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カテゴリ:城址・要塞・史跡・伝統文化 > 城址

JR新横浜駅は新幹線が通る交通の要所で、その直ぐ裏手が旧街道なのを知る人は今では多く有りません。その旧道の他に第三京浜道路と言う自動車専用道路が通り、近くの神奈川区三枚橋町は江戸だ時代まで三枚田と呼ばれた地域で、古代の“店屋”と言う古代大和朝廷の駅伝制(伝馬制とも言う)の馬を交換する情報伝達網の中継基地が置かれた重要な地域でした。
そんな重要な地域を抑える城がJR横浜線小机駅の直ぐ隣の“小机城”と新横浜駅裏に存在した篠原城でした。

篠原城については以前、別に記事にしているので御興味有る方は上のリンクをクリックして記事を御覧下さい♪

さて、今回紹介する小机城ですが・・・
image
小机城は現代では竹灯籠祭りが行われる風流な竹林の城址に成っています。この小机城と篠原城は鶴見川の水運を守る位置に築かれとても重要な役割を果たした城でした。
室町時代の初期に恐らく扇谷上杉家により築城され、東京の石神井公園の場所に在った石神井城城主の豊島家の一族が籠城し、関東を代表する名軍師の太田道灌公と攻防戦が行われた事でも歴史ファンには有名な御城です。
太田道灌公
・・・そして太田道灌公が内紛によって主君に暗殺されると扇谷上杉家が衰退し、そこに北条早雲こと伊勢盛時、改め入道(にゅうどう=出家する事)宗瑞(そうずい)公と跡継ぎの北条氏綱公が神奈川県東部まで侵攻して来て小机城は北条家の持ち城と成りました。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
この頃、明確な史料は現存しませんが所領や後の城主等を見ると状況的に初代の城主は北条早雲公の三男の北条幻庵公だった様です。
多摩川~鶴見川流域の城と神社仏閣 久良岐のよし
太田道灌公や北条早雲公の生きた戦国時代初期には経済は一部輸入した中国貨幣と日本で産出される金銀の粒、そして直接商品を交換する物々交換によって経済が成立していましたが、鶴見川を使った水運の流通経済網に置ける重要地点だったんですね。
その小机城や篠原城の先には現在の六角橋商店街が有りますが、その直ぐ近所の久応山寶秀寺は古代の大伴久応とも大伴黒主とも呼ばれた日本武尊の与力豪族の邸址で日本武尊が滞在した伝承も伝わっていたりします。
更に、直ぐその横には神大寺と言う江戸時代の人が“城址”と間違える程に巨大な寺院跡が存在したのですが、その御寺の址に陣地を置いて太田道灌公が休息した伝承が現在も一帯には伝わっており昔は道灌森と呼ばれ緑豊かな場所でしたが、現在では農地開拓と戦後の農地改良でスッカリ削平地にされて何も遺構は残っていません。
ただ、神話の弥生時代後半~古墳時代には既に超重要な交通の要所だった事は神話と店屋の地名の伝承から伝わっている訳です。
もっとも、神話時代の少し前の縄文時代には鶴見川は小机城の辺りまで海で考古学的には鶴見湾と呼ばれています。
亀甲山推定範囲と城址の位置 久良岐のよし
白い部分が縄文時代の鶴見湾と現代人に名付けられている海だった地域で、一帯は鎌倉時代初期に成っても古代海だった名残で湿地帯でした。
今では干拓され広大な平地と成り、小机城の近くには日韓共催サッカーワールドカップの決勝戦が行われた日産スタジアムも在ります。
交通の要所なので昔は湿地帯でしたが鎌倉時代には佐々木泰綱公が開拓を幕府に申請している事が記録に残っており、鎌倉幕府成立以前、源頼朝公による関東統治過程で重要な与力だった佐々木高綱公に一帯の土地が与えられていたりします。


だから別のブログ記事でも触れた鎌倉時代の佐々木高綱公の館址の鳥山八幡宮も在ったり…
2014-01-26-11-51-42

新横浜駅裏には篠原城と言う御城の在った大豆戸町と言う地域が在ったりします。

以前、に行われる小机城址竹灯籠祭りの紹介ブログでも少し触れた「小机城」と言う戦国時代のお城が在ったり城址だらけなんです。
これ↴は小机城現存部の復元縄張り図。

現在城址に在る看板は↓こちら。
看板を見て頂くと分かりやすいのですが、現在城址はJR横浜線と第三京浜高速道路に分断されています。
しかし!
複数の地権者の方々の郷土愛により現存部は守り抜かれ「非常に良好な状態で空堀や曲輪群が現存してる」んです!


その様子は本当に素晴らしいので、小机城の殿様の紹介を始める前に城址公園の写真を先に御覧頂こうと思います…


伝・本丸直下の空堀
この空堀、風化している現在でさえ高さ6m以上なので当時は堀底〜曲輪まで7〜8m、土塁を入れれば10m近い高低差が有ったはずです。


本丸に続く土橋


写真だと判り難いけど横堀と帯曲輪
小机城は素人でも土の城を理解出来る程に状態が良いのです。
石垣よりタチが悪く殺傷能力の高い、土を削りこんで作る関東流の城を一目瞭然理解出来ます。
石垣城はライフタイムが長いのですが、敵兵が登れてしまいます。
しかし
土塁と土の空堀の北条流の空堀は、戦時には堀底に大量の竹槍が設置され、更に水がブチまけれ壁面は泥と化し、屈強な武者や忍者も登れなくなります。
落ちれば竹槍に串刺しに成ってしまうんですね…。
怖い!痛い!エグい!


更に北条流の空堀を発展させたのが障子堀(しょうじぼり)と言う、その名前の通り和室の障子みたいに仕切りがついた空堀です。
DSC_2860

これ↑ね。
これは伊豆山中城の障子堀です。
山中城は横浜の戦国武将で名将北条綱成公の副将だった間宮康俊公が籠城し、豊臣の大軍80000を間宮勢200で迎撃した場所です。
豊臣方の大名を道連れにして豊臣軍死者3000の大損害を与えました。
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それぞれの凹みは深さが当時は2m以上で堀の底から5m位上に曲輪(くるわ)と呼ばれる防御陣地が障子堀の上に有り、更に曲輪の上に土塁と言う高さ2m位土壁が有りました。
ここの空堀は当時は関東ローム層の赤土剥き出しで戦時に水をブチまけ泥ドロにしてしまうと空堀に進入した敵は必ず穴に落ちます。
武者は総重量30kgの鎧兜や刀を装備しているので当然登れませんし、穴の狭さで逃げる事も出来ません。
その逃げる事が出来なく成っている敵を、防衛側は淡々(たんたん)と弓矢や鉄砲で射殺して行くんですね…。
北条流の空堀は凄く残虐で堅固な防御施設なんです。
関東の戦国時代の城が石垣城では無い理由は関東ローム層を活用した方が石垣を組むより“殺傷力の高い要塞”を作る事が出来たからなんですね。

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写真は戦国時代の小田原城遺構の“小峯の大堀切”です。風化した今でも深さ8m程度有りますが、当時は堀は更に深く曲輪に土塁が巡らされていて堀底から上まで10m超の深さが有りました。
更にこの様な大規模な空堀と水堀で小田原城は町ごと囲まれていて“総構(そうがま)え”と呼ばれ堅固で、豊臣軍20万は小田原城の北条軍3万に手も足も出ませんでした。
実はこの北条流の空堀を、小田原城攻めで苦戦した豊臣秀吉も模倣し大坂城の総堀に採用していたんですよ。


さて、この小机城、古くは関東一の名軍師で江戸城を築城した太田道灌公と豊島氏が1ヶ月に渡る攻防を繰り広げた舞台でもあるのですが…


小田原北条家の宿老で箱根の風魔忍者を管理した怪軍師北条幻庵公か御子息の北条時長公が城主を務めていたんです。


KOEIのゲームでは↑こんな頭デッカチに描かれてます(笑)。
この北条幻庵公は先程も話した通り、北条早雲公の三男で長生きしたので第三代小田原北条家の当主で名将名高い北条氏康公の時代に成っても活躍しており名軍師であり外交官としても歴史ファンには有名な方です。
文化人としても日本古来の神仏習合時代の伝統を守る宗教家としても教養高く当時から有名な方だったのですが、その教養の高さを示すのが衰退した室町幕府が本来行っていた武家としての儀式を鎌倉公方(くぼう=将軍)代を務めた蒔田(まいた)吉良家の吉良頼康公に北条家から姫が嫁(とつ)ぐ際に有職故実(ゆうそくこじつ=当時は失われかけていた武家の儀式)や人間関係の掌握方法や個々の人物毎での対応の仕方等を書付けアドバイスした“北条幻庵覚書”と言う古文書が今も残っており、室町時代の武士の生活を知る貴重な第一級資料として有名だったりします。
実は北条幻庵公は北条家の家臣団の中で最大の領地を有しており、“小田原衆所領役帳”とか“北条家所領役帳”とか色んな呼び方の有る古文書(小生は小田原所領役帳と言う名を採用している)によると合算して五千四百四拾弐貫百文の永代(子孫まで保証された)給与を貰っていました。
安土桃山時代の石高に換算すると1貫文=2石です。
北条幻庵公の所領=5442.1貫=10884.2石。これを収入にすると・・・
1石=米150㎏ 現代の米相場平均1㎏=400円前後。
10884.2石×150㎏×400円=年収653,052円(6億5千3百5万2千円)となります。
この1万石がどれ程凄い事かと言うと、初期の北条家が治めた相模国は1国で16万石しか有りませんでした。そして小田原所領役帳が編纂された1559年頃には武蔵国南部も支配地に組み込んでいましたが、武蔵国は1国で約67万石ざっくり半分で33.5万石です。
16万石+33.5万石=49万5千石が北条幻庵公や息子さんの北条時長公が城主だった当時の大凡(おおよそ)の北条家の総石高だと試算出来ます。
北条家も所領役帳に乗る幹部クラス社員や管理職社員だけでも、ここで書き込めない程大量の北条家の社員がいた訳ですが、そんな中で北条幻庵公の所領は実に広大だった事が解りますね。
では49.5万石の内の1万石もたった一人で領有してしまっている訳です。
現代の感覚では6億5千3百万の収入はカルロスゴーンさんが日産自動車の社長だった頃の年収に匹敵しますが、ただ、この1万石の収入で非正規の兵士も含めて戦時には兵士500人を集めないといけなかったので幹部でも決して豊かな状態とは言えないのが当時の武士でした。
しかし初期の北条家で所領以外にも本光院殿(所領役帳編纂時既に亡くなってる北条為昌公の戒名)衆の代理統率官を行っていたので、支配した勢力数は北条家中で相当な物が有りました。
この様に直臣では無くて本家の家臣を預かる武将を寄親(よりおや)と呼び、その部下に成る人を(寄子)と呼びますが、有名どころだけでも相当数の寄子が記録に残っています。
【小机衆】に関しては、本稿の最期の方で歴代城主と与力武将達の簡単な紹介を纏めて載せようと思います。きっと港北区や都筑区に住んでいる人は「おっ!」と思う地名が出てくると思います。
白備え隊の笠原信為公を小机城代として小机城近辺の武将で構成された軍団を率いた北条幻庵公は武人としても功績を挙げており、中でも河越合戦や国府台合戦での活躍が有名です。
河越夜戦布陣図 久良岐のよし作成

北条幻庵公は関東最強だった武将の北条綱成公と今の埼玉県川越市に在った河越城に援軍に赴き河越城主の大道寺盛昌公と合計3000の兵士と共に籠城します…
敵兵80,000を率いる関東管領上杉家と古河公方との合戦で半年間も防衛に成功した上、大逆転勝利に導いた名軍師でした。
8万対3千と絶望的な戦力差ですね。
・・・こんな兵力差の敵兵に囲まれて、小田原の主君北条氏康公との連携を可能にしたのが彼が管轄した「風魔忍者」とその首領「風魔小太郎」の存在でしょう。


KOEIでは↑こんな感じに描かれてる風魔の小太郎。
彼等忍者がいたからこそ、外部との連絡が取れ、また謀略に長けた北条幻庵公だからこそ軍略に長けた北条綱成公と共に河越への後詰(ごづ)めを任されたんでしょうね。
さて、いくら北条幻庵公が謀略に長けていても統率者として優れた副官がいないと軍は統制出来ません。
この小机城、実は平時は笠原信為と言う武将が城代を務めていたのですが…
実はこの笠原信為公も優れた武将で文化人でした。
戦国時代の北条家には五色備えと言う5色に色分けされた5つの主力部隊が存在しました。
その内、"白備え"を率いたのが北条幻庵公で、老齢の幻庵公の代官を務めていたのが城代の笠原信為公だったんですね。
更に里見家と正木家による鎌倉市街地と鶴岡八幡宮への乱入、掠奪、放火、破壊で鎌倉が壊滅した鶴岡八幡宮合戦の復興を統括し、北条家の敵対勢力である上杉家の協力まで取付け鶴岡八幡宮再建を成功させています。

この事業では同じく横浜の蒔田城主吉良頼康公や笹下城主間宮康俊公も活躍しています。
笠原信為公は血筋も由緒ある家系で、古代、律令制以前に存在した相武国(さがむこく:埼玉県東京都神奈川県全域を合わせた行政区域)を治めた相武国造(さがむのくにのみやつこ)の子孫に当たる方なんですが、武士として教養も高く和歌の名人として有名だったそうです。
彼は1557年没なので、丁度、河越合戦で白備えを指揮したのは彼だったはずです。
この信為公と小机城を顕彰する祭りが毎年春に行われています。
小机城址祭り
…と言うお祭りです。
白じゃないじゃん!赤じゃんか!
…なんて無粋なツッコミはしないだけてくだせぇな。
何せ、地域振興のボランティアだから皆。


横浜市港北区長が信為公に扮し、地域住民の方々が扮する白備え部隊を率いパレードや小机城にていくつかの演出もあります。
屋台も沢山出るので家族連れも楽しめるイベントです。
冒頭で触れた今月の竹灯籠祭りと合わせてオススメのレクリエーションです。
イベント抜きにしても、小机城は歴史好きな方にはオススメの場所です。
JR小机駅から徒歩10分もかからないので竹林に覆われた城址公園の遊歩道で、是非、一度お散歩されてみてはいかがでしょうか?
御祭りの様子を崩壊した過去記事へのリンクを以下に掲載して置きます。
※以下のタイトルをクリックすると記事へリンクします。



さて、最後に小机城の歴代城主と小田原所領役帳に掲載される白備え隊小机衆の主だった武将達を紹介して記事を〆たいと思います。

【歴代城主】
●北条 長綱公・・・入道号:幻庵宗哲。
本光院殿(玉縄城主北条為昌)没後にその家臣団も預かる。北条家の宿老で軍師。箱根権現(現:箱根神社)の別当を務め、彼の所領の傍には風魔忍者の屋敷が有った伝承が有る事から風魔忍者を統括していた事が読み取れる。先述の通り、河越夜戦で白備え隊を率いて黄備え隊大将北条綱成公と黄備え隊副将間宮康俊公等と古河公方ー上杉連合軍8万の大軍を城兵3千で半年間の防衛に成功し、更に国府台合戦でも活躍した文武両道を地で行く武将だった。
●北条 時長公(幻庵公実子)・・・戒名:宝泉寺大年用公。
早世したので城主としての事績は詳(つまび)らかでは無い。
所領役帳には“三郎殿”と記されている人物。近年になり実名が時長と判明したが城主としての在任期間は短命の為に短かった。“新編相模風土記稿 足柄下郡の風祭村(小田原城下の東海道から箱根への入口) ”に在る宝泉寺の“開基北条時長”と書かれた文書の存在や、永禄三年(1560年)07月20日が命日と判明している事、同年に北条氏尭公が小机城主の座を継承している事の整合性から宝泉寺が菩提寺の北条時長公が三郎殿だと推定されている。
※風魔忍者の根拠地が風祭で箱根の山を熟知した集団と言われている。
●北条 氏尭公・・・北条氏綱公の四男で北条幻庵公の甥に当たる。
永禄三年(1560)年に小机城址と成る前は平井城主だった。平井城は上杉謙信が相続した山内上杉家の本拠地だった事もある重要な城だった。武蔵国の防衛で活躍し、上杉謙信の関東侵略に際して河越城に援軍に赴き撃退に成功している武勇の持ち主だった。
伊達家との外交でも活躍していた事が古文書の存在によって明らかに成っている。
●北条 氏光公・・・北条氏康公の八男と言われるが確定されてはいない。
北条幻庵公の姫が正室(せいしつ=本妻)。元々は戸倉城主だった。
織田家の中部地方支配が本能寺の変で崩壊すると、羽柴秀吉の了解を得て甲府を制圧した徳川家康公が武田家最後の居城だた新府城(山梨県韮崎市)へ入城する。武田家と縁戚だった北条家も織田領へ侵攻し旧武田領を切り取り始める。新府の徳川家康公を挟撃殲滅するべく北条家第五代当主の北条氏直公の大軍は新府の北の若神子城(山梨県北杜市)に大軍着陣し徳川軍を引きつけ、別動隊として北条氏光公の小机衆と北条氏勝公の玉縄衆が富士山の東側を回り甲斐と駿河国境側から御坂城(標高1600m山梨県笛吹市)へ兵10000で着陣し挟撃の機会を伺った。しかし小山城(笛吹市)を兵3000で守備していた鳥居元忠公が北条家の動きを察知しており、統率者が若い小机衆と玉縄衆は急峻な山を下り黒駒の狭隘な谷間で鳥居元忠公の急襲を受け壊滅、殿軍(しんがり)を務めたと思われる玉縄衆の付家老である間宮家を継承していた間宮康信公が討ち死にする等大損害を受けた。
尚、間宮康信公は当時、父の間宮康俊公の跡を継ぎ笹下城(横浜市港南区)の城主に就いていたと思われるが武田信玄の存命中に駿河東部で当時の寄親である玉縄城主北条綱成公が深沢城(静岡県御殿場市)の守備も兼務したいた時代に、間宮康信公が率いる黄備え隊の分隊は武田軍を駆逐して追撃壊滅させる大活躍をしています。
代替わりした大将が実力不足だと河越城防衛で活躍した白備え隊も黄備え隊も軍団の実力を発揮出来なかった様です。
【歴代城代】
●笠原 信為公・・・官途は越前守。北条五色備え:白備え隊軍団長。小机城城代。大曾根城主。
鶴岡八幡宮再建では総奉行を務めた。北条為昌公の烏帽子親。詩歌に精通した風流な武将だった。
小机城近くに曹洞宗の父の菩提寺として雲松院を開いた。大倉山の龍松院の前身とされる文殊堂を開いたのもこの人物かと推測出来る。
●笠原 康勝公・・・官途は能登守。小机城代。大曾根城主。笠原信為公の実子。
弘治三年(1557年)に笠原信為公が没し菩提寺の神大寺に葬られると軍団と城代を継承した。大倉山に龍松院を開いた人物とされるが父の代に開かれた文殊堂を本格的に寺院化した人物と思われる。

