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カテゴリ:寺社/仏閣/城址/有形文化財/伝承と伝統文化 > 城址

2017年04月19日(水)、前日深夜まで仕事をして午前3時に徹夜で寝ずに青梅市へ移動した。
寝ずに移動した理由は2つ。
1、もし寝たら起きれなくなり、行動予定を熟(こな)す事が出来なくなるから。
2、東名高速や圏央道等の高速道路は午前4時まで深夜割引で半額に成るから。
そんな訳で寝ずに移動した。後はついてから8時位の予定開始まで1時間~2時間寝れば良いやと思っていたので睡眠時間は気にしなかった。
どうせ仕事に行くわけじゃないので寝不足でも関係ない。仕事ならば睡眠不足はミスの元、プライベートは事故ろうがなんだろうが自己責任なので、眠たくなり危険だと思えばコンビニか高速のPAで車中寝れば良いだけ。
んな訳で青梅市の二俣尾駅近くのセブンイレブンに着いた。
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写真は撮り忘れたが二俣尾のセブンイレブンは軒先に薪(まき)が売っていて大変吃驚(びっくり)した。
横浜から来たのだが横浜ではコンビニに薪は売っていない事を伝えた上で…
「何で薪を売ってるんですか?」
…と店員の方に尋ねたら、こんな答えが返って来た。
「え?横浜じゃ売ってないんですか?」
小生…
「う~ん、売ってないです。」
…と答えると、店員さんが売ってる理由を教えて下さった。
どうも青梅市界隈は多摩川の上流で水も綺麗なので水遊びや釣りに来る観光客が多いそうで、キャンプやBBQの需要が非常に有るそうだ。しかしながら、横浜で売ってないんですか?と聞かれるとは思わなかったので正直少し驚いた。

この日の目的は大きく3つ有った。
1、海禅寺さんへの参詣、そして御住職様への取材。
2、羽村市の阿蘇神社へ熊本の御酒「通潤」を奉納し、熊本復興と熊本県民生活再建の祈願を祈祷して貰う事。
3、チューリップ祭の見学。
なので高速料金の安い深夜移動で横浜から青梅市まで向かった所、道路も予想以上に空いていて、ものの1時間半もかからずに到着してしまった。
当然、小生の到着時点で未だ時間は5時前、御寺を訪問出来るのは常識的に9時から。
そこでコンビニで朝食を買い車中で少し休憩して、その後は海禅寺から直ぐ近くの辛垣城(からかいじょう)の城山を登り、9時~10時位に御寺を訪問する事にした。

実は青梅市へ訪問前に地図を見て海禅寺の近所に“コーポ西乃城”と言うアパートが有る事に気が付いた。
西乃城と言うのは恐らく昔の小名で、城が在ったのだろうと推測した。
そしてGoogle mapで「城」と入力して検索した所…
「辛垣城(からかいじょう)」
…と言う城が検索結果に出て来て海禅寺から徒歩直ぐの裏山一帯が城山で有る事が解っていた。
手元に日本城郭大系の神奈川県の部分は持っているのだが、東京の部分は持っていないので調べる事が出来ず、ネットで検索したら城址一帯ハイキングコースに成っていると紹介されていた。
そして去年訪問した同じ青梅市の勝沼城を本拠地にしていた戦国武将、三田家の終焉の舞台だと言う事も紹介されていた。
この三田家は祖先が平将門(たいらのまさかど)公と伝わる。
この青梅の隣接市、羽村市の武蔵阿蘇神社は平将門公が開基の延喜式内社なので、三田家の出自は恐らく本当だろう。ただ、千葉家分流と言っているので、それは誤りだと思う。
千葉家の分流には相馬家がいる。それとは別に平将門公の直系の御子孫にも相馬家がいる。
両方共同じ家紋の九陽紋だ。
九曜紋
千葉氏の祖先は平良文(よしふみ)公だ。平将門公の叔父であり協力者であり菅原道真公と共に3名は宇多天皇と醍醐天皇の御親政奪還に与力された天皇家の忠臣だ。しかし藤原家の讒訴により謀反人扱いされ平将門公は討伐された。
菅原道真公と平将門公と言う宇多天皇と醍醐天皇を支えた智と武の忠臣の排除に藤原氏は成功したものの、全てが藤原氏の思惑通りにはいかず、醍醐天皇の気転で平良文公は鎮守府将軍に抜擢され関東を治める権限を持ち、平将門公の遺領を掌握した。つまり、藤原氏に天皇家一族の支配地を横領される事は防げた訳だ。
この平良文公の本拠地は今の神奈川県藤沢市村岡城址だった。その子孫には、鎌倉武士として有名な神奈川の三浦家や戦国時代の大名、上杉謙信や蘆名盛氏公、正木時茂公等の名将が多くいる。
まぁ、三田家の祖先が平良文公でも平将門公でも、どちらだったとしても桓武天皇の末裔で宇多天皇と醍醐天皇を支えた忠臣には変わりない。

なので、この城を御寺に行く前に登って見る事にした。これが意外に険阻な山城だった…
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…しかし、城に行くまでの家々は、どこの家も綺麗な花が溢れており青梅市の方々の心の豊かさを垣間見る様な住宅街の様子だった。
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城山のハイキングコース入口にはちゃんと看板が有った。
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実は海禅寺の後方の山の地形もGoogle earthで見ていて人工的な凸凹地形が見て取れたのだが、この看板を見て自分の推測が当たっていた事が解った。海禅寺の裏手には枡形山と呼ばれる曲輪群が有った様だ。しかし、今回は御寺に行くまでの暇潰し程度に考えていて余り詳しく散策する心算(つもり)は無く、そちらへは訪問せずに真っすぐ頂上を目指す事にした。
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途中、枡形山の方を見ると自然では無い竪堀(たてぼり)地形が見て取れた。
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この橋の下の沢は道路を断ち切る様に流れているので、水掘りとして拡張された沢だったんだろう。
そして往時はここに引橋(ひきはし=戦時に引っ込めて撤去出来る橋)が掛かっていたのだろうと推測した。
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この辺りはまだ傾斜も緩やか、そして木陰で涼しく清々しい空気を満喫出来た。
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途中で小生が写真を撮りながらユックリ歩いていると、1人、登山客に先を越された。
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二つ目の橋。ここも当時の空堀の底の沢の流路を人工的に道を断ち切る様に変えている様だ。
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下を見ると「にしじょうにのはし=西城二之橋」と書いて有った。
どうやら辛垣状は東側の枡形山の曲輪群と西側の本丸と尾根の堀切等を分けて2城1体の構造で考えられていた城の様だ。確かに相模原市の津久井城に近い広大な城域を誇る山城なので、昔の人は西の城、東の城と分けていたんだろう。
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この城は現地に到着してから色々と地元の人に聞いて回ったが「何もないよ~」と言われていたので期待はしなかったが、上の写真の様に薬研堀形状の竪堀が山麓に沢山残っている。
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約9年前に森林再生事業も始まった様だ。
まぁ、そんなこんなで良い森林の中を気持ちよく散歩出来たのはこの辺りまで…
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少しづつ険しくなり
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途中、曲輪跡と思しき切岸も見ながら
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山の林道は段々と角度を益し
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尾根に出て「あ~ここからは楽だ」と思ったら荒れ道の始まりだった(笑)。
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この写真の部分はV字に尾根が掘り切られており、尾根を断ち切る空堀と引橋が有った様だ。
裾切(すそきり=尾根の両脇の傾斜を人工的に掘削し急にする事)された尾根道は階段などは未整備で滑ったら少し滑落して骨折とかするかも(笑)。
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登リ口(急坂)と書いて有る。
小生には崖にしか見えなかった(笑)。
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もう、戦国時代と違って杉の木が茂ってるし足場は枯れ枝で歩き難いし
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そして、この崖が恐らく、本丸入り口の木戸の城門が有ったで有ろう切通(きりとお)し状の林道。
ここは城の防衛の最終関門だった筈(はず)だ。
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頂上の本丸は江戸時代に石切り場に成っていたのか、看板が有って原型を留めていないと書いて有る。
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まぁ、登って見た感想も看板に書いて有る通り、削平された郭の遺構は少ないが、竪堀と堀切と裾切りした尾根は良く残っている山城の城址だった。
帰りも竪堀にかかる林道の橋を通過した。
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恐らく、この橋も戦国時代は引橋として似た様な簡素な橋梁が有ったはずだ。
この様な竪堀は山の斜面を敵が移動するのを防ぎ、橋を架ける事で進入路を限定し、戦時は橋を取り払い敵を足止めする訳だ。
この様な構造は奥多摩地方の北条家の城には良く見られる構造だ。特に北条氏照公が築城した八王子城に似た構造が多用されている。
下の写真が八王子城の竪堀と引橋。
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まぁ、八王子城の山城部分については構造は辛垣城と似た様な感じなのだが間宮綱信(つなのぶ)公が縄張りしたと伝わる御主殿等の居住空間は安土城を見て来た間宮綱信公らしく、総石垣で壮大な造りに成っている。
下の写真が八王子城の御主殿と引橋。
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もし完成していたら立派な城に成っただろうが、小生的には北条氏照公が滝山城を放棄し八王子城を築城した事に疑問を感じる。滝山城の防御構造と飲水の確保の方がよっぽど完璧だからだ。
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滝山城は侵入者を殺害する為の土の城だが、土の滝山城の方がよっぽど北条流の当時の先進技術が多用されており、堅固な造りに成っているので、仮想敵が織田に成り甲斐国からの敵進入を想定したとは言えあんな防衛施設の建設が限定される山城に拠点を遷(うつ)した事が小生は理解出来ない。
まぁ、山城ってのは高低差が有って敵も登山で疲れるし一見すると堅固に見えるけれど、実際は構築可能な防御構造と設置場所が限定されて余り城として強いとは言えないんだな。

話を辛垣城に戻す。
まぁ~辛垣城の構造は八王子城や津久井城に似ている。どうも三田家の最後の居城とは言われるが北条流築城術の改修が入っている様だ。竪堀を多用した構造もだが、この規模の城を地方豪族の三田家単独で築城出来る訳が無い。或いは北条家以前の扇谷上杉家時代に既に城は存在し、扇谷上杉家が滅亡後に北条家に三田家が臣従した後、北条家が甲斐国境を守る城として改修したのかも知れない。
三田家は上杉謙信が関東に攻め上って来る以前は北条家臣だったので、その時代の話だろう。
そして滅亡したのは長尾景虎(後の上杉謙信)10万の大軍が、3万の北条家に圧勝すると思ったので最後の三田家当主の三田綱秀公は長尾景虎に味方し北条家を裏切った所、小田原城は落城せず北条勢の逆襲が始まり、やがて滝山城主北条氏照公に攻められ勝沼城を放棄し更に辛垣城に籠り、最後は家臣と徴用した農民兵士達の生命の保証と引き換えに自ら城を退去して自害し、当主としての責任を全(まっと)うされたのだと思った。
寺に行く為に山を下りる際に珍しい事が有った。
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ニホンカモシカと睨み合いに成った(笑)。
鹿とは言っても牛の仲間なのでカモシカの体躯(たいく)は結構デカイ。
こんなんに突進されたら谷に落とされて終わるだろうな(笑)。
でも小生は睨み合いに勝った気がしたのでデジカメ取り出して「パシャっ!」と撮影した瞬間に音でカモシカは逃げて行きました。
う~ん、図体デカいけど臆病な生き物なんだね。
しかし、出会ったのが“月の輪熊”じゃなくて良かった。
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寺へ行くまでの林道の草花も綺麗でした。
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 う~ん!三田綱秀公の御蔭で新鮮で清々しい空気を満喫できたし、鹿にも会えた!
綱秀公、ありがとうございました!
綱秀公、現代の会社経営者、市の執政官や、県や都の知事には、貴殿の様に己の失政の責任を取り部下を守る為に腹を切る様な政治家も経営者もいません。
皆、自分の事、不正で私服を肥やしたり名誉欲に駆られた輩しかいません。
ですから、己が上杉に寝返った責任を取って部下達の命を守る為に切腹された貴方は本当に立派な殿様だったと思います。
そして、恐らく開城勧告をしに行った海禅寺(当時の寺名は福禅寺)の御住職様も、地域の農民と低級管理職の命を守る為に殿様に生命を奪う勧告を行われ菩提を弔った事は、現在の青梅市に生きる旧三田家家臣団の子孫達に生命を繋いだ立派な行いだったと思います。
御住職様、三田綱秀公。貴方なりの正義を約400年の時を超えて見せて下さりありがとうございました。

さて!
次回は、この続き、海禅寺訪問~へそまんじゅう総本舗~阿蘇神社~チューリップ祭りを書きたいと思います。 
では、又、この日の休日雑記の続きで 御会いしましょう~♪

鎌倉の権五郎御霊神社の新任宮司様への挨拶と、間宮家顕彰文内での御霊神社の紹介文の執筆許可を頂いて来た帰り道。
雲一つ無い快晴、夕陽が綺麗なので「チャンス」と思い鎌倉材木座海岸の住吉城址に夕焼けに浮かぶ富士山と江ノ島の写真を又、撮影に来た。
・・・由比ヶ浜の夕日の写真の中でここ数年間の最高の1枚を撮影出来た。
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海岸に遊ぶ地元女子高生が写真を撮影していたので二人のカメラで写してあげた所、小生の写真のモデルにも成ってくれたので、女の子二人の後姿を前に由比ヶ浜の海と夕陽と富士山を撮影させて貰った。

二人の仲の良さが伝わるかな?
鎌倉の魅力、伝わるかな?
皆に伝わると良いな~♪
実は、この風景の直ぐ近く、住吉城址の在る浄土宗大本山の天照山光明寺の守護神の天照大神を祀る天照山から見た由比ヶ浜の景色は神奈川の景勝50選に選ばれている。
二人の写ってない風景も・・・CIMG2395
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ここ2ヶ月間、鎌倉市中央図書館に毎週文献読みに来る度に、富士山と江ノ島と由比ヶ浜の海と夕陽の1枚に収まる写真を撮り続け、この場所を知ってから約3年、会心の1枚と成った。
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名前聞くの忘れたけど、モデルに成ってくれた元気な二人、ありがとうね!

明日、2016年10月23日(日)、元八王子で❝北条氏照祭り❞が開催されます。前日22日土曜日は八王子城址の案内所で解説者による講演も有ります。
北条氏照祭り公式様拝借 久良岐のよし 
※画像は公式様拝借。
2016年第5回 北條氏照まつり←八王子市のホームページ該当ページ
北条氏照(うじてる)公は武田信玄が南関東に兵23000の大軍を率いて略奪に来た際に、農民を滝山城内に保護し手勢3000で籠城しました。防御構造の複雑な滝山城三ノ丸に武田勢を引き込み痛撃し撤退させた部将で小田原北条家の一門でした。
方面軍総指揮官としての実績には疑問は残りますが、自ら率いる滝山衆(後の八王子衆)だけで行った合戦では負け知らずでした。そして内政力が高く城の水掘り代わりの溜池を利用して城下の農村の水田を灌漑水田にして生産力を上げた実績も有る方です。
付家老は北条家相模十四騎筆頭の間宮家、その間宮綱信(つなのぶ)公と言う殿様や後に水戸徳川家の家老にも成った中山家等の古来の坂東武者の一族達でした。
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元八王子には❝日本100名城❞の一つに選ばれた八王子城も有ります。
この城は間宮綱信公の縄張り(なわばり=設計)と伝わっています。間宮綱信公は北条家の外交官として横浜市の小机城代笠原政尭公と共に織田信長公に謁見し、名将の滝川一益公に接待され安土城下を遊覧されたりした人物でもあります。
八王子城自体は立派な規模の居住区の御殿や武家屋敷だけ完成し、背後の城塞部分が完成する直前に豊臣秀吉配下の上杉景勝・真田昌幸・前田利家・裏切った大道寺政繁の大軍28000に攻められ、防御準備不足、更に北条氏照公が不在だった事も有って落城してしまいました。
もし完成していたら、この城も成田甲斐姫の籠城した忍城、北条氏規公の籠城した韮山城と共に豊臣軍の北国軍を足止めし、北条氏勝公の籠城した玉縄城とも連携して小田原北条家は豊臣軍を苦戦させた事でしょう。
もしくは滝山城を更に改修するだけでも、武田信玄を撤退させた名城だっただけに豊臣軍を苦戦させ長期戦に持ち込めたのは間違いないのですが…
しかし、この城が完成する前に豊臣家と開戦する事態を招いた事自体は、北条氏照公の実兄で北条家当主の北条氏政公の戦略眼や戦力比較分析力の低さ、北条氏照公自体の性格にも原因が有るので歴史にif無く結果が全てとも言えます。
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御殿跡の近くには❝御主殿の滝❞が在りますが、ここは多くの神社仏閣を巡礼している小生には延喜式内社の聖地と似た様な雰囲気を感じるパワースポットの様な場所で、高さ3mほどの小さな滝です。
御主殿や滝の有る場所は谷間で、とても清々しい空気感が漂っています。
ここに姫様や家臣達が飛び込んで自殺したとアホな事を書く学者がいます。それを鵜呑みにする自称霊能者もいます(笑)。
現地に行けば一目瞭然(笑)高さ3mの滝に大勢で飛び込んでも下の人は良くて骨折、飛び込める人数も狭いのでせいぜい1人~3人(笑)、アホ学者や偽霊能者が言う様な事は起こり様も無い(笑)!
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そして山上の要害部分からはとても眺望が良く、空気が澄んで居れば新宿副都心やスカイツリーも見渡す事が出来ます。
そして❝御主殿の滝❞の説明でも申し上げましたが、ここは延喜式内社の様な正常な空気が漂っています。
実は、古来、この八王子城の山自体が牛頭天王信仰の聖地でして、京都の東山や祇園八坂神社、愛知県の津島大社、と同じ様な神道で言う所の素戔嗚尊信仰の聖地だったんです。
八王子市の名前が牛頭天王の八人の王子と姫を祀(まつ)る、この八王子神社に由来している事を知っている人は現在では多くないかも知れません。
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しかし八王子城本丸には現在も八王子神社が鎮座しています。
夏も過ぎて大分と涼しく成ったので山登りがてら八王子城を散策するのも良いと思います。
八王子城の麓には宗関寺と言う御寺が在ります。
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この御寺は旧北条氏照公家臣団によって江戸時代初期に建てられた北条氏照公の菩提寺です。
氏照公の御廟所は小田原市内と、この御寺の背後の山に在ります。御朱印も既に作成して有る物を頂けます。

ちなみに、この元八王子から車で30分位の距離に❝新選組❞所縁(ゆかり)の日野市があり、新選組幹部の子孫が運営している資料館が沢山有ります。でも御子孫の資料館は日曜日しかやっていないので注意して下さい。訪問するなら❝日野本陣❞と言う甲州街道の陣屋で、土方歳三さんの親戚の佐藤彦五郎さんの自宅 兼 天然理心流の道場だった旧庄屋の邸宅が見所として御進めです。
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ここには近藤勇さんも土方歳三さんも沖田総司さんも井上源三郎さんも度々稽古だけでなく遊びにも来ていたそうです。
この御屋敷の前に道場が在りました。明治天皇もこちらに在った専用の部屋に宿泊されたそうです。
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そして、もう一つ。この❝新選組のふるさと歴史館❞も日野本陣から車で10分程度の場所に在ります。
中には日野市の歴史と新選組に関する展示物が有って、学芸員さんに色々質問すると詳しく解説して下さいます。
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近藤さんのお兄さんの宮川さんの御子孫、土方さんのお兄さんの御子孫、井上源三郎さんの養子の御子孫が一緒に檀家になっている高幡不動尊も、日野市に在ります。
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とても大きい昔ながらの神仏習合の伝統を守る真言宗の古刹で、境内には明治時代以前のまま、御寺と神社が融合して存在しており飛鳥時代~江戸時代までの本来の日本文化を見る事が出来ます。
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ここでも土方さんは多摩地域の誇りとして銅像が立っています。

どうでしょう?こんな戦国時代にドップリつかれる元八王子と北条氏照祭り、近くの日野市の新選組関連の史跡、是非、お散歩がてら見に行って見ませんか?

