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カテゴリ:歴史偉人 > 古代(神話〜奈良時代)

前回の磯子の夜景の記事でベイサイドマリーナで撮影した2020年08月04日の満月の写真を載せた時に少し指摘した事なんだけれど・・・
陰暦の睦月の起点を太陽暦の1月に当てはめると漢字の意味が整合性が無くなり大混乱します。
和暦は旧正月を起点にし陰暦で用いないと意味が無いんです。
前回コンナ⤵事書いてました。
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お月様メチャ奇麗ね~!
イケメン!
「何でイケメン?」と思った人は欧米の文化を基準に生活してらっしゃる方かセーラームーン見て育った世代の女性でしょうか?
ギリシャ神話では月の神セレーネとアルテミスは女神様ですが、日本神話では御月様は太陽神の天照大神の弟神の月読神とされています。
月読は読んで字の如(ごと)く、日本は米国に開国させられる迄の暦(こよみ)はアジア諸国と同じ陰暦だったので昔は月を基準に生活していたんですね。
欧米諸国は太陽暦で、現在の日本は明治時代以降に太陽暦を導入し、中国の春節と同じ春の節分を行う春分が本来の“迎春”だった訳ですね~。
コレ⤴だけだと・・・
「ちょっと言いっ放なしで不親切だ」
・・・と思ったので
何が問題なのか解説を追記したいと思います。

歴史と長文嫌いな人は、ここで読むのを辞めて逃げて下さい(笑)。

今の日本は太陽を基準にしてカレンダーの日付を作ります。
しかし本来の日本はアジア諸国と同じで陰暦で1年の行事を行っていましたが現代では意味の有る旧暦は廃(すた)れてしまい、例えば睦月=太陽歴の1月と誤解している人もいます。
本来の和暦を陰暦で見れば漢字の意味で何で年始が睦月で何で年末が“しわす”と言うのかスッキリ解ります。
因みに師走の通説は間違いでしょう。
日本人は暦(カレンダー)の決め方すら長い歴史の中で数回変更している事を古代史で解説したいと思います。

まず睦月は和暦1月と言う表現で本を書いている人がいるから誤解を産む。
睦月は1月でなく睦月は睦月です。
陰暦の睦月でしかありません。 
閏月があるので太陽暦の12分割には当てはまらないんです。
陰暦と太陽暦は、そもそも元日の始まる時間軸から全く異なる別物です。

そして中国由来の陰暦導入以前の古代日本では1年を6ヶ月で区切っていたんですね。だから昔の事を現代の標準で話すのは根本的に無理な訳です。

先ずは写真を見て下さい。
冬に海ほたるPAの朝陽
満月の相模国一之宮寒川大社。
海ほたるの日の出と寒川大社のスーパームーン 久良岐のよし
当たり前ですが、太陽は昼に、月は夜に昇り二つは全く別物!
月と太陽をそれぞれ観測し暦を作り比較すると時間軸にズレが生まれ違う結果に成ります。
それが現在の元日と旧正月の差です。

イスラム圏ではキャラバン(商隊)が交易で長い長い距離、砂漠を旅する際に月と星の位置から現在地を割り出して次の目的地まで通う道標(みちしるべ)としました。
だから今もイスラム圏は月と星を重視していて国旗の意匠(いしょう:デザイン)に取り入れてる国が凄く多いですよね。
トルコ共和国トルコ
シンガポールマレーシア
パキスタンパキスタン
トルコの様な日本の無二の親友国も、マレーシアの様に成長目覚ましい国も、日本とは微妙な関係のパキスタンも、色んな国がイスラム教の考えを重視して国旗に取り入れてます。
極東アジアではイスラム教とは関係なく、月を観測して暦を区切っていました。

中国や台湾では陰暦の事を“農歴”と言い、作物の栽培の為に天体観測をして季節を定めていたので根本的に陰暦は季節感と切っても切り離せません。しかし農歴=陰暦には欠点もあり太陽暦よりも時間の誤差が生じるので、昔は閏葉月、つまり現代の感覚だと7月の延長期間が設けられたりしていました。
なのに1年間を12分割し今の1月1日が起点の太陽暦で決めた西洋由来の暦の月の区切りに対して、陰暦の睦月の名称を当て嵌めるのは根本的に成立しない訳です。
ついでに言えば中国文化が導入されるより更に古い時代の日本ではどうも12ヶ月で1年ではなく6ヶ月で1年としていた事が考古学的に解かって来ています。
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ですから今も日本の神社では夏越大祓と冬越大祓、2回に分けて行います。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が伝えて下さった祝詞(のりと)を唱えながら悪い物を切り裂く茅の葉で作った茅の輪を3回くぐる事で、半年間の自身の業(ごう:カルマ)により溜(た)まった心身の穢(けが)れを素戔嗚尊の御神威で払い清め、長寿健康と心の洗濯を行う季節行事として半年1年区分の古い時代の名残に現代人も触れる事が出来ます。

本当にそうなの?と思いますよね?
小生も思った事が有ります。

日本の歴史を見るには歴代天皇の寿命を見ると古代の時間軸が良く解ります。

   伝承没年齢 → 1歳=12ヶ月変換
神武天皇 127歳 → 63.5歳
綏靖天皇   84歳 → 42.0歳
安寧天皇   67歳 → 33.5歳
懿徳天皇   77歳 → 33.5歳
孝昭天皇 114歳 → 57.0歳
孝安天皇 137歳 → 68.5歳
孝靈天皇 128歳 → 64.0歳
孝元天皇 116歳 → 58.0歳
開化天皇 111歳 → 55.5歳
崇神天皇 119歳 → 59.5歳
垂仁天皇 139歳 → 69.5歳
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
履中天皇   70歳 → 35.0歳
反正天皇   75歳 → 37.5歳
允恭天皇   78歳 → 37.5歳
安康天皇   56歳 → 28.0歳
雄略天皇   62歳 → 31.0歳

この寿命の比較は後で解説しますが、差異を再計算すると面白い事に神話と考古学に整合性も出て、伝承を現実的に再解釈すると、途端に物凄くリアルな歴史の話に変わって来たりします。
中国文化を導入したと伝わる応神天皇と、中国の学問を学んだと伝わる仁徳天皇と菟道稚郎子御兄弟の次世代、履中天皇の世代から古代日本の6ヵ月=1年の暦が破棄され年齢の加算が12ヶ月=1年に成っている事が一目瞭然ですね。

日本の天皇家は公称でスタートしてから西暦2020年時点で
2680年継続しているとされています。
“天皇”の尊称を用いるのは天智天皇からです。白村江の戦で唐帝国と国交断絶して以後に成立した尊称です。
それ以前の時代の歴代天皇の尊称は大王(おおきみ)でした。
つまり、天智天皇以前の天皇の称号は、飛鳥時代以後に後から追贈された天皇号です。
例えば応神天皇の本来の和名は大鞆和気命や誉田別尊と言われ複数名前を変えていた様です。
応神天皇は古墳時代の天皇です。
弥生時代~古墳時代は日本では卑弥呼が活躍した時代です。
中国では漫画“キングダム”の秦の始皇帝や“赤龍王”の項羽と劉邦、横山光輝が漫画化した吉川英治の小説“三国志”の曹操・劉備・孫権の生きた漢帝国や晋帝国の時代に相当します。
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横山光輝三国志は平成一桁の生まれの人はギリ“三国志大戦”で知ってる人もいるかな(笑)?
日本の旧暦は中国から古代に導入された文明の一端ですが、漢の時代と日本の古墳時代の武装を比較すると日本は中国の影響を受けているのが一目瞭然です。
前漢時代の鎧
画像掲載元⤵
https://vitomag.com/military/gayow.html
これは中山靖王劉勝、つまり三国志の主人公に成る劉備玄徳の御先祖様で紀元前100年頃、正に日本の神話の時代に相当する人物の古墳から出土した甲冑の復原品です。小札(こざね)を皮鎧に赤糸で威(おどし)し編み付けた精巧な鎧ですね。中国が漢朝の時代、我々日本人の御先祖様は金属器は未だ少なく、一部の北九州や出雲地方で青銅器が使われていましたが、弥生時代の兵器は石斧や石鏃つまり石で作った刃物しか汎用されていませんでした。
下は古墳時代の日本の豪族の鎧で挂甲(けいこう)と言いますが、前漢の時代の鎧と構造が酷似していますね。
挂甲
画像掲載元⤵
https://costume.iz2.or.jp/costume/559.html
古墳時代に成っても金属鎧は豪族の王の古墳などから出土する程度でとっても高級品でしたが、西暦300年~500年頃の古墳時代の鎧に成って漸(ようや)く紀元前110年の漢帝の皇族である劉勝サンの鎧とデザインやクオリティが似てきます。
古墳時代の埴輪は甲冑を来ていますが、中国の甲冑を導入して改良を加えている事が判ります。
恐らく女王卑弥呼サンと臺与サンの時代に三国時代の魏の皇帝曹叡と
丞相司馬懿に邪馬台国の使者が曹叡の亡くなる1年前に謁見している事が三角縁神獣鏡に彫られている景初三年の元号から判(わか)りますが、魏の同盟国に成った際に様々な金属加工技術を技術供与され、そのまま魏の挂甲の軍装の設計が古墳時代の人に少しだけ改変されて形をほぼ変えずに使い続けられたんでしょう。この挂甲は上下にも伸縮するので騎乗した武者が着用するのに適した構造に成っており、恐らく弥生時代の終わり頃には九州や中国地方に馬も輸入されて軍馬の生産が開始されていた事が判ります。
下は昨年、上野の国立博物館で開かれた三国志展で展示されていた中国三国時代の古墳の副葬品です。
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三国時代の中国の古墳から発掘された工芸品の精巧さ、金属加工技術や宝石も当時の日本とはとてつもない技術力の差を感じざるを得ません。
更に驚愕するのは当時の中国の家屋を模した土器の建物は瓦葺屋根で2階建てや3階建ての御屋敷で、現代の京都の祇園とかに有ってもおかしくない外観。しかも今の神社建築が中国文化の影響をふんだんに受けている事が判る極彩色で、なんと残飯や人間の出す屎尿を利用して庭で養豚してる様子まで土器に作られていました。
そんな三国時代の魏から技術供与を受けた邪馬台国が今度は卑弥呼の没後に内紛が再発してしまい、女王の再登板が必要な事態が起きて臺与(とよ)ちゃんが出て来る訳ですが、その卑弥呼サンよりもチョビっとだけ早く中国との交流が始まっていた事が福岡で出土した金印の存在から判ります。

漢委奴国王印(
福岡市博物館所蔵 )
画像掲載元URL⤵
http://museum.city.fukuoka.jp/gold/
漢委奴国王印
この金印の“
漢委奴国王”を学者サン達はアレコレ深読みして邪馬台国近畿説と北九州説の論争の具にしていますが、小生は普通に“漢(皇帝)が奴婢の国の王に委(ゆだ)ねる”としか読みようが無いんですよね。
当時の日本は先程の武装の製造技術でも分かる通り未開の地でしたから、当然中国から見れば奴婢=野卑な蛮族の土地にしか見えなかったでしょう。
この金印は建武中元二年(西暦57年)に有名な中国の光武帝劉秀から贈られた物です。
ここで遅くともこの時代に中国文化の影響が日本に入り始めた事が判(わか)ります。

実は日本神話と中国の史書にかかれた古代日本の記述に、太陽暦だけでなく古代日本の暦の概念を当てはめると、面白い様に神話と中国古代史に登場する日本の歴史が符号したりします。

神奈川県~千葉県には倭建(ヤマトタケル)が東征に来ていた事が古事記や各神社仏閣の伝承に残ります。
三浦半島の走水に滞在した伝承が今でも有り太陽暦で逆算すると西暦2世紀の1月に当たると伝わります
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つまり関東地方に大和朝廷の国としての統治機構を設置しにいらっしゃった訳です。
卑弥呼達よりちょびっと早い時代の話に成りますが、しかし小生は神奈川に来た倭建は卑弥呼の時代の人だと考えています。

それは天皇家の寿命の解釈が間違って伝わってると思っているからです。
そこで、夏越大祓/冬越大祓の所で話題にした“昔は1年が半年だった”と言う事が関係して来る訳です。

では先ずは倭建と卑弥呼が何故同時代の人と思うのか、ちょっと当時の状況を整理してみましょう。

【卑弥呼】
倭姫=倭建の叔母で伊勢神宮の斎王
当時の伊勢神宮は今の三重県の伊勢神宮ではなく、まだ旧丹波国の元伊勢神宮だったかも知れない。
※斎王の原型が一代限りの女王職で神職の女性長官でしょう。
※斎王と同じく当時の女王は未婚の皇族から選ばれる、女性上位だが世襲ではなくローマ法王の様に大凡(おおよそ)の意思決定だけする神職に徹した歪(いびつ)な女王統治の社会と推測出来る。
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写真は伊勢神宮と同じく平安時代初期以来~室町時代迄の期間、皇女の斎王が祭祀を司る斎宮が置かれていた京都市の下鴨神社。
室町時代の足利家は宮中儀礼を軽視する政権だったのは有名で、斎宮は消滅したまま放置されました。
室町時代以前には下賀茂神社~伊勢神宮を斎王が季節ごとに往来したのが現在の京都の葵祭の原型に成っていて、下鴨神社の斎王は戦後に祭りの中で代理の女性が選出される形で名前だけ復興されました。
現在は三重県の五十鈴川沿いが伊勢神宮と呼ばれていますが、元々は丹波国の元伊勢神宮が置かれていました。
今の京都府に組み込まれている地域が宗教的にも当時の重要な地域だった時代が有った様です。
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※百度より画像転載
三国時代の魏皇帝が曹叡だった景初二年(238年)に遼東半島で公孫淵が魏朝に反逆し公孫淵に呼応した朝鮮半島の部族集団も加わり大規模な反乱に発展しました。魏の丞相司馬懿は兵を率いて北伐して公孫淵を討伐すると、公孫氏に横領されていた元々漢帝国の領土である楽浪郡~帯方郡を取り返し漢朝から政権を禅譲され引き継いだ魏朝の直轄地と成りました。
当時は古代中国人の歴史認識で倭国の一部だった朝鮮半島南部を経由して~帯方郡~楽浪郡~魏の首都洛陽に卑弥呼が朝貢(従属同盟)の使者を送っています。
“韓国北朝鮮の独自歴史解釈”を除いて東洋史の常識として楽浪郡帯方郡を含めた朝鮮半島には当時は朝鮮の統一王朝どころか朝鮮族もまだまだ存在しておらず、部族の首長が割拠していた状態で、そこを“漢帝国が帯方郡・楽浪郡を朝鮮半島に置き支配”していました。
なのでソウルは数年前に首尓と無理矢理漢字表記を変える以前には“漢城”と書いていましたし、今でも中国・台湾・香港は一般的にソウルを漢城と書きます。
又、中国の歴史書を見ても当時の“朝鮮半島南部は倭人(日本)の土地”と認識されており史書にも記録されています。
漢の時代から朝鮮半島では地元の部族が度々太守を殺害し反逆する等、魏にとっても害悪な地域だったので、卑弥呼が魏に冊封を求めて来た朝貢は軍事同盟としても朝鮮半島の土着豪族を背後から牽制するのに心強いWin-Winの同盟関係だった事が理解できます。
実際に司馬懿が卑弥呼との同盟の事を大変に喜んでいた記載も残ります。

【卑弥呼に唯一会える男性】
景行天皇=倭姫の兄弟で倭建の実父。倭姫が卑弥呼なら実質的に政務と軍事を司った“首相”の役割を果たしていた事に成る。
この頃の卑弥呼が当時の標準寿命の60年前後生きたとしても景初二年(238年)に魏に使者を送った当時には成人して国家元首に成っていたはずなので、少なくとも年齢は昔の成人年齢15歳以上で卑弥呼は290年頃には亡くなってるのでしょう。
247年の3月と9月に日蝕が発生しているので、天照大神の化身として権威を持っていたであろう卑弥呼(ヒミコ=日巫女)は少なくとも25歳以上に成っていましたが、大陽の化身を祀る存在だったので宗教的な求心力を失ったかもしれませんね。
卑弥呼以死大作家径百餘歩殉葬者奴婢百餘人
卑弥呼サンが亡くなって大墳墓が造営される様子が記録されていますが、死亡時期の記載は無くヒントも有りません。彼女が倭姫と同一人物だとすれば倭建の東征に力を貸す役割が残っているので、政治的な権力は失っても斎王として権威は持ち続けもう少し先まで生きたのかも知れません。
いずれにせよ卑弥呼さんは247年の日蝕で死んでいなくても、同一人物と思われる倭姫は太陽信仰の天照大神を祀る斎王だったと記録が有るで、日蝕により信頼を失い女王としての役割に抑えられ、中国風に男系男子が皇帝として国を取り仕切る制度に移行し卑弥呼さんの役割は宗教だけの斎王に抑えられたのかも知れませんね。
天照大神の神話に天照大神の憑代(よりしろ)である卑弥呼の話自体が習合されて伝わっている可能性が有るので、天岩戸神話は当時の日蝕と天照大神の失脚もしくは蟄居を比喩した伝承と考えると神話に現実味が吹き込まれて政争の話に変わりますね。
実務を執り仕切っていた景行天皇の権限が強くなり卑弥呼から宗教よりも強い決定権を禅譲されたかも知れない。もしかしたら、宗教的な求心力を失った卑弥呼は責任を感じて自害したかも知れない。
臺与まで景行天皇~成務天皇~仲哀天皇と三代は、魏志倭人伝の“男王の時代に再び倭国大乱と成った”記載とも合致してきます。
魏の滅亡は265年その政権を重臣司馬懿の一族に奪われ晋が建国されます。
晋朝は家祖の司馬懿が邪馬台国支持者だった上に朝鮮半島の諸部族に対する牽制に邪馬台国は必須です。
晋からすれば卑弥呼だろうが実弟の景行天皇だろうが晋にとっては邪馬台国が纏(まと)まる事の方が状況的には重要で、晋から見れば女王でも男王でも実力が有れば良く、司馬氏一族にとっては倭国が纏まらず朝鮮半島を挟撃出来る状況が整(ととの)わない事の方が問題だった訳です。
なので倭国の動向をずっと注視していた事が判る一文が魏志倭人伝に記載が有りますね?
この文章の情報は魏の倭国の支援を担当した帯方郡勤務の軍人である張政サンの報告だと思います。
卑弥呼以死大作家径百餘歩殉葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千余人復立卑弥呼宗女臺與年十三為王國中遂定政等以檄告喩臺與
この文章を解り易く砕けた武州弁に翻訳してみます♪
いやぁ~卑弥呼サン死んじゃってさ~!デッカイ家(古墳)作ってさあ~、直径100歩位の!
殉死者は奴隷(恐らく宮廷の女官か巫女)100人位だってョ!
更に後釜に男王に成ったんだけどさ、これが国全体に不人気で支持されなくてよぉ~。
(就任)当時に千人位(の豪族)で御互いの主張で殺し合いに成っちまってよ~。
しゃぁ~ねぇ~から又さ卑弥呼の親戚の女の子連れて来てヨ、十三歳なんだけど女王に就任してもらってよ!
そしたら、やっとこさ国中の混乱落ち着いてよ!
ウチから出張してる塞曹掾史の張政達が臺与チャンに演説で励ましてやったんだけどな。
つまり卑弥呼が倭姫だとすると卑弥呼が亡くなってから景行天皇が王に就任したけれど男王じゃ全く纏まらず、恐らく倭建と政務天皇の後継者争いの問題だと思いますが、その時に其々(それぞれ)を支持する派閥の豪族が1000人も暗殺や粛清し合って、卑弥呼サンの存在で纏まってた邪馬台国=大和朝廷が又荒れちゃったみたいですね。
本当に男ってバカ。
更に張政サンは帯方郡から出張して来てた魏の塞曹掾史と言う役職の軍人で、どうやら見るに見かねて卑弥呼サンの一族で才能有りそうな人材の臺与ちゃんを発掘してきて説得して女王に成って貰ったみたいな展開だった様ですね。
304年頃から劉淵の一族が晋国内で反乱を起こしまくって混乱を起こしているので、本来なら邪馬台国に朝鮮半島から北上して、帯方郡と楽浪郡を経由して今の北京辺りまで援軍を寄こして欲しかったのが晋朝の意図する所だったの思うのに、何だか知らないけど卑弥呼サン亡くなった後で景行天皇が継いだら成務天皇と倭建を支持する派閥に豪族が割れちゃって、全然ダメダメになっちゃったみたいですね。
そんで・・・
「男駄目なら元の女王に戻しちゃえよ!」
・・・って張政サン達が怒って、卑弥呼(倭姫)の跡継の臺与(神功皇后)を発掘して来た様です。
下は当時の天皇の寿命で、後で他の天皇と合わせて比較しますが、年齢左側が1年を6ヵ月換算で記録されていたであろう没年齢の記載、右がそれを1年を12ヶ月で再計算した没年齢です。
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
これを見ると当時の混乱の様子がうかがえます。
実績を上げた兄の倭建ではなく、何にもしてない弟の成務天皇が後継者に成り、更に成務天皇が倭建の遺児の仲哀天皇を後継者にせざるを得ない状況が発生し、その跡を継いだ仲哀天皇が不審な短命で亡くなっている一連の不可解な権力移譲の様子を忖度無しに簡潔に書いているのが張政さんの報告なんでしょう。
更立男王國中不服更相誅殺當時殺千余人
この一文ですね。
どうやら三国志の著者の陳寿さんが存命中に発生した事件の当事者の様な報告内容なので、魏に仕えていた張政さんも陳寿さん同様に晋にそのまま仕えたみたいですね。
しかし景行天皇の時代の歴代天皇の寿命を“1歳=6ヶ月”の換算で数えでは、遅くとも三浦半島走水神社の倭建命来訪の伝承が西暦109年に成るのと比較して、史実の卑弥呼の時代とは誤差150年前後が発生する事に成ります。
これが先程、景行天皇達中国の暦導入以前の寿命を昔のまま6ヵ月計算した誤差だとすると、中国文化制度を本格的に導入した伝承の有る応神天皇―仁徳天皇以前の天皇の寿命を古代の1年=6ヵ月→12ヶ月に変換するとピッタリ景行天皇=卑弥呼の時代と整合します。

【再び倭国大乱に陥った原因の男王】
成務天皇=倭建の異母弟。
成務天皇は立太子され大王に成りましたが先代の景行天皇には他にも倭建等の子息がいた上、彼等は異母兄弟であり更に双方の母はそれぞれが異なる豪族の姫でした。
普通に功績を上げたのは倭建の方なので景行天皇の跡継ぎに関して望むと望まざると後継者争いが勃発するでしょう、それが魏志倭人伝に有る、卑弥呼の後に男王が就任したが再び世が乱れたの記載だと推測出来ます。
卑弥呼(倭姫)の跡を継いだ景行天皇が就任した時は混乱なく天寿を全うしている様ですね。
恐らく卑弥呼(倭姫)の跡を景行天皇が継いだ時はずっと補佐をしていた実力も有って纏まったみたいです。しかし子供の代で後継者争いが発生してしまった様です。
東征を無事に終えた倭建は恐らく戦争らしい戦争にすら成らず武威と統治能力で地方の郡衙(ぐんが:市役所みたいなの)と兵站(へいたん:補給網)となる駅=店屋(てんや:駐屯地)の設営に成功して凄まじい武勲を立てた後で暫く後の四道将軍や鎌倉公坊に似た役割で東日本に駐留していたんでしょうね。
父大王の景行天皇の危篤か崩御の一報が有り、重臣引き連れて東山道から帰還しようとし、関ヶ原を経由して畿内(関西)に入ろうとしたんでしょう。
来る時に通った東海道の海路や薩垂峠は焼津で焼き討ちされてるから二度と通りたくないでしょ(笑)。
ところが東山道を進んだら今の神話で伊吹山の神と表現される土地神(かみ:督=豪族)に軍事的に阻止され、倭建は武装せず敵対心が無い事を示して説得に行ったら、暗殺未遂で外傷を負ったか毒を盛られたかは解りませんが重症を負った様です。
二俣川で討死した畠山重忠公みたいな状況。
普通に神話を現実的に解釈すればそうなるし、美濃国~近江国境でそれを画策出来るのは只1人、成務天皇だけでしょう。
成務天皇の母は美濃の豪族の娘で八坂入媛(やさかいりひめ)ですから、異母兄の倭建を排除しないと自分が廃嫡されるか、既に景行天皇が崩御されている状況だったなら最初から後継者争いが起きる前に母方の豪族の協力を得て倭建の帰還を阻止したと考えられます。
最悪、倭建(ヤマトタケル)が立太子された嫡子だったのに、景行天皇が崩御した直後に成務天皇派は倭建の不在を好機として自派で武力クーデター起こして朝廷を制圧したか、存外、東征に参加が許されず朝廷に待機し武功をあげれなかった西日本九州の豪族王達から成務天皇は支持されたのかも知れませんね。
実際、東日本に開拓に入ってた豪族の苗字は各神社の伝承に残りますが九州系は皆無・・・
磯長国造(五十猛?)・鈴木・紀=熊野系(諏訪神系?)
古墳時代~奈良時代
((根国・狗奴国)→駿河~伊豆~相模西武(磯長国)・武蔵東部(橘樹郡・都築郡))
大伴=大鞆
古墳時代~鎌倉時代(神職化)
(摂津住吉郡・相模三浦郡~武蔵橘樹郡=佐賀牟国)
日下部
古墳時代~飛鳥時代
(高座郡南部)
丸子・小野=和迩
古墳時代~平安時代
(相模愛甲郡~相模高座郡~武蔵荏原郡=佐賀牟国→前九年後三年の役頃に東北に移住か?)
下毛野・上毛野・坂田=毛野
古墳時代~平安時代
(上野国・下野国・相模足柄郡・近江坂田郡)
笠原・布施=諏訪神族
古墳時代~奈良時代
(武蔵南部~相模東部~相模中部=佐賀牟国→武蔵と相模に分裂?)
若光=高句麗王族
飛鳥時代
(相模餘綾郡・武蔵高麗郡)
・・・ざっとこんな感じで、それ以後は桓武平氏と河内源氏が支配者として赴任定着しており、唯一九州と無理矢理結び付くのは大伴家=佐伯一族のみ。
天智天皇も天武天皇も後白河法皇も後醍醐天皇も後の天皇家も皇族間で権力闘争を行っている歴史事実から、この大王(天皇)家と各親派の政争→軍事衝突として見た解釈は極自然でしょう。
ウチの某国造系先祖もず~っと室町時代まで似た様な事してたし(笑)。
倭建を陥(おとしい)れた伊吹山の神とは美濃の豪族である成務天皇の母方勢力の軍勢を率いた人物でしょう。
倭建が丸腰で美濃の豪族王(伊吹山の神)を説得に行ってるのは、状況的に自分がそれを出来る“地位を既に景行天皇に与えられていたから”つまり本来の皇太子は倭建の方だったかもしれませんね。
いずれにせよ倭建は重症を負い、更に関ヶ原通過を諦めて、鈴鹿の関所側に遠回りして畿内に帰還を試みながら死亡しています。
この政争は神功皇后が出るまで続いた様で、更に後の時代の筑紫の国造はじめ邪馬台国黎明期の功臣である北九州の諸豪族が大和朝廷に反抗的に成るのは、この頃に成務天皇派についた事で仲哀天皇の代に政治体制から北九州の豪族が排除され関西優位化が進んだりした可能性も発生して来ます。
神功皇后は自分達とパイプの太い卑弥呼の一族だから成務天皇派は矛を納めたのに、倭建の皇子の仲哀天皇とまさかの婚姻関係に成り、北九州の諸豪族の既得権が失われた事が古墳時代~飛鳥時代の北九州勢力が大和王権に楯突く原因としてシコリに成った可能性が有ります。
香椎宮とか、元は伊都国とかの首府だったんじゃね?とも思ったり。
成務天皇は不可解に倭建の実子の仲哀天皇を後継者指名しなければいけない状況に成り、それでも国が纏まらないので張政サン達が卑弥呼サンの親戚で13歳の臺与ちゃんを見つけて来て卑弥呼さんの跡継の女王(斎王)に成って貰い、再び混乱しない様に仲哀天皇と結婚させて倭建の遺臣達の派閥を納得させるしか無かった、この一連の騒動が中国側の歴史記録や当時の天皇の寿命から読み解けたりする訳です。
成務天皇の業績とされている地方の政庁の整備は、どっからどう考えても日本中を転戦した倭建=日本武尊の功績が大王に就任した成務天皇に横領されていると考えた方が自然でしょう。
そりゃ~、東日本の地方豪族達は成務天皇を支持出来ないでしょうね。
そんでも和睦する為に仲哀天皇を跡継ぎに指名する条件を出したけど、成務天皇派は倭建派に権力が集中するのを成務天皇派が恐れたのか、仲哀天皇は他の天皇と比較しても異常に短命な26歳で亡くなっているので、神功皇后が応神天皇を妊娠した段階で暗殺されてしまったのかも知れませんね。
倭建派が主流に成るのを恐れた勢力がいたとしか状況的には考えられません。

