歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

カテゴリ:神様/偉人/武将 > 幕末〜明治〜現代の神様/偉人/武士(軍人)

皆さんは公害発生の可能性を断つ日本で最新鋭の火力発電所が横浜市磯子区に存在しているのを御存知でしょうか?名前を東京電力南横浜火力発電所と言います。
CIMG5305
そして、その火力発電所の施設の模型や文字による解説、映像資料等を展示した場所が存在するのを御存知でしょうか?その施設の名前をISOGOエネルギープラザと言います。
実は小生も最近まで知らなかったのですが、この施設が無料で入館出来るのです。車で行けないので少々不便ですが磯子駅からバスで直ぐに来られるので、横浜市民のみならず他都市からも見学に訪れる事が出来ます。
位置的にはこんな感じ・・・
ISOGOエネルギープラザの場所 久良岐のよし
ここの存在を知ったのは2週間くらい前に夜景を探して夜な夜なドライブして来た際にGoogle Mapを見ていて火力発電所の存在を再認識してから、ホームページを検索して情報を入手したからでした。
DSC_0637
その時に撮影したのが09月14日に記事にしたこの風景。
コレ記事リンク→
今回、最初は金沢文庫博物館が展示替えしたので其方に遊びに行く心算(つもり)で何にも準備しておらず、ISOGOエネルギープラザさんの事を思い出して電話連絡してから訪問したのですが、別に電話しなくても日曜日以外は常設展示は直ぐに無料見学出来ます。
しかも!ちゃんと事前に予約すると火力発電所その物も見学させて頂く事も可能だそうです。
残念ながら今回は突然の思い付きの訪問だったので今回の記事は常設展示の紹介だけですが、いずれ火力発電所実物の見学も予約してレポート記事の続きを書こうと思います。

さて・・・

ISOGOエネルギープラザさんはセキュリティーの守衛さんが立っている正門をくぐって直ぐ右手に建物の入口が在(あ)り、そこがそのまま解説展示施設の入口にも成っています。
CIMG5310
この入口の右手が駐車場なのですが、そこにも機械好きの興味を引く展示物が有りました。
CIMG5306
建替え前の旧火力発電施設時代の低圧タービンとか・・・
CIMG5307
蒸気ドラムとかですね!
・・・もうコレ、戦艦とか工場とか大好きなデカイ機械マニアにはタマらん逸品でしょう(笑)?
そして、この展示物に並行して植えられている桜の木の解説を読むと、この会社の志の高さを知る事が出来ます。
CIMG5309
この会社の初代総裁である高碕達之助翁が生前、旧岐阜県荘川村(現:荘川町)が御母衣ダム建設によって湖底に沈む事が決まった際に、安土桃山時代に植えられたアズマヒガンと言う樹齢400年超の桜の巨木2本を桜博士の笹部新太郎先生の力を借りて荘川村村民の郷土の誇りを失わせない為に古今未曽有の移植事業を行い保護したそうです。
最近はどの企業経営者も従業員を大切にせず、地域貢献や国の発展等に目もくれず目先の金だけを稼ぐ事に執着し天下100年の計も無く世を見通す力も無く、TOSHIBAやSHAAPやSANYOの様に自分達の地位保全だけの為に売国行為に走っていますね。
ところが昔の経営者と言うのは淡路島と函館の街を作った高田屋嘉兵衛さんに始まり、我が郷里横浜市の原三渓さんの原財閥、鉄道敷設と日本の物流発展に寄与した浅野財閥、経済世民を地で体現した渋沢栄一先生、日本近代造船の父であり横浜に深い関わりの有る渡部忠右衛門さん、そして今回訪問した磯子火力発電所を開いた電源開発(J-POWER)の初代総裁の高碕達之助さん達・・・これ等の経営の先人達は皆、国民の生活や自然環境と日本文化の保護や国と地域の発展を考えて私利私欲の前に“公益世務”と言う言葉を体現されて生涯を全うしておられるのです。
そんな事が荘川桜の移植の事からも感じ取れたりするのですが、中の展示を見ると、この高碕翁の理念が体現された施設が現在の磯子火力発電所である事が理解できます。
CIMG5311
先ず中に入ると対象年齢12才前後と思われる内容の映像解説を見る機会が有ります。
CIMG5312
このミニシアターで火力発電の源である石炭が、鉱石としてどうやって地球の悠久の歴史の中で生成されていったか、植物の化石である事から非常に解り易い動画で解説してくれます。
CIMG5313
そして、どの様に人間の文化に利用されていったか等、文化面や工業面で人間の文明を発展させて来た石炭の歴史が解説されます。
CIMG5317
小生は浅学で知らなかったのですが、中国では中華料理に必要な強い火力を得る為に1200年位前には既に石炭が利用されていたそうです。中華料理の炒め物や揚げ物や煮物は強い火力を利用して短時間で作り上げる料理が多いのですが、これはガスの登場以前からの文化だったのですね。
・・・日本人は明朝までの中国には非常に敬意を感じる人も多いと思いますが、中国文化はやはり本来は素晴らしく発展した物だった様ですね。満州族征服王朝である清朝で今の中国共産党みたいに軍拡帝国主義で疲弊し、共産主義の文化大革命で文明後退する以前の中国はやはり素晴らしい文明の国だった訳です。
CIMG5318
そしてイギリスで蒸気機関が発明され産業革命が起きて給食に鉄鋼業等の重工業の発展が齎(もたら)された時期、その蒸気機関に必要不可欠だった物が石炭だと言う解説も有ります。
何故、石炭の解説を動画で行っているかと言うと、実は現代の火力発電所も石炭を燃焼させて発熱しタービンを回して発電するからです。
「え?じゃあ産業革命や日本の高度経済成長期みたいに公害未だに凄いんじゃない?」
・・・と思うでしょう?それが違う。今の磯子火力発電所には高碕達之助翁の理念と魂が吹き込まれており公害の元と成る粉塵や有毒ガスは限り無く0の無公害処理の上で放出されているんです。
有る意味、高リスクで産廃処理不可能な原子力発電より素晴らしい施設ですね。
ミニシアターの他にも面白い物が有りました。
CIMG5319
潜水艦の潜望鏡の様な機材なのですが、実は火力発電所の高さ300mの排煙塔に据え付けられた展望カメラを自由に操作する事が出来ます。
CIMG5320
これで遊ぶのも当然無料。だから子供連れてきたら、きっと喜んで遊ぶので家族連れにピッタリの施設である事が既にこの段階で伝わるんじゃないでしょうか?
文字による解説も充実しています。
CIMG5321
CIMG5322
CIMG5323
CIMG5324
CIMG5325
CIMG5326
CIMG5327
非常に解り易い!まぁ~、館内の模型解説と内容が被ってるんですがね(笑)。
CIMG5328
パンフレットも日本語・英語・中国語で揃っています。これ、公害の凄い中国の政治家に読んで反省して欲しいな。
さて、中に入ると中央に“施設の位置”を解説する為のジオラマが有ります。
CIMG5331
これが又、結構精巧に作られていて面白い。
CIMG5342
CIMG5341
タッチパネルを操作すると各施設の役割が理解出来る解説が表示されます。
CIMG5343
CIMG5346
こんな感じ。
CIMG5344
そして更に、これとは別に一つ一つの“施設の役割”と“物理的な動き”を解説する模型と映像解説が壁面に細かく細分化されて展示されています。
CIMG5332
最初は文字と写真の資料。
CIMG5334
CIMG5335
CIMG5336
これをちゃんと読むと一連の火力発電の流れが小生の様な文系人間の歴史マニア馬鹿にも理解できます。
CIMG5337
そして御丁寧に石炭を採掘するところの説明と現物展示から始まり・・・
CIMG5338
CIMG5339
CIMG5340
採掘後の運搬船と、発電所施設への搬入と管理方法の解説・・・
CIMG5348
模型と光を使って石炭の流れを再現してくれます。
CIMG5349
本当に解り易い。
CIMG5347
石炭なんか、静電気で火災発生したりしたら本当に大惨事だから思ってみれば搬送する所から本当に大変なんだよな~。
CIMG5350
CIMG5351
横浜の磯子火力発電所の石炭貯蔵施設は4つクローバーの花の様に並んだサイロなのでクローバー型と呼ばれ有名らしいです。
CIMG5352
どうやって管理されているかも模型で再現されています。
CIMG5353
そして凄いのが施設内でのコンベアによる搬送方法。
CIMG5354
このベルトコンベア、動力が空力で、ベルトを空気圧で浮遊させて石炭を運ぶので騒音が発生させず周辺町村に迷惑をかけずに施設が稼働出来るそうです。
CIMG5355
そして、これも知らなかったのですが昔の蒸気機関や高度経済成長期の発電所と違い、効率よく石炭を燃焼させたり公害を抑える為に先ず、石炭自体を細かい粉末に粉砕してから使うそうです。
CIMG5356
CIMG5357
でもね~、これ、凄く技術力と精密な管理がいると思うんです。
石炭なんてただでさえ可燃性なのに、粉末って静電気発生しやすいでしょう?
小麦粉とかのサイロでも静電気で火災が発生する事件って有るんですよね~。
だから本当に、磯子火力発電所はとんでもない最新鋭の管理技術が導入されているのが燃料としての石炭の破砕の項目一つとっても解るんですよね~。
でも高碕翁の理念が現代の従業員にも脈々と活きづいているから、このクオリティーを実現出来るんでしょう。
「おい!横浜市最後の蛍の広域生息地と自然公園の円海山瀬上沢を宅地開発したがってる東急グループと容認派の林文子市長!アンタ等東急創業者の渋沢栄一先生が御祭神として祀られた東横神社の神前で懺悔して来いや!そしてJ-POWERの職員を見習って自然環境保全と日本文化史跡保護の理念再認識しろや!」
・・・と、施設を見学しながら脳裏を過(よぎ)る小生。
CIMG5358
この模型と同じ構造の粉砕機を使って石炭を砕き吸い上げるそうなんだが・・・
本当に良く火事に成らんな。
CIMG5359
CIMG5360
CIMG5361
何かボイラーの構造も凄くって解説を見る限り、蒸気の再加熱だけでも何重の構造が設けらえていたりするらしい。
CIMG5362
プラスティックの透過性を利用して光を使い上手く炉内の掘能を演出した模型。
これなら子供にも解り易い。妹の所の甥っ子と姪っ子がもう少し大きく成ったら火力発電所見学予約して連れて来てあげたいなぁ~。
CIMG5363
そしてタービンの解説。
なんか横浜のは直列式と言って、効率の良い施設配置に成っているらしく設置コストも抑えられるらしい。
CIMG5366
CIMG5365
左側が横浜のが採用している形式、右側が異なる形式。
素人目にも左の方がスッキリしてジェットエンジンのタービンみたいで効率良さげなのが何となく解る。
CIMG5364
写真も有るので実物の規模も解り易い。
CIMG5367
そして最後に送電な訳だが、電気を販売するのは東京電力の仕事で別会社、その東京電力に電気を売るまでがJ-POWERの仕事らしい。
CIMG5368
送電線は銅線だそうだ。
だから良く金属泥棒が送電線盗んだり事件に成るんだな。
CIMG5369
でもこれ、地下トンネルに送電線配置されてる訳だろ?関東大震災来たら水没するだろうし大丈夫なんだろうか?と素人目に一抹の不安も沸いた。
CIMG5370
んで最後に空気の浄化システムの解説とか有って・・・
CIMG5373

CIMG5372
CIMG5374
CIMG5375
てか、静電気で灰塵を選別するとか・・・粉塵と電気の最悪の組み合わせを火災に成らずに使いこなす技術って凄いね。
CIMG5376
乾式排煙脱硫装置と言うらしい。
CIMG5377
CIMG5378
この数値が凄まじい。恐らくヨーロッパで未だに酸性雨の被害が凄いのもディーゼル車が主流なせいでは無く原発廃止して火力発電所増やしているのに日本程の技術力が無い旧世代の火力発電技術しかないから窒素酸化物とか硫黄酸化物が略略(ほぼほぼ)垂れ流しなんだろうな。
CIMG5379
CIMG5380
何か今回の訪問で知ったのだが、石炭と言うのは産廃に成らず肥料の元と硫酸に成るらしい。
そして肥料の元と硫酸は転売が利くので、それも副産物に成るそうだ。
CIMG5381
クリンカは大きめの石炭の溶解して再結晶した灰。フライアッシュは粉塵のままの灰だそう。
CIMG5382
あと子供が好きそうな火力発電の趣味レーター。
タービンを1つ~3つ、個別に回したり3つ同時に回して発電した場合の電力発生のスピードの差を模擬実験出来る。
CIMG5384
そして通電する物としない物の実験装置。
CIMG5385
CIMG5386
自分で電極を持って、実際にヤカンやなんかに触れて確認出来る。
こう言う実験は子供の興味を引くが我々オッサンも楽しい(笑)。
2017年09月27日の小生の来場時間は客が小生一人だったので実験しまくりの上、ゆっくり観覧出来て非常に良かったのだが・・・
CIMG5387
これだけの素晴らしい見学可能な火力発電所と展示館、来客が少ないのは文明向上には損失だと思う。
横浜市民のみならず、もっと多くの子供達や進路に迷っている高校生や大学生に社会科見学や理科の課外学習なんかに来て貰って、色々と高碕翁の偉大な理念や化学系の仕事でも人々の役に立てる事を理系文系問わず考える機会に成れば、何某(なにがし)か人生の選択の助けに成るんじゃなかろうかとも思った。

この施設の直ぐ近くには海づり公園も有ります、小さい子のいる御家庭のパパさんママさん、そして進路に迷う高校生や大学生、一度、ここに散歩に来て施設見学してみては如何(いかが)だろう?

ISOGOエネルギープラザ 営業時間:10:00~16:30 日曜日定休

下の写真は港南区笹下に所在する梅花山成就院です。
2014-09-11-14-09-53
この御寺の存在を横浜市でも知らない方が多いとは思いますが、杉田玄白や間宮林蔵の一族、間宮家の安土桃山時代~江戸時代初期の本家と歴代住職が深い関係が有ります。そして戦国時代の笹下城の一角に建っている御寺です。

