の真言宗に一時期属していた事が判る。
そして例によって頼朝公が暗殺されて後に荒廃し、後に親鸞上人が笹下に布教に来た時期に浄土真宗に改宗し蓮如上人によって曲田山帶行寺から浄土真宗の御坊(ごぼう)として“成就坊”に改められたと伝わる。

成就院も以前記事を書いているのでコレ⤴御興味有れば御覧ください。

因みに、さんざん登場した文覚上人・・・
源頼朝公と親友だった真言宗系の密教修験道の有名な“御坊様”だった文覚上人が開いたのが浦賀湊(みなと)の入口を守る東と西の叶神社だ。
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叶神社(西)
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叶神社(東)
この2社は実にロマンが有り、2社を隔てる浦賀港の渡船に乗って両方御参りすると縁結び祈願が成就すると言う。因(ちな)みに小生は未だ、船で御参りした事が無い。

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ここが渡船の乗り場で、海に治策見えているのが赤色の船が渡船。
機会が有ったら好きな女性を連れて来て一緒に御参りしようかしら(笑)?
この神社は西が先だ東が先だと下らない事を推論する“御朱印バカ”がいるが、そもそも開いた文覚上人が僧侶で今でこそ神社だがそもそも神社じゃない。
神仏混交の八幡宮として京都石清水八幡宮から勧進された八幡大菩薩=応神天皇=大鞆別命の御神霊を御祀りしている真言密教系修験の聖地だった訳だ。

国土交通省水管理保全局が判りやすいブログを書いてくれているので、それを見ると一目瞭然だと思う。
そもそも石清水八幡宮は湧水の聖地であり、眼下には江戸時代まで巨大な巨椋池と言う湖が広り淀川や宇治川と言う水害を起こす大河川が流れていたので治水の神様として、それらを見下ろす男山に神様が遷宮された訳だ。しかも修験道の聖地として、仏教の僧侶が得た神託によって筥崎宮から遷宮された。
そして古代から存在する神社である延喜式内社の沿岸部における立地はは湾の最深部、湾の入口を守る左右の丘や岬の先端に存在する。
 
それはコレ⤴今年の初春の頃に書いた上総国一之宮の玉前神社の記事を読んで頂ければ納得して貰えると思う。
叶神社の主祭神は石清水神社から勧進された応神天皇=八幡大菩薩で破魔の神様であり水上交通つまり航行と治水の神様であり仏様だ。それらの歴史事実を踏まえて再度、叶神社の位置関係を見ると・・・
浦賀城周辺 久良岐のよし
延喜式内社や本来の神様の役割を熟知されていた御二人らしい叶神社の配置である事が理解できる。
・・・だから叶神社は当初から軍港を鎮護する御神威を期待されて浦賀湊の入口、左右の高台に勧進された事が推測できる。
だから西が先だ東が先だ言ってる輩は、そもそもの‟石清水八幡宮の歴史や地形からして理解していない”訳だ。
どっちが先かと言われたら、恐らく同時に開かれたはずだ。そして東叶神社の方が歴史が浅いと誤認される理由は恐らく、佐原三浦家が室町時代に大名化して鎌倉公方足利持氏公の与力となり房総半島の犬懸上杉家と戦った事や、その後は足利持氏公と大庭城主の扇谷上杉氏定公を裏切って山内上杉家に付いたりと、房総半島方面の勢力に備える為に東叶神社の本殿なり本堂成りが元々在ったであろう裏山の頂上に浦賀城を築いた際に、参道の中腹まで神社が移し降ろされたんじゃなかろうかと小生は個人的に推測している。
それが証拠に城が築城されて北条家の統治下でも城の鎮守として奥院は山頂に祀られたままで現在に成っても頂上に奥院が残っている。
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石段の規模を見るに、もう少し大きい御社が当初は存在したんじゃないかと思う。
ここは東京湾と浦賀港を守る城だっただけあり眺望も良い。
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実はこの写真から見えている対岸の岬の先端の場所が、冒頭の潮風を浴びに行った燈明堂海岸だったりする。この写真を見れば、燈明堂海岸が正に灯台を築く必要性の高い地形だった事が判る。
・・・で、ここで・・・やぁ~っと!普通の休日雑記に戻る(笑)。
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はぁ~♪白い砂浜最高Da~Yo~ねぇ~(笑)!
三蜜?馬鹿じゃないの(笑)?
何で人のいる場所に態々(わざわざ)行くの?
外出自粛?何でスーパーに友達や家族で超濃厚接触しながら行くの?
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電車通勤しちゃダメじゃん!車通勤しなよ!
車通勤させない会社は在宅労働させろよな?従業員が感染したら経営者の責任だからな?
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めちゃくちゃ気持ちいィ~人の略いない海ィ~♡
もう、あとは自分の奥さんと二人だったら最高なのに(未婚)!
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泳いでる人が一人だけいた(笑)。
 