【男系王朝が上手く行かず、一代女王(斎王)に就任した人物】
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写真は神奈川県大磯町の高麗権現社(現:高来神社)、昔は裏山の高麗山の上に社殿と僧坊が広がる神仏習合の修験道の聖地で、元は神功皇后の朝鮮征伐の際に倭国に服属した朝鮮半島からの帰化民が周辺に定着し神功皇后を御祭神に祀る神社。百済滅亡時も百済王族の若光が関わった場所でも有る。
神功皇后=臺与。景行天皇と倭姫を卑弥呼の記載に当て嵌めると、丁度時代的に神功皇后に合致する。
神功皇后は仲哀天皇の皇后で、景行天皇が西日本を再統一した卑弥呼の世話をする男性(男王)だとすれば、神功皇后は景行天皇の二世代後の西暦300年代後半位の人物と成る。そうなると正に広開土王碑文の年代と整合性が出て来て極めて神功皇后と臺与が同一人物の可能性が高く成る。
神功皇后がピンチヒッターとして当番せざるを得なかった理由も当時の天皇の年齢を1歳=6ヶ月で換算すると・・・
仲哀天皇の崩御年齢が53歳 →26.5歳となるので、まだ跡継ぎが幼齢だった為に皇后が大王代理を勤めるしか無い状況に陥っていた事も解る。
仲哀天皇は成務天皇に殺害されたであろう倭建の子なので、仲哀天皇自身も不自然な短命な事から何か政争に巻き込まれ暗殺されたのかも知れない。
その原因が、もしかしたら朝鮮半島の勢力や政治とも関係が有ったので邪馬台国の臺与=神功皇后による朝鮮征伐が敢行されたのなら、司馬氏の晋朝の不安定な政情ともつじつまが合ってくる。神功皇后の渡海北閥は、晋の司馬氏に反逆した匈奴の劉淵を背後から挟撃し牽制、晋朝を救援する目的が有ったと考えられる。
夫の仲哀天皇の子、応神天皇が日本で最初に本格的に漢学を導入した人物と伝わり、孫の菟道稚郎子が日本で最初に漢学を学んだ人物と伝わり延喜式内社の相模国四之宮である前鳥(さきとり)神社で仕事と学問の神として御祭神に成っており、菟道稚郎子の兄王である仁徳天皇は日本で最初に父である応神天皇を八幡宮の御祭神として祀らせる一国一社八幡宮設置の政令を出した事が、神奈川県の平塚八幡宮に伝わっている。この平塚八幡宮は相模国国府祭の神事に登場する八幡社でもある。
つまり、卑弥呼が始めた中国の工業技術や軍事制度の導入は卑弥呼の実弟の景行天皇、更に甥の成務天皇を経て、三代後の子孫の応神天皇と更に皇子の仁徳天皇の代に本格的な中国の国家制度や学問を含め暦や年齢の導入が始まり、仁徳天皇の子の履中天皇の代で"1歳=6ヶ月"とカウントする文化が廃止され、中国風の暦が導入され1歳=1年に移行しているんだろうと言う事が推測出来る。

【魏から下賜された魏の皇軍軍旗(黄幢)、金印、200枚の鏡、“二振りの神剣”】
ーー草薙の剣と天叢雲剣ーー
呉王宝剣 蘇州市博物館
写真は呉王剣と呼ばれる中国に現存する春秋戦国時代の青銅合金製の宝剣で三国時代には上級将軍達は鉄剣を装備したが、剣の形状自体には大きな変化は無い。
恐らく魏から下賜された2振りの宝剣が草薙剣と天叢雲剣の名前で伝わる天皇家の神剣の可能性が有るので熱田神宮に現存する倭建の佩刀だった草薙剣は呉王剣と似た形状だろう。
古代中国では王が配下の武将を大将軍に任命する際、戦斧を貸与する習慣が有った。倭建が叔母の倭姫から草薙の剣を拝受し天皇家の近衛部隊である大伴一族の水軍と先進知識に明るい吉備氏の軍勢を与力として元伊勢神宮で付けられたと伝承するのは、正に中国文化に由来する大将軍として統帥権を与える為に宝剣を与える一連の儀式を模している事も推測出来る。
この宝剣は魏から贈られた2振りの宝剣の内の一振りだったはずだ。
現在の天皇家の神剣に天叢雲剣と草薙の剣異なる2つの名前が有るのも、元々魏から贈られた宝剣が2振り有ったからと推測出来る。実は現在も熱田神宮と皇居にそれぞれ存在し、熱田神宮では新羅人の盗賊に盗難未遂に有った一度を除いて倭建の用いた草薙の剣は一度たりとも熱田神宮から持ち出された事は無いと主張している。それに矛盾して源頼朝公が実弟の源義経公に壇ノ浦の合戦で平家を討伐させた際に平家が持ち出した“天叢雲剣”は安徳天皇と共に関門海峡の海に沈み永久に失われている。これを怒った頼朝公が捜索させるが見つからず、後鳥羽天皇は三種の神器の一方の天叢雲剣が無いまま皇位継承の儀式を行う羽目に遭っている。仕方が無いので朝廷では伊勢神宮にレプリカを作らせたのか関係無い剣を献上させる形で失われた天叢雲剣とした歴史事実が有る。
つまり今現在、天皇家は源義経の失態のせいで本物の神剣ではなくレプリカと言う事に成るが、この事から元々神剣は二振り有り、倭建が倭姫=卑弥呼から拝受した神剣が草薙剣で、倭建が岐阜の豪族(伊吹山の神)の妨害により畿内に帰還できず、鈴鹿の関辺りで(暗殺か傷病死だと思うが)病没した際に、豪族尾張氏の拠点だった熱田神宮に草薙の剣が移され、以後門外不出が熱田神宮の伝承通り石棺に入れられ守られていると言う事に成る。
ちなみに走水神社の本殿の地下には倭建の冠を奉納した石棺が埋められていると伝承しているが、近年の社殿建て替えの際に神話通り本当に石棺の存在が確認されているので熱田神宮と走水神社の神器の状況的な整合性から熱田神宮の伝承は事実だろう。
石棺に納められている事実からも、正に倭建や卑弥呼が弥生時代から古墳時代への転換期の人物と言う事に成る。
天叢雲剣と草薙剣は最初から別々の剣で大和朝廷には天皇が所持する神剣と、大将軍に貸与する為に所持していた熱田神宮の草薙剣の二振りが存在している事が判る。
ーー神社で御神鏡を祀る習慣ーー
三角縁神獣鏡
恐らく魏から下賜された金色に輝く青銅の銅鏡200枚が卑弥呼配下の有力豪族に配布され、卑弥呼(日巫女)の主祭神である天照大神を崇拝する太陽神信仰の象徴として祀られたのが始まりだろう。
青銅は鋳造直後は黄金色に輝くし、金属の鏡は陽の光を反射して輝くので弥生時代末期の人には小さな太陽の化身の様に感じる貴重品だった事は容易に想像がつく。
魏皇帝曹叡が景初三年1月末に亡くなっている事から景初三年の三角縁神獣鏡が日本製とのたまう頭デッカチの学者がいるが、当時の魏の経済状況や倭国に朝鮮半島を挟撃して貰いたい状況を考えれば容易に景初三年の銅鏡が倭国に贈られた事が説明出来る。
司馬懿の公孫淵討伐と卑弥呼の使者が魏に到達したのが景初二年なのだから、普通に考えれば魏皇帝曹叡と丞相司馬懿が倭国の卑弥呼に朝貢の返礼と冊封の証として下賜する為に景初二年に製造を始めさせ景初三年に倭国に届けるつもりだったのが、景初三年の1月22日に死没したが、当時の魏は改めて銅鏡等の下賜する礼品に対して製造コストをかけれない状況に置かれていました。
洛陽の宮殿建設と度重なる戦争で経済が逼迫し内乱が起こり呉とも激しく戦を繰り返しており北にも南にも敵に囲まれていた魏にとって背後の朝鮮半島の安定化を急ぐ状況で景初三年のままの銅鏡で出荷せざるを得なかったと考えるのが一番自然です。
ーー幣殿に旗と鉾と楯を祀る習慣ーー
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社殿の内部で本殿前の幣殿部分に楯、鉾(ほこ)、旗を祀るが、これは明ら様(あからさま)に魏から贈られた黄幢(魏皇帝の錦の御旗)、漢代の中国兵が楯と剣or槍or戟(げき)or鉾で武装していたのを卑弥呼の頃に導入していた事に由来するだろう。つまり卑弥呼の時代の軍装が神社の神様を守る様に一揃え設置されている。
漢代の中国大陸では楯は歩兵の標準装備だったので、卑弥呼の時代には邪馬台国兵も魏の軍装を導入していた事が推測出来て、現代でも武具を神社に奉納するのと同じ様に、古墳時代に漢代の軍装を神様に奉納し社殿に設置する習慣が出来たのだろう。
平安末期に成ると日本では武士文化が開花し、攻撃特化した武装に変性していき鎌倉時代の武士は次第に歩兵が木楯を携行する事は無く成った。
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代わりに、日本刀の発展により刀身の側面の鎬(しのぎ)が頑丈に成り太刀打ちの際に楯を持つより刀で相手の刀を弾き返す耐久性が獲得された。
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大鎧の弓矢に対する防御力が向上され首を守る兜の錣(しころ)や流れ矢の顔面被弾を防ぐ吹き返し、前屈すると正面に対して隙間が無く体を覆い楯代わりになる大袖や草摺(くさずり)の構造が発展し楯は無用の長物に成った。
矢合戦の際に前線陣地に押し並べ据え置いて防御壁代わりに用いる程度に役割は衰退したが、卑弥呼の次代~古墳時代~飛鳥時代の軍装は、神社の中に神様を祀る文化の中で形式化され温存された。
ーー鳥居ーー
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中国の古い街の大通りには石造りの鳥居に似たゲートが必ず設置されているので、鳥居は中国文化由来で東アジア諸国に広まった街道や邸宅の入口に設ける門の習慣の名残りなのかも知れない。
そもそも日本の古代信仰はランドマークとなる奇岩や湧水地や川や入江の岬の先端などの自然信仰で、建造物すら存在しなかった事が考古学的にも解かっている。

しかし、これだけ状況証拠が残っていても卑弥呼と臺与の生きた西暦230年代~300年代と倭建が走水に来た109年では、走水の伝承をまま採用すると100~200年の差が発生してしまいます。
この誤差200年が、正に卑弥呼と臺与による中国式の制度が導入され、更に応神天皇の時に本格的な中国文化の暦が導入が開始されている事により発生する誤差に成るのが歴代天皇の寿命で説明できます。

中国の暦が導入されて・・・
1年=12ヶ月=1歳
・・・の基準が決まり、それ以前の・・・
1年=06ヶ月=1歳
・・・と差違が生じて誤解を生んだ境目なのだと思います。

応神天皇の頃まで歴代天皇の寿命は100歳超だらけ不自然な年齢ですが、それが1年=06ヶ月=1歳でカウントされてるからと原因が解れば話しは一気に超現実的に成ります。
1年=12ヶ月=1歳に圧縮するとザックリ見積もっても200年弱の歴史が短縮され現実的な歴史に成り倭建神話に卑弥呼の時代と整合性が出ます。

では、本当にこの推論が当てはまるか歴代天皇の古事記での寿命の記載を見て見ましょう。

※縄文→弥生時代の平均寿命30歳
     伝承年齢 → 1年=6ヶ月説適応
神武天皇 127歳 → 63.5歳
綏靖天皇   84歳 → 42.0歳
安寧天皇   67歳 → 33.5歳
懿徳天皇   77歳 → 33.5歳
孝昭天皇 114歳 → 57.0歳
孝安天皇 137歳 → 68.5歳
孝靈天皇 128歳 → 64.0歳
孝元天皇 116歳 → 58.0歳
開化天皇 111歳 → 55.5歳
崇神天皇 119歳 → 59.5歳
垂仁天皇 139歳 → 69.5歳
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳👈注目①!
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
履中天皇   70歳 → 35.0歳👈注目②!
反正天皇   75歳 → 37.5歳
允恭天皇   78歳 → 37.5歳
安康天皇   56歳 → 28.0歳
雄略天皇   62歳 → 31.0歳

こうやって見比べると、本当に中国の学問を学び導入した応神天皇、仁徳天皇の次代、注目②の履中天皇の寿命が急にそれ以前の天皇より短く成ってしまっているので、履中天皇の時代から日本人の年齢の数え方や暦の数え方が中国の制度が導入されている事が理解できます。
これは神話と成った伝承の通り、応神天皇の方針により中国の制度を学んだと伝わる仁徳天皇と菟道稚郎子の皇子御兄弟時代から国家運営に中国式の暦の制度や国家運営が本格的に導入され始めているようです。
この事から履中天皇~倭建の生きた時代の天皇、景行天皇の半年:1歳の和暦寿命と中国式の1年:1歳の差異を合計すると、倭建が西暦109年に走水に来たと逆算で伝承しているのが更に短縮される事も解かる訳です。
    古代和暦→陰暦年齢
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
年齢合計 557年 → 278.5年

昔の人が結婚するのは15歳~20歳が適齢期でしたから、子供を作る年齢もだいたいそれ位でしょう。
なので中国から導入された1年1歳の陰暦年齢合計から子作り年齢を引けば歴史の年代的な誤差が算出出来る事に成ります・・・

寿命合計278.5
この時代の天皇の人数(5人) × 20=100年
~すると~
278.5年ー誤差100年=178.5年

おんや~⁉
・・・何やら丁度、倭建の走水の逆算年代の伝承と三国時代の誤差200年に極めて近い“178.5年”と言う数字が出て来ましたね。

1歳=12ヶ月で数えた場合に倭建が走水に来たとされる109年に、この誤差178.5年を足してみましょう!

109 + 178.5 = 287~288年

つまり走水に倭建命と弟橘姫夫妻は287~288年前後に来ている事が推測出来ます。
完璧に倭建の父の景行天皇と倭姫=卑弥呼であろう倭姫の弟姉が活躍した三国志の魏朝が滅亡するまでの235年~265年~司馬氏の晋朝と時代が符号します。

三国志の著者である陳寿は233年生まれ~297年を生きて64歳で亡くなっている人物です。
238年に使者を送った卑弥呼が当時15歳~25歳の倭姫と景行天皇姉弟だとすれば、当時の結婚適齢期から倭建と三国志を書いた陳寿は略(ほぼ)同世代だろうと言う事も何となく見えて来ます。
となれば倭建が活躍したのは238年前後生まれ+20~50歳の間に当たる西暦250~290年頃の話と言う事が逆算出来ますね。

走水に倭建が奥さんの弟橘媛(おとたちばなひめ)と走水神社近くの御所ヵ崎で共に夫婦生活を送った西暦109年が古代日本1年=半年を踏まえると完全に三国志の直後の時代の287年位の話になります。
倭建命が40代後半、弟橘姫は恐らく年の離れた異母妹であり妻女でしょう。
景行天皇の皇女(姫)には“弟姫(おとひめ)”が存在します。古代は異母兄妹で近親婚する事が良く有ったので、弟姫と弟橘姫は同一人物でしょう。
1年=12ヶ月に古来の1年=6ヶ月の部分を修正すると、途端に神話が神話ではなく成り、天皇家の偉業と日本文化が古代から引き継がれている事が歴史事実となり、倭建と弟橘姫夫妻の功績を川崎市高津区橘神社~横浜市神奈川区六角橋~横浜市磯子区杉田~三浦半島横須賀市走水の人達が年代誤差も修正され1800年間も話の内容は変らず正確に口伝で伝承させてきている事が証明されます。

時系列を古代:6ヶ月=1年⇔現代:12ヶ月=1年の誤差修正すると、こんな感じなのかも知れません。
                                 
卑弥呼(倭姫)
(220~230年出生→247年禅譲→290年頃没?)

景行天皇 71歳
(220~230年出生~290年頃崩御)

倭建(日本武尊)    
(250年頃出生→300年頃崩御)
※走水に在住時点
古代歴・・・西暦109年
太陽暦・・・西暦288年前後

成務天皇 53歳
(250年頃出生→300年頃崩御)

仲哀天皇 26歳
(270年頃出生→310年頃崩御)

神功皇后    
(270年頃出生→340年頃崩御)

応神天皇 55歳
(300年頃出生→360年頃崩御)

仁徳天皇 71歳
(320年頃出生→390年頃崩御)

まぁ~これは全部小生の「あれ?古事記の記載はおかしいぞ?」と思った事を現実的に解釈した持論なので、全然、皆さんは異論が有って良いと思います。

肝心な事は・・・
「本に書いて有るからって、全部正しい訳じゃねぇ~かんな!」
「上司や親が言ったからって言い訳に出来ねぇ~から後悔しない様に自分で確かめて判断しろよな!」
・・・て言う事例の一つとして、和暦も色々変化が有るよってのを天皇家の歴史で示してみました。

そして・・・
「卑弥呼様ぁ~!」
卑弥呼様ぁ~Q太郎
・・・の次代の人達よりも更に古い時代の天皇家の御先祖様の神武天皇は弥生時代真っ只中を生きた皇族だった事が判りますね。
三殿台遺跡 縄文人女 久良岐のよし
当時の人の服装はこんな感じ。
やっと狩猟採取の生活から、稲作に転換し始めた時期です。中国から輸入された米穀の栽培によって食料の備蓄が可能に成り生存率が向上した半面で“財産”と言う概念が生まれて、更に農耕は大きな集団で協力して土地を開墾したり稲作を行う必要が有ります。
備蓄可能な食糧の出現が、皮肉な事に
リーダーの出現と村より大きな単位での集団の形成と、争いの無い縄文時代終わりを迎えて‟国”と言われた豪族が治める地方の単位が生まれ、地方同士の武力衝突と財産の奪い合いに発展して行き弥生時代=神話の時代に突入して行った訳ですね。
古事記に書かれている天沼鉾(あまのぬぼこ)を用いて伊邪那美神と伊邪那岐神が混沌とした場所で掻き混ぜて島を生み出した国産み神話は、正に土地開拓と鉾を交え戦を行った古代豪族の伝承の比喩だと小生は考えています。
この伊邪那美神と伊邪那岐神が神武天皇の更に御先祖様に当たる神様ですが、弥生時代の始まりは紀元前10世紀頃と今の考古学で解っているので、その頃の話がかいつまんで口伝で伝承されて今の国産み神話に成っているのでしょう。
組織的な集団を作り出し農耕や交易で“勢力”と言う大きな単位を作り出した偉大な先人である事が判ります。

日本神話を纏めた古事記では
日本国の元に成る弥生文化の時代、神話の黎明期に相当する歴代天皇の寿命が異常に長い事も1年=半年で再カウントすると何とも現実的な没年齢に話が変わって来ると同時に、いつの時代から中国と文化を共有しだしたのかの基準が推定出来たりする訳です。
それと同じで現代の太陽暦の12区分で陰暦の月の和名を当て嵌めれないので、太陽暦基準で1月=睦月にしてしまうと“水無月(みなづき)”なのに梅雨の真っ最中みたいな矛盾が発生する訳です。

ここで、本来の月の暦の話に戻ります。

和暦の12ヵ月の漢字を見て見ましょう。

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睦月 むつき 睦つぶ月 
旧正月、01月下旬~2月中旬に始まる月
旧正月は陰暦の為に太陽暦より誤差が大きく毎年数日単位で開始日が異なる。
睦月の“睦”の字は親睦を深めるとか和睦するとか、交流を育む様子を意味する漢字。
本来の睦月の意味は雪解けと共に梅の花が咲き始め春の訪れを知り、人間そのものの往来が増える事が表現されたているのが漢字の意味から読み取れます。

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如月 きさらぎ (前)月の通り
太陽暦の02下旬~03月下旬位。
梅の季節から桜の季節に変わって来て本格的に春の訪れる頃。
漢字では後ろに付く漢字と合わせて〇〇の様だ。の様な意味を持つ。
如月では意味が成立しないので、季節感が睦月と同じと言う意味だろう。

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弥生 やよい いよいよ生まれる月 
太陽暦04月~05月くらい。
晩春で躑躅の花が咲き誇る頃。
弥生の弥は訓読みで“いよいよ”と読む。
弥生を読み下すと“いよいよ生まれる”と言う意味に成る。
春の盛りで花が咲き本格的に暖かくなり農耕の作業が本格化し動植物の繁殖も始まる様子が、もうそのまま漢字にされている。

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卯月 うづき 卯の花由来説は後付け
4番目の月と言う意味。
太陽暦の05月~06月位くらい。
菖蒲の咲く季節。
卯月の卯の字は只単に昔の時間割や方角の割り付けで十二支由来、
卯の刻とか卯の方角とか、羅針盤(指南机)上で四番目を指す意味が有る。
ちなみに日本語で教授する事を“指南”と言うが、これは中国の最初の皇帝の前身と成った人物の黄帝が、敵対者と戦争する際に濃霧が発生する場所に敵軍を誘い込み前後不覚に方向感覚を失わせ混乱させたうえで自軍は迷わない様に南の方角を指示する歯車の仕掛けを作り、敵軍を駆逐した事から指南=教えると比喩されやがて動詞として使われる様に成った。
卯の花が咲くから卯月と言うのは寧ろ、四番目の月の卯月に咲く花だから“空木(うつぎ)”が卯の花と呼ばれる様に後付けされたと考えた方が極々自然。

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皐月 さつき 皐月の花由来は後付け
太陽暦の06月~07月くらい、梅雨の季節。
紫陽花の咲く頃。
夏の始まりだから夏王朝の皇帝の名前を用いて5番目の月の異称にしたのが解かる。
春は動物が交配し繁殖する季節なので、言って見れば淫乱な繁殖期。
夏の皇帝皐の先代皇帝孔甲は性格が淫乱の極みの様な人物だった。
孔甲の跡は皇帝“皐(こう)”が継いだ。
生物にとって春の繁殖期が終わり夏に成る季節だからだから夏王朝の淫乱で交尾ばっかりしていた暴君の皇帝孔甲と、跡を継いだ皇帝の皐の故事から初夏の最初の月が皐月と命名されているのが解かる。
“梅雨(つゆ)”は中国語由来の季節の表現で、太陽暦の6月下旬の中国の雨季は、梅の実収穫時期でもあった事に由来する。当然ながら現代中国語の漢字でも梅雨は梅雨。
現代日本人にとっては芽吹きの春ではなく、夏休みと冬のクリスマスのイベントが繁殖期の様だ(笑)。

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水無月 みなづき 文字通りの意味
太陽暦の07~08月初旬くらい。
海辺に野莞草のオレンジ色の花が咲き誇る季節。
昔の通りに陰暦の春節を睦月の起点にすると、水無月は文字通り梅雨明けの乾期に相当する。
それ以上でも以下でもない。
古代の一年の区切りで、夏越大祓の神事が各地の神社で行われる。

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文月 中国由来で七夕の書物を防腐する月
太陽暦の08~09月くらい。
旧暦の七夕の季節。
七夕の日の由来ではあるけれども短冊の話は日本での後付け旧暦の七夕。
中国では七夕の頃に書物をカラっと晴れた日に天日に干して防腐する習慣が有った。
つまり文月の文はこの中国から受け継いだ書物や文書を管理する月だったから付けらた事が判る。
そもそも論だが七夕自体も中国から日本に輸入された習慣であり伝説でもある。
端午の節句もそうだし、中秋の名月も、旧正月もう色々と季節の節目の行事は中国文化由来だったりする。
最近じゃ日本人はバレンタインデーやクリスマスなんて習慣も新たに取り入れたりしてるよね。
一体、生粋の日本文化ってのは現在、どれだけ残っているんだろうか?と言う次元の話。
小生の知る限り、相模国国府祭や武蔵国国府祭、有鹿神社の水引祭り、高部屋神社の潮汲み神事、寒川大社の追儺祭は生粋の日本の神事かも知れない。
特に高部屋神社と寒川大社の神事は弥生時代~古墳時代の文化の名残りかも知れない。

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葉月 夏が終わり青々とした葉が朽ち始める
太陽暦の9~10月くらい。
台風が頻発して葉っぱが飛ばされたり、葉っぱの色が枯葉の色に変わり始める季節。
関東では海の空気が澄み始めて富士山が奇麗に見える日が段々増えて来る。

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長月 小生にはちょっと意味が解らない
太陽暦の10~11月くらい。
多分、中秋の名月の季節で、気温も少し過ごしやすくなり、昔の人は“秋の夜長”を楽しみ和歌を詠んだり自邸の庭の池に船を浮かべて遊んだり、松明(たいまつ)を炊いて庭の木々を照らし夜景を楽しんだり、笛を吹いたりして貴族が夜を長く楽しむ季節だったからじゃないかとしか思えない。

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出雲大社
※画像掲載元→https://www.izumo-kankou.gr.jp/676
神無月/神有月(出雲国) そのまんま
太陽暦の11~12月くらい。
山の木々が紅葉し美しく萌える季節。
全国の神(かみ=督:神格化された古代の軍属豪族)が、出雲大社に参集して日本全国の年次方針を決めたから各地は無監督状態で神様不在だった事に由来するのは有名な話。
逆に出雲大社には全国から豪族将軍達が集まって来るから神有月。

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霜月 滅茶寒くて地面霜だらけの季節
太陽暦の12~01月初旬。
そのまま真冬で霜が降りる季節だから。
関東では雪化粧した奇麗な富士山を色んな場所から眺める事が出来る季節。

一休さん
師走 中国経由の仏教用語“臘月”由来。
太陽暦の01月下旬~02月下旬。
1年の終わりの月と言う意味。
僧侶が走り回る様に忙しいとかは丸っきり後付けのデマ。
昔は中国で臘月(LaYue:ラーユエ⇒ロウゲツ⇒しわつき)と書いて陰暦で年末最後の月の事を意味したので、ずばり中国の臘月=臘数
(しわす)が由来。
臘数の臘(しわ/ロウ)は中国由来の仏教用語で僧侶が出家して具足戎を受けてからの年数を数える節目の単位でもある。庶民には覚え難(にく)い漢字だったから僧侶が忙しくなる季節と言う表現の師走と言う字に臘数(しわす)の発音だけ誤植した挙句、いつの時代にか師走の字のデマが広まってしまった様だ。


まぁ~そんな訳で、現代の価値観と現代の時間軸で陰暦の暦を当て嵌めたり、太陽暦の1月1日に真冬なのに年賀状に「迎春」とか書いちゃうと整合性が無くなってしまう原因だったりする訳です。
昔の事は現代の価値観で見ても全然違うって事ですね。
昔の人は農業社会で天候と密接に生活していたので季節感が大切だったんですね。
そして日本の制度自体も各時代、外国の影響を受けて色々変わっていると言う事です。


日本の神社の神様には、仁徳天皇と菟道稚郎子に中国の兵法や学問を享受した漢帝国皇族の末裔の阿智使主もいれば、高麗や百済の滅亡時に日本に移住して来て高麗神社を開いた人たちもいます。
南宋が滅亡した時に鎌倉幕府の執権、北条時頼公や北条時宗公も南宋の亡命高僧や文化人を受け入れ南宋の軍事知識と文化を取り入れ鎌倉文化を発展させ元朝と朝鮮連合軍の日本侵略から国民を守った訳です。
実は日本人が生粋の日本文化だと思い込んでいる事の多くは少なからずインドや中国や朝鮮の文化と共通する部分が有り、古代に影響を受けながら日本風に変化させ日本文化を一緒に作り上げて来たのが歴史を辿ると良く解りますね。
だから“外国人”と言う事や“人種が異なる”と言う理由で在日外国人やハーフを外見でイジメたり攻撃するのは、本当の保守派の小生には受け入れられない只の差別でしかなく、寧ろ外国人差別をする人間が真の保守派の敵だと思っていたりします。

そもそも本当の日本文化ってのは自然崇拝ですから。
だから延喜式内社と言うジャンルにカテゴライズされる古い古い歴史を持つ神社は、どこでも自然崇拝の聖地に存在するんです。

水無月や師走の現代人の誤りを紐解いていくと、日本人と言う人種ではない括りの人間は色んな国からの帰化人が在来種の縄文人と協力して国を開拓し文化を昇華させた歴史にも辿り着けたりしますよ~!