では!又、次の解説記事で!



【大庭城】
大庭城址周辺図 久良岐のよし
[築城年代]
平安時代末期…良文流坂東平氏鎌倉家の子孫の大庭家。
[改修年代】
不明…改修次期は二期に分かれると推測、一期は扇谷上杉家、二期は北条家による落城後の北条早雲(伊勢盛時)公、又は北条氏綱公による改修。
[現在の様子]
腰曲輪群・土塁・空堀の遺構が一部保存されている。
大半が現代の神奈川県教育委員会が保護を怠った為(ため)に破壊されるも、昭和7年頃の近代には神奈川県に保護された史跡だった為、一部残存する。現代の教育委員会の意識と知識の低さと、近代の県職員の横浜の開港や近代化と県文化財歴史史跡保護を両立させた意識の高さの差異を感じる城址の一つ。
[所在地]
藤沢市大庭5230-1
[アクセス]
藤沢駅か辻堂駅からバスで20~30分。駐車場無料。
[周辺の見所]
大庭神社(延喜式内社)。
平安時代末期の大庭城築城時、もしくは室町期の領主山名時氏によって現在の境内地へ移されたと思われる。
大庭神社旧跡(延喜式内社大庭神社の元宮と伝承)。
江戸時代には熊野社と別名で呼ばれた。延喜式内社は遊水地や半島に創建された場所が多いので、かつての湖沼地帯である船地蔵地区に近在する大庭神社旧跡が旧境内地と伝承するのは、古代の地形との整合性が高い。
稲荷山成就院宝染寺
足利尊氏公と母方の従弟に当たる山名時氏公によって開基された。江戸時代には大庭神社の別当寺だった。現在の境内地は広くは無いが歴史の有る寺院。
蟠龍山宗賢院
城の南側に位置する大寺院、寺紋が桔梗紋で山号が蟠龍山である事から小生は曹洞宗改修以前は太田道灌の太田家の関与が有った大寺院と推測。寺宝として大庭景親(平安時代末期の領主)の陣釜が伝来する事から、平安時代末期には大庭家が大旦那に成り大庭城の鎮護寺院として開基されていた可能性が高い。
尚、鎌倉時代の周辺領主は大庭景親の亡き後、大庭家の名跡を一度は譲った大庭(懐島)景義公が復帰して鶴岡八幡宮造営等に活躍されているので、大庭景義公との関わりも否定出来ないが度重なった戦火と失火により寺伝は大庭庄の北条家統治後の歴史しか伝わっていない。
※独立解説記事は未だ未記載なので、その内にでも書きます。 

※次回から↑こんなフォーマットで公園・城址・レストランの紹介は冒頭に纏めて、解説を下に書く様にしようと思います。

【以下大庭城址の風景写真と解説】
神奈川県藤沢市の市域の大半は、かつて鎌倉郡と呼ばれた場所に属していて現在の感覚で言うと鎌倉市の一部でした。
鎌倉市以外で嘗(かつ)て鎌倉郡だった場所は藤沢だけでは無く、更には横浜市戸塚区・栄区・港南区の鎌倉街道以西の地域も含まれていて、現在、その地域を鎌倉市に返還すると鎌倉市は政令指定都市に成れる位の広大な地域が昔の郡域でした。
室町時代には、この鎌倉を支配したのが鎌倉公方(くぼう=将軍)と家老の上杉家の武将達と、平安時代から関東を開拓して来た武将達でした。
特に上杉家は❝関東管領(かんとうかんれい)❞と呼ばれた役職を代々家柄で担(にな)っていた重要な家系で、現代の感覚で言えば関東自治政府の首相を務めた家でした。
その上杉家は犬懸上杉家・山内上杉家・扇谷上杉家・宅間上杉家が主要な4家で、それぞれに関東管領職を輩出した事のある家柄でした。
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その中でも扇谷上杉家の相模国支配の拠点として機能したのが、この大庭城址や伊勢原市の糟屋館や七沢城でした。
日本の戦国時代突入の発端に成ったのが、実は神奈川県の旧鎌倉郡で有る事は義務教育では教えないので余り知られていません。
鎌倉公方足利持氏(もちうじ)公と、鎌倉公方の政治を代理で行いながら京都の将軍の家来だった関東管領上杉家の対立が戦国時代突入の原因とされています。
そして、その最初の戦いが❝上杉禅秀の乱❞です。この上杉禅秀の乱勃発時、鎌倉公方の忠臣として活躍したのが扇谷(おおぎがやつ)上杉氏定(うじさだ)公です。
氏定公は鎌倉公方の武将として活躍し、犬懸(いぬかけ)上杉禅秀と対峙しますが緒戦劣勢だった鎌倉公方軍に在って傷を負ってしまった上杉氏定公は足利持氏公の鎌倉撤退に同行出来ず、❝藤沢で自決❞した事が解っています。
つまり、大庭城の城の規模や、この上杉氏定公のエピソードは戦火で失われてしまった神奈川県の戦国初期の歴史を補完してくれる材料にも成る訳ですが…
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大庭城址は、扇谷上杉家の城の中でも扇谷上杉家の初期の居城だった事が神奈川県には伝承していて、昭和7年に大庭城址を城址公園として指定した当時の神奈川県によって石碑が建てられています。
上杉氏定公の自決の逸話とも整合性が有ります。
残念ながら、大庭城址は現代の❝神奈川県教育委員会の不見識と怠慢❞により、城址公園と言う名前なのに大半が破壊され、城の北半分については完全に破壊され消滅してしまいました。
昭和初期の県知事以下職員が保護対象にしていたのにね…。
その大庭城址の規模は、後(のち)の扇谷上杉家の拠点の河越城や江戸城よりも巨大で高い丘に築かれ、伊勢原市の糟屋館や厚木市の七沢城の様に沼と大河川に囲まれて守りが堅固な巨大城郭でした。
恐らく規模では伊勢原市の三浦道寸の居城岡崎城や、北条家の小田原城に匹敵する規模と堅固さだったと推測できます。
では現在、この城は何も残ってないのかと言うと、実は空堀や腰曲輪等、部分的に現存しているので、今回、公園の風景と合わせて紹介していきたいと思います。
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大庭城址公園には無料の駐車場があります。こっち側には城としての遺構は余り残っていませんが…
ここからの登城をオススメします。
何故かと言うと後(のち)に解説しますが、こちら側の地区の近所に船地蔵と言う御地蔵様があり、そこが大庭城落城の秘密と関係が有るので、それを学ぶ為には此方(こちら)側の現代の施設に立ち寄る必要が有ります。
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駐車場の階段を登ると直(す)ぐに大庭城址公園管理事務所と言う場所が在(あ)ります。
ここは管理者が一人勤務してらっしゃるだけなので、昼食や警備の時間帯は開いていない場合が有りますが時間をズラして散策後に訪問すると中に展示されている貴重な縄張り模型等を拝観出来ます。
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こんな、嘗ての縄張りを推測出来る地形の模型の他に、小名として残る城施設名の航空写真に拠(よ)る解説や嘗ての城址全景等を学ぶ事が出来ます…
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ここの展示は御金はかかってはいませんが、藤沢市が戦国時代に突入する切っ掛けに成った舞台の地で有る歴史や、全国に先駆けて戦国時代の城塞化が行われたのが大庭城址や扇谷上杉家関連の太田道灌公達が関連した城だった事が良く学べる展示に成っています。
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この立地は本当に伊勢原市の糟屋館(扇谷上杉定正の初期の居城)や、厚木市の七沢城に、扇谷上杉家出身の三浦道寸公の居城だった伊勢原市の岡崎城の良い面だけを集めたような城ですね。
又、ここの展示は城見学入門者向けの丁寧で簡略化された優良な展示資料も掲示されていますので、是非、見学して欲しいと思います。
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こんな感じで「石垣の城なんて戦国時代初期の城じゃねぇ~よw」みたいな正しい知識を学べます。
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あと、通年で見れる花とかの資料も掲示されていますよ。
自動販売機・トイレも有るので水分補給と城址見学の敵、トイレで困る事も有りません。
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公園管理事務所側から登ると上の写真みたいな感じでハッキリ言って遺構は破壊され尽くしていますが、公園の区画自体は往時の縄張りの区画を損ねずに行われている様な気がしました。
50cm有るか無いかの段差は、戦国時代初期当時の縄張りのままの区画だと思うので衛星写真と縄張り図で見比べてみましょう…
大庭城址縄張り図 大庭城址公園管理事務所様 久良岐のよし
大庭城址公園Google衛星写真 久良岐のよし
樹木の残っている場所が縄張り図上の土塁や空堀と重なるので、やはり児童公園かされた部分も僅(わず)かな段差は当時の縄張りを変えずに作られたようですね。
さて、では城址公園内の現在の様子ですが…
駐車場や管理棟は城の現存部左上、そこから入り南側に移動するにつてれ残存遺構が多く成ります。
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最初に目に付くのが、この大庭城址残存部を南北に分断し敵の侵入を拒む最終関門だったと思われる❝堀切❞の跡ですね。
現在では風化していたり西側半分は埋められていますが、当時空堀だった事を知るには十分な地形です。
そこを進むと建築物の遺構が有ります。矢倉が組まれていたか、屋敷地だったのでしょうか?
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看板には「今後の全面的な発掘調査」なんて書いて有りますが、神奈川県教育委員会は自分達で城址の大半を土建屋がブっ壊す時に調査もさせず責務を果たさなかった癖に、何の寝言をホザいているんでしょうか?
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まぁ、それでも昭和の高度経済成長期の破壊を、現在の教育委員会の中の有志が、こうやって少しでも心意気を見せてくれるのは熱い物が有りますが。
別に宅地開発をするのは悪い事では無いんですよ、ただ、糟屋館・七沢城・大庭城・岡崎城・玉縄城・衣笠城・笹下城・蒔田城・青木城・小机城の様に特に重要だった場所、壊してはいけなかった場所が有るのに、神奈川県の史跡は外郭団体に管理丸投げしてしまい、そこが天下り先に成っていて市長や県知事の票田である土建屋と直結しているので現代では保護に後ろ向きなんですね。
いくら近代の政治家や役人サンが優秀だったから史跡が保護されて現代人に引き渡されても、左翼系や無文化な首長を有権者が選んでしまうと、自然や文化が破壊される負のモデルが大庭城の北半分の消失でも有る訳です。
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さて、掘っ建て小屋の遺構の傍には、ちょっと茂った小山みたいのがあります。
これは、城好きな人は直ぐに解る、土塁と言う戦国時代の城の土の壁です。
土の城の土塁は現在はどこも風化していますが、当時はちゃんと相撲の土俵みたいに押し固められていて高さも最低2~3mくらい通常ありました。
更に、敵が侵入してくる側には土塁の下に空堀が設けられているので、通常は最低でも堀底から5m位の高さ、角度60度くらいの防御壁として機能した訳です。
大庭城址の土塁は風化した現在で3mはあるので、当時は5mくらい有ったと思います。
空堀も最低でも2m以上の深さが有ったでしょう。
上杉家でも別系統、足利尊氏公と従兄だった宅間上杉家の拠点の一つだった横浜市緑区の榎下城址(舊城寺)も、その程度の堀の規模は有りました。
⇐榎下城址の過去の記事はここクリック!
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この大庭城址も、南端の方には豊富な曲輪群、写真の様な空堀が有ります。
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北半分は破壊されていますが、まだまだ、城址入門の良い教材に成ります。
それを理解する為にも、あの最初に紹介した大庭城址公園の管理事務所の掲示物を熟読し、縄張り図を写メしてから廻ると良いと思います。
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土塁が芝生取り払われて芝生に成った部分も、これはこれで子供連れの家族が御弁当を持って散歩に来たり、ボール遊びしたり良い親子の時間を過ごせる場所だと思います。

さて…
大庭城址自体の説明はここまでにして、大庭城落城の秘密と悲話を現代に伝える城址南端、引地川と支流の合流地点近くの話に移ります。
大庭城址の南側にコンビニと公園が有ります。
その公園は船地蔵公園と言うのですが、その前に地区名の由来に成った❝船地蔵❞と言う御地蔵様がいらっしゃる場所が有ります。
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実は、この御地蔵様が難攻不落の大庭城を、いとも簡単に北条家に落とされてしまった理由に成っています。
別に神通力や仏罰で城が落ちた訳では無いんですよ。
現代では詳しい場所までは解らないのですが、大庭城址は西側の守りが弱く、そこを堅固にする為に元々湿地帯だった東側の様に西側も川を堰(せ)き止めて湖沼にしていたそうです。
その堤防の傍に住んでいた老婆は、ある日、北条家の密偵とは知らず、大庭城の事を調べに来た人間に、根掘り葉掘り沼掘りの秘密を全て話てしまったそうです。
そして口止めに殺害されたと伝承しています。
その後、北条家によって城西側の水が抜かれて干上がった時に攻め落とされたと推測できます。
水不足の季節、夏か真冬に攻略されたんでしょうかね~。
落城年代も、この地域の宗賢院や成就院と言った大寺院が度々火災に遭っていて記録が現存しない為に、今では良く解りません。

地域の伝承では北条家の密偵に殺されたと有りますが、北条家は新井城址攻防でも津久井方面の攻略でも似た様な伝承が有り、❝老人は口が滑りやすいのか老人に城の様子を偵察する習慣が有った❞ようです。
年取ると判断力無く成りますからね。
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但(ただ)し、新井城址の時もそうですが、北条家の密偵が聞いた相手を殺すとは考えにくく、寧(むし)ろ領主が秘密をばらした人間を誅殺したと考える方が自然でしょう。
だってね、集落で殺人なんか犯したら、瞬く間に騒ぎに成って敵方の追っ手に追跡されたり捕縛されてしまいますからね。
新井城址の場合は城の話を漏らした老夫婦は自害し、津久井方面の場合は現在では明治の小桜姫ブームに乗っかって話が小桜姫の伝承にすり替わってますが城主側が話を漏らした小桜姫を殺害した事に成っています。
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そんな船地蔵は、城の秘密を話してしまった御婆さんを供養する為に建てられた御地蔵様の御堂ですが、現在では水害と交通事故が発生しない様に地域と通行人を見守って下さる地域鎮守の有り難(がた)い御地蔵様として、藤沢市の市民に愛されています。きっと、御婆さんも多くの人に愛されて喜んでいるでしょう。

きっと、皆さんの御近所の御地蔵様や御寺や神社や今では公園に成っている場所も、昔は御城だったり凄い歴史人物が大切にした場所が普通に有る筈(はず)です…

余談ですが、最近流行しているポケモンGO、小生も初めてみました。
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ゲーム内では写真のようにポケストップと言う、ボーナスを貰える補給所みたいな場所が設定されているのですが、小生はこれが文化保護に役立つと思っていて非常に有用なコンテンツと評価しています。
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こんな感じで、余り知られていない重要文化財や石仏や神社、或いはキリスト教の教会等も紹介がされています。
小生、近所に昇竜橋が有る事を知りませんでした(笑)。
現代の道路の一段下の廃道にこんな場所が有ったとは…
これで、小生、❝神奈川の景勝50選❞❝神奈川の銘木100選❞に続いて❝かながわの橋100選❞も廻らないといけなくなりました(笑)・

だから皆さんもポケモンGOやりながら(笑)でもやらなくても、御近所を御散歩してみませんか?
きっと、そんな場所は古代の神様や鎌倉武士や戦国武将達と皆さんを現代に繋げてくれるタイムマシーンの役割を果たしてくれる筈です。

では、皆さん又次回の解説記事で御会いしましょう!




前回の❝休日雑記❞の中で、小桜姫神社が❝霊能者気取り人間の事実誤認❞のせいで間違って世間に広まってる事を指摘しました。
間違ってるよと指摘だけして、正しい史跡を紹介しないのは不親切なので、三浦義意公と小桜姫のモデルに成った人物所縁(ゆかり)の場所を纏めて紹介しておきます。


※注意事項※
小桜姫巡り由来の関係史跡と聖地を紹介する前に注意事項と歴史史実を纏めます。ちゃんと読んで理解してから廻って下さい。こんな注意事項と解説も読まない人が、いくら異性との出会いを御願いしても無駄でしょうし、神仏や先人の英霊に異性との縁を結んで頂いても自分で台無しにするでしょう。
史跡と縁結びの神社の内、直接、小桜姫や三浦義意公に関係の有る場所は【紫色の字】で場所の名前を表示します。

歴史事実と自称霊能者が広めた話しと異なる小桜姫神社の差異の解説
※この程度の解説も読めないなら三浦家の殿様と奥方様の御霊(ごりょう)に縁結びを御願いするのなんて諦めて下さい。
小桜姫様への縁結びの礼儀
縁結びで願掛けをしたいのならば、ちゃんと御寺の場合は❝供養祈願の納経❞する為(ため)の写経した般若心経と御賽銭を、神社の場合は御賽銭を準備して置いて下さい。
まさか、神様にお願いするのに「クレクレ」言うだけで奉仕する心が無いなんて事無いですよね?

