皆さんは横須賀市にハワイの様に凄く海の綺麗な場所が残っているのを知っていますか?
御所ヵ崎 走水低砲台跡
倭建と弟橘姫神話の行在所聖蹟
倭建(ヤマトタケル)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)の夫婦で神格化された古墳時代の皇族将軍が滞在した行在所(あんざいしょ=仮御所)の跡地で橘樹神社と諏訪神社がずっと有ったのですが、明治時代に山縣有朋の命令で陸軍によって神社が破壊され砲台が築かれ近代要塞化されてからは、現代まで一般人が周辺の海に入る事が許されなかった事で奇跡的に綺麗な海が残された場所が有るんです。
これ横須賀市、東京湾ですよ?
海が綺麗ですね~正面に見えるのは防衛大学の生徒が2年生からカッター訓練する校舎です。
手前に船が沢山係留されているのは、ここが走水漁港としても機能しているからです。
そして防衛大学の校舎の裏の岬は伊勢山崎と呼ばれ、御所ヵ崎と同様に明治時代に要塞化される以前まで神明社(しんめいしゃ)と呼ばれる天照大神を御祭神とする神社が在った場所です。
日本全国の神明社の本家本元の本社格が伊勢神宮なので“御伊勢山”とか、走水の“伊勢山崎”と呼ばれる伊勢の付く地名は全て天照大神信仰の場所に由来する地名なんですね。
ちょっと周辺の位置関係を見てみましょう♪
画像上半分が現代の衛星写真に史跡や観光地を表示して見た物です。
画像下半分が明治時代の陸軍の測量した迅速測図に捧持した物です。
実はこの周辺は平成初期までリゾートとして栄えて、バブル崩壊で一度衰退しましたが最近、SNSの発達で若い学生達に人気のデートコースに成り、上地市長に成ってから観光地としての整備が加速して観光客が一気に戻って来ている地域なんですね~。
ここは先にも述べた通り神話の舞台で倭建と弟橘姫の夫婦神が滞在した場所なので、神社が在ったのですが小生が神奈川~千葉県内の倭建伝説の神社を廻って個人的に何となく見えて来た事は、明治の宗教改革で生まれた国家神道にとって倭建と雄略天皇と莵道稚郎子は非常に不都合な存在だった様で、関係先の神社や古墳は徹底的に明治以後に弾圧されたり破壊されたりしています。
走水の地形は明治初期に測量された迅速測図を見ても大きな変化は有りませんがオカシイ点が有ります。
普通、迅速測図には現代では失われた神社でさえ細かく記載されているのに、ここには走水神社、橘樹神社と諏訪神社、神明社の何(いず)れも記載されていませんよね?
恐らくこれは国家神道で皇紀を新しく定めた際に倭建命に神格化されたらしい歴史偉人が数人いる事や、当時は考古学が未発達で稚拙な自称歴史学者の儒学者が幅を利かせていたせいで履中天皇以前の古代日本では6ヶ月を1年として数えていた歴史も全く分かっておらず整合性が無く成ってしまうので、江戸時代生まれの適当な連中が自称“レキシガクシャ”様が適当に江戸時代の価値観で歴代天皇の墓所を推定したり、古墳の形状を改造したり、宅地開発さたり、要塞建設にかこつけて恐らく古墳の石室の有った神社もろとも破壊して証拠隠滅してしまって、古来からの神道や修験道や仏教にとっても大切な歴代天皇や倭建関連の遺跡は悲惨な消滅の仕方をしてしまっています。
酷いケースでは倭建や莵道稚郎子や雄略天皇関連の場所は延喜式内社ですら火災で“古文書は一切失われた”とされている場所が多く有ります。
まぁ~タイミングがこうも重なると“不審火”でしょう。
もしかしたら西郷サンを孤立させたり大久保利通公を暗殺させたのは宗教的な意図が有ったかも知れませんが今では証拠は隠滅されてる訳ですし何も解りません。