そして疑問に思った事は何でも自分で調べましょう確かめましょう、人の言う事鵜呑みにして結果間違ったり判断ミスって人のせいにしたく成ったり悔しい思いするより良いしね。
ネットで調べるより現地に行って自分の目で見て、そんでも解からない事は一番精度の高い現地の人を質問責めにするのが一番早い!

百聞不如一見(百聞は一見に如かず)とは昔の中国の人も良く言ったもんだ。

今の中国は日本人について情報管理されててMSNのページも日本のニュースにアクセス出来なかったり田舎では反日ドラマばっかりやっていて不正確な情報ばっかりで日本に対する偏見強い人もいるけれど、昔の中国人と同じ様に高文化で素養高く親切な人も多くいる。
TikTokやWechatや華微(ファーウェイ)のスマホなんか規制しても良いし、日本人を差別する外国人には容赦なく反撃しても良いと思う。
でも人間は個人単位で評価しないといけないし、先生が言ってるからとか、本や辞書に書いて有る事が必ず正しいとは限らない。
自分で見て経験した物を信じ、知らない事はガンガン直接、現地や現場に見聞きしにいけばよいよ。
仕事もそうでしょ?

・・・と、言う御話しでした。

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前回の記事⤵
千葉県の縁結びの聖地の玉前神社と鵜羽神社・・・②玉前神社の地形と境内施設の解説。
これ⤴の続き。

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前回は千葉県一宮町の玉前神社の境内施設と地形を解説しました。
今回は玉前神社に住んでいた玉依姫(たまよりひめ)と、その夫の鵜茅葺不合命(うかやぶきあわずのみこと)の育った場所と伝わる千葉県長生郡睦沢町の鵜羽神社を紹介したいと思います。
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鵜羽神社(式外社)※住所クリックするとGoogleMapで所在地を確認出来ます。
先ずはこの神社の周辺の美しい農道の風景を紹介したいところではありますが、その前に鵜羽神社の名前の横に書いた“式外社”と言うカテゴライズの意味を解説します。
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この神社の御祭神は鵜茅葺不合命です。命(みこと)と言うのは肉体的に亡くなった後も神様として祀られる御神霊を指すので、小生のブログでは敢(あ)えて未だ肉体が有った時代の古代の話しをするので鵜茅葺不合“神”と表記します。その鵜茅葺不合神の奥さんが玉前神社の玉依姫です。
この御二人の縁結びの神事が今でも鵜羽神社と玉前神社の間で行われており“十日祭(とおかまち)”と呼ばれています。古代から続いており、夫婦神の居所を往来する内容なのでつまり玉前神社が存在した当時にコチラの鵜羽神社も聖地化されていた宮殿ないし“郡衙”が存在したのだと思います。
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玉前神社の様(よう)に古代から存在し平安時代の延喜式神名帳に記載されている神社は“式内社”とカテゴライズされています。
普通に考えても千数百年の歴史と由緒有る神社が式内社な訳です。
その式内社と同時期に存在しながら、例えば神格化された古代の豪族や天皇家の祖先が住んでいた宮殿が神社に後の世に聖地に成る場合が有ります。
聖地では有るけれど神社には成らず例えば国衙や郡衙と呼ばれる役所に成っていたので神社として自体の歴史が短かったり奈良時代に聖地から仏教施設化したり、神仏習合の修験道の聖地化して大切にされていた場所が有ります。
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瑞應山 蓮華院 弘明寺例えば横浜市民に有名な川崎大師よりも先に厄除け大師と呼ばれ弘法大師空海和尚が国家鎮護国民災難退散の護摩炊きを行った事で知られており、毎月8の付く日に今でも参拝者に無料で護摩行を見学させて貰えますし護摩札を購入すれば護摩焚きの際に御祓いもして下さいます。
この弘明寺が正に先に述べた“郡衙(ぐんが)”と呼ばれる郡役所の跡地であり聖地でも有る事が考古学的な発掘から証明されていたりします。ここは稲荷社や熊野社が同一丘陵上に古来から存在し今も弘明寺の守神として護摩行の際に名前を読みあげられます。どちらも水の神様ですね。
ここは久良岐郡、天皇家の直轄地の屯倉(みやけ)の郡衙が置かれた場所でした。
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西向山 乗蓮寺(北条政子の別宅)
この丘の周辺平地部は古代の海の跡で井戸水は余り飲用に適さない水質なのですが、弘明寺と同一丘陵上に存在する南区井土ヶ谷の乗蓮寺は水質が良かったそうです。そこで鎌倉時代に京都の貴族と鎌倉武士の間で承久の乱が勃発した際に避難の仮御所を置いた場所が乗蓮寺でした。
北条政子様が化粧水に適した良い水質の水がこの丘の井戸だけに湧くとして、ここの井戸を愛用した事から“井土ヶ谷”の地名が生まれました。
この様に質の良い飲用水が古代より湧くので集落が出来て聖地化し、更に古代大和王権の統治が及び豪族の宮殿周辺に郡衙が置かれたのでしょう。弘明寺の対岸の港南区上大岡には横浜市教育委員会が保護せずに宅地開発で証明した横浜市内最大の前方後円墳が昭和初期まで存在していた事からも弘明寺=郡衙の歴史的な整合性が有る訳ですが、この様な仏教の真言密教系の聖地や修験道系神社だったから延喜式神名帳編纂時に記載から漏れた場所の御社を“式外社”と呼びます。
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七所権現八菅神社
代表的な場所に八菅神社が有ります。
玉前神社と同じ日本武尊(やまとたける)神話の舞台の一つであり、恐らく日本武尊が行軍中に相模川を渡河する際に在陣したであろう場所が八菅神社で、日本武尊が中津坂本を行軍中に八菅山を見て山体が龍や大蛇に似ているから神聖地化し、後に修験道の開祖の役小角(えんのおずの)によって修験道の聖地として神社と仏閣が両方備えられた大道場に発展させられ、関東有数の修験道、仏教、神道の聖地と成りました。
ここ等はつまり玉前神社と同じ時代に既に聖地として存在した事に成るので“式外社”となる訳です。
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そこで鵜羽神社に話を戻すと、正にここは玉前神社と同じ時代に鵜茅葺不合神の宮殿が存在したので“式外社”に当たる訳です。
では何で鵜羽神社は神社化せずに式内社に含まれなかったのか?それは恐らく弘明寺パターンと同じ事がここでも有ったのだと思います。つまり宮殿が郡衙に成ったからであろうと推測出来るからです。
長生郡 久良岐のよし
旧長生郡は茂原市を含みますが、そもそも長生郡が古代の長柄郡と埴生郡を明治期に合併して誕生した郡なので長生郡+茂原市を見ても余り郡衙位置特定の参考には成りそうに有りません。
この地域は最初に伊甚(いじみ)屯倉(みやけ)が置かれた場所で、その大半が古代の夷灊郡(いすみぐん)であり、その郡域は現在の長柄郡や夷隅市や勝浦市一帯だった様です。
実は平安時代中期の武士団は朝廷の律令制度の影響下にいましたので、平安時代中期当時の政治は古代のまま郡衙で行われていました。神田明神の御祭神でもある平将門(たいらのまさかど)公が平将門の乱を戦った際に国衙や郡衙を占領したのは正にその為でした。
なので平安末期に成っても有力な在地武士の本家筋は旧郡衙の土地に本拠地を構える人物もいました。上総広常(かずさのひろつね)も恐らくその一人だったでしょう。
鵜羽神社と高藤山城の位置関係 久良岐のよし
画像をクリックして拡大して見て下さい。
鵜羽神社と同一丘陵上には平安時代末期の有力武将、平氏の上総広常(かずさのひろつね)公の居城の高藤山城が存在しました。居城の名前からして高藤山・・・
つまり古代には富士山形状の巨大な円墳が存在したのかも知れませんが只の地名からの推測です。
古代からの聖地でしたが古代には眼前まで海が入り込み豊浦(とよのうら)と言う入江が存在した事が古代の海岸線からも玉前神社の伝承とも整合性が有り証明出来ます。
玉前神社と鵜羽神社と三之宮神社の位置関係 久良岐のよし
なので鵜茅葺不合神が御住いに成った恐らく高床式、草ぶき屋根か檜皮葺屋根の宮殿が存在した時代には未だそれ程に大規模な稲作農耕は行われていなかったでしょう。
鵜羽神社と高藤山城の位置関係 久良岐のよし
しかし平安時代には海だった入江の大半は地盤の隆起と土砂の堆積で湿地化し、古代大和朝廷や武士団による開拓が行われ生産力を備えた地域に変貌していた事でしょう。
そして恐らく鵜羽神社と高藤山城の丘あたりに神社の前身と成った宮殿が有り、そこが郡衙に成って行ったのかも知れません。なので郡衙を押さえる場所に上総広常公も居館を構えて郡の行政を取り仕切ったのでしょう。
上総国の国衙が市原市に国分寺跡が有るので市原市に国衙が存在したとする説も有りますが、相模国の例を見ても少なくても3回は国衙の位置が東に西に中央にとコロコロと移されているので、国分寺=飛鳥時代以後の国衙と考えた方が自然でしょう。
上総広常公の苗字は国名の上総です。実はこの名前の区切り方は間違っておりフルネームで読まないと正しい意味が解りません。
彼の本名は・・・
平 朝臣(たいらのあそん) 上総介(かずさのすけ) 八郎  広常
・・・です。
平は氏(うじ)です。朝臣は姓(かばね)で朝廷内での姓。上総介は上総国長官代理 八郎は八男と言う意味です。
ですので以後の表記は平広常と書きます。
本来、房総半島の平氏を治めていたのは平広常公の兄の印東常重公でした。しかし彼は残忍な性格だったので多くの親戚家臣団は弟の平広常公の所に亡命してしまいました。
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幕山公園湯河原梅林
源頼朝公が石橋山の合戦を神奈川県湯河原町で起こした際に、印東常重公は京都の平清盛側に付いて源頼朝公と敵対しますが人望が無さ過ぎて実弟の平広常公だけでなく息子達も頼朝公の側についてしまし、後に富士川の合戦で印東常重公は敗死する事に成りました。
すると房総の平氏の頭領を平広常公が務める事に成ったので、上総国長官代理の祖先の上総介の官位を苗字として上総国支配の正当性を演出したのかも知れませんね。
その際に高藤山城を居城にしたのは、もしかしたら一時期、この地域にも国衙が郡衙と一緒に存在したからかも知れませんが、残念ながら古来、房総半島は戦が絶えず古代の行政資料が残っていないので確証は有りません。
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ただまぁ、平安時代には豊かな穀倉地帯と古代の陸地の丘陵が堅固な要塞に成っていた事だけは間違いありません。
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鵜羽神社一帯には今も水田が沢山残り長閑な風景を見る事が出来ます。
さて、鵜羽神社の地形や恐らく郡衙や国に成っていた事の解説はこれくらいにして、神社の境内の説明に戻ります。
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鵜羽神社(式外社) ※住所クリックするとGoogleMapで所在地を確認出来ます。
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神社の鳥居は木造の立派な造形です。田舎の鄙(ひな)びた神社でありながら由緒正しい威厳を兼ね備えていますね。
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恐らく昔は手入れされて水質も良かった、豊富な水量の湧水も有ります。
今では飲むとか無理そうです。
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社殿は一台高い所に存在。
これは当たり前。昭和初期までその農家の家も水害対策で常識的にこうしていた。
現代の土建屋は昔の人の知恵を無視するばっかりに盛土せず、この間の台風の際の二子玉川界隈の様な水害に遭ってしまう。鵜羽神社や普通の神社が一段高い所に有るのは昔の人の知恵。
そりゃそうだ、古代は神格化された偉い豪族や天皇家の御先祖の王族が住んだ場所なのだから。
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拝殿、幣殿、本殿と全て木造。昔は多くの農民で賑わったんだろう、社殿の規模は結構立派です。
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摂社にも神様が祀られているけど、詳しくは解りませんでした。
明治時代に周辺の神社が廃社に成った際にコチラに合祀されたのだろうか?
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背後の神域の山頂に続く昔の登山口は長い年月、と言っても恐らく昭和以後の過疎化で人の往来も無く成り風化と雑木林化が急に進み道も風化し手入れされていない様だ。登れない。
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神社の前野農村は本当に長閑でゆっくりとした時間が流れ良い。
清々しい空気と柔らかな陽光に照らされた木漏れ日を感じられる神社。
そんな風景が広がる神話の舞台が、この鵜羽神社です。

きっと皆さんの御近所にも実は凄い歴史偉人と関わりの有った城跡の山や、古代からの聖地だったけど小さくなった神社や、凄い武士達が支援した御寺が有る筈です・・・

ちょっと、御近所の神社や御寺を散歩して、説明の看板を読んで見ませんか?
そこに書いて有る事を知ると、思いがけずその場所が皆さんと歴史偉人や神様とを繋ぐタイムカプセルの様な役割の場所に成り、郷土愛を持つ切っ掛けに成るかも知れませんよ?


では・・・
又、次のブログ記事で御会いしましょう♪


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前回の記事⤵
千葉県の縁結びの聖地の玉前神社と鵜羽神社・・・①玉前神社と鵜羽神社の関係と地形解説。
・・・その続きです。今回は延喜式内社で神話の舞台、玉前神社の境内の紹介です。
先ずは玉前神社の地形の解説から始めたいと思います。
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玉前神社(延喜式内社)玉前神社は大通りを1本横に入った住宅街の中に存在しています。地形的には微高地に成っており、背後には一宮城址も存在しており前回の解説でも説明した通り、神話時代に相当する弥生時代当時は海に浮かぶ半島状の先端に存在している事が解かります。
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玉依姫と鵜茅葺不合神の夫婦神の神話の舞台でも有り、その後の時代の日本武尊神話の舞台の一つでもあります。
式内社と呼ばれる平安時代の人から見ても凄まじく歴史の在った神社には、縄文時代や弥生時代の祭祀遺跡を内包している場所、又は古代の集落遺跡に隣接していたり、集落遺跡の中に存在している場所も多く有ります。
下の二枚の画像は前回でも使ったGoogleEarthに古代の海岸線と神話の舞台の玉前神社と鵜羽神社を重ね合わせた画像と人工衛星写真の比較です。
玉前神社と鵜羽神社と三之宮神社の位置関係 久良岐のよし
現在の上総国神社位置関係 久良岐のよし
奈良時代以前の祭祀遺跡が出土する地形や、式内社にはこの様に古代の海に浮かぶ半島の先端や島、港に成る入江の最深部、又は大きな山の山頂、その様なランドマークに成る地形を守るような場所が聖地化しているケースが多く有ります。
走水神社 久良岐のよし
日本武尊(ヤマトタケル)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)神話の舞台の一つである走水神社と御所ヵ崎等も全く玉前神社と鵜羽神社との地勢と同じですね。
走水神社は日本武尊の冠を収蔵した石棺が本殿下に埋蔵されており、御所ヵ崎は日本武尊と弟橘姫の夫婦神が一時住んだ行在所として機能していた神話が有ります。
この御所ヵ崎の地形は完全に上総国一之宮の玉前神社と地形も日本武尊伝説の舞台としても一致します。
古代の貴人の住まいや聖地は半島の更に先の先端、海に浮かぶ島の様な地形ですね。
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古代の玉前神社辺りは真鶴半島の三ツ石の様な地形だったんでしょう。
三ツ石は今も自然崇拝の対象に成っていて注連縄と御社が存在しています。
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玉前神社は真鶴の三ツ石程の峻嶮な地形では無く略(ほぼ)なだらかな岬の先端だったと思いますが、この様な半島の先端部が古代の港湾守護の聖地化しました。
次回の鵜羽神社の紹介記事で説明する予定ですが、鵜茅葺不合神の母君の“豊玉姫の神話”でこんな話が登場します・・・
「海の中じゃ子供産めない!」と不安に駆られて陸の鵜羽神社を建設して出産した。
・・・と伝承が有ります。海中に突き出した玉前神社は台風や大潮の影響をモロに受けたでしょうから、古代の玉浦(たまのうら)の湾の最深部のシッカリした陸地多い所に居を一時的に移した事が解かります。
この聖地の立地条件は横浜市域(鎌倉郡・久良岐郡・都築郡・橘樹郡)と川崎市域(橘樹郡・多摩郡)でも同様です。
旧久良岐郡橘樹郡の古社古刹 久良岐のよし
横浜市域と川崎市域は武蔵国造(むさしくにつくりのみやつこ)の乱以後に古代大和王権に接収され天皇家の直轄領に成っていました。
久良岐郡・都築郡・橘樹郡・多摩郡ですね。
店屋(てんや)と表示されている場所は、古代の店屋と言うのは大和朝廷の軍事や物流の駅伝中継基地の在った場所が地名として残っていると推測される場所です。表示した場所以外にも沢山存在していたと思います。
日本武尊伝説の舞台となった場所が横浜市内には2ヵ所伝承していて神奈川区の宝秀寺と磯子区の妙法寺です。
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宝秀寺の一帯は神大寺地区と呼ばれ、戦国時代まで神大寺と呼ばれる大寺院が存在し宝秀寺には日本武尊一行を歓待したと伝わる大伴久応と伝わる人物の供養の土饅頭が存在します。
その神話伝承から横浜市神奈川区六角橋の地名は日本武尊の使った六角形の橋が宝として大切にされたのが六角橋の地名由来と伝わりますが、別の説では戦国時代の近江の大名の六角(佐々木)家が鎌倉時代に一帯の領主だったので、それに由来する説も有りますが・・・
神大寺は名前から神様を祀る神社だった事が容易に推測出来るので、元々は日本武尊と大伴久応とを祀った神宮寺だったのでしょう。
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三浦半島の走水でも日本武尊と弟橘姫を歓待したのが“大伴”黒主と伝わるので、この大伴久応と大伴黒主は同一人物でしょう。
そして古代の大伴氏が現在の横浜市域から三浦半島を治めていた事も同時に推測出来ますね。
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走水海岸の御所ヵ崎側からは真っ直ぐ先には富士山と夕陽が見える。
宝秀寺の近所に存在する塩嘗地蔵・・・
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・・・この御地蔵様前の住宅道路が古代の街道であり神大寺の入口と伝わっています。
古代天皇家の直轄領で無主の土地と成り、古代豪族がいなかった事で古代から聖地だったり豪族王の宮殿だった場所も郡衙(役所)以外は放置されて神社化せず平安時代に至り、そこを真言宗の開祖の弘法大師空海和尚が牛頭天王社や太子堂を建立して仏教や神仏習合の聖地として牛頭天王=素戔嗚尊を御祀りして聖地を保護して廻っている事が、各宗派の再興開基以前の前身寺院の寺伝から読み解く事が出来ます。
同様に修験道の聖地化した八菅山七所権現(八菅神社)や・・・CIMG6079
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・・・石山権現大山阿夫利神社等も存在します。
そして空海和尚は佐伯氏の出身です。
この佐伯氏は大伴氏の同族で水軍を統括し、大伴氏は天皇家の近衛軍を務めた一族だった事から空海和尚は日本武尊に与力した古代豪族大伴家所縁の日本武尊聖地を巡礼しながら仏教教化しながら神様を祀る神社を改めて建設して巡ったのかも知れません。
日本神話に造詣が深かったので、古代の港湾を守護する聖地に須賀神社や牛頭天王社を開き神話通り、海の守護神で軍神の素戔嗚尊を御祀りして海上交通の安全を祈願したのかも知れませんね。
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中でも弘明寺は古代大岡湾の最深部に存在しますが、そこは久良岐郡郡衙(ぐんが:郡役所)と推定されている遺跡も出土した場所です。現代では“厄除け大師”のキャッチコピーを川崎大師や成田山にパクられてしまいましたが古来厄除け大師と呼ばれ戦国時代にも有名で武士の崇敬を集めたのは弘明寺でしたが、このキャッチコピーの由来は弘明寺の表記が求明寺と言う字だった時代に空海和尚がここで国民の為に“国家鎮護”“災厄退散”の護摩行を行った“天皇家勅願寺”だった事を推測させる歴史が有る事から“厄除け大師”と呼ばれる様に成った歴史が存在します。
又、横浜市磯子区の古代の本牧半島上に存在した八幡橋八幡神社は舒明天皇の時代、西暦600年前後の成立と伝わります。同じく八幡橋八幡宮と本牧半島を挟んで反対側の古大岡湾に面した中村八幡宮も同時期の成立の社伝が有ります。
海上交通の神様として素戔嗚尊から八幡大菩薩=応神天皇に次第に役割が移って行くのは応神天皇が古墳時代の天皇家の祖先なので当然ながら古墳時代以後の事で、八幡橋と中村の八幡宮の成立時期も地形も整合性が有ります。
以上の様な古代の半島や湾の最深部以外にも古代の聖地は有ります。
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横浜市港北区の師岡熊野神社がやはり古代の太尾半島の上に存在し、縄文時代の貝塚が境内から発掘されており更に集落を建設するのに必要な聖地が存在します。
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熊野神社は水神様なので聖地化する由縁に成ったのがこの飲用水に出来る湧水池の存在に有る事が解かります。
他にも河川の合流する三角地形が半島と同じ様に聖地化します。
京都の下鴨神社や熊野大社本宮旧境内地の様な場所ですね・・・
下鴨神社 久良岐のよし
熊野大社本宮旧社地 久良岐のよし
・・・この三角州のケースは今回の玉前神社とは違うパターンですね。
しかし武蔵国には同じパターンの神社が有ります。
多摩郡の式内社 久良岐のよし
武蔵国の一之宮小野神社と二之宮小川大明神二宮神社です。
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古代の人が集落を築ける湧水も沸いています。川の水は飲めないんですよ、寄生虫なんかで御腹壊して薬の無い古代の人は死んじゃいますから。
さて以上の聖地の条件がバッチリ重なるのが玉前神社な訳です・・・
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・・・では、ここから玉前神社の境内を写真で紹介して行きたいと思います。
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参道正面に戻ります。
立派な朱塗りの鳥居の横の石柱に玉前神社と書いて有ります。
裏側を見ると・・・
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石柱の玉前神社の字は当時神社本庁のトップだった徳川宗敬(むねよし)公の揮毫らしいです。
徳川幕府のトップだったのに大坂城からスタコラ1人で逃げ出しちゃって幕府滅亡させた徳川慶喜公の甥っ子。よくよく考えると慶喜公が不戦の姿勢に転じた御陰で日本の近代化も成功してたりするので、何だかんだ叔父ちゃんが功績が有ったりする人ですね。
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一段低い場所の社務所。
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玉依姫と鵜茅葺不合神の夫婦神の神話の舞台だから当然、縁結びの御利益は強い!
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扁額は銅製。
個人的に銅製の扁額は平塚八幡宮で見て以来かな?
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日本武尊伝説の湧水。自由に御汲み取り出来ます。
伝説では走水から富津方面に渡り、鴨川市吉浦(葦浦)に回り玉前神社の辺りまで来たと伝わります。
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更に北上すると、やはり日本武尊神話の残る関東最古の大社格と伝わる鷲宮神社が存在します。
このルートから察するに・・・
古代の房総半島は入江が入り組んでるので行軍し難かったでしょう。東京湾岸古社と海岸線の位置関係 久良岐のよし
・・・一度外房に出てしまって船で北上しながら利根川を遡った方が行軍し易かったのかも知れません。
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境内のさざれ石。土砂も堆積すれば古代の玉浦も玉崎もさざれ石の様に陸地に成る・・・
当時は軍馬が余り普及して無かった筈なので、軍事物資の補給を絶やさない為にも輸送力の高い船での移動が都合よかったのでしょう。
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・・・神話では日本武尊が白鳥に成って飛来し、その羽が落ちた事で御神水となり日照りが続いて旱魃(かんばつ)に成っても水が決して枯れなかったと伝わりますが、その神話を正しくはどう解釈するのが正解なのか小生にも理解は出来ません。しかし軍事行軍する際に軍船の船団にも個人でも給水が必須です。
ですから天皇家とは別系統の鵜茅葺不合神と玉依姫の在地豪族化した御神孫の協力を得て、飲み水に成る湧水の有るこの土地に立ち寄り暫く駐屯し、軍事物資や食料と飲料水を補給したのかも知れません。
白鳥は何を比喩しているんでしょうね~?
もしかしたら弥生時代~古墳時代当時は麻布が衣料品の素材だったで、その時代に日本武尊は三国時代の魏から輸入した絹衣、真っ白なシルクの衣装を正装として着用していたりして、玉前神社に来臨した日本武尊の御姿が「舞い降りた白鳥の様だ」とか伝承したのがストレートに言葉だけ伝言ゲームで伝えられて、いつの間にか白鳥に成って飛来したとか変わったのかも知れませんね。
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社頭掲示に日本武尊の神話は掲載していませんでしたが、令和の今上上皇陛下も御若い頃に参詣されています。
仮に日本武尊の時代に当たる古代大和朝廷の邪馬台国の頃、既に魏から養蚕技術が導入されていたのならば・・・
古墳時代に入る寸前の時代に真っ白なシルクの衣装を着て行くだけで、大和王権の産業の質の高さを誇示出来た事でしょう。
・・・衣装だけで戦争を回避し、将来的に技術供与して在地豪族王族に富をもたらすと良い印象を与え、尚且つキラキラ光るシルクの衣装は神秘的な清潔感と権威を兼ね備えた印象も与える事が出来るでしょう。白鳥伝説はそんな日本武尊の外交と統治の戦略が形を変えて伝わった伝承だと思います。
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井戸の後ろに、半島の先っぽの島状の岬だった本殿の所在する一段高い壇地、その参道階段前の鳥居の左側奥側には摂社が存在します。
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一つは玉前稲荷神社、宇迦之御魂神。湧水地の水神で有り農業と商業を含めた富の象徴の神様。
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あと三峯神社。
秩父地方の山岳信仰の対象であり、やはり日本武尊神話の神社でもあります。
神話に由れば上総国辺りから関東平野の縁(へり)の秩父山系の三峯神社辺りに山が三つ並ぶ様子が美しく見えたので、三峯宮と名付けられたと言うのが三峯神社の由来らしいです。
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多分、その伝承に上総国が関係しているので上総国一之宮である玉前神社に近代に氏子サン達が三峯神社の御分霊を勧進されたのでしょうか?
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社殿は黒基調に金色の金属が映え、凛とした佇まいです。
古代は海に突き出し海に囲まれた聖地で、豊玉姫や玉依姫が恐らく斎王を務めたであろう神社。
その雰囲気に相応しい社殿ですね。
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本殿の近くに御神木の説明等も有りました。
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力石。
江戸時代の力士や力自慢農民の氏子が祭事に力比べで持ちあげてた石。
ネットの借り物画像⤵
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https://ameblo.jp/asonde-spain/entry-10014704968.html
画像拝借先⤴スペインのバスク地方とかでも同じ様な力比べ今でもしますよね。
昔は力持ちの男の人がモテたのかな?
ちょっと歴史のある神社なら結構現存してる場所も多い力石。
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あと本殿の裏っ側に戦没者を祀った御社みたいのも有りました。
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それと軍艦の砲弾。
境内には御神輿を展示した資料館的な綺麗な建物も有ります。
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この建物にトイレも有るので、トイレ綺麗で女性も安心だと思う(笑)。
全体的に神話が歴史とも整合して素晴らしい雰囲気の息づく神社です。
是非、皆さんも千葉県東部に足を運ぶ機会が有れば御参りされては如何でしょうか?
別記事にしますが、御近所には嵯峨天皇に菓子屋として珍しい勅許を頂いてる御店も有ります。

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かねきち
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上皇陛下も召し上がったそう。
御店の方が店内の写真撮影許可して下さったんで、又玉前神社~鵜羽神社の記事と別に紹介したいと思います。
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さて、玉依姫と日本武尊、二つの異なる時代に渡って神話の舞台と成った玉前神社、どうですか?
本当に素晴らしい神社なので是非、御参りして縁結び祈願や夫婦円満、はたまた日本武尊の交通安全や勝負の御利益を祈願されては如何でしょうか?

