歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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カテゴリ: 景勝地/お祭り/食事/買物

皆さんは神奈川県の三浦半島に富士山のビュースポットとして素晴らし場所がいくつも有る事を御存知(ごぞんじ)でしょうか?
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黒崎の鼻
〒238‐0111 神奈川県三浦市初声町下宮田付近

黒崎の鼻と言う岬に通じる直線の農道は約1.5kmに渡り富士山に向かって伸びています。
この農道、何故こんなに真直ぐかと言いますと、アメリカが関係有ったりします。
先ずは航空写真を使って説明しましょう・・・
黒崎の鼻と三崎口駅位置関係 久良岐のよし
黒崎の鼻に繋がる農道は2本有り、どちらも京浜急行電鉄三崎口駅を起点にする様に伸びています。
実はこの2本の農道、第2次世界大戦終結時に日本帝国海軍の横須賀鎮守府が米国の第7艦隊に接収された際に米軍の空港建設予定地に成り整地されました。そして、計画が頓挫してからも、そのまま真直ぐな農道として残った訳です。
もしかしたら京浜急行の三崎口駅がここに作られたのも、当初は空港建設を当て込んでの物だったのかも知れません。
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とっても綺麗な風景なので、この農道では多くの映画やドラマがロケされています。
しかし綺麗なのはこの真直ぐな農道と相模湾の先に見える富士山の風景だけではありません。
真直ぐな農道の内、北側の方を真っすぐ進むと下の写真の場所に出ます。
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・・・こんな場所、普通は通りたくないけど先に有る景色を知っているから入って行ける。
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何にも知らない他府県の人が来たら尻込みしそうな獣道にしか見えませんが、ここが絶景の富士山が見られる“海”に繋がっている道でちゃんとした公園の遊歩道なんですよ。
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少し歩けば海が見えるので諦めないで下さいね(笑)。
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この黒崎の鼻は自然の柴や笹に囲まれている日本離れした風景なのですが、それ故(ゆえ)に観光に来るには海水浴シーズンでは“蚊”が多くて大変に成ってしまう上に、それこそ海上の水蒸気で大気がガスって富士山を綺麗に見る事が出来なく成ってしまいます。CIMG5894
この写真を撮影に行った日は11月下旬で日没時間が16時半で有る事を予(あらかじ)め確認してから農道での昼の風景の写真撮影も考慮して夕日も撮影出来る様に16時に現地に到着する様に横浜市の円海山の麓の自宅を出発し、計画通りの運びに成りました。
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薄木(すすき)もとても綺麗な場所ですが…
「富士山見えないじゃん」
・・・って?イヤイヤこの風景は黒崎の鼻、つまり黒崎と呼ばれる岬の鼻っ柱に当たる先端部分なんですよ、位置的にはもっと先っぽに行くか海に降りると綺麗に富士山が見えます。
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こんな風にね!
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とっても綺麗でしょう?
ここで撮影された映画とドラマは主だったものでも以下の様な有名な物が有ります。
義経(歴史大河ドラマ)
龍馬伝(歴史大河ドラマ)
女帝
ライアーゲーム1、2
花より男子2
恋の時間
氷点
ATARU
BORDER
デカワンコ
仮面ライダーシリーズ多数
戦隊シリーズ多数
最近ではドクターX3でもロケハンされていました。
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小生が訪れた日も何かの撮影隊が着てオメカシした女性が丘の上と海辺で撮影していました。
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この芝生と海岸の風景、丸で英国スコットランド地方の海辺みたいですよね。
・・・行った事無いんだけど(笑)。
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とにかく夕日が綺麗な場所でもあり富士山も綺麗なんです。
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小生は他にも富士山の見える好きな場所が神奈川県内にいくつか有りますが、ここはトップクラスですね。
ここ黒崎に匹敵するのは例えば下の写真の鎌倉市材木座海岸とか…image
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下の写真の横浜市栄区の円海山山頂から見る日没直後の富士山とか…
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平塚市と伊勢原市に跨(またが)る富士見台から見る日没直後の大山(大山祇神)と富士山(此花咲耶姫命)の親子の山の見える風景とか…
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それとベタですが鎌倉市の稲村ヶ崎の七里ヶ浜~江ノ島と一緒に見える富士山は江戸時代に歌川広重も絵に描いている程でとても綺麗で好きですね…
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これらの場所は甲乙つけがたいのですが、中でも特に黒崎か稲村ヶ崎の富士山が綺麗だと思います。
他にも箱根の大涌谷から見る富士山とか、三浦半島の秋谷海岸立石公園から見る富士山も好きで、ブログを書き始める前の4年前までは時間が有ると良く散歩しにドライブに行っていました。
さて、今回は黒崎が舞台なので黒崎の写真に戻ります。
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三浦半島の西海岸は大陸プレートの衝突する場所で隆起する地盤なんです。だからこんな風に岩礁の磯が多く見られます。
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そんな岩礁の先に見える富士山と夕日も綺麗でしょう?
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もっと海が荒れる台風翌日なら迫力の有る波頭の飛沫(しぶき)も見えるかも知れませんね。
でも富士山が綺麗に見えるのは11月末~2月初頭までの寒い時期だけですから、荒れた海の景色を撮るなら近くの長井の荒崎海岸の方が良いかも知れません。
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夕日に合わせて訪問し成功して本当に良かった1日でした。
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同じく撮影に来ていた男性も、夕日を前にして撮影すると絵に成りますね~。
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小生は写真撮影は下手な部類だと思うので、誰でももっと上手に撮影出来るはずですよ!
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綺麗な赤富士だ・・・
そうそう、最初の方で紹介した下の写真ですが…
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実はこの黒崎の鼻の丘、戦争中に海軍の要塞が作られていました。この先の油壷湾には人間魚雷の回天の出撃用の壕なんかが存在したので、ここにも配備されていたのかも知れませんね。
幸い、三浦半島に米軍が上陸する事は無く戦争は終結したので怖い場所では無く現代では子連れの若夫婦や恋人達にも愛される散歩道です♪
帰り際に又、農道で富士山の写真を撮影しました。
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本当に良い場所なので、御正月の連休中や冬の間に是非、皆さんも撮影に訪れてみては如何でしょうか?
高速道路に接続する三浦縦貫道路に戻る途中にはスカナゴッソと言う道の駅が有ります。
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すかなごっそ
ここでは三浦名物の三浦大根や蜜柑等の農産品に加えて、名物の鮪や魚の干物が直売されています。
そして小腹が空いたら御寿司やネギトロ巻なんかも売っていますよ~♪
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この日の小生の車中での夕飯に成りました(笑)。
これから御正月に突入しますが、三浦の三崎漁港の❝紀の代❞と言う御寿司屋さんは例年1月3日からやっていて御節料理に飽きた時には御薦めです!
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鮪の皮や胃袋や白子、カマ焼き等、普通のお寿司屋さんでは食べれない鮪水揚げ漁港ならではの希少部位が食べられるお店です。
紀の代
以前お店を紹介した記事です→

御正月のレクリエーションの参考に成れば幸いです。
三崎漁港には海南神社と言う凄い神社も有ります。
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海南神社
元々は筌龍弁才天(せんろうべんざいてん)と言う名前だった神社で弁天様でした。筌龍(せんろう)と言うのは筌籠(せんろう)と言う漁具が転訛した当字で、元は源頼朝公の参謀で初代の侍所別当職(軍事長官)を務めた和田義盛公を助けて源頼朝公に仕官させた御利益に由来する社名です。
ここは平安時代までは三浦水軍の三浦家から三浦半島の総社として、そして戦勝祈願の神様として崇拝され、名将の三浦義明公やその御子息で和田義盛公の従弟に当たる三浦家当主の三浦義澄公が海南神社を大切にしていた時期の三浦家は源頼朝公の配下の中でも最強の軍団でした。
その証拠に実は源義経が立案したとされる神戸の福原攻めで行った“鵯越の逆落とし”の迂回急襲作戦は、三浦家一族で横須賀市の佐原城主“佐原義連(さはらよしつら)”公が立案した作戦と言うのが実際の所でした。そして作戦を実現したのが横浜市港北区の茅ヶ崎城主でもあった多田源氏の多田行綱公でした。
そんな名将が崇敬した御利益の強い神社が海南神社で、戦国時代にも北条家三崎水軍として活躍した武将達から崇敬を集めていました。
この海南神社で毎年1月15日に行われる❝チャッキラコ❞と言う神事は❝ユネスコ無形文化遺産❞に登録されているのですが、結構、日本人の方が知らないんですよね。
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こちらも以前書いた記事が有るので、是非参考に御覧下さい。

さて、海南神社を紹介したので、神奈川県内の凄い歴史と御利益の有る神社仏閣の纏め記事も紹介して、今回の〆にさせて頂きます。

この記事は赤字部分が未編集ですが、文字制限数の1万5千字を超えてしまったので記事を分割して再編集し索引も就ける作業をする最中ですが、一応、ほとんどが解説も掲載してありますので初詣の参考としてお役に立てたら幸いです。

