歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

カテゴリ:城址・要塞・史跡・伝統文化 > 城址

戦国時代の北条家には五色備(ごしきそな)えと呼ばれた色別編成の主力部隊がいました。
横浜と隣の鎌倉には、その内の3人の殿様と1人の名副将がいました。             



シリーズ化し個別に記事にします。 


関東最強武将だった1人を紹介します…
北条五色備えの“黄備え”!
 

※KOEIさんのゲーム画像拝借


玉縄城主:北条綱成(つなしげ)公
北条五色備(ごしきそな)えの"黄備え"を務めた。
渾名(あだな)は「地黄八幡(じきはちまん)」。

丸に三ツ鱗紋家紋は丸に三鱗紋。

北条"地黄八幡"綱成公が城主を務めた玉縄城は、今のJR大船近く玉縄地区〜横浜市栄区長尾台〜藤沢市二伝寺の広大な範囲にまたがって在った御城です。

鎌倉市一帯と相模湾を守る為に築城された難攻不落の城です。

城主だった綱成公は今でも有名でKOEIの信長の野望天道でも高評価されてます。

統率92 武勇96 知略79 政治60 義理89

…恐ろしく強いですね。

実績と比較して、まだ不足ですが。

SEGAでは更に高評価。

 

武力10…最高評価です。

まぁゲームの話はここまでにして・・・
玉縄城主だった北条綱成公と御子息達の墓所は、北条綱成公が開基(かいき:寺院を開く事)した龍寶寺(りゅうほうじ)に有ります。
下は龍寶寺の写真です。

 

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陽谷山 瑞光院 龍寶寺

この龍寶寺の裏山も龍寶寺城と言われ山が裾切されており尾根のところどころに平場が削平されていて玉縄城の一部を形成していました。

龍寳寺には玉縄民族資料館があり、玉縄城址の遺物や復元模型も展示されています。

これ↓玉縄城の復元模型。

 

保管されている↓城門と本丸の礎石 

 

 

あと鎧と兜 

 

 

これ↑雪の下胴と言って鎌倉特産の甲冑でした。 

伊達政宗もコレ着てましたよ。

玉縄城の本丸は今では女子校が建っていて、男性の歴史ファンにとっては有る意味「攻略不可能」な最強の城に成ってしまいました…。

綱成公は、まさにリアル戦隊5レンジャーでしたwww。

地黄八幡とアダ名で敵武将達から呼ばれた玉縄城主の北条綱成公は、小田原北条家2代北条氏綱公の婿養子でした。

北条家3代目の殿様北条氏康公とは義兄弟に当たり、最前線の防衛や外交を任され非常に信頼されてました。

上杉謙信公や武田信玄を合戦で撤退させる事数回、名実共に南関東最強で、戦国最強クラスの指揮力・統率力・判断力・カリスマ性を備えた名将でした。

無論、上杉謙信公や武田信玄は戦以外にも優れた能力が有り動員兵力も規模が異なるので比較出来ない部分も有ります。

綱成公は戦が始まると「勝ったぞ~(始まったばっかなのに)」と言いながら朽ち葉色の布に「八幡」と書かれた軍旗で統一した軍勢で攻撃をしかけ敵を撃破したそうです。
朽ち葉色と言うのは下の写真の黄花秋桜(キバナコスモス)と同じ色ですね。
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綱成公の余りの強さから綱成公の守備していた静岡県の深沢城から撤退した際に、城内に残されていた黄色の旗印を武田信玄が接収して持ち帰り、家臣の真田信伊(のぶただ※幸村こと真田信繁の叔父)に与えたそうで、この旗は今でも真田家の居城長野県松代城に保管されています。

この逸話や、河越夜戦や国府台の戦場で「勝ったぞ!」と叫びながら八幡大菩薩の旗印の黄備え部隊が敵陣を奇襲蹂躙し追撃する様から他家武将に"地黄八幡"の渾名(あだな)で畏敬の念を込め呼ばれていました。


綱成公の強さを示す1番の実績は"河越合戦での活躍です。

戦国時代、優れた民政により民百姓の支持を得た綱成公の主君北条氏康公は関東で勢力を拡大します。 

その過程で旧勢力の筆頭格関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市に在った)で激突します。

その兵力差たるや絶望的に綱成公の守る河越城が不利。

北条家兵力  3,000

上杉家兵力80,000

河越城の主将は北条幻庵公。

幻庵公は今の横浜市港北区の小机城主で風魔忍者の管理者でした。

それを補佐する玉縄城主綱成公。

両者の動員兵力はわずか。

対して関東管領上杉家&古河公方足利家の連合軍には関東地方の古豪大名達がこぞって参集し10万人に迫る勢いでした。


この圧倒的劣勢の中、河越城守勢は綱成公の活躍で半年間も敵を跳ね返し続けました。

そんな中、敵に厭戦(えんせん=ダラけ)氣分が蔓延し始めます。

それを待っていた綱成公の義兄で主君北条氏康公が小田原城より8000の兵を率いて来援します。

しかし綱成公と氏康公の兵力を合計しても敵の8分の1に過ぎません。

だからこそ、氏康公は敵勢がダラけるのを待っていたんですね。


敵勢が油断し酒盛りを始めたある晩、氏康公が夜襲で奇襲をしかけました。

同時に河越城から綱成公が出て敵に突撃します。

敵は多いが油断して規律も乱れボロボロだった状況で北条家の義兄弟コンビに奇襲挟撃(きょうげき=はさみうち)され瞬く間に壊滅しました。

上杉家連合軍側の被害は甚大で…


連合盟主:古河公方足利晴氏→捕虜

主要大名:扇谷上杉家→殿様死亡滅亡

主要大名:山内上杉家→壊滅勢力大幅縮小

その他の連合軍参加大名も散り散りに逃走し大幅に勢力縮小する事に成りました。


綱成公の強さは尋常じゃないですね。

こんな殿様が鎌倉にいたなんて、神奈川県民としてとても誇らしい。

さて、では玉縄城の現在の様子を見て見ましょう。
玉縄城は現代では宅地化により大部分が消滅しています。
下は玉縄城の要塞網です。
大船駅周辺
御覧の様に北は上杉謙信の祖先の長尾定景公の居城だった長尾台城~龍寶寺城~玉縄城主要部(清泉女学院高等学校周辺)~二傳寺一帯が全て玉縄城でした。
まずは龍寶寺からスタートしましょう。
龍寶寺の境内山門の近くには御寺の運営する郷土資料館が朝早くから無料開放されています。
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そこに玉縄城の縄張を再現した地形模型や簡単な解説の展示物が有るので、先ずここで視覚的に立体的な城の構造を復習してから見学すると理解がし易いかと思います。
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鎌倉市史考古編や日本城郭大系にも玉縄城の推定縄張図(なわばりず=城の設計図)が掲載されており散策の参考に成ると思います。
龍寶寺には平成の27年頃まで裏山の上に有った玉縄北条家の墓石が移設されており、供養塔が「玉縄城址町作り会議」の方々が出資して新造した供養墓が中心に、移設した墓石が右手に祀られています。
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玉縄城を見学するなら先ずは玉縄城主の北条家の殿様の供養塔を御参りして御挨拶差し上げるのが筋と言う物だと思います。

郷土資料館の展示を見てから訪問すれば解りやすいですしね。

順路としては・・・
お墓参りをして。

龍寶寺の裏山も龍寶寺城跡ですから、一般の墓地から登り山上の旧北条家墓所辺りの削平地や裾切りされた尾根を見てから降りて来て。

郷土資料館を見て。

先ず最初に七曲りの虎口を訪問。

こうすると無駄無く見学出来ます。

七曲り虎口の虎口と言うのはつまり城の入口を守る防御機構の事です。
基礎的な事は下のリンクから用語集を見ると図説が有るので初心者も解りやすいです。
 

余り歴史に関心が無かった人は「城=天守閣」と誤解してる方も多いので上のサイトで復習してから今から掲載する小生の解説と写真を見ると城の構造を理解し易いと思います。

龍寶寺から徒歩5分ちょいと直ぐの場所に玉縄城の中心部に登る最終関門となる七曲りが有ります。

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今は本丸は女子高で遺構は地形しか有りませんが男性には攻め込んだら警察に通報される法律的に難攻不落の城ですwww
しかし七曲りから主郭の清泉女学院の台地に登って行くと現代も物理的に難攻不落の地形を垣間見る事が出来ます。
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玉縄城七曲虎口
七曲りは深い谷から一気に本丸の大手門に登って行く道なのだが、谷の両岸は裾切(すそきり)と言われる山裾を直角に切り落とす土木工事がされているのが見て取れますね?
神奈川県を含む南関東の地層は他地域と異なり関東ローム層と言う富士山の火山灰で出来た堅い赤土の地層と隆起した砂岩の地層で出来ています。
下の写真は横浜市都筑区の茅ヶ崎城の曲輪(くるわ:兵士の待機スペース)と曲輪を分断する堀切と言われる空堀です。
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赤土が露出しているのが解るでしょうか?戦国時代の関東の御城は石垣では無くてこの様な土を削り出した城でした。この土壁に戦闘開始時に水を撒いてしまうと敵は登って来れない訳ですね。
更に!この空堀の底に「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれるさき先端を竹槍状に加工した木の杭や竹の杭の束を設置し、登ろうとする敵を槍等で突き落としたり敵が勝手に足を滑らすと堀底の逆茂木に・・・
「グサグサッ☠!」
・・・と勝手に串刺しに成って死んでくれる石垣城よりも恐ろしい防衛能力を発揮する訳ですね。
登ろうとすると滑る上に地盤としての耐久性は高く加工もし易いので傾斜角が45°~60°は確保されており、30㎏の甲冑や武器をフル装備した歩兵は絶対に道順通りにしか侵攻する事が出来ない訳です。
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当時はこの道ではなくフェンスの中に更に直進出来ない様にした九十九折(つづらおり)に農道として残る狭い武者走りと言われる細い道がジグザグを通らないと上に登って行けない構造でした。
そしてこれらの道も地盤も樹木を伐採してあり、先程の茅ヶ崎所の写真の様に赤土が露出していた訳ですね。
フェンス内の農道は段々に成っており武者溜(むしゃだまり)と呼称される段々に成った曲輪(くるわ)の連続に成っています。
この“武者溜”は日本城郭大系にも詳しい図は無く小生も予備知識無かったが見て段地の方が旧道と直ぐに理解出来たし、皆さんも現地看板に説明が有るので確認も出来ます。
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現代の道は明治時代の地図から改変は無いものの戦国時代の関東の城にしては道幅が2m以上あり虎口としては広過ぎる上に単純過ぎて写真でも解る通りフェンス内の段郭の防御機能を活かす事が出来ていないんですね。
恐らく北条家の支配が終わり徳川家臣団が後世に改変させたハッキリ言って城のデチューンが有ったのだと思います。
ここで明治時代の迅速測図と現代の地形を比較してみましょう!
玉縄城主郭周辺 久良岐のよし
現代の道も明治時代の測量図と近い長い直進とL字の連続する喰い違い構造に成っているので、恐らく江戸時代に成って本多正信公か大河内正綱公が城主によって守備力より御役所としての機能を重視する近世城郭に近い形に改編された道だと思います。
こんな単純構造には北条家は城を作りません。
下は北条家の山中城です。
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国指定文化財史跡
山中城跡
山中城を見ると良く解ると思いますが・・・
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「絶対に直進なんかさせねぇ~よ!」と言う構造体が北条家の御城には多数仕掛けれています。
何故L字にするかと言うと、こうする事で侵入する敵数を制限出来る上に、守備側は正面と側面から弓矢鉄砲で殺傷力の高い十字砲火で攻撃が可能に成るからなんですね。
以上が山中城の構造な訳ですが、全然真っ直ぐ進めないし赤土の城の殺傷能力の高さも御理解頂けたでしょうか?

玉縄城主郭周辺 久良岐のよし
これらを踏まえると「七曲り虎口」は元々「七曲り」なのが明時代の地図では「五曲り」位に簡略化された上に道幅も広い大手道に拡張されてしまっていますね。
・・・とは言っても七曲りは写真の通り空堀の堀底道として機能しており高い防御力を保っています。
ここを進軍すると両脇の城の山の尾根から弓矢鉄砲の集中砲火を受ます。
この様な地形は古代に海が入り込んでいた神奈川県沿岸部の平地、東京都南部~東部、埼玉県東部、千葉県西武~東部、群馬県南東部に多く見られます。
自然の谷を利用して山裾を裾切(すそきり)と言って削り取り崖にしてしまい、谷の入口に敵の侵入を防ぐ柵や塀と木戸を作って塞いでしまうので更に防御力が高く成ります。
この様な関東流の築城の仕方を「谷戸構(やとがま)え」と呼びます。
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七曲りを登りきると右手の変な崖の上に無理やり建てた(笑)民家が有りますが、これが三角平場と呼称された曲輪で、七曲りを登ってくる敵を攻撃すると同時に本丸に侵入した際に敵に側面から奇襲を仕掛ける兵士を待機させる構造体だった様です。
玉縄城は要害堅固で上杉謙信公の15万、武田信玄の2万8千の軍勢に攻められた際も守備兵3千で敵勢の撤退まで守り抜き逆襲に成功した実績が有る難攻不落の城でした。

武田菱竹に雀紋

武田家 四つ割菱紋 上杉家 竹に雀紋
無論、城の解説より先に紹介した城将の北条綱成(つなしげ)公や北条康成(やすしげ)公は、時には敵だったり時には同盟者だったりした上杉謙信公や武田信玄からも賞賛された名将です。
玉縄城縄張図
上は玉縄城址まちづくり会議の皆様が設置してくださっている縄張図です。
解りやすいですね。先程の写真の三角平場と言う場所が丁度、画面の真ん中辺りです。
実は以前、小生はブログ書き始めた頃で歴史も入門編くらいだった初訪問の際に・・・
「女子高だからどうせ中に入れないし~」
・・・とネットの不正確な情報を鵜呑みにして近づきませんでした。
この日は京都の友達と撮影に行ったのですが、再訪したら住宅街に成った場所にも意外に多く明確な遺構や地形が残っていたんだなぁ~と今更ながらに再認識させられた(笑)。
やはりネットで文章だけの情報を鵜呑みにしたらダメだですね。
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玉縄城は遺構こそ少ないものの玉縄城址まちづくり会議の荒井会長達の御尽力で解説が有り、残り少ない遺構も場所場所の看板を見ながら楽しく散策する事が出来るます。
七曲りの武者溜(段郭)を通過し三角平場の下を突破すると大手門に行く前に左手に太鼓矢倉の平場と堀切と硝煙蔵の平場が現存しています。
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説明が有るので良く解らない人でも構造の役割が理解できると思う。
下の写真で凄く深い堀切状の空堀が有るのが解るでしょうか?
写真にすると遠近感が無く成り良く解らないんですよ、土の御城の空堀って。
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太鼓矢倉の尾根が断ち切られた“堀切”には平時は“引き橋”と言われる仮設の橋が架かっていて、敵が攻めてくると橋を引っ込めてしまって敵が侵入出来ない鉄壁の防御構造に成っていました。
敵は堀底の道を遠回りして攻めるしかなく、下の空堀を敵が通過しようとする時に鉄砲や弓矢を雨の様に射撃して射殺してしまう訳ですね。
空堀の深さは堀底~太鼓櫓の曲輪(くるわ)まで比高8m程度と言った所。普通にこの高さを突き落されたら良くて骨折、悪ければ死にますwww。
この構造によって敵は山裾から尾根道伝(づた)いに真っ直ぐ本丸を目指す事は出来ず迂回して七曲りから登って来るか城主の館の道から遠回りして登って来るしかない訳ですね。
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これは清泉女学院高等学校の校庭の下の崖、このコンクリで塗り固められた場所が玉縄城の大手門だったのですが、残念ながら高校建設と宅地化の際に原型が無くなっています。