この成就院の山門は江戸時代に本牧奉行を務めていた間宮家の本家、笹下間宮家が本牧奉行を辞任し、幕府により下総国に転封される際に笹下陣屋から移築されたものです。つまり江戸時代初期から存在する間宮家の屋敷の邸門です。
笹下間宮家と言うのは江戸時代に旗本として成立した家で、そもそもは室町時代に鎌倉将軍府の初代公方、足利基氏公に従って近江国より伊豆国に移住して来た佐々木一族の舟木信行が、現在の伊豆の国市、旧函南郡馬宮(まみや)に移住して来た際に、所領となた馬宮の地名をとって馬宮に改姓、後に間宮を漢字を改めた事に始まる一族です。
祖先は宇多天皇、近江国篠箇(ささげ)庄の出身の近江源氏佐々木家の一族です。
image
六角家、京極家、黒田家、乃木家、間宮家は全て佐々木一門で、佐々木家の祖先で宇多天皇の御子息の敦実親王を御祭神とする滋賀県近江八幡市安土町に所在する延喜式内社(西暦800年代以前造営と朝廷公認の神社)の沙沙貴神社にも、間宮家の家譜が佐々木一族として記録されています。
その間宮一族は関東において武将として陸戦のみならず水軍も率いており、更に築城家、鷹匠、外交官、内政官としても活躍した記録の残る稀有な一族です。
戦国時代には北条家臣と成ると、“相模国人衆の14家の筆頭”に数えられました。
2014-09-14-20-47-49
上は神奈川権現山合戦で活躍する間宮彦四朗=間宮信冬公です。
戦国時代に最初に活躍したのが、鶴見区末吉、川崎市川崎区一帯を領有した間宮信冬公です。
間宮信冬公は扇谷上杉家と山内上杉家の連合軍を、北条家の先鋒として現在の京急神奈川駅一帯に在った権現山城に上田政盛公と共に籠城し迎撃すると、敗戦濃厚と成った際に敵陣への突撃を敢行し武名を関東中に轟かせました。
時代は下り、信冬公の系譜上の跡継の間宮彦二郎信盛(別名:信親)公が信冬公の権現山合戦の頃に川崎を一時失陥したと思われ、本拠地が川崎や末吉から磯子区杉田に移ります。
更にその後、信冬公の孫の間宮信元(別名:盛頼)公と曾孫の間宮康俊(別名:信俊)公と間宮綱信公時代には現在の港南区笹下地区~磯子区洋光台地区の広大な範囲に築城された笹下城に移されました
間宮康俊公は安土桃山時代の間宮家当主で、関東最強だった猛将の北条綱成公の付家老(つけがろう:家臣ではなくて役職上の補佐官)として大活躍します。北条綱成公は武田信玄や上杉謙信の侵略から幾度も防衛に成功した名将で“地黄八幡”の異名で周辺大名から恐怖の対象と成った人物です。
その綱成公の強さは、武田信玄は配下の真田家に対して「地黄八幡の武功に肖(あやか)れ」と、戦場に落ちていた北条綱成公と間宮家の率いた”黄備え隊”の軍旗を真田家に与え薫陶を授けた程でした。この”朽葉色の八幡旗”は以後真田家の家宝と成り、現在も松代市の博物館に保管されています。
DSC_2863
※写真は日本百名城の一つ、箱根の山中城。出丸と、それを取り囲む障子掘り状の三日月掘り。
間宮康俊公は北条綱成公の没後、豊臣秀吉の小田原攻めの際に箱根山中の山中城に城将松田康長と共に手勢200弱で籠城、秀吉軍本隊8万の先鋒豊臣秀次率いる中村一氏と渡辺了、一柳直末、堀尾吉晴、山内一豊、長谷川秀一等有名武将の大軍勢26,000を迎撃、圧倒的不利で玉砕するも奮闘し豊臣勢に寡兵で大打撃を与え、秀吉配下の小大名一柳直末を討取る大功を建てました。
CIMG1532
※上の写真は横浜市鶴見区下末吉に在る長谷山寶泉寺です。
鶴見区に在る長谷山寶泉寺は江戸時代に成っても毎年、間宮康俊公を慕う旧家臣団が集まり追善供養を行った場所で、康俊公の御位牌も最近まで安置されていた場所です。
現代では普元院殿武月宗閑が一般に康俊公の戒名と誤って認識されてしまっています。
これは康俊公の御息女で徳川家康公の側室に成った“間宮於久(おひさ)の方”様と御子孫の戒名取り違えによって康俊公の御父君“間宮信元公”の戒名である普元院殿武月宗閑が誤認されてしまった様です。
この普“”院殿武月宗閑には間宮信元公の俗名の"元”の漢字が入っている事からも、戒名に俗名を一字取り入れる事の多い風習を考えれば、やはり信元公の戒名が現代、康俊公の戒名として取り違えられてしまっている様です。
この康俊公の入道号( にゅうどうごう=出家した僧名)は江戸時代に家臣団が度々追善供養を行った寶泉寺では正しくは「一宿宗覚庵主」として伝わり、戒名は「普光院殿壱宿宗覚庵主」とされています。。この戒名は康俊公が参禅した際に伝燈録の永嘉(ようか)大師の法話を紹介した間和の記録にも残っていたそうですが、近年の寶泉寺の本堂の火災で文書や康俊公の御位牌は焼失してしまいました。
しかし新編武蔵風土記稿に御位牌が祀られていた菩提寺である事が記録に残ります。寶
泉寺寺伝の戒名が正しいと断定出来る記録が更に別の御寺にも残ります。
CIMG1490
※上の写真は横浜市南区の瑞往山蓮華院弘明寺(ずいおうさんれんげいんぐみょうじ)です。
この弘明寺は元は求明寺と書いて「ぐみょうじ」と読みました。鎌倉時代に寺名を一字改名していますが、横浜市では最古級の御寺です。この御寺には間宮家の家臣団と武将が多く関与しています。
一つは、間宮信俊公と言う人物の記録が有ります。天正十八年(1590)年、間宮康俊公が山中城で討死する前年に官途が監物の間宮信俊公が弘明寺の寺宝の花瓶を私財で修理し奉納した記録が残ります。
信俊公と康俊公の名前が酷似していますね。これは同一人物で、信俊は康俊公の初名、もしくは北条家の武将としてでは無く個人として真言宗寺院に関与する際には祖先の佐々木家以来の“通し名”の一字である"信”の字の入った名前、初名の信俊を名乗ったのではないかと推測出来ます。
更に、有力な証拠が記録に存在しています。
江戸時代、間宮信元公の子孫で江戸幕府の昌平坂学問所で地誌編纂で功績を上げて頭取を務めた間宮士信(ことのぶ)公が編集した記録にスケッチされた絵図と一緒に紹介されている、弘明寺の扁額に関する記載です。
この記載によれば、現代では紛失した“弘明寺”と書かれた扁額は入道号が宗閑と言う人物の同伴衆(家臣団)によって大永元年(1521年)に奉納したと扁額に裏書されているそうです。
その中には川崎大島村の伊左衛門と言う、寶泉寺で追善供養に参加していた人物の祖先と思われる人物の名も有り往島(おうしま)と記載されています。扁額の裏書には“板旦那神奈川住人”と書かれ製作出資者の一同が間宮家の所領、神奈川と呼ばれた川崎~末吉~権現山一帯の人間である事が解ります。続いて“端山内匠助国重”と書かれています。“端山(はやま)内匠助(たくみのすけ)国重”は製作者名でしょう。続いて書かれた“本願宗閑 同伴衆”奉納者達が宗閑の家臣団と解ります。つまり、この扁額の奉納時に、既に彼等を配下にしていた宗閑は生前から禅宗に帰依して入道(僧籍に入り)“宗閑”の入道号を名乗っていた証拠に成ります。
宗閑の戒名は一般的に間宮康俊公の戒名と言われていますが、間宮康俊公は永正十五年(1518年)生まれです。
この弘明寺扁額の奉納された大永元年(1521)年時点で間宮康俊公は僅(わず)か3歳ですので、当然、僧籍に入り入道号を得る程の年齢でも無ければ、家臣団を従えて神社仏閣に祈願の奉納もする訳も無いし、まだまだ間宮信元公が存命中なのに3歳の康俊公が家財を投入出来る訳も無い訳です。
こと、ここに至れば当然、戒名と名前の“元”の漢字の一致、年齢からやはり康俊公の御父君“間宮信元公”の戒名が普元院殿武月宗閑であると判断出来ます。
DSC_2815
※上の写真は伊豆山中城址に建つ宗閑寺。間宮康俊公の菩提寺。
間宮康俊公は天正十八年(1590年)旧暦三月二十九日(5月3日)に当時としては高齢の72歳で戦死しています。
恐らく、康俊公の御息女の於久様は旦那様の徳川家康公に御願いをして、山中城址に康俊公の菩提寺を建てる際に御寺の名前を決める為に康俊公の一番最近関与した御寺を訪ねて法名を決めて貰ったはずです。
つまり、信俊と康俊が同一人物であるなら、間宮家の関与していた弘明寺です。
そこに間宮康俊公が生きた時代に記録である入道号が“宗閑”と扁額に有ったので、そのまま御爺様の間宮信元公の事績を年齢的に知る筈(はず)も無い、於久様や徳川家によって派遣された人物が当時の弘明寺の調査をして、この“宗閑”を康俊公の入道号と誤認したのでしょう。そして、間宮康俊公の戒名にしてしまった。ところが、家臣団達は康俊公の没後直ぐに康俊公が信冬公が開基した寶泉寺を中興した事を当然知っていて、寶泉寺の住職にちゃんと戒名を付けてもらったので法謚(ほうし=入道号)は一宿宗覚庵主で普光院殿壱宿宗覚庵主と戒名が伝わったのでしょう。そして曹洞宗の僧侶達はそれを知っていたので、江戸時代の法話でも伝えたのだと推測が成り立ちます。
この一宿宗覚庵主が鶴見区の家臣団や川崎の家臣団の伝承通り康俊公の入道号ならば、更に信俊と康俊の事も差異が埋まります。
 では、間宮信俊と間宮康俊の謎に移りましょう。
DSC_2825
※御廟所の写真撮影は失礼に当たるので掲載しません。
この御本堂の左手に、間宮家や豊臣方の一柳家や長谷川家の戦死者の御廟所が在ります。
間宮康俊公の五代子孫、間宮正次公が箱根の山中城址で追善供養を行った際に、この信俊公と康俊公を別人で兄弟として間宮家の墓碑を建立しています。
この墓碑には間宮信俊公の異名が"一本将監(いっぽんしょうげん)”として、間宮康俊公の法名が“普元院殿武月宗閑”と彫られています。しかし、康俊公の生年から普元院殿武月宗閑が戒名で有る事は無い訳です。

間宮信俊公の異名が"一本将監”で有る事、寶泉寺と川崎の家臣の伝承の間宮康俊公の戒名が“一宿宗覚庵主”である事、弘明寺の寺宝の壺を直した間宮信俊公の官途が“監物(けんもつ)”で有る事、これらの名前は少しづつ似ていて、他には例のない相似です。
時系列でまとめてみましょう。
間宮康俊公の名前の“康”の漢字は主君の北条氏康公からの一字拝領。
両者の年齢、康俊公の生年の永正十五年(1518年)と北条氏康公の元服の享禄二年(1529年)から1529年以降しか北条氏康と名乗った事実は無いので、弘明寺扁額の奉納された大永元年(1521)年時点で主君の北条氏康公から“康”の一字を拝領する事は不可能よって年齢から初名が間宮信俊と推測
②公私と宗派による名の使い分け。
北条家は曹洞宗で家臣もこれに従う習慣が有ったので、祖先の佐々木家以来の宗旨が真言宗で有る事から、公の北条家臣と私では名前を使い分けていたのでしょう。
北条家臣として御寺に関わる時は康俊。
佐々木家以来の伝統で真言宗の御寺に関わる時は祖先以来の信の字が入る初名の信俊。
③徳川家の使者の調査ミスによる間宮信元公の戒名を誤報告。
①や②の事情をを知らない於久か徳川家康公に派遣された徳川家の調査員が誤って間宮信元公の戒名を報告した。ところが笹下と杉田と氷取沢の間宮一門衆や旧間宮家臣団は間宮康俊公の入道号が“宗覚”と当然知っていて、康俊公と一番関係の深かった寶泉寺の当時の御住職に戒名を一宿宗覚庵主と決めて貰い既に寶泉寺で供養をしてしまっていた
④徳川幕府のミスを間宮家臣団が指摘できる筈も無く…間宮信俊の俗名と康俊普元院殿武月宗閑戒名の併用
戒名における徳川家のミスを間宮家や家臣団が指摘しよう物なら徳川家康公のメンツも潰す事に成る、於久様の立場も悪くする、更に家康公に外戚として重職を与えられ可愛がられた康俊公嫡孫の間宮直元公の地位も危うくなる。
そんな指摘を出来る訳が無い!そこで…
間宮一門衆はやむなく
公の立場で間宮康俊公の供養をする際は間宮康俊普元院殿武月宗閑と俗名の間宮信俊を兄弟として両方一緒に供養する事以外に手段が無かった。
⑤…ところが子孫には④のそんな事情も知らない物も100年も経てば当然出て来た。
間宮本家の五代目、間宮正次公は四代目の養子。しかも四代目の間宮正信公は実兄だった。つまり、間宮正次公は嫡子としての教育を受けないまま兄の養子に成って跡を継いでいる。一般的に兄弟間で養子に入る際は大体が兄の急死による末期養子か、無嗣子のまま体調が悪くなり途中から養子に入るパターンが多い
そして間宮正次公は兄の病死を祖先の戦死した山中城で供養をしなかった祟(たた)りとでも思ってか、山中城で追善供養を行う事にしたのだが…
間宮正次公は山中城で祖先達の追善供養を行う際に、家系図を調べたが、幕府提出用に編纂された家系図には④の事情から同一人物の間宮信俊と間宮康俊の名が有り、更に公式な戒名として記録されてしまっている普元院殿武月宗閑が間宮信元公の戒名と何ぞ知る訳も無く、墓碑に間宮信俊公と康俊公を別人格として彫らせてしまった。
そして、これが間宮家内で間宮信元公の戒名が忘れ去られる原因に成ってしまった。
以後、現代に至るまで多くの学者がこの事実を知らず、寛政重修諸家譜の誤りをそのまま引用するしか無く成り、間宮家の最古参の家臣団の集まる川崎や下末吉地域に伝わる正しい間宮康俊公の戒名の一宿宗覚庵主が現代では余り知られなくなってしまった…

そんな訳で、有名な文書しか読まない学者先生には申し訳有りませんが、時系列による寶泉寺や古参家臣団の伝承と弘明寺の記録上、寶泉寺の寺伝が正しい事に無いります(笑)。

又、間宮家では康俊公の御舎弟、間宮綱信公も大変に活躍されました。
滝山城主で北条家当主北条氏政公の御舎弟北条氏照公の付家老として活躍した人物です。間宮綱信公は築城家、内政官、外交官として活躍し、北条家の外交官として徳川家康公と謁見し、更には安土城に赴き織田信長公にも謁見した人物です。
2016-02-13-09-03-48
※写真は日本百名城の一つ、八王子城の御主殿(本丸)の石垣。八王子城は間宮綱信公の縄張りと伝わる。
また、間宮信冬公の孫の代に分家した杉田間宮家も初代の間宮信次(本名:常信)公が記録に残ります。
間宮家が三浦半島の走水で房総半島の里見家の水軍を撃破し敵軍船14艘を鹵獲する等の大活躍をした際に、杉田間宮信次公は手勢50人余りと玉砕した記録が現代に伝わります。この手勢50人は歴史に興味の無い人からすれば小勢ですが、実際は一万石の大名の動員可能兵士数が300人なので、石高換算すると江戸時代の1500石相当の大身旗本クラスに相当します。小大名の家来なら家老に成れる程でしょう。
2015-01-21-13-16-37
※上の写真は戦国時代からの杉田間宮家の菩提寺、牛頭山妙法寺。
杉田間宮家は水軍を持つだけでなく、笹下間宮家の間宮康俊公の子の間宮元重公、康俊公の娘の継姫(つぐひめ)様の子の間宮(旧姓:豊前)元盛公と並び“鷹匠”としての高い教養を備えた家柄でした。
当時の鷹匠は武士で、鷹狩は高貴な血筋の武士の嗜みでした。
江戸時代に成ると杉田間宮信次公の嫡孫、間宮信繁公が大規模な梅林を造営し杉田梅林として有名に成りました。
この杉田梅林で植林されたのが幻の高級梅干し“杉田梅”の原種で、この梅林は江戸時代を通じて江戸市民の観光旅行先として有名で、明治~大正にも皇族の方々が度々訪れる程でしたが、横浜市教育委員会が保護を怠った為に杉田梅林は宅地開発され消滅してしまいました。
現在の御住職様が妙法寺の裏山、“妙法寺山”と昔呼ばれた境内地の丘の上に梅林復興を目指し目下奮闘中です。
2015-02-28-17-33-47
※写真は小田原市の曽我梅林。神奈川県下最大の梅林で現在は曽我十郎梅の産地。
実は曽我梅林の起源は、昭和初期に杉田梅林が消える直前、杉田から移植された杉田梅の梅林を発端としています。そして、この梅林の杉田梅を更に品種改良したのが曽我十郎梅と言う訳です。つまり、間宮信繁公の植えた梅の遺伝子を継ぐハイブリッド品種が曽我十郎梅で、東の梅の横綱と言う訳です。
そんなこんなで間宮家は色んな殿様が色々あって家系図も混乱していますが、素晴らしい功績を残している訳です。
CIMG0760
※上の写真は駿府城。
間宮綱信公が徳川家康公と直接面識が有った事、間宮家が間宮信冬公~間宮信盛(信親)公~間宮信元(盛頼)公~間宮康俊(信俊は同一人物の可能性有り)と歴代水軍、陸軍の戦闘で北条綱成公の武名を支えた事、そして最後の山中城の戦いの活躍が徳川家康公の目に止まり、於久様が側室と成り御姫様を産み、駿府城で生涯を終えました。
※下の写真は家康公の祖母の源応尼様の菩提寺で、華陽院と名付けられた。
CIMG0755
華陽院の寺名は、家康公の祖母の源応尼の戒名をとって名付けられました。家康公に大切にされた於久様は、この華陽院に御廟所が設けられ、家康公の御婆ちゃんの近くで眠ってらっしゃいます。
さて、ここからやっと笹下城址に建つ梅花山成就院に話が戻ります。
2014-09-11-14-09-53
この成就院の山門は間宮家の笹下陣屋の邸門です。
つまり、徳川家康公の側室、間宮於久(おひさ)の方の甥っ子の間宮直元公が初代として数えられる笹下外戚で、間宮直元公~御子孫の正次公が本牧奉行を辞職して下総国へ転封されるまでの四代の間の邸宅の門だった訳です。

そして成就院の背後の丘一帯が冒頭で紹介した笹下城本丸跡です。

この成就院一帯には昭和のIHI団地開発で破壊されるまで境内と周辺一帯が江戸時代に植林された梅林に囲まれていました。先に紹介した磯子区杉田の牛頭山妙法寺周辺の杉田梅林と合わせて観梅の名所でした。

現在では杉田と笹下は近代の横浜市成立後の区域分割で分けられていますが、間宮家が川崎市堀之内に在った城館から久良岐郡に移った頃には、杉田と笹下は一つの久良岐郡“上/下杉田郷”と言う区分でした。1510年に権現山合戦が発生し間宮家が杉田郷に移住し、1526年に鶴岡八幡宮合戦が起きて鎌倉防衛と沿岸部の防衛を兼ねた城が必要に成り、間宮家が信元公の代に至って鎌倉街道と金沢(六浦)道を押さえるのに適した笹下村の丘陵に笹下城を築城し本拠地とすると、笹下の地名が記録に登場する様に成ります。これは笹下城の名が間宮家の故地、近江国篠箇(ささげ)から名付けたとする説にも整合性が有り、杉田を治めた間宮信次(常信)公と兄弟での統治区分から笹下城の笹下郷と杉田郷と区分された様です。しかし以降も江戸時代まで杉田郷を笹下郷の地名が両方混在して記録される事も有った様です。

そんな杉田梅の杉田梅林と笹下城址の梅林を江戸時代初期に非常に身分の高い方々が京都から見学にいらっしゃった事が成就院に関する記録に残ります。前関白の九条幸家公と京都の本願寺の第十三世良如上人が金沢八景を遊覧しに参られた時に、笹下城址の梅林も見学にいらっしゃいました。九条幸家公の御姫様は良如上人の御妻女でした。この間宮家の梅林見学の際、御二人は成就院に滞在され梅林の美しさを絶賛された事で成就院の山号は梅花山に改められた歴史が有ります。