皆さんにとっても良い年末年始に成ります様に~♪
では、又、次のブログ記事で♪


























前回
 ↓
【休日雑記】2017年11月22日の訪問先その③源実朝公首塚~金剛寺・・・源氏将軍暗殺ミステリーの史跡と御寺と解説編。
 ↑
コレの続きの記事・・・
22日訪問その③
前回の記事で紹介した金剛寺を出発してから弘法山に向けて暫く車を走らせるとカーナビの「まもなく右折です」のガイドが自分の思ってる道と違って何だか無視したくなり(笑)、そのまま暫く直進してから弘法山方面に行く別の道を進むと偶然とても気に成る店構えの建物と看板が目に入って来た・・・
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強烈に目立つ「ゆばとうふ」&「とうふ」「とうふ」「とうふ」「とうふ」「とうふ」の看板と幟(のぼり)のラッシュ(笑)・・・
これを見た瞬間に妙に印象に残り「そう言えば秋なのに今年は大山阿夫利神社に紅葉見に行ってないし、丹沢山系大山名物の大山豆腐食べてないなぁ」
・・・と今回の小旅行で何にも特産品を食べていない事を思い出し、無性に丹沢山系の美味しい水で作られた名物豆腐を夕食に買って帰りたくなったので店を過ぎてからUターンして(笑)戻って来た。
幸い店の前に駐車場が在った。
店の名前を五右衛門と言うらしい。
(株)五右衛門 本店店の中に入ると意外な光景が小生を待っていた。
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何と只の小売店では無く客の目の前で豆腐や湯葉を生産しているのだ。これは外国人の来客が有った際に弘法山の桜や紅葉見物と合わせて連れてきたら喜びそうだ。
無論、小生も帰宅してから夕飯(減量中)と家族の御土産にする為に❝石臼なまゆば❞・❝石臼とうふ❞・❝生揚げ❞・❝なめらか絹揚げ❞の4品を購入してみた。
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帰宅してから小生は湯葉と豆腐を食べたら当然ながらメチャクチャ美味しかった♪
質問に色々と親切に答えて下さった店員のお姉さん、ありがとう。
遠回りで思わぬ美味しい発見。
五右衛門本店サンから車で僅か10分の距離に弘法山は在る・・・
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弘法山に夕方に差し掛かる15:30頃に到着。当日は天気予報が晴れ後→雨だったので心配していたが、やはり雨が降り始めた。
この弘法山は春が特に綺麗な富士山の景勝地として有名で、天気が良ければハイキングを楽しむ人と多くすれ違う。
因(ちな)みに春の風景はコンナ感じ・・・
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弘法山展望台そう言えば一昨年に弘法山で桜と富士山を見た時も天候が芳(かんば)しく無かったんだ(笑)。
まぁ、あと4ヶ月も過ぎると桜が咲くので、ここは新たに見つけた五右衛門本店サン、そしてこの後で訪問する“鶴巻温泉”と合わせて行くと良い休日に成るだろうと推薦できる場所だな。大山も近いので車での移動の人なら合わせて訪問しても良いかも知れない。
さて、22日に話を戻す。
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天気も悪く日暮れも近いので車を駐車場に停めて展望台まで10分位急いで登ると慌ただしく紅葉の写真を撮り始めた。
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一応、ハイキングコースとして有名で紅葉も楽しめる。
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ここはやはり展望台に登のが御薦めで・・・
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丹沢山系~箱根山系~(晴れてれば富士山)~伊豆半島の山並みの絶景が一望できるんだな。
そして春には手前に桜が、秋には紅が差した山の木々が景色を化粧してくれる。
この日は生憎天気が悪かったが、それでも爽やかな空気と箱根の絶景を楽しめて大満足だった。
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曇りのせいで余計に光を感じれたし、山々に雲が掛かり、これはこれで楽しめた。
まぁ、正直この日の最大の目的は最初の大雄山最乗寺の紅葉(笑)と、弘法山の後に訪問する予定の鶴巻温泉の秦野市市営銭湯“弘法の里湯”だったので、多少天気が悪いのも風情の内と楽しめる余裕が有ったんだな(笑)。
これが一人だから自己責任で良い訳で、外国の友人やらと一緒に来ていたらエスコートする責任から正直、悪天候を楽しめなかったかも知れないな。
弘法山の駐車場に戻り、車に乗るとナビでは弘法の里湯まで15分と出た。
しかし実は小生、以前来た時は弘法の里湯への道が解らず、時間的にも余裕が無かったので小田急鶴巻温泉駅周辺まで来てもスルーしてしまった事が有る。
今回はカーナビ先生に事前に位置登録しておいたのだがこれが実際に車で走ると路地の細い変な道に入られるわ~、温泉街じゃなくて住宅街化していて全然解らん!
仕方ないのでスマホのGoogleMap先生に登場して貰った。
鶴巻温泉周辺 久良岐のよし
あっさり到着(笑)。
小生の車の某自動車メーカー純正カーナビはクソだ(笑)。iPhoneとの接続不良も度々起こすし変な道走らされたり高速の出口を変な場所で降ろされたりするので、基本的に旅に出る前には小生は道順をだいたい地図見て丸暗記する様にしている。でも、こういった住宅街の路地はどうにも成らん!
そこの当たり、スマホの登場でGoogle mapが使える時代に成り非常に重宝する。
行きたい場所を事前にやたらめったら登録して置くと、距離感が解り易くて道路状況に合わせて柔軟に計画の変更も出来るし。
Google先生にガイドを頼んだらアッサリ到着(笑)。
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弘法の里湯何だか思っていたのと違う、銭湯と言うよりスーパー銭湯だな。
でも駅前なのだが駐車場もそれなりに有り交通の利便性は良い。
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綺麗だし。
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秦野市の御土産も売っていた。小生は秦野市と言うと特産品は“煙草の葉”と“美味しい水”のイメージなんだが店員さんに聞いたら落花生も有名だそうだ。
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まぁ当然混浴では無い(笑)。
中は箱根の中堅ホテルの内風呂位の大きさの大浴場と、小さな露天風呂が一つ。
料金は2時間と1日の2種類、曜日によって違う。
平日は2時間800円、1日1000円(秦野市民は800円)。
土日は2時間1000円。
フロントに最初に申し出れば駐車場料金のサービスも受けれる。
弘法の里湯の温泉は横浜・川崎市民や東京都民に馴染み深い黒湯炭酸泉と全く異なり、無色で若干硫黄ぽい匂いがする気がする物だった。何でも世界有数のカルシウム含有量が有る温泉で、擦過傷や打ち身とリウマチの治癒に効果が有るそうだ。昔は湯治場でも有ったので飲湯すると薬代わりとしても持てはやされたそうで胃腸病の回復にも効果が見込めるそうだ。
・・・朝から山を2つ登り、史跡と御寺を廻って書いた汗をゴシゴシ洗い落とし、鶴巻温泉のサッパリした湯で疲れを癒すとリフレッシュし、睡眠不足の帰路の運転に堪えるだけの鋭気を養う事が出来た。
メンバーカードみたいのも頂いたので、又来年の紫陽花の季節に開成町の紫陽花祭りと寒田神社参拝の帰りに寄らせて頂こう。

この日、最終的には真土大塚古墳を訪問して写真を撮影する予定だった。
2017年11月22日訪問予定地
真土大塚古墳は日本に文字を齎(もたら)した神であり大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)=仁徳天皇の弟皇子の莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)の御陵(みささぎ)=古墳の跡で、アホの神奈川県教育委員会が一昔前に保護を怠り事も有ろうに農地改良と称して破壊してしまった歴史がある。
挙句の果てに教育委員会が伝承をナメてたら本当に古代王族と繋がりを示唆する三角縁神獣鏡が出てきてしまったから、さぁ~大変!
はからずも前鳥神社の由緒を証明する事に成り、神奈川県教育委員会は己らの不見識で天皇祖先御一族の皇子の被葬されたまま保存されていた古墳を破壊した訳だからな。
昭和中期から時代が経ち現代、市民が増えて認知度が上がる程に責められる訳だ。だから現代の古墳を復興した。
復興した古墳だが、それでも昔そこに莵道稚郎子命が眠っていた事には変わらない。
学問の神様として崇拝する莵道稚郎子命の復元御陵を改めて参拝し写真撮影したかったのだが、残念ながら弘法山の時点で既に日没を迎えタイムアップだった。
22日訪問その③
それでも帰りの順路に組み込んで横は通って見たが、やっぱり真っ暗で何にも見えなかった(笑)。
正月3賀日のどこかで伊勢原市の比々多神社と平塚八幡宮と前鳥神社も参拝する予定なので、その時に改めて訪問しよう。

さて、今回の旅、やはりハイライトは最初の大雄山だった(笑)。
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まぁでも“なんつっ亭”で久しぶりに美味しい九州風拉麺も食べれたし、出雲大社相模分祠も御参り出来たし、源実朝公にも命日の前日に御挨拶に伺え参拝で来たし、全体的には満足な旅と成った・・・

この後、日にちは前後したが訪問したのが下の記事で紹介した“三渓園”・“山下公園前銀杏並木”・“報国寺”・“鶴岡八幡宮白幡神社”での紅葉見物だったんだな。
コレがその時の記事
 ↓

更にその後日、小生が顕彰活動を行っている宅間上杉家の殿様所縁の神社である下永谷の神明社・・・
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そして三浦半島の富士山の絶景スポットにも行って来た。
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又、改めて解説記事で紹介したいと思います。

さて、これから年末年始に向けて、又、神奈川県内の凄い御利益の有る神社仏閣紹介記事をボチボチ更新して行きます。
コレね。
 ↓

何とかクリスマス25日の夜には更新完了できる様にしたいと思いますので、興味が有る人は年末年始の神社仏閣参拝の参考に紅白歌合戦でも見ながら片手間で見てやってください。

では!又、その記事で御会いしましょう♪良いお年を!