・・・とか思った瞬間に爽やかだけど少し御腹空いてきて移動しおうと思った。

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一応、これが復元された燈明堂。
周りに木が生い茂ってしまったので今は灯台の役割は果たせない。
この海岸の裏山は近代に浦賀造船所と横須賀鎮守府を守る砲台要塞が築かれた場所だったりする。
千代ヶ崎砲台跡 久良岐のよし
千代ヶ崎砲台跡保存状態は極めて良いものの、残念ながら現在は非公開で鉄錠門で封鎖され入れない。でも新型肺炎が終息したら横須賀市役所の公園管理してる部署に問い合わせれば、走水の御所ヶ崎砲台と同じで猿島ボランティアガイドの人が引率するツアーを組んで貰えるはず。
横須賀市長に成った上地雄輔クンの御父上、聞いた話だと浦賀奉行所も史跡として復興して神奈川県域の中高生の歴史教材に活用する計画とか。実に素晴らしい!
頑張ってくだされや~。
ところで小生、この千代ヶ崎砲台の地形を見て・・・
「あ~、これ城跡だわ」
・・・と速攻思いました。浦賀城と左右で港を守る名も無い要塞として戦国時代に整備されたんじゃないかな?と思ったんですが、御城ファンの皆さん、この構造体見てどう思います?
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さて、美しい燈明堂海岸で西村大臣の屑っぷりと加藤厚労大臣の対応遅れまくり無能ぶりにクサクサイライラしてた気持ちも横須賀だけに「スカっ!」と潮風で吹っ飛び(笑)・・・
自民党にはまだ河野防衛大臣や小野寺前防衛大臣やら、最近、総理に痺れを切らしたか覚醒されつつある岸田さん等の逸材がいる事を思い出し、何となく良い気分転換には成った。
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浜辺の草花も奇麗だったしね~♪
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本当、来て良かったよ。
東京も浜離宮恩賜庭園とか国立科学博物館付属自然教育園とか新宿御苑とか、今だからこそ開放して事前申請、2m以上離れて歩く事、ベンチに座らない事、とか規制かけて東京都民にガス抜きさせりゃ~良いんだ。
まぁ~我々庶民の声は自民党のド偉い、大阪府知事にマウントポジションとりたがる様な大臣先生様や10万円欲しい奴はくれてやるから手を挙げろよ的な感覚の富豪先生様には伝わらないだろう。
本当、今回は公明党の山口代表が良くぞガンっと言って下さったと思うよ。
さて、奇麗な海も見たし・・・
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次は浦賀港の対岸、東叶神社に正月以来の御参りに移動。
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東叶神社に到着、先に散々解説はしたからもう書かない(笑)。
本殿前で御参りしてから社務所奥の裏っ側に移動・・・
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実はこの弁天様が凄い厄除けの御利益が有って有名。
小生は毎年、年始の御参りで各神社で厄除けの御願いもするのだけど、今年は去年の受験した資格の合格の御願いばっかりして、余り厄除け熱心にお願いしなかったり、例年みたいに三賀日に沢山の神社仏閣を御参りして廻らなかった・・・