では、次は鵜羽神社の記事で御会いしましょう~♪
又ね!
続く⤵️
千葉県の縁結びの聖地の玉前神社と鵜羽神社・・・③鵜羽神社の施設と景色の紹介。
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千葉県に夫婦円満と縁結びの御利益とで有名な二つの古社が存在するのを皆さん御存知でしょうか?

その二つの神社の内の一方は延喜式神名帳に記載された式内社で名を玉前神社と言います。
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玉前神社(たまさきじんじゃ)
久しぶりの小生の歴史と地形解説合わせたブログ記事ですが、以前から読んで下さっていた方には繰り返しに成りますが、醍醐天皇の時代に旧律令制度では国家体制の維持が困難に成り、改革を行った制度が“延喜式”と言う物で、当時の改定版律令みたいな物です。
延喜五年(905年)から制定の取り組みが始められたので延喜式と言う名前の制度に成っています。
そして式内社(しきないしゃ)と呼ばれる神社は、その延喜式の中で国にとって重要な祭祀を行う神社として保護や管理の目的で記載された、西暦905年当時の平安時代の人から見ても歴史が“古くて由緒正しくて凄い場所”と認識された神社でした。
平安時代の人から見てとんでもなく古い歴史が有るので、当然ながら考古化学で状況証拠を集めて行くと式内社は大体が縄文~弥生時代の集落や祭祀場の遺跡が極近所に存在したり、或いは境内から遺跡が出土したりします。

今回紹介する玉前神社と縁結びの神社として対(つい)に成る、残りもう一方の神社も玉前神社との神事で関係が深く神話的にも同時期から存在していた事が裏付けられる古い神社です。
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鵜羽神社(うばじんじゃ)
この鵜羽神社の様に延喜式神名帳に記載されていない、神社化していなかった聖地や仏教的要素が取り入れられた修験道の聖地化した神話の舞台等が後に神社と成った場所を“式外社(しきげしゃ)”と呼びます。

この二つの神社の神様、関係性がややこしいのですが夫婦円満や縁結び、そして子供の健康祈願の御利益が望める事間違いなしの神様が御祭神であり、その神様の神話の舞台でもあるんです・・・

玉前神社が玉依姫(たまよりひめ)と言う女神様。
鵜羽神社が鵜茅葺不合(うがやぶきあえず)の神様。
※先に複線を貼って置きます
小生はこの鵜茅葺不合は当て字であり、尚且つ読み間違えられて神様の名前が伝わっていると推測しています。
小生の推測では鵜茅葺不合(うがやぶきあえず)ではなく、鵜茅葺不合(うがやぶきあわづ)と呼ぶのが正しいだろうと、地勢的な理由から推測しています。その話は後程。

・・・この神様はちょっとややこしいのですが、玉依姫が鵜茅葺不合神の血縁上の伯母さんで、玉依姫が鵜茅葺不合の神様が幼かった頃に面倒を見て、更に鵜茅葺不合の神様が大人に成ったら求婚されて結婚したそうです。
だから子育ての健康祈願も、縁結びも、夫婦円満も全て御利益が有る訳です(笑)。
年齢的には例えば鵜茅葺不合神の実母の豊玉姫と玉依姫が年の離れた姉妹で、豊玉姫25歳位の時に鵜茅葺不合神が5~10歳で、玉依姫が12~18歳位と仮定すると年齢的には叔母と甥でも伴侶に成れる年齢差ではあったりしますよね。封建時代は婚期が15~20歳位でしたから、古代もそんなものでしょう。

でもコレ、現代人の感覚では近親相姦で違和感を覚えるかも知れませんが、現代人の価値観は明治時代にイギリスのプロテスタントを模倣して新たに導入されたもので、神話時代に相当する縄文~弥生時代はおろか貴族と武士の時代に成っても血縁上の伯母が甥と同世代で甥と伯母が結婚するとか、従兄妹同士や姪と叔父等の政治的な背景も有って近親婚は無い事ではありませんでした。
今の感覚では考えられないですよね。
そもそも日本の神様の源である伊邪那岐(いざなぎ)命と伊邪那美(いざなみ)命からして兄妹であり夫婦神です。
天皇家でも天智天皇の皇女の山辺皇女の夫は天武天皇の皇子の大津皇子ですが、御二人は従弟同士でしかも親同士は対立関係だったりします。

例えば歴史人物でも令和二年二月十九日からNHKで放映開始される大河ドラマの主人公、明智光秀と跡継ぎの明智秀満は一般的に従兄弟(いとこ)同士と認識されていますが・・・
明智秀満
※馬と泳いで琵琶湖を渡って逃げる明智秀満
・・・明智秀満の妻女は明智光秀の長女だったりします。
この様に、昔は親族間でも戦争を回避する為だったり、古代では後継者としての地位を確実にする為に近親婚は珍しい事ではありませんでした。
ましてや、神話時代の始まり頃に相当する弥生時代の日本列島総人口は200万人未満と一般的に言われていますので有力者同士のみならず、集落の仲でも出会いは少なかったでしょうね(笑)。
縄文海進千葉県 ネットから拝借
※引用先⤵
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/arc/kantoplain/10m.jpg
そして、当時の房総半島は現在の平野部の大半がまだ海や、隆起した湿地帯や吹き上げられた砂の砂州で人が住める場所は現在の丘陵地帯の上だけでした。ですから弥生時代の終わり~古墳時代に次第に今の平野部が湿地帯だった頃に開墾が始まり稲作が普及し人が丘の上から平地に集落を移すまで、そもそも人間が住める場所が限定的な海に囲まれた丘の上だったので集落も拡大し難(にく)い上に、食糧確保手段となる産業も狩猟採集と保存食の加工くらいしか無いので安定して人間が繁栄する術(すべ)がまだまだ無かったんですね。

では、ここで玉前神社と鵜羽神社の位置関係を見て見ましょう・・・
玉前神社と鵜羽神社の位置関係 久良岐のよし
※画像クリックして拡大して見て下さい。
延喜式内社と式外社に該当する両社は、そのセオリー通り古代の海岸線だった丘陵地帯の先端に存在します。この位置関係が味噌に成って来ます。
延喜式内社や式外社に相当する修験道や仏教の聖地化した神話の舞台は先程ご説明差し上げた通り、古代の遺跡を内包している所ばかりです。
そして共通点は何処も“湧水池が存在する”或いは、港湾の入口となる岬の先端や、湾の最深部に何処も神社が存在しています。
では神奈川県の例を見て見ましょう・・・
主な歴史千年以上の古社と古刹と古代の海岸線 久良岐のよし
・・・御覧の通り、神奈川県域で白い部分は古代の海岸線です。
古墳時代に開かれた伝承のある相模国四之宮の前鳥神社と相模国国府祭(こうのまち)神事の神話の舞台でも有る平塚八幡宮(旧名:鶴峯山八幡宮)を除いては全てが古代の海岸線の間際や河川の合流地点の三角州形状地や湧水地に存在しています。
もう1度、玉前神社と鵜羽神社の位置関係を見て見ましょう・・・
玉前神社と鵜羽神社の位置関係 久良岐のよし
・・・恐らくこの両社は古代の物流で重要だった港湾の入口の岬先端と、湾の最深部だったはずです。
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玉前神社の社名の由来を解説すると、玉前神社は今でこそ内陸ですが近くから茨城にかけて広がる長大な砂浜の九十九里浜は古くは“玉浦(たまのうら)”と呼ばれた事に由来すると地元で伝えられていますが、これは“当たり!”と言えば・・・“まぁ当たり”ですが当時の状況を見ると長い時間をかけて生まれた誤解が少し有る事が解かります。
そして玉前神社の名前の由来の伝承と古代の地形を見ると合致する事が衛星写真に古代の海岸線を重ね合わせて見ると良く解ります。
東京湾岸古社と海岸線の位置関係 久良岐のよし
まだ房総半島方面は面倒臭くて(笑)GoogleEarthに未登録の場所だらけで申し訳ないのですが、ざっと今回紹介している二社と、神奈川県域の古社を見て頂ければ小生の推論が正しい事が御理解頂けると思います。
御覧の通り、やはり玉前神社と鵜羽神社は古代の湾を見守る位置に存在しています。
もう少し近づいて見て見ましょう。
玉前神社と鵜羽神社と三之宮神社の位置関係 久良岐のよし
この通り!古代の玉浦(たまのうら)が本当に玉前神社を入口にして存在し、その玉浦最深部で船舶を接岸させるのに良さそうな港湾に成る場所に鵜羽神社が存在します。
何より玉前神社は社名の文字の意味と由来通りに“”浦の入口の岬の一番“”に有るので玉前神社と呼ばれる様に成った事が容易に推測出来ますね。
そして今回は未取材で詳しい事は解りませんが、上総国三之宮と伝わる現代ではヒッソリと佇(たたず)む三之宮神社も、玉前神社の玉浦対岸側の入口を守る位置に存在しているので、こちらも延喜式神名帳には掲載されていないものの社名の通り上総国三之宮であった事が地形から理解出来ます。
そして延喜式内社と式外社たる証拠と成る水源も現在でも、ちゃんと確認する事が出来ます。
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一之宮である玉前神社は半島の先端であるにも関わらず、日本武尊も関わった湧水が存在し、現在でもその御神水は御汲み取りさせて頂く事が出来ます。・・・飲む人が少ないのか水が暫く出されていなかったらしく、ちょっと金属臭かった(笑)。
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そして鵜羽神社の方にも古代の半島の中腹にも関わらず井戸がこんこんと水を湛えています。
今では頻繁に水の組みだしもされておらず、農業用水の水源として活用されている様で、恐らく鵜茅葺不合の神様が生活用水にされていた御神水であろう井戸水は濁っていましたが、ちゃんと丘の上なのに湧水を湛えています。
恐らく、この鵜羽神社の背後の山頂等は発掘すれば弥生~古墳時代の集落跡でも出土するかもしれませんね・・・
人が生活するのにも、日本武尊が軍勢を率いて来て駐屯するにも、全て水が必要なんです。
そして清涼な湧水の無い場所では集落は形成出来ないんです。
川の水何か飲んだら寄生虫で死にますからね、抗生物質の無い古代には。
一方の一之宮玉前神社も、直ぐ近くの戦国時代の一宮城址辺りに古代の集落が在ったのかも知れません。
そして三之宮神社ですが・・・
現在の上総国神社位置関係 久良岐のよし
こちらもやはり、同一丘陵上に勝見城が存在する事から、未取材でも水源が存在していたか現在も存在する事が容易に推測出来ます。
・・・何故なら、御城ってのはね給水地が存在しないと籠城できないから城は必ず水源の確保出来る堅固な丘陵に室町時代までは作られたんですよ。だから近くに勝見城が存在する事で、三之宮神社も水源が地下に有る事が確認出来るんです。
もう一度、この神社の位置関係を見て見ましょう。
玉前神社と鵜羽神社と三之宮神社の位置関係 久良岐のよし
古代には九十九里浜が存在せず、古代の外房の海岸は東北地方のリアス式海岸みたいな地形だった事が一目瞭然ですね。そして玉浦(たまのうら)の最深部の船舶が停泊し易く陸地も多い鵜羽神社の辺りに鵜茅葺不合の神様が地域を治めた宮殿が有り、後に玉依姫の住んだ玉前神社に通婚をする様に成ったのが、二つの神社を結ぶ十日祭(とおかまち)神事の由来なのかも知れません。
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現代では海面上昇や気温上昇を地球温暖化だ異常気象だ何だと騒いでる子供と二酸化炭素排出利権とリチウムイオン電池利権を貪(むさぼ)りたい奴等が過去の歴史を見ようともせずに騒いでいますが、別に小生から言わせれば・・・
「あ~・・・昔の気候に戻ってってるんだな」
・・・ってだけなんですよ。
勿論、自分を含めて人間にとって大規模台風や大雨は生命を脅かす危険な災害なのですが、でも古代もそうだったんでしょ?それを人間の我侭で異常気象扱いするのは謙虚じゃない気がするんですね。

そんなに気温上昇による異常気象が怖いなら、先ずは全ての都市で白人が持ち込んだ石材とコンクリート建材を用いた建築文化を放棄して破壊し木造建築に戻せばよい。その上でアスファルトを引っぺがし土の道に戻し全ての歩道に樹木を植えて道を緑の傘で覆い隠してみなされ・・・
それだけで都市部の熱帯夜は解消され、木陰の自然の冷房で夏は涼しく、冬は防風林の役割を果たしてくれるでしょうよ。
ついでに言えば・・・
樹木が無くなるから二酸化炭素が吸収されず増えて気温が上昇してる訳じゃないんだと思いますよ。
ただ単に、地表を覆う樹木が無くなりコンクリートとアスファルトと言う蓄熱力の高い建材で都市を拡大し続けるから、都市部がストーブの機能を持ってしまい夏の気温が凄まじい事になるんじゃないの?
そして西洋式に全ての宅地開発した山の沢と言う沢を護岸工事して暗渠化して用水路にしちゃうから、山の沢から砂も生成されず、海岸線がどんどん後退するんでしょ。
100年前と比べて世界中でどれだけコンクリートとアスファルトの町が増えたと思うのさ?
・・・って話し。横浜市だって1950年頃と比べたら森林なんて乱開発で半分以上も消えてしまってるのよ?
それと普通に地下の活動が活発に成ってるから海水温も上昇して台風が増えたり地震が頻発するんじゃないの?
・・・と神話を辿りながら思う今日この頃。

さて・・・

久しぶりの歴史と神社と地形の記事を書いて見ましたが如何だったでしょうか?
本当は香港デモの事を12月初旬に自分で直接見聞きして来た事の続きを書かないと行けないんですが、中国の問題も香港の問題も台湾の問題も全ての国の良い面と、物凄く批判しないといけない事も多くありました。
でも今は中国を中心に香港台湾でも日本でも伝染病の肺炎が蔓延していて、特に中国では多数の方が犠牲に成っている状況で中国政府を誇りに思う中国人の事を批判するのと同じ事は書くべきでは無いと思っています。
今は災害国の日本人として、中国・香港・台湾の人々と協力して湖北省の疫病被災民を応援し僅かでも支援をするべき時だと思っています。
日本には史話ではありませんが民話として上杉謙信が武田信玄に塩を送った逸話等も有りますが、一度災害が起きたら被災して困ってる人を助けてこその日本人だと思うんです。
まぁ・・・武田信玄の場合は裏切り常習犯の自業自得ですが。

そんな訳で、又ブログを書く時は、幸せになりたい人に良い神社や御寺や、凄い歴史の有る城跡や、凄く風景の綺麗な場所なんかを紹介したいなと思います。
でも香港の事は肺炎が収束したら中国と香港の悪い面を批判し、また素晴らしいと思った事を紀行文で書きたいと思います。

因(ちな)みに最近見て来た景色をいくつか・・・
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12月大晦日頃、東京湾アクアライン海ほたるPAの真直ぐ先に登る日の出。
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海ほたるPAから見える富士山の夕景。
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袖ヶ浦市の農道から見た夕焼けの富士山。
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真直ぐな夷隅市の農道。
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木更津市の農道から見た夕陽。
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勝浦の部原海岸。
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富津岬。
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富津岬から見た東京湾第一海堡。
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富津砲台跡。
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かつうら海中公園から冬見える日の出。
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勝浦城址から見た外房の勝浦の海岸線。

では皆さん・・・
久しぶりに読んで下さりありがとうございました。
では!又、次の記事で御会いしましょう~♪

続き⤵️
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本日、日本は旧暦の小正月。
いよいよ、旧暦の正月も終わり季節も本格的に花やぐ春に入ります。
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今年は猪年。
因(ちな)みに日本で猪(いのしし)の意味で使われている“猪”の漢字ですが、本来の意味は“豚”です。
“豚”の本来の漢字の意味は日本語の“瓜坊(うりぼう)=子猪”の意味です。
日本人の言う所の豚は漢字では白猪と呼ばれています。黒豚なら黒猪に成るのかな(笑)?
中国、台湾、香港、マレーシア等の中華文化圏では豚は富の象徴であり財運と結び付けられています。
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日本で言えば井伊家の殿様を出世させた事で幸運の象徴化された世田谷豪徳寺発祥の“招き猫”文化みたいなモノかな?
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まぁ、だから彦根市のゆるキャラは彦根城主の井伊家の殿様、井伊直孝公の兜(かぶと)を被(かぶ)った豪徳寺の招き猫をデザインした“ひこにゃん”なんですよ。
そこら辺は以前、豪徳寺紹介記事で解説してるので御興味有る方は読んで見て下さい。
下⤵️クリックで記事リンク

それと小正月は満月を見る古代の祭事に由来しているんですよ~♪

明晩は満月🌕ですね~♪
だから猪=豚+金色の満月=金豚=発財=財運向上の日です(笑)。
なので写真も金豚(笑)。

神話の時代は考古学の縄文~弥生~古墳時代に当たりますが、当時の人々の生活と神社に残る神事は実は密接にリンクしてるんです。

現代の太陽崇拝の影響を受けた太陽暦で活動する欧州文化圏の暦に明治時代に改められる以前は、タイや台湾等のアジアの友邦と同じく日本でも月の満ち欠けを暦の基準にした陰暦(旧暦)で世界を見ていたんです。
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この間の皆既月食の写真ですが、古代の人にとって皆既月食はさぞかし恐怖に感じたんでしょうね~。
渡来人が来て稲作が持ち込まれる以前の我々日本の本来の在来種は縄文系の海洋民族遺伝子なので、海の潮の満ち引きに深い関係の有る月が生活の基準で、太陽信仰よりも月読(つきよみ)の神様つまり月読命(つくよみのみこと)が生活基盤だった名残りが今も有るんですよ~♪
今でも神職の方々が念じる蘇民祭=半年毎の大祓神事で祝詞(のりと)の口上は、天皇家の直接の皇祖神の天照大神ではなく、日本の原形=民族集団=各氏族の祖先神(部族長)の治める村々=原初の国々を生み出した、つまり初期の統治機構や交易の流通網を作り出したであろう伊邪那美命と伊邪那岐命の女夫(めおと)神様の名前ですよね。
その女夫神様から夜の世界を任せられたのが月読命で、大祓神事で半年間の“厄除”“魔除”“悪行をチャラ(笑)に”する御利益を授けて下さる素戔嗚命(すさのおのみこと)=牛頭天王(ごずてんのう)=武塔天神(むとうてんじん)様が治められた“海の世界”の生活にも深く関わっているんです。

あぁ~そうそう。
小生は敢えて夫婦(ふうふ)の字で夫婦(めおと)と書かずに江戸時代迄の人と同じ様に女夫(めおと)と書きます。
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“めおと”に夫婦の漢字を当て嵌めるのも近現代の漢字誤植ですから嫌いなんですよ。
同じ意味だから当て嵌めちゃったんですね。
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鎌倉観光すると昔からの鎌倉名物は女夫饅頭なので知ってる人も多いかも知れませんね。
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溝(みぞ)と書いて溝(どぶ)と読ませるのも近現代の漢字誤植です。
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田舎の人や城廓ファンは知ってますがドブは発音の通り“土腐(どぶ)”と正しくは書きます。
これは漢語ではなく、ずっと使われている日本語です。
よく城の沼堀の解説なんなかで目にします。

そして大祓は半年毎ですが、古代の人の1年は半年間でカウントしてたのだろうと言うのが最近の考古学の説だそうです。

途中から天照大神が重視されたのは、卑弥呼の頃の弥生時代の終わり~古墳時代の始まりに稲作が大々的に普及して生活基盤が農耕に移行したから、作物の実りや農耕に必要な灌漑用水の水の確保に支障が出る旱魃(かんばつ)=日照り=気温や日照時間、つまり天候と直接関係関係深い太陽信仰が重視されたからかも知れませんね。

さて!
今日、明日が発展と財運向上の金豚(笑)の日、御目出度(おめでた)い日です。
我々日本人の使う平仮名、片仮名、和体漢字のルーツ、漢字発祥地の漢人や友邦台湾の人なら日本の恭喜發財の日(笑)かな?