前回の休日雑記→2017年12月01日

  ↑
コレの続き。

南足柄市の大雄山最乗寺、足柄上郡の寒田神社を巡拝し、秦野市渋沢の“なんつっ亭”で昼食を終えてから再び車で移動する事15分くらいだったろうか?
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震生湖の駐車場に到着すると、そこからは神奈川県で最古級の神社であり山体その物が御神体でもある大山が良く見えた。恐らく天気が良ければ西の方には富士山も見えたのだろう。
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東の方に目をやると遠く桜の名所の弘法山も見えた。天気が良ければ、その先に海の輝きも見えるのだろう。
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震生湖の入口は丸でキャンプ場の様な雰囲気。
自然災害で生まれた湖なのだが団塊世代達には紅葉の名所として知られデートコースだった様だ。
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なのでバブル期にも自然散策の客がいたので食事が出来るテーブルも備え付けられていたりする。
震生湖は大正十二年(1923年)09月01日に発生した関東大震災で生まれた自然の池である。
地震で起きた山体崩壊による土砂崩れで山の水源と沢が堰(せ)き止められて出来た小さな湖だ。
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まぁ、この湖の透明度は余り良くはないのだが、ここが凄いのはそもそも水源だった湧水地と沢が土砂崩れで生まれた堰き止め湖なのだが水源なので水の流入も無い代りに外に水が流れ出る川も無い。水は地下水脈で外に繋がってると解説されている。
だから水が澱んでんだな。
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この日、11月22日はまだ紅葉には少し早かったがそれでも少しは震生湖の樹々も赤く色づき始めていた。
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きっとこのブログを書いている12月第2週には見頃に成っているだろう。
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完全に釣り堀として営業している東側の方もそれなりに紅葉が有る。
きっと小さな子供がいる家族が釣りをしながら紅葉見物したりすれば良い思い出に成るだろう。
どうも小生は自分が結婚していないのに「子供を連れてきたら喜ぶだろう」とかいつも評価基準の一つにして見る癖がある。可愛い甥っ子と姪っ子がいるのだが、二人とも幼少ながら総合格闘技道場に通っていて忙しく中々“遊んでもらえない(泣)”。
先日は東京の目黒区に住む妹夫婦の所まで甥姪を迎えに行き、横浜市磯子区の科学博物館に二人を連れて行ったりした。
まぁ神奈川県民の小生から見れば、甥も姪も小さな時から格闘技をやっているとは言え東京のモヤシっ子(笑)。
自然の楽しさと綺麗さを教えてあげたいのでいつか震生湖や丹沢に釣りに連れて行きたいと思う・・・
まぁ、小生に釣りのセンスが無いのが一番の問題だな。
実は震生湖、湧水地なので自然信仰の対象にも成っている。
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福寿弁財天だ。
1974年の造営と非常に歴史の浅い神社なのに古来の湧水地に弁天様を祀る習慣を踏襲している正しい日本文化を継承した神社だな。
そもそも弁才天様はインド神話の神様で財神だが、本来は川の象徴だったり軍神や音楽神でもあり、更には男神にモテモテだった女神で女子力アップの御利益が期待出来たりする多くの御利益に預かれる神様なのだが特に財神としての性格が注目される事が多い。
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の原形と成った縄文時代の湧水地信仰は清涼な飲用に堪える洞穴の水源や泉が聖地化され神様が祀られたが、これが初期の湧水地に龍神が多く祀られる初期の日本の信仰に成り宇迦之御魂の原形神と成る。以後、室町時代まで宇迦之御魂神は女性の上半身又は顔面に龍又は蛇の身体を持つ御神像で表現され祀られていた。弥生時代位から稲作が普及し富の象徴が水から“稲”に変わると宇迦之御魂神は御稲荷様として祀られる様に成った。あくまで狐は神様の使いで神様ではない。
更に奈良時代に貨幣が中国から輸入され、平安時代末期に貨幣経済が浸透し富の象徴が稲から“貨幣”に変わった事で鎌倉時代に源頼朝公達武士や貴族によってインド神話の財神である弁天様も稲荷神社や宇賀神社に習合され、日本では弁天様は水源であり富の象徴である神社に祀られる様に成った訳だ。
福寿弁財天社の鎮座する場所は自然の堰止湖の傍らの森の中でとても神秘的な雰囲気だったりする。
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傍らには水子供養の御地蔵様もいらっしゃった。
御地蔵様はヒンドゥー教文化由来の閻魔(えんま=ヤマ)大王様の本地仏なので、中国渡来の解釈では冥界の裁判官であり、本来のインド神話ではヤマーとして死者の国の王であり、仏教的な解釈では全ての世界の人々を救う仏様だったりする。だから幼くして亡くなった子がちゃんと彼の世に行って次に幸せな運命に成る様に御地蔵様に御願いする訳だな。
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肝腎の弁天様だが、奈良県の天河大弁財天社から勧進したそうだ。
神奈川だから江島神社か、その元の滋賀県の竹生島の弁天様かと思いきや奈良から御分霊を頂いてるとはレアケースだな。
宮司様不在の神社だが良縁繁栄の御利益が有るそうだ。
震生湖の紅葉を見物し福寿弁財天様に御祈りすると車に戻り、近くに気に成る神社が前々から有ったので行って見る事にした。
出雲大社相模分祠(いずもたいしゃさがみぶんし)だ。
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この神社は一昨年の11月に大雄山の紅葉を見に来た際と、昨年10月初頭に愛知県旅行からの帰りに東名高速の片側車線規制渋滞に巻き込まれ、渋滞を避けて大井松田で下道に降りて伊勢原市の叔父の家に立ち寄り御土産を持って行く際に偶然前を通り看板を見かけていて非常に気に成っていた神社だった。
無性に気に成ったのだが、前の2回は当日の予定が逼迫していた事もあり前を通過してしまった。
この日は改めて訪れる計画は無かったのだが震生湖の入口へさしかかる時に再度看板を見て・・・
「そう言えば!」
・・・と思い出したので震生湖の紅葉見物の次に訪問する事に急遽決めた次第だ。
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しかしいざ駐車場に車を停めてから一度、神社の参道と思しき道へ戻り鳥居に正対して正面を歩いて見ると説明の看板が違う神社の名前に成っている。
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御嶽神社と八坂神社だ・・・
「おんやぁ~?」
・・・と思いつつも境内へ入ると立派な御神木が出迎えてくれた。
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どうも神奈川県下の古社はどこも楡(ニレ)の大樹が大切にされている。もしかしたら昔の習慣で何か神事と関係が有ったのだろうか?招霊(おがたま)樹等は古代の神事と関係が有ったのは存じているが、ニレについては余り解らない。今度、博学の師と仰ぐ宮司様に聞いてみようと思おう。
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御嶽神社は屋根が銅(あかがね)葺(ふ)きだが社殿その物は恐らく再建されたのものだろう。
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彫刻が立派だった。木材の状態を見るにこの欄間は比較的古いので江戸時代末位の部材を再利用しているのだと思う。
一方で拝殿と言うか覆い殿?は明らかに新しいので現代の再建か増築だろうと思う。
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扁額も真新しい
しかし現在も繁栄している神社なのが良く伝わる。
その隣には八坂神社が在った。
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小生の崇拝する神様の内の一柱、素戔嗚尊(すさのおのみこと)牛頭天王、武塔天神と各時代で色々な神号で呼ばれた武神であり疫病治癒の神であり荒神であり、御妻君の浅間権現と呼ばれる此花咲耶姫様と夫婦の縁結びの神様でもあったりする。
又、御妻君と成られた此花咲耶姫命を助けた神様なので女性を守護する神様とも言える。
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まぁ、小生は独身で守るべき妻もいない。
いつか素戔嗚尊様と此花咲耶姫命様、あるいは同じく崇拝する日本武尊様と弟橘姫様、又は崇敬する建勲神織田信長公と生駒御塁様御夫妻の様(よう)に、大切な家族を守る力と度量が備わり御縁の有る女性と神様を見習って伴侶ともども幸せを享受する運命を授かれたら良いなぁ~と思ってたりする。
・・・まだ自分の実力不足から時が来ないらしい(笑)。
御嶽神社と八坂神社を参拝し、拝殿の中を外から見学すると何やら画が飾って有った。
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見た感じ江戸時代末期位に書かれたものだと思う。京都の八坂神社こと元の祇園社の神楽殿か何かにも同じ様な風化具合の絵が有った。
こちらの八坂神社の絵には“笹竜胆紋”が刻まれている。(?)源頼朝公や頼家公、或いは実朝公と関係が有るのだろうか?まぁ、頼朝公は近隣の開成町の吉田島地区の吉田神社を伊豆の三島大社から御分霊を勧進し開いたりしているし、この出雲大社相模分祀の直ぐ北側には古来主要街道だった矢倉沢往還(古代東海道)が存在する。その矢倉沢往還と中原街道(古墳時代以後の主要街道)を接続するのが眼前の参道の先を通る街道なので、この御嶽神社その物は歴史が有るのかも知れない。
まぁ、定かでは無い。
一頻り参拝を終えて、駐車場の方に戻ろうと奥に進むとわき道から出雲大社の境内に繋がっていた(笑)。
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普通は出雲大社と言うと正真正銘の出雲国の出雲大社の事なので、何で出雲社を名乗ってないのだろう?と思ったが、美人さんの巫女の女の子に由来を聞いてパンフレットを頂戴し名前の由来を見た所、この出雲大社相模分祠(さがみぶんし)の出雲大社部分その物は歴史が浅いらしい。
明治ニ十一年(1888年)に出雲大社から勧進され開かれたそうだ。しかし由緒は凄まじかった。
出雲大社は代々、素戔嗚尊の御神孫である千家(せんけ)が宮司を務めているのだが、この家は国造(くにつくりのみやつこ)と言う古代の知事の役職を代々継いだ家であり神職でもある。
まぁ・・・小生の御先祖様も某国造なのだが、出雲大社は格が違うのね(笑)。
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その島根県の出雲大社の御本社の第八十代国造千家尊福さんの要請で出雲大社から直接分祀された場所だそうだ。仏教的な表現には成るが関東に於(お)ける出雲神族信仰の本山格として親分直々の命令で開かれ拡大された聖地と言う訳だな。
つまり出雲大社相模分祠は名前の通り、相模国に置ける出雲大社分社と言う高い格式を持つ神社と言う事実がそのまま社名に成っているそうだ。
そりゃ立派な社殿も境内も有る訳だよ。
そして歴史が浅いから風土記読んでる小生でもノーマークな訳だわ。
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ここは今話題の“暴行犯罪者”日馬富士も来たらしい。
後輩の頭を“同国籍”の癖に“態度が気に食わないから”と理不尽で犯罪的思考に基づき、武人にも関わらず感情の抑制も出来ず“殺傷能力の有る鈍器で殴打し”頭を割り血塗れに“暴行したのを「教育」と言い張った”挙句に、一般の会社なら解雇される暴行事件なのに引退(退職)願いを受理され退職金2億円せしめる大悪人だな。
こんな奴が塩を撒き退魔の弓を使う神事を行う相撲取りである事が小生は個人的に文化的側面から心情的に許せない。
そして法治国家の日本国民としても暴力肯定する日馬富士と白鳳、同席し傍観し警察への通報も救急車を呼ぶ責任も果たさず“保護責任遺棄”の犯罪を犯した鶴竜等同席者にも相撲とりたる資格は無いと個人的に思っている。
だから出来れば、出雲大社相模分祠からはコンナ非法治主義者で非武人倫理観の大悪人の写真は撤去して欲しいし相撲界からも懲戒解雇して欲しい。
朝青龍一般人暴行事件や時津風部屋門弟リンチ殺人事件後に改革も失敗したばかりか暴行犯日馬富士を擁護する相撲協会役員を全員解雇すべきだし、文部科学省から正式に非難して欲しいとも思っていたりする。なんなら相撲協会も一度公益法人格を剥奪し文部科学省の統括下に置いて、反社会的で暴力を肯定する様なヤクザや日本赤軍やオウム真理教と何ら変わらない価値観の親方連中を全員解雇して再建しても良いんじゃないかと個人的に思う。
出雲大社相模分祠に話を戻す。
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社紋は亀甲に剣花菱があしらわれた紋様だった。
出雲系の神々や大伴一族や吉備一族の関わる古社と弁天様には亀甲紋を用いる場所が少なくない。
小生は浦島太郎伝説にも関係が有ると推測しているが、それは川崎市と横浜市と横須賀市の神話に纏わる事なので今回は解説しないでおく。
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御霊社が本殿の横に鎮座していた。
ここは他にも小生の祖先神と共通性の有る龍神の神格を持つ水神様が祀られていた。
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龍蛇神の社だな。
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少し変わった現代芸術的な鳥居?の先に湧水地があり、そこが霊場に成っているらしい。
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先に進むと御社と水汲み場が有った。
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どうも江戸時代に掘られた井戸水で、清酒醸造にも用いられ“環境庁名水百選”にも選ばれているらしい。
歴史の浅い神社だが、縄文時代に始まる湧水地信仰から聖地化した古代神道のルーツの一つである文化をちゃんと守り伝えている様だ。流石、出雲大社様だけある。
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他にも平安時代に神様に成られた天満大自在天神こと菅原道真公や、筑紫社には宗像三女神様、そして祓社には祓い清めつまり退魔の御神威をもつ瀬織津姫等が祀られていた。
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様々な時代の神様が一同に会し大切にされている。
本当に素晴らしい神社を偶然でも御参り出来て良かった。
又来年に開成町の紫陽花祭りが開催される際には、出雲大社相模分祠に御参りに来ようと心に決めた。
新しいのに清々しい聖地だった。
出雲大社相模分祠御朱印 久良岐のよし
社務所で参拝の証、そして個人的には御分霊を勧進する心算で御朱印を受領し、社務所で売っていた美味しそうなお饅頭が有ったので一つ購入した。
出雲大社相模分祠の参拝を終え、次は秦野市東田原に在る源実朝公の首塚を目指し車に乗ると再出発した・・・
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訪問先その③に続く