CIMG1422
※上の写真は築地本願寺です。

現在の本堂は関東大震災後、昭和九年(1934)年に完成したインド様式近代建築で国の重要文化財に指定されています。
浄土真宗関東根本道場として徳川家康公、本田正信公、間宮直元公の没後直ぐの元和三年(1617年)に最初の堂宇伽藍が完成しました。築地本願寺の造営には、徳川家康公の要請で大坂から移住して来た佃島の漁師達の協力が有り当時は海だった境内地と周辺の築地の埋立工事が成功しました。

築地本願寺の建設中は丁度、大坂冬の陣の直前に当たり、徳川家康公が駿府城に御隠居し、徳川秀忠公は征夷大将軍として江戸城に在城していました。間宮家が付家老として与力した玉縄城主の北条氏勝公は下総国岩富城に転封され、家康公参謀の本多正信公が玉縄城主に成っていました。

梅花山成就院に良如上人がいらっしゃったのは、完成して数十年後の築地本願寺へ御越しに成る際に鎌倉~金沢~笹下と金沢道(笹下釜利谷道路)沿いに旅をし遊覧されて回った事が推測出来ます。そして笹下杉田の梅林の事を御存知だったのは、築地本願寺建設中に准如上人の時代に、本多正信公が熱心な一向宗(※当時、江戸幕府統治下での浄土真宗の名称)門徒だったので、居城の玉縄城から近い間宮家の笹下と杉田の梅林を観光地として准如上人へ紹介されていたのでしょう。

加えて、氷取沢間宮家の間宮綱信公の菩提寺である宝勝寺や、笹下間宮家臣団の関与の有った成就院が一向宗の寺院だった事から、間宮家の笹下城本丸跡の下に建つ成就院が良如上人御一行の滞在場所に成ったのかも知れません。

杉田梅林や岡村梅林に匹敵する規模を有した笹下の梅林も、横浜市教育委員会と観光協会による保護が無かった為に残念ながらIHI団地の建設で消失しました。
2014-08-31-12-43-08
※写真は鎌倉の若宮大路から見た鶴岡八幡宮。

この成就院には幕末に僧籍から還俗し、元治元年(1864年)11月21日に鎌倉の若宮大路で鎌倉事件を起こした間宮一の廟所も存在します。

鎌倉事件は攘夷派の間宮一と清水清次が起こした事件ですが、二人の姓は伊豆以来の旧北条家重臣の姓です。鎌倉事件は間宮林蔵公にも見られる旧北条家臣団の結びつきを伺わせる事件でもあります。

この鎌倉事件の発端に成った事件が2年前に横浜市の笹下間宮家の旧領、末吉から近い生麦で起きています。

生麦事件は英国政府による日本での租界地獲得の政治的意図が見え隠れする事件で、間宮一はこれに義憤を感じ事件を起こした様です。

間宮一が同じ旧北条家臣と思わしき清水清次と鎌倉事件を起こした元治元年の2年前、戦国時代に間宮康俊公の所領だった鶴見区末吉の直ぐ隣の鶴見区生麦で、文久二年(1862)年8月に日本人なら誰もが義務教育で“生麦事件”が起きました。
CIMG1110
上の写真は鶴見区生麦の旧東海道、生麦事件発生現場と、下の写真はそこに民間によって設置された碑文。
CIMG1109

文久二年(1862年)8月、公家と武家が過激派の攘夷分子と、現実路線で分裂し日本に内戦の気配が漂い始めた頃、内戦を阻止し日本の速やかな近代化を図(はか)る薩摩藩の前半主島津久光公は公武合体を将軍に具申すべく薩摩兵700を率いて江戸へ登り、その帰り道に現在の横浜市鶴見区生麦で事件は発生しました。
横浜の英国人商人マーシャル、マーシャルの従妹で香港在住のマーガレット、横浜の米国人商人のクラーク、上海在住の英国人商人リチャードソンが事も有ろうに薩摩藩の軍列に対し正面から騎乗したまま突っ込んで来ました。この様な行為は英国でもテロ行為と見做(みな)されて即時射殺か斬殺されて当然の行為なので、彼等の中に何某かの意図が有ったのは明白でしょう。

しかし薩摩藩士達は外国人で有る事から日本の作法を知らないものと解釈し、当初は前衛の藩士達が騎乗のまま突っ込んでくる欧米人に対して身体を使って道を明ける様にジェスチャーをしたそうです。しかし英国人達は騎乗のまま隊列に突っ込んで来ました。これは明らかな政治的な意図の介在する挑発行為、もしくは本当に愚かな白人上位思想からくる黄色人種蔑視から来る嫌がらせでしょう。英国でも当然、庶民が貴族の馬列に正面から突っ込み体当たりをすれば反社会的行為と見做されます。挙句の果てに、彼らは久光公の籠の傍まで来て薩摩兵の隊列を

き乱す動きをし縦横に動き回ったそうです。その暴挙に至り、薩摩藩士はやむなく前藩主久光公護衛の為に不良外国人4人に斬りかかりました。
CIMG1112

※上の写真はリチャードソン落命の場所に日本人によって建てられた供養碑です。

4人はアメリカ領事館であった本覚寺に逃げ込もうとしますが、結果的にリチャードソンに致命傷、現在の国道1号線(東海道)と旧東海道の合流地点近くまで来て落馬した所で止めを刺されました。マーシャルとクラークは重傷、マーガレットは騎馬で薩摩藩の隊士蹴散らし離脱しました。

リチャードソン落命の場に日本人が建てた供養碑が有ります。一連の事件は明らかに英国人集団に非が有ります。しかし英国は事件の発生直後に幕府に対して莫大な賠償金を請求します。日本への賠償金請求に発展した挙句、幕府が道理に乗っ取り拒否すると理不尽にも英国外務大臣のラッセルが対日宣戦布告の準備を横浜で始めさせます。極めて計画的です。

これは巧妙に仕組まれた英国による租界、或るいは植民地獲得の為の政治的意図が見え隠れします。

この英国の強硬な態度に対して、国際法を熟知していない老中並の小笠原長行は英国と日本国の間で調停裁判を起こす事も無く、臆して独断で賠償金支払いを決めてしまいました。幕府の賠償金支払い後も当然ながら英国は脅迫を止めず英国艦隊を鹿児島湾に強硬入港させ、薩摩に対しても賠償金を請求し挑発をします。英艦隊は薩摩藩軍艦を拿捕し更なる挑発をすると薩摩藩は生麦事件の時と同様に喧嘩を買ってしまい英国艦隊を砲撃し薩英戦争が勃発します。

しかし、ここからが面白い事に恐らく英国人にとっては予想外だった展開に発展して行きます。

薩摩藩は意外にも劣った武装と防衛施設で善戦し、英国艦隊に大打撃を与えてしまうのです。これは日本人にとって幸運な事で、英国人の日本人に対する明治期の好意的な評価につながって行ったと思われ、薩摩藩も英国の植民地化されずに済み、更には日本近代化の窓口を大きく開いた瞬間でもありました。後に英国は近代において最大の親日国、支援者に成りました。

※下の写真は横浜市中区の本牧山妙香寺です。
2015-07-29-12-28-45

妙香寺は弘仁五年(814年)に弘法大師空海和尚の開いた寺院で、本牧山東海寺と言う寺名でしたが、鎌倉時代に領主で御寺の大旦那だった佐藤家が、日蓮上人が同寺に滞在された際に感銘を受け宗旨を改宗したそうです。

山号の本牧山の通り、久良岐の丘、本牧半島の先端に在る寺院です。

古代の日本武尊の頃~奈良時代に本牧半島は軍馬の生産地でした。これによって本牧の地名が当地に残ります。妙香寺は江戸時代、多くの学僧を抱えた壇林として栄えた御寺で、間宮直元公が本牧奉行として治めた地域に在る御寺でもあります。幕末に成ると、江戸幕府に寺域が英国軍の駐留地として指定された事で日本の吹奏楽発祥地・国家君が代発祥地・テニス発祥地に成りました。
2015-07-29-12-43-53
※写真は山手町公園内に在るテニス発祥記念館。

薩英戦争の際の薩摩藩の善戦によって英国はアプロ―チを変えて行きました。薩摩と英国は蜜月な中に成って行き、現在の横浜市中区の本牧山妙香寺に英国軍駐屯地が置かれると、薩摩藩士が妙香寺に入りびたり英国軍のジョン・ウィリアム・フェントン軍楽団長に師事して吹奏楽を学ぶ様に成ります。

このフェントン軍楽団長が「世界に通用する国として国歌を持つべき」との提言が有り、日本国歌が作曲される事に成りました。“君が代”はフェントン軍楽団長作曲、歌詩は後の大山巌(おおやまいわお)元帥により行われ、古今和歌集第七巻賀歌の部から選定されました。
DSC_1398
※写真は江戸時代に榊原照清公の邸宅が在った当時は海に浮かぶ島だった越中島跡に架かる錬兵衛橋。
杉田間宮家の間宮信繁公の御息女は、久能山東照宮初代宮司の榊原照久公に嫁いで、榊原照清公を産みました。その居所が在ったのが東京都江東区に在る越中島と言う当時は島だった場所です。現在は埋立られて地域名に成っています。
明治三年(1872年)9月8日に国歌君が代は初めて日本で演奏されました。その場所が越中島でした。
この越中島は紹介した通り間宮家と所縁の深い土地でありますが、大山巌元帥も間宮家と同じ近江源氏佐々木家支族で家紋も間宮家の家紋と酷似した“丸に隅立て四ツ目紋”です。         
丸に隅立て四ツ目紋丸に隅立て四ツ目紋、大山家の家紋。
隅立て四ツ目結び紋隅立て四ツ目結び紋、近江源氏佐々木家と間宮家の家紋。

この様に、間宮家が嘗て治めた土地で、同じ佐々木家の御子孫の大山巌元帥とフェントン軍楽団長によって最初の君が代が作られた事も、有る意味御縁なのかも知れません。今の君が代はドイツ人音楽教師エッケルト先生の編曲です。
2015-08-01-14-04-43

※上の写真は横浜市中区に有る横浜開港資料館です。

昭和六年(1931年)年に英国領事館として建築されました。
ペリー神奈川上陸
※ペリーが上陸した際の絵図。横浜開港資料館の屋外展示でも見れます。
この庭に在る玉楠(たまくすのき)はペリー提督が上陸した際の絵にも描かれていて、英国領事館は横浜の地名の由来に成った半島の上に建っている事が解ります。
開港資料館には生麦事件で起きた薩英戦争の白人犠牲者だけを追悼するプレートが壁に有ります。
2015-08-01-13-56-19
玉楠の樹の横には絵図の通り昔、弁財天様の御社が在りました。この弁天様は源頼朝公が勧進し造営した弁天様でしたが、関内地区が外国人居留地に成った頃、元町と羽衣町にそれぞれ分祀遷座されました。
明治の神仏分離令で渡来神で神仏習合の弁天様は、そのまま神社に御奉り出来なくない名前を厳島神社に改められて主祭神の名も日本神話の市杵島姫様に変えられてしまった事で、現在では源頼朝公が勧進した神社と言う縁起を知る人は宮司様と禰宜様達を除いては横浜市民にも御存知の方もほとんど居ません。
DSC_1658
元町の弁天様の御神紋は鎌倉の銭洗い弁財天こと宇賀福神社と同じ北条三鱗に浪切紋なので、恐らくは源頼朝公が開いた宇賀福神社から勧進され、後に鎌倉幕府執権の北条時頼公の支援が有ったと推測出来ます。
昔の横浜の地名の由来の半島の内側が、戦国時代の蒔田湾で、戦国時代の鶴岡八幡宮再建で、蒔田吉良家の殿様の吉良頼康公と、間宮家の間宮康俊公が再建の際に笹下川~大岡川~蒔田城下の蒔田湾へ材木を集積し、間宮家の杉田湊に水運で運び、更に鎌倉まで輸送しました。そんな港、蒔田湾が在ったのが横浜開港資料館を挟んで現在の山下公園や大桟橋と反対側の横浜球場~吉野町一帯でした。
蒔田湾は江戸時代に埋め立てられて吉田新田と成り消えましたが、安土桃山時代~江戸初期まで間宮直元公~間宮正次公の五代の間、本牧奉行として間宮家が管理した港でもあった訳です。

この様に間宮家の歴史は横浜と深い関わりが有り、所縁の神社仏閣史跡を廻るだけでも横浜や東京を散歩して回る口実も出来ます。
そして、その神社仏閣は思いがけず皆さんと昔の偉人達を繋ぐタイムカプセルに成ってくれる訳です。

皆さん、近所の神社仏閣や史跡を御散歩してみませんか?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

横須賀市の有名な繁華街、ドブ板通り商店街は美味しいネイビーバーガーの店やBARが沢山あります。
DSC_3138
結構、有名ですよね?
こんな↓感じの店が沢山有るんです。
IMG_1591 (2)
店が全部似たような感じかと言うと各店それぞれに個性を打ち出していて、皆さん通っても飽きないと思います。
小生は日本武尊(やまとたける)と弟橘姫(おとたちばなひめ)を祀る神社に行く時に、たまにネイビーバーバーを食べに立ち寄ります。
オススメの店も数軒在ります。
IMG_20160709_220321
SURFTAKO(サーフタコ)。
有名なTSUNAMIの発祥の店。

DSC_3141
TSUNAMI
SURFTAKO(サーフタコ)の客席数を増やしBAR色を薄めてレストラン的にした店。

2015-10-28-18-05-15
Ohana aina cafe
ネイビーバーガーと言うより、ハワイアンバーガーの店で、店長の女の子が可愛い(笑)。
ハワイアンパンケーキも売りの店。

IMG_1589 (2)
HONEY BEE
最古参のネイビーバーガーの店で、米兵の方々も多く利用する店。

IMG_20160709_193516
Cafe Restaurant CORSAIRE(コルセール)
夕方と夜景の綺麗なヴェルニー公園内に在るので、雰囲気がドブ板通りとは全然違ってデートコースには最適。

小生が人生で一番「美味しい!」と思ったのは、TSUNAMI=SURF TAKOのチリビーンズバーガー!
1468068141438
これ、100点満点で100点に限りなく近い。
横浜の国際客船ターミナル=大桟橋入口のJack Cafeのハンバーガーも90点近い評価だが、全てのハンバーガー店の中で、この店のチリビーンズバーガーは食べて瞬間に…
「(*´ω`)おぉっうふ♪」
…と変な声が出そうに成る程にショックだった!
紹介した他の店のバーガーも❝アメリカ風の肉々しいハンバーグ❞で、これらの本物のバーガーを食べると、某チェーン店のハンバーガーは文字通り「ジャンクだな…」としか感じなくなる位に美味しいですよ!

