歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

カテゴリ:神様/偉人/武将 > 古代(神話〜奈良時代)の神様/偉人/武士

中華圏の迷信と事実考証を交えない思い込みの強さと自国文化への理解の低さを露呈する人が結構な割合で中国人にいる・・・

“月子”は正しい産後の民間療法

“冷水”飲んだら腹壊す”

“刺身”を食ったら腹下す

・・・と思い込んでる阿呆。コイツ等は漢族を自称する資格すら無い。

月子は女性が出産直後は一ヶ月間入浴しない方が健康でいられると言う“迷信”だ。
冷水飲んだら腹壊すと思ってる馬鹿も多い。
古来、中国人は日本人同様に魚を生食した上に、来客の際に新鮮な魚介の刺身を振舞う事は最上の接待だったのだ。

“月子”と“冷水”と“魚介類の生食”に関する中国人の思い込みは極めて簡単な言葉で論破できる、迷信だ
これを信じている奴は洗脳され易いか、我彼を比較して戦力分析する人間かどうか、思い込みが強く客観性の無い人間かどうかが中国人・台湾人限定で良く解る。

中国大陸では昔から自然環境を大切にせず森林を切り開き南方では水田を北方では畑と牧草地を無軌道に拡大したせいで緑地水源が無くなり砂州も無く成り浄化作用の無く成った河川と土壌の地下水は汚染されている。

水が汚染され不潔だから煮沸していない生水を飲めないのであって、それが冷水が駄目とすり替わっている。その水質問題は現代でも同じ、寧ろ中国政府のせいで悪化している。
冷たい水が駄目なのに、冷たいアルコールは飲める事の理由を先ず客観的に見ていない。
身体が冷たい飲料や食物を受け入れないから冷たい水が駄目なんじゃない、中国の生水が不潔なんだよ。
そんな生水、つまり当然ながら出産で裂傷の有る“産道”に中国の井戸水や水道水を触れさせれば感染症を起こす訳だな。
だから傷が塞がる間つまり最低1ヵ月間は頭も洗えない、当然入浴もダメ。
皮膚の脂垢と頭垢(ふけ)塗(まみ)れのままでいた方が感染症を起こすリスクより、よっぽど危険度が低かった訳だ(笑)。
これを理由も考えずに正しい民間医療として妄信している奴が未だにいる。 月子なんて日本では関係無い、大丈夫、日本の水道水のシャワー使って平気だよ。他の欧米でも衛生的に安全な国は大丈夫。まぁ、傷に沁みる内は痛いから止めた方が良いかも知れないけれどね。

中国の水が不潔なのは悠久の時間をかけて無軌道伐採で森林を消し清涼な湧水源を消し田畑に変え、川の砂州を無くし自然による水の浄化能力を失わせた歴史に責任が有る訳だし。

「刺身や寿司を食ったら腹を壊す」
「遺伝子的に中国人の体は生食を受け付けない」
こんな事を言う中国人は“根本的に愛国心も足りない”し“中国古来の文化を学んだ事が無い人間”だと断言出来る。

日本で食う刺身は“汚染された中国の河川の淡水魚と違い安全”な事を客観的に理解出来ないで、生食が原因だと考えている訳だ。

だから刺身や冷たい物を食べたら御腹を壊すと発言する中国人の知り合いがいた際に日本人の小生が中国人に教えた漢文が有る。
この漢文の作者は日本人との友情も伝わっている・・・
仙人橋
霜落荊門江樹空

布帆無恙挂秋風

此行不為鱸魚鱠

自愛名山入剡中

※小生個人の解釈で意訳するなら以下の通りだ。

荊門(の土地:湖北省の真ん中辺りの荊門市)に霜が降(お)り、江(川辺)の樹も(葉が落ち)空(むな)しい(様子だ)。

(船の)帆布は恙(つつが)無く秋風にかかげられている

此(これ=今回)は鱸魚(ろぎょ=スズキ)の鱠(なます=刺身)の為に行く訳じゃなくて

名山(廬山の綺麗な風景)が好きだから(ここから)剡中(浙江省紹興市)に向かうんだがな。

・・・この漢詩の題名は“秋下荊門(秋に荊門へ下る)”日本人でも尊敬する人の多い唐の時代の大詩人、李白が詠(うた)った漢詩だな。
だな。
生食が腹下すってのが中国の迷信と言う解説の前に、この漢詩自体と李白の事績の分析をしたいと思う。
荊門山
荊門と言うのは古代の揚子江(長江)と言う中国の大河川の流域の荊州管轄区域の端に在る荊門山と言う河岸に連なる宜昌市の山の事を指していると解釈が一般的だそうだ。
だがこれは間違いかも知れない。
そもそも荊門山は古くから宜都と呼ばれた土地に在る。隋時代には夷陵郡夷道県と呼ばれ唐の時代には夷陵郡が峡州に地名を改められている。いずれにせよ古代の荊州の中には有ったが、唐代の荊州の入口では無いので漢代~唐代まで荊門山の名は無かっただろう。比較的に後から付けられている筈(はず)だ。
※漢代の州区分は“はじめての三国志”さんの解説記事が中国古代史を良く知らない人でも見ると解り易いです。クリックで→初めての三国志ホームページにリンク。
はじめての三国志 公式様より拝借 三国時代の州
荊州と言うと歴史知識の乏しい中国人や台湾人は現在の荊州市の事しか思い浮かばないだろうが、漢代で言う“荊州”は都市名では無く広大な行政区分、文字通りアメリカのケベック州やニューヨーク州の様な州を指した。
後漢当時の州は14州の行政区分を指し、南方や西方に広域の行政区分が多いのは漢帝国(中国)から見た未開の地で漢帝国“自称:漢の征服地だし”で仮設置されている州区分。当然、朝貢しているだけの部族も多くいる。
南蛮扱いされてる古代ベトナムの王:孟獲サンや、胡王(非漢族の未開地の王=ウィグル族)沙摩柯サンなんかがこの部類だな。
漢代に設けられた荊州の行政区分は現代の範囲で言うと河南省南陽市~湖北省~湖南省を全て合わせた地域だ。
荊州7郡
※“もっと知りたい三国志”さんからの拝借地図です~。
ちゃんと史実に基づいて可視化した地図書いてくれている人がいるから助かる(笑)。ネットの情報はゲームの間違った地図転載している人も多いですからね。
そして漢代当時に荊州市は存在せす江陵県と呼ばれた地域の一部であり南郡に属していました。
この後、三国時代には更に南郡の地名は臨江郡に改められ、その2年後に更に宜都郡に改められています。宜都は現在では宜昌市の下部市町村として宜都市が存在し、そこが後漢時代の夷陵県であり、そもそも現代の荊門山の有る場所です。
南郡=臨江郡=宜都郡の下部には“県”単位の行政区が置かれていました。 それは・・・ 中廬県、襄陽県、当陽県、臨沮県、夷陵県、夷道県、江陵県、枝江県、華容県、宜城県、郢県、邔県、編県、秭帰県、州陵県、鄀県、巫県、高成県
・・・漢代の荊門山は宜都郡夷陵県に在り、現在でも宜都市の地名の残る場所に存在しています。漢代の価値観で言えば広い意味で益州(蜀=四川省)との州境ですが、荊門山は荊州の入口と言うにはだいぶ下流の州内部域に位置に在る上に、漢より後の唐の時代ではもはや行政区分的に荊州の入口でもなんでも無い位置に在ります。
はじめての三国志様より拝借 三国時代の勢力
※又々はじめての三国志さんの画像拝借。
三国志で言うと
益州領主の劉備サン(首府は蜀郡成都城=成都市)の義兄弟の関羽サンが治めていた荊州を、揚州領主の孫権サン(首府は呉郡姑蘇城=蘇州市、後に建業城=南京市)が参謀で大都督の呂蒙サンと陸遜サンに攻めさせて関羽サンが殺され、義弟関羽の死に発狂した劉備サンが怒り狂って荊州を取り戻す為に夷陵の戦いを起こした辺りが現在の宜昌市界隈ですね。
はじめての三国志 公式様より拝借 三国時代の州
余談ですが、ちょっと紹介した沙摩柯さんが胡王と記述されているのですが、胡王の“胡”が指す胡族や突厥(とっけつ)と言うのはウィグル族の騎馬民族の事です。
ウィグル族の中で漢や唐や元の圧迫で西に逃げた
現代のトルコ人達と同じ祖先を持つのが胡族です。
なので沙摩柯サンはウィグル人だと思いがちだが、彼は武陵から攻め込んでいるのでチワン()族の系統の王族と考えた方が良いと思う。漢代に壮族と言う部族の区分が存在していなかったのかも知れない。
当時の劉備サンの敵対勢力である魏の曹操(首都:洛陽、首府:許昌)は雍州を抑え西藏(チベット)も同盟勢力だったので、沙摩柯サンが胡族だとしたら雍州経由でもチベット経由でも武陵に辿(たど)り着(つ)く事は不可能なんだな。

荊州7郡
まぁ、そんな訳で我々現代の読む側は、李白さんの秋下荊門含めて漢詩や和歌が詠(よ)まれた各時代の細かい行政区分の変遷や詩に書かれた季節と各地域の名産品考慮して時代背景や歴史的な内乱の発端と成る異民族や反乱勢力の位置関係も踏まえて、詩の内容を読んで行かないといけないんだな。
・・・しかし中国に関して言えば、これ等の位置関係が現代に成ると中国共産党のせいで更に解りづらくなります。
現在の荊州市は江陵城と呼ばれた城で、荊州市から長江を50km程下った地域のに昔の江陵県の地名がそのまま江陵県として残っていますが、江陵県の中心だった江陵城が荊州市として近年に分離されてしまい歴史を混乱させる要因にも成っています。
まぁ、そんな訳で漢代の荊州と言うのは荊州市(江陵城)の事では無くて古代の漢代の巨大な行政区分の事だった訳ですが小生の住まう横浜にも少し関係が有る人が三国時代に水軍を率いて治めていた場所なんだな。
CIMG2796
三国時代に一騎打ちで無敗の名将軍だった関羽雲長さんの最期の根拠地。
DSC_3615~2
※北京旅行の時に60元で購入した銅像(笑)。部屋で走水神社の御守りの横に陪神として祀ってる(笑)。
関公は曹操によって神格化され協天大帝関聖天君の名で商売の神様として祀れているが、商売の神様に成った理由は生前に塩の行商の商隊をやっていた事、そして一騎打ちに負けない勝負強さから民間信仰の対象に成った訳だ。

そして
実は、この関羽さんの治めた本来の荊州の広大な行政区分は春秋時代の“楚”の領土が元に成っている訳だ。
楚の都を郢(えい)と言ううのですが、漢代の県を含め荊州市荊州区等も古代の楚王国の首都だった場所で、複数個所、遷都する場所に郢の地名が残されました。

さんざん漢代の荊州の話と宜都市の荊門山の話をした上で話題を“秋下荊門”に登場する“荊門”の地名由来に話題に戻すと、荊門の地名は李白の生きた唐代に初登場する地名なんだな。
唐朝の統治下で荊門県と呼ばれた地域だ。
これが❝荊門❞の名の初出だな。それが現在は荊門市と呼ばれる行政区分に成った。
洛陽~荊門~四川省の位置関係 久良岐のよし
李白は実は塔克拉瑪干沙漠(たくまらかん砂漠)の入口に当たる甘粛(かんしゅく)省出身、その後に巴蜀の地、つまり現
在の四川省に移住した。だから四川省から船で
剡中(浙江省紹興市剡県=嵊州市)に向かうなら長江に違いないと思い込んだ歴史音痴中国人や観光振興が横行した結果だろう。
悪いが歴史事実を突きつけると、李白が剡中(紹興市剡県)方面、つまり江南地方に行く用事が有るのは洛陽に住んでいた時代以後の話なんだな。
江西省の廬山に隠棲する時に江南地方へと下って行ってる。
後は罪人と成って貴州から解放された時だが、その頃には安徽省を拠点にしている。
だから少なくとも、
秋下荊門の詩は時期敵に秋に荊門を川下りしているのだから秋下荊門を読んだ時は洛陽を離れ南陽方面から漢水を下っている筈なので宜昌の荊門山ではなく荊門郡(荊門市)の土地を指すと言うのが小生の推測だ。
荊門門市行政区域 久良岐のよし
荊門市は南面に西から流れ込む長江と、北から市域に流れ込み南へと突っ切る漢水の二つの大河が有る。
当時李白の居た唐の都の西安や洛陽から江南地方
剡県(浙江省嵊州市)に向かうには、漢水を利用する。
上流には襄陽市(じょうようし:漢代に荊州で最も栄えた襄陽城)が存在している。
しかし荊門山(湖北省宜昌市)を船からを見るには、わざわざ巴蜀(四川省)方面から長江を下って来なければ成らない。
これは余りに非現実的。しかも李白の生きた唐代の価値観からすれば洛陽から荊門はそのまま荊門県を指し現在の荊門市の事そのものだろう。
それに現在の荊州市の行政区分と都市名は、つい最近の数十年前に中国共産党によって決められたものだ。
荊門山の有る宜昌市が漢代の荊州と言う大きな枠組み以外で荊の名を冠するのは、唐の滅亡後の五代十国時代に荊南に編入されてからだ。唐代に宜昌に荊門山の地名が有ったか誰か確認したのか?
時代的なズレが有る。最初に訳した人間のテンプレートが広まって無いか?
李白は没する直前の晩年に安徽省の宣城市や当塗県辺りを拠点にしているので、やはりこの時期に川下りで荊門を通り
剡県に向かうとは考え難い
若い時に蜀を出てから暫く長江流域を旅したりしているし、罪人に成って貴州に抑留された時期も有るので宜昌市界隈に来た事も有るし山河の風景を詠んだ事も有るだろうが、小生は秋下荊門の漢詩の中の荊門は荊門郡の事だと思う。状況的に。
彼は洛陽に住んでいた頃、日本人の国費留学生で唐の玄宗皇帝に重用されていた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)や同じ大詩人と成る杜甫(とほ)と友人に成り飲んだくれていたりした。

風流だが豪快で情が厚い人で、結構、言いたい事を言ってしまう人だったらしい(笑)。
こんな逸話が有る。
親友だった阿倍仲麻呂が日本へ帰国する船が難破して生死不明に成った際に「阿倍仲麻呂の帰国船が海難事故に遭って死んだ」と誤報を聞くや(実は漂流してベトナムに到着している)泣いて詠ったとされる詩が残っているのだが・・・

題名:哭晁卿衡(ku chao qing heng=阿倍仲麻呂卿に泣く)
※阿倍仲麻呂公の唐での姓名は姓:晁(chao:ちょう)名:衡(heng:こう)。
※卿(きょう)は官位、帰国前に秘書監、衛尉卿の二つの役職を拝命している。
これは凄まじい事で現代の日本の政権に例えるなら秘書監(内閣官房長官)と
衛尉卿(防衛大臣)を兼務している事に成る。優秀さから如何に玄宗皇帝に重用されていたか解る逸話。
※日本の貴族武士と同じく名を名乗る際は織田上総介信長の様に姓と名の間に官位を置く。

日本晁卿辭帝都

征帆一片遶蓬壺

明月不歸沈碧海

白雲愁色滿蒼梧


※小生の意訳
日本晁卿辭帝都
日本人(親友)で衛尉卿の晁衡が辞職して帝都(洛陽)を離れた

征帆一片遶蓬壺
帆(船)は(親友の晁衡を乗せ、海に浮かぶ)
小さな蓬莱の壺を遶(めぐ=廻)って征(ゆ=行)く
※蓬莱島は不死の妙薬が有るとされた島で、日本や台湾を指す。この場合は日本を指すが、一般的に日本を指す言葉は扶桑(fu sang)を使う。釜山(fu shan)と扶桑(fu sang)の中国語の発音が似ているが、漢帝国に認められて以来~日本が百済を救援して唐朝と対立し白村江の戦が勃発するまで、古代倭人の王権の支配地は本州~四国~九州~朝鮮半島南部に及んでいたので釜山も倭人の国土だった。つまり日本を当てる言葉としては本来は蓬莱島より扶桑の方が適切。
※壺を日本に例えている。

明月不歸沈碧海
明るい月(の様に唐の腐敗の闇を正そうとした阿倍仲麻呂は)碧(あお)い海に沈んでしまい歸(かえ=帰)らない

白雲愁色滿蒼梧
解釈1:白雲は愁(うれ)いの色に染まり蒼(あお)い梧(あおぎり)で満ちている。
解釈2:白雲は愁いの色で満ちる、ベトナムに。
※蒼梧は色と地名二つの意味が有る。
一つは青々とした熱帯植物、若(も)しくはその色。
もう一つは唐代の行政区での蒼梧郡(広西省チワン族自治区~ベトナム)の行政府を示している。
※この詩の蒼梧を色や木として解釈しない場合は、李白が事前に阿倍仲麻呂が日本に帰国せずに当時は唐の領土だったベトナムに赴任する事を知っていた事に成る無事を伝える暗号化された詩に成る。
広西省チワン族自治区
まぁ、こんな風に李白さんは日本人とも仲が良くて友達の死を悲しんだか、対立者による暗殺を恐れて帰国を装って船に乗りベトナムに計画渡航した無事を玄宗皇帝に風流な漢詩で表現したのかも知れない。
まぁ、李白さんは歴史も熟知し詩歌にも通じた大文化人だった訳です。
そして
哭晁卿衡の漢詩はこんな背景がもしかしたら有るかも知れません・・・
当時、玄宗皇帝は傾国の美女として有名な楊貴妃によって政治的に堕落した生活をしていました。
この頃、李白さん始め玄宗皇帝と話す機会の有る人はアノ手コノ手で諫(いさ)めていましたが助言に耳を貸さずに腐敗して行きました。
その楊貴妃の楊一族は、唐朝で外国人部隊を率いる将軍の安禄山の安一族と対立して権力争いをしていましたから、当然ながら玄宗皇帝の側近である阿倍仲麻呂卿も暗殺される可能性が有り都を離れた上で玄宗皇帝の配下で居続ける必要が有ったのでしょう。
阿倍仲麻呂卿は天平勝宝四年(752年)に日本への帰国船に乗船します。
だから予め玄宗皇帝達と画策し都の洛陽から退避し日本帰国船で遭難(を装って?)、唐の支配地のベトナムへ漂着(計画渡航)。ベトナムなら安禄山一族の手は及びませんから。
「船が遭難した」と言う暗号で彼の計画の無事を確認した李白は悲しんだフリしながら安堵した気持ちを玄宗皇帝に伝えたのかも知れませんね。
阿倍仲麻呂卿は唐の朝廷で死んだ事にされていたのかも知れません。
李白によって哭晁卿衡の漢詩が詠まれたのは天平勝宝六年(754年)です、この時期に成っても阿倍仲麻呂卿は死んだ事に成ってる(笑)訳です。当時の中国は駅伝制が確立されており、馬で皇帝の下へ直ぐに情報が伝達される仕組みが有るにも関わらずです。
唐時代の版図 
そして天平勝宝七年(755年)まで洛陽へも長安へも戻りません。
のらりくらい、安全が確保されるのをまっていたのでしょうか?
この間に玄宗皇帝は蜀(四川省)に遷都(都を移す=逃げた)し、モンゴルやウィグルの騎馬民族に援軍要請をし、騎馬民族の軍事介入で安禄山の大軍を撃破しています。阿倍仲麻呂卿は760年まで浪人し無役でいます。
もしかしたら長安にとどまって幕末の桂小五郎さんみたいにスパイをし玄宗皇帝に情報を伝えていたのかも知れませんね。

そして実際に757年に成ると安禄山は自分の息子の安慶緒に暗殺され、更に安慶緒は父安禄山の部下の史思明と対立し759年には更に安氏と史氏の抗争に発展し安氏は滅亡、反乱勢力は一気に自壊して行く事に成りました。
そして天平宝字四年(760年)に阿倍仲麻呂公はタイミング良く復職すると“あの哭晁卿衡”の小生が意訳した解釈2の内容を漢詩を再現するかの様に・・
白雲愁色滿蒼梧
解釈2:白雲は愁いの色で満ちる、ベトナムに。
・・・唐の朝廷に復職しベトナムに赴任、鎮南都護、安南節度使に任命されて三位の官位まで得ています。
鎮南都護は南方方面軍長官
安南節度使は南方統括政府の長官兼財務長官
鎮南都護安南節度使として管轄したベトナムや広州は大切な交易ルートです。
そして、この頃にはメコン川流域は既に大穀倉地帯に成り兵糧補給地としての存在価値も有ったでしょう。
阿倍仲麻呂卿はベトナム赴任の後、最終的には潞州大都督(ろしゅうだいととく)に任命されています。
[画像:d72c085d.png]
唐代の潞州には三国志好きなら聞いた事の有る“壺関(こかん)”と言う洛陽防衛の最終ラインが有り、そこを任され更に大都督(大元帥とか参謀総長に当たる)に任命されている訳です。
これだけの出世をすると成ると、安禄山の乱の鎮定にかなりの功績を残していないと不可能な訳ですね。