【小机衆寄子】
●笠原 弥十郎・・・領地は足柄上郡開成町岡野と静岡県田方郡修善寺町田代。
姓と出身地から推察するに笠原信為公の親類だろう。しかし諱(元服後の名前)は不明。
豊臣秀吉の小田原城攻めの際に豊臣軍に内通した松田憲秀の子、笠原政晴が継いだのはこの弥十郎の家系と思われる笠原綱信の跡目だと近年の研究で判明している。
●金子 十郎 ・・・官途は出雲守。篠原代官(横浜市港北区東部を統治)、篠原城代。
●小野 与三郎・・・八朔代官(横浜市緑区北部~青葉区南部を統治)。
●陰山 又六 ・・・本郷代官(横浜市港北区小机町~都筑区南東部~緑区東部を統治)。
●遠藤 兵部丞・・・猿山代官(横浜市緑区中部を統治)。
●神田 次郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。領地は静岡県三島市内旧字名が長溝と平塚市土屋辺り。
●曽根 外記 ・・・領地は横浜市都筑区東部とセンター北駅周辺と川崎市中原区宮之内辺り。
●座間 弥三郎・・・茅ヶ崎城(都筑区茅ヶ崎)城代?官途は豊後守。領地は横浜市都筑区茅ヶ崎。
●猿渡 内匠助・・・佐江戸城(都筑区佐江戸)代?領地は横浜市都筑区佐江戸町。
●中田 加賀守・・・矢上城(慶應大学日吉キャンパス)城主、井田城城主?吏僚。
領地は川崎市幸区鹿嶋田~中原区大倉町一帯と中原区下小田中一帯の他、保土ヶ谷区中央西部~旭区東部一帯、横浜市港北区北東部~川崎市西北部一帯。
下総国印旛郡臼井城主の千葉家分流臼居家に姫を嫁がせる程の家格を有した武将。元は太田康資公の家臣だったので祖先は太田道灌公の代以前からの太田家臣だったのだろう。太田康資公の北条家謀反後に北条直臣に成り、小机衆を経て北条家臣化した蒔田吉良家の与力と成った様だ。
●二宮 播磨 ・・・領地は埼玉県狭山市青柳周辺。吏僚。
恐らく延喜式内社相模国二之宮の川勾神社宮司家一族。小机城から程近い浄土宗の中本山格を有す小机町~緑区東本郷の区境に存在する泉谷寺を北条氏綱公と供に開いたとされる二ノ宮織部丞の子か?
二宮金次郎尊徳公の祖先の同族とも推測出来る。又、二宮家には間宮家から養子が入っているので間宮林蔵や杉田玄白とも祖先が同族である可能性が有る。
●市野 助太郎・・・領地は茅ヶ崎市赤羽周辺。市野四郎の近親か?
●市野 四郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。市野助太郎の近親か?領地は助太郎と同じ域内。
●市野 弥次郎・・・領地は港北区日吉本町。
●田中 伊蔵 ・・・領地は川崎市麻生区万福寺(新百合ヶ丘駅周辺一帯)。
●福田    ・・・領地は都筑区大熊町。
●高田 玄蕃助・・・領地は川崎市宮前区中部~西部一帯。

他にも小机衆は沢山居て切りが有りませんが主だった人達は又おいおい追記しようとおもいます。
どうですか?小机城と小机城に関わった人々、皆さんの地元が関わりの有る武将も多かったんじゃないでしょうか?
又、こんな感じで北条家の各軍団と皆さんの地元の御縁を紹介して行けたら良いなぁ~と思います。

では!、又この記事の小机衆の名簿更新と新しい別の記事で御会いしましょう!
mixiチェック

九品山 唯在念佛院 淨眞寺
奥沢城址の紅葉名所
(吉良家重臣大平家居城)

【景観】★★★★★
 寺院建築&紅葉の美しさ堪らん!
【電車】 
 九品仏駅 ・・・徒歩03分
 自由が丘駅・・・徒歩10分
【  車  】★★
 駐車場40台前後。
 ※オンシーズン入庫待ち必至。
【休憩】★★
 境内には自動販売機程度。
 駅周辺にレストラン多数。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 戦国期の奥沢城を寺院化した庭園◎ 
 寺院建築+紅葉のコラボが素敵💛◎
 住宅街なのに境内広く紅葉が多い◎
 九品仏再建の特別御朱印有り◎
 自由が丘駅近くレストランが多い◎
注意するpoint(•ω•)       
 紅葉シーズン駐車場メチャ待つ。
 三脚立てて止まるなよ。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
淨眞寺(浄真寺)の広い境内庭園と寺院建築に紅葉する樹木の景色がとにかく美しい。
現在、九品仏再建に際して特別な金の台紙の御朱印を拝受する事も出来る。
駅から徒歩直ぐで交通面でも優れており、紅葉の名所として東京都民には昔から有名。
御寺としての歴史は江戸時代に始まった。
【偉人】
世田谷城主吉良成高公、吉良氏朝公、奥沢城主大平家歴代当主、徳川家綱公。
世田谷区の寺社や横浜市南区蒔田城下の勝國寺の檀家氏子と周辺には今でも喜多見(北見)、大場、佐々木、上保、並木、森、杉田の姓の旧吉良家臣団の御子孫が多く残る。
※歴史解説長いので写真の後ろに書きます。
【見所】
とにかく何処を切り取っても綺麗な寺院建築と豊富な紅葉の景色。
現在に注意して観察すると戦国時代の防御壁の土塁に取り囲まれていたり、淨眞寺北側が奥沢城の外郭の形のまま道路化していたりする。
【名物】
すんごく綺麗な九品仏再建の納経で拝受出来る金色の御朱印。
【交通】
自由が丘駅からも九品仏駅からも徒歩10分以内と非常に便が良い。
駐車場は40台前後しか停めれないのでオンシーズンは入庫待ち必至、公共交通機関の方が圧倒的に便が良い。
【周辺
自由が丘駅が近いので周辺に小洒落(こじゃれ)たレストランが多く、電車での来訪なら飲食店に寄る楽しみも有る。世田谷区のもう一つの紅葉の名所、豪徳寺も車なら20分と近いので合わせて見物しても良いかも知れない。
【関連記事】
  
 ——東門~閻魔堂~開山堂周辺——
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——紫雲楼(山門)周辺——
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——奥沢城遺構土塁——
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—下品堂~上品堂~中品堂—
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——本堂周辺——
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——御朱印——
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【歴史】
延宝六年(1678年)、徳川家綱公の統治下で江戸幕府より奥沢の庄屋七左衛門が寺地として江戸時代以後廃城に成っていた戦国時代の城郭、奥沢城廃城を拝領し淨眞寺が開かれた。
淨眞寺として寺院化された奥沢城は戦国時代に江戸城を最初に近世城郭化した築城と野戦の名人で戦国時代の関東最強の無敗の軍師、太田道灌公の親友として記録に残る蒔田吉良成高(まいたきらしげたか)公の家老、大平家の居城だった。
蒔田吉良家は室町幕府将軍の足利一族で、今川家とも同族。
大平家の主君、吉良成高公の頃は淨眞寺と同じ紅葉の名所の豪徳寺=世田谷城を居城としていた。
太田道灌公が江戸城を空にした際に敵軍が来襲した際に吉良成高公が援軍に駆け付け道灌公に代わり防衛戦の指揮を執(と)り、撃退した事を万里集句と言う二人の共通の親友だった臨済宗の文化人高僧が日記に書いていたりする。
蒔田吉良家は戦国時代に吉良頼康公が横浜市南区蒔田城を本拠地にし、室町幕府足利家の鎌倉公方が空位の期間に公方代理を務めた事から当時の居城の名前をとり蒔田吉良家と呼ばれ、忠臣蔵で有名な同族の吉良上野介の三河吉良家とは呼び方を分けられている。
豊臣秀吉の小田原攻めの際に最後の蒔田吉良家当主に代わり軍勢を率いて伊豆下田城を守備する名将、清水康英公の援軍に駆け付ける等の記録が有り大平家の歴代当主は武勇に優れた家柄だった事が解る。
淨眞寺の前身となった奥沢城主大平家が下田城の援軍に駆け付けた当時、蒔田吉良家は同族の今川家から婿養子に入った吉良氏朝公の統治下で吉良家の本拠地を再度、家老の大平家はじめ家臣団の本拠に近い世田谷城に戻していた。
東京都無形文化財に指定されている‟ボロ市”は吉良家の庇護者である小田原城主北条氏政公から御隠居の吉良頼康公が許可を得て始めた‟楽市楽座”が始まりだったりする。
氏朝公の時代には天皇を軽視する将軍足利義昭が織田信長公の諫言を無視し戦を度々起こして京都から追放され足利幕府は滅び、吉良家の足利血族ブランドの優位性も無効に成り北条家の従属大名から北条直属の家臣化が進み、豊臣秀吉の小田原攻めの後、江戸時代に蒔田吉良家臣団は解体され大平家は等々力で庄屋に成り、蒔田吉良家は房総半島で小規模の旗本として辛うじて存続するのみに成った。
同じ家臣団の喜多見家は大名化に成功するが事件を起こして解易され、北海道の大名松前家家臣として存続し明治に北海道北見を開拓した。

紅葉を見ながら淨眞寺の歴史を辿(たど)ると江戸時代には帰農し庄屋に成っていた世田谷の室町時代の武士団が、そもそも鎌倉時代足利義兼公の時代からの武士団で格式の高い家柄だった事にも触れる事が出来る。
紅葉の名所一覧へ⤵
 
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豪徳寺と世田谷八幡宮
徳川四天王井伊家の豪徳寺
(世田谷城址)

世田谷八幡宮
(鎌倉将軍代理吉良家の守り神)
【世田谷八幡宮】
【景観】★★★★
 紅葉と寺院仏塔の景観凄い。
【電車】★★★ 
 東急世田谷線宮の坂駅~
 ~徒歩5分
 小田急小田原線豪徳寺駅~
 ~徒歩8分
【  車  】
 豪徳寺境内に10台程度。
 世田谷八幡宮に10台程度。
【休憩】
 周辺に数件レストラン有り。
 豪徳寺境内に自販機有り。
 世田谷八幡宮近くにタコ焼き屋。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 紅葉と仏塔や御堂のコラボが綺麗◎
 ❝招き猫❞発祥の御寺だよ

 大名井伊家の菩提寺で建物凄い◎
 豪徳寺は戦国時代の世田谷城址◎
 八幡宮は江戸三大相撲の内の1つ◎
注意するpoint(•ω•)       
 駐車場少ないし解り難いよ!
 住宅街だから運転注意!
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
豪徳寺の三重の塔がコラボした風景がとても美しい御寺。
この御寺は招き猫発祥地でもあり紅葉を楽しめるだけでなく招福祈願の寺院としても有名。
近年ではNHK大河ドラマ“女城主直虎”の人気で観光客も増えている。都心から近いのに京都や鎌倉の様に美しい紅葉の景色が撮影出来るので外国人観光客にも人気。
世田谷城鎮守の世田谷八幡宮は源義家公が開き、戦国時代に足利幕府鎌倉将軍の代理を勤めた吉良頼康公によって復興されたと伝わる由緒ある八幡宮な上に、江戸時代に徳川家康公に支援されると現在の大相撲興行の元に成った江戸三大大相撲の内の一つの開催地に成った。
【偉人】
源義家公、蒔田吉良成高公、吉良頼康公、吉良氏朝公、井伊直孝公、井伊直弼公等。
歴史も由緒正しく、戦国時代には鎌倉公方の代理も務めた蒔田吉良家最期の本拠地として機能した世田谷城址の持仏堂から大寺院化した御寺で、更に江戸時代初期に成ると徳川四天王の井伊直政公の跡継ぎ、彦根藩第二代藩主の井伊直孝公によって井伊家菩提寺に定められた。
井伊直弼公は横浜(東海道神奈川宿)の開港を決めた人物で近代日本発展の門を開いた人物だが、桜田門の変で攘夷派志士達に江戸城桜田門外で邸宅への帰路に暗殺された人物。
豪徳寺境内には井伊直孝公以来、歴代当主と奥方様達の立派な御廟所が現存し、参拝客に一般公開されている。大出世した井伊家の殿様達を御参りし御線香上げたら立身出世の御利益有るかも♪
【名物】
招き猫
井伊直孝公と当時の御住職の逸話の中で、井伊直孝公を御寺に招き入れた猫チャンが招き猫の由来に成った。
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彦根城の‟ゆるキャラ”の‟ひこにゃん”は招き猫が井伊家の殿様の兜を被(かぶ)ったデザインに成っている。豪徳寺の寺務所では現在も招き猫の置物や御守りを販売しており、参拝者は購入する事が出来ます。御朱印も拝受出来ます。
【交通】
駐車場は台数少なく直ぐに満車に成る上に周辺に駐車場が無い住宅街なので電車での訪問が良い。
電車での交通の便は非常に良い。
【周辺】
戦国時代は世田谷城と言う御城だったので、近くには世田谷城址公園として一部空堀と土塁が保存されている。
世田谷城址公園と豪徳寺と世田谷八幡宮は徒歩直ぐの距離なので歴史好きなら全部廻(まわ)りたい所。
隣町はサザエさん一家の住む桜新町だったりする。
——豪徳寺境内の紅葉——
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——招き猫の招福殿——
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——世田谷八幡宮——
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一昨日の夜にブログ更新するはずだったのにすみませぇ~ん!
最近、色んな町の学芸員サンが資料準備して色々と城址について解説して下さる機会を頂いたり、自分も違う事で急用で資料作って郵送したり他にも色々(昔の初代プレステ引っ張り出してファイヤープロレスリングGやったりwww)していて記事更新遅れました!

今回、本当はこの記事⤵
これ⤴の続きの後編で深沢城を紹介するつもりだったのですが、現地学芸員の方が資料を下さったり発掘の状況を口頭でも解説して下さったのと、地主の御爺ちゃん2人からも農地として重機を入れて地形を変えてしまう以前の話や御爺ちゃんが子供の頃の城址の話をしてくれたので、休日雑記とは別に‟深沢城”として独立記事にする事にしました。
休日雑記の後編は改めて書きます。

さて・・・
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深沢城跡
皆さんは御殿場市に深沢城と言う名城が存在した事を御存知ですか?
城郭ファンや戦国時代ファンには有名な城でマニアック度を5段階で評価するなら交通の不便さや知名度から言ってLV4位の比較的上級者向けの城跡と言っても良いかと思います。

実はこの御城、堅城と知られ物凄い武将の間で攻防戦が行われた場所だったりします。
先ず一人目、御城を作ったのは今川氏親公。この方は日本史で誰もが習う分国法の‟今川仮名目録”を制定した内政に秀でた名将でした。
内田対馬守家感状 久良岐のよし
北条早雲公~北条氏綱公の時代、川崎駅辺り~横浜市沿岸部の寄親(軍団長)だった間宮信親=間宮信冬公に恐らく名の一字を下賜(かし:目下に報償を与える事)したと思われる殿様が今川氏親公でもあります。
間宮家は佐々木氏で間宮の苗字は伊豆の国市間宮(馬宮)を領有した時に名乗り始めたので、今川家臣化し北条早雲公の与力に成って以後の時代、北条家二代目の北条氏綱公の時代の武将が間宮信親公と言う事も解ったりします。つまり小田原城主北条家が誕生し、相模国最大の国人だった間宮一族が武蔵国南部制圧時代に活躍し、後に沿岸部の間宮軍団や内陸部の太田軍団が解体されて小机衆や玉縄衆が編成されていってる変遷も何となぁ~く見えてきたりします。
小生は個人的な推測では、間宮信親=間宮信冬=間宮彦四郎=海老名市・磯子区東部~港南区北部~南部・神奈川区富屋~斎藤分町・鶴見区末吉~川崎市川崎区の領主と同一人物だろうと考えています。
この間宮家の旧主の氏親公の母方の‟舅(おじ)”が、後に間宮家の主君と成る北条早雲の通称で有名な伊勢盛時‟宗瑞”公でした。
新九郎奔(はし)る!
漫画の‟新九郎奔(はし)る!”で主人公に成っているのが北条早雲公です。
新九郎奔(はし)るは平成初期に大ヒットした漫画‟機動警察パトレイバー”の作者、ゆうきまさみ先生により現在ビックコミックスピリッツで連載中です