そして明日の満月の日~水戸市では水戸梅祭りが始まりますね~。
土曜日は皇太子殿下が天皇に即位される前の皇太子として最後のお誕生日でもあります。

皆さんにとっとも小生にとっても世界中の親日国の人にとっても向上と進歩と実りと幸の多い1年間に成ります様に~。



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前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑥・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、真土大塚古墳❝跡❞~偽真土大塚古墳~前鳥神社)←コレの続き。
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
前鳥神社への今年の初詣をし御守りを購入して後、車で正月二日最後の訪問地の寒川❝大社❞へと向かった。大社と書いたのには意味が有る。
寒川神社は現代では只の神社と名乗らされているが、これは欧米カブレのキリスト教徒政治家達が明治時代に行った宗教改革で名を改めさせられたのだ。古来よりの天皇家が延喜式神名帳に“大社”と記録してまで守って来た由緒正しい神社なのに。
延喜式神名帳と言うのは平安時代後期に律令制度では国家運営が難しく成って来た国政の問題に対応すべく醍醐天皇が追加した“延喜式”と言う政令で平安時代の人から見ても由緒正しく古く守るべき神社を纏めて記録した文書だ。これに寒川神社は“大社”としてちゃんと記録されており、尚且つ相模国一之宮の格式も有している訳だ。これを腐れ欧米かぶれ政治家が国幣中社等に貶めた。
全くけしからん!
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さて、正月に寒川神社を参拝したのは実はこれが始めてだった。
正月二日に来たのには特別な意味が有ったのだが、神社に着くまでに寒川神社の1km位手前から道路が物凄い参拝客渋滞しており、更に通常の神社専用駐車場が使えず、周辺に有料臨時駐車場が多数開かれていたので、その近辺の駐車場に小生も仕方なく駐車して歩く事にした。
参道は屋台が多数出店しており賑やかでとても楽しかった。
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拉麺屋の屋台とは現代では珍しい。食べなかったけどね。
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寒川大社(現:寒川神社)・・・延喜式内社 相模国一之宮立派な参道の石橋と大鳥居、でも実は寒川神社はここが入口では無くて、この1.5km位手前から昔の広大な境内地の名残の参道が残っているんだな。
まぁ、そこ等辺は過去に記事に書いたので興味の有る人は見て貰うと良いと思う。
延喜式内社、相模国一之宮の寒川神社と追儺(ついな)祭…古代からの神事を伝える一宮。高座郡寒川町。
現代でも寒川神社は立派で、恐らくは鶴岡八幡宮よりも❝御金が有る(笑)❞神社さんだ。
御利益は❝八方除け❞、そして寒川比女と寒川比古の夫婦神様の神社なので縁結びや夫婦和合の御利益、そして芸能の神様としても多くの芸能関係者から崇敬を集めている神社なだが、恐らく大半の参拝客は只「立派な神社だから~」と漠然とした理由と多くの出店が目的で初詣に来ている筈だ(笑)。
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スンゴイ密度の参拝客と出店!
でも脇道それると真っ暗。
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参道に戻ると本当に賑やか・・・
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小生、前鳥神社でケバブ食べただけじゃ物足りなく成り、美味しそうな焼きそばを購入・・・
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・・・屋台の焼きそばなのにとても美味しかった!と言う表現は失礼だろうか?
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多分、昔は仁王門だった只の楼門、でもこれ新しい平成の再建。立派なので本当に多くの氏子さんが寒川神社を崇拝している事が解る。
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この門をくぐると、いよいよ寒川神社の拝殿が見えて来る。
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この神社の拝殿や社務所前は結婚式でも人気の神社だけ有り服が汚れない為の配慮か綺麗な真っ平らな現代風石畳に成っている。中国の紫禁城の煉瓦石畳も広大で凄いが、それよりも日本人の精密な石畳で綺麗だな。
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社務所、ここもアルバイトの巫女さん達が真冬の19時半位の夜遅くなのに大層寒いだろう巫女装束で頑張って参拝者に御守り札を授与してらっしゃった。
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人の役に立つアルバイトとは言え正月休み返上で頑張ってる学生?巫女さん、偉い。
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拝殿の前には大きな御賽銭箱が用意されていたので、どこから投げ銭してもバッチリ(笑)。
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そして拝殿ごしに~幣殿~その奥に神様の御座所である本殿の階段が見える。
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今年はSuper moonで、この正月二日はとても明るかった。月明かりが拝殿の唐破風に映える。
現地で知り合いに成った氏子さんと色々話したが、今年はやはり例年よりも境内が明るく照らされてとても神秘的に感じたそうだ。
この方以外にも、周囲の参拝客から「今年は明るいわね~」と言う声が聞こえたのでよっぽどなのだろう。夜に神社を参拝する事は余り無いので、小生は実感が湧かないが神秘的な月明かりは素直に美しいと感じた。
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この日、小生が参詣したのは“追儺祭”の神事を見学する為だった。
実は寒川神社以外にも追儺神事を行う場所は多いのだが、日本全国大半の神社の追儺神事は仏教の影響を受けていたり、明治時代の宗教改革で廃れ行われなくなった場所が大半だ。
別名で“鬼やらい”と言うが、この❝鬼❞と言う漢字は大半の日本人は勘違いしているがの本来の意味では❝幽霊❞や西洋の❝悪魔❞の様な此の世に在らざる者を指す。
中国人が白人を西洋鬼子や日本人を日本鬼子と侮蔑するのは悪魔扱いしてる訳なんだな、中国人の覇権主義軍拡チベットやウィグルやブータン侵略を棚にあげて(笑)。
“追儺神事”=“鬼やらい”はつまり邪気を払う儀式なのだが、仏教の影響を受けて鬼退治の儀式に代わってしまっている神社ばかりで古来の恐らく縄文~弥生~古墳時代以前の儀式が続く場所は余り無い。
この寒川神社では今も古来の儀式が伝わっており、古墳時代以来の一之宮、そして大社だったのでキリスト教徒政治家達の国家宗教改革を無視しても彼等を介入させずにすんだのだろう。
実は寒川神社以外にも上賀茂神社でも同じ儀式が伝わり現代でも執り行われているそうだ。
神事の始まり・・・
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これまでの人生で見た事も無い人数の神職と氏子衆の行列が神社拝殿の中へと向かう。
総勢100人近くはいただろうか?
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何が始まるのか解らず、じっと見守る。
大体の内容は以前、こちらの神職様に口頭で御教授頂いていたので流れは把握しているのだが、やはり実際に見守ると緊張感も伝わり凛とした空気が一斉に張り詰める。
この神事が始まる直前から寒川神社は境内の全ての灯りが落とされ、屋台も発電機を停止させられ照明のみならず調理器具も電気をストップし神事に協力する。
灯りを消す事で、古代の神事を執行する環境を当時と同じ状態にする訳だな。
明るいのは社殿の中だけ。宮司様が祝詞(のりと)を読み上げ、境内の四方八方を清める聖水を神様の力で作り出す。
相模國一之宮 寒川神社 難波の小池 久良岐のよし
その御神水と成るのが寒川大社本殿裏に在る❝難波の小池❞の水なのだ。
この池を神職様達が「難波の小池ぇ~」と言いながら数周廻り竹筒で水を汲み、それを神前に奉納し祝詞(のりと)を念じる。
以前も話した事が有るが、❝念❞と言う字の❝本来の意味は声に出して読み上げる❞と言う意味なので、この場合は神様への祝詞を読み上げる動詞は念が相応しいだろう。
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そして灯りが消され、もう何が何だか意味不明(笑)!見ぇ~んwww!
・・・仕方ないので寒川神社様公式ホームページ画像を拝借させて頂きます。
寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 入場
楼門から社殿前の広場へ入場の様子。
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そして先程の清前(きよさき)精製の神事。
そこから神職様達が「難波の小池ぇ~」と言いながら境内を練り歩き、楼門や大鳥居の前等を移動しながら境内で清前を撒き、宝物数えを念じる。
寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 清前
この時に何と言ってるかハッキリは解らず、後日の電話取材でも電話対応された女性の事務員の方は御詳しくは無かったのですが、小生の聞こえた限りでは・・・
「〇〇矢」「〇〇〇矢」
・・・と言う様に聞こえたので、どうも弓矢が御神宝として古代には保管されていた用だ。
これが破魔矢の由来なのだろう。前回の休日雑記でも書いたが付近は莵道稚郎子命が弥生時代の終わり~古墳時代前期に介入している事が歴史と神話から判る。そして莵道稚郎子命と平塚八幡宮を開いた仁徳天皇大鷦鷯尊の父大王君が八幡大菩薩=応神天皇=誉田別命=大鞆別命なのだが、この応神天皇は現世で御存命の時には弓の名手として神話でも知られた大王(おおきみ)だった。当時は天皇号は存在しなかったので敢えて大王と書かせて頂く。
この神事、寒川大社で誰が始めたか、寒川神社を誰が一之宮として定めたか、察しの良い人は小生の推測と同じ事を考え付いただろう。恐らくは莵道稚郎子様だ。
当時の大王家の首都は京都でも奈良でも無かった。大阪の百舌鳥古墳群の辺りや大阪市の辺りと考えられている。
前回も紹介した真土大塚古墳・・・
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真土大塚古墳復元(模造)
まぁ~この写真は神川県教育委員会が莵道稚郎子御陵をぶっ壊すの容認して後から作った偽物だが、この古墳の本物だった破壊され此の世から消滅した真土大塚古墳は古墳時代前期の建造と判明しており誉田別命や大鷦鷯尊や莵道稚郎子命の時代と整合性が高い。
そして莵道稚郎子命は恐らく日本武尊に偉業が習合された人物の一人で、その仕事は佐賀牟国(相模国相模川以東+武蔵国)と磯長国(相模国相模川以西+伊豆国+駿河国)と毛国(上野国・下野国)の豪族の統制と北関東と東北地域の豪族の邪馬台国へ合掌を促し、参加した国には軍事外交と稲作農地開発と軍馬生産と金属加工技術の導入の技術支援事業と大王朝廷の屯倉(みやけ)の設置を行ったのだろう。
つまり以前から倭国に既に参加していた関東豪族を邪馬台国の末である古代大和朝廷の臣民化させ完全に大王の家臣化させ豪族の自治を終わらせ戦乱を終結させる役割を担って関東に四道将軍の内、東海道を管轄する日本武尊(ヤマトタケルノミコト)=倭建(ヤマトタケル)=倭長=倭(が軍の)長=稚(わか)郎子(いらつこ=王子)=宇治に領国を持つ郎子の倭の軍団長=莵道稚郎子(ウジのワキのイラツコ)となり、関東に下向し、その古代官職名が神号と成ったのだろう。
ところで日本武❝尊❞の❝尊(みこと)❞の当字は仏教文化の影響を受けているので日本で最初に漢学を導入した仁徳天皇の時代の莵道稚郎子以後の神号の当字と考えられるので、以後は莵道稚郎子命以前のヤマトタケルノミコトの当字は倭建と記そうと思う。
莵道稚郎子命の後の日本武尊も小生はいたと思っていて、その人物は雄略天皇=獲加多支鹵(ワカタケル)大王で佐賀牟国と磯長国の解体を行い相模国と武蔵国と駿河国と伊豆国の行政区域分離と再統合を行った人物と小生が推測しており、恐らくその発端は武蔵国造の乱だっただろう。
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小生が保有する縄文土器の破片。縄文時代~弥生時代既に横浜市域を含む神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県は多くの集落が在り箱根や伊豆大島で採取された黒曜石、金属刃登場以前の鋭利な刃物の素材と海産品と栗や団栗等の農産品の物々交換等、海を船で越え当時は内陸まで湾が入り込み激流だった相模川や鶴見川や多摩川の大河川に分断された地形を打ち越えて行きかった交易も盛んだった。
延喜式内社と式外社と寺院と古代の海岸線 久良岐のよし
※上地図の神奈川県域沿岸地域で白い部分が縄文時代の海岸線。
弥生時代に稲作が大々的に始まると空堀と土塁と木柵で村を囲んだ城砦集落が多く出現した。しかもどれも海に突き出した険阻な半島の丘の上で、内陸には元々海だった谷間の湿地が有り稲作に適し、貝塚から多くの海産物の残骸が出土する狩猟採集文化と農業草創期の生活に合った地形だった場所が多い。
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大塚歳勝土遺跡(集落+方形周溝墓古墳群)莵道稚郎子命の存命中の頃、つまり弥生時代~古墳時代前期の❝主力兵器は弓矢❞だった。まだ銅剣、銅戈(どうか)、銅鏃(どうぞく=矢尻)は高級品で、銅の鎧を身にまとう人物は大王や地方の豪族の王や高級将軍だけだった。
弥生時代には銅剣や銅鎧等は高級品で当然普及しておらず、一般兵の兵器はもっぱら磨製石器の石斧や石槍が武器だった。だからこそ、近接戦闘よりも弓矢での攻撃が主力だった訳だ。
一部の豪族の王達は弥生時代に中国の漢帝国との交易で青銅器やガラス製品や青銅製の剣も入手していたが、末端の兵士に行き渡る程は無かった。
古墳時代の王族の甲冑
この埴輪の人物は王侯諸将、つまり高位の将軍達や豪族の王達の姿なんだな。
それ故に北九州の邪馬台国の女王卑弥呼が魏から技術供与を受けて国家的に青銅器の大量鋳造が始まるとさしもの中国地方~関東地方まで開拓していた出雲国も太刀打ち出来なかった訳だ。
つまり小生が九州を制圧し中国地方を併呑した初代の倭建命と推測する景行天皇(卑弥呼の弟大王)と、二代目倭建命(倭姫=卑弥呼の甥)の古代大和朝廷の更なる東征だな・・・
初代倭建命が恐らく景行天皇で熊襲長(クマソタケル)達を討ち果たし、その熊襲の豪族の生き残った親族と和平し婚姻関係を結び邪馬台国に吸収連合し、南九州の隼人を打ち、魏への朝貢で受けた金属鋳造技術と農耕技術で遠征に堪える兵糧と軍馬の導入、恐らく同じ倭国を形成する別派閥の豪族だった出雲神族の治めた秋津洲(あきつしま=本州)へと東征し、出雲神族の中で不服従だった伊勢津彦=建御名方神を追い詰め伊勢国~尾張国まで制圧し建御名方神を三河~信濃以東に押し込め講和し古代大和朝廷を成立させたのが卑弥呼=倭姫と景行天皇=初代倭建命だろう。
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御所ヶ崎砲台遺跡(日本武尊と弟橘姫の行在所址の聖跡)そして今、現在倭建命の神号で一般的に呼ばれるのが実は景行天皇の王子の二代目の倭建命の事績だろう。走水に滞在し大伴久応黒主から歓待を受けた後、東京湾を船で横断し房総半島の富津へと渡った人物だな。
滞在されたのが倭建命の冠を社殿地下の石棺に埋蔵した聖地の走水神社の直ぐ左手前の海に突き出した御所ヶ崎で神話時代~江戸時代の人達までずっと守られてきたが、古代の聖地に否定的な宗教改革を行った明治政府によって接収され神社は破壊され倭建命と弟橘姫の行在所の聖跡は砲台にされ破壊されてしまった。まぁ、公開される時やツアーに入ると御所ヶ崎砲台は見学出来て神社時代の石段の跡が残っているのを見る事が出来る。
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この御所ヵ崎に来た恐らく二代目の倭建と弟橘姫の頃には鉄器も輸入されている。
卑弥呼が従属同盟した三国志の登場人物でもある漢帝国の丞相にして魏王の曹操孟徳、その孫で第二代魏皇帝の曹叡と丞相の司馬懿仲達からは卑弥呼に金印の他に銅鏡100枚の他に宝剣2振りが送られている。恐らく鉄製の剣だろう。この曹叡と司馬懿から送られた宝剣が天皇家や熱田神宮に収蔵されている神剣の正体では無いかと小生は考えている。鉄剣ではない銅剣や銅鏃でも当時は貴重品だっただろう。
日本には呉太伯の渡来の伝承が有り鹿児島県に呉太伯神社も存在するが、この呉太伯と言うのは春秋時代の名軍師孫武(孫子)が補佐した呉王国の呉王夫差の子孫に当たる人物だが、この呉王国の首都が現在の蘇州市に当たる姑蘇城だった。
呉王宝剣 蘇州市博物館
その呉は西暦紀元前600年頃には金属器の製造技術の先端を行く都市で、古来銅剣や鉄剣の産地として有名だったが、現在も蘇州市博物館に収蔵される呉王剣と名付けられた上将軍級の武将が携帯したであろう宝剣が展示されている。
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蘇州市には呉王夫差の父王である呉王闔閭の古墳❝虎丘❞が現存し観光地化しているが、当然盗掘され寺院以外は何も残ってはいなし。
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しかし蘇州市の中心部は今も姑蘇城時代の幅50mを超す水堀に囲まれた古代城塞都市の様子を残している。
因みに三国時代には古代日本と同盟した魏皇帝曹叡とは敵に当たる呉皇帝孫権の首都だった南京=建業以前の首府だった場所だ。だから中国共産党による文化大革命で破棄されるまで、中華民国時代までは孫権の邸址等が史跡指定を受けて保護されたいた歴史も有る。
小生は日本の狩猟採集文化の縄文時代から農業生産と言う弥生時代への生活基盤に革新をもたらしたのは呉からの亡命者達だったりするんじゃないかと考えている。実は蘇州は中国でも古代から有名な❝魚米之郷❞と呼ばれた中国における穀倉地帯開発の先進地域でも有ったりするからだ。
恐らく、天照大神や素戔嗚尊の時代は縄文時代から弥生時代の農耕文化の転換期に当たり呉王夫差が滅びて呉太伯が来日して帰化してから暫くした頃の話だろう。だから農耕に大切な太陽が重視され天照大神の神号が生まれたのかも知れない。
皇紀の開始時期は考古学的にも中国大陸との交易によって稲作水耕栽培の農業技術が大々的に日本に輸入されてきた頃の筈なので、弥生時代に当たる頃の神話に登場する太古の神剣と言うのは呉王剣の様な金属剣を鍛造する技術はおろか青銅器を鋳造する技術すら無かった時代の話なので、中国から輸入された物だっただろう。
その青銅器を大量鋳造出来る技術を手に入れた倭姫命の弟の大将軍たる倭建命が率いる邪馬台国の軍勢は部隊長が革鎧を容易に貫く銅戈や銅鉾を持ち、銅鏃の弓矢や鉄器で武装した精強な将軍が率いる精鋭部隊が兵法を踏まえ街道を守る環濠の陣城を兵站を確保しつつ馬による大量物資輸送を可能にし長期間遠征が可能に成る訳だから、さしもの素戔嗚尊の血を引く出雲神族の御神孫達も石器と僅かな兵糧太刀打ち出来なかった事だろう。
これが建御雷と建御名方神の一騎打ちに歪曲された戦争の真相だろう。武御雷の手が冷たい剣に成り云々と記載が有るが、これは本居宣長の翻訳の間違いで、本来の漢字の意味で重火器を除いた兵器を「冷兵器」と書くのだが、恐らく神話にちゃんと戦争の様子が伝承した鉄器の「冷兵器」と言うのが記載されていたのを勝手にオカルト的に翻訳して誤った神話にしてしまったんだろう。余談だが中国は三国時代に諸葛亮孔明が世界初の地雷を実戦使用していたり、通常兵器として石火矢が存在したり銃火器が既に存在した。だから日本の奈良時代に漢字で書物が書かれるように成った頃には中国には❝冷兵器❞と❝火器❞の区別が既に存在していた。古代日本は現代の欧米で称賛されている素晴らしい縄文文化や弥生文化は有ったが、当時は間違えなく農業でも工業でも技術レベルでは後進国だった。
皇居に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と熱田神宮に草薙剣(くさなぎのつるぎ)が其々(それぞれ)別に有る事を知る人が少なく2振の剣を同一の存在と思っている学者や神職すらいたりするが、実は別々の剣だったりする。
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熱田神宮
抽象化された神話を現実的に考えれば、成務天皇に与力した伊吹山神(恐らく関ヶ原を守備した豪族)に倭建命は毒を盛られ、体調を崩した上に交戦状態に陥り関ヶ原突破を諦め叔母の伊勢神宮経由で鈴鹿関から奈良への帰路を目指し、その前に拠点を熱田に置いたのだろう。しかし鈴鹿で毒が効いて没したのかも知れない。その際に遺品と成った草薙剣は熱田神宮内に保管されて以後、朝鮮(新羅)人に盗まれた1度を除いて門外不出を守られている。
・・・現代も韓国人や朝鮮人は日本で神像や石仏破壊したり骨董品として価値の有る仏像を盗んだり神社仏閣に油を撒いて損壊させるが古代から変わって無いんだよね。
皇族が天皇に即位する際に用いるのは天叢雲剣で皇居内に保管されているが、これは源平合戦で源義経の失態に因って伊勢平家の血を引く幼少の安徳天皇と共に馬関の海の底に沈んでしまい、後から作られたレプリカだ。古来の物は熱田神宮に存在する草薙の剣だ。
さて草薙剣の事を考えると、曹操は自らは倚天剣(いてんのつるぎ)を帯剣していた様だが、劉備元徳配下の名将の趙雲子龍に奪われた青紅剣は、趙雲を捕縛する命令を受けた大将であり曹操の親戚の子でもある夏候徳が命令の執行者の証として貸与されていた物だな。魏皇帝曹家か後漢では剣を2振り一対で主従様に作る習慣が有ったのかも知れない。古代の中国では石斧が君主の代行者の証だった。
この曹操の習慣を踏まえると、魏の儀式として重要な命令を自分の代りに遂行させる代理人に与える剣と対で君主が持つ剣が有り、その習慣が日本では天叢雲剣と草薙剣に残ったんだろうか?
・・・何で神剣が2振り有るんだろうね?これは魏皇帝の曹叡と丞相司馬懿から邪馬台国女王卑弥呼に送られた宝剣は刀剣収集家曹操孟徳の遺品で後の天皇家の神剣に成ったんじゃないのか?
曹操が三国志の英雄の趙雲子龍に強奪された青紅剣と倚天剣と同じ程の宝剣を魏皇帝曹叡から与えられる好待遇を卑弥呼はされたんじゃないだろう。だからこそ卑弥呼に金印を与えた魏以降の中国歴代王朝は古墳時代の倭国王を厚遇し日本列島と台湾諸島と朝鮮半島とを統治する❝使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王❞に任命し、奈良時代の唐も則天武后の登場まで安東都護府の運営を大和朝廷に任せていたんだろう。
そして古代の大将軍職の官職名が倭建(ヤマトタケル)だったから、倭姫(卑弥呼)によって草薙剣と大伴部と吉備家の豪族軍団が与力として二代目倭建に貸与されたんじゃないのか?
古代の大将軍職の官職名が倭建(ヤマトタケル)だったから、倭姫(卑弥呼)によって大伴部と吉備家の豪族軍団が与力として二代目倭建に付け、統帥権の印として草薙剣が貸与されたんじゃないのか?
余談だが倭建命の神号で呼ばれた人物が所持した神器は剣だけではない事を知る人は神奈川県民には少しはいるが他府県民には少ない。
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石楯尾神社石楯尾神社は倭建命が装備していた聖なる楯、天石楯を埋蔵した場所に社殿が築かれた聖地だが、現在ではその神社の存在を知る人は延喜式内社詣りをして御朱印を頂いて回ってる神社好きか、一部の地元民位なもんだろう。
しかし、ここは草薙剣と対を成した❝最強の楯❞の聖域として始まり源頼朝公達も支援した大きな神社だった。これを荒廃させたのは略奪迄婦女暴行奴隷売買の悪魔、武田信玄だった。武田信玄により石楯尾神社は略奪放火され一度荒廃し、その後、北条氏政公によって再建され現在至るが、戦後の主教改革で旧境内地は接収され源頼朝公が造営した石鳥居が並んだ参道址は破壊された。
ここを破壊した武田家が、倭建の神罰に遭ってどんな落ち目に成ったかは歴史好きなら周知の事実。
石楯尾神社の天石楯と対を成した熱田神宮の草薙剣を守る熱田神宮宮司千秋家に支持された織田信長公に敵対した武田信玄は三河から尾張に入る事も出来ず野田城で不審死、更には強大な勢力も次代の武田勝頼公の時代に一気に消滅した訳だ。
こう言った草薙剣や天石楯を装備していた倭建命の神話と当時の時代背景が全てリンクして、倭建命より少し後の時代の大王であった応神天皇=大鞆別命の王子である莵道稚郎子の古墳と伝わる真土大塚古墳からの出土品も古墳時代前期には貴重品だった金属製品が多数有り、破魔の銅鏃や三角縁四神四獣鏡が出土し王族や上将軍だった事の証明にも成っている訳だが・・・

聖地の真土大塚古墳は神奈川県教育委員会と当時の神奈川県知事と平塚市長が保護せずに消滅した。

・・・その縄文~弥生~そして莵道稚郎子命の古墳時代の高級な武器の矢尻、それも破魔の効果が有り八幡大菩薩応神天皇の特技の弓だからこそ弥生時代後半~古墳時代に周辺に大古墳が多数造営され栄えた寒川大社でも神宝となり❝古代より存続する寒川神社の追儺祭❞の神事の宝物数えの言葉に成り伝わったのではないかと小生は推測している。
寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 清前
そして極めつけは神事で使う❝清前❞の下に成る❝難波の小池❞の存在と名前である。
日本武尊は伯母の倭姫から吉備氏と大伴氏の氏族軍団を与力に付けられている。
大伴氏は佐伯一族で古代水軍の一族で有り大王の近衛部隊も務めた一族で、早くから関東を開拓した一族だ。その大伴家の氏神が大阪の❝住吉大社❞で有る事を知っている人は神社と歴史好きには少なくない筈だ。
・・・つまり住吉大社の在るのは難波(なんば)とも難波(なにわ)=浪速(なにわ)とも呼ばれる現在の大阪府辺りだった。この神事、日本武尊の時代に古代大和朝廷の基礎と成った邪馬台国が九州から近畿を制圧し関東を平らげた頃には始まっていたのだろう。
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旧三浦郡、三浦半島の横須賀市走水の走水神社一帯は日本武尊一行が房総半島へ渡航する際に滞在した土地で❝大伴黒主❞と言う人物が一行を接待したと伝わり、漁師で料理人と伝わるがこれは戦国時代に成っても平時の水軍武将の生活の糧だったので、この大伴黒主公は大伴部の水軍武将だろう。
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そして横浜市神奈川区の久応山寶秀寺は❝大伴久応❞と言う人物が、この寶秀寺一帯に自邸を構える豪族で日本武尊一行を走水神社の神話と同様に歓待したと伝承し、その時に日本武尊が使用した六角形の橋が神宝とされ現地の六角橋の地名由来と成った説が有る。
恐らく、この大伴久応と走水の大伴黒主は同一人物の豪族王、大伴部の一族の将軍で関東に早くから土着して現在の東京湾の神奈川県域を領地にしていたのだろう。となれば日本武尊=倭建(ヤマトタケル)=倭長(やまとたける)=稚長(わかたける)=獲加多支鹵(わかたける)等の当字の名残りは色々考えられるが六角橋でも走水でも日本武尊を接待した人物の大伴久応は走水の大伴黒主は同一人物で不思議ではないどころか、寧ろ同一人物と言い切っても過言ではないだろう。
この時に恐らく走水~房総半島へ渡航したのは二代目の倭建(ヤマトタケル)と成った景行天皇の王子様と弟橘姫様で、大伴部と吉備氏を与力に付けた倭姫を小生は卑弥呼と推測する。その弟で初代の倭建(ヤマトタケル)と推測する景行天皇達の時代とも当時の主力武器と追儺祭で寒川神社に伝わる社宝の数え歌に登場する“矢”は時代的にも整合性が有る訳だ。
つまり古代の軍事力の象徴であり邪気を払い民を守る象徴でも有った筈。
余談だが、後の応神天皇の本来の神号が❝大鞆別命(おおともわけのみこと)❞なのは母方が大伴(おおとも)家の一族の姫だったのかも知れない。
平安時代末期~鎌倉幕府設立まで活躍した源頼朝公が造営した鶴岡八幡宮・・・
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鶴岡八幡宮(若宮八幡宮)
実はここの宮司家は頼朝公以来、少なくとも戦国時代の里見家と正木家による鎌倉市街と八幡宮への放火略奪による焼失後の北条家による鶴岡八幡宮再建時まで大友(おおとも)家が宮司を務めた歴史が有る。源頼朝公は神話に精通していたので、神話と関係の有る地域と神社に関係の有る氏族を送り込んだ様だ。応神天皇と関係不快一族だから大伴家=大友家を宮司に据えたのだろう。
天皇家と同じで本来、明治以前の神社は神主と言うのは血脈が大切だった事を今の神職には知らない人も多いが、出雲大社や宗像大社や阿蘇大社等の西日本の大社格の神社の歴史を見れば一目瞭然だな。
そんな応神天皇やそれ以前の神話の時代、つまり縄文~弥生~古墳時代初期の歴史的な背景が有ったからこそ、邪気=叛徒=戦乱=蛮族による略奪虐殺を抑え邪馬台国連合に参加した国民を安んじる為の神器が弓矢と成り寒川神社の追儺祭や日本中の神事では弓矢が重視され流鏑馬神事が奉納され破魔矢が参拝者に授与される習慣として残ったのではないだろうか?
もしかしたら古代は流鏑馬や軍事演習であり、破魔矢は各豪族への大和朝廷からの武器供与の都市初めの行政(まつりごと)=祭事がスタートだったかも知れない・・・

無論、往古の事は考古学で証明された範囲でしか学者は書けないし無責任に言えないので、コレ等は全て小生が勝手に歴史と文化と地理と状況証拠を繋げた只の妄言の推測と思ってくれて良い。