そしてら、1月に交通事故起こしたり、2月に右足首酷い捻挫して靭帯損傷して内出血するわ~、何回も風邪引いたり・・・
ん?あれ、もしかして東京に電車通勤してたから新型肺炎だったんだろうか?
でも一応、医者の言う通り4日間自宅待機して熱計測したら熱下がったし咳も出なかったしとか。
極め付きは今回の新型肺炎のせいで“失業するかも知れない(笑)”ピンチ(笑)!でもダメな時は何をやっても駄目なのよね~ん。
出来る事をやりながら、楽しまないとね♪
そんな訳で厄除けに東叶神社に今年2回目の御参りに来た。社務所で弁天様の厄除けの御守りを購入して、そんなこんな、今年の出来事を奥さんに話したら・・・
「あ~それじゃ是非!弁天様の矢倉の中に入って良いですから中で御参りして行って下さい」
「中に入って写真も撮影して良いですよ!」
「御利益ありますし、白い光も一緒に映るらしいですよ~」
・・・と、とっても親切に優しく明るく対応して下さった(笑)。
既に奥さんの対応が人の不幸にそっと寄り添いピンチを乗り越える為に元気に一歩踏み出す元気を下さる八幡様と弁天様みたいだ(笑)。
そんな訳で中に入らせて頂いて改めて参拝。
弁天信仰の歴史も少し知ってる小生、この頭が女神様胴体が蛇の神様を見てピンと来た・・・
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「あ~正しい弁天信仰の歴史がある」
「頼朝さんの頃から湧水の聖地だったんだな」
「だから、ここに八幡大菩薩が勧進されて今の叶神社が存在するんだな」
・・・実は現在は稲荷神社と呼ばれるところに祀られる神様の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が、元はこの女性の顔に蛇の胴体の神様だったんだな。関東での弁天信仰の流行は、欽明天皇の勅願所聖地だった江ノ島の洞窟の中に祀られている宇迦之御魂神に弁天様を同一視して習合し、それまで建物の無かった江ノ島に神社の建物を奉納して八臂弁財天様を御祀りした事で東日本武士文化の弁天信仰が湧水の聖地を守っていたり洞窟の中に祀られたこの蛇の女神様=弁天様=インドのサラスバティ神と同一視されて行った訳だ。
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江ノ島も海の中の島の洞窟に奇跡的に淡水の湧水の池が有る。
この池の御蔭で鎌倉公方足利成氏公が家臣の山内上杉家と扇谷上杉家に謀反され攻められた際に江ノ島を城塞化して相模国と北関東の武将の援軍を得て籠城し、豊富な水と堅固な地形を利用して両上杉家を撃退した歴史が有る。
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正に戦勝祈願の聖地な訳だ。
頼朝公は、この江ノ島の岩屋(洞窟)に籠って戦勝祈願をし、伊勢平氏の平清盛の一族に打ち勝って鎌倉幕府を開いた。
だから今も頼朝公が鎌倉武士団に広めた弁天信仰の聖地の江ノ島の洞窟にも蛇の女神様の石の御神像が有るし、鎌倉扇ヶ谷の海蔵寺の横井戸の中にも蛇の頭の神様が祀られているし・・・
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宇賀福神社