でも数名の歴史偉人によって御所ヵ崎の諏訪神社も伊勢山崎の神明社も、素戔嗚(すさのお)命を祀る須賀社も走水神社の発祥地の稲荷社旧境内である奥院に遷宮され今も残されています。
その遷宮と言う形での保護を行った心ある歴史偉人は以下の人達でした。
東郷平八郎公
伊東祐亨公
上村彦之丞公
井上良馨公
乃木希典公
藤井茂太公
高崎正風公
走水低砲台跡こと御所ヵ崎砲台に存在した諏訪神社は東郷平八郎元帥達によって現在の走水神社に遷宮され弟橘姫は本殿に合祀されました。
こちらは右側の弾薬庫。
その弾薬庫から人力の手動クレーンで砲弾を供給して貰っていた上部砲台。
このサークルが高射砲が置かれていた台座の跡ですね。
ここに弾薬を持ち上げていた穴が横に有ります。
この金属がクレーンの跡ですね~。
下からシャカシャカ「えいや~おいや~」と言ったかは解りませんが砲弾を引き上げて取り出した訳です。
では弾薬庫に入って見ましょう♪
入口はこんな感じ。
当時の戦艦の砲撃位なら十分に耐えたんでしょうか?でも戦艦三笠の艦橋下の指揮所の60cmの鉄板がロシア艦の砲撃で貫通して兵隊さんが亡くなったりしてるから、当時の戦艦の砲撃に対しても十分な防御力が有ったかは謎ですね。
中に入ると左右に部屋が解れていますが、これは弾薬庫の上部左右に分けて砲台が二つ建造されているから、それぞれの弾薬を分けて管理保存していた様ですね。
室内はこんな感じ。
当時は湿気対策も兼ねていたと思いますが、御金持ちの土蔵の様に漆喰が煉瓦の上に塗られていて真っ白な壁でした。今も漆喰が部分的に残っていますね。
上部のこの穴は通気口であり、金属管を繋いで上と伝令を伝える伝声管だった様です。
確か猿島でそんな説明を受けたと思う。
そして先程紹介した砲台に砲弾を供給していた立坑。
まぁ、現実では走水だけでなく観音崎砲台や野島の零式艦上戦闘機を格納した掩体壕も含めて実戦で稼働する前に第二次世界大戦でも降伏してますから、実戦での稼働実績は有りませんでした。
一番右側の砲台から東京湾を望む台地上に上がれます。
その階段から砲台を見ると良く構造も解ります。
周辺の穴は何なのか良く解りませんが、多分、攻撃を受けた時の退避場所なのかな?
では階段を登って展望の良い台地に移動しましょう~♪
どうです?凄く綺麗な海でしょ?これ東京湾ですよ。
沢山見える海藻はヒジキです(笑)。
一つの塊で50cm~1m位の幅の有る塊です。写真だと小さく見えますよね?
これを採取して乾燥させると皆さんが煮物で食べるアレになるのですが、小生は生ヒジキが好きなので誰も採取しない漁業放棄地とかで食べる分だけとって来て下茹でして灰汁(あく)と余分なヨウ素を抜いてから煮物にして食べたりしてます。
横浜南部市場の浜光水産でもたまに生ヒジキを買いますが、是非皆さんも生ヒジキを見かけたら美味しいの召し上がって見て下さい。
しかし本当に綺麗な海ですよね。
この透明度と豊かな海藻。
現代の磯焼けが只単に温暖化じゃなく根本的に漁師が海藻を取りすぎた結果なのも解りますよね。
だって人が入ってない海にはこの一角には海藻の豊かな海と透明度が残っているのですから、人間が汚して人間が生態系を崩してるのを温暖化だけのせいにしてるって事が丸解りですよね。
ここからは東京湾対岸の倭建伝説の舞台と成った富津岬や木更津が良く見えます。
走水から東京湾を富津方面に渡航した倭建は、奥さんの弟橘姫が人柱として入水自殺する事で海が穏やかに成り渡航に成功したと神話が有ります。
これ小生が磯子区杉田の妙法寺の紹介で歴史検証した際に倭建が滞在した冬季の潮流とかを交渉すると恐らく本当の伝承だと解説した事が有りますので、興味が有る方は上のリンクから解説記事を読んでみて下さい。