・・・では何故小生が寒川神社の神事を始めたのが弟橘姫様と走水でラブラブに過された二代目の倭建ではなく莵道稚郎子と思うかと言うと、それは古代の地理と関係が有る。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
現在の中原街道は江戸時代初期に徳川秀忠公が父の鷹狩場だった平塚市中原の御殿へ直結する道を再整備して❝中原街道❞と名付けられたが、実はこの道は古墳時代初期からの街道だった。延喜式内社の寒川大社を起点にして同じく延喜式内社の深見神社近くを通過し古代の橘樹郡の政庁だった橘樹神社へと直結している道なのだ。この道は❝古墳時代の道❞で、初代と二代の倭国の大将軍である倭建の頃の道は文字通り三浦半島~房総半島へと海を越える古代東海道だった。
弟橘姫は神話では東京湾の荒れ狂う海を鎮める為に走水沖で入水し人柱に成っている。
つまり寒川神社を重視し中原街道を整備させるのは弟橘姫の御陵であり政庁も在った橘樹神社裏の弟橘姫御陵が築かれた以後の人物であるはずなので、二代の倭建以後の人物の可能性が高く成る訳だ。
そして二代は卑弥呼の甥っ子でまだ弥生時代~古墳時代の転換期の人物なので中原街道を整備させたとは思いづらい。
しかしながら、この街道と古代一之宮だった有鹿神社を接続する道に在る綾瀬市の神崎遺跡は❝尾張地方の文化の土器が出土する❞上に人骨が出土していない事から小生は状況的には我々❝城マニア❞の言う所の❝陣城❞的な環濠要塞が神崎遺跡で、これは二代倭建が兵站を確保する陣城として築いた物だと思う。日本の稲作は縄文時代末期には開始されていた事が現代の考古学で証明されているので、恐らく米の生産に因って携行できる食料が確保出来る様に成った事で、倭建の時代には遠征を行い征服戦争や豪族同士の合戦への介入の為に在陣出来る様に❝食糧事情の革命❞と❝戦争の規模の拡大❞が起こったのだろう。
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国指定史跡 神崎遺跡綾瀬市の神崎遺跡は古代海だった湿地に囲まれた半島地形上に造られた環濠の要塞集落で古代の有鹿神社~鎌倉郡に続く街道と中原街道が接続する交通の要所に存在する。
ここは❝特異❞な遺跡で❝人が埋葬された形跡が無い環濠集落❞なのだ。
これはつまり生活の拠点では無く街道を制圧する為の陣城だろう。
卑弥呼の時代の倭国大乱と言うのは、それ以前の稲作の普及による軍事行動範囲の拡大に因って不幸にも広がって行ったのかも知れないと小生は考えている。
そして初代の倭建かも知れない景行天皇や二代の頃に築かれた兵站は、そのまま古代大和朝廷の駅伝制へと発展し、数代後の莵道稚郎子の頃には道が整備されたのかも知れない。
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
縄文時代には県央部は御覧の通り海だったので平塚市界隈は莵道稚郎子の古墳時代初期以後の発展と言うのも判る。だから平塚市辺りが湿地で干拓が進んでいなかった初代と二代倭建の頃にはまだまだ戦乱樹で東征の前線地域で干拓や街道整備の内政に力を注げたとは思えず、中原街道が初代の頃に大々的に整備され使われていたとは考え難い。なので平和に成った古墳時代以後の莵道稚郎子の事業と考えられなくも無いと思う。
そんな倭建命(ヤマトタケルノミコト)や莵道稚郎子命の時代の弓矢を主力にして応神天皇が得意とした兵器が弓射であり、弓矢が武器なので神事と御守りに成ったんだろうな。
まぁ、そんな訳で、莵道稚郎子の時代以前には寒川神社辺りが相模国の中心として機能していなかった筈なので、相模原の有鹿神社奥宮の勝板遺跡の有鹿郷~海老名市の有鹿神社本宮の海老名郷辺りが佐賀牟国府、伊勢原市の三之宮比々多神社辺りが大山守皇子の一族が関東統治の拠点にしていた国府、大磯町に在る後の相模国総社六所神社~二宮町の二之宮川勾神社辺りが磯長国の国府だったんじゃないかな~?と小生は妄想している。
つまり大鷦鷯尊仁徳天皇や莵道稚郎子に東海道の兵を動員し叛旗を翻そうとしたのが大山守皇子の外戚一族だったのかも知れない。

さて寒川神社の追儺神事は、古来神事に参加する参拝者には破魔の❝弓❞と❝矢❞の御神威の加護が付与された御守りが授与される。
まぁ、現代では恐ろしい数の参拝者が正月に殺到するので人数は限定されるがそれでも数百人分は無料で配布されている。

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弓矢を模した御守りだ。
小生は追儺神事に参加し寒川神社や上賀茂神社で古代の人々から現代に伝え守られた文化を体験したかったのと、この天下無双の破魔の御守りを受領したかったんだな。
この御守りは寒川大社らしく御祭神の寒川比女と寒川比古の夫婦神の御利益で❝子供の夜泣きを鎮める❞御利益と❝八方除け❞で有名な寒川大社らしく強力な❝厄除け❞の御利益が有る。
・・・小生は奥さんに成ってくれる女性と御縁無いので子供もいないが(笑)。
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Super moonの青く光る神秘的な正月二日の寒川❝大社❞での貴重な体験を終えて駐車場に戻り、横浜市の自宅への帰路に着いた・・・

(後書き)
さて、今回は2018年01月02日に訪問先が1日間で19箇所も訪問し自分の中でも過去最高の1日での訪問件数の休日雑記と成ったので書き上げるのに毎週2日間の休日で書くのに丸々1ヶ月間を要してしましました。
しかしながら神奈川県を始め千葉県や東京都や埼玉県が古代より大阪府~奈良県~京都府と繋がりが深く、日本武尊と弟橘姫様と大伴部一族と莵道稚郎子命と追儺神事の御縁で結ばれている事が多くの人に伝われば良いな~と思います。
何となく参加している神社の神事には実は多くの古代からの文化が残っています。
日本人が神社で拍手を2回、出雲大社では4回打ち神様に礼拝しますが、実はこの事も中国の歴史書に記載されており、それが三国志と俗に呼ばれる文書の日本と関わった魏国の魏志倭人伝に「日本人は偉い人にパチパチ拍手して拝む」事が書かれていて現在の神様への御参りが既に少なくとも弥生時代後半は存在した事が解っています。
そう言った事を踏まえて神職だけでなく、明治以前の真言宗の弘法大師空海和尚様や天台宗の伝教大師最澄和尚様も日本の神様を大変大切にされ信仰されていたので、現在も真言宗の寺院や天台宗寺院と天台宗から派生した中国人高僧の蘭渓道隆和尚様の臨済宗や彗光菩薩法然上人様の浄土宗の御寺には御寺の守護神として神社が残っていたりします。道元禅師様の曹洞宗も白山権現を守護神にしていたり、立正大師日蓮和尚様も千葉神社を妙見大菩薩を守護神にされていました。
本来の日本文化は明治時代にキリスト教信者の欧米かぶれ政治家達が、儒学者と結託して宗教改革を行うまでは共存し共栄して日本人の心と文化を守っていた訳です。
明治時代に多くの古代の神事が消されましたが、一部の神社や御寺はキリスト教徒政治家にも盾突く事が出来る格が有ったので、古来の習慣を守る事が出来ました。
屋台で買い食いしながら参拝する初詣や夏祭りを楽しみながら、何となぁ~く祭事の中には古代から続く神事が有る事を皆さんが思い出してくれたら良いなぁ~と思い、2018年1月2日の休日雑記の〆とさせた頂きます。
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迷信と事実考証を交えない思い込みの強さと自国文化への理解の低さを露呈する人が結構な割合で日本人にも中国人にいる。
例えば中国では・・・

“月子”は正しい産後の民間療法

“冷水”飲んだら腹壊す”

“刺身”を食ったら腹下す

・・・と思い込んでる人等がいる。この人達は本当に“唐人”=漢族を自称する資格すら無い様に感じる。

月子は女性が出産直後は一ヶ月間入浴しない方が健康でいられると言う“迷信”だ。
冷水飲んだら腹壊すと思ってる馬鹿も多い。
古来、中国人は日本人同様に魚を生食した上に、来客の際に新鮮な魚介の刺身を振舞う事は最上の接待だった。

“月子”と“冷水”と“魚介類の生食”に関する中国人の思い込みは極めて簡単な言葉で論破できる、迷信だ
これを信じている奴は洗脳され易いか、我彼を比較して戦力分析する人間かどうか、思い込みが強く客観性の無い人間かどうかが日本で生活する中国文化圏の人限定で良く解る。

中国大陸では昔から自然環境を大切にせず森林を切り開き南方では水田を北方では畑と牧草地を無軌道に拡大したせいで緑地水源が無くなり砂州も無く成り浄化作用の無く成った河川と土壌の地下水は汚染されている。

水が汚染され不潔だから煮沸していない生水を飲めないのであって、それが冷水が駄目とすり替わっている。その水質問題は現代でも同じ、寧ろ現代中国では悪化している。
冷たい水が駄目なのに冷たいアルコールは飲める事の理由を先ず客観的に見ていない。
身体が冷たい飲料や食物を受け入れないから冷たい水が駄目なんじゃない、中国の生水が不潔に成ってしまっているだけ。
そんな生水、つまり当然ながら出産で裂傷の有る“産道”に中国の井戸水や水道水を触れさせれば感染症を起こす訳だな。
だから傷が塞がる間つまり最低1ヵ月間は頭も洗えない、当然入浴もダメ。
皮膚の脂垢と頭垢(ふけ)塗(まみ)れのままでいた方が感染症を起こすリスクより、よっぽど危険度が低かった訳だ。
これを理由も考えずに正しい民間医療として妄信している人が未だにいる。 月子なんて日本では関係無い、大丈夫、日本の水道水のシャワー使って平気だよ。他の欧米でも衛生的に安全な国は大丈夫。まぁ、傷に沁みる内は痛いから止めた方が良いかも知れないけれどね。
当然中国でもミネラルウォーターなら問題無い。

中国の水が不潔なのは悠久の時間をかけて無軌道伐採で森林を消し清涼な湧水源を消し田畑に変え、川の砂州を無くし自然による水の浄化能力を失わせた歴史に責任が有る訳だし。
日本で食う刺身は“汚染された中国の河川の淡水魚と違い安全”な事を客観的に理解出来ないで、生食が原因だと考えている訳だ。
「刺身や寿司を食ったら腹を壊す」
「遺伝子的に中国人の体は生食を受け付けない」
こんな事を言う中国人は李白の詩も読まず“根本的に中国古来の文化を学んだ事が無い人間”で“自国文化に対する愛も足りない”だと思う。

だから刺身や冷たい物を食べたら御腹を壊すと発言する中国人の知り合いがいた際に日本人の小生が中国人に教えた漢文が有る。

この漢文の作者は日本人との友情も伝わっている・・・
仙人橋
霜落荊門江樹空

布帆無恙挂秋風

此行不為鱸魚鱠

自愛名山入剡中

※小生個人の解釈で意訳するなら以下の通りだ。

荊門(の土地:湖北省の真ん中辺りの荊門市)に霜が降(お)り、江(川辺)の樹も(葉が落ち)空(むな)しい(様子だ)。

(船の)帆布は恙(つつが)無く秋風にかかげられている

此(これ=今回)は鱸魚(ろぎょ=スズキ)の鱠(なます=刺身)の為に行く訳じゃなくて

名山(廬山の綺麗な風景)が好きだから(ここから)剡中(浙江省紹興市)に向かうんだがな。

・・・この漢詩の題名は“秋下荊門(秋に荊門へ下る)”日本人でも尊敬する人の多い唐の時代の大詩人、李白が詠(うた)った漢詩だな。
だな。
生食が腹下すってのが中国の迷信と言う解説の前に、この漢詩自体と李白の事績の分析をしたいと思う。
荊門山
荊門と言うのは古代の揚子江(長江)と言う中国の大河川の流域の荊州管轄区域の端に在る荊門山と言う河岸に連なる宜昌市の山の事を指していると解釈が一般的だそうだ。
だがこれは間違いかも知れない。
そもそも荊門山は古くから宜都と呼ばれた土地に在る。隋時代には夷陵郡夷道県と呼ばれ唐の時代には夷陵郡が峡州に地名を改められている。いずれにせよ古代の荊州の中には有ったが、唐代の荊州の入口では無いので漢代~唐代まで荊門山の名は無かっただろう。比較的に後から付けられている筈(はず)だ。
※漢代の州区分は“はじめての三国志”さんの解説記事が中国古代史を良く知らない人でも見ると解り易いです。クリックで→初めての三国志ホームページにリンク。
はじめての三国志 公式様より拝借 三国時代の州
荊州と言うと歴史知識の乏しい中国人や台湾人は現在の荊州市の事しか思い浮かばないだろうが、漢代で言う“荊州”は都市名では無く広大な行政区分、文字通りアメリカのケベック州やニューヨーク州の様な州を指した。
後漢当時の州は14州の行政区分を指し、南方や西方に広域の行政区分が多いのは漢帝国(中国)から見た未開の地で漢帝国“自称:漢の征服地だし”で仮設置されている州区分。当然、朝貢しているだけの部族も多くいる。
南蛮扱いされてる古代ベトナムの王:孟獲サンや、胡王(非漢族の未開地の王=ウィグル族)沙摩柯サンなんかがこの部類だな。
漢代に設けられた荊州の行政区分は現代の範囲で言うと河南省南陽市~湖北省~湖南省を全て合わせた地域だ。
荊州7郡
※“もっと知りたい三国志”さんからの拝借地図です~。
ちゃんと史実に基づいて可視化した地図書いてくれている人がいるから助かる(笑)。
ネットの情報はゲームの間違った地図転載している人も多いからね。
そして漢代当時に荊州市は存在せす江陵県と呼ばれた地域の一部であり南郡に属していた。
この後、三国時代には更に南郡の地名は臨江郡に改められ、その2年後に更に宜都郡に改められている。宜都は現在では宜昌市の下部市町村として宜都市が存在し、そこが後漢時代の夷陵県であり、そもそも現代の荊門山の有る場所。
南郡=臨江郡=宜都郡の下部には“県”単位の行政区が置かれていた。 それは・・・ 中廬県、襄陽県、当陽県、臨沮県、夷陵県、夷道県、江陵県、枝江県、華容県、宜城県、郢県、邔県、編県、秭帰県、州陵県、鄀県、巫県、高成県
・・・漢代の荊門山は宜都郡夷陵県に在り、現在でも宜都市の地名の残る場所に存在している。漢代の価値観で言えば広い意味で益州(蜀=四川省)との州境ですが、荊門山は荊州の入口と言うにはだいぶ下流の州内部域に位置に在る上に、漢より後の唐の時代ではもはや行政区分的に荊州の入口でもなんでも無い位置に在る。
はじめての三国志様より拝借 三国時代の勢力
※又々はじめての三国志さんの画像拝借。
三国志で言うと
益州領主の劉備サン(首府は蜀郡成都城=成都市)の義兄弟の関羽サンが治めていた荊州を、揚州領主の孫権サン(首府は呉郡姑蘇城=蘇州市、後に建業城=南京市)が参謀で大都督の呂蒙サンと陸遜サンに攻めさせて関羽サンが殺され、義弟関羽の死に発狂した劉備サンが怒り狂って荊州を取り戻す為に夷陵の戦いを起こした辺りが現在の宜昌市界隈。
はじめての三国志 公式様より拝借 三国時代の州
余談だが、ちょっと紹介した沙摩柯さんが胡王と記述されているのですが、胡王の“胡”が指す胡族や突厥(とっけつ)と言うのはウィグル族の騎馬民族の事。ウィグル族の中で漢や唐や元の圧迫で西に逃げた現代のトルコ人達と同じ祖先を持つのが胡族だ。
なので沙摩柯サンはウィグル人だと思いがちだが、彼は武陵から攻め込んでいるのでチワン()族の系統の王族と考えた方が良いと思う。漢代に壮族と言う部族の区分が存在していなかったのかも知れない。
当時の劉備サンの敵対勢力である魏の曹操(首都:洛陽、首府:許昌)は雍州を抑え西藏(チベット)も同盟勢力だったので、沙摩柯サンが胡族だとしたら雍州経由でもチベット経由でも武陵に辿(たど)り着(つ)く事は不可能なんだな。

荊州7郡
まぁ、そんな訳で我々現代の読む側は李白さんの秋下荊門含めて漢詩や和歌が詠(よ)まれた各時代の細かい行政区分の変遷や詩に書かれた季節と各地域の名産品考慮して時代背景や歴史的な内乱の発端と成る異民族や反乱勢力の位置関係も踏まえて、詩の内容を読んで行かないといけないんだな。
・・・しかし中国に関して言えば、これ等の位置関係が現代に成ると更に解りづらく成っている。
現在の荊州市は江陵城と呼ばれた城で、荊州市から長江を50km程下った地域のに昔の江陵県の地名がそのまま江陵県として残っていますが、江陵県の中心だった江陵城が荊州市として近年に分離されてしまい歴史を混乱させる要因にも成っている。
まぁ、そんな訳で漢代の荊州と言うのは荊州市(江陵城)の事では無くて古代の漢代の巨大な行政区分の事だった訳ですが小生の住まう横浜にも少し関係が有る人が三国時代に水軍を率いて治めていた場所なんだな。
CIMG2796
三国時代に一騎打ちで無敗の名将軍だった関羽雲長さんの最期の根拠地。
DSC_3615~2
※北京旅行の時に60元で購入した銅像(笑)。部屋で走水神社の御守りの横に陪神として祀ってる(笑)。
関公は曹操によって神格化され協天大帝関聖天君の名で商売の神様として祀れているが、商売の神様に成った理由は生前に塩の行商の商隊をやっていた事、そして一騎打ちに負けない勝負強さから民間信仰の対象に成った訳だ。

そして
実は、この関羽さんの治めた本来の荊州の広大な行政区分は春秋時代の“楚”の領土が元に成っている訳だ。
楚の都を郢(えい)と言うのだが、漢代の県を含め荊州市荊州区等も古代の楚王国の首都だった場所で複数個所、遷都する場所に郢の地名が残された。

さんざん漢代の荊州の話と宜都市の荊門山の話をした上で話題を“秋下荊門”に登場する“荊門”の地名由来に話題に戻すと、荊門の地名は李白の生きた唐代に初登場する地名なんだな。
唐朝の統治下で荊門県と呼ばれた地域だ。
これが❝荊門❞の名の初出だな。それが現在は荊門市と呼ばれる行政区分に成った。
洛陽~荊門~四川省の位置関係 久良岐のよし
李白は実は塔克拉瑪干沙漠(たくまらかん砂漠)の入口に当たる甘粛(かんしゅく)省出身、その後に巴蜀の地、つまり現
在の四川省に移住した。だから四川省から船で
剡中(浙江省紹興市剡県=嵊州市)に向かうなら長江に違いないと思い込んだ歴史音痴中国人や観光振興が横行した結果だろう。
悪いが歴史事実を突きつけると、李白が剡中(紹興市剡県)方面、つまり江南地方に行く用事が有るのは洛陽に住んでいた時代以後の話なんだな。
江西省の廬山に隠棲する時に江南地方へと下って行ってる。
後は罪人と成って貴州から解放された時だが、その頃には安徽省を拠点にしている。
だから少なくとも、
秋下荊門の詩は時期敵に秋に荊門を川下りしているのだから秋下荊門を読んだ時は洛陽を離れ南陽方面から漢水を下っている筈なので宜昌の荊門山ではなく荊門郡(荊門市)の土地を指すと言うのが小生の推測だ。
荊門門市行政区域 久良岐のよし
荊門市は南面に西から流れ込む長江と、北から市域に流れ込み南へと突っ切る漢水の二つの大河が有る。
当時李白の居た唐の都の西安や洛陽から江南地方
剡県(浙江省嵊州市)に向かうには、漢水を利用する。
上流には襄陽市(じょうようし:漢代に荊州で最も栄えた襄陽城)が存在している。
しかし荊門山(湖北省宜昌市)を船からを見るには、わざわざ巴蜀(四川省)方面から長江を下って来なければ成らない。
これは余りに非現実的。しかも李白の生きた唐代の価値観からすれば洛陽から荊門はそのまま荊門県を指し現在の荊門市の事そのものだろう。
それに現在の荊州市の行政区分と都市名は、つい最近の数十年前に中国共産党によって決められたものだ。
荊門山の有る宜昌市が漢代の荊州と言う大きな枠組み以外で荊の名を冠するのは、唐の滅亡後の五代十国時代に荊南に編入されてからだ。唐代に宜昌に荊門山の地名が有ったか誰か確認したのか?
時代的なズレが有る。最初に訳した人間のテンプレートが広まって無いか?
李白は没する直前の晩年に安徽省の宣城市や当塗県辺りを拠点にしているので、やはりこの時期に川下りで荊門を通り
剡県に向かうとは考え難い
若い時に蜀を出てから暫く長江流域を旅したりしているし、罪人に成って貴州に抑留された時期も有るので宜昌市界隈に来た事も有るし山河の風景を詠んだ事も有るだろうが、小生は秋下荊門の漢詩の中の荊門は荊門郡の事だと思う。状況的に。
彼は洛陽に住んでいた頃、日本人の国費留学生で唐の玄宗皇帝に重用されていた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)や同じ大詩人と成る杜甫(とほ)と友人に成り飲んだくれていたりした。

風流だが豪快で情が厚い人で、結構、言いたい事を言ってしまう人だったらしい。個人的に好き(笑)。
こんな逸話が有る。
親友だった阿倍仲麻呂が日本へ帰国する船が難破して生死不明に成った際に「阿倍仲麻呂の帰国船が海難事故に遭って死んだ」と誤報を聞くや(実は漂流してベトナムに到着している)泣いて詠ったとされる詩が残っているのだが・・・

題名:哭晁卿衡(ku chao qing heng=阿倍仲麻呂卿に泣く)
※阿倍仲麻呂公の唐での姓名は姓:晁(chao:ちょう)名:衡(heng:こう)。
※卿(きょう)は官位、帰国前に秘書監、衛尉卿の二つの役職を拝命している。
これは凄まじい事で現代の日本の政権に例えるなら秘書監(内閣官房長官)と
衛尉卿(防衛大臣)を兼務している事に成る。優秀さから如何に玄宗皇帝に重用されていたか解る逸話。
※日本の貴族武士と同じく名を名乗る際は織田上総介信長の様に姓と名の間に官位を置く。

日本晁卿辭帝都

征帆一片遶蓬壺

明月不歸沈碧海

白雲愁色滿蒼梧


※小生の意訳
日本晁卿辭帝都
日本人(親友)で衛尉卿の晁衡が辞職して帝都(洛陽)を離れた

征帆一片遶蓬壺
帆(船)は(親友の晁衡を乗せ、海に浮かぶ)
小さな蓬莱の壺を遶(めぐ=廻)って征(ゆ=行)く
※蓬莱島は不死の妙薬が有るとされた島で、日本や台湾を指す。この場合は日本を指すが、一般的に日本を指す言葉は扶桑(fu sang)を使う。釜山(fu shan)と扶桑(fu sang)の中国語の発音が似ているが、漢帝国に認められて以来~日本が百済を救援して唐朝と対立し白村江の戦が勃発するまで、古代倭人の王権の支配地は本州~四国~九州~朝鮮半島南部に及んでいたので釜山も倭人の国土だった。つまり日本を当てる言葉としては本来は蓬莱島より扶桑の方が適切。
※壺を日本に例えている。

明月不歸沈碧海
明るい月(の様に唐の腐敗の闇を正そうとした阿倍仲麻呂は)碧(あお)い海に沈んでしまい歸(かえ=帰)らない

白雲愁色滿蒼梧
解釈1:白雲は愁(うれ)いの色に染まり蒼(あお)い梧(あおぎり)で満ちている。
解釈2:白雲は愁いの色で満ちる、ベトナムに。
※蒼梧は色と地名二つの意味が有る。
一つは青々とした熱帯植物、若(も)しくはその色。
もう一つは唐代の行政区での蒼梧郡(広西省チワン族自治区~ベトナム)の行政府を示している。
※この詩の蒼梧を色や木として解釈しない場合は、李白が事前に阿倍仲麻呂が日本に帰国せずに当時は唐の領土だったベトナムに赴任する事を知っていた事に成る無事を伝える暗号化された詩に成る。
広西省チワン族自治区
まぁ、こんな風に李白さんは日本人とも仲が良くて友達の死を悲しんだか、対立者による暗殺を恐れて帰国を装って船に乗りベトナムに計画渡航した無事を玄宗皇帝に風流な漢詩で表現したのかも知れない。
まぁ、李白さんは歴史も熟知し詩歌にも通じた大文化人だった訳だ。
そして
哭晁卿衡の漢詩はこんな背景がもしかしたら有るかも知れない・・・
当時、玄宗皇帝は傾国の美女として有名な楊貴妃によって政治的に堕落した生活をしていた。
この頃、李白さん始め玄宗皇帝と話す機会の有る人はアノ手コノ手で諫(いさ)めていましたが助言に耳を貸さずに腐敗して行く。
その楊貴妃の楊一族は、唐朝で外国人部隊を率いる将軍の安禄山の安一族と対立して権力争いをしていましたから、当然ながら玄宗皇帝の側近である阿倍仲麻呂卿も暗殺される可能性が有り都を離れた上で玄宗皇帝の配下で居続ける必要が有ったのだろう。
阿倍仲麻呂卿は天平勝宝四年(752年)に日本への帰国船に乗船する。
だから予め玄宗皇帝達と画策し都の洛陽から退避し日本帰国船で遭難(を装って?)、唐の支配地のベトナムへ漂着(計画渡航)。ベトナムなら安禄山一族の手は及ばないから。
「船が遭難した」と言う暗号で彼の計画の無事を確認した李白は悲しんだフリしながら安堵した気持ちを玄宗皇帝に伝えたのかも知れない。
阿倍仲麻呂卿は唐の朝廷で死んだ事にされていたのかも知れない。
李白によって哭晁卿衡の漢詩が詠まれたのは天平勝宝六年(754年)、この時期に成っても阿倍仲麻呂卿は死んだ事に成ってる(笑)訳だ。当時の中国は駅伝制が確立されており、馬で皇帝の下へ直ぐに情報が伝達される仕組みが有るにも関わらず。
唐時代の版図 
そして天平勝宝七年(755年)まで洛陽へも長安へも戻らない。
のら~りくら~り、安全が確保されるのをまっていたのか?
この間に玄宗皇帝は蜀(四川省)に遷都(都を移す=逃げた)し、モンゴルやウィグルの騎馬民族に援軍要請をし、騎馬民族の軍事介入で安禄山の大軍を撃破している。阿倍仲麻呂卿は760年まで浪人し無役でいた。
もしかしたら長安や洛陽に留まって、幕末の桂小五郎さんみたいにスパイをし玄宗皇帝に情報を伝えていたのか。

そして実際に757年に成ると安禄山は自分の息子の安慶緒に暗殺され、更に安慶緒は父安禄山の部下の史思明と対立し759年には更に安氏と史氏の抗争に発展し安氏は滅亡、反乱勢力は一気に自壊して行く事に成った。
そして天平宝字四年(760年)に阿倍仲麻呂公はタイミング良く復職すると“あの哭晁卿衡”の小生が意訳した解釈2の内容を漢詩を再現するかの様に・・
白雲愁色滿蒼梧
解釈2:白雲は愁いの色で満ちる、ベトナムに。
・・・唐の朝廷に復職しベトナムに赴任、鎮南都護、安南節度使に任命されて三位の官位まで得ている。

鎮南都護は南方方面軍長官
安南節度使は南方統括政府の長官兼財務長官

鎮南都護安南節度使として管轄したベトナムや広州は大切な交易ルートだ。
そして当時はメコン川流域は既に大穀倉地帯に成り兵糧補給地としての存在価値も有っただろう。
阿倍仲麻呂卿はベトナム赴任の後、最終的には潞州大都督(ろしゅうだいととく)に任命されている。
[画像:d72c085d.png]
唐代の潞州には三国志好きなら聞いた事の有る“壺関(こかん)”と言う洛陽防衛の最終ラインが有り、そこを任され更に大都督(大元帥とか参謀総長に当たる)に任命されている訳だな。
これだけの出世をすると成ると、安禄山の乱の鎮定にかなりの功績を残していないと不可能な訳だ。

さて、李白さんから阿倍仲麻呂さんの話に逸(そ)れてしまったが、そんな凄い人とも直接友達だった李白さんが・・・
洛陽で知り合った阿倍仲麻呂さん達と別れ、一路江南地方に移住する為に南下する。
つまり、この時に漢水を船で下り荊門郡(荊門市)の辺りを通過している訳だ。
霜落荊門江樹空
布帆無恙挂秋風
此行不為鱸魚鱠
自愛名山入剡中
だから小生は言う、この詩でも荊門って言ってんだから荊門山じゃなくて荊門郡でしょ?
状況的にも一番自然な解釈でしょってね。

さて、彼の詩で現代中国人で「刺身食うと腹壊す」と言う奴は迷信を信じ客観的に情報を判断しない煽動され易いか自己判断能力の無いか情弱な人間と、最初に小生指摘した根拠と成るのが、この
秋下荊門な訳だ。
DSC_3602
秋下荊門の意訳でネタバレしてますが、李白達の時代の中国人も生魚を食べていた。
しかも高級な料理として。
此行不為鱸魚鱠
此(これ)は鱸魚(ろぎょ=スズキ)の鱠(刺身)の為に行く訳じゃない
ばりばり唐代の人等食ってるし(笑)!
つまり、寿司食って腹を下すと言う中国人は自国の本来の文化を全く知らないし、自国の川や海の水が魚が汚染される程に汚い事を理解していないし、水道水や地下水や泥臭いのが異常な事だと認識も出来ていないし、川魚は寄生虫がいるから生食は余り適さないけど海鮮は下処理気をつければ鮮度次第と言う事を知らないだけ。
食習慣の問題が体質と思い込みに変わってしまっている。日本人の遺伝子も渡来系は中国人と遺伝子共有してるのだから有り得ない。
李白移動箇所 久良岐のよし
さて、そんな訳ですが李白さんが言っていた剡中(紹興市界隈)の唐代の名物は鱸魚(ろぎょ)=鱸(すずき)。つまり海の魚、だから鱠(なます)=刺身で食べれるのでしょう。
釣りをやる人は知っているが冬季に成るとスズキは寒い外海から湾内や川の汽水域へ移動し越冬する。
唐の時代の海岸線は当然、現代よりも内陸だったろうし、揚子江は内陸まで水深が深いので紹興市界隈のだいぶ内陸辺りまで汽水域が有ったんでしょ?