パトレイバーは数年前に真野恵里菜サン主演で実写化されたりもしていますので、20~30代くらいなら結構知っている人もいるかも知れませんが現役大学生位に成ってくると知らない方も多いかも知れませんね。
新九郎奔(はし)るの主人公、北条早雲こと伊勢盛時公の肖像画は実際はコンナ感じです・・・
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
・・・この北条早雲公が今川氏親公の‟舅(おじ)”な訳ですが、先程から小生が舅(しゅうと)の字を小生が舅(おじ)と読み仮名を振っている事にツッコミ入れようとしたアナタの為に、ちょっと深沢城から話を逸(そ)らして舅の漢字の意味を解説させて貰います。
実は舅の字は現代日本語の‟夫の父”と言うのは大間違いで、本来の漢字の意味では‟母方のオジサン”を意味する字です。
儒教由来の中国文化の漢字なので華語文化圏の表記が正しいのですが、何で日本の現代国語学者が字を誤植し夫の父を舅を‟しゅうと”と読ませてしまっているか誰も間違いに疑問を感じず既成事実化してしまっているだけなんです。
中国語の家族の呼び方
画像掲載元→http://chugokugo-script.net/kiso/kazoku.html
現代中国語の漢字を旧血縁の漢字に変換してみましょう。

現代中国口語     →漢語        →日本語

妈妈(マーマ)   →母親(ムーチン)  →母/母親

爸爸(バーバ)   →父親(フゥチン)  →父/父親

舅舅(ジィウジィウ)→舅父(ジィウフゥ) →叔父※誤植
※母の兄弟

舅母(ジィウムゥ) →舅母(ジィウムゥ) →叔母※誤植
※母の兄弟の妻

老爷(ラオイエ)  →外祖父(ワイズーフ)→祖父(母方)
※母方祖父

姥姥(ラオラオ)  →外祖母(ワイズーム)→祖母(母方)
※母方祖母

姑姑(グーグー)  →姑母(グームー)  →叔母※誤植
※父方叔母

姑丈(グージャン) →姑丈(グージャン) →叔父※誤植
※父方叔母の夫

・・・まぁこんな感じで全然現代の日本語に誤植されている漢字の意味は本来の漢字の意味は異なっていて、更に父方の叔父も父より年長か年下かで漢字が異なってきます。
漢字の血縁の話に脱線しましたが漢字の意味的には北条早雲公は深沢城を築城した今川氏親公の舅(おじ)だったって話だけです(笑)。
さて、そんな訳で名将今川氏親公と、その家臣だった伊勢宗瑞(北条早雲)公の甥とオジチャンがコンビだった時代に築かれたのが御殿場の深沢城だった訳です。
この深沢城、何で今川→北条→武田→徳川→廃城と強豪大名達によって争奪戦が繰ひげられたのでしょうか?
深沢城は現代では御殿場市に存在しますが、これは縄文~平安時代以前から存続する神社と遺跡と道を重ね合わせると一目瞭然に理解できます。
先ずは深沢城と古社と縄文時代~弥生時代の海岸線をGoogleEarthで重ね合わせて見ましょう。
古代の街道と深沢城
※画面をクリックして拡大して見て下さい。
この通り海岸線が現在の位置に近づいた古墳時代に創建された伝承のある平塚八幡宮と前鳥神社を除いて古代の海岸線の湾の最深部や半島の付け根と先端に存在し、内陸部が古代の矢倉沢往還や中原街道の通過点に存在している事が解ります。
実は現在の東海道は江戸時代に再整備された道の近くに作り直された道なのですが、平安時代以前の主要街道は海沿いの古代東海道と内陸の矢倉沢往還の2本でした。
矢倉沢往還は・・・
御殿場市の山側北部を通過する矢倉沢関所を通過し足柄郡から国道246に合流する道で足柄峠~足柄関~寒田神社~比々多神社~五社神社~杉山神社~橘樹神社と続き悉(ことごと)く国府や郡衙(市役所みたいなの)と延喜式内社の近所を経由する街道です。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
古東海道は・・・
綾瀬市五社神社辺りで矢倉沢往還と分岐~神崎遺跡~藤沢市宇都母知神社~大庭神社~村岡城~鎌倉市御成町(推定郡衙)~逗子市岩殿寺~桜山古墳(蘆花記念公園)~葉山町下山口~神武寺~上山口~横須賀市走水神社~房総半島富津市の文字通り東の海沿いの尾根道と海を船で越える海路で、悉く平安時代以前から存在する倭建命(やまとたけるのみこと)神話や弥生時代~古墳の重要な遺跡の残る地域の神社を通過します。中世に成ると古代の尾根道から山麓の平地に人の流れが変わり道が開かれ、山上の古道は修験者の山岳聖地巡礼の順路に成った様です。
その古道の‟矢倉沢往還”の起点と古東海道からの敵軍の小田原城防衛ラインの前線が深沢城と山中城だったんです。
近くの小山町は古代駅伝制の横走関=店屋(てんや=兵站)と考えらている上横山遺跡も有り深沢城は重要な街道を防衛する城でした。
小田原城防衛網
そしてこの足柄峠の古東海道と箱根の中世東海道を守る城が深沢城の後ろにも幾つか存在し、戦国時代の大名北条家の本拠地‟小田原城防衛網”を形成していました。
深沢城の北西の甲斐国には北条家と敵対する武田家がいました。
武田菱
  武田VS北条
   三つ鱗紋
深沢城を攻略されると一番ショートカットで小田原城を襲撃されてしまう訳です。
武田信玄
この肖像画は風林火山で有名な武田信玄ですが、特に武田信玄は・・・
「疾き事風の如く」
「侵略する事火の如く」
・・・のキャッチフレーズの通り侵略戦争をする際は用意周到に街道整備をする等、毎回必ず最短ルートで速攻するのが得意な名将である反面、他の地域の農民から見て武田信玄は攻め込んだ先では当時の価値観でも激しい凄惨な略奪や放火をしてまわる苛烈な悪の武将でもありました。
北条や今川から見ると武田軍が甲斐国都留郡経由で小田原城や今川館(駿府城)に攻めてくる可能性が高く、深沢城は特に重視された訳です。
KIMG0519
この写真は戦国時代、城として機能していた時代に根小屋(ねこや)と呼ばれた兵士や武将達の詰所(兵舎)が置かれていたと考えられている場所から城跡の主郭を見上げた写真です。
KIMG0526
今回は城址の構造は触れず、この城に関する資料の文書等を紹介しますが、ここまでで地理的に深沢城が重視されていた歴史は御理解頂けたでしょうか?
では本当にここは、戦争が起きるような場所だったの?と思う人が小生の海の景色の紹介記事等から読者に成って下さった歴史に余り関心が無かった人に証拠の文書を紹介したいと思います。

禁制
右當手之軍勢甲乙人等濫妨(乱暴)狼藉堅令停止早若違犯之輩有之者速可処罪科猶寺中門前共ニ
自今以後於竹木等も不可剪者也仍如件
奉之
江雪
壬(永禄十二年:1569年)五月十六日 宝持院
内容を簡単に今の会話に翻訳するとコンナ感じです・・・
右(禁制=禁止命令)は、ウチ(北条)の軍勢甲乙(みんな)に「乱暴な事しちゃイケねぇ~よ!」ってキツク命令する。
もし(禁止命令を)守らね~奴がいたら、ソッコーでシバクかんな。
それと寺の中も門の外も、今から(寺の土地で)竹も木も伐採するんじゃねぇ~ぞ!
まぁ、そんな感じだからよ。
江雪より~
1569年05月16日 宝持院(へ💛)
・・・この文書に登場する‟江雪”は板部岡江雪斎と言う北条家重臣で、以前大河ドラマ‟真田丸”にも登場した人物ですね。
そして文末に登場する宝持院と言うのは深沢城の近くに今も存続している寺院です。
更に宝持院の近く大雲院には安土桃山時代に徳川家が城を復興した頃の城門を移築され今も当時の門が御寺の山門として現存しています。
この文章は御寺の人が深沢城に駐留する北条軍に乱暴されない様に、北条家の殿様が御寺に配慮して、和尚さんが北条軍の司令官宛てに「ウチは北条家の殿様に守って貰える確約ありますよ!」って見せれる財産安全の保障の証拠として重臣の板部岡江雪斎サンに書かせた物です。
この時に駐留した軍勢は横浜市と鎌倉市の兵隊で、率いていたのは玉縄衆大将、北条綱成(ほうじょうつなしげ)公です。
北条綱成
この人⤴※KOEI信長の野望画像
この綱成公の率いる玉縄衆は異名が黄備え隊で、軍旗が朽葉色で統一された軍隊でした。
朽葉色ってのは9月中旬が見頃の黄花秋桜(キバナコスモス)の色ですね。
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この花⤴が黄花秋桜。因(ちな)みに、この写真は北条綱成公が建てた鎌倉市の龍寶寺の綱成公の御墓の前に咲いている黄花秋桜の写真です。
 これ⤴以前書いた北条綱成公の紹介記事ですが、ブログ書き始めたばかりの頃に書いたので内容が薄っぺらく何の参考にも成らないかと思います。
黄備えの副将は横浜市磯子区~港南区にまたがる笹下城主の間宮康俊公と間宮康信公の親子でした。
これ⤴以前に間宮家を紹介した記事。
実はこの書状で北条の殿様の代理で板部岡江雪斎サンが1569年5月に宝持院に対して近い将来大軍勢が来て駐留する事を見越して御寺に安全保証する文書を書いているのは翌月6月に武田家が深沢城に攻めて来たので事前に危機を察知して防衛強化を始めた時期だった事が解ったりします。
そして、ちょっと長いですけど、もう1通こんな文書が残っています・・・
急度(きっと)令啓候、仍(=なお)信甲之人衆、今十六、駿州之内號(号)深澤新地寄來(来)候、左衛門大夫(北条綱成)、松田(松田憲秀)以下楯籠(=立てこもり)候間、不可有別條候、伹(※誤字→但)只今之時分出張爲(為)如何(いかが)子細(しさい)候哉、何篇二も、今明行之様子見届、重而可及註進(注進)候、然而、始小幡動衆之由申候間、新太郎(北条氏邦)申付、向西上州及行候、哀其父子一人有出陣、万端(ばんたん=何でも)新太郎被相談ニ付而者、動可爲思儘(まま)候、若(もし)横合(よこあい=邪魔する)有之者、可然人衆數(数)多可有加勢候、必々(必ず×2)有遲(遅)々者、不可有曲候、如何様ニも、廿(二十)日廿一日之間ニ御動専一候、委細新太郎可申候、恐々謹言<br />追而越國(越後国)へも及飛脚候間、相心得被申入、任入候、以上
  六月十六日 氏政(北条氏政)
    由良信濃守(由良成繁)殿
・・・これ、1569年当時の北条家の当主の北条氏政公が傘下の小大名の由良成繁(なりしげ)公に送った手紙なんですが、この時攻めて来た武田信玄によって深沢城は落城します。
この差出人が北条氏政公の手紙を要約すると・・・
武田信玄KOEI
武田信玄⤴️※KOEI信長の野望画像
「長野県と山梨県の武田軍が攻めて来ちゃった!」
「ヘルプ!」
「ダメ、援軍遅刻、絶対!」
「同盟者の上杉謙信(この人)⤵にも緊急拡散して!」
上杉謙信KOEI
上杉謙信公⤴️※KOEI信長の野望画像
・・・と由良サンに対して書いているのですが、氏政公自身が2万の大軍の本隊を率いて大遅刻したせいで武田軍の2万に深沢城は取り囲まれたまま籠城不可能な状態に追い込まれ敗戦しました。
良くいるでしょ・・・
「遅刻するなよ!」
「30分前出社!」
・・・とか言いながら自分がルーズな経営者(笑)。
小生はこの北条氏政公は思考パターンと行動が適応障害者だったと推測してるんです。
変な拘りに完璧主義過ぎて毎回、十分に軍勢が揃って自分が安全に戦える状況に成らないと援軍行かないせいで肝心な合戦で何回も敗戦し北条家が勢力伸長に失敗する事に成るんですよ。
コレ⤴とかね。
玉縄衆は善戦し北条綱成公と間宮家はかなり粘ったのですが、武田信玄配下の鉱山衆によって破壊工作が行われ俗説には水の手(給水施設)を破壊されて籠城不能に成ったと言われています。
小生は個人的に玉縄衆だけでなく、裏切るマン松田憲秀親子が一緒に籠城していたので松田が撤退を主張したんじゃないかなぁ~?とか思っていたりします。
実際に当時、北条家の同盟者だった上杉謙信公は上州方面から武田家にプレッシャーかけるか直接援軍を送るつもりだったらしくコンナ事を言っています・・・
上杉謙信KOEI
KOEIのゲームの上杉謙信公⤴
肖像画の上杉謙信公⤵
上杉謙信
上杉謙信「(自分にも勝った)地黄八幡(北条綱成)が負けたちゃったYo~!」
実は上杉謙信公、北条綱成公の息子さんの北条康成公が3千で守る鎌倉市JR大船駅近くの玉縄城を15万の大軍で攻めたのに攻め落とせず撤退したり、まだ北条家と武田家が同盟者だった時代に長野の上田城に援軍に来た北条綱成公や千葉県方面の戦争で玉縄衆に結構苦戦させられてる歴史が有るんですね。
・・・なので上杉謙信公ですら北条綱成公が負けると思ってなかったらしいですね。
なんせ上杉謙信公が上杉家を継ぐ前の話ですが、河越城の攻防では北条綱成公達は3千だけで8万の上杉軍相手に半年間も籠城に成功した挙句・・・
北条氏康
綱成公の義理のお兄ちゃん⤵⤴北条氏康公
北条氏康公
・・・綱成公は小田原から当時の主君で義兄弟の北条氏康公の本隊8千を迎えて合計1万1千で上杉軍8万夜襲して挟み撃ちにしてギッタンギッタンにして壊滅させてる名将なんですね。
なので小生は深沢城の敗戦原因をずっと・・・
「(裏切気質の)松田憲秀が撤退主張したやろ(怒)!」
・・・と思ってました(笑)。
実は今回、定説の水の手云々(うんぬん)の話しと異なる可能性を知る事が出来ました。
御殿場市の学芸員サンと地元の地主さんへの取材で小生が本丸跡と推定している二の丸の空堀で焼けて炭化した米が発掘調査で見つかっているんですね。
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※クリックして拡大して見て下さい。
この縄張り図で真ん中の‟二ノ丸”と書いてある場所と上の‟本丸”と書いてある場所の間、左側にクビレてる空堀ですが、そこから炭化した米が調査でも発掘されているし、仲良くなった地主の御爺ちゃんも子供の頃にそこを「掘ると焼けた米が出て来たんだよ」って教えてくれたんですね。
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この2号堀て辺りだそうです。
2号堀の上側が小生は三の丸だと思ってるけど、地元では本丸と呼ばれている場所。
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その城櫓(しろやぐら)辺りは‟二ノ丸”と呼ばれている場所で、下の縄張り図のⅠ郭(本丸)とⅡ郭(二ノ丸:小生はⅡ郭が本丸だと思う)の間の②の空堀の本丸側。
仲良くなった地元のオッチャンの話では田んぼにする前の地形では棚田3段分くらい約3mくらい今より高い地形で城の地形の中で最高所だったそう。
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‟Ⅱ郭”が縄張り的にも小生はこの辺りが本丸だったろうと思ってます。
ここからは写真で見る限り八王子城の御主殿(城主屋敷)と酷似した構造物も見つかってます。
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完全にここ二ノ丸が政庁であり城代の屋敷だったと個人的には考えています。
下に見えてるのが根小屋と呼ばれていた地形なので兵舎の並ぶ区域だったんだろうと思う。
で、焼けた米が出土する訳ですが、小生は実際は武田家の鉱山衆は水の手を切って落城させたんじゃなくて、二ノ丸の下の根小屋側・・・
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ここの‟水の手の根小屋側”から武田家の鉱山部隊が弓矢の届く範囲まで仕寄り(塹壕)を作りながら攻城陣地を築いて来て、火矢や火薬で二ノ丸食料庫を放火し北条軍の戦闘を継続不能にしたんじゃないかと新しい説を考えました。
この焼けた米の話を学芸員サンに聞くより早く、地主のオッチャンに教えて貰った際に・・・
小生「こんにちわ~」
・・・って声掛けたら未だ何にも言ってないのに・・・
オッチャン「横浜から来たの?」・
・・って聞いてきてビックリ!何で分かったんだろう?と思いながら・・・
小生「そうだよ横浜から来たよ~」
・・・って言ったら珍しい奴だなって喜んでくれて、オッチャンが子供の頃の土塁とか地形を削って農地にする前の話を沢山聞かせてくれて「又遊びにおいでね~、ここにいるから!」って言ってくれて嬉しかったんだ。
凄い偶然だけどオッチャンのムスメさんが小生の家の近所の港南台高島屋で働いてたそうだ。
KIMG0548
で、この写真の左側辺りが焼けた米の出た空堀だったかな?
後から学芸員サンにも凄く丁寧に教えて頂く事が出来ました。
実はこの深沢城ちゃんと(笑)火災に遭っている記録が有るのですが、それは北条家と武田家の合戦の時ではなく、織田信長公と徳川家康公の連合軍が武田領に一斉に攻め込んだ際に深沢城代だった武田家臣の駒井昌直が自ら放火して城を放棄した記録だけが残っています。しかし小生が思うに未だ徳川軍に攻め込まれてない時間的に余裕の有る状況で撤退する際に兵糧と金銭を焼き捨てるとは考え難いので、炭化した米は北条家と武田家の戦闘で焼け、更に武田家臣駒井が城を放棄した際に建物が焼かれ、徳川家が安土桃山時代に改修し再利用後、再度放棄され廃城に成った一連の土木事業の中で細かい時代考証が出来ない状況に成ったんじゃないかな?と個人的には感じました。