さて、李白さんから阿倍仲麻呂さんの話に逸(そ)れてしまいましたが、そんな凄い人とも直接友達だった李白さんですが・・・
洛陽で知り合った阿倍仲麻呂さん達と別れ、一路江南地方に移住する為に南下します。
つまり、この時に漢水を船で下り荊門郡(荊門市)の辺りを通過している訳です。
霜落荊門江樹空
布帆無恙挂秋風
此行不為鱸魚鱠
自愛名山入剡中
だから小生は言う訳です、この詩でも荊門って言ってんだから荊門山じゃなくて荊門郡でしょ?
状況的にも一番自然な解釈でしょってね。

さて、彼の詩で現代中国人で「刺身食うと腹壊す」と言う奴は迷信を信じ客観的に情報を判断しない煽動され易いか自己判断能力の無いか情弱な人間と、最初に小生指摘した根拠と成るのが、この
秋下荊門です。
DSC_3602
秋下荊門の意訳でネタバレしてますが、李白達の時代の中国人も生魚を食べていました。
しかも高級な料理として。
此行不為鱸魚鱠
此(これ)は鱸魚(ろぎょ=スズキ)の鱠(刺身)の為に行く訳じゃない
ばりばり唐代の人等食ってるし(笑)!
つまり、寿司食って腹を下すと言う中国人は自国の本来の文化を全く知らないし、自国の川や海の水が魚が汚染される程に汚い事を理解していないし、水道水や地下水や泥臭いのが異常な事だと認識も出来ていないし、川魚は寄生虫がいるから生食は余り適さないけど海鮮は下処理気をつければ鮮度次第と言う事を知らない訳です。
李白移動箇所 久良岐のよし
さて、そんな訳ですが李白さんが言っていた
剡中(紹興市界隈)の唐代の名物は鱸魚(ろぎょ)=鱸(すずき)ですね。
つまり海の魚です。だから鱠(なます)で食べれるのでしょう。
釣りをやる人は知っているんですが冬季に成るとスズキは寒い外海から湾内や川の汽水域へ移動し越冬します。
唐の時代の海岸線は当然、現代よりも内陸だったろうし、揚子江は内陸まで水深が深いので紹興市界隈のだいぶ内陸辺りまで汽水域が有ったんでしょうか?
因みに日中戦争の時、日本軍は荊州市辺りまで余裕で海から軍艦で川を遡(さかのぼ)って来て、長江沿岸の都市に艦砲射撃を加えている事からも長江の水深の深さが伺えるんじゃないでしょうか。
まぁ・・・孫文先生の樹立した中華民国が袁世凱に乗っ取られたとは言え、その後の蒋介石さんは知日派だったんだから戦争するんじゃなくて英国と一緒に支援するべきだったと小生は個人的には考えています。
まぁ、尼港事件も有りましたから、当時の日本人の感情として袁世凱がいなくなっても中華民国を許せないと言う風潮が有ったのかも知れませんが。
日中戦争のエピソードも水深が深い事を例える素材には成りますね。

もう一つ、李白さんが船の中から見て
霜落荊門江樹空 布帆無恙挂秋風と詠んでいる事も思い出して下さい。
季節は霜が降りる晩秋で鱸魚(スズキ)が湾内や川の汽水域に移動して来る季節位に紹興市方面に向かっている
様子も解りますね。
いずれにせよ、当時の紹興市辺りの名物は鱸の刺身だったし、当時の人々も生魚の刺身を好んで食べていた訳です。そして漢詩の内容の洛陽から南陽郡を通過し襄陽から船で漢水を南下して荊門を通過し江南地方を訪れるタイミングの漢詩と解る訳です。
司馬遼太郎さんも“街道を行く”シリーズの江南地方への旅の中で、この詩を確か紹介していたと思います。こんな解析はしてないですけどね。
案外、日本人の方が普通の中国人より中国文化を大切に思っているかも知れない。

さて、小生は現代の中国人には迷信に振り回されている人間が多いだけでなく、“愛国心を謳いながら自国の文化も歴史も大切にしない奴が多い”と指摘しました・・・
小生が中国蘇州の網師園と言う、とても綺麗な中国古民家を訪れた際こんな事が有りました。
・・・中国には中共以前の中華民国時代から受け継がれている“文物保護単位”と言う文化財があるのですが網師園もその一つで、当然ながら火気厳禁で禁煙な訳で。
しかし静かに見学している小生達日本人の後から中国人の団体客(中国なんだから当たり前かww)が大挙して建物に入って来て、その内の一人が煙草を吸い、その吸殻を中庭の石畳にポイ捨てしました。
それを見た小生は憤慨しその中国人の前に立ってこう言いました・・・
「喂!你是中国人吧?」
(オイ!オマエ中国人だろう?)

「你因该知道这里是保护单位。」
(ここが文化財指定だって知ってんだろうが。)

「你这么做不觉得害羞吗?」
(オマエ、こんな事やって恥ずかしくないの?)

「到底你们在哪里有爱国心?」
(オメ~等愛国心なんて無いだろ?)

・・・結構低い声でユックリだが、まくしたてましたかね。
こう言うと、コチラを相手の低文化な人間も睨んできたが、生憎と小生はガタイが良いので相手は押し黙って動かなく成りました。これが中国人同士か一般的な日本人男性の身長と体格なら殴り合いに成っていただろうなと思います。

相手は外人に片言の中国語で話しかけられた経験も無いだろうし、しかもガタイの良い外国人に片言の怒気を孕んだ中国語で正論を言われて怖かったかも知れないし当惑したでしょうね、なんせ歴史文化礼儀軽視でポイ捨て当たり前の民度の人が多い国ですから(当時、約20年前)。
でもメンツを大切にする中国人だから謝る文化も無いし、人に言われて自分の捨てた吸殻を拾うなんてプライドが許さない訳だ。
小生はソイツにガン飛ばしながら吸殻を拾うとソイツのツアーガイド(中国人女性)に吸殻を渡し、注意し指導する様に言いました。

小生「你为什么让他在这里抽烟呢?你也应该批评他,对不对?」
(アンタなんでアイツにここで煙草吸わせてんの?アンタもアイツを糾弾するべきじゃ無ぇ~のか?)

すると、そのガイド(导游)から怯えた様子で開口一番、先進国では考えられない一言が帰って来た・・・
导游「我不会・・・」((;゚Д゚)できません・・・)

小生「啊?为什么?」(は?何で?)

导游「对不起・・・」(;Д;)

小生「チッ・・・(舌打ちからの無言でガイドの姉ちゃんを侮蔑する)」(-_- ×)ノ

・・・こんなやりとりをした事が有り、中国人の中国伝統文化や文化財や自然に対する保護意識の軽薄さは身に染みている。
このガイドの発言は客を注意する事が批判したと会社に騒がれたらクビに成るとでも思っての事だろう。自己保身だな。
そして中国は簡単に従業員を気分で解雇出来るし、上司が部下を選ぶ事も出来るから日本以上に愛人関連の問題も有る。法律は有るけれど末端と上層部が酷く法治国家として機能はしていない訳だ。
中間層は真面目なのにね。

無論、小生の友人達の様に昔から素養が高く協調性も有り柔和で文化を大切にする人も多い。
反面、自分だけ良ければ良く自国の文化に対して平気で破壊を行う奴も多い。
モラルに置いて全員がそこそこズルくてソコソコ理性を持て振舞う日本人と違って、中国人は良い人は凄く良いが悪い人は何事においても凄く悪い。人の民度の差が激しい。
そして中国の自称愛国者は何故か自国の歴史を知らず文化を愛さ無い人間が多い。
とにかく善悪の差が激しい。

こんな事も有った・・・
大型スーパーの客が「御釣りが1毛(日本人の感覚で1円みたいな)足りない」と騒ぎだし店員のネエチャン殴る。

更にコンナ事も・・・
食堂で客が「他の客より米が少ない」と騒ぎだし店員も店員で喧嘩腰に「んなわきゃ無ぇ」と言い返し、客が配膳台から米を分捕り、怒った店員がその客を突き飛ばし、逆上した客が空の御椀を持って店員を殴りつける。
店員はオデコがパックリ割れて流血。
周りの中国人は誰も止めず俺が暴れてる中国人を後ろからフルネルソンでクラッチして羽交い絞めにしてホールドし周囲で傍観してる薄情な連中にこう叫んだ・・・
「不要打了!」
(止めろ!)
「喂,你们快报警吧!」
(オイ、オメー等(他の客と店員)さっさと通報しろ!)
・・・と言うまで誰も動かない始末。

こんな事も有った。
中国では人力三輪車がタクシー替わりに使われている観光地も多いのだが、仲良く成った現地の女の子と二人で市場に夕食の食材を買い出しに行く途中で三輪車が窪地に嵌(はま)って出れなく成っていた。
それを小生が普通に後ろから持ち上げて穴から出した。
まぁ、日本人ならその三輪車を持ち上げられる力が有るか複数人いれば普通に小生と同じ事をするだろう。
ところが、一緒にいた女の子にコンナ事を言われた・・・
「何で助けたの?」
・・・これは小生は衝撃的だった。当たり前の事をしたのに怪訝そうに眉をひそめて聞かれたのだ。
当然、この女の子みたいなのばかりじゃなくて、小生と同じ事をする中国人もいる。でも、“そうじゃない奴もいる”国民性が有る土地なんだな。

あと中国に出張に行くと気を付けている事が有った。
中国のTAXIは日本より遥かに事故る頻度が高い。
もし事故に巻き込まれたら、さっさと料金を払い車降りないと口論に巻き込まれ警察が来れば更に面倒に成り立ち去れなく成る事が有る。
小生も一度、中国滞在中に乗っていたTAXIが事故に巻き込まれた。上海の環球金融中心と言う日本の森ビルが建設した高層ビルに行く用事が有ったのだが、そのTAXI発着場所の入口近くの交差点で一般車両と右折直進衝突された。
さっさと金払って降りた。

中国人も自国の文化を大切にする人、古典を読み本当に史料を読む程に歴史が好きだったり伝統芸能の評弾を聞きに行く様な若者は寧(むし)ろ日本人に対して偏見の無い人や客観的に物事を判断する人も多い。

逆に中国人なのに自国の文化に左程興味が無い奴程、自国の事も知らないし対外的に無差別に攻撃的だったりする。
そして迷信を信じる奴も、この部類に多い。

まぁ~あれだ。
日本人もそうだが、右翼って無文化な奴が多いし、左翼って文化破壊者が多いし、そのどちらも笑える事に民族主義者と民族逆差別主義者が多い。
万国共通だな。

歴史に興味の無い奴、文化に興味の無い奴、金と利益が絡まない事に対して無関心な奴、どこにもいるけど、中国の場合は特に差が極端。
文化的で良い奴と友達に成れば良いだけだし、日本や先進国での生活の長い中国人に対し素養を見分ける素材が“月子”“冷水”“刺身”の迷信を習慣として海外にいても是とするか非とするかで客観性が有るか順応性が有るか判断も出来るって体験談だな。

中国人はもっと本来の中国である明や唐や宋や漢の文化を大切に、そして政府や人からの情報では無くて自分で活版印刷されて読み易く成っている古文書を読んで、己の文化と現代中国の闇を知るべきだと思う。
これを日本人が好み中国人が忘れた中国の諺で温故知新、継往開来と言う。

中国人の皆さん、もっと自国の本当の文化を自然を大切にして下さい。
私達日本人は和服を来て正月に神社仏閣を参詣したり、書道で書初めをしたりします。
小生は書初めはしませんが、ちゃんと写経もして御寺に奉納しますし神社も氏神様と土地神様と厄除けの神様と知恵の神様と御参りもします。
さて、中国で日常生活の中で唐装いを着て歩く女性がいるでしょうか?
普段から御先祖様が大切にした御神廟や御寺を御参りする若者がどれだけいるでしょうか?
そう言う所から、本当の愛国心に通じる自国文化を大切にする心は育まれるのだと思います。
そう言う所です。
明孝陵に行って中国人の自称愛国者は朱元璋洪武帝に礼拝するでしょうか?
洪武帝はモンゴル元朝を倒して中華を取り戻した大功労者ですよ?
きっと反日=愛国心と思っている人間には洪武帝の明孝陵の存在も知らない阿呆も多い事でしょう。
そして何で“月子”を中国人は行わないといけなくて、何で“生水”を飲んではいけないか理由すら考えた事も無いでしょう。

もっと自国の歴史から古来の文化も学んで下さい。
そして出来れば人民解放軍が行っているプロパガンダと異なり、実際に日本軍と勇敢に戦ったのが中華民国軍とアメリカ義勇軍だった事実も知って下さい。
中国からどれだけ貴重な歴史偉人の陵墓が文化大革命のドサクサに紛れ盗掘破壊され消えたか調べて下さい。

でね、折角日本に来たら御刺身も御寿司も美味しいから試しに食べて見て下さい。
IMG_20160312_173929
2013-02-10-14-51-57
海鮮を生食しても腐って無ければ腹壊しません。
小生は中国人の同僚が帰国する際も来訪する際も、台湾の友人が遊びに来た時も、三崎で鮪を食べさせてあげました。
誰も御腹壊してませんよ。
アノサキス等がいるイカは刺身にする時にちゃんと化粧包丁いれて寄生虫駆除したり湯引きします。
先ずは体験してみて下さい。
中国出張中に買ったペットボトルの水が偽物で腹下したり、屋台の料理で腹下したり、別に小生は中国の不衛生な店も怯まずチャレンジしてますよ~(笑)。

まぁ、自国の物は大丈夫だって思いたいですよね。でも日本にも原産地偽装食品も有りますし、御互い、気を付けないといけないのは変わらないけど、迷信かも知れない通説も信じる前に自分で理由を考えて調べてみたらどうでしょうか?

では、又!




神奈川県平塚市四之宮には前鳥神社(さきとりじんじゃ)と言う、とても由緒正しい神社が在ります。
平安時代延喜年間の醍醐天皇から見ても歴史が古いと認識された“延喜式内社(えんぎしきないしゃ)”と呼ばれる神社が神奈川県内には14ヶ所、それ以外に当時は神社では無くて聖地霊場だった場所も数ヵ所在ります。
この延喜式内社の内、一之宮~五之宮の異名を持つ神社が5ヶ所有って、前鳥神社はその内の四之宮でした。
CIMG1722
神奈川県には国府祭と言う祭事が有ります。
昔、現在の伊豆半島と神奈川県と東京都と埼玉県は一つの佐賀牟国と言う大きな国だったのですが、その国が大和朝廷によって伊豆国、相模国、武蔵国に分割された際に、相模国の国府(現在の感覚の県庁)を何処にするかで神様(在地豪族)達が喧嘩する内容なのですが、その御祭にも登場するのが前鳥神社なんです。
古代の日本ではどの国にも一之宮~五之宮まで設置された様で、これが原始行政機関と成って行った様です。
現在では五之宮に平塚八幡宮を含みますが、平塚八幡宮は自らを五之宮と名乗った歴史は無いとの事なので恐らく昔は別の神社が五之宮だったのでしょう。
国府祭は比較的新しい御祭りなので(と言っても西暦500年代~700年代が起源のはず)、五之宮の問題が有ってもおかしくは有りません。
良い機会なので神奈川県内で古代に大和朝廷から既に官位を頂いいていた特に格式高い神社を名前だけでも紹介して置きます。
※現在の神社の序列は古代~江戸時代までの歴代天皇の御意思を無視した物で全く参考に成りません。

●有賀(あるか)神社奥宮

DSC_0134
DSC_0135
相模原市南区磯部勝坂遺跡に所在。
女神さまの有賀比女命(あるかひめのみこと)が御祭神。
神奈川最古級の神社で縄文時代の遺跡の真ん中に在る。聖地有賀谷自体が御神体で形式的に御社も存在する。飛鳥時代の朝廷からも国家鎮護の神社として信奉されている。
※現在の海老名市に在る本宮は、後の時代に遷座した場所です。勝坂遺跡の有賀神社が元宮。

●石楯尾(いわたておの)神社
CIMG1942
CIMG1952
相模原市緑区名倉に所在。
石楯尾大神が主祭神。
そもそも応神天皇の行在所(あんざいしょ=仮御所)が建っていた場所に存在する神社。
更に歴史は遡れ、日本武尊が装備していた天磐楯(あまのいわたて)を埋蔵し御祀りしたのが石楯尾神社の始まり。中央線の開削工事で破壊された烏帽子岩が聖地として近年まで鎮座していた。
奈良時代には逆臣藤原仲麻呂を討伐した名将の坂上石楯(さかのうえのいわたて)公が当地に居館を構えていた。
朝廷から大切にされた古社だが、武田信玄によって略奪放火され古代からの神器等は消失した。その後の武田家の家運は御存知の通り一族ことごとく滅亡・・・。

●寒川神社
CIMG1687
CIMG1702
高座郡寒川町に所在。
延喜式内社相模国十三座の中の筆頭格、一之宮。
御祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわひめのみこと)。
八方除け全方位の事故除けの神様や夫婦神様なので縁結びとしても有名だが、文化的には古代から続く追儺(ついな)祭が行われる。この追儺祭は現代では仏教の影響を受けている神事に変わっている場所も多い中、この寒川神社や京都の上賀茂神社では古来の形式が守られており、境内の湧水池で組んだ水を神前に供え聖水とした後に境内を清める伝統神事が毎年1月2日に行われる。