因みに日中戦争の時、日本軍は荊州市辺りまで余裕で海から軍艦で川を遡(さかのぼ)って来て、長江沿岸の都市に艦砲射撃を加えている事からも長江の水深の深さが伺えるでしょう。
まぁ・・・孫文先生の樹立した中華民国が袁世凱に乗っ取られたとは言え、その後の蒋介石さんは知日派だったんだから戦争するんじゃなくて英国と一緒に支援するべきだったと小生は個人的には考えている。
袁世凱がいなければ、中国は分裂せず中国共産党と国民党は中華民国で政党政治を共に行って居たかも知れないし、日本と協力して亜細亜の盟主に成って居たかも知れない。
まぁ、尼港事件も有り当時の日本人の感情として袁世凱がいなくなっても中華民国を許せないと言う風潮が有ったのかも知れないが。
日中戦争のエピソードも水深が深い事を例える素材には成る。

もう一つ、李白さんが船の中から見て
霜落荊門江樹空 布帆無恙挂秋風と詠んでいる事も思い出して欲しい。
季節は霜が降りる晩秋で鱸魚(スズキ)が湾内や川の汽水域に移動して来る季節位に紹興市方面に向かっている
様子も解る。
いずれにせよ、当時の紹興市辺りの名物は鱸の刺身だったし、当時の人々も生魚の刺身を好んで食べていた訳だ。
そして漢詩の内容の洛陽から南陽郡を通過し襄陽から船で漢水を南下して荊門を通過し江南地方を訪れるタイミングの漢詩と解る訳だ。
司馬遼太郎さんも“街道を行く”シリーズの江南地方への旅の中で、この詩を確か紹介していたと思う。こんな解析はしてないけどね。
案外、日本人の方が普通の中国人より中国文化を大切に思っているかも知れない。

さて、小生は現代中国には未だに迷信に振り回されている人間が多いだけでなく、“愛国心を謳いながら自国の文化も歴史も大切にしない人が多い”と指摘しました・・・
小生が中国蘇州の網師園と言う、とても綺麗な中国古民家を訪れた際こんな事が有りました。
・・・中国には中共以前の中華民国時代から受け継がれている“文物保護単位”と言う文化財があるのですが網師園もその一つで、当然ながら火気厳禁で禁煙な訳で。
しかし静かに見学している小生達日本人の後から中国人団体客が大挙して建物に入って来て、その内の一人が煙草を吸い、その吸殻を中庭の石畳にポイ捨てしました。
それを見た小生は憤慨しその中国人の前に立ってこう言いました・・・
「喂!你是中国人吧?」
(オイ!オマエ中国人だろう?)

「你因该知道这里是保护单位。」
(ここが文化財指定だって知ってんだろうが。)

「你这么做不觉得害羞吗?」
(オマエ、こんな事やって恥ずかしくないの?)

「到底你们在哪里有爱国心?」
(オメ~等愛国心なんて無いだろ?)

・・・結構低い声でユックリだが、まくしたてましたかね。
こう言うと、コチラを相手の低文化な人間も睨んできたが、生憎と小生はガタイが良いので相手は押し黙って動かなく成りました。これが中国人同士か一般的な日本人男性の身長と体格なら殴り合いに成っていただろうなと思います。

相手は外人に片言の中国語で話しかけられた経験も無いだろうし、しかもガタイの良い外国人に片言の怒気を孕んだ中国語で正論を言われて怖かったかも知れないし当惑したでしょうね、なんせ歴史文化礼儀軽視でポイ捨て当たり前の民度の人が多い国ですから(約20年前)。
でもメンツを大切にするから謝る文化も無いし人に言われて自分の捨てた吸殻を拾うなんてプライドが許さない訳だ。
小生はソイツにガン飛ばしながら吸殻を拾うとソイツのツアーガイド(中国人女性)に吸殻を渡し、注意し指導する様に言った。

小生「你为什么让他在这里抽烟呢?你也应该批评他,对不对?」
(アンタなんでアイツにここで煙草吸わせてんの?アンタもアイツを糾弾するべきじゃ無ぇ~のか?)

すると、そのガイド(导游)から怯えた様子で開口一番、先進国では考えられない一言が帰って来た・・・
导游「我不会・・・」((;゚Д゚)できません・・・)

小生「啊?为什么?」(は?何で?)

导游「对不起・・・」(;Д;)

小生「チッ・・・(舌打ちからの無言でガイドの姉ちゃんを侮蔑する)」(-_- ×)ノ

・・・こんなやりとりをした事が有り、中国人の中国伝統文化や文化財や自然に対する保護意識の軽薄さは身に染みている。
このガイドの発言は客を注意し、客から批判したと会社に騒がれたらクビに成るとでも思っての事だろう。
自己保身だが当時の中国は会社が簡単に従業員を解雇出来るし、上司が部下を選ぶ事も出来るから日本以上に愛人関連の問題も有った。
法律は有るけれど一部には機能はしていない訳だ。
中間層は真面目なのにね。

無論、小生の友人達の様に昔から素養が高く協調性も有り柔和で文化を大切にする人も多い。
反面、自分だけ良ければ良く自国の文化に対して平気で破壊を行う奴も多い。
モラルに置いて全員がそこそこズルくてソコソコ理性を持て振舞う日本人と違って、中国人は良い人は凄く良いが悪い人は何事においても凄く悪い。人の民度の差が激しい。
そして中国の自称愛国者は何故か自国の歴史を知らず文化を愛さ無い人間が多い。
とにかく善悪の差が激しい。

こんな事も有った・・・
大型スーパーの客が「御釣りが1毛(日本人の感覚で1円みたいな)足りない」と騒ぎだし店員のネエチャン殴る。

更にコンナ事も・・・
食堂で客が「他の客より米が少ない」と騒ぎだし店員も店員で喧嘩腰に「んなわきゃ無ぇ」と言い返し、客が配膳台から米を分捕り、怒った店員がその客を突き飛ばし、逆上した客が空の御椀を持って店員を殴りつける。
店員はオデコがパックリ割れて流血。
周りの中国人は誰も止めず俺が暴れてる中国人を後ろからフルネルソンでクラッチして羽交い絞めにしてホールドし周囲で傍観してる薄情な連中にこう叫んだ・・・
「不要打了!」
(止めろ!)
「喂,你们快报警吧!」
(オイ、オメー等(他の客と店員)さっさと通報しろ!)
・・・と言うまで誰も動かない始末。

こんな事も有った。
中国では人力三輪車がタクシー替わりに使われている観光地も多いのだが、仲良く成った現地の女の子と二人で市場に夕食の食材を買い出しに行く途中で三輪車が窪地に嵌(はま)って出れなく成っていた。
それを小生が普通に後ろから持ち上げて穴から出した。
まぁ、日本人ならその三輪車を持ち上げられる力が有るか複数人いれば普通に小生と同じ事をするだろう。
ところが、一緒にいた女の子にコンナ事を言われた・・・
「何で助けたの?」
・・・これは小生は衝撃的だった。当たり前の事をしたのに怪訝そうに眉をひそめて聞かれたのだ。
当然、この女の子みたいなのばかりじゃなくて、小生と同じ事をする中国人もいる。でも、“そうじゃない奴もいる”国民性が有る土地なんだな。

あと中国に出張に行くと気を付けている事が有った。
中国のTAXIは日本より遥かに事故る頻度が高い。
もし事故に巻き込まれたら、さっさと料金を払い車降りないと口論に巻き込まれ警察が来れば更に面倒に成り立ち去れなく成る事が有る。
小生も一度、中国滞在中に乗っていたTAXIが事故に巻き込まれた。上海の環球金融中心と言う日本の森ビルが建設した高層ビルに行く用事が有ったのだが、そのTAXI発着場所の入口近くの交差点で一般車両と右折直進衝突された。
さっさと金払って降りた。

中国人も自国の文化を大切にする人、古典を読み本当に史料を読む程に歴史が好きだったり伝統芸能の評弾を聞きに行く様な若者は寧(むし)ろ日本人に対して偏見の無い人や客観的に物事を判断する人も多い。

逆に中国人なのに自国の文化に左程興味が無い奴程、自国の事も知らないし対外的に無差別に攻撃的だったりする。
そして迷信を信じる奴も、この部類に多い。

まぁ~あれだ。
日本人もそうだが右翼って無文化な奴が多いし、左翼って文化破壊者が多いし、そのどちらも笑える事に民族主義者と民族逆差別主義者が多い。
万国共通だな。

歴史に興味の無い奴、文化に興味の無い奴、金と利益が絡まない事に対して無関心な奴、どこにもいるけど、中国の場合は特に差が極端。
文化的で良い奴と友達に成れば良いだけだし、日本での生活の長い人に対し順応性を見分ける素材が“月子”“冷水”“刺身”の迷信を習慣として海外にいても是とするか非とするかで客観性が有るか順応性が有るか判断も出来るって体験談だな。

中国人はもっと本来の中国である明や唐や宋や漢の文化を大切に、そして政府や人からの情報では無くて自分で活版印刷されて読み易く成っている古文書を読んで、己の文化と現代中国の闇を知るべきだと思う。
これを日本人が好み中国人が忘れた中国の諺で温故知新、継往開来と言う。

私達日本人は和服を来て正月に神社仏閣を参詣したり、書道で書初めをしたりする。
小生は書初めはしないが、ちゃんと写経もして御寺に奉納し神社も氏神様と土地神様と厄除けの神様と知恵の神様と御参りもする。
さて中国で日常生活の中で唐装いを着て歩く女性がいるでしょうか?
普段から御先祖様が大切にした御神廟や御寺を御参りする若者がどれだけいるでしょうか?
そう言う所から、本当の愛国心に通じる自国文化を大切にする心は育まれるのだと思う。
明孝陵に行って中国人の自称愛国者は朱元璋洪武帝に礼拝するだろうか?
昔の人は拝んでいただろう。
洪武帝はモンゴル元朝を倒して中華を取り戻した大功労者だよ?
きっと反日=愛国心と思っている人間には洪武帝の明孝陵の存在も知らない人も多い事でしょう。
そして何で“月子”を中国人は行わないといけなくて、何で“生水”を飲んではいけないか理由すら考えた事も無いでしょう。

もっと自国の歴史から古来の文化も学んで下さい。
そして出来れば人民解放軍が行っているプロパガンダと異なり、実際に日本軍と勇敢に戦ったのが中華民国軍とアメリカ義勇軍だった事実も知って下さい。
中国からどれだけ貴重な歴史偉人の陵墓が文化大革命のドサクサに紛れ盗掘破壊され消えたか調べて下さい。

でね、折角日本に来たら御刺身も御寿司も美味しいから試しに食べて見て下さい。
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2013-02-10-14-51-57
海鮮を生食しても腐って無ければ腹壊しません。
小生は中国人の同僚が帰国する際も来訪する際も、台湾の友人が遊びに来た時も、三崎で鮪を食べさせてあげました。
誰も御腹壊してませんよ。
アノサキス等がいるイカは刺身にする時にちゃんと化粧包丁いれて寄生虫駆除したり湯引きします。
先ずは体験してみて下さい。
中国出張中に買ったペットボトルの水が偽物で腹下したり、屋台の料理で腹下したり、別に小生は中国の不衛生な店も怯まずチャレンジしてますよ~(笑)。

まぁ、自国の物は大丈夫だって思いたいですよね。でも日本にも原産地偽装食品も有りますし、御互い、気を付けないといけないのは変わらないけど、迷信かも知れない通説も信じる前に自分で理由を考えて調べてみたらどうでしょうか?

では、又!




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神奈川県平塚市四之宮には前鳥神社(さきとりじんじゃ)と言う、とても由緒正しい神社が在ります。
平安時代延喜年間の醍醐天皇から見ても歴史が古いと認識された“延喜式内社(えんぎしきないしゃ)”と呼ばれる神社が神奈川県内には14ヶ所、それ以外に当時は神社では無くて聖地霊場だった場所も数ヵ所在ります。
この延喜式内社の内、一之宮~五之宮の異名を持つ神社が5ヶ所有って、前鳥神社はその内の四之宮でした。
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神奈川県には国府祭と言う祭事が有ります。
昔、現在の伊豆半島と神奈川県と東京都と埼玉県は一つの佐賀牟国と言う大きな国だったのですが、その国が大和朝廷によって伊豆国、相模国、武蔵国に分割された際に、相模国の国府(現在の感覚の県庁)を何処にするかで神様(在地豪族)達が喧嘩する内容なのですが、その御祭にも登場するのが前鳥神社なんです。
古代の日本ではどの国にも一之宮~五之宮まで設置された様で、これが原始行政機関と成って行った様です。
現在では五之宮に平塚八幡宮を含みますが、平塚八幡宮は自らを五之宮と名乗った歴史は無いとの事なので恐らく昔は別の神社が五之宮だったのでしょう。
国府祭は比較的新しい御祭りなので(と言っても西暦500年代~700年代が起源のはず)、五之宮の問題が有ってもおかしくは有りません。
良い機会なので神奈川県内で古代に大和朝廷から既に官位を頂いいていた特に格式高い神社を名前だけでも紹介して置きます。
※現在の神社の序列は古代~江戸時代までの歴代天皇の御意思を無視した物で全く参考に成りません。

●有鹿(あるか)神社奥宮

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相模原市南区磯部勝坂遺跡に所在。
女神さまの有鹿比女命(あるかひめのみこと)が御祭神。
神奈川最古級の神社で縄文時代の遺跡の真ん中に在る。聖地有鹿谷自体が御神体で形式的に御社も存在する。飛鳥時代の朝廷からも国家鎮護の神社として信奉されている。
※現在の海老名市に在る本宮は、後の時代弥生時代の遺跡が近在する場所です。
対して勝坂遺跡の有鹿神社は縄文。

●石楯尾(いわたておの)神社
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相模原市緑区名倉に所在。
石楯尾大神が主祭神。
そもそも応神天皇の行在所(あんざいしょ=仮御所)が建っていた場所に存在する神社。
更に歴史は遡れ、日本武尊が装備していた天磐楯(あまのいわたて)を埋蔵し御祀りしたのが石楯尾神社の始まり。中央線の開削工事で破壊された烏帽子岩が聖地として近年まで鎮座していた。
奈良時代には逆臣藤原仲麻呂を討伐した名将の坂上石楯(さかのうえのいわたて)公が当地に居館を構えていた。
朝廷から大切にされた古社だが、武田信玄によって略奪放火され古代からの神器等は消失した。その後の武田家の家運は御存知の通り一族ことごとく滅亡・・・。

●寒川神社
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高座郡寒川町に所在。
延喜式内社相模国十三座の中の筆頭格、一之宮。
御祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわひめのみこと)。
八方除け全方位の事故除けの神様や夫婦神様なので縁結びとしても有名だが、文化的には古代から続く追儺(ついな)祭が行われる。この追儺祭は現代では仏教の影響を受けている神事に変わっている場所も多い中、この寒川神社や京都の上賀茂神社では古来の形式が守られており、境内の湧水池で組んだ水を神前に供え聖水とした後に境内を清める伝統神事が毎年1月2日に行われる。

この他に二之宮~五之宮が有り・・・
●二之宮川勾神社    ・・・中郡二宮町
●三之宮比々多神社   ・・・伊勢原市三ノ宮
●四之宮が今回の前鳥神社・・・平塚市四之宮
●五之宮は延喜式では式外社の平塚八幡宮
・・・となっています。
この他に更に県内の延喜式内社には・・・
●有賀神社本宮          ・・・海老名市上郷
●深水神社            ・・・大和市深見
●杉山神社            ・・・横浜市緑区西八朔
●宇都母知(うつもち)神社      ・・・藤沢市打戻
●大庭神社舊跡(きゅうせき=元宮)・・・藤沢市大庭
●大庭神社            ・・・藤沢市稲荷
●小野神社            ・・・厚木市小野
●高部屋神社           ・・・伊勢原市下糟屋
●大山阿夫利神社(下/上社)     ・・・伊勢原市大山国定公園
●寒田神社            ・・・足柄上郡松田町
・・・が存在し、その他にも延喜年間には神社では無く霊場=聖地として扱われていた延喜式式外社と言う場所が有りまして、小生の把握する場所は以下の通りに成ります。
●橘樹神社  ・・・川崎市高津区子母口
●走水神社  ・・・三浦半島横須賀市走水
●師岡熊野神社・・・横浜市港北区師岡町
●八幡橋八幡宮・・・横浜市磯子区原町
●平塚八幡宮 ・・・平塚市浅間町
●六所神社  ・・・中郡大磯町国府本郷
●神揃山   ・・・中郡大磯町国府本郷の城山を含む丘陵全山
延喜式内社 久良岐のよし
小生のブログを読んでくれている人には御馴染のこの加工画像で位置関係が解ります。
※既に記事に書いた場所が大半ですがリンク貼るの面倒なので暇が有る時に少しずつやります。
さて、以上に列挙した神社の中でも前鳥神社は、その中でも少し変わった由緒を持っています。
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ここは明治時代に境内地を縮小されたにもかかわらず現代でも立派な参道を有しているのですが、そもそもが応神天皇の皇子である‟莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)”様が移住した場所と伝わっています。
ですから御祭神も
莵道稚郎子命が祀られています。
莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)皇子は生前、その名前の通り京都府宇治市に住んでおられました。
・・・小生の祖先も宇治市に関係が有るのでもしかしたら御先祖様が
莵道稚郎子様に御世話に成ったかも知れません。
莵道稚郎子の名前を現代語に翻訳するとこうなります・・・
莵道=うじ=宇治
稚=わけ=別(わけ)=和気(わけ)=古代皇族の名乗り
郎子(いらつこ)=良い男子=皇子
つまり、宇治に住んで居た皇子様と言う訳で、これは前鳥神社の伝承や日本神話とも整合性が有ります。
そして、前鳥神社の伝承と日本神話を考古学的に証明する場所が、前鳥神社の1.5km西の近所に存在しています。
 真土大塚山古墳と前鳥神社 久良岐のよし
真土大塚山古墳と言う古墳時代初期に造営された大古墳です。
この場所からは古代大和朝廷との関わりを証明する三角縁神獣鏡が発掘されています。
この古墳の主は恐らく
莵道稚郎子命でしょう。
考古学的にも地理学的にも面白いのは前鳥神社周辺は縄文~弥生時代は海の底でしたが、弥生時代も終盤に成ると地面が隆起し始め、古墳時代には陸地に成った様です。 しかし当時はまだまだ海だった名残りで沼地が多く、住める場所に限りが在りました。しかし、前鳥神社は相模川の浸食を受けなかった自然堤防上に在る事から、この一帯は古代には半島状、ないし島の地形だったと推測されています。
前鳥神社も古語を解読すると良く解ります。
前=さき=崎=みさき=半島の先端
鳥・・・これは島の字が書き間違えられて伝わったと伝承しています。
つまり岬や半島の様な地形だった場所に、
莵道稚郎子皇子が御所を築いたと言う事が地盤や神社の名前から推測出来たりします。そして、それは日本の歴史の空白の次代、西暦300年代初頭~400年代中盤の話だった筈です。
さて、前鳥神社の歴史解説はここまでにして、施設其(そ)の物の紹介をしたいと思います。
神奈川県の延喜式内社は明治以前の歴代天皇の伝統文化を良く守り、神仏習合時代の名残を残す場所が多く有りますが前鳥神社もその一座です。
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鐘楼が有ります。昔は神社を御寺が守っていたので、和尚さん達も出入りして御参りしていた訳です。
そして神社には別当寺と呼ばれる管理担当寺院が設置されていました。宮司さんと和尚さんが協力して日本の文化を守っていた訳です。
ついでに言うと莵道稚郎子命は学問の神様として崇拝を集めていますが、その理由は漢学(大陸渡来の学問)を日本で最初に本格的に学んだ人物だからです。つまり、八幡信仰や牛頭信仰に繋がる原始仏教も学んでいた訳です。それ故(ゆえ)、御父君の大鞆和気命(おおともわけのみこと)=応神天皇は別名で八幡大菩薩の名で古代~明治まで日本人に崇敬された訳です。応神天皇の名は大化の改新以降に付けられた名前なので、大鞆和気命か別名で御陵の地名でもある誉田別尊(ほんだわけのみこと)と御呼びした方が良いでしょう。
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前鳥神社は現在も参道を改修中なのですが、整備を行えると言う事は氏子サン達が頑張ってらっしゃるんですね。
ただ、古い物にも文化財としての価値は有るので、何でも壊さずに保管もして頂きたい所ですが、前鳥神社さんに限ってはその心配も無用でしょう。神職に史学と神学を両方学ばれた博識な方もいらっしゃいますから。
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鎮守の杜(もり)に囲まれた参道の正面に本殿が在ります。
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その両脇には御神木や石碑。
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参道を抜けると右手に社務所が在ります。
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そちらで立派な字の御朱印を頂く事が出来ます。
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有名な神社は書道の心得の有る方が多く、御朱印が格好良い。
社務所の手前には神楽殿も在ります。
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江戸時代には祭りの度に近所の人がここで御神楽を演奏したんでしょうねぇ~。
明治政府が宗教政策を失敗していなければ、現在も神社の御祭は賑やかだったんでしょうね。
本殿の右手前には奨学神社が在って菅原道真公と百済皇子の阿直岐が祀られています。
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 ここも前鳥神社の主祭神
莵道稚郎子命と同じく菅原道真公も阿直岐サンも学問の神様なので、学生や資格受験を目指す社会人には御利益が有りそうです。
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中にはすごい数の達磨さんがいたので、それだけ御利益が有ったって報告でしょうか?
その横には神戸(ごうど)神社が在って、古社らしく素戔嗚尊(すさのおのみこと)=牛頭天皇が御祀りされていました。
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本殿は古い建物では無い様です。再建と言っても、それなりに古いのでしょう。
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本殿を参拝する頃には夕陽も地平線に沈む時間に成り、社殿の灯りがとても神秘的でした。
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境内にはちゃんと親切に予備知識が無くても御祭神や神社の縁起が解る様に説明が有ります。
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皆さん、神様がどんな人だったかも知らないままに願い事だけするタイプでしょうか?それともちゃんと調べてから行くタイプ?現地で良く看板を読んでから拝むタイプ?
神様にも色んな御利益が有るので、予備知識が無くてもちゃんと看板を読むと良いと思いますよ~。

そんな感じで、前鳥神社が伝承通りに重要な古墳が近くに在り、相模国四之宮の格式を持つ神社だと言う事は御理解頂けたでしょうか?
きっと皆さんの御近所にも素晴らしい歴史偉人と繋がりの有る神社仏閣や城跡が有るはずです、その歴史や御利益と現在の建物の立派さは全く関係有りません。そこに関わった神様に成った人や偉人が私達の発展の礎(いしずえ)と成った土地を開拓して下さり縄文時代からの文化を現代に残して下さったと言う事が大切なんです。
きっと皆さんの近所にも素晴らしい歴史人物達と関わりの有る場所が存在します。
ですから、ちょこっと御散歩に出掛けてみては如何でしょうか?