さて、城の構造の説明が入口からではなく、状況説明のついでに成ってしまったので見学コース沿いに紹介して見ます。
CIMG0064
入口がここ。
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現在地の場所ですね。
この看板の裏にも三ノ丸の三日月堀と表記されている空堀が有ります。
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少し解り難いでしょうか?
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御城行くのが好きな人は良く解ると思うのですが、城址公園化されてない空堀って写真じゃ伝わり難(にく)いんですよ。
その看板の横側から農道兼散策路に成っていて、入って直ぐに空堀が見えます。
CIMG0066
これは比較的状態が良い。
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ここは‟丸馬出し”と呼ばれる半月状の出撃口の遺構です。
本来、我々城郭ファンはこの丸馬出しの空堀の事を三日月掘りと言います。
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その馬出しの削平地には石碑が立っています。
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昔は東名高速道路が無かったから深沢城の前の足柄峠を通過する際に観光で立ち寄る人もいたのかも知れませんね。
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その下の空堀。
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二ノ丸の手前、‟下馬溜め”と言われている構造体の空堀が雑木林化してるが現存。
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ここは小机城の構造に似た構造が有るけど、変形の食い違い虎口(敵の侵入を制限し迎撃する構造体)だと思う。
下は小机城の現存部分の縄張り図。
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これの②の構造に深沢城現存部の‟下馬溜め”は似てる。
KIMG0540
下馬溜めの空堀だけど写真じゃやっぱり訳が解らないね。
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下馬溜めから二ノ丸に繋がる武者走り&空堀&土塁
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そして二ノ丸入口。
更に奥に本丸。
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本丸に続く土橋。両脇は空堀。
KIMG0552
本丸側の城櫓とされる削る前は場内最高所だった郭。
下に根小屋地形が見える。確かに小机城の根小屋とも酷似する。
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本丸は今では風に靡く稲波美しい。
地主のオッチャン、色々と親切に教えてくれてありがとうね!
色々と発掘調査資料を提供して下さった御殿場市教育委員会様、ありがとうございました。
御殿場の皆さんはとても温かったです♪

さて、深沢城この様に結構空堀は立派に残っています。もし御殿場方面に行く機会が有って本当に御城が好きな人は立ち寄る価値が有ると思います。

きっと皆さんの御近所の神社や御寺や公園の山も、元々は御城だった場所が有ると思います。
気分転換したい時にちょっと御近所の神社や御寺や城山を歩いて看板を読んでみませんか?
きっと皆さんと歴史偉人を繋ぐタイムマシーンみたいに感じ自分の町を更に好きに成るかも知れませよ~?

・・・では、次は前回の休日雑記の続きか銭湯の記事で御会いしましょう~♪
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胴網海岸&横堀海岸
古代の風待ち港小網代湾(こあじろわん)
知る人ぞ知る新井城址の2つの隠しビーチ
【横堀海岸】
【水質】
 胴網海岸★★★★
 横堀海岸★★★★
【景色】
 胴網海岸★★★★
 横堀海岸★★★
【電車】 
 両方とも三崎口駅~バス20分、
 油壺マリンパーク降車
 胴網海岸・・・徒歩10分
 横堀海岸・・・徒歩05分
【  車  】
 公共油壺駐車場
 マリンパーク駐車場
【休憩】
 周辺に宿泊施設多数。
 観潮荘に日帰り温泉有り。
 胴網海岸
 予約制の手ぶらBBQ施設有り。
 施設利用者トイレシャワー使用可。
 横堀海岸
 食事と飲酒出来る飲食店併設。
 施設利用者トイレシャワー使用可。
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 両方とも知る人ぞ知る隠れビーチ◎
 小さいけれど砂浜と磯が有るよ◎
 胴網は予約制の手ぶらBBQ有り◎
 横堀は常設の飲食店あるよ◎
 両方とも城跡の一部で歴史が凄い◎
 胴網海岸は海からの城門地形だよ!
 横堀は御城の堀切状空堀跡だよ!
※3つの海岸が近くにあるから混雑
 しても空いてる場所を選べるよ◎

☞注意するpoint(•ω•)       
※コロナ禍中は三密対策に不向き。
 隠れビーチだけにキャパ少ない。
※城跡だけに超判り難い場所だよ。
 初訪問で行くのにGoogleMapの
 ナビ機能使うと迷わない。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
胴網海岸・横堀海岸は両方とも地元の三浦市民でも若い世代には知らない人も多い知る人ぞ知る穴場の文字通り隠れた場所に在(あ)る海岸。
両方とも砂浜と岩礁の磯が有り、二つの海遊びが出来る。
近くにヨットハーバーが有るのでヨットの⊿三角形のマストが海を走って行く優雅な景色を眺めながら飲食したり、物凄く夏らしい事が出来る。
又、胴網海岸には“Step camp base”と言う予約制の手ぶらBBQ施設が有り便利で利用客は建物内のシャワーと更衣室も利用させてもらえる。
横堀海岸にも常設の飲食店“みなと屋”が在り、海を眺めながら居酒屋の様にリラックス出来る。こちらも利用客は飲食店内のシャワー室を借りる事が出来る。
ただし穴場なだけに海岸としては小さく、行く前に混雑状況を上記の御店に確認した方が良い。
胴網、横堀に加えてすぐ近く徒歩圏内に荒井浜も在り3つの海岸が近在している。
もし目的地の一つが混雑していても3箇所とも海水浴場の過去実績が有るので移動しても安心して遊べるので、各海岸に有る飲食店に当日や前日に混雑状況を聞く事で混雑回避して空いてる場所に移動も出来る。
※狭いだけに2020年は三密に要注意
油壺や小網代の混雑時には車での来訪なら30分以内で行ける距離に大浦、三戸浜、和田長浜の海水浴場も存在するので混雑していた場合の訪問先変更の選択肢が多いのも、この油壺や小網代地域の利点。
歴史的な解説をすると、この一帯全て城跡だったりする。
この胴網海岸と横堀海岸は名前から何となく解かる人もいると思うが、実は新井城と言う平安武士~戦国大名化した三浦氏の拠点で日本最長、4年弱の籠城期間を誇った名城の一部だった。
ここに拠点が置かれた理由は古代から三浦半島新井城址の小網代(こあじろ)湾、平塚市側の相模川河口の須賀港、伊豆半島熱海市の網代港の3港が船の係留に適した地形で風力と海流を利用して船足を高め輸送力と出来た地点だったので、平安時代から戦国時代にかけて海運拠点として栄え重視されていたので水軍基地としても発展した歴史が有る。
平安時代以前、縄文や弥生時代にも当然ながら海上交通の要所だったようで、この航路を利用し伊豆諸島から“黒曜石”が輸送され交易に使われていた。
この石⤵️
黒曜石はオニキスみたいに綺麗な石だけど強度がガラス位で加工しやすく金属器が無い時代に刃物に加工された。
戦国時代には伊豆大島の染物は特産品として重宝された事もあり新井城主の三浦家が北条氏綱公に伊豆大島を奪われるまで代官を置き支配し、小網代湾から須賀、網代、伊豆大島を船が行き交っていた。
江戸城を築いた太田道灌公も主家の居城、伊勢原市の大城郭糟屋館に赴く際この海路を利用していた事が菩提寺の胴昌院にも伝わっている。
戦国時代の三浦家の最重要拠点だった新井城址の横堀海岸は文字通り城の主郭(しゅかく:本丸)へと続く道の地面を削って空堀にして侵入路を断ち切り、行軍可能な人数を制限する真横に半島を断ち切る堀切の空堀に由来する地名。
ー横堀海岸入口が“堀切”状空堀名残りー
CIMG0809
新井城の岬を分断する構造体なので、横堀海岸由来の空堀跡は道の反対側にも続きが現存する。
DSC_0186
つまり戦国時代には、横堀海岸入口~道の反対を空堀がブチ抜いて掘られていて、戦時に撤去出来る引橋がかけられるか土橋が削り残された城外から城内主要部に侵入する外側の最終関門だった事が解る。
ー胴網海岸の“食違い虎口”地形ー
CIMG0806
胴網海岸は小網代湾側の城に直接登城する船着き場だった様で、砂浜から居住区域だった丘の上に続く山裾が削り取られ城壁化された切岸に成っており、道が人工的に鋭角にL字型に九十九折(つづらおり)にされており、侵入する敵を常に正面と側面から弓矢や鉄砲で十字砲火攻撃し防衛する“食違虎口(くいちがいこぐち)”構造に成っていたりする。
ちなみに三浦義意公の時代にまだ鉄砲は武士に普及してないので、防衛の主力兵器は弓矢だった。
ー胴網海岸上の名将道寸公の御廟横の“竪堀”地形ー
KIMG9662
三浦道寸公の御廟の横の谷も人工の竪堀が残り、胴網の食い違い虎口から敵が山腹をよじ登り真っ直ぐ丘上の曲輪群に侵入出来ない様にしてある。

こうして“城”として現地を見ると一見、古戦場で「怖そうだ」と歴史を知らない人は思いがちだが、実はここは最後の城主の三浦義意公と奥さんの真里谷(まりやつ)武田家の姫の御夫妻の縁結びで有名な地域なのでデートやBBQ合コンで来たら良縁に恵まれる事で、縁結び祈願の女性に周辺の神社仏閣と合わせてマリンパーク一帯は有名だったりする。
周辺には京急の運営する観潮荘と言う日帰り温泉施設も備えたホテルも有る。
観潮荘の他にも周辺一帯に料理の美味しい民宿やペンションが多数有るので、滞在費用を抑えて数日間三浦で夏を満喫するのも良いかも知れない。
ー胴網海岸ー
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ー横堀海岸ー
CIMG0810
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穴場海岸の紹介一覧へ⤵
人工的に地形を切り出した戦う為の戦国時代の御城に興味ある人は・・・
コレ見て見てくだされや~⤵
これも初心者にわかりやすいサイト⤵ 
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平安末期以来の武士金子家と岡本家が守っていた要害化された“観音山”と言う山が横浜市にありました。
Google mapに簡単な解説投稿しました。
御興味ある方は御覧下さい⤵️
現代では近くの横浜横須賀道路建設の影響か地図から山の名前も行政によって消されてしまっています。
戦国時代の岡本家と金子家の主流は北条家臣として北条所領役帳にも登場します。
岡本家は綾瀬市辺りを治め、金子家は鎌倉時代には青梅市を治め戦国時代には北条家臣化し新横浜駅近くの篠原城の城代を務めました。
磯子区域の両家分家は1560年頃には笹下城主間宮与力となり、磯子区の岡本家は江戸時代には分家し徳川直参旗本に成った氷取沢間宮家の宿老となり江戸在住の氷取沢間宮の殿様に代わって氷取沢陣屋を守り続けました。
氷取沢陣屋の跡が氷取沢神社の旧境内地です。
岡本家は直系の他にも能見台辺りを治めた野本家から婿入りした家が有り、それぞれに屋号が今も残ります。
屋敷家、藤左衛門家、酒屋家、星山家、前家等です。
其々の由来を推測すると面白いですね。
屋敷家は陣屋を守っていたのでしょう。
藤左衛門家の左衛門は官職名由来で、左衛門は間宮家が付家老として仕えた上官、北条綱成公の左衛門督に由来する官職です。
間宮家は豊前守(ぶぜんのかみ)と左衛門尉(さえもんのじょう)を代々名乗っていました。
氷取沢市民の森は今では鳥の囀ずり美しい緑地に山城地形のふんだんに残る遊歩道です。
過去に間宮家や岡本家や金子家や氷取沢周辺磯子区の関連記事を幾つか書いています。
以下にリンクを貼るので御興味有る方は御覧下さい。











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春秋戦国時代の中国常州市の御城
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淹城(YanCheng)


位置的には古代“呉”の首都姑蘇城(蘇州市)から車なら2時間半の距離。 「城市(まち)」型の御城ではなく中国では珍しい迎撃用の「城堡(城塞)」型の御城。
城堡と言うのは戦闘目的の施設で、一般的な中国の城壁に囲まれた都市とは違う。
面白い事に日本の江戸時代初期の武将達が設計した戦う為の近世城郭と似てる。
この中国の戦国時代の淹城は古代中国の御城なのに武田家臣団を取り込んで以降の徳川家臣団築城の外郭縄張りの特徴に酷似してて面白い。同じ様に戦いを大前提にすると、平地に築城する縄張りは似て来るモノなのかもしれない。
武田家は孫子に熱心だった様だが、常州市を含む“呉”には孫子こと孫武仕えていたのは有名な話しなので、春秋戦国時代の呉の御城と徳川家臣団の御城が似ているのは、ひょっとしたら偶然ではなくて必然なのかな?
今でも呉の首都だった蘇州市は呉王闔閭の古墳である虎丘に市街地からの参道になる山塘街の入口近く閶門近くの商業地区の中に孫子の顕彰碑が立っていたりする。

訪問時の写真がフィルムしかないのでアップロード出来ないけれど。

常州市の名物は直系5cm位の丸い麩にギッシリ挽肉をつめて醤油味で煮込んだ肉団子“獅子頭”。
あと漢代の旧区分で“揚州(現代は揚州市は別に有るよ)”に区分されるこの地域は、インディカ米、御茶、羊、ザリガニ、大閘蟹(上海蟹)の産地だったりする。豚足も有名。
淹城の近くの“大鍋台”と言う御店で特産品の獅子頭、羊、ザリガニ等の郷土料理を食べる事が出来る。
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御店主は日本留学経験があり日本語の話せる人だったので、事前に連絡とれたら中国語話せなくても平気そう。
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姥家大鍋台
でも、その連絡とるのが中国語か(笑)。
まぁ~常州の周りには劉備や孫権に関わり深い鎮江や南京、蘇州に上海なんて町も有るから周辺都市と合わせると江蘇省旅行は本当に楽しい。
おすすめです。
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前回の記事⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説②
・・・保福禅寺の解説。