小桜姫について
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明治時代に村井弦斎と言う作家が❝都新聞=現在の東京新聞❞に連続架空時代劇小説として掲載した❝桜の御所❞と言う名前の小説の架空の人物が小桜姫です。
架空のヒロインだが、小説内で夫とされている三浦義意公の実在の妻と側室の真里谷武田家の姫をモデルにして小桜姫を創作した可能性は否定出来ない。
小説❝桜の御所❞出版以前に、全ての歴史遺物に❝小桜姫❞の人物名は登場しない。又、一般的に歴史上、名前の記録が残る女性は極少数。小桜姫に関しては完全に明治時代以降に登場する名前で創作と確認出来る。
先ず、小説では小桜姫は武蔵国久良岐郡(現:横浜市金沢区)金澤城主楽巌寺の姫とされるが、この時点で創作の人物である事を明言できる。

先ず、金澤城と言うのは現在の金沢文庫駅近く、金沢文庫の地名の由来に成った金沢山稱名寺を取り巻く山に在った鎌倉時代の城砦の事で有るが、この金沢城を要塞として活用したのは歴史上、後にも先にも鎌倉時代の金澤北条(かねさわほうじょう)家のみである。
ところが小桜姫は楽岩寺家と設定されているので金沢城主たりえる事は全く不可能。
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※写真は稱名寺裏の金沢城址、稲荷山からの眺望。
戦国時代に金沢を所領にしたのは小田原北条家臣の伊丹家であり、更に周辺で水軍として勢力を誇っていたのは同じく北条家臣の間宮家や伊東家である。この金沢城主楽岩寺家の設定は❝これは完全にフィクションですよ❞と筆者から解り易いメッセージが込められている訳だ。
そして金沢北条家は、三浦道寸公・三浦義意公の時代よりも約200年前に既に滅んだ家で、架空の設定である事が解る様に小説にも書かれている。
小桜姫を実在したかの様にデマを拡散する連中に止めをさそう。
そもそも金沢北条家の金沢城は邸宅の詰めの城でしかなく、完全な軍事拠点は青ヶ台(あおがだい)城だった。青ヶ台城は横浜市が発掘調査も保護もせず全容が解らないまま消滅したが、場所は東横レジデンス~釜利谷高校一帯の険阻な崖地の上の丘陵と解っている。
金沢城の話から実家とされた楽岩寺家の話に解説を移す・・・
決定的にフィクションと解るのが武蔵国金沢城主楽岩寺家の設定で、楽岩寺家と言うのは武蔵国久良岐郡(横浜市中区~南区~磯子区~港南区~金沢区)に存在しない武家である。楽岩寺家自体の姓も存在しない。但(ただ)し武田家と戦った信州の武将に楽巌寺一族はいるが、あくまで信濃国(しなのこく=現:長野県)の武将である。
小桜姫のモデルは実在した三浦義意公の側室で真里谷武田家出身の姫だろう。しかし真里谷武田家は房総の小大名、親戚の武田家とも支配地が違う上に決定的に楽巌寺家は武田家の敵対者だった訳だ。
仮に甲斐武田家の話に置き換えても、楽巌寺家が武田家従うのは武田信玄の時代の弘治年間(1550年代)の話で、当時既に小説で小桜姫の夫と設定された三浦義意公の治めた佐原三浦家は存在していない。
佐原三浦家は永正十三年(1516年)の07月11日新井城(現:油壷マリンパーク敷地周辺一帯)落城と共に滅亡している。史実だとしたら矛盾だらけな訳だ。
つまり、仮に小説の小桜姫の実在したモデルの千葉県の真里谷武田家の設定を甲斐武田家に置き換えたとしても、楽巌寺家の武田家従属より40年も前に滅んだのが佐原三浦家❝桜の御所❞の筆者の村井弦斎から「フィクションですよ~」と少し歴史を知っていれ解るメッセージがふんだんに盛り込まれている架空歴史ファンタジー小説な訳だ。
更に止(とど)めを刺すと、久良岐郡の間宮家の一族で安土桃山時代の武将の間宮信高公は三浦半島の長坂(現:横須賀市長坂)に所領を持ち、徳川家の水軍大将として活躍した人物で妻が真里谷武田家の姫だったが、この家系図にも歴史書にも一切、小桜姫の名は登場しない。
恐らく、小桜姫の存在を歴史事実と誤認した連中は歴史的な知識が乏しく小説が文語で書かれているので「あ~これは歴史書だ!」と思いこんだのだろう。
明治時代に桜の御所の出版で、小説のロケ地巡りとして三浦旅行が流行したので、昭和の歴史知識の乏しい人々が事実誤認した訳だ。

補足として三浦義意公は扇谷上杉家から三浦家を乗っ取った三浦義同(よしあつ)入道(にゅうどう=僧籍に入る事)道寸公の子で三浦の正当な血統とも言えないが人望と武勇は高かった。しかし、それ以上に父の三浦道寸公は北条早雲公のライバルとしても太田道灌公の親友としても有名な人物で名将だった。

間宮信高公の父君、間宮康俊公は歴史上の名将として有名で地理学者で幕府の御庭番を務めた間宮林蔵公、蘭方医学者の杉田玄白、東京大学の前身と成った江戸幕府官営の昌平坂学問所の頭取を務めた歴史学者地理学者の間宮士信公達の祖先のに当たる。

では再び小桜姫の解説も戻ろう。
もう一度おさらいする・・・
モデルに成った人物は、どのような人物かと言うと御夫君の三浦義意(よしおき)公には、房総半島の小大名の真里谷武田家から来た正妻と側室がいた事実が有る。その姫様の内、側室だった方がモデルに成っていると推測出来る。
そして小桜姫の実家を楽巌寺家、或いは歴史的に最初で最後の金沢城主の金沢北条家と設定したのは、小説の舞台に成った時代に小桜姫のモデルに成ったであろう三浦義意公の実在の正妻と側室の生家である真里谷家が諸長子と嫡子の間で家督相続争いが起き、真里谷の姫の兄に当たる諸長子の真里谷武田信隆公が災難を逃れて北条家の支配する現在の横浜市金沢区金沢文庫辺りに亡命したきた事実が有る事を参考にし、同地の著名な鎌倉幕府重鎮だった金沢北条家の雅(みやび)なイメージをヒロインのイメージに取り込んだと思われる。
繰り返しに成るが、金沢北条家は佐原三浦家より約200年早く滅亡して同地に一族も生存していない。
久良岐郡(横浜市)の金沢城主も後にも先にも金沢北条家だけ。
楽岩寺家は戦国時代の小田原北条家の家臣に存在せず楽巌寺家は信濃国(長野県)の国人領主、よって三浦義意公の実在した正妻と側室の真里谷家の姫君がモデルなのは間違いない。
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※写真は小桜姫の実家として設定されている三浦義意公の時代より200年前に滅んだ❝金沢北条(かねさわほうじょう)家❞の邸宅跡、金沢文庫称名寺。江戸時代は真言宗の壇林として多くの学僧がここに学んだ。真言宗の別格本山の格式を持つ。
又、金沢文庫(かなざわぶんこ)の地名は金沢北条家の北条実時(さねとき)公が称名寺の隣の文庫ヶ谷(ぶんこがやつ)の谷戸(やと=谷間に木戸を設けた居住区)に開いた日本史上初の私設図書館❝金沢文庫(かねさわぶんこ)❞に由(よ)る。
小桜姫伝説を生んだ小説❝桜の御所❞のシナリオは、いくつかの異なった時代の三浦半島周辺の歴史を融合させて構成されていると考えられる。
房総半島の真里谷城主真里谷武田家から三浦半島の新井城主三浦荒次郎義意公に嫁がれた❝真里谷の姫の最後の悲話❞

三浦義意公の時代よりも❝約200年前に実在し鎌倉幕府滅亡と同時に既に滅亡した金沢北条家❞の高文化で風流な家柄のイメージ
そして…
義意公の没後に三浦家の一族が活躍した❝鶴岡八幡宮合戦❞と❝真里谷武田家の跡目争いの内紛❞の史実。
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※写真は鶴岡八幡宮合戦で里見家と三浦一族正木家の放火で一度は鎌倉の町とともに焼失した鶴岡八幡宮。北条氏綱公の差配の下、三浦道寸・三浦義意公の盟友だった蒔田吉良家や太田家、北条家の武将達、諸大名によって敵味方の垣根を超えて再建事業が行われた。
以上の歴史をモデルにして融合させ脚色した、と思われる創作小説で小桜姫伝説は史実では無いが郷土に伝わる真里谷の姫の最期が小説の名とすり替わり、小桜姫とされる様に成ったと推測出来る。しかし新井城や主人公三浦義意公、その約200年前の金沢北条家の存在が歴史上実在した為(ため)に明治時代に小説内の小桜姫の物語や実際の歴史伝承が歴史に疎(うと)い庶民や自称:霊能者に史実と誤解され、流行小説の舞台として観光客向けに明治時代に小説のロケ地と思われる場所が観光名所と成り、自称:小桜姫神社の舞台等が南関東に多数、登場した。
実際の小桜姫神社の舞台は真里谷家の姫の悲話の有る諸磯神明社の境内地と三浦家旧臣の御子孫と地元民も伝えている。
後世、歴史に疎(うと)い人間が、小桜姫の存在や小説ロケ地と自称する場所を歴史事実上の神社と誤認した後に、更に時代が下って平成に成ると、その人気小説の聖地巡礼の名残が更に事実誤認を生んで平成の自称霊能者が明治の自称霊能者の書いた本を鵜呑みにして戦国時代の昔から存続する実在の神社かの様な誤解を生んだのが、❝小桜姫伝説の真相❞です。
❝桜の御所❞執筆者が❝小桜姫を金沢北条家❞としたのは、時代の違う家をヒロインの実家にする事で架空小説であり歴史小説では無い事を明確に読者に理解させる意図が窺える。
にも拘(かかわ)らず、歴史に無学な一部の自称霊能者が事実と誤認して、平成に入ってから紹介してしまったので多くの縁結びを祈願する女性に誤解を与える事に成った。無教養と言うのは罪だと言う典型的な例だ。
しかし実在した三浦義意公の正妻と側室に真里谷武田家の姫がいたので、小桜姫を真里谷家の姫とするならば御利益は否定出来ない。
但(ただ)し、自称霊能者が小桜姫としているのは架空の戦国時代の金沢北条家の姫であって、真里谷家の姫では無い。仮に真里谷家の姫で有るならば、明治時代以前に小桜姫と言う名前は伝承していない。
更に自称霊能者やカルトや商業利用を目論む輩等によって小桜姫神社と誤って違う弁財天を祀る洞窟を紹介しているケースが有るので、本記事内で区別して指摘しておく。

小桜姫の名の由来について
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村井弦斎が小説❝桜の御所❞を執筆した場所が、現在の三浦市三崎町1丁目に所在する本瑞寺だった。
本瑞寺は平安末期~鎌倉時代に征夷大将軍の源頼朝公が桜の花見の為(ため)にに築いた別荘❝桜の御所❞跡地。往時は境内地と対岸の城ヶ島に多くの桜が植林されていたと伝承する。
本瑞寺は小説で小桜姫の夫に設定されている三浦義意(よしおき)公が、戦国時代初期に三崎町三崎漁港の入舩(いりふね)地区に開基した史実の有る御寺だが、江戸時代の三崎町の大火で享保4年(1719年)に現在地へ移転した。現在の本瑞寺境内にも観光客向けの歴史説明看板が有る。その義意公の事績と、源頼朝公時代の桜の御所のイメージが小説に盛り込まれた。

小桜姫の御主人、三浦義意公と佐原三浦家の歴史事実について
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※写真は三浦家の拠点の一つ住吉城址から見た相模湾の風景。
三浦義意(よしおき)公が継いだ佐原三浦家は、平安時代末期~鎌倉時代の有力武士の三浦家の分家に当たる家系で、鎌倉時代に本家が滅亡した後に佐原三浦家が名跡を継ぎ、室町時代に鎌倉公方の有力家臣として活躍した家。
但(ただ)し、三浦義意公の実父の三浦義同(よしあつ)入道(にゅうどう:僧籍に入る事)道寸(どうすん)公は、鎌倉公方の家老の扇谷(おおぎがやつ)上杉家から、佐原三浦家へ戦国時代初期に養子に入った人物。
関東に於(お)いて韮山城主の伊勢宗瑞(北条早雲)公、江戸城主の太田道灌公と並び称された名将が三浦道寸公だった。
佐原三浦家と伊勢(北条)家は、扇谷上杉家が山内上杉家と和議してしまった事によって伊勢(北条)家と古河公方家(こがくぼうけ=鎌倉公方足利持氏公の子孫)の外交的な問題で対立するまで扇谷上杉家と古河公方家を支えた盟友だった。
やがて古河公方家―山内上杉家連合の成立により孤立した伊勢(北条)家は独立し北条家を名乗り関東の領地の支配権の正当性を主張して大森藤頼を攻め小田原城を奪取する。すると三浦道寸公は実母が大森藤頼の実父大森氏頼の娘であり大森藤頼は義兄弟に当たる為に、三浦家はやむなく伊勢家と対立するしか無く成る。
ここに岡崎城に大森家を匿(かくま)った三浦家と、伊勢家の戦端が開かれ、以後、断続的に10年に及ぶ岡崎城の攻防が繰り広げられた。
その後、岡崎城が落城すると、瞬く間に北条家は藤沢市の扇谷上杉家の初期の居城だった大庭城、逗子市の三浦家の住吉城を攻め落として、新井城に迫り、新井城では名将三浦義意公の奮戦と指揮により日本最長の約4年間の籠城戦を展開した後に佐原三浦家は滅亡した。
しかし房総半島の佐原三浦家分家の正木家が戦国時代に小弓公方足利義明・里見義豊と結び逆襲し、三浦半島を一時取返し鎌倉まで攻め込んだ鶴岡八幡宮合戦を起こした。しかし里見義豊が源頼朝公以来の武家の八幡信仰の総本社格であった鶴岡八幡宮と鎌倉市街で放火の上乱暴狼藉を働いてしまった為に支配するに至らず、寧(むし)ろ北条氏綱による鶴岡八幡宮再建事業が行われるに至って北条家による相模国支配の正当性が確立されて、三浦家残党の正木家は三浦家の故地に復帰する機会を逸してしまった。
※横浜市磯子区域にも鎌倉以来の三浦家の一族である平子家(ひらこ/たいらこ)がいたが、小生は平子家も鶴岡八幡宮合戦で正木家に呼応して、後に北条家によって駆逐されたと推測している。

小桜姫と三浦義意公、及び三浦家歴代の史跡、聖地と宗教施設


●二伝寺…神奈川県藤沢市渡内
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三浦家の全ての直系子孫の祖先、平良文(たいらのよしふみ)公と初期御子孫の菩提寺。
現在の二伝寺自体は北条氏時公(北条氏綱公御実弟)により開基され、浄土宗大本山、鎌倉光明寺の正空和尚が開山と成って造営された寺院。
それ以前の記録は残らないが藤沢市の蟠龍山宗賢院や伊勢原市の蟠龍山洞昌院公所寺の実例を踏まえると、同所に前身寺院や廃寺跡が有り再興開基した可能性は有る。
又、同所は、戦国時代に難攻不落を誇った玉縄城址の出城二伝寺砦でもあった。秀吉の小田原征伐による戦国大名の北条家滅亡後は徳川家臣、大河内松平家の菩提寺と成った。大河内松平家は日光街道に杉並木を植林した一族。

●村岡城址公園…神奈川県藤沢市村岡
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三浦家を含めた良文流坂東平氏系の武将の祖先、平良文(たいらのよしふみ)公の居城跡。
城址公園としては遺構は略(ほぼ)、児童公園化されてしまい存在しない。子孫に当たる明治時代の海軍の東郷平八郎の甥の東郷吉太郎海軍中将が揮毫(きごう=文章を直筆で代書する)した石碑が現存する。
平良文公の子孫には名将が多く、鎌倉幕府御家人や戦国時代の大名に成った家系も多い。
主だった子孫の家系と名将を挙げると…
太字は特に有名な人物
【三浦家一族】
三浦義次
三浦義明三浦義澄岡崎義実・真田義忠・和田義盛・朝比奈義秀・朝比奈泰朝佐原義連・平子有長・正木時茂芦名盛氏由比正雪
【鎌倉家一族】
鎌倉景正大庭景義大庭景親梶原景時梶原景季・俣野景久・長尾景春長尾景虎(上杉謙信)
【渋谷家一族】
渋谷重国・早川実重・東郷頼重・祁答院良重・入来院重嗣東郷平八郎
【中村家一族】

中村重平・土肥実平・小早川遠平(小早川隆景の家名上の祖先)・土屋宗遠(土屋昌続の家名上の祖先)
【秩父家一族】
畠山重忠・江戸重長・喜多見重政河越重頼(源義経の妻の実父)・葛西清重・豊島泰経・小山田信茂
【千葉家一族】
千葉常胤千葉胤富・臼居胤知・千葉周作(山南敬助・山岡鉄舟・清川八郎の剣術師匠)・千葉定吉(坂本龍馬の剣術師匠)
…等の何(いず)れも名将が多い。

●衣笠城址公園…神奈川県神奈川県横須賀市衣笠
2014-11-13-12-23-58
※写真は衣笠城址の本丸跡と伝わる辺り、右側に長い土塁の遺構と思われる風化した盛土が続く。
本家の三浦家歴代の居城。三浦本家が滅亡するまで三浦党の本拠地として機能したが、三浦家滅亡時に廃城と成った。
石橋山合戦での源頼朝公蜂起に呼応し、三浦党は和田義盛公を陸軍大将として三浦義澄公を水軍大将として援軍を送るも陸軍は敵の大庭景親居城大庭城を背後にして相模川を渡河出来ず石橋山合戦に間に合わず、水軍も酒匂川辺りで源頼朝公は敗退し海路を房総半島に逃走してしまった事を知った。更に北から畠山重忠公率いる伊勢平氏(平清盛)の大軍が迫って三浦勢は西と北東から挟撃されてしまう形に成った。それを知った三浦義澄公の水軍は鐙摺城(あぶずりじょう)に撤退、和田義盛公の陸軍は衣笠城に帰還。三浦勢と畠山勢が逗子市住吉城辺りで戦端が開かれたが寡勢(かぜい=少数)の三浦党は撤退し衣笠城に集結する。当時の長老、三浦義明公は88歳と高齢だったが一族を源頼朝公に合流させるべく水軍で房総半島に撤退させ、自(みずか)らは衣笠城に直属の手勢を率いて籠城し畠山軍を引き付け囮(おとり)に成り時間稼ぎをした後、玉砕した。この義明公の活躍により、頼朝公は三浦党の軍勢を旗下に組み込む事が出来たので関東の制覇に繋がり、そして鎌倉幕府樹立へと繋がって行く…。
現地には一部分、土塁遺構と思しき連続した風化した盛土と、切岸と思しき地形が残存し、伝:本丸の広大な削平地と物見岩も現存する。
※ただし城マニア初心者には只の山にしか見えません。
嘗(かつ)ては城域だった、衣笠城址公園と谷を挟んだ衣笠山公園は現在では桜の名所として有名で、衣笠城址にも多くの桜が植林されている。
周辺一帯には三浦家所縁(ゆかり)の神社仏閣と、廃寺史跡が現存する。