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でも玉縄城址まちづくり会議の方が説明を掲示してくれているので予備知識が無い人も当時の様子を想像する事が出来ますよ!
この大手門から城主の館が存在したマンション“ルネ鎌倉植木”辺りに降りる“陣屋坂”に向かう場所に玉縄城の石碑が有ります・・・
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・・・と偉そうに解説してますが、こんな見つけ難い場所だったので地元の方に教えて貰うまで見つかりませんでした(笑)。
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登ると上に小さな仏様と石碑が有ります。
玉縄城址の石碑。
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昭和三十一年 鎌倉友青会と書いて有るので昭和初期の青年会でしょう。
当時はここ等辺はド田舎でしたからね~。
でも大船駅前に松竹の映画撮影所が有って、そちらには映画スターが来るので商店街は賑やかに繁栄していました。
徳川氏の治世に成って直ぐに廃城に成ったと書いているが実際は徳川家康公の親友で謀将として活躍した本多正信公が城主に成り、更に松平の苗字の名乗りを許された大河内正綱公が城主に成っても城として機能は維持され廃城に成ったのは元禄十六年(1703年)つまり江戸時代も中期に差し掛かる話なので、天正十八年(1590年)に北条家が豊臣家に降伏して大阪で狭山藩1万1千石の小大名として移封されても実に113年間も存続していた事に成ります。
熱心なんだけど昭和初期の郷土史家に有りがちな間違い。
こう言う事が明治期~昭和初期の郷土史家や学者の書いた物には多く有るので文面をコピペせず御自分で史料を読まれる事が大切に成って来る訳です。
因みに先に少し触れましたが、この石碑の傍らの坂道が“陣屋坂”で下り切った先に有るマンション“ルネ鎌倉植木”辺りに城主の居館や庭園が有ったそうです。
玉縄城御主殿址周辺 久良岐のよし
玉縄城縄張図
本丸の清泉女子の北側の尾根には御花畑の地名も残り、勇将の北条綱成公が花を栽培して蝶と戯れている風景を想像すると少し笑える位にホッコリとした安らぎも地名から感じてしまう(笑)。
綱成公の御子息の北条康成公は奥方様が主君で義理の叔父の北条氏康公の御姫様の七曲殿だった。
七曲殿の名前からも解ると思うが、七曲り虎口の入口に有る館に住んでいたので地名由来の渾名で呼ばれた様だ。当時の女性はなかなか存命中の名前が記録される事が少ないので隠居後の法名や没後の戒名しか伝わらず、七曲殿もやはり法名の新光院としか伝わっていない。
墓所は鎌倉市内の大長寺で、この大長寺は康成公が実母で北条綱成公の正妻だった大頂院殿の供養の為に建てた菩提寺だったが徳川家康公によって現在の寺名の漢字に改名させらて現在に至る。


さて皆さん、玉縄城の解説どうでしたか?
JR大船駅に電車で来て時間が有れば、是非龍寶寺の郷土資料館や北条綱成公の御墓参り等してみては如何でしょうか?
龍寶寺~七曲り虎口や硝煙櫓辺りの空堀も歩いて10分程度です。

もし機会が有れば玉縄城散策をして北条綱成公と言う明武将が戦国時代の鎌倉市に居た事を思い出してあげて下さい。


では又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
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新横浜の日産スタジアムの近く、JR小机駅の側に在(あ)る小机城址で今年も竹灯籠祭りが開かれるよ〜!
記事の中で沢山、以前の竹灯籠祭りの写真を紹介したいと思います。
touroutop
小机城址(続日本100名城の一つ)
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胴網海岸&横堀海岸
古代の風待ち港小網代湾(こあじろわん)
知る人ぞ知る新井城址の2つの隠しビーチ

【胴網海岸】
 観潮荘に日帰り温泉有り。
 胴網海岸
 予約制の手ぶらBBQ施設有り。
 施設利用者トイレシャワー使用可。
 横堀海岸
 食事と飲酒出来る飲食店併設。
 施設利用者トイレシャワー使用可。
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )        
 両方とも知る人ぞ知る隠れビーチ◎
 小さいけれど砂浜と磯が有るよ◎
 胴網は予約制の手ぶらBBQ有り◎
 横堀は常設の飲食店あるよ◎
 両方とも城跡の一部で歴史が凄い◎
 胴網海岸は海からの城門地形だよ!
 横堀は御城の堀切状空堀跡だよ!
※3つの海岸が近くにあるから混雑
 しても空いてる場所を選べるよ◎

☞注意するpoint(•ω•)        
※コロナ禍中は三密対策に不向き。
 隠れビーチだけにキャパ少ない。
※城跡だけに超判り難い場所だよ。
 初訪問で行くのにGoogleMapの
 ナビ機能使うと迷わない。
―写真の後は👇( ՞ਊ ՞)👇解説だよぉ〜
——胴網海岸——
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CIMG0801CIMG0805CIMG0799
——横掘海岸——
CIMG0810
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――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
【交通】
車の場合胴網海岸、横堀海岸、荒井浜の3箇所は近在し、いずれも❝油壷駐車場❞かホテル観潮莊前の旧マリンパークの駐車場を利用する事に成るが、夏季は混んで入庫待ちに成る可能性も有るので到着は朝早い時間に成る様に出発したい所。

電車の場合も油壷駐車場の❝油壷温泉❞バス停に来る事に成るが、
小生の記憶が正しければ終バスが17時頃と絶望的に早かった筈なので、到着時に忘れず三崎口行のバスの時刻表を必ずチェックして欲しい。
【見所】
駐車場の近くには京急の運営する観潮荘と言う日帰り温泉施設も備えたホテルも有る。

帰路に就く前に海水浴の後で天然温泉に日帰り入浴する事が出来るのも魅力。
観潮荘の他にも周辺一帯に料理の美味しい民宿やペンションが多数有るので、滞在費用を抑えて数日間三浦で夏を満喫するのも良いかも知れない。

胴網海岸・横堀海岸は両方とも地元の三浦市民でも若い世代には知らない人も多い知る人ぞ知る穴場の文字通り隠れた場所に在(あ)る海岸。
両方とも砂浜と岩礁の磯が有り、二つの海遊びが出来る。
近くにヨットハーバーが有るのでヨットの⊿三角形のマストが海を走って行く優雅な景色を眺めながら飲食したり、物凄く夏らしい事が出来る。
又、胴網海岸には“油壷アウトドアセンター”と言う予約制の手ぶらBBQ施設が有り便利で利用客は建物内のシャワーと更衣室も利用させてもらえる。

横堀海岸にも常設の飲食店“みなと屋”が在り、海を眺めながら居酒屋の様にリラックス出来る。こちらも利用客は飲食店内のシャワー室を借りる事が出来る。

ただし穴場なだけに海岸としては小さく、行く前に混雑状況を上記の御店に確認した方が良い。
胴網、横堀に加えてすぐ近く徒歩圏内に荒井浜も在り3つの海岸が近在している。

もし目的地の一つが混雑していても3箇所とも海水浴場の過去実績が有るので移動しても安心して遊べるので、各海岸に有る飲食店に当日や前日に混雑状況を聞く事で混雑回避して空いてる場所に移動も出来る。
油壺や小網代の混雑時には車での来訪なら30分以内で行ける距離に大浦、三戸浜、和田長浜の海水浴場も存在するので混雑していた場合の訪問先変更の選択肢が多いのも、この油壺や小網代地域の利点。
歴史的な解説をすると、この一帯全て城跡だったりする。
この胴網海岸と横堀海岸は名前から何となく解かる人もいると思うが、実は新井城と言う平安武士~戦国大名化した三浦氏の拠点で日本最長、4年弱の籠城期間を誇った名城の一部だった。
ここに拠点が置かれた理由は古代から三浦半島新井城址の小網代(こあじろ)湾、平塚市側の相模川河口の須賀港、伊豆半島熱海市の網代港の3港が船の係留に適した地形で風力と海流を利用して船足を高め長距離の海上輸送力を確保出来た地点だったので、平安時代から戦国時代にかけて海運拠点として栄え重視されていたので水軍基地としても発展した歴史が有る。
平安時代以前、縄文や弥生時代にも当然ながら海上交通の要所だったようで、この航路を利用し伊豆諸島から“黒曜石”が輸送され交易に使われていた。
この石⤵️

黒曜石はオニキスみたいに綺麗な石だけど強度がガラス位で加工しやすく金属器が無い時代に刃物に加工された。
戦国時代には伊豆大島の染物は特産品として重宝された事もあり新井城主の三浦家が北条氏綱公に伊豆大島を奪われるまで代官を置き支配し、小網代湾から須賀、網代、伊豆大島を船が行き交っていた。
江戸城を築いた太田道灌公も主家の居城、伊勢原市の大城郭糟屋館に赴く際この海路を利用していた事が菩提寺の伊勢原市胴昌院や三浦道寸公の本拠地平塚市の岡崎城址に在る無量寺にも伝わっている。
戦国時代の三浦家の最重要拠点だった新井城址の横堀海岸は文字通り城の主郭(しゅかく:本丸)へと続く道の地面を削って空堀にして侵入路を断ち切り、行軍可能な人数を制限する真横に半島を断ち切る堀切の空堀に由来する地名。
ー横堀海岸入口が“堀切”状空堀名残りー
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新井城の岬を分断する構造体なので、横堀海岸由来の空堀跡は道の反対側にも続きが現存する。
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つまり戦国時代には、横堀海岸入口~道の反対を空堀がブチ抜いて掘られていて、戦時に撤去出来る引橋がかけられるか土橋が削り残された城外から城内主要部に侵入する外側の最終関門だった事が解る。
ー胴網海岸の“食違い虎口”地形ー
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胴網海岸は小網代湾側の城に直接登城する船着き場だった様で、砂浜から居住区域だった丘の上に続く山裾が削り取られ城壁化された切岸に成っており、道が人工的に鋭角にL字型に九十九折(つづらおり)にされており、侵入する敵を常に正面と側面から弓矢や鉄砲で十字砲火攻撃し防衛する“食違虎口(くいちがいこぐち)”構造に成っていたりする。
ちなみに三浦義意公の時代にまだ鉄砲は武士に普及してないので、防衛の主力兵器は弓矢だった。
ー胴網海岸上の名将道寸公の御廟横の“竪堀”地形ー
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三浦道寸公の御廟の横の谷も人工の竪堀が残り、胴網の食い違い虎口から敵が山腹をよじ登り真っ直ぐ丘上の曲輪群に侵入出来ない様にしてある。
人工的に地形を切り出した戦う為の戦国時代の御城に興味ある人は・・・
コレ見て見てくだされや~⤵

これも初心者にわかりやすいサイト⤵ 

226314
https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/628817.html
画像転載元URL⤴
こうして“城”として現地を見ると一見、古戦場で「怖そうだ」と歴史を知らない人は思いがちだが、実はここは最後の城主の三浦義意公と奥さんの真里谷(まりやつ)武田家の姫の御夫妻の縁結びで有名な地域なのでデートやBBQ合コンで来たら良縁に恵まれる事で、縁結び祈願の女性に周辺の神社仏閣と合わせて旧マリンパーク一帯の新井城址は有名だったりする。
——穴場海岸の紹介一覧へ⤵――