・・・コレ⤴の続き。

前回の記事では中田家の菩提寺の一つで、中田加賀守の墳墓跡の直下に在る保福禅寺を紹介しました。
今回の記事ではいよいよ❝慶応大学敷地内❞と❝保福禅寺❞が慶応大学に貸している一之谷一帯に残る矢上城址=谷上城址の遺構を写真と古地図と色別立体図とGoogleMapの四段構えで解説して行きたいと思います。
小生は中田家の菩提寺の保福禅寺の山号が谷上山である事、矢上城跡の慶応大学が谷に囲まれた台地に存在する事から本来の城名は谷上城だったと推測し、以後、矢上城ではなく谷上城の名で紹介します。
先ずおさらいですが現在の城址周辺の航空写真です。
矢上城址 日吉駅 久良岐のよし
これでも御城が好きな人は「あ~食違いの大堀切が有るな~」とか「竪堀が有るな~」とか、結構見て取れます。でも余り御城の地形に詳しく無くて自然地形と見分けが付かない人の方が多いと思いますので、どんな地形が自然地形化を確認する所から始めましょう。
日吉周辺の地形 久良岐のよし
ボンヤリとした場所がザックリとした地形、矢上城址に関わる部分は詳細な地形を国土地理院の色別標高図から拝借し切り貼りして繋げてGoogleearthに表示してみました。
これを見ると良く解りますが、矢上城址は周辺の大河川が各時代に複雑に流路を変えて削られた地形である事、そして恐らく古代には矢上城址の慶応大学日吉キャンパスと矢上キャンパスの間の保福禅寺の存在する谷間には矢上川が流れていた時代が有った事が地形から解ります。
平らな部分は縄文時代には海だった部分で、弥生時代には隆起したり土砂の堆積で湿地帯に成り漸(ようや)く人が往来出来る様に成り始めた場所で、まぁ~人が住むには古墳時代位まで不向きな場所だった様で日本神話の日本武尊(ヤマトタケル)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)伝説のある近郷の川崎市高津区橘樹神社辺りまで西暦200年前後まだ海水の入って来る湾があった事が伝わっていたりします。
実は明治時代の迅速測図では更にハッキリ地質や地形が読み取れたりします。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
この地図は国土交通省国土地理院の電子国土賞と言うサイトで公開されている明治時代の迅速測図を転載したものです。
御覧の通り、本来は古い地盤である丘陵には水田は全く有りませんが谷間には水田が広がります。
実は一般的に南関東は平野部でも稲作には適していません。それは富士山が噴火する度に火山灰をまき散らして田圃(たんぼ)を作るのに適さない関東ローム層と言う地質が露出しているからです。そして台地上に用水路を引っ張る技術は当時まだ小田原城下にしか普及しておらず、江戸市街地の用水網に引く水が60km先の奥多摩地方、東京都羽村市に取水関が作られサイフォンの原理を用いて整備されるのは江戸時代に成ってからの話しです。その羽村市の取水関から水を引く用水道網のモデルは実は戦国時代に矢上城主だった中田加賀守の主君、小田原城主の北条家が既に確立していて小田原用水として日本史上初の飲用水道が戦国時代に整備されていました。
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小田原用水
※住所クリックすると位置が地図で確認できます。
小田原市と箱根山系の間を流れる早川から取水して小田原市街に引いた戦国時代の用水網は今も現地に残っていたりします。まぁ、実は小田原城の城下町も元々は古代に海だった場所な上に、谷上城より更に海岸から近いので井戸を掘ると海水が出てしまい飲み水を確保するのが困難だったので、戦国時代に既にあの狭い城下町で3万人の人口を維持する為に飲用用水路が必要に迫られて発展し北条家のインフラ整備技術が他大名家よりも頭一つ抜けて発展し水道網整備に至った訳ですね。
でも谷上城は多摩川と矢上川と鶴見川を利用した流通網を押さえ、渡河地点と今の綱島街道等の陸路を防衛にかかる要所で防御に適した地形を優先して築城された所謂(いわゆる)城堡(じょうほ)とか城砦(じょうさい)と位置づけする町を守るより道を守る城だったので用水網の整備も必要が無く、普段は中田家の殿様達も平地の谷地形、つまり保福禅寺~慶応大学の一之谷~蝮谷に谷戸(やと=谷の入口に城門を築いて守りを固めた居住区)に住んでいた様(よう)です。
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
しかし御覧の通り谷上城は多摩川、矢上川、早淵川、鶴見川の氾濫原(洪水の被害に遭いやすい場所)の山崎=つまり内陸の川に挟まれた半島状の丘地形に存在しているので海水の影響を受けるよりも淡水の河川流域地下水で飲用に適した水質の井戸を掘ったり、大河川の氾濫で出来た比較的新しい肥沃な地質の恩恵で水田耕作地帯として開墾する事が可能だったようです。
逆に言えば繰り返しに成りますが、湿地帯で人が住むには余り向かず、日吉の台地の丘の上も飲み水の確保が困難だったので明治時代まで人が余り住んでいなかった事が解かります。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
もう一度、谷上城だった慶応大学周辺の地勢を明治時代の迅速測図見て見ると解かりますが、明治時代にも人は住んでいなかったので江戸時代にも開発が入らずに近代も畑地にしかならず慶応大学が出来るまで山の山林として谷上城址が綺麗に保存され、第二次世界大戦の頃に横須賀鎮守府の海軍司令部が日吉の台地の地下に基地を作り台地上に軍人サンの宿舎や軍人サン達を相手にして商店街が形成されて行き現代に成って人が住む住宅街として開発されて来た事も読み取れます。
この人が長い間住めなかった城砦の丘は関東ローム層・・・
この関東ローム層が石垣を必要としない南関東独自の土を削り出し石垣よりも防衛堅固な城郭築城技術を生み出した地層でした。
そんな訳で、この平地部分には泥岩の層と砂岩が重なっていてとっても水捌けが悪かった事から戦国時代に成っても湿地が広がっていました。迅速測図でも関東平野なのに畑地ではなく水田が広がっている事が確認できますね。
そんな訳で、地質と地形の説明が完了したので、ここから小生の推測する矢上城域と遺構残存部を見比べて見ましょう。
色別立体図に小生色分けした茶色の部分が一目瞭然、大空堀の人工地形です。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
日吉Googlemap 久良岐のよし
GoogleMapの衛星写真と見比べると位置関係が良く解りますね。
恐らく守りの薄い比較的なだらかな丘陵の続く日吉駅の西側は矢上城の主要な防御施設は❝1つ❞だけしか無かったと思います。それが上の小生が色別立体図に書き込んだ一番左側の大空堀ですね。現代では日吉本町1丁目公園~日吉本町三丁目第二公園にかけて住宅街の道路に成っている谷地形が人工地形なのは色別立体図でもハッキリ解かりますが、これが現代の道路開削では無く、既に江戸時代にも存在したことが明治に成って直後の色別立体図でも解ります。
下の図のを見て下さい。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
このの大空堀が西の端の丘を断ち切り尾根伝いに敵が侵入出来なくする堀切りと呼ばれる空堀です。
「これ空堀なの?」
・・・と城に興味ない人は思うでしょうが、これは小田原北条家臣団と扇谷上杉家の南関東の城に多く見られる構造体です。現代では日吉の宅地化で真っ先に削られた場所なので比較的なだらかに成ってしまっていますが、地形のレントゲンと言うべき色別立体図と江戸期の地形を残した迅速測図の二つが証拠に成る上に迅速測図では北と南が掘り切られ、今では平坦な日吉駅から放射状に住宅道路が広がる場所には食違いに山を削り残された地形があった事が解かります。
拡大して見ましょう。
矢上城址周辺迅速測図① 久良岐のよし
道の場所で等高線が凹んでいて切通し状の道だった事が解かります。この堀切自体もL字に屈曲していますが、丘の下から登って来るで囲んだ登城口に当たる部分は直角にS字の食違いに成っています。
あからさまな人工地形ですね。
道を屈曲させる事で縦列で侵入して来る敵が細長く伸びる様にした上で敵は直進できずL字に屈曲した正面の崖の上から防衛側は弓や鉄砲で侵入者を❝なぶり❞獲物を狩る様に射殺して行く構造体です。
これが❝食違い❞や❝枡形❞と言われる城の防衛構造の一つです。
ここが西側の端っこで、まあ第一防衛ラインだった筈です。
2番目の防衛ラインは日吉駅の開かれた谷地形です。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の場所ですね。ここは現代に住宅街が造成される以前から広く比較的なだらかな台地だった様で、迅速測図でも等高線の緩やかな畑地が広がっています。
矢上城址西の堀切虎口地形 久良岐のよし
その欠点を改善する為に南北に大きく谷を掘り切って敵の侵入経路に成る丘をクビレさせて防衛戦としている事が解かります。
この大堀切地形には明治まで水源も在り用水地も存在したので戦国時代には堤を作って堀底が水堀か沼掘りに成っていた難攻不落の大堀切だった事が推測出来ます。
言うなればの日吉本町1丁目の最初の大外の堀切~この日吉駅南北の堀切までの範囲が谷上城の外郭だった事が解かります。無論、そこも平時は当時から畑地として利用されていたんでしょうね。
さて・・・
この範囲に外郭が存在する規模だと、関東以外の戦国武将の常識では3万石相当の代官の中田家に不釣り合いな城規模だったと感じますが、実はここには戦国時代の早い時期に重要な城を造る理由が有ったんです。
再度、谷上城の位置を見て見ましょう。
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
実は北条家の大曾根城と鶴見川を挟んで扇谷上杉家が周辺地域で争っていた時期が有った事が横浜市港北区大倉山~大曾根~太尾地区の旧家の深谷家や長光寺等には伝わっていて、その頃は綱島台地にも城砦が有ったそうです。
下は綱島台地の迅速測図です。
綱島台の城砦地形 久良岐のよし
今回は面倒臭いので(笑)綱島の城址は解説しませんが、迅速測図で見ると確かに見事なまでに連郭式(れんかくしき)城砦が明治に成っても綺麗に残っていた事が解かります。城の構造からみると掘り切りと竪堀が多用されている連郭式山城で、横浜市金沢区の称名寺裏山の金沢城址や三浦半島の衣笠城址、又は城址としては有名ではない鎌倉市の杉本城や逗子市桜山~葉山堀内に股がる鐙摺城の地形と全く似たような構造に成ってるので、多分、平安末期~鎌倉時代には存在したんじゃないかと思います。戦国時代にも改修されて利用されたんでしょうね。
綱島の城砦を含めて周辺を守る拠点が鶴見川と多摩川に挟まれた陸路の要所でもある矢上城だった筈なので、中田加賀守が三万石の代官だった時代と言うのは、扇谷上杉家と北条家が対立していた頃の話しなのかも知れません。そして東海地方や近畿の大名の城は配下の各豪族が私財で築城修築を行いますが、関東では北条家の支城なら北条家が、扇谷上杉家の支城なら扇谷上杉家での防衛拠点として大名によって築城され在地の城代を任されると言うのがセオリーだった様です。
又、北条家は経済規模に関係無い現在の会社員と同じ寄親(よりおや=上司)と与力(よりき=部下)制度でしたから、配下武将から大名が誕生する事はなく、配下武将の一族も細切れに別々の軍団に配置する事で謀反を防ぐ効果も有って、織田家の様な配下武将の大名取り立ては皆無でした。代わりに軍団を編成し更に軍団の下に中田家の様な代官による統治で配下の一族を細切れに分けて小机衆の様な大軍団の下に中規模部隊を編成していた様です。
なので代官個人の所得に不相応な城が北条家臣団の居城に成っているケースが多く見られます。
CIMG1239
これは上杉禅秀の乱、永享の乱、江の島合戦等が原因で関東が西国よりも先に戦国時代に突入する原因に成った事が関係しているでしょう。
戦国時代初期の関東の合戦は西日本の様な大名vs大名規模合戦では収まらず、常に関東八州を治める鎌倉公坊vs大勢力(室町幕府or関東管領)の衝突だった為(ため)に陣取り合戦で城が築城or改修される際に仮想敵数が万余で想定されていたので、神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県は特に巨大な城郭が多く成って行った事が分かります。
神奈川県でも・・・
平塚市岡崎城
伊勢原市糟屋館
藤沢市大庭城
鎌倉市玉縄城
逗子市住吉城
三浦市新井城
横浜市笹下城
横浜市蒔田城
横浜市小机城
横浜市榎下城
川崎市小沢城等
・・・どれも東海や関西の城と比較するととんでもなく巨大な城郭です。まぁ、日本城郭大系では土地開発する土建屋や不動産屋に配慮してか城域を伝承と実際の地形より狭く紹介したりしていますが。これ等の城は守備側は数千単位で守れる様に主要部分に近づく程に堅固な断崖で沼か大河川か海に囲まれた場所に在り南関東平野ならではの地質と地形が活かされた他地域では作りたくても同じ地盤と地形が無く同じ構造を土で造成するのは不可能だった訳です。だから富士山より西では高い城壁を作る為には石垣を用いらなければならず築城コストが関東の城よりかかってしまう経済的な理由もあったかと思います。更に同じ高さの石垣と土塁では土塁の方が登る事が出来ず殺傷能力の高い防御装置に成る訳です。
築城コストが安く防御能力高い南関東の扇谷上杉流&北条流築城術は富士山のお陰なんですね~。
まぁそんな訳で繰り返しに成りますが、矢上城=谷上城の中田家の最大時の経済規模は3万石相当と伝承しますが、それは代官として治めた領域の話しなので中田加賀守独力には不釣り合いな巨大な城規模を任されていたのだと思います。まぁ中規模部隊を任せられたんで配下の与力合わせたら3万石だと北条家では1500~2000が兵士の動員数に成ります。それでも城の守備範囲は広大なので独力では守れないので、北条家では初期には五色備え軍団や後に小机衆や江戸衆や玉縄衆が編制され軍団単位で守備した訳です。
余談ですが北条所領役帳には面白い事に中田家が旧扇谷上杉家の宿老だった太田家と北条家の両方から給料を貰っている事が記載されています。つまり、これを根拠に小生は戦国時代初期の中田家は扇谷上杉家の家臣で太田康資公の与力だったと推測する訳です。そして中田❝加賀守❞は一人の名前では無く中田家の殿様が祖先の官途の加賀守を代々世襲して名乗った屋号の様な通称だったと推測しています。なので江戸時代には既に資料の余り残らなかった中田加賀守に関する記載も北条家臣時代と話がゴッチャに成り「よくわからん!」と書かれたりしてしまってるのだと思います。中田加賀守が1人の人物として考えるとかなり混乱しますからね。
さて、谷上城に話を戻します。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
慶應大学日吉キャンパスの建設によって校舎の建ち並ぶ区域には余り地形は残存していませんでした・・・
が!
・・・蝮谷体育館~保福寺から借地してる一之谷、東側の熊野神社側の日吉町宮前自治会館側等には多数、大空堀と帯曲輪の地形が現存確認出来ました。先ず城の残存地形を見たいならば保福寺を御参りしてから下の写真の今は入口が封鎖されている中田加賀守の墓所入口側から散策すると良いと思います。
DSC_0285
この位置がの位置に当たります。
大学の敷地内は建造物に入らなければ自由に散策して良いと慶応大学には確認して有りますので、大学生じゃなくても自由に行内を散歩出来ます。
日吉台野球場 久良岐のよし
この上が日吉台野球場でキャンパス側よりも遺構が残りますが、中田加賀守御廟所の階段は封鎖されているので、野球場の下の人工的に切岸にされた谷底の道を左回りに進みます。
CIMG9308
すると・・・
KIMG0502
直ぐに左手に最初の堀切が見えます。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の場所です。でもココは登るの面倒くさそう(笑)なのでスルーします。
CIMG9314
もう少し進むと❝普通部の森❞と名付けられた谷が有ります。
位置的にはの空堀の間の扇形に凹んだ窪地(くぼ)です。
CIMG9316
白いハンドボール部の建物が普通部の森の遊歩道入口の目安に成ります。
CIMG9315
ここから登って行くと上の野球場とアメフト場の台地に出れます。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
恐らくここも空堀で東西に丘をブった切った堀切だったはずですが、上のアメフト場の造成の時に重機で空堀の土を幾らか削り出されて、ココの堀切のアメフト場部分を埋め立てたのだと思います。
それ故(ゆえ)に防御力が低くなる傾斜の少ない地形に今は成っているのかも知れません。
CIMG9317
しかし帯曲輪にも見え、現代の掘削なら遊歩道を真っすぐ付ければ良いのですが、階段よりも緩やかな路盤は右に折れて削平された土地と、今の遊歩道を進むと食違い状の大空堀④の真上のアメフトグランドに出る事が出来ます。
谷上城址最初の谷 久良岐のよし
の食違い状の大空堀が弓道場やボクシング部の道場が在る谷です。
普通部の森はアメフト場の左右をブチ抜いた堀切だった事が衛星写真だと良く解りますね。また、堀切右側の普通部の森は城としては不自然になだらかに左手内側に向かい逆扇型に整地されている事も解るので、やはり上のアメフト場の建設時に堀を埋める空堀の土を削り出した跡かも知れません。
CIMG9325
の谷、弓道場の更にもう一つ南側の谷が⑥の蝮谷と呼ばれているようです。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
その蝮谷との谷の間の地形も同じく扇谷上杉家と北条家が改修した小机城に同地形の空堀と空堀を繋ぐ細長い曲輪の防御構造が存在します。
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上は小机城の縄張り図、この小机城②や③の部分と・・・
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
・・・谷上城址である慶応大学日吉キャンパスの弓道場の谷と蝮谷の間の構造に酷似しています。
小生は恐らく谷上城はその部分、現在の慶応大学自動車部の敷地辺りが本丸だったんじゃないかな?と思いますが・・・
自動車部推定矢上城本丸? 久良岐のよし
でも慶応大学付属高校側の城の構造は現在では失われて確認できないので、其方側にも複雑な土塁やなんかが更に広大に広がっていて主郭だったかも知れませんね。
・・・普通に考えて主郭は余り大きくなく、外曲輪が一番大きく内側に來るほど小さく成ります。
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野球場やアメフトグラウンド側は現代の地形ではない、やや斜面がかった有る程度の広すぎないけど建造物を作ったり百人単位の兵士を駐屯されれる削平地が何段か存在します。
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誰もいない野球場からは元住吉や武蔵小杉方面が見えました。あちら側は戦国時代には蒔田吉良家の領地。
小生は現地に行くまで、迅速測図や色別立体図の地形からアメフトのグラウンド辺りが本丸だったかな?と推測していたのですが、慶応義塾大学高校の辺りと慶応大学の立派な陸上グランウンドの間の崖地も立派に裾切りされて崖に成っていたので、意外と宅地化された辺りも防御構造が豊富だったのかも知れません。でも扇谷上杉家の城の構造だと三浦半島の新井城址=油壷マリンパークを参考にするとやはり野球場やアメフト場や自動車部の在る側が重要だったので手薄な西側を厳重に大空堀で幾重にも断ち切り敵の侵入を防ぐ構造体を作っているのだと思います。
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一応、弓道場の横には住民も使う生活道路に降りる林道みたいな道が有りますが、今は学生は余りこの道を使っていない様です。
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弓道場の前に降りて自動車部側の複雑な大空堀に挟まれた重要そうな曲輪跡を見上げる所に何の神様かは判りませんが石祠が有りました。昔は神社でもあったのかも知れませんし、城跡なので諏訪神社や八幡様が祀られているのかも知れませんね。
弓道部の学生達は城跡の神様なのだから、この石祠の神様を大切にしたら武芸上達するんじゃないのかな~?日本文化の一部だから大切にしてあげて欲しい。
さて、ここから自動車部側に行きたい所ですが実際は登れません。てか登ったところで上にはフェンスが有って削平地に出られない(笑)。
そちらの側に❝弥生式住居跡群❞も在る事は解っているんだけど。困っていたらカメラを首にかけた絶対に怪しい小生を優しい慶応大学の女子大生が道案内を買って出てくれた。
ヒルサイド日吉側登城口 久良岐のよし
やはりボクシング部や弓道部の大堀切からは直接自動車部の方には登る道は無いそうで、そこの堀底道から階段を降りて一度、日吉町宮前自治会館側の平地に出てから、ヒルサイド日吉と言うアパートの裏の凄く目立たない階段を再度登らないといけないそうだ。
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こんな場所絶対に一人じゃ分からね~(笑)。
ありがとう!親切な慶應の女学生さん♪
この道も武者走りと思しき構造なんだけど、その話の前に④の谷の事を構造を考えたい。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
現地に行く前はの大空堀には自動車部の削平地とアメフト場の削平地を結ぶ❝引き橋❞が平時には掛かっていたんじゃないかと思ったけれど、良く考えると台地上は当時は人が住むには適さない場所だったからコストのかかる木製の橋を作る重要性が有ったかは疑問で、だとすると土橋が存在したのを弓道場を建設する際に切り崩してしまったんでは無いかと思い、帰宅して迅速測図を見直した。
矢上城址弓道部の大堀切④ 久良岐のよし
すると何やら完全に分断はされておらず、土橋の名残らしい距離感の等高線が刻まれていた。
恐らくこの構造からすると、やはり大堀切で断ち切られた自動車曲輪(笑)とアメフト曲輪(笑)には両者を繋ぐ土橋が有った様だ。今は底を断ち切ってしまったので、日吉四丁目側から箕輪町一丁目側に行くのに野球グランド側から丘伝いに行く事が出来ず、一度、日吉五丁目に降りてから階段を上がらなければいけなくなってしまったらしい。
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でもここ、アパート側の階段こそ現代の構造と道の付き方で判るんですが・・・
少し進むと途中から竪堀状の構造に付けられた武者走り城の道を利用した生活道路なのが解かった。
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登りながら途中で複雑な合流地点が有ったので「ん?これU字に掘られた竪堀の堀底道じゃね?」と思って少し道の横の藪を観察して見たら・・・
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ビンゴ!腰曲輪状の削平地が存在。絶対に現代人はこんな狭い湾曲した削平地をわざわざ作らない。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
ここがの場所。
城址を竹林にするのも土留めの為の昔の人の知恵。
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手前側U字に崖側面を抉(えぐ)った竪堀を挟む様に前後に削平地が有る。上の写真、見にくいかも知れないけれど奥にも削平地が有る。
そして、階段横の削平地が城だった当時を彷彿とされる物がたまたま現代にも存在した。
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境界を仕切る木柵が板塀になっていて、戦国時代の城の防御体を下から見上げている様な、竹藪を丸裸にした姿を想像すればリアルな復元城址みたいに成ってる(笑)。
因みに、日吉五丁目から登って来る階段の中腹で面白い物も見れた。
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丁度、新幹線の架橋線路のトンネルの真上!
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なのでコンナ写真も撮れた!
この新幹線の線路の真直ぐ先に見える丘が古代から水が湧き縄文時代から人が住んだ遺跡が発掘され天皇家の崇敬を集めた師岡熊野神社の森だな。つまり、綱島街道を押さえる陸路の要所である事を知れる指標になるのが谷上城址から見た新幹線の線路の先の森だったりする。
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上に出た。何か自動車部の方は入れなかったので取り合えず進んで見る。
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分かれ道にも微妙な勾配が有る。でも緩やか。
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テニスコートの横に大空堀状の地形をなだらかに盛土して作った様な住宅街。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
迅速測図で見るとやはり箕輪町一丁目の大空堀だった。ここ、迅速測図では判り難いが実際は鍵状L型に人工的に抉られてて、やはり自動車部側への侵入経路を狭くする構造に成っている。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の間が自動車部。今見てるのはの谷。
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宅地化されてない部分は角度がキツイまま。
慶應大学寄宿舎 久良岐のよし
そこをもっと南側に戻って進むと慶応大学の寄宿舎のある削平地に出る。
恐らくこの慶応大学寄宿舎の有る場所も曲輪だったと思うが、斜面を大胆に削ってしまってるはずだし、こちら側は防備の堅い断崖の北側と東側と異なって西側の坂から侵入経路に成ってしまう。なので小規模な曲輪がいくるも有った筈で、その曲輪の削平地が住宅地に成って行ったのだと思う。
因みに寄宿舎の庭からも新幹線が見える。
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むしろアングル的に斜めで、ここからの方がカッコよい新幹線の写真が撮れる。
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写真が良くないのは小生の腕がショボいから(笑)。
慶応義塾大学付属高校周辺 久良岐のよし
そこから慶應義塾大学付属高校を経由して大学側に行こうとすると、途中に弥生時代の住居跡が在る。
・・・と言うか、看板が有ると言われたのだが、何処にも見当たらず解らんので地元の御婦人に質問した。
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そしたら、このコンクリで固められてるのが竪穴式住居跡らしい。
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こんなん看板無いと解らん!小生、小さい時から縄文遺跡で遊んで育ったので山の中でも地面の凹みだけで住居跡判るが、こんなコンクリで固められてたら逆に解らんし!
でも面白い物が横に有った。
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たぶん、第二次世界大戦中の海軍の地下基地の遺構。通気口だと思う。コンクリートの劣化具合から判断したのと、こんなん意味不明な構造物他に無いわ(笑)。
ここを通り過ぎる。
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物凄く綺麗な慶應大学日吉グラウンド。・・・県立高校とは違うね。
少し住宅街の道路を通り慶應大学の校内に復帰する途中、可愛い洋館が在った。
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慶應大学のキリスト教会らしい。多分、昭和初期とか大戦後直ぐに作られてると思う。山手地区の洋館街の建物と外観の古さ比較したらそんな感じ。
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慶應大学の陸上競技場が下に有るんだけど、やはり古い地形が残る部分は人工的に裾切りされている。
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ので崖地。
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腰曲輪状の部分も有ったけど詳細は当然不明。
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慶應大学をゆっくり散歩しに来たの初めてだけど、高校も立派!なんかアメリカのゴシック建築の美術館かなんかみたい。
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映画の撮影にも使えそう。
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凄いね。横浜市中区の日本大通りとかだと、こんな感じの古い近代西洋建築沢山有るけど、それが高校なんだもんね(笑)。頭良くないりそう嫌味じゃなく(笑)。
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天文台まで有るし!
まぁ~そんな訳でだいたい、主だった谷地形と曲輪らしい場所を略(ほぼ)一周して来た。
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後は一の谷を降りて保福寺に戻るだけ。
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てか「東急グループよ~、官僚の子弟のいる慶應大学でだけ自然保護アピールですか(笑)?」あなた達は今現在、横浜市最大最後の蛍の群生地の磯子区~栄区~港南区~金沢区の円海山瀬上沢と同所の関東最大の蹈鞴製鉄遺跡の深田遺跡を開発の為に破壊しようとしてますよね~?
何の偽善ですかイヤらしい。浅ましいにも程がある。
コレな⤵
東急建設による蛍生息地と日本国内最大級のタタラ製鉄遺跡破壊計画を暴露します。
瀬上沢一帯に広がる日本最大級の蹈鞴製鉄遺跡の紹介パンフ転載。
円海山で蛍が観察出来る季節です。横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。
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東急の金持向け偽善の谷、一の谷を降りる。
ここを大切にする前に、横浜市の自然保護や日本レベルの貴重な蹈鞴史跡の歴史文化的な価値観を考えるなら、早く瀬上沢開発案を中止できる様に横浜市に代替地を要求したり、県内外の蹈鞴製鉄と古代史の専門家を連れて来て第三者による発掘調査しなさいよ。やらせたのヨコハマふるさと歴史財団って、よく貴重な遺跡を破壊容認する所でしょうよ(笑)。開発利権と密接な稲川会系埋地組組長の息子が最大支援者の某市長とズブズブだな~!
赤字事業なんだから、ちゃんと担当者は自分の責任隠さないで総本山に報告しなさいよ、それで経済世民、継往開来を実践して日本を守った東横神社の渋沢栄一公に謝れ!東急建設が円海山でやろうとしてる事は渋沢栄一公が嫌悪してた極左唯物主義者や無道徳な極右政治団体と同じだわ!
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ここを抜ければ保福寺に戻りますよ。
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さて、皆さんにも慶應大学に矢上城=谷上城の遺構が今も地形として残っている事が伝わったでしょうか?