この他に二之宮~五之宮が有り・・・
●二之宮川勾神社    ・・・中郡二宮町
●三之宮比々多神社   ・・・伊勢原市三ノ宮
●四之宮が今回の前鳥神社・・・平塚市四之宮
●五之宮は延喜式では式外社の平塚八幡宮
・・・となっています。
この他に更に県内の延喜式内社には・・・
●有賀神社本宮          ・・・海老名市上郷
●深水神社            ・・・大和市深見
●杉山神社            ・・・横浜市緑区西八朔
●宇都母知(うつもち)神社      ・・・藤沢市打戻
●大庭神社舊跡(きゅうせき=元宮)・・・藤沢市大庭
●大庭神社            ・・・藤沢市稲荷
●小野神社            ・・・厚木市小野
●高部屋神社           ・・・伊勢原市下糟屋
●大山阿夫利神社(下/上社)     ・・・伊勢原市大山国定公園
●寒田神社            ・・・足柄上郡松田町
・・・が存在し、その他にも延喜年間には神社では無く霊場=聖地として扱われていた延喜式式外社と言う場所が有りまして、小生の把握する場所は以下の通りに成ります。
●橘樹神社  ・・・川崎市高津区子母口
●走水神社  ・・・三浦半島横須賀市走水
●師岡熊野神社・・・横浜市港北区師岡町
●八幡橋八幡宮・・・横浜市磯子区原町
●平塚八幡宮 ・・・平塚市浅間町
●六所神社  ・・・中郡大磯町国府本郷
●神揃山   ・・・中郡大磯町国府本郷の城山を含む丘陵全山
延喜式内社 久良岐のよし
小生のブログを読んでくれている人には御馴染のこの加工画像で位置関係が解ります。
※既に記事に書いた場所が大半ですがリンク貼るの面倒なので暇が有る時に少しずつやります。
さて、以上に列挙した神社の中でも前鳥神社は、その中でも少し変わった由緒を持っています。
 CIMG1723
ここは明治時代に境内地を縮小されたにもかかわらず現代でも立派な参道を有しているのですが、そもそもが応神天皇の皇子である‟莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)”様が移住した場所と伝わっています。
ですから御祭神も
莵道稚郎子命が祀られています。
莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)皇子は生前、その名前の通り京都府宇治市に住んでおられました。
・・・小生の祖先も宇治市に関係が有るのでもしかしたら御先祖様が
莵道稚郎子様に御世話に成ったかも知れません。
莵道稚郎子の名前を現代語に翻訳するとこうなります・・・
莵道=うじ=宇治
稚=わけ=別(わけ)=和気(わけ)=古代皇族の名乗り
郎子(いらつこ)=良い男子=皇子
つまり、宇治に住んで居た皇子様と言う訳で、これは前鳥神社の伝承や日本神話とも整合性が有ります。
そして、前鳥神社の伝承と日本神話を考古学的に証明する場所が、前鳥神社の1.5km西の近所に存在しています。
 真土大塚山古墳と前鳥神社 久良岐のよし
真土大塚山古墳と言う古墳時代初期に造営された大古墳です。
この場所からは古代大和朝廷との関わりを証明する三角縁神獣鏡が発掘されています。
この古墳の主は恐らく
莵道稚郎子命でしょう。
考古学的にも地理学的にも面白いのは前鳥神社周辺は縄文~弥生時代は海の底でしたが、弥生時代も終盤に成ると地面が隆起し始め、古墳時代には陸地に成った様です。 しかし当時はまだまだ海だった名残りで沼地が多く、住める場所に限りが在りました。しかし、前鳥神社は相模川の浸食を受けなかった自然堤防上に在る事から、この一帯は古代には半島状、ないし島の地形だったと推測されています。
前鳥神社も古語を解読すると良く解ります。
前=さき=崎=みさき=半島の先端
鳥・・・これは島の字が書き間違えられて伝わったと伝承しています。
つまり岬や半島の様な地形だった場所に、
莵道稚郎子皇子が御所を築いたと言う事が地盤や神社の名前から推測出来たりします。そして、それは日本の歴史の空白の次代、西暦300年代初頭~400年代中盤の話だった筈です。
さて、前鳥神社の歴史解説はここまでにして、施設其(そ)の物の紹介をしたいと思います。
神奈川県の延喜式内社は明治以前の歴代天皇の伝統文化を良く守り、神仏習合時代の名残を残す場所が多く有りますが前鳥神社もその一座です。
CIMG1727
鐘楼が有ります。昔は神社を御寺が守っていたので、和尚さん達も出入りして御参りしていた訳です。
そして神社には別当寺と呼ばれる管理担当寺院が設置されていました。宮司さんと和尚さんが協力して日本の文化を守っていた訳です。
ついでに言うと莵道稚郎子命は学問の神様として崇拝を集めていますが、その理由は漢学(大陸渡来の学問)を日本で最初に本格的に学んだ人物だからです。つまり、八幡信仰や牛頭信仰に繋がる原始仏教も学んでいた訳です。それ故(ゆえ)、御父君の大鞆和気命(おおともわけのみこと)=応神天皇は別名で八幡大菩薩の名で古代~明治まで日本人に崇敬された訳です。応神天皇の名は大化の改新以降に付けられた名前なので、大鞆和気命か別名で御陵の地名でもある誉田別尊(ほんだわけのみこと)と御呼びした方が良いでしょう。
CIMG1731
前鳥神社は現在も参道を改修中なのですが、整備を行えると言う事は氏子サン達が頑張ってらっしゃるんですね。
ただ、古い物にも文化財としての価値は有るので、何でも壊さずに保管もして頂きたい所ですが、前鳥神社さんに限ってはその心配も無用でしょう。神職に史学と神学を両方学ばれた博識な方もいらっしゃいますから。
CIMG1732
鎮守の杜(もり)に囲まれた参道の正面に本殿が在ります。
CIMG1733
その両脇には御神木や石碑。
CIMG1734
参道を抜けると右手に社務所が在ります。
CIMG1735
そちらで立派な字の御朱印を頂く事が出来ます。
 image
有名な神社は書道の心得の有る方が多く、御朱印が格好良い。
社務所の手前には神楽殿も在ります。
CIMG1737
江戸時代には祭りの度に近所の人がここで御神楽を演奏したんでしょうねぇ~。
明治政府が宗教政策を失敗していなければ、現在も神社の御祭は賑やかだったんでしょうね。
本殿の右手前には奨学神社が在って菅原道真公と百済皇子の阿直岐が祀られています。
CIMG1738
 ここも前鳥神社の主祭神
莵道稚郎子命と同じく菅原道真公も阿直岐サンも学問の神様なので、学生や資格受験を目指す社会人には御利益が有りそうです。
CIMG1739
中にはすごい数の達磨さんがいたので、それだけ御利益が有ったって報告でしょうか?
その横には神戸(ごうど)神社が在って、古社らしく素戔嗚尊(すさのおのみこと)=牛頭天皇が御祀りされていました。
CIMG1740
本殿は古い建物では無い様です。再建と言っても、それなりに古いのでしょう。
CIMG1742
CIMG1743
本殿を参拝する頃には夕陽も地平線に沈む時間に成り、社殿の灯りがとても神秘的でした。
CIMG1745
境内にはちゃんと親切に予備知識が無くても御祭神や神社の縁起が解る様に説明が有ります。
CIMG1746
皆さん、神様がどんな人だったかも知らないままに願い事だけするタイプでしょうか?それともちゃんと調べてから行くタイプ?現地で良く看板を読んでから拝むタイプ?
神様にも色んな御利益が有るので、予備知識が無くてもちゃんと看板を読むと良いと思いますよ~。

そんな感じで、前鳥神社が伝承通りに重要な古墳が近くに在り、相模国四之宮の格式を持つ神社だと言う事は御理解頂けたでしょうか?
きっと皆さんの御近所にも素晴らしい歴史偉人と繋がりの有る神社仏閣や城跡が有るはずです、その歴史や御利益と現在の建物の立派さは全く関係有りません。そこに関わった神様に成った人や偉人が私達の発展の礎(いしずえ)と成った土地を開拓して下さり縄文時代からの文化を現代に残して下さったと言う事が大切なんです。
きっと皆さんの近所にも素晴らしい歴史人物達と関わりの有る場所が存在します。
ですから、ちょこっと御散歩に出掛けてみては如何でしょうか?

では、又、次のブログ記事で!
次は神奈川県の御利益の強い神社仏閣一覧を更新します。
 

神奈川県高座郡寒川町には、寒川神社と言う延喜式内社の古社が在り、古代から今も大変多くの氏子サンの崇敬を集めており、大変立派な神社と参道を現在でも有しています。
CIMG1687
先日、寒川神社の神職の方に寒川神社に伝わる追儺(ついな)神事と、その御由緒を教えて頂く機会を得て寒川神社に御参りに行って参りました。
この寒川神社は古代に一之宮と定められた御宮でした。
ですから参道もとても立派で、神社の現在の境内から1kmも手前に大鳥居があり参道が続きます。
寒川神社参道 久良岐のよし
寒川神社神事を御教授をして頂いた神職様の御話によれば、この参道が屈曲しているのは古代の相模川が参道の横にあり、河原に参道が有ったからだろうとの御推測でした。小生も大凡(おおよそ)同じ推測をしていますが、若干解釈が異なり、相模川ではなく古代の海岸線に沿って作られた参道だったろうと推測しています。
延喜式内社 久良岐のよし
小生がそう、推測するのは現在の神奈川県の衛星写真上にに延喜式内社と式外社と呼ばれる古社を表示し、古代の陸地と海岸線を重ね合わせれば一目瞭然で寒川神社は海岸線の端に在るからです。
海の真ん中に前鳥(さきとり)神社と平塚八幡宮が在りますが、前鳥神社の縁起では西暦300年代の創建とされ、丁度(ちょうど)古墳時代の始まり頃の神社成立なのですが、その頃から相模湾は隆起し陸地に成って行きましたので縄文時代~弥生時代の海岸線より海側に前鳥神社と平塚八幡宮は存在する訳です。
史学と神学を両方やっておられ小生が前鳥神社尊敬する神職の方に教えて頂いた事ですが、前鳥神社の直ぐ近くには古墳が在り三角縁神獣鏡が出土しているとの事で少なくとも卑弥呼の次代より後の成立で有る事から、地理学、史学、神学の全てで整合性の有る歴史事実でもあります。
つまり、寒川神社はそれより古い時代には同地に鎮座していた事に成る訳です。
image
※一番外の大鳥居。スマホで撮影した動画のスクショです。写真じゃないよ!
神社としての公式記録も古く、朝廷の公式行事が記録し始められた頃の西暦400年代、雄略天皇の時代には既に幣帛(みてぐら=奉納品)を賜った記録が有り、以後、歴代天皇に代わり朝廷の奉幣使が遣わされた歴史を有する由緒を持ちます。
ですから、参道も長く立派なんですね。
ところで、小生のブログでは度々登場する神奈川県の延喜式内社の一~五の序列の神社と国府祭と言う御祭が有ります。
昔、伊豆半島と神奈川県と東京都と埼玉県は一つの国で佐賀牟(さがむ)国と言われた行政区域でした。
その佐賀牟国は、相模国と武蔵国に分けられました。
現在の神奈川県は相模国全域と、武蔵国の内の久良岐郡・都筑郡と橘樹郡の一部から構成されています。
相模国が成立すると、相模国の国府(県庁所在地)を何処(どこ)にするかで神様(御神孫の豪族)同士がモメました(笑)。
その際のケンカが今も神事に成っていて、神奈川県で古代から伝わる国府祭(こうのまち)と言う祭事です。
この祭事の際に延喜式内社の寒川神社と川勾神社の神様が、自分の御宮を国府(こくふ)にするべく喧嘩する話がそのまま神事に成って伝えられています。
2015-01-10-13-39-45
※写真は三之宮比々多神社。寒川神社と同じく延喜式内社。
面白い事に、この神事にはちゃんと仲裁役も居て、小生が氏神様、土地神様とは別に毎年御参りに上がる比々多神社の神様(当時の御神孫の豪族)が「決着は来年にして落ち着きましょうよ」と寒川神社と川勾神社の神様の仲を取り持って一件落着する御祭に成っています。
そこでもう一度、昔の海岸線を見て貰うと何で寒川神社と川勾神社で国府設置を争ったかも良く解ります。
延喜式内社 久良岐のよし - コピー
寒川神社と川勾神社は古代の海を挟んで東西に対峙している訳です。恐らく相模国が成立した頃には既に海は隆起していたと思いますが、比々多神社周辺の戦国時代の岡崎城は戦国時代に至っても周辺を土腐(どぶ)に囲まれていました。海だった古代から1000年以上過ぎた戦国時代でもまだまだ湿地帯の様な場所が多かった程なので、陸地に成ったと言っても国府祭神事が行われた当時は現在の平塚市や茅ヶ崎市辺りの湘南地区=県央部は人の住める場所は少なく、古代から陸地だった寒川神社と川勾神社が交通の便から自分の地域に国府を置きたかった事情が読み取れる訳です。
仲裁した比々多神社は丁度、寒川神社と川勾神社の古代の陸地で真ん中に位置します。
さて、そんな訳で小生が神事の解説を受けに訪問した寒川神社、非常に古い次代から存在する事は何となく御理解頂けたでしょうか?
因みに国府祭で神様同士が話し合って決めたか朝廷が定めたかは解りませんが、一之宮~五之宮は以下の通りです。
一之宮・・・寒川神社
二之宮・・・川勾神社
三之宮・・・比々多神社
四之宮・・・前鳥神社
五之宮・・・平塚八幡宮(平塚八幡宮では五之宮を自称しておらず、後世の人によって加えられた可能性有り。)
この中に平塚八幡宮ではなくて相模国最古の有鹿神社(あるかじんじゃ)を加える説も有ります。
DSC_0138
有賀神社本宮(海老名市)と奥宮(相模原市)は以前もブログで紹介記事を書きましたが、奥宮が縄文時代の遺跡の真ん中にあり、聖地として古代からの湧水地有賀谷を抱えている場所でも有ります。
DSC_0135
この有賀神社と寒川神社、石盾尾神社(いわたておのじんじゃ)の三社だけが奈良時代に朝廷から官位を賜ってるので、恐らく、平塚八幡宮の成立以前は有賀神社が五之宮だったんじゃないでしょうか。
推測ですが。
他に相模国惣社を称する六所神社もあり、そこの近所に国府祭が行われる❝神揃山❞が今も在ります。
古代からこれらの神社と国府祭の五社は朝廷と結びつきが強かった事が解ります。
寒川神社の境内そのものに話を戻します。
CIMG1676
寒川神社の駐車場の横には摂社の宮山神社が鎮座しています。
この宮山神社は周辺に有った幾つかの神社が廃社される際に御神霊を遷座し合祀して御祀(まつ)りしている場所です。
摂社だけで普通の町中に在ったらそこそこ綺麗な神社程に整備されています。
寒川神社に行ったら是非、こちらも御参りして下さい。
CIMG1677
家庭運と安産祈願の御利益が有るので、若夫婦は是非御参りすると良いかと思います。
この宮山神社と、寒川神社の正面は少しだけ離れた場所に在ります。
CIMG1687
寒川神社の正面。立派な石橋ですね。
氏子サンも多く、参拝者の絶える事の無い御宮なので、力(お金)も有ります(笑)。
と言うか、現代の氏子さん達が頑張ってらっしゃるんですね~。
CIMG1689
参道も良い雰囲気です。
この神社は、植物に一々、何の記念で植樹したかや木に込められた意味の解説を添えて下さっているので、ちゃんと読んで見るのも良いかと思います。
CIMG1692
CIMG1696
CIMG1697
小生はこう言うのちゃんと読むタチでして、神社の職員さん達の仕事の丁寧さを垣間見れました。
CIMG1701
凄く立派な門ですね。
実は、寒川神社は平成に入ってから社殿の建て替えを行っているので御本殿もまだまだ新品同然の状態で、現代にこれだけの規模の立派な建築物を宮大工さんに依頼すると、どれ程の御金が必要か考えてしまいますね。
CIMG1699
門の絵前右側に社務所が在りますが、こちらも大変に立派です。
CIMG1700
結婚式もよく行われる神社さんだけ有り、少しホテルのロビーみたいな雰囲気も有ります。
CIMG1698
社務所の手前には別の裏門も有ります。
CIMG1702
本殿に行く門の手前の両脇には狛犬さんが控えている訳ですが、この寒川神社の狛犬さんは何だかロボットぽいデザインで個性的です。
CIMG1703
CIMG1705
力強く・・・なんだか小生が昔遊んだTVゲームのFFシリーズに召喚獣として出て来そうな・・・
狛犬さんの手前左手には神馬をお祀りする御社も在ります。
CIMG1707
昔はね、絵馬じゃなくて有力豪族は馬を寄進したんですよ。
小生の住む久良岐郡の本牧(ほんもく)半島は、昔は朝廷の牧場で軍馬生産地だったので本牧の地名が残ります。
CIMG1708
でも、この寒川神社の神馬の彫像はリアルで少し怖い(笑)。
CIMG1709
門を抜けると境内は広く、とても綺麗です。
氏子サン達の頑張りで建て替えられた御本殿と整備された境内の石畳、この先数百年の財産に成り神奈川県の文化財に成って行くんでしょうね~。
まぁ、神奈川県と言う制度が残っているかは疑問ですが。
CIMG1711
境内全街がとにかく綺麗。
CIMG1712
新しいし。
CIMG1713
巫女サンも美人だし(笑)。
CIMG1720
八方除けの交通安全の御守りを買いました。津島大社の交通安全の御守りで遠距離運転を守って頂き、寒川神社の八方除けの御守りで車庫入れで四方八方ぶつけない様に守って頂く事にしました(笑)。
CIMG1714
御本殿も立派で、明治神宮よりも立派かも知れない・・・
これだけの規模の建物を良くぞ現代に建てれたものだと感心するばかい。凄いですね。
CIMG1715
ちょうど御祈祷が始まる直前だったので、拝殿に参拝客が沢山いました。
毎日沢山の参拝者が集まるんですね~。古代から栄え続けている神社だけに、財運にも恵まれそうだ。
CIMG1719
本殿の手前左手には御神木が在り、御神木も代を経て現在に至るそうです。
さて、ここからが小生の訪問目的で本題の追儺(ついな)祭の事に成ります。
この神事、ステレオタイプの学者先生共は中国由来云々かんぬん言う連中がいますが、寒川神社や京都の上賀茂神社等、古社に伝わる神事は完全に日本古来の様式の神事で、それ以外の比較的新しい神社が中国風の行事を取り込んで神事を行っているんですね。
寒川神社 久良岐のよし
寒川神社には背後に湧水地が在ります。夜、境内の灯りをすべて消して神職様達が池の水を汲み神前に供えるそうです。
度々解説していますが、延喜式内社の多くでは古代人が生活する基本となる聖なる水=安全な水の湧く湧水地や、海の航行や陸上移動の目標物と成る奇岩等も信仰対象として大切にされて来ました。
この寒川神社や上賀茂神社ではその歴史が守り伝えられている訳です。
寒川神社の追儺祭では、池で水を汲んで神前に供え清前(きよさき=聖水?)とした後に、境内を廻り、清前を撒いて清めるそうです。
この御祭、正月の2日に行われます。是非、皆さんも御参加されて古代からの伝統を体験してみては如何でしょうか?
今回の訪問で新しく延喜式内社専用に購入した御朱印帳に改めて寒川神社さんの御朱印と、近所の前鳥神社さんも御参りして頂いてきました。
image
寒川神社さんの御朱印、カッコいいでしょ?
神奈川県内の延喜式内社は14座有るのですが、神主様が常駐している場所も減ってしまって中々、御朱印集め大変なんです。だからほら、小生の御朱印帳も寒川神社さんの右手は山梨県の一之宮浅間神社さんでしょ?
県外の大規模な延喜式内社さんから集まっちゃうんですよね・・・
簡単に御朱印が貰えるのは深水神社、比々多神社、高部屋神社(伊勢原皇大神宮で貰える)、大山阿夫利神社、寒川神社、前鳥神社さんくらいでしょうか。
有賀神社は宮司様にお電話差し上げて自宅兼事務所まで行って漸く拝領する事が出来ました。
なかなか、昔と違って神社にも御寺にも御参りする人は減って、檀家さん氏子さんも減ったので、宮司様も和尚様も複数の神社・御寺を兼任してらっしゃって大変なんです。
上記以外は御参りしても宮司様不在の事が多くてなかなか貰えない。事前に電話してタイミングが合えばと成ってしまいます。
これ、来年の目標ですかね、神社仏閣と歴史偉人の顕彰活動とは別に神奈川県内の延喜式内社を改めて御参りして御朱印コンプリートするの。
では、本日はここまで!
又、次の解説記事で御会いしましょう!




有鹿神社(あるかじんじゃ)奥宮…延喜式内社
主祭神:有鹿比女命(あるかひめのみこと)。※海老名市の有鹿神社本宮は有鹿比古命(あるかひこのみこと)が主祭神。
御利益:雨乞い・農業豊作・縁結び・家内安全・家運発展
開基:縄文時代には既に湧水の聖地として存在した。
中興:天智天皇・孝謙天皇・清和天皇・相模国司歴代・海老名家
場所:相模原市南区磯部勝坂、勝坂遺跡の有賀谷。
DSC_0136
平安時代の人々から見ても古いと思っていた歴史有る神社を醍醐天皇の時代に後世に伝え保護させる為に記録させた❝延喜式神名帳(えんぎしきじんめいちょう)❞と言う古文書に掲載されている神社を、延喜式内社(えんぎしきないしゃ)と呼ぶのを皆さんは御存知でしょうか?
平安時代、西暦900年代は既に古来の律令制度での国家運営が難しくなっており、それを改善する為に発布された延喜式政令の一端として行われた宗教政策みたいなものです。
つまり、この延喜式神名帳に掲載されている神社は現在の規模が如何に小さかろうが、現代の建物ばかりデッカイ神社よりよっぽど神様の歴史の重みと重要さが別格に高い訳です。
別に建物だけデカイ神社なんて、金儲けのセンスの問題ですからね…
さて、そんな延喜式内社が神奈川県旧相模国域に13座、武蔵国域に1座有ります。
その内の一つが縄文時代からの聖地❝有鹿谷❞に存続する有鹿神社の奥宮(元々の神社の発祥地)です。
DSC_0134
現在、有鹿神社奥宮は石の鳥居と祠(ほこら)が有るのみですが、その前を流れる小川を数mたどると現在も縄文時代から湧き続ける聖なる水源が有ります。
本来は、有鹿神社はこの辺りに立派な社殿が存在したはずなのですが、相模国の国府が海老名郡に置かれ、平安時代末期に坂東平氏良文流の名族の海老名氏が海老名郡を支配する様(よう)に成ると、海老名郡の総鎮守として、有賀神社も奥宮から現在の海老名市上郷に在る現在の本宮に重要度が移管させられました。
なので、近くの中宮には、本宮の聖地であったであろう池が在りました。恐らく縄文時代~弥生時代には安全な飲水として古代人に重宝されたであろう聖なる湧水地の池も土砂の堆積(たいせき)で消えました。しかし現在も本宮はや中宮の祠の近くには、聖地奥宮の有鹿谷から流れる鳩川が流れています。

延喜年間に聖地とされた場所は延喜式内社の他にも有ります。
そこは平安時代当時に御寺とくっつい修験者(山伏:やまぶし)の道場や天皇家の勅願所、又は国府や郡府として機能していた関連で延喜式神名帳には神社として掲載されていなかった場所で、小生の知る限りでも神話の舞台の日本武尊と弟橘姫の走水神社(はしりみずじんじゃ)・橘樹神社(たちばなじんじゃ)・師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)・八幡橋八幡神社(やはたばしはちまんじんじゃ)等が有ります。
これらは延喜式に掲載されていない事から、❝延喜式外社❞としてカテゴライズされています。
●走水神社の記事

●橘樹神社の記事

●師岡熊野神社の記事

延喜式外社は朝廷を乗っ取り天皇家を傀儡(かいらい)としていた❝藤原家にとって歴史的に都合の悪い場所もあり❞素戔嗚尊を祀(まつ)る祇園社、八坂神社、八剣神社、剣神社、出雲社、津島社も多くが延喜式内社から除外されてしまっています。