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京都の友人のKGが横浜出張を終えて帰る日程が決まり、一緒に未だ行ってなかった神奈川県中央部相模川西岸を中心に歴史散策をして来た。
後で訪問地の数を数えたら驚愕の訪問件数に成っていた。
当日の訪問先は以下の通り・・・
訪問先一覧
①JR大船駅・・・AM:08:00集合。
②龍寶寺・・・戦国時代の北条綱成公の玉縄北条家菩提寺。
③玉縄城七曲り虎口・・・関東屈指大城郭の数少ない残存遺構。
④玉縄城大手門跡・・・学校建設で残らないけど看板が有る。
⑤玉縄城の石碑・・・解り難い場所、説明文の内容も雑で事実誤認してる。
⑥寒川神社・・・言わずと知れた相模国一之宮。
⑦前鳥神社・・・言わずと知れた相模国四之宮。
⑧平塚八幡宮・・・言わずと知れた相模国最古の八幡宮。
⑨オリーブの丘・・・横浜市の沿岸部で見た事が無いファミレス。
⑩無量寺・・・岡崎城の本丸にある御寺。
⑪岡崎城三連郭・・・大城郭の数少ない明確な遺構残存部。
⑫岡崎義実公の墓所・・・外郭に残る今上天皇陛下も大学時代にいらっしゃった場所。
⑬高部屋神社・・・延喜式内社で鎌倉時代の名将糟屋有季公の居城、千鳥ヶ城の鎮守の神様。
⑭丸山城址公園・・・千鳥ヶ城の一部分が児童公園化された場所。
⑮洞昌院・・・太田道灌公の死没地で北条早雲公が道灌公菩提寺に定めた場所。
⑯道灌公御廟所・・・道灌公の親友の万里集句和尚と北条早雲公が整備した太田道灌公の胴塚。
⑰七人塚・・・太田道灌公の与力武将が上杉定正公放った追討兵を食い止め討死にした供養塔。
⑱上粕屋神社・・・行基大僧正が比叡山の山王権現の御分霊を勧進し建立させた神社。
⑲扇谷上杉家糟屋館大空堀・・・神奈川県下指折りの大城郭の自然地形を拡張した大空堀。
⑳上杉家糟屋館湯殿入虎口・・・大城郭糟屋城(館)の侵入経路の名残りの喰い違い、近年消滅の危機。
(21)糟屋館・・・産能大学の丘に存在した大城郭。丘上から南北の大空堀が良く見える。
(22)糟屋館武者走り・・・丘の側壁崖地に迅速測図にも残る武者走り地形と土塁が残存。
(23)比々多神社・・・言わずと知れた相模国三之宮。
(24)埒面古墳・・・比々多神社の旧境内地の聖地とされた場所、土建屋に破壊された古墳。
(25)比々多神社元宮・・・北条家に攻められて焼け落ちた比々多神社の旧境内地。
(26)AOI七沢リハビリテーションセンター病院・・・実は戦国時代の七沢城の主要部分。
(27)七沢城の碑・・・病院から少し離れた場所にある石碑、昭和の郷土史家の説明が間違いだらけwww
(28)徳雲寺・・・扇谷上杉定正公の菩提寺で、七沢城の外堀と七沢城址の地形が良く見える。
(29)ZUNDBAR・・・凄いオシャレなラーメン屋、神奈川淡麗系の名店。
(30)新磯子埠頭・・・横浜の夜景スポット。海釣りの名所だけど余り知られてない。
(31)上大岡駅・・・21時位に解散。
・・・我ながら1日で良くも巡ったものである。KGと小生は御互い歴史オタクで城郭オタクでもあるので1日に山城複数個所登ったりもする。
1613814610825~2
これの地図の青い線は2月だったか二人で鎌倉城を一周した際の順路をKGのスマホGPSで可視化したタイムライン。市街地を取り囲む鎌倉城の稜線にそって丸々一周した。
この鎌倉城は鎌倉幕府設立後、石材の切出しを行った結果、次第に市街地の整備に伴って城塞化されて行った場所で、小生と横浜市の学芸員サンの共通意見として明確に城塞化されたのは南北朝時代以後だと思う。小生の意見としては空堀や虎口が尾根上に本格的に整備され始めたのは足利尊氏公と北畠顕家公の鎌倉争奪戦の頃に始まり、足利持氏公と上杉禅秀公の内乱が勃発した頃に名越切通しや瑞泉寺裏の一覧亭付近が中世城郭化したのだと思う。
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瑞泉寺の裏山には豊富に堀切等が残っている。
名越切通しは戦国時代の構造体に見える。
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完全に枡形虎口に成っている。
「堀切って何ぞ?」「虎口ってタイガーマウス?痛そう!」と言う次元の初心者にも解りやすい城の構造体と名称の図説解説サイトのリンクを貼っておくのでソレを見て欲しい。
これ⤴ね。
この鎌倉城散策時は完全に体力勝負で朝の9時に集合して稲村ケ崎からスタートし山を一周、材木座の住吉城に到達した時には17時40分くらいで小生はヘロヘロだった。
なんせ稲村ケ崎から時計回りに鎌倉城を登るとズゥ~ット山道の登り坂!体重がストレートに脹脛(ふくらはぎ)と太腿に乳酸を溜めて行く上に、脱水でミネラルが抜けて痙攣しやすく成ってしまう。
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ちなみに、今回の休日雑記と鎌倉城散策は違う日なので又改めて鎌倉城一周トレイルの記事も書こうと思うが、この鎌倉城トレイルは初っ鼻から稲村ヶ崎で波を被ってビショ濡れに成ってた(笑)。
KGは撥水性のジャケットを着ていて無事だったが小生は近所のスーパーに行く様な短パン、パーカーのナメ腐った格好だったので海水を完全に吸収してメチャくそ寒かった(笑)。
この鎌倉市街1周する鎌倉城トレイルの行程を半分進んだ時点で小生は大平山の山頂手前で足攣ったり滅茶苦茶だったが格闘家体系を維持しているKGはピンピンしていた。
けれど、今回は体力ではなくて時間との闘いなので訪問順路の効率の問題でもある。
実は当初の訪問予定候補地は更に多かったが、それはこの日の訪問先を順を追って紹介しながら見て頂きたいと思う。
「1日に29箇所訪問とか嘘だろ?」とか思うかな?
これ⤵を見て貰うと効率的に散策したのが解ると思う。
GoogleMap登録地
小生はGoogleMapに行きたい場所や行った場所をやたらめったら表示を分けて登録して有る。こうしておくと効率的に訪問順路を決められるので皆さんも試して頂きたい。
因みに緑が気に成ってる場所、黄色は訪問済み、ハートは絶対に行きたい場所。
訪問地一覧 久良岐のよし
小生はAndroidを使い始めてから5年で観光で訪問した町が赤い点の場所、訪問箇所は全部で942箇所らしい。
実際にはこれに加えて台湾の台北市と中国の香港市と深圳市にも訪問してる。その3都市で多分、更に50箇所位増えると思う。
小生は一人で行動する時は1日で5箇所以上は訪問する、多い日で10箇所以上、最多記録は14箇所だった・・・
でもこれ、歴史マニアの訪問箇所数としては一般的だと思う。城マニアや神社仏閣ファンは1日に10箇所訪問とかザラだと思うので小生を超える猛者は腐る程いると思う。
小生はどちらかと言うと神奈川県東部限定のローカルな古代の街道オタクなので、普段は山の中を歩いてる事の方が多く、たまに山の廃道を進んで林道と獣道が区別つかなくて横浜市や横須賀市の山の中で遭難しかけたり三浦市の海沿いの崖から落ちて骨折したりしてる(笑)。
・・・ただ今回のKGとの29箇所は今後も超える事が出来ない訪問件数だと思う。訪問地~次の訪問地まで近い場所をずっと辿って鎌倉市~寒川町~平塚市~伊勢原市~厚木市を巡った結果、多い訪問件数でも城に関しては散策に十分な滞在時間も確保する事が出来た。

では!きまぐれクック金子風に本題に戻りぃ~・・・
・・・この日の29箇所訪問旅の話を進めて行くっ⤴!

大船駅でKGをピックアップして先ずは龍寶寺に移動。
大船駅周辺
画像に表示してある場所の内、KGとは平安時代の城の村岡城、玉縄城外郭の二伝寺砦、二傳寺、久成寺、長尾城+定泉寺の瑜伽洞は訪問済み。
神奈川県に出張に来た城オタが必ず見ないといけない城が小田原城、石垣山一夜城、岡崎城、津久井城、大庭城、玉縄城、小机城で、しかし肝心の玉縄城主要部は遺構も少ない事からKGは岡崎城と玉縄城と津久井城だけが未訪問だったので今回は近い玉縄城と岡崎城を訪問コースに入れて見て回る事にした。
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陽谷山 瑞光院 龍寶寺
何故最初の訪問地が龍寶寺かと言うと、この龍寶寺の境内山門の近くには御寺の運営する郷土資料館が朝早くから無料開放されている。
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そこに玉縄城の縄張を再現した地形模型や簡単な解説の展示物が有るので、先ずここで視覚的に立体的な城の構造を復習してから見学すると理解がし易いからだ。
他にも鎌倉の特産品だった雪ノ下胴と呼ばれる甲冑や江戸時代の農機具等の貴重な展示物が有る。
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それにここは玉縄城主の北条家の供養塔も有るので、先ずは御参りして御挨拶差し上げるのが筋と言う物だとも思う。
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因みに玉縄郷土歴史館の立体模型だけでなく余り役には立たないけども日本城郭大系の当該地解説もコピーしてKGと二人で予習してから散策に臨んだ。
先ず目指した場所は七曲りの虎口。虎口と言うのはつまり城の入口を守る防御機構の事。
城=天守閣と誤解してる歴史入門者LVの人は、もう1度上のリンク⤴のサイトで復習してから写真を見ると図と照らし合わせて非常に解りやすく城の構造を理解出来ると思う。
龍寶寺から徒歩5分、直ぐに玉縄城の中心部に登る最終関門となる七曲りが有る。
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今は本丸は女子高で男性には攻め込んだら警察に通報される法律的に難攻不落(笑)の城に成っているのだが、現代も物理的に難攻不落の地形を垣間見る事が出来る。
七曲りは深い谷から一気に本丸の大手門に登って行く道なのだが、谷の両岸は裾切(すそきり)と言われる山裾を直角に切り落とす土木工事がされている。神奈川県の地層は他地域と異なり関東ローム層と隆起した砂岩の地層は登ろうとすると滑る上に地盤としての耐久性は高く加工もし易いので傾斜角が60°以上確保されており、30㎏の甲冑や武器をフル装備した歩兵は絶対に道順通りにしか侵攻する事が出来ない。
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玉縄城七曲虎口
この様に道の斜度もキツイが当時はこの道ではなくフェンスの中に更に直進出来ない様にした九十九折(つづらおり)に農道として残る狭い武者走りと言われる細い道がジグザグに有る。武者溜(むしゃだまり)と呼称される段々に成った曲輪(くるわ)の連続に成っている。
こんな構造体を段郭と言ったり一段しか無い単体なら腰曲輪と言ったりする。この“武者溜”は日本城郭大系にも詳しい図は無く小生もKGも予備知識無かったが見て段地の方が旧道と直ぐに理解出来たし看板にも説明が有ったので確認も出来た。
しかし現代の道は明治時代の地図から改変は無いものの戦国時代の関東の城にしては道幅が2m以上あり虎口としては広過ぎる上に単純過ぎる。
写真でも解るフェンス内の段郭の防御機能を活かす事が出来ていない、恐らく北条家の支配が終わり徳川家臣団が後世に改変させたハッキリ言って城のデチューンと言って良い道だと推測した。
玉縄城主郭周辺 久良岐のよし
現代の道も明治時代の測量図と近い長い直進とL字の連続する喰い違い構造に成っているので、恐らく江戸時代に成って本多正信公か大河内正綱公が城主によって近世城郭に近い形に改編された道だと思う。
こんな単純構造には北条家は城を作らない。元々七曲りなのが五曲り位の道幅も広い大手道にデチューンされてる。
・・・とは言ってもこの七曲り、御覧の通り空堀の堀底道としても機能していて防御力は高い。
ここを進軍すると両脇の城の山の尾根から弓矢鉄砲の集中砲火を受ける事に成る。この様な地形は古代に海が入り込んでいた神奈川県沿岸部の平地、東京都南部~東部、埼玉県東部、千葉県西武~東部、群馬県南東部に多く見られる。
玉縄城は要害堅固で上杉謙信公の15万、武田信玄の2万8千の軍勢に攻められた際も守備兵3千で敵勢の撤退まで守り抜き逆襲に成功した実績が有ったりする。無論、守備した北条綱成(つなしげ)公や北条康成(やすしげ)公は、時には敵だったり時には同盟者だったりした上杉謙信公や武田信玄からも賞賛された名将だったりする。
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七曲りを登りきると右手の変な崖の上に無理やり建てた(笑)民家が有るが、これが三角平場と呼称された曲輪で、七曲りを登ってくる敵を攻撃すると同時に本丸に侵入した際に敵に側面から奇襲を仕掛ける兵士を待機させる構造体だった様だ。
玉縄城縄張図
実はKGだけでなく小生も主郭周辺を見に来た事は無かった・・・
「女子高だからどうせ中に入れないし~」
・・・と自分で文献を読んで無かった初心者の頃の小生はネットの不正確な情報を鵜呑みにして近づいていなかった。
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でも実は住宅街に成った場所にも意外に多く明確な遺構が残っていたんだなぁ~と今更ながらに再認識させられた(笑)。やはり人の情報を鵜呑みにしたらダメだな。
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玉縄城は遺構こそ少ないものの玉縄城址まちづくり会議の荒井会長達の御尽力で解説が有り、残り少ない遺構も楽しく散策する事が出来る。
七曲りの武者溜(段郭)を通過し三角平場の下を突破すると大手門に行く前に左手に太鼓矢倉の平場と堀切と硝煙蔵の平場が現存している。
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説明が有るので良く解らない人でも構造の役割が理解できると思う。
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この写真を見ると太鼓矢倉の尾根が断ち切られた“堀切”が解るだろうか?
平時はここに“引き橋”と言われる仮設の橋が架かっていて、敵が攻めてくると橋を引っ込めてしまって敵が侵入出来ない鉄壁の防御構造に成る。
空堀の深さは堀底~太鼓櫓の曲輪(くるわ)まで比高8m程度と言った所だろうか?普通にこの高さを突き落されたら良くて骨折、悪ければ死ぬだろう。
この構造によって敵は山裾から尾根道伝(づた)いに真っ直ぐ本丸を目指す事は出来ず迂回して七曲りから登って来るか城主の館の道から遠回りして登って来るしかない・・・
「城入門勢の読者の皆さん、ついてこれてますか~(笑)?」
・・・と言う所だが、ここまで読んだ方は既について来れていると思うので書き進める。
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これは清泉女学院高等学校の校庭の下の崖、このコンクリで塗り固められた場所が玉縄城の大手門だった。残念ながら高校建設と宅地化の際に原型が無くなっている。
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でも玉縄城址まちづくり会議の方が説明を掲示してくれているので予備知識が無い人も当時の様子を想像する事が出来る。
この大手門から城主の館が存在したマンション“ルネ鎌倉植木”辺りに降りる“陣屋坂”に向かう場所に玉縄城の石碑が有る・・・
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・・・と偉そうに解説してるが、こんな見つけ難い場所だったので通行人の人に教えて貰うまで見つけられなかった(笑)。
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登るとこんな小さな仏様と石碑が有る。
CIMG2261
熱心なんだけど昭和初期の郷土史家に有りがちな間違い。徳川氏の治世に成って直ぐに廃城に成ったと書いているが実際は徳川家康公の親友で謀将として活躍した本多正信公が城主に成り、更に松平の苗字の名乗りを許された大河内正綱公が城主に成っても城として機能は維持され廃城に成ったのは元禄十六年つまり江戸時代も中期に差し掛かる西暦1703年の話なので、天正十八年(1590年)に北条家が豊臣家に降伏して大阪で狭山藩1万1千石の小大名として移封されても実に113年間も存続していた事に成る。
これだから明治期~昭和初期の郷土史家や学者の書いた物を鵜呑みにしてはいけない。
因みに先に少し触れたが、この石碑の傍らの坂道が“陣屋坂”で下り切った先に有るマンション“ルネ鎌倉植木”辺りに城主の居館や庭園が有った。
玉縄城御主殿址周辺 久良岐のよし
玉縄城縄張図
本丸の清泉女子の北側の尾根には御花畑の地名も残り、勇将の北条綱成公が花を栽培して蝶と戯れている風景を想像すると少し笑える位にホッコリとした安らぎも地名から感じてしまう(笑)。
綱成公の御子息の北条康成公は奥方様が主君で義理の叔父の北条氏康公の御姫様の七曲殿だった。
七曲殿の名前からも解ると思うが、七曲り虎口の入口に有る館に住んでいたので地名由来の渾名で呼ばれた様だ。当時の女性はなかなか存命中の名前が記録される事が少ないので隠居後の法名や没後の戒名しか伝わらず、七曲殿もやはり法名の新光院としか伝わっていない。
墓所は鎌倉市内の大長寺で、この大長寺は康成公が実母で北条綱成公の正妻だった大頂院殿の供養の為に建てた菩提寺だったが徳川家康公によって現在の寺名の漢字に改名させらて現在に至る。

まぁ、KGとの鬼の訪問件数の1日、初回の記事は玉縄城の解説と言う事でここまでにして、この続きは又次回のブログで書きたいと思う・・・
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JR新横浜駅は新幹線が通る交通の要所で、その直ぐ裏手が旧街道なのを知る人は今では多く有りません。その旧道の他に第三京浜道路と言う自動車専用道路が通り、近くの神奈川区三枚橋町は江戸だ時代まで三枚田と呼ばれた地域で、古代の“店屋”と言う古代大和朝廷の駅伝制(伝馬制とも言う)の馬を交換する情報伝達網の中継基地が置かれた重要な地域でした。
そんな重要な地域を抑える城がJR横浜線小机駅の直ぐ隣の“小机城”と新横浜駅裏に存在した篠原城でした。