皆さんの御近所にも必ず御城が在ったはずなので、興味が有る人は少し日本城郭大系と言う本を大きい図書館で調べて見たり、ネットで情報を見て見るのもいいかも知れませんよ!
まぁ・・・日本城郭体系はある種の「配慮」からか、実際より城規模を矮小化したり触れていない御城すらありますが。
でも地元に凄い殿様と関係の有る場所が有ったと解かれば、皆さんも郷土愛が深まると思います。

ですから是非、地元の神社仏閣や御城の跡の山や公園を散歩してみては如何でしょうか?

余談だが中田加賀守公の一連の調べ物で取材してた事も有り、保福寺の御住職や保土ヶ谷区の中田家の菩提寺の正觀寺の御住職に期間限定の御朱印とかお茶菓子とか沢山頂きました(笑)。
本来は中田加賀守公の所属した北条家の小机衆と言う軍団の軍団長だった笠原信為公や笠原康勝公の与力武将達所縁の寺院、旧小机領三十三ヶ所霊場の保福寺でも普段は御朱印をやってない御住職様からも御朱印を頂けた。
正觀寺の観音様の御開帳は来年なんだけど御住職様からも色々と親切にして頂いて、何だか中田加賀守公に「良く来たね~」と言われてる様で嬉しかった。
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殿様から御褒美を頂いた様に感じとても嬉しい。
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しかもこの前日は久しぶりに港北区鳥山の三会寺の御住職に会いに行って、真言宗の大僧侶、印融法印様の非公開の肖像画を拝見させて頂けたりした。

小生は殿様をリスペクトしてるから、殿様達が関係した神社仏閣に文献に残らない話も有るかも知れないと人に会いに行って見聞きしたり、御子孫に会ったりするんだけど・・・こういうささやかな御褒美みたいな事が有ると嬉しいね、やっぱり。

では又、次の記事で御会いしましょう~♪




















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ネットで横浜市には武将もいないし城も無いと言う無知な人の書き込みが有るのを見かけたので、知らない人の為に有名な人達が居城した城が沢山、横浜市内に在った事を列挙してみようと思う。

平安時代末期~鎌倉時代末期

源範頼公・・・鎌倉武士団の北関東軍団長
※平安時代末期~鎌倉時代前期
埼玉県比企郡吉見領主
・・・源頼朝公の腹違いの弟。武将としての軍才に兄弟中最も優れていた名将で大軍団を任され敗戦する事が無かった。当初は源頼朝公の南関東武士団とは別派閥の北関東武士団から大将として人望を集めた。源頼朝による幕府の成立以前、まだ関東の平定戦が行われていた頃には常陸国の志太義広率いる三万の大軍を、与力の小山家と共同で撃破している。
平氏追討戦線では常に堅実な戦果をあげ平氏を滅亡寸前まで追い詰めるが、政権内での政治的な背景があり壇之浦の合戦では弟の源義経公に職務を引き継いだ。結果的に源義経公は朝廷と接近し過ぎる等の政治的な姿勢が鎌倉幕府内で武士団から反感と不信を産み対立が表面化、鎌倉幕府へ反乱を起こす事になる。
源範頼公も南関東武士団と北関東武士団の権力闘争から北条家の謀略に巻き込まれ吾妻鑑では殺害された事に成っているが、実際は横浜市金沢区の太寧寺での蟄居中に自ら切腹した。当時の太寧寺の所在地は関東学院大学の敷地、昭和初期の大戦中に海軍によって飛行場建設の為に現在地の金沢区片吹に縮小移転させられた。
神奈川県での菩提寺は金沢区太寧寺。

佐々木高綱公・・・長門守護・備前守護
※平安時代末期~鎌倉時代前期
横浜市港北区鳥山城主、川崎市川崎区川崎館城主
・・・宇多源氏佐々木氏、宇治川合戦等で活躍した名将。
鳥山八幡宮と背後の鳥山が鳥山城跡と伝わる。鳥山八幡宮の前には旧街道が通り、近くには源頼朝公から高綱公が恩賞として授けらた名馬の池月を埋葬し奉った馬頭観音の祠がある。
また、源頼朝公の命令で鎌倉の北東の鬼門の街道上に当たる鳥山を佐々木高綱公が任せられた際に頼朝公の名代で鎌倉鬼門鎮護の寺院として開いた三会寺も存在する。三会寺の寺紋は源頼朝公に使用を許された源氏の笹竜胆の家紋。

佐々木(六角)泰綱公・・・近江守護 
※鎌倉時代前期
佐々木高綱公の兄佐々木定綱公の嫡孫で高綱公の武蔵国域の遺領を継ぐ。
・・・宇多源氏佐々木氏六角家初代、神奈川区~港北区の新田開発を行った人で、六角橋地名由来の説の一つにも成った人。
子孫には六角定頼公等、太平記や信長公記等の軍記書物に登場する名将が多い。川崎市川崎区の宗三寺の梵鐘には佐々木泰綱公の奉納と記されていた事が記録に残る。

多田行綱公・・・摂津国総追捕使 
※平安時代末期
横浜市都筑区茅ヶ崎城主
・・・摂津源氏の棟梁。源義経公の功績と誤認されている❝鵯越逆落とし❞奇襲の実際の主導者。作戦立案は三浦一族で名軍師の三浦半島佐原城主佐原義連公だった。横浜市での菩提寺は都筑区の寿福寺。

和田義盛公・・・鎌倉幕府初代侍所別当 ※平安時代末期~鎌倉時代前期
横浜市港南区野庭関城主、三浦市初声和田和田城主、横須賀市吉井怒田城主
・・・源頼朝公の忠臣で鎌倉幕府成立時に軍事長官である侍所別当の初代に任命される。戦国武将の様な経済観念と築城技術を持っていて、彼の築城した城は何処も戦国時代の縄張りに近い平山城に食違い虎口を用いた上に江戸時代の城の様に港を城下に備えており、防衛だけではなく流通経済も掌握していた事が解かる。更に内陸の城も街道を押さえる場所に立地しており、城以外にも幕府成立以前に鎌倉街道旧道に
港南区餅い坂等の関所を設けて治安向上と通過税の徴収で経済的な利益を得ていた事が史跡から解る。武勇に優れた武将として有名だが、実は神奈川県内の義盛公関連の史跡を見て廻ると軍政家として実務力に長けていた武将だった事が良く解る。
菩提寺は三浦半島横須賀市長坂の無量寺、三浦市初声和田の白幡神社等。

金沢北条実時公・・・引付頭人・評定衆
※鎌倉時代前期
横浜市金沢区金沢城主、青ヶ台城主
・・・鎌倉幕府の引付頭人、評定衆として幕府の中枢で活躍した人物。日本初の私設図書館である金沢文庫を邸宅である金沢山稱名寺の隣の谷戸に開いた人物で、高い教養を持ち全時代の武士文化を通じて細川幽斎公をも上回る教養を証明する和漢の蔵書と仏具美術品を収集した人物でもある。その文化財は明治時代に金沢区野島に別宅を構え大日本帝国憲法を起草した伊藤博文公によって保護され金沢文庫は現代では日本のみならず中国台湾のシルクロード研究等の歴史学者からも❝東日本の正倉院❞の異名で呼ばれ、大量の古文書を保有する博物館の神奈川県立金沢文庫に継承されている。
子孫は六波羅探題として関西地方を統治する役割を担った。
菩提寺は金沢区称名寺。

金沢北条顕時公・・・引付頭人・評定衆
※鎌倉時代後期
横浜市金沢区金沢城主、青ヶ台城主で北条実時公の子で跡を継いだ。
・・・幕府で重鎮として舅の安達泰盛公と主君で本家の北条貞時公の時代に活躍したが、北条貞時公の内管領である平頼綱の陰謀で安達泰盛公が攻め殺されると自身も下総国埴生の所領に蟄居(ちっきょ=謹慎)を命じられた。
菩提寺は金沢区称名寺。

金沢北条貞顕公・・・六波羅探題南方探題 
※鎌倉時代後期
横浜市金沢区金沢城主、青ヶ台城主で北条顕時公の子で跡を継いだ。
・・・鎌倉幕府の西日本を統治する機構の六波羅探題南方の探題を務めた人物で鎌倉幕府の重鎮だった。統治能力だけでなく教養が高く、兼好法師こと吉田兼好の兄が金沢北条家の執事を務めていた経緯から所領の金沢領六浦(横浜市金沢区)の浄願寺(上行寺東遺跡の跡地)に兼好法師が住職として長期滞在して金沢八景の景勝を遊覧した記録が、浄願寺の再興寺院である金沢区町屋の真言宗の龍華寺や日蓮宗の上行寺等に伝わる。鎌倉幕府滅亡時も重鎮として活躍し、兵を率いて小袋谷(こぶくろたに)方面から侵入しようとする新田義貞率いる倒幕軍を一歩たりとも巨福呂坂(こぶくろざか)切通しから内側に侵入させず鎌倉城防衛網を堅守し活躍したが、新田軍本隊が幕府軍の別部隊の守備する極楽寺坂の切通し方面へ回り稲村ヶ崎の干潮時に潮の引いた由比ヶ浜の海中から鎌倉市街に侵入された凶報を聞くと本家の北条高時公の籠城する衣張山~大町の名越城の防衛網の市街地側の山裾にある東勝寺で一族と共に自害した。
菩提寺は金沢区称名寺。

名越北条宗長公・・・能登国守護・安芸国守護・豊前国守護
 ※鎌倉時代後期
磯子区杉田領主(恐らく鎌倉幕府成立後は旧鎌倉郡と金沢領を除く横浜市全域が名越北条家の所領)
・・・名越北条家は本来は鎌倉幕府執権北条家の嫡流だが、父の北条義時公が再婚して腹違いの弟の北条泰時公が跡を継いだので家を相続する事が出来なかった。その火種が後々にも続き事有る毎に本家と成った北条泰時公の子孫の家系と権力争いをしたが祖先が本家から誅殺される事件が起きて以降は円滑な幕府運営に協力した。北条宗長公の頃には幕府の中でも三ヶ国の守護を任せられる等の厚遇を得ている。磯子区杉田にある臨済宗関東十刹の一つ、東漸寺は今では本寺の
東漸寺その物は巨大な釈迦堂と寺名を引き継いだ塔中寺院の真楽庵が残るのみだが名越北条家が支援した歴史が今に伝わる。

室町時代~安土桃山時代~江戸時代初期

足利尊氏公・・・室町幕府征夷大将軍(北朝)
横浜市神奈川区の権現堂(権現山)城に籠城
・・・旧東海道の通る神奈川区権現堂城に籠城し南朝と戦った。京急神奈川駅と国道1号線は権現堂城の権現山を掘削し掘り切った道で、以前は幸ヶ谷公園~江戸時代の東海道神奈川宿だった神奈川区台町の本覚寺にかけて全てが権現堂城だった。権現堂城は一般的に権現山城と呼ばれているが、戦国時代の間宮家の歴史から権現堂城が正しい名前である事が解かる。