まぁ、現実的な結論を言うと弟橘姫は本当に入水自殺して海も収まっただろうけど、それは無駄死にだったと言う結論に成ってしまします。
潮流の時期と時間的な問題で、残念ながら古代人の文明の問題で帆船もエンジンも無かった船だから早朝の潮流に勝てなかったって話しに成ってしまうんですんが。
古代人の早朝から活動する習慣では無く、現代人の経済活動みたいに昼近くに出航して房総半島上陸後直ぐに夜営する選択さえしていれば弟橘姫も人柱に成る必要の無い事だったと言う結論に至ります。
そんな訳で神話の舞台に成ったのは東京湾が最短距離で渡れる房総半島と三浦半島の間が8km程度しか無い場所だからなんですね。
だから要塞が沢山作られました。三浦半島の東京湾側の近代要塞の位置関係を見てみましょう。
徳川家の家紋が幕末に海防警備の為に築かれた台場で、日の丸が帝国陸軍によって築かれた砲台。
猿島砲台や観音崎要塞は関東大震災で壊滅してから海軍が利用開始し修復再活用しました。
この中で第三海堡は航行の障害に成る事から解体され、横須賀市追浜の日産自動車テストコース近くの夏島砲台近くに移築されています。
以前解説記事にも書いているので御興味の有る人は御一読下さい。
東京湾には今でも第二海堡、第一海堡、富津元洲堡塁砲台(要塞)が保存度は酷い場所から良い場所までそれぞれですが現存しています。
なので、この御所ヵ崎からも第二海堡が良く見えます。
まぁ~今は盟友だけどアメリカが商業捕鯨の為に無理やり日本を武力脅迫して開国させた日本ですし、それを主導した薩摩の島津家と長州の毛利家の家臣団は薩英戦争や関門海峡馬関で連合国相手に近代兵器vs近世兵器で戦争に成り、それ以後は諸外国と協力関係に成りながらも欧米諸国の武力の恐怖を一番知っていた人達だから念には念を入れたのは解るんですよね。
そして防衛網を構築した場所の一つが御所ヵ崎の走水低砲台だった訳ですが。
・・・個人的には諏訪社と橘樹神社を破壊したのは許せない所では有りますが、東郷元帥達が走水神社奥宮に遷宮して下さった御蔭で今でも御参りする事が出来るし、綺麗な風景を見ながら幕末から第二次世界大戦降伏までの歴史を感じる事が出来る場所でもある訳です。
是非、皆さんも観音崎観光や走水神社参拝の日程が土日祝日の場合は綺麗な風景も見れますし無料ですし(笑)見学しては如何でしょうか?
もし縁結びに走水神社に参拝されたい方!
走水神社に御興味の有る方は是非、下の記事も参考にどうぞ!
あ~・・・
でもコンナ糞ジジイは絶対に来るんじゃねぇ~よ・・・
・・・神奈川県内は松沢知事時代から全面禁煙だクソ野郎!しかも史跡や緑地でタバコ吸うとか頭沸いてるだろ。もし皆さんも見かけたらボッコボコに罵倒してあげて下さい。
もしくは小生みたいに口喧嘩したくない人(笑)は写真撮影してTwitterやインスタで晒してあげましょう。
てな訳で、最後はクソジジイの写真で〆ましたが(笑)、走水低砲台こと御所ヵ崎砲台、神話のロマンも有り海も綺麗で要塞史跡としても保存状態が良く素敵な場所でしょう?
近くには横須賀市の観光ガイドが推薦するアジフライが絶品の“味美食堂”や、オシャレな料理で若いカップルに人気の“かねよ食堂”、観音崎京急ホテルのレストラン浜木綿(はまゆう)等も有り、ランチがてら走水~観音崎観光は本当に有意義な時間を過ごせます。
では又、次は解説ブログか下の休日雑の続きか梅の一覧の個別解説の追記記事で御会いしましょう~♪
御所ヵ崎 走水低砲台跡
倭建と弟橘姫神話の行在所聖蹟
046-822-9561
これ横須賀市、東京湾ですよ?