銭洗い辯財天も湧水のある洞窟に祀られ、そもそも神社の名前が宇賀神に由来していたりする。
そんな訳で、浦賀の港を守る東叶神社には海の直ぐ目の前なのに奇跡的に飲用できる井戸水が有ったり、勝海舟さんがその井戸水で断食して体を清めてから咸臨丸に乗ってアメリカに行ったりしてる。
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叶神社の奥さんの御蔭でありがたい弁天様=宇迦之御魂神様に御参りする事が出来た。
残念ながら小生には白いオーブは見えなかったけど。
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でも暗い洞窟から見える入口の光と緑がとても奇麗で気持ちよかった!
弁天様ありがとうございます~♪
東叶神社を後にして、海沿いを走水方面に車を走らせて観音崎の多々良浜にも海を見に行った。
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もう陽が西側に回り三浦半島東岸の海辺には光が届かない時間だったので少し散歩して走水神社にお参りに移動した。
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こちらも御正月から既に今年3回目の参拝だろうか?
一応、怪我したりしても無事に再度御参り来れた事を感謝し、今の世界中で蔓延してる新型肺炎が集束する様に御神威を発揮して頂き日本人と世界の日本の友邦の人々と善良な人々を助けて下さるように御願いして来た。
御腹すいたし、そう言えば暫く横須賀の若松町の激安の焼き鳥屋、相模屋に行ってないなぁ~・・・
と思い、昼食兼夕食を相模屋で焼鳥食いまくりする事にした。

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やきとり相模屋
ここはメチャクチャ安くて何本でも安心して食べられる(笑)!
そしてシステムが面白い。
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店内でも食べられるのだけど地元民は御酒飲まない時は外で食べる。
この写真の焼鳥の調理場が外のテイクアウト窓口として店側面に空いているのだが、その陳列された焼きたてアツウマの焼鳥を立ち食い出来るのだ。
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1本80円均一。食べた櫛を前のカップに入れる。会計の時には櫛を持っていくと本数で勘定してくれるシステム。政府の30万円給付みたいに意味の分からん官僚オナニーなシステムと違い明瞭会計だ!
民を支配する又は国を運営し法律を定め尚且つ民の支持を得る為には法律やスローガンは解り易く実効性の高い物にしないといけないのは、既に紀元前300年頃に漢帝国を打ち立てた劉邦が秦の帝都の咸陽を陥落させた際に証明している事。
そして民草を優先順位で重視しないとイザと言う時に協力してもらえないし、普段から大切にして約束を守っていれば相手が強大な大軍勢でも庶民が殿様を助ける為に武装蜂起して駆け付けてくれるのは、既に500年前に神奈川県小田原城主の北条家が証明した事。

三蜜回避や経済の回し方どうするかは、もう感度も悪いし対応も3ヵ月遅れでしかやらないノロマな政治家に任せないで、我々庶民が自主判断自己責任でやれば良いんじゃないのかな?
ただ、大阪府知事と北海道知事サンの言う事は聞いていて酷い事にはならなそうね。
自民党の中のマトモな議員と吉村知事と鈴木知事等で、頓珍漢な事を安倍首相にさせ続ける奸賊佞臣をブッ潰して欲しいなと思う週半ばの休日でした。





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最初に蛍の飛ぶ綺麗な写真と今の現地の様子を見て下さい。

瀬上沢の蛍

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蛍の生息する栄区上郷の瀬上沢流域西側も、東日本最大の世界遺産登録すべき上郷深田遺跡も消滅の危機に瀕しています。

問題はこう⤵
●そもそも上郷~港南台の自然は昔を100として既に30%に縮小している事。
東急建設は20haの緑地を残すと言う開発すれば港南台上郷開発以前の20%に緑地が縮小する事。
●円海山の範囲は金沢区~磯子区~港南区~栄区に及ぶ。
  1960年代と比較すると残存森林面積30%に縮小どころか更に縮小している事。
●そもそもの目的が環状4号線の渋滞緩和なのに環状4号線が片側1車線で意味が無い事。
東日本最大級のタタラ製鉄遺跡の上郷深田遺跡が開発計画では切土(削り取られて)で消滅させる事。
●横浜市最大最後の蛍の大生息地の瀬上沢流域の西側も調整池の建設で自然の川を消滅させる事。
●開発計画支持者は「東急建設が緑地保全をしてくれるから東急に任せた方が良い」と主張していますが、東急建設自身が開発計画説明会で開発開始後は緑地や瀬上沢の保全は横浜市に任せ、東急は行わない」と丸投げを宣言している。つまり開発して掘ってコンクリで川と遺跡を潰した後の自然保全は一切しないと言う事を言ってるのを開発賛成派は理解出来ていない事。
●上郷深田遺跡の完全調査も保護も東急建設は行う気が無く「合法的に開発します」としか答えないが、未調査地域にも遺跡が広がってると普通に考えられ文化財保護法に抵触する可能性が高い事。
●開発自体が東急建設にとって不採算事業である事。
●横浜市民は代替地として横浜港と本牧の再開発を提案出来る事。そちらの方が東急グループにとって有利な事。横浜市と国の政策にも合致する事。

