歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

カテゴリ:歴史偉人 > 幕末〜明治〜現代

今回の記事は横浜ベイサイドマリーナや横浜市南部市場での買物を休日に楽しまれる人向けの記事です。
小生の記事はGoogleMapにリンクさせてあります。
住所
下の様な各所の紹介で、住所をクリックするとGoogleMapが起動して乗換案内やカーナビとしてそのまま利用する事が出来ますし、徒歩経路も調べる事が出来ます。

さて、横浜市民に限らず市内外の人は週末に横浜八景島シーパラダイスでのレジャー―やベイサイドマリーナで服飾品や横浜市南部市場での新鮮な鮮魚や青果の買い物を楽しむ方々も多いかと思います。
でも、何回も行ってると施設内の御店の御飯も食べつくして飽きちゃったな~と言う人も少なくないのでは?
そこで・・・
「もうフードコートの料理食べつくしたしな~」
 とか
「せっかく横浜に来たら美味しい本場の家系拉麺食べたいなぁ~」
 とか
「家系以外で美味しい拉麺も食べたいなぁ~」
・・・と言う人には今回の紹介する拉麺屋さんが参考に成ると思います。
また、歴史オタク視点での家系総本山吉村家と杉田家が繁盛した理由を解説もしたいと思います。

まず今回紹介する御店はベイサイドマリーナや南部市場近くの2店舗です、車かシーサイドラインで訪問される方には参考に成るかと思います。
1つは家系総本山吉村家直系の暖簾分け1号店、杉田家。
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ラーメン 杉田家
家系総本山吉村家直系1号店

シーサイドライン、京急、JR京浜東北線根岸線の利用客に便利な新杉田駅の直ぐ近くに存在しています。

2つ目はベイサイドマリーナの直ぐ近く、少し目立たない場所に有るけど美味しい拉麵を提供している❝らぁめん こもん❞です。
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らぁめん こもん
こちらは本当に目立たない場所でラーメン屋と認識できるのは木陰に隠れたラーメンの赤いのぼり旗だけ、決して大繁盛店ではなく知る人ぞ知る名店ですが金沢区や磯子区の地元民とベイサイドマリーナ勤務者には知られている御店です。

先(ま)ず2つの御店の位置関係を見てから御店の紹介、そして次に家系創業地や繁盛店共通店を歴史オタク視点で解説します。
では2つの拉麵店と周辺3つの観光拠点+α名所を地図で位置関係を見てみましょう。
※下の図をクリックして拡大して見て下さい。
位置関係
Googleの衛星画像の左手に❝杉田家❞、上部の右寄りに❝こもん❞が有りますね。
周辺に歴史史跡や商業施設も表示してあります。
さて、御覧の通りベイサイドマリーナや南部市場に非常にアクセスの良い立地に二つのラーメン店が有る位置関係は御理解いただけたかと思います。
次に各店舗を紹介します。
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ラーメン 杉田家
家系総本山吉村家直系1号店

【交通】
—電車&徒歩—
JR新杉田駅~徒歩03分。
京急杉田駅 ~徒歩11分。
— 車 —
専用駐車場無し。
周辺のコインパーキングを利用。
自己責任で路駐。
——店構え——
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——拉麺——
拉麺(並)+味玉
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——サイドメニュー——
御飯(まぶし)
御飯注文して「まぶし」と伝えると煮豚の端切れで牛丼風にしてくれます。
 +
チャンジャ(干鱈のキムチ)
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元々工場地帯の従業員に好まれて繁盛した吉村家創業地の地盤で客を引き受けている直系店らしく鶏油と醤油タレは調整出来る上に、豊富な鶏ガラと豚骨のスープはガツンと本当に美味い。
時間帯によってもガラの投入タイミングにより味が若干変わるので、好みを伝えて調整する域に成ると本当の通らしいですよ。
小生は深夜しか行かないので味は普通(少し濃い目かな?)で一貫してます。
歴史の解説に関しては後程行います。
こちらはシーサイドライン利用客なら八景島、ベイサイドマリーナ、南部市場全ての利用客に便利な立地ですし、車も車道に皆自己責任で路駐してますwww。

では次に、ベイサイドマリーナ近くにありベイサイドマリーナ職員や周辺工場のOLに人気だけどランチタイムしか営業しないから余り地元以外には知られていない❝こもん❞を紹介します。
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らぁめん こもん
※営業時間ランチタイムだけ。
【交通】
—電車&徒歩—
シーサイドライン鳥浜駅~徒歩03分。
— 車 —
駐車可能スペース若干有り。
直ぐ近くに横浜ベイサイドマリーナ
ベイサイドマリーナ~徒歩03分。
——店構え——
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——拉麺——
濱塩白湯 700円
 +
味玉 100円
 +
肉1枚 100円
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——サイドメニュー——
ランチごはん(ミニ肉めし) 100円
ランチごはんの食券を購入して「ミニネギめし」か「ミニ肉めし」かを伝えるとトッピングしてくれます。
ラーメンは麺は細縮(ちぢ)れ麵、スープはコクもあるけどクドくなく香りも良いので全部飲み干しても美味しい(笑)。
子供にも安心させて食べさせられる食べる人を選ばない美味しさのラーメン。
ベイサイドマリーナから徒歩圏内なのでフードコート飽きた人にはお勧め!
御店は一昔前の田舎のオシャレ崩れ食堂(笑)みたいな雰囲気だけど、御店主のオッチャンと店員のオバちゃん真面目な人で良き店。デート向きの雰囲気では無いけど店はいわゆる拉麺店よりくつろげる。

——こっから歴史や拉麺店繁盛理由の解説——

さて、御店の紹介はここまでにして、少しラーメン屋の立地を歴史オタク視点で解説します。
拉麺フリークは拉麺にしか興味が無い人が多いのですが、歴史オタクには地政学的に拉麺店の立地に興味が有ったり、歴史旅行の先でラーメンを食べる事を楽しみにしている人が多くいて、今回は杉田家=吉村家が繁盛した理由も少し解説したいと思います。
家系ラーメン発祥地と言えば横浜市磯子区新杉田駅前に嘗(かつ)て存在した家系総本山❝吉村家❞の最初の店舗なのを知る人は多いかと思います。

2023年03月、杉田からの移転先、横浜駅西口の鶴屋町交差点から2度目の移転をする事に成り話題に成ってましたねぇ~。
吉村社長は最早、横浜在来種の横浜拉麺を発展させた家系を作り上げ、拉麺業界の歴史人物と言っても過言では無いかと思います。

さて、その吉村家の最初の店舗の地盤は吉村社長の最も有名な直弟子の津村さんに引き継がれています。
正確に言うと、津村さんが開いた杉田家の前の道路を挟んで斜向かいの位置に元々は吉村家が存在していたのですが、横浜駅西口へ移転の際に現在の杉田家を吉村家直系最初の暖簾分けとして開く事を許されたのが杉田家でした。
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繁盛する店は勿論❝美味しくて当たり前❞、実は立地には戦国武将の城作りと同じ❝交通の要所❞や❝産業拠点❞である必要が有ります。
では杉田家に地盤を受け継がせた吉村家は何故繁盛したのでしょうか?
小生の理論が正しいか、少し一緒に見てみましょう。
もう一度、周辺地理画像を見て下さい。
位置関係
周辺に色んな史跡が表示してありますよね~?
では別角度で画像を見てみましょう。
杉田家周辺
実は杉田は徳川幕府で最初の鷹匠頭(奉行)を務めた2000石の大身旗本、杉田間宮家の陣屋(城館)が有りました。
その事は古参の読者さんは御存じですが以前紹介したことが有りますね~。
間宮家関連の記事は以下のカテゴリー「間宮家」の一覧から読みたい物を探して見て下さい。
もしかしたら皆さんの御近所にも紹介済みの場所が有るかも知れません。

※スマホで見た方が読みたい記事を一覧で表示出来るので探しやすいかも知れません。
笹下城や間宮家本家に関しては下の記事を読んで下さい。

杉田間宮家の菩提寺の妙法寺も以前紹介してますが、一帯は倭建神話の舞台でもあり、小生の見立てでは妙法寺の裏山の舌状丘陵は戦国時代には間宮家の詰城として要害化されていたと推測しています。
近代にも軍事的に重要視されて戦時中は高射砲の砲台が設置されていました。
実は陸軍や海軍は明治時代から戦国時代の城塞跡を調べさせて近代戦争に転用出来る地形を必死に探していました。
敗戦直前にも日本帝国軍に横須賀飛行場や横浜飛行場の防空/海防の防衛拠点の一つとして整備されて居た訳ですね~。
何故ここが重要視されていたかと言うと、それは優れた港湾だったからです。
戦国時代に武蔵国~相模国三浦半島一帯は房総半島の里見水軍により海賊行為で度々略奪放火されており、今の磯子区洋光台1丁目~港南区笹下~港南区港南の広大な範囲に及ぶ通称:笹下(ささげ)城の城塞群が築かれると里見海賊の東京湾久良岐郡側への略奪放火は治まりました、それが凡(おおよ)そ西暦1530年代の話ですね~。
里見家により鎌倉市街地が略奪放火され鶴岡八幡宮までも戦火で灰燼に帰した際も、横浜市南区の蒔田城主で北条家従属大名だった吉良家の吉良頼康公が鎌倉公方代理の権威で材木を集めさせ水軍で海運で運搬しました。
蒔田吉良家の事は下の記事を参考にして見てください。

それ等の材木は間宮家の属した黄備え隊の寄親(方面軍団長)で鎌倉復興の材木奉行を務めた北条綱成(つなしげ)公の代理として、間宮家が材木を集積させ鎌倉に輸送する貯木場に使われたのが、間宮家が支配した杉田湊(みなと)でした。

戦国時代の人物関係ついでに城と江戸時代の館跡が杉田家の近くには存在していた事を紹介してみた訳ですが、更にここは間宮家だけが重視していた訳ではなく、鎌倉時代にも杉田の中原地区の熊野神社は源義朝公が元々鎌倉時代に鎌倉の山崎に存在した泉蔵院と言う修験道の大寺院の支院の熊野社として開き、後に戦乱によって鎌倉の山崎に在った泉蔵院が本院としての機能を磯子区杉田駅近くの熊野神社に移転して来た場所でした。

水田が少なく耕作に向かない本来は農業生産力の低い杉田が重要拠点だったのは杉田が良港であり鶴岡八幡宮の直轄地=社領だった時代も有るし、北条家相模十四騎筆頭と呼ばれた間宮家の支配地として水軍の軍港だった歴史に裏付けでされた海陸交通上の立地の良さが現代にも受け継がれているからと言う戦略上の重要度が解って頂けたでしょうか?
ですから周辺には優れた水源地の有る港湾機能を利用して昭和の戦前戦中には軍事拠点、戦後には多くの大規模造船工場や家電製品や自動車工場が作られていたんですね。

さて、この段階でラーメン繁盛店が有る場所は略(ほぼ)、中世の御城の近所と言う話しに到ります。
つまり御城の有る場所は現代でも交通の要所だったり産業の拠点に成る訳です、すると多くの工場従業員やトラックドライバーやタクシードライバーをリピーターとして獲得出来るチャンスが大きく有る訳です。

吉村家も産業道路沿いの為、ネットの無かった時代に多くのトラックドライバーに口コミで全国へと噂を広げて貰え、尚且つIHIや日本飛行機や東芝の従業員がJR新杉田駅や京急杉田駅への通勤前、帰路寄って貰えて繁盛する足場を確保出来た訳ですね。
無論、肝心のラーメンが不味いと繁盛はしませんから家系創始者吉村社長のラーメンは今や直弟子数百人を数える程の従業員を育てて来れただけ美味しかった訳ですね。
因(ちな)みに港の話に少し戻ると、杉田家の近くの金沢区長浜地区は明治時代には未だ海で、東京湾に入港する貿易船の検疫を行う港が有りました。

そこに勤務していたのが野口英世さんで、世界で初めてペストを検疫で中国人船員から検出して日本へのペスト流入を防いだんですね。
まぁ、林文子前市長と厚生労働省はダイヤモンドプリンセスでの対応失敗して2020年にワクチン接種前の日本人をコロナ拡散の危機に晒した訳ですけど。

まぁ、そんな訳で実はラーメン店は交通の要所や産業の生産拠点の近くに有る方が繁盛しやすいんですよ。
さてさて、そんな訳で産業拠点の杉田駅や商業拠点の南部市場やベイサイドマリーナの近くにある拉麺店は、それ等の施設の利用客に便利な立地なので今回紹介してみました。

花粉症酷い季節、皆さん季節の変わり目ですから体調に気をつけて下されやぁ~。

では又、次のブログ記事でお会いしましょう~♪
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先に考察の結論を述べます・・・
[鬼殺隊の設立時期]
鬼殺隊の成立は恐らく1017年以後。
鬼舞辻無惨の鬼化は西暦900年頃。
鬼殺隊には前身に成った実在した歴史偉人達の初代討伐隊がいる。
[変な髪色の四人]
我妻善逸 ・・・脱色
甘露寺蜜璃・・・カツラ、地毛は実在する親戚見るに多分黒。
煉獄杏寿朗・・・非縄文系/弥生系大和民族、渡来系太秦氏(ユダヤ人)の直系で近親婚してた一族。
不死川実弥・・・兄弟共に精神的ショックによるメラニン色素死滅による白髪化。

【注意事項】
今回、宇髄天元の記事を書くつもりが文献探したり、長崎の教育委員会に御教授頂いたり、薬品会社の社史を調べたり、色んな企業の広報さんに社史を教えて貰ったり色々としている内に、ブログプラットホームの1記事当りの書き込み可能文字数の制限を超えてしまったのでブログを2部に分けます。
【今回】
鬼滅隊の成立の考証、善逸、甘露寺蜜璃、煉獄家、不死川家の髪色や家柄の考察。
【次回】
宇髄家の忍者と言う階級は武士と言う考証と、宇髓天元さんの身体的特徴と妻女が3人もいる理由の考察。
前回の歴史考証は主に「場所」や「時代」の特定が中心だったので、比較的歴史や古地図から推定出来る事も有ったのですが今回の内容は少し異なります。


前回の歴史考察で思い知らされたのですが鬼滅の刃には漫画・アニメの世界の話なので現実に存在した時代や貴族の家名が登場しますが、あくまで日本とは違うパラレルワールドと認識して見て置く必要が有ります。
その上で、鬼滅の刃の世界を現実の歴史に当て嵌めるなら、作中の各キャラクターの身体的特徴や家柄や性格等の個性や、鬼滅隊の経済基盤はどうなっているのか等を「現実的に解釈するならどう言う事なのか?」と言うのを皆さんと考えたいと思います。

鬼滅の刃の遊郭編も最終回を終えましたが本当に凄い作画と音楽ですね~。
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前回の記事を書いて見て思ったのですが歴史考証と言うより、鬼滅の刃の漫画の中の事を史実に置き換えて話に現実的に解釈して説明して見ると言う作業が中心に成りました。
ですから今回の記事は皆さんに・・・
「この時代にそんな事が有ったのか~!」
「あ~そう言う風に見れるのか・・・」
・・・と、言う風に皆さんがもう忘れたかもしれない学生時代に習った知識や童話の元に成った伝承と繋がるんだね~!と言う視点で読んで貰えたら幸いです。
今後どこか旅行に言った歴史散策でふと思い出して頂けたら嬉しいかなと。

今回は・・・
宇髄サンの髪色や体躯の解説する前に、変な髪色の隊士の髪の毛の色を歴史考察。
宇髄家の考察に必要な、鬼殺隊の成立時期の考察と日輪刀の元祖の紹介。
・・・この2つを書きたいと思います。

——では始めましょう——
皆さんと鬼滅の刃の時代にどんな出来事が有ったかを一緒に見てみましょう~♪
鬼滅の刃の遊郭編の最終回放送も終わり、次回の予告も有りましたね。

鬼滅の刃には謎が多いですね、本当。そもそも論で鬼殺隊って・・・
「う~ん?この組織の運営どうなっとるんだ?」
「死体処理や鉄道災害を独自に復旧出来る医療チームと工作部隊とか・・・国?」
「産屋敷家97代目って・・・古代の豪族子孫の出雲大社の大宮司家ですら81代目よ?」
・・・とか色々と。
今回は当初は「“忍者”と言う職業は存在せず大名から給料貰ってる“武士”です」よ?と言う話を宇髄サンの歴史考察で記事を書こうとしたら、宇髄サンの身体的特徴の事も彼の思想に関係が有りそうな歴史をまとめていたら・・・
宇髄サンの髪色以前に染髪薬品の存在しなかった大正時代にアホみたいなピンク色の髪の乳見せ痴女とか現実離れした髪色のキャラクターが多くいます。
コイツ等⤵
我妻 公式様より拝借煉獄 公式様より拝借甘露寺 公式様より拝借不死川 公式様より拝借
「コイツ等の髪色どう現実的に解釈したら良いんの?」
・・・的な問題が宇髄サン以前に有ったんです。
原作者さんは特に歴史的な考証はしておらず自由に髪色を決めていると思うので、話を整理し髪色含めて日本の歴史や伝承に合った現代に繋がる話に成る様(よう)に解釈したいと思います。

どう繋がりますかね~?
民俗伝承や近代史や企業社史から辿り「歴史」で解釈してしまいましょう。

我妻善逸の金髪
我妻 公式様より拝借
善逸の金髪は落雷に直撃して変色したと設定されているので、既に現実を超越しており何も髪色について突っ込むところは有りませんが、敢えて現実的に解釈すると彼は何らかの方法で髪色を脱色しているハズです。しかも“本人が知らない内に”第二人格によって・・・
これが現実的な解釈だと思います。
実は善逸は脱色を出来た可能性が有ります。
ただこの解釈をするには皆さんに以下の仮説を前提として納得して頂く必要が有ります。
(そもそも落雷で髪色は変わらないので納得して頂かないと成立しません。)
【金髪化の仮説の大前提】
——失神時の二重人格が髪を脱色——
漫画の描写では樹木の上で被雷、直後に落下する時には金髪ですがコレは本人の状況説明を絵にしただけで実際は少し違ったとします。
実際は被雷時に失神→爺ちゃんに介抱される事、1晩以上経過後に目を覚ましたら金髪だったとして下さい(御願いします)。
そうすると全てに辻褄が合います。

彼は寝ずに隠れて修行までして強く成れない事を嘆いており、彼は努力家です。
この努力家な性格と身に付かない奥義に関する焦燥感と赤ん坊時代に親に捨てられて自己肯定感を持てずに生きて来たストレスが爆発し精神錯乱状態に成り木の上に登る奇行に及ぶ。
突発的に自殺してしまう人と同じ精神状態ですね。

木に登った直後に被雷、本人の記憶は実際はここで一度途絶えており実は失神していた。

失神中に爺ちゃんに介抱され気が付くまで1昼夜以上の時間が経過していたとします。
その間に多重人格障害の特長である本人を生かす為にストレスを解消する為の第二人格が発現し二重人格に成ったか、元々幼少期に親に捨てられたショックで二重人格は発現していたと仮定します。
多重人格は幼児虐待や社会的な不遇で発症する事が有るので、善逸の状況に当てはまるかと思います。
特に彼は優しい性格なので、親に捨てられて自己肯定出来ず生きているのに自分を師としても親代わりとしても育ててくれる爺ちゃんが本当に大好きなのでしょう。

大好きなのに期待に応える事が出来ないストレスが大きかったでしょうから失神中の人格が善逸の本来の人格に負担を軽減する為に、善逸の本来の人格の脳の思考回路をちゃんと睡眠させ、第二人格の善逸が強く成る夜間の修行を担(にな)って強く成る事を被雷し失神中の時間帯に決意した。

善逸が失神中の第二人格が被雷後~善逸が目を覚ますまでの間に善逸の代わりに強く成ると覚悟を決めて雷の呼吸の象徴として髪を勝手に脱色して金髪にしてしまった。
善逸の中では被雷して目が覚めたら金髪だったので被雷した=結果金髪と記憶違いが起きている回想が漫画のシーンと解釈すると自然です。

善逸が覚醒時にあれだけの身体能力を発揮出来るのに、炭治郎や伊之助との修行ではパフォーマンスが低く泣き言を言っているのは、実は本人が寝ている間に第二人格が体を使って修行をしているから脳的には疲れはとれても肉体的にはオーバーワーク状態が四六時中続いているので体力がヘロヘロの状態だったとすれば、これも説明が着きます。

この仮説の中の「第二人格が脱色した仮説」を成立させる為には、大正時代に脱色する薬品が存在する等の脱色手段が必要ですね。
では脱色出来る様な薬品が大正時代の彼の身の回りに既に存在したのかを検証してみましょう。
——大正時代の脱色手段考察——
冒頭にリンクを貼った前回の歴史考察記事では遅くとも大正六年(1917年)に炭治郎や善逸達の立志編の旅が始まっていると特定しました。
鬼滅の刃立志編 公式から拝借
善逸の第二人格がが髪を脱色していたとしても、平成~令和年間(1989~2022年現在)の様(よう)に髪を染色したり脱色を目的にする薬品は当時は存在しないので自前で作る必要が有ります。
脱色に関しては一つ可能な方法が有り脱色薬は自作出来た可能性が高いです。
第二人格も相当な努力家ですから、武芸に取り組む以前は深夜に覚醒すると本来の人格が負傷した際の為に薬学や医療の知識収集に励んでいた可能性が有りますね。
そこで以下の「脱色薬」の生成方法を知っていた可能性が有ります。
傷口の殺菌消毒液のオキシドール+小麦粉
=混ぜてペーストにして髪に塗布すると脱色出来る

さて、ここで次の問題は大正時代にオキシドールが存在したかが問題に成ってきます。
オキシドール、ピンポイントで炭治郎達が遅くとも大正六年(1917)頃に鬼狩りの旅を始めているのですが、大正三年(1914年)には既に存在してるんですね~。
この歴史偉人⤵の御蔭で。
渋沢栄一
※渋沢栄一資料館所蔵写真
渋沢栄一公ですね。
渋沢栄一公は明治三十二年(1899年)に現在の横浜市役所新市庁舎の立つ横浜市弁天通一丁目一番地に御自身の会社で有る絹織物売込商横浜刺繍株式会社の一室に間借りする形で三共商店を開業し、タカヂアスターゼの輸入試売を開始しました。これが三共製薬の創始だそうです。
ちなみに弁天町1-1の地名は明治時代以前は半島だった砂州の先端に豊富に水が湧く神秘的な土地だったので源頼朝公が弁財天を御祀りして開いた弁天社が存在した事に由来します。
その弁天社一帯が現在の“関内”の地名の通りの関所の有る外国人居留地に成り更に明治の軍用地に成る際に接収され伊勢佐木長者町の厳島神社と元町中華街駅近く元町商店街の厳島神社に分祀され消滅し、弁天町の地名だけが残りました。
その事は以前ブログ⤵で触れた事が有るので御興味有る方は御覧下さい。

この弁天社の跡地の一角に渋沢栄一公が三共製薬の前進を設立する訳です。
この三共製薬が大正三年(1914年)に日本国内でオキシドール=過酸化水素水と同じ、過酸化水素水=オキシフルの製造発売を開始しました。
これは赤チンと共に創傷つまり刀傷の治療薬なんですね。普通に皆さんも子供の頃に擦り傷の消毒に使った方もいるのではないでしょうか?
大正時代では鬼殺隊は当然刀剣を扱って鬼と戦う私兵団ですから、組織として消毒薬品の導入も行っており潤沢に備品も配給されていたでしょう。
—―オキシフルは大量確保可能か?―—
オキシフルに関しては鬼殺隊が潤沢の資金が有る組織なら問題有りません。
鬼殺隊は明治政府以後は非公認ですが明治以前は時の最高権力者達から公認されていたと考えられ、大正時代でも鬼の存在は全ての階層の人間にとって恐怖の対象でしかない訳ですし、例え下級の鬼でも日本軍の一般兵士や警察官の手には負えないでしょう。ですから明治政府樹立後も有力者達が産屋敷家=鬼殺隊を経済的でも物資面でも支援する事は黙認されていたからこそ、廃刀令後も鬼殺隊だけは佩刀が政府要人の一部の権限で容認されていたと考えるのが自然でしょう。
その証拠に士分解体後も元貴族で明治以後の家族で伯爵号を有する甘露寺家の令嬢の甘露寺蜜璃を隊士に加える程の組織ですから、多くの元大名家や華族、或いは神社本庁や各仏教宗派の総本山からの支援金や渋沢栄一公や原三溪公や浅野総一郎公等の財閥からの寄付金も集まっており、先進的な医療の支援も受けられたはずで、この前提が有れば本来忍者で大名家か徳川幕府に仕官していた宇髄家が大正時代に産屋敷家に仕官している理由にも成るかと思います。
この様な理由から、雷の呼吸の師匠(爺ちゃん)の家にも研修中の善逸達に配給されたオキシフルは大量に有ったでしょうし、饂飩やスイトンの材料として小麦粉も備蓄が有ったと思われます。
——以上から髪色は脱色と解釈出来る——
これ等の状況から善逸の失神中や就寝中に冷静な第二人格が善逸の修行とストレスを半分負担し霹靂一閃の習得を誓って髪の毛脱色したと「ムリヤリ解釈すれば」当時の出来事として現実的にする事は可能かと思います。
・・・霹靂一閃とか空中駆け回るし人間じゃ出来ないんですが。
それはさて置き、被雷で善逸得たヒントで睡眠中の人格が習得したので、その内に禰豆子ちゃんと大人に成って恋愛して自己肯定感と他人と幸せを共感出来る経験を積み重ねて行って人格の統合されて行けば、表と裏の性格の記憶と長所を共有した紳士に成り起きていても霹靂一閃を使える様に成っていたかも知れませんね。
・・・中年期に第二次世界大戦に徴兵された際に戦死したり中年で徴兵されずとも東京大空襲で被災し死んでいなければの話しですが。
髪色の解釈で善逸を調べたので少し話を髪以外にも触れたいと思います。
——余談、善逸の出自——
彼は捨て子であり家庭運的には青年期まで恵まれていませんでしたが体格的には実は恵まれています。
当時の男性としては平均身長が160cm弱の時代に発育途中の16歳で164.5cmなので平均より少し大きい位です。現在の人間で言うと男性の平均身長が170cm前後なので、当時の164.5cmは現代人の感覚に当て嵌(は)めるとジャニーズの生田斗馬君(175cm)、藤ヶ谷太輔君(175cm)位に相当するでしょうか。