位置関係はこんな感じ…
ネイビーバーガーの名店 久良岐のよし
拡大すると星印☆が付いた場所に各店名が書いて有ります。
ちなみにSURF TAKOの隣には…
DSC_3155
スカジャンの刺繡屋さんとかも有りますよ。スカジャンだけじゃなくてジージャンとかワイシャツ持ち込んで刺繍して貰っても御洒落(おしゃれ)かも知れない…

さてさて、ドブ板通りは実は❝聖跡❞なんです。
聖跡って何?って思う人いますよね、多分。近代史好きで明治天皇の事を調べたり、多摩地区の人は知ってるかも知れませんが。
聖跡と言うのは、特に古代の神話の神様、或(ある)いは神格化された天皇が何か行った史跡の事を指します。
東京の多摩地区に❝聖蹟桜ヶ丘❞って町が有りますよね?あそこは明治天皇の鷹狩場だったんですよ。
明治天皇が鷹狩に来ていた史跡の町(当時は森)だから❝聖跡❞桜が丘なんですね!
聖蹟桜ヶ丘案内マップ 久良岐のよし
「耳をすませば」でロケハンされた町です。小生は間宮家と主家北条家の顕彰活動で八王子方面に行ったり新選組の史跡を回る事が有るので、車で通りがかってたまたま知っていました。

実は横須賀のドブ板通りも、言うなれば❝聖跡ドブ板通り❞と言われるべき町なんですよ~!
…ドブ(土腐)と聖ってあべこべですがね(笑)。
DSC_3161
実はここ、ドブ板通り、明治時代に天皇が横須賀鎮守府(海軍総司令部)に来る際の行在所(あんざいしょ=宿泊所)が在ったんです。
横須賀市の人も余り知りませんがね。
SURF TAKOの有るドブ板通りの十字路を大通りの方に歩くと、商店街入口に上の写真の石碑が建っています。
何故、明治天皇の所縁(ゆかり)の場所が聖跡かと言えば、明治天皇は明治神宮の御祭神で日本近代化の象徴であり工業や法治国家化の守護神と成られたからですね。
さて、では、ドブ板通りの行在所は何処に在ったでしょうか?
現在、その地名や施設は残っていません。しかし場所は解っています。
小生は、この石碑と地形を見て解りました。
DSC_3169
石碑を真っすぐ、ドブ板通りを突っ切って進むと上の写真の階段と幼稚園と御幸学園と言う女子校が在ります。
位置関係はこんな感じ。
横須賀行在所周辺 久良岐のよし
御幸学園の❝御幸(みゆき)❞と言うのは、実は天皇が「行幸(ぎょうこう)=外出する事」を示す日本語の動詞です。明治天皇の行在所に建つ学校だから御幸学園なんですね。
さて何故、この場所が小生は地形的に怪しいと思ったかと言うと、入口の石碑から見渡しても只(ただ)の住宅街にしか見えない丘に、真っすぐ神社の様に階段が伸び、幼稚園で行きあたってる辺りが結構広い同じ壇の削平地だったからです。
つまり、神社や邸宅を構えるには相応しい地形の上に、その台地からは恐らく当時は横須賀の港を一望出来ただろうと下から見上げて推測したからです。
で実際に登ってみると諏訪公園と言う小さな公園が在りまして…
DSC_3192
中には何やら石碑が建っています。
DSC_3193
ほらね?明治天皇の屋敷地だった事が石碑に書いて有るでしょう?
古代から続く延喜式内社の古代境内地の地形を見たり、多くの城を回ってる内に何だかこういう事が予測出来る様に成っちゃいました(笑)。
多分、御城ファンや歴史オタクには小生と同じ能力を持っている人が少なくないと思います(笑)。
これって神秘を感じる霊能力でも何でも無くて、只の地形を見る能力と知識を整合させる経験だけですからね。
さてさて、ドブ板通りが聖なる場所と言うのは解ったと思いますが…
もう一つ、ドブ板通りを京急汐入駅側に抜けると明治天皇行幸の史跡が在ります。
DSC_3191
御幸橋の跡ですね。
DSC_3190
汐入は元々、地名の通り小さい湾と其処(そこ)に注ぐ川が存在しました。
明治天皇は東京から馬車で日本中を回られ、幕末からの復興と発展を見て回り、多くの国民を鼓舞して回ったり、旧幕臣の邸宅を訪れて名誉回復をしたりしています。
東京都日野市に日野本陣と言う場所が有るのですが、実は新選組の土方歳三さんの親類の佐藤彦五郎サンの自宅跡で天然理心流の道場を構えていた場所でした。そこに明治天皇が行幸された際に、孝明天皇の御言葉を用いて新選組とその寄親で会津藩主の松平容保公の名誉を回復される言葉を残したそうです。
明治天皇の存在によって、日本は旧幕臣も新政府側も協力して近代化を図る事に成功し、日本を植民地にしようとするロシアに対馬海鮮と旅順攻防で勝利する事が出来て、現在も日本国が存在しているんですね。
もし明治天皇がいなかったら、日本人は御寺と神社をソ連に全て破壊されて、日本語の使用を禁止されて、婦女子は満州国民がそうであったようにソ連兵にレイプされまくって大参事に成っていたでしょうね。

そんな日本を纏め上げて近代化、法治主義国家化を象徴する神として明治神宮に祀られる明治天皇が、ドブ板通りと言うアメリカ文化を色濃く残す土地で、アジアの平和を守るアメリカ第七艦隊と日本を守る海上自衛隊横須賀基地の職員達が休暇を楽しむ場所にヒッソリ聖跡を残されている事を知る現代人は余りいません。
ついでに、ドブ板通りはもう一つ楽しみ方が有ります。
是非、下も見ながら歩いて見て下さい…
DSC_3177
有名人の手形がはめ込まれています。
上の写真は❝ネスカフェ❞のCM(笑)とかでも有名な錦織建さんの手形ですね。
他にも日本の音楽に多大な影響を与えたり活躍した方々の手形が有ります。

DSC_3179
DSC_3178
DSC_3175
DSC_3174
DSC_3173
正直知らない人も多かった(笑)。
でも、手形見ながらネットで「どんな人なんだろう」と思って検索したら色んな事が解って楽しかったですよ。
ね?
町中も何となく散歩しながら、ちゃんと説明の看板や石碑や地形に目を止めると色んな発見が有って楽しいでしょう?

だから皆さん、近所の町の中の神社や御寺や山を散歩してみませんか?
そこは何気ない小さな祠(ほこら)でも、凄まじい歴史偉人や神様と成った古代人と笑われ現代人を繋ぐタイムカプセルの役割を果たしてくれる場所かも知れませんよ~?

次こそ大庭城址の紹介記事を書きたいな~。
では!又、次の解説ブログで御会いしましょう♪

ブログネタ
名所・名勝・史跡・旧跡 に参加中!

2008-08-03-04-55-06
実は坂本龍馬の奥さんの御龍サンの終焉の地が神奈川県だと言う事を皆さん御存知でしょうか?

横須賀市大津町と言う所に在る信楽寺は、お龍サンの眠る御寺です。
2015-10-28-16-59-09
正式な寺名は宮谷山至心院信楽寺。
信楽寺と書いて「しんぎょうじ」と読みます。
お龍サンは、坂本龍馬サンと死別後、高知の龍馬さんの身内に龍馬サンの名跡乗っ取られたり、龍馬サン没後に支援者だった西郷隆盛サンも西南戦争で亡くなってしまったり、龍馬サンの師匠の勝海舟サンの紹介で横浜の「田中家」と言う料亭で働いた後、再婚した相手が実の妹と不倫をして又、独身に戻ったり…
まだ坂本龍馬サンの偉業を世間が知る前だったので、この横須賀市で政府の支援を受けられないまま、壮絶な人生を送って亡くなりました。
坂本龍馬サン
明治政府内や世間で坂本龍馬サンの偉業が漸く認識され、世間で「お龍サン」の事も話題に成りだした頃には既に、お龍サンは余命僅かでした。
お龍サンが亡くなる直前、坂本龍馬サンの霊が当時の明治天皇の御妃の昭憲皇后(美子皇后)の夢枕に現れ、危篤のお龍サンの身の上を案じられた昭憲から御見舞いの電報が届けられたり、海軍大将だった井上良馨公が発起人となり見舞金の募金が集められ届けられましたが、時既に遅く、お龍サンは亡くなってしまいました。

晩年は幸せでは有りませんでしたが・・・
お龍サンが、この「大津町にいる!」と解って以来、没後も、町の人はその事を忘れていません。
全国的には有名でなくても横須賀の信楽寺のある大津町の地元の人は今でも、お龍サンがこの町で暮らした事を誇りに思っています。

 でも、お龍サン、実は晩年は余り幸せでは無かったんです。 

…と、お龍サンの話をする前に先ずはこの信楽寺サンの歴史と外観から紹介したいと思います。この信楽寺サン、今では一般的な御寺程の大きさの敷地ですが、恐らく昔は可也(かなり)の規模を有していたのだと思います。


その証拠に鎌倉光明寺の末寺だった歴史を有しており、更に周辺地形からも往時の範囲は容易に推測出来ます。
鎌倉の光明寺と聞いても歴史に興味が無い方には良く解らないと思うので御説明差し上げますと、鎌倉〜室町時代の御寺は幕府等の行政機関が御寺の収入源である土地の保護をしたり和尚様の就任を承認したり文章で手続きを管理していました。
鎌倉の光明寺と言う御寺は格が高いので一般的な行政官僚では取り扱いが許されない程で、鎌倉公方や、その権力代行者の関東管領(かんとうかんれい:首相)、又は関東管領の執事(しつじ:官房長官)等の高い身分の執政者が行政文書の発行を行なっていた様です。
光明寺と言う御寺はそれ程の御寺だった訳ですが、現在でも大本山格の御寺として鎌倉材木座に存続しています。
光明寺は信楽寺の本山でしたから、信楽寺は光明寺の直接影響下に置かれていた事に成ります。つまり住職が世襲制に成る前の信楽寺は光明寺の偉い和尚様が赴任して来ていた訳です。
本山⇄末寺の関係と言うのは本社⇄支店の様な関係なので、当然、本山の格が高ければ末寺も栄えていた訳です。
これで信楽寺の権威は御理解頂けたでしょうか?
次ぎに、どれだけ栄えていたかを推測する物証(地形)です。
信楽寺には素敵な鐘楼が有ります…
…御寺の裏の鎮守の山の尾根筋に、水墨画に出て来そうな素敵な佇(たたず)まいで存在しています。
今では背後の山の周辺は削平され宅地化されてしまっていますが…
つまり、この鐘楼の存在が示す通り、昔はこの背後の山も寺領だったはずです。
それでは、この鐘楼が在る山の地形を見てみましょう…
信楽寺がマークされている右手の山に鐘楼が在ります。
そして信楽寺は鐘楼の山に囲まれていますが、これは鎌倉時代〜室町時代の谷戸構(やとかま)えと呼ばれる山を城壁代わりにして谷間に建築物を建設する南関東の丘陵地独特の文化で、信楽寺は周辺の山を谷戸として所有する造りだった推測が成り立ち、大寺院だった事が推測出来ます。
下の写真は鎌倉の浄妙寺です。
綺麗にスッポリ山に囲まれていますね。
谷間に作り、谷の入口に門を設ける事で外部と遮断され防犯や火災の類焼避けに成る訳です。
鎌倉の報国寺や寿福寺も、この様な作りに成っています。

話しを信楽寺に戻します。
信楽寺は多くの檀家さんがいらっしゃる様で大きな観音様?が、お庭にいらっしゃったり土地は全盛期より縮小されても栄えていらっしゃいます。

う~ん、素敵な観音様だ♪
信楽寺には、他に保久利(ぽっくり)地蔵さんと言う六地蔵が祀られています。 2015-12-16-13-40-20
説明の文章によれば、人間が動物的な下等な習性を抑制し成長を助けてくれる御地蔵さんと言う事でしょうか?
昭和52年の建立ですので割と新しい御地蔵さんですが、6体とも、とても御優しい御顔をしてらっしゃいます。
2015-12-16-13-38-13
この保久利地蔵を建立する事に成った切っ掛けは、実在した農家の御婆ちゃんがとても人から尊敬される人格者で長生された方だったそうです。その御婆ちゃんを偲(しの)んで建立されたのがこの御地蔵様だそうで、その言われが下の写真の説明銘板に書いて有りました。
2015-12-16-13-38-22
粗衣粗食…
小生も見習わないといけないなと本気で思います。でも食欲に負けてばっかりです。
…なんかこの食欲をコントロールする方法な無いもんだろうか?
生前の行いを周囲の方々に有り難いと感謝され御地蔵様として祀られるなんて、本当に人格者だったんでしょうね。
本当に見習わないといけない。小生は短気ですからね。

まぁ、こんな感じで現在では広さは普通より少し広い位ですが、昔は立派な規模を誇っていた事を容易に想像出来る御寺な訳です。
しかも関係の有る歴史偉人も凄いんです。
実は、信楽寺の仏様は平安時代末期の鎌倉武士団の名将、熊谷直実公の守り仏だったそうで、それが後に浄土宗の開祖の法然上人お弟子さんの蓮生坊の手に渡り持仏として大切にされたそうです。
そんな歴史偉人達の大切にした仏様ですが、近江国大津の信楽寺に移送しようとした所、使者が誤って鎌倉から近い、この「大津の信楽寺」に安置して現在に至るそうです。
本当なら少し面白いですね(笑)?その間違いの御蔭で、小生達も御参り出来る訳ですから。
でも、この「大津」と言う地名が、この信楽寺に眠る「お龍さん」ととても因縁が有る地名なんですよ!
先ずは、お龍サンの旦那様の龍馬サンの活躍した京都の史跡の位置関係を見てみましょう…
龍馬災難の地 先斗町周辺
※画像をクリックして拡大して見て下さい!
写真上部に在る池田屋は有名な新選組の活躍した池田屋事件の舞台ですね。
今年の9月に、友人の結婚式で京都に久しぶりに帰った際に、丁度撮影しておいた写真が有るので…
三条大橋の近くに、池田屋の跡の石碑が在ります。
2015-10-02-20-49-47
その場所に建つ店は、全て長続きしなかったので「呪いじゃないの?」なんて噂も有りましたが…
2015-10-02-20-49-33
当時の池田屋と同じ名前の「池田屋」と言う居酒屋に成ってから潰れずに繁盛しているそうです!
…逆に池田屋リスペクトで存続出来てしまったら、呪いを証明している様な気が…
2015-10-02-20-49-53
ちゃんと説明の看板も有ります。当時の池田屋の見取り図や、事件の経過と攻守双方の犠牲者の名前も掲載されています。
こうやって双方ともに扱う姿勢は素晴らしいですね。立場の違いは有れど、お互い日本の事を本気で案じていた訳ですから。
この時の近藤さん達の活躍で、当時テロリストだった攘夷派の中の過激派による京都市街大放火のテロ行為が未然に防がれました。
2015-10-02-20-55-48
三条大橋の池田屋側から2番目位の欄干(らんかん)には、この池田屋事件の時に付いたと言われる刀傷が現在も残っています。
2015-10-02-20-56-18
そして、池田屋のある通りから延びる三条通りの三条商店街には、沖田総司の佩刀(はいとう)の菊一文字の名を冠した刃物屋さんが今も在ります。
2015-10-02-20-45-32
もう一度、衛星写真に戻りましょう…
龍馬災難の地 先斗町周辺
…池田屋から直ぐに衛星写真を南北に貫く緑に覆(おお)われた筋に見える道路が「木屋町通り」です。
木屋町通りの直ぐ横、川沿いが有名な観光地の先斗町(ぽんとちょう)です。
それと反対側、写真左側の「河原町通り」沿いに、龍馬サンが暗殺者に襲撃され落命した事件の舞台「近江屋」の跡が在ります。
2015-10-03-11-12-13
現地には龍馬サンの顕正の一環として、史跡として事件が発生した場所だと解る説明と石碑が建てられていて、商店街の皆さんによってちゃんと守られています。
2015-10-03-11-11-42
2015-10-03-11-12-07
ファンが御墓参りしやすい様に、下の看板も有りました。
2015-10-03-11-11-25
因みに、お龍サンは亡くなってから、舎利が分けられ、この信楽寺の御廟所と更に今は龍馬サンの眠る京都で一緒に成る事が出来ました。…亡くなってからでも離れ離れじゃなくなって良かった(泣)。
さて、ここからが信楽寺の在る横須賀市大津町と、お龍サンの因縁の話に進みます。
衛星写真で見る京都の範囲を、もう少し広くしてみましょう…
龍馬関連地域
写真の下の方が現在の京都市伏見区です。そこに、お龍サンと龍馬サンとが夫婦生活を送った寺田屋が在ります。
ここは、お龍サンが入浴中に幕府の役人達が龍馬サンを逮捕に来ているのに気付いて、素っ裸のまま危険を伝えて龍馬サンを生きながらえさせた有名な寺田屋事件の舞台です。
でも、因縁の話の舞台はここではありません。
写真の右上、滋賀県の琵琶湖の畔(ほとり)に大津市が在りますよね?
お龍サンが眠る信楽寺の所有する元は熊谷直実公が所有した仏様は、本来、この滋賀県大津市に届けられる筈だった話は先にしましたよね?
つまり、御寺の在る大津町と滋賀の大津は仏さまで地名だけでなく仏縁も結ばれているのですが更に、お龍サンの旦那様の坂本龍馬サンの坂本家の御先祖様とも深く関係が有ります。
龍馬サン御本人の話では、坂本家の祖先は戦国時代に滋賀県大津市の坂本を本拠地にした明智光秀の一族だそうです。ですから、同じ大津の地名の、更に滋賀県の県名の由来に成った信楽(しがらき)の名を冠する宮谷山至心院信楽寺の在る大津町で、お龍サンが晩年を過ごされたのは…
龍馬サンの奥さんに成った御龍サンが、晩年この土地に行き着いたのは、龍馬サンの氏神様と信楽寺の仏様の御導きで呼ばれ守られていたと思いたく成るくらいの偶然が重なった諸縁で結ばれているんですね。
或(ある)いは…
もし死後の世界と言うものが本当に有るのなら、龍馬サンが氏神様や仏様の御力を御借りして、お龍サンを見守っていたのかも知れませんね。

さて、お龍サンと滋賀県と神奈川県の「大津」との因縁はここまでにして、ついでに横浜時代の御龍サンの働いた横浜の料亭の田中家(たなかや)もついでに話します。
冒頭で少し書きましたが、お龍サンは勝海舟先生の紹介で田中家で働き始めたそうです。