以下、東急建設が配布した開発説明資料と地図画像で解説します。

【現在の開発計画】
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
御覧の様に現存する森林湿地帯と横浜市最大最後の蛍の生息地域の瀬上沢の西側が削られ調整池にされてしまいます。
現段階で発掘された場所だけでも東日本最大の蹈鞴(タタラ)遺跡の上郷深田遺跡&上郷猿田遺跡の製鉄炉が集中する上郷深田遺跡は削られて無く成ります。

以前の写真と現在の写真、更に開発計画予定地を比較して見ましょう。
1960年代の円海山
1960年代の航空写真。まだまだ円海山の西側の上郷も緑豊かです。
2019年現在の円海山
現在では開発計画地点周辺だけでも既に円海山の森林が宅地化され大減少している事が解かります。
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
更にこれだけ開発されてしまうと、もう円海山西側の自然が蛍や遺跡を抜きにしても潰滅状態なのが御理解頂けるでしょうか?

では掘削と埋立地の計画を見て見ましょう。
これは東急の開発計画の説明会で配布された資料です。

2019年時点の切土盛土計画断面図
ここに上郷深田遺跡や瀬上沢西側の蛍生息地の地名は一切登場しません。
深田遺跡掘削範囲
しかも❝2019年5月時点の計画で変更される可能性もある❞と東急建設が明記しています。
つまり、現時点で緑地を残すと言っている東側も「いつでも開発予定地に組み込めますよ」と言っている訳です。加えて、そちら側は横浜市に買い取らせようとしてますがソレさえ上手く行っていません。

ではこの開発する場所が本当に遺跡や蛍の生息地とカブっているのか「東急建設の用意した遺跡と蛍の生息地が表示されていないワカリにくい断面図」ではなくて衛星写真に表示して解り易くして見てみましょう。
2019年時点の東急の開発範囲
写真をクリックして拡大して見て下さい。
赤い線―が開発範囲。この森と遺跡と川が削られ商業地と宅地と公園と調整池と公園にされてしまいます。
青い線―が東急が用意した断面図のラインです。これを見て見れば遺跡の位置と蛍の生息地に丸カブリなのが一目瞭然ですね。
ちなみに下の画像で左側の蛍の生息地で今年多くの人が衛星で位置確認をしながら蛍を鑑賞して下さっていますので、「この画像の蛍生息地がデタラメだ」等と東急建設の上郷開発事務所担当者や横浜市役所の役人が林市長や筆頭株主の東急電鉄に報告すれば虚偽の報告に成ります。
この青い線と遺跡の位置を見た上で、もう一度断面図を見て見ましょう。
2019年時点の切土盛土計画断面図
下の断面図の黄色い部分が削り取られる場所、上の衛星写真と比較すると本当に遺跡の溶鉱炉部分やら現段階で発掘された部分の主要部が丸々無くなる事が解かりますね。