そう言えば藤ヶ谷君は善逸に髪型だけ似てるな・・・藤ヶ谷君より善逸は手足短そうだけど。
善逸は最終的に体重も旅の開始直後より5kg増えたそうですが、それは体脂肪が減少して骨格筋肉量が増えて筋骨隆々に成ったと考えたら良いでしょう。
善逸は意外に丁度良い位の大きさなんですよ。
因(ちな)みに当時の女性の平均身長は150cm無い位でした。禰豆子ちゃんは鬼化し大人に成ったプロポーションからすると身長165cm位にはなりそうだから大人に成った善逸と釣り合いとれそうですね。
彼は捨て子で両親が誰か知らないと言う不遇な設定でありながら出身地は牛込と判明しています。
余談ですが当時の牛込の様子を見て見ましょう。
この画像⤵をクリックして拡大して見て下さい。
牛込江戸城吉原位置関係 久良岐のよし
上がGoogle社のGoogleEarthの現代の衛星写真、下が明治時代に帝国陸軍が測量した迅速測図で農研機構サンによって公開されている物です。

牛込と言う土地は江戸時代は徳川幕府の旗本が多く住んでいた武士の町でしたので、何かの理由で捨てられてしまったものの祖父の代位までは武士だったのだとすれば剣豪に成る素質は元々有ったのかも知れませんね。
牛込柳町~市ヶ谷柳町の辺りでは北辰一刀流や無外流の名手達が集まった道場が有りました。
北辰一刀流は坂本龍馬サン、新撰組の山南敬助サン、藤堂平助サン等が修(おさ)めた剣術流派ですね。
無外流は新撰組の斉藤一サンが修めた流派ですが、この内の山南さん、斉藤さん、藤堂さんが関係する試衛館と言う道場が柳町界隈に有りました。
試衛館と言えば近藤勇サンの道場で、正に後の新撰組の幹部が集まって切磋琢磨していた実践剣術道場ですね。
実は新撰組の近藤勇さん、土方歳三さん、沖田総司さん、井上源三郎さん等が学んだ天然理心流は今も東京都日野市に勇武館と言う道場が有ります。
2016年に井上源三郎サンの跡を継いだ親族の御子孫の井上先生と、近藤勇サンの御兄サンの宮川サンの御子孫の宮川先生が弟子に稽古をつけている所に参加させて頂きました。
IMG_2483
上の写真で白い剣道着を着用されているのが井上先生です。
御興味有る方もいらっしゃると思うので以下にリンクを貼っておきます。
天然理心流 勇武館⤵東京都日野市

無外流居合 鵬玉会⤵ 神楽坂稽古場所 

ちょっと話はそれましたが、もののついでに善逸の出身地の牛込と言う場所は江戸城の直ぐ近くで今の新宿区辺りなんですよ~と言うのと、善逸の祖父位の時代には剣豪を多く輩出した地域だったんだよ~と言う御話でした。

甘露寺蜜璃の非常識な桃色の髪
貴族令嬢なのに露出多い服装
甘露寺 公式様より拝借
公式の設定では元々黒髪だったのに好物の桜餅を8ヶ月間毎日170個食べ続けたら十歳頃には頭頂から肩口まではピンク色そこから先に行くに連れて黄緑色に変色する体質に成ったとか変な設定が有りますが、そんな体質の人間はいません。しかし桜餅を食べ続けたのは本当なのでしょう。
先ずは何故その様な偏食をしたのか、する必要が有ったのかを真面目に考える必要が有ると思います(現実的に解釈する為に)。
先ずは彼女の事を知る必要が有るので偏食させてしまうような家庭の事情を考えてみましょう。
彼女の苗字は甘露寺です。珍しい苗字ですよね?
実はこの氏姓は大正時代当時にも実在した貴族の苗字で、明治維新~第二次世界大戦終戦までは「伯爵」の身分を与えられた名家で更に大正天皇と昭和天皇の侍従長(執事)を務めた近代でも格式を保った家柄です。
この甘露寺家の血筋は藤原氏一族の勧修寺流の同族で、室町時代には勧修寺流藤原家の一族の中には足利尊氏公と血縁に成り関東管領(かんとうかんれい)と言う室町幕府内で関東地方を治める役職に就いた家系も存在します。
その事を家紋が表しています。
家紋と言うのは血縁関係や家柄を表す物で昔は勝手に使ってはいけない紋章でした。
この甘露寺家の家紋は“丸竹に九枚笹雀紋”と言うものです。
竹丸に九枚笹竹雀紋
甘露寺家 丸竹に九枚笹雀紋
竹に雀紋
山内上杉家 竹に雀紋
宅間竹雀
宅間上杉家 宅間竹に九枚笹雀紋
例えば菊の御紋は天皇家の家紋なので勝手に使う奴は逆賊朝敵な訳です。
他の家紋も殿様が大きな功績を立てた家臣に褒美として使用権を与えたりする事が有るので祖先がいつ頃誰に仕えていたかの証しに成る物なんですね。
上の家紋を見ると歴史に興味が無くても「何か知ってるな~?」と思う人は少なくない筈です。
上の家紋の山内上杉家と宅間上杉家は足利尊氏公の実母の姉妹の血を引く家系なんですね。
この上杉家が関東を実質的に統治す関東管領と言う役職を世襲しました。
上杉謙信
戦国大名の上杉謙信公は元の名前を長尾景虎と言い、彼の実家の長尾家は先に紹介した源頼光公と一緒に酒呑童子を討伐した平忠光公の子孫である鎌倉時代の武将の長尾定景公の室町時代の子孫に当ります。この謙信公は戦争が神憑り的に強かった事から上司の山内上杉家の養子に成り跡を継ぎ上杉謙信を名乗る様に成りました。
ですからNHKの大河ドラマやTVゲームが好きな人は、甘露寺家の家紋に良く似た上杉家の家紋を見た事が有る人も多いと思います。この勧修寺流藤原家の中で甘露寺家や勧修寺家は官位が五位以上を世襲し天皇の宮殿に昇殿する事を許された上級貴族の家系でした。
この甘露寺家の祖先の吉田経房(つねふさ)卿は貴族ですが武家との繋がりが深く源頼朝公が守護地頭を設置して幕府を開くと、関東申次(もうしつぎ)と言う朝廷と幕府の橋渡し役に任命されます。
源頼朝公
産屋敷家が運営する鬼殺隊の活動で全国を自由に行き交う許可や経済的な支援を鎌倉幕府から受けずには活動出来ない訳ですから当然ながら鬼殺隊が実在した組織だとすれば・・・
各時代の幕府の将軍や将軍不在の時代も織田信長公や豊臣秀吉公との申次役として、吉田経房卿の代から甘露寺蜜璃の先代まで政治の表の記録には残らない橋渡しを続けて鬼殺隊を支え続ける立場だったと話が繋げられると思います。
以上の状況から甘露寺蜜璃は伯爵令嬢で由緒正しい血筋であり鬼殺隊との縁も初期段階から有った家系と言えるかと思います。
因みに大正時代の当主である甘露寺受長伯爵が明治時代に大正天皇の御学友だった事から東宮侍従(とうぐうじじゅう:側近文官)に成り、更には現在今上(きんじょう:現在の)上皇様の御成婚前に美智子上皇后様に対して宮中儀礼の講義をする立場を担い、晩年には東京の明治神宮の宮司を務められております。
歴史人物に甘露寺蜜璃を結びつけるのであれば彼女はこの甘露寺受長元明治神宮宮司の御息女の世代に当たる人物です。
関連付けるには余りに近い時代で未だ御身内も御存命かと思いますので小生は「甘露寺蜜璃サンは甘露寺受長伯爵の御息女です」とは断言できませんが、令和四年の甘露寺家の皆さんが鬼滅の刃ファンだったとすれば・・・
「あらやだ!ウチの御婆ちゃんの姉妹が甘露寺蜜璃なんて光栄だわ~」
・・・と喜んで下さりそうですね。
さて、そんな訳で甘露寺蜜璃サンはとんでもない由緒正しい家柄で貴族でありながら武家とも繋がりが深かった家の令嬢で有る事が皆さんにも御理解頂けたかと思います。
さて・・・
ここから蜜璃さん個人の個性について分解して見て行きましょう~♪
彼女が生きた大正時代は親の決めた相手と結婚すると言う古い習慣に反発して西洋風のオシャレな服装や自由恋愛の価値観が女性の間にも広まった時代でもあります。
前回の記事でも小生の祖母の話を交えて紹介しましたが、大正時代の女性はかなりオシャレでした。

この動画⤴も前回紹介しましたが、正に甘露寺蜜璃サンと同世代の大正~昭和初期に青春時代~恋愛~結婚をした同世代に人達の当時の様子です。
甘露寺蜜璃さんの実家が大正天皇、昭和天皇の側近の家系で更に源頼朝公の時代から武家と折衝役を務めた貴族だとすれば家の中は古い伝統的礼儀作法のみならず、下手をすれば生まれて直ぐに婚約者すら決められてしまっていたかも知れませんね。
所が彼女は「恋柱」に適性を持ち柱に成る程の人間ですから幼い時から恋愛を大切にする「本能」が強く家に対する反感や自由恋愛に対する憧れや伝統的な服装より洋服を着て歩きショッピングをして自分で好きな人と結婚したいと言う「意思」が強く有ったのではないでしょうか?
そんな人物なら幼少期から好きな男の子の一人も居たでしょうし、男性に嫁ぐためだけに礼儀正しく大人しく御稽古ごとだけさせられる生活は耐えられないでしょう。
当然ながら過度なストレスを持った人間は摂食障害に成る可能性も高い訳で、彼女は好きな桜餅を大量に食べると言う偏食を始めてしまったのかも知れません。

しかし、本当に彼女が実在してコノ様な行動をしたのであれば、この行動には彼女のしたたかな計画も有ったと思います。
仮に彼女が伝統に薄さい女性は親の決めた相手との結婚を強いられる上流社会から逃げ出したいとしたらやるべき事は2つしか有りません。
1婚約者に嫌われ婚約破棄される様に仕向けつつ、自分の女性としての魅力は損ねない様にする。
2親に勘当(かんどう:絶縁)される様に仕向けるか、呆(あき)れられ放任される様に仕向ける。
3家を離れ女性一人でも生活できる収入を得られる仕事に就き一人暮らしをし、自由恋愛をする。
ちなみに皇族や伯爵家の御屋敷を歴史に興味の無い方は見た事が無いかもしれないので鎌倉に在る旧皇族の華頂宮邸を紹介したいと思います。
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旧華頂宮邸
多くの映画ドラマのロケ地の旧皇族邸宅。この華頂宮家は皇族でありながら多くの海軍軍人を輩出した家柄でもあるので、状況的には甘露寺家と似ているかとは思います。
下の写真は左が伏見宮博恭王、右は東郷平八郎元帥です。
伏見宮博恭王東郷平八郎元帥
この二人は戦艦三笠に乗船してロシア帝国が日本国を植民地にする為に派遣したバルチック艦隊を対馬開戦で撃破した際の部下と上官です。
伏見宮博恭王は戦艦三笠の主砲の砲撃を管理する立場で乗艦し、皇族の中では希な戦場に出て実戦経験の豊富な指揮官でした。
この伏見宮家から分家したのが伏見宮博恭王の子の華頂宮博忠王です。
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三笠公園 世界三大記念艦 戦艦三笠
現在も東郷元帥や伏見宮博恭王や秋山真之サンが活躍し日本を植民地化から守った戦艦三笠は世界三大記念艦の一つに認定され、第二次世界大戦後は一度は荒れ果てていましたが米国のニミッツ提督の保護活動の呼びかけも有り現在は三笠公園に固定され誰でも乗船し艦内を見学出来る様に成っています。
この様に、皇族や侯爵家も軍人に成ると言う選択肢が有りました。
しかしながら蜜璃サンは女性です。現代の自衛隊と違い当時の女性は軍人には成れませんでしたので彼女が働くとなると民間企業か“鬼殺隊”しか無かった訳ですね。
当時は女性の人権が尊重される時代でもなかったので民間企業で働くと言う選択肢をするよりも、自分の家が古くから関わっているだけでなく“実力主義”の鬼殺隊を彼女は選んだのではないでしょうか?
目的は鬼を殺す事では無く「恋愛を自由にしてオシャレも楽しむ」ため。
そうなると、彼女が禰豆子と炭治郎に対して寛容な姿勢を見せたのも、他の隊士ほど鬼に対する偏見も無ければ思い入れも無く客観的に二人を見る事が出来たからとも解釈出来るかと思います。
彼女は、この鬼殺隊に入り本当に好きにオシャレをして自由恋愛を伯爵令嬢がしたいのならば極端な話、これらの行動をする必要が有ったかも知れません。
1婚約者に嫌われ婚約破棄される様に仕向けつつ、自分の女性としての魅力は損ねない様にする。
この為に際どい服装を故意にしたり、桜餅を食べ続けるという奇行に及んだのではないでしょうか?
そもそも彼女が桜餅偏食から髪色が変に成って行くと言うのは、偽装工作だったのではないでしょうか?

桜餅は1個当たりのカロリーが96kcalです。
これを1日当たり174個食べると1日の摂取カロリーは・・・
96kcal×174個=16704kcalです。
・・・成人女性の1日当たりの必要摂取カロリーが1600kcalですから、10倍以上を摂取する事に成ります。普通に短期間で糖尿病に成って死にます。しかしこの174個全て桜餅1択と言うのはミソだと思います。
彼女が1日に174個も桜餅を食べるなら、当時は自宅のメイドさん達が購入するか御屋敷内で作ったはずですね。先程レシピ動画を紹介した通り意外に家庭でも作れるものです。
これ・・・
実は最初だけパフォーマンスで大量に食べて見せて、以後は親の目を盗んで独自に華道の家や料亭、旅館、神社仏閣を相手に御茶菓子として桜餅の販路を作り、親の目を盗んで子供の頃から販売してオシャレに使う小遣い稼ぎをしていたのではないでしょうか?
・・・本当に1日174個食べ続けたと言う言葉を信じるのは愚の骨頂ですし、隊士に成った後も依然として奇行を演出し続けないと彼女は結婚させられてしまうかも知れませんからね。
その桜餅を例えばバフォーマンスで親の前で20個くらいは食べて見せたとしても、残りの150個を8ヵ月間販売し続けると、その資金で剣術を習ったり刀を購入するのに丁度良い程度の資金に成ったのではないでしょうか?
しかも多種多様な菓子を作るより一品に絞り込むと生産効率も高くコストダウンにも成り材料の在庫管理も容易に成りますからね。
桜餅の相場は現代の価値で1個150円位でしょうか?
1個150×1日150個×30日×8ヵ月=5,400,000円
彼女が全部は食べずに8ヵ月間桜餅を販売続けていたら、親の家計でメイドに作らせた桜餅で540万円を荒稼ぎし、メイドにアルバイトの給金を支払った上で訓練用の日本刀を購入し、親が許さなくても自分で洋服を購入し親に隠れて街中で洋装でショッピングを楽しむ事も出来ますし、「カツラ」を少しづつ少しづつ買い足して行き最終的に髪色がピンクの髪に変色した様に偽装したり婚約者と婚約者の両親の前で、服装は清楚でも家柄だけで中身が無いタイプの優生思想バカはピンク色の髪を見ただけで偏見で奇形扱いし破談を選択するでしょうし良いファルターにも成りますね。
キワドイ服を着て見せれば親にもダメな子として諦められる事も出来たかも知れません。
下の画像は豊臣秀吉公の軍師で子孫は明治時代に華族に列せられた黒田如水公です。
黒田如水公
彼は天才でしたが偉ぶらず、妻女は縁談を持ちかけられた際に自分の顔には水疱瘡の跡が有り申し訳無いからと一度は黒田如水公に縁談の辞退を申し入れたのですが、如水公は「疱瘡も引っくるめて愛嬌だからきにすんな」と言う主旨の事を妻側に伝え結ばれたのは有名で、しかも大名に成ってからも側室を持たず愛妻一筋の人生でした。
蜜璃サンは、如水公みたいな本物の男と結ばれたかったのかも知れませんね。
桜餅を食べ続けたと自称している期間は9歳~10歳時点での極短い期間ですし、普通に賢い子供なら無能な大人よりも会社経営も出来るでしょうしね。将来の恋愛に備えて540万稼ぎ、そこから経費を差し引いた額を貯金したりオシャレに使ったりしたんでしょう。
下は糖尿病情報センターが示すエネルギー摂取基準
1日の適切なエネルギー量

いずれにせよ桜餅についても現実的な解釈をするべきだと思いますし、それが「小遣い稼ぎ」と言う裏話等を作らないと彼女は糖尿病で10歳時点で死んでないとおかしいでしょうね。
天然でピンクの髪色の人間なんぞ存在しないので論外な訳です。
当時は迷信を未だ信じる人もいた時代なので少しづつカツラの色を濃する演出を行い一番当時の上流階級の毛嫌いしそうな奇形を毛髪で装った解釈するべきですし、入隊後もオッパイ強調した服の着こなしをしているのは淑女の素を出してしまうと甘露寺サンは実家に戻されて結婚させられてしまうから奇行を装っていると考えたら良いのではないでしょうか?
大正時代は既にかなり女性はオシャレに敏感で西洋風の服装を取り入れたので、横浜の外国人居留地に行けば西洋の社交界で使われる派手なウィッグの輸入品も有ったでしょうし、無ければ当時の日本の特産品だったシルク糸で特注品を作らせたのかも知れませんね。
甘露寺蜜璃サンが青春時代に流行したのは下の様な服装でした。
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この様な各時代の洋服の流行を見られる博物館が横浜中華街の近く、山手地区の洋館街の中に有りますので御興味が有る方は行かれてみては如何でしょうか?DSC_1860
岩崎博物館(ゲーテ座記念)DSC_1861
そこでは横浜が幕末の外国人居留地だった時代~中世迄幅広い時代のドレスを着用して記念写真を撮影する事も出来ますよ。
彼女自身、ハイカラな洋食を好んだと言う公式設定も有るので間違いなく“モガ”だったんでしゃないでしょうか?
余談ですが蜜璃サンは恐らく元は大正天皇と昭和天皇の侍従で明治神宮の宮司の甘露寺受長サンの御令嬢の世代に当たる人物で、同世代の親族はSB食品の役員に成ったり、ブリジストンの創業家に嫁いだり、池田勇人元首相の御息女と結婚したり、戦後にも繁栄しています。

煉獄杏寿朗の金髪と赤のゼブラ頭髪。
煉獄 公式様より拝借
煉獄家みたいな、こんなの黄色と赤とかフザケタ髪色もカツラ以外に無いでしょう。
伝統的にカツラを被るフザケた習慣が有る家か、赤は濃い金色の表現と解釈して金髪だとしたら外国人の血が色濃く入っている家系と解釈するしかない!
混血なら安直に金髪や赤髪と解釈すると説明が着きますが、どうやら彼の家は代々この変な髪色の様ですから近い世代で西欧的な混血が繰り返されている要素は無さそうです。
少し古代の歴史を持ち出して何とか解釈をしてみたいと思います。

この赤毛のアンの女の子の様な髪色、凄く煉獄家の人の髪色に似ていませんか?
一般的に光の加減で赤毛に見える金髪の遺伝子はユダヤ系民族に多いそうで、ユダヤ人男性の10%程度に綺麗な赤毛が発生するそうです。アジアでも新疆ウィグル族、アフガニスタン等のアジア内陸部の人種にも多く見られるそうで、実はこの地域は2000年前にその地域から中国にかけて中国で太秦と呼ばれた人種がおりこれがユダヤ人だった事が日本でも知られています。
この部族が日本に来たのは漢帝国が樹立される前後なので紀元前300~500年頃の話かと思います。つまり日本神話の始まりの時代に当たる縄文時代→弥生時代の転換期なので、この頃に稲作が日本に伝えられている様です。
この太秦氏の子孫は賀茂氏に成ったと言う話は京都が好きな方はピンと来たかも知れないですね。
そのまま京都に定着した古代の豪族に成り天皇家に仕えており、賀茂氏は江戸時代にも鴨長明等の歴史人物を輩出しています。
またシルクロードの終着点である飛鳥時代の日本にもウィグル族が日本の朝廷に仕えていた事が記録されていたりもします。
漫画での金髪と赤のゼブラを赤毛を漫画的に強調した表現と解釈すると煉獄家は太秦氏の子孫であり代々の当主が煉獄杏寿朗の父の世代の煉獄槇寿郎が黒髪の妻を娶る以前は、太秦氏か賀茂氏の中で赤髪の人間と同族間婚姻を続けて血を濃く保っていたので赤毛だったのかも知れないですね。
賀茂氏には武家として成功した人物もおります。
徳川家康公は清和源氏の新田家子孫と称していますが、実際は賀茂氏の子孫とする説も有ります。
髪色の問題は煉獄家がユダヤ系太秦氏の子孫で、ユダヤ系の血筋を色濃く維持し続けた家系と考えるのが一番自然かと思います。
以下は余談に成りますが偶然ですが煉獄さんと家康公は共通の趣味が有ります。
相撲ですね。
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鎌倉公方代理吉良家の世田谷八幡宮
(江戸三大大相撲の一つ)
上の写真は世田谷八幡宮です。江戸時代には江戸三大大相撲の興行が行われた内の1ヵ所で現在の大相撲の発祥地でも有り、今も奉納相撲用の土俵が保存されています。
江戸時代に成ると徳川家康公によって世田谷八幡宮は土地を与えられて保護されましたが、家康公や御子息の徳川秀忠公が相撲が大好きだったのは有名な話で、秀忠公は自ら関取を多く雇用して相撲大会を開いた程でした。
煉獄家の家はこの世田谷八幡宮の直ぐ近く世田谷の桜新町でした。

桜新町と言えばサザエさんの町ですね。
煉獄さんはもし実在したなら幼い時から世田谷八幡宮の相撲興行を見に行ったり、御自分もワンパク相撲に参加されていたりしたかも知れませんね~。
そして煉獄さんの弟の千寿郎君の御子さんの同級生には実は磯野さん家のカツオ君が居たかも知れませんね~。
この江戸三大大相撲の一箇所で現在の大相撲の発祥地の一つとも言える世田谷八幡宮は源頼朝公の御先祖様で武士達から“軍神八幡太郎”の異名で呼ばれた源義家公が開いた八幡社でした。
奥羽征伐の際に開いた八幡宮と伝わりますが、実際に近くには平安時代の鎌倉下道~奥州街道が通っていました。
この場所は交通の要所だったので室町時代と安土桃山時代には足利氏一門で奥州探題も務めた蒔田吉良家が近所の豪徳寺の境内地に世田谷城と言う御城を築いて本拠地にしていた時代も有り吉良家の守護神でもありました。
北条氏綱公
上の画像は北条氏綱公。
蒔田吉良家は戦国時代に成ると関東を支配した大大名の小田原北条家の北条氏綱公の傘下に入り、安土桃山文時代に現在も無形文化財として残るフリーマーケット「ボロ市」を楽市楽座として開いた事でも有名です。
しかし北条家5代目氏直公の時に豊臣秀吉公によって小田原城が20万の大軍で攻められ北条家が敗北し改易されると、吉良家は大名から2000石弱の旗本に格下げされ徳川家臣になり下総国へ転封され世田谷城は城内の御堂を残して廃城に成っていました。
江戸時代に成ると徳川四天皇の一家、井伊家の井伊直孝公が鷹狩か何かで付近を通りがかった際に大雨に見舞われる寸前に、この世田谷城跡の前で猫に手招きされて訪れた御寺が豪徳寺で、この時に御住職の法話に感動した事で以後、豪徳寺は江戸における井伊家の菩提寺に定められ繁栄しました。
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この時の猫の逸話から豪徳寺は招き猫発祥地に成り、井伊家の居城の彦根市の彦根城のユルキャラが“ひこにゃん”に成ったんですね。
現在では煉獄さんが相撲を観戦した世田谷八幡宮は勝負の神様として繁栄し、豪徳寺は招き猫発祥地で井伊家の菩提寺であり吉良家の居城跡でもあり東京を代表する紅葉の名所としても有名です。
御興味有る方は世田谷八幡宮に関してはコノ記事⤴を御覧下さい。
記事には豪徳寺の綺麗な紅葉の写真を多数掲載し簡易ガイド解説が纏(まと)めてあります。
髪色の話は太秦氏の中でもユダヤ人の遺伝の濃い一族が煉獄家と言う事で解釈してみましたが、そんな煉獄家がサザエさんの町で世田谷八幡宮で奉納相撲の興行を見ていたと考えると、より親しみが湧くのではないでしょうか?