篠原城については以前、別に記事にしているので御興味有る方は上のリンクをクリックして記事を御覧下さい♪

さて、今回紹介する小机城ですが・・・
image
小机城は現代では竹灯籠祭りが行われる風流な竹林の城址に成っています。この小机城と篠原城は鶴見川の水運を守る位置に築かれとても重要な役割を果たした城でした。
室町時代の初期に恐らく扇谷上杉家により築城され、東京の石神井公園の場所に在った石神井城城主の豊島家の一族が籠城し、関東を代表する名軍師の太田道灌公と攻防戦が行われた事でも歴史ファンには有名な御城です。
太田道灌公
・・・そして太田道灌公が内紛によって主君に暗殺されると扇谷上杉家が衰退し、そこに北条早雲こと伊勢盛時、改め入道(にゅうどう=出家する事)宗瑞(そうずい)公と跡継ぎの北条氏綱公が神奈川県東部まで侵攻して来て小机城は北条家の持ち城と成りました。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
この頃、明確な史料は現存しませんが所領や後の城主等を見ると状況的に初代の城主は北条早雲公の三男の北条幻庵公だった様です。
多摩川~鶴見川流域の城と神社仏閣 久良岐のよし
太田道灌公や北条早雲公の生きた戦国時代初期には経済は一部輸入した中国貨幣と日本で産出される金銀の粒、そして直接商品を交換する物々交換によって経済が成立していましたが、鶴見川を使った水運の流通経済網に置ける重要地点だったんですね。
その小机城や篠原城の先には現在の六角橋商店街が有りますが、その直ぐ近所の久応山寶秀寺は古代の大伴久応とも大伴黒主とも呼ばれた日本武尊の与力豪族の邸址で日本武尊が滞在した伝承も伝わっていたりします。
更に、直ぐその横には神大寺と言う江戸時代の人が“城址”と間違える程に巨大な寺院跡が存在したのですが、その御寺の址に陣地を置いて太田道灌公が休息した伝承が現在も一帯には伝わっており昔は道灌森と呼ばれ緑豊かな場所でしたが、現在では農地開拓と戦後の農地改良でスッカリ削平地にされて何も遺構は残っていません。
ただ、神話の弥生時代後半~古墳時代には既に超重要な交通の要所だった事は神話と店屋の地名の伝承から伝わっている訳です。
もっとも、神話時代の少し前の縄文時代には鶴見川は小机城の辺りまで海で考古学的には鶴見湾と呼ばれています。
亀甲山推定範囲と城址の位置 久良岐のよし
白い部分が縄文時代の鶴見湾と現代人に名付けられている海だった地域で、一帯は鎌倉時代初期に成っても古代海だった名残で湿地帯でした。
今では干拓され広大な平地と成り、小机城の近くには日韓共催サッカーワールドカップの決勝戦が行われた日産スタジアムも在ります。
交通の要所なので昔は湿地帯でしたが鎌倉時代には佐々木泰綱公が開拓を幕府に申請している事が記録に残っており、鎌倉幕府成立以前、源頼朝公による関東統治過程で重要な与力だった佐々木高綱公に一帯の土地が与えられていたりします。


だから別のブログ記事でも触れた鎌倉時代の佐々木高綱公の館址の鳥山八幡宮も在ったり…
2014-01-26-11-51-42

新横浜駅裏には篠原城と言う御城の在った大豆戸町と言う地域が在ったりします。

以前、に行われる小机城址竹灯籠祭りの紹介ブログでも少し触れた「小机城」と言う戦国時代のお城が在ったり城址だらけなんです。
これ↴は小机城現存部の復元縄張り図。

現在城址に在る看板は↓こちら。
看板を見て頂くと分かりやすいのですが、現在城址はJR横浜線と第三京浜高速道路に分断されています。
しかし!
複数の地権者の方々の郷土愛により現存部は守り抜かれ「非常に良好な状態で空堀や曲輪群が現存してる」んです!


その様子は本当に素晴らしいので、小机城の殿様の紹介を始める前に城址公園の写真を先に御覧頂こうと思います…


伝・本丸直下の空堀
この空堀、風化している現在でさえ高さ6m以上なので当時は堀底〜曲輪まで7〜8m、土塁を入れれば10m近い高低差が有ったはずです。


本丸に続く土橋


写真だと判り難いけど横堀と帯曲輪
小机城は素人でも土の城を理解出来る程に状態が良いのです。
石垣よりタチが悪く殺傷能力の高い、土を削りこんで作る関東流の城を一目瞭然理解出来ます。
石垣城はライフタイムが長いのですが、敵兵が登れてしまいます。
しかし
土塁と土の空堀の北条流の空堀は、戦時には堀底に大量の竹槍が設置され、更に水がブチまけれ壁面は泥と化し、屈強な武者や忍者も登れなくなります。
落ちれば竹槍に串刺しに成ってしまうんですね…。
怖い!痛い!エグい!


更に北条流の空堀を発展させたのが障子堀(しょうじぼり)と言う、その名前の通り和室の障子みたいに仕切りがついた空堀です。
DSC_2860

これ↑ね。
これは伊豆山中城の障子堀です。
山中城は横浜の戦国武将で名将北条綱成公の副将だった間宮康俊公が籠城し、豊臣の大軍80000を間宮勢200で迎撃した場所です。
豊臣方の大名を道連れにして豊臣軍死者3000の大損害を与えました。
DSC_2863

それぞれの凹みは深さが当時は2m以上で堀の底から5m位上に曲輪(くるわ)と呼ばれる防御陣地が障子堀の上に有り、更に曲輪の上に土塁と言う高さ2m位土壁が有りました。
ここの空堀は当時は関東ローム層の赤土剥き出しで戦時に水をブチまけ泥ドロにしてしまうと空堀に進入した敵は必ず穴に落ちます。
武者は総重量30kgの鎧兜や刀を装備しているので当然登れませんし、穴の狭さで逃げる事も出来ません。
その逃げる事が出来なく成っている敵を、防衛側は淡々(たんたん)と弓矢や鉄砲で射殺して行くんですね…。
北条流の空堀は凄く残虐で堅固な防御施設なんです。
関東の戦国時代の城が石垣城では無い理由は関東ローム層を活用した方が石垣を組むより“殺傷力の高い要塞”を作る事が出来たからなんですね。

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写真は戦国時代の小田原城遺構の“小峯の大堀切”です。風化した今でも深さ8m程度有りますが、当時は堀は更に深く曲輪に土塁が巡らされていて堀底から上まで10m超の深さが有りました。
更にこの様な大規模な空堀と水堀で小田原城は町ごと囲まれていて“総構(そうがま)え”と呼ばれ堅固で、豊臣軍20万は小田原城の北条軍3万に手も足も出ませんでした。
実はこの北条流の空堀を、小田原城攻めで苦戦した豊臣秀吉も模倣し大坂城の総堀に採用していたんですよ。


さて、この小机城、古くは関東一の名軍師で江戸城を築城した太田道灌公と豊島氏が1ヶ月に渡る攻防を繰り広げた舞台でもあるのですが…


小田原北条家の宿老で箱根の風魔忍者を管理した怪軍師北条幻庵公か御子息の北条時長公が城主を務めていたんです。


KOEIのゲームでは↑こんな頭デッカチに描かれてます(笑)。
この北条幻庵公は先程も話した通り、北条早雲公の三男で長生きしたので第三代小田原北条家の当主で名将名高い北条氏康公の時代に成っても活躍しており名軍師であり外交官としても歴史ファンには有名な方です。
文化人としても日本古来の神仏習合時代の伝統を守る宗教家としても教養高く当時から有名な方だったのですが、その教養の高さを示すのが衰退した室町幕府が本来行っていた武家としての儀式を鎌倉公方(くぼう=将軍)代を務めた蒔田(まいた)吉良家の吉良頼康公に北条家から姫が嫁(とつ)ぐ際に有職故実(ゆうそくこじつ=当時は失われかけていた武家の儀式)や人間関係の掌握方法や個々の人物毎での対応の仕方等を書付けアドバイスした“北条幻庵覚書”と言う古文書が今も残っており、室町時代の武士の生活を知る貴重な第一級資料として有名だったりします。
実は北条幻庵公は北条家の家臣団の中で最大の領地を有しており、“小田原衆所領役帳”とか“北条家所領役帳”とか色んな呼び方の有る古文書(小生は小田原所領役帳と言う名を採用している)によると合算して五千四百四拾弐貫百文の永代(子孫まで保証された)給与を貰っていました。
安土桃山時代の石高に換算すると1貫文=2石です。
北条幻庵公の所領=5442.1貫=10884.2石。これを収入にすると・・・
1石=米150㎏ 現代の米相場平均1㎏=400円前後。
10884.2石×150㎏×400円=年収653,052円(6億5千3百5万2千円)となります。
この1万石がどれ程凄い事かと言うと、初期の北条家が治めた相模国は1国で16万石しか有りませんでした。そして小田原所領役帳が編纂された1559年頃には武蔵国南部も支配地に組み込んでいましたが、武蔵国は1国で約67万石ざっくり半分で33.5万石です。
16万石+33.5万石=49万5千石が北条幻庵公や息子さんの北条時長公が城主だった当時の大凡(おおよそ)の北条家の総石高だと試算出来ます。
北条家も所領役帳に乗る幹部クラス社員や管理職社員だけでも、ここで書き込めない程大量の北条家の社員がいた訳ですが、そんな中で北条幻庵公の所領は実に広大だった事が解りますね。
では49.5万石の内の1万石もたった一人で領有してしまっている訳です。
現代の感覚では6億5千3百万の収入はカルロスゴーンさんが日産自動車の社長だった頃の年収に匹敵しますが、ただ、この1万石の収入で非正規の兵士も含めて戦時には兵士500人を集めないといけなかったので幹部でも決して豊かな状態とは言えないのが当時の武士でした。
しかし初期の北条家で所領以外にも本光院殿(所領役帳編纂時既に亡くなってる北条為昌公の戒名)衆の代理統率官を行っていたので、支配した勢力数は北条家中で相当な物が有りました。
この様に直臣では無くて本家の家臣を預かる武将を寄親(よりおや)と呼び、その部下に成る人を(寄子)と呼びますが、有名どころだけでも相当数の寄子が記録に残っています。
【小机衆】に関しては、本稿の最期の方で歴代城主と与力武将達の簡単な紹介を纏めて載せようと思います。きっと港北区や都筑区に住んでいる人は「おっ!」と思う地名が出てくると思います。
白備え隊の笠原信為公を小机城代として小机城近辺の武将で構成された軍団を率いた北条幻庵公は武人としても功績を挙げており、中でも河越合戦や国府台合戦での活躍が有名です。
河越夜戦布陣図 久良岐のよし作成

北条幻庵公は関東最強だった武将の北条綱成公と今の埼玉県川越市に在った河越城に援軍に赴き河越城主の大道寺盛昌公と合計3000の兵士と共に籠城します…
敵兵80,000を率いる関東管領上杉家と古河公方との合戦で半年間も防衛に成功した上、大逆転勝利に導いた名軍師でした。
8万対3千と絶望的な戦力差ですね。
・・・こんな兵力差の敵兵に囲まれて、小田原の主君北条氏康公との連携を可能にしたのが彼が管轄した「風魔忍者」とその首領「風魔小太郎」の存在でしょう。


KOEIでは↑こんな感じに描かれてる風魔の小太郎。
彼等忍者がいたからこそ、外部との連絡が取れ、また謀略に長けた北条幻庵公だからこそ軍略に長けた北条綱成公と共に河越への後詰(ごづ)めを任されたんでしょうね。
さて、いくら北条幻庵公が謀略に長けていても統率者として優れた副官がいないと軍は統制出来ません。
この小机城、実は平時は笠原信為と言う武将が城代を務めていたのですが…
実はこの笠原信為公も優れた武将で文化人でした。
戦国時代の北条家には五色備えと言う5色に色分けされた5つの主力部隊が存在しました。
その内、"白備え"を率いたのが北条幻庵公で、老齢の幻庵公の代官を務めていたのが城代の笠原信為公だったんですね。
更に里見家と正木家による鎌倉市街地と鶴岡八幡宮への乱入、掠奪、放火、破壊で鎌倉が壊滅した鶴岡八幡宮合戦の復興を統括し、北条家の敵対勢力である上杉家の協力まで取付け鶴岡八幡宮再建を成功させています。

この事業では同じく横浜の蒔田城主吉良頼康公や笹下城主間宮康俊公も活躍しています。
笠原信為公は血筋も由緒ある家系で、古代、律令制以前に存在した相武国(さがむこく:埼玉県東京都神奈川県全域を合わせた行政区域)を治めた相武国造(さがむのくにのみやつこ)の子孫に当たる方なんですが、武士として教養も高く和歌の名人として有名だったそうです。
彼は1557年没なので、丁度、河越合戦で白備えを指揮したのは彼だったはずです。
この信為公と小机城を顕彰する祭りが毎年春に行われています。
小机城址祭り
…と言うお祭りです。
白じゃないじゃん!赤じゃんか!
…なんて無粋なツッコミはしないだけてくだせぇな。
何せ、地域振興のボランティアだから皆。


横浜市港北区長が信為公に扮し、地域住民の方々が扮する白備え部隊を率いパレードや小机城にていくつかの演出もあります。
屋台も沢山出るので家族連れも楽しめるイベントです。
冒頭で触れた今月の竹灯籠祭りと合わせてオススメのレクリエーションです。
イベント抜きにしても、小机城は歴史好きな方にはオススメの場所です。
JR小机駅から徒歩10分もかからないので竹林に覆われた城址公園の遊歩道で、是非、一度お散歩されてみてはいかがでしょうか?
御祭りの様子を崩壊した過去記事へのリンクを以下に掲載して置きます。
※以下のタイトルをクリックすると記事へリンクします。