では次に、本当にココに遺跡が存在しているのか知らない人の為に遺跡の過去の発掘調査資料の発掘結果の位置を表示して見ましょう。
まず遺跡の発掘調査状況です。
第1期
深田遺跡調査1期
第2期
深田遺跡調査2期
これを現地の衛星写真と等高線図に重ね合わせて見ましょう。
2019年時点の遺跡の発掘箇所分布図
御覧の通り、先に衛星写真で見た遺跡の表示地点が遺跡出土地点である事が解かりますね。
部分的な発掘しかされてない今現在で既に周りの建物と比較して巨大、東日本最大規模で世界遺産クラスのタタラ遺跡である事が一目瞭然となります。
しかも!まだまだ隣の丘にも未発掘の遺跡が広がっている可能性が高く有ります。
山手学院側にも存在しているはずですが、山手学院は遺跡の発掘調査要請や保存、瀬上沢や円海山の緑地保護の活動団体には非協力的だそうです。
県立栄高校の方が熱心とか笑えるwww事に成っているそう。
加えて・・・
2019年時点の東急の開発範囲
この通り山手学院の方まで森林が伸びていますが・・・
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
現段階の❝東急建設側だけの開発計画❞には含まれていませんが、山手学院の宿舎棟も再開発計画に含まれているとの事で、実際に不動産屋が視察に来ているのも瀬上沢基金の方々が目撃しています。
まぁ、そちらは既に自然がないので良いのですが、何となく非協力的な理由も見え隠れしますね。
運営は有隣堂が関わっているとか・・・
成る程、横浜市の地区センタ―や図書館の運営にも有隣堂が関わっているとの事を聞いた事が有りますので、昔は県の歴史等を出版していた有隣堂も今では不動産部門が横浜市や東急建設と連携して瀬上沢の蛍生息地や上郷深田遺跡破壊を容認している可能性も連想させてしまうエピソードですね。
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こっちの栄高校と舞岡上郷線を挟んで反対の上郷深田遺跡側の森は埋め立てられて消滅します。
湿地帯なので地下水をどうするのか謎ですが、昔、舞岡上郷線の建設時に産業廃棄物を道路に埋めた事を地元民は認識しているのですが、その舞岡上郷線を擁壁にするのが現在の計画です。
更に西側の川は川ごと掘削される&埋立られ消滅します。
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これで自然保護してると言い張ってる訳です。
因みに、過去、東急建設の説明会では賛成派に総会屋みたいな奴が動員されて「反対派がこの世から消えるのが自然保護」と「瀬上沢開発の反対はは死ね」と遠回しにいってる脅迫の様な発言をした事もあります。

実は開発計画以外に・・・
もう一つ深刻な問題が発生しています。
今現在、上郷深田遺跡の位置を確認したり蛍を見たい人が現地に行けない様にされる嫌がらせが組織的な規模でしか行えない速さで展開されています。
GoogleMap瀬上沢地図登録抹消現状
しかもGoogle mapで検索できない様に「瀬上沢蛍生息地」や「上郷深田遺跡」が削除されてしまいました。有志が何度も復元を試みましたが、毎回復元した地図登録が数十人単位のチームでしか行えない速度で削除されてしまいます。
の登録で文字が表示されない場所が何者かの「悪意で削除された」上郷深田遺跡や蛍の生息地の地名削除された場所です。今年、GoogleMapのナビ機能で現地に蛍を見に行くのに「お気に入り登録」された方も地点だけが表示されている状態のまま名前が非表示になっている筈です。
深田遺跡周辺、瀬上沢流域を破壊して造る調整池
こんな嫌がらせをする必要が有るのは「開発したい人」しかいないでしょうね。
ん~東急建設よりは横浜市役所かな?いやいや東急・・・www

まぁ、登録しなくても地図の座標でナビ機能が利用出来ますから、今回のブログにもGoogleMapのナビ機能を使える位置表示のリンクを貼って置きますね!
蛍が見れる場所!栄高校直ぐ下の瀬上沢
2019年現在蛍の生息地
栄高校の坂を下り切った場所が蛍の見える場所です。
画像左側瀬上沢の西側の木のトンネルは蛍を触れる距離で見れます。
画像右側瀬上沢の東側の森の方は高い位置に飛ぶ蛍を見れます。
【ホタルの生息地Google map】
〒247-0013 神奈川県横浜市栄区上郷町760