大善寺…神奈川県横須賀市衣笠
2014-11-13-12-12-29
衣笠城址内に現存する鎌倉時代の三浦家の学問所の機能をした寺院。それ故(ゆえ)に山号も衣笠山と成っている。三浦家の文化醸成地の址。
大善寺自体も、嘗ての衣笠城の曲輪の一部と考えられる地形に存在していて、急峻な石垣は平安時代の切岸に後から石積みされ参道の階段が設けられたと推測出来る。
大善寺の裏手には、衣笠城本丸や物見岩と伝承する場所への入口。
又、御当寺の周辺は石垣城では無い時代の城らしい人工的な切岸と思われる断崖地形が連続している。

清雲寺…神奈川県横須賀市衣笠
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三浦家本家、分家の佐原三浦家の菩提寺。
三浦家本家の菩提寺は本来は圓通寺だったが、明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈の煽りを受けて存続困難に成り廃寺と成った。その後、三浦分家の佐原三浦家の菩提寺として開基された、現在の清雲寺に明治時代に成り圓通寺の三浦本家の菩提は合祀された。
嘗ての圓通寺を吸収した名残で本殿は圓通閣と呼ばれ、屋根の寺紋は三浦本家の三つ引き両紋である。
多くの三浦家所縁(ゆかり)の重要文化財を収蔵している寺院でもある。

●満昌寺…神奈川県横須賀市衣笠
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源頼朝公への忠義第一の名将として有名な三浦義明公の菩提寺。源頼朝公によって三浦義明公の供養の為(ため)に開基された寺院。
現在も頼朝公御手植えの躑躅(つつじ)が現存していて、頭を躑躅に突っ込むと賢く成ると伝承している。境内の三浦義明公の首塚とされる場所からは遺品が多数出土しており、事前に拝観予約すると御住職様の予定が空いていれば見学出来る。

●佐原城址…神奈川県横須賀市佐原
佐原城址 久良岐のよし
戦国時代初期の大名、佐原三浦家の平安時代の居城。
源義経の❝鵯越の逆落とし❞を立案した名軍師の佐原義連(さはらよしつら)公の時代からの居城。室町時代に成ると佐原家は佐原三浦家を名乗り三浦家本家と成り、居城を三浦市三崎町油壷の新井城へ転居した。
城址は横須賀ダイヤランドテニスクラブ周辺一帯の山で宅地開発により城址遺構は確認出来ない。昭和初期まで地名にも城址の名残りが在ったが、地名の字(あざ)と小名(こな)の廃止により地名も現存せず。

●鐙摺(あぶずり)城址…神奈川県三浦郡葉山町~逗子市桜山
鐙摺城 久良岐のよし
平安時代末期に葉山マリーナ近くには小浜の入江と呼ばれた湊(みなと)が在り、同港は三浦党の相模湾側の水軍拠点として機能していた。
300年余りの歴史を有する有名な和食店日影茶屋の前面に鐙摺城出丸と思しき旗立山が有る。
源平盛衰記に❝旗立山は鐙摺山の北❞と記載されている事から嘗(かつ)ての鐙摺城址の城域は、現在の日影茶屋周辺の現在は桜山と呼ばれる逗子市の葉山町の堀内地区一帯の桜山全域に及ぶ事が、地名と地形から推測出来る。
源頼朝公が伊勢平家(平清盛)に対して挙兵した石橋山の合戦に、三浦党は同地の小浜から三浦義澄(よしずみ)公を大将とした水軍を派遣するが小田原市の酒匂川辺りまで達するも、救援間に合わず頼朝公は伊豆半島より海路房総半島へ敗走した。
それを聞いた三浦義澄公は鐙摺城へ撤退。小坪辺り(住吉城か?)で畠山重忠公率いる平家軍の大軍に遭遇した三浦党との間で開戦。その際に鐙摺城址の出丸と思われる規模の旗立山に三浦党の軍旗を掲げたのが旗立山地名の由来。

●旗立山(鐙摺城址の出丸か?)…神奈川県三浦郡葉山町
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※写真は日影茶屋から見た旗立山と登リ口の階段。
鐙摺城址の項目で説明した通り、平安時代の三浦家の要害の一部。
旗立山には源頼朝の初期の通婚の妻女の実父の伊東祐親公の御廟所が在る。
伊東祐親公は頼朝公と三娘の間に生まれた子、千鶴御前(頼朝公の男児と伝わるが名前の後に付く敬称が❝御前❞である事からして伊東祐親公の三女本人の名だろう、子は❝千鶴御前の子❞とするべき)を見て怒り狂って家来に命じて溺死さた上に、三女は源頼朝公と離縁させて江間四朗(後の北条義時)に嫁がせてしまったとされる。この江間家四朗を北条義時と別人とする説も有るが、鎌倉幕府2代執権の北条泰時は庶長子なのに北条得宗家の嫡流に成り幕府の首相と成っている事、又、生前の頼朝公から可愛がられ初名が❝頼時❞だった事から千鶴御前と推定する歴史ファンも多いが証拠は無い。
同地に伊東祐親の供養塚を築いたのは三浦義澄公で、伊東祐親の長女は三浦義澄公の正妻だった縁に由(よ)る。
※仮に北条泰時公が伊藤祐親三女と頼朝公の実子だとしたら三浦一族が源頼家公・実朝公の将軍家御兄弟を見殺しにしたり、和田合戦の際に北条義時・北条泰時親子に加担した事は伊東家の血筋を優先した利害関係に基づくと説明出来る為、小生も北条泰時公の頼朝公御落胤説を否定出来ない。

●怒田城址…神奈川県横須賀市吉井
怒田城 位置 久良岐のよし
三浦一族で三浦長者と呼ばれた初代鎌倉幕府侍所別当職の和田義盛公の築城した和田家初期の居城で三浦水軍の最重要拠点だった。
同地は縄文時代~平安時代末期の城として活用された時期まで、半島で城址は浪に現れていた入江を抱える港湾の城だった。
現在も城址の麓(ふもと)には❝船倉❞の地名が残り、衣笠~佐原~怒田各城址の下を流れる川は嘗ての湾の名残。
源頼朝公の石橋山合戦での蜂起に援兵を送ろうとしたが間に合わず参戦出来なかった三浦家は、畠山重忠公率いる伊勢平家(平清盛)方の大軍に攻められる。その際に、主城の衣笠城より堅固な和田家が水軍と共に管理する怒田城への撤退を族長の三浦義明公に進言するが却下された。
しかし、義明公が衣笠城へ敵勢を引き付けた事で三浦軍は房総半島へ逃げる事が出来て兵力温存に成功し、それによって源頼朝公の関東制覇が成功する事に繋がった。

●扇谷山(せんこくさん)海蔵寺…神奈川県鎌倉市扇谷
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臨済宗の寺院で鎌倉公方足利持氏によって命を受けた、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏定公によって開基された。
井戸を掘ると海水が湧いてしまう事の有る鎌倉市街において水質の良さで十本指に入る事から鎌倉十井(じっせい)の一つと呼ばれた❝底抜の井❞や、❝十六の井❞と呼ばれる神秘的な洞窟の中の井戸を寺領に持つ寺院。
風景が綺麗で、観光名所にも成っている。
周辺には❝鎌倉七切通❞の一つ❝化粧坂切通❞と、平清盛の家臣で源頼朝公暗殺を画策した❝藤原景清❞が幽閉された石窟❝景清の土牢❞、三浦道寸公の盟友である太田道灌(どうかん)公の直系子孫で徳川家康公の側室と成った❝於梶(おかじ)の方❞が太田道灌公の鎌倉邸古址に造営した東光山英勝寺等の史跡等が近在する。

●岡崎城址…神奈川県伊勢原市岡崎~平塚市岡崎
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※写真は岡崎城本丸跡に移転した無量寺。
鎌倉時代に三浦義明公の御実弟で猛将名高い岡崎義実(よしざね)公によって築城された。
本丸跡の無量寺裏手には、三連の郭と、堀切が非常に良好な状態で現存する。寺境内地を外れ農道を回り込むと辿りつける。
縄張(なわばり=城の設計)は典型的な扇谷上杉家流の群郭式縄張と沼田に囲まれた平山城。周囲は縄文時代~弥生時代の古代に海だったので沼地だった。
室町時代には三浦家を相続した佐原三浦家の城と成った。
戦国時代初期に小田原を攻略した北条早雲・氏綱親子によって攻められるが、三浦道寸(どうすん)公が籠城する岡崎城は守り堅く、攻略に10年を要した。
佐原三浦家は相模守護として相模国内の大半に領地を保持したが三浦時高が当主の代に犬懸(いぬかけ)上杉家の上杉禅宗が鎌倉公方(くぼう=将軍)の足利持氏(もちうじ)公に反抗して引き起こした❝上杉禅宗の乱❞の際に、三浦時高は犬懸上杉家を支持した為に戦後、鎌倉公方によって相模守護職を解任された。
永享の乱の際に最初は足利持氏(もちうじ)公に属したが、後に相模守護を解任された経緯も有って裏切り、鎌倉を占領し山内上杉勢と室町幕府勢を誘引した。
時高は無嗣(むし=男児がいない)の為、戦後、元鎌倉公方家臣の扇谷(おおぎがやつ)上杉家の上杉氏定の孫の三浦高救(みうらたかもと)公が扇谷上杉家から三浦家に養子に入り継いだ。三浦高救公の実子が三浦道寸どうすん)公。
三浦道寸公の嫡子が明治時代に流行した架空時代劇小説❝桜の御所❞の主人公でヒロイン❝小桜姫❞の恋人役の❝三浦 荒次郎 義意(よしおき)❞公。
三浦高救公は実家の扇谷上杉家当主が討死した際に、三浦家を子の義同(道寸)公に相続せ御自身は三浦の家名を捨てて実家の扇谷上杉に復姓しようとするが、養父の三浦時高は所領が扇谷上杉家の傘下に入る事に成ってしまう事から怒り、三浦高救公・道寸公親子は三浦家から追放された。
暫(しばら)くして道寸公は、この岡崎城で挙兵し三浦家に復帰し三浦時高は死亡した。その後、岡崎城は小田原城の北条家によって落城させられる。

●住吉城址…神奈川県逗子市小坪
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※写真は住吉城址内に築城時から建っている住吉神社。
住吉神社には住吉城址の説明看板が有る。住吉神社の削平地と石段下の削平地も往時の城の曲輪の名残りと思われる。
築城年代は定かでは無いが、要塞としては鐙摺城の旗立山の逸話に登場する❝小坪辺りで三浦軍と畠山軍が開戦❞と有るので、その際に三浦家が陣取っていたのが、この住吉城址と推測出来る。つまり要塞としての歴史は平安時代末期に遡(さかのぼ)れる。
本格的に城として運用されたのは室町時代の様で、現在の京急神奈川駅付近に存在した権現山城(ごんげんやまじょう)で起きた権現山合戦時に、伊勢盛時(北条早雲)が後詰(ごづめ=救援部隊)として❝住吉要害❞に入城した記録が残っているので、この頃に改めて戦国時代の城として改修されたと思われる。
城址は正覚寺~シーサイドコート逗子望邸~海前寺に及ぶ山城で近年まで遺構も存在したが❝シーサイドコート逗子望邸❞の開発によって破壊された。
又、城址には❝住吉神社❞があり、その背後には馬場に通じる抜け道の隧道が存在するが封鎖されてしまった。寺の参道の目の前にも封鎖された古道が有り古代の東海道の街道の一部と考えられている❝切通し❞が現存するが、逗子市が城址と古道史跡の保護を怠(おこた)った為に宅地化され塞がれて通行不可能な状態に成ってしまった。
北条家と三浦道寸公・義意公親子の抗争時、この城には道寸公の実弟で義意公の叔父に当たる三浦道香が城主として在番しており岡崎城を落とされ逃げて来た兄の三浦道寸も共に籠城したが、結局は北条家によって攻め落とされ、三浦家終焉の舞台、新井城まで撤退する事に成った。

●網代山海蔵寺…三浦市三崎町小網代
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曹洞宗の寺院で三浦義同(よしあつ)道寸公によって開基された寺院で、三浦道寸公、三浦荒次郎義意公の菩提寺。
新井城址に当たる油壷マリンパーク近くに三浦道寸公と三浦義意公の御廟所を所有する寺院でもある。
新井城址北側の港である小網代湾の直ぐ傍に在る事から、往時は新井城址の北の鬼門鎮護の寺院だった事も推測出来る。
寺名から三浦道寸公の実家である扇谷上杉家が開基した臨済宗の鎌倉市に所在する扇谷山海蔵寺と無関係では無いと推測出来る。
本来、扇谷上杉家も佐原三浦家も臨済宗の信徒だが、この海蔵寺が曹洞宗なのは曹洞宗の信徒であった伊勢氏流北条家の伊勢宗瑞(北条早雲)公が道寸公・義意の供養として御茶湯領を保護した際に改宗して曹洞宗と成った可能性が有る。
※網代山海蔵寺は原則一般参詣不可、非公開。檀家信徒の参拝だけ可能。
明治時代の小説❝桜の御所❞の小桜姫伝説を流布した自称霊能者とカルト団体のせいで、道寸公と義意公に敬意も無ければ仏教に対する信仰心も無い観光客が本堂も拝まずに帰ったり、建築物だけ写真を撮って帰る等の乱入が相次いだ為の処置。
※私見だが歴史偉人の菩提寺としては当然の対応で、カルト団体と自称霊能者と商業利用しようとした連中に問題が有るので御住職の御心痛は理解出来る。


●新井城址…神奈川県三浦市三崎町小網代

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※写真は諸磯湾の対岸側から見た新井城址遠景。
佐原三浦家の室町時代の本拠地。同地は現代の神奈川の景勝50選の一つでもある。
日本史上最長の約4年間の継続した籠城戦の舞台。
城址の主要部分は現在、油壷マリンパークと東京大学関連施設のある断崖の半島上に築かれた連郭式平城だった。周辺の城塞群と引橋を含めた巨大な群郭式の体を成しており、南・北・西を諸磯湾・小網代湾・油壷湾に囲まれており堅固な城塞群だった。
遺構は略(ほぼ)消滅したものの、東大関連施設内には部分的に土塁が残存、又、周辺の地名に❝引橋❞や❝千駄矢倉(せんだやぐら)❞等が残る。周辺にも引橋を置いた堀切の痕跡と思われる道幅程に削平地の幅がくびれた場所が数ヵ所残る。小網代側には住宅街に井戸も有る事から、海に突き出した籠城戦に際しても水不足に成る心配は無かった事が窺(うかがい)い知れる。

三崎漁港側の三崎城まで城域に含むと主張する説が有るが同説は根拠が無い。完全に別の城である。同時期に運用された可能性は比定出来ない。
※新井城落城時の悲話
(老夫婦の自害)
現在の三浦市南下浦菊名の❝引橋バス停❞付近に戦国時代当時に新井城の外郭の引橋(ひきばし=戦時に格納し敵の侵入を防げる橋)が存在した。その近くで当時は❝六万本の坂❞と呼ばれており茶屋を営む老夫婦が居住していた。
ある日、その老夫婦は相手が北条家の密偵とは知らずに、城と殿様の自慢話をして新井城の事を根掘り葉掘り解説してしまった。後日、老夫婦は、その人間が北条家の密偵で有った事を知ると老夫婦は「殿様に申し訳ない事をした」と心中してしまった。
これと類似の話が藤沢市の大庭城の船地蔵にも有るので、北条家は敵城偵察の際に地元の老人に話を聞く事も諜報活動の一環にしていたようだ。この老夫婦の悲話を三浦市発刊の郷土資料でも正式に紹介している。
(三浦義意公の妻女(側室とも)の最期)
現在の油壷マリンパークの半島上に新井城の主要部分が存在した。いよいよ小田原北条家(小説と小桜姫伝説では金沢北条家)の兵が新井城の主要部分に攻め込んでくると成った時、城主の三浦義意公の妻女は船で諸磯側に逃げた。その場所が諸磯神明社の辺りと現地で伝承するが、結局、三浦義意公の妻女は敵方北条家に捕縛されてしまった。小説では自害と脚色されている。
尚、小説内では結婚すらして居らず相思相愛のまま敵味方として最後まで戦い、思い人三浦義意公が新井城落城後に自害し、小桜姫が後追い自害したシナリオに成っている。
実際は兄の真里谷信隆公が北条家に亡命して庇護下に在った事や、新井城落城から約50年後に武田信玄の水軍大将として駿河で活躍し江戸時代に徳川家康公の水軍大将に成り間宮造酒之丞家として存続した間宮家分家の初代の間宮信高公は妻が真里谷武田家の姫である事から、北条家中でも真里谷武田家の血縁者が凄惨な扱いを受け殺害されたとは考え難い。
小桜姫伝承には不自然で小説中の脚色が史実と混濁されていると考えると自然。恐らく自害しておらず剃髪し門跡寺院だった鎌倉の松岡山東慶寺辺りで尼に成るかして生き延びたと考えた方が当時の価値観からしても自然だろう。

個人的な希望としては間宮家や鎌倉に居た千葉家分家臼居家に再嫁して名の残らない女性人物として幸せに成ってくれていた方が、前夫三浦義意公も安心するのではないかと個人的には思うが・・・
・・・脚色としては夫を思い自刃した方が小説としては美しい悲話に成り盛り上がるのだろう。

●新井城址の弁財天様(小桜弁財天と誤って紹介されている)…神奈川県三浦市三崎町小網代
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小桜姫に縁結びを求めてくる巡礼者の多い場所だが実際は小桜姫とは全くの無関係な弁財天様。
但(ただ)し強い御利益あり、遭難して行方不明に成った江戸時代の漁師の身内が霊夢を得て、御告げの通り、この洞穴に祀られている弁財天様の折れた首を繋げて差し上げた所、三浦で遭難した漁師は無事、藤沢市辺り(鵠沼海岸辺りか?)に漂着して、徒歩、油壷へ帰還した。人命救助でも強い御利益が有る上に、元来、弁財天様は男神にモテた印度神話のサラスバティー神なので、当然縁結びの御利益も期待出来る。
何より強い御神威を発揮された事績が有るので、縁結びで御参りすれば御利益が有るはず。
※但し、小桜姫と関係ないので弁財天様として参拝して然るべき。