この田中家の歴史は古く、江戸時代には存在していました。
東海道五十三次 神奈川宿 田中家
※拡大して見てみて下さい。
上は安藤広重の「東海道五十三次 神奈川宿 台之景」の浮世絵の風景画ですが…
この中に「さくらや」と言う旅籠(はたご:旅館)が描かれているのですが、この店が田中家の元に成った御店なんです!
浮世絵にのっちゃう位、昔から栄えた店だったみたいですね。
しかも、この田中家、今でも絶賛営業中なんですよ!
GoogleEarthの3Dモデル衛星画像で場所を見てみましょう。
田中家近景
上の浮世絵と同じ構図で見ると、やはり坂道に面しているのが解ると思いますが…
あれ?坂の左っ側は海なんじゃないの?と思いますよね?
…実は、この周辺は近世~現代にかけて絶賛埋め立て中なんですね!
では、もう少し地表から離れた田中家の衛星写真で位置関係を見てみましょう。
田中家周辺
写真中央が田中家です。御覧の通り、すぐ左上(東側)に横浜駅が在ります。
つまり、横浜駅周辺は埋め立て地な訳です。
ですから、この間の東日本大震災の際には、この横浜駅周辺で昔は海だった地域は、地震速報で示された震度より実際は強く揺れたみたいですね。
平地は全て昔は海だった訳です。だから、歴史の古い田中家は、元から陸地だった丘に沿った坂道の傍らに在るんですね。
埋め立て地に横浜駅が在るならば、当然、現在の東海道も、お龍サンが横浜で働いていた頃とは様子が違います…
神奈川旧東海道
昔の東海道は元々半島だった丘に沿って通っていました。
この丘は古くは室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公が築城し籠城した「権現山城」と言う城跡で、戦国時代にも横浜の殿様の間宮信冬(まみやのぶふゆ)公が「権現山合戦」で活躍された舞台にも成った場所で、旧東海道の元に成った街道が古来より存在し、交通の要衝(ようしょう:重要な場所)だったので軍事拠点としても重視された場所だった訳です。
更に戦国時代中期に成ると、権現山城は現在の本覚寺と言う御寺が在る辺りを中心に拡張され「青木城」と言う御城に改修されて小田原北条家の軍師だった多目元忠(ためもとただ)公が城主を務めていました。
ここら辺の歴史は以前書いた間宮家殿様の事績の顕彰文の中で説明しているので、御興味が有れば読んでみて下さい。
間宮家の事績のまとめ記事はココ」←クリック!
現在の東海道は、この青木(権現山)城の在った半島をブッた切る形で切通しが掘られ、そこに国道一号線(現在の東海道)と鉄道の線路が敷設されました。
ですから東海道は、お龍サンが生きていた時代とは違う位置を通っているのですが、昔の東海道は住宅街に埋没したので必然的に田中家も今では住宅街の中で営業する情況に成った訳ですね。

時代が変われば風景も道路も変わってしまう訳です。
では、ついでに、この旧神奈川宿一帯が最近40年間程度でもどれくらい風景が変化したか、1970年代の航空写真をGoogleEarthに張り付けて比較した画像で見比べてみましょう!
神奈川区昔の様子
ごく最近の写真なのに、たった数十年で横浜駅一帯はこうも風景が変わってしまったんですね…。
因みに、上の昔の衛星写真を継ぎ接ぎして作った画像に写ってる貨物列車の線路は、明治時代に伊藤博文公によって建設された新港埠頭に繋がる路線で、その路線は東日本大震災で東北地方の人々が燃料切れで凍死する恐れが有った時期に、日石とJR貨物職員による燃料緊急輸送作戦で横浜市磯子区根岸の石油コンビナートからの貨物輸送で利用され活躍した線路です。
お龍サンと同じ時代の伊藤博文公の偉業で、現代の東北の方々は命を救われた訳です。
※緊急燃料輸送の記事は「ココ」←クリック!
ですからね小生、よくブログで持論として言いますが…
現代の我々の生活は、昔の人の多くの悲しみと失敗と、少しの成功と幸せの結果、先人によって築かれたものだと言う事を忘れてはいけない
…そう思っているから、こうやって先人に感謝とリスペクトの思いを込めてブログの記事に拙い文章を感情のまま殴り書きしています。

今回は、お龍サンと、その人物の歴史を現代に伝えて下さる信楽寺の御話しをしました。
次は何を書きますかね~?
少し歴史偉人から離れて綺麗な風景の記事でも書きましょうか?
…とは言っても、どこに行っても偉人の皆さんの足跡だらけなんですが(笑)。

では、又、次の記事で御会いしましょう♪



今回は横須賀の戦艦三笠、映画KANO、出雲大社、七福神の大黒天、織田信長公の歴史事実を話したいと思います。
…左翼の捏造史観煽動者と、都合の悪い事実を直視したくない右翼は発狂する内容かも知れません(笑)。

先ずは左翼発狂ターンです(笑)。

以前、「KANO」と言う映画を見て感動した時に少し台湾人と日本人の関係を記事にしました。
今日、予約していたその映画のDVDを受け取ってきました。
※以前書いた映画KANOと台湾と日本の関係を紹介した記事見たい人は「ココクリックして下さい
image
敢えて和室で…

さて、実は小生は台湾人の友人が何人かいます。
今でも交流が有り、数年に一度はプライベートで会っています。
昨年も台北で会い、今年は東京で会い京都でも日本人の留学仲間の結婚式で台湾人の友達と再会しました。
今年、京都で会った臺灣人の友人から「私の友人が出雲大社の神在月の神事に参加するので何か資料を下さい」と御願いをされました。
小生が何人か神社の宮司様達、御寺の和尚様と面識が有るから御願いされたのですが…
若い日本人が余り神秘的な古来の伝統行事に興味を示さない時に、なんと台湾の方の方が日本の伝統行事に興味を持って下さるとはありがたい。
…無論、知り合いの宮司様にお願いして資料が入手出来れば台湾に送ってあげたいと思います。

台湾の方には非常に知日親日派が多いのは日本で広く知られている所ですが、それは直接台湾人と関わりの少ない島国根性丸出し日本人の想像の範疇を超える程なんです。
神奈川県の有名な観光地、湘南の江ノ島に「児玉神社」と言う名前の神社が在ります。
実は、第一次世界大戦で活躍した初代台湾総督を務めた児玉源太郎陸軍大将を祀る神社です。
児玉源太郎 
日本の左翼や社会主義独裁国家の党首が発狂しそうな神社です(笑)…
しかし、ここ、児玉神社は当時の日本の軍人さんが世界から高評価を受けていた事実や、明治政府の併合地統治が善政であった証明にも成る場所なんです。
…実は児玉神社は臺灣の発展に寄与された児玉源太郎大将の偉業をたたえて台湾人の方々によって開かれた神社なんです。
冒頭で紹介したKANOの事を以前書いた記事にも、現在も台湾の方々から尊敬され感謝されている日本人を何人か紹介していますので、御興味有れば御覧下さい。

さて、そんな訳で、台湾の方の方が日本の良い面と悪い面を日本人以上に理解して下さっていたり、日本の美しい伝統芸能や文化や自然を愛して下さったりします。
2009-01-10-06-29-10
一番最初の記事で紹介したこの、七里ヶ浜の風景を見に来る台湾人が非常に多いのも有名な事実です。
実は、この七里ヶ浜の近くの江ノ電「鎌倉高校前駅」の近くの踏切がアニメ版「スラムダンク」のオープニングでロケハンされた場所で、スラムダンクファンがこの美しい湘南の海と江ノ島の風景を見に旅行に来て下さるんです。

ついでに台湾の方々だけでなく、世界の人々が明治時代の日本の戦争が軍国主義と結びつかないと言う認識を持っている証拠が神奈川県に有るので御見せしたいと思います。
先日、小生は横須賀の三笠公園の戦艦三笠内で行われた特別展示を見に行って来ました。
image
特別展示の内容は、東郷元帥が幕末に明治新政府により処刑された徳川家臣小栗上野介が横須賀製鉄所の設立に貢献された事を評価していた事に関する物です。
明治時代に東郷平八郎元帥が「小栗さんの御蔭で日本海海戦で日本はロシアに勝てた事でロシアの植民地に成らなくて済んだ」と言う主旨の発言をされて、小栗さんの遺族に対し感謝の意を表する事で小栗さんの名誉回復をされたんですね。
12196154_896712940411461_2155482165203890650_n
…正に、元は敵でも偉業を為した人間を評価する日本人らしい価値観だと思います。
違うな、この価値観は日本人に限らず、特定のアジア3ケ国とロシアを覗いた世界の共通認識かも知れません。
その証拠がこの戦艦三笠が世界三大記念艦として展示公開されている場所である三笠公園の存在自体です。
実は、この戦艦三笠の存在と東郷元帥は欧米や中東やアジアの将校達からもロシア「帝国軍国主義打破の象徴」として崇拝対象に成っていました
三笠は日本海海戦で活躍した後に、火薬の誘爆事故を起こして軍籍から外され、当時の世界各国の後押しも有り、再び就役出来ない状態での保存を前提に記念艦としての保存がされる事に成りました。
昭和天皇が摂政を務められた時代の話ですね。

当時の世界でも、日本の良い功績と悪い功績は分けて評価されていたし、軍隊の装備が即、軍国主義に結びつかないと言うのがスタンダードな意見と言う事を証明する典型的な例です。
この条件によって戦艦三笠は、喫水線以下を三笠公園に埋設され展示される事に成りました。
2015-10-28-16-34-13
こんな感じで港に接岸している様に見える感じで、地面に喫水線から下を埋められ再び現役戦艦として利用出来ない様に展示されています。
後部はコンナ↓感じ。
2015-10-28-13-49-29
因みに、この後部の中が東郷元帥等、歴代の艦長の居住スペースで高級なホテルみたいな造りに成っています。
…が、外観や装備、内装の説明は改めて記事にしますので今回は書きません。
因みに世界三大記念艦と呼ばれるのは以下の戦艦だそうです。

イギリス海軍:ヴィクトリー号
2015-10-28-15-55-01
1765年に建造され、数々の海戦で活躍し、有名な1805年のトラファルガー岬沖の海戦で大活躍し、スペイン・フランス連合艦隊を撃破し、あの「ナポレオン」にイギリス上陸を断念させた名艦船だそうです。
欧州の世界史は余り興味が無く不勉強で詳しくは知りませんでした。
その時の司令官が下のネルソン提督だそうです。
2015-10-28-15-55-55
ネルソン提督は欧州の歴史に興味の薄い小生でも名前を聞いた事が有る名将です。
戦争で敵の砲撃により右目右手を失った隻腕隻眼の名将です。
トラファルガー岬の海戦で勇猛に戦いナポレオン軍の戦意を喪失させ、英国海軍を勝利に導きましたが、この戦闘中に敵兵の狙撃により落命しました。

アメリカ海軍:コンスティチューション号。
2015-10-28-15-55-18
元、イギリス植民地時代のアメリカ海軍所属で1797年建造、後にアメリカ独立戦争でも活躍した戦艦で猛烈な砲撃を受けながら沈まずに戦い続けた名戦鑑だそうです。
当時の司令官がジョン・ポール・ジョンズ提督
2015-10-28-15-56-22
圧倒的に不利な状況で敵軍から降伏勧告を伝えられ「戦いはこれからだ!」と返答し、軍勢を立て直して逆襲し敵軍を降伏させた名将だそうです。

で、最後の3隻目が日本の戦艦三笠。
2015-10-28-15-54-34
もう、紹介しましたが日本海海戦で活躍した日本帝国海軍連合艦隊の旗艦です。
ただ、この三笠、歴史に興味が無い方は知らないと思うのですが、イギリスで建造し輸入された戦艦です。
準日本製どころか完全英国製です。
下は日本海海戦当時の司令官、東郷平八郎元帥の肖像画。
2015-10-28-15-55-49
因みに東郷元帥はイギリスに留学して海軍の近代戦術と国際法を学ばれた方ですので、こちらも当時の日本がイギリスをはじめとした欧米の協力を受け支持されていた事の証明にも成るでしょう。
英国や欧米諸国が日本の近代化に協力してくれた事実は以前書いた国家君が代発祥地の妙香寺を紹介した記事に書いて有ります。
※国家君が代発祥地の横浜市中区本牧の妙香寺に関する記事は「ココ
クリック!

三笠は日米戦争で日本がアメリカに無条件降伏すると、横須賀の米海軍太平洋第七艦隊のベースが設置された後、横須賀駐在のアメリカ海軍の将兵の為のダンスホールや水族館として改造され甲板上部の建造物や装備は撤去され無残な状態に成ってしまいます…
しかし!
そんな戦艦三笠と東郷元帥の偉業に感謝と畏敬の念を持つ世界各国の再度の後押しにより、再び失われた部分の再建が成され世界三大記念艦として復興され三笠公園で展示される事に成りました。
この事業にもっとも力を尽くされたのが、実はアメリカ側のニミッツ提督でした。 2015-10-28-15-51-59
…ここでも敵の軍事面でも政治でも世界平和に貢献した偉業は評価する一般的な世界常識が発揮された訳です。
因みに、このニミッツ元帥は名将として名高く、現在ではニミッツ元帥の名を頂いたアメリカ海軍の空母「ニミッツ」が現役で活躍しています。
では、ニミッツ元帥の話に続いて、世界各国が日本が第一次世界大戦当時、ロシア帝国バルチック艦隊を撃破した事で世界平和に寄与した事を評価されている事実を列挙しましょう。
もう、これは三笠に寄贈されている世界各国からの戦艦三笠顕彰と日本との友好を示した盾を御覧頂ければ一目瞭然です…
2015-10-28-15-06-03 2015-10-28-15-06-29
2015-10-28-15-06-11
2015-10-28-15-07-01 2015-10-28-15-06-24 2015-10-28-15-06-34 2015-10-28-15-06-38 2015-10-28-15-06-20



2015-10-28-15-06-43
2015-10-28-15-07-40
2015-10-28-15-07-50
2015-10-28-15-07-27
2015-10-28-15-07-34
2015-10-28-15-09-29 2015-10-28-15-09-18
2015-10-28-15-09-13
2015-10-28-15-09-08

2015-10-28-15-09-35

もうね、これ見たら解ると思いますけれど、マスコミ(TBS とか TV Asahi)が故意に…
「海外ガァ〜!」
「世界ガァ〜!」
「日本の右傾化ガァ〜!」
…と世論誘導しようとしますけれど、その「世界」って「何処」
だよ(笑)!って感じですよね。
三笠公園には世界中から日本の第一次世界大戦でのロシア帝国主義を打破した事に対する賞賛と友誼で満ち溢れているですが(笑)?

あ!そうか!
通常の持つべき防衛力を日本が持つのを嫌がる側のマスコミにいる人間にとっての世界の中心は、ここに盾を贈りたくない側の国の人間て事になりますね~(笑)。
中共、朝鮮、ロシアか?あれ!
マスコミが世界の中心だと思い込んでる国は全部「極左」「一党独裁」「非法治主義」「非自由主義」の国
「特亜か(笑)!」
そかそか、TBSやTV朝日や民主党や社民党や共産党等の極左の言う世界って特亜だけの「クソ狭い問題児国の事」だった訳だ(笑)!
しかも!
彼奴ら極左は「民主主義」とか好んで使う癖に「左翼の感覚じゃあ民主主義=身内の意見」て事で、つまり只の民主主義の根幹である多数決を無視した我儘が根本っと言う事か(笑)?
じゃあ〜マスコミからしたら、特亜以外は人外が治める宇宙人の土地って事?
…いやいや中道派から見たら、宇宙人はお前ら左派だろう、鳩山由紀夫含め(笑)。

まぁ、ここまで読んで頂けたら、極左の情報操作が如何に世界的に非常識かと言うのは御分り頂けたかと思います。そして他国に侵略されない為の防衛力を備える事が軍国主義に直結しないどころか、日本が日本海海戦におけるロシア帝国の侵略を防衛戦争で撃退した事で、世界各国の元植民地国家から独立と民主主義政権獲得の規範とされ尊敬された事実も御理解頂けたかと思います。


……
………
…では、ここからは右翼の方が目を伏せたい「歴史」の話をします。

冒頭で、この記事を書くきっかけに成った台湾人の友人の更に友人が「出雲大社の神在月の祭祀に参加する」為に、それに関する資料をくれと要請された話をしましたね。

実は小生の住む関東地方には現在、出雲系統の神々の神社の分社は少ないんです。 

昔は、牛頭天皇社や須賀神社、八坂神社や八王子神社、白山権現やなんかが沢山在って、平安時代に関東地方を開拓した鎮守府将軍平良文(たいらのよしふみ)公とその子孫の坂東平氏系の武将達から信仰されていましたし、明治時代に成るまでは庶民から氏神として大切にされていました。 鎌倉扇谷の寿福寺の横は坂東平氏から戦国大名に成った相馬氏の館跡で、当時 から邸内に祀られたのが始まりの八阪神社が今も残っています。

しかし、明治時代に多くは姿を消しました。
平良文公については以前書いた二傳寺の記事で紹介しているので、そちらを御覧下さい。
2014-09-04-13-09-01
※二傳寺の記事は「ココクリック!
二傳寺には平良文公と御先祖の御廟所が在ります。

出雲大社も関東には分社が余り有りません。と、言うか小生は横浜や鎌倉で見た事が有りません。
出雲大社とは別系統ですが、神奈川県伊勢原市の大山は山自体が御神体で、大山津見神(おおやまずみのかみ)を大山の神様として祀っています。大山津見神はイザナギノミコトとイザナミノミコトの神子(みこ)です。 

別名を大酒解神(おおさけとけのかみ)とも呼び、酒造の神様です。それ故(ゆえ)か、大山は古来名水の産地で豆腐と日本酒の名産地でもあります。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御妻神に成られた奇稲田媛(くしなだひめ)は、この大山津見神の娘さんに当たる姫神様です。
奇稲田媛も又、別名を小酒解神(こさけとけのかみ)と呼ばれ子授かりと縁結びの神様としても信仰されています。
下の写真は大山阿夫利神社。
2014-07-27-19-06-56
そして同じ伊勢原市の比々多神社も出雲の神様と深い関係が有ります。
下の神社は比々多神社の写真。
2015-01-10-13-42-14
比々多神社の御祭神にも大酒解神と小酒解神の2柱を含め
豊斟渟尊(とよくものみこと:日本列島造成以前の天地開闢の神で、創造と開発の神)