足利直義公・・・左兵衛督(鎌倉府長官)
鎌倉城主(鎌倉市街地を囲む城塞群の歴史学的な呼称)、鎌倉郡秋葉郷領主(戸塚区東戸塚~品濃町一帯)
・・・兄で将軍の足利尊氏公の統治下で内政を担当しながら自身も軍団長としてかつやくした名将。観応の優乱で兄弟が北朝南朝に分かれ対立するまで活躍した。関東の統治を任されており、征夷大将軍しか住職を任命出来ない臨済宗鎌倉五山の大寺院5ヵ寺を保護し、現在の戸塚区品濃町界隈を5ヵ寺筆頭の建長寺の塔中に寄進した事が執事を勤めた斯波高経公の古文書に記録され伝わる。観応の優乱の後に暗殺され足利家の鎌倉時代の足利家邸宅跡の菩提寺鎌倉市浄妙寺に眠る。

ー以下戦国時代の人物ー

太田道灌公・・・扇谷上杉家家裁(関東管領代理)、相模守護代
東京都千代田区江戸城主、横浜市都筑区佐江戸城主、港北区篠原城主、南区太田館城主
・・・鎌倉公坊を支えた関東管領扇谷上杉定正公の執事を勤め、存命中は築城の名手としても名を知られ合戦では無敗を誇った名軍師。又、それまで武士の武具だった“大弓”を下級兵士にも配備し日本で最初に組織的な“足軽弓兵部隊”を用いた人物でもある。しかし主君の上杉定正公と鎌倉公坊に対する外交方針で軋轢があり伊勢原市に存在した大城郭の上杉家糟屋館の湯殿入り虎口で主君からの刺客に奇襲され七人の従者に逃げる時間を稼いで貰い宿所兼実務所だった洞昌院公所寺の山門まで退避したものの重症を負っており絶命した。
扇谷上杉家が古河公坊家から再度離反し北条家が扇谷上杉家討伐の大義名分を得て伊勢原市域から上杉家勢力が駆逐された後に、友輩の伊勢宗瑞(北条早雲)公と万里集九和尚により太田道灌公の首の無い遺骸が洞昌院公所寺に改めて埋葬され現在に至る。首塚は太田道灌公の鎌倉での私邸跡の鎌倉市扇ヵ谷源氏山に改葬され英勝寺初代尼住職で道灌公の子孫で徳川家康公の側室だった太田お梶=英勝院尼より首塚は守られ現在に至る。
菩提寺は伊勢原市洞昌院公所寺と鎌倉市英勝寺。

吉良成高公・・・左京大夫、左兵衛佐(鎌倉公坊代理)
横浜市南区蒔田(蒔田御所)城主、東京都世田谷区世田谷城主
10万石の勢力を誇った大名で太田道灌公と伊勢宗瑞公と臨済宗の高僧で雅人の万里集九和尚の共通の親友だった。特に太田道灌公との親睦が深く、戦上手な事が解る逸話が万里集九和尚の著書“梅花無尽蔵”で紹介されている。
太田道灌公が主君の上杉定正公に殺害されると上杉家従属下から離反し、同じく古河公坊を支えた北条家と従属同盟を結び北条家から姫を娶った。
暫時空白と成った鎌倉公坊代理を務めた。菩提寺は蒔田御所跡の城下に在る勝國寺。

吉良頼康公・・・左京大夫、左兵衛佐(鎌倉公坊代理)
横浜市南区蒔田(蒔田御所)城主、東京都世田谷区世田谷城主
吉良成高公の跡継ぎで高い内政力を持った高家大名。古河公方の跡継ぎだった足利義氏公が元服するまでの間、蒔田城で鎌倉公方代理を行った人物。家臣団には多摩川や荒川流域と東京湾の水軍衆が多くいる。物流によって高い経済力を保持した。房総半島の里見家や正木家の鎌倉市街地焼き討ちの際には、その家臣団と自らの権威で北条家に敵対する上杉方の大名にも鎌倉市街地と鶴岡八幡宮再建の資材や資金を供出させた上で、間宮家と協力し集積した材木を海運で5万人の人足を動員して間宮家の軍港だった杉田湊まで輸送する偉業を成し遂げている。
比較対照として織田信長公が安土城や二条城を建設した頃の領国石高は700万石超、対して当時の北条家の勢力圏は100万石未満だった頃に周辺の敵対勢力も外交的に屈服させて鎌倉再建の資材を供出させ集めた経済力と外交能力と権威は凄まじい。しかし全く合戦をしなかった小大名としても有名で、後に足利幕府が滅亡すると足利家一族の吉良家の権威も失墜したのか養子をとり北条家の姫と結婚させて隠居している。
世田谷のボロ市は頼康公の存命中に吉良家が北条氏政公に許可を貰って始めた楽市楽座が始まりで現在に続くイベントで無形文化遺産だったりする。
菩提寺は南区勝國寺と東京都世田谷区の勝光院。

多米元忠公・・・北条家五色備え黒備え大将
横浜市神奈川区青木城主(青木城は権現堂城の改修後の名前)
・・・北条氏綱公の代に三河国から移住して来た。父の代には父の元益公が今川家臣だった伊勢盛時(北条早雲)公の与力として❝伊勢七騎❞と呼ばれ今川家による松平家の居城三河安祥城攻めの頃に活躍していた事が多米家菩提寺の神奈川区豊顕寺の寺伝から確認出来る。一般的に父と誤認されている多米元興と言う人物は世代的に多目元忠公本人だろう。今川家による三河征服が失敗して松平家の勢力が拡張した事で領地を失陥し北条氏綱公の世代に小田原城に亡命して来ている。
後に北条氏綱公が危篤して山内上杉家・扇谷上杉家旧臣・古河公方が連合して北条家の河越城を攻めた際は、北条氏康公の軍師として❝日本三大夜戦❞と呼ばれ俗に河越夜戦と呼ばれる合戦で活躍している。
菩提寺は横浜市神奈川区の豊顕寺。

笠原信為公・・・北条家五家老の一人、小机衆副将、
北条五色備え隊白備え隊大将
横浜市港北区小机城代、横浜市港北区大曾根城主
・・・和歌等の文化教養に精通し外交官を務め、北条氏綱公の代には五家老の一人に数えられ五色備え軍団の内、白備え隊の大将も務めたので武将としての資質も高かった事が解かる。北条氏綱公による江戸城攻略の帰路、小机城代に任じられており、菩提寺は廃寺の神奈川区神大寺と伝わる。神大寺は支院の小机城下雲松院に現在では機能移転しているが、雲松院は笠原信為公が父君の笠原信隆公の菩提寺として開いた寺院でもある。
現在の菩提寺は港北区小机の雲松院。

笠原康勝公・・・小机衆副将、
北条五色備え隊白備え隊大将
横浜市港北区小机城代、横浜市港北区大曾根城主
・・・笠原信為公の跡継ぎ。北条家の織田家への外交使者を北条氏照公付家老間宮綱信公と供に務めた記録が残る。北条五色備え軍団の白備え大将を務め、小机衆大将の北条氏尭公等歴代の小机衆大将を補佐した。北条氏尭公は河越城に来襲した上杉謙信の大軍勢を撃退する活躍をした名将だった事から、その小机衆を実質的に取り仕切っていた笠原康勝公の武将としての資質も高かった事が解かる。
大曽根城下に龍松院を開いている。
菩提寺は港北区大倉山の龍松院と港北区小机の雲松院。

中田加賀守公・・・小机衆与力の官僚
横浜市港北区日吉矢上城主、川崎市高津区井田城主
・・・1560年頃は北条家臣として小机衆与力と成り内政を仕切った人物。元々は太田家の家臣だったと思われ、太田康資公が北条家から離反する以前は太田康資公の陪臣として家禄を与えられていた。
江戸時代の昌平坂学問所(東大の前身)の地誌編纂所の間宮士信と言う歴史学者が「中田加賀守は吉良家の与力だった」とも書いているので、小机衆に成る以前か、後に吉良家の与力として編成されていた時期も有った様だ。最大時には三万石相当の所領の代官を務めていた事が中田家関連の各所の寺院で伝えられている。中田加賀守の姫君の鶴野姫は北条家の港南区野庭関城下に住した下総国臼井城主名代で臼居衆を率いて武田信玄との三増峠合戦に参戦した臼居胤知公の妻女となる。
菩提寺は港北区日吉の保福寺と保土ヶ谷区東川島の正観寺。

間宮信冬公・・・古河公方家臣で小田原北条家与力相模十四騎筆頭
横浜市神奈川区権現山(権現堂)城主、鶴見区末吉(下末吉~上末吉~三ッ池)領主
・・・初期の小田原北条家臣団の中で相模十四騎と呼ばれた旗本中、筆頭の相模十四騎筆頭と呼ばれた武将。権現山城の戦いと俗に呼ばれる伊勢宗瑞(北条早雲)公と小沢城に逃げた扇谷上杉朝興公の残党の戦いで活躍し一騎駆けをして敵中に突撃した武勇が記録に残るが生死は不明。年代的には子息ではない親族と思われる間宮信盛公が間宮家の頭領と成っている。
尚、この時に反上杉家として北条側に内応した上田家と供に籠城した❝権現堂城❞だが、一般的に権現山城と歴史学者には呼ばれているが正しい名称は権現堂城と言うのが横浜市港南区の元真言宗で江戸時代に浄土宗に改宗した正覚寺や真言宗福聚院の寺伝に伝わっている。同地に籠城した間宮家臣の子孫には修験道の大家である権現堂松本家がいる。この松本家には間宮家子孫で江戸時代の間宮家の家譜から笹下間宮子孫の武内家の更に祖先で間宮家からも養子が入っている事が確認出来る。権現堂家は元修験道の法印で明治以降は社家と成った家で、元は鎌倉時代に鎌倉市扇ヵ谷地区の亀ヶ谷に所在した修験道の大道場で源頼朝公から深く信奉された修験道門跡寺院の亀谷山福禅寺の名代を室町時代に務めた権現堂の別当家に当たる。同じく頼朝公が信奉した修験道鎌倉山崎泉蔵坊から機能を移転した大靈山泉蔵院桐谷寺(現:熊野神社)が間宮家の旧領の磯子区中原に存在するが、江戸時代を通じて権現堂が旧久良岐郡の修験道系神社仏閣の大半を統括し、残りを泉蔵坊が管理した歴史が有る。
その権現堂松本家の深く関わった横浜市港南区の真言宗福聚院は明治の廃仏毀釈で鎌倉時代の福禅寺の本尊だった不動明王を権現堂家から譲り受けているが、福聚院隣の浄土宗正覚寺は寺伝によると江戸時代以前は真言宗で「権現堂家は❝権現堂城の権現堂合戦❞で戦火に遭って港南区域に移転して来た」と伝わる事から福禅寺名代の権現堂が港南区移転前の旧跡は神奈川区幸ヶ谷公園一帯の権現山城そのものである事が解る。権現山城の名は後世に❝権現堂の跡の山の城跡❞から伝え間違えられ江戸時代の風土記を元に現代の歴史学者が呼び始めた名前である事が名白。又、権現堂城跡は後に青木城として改修され北条五色備え軍団の黒備え大将を務めた北条家の名軍師である多米元忠公が城主を務めた。
菩提寺は鶴見区下末吉の宝泉寺。

間宮信盛 宗三公・・・古河公方家臣→小田原北条家臣相模十四期筆頭
横浜市磯子区杉田領主、川崎市川崎区堀之内城主
・・・権現堂城の敗戦で間宮家所領の久良岐郡杉田郷(磯子区杉田~中原~森~峯~洋光台~港南区の旧鎌倉郡を除いた地域)に退避して来て以来、杉田郷を間宮家の本拠地と定めた。
この人物を権現山合戦の間宮彦四郎とする説も有るが、その場合、間宮家の歴代当主は彦次郎(※次は継ぐの意味)を名乗るので、俗に権現山合戦と呼ばれる合戦で間宮彦四郎と名乗った事と整合性が無くなる。
菩提寺は川崎市川崎区の宗三寺。

間宮宗甫公・・・北条氏康公奏者(秘書)
神奈川区斎藤分(斎藤分町~白楽)、横須賀市紺屋(西浦賀)領主
・・・北条所領役帳に奏者として北条氏康公に検地の報告等を行っている事が確認出来る。北条氏康公の直属だったが西浦賀を領有している事から北条家の初期段階の軍団編成では北条氏康公の実弟で早世した北条為昌公本光院殿が三浦半島も統治していた様なので、元々その与力だった可能性が有る。
子孫は今も斎藤分町に多数在住している。間宮家は水運の要所を拠点にしており、水軍も持っていた事から間宮宗甫公も神奈川区神奈川と横須賀の西浦賀で水軍を管理していたと考えられる。
斎藤分町の間宮一族菩提寺は神奈川区三ツ沢西町の豊顕寺。

間宮康俊 宗覚公・・・小田原北条家五色備え軍団、黄備え隊玉縄衆付家老
横浜市磯子区~港南区笹下城主。
・・・北条氏康公の義弟で関東最強の武将だった北条綱成公の付家老を務めた人物。里見家正木家等の房総半島の大名による鎌倉焼き討ちの後の鶴岡八幡宮再建では間宮家の杉田湊に材木を集積して鶴岡八幡宮に海路輸送しているが、寄親の北条綱成公が材木奉行だった事から実務を間宮康俊公が取り仕切っていた事が解かる。その為か鶴岡八幡宮再建では北条家一族と共に築地塀の奉納する事を許されている。
合戦でも活躍しており、小田原北条家滅亡時も箱根山中の山中城に当時の玉縄衆大将の北条氏勝公や城主松田康長公と兵3000で籠城するが、北条氏勝公が籠城兵の大半を率いて所領の玉縄城に逃亡してしまう中で自身は手勢200騎を率いて松田康長公の手勢と合わせて兵300で敵軍豊臣秀次公の2万6千の大軍を迎撃し、敵大名の一柳直末公を討ち取る活躍をしている。この戦いでは同じく北条家臣の長谷川近秀公や多米長定公も討死している。
間宮康俊公の戒名は江戸幕府の寛政重修諸家譜を編纂した役人が誤って年代的に康俊公の父君に当たる信元公の戒名である❝宗閑❞としているが、これは明白な誤りで、横浜市南区の弘明寺の江戸時代の扁額や間宮家菩提寺で信冬公が開基して康俊公が再興した鶴見区下末吉宝泉寺の江戸時代の記録からも寛政譜の通り❝宗覚❞が正しい戒名である事が解かる。
娘の於久が徳川家康公の愛妾となり駿府城で姫を産んでいるほか、嫡孫の間宮直元公が徳川幕府初代の但馬奉行生野銀山代官を務め、更に二代目佐渡金山代官、本牧奉行(横浜市南部の支配)を務め大坂城攻めで生野銀山衆を率いて参戦し真田丸や総掘りの埋め立て作戦を徳川家康公に進言した名軍師として記録に残る。
間宮康俊公の菩提寺は鶴見区下末吉の宝泉寺、江戸幕府が戒名を誤って開いた菩提寺は三島市山中城跡の宗閑寺。
間宮直元公の菩提寺は間宮直元公の彫像を奉る御神廟が昭和初期まで在った磯子区田中の妙蓮寺。

間宮綱信公・・・滝山衆与力北条氏照公付家老、安土桃山時代の北条家外交官。
氷取沢陣屋領主(江戸時代)
・・・名前に間宮家が与力した玉縄城主北条綱成公から一字頂いている。自身は北条氏照公の付家老として日本100名城の一つ八王子城の設計者と伝えられる。内政を担当した記録が残るが北条家の外交官としても活躍しており、小机城代で白備え隊大将の笠原康勝公と共に織田信長公への使者を務めており、面会して褒美を賜わっている。安土では滝川一益公に接待を受けて上方を観光した記録が残っている。
徳川家康公と直接面識が有り、北条家滅亡後に小緑では在るが間宮家旧領の内磯子区氷取沢を与えられている。子孫に昌平坂学問所で頭取を務めた学者の間宮士信がいる。
間宮綱信公の菩提寺は磯子区氷取沢の宝勝寺で、同寺には伊藤博文公の武士時代の遺品も残る。
間宮士信公の菩提寺は千葉県八千代市の観音寺。

間宮信繁公・・・北条氏康公の御馬廻り衆、江戸幕府初代鷹匠頭
小田原市水尾城代、磯子区杉田(杉田~中原)領主
・・・始め北条家臣として間宮家の杉田湊を預かった。間宮信繁公の頃には笹下城主間宮家からは完全に分家して別家として成立していたが、当然ながら一族間で交流は有ったので関ヶ原合戦には徳川家康公の参謀、鷹匠頭として手勢50騎の鷹匠部隊全員を鉄砲で武装させ参戦しているが、この鉄砲は金山銀山の代官として実高5万石を誇った笹下間宮本家の財力で賄われている事が経済規模から解る。その鉄砲で武装した鷹匠の特殊部隊を率いて南宮山の毛利本隊を偵察して徳川本隊の前進行軍の本陣移動を上申し、それにより間宮家と同族の黒田長政公が行った小早川秀秋公の西軍大軍勢の徳川方への寝返りを成功させた名参謀でもある。この時の功績から江戸幕府成立後に徳川家康公が関東で鷹狩を行う度に関ヶ原の功績を話に挙げては鷹匠衆の家禄を増額した記録が残り、最終的に杉田間宮家は2000石の大身旗本に成り、歴代が徳川綱吉公による生類憐みの令発布まで江戸幕府の鷹匠頭を務めた。
菩提寺は杉田妙法寺。