では、又、次のブログ記事で!
次は神奈川県の御利益の強い神社仏閣一覧を更新します。
 

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神奈川県高座郡寒川町には、寒川神社と言う延喜式内社の古社が在り、古代から今も大変多くの氏子サンの崇敬を集めており、大変立派な神社と参道を現在でも有しています。
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先日、寒川神社の神職の方に寒川神社に伝わる追儺(ついな)神事と、その御由緒を教えて頂く機会を得て寒川神社に御参りに行って参りました。
この寒川神社は古代に一之宮と定められた御宮でした。
ですから参道もとても立派で、神社の現在の境内から1kmも手前に大鳥居があり参道が続きます。
寒川神社参道 久良岐のよし
寒川神社神事を御教授をして頂いた神職様の御話によれば、この参道が屈曲しているのは古代の相模川が参道の横にあり、河原に参道が有ったからだろうとの御推測でした。小生も大凡(おおよそ)同じ推測をしていますが、若干解釈が異なり、相模川ではなく古代の海岸線に沿って作られた参道だったろうと推測しています。
延喜式内社 久良岐のよし
小生がそう、推測するのは現在の神奈川県の衛星写真上にに延喜式内社と式外社と呼ばれる古社を表示し、古代の陸地と海岸線を重ね合わせれば一目瞭然で寒川神社は海岸線の端に在るからです。
海の真ん中に前鳥(さきとり)神社と平塚八幡宮が在りますが、前鳥神社の縁起では西暦300年代の創建とされ、丁度(ちょうど)古墳時代の始まり頃の神社成立なのですが、その頃から相模湾は隆起し陸地に成って行きましたので縄文時代~弥生時代の海岸線より海側に前鳥神社と平塚八幡宮は存在する訳です。
史学と神学を両方やっておられ小生が前鳥神社尊敬する神職の方に教えて頂いた事ですが、前鳥神社の直ぐ近くには古墳が在り三角縁神獣鏡が出土しているとの事で少なくとも卑弥呼の次代より後の成立で有る事から、地理学、史学、神学の全てで整合性の有る歴史事実でもあります。
つまり、寒川神社はそれより古い時代には同地に鎮座していた事に成る訳です。
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※一番外の大鳥居。スマホで撮影した動画のスクショです。写真じゃないよ!
神社としての公式記録も古く、朝廷の公式行事が記録し始められた頃の西暦400年代、雄略天皇の時代には既に幣帛(みてぐら=奉納品)を賜った記録が有り、以後、歴代天皇に代わり朝廷の奉幣使が遣わされた歴史を有する由緒を持ちます。
ですから、参道も長く立派なんですね。
ところで、小生のブログでは度々登場する神奈川県の延喜式内社の一~五の序列の神社と国府祭と言う御祭が有ります。
昔、静岡県東部の駿河地方と伊豆半島と神奈川県と東京都と埼玉県は2つの国で磯長国と佐賀牟(さがむ)国と言われた行政区域でした。
その佐賀牟国は、西の方を相模国と残りの横浜市東部と川崎市東京都埼玉県に股がる武蔵国に分けられました。磯長国も駿河国、伊豆国と西湘が相模国に分けられました。現在の神奈川県は相模国全域と、武蔵国の内の久良岐郡・都筑郡と橘樹郡の一部から構成されています。相模国が成立すると、相模国の国府(県庁所在地)を何処(どこ)にするかで神様(御神孫の豪族)同士がモメました(笑)。

その際のケンカが今も神事に成っていて、神奈川県で古代から伝わる国府祭(こうのまち)と言う祭事です。

この祭事の際に延喜式内社の寒川神社と川勾神社の神様が、自分の御宮を国府(こくふ)にするべく喧嘩する話がそのまま神事に成って伝えられています。
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※写真は三之宮比々多神社。寒川神社と同じく延喜式内社。
面白い事に、この神事にはちゃんと仲裁役も居て、小生が氏神様、土地神様とは別に毎年御参りに上がる比々多神社の神様(当時の御神孫の豪族)が「決着は来年にして落ち着きましょうよ」と寒川神社と川勾神社の神様の仲を取り持って一件落着する御祭に成っています。
そこでもう一度、昔の海岸線を見て貰うと何で寒川神社と川勾神社で国府設置を争ったかも良く解ります。
延喜式内社 久良岐のよし - コピー
寒川神社と川勾神社は古代の海を挟んで東西に対峙している訳です。恐らく相模国が成立した頃には既に海は隆起していたと思いますが、比々多神社周辺の戦国時代の岡崎城は戦国時代に至っても周辺を土腐(どぶ)に囲まれていました。海だった古代から1000年以上過ぎた戦国時代でもまだまだ湿地帯の様な場所が多かった程なので、陸地に成ったと言っても国府祭神事が行われた当時は現在の平塚市や茅ヶ崎市辺りの湘南地区=県央部は人の住める場所は少なく、古代から陸地だった寒川神社と川勾神社が交通の便から自分の地域に国府を置きたかった事情が読み取れる訳です。
仲裁した比々多神社は丁度、寒川神社と川勾神社の古代の陸地で真ん中に位置します。
さて、そんな訳で小生が神事の解説を受けに訪問した寒川神社、非常に古い次代から存在する事は何となく御理解頂けたでしょうか?
因みに国府祭で神様同士が話し合って決めたか朝廷が定めたかは解りませんが、一之宮~五之宮は以下の通りです。
一之宮・・・寒川神社
二之宮・・・川勾神社
三之宮・・・比々多神社
四之宮・・・前鳥神社
五之宮・・・平塚八幡宮(平塚八幡宮では五之宮を自称しておらず、後世の人によって加えられた可能性有り。)
この中に平塚八幡宮ではなくて相模国最古の有鹿神社(あるかじんじゃ)を加える説も有ります。
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有賀神社本宮(海老名市)と奥宮(相模原市)は以前もブログで紹介記事を書きましたが、奥宮が縄文時代の遺跡の真ん中にあり、聖地として古代からの湧水地有賀谷を抱えている場所でも有ります。
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この有賀神社と寒川神社、石盾尾神社(いわたておのじんじゃ)の三社だけが奈良時代に朝廷から官位を賜ってるので、恐らく、平塚八幡宮の成立以前は有賀神社が五之宮だったんじゃないでしょうか。
推測ですが。
他に相模国惣社を称する六所神社もあり、そこの近所に国府祭が行われる❝神揃山❞が今も在ります。
古代からこれらの神社と国府祭の五社は朝廷と結びつきが強かった事が解ります。
寒川神社の境内そのものに話を戻します。
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寒川神社の駐車場の横には摂社の宮山神社が鎮座しています。
この宮山神社は周辺に有った幾つかの神社が廃社される際に御神霊を遷座し合祀して御祀(まつ)りしている場所です。
摂社だけで普通の町中に在ったらそこそこ綺麗な神社程に整備されています。
寒川神社に行ったら是非、こちらも御参りして下さい。
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家庭運と安産祈願の御利益が有るので、若夫婦は是非御参りすると良いかと思います。
この宮山神社と、寒川神社の正面は少しだけ離れた場所に在ります。
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寒川神社の正面。立派な石橋ですね。
氏子サンも多く、参拝者の絶える事の無い御宮なので、力(お金)も有ります(笑)。
と言うか、現代の氏子さん達が頑張ってらっしゃるんですね~。
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参道も良い雰囲気です。
この神社は、植物に一々、何の記念で植樹したかや木に込められた意味の解説を添えて下さっているので、ちゃんと読んで見るのも良いかと思います。
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小生はこう言うのちゃんと読むタチでして、神社の職員さん達の仕事の丁寧さを垣間見れました。
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凄く立派な門ですね。
実は、寒川神社は平成に入ってから社殿の建て替えを行っているので御本殿もまだまだ新品同然の状態で、現代にこれだけの規模の立派な建築物を宮大工さんに依頼すると、どれ程の御金が必要か考えてしまいますね。
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門の絵前右側に社務所が在りますが、こちらも大変に立派です。
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結婚式もよく行われる神社さんだけ有り、少しホテルのロビーみたいな雰囲気も有ります。
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社務所の手前には別の裏門も有ります。
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本殿に行く門の手前の両脇には狛犬さんが控えている訳ですが、この寒川神社の狛犬さんは何だかロボットぽいデザインで個性的です。
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力強く・・・なんだか小生が昔遊んだTVゲームのFFシリーズに召喚獣として出て来そうな・・・
狛犬さんの手前左手には神馬をお祀りする御社も在ります。
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昔はね、絵馬じゃなくて有力豪族は馬を寄進したんですよ。
小生の住む久良岐郡の本牧(ほんもく)半島は、昔は朝廷の牧場で軍馬生産地だったので本牧の地名が残ります。
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でも、この寒川神社の神馬の彫像はリアルで少し怖い(笑)。
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門を抜けると境内は広く、とても綺麗です。
氏子サン達の頑張りで建て替えられた御本殿と整備された境内の石畳、この先数百年の財産に成り神奈川県の文化財に成って行くんでしょうね~。
まぁ、神奈川県と言う制度が残っているかは疑問ですが。
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境内全街がとにかく綺麗。
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新しいし。
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巫女サンも美人だし(笑)。
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八方除けの交通安全の御守りを買いました。津島大社の交通安全の御守りで遠距離運転を守って頂き、寒川神社の八方除けの御守りで車庫入れで四方八方ぶつけない様に守って頂く事にしました(笑)。
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御本殿も立派で、明治神宮よりも立派かも知れない・・・
これだけの規模の建物を良くぞ現代に建てれたものだと感心するばかい。凄いですね。
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ちょうど御祈祷が始まる直前だったので、拝殿に参拝客が沢山いました。
毎日沢山の参拝者が集まるんですね~。古代から栄え続けている神社だけに、財運にも恵まれそうだ。
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本殿の手前左手には御神木が在り、御神木も代を経て現在に至るそうです。
さて、ここからが小生の訪問目的で本題の追儺(ついな)祭の事に成ります。
この神事、ステレオタイプの学者先生共は中国由来云々かんぬん言う連中がいますが、寒川神社や京都の上賀茂神社等、古社に伝わる神事は完全に日本古来の様式の神事で、それ以外の比較的新しい神社が中国風の行事を取り込んで神事を行っているんですね。
寒川神社 久良岐のよし
寒川神社には背後に湧水地が在ります。夜、境内の灯りをすべて消して神職様達が池の水を汲み神前に供えるそうです。
度々解説していますが、延喜式内社の多くでは古代人が生活する基本となる聖なる水=安全な水の湧く湧水地や、海の航行や陸上移動の目標物と成る奇岩等も信仰対象として大切にされて来ました。
この寒川神社や上賀茂神社ではその歴史が守り伝えられている訳です。
寒川神社の追儺祭では、池で水を汲んで神前に供え清前(きよさき=聖水?)とした後に、境内を廻り、清前を撒いて清めるそうです。
この御祭、正月の2日に行われます。是非、皆さんも御参加されて古代からの伝統を体験してみては如何でしょうか?
今回の訪問で新しく延喜式内社専用に購入した御朱印帳に改めて寒川神社さんの御朱印と、近所の前鳥神社さんも御参りして頂いてきました。
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寒川神社さんの御朱印、カッコいいでしょ?
神奈川県内の延喜式内社は14座有るのですが、神主様が常駐している場所も減ってしまって中々、御朱印集め大変なんです。だからほら、小生の御朱印帳も寒川神社さんの右手は山梨県の一之宮浅間神社さんでしょ?
県外の大規模な延喜式内社さんから集まっちゃうんですよね・・・
簡単に御朱印が貰えるのは深水神社、比々多神社、高部屋神社(伊勢原皇大神宮で貰える)、大山阿夫利神社、寒川神社、前鳥神社さんくらいでしょうか。
有賀神社は宮司様にお電話差し上げて自宅兼事務所まで行って漸く拝領する事が出来ました。
なかなか、昔と違って神社にも御寺にも御参りする人は減って、檀家さん氏子さんも減ったので、宮司様も和尚様も複数の神社・御寺を兼任してらっしゃって大変なんです。
上記以外は御参りしても宮司様不在の事が多くてなかなか貰えない。事前に電話してタイミングが合えばと成ってしまいます。
これ、来年の目標ですかね、神社仏閣と歴史偉人の顕彰活動とは別に神奈川県内の延喜式内社を改めて御参りして御朱印コンプリートするの。
では、本日はここまで!
又、次の解説記事で御会いしましょう!




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有鹿神社(あるかじんじゃ)奥宮…延喜式内社
主祭神:有鹿比女命(あるかひめのみこと)。※海老名市の有鹿神社本宮は有鹿比古命(あるかひこのみこと)が主祭神。
御利益:雨乞い・農業豊作・縁結び・家内安全・家運発展
開基:縄文時代には既に湧水の聖地として存在した。
中興:天智天皇・孝謙天皇・清和天皇・相模国司歴代・海老名家
場所:相模原市南区磯部勝坂、勝坂遺跡の有賀谷。
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平安時代の人々から見ても古いと思っていた歴史有る神社を醍醐天皇の時代に後世に伝え保護させる為に記録させた❝延喜式神名帳(えんぎしきじんめいちょう)❞と言う古文書に掲載されている神社を、延喜式内社(えんぎしきないしゃ)と呼ぶのを皆さんは御存知でしょうか?
平安時代、西暦900年代は既に古来の律令制度での国家運営が難しくなっており、それを改善する為に発布された延喜式政令の一端として行われた宗教政策みたいなものです。
つまり、この延喜式神名帳に掲載されている神社は現在の規模が如何に小さかろうが、現代の建物ばかりデッカイ神社よりよっぽど神様の歴史の重みと重要さが別格に高い訳です。
別に建物だけデカイ神社なんて、金儲けのセンスの問題ですからね…
さて、そんな延喜式内社が神奈川県旧相模国域に13座、武蔵国域に1座有ります。
その内の一つが縄文時代からの聖地❝有鹿谷❞に存続する有鹿神社の奥宮(元々の神社の発祥地)です。
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現在、有鹿神社奥宮は石の鳥居と祠(ほこら)が有るのみですが、その前を流れる小川を数mたどると現在も縄文時代から湧き続ける聖なる水源が有ります。
本来は、有鹿神社はこの辺りに立派な社殿が存在したはずなのですが、相模国の国府が海老名郡に置かれ、平安時代末期に坂東平氏良文流の名族の海老名氏が海老名郡を支配する様(よう)に成ると、海老名郡の総鎮守として、有賀神社も奥宮から現在の海老名市上郷に在る現在の本宮に重要度が移管させられました。
なので、近くの中宮には、本宮の聖地であったであろう池が在りました。恐らく縄文時代~弥生時代には安全な飲水として古代人に重宝されたであろう聖なる湧水地の池も土砂の堆積(たいせき)で消えました。しかし現在も本宮はや中宮の祠の近くには、聖地奥宮の有鹿谷から流れる鳩川が流れています。

延喜年間に聖地とされた場所は延喜式内社の他にも有ります。
そこは平安時代当時に御寺とくっつい修験者(山伏:やまぶし)の道場や天皇家の勅願所、又は国府や郡府として機能していた関連で延喜式神名帳には神社として掲載されていなかった場所で、小生の知る限りでも神話の舞台の日本武尊と弟橘姫の走水神社(はしりみずじんじゃ)・橘樹神社(たちばなじんじゃ)・師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)・八幡橋八幡神社(やはたばしはちまんじんじゃ)等が有ります。
これらは延喜式に掲載されていない事から、❝延喜式外社❞としてカテゴライズされています。
●走水神社の記事

●橘樹神社の記事

●師岡熊野神社の記事

延喜式外社は朝廷を乗っ取り天皇家を傀儡(かいらい)としていた❝藤原家にとって歴史的に都合の悪い場所もあり❞素戔嗚尊を祀(まつ)る祇園社、八坂神社、八剣神社、剣神社、出雲社、津島社も多くが延喜式内社から除外されてしまっています。

さて、延喜式内社と延喜式外社の説明はここまでにして、有鹿神社奥宮の説明に戻ります…
冒頭少し説明しましたが、有鹿神社の奥宮は平安時代末期に海老名市に本宮機能を移転した有鹿神社本宮の元宮です。
そして縄文時代からの文化を受け継ぐ聖地の湧水地に鎮座する神社な訳です。
ですので、この神社を語るには、縄文時代の住居が多く出土した旧境内地の勝坂遺跡の存在と、何故(なにゆえ)御祭神が伊勢神道系の皇祖神ではなく日本神話と関係無い土地神様なのかを解説する必要が有ります。
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※上の写真は有鹿神社奥宮の旧社地に在る勝坂遺跡。
そもそも現代の神社は社殿に祀られた御神体の銅鏡(かがみ)を拝む文化で、神社の建物自体が聖地とされてしまっていますが、縄文時代や弥生時代の神話時代の信仰を受け継ぐ古社の文化は全く現代の神道の鑑を拝む文化とは異なり、聖なる池や聖なる山、又は神様と成った神話時代の歴史偉人の御使用された祭器や武器その物等の遺品が信仰対象に成っていました。
ですから日本最古と呼ばれる奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)は三輪山が御神体ですし、熱田神宮は本来は日本武尊を祀った神社だったのでその遺品で三種の神器の一つ草彅剣(くさなぎのつるぎ)=天業雲剣(あまのむらくものつるぎ)が御神体とされています。
もっとも、日本の神剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)=天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)と二つの名で呼ばれ同一視されていますが、実は熱田神宮にも東京の皇居にもそれぞれ一振りずつ神剣が存在している事から、小生は初めから2振りの剣が日本国には古代から存在していて、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は別の神剣だと推測しています。
更に言えば伊勢神道に神剣が2振り有る事や銅鏡を御神体にする文化は弥生時代の卑弥呼が魏の皇帝曹叡から贈られた宝剣2振りと銅鏡200枚に由来していると個人的に推測しています。
神剣が天叢雲剣と草薙剣の2振り有るのに神剣が1振りしか無いように世間に誤解されているのは、恐らく藤原家が自家に都合良く古事記の文書化や日本書紀の編纂で歴史を改竄した結果、発生した矛盾によってこの様な事態が発生してしまったのだと推測しています。
皇居には壇之浦の合戦で安徳天皇が平家と無理心中した時に海中に紛失した天叢雲剣のレプリカが有りますが、熱田神宮にも日本武尊が東征に携行した草薙剣が保管されており熱田神宮の公式見解で神器として祀られてより新羅人に盗まれた時以外に境内から外に持ち出された歴史は無いとしている事からも、元来、日本に神剣が2振り有った事が明白です。
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勝坂遺跡入口
江戸時代にキチガイ領主だった徳川光圀(水戸黄門)によって創始された歴史の浅い水戸学を元にして、明治時代に文化や宗教の欧米化を指導した森有糺等の介入により成立した国家神道により、神社の社殿を聖地とする伊勢神道の価値観が基準とされ、更に皇祖神とは異なる神様は軽視されてしまいました。
結果的に縄文~弥生~奈良~平安~鎌倉~室町~安土桃山~江戸時代の価値観はつい最近の150年前に否定され、以来、土地神様や伊勢神道の神様と異なる主祭神を祀る延喜式内社の多くは明治~大正~昭和に急速に廃(すた)れてしましました。
これは、他の延喜式内社の解説記事でも書いているので、カテゴリー「延喜式内社と歴史千年以上の古社」から選んで読んでみて下さい。
少々脱線しますが因(ちな)みに、小生が水戸黄門をキチガイ扱いするのは彼が領民に重税を課し農民達を苦しめた悪人であり、更に犬の皮を剥(は)いで生皮を将軍の住む江戸城に投げ込む変態行為を行った文字通りの精神異常者だったからです。
彼に関しては、ヤンキーで少年時代に不良グループと群れていた事実以外は全くTVの水戸黄門と異なる作られたイメージなんですね。
彼の評価が高く成ったのは犬を虐待して当時の将軍の徳川綱吉の生類憐みの令に反抗してみせたパフォーマンスと、その反幕府的な姿勢が幕末に後の明治政府の重鎮達に手本にされたからでした。
そんな訳で、彼は江戸時代にも多くの八幡宮等、伊勢系統の神様と無関係な神社仏閣を多く破壊した悪事を行っています。
そんな彼の創始した水戸学の誤った知識により、縄文時代~江戸時代末期まで自然崇拝や土地の神様を大切にした古来の神社文化は衰退させられてしまいました。
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しかし、この有鹿神社や日本全国の延喜式内社には、日本書紀の神話にも登場しない土地神様や日本武尊や弟橘姫が主祭神として存続し、更には縄文~弥生~古墳時代の遺跡を旧境内地に埋蔵した聖地に建っていた場所が多く有ります。
以前に紹介した❝大山阿夫利神社❞や❝比々多神社❞は正に、そんな場所ですね。
●大山阿夫利神社の記事

●比々多神社の記事

この有鹿神社奥宮の有る有鹿谷の上の丘の勝坂遺跡は、有鹿神社の湧水地を聖地としていたであろう縄文の人々の住居跡が発掘調査され、復元され無料見学出来る史跡として整備されており、御参りする時に子供を連れてくるだけでも良い課外学習に成るでしょう。
小生が良く使用する画像ですが、延喜式内社は縄文文化を受け継いでいる証明にも成るのが、縄文時代の海岸線と所在地をGoogle earthで重ね合わせた画像です。
延喜式内社・式外社と縄文時代の海岸線 久良岐のよし
約6000年前の海岸線は今より遥かに内陸に在り、前鳥神社(さきとりじんじゃ)と平塚八幡宮の奈良時代の地殻変動で隆起した地形以外に所在する式内社・式外社は全て、縄文時代の海岸線と一致する位置や湧水地に現在も存在しています。
そんな訳で勝坂遺跡も有鹿神社の聖地である有賀谷の横に在る訳で、縄文時代の村落の史跡の横の有鹿谷が有賀神社の奥宮な訳です。
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勝坂遺跡に復元された住居には、展示時間内なら自由に入る事も出来ます。
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当時の人々の暮らしも想像できますね。
ただ、この住居内部の復元は、横浜市南区の三殿台遺跡程緻密には行われていませんし展示館も無いので、もし日本の神代に当たる縄文時代の人の暮らしに興味が有る人は、横浜市都筑区の❝横浜市歴史博物館❞と横の❝大塚最歳土(おおつかさいかちど)遺跡❞、復元住宅と生活を見たいなら横浜市南区の三殿台遺跡を見学すると良いと思います。
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勝坂遺跡も、住居跡の凹みにちゃんと解説文が説明板に書いて有るので、基礎知識を学ぶには良い場所だと思います。
ここは、日本文化を守って下さる神社の宮司様や御寺の和尚様達にも訪れて、日本文化と伝統の起源を改めて見つめ直して欲しい場所でもあります。
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この勝坂遺跡の入口と、勝坂遺跡の途中に有賀谷に降りる遊歩道の入口が在ります。
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その遊歩道を歩くと相模原市教育委員会の原生林を復興した照葉樹林があります。
明治~昭和期に日本の多くの山は建築材料の調達目的で原生林が伐採され杉の木が植林され生態系が破壊されてしまった場所が多く有ります。
それを踏まえると、この相模原市の取り組みは素晴らしいですね。
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この森をずんずん進みます。
すると…
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有鹿谷の底、小川と湿地の畔に出ます。
ここで生息する希少な生物の説明も有りました。
その傍らに在るのが、有鹿神社奥宮です。
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しかし、この奥宮は聖地の入口に境界の様に建てられています。
平安時代末期までは、上の勝坂遺跡とこの辺りに立派な社殿も存在したのでしょうね。
そして、この祠の前の小川を少し遡(さかのぼ)ると、この地が古来の神道文化を保持している所以(ゆえん)たる聖地が現在も日本文化を大切にする方達に守られていて…
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有鹿谷の壁面から、コンコンと湧き出る有賀神社奥宮の聖水とも言える湧水地ですね。
実は縄文時代~古墳時代の人々の生活で重要な事は飲み水の確保でした。
昔の人は大きな川の水を飲んでいた訳では有りません、そんな事をすれば、いくら昔の綺麗な川でも感染症を起こして死にますからね。
かと言って井戸を掘削する技術も実は平安時代位まで普及しておらず、江戸時代に成ってもまだまだ現代の様に地盤によっては垂直に井戸を掘れる技術は有りませんでした。
だからこそ、この有鹿谷の有鹿神社奥宮を含め、延喜年間には存在した神社…
伊勢原市の大山阿夫利神社や横浜市港北区の師岡熊野神社、東京都あきる野市の二宮神社(二宮小川大明神)、関東最古の大社で日本武尊が造営した埼玉県久喜市の鷲宮神社の様に縄文時代~古墳の史跡や自然湧水地を抱える場所が多い訳です。
●鷲宮神社の記事

どうでしょう?
有鹿谷と有鹿神社の大切さ、縄文人代の先輩達から~弥生~古墳~奈良~平安~鎌倉~室町~安土桃山~江戸と、現代人の我々へ受け継がれている事を辿(たどる)る事で御理解頂けたでしょうか?
この縄文の人を潤し、弥生~昭和まで農耕の灌漑用水としても利用されたであろう母なる水を湧かす聖地有鹿谷の神様が、有鹿比女(あるかひめ)と言う女神様である事も忘れないで下さい。
現在の神道も、縄文~弥生~古墳の習慣が残っていますが、更に神話にも登場しない古い時代の神様を平安時代の醍醐天皇達の次代には現代よりも大切にして、現代人の私達に対して❝延喜式神名帳❞を通じて「ちゃんと保護し大切にしなさい!」と伝えてくれた事も忘れないで下さい。

…余談ですが、現在は御寺に成っている横浜市中区にある❝国家君が代と吹奏楽の発祥地❞である妙香寺は日蓮宗の御寺ですが、昔は真言宗の弘法大師空海和尚が開山の御寺だった歴史が有りますが同地の丘には打越の霊水やワシン坂の霊水と言った自然湧水地を多く抱える場所であるのですが、実は空海和尚は自然湧水地と日本神話の日本武尊信仰を大切にされていたので日本武尊神話の伝承地に日本武尊が崇拝していた牛頭天皇=素戔嗚尊を祀る牛頭社や須賀社を開いたり、聖徳太子を祀る太子堂を開いたりしています。
恐らく、横浜市の妙香寺や弘明寺は御寺に成る以前には神社としての機能が有った聖地なのだと思います。
その推測を強化するのが、弘明寺の旧境内地からは❝国府瓦❞が出土しているからです。
国府瓦と言うのは郡衙(ぐんが=群の政庁=現代の市庁舎のような存在)を建設する際に、国府の陶磁器や須恵器を焼く釜で製造され、郡の政庁の建設の際に使用された特別な瓦の事です。
武蔵国橘樹郡の郡役所だったと推定されており、背後の宅地の丘が巨大な弟橘姫の円墳である橘樹神社や、東京都府中市に在り武蔵国の国府として機能していたと推測されている大国魂神社が有る事からも、妙香寺や弘明寺は神社の旧跡に日本神話を大切にする空海和尚が御寺を建てたと考え復興したと自然に推測出来たりします。
これ等の場所が古代の海岸線の港や湧水地である事も、有賀神社や延喜式内社の歴史を辿る事で輪郭が見えてくる明治時代以前の人達の信仰の形だったりする訳ですね。
妙香寺はカテゴリ「御寺」に解説が在りますので興味が有れば読んで見て下さい。
●妙香寺の記事

●湧水地の記事


この有鹿神社の御利益と関わった人物ですが、天智天皇の治世、天平勝宝年間=孝謙天皇の治世、貞観年間=清和天皇の治世にそれぞれ中央との関わりの有る祭事や神社の格上げが確認出来ており、師岡熊野神社や比々多神社同様に朝廷からの支援が有りました。
御利益は、有鹿比女(あるかひめ)様が水の女神さまであり縄文~弥生の開拓地である事から灌漑水田農業振興の神様として農耕の豊穣の御利益、そして本宮の有鹿比古(あるかひこ)様と夫婦神様なので日本武尊と弟橘姫様みたいな縁結びと家内安全が期待できますね!

さて、有鹿神社奥宮の聖地と遺跡の解説はここまで!
次回は、鎌倉時代に移転した海老名市側の本宮の解説をします。

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!
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