不死川実弥兄弟の白髪
不死川 公式様より拝借
不死川の頭髪は銀髪と言うより白髪に見えますね。
彼は昔、止(や)むを得ず肉親を殺害しているので精神的ショックから毛根のメラニン色素が生成されなくなり白髪に成ったと考えれば無理くり有り得るかも知れません(良く知らんけど)。
ただストレスで黒髪からメラニン色素が1晩にして抜けると言う様な事は無いので、実際に心理学関連の情報を見ると心理的なショックで黒髪が生成されなくなり数ヵ月かけて白髪に成ったと考えれば自然かも知れません。
彼に関しては京橋区の出身で趣味がカブトムシの飼育とかなのでこの人は虫柱の方が有ってる様な気もしますが、京橋は江戸時代から都会なので都会っ子のカブトムシ飼育とか、自分で捕まえたものじゃなくて繁殖させてる方の飼育なのかも知れませんね。
御金の無かった子供時代には趣味と昆虫養殖販売を兼ねていたりしたかも知れないですね。
この地域は江戸時代には宮大工の橘恆俊(たちばなつねとし)と言う名工が住んでいた事で有名です。
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三王山 安楽院 不断寺
鎌倉幕府第四代執権北条経時公菩提寺
上の写真は現代には三浦半島の横須賀市長井に移転している不断寺と言う御寺なのですが、元は鎌倉市街に有ったのが移転してきており、鎌倉時代には第四代執権の北条経時公の菩提寺でもありました。
どうやら移転時に経時公の供養塔を横須賀で新造し、鎌倉の墓所は浄土宗大本山の光明寺に移転された様です。
不死川実弥さんが住んだ京橋に幕末に住んでいた宮大工の名工、橘恆俊(たちばなつねとし)サンが住んでいた事がしられているのですが、この不断寺の関東大震災で倒壊してしまった旧本堂が橘恆俊サンが手掛けた物だった様です。
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上の写真は小生が参拝した際に欄間の裏で発見した裏書です。
御堂が倒壊した際に欄間だけは無事で、現在の御堂を再建する際に橘恆俊の欄間だけは再活用された様です。

この人物の手がけた彫刻は例えば横須賀市浦賀港の縁結びで有名な西叶神社にもあり横須賀市民文化財に指定されている他、出身地の千葉県でも多くの手がけた寺社が文化財指定を受けています。
この様に子供時代は荒(すさ)んでいたとされる不死川サンですが、実は住んでいた地域は江戸時代から文化人や商人が集まる活気に溢れた教養の高い地域でした。本来は礼儀正しい人物と設定されているのは京橋と言う江戸の経済の中心地で客商売の商人の息子として母親の手伝いを良くしていたからかも知れません。

——鬼殺隊の設立時期——
大正時代に産屋敷家の私設軍団である鬼殺隊が専任で鬼狩りを始めたのはいつの時代でしょうか?
「鬼」が何かを漢字から理解し、その後で鬼殺隊がいつ頃に編成されたかを考えて見ましょう。
奈良時代の日本の官僚は漢字をコピーし導入する際に「鬼」以外にも色々と意味を誤植しています。
例えば・・・
漢字 日本語 本来の意味
鬼  怪物  幽霊
娘  息女  母親
舅  夫の父 オジちゃん
小姑 義姉妹 オバちゃん
勉強 学習  無理をする
拉麺 中華麺 手延べで打つ麺
ちなみに本来の拉麺は元は麺の打ち方を示す言葉で拉と言う漢字には「引く/引っ張る」と言う意味が有り、拉麺自体は中国西域の新疆や蘭州や西安辺りのウィグル族の麺料理でした。

最近日本でも本当の拉麺の麺を出す店が漸(ようや)く増えて来ていますが、この様な漢字の誤植は良く有った話なので例を上げればキリが無いのですが現代日本人の現在の鬼の解釈は間違っている訳です。
日本ではそもそも鬼は最初から角の生えた赤鬼や青鬼でしょう?
それは怪物や妖怪です。
鬼と言うのは元は「人間だったモノ」を指します。
ナマハゲの様な「怪物」「妖怪」や地獄の青鬼赤鬼等「地獄の番人」は日本人的な価値観で漢字を導入する際に「幽霊=鬼」と混同されちゃってるんですね。恐らく、古代の日本人には「鬼」の概念が無く「荒神」の観念しか無かったので良く解らなかったのだと思います。
本来の漢字の意味を越えて日本で言う所の鬼には良い意味も有り「鬼神」「鬼島津」「鬼強い」等は悪い意味どころか褒め言葉です。これが「荒神」の観念と被ってますよね。
これ等の日本文化に後から漢字を当て嵌めた結果、翻訳に無理が生じたのだと言うのが解るかと思います。
ただ鬼滅の刃に関しては吸血鬼が相手なので「鬼」で間違いなさそうです。
そう言えば西洋の吸血鬼に鬼殺隊が戦う鬼は同じですね。
ヴァン・ヘルシングでもそうですよね。

吸血鬼討伐を専門に行うヴァン・ヘルシング達は言うなれば鬼狩りです。
鬼殺隊は吸血鬼討伐を行っていますが、鬼の字の意味からすると本来は幽霊退治も出来るはずです。しかし刀で幽霊は切れません。そこは吸血鬼や鬼、悪魔や悪霊や怨霊や妖怪の全てに対応できるのが式神や法術の両方を使いこなす陰陽師の役割なのでしょう。
陰陽師は学者なので密教や道教や神道の法力は使えますが物理攻撃を行う必要が有る際には式神を使う必要が有り、身体能力の高い鬼に遭遇したら式神を召喚する前に殴られて簡単に死んでしまいそうです。
そこで鬼狩りの役割は武士の役割に成って行ったのかも知れませんね。
日本で最初の「鬼狩り」を行ったのは桃太郎な訳ですが、桃太郎は神社の御祭神にも成ってる古代の豪族がモデルと言うのは有名な話です。

桃太郎は豪族の吉備氏の御先祖の吉備津彦命で皇族と言うのは有名な話ですし、犬のモデルは犬養縣主/犬養健命で昭和七年(1932年)に起きた五一五事件で陸軍将校に暗殺された犬養毅首相の御先祖ってのも有名な話だったりします。
他の雉、猿も同様に・・・
猿女君、鳥飼臣と伝わります。
この「君(きみ)」は豪族の「王」と言う意味で「国造」の異称です。
臣(オミ:使主)・連(ムラジ)については皆さんも教科書で読んだ事が有ると思います。
全て飛鳥時代以前の大王(オオキミ:天皇)に服属した豪族の地位名です。
丁度、日本史の記録が全て処分されてしまった様で現存しない古墳時代~弥生時代の話しである事が判ります。
実はこの吉備氏の子孫、倭建(ヤマトタケル)の配下にいました。
倭建が関東へ東征する際に元伊勢神宮(丹波国)で邪馬台国の女王卑弥呼に比定される倭姫(ヤマトヒメ)より草薙剱(クサナギノツルギ)を貸与された上で与力として「吉備氏」と「大伴氏」の軍勢を与えられ出陣した事が記録されています。つまり吉備津彦は倭建登場以前の歴史人物と言う事が判りますね。
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神話では倭建(ヤマトタケル)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)の後に神格を与えられる皇族の夫婦が三浦半島の走水神社に来て神社の前の御所ヵ崎に滞在し、そこから房総半島に渡ったと伝わっています。
この時期が以前の考古学が未発達だった時代には皇紀逆算で西暦109年の話とされていますが、考古学を元に再計算すると西暦280年頃に走水神社に来た様です。
西暦109~280年は中国の三国志の時代で正に卑弥呼が魏皇帝曹叡から「親魏和王」の金印を授けられた時代で、この頃が古墳時代の始まりに当ります。
この頃には天皇の称号は未だ無く「大王(おおきみ)」と呼ばれていました。
つまり日本で最初に「鬼狩り」をした桃太郎こと吉備津彦は倭建登場以前なので弥生時代の大王の王子で今の岡山県辺りの吉備国での軍事行動を行いそのまま土着し臣籍降下(しんせきこうか:皇籍を捨て貴族の身分=臣下に成る事)して吉備の苗字を名乗る様に成った皇族王と言う事が判ります。

桃太郎が弥生時代の皇族ならば鬼舞辻無惨以外にも日本では弥生時代~平安時代の神話の古代から断続的に鬼が出現していた様ですね。
この桃太郎のモデルの吉備津彦は征夷大将軍や鎮守府将軍と言う「幕府を開ける大将軍」の役職が出来る前の古代の四道将軍と言う「大将軍」の一人でした。
つまり鬼狩りを行う産屋敷家は「四道将軍に匹敵する役割」を担っていると解釈出来る訳ですね。
鬼舞辻無惨と人間は大正時代の1900年代初頭で1000年間戦って来た歴史が有ると言う事を産屋敷の御館様が話していますから、それを前提に逆算すると鬼舞辻無惨が登場したのは大江山の酒呑童子が暴れていた900年代~1000年代に相当します。
大江山鬼退治の登場人物は歴史上実在しました・・・
有名な酒呑童子討伐のリーダーは源頼光公です。
坂田金時(さかたのきんとき=金太郎)公
→本名:下毛野公時(しもつけのきんとき)
渡辺綱(わたなべのつな)公
平忠光(たいらのただみつ)公
卜部季武(うらべのすえたけ)公
・・・等が配下にいました。
源頼光公は天暦二年(948年)~治安元年(1021年)を生きた人物ですから、鬼退治は西暦900年代末位の話でしょうか?
現実的に鬼滅を解釈するならば鬼殺隊が動員されていないので産屋敷家配下に鬼殺隊は未設立の時期と解釈出来ます。

ちなみに金平牛蒡(きんぴらごぼう)は金太郎(別名坂田金時)サンの息子さんの坂田金平サン由来だとかどうだとか。
以上の事から鬼舞辻無惨の登場した西暦900年代初頭~源頼光公が鬼狩り部隊を編制し酒呑童子を倒した100年間は常設部隊は存在せず、鬼舞辻無惨は積極的に人間を襲っていなかった様です。
その様な解釈をすれば産屋敷家を棟梁として鬼殺隊編成は酒呑童子討伐のメンバーの寿命から西暦1017年以後の話と解釈出来ます。
源頼朝公達が登場する凡(およ)そ170年前の事ですね。
金平牛蒡・・・じゃなくて平安時代に鬼退治で活躍した坂田金時公達が生きた西暦900年代末は・・・
安倍春明⤵が活躍した半世紀くらい後の時代です。

映画陰陽師にも安倍晴明の相棒として登場する源博雅は朱雀門の鬼から譲られた笛を愛用していたと伝わります。
朱雀門の鬼は死んだ人間の遺骸を集めて美しい女性の形に複製し100日で生きた人としての魂を吹き込む事も出来たと「長谷雄草子」で書かれています。
朱雀門の鬼は笛を吹いたり当時の流行りの遊びに興味を持ったり、とても人間に対して友好的且(か)つ文化教養の素養を高く持っている事が判ります。
この朱雀門の鬼は長谷雄草子にも登場します、話の内容はザックリと以下の様な感じです。
朱雀門の鬼が長谷雄と言う双六の名手に会い、こう言ったそうです・・・
「双六をやってみたい、貴方とやりたい」
「私と双六をして買ったら私の大切な物を渡そう」
「朱雀門の楼門で勝負しよう」
・・・それを承諾した長谷雄はアッサリ双六の勝負に勝つ訳です。
双六の目は訓練すると自分で好きな目を有る程度調整出来るし、そんなしょっちゅう勝つ奴はバレない不正をやる奴でしょう。
この長谷雄と言うのは実在した人物で紀長谷雄(きのはせお)と言う公卿です。
紀長谷雄
承和十二年(845年)~喜十二年(912年)を生きた人物です。
そもそも持統天皇が西暦693年に双六を禁止したのに、それを踏まえて西暦900年代初頭に貴族の癖に博徒化して双六やってる時点でアレな人種なのは解るかと思います。
つまり長谷雄草子の物語は西暦800年代後半~912年の間の出来事だと解ります。
結果的に鬼は勝てる訳もなく負ける訳ですが、ちゃんと約束を守って長谷雄に美女を渡します。
「100日間女の関係を持っちゃいけない」

「100日経ったら良いですよ」
・・・と、この女性は動かない未だ魂(意識)が籠る前の生き返る途中の状態の亡くなった美女の体だったんですね。
この鬼の親切な警告にも関わらず、この長谷と言う男は約束を守らず性欲を押え切れず、まだ生き返ってもいない美女が目を覚ます前の80日目に動かない未だ死体の彼女を犯してしまいました。
そして女性の体は溶けて液状化して魂が戻る前に消えてしまいました。
その後の有る日、紀長谷雄が退朝して帰路に着(つ)く所で、出て来るのを待っていた朱雀門の鬼は長谷雄の乗る牛舎に近づきながら怒った風にコンナ事を言いました・・・
「あなたは信頼に足る人物では無かったのですね、ちゃんとした人だと思ったのに」
・・・その雰囲気が只ならぬモノので、ビビった長谷雄は当時の平安京の内裏の傍に在る北野天満宮の御祭神である天満大自在天神(菅原道真公)の御神霊に救いを求めます。
下の画像をクリックして拡大すると位置関係が良く解るかと思います。
朱雀門付近
当時の天皇の居所と政庁のあった代理は船岡山の南側に在りました。
この時に天から「哀れな奴だ・・・」と朱雀門の鬼に対する同情とも警告ともとれる菅原道真公の声が聞こえたそうです。
これを聞いて我に返った朱雀門の鬼は退散し、紀長谷雄は生きながらえる事が出来たそうです。
この騒動の果てに事件を回顧して紀長谷雄が吐いた言葉は・・・
「あ~美人だったのに勿体無い事しちゃったなぁ~」
・・・でした。信頼を裏切った事に対する反省も無ければ、生き返るはずだった女性を事実上殺した事よりも、性搾取する対象としての美女の体が消えてしまった事を「勿体ない」と言ってる完全にサイコパスなので、双六無双してたのも不正だったんでしょう。
この様な異常な性行為を死姦と言うそうで、現代日本でも死姦事件を起こす人間が希にいます。
平成十一年(1999年)にその様な事件が山口県で起きた事は、大学院生以上の年齢の方なら「アレかぁ~」と思い出すと思います。
長谷雄草子を見る限り平安時代にも異常性癖者や不正をするサイコパスは普通にいたようですね。
鬼舞辻無惨が鬼を量産する能力が有るなら、死んだ人間を生き返らせれる朱雀門の鬼の反魂術は鬼化だと解釈出来ます、朱雀門の鬼=鬼舞辻無惨と設定出来ます。
この朱雀門の鬼が鬼舞辻無惨だとすれば長谷雄の死姦事件は人間に対して希望を持っていた無惨に衝撃を与えたろうし、許せない事でもあったのではないでしょうか?
しかし、この後も源博雅公に笛をあげたり文化人との交流を繋げているのは菅原道真公の御神霊の鬼舞辻無惨に対する同情ともとれる優しい警告の言葉が有ったから人の心を保てたのではないでしょうか?
鬼舞辻無惨は確かに両親を襲っていますが、その後も人を食い続けたのでしょうか?
この頃、親の事が有り生家を離れて暮らして自省していたのではないでしょうか?
当時の平安京の事を知りたい人は以下のリンクを参考にすると良いと思います。


何が発端で人間と敵対する様に成ったかは解りませんが、高文化な教養人の源博正は鬼狩り側の人間なのに朱雀門の鬼は彼に笛を与えて好意を示したり、文化的な素養を感じさせる行動をとっており人に敵対していた訳では無さそうです。
下手をしたら吸血鬼化した後に、業を捨て改心し徳を積む事を是とする仏教の教えに従い出家し寺院で経典を読経して両親の菩提を弔いながら人間に戻る薬の研究を行っていたかも知れません。
朱雀門の鬼から笛を与えられた源博雅は実在した人物で延喜十八年(918年)~天元三年(980年)を生きた人物で、安倍晴明は延喜二十一年(921年)~寛弘二年(1005年)を生きた人物です。
彼等が生きていた時代には未だ鬼舞辻無惨は見境なしに人を襲う鬼を作ったりしておらず、安倍晴明も朱雀門の鬼を討伐対象と考えてはいなかった様です。
或いは鬼舞辻無惨は本人が望まない形で医師によって鬼にされてしまい両親を殺してしまった事は不本意な事でしたから、鬼から人間に戻る術を模索していた時期だとも考えられます。
鬼舞辻無惨 公式様より拝借
彼は大正時代の西暦1910~1920年の間から見て1000年前から鬼殺隊と戦いを繰り広げている事が御館=頭領である産屋敷輝哉の言葉からも解っていますが、この長谷雄草話が自分が人に戻る方法を模索していた時期の話だとすれば、その後に源博雅公や安倍晴明からも危険視されず、優しい鬼として認識されており交友までしていた事に成ります。
この交友関係を考えると早くても源博雅が西暦980年に亡くなり、安倍晴明が1005年に亡くなる迄は理性を保ち人間に戻る方法を模索していたのだと考えた方が自然でしょう。
最初の約年は彼は大人しく朱雀門の辺りを拠点に人間と友好的な関係を築いて生活しており、京都の地獄の入口と繋がっていたとされる清水寺界隈の東山方面には関与していなかった事も解ります。
無惨が人を殺し始めたのは何時(いつ)からでしょうか?
ー「一条戻り橋の鬼」が転換点ー
鬼舞辻無惨=朱雀門の鬼だとすれば少なくとも源博雅公が存命した西暦980年頃までは人間に害を為す存在では無かった事に成る訳ですから、源博雅公や安倍晴明が生きている人間では人間とも信頼関係が有りなく死体を食べたか或いは禰豆子の様に禁欲し睡眠で体力を回復し生きながらえて、例えば自分が治療していた患者に許可を得て亡くなってから御遺骸を研究に使わせて貰ったり食べたのかも知れません。
亡くなった御遺体の病巣や損傷の有る部位だけ外科的に切除して、他の御遺体の健康な部分と縫合したり自分の血で復元したりして青い彼岸花の薬を用いて人間として甦らせるとか研究をしていたかも知れません。

しかし安倍晴明が西暦1005年に亡くなると、鬼舞辻無惨の最大の脅威に成りそうな安倍晴明が生前に式神として使役した仏教の十二神将が封印されている京都の一条戻橋に美女の鬼が出現します。この時代に鬼舞辻無惨が実在したならば、この鬼美女は舞辻無惨の擬態の一つの女性の姿だったと解釈したら話の辻褄が合います。
この一条戻橋の鬼の物語が長谷雄草子の物語の直後で尚且つ安倍晴明の没後の物語と考えれば全てに辻褄が合うでしょう。
産屋敷輝哉は「一族の汚点」と彼を表現してますから産屋敷家は当然彼の動向を監視し知っていた筈です。
彼が鬼として生きる悲しい決意を決めてしまったのであれば、親族の産屋敷家や陰陽師が自分を討伐するのに効果的な晴明の式神である仏教十二神将を真っ先に破壊する筈です。

既に十二神将の式神を破壊した後か前かは解りませんが、この時に鬼美女は一条戻橋で後に鬼狩りのエキスパートに成る渡辺綱に遭遇し、渡辺綱公を騙そうとしますがバレで腕を切られ愛宕山の方に逃げましたが、その方角の先には大江山が有ります。
大江山の酒呑童子や今の大阪の茨木市に出没した茨木童子は鬼舞辻無惨が本格的に鬼を増やし始めた初期の出来事だったと「解釈」すれば、全てに辻褄が合うと思います。
十二神将は薬師如来の配下でインド神話由来の神様です。十二神将の主君である薬師如来は民衆の病苦を治す仏様で名の通り医学の守護仏でも有る訳ですから、皮肉な話ですが鬼舞辻無惨が一条戻橋の美女鬼の正体だとすれば自らが鬼化を治す薬の開発を諦めた時点で、その道の仏様の眷属でもある安倍晴明の式神を破壊し薬師如来の御利益も失い永遠に医師に処方された青い彼岸花で鬼に成った運命から薬で抜け出す道も閉ざしてしまった瞬間だったかも知れませんね。
そして文字通り殺人鬼の鬼舞辻無惨としての生涯の新たな開幕時点で既に渡辺綱に刀で腕を切り落とされる体験もしたのだとしたら、鬼狩りが陰陽師と使役する式神の役割から武士と日輪刀に変って行き鬼殺隊を生み出す原因を作った出来事だったかも知れません。
この時代は未だ破魔の武具と言えば主力兵器は弓矢で吸血鬼相手には役に立たないから陰陽師の式神が有効な武器だった訳です。しかし鬼は刀で首を切り落とせば殺せると言う発見が大江山でされて、式神や密教や道教や神道の専門知識や法力のセンスは鬼狩りに関しては不要に成ったのかも知れませんね。
因(ちな)みに最初に美女の鬼を切った渡辺綱ですが、その際に使用した日本刀が現存しており“刀剣乱舞”ファンの女性陣の方が小生よりよっぽど詳しいであろう「鬼切丸」又は「鬼切安綱」と呼ばれた刀でした。

この後、源頼光公と彼の四天王の渡辺綱(わたなべのつな)、卜部季武(うらべのすえたけ)、坂田金時(さかたのきんとき=金太郎=下毛野公時)、碓井貞光(うすいのさだみつ=平忠光)等によって、大江山の酒呑童子は討伐されますが、話を関連付けるならば女の鬼は討伐されていないので逃げられた様ですね。
酒呑童子は鬼舞辻無惨に鬼化された何者かだったかも知れません。
この酒呑童子の配下には茨木童子等もおり、鬼舞辻無惨の仕業だとすれば既に短期間で上弦下弦の鬼の編成の元に成る様な組織を作りかけていたのかも知れませんね。
この時の大江山の鬼討伐隊は朝廷の命令で臨時編成された武士団でしたが、その際に酒呑童子の首を切り落としたのが、これまた女性の刀剣ファンに人気の“童子切安綱”で国の重要文化財指定を受けており現存しています。

この二振りの刀を生産したのは伯耆国(鳥取県の一部)出身の大原安綱と言う平安時代中期の刀工です。
まぁ、歴史オタクの小生個人の現実的な解釈としては酒呑童子や茨木童子は朝廷から離反した豪族が野党化し軍閥化したので源氏の棟梁の源頼光公に京都に在番していた関東の豪族が与力に付けられて討伐“軍”が編成され、和議(停戦交渉)の酒宴を開くと見せかて源氏側が酒呑童子を暗殺したと言う軍記が民間で誇張されて鬼討伐の話に成ったのだと小生は考えています。
この事件以後、鬼舞辻無惨の同族と思われる産屋敷家を中心にした専属の鬼狩り組織の鬼殺隊が編成されて行く訳ですが、史実で先に「鬼狩り」を行った吉備津彦と源頼光公は元々は皇族から臣籍降下した吉備氏と源氏であり朝廷の正規軍として討伐軍を率いた訳です。
以上の事を踏まえると当然ながら産屋敷家も平安時代以前の元皇族であり将軍格の役職であり、産屋敷家が率いる事と成った鬼殺隊も朝廷の組織として成立して律令制度化では制度外で運用される独立性の高い軍団として朝廷から資金が与えられて活動を行い、その後は鎌倉幕府の将軍家と執権北条家~足利家~織田家~豊臣家~徳川家から幕臣ではない治世に必要不可欠な非政治的団体として惜しみない支援を受けられたのではないでしょうか。
産屋敷 公式様より拝借
炭治郎達が上限陸の討伐に成功した報告を聞いた際に鬼舞辻無惨を「我が一族唯一の汚点」と罵倒した産屋敷耀哉と言う人物は産屋敷家の97代目当主だそうです。
令和現在、日本最古の天皇家で今上天皇陛下で126代目。
邪馬台国時代から古代大和朝廷に従属していたであろう豪族達は・・・
出雲豪族末裔の出雲大社大宮司家で出雲国造の千家家で現代が84代目
九州豪族末裔の阿蘇神社大宮司家で阿蘇国造の阿蘇家が現代で91代目
元皇族の豪族で四道将軍の吉備津彦下道国造の吉備家・・・存続して居れば80~100代目は必須です。
藤の花が作中良く登場しますが、安直に途中参加の藤原氏の子孫というのは世代数が全く合わず論外な推測な訳です。完全に独自の元皇族から臣籍降下して久しい家系と考えるのが自然でしょう。
千家家より阿蘇家が世代数が多いのは阿蘇家は平安~安土桃山時代まで大名化し身内同士で権力争いもすれば対外戦争で討死もしたから世代数が多いのですが、同じ様に天皇家に関しても一番古い家系で有る以上に藤原家内の権力闘争で頻繁に天皇位を若い世代や兄弟に譲位させられた経緯が有るので歴代天皇が望まなくても世代数が多くなっています。
因みに・・・
皇族はおろか素戔嗚尊の直系の御神孫が千家家。
阿蘇家は初代神武天皇の皇孫。
吉備家は第七代孝霊天皇の皇孫。
・・・産屋敷家は大正時代の話で97代目なので令和四年現在では丁度、100代目位に当たるので古代の豪族王を意味する国造(くにつくりのみやつこ)の家系よりも更に古い時代には既に成立していた家系と言う驚愕の事実が発覚します。
恐らくこの様な家柄ですから、朝廷内で悪霊退散を祈祷する様な神事か天皇家を守る奈良の十津川村の人々の様に安倍晴明同様に陰陽師等の何か重要な役職を担っていた家系ではありそうです。
身体的能力で鬼に対して非力な陰陽師としての法力では量産された鬼を効率的に狩る事が出来ない状況下で、源頼道公や渡辺綱、坂田金時、平忠光公の鬼退治を参考に当時は最先端の武器だった日本刀を装備した鬼狩部隊を編成したのではないでしょうか?
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
余談ですが坂田金時の名で有名な下毛野公時公は群馬の古代豪族である下毛野氏の子孫で、当時富士山が噴火して古代の御殿場経由~矢倉沢往還で途中まで内陸を通る古東海道が降灰等で通行不能に成り廃道に成った時期に新たな東海道、現在の街道を開発する役目を担った一族の様です。
古代の道の通っていた場所には延喜式内社と呼ばれる神社と古代の集落跡の遺跡が有るのですが、寒田神社もその街道沿いの式内社の一つです。
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なので古代の矢倉沢往還沿いには延喜式内社が点在していたりします。
式内社の多くは縄文時代~古墳時代の遺跡を内包している場所ばかりで、古代からのランドマークに成る奇岩や河川の合流地点や山岳信仰の聖地化した祭祀遺跡や古代人の生活拠点だった事の解る集落遺跡が旧境内域から発掘されます。
坂田金時サンは金太郎の幼名で有名ですが、箱根の現在の東海道の元に成った湯坂道を開拓したと一族と考えられており箱根と静岡に跨る箱根の仙石原温泉郷近くには生誕地とされる公時神社が存在し背後に金時山を背負って現存しています。
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鬼殺隊の前の鬼退治を行った武将達の子孫は平安時代末期にも豪族として存続します。
中でも平忠光公の御子孫は今のNHKの鎌倉殿の13人で多く登場しています。
鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿三浦義村鎌倉殿和田義盛
鎌倉殿梶原景時鎌倉殿大庭景親
平安時代末期に平清盛公によって朝廷が乗っ取られ朝廷が衰退し鎌倉幕府が成立すると、鎌倉幕府の支援を受けて鬼狩りを続け、また足利家が室町幕府、織田政権、豊臣政権、徳川幕府と武士政権の支援を受け、各時代に高い経済力と最先端の医薬の研究支援も受ける事が出来たとすれば、皮肉にも鬼舞辻無惨がやりたかった事は全て、鬼舞辻無惨を討伐する側に回った親族の産屋敷家の方に環境が整ったのかも知れませんね。
特に酒呑童子の討伐を行った源頼光公と平忠光公の御子孫は鎌倉幕府内に沢山いたので産屋敷家は容易に鬼殺隊の運営費を援助して貰えたでしょう。
その後は幕末に討幕側の明治新政府の敵側に当たる徳川家の支援を受け続けていた事で新政権成立後、大正時代に成っても政府の公認を受ける事は出来なかったのかも知れません。
それが政府非公認の理由だと考えるのが一番しぜんでもありそうです。
しかし政府側にとっても近代化富国強兵から海外進出を行う段階に成って「鬼」と言う炭治郎でさえ当初は「迷信」だと思っていた物を討伐する事を「公認」する後進国に逆戻りする様な価値観を認める事も出来なかったと解釈すると全てに繋がりが出そうです。
その結果、元から支援者だった華族に成った旧大名家や貴族が非公認のまま支援を私的に続けていたとすれば、女性の身分なのに伯爵家の甘露寺家の令嬢や旧幕臣と思われる宇髄家等が配下として参加している事も状況の説明が着きますね。
・・・と言う事は全く原作者は意図していなかったとは思いますが。
よって産屋敷家は貴族や元大名家の華族や関連の実業家から経済的にも医療面でも支援を受けられたと考えれば、無限列車編で大規模な鉄道事故を起こしても「隠」が災害復旧と被災者保護を迅速に行えて事故自体を金銭的に口封じしたりマスコミも煽動し政府にとっても都合の悪い吸血鬼がらみの事件を隠匿出来る事も納得が出来るかと思います。