もし又、瀬上沢を開発したい集団のイヤガラセで上のリンクから蛍の生息地が表示されない場合栄高校の周囲の道の坂道沿いに下まで来てください
下りきった目の前の沢が瀬上沢です。
※6月初旬に少しずつ見えはじめ下旬に増え、7月初旬まで蛍が見られます!
さて・・・

こんな感じで2019年時点での東急側が用意した建設計画資料を使って(笑)彼等の現段階の計画のままでは神奈川が誇る世界遺産級の遺跡と蛍の生息する西側の瀬上沢が破壊される事が皆さんにご理解頂けたかと思いますwww。

あと追加で気に成る事が発覚しました。
放射能汚染土
横浜市は林市長と彼女の支持者の藤木企業の藤木会長が放射能汚染物焼却灰の受け入れを推進する発言を311東日本大震災当時話していましたが、それと無関係では無さそうですね。
実際に港湾地域にガイガーカウンター持って行くと放射線が普通より高いと、今日も港湾関係の知人に話を聞いたら言ってました。
このタイミングで瀬上沢を開発し、深田遺跡の森を“盛土”で埋め立てる開発計画を強行したい理由と、この放射能汚染土の問題の関連性を普通の人なら連想する様な出来事だと思います。
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この谷を11m近くの高さまで埋め立てるってのはナカナカの事ですよね~。
そして丘は遺跡もろとも削り取ってしまう。
因みに同時期に廃墟マニアに有名だった横須賀市の“田浦廃村”の谷の再開発も再燃しています。
そして最近は三浦市の小網代の森の横の蛍の谷が埋め立てられました。
・・・誰かガイガーカウンターで測った方が良い様な~。
なんせ横浜市内の放射能汚染土の一時保管されていただけの保育園の園児が同時期に2人白血病が発症した訳です。偶然とは思いにくい。

以前も書いたのですが、東急建設サンにとってこの瀬上沢開発は不採算事業な上に、既に芸能人にも知ってる人が広がりつつある訳です。横浜市民では当該地の栄区の総人口と同じ11万に及ぶ反対署名が集まっています。
一昨年までは東急建設の親分の東急電鉄さんの株主総会では瀬上沢開発計画は緑地を保護する活動と印象操作した動画広告を堂々と行っていたそうですが、昨年に凄まじい件数の反対署名が提出されると東急建設はその宣伝動画を東急電鉄さんの株主総会で展示しなくなったんですね。

小生が直接確認した訳ではないので「どことは言わない」ですが、小生達、横浜市や東急建設の強引な開発計画と説明会の不誠実な対応と日本規模の遺跡なのに横浜市全体に周知しない不見識さに怒った歴史ファンや瀬上沢西側にも蛍をずっと残したい人の中にも、まぁどことは言いませんが先方の職員もいる訳ですよ。
まぁ~市民の反感買いながら中国共産党の情報統制みたいな言えない事やってると大変に成るよ。
その内。

2019年、感心を持ち蛍を見に来てくれた人は多かったですね。
ありがとうございました。
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ホタル3
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上郷深田遺跡の溶鉱炉跡の発掘時の写真。
上郷深田遺跡
※横浜市歴史博物館のページより転載。
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/qa/detail.php?seq=50
質問に曖昧にしか答えてませんが、鈴木館長は保護団体に遺跡保護活動に協力しないと意思を明言しています。
何の為の歴史博物館館長なんやら。
上郷深田遺跡側の森
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さて本題に入ります。
瀬上沢と円海山の水源と森と遺跡破壊する開発を止めて市民の支持を得てIR事業と、みなとみらい線の延伸と本牧駅開設&A突堤周辺の再開発しちゃいなyo~♪
そしたら親分の東急電鉄サンが儲かるでしょ?
市長san~(笑)
東急建設上郷開発事務所の松尾san~鈴木san達yo~♪
・・・て事www。

mixiチェック

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