表題の通り、横浜市内と鎌倉市内は2017年12月第1週、今が紅葉の見ごろです!
昨日12月02日に撮影して来た写真を添付羅列しますので、旅の御参考にして頂ければ幸いです!

横浜三渓園
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山下公園~横浜三塔KING(神奈川県庁旧庁舎)前銀杏並木DSC_3852
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鎌倉市浄明寺地区宅間谷(たくまがやつ)界隈(報国寺~旧皇族華頂宮邸~犬懸谷)
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旧皇族華頂宮邸
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犬懸谷(いぬかけがやつ)~衣張山~田楽辻子の道周辺CIMG5827
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関取(戦国期北条氏康公関所跡)~ニュージャーマン~鶴丘八幡宮
248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下636−1



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鶴丘八幡宮~白幡神社(鶴岡八幡宮境内社)~鎌倉国宝館
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もう有名な場所ばかりなので解説は不要だと思い、先ずは皆さんの必要な現在の画像情報を掲載しました。
もし、「余り詳しくないよ~」と言う人はブログの記事の下の方のタグから検索したいキーワードを;クリックしてみて下さい!
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近い内に22日の神奈川県西部の紅葉見物の休日雑記の続きを書きますので、その記事も御興味有る方は御覧下さい。

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これは前回の記事です。

皆さん、晩秋の景勝、楽しんで下さいね~♪
では、又、次の記事で!




















2017年の神奈川県は、この記事を書いている11月29日現在が紅葉の最盛期と成った。
しかし小生はワラワラと集団移動する多数迎合主義が嫌いなので、一足早く紅葉の名所とマイナーな紅葉の景勝地を廻るついでに史跡も見学する計画を立てた。
当初の訪問予定はこんな感じだった・・・
2017年11月22日訪問予定地
しかし、実際は若干失敗が有った。
失敗と言うのは訪問地の訪問達成件数では無く、睡眠の事。
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前日は仕事は24時には終わり帰宅、そこから準備をして風呂に入り3時に出発した。
当初の計画通り最初の訪問地である大雄山最乗寺手前の東名高速の中井PAで車中泊(仮眠)を朝07:00位までとってから行動開始する予定だったのだが“全く眠れず(笑)”結局、少し早く6時過ぎに中井PAを出発して07:30くらいに最乗寺の駐車場に到着し、駐車場で漸(ようや)く意識が朦朧として来たので2時間程仮眠した。
結果から言うと変更が入り訪問地は予定より多く成った。
2017年11月22日実際の訪問地
実際には上記の訪問先の他に、大雄山の土産物屋、寿福稲荷神社、御嶽神社と八坂神社が加わる。
・・・さて最初の訪問地の大雄山最乗寺。
大雄山は2回目の紅葉見物の参拝、御寺の駐車場に至る途中、山の参道には立派な仁王門が在る。
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素晴らしい場所なのだが、地図を暗記せずカーナビで最乗寺に行く人や観光バスで紅葉見物に来る人はここを見過ごしてしまう事に成るのだが・・・
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もし今週末2017年12月02日に大雄山に紅葉見物で参拝する人は、是非、この仁王門界隈の雰囲気も味わって欲しいと個人的に思う。
この仁王門からずっと石畳の参道が約500年前から最乗寺まで続いているが、今では徒歩で参詣する人は略いない。小生も車での訪拝だ。
時間軸で言うと小生は最乗寺に着いて先(ま)ず車中で2時間寝た。
睡眠から目覚めると靴を運転用のシューズから、いつも史跡と城跡を見学する際のトレッキングシューズに履き替え、顔を洗う代わりに聖地大雄山の朝の清々しい冷気で深呼吸し精気を取り込んだ。
仁王門から石畳をづっと登って来ると下の素敵な三(山)門が参拝者を出迎えてくれる。
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無論小生は車での訪問、駐車場からも近いので先ずは本来の山門をちゃんと歩く事にした。
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紅葉はまだ少し早かったがそれでも綺麗だったので、12月初旬には見頃に成っているだろう。
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三門の近くには上の写真の相生橋が在り、その渡った先には大雄山最乗寺始まりの聖地でありパワースポットが在るのだが多くの“観光客”や“偽霊能者”は知らない。
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最乗寺開山、了庵慧明禅師が座禅を組み修行した岩が柵に囲まれた場所で聖地の1つなんだが、本当に霊能力や神通力が有ると“自称する人”が何でここに行きつかないかと言えば、彼等にはそういったモノと本当は“縁が無い”人間だからだろう。
神社仏閣を守って来た歴代宮司様や住職様、支援した歴史偉人達を崇拝して本当に大切に思う人間ってのは“導かれる”とかオカルトなもんじゃなくて色々と目に入って来る情報から当時の人の見た物を時代を超えて吸収しようとするから気が付くんだよ、こう言った場所に。
わざわざ御寺さんが石碑をたててもスルーする自称霊能力の高い人間が多いのは皮肉だな。
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三門へ戻り本来の参道を歩くと厳(おごそ)かな雰囲気・・・
マイナスイオンかな(笑)?を体中に浴びながら、この季節の美しい大雄山の紅葉の景色がいよいよ参拝客を出迎えてくれる。
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もし参拝する機会の有る人は、是非、駐車場からいきなり僧坊へと行かず、ここを歩いて自然美と山岳信仰を取り入れた修験道とも融合した曹洞宗大雄山最乗寺の宗教文化の美しさを目と肌と鼻で体感してほしい。
石畳の階段の先にいよいよ僧坊が立ち並ぶエリアへの入口、よく写真やテレビで紹介される紅葉の風景が改めて出迎えてくれる。
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ここは本当に美しい。
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階段を登りきると伽藍を結ぶ回廊と繋がった門が在る。