この様に、鬼殺隊の成立は安倍晴明が没して後、源頼光公四天皇による大江山鬼退治での酒呑童子討伐以後の話だと推測出来る訳ですね。
時代的には西暦1005年以後~源頼光公と四天王全員の存命中の時代から鬼殺隊編成時期も解って来ます。
平忠光公  ・・・没年不明
下毛野公時公・・・寛仁元年(1017年)
源頼光公  ・・・治安元年(1021年)
卜部季武公 ・・・治安二年(1022年)
渡辺綱公  ・・・万寿二年(1025年)
上記の死没年から大江山の鬼退治は西暦1005年~1017年の出来事、そして1017年以後に鬼舞辻無惨の誕生から実に100年後に産屋敷家の御先祖が鬼殺隊を編成して朝廷の支援を受け、武家政権の成立後は歴代将軍の支援を受けたのかも知れませんね~。



さて今回の解説はここまで!
次回は本来やりたかった宇髄家の実家の忍者稼業や3人も妻帯している理由や彼が日本人離れした髪色や体格である事を考察したいと思います。

この記事を書いたのは2022年02月11日~20日の期間で、いつもは1日で記事を書くので少し時間がかかってしまいました。
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そうこうする間に菜の花も見頃を過ぎ、梅が咲き始め春を迎えました。
間もなく曽我梅林も見頃を迎えます。
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しかし未だ未だ天候は寒いので、皆さん風邪を引いて弱って新型コロナにやられたりしないように気をつけましょう、御互いに。
もしかしたら、現代にも鬼殺隊の様に人知れず日本人や世界の平和の為に活動している人達もいるかも知れませんが、先ずは私達一人一人も経済を殺させずコロナにも負けない為に手洗いウガイとアルコール消毒とマスク着用と入店前の体温計測をシッカリ行っていきましょう~。

では、又次の記事で御会いしましょう~♪

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拉麺好きなら誰でも知っている名店が神奈川県には多く有ります。
今、悲しい理由では無く海外に活動の中心を切り替えると言う意味で名店が一つ閉店します。
中村屋
ラーメンフリークなら知らない人のいない店、神奈川県海老名市の中村屋、神奈川淡麗系と言うジャンルの発祥地です。
実は神奈川県は拉麺の巨匠を輩出する地勢の様(よう)です。
これは主要な高速道路や国道が神奈川県を多く通る事から東京に入る前にドライバー達が車を停める場所の確保出来る神奈川県内で食事をする機会が多く拉麺文化の発展が他地域より少しだけ早く進みやすい環境が有ったみたいです。
偶然ですが、戦国時代の城や江戸初期の陣屋は町を守る為では無く敵軍の侵攻を阻止する為に交通の要所に作られます。ですから昔の繁盛店は近くに城跡や陣屋跡も有ったりします。
幹線道路や利用者の多い道沿いに有り必然的にドライバーが集まって来やすくなるので一目瞭然で繁盛しているのが判り、それを見た一般人から口コミが更に広まり繁盛店に成ると言うのが、ラーメンブーム初期の1980~1990年代の傾向だった様です。
ただ繁盛店も立地だけでは飽きられてしまう訳ですから、今も生き残っている店は当然ながら努力を止めなかった御店主の御店と言う事も判ります。

小生が一番好感を持っており、憧れと同時に尊敬もしている人物が拉麺職人であり拉麺と言うジャンルを和食並みに繊細で高度な「料理のジャンル」に革新昇華させてラーメン業界の「ニューウェーブ」と言われた中村栄利サンです。
2月5日にアメリカから帰国して、13日の閉店日の営業終了まで中村サン自ら昔の様に「天空落し」で麺上げを全て担当して下さるそうです。

この中村社長は拉麺職人と言う職業自体も「シェフ」と他の料理人やマスコミから言わ強(し)める存在に地位を向上させた現代の料理界の偉人の一人で既に歴史に名を刻んでいる人物です。
この中村サン社長に成り中村屋を最初に高座渋谷で開業した頃に成ると立地よりも味が完全に重視され、不便な目立たない立地でも東京の「六厘舎」、横浜の「くり山」等の繁盛店が登場してきます。
一気に日本のラーメンのクオリティが進化したのが「ニューウェーブ系」の時代だったと思います。
中村さんは未だ明確な神奈川淡麗系等のジャンル分けが浸透する前の「ニューウェーブ系」の一人として有名に成った人な訳ですが、ニューウェーブ以前の立地+味+拘りで繁盛した先輩達の中にも中村サン御自身がYoutubeのライブ配信で名を上げていた「御世話に成った」とする人が当然ながら何人かいます。
今回はその中で3人、神奈川県のシェフを紹介しますが日本全国区で有名な誰でも知っている方達ばかりです。

支那そばや 佐野実 社長
神奈川淡麗系と言う名が出る前からの醤油拉麺の名店。
藤沢に開業後、横浜ラーメン博物館に出店、その後、自分の地元の戸塚本店に本拠を移す。
つけ麺の神様の山岸サンが認めた天才にして拉麺にストイックな拉麺の鬼。多くの店に影響を与えた。
早くに亡くなってしまったが今でも佐野サンを慕って戸塚本店に拉麺を食べに来る客は本当に多い。
今でもその拘りは御弟子さんやご家族に引き継がれレシピの中で脈々と生きている。
この人の拉麺は人を感動させる事が出来るのは、ストイックで本当に研究熱心だった現実的な努力が惜しみなく注ぎ込まれているからだと思う。
小生も知らない藤沢店時代は相当厳しかったらしいけれども、晩年はだいぶ柔らかく成り後進の育成に活躍されていた。今の「支那そばや」は御家族と御弟子さんの代に成り店の雰囲気も和やかで女性客も非常に増えて、小生も関西や外国から友人が来るとここに拉麺を食べに連れて行くが皆賞賛すると同時に醤油拉麺に対するハードルが初回から爆上がりし他の店主が可哀想だったりもする。




吉村家   吉村実 社長
家系豚骨醤油拉麺の総本山。
吉村実社長が現在の新杉田駅近く、杉田屋の道を挟んだハス向かいに開業した店で在来の横浜拉麺を工夫して確立したジャンルが家系豚骨醤油拉麺だった。後に現在の横浜駅西口に移転するに際し、東大卒で会社員を辞してまで自分の弟子に成った津村サンに杉田の地盤を託して旧吉村家の近所に津村サンの杉田家が開かれ現存する。
吉村社長がいなかったら家系と言う単語すら現代に存在していなかった。
個人的な思い出として、小生は幼少期に屏風浦に住んでいて親が好きで良く食べに連れて行かれた店。
ある日に良くスープを吸う厚手の海苔を母が「海苔が美味しい」と言ったら吉村サンが「持ってけよ!」と言って束で海苔を分けてくれたり、子供ながらに「美味しい~」と言うとニコニコと声をかけてくれた優しいオジサンが目の前でたまに弟子をブン殴ってた(笑)。
良く弟子を殴るけど多くの弟子を独立冴えて自分でやってける所まで育て上げる「親方」。パワハラは現代では無理だけど(笑)、この人のは弟子と客の事をメチャクチャ考えてる人。
今でも尊敬している自分の幼少期に見たラーメン屋の優しいオジチャン。



なんつッ亭 古谷一郎社長
熊本県人吉市の名店の好来ラーメンで修行し、自身の故郷である秦野市で熊本豚骨ラーメンに「黒マー油」で豚骨ラーメンの獣臭さを香ばしい香味に変えた豚骨ラーメンを提供する女性ファンとファミリー層の需要を開拓した偉大な拉麺店。なのでラーメン屋なのにアイスクリームや子供が喜ぶ仕掛けもちゃんと有る。
ただ元ヤンキーなので周りの面倒をみたり仲間の事を考え過ぎる真面目男で拉麺業界の事を考え過ぎた結果、政治家に立候補した際に左派系野党側から立候補したもんだから一次期は右派の御客さんにソッポ向かれちゃったり、それなりにヤンチャな面も残している方。
御客様が「御馳走様」「美味しかったです」と言うと一人一人に対して「ありがとう」と声を返してくれる好人物でも有る。TV番組の企画で閑古鳥が無く高速道路のフードコートの再生でも安易にコスパしか考えない経営者に職人として料理にプライドを持つように諭したり、本当に面倒見の良くアイディアも豊富な人物で中村サンの少し上の兄貴分的な世代に当たる。


さて、そんな訳で皆さんもTVで見た事が有る様な拉麺に新たなジャンルを確立した巨匠達がいて、その中の一人がイケメンであり研究家として熱心な中村屋の中村栄利社長なのですが、この人の凄さは半端ない。何と特定の師匠がおらず、自分で1から研究し有りとあらゆるジャンルの料理の良さを研究し、23年前のオープンから暫くして世間に知られる様になると多くの評論家や各ジャンルの料理界の巨匠達から「若いのに大した奴だ」と可愛がられる様に成り、更にそのフレンチや拉麺界の巨匠達からもアイディアを吸収し「神奈川淡麗系」を確立させて、更に10年前に渡米し「NAKAMURAYA」をオープンし今でもニューヨークで成功を収めているラーメン業界の革新と進化の先頭に立ち続けている事に有ります。

中村屋  中村栄利社長
最初は由緒有る源頼朝公の配下として活躍した東郷平八郎元帥の御先祖様でもある渋谷重国公の治めた土地の高座渋谷に中村屋を開業した。
特定の師匠について拉麺を修行した訳では無くアメリカ留学中の4年間に自分で拉麺スープを研究し、帰国後に幼馴染でずっとフラれ続けてから交際した奥様と結婚する為にラーメン屋を開業した。
そこから御苦労もされながら研究を止めず、新たな工夫を加味して行き拉麺が料理として大きく評価される革新を成し遂げ「ニューウェーブ」を巻き起こした人物。
釜で焼いた叉焼や煮豚だけではなく今では当たり前の燻製させたり料理を提供する前に「炙り」温め芳(こう)ばしく焼いた香り付けまで行い提供する工程を取り入れたり、スープも様々な素材を研究し取り入れる等、開業からわずか23年間で日本の拉麺業界発展の中心に間違いなく居た内の一人で、その功績は例えるなら拉麺業界で渋沢栄一公までとは行かずとも原三渓サン、松下幸之助サンに匹敵する大勝軒の山岸さん、佐野実さん、吉村実社長、と並ぶ日本が世界に誇る拉麺職人だと断言できる。
世界に誇る日本のラーメンの革新的発展に貢献した歴史偉人の一人である事は間違いない。


そんな中村さんの御店があと2日、2022年02月13日で日本国内の店舗は完全休業に入ると衝撃の告知がホームページで有りました。
中村屋告知
日本の中村屋は、入居するAEONの立体駐車場が建物老朽化により解体工事が決まり、テナントの契約を更新せず撤退が決まりました。
中村社長の現在の本拠地であるニューヨーク店は継続されますが、02/13が国内で中村屋を食べられる最後のチャンスです。
小生のブログは観光地として歴史散策の場所としても価値の有り且(か)つ歴史偉人と御縁の有る横浜市の史跡や神社仏閣が消滅する事を嘆いたりする記事も多く有ります。
しかし今回の日本における中村屋の無期休業はラーメンファンにとって悲しい事では無く彼がニューヨークの店に今まで以上に専念する事で「日本のラーメン」を世界に広める花道が開かれた訳ですから、一つの節目でありおめでたい事だと思います。
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麺処 中村屋 海老名本店
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鬼滅の刃 無限列車編
さて、鬼滅の刃も無限列車編が終わり遊郭編が始まりました。
鬼滅の刃は女性ファンが多い様なので、一緒にアニメを見させられている彼氏や旦那さんも多いのではないでしょうか(笑)?
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以前は鬼滅の刃に「少女漫画じゃんコレ」と思っていたため小生は全く興味が有りませんでした。
なので原作を知らず遊郭編も予備知識の無い小生は登場人物の解説を探していた所、とある投稿者が宇髓天元の寿命が大正時代の人の平均寿命が四十代前半だからソレくらいと、歴史オタクからすると見当違いな解説をしていたので・・・
「平均寿命は個人の没年齢の参考には成らないんだけどな~」
「こりゃ間違い指摘してたおこう」
・・・と思った次第です。

――結論から言いますーー
【1】炭治郎や禰豆子 彼等が生きた時代
鬼滅の刃の登場人物たちは明治末の生まれです。
鬼舞辻無惨を討伐した時は大正時代で未だ彼等は青年ですから彼等の年齢的に関東大震災に遭い、結婚し子育てをしていた昭和初期に入ってからは第二次世界大戦を経験します。
鬼舞辻無惨討伐で生き残った人物も、震災か戦火で死んでいる可能性が有ります。
天寿を全うしたなら、農家を営んだ者は晩年は昭和中期に軽トラで農協に野菜を納品したり、孫と東京タワー見物に行ったりTV放送で昭和の東京オリンピックや力道山の試合を観戦して楽しんで明るい日本の経済復興を経験して昭和40年代~50年代末位に亡くなっているはずです。

【2】物語の年代。
鬼滅の刃の世界観は慶應元(1865)年05月01日~明治二(1870)年08月末に鬼滅の物語のスタートとなる鱗瀧さんの手鬼逮捕が始まっています。
炭治郎の立志編は大正元年~大正六(1917)年08月末までに炭治郎は旅をスタートしています。
それ以上は設定上特定不可能です。

【3】物語の舞台
言葉と食文化と鉄道の景色と遊郭の歴史から推測出来ます。
無限列車編・・・中央線がモデルでないと成立しない。
遊郭編  ・・・吉原遊郭(現在のソープ街)
以上の可能性が高いでしょう。
ー無限列車編ー
原作者は∞=∞列車と言う言葉に環状線=山手線と言う意味を込めた可能性があります。
残念ながらこの予測が当たっていた場合、編集者と原作者は設定ミスを犯しており無理設定でした。
山手線開業が大正十四年(1925年)なのに大正十二年(1923年)の関東大震災の混乱が描写されておらず鬼舞辻無惨は人間の家族と悠々と夜の街を闊歩しています。
そこで山手線以外に舞台を求める必要が有ります。
無限列車編で煉獄サンが爆食いしていた牛鍋弁当から既に明治時代には食牛文化が根付いている地域で有る事が判ります。これは即ち、首都圏の中でも幕末の横浜開港で外国人居留地の有った横浜関内地区と鎌倉市~多摩地区~旧東京市(現23区)辺りである事が判ります。
当時、これ以外の地方では神戸と京都を除いて牛鍋や鋤焼きの文化は高級品で庶民の手の届く物ではありませんでしたし、登場人物たちが関西訛では無いので当然ながら関東地方の話、それも牛飯を食べる地域ですから東京~横浜~多摩地区の話と解ります。
当時の汽車は最初に渋沢栄一によって新橋駅~初代横浜駅(現:桜木町駅)に開通させた際に用地買収に困り海に細長く埋め立てて線路用地を確保している区間が多く有るので、無限列車編の様な平地が広がる景色は横浜に向かう景色ではありません。
では食肉文化と鉄道が早くから普及し庶民も楽しめた地域は、町田市~八王子市辺りが該当します。
よって東京~多摩地方へ至る列車=中央線が無限列車と考えられます。
仮に山手線を原作者が想定したなら史実的には歴史考証でミスを犯しています。
ー遊郭編ー
食文化、言葉、鉄道の普及から東京都の吉原遊郭、横浜市の永真遊郭の何れかですが恐らく鬼滅の刃は東京の物語です。
地方都市では昭和中期の車の普及まで言葉の訛は酷かったのですが大正時代初期に登場人物は流暢な標準語を話します。そして地方へ鬼の討伐に行く際は鉄道が効率が良いので当然ながら東京が舞台であると考えるのが自然でしょう、そう成ると大規模な遊郭は吉原遊郭の可能性が高くなります。

【4】竈門家の所在地
竈門家の所在地は公式設定に雲取山周辺とされており、家業は炭焼きです。炭焼きは山深い場所でも有る程度の町が近い地域でなければ商売が成立しません。
雲取山の近くで馬や昭和に入ってから軽トラやオート三輪で農産品や炭の売買で現金収入を得られる地域と言う条件を考慮すると、竈門家の実家の所在地は東京都奥多摩町日原川流域か埼玉県秩父市の何(いず)れかでしょう。

【5】日の呼吸の由来。
雲取山周辺の地名から特に深い考えも無く思いついた可能性が有ります。
原作者が竈門家の生家を雲取山周辺と公式設定していますが、実は雲取山周辺には「太陽寺」「日原街道」「日原鍾乳洞」等があります、更にこの地域は古代豪族でヤマトタケルの武将として活躍した大伴氏の子孫の豪族達の勢力圏で、中世にも日奉氏と言う大伴氏子孫の豪族と、その分家の武蔵七党西党と言う武士団が存在しました。東京都日野市の地名も日奉氏に由来すると伝承しています。頼朝公により現在地に移転され社殿を拡張された鶴岡八幡宮も本来の名は“鶴岡八幡宮寺”神仏習合の“八幡信仰”でしたが頼朝公に任命された神職は大伴氏で明治政府による廃仏毀釈の寺院弾圧まで大伴氏が神主を勤めていました。
原作者は先に実家の所在地を思いついてから周辺の地名で“日の呼吸”を思い付き、更に神話の舞台であり古代豪族の子孫達が生きていた地域である事を知った時点で、地域の神社や文化から「日神神楽」に結びつけたのかも知れませんね

――では考察の詳細解説に入ります――
超長文ですので、歴史本を読む心算でお願いします。

小生は正直、今年の夏に立志編の再放送をサイコロステーキ先輩が細切れにされるちょっと前辺りから見始めた鬼滅モグリです。
なので先入観無く史実と時代背景だけを作中の様子と比較します。
登場人物に関しても見始めて以降アニメに出た登場人物しか知りませんが、鬼滅の刃の時代考察に関しては既に他の鬼滅に詳しい歴オタがブログにも書いていたのですが、その人の考察も少し違う気がするので、小生の考察を書いてみたいと思います。

【1】炭治郎や禰豆子 彼等が生きた時代
ーキャラの生きた時代と寿命ー
ある鬼滅の刃解説動画の投稿者が宇髓天元の没年齢推測で大正時代の人間の平均寿命を採用していましたがこれは大きな誤りです。
明治~大正時代生まれの人は現代人みたいに平和ボケして天寿全う出来る世代では有りません。
大正当時に青年だった人間は明治生まれです。大正時代は15年間しか有りませんからね。
作中23才の天元なら同世代は大正十二(1923)年の関東大震災の被災者が多くいます。

この関東大震災が起きたのが大正十二年(1923年)09月01日ですが作中描写されないので、物語の年代特定で解説しますが炭治郎達の鬼討伐の物語は関東大震災発生以前話と言う事も解ります。
更に炭治郎達の世代も天元の世代も共に日中戦争と第二次世界大戦に動員されています。
つまり震災と戦災で多くの人が亡くなっているため、平均寿命40歳と以上に低く成ってしまっているので、この平均寿命を以(もっ)て宇髓天元の寿命と為(な)す事は完全な間違いです。

彼等の生きた大正時代は漫画やアニメで描かれる服装より、もう少しハイカラで垢抜けた人が多く、例えば食事にしても煉瓦亭とか今にも残る有名な洋食屋さんが既に明治28年に存在した時代です。
小生の血の繋がらない義祖母は家が戦前のABCD包囲網で日本が経済封されるまで横浜シルクの商人だったのですが、大正時代に正に女学生だった明治最後年の生まれで、蒸気バスに乗って横浜市中区根岸~山手のフェリスまで通っていたと話していました。
大正時代~昭和初期、炭治郎達の世代が青春時代を過ごした頃のファッションは既にオシャレです。

小生の義祖母が学生の頃に親に服を仕立てるとだけ言って御金を貰って、元町に出来た洋裁の御店で洋服を仕立てたら義祖母の両親に怒られたと言う話も聞いた事が有ります。
大正時代には若い世代の庶民に洋服が普及し始め昭和初期の文化水準に達しており更に太平洋戦争に突入する直前の昭和初期よりも世間は明るい雰囲気だったようですね。
これが地味なモンペ姿に変って行くのは戦争が原因で、鬼滅の刃の時代の服装は老人に関しては納得が行くのですが個人的な印象としては大正時代の東京の景色にしては何だが明治時代初期の未だ江戸時代を引きずってる頃のトレンドに見えてしまい若干整合性が無く感じます。
鬼滅の刃に関しては歴史オタクの小生にすると明治初期の印象を受けますし、農業をやっている人間が見ると「なんでトラクター用の道がこの時代に有るの?」と言う場面も有るみたいです。
彼等が関東大震災と戦災で死なず、結婚してラブラブな新婚生活を過ごしていたとすれば、その頃の様子が下の映画で皆さんにも想像がつくと思います。
下の映画は1936年公開の東京ラプソディーです。

大正年間に青年だった炭治郎や宇髄天元が結婚して子供を育てていた時代が丁度、東京ラプソディーの時代に当たる訳です。
ね?
実際は鬼滅の世界観より時代的にハイカラでしょ?
当然ながら痣が発現しなかったメンバーは天寿を全うしてる可能性も有る訳ですが、そうなると当時の人達は更に昭和中期まで生きているのが普通です。
ただし、この東京ラプソディーの公開の翌年、日本は日中戦争を開始し第二次世界大戦終了まで暗雲垂れ込める時代に突入して行きます。

ー炭治郎世代の戦争死亡率ー
彼等が何歳まで生きられたかを考えるには天寿を全う出来なかった可能性も考える必要が有ります。
それが戦争です。
鬼滅隊解散後にオシャレでハイカラな大正浪漫の青春を過ごす事に成る炭治郎とカナヲ夫妻、善逸と禰豆子夫妻は結婚して子供が生まれ小学校高学年くらいに成り漸く手が離れ始めた頃に戦争に直面する訳ですが・・・
歴史に興味の無い人には戦争で炭治郎世代の死亡フラグがどれだけ高確率で立って平均寿命が下がったか知らないと思うので“死亡率”の解説をしたいと思います。

この大正時代に青年だった彼等は更に関東大震災に加えて昭和初期の戦争にも動員され平均寿命を下げます。
鬼よりも徴兵された一般人兵士にライフルや榴弾砲、戦車、戦闘機の空爆、戦艦の砲撃で神がかり的な身体能力のある鬼滅隊の隊士でも簡単に殺される時代が到来します。
東京大空襲をはじめとした各都市の空襲や長崎・広島の核爆弾投下で大量の日本国民が老若男女問わず死にます。
鬼を倒しても「生きる事に必死」で鬼より怖い生存をかけた生活をしていた筈です。

以下炭治郎達の経験した戦争

炭治朗達が子育て中に直面したであろう戦災史実を時系列で解説します。
以下エグイ死亡率を戦争ごとに記載します。
死亡率とか負傷率と言う事がが苦手な人は下の方までスッ飛ばして下さい。


以下の個別の死亡率と損害を参照して見て下さい。
戦争名をクリックするとYoutubeで関連動画を見れます。

柳条湖事件 満洲事変発生
昭和六(1931)年09月18日
[戦力]
陸軍6050人

盧溝橋事件発生~日中戦争開戦
昭和十二(1937)年07月07日
~昭和二十年(1945年)08月14日
日本三大愚将の筆頭で右翼、中道、左翼の全てから軽蔑される牟田口廉也の盧溝橋での暴走で日本と中華民国の間で小規模戦闘から本格的な開戦に発展してしまい、日本帝国陸軍の将校と兵士は食料が補給されず枯渇する泥沼の戦いへと引きずり込まれて行く事に成る。
[戦力]
511,453人
[損失]
負傷325,806人
※負傷率63.7%
死亡185,647人
※死亡率36.2%