海が綺麗ですね~正面に見えるのは防衛大学の生徒が2年生からカッター訓練する校舎です。
手前に船が沢山係留されているのは、ここが走水漁港としても機能しているからです。
そして防衛大学の校舎の裏の岬は伊勢山崎と呼ばれ、御所ヵ崎と同様に明治時代に要塞化される以前まで神明社(しんめいしゃ)と呼ばれる天照大神を御祭神とする神社が在った場所です。
日本全国の神明社の本家本元の本社格が伊勢神宮なので“御伊勢山”とか、走水の“伊勢山崎”と呼ばれる伊勢の付く地名は全て天照大神信仰の場所に由来する地名なんですね。
ちょっと周辺の位置関係を見てみましょう♪
画像上半分が現代の衛星写真に史跡や観光地を表示して見た物です。
画像下半分が明治時代の陸軍の測量した迅速測図に捧持した物です。
実はこの周辺は平成初期までリゾートとして栄えて、バブル崩壊で一度衰退しましたが最近、SNSの発達で若い学生達に人気のデートコースに成り、上地市長に成ってから観光地としての整備が加速して観光客が一気に戻って来ている地域なんですね~。
ここは先にも述べた通り神話の舞台で倭建と弟橘姫の夫婦神が滞在した場所なので、神社が在ったのですが小生が神奈川~千葉県内の倭建伝説の神社を廻って個人的に何となく見えて来た事は、明治の宗教改革で生まれた国家神道にとって倭建と雄略天皇と莵道稚郎子は非常に不都合な存在だった様で、関係先の神社や古墳は徹底的に明治以後に弾圧されたり破壊されたりしています。
走水の地形は明治初期に測量された迅速測図を見ても大きな変化は有りませんがオカシイ点が有ります。
普通、迅速測図には現代では失われた神社でさえ細かく記載されているのに、ここには走水神社、橘樹神社と諏訪神社、神明社の何(いず)れも記載されていませんよね?
恐らくこれは国家神道で皇紀を新しく定めた際に倭建命に神格化されたらしい歴史偉人が数人いる事や、当時は考古学が未発達で稚拙な自称歴史学者の儒学者が幅を利かせていたせいで履中天皇以前の古代日本では6ヶ月を1年として数えていた歴史も全く分かっておらず整合性が無く成ってしまうので、江戸時代生まれの適当な連中が自称“レキシガクシャ”様が適当に江戸時代の価値観で歴代天皇の墓所を推定したり、古墳の形状を改造したり、宅地開発さたり、要塞建設にかこつけて恐らく古墳の石室の有った神社もろとも破壊して証拠隠滅してしまって、古来からの神道や修験道や仏教にとっても大切な歴代天皇や倭建関連の遺跡は悲惨な消滅の仕方をしてしまっています。
酷いケースでは倭建や莵道稚郎子や雄略天皇関連の場所は延喜式内社ですら火災で“古文書は一切失われた”とされている場所が多く有ります。
まぁ~タイミングがこうも重なると“不審火”でしょう。
もしかしたら西郷サンを孤立させたり大久保利通公を暗殺させたのは宗教的な意図が有ったかも知れませんが今では証拠は隠滅されてる訳ですし何も解りません。
でも数名の歴史偉人によって御所ヵ崎の諏訪神社も伊勢山崎の神明社も、素戔嗚(すさのお)命を祀る須賀社も走水神社の発祥地の稲荷社旧境内である奥院に遷宮され今も残されています。
その遷宮と言う形での保護を行った心ある歴史偉人は以下の人達でした。
東郷平八郎公
伊東祐亨公
上村彦之丞公
井上良馨公
乃木希典公
藤井茂太公
高崎正風公
走水低砲台跡こと御所ヵ崎砲台に存在した諏訪神社は東郷平八郎元帥達によって現在の走水神社に遷宮され弟橘姫は本殿に合祀されました。
砲台建設にかこつけて倭建命と弟橘姫の聖蹟をブッ壊した山縣ではなくてね。
そこら辺は以前、関係個所を紹介した記事が有るので興味が有る方は御覧下さい。
さて、歴史の話はここまでにして土日祝日の一般公開が始まった走水低砲台=倭建と弟橘媛の御所跡を見てみましょう~♪
上の写真は旗山崎公園にある橘樹神社と諏訪神社の旧参道であるスロープです。そして砲台の入口でもあります。
ちゃんと上地市長と教育委員会の皆さんの尽力によって説明の看板が設置されていますね。
これを見ると小生の作成した衛星画像の予備知識が無い人でも周辺の位置関係も良く解ります。
2021年05月03日の砲台は新緑に覆われてとても快晴に風が涼しくとても清々しい景色でした。
この坂道を少し歩くと砲台跡が見えてきます。
この階段は恐らく神社時代の物だと思います。
要塞の正面口としては小規模過ぎると思います。砲台の素材は煉瓦と違う石材なのでそう推測しましたが確証は有りませんので皆さんはどう感じるでしょうか?