●小桜姫神社(諸磯神明社の摂社:若宮社に合祀?)…神奈川県三浦市三崎町諸磯
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本家本元の小桜姫神社。しかし小桜姫の名前は一切無い。
神明社本殿裏手の摂社群の内、左から二番目の若宮社に小桜姫が合祀されていると教えられた。
明治時代に流行した❝小説:桜の御所❞のヒロインとして登場する架空の人物の小桜姫と、地元に伝承する史実では(小田原)北条家による新井城攻めの際に、三浦義意公の妻女か側室が諸磯神明社の土地に実際に逃げて来たものの敵勢に発見され最期を迎えたとされる。
諸磯神明社は説明看板の字の劣化が激しく、現在、何が書いて有るかサッパリ読めない。
神明社なので主祭神は天照大神で間違いないだろう。
この話の姫君を小説と混同し小桜姫と比定して若宮社に合祀したのが始まりだろう。
若宮社とは本来は鶴岡八幡宮の御分霊である。しかし明治時代の廃仏毀釈運動と神仏分離令のせいで多くの八幡社は弾圧の対象となり消滅した。理由は八幡宮の主祭神:誉田別尊(ほんだわけのみこと)応神天皇は明治時代以前まで❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の象徴であった為だ。
平安時代以来の日本全国の八幡宮の総本社である石清水八幡宮には現在も仏像を安置する部屋が残されているし、鶴岡八幡宮の境内は明治以前は現在の横浜国大付属中学の敷地全てを含み壮大な仏教施設を持つ神宮寺が併設されていた。
❝若宮❞と言うのは、鶴岡八幡宮は造営当初は現在地ではなく由比地区に存在し、源頼朝公によって現在地を本社とて新たに造営された為に、❝旧の社殿より若い❞と言う事から鶴岡八幡宮の別名が若宮八幡宮と鎌倉時代当時に呼ばれていた名残りだ。よって鶴岡八幡宮の参道は現在も❝若宮大路❞の名で呼ばれている。
由比の八幡社は現在❝由比若宮❞と名付けられ再建されているが、元々は❝元鶴岡八幡宮❞と一般的に呼ばれている。
つまり、諸磯神明社の小桜姫神社は本来は鶴岡八幡宮の御分霊を頂いた若宮神社だったが、神仏分離令による破壊を免れる為、もう一つは先述の通り地元の姫の悲話に、後から架空の小桜姫の名前が融合し、廃社の危機にあったであろう若宮社=八幡社に小桜姫を御祭神とする事で存続を図ったと思われる。
しかしながら実際の姫君に小桜姫の名が合わさった形式なので、真里谷武田家の姫君として若宮社を御参りすれば実在した真里谷家の姫君にも三浦義意公にも縁結びの御利益を授けて頂けるんじゃないかと思う。但し、若宮社の本来の御祭神は八幡大菩薩=応神天皇=大鞆別命(おおともわけのみこと)なので、先に八幡様に御挨拶した上で真里谷武田の姫にも御挨拶をするべき。

●本瑞寺…神奈川県三浦市三崎町
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三浦義意公が戦国時代初期に三崎町三崎漁港の入舩(いりふね)地区に造営した寺院。その後、江戸時代の三崎町の大火で享保4年(1719年)に現在地へ移転した。
移転先に選ばれたのが源頼朝公の❝桜の御所❞と言う別荘地だった現在地だった事もあり、鎌倉時代の三浦家以来の御寺と勘違いされる方も少なくない。
平安時代末期~鎌倉時代は本瑞寺の丘と、対岸の城ヶ島には桜が植林されており、源頼朝公・源頼家公・源実朝公の将軍家三代に渡って遊覧の地と成っていた。
御当地は戦国時代の北条氏規の居城の三崎城址の一部だった。昭和初期まで土塁も一部残存していた事が三崎町公認の三崎城の縄張図から確認出来る。

●小桜観音…神奈川県三浦市三崎町城ヶ島
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古くから縁結びの観音様として有名な場所だった様で、実際に現在も縁結びの御利益が有るとされる。
名は本来は観音様であり、洞穴内に観音菩薩像も有るが近年、小桜神社に列しようとする動きが有った様で神道形式の真新しい御神体(鏡)が観音様を横に置いて洞穴の入口に正対する様に設置されている。
あくまで観音様なので、観音様を拝むと縁結びの御利益も有ると思われる。
又、観音様へ小桜姫への願掛けを御願いするのであれば、小桜姫の名の初出展となる小説❝桜の御所❝の世界観を大切にしたいならば、実在した先人に対して不敬に成らない様に実在した三浦義意公の奥方の「真里谷武田家の小桜姫様」と祈願の際に御名を念じて然るべきだろう。
尚、当時の三浦家の居城は城ヶ島対岸の三崎城でも無いし城ヶ島でも無いので、明治時代に小説のロケ地として推定され小説のファンが訪れたのが、小桜観音の名で呼ばれる様に成った理由と推測出来る。
同地には小桜神社と小桜観音両方の名が有るが、小桜観音自体の石積み等文化的な状況が仏教文化なので観音様として祀られていた歴史が先である事が明らかに解る。
実際に縁結びの御利益が昔から有った場所だから、後に小桜姫ロケ地巡礼の一つに成った事も推測出来る。
※何れにせよ、強い縁結びの御利益が有るのだから、「観音様と、小説の小桜姫様と、実在した真里谷家の姫君」として三方の名を思いながら祈願すれば神仏の加護を得られるのでは無いかと思われる。

●三崎城址…神奈川県三浦市三崎町
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※写真は嘗ての三崎城下水軍基地だった北条湾からの三崎城址の丘の遠景
伊勢氏北条家(小田原城主)の一族で名将の北条氏規公の居城。
築城年代は不明。
三崎城下の入江は北条家の三浦水軍の基地だった事から、現在、漁船の係留地は北条湾の名で呼ばれる。
城址の遺構は土塁と空堀は大部分が宅地化や学校建設で破壊されたが、搦め手側に土塁が一部残り、大堀切や部分的な曲輪の地形も大体の形を残して生活道路に成っている。
築城年代に関しては、三浦氏統治時代にも新井城の一部だった説が有る。
三浦義意公の開基した本瑞寺が三崎城址内に移転したのは江戸時代の事なので、当初は入舩地区に本瑞寺が造営されている事もあり戦国時代初期の三浦家の統治下では現在のメインストリートである三崎銀座商店街より更に南の平地に所在したので、三浦統治時代は漁村程度で水軍の船溜まりが在った可能性は否定出来ないが城塞が在った可能性は低く、新井城の出城説は全く確証が無い。
又、近くの海南神社は元々は筌籠弁才天と呼ばれ平安末期~鎌倉時代初期に三浦一族の和田義盛公によって開かれた弁才天様として有名だったが、やはりこの海南神社の参道も入舩地区へと続いている。
三崎城を鎌倉時代からの新井城城砦郡として含めるのは無理が有り、小桜姫伝説を利用した観光誘致の為に、城ヶ島を組み込む目的で三崎城址まで新井城の一部と無理な解釈をする動きに見える。
仮に小規模な要塞が平安末期に存在したとしてもあくまで新井城とは別の城。

三浦市以外の小説:桜の御所の小桜姫伝説のロケ地と伝わる場所
●天野神社…神奈川県愛甲郡愛川町坂本
三浦義意公と恋仲に成った小桜姫は、北条家と三浦家の双方の所領を天野神社辺りで中津川を挟んで、待ち合わせの相図に御互いに手鏡の反射を用いて連絡として、恋仲の逢引(あいび)き=男女の関係を繰り返した。
しかし、有る時、三浦家の敵方に小桜姫は三浦家の本城の秘密を漏らしてしまった事から三浦義意公によって誅殺されたと伝わる。
※当時の愛川町一帯の領主は津久井城主内藤家の分家で、佐原三浦家の領地は愛川町には存在しない、当然相模原側にも存在しないので完全なフィクション。また、佐原三浦家の居城は初期は岡崎城、後に新井城なので津久井の内藤家は全く関係ない。
※三浦家の居城、新井城の構造を北条方の密偵に騙されて漏らしてしまったのは、現在の神奈川県三浦市南下浦菊名の❝引橋バス停❞付近に当時本当に在った新井城の外郭の引橋(ひきばし=戦時に格納し敵の侵入を防げる橋)の近くで当時は❝六万本の坂❞と呼ばれた場所に居住した茶屋を営む老夫婦だと伝わっている。
又、この老夫婦の逸話を三浦市発刊の郷土資料でも正式に紹介している。
※観光客誘致のモデルとして御当地の別の伝承に小桜姫と三浦義意公を混同させたと思われる。
※愛川町が小桜姫伝説を混同した原因と考えられるのは、平安時代には三浦半島の津久井を治めた三浦一族の津久井家と、津久井城を治めた内藤家も鎌倉時代から存続した家と家伝に伝えていた為に混同されたと思われる。尚、津久井城主内藤家は北条家臣に成ったので、この史実も小説:桜の御所の小桜姫と整合性が無い。更に、津久井城主内藤家は北条家の津久井衆を編成し統治を任される身分だったが、その祖先を鎮守府将軍藤原秀郷と明確に自称している事から、やはり愛川町の小桜姫伝説は小説の話と地元の実在した事件の伝承の混同か、観光地としてのロケ地化宣伝に由るものと推察出来る。
※当然、実在した人物の伝承を混同している可能性が当然高いので、昔から縁結びの御利益が有ったであろう天野神社を御参りすれば縁結びの御利益が得られる筈(はず)。

さて…
纏めると
●三浦義意公の実際の本妻と側室は真里谷武田家の姫君なので、真里谷家の姫君として小桜姫を参詣しないと歴史に矛盾が出るし、三浦義意公にも側室の姫様にも失礼です。
●油壷の弁財天は小桜弁財天はなくて、漁師を遭難から救った強い御利益の有る弁天様であり、弁天様自体が男神にモテまくった神様だし美しい女神様だったから当然、縁結びを御利益出来ます。但し、小桜姫じゃなくて縁結びの弁天様として御参りしてね。
●小桜姫神社の場所は、諸磯神明社の摂社です。場所は本殿の後ろに並ぶ摂社の左から2番目の若宮社です。ただし、モデルに成った元からある三浦義意公の奥さんに纏(まつ)わる地元の伝承の神社の場所が諸磯神明社なのであって、明治時代の神仏分離令や国家神道の都合上、主祭神は天照大神です。小説の小桜姫様=実際の真里谷武田家の姫様に御参りする場合は「小桜姫様と伝わる真里谷家の姫様」と名を呼んで差し上げて然るべきです。
●小桜姫伝説は根本的に明治時代の小説、❝桜の御所❞が初出典であり創作ですが、実在した様々な時代の戦史や人物がモデルに成っています。舞台も実在した新井城で主人公の三浦荒次郎義意公は武勇に長けた名将でした。なので、新井城主三浦義意公と奥方に敬意を持った参拝をして下さい。
●もし、本当に小桜姫のモデルに成ったであろう真里谷家の姫様は三浦家をリスペクトするのであれば、紹介した神社仏閣や城址を巡礼しては如何でしょうか?自分の都合だけで縁結びを御願いしても、神様や仏様に成られた先人からすれば「何、この自分勝手なお願いしかしない奴?」と成るでしょうから。

【小桜姫以外で三浦半島付近の日本神話に登場する由緒正しい縁結びの神様の聖跡】
小桜姫伝説とは無関係ですが、ちゃんと神奈川県神社庁に認められた延喜式外社の神社で日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)様の夫婦神に関する神社が存在します。当然、縁結びの御利益は最高でしょう。

●走水神社…神奈川県横須賀市走水
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走水は現存する関東の地名で唯一の古事記にも登場する場所。
日本武尊と弟橘姫の夫婦神が一緒に過ごした御所ヶ崎の近くに建つ縁結び、勝負運、交通安全、漁業に強い御利益が有る神社。
走水神社本殿の地下には日本武尊が奉納した冠を入れた石室が埋蔵されていると伝承したが、近年の本殿改修で実際に石室の蓋が発見された。開封されず社殿再建で石室を埋蔵し、そのまま地下に保管されている。
同神社近くの御所ヶ崎で御二人が過ごされ、かつて弟橘姫を単体で御祭りしていた御所ヶ崎の砂が縁結びの御守りとして無料で配布して頂ける。大伴黒主と伝わる人物が御二人を歓待したと伝わるが、同様の伝承が神奈川区六角橋にも伝わり、六角橋の地名由来は日本武尊が使用した箸が六角形で大切にされた事から六角橋の地名に転化したと伝わる。そして六角橋の久応山宝秀寺が日本武尊を歓待した大伴久応の邸址と伝わる。この六角橋の大伴久応と走水の大伴黒主は恐らく同一人物か一族だろう。
古代の大伴家は古代の天皇=大王の近衛部隊を率いた軍閥であり、一族の佐伯氏ともども水軍を率いた人物なので六角橋~三浦半島にかけて勢力を誇ったのだろう。
走水では大伴黒主は漁師で海鮮料理人でもあると伝わる事から、まず水軍関係者で間違い無いだろう。
走水神社は普段は宮司不在だが、氏子様が交代で在番しており御朱印も頂けます。

●宝秀寺・・・神奈川県横浜市神奈川区六角橋
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太平洋戦争等の戦火や各時代の火災で古い物は存在しないが、門前に神話の時代(弥生時代頃)に日本武尊一行を歓待した大伴久応の土饅頭=陵墓型の供養碑が有る。その大伴久王の邸址と伝承する聖跡に後世に成り寺院が建てられた。
実は背後の丘陵は戦国時代まで神大寺と言う恐らく権現山城(京急神奈川駅近く幸ヶ谷(こうがや)公園の戦いだと思われる戦火で焼けた大寺院が存在した。名前の通り神様との関係が推測される事から、神大寺は日本武尊と弟橘姫を祀る寺院化した聖地だったと推測出来る。これ等の推測と宝秀寺の伝承を補強する史実として周辺の三枚橋町辺りに“店屋”の地名が残り亀甲峠と呼ばれた神奈川区浦島~新横浜駅篠原口へ繋がる丘は古代の街道だった。そして店屋の意味は古代大和朝廷の官営の駅伝制つまり伝達手段の馬の交換地点の事で、既に弥生時代後期頃には古墳時代に駅伝制の基地が置かれる前身の集落が形成されていた可能性が高い。
更に、神話では日本武尊に大伴部と吉備家の軍団が与力として与えられている事実が日本書紀に記載されている。この大伴部の部は部落の部で有り、古代の部落と言うのは一族が固まって住む集落の意味であるので港湾を抑えた水軍一族の大伴家が全国から集まり日本武尊を援護した事が推測出来る。
これらの走水の伝承、宝秀寺の伝承、神大寺の存在と寺名、三枚橋町周辺の古代地名の店屋の全てはリンクしており、更に佐伯一族大伴家が水軍豪族だった史実と天皇の近衛武将だった事もリンクしている。
余談だが源氏所縁の鶴岡八幡宮も宮司家は戦国時代まで大伴家だった。

●橘樹(たちばな)神社…神奈川県川崎市高津区
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弟橘姫が、日本武尊の房総半島への渡海の神事で東京湾に入水した後に、遺品の装飾品が流れ着いた場所が現在の橘樹神社の所在地で、神社の社殿の真裏の宅地化されてしまった丘陵は弟橘姫の古墳と古来から伝承している。
時代を経て橘樹神社の境内地は縮小し、宅地化により古墳の大部分は消滅したが古墳の最頭頂部は部分的に現存し、保護されている。
弟橘姫の古墳なので、当然、縁結びの御利益は強い。

以上、❝久良岐のよし❞による小桜姫と三浦家関連の史跡群と史実と伝承の解説でした!

…次回こそ、大庭城の紹介記事を書きたい。
そして7月20日の休日雑記と、まだまだ紹介しきれてない❝真のパワースポットを抱える神社仏閣❞が沢山あるので、早く書きたいと思っています。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

※本記事は時間が無くて写真未掲載ですが、順次、実際の場所の写真を差し込んで行きます。

好きな人がいる事
好きな人がいること
フジテレビ系放送局で放送開始されました。
小生が休日によく散歩に行く風景が沢山出ます。
1人のパティシエの女の子が、レストランを経営するイケメン3兄弟と同居し、恋をしながら成長していく話です。
好きな人がいる事2
是非、見てみて下さい。

一番上のドラマタイトルをクリックすると、公式ホームぺージにリンクします。

もう一作品、神奈川県が舞台のドラマが始まります…

廃校と成った旧神奈川県立三崎高校と野庭高校の卒業生に捧げる・・・
仰げば尊し
仰げば尊し
小生が住む横浜市に10年くらい前まで実在した神奈川県立野庭(のば)高校と、全国優勝常連だった吹奏楽部の物語です。
野庭高校は劇中で、とんでもない不良高校に描かれていますが、実際横浜市内で下から1、2番目の学力の普通科高校でした。
その高校を、これまた実在した❝中澤忠雄❞先生をモデルにした、寺尾聡さん演じる樋熊迎一が吹奏楽部を率いて学校を変えていく物語です。
仰げば尊し1
その学力底辺の野庭高校は、中澤忠雄先生の率いる吹奏楽部があれよあれよと言う間に全国で連戦連勝の優勝常連校に育って行き、全国から吹奏楽を志す中学生が受験する音楽の名門高校に生まれ変わった話です。
2016年7月17日放送開始です。詳しくは画像上のドラマタイトルをクリックして公式ホームページを御覧下さい。
仰げば尊し⇐クリック!
きっと面白いので、是非、皆さんに見て欲しいと思います。

この野庭高校は劇中では❝美崎(みさき)高校❞に名前が変わっています。多分、ロケ地が神奈川県三浦市三崎町だからでしょうか?
猿島が見える海辺も出るので横須賀市の馬堀海岸もロケ地の様ですね。他にも日本武尊と弟橘媛神話の舞台の走水海岸、三崎町三崎漁港の風景も登場していました。
学校の校門前や屋上の風景は野庭関城址である野庭団地が見えるので、本当に旧野庭高校で撮影している様です。

さて…
小生のブログは腐っても歴史解説と郷土史とグルメ探訪のブログなので野庭高校に関連する歴史を…

余談ですが、このドラマの舞台となる美崎高校のモデル野庭高校の一帯は鎌倉時代に築城され安土桃山時代まで城塞として活用された❝野庭関城❞の城址なんです
旧野庭高校の西を流れる川と畑地は、鎌倉時代~戦国時代水掘りと水田、沼掘りでした。丁度ドラマの校門のシーンで見える一段下の茂み辺り一帯ですね。屋上のシーンで見える野庭団地の中心地の野庭中央公園が本丸と伝わっています。
位置関係はこんな感じ…
旧神奈川県立野庭高校と野庭関城の位置関係 久良岐のよし
残念ながらアホの神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会が保護を怠った為に城址は団地建設で破壊されましたが、一時、中澤忠雄先生と吹奏楽を志す生徒達によって日本に誇る❝音楽の拠点❞として有名に成ったのはせめてもの先人への手向けに成ったでしょうか?
この城を築城したのは、義務教育で誰もが習う鎌倉幕府の初代侍所別当を務めた和田義盛公です。
戦国時代には名奉行として有名な安藤良整公や北条氏康公の近臣だった石巻康保公等が城将を務めた城でした。
この城は、鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公と御子息で二代将軍の頼家公が暗殺された(小生は頼朝公の死因は稲毛氏と北条氏によるヒ素中毒毒殺未遂後の直接暗殺と推測している)後に義挙した泉親衛(いずみちかひら)公と和田義盛公に同調した土肥実平(どいさねひら)公の一族郎党が野庭関城に籠城し、壮絶に討死にした忠義の城としての歴史も有ります。
そんな誠実な名将達の城跡の高校に赴任した中澤忠雄先生が底辺高校の生徒達の才能を引き出して全国優勝するまでに導いたのは、浪人だった源頼朝公に忠義を尽くしてとうとう鎌倉幕府を開闢せしめた和田義盛公や土肥實平公の偉業を再現したかの様な物語ですね。

和田義盛公は鎌倉市の材木座で討ち死にしてしまいました。
しかし、野庭城の周辺には3軒ほど和田姓の御子孫が昭和期まで在住されていました。
和田義盛公と配下の武士達は鎌倉市の和田塚(正式名:無常堂塚)に葬られました。
和田塚(無常堂塚)の場所 久良岐のよし
和田塚には地表に露出した当時の武士達の人骨片がムキ出しに成っています。
近隣の学校の❝校庭でキラキラ光る砂のようで砂とは違う物も、人骨が破砕されて光に反射している❞のだと、小生や鎌倉市の古老と似たような知識を司馬遼太郎先生も❝街道を行く❞シリーズの三浦編で紹介していたと思います。
因(ちな)みに鎌倉市は、何処(どこ)を掘り返しても人骨が出ます。そりゃそうですよね…
和田合戦・宝治合戦・新田義貞による鎌倉攻め・中先代の乱・足利尊氏公の鎌倉奪還戦等々、歴史の節目毎に多くの武士が戦って亡く成ってますから。
でもね、❝心霊現象がどうとか言う偽霊能者❞は根本的に解ってないんですよ。
武士は戦死する事も勝つことも「武運」と言い信念の末の戦死は名誉な事であった訳ですから、仮に彼(あ)の世が有っても人を祟ったりはしません。
寧(むし)ろ神道の考え方では荒神様は強力な守り神に成って下さる訳ですし、現在の日本の繁栄や、鎌倉で仲良くデートするカップルを見たら、和田義盛公も平和な時代の恋人を微笑ましく見守って下さる事でしょう…
それは野庭高校の生徒達に吹奏楽で天下を取らせて下さったようにね。

ささ!
歴史は現代に繋がりますが、歴史を映像化するのもドラマにしか出来ない事です。
現代の江ノ島の美しい風景や、吹奏楽で落ちこぼれ高校から日本一の高校に成った野庭高校の歴史、是非!ドラマで楽しんでみて下さいな♪

では!次は先週末の休日雑記の続きか、大庭城の紹介記事で御会いしましょう!