国家総動員法施行
昭和一三(1938)年04月01日~

仏印進駐
昭和十六(1941)年07月28日
フランス植民地ラオス、カンボジア、ベトナムを解放すると言う大義名分で日本軍が侵攻開始。


ハワイ真珠湾奇襲
日米開戦(太平洋戦争開始)
同年12月8日
海軍の山本五十六が日本帝国から米国へ宣戦布告前にハワイ真珠湾を攻撃してしまい日本帝国軍は大戦果を挙げるが戦争の正統性その物を喪失した最悪な外交状況で太平洋戦争に突入する。
[戦力]
ーー日本帝国海軍ーー
航空母艦6隻
戦艦2隻
重巡洋艦2隻
軽巡洋艦1隻
駆逐艦9隻
特殊潜航艇5隻
艦上航空機350機他
[損失]
ーー日本帝国海軍ーー
特殊潜航艇4隻沈没
特殊潜航艇1隻座礁
航空機損失29機
航空機損傷74機
捕虜01人
戦死64人 死亡率不明
ーー米国海軍ーー
戦艦4隻沈没
戦艦1隻座礁
戦艦3隻損傷
軽巡洋艦3隻損傷
駆逐艦3隻座礁
標的艦1隻沈没
その他1隻沈没
その他1隻座礁
その他2隻損傷
航空機損失188機
航空機損傷159機
民間航空機損失3機
戦死   2,334人
死亡率不明
民間人死亡68人死亡率不明


ミッドウェー海戦
昭和十七(1942)年06月05日~07日
この海戦敗北を契機に戦局は一気に敗色濃厚となり戦没者が急増する。
[戦力]
ーー日本帝国海軍ーー
航空母艦4
戦艦2
重巡洋艦2
軽巡洋艦1
駆逐艦12
艦載機248
水上機16
MI作戦戦力
軽空母2
戦艦5
重巡4
軽巡2他
動員兵数不詳
ーー米国海軍ーー
航空母艦3
重巡洋艦7
軽巡洋艦1
駆逐艦15
艦載機232
基地航空機101
飛行艇31
水上機1
潜水艦20
守備隊3,000人
動員兵数不詳
[損失]
ー日本帝国海軍ー
航空母艦4沈没
重巡洋艦1沈没
重巡洋艦1損傷
駆逐艦1損傷
死者3,057名
※死亡率不明
ー米国海軍ー
[損失]
航空母艦1沈没
駆逐艦1沈没
死者   307名
※死亡率不明

学徒戦時動員体制確立要綱
昭和十八(1943)年
06月25日
東条英機内閣により学徒動員施行、これにより学生が軍需産業労働力として徴用開始。

インパール作戦 
昭和十九(1944)年3月8日 ~7月3日
英国領インド帝国マニプル州インパールに日本軍侵攻。
牟田口廉也の立案した補給の無い無謀な作戦が開始される。
牟田口は戦地に赴く事無く料亭に通い芸者を愛人にした挙句、戦線が崩壊すると愛人を連れて戦地から日本に任務放棄して帰国してしまった。
――日本帝国陸軍――
[戦力]
92,000人
[死者]
26,000人
※死亡率28.2%
[死傷]
72,000人
※死傷率78.2%
[戦病]
30,000人
※発病率32.6%
[病死]※戦病者
  7,800人超
※病死率26.0%


レイテ沖海戦発生
同年10月20日~25日
アメリカ海軍オーストラリア海軍と日本帝国海軍が交戦し日本帝国海軍壊滅。
この戦いで事実上の日本帝国海軍の戦力壊滅と制空権を失った事で対米戦争その物が敗色濃厚に成った早期和解を模索する分岐点。
ーー日本帝国海軍ーー
[戦力]
航空母艦4
戦艦9
重巡洋艦13
軽巡洋艦6
駆逐艦34
航空機約600機
[損失]
航空母艦4
戦艦3
重巡洋艦6
軽巡洋艦4
駆逐艦9
[死者]10000人超
※死亡率不明


東京大空襲  
昭和二十(1945)年
03月09日~10日
人口7,500,000人弱
※疎開の為実態不明
[戦力]
調布飛行場所属
 第10飛行師団
横須賀鎮守府旗下 根岸飛行場所属
 第八〇一海軍航空隊
 (横浜海軍航空隊)
厚木海軍飛行場所属
 第三〇二海軍航空隊
※詳細不明
[損失]
被災3,000,000人
※被災率40.0%
死者   105,000人
※死亡率  1.4%
※大半が東京から郊外に疎開しており参考数値。


硫黄島の戦い
同年2月19日~3月26日
補給の無い状況下で日本軍兵士の多くは玉砕し、米軍の被害は甚大だった。
ー硫黄島からの手紙ー
監督:クリント・イーストウッド
主演:二宮和也が日本視点側で配役され映画化。
米国内で戦力に劣る日本兵相手に余りの損害の多さが衝撃を与える。これを後に米軍が数学的に解析した所、日本兵の生存率は5%以下で1人当りの戦力は米国兵5人相当だった。
ーー日本帝国軍ーー
[戦力]
陸軍兵13,586人
海軍兵  7,347人
※総兵力20,933人
※戦闘機・艦船数詳細不明
[損失]
戦車23輌
戦死者17,845~19,900/20,933人
※生存率:5%以下。
ーー米国海軍ーー
[戦力]
戦艦      8隻
巡洋艦   15隻
駆逐艦   77隻
航空母艦  16隻
艦載機 1,200機
※総兵力110,000人
[損失]
空母2隻含む
     艦船計30隻
航空機   239機
戦車    137輌
戦死     6,821人
戦傷   19,217人
※生存率:93.8% 
※死傷率:23.6%

決戦教育措置要綱施行
学徒動員(兵力として)

同年3月18日
東条英機内閣の閣議決定により国民学校初等科以外の学生は04月より1年間授業停止され学徒勤労総動員。学生の戦力として投入開始。
私が戦国武将間宮康俊公の顕彰活動で取材した間宮家臣の御子孫の市村勝次郎サンはモールス信号を1週間で覚えさせられ輸送船の通信担当に成ったそうです。



沖縄本島戦
同年04月01日
アメリカ軍が沖縄本島攻撃開始。
多くの沖縄県民が死亡する。
[死者]
民間人122,000人/県民総人口420,000人
※死亡率29%(沖縄県民総人口当り)
日本兵  68,000人/日本総兵力116,400人
※死亡率58%(総兵力当り)

第二次東京大空襲
同年05月25日~26日
東京都内大半焼失、各都市への空爆も開始。
合計400回の空爆
[死者]
※東京以外だけで500000人超
ーー横浜大空襲(昼間)ーー

ー日本軍ー
[戦力]
厚木海軍飛行場所属
第三〇二海軍航空隊
航空機数不明。
横浜市、横須賀、鎌倉、藤沢市内各地に高射砲配備
[死者] 
10,000人/横浜市総人口951,000人
※死亡率1.05%
[被災]
311,218人
※被災率32.7%
ー米空軍ー
[戦力]
マリアナ基地所属
米第21爆撃機集団
B-29爆撃機・・・517機
P-51戦闘機・・・101機
[損害]
航空機合計・・・175機

同年07月26日
ポツダム宣言発布
米・英・中(中華民国:現台湾)の連合国によりポツダム宣言が発布させる。
東条政権はこれを黙殺。


広島に原子爆弾投下
同年08月06日
[死者]
140000人/市民350000人
※死亡率40.0%(広島市民総人口当り)

ソビエト連邦が対日宣戦布告
同年8月8日
ソ連(現ロシア)が日本を裏切り日ソ中立宣言を破棄し満州へ侵略。


同年08月09日
長崎に原子爆弾投下
[死者]
74000人/市民240000人
※死亡率30.8%(長崎市民総人口当り)

同年08月14日
ポツダム宣言受諾
昭和天皇のラジオによる玉音放送で日本国民降伏。



ソ連の千島列島侵略
同年09月02日~05日
ソビエト軍は北海道占領を当初から目論んでいた為に日本のポツダム宣言受諾による無条件降伏後も千島列島在住日本人に対する攻撃を停止せず、既に冷戦の発端が旧日本領で起きていた。
アメリカによるソ連スターリンへの警告でソ連軍は漸く侵攻を停止した。
これが今の北方領土問題にも繋がり冷戦の発端であり交戦国日本×米国の友情再構築の始まりだった。

帝国書院統計資料歴史統計戦争別死傷者数
※第二次世界大戦全体での統計※
[動員数]
日本軍合計・・・1,864,710人
陸軍総兵力・・・1,435,676人
海軍総兵力・・・   429,034人
[戦死者]
日本軍合計・・・1,555,308人 死亡率83.4%
陸軍総計 ・・・1,140,429人 死亡率79.4%
海軍総計 ・・・   414,879人 死亡率96.7%

この帝国書院の統計が実数ならば、戦争から復員できた人は本当に奇跡の生還に等しかった訳です。

宇随 天元は更に炭次郎より8歳年長なので空襲や飢えて死んでいなければ終戦時は50±歳。
天元、炭次郎達はそれぞれ昭和50~60年代の間まで存命した可能性が高いですね。
ただし、二人とも満州事変~日中開戦の頃にまだ中年なので兵站崩壊後に中国大陸戦線で餓死した可能性も有る。
炭次郎に至っては死没率の高い南方戦線に徴用されていたかも知れない。
下手したら硫黄島で人間相手に抜剣突撃して玉砕したかも知れない。
本当に戦地にいたならばゲゲゲの鬼太郎作者の水木しげるに悪く書かれた直ぐに殴ってくる上官世代。
ただし終戦直前には40歳を超えてる筈なので戦局悪化前に除隊され、出身地とされる東京の奥多摩町のもっとも奥地の雲取山周辺の実家に住んでいたなら空爆で死亡する確率は低下し生存率が上がります。
カナヲと東京で所帯を持ったなら1945年03月か05月の東京大空襲で生存率が下がります。
又は甲府にいたなら07月06日~07日の甲府大空襲で亡くなってる可能性も有ります。
ー戦争を生き延びれた鬼滅隊の元隊士達が見た景色ー
炭次郎達が関東大震災や第二次世界大戦を生き延びて天寿を全うしていれば、終戦時40±歳で昭和天皇の玉音放送を聞き、小学生~中学生位の子供達をカナヲと育てながら存命してる可能性が高い訳です。
彼等の子供の世代は昭和後期世代がギリ良く知っている映画の登場人物にいます。

車寅次郎ですね。
寅サンは昭和六年(1931年)生まれのですから、この世代が炭治郎とカナヲ夫婦の子供達の世代に当たる訳です。
炭治郎夫妻は実在したならば正にALWAYS 三丁目の夕日の世界観を50歳過ぎくらいで見ていたんですね。

昭和30年代に宇髄天元も炭治郎もカナヲも禰豆子も善逸も実在したのならば上の動画の時代、東京タワーが完成した昭和三十三年(1958年)には生きていて❝三丁目の夕日❞の景色を見ていた堤真一サンの演じた鈴木オートの社長や吉岡秀隆サンの演じた駄菓子屋の茶川竜之介の世代より年齢が少し上の世代が彼等鬼滅隊の世代に当たります。
炭治郎とカナヲの夫婦の家系は早婚の家系の様なので、田舎暮らしだった事が想定できます。
実家が雲取山の山麓出身と言う設定なので、埼玉県秩父市民か東京都西多摩郡奥多摩町民の可能性が有りますね。
昭和30~40年代を生きたなら老齢の頃には青梅市や秩父市街にオート三輪や軽トラでカナヲと夫婦で農協に野菜の出荷に出かけていたかも知れないですね~。

そして青梅市街か秩父市街に出かけた時は公会堂や小さな映画館で映画を見たかも知れませんね。
孫に当たる世代も当たる人物も有名な架空の人物がいます。
❝こちら葛飾区亀有公園前発出所❞の両津勘吉が昭和二十七年(1952年)生まれで、ちょうど彼等の孫の世代ですね。
 
・・・ですから、正に戦争を生き延びていれば年老いてからカナヲや禰豆子が幼い頃の両サンみたいな元気な孫を連れて芝公園を散歩して歴代徳川家の殿様の墓参りをしたりプリンスホテルのレストランでちょっと贅沢な食事をしたり東京タワー見物なんてしていたかも知れないんですね。
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もしかしたら昭和三十九年(1964年)に開業した新幹線ヒカリに乗って東京~熱海温泉に遊びに行ったかも知れませんね~。もっと遠出して若い時は難しかった京都旅行も楽しんだかも知れませんね。
実際に当時の世相を当て嵌めてこうやって見て貰うと良く解ると思いますが、鬼との戦いの後、第二次世界大戦で戦死していなければ鬼殺隊の生存キャラは天寿を全うし70~80歳まで普通に生きてる可能性が高くて当たり前なんです。
昔の人は寿命が短いと言うのはステレオタイプによる平均寿命を鵜呑みにした誤りでしかありません。
例えば戦国時代の真田信繁(幸村)の実兄真田信之公は93歳まで生きていたりします。

真田信之公⤴は小生の嫌いな三谷幸喜脚本でコンナ面白キャラにされてしまってますが、史実では戦国時代を代表する武将の1人通称真田幸村こと真田信繁公の実兄で、江戸時代も真田家を守り通し91歳まで現役で政務を行い徳川家康公の御子息達から大変尊敬されていたそうです。
91歳で長野の松代城~江戸まで参勤交代をして幕府に「痔が酷いから甲州街道の通行を許可して欲しい」等と嘆願した文書が現存し、栄養状態と生活環境が良ければ現代人と同等に長寿だった代表的な人物です。

最近、長野の真田家の旧本拠地上田城下の御寺で信之公の御位牌が発見されて話題に成りましたが、信之公は93歳で大往生されています。

因みに真田家の菩提寺の盛徳寺は江戸時代に東京の赤坂に有りましたが昭和四十七年に都市再開発で立ち退き、現在は神奈川県伊勢原市に移転しています。
なので歴史の話をする時は、色んな状況を整理して話す必要が有る訳ですね。
炭治郎達が鬼を狩っているのが大正時代と言うとはるか昔に聞こえますが、昭和50年代までカナヲと夫婦で収穫した農産品を軽トラで農協に運んでたかも?とか聞くと途端に生きてる感じが生々しく感じられて面白くないですか?
さてザックリと彼等が生きてたら孫と東京タワーに登り新幹線に乗って旅行したかも知れない生き生きとした時代背景を感じた所で物語の時代を可能な限り調べてみましょう~♪


【2】物語の年代。
鬼滅のディープファンの話では❝手鬼❞と言う小生の知らないキャラクターのセリフで時代特定出来るのでは?と書いてあったので考証してみましょう。

その鬼が最初に47年前に当時隊士だった鱗滝によって捕らえられ登場した際に・・・
「ああっ!年号が変わってる!」
・・・と言うセリフを吐くそうでソコから判る事は十五年間しかない大正時代から47年遡(さかのぼ)った何処かの時代と言う事だけで、これから手鬼が捕縛された時の元号を特定する事は出来ません。何故なら大正時代以前の元号なんて沢山有りしょっちゅう変わってたんです。
現代の常識だと明治以降の天皇の崩御で元号が変わりますが、実はそれは明治時代以降の短い歴史でしかないんです。昔は世相が安定していなかったので不吉な事や吉兆が起こると征夷大将軍や関白が幾つかの元号候補を天皇に進言し、その中から新しい元号が採用されると言う制度だったので頻繁に元号が変わる事が有ったんですね。
例えば慶応大学の出来た慶応年間なんかたったの4年間しかありません。

だから少しでも歴史に興味が有り小説家が書いた小説やTVやネットの受け売りではなく本当の史料を読む歴史好きな人なら手鬼のセリフを読んで・・・
「大正時代の前なんてしょっちゅう変わってる時期ジャン?」
「明治以前の可能性普通に有るよな?」
・・・と直ぐに思う訳ですが、では手鬼が捕まった時代の元号が何の時だったか?それを考察してみましょう。小生は考察には関東大震災を考慮すべきと思っています。

先ずは明治時代は45年間なので・・・
大正十五(1926)年-47年=明治十二(1879)年
・・・つまり手鬼が捕縛された47年前は遅くともと明治十二(1879)年と推測できます。
その上で大正時代15年間を差し引きした年代だと・・・
明治十二(1879)年-15年=1864年
・・・1864~1879年の間のどこかの話だと解ります。
この1864年がややこしくて元号の変更が有った年でした。
[文久年間]
文久元年(1861)年03月29日
~ 文久四年(1864)年03月27日
[元治年間]
元治元年(1864)年03月27日
~ 元治二年(1865)年05月01日
[慶応年間]
慶應元年(1865)年05月01日
~ 慶應四年(1868)年10月23日
[明治年間]
明治元年(1868)年10月23日
~ 明治四十五年(1912)年07月30日
上の元号を見ると鬼滅の刃で手鬼が捕まった時期が・・・
明治十二(1879)年~慶應年間~元治年間~文久四(1864)年の出来事としか判断が付かない訳です。
手鬼が捕まった時代の元号がセリフに登場しないので、炭治郎の活躍し始めた“立志編”の鬼滅の刃の時代が❝大正何年か?❞なんて特定で出来ないのは明白ですね?
だって大正元年~十五年の間のどこかの47年前は文久~元治~慶応~明治とモロに元号変わり捲ってる時代ですからね。
この事を踏まえずに・・・
「元号が変わった」のセリフだけで「大正の前の明治」と意見は成立しない訳です。
・・・実は物語のスタートした年代にも関係が出て来る鬼滅の刃ファンがスルーしてる事が大正十二年(1923年)に起きています。
小生が考慮すべきと言った“関東大震災”です。

作中では全く関東大震災の話題は登場しないので牛飯文化のある横浜~東京~八王子~秩父~埼玉で被災した様子は有りません。
もしこの様な天災が起きた後の大正十二年09月~大正十五年頃の話なら、話題の中に関東大震災が登場して当然でしょうから鬼滅の刃の世界は・・・
大正元年(1912)年07月30日
~大正十二(1923)09月01日
・・・より前の話、以上の期間の間に鬼舞辻󠄀無惨の討伐が完了していなければ可笑(おか)しい訳です。
未だアニメで登場していない公式設定での討伐後の話として富岡義勇等がのんきに温泉旅行に行ったりしているそうなので、富岡義勇が痣の発現で寿命が25歳とすると、作中21歳だったので4年間は生き延びている事に成ります、21歳と数ヵ月は過ぎてると思いますので余命3年強ですから、まぁ余命3年で計算するとしましょう。
そうなると・・・
鬼滅の刃の時代は大正元年~大正八年の間
・・・と言う事が何となく見えて来る上に、25歳で死ぬ富岡義勇が仮に東京で生活をしていたならば3年間の間に被災しておらず、ゆっくり温泉旅行を楽しんで過ごす事が出来る期間は関東大震災以前の話の可能性が高い訳です。
つまり、この事を踏まえると・・・
大正十二(1923)09月01日-富岡義勇の余命3年=大正九(1920)年09月01日以前
・・・上記の事を踏まえると鬼舞辻無惨が1920年09月以前に討伐されている事が判りますね。
そして竈門炭治郎の立志編~最終回まで約3年の月日が流れているらしいので、更にスタート時の年代は遅くとも1920年より三年早かった事が判ります・・
関東大震災1920年09月01日ー竈門炭治郎立志編~最終回タイムラグ約3年=遅くとも1917年
・・・もう鬼滅の刃の世界観が大正初期な事は解りましたね?
大正元年~大正六(1917)年08月末までに炭治郎は旅をスタートしている事が判ります。
では遅くとも1917年に手鬼が逮捕された47年前の時代の元号は何だったんでしょうか?
大正六(1917)年ー47年=明治二(1870)年ですね。
つまり遅くとも明治二(1870)年08月末には鱗滝サンによって手鬼が捕縛されており、彼等の服装から新政府の統治化に既に入っていた時代で江戸時代の生活を捨てた頃なのも解ります。

―さて、時代の特定は出来ましたね?―

慶應元(1865)年05月01日~明治二(1870)年08月末の期間の何処かの次点で鱗滝サンが手鬼を捕まえて物語は始まっている。
大正元年~大正六(1917)年08月末までに炭治郎は旅をスタートしている。
・・・と言う事が判りました。
残念ながらピンポイントで何年?と言う事は原作者に「その間の何年に起きた話にするの?ねぇ?」と誰か聞いて見るしかなさそうですね(笑)。
以上、年代の特定でした。

では次に物語の舞台を顕彰して見ましょう~♪


【3】物語の舞台
皆さん作中の無限列車編の世界、鉄道が普及して牛肉の弁当が売れていましたよね?
小生はこの大正初期の肉食文化と鉄道の普及から首都圏の幕末から西洋文化に馴染んだ地域と推測しています、つまり旧東京市と多摩地区~神奈川県東部ですね。
日本人が明治時代に広く食肉に馴染んだ“すき焼き”の発祥地は横浜市か鎌倉市と言われています。
これは鎌倉の人に聞いた鍬焼きのルーツとして鎌倉では本当に鍬で焼いていたと言う話を元にした推測にすぎませんが・・・
小生の見解としては当時外国人の貿易が盛況な関内・元町では金属調理器具も充実しており鍋を用いて焼く現在の家庭のすき焼き“牛鍋の原型で提供”したのが横浜流で、当時は鎌倉幕府の首府だった繁栄も失われ鄙(ひな)びた農村と漁村に成っていた今の鎌倉市辺りでは文字通り農機具の“鍬(すき)で肉を焼く”鍬焼きの形式で提供したのではないかと思います。
横浜村之圖
※横浜村辺之圖→教育委員会事務局中央図書館課
当時は横浜に牛鍋・鋤焼きを学びに修行に来る料理人がいた様です。
京都には“三嶋亭”と言う140年の歴史を持つ“すき焼き”の老舗が存在し、昭和のスター勝新太郎サン達が太秦で撮影してる頃に良く店を貸し切って豪遊したそうです。
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三嶋亭
昭和の映画スターに愛された京都のスキ焼の老舗
小生、この御店に留学時代の仲間と食事をしたのですが当然とても美味しく店も料亭その物で高級感が有りました。
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で、いつも雑談をして取材しまくる小生なので三嶋亭のスキ焼を食べながらスキ焼を作る仲居さんに教えて頂いたのは・・・
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「あら~お客様は横浜からいらっしゃったんですか~!」
「初代が横浜で修行したんですよ~。」
この言葉、凄く意味が有るんですよ?
横浜の開港が1859年、三嶋亭が明治六年(1873)創業。
つまり開港から僅か14年目で横浜のスキ焼=牛肉食は全国で有名に成っていた事が判る一言ですね。
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大正時代は元年(1912年)~十五年(1927年)です。
横浜で明治六年(1873年)には鋤焼きが名物に成っていた訳です。
関西の人々が横浜流の鋤焼きを知るきっかけに成ったのは実は横浜で幕末に横浜一帯の肉牛だけでは外国人の牛肉需要を賄えなく成り和牛の産地だった近畿と中国地方から神戸を経由して牛肉を買い付けていたそうです。なので関西にも・・・
「横浜で日本人も牛肉食べてるらしい!」
「スキ焼ってんが流行ってるらしい!」
・・・と流通網から情報が伝わるのに時間はかからなかったみたいですね。
どれくらい外国人が多かったかと言うと、横浜市に日本初の西洋式競馬場が作られる程でした。
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この写真は横浜市中区にある根岸森林公園に残る旧根岸競馬場の観覧席の建物です。
一等馬見所と呼ばれている一等席ですね。
CIMG3092
幕末に外国人居留地内にあった現在の横浜公園の港崎遊郭で起きた豚屋火事と呼ばれる大火災で居留地の建物も類焼した事から、外国人居留地が広がり、旅行して良い範囲も現在の鎌倉市が含まれていました。
この様な背景が有り横浜と鎌倉市が牛鍋ないし鍬焼(すきやき)の発祥地に成り“食肉文化”の素地が神奈川県東部に生まれ、それまで東京では上流階級の高級文化だった食肉が東京の大衆にも神奈川県より少し遅れて広まって行った訳です。
明治時代も中期に成ると牛鍋が東京でも庶民が頑張れば手の届く贅沢な料理として普及している様子が別の映画漫画でも登場します。
るろうに剣心ですね。
今年公開された“るろうに剣心 最終章 The Final”ですね。

幕末の横浜開港に伴って関内に駐在した外国人商人や英国、米国、仏国の軍人達の食生活の需要によって始まったのは神奈川県民と生粋の東京都民、そして神戸市民、京都市民には有名な話なんですね。
なので先ずは鬼滅の刃の地域は南関東で間違いなさそうです。
これがどう“鬼滅の刃”に繋がるかですが、小生は牛鍋と鉄道が無限列車編と遊郭編の舞台特定の判断材料だと思っています。
無限列車編で煉獄サンがアホみたいに牛飯を爆食いしてましたよね。
つまり食文化的的にも登場人物達が標準語を話している事からも舞台は南関東の可能性が高い訳です。
食文化と言葉で南関東と解りますが更に判断材料を探す必要が有ります。
そこで鉄道に着目して見ましょう♪
ー作中の鉄道の景色検証ー

これから迅速測図と言う江戸時代の地形が未だまんま残る明治時代初期に帝国陸軍が測量した地図を見て貰います。
小生のブログには良く登場する地図で、皆さんも見る事が出来るので御興味が有れば下のリンクから覗いて見て現在の地形と比較してみて下さい。
このシステムを作った農研機構の担当者の方からは直接「“農研機構”の名前を併記してくれればブログに転用して良いですよ~!」と許可を頂いてるので皆さんも是非活用して下さい。
関内周辺 久良岐のよし
上の地図が迅速測図、横浜市旧市街の関内地区や鉄道の様子です。
青で囲った水掘りの内側が“関内地区”で伊勢佐木長者町商店街近くの“吉田橋”に関所=入国管理局が作られて、内側が幕末から外国人居留地に指定されていました。
画面中央下に有る旧国鉄のマークが初代横浜駅です。
実は明治時代に鉄道開業された時の初代横浜駅の位置に現在の桜木町駅が有ります。
この日本最初の鉄道は何やら海の中に線路が敷かれてますよね?
皆さん何か気が付きませんか?