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瑠璃門だな。
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・・・この門をくぐった瞬間に別世界の様な風景を目にする事に成る。
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朝靄(あさもや)と落ち葉焚(た)きの煙の霞で丸で中国の水墨画の仙人の住まう霊場の様な佇まい。
まぁ、実際この最乗寺は禅道場として精神修養と学問の場として運営されていたのだが天狗信仰の舞台でも有る。
この最乗寺を支援した室町時代初期の古河公方足利家の家臣であり扇谷上杉家の与力だった大森家や、小田原北条家の支援を受けて繁栄して来た寺院であり山の中の御寺であり山岳信仰の場なので、自ずと神秘的な風景に成ったんだろう。
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この写真で見ている方向と真逆の後ろ側に寺務所が有るので、御守りや御朱印はそちらで授与して頂ける。
寺務所辺りの庭の紅葉越しに見る紅葉も美しい。
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この辺りまでは車椅子の人も入って来られる様に成っていたと思う。一般駐車場とは違う場所から入って来られる道が有ったと思うので、もし足の不自由な方が訪問される場合は事前に大雄山最乗寺に電話で問い合わせしてみると良いかも知れない。
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金剛壽院の前を通り過ぎると小生が一番お気に入りの紅葉の綺麗な階段が在る。
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右手奥に見えるのは鐘楼。左の建物は豊富な水量を誇り飲用に適した湧水を湛える井戸。
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本当に綺麗なのだけれど、これでも小生が訪れた先月22日はまだ紅葉見物には少し早かったので12月初旬の今はきっと見頃だろう。
階段を上がると又、紅葉の綺麗な場所が一つ在る。
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多宝塔だな。2年前の記憶でおぼろげだが歴代御住職の御廟所も兼ねていたと思う。
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同じ禅宗でも臨済宗寺院は夢窓疎水石禅師の影響で枯山水庭園が多いが、曹洞宗の場合は永平寺もそうだが神仏習合の文化を明治までは色濃く残し中でも修験道との関係が有る山岳信仰の対象だった白山権現を永平寺が守護神としていた事も有ってか、山伏文化を色濃く伝える寺院が大きい場所程多く山中に鎮座している場所も少なくない。後醍醐天皇をはじめ歴代の天皇は修験道や真言宗や曹洞宗と同じく神仏習合の文化を大切にされてこられた歴史も有る。
だから現代に成っても天皇家は古代から続く神社を大切にするし同じ様に仏教も大切にしていて例えば法然上人は鎌倉時代~現代の今上天皇に至るまで歴代の天皇から法諡(ほうし=法名)を追贈されていたりするし、言うまでも無く弘法大師様や伝教大師様の宗派の真言宗や天台宗寺院や臨済宗や曹洞宗の寺院も法相宗や華厳宗の寺院も日本文化の醸成の源として大切にされて来られた歴史が有る。
そもそも大雄山と最乗寺自体が山伏信仰の文化を持っているから、こんな風に山深い場所に神秘的な堂塔を構えているんだろう。
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先に進むと瀧の上には不動堂が有り、正に修験道や真言宗に通じる文化を引き継いでいる。
不動明王は火災除けの仏様として祀られる事が多いが、横浜の森浅間神社はじめ源頼朝公も湧水地こと滝の在る場所に不動明王を祀らせている。
不動堂の奥に進むと奥院に続く門前の開けた場所に出る。
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この日は霧に木漏れ日が差し込みとても神秘的な光の演出も見られ、少し早かった黄色い紅葉もとても美しく見えた。
この先に進むと大雄山が“縁結びの御利益”で有名な場所である天狗の下駄が沢山有る御堂やら凄まじい段数の奥院へと続いている。
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天狗信仰の舞台でもあるので門の左右には天狗様が坐す。
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う~ん・・・何で明の軍人の甲冑なんだろう?
日本の甲冑で良かろうに。天狗信仰の文化は中国には無いんだけどね。きっとこの銅像を作った人は仏師なんだろう。だから毘沙門天やなんかと同じ中国風の甲冑で天狗様を造形したんだろうな。
まぁ、これはこれで勇ましく格好良いと思う。岳飛とかこんな感じの鎧を着ていたんだろう。
実は曹洞宗が繁栄する切っ掛けに成ったのは神奈川県出身の鎌倉武士が非常に関係している。
大雄山の在る南足柄市の隣の秦野市を平安時代~鎌倉時代に領有していた波多野家だな。
この波多野家の領国が越前国にも有ったので北陸を本拠地としていた曹洞宗の永平寺や大乗寺を波多野家が支援した様だ。
一頻(しき)り紅葉を見物しながら御堂を礼拝して回り、次の目的地に向け出発する前に最乗寺の山門の少し下の方に在る土産物屋まで車で移動した。
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十八丁目売店と村上売店だな。小生は午前中早めの訪問だったので写真でもそれ程観光客はいないが、普段は元気なジジイとババア(笑)で賑わっている。
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因みに十八丁目売店と村上売店は隣同士で売っている物までほぼ同じせいで仲が悪い(笑)。
でも両方の店とも御客には親切で試食を薦めてくれて御茶を振舞ってくれる。
小生は両方の店で種類の違う御煎餅を買い、両方の店で御茶を頂き「ありがとう」と御礼を言って来た。
十八丁目売店の女将さんに「ウチの方が美味しいでしょ?」と聞かれたので「両方とも少しづつ味が違うし両方とも美味しいよ!親切にしてくれてありがとう♪」と御礼を伝えて来た。
大雄山を降りて足柄上郡松田惣領の寒田神社に移動した。
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寒田神社は日本武尊が東征の折に立ち寄った場所だ。神話を証明する様に平安時代の富士山の噴火以前の東海道は寒田神社の前を通る矢倉沢往還=大山街道が東海地方から現在の神奈川県域に至る陸の街道だった。
南足柄市~小田原市街を突っ切って相模湾に注ぐ酒匂川の川名由来はこの神社に伝わる神器に纏(まつ)わる日本武尊伝説で、この寒田神社の場所に在った集落で休息した際に木椀で酒を使った神事を眼前の川で行い、そのまま出撃し合戦が終わって戻るとまだ木椀に酒の香りが残っていたので、これが酒匂川の由来に成ったそうだ。因みに神奈川県域に十四座しか無い延喜式内社の内の一社だったりする。
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まぁ、寒田神社自体は3回目の参詣なのだが、宮司様の御家人はいつもいらっしゃるのだが御朱印は宮司様しか書けないらしく、何としても御朱印を頂きたいと思いの再訪だったが、生憎と翌日が新嘗祭だったり七五三で忙しく、又、品の良い宮司様の奥さんに丁寧に優しく「すいません」と謝られてしまい(笑)御朱印を頂く事を3回目にしても断念し、小生も特に「又来ますから~♪」と答え「来年も紫陽花の頃に開成町に来た時に参拝しますし、次回はちゃんと電話して御願いしますね~!」と5ヵ月先の行動を申告し変な意味では無く小生の顔と声を覚えて貰うべく「釘を刺し」て奥様に印象付けて置いた。
こうやって「横浜から来ました~」って何回も行って顔と声を覚えて貰えば、御縁もそのうちに出来るだろうと思う。
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ちゃんと日本武尊と弟橘姫様に御参りしてから寒田神社を後にした。
ここから次の目標地を秦野市の震生湖に定めていたのだが、途中で渋沢方面を経由する矢倉沢往還の順路を選択していたので「あぁ~そう言えば近くに拉麺の名店“なんつっっ亭本店”が有ったなぁ~」と一昨年立ち寄った事を思い出し、昼食を“なんつっ亭”でとる事にした。
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うまいぜベイビー!
これがなんつっ亭のキャッチコピーで看板に成っている。
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きっとこの名物社長さんの顔をTV番組で見た事有る人も多いかと思う。
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元々やんちゃしていた社長さんなんだが、師匠がとても実直な御人だったらしく感化され、それから仕事に妥協を許さない一途な拉麺職人と成った。その実直で誠実な性格が好感を持たれTV番組でも経営不振のサービスエリアの飲食店再建等を請け負い、今話題の暴行犯“日馬富士”みたいな暴力は使わず、いかつい外見とは裏腹に“優しい言葉遣い”と“味”と“仕事に対する姿勢を学んだ自分の体験談”を経営再建中の店の従業員達に諭し意識改革にも店の再建にも成功したりしている。
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メニューは数種類のスープが有りトッピングもサイドメニューも豊富でカレーライス等も子連れにも適している。ソフトクリームも有るしね~。
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人柄と優しさが滲み出てる御店。
拉麺ファンって味もさることながら大将の人格にも惚れ込んで店に通ったりするもんなんだよな。
だから小生も杉田屋の津村さんが好きで磯子区の杉田屋に通うし、大勝軒の山岸さんや支那そば屋の佐野さんが大好きだった。
この日は黒いマー湯の効いたスープの豚骨醤油拉麺を九条ネギ増しで頼んだ。
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とても美味しく頂きました。
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隣の席に座ってらっしゃった地元のビジネスマン二人組が「美味しい」と連呼し本当に幸せそうだった。
豚骨醤油は獣臭さで苦手な人も多いと思うが、このマー油は焦がしニンニクを手間暇かけてペーストにしているので獣の臭さを消し旨味だけを引き出し、かつローストして有る事でニンニク臭さ自体も無くさながら中華料理で良く使う芝麻酱(じーまーじゃん=胡麻ペースト)と似たような効果を発揮している。
2回目の来訪だったが、今回も美味しかった。御馳走様でした!
なんつっ亭を後にして震生湖に移動した。
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震生湖の駐車場からは神奈川県の守護神である石山権現大山祇神(おおやまづみのかみ)の化身とされる大山が良く見えた。
次回→その②へ続く

