さて、最後に小机城の歴代城主と小田原所領役帳に掲載される白備え隊小机衆の主だった武将達を紹介して記事を〆たいと思います。

【歴代城主】
●北条 長綱公・・・入道号:幻庵宗哲。
本光院殿(玉縄城主北条為昌)没後にその家臣団も預かる。北条家の宿老で軍師。箱根権現(現:箱根神社)の別当を務め、彼の所領の傍には風魔忍者の屋敷が有った伝承が有る事から風魔忍者を統括していた事が読み取れる。先述の通り、河越夜戦で白備え隊を率いて黄備え隊大将北条綱成公と黄備え隊副将間宮康俊公等と古河公方ー上杉連合軍8万の大軍を城兵3千で半年間の防衛に成功し、更に国府台合戦でも活躍した文武両道を地で行く武将だった。
●北条 時長公(幻庵公実子)・・・戒名:宝泉寺大年用公。
早世したので城主としての事績は詳(つまび)らかでは無い。
所領役帳には“三郎殿”と記されている人物。近年になり実名が時長と判明したが城主としての在任期間は短命の為に短かった。“新編相模風土記稿 足柄下郡の風祭村(小田原城下の東海道から箱根への入口) ”に在る宝泉寺の“開基北条時長”と書かれた文書の存在や、永禄三年(1560年)07月20日が命日と判明している事、同年に北条氏尭公が小机城主の座を継承している事の整合性から宝泉寺が菩提寺の北条時長公が三郎殿だと推定されている。
※風魔忍者の根拠地が風祭で箱根の山を熟知した集団と言われている。
●北条 氏尭公・・・北条氏綱公の四男で北条幻庵公の甥に当たる。
永禄三年(1560)年に小机城址と成る前は平井城主だった。平井城は上杉謙信が相続した山内上杉家の本拠地だった事もある重要な城だった。武蔵国の防衛で活躍し、上杉謙信の関東侵略に際して河越城に援軍に赴き撃退に成功している武勇の持ち主だった。
伊達家との外交でも活躍していた事が古文書の存在によって明らかに成っている。
●北条 氏光公・・・北条氏康公の八男と言われるが確定されてはいない。
北条幻庵公の姫が正室(せいしつ=本妻)。元々は戸倉城主だった。
織田家の中部地方支配が本能寺の変で崩壊すると、羽柴秀吉の了解を得て甲府を制圧した徳川家康公が武田家最後の居城だた新府城(山梨県韮崎市)へ入城する。武田家と縁戚だった北条家も織田領へ侵攻し旧武田領を切り取り始める。新府の徳川家康公を挟撃殲滅するべく北条家第五代当主の北条氏直公の大軍は新府の北の若神子城(山梨県北杜市)に大軍着陣し徳川軍を引きつけ、別動隊として北条氏光公の小机衆と北条氏勝公の玉縄衆が富士山の東側を回り甲斐と駿河国境側から御坂城(標高1600m山梨県笛吹市)へ兵10000で着陣し挟撃の機会を伺った。しかし小山城(笛吹市)を兵3000で守備していた鳥居元忠公が北条家の動きを察知しており、統率者が若い小机衆と玉縄衆は急峻な山を下り黒駒の狭隘な谷間で鳥居元忠公の急襲を受け壊滅、殿軍(しんがり)を務めたと思われる玉縄衆の付家老である間宮家を継承していた間宮康信公が討ち死にする等大損害を受けた。
尚、間宮康信公は当時、父の間宮康俊公の跡を継ぎ笹下城(横浜市港南区)の城主に就いていたと思われるが武田信玄の存命中に駿河東部で当時の寄親である玉縄城主北条綱成公が深沢城(静岡県御殿場市)の守備も兼務したいた時代に、間宮康信公が率いる黄備え隊の分隊は武田軍を駆逐して追撃壊滅させる大活躍をしています。
代替わりした大将が実力不足だと河越城防衛で活躍した白備え隊も黄備え隊も軍団の実力を発揮出来なかった様です。
【歴代城代】
●笠原 信為公・・・官途は越前守。北条五色備え:白備え隊軍団長。小机城城代。大曾根城主。
鶴岡八幡宮再建では総奉行を務めた。北条為昌公の烏帽子親。詩歌に精通した風流な武将だった。
小机城近くに曹洞宗の父の菩提寺として雲松院を開いた。大倉山の龍松院の前身とされる文殊堂を開いたのもこの人物かと推測出来る。
●笠原 康勝公・・・官途は能登守。小机城代。大曾根城主。笠原信為公の実子。
弘治三年(1557年)に笠原信為公が没し菩提寺の神大寺に葬られると軍団と城代を継承した。大倉山に龍松院を開いた人物とされるが父の代に開かれた文殊堂を本格的に寺院化した人物と思われる。

【小机衆寄子】
●笠原 弥十郎・・・領地は足柄上郡開成町岡野と静岡県田方郡修善寺町田代。
姓と出身地から推察するに笠原信為公の親類だろう。しかし諱(元服後の名前)は不明。
豊臣秀吉の小田原城攻めの際に豊臣軍に内通した松田憲秀の子、笠原政晴が継いだのはこの弥十郎の家系と思われる笠原綱信の跡目だと近年の研究で判明している。
●金子 十郎 ・・・官途は出雲守。篠原代官(横浜市港北区東部を統治)、篠原城代。
●小野 与三郎・・・八朔代官(横浜市緑区北部~青葉区南部を統治)。
●陰山 又六 ・・・本郷代官(横浜市港北区小机町~都筑区南東部~緑区東部を統治)。
●遠藤 兵部丞・・・猿山代官(横浜市緑区中部を統治)。
●神田 次郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。領地は静岡県三島市内旧字名が長溝と平塚市土屋辺り。
●曽根 外記 ・・・領地は横浜市都筑区東部とセンター北駅周辺と川崎市中原区宮之内辺り。
●座間 弥三郎・・・茅ヶ崎城(都筑区茅ヶ崎)城代?官途は豊後守。領地は横浜市都筑区茅ヶ崎。
●猿渡 内匠助・・・佐江戸城(都筑区佐江戸)代?領地は横浜市都筑区佐江戸町。
●中田 加賀守・・・矢上城(慶應大学日吉キャンパス)城主、井田城城主?吏僚。
領地は川崎市幸区鹿嶋田~中原区大倉町一帯と中原区下小田中一帯の他、保土ヶ谷区中央西部~旭区東部一帯、横浜市港北区北東部~川崎市西北部一帯。
下総国印旛郡臼井城主の千葉家分流臼居家に姫を嫁がせる程の家格を有した武将。元は太田康資公の家臣だったので祖先は太田道灌公の代以前からの太田家臣だったのだろう。太田康資公の北条家謀反後に北条直臣に成り、小机衆を経て北条家臣化した蒔田吉良家の与力と成った様だ。
●二宮 播磨 ・・・領地は埼玉県狭山市青柳周辺。吏僚。
恐らく延喜式内社相模国二之宮の川勾神社宮司家一族。小机城から程近い浄土宗の中本山格を有す小机町~緑区東本郷の区境に存在する泉谷寺を北条氏綱公と供に開いたとされる二ノ宮織部丞の子か?
二宮金次郎尊徳公の祖先の同族とも推測出来る。又、二宮家には間宮家から養子が入っているので間宮林蔵や杉田玄白とも祖先が同族である可能性が有る。
●市野 助太郎・・・領地は茅ヶ崎市赤羽周辺。市野四郎の近親か?
●市野 四郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。市野助太郎の近親か?領地は助太郎と同じ域内。
●市野 弥次郎・・・領地は港北区日吉本町。
●田中 伊蔵 ・・・領地は川崎市麻生区万福寺(新百合ヶ丘駅周辺一帯)。
●福田    ・・・領地は都筑区大熊町。
●高田 玄蕃助・・・領地は川崎市宮前区中部~西部一帯。

他にも小机衆は沢山居て切りが有りませんが主だった人達は又おいおい追記しようとおもいます。
どうですか?小机城と小机城に関わった人々、皆さんの地元が関わりの有る武将も多かったんじゃないでしょうか?
又、こんな感じで北条家の各軍団と皆さんの地元の御縁を紹介して行けたら良いなぁ~と思います。

では!、又この記事の小机衆の名簿更新と新しい別の記事で御会いしましょう!
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一昨日の夜にブログ更新するはずだったのにすみませぇ~ん!
最近、色んな町の学芸員サンが資料準備して色々と城址について解説して下さる機会を頂いたり、自分も違う事で急用で資料作って郵送したり他にも色々(昔の初代プレステ引っ張り出してファイヤープロレスリングGやったりwww)していて記事更新遅れました!

今回、本当はこの記事⤵
これ⤴の続きの後編で深沢城を紹介するつもりだったのですが、現地学芸員の方が資料を下さったり発掘の状況を口頭でも解説して下さったのと、地主の御爺ちゃん2人からも農地として重機を入れて地形を変えてしまう以前の話や御爺ちゃんが子供の頃の城址の話をしてくれたので、休日雑記とは別に‟深沢城”として独立記事にする事にしました。
休日雑記の後編は改めて書きます。

さて・・・
KIMG0522
深沢城跡
皆さんは御殿場市に深沢城と言う名城が存在した事を御存知ですか?
城郭ファンや戦国時代ファンには有名な城でマニアック度を5段階で評価するなら交通の不便さや知名度から言ってLV4位の比較的上級者向けの城跡と言っても良いかと思います。

実はこの御城、堅城と知られ物凄い武将の間で攻防戦が行われた場所だったりします。
先ず一人目、御城を作ったのは今川氏親公。この方は日本史で誰もが習う分国法の‟今川仮名目録”を制定した内政に秀でた名将でした。
内田対馬守家感状 久良岐のよし
北条早雲公~北条氏綱公の時代、川崎駅辺り~横浜市沿岸部の寄親(軍団長)だった間宮信親=間宮信冬公に恐らく名の一字を下賜(かし:目下に報償を与える事)したと思われる殿様が今川氏親公でもあります。
間宮家は佐々木氏で間宮の苗字は伊豆の国市間宮(馬宮)を領有した時に名乗り始めたので、今川家臣化し北条早雲公の与力に成って以後の時代、北条家二代目の北条氏綱公の時代の武将が間宮信親公と言う事も解ったりします。つまり小田原城主北条家が誕生し、相模国最大の国人だった間宮一族が武蔵国南部制圧時代に活躍し、後に沿岸部の間宮軍団や内陸部の太田軍団が解体されて小机衆や玉縄衆が編成されていってる変遷も何となぁ~く見えてきたりします。
小生は個人的な推測では、間宮信親=間宮信冬=間宮彦四郎=海老名市・磯子区東部~港南区北部~南部・神奈川区富屋~斎藤分町・鶴見区末吉~川崎市川崎区の領主と同一人物だろうと考えています。
この間宮家の旧主の氏親公の母方の‟舅(おじ)”が、後に間宮家の主君と成る北条早雲の通称で有名な伊勢盛時‟宗瑞”公でした。
新九郎奔(はし)る!
漫画の‟新九郎奔(はし)る!”で主人公に成っているのが北条早雲公です。
新九郎奔(はし)るは平成初期に大ヒットした漫画‟機動警察パトレイバー”の作者、ゆうきまさみ先生により現在ビックコミックスピリッツで連載中です

パトレイバーは数年前に真野恵里菜サン主演で実写化されたりもしていますので、20~30代くらいなら結構知っている人もいるかも知れませんが現役大学生位に成ってくると知らない方も多いかも知れませんね。
新九郎奔(はし)るの主人公、北条早雲こと伊勢盛時公の肖像画は実際はコンナ感じです・・・
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
・・・この北条早雲公が今川氏親公の‟舅(おじ)”な訳ですが、先程から小生が舅(しゅうと)の字を小生が舅(おじ)と読み仮名を振っている事にツッコミ入れようとしたアナタの為に、ちょっと深沢城から話を逸(そ)らして舅の漢字の意味を解説させて貰います。
実は舅の字は現代日本語の‟夫の父”と言うのは大間違いで、本来の漢字の意味では‟母方のオジサン”を意味する字です。
儒教由来の中国文化の漢字なので華語文化圏の表記が正しいのですが、何で日本の現代国語学者が字を誤植し夫の父を舅を‟しゅうと”と読ませてしまっているか誰も間違いに疑問を感じず既成事実化してしまっているだけなんです。
中国語の家族の呼び方
画像掲載元→http://chugokugo-script.net/kiso/kazoku.html
現代中国語の漢字を旧血縁の漢字に変換してみましょう。

現代中国口語     →漢語        →日本語

妈妈(マーマ)   →母親(ムーチン)  →母/母親

爸爸(バーバ)   →父親(フゥチン)  →父/父親

舅舅(ジィウジィウ)→舅父(ジィウフゥ) →叔父※誤植
※母の兄弟

舅母(ジィウムゥ) →舅母(ジィウムゥ) →叔母※誤植
※母の兄弟の妻

老爷(ラオイエ)  →外祖父(ワイズーフ)→祖父(母方)
※母方祖父

姥姥(ラオラオ)  →外祖母(ワイズーム)→祖母(母方)
※母方祖母

姑姑(グーグー)  →姑母(グームー)  →叔母※誤植
※父方叔母

姑丈(グージャン) →姑丈(グージャン) →叔父※誤植
※父方叔母の夫

・・・まぁこんな感じで全然現代の日本語に誤植されている漢字の意味は本来の漢字の意味は異なっていて、更に父方の叔父も父より年長か年下かで漢字が異なってきます。
漢字の血縁の話に脱線しましたが漢字の意味的には北条早雲公は深沢城を築城した今川氏親公の舅(おじ)だったって話だけです(笑)。
さて、そんな訳で名将今川氏親公と、その家臣だった伊勢宗瑞(北条早雲)公の甥とオジチャンがコンビだった時代に築かれたのが御殿場の深沢城だった訳です。
この深沢城、何で今川→北条→武田→徳川→廃城と強豪大名達によって争奪戦が繰ひげられたのでしょうか?
深沢城は現代では御殿場市に存在しますが、これは縄文~平安時代以前から存続する神社と遺跡と道を重ね合わせると一目瞭然に理解できます。
先ずは深沢城と古社と縄文時代~弥生時代の海岸線をGoogleEarthで重ね合わせて見ましょう。
古代の街道と深沢城
※画面をクリックして拡大して見て下さい。
この通り海岸線が現在の位置に近づいた古墳時代に創建された伝承のある平塚八幡宮と前鳥神社を除いて古代の海岸線の湾の最深部や半島の付け根と先端に存在し、内陸部が古代の矢倉沢往還や中原街道の通過点に存在している事が解ります。
実は現在の東海道は江戸時代に再整備された道の近くに作り直された道なのですが、平安時代以前の主要街道は海沿いの古代東海道と内陸の矢倉沢往還の2本でした。
矢倉沢往還は・・・
御殿場市の山側北部を通過する矢倉沢関所を通過し足柄郡から国道246に合流する道で足柄峠~足柄関~寒田神社~比々多神社~五社神社~杉山神社~橘樹神社と続き悉(ことごと)く国府や郡衙(市役所みたいなの)と延喜式内社の近所を経由する街道です。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
古東海道は・・・
綾瀬市五社神社辺りで矢倉沢往還と分岐~神崎遺跡~藤沢市宇都母知神社~大庭神社~村岡城~鎌倉市御成町(推定郡衙)~逗子市岩殿寺~桜山古墳(蘆花記念公園)~葉山町下山口~神武寺~上山口~横須賀市走水神社~房総半島富津市の文字通り東の海沿いの尾根道と海を船で越える海路で、悉く平安時代以前から存在する倭建命(やまとたけるのみこと)神話や弥生時代~古墳の重要な遺跡の残る地域の神社を通過します。中世に成ると古代の尾根道から山麓の平地に人の流れが変わり道が開かれ、山上の古道は修験者の山岳聖地巡礼の順路に成った様です。
その古道の‟矢倉沢往還”の起点と古東海道からの敵軍の小田原城防衛ラインの前線が深沢城と山中城だったんです。
近くの小山町は古代駅伝制の横走関=店屋(てんや=兵站)と考えらている上横山遺跡も有り深沢城は重要な街道を防衛する城でした。
小田原城防衛網
そしてこの足柄峠の古東海道と箱根の中世東海道を守る城が深沢城の後ろにも幾つか存在し、戦国時代の大名北条家の本拠地‟小田原城防衛網”を形成していました。
深沢城の北西の甲斐国には北条家と敵対する武田家がいました。
武田菱
  武田VS北条
   三つ鱗紋
深沢城を攻略されると一番ショートカットで小田原城を襲撃されてしまう訳です。
武田信玄
この肖像画は風林火山で有名な武田信玄ですが、特に武田信玄は・・・
「疾き事風の如く」
「侵略する事火の如く」
・・・のキャッチフレーズの通り侵略戦争をする際は用意周到に街道整備をする等、毎回必ず最短ルートで速攻するのが得意な名将である反面、他の地域の農民から見て武田信玄は攻め込んだ先では当時の価値観でも激しい凄惨な略奪や放火をしてまわる苛烈な悪の武将でもありました。
北条や今川から見ると武田軍が甲斐国都留郡経由で小田原城や今川館(駿府城)に攻めてくる可能性が高く、深沢城は特に重視された訳です。
KIMG0519
この写真は戦国時代、城として機能していた時代に根小屋(ねこや)と呼ばれた兵士や武将達の詰所(兵舎)が置かれていたと考えられている場所から城跡の主郭を見上げた写真です。
KIMG0526
今回は城址の構造は触れず、この城に関する資料の文書等を紹介しますが、ここまでで地理的に深沢城が重視されていた歴史は御理解頂けたでしょうか?
では本当にここは、戦争が起きるような場所だったの?と思う人が小生の海の景色の紹介記事等から読者に成って下さった歴史に余り関心が無かった人に証拠の文書を紹介したいと思います。