さて、延喜式内社と延喜式外社の説明はここまでにして、有鹿神社奥宮の説明に戻ります…
冒頭少し説明しましたが、有鹿神社の奥宮は平安時代末期に海老名市に本宮機能を移転した有鹿神社本宮の元宮です。
そして縄文時代からの文化を受け継ぐ聖地の湧水地に鎮座する神社な訳です。
ですので、この神社を語るには、縄文時代の住居が多く出土した旧境内地の勝坂遺跡の存在と、何故(なにゆえ)御祭神が伊勢神道系の皇祖神ではなく日本神話と関係無い土地神様なのかを解説する必要が有ります。
DSC_0121
※上の写真は有鹿神社奥宮の旧社地に在る勝坂遺跡。
そもそも現代の神社は社殿に祀られた御神体の銅鏡(かがみ)を拝む文化で、神社の建物自体が聖地とされてしまっていますが、縄文時代や弥生時代の神話時代の信仰を受け継ぐ古社の文化は全く現代の神道の鑑を拝む文化とは異なり、聖なる池や聖なる山、又は神様と成った神話時代の歴史偉人の御使用された祭器や武器その物等の遺品が信仰対象に成っていました。
ですから日本最古と呼ばれる奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)は三輪山が御神体ですし、熱田神宮は本来は日本武尊を祀った神社だったのでその遺品で三種の神器の一つ草彅剣(くさなぎのつるぎ)=天業雲剣(あまのむらくものつるぎ)が御神体とされています。
もっとも、日本の神剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)=天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)と二つの名で呼ばれ同一視されていますが、実は熱田神宮にも東京の皇居にもそれぞれ一振りずつ神剣が存在している事から、小生は初めから2振りの剣が日本国には古代から存在していて、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は別の神剣だと推測しています。
更に言えば伊勢神道に神剣が2振り有る事や銅鏡を御神体にする文化は弥生時代の卑弥呼が魏の皇帝曹叡から贈られた宝剣2振りと銅鏡200枚に由来していると個人的に推測しています。
神剣が天叢雲剣と草薙剣の2振り有るのに神剣が1振りしか無いように世間に誤解されているのは、恐らく藤原家が自家に都合良く古事記の文書化や日本書紀の編纂で歴史を改竄した結果、発生した矛盾によってこの様な事態が発生してしまったのだと推測しています。
皇居には壇之浦の合戦で安徳天皇が平家と無理心中した時に海中に紛失した天叢雲剣のレプリカが有りますが、熱田神宮にも日本武尊が東征に携行した草薙剣が保管されており熱田神宮の公式見解で神器として祀られてより新羅人に盗まれた時以外に境内から外に持ち出された歴史は無いとしている事からも、元来、日本に神剣が2振り有った事が明白です。
DSC_0120
勝坂遺跡入口
江戸時代にキチガイ領主だった徳川光圀(水戸黄門)によって創始された歴史の浅い水戸学を元にして、明治時代に文化や宗教の欧米化を指導した森有糺等の介入により成立した国家神道により、神社の社殿を聖地とする伊勢神道の価値観が基準とされ、更に皇祖神とは異なる神様は軽視されてしまいました。
結果的に縄文~弥生~奈良~平安~鎌倉~室町~安土桃山~江戸時代の価値観はつい最近の150年前に否定され、以来、土地神様や伊勢神道の神様と異なる主祭神を祀る延喜式内社の多くは明治~大正~昭和に急速に廃(すた)れてしましました。
これは、他の延喜式内社の解説記事でも書いているので、カテゴリー「延喜式内社と歴史千年以上の古社」から選んで読んでみて下さい。
少々脱線しますが因(ちな)みに、小生が水戸黄門をキチガイ扱いするのは彼が領民に重税を課し農民達を苦しめた悪人であり、更に犬の皮を剥(は)いで生皮を将軍の住む江戸城に投げ込む変態行為を行った文字通りの精神異常者だったからです。
彼に関しては、ヤンキーで少年時代に不良グループと群れていた事実以外は全くTVの水戸黄門と異なる作られたイメージなんですね。
彼の評価が高く成ったのは犬を虐待して当時の将軍の徳川綱吉の生類憐みの令に反抗してみせたパフォーマンスと、その反幕府的な姿勢が幕末に後の明治政府の重鎮達に手本にされたからでした。
そんな訳で、彼は江戸時代にも多くの八幡宮等、伊勢系統の神様と無関係な神社仏閣を多く破壊した悪事を行っています。
そんな彼の創始した水戸学の誤った知識により、縄文時代~江戸時代末期まで自然崇拝や土地の神様を大切にした古来の神社文化は衰退させられてしまいました。
DSC_0123
しかし、この有鹿神社や日本全国の延喜式内社には、日本書紀の神話にも登場しない土地神様や日本武尊や弟橘姫が主祭神として存続し、更には縄文~弥生~古墳時代の遺跡を旧境内地に埋蔵した聖地に建っていた場所が多く有ります。
以前に紹介した❝大山阿夫利神社❞や❝比々多神社❞は正に、そんな場所ですね。
●大山阿夫利神社の記事

●比々多神社の記事

この有鹿神社奥宮の有る有鹿谷の上の丘の勝坂遺跡は、有鹿神社の湧水地を聖地としていたであろう縄文の人々の住居跡が発掘調査され、復元され無料見学出来る史跡として整備されており、御参りする時に子供を連れてくるだけでも良い課外学習に成るでしょう。
小生が良く使用する画像ですが、延喜式内社は縄文文化を受け継いでいる証明にも成るのが、縄文時代の海岸線と所在地をGoogle earthで重ね合わせた画像です。
延喜式内社・式外社と縄文時代の海岸線 久良岐のよし
約6000年前の海岸線は今より遥かに内陸に在り、前鳥神社(さきとりじんじゃ)と平塚八幡宮の奈良時代の地殻変動で隆起した地形以外に所在する式内社・式外社は全て、縄文時代の海岸線と一致する位置や湧水地に現在も存在しています。
そんな訳で勝坂遺跡も有鹿神社の聖地である有賀谷の横に在る訳で、縄文時代の村落の史跡の横の有鹿谷が有賀神社の奥宮な訳です。
DSC_0122
勝坂遺跡に復元された住居には、展示時間内なら自由に入る事も出来ます。
DSC_0124
当時の人々の暮らしも想像できますね。
ただ、この住居内部の復元は、横浜市南区の三殿台遺跡程緻密には行われていませんし展示館も無いので、もし日本の神代に当たる縄文時代の人の暮らしに興味が有る人は、横浜市都筑区の❝横浜市歴史博物館❞と横の❝大塚最歳土(おおつかさいかちど)遺跡❞、復元住宅と生活を見たいなら横浜市南区の三殿台遺跡を見学すると良いと思います。
DSC_0127
勝坂遺跡も、住居跡の凹みにちゃんと解説文が説明板に書いて有るので、基礎知識を学ぶには良い場所だと思います。
ここは、日本文化を守って下さる神社の宮司様や御寺の和尚様達にも訪れて、日本文化と伝統の起源を改めて見つめ直して欲しい場所でもあります。
DSC_0128
この勝坂遺跡の入口と、勝坂遺跡の途中に有賀谷に降りる遊歩道の入口が在ります。
DSC_0129
その遊歩道を歩くと相模原市教育委員会の原生林を復興した照葉樹林があります。
明治~昭和期に日本の多くの山は建築材料の調達目的で原生林が伐採され杉の木が植林され生態系が破壊されてしまった場所が多く有ります。
それを踏まえると、この相模原市の取り組みは素晴らしいですね。
DSC_0130
この森をずんずん進みます。
すると…
DSC_0133
有鹿谷の底、小川と湿地の畔に出ます。
ここで生息する希少な生物の説明も有りました。
その傍らに在るのが、有鹿神社奥宮です。
DSC_0137
しかし、この奥宮は聖地の入口に境界の様に建てられています。
平安時代末期までは、上の勝坂遺跡とこの辺りに立派な社殿も存在したのでしょうね。
そして、この祠の前の小川を少し遡(さかのぼ)ると、この地が古来の神道文化を保持している所以(ゆえん)たる聖地が現在も日本文化を大切にする方達に守られていて…
DSC_0135
有鹿谷の壁面から、コンコンと湧き出る有賀神社奥宮の聖水とも言える湧水地ですね。
実は縄文時代~古墳時代の人々の生活で重要な事は飲み水の確保でした。
昔の人は大きな川の水を飲んでいた訳では有りません、そんな事をすれば、いくら昔の綺麗な川でも感染症を起こして死にますからね。
かと言って井戸を掘削する技術も実は平安時代位まで普及しておらず、江戸時代に成ってもまだまだ現代の様に地盤によっては垂直に井戸を掘れる技術は有りませんでした。
だからこそ、この有鹿谷の有鹿神社奥宮を含め、延喜年間には存在した神社…
伊勢原市の大山阿夫利神社や横浜市港北区の師岡熊野神社、東京都あきる野市の二宮神社(二宮小川大明神)、関東最古の大社で日本武尊が造営した埼玉県久喜市の鷲宮神社の様に縄文時代~古墳の史跡や自然湧水地を抱える場所が多い訳です。
●鷲宮神社の記事

どうでしょう?
有鹿谷と有鹿神社の大切さ、縄文人代の先輩達から~弥生~古墳~奈良~平安~鎌倉~室町~安土桃山~江戸と、現代人の我々へ受け継がれている事を辿(たどる)る事で御理解頂けたでしょうか?
この縄文の人を潤し、弥生~昭和まで農耕の灌漑用水としても利用されたであろう母なる水を湧かす聖地有鹿谷の神様が、有鹿比女(あるかひめ)と言う女神様である事も忘れないで下さい。
現在の神道も、縄文~弥生~古墳の習慣が残っていますが、更に神話にも登場しない古い時代の神様を平安時代の醍醐天皇達の次代には現代よりも大切にして、現代人の私達に対して❝延喜式神名帳❞を通じて「ちゃんと保護し大切にしなさい!」と伝えてくれた事も忘れないで下さい。

…余談ですが、現在は御寺に成っている横浜市中区にある❝国家君が代と吹奏楽の発祥地❞である妙香寺は日蓮宗の御寺ですが、昔は真言宗の弘法大師空海和尚が開山の御寺だった歴史が有りますが同地の丘には打越の霊水やワシン坂の霊水と言った自然湧水地を多く抱える場所であるのですが、実は空海和尚は自然湧水地と日本神話の日本武尊信仰を大切にされていたので日本武尊神話の伝承地に日本武尊が崇拝していた牛頭天皇=素戔嗚尊を祀る牛頭社や須賀社を開いたり、聖徳太子を祀る太子堂を開いたりしています。
恐らく、横浜市の妙香寺や弘明寺は御寺に成る以前には神社としての機能が有った聖地なのだと思います。
その推測を強化するのが、弘明寺の旧境内地からは❝国府瓦❞が出土しているからです。
国府瓦と言うのは郡衙(ぐんが=群の政庁=現代の市庁舎のような存在)を建設する際に、国府の陶磁器や須恵器を焼く釜で製造され、郡の政庁の建設の際に使用された特別な瓦の事です。
武蔵国橘樹郡の郡役所だったと推定されており、背後の宅地の丘が巨大な弟橘姫の円墳である橘樹神社や、東京都府中市に在り武蔵国の国府として機能していたと推測されている大国魂神社が有る事からも、妙香寺や弘明寺は神社の旧跡に日本神話を大切にする空海和尚が御寺を建てたと考え復興したと自然に推測出来たりします。
これ等の場所が古代の海岸線の港や湧水地である事も、有賀神社や延喜式内社の歴史を辿る事で輪郭が見えてくる明治時代以前の人達の信仰の形だったりする訳ですね。
妙香寺はカテゴリ「御寺」に解説が在りますので興味が有れば読んで見て下さい。
●妙香寺の記事

●湧水地の記事


この有鹿神社の御利益と関わった人物ですが、天智天皇の治世、天平勝宝年間=孝謙天皇の治世、貞観年間=清和天皇の治世にそれぞれ中央との関わりの有る祭事や神社の格上げが確認出来ており、師岡熊野神社や比々多神社同様に朝廷からの支援が有りました。
御利益は、有鹿比女(あるかひめ)様が水の女神さまであり縄文~弥生の開拓地である事から灌漑水田農業振興の神様として農耕の豊穣の御利益、そして本宮の有鹿比古(あるかひこ)様と夫婦神様なので日本武尊と弟橘姫様みたいな縁結びと家内安全が期待できますね!

さて、有鹿神社奥宮の聖地と遺跡の解説はここまで!
次回は、鎌倉時代に移転した海老名市側の本宮の解説をします。

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!

寒田神社(さむたじんじゃ)…延喜式内社
主祭神:倭建命(やまとたけるのみこと)・弟橘姫(おとたちばなひめ)・誉田別命(ほんだわけのみこと)=応神天皇=八幡大菩薩・菅原道真公=日本太政威徳天(やまとだいじょういとくてん)
御利益:海外渡航安全・勝負運・縁結び
開基:仁徳天皇(それ以前に日本武尊が当地に滞在した)
中興:源頼朝公・徳川家光公
場所:神奈川県足柄上郡松田町惣領1767
DSC_2310
寒田神社と言う名前の創建年代が西暦315年と伝わるとても古い神社が神奈川県足柄上郡松田町惣領に存在します。
実は日本武尊(やまとたけるのみこと)=倭建命が滞在され神事を行った聖跡(せいせき)に、古墳時代初期に造営され現在も存続している神社で、平安時代の人達から見ても古い神社だったので、西暦900年代に醍醐天皇が当時の人から見て保護するべき対象の古い神社を纏めた❝延喜式神名帳❞にも掲載された神社です。
この様な延喜式神名帳に掲載されている神社を❝延喜式内社❞と呼びますが、寒田神社は神奈川県の旧相模国域に13座しか存在しない延喜式内社の内の一つで、とても権威と御利益の有る神社さんです。
DSC_2312
この日本武尊の伝承は、朝廷に提出された古風土記にも記載が有るそうで、実はこの神社の宝物と言うか御神体と言うか文化財に当たるものに日本武尊が戦勝祈願に用いた❝木椀❞が現存し、保管されているそうです。
伝説によれば、日本武尊は木製の御椀に酒を汲(く)んで現在の酒匂川に酒を撒き、東征に向かったそうです。東征を終えて当地へ戻って来た際に、御椀にまだ酒の匂(にお)いが残っていた事から、目の前の川の名前が酒匂川に成ったそうです。
日本武尊の聖跡な訳で正に聖地に建つ神社なのですが、江戸時代初期まではもっと広かった境内地と神社の所有した社領は酒匂川の氾濫(はんらん)で浸食されてしまい、だいぶ縮小してしまったそうです。
川の洪水は穀倉地帯の宿命ですね。
DSC_2315
ですから風害記念の石碑なんて物も有って、先人が我々子孫に自然災害の起きる土地だと警告を残して下さっています。
さて、この寒田神社、鳥居をくぐり参道を進むと歴史に興味無い人達には現在の知名度は低く成ってしまっているものの立派な社殿と社務所と神楽殿が有ります。
DSC_2314
と、社殿を紹介する前に手前左側に在る手水舎と、延喜式内社らしい神仏習合の神様の石碑を紹介します。
DSC_2320
手水舎も綺麗で、屋根も立派ですね…
正直、松田町は農村の過疎地なので、この規模の神社を維持し、この様に新しい手水を設置し清潔に管理を保つ事は、相当な氏子サン達の努力と出資が窺(うかが)える訳です。
古代からの文化と歴史を保護して下さっている寒田神社の氏子サン達には敬意を感じますね。
もし神社や御寺に参拝する場合は、利己的に心願を願掛けするだけでなく守って下さっている方々への敬意も神様に伝えると良いと思います。
この手水舎の傍らに、明治に成るまで当たり前だった土地神様信仰や神仏習合の名残があります。
DSC_2318
DSC_2319
堅牢地神…
神仏習合の神様。新しい神社では余り見る事が無い神様ですね。
密教由来の神様で、土地を堅固にする神様です。
洪水の被害に遭ってきた寒田神社らしい、土地の人々が治水を願った事が良く理解出来る神様でもありますね。
参道を抜けて右手に在る神楽殿は現在でこそ金属製のシャッターで覆われていますが…
DSC_2317
…屋根に注目すると、その作りが立派な事に気が付きます。
DSC_2321
境内地が縮小したとは言え、そこは平安時代の醍醐天皇が保護すべき古社を記録させた延喜式神名帳に記録が残り、鎌倉時代には源頼朝公も松田の別荘の松田亭より度々参拝に訪れた権威有る神社だけあり境内はかなりの広さで、社務所や社殿の前のスペースはちょっとした広めの公園程も有ります。昔は更に様々な建物が建っていたんでしょうね。
DSC_2322
この美しい社殿は覆殿(おおいでん)です。覆殿は本殿を保護する為に本殿ごと覆い囲んでしまう建物の事です。
本殿は江戸時代慶長年間の再建だそうで、つまり1600年代の初期の再建と成ります。
この覆殿の中に、400年前に作られた本殿が在るんですね。
DSC_2324
中を除き込んで写真を撮影する訳にも行かないので、扁額の写真を…
DSC_2323
社殿の横には寒田神社の歴史と神器の解説が有ります。
DSC_2329
納札所。
この寒田神社、本殿の裏にも摂社がいくつか在り面白い御社もあります。
先ずは御稲荷さん。
DSC_2334
どちらの神社にも必ずと言って良い程、多くの人々に昔は愛された神様ですね。
稲荷神社の神様は宇賀御霊神=倉稲魂神(うかのみたま)=豊かさを象徴する神様で、鎌倉時代に成ると弁天様と習合される事も有りましたが、古代の農作物が大切だった時代の神様です。
農民にとって一番大切な神様でしょうか?
DSC_2335
こちらは確か、祖霊社だったと思います。
それぞれの御先祖様に繋がる神社ですね。
そして、この神社オリジナルの祠と言うか供養碑と言うか…
DSC_2337
❝歯❞の供養らしいです。
DSC_2338
何だか、歯の供養って珍しいですけど、ある意味日本らしい場所ですよね。
DSC_2339
こちらは何の神様か説明が無く、よく解りませんでしたが、摂社としては立派なので、もしかしたら主祭神の御祭神の境内社なのかも知れませんが、不明です。

まぁ~立派は境内の広さが有るのは伝わったでしょうか?
そして、日本武尊の御幸された聖地である事からも強い御利益が期待出来る事が御理解頂けたと思います。
因みに、アメリカ最初の宇宙飛行士のジョン・グレンさんは、この寒田神社で安全祈願をして無事帰還出来た事から更に御礼参りまでされたそうです。
海外遠征の事績の有る日本武尊所縁(ゆかり)の神社らしい御利益ですね!