紅葉の季節に成ったので、神奈川を中心に京浜地区のメジャーな紅葉の名所の情報を纏めた記事をリニューアルしてみました。
これクリックすると記事を読めます。
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簡単な歴史と名物も合わせて紹介しています。
まだ、紅葉を見に行く場所が決まってない方の参考に成れば幸いです。

中華圏の迷信と事実考証を交えない思い込みの強さと自国文化への理解の低さを露呈する人が結構な割合で中国人にいる・・・

“月子”は正しい産後の民間療法

“冷水”飲んだら腹壊す”

“刺身”を食ったら腹下す

・・・と思い込んでる阿呆。コイツ等は漢族を自称する資格すら無い。

月子は女性が出産直後は一ヶ月間入浴しない方が健康でいられると言う“迷信”だ。
冷水飲んだら腹壊すと思ってる馬鹿も多い。
古来、中国人は日本人同様に魚を生食した上に、来客の際に新鮮な魚介の刺身を振舞う事は最上の接待だったのだ。

“月子”と“冷水”と“魚介類の生食”に関する中国人の思い込みは極めて簡単な言葉で論破できる、迷信だ
これを信じている奴は洗脳され易いか、我彼を比較して戦力分析する人間かどうか、思い込みが強く客観性の無い人間かどうかが中国人・台湾人限定で良く解る。

中国大陸では昔から自然環境を大切にせず森林を切り開き南方では水田を北方では畑と牧草地を無軌道に拡大したせいで緑地水源が無くなり砂州も無く成り浄化作用の無く成った河川と土壌の地下水は汚染されている。

水が汚染され不潔だから煮沸していない生水を飲めないのであって、それが冷水が駄目とすり替わっている。その水質問題は現代でも同じ、寧ろ中国政府のせいで悪化している。
冷たい水が駄目なのに、冷たいアルコールは飲める事の理由を先ず客観的に見ていない。
身体が冷たい飲料や食物を受け入れないから冷たい水が駄目なんじゃない、中国の生水が不潔なんだよ。
そんな生水、つまり当然ながら出産で裂傷の有る“産道”に中国の井戸水や水道水を触れさせれば感染症を起こす訳だな。
だから傷が塞がる間つまり最低1ヵ月間は頭も洗えない、当然入浴もダメ。
皮膚の脂垢と頭垢(ふけ)塗(まみ)れのままでいた方が感染症を起こすリスクより、よっぽど危険度が低かった訳だ(笑)。
これを理由も考えずに正しい民間医療として妄信している奴が未だにいる。 月子なんて日本では関係無い、大丈夫、日本の水道水のシャワー使って平気だよ。他の欧米でも衛生的に安全な国は大丈夫。まぁ、傷に沁みる内は痛いから止めた方が良いかも知れないけれどね。

中国の水が不潔なのは悠久の時間をかけて無軌道伐採で森林を消し清涼な湧水源を消し田畑に変え、川の砂州を無くし自然による水の浄化能力を失わせた歴史に責任が有る訳だし。

「刺身や寿司を食ったら腹を壊す」
「遺伝子的に中国人の体は生食を受け付けない」
こんな事を言う中国人は“根本的に愛国心も足りない”し“中国古来の文化を学んだ事が無い人間”だと断言出来る。

日本で食う刺身は“汚染された中国の河川の淡水魚と違い安全”な事を客観的に理解出来ないで、生食が原因だと考えている訳だ。

だから刺身や冷たい物を食べたら御腹を壊すと発言する中国人の知り合いがいた際に日本人の小生が中国人に教えた漢文が有る。
この漢文の作者は日本人との友情も伝わっている・・・
仙人橋
霜落荊門江樹空

布帆無恙挂秋風

此行不為鱸魚鱠

自愛名山入剡中

※小生個人の解釈で意訳するなら以下の通りだ。

荊門(の土地:湖北省の真ん中辺りの荊門市)に霜が降(お)り、江(川辺)の樹も(葉が落ち)空(むな)しい(様子だ)。

(船の)帆布は恙(つつが)無く秋風にかかげられている

此(これ=今回)は鱸魚(ろぎょ=スズキ)の鱠(なます=刺身)の為に行く訳じゃなくて

名山(廬山の綺麗な風景)が好きだから(ここから)剡中(浙江省紹興市)に向かうんだがな。

・・・この漢詩の題名は“秋下荊門(秋に荊門へ下る)”日本人でも尊敬する人の多い唐の時代の大詩人、李白が詠(うた)った漢詩だな。
だな。
生食が腹下すってのが中国の迷信と言う解説の前に、この漢詩自体と李白の事績の分析をしたいと思う。
荊門山
荊門と言うのは古代の揚子江(長江)と言う中国の大河川の流域の荊州管轄区域の端に在る荊門山と言う河岸に連なる宜昌市の山の事を指していると解釈が一般的だそうだ。
だがこれは間違いかも知れない。
そもそも荊門山は古くから宜都と呼ばれた土地に在る。隋時代には夷陵郡夷道県と呼ばれ唐の時代には夷陵郡が峡州に地名を改められている。いずれにせよ古代の荊州の中には有ったが、唐代の荊州の入口では無いので漢代~唐代まで荊門山の名は無かっただろう。比較的に後から付けられている筈(はず)だ。
※漢代の州区分は“はじめての三国志”さんの解説記事が中国古代史を良く知らない人でも見ると解り易いです。クリックで→初めての三国志ホームページにリンク。
はじめての三国志 公式様より拝借 三国時代の州
荊州と言うと歴史知識の乏しい中国人や台湾人は現在の荊州市の事しか思い浮かばないだろうが、漢代で言う“荊州”は都市名では無く広大な行政区分、文字通りアメリカのケベック州やニューヨーク州の様な州を指した。
後漢当時の州は14州の行政区分を指し、南方や西方に広域の行政区分が多いのは漢帝国(中国)から見た未開の地で漢帝国“自称:漢の征服地だし”で仮設置されている州区分。当然、朝貢しているだけの部族も多くいる。
南蛮扱いされてる古代ベトナムの王:孟獲サンや、胡王(非漢族の未開地の王=ウィグル族)沙摩柯サンなんかがこの部類だな。
漢代に設けられた荊州の行政区分は現代の範囲で言うと河南省南陽市~湖北省~湖南省を全て合わせた地域だ。
荊州7郡
※“もっと知りたい三国志”さんからの拝借地図です~。
ちゃんと史実に基づいて可視化した地図書いてくれている人がいるから助かる(笑)。ネットの情報はゲームの間違った地図転載している人も多いですからね。
そして漢代当時に荊州市は存在せす江陵県と呼ばれた地域の一部であり南郡に属していました。
この後、三国時代には更に南郡の地名は臨江郡に改められ、その2年後に更に宜都郡に改められています。宜都は現在では宜昌市の下部市町村として宜都市が存在し、そこが後漢時代の夷陵県であり、そもそも現代の荊門山の有る場所です。
南郡=臨江郡=宜都郡の下部には“県”単位の行政区が置かれていました。 それは・・・ 中廬県、襄陽県、当陽県、臨沮県、夷陵県、夷道県、江陵県、枝江県、華容県、宜城県、郢県、邔県、編県、秭帰県、州陵県、鄀県、巫県、高成県
・・・漢代の荊門山は宜都郡夷陵県に在り、現在でも宜都市の地名の残る場所に存在しています。漢代の価値観で言えば広い意味で益州(蜀=四川省)との州境ですが、荊門山は荊州の入口と言うにはだいぶ下流の州内部域に位置に在る上に、漢より後の唐の時代ではもはや行政区分的に荊州の入口でもなんでも無い位置に在ります。
はじめての三国志様より拝借 三国時代の勢力
※又々はじめての三国志さんの画像拝借。
三国志で言うと
益州領主の劉備サン(首府は蜀郡成都城=成都市)の義兄弟の関羽サンが治めていた荊州を、揚州領主の孫権サン(首府は呉郡姑蘇城=蘇州市、後に建業城=南京市)が参謀で大都督の呂蒙サンと陸遜サンに攻めさせて関羽サンが殺され、義弟関羽の死に発狂した劉備サンが怒り狂って荊州を取り戻す為に夷陵の戦いを起こした辺りが現在の宜昌市界隈ですね。
はじめての三国志 公式様より拝借 三国時代の州
余談ですが、ちょっと紹介した沙摩柯さんが胡王と記述されているのですが、胡王の“胡”が指す胡族や突厥(とっけつ)と言うのはウィグル族の騎馬民族の事です。
ウィグル族の中で漢や唐や元の圧迫で西に逃げた
現代のトルコ人達と同じ祖先を持つのが胡族です。
なので沙摩柯サンはウィグル人だと思いがちだが、彼は武陵から攻め込んでいるのでチワン()族の系統の王族と考えた方が良いと思う。漢代に壮族と言う部族の区分が存在していなかったのかも知れない。
当時の劉備サンの敵対勢力である魏の曹操(首都:洛陽、首府:許昌)は雍州を抑え西藏(チベット)も同盟勢力だったので、沙摩柯サンが胡族だとしたら雍州経由でもチベット経由でも武陵に辿(たど)り着(つ)く事は不可能なんだな。