この階段の左手に回り上に要塞の有る位置に登って行きます。
階段は使われいないんですね。多分、石段は雨天時に滑って怪我をし易いので横須賀市が整備する段階で左回りに階段をつけ直した様です。
説明の看板も有ります。
その際に説明看板のこのQRコードからARアプリをスマホに是非ダウンロードして下さい。
砲台跡に当時の高射砲の立体映像が再現されて楽しめます。
そこら辺は以前、関係個所を紹介した記事が有るので興味が有る方は御覧下さい。
さて、歴史の話はここまでにして土日祝日の一般公開が始まった走水低砲台=倭建と弟橘媛の御所跡を見てみましょう~♪
上の写真は旗山崎公園にある橘樹神社と諏訪神社の旧参道であるスロープです。そして砲台の入口でもあります。
ちゃんと上地市長と教育委員会の皆さんの尽力によって説明の看板が設置されていますね。
これを見ると小生の作成した衛星画像の予備知識が無い人でも周辺の位置関係も良く解ります。
2021年05月03日の砲台は新緑に覆われてとても快晴に風が涼しくとても清々しい景色でした。
この坂道を少し歩くと砲台跡が見えてきます。
この階段は恐らく神社時代の物だと思います。
要塞の正面口としては小規模過ぎると思います。砲台の素材は煉瓦と違う石材なのでそう推測しましたが確証は有りませんので皆さんはどう感じるでしょうか?
この階段の左手に回り上に要塞の有る位置に登って行きます。
階段は使われいないんですね。多分、石段は雨天時に滑って怪我をし易いので横須賀市が整備する段階で左回りに階段をつけ直した様です。
説明の看板も有ります。
その際に説明看板のこのQRコードからARアプリをスマホに是非ダウンロードして下さい。
砲台跡に当時の高射砲の立体映像が再現されて楽しめます。
小生は猿島で同じ物を試した事が有るので今回はやりませんでした(笑)。
一番左手の砲台下の弾薬庫入口ですが、こちらは見学できませんが左から反時計回りに見学すると兵舎⇒右側弾薬庫⇒砲台跡⇒展望地⇒左側砲台跡⇒入口と順番に見学できます。
ここだけ見ると左に行ってしまいそうですが、史跡として見学するなら右手に行って内部構造を見学してから上に登った方が良いでしょう。
中央の兵舎の跡です、中にも入れますよ~!
ちゃんと兵士の待機スペースが有る訳ですが、現代の様に電気が普及してなかった建造直後は蝋燭だけで薄暗かったと思います。
煉瓦の積み方を見て下さい。長辺と短辺が交互に繰り返して積まれていますよね?
これはフランス積みと言う積み方です。小生は京都の友人と猿島に行った際に観光ガイドさんに教えて貰いました。
説明してくれてるサイトが有ったのでリンクを貼っておきます。
山縣有朋が仕切ってた頃の陸軍は英国とプロイセン=ドイツ帝国の影響を受けており、フランス式を毛嫌いしていたんです。
理由は旧幕府軍がフランス式を導入していたから。
フランス式を山縣有朋達は毛嫌いしていた筈なのですが、猿島要塞も同じですがまだ明治時代に成立した帝国陸軍も、結局は幕府に登用された横須賀製鉄所や煉瓦の工房の優秀な職人の旧幕府側の人材でも重用しフランス式も形振(なりふ)り構わず採用し、少しでも早く首都防衛網を構築しようと敵味方の恩讐を乗り越えて全日本体制で近代化を成し遂げていた事が、この御所ヵ崎の砲台の煉瓦の積み方一つからも読み解ける訳です。
一番左手の砲台下の弾薬庫入口ですが、こちらは見学できませんが左から反時計回りに見学すると兵舎⇒右側弾薬庫⇒砲台跡⇒展望地⇒左側砲台跡⇒入口と順番に見学できます。
ここだけ見ると左に行ってしまいそうですが、史跡として見学するなら右手に行って内部構造を見学してから上に登った方が良いでしょう。
中央の兵舎の跡です、中にも入れますよ~!
ちゃんと兵士の待機スペースが有る訳ですが、現代の様に電気が普及してなかった建造直後は蝋燭だけで薄暗かったと思います。
煉瓦の積み方を見て下さい。長辺と短辺が交互に繰り返して積まれていますよね?