禁制
右當手之軍勢甲乙人等濫妨(乱暴)狼藉堅令停止早若違犯之輩有之者速可処罪科猶寺中門前共ニ
自今以後於竹木等も不可剪者也仍如件
奉之
江雪
壬(永禄十二年:1569年)五月十六日 宝持院
内容を簡単に今の会話に翻訳するとコンナ感じです・・・
右(禁制=禁止命令)は、ウチ(北条)の軍勢甲乙(みんな)に「乱暴な事しちゃイケねぇ~よ!」ってキツク命令する。
もし(禁止命令を)守らね~奴がいたら、ソッコーでシバクかんな。
それと寺の中も門の外も、今から(寺の土地で)竹も木も伐採するんじゃねぇ~ぞ!
まぁ、そんな感じだからよ。
江雪より~
1569年05月16日 宝持院(へ💛)
・・・この文書に登場する‟江雪”は板部岡江雪斎と言う北条家重臣で、以前大河ドラマ‟真田丸”にも登場した人物ですね。
そして文末に登場する宝持院と言うのは深沢城の近くに今も存続している寺院です。
更に宝持院の近く大雲院には安土桃山時代に徳川家が城を復興した頃の城門を移築され今も当時の門が御寺の山門として現存しています。
この文章は御寺の人が深沢城に駐留する北条軍に乱暴されない様に、北条家の殿様が御寺に配慮して、和尚さんが北条軍の司令官宛てに「ウチは北条家の殿様に守って貰える確約ありますよ!」って見せれる財産安全の保障の証拠として重臣の板部岡江雪斎サンに書かせた物です。
この時に駐留した軍勢は横浜市と鎌倉市の兵隊で、率いていたのは玉縄衆大将、北条綱成(ほうじょうつなしげ)公です。
北条綱成
この人⤴※KOEI信長の野望画像
この綱成公の率いる玉縄衆は異名が黄備え隊で、軍旗が朽葉色で統一された軍隊でした。
朽葉色ってのは9月中旬が見頃の黄花秋桜(キバナコスモス)の色ですね。
KIMG0286
この花⤴が黄花秋桜。因(ちな)みに、この写真は北条綱成公が建てた鎌倉市の龍寶寺の綱成公の御墓の前に咲いている黄花秋桜の写真です。
 これ⤴以前書いた北条綱成公の紹介記事ですが、ブログ書き始めたばかりの頃に書いたので内容が薄っぺらく何の参考にも成らないかと思います。
黄備えの副将は横浜市磯子区~港南区にまたがる笹下城主の間宮康俊公と間宮康信公の親子でした。
これ⤴以前に間宮家を紹介した記事。
実はこの書状で北条の殿様の代理で板部岡江雪斎サンが1569年5月に宝持院に対して近い将来大軍勢が来て駐留する事を見越して御寺に安全保証する文書を書いているのは翌月6月に武田家が深沢城に攻めて来たので事前に危機を察知して防衛強化を始めた時期だった事が解ったりします。
そして、ちょっと長いですけど、もう1通こんな文書が残っています・・・
急度(きっと)令啓候、仍(=なお)信甲之人衆、今十六、駿州之内號(号)深澤新地寄來(来)候、左衛門大夫(北条綱成)、松田(松田憲秀)以下楯籠(=立てこもり)候間、不可有別條候、伹(※誤字→但)只今之時分出張爲(為)如何(いかが)子細(しさい)候哉、何篇二も、今明行之様子見届、重而可及註進(注進)候、然而、始小幡動衆之由申候間、新太郎(北条氏邦)申付、向西上州及行候、哀其父子一人有出陣、万端(ばんたん=何でも)新太郎被相談ニ付而者、動可爲思儘(まま)候、若(もし)横合(よこあい=邪魔する)有之者、可然人衆數(数)多可有加勢候、必々(必ず×2)有遲(遅)々者、不可有曲候、如何様ニも、廿(二十)日廿一日之間ニ御動専一候、委細新太郎可申候、恐々謹言<br />追而越國(越後国)へも及飛脚候間、相心得被申入、任入候、以上
  六月十六日 氏政(北条氏政)
    由良信濃守(由良成繁)殿
・・・これ、1569年当時の北条家の当主の北条氏政公が傘下の小大名の由良成繁(なりしげ)公に送った手紙なんですが、この時攻めて来た武田信玄によって深沢城は落城します。
この差出人が北条氏政公の手紙を要約すると・・・
武田信玄KOEI
武田信玄⤴️※KOEI信長の野望画像
「長野県と山梨県の武田軍が攻めて来ちゃった!」
「ヘルプ!」
「ダメ、援軍遅刻、絶対!」
「同盟者の上杉謙信(この人)⤵にも緊急拡散して!」
上杉謙信KOEI
上杉謙信公⤴️※KOEI信長の野望画像
・・・と由良サンに対して書いているのですが、氏政公自身が2万の大軍の本隊を率いて大遅刻したせいで武田軍の2万に深沢城は取り囲まれたまま籠城不可能な状態に追い込まれ敗戦しました。
良くいるでしょ・・・
「遅刻するなよ!」
「30分前出社!」
・・・とか言いながら自分がルーズな経営者(笑)。
小生はこの北条氏政公は思考パターンと行動が適応障害者だったと推測してるんです。
変な拘りに完璧主義過ぎて毎回、十分に軍勢が揃って自分が安全に戦える状況に成らないと援軍行かないせいで肝心な合戦で何回も敗戦し北条家が勢力伸長に失敗する事に成るんですよ。
コレ⤴とかね。
玉縄衆は善戦し北条綱成公と間宮家はかなり粘ったのですが、武田信玄配下の鉱山衆によって破壊工作が行われ俗説には水の手(給水施設)を破壊されて籠城不能に成ったと言われています。
小生は個人的に玉縄衆だけでなく、裏切るマン松田憲秀親子が一緒に籠城していたので松田が撤退を主張したんじゃないかなぁ~?とか思っていたりします。
実際に当時、北条家の同盟者だった上杉謙信公は上州方面から武田家にプレッシャーかけるか直接援軍を送るつもりだったらしくコンナ事を言っています・・・
上杉謙信KOEI
KOEIのゲームの上杉謙信公⤴
肖像画の上杉謙信公⤵
上杉謙信
上杉謙信「(自分にも勝った)地黄八幡(北条綱成)が負けたちゃったYo~!」
実は上杉謙信公、北条綱成公の息子さんの北条康成公が3千で守る鎌倉市JR大船駅近くの玉縄城を15万の大軍で攻めたのに攻め落とせず撤退したり、まだ北条家と武田家が同盟者だった時代に長野の上田城に援軍に来た北条綱成公や千葉県方面の戦争で玉縄衆に結構苦戦させられてる歴史が有るんですね。
・・・なので上杉謙信公ですら北条綱成公が負けると思ってなかったらしいですね。
なんせ上杉謙信公が上杉家を継ぐ前の話ですが、河越城の攻防では北条綱成公達は3千だけで8万の上杉軍相手に半年間も籠城に成功した挙句・・・
北条氏康
綱成公の義理のお兄ちゃん⤵⤴北条氏康公
北条氏康公
・・・綱成公は小田原から当時の主君で義兄弟の北条氏康公の本隊8千を迎えて合計1万1千で上杉軍8万夜襲して挟み撃ちにしてギッタンギッタンにして壊滅させてる名将なんですね。
なので小生は深沢城の敗戦原因をずっと・・・
「(裏切気質の)松田憲秀が撤退主張したやろ(怒)!」
・・・と思ってました(笑)。
実は今回、定説の水の手云々(うんぬん)の話しと異なる可能性を知る事が出来ました。
御殿場市の学芸員サンと地元の地主さんへの取材で小生が本丸跡と推定している二の丸の空堀で焼けて炭化した米が発掘調査で見つかっているんですね。
KIMG0779~2
※クリックして拡大して見て下さい。
この縄張り図で真ん中の‟二ノ丸”と書いてある場所と上の‟本丸”と書いてある場所の間、左側にクビレてる空堀ですが、そこから炭化した米が調査でも発掘されているし、仲良くなった地主の御爺ちゃんも子供の頃にそこを「掘ると焼けた米が出て来たんだよ」って教えてくれたんですね。
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この2号堀て辺りだそうです。
2号堀の上側が小生は三の丸だと思ってるけど、地元では本丸と呼ばれている場所。
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その城櫓(しろやぐら)辺りは‟二ノ丸”と呼ばれている場所で、下の縄張り図のⅠ郭(本丸)とⅡ郭(二ノ丸:小生はⅡ郭が本丸だと思う)の間の②の空堀の本丸側。
仲良くなった地元のオッチャンの話では田んぼにする前の地形では棚田3段分くらい約3mくらい今より高い地形で城の地形の中で最高所だったそう。
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‟Ⅱ郭”が縄張り的にも小生はこの辺りが本丸だったろうと思ってます。
ここからは写真で見る限り八王子城の御主殿(城主屋敷)と酷似した構造物も見つかってます。
KIMG0784~2
完全にここ二ノ丸が政庁であり城代の屋敷だったと個人的には考えています。
下に見えてるのが根小屋と呼ばれていた地形なので兵舎の並ぶ区域だったんだろうと思う。
で、焼けた米が出土する訳ですが、小生は実際は武田家の鉱山衆は水の手を切って落城させたんじゃなくて、二ノ丸の下の根小屋側・・・
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ここの‟水の手の根小屋側”から武田家の鉱山部隊が弓矢の届く範囲まで仕寄り(塹壕)を作りながら攻城陣地を築いて来て、火矢や火薬で二ノ丸食料庫を放火し北条軍の戦闘を継続不能にしたんじゃないかと新しい説を考えました。
この焼けた米の話を学芸員サンに聞くより早く、地主のオッチャンに教えて貰った際に・・・
小生「こんにちわ~」
・・・って声掛けたら未だ何にも言ってないのに・・・
オッチャン「横浜から来たの?」・
・・って聞いてきてビックリ!何で分かったんだろう?と思いながら・・・
小生「そうだよ横浜から来たよ~」
・・・って言ったら珍しい奴だなって喜んでくれて、オッチャンが子供の頃の土塁とか地形を削って農地にする前の話を沢山聞かせてくれて「又遊びにおいでね~、ここにいるから!」って言ってくれて嬉しかったんだ。
凄い偶然だけどオッチャンのムスメさんが小生の家の近所の港南台高島屋で働いてたそうだ。
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で、この写真の左側辺りが焼けた米の出た空堀だったかな?
後から学芸員サンにも凄く丁寧に教えて頂く事が出来ました。
実はこの深沢城ちゃんと(笑)火災に遭っている記録が有るのですが、それは北条家と武田家の合戦の時ではなく、織田信長公と徳川家康公の連合軍が武田領に一斉に攻め込んだ際に深沢城代だった武田家臣の駒井昌直が自ら放火して城を放棄した記録だけが残っています。しかし小生が思うに未だ徳川軍に攻め込まれてない時間的に余裕の有る状況で撤退する際に兵糧と金銭を焼き捨てるとは考え難いので、炭化した米は北条家と武田家の戦闘で焼け、更に武田家臣駒井が城を放棄した際に建物が焼かれ、徳川家が安土桃山時代に改修し再利用後、再度放棄され廃城に成った一連の土木事業の中で細かい時代考証が出来ない状況に成ったんじゃないかな?と個人的には感じました。

さて、城の構造の説明が入口からではなく、状況説明のついでに成ってしまったので見学コース沿いに紹介して見ます。
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入口がここ。
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現在地の場所ですね。
この看板の裏にも三ノ丸の三日月堀と表記されている空堀が有ります。
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少し解り難いでしょうか?
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御城行くのが好きな人は良く解ると思うのですが、城址公園化されてない空堀って写真じゃ伝わり難(にく)いんですよ。
その看板の横側から農道兼散策路に成っていて、入って直ぐに空堀が見えます。
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これは比較的状態が良い。
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ここは‟丸馬出し”と呼ばれる半月状の出撃口の遺構です。
本来、我々城郭ファンはこの丸馬出しの空堀の事を三日月掘りと言います。
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その馬出しの削平地には石碑が立っています。
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昔は東名高速道路が無かったから深沢城の前の足柄峠を通過する際に観光で立ち寄る人もいたのかも知れませんね。
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その下の空堀。
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二ノ丸の手前、‟下馬溜め”と言われている構造体の空堀が雑木林化してるが現存。
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ここは小机城の構造に似た構造が有るけど、変形の食い違い虎口(敵の侵入を制限し迎撃する構造体)だと思う。
下は小机城の現存部分の縄張り図。
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これの②の構造に深沢城現存部の‟下馬溜め”は似てる。
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下馬溜めの空堀だけど写真じゃやっぱり訳が解らないね。
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下馬溜めから二ノ丸に繋がる武者走り&空堀&土塁
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そして二ノ丸入口。
更に奥に本丸。
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本丸に続く土橋。両脇は空堀。
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本丸側の城櫓とされる削る前は場内最高所だった郭。
下に根小屋地形が見える。確かに小机城の根小屋とも酷似する。
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本丸は今では風に靡く稲波美しい。
地主のオッチャン、色々と親切に教えてくれてありがとうね!
色々と発掘調査資料を提供して下さった御殿場市教育委員会様、ありがとうございました。
御殿場の皆さんはとても温かったです♪

さて、深沢城この様に結構空堀は立派に残っています。もし御殿場方面に行く機会が有って本当に御城が好きな人は立ち寄る価値が有ると思います。

きっと皆さんの御近所の神社や御寺や公園の山も、元々は御城だった場所が有ると思います。
気分転換したい時にちょっと御近所の神社や御寺や城山を歩いて看板を読んでみませんか?
きっと皆さんと歴史偉人を繋ぐタイムマシーンみたいに感じ自分の町を更に好きに成るかも知れませよ~?

・・・では、次は前回の休日雑記の続きか銭湯の記事で御会いしましょう~♪
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新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。
和田長浜(わだなはま)海水浴場
※個人的に一押しの海水浴場!
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「自粛やぁ~めた!」
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・・・で、車で30分の近くの海に潮風に当たりに行って来た。
三ヶ月前から中国から情報共有されてたし、中国反省してからの対応は参考に成った。中国から3月初旬には大量の検査キットや医療用具の提供も有った。
そもそも武漢肺炎爆発感染開始直後に上海の医療先進チームが100人編成で武漢入りした際の装備の不備で全員感染し壊滅した事実も、外務省から厚生労働省に情報共有されなかったのかダイヤモンドプリンセスの検疫に活かされてもおらず、厚生労働省と政府の相談役の有識者は自分達の方法に拘り全て後手後手に回り、現場の職員は感染リスクにさらされた。
台湾のサーズの経験活かした中国からの感染者流入阻止と感染者隔離と防疫も、1月初頭から良い御手本に成っていたにも関わらず、それも模倣出来なかった。

全て無視して対応が3ヶ月遅れたのは政府の責任。三蜜回避要請も1ヵ月の約束だったはず。
自営業の連中はどんどん倒産してる。

「阿呆(アホ)らしい」

スーパーに親子連れで買物来てて、あれだけ過密してて皆で商品べたべた触って三蜜回避も外出自粛も無ぇ~よな?
伊勢佐木長者町や曙町の性風俗店は普通に営業黙認してるよな?
黒岩神奈川県知事、林文子市長?
なんで真面目な洋食屋さんや居酒屋がダメで、濃厚接触どころか直接粘膜擦れ合う淫靡な接触でヤクザの資金源で最凶最悪の性風俗店が営業してるのを実名公表しないんですかね?