鬼滅の刃の無限列車編の第一話で鉄道が内陸部を走っていましたよね?
これは当時の横浜駅⇔新橋駅の景色ではありません。

実は“晴天を衝く”の渋沢栄一公が明治時代に最初の鉄道を引いた際に用地買収が難航し線路を海を埋め立てて敷かなければいけない区間が沢山有ったんです。
当時の埋立地はとても重要な先進地域でしたし何より海沿いを走るので無限列車編の様に原野や山林が広がる景色は先ず有りませんでした。

丁度この初代横浜駅時代の線路跡が高輪で発見されてニュースに成ったばかりです。
この様に東京⇔横浜の路線は海沿いを走っていた訳で、無限列車編のモデルは新橋~横浜間に次(つ)いで早くから開業され牛鍋弁当が食べる事の出来た“中央線ではないかな?と推測しています。
実は食肉を早くから提供する地域が現在の東京都内、明治初期は神奈川県に組み込まれていた某都市でも存在したんです。
町田市~八王子です。
多摩地区に横浜東京と同時期に食肉文化が根付いたのには実は“道”と“シルク”が関係しています。
幕末~大正時代、日本の主力貿易商材はシルクと陶器と漆器、海産物では干鮑、干海鼠でした。

現在の群馬県~埼玉県~東京都多摩地区は養蚕が盛んで、世界遺産登録されている富岡製糸工場のオーナーは横浜の原財閥でした。原財閥は何故群馬に投資したかと言うと、シルクは全て幕末に貿易港として開港された横浜港から輸出されていたから流通網が成立していたんですね。
嘗ては群馬や秩父や八王子産の生糸を使って生産されていた“横浜シルク”は日本人が知らなくなった今でも世界では名が通っていたりします。
このシルク輸送の拠点だった町田は江戸時代にも“馬借”つまり馬を使った運送屋がいて、町田や八王子には“馬肉食文化”が在ったので、牛肉食文化もシルク輸送の国際貿易商材化によって早くから知られ普及した様です。
そうなると東京~八王子間を通る訳で当然ながら食肉文化の根付いた地域と言う条件にも合致し、尚且つ炭治朗の出身地の雲取山周辺の多摩地方~秩父地方にも近い地域に当ります。
小生はこの“食文化”と“シルクの街道”を踏まえた上で、以下で紹介する鉄道史から、無限列車編の舞台は横浜では無く食肉文化が大衆化した東京~地方都市、多摩地方か秩父地方だと推測しています。
よって・・・
無限列車編は恐らく中央線で東京⇔甲府の間、それも谷間ではないので八王子辺りのどこか。
・・・と小生は推測します。

ー次に遊郭編ですー
言葉から首都圏の遊郭なのは間違いありません。
昭和三十一年(1956年)の売春防止法、昭和三十四年(1959年)の風俗営業等取締法まで東京周辺には有名な遊郭が有りました。
時代的に下の遊郭が候補に挙がりそうです。
1つ目は江戸時代から存在する吉原遊郭、元は日本橋に有りましたが火事で現在地に移転しています。
  当時は水掘りで囲まれた完全に一つの町全部が遊郭でした。


2つ目は幕末に発展した横浜の港崎遊郭の移転先横浜市の永真遊郭は真金町遊郭と永楽遊郭を合わせた大遊郭でした。
真金町遊郭は笑点の司会だった歌丸師匠の御実家が遊郭の経営をされていた事で有名です。
永真遊郭の歴史は花街の歴史を専門に調べてる“知の冒険”と言う良いブロガーがいるので、そっちの記事を読んで見て下さい。


3つ目は川越に有った西小仙波遊郭です。
こちらはちょっと資料を元に歴史を掘り下げてる詳しいブロガーも知らないし史料も手元に無いのでスル―します。
この他にも横須賀にも遊郭が数ヶ所有ったそうです。
横須賀の方は知の冒険が詳しく書いているので読んで見て下さい。


知の冒険の中の人は自分で取材してシッカリと記事にするタイプなので良い参考になると思います。
遊郭編第一話の最後の方で巨大な遊郭らしき街並みが出てたので東京に有った吉原遊郭だと普通に思います。
遊郭の場所検証は以上(笑)。

次は炭治郎の家ですね~。

【4】竈門家の所在地
ー炭治郎の実家ー
炭治郎の実家は雲取山の近くだそうですね?もう特定されてんだからヤル事ない!
・・・とは成らない!
先ず雲取山の地形を見ると畑も無いので林業と狩猟しか有りません。
そして本当に雲取山に住んでいたらな集落から離れすぎており補給が無く車が無い時代には生活は無理でしょう。
炭焼き小屋を知らない人は山の中で良いジャン?とか言いそうですけど、炭焼き小屋は集落の近くの山に有りますからね?そもそも実家も雲取山周辺の集落と言う意味だと解釈した方が良いでしょう。
ー炭治郎カナヲ夫妻の居所ー
次に炭治郎とカナヲ夫婦が何処で結婚生活を送ったかを考えてみましょう。
炭次郎の家系は初婚年齢が低い傾向が有る様なので婚期が比較的遅い都市部より、初婚が比較的全体的に早い漁村か農村に定住していたはずです。
あくまで雲取山周辺の農村で亡くなるまで家業の炭焼きや農業に従事した可能性が高いですね(もう答えでちゃったよwww)。
さて、先に言いましたが炭焼きは余りにも人里から離れていると商売として成立しません。
売る相手に届ける事が出来ませんからね、しかも当時は徒歩ですから。
雲取山の近くには3つの集落が有ります。

埼玉県秩父市、東京都奥多摩町、山梨県丹波山村
以上の3か所が候補地としてあがり、これは3都県でウチだよ論争が始まりそうですね。
個人的には現実的に考えて奥多摩町日原の集落の様な気がします。
そこからだと旧国鉄青梅線が1894年に開業しており日原の集落から徒歩でも馬でも01時間40分と生活圏に成り得ますし、農業を営むなり山を持ってれば昭和中期まで林業で食べれたでしょう。
ただ秩父市側も集落が有りますから其方側でもおかしくは有りません。
炭治郎が「禰豆子は町でも可愛いって評判だった」みたいなセリフが有るので農村か町近くの山間に住んでいる事は間違いない訳ですから“日神神楽の伝承者”なので住所を家系的に知られてはいけない事情が有ったか、若しくは“雲取山に家系の秘密が有る”から雲取山と言った内のどちらかの理由が無いとセリフと整合性がが取れないですよね。
故意に3都県に跨る雲取山と言って置けば少なくとも住所が県から隠す事が出来ます。
まぁぶっちゃけると雲取山は生活拠点には成り得無い場所ですが、その周辺のどっかには居たかもしれません。

偶然だとは思いますが丁度、雲取山の周りには炭治郎だけが使える特殊な呼吸の“日神神楽”=日の呼吸に関係しそうな地名が雲取山の麓に有ります。
それが雲取山の山麓の太陽寺や日原街道や日原川や日原鍾乳洞です。
林業と狩猟が主産業だった農村部なので子供達の婚期もたいそう早かったでしょう。
ならばアメリカ軍の空爆を受けず、農村部で食べ物にも困らず戦争を乗り越えていると考えた方が自然かも知れません。
この辺りは確かにクッソ田舎(笑)なのでポツンと一軒家状態だったか、それか山麓に住んでいたかも知れませんが、仮に夫婦で実家に帰っていた殿ならば第二次世界大戦で米軍の東京大空襲が始まっても影響なく畑を耕し戦時中も食べる事にも困らず無事に生き残れた筈ですし、彼の事だから戦時中は禰豆子と善逸夫婦や伊之助とアオイ夫婦を受け入れて疎開させてあげて共同生活をしていたかも知れませんね。
元々から雲取山とネタバレされてるのですが、雲取山じゃあ~子育てしながら自給自足は厳しいよ!と言う事は解りましたので、家も集落だったろうし秩父市横瀬町か東京都奥多摩町から徒歩1時間くらいの村と言った所だったかも知れません。

因みに私の義祖母は戦時中の食糧難の時に横浜市中区根岸から当時は森の中で林道でしか繋がっていなかった港南区港南台の円海山の鷹巣と言う地域の農家を営む知人の家まで農作物を分けてもらいに今の磯子区杉田まで路面電車で行きソコからは徒歩で1時以上かけて行っていたそうです。
そう、炭治郎達の時代は既に路面電車も走っていたので、漫画の世界観は完全に“るろうに剣心”と同時代位に歴史オタクからすると見えてしまうんですね。

当時は一般人は車なんて無かった時代ですから、逆に農家が街に農産品を販売に行って現金を獲得に行ける距離も徒歩でも町までせいぜい片道1時間前後くらいが限界だった様で、横浜市でも町から1時間も離れた地域は高度経済成長期の自然破壊で宅地造成されるまで完全に森でした。それより更に山奥に入ると鎌倉~横浜間の尾根道沿いにだって集落なんか有りません。
その横浜市磯子区~港南区の昭和三十年代と当時の様子を比較すれば、人口の増え始めている大正時代よりも更に以前は猶更の事ですが人里から離れて炭焼きでも生活なんて成り立たなかった事が理解して貰えるかと思います。
※下の地図と航空写真は先程説明した同一地域の史料です。クリックして拡大して見て下さい。
時代別比較
上から国土地理院標準地図、1945年終戦時空撮、2019年時点の空撮です。
現在の感覚だと近い場所も、炭治郎達が中年だった頃もまだまだチョットしたハイキングくらいの強度の山登りだったので、もう山奥には人なんか住めないと言うのがこれで御理解頂けるかと思います。
田舎で今では廃村に成ってる場所も、自動車が主流に成るまで徒歩の街道で実は集落だったんですね。

地図を読むのが不得意な人は、江戸時代~明治~昭和で全然道も地形も人の住む場所も違う事が良く解る炭治郎達も往来したであろう甲州街道旧道の解説動画が有るので、興味が有る人はこのシリーズを見るかと良いと思います。
この“うめごーるど”サンはちゃんと古地図を見て検証しているので参考に成りますよ。

【5】日の呼吸の由来。
次に炭治郎とカナヲ夫妻の安住の地の推測で結びついてしまった“日の神神楽=日の呼吸”の正体を考察してみます。


――日の神神楽の正体――
雲取山周辺の太陽時とか日原街道や日原川や日原鍾乳洞の地名と、秩父地方や奥多摩地方には三峯神社や武蔵御嶽神社と言う倭建神話の舞台が偶然会ったので原作者は“日の神神楽=日の呼吸”を思いついたと思います。
つまり只の地域性と地名の思い付きじゃないかな~?
――――――――――――――――――――――――
以下、日の神神楽を歴史オタクが周辺の古代史、中世史で由来を補強して見る(暴走)。

さて、炭治郎と禰豆子の竈門家の出身地が設定で雲取山の周辺と言う事と周辺地域の話に2つの考察で触れましたよね?
①鬼滅の刃の物語開始時の元号特定で触れた食文化と鉄道史と街道の歴史。
②彼等の寿命が関東大震災や第二次世界大戦が関係してくるケースと、帰郷していれば影響を受けない事の解説。
この解説に周辺地理と古代史と武家の歴史を合わせると・・・

日の呼吸の設定も若しかしたら説明が出来てしまうかも知れません。

――以下無理矢理解釈――
※本当にコジツケですが炭治郎の家系が日の神神楽を継承した理由を“推測(捏造)”してみます。
・・・では日の呼吸の設定を原作者が意図していたかは不明ですが(笑)、小生が歴史で無理矢理こじつけてみましょう~www♪

どうやら日の呼吸、神話と関係が有るかも知れませんよ?
・・・最期まで読んだら本当に全部繋がるよ・・・

日の呼吸は神事で舞う神楽(かぐら)として伝わっている事から、炭治郎の家は「代々炭焼き」と本人が言っていますが、それは有り得ません。
神職(社家)と成った古代の豪族か平安時代頃の武士の家系だった可能性が有ります。
炭治郎は直近の家系図しか見せられてない可能性が有ります。
その証拠に本当に“只の炭焼きだったら有る筈の無い“家系図”が彼の家には存在している”んですよね?
しかも山奥の炭焼き職人なのに“字を読める教育を受けている”事と更に神事として武技である“日神神楽”を継承し舞っていた事が判ります。
実は炭焼きが本業の様に成ってしまっているものの、本来は社家(神職)であり武家だったのが開けた土地を避けて山に住んでる理由があるハズです。
そもそも“日の呼吸”は神楽な訳で神前に奉納する儀式な訳です。
皆さん身近な所だと相撲取が土俵の上で弓取り式を行いますよね?
アレも古代の神事の名残りで、応神天皇=八幡大菩薩=八幡神が弓の名手で悪鬼を射殺した退魔の伝承から、土俵を清める意味で行われる儀式です。

神話の時代に当たる弥生~古墳時代は主力兵器が弓でした。
古代の合戦は合戦でも弓合戦。
石斧や石槍でも戦ったでしょうが、金属器が未だ高級品で指揮官クラスの装備品でしたからね。
東京国立博物館所蔵 土偶画像借り物 久良岐のよし
良く古墳で見る埴輪のコンナ⤴立派な金属製鎧は上級指揮官である豪族の長や王族しか着れない物でした。なのでマトモな金属甲冑は下級兵士に配備されて無く皮の鎧と木の楯だけの時代は石鏃(せきぞく)の鏃(やじり)の弓でも十分に殺傷能力が発揮できたし、先進地域では青銅製の鏃を用いた軍勢も極少数いたかも知れません。
なので、当然ながら古墳時代の大王=天皇であった応神天皇=八幡大菩薩は弓が得意と言うのは武技として優先して学習する技能だったので当然と言えば当然な訳です。
しかし青銅の剣や鉄剣は当然存在したので、倭建は叔母の倭比売(ヤマトヒメ)から権力者の象徴である草薙剣(クサナギノツルギ)を授けられた上で与力の将兵も付けらています。
弥生時代~古墳時代の転換期に当たる倭建命と伯母チャンで伊勢神宮の斎王だった倭比売の頃には剣を使った神事が出来ていても何らオカシくはない訳です。
この将兵が広島~岡山当りを治めた古代豪族の吉備氏と、今の大阪辺りに大伴氏の軍勢でした。

倭建の叔母に当たる倭比売は伊勢神宮の斎王を務めていた人物で、太陽神である天照大神を祀る人物でした。
この天照大神の存在と大伴氏が日神神楽に関わってくる事に成りますが、もう暫く炭治郎の出身地周辺の古代の豪族と神様の関係の説明を続けます。余談ですが倭建は草薙剣だけでなく天石楯(アマノイワダテ)と言う楯も装備していて、これは相模原市の名倉権現石楯尾神社の場所に埋蔵してと伝わっています。
丁度、知々夫国(秩父市)から大和国(なら)や河内国(大阪)方面に帰還する時は、相模原市を通過して猿橋渓谷を越えて甲州経由で戻るので楯を埋めたかは解りませんが、まぁ古代の奈良への道程としての伝承としては考えられる経路ではあります。


炭治郎達がいた多摩地区~秩父地区は倭建伝説も残る地域ですが古くから知々夫国造(ちちぶくにつくりのみこと)と言う神話(弥生~古墳)時代から続く豪族王がおり、この一族は氏神として信仰した天下春(ウワシタハル)と言う神様を祀る一族で、古代豪族の九州の佐伯氏や大阪の住吉神社を氏神とした大伴氏の一族と考えられています。
実は炭治郎と関係の有りそうな秩父地域とは雲取山を挟んで反対の多摩地区では武蔵七党と言う古代からの豪族がいました。その中で古い一族に“日奉(ひまつり)”氏がいます。これが正に倭比売によって東征する倭建に与力として与えられた大伴氏の子孫に当たる一族で、その一族の一つの氏姓が“日奉(ひまつり)”氏なんですね。
モロに裏設定として“日の呼吸”と関係してそうな苗字でしょう?
更にこの日奉氏は平安時代に武蔵守(むさしのかみ)として武蔵国府の府中で東京・埼玉・川崎・横浜の大部分の知事を務めた一族の子孫にも当たります。
府中市の大國魂神社が古代からの武蔵国の国府の跡と考古学的に考えれれていますし、江戸=東京が中心に成ったのは徳川幕府からの比較的新しい話なんです。
相模国一~六之宮 久良岐のよし
※コレ⤴縄文海進で海だった場所に延喜式内社は先ず存在しない。ただ古墳時代に成立した相模国五之宮格の平塚八幡宮と相模国四之宮の前鳥神社以外は全て古代の海岸線ギリギリに存在している。
しかも江戸初期に成っても江戸=東京23区の大半は古代の海の底で江戸時代初期も湿地だったんですね。ハッキリ言って水害リスク高いのに何で住んでるのか解らないのが江東区や墨田区や中央区辺り。
徳川家が江戸に入府した頃は人が住める場所は比較的少なかったので徳川幕府が埋め立て工事をしまくり、台地に三田用水を引いたり、元海だから井戸掘ってもロクな水が出ないからわざわざ羽村市から玉川上水を引かないといけなかった。
浪人達にも湿地の開墾を認めて段々と耕作地に変えて居住可能地域を拡張して行った場所が、今の足立区とか江東区とか墨田区とか江戸川区とか葛飾区辺りなんですね。
なので日奉氏初め分家一族の平山氏や立川氏、小宮氏等の古くから定着していた豪族は多摩丘陵方面に領地を持っていた訳です。

その一族が武蔵七党の一つ西党の一族として支配地を拡大し繁栄しての支配地が雲取山の南側の多摩地方一帯で鎌倉時代にも源頼朝公の御家人なりました。
この日奉氏の苗字は日野市の日野の地名由来と考えらえており、日野市の日野宮神社は日奉氏一族の氏神だったりします。


例えば裏設定で・・・
倭建に従った大伴氏で秩父地方に土着した知々夫国造、横浜市域~三浦半島に土着した大伴氏、それらの中間地点の雲取山~多摩地方辺りに日奉氏が土着して、古代には雲取山で知々夫国造、日奉、大伴部を神職として束ねる役割が太陽のプロミネンスを司る竈門家で神話の時代の倭建命と伊勢神宮の斎王の倭比売から受け継いだ天照大神の力を得る破魔の神事と剣技を合わせた神事として継承したのが“日神神楽=日の呼吸”だった・・・
・・・とかだと、竈門家が対鬼に異常な戦闘力を発揮したり“日神神楽”を継承していた事と、鬼化してしまっている禰豆子が日光を浴びても消滅しない耐性が有る事も全て天照大神の加護と破魔の力を倭比売と倭建命から授けられた大伴氏の子孫の中でも特別な豪族武将であり神職を司る人物の子孫だからと設定すれば全ての事に辻褄(つじつま)が合うかと思います。
地理、神話、特殊な家系、特殊な日の呼吸の秘密、全てに整合性がでます。

では残る一つの疑問、何故(なにゆえ)秩父市の山奥か奥多摩町の日原川流域成り雲取山なんて言う山奥に細々としていたかですが、コレも日奉一族の子孫の武士、武蔵七党の歴史を持ち出すと説明出来てしまいます。


例えば漫画の竈門家が古代の退魔の神事と武術を継承した特別な一族で、彼等、武蔵七党の神事を司る聖職者で調停者だったと設定します。
日奉氏と子孫の平山氏等武蔵七党西党は鎌倉幕府の源頼朝公に仕えてからも繁栄し戦国時代にもと呼ばれ小田原北条家に仕えましたが、善政で有名だった小田原北条家が豊臣秀吉に滅ぼされた際に滅亡してしまします。
木下藤吉郎時代⤵️の秀吉公。
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まぁ竈門家は史実では存在しない家系ですが、例えばこの秀吉に一族の西党や武蔵七党が滅ぼされた際に竈門家の祖先が倭建命に鬼を狩る役目を授かって以来、倭比売に授けられた天照大神の退魔の力を発揮する日の呼吸を神事として伝え続けていたので、特殊な力を豊臣秀吉や徳川家康公に悪用されない為に山深い雲取山周辺に隠れ住む様に成った・・・
とかコジツケたら全てに整合性がでますね~。
このコジツケを可能にする有名な神社が幾つか有り、それが先に紹介した知々夫国造と倭建命関連の神社仏閣なんです。
・・・が、作者はそこまで考えてないと思います。
秩父地方の三峯神社や多摩地方の武蔵御嶽神社の他にも神奈川県の旧相模国域には多く、この倭建と大伴の関与した神社が在ります。
そして、それらの神社や豪族や倭建命と関係の有る神社が他にも多く有り、しかも古代の海岸線沿いに全てが存在しているんですね。
その神社の中で知々夫国造や日奉氏の関係する天下春命と言う神様の神社分布や倭建神話を繋げると、無理矢理、竈門家の由来を倭建命の東征に協力した大伴氏にルーツを作れる話を先にしました。
この話、竈門家のルーツ推測(捏造)としては十分だと思いますが、もう少し神話を現実的な考古学的な解説として話したい思います。
古代の海岸線と式内社式外社 久良岐のよし
古代海岸線だった影響が実は近世に成っても続いていて現在の神奈川県伊勢原市域、平塚市域、茅ヶ崎市域は大正時代の関東大震災の水害発生後に治水工事で大規模な河川の流路の改編や埋立工事がなされるまで湿地と湖、砂丘が多く残っていました。
その影響で当然ながら古代東海道の矢倉沢往還や三浦半島の走水に抜ける古東海道(旧東海道より更に以前の古墳時代~平安時代の道)の街道も、古代の湾を避ける様に繋がっています。
この古代の海を避けて通る古街道の神社には西暦900年代の醍醐天皇から見ても古く由緒の有る神社だったので延喜式と言う政令の中で延喜式神名帳と言う朝廷が支援し保護すべき神社を定めた一覧に掲載されいるばかりが並びます。
又、神社では無く明治以前は修験道の聖地化していたので掲載はされていないものの古代から存続する伝承を証明する様に縄文~古墳時代の遺跡を内包する古社が多く有ります。

この延喜式内社の内、神奈川県中央部まで食い込んでいた古代の相模湾の東岸北部~炭治郎の住んでいた多摩方面まで小野神社と言う古社が点々と存在しており、この小野神社の御祭神が天下春命です。
厚木市の閑香明神小野神社は現在は御祭神が倭建命ですが、元は天下春命が御祭神でした。
この地域、つまりは古代に大伴氏の勢力圏だったと言う事です。
更に北上すると多摩地方~秩父地方に辿り着きますが、秩父地方を古代に治めた知々夫国造(チチブクニツクリノミヤツコ)は大伴氏の末裔と考えられています。

そして南側、今の横浜市神奈川区六角橋辺りも大伴久応と言う古代の人物が倭建を歓待したと言う伝承が残り付近には神大寺と言う寺院が室町時代に兵火に焼かれるまで存在していましたが、その近くの宝秀寺と言う寺院が大伴久応の邸宅跡と伝わっていたりします。
又、倭建が妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)と滞在した三浦半島横須賀市走水の御所ヵ崎では大伴黒主と言う古代の人物が接待をしたと伝わっています。

これらの話、実は大伴一族が分布していた範囲の証明に成ると思っています。
昔、神奈川県は川崎市全域と横浜市南西部を除く地域が相模国でした。その相模国の成立前は更に磯長(しなが)国と佐賀牟(さがむ)国だった様で、当時はどうやら相模国だけではなく武蔵国も成立しておらず知々夫国造がいた事から武蔵国北部つまり今の埼玉県には知々夫国が存在ていたので、その地域を除いた武蔵国の残る東京都南部と東部と地域神奈川県の東半分と合わせて佐賀牟国だった様です。
それらが古墳時代の終り頃に国が再編成されて・・・
磯長国は消滅して佐賀牟国の西半分と併合されて相模国。
知々夫国は消滅して佐賀牟国の東半分と併合されて武蔵国。
・・・この様な大改革が在った様です。
神奈川県の橘の地名が残る湘南の大磯町や二宮町に川勾神社と言う延喜式内社が有ります。

この神社の御祭神が級津彦(しなつひこ)、級津姫(しなつひめ)の夫婦神で磯長(しなが)国を開拓した古代豪族の夫婦神なのですが、その子孫と考えられる磯長国造(しながくにつくりのみやつこ)を務めた阿屋葉造(あやはのみやつこ)によって神社が造営されています。
この川勾神社を古墳時代初期の人物と思われる磯長国造の大鷲臣命(おおわしのみこと)、相模国造の穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)よって支援され祭器が奉納されたと伝承しているのですが、穂積忍山宿禰の相模国造は佐賀牟国造の誤記でないと同時代に磯長国造の大鷲臣命は存在できないので、穂積忍山宿禰は佐賀牟国造だった事が判ります。
さて、この穂積忍山宿禰と言う人物、実は倭建の妻の弟橘姫の父親と伝わっています。しかもこの一帯には橘の地名が残る訳です。

川崎市には橘樹神社と言う弟橘姫の装飾品を治めた古墳を御神体として遥拝所の位置に建設された神社が在ります。
そこに先程の小野神社の点在する神奈川県東部~多摩地域と秩父地方を合わせると、全て繋がった縦長の地域に成ります。
実はこの地域で三浦郡(三浦半島)と鎌倉郡横浜市域を除いた地域が全て古代大和朝廷の大王(おおきみ)の屯倉(みやけ)と言う直轄地でした・・・
即(すなわ)ち、久良岐郡、橘樹郡、多摩郡、横見郡の4郡でこれが全て先程の当該地域に当てはまる訳です。
そしてこの地域が古代大和朝廷の直轄地に成った理由が武蔵国造の乱と呼ばれており、武蔵国造小杵(おき/こづき)と武蔵国造使主(おみ)の同族間抗争で大和朝廷が使主側を支援し、混乱の懲罰的に久良岐郡、橘樹郡、多摩郡、横見郡を接収したと伝承しています。
式内社
つまり、この時に入植したのが大伴氏で、これを鎮圧したのが倭建だったかも知れませんね。
そして豪族に対して懲罰と豪族の勢力圏再編の為に武蔵国と相模国を再編したとすると、正に取り上げた久良岐郡、橘樹郡、多摩郡、横見郡が相模と武蔵の国境の緩衝地帯に成り、尚且つ大和朝廷直轄地なので豪族同士が手出ししようが無くなり正に関東を“鎮撫”する事に成る訳ですね。
更にこの範囲に正に倭建神話の神社が点在し、この武蔵国造の乱の主戦場だったかも知れません。
そこに炭治郎の祖先を大伴氏と仮定して、倭建が信頼する大伴部を緩衝地帯の4郡に入植させ豪族同士の争いを調停させたとしたら漫画の設定へ歴史が繋がる整合性も有り竈門家の神秘性にも話が繋げられ訳です。

まぁ、原作者そこまで古代の神話と考古学手的な事と付近の神社の歴史は知らず、普通に雲取山の周りに太陽寺や日原街道や日原側や日原鍾乳洞ってのが集まってるから“日の呼吸”とか思いついたのかも知れませんが。
そこら辺は原作者に聞かないと解りませんよね~。

地理で繋げて、考古学で繋げ、周辺の武家の家系を繋げ、神話で繋げて、竈門家と日=太陽=倭比売と倭建をこじつけ、竈門家が炭焼きで生計を立てていたのにシッカリした家系図が有る事を考慮すると・・・

日の呼吸=日神神楽の由来の出来上がり!