これはフランス積みと言う積み方です。小生は京都の友人と猿島に行った際に観光ガイドさんに教えて貰いました。
説明してくれてるサイトが有ったのでリンクを貼っておきます。
山縣有朋が仕切ってた頃の陸軍は英国とプロイセン=ドイツ帝国の影響を受けており、フランス式を毛嫌いしていたんです。
理由は旧幕府軍がフランス式を導入していたから。
フランス式を山縣有朋達は毛嫌いしていた筈なのですが、猿島要塞も同じですがまだ明治時代に成立した帝国陸軍も、結局は幕府に登用された横須賀製鉄所や煉瓦の工房の優秀な職人の旧幕府側の人材でも重用しフランス式も形振(なりふ)り構わず採用し、少しでも早く首都防衛網を構築しようと敵味方の恩讐を乗り越えて全日本体制で近代化を成し遂げていた事が、この御所ヵ崎の砲台の煉瓦の積み方一つからも読み解ける訳です。
今の自民党と共産党と立憲民主党の中の一部極右極左の極端な感情論だけの連中に走水の煉瓦の粉煎じて飲ませたい位に歴史を知ってると面白いですよね?
協力する所はしろっガキかっ!てね(笑)。
小生のブログで予備知識を付けてから現地に行くと、何も知らずに行くより煉瓦の積み方も色々有るのが解り少しだけ有意義に成るかと思います(笑)。
こちらは右側の弾薬庫。
その弾薬庫から人力の手動クレーンで砲弾を供給して貰っていた上部砲台。
このサークルが高射砲が置かれていた台座の跡ですね。
ここに弾薬を持ち上げていた穴が横に有ります。
この金属がクレーンの跡ですね~。
下からシャカシャカ「えいや~おいや~」と言ったかは解りませんが砲弾を引き上げて取り出した訳です。
では弾薬庫に入って見ましょう♪
入口はこんな感じ。
当時の戦艦の砲撃位なら十分に耐えたんでしょうか?でも戦艦三笠の艦橋下の指揮所の60cmの鉄板がロシア艦の砲撃で貫通して兵隊さんが亡くなったりしてるから、当時の戦艦の砲撃に対しても十分な防御力が有ったかは謎ですね。
中に入ると左右に部屋が解れていますが、これは弾薬庫の上部左右に分けて砲台が二つ建造されているから、それぞれの弾薬を分けて管理保存していた様ですね。
室内はこんな感じ。
当時は湿気対策も兼ねていたと思いますが、御金持ちの土蔵の様に漆喰が煉瓦の上に塗られていて真っ白な壁でした。今も漆喰が部分的に残っていますね。
上部のこの穴は通気口であり、金属管を繋いで上と伝令を伝える伝声管だった様です。
確か猿島でそんな説明を受けたと思う。
そして先程紹介した砲台に砲弾を供給していた立坑。
まぁ、現実では走水だけでなく観音崎砲台や野島の零式艦上戦闘機を格納した掩体壕も含めて実戦で稼働する前に第二次世界大戦でも降伏してますから、実戦での稼働実績は有りませんでした。
一番右側の砲台から東京湾を望む台地上に上がれます。
その階段から砲台を見ると良く構造も解ります。
周辺の穴は何なのか良く解りませんが、多分、攻撃を受けた時の退避場所なのかな?
では階段を登って展望の良い台地に移動しましょう~♪
どうです?凄く綺麗な海でしょ?これ東京湾ですよ。
沢山見える海藻はヒジキです(笑)。
一つの塊で50cm~1m位の幅の有る塊です。写真だと小さく見えますよね?