前回、解説記事で大庭神社には大庭神社と大庭神社舊跡の2箇所が近在している事を歴史踏まえて解説しましたが…
内容は大庭神社の元宮と、大庭神社2ヶ所有る理由でした。つまり最初に大庭神社の社殿が在り、神社が古代に造営された聖地とされた場所だったのが舊跡=元宮で、立派な大庭神社は移転後の場所と推測されている理由でした。
※御興味有る方は「ココ」←クリックして前回の記事を御覧下さい。
さて、今日は大庭神社舊跡(きゅうせき)その物と近くの臺谷戸稲荷の様子を写真で解説したいと思います。
この大庭神社舊跡は、所謂(いわゆる)神社で言う所の元宮(元々神社が移転前に在った場所)な訳ですが…
現在の本宮と比定されている稲荷地区の大庭神社より、だいぶ寂れているものの清々しい聖地の雰囲気を醸(かも)し出しています。
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長い参道は竹林に覆われ、幻想的な雰囲気です。
こちらの御祭神は熊野久須比(クマノクスビ)の命(みこと)です…

本来の熊野大社や熊野那智大社の主祭神だったと考えれている神様。つまり、大庭神社の歴史が熊野大社の主祭神が入れ替わる以前から存在した証明に成ります。
遅くとも飛鳥時代より前の造営でしょうから、神話が始まる考古学的は縄文時代が終わる西暦紀元前400年頃の神様を祀(まつ)っていたようですね。
余談ですが、実は神道の宮司様にも考古学を御存知無く、神話と実際の日本文化の変遷を理解していない人が多いんですが、日本神話と考古学の歴史って整合性が有るんですよ。
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※写真は横浜市緑区の延喜式内社、御祭神は五十猛(いそたける=素戔嗚尊の子)の杉山神社。
神話が始まったのが西暦紀元前600年頃、縄文時代の終焉が紀元前400年頃、素戔嗚尊が古代日本で活躍するのが丁度その頃。そして弥生時代が始まるのですが、関東各地の古社の御祭神は悉(ことごと)く素戔嗚尊の御神孫なんですよ。つまり関東の古社の神話では出雲神族が関東を開拓した神話が有り、最近の発掘成果では、その頃に稲の水田耕作も伝播してる事が解っています。
そして弥生時代の終焉、古墳時代の到来が西暦100~200年代と言うのも古い古墳の発掘で推定されていますが、実は神奈川県の走水神社の伝承では日本武尊が三浦半島の走水に仮御所を置き、そこから房総半島に船で渡ったのが西暦110年か114年の正月だと伝承しています。つまり青銅器の導入や古墳文化の伝播が日本武尊神話と整合性が有るんですね。
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さて、話を神話と考古学から、大庭神社の元宮に戻します。
畑地と住宅街の在る山に所在し入口が解り難いのですが、上の石碑が目印です。
船地蔵周辺
最寄りのバス停は❝船地蔵バス停❞か❝第六天バス停❞です。
電車の最寄りの駅は無いので、藤沢本町とか辻堂駅等の周辺からバスでの訪問か車を大庭城址公園、もしくは近所のコンビニに停めるしか無い、少々不便な所です。
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さて、ここは嘗(かつ)て大庭御厨(おおばのみくりや)と呼ばれた地区で、縄文時代~人が住んだ地域でした。
その大庭御厨を水田耕作に適した土地に開拓したのが、戦国武将上杉謙信の祖先で、平安時代の名将の鎌倉景正公です。
鎌倉景正公は坂東武者達から武士の鑑(かがみ)として尊敬され軍神として鎌倉市坂ノ下の御霊神社で崇拝されました。
失明した際に供養した目を埋めた土地から瞬く間に樹木が成長した逸話から❝眼病治癒の神様❞、そして御霊神社周辺で多くの貴族や武士が恋愛の詩歌を詠(よ)んだ舞台だった事から❝縁結びの神様❞として人々に信奉されています。
※権五郎御霊神社については「ココ」←クリックして以前の記事を御覧下さい!
現在ではこの地区、船地蔵地区と呼ばれています。
その由来は大庭城址落城の秘話と密接に関係が有ります。
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上は大庭城址の空堀と土塁。
大庭城は引地川辺りに堤防を作る事で、城の周辺を湖沼化し守りを堅めていたそうです。
しかし・・・
この引地川の堤防と言うのは、引地川に注ぐ川を堰(せ)き止めた堤(つつみ)なのか、それとも引地川の水を引き込んで沼にしたのか現代には伝わっていません。
そこで地形を見てみましょう。するとある程度は推測が出来ます。
もう一度衛星画像で位置関係を確認してみましょう。
船地蔵周辺
大庭城址東側は元々湿地帯です。ですから水を堰き止める必要は有りません。
東側より西側が標高が高いので、西側を湿地にする程の大堤防を築けば南側の街道全て使用不能に成ってしまいます。
西側は湿地では無いのですが、滝ノ沢が流れ、更に江戸時代に❝熊野社❞と呼ばれた大庭神社舊跡が在ります。
恐らく、そこに嘗(かつ)て存在した滝や、湧水地の流れを引地川に入る前に堰き止めて西側一帯を湖沼化させていたんでしょう。
熊野社と言うのは、古来の神聖な湧水地や滝の傍に造営される神社でした。つまり、西側は湿地では無いにしろ当時は湧水池か豊富な水量を誇る滝が有る川だった可能性が有る訳です。川の名前がそもそも滝ノ沢だった訳ですしね。
そして、この地域からは多くの縄文~弥生文化遺構が出土しています。
これは説明するまでも無いのですが熊野那智大社は聖地である那智の滝の傍に在り、紀元前からの貝塚史跡が出土している丘を境内に抱える師岡熊野神社も聖地である池の傍にあります。そして両方とも天皇家の崇拝を受けました。
ここ大庭神社旧跡は、その前を流れる川の滝か、滝の傍の湧水地で聖地として後に熊野社が勧進され名前は大庭神社と呼ばれていたのでしょう。
そして、前回の解説記事でも推論を述べましたが、足利幕府の重鎮であった山名家と別当寺の都合で後から現在の稲荷地区に移転した筈です。
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この元宮と推測される大庭神社は参道が二段階に成っていて奥まで行かないと御社(おやしろ)が見えません。
恐らく、この御社の神様を奉る理由に成った、神社その物より大切な聖地とされた滝や池が昔は存在した筈なのですがね。現在は地殻変動か宅地開発かで往時の面影は解りません。
とは謂(い)えども、ここはヒッソリとしている物の、醍醐天皇の時代、西暦900年代の京都の貴族達にも神聖な場所として認識されて延喜式神名張に記載されている神社だったので、神奈川県下現存14座の延喜式内社+数社の式外社と数少ない悠久の歴史を持つ神社な訳です。
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現在では、本当に御社(おやしろ)と言う他無い規模の神社ですが、昔の人から我々が受け継いだ聖地である事には変わり有りません。そして、神様の御利益や聖地としての大切さに神社その物の規模など微塵も関係が無いんです。
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是非、ここ大庭神社の元宮と、現在の大庭神社両方を合わせて御参りして欲しいです。
そうする事で、ここを大切にしてこられた縄文~弥生~古墳~奈良~平安~鎌倉~戦国~江戸~明治大正昭和の人々の生きた歴史を感じ、平成の時代に我々が土地の文化を守る大切さと、神社の伝統を守る大切さの両方を引き継ぐ事が出来るんだと思います。

こ大庭神社の元宮近くには、この地が古来早く開けていた証拠と成る神様も鎮座しています。
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臺谷戸稲荷神社です。
この稲荷社の名前の由来は、大庭神社の所在する台地が古来❝臺(だい)❞と呼ばれ、北側が谷戸(やと=谷を利用した集落)だった事に由来しているそうです。
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古来、稲荷社の御祭神は宇賀神(うがじん/うかのかみ)や宇迦之御魂神/倉稲魂命(うかのみたまのかみ)と呼ばれた豊穣の象徴の神様でした。後に平安時代末期に成ると中国から輸入した貨幣❝宋銭❞での経済活動が始まり、穀類や海産物の物資その物から貨幣経済へ社会構造が変革した事で富の象徴が❝貨幣❞と成りました。その過程で、印度(インド)から中国経由で渡って来た七福神の弁天様が❝戦の女神❞❝美の女神❞❝財運の神❞❝水の女神❞としての多くの御利益が在った事から、女神でもあり似た御利益宇賀神と習合され一緒に崇拝される様に成った歴史が有ります。
宇賀神は半蛇半女の姿で描かれる事の多かった神様なので、蛇神=水神としても信仰されたので弁天様は水辺に祀(まつ)られている訳です。
そして更に明治時代の廃仏棄釈(はいぶつきしゃく=仏教弾圧)思想と明治政府による神仏分離令(しんぶつぶんりれい=日本の神様と外国から来た神様を再分離してしまう政策)によって、弁財天や弁天社として日本全国に存在した神社を破壊から守る為に、全国の弁天信仰の神社の氏子サン達が、弁天様と日本古来の海上交通=水の女神である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を同一として習合する事で神社を存続させた訳です。
そんな訳で、明治時代に成って宇賀神も宇迦之御魂神も弁財天様も市杵島姫命も別々に成ってしまったので、逆に古代から明治時代まで受け継いだ歴史が寸断されて訳が解らなくなってしまった訳です。
まぁ、市杵島姫命自体は名前や御神威からして福岡市沖に浮かぶ聖なる島の❝壱岐❞に古代いらっしゃた神様(古代天皇家の王族の姫、もしくは壱岐国の女王か王族の姫様がモデルか?)か、島自体を神格化した神様でしょうから、とても大切な神様である事には変わり有りませんが…。
そんな、縄文~明治時代直後までの富の象徴としての宇賀神信仰の歴史を全て残しているのが鎌倉の銭洗い弁天様です。
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ですから先日、休日雑記 2016/06/15の訪問先…鎌倉市雪ノ下~小町通り~扇ヵ谷~佐助地区でも書いた鎌倉の銭洗い弁天の正式名が宇賀福神社も名前は宇賀神を元々祀っていた事が解りますね。同一視された辨財天が、源頼朝公によって御神体として祀られ、更に後に明治時代に市杵島姫命が祀られた歴史が全部詰まっている、財運の女水神様です。
話を臺谷戸稲荷其の物に戻します。

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この御稲荷様の御社の直ぐ手前に大木が有ります。
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この臺谷戸稲荷神社を覆い隠している大木ですね。
銘板が見当たらなかったのですが、ここは小生の行く先々の城址や神社仏閣で度々登場する❝神奈川の銘木100選❞の一つ❝臺谷戸稲荷の椨(たぶ)の樹❞です。
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小さい御社ですが、大木が育つ環境と言う事は古代~近代に成っても地元の人々に愛されてきた場所なんでしょうね~♪

きっと、皆さんの家の御近所にも、この大庭神社みたいにヒッソリとした場所に在りながら、とてつもない歴史や偉人達との関わり合いが有る神社や御寺、城址や史跡の山が有ると思います。
ですから…
皆さん、御近所の神社仏閣や里山を散歩して見ませんか?

今回はここまで!
次回は現在の立派な方の大庭神社の社殿を写真で紹介します。
では!又、次の解説記事で御会いしましょう♪

先日、神奈川県横須賀市の歴史有る料亭小松が火事で焼失してしまいました。
その小松は建物自体も、いつ重要文化財指定を受けてもおかしくない歴史有る場所だったのですが、その事を紹介した際に東郷平八郎元帥の事の名も挙げたので…
※前回の料亭小松の火災に関する記事は「ココ」←クリック!
ふと、神奈川県に東郷平八郎元帥の直系祖先の御城が二つ有る事を思い出したので、記事にしようと思います。

皆さんは、東京都の渋谷の地名が実は神奈川県の綾瀬市は発祥である事を御存知でしょうか?
その場所は、現在の綾瀬市の早川城址一帯です。
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最近、その一帯は北側が住宅街として開発されましたが、綾瀬市教育委員会は意識が高く早くから早川城址を城址公園として整備しつつ、城址の地形を活用し巨大な沼掘りを湿生植物園やバラ園や児童公園等を整備して歴史遺産の保護と公園としての実用性を地域社会の為に両立させる事に成功しています。
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大空堀の傾斜を利用して、巨大なスベリ台が設置されており、小さな子が沢山楽しそうに遊んでいました。
堀底にも遊具が設置されていますね!
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反対側の大空堀にも湿生園やバラ園等の植物園が堀の地形を利用して整備されています。
この綾瀬市の例は本当に素晴らしい事で、悪い具体例を挙げますと…
小生の住む横浜市の教育委員会は歴史史跡は発掘したら必ず破壊し、公園を作る際は自然を破壊し山を切り崩し無理やり公園にします。
現在の早川城址を衛星写真で見ると、こんな感じです。
早川城
北側が最初の写真の‟しろやま小道”と言う最初の写真の遊歩道が整備されている新興住宅街です。
しかし東西の地形の保存状態は素晴らしい物があり、西側駐車場等はかつて川の水を引き込んだ沼堀だった事が解る、平安時代~戦国時代初期の関東流の沼地と丘陵を利用した地形の城址だった事が良く解る地形に成っています。
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この幅80m前後の地形の中に川が流れていますが現在も田圃が広がっています。
その地形はそのまま、城址の大空堀に続いてきますので、現在も早川城址の南面の空堀遺構は一部ジュクジュクとした沼地状に成っている部分も残っています。DSC_0518
ここ↑とかね。
同時期に築城された土肥實平公~大森氏の時代の小田原城、三浦一族の岡崎氏の伊勢原市岡崎城、大庭氏の藤沢市大庭城も類似の地形を選んで築城されています。

早川城址を訪問するには、車かバスしかありません。
ただ、駐車場が豊富に整備されているので、城址見学だけでなく子連れで城址の自然を散策に遊びに行く事も出来ます。
早川城址 駐車場  久良岐のよし
城址散策の経験者は南側の駐車場、余り城を歩いた事が無い方は解説看板の多い城址北側の駐車場を利用すると良いと思います。
今回は南側から紹介して行きます。

城址は南側の方が原風景を良く留めています。
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駐車場の横には城址の切り岸や空堀を保護する竹林が有り、その横が遊歩道に成っています。
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先に紹介してしまいましたが、看板右側の花木園や湿生園、左側の遊具園は大空堀(沼掘)の跡です。
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南側遊歩道の道も、小規模な空堀と腰曲輪らしき地形に成っています。
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地形的に、この会談は恐らく公園整備の時に設置されたものでしょう。
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多分、正しい順路はこの遊歩道。
この遊歩道は腰曲輪だと思われます。一段右下にも似た地形が有ります。
腰曲輪を突き当りで屈曲し左手に曲がり、上の広場に成っている大きい曲輪に登って行きます。
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ここを登ると広場なのですが、恐らく城だった当時の順路は左の階段ではなく、右側柵沿いの歩道では無くなっている傾斜でしょうね。
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写真を撮影する為に訪れたのは3月で、少し桜の季節には早いのですが、この本丸跡と思しき地形の広場で花見をしている方々がいらっしゃいました。
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園内には桜も多く、地域の桜の名所だそうです。
この桜の木の左手に若干盛り上がってる地形が見えませんか?
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これは櫓(やぐら)の跡と推測されています。
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つまり人工的に作られた土台の遺構ですね。
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ここには現在、東郷氏発祥の地と言う石碑が有りますが、その東郷氏の事は今回の記事の後半部分で説明したいと思います。
この広場を北の方に行くと、北側の公園入口に繋がっていますが…
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…広場と北側公園入口を繋ぐ場所が、城址の遺構で空堀に繋がる土塁と土橋で、極めて良好な状態で保存されています。
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土橋の上から左↑↓右の空堀を見るとコンナ感じ。
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広場の本丸と思(おぼ)しき曲輪は土塁に囲まれていました。
その事が解る土塁遺構も、この土橋の上から見ると良く解ります。
土塁↓部分
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だいたい、平安時代~鎌倉時代の城址は地形の風化で空堀は1.5m近く埋没し、土塁も1m近く低く成っている物なので、この土塁や空堀は築城当時は一番高所から堀底まで深さ4m以上有ったはずです。
普通に鎌倉武士の大鎧や太刀や弓をフル装備すると30kg近くに成るので、当時の身長150cm前後の人達が重装備で4ⅿの略(ほぼ)垂直の土壁を登るのは不可能だったでしょうね。
広場の曲輪から、大空堀の底までは現在でも可也(かなり)の高さが有ります。
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恐らく高さで6m以上、幅で10m以上有るので…
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築城当時は土塁~堀の深さは10m近く有ったんじゃないかと思います。
因みに、早川城址公園北側入口は南側と全く異なり、綺麗で現代的に整備されています。
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変な彫刻の時計台も有るので、時間も解るヨ…
駐輪場が有るのは御近所の子供には嬉しいね。自転車で来ても路駐しないで済む。