あ~御二人とも性風俗の常連客なんでしょうか?

性風俗に事実上の自粛無用の営業公認する黒岩知事と林市長。
約束守らないし、国民の生活守らないし、日本企業守らない政府。
特によくいる実力不足だけど自己顕示欲が強い“苛めっ子優等生”タイプの西村大臣の大阪府知事に対するマウント。
くだらねぇ~なぁっ、エライさん方!
末端の公務員と県民の事考えてなさそうだ。

「だから自粛やぁ~めた(笑)!」
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うひゃ~♪
人のほとんどいない海って気持ち良ぃ~(笑)!

どこの会社にもいそうな有能な後輩を潰しにかかる無能上司みたいな西村ってオッサンにクサクサしても意味ないし、安倍総理も約束と違う“緊急事態宣言延長”とか言い出したから、もう自分なりにしていた三蜜回避の為の自粛の御願い聞くも止めて飲食店にも行く事にした♪
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うぉ~!焼き鳥美味ぇ~(笑)♪
※店は後で紹介する。もろ三蜜♡で食べる立ち食いの御店!

感染源特定出来ない状況にまで事態が悪化してるのに、外出自由の現状で外出自粛要請は意味が無い。
一番ダメなのは電車バス通勤を禁止しない事。
もう手と手、頭髪と頭髪で間接接触も直接接触もしまくり!

でも庶民の小生がそんな事を考えても政治家じゃないから仕方ないもんね(笑)。
身の回りにいる“男性のバブル世代や団塊世代”に言っても・・・
「政府より偉いと思ってるの?」
「自分が政治家に成れば?」
・・・とか、民主主義の「み」の字も自覚してない自分達が国家運営を委託する人間を決める国家運営に関わってる一員と言う自覚が丸出ない、無責任な発言しか聞かなかった。

てなわけで、なんかクサクサした気分を「パっと!」晴れやかにしたい気分に気持ちの良い青空、三密回避に山歩き行くには雨翌日の泥濘(ぬかるみ)で無理なので海に行ってきた・・・
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浦賀燈明堂(とうみょうどう)
これどこよ?と歴史に興味ない人は思うだろうけど、歴史的に重要な場所で有りメチャメチャ奇麗な場所。
写真の右上を見ると和風の建物が見えるだろうか?それが復元された江戸時代の“灯台”なんだな。
浦賀城周辺 久良岐のよし
実はそこ、江戸時代初期はおろか平安時代から重要視された浦賀港の入り口で、岩礁が有るので慶安元年(1648年)に江戸幕府の命令で築かれた日本最初期の灯台で、近代の明治五年(1872年)まで稼働していた施設なんだな。
そして戦国時代には三浦水軍の重要拠点として浦賀港の入口東側の東叶神社の丘陵が城塞化され、神奈川県では有名な浦賀城が築かれ東京湾防衛を担った。
北条家臣間宮一族で北条氏康公の奏者(秘書)を務めた間宮宗甫公、そして平安以来の三浦郡領主の三浦氏の分家である横須賀氏が在番した水軍拠点の城だった。
城主の横須賀氏は元は鎌倉武士として源頼朝公の最大の協力者だった三浦義澄(よしずみ)公の支配した三浦一族の子孫で、三浦本家が滅亡して分家の佐原三浦家が三浦家の名跡を次いで室町時代に大名に返り咲くと横須賀氏も重要視され、三浦氏の戦国大名として最後の武将と成った新井城主三浦義意(よしおき)公の母君が横須賀秀連公の御息女だったりする。
つまり、この横須賀秀連公が北条氏綱公が相模を統一した頃の横須賀の浦賀城主で、間宮宗甫公は横須賀氏の目付(副将兼監視役)的な意味で配置されたのだろう。
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間宮宗甫公の宗甫は名前では無く入道号であり仏門に出家した法名だ。
1560年迄の領地も“北条所領役帳”に記載が有る。
八貫五百文 神奈川斎藤分
六貫文   鎌倉紺屋分
弐捨貫文  御蔵出し
この鎌倉紺屋分と言うのは鎌倉を支配した本光院殿(北条為昌)の死後に、その遺領が再分配された当時の軍団編成が“本光院殿衆=鎌倉領”だったから所領役帳を写本した人物が誤認して“鎌倉”の注釈を入れたのだろう。
小机領、神奈川領と似た様な編成由来だと思われる。
そもそも現存しない原本には各所領の郡名は書き記してなかった筈で、証拠に別の写本とは郡名の違う場所が有る。
間宮本家の間宮康俊公の所領に富屋とあるが、これの郡名が各写本で異なる。今の坂戸市戸宮としている学者さんもいるが恐らく違う。間宮家所縁の神奈川区に実は富屋は今も存在する。実はJR東神奈川駅一帯がそもそも富屋町で、今はだいぶ狭い範囲になり安土桃山時代か江戸時代には既に神奈川の名の方が有名に成り江戸時代に写本した連中が神奈川区富屋=そもそもの神奈川宿周辺に戦国時代今より大きく広がっていた富屋町を辿る事が出来なかったので、同時期に検地された埼玉県方面の中に戸宮の名を見つけて当て込んでしまったんじゃないだろうか?
学者さんが根拠にしているのは、その検地された時期だけで、同時期に離れた富屋の検地がされていてもおかしくない。寧ろ京急神奈川駅一帯の権現山城の合戦に間宮家が籠城側として参戦してる事も富屋は神奈川区の富屋と考えた方が極々自然だったりする。
権現山合戦を書いた記事⤴️
紺屋の地名で他に間宮家に所縁の有る場所は鎌倉市には無いが旧本光院殿衆の与力所領は三浦には沢山ある。宗甫公は氏康公の直属に成る以前は或いは本光院殿衆だったのかも知れない。
三浦半島の東岸は西浦賀の他にも不入斗一帯が間宮本家の所領で、杉田の間宮家は走水で里見水軍を一網打尽にし里見の軍船を多数滷獲(ろかく:乗っ取る)に成功した際に不運にも間宮常信公が討死にしている。浦賀の紺屋を除いて走水防衛を担う出撃拠点が見当たらない。
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斎藤分町と言うのは六角橋商店街で有名な近所の一帯だな。小生は学生時代に交通違反点数累積の1ヵ月免停で違反者講習を受けに行ったのも六角橋の斎藤分町側だった(笑)。
ところで間宮宗甫の宗甫と言う法名だが・・・
戦国時代の北条家臣団は多くは主家北条家の宗旨が曹洞宗だった事から、一般的に当時は臨済宗と一緒に“禅宗”で一括りにされていた禅宗曹洞派の寺院で学問や禅の精神を学び、入道号に臨済宗大徳寺系の“宗〇”と大徳寺で修業した主家の創始者である北条早雲(実名:伊勢盛時 入道号:宗瑞)に倣(なら)って師僧から“宗”の字を貰って法名を名乗る事が多かった。
当然ながら地元の由緒ある臨済宗の御寺が菩提寺だったり自分の領地内に在ったりすると“道〇”と臨済宗系の法名を貰っている人も多くいた。
それ以外にも千葉家臣団系や武蔵国南部を拠点にした武士は日蓮宗系の“日〇”と名乗る武将も多かった。
面白い事に、北条家臣団は禅宗で学びながらそれぞれの菩提寺の宗旨でも法名を貰っていた様で、戒名には禅宗系と日蓮宗系のMIX戒名(笑)も多く見られる。
例えば間宮宗甫公の一世代後の間宮家の同族でも北条氏康公直臣として横浜市磯子区杉田一帯を治め小田原水尾城代を務めた間宮信繁公の戒名が「法種院殿“道因”“日縁”大居士」と臨済系の道〇と日蓮宗系の日〇の両方が入っている。
これは簡単に説明がつく。
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霊桐山 東漸寺(臨済宗関東十刹の1つ)

寺領の陣屋に臨済宗の関東の十大道場の一つである東漸寺が存在したので、そこで平素は禅の修行をしたから師僧から“道因”の入道号を与えられたのだろう。
そして“日縁”の法名は・・・
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牛頭山 妙法寺
・・・同じ杉田に存在する実家の菩提寺である妙法寺が日蓮宗だったので、亡くなった際に日蓮宗の法名も加えて戒名の法種院殿道因日縁大居士に成っている事が判る。
日蓮宗の多い千葉家臣団の遺臣の末裔である房総半島の武将達も間宮信繁公と同じ様に鎌倉時代以来の日蓮宗系の日〇+臨済宗系の道〇の法名を持つ武将が多いのも同じ理由。

室町時代を通じて北条家は浄土真宗と敵対する足利幕府の方針に従っていたので、足利義明の将軍就任以前は浄土真宗とは敵対していたので、先ず、安土桃山時代になるまで浄土真宗に帰依している武将はいなかった。
間宮家でも豊臣秀吉による北条家改易後に徳川家臣となった間宮綱信公が氷取沢の寶勝寺を禅宗から浄土真宗に復興開基したりしているのは、正にその理由で徳川家康公の重臣である本多正信公が近くの玉縄城主に成り影響を強く受けたからだろう。本多家が没落すると今度は自分の領地の荒寺を徳川家の宗旨の浄土宗に改宗して復興開基した所が多い。

東漸寺と妙法寺の紹介記事は以前書いているので、御興味有る方は御覧下さい。
これ⤵


鎌倉時代に話を戻す。
源頼朝公と文覚上人は真言宗の密教と山岳信仰の修験道としての修行に造詣が深く、伊勢原市の大山や富士山を登って富士山の火口を一周する修行をしたりしている。
現代の様な登山靴も衣類も何にも装備がない時代に・・・
鉄人すぎる。
それ以外に二人は法華経を大切にしていた様で、頼朝公の御廟所も法華堂だったりする。
その後。源頼朝公の死を境に衰退しする。その頃に成ると源頼朝公の忠臣だった熊谷直実公や土肥実平公は法華経と阿弥陀如来を大切にする法然上人に帰依して、二人はそれぞれ浄土宗の僧侶に成ったり浄土宗の寺院に仏像を寄贈したりと支援を行っているが、二人を含めた源家の忠臣は鎌倉幕府を牛耳った北条家に政治的に干される。
恐らく、鎌倉で法然上人と弟子の親鸞上人が北条家から迫害されたのは武士同士の信仰的な結束とか政治的な結び付きが直結したのだと思う。
鎌倉幕府の執権と成っていた北条家が京都の藤原氏と組むと、藤原家が影響を及ぼしていた天台宗系の禅宗臨済宗を北条家が導入し、旧頼朝公の古参遺臣派と親北条派の政治的衝突に巻き込まれ熊谷家や土肥家と関係の深い法然上人の浄土宗の寺院が鎌倉で焼討された時期が有ったのだろう。
その後、執権の北条家が導入した臨済宗に宗旨替えをする武士が多く成り、その武士達が支援した寺院も臨済宗が多く成った。
だから神奈川県域の街道沿いや海沿いの早くから開けた場所だった寺院は臨済宗や元臨済宗が多く、杉田間宮家が支配した屛風ヶ浦辺りにも篁修寺や林光寺と言った臨済宗寺院が残っている。
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鳳林山 篁修寺KIMG6145
晴峯山 林香寺この二ヶ寺は北条家分家の名越北条家の丸に三ッ鱗紋の家紋を今も寺紋として使用しており、東漸寺の末寺として開かれた歴史が有る。
丸に三ツ鱗紋
一帯を鎌倉時代まで支配していた名越北条家の北条宗長公が、天台宗だった東漸寺を建長寺の末寺として再興したので、東漸寺から北条家の三ッ鱗紋を引き継いだ事も解かる。
因みに東漸寺の方はと言うと・・・
CIMG6785徳川葵紋
徳川家から葵の紋の使用を許されているので、現代では名越北条家より権威の有る葵の紋を使用している(笑)。
現代では鎌倉五山の第五位に列せられている東日本で5番目の格式を持つ臨済宗の浄妙寺・・・
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実はここも元は真言宗の大寺院だった。
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浄妙寺は足利家の鎌倉幕府征夷大将軍の家臣時代の居宅地であり鎌倉の菩提寺で、室町幕府初代将軍足利尊氏公の御舎弟(弟)である足利直義公の菩提寺だったりする。

三浦半島の浦賀湊に話に戻す・・・

源頼朝公御存命の平安末期以来の在地武士は真言系宗派を信仰する一族が多かった。だから三浦一族の拠点には真言宗寺院や元真言宗の御寺が多い。一部、天台宗の寺院も現存したり元は天台宗だった場所も多い。
鎌倉時代の三浦本家の学問所だった大善寺。
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金峯山 不動院 大善寺
ここは奈良時代に行基大僧正によって不動明王と蔵王権現が祀られて寺院の前身が出来て、後に真言宗の寺となり衣笠山が平安末期に三浦一族の居城となり衣笠城内に組み込まれると三浦家の学問所として一時は大いに繁栄したそうだ。戦国時代に三浦半島が小田原城主北条氏綱公の勢力下に入ってからは曹洞宗寺院に改宗したが、曹洞宗に成ってからも護摩壇が御堂に残されており真言宗時代の御不動様の護摩焚きを現在も行っていたりする。
神奈川県域にも弘法大師つまり空海和尚が布教活動に来られていたので比較的天台宗より真言宗が平安時代末期までの関東では勢力が強かったようだ。又、頼朝公の源氏が熱心な密教的要素の強い修験道の信者だった事もあり、真言宗と天台宗が残る原因に成ったのかも知れない。
更に古い時代には関東一円には法相宗の寺院も有った様だ。
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梅花山 成就院(現在の寺号)
(開基当時:曲田山 帶行寺→改宗後:梅花山 南無佛院 成就坊)
又、三浦半島から横浜に話を戻すが、港南区笹下の間宮家の居城笹下城跡に在る成就院は、現在は浄土真宗高田派だが平安時代の早い時代には法相宗だった事が書かれていたりする。そして文覚上人が源頼朝公の戦勝祈願の護摩焚を行ったと新編武蔵風土記稿に書かれている事からも鎌倉時代の頼朝公の時代には文覚上人の真言宗に一時期属していた事が判る。
そして例によって頼朝公が暗殺されて後に荒廃し、後に親鸞上人が笹下に布教に来た時期に浄土真宗に改宗し蓮如上人によって曲田山帶行寺から浄土真宗の御坊(ごぼう)として“成就坊”に改められたと伝わる。