因みに倭建は神奈川県域と東京都域を鎮定した後で三浦半島の走水神社~海路~千葉県の富津・木更津方面へ渡り上総一ノ宮の玉前神社から古代の霞ヶ浦沿いに北西へ遡上して鷲宮神社に行き、秩父方面から甲州へ抜けて行った様です。

実は倭建は現在では1人の人物の様にされていますが、福数人の事業が倭建と言う古代の官職名で神格化されややこしい事に成ってると思います。
普通に考えて当時は九州征伐して関東も統治するなんて1人の人生の事業では無理でしょう?ならば元々古代の皇族のみが就ける大将軍の称号であった可能性が有るかも知れませんね。
九州を制圧した倭建が西暦200年代の弥生時代末期~古墳時代初期の皇族の将軍。
関東を制圧して武蔵国相模国再編を行った古墳時代の皇族の将軍であり今の天皇の祖先であろう人は別のはず。
今の行田市の埼玉古墳群の中の一つ、稲荷山古墳から出土した鉄剣には“獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)”の名前が金象嵌で彫られています。

この獲加多支鹵大王の名は、天智天皇の大化の改新の頃に大王(おおきみ)の尊称を捨てて“天皇”を名乗り始めた際に、過去の大王にも天皇号が別に追贈された際に雄略天皇と変えられています。
もし“タケル”の称号が大将軍を意味する古代の官職名だとすれば、倭建は当然ながら何人もいておかしくない訳で、それが神格化された際に一人の事績に習合されていると考えた方が自然ですよね。
そして景行天皇の皇子の間違いなく初代の倭建命は草薙剣を伯母から与えられており、雄略天皇も埼玉の豪族の乎獲居臣(ヲワケコノオミ)に鉄剣を与えている事も共通して既に宝剣を所持しており、この古墳時代に退魔の剣技を神楽として伝えた豪族将軍で神職を兼務し初代の倭建か古墳時代末の倭建だった獲加多支鹵大王=ワカタケルオオキミ=大長谷若建(オオハツセワカタケル)=雄略天皇に従軍した豪族大伴家の将軍の末裔が竈門家の祖先と考えれば・・・

日の呼吸が圧倒的に鬼狩に威力を発揮し、更に竈門家が太陽の加護を得ている説明に成りそうですね。

ちなみにこの雄略天皇は元々丹波国、今の京都市福知山市にあった伊勢神宮を現在の場所に遷宮した人物です。
つまり雄略天皇=ワカタケル大王も最初のヤマトタケル命も天照大神の依代(よりしろ)である伊勢神宮の斎王から天照大神の加護を得ていたとか言う、日の呼吸の由来はどうでしょう?
全て小生の神話と歴史と地理のコジツケですが(笑)。

①鬼滅の刃の世界観は慶應元(1865)年05月01日~明治二(1870)年08月末に鬼滅の物語のスタートとなる鱗瀧さんの手鬼逮捕が始まり、炭治郎と禰豆子は大正元年~大正六(1917)年08月末までに炭治郎は旅をスタートしている。
②登場人物たちが天寿を全うしたなら第二次世界大戦を乗り越えてカナヲと夫婦で炭焼きと農家を営み町の農協まで軽トラで収穫した野菜を納品しに行ったり、老後は孫と東京タワー見物に行ったり白黒TVで昭和の東京オリンピックや力道山の試合を観戦して楽しんでいた世代。
③無限列車編は中央線がモデルかも知れない、遊郭編は普通に吉原遊郭じゃないかな?
④竈門家の所在地は東京都奥多摩町日原川流域か埼玉県秩父市の何(いず)れか雲取山周辺のどこか。
ここまで⤴
ここは⤵まぁ、推測も何もコジツケかな(笑)?
⑤日の呼吸の正体の裏設定が有るなら、雲取山の周辺の地名の日原川や日原街道、太陽寺から原作者は思いついた筈。
⇒強引に解説するなら歴史オタク的には③に神話と古代史と武士の歴史を混ぜると日の呼吸と神楽の由来と竈門家の家系の歴史を原作に整合性有る設定にコジツケられますよ~。

名前の事件がどうつながって行って当時の歴史や文化背景がどんな感じだったかを知ってみると漫画もより生々しく面白く感じませんか?
・・・と言う、御話でした。
皆さんも横浜や東京や京都や神戸の町並みを歩く時に建物や橋の作られて時代を気にして見て下さい。それだけでも当時の人の姿が目に浮かび、洋食屋さんに行ったり郷土料理を食べるのも時を超えて同じ物を食べてる事が楽しく成ると思いますよ~♪
とりあえず皆さん、御店に“すきやき”食べに行ってみませんか(笑)?

追記⤵
色々と皆さん思う所はあって良いと思います、異なる意見も同意もあるでしょうし、1つの事をみても見え方が違うのが人間です。
例え夫婦や恋人でも共同生活者として説明する努力を怠ると分かり合えない訳です。
御自身の御意見が有る方は是非ブロガーに成られる事をおすすめします。
ブログはTwitterみたいな短文ではなく沢山資料と文字を共有出来ますから。
そうすると生産的でより多くの様々な情報を皆で共有する事が出来ます。
私のブログは読者が少ないので、仮に有意義なコメントを残して下さっても残念ながら衆目に晒される機会も略ありませんしね。
ここ⤵から皆さんもブログをはじめましょう~♪
livedoorやLineのblogプラットホームは使いやすいので是非、皆さんもブログやYouTube始めてみては如何でしょうか?

さて、本当にいい加減、瑞穂ふ頭の記事書きますので待っててくださいwww
何かブログ更新定期でも月刊くらいにしたいかも(笑)。

では皆さん、恐らく今週で紅葉も散り冬が訪れます。
風邪などひかれません様に、マスクと手洗いウガイ、アルコール消毒、毎日湯船に浸かって全身熱殺菌忘れずに!

宜しければブログに「いいね」と「読者登録」を御願いしまぁ~す♪

続きの記事⤵
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2021年12月12日現在、鎌倉市二階堂地区の獅子舞谷と瑞泉寺の紅葉が見頃です!
解説は文末に書くとして、先ずは昨日の写真を沢山貼り付けて見ますので参考にしてください。
写真の後に獅子舞谷を含めた“オススメの紅葉見物ハイキングコース順路”と、獅子舞谷の紅葉の簡単な歴史解説を書いて見ます。
瑞泉寺の紅葉の参考に過去記事リンクも貼り付けて置きます。

では!先ずは2021年12月11日の獅子舞谷の紅葉の写真を御覧下さい。
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前回の記事⤵

これの続き。

前回は寶樹院高照寺が元は侍従側沿い、昔の海辺に向かう谷の三艘谷戸に存在した事と、高照寺が隣の谷戸に有った廃寺常福寺の歴史と歴代住職の菩提を引き継いでおり、常福寺は元は室町時代の足利幕府鎌倉公方足利持氏公の祈願所で金沢文庫の由来に成った稱名寺の末寺だった事や今の大道一帯を寺領として所有しており関所を設けて関税を徴収して反映していた歴史を紹介しました。

今回はその寶樹院の現代の施設の様子を紹介したいと思います。
現在の寶樹院は高台の上に在ります。
CIMG0483
境内から見た景色はこんな感じで、昔はこの御寺の下の近くまで海が入り込んで来てたんですね~。
ここなら関東大震災が起きて昔の海の部分に津波が遡上して来ても安心ですね。

KIMG1406
高榮山 寶樹院 高照寺実は古代の‟延喜式内社”と呼ばれる西暦900年代の醍醐天皇が政令で‟朝廷で保護しなさい”と定めた神社や弘法大師様が開いた御寺は古代の海から湿地帯に成った場所を避けた丘の上の郡衙(ぐんが:郡庁舎)跡地や縄文弥生古墳時代の集落の跡地から聖地化された場所や、昔は山の尾根道が主要街道だったので山道の入口の飲用水補給基地に成る湧水の沢や滝や池が聖地化されて寺院が建てられる事が多いんです。
寶樹院の近くで弘法大師様が関与した場所だと、南区の弘明寺、鎌倉市の覚園寺、今は浄土宗で元は真言宗だった鎌倉今泉の称名寺なんかが正にそういった背景が有る場所ですね。
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でも高照寺の移転時期は江戸時代なので、もしかしたら三艘谷戸の旧境内が火災で焼失して移転して来たのは、地形的に最初から津波対策を期待されての事だったかも知れませんね。
実際、衛星画像に古代の海岸線の画像を張り付けると寶樹院の手前まで海だった事が解ります。
六浦周辺の古代海岸線 久良岐のよし
青い色の地域が昔の海なので、高照寺は安全圏ですね~。
大道の皆さんは大地震が起きたら高照寺に逃げ込んだら良いと思う。
さてさて、そんな訳で高台に移転している高照寺ですが、地形上参道の階段もちょっと長くしたからでは御堂が見えません。
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この下の階段を上って真っ直ぐな階段の下に行くと、小泉さん家の菩提寺なのが判ります。
CIMG0485
この階段の手すりの前の石柱に注目して見ましょう。
KIMG1404
もろに‟小泉家”って書いて有りますね(笑)。
実は小泉元首相の御爺さんの又次郎サンの代まで大道に住んでいた御縁で今でも菩提寺なんです。
昭和28年09月と彫って有るので、又二郎さんが亡くなって2年後に寄進されている様です。
つまり小泉孝太郎君の御爺ちゃんで又次郎サンの婿養子の小泉純也サンが寄進している事が解ります。
階段を上ると御本堂が有ります。
CIMG0486
寶樹院高照寺としての御本尊は大日如来様です。
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常福寺の歴史を受け継いでいるので、足利家に使用を許された足利家の家紋の‟二つ引き両紋”の寺紋に成っています。
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彫刻はシッカリした物ですが木材を見ると御堂が最近再建されている事が解ります。
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扁額は新しい様ですね。
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この家紋の由来も来たけれどちょっと忘れちゃいました(笑)。
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屋根の家紋も独鈷と余り見た事の無い寺紋が使われています。
昔御寺に関わった武家の家紋でしょうか?
御寺の奥さんに聞いたけど、こちらは良く解らなかったと思います。
KIMG1414
そして御寺には真言宗らしく御地蔵様も祀られています。
御本堂の前には小泉さん家との繋がりが良く解る物が有ります。
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小泉元首相が植樹した樹。
KIMG1411
立派な枝ぶりですね~。
元々どっかの造園屋サンが持ってた高価な庭木を買って来たんでしょうか?
御本堂の左手には阿弥陀堂が有ります。
CIMG0490
こちらが常福寺の歴史を引き継いでいる建物です。
CIMG0491
御堂の前には御由緒書きが有ります。
常福寺が鎌倉幕府設立前から有る由緒正しい御寺だった事が解りますね。
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阿弥陀堂と書いて有ります。
この中を覗かせて頂くと・・・
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鎌倉幕府や室町幕府鎌倉将軍府を守護して来た常福寺の偉い歴代住職の菩提が今も寶樹院高照寺の御住職によって祀られています。
ところで、この高照寺の裏手駐車場側に気に成る地形を見つけました。
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鉄塔の手前に削りの押された岩盤、明らかに元々はあの高さに矢倉(横穴式墳墓)が有った様なので、下の常福寺跡~この江戸時代に移転して来た高照寺の境内は一体に成っていたんでしょう、尚且つ、この高台には人の往来が有る道が有った様です。
つまり未開の山を開削して開いた寺院ではなく、もともと常福寺に纏わる御堂か有った削平地も有ったのかも知れません。
それと常福寺跡の奥の歴代住職の御廟所ですが・・・
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この場所の地形が明らかに要塞化されたいた様な形跡が有り、尚且つこの今は人の往来の無い場所は古道で朝比奈峠に繋がっていた間道だった様です。
KIMG1423
直角に切り抜かれた平場と裾切された地形が今も残っています。
なので高照寺の墓地の地形・・・
CIMG0479
CIMG0480
こちら側の今は高い所に残された矢倉跡の位置を通る山道も昔は比較的人の往来が有り、もしかしたら足利持氏公か足利成氏公の時代に京都の幕府勢力に付いた上杉家との戦闘を想定して要害化されていた時代も有ったのかも知れませんね。
上行寺の伝承を見るに、状況証拠的に昔の海を挟んで対岸の御伊勢山と権現山は荒尾城として要害化されていた様ですから、こちら側にも防御構造は多少は作られていなければ可笑しいですから。

いずれにせよ、昔の平安時代には常福寺が存在していたので平安時代の道は尾根道ですから、普通にこちらの山も鎌倉に抜ける道だったんでしょう。
そして、その歴史を持つ地形から大地震の時の津波から逃げるのに適した場所でもある訳です。

昔は鎌倉将軍に大切にされ、最近では内閣総理大臣を輩出した御寺、強い御利益も有りそうですね。
今では住宅街の裏山の普通の規模の御寺ですが、スゴイ歴史が有るのが前回の記事と合わせて御理解頂けたでしょうか?

きっと皆さんの御近所にもスゴイ歴史偉人との関わりの伝承を持つ神社仏閣が有るはずです。
ちょっと街の中を御散歩して、城址の公園や御寺や神社を散歩してみませんか?
そこで説明の看板を読んでみて、凄い人との繋がりを知ると自分の地元をに誇りと愛着を更に感じれるかも知れませんよ?

・・・では今日はここまで。又次のブログ記事でお会いしましょう~♪

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観音崎灯台、海水浴場の記事⤵
コレ⤴で少し触れましたが未だ単独の記事に書いていなかったので今回、観音崎灯台単体で解説する事にします。
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観音崎灯台
小生は最近まで知らなかったのですが、日本全国で中に入れる灯台は16ヶ所しか現存していないそうです。
その中の一つが観音崎灯台で、観音崎灯台は日本最初の近代灯台で、慶応二年(1866年)にアメリカ・イギリス・フランス・オランダと日本の間で締結された江戸条約に基づいて建設されました。
この観音崎灯台には多々良浜側からも観音崎海水浴場側からも行く事が出来ますが、風景が綺麗なのは観音崎海水浴場側の遊歩道でしょう。
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この海岸沿いに観音崎灯台に至る階段まで遊歩道が整備されています。
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この神奈川の景勝50選の碑文の奥に見える海岸沿いを歩けるんですよ。
少し歩き進めてみましょうか♪
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この突き出した構造物は戦時中の海堡(かいほ)と呼ばれる防衛施設の一部の跡です。
形状からすると小田原の御幸浜と同じ様な砲台の跡でしょうかね~。
もう少し海沿いを歩くと下の写真の様な場所に出ます。
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別日に撮影した写真ですが、観音崎灯台に向かう途中には砂浜だけでなくて、こんな岩礁も有ります。小さな御子さんのいる家族連れでの訪問なら網と虫かご持ってきて水辺を観察したりすれば良い思い出作りも出来るでしょう。
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夏場海水浴シーズンなら綺麗な野莞草(のかんぞう)の花を見る事も出来ます。
更に奥の方へ歩いて行くと道は石畳の遊歩道に変わります。
観音崎灯台は東京湾の入口に有るので房総半島まで直線距離で8kmしかない場所なので、倭建と弟橘姫の夫婦神が東京湾を船で横断した神話の舞台だったりします。
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観音崎灯台の有る丘の上に繋がる階段を登る前に公衆トイレと自動販売機も有るので写真の女の子達の様に東京湾を見てユックリ休憩できます。
そんな場所なので当然、房総半島も三浦半島も見渡す事が出来てとても風景の美しい場所なんですよ。
実はこの辺りには明治時代までとっても立派な神社と御寺が一体に成った神仏習合の寺院が存在しており、景勝地として大変に栄えていました。
観音寺絵図
現代では絵図にしか残りませんが、この御寺は“観音寺”と言う御寺で観音菩薩像が御本尊だったので、これが観音崎の地名由来に成りました。
この観音寺は明治時代に成ると観音崎要塞の建設で隣の亀崎に移転させられ、更に現代に至り火災で完全に消失してしまいました。
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しかし名残も有り、この海蝕洞窟の中に地元の方によって奉納された観音菩薩像と説明の看板が立てれれており昔の歴史を垣間見る事が出来ます。
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元々は奈良時代の行基大僧正が関わった場所だった様なので、倭武命が走水に来た弥生時代末期~古墳時代の聖地ですが、奈良時代の人にも大切にされた聖地であり海上交通の要所だった様です。
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この洞窟の前を通過して直ぐに公衆トイレが有り、写真のベンチがさっき、女の子達が座っていた場所ですね。その更に少し奥の右手側に灯台に上る階段が有ります。
この遊歩道を真っ直ぐ行くとトンネルが有って多々良浜側に歩いて行けるのですが、2020年8月現在は2019年の台風の土砂崩れの影響で未だに通行止めのままです。
ちなみに復興の責任者は上地横須賀市長では無く、黒岩神奈川県知事です。
鎌倉市のハイキングコース遊歩道や釈迦堂切通しも未だ復興していないので知事には頑張って頂かないと困りますね。
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この海岸の道が灯台から見下ろすとコンナ感じです。
高所恐怖症の小生には玉ヒュンの絶景です(笑)が、散歩したら気持ち良さそうな道なのは伝わるかと思います。
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その遊歩道の階段を丘の上に登ってくると灯台が有ります。
入場料金300円と安いのですが観音崎灯台の構造や歴史を開設した小さな博物館を併設しており、更に灯台の上にも登れますし灯台の下にも展示物が有る他、展望台に成っているので綺麗な景色を見渡す事も出来ます。
では、先ずは灯台の周囲を見学して見ましょう~。
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灯台下の展望台はコンナ感じで房総半島の鋸山が見えたり・・・KIMG0101
・・・フェリーが東京湾を行き交う様子が一望出来ます。
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そして昔使われていた灯台の設備の一部が常設展示されており、触れて見る最近の歴史博物館と同じコンセプトの展示がされています。
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上地市長は文化史跡の保護や再利用に熱心な方だそうで、江戸時代の浦賀奉行所も復元して子供達の教材や史跡として再整備する計画を構想してらっしゃるそうです。
早くから外国と関わっていた横須賀市の市長らしく、東京から来て横浜市長に成った人より郷土愛が有る上に子供達の教育に熱心ですね♪
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灯台の受付の有る建物には展示館も併設されているので、灯台の事を学習出来ます。
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こんな感じで昭和初期まで手動で動かしていた灯台のレンズの構造を触って理解する展示物や・・・
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昔の設備とかも展示されてます。
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この模型が初代の建物の復元模型だそうです。関東大震災で倒壊して現在の建物に建て替えられたそうです。
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映像解説等も有るので、中高大学生位が来ると近代史の学習の一助に成り理解を深める事が出来ますね。
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初代の灯台を設計したヴェルニーさん。汐入のヴェルニー公園の元に成った江戸幕府横須賀製鉄所=現在の海上自衛隊横須賀基地のドッグや城ケ島灯台なんかを設計した人物で、今の日本が存続しているのはこの方と小栗上野介サンがいたからと、対馬海戦でロシア帝国のバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎元帥が証言しています。

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ヴェルニーさん無くして近代日本ナシ!
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ネトウヨは日本人が単独で近代化した様な妄想を信じ込んでる比率が高いんですが、実際はイギリスとフランスの協力無くして近代日本は成立して無い事が、この観音崎灯台や横須賀市の歴史史跡を巡(めぐ)ると良く理解出来ます。
観音崎灯台は日本最初の近代灯台で、慶応二年(1866年)にアメリカ・イギリス・フランス・オランダと日本の間で締結された江戸条約に基づいて建設されました。

この記事⤴で少し触れましたが三浦海岸駅前にも三浦海防陣屋が置かれ、三浦各所に東京湾と相模湾を守る陣地が設けられた砲台が建設され、三浦海防陣屋が各所の海防陣地をコントロールしていました。
幕末当時、そこには横浜を開港した井伊直弼公や明治政府を設立する事に成る桂小五郎(木戸孝允)公や伊藤博文公も勤務したそうです。
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さて、そろそろ灯台の中を見てみましょう。
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灯台の内部は当然ですが螺旋階段に成っています。
その階段の壁にも掲示物が有り、観音崎灯台を含めた今でも内部に入る事が出来る16ヶ所の灯台の写真や各灯台の比較等の解説がされています。
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小さな子連れならパパやママが読んであげないと子供には読めない高さかな?
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これが観音崎灯台のレンズ。

・・・ZZガンダム世代には解るだろうけど、連邦軍のバイザータイプの顔に見えて仕方ないのコレ。
前に横浜シンボルタワーの記事でも書いたのだけど港の入口は船舶は右側通行に成っていて、港に向かって右手が赤い灯台、左手が白い灯台って法律で決まってるんだけど・・・
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これが小生にはシャアザクとガンダムを意識している様にしか見えない(笑)。

その時の記事はコレ⤴ね。
何で海関係ってどこもかしこもガンダム的なんだろうか(笑)。
横浜港シンボルタワーは明日08月31日で夏季営業終了で来年まで横浜港のコンテナヤードの夜景は見れなくなりますので、写真撮りたい人は明日時間注意して行ってみて下さい。
灯台の上まで登ると外に出て写真を撮影出来ます。
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御船がいっぱい♪
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この写真の右手は富津岬、左に見える島みたいのが富津岬の展望台。
そこから目線を左に移動すると・・・
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東京湾第一海堡。

海堡の奥に見える船のマストみたいのが、東京湾アクアライン海底トンネルの通気口。シン・ゴジラが最初に登場した場所。
ゴジラシリーズは何故か神奈川県三浦半島~東京の間が破壊される事が多い(笑)。
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こっちは第二海堡。要塞としては関東大震災で崩壊して放棄され現在は史跡として再整備中だけど、たまにツアー組まれて船で観光に行けるけど通常は上陸禁止地域。
海堡とは何ぞや?と余り知らない人は過去の記事を参考にしてみて下さい。

この海堡も実は観音崎灯台と同じ明治時代に作られた施設で、観音崎に点在する煉瓦の史跡も同時期に建設された観音崎砲台の跡だったりする。
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こんな場所全部が砲台の跡で貴重な近代西洋文化の遺跡なんだね。
観音崎灯台も当然ながら日本最初の近代西洋建築の灯台なので歴史史跡な訳です。
観音崎灯台から見える景色はとにかく綺麗!
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したの岬の先端に少し見えるコンクリート製の建物の名残も観音崎要塞の海堡の一部。
反対側の景色がさっき歩いて来た道。
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高所恐怖症だから本当に、この写真撮るの怖かった・・・。
観音崎灯台付近、とっても景色が綺麗でしょう?
観音崎海水浴場から走水神社まで歩く途中の走水観音崎ボードウォークも景色がとても綺麗です。
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もう海水浴シーズンは終わりに入りますが、まだまだ暑さも続きそうです。
まだ暫くの間は潮風に当たりながら散歩するのが気持ち良い季節ですね。

どうです?皆さん、観音崎良い場所でしょ?
近くには走水神社や“味美食堂”や“かねよ食堂”と言った観光名所や美味しいレストランも有ります。
是非、夏の終わりの思い出に御散歩に来て見ては如何でしょうか?

では、又、次の記事で御会いしましょう~!