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トイレと自動販売機も北側に有るので、城址特有のトイレが無い心配に悩まなくて済みますし(笑)、水分補給も出来ます。

さて、この早川城址一帯は、実は東京都渋谷区の地名の由来の地です。
その説明をする際に、一人叩いておかないといけない俳優がいます。
武田鉄矢です。
武田鉄矢氏は昔、TVでこんな事を言っていました…
「渋谷は、昔は渋い谷と書くくらいだから、何にも実らないデス・バレーみたいな不毛な土地だったんですよ(推測)~」
…この発言は武田鉄矢の知識が如何に乏しいか、調べもせずに適当に話しているかを現している発言なんですね。武田鉄矢の渋谷地名由来は全くのデマです。

綾瀬市教育委員会が早川城址に設置した説明看板の内容と小生の拙(つたな)い知識を合わせて解説します。

東京都渋谷区の地名の由来は、現在の神奈川県綾瀬市を拠点に一帯を治めた渋谷氏の苗字に由来しています。
現在の綾瀬市一帯は江戸時代までの地名は高座(こうざ/たかくら)郡 渋谷庄(しぶやのしょう)と言う地名で呼ばれる地域でした。
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この高座郡地域は古来延喜式内社の神社も多く早くから開けた土地で、早川城址からは縄文~古墳時代の遺跡も出土している程です。
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その渋谷庄を坂東平氏、平良文(たいらのよしふみ)公の御子孫に当たる平朝臣(たいらのあそん)重国(しげくに)公が、早川城を治め土着して苗字として地名の渋谷を名乗る様に成りました。
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この渋谷氏、横浜の戦国時代の殿様の間宮家の平安時代の一族、平治の乱の際に鎌倉の源義朝公に味方して平氏の近江国の領地を没収された近江源氏佐々木氏を早川城で保護したりしています。
後に鎌倉幕府を開く源頼朝公が、石橋山合戦で伊勢平氏(いせへいし)の平清盛に対して挙兵すると、渋谷一族は頼朝公に加勢し活躍しました。その際の恩賞として現在の東京都渋谷区中心部辺りを与えられ城を築き、その城を渋谷城と名付けたのが、現在の東京都渋谷区の地名の由来です。
ね?
武田鉄矢が如何(いか)に適当な事を言っているか御理解頂けましたでしょうか?
さて、この渋谷氏、実は薩摩国の太守島津家の重臣達の祖先でもあり、その中の一人が東郷平八郎元帥の祖先でもあります。
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渋谷家は、鎌倉武士として活躍し、頼朝公より薩摩国の祁答院(きとういん)庄、東郷(とうごう)庄・鶴田(つるた)庄・入来院(いりきいん)庄を与えられ、その地に土着した渋谷一族がそれぞれに地名を苗字として名乗る様になりました。これが東郷平八郎元帥の祖先に当たります。
つまり、早川城主渋谷家が東郷家の直接の祖先なので早川城址には…
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…東郷氏の子孫達の集まり、東郷会によって建てられた東郷氏発祥地の石碑が有ります。
渋谷氏の祖先の平良文(たいらのよしふみ)公は現在の藤沢市に在った村岡城を治めて、そこから一族が綾瀬市の早川城、藤沢市の大庭城、三浦市の衣笠城、横浜市の長尾城等に散らばて行き水田を開拓して行きました。
それ故、この一族を坂東平氏とも呼びます。この一族は渋谷氏だけでなく多くの名将を輩出しています。
大庭を開拓した鎌倉景正公
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鎌倉市の権五郎御霊神社に御祭神として祀(まつ)られ、平安時代~戦国時代の武士達から軍神として崇拝されました。
※御霊神社の記事は「ココ」←クリック!

同じく旧鎌倉郡(現在の藤沢市内)に在るのが、村岡城址公園。
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遺構は破壊しつくされ存在しませんが、現在も要害性の有る崖地に面した地形だけは見てとれます。
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そして、この村岡城の城主だった平良文公は東郷家の祖先の渋谷家の更に御先祖様に当たるので、村岡城址の石碑の揮毫(きごう=文章を毛筆で書く事)したのが、東郷平八郎元帥の甥っ子で海軍中将を務めた東郷吉太郎元帥でした。
昭和初期位までの日本人は、本当に日本の歴史と文化を大切にしていたんですよ。

鎌倉景正公の更に別流子孫が横浜市栄区の長尾城を根拠地にしていた長尾家で、その子孫が上杉謙信(長尾景虎)です。
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※長尾城の記事は「ココ」←クリック!

その鎌倉景正公と一緒に活躍したのが三浦半島の衣笠城主三浦義継公で、三浦家や和田義盛公、東北の大名の芦名家、千葉の大名正木家や、静岡の大名今川家重臣の朝比奈家や由比家、横浜市東部の武将平子家の御先祖様に当たる方です。
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※衣笠城の記事はココ←クリック!

綾瀬市も米軍基地の存在の方がクローズアップされがちな新興住宅地ですが、実は農作物豊かな土地だったので古代から開けていたんですよ。
綾瀬市民の方々も移住者が多く、御存知無い方も多いと思いますが、この土地は重要な場所だったので付近には歴史遺跡が多く、平安時代~室町時代の人から見ても重要な土地だった訳です。
そして、日本に散らばった武士の名族の発祥地でもある訳です。

皆さんの御近所にも、この綾瀬市の早川城の様に、何気なく公園や山に成っている場所に凄い歴史が有る場所が有ったり、小さい神社や御寺でも実はとんでもない歴史偉人と繋がりの有る場所が沢山残っているかも知れませんよ~♪
ですからね、皆さん、近所の城址や神社や御寺や歴史史跡や博物館をちょこっと散歩してみませんか~?

今日はここまで。

では、又、次回の記事で御会いしましょう!










前回、前編で油壷マリンパーク一帯が戦国時代初期に日本史上最長期間の約4年間の籠城戦の舞台に成った新井城址だったと紹介しました。
※前回の新井城址の記事「ココ」←クリック!
その時に少し触れましたが、この新井城址でもある、現在の油壷マリンパーク周辺は若い人は知る人も少なくなりましたが、昭和の初期~バブル期頃、ヨット遊びをする富裕層にヨットハーバーとして人気だった場所でもあり、そして風光明媚な場所として明治時代から有名な観光地でもありました。
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その景色は❝かながわの景勝50選❞の一つに選ばれています。
小生の景勝地カテゴリーの他の記事にも、いくつかかながわの景勝地50選に選ばれている所もあるので、綺麗な風景に興味の有る人は見てみて下さい。
油壷マリンパークの手前に、この油壷湾に降りる遊歩道の入口が在(あ)ります。
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ちょっと解り難い、この場所が遊歩道の入口です。
ごちゃごちゃ民宿の看板が有る場所を目標にして下さい。
ここを歩いて行くと、新井城の解説や油壷の説明の看板が所々に有るので、それを見ると、この地域の事が少し解って良い散策に成ります。
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こんな感じ。
で、さっきの神奈川の景勝50選の石碑の場所は、エメラルドグリーンに光る油壷湾の入江地形を観察できる場所でもあります。
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ここの地形は変わっていて、三浦半島の西の端っこに、更に小さい半島が3つ分岐して並んでる珍しい場所なんですね。その3つの半島が更に小さい半島に分かれています。
新井城周辺 久良岐のよし
義務教育で習うリアス式海岸と言う地形です。
この半島の御蔭で入江が形成されており、波が穏やかなのでヨットハーバーとして人気な観光地だった訳です。
石原裕次郎さんや加山雄三さんが若い頃に、逗子マリーナや葉山マリーナや、この油壷ヨットハーバーに船で遊びに来ていたらしいです。
世代が違うので、聞いた話ですが。
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因みに、油壷マリンパークは現在も若いカップルに人気の水族館でイルカのショーを関東でもいち早く行った場所でして、皇族の秋篠宮殿下と御妃に成られた紀子様が若かりし頃にデートをされた場所でもあります。
因みに、当時、お二人が召し上がったのがカツカレーと聞いて「庶民的だなぁ~」と子供ながらに思いました。

さて、今回はメインは油壷の風景なので、マリンパークや港の話題はここまでにして、遊歩道と海岸の風景写真を紹介していきます。
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油壷周辺の散策路については、上の写真の看板がマリンパーク手前200m位の所にあるバス停留所に有るので、写メ撮って参考にして見て下さい。
無論、この画像を拡大して見ても良いと思いますが不鮮明でしょう?
油壷は、バブルが弾けて以降、大分と過疎ってますのでバスの運行数も少ないので先にチェックして置いて下さい。
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本当に少ないです。
駐車場はマリンパークの前にも有りますし、この停留所は平日は確か駐車無料かな?
小生はこのバス停前の駐車場を利用しました。
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で、遊歩道の先程の場所に話を戻します。
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ここは、明治の文豪にも愛された景勝地だったので、歌碑が立っていたりします。
そして、小田原に居住していた北原白秋が、この三浦も愛して三崎町に住していた時代も有り三崎町から程近い、この油壷を好んで散策に来たそうです。
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まぁ、本当に海岸を歩くと綺麗ですからね。
この歌碑を過ぎ遊歩道をズンズン歩いて行きますと…
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この分かれ道に出ます。
この道を右に降りて下さい。
そうすると…
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この砂浜に出ます。
この砂浜は両脇が岩礁の磯でして、その風景も又綺麗です。
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この磯が関東大震災で隆起した、明治時代には海底だった場所ですね。
この磯の横には、何かホテルっぽい建物も有りましたが営業はしていませんでした。
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冬だったので、夏に行けば何か有るのかも知れませんね。
その建物の手前には、遊歩道入口に書いて有ったBBQ施設か海の家と思しき建物も有ります。
多分、ここは若い人にはマイナーな砂浜なので、海水浴シーズンもゴチャゴチャせずゆっくりできるんじゃないかと思います。
砂浜の反対側を見ると、素敵な民宿が在ります。
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この民宿、ロケーション最高なので彼女彼氏とデートで宿泊に来ても、小さな子供連れの家族で来ても、海水浴シーズンには良い休日を過ごせそうですね。
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少し不便な場所に在るけれど、外観は本当に素敵でした。
多分、料理も三浦の地魚を出してくれるんじゃないでしょうか?
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手前の海の家みたいな場所は、冬も営業しているようですが、何か人がいませんでした。
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でもメニューは置いてあった。
今度行ってみよう。
この砂浜を降りてきた方向と反対に行くと、又、上に上がる道に出ます。
で、さっきのマリンパークの入口の横に出て来ます。
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上に上がらなくても、そのまま海岸を通っても遊歩道を真っすぐ行けばマリンパークの入口に行けます。
この入口を真っすぐスルーして行くと、反対側の海岸から登って来る遊歩道にブチ当たります。
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その遊歩道の入口の近くには、この新井城址の石碑と、三浦荒次郎義意(よしもと)公の顕彰碑が建っています。遊歩道を歩いていても、この石碑には辿り着けないので、写真を撮りたい人はマリンパークの駐車場の辺り、マリンパーク正門の右の方を探してみて下さい。
この三浦義意公は、落城寸前で敗戦が決定した最後の突撃の際、長く太い棍棒に鉄板と突起を張り付けた金棒を振り回し、北条方の敵兵300人を殴り殺したり海に突き落として討ち取った猛者でした。
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反対側の海岸へは、さっきの海辺を歩いても回ってこれますが、マリンパークの前を突っ切っても辿りつけます。
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こちら側は、うっそうとした三浦半島の植生を観察できます。
そこから回ると、三浦道寸公の御廟所も在ります。
ここはとくかく風景が綺麗なので、マリンパークだけ見て帰るなんて勿体ない事しないで、もし、油壷に来る機会が有れば是非!海辺も散歩して見て下さいねぇ~♪

ではでは!
又、次のブログ記事で!





実は、神奈川県には日本の歴史上最長の4年間もの長期間に及んで継続包囲された城、つまり防御力に優れた堅城が存在した事を知る人は歴史オタク以外には現代では余りいません。
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その名も新井城です。
そして、この新井城は戦国時代の幕開けに関与した佐原三浦家の御城なのですが、その佐原三浦家の事と戦国時代が如何にして始まったかも学校では教えないの根本的に三浦家が戦国時代まで存続していて大名だった事すら知らない人が多いのですが…

神奈川県と東京都と埼玉県と千葉県

…この地域が戦国時代の始まりの地域である事を御存知の方は全国的には少ないと思います。
更に言えば、鎌倉市浄明寺地区が戦国時代の幕開けと成った永享の乱の舞台で有る事を知る神奈川県民も非常に少ないのが現実です。
そこで、新井城の風景写真を見る前に、先ずは当時の歴史状況を解説したいと思います。
足利持氏邸古址周辺 久良岐のよし
この戦国時代の幕開けに始終関与したのは鎌倉の将軍=鎌倉公方と、その鎌倉公方と対立したり支持したり離合集散を繰り返した2家の大大名と1家の大名です。
それが…

鎌倉公方足利持氏→鎌倉(古河)公方足利成氏。
二つ両引き
足利家の二つ両引き紋

山内上杉家:今の埼玉県北部~群馬県~新潟県の大名達を支配した室町幕府(京都の征夷大将軍)の直臣。
扇谷上杉家:今の神奈川県~東京都~埼玉県の大名達を支配した鎌倉府(関東東北を治める将軍)の直臣。
竹に雀紋
上杉家の竹に雀紋

三浦家:今の神奈川県中部~三浦半島が所領の大名で平安時代以来の古豪。
三つ引き両紋
三浦家の三つ両引き紋

…以上の大名達の政権争いに鎌倉公方の室町幕府将軍への反抗心が大規模な戦乱に繋がり、そこに室町幕府の将軍に成る権利をクジ引きで引き当てた足利義教と駿河今川家の介入が加わった事で、今度は関東の武士団が反上杉独裁体制で蜂起し鎌倉公方足利持氏公に加担し、戦国時代の幕開けと成りました。
この政治的要因の舞台が鎌倉に在った事の他に、戦国時代が始まる切っ掛けは日本産の銀相場の世界での暴落、地球規模で気候が小氷河期の様に成り作物が取れなかった事も関係が有りました。
つまり纏めると…
戦国時代は、以下の様にして起き段々と西日本へと波及して行きました。
小氷河期で作物が取れず政治が乱れていた時に、足利幕府征夷大将軍4代目の足利義持公の急死で、くじ引きで将軍に成った足利義教への諸大名の不支持。それに因(よ)る鎌倉公方足利持氏と征夷大将軍の対立。
征夷大将軍と鎌倉公方をそれぞれ支持する大名同士の対立。
銀相場の下落が、貨幣価値の混乱を招き、庶民が土蔵(両替商や金貸し)を襲った❝嘉吉の土一揆❞や、応仁の乱の京都市街戦で関西中部中国地方の武士による京都の商人や寺院への略奪で、経済の疲弊した馬借(陸運の物流商人)や寺院と庶民が権利回復の為に連合して起こした❝山城国一揆❞等に繋がって行きます。
三浦家勢力 久良岐のよし
※地図上の城は大まかに有名な場所だけ表示。
そんな戦国時代に最も早く入り、領土争いを繰り広げたのが伊豆の伊勢家(後の北条氏)と、現在の伊勢原市~三浦半島辺りまで支配していた三浦家の抗争です。
この抗争の発端は、古河公方と今川家の外交戦略によって起きました。
今川家と今川家臣だった北条(当時の姓は伊勢)家は、永享の乱で室町幕府に滅ぼされた鎌倉府公方足利持氏公の遺児で古河公方と成り、今の埼玉県の久喜市栗橋に在った栗橋城や古河城に居た足利成氏公を支持していました。
永享の乱については以前、榎下城の紹介記事にも少し書いています。
※永享の御興味有る方は「ココ」←クリックして榎下城の記事を御覧下さい。
鎌倉公方足利持氏公は切腹させられたものの、遺児の成氏公は後に幕府の8代将軍足利義政公により承認され鎌倉公方に成りました。しかし、御父君を切腹に追い詰めた関東管領上杉家との対立は解消されず、その後、関東管領上杉家連合vs鎌倉(古河)公方足利成氏連合の大規模な戦争に発展します。
それが、❝江ノ島合戦❞です。
この戦いでは鎌倉公方郡に付いた関東諸大名の活躍で、上杉家連合軍は敗北します。
そして元は鎌倉公方派であった扇谷上杉家が、山内上杉家と再び対立する事と成り、扇谷上杉家は古河公方に近づき、今川家と伊勢(北条)家も古河公方を支持しています。
その事が伊勢家が、古河公方と対立する伊豆の堀越公方を責める大義名分と成りました。
しかし…
二つ両引き竹に雀紋
しかし後に、古河公方と山内上杉家が和睦してしまった事で、山内上杉家が支持していた堀越公方から伊豆を奪った伊勢家は、伊豆支配の大義名分が無くなりかねない事態に陥りました。
それまでは三浦家と伊勢家は共に山内上杉軍と戦う事も有る盟友だったのですが、対立せざるを得なくなった様です。
二つ両引き竹に雀紋三つ引き両紋
    VS
 三つ鱗紋
伊勢家は伊豆支配の正当性を主張する為(ため)に鎌倉幕府執権北条家の伊豆に残っていた一族に婿養子に入る形式をとり名跡を継ぐ事で、その支配の正当性を保ちました。
これが、切っ掛けで伊勢家は2代氏綱公より北条氏綱を名乗る事に成り、1509年に古河公方足利家の内紛、❝永正の乱❞が勃発した混乱の中で、今川家からも独立し単独で大名と成り、領土を相模国へと広げて行く事と成り、岡崎城を巡って三浦家と北条家が争って行く事と成りました。
そこで、もう一度、この時点での神奈川県内の各大名の支配する城を見てみましょう。
三浦家勢力 久良岐のよし
この頃、上杉家も伊勢原市や厚木市に拠点が点在し、三浦家の拠点も岡崎城まで保持しています。
しかし、岡崎城を巡る攻防は断続的に10年間続いた後、等々、北条家によって陥落させられて、三浦家は東の今の三浦半島の付け根に位置する逗子市に在った住吉城にまで後退します。
この岡崎城も又、断続的とは言え名将北条早雲公が攻略に10年を要した事から日本屈指の堅城だった事が窺(うかが)い知れます。
※以前書いた岡崎城の解説ブログ記事は「ココ」←クリック!
更に住吉城も落とされると、最後は新井城に追い詰められ、ここで日本最長の4年間も三浦家は包囲されたまま過酷な籠城戦を展開します。そして、その新井城の堅城ぶりと、鎌倉武士三浦家臣団の維持と強さを見せつけて滅ぶ事に成る訳です。