さて、この寒田神社の先に紹介した御祭神の日本武尊ですが…
その寒田神社の土地に御幸した日本武尊の遺物で神器の木椀の神話を元に南関東周辺の延喜式内社の伝承や御祭神、弥生時代~古墳時代の地形を前提にして日本武尊の正体を解説する事で、日本神話と考古学の整合性を解説してみる。
小生の推測では日本武尊が立ち寄られた理由は、既に当時、この地に村が存在したのだと思います。この寒田神社は、古代佐武多神社とも書いたそうです。
恐らく、武塔天神(むとうてんじん)=牛頭天皇=素戔嗚尊(すさのおのみこと)、若(も)しくは、その御神孫の関与が有ったのだと思います。
武塔(むとう)は古い発音では武塔(むた)と読んだはずだからです。
以前も何回か書いた事が有るのですが、現在の漢字の音読みも実は中国由来より朝鮮渡来人のせいで訛(なま)ってしまっている字の発音が少なくないんです。
塔は華語の発音で塔(ta)と発音します。こちらの方が古代語の漢字の発音に近いはずです。
何故、武塔天神=素戔嗚尊の御神孫の集落が、日本武尊の時代に既に有ったと考えるかと言うと、先に触れましたが関東の延喜式内社には素戔嗚尊の御神孫が関東を開拓したと伝承を伝える場所が少なくないからです。
違う神社を紹介すると…
2015-12-19-15-03-12
関東最古の大社で、日本武尊御自身が最初に造営された埼玉県久喜市の鷲宮神社は出雲神族の御神孫の部族が土地を開拓し、日本武尊がお立ち寄りに成られ社殿を造営した歴史が有ります。
恐らく、寒田神社より少し古い神社です。
そして神奈川県の前身である佐賀牟国の初代国主は出雲神族建御名方神の6代後裔と伝承して、おり更に…
2014-07-27-19-06-56
寒田神社と同じ延喜式神名帳に掲載されている大山阿夫利神社も主祭神が出雲神族の大山祇大神と、大雷神、御当地の水神様の高神(たかおかみ)様が祀(まつ)られています。
雷神は出雲神族に習合されたシヴァ神=伊舎那天(いざなてん)=第六天魔王=大黒天=大国主命と同一視されています。
更に大山阿夫利神社の麓、同じ延喜式内社の比々多神社も…
2015-01-10-13-39-45
出雲神族で素戔嗚尊の御神孫である豊国主命(とよくにぬしのみこと)=大国主命が御祭神です。
大和市の延喜式内社の深見神社は土地の水神様の闇神(くらおかみ)が主祭神です。
DSC_0535
名前からして、大山の高神様と同じ系統の水神様でしょう。ただ大山は高い山の中腹に湧水地があり、そこが古代聖地だった事、深見神社の場合は深水(ふかみ)=川の淵(ふち)が聖地だったので底の深いイメージから闇神の名に成ったんでしょうね。
では淵辺が聖地に成り得るのかと言うと、立派に古代人の自然信仰にとっては聖地だったんですよ。
DSC_1084
東京都羽村市には雨乞街道が現存していて、古代からの神事で木製の竜頭を淵に沈めて神事を行ったそうです。つまり古代人にとって水神様は龍神であり泉そのものの象徴だったようですね。大山の高神も竜神とされています。
例外的に、海老名市と相模原市の延喜式内社の有鹿神社(あるかじんじゃ)の場合は、男と女神様に成っていて…
DSC_0134
相模原市の奥宮は縄文時代の遺跡群の中にあり、聖地の谷間が自然湧水地に成っています。
つまり神話の時代に当たる縄文~弥生時代~古墳時代の人々にとって、如何(いかに)に御腹を壊さない清涼な飲み水の確保が大切で、その水を与えて下さる自然を神様として大切にしていたかが解る場所なのですが、ここの神様は❝有鹿姫(あるかひめ)❞と言う土地の女神様です。
飲み水を育む源泉のイメージが女性を連想させるのでしょうか?
DSC_0138
平安時代末期に源頼朝公の重臣だった海老名氏によって海老名郷の鎮守の神様として有鹿谷から現在の本宮に本社機能を移転させて支援したのが現在の有鹿神社で、こちらは有賀彦(あるかひこ)つまり男の土地神様が主祭神になられて鎮座されています。
さて、この様に古代から存続する神社は、明治時代に❝水戸学❞を元に成立した戦前までの約100年間続き現代に影響を与えた❝国家神道❞の❝伊勢系統❞の神様を尊いとする価値観とは大分違った事が解り、寒田神社の御祭神も天照大神ではなく日本武尊である事にも納得していただけたんじゃないでしょうか?
ついでに古代の海岸線を見てみましょう。
神奈川県内の延喜式内社・式外社と古代の海岸線 久良岐のよし
神奈川県内で白く表示されている部分は、神話の時代より更に古い縄文時代の海岸線です。
面白い事に、大半の延喜式内社と式外社は縄文時代の海岸線に存続していませす。これは日本の神社文化には縄文文化が継承されている証拠にも成ると思います。
例外的に前鳥神社と平塚八幡宮は相模川沿いの古代の縄文時代の海中に存在しますが、それは地震で地盤が隆起し干拓が進んだ弥生~古墳時代成立の神社だからです。
地盤が隆起し人が住める土地が増え、各式内社の神社の古代の宮司や領主の役割を担った豪族の間で土地争いが起き、国境の再編と国府設置が必要に成ったのでしょう。これが現代にも伝わる国府祭(こうのまち)と言う神様同士が相模国の一宮=国府の座を争った事を現在に伝える神事で古墳時代~飛鳥時代の出来事と推測出来ます。
そして県央部に人が住むように成った原因が地盤の隆起による海面の後退だと言う仮説を証明する事実として、その時代に大きな地震が神奈川県で発生していた事が考古学的に地層から判明しています。
大正時代の関東大震災でも三浦半島は西側と南側が50~80cm隆起し、東側は東京湾に向かって沈下しています。
気象庁から拝借 地震の仕組み 久良岐のよし
古墳時代以降も伊勢原市の大山の地下で海底のプレートがぶつかり合い、度々大地震が起きています。
鎌倉時代と室町時代の間の時期に横浜市金沢区を襲った❝応長の大津波❞は、対岸の千葉県側で津波が発生していない事から、この三浦半島の付け根に当たる金沢区側が沈下したから❝海没❞したのが❝津波❞と伝承しているのだと思います。
2015-01-07-15-26-01
その際に津波を防いだ伝承が有り、後の江戸時代、高潮の危険の有る埋立地の深川に分祀されたのが、横浜市金沢区の源頼朝公が最初は神戸の西宮神社から御分霊を勧進し造営した富岡八幡宮です。

つまり、武蔵・相模東部を合わせた古代の佐賀牟国、伊豆と相模西武を合わせた磯長国では古代から地震が起きていて、西暦400年代の大地震が起きた時にはとうとう古代相模湾多くの海岸線が隆起して新たな土地が造成され、豪族同士の領土と成る土地の占領合戦が勃発したと推測が成り立つ訳です。
この時期は❝武蔵国造の乱❞の推定発生時期とも合致します。武蔵国造の乱と伝わる事件は❝佐賀牟国造(くにつくりのみやつこ=豪族の王)の乱❞だったと考えるのが自然です。
それを仲裁したのが大和朝廷で、佐賀牟国と磯長国を武蔵・相模・伊豆に分割し調停した。
旧街道と武蔵相模国境付近 久良岐のよし
…これ、この通り結果的に大和朝廷が、この地方の国造だった笠原家の内紛に介入し接収した記録が残る群が、久良岐郡・橘樹郡・多摩郡・横見郡等で、それ等の土地を繋げると、綺麗に武蔵国・相模国の国境を分ける非武装地帯の様相を呈しているんですね。
この時代の政庁の役割を果たしていた場所は現在の神社に成っている豪族や地方の王達の宮殿でした。
ですから国土交通省関東地方整備局が作成した古代街道の簡易図を衛星写真に重ねると、古代の街道は全て延喜式内社と式外社の傍を通過します。そして郡衙も延喜式内社の傍に存在しています。
この地図上の誤差は、関東地方整備局が❝だいたい❞程度の制度でした旧街道を書いていないからで、地図上に詳細に再現すると全てが古代から存続する神社とピンポイントで重なります。
更に古代の海岸線上に延喜式内社と式外社を表示して見ましょう。
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
さて、ここで皆さんに質問です。
神奈川県は何で県名が…
神(かみ)
奈(な=無い)

…なんでしょうか?
色んな説が有りますが、小生は正に、武相国境に大和朝廷が非武装地帯を設けて神(かみ)=お上(かみ)=支配者を排除した事に由来していると思っています。
丁度、この大和朝廷の直轄地として非武装地帯に成った場所が、南東~北西に延びる国境の一筋の❝川の様に❞❝神=支配者❞の❝奈=無い❞地域に成ったので、その無主の地域の海側に当たる現在の京浜急行神奈川駅辺りにも江戸時代まで地名として神奈川領と言う行政区分が地名に残り、古代の大和朝廷による相模武蔵地方の豪族の政治紛争への介入と解決の名残りが残ったのだと思っています。
2013-10-18-13-02-55
※写真は京急神奈川駅近く、青木城址の本覚寺から見た幸ヶ谷(こうがや)公園
その現在の神奈川区辺りの地域は全時代で交通の要衝だったので、そこは室町時代にも足利尊氏公が現在の幸ヶ谷公園に権現山城を築いて南朝と戦いましたし、戦国時代も北条家臣の間宮家と上田家がここに籠城し扇谷上杉連合軍を迎撃した歴史が有ります。
2013-10-18-13-22-47
そして、戦国時代の半ばにも成ると、本覚寺も取り込んだ大規模な青木城として改修され、城主には北条氏康公の名軍師として歴史好きには有名な❝多目元忠❞公が城主を務める程、重要な場所だた訳です。

そんな訳で非武装地帯が設けられ、佐賀牟国と磯長国から分割再編し新設された武蔵・相模・伊豆の3ヵ国で国府を設置する必要があり当時は地方王族や豪族の政庁の役割を果たしていた場所が神社だったので、相模国でどこが一宮(古代の国府設置以前の国府機能)に成るかで争いが起きたのが国府祭だったと解る訳です。
因(ちな)みに、小生は日本武尊は複数人いたと思っています。~建(たける)や~武尊(たける)と呼ばれる人物は、その事績から古代の大将軍に当たる官職名だったと推測出来るからです。
そして命(みこと)や尊(みこと)の字は、後に、その人物が神号を追贈され神格化されたと言う事でしょう。
2014-11-02-07-33-52
1人目は景行天皇の王子で❝倭建(やまとたける)❞の称号を初めて今の熊本当たりの部族王だった❝熊襲建(くまそたける)❞に贈号された古代大和朝廷ないし邪馬台国の王子。
その事績は走水神社に残っています。
この倭建命(やまとたけるのみこと)の御妃とされるのが弟橘姫(おとたちばなひめ)です。
その弟橘姫が東京湾に入水自殺し人柱と成った際に、海を漂って流れ着いた装飾品を埋葬して造営された古墳を古代御神体として造営されたのが、川崎市高津区の橘樹神社です。
2015-02-04-10-37-49
この橘樹神社の位置は古代の橘樹郡政庁の跡と推測されている上に、背後の宅地は実際に弟橘姫の古墳跡と伝わる大円墳の跡です。現在も円墳頭頂部の一部が現存していますが、神社の社殿の真っすぐ背後が古墳の頭頂部に向いているのは、古代、この神社が御神体の古墳の遥拝所(ようはいじょ=遠くから拝む為の施設)だったと考えて間違いないでしょう。
この時代の日本武尊が寒田神社の前身に成った集落で、現存する木製の神器に酒を注いで神事を行った人物でしょう。
神奈川県の延喜式内社の神話や、古事記で倭建命の妃として伝承する弟橘姫ですが、何故(なぜ)か渡来の百済人と思しき藤原氏が中心に成って編纂した日本書紀では❝景行天皇の妃❞に❝弟媛皇女❞として名を連ねてしまっています。
…この倭建命の子孫が藤原氏にとって非常に都合が悪い存在だったか、彼らが書かせ改竄させた日本神話に整合性を持たせる為に必要な事だったのでしょうか?
この時代は神話では西暦、考古学的には古墳時代に突入する時期の少し前ですが、歴史の誤差が数十年有ると考えると中国の三国志魏志に記された卑弥呼と卑弥呼の弟で執政官と記された人物も景行天皇と考えれば日本神話と整合性が出て来ます。
つまり日本武尊を助けた伊勢神宮の斎王で叔母だった倭姫命(やまとひめのみこと)が卑弥呼、卑弥呼を助けた実質的な執政者が景行天皇と成る訳です。景行天皇の時代に部族の叛乱が頻発したのも、三国志魏志の記録と整合性が有ります。
つまり、九州に追い詰められた卑弥呼達、倭姫命達の世代に伊勢まで征服乃至(ないし)奪還出来ていたと想像がつきます。そして、卑弥呼に盾突いた勢力の王が、出雲系の神で伊勢都彦の別名で呼ばれていた建御名方神(たけみなかたのかみ=諏訪大神)なのでしょう。そう考えれば、東海地方を支配した叛乱勢力の建御名方神の撤退した先が信濃国=長野県だった事も無理が無い訳です。
そして卑弥呼と景行天皇と日本武尊の代で一時収束した叛乱も、日本武尊を差し置いて大王(おおきみ=天皇)に就任した成務天皇の代で再び反乱が勃発し、日本武尊系の仲哀天皇と結婚した女王、神功皇后の代に成る訳ですが、これも「卑弥呼の後に男王が立王されたが混乱が収まらず、又、女王(臺与=とよ=いよ)が就任したら漸(ようや)く鎮静化した」と言う主旨の記載とも整合性が有る訳ですね。
この時代、邪馬台国の朝貢対象の目上の同盟国であった❝魏❞に対して遼東半島で❝公孫度❞や❝公孫恭❞と言った豪族が反旗を翻し朝鮮半島の鮮卑(せんぴ)と結びついて後漢から皇位を継承した魏皇帝の曹叡の領土である朝鮮半島の帯方郡のや楽浪郡の太守を殺害し魏皇帝曹叡(そうえい)に敵対していました。
当時の曹叡の軍師だった司馬懿仲達に公孫一族や、朝鮮半島の鎮圧を命じるのですが、司馬懿が朝鮮半島に出向く事は無く、司馬懿は軍を率いて公孫一族を討取るに留まりました。
では何故、魏は朝鮮半島に攻め込む必要が無かったのでしょうか?
実は、この事を日本神話が説明してくれます。
神功皇后が魏の盟友だった臺与だとすると、実は神功皇后は朝鮮半島に攻め込み新羅を討伐し、朝鮮半島の南部から魏の司馬懿仲達を助ける動きをした事が解る訳です。
この時代の倭国は魏の前身王朝の漢帝国から朝鮮南部の支配権を認められていた様で、それ故(ゆえ)、現在の朝鮮の釜山(プサン)辺りも倭人の国と認識されていた事が三国志魏志に書かれています。
ついで言うと中国では古代の日本を倭(わ=小さい)国と呼んでいましたが、それ以前は❝扶桑(FuSang=ふさん)国❞と呼ばれていた事が記録に残っています。つまり現代日本に残る扶桑の地名は古代の❝日本❞と言う意味なんですね。
この❝扶桑(ふさん)❞と❝釜山(プサン)❞発音が似ている上に、古代の邪馬台国の支配地域とも整合性がありますね…
つまり、そう言う事なんですよ、古代は朝鮮半島南部は古代中国皇帝に公認された日本の一部だった訳です。
これも素戔嗚尊(すわのおのみこと)が一時、朝鮮半島に行っていたと言う神話とも整合性が有りますね。
そんな訳で、寒田神社の所在地を訪れて神事を行った武将の日本武尊は、この時代の倭建命だと何となく解る訳です。
そして、日本武尊の大和帰還を伊吹山の神(豪族)に命じて関ケ原辺りで阻止させたであろう人物も、成務天皇と推測出来て、成務天皇の正体も大碓命(おおうすのみこと)と推測出来て、稚足彦(わかたらしひこ)命と推測出来る訳です。恐らく❝大碓命❞の❝碓❞は誤字か藤原氏による故意の改竄で、本来は❝大稚命(おおわかのみこと)❞と呼んだのではないだろうか?そうすると、大稚(おおわか)=❝大若❞となり、若(わか)=王子と成るので大
稚(おおわか)=長男と解釈出来るので、実弟に日本武尊がいて、長子の自分を差し置いて東征の功績で立太子された実弟の倭建命を尾張国で伊吹山の神(豪族)に命じて暗殺乃至帰国を阻止して成務天皇=大碓命=大稚命=稚足彦命が天皇=大王(おおきみ)を僭称(せんしょう=勝手に名乗る)したのでは無いかと推測出来る。
この成務天皇の政変が、三国志の魏志に書かれた❝男王が就任したが国が再び乱れた❞と言う部分なのだろう。
歴史と神話は御互いに補完しあう…

2人目の日本武尊は、先に説明した❝武蔵国造の乱❞を鎮圧したであろう。
しかしながら、この日本武尊=大将軍の称号を与えられた人物は、余程、藤原氏に邪魔な人物だったと見えて完全に功績が消されている。そして、日本武尊が他にも歴代いただろうが、それも消されている。
では、この武蔵国造の乱を鎮圧した人物は誰かと言うと、大地震による相模湾の隆起や武蔵国造の乱の発生時期の大王であった❝雄略天皇❞その人だろう。
何故なら、武蔵国造で雄略天皇の調停を受けて武蔵国造に就任したであろう人物の勢力地だった埼玉県行田市の稲荷山古墳から❝獲加多支鹵(わかたける)大王❞の金象嵌文字が彫られた鉄剣が出土しているからだ。
歴史では、この獲加多支鹵が雄略天皇とされている訳だが、獲加多支鹵(わかたける)の当字を先例に基づいて変換すると稚(わか)武尊(たける)大王と成る訳だ。若くて武勇に長けた大王と言う事、つまり王族であり大将軍=日本武尊と成る。
あくまで想像だが、調停を受けた地方の王=笠原(からはらの)使主(おみ=臣)が雄略天皇から、まだ当時は青銅器善政で珍しかった鉄剣を下賜され、記念に金象嵌を施した後、死後副葬品として一緒に埋葬されたのではなかろうか?
この天皇の歴史的文化的な事績は史実だけ見れば偉大なのに対して、何故か藤原氏が編纂させた日本書紀でだけ❝大悪人❞扱いをされてしまっている。
それ故に、思う。
恐らく、この雄略天皇の女系子孫、或いは素戔嗚尊の御神孫に実は蘇我氏がいるんじゃないかと。蘇我氏は藤原氏と対立して滅ぼされた家だ。まして、藤原鎌足の時代の少し前の天皇の継体天皇は、一度断絶した直系天皇家とは別系統から天皇家を相続した天皇だ。仮に小生の推測通り蘇我氏が素戔嗚尊の御神孫な上に雄略天皇の女系子孫にも当たると成れば、継体天皇系の中大兄皇子=天智天皇にとっても都合が悪く、中大兄皇子の家臣に当たる藤原氏にとっても出世の目を摘まれ非常に不味い訳だ。
素戔嗚尊と所縁の深い出雲大社の本殿の裏にある別の社には素我(そが)社が在る。蘇我氏が日本書紀の記載とは異なり本来は出雲族なのだろうと言う証明に成であろう御社だ。
ついでに言えば現在、日本書紀のせいで素戔嗚尊(すさのおのもこと)と読まされている字自体も本来は❝素我王命(そがのおうのみこと)❞だったんじゃないだろうかとすら思っている。
漢委奴国王の金印が出土した志賀島に在る志賀海神社も、昔の御祭神は五十猛(いそたける)=素戔嗚尊の御子息の神様だった。
そんな訳で、この時代の雄略天皇は藤原氏にとって非常に都合の悪い天皇だった訳だが、恐らく日本武尊の官職名を与えられたであろう日本の大王に成った大将軍王子だったはずですが、この人物は寒田神社の土地に滞在した日本武尊とは別人でしょう。寒田神社の木椀は弥生時代の物であるのだから、寒田神社に関与したのは弥生時代の倭姫命(卑弥呼)の甥っ子の日本武尊でしょう。
古墳時代も終りの頃の神様に成った人物では無いはずです。
そして古墳時代に東征を行って相模武蔵の国境確定を実施したのは雄略天皇で久良岐郡、橘樹郡、多摩郡を無主の非武装地帯にした人物だったかも知れんせんね。
この雄略天皇との縁起が多く残るのが西湘地域の延喜式内社と式外社です。この事は、縄文時代にはまだ県央地域が海だった事実、そして古墳時代には陸地に成っていて人が住みだした考古学的な歴史事実とも整合します。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
ですから、雄略天皇との関係が最初の神社の縁起に成っている神社と中原街道は、古墳時代頃に人が住みだした県央沿岸地域を通過します。
そして、縄文~弥生時代からの遺跡を抱える 神社の傍には大山街道(矢倉沢往還)が通っており、その先は平安時代までの東海道だった足柄道へと繋がっています。足柄道は平安時代の富士山の火山活動によって一時期、御殿場を通る足柄峠が通行不能に成った事で廃れた道です。つまり、古い時代の主要街道だった訳です。

この様に、考古学や地理を先に見てから神社の伝承で関わったとされる人物の生きた時代、遺物と出土品の年代を見ると意外に神話と歴史事実は密接に関係が有る事が解ります。
その代表例の一つが寒田神社や比々多神社や有鹿神社や橘樹神社や走水神社な訳です。

きっと、皆さんの家の御近所の小さな神社仏閣、普通にお墓参りに行っている御寺サン、御守りを買っている神社さんも、寒田神社の様に意外な歴史偉人との関りが有る場所が絶対に有るはずです。
…皆さん、たまには神社仏閣や歴史遺跡を御散歩して、郷土の歴史博物館も見に行ってみると面白いですよ!
では、又!次の解説記事で! 