天明玉命(あめのあかるたまのみこと:子宝と宝飾品製造の神)
稚日女尊(わかひるめのみこと:紡績と衣料の神)
日本武尊(やまとたけるのみこと:軍神、交通安全の神)
…が祀られています。日本の開拓に関わった神様達と一緒に、出雲の神様が祀られています。
大酒解神=大山津見神の御子孫が、出雲大社の御祭神である大国主神です。

縄文時代からの祭祀場の遺跡をその旧神社領域に多く持つ伊勢原の大山阿夫利神社や比々多神社には出雲系の神様が祀られていますが、実は、これらの神社と関連の有る神話が現在に伝わっています。
佐賀牟国(さがむのくに:伊豆・神奈川・東京・埼玉を合わせた範囲の行政区)を古代最初に治めたのが諏訪大社の神様の建御名方(たけみなかた:建南方とも書く)神の御神孫だと伝わっています。
建御名方神と言えば、奈良の春日大社や茨城の鹿島神宮の御祭神である建御雷(たけみがづち)神と戦った大国主神の子に当たり、別名を伊勢都彦とも言います。
※大山阿夫利神社を紹介した過去の記事は「ココクリック!
※比々多神社を紹介した過去の記事は「ココ
クリック!
比々多神社は社号が三宮(さんのみや)です。
そして、現在の境内にも古墳群が有り、旧神社領域には更に多くの古墳やストーンサークル遺跡、古代の国府跡の史跡も出土していて、佐賀牟国で何代目かの政庁が置かれた土地だった事が証明されている訳です。
建御名方神は出雲大社の御祭神、大国主神の子なので、つまり佐賀牟国の政庁が置かれたり古墳時代の古代人から信仰された大山阿夫利神社や比々多神社が出雲系の神様や大国主神の祖先神を御祀りしているのは当然の事なんですね。

しかし、この出雲系の神様の祖先神でもあるイザナミノミコトとイザナギノミコト神話が外国の影響を受けていたとしたら、右翼の人は発狂するかも知れませんね。
実は、イザナミとイザナギは日本神話や仏教成立よりもっと古い言葉が元に成っている可能性も有るそうです。
そしてその起源はインド… 

出雲では10月は神在月と呼び、その他では神無月と呼びます。
神様が出雲に集まるからですね。
出雲大社は御祭神は大國主神。
大國主=大黒天=シヴァ神=伊舎那天=伊邪那美命…
つまり古代日本は出雲が中心だった、かつ出雲地方が渡来文化に精通した国だって証明に成る可能性が有る。
南北朝時代の認識でもそうだったようで、南朝の忠臣の北畠顕家の実父、北畠親房曰く「イザナミ・イザナギと言うのはサンスクリットです」…
だから、明治時代に国家神道を作り各地の土地神様を消しさり、廃仏毀釈で仏教成立以前の古代インド神話に繋がる痕跡すら消したかった人間がいた証拠に成る。
寧ろ、仏教成立以前に天皇家の祖神のモデルが日本にいた証明に成るのに。
誰だ?
伊藤博文公は、明治新政府成立後も御寺に御参りされていました。
東郷元帥は走水神社にて日本武尊と弟橘媛様、それとは別に土地の開拓者先住民の文化に繋がる可能性の有る三柱の神様を、本殿裏に鎮座する奥宮に遷座し顕彰され保護されました。
乃木大将も近江国沙沙貴神社の一寸法師のモデルの少彦名神の伝承を大切にされた。
日本海海戦の立役者、秋山真之参謀も神仏共に信仰された。
天皇家は無論、神社仏閣の文化を共に守護されて来られた。

しかし鶴ヶ丘八幡宮からは三島社が消え、関東からは牛頭社や白山社が消え、関西からは祇園社や第六天神社の多くが消えた。

犯人は誰だ?

牛頭社と祇園社は御祭神=素戔嗚尊=牛頭天王=帝釈天=天帝インドラ=古代インド神話の神様。
白山権現=伊邪那美命=伊邪那岐命の夫婦神=伊舎那天=他化自在天=第六天神=第六天魔王=シヴァ神=古代インド神話の神様。
織田信長公は第六天魔王を自称しましたが、それは文通喧嘩で武田信玄が「天台座主」を自称し上洛の大義名分を創り出した事に対抗し、天台宗の重きを成す法華経の守護者にして破戒僧を堕落させる象徴としての第六天魔王を自称し武田信玄を見下して文通の喧嘩を制した訳だが…
先述の通り、第六天魔王=伊舎那天=伊邪那岐命&伊邪那美命=シヴァ神となり、天皇家の祖神に成り代わる意味と解釈されると「朝敵」の大義名分を政敵に与えてしまう事にも成る。
…それを利用したのが山科言継や明智光秀や元興福寺別当足利義昭だったかも知れない。

出雲大社や出雲系の神々には、日本書紀編纂を利用した藤原不比等による藤原氏優位にする為の歴史粉飾や改竄の隠しきれない部分を垣間見る事が出来ますが…
神々は出雲に集結した。
ハワイには出雲社が有る。
ハワイ王国時代に最後のハワイ国王が日本政府に日羽連合王国構想を提唱した事が有るだけに、日本のルーツに関わる神社がハワイに有るのは因縁めいていますね。
日本の古代宗教は人種を問わず、日本の価値観と宗教儀礼と伝統と歴史と文化と自然を愛し尊重し規範とし順応した上で日本の発展に寄与してくれた先人を受け入れ、その偉業を讃え時に畏怖し神として祀り、或いは異国の神を習合し共に日本の古代宗教儀礼を用いて平等に御祀りして来た。
つまり、皆で「共に和し生きる」人の国…
大いに和して生きる国、邪馬台国=大和はそうして成立した訳ですが…
但し順応する事を拒み、仲間に成らない者や移民意識を捨てれない者は、だいたいが内憂外患の言葉を顕在化す存在に変成し卑劣な行いをして討伐される「鬼」に成った。
荒神様として尊敬する価値の無い卑劣な連中が「鬼」なわけだ。
当時の価値観で言うなら現代の不法入国者、不法滞在者、不法就労者、在日外国籍犯罪者は鬼ですね。
もっとも、中国語の「鬼」と言う漢字をあてがわれた日本語の「オニ」は漢字の鬼とは少々意味が違います。
本来の漢字の「鬼」の意味は日本語で言う所の「お化け」「幽霊」を指します。
日本の鬼の概念は中国語には当てはまりません。
日本人の言う所の鬼は悪逆非道で傍若無人な振る舞いをする物の者の事ですね。
そのまんま不法移民や不法就労者に当てはまりますね。ついでにヤクザやテロリストも鬼でしょう。
「鬼の様に強い」の鬼も、意味が違います。この場合は「鬼神の"鬼"」であり、荒神様を指します。
日本の価値観では敵将も優れていたり偉大な功績を残した人物は、敬意を持ち守護神として祀り荒神様として大切にされました。
つまり鬼神では無く、只の「鬼」と日本で呼ばれる存在は人間のクズを指します。
鬼として討伐されず、日本人として日本の発展に寄与されたのが「羽田サン」や、「波多野サン」の様な姓を持つ方々の御先祖様ですね。その羽田サンや波多野さんは元は「秦サン」でした。戦国武将の長宗我部元親も渡来人の子孫ですし、応仁の乱を収束させた周防国の大内義興も渡来人の子孫です。
日本には昔は多様性に富み、日本のシステムに順応し日本の発展に寄与して下さった渡来人の方々が沢山いらっしゃった訳です。
繰り返しますが、順応できず犯罪に手を染める移民意識の抜けない帰化しない者は「鬼」として討伐された事も歴史事実で有り、結果的に日本の礼儀や文化や秩序を維持して来れた実績も有る訳です。

アメリカに先んずる事、二千数百年前に成立した古代合衆国が邪馬台国=大和王権であり、その象徴としての要石の様な平和で偉大な秩序を生み出す存在が大王家=天皇家なのでしょう。
古代の大和政権とはその様な価値観に基づいて成立したんじゃないかと思う。
多様性を認めない日本版文化大革命の様な廃仏毀釈、一村一社令を用いて、民間の古代神や土地神様への信仰を希薄にし神仏と庶民の距離を離した事は、結果的に現在の少子化の時代に至り神道自身に氏子減少と言う危機を招いていますが…

神無月、神在月の意味、現代人こそ大切にするべきなんじゃないでしょうか?

あと、ハロウィンを仮装パーティーと勘違いして無文化晒してドンチャン騒ぎするDQNな…
オマエ等、基督教文化を愚弄するの止めろ。
やるなら本来通り、子供達が楽しめる子供が主役の祭りとして行え!
オマエ等、大人は子供に菓子配る用意しろ。
若くは、日本の伝承に準じて祝儀袋や御年玉袋に子供達に配る現金用意してやれ。
ハロウィンを楽しむ権利が有るのは子供だ。
大人は子供達の喜ぶ顔見て満足しとけ。

ブログネタ
神社・仏閣 に参加中!
前回、君が代の発祥地である妙香寺さんを紹介する記事を書きましたが、今回はより詳しく説明する為に「テニスの発祥地」でもあり元々は妙香寺さんの寺領だった「山手公園」を紹介したいと思います。
2015-07-29-12-47-44
この建物、何かのオカルト記事とか、都市伝説のTV番組とかで見た事が有りませんか?
実は、この建物は日本で最初に吹奏楽=ブラスバンドのコンサートが行われた場所なんです。
今では山手公園として整備されており、後で説明しますが若かりし頃の今上天皇陛下御夫妻もこちらに来られた事がありました。
そして、この場所は…
フリーメイソンの日本最初のロッジが在った場所でもあるんですね。
今では山手の中の端っこの野原みたいに成っていますが、実は凄い由緒の有る東屋なんです。
最初のコンサートの場所だからでしょうか?ベンチも東屋を取り囲む様に配置されています。
…まさか幕末当時のままの配置ではないでしょうが。

この山手公園は近くに「日本のビールの発祥地」麒麟公園や…
※麒麟公園記事は「ココクリック!
2015-07-29-11-22-13
この山手公園を含む広大な寺院で空海和尚や日蓮和尚と直接の所縁の有る妙香寺サン
※妙香寺の歴史の話しの記事は「ココクリック!
2015-07-29-12-29-33
…から歩いて直ぐの距離に在ります。

位置関係を下の衛星写真を御覧下さい。
山手公園位置関係
全て徒歩圏内です。
因みに前回の記事でも少し触れましたが、この妙香寺の丘一帯が幕末時、イギリス軍の駐屯地として利用されていました。
衛星写真の右上、今の港の見える丘公園の辺りはフランス山と呼ばれていますが、そのまんまフランス軍の駐屯地でした。
港の見える丘公園からも近いので、山手の洋館見学がてら散歩に来て歴史に触れるのも悪くない休日を過ごせる事間違い無しですよ!
幕末、この本牧半島には沢山の外国の領事館が在り、軍人も居た訳ですが…
まぁ~、軍と言っても、在日外交官を守ったり移動に利用される軍船の将兵程度で恐ろしい占領軍とかではありませんでした。
…占領されるのは太平洋戦争の敗戦後です。
本題に戻りましょう!
山手公園に行く目印は、住宅街の中に見えるこんもりとした森の麓の下の写真の道標ですかね。
2015-07-29-12-34-20
これならトイレに困ってる人も助かりますが、公園を強調したいのだかトイレを強調したいのかサッパリ解らない(笑)!
因(ちな)みに、この付近には麦田トンネルと言う隧道が在り、明治時代に新橋~横浜(現・桜木町駅)間で開通した蒸気機関車は、その先まで延伸され麦田トンネルを通っていました。
それだけでも想像するだけで大正浪漫を感じるのは小生だけでしょうか(笑)?
小生の横浜の祖母の家は明治~大正時代にシルク商人だったのですが、大正時代まだ女性の学生が珍しかった当時、日本初の女学校「フェリス女学院」に「蒸気バス」で通学したと言っていました。
…英米との戦争さへ起きなければ、日本は和洋折衷の大正文化が花開いた頃の栄華を更に発展させた美しい時代を実現できたんでしょうかね~?

「歴史に「if」は無いし考えるのは無駄」

…と、言うのが持論の小生なので、この話は置いておきましょう(笑)。
フェリスや麦田トンネルも近い山手公園ですが、冒頭で申し上げた通り、「日本の国家」である「君が代」の発祥地であり、吹奏楽の発祥地であり、テニスの発祥地でもあります。
最初に吹奏楽の話をしているので、次は国家君が代の話をしましょう。

今回の記事のタイトルは「歴史を知らないアフォ左翼が発狂しそうな題字」ですが(笑)、実は歴史を知ってるつもりの極右も発狂する歴史事実を説明しないといけない回なんですよ~。
な~んにも知らない人が多いと思いますが…
日本の国家君が代は、天皇陛下礼賛云々以前に、日本人では無くて「イギリス人が作曲した曲」と言う事実を御存知でしたか(笑)?
国旗
国家「君が代」は明治02(西暦1869)年の秋、英国領事館の護衛武官として来日していた英国陸軍常備歩兵隊第10番大隊長付きだったジョン・ウィリアム・フェントン軍楽長により作曲されました。
その後、明治03(西暦1870)年の09月08日今の東京都江東区に当たる江戸時代当時の「越中島公式に御披露目されました
薩英戦争以来、島津家と英国は協力関係に在った関係で、島津家薩摩藩は英国から様々な近代技術と西洋文明を技術供与されていました。明治02(西暦1869)年の戊辰戦争終結後、島津家薩摩藩と毛利家長州藩を中心に樹立された明治新政府は日本の早急な近代国家化を目指す必要が有りました。フェントン軍楽長に近代国家として国歌の必要性を説かれた新政府は、島津忠義公と共に鹿児島を出港した汽船に乗船して横浜に来航した薩摩藩の軍学生を当時の妙香寺に寄宿させ吹奏楽を学ばせました。君が代の歌詞選定は当時の砲兵隊長で後の陸軍大将と成る薩摩藩士の大山巌(いわお)公が中心と成って古今和歌集の賀歌部の中から選定されたんですね。
大山巌↓陸軍大将
大山巌
…だからね、全然、右翼の民族主義の歌でも軍国主義の曲でも無ければ、寧ろ、国際社会から必要性を説かれて後押しを受けて作曲作詞されたのが君が代なんですね。
その後、ドイツの海軍軍楽教師で音楽家のフランツ・エッケルト先生によって現在の曲調の君が代が完成されたそうでう。
…どうです?君が代って超!国際的で平和的で、更に外国人の方々が作曲の中核を担ったのに凄く日本的でしょう?
よく、日本の良さって日本好きの外国人の方が知っていたりしますけれど、それと似た様な感じで本牧半島の海に面した情景を日本らしい感じでフェントンさんやエッケルトさんが表現して下さったんですね♪
フェントン軍楽長とエッケルト先生に感謝!

因みに君が代が御披露目された越中島の地名の由来は、戦国武将で徳川四天王の1人、榊原康政公の兄君である榊原清政公の御孫サンの榊原照清公の屋敷が在った事で、その照清公の官職名の越中守に由来して命名されています。
偶然ですが、照清公は横浜の殿様間宮家と榊原家の血を引いた方でした。
戦国時代~江戸時代のこの横浜市東部を本牧奉行として治めた間宮家の分家、今の横浜市磯子区杉田辺りを領地にしていた杉田間宮家の当主である間宮信繁公の御姫様が榊原清政公の御子息の榊原照久公に御嫁入されていて、その照久公の御子息が榊原照清公でした。
つまり間宮家と榊原家の血を引いた方が江東区に屋敷を構えていたので、横浜市の本牧は江東区越中島と殿様同士の御縁が有ったりします。

薩摩とイギリスに話を戻します。
薩英の結びつきに関しては、薩英戦争で大英帝国様に敗北した薩摩藩が事実上の従属同盟をしていた的な解釈も成り立つので微妙ですが、その後のロシア帝国のアジア植民地化計画を打破した対馬海戦の折りにイギリスが国際社会に日本に協力する様に呼びかけて下さった御蔭で、ロシア帝国のバルチック艦隊は補給を満足に受ける事が出来ず、ヘロヘロな状態で大日本帝国海軍と交戦する状況を演出して下さったり、太平洋戦争で決別するまでは日本と英国は良き師弟の様な協力関係にあった訳で、正に、外交と戦争の良い面と悪い面、必要性と危険性の両方を示した逸話とも言えます。
そこら辺りは以前の記事「横浜開港資料館=元・英国領事館」を紹介した記事で詳しく書いているので、そちらを読んでみて下さい。
※横浜開港資料館の記事はココクリック!