…ここまでで、新井城を巡る攻防が如何にして発生したか、歴史背景は御理解頂けたでしょうか?
では、次は新井城その物の構造について写真と伝承を交えて解説していきます。
新井城は、三浦半島の特殊な断崖と谷戸に何重にも囲まれた細長い自然地形に手を加えた堅城で、その谷間は並みの城の空堀では到底及びもつかない深さを誇っていました。
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今でこそ、御覧の様に浜辺に❝磯❞が見えていますが、これは大正時代に起きた関東大震災の際に三浦半島が最小でも50cm隆起した事で、戦国時代の海底が露(あら)わに成っているんですね。
…つまり、昔の三浦半島の地形は、入江の一部を除いては断崖雪壁の下は本当に上陸する余地も無い海だった訳です。
しかも
新井城址の主要部分は現在の油壷湾の所在地、京急油壷マリンパークや東京大学大学院理学系研究科付属臨海実験所(地震観測所)の在(あ)る半島一帯です。
荒井城主の佐原三浦家は平安時代~の関東流の築城術を受け継いでいます。
他地域では余り無いのですが、関東流の築城術では山の尾根の崖の両側を垂直に削り込み、通路幅の狭い城壁の様に加工してしまうので、この様な断崖絶壁上の起伏を削り、隘路(あいろ)に敵を誘い込み、或いは空堀で遮断し、断崖から敵を突き落としたり逃げ場の無い場所で弓矢を射掛けてハリネズミにし敵を殲滅する構造が幾重にも設けられていた訳です。
そして極め付けが、敵勢の侵入を防ぐ何重にも設置されていた断崖絶壁に掛かる引橋です。
引橋の位置は、現在に伝わる伝承と残存地形から十分把握出来ます。
三浦子供風土記
この資料は、三浦市教育委員会が編纂した❝三浦子供ふど記❞と言う本です。
三浦市の教育委員会は素晴らしいですね、土地を開発する際もちゃんと事前に調査をして建設会社に有利な嘘の報告をせず、先人へのリスペクトと地元の伝承を後世に伝える努力を為(な)さってる。
全く歴史のスペシャリストをメンバーに入れない史跡破壊容認が得意な金満土建屋のお友達、横浜市教育委員会とは大違いだ。
さて、この三浦の歴史を子供にも解る様に纏(まと)めた本の中に、新井城の構造に触れる伝承が沢山掲載されています。
先ずは、城の守りの要、大きな空堀状の渓谷の交通を遮断する❝引橋❞は数カ所有った事が解ります。
一番外側は現在も❝引橋❞の地名が残っています。丁度、その場所には現在❝引橋❞のバス停が有る辺りです。
そして、伝承の❝合戦場(江戸時代の城の三の丸の様な場所)❞の前に、伝承通り堀切状の地形が残っている事から、そこが❝内の引橋❞で有る事が解ります。
外側の引橋には、昔、人の良い老夫婦が住んでいて、北条家の偵察と気が付かずに、そのスパイに色々と新井城や三浦家の殿様の自慢をして話してしまったそうです。この老夫婦は、北条家が攻めてくると自分が話した相手が北条家のスパイだったと気が付いた様で、「三浦の殿様に申し訳ない事をした」と後悔して夫婦で自害してしまった悲しい伝承が残っています。
実は類似した伝承が扇谷上杉家の居城の一つだった藤沢市大庭城近くの船地蔵地区にも残っていて、やはり北条家のスパイが老婆に根掘り葉掘り、城の構造を聞き出したそうです。
…ですから悲しい御話しですが、引橋の老夫婦の伝承は実話でしょう。
どうも、生粋の相模国人の気質と言うのは老人程郷土愛が強く成り、又親切心が強くおしゃべりな様ですね。

では、引橋と新井城主要部分の位置関係を見てみましょう。
新井城周辺 久良岐のよし
小生が確認出来ただけでも、最低4カ所は大堀切と引橋の遺構と思われる地形が現地確認出来ました。
先ず、【引橋&堀切地形】と書いた場所が該当する地形です。
大外側、が(1)とした部分で、そこの辺りに戦国時代に老夫婦が茶屋を営んでいた様ですね。
段丘に登って来る渓谷が幾筋も、その(1)の地形に集まっていますので、現在のバス停の名称「引き橋」とも整合性が有ります。
ついで、❝内の引橋❞と呼ばれる場所が(4)と示した場所です。DSC_0187
この現在は遊歩道の入り口に成っている、元・東大の地震観測所の入り口の手前に、記載通り、内の引橋の堀切と思しき地形が在ります。
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ね?当時かなりの深さの空堀が穿ってあったのが現在も判断できる地形です。
反対側はこんな感じ…
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やはり、谷間です。この現在の道路は、後世埋め戻されたんでしょうね。
しかし、この2カ所以外、その手前にも道路として埋め立てられたと思(おぼ)しき両側が堀切状の地形が2箇所有りました。それが(2)(3)です。
又、不明瞭ながらも堀切と怪しい地形も他に幾つか有りました。。

話題は逸(そ)れますが、この本の堀切の老夫婦の伝承を紹介している❝三浦子供ふど記❞中で戦国時代三浦氏の祖先として解説されている佐原義連(さはらよしつら)公は源義経と源範頼兄弟による今の神戸に在った福原攻めの際に、有名な作戦❝鵯越の逆落とし❞を立案し提言した軍師だった事が伝わっています。因みに、この作戦を成功させた功績も源義経では多田源氏の多田行綱公の実績だと現代では解っています。
堀切の説明はココまでにして…
城址の訪問方法と景色の紹介をします。
城址を訪れる場合は最寄駅からバスか、車で行く事に成ります。
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この看板の通り、油壷マリンパークの駐車場が便利です。
小生は現在地と書かれた無料の駐車場を利用しました。
ここにバス停も有ります。
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便数が以上に少ないので、電車バスで行く人は気を付けた方が良いですね。
因みに、この場所には売店が在りまして…
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この売店「はっとり」さん。
この看板娘の御婆ちゃんが三浦家の事を非常に御詳しく、三浦道寸(どうすん)公と三浦義意(よしもと)公の御廟所の場所を聞こうと思って話しかけたら…
歴史オタクの小生が話す前に、御婆ちゃんの口から出るわ出るわ、三浦家関連の拠点の話や三浦家の殿様が何で最後まで抵抗したかの理由なんかが。
…三浦の人は今でも郷土愛が強いんだね~。
だから、ユネスコに世界無形文化遺産登録された❝チャッキラコ❞って御祭りも現在に残っていたりするんだろうね。
そして、なんだか引橋の伝承の老夫婦も、この御婆ちゃんみたいな感じの優しい人だったのかも知れませんね~。
※世界無形文化遺産の御祭り❝チャッキラコ❞に関しては「ココ」←クリック!

さて、御城の解説の続きです。
ぶっちゃけ、城址としては遺構は余り現存していません。
しかしながら、先に紹介した❝内の引橋❞から遊歩道に入ると、いくつかの遺構が見られます。
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この場所の奥の左側に民宿等の看板が有ります。
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ここを入って下さい。
ここに入ると、神奈川の景勝50選の油壷湾を望むポイントに行けるのですが、そこまで行く手前に東大の研究施設の門が有ります。
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確認するには油壷の半島と反対側に行かなければいけないのですが、伝承では、この東大の施設沿いの遊歩道下の岸壁の中腹に穴倉が有るそうです。
その穴が❝千駄矢倉(せんだやぐら)❞と言われており、兵糧が貯蔵されていた遺構だそうです。
岸壁に矢倉を組んで穴を改修して穴倉として利用したんですね。
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この崖下に穴倉が有るらしい…
三浦市教育委員会の解説によれば、一駄は米2俵だそうで、つまり千駄とは米2千俵を貯蔵した場所と言う意味に成る様です。

2千俵を石高に換算して見ましょう。
1石=米俵で2.5俵です。
ちなみにkgに換算すると、1石で❝150kg❞です。
そして荷物の単位の1駄とは、輸送に使う馬に乗せれる量の単位で、米俵で2俵。
千駄=2000俵の米俵
2000俵÷2.5=800石
つまり、補給路が立たれても800石の臨時食料が保管出来ていた訳です。
小生の様な歴史好事家(オタク)でもないと石高で言われてもパッとしないでしょう?
では石高を動員可能兵力に換算して考えてみましょう。
だいたい、1万石で雇用可能な兵力を元にして考えると一般的な定説では以下の様に成ります。
防衛時…1万石=500人前後
遠征時…1万石=300人前後
では、これを元に800石で、どれくらいの兵力を雇えるか計算してみましょう。
新井城の戦いは城主三浦家が防衛側です。ですから防衛側動員数の基準です。
1万石=500人 800石=1万石の8% 500人×0.08=40人…
40人とか少なッ!
…と思った人!別に、この蔵の中の米は全兵士を養う為(ため)じゃなくて、非常食兼、城主と城詰めの職員の常備食ですからね!
戦時下では、各部隊がそれぞれ兵糧を持参しています。

米の話が出た所で、「何で4年も籠城出来たの?」と疑問が湧くでしょう?
それはですね…
新井城の地形 久良岐のよし
新井城の所在地は、現在でも御金持ちのヨットハーバーが有る港湾に適した地形なんですね。
だから備蓄米が底を突いても、水軍を保有する協力者が居て外部から食料と弓矢を補給し続ければ、勝敗が着くまで何年間でも籠城が可能に成る訳です。
そして、この新井城址には昔から民家も有ったので、恐らく塩水じゃない飲み水に適した淡水が湧く井戸が有ったのでしょう。

では、この新井城の三浦家を支援する同盟関係に有り、尚且つ三浦半島周辺を自由に航行出来る水軍を持つ勢力はいるのでしょうか?
新井城と房総の位置関係 久良岐のよし
います。
二つ両引き二つ両引き紋
この足利家の家紋を持つ三浦家の同盟者が房総半島の岡本港を掌握しています。
その名も❝里見家❞ですね。
この里見家は現代で言う所の小説家に当たる江戸時代の❝曲亭馬琴❞が書いた❝南総里見八犬伝❞のモデルに成った家でもあります。この南総里見八犬伝はバブル時代に❝里見八犬伝❞として薬師丸ひろ子サンと真田広之サン主演で映画にも成っています。
里見八犬伝
う~ん…薬師丸ひろ子サンが若くて可愛い。
この里見家と三浦家は協力関係に有ったので、房総半島の穀倉地帯から絶える事無く兵糧が運び込まれた訳です。
因みに、この新井城の攻防が因縁と成り、その後、小田原を本拠地にする北条家と里見家は戦国時代が終結するまで対立する事に成りました。
さて、この新井城が長期籠城に耐える地形的政治的条件に合致していた事が、ここまでの説明で御理解頂けたでしょうか?

では防御施設その物の遺構の有無を見てみましょう。
ぶっちゃけ、土塁や空堀の遺構が現存するハズの東京大学の敷地は当然無許可で入れません。
しかし、曲輪の遺構と思しき盛り上がりのある地形は数カ所見て取れました。
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東京大学の敷地に入る裏口側は、堀底道を利用した?と思える地形でした。
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この空堀状の地形が現代に設けられた地形だとしても、両横の曲輪遺構と思しき台地状の地形はハッキリと残存していますね。
入らなくても、遠目にいくらか確認出来ます…入りたい。今度、東京大学に予(あらかじ)め連絡して許可を貰って見学させて貰おう。
三浦市の教育委員会は歴史の伝承に熱心なので、ちゃんと遊歩道には説明の看板が有ります。
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先に説明した関東大震災の事が書かれていますね。
この隆起した元海底の地形は、遊歩道から下の海岸に降りると見られます。
地形は【後編】で「神奈川の景勝50選油壷湾」と周辺の風景紹介として別記事に書きますね~。
他に丁寧にも説明が幾つも有ります。
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これは神奈川県民の中の歴史好きに有名な話。
油壷の地名の由来。
…実は、4年間の合戦中に戦死した兵士の死骸が現在の油壺湾に満ち満ちて、血油で丸で油の壺の様な風景に成ってしまったそうです。
防衛側も敵味方問わず戦死した将兵の遺骸を城内に置いておくと伝染病が蔓延してしまうので、当然放置できないので海に投げ入れて水葬したりしたんでしょうね。4年間も籠城戦をやれば結果的に、伝承通りに成ると思います。
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まぁ、そんな凄惨な攻防戦が行われた新井城址ですが、風光明媚で昭和には神奈川の景勝50選の一つに選ばれた場所なので、明治時代の文化人達からも愛された様です。
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さて、遊歩道を進むと二手に分かれますが…
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直進すると引橋の遺構の様な地形が有り、その先には狼煙台か何かに使えそうな地形が有ります。
この↓奥のこんもりした森ね。
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戦国時代当時は、この砂浜は海の底で、その森は小さな半島が堀切で断ち切られて離れ小島状の地形だった筈です。
新井城 狼煙台と思しき地形周辺 久良岐のよし
位置関係はこんな感じ。
まぁ、城址としての遺構は概ねこんな所でしょうか?
あと、一カ所、当時の退避用の船着き場と思しき地形が、三浦道寸公の御廟所近くに在りました。
位置は上の画像で確認して下さい。
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この京急油壷マリンパークのゲートを通らず、反対側の海岸に降りる遊歩道の先に在ります。
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この遊歩道を歩いて行くと、道寸公の御廟所の説明が有ります。
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この看板の先…
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ここが三浦家最後の当主、道寸公の御廟所なのですが、この地形も城塞の一部だった筈です。
この御廟所の右手が竪堀の様な地形で海まで下る斜面に成っています。
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この右の斜面。
当時は海面が今より高かった上に、大正時代の隆起で三浦半島は戦国時代より50cm隆起したので、その場所は昔は海に降りる斜面で、隠し船着き場かなんかだった様に思えます。
そして、この道寸公の御廟所が、正に、切腹の場所で有り、三浦道寸の跡継ぎだった猛将❝三浦荒次郎義意❞公の❝300人切り❞の活躍の場だと思います。
余談ですが、❝荒次郎❞と言う名前は平安時代から三浦家の次代の跡継ぎに成る人物が名乗る名前でした。
新井城で活躍した三浦義意公は、生粋の平氏の子孫の三浦家では無く、父の代に扇谷上杉家から三浦家に養子に入った人物でしたが、荒次郎を名乗っているので三浦家の伝統をちゃんと受け継いでいた様ですね。
実は、三浦義意公、刀や弓や槍では無く、木の棒に鉄板と突起を付けた棍棒状の武器で、最後の戦いで北条方の兵士300人を殴り殺した伝説が残っているんです。
この伝説も、普通に考えると嘘くさいのですが、この新井城の地形を利用すると可能に成る訳です…
つまり、敵兵が1人づつしか通行出来ない引橋や隘路の上で、長大な❝釘バット❞で殴り殺すのではなく❝海に叩き落とす❞戦術を取れば300人倒す事も現実的に成る訳です。
昭和世代には解ると思いますが、昔、❝風雲たけし城❞と言うバラエティー番組が有りましたよね?
風雲たけし城アドベンチャーゾーン 拝借画像
アレのリアル版ですよ。
細い道を落ちたら浅い安全な池じゃなくて…
30kgの甲冑や刀装備したまま海に落ちて溺れ死ぬ。
鉄の釘バットで殴打されても顔面や手や肩が骨折して悶絶する。
凄惨な風雲たけし城。
※風雲たけし城を知らない世代はYoutubeで検索して見て下さい。
…まぁ、バラエティーはさておき、義意公が何で一人で戦う様な無茶な事をしたのかも、現代に成っても地元にはちゃんと伝承していました。
その活躍を語るに当たり、最初の方で紹介した、御土産屋さんの御婆ちゃんの御話を紹介したいと思います。
その御婆ちゃんの新井城の戦いに関する御話はコンナ感じでした…

「三浦家の殿様が何で逃げずに最後まで残ったか解るかい?」
「三浦家の殿様は、女子供や罪の無い身分の低い家来を全員船で房総半島に逃がす為に最後まで残って戦ったんだよ」
「今でも、その時に殿様に逃がされた家来の子孫達が日本中から御墓参りに来るんだよ」
「7月11日に成るとね、命日だから、又御墓お掃除しなきゃね~。」

その、御婆ちゃんが掃除すると言っていたのが先程紹介した道寸公の御廟所と、義意公の御廟所です。
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義意公の御廟所は、冒頭で掲載したこの写真の場所の横です。
親子で少し離れた場所に在るんですね。
小生、この御婆ちゃんの話を聞いて、自分が文書を読んで予想した事と、地元に伝わる伝承が合致してビックリしました…
「切腹したり逃げずに一人で戦うような無茶な事をするからには、何かを守る為に戦う以外に無い!」
…小生はそう推測していました。
それが、御婆ちゃん達、三浦家所縁(ゆかり)の地元の人々にちゃんと伝承していて、❝戦争に成った責任の無い身分の低い家来や女子供を逃がす為に最後の決戦に挑んだ❞と解り、小生の推測が伝承で証明された訳です。
この話を聞いて、帰路、車を運転しながら泣きました。
「最後の一人が逃げるまで、僅かな近習(きんじゅう=近衛兵)と共に敵兵に挑み、守るべき人達が逃げ切ったのを見て敵に突撃し討死した」殿様の気持ちを考えるとスンゴイ泣けました。

そしてこうも思いました。
神奈川県には源義家公や源頼朝公、平良文公や鎌倉景正公や三浦義明公、太田道灌公や北条早雲公や北条氏康公、北条綱成公みたいな有名な武将も沢山いらっしゃったけれど…
この三浦荒次郎義意公の事も、それと同じ程、後世に伝えて行かなければいけない、そんな名将だなと。
必ず、横浜の間宮家や蒔田吉良家や宅間上杉家の殿様達の事と、この三浦義意公の事を小説や顕彰文に起こして世間の人に再認識して貰う手助けや、御祭りを企画運営して地域産業としても殿様の名前を借りて三浦の油壷地区の町起こしを企画して、伝統に成る様な殿様の名前と事績の伝承の伝え方を創生したい。
そう感じた訪問でした。

【後編】油壷の風景は「ココ」←クリック!

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!






  


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