藤沢市打戻地区に宇津母知(うつもち)神社と言う、とても古い神社が在ります。
DSC_0425
それはそれはとても古い神社で、古文書に記録では既に西暦500年より前、雄略天皇の時代、つまり古墳時代には既に存在した事が確認出来ている神社です。
この宇津母知神社の在る現在の藤沢市打戻及び神奈川県中央部周辺は、古墳時代当時大きな入江が可成り内陸まで入り込んでいました。
古代の海岸線と延喜式内社 久良岐のよし
御覧の通り、日本神話より遥かに昔の縄文時代6000年前の海岸線に、延喜式内社と式外社は存在しています。
ただ1社、前鳥神社だけを除いて。
実は前鳥神社が他の延喜式内社と違って縄文時代の海の真ん中に在りますが、これは既に考古学的、地形、文献の3つから説明が付きます。
まず、現代伝わっている「前鳥神社」の名前が誤りです。平安時代の誤記が元で現在の名前の字が変わってしまっています。正しくは「前❝島❞神社」だった様です。
…つまり、昔の字の意味からすると佐賀牟国の❝海の前に浮かぶ島❞で島自体が御神体だった神社と解釈出来ます。では、本当に島だったのでしょうか?
前鳥神社の地形 久良岐のよし
はい、前鳥神社は本来の前島神社の名の通り、相模川の浸食を受けない自然堤防の上に立つ神社でした。
つまり、海に浮かぶ島だった地形上に在る訳です。
そんな訳で、延喜式内社を回ると、悠久の縄文からの文化を受け継いで弥生時代に何某かの偉人達の事績が神話に成って日本文化として僅(わず)かでも現在に伝わっている事が容易に想像出来ますね。
さて、延喜式内社が古い神社と言うのは解ったと思います。
そもそも延喜式と言うのは平安時代の醍醐天皇が纏めた政令で、その内の延喜式神名張と言う文書に当時の人から見ても古いと思っていた神社を保護の為に列挙したのが延喜式内社と言う訳です。

そこまで話した所で、話を宇津母知神社に戻します。DSC_0422
この神社は交通に若干不便な農村に在るので車で行くか本数少ないバスで行ってから徒歩に成りますが、駐車場側から行くと入口近くには立派な御神木が出迎えてくれます。
DSC_0419
そこを通り過ぎると、表参道に回れます。
DSC_0425
この宇津母知神社の境内は、延喜式内社だけあり可成りの広さが有ります。
ですから、参道も歩くと普通の神社より長く感じます。
DSC_0426
現在は鎌倉に近く小田原に向かう途上に在る事もあり、武士達の度重なる戦火に巻き込まれたせいか敷地だけ立派で古来の建物は現在では残ってはおらず、氏子サン達の努力で再建された御社と社務所が鎮座しています。
しかしながら、明治政府による神仏分離令や国家神道による統制以前の建築遺産が表参道とは異なる西側に残っています。
IMG_20160326_125356
鐘楼ですね。
明治政府によって伊勢神道を基本にした国家神道で神仏習合の歴代天皇家が守って来た価値観は破壊されましたが、奈良時代~江戸時代の終わりまで日本人は天皇家と共に、弁財天様などインド神話由来の神様や仏教文化もひっくるめて日本の神様として受け入れて大切になさっていたんですね。
現在の表参道が南側に在るのは、日本神道のセオリーで社殿は南側を向かせているので、その社殿に合わせて参道を付け替えた為でしょうか?
本来の街道は西側に在るので、この鐘楼の在る昔の表参道も西側に面しています。
DSC_0451
鐘楼の近くには、昭和の土地改良の石碑がありました。
この昭和の土地改良は、それまで水稲耕作に向かなかった全国の土地を稲作に出来る水田に生まれ変わらせましたが、同時に小生達歴史オタクから見ると弊害もありまして本来の古道や城址の痕跡が完全に破壊された場所も少なくなかったんですね。
とは言っても、国民が飢えなく成る事が一番大切なので、これはこれで偉大な事業だと思います。
DSC_0432
その土地を耕しながら、この土地の人々が社殿が老朽化する度に再建し、古代からの伝統と神話に成っている先人の事を伝えて下さったんですね~。
本殿は現在はトタン屋根です。
多分、昔は茅葺か檜皮葺だったんだと思いますが、信仰心の薄くなった現代人の更に過疎に成った現在の藤沢の農村では、大変高価な茅葺や檜皮葺を維持するのは困難だったんでしょうね。
でも、こうして社殿を守って下さっている事が大切なんですね。
DSC_0442
因みに、この規模の屋根を茅葺で吹き替えると4000万円超かかるそうです。これは以前、横浜市栄区の古民家、旧小岩井家住宅の職員さんに教えて頂きました。
※小岩井家住宅の記事は「ココ」←クリック!
さて、本殿の左隣には神輿か山鉾(だし)をしまってある建物でしょう。
DSC_0435
右側には神楽殿。
DSC_0433
この規模の神社に宮司様が常駐していないのが真に残念。
しかし、神奈川県は何故か醍醐天皇以来歴代天皇や統治者が御守りに成られた延喜式内社を伊勢系の神社より荒廃してしまったり宮司様がいらっしゃらない場所が多い様です。
ですから宮司様では無く氏子様達が良く守ってらっしゃっておられる神社が少なくありません。
DSC_0429
DSC_0428
この狛犬様達は、造りからして江戸時代~明治時代初期の彫刻でしょうか?
DSC_0431
下の基礎部分に何某かの刻銘が有るのですが、石が剥落して読めない字も多いですね…
「宮〇家」は❝宮丞家❞か❝宮司家❞と書いて有るのかな?
その下は二世彦次郎と書いて有りますね~。
姓の刻銘が無いので戦国時代は武士だった家系の江戸時代の地元の豪農の氏子サンとかかな?
DSC_0427
社務所は立派なのですが、電話してもやはり宮司様御不在で御朱印は頂けませんでした。
DSC_0436
残念、再訪する前にアポとれたら良いなぁ~。
DSC_0438
う~ん、この御祭りに合わせて行くしか無いのかな?
DSC_0440
宇津母知神社の御祭神は稚産霊神か、若日下部命、天照大神。摂社の菅原道真公と御稲荷様。
んな訳で、菅原神社。
DSC_0443
DSC_0446
実は関東には菅原道真公の御子息が御二人移住して来た伝承の有る神社があり、それが横浜市港南区の永谷天満宮と茨城県坂東市の大生郷天満宮です。
大生郷天満宮は菅原道真公の御三男の菅原景行公、永谷天満宮には五男菅原敦茂公が移住して来られた伝承が有ります。
小生は、周囲の武士団の子孫の名前から関東に来たのは菅原景行公の説が特に有力だと思っています。
関東の平良文系の坂東平氏の武士団が盛んに天神様=菅原道真公を信奉していた節が有ります。
どこの城の址の近くにも、古い城程、御稲荷様と天神社が有りますからね。
DSC_0444
そして稲作と所縁深い御稲荷様。
これも平氏系の武士団が大切にした神様。関東は平安時代に鎮守府将軍平良文公の御子孫が水田を開いた土地が多いですからね~。
DSC_0449
この藤沢市しかり。
藤沢を開いたのは、平良文公の御子孫で、名将の鎌倉景正公です。
鎌倉景正公も又、鎌倉市の権五郎御霊神社で軍神・縁結び・眼病治癒の神様として祀られています。
※御霊神社の記事は「ココ」←クリック!
DSC_0448DSC_0447
意外なところに古代に続く凄まじい歴史を持つ神社が有るでしょう?

どうですか?
皆さん、県内の延喜式内社御参りしてみたくなりませんか?
延喜式内社以外にも、きっと皆さんの御近所にも凄い歴史を持つ神社や御寺が在って、とんでもない歴史偉人との繋がりが有ったりするかも知れませんよ~?
だから、神社や御寺や城址や歴史史跡や古民家や里山とちょこっと散歩してみませんか?

では、また、次の記事で!










皆さんは延喜式神名張と言う言葉を聞いた事が有りますか?

延喜式神名張と言うのは、醍醐天皇が編纂させた文書の題目です。
内容は平安時代、西暦900年代初頭の当時から見ても古い歴史を有する神社を列挙した物で、醍醐天皇が後世に古社を存続させる為に記録させたんですね。
延喜式と言うのは、元号の延喜年間つまり西暦901年~923年に当たる期間に、古来の律令制度では対応できなく成った法制度を改めて補足する為に作らせた制度や管理体制です。
その一環として作られたのが延喜式神名張です。
そして横浜市内にも、数少ない延喜式内社が一社現存しています。
DSC_0027
それが、横浜市緑区西八朔(にしはっさく)に鎮座する杉山神社です。
この神社の存在する住所その物が、この神社の由緒を表しています。
実は西八朔の八朔と言う地名は平安時代には❝都筑郡針斫(はりしゃく)❞と登場しているのです。
現在では神主不在ですが、境内はなかなか広く、管理は氏子様達の努力によって何とか行き届いています。
この神社の歴史は凄いんですよ。
語るについては、少々、神奈川県と東京埼玉の古代郷土史を解説する必要が有ります。

現在確認出来る文書でも杉山神社は西暦800年代には名前が登場します。
武蔵国(埼玉・東京全域と横浜市東部)の総社六之宮とされる神社なので、佐賀牟(さがむ)国が相模(さがみ)国と武蔵(むさし)国に分裂した際には六之宮に定められた歴史を持つ神社と言う事に成ります。
古代の武蔵国内で六番目の有力な郷(さと)だったと言う事にも成ります。DSC_0029
武蔵国の六之宮と言う事は…
佐賀牟国の相模と武蔵の分裂時期は西暦500年代の❝武蔵国造の乱❞のはずなので、武蔵国建国時に武蔵国六之宮に定められた杉山神社の歴史は以前と成ります。
つまり武蔵国成立時に六之宮とされているので、古墳時代~飛鳥時代まで神社の始まりを遡(さかのぼ)れると言う事が解ります。
他にも杉山神社と同じく古い歴史を有する神奈川県の古社は殆どの御祭神が出雲系の神様や日本武尊や伊邪那岐伊弉冉命です。
つまり、日本武尊を除いては、杉山神社を初めとして、古い神社程、出雲系の神様が多いんですね。
ですから、国家神道が160年前に成立し伊勢系の神様が尊いとされた為に、嘗(かつ)て醍醐天皇を初めとして歴代天皇が我々後裔に保存を託した延喜式内社の古社でさへ神主不在と成り荒廃してしまっている場所が少なくありません。
残念ですね。
DSC_0025
この手水、センス良いですよね!
自然石をくり抜いて、自然信仰と偉人崇拝を元に始まった日本古来の宗教観を代弁する様な存在。
最近作られた手水ですね。
幸い、杉山神社は、この様に氏子サン達によってちゃんと守られています。
杉山神社の在る旧都筑郡に当たる緑区や青葉区は隣の港北区と同じく住民の皆さんの郷土愛と文化度の高い地域でしたので、神主不在と成った現在でも、荒れ果てる事無く整備されています。
DSC_0026
…横浜市は移住者ばかりで住宅街の里山の中の神社が、そんな凄い歴史が有ると知る人も少なく、現在では活気は全く有りませんが。
さて、実は杉山神社、日本中で旧都筑郡にしか存在しませんが、その論社(ろんじゃ=記録から推定される場所)は他に数カ所有ります。
しかし記録上の地名から、小生も本社はこの緑区西八朔の杉山神社だと思います。
DSC_0022
神社の前には古道と思しき道も有りましたしね。
DSC_0021
昔の街道だった名残りをプンプン匂わせる石仏も残っています。
庚申塔が有るので間違いなく、ここは旧街道です。
平安時代には街道が通っていた地域だとすれば、それより前の古墳時代から人が住んでいた地域だったのかも知れませんねぇ~。
この杉山神社は歴史が有る神社に相応しい立派な社殿です。
DSC_0032
神主不在でも立派ですね。
この社殿を維持させんとする周辺地域の人々の歴史を愛する心と文化を残そうとする信仰心や気概が伝わってきます。
DSC_0035
この境内は、恐らく昔は神楽殿も有った広さが有ります。
社務所を立てて、宮司様が常駐したら良いのにな?
…と思いました。
神奈川県神社庁は延喜式内社をプッシュし、県民の信仰心と神話を伝承させる様な働きかけをしてくれたら、もっと日本人が本来の文化を大切にするきっかけに成るんじゃないかな~?
神主さんが普段から住んでいて、子供が遊びに来て、小さい時から神様の近くにいる、そんな環境が戻って来れば寂れた神社が復興して、一度は廃れた神社も夏祭りが行われたり活気が出て日本人にとっても精神的に昔の様に大切な存在に成り、祖先とのつながりを感じたり出来る様な気がします。
DSC_0033
摂社の前には梅も綺麗に咲いていて、背後の竹林と相まって美しく、里山の古社の雰囲気を醸し出していました。
DSC_0043
今ではひっそりとした神社ですが、ここがかつての天皇家や朝廷にも認知された古社だと考えると、この静けさも凛とした空気として身に沁みます。


では!又、次の解説記事で!



横浜市には神奈川屈指、いやいや日本規模でも聖地(パワースポット)に挙(あ)げられる熊野社(くまのしゃ)が在るのを御存知の方は少ないと思います。
その名も師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)と言います。
DSC_0209
昨今、自作自演の詐欺紛いの偽パワースポットを捏造する新しい神社仏閣も多いですが、ここは光孝天王の勅願所だった由緒正しい熊野社です。
天皇家の勅願所(ちょくがんじょ)と言うのは、天皇自らが祈願する国の安寧や何某(なにがし)かの重要な御祈りを、その神社仏閣の宮司様や和尚様が天皇陛下に代わって神様や仏様に御願いする場所の事です。
つまり、この師岡熊野神社は古くは光孝天王の時代から、天皇家が祈願を依頼した霊験あらたかな場所と言う訳です。
境内には古代からの自然湧水のパワースポットも現存し、その聖地としての存在価値は光孝天王以来歴代天皇の勅願所だった事が示しています。
聖地や施設の説明は後回しにして…
DSC_0210
熊野社と言ったのは敢えてそう言いましたが、昔の人は神様ごとに神社の種類をちゃんと分けて呼んでいたので敢えて、昔の人の風習に従って熊野社と言ってみました。
神社を何でもかんでも一色単にして❝神社❞と言う様に成ったのは、たかだか150年ちょい前、国家神道と言う新しい神道を管理統合する為の宗教観が出来てからの話なので、本来、全ての神社はそれぞれの系統に従って区別された名前で呼ばれる方が相応しい訳ですね。
例えば…
●熊野社
熊野社なら水神様の御霊を御祀(まつ)りする御社(おやしろ)で、滝や自然湧水の聖地そのものが御神体であったり境内の聖地の場合が本来の形です。別名で十二所神社と呼ばれる場合も有ります。
正に、この師岡熊野神社は自然湧水の聖地が数カ所有りますし、鎌倉市十二所の十二所神社は周辺の朝比奈峠に小さいながらも滝や多くの沢の水源が有ります。
熊野社の総本山の熊野大社は、本来は聖地熊野三山から流れる熊野川の中州に在りました。
DSC_0226
上の写真は師岡熊野神社本殿裏の「❝の❞の池」です。
古代から自然湧水が枯れる事の無い、小さくとも聖なる池です。

●八幡社
八幡社なら誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇=八幡大菩薩を御祭りする御社で、古い八幡社は大河川や海辺の水害の多い地域や古代の港湾の近くに御祀りされています。
日本でも指折りの鶴岡八幡宮は本来は現在の位置では無く、鎌倉市の材木座海岸に面した土地に、源頼義公が石清水八幡宮の御分霊を勧進し社殿を建立しました。由比ガ浜や材木座の海の安寧を願っての正に高潮避けの治水の神様としての勧進なのが解ります。
平安時代からの八幡社の総本社格である石清水八幡宮は、その鎮座する男山に自然湧水の池と小規模な滝が有り水神の性格も有りますが、何よりも古代は眼前に巨椋池と言う巨大な湖が有り、その巨椋池から流れる木津川や淀川は度々決壊する大河川でした。八幡社総本社格だけあり典型的な八幡社の役割を期待され誉田別尊の御霊を勧進する事で治水を祈願した先人の苦労が判ります。
又、応神天皇の武勇に肖(あやか)り軍神としての性格も持ち合わせています。

●弁天社
現在では弁財天と書かれますが、本来は❝才天❞と書かれ後に日本で❝財天❞とも書かれる様に成ったインド神話の神様でサンスクリット語の名前はサラスバティーです。
明治時代に成ってから弁天社の神様は壱杵島姫が習合されました。
才天財天と敢えて書いたのは、この神様は御利益が多く、本来は軍才の神様の性格を持つ戦神でしたが後に江ノ島の弁天様を信仰した河内源氏の源頼朝公や、滋賀県の竹生島の弁天様を信仰した宇多源氏の佐々木家が大いに繁栄した事から財神としての性格がクローズアップされる様に成り日本で辨財天の字も当て嵌めれる様に成りました。
戦神だったので、鎌倉時代、頼朝公の成功に肖(あやか)って自領に弁天社を作る武将が多かったので鎌倉武士の居た土地には大体、弁天社が鎮座しています。
この様に、本来、神社は神様によって役割が異なり、やたらめったら縁結びを御願いしたり合格祈願をするもんじゃないんですね。

さて、神社の神様にはそれぞれに役割が有る事が解った所で、師岡熊野神社が何で聖地なのかに話を戻しましょう。
この師岡熊野神社は周辺が平地で、この岡は比較的高い場所に在るのに、その丘の上と周辺に自然湧水地が在るので聖地なんです。
「それの何が珍しいの?」
と思うでしょうか…
地理の歴史を説明します。
この師岡熊野神社の鎮守の森は権現山と言われています。
DSC_0245
熊野神社は、どこも奈良時代~江戸時代が終わるまで神仏習合の神様でしたから、師岡熊野神社の事も熊野権現と呼んだ訳で、つい160年前までの長い文化を引き継いだ名残りの地名がこの権現山です。
そして、この権現山からは貝塚が発掘されており、日本の神代に当たる縄文時代~弥生時代に既に人間の営みが行われていた場所なんです。
では何で、光孝天皇に聖地として勅願所に指定された、この師岡熊野神社の境内から貝塚が見つかるのでしょうか?


昔の海岸線
※ネット拝借地形画像
この師岡熊野神社の有る一帯は、古代、縄文時代~弥生時代位までは海でした。
つまり、古代から聖地であるこの場所は、周辺が海なのにも関わらず奇跡的に豊富な淡水の自然湧水が有ったので古代人も生活拠点を築けたんですね。
「は?」
「古代人が村作ってたから何なの?」
…と、思う人がいたら貴方の日本の神様に対する信仰心は偽物ですね。
関東最古の大社、鷲宮神社のある総国(下総上総)を鷲宮の土地から開発して行った神話の出雲族の御神孫達は、最初27人から土地開発を始めたんですよ。寧ろ、この人数は考古学的には村の初期の単位としては非常に信憑性が有る数字だとも言えます。
つまり、この師岡熊野神社の境内から貝塚が出て、嘗(かつ)ては海のど真ん中だった半島の上で貴重な飲み水が“こんこん”と湧き出ていたこと自体が当時の人からみても奇跡で、海が干上がって工作に適さないまだ塩分の多い土腐(どぶ)地帯に成っていた時でも平安時代の人々からすれば美味しい飲み水が有る事は奇跡で、そこを中心に街道が整備されて行って国が開拓されて行った訳です。
2014-03-23-05-54-06
※ネット拝借地形画像
縄文時代の横浜市北部は、半分は海の底で半分はリアス式海岸の体を成していました。
東急東横線の綱島駅一帯なんて、本当に綱❝島❞だったんですから。
師岡熊野神社の在る場所が、古代は❝太尾岬❞と言う半島だった平野にポコっとした丘陵地帯です。
古代は本当に❝太い尾っぽ❞の様な形状の半島だったので、太尾岬と呼ばれた名残が現代でも太尾と言う隣接地域の地名に留められている訳ですね。
この様に地名には本来の意味があるのに、勝手に大手開発業者や土建屋が「○○ニュータウン」とか「○光台」とか地名を変えてしまうのは日本宗教観から言っても不遜不敬極まりない行為な上に、その土地の特性を有耶無耶に隠してしまう彼等の悪事で詐欺的な土地評価額偽装行為なんですね。

この様に古い神社は大体が丘の上に在るのは、古代は海が今より内陸まで入り込んでいた為です。
その境内の古代人の生活跡の自然湧水の在る師岡熊野神社を光孝天皇が勅願所に定めたのは当然ですよね?昔は周りが海や土腐(どぶ)だったのに、枯れない清涼な飲み水の湧き続ける泉を有する神社なんですから。
ですから、恐らく、その光孝天王の祈願内容は旱魃(かんばつ)=旱(ひでり)による水不足が起きた際に対策としての❝雨乞い❞だったはずです。
この推測を証明してくれる神事が受け継がれている❝場所❞が、師岡熊野神社の「❝い❞の池」です。
DSC_0204
この「❝い❞の池」は古くから雨乞い神事が行われていたそうです。
他にも「❝ち❞の池」も有りましたが、例の如く文化史跡破壊が得意な横浜市教育委員会と神奈川県教育委員会が開発容認してしまいあろう事か埋め立てられ、現在では大曾根第二公園に成ってしまいました。
これらの池を並べると、❝い❞❝の❞❝ち❞と成るので、古来人々の命を繋ぐ水源だった事が伝承する神事と、記録と名前から解ります。