荊州7郡
まぁ、そんな訳で我々現代の読む側は、李白さんの秋下荊門含めて漢詩や和歌が詠(よ)まれた各時代の細かい行政区分の変遷や詩に書かれた季節と各地域の名産品考慮して時代背景や歴史的な内乱の発端と成る異民族や反乱勢力の位置関係も踏まえて、詩の内容を読んで行かないといけないんだな。
・・・しかし中国に関して言えば、これ等の位置関係が現代に成ると中国共産党のせいで更に解りづらくなります。
現在の荊州市は江陵城と呼ばれた城で、荊州市から長江を50km程下った地域のに昔の江陵県の地名がそのまま江陵県として残っていますが、江陵県の中心だった江陵城が荊州市として近年に分離されてしまい歴史を混乱させる要因にも成っています。
まぁ、そんな訳で漢代の荊州と言うのは荊州市(江陵城)の事では無くて古代の漢代の巨大な行政区分の事だった訳ですが小生の住まう横浜にも少し関係が有る人が三国時代に水軍を率いて治めていた場所なんだな。
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三国時代に一騎打ちで無敗の名将軍だった関羽雲長さんの最期の根拠地。
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※北京旅行の時に60元で購入した銅像(笑)。部屋で走水神社の御守りの横に陪神として祀ってる(笑)。
関公は曹操によって神格化され協天大帝関聖天君の名で商売の神様として祀れているが、商売の神様に成った理由は生前に塩の行商の商隊をやっていた事、そして一騎打ちに負けない勝負強さから民間信仰の対象に成った訳だ。

そして
実は、この関羽さんの治めた本来の荊州の広大な行政区分は春秋時代の“楚”の領土が元に成っている訳だ。
楚の都を郢(えい)と言ううのですが、漢代の県を含め荊州市荊州区等も古代の楚王国の首都だった場所で、複数個所、遷都する場所に郢の地名が残されました。

さんざん漢代の荊州の話と宜都市の荊門山の話をした上で話題を“秋下荊門”に登場する“荊門”の地名由来に話題に戻すと、荊門の地名は李白の生きた唐代に初登場する地名なんだな。
唐朝の統治下で荊門県と呼ばれた地域だ。
これが❝荊門❞の名の初出だな。それが現在は荊門市と呼ばれる行政区分に成った。
洛陽~荊門~四川省の位置関係 久良岐のよし
李白は実は塔克拉瑪干沙漠(たくまらかん砂漠)の入口に当たる甘粛(かんしゅく)省出身、その後に巴蜀の地、つまり現
在の四川省に移住した。だから四川省から船で
剡中(浙江省紹興市剡県=嵊州市)に向かうなら長江に違いないと思い込んだ歴史音痴中国人や観光振興が横行した結果だろう。
悪いが歴史事実を突きつけると、李白が剡中(紹興市剡県)方面、つまり江南地方に行く用事が有るのは洛陽に住んでいた時代以後の話なんだな。
江西省の廬山に隠棲する時に江南地方へと下って行ってる。
後は罪人と成って貴州から解放された時だが、その頃には安徽省を拠点にしている。
だから少なくとも、
秋下荊門の詩は時期敵に秋に荊門を川下りしているのだから秋下荊門を読んだ時は洛陽を離れ南陽方面から漢水を下っている筈なので宜昌の荊門山ではなく荊門郡(荊門市)の土地を指すと言うのが小生の推測だ。
荊門門市行政区域 久良岐のよし
荊門市は南面に西から流れ込む長江と、北から市域に流れ込み南へと突っ切る漢水の二つの大河が有る。
当時李白の居た唐の都の西安や洛陽から江南地方
剡県(浙江省嵊州市)に向かうには、漢水を利用する。
上流には襄陽市(じょうようし:漢代に荊州で最も栄えた襄陽城)が存在している。
しかし荊門山(湖北省宜昌市)を船からを見るには、わざわざ巴蜀(四川省)方面から長江を下って来なければ成らない。
これは余りに非現実的。しかも李白の生きた唐代の価値観からすれば洛陽から荊門はそのまま荊門県を指し現在の荊門市の事そのものだろう。
それに現在の荊州市の行政区分と都市名は、つい最近の数十年前に中国共産党によって決められたものだ。
荊門山の有る宜昌市が漢代の荊州と言う大きな枠組み以外で荊の名を冠するのは、唐の滅亡後の五代十国時代に荊南に編入されてからだ。唐代に宜昌に荊門山の地名が有ったか誰か確認したのか?
時代的なズレが有る。最初に訳した人間のテンプレートが広まって無いか?
李白は没する直前の晩年に安徽省の宣城市や当塗県辺りを拠点にしているので、やはりこの時期に川下りで荊門を通り
剡県に向かうとは考え難い
若い時に蜀を出てから暫く長江流域を旅したりしているし、罪人に成って貴州に抑留された時期も有るので宜昌市界隈に来た事も有るし山河の風景を詠んだ事も有るだろうが、小生は秋下荊門の漢詩の中の荊門は荊門郡の事だと思う。状況的に。
彼は洛陽に住んでいた頃、日本人の国費留学生で唐の玄宗皇帝に重用されていた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)や同じ大詩人と成る杜甫(とほ)と友人に成り飲んだくれていたりした。

風流だが豪快で情が厚い人で、結構、言いたい事を言ってしまう人だったらしい(笑)。
こんな逸話が有る。
親友だった阿倍仲麻呂が日本へ帰国する船が難破して生死不明に成った際に「阿倍仲麻呂の帰国船が海難事故に遭って死んだ」と誤報を聞くや(実は漂流してベトナムに到着している)泣いて詠ったとされる詩が残っているのだが・・・

題名:哭晁卿衡(ku chao qing heng=阿倍仲麻呂卿に泣く)
※阿倍仲麻呂公の唐での姓名は姓:晁(chao:ちょう)名:衡(heng:こう)。
※卿(きょう)は官位、帰国前に秘書監、衛尉卿の二つの役職を拝命している。
これは凄まじい事で現代の日本の政権に例えるなら秘書監(内閣官房長官)と
衛尉卿(防衛大臣)を兼務している事に成る。優秀さから如何に玄宗皇帝に重用されていたか解る逸話。
※日本の貴族武士と同じく名を名乗る際は織田上総介信長の様に姓と名の間に官位を置く。

日本晁卿辭帝都

征帆一片遶蓬壺

明月不歸沈碧海

白雲愁色滿蒼梧


※小生の意訳
日本晁卿辭帝都
日本人(親友)で衛尉卿の晁衡が辞職して帝都(洛陽)を離れた

征帆一片遶蓬壺
帆(船)は(親友の晁衡を乗せ、海に浮かぶ)
小さな蓬莱の壺を遶(めぐ=廻)って征(ゆ=行)く
※蓬莱島は不死の妙薬が有るとされた島で、日本や台湾を指す。この場合は日本を指すが、一般的に日本を指す言葉は扶桑(fu sang)を使う。釜山(fu shan)と扶桑(fu sang)の中国語の発音が似ているが、漢帝国に認められて以来~日本が百済を救援して唐朝と対立し白村江の戦が勃発するまで、古代倭人の王権の支配地は本州~四国~九州~朝鮮半島南部に及んでいたので釜山も倭人の国土だった。つまり日本を当てる言葉としては本来は蓬莱島より扶桑の方が適切。
※壺を日本に例えている。

明月不歸沈碧海
明るい月(の様に唐の腐敗の闇を正そうとした阿倍仲麻呂は)碧(あお)い海に沈んでしまい歸(かえ=帰)らない

白雲愁色滿蒼梧
解釈1:白雲は愁(うれ)いの色に染まり蒼(あお)い梧(あおぎり)で満ちている。
解釈2:白雲は愁いの色で満ちる、ベトナムに。
※蒼梧は色と地名二つの意味が有る。
一つは青々とした熱帯植物、若(も)しくはその色。
もう一つは唐代の行政区での蒼梧郡(広西省チワン族自治区~ベトナム)の行政府を示している。
※この詩の蒼梧を色や木として解釈しない場合は、李白が事前に阿倍仲麻呂が日本に帰国せずに当時は唐の領土だったベトナムに赴任する事を知っていた事に成る無事を伝える暗号化された詩に成る。
広西省チワン族自治区
まぁ、こんな風に李白さんは日本人とも仲が良くて友達の死を悲しんだか、対立者による暗殺を恐れて帰国を装って船に乗りベトナムに計画渡航した無事を玄宗皇帝に風流な漢詩で表現したのかも知れない。
まぁ、李白さんは歴史も熟知し詩歌にも通じた大文化人だった訳です。
そして
哭晁卿衡の漢詩はこんな背景がもしかしたら有るかも知れません・・・
当時、玄宗皇帝は傾国の美女として有名な楊貴妃によって政治的に堕落した生活をしていました。
この頃、李白さん始め玄宗皇帝と話す機会の有る人はアノ手コノ手で諫(いさ)めていましたが助言に耳を貸さずに腐敗して行きました。
その楊貴妃の楊一族は、唐朝で外国人部隊を率いる将軍の安禄山の安一族と対立して権力争いをしていましたから、当然ながら玄宗皇帝の側近である阿倍仲麻呂卿も暗殺される可能性が有り都を離れた上で玄宗皇帝の配下で居続ける必要が有ったのでしょう。
阿倍仲麻呂卿は天平勝宝四年(752年)に日本への帰国船に乗船します。
だから予め玄宗皇帝達と画策し都の洛陽から退避し日本帰国船で遭難(を装って?)、唐の支配地のベトナムへ漂着(計画渡航)。ベトナムなら安禄山一族の手は及びませんから。
「船が遭難した」と言う暗号で彼の計画の無事を確認した李白は悲しんだフリしながら安堵した気持ちを玄宗皇帝に伝えたのかも知れませんね。
阿倍仲麻呂卿は唐の朝廷で死んだ事にされていたのかも知れません。
李白によって哭晁卿衡の漢詩が詠まれたのは天平勝宝六年(754年)です、この時期に成っても阿倍仲麻呂卿は死んだ事に成ってる(笑)訳です。当時の中国は駅伝制が確立されており、馬で皇帝の下へ直ぐに情報が伝達される仕組みが有るにも関わらずです。
唐時代の版図 
そして天平勝宝七年(755年)まで洛陽へも長安へも戻りません。
のらりくらい、安全が確保されるのをまっていたのでしょうか?
この間に玄宗皇帝は蜀(四川省)に遷都(都を移す=逃げた)し、モンゴルやウィグルの騎馬民族に援軍要請をし、騎馬民族の軍事介入で安禄山の大軍を撃破しています。阿倍仲麻呂卿は760年まで浪人し無役でいます。
もしかしたら長安にとどまって幕末の桂小五郎さんみたいにスパイをし玄宗皇帝に情報を伝えていたのかも知れませんね。