…ここまでハッキリとした歴史事実が伝わってるんですが、何故か極左教師や歴史事実を直視しない左派は「右翼の曲だ」とギャ~ギャ~大変な誤りを騒ぎ立てたり…
…右翼は右翼で「外国人作曲」と言う不都合な歴史は伝えようともしないんですよね(笑)。どっちもどっち。
…横浜生まれ横浜育ち以外のハマっ子でも知っている人間は少ないですが、知っている人は知っている君が代の成り立ちでした。
因みに、小生は「中道寄りの保守派」「法治主義者」だと思っています。
よく中国政府をコケにしながら中国文化好きだったり、矛盾した記事書いてるので皆さん、御存知だと思いますが(笑)。

さて、テニスの話に話題を移します。
2015-07-29-12-37-53
この、元・妙香寺の敷地である山手公園は、テニスの発祥地でもあるので、今でもテニスコートとテニス発祥記念館が在ります。休日は多くの初老の先輩方が男女で半合コンみたいな感じでテニスを楽しんでらっしゃるのを良く御見掛けします…
…小生等、現役世代はテニスしてるオッサン達世代の負の遺産で四苦八苦してるのに何だか不平等だよな…
とか思っちゃいますが、まぁ~、明治大正の先人が残して下さったテニス文化を発祥地で満喫するのは風流だから棺桶に片足突っ込んだ日本工業商業没落の戦犯世代ジジババも風流に免じて見逃してやろう(笑)。
…と、上から見るとイライラしないで済んだりする、心の狭い小生(笑)。
2015-07-29-12-38-34
このテニスコートは、若かりし頃の今上天皇陛下と美智子皇后様からもテニス発祥地として御来訪を賜り、テニスをされた事の有る、なんだかほのぼのとする聖跡でもあります。
あ、聖跡ってのは、皇族が何かした史跡の事ですよ。
東京都多摩市の聖蹟桜ヶ丘も、明治天皇が鷹狩りを楽しまれた場所だから「聖跡」って付くんですよ。
つまり、軽井沢のテニスコートも今上天皇陛下と美智子皇后様が愛を育まれた恋愛の聖跡=パワースポットって事に成りますね~。
…ここでテニスしたら、女の子にモテる様に成るだろうか?
…ここでテニスするのが似合う様な大人に成ってたらオシャレでモテるのか?どっちが先だろう(笑)。
…又、脱線してしまいました。
先程の道標に「テニス発祥記念館」って有りましたよね?
2015-07-29-12-39-03
それが↑コレです。
後ろ姿は全然セクシーじゃない建物。
2015-07-29-12-39-20
ステンドグラスは綺麗でしょ?繰り返しに成るけれど後ろ姿は地味だけれど。
でも前から見ると…

……
………一生の不覚!なんと、正面からの写真を撮り忘れてました!
…今度、近く行く時に撮影してきます。でも、中の写真はちゃんと撮影しているので、見て見ましょう!
このテニス発祥記念館は無料で拝観できます。
中にはテニスの歴史や、当時のテニスの様子や道具が再現されたり保存されています。
2015-07-29-12-43-53
小生、不勉強で知らなかったのですが、テニスは昔は貴族のスポーツでドレスコードだったらしいです!
ドレスなんか着ながらテニスやるとか、御婦人方、オシャレの為に動き難いわ~熱いわ~で大変だったでしょうね。
壁のいたる所にコンナ↓解り易い年表とか資料が展示されています。
2015-07-29-12-44-04
あと、昔のテニスラケットがどんな物だったかとか、道具の発展もよく解る展示物が有ります。
2015-07-29-12-44-37
昔は木製だったんですね~…って当たり前か。
しかし、こんなんでやってたら、今のプロスポーツ化してアホみたいに凄いサーブ打とうとしてもラケットの方が折れちゃうでしょうね?
2015-07-29-12-44-29
それだけ、昔のテニス…と言うか、本来のテニスは上品にゆったりしたラリーを楽しむような大らかなスポーツだったんでしょうかね~。

今回はテニスとブラスバンドと国家の発祥地としての妙香寺=横浜の歴史の御話しでしたが、皆さん如何でしたか?

次は京都とか安土の事を書こうかな~♪
それとも今週24日土曜日の小机城址竹灯籠祭りの見学報告でも書こうかな~♪
以前の小机城址竹灯篭祭りの記事なんかは「ココ」←クリックして御覧下さい!

では、又、次の記事で御会いしましょう!



横浜市中区が、日本初の物や事が多いのは何となく御存知の方も多いと思いますが…
その中区の更に限定した地域、クレイジーケンバンドが自らの音楽活動の本拠地と標榜する「本牧半島」には、日本近代化の象徴とも言うべき発祥がやはり、幾(いく)つか有ります。
以前、ビール発祥地で麒麟麦酒前身会社のスプリングブルワリーと、そのオーナーのコープランドさんの記事を書いた時も少し触れているので御存知の読者もいるかと思いますが…
※ビール発祥地の記事は「ココ」←クリック!
本牧は「君が代」と「吹奏楽(ブラスバンド)」や「テニス」の日本における発祥地なんです。
…ついでに言うと日本初のフリーメイソンのロッジも同地。
其(そ)れ等の場所が半島の地名を山号に頂いた上の写真の「本牧山妙香寺」です。
 この地がブラスバンドや君が代の発祥地である事は今では学校で教わりません。
山門までには上の長い階段が有ります。
切通し状の階段の途中、壁面に石板が嵌(は)められています。
昔の人は商売人も学者も歴史や文化や自国発展に寄与した人物や場所を大切にしたので、この様な事をされたのでしょう。
今でこそ山門の大きさは普通、境内の御堂も鉄筋コンクリートですが、これは太平洋戦争の戦火に遭ったからです。
昔は隣の山手町公園を含めて広大な敷地を有する大寺院でした。
規模縮小の始まりの原因は江戸時代末期の横浜開港時に江戸幕府が、この御寺の敷地に駐屯した英王国軍と英国人の要望と圧力に応じて、寺敷地を無償貸借契約で接収した事に始まります。
衛星写真で見ると広大さがよく分かりますね。
左下、妙香寺と山手公園の敷地を合わせた範囲が本来の妙香寺でした。
しかし、こちらでも他の神社仏閣同様に不見識な横浜市行政が土地を寺に渡さず市の物にして接収してしまいました。
本牧の地名由来の由緒有る御寺なのにね、市の対応は意味が分からない。

そもそも、この妙香寺さんは日本仏教の二大開祖の一人、真言宗の祖師である空海和尚こと弘法大師様が開いた御寺です。
空海和尚と言えば日本神話の神様も大切にされ布教しながら日本の歴史を庶民に教えて回った方ですね。
その後、法華宗の高僧で日蓮宗の祖師である日蓮上人様が御宿泊された御縁で妙香寺さんは改宗し現在、日蓮宗と成っています。
因(ちな)みに日蓮サン(あえて親しみを込めて)、此方(こちら)に滞在中は浴衣で過ごされ本牧半島をリラックスして満喫されたそうで、御寺には日蓮サンが浴衣姿の木像が伝わっていたりするそうです。

…仏教史上、偉大な方が二人もこの御寺に関わりが有った訳です。

だから昭和中期までは本牧文壇とか異名で呼ばれた寺院でもあり、何百年も昔から〜最近までは多くの学僧が此方(こちら)に寄宿し仏法と諸学問の研鑽に励んでいたそうです。
そんな場所だったので広大な敷地を有していたんですね。
今では訪れる観光客は少ないですが、昔は有名な場所だしブラスバンドや君が代の発祥地としてハマっ子の誇りでもあったので、当然、昔の人は、その歴史と御寺の果たされた役割りを顕彰し境内に石碑を寄進しています。
この地に駐屯した英国軍人から薩摩藩士達が吹奏楽を習い、君が代を作曲しました。
日本吹奏楽発祥に関しては、又、別に山手町公園の記事を書くので、その時にテニス発祥と合わせて詳しく説明します。
薩摩藩士が何で英国軍人から吹奏楽習う事に成ったかは以前の書いた元英国領事館の記事を読んで下さい。
元英国領事館=横浜開講資料館の記事はココ」←クリック!
さて、有名で重要な役割を果たしてきた寺院だけあり、昔の檀家さんにも凄い人がいました。
日本の近代造船の父、渡辺忠右衛門さんです。
渡辺忠右衛門さんは現在も海上自衛隊や米海軍の建造や整備を行い、世界各地でエネルギープラントや航空機開発、重機開発で有名なIHI(石川島播磨重工)の前身である「石川島造船所」を開いた近現代日本に偉大な功績を残された人物です。
その事を詳しく書いた石碑が下の写真です。
…この石碑は墓地の入口前に在るので、訪れた方は是非、読んでみて下さい。
せっかく昔の人が我々に歴史を伝える為に残してくれた遺産ですから。

忠右衛門さんの他に、もう一人偉大な功績を残した方が此方に眠っておられます。
最近では歌手の平原綾香さんがカバーした「蘇州夜曲」を最初に歌った歌手の「渡辺はま子」さんです。
渡辺はま子さんは、太平洋戦争終結時にフィリピンで捕虜に成った日本人兵士達の解放と帰国に御尽力された偉大な人物です。
この方の御陰で、今、生を受けて人生を享受出来ている人が沢山います。
もし、この方がいなければ帰国出来なかった兵士達と奥様達の間に生まれてない人が沢山いる訳です。
蘇州夜曲の蘇州がどんな町が知りたい人は以前の記事を御覧下さい。
蘇州の記事はココ」←クリック!

…国歌や吹奏楽の発祥地である事も凄いけれど、この御寺に関わった人、みんな凄いでしょう?
近くをお散歩し通る際は是非!この妙香寺さんで歴史に触れてみては如何(いかが)でしょうか?

横浜は日本武尊と弟橘媛の神話や浦島太郎伝説が伝わり、旧鎌倉郡を含み、近代化の舞台なので、有名な神様や高僧や武士との関わりが深い妙香寺さんみたいな神社仏閣が沢山有ります。
是非、横浜に住んでいるなら御近所の神社仏閣をお散歩してみて下さい!
…今は小さい神社にも凄まじい歴史が有ったりします。それを知ると益々、地元に愛着が湧いて好きに成ると思いますよ〜♪

では、又、次の記事で!


前回の記事で横浜市中区の麒麟公園が日本におけるビール事業の発祥地である事を書きましたが…
※前回の記事は「ココ 」←クリック!
header_grouplogo_01キリンさんのロゴは、このローマ字書体の物の他に…


…もう一つ、ネットの借り物の画像ですが、この麒麟のロゴが有りますよね?

麒麟2
この麒麟は、昔の中国人がアフリカのキリンから連想した馬と龍が混じった架空の動物です。
なんでビール会社のロゴが伝説の麒麟なんでしょうね?
実は、この事は麒麟麦酒の広報が認めている事実として、ある歴史偉人との関係が有ります。

昔、別の記事で少し触れた事が有ったかも知れませんが、現在のKIRINの創業者は三菱財閥の創業者でもある岩崎弥太郎サンと、もう1人、幕末のグラバー商会の社長だったトーマス・ブレーク・グラバーさんです。
麒麟
前回の記事で紹介したコープランド先生が創業した、日本初のビール醸造場のジャパンブルワリーの事業を後に買収し引き継いだのが、現在のキリンホールディングスの前身と成った麒麟ブルワリーで、その出資者が岩崎弥太郎サンとグラバーさんだった訳です。
そして、この御二人の創業者と友人だった歴史偉人の偉業を顕彰する意味で、この麒麟のロゴが選定されたと言われているそうです。
では、岩崎弥太郎サンとグラバーさんの友人だった歴史偉人とは誰でしょうか?
その答えは既に、このロゴで表現されているんですが…
先程、麒麟は馬と龍が混ぜられた架空の動物と御説明さしあげました。
その馬と龍の字が名前に成っている坂本龍馬サン、その人こそが、実はこのロゴで顕彰されている人物です。
坂本龍馬
では、御二人は坂本龍馬先生と、どの様な関わりが有って、結果リスペクトしていたのでしょうか?
実は、明治時代初期、坂本龍馬さんの存在は大日本帝国(明治時代の日本)の一般国民には知られていませんでした。その坂本先生の存在と偉業を世間に公表した人物が、当時、既に三菱財閥のトップだった岩崎弥太郎サンだった訳です。
岩崎弥太郎
岩崎弥太郎サンと坂本先生の繋がりは、出身が同郷である事と共に商業により日本の近代化を推進した事に有ります。
御二人は今の高知県、土佐藩の出身で幕末当時、先に世間に功績を残し頭角を現したのは坂本先生の方でした。坂本先生は商社海運業者兼軍事会社である「海援隊」を設立し、薩摩藩と長州藩の同盟を成功させた外交活動や、軍艦・武器購入の代理店として、軍事物資補給で多大な事績を残されました。
そして、その協力者の海外武器商人こそがトーマス・ブレーク・グラバーさんだった訳です。
グラバー
グラバーさん、長崎に拠点を構えていたのですが、今もその邸宅はグラバー邸として長崎の観光地に成っています…
そして!そのグラバー邸、実は世界中で革命を起こし民主化を進める事を目的とした結社フリーメイソンのロッジとして機能していたと言われています。
事実、グラバーさんはフリーメイソンの構成員だったと言われているので、坂本龍馬先生もフリーメイソンの一員だった可能性は否めません。
つまり、ペリー提督の来航から既に、日本を民主化させる策謀が有ったのかも知れません。
ペリー提督の母国アメリカ合衆国の創始者であり初代大統領であるワシントン大統領もフリーメイソンの一員だったので、龍馬先生がフリーメイソンと何某か連携し活動した可能性は有ります。
ワシントン大統領
坂本龍馬と言う人物がフリーメイソンの一員であったとするならば、大政奉還の草案に議会制民主主義を想定していた事にも整合性が確かに有ります。
そして、それを知る可能性の有る人物は坂本龍馬本人、大久保利通先生や西郷隆盛先生も幕末や明治時代に悉く暗殺されたり、政争に因(よ)る内戦により戦死しています。
…ですので事実の確認は今では出来ません。
まぁ~、よくTVのCMに出演してる美容整形外科の経営者の高須さんはフリーメイソンの一員なので、あの方に真相を聞けば直ぐに解るんでしょうが、小者の小生に当然ながら、その様な人脈が有る筈がありません(笑)。

因(ちなみ)みに、麒麟公園の直ぐ近くの山手公園は日本最初の吹奏楽のコンサートが行われた史跡が有るのですが、その場所に日本最初のフリーメイソンのロッジが在った事は結構、有名な歴史事実でもあります。

さて、坂本先生、以下、親しみを込めて龍馬サンと呼ばせて頂きますが…
上記の方々の他に、龍馬サンと特に関わった歴史偉人が3人と龍馬さんと他人ではなかった人物が1人、神奈川県にも深い関わりが有ります。
1人は勝海舟先生…
勝海舟
坂本龍馬サンの海軍軍事技術と思想的な師匠に当たる人物ですが…
以前、戦後時代の城址、京浜急行神奈川駅近くの「青木城城址」に関する記事を書いた時に触れましたが、神奈川駅近くの金港町周辺、今の横浜中央卸売市場の辺りに幕末に「神奈川台場」と言う要塞を設計しています。
※青木城に関する記事は「ココ 」←クリック!

そして龍馬サンの没後、未亡人と成ってしまった「お龍サン」も、この勝海舟先生の紹介で神奈川台場の近く、江戸時代に東海道の神奈川宿で有名だった料亭の「田中家(たなかや)」で働いていました。
2008-08-03-04-55-06
この田中家は場所がら、東京から海軍の拠点であった横須賀鎮守府(現:横須賀市汐入一帯)に出張する政府の要人が利用する料亭だったので、きっと勝海舟さんのコネが有ったのでしょう。
現在も田中家サンは横浜市神奈川区、当時と同じ場所で営業していますが…
…ランチで1人予算1万円と少し敷居が高いので、まだ行った事が有りません(笑)。
機会が有ったら是非、行ってみたいと思います。

お龍サンのその後ですが…実は余り幸せではありませんでした。
実は、再婚して横須賀市に移住しています。
そこで亡くなったのですが、旦那サンは一般人の商人だったのですが余り大きい事業では無かったので龍馬サンと比べちゃうと可哀そうですね、しかし誠実な人物なら、お龍サンも幸せだったのかも知れませんが…
この再婚相手、とんでも無い事に、よりにもよって、お龍サンの妹と内縁関係に成った挙句、お龍サンを捨てて二人で出て行っちゃったんですね…。
…可哀想過ぎる。
しかし、この頃に成ると、先に説明した岩崎弥太郎サンの証言で坂本龍馬の存在が世間でも認知され、更に当時の美子皇后(昭憲皇后)が龍馬サンの霊夢を見た事で、お龍サンも世間に知られる様に成りました。
しかし、時既に遅く、その2年後に、お龍サンは危篤状態に陥って帰らぬ人と成ってしましました。

しかし救いは有りました。
井上良馨
お龍サンが危篤に成った際、当時、海軍大将だった井上良馨が発起人と成り、お龍サンへの見舞金の義捐金を集め、幕末の海軍の父とも言える龍馬サンの後輩、ある意味弟子に当たる多くの海軍軍人達が此れに賛同し、寄付金が集まったそうです。
残念ながら、お龍サンは生前不幸な余生を過ごしましたが、対馬海戦で大活躍し日本をロシアの侵略から守った多くの海軍軍人は、龍馬サンと御龍サン夫婦が残して下さった子供達みたいな存在とも言えます。
当時の海軍の士官達には、その様な意識が有ったからこそ、多くの見舞金が御龍サンに集まったのかも知れませんね。
現在、御龍サンの御廟所は横須賀市大津町に在る宮谷山信楽寺に有ります。
そこの墓碑には「贈正四位坂本龍馬之室」と刻まれ、龍馬サンの正妻として明治政府にも没後再評価された様です。

そして、御龍サンが働いた田中家や勝先生の設計した神奈川台場の傍に新港埠頭建設を決め、日本鉄道輸送網の基礎を創建したのが井上良馨卿の親友で日本の初代総理大臣と成った伊藤博文公です。
伊藤博文
後の2011年3月11に我々の世代が経験した「東日本大震災」の発災時、津波により東北沿岸部の石油関連施設と鉄道網は壊滅しました。その影響でまだ真冬の寒さの真っただ中の被災地は燃料枯渇により暖房が使用不能に成り、人々は多くが凍死の危機に瀕していました。
その際に、東北への燃料輸送に活用されたのが、福島県から北陸へ抜ける日本海側からの鉄道輸送網でした。
この話も以前の記事で紹介した事が有ります。
※関連記事のリンクは「ココ 」←クリック!