さて、古代の聖地と水源が関連深い事が御理解頂けたと思いますが、実は、この事が多くの平安時代~戦国時代の御城が神社や御寺の在る場所に建てられた理由でも有る訳です。
御城と言うのは敵が攻めて来た時に、領民の農民を匿(かくま)って防衛戦争を行う場所なので、険阻な丘陵地形と同時に❝飲み水の確保❞が第一条件に成る訳です。ですから、聖地に後に社殿が造営された神社仏閣の場所に御城が築城される事が多かった訳ですね。
その南関東での代表例が東京都の深大寺城、滝山城です。
深大寺城は豊富な水源を利用した水車動力の石臼で引く蕎麦切りが名物で現在もその伝統が受け継がれていますし、滝山城には弁天池と呼ばれる水源を堰き止めた池と山王権現社が有りました。
2015-02-14-15-28-41
さて、ここまで話して何故(なにゆえ)、師岡熊野神社の湧水が昔の人にとって聖地としての価値を有していたか、そして何故にそこに貝塚が有るかが御理解頂けたとも思います。
貝塚があり海の真ん中の半島に飲み水に成る自然湧水が有る事が聖地なのか、紐解けたと思います。
この聖地としての価値を証明する材料が冒頭で述べて歴史偉人の、この熊野社に対する信仰です。
DSC_0206
では、師岡熊野神社を勅願所にしたり、社殿を建設した歴史偉人を列挙してみましょう…
光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇…
歴史好きで感の良い人は直ぐに判(わか)ると思いますが、源氏の始祖の天皇ばかりです。
そして…
北条早雲公・徳川家康公・徳川家光公・徳川家綱公。
…関東の覇者達から、領地の安寧を願って信仰された訳ですね。
DSC_0211
それ故(ゆえ)、権現と呼ばれ自然崇拝の神仏習合の発想に基づいて❝関東随一大霊験所熊埜宮❞の異名を光孝天皇より賜(たまわ)っているんですね。DSC_0217
その異名は完全に聖地認定を天皇家より受けている証拠と成る訳です。西暦800年代後半の話です。
凄いでしょう?
古い神社ですので最初の本殿も光孝天皇の代に造営され、その後、幾度の再建を経ているとは雖(いえど)も現在の本殿も正徳4年(西暦1714年)の建立(こんりゅう)です。既に300年の歴史が有ります。
拝殿は明治17年(西暦1884年)の建立です。
DSC_0219
因(ちな)みに、この外観は覆(おお)い殿と言って昨今歴史有る神社仏閣で見られる建物ですが、本来の歴史有る神社仏閣の建物が文化財指定されたり貴重な建築文化財の場合に、本殿や御堂を丸ごと囲って保護してしまう建築物の事です。
DSC_0223
覆い殿の部分は材木が新しいので一目瞭然。
この師岡熊野神社の建築物と神事を後世に伝承させようと言う、宮司様や氏子サン達の気概を感じる覆い殿の増築ですね。
素晴らしい!
港北区民は郷土愛が深く実に文化と史跡保護に熱心な文化度の高い方が多い!実に素晴らしい!
この歴代天皇と関東統治者が大切にした師岡熊野神社を守って来た氏子さん、笠原家の大曾根城址の景観を守ろうとした大曾根商店街の皆さん、鎌倉時代の名将佐々木高綱公の居館跡の鳥山八幡宮や高綱公が源頼朝公の命令で開基した三会寺を守って来た鳥山地区の氏子サンや檀家さん、北条幻庵公が城主を務めた小机城址市民の森を守り通した区民皆さん、それ等全ての港北区民の心意気と言い、真に敬服するばかりです。
そんな郷土愛の強い港北区の師岡熊野神社の氏子サン達なので、明治時代の一村一社令と言う政令で破壊された周辺神社の御霊もちゃんと遷座した上で新たに綺麗な摂社の御社を建て、神仏習合文化の石仏も大切に保護されていました。
DSC_0228
DSC_0229
DSC_0230
DSC_0231
DSC_0232
DSC_0234
DSC_0236
この関東地方は出雲神族の御神孫が古代に開拓を行い、平安時代に菅原氏と桓武平氏と源氏の武将達が文化を昇華させたので、この摂社に御祭りされている神様はどれも坂東武者が進行した神様ばかりですね。
ここの説明では山王社は日吉神社とされているますが、関東の開発に貢献された河内源氏の御一族は神仏習合と自然神に対する信仰心が強く修験道の影響も受けていたので関東における山王社と呼ばれる神社は山王権現だけでなく蔵王権現を明治時代に習合している場合が多く、実際に軍神として武士団に崇められた名将の源義家公は八王子の滝山城址に蔵王権現の御堂を修復していたりします。源頼朝公も山岳信仰をされた方で伊勢原市の大山や富士山を登山したり富士山の化身とされた此花咲耶姫命を御祀りする浅間神社を横浜市内に造営されています。
その他に、海や大河川を鎮める鶴岡八幡宮を元とした八幡社も多く造営した伝承が関東各地の八幡宮に残ります。
八幡社も明治以前は御祭神の誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)は別名❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の天皇家の文化を代表する神様の一つです。京都府八幡市の石清水八幡宮や鎌倉市の鶴岡八幡宮には明治時代まで多宝塔も有りました。
師岡熊野神社を“大霊験所”として信仰した光孝天皇はじめ宇多天皇、醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇等源氏の始祖に成られた天皇のいずれも神仏習合の時代に生きた方々ですので、神職と仏僧の両方の特性を持つ修験道の山伏達や修行者も大切にされたのでしょうね。
DSC_0245
その影響を引き継いだのが源義家公や源頼朝公は自然信仰を大切にされたのでしょう。
日本人の宗教観は明治時代以前はおおらかなものだったので、八幡信仰や、この熊野神社に見られる権現信仰の様に自然崇拝や自分の祖先に当たる神様を祀る祭礼や歴史偉人を供養する菩提寺や仏教経典を全て、文化として等しく継承したんですね。
DSC_0246
そして、この師岡熊野神社は、周辺が海に囲まれていた縄文の古代からの聖地なので、裏の権現山に貝塚が有る訳ですが、この権現山は少し変わった風景を見る事が出来ます。
DSC_0249
新幹線が丘の下を走っているんですねぇ~。
望遠レンズを持ってる人なら、横浜~品川間の新幹線が住宅街の真ん中を走り抜ける様子を撮影する事が出来ます。
古代の人に大切だった、この師岡も…
平安時代~戦国時代には古代からの開拓された集落を結ぶ街道が出来て、その街道を抑える師岡付近には大曾根城や小机城、佐々木高綱公の鳥山城館が築かれました。
…現代には新幹線や第三京浜道路が通り人と物の輸送を担う日本の大動脈とも言える土地にまで成長した訳ですね。
最初に、この師岡熊野神社の神泉を見つけ飲料水を確保し集落を形成した先人への歴代天皇と関東統治者のリスペクトが、この❝関東随一大霊験所熊埜宮❞には沢山詰まっている訳です。

きっと、皆さんの御自宅の近くにも、思いがけない歴史を持つ神社や御寺さんや城跡の山が有ると思います。
町で買い物をするのも良いですが、ちょこっと都会の喧噪を離れて近所の鎮守の森を散歩してみませんか?
そこには先人とのタイムカプセルの役割を果たして来た歴史が詰まっているかも知れませんよ?

では!、又、次のブログ記事で御会いしましょう!








埼玉県には鷲宮(わしみや)と言う土地が有ります。
この地名の由来は古代、日本史で言う所の土師(はじ)氏と言う部族が開拓したと伝わっている土地で、この“土師(はじ)”が悠久の年月を経て訛(なま)り“はじ”→“わし”と転化した事に由来すると言われています。
この伝承と符号する神話を持つ神社が、この鷲宮にはあり、その名も“鷲宮神社”と呼ばれている関東で最古の大社(たいしゃ)格の権威を持つ神社です。
2015-12-19-15-01-59
立派な鳥居ですね。形状は山王鳥居。
余談ですが鳥居には色々種類が有るの御存じでしたか?
大別すると、この鳥居の様に複雑な形をした物を明神鳥居と言います。
対して丸太を組み合わせただけの様なシンプルな鳥居を神明鳥居と言います。
明神鳥居に更に屋根が付いた形式を“山王鳥居”と呼びます。
どうも色んな神社を参拝した経験的に、出雲系の神様の鳥居には明神鳥居が多い様です。
さて、そこで、この鷲宮神社の神話と鳥居が結びつきます。
土師氏と歴史で位置づけられる、この土地を開拓した一族は、鷲宮神社の神話によれば出雲国出身の一族で27人の部族集団から始まったそうです。
この土地からは古代の遺跡が多く出土しており、この神話を証明するに十分な状況はそろっています。
つまり、この地は出雲族、素戔嗚尊の御神孫27人の部族が移住し開拓した“聖地”な訳です。
2015-12-19-15-04-06
27人と言うのは、国を開拓する規模で考えると人数と言うより27集団と考えた方が自然かと思いますが、縄文時代や弥生時代の集落と言うのは多くて100人超える規模、少なくて数世帯で数人なので考古学的にも、この鷲宮神社の伝承は信憑性の有る開拓者の人数だと思います。
最初は27人からスタートして、鷲宮に村が出来て、交易に来る人が定着し、大きな集落に発展して下総国周辺を開拓されて行かれたんですね。そして平成の世では、この出雲族の開拓地が聖地と呼ばれる程、神話上も考古学上も重要な場所に成った訳です。
だからか解りませんが…
この地域の特産品が“聖地酒”と言う日本酒のようです。
2015-12-19-15-02-34
昔の門前町に当たる商店街は何だか良くわからない女の子のキャラクターが、聖地酒と言う御酒のアイコンに成っているようで、商店街中至る所でプッシュしてました。
…年上好き非ロリコン、3次元の生身の触れるリア女性が好み(笑)の小生としては非常に、店に入り難(にく)く成ってしまう購買意欲を削がれる看板でした(笑)。
でも、商店街の人が頑張ってる感じは伝わって来たので、素晴らしい取り組みだと思います。
2015-12-19-15-02-21
看板はアレですけれど、小生的には好きな店構え。
2015-12-19-15-02-11
商店街は残念ながら過疎ってますが、この道幅の道路の両脇に古めかしい建物が在ったので、つまり江戸時代も当時もこのままの道幅だったと言う事ですね。
…と、言う事は、この道幅は昔からするとかなりの大通りに成るので、この鷲宮神社の門前町だった江戸時代は相当参拝客で栄えていた事が推測できます。
鳥居をくぐると、境内は趣の有る参道が参拝客を出迎えてくれます。
2015-12-19-15-03-40
良いでしょ?
左手の掲示板の様な物は所有する重要文化財の説明等が書かれています。
2015-12-19-15-04-49
まぁ、防犯上の都合も有り、通常宝物は市の博物館やなんかに保管委託して有ったりする物なんで、鷲宮神社も所有していても、まさか神社の境内に在る訳じゃないと思いますが。
神社の由来の説明も有ります。
2015-12-19-15-04-18
武蔵国造(むさしのくにつくりのみやつこ)と書いて有りますね。
これは間違いです。
武蔵国が成立した頃は既に国司(こくし)と言う名の知事職が存在していましたし、武蔵国の成立自体が西暦400年~500年頃の話しですので、この説明に書くべきは“佐賀牟(さがむ)の国造(くにつくりのみやつこ)”とです。
実際に初代佐賀牟国造は諏訪の建御名方神(たけみなかたのかみ)の御神孫5代目と伝承しています。
佐賀牟国が相模国と武蔵国に分裂した経緯(いきさつ)が伝承しているのが、恐らく神奈川県大磯町の神揃山で古来行われていた国府祭(こうのまち)と呼ばれる神様同士の喧嘩と仲裁の御話しです。
この鷲宮神社は関東総鎮守(かんとうそうちんじゅ)と異名の有る大社なのですが、神奈川県にも同じく縄文時代からの祭祀史跡を御神体の大山に抱える大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)と言う“関東総鎮護(かんとうそうちんご)”の異名で呼ばれる神社が在り、そちらの神話でも同様の伝承が有ります。
更に、縄文時代の祭祀場や古墳時代の古墳群を旧社地に抱える神奈川県の比々多神社も御祭神を豊国主(とよくにぬし)=大国主命としています。そして、恐らく佐賀国分裂のきっかけを伝承している神事の国府祭に登場する神様の一人が比々多神社の神様です。因みに、比々多神社一帯は有る時期、国府が置かれていただろうと推定されており三宮と言う地名にその名残も留めています。
つまり、関東の神話を証明する通り、鷲宮神社を含めた関東の古社では素戔嗚尊の御神孫達が関東を開拓した事に成っている訳です。
説明看板の通り、その由緒正しさを証明する様に関わられた偉人も日本武尊に始まり、源八幡太郎義家公、源頼朝公、北条時頼公等々…凄まじい歴史偉人達ばかりです。
因みに、日本武尊がこの地で社殿を造営した神話を補強する神社と御寺が神奈川県に3ヵ所有ります。
一つが…
2014-11-02-07-33-52
走水神社…神奈川県横須賀市走水、三浦半島の先端。
この場所から東の房総半島へ渡航を目指した日本武尊と御妃(きさき)の弟橘姫(おとたちばなひめ)様は一度、東京湾の激しい潮流に北に流され渡航失敗しました。
この時、日本武尊は素戔嗚尊を信奉していたそうで、現在も走水神社の奥宮には素戔嗚尊と此花咲耶姫命の御夫婦が建国された須賀国の名を頂く須賀神社と諏訪神社、神明神社の三社が明治時代に付近の元境内から明治政府の破壊から免れ遷座保護されています。
ちなみに破壊の原因は思想的な物では無く、防衛上の砲台の建設の為の用地接収でした。
遷座を実現し保護されたのが東郷平八郎元帥や明治の元勲達でした。

日本武尊が房総へ渡航を目指した時、漂流して又走水に戻る際に通ったと思われる伝承が有るのが、横浜市磯子区杉田の妙法寺です。
2015-01-21-13-16-37
ここは戦国武将間宮家の分家杉田間宮家の菩提寺であり、北条家の重要な港湾拠点の一つだった地域でもあります。因(ちな)みに、鷲宮神社の古代から江戸時代までの宮司家は大内家で、その大内家に江戸時代初期に間宮本家の笹下間宮家から御姫様が嫁がれており、神話でも戦国武将の血縁でも不思議な御縁で結ばれていたりします。
この付近を日本武尊一行が通った伝承の有り、その伝承に基づいて弘法大師空海和尚が現在の妙法寺の境内に前身となる牛頭天王の御社(おやしろ)を勧進されたそうです。
牛頭天王は仏教名ですが、日本神話の素戔嗚尊を同一視した神仏習合の御名前です。
つまり、空海和尚は日本武尊の牛頭(素戔嗚尊)信仰を御存知(ごぞんじ)だった様ですね。
妙法寺は牛頭天社を本格的な寺に発展させ開基した荒井家が日蓮宗徒だったので鎌倉時代に日蓮宗の御寺として始まり、現在に至ります。つまり真言宗と日蓮宗両方の歴史を有しています。
さて、では何でここを日本武尊が通りがかったですが、実は走水神社の前の海を古代人の習慣に従って冬~早春の早朝に出港すると、神話通り激しい北向きの潮流に流されてしまうんです。
2015-02-09-02-23-53
その流される先が、正に、横浜市南部沿岸部、この杉田周辺に成るんですね。
そして、この付近は久良岐の丘と呼ばれる断崖絶壁の海岸に囲まれた丘陵地で、数少ない寄港可能な場所が、この六浦、金沢、杉田、屏風ヶ浦、蒔田と呼ばれる辺りだけに成る訳です。
つまり、流された日本武尊はこの付近から上陸し走水に陸路帰ったはずで、空海和尚の事績と整合性も有る訳ですね。
そして、そんな科学的な事を分析する術の無かった神話の頃の古代人は、海や川や火山の噴火を鎮める為に人柱(ひとばしら)=生贄(いけにえ)を差し出し自然の協力を得る訳です。
神話の時代の日本武尊一行も、セオリー通り人柱を海に捧げました…
と、言うより、奥さんの弟橘姫様が自ら海に飛び込まれて犠牲に成られ海を鎮められました。
そして、日本武尊一行は弟橘姫様の犠牲の上で房総半島への渡航に成功します。
では、何故(なぜ)、弟橘姫様が海に飛び込んだら日本武尊一行は渡航に成功したかですが、それも潮流と古代人の活動時間で説明が付きます。
古代人は電気が無いし、夜間行動は狼(おおかみ)や野犬等の猛獣に暗闇の中で襲われる危険が有るので、当然、朝早くから行動し、夕方日没には安全な拠点にて休息する訳です。
弟橘姫様の人柱の神事を早朝、冬なので夜明けの6時過ぎ~7時位から始めたとして、例えば儀式が一しきり終わるまで数時間かかって昼前か正午位に成るとします。
すると…
2015-02-09-02-25-19
冬の正午頃の東京湾の潮流は落ち着き、走水~日本武尊が上陸したとされる富津(ふっつ)半島の最短ルートは正に時計と反対回りの潮流で“水が走る”様に潮流が船団を自然に辿(たど)りつけるんですね。
ちなみに富津(ふっつ)は古来“布津”とかいて“布津(ふっつ)”と呼ばれていましたが、いつの時代からか字を変えられてしまいました。
その地名の由来は、入水した弟橘姫の衣(ころも=服)=布が流れ着いたのを発見された場所だから、布津と成ったとされています。
この布津と、神剣“布津の御霊”も何か関係が有りそうですね。
ついでに…
富津の北の❝君津❞は日本武尊が人柱に成った弟橘姫を思い悲しみ「君はもう帰らないんだね」と嘆いた場所。
更に北の❝袖ケ浦❞は❝弟橘姫の着用していた小袖(こそで=和服の原型)=下着が流れ着いた場所❞なので、その地名が袖ケ浦に成ったそうです。
この伝承も、潮流と整合性が有ります。布類では無い木製の櫛だけが布製品と違う潮流に乗って対岸の橘樹神社の辺りの古代の港に漂着したのでしょうか?
さて、これ等の根拠と走水神社の神話と妙法寺の空海和尚の事績伝承を更に補強する凄まじい神社が神奈川県川崎市高津区に在ります。
image
その名も橘樹(たちばな)神社です。
名前の通り、弟橘姫を御祀(まつ)りする神社ですが、この地は古代の橘樹郡の政庁の跡と推測されている上に、神社の本殿の真っすぐ真裏の今は住宅街の山は巨大な円墳の跡なんですね。
その円墳が本来の御神体であり本宮の様な存在で、御神体の正体はなんと、弟橘姫の櫛(くし)だとされています。
入水した弟橘姫の櫛が流れ着いたのが、この高津区の橘樹神社の土地だとされています。
2014-10-25-06-33-36
円墳の頂上部分は現在も保護されています。
古墳時代は西暦100年代後半が現在の考古学で確認できる一番古い時期ですが、その時期の始まりは考古学の発掘が進むにつれて段々はやまっています。
日本武尊は西暦100年頃を生きていたと人物だと神話では動向を確認できます。
神話ですので誤差前後100年は有るかも知れませんが、古墳時代の始まりとほぼ整合性も有ります。
仮に神話が若干誤差が有るとして、近い時代の人物に卑弥呼がいます。卑弥呼には弟がいて政治や軍事を代行していた記録が、中国の史書三国志の魏志倭人伝に残っています。
もしかして日本武尊は、この卑弥呼の弟か弟の子だったりして…
もしそうなら…
倭媛命(やまとひめのみこと)=卑弥呼、景行天皇=卑弥呼の弟じゃないのか?
そう言えば景行天皇の皇后には弟姫皇女(おとひめのひめみこ)って人物がいるけれど、これって…
弟姫皇女(おとひめのひめみこ)=弟橘姫(おとたちばなひめ)なんじゃないの~?
そう言えば魏志倭人伝には、卑弥呼の後で男王が即位したが国が纏(まと)まらなかったと記録が有るけれど、景行天皇の代にも九州で再び反乱が起きたのを皇子の日本武尊が討伐してるよな~?
じゃあ!日本武尊は卑弥呼の甥っ子って事?
そうなると、魏志倭人伝による所では男王では混乱は収束せず再び女王が立王されて国が統一されたと有るから、景行天皇と日本武尊の兄弟の成務天皇の代では収束せず、神功皇后の代(仲哀天皇)の代で混乱が収束したと考えると、卑弥呼の跡を継いだ女王は臺予(よと/いよ)だから、神功皇后は臺予なのかな?
な~んて可能性も考えると浪漫(ロマン)が有りますね~。

話を橘樹神社に戻します。
古代、この高津区は海でした。
高津区の区名、高津は分解すると“高(たか)い場所”にある“津=港”と言う意味に成ります。
つまり、高津の地名を付けた人の時代より古代、この“高い丘は昔は港だった”と言う地理が良く解ります。
では、現在はこんなに内陸の川崎市高津区は本当に海だったのでしょうか?
昔の海岸線
はい!御覧の通り正に橘樹神社の所在地の川崎市高津区は半島でした。
そして、当時の千葉県の袖ケ浦は名前の通り“浦=湾”でした。
現在、この橘樹神社の在る川崎市の手前は横浜市鶴見区です。
鶴見の地名の由来は鶴見川と言う市境の川の名前に由来します。この川は別に昔、鶴が見れたから鶴見な訳ではありません。鶴見(つるみ)と言うのは、古代語に翻訳しますと❝ツル=渦を巻くほど速い❞+❝み=うみ=海❞と成り、流れの早い海と言う意味に成ります。
この鶴見川河口は古代は潮流が速い川の流れとぶつかり渦を巻くような交通の難所だった事が地名から推測出来ます。更にその奥には多摩川が有り、陸路で鷲宮神社の所在地である下総国鷲宮=埼玉県鷲宮へ渡るには大きく北上して鶴見川や多摩川の上流辺りのとか可能な場所まで遠回りする必要が有り、稲作が普及していなかった当時、携行できる食料に米は無く食糧事情で陸路東を目指すのは困難だったので、走水から1日で目的地の房総へ渡る事の出来る海路をとった訳ですね。
つまり、纏めるとこうなります。
日本武尊神話
1鷲宮方面を目指し走水で最初午前中に出港した日本武尊一行は
2一度渡航に失敗し東京湾を左回りで北に流され漂流し上陸し杉田の妙法寺辺り通って走水に戻り
3走水で弟橘姫が東京湾に入水し人柱の儀式を済ませた昼に日本武尊の軍勢は再度出港
4富津(布津)で上陸した後、君津~袖ケ浦と東京湾沿いに北上し、上陸後、今度は利根川と霞ケ浦に行く手を阻まれ、利根川の渡河地点を探しながら川沿いに鷲宮に辿りついた…
…と、推測が出来ます。鷲宮に出雲の御神孫の一族の集落が在ったので、その地に滞在し社殿=宮殿=仮御所を造営したのが鷲宮神社の始まりだとすれば、こららの事が全て鷲宮神社の神話の証明にも成るかも知れませんね。