成就院も以前記事を書いているのでコレ⤴御興味有れば御覧ください。

因みに、さんざん登場した文覚上人・・・
源頼朝公と親友だった真言宗系の密教修験道の有名な“御坊様”だった文覚上人が開いたのが浦賀湊(みなと)の入口を守る東と西の叶神社だ。
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叶神社(西)
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叶神社(東)
この2社は実にロマンが有り、2社を隔てる浦賀港の渡船に乗って両方御参りすると縁結び祈願が成就すると言う。因(ちな)みに小生は未だ、船で御参りした事が無い。

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ここが渡船の乗り場で、海に治策見えているのが赤色の船が渡船。
機会が有ったら好きな女性を連れて来て一緒に御参りしようかしら(笑)?
この神社は西が先だ東が先だと下らない事を推論する“御朱印バカ”がいるが、そもそも開いた文覚上人が僧侶で今でこそ神社だがそもそも神社じゃない。
神仏混交の八幡宮として京都石清水八幡宮から勧進された八幡大菩薩=応神天皇=大鞆別命の御神霊を御祀りしている真言密教系修験の聖地だった訳だ。

国土交通省水管理保全局が判りやすいブログを書いてくれているので、それを見ると一目瞭然だと思う。
そもそも石清水八幡宮は湧水の聖地であり、眼下には江戸時代まで巨大な巨椋池と言う湖が広り淀川や宇治川と言う水害を起こす大河川が流れていたので治水の神様として、それらを見下ろす男山に神様が遷宮された訳だ。しかも修験道の聖地として、仏教の僧侶が得た神託によって筥崎宮から遷宮された。
そして古代から存在する神社である延喜式内社の沿岸部における立地はは湾の最深部、湾の入口を守る左右の丘や岬の先端に存在する。
 
それはコレ⤴今年の初春の頃に書いた上総国一之宮の玉前神社の記事を読んで頂ければ納得して貰えると思う。
叶神社の主祭神は石清水神社から勧進された応神天皇=八幡大菩薩で破魔の神様であり水上交通つまり航行と治水の神様であり仏様だ。それらの歴史事実を踏まえて再度、叶神社の位置関係を見ると・・・
浦賀城周辺 久良岐のよし
延喜式内社や本来の神様の役割を熟知されていた御二人らしい叶神社の配置である事が理解できる。
・・・だから叶神社は当初から軍港を鎮護する御神威を期待されて浦賀湊の入口、左右の高台に勧進された事が推測できる。
だから西が先だ東が先だ言ってる輩は、そもそもの‟石清水八幡宮の歴史や地形からして理解していない”訳だ。
どっちが先かと言われたら、恐らく同時に開かれたはずだ。そして東叶神社の方が歴史が浅いと誤認される理由は恐らく、佐原三浦家が室町時代に大名化して鎌倉公方足利持氏公の与力となり房総半島の犬懸上杉家と戦った事や、その後は足利持氏公と大庭城主の扇谷上杉氏定公を裏切って山内上杉家に付いたりと、房総半島方面の勢力に備える為に東叶神社の本殿なり本堂成りが元々在ったであろう裏山の頂上に浦賀城を築いた際に、参道の中腹まで神社が移し降ろされたんじゃなかろうかと小生は個人的に推測している。
それが証拠に城が築城されて北条家の統治下でも城の鎮守として奥院は山頂に祀られたままで現在に成っても頂上に奥院が残っている。
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石段の規模を見るに、もう少し大きい御社が当初は存在したんじゃないかと思う。
ここは東京湾と浦賀港を守る城だっただけあり眺望も良い。
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実はこの写真から見えている対岸の岬の先端の場所が、冒頭の潮風を浴びに行った燈明堂海岸だったりする。この写真を見れば、燈明堂海岸が正に灯台を築く必要性の高い地形だった事が判る。
・・・で、ここで・・・やぁ~っと!普通の休日雑記に戻る(笑)。
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はぁ~♪白い砂浜最高Da~Yo~ねぇ~(笑)!
三蜜?馬鹿じゃないの(笑)?
何で人のいる場所に態々(わざわざ)行くの?
外出自粛?何でスーパーに友達や家族で超濃厚接触しながら行くの?
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電車通勤しちゃダメじゃん!車通勤しなよ!
車通勤させない会社は在宅労働させろよな?従業員が感染したら経営者の責任だからな?
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めちゃくちゃ気持ちいィ~人の略いない海ィ~♡
もう、あとは自分の奥さんと二人だったら最高なのに(未婚)!
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泳いでる人が一人だけいた(笑)。
 
・・・とか思った瞬間に爽やかだけど少し御腹空いてきて移動しおうと思った。

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一応、これが復元された燈明堂。
周りに木が生い茂ってしまったので今は灯台の役割は果たせない。
この海岸の裏山は近代に浦賀造船所と横須賀鎮守府を守る砲台要塞が築かれた場所だったりする。
千代ヶ崎砲台跡 久良岐のよし
千代ヶ崎砲台跡保存状態は極めて良いものの、残念ながら現在は非公開で鉄錠門で封鎖され入れない。でも新型肺炎が終息したら横須賀市役所の公園管理してる部署に問い合わせれば、走水の御所ヶ崎砲台と同じで猿島ボランティアガイドの人が引率するツアーを組んで貰えるはず。
横須賀市長に成った上地雄輔クンの御父上、聞いた話だと浦賀奉行所も史跡として復興して神奈川県域の中高生の歴史教材に活用する計画とか。実に素晴らしい!
頑張ってくだされや~。
ところで小生、この千代ヶ崎砲台の地形を見て・・・
「あ~、これ城跡だわ」
・・・と速攻思いました。浦賀城と左右で港を守る名も無い要塞として戦国時代に整備されたんじゃないかな?と思ったんですが、御城ファンの皆さん、この構造体見てどう思います?
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さて、美しい燈明堂海岸で西村大臣の屑っぷりと加藤厚労大臣の対応遅れまくり無能ぶりにクサクサイライラしてた気持ちも横須賀だけに「スカっ!」と潮風で吹っ飛び(笑)・・・
自民党にはまだ河野防衛大臣や小野寺前防衛大臣やら、最近、総理に痺れを切らしたか覚醒されつつある岸田さん等の逸材がいる事を思い出し、何となく良い気分転換には成った。
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浜辺の草花も奇麗だったしね~♪
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本当、来て良かったよ。
東京も浜離宮恩賜庭園とか国立科学博物館付属自然教育園とか新宿御苑とか、今だからこそ開放して事前申請、2m以上離れて歩く事、ベンチに座らない事、とか規制かけて東京都民にガス抜きさせりゃ~良いんだ。
まぁ~我々庶民の声は自民党のド偉い、大阪府知事にマウントポジションとりたがる様な大臣先生様や10万円欲しい奴はくれてやるから手を挙げろよ的な感覚の富豪先生様には伝わらないだろう。
本当、今回は公明党の山口代表が良くぞガンっと言って下さったと思うよ。
さて、奇麗な海も見たし・・・
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次は浦賀港の対岸、東叶神社に正月以来の御参りに移動。
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東叶神社に到着、先に散々解説はしたからもう書かない(笑)。
本殿前で御参りしてから社務所奥の裏っ側に移動・・・
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実はこの弁天様が凄い厄除けの御利益が有って有名。
小生は毎年、年始の御参りで各神社で厄除けの御願いもするのだけど、今年は去年の受験した資格の合格の御願いばっかりして、余り厄除け熱心にお願いしなかったり、例年みたいに三賀日に沢山の神社仏閣を御参りして廻らなかった・・・
そしてら、1月に交通事故起こしたり、2月に右足首酷い捻挫して靭帯損傷して内出血するわ~、何回も風邪引いたり・・・
ん?あれ、もしかして東京に電車通勤してたから新型肺炎だったんだろうか?
でも一応、医者の言う通り4日間自宅待機して熱計測したら熱下がったし咳も出なかったしとか。
極め付きは今回の新型肺炎のせいで“失業するかも知れない(笑)”ピンチ(笑)!でもダメな時は何をやっても駄目なのよね~ん。
出来る事をやりながら、楽しまないとね♪
そんな訳で厄除けに東叶神社に今年2回目の御参りに来た。社務所で弁天様の厄除けの御守りを購入して、そんなこんな、今年の出来事を奥さんに話したら・・・
「あ~それじゃ是非!弁天様の矢倉の中に入って良いですから中で御参りして行って下さい」
「中に入って写真も撮影して良いですよ!」
「御利益ありますし、白い光も一緒に映るらしいですよ~」
・・・と、とっても親切に優しく明るく対応して下さった(笑)。
既に奥さんの対応が人の不幸にそっと寄り添いピンチを乗り越える為に元気に一歩踏み出す元気を下さる八幡様と弁天様みたいだ(笑)。
そんな訳で中に入らせて頂いて改めて参拝。
弁天信仰の歴史も少し知ってる小生、この頭が女神様胴体が蛇の神様を見てピンと来た・・・
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「あ~正しい弁天信仰の歴史がある」
「頼朝さんの頃から湧水の聖地だったんだな」
「だから、ここに八幡大菩薩が勧進されて今の叶神社が存在するんだな」
・・・実は現在は稲荷神社と呼ばれるところに祀られる神様の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が、元はこの女性の顔に蛇の胴体の神様だったんだな。関東での弁天信仰の流行は、欽明天皇の勅願所聖地だった江ノ島の洞窟の中に祀られている宇迦之御魂神に弁天様を同一視して習合し、それまで建物の無かった江ノ島に神社の建物を奉納して八臂弁財天様を御祀りした事で東日本武士文化の弁天信仰が湧水の聖地を守っていたり洞窟の中に祀られたこの蛇の女神様=弁天様=インドのサラスバティ神と同一視されて行った訳だ。
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江ノ島も海の中の島の洞窟に奇跡的に淡水の湧水の池が有る。
この池の御蔭で鎌倉公方足利成氏公が家臣の山内上杉家と扇谷上杉家に謀反され攻められた際に江ノ島を城塞化して相模国と北関東の武将の援軍を得て籠城し、豊富な水と堅固な地形を利用して両上杉家を撃退した歴史が有る。
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正に戦勝祈願の聖地な訳だ。
頼朝公は、この江ノ島の岩屋(洞窟)に籠って戦勝祈願をし、伊勢平氏の平清盛の一族に打ち勝って鎌倉幕府を開いた。
だから今も頼朝公が鎌倉武士団に広めた弁天信仰の聖地の江ノ島の洞窟にも蛇の女神様の石の御神像が有るし、鎌倉扇ヶ谷の海蔵寺の横井戸の中にも蛇の頭の神様が祀られているし・・・
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宇賀福神社

銭洗い辯財天も湧水のある洞窟に祀られ、そもそも神社の名前が宇賀神に由来していたりする。
そんな訳で、浦賀の港を守る東叶神社には海の直ぐ目の前なのに奇跡的に飲用できる井戸水が有ったり、勝海舟さんがその井戸水で断食して体を清めてから咸臨丸に乗ってアメリカに行ったりしてる。
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叶神社の奥さんの御蔭でありがたい弁天様=宇迦之御魂神様に御参りする事が出来た。
残念ながら小生には白いオーブは見えなかったけど。
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でも暗い洞窟から見える入口の光と緑がとても奇麗で気持ちよかった!
弁天様ありがとうございます~♪
東叶神社を後にして、海沿いを走水方面に車を走らせて観音崎の多々良浜にも海を見に行った。
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もう陽が西側に回り三浦半島東岸の海辺には光が届かない時間だったので少し散歩して走水神社にお参りに移動した。
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こちらも御正月から既に今年3回目の参拝だろうか?
一応、怪我したりしても無事に再度御参り来れた事を感謝し、今の世界中で蔓延してる新型肺炎が集束する様に御神威を発揮して頂き日本人と世界の日本の友邦の人々と善良な人々を助けて下さるように御願いして来た。
御腹すいたし、そう言えば暫く横須賀の若松町の激安の焼き鳥屋、相模屋に行ってないなぁ~・・・
と思い、昼食兼夕食を相模屋で焼鳥食いまくりする事にした。

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やきとり相模屋
ここはメチャクチャ安くて何本でも安心して食べられる(笑)!
そしてシステムが面白い。
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店内でも食べられるのだけど地元民は御酒飲まない時は外で食べる。
この写真の焼鳥の調理場が外のテイクアウト窓口として店側面に空いているのだが、その陳列された焼きたてアツウマの焼鳥を立ち食い出来るのだ。
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1本80円均一。食べた櫛を前のカップに入れる。会計の時には櫛を持っていくと本数で勘定してくれるシステム。政府の30万円給付みたいに意味の分からん官僚オナニーなシステムと違い明瞭会計だ!
民を支配する又は国を運営し法律を定め尚且つ民の支持を得る為には法律やスローガンは解り易く実効性の高い物にしないといけないのは、既に紀元前300年頃に漢帝国を打ち立てた劉邦が秦の帝都の咸陽を陥落させた際に証明している事。
そして民草を優先順位で重視しないとイザと言う時に協力してもらえないし、普段から大切にして約束を守っていれば相手が強大な大軍勢でも庶民が殿様を助ける為に武装蜂起して駆け付けてくれるのは、既に500年前に神奈川県小田原城主の北条家が証明した事。

三蜜回避や経済の回し方どうするかは、もう感度も悪いし対応も3ヵ月遅れでしかやらないノロマな政治家に任せないで、我々庶民が自主判断自己責任でやれば良いんじゃないのかな?
ただ、大阪府知事と北海道知事サンの言う事は聞いていて酷い事にはならなそうね。
自民党の中のマトモな議員と吉村知事と鈴木知事等で、頓珍漢な事を安倍首相にさせ続ける奸賊佞臣をブッ潰して欲しいなと思う週半ばの休日でした。





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平安末期以来の武士金子家と岡本家が守っていた要害化された“観音山”と言う山が横浜市にありました。
Google mapに簡単な解説投稿しました。
御興味ある方は御覧下さい⤵️
現代では近くの横浜横須賀道路建設の影響か地図から山の名前も行政によって消されてしまっています。
戦国時代の岡本家と金子家の主流は北条家臣として北条所領役帳にも登場します。
岡本家は綾瀬市辺りを治め、金子家は鎌倉時代には青梅市を治め戦国時代には北条家臣化し新横浜駅近くの篠原城の城代を務めました。
磯子区域の両家分家は1560年頃には笹下城主間宮与力となり、磯子区の岡本家は江戸時代には分家し徳川直参旗本に成った氷取沢間宮家の宿老となり江戸在住の氷取沢間宮の殿様に代わって氷取沢陣屋を守り続けました。
氷取沢陣屋の跡が氷取沢神社の旧境内地です。
岡本家は直系の他にも能見台辺りを治めた野本家から婿入りした家が有り、それぞれに屋号が今も残ります。
屋敷家、藤左衛門家、酒屋家、星山家、前家等です。
其々の由来を推測すると面白いですね。
屋敷家は陣屋を守っていたのでしょう。
藤左衛門家の左衛門は官職名由来で、左衛門は間宮家が付家老として仕えた上官、北条綱成公の左衛門督に由来する官職です。
間宮家は豊前守(ぶぜんのかみ)と左衛門尉(さえもんのじょう)を代々名乗っていました。
氷取沢市民の森は今では鳥の囀ずり美しい緑地に山城地形のふんだんに残る遊歩道です。
過去に間宮家や岡本家や金子家や氷取沢周辺磯子区の関連記事を幾つか書いています。
以下にリンクを貼るので御興味有る方は御覧下さい。











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