前回の記事でも今有る我々の生活は、昔の人の多くの苦労とちょっとの成功と幸せの経験の上に成り立ってると書きましたが、この様に、麒麟麦酒からも現代人を助けた鉄道輸送網や、その建設に関わった人や、その人と様々な人々の関わりは繋がりが有り、現代人を助けた組織や設備や人々にまでリンクしていたりするんです。

ですから、古代からの神話も、平安時代の伝承も、武士達の築いた歴史も、全てが大切で、その一人一人の先人達の悲哀と成功と喜びの経験が我々の生きるヒントでもあるんですね。

では!又、次の記事で御会いしましょう!

皆さん、日本のビールの発祥地が横浜なのを御存知ですか?
エビスビールの工場が在(あ)った、東京都の恵比寿駅近くが発祥地と思い込んでる人もいますが違いますよ~。
2015-07-29-11-22-27

現在の横浜市中区のキリン公園一帯に在ったスプリング・ブルワリーと言うビール醸造場が、日本のビール事業の創業地とされています。
横浜成立以前の話ですが、幕末、江戸幕府が横浜を米国特使のペリー提督の要求により開港すると、現在の中区、つまり旧久良岐郡の内、本牧半島には多くの外国人が居留する土地が解放され、それによりビール工場も設立されました。
2015-07-29-11-21-19
2015-07-29-11-21-03
北方小学校横に在る小さな公園を中心に、北方小学校の敷地と合わせた一帯に作られたのが、スプリングブルワリーで、その事業をジャパンブルワリーとして受け継いだのが、現在の麒麟麦酒株式会社(KIRIN)なんです。
麒麟公園
ね?
隣の北方小学校の地下には当時の貯蔵庫が防災水槽として残っていると、以前、何かで目にした記憶が有ります。
2015-07-29-11-25-43
麒麟公園は本当に規模も普通の公園ですが…
遊具も普通の公園です。
2015-07-29-11-21-49

しかし、ここの直ぐ近くの日蓮宗の本牧山妙香寺の幕末当時の敷地(接収され現在は縮小)に、イギリス軍の駐屯地が有ったので、周辺には色んな「日本初」の史跡が有ります。
麒麟公園周辺位置関係
「吹奏楽」・「テニス」・国家の「君が代」は、この妙香寺さんと、幕末まで妙香寺さんの敷地だった山手公園がその発祥地です。
更に元町や山下公園や中華街一帯を加えると、パンの発祥地の「内木パン」が有ったり、その隣の中華街近くは、「かをり」を紹介した記事でも書いた「電話事業創業地」「ホテル事業創業地」のかをり、「鉄道事業創業地」等々、他にもアイスクリームや西洋野菜等、キリが無い程の「日本初」の発祥地が集まっている訳です。

つまりビール醸造以外にも、この本牧の丘の周辺だけでも、日本初が多数有る訳です。
その話は、いずれ又、今度紹介します…

話を麒麟公園に戻しますと、普通の公園との違いは公園内には石碑が有ります。
2015-07-29-11-21-39
横浜ペンクラブが、ジャパンブルワリーの創業者、ウィリアム・コープランド先生の偉業を顕彰して建てた石碑です。
横浜市は教育委員会がなかなか史跡を保護しないどころか宅地開発する際に事前調査すら放棄するので、こうやって民間が自主的に動かないと何も残らないんです。
このコープランド先生はノルウェー人で、この地で創業したのがジャパンブルワリー(スプリングブルワリーとも言う)なので、この方無くして現在の麒麟麦酒とKIRINホールディングスは存在しなかった訳です。
そして横浜市民にとっても、渡来の西欧料理文化の発展の一助と成ったビール文化を根付かせて下さった大恩人と言うべき方な訳です。

コープランド先生はビール事業売却後、日本文化の紹介を日本製品販売を通じて海外で行って下さいましたが、晩年は事業が立ち行かなくなり余り幸せでは無かったようです。
それでも日本人の奥さんの梅子さんを大切にして下さったようですが、海外から日本に帰国して直ぐにコープランド先生は没し、今は山手の外人墓地に梅子さんと御夫婦寄り添っている様に御廟所に眠っておられます。
横浜人としても、日本人としても感謝しないといけない親日外国人の先駆者と言う訳ですね。

もちろん、KIRINサンもコープランドサンの偉業を忘れてはおらず、公式ホームページで顕彰文を掲載しています。
コープランド
KIRIN公式ページ「ビール醸造のパイオニアたち 」←ココをクリックすればリンクします。

さて、麒麟公園には当然、KIRINの皆さんが建てたと思われる巨大な石碑や顕彰碑も有ります。
2015-07-29-11-22-13
それが冒頭に掲載した写真ですね。
その横には御覧の通り、金属製の歴史を説明した顕彰碑も在ります。
2015-07-29-11-22-36
以前も小生の歴史観を書いた事が有りますが…
2015-07-29-11-23-01
2015-07-29-11-23-07
今有る我々の生活は、昔の人の多くの苦労とちょっとの成功と幸せの上で成り立ってるんです。
それは正に、幕末の外国人居留地の外国人の為にビール製造を始め、後に日本文化を紹介する事業を展開して下さったコープランド先生の人生が、小生の歴史観念を全て体現している様に思えてなりません。
…晩年、余り経済的に幸せとは言えなかったかも知れませんがコープランド先生!
貴方と貴女の奥方の偉業を小生の様に忘れない日本人が、まだ平成27年に成ってもちゃんと居ますよ!
どうぞ、山手で安らかに眠って下さい。
そしてコープランド先生、御願いです。
また、日本人が幕末や明治のような困難、大正期の大震災の様な苦難に直面する時は、どうぞ、日本人の鎌倉武士の宗教観ではありますが、偉大な先人として神仏として後輩である我々を見守って下さい。
実際にこれから起きる事を解決できるのは、コープランド先生や先人の記録を活用する我々の側ですが、見守って下さっていると思う事で、同じ困難に直面した際の解決方法が思いつくかも知れません。

次回の記事は、この記事の後編としてKIRINグループの創業に関わった歴史偉人の話をしたいと思います。
では!また次の記事で御会いしましょう!

ブログネタ
「夏の終わり」感じるのはどんなとき? に参加中!
横浜市金沢区の野島公園は、キャンプ場が有り夏はBBQで一家団欒を楽しむ家族連れや、近隣の大学生グループで賑わいます…
眼前には金沢八景島シーパラダイスがあり「海の公園」側やこの野島公園で潮干狩りをする人達も多くいます。
2015-08-19-15-47-41
実はこの野島公園が、江戸時代に徳川家康公の十男で、紀伊徳川家の初代藩主徳川頼宣公の別荘が在った場所だったり…
初代総理大臣の伊藤博文公の別宅があったり…
大日本帝国憲法の草案が纏(まと)められた場所であった事を知る人は今では少なく成ってしまいました。
また、太平洋戦争時の末期には隣接する横須賀市に横須賀鎮守府があった関連で現在の日産自動車工場追浜工場には横須賀海軍飛行場があり、野島には零式艦上戦闘機の防空格納基地が建設されました。

※その辺りの情報は以前の記事で紹介したので以下にリンクを貼ります。
●野島の零戦格納庫の記事は「ココ 」←クリック!

大きくは無い島で、現在はレジャーの島に成っていますが、こんな狭い面積に沢山の重要な歴史が詰まった場所なんです。
今回は夏も終わりに近づき、御抹茶を頂きながら海辺の夕涼みが出来る場所として、又、日本が法治主義国家を歩みだした、その場所としての伊藤博文公別邸を紹介したいと思います。

小中学生の残り少なく成った夏休みの自由研究宿題のテーマとしても役に立てるかな~と思います。
この施設や野島内の周辺史跡を見学して写真を撮影し、野島の歴史自由研究として時代と説明文を原稿用紙に書き、そこにプリントアウトした写真を貼れば十分、提出に十分足(た)る内容になるんじゃないかと思います。

では…
キャンプ場と反対側に閑静な松林が在ります。
2015-08-19-15-46-01
小生が子供の頃は、まだ眼前の八景島は無く、この豊穣な海では海苔の養殖が盛んに行われ、特産品の海鼠(なまこ)や小柴のシャコが沢山獲れました。
その横、駐車場の目の前の牡丹園と古民家が伊藤博文公の金沢別邸です。
2015-08-19-15-47-54
この伊藤公別邸は無料で拝観できます。
入口の係員の方に、抹茶を飲みたい事を伝えると客間で抹茶を頂けます。
御茶の料金は乾菓子のセットは300円、茶菓子のセットは500円で頂けます。
2015-08-19-16-05-52
小生は、この日は御乾菓子を頂きました。

さて、建物を解説します。
2015-08-19-15-48-13
建物自体は昭和まで良く見かけた、明治~大正期の日本建築で、入口からは解りませんが結構な奥行が有ります。
2015-08-19-15-49-53
この玄関、昭和生まれ世代は結構多くの人が御婆ちゃんの家を思い出すんじゃないでしょうか(笑)。
まぁ、実際、ここには明治~大正時代に伊藤家の御一家や、その後も管理人さんがいらっしゃったから生活感有って当たり前ですよね。
とは言いつつも、ここは一回老朽化で解体修理され復元再建された建築遺産でもあります。

2015-08-19-15-50-00
中には、各部屋や歴史の詳細な説明も個々に展示されています。
2015-08-19-15-58-28
玄関を入ると、純和風の廊下の両脇に、客室用の雪隠(せっちん=トイレ)や炊事場(すいじば=キッチン)が在ります。
2015-08-19-15-50-23
その廊下からは中庭が覗けます。
2015-08-19-15-50-58
素敵な小庭ですね。
昔の少し立派な日本家屋は京都の京町屋と呼ばれる様式でもそうですが、この様な中庭を作る事で風の吹き抜ける通り道を作り、エアコンの無かった時代に自然の力で十分に涼む仕組みが設けられていたんですね。
中庭の右手に見える配管は、浴室から延びる煙突です…
実はこの煙突も明治時代には画期的な仕組みの一部なのですが、その説明は又後で。
2015-08-19-15-51-10
これが炊事場の写真です。
2015-08-19-15-51-38
明治時代の炊事場ですが、江戸時代の炊事場と余り機能的に変わりは無いですね…
まだまだ井戸水を汲み上げて飲料水にし、薪と炭で煮炊きし料理を作っていたようです。
…当時の使用人さん達は大変だったでしょうね~。
2015-08-19-15-51-51
それでも台所の外側の土間(どま=土足で行動出来る部屋)に、この家専用の井戸が有るだけ、別の庶民の家より重宝した事でしょう。

で、反対側の客間用の雪隠(せっちん=トイレ)へ…
2015-08-19-15-53-02
これも又、江戸時代の御城に有るトイレと余り変わらない木製の和式で、この状態からトイレの文化は近代に急速に発展した事が良く解ります。
大(笑)
2015-08-19-15-53-22
小(笑)
2015-08-19-15-53-26
小生、ここに来るまで知らなかったのですが…
トイレは和名では2種類に分類されるそうで、時代劇や老人が雪隠や厠(かわや)と呼ぶのは、実はトイレのタイプによって区別が有るそうです。
こんな感じ…
雪隠(せっちん)…ボットン便所、汲み取り式で人糞を肥料に再利用出来る様にトイレ下に穴が掘られている。
厠(かわや)   …水洗トイレ、川の水流を利用したトイレ。
…川の小屋のトイレだから、略して川の小屋=かわや=厠なんですね。

さて、客間です。
2015-08-19-15-57-56
この写真では余り解りませんが、眼前には海が広がり当時は金沢八景と称され、江戸時代に歌川広重が浮世絵に描いた程の景勝地でした。
水戸徳川家の黄門様こと水戸光圀公が明の禅僧の東皐心越(とうこうしんえつ)和尚を御連れして、この一帯の風景を遊覧された程でした。

この客間の入口からも中庭が見えます。
2015-08-19-15-58-09
反対側から見る中庭はさっきと様子が少し違います。
2015-08-19-15-58-12
さっきの煙突、実は浴室から延びています。
客間からも居間からもすぐに浴室に行ける便利な構造に成っていますね。
そして風呂場が中庭に面していると言う事は、入浴中、涼しい爽やかな風が吹き込んできたんでしょうね~。
流れで浴室を紹介しましょう。
2015-08-19-16-21-35
この浴室の壁は人口の御影石で出来ています。
昭和期まで、日本家屋に多く見かけられた人工石ですね。コンクリートより高級感が有ります。
さて、さっきの煙突の正体ですが…
右側から延びる配管が、浴槽の中に入って行ってますよね?
2015-08-19-16-21-44
実はコレ!明治時代には画期的だった湯沸かし器の構造物なんです!
当時は庶民の家では五右衛門風呂が主流で、直接、竈(かまど)の上にでっかい鍋みたいな風呂を置いて直に火力で御湯を温めましたが、この機能はボイラーの熱を配管で送り浴槽内の御湯を温める仕組みなので、火傷する心配が有りません。
2015-08-19-16-21-58
そして温泉の様に檜風呂で入浴出来る画期的な構造な訳です。
現代のガス式風呂釜湯沸かし器に通じる構造ですね。
この配管を伝う熱源の排煙をするのが、先程の中庭の煙突と言う訳です。

さて、客間に戻ります。
2015-08-19-16-03-37
御茶はこの客間で頂けるのですが、ここからの眺望は凄く素敵で、小生はたまにここにノンビリと頭をリセットしに来させて頂いています。
2015-08-19-16-04-41
繰り返しに成りますが、目の前が海。
2015-08-19-16-06-33
ここで御茶を飲んでゆっくり…いいでしょう?

昔の家らしく、縁側も有ります。
2015-08-19-16-03-29
平成世代は余り見た事が無いかも知れませんね。
昔の人は、こういう縁側でゆっくりと贅沢な時間を日常的に過ごしたもんなんですよ。

この金沢別邸には伊藤公の私室も当然有ります。
2015-08-19-16-14-40
意外かも知れませんが、居間は広くはなく、普通の家と余り変わらない大きさです。
伊藤公は賭け事が大嫌いな性格だったそうで、個人でいる時は余り華美な生活を好まれなかった様ですね。
公人として西洋式の華やかな生活を送らなければいけないので、普段は落ち着きたかったのかも知れませんね~。
この居間側にも裏口があり、そこからも庭に出られます。
2015-08-19-16-20-31
御庭から見た客間越しの金沢の海。
御庭は牡丹園の名前で同じく無料公開されています。
2015-08-19-16-40-38
牡丹園側から見た、居間の様子。
2015-08-19-16-45-34
庭には綺麗な花が咲いていました。
2015-08-19-16-45-20
こちらの牡丹園側の入口、つまり勝手口が下の写真です。
2015-08-19-16-47-01
意外かも知れませんが実は伊藤博文公、外戚閔妃派と日本政府の関わりで伊藤博文公のイメージを悪く混同されていますが…
韓国初代大統領の李承曉のロビー活動による結果で、悪いイメージを持つ韓国人も多くなっています。
しかし実は朝鮮王室との関係は極めて良好でした
ですので、、朝鮮の最後の皇太子李垠殿下も御滞在された場所でもあります。
李垠殿下も伊藤公の私邸へ御宿泊され酒盃を酌み交わすほど信頼関係が深かった訳です。
余談ですが、戦時中も日本の太平洋戦争終結後の無条件降伏時も李垠殿下は日本でちゃんと王族として保護されていました。終戦後に奥方と韓国に帰国しようとした所、李垠殿下御夫妻の韓国復帰を阻止したのが、朝鮮王室復興による失脚を恐れた李承曉だった事を多くの韓国人は知りません。
親日派だった朴正煕大統領に成って、漸(ようや)く李垠殿下御夫妻は韓国に帰国出来ました。
つまり、李承曉自身が知日派の李垠殿下に帰国されると非常に困る事情が有った訳ですね。
李承曉がいなければ、併合後に朝鮮王室を李垠殿下が復興し、現在の日本の天皇家と復興した朝鮮王朝で友好的な王室外交が成されていたはずなんです。
2015-08-19-16-45-02
野島の眼前には、野島と同じく伊藤公が大日本帝国憲法草案をまとめた場所の一つである夏島が見えます。
その夏島の前にあるのが、旧海軍飛行場、現在の日産自動車追浜工場です。

ここ野島は日本の近代化や法治主義化の礎と成った舞台でも有り、良くも悪くも、両方の歴史を伝える歴史遺産群が密集した場所でもあるんですね。
先人の苦労と同時に、明治政府樹立による法治主義の開始や鎖国からの脱却の重要性や、防衛戦争の必要性と、戦争の負の側面も考えさせてくれる場所であり、そして又、前政権徳川家の紀州藩別邸跡の有った場所であり徳川家が御参りした野島稲荷神社が現存し…
金沢八景の一つであり文化醸成地だった、横浜市民のみならず日本国民にとっても大切な場所と言えます。

夏も終わりですね…
皆さん、体調を崩されませんように。
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

↑このページのトップヘ