では鷲宮神社の歴史から、話題を鷲宮神社の施設其の物に移しましょう。
由緒ある神社なので明治天皇も行幸されているようです。
2015-12-19-15-05-17
歴史家で政治家の徳富蘇峰が揮毫した石碑に明治天皇の行幸を賜った事が記されていました。
偶然ですが、小生の祖先と徳富蘇峰は同郷です。
そして鷲宮神社の江戸時代までの宮司家の大内家と同じく小生の一族も国造の官職を務めた一族の子孫です。御縁ですね。
2015-12-19-15-07-42
参道を進むと立派な狛犬が出迎えてくれました。
因みに左手は駐車場で、その間には催事の掲示板もあります。
2015-12-19-15-08-29
マラソンとか興味無いし。
問題はその近くには…
2015-12-19-15-08-55
デデン!…と、登場するこの石碑が、鷲宮神社が聖地である証拠の御題目ですね。
その名も鷲宮遺跡。
2015-12-19-15-09-13
この池が古代からの祭祀遺跡なのでしょうか?
2015-12-19-15-09-42
池の名前は❝光天之池❞と呼ぶ様です。
名前からは何の神事が行われていたかは想像がつきませんが…
例えば池で行われる神事と言うと、京都の下賀茂神社の御手洗池は古代、参拝前に禊(みそぎ)を行う場所でした。
横浜の師岡熊野神社の❝い池❞は雨乞い神事が行われる池でした。
…この光天之池はと言うと?
2015-12-19-15-10-17
名前は最近名付けられた様です。
しかし、この看板を見る限り龍神信仰と関係が有るので間違いなく池の神様は水神様、つまり雨乞いや治水等の目的の神事が行われていた可能性が有りますね。
これは大山阿夫利神社の御祭神、高Okami 10.5pt.png(たかお)神と言う古事記に登場しない神様と同じ龍神で水神信仰の対象だったと思われます。鷲宮神社も大山阿夫利神社も出雲系の一族が開拓した土地の神社ですからね。
この高Okami 10.5pt.png(たかお)神は、恐らく東京都多摩地区の観光名所の高尾山の地名の由来でもあるはずです。
高尾山は天狗神話の有る聖地ですが、大山阿夫利神社にも天狗の伝承が有るので類似点が多いので、間違いないと思います。
2015-12-19-15-14-29
池の直ぐ裏には摂社には、さいたま市岩槻区、旧岩槻市の総鎮守であった久伊豆(ひさいず)神社が鎮座しています。
久伊豆神社の御祭神も又、農耕の神様で出雲の神様の大国主命です。つまり、さいたま市一帯を開拓したのも出雲族と言う事が推測出来ます。
2015-12-19-15-16-38
絵馬奉納する処の後ろで立派な樹が参拝客を見守ってくれています。
境内の本殿の手前には八坂神社が在りました。
2015-12-19-15-18-02
八坂神社の御祭神は素戔嗚尊です。もう、出雲代表みたいな神様ですね。
2015-12-19-15-17-03
こちらは確か八坂神社の御神輿が保管されている御社だったかな?
しかし、この鷲宮神社自体の御神輿は更に立派で、保管庫の御社も立派でした。
2015-12-19-15-20-26
小さい一軒家くらい。
ガラス張りなので、保管されている御神輿も展示物の様に見る事が出来ます。
2015-12-19-15-20-50
立派ですね~♪
2015-12-19-15-21-01
御神輿の謂(いわ)れ。
社務所横には立派な神楽殿が在りました。
2015-12-19-15-45-27
その神楽殿の隣には、江戸時代に農民や力士が力比べした❝力石❞が保存されていました。
2015-12-19-15-46-35
いや~これ、かなりデカイんですよ。
この様な力石は、古い神社には良く有るんですが、現代一般人ではかなり力持ちに入る小生でも持てません。
昔の人はスンゴイ足腰丈夫で筋肉質だったんですよね~。
実際、江戸時代の飛脚の写真とか見ると、プロレスラーみたいな体系の人ばっかりなんですよね。
武士なんか江戸時代には軟弱な官僚化しちゃってて腕っぷしの強い江戸の町人や農民には絶対に喧嘩売れなかったって有名な話しです。
その力石の横には姫宮神社と言う摂社が在りました。
2015-12-19-15-47-05
名前からして姫神様を御祀りしてそうなので、この鷲宮が出雲系の神様の御神孫の土地と言う事を考えると、この姫宮神社の御祭神は素戔嗚尊の子の3柱の姫神様である宗像(むなかた)三女神様でしょうか?
もしそうなら、海上交通の神様で水神様ですね。
2015-12-19-15-49-43
御本殿はなかなかの規模です。
2015-12-19-15-55-23
中が拝める。
2015-12-19-15-56-20
正月の中頃に訪れたので、まだ初詣の名残が有りました。
この鷲宮神社は、明治政府樹立時や太平洋戦争終結時に社領を大分接収されてしまっていますが、今でも広大な敷地を誇り、その境内の鎮守の森の中には沢山の摂社が御祀りされていました。
2015-12-19-15-59-02
色んな神様が、なんだか昔話に出て来そうな雰囲気で参拝客を迎えて下さいます。
2015-12-19-16-02-30
こちらは神明鳥居。
2015-12-19-16-02-46
うん!神明鳥居だけあって、やはり神明神社と鹿島神社がある。
2015-12-19-16-03-03
森の中の摂社だけれど、綺麗な造りですね。
2015-12-19-16-05-38
こちらはひっそりと…
2015-12-19-16-07-15
この森の中の参道もなかなか雰囲気が有りました。
ちなみに、江戸時代には1000石の社領を誇ったそうで、旗本ならば大身旗本の規模の経済力を誇っていました。
恐らく戦国時代の北条家の庇護下や鎌倉時代の源頼朝公の庇護下に在っては、更に広大な社領を誇っていたのでしょう。
2015-12-19-16-13-00
この粟島(あわしま)神社と言うのは、淡路島を本宮とした神様なのですが、明治時代に成立した国家神道は伊勢神道をベースにして更に神仏習合の千数百年来の日本人の宗教観を否定しているので、国家神道の神話の世界観と、この粟島神社の存在がマッチングしないので明治時代には全国の粟島神社では似た御神威の少彦名(すくなひこな=一寸法師のモデル)を御祭りする事で存続を図りました。
本来の神様は淡島神(あわしまのかみ)なので、恐らくは淡路島を神格化した神様だったと思います。
2015-12-19-16-15-45
他にも沢山の摂社が鎮座しています。
どうですか?
由緒正しくて立派な神社でしょう?
もし、久喜市や古河や栗橋方面に出掛ける機会が有ったら、是非!御参りされて見ては如何でしょうか?

では!又、次の記事で御会いしましょう!








ブログネタ
旬なニュース速報 に参加中!
節分の季節ですね。
節分は太陰暦(たいいんれき)=農暦の名残で、アジア圏で今も続く春節が由来の行事です。
因みに今の日本の暦は太陽暦ですが…
農暦は農業を行うに当たり古代から指針とした暦(こよみ)の伝承ですね。
節分に鬼に豆をまいて追い払うのは、もしかしたら作物の種を植えた際に、畑荒らす鳥に炒って硬く消化悪く成った豆を食べさせて、満腹にさせて畑に蒔いた種を食べられるのを防いだりする為かな?
節分の豆巻きの由来は今となっては解りませんが…
農暦が伝承する様(よう)に神話や文化も現代に伝わる場所も日本中沢山有りますよね?

横浜市磯子区には、妙法寺と言う由緒有る寺院が有りまして…
門前の柏槇(ビャクシン)の大樹は「神奈川の名木百選」にも選ばれた御神木であり…
…その大樹がある事からも、何となく御寺の凄さが伝わって来ませんか?

実は此方(こちら)の妙法寺、御寺ではありますが日本武尊(やまとたけるのみこと)に関する神話の伝わる場所なんです。
門構えはこんな感じ…
門前の石柱が立派ですが、趣きは武家の小大名クラスの陣屋の様な印象の門構えです。
……何を隠そう、歴史好きは知っている伊豆山中城の戦いで大活躍した戦国武将の間宮豊前守康俊公の間宮家の菩提寺でもあるんです。
間宮家は戦国時代に小田原北条家に従い、北条家中で相模国国人(こくじん=在地領主)衆の筆頭として「相模十四騎筆頭」の栄誉を授かった家であると同時に、今の横浜市港南区と磯子区にまたがる広大な笹下城を拠点に杉田港を水軍基地として相模国武蔵国2カ国の北条水軍を統括した家なんです。

間宮家の話しの前に、先ずは冒頭で触れた日本武尊神話に話題を戻しますね。
御寺ですが、日本神話に関係が深いので、境内にはちゃんと神社同様に手水舎(ちょうずしゃ=手と口を浄める場所)も有ります…

この妙法寺、日蓮宗ですが開基は空海和尚=弘法大師なんです。
空海和尚は、どうも日本武尊神話を辿って関東の日本武尊の聖地を巡礼(じゅんれい=聖地を旅しする事)していた節(ふし)が有るのですが…

空海和尚は神話で日本武尊が此の地に立ち寄られたと伝わる事から、今の妙法寺の境内に日本武尊が信仰していた神道では素戔嗚尊(すさのおうのみこと)と同一視されている牛頭天王ですが…
牛頭天王の御社(おやしろ)を京の祇園精舎(今の京都の八坂神社)から空海和尚が勧進されたのが、妙法寺の始まりだそうです。 
上の写真、階段上の御堂が現代の牛頭天王舎です。
階段手前の左側には、日本武尊の奥様の弟橘媛(おとたちばなひめ)も祀られています。
因みに牛頭天王、仏教成立以前のインドの神様インドラ神が原型だそうです。
インドラ神は古代インド神話では天帝とも呼ばれ軍神で、少々破壊神的な側面もあったみたいです。
つまり荒神様ですね。
仏教では帝釈天なんて訳されたりもしています。
日本神話や仏教成立よりだいぶ早い紀元前14世紀には記録の有る神様だそうです。

ところで、この妙法寺のある場所に日本武尊が立ち寄られた可能性は実は本当に高いんです。
下の写真は走水神社です。

日本神話上、日本武尊は西暦110年に今の神奈川県三浦半島横須賀市の走水神社のある場所に立ち寄られ、そこから房総半島に渡ったと伝わっています。
神話に数百年前後して誤差が有ったとしても、日本武尊の称号で呼ばれた人物が関東に東征して来られた事は関東各地に神話通り郷土史が伝わっているので、まず間違いないでしょう。

下の写真は走水神社付近の空撮ですが…

走水神社前の湾の左側、御所ヶ崎(ごしょがさき)と呼ばれる半島が有ります。
今でこそ地続きの半島に成ってますが、当時は島だったはずです。
御所ヶ崎は走水の浦に浮かぶ島だった訳ですが、この島に日本武尊の御所が房総半島への渡航前に置かれていたそうです。
日本武尊の軍船は御所ヶ崎の反対側、写真右手の今は防衛大学の敷地の半島側に停泊してそこから出航したそうです。
※走水神社の記事は「ココ」←クリック!
神話の時代の弥生時代〜貴族の時代の平安時代までは今より海面は高い位置にあり、だいぶ内陸まで海だったんですよ…
逆に言えば、現代の津波警戒区域は海の底。

ほら、横浜なんて是(こ)れ此(こ)の通り半分は海の底…
港北区の綱島なんて、本当に「島」だった訳です。

日本武尊、実は走水からの房総半島渡航に一度失敗しています
これは走水神社の氏子さんから聞いた伝承ですが、出港後、東側に東京湾を突っ切り房総半島に渡るつもりが潮流に流されてしまい、ぐるっと回って走水に戻って来たそうです。
この神社を証明するかの様に現代でも、この海域は浦賀水道と呼ばれ潮流が酷く早い上に岩礁が多く危険地帯なので、外国船がこの海域を航行する際は専門の航海士が乗り込み操舵を交代すると、港湾業務関係者に聞いた事が有ります。

つまり、神話で日本武尊の船が流されたと言うのは信憑性が高い訳です。
さて、そこで杉田の妙法寺が関わって来る訳です。

今度は妙法寺の有る、横浜市沿岸部の地形を見てみましょう…
写真左手、妙法寺の周囲は断崖絶壁が続きます。
昔は海面が高かったので妙法寺裏から続く断崖絶壁は海の波に洗われていました…
この海岸段丘の断崖絶壁は何と三浦半島の付け根の金沢区〜中区の本牧半島の裏側、今の横浜中華街元町辺りまで続く長大な範囲でした。
この丘陵地帯は久良岐の丘と呼ばれ、横浜市成立以前の久良岐郡の地名の由来に成った場所でした。
実は浦賀水道は北西に流されてしまうんだと思います。
何故かと言うと、本牧半島の先には大岡川・帷子川・鶴見川・多摩川・隅田川の河口が狭い範囲に集中してあります。
この大河川は神奈川県部分は西側から東向きに、東京部分は北西側から南東向きに東京湾に注ぎ込みます。
その流れの影響で潮流は房総半島の富津でぐるりと反射し西向きに流れるはずなんです。
この潮流、つまり富津岬の西の先が、正に今の横浜市磯子区杉田辺りに成る訳です。

明らかに富津岬にぶつかる潮流で砂洲が出来てますよね?
その流れの先は正に妙法寺の在る磯子区や金沢区六浦辺り…

現代の地形で当てに成るか分かりませんが、日本武尊神話の弥生時代の人が行動開始したであろう日が昇って来る早朝の東京湾の潮流は調べたらこんな感じでした。
予想通り、満ち潮で東京湾に流れ込む海流は浦賀水道付近から北西向きに流れています。
満ち潮の時間帯、弥生時代の手漕ぎ船では走水から北西に流されて富津には辿(たどり)りつけないですよね〜。

もう一度東京湾の写真を…
日本武尊一行の船団が走水から東に向かうつもりが北西に流された場合、当時、上陸や停泊可能な場所は限らていたはずです。走水以北で上陸可能な地点は弥生時代の貝塚の分布する場所のみ となる訳ですが…
それは、金沢区の夏島と野島、昔の六浦湾、磯子区の杉田妙法寺の付近、屏風浦、南区に有った蒔田湾三殿台付近、横浜市の地名の由来に成った中区関内に有った横浜と言う小さな半島付近、海だった頃の港北区の小机湾鳥山〜小机町か対岸の神奈川区に有った亀甲山や浦島町、川崎市高津区子母口の橘樹神社辺り…
この中の何処(どこ)かに成る訳です。
…まぁ、全て日本武尊伝承と浦島太郎伝説や佐賀牟国造の乱の関係地域でも有る場所ですね〜。

この内、南側の夏島や野島に上陸しても陸路で走水に帰れないので夏島野島は日本武尊漂流後の上陸地点では無いでしょう…
付近は昔は断崖でしたしね。

又、北西に流された場合、磯子区中区方面に行き着きますので金沢区六浦湾には入港出来なかったかも知れません。
実は妙法寺の伝承通り、妙法寺境内の付近、又は屏風ヶ浦一帯こそ、古代の杉田付近では地形的に上陸可能だった場所の可能性が高いと思うんす。
貝塚も出土してますし。
妙法寺説は写真を見て頂くと解り易いです…
周囲は断崖絶壁なんですが、妙法寺の墓地や牛頭天皇社に成ってる西側裏山だけが緩やかなんですよ。
ここからなら上陸可能ですよね。

だからこそ、日本武尊神話を調べた空海和尚は実際に久良岐郡を歩いて回り、現在の妙法寺の境内の場所が日本武尊の立ち寄られた所と当たりを付けたのかも知れませんね。

ちなみに日本武尊は漂流し走水に戻ると、東京湾の潮流を鎮める為(ため)に奥さんの弟橘媛が入水自殺し人柱と成る事で、渡航に成功したそうです。

では弟橘媛様の神話に踏まえ…
なんで入水し人柱に成ったら渡航出来たかですよね。

古代人は天照大御神=太陽神を信仰していたで、太陽が昇ったばかりの早朝から人柱の儀式が執(と)り行なわれたとして、昼に出航したら潮流はどうでしょう?
う〜ん!ビンゴ‼︎
この潮流なら東を目指せば富津に辿りつける訳です。
つまり2回目の渡航は、太陽信仰の古代日本人達の朝から行動開始する習慣が有ったとしたら、弟橘媛様の入水儀式を執り行う事により出航時間を遅らせれたので潮流に阻まれず、昼頃の穏やかな状況で渡航出来たんじゃないかなと思います。

つまり、伝承通り最初の渡航失敗時に日本武尊は弟橘媛様とご一緒に杉田に立ち寄られた可能性が有ると思います。

弟橘媛神話は以前、橘樹神社の記事にも書いたので、そちらを御覧下さい。
※橘樹神社の記事は「ココ」←クリック!

妙法寺と日本武尊の伝承の検証如何でしたでしょうか?
ひとまず日本武尊神話は、この辺りまでにして…
次は室町時代〜戦国〜江戸時代の妙法寺の話をしたいと思います。

冒頭で触れましたが、この妙法寺さんは戦国武将間宮家の菩提寺です。
境内には歴代殿様の御廟所には巨大な石塔群が現存しており、誰でも御参り出来ます。
墓石を写真に撮るのは不敬なので、今回も載せませんが、皆さん、参拝されたらビックリすると思いますよ!
人の身長程も有る歴代殿様の石塔が沢山有りますからね。

因みに戦国時代、間宮家の軍港だった杉田港、現代ではIHIが自衛隊や米軍の艦船を整備するドックが有ったりします。
この様な軍港を任され北条水軍の中核を担った上に鎌倉の最終防衛ラインに成る大城郭笹下城を任されていた事からも、間宮家が厚く信頼されていた事が判りますね。

間宮家の属した部隊は北条軍の中で5分割され色分けされた「五色備え」と言う軍編成の内、関東最強の武将北条綱成(つなしげ)公が統括した「黄備え」と呼ばれる部隊でした。
その辺りの事も北条綱成公と間宮家の関連の記事にしてあるので御覧下さい。
※北条綱成公の記事「ココ」←クリック!
※笹下城の記事は「ココ」←クリック!

笹下城主間宮家で一番有名なのは間宮康俊公です。
小田原北条家最強の武将北条綱成公の黄備部隊副将でした。
豊臣秀吉の小田原攻めの際、伊豆山中城に籠城。部隊長の北条氏勝公を撤退させた後、秀吉軍本隊8万の先鋒隊2万6千を、 たった200人前後の手勢で迎撃しました。
※下の写真が山中城(借り物画像)

伊豆山中城外郭の袋崎砦で秀吉軍先鋒隊の先陣中村隊・山内隊・堀尾隊・一柳隊など秀吉の有名家臣達を大苦戦させた末に、一柳直末(いちやなぎなおすえ)を討取る等の大活躍をして御子孫は徳川家康公の旗本として登用されました。
江戸時代の杉田玄白と間宮林蔵は、その子孫です。

そして、もう一人有名なのが、杉田梅林と言う広大な梅林を築いた間宮信繁公です。
この事は妙法寺にも碑文があり、説明を読む事が出来ます。
昔は梅林を見学に来る江戸からの観光客で栄えたそうで、明治時代には明治天皇や皇族方も度々行幸されて見学にいらっしゃったそうです。

杉田梅林は高度経済成長期に無碍な宅地開発で消失てしまいましたが…
妙法寺には今も梅が植林されて、往時の風流さの名残りを今に伝えてくれています。

今の神奈川駅辺りや本牧半島から船でクルージングして屏風浦と梅林の絶景を船上から見学した後、杉田聖天川に有った桟橋から上陸し梅林を散策するのが当時の江戸からのツアーコースだったそうです。

近郊の「峰の灸」ことお灸治療の総本山、円海山護念寺に行く人も多く、その行列は昭和初期まで蟻のよう沢山の人だったと、峰地区の白山神社の御近所の翁から聞きました。
※護念寺の記事は「ココ」←クリック!

残念ながら、間宮の殿様の笹下城は今年、本丸遺構の切岸も野村不動産の宅地開発で消失します。
円海山の蛍が見れる自然も東急グループにより破壊されようとしています…

せめて私達だけでも、横浜市や周辺の発展に寄与して下さった先人達の偉業や残して下さった文化や歴史を後世に伝えて行きたいですね。

では皆さん、又、次の記事でお会いしましょう!

↑このページのトップヘ