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请先看一下如下照片(写真)
※写真は全部ネットからの借り物。
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1,毛主席与日本政治家在和平交涉时
 毛沢東サンと日本の政治家の写真

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2,释月性和尚相像画
 西郷サンの親友だった月性和尚様


西郷隆盛
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3,东京上野公园的西乡隆盛公雕像与他儿子西乡菊次郎
 上野公園の西郷サンの銅像と息子さんの菊次郎さん

我来对中国朋友们介绍一下
毛泽东主席最喜欢的汉诗是一位日本爱国之士的和尚做的。
我只学了一年半的中文,大部分是自学的。如有什么翻译错的部分,请读者各位见谅。
中国の皆さんに毛沢東サンが好きだった漢詩が日本の愛国者の和尚サンが作った物だったって話を紹介します。

将東遊題壁     
釈 月性
(日本江户时代末期净土真宗派和尚)

男児立志出郷関
学若無成死不還
埋骨豈惟墳墓地
人間到処有青山

这首汉诗作者的释月性,他是打到了江户幕府政权的维新志士之内的一位,支持西乡隆盛先生的好友。
この詩の作者の月性サンは江戸幕府を倒した維新志士の一人で、西郷サンを支援した親友でした。

浄土真宗西本愿寺(京都市)派的和尚。
1858年06月21日去世
※跟西乡隆盛一起跳水自杀,可是西乡公失败了。
浄土真宗京都西本願寺派の和尚サンで1858年06月21日に西郷サンと無理心中して亡くなりました。
※西郷サンは失敗。


西乡隆盛先生是打到封建时代的政治,成功日本近代化了的明治维新的立功者。
西郷サンは封建政治を倒し日本の近代化を成功させた明治維新の立役者です。

到了现在还是许多日本人尊敬西乡隆盛先生所发言了的想法。
今でも沢山の日本人が西郷サンの言葉と考え方を尊敬しています。

①对自己(自分に対して)
敬天愛人
尊敬天皇爱老百姓去做事。
※相当于天下为公差不多一样的意思。

世の全ての人から貶されても落ち込まず、
无论是被世上全民看不起也不可以在心里消沉,
全ての人から誉められても自惚れぬな。
无论是被世上全民夸奖了也不可以得意忘形。

我が誠の足らざるを常にたずぬるべし。
经常要考虑自己在心里上哪里有缺点。

過ちを改めるにあたっては、自分から誤ったとさえ思いついたらそれで良い、そのことをさっぱり思いすてて、すぐ一歩前進することだ。
要改善自己的失败的事情的时候,只要自己认识自己失败就行了,要很快忘记那些一切,立刻开始前进新一步。

命も要らず名も要らず官位も金も要らぬ。
不要名誉,不要官位,不要钱。

②对人的态度(人に対して)
己を尽くして人を咎めず。
尽管自己努力下去,绝不批评别人。

我を愛する心を以って人を愛せ。
一定要像自己的事一样爱别人。

自己を許すが如く人を許せ。
自己失败的事情一样,不得责备别人失败的事情。

人を責めるが如く自己を責めよ
像批评别人的时候一样,一定要自己反省。

彼ら貧民の子弟こそ、真の国家の柱石である。
他们穷人的子弟才是真正的国家(将来发展)的柱石(动力)。

③对部下(部下に対して)
思い切ってやりなさい責任は私がとる
将当任务时要下决心干会发生的所有责任,可以我来负责。

功のあった人には禄を与えて、能力のある人には位を与えよ。
一定要对立功者加给薪水,一定要对能干的人给职位。

実はね~毛沢東さん日本リスペクトしてたから日本と中国は毛沢東さん主導で仲直りしたんですよ。でも反日中国人の人等はそれすら知らないですけどね~。
说实话,中国是毛主席的指导下开始和日本和平交涉了的。可是在中国还有一些年轻的抗日主义者之内大部分都不知道这个事情了。

毛沢東さんと、敵ではあるけど日本人にとっては恩人でもある蒋介石さんも日本に留学していたし、毛沢東サンを補佐した周恩来さんも日本に留学していたんだよね。
毛主席的对手蒋介石总统是日本人到了现在还是非常感谢的一位,他是在日本留学过的。还有周恩来首相也在日本留学过的了。

そんでもって、皆がリスペクトしていた孫文先生も横浜中華街に亡命して来てから東京で日本政府の支援を受けて生活していた時期が有る。
还说孙中山先生也是逃到横滨中华街亡命后一段时间受了日本政府的支援在东京生活过的。

小生は個人的に行った事無いけど、孫文先生と周恩来先生は実は靖国神社の御祭りが大好きだったって歴史事実も有るんだよね~。
虽然我个人还没去过靖国神社,可是孙文先生跟周恩来首相还在日本的时候喜欢去靖国神社的事是他们亲口说了的历史事实。

歴史って、自分で調べないと時代時代で見方が違ったりするからステレオタイプに成っちゃいけないのよ、日本人も台湾人も中国人も。
历史毕竟是各个时代都有不同的看法的了,所以无论是不是台湾人中国人还是日本人,大家都要注意是不是自己的思维有点靠刻板的思维。

まぁ~、日本・台湾・香港・中国大陸の各地域の人々は、実はお互いの文化をリスペクトし合ってたりするから、隣の某半島の人達みたいに成らないんだよね。
其实日本台湾香港中国大陆人等地方的住民都互相尊敬对方的文化,所以我们从古以来连打战的时候也不会发生像跟半岛邻居之间一样的问题。

日本武士の教養は漢学だったし、近代中国の歴史偉人達は西郷さん達近代日本の歴史偉人に一目置いていた訳だ。
日本武士重视的教育是汉族的文学,而且近代中华历史伟人都对西乡公等日本近代历史人物保有敬意的了。

我想大家都要学每个时代的价值基准不一定是一样的。
小生が思うに皆各時代で価値観が必ずしも同じでは無いと言う事を知って置くべきだと思う。
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皆さんは東京都青梅市に横浜で生まれ、戦時中に青梅市に自宅を写し数々の歴史小説を執筆した吉川英治先生の旧宅の素敵な古民家と日本庭園が博物館として季節限定公開されているのを御存知でしょうか?
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この周辺には観光地として申し分ないスポットも幾つかあり、小生は昨年初めて訪問して再訪したいと思っていたところ、Google mapの情報で今年2019年03月に開館の後、03月20日で運営中止となり完全閉館される事を知りました。
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駐車場も完備されており古民家としてだけでも見物に値し、更に歴史好きや三国志好きならたまらない吉川英治先生の生涯や作品紹介の展示物もある素敵な博物館なんです。
吉川英治記念館だけでは奥多摩まで足を運ぶには小生の様に神奈川県民では距離的に足がなかなか向かない人もいると思いますので、吉川英治記念艦周辺の観光地としての魅力を先ず強調する為に周辺の景勝地を紹介したいと思います・・・
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大悲山 観音寺(通称:塩船観音)
塩船観音は吉川英治記念館から車で30分程度の場所、関東指折りの躑躅の名所の一つで人魚伝説の八百比丘尼が住職を務め、更には天台宗の総本山、比叡山を代表する高僧の一人で天台密教の大家である五大院先徳 阿覚大師 安然和尚様が大寺院に拡張した歴史がある場所です。そのごは坂東平氏三浦一族の金子家が平安時代~鎌倉時代に支援し、戦国時代には三田領を束ねた三田家が支援した御寺で、現在は真言律宗の別格本山であり寺院の奥院が躑躅に囲まれる非常に美しい場所でもあります。
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JR青梅駅周辺❝昭和レトロ商店街❞
青梅市は映画とドラマのロケ地誘致と昭和の街並みの景観保存に力を入れておりJR青梅駅周辺は散歩するだけでも楽しい。❝赤塚不二夫記念館❞や❝昭和幻燈館❞や❝青梅宿津雲邸❞等もあり駅周辺でもかなり時間を割いて散策出来る。
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へそまんじゅう総本舗奥多摩を代表する御土産物屋と言って過言では無く、蒸したてホカホカの名物へそ饅頭を1個売りでも箱でも販売してくれる。小腹が空いたらオヤツにも丁度良い。
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奥多摩釜めし
山深い場所に来た時に関東地方では定番の観光地の食事と言えば釜飯。青梅市の二俣尾でも釜飯の名店❝奥多摩釜めし❞があり、観光気分を満喫しながら食事が楽しめる。吉川英治記念館からも車でそう遠くはない。
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瑞龍山 海禅寺(戦国時代の天皇勅願所寺院)
とても素敵な楼門と、境内に綺麗な躑躅も咲き、春には枝垂れ桜の立派な大樹が見所の御寺。
戦国時代に扇谷上杉家の与力小大名だった三田家が室町時代中期に開いた寺院だが、本来の寺号は❝福禅寺❞と言い恐らく前身寺院は鎌倉亀ヶ谷に存在した修験道の大道場で源頼朝公が崇敬した亀谷山福禅寺が前身。度重なる戦火で福禅寺の権現堂は横浜市港南区に機能移転し、福禅寺は扇谷上杉家によって三田家に青梅市二俣尾の現在地で再興されたと推測出来る。横浜市沿岸部を北条早雲の時代に治めた北条家相模十四騎筆頭の間宮家棟梁、間宮信冬公によって福禅寺の住職が鶴見下末吉に招かれ長谷山 寶泉寺が開かれた。この間宮家は間宮林蔵や杉田玄白の一族祖先であり、又、現在の江の島の江島神社が真言宗系修験道の聖地霊場だった江戸時代までは間宮家が住職である別当を務めた。この間宮家は鎌倉から移転した福禅寺の権現堂を横浜市域で保護しているが、これが鎌倉に在った修験道の福禅寺時代には天皇家御門跡寺院だったので、三田家滅亡後は曹洞宗として間宮家や間宮家の寄親の玉縄北条家一族福島家や同じ北条家臣師岡家や旧三田家臣団によって支援された頃に突如天皇家勅願所に成っているので、間宮家や鎌倉亀谷山福禅寺と青梅市瑞龍山海禅寺の本来の寺号の福禅寺の深い関連が推測出来る。
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吉川英治記念館(2019年03月20日閉館決定)
吉川英治先生の生涯と作品を展示した博物館と、旧宅の古民家と日本庭園を併設した記念館。
風景も庭園もとても美しく、又、古民家好きにとっても素敵な場所。吉川英治三国志や彼の歴史作品を愛読した人ならば閉館前に必ず行きたい所。
3月までは季節柄開館時期では無く03月01日の開館~20日まで営業して終りを迎える。
3月からの開館機関も火曜日は定休日なので訪問日程には注意が必要。
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澤乃井櫛かんざし美術館この美術館と多摩川を挟んで対岸に在(あ)る老舗酒蔵の澤乃井酒造が運営する日本の櫛と簪(かんざし)を大量に収蔵展示した珍しい美術館。ここは風景もとても美しいが収蔵された櫛と簪はどれも綺麗で緻密な細工のされた物ばかりで、江戸時代の御姫様達が用いた物から近代工芸品として発展した物まで多種多様な❝美術工芸品❞としての櫛と簪を見る事が出来る。女性陣は必見!
対岸の澤乃井酒造も吊橋を渡って行けるし、逆に澤乃井酒造側に車を駐車して歩いて来る事も出来る。
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寒山寺(澤乃井酒造創業家小沢家の持仏堂)澤乃井酒造経営者の小沢家が建てた持仏堂で❝澤乃井櫛かんざし美術館❞と澤乃井酒造の土産物売店とレストランが併設された❝澤乃井園❞を繋ぐ多摩川上流にかかる吊橋のたもとに存在する。
美術館と澤乃井園と合わせて見物出来る景勝地。


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澤乃井酒造&澤乃井園江戸時代初期から続く老舗酒蔵の澤乃井酒造の醸造所と、観光客向けに日本酒の飲み比べや土産販売、食事店舗を併設した場所が澤乃井園。奥多摩ながら観光客で日々賑わい、下の多摩川の河原にも降りられるので渓流で沢遊びをする家族にも人気の観光地に成っている。
又、予約すれば酒蔵の方も時間限定で見学する事が出来る。酒を飲まない小生でも力を込めて推薦したい観光地。ここの梅酒は酒嫌いにもとても美味しい!
歴史好きにたまならいガクシャ先生も知らない情報を余談として一つ・・・
澤乃井酒造の小沢家は旧武田家重臣で武田信玄の娘婿だった穴山梅雪の与力武将が御先祖で、武田家滅亡時に復興資金を持って現在地に移転して来て、そのまま武田家は復興されたなかったので林業を営む傍(かたわ)ら酒造業を始めたそうです。社長さんに取材確認済みなので間違いないそうです。
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福島家住宅(江戸時代までの二俣尾村庄屋宅の古民家)

さてさて・・・

吉川英治記念館の周辺、すっごい沢山見所有るでしょ?
この他にも城好きには辛垣山城跡なんかも有りますが、ちょっとした登山に成ってしまうので一般の観光客には不向きと判断し紹介は差し控えました。今回紹介した場所は小生が自分で廻った事のある場所ばかりですが、吉川英治記念館周辺は他にも見どころと成る美術館や観光施設が沢山有ります。
渓流には釣りが出来る場所やキャンプ場も有りますので、アウトドアと合わせて吉川英治記念館の見学に行くのも良いかも知れません。
奥多摩が観光地として魅力的なのは伝わったでしょうか?

・・・では、ここから吉川英治記念館そのものの紹介に戻ります。
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国道411号線から都道41号線に入り西の多摩川上流に向かって車を走らせると、この写真の看板が見えます。駐車場も30台分くらい有るので十分停められると思います。
吉川英治を平成生まれの若い世代は余り知らないのでインスタ映えする古民家が有ってもデートに大挙して来る事もないでしょうから。
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駐車場の脇から住宅道路みたいな田舎道を進むと入口に辿り着きます。DSC_0568
第二次世界大戦中に都会から疎開する為に旧豪農の邸宅を買い取って住んだそうなので、もう長屋門まであって既にこの時点で歴史好き、古民家好き、日本庭園好きにはたまらない雰囲気が漂ってきます。
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中に入ると直ぐ右手に・・・
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物置に使われていた立派な蔵が有ります。凄いよね~。
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御庭とても綺麗。
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住宅部分は玄関の中まで公開されています。
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そして各部屋には生活していた当時の写真が展示されており、今でも往時をありありと想像する事が出来ます。
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御庭に回りましょう。
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こちら側に回ると執筆する書斎として増築された洋館部分の玄関に回る事が出来ます。
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この洋館部分の玄関のタイルが見事でとても綺麗なんです。
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この、こじんまりした洋館の書斎で小説を執筆されていたそうです。
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小生は訪問するまで存じ上げなかったのですが、吉川英治先生は横浜市中区元町の生まれだそうで、生活も吉野町でされたりしたそうです。御先祖は小田原藩士だったとのこと。でも御本人は仕事を色々と変えて数奇な運命を辿っています。今で言うと転職しまくって余り大成しなさそうなかんじなんですけどね~。
そこからどうやって大作家に成ったかとか資料館部分で見る事が出来ます。
洋館から裏庭に回りましょう。
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本当に素敵な庭園なんです。
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まるで横浜三渓園みたい。
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裏庭側から資料館の入口に回れます。
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ここから中は撮影禁止です。
中には吉川英治先生と前妻や後妻さんや家族との年表や詳しい生活の様子、個人的な人生の紆余曲折も解説されていて歴史小説に興味ない主婦の方も昼メロドラマ並みに乱万丈非常に先生の生涯には興味を惹かれると思いますよ(笑)。

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御花もとても素敵な場所です。
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・・・こんな素敵な吉川英治記念館ですが、残念ながら今年2019年3月1日~20までの公開を以て閉館と成ってしまうそうです。残念ですね~。
もし彼女が出来たら一緒に連れて来てあげたい場所の一つだった。
もう彼氏彼女や夫や妻がいる皆さん、どうです?吉川英治記念館と周辺の観光スポット、とっても綺麗でしょ?是非3月の最終公開期間、訪れて見ては如何でしょう?

では、又、次の歴史解説記事で御会いしましょう~。
・・・津久井城の記事早く書かないとね。神社仏閣一覧も更新しないと。


















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夏も海水浴シーズンを過ぎて、鎌倉の由比ヶ浜からは若者の姿も減って来ました・・・
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もう直ぐ秋ですね~。
海水浴やナンパ待ちナンパする側の若者達と微笑ましい家族達の姿もそろそろ減る由比ヶ浜ですが、その目の前の長谷地区寄りの道路を跨(また)いだ場所に御洒落(おしゃれ)なCaféが在(あ)るのを皆さんは御存知でしょうか?
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Daisy's Cafe
Daisy's Cafeと言う御店です。
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鎌倉の長谷駅から徒歩で10分位?目の前は由比ヶ浜の良い景色、海まで徒歩1分と観光客にも御薦めなのですが・・・
ここは小さな御店で、我々地元の人間が楽しむ御店なんです、どちらかと言うと(笑)。
もう本当に御店の前の道を渡れば由比ヶ浜で、沢山の漁船の間を抜けると砂浜に辿(たど)り着きます。
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小生は人の多い、普段は泳ぎもしないのにナンパやシーズンだからと言って来る御客さん達に混じるのが❝苦手❞でして、どうしてもユックリ出来る季節に独(ひと)りで、或いは彼女がいる時期は彼女と一緒に海に行きたくなるんです。小生にとっては海は癒しの場で、静かに散歩して風景を見て潮風に当たり潮(しお)さいを聞いて過(す)ごしたい場所なんですね。
だから食事した後に直ぐに海を散歩出来るDaisy's Cafeが好きなんです。
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店内はアメリカンでクラシックなイメージの内装です。小生アメリカに行った事が無いから(爆)!
でも、小生は日本庭園も好きだし古民家も落ち着くから好きなのですが、横浜の大桟橋のJack cafeとかCJ Caféとか、横須賀のドブ板通りのサーフタコとかアメリカっぽい御店も心が何だか落ち着くので良く友人とも独りでも食事に行きます。
Caféに行っても御酒嫌いだから飲まない(笑)。
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Daisy's Cafe、良い感じの御店でしょ?
歴史小説家の神様みたいな司馬遼太郎先生も生前この辺りが好きで散歩して❝街道を行く❞ってシリーズの❝三浦半島記❞で直ぐ近くの極楽寺坂の切通しを通過してんだよ。
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御霊神社参道入口の❝力持家❞とか・・・
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・・・江ノ電が参道の鳥居の目の前を通過する御霊神社とかの事を書いてたりする。
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この鳥居の目の前を本当に電車が通過するんだよ。

御霊神社は以前、紹介記事を書いているので興味が有ったら読んで見てね!
コレ記事リンク⤵
鎌倉の御霊神社の神様鎌倉景政公は上杉謙信の祖先。
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そんな長谷の由比ヶ浜に面したDaisy's Cafeの窓際の席に座ると眼前に海、とても和む。
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小生はこの御店を長谷に住んでるサーファーの知人から「行って見て!御薦めだから!」「デイジーズライスが美味しいから食べて見て!」って言われて食べに来たのが初めての来訪の切っ掛けで、要するに口コミですよね。
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そしてコレがデイジーズライス。・・・混ぜた後でスイマセン(笑)。猫まんまみたいな写真だな。
名前はオーナーさんの名前からデイジーズと成っていますが、実際は所謂(いわゆる)❝ガパオライス❞みたいな物を想像して頂くと良いかと思います。
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小さいけれど海も近くて良い御店でしょう?皆さん、由比ヶ浜や長谷観音や御霊神社に御散歩に行って、もし食事する所に迷ったらDaisy's Cafeでドリンク飲みながらゆっくりするのも良いですよ~♪

さて・・・
小生のブログは腐っても❝歴史旅行❞のブログ、ここで少し由比ヶ浜の歴史を通じて❝自称❞霊能者って連中の大半が嘘吐きって事を暴露してみたいと思います。
皆さんは由比ヶ浜や材木座海岸のイメージってどんな印象ですか?
きっとこんな感じかな?
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弓なりに続く波の穏やかな砂浜・・・
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稲村ヶ崎と富士山の影を横にして水平線に沈む夕日・・・
凄く綺麗なイメージだったり、夫婦ならまだ彼女や彼氏だった頃に一緒に海水浴に来た思い出とか、付き合い始めのカップルも最初の夏の思い出♡(笑)とか明るいイメージが有りますよね?
実はね、そんな鎌倉の由比ヶ浜、夏は海水浴に来る若者で賑わう海として知られますが奈良~平安時代には❝公共墓地❞だったって知ってますか(笑)?
よく偽霊能者が霊能力有ると標榜(ひょうぼう=勝手に嘘ついたり)して不敬にも日本の発展に寄与して多くが神社に祀られて御祭神と成っている鎌倉幕府の先人達の御廟所を心霊スポットとして紹介したりしていますがハッキリ言ってデマなんですよね、彼等の能力。
もし彼等が本当に何か見えるなら最大の心霊スポットは江戸の大火で3万人、関東大震災では10万人以上、大戦中の大空襲でも10万人が死んでる東京都23区全域(笑)が最強の心霊スポットな筈なんです(笑)。
だからね・・・
「心霊何て誰にも見えてない」
・・・ってのが霊夢を見たり轢き逃げに何回か遭っても死んでない小生の歴史事実も根拠にした持論なんです。まぁ、偽霊能者の中にはカウンセラーとして優秀な人もいるのかも知れないけど❝嘘❞で金もうけをしている時点で小生は敵視します。カルト宗教と変わらない、人を騙して金を巻き上げている悪。
仮にさ・・・
本当に心霊ってのがいたとするわな?そもそも人間は2人の原種が交尾して繁殖して増えたのに、何で魂がソンナに大量に増殖するのかね?だから生まれ変わりも小生は信じていないと言うか、もし生まれ変わりが有るならば今迄の人生で大恩有る親友や恩師や恩人や支えてくれた昔の彼女(笑)とか恩人達が皆亡くなる迄は守護霊として此の世に留まって❝悪い者❞を打(ぶ)ん殴り守ってあげたいのね。
勿論、今、彼女がいたら生きたまま彼女の守護生霊(笑)なんて物に成るかも知れない(爆)!
・・・つまりさ、もし小生が皆の守護霊に成っちゃうと、皆が彼女や彼氏や旦那さんや奥さんと❝子作り❞してる所とか見ちゃうわけじゃない(笑)?
そんなん守護霊化した小生からしたら「オェ~(ToT)」って成るわ(笑)!
て事はだよ?その自称霊能者達はHしてる時に大勢の空襲で死んだ人とか自分の御爺ちゃんとか御婆ちゃんとかに囲まれながら❝〇ン〇ン堅く成ってる❞のかね(笑)?
「無いわ~(笑)!絶対イヤ!」
・・・ってのが戦争や天災や墓地の歴史を知っている小生の意見だったりするんだよね。
出来たら神様にも仏様にも守護霊様にも小生はコレから先、又彼女が出来て結婚して子作りする時に見ていて欲しくない(笑)。でも守ってもらってるから我慢しないといけないのか(笑)?

だからね~、皆も古代の公共墓地だった由比ヶ浜とか、和田合戦で激戦地だった材木座海岸とか散歩しても❝癒される❞でしょ?
それが正しい感覚なの。
詐欺師に先入観を与えられる前の。
だってね、例えば以前紹介した❝女性を守る縁切寺の北鎌倉の東慶寺❞を舞台にした大泉洋さんと戸田恵梨香さん主演の❝駆け込み女と駆け出し男❞って映画が有るんだけれど・・・
駆け込み女と駆け出し男
この映画の序盤で戸田恵梨香サンがDV夫の武田真治サンから東慶寺に逃げて離婚するか、家に帰るか占いをする❝六地蔵❞って場所が有るんだけれど・・・
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これね、昔はもっと由比ヶ浜寄りに在って、それが墓地の入口だったんだよ。
東慶寺については以前、映画と一緒に紹介する記事を書いているので興味の有る人は読んで見て下さい。
コレ記事リンク⤵
女性救済の寺院、北鎌倉の東慶寺と映画「駆け込み女と駆け出し男」
・・・あとね、小生ね、金縛りに遭って茶運び人形や般若の面が自分の部屋を歩いたり浮遊してるのを見た事が有るのだけど、アレも自分で解明したんだよね。
アレね、身体と脳は寝てるのに意識だけ起きてて夢と現実が重なり合ってる状態なんだよね。そして疲れてる時に良く成る。
最初に茶運び人形を見た時に前身金縛りに遭って、身体動かなくて、その時に「次が有ったら絶対に捕まえれるか確かめてやる( ̄~ ̄)/」とか決めて本当に次が有ったんだよね・・・
それが般若の面だった。
般若の面の時もやっぱり金縛りに遭ってね、でも前回の経験から「指先から少しづつ動かして動ける様に成ったら一気に掴(つか)んでやる!」って決めてて、指先から慣らして行ったら本当に手が直ぐに全部動く様に成って「ブン!」って一気に目の前の般若のを掴もうとしたけど、不思議な事に手が届かないんだよね。
・・・それで確信したのさ、「あ~、これって今、意識だけ起きて目に見える風景と脳内の無意識の夢が一緒に見えちゃってんだな~」って。
どうも疲れ過ぎてるとそうなり易いみたいだね。あとね、両方とも蛍光塗料の緑色みたいな色に見えたんだよね、それも科学的に調べたら目の網膜とかなんかや、当時の家のガラスに透過した外の光とか科学的に説明が着(つ)くのかも知れないけれど、生憎(あいにく)と小生は科学的な知識も脳科学的な知識も皆無なので解らない。
でもね!
小生達の様な歴史オタクや司馬遼太郎先生の様な歴史小説家や歴史博物館の学芸員サンや鎌倉の神社仏閣の和尚様や宮司様達は皆、由比ヶ浜が墓地だったり戦場だった歴史を知っているから我々歴史の証人達からすると❝自称霊能者(笑)❞達の言ってる事が「妄言だと断言出来る」訳です。
だって司馬遼太郎先生も書いてるし、小生達の様に鎌倉が好きで子供の頃から良く行ってる人や地元民は知ってるけれど、昔は鎌倉市内の小学校や中学校の校庭の砂には良く人骨が砕けてキラキラ光るのが混じってたんだよね(笑)。
だからさ、本当に自称霊能者が何か見えるなら「由比ヶ浜に行くな!」って言うでしょ?しかも彼等はだいたいが勝手に僧侶や神職の装いをしていますが、根本的にちゃんと仏教大学や國學院大學で勉強もした事も無ければちゃんとした宗派の道場で修行すらした事の無い「詐欺師」同然の輩だし、まして日本最高の謂(い)わば古来は大王から天皇に成った実際は❝教皇❞の様な霊力に優れた天皇家の皇族にも出来ない神通力を、只の金髪豚男やガリガリ細目ババアが天皇家を凌駕する霊能力なんて持ってる訳が無いでしょう(笑)?
古来、宮司や天台宗の座主や真言宗の高僧や日蓮宗の僧侶等は密教的な学問も良く学ぶ宗派だったので、所謂(いわゆる)退魔や地鎮の法力や神様の力をお借りする神通力と言うのは目に見えなくても有るのかも知れませんが、まぁ、小生は「真っ当に生きる事」を教えてくれる場所や「精神的な支柱」に成る場所が神仏を祀る人々の守る神社仏閣で御奉仕される神官僧侶の役割なんだろうと思っています。
だから大学の先生に会いに行く様に和尚様や宮司様を尊敬するんですがね~♪

まぁ、そんな訳で偽霊能者が公共墓地だった歴史を知らなかったり、海の家を出店する❝ヤクザが怖いから(笑)❞由比ヶ浜を❝心霊スポット❞って言わないってのは歴史好きなら誰でも知ってるんですよ(笑)。
しかも神道や仏教の日本古来の考え方では、自分の信念に基づいて戦って亡くなった武士の魂は❝英霊❞であって、その人達を尊敬していれば❝守護❞して下さる側に成ってくれる心強い存在なんだよね。
だからね、小生は偽霊能者とカルト宗教が心から許せないの、偉大な先人達を愚弄する連中だからね。

小生は色んな人が眠る静かな季節の美しい由比ヶ浜の長い湾曲した砂浜がとっても好きです。
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これから秋に成ったら海の家も無く成って、又、静かに散歩出来る美しい由比ヶ浜~材木座海岸に戻ります。若いカップルや若夫婦の皆さん、デートで静かな浜辺を散歩してから司馬遼太郎先生が愛した長谷地区の、サーファーや地元民の憩いの場のDaisy's Cafeで一服お茶して行きませんか?

では、又、次の解説記事で!
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