安藤良整公・・・内政に長けた北条家中最高の名奉行
横浜市港南区野庭関城代
・・・善政を行った北条家でも特に内政に優れた武将として広く知られる。村同士の水利権争いを調停する等の北条家領国運営に寄与し、税率40%と徴税権が抑制され豊かではない北条家臣団が領民の百姓達から不当な搾取を行えない徴税システムを確率した。安藤升と呼ばれる徴税に用いる計測用の規格を北条家臣団の標準化させる等の公正公明な徴税機構を成立させた。
江戸時代の画家、歌川広重は好んで旧北条家所縁の地を描いて廻り、本名が安藤広重である事や名に古河公坊所縁の“重”の一字がある上、画の師匠は歌川=宇田川と同じく北条家臣団の子孫の姓である事から安藤良整に連なる人物かも知れない。

石巻康保公・・・北条氏康公、氏政公、氏直公三代の御馬廻り衆の重臣
横浜市港南区野庭関城代
・・・旧相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の国境で平安時代の鎌倉街道古道を守備する位置に鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛公が築城した野庭関城を戦国時代の北条家臣として城代を務め治めた人物。他大名家との外交官も務めた重臣。北条家滅亡後に早い段階で亡くなり、跡を弟の石巻康敬公が継いだ。
石巻康敬公は泉区中田を領有し江戸時代に土地開発を行い重税を課さず善政を行ったと現在も御当地に伝承する。
石巻家の江戸時代以後の菩提寺は泉区中田東の中田寺。

板部岡江雪斎公・・・北条家寺社奉行で外交官、豊臣家御伽衆
横浜市緑区長津田領主
・・・実家の田中家から板部岡康雄(実家は石巻家)に養子に入った人物。北条家の祐筆であり寺社奉行を務めた経緯で北条氏直公の代には北条家の外交を代表する人物に成り、豊臣秀吉との外交折衝に当たった人物として有名。武将としての事績は余り残らないが、外交能力が高かった事から北条家滅亡後に豊臣秀吉に抜擢されて山名家等の名族と並び御伽衆に登用されている。大河ドラマや小説にも良く登場する人物。
菩提寺は緑区長津田の大林寺。

宅間上杉規富公・・・初代関東管領の末裔
横浜市港南区伊予殿根永谷城主、旭区本村の二俣川陣屋領主。
・・・祖先は足利尊氏公の母姉妹の子孫で室町幕府初代関東管領を勤めた家系。鎌倉公坊に忠節を尽くし室町幕府の勢力争いに巻き込まれ永享の乱で宅間上杉家は勢力が縮小した。しかし家名は存続し古河公坊家臣から北条家臣化し、宅間殿と北条家の歴代当主から敬称で呼ばれた。安土桃山時代に成ると宅間上杉規富公が三崎城主と成った北条氏規公の付家老と成った。そのせいか宅間上杉家関連の神社仏閣の檀家氏子には三浦半島所縁の苗字を姓にする一族が多い。
徳川家康公の江戸入城時に小録ながら登用され旭区二俣川~本村一帯の領主と成った。徳川幕府の外交官として徳川家を代表し伊達家への使者も務めた。
菩提寺は旭区本村の三仏寺。


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前回の記事⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説①
・・・城址(慶應日吉キャンパス)の地勢解説編。
矢上城地形 色別立体図&Googleearth合成久良岐のよし
前回の記事では・・・
1,北条家臣の中田加賀守が居城としていた矢上城の跡が現在の慶応大学日吉キャンパスや日吉駅一帯の台地である事。
2,その日吉の台地が城として防衛に適したとても険阻(けんそ)な地形である事。
3,矢上川や鶴見川と東京湾を利用した水運と交通の要所として経済活動でも重要な最良の❝地勢❞に当たる場所を押さえている事。
・・・この3点の内容を簡単に解説して見ました。
今回の記事は続きですが、引き続き国土地理院色別立体図に加え、実際の現地の写真を交えて御寺の歴史を紹介して行きたいと思います。

先ずは中田加賀守が城の大空堀部分に開いた保禅寺サンの現在の様子の写真と位置を見てみましょう。
DSC_0270
谷上山 保福禅寺(略称:保福寺)
矢上城址 日吉駅 久良岐のよし
保福禅寺サンは直線距離ですと日吉駅から非常に近い位置に存在しますが、旧境内地の丘や谷は大部分が慶応大学日吉キャンパスに成っていて駅から直接来る事は出来ず遠回りする必要が有ります。この慶応大学日吉キャンパス~日吉駅を挟んで反対側の丘の端っこまで城跡と推測出来る地形が今も現存しています。御寺の山号が❝谷上山(こくじょうさん)❞とされている事から、どうやら江戸時代には❝矢上❞と表記される様に成った矢上~日吉一帯の本来の地名は❝谷(たに)❞に❝上(うえ)❞と書いて❝谷上(やがみ)❞と呼ばれていた事が解かり、現在では矢上城と伝わる城名も本来は地形通りに❝谷上城(やがみじょう)❞だったと推測出来ます。
御城には殿様が祖先を弔ったり禅の道場として修行する御寺がよく作られました。保福寺サンも城の大規模な空堀だった谷底に存在しています。敵の侵入口とも成る空堀の先の坂道の手前で敵を迎撃する必要も有り、砦としても機能しながら人を住ませて常時警戒する役割も担う位置に保福寺サンが築かれた事が良く解ります。
DSC_0285
写真は保福寺サンの境内地で、現在は慶応大学に貸し与えてる野球場の城址側や少林寺拳法部の道場の空堀側に続く大空堀南側の岸壁です。
つまり戦国時代~安土桃山時代の廃城まで、この谷間の壁面の端っこから端っこまで塞ぐ形で保福寺の土塀が設置されていて、関東流の築城術である❝谷戸構え(やとがまえ)❞を形成していた事が解かります。ついでに言えば、ここは谷間の平地で入口を塞いでしまえば警備上も安全な上に当時は井戸を掘る技術が未熟で飲み水の確保が困難な台地上より居住し易い低地な上に矢上川を使えば船で鶴見川にでて更に間宮家の領地の鶴見川下流末吉や川崎館辺りで海の船に乗り換えれば主家の北条家の小田原城や、重要な江戸城にも直ぐに急行出来た交通の便の良さも判ります。
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御城の跡の慶応大学の野球場側からは保福寺の墓地が見えます。
余り御城や歴史に興味が無い人は・・・
「御城の中に御寺が在るのって変じゃない?」
・・・と思うかも知れませんが、実は鎌倉時代~安土桃山時代には良くあった事なんですよ!逆に室町時代なんかは御寺の立地が御城に適しているので御寺を移転させて御城を造る事も良くありました。代表的な例は戦国時代最高クラスの謀略家で梟雄(きょゆう=不正義な人)だった松永久秀公の居城の多聞山城が有名です。鎌倉時代から良くある事だったのですが、武家の学問所として臨済宗や精神訓練の場としての曹洞宗の禅宗が道場として機能し、それとは別に各武家に宗旨(しゅうし=祖先からの宗派)も両方とも大切にしていました。ですから面白い事に昔の殿様達の戒名には武士としての禅宗の法名と家系としての菩提寺の宗派の法名の両方が死後に戒名に併用されるケースも多々有りました。
例えば中田加賀守と一緒に黒駒合戦で戦った横浜市南部を治めた間宮家の末裔で、戦国時代から平和に成って色んな現代の文化の基礎が花開いた江戸時代の頃の人を戒名を例に挙げて見ましょう・・・

源朝臣 佐々木氏 間宮 孫太郎 俊信 入道 宗智
これは生前の名前です。この殿様の没後に和尚さんから贈られた戒名は以下の通りです。
正禮院殿 宗智 日惠 居士
〇〇院殿と言うのは家柄や高い役職ついて社会貢献した人物に送られる❝院殿号(いんでんごう)❞と呼ばれる名です。
❝宗智❞は禅宗の法名で一般的に曹洞宗で多く用いられる法名です。法名ですから、生前に精神修養の道場や学問所としての御寺で修行する際に貰う禅宗の弟子としての名前です。間宮家は鎌倉公方の家来を経て戦国時代には小田原北条家に仕えた武家なので、古河(鎌倉)公方家や小田原北条家の宗旨で学問所として機能してた曹洞宗と江戸時代に成っても深い関わりが有りました。
次に❝日惠❞は日蓮宗の法名です。日蓮宗の和尚さんに弟子入りして出家すると法名として❝日〇❞の様に❝日❞の名の付く法名を与えられる事が非常移多く有ります。家の菩提寺が日蓮宗だと没後に戒名として諡(おくり名)として付け加えられる事も多く有ります。この間宮俊信サンは杉田間宮家の一族なのですが杉田間宮家は室町時代に間宮本家から分家して以来ずっと日蓮宗の宗徒でした。
この様に武士の戒名からも現代と違って江戸時代迄は宗派間の争いも少なく平和で仏教同士だけでなく神社と御寺と修験道の道場は御互いに交流が有り、当時の人々も色んな宗派に勉強に行き来していた事実が戒名にも残っていたりします。
中田家も間宮家と同じく北条家臣だったので、ここ横浜市港北区矢上城址の曹洞宗保福寺サンや保土ヶ谷区の正觀寺サン随流院サンの他に日蓮宗の妙福寺サンとも関係が有ったりします。
間宮家の場合は本家の笹下城主間宮家が江戸時代に本牧奉行や摂津奉行等の地域単位を統括する知事を務めた時期も有るので、北条家臣化以前から関係の深かった天台宗系修験道、真言宗系修験道、真言宗、真言律宗の他に、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗の寺院とも関わりが有ったりしました。
まぁ、そんな訳で当時の御寺と言うのは御城の防備や殿様の学問所を兼ねる事があり、中田家の殿様の御子息や一族郎党の学問所としても城下の大空堀の谷にも保福禅寺が建立されたんでしょうね。
ここで御城の遺構残存部の話を始めたい所ですが、先ずは御寺を見て行きます。
DSC_0271
先に解説しましたが、この保福寺サン、山号を❝谷上山(こくじょうさん)❞と呼びます。谷上(矢上)城の御寺だから谷上城から山号を頂き谷上山なんですね。
DSC_0273
だから谷上山だけど谷間に在る(笑)。
さて山門に戻ります。
DSC_0270
この山門をくぐると右手に御堂が一つ有ります。
因みに小生の推測ですが、中田家は江戸時代の藤左衛門サン以前は歴代当主が❝加賀守❞を名乗ったはずなので、この御寺の開基は正直な所いつの時代かは判りません。
中田家の話しに関しては、以前書いたもう一つの正觀寺サンの解説記事を御覧頂けると解かるかと思います。

クリックで記事にリンク⤵
補陀山 正觀寺は北条家の吏僚、中田加賀守の菩提寺・・・保土ヶ谷区東川島町

但(ただ)し、新編武蔵風土記稿にはヒントに成りそうな記載が有ります・・・

新編武蔵風土記稿巻之八 矢上村の項
保福寺
村の中ほとにあり谷上山と號す曹洞宗小机村雲松院末寺なり開基は中田加賀守某なり八王子心源院第六世の僧春悦開闢なればもとより心源院の末に属せり然るに春悦後に當寺をもて小机雲松院の住僧楞室へゆつり與へしが今楞室をもて開山とし雲松院の末寺とはなれり楞室は寛永十五年七月二十九日寂せり、客殿七間半に六間半、本尊阿彌陀を安置す

これ、新編武蔵風土記稿は曹洞宗あるあるに嵌って時代をゴッチャにして誤った解説をしてしまってます。文章で赤字の部分寺を開いた人が中田加賀守曹洞宗雲松院末寺と解説していますが、この時点で既に間違っています。曹洞宗寺院として再興開基したのが中田加賀守です。何故そう言い切れるかと言いますと、緑字の部分小机雲松院の末寺として開かれたと書いていますが小机雲松院は歴史500年弱の比較的新しい御寺です。雲松院は中田加賀守の上司だった小机城城代家老で白備え隊副将の笠原家の菩提寺であり、元々は北条家宿老の笠原信為公の更に御父上が無く成った時に菩提を弔う為に開かれた寺院です。安土桃山時代を生きた中田加賀守と時代的に交流が有りそうなのは笠原信為公の跡を継いだ笠原康勝公ですが、笠原康勝公が開いた龍松院と言う同じ港北区内に在る御寺も笠原家の菩提寺の雲松院も更に又隣町の神奈川区神大寺地区に戦国時代初期まで存在した神大寺の末寺として開かれています。しかし青字部分で登場する八王子心源院と言う御寺は平安時代末期の西暦900年代初頭の延喜年間の開基です。その古い御寺の第六世住職が西暦1500年代末~1600年代初頭では歴史的経過年数に整合性が無い訳です。
しかし八王子の深澤山 心源院の歴史では最初は真言律宗の寺院として延喜年間(西暦901~923年)に智定律師が創建した一寺を醍醐天皇が官寺にして心源鎮静護国院と改めたと伝わるそうです。
更に後に扇谷上杉家の家臣武蔵国守護代の遠江守 大石定久公が(再興)開基となり遠州の高尾山石雲院より開山として李雲永岳禅師を請して曹洞宗に改宗した歴史が有ります。
DSC_1026
※写真は❝あきる野市❞の秋川。左手には高月城、更に日本100名城の一つ滝山城が在る。
高月城址と圓通寺 久良岐のよし
この大石定久公は後に扇谷上杉家が滅亡する過程で小田原城主の北条家に従属して、北条氏康公の子息の北条氏照公を娘の比佐(ひさ)姫の婿養子に迎えて家督を譲って隠居しています。
つまり中田家が横浜市港北区の保福寺を曹洞宗寺院として再興出来るのは、早くとも大石家が北条家に降伏して家臣化して以後のタイミングしか有り得ないので、永禄二年(1559年)11月に北条氏照公が17歳で多摩郡の大石家に婿養子入りして以降の話しなのが解かる訳です。
その大石家が心源院と同じく支援した御寺が戦国時代初期に大石家の居城だった高月城の真下に存在する天台宗の惠日山 觀音院 圓通寺です。
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惠日山 觀音院 圓通寺
この御寺の写真の背後の秋川に突き出した舌状丘陵が高月城跡です。
この八王子市界隈の大石家の歴史から解りますが、心源院は凄まじく古い御寺なので第六代目の住職の春悦開闢和尚は曹洞宗の寺院として再興されてから第六代目の住職だったと言うのが解かる訳です。1500年代初頭に曹洞宗に成っていたとすれば、当時の寺院は世襲制では無いので安土桃山時代頃に港北区の保福寺が曹洞宗として改宗の上で復興される際に心源院が曹洞宗と成って第六世の春悦開闢和尚が関わったとすれば時代的にも整合性が高くなり、極々自然な時間経過と成る訳です。
ですから、新編武蔵風土記稿の保福寺の解説に関しては時代を整理しないまま文章に書き起こしてしまって間違えているのが解かりますが・・・
結論から言うと、矢上城址の保福寺はどっちにしても凄く由緒正し御寺の末寺として開かれたと言う事が解かる訳です。
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そして安土桃山時代に曹洞宗として保福寺が再興されたのと前後して雲松院が開かれた後に、地域的に八王子の心源院より雲松院の方が保福寺から近い事や、北条家宿老で小机城代の笠原康勝公と北条家直臣で小机衆として勤務した中田加賀守公の関係性からも保福寺は中田家によって雲松院の末寺として改められた可能性が推測出来ます。
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御本堂は比較的新しい再建ですが、今も稲毛六阿弥陀の第一番霊場、都筑郡橘樹郡二十四ヶ所地蔵霊場の第十二番目としても由緒正しい歴史が有る事を伝えています。
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山門をくぐって直ぐ右手の御堂が
都筑郡橘樹郡二十四ヶ所地蔵霊場の第十二番目の御地蔵様が鎮座していらっしゃる場所です。
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昨年末の初参拝時にガラス越しですが拝む事が出来ました。
曹洞宗の御寺は余り御朱印目的の巡礼を感心されない和尚様が現代では多くいらっしゃいますが、この保福禅寺は昔からの真言律宗時代からの歴史が有るので御朱印を頂戴に来る参拝客も事前に電話で問い合わせして御住職様と予定を調整すれば快(こころよ)く受け入れて下さいます。
墓地側に廻ると、人工的な手の入っている長い谷地形を確認できます。
DSC_0280
この先は明らかに日吉キャンパス側と慶応大学の日吉キャンパス野球場の台地の通路を狭くする人工的に谷を拡張した上で裾切りして崖地=切岸にした地形が続いて来ます。
もうここら辺から城の解説に成ってしまうので、御城としての地形の観察は次回の記事で書きたいと思います。
最後に、保福寺の南東側の野球場には中田家の大切な場所が有ります・・・
DSC_0287
中田家の供養塔で、元々中田加賀守の墓所が在ったとされる当たりなのです。
この場所に上がる階段は保福寺の山門から見える場所に在ります。
旧境内地に当たりますが現在は慶応大学に安全上の理由で立ち入り禁止にされています。
DSC_0286
実はこの上にはアーチェリー部の練習場が有るので下手くそな学生の流れ矢が頭に突き刺さってしまう可能性が有る訳です(笑)。しかし保福寺から慶応大学が借りている土地なので、慶応大学の事務所に御願いをするか、保福寺の御住職様から話を通して貰えば大学側の都合の良い日に見学をさせて貰う事が出来ます。

さて、一つの御寺にも色んな時代に色んな宗派だった歴史が有るので、明治時代に成る前の江戸時代までの人達は色んな神道も仏教各宗派も修験道も御互いを尊重して共存していた訳ですが、中田家の菩提寺もそんな日本の宗教の変遷を辿る事が出来る由緒ある御寺なのが何となく皆さんに伝わったでしょうか?
次の記事では御城の遺構と思われる地形の解説をしていきたいと思います。

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪
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