これを採取して乾燥させると皆さんが煮物で食べるアレになるのですが、小生は生ヒジキが好きなので誰も採取しない漁業放棄地とかで食べる分だけとって来て下茹でして灰汁(あく)と余分なヨウ素を抜いてから煮物にして食べたりしてます。
横浜南部市場の浜光水産でもたまに生ヒジキを買いますが、是非皆さんも生ヒジキを見かけたら美味しいの召し上がって見て下さい。
しかし本当に綺麗な海ですよね。
この透明度と豊かな海藻。
現代の磯焼けが只単に温暖化じゃなく根本的に漁師が海藻を取りすぎた結果なのも解りますよね。
だって人が入ってない海にはこの一角には海藻の豊かな海と透明度が残っているのですから、人間が汚して人間が生態系を崩してるのを温暖化だけのせいにしてるって事が丸解りですよね。
ここからは東京湾対岸の倭建伝説の舞台と成った富津岬や木更津が良く見えます。
走水から東京湾を富津方面に渡航した倭建は、奥さんの弟橘姫が人柱として入水自殺する事で海が穏やかに成り渡航に成功したと神話が有ります。
これ小生が磯子区杉田の妙法寺の紹介で歴史検証した際に倭建が滞在した冬季の潮流とかを交渉すると恐らく本当の伝承だと解説した事が有りますので、興味が有る方は上のリンクから解説記事を読んでみて下さい。
まぁ、現実的な結論を言うと弟橘姫は本当に入水自殺して海も収まっただろうけど、それは無駄死にだったと言う結論に成ってしまします。
潮流の時期と時間的な問題で、残念ながら古代人の文明の問題で帆船もエンジンも無かった船だから早朝の潮流に勝てなかったって話しに成ってしまうんですんが。
古代人の早朝から活動する習慣では無く、現代人の経済活動みたいに昼近くに出航して房総半島上陸後直ぐに夜営する選択さえしていれば弟橘姫も人柱に成る必要の無い事だったと言う結論に至ります。
そんな訳で神話の舞台に成ったのは東京湾が最短距離で渡れる房総半島と三浦半島の間が8km程度しか無い場所だからなんですね。
だから要塞が沢山作られました。三浦半島の東京湾側の近代要塞の位置関係を見てみましょう。
徳川家の家紋が幕末に海防警備の為に築かれた台場で、日の丸が帝国陸軍によって築かれた砲台。
猿島砲台や観音崎要塞は関東大震災で壊滅してから海軍が利用開始し修復再活用しました。
この中で第三海堡は航行の障害に成る事から解体され、横須賀市追浜の日産自動車テストコース近くの夏島砲台近くに移築されています。
以前解説記事にも書いているので御興味の有る人は御一読下さい。
東京湾には今でも第二海堡、第一海堡、富津元洲堡塁砲台(要塞)が保存度は酷い場所から良い場所までそれぞれですが現存しています。
なので、この御所ヵ崎からも第二海堡が良く見えます。
まぁ~今は盟友だけどアメリカが商業捕鯨の為に無理やり日本を武力脅迫して開国させた日本ですし、それを主導した薩摩の島津家と長州の毛利家の家臣団は薩英戦争や関門海峡馬関で連合国相手に近代兵器vs近世兵器で戦争に成り、それ以後は諸外国と協力関係に成りながらも欧米諸国の武力の恐怖を一番知っていた人達だから念には念を入れたのは解るんですよね。
そして防衛網を構築した場所の一つが御所ヵ崎の走水低砲台だった訳ですが。
・・・個人的には諏訪社と橘樹神社を破壊したのは許せない所では有りますが、東郷元帥達が走水神社奥宮に遷宮して下さった御蔭で今でも御参りする事が出来るし、綺麗な風景を見ながら幕末から第二次世界大戦降伏までの歴史を感じる事が出来る場所でもある訳です。
是非、皆さんも観音崎観光や走水神社参拝の日程が土日祝日の場合は綺麗な風景も見れますし無料ですし(笑)見学しては如何でしょうか?
もし縁結びに走水神社に参拝されたい方!
走水神社に御興味の有る方は是非、下の記事も参考にどうぞ!
あ~・・・
でもコンナ糞ジジイは絶対に来るんじゃねぇ~よ・・・
・・・神奈川県内は松沢知事時代から全面禁煙だクソ野郎!しかも史跡や緑地でタバコ吸うとか頭沸いてるだろ。もし皆さんも見かけたらボッコボコに罵倒してあげて下さい。
もしくは小生みたいに口喧嘩したくない人(笑)は写真撮影してTwitterやインスタで晒してあげましょう。
てな訳で、最後はクソジジイの写真で〆ましたが(笑)、走水低砲台こと御所ヵ崎砲台、神話のロマンも有り海も綺麗で要塞史跡としても保存状態が良く素敵な場所でしょう?
近くには横須賀市の観光ガイドが推薦するアジフライが絶品の“味美食堂”や、オシャレな料理で若いカップルに人気の“かねよ食堂”、観音崎京急ホテルのレストラン浜木綿(はまゆう)等も有り、ランチがてら走水~観音崎観光は本当に有意義な時間を過ごせます。
では又、次は解説ブログか下の休日雑の続きか梅の一覧の個別解説の追記記事で御会いしましょう~♪