そして実際に757年に成ると安禄山は自分の息子の安慶緒に暗殺され、更に安慶緒は父安禄山の部下の史思明と対立し759年には更に安氏と史氏の抗争に発展し安氏は滅亡、反乱勢力は一気に自壊して行く事に成りました。
そして天平宝字四年(760年)に阿倍仲麻呂公はタイミング良く復職すると“あの哭晁卿衡”の小生が意訳した解釈2の内容を漢詩を再現するかの様に・・
白雲愁色滿蒼梧
解釈2:白雲は愁いの色で満ちる、ベトナムに。
・・・唐の朝廷に復職しベトナムに赴任、鎮南都護、安南節度使に任命されて三位の官位まで得ています。
鎮南都護は南方方面軍長官
安南節度使は南方統括政府の長官兼財務長官
鎮南都護安南節度使として管轄したベトナムや広州は大切な交易ルートです。
そして、この頃にはメコン川流域は既に大穀倉地帯に成り兵糧補給地としての存在価値も有ったでしょう。
阿倍仲麻呂卿はベトナム赴任の後、最終的には潞州大都督(ろしゅうだいととく)に任命されています。
[画像:d72c085d.png]
唐代の潞州には三国志好きなら聞いた事の有る“壺関(こかん)”と言う洛陽防衛の最終ラインが有り、そこを任され更に大都督(大元帥とか参謀総長に当たる)に任命されている訳です。
これだけの出世をすると成ると、安禄山の乱の鎮定にかなりの功績を残していないと不可能な訳ですね。

さて、李白さんから阿倍仲麻呂さんの話に逸(そ)れてしまいましたが、そんな凄い人とも直接友達だった李白さんですが・・・
洛陽で知り合った阿倍仲麻呂さん達と別れ、一路江南地方に移住する為に南下します。
つまり、この時に漢水を船で下り荊門郡(荊門市)の辺りを通過している訳です。
霜落荊門江樹空
布帆無恙挂秋風
此行不為鱸魚鱠
自愛名山入剡中
だから小生は言う訳です、この詩でも荊門って言ってんだから荊門山じゃなくて荊門郡でしょ?
状況的にも一番自然な解釈でしょってね。

さて、彼の詩で現代中国人で「刺身食うと腹壊す」と言う奴は迷信を信じ客観的に情報を判断しない煽動され易いか自己判断能力の無いか情弱な人間と、最初に小生指摘した根拠と成るのが、この
秋下荊門です。
DSC_3602
秋下荊門の意訳でネタバレしてますが、李白達の時代の中国人も生魚を食べていました。
しかも高級な料理として。
此行不為鱸魚鱠
此(これ)は鱸魚(ろぎょ=スズキ)の鱠(刺身)の為に行く訳じゃない
ばりばり唐代の人等食ってるし(笑)!
つまり、寿司食って腹を下すと言う中国人は自国の本来の文化を全く知らないし、自国の川や海の水が魚が汚染される程に汚い事を理解していないし、水道水や地下水や泥臭いのが異常な事だと認識も出来ていないし、川魚は寄生虫がいるから生食は余り適さないけど海鮮は下処理気をつければ鮮度次第と言う事を知らない訳です。
李白移動箇所 久良岐のよし
さて、そんな訳ですが李白さんが言っていた
剡中(紹興市界隈)の唐代の名物は鱸魚(ろぎょ)=鱸(すずき)ですね。
つまり海の魚です。だから鱠(なます)で食べれるのでしょう。
釣りをやる人は知っているんですが冬季に成るとスズキは寒い外海から湾内や川の汽水域へ移動し越冬します。
唐の時代の海岸線は当然、現代よりも内陸だったろうし、揚子江は内陸まで水深が深いので紹興市界隈のだいぶ内陸辺りまで汽水域が有ったんでしょうか?
因みに日中戦争の時、日本軍は荊州市辺りまで余裕で海から軍艦で川を遡(さかのぼ)って来て、長江沿岸の都市に艦砲射撃を加えている事からも長江の水深の深さが伺えるんじゃないでしょうか。
まぁ・・・孫文先生の樹立した中華民国が袁世凱に乗っ取られたとは言え、その後の蒋介石さんは知日派だったんだから戦争するんじゃなくて英国と一緒に支援するべきだったと小生は個人的には考えています。
まぁ、尼港事件も有りましたから、当時の日本人の感情として袁世凱がいなくなっても中華民国を許せないと言う風潮が有ったのかも知れませんが。
日中戦争のエピソードも水深が深い事を例える素材には成りますね。

もう一つ、李白さんが船の中から見て
霜落荊門江樹空 布帆無恙挂秋風と詠んでいる事も思い出して下さい。
季節は霜が降りる晩秋で鱸魚(スズキ)が湾内や川の汽水域に移動して来る季節位に紹興市方面に向かっている
様子も解りますね。
いずれにせよ、当時の紹興市辺りの名物は鱸の刺身だったし、当時の人々も生魚の刺身を好んで食べていた訳です。そして漢詩の内容の洛陽から南陽郡を通過し襄陽から船で漢水を南下して荊門を通過し江南地方を訪れるタイミングの漢詩と解る訳です。
司馬遼太郎さんも“街道を行く”シリーズの江南地方への旅の中で、この詩を確か紹介していたと思います。こんな解析はしてないですけどね。
案外、日本人の方が普通の中国人より中国文化を大切に思っているかも知れない。

さて、小生は現代の中国人には迷信に振り回されている人間が多いだけでなく、“愛国心を謳いながら自国の文化も歴史も大切にしない奴が多い”と指摘しました・・・
小生が中国蘇州の網師園と言う、とても綺麗な中国古民家を訪れた際こんな事が有りました。
・・・中国には中共以前の中華民国時代から受け継がれている“文物保護単位”と言う文化財があるのですが網師園もその一つで、当然ながら火気厳禁で禁煙な訳で。
しかし静かに見学している小生達日本人の後から中国人の団体客(中国なんだから当たり前かww)が大挙して建物に入って来て、その内の一人が煙草を吸い、その吸殻を中庭の石畳にポイ捨てしました。
それを見た小生は憤慨しその中国人の前に立ってこう言いました・・・
「喂!你是中国人吧?」
(オイ!オマエ中国人だろう?)

「你因该知道这里是保护单位。」
(ここが文化財指定だって知ってんだろうが。)

「你这么做不觉得害羞吗?」
(オマエ、こんな事やって恥ずかしくないの?)

「到底你们在哪里有爱国心?」
(オメ~等愛国心なんて無いだろ?)

・・・結構低い声でユックリだが、まくしたてましたかね。
こう言うと、コチラを相手の低文化な人間も睨んできたが、生憎と小生はガタイが良いので相手は押し黙って動かなく成りました。これが中国人同士か一般的な日本人男性の身長と体格なら殴り合いに成っていただろうなと思います。

相手は外人に片言の中国語で話しかけられた経験も無いだろうし、しかもガタイの良い外国人に片言の怒気を孕んだ中国語で正論を言われて怖かったかも知れないし当惑したでしょうね、なんせ歴史文化礼儀軽視でポイ捨て当たり前の民度の人が多い国ですから(当時、約20年前)。
でもメンツを大切にする中国人だから謝る文化も無いし、人に言われて自分の捨てた吸殻を拾うなんてプライドが許さない訳だ。
小生はソイツにガン飛ばしながら吸殻を拾うとソイツのツアーガイド(中国人女性)に吸殻を渡し、注意し指導する様に言いました。

小生「你为什么让他在这里抽烟呢?你也应该批评他,对不对?」
(アンタなんでアイツにここで煙草吸わせてんの?アンタもアイツを糾弾するべきじゃ無ぇ~のか?)

すると、そのガイド(导游)から怯えた様子で開口一番、先進国では考えられない一言が帰って来た・・・
导游「我不会・・・」((;゚Д゚)できません・・・)

小生「啊?为什么?」(は?何で?)

导游「对不起・・・」(;Д;)

小生「チッ・・・(舌打ちからの無言でガイドの姉ちゃんを侮蔑する)」(-_- ×)ノ

・・・こんなやりとりをした事が有り、中国人の中国伝統文化や文化財や自然に対する保護意識の軽薄さは身に染みている。
このガイドの発言は客を注意する事が批判したと会社に騒がれたらクビに成るとでも思っての事だろう。自己保身だな。
そして中国は簡単に従業員を気分で解雇出来るし、上司が部下を選ぶ事も出来るから日本以上に愛人関連の問題も有る。法律は有るけれど末端と上層部が酷く法治国家として機能はしていない訳だ。
中間層は真面目なのにね。

無論、小生の友人達の様に昔から素養が高く協調性も有り柔和で文化を大切にする人も多い。
反面、自分だけ良ければ良く自国の文化に対して平気で破壊を行う奴も多い。
モラルに置いて全員がそこそこズルくてソコソコ理性を持て振舞う日本人と違って、中国人は良い人は凄く良いが悪い人は何事においても凄く悪い。人の民度の差が激しい。
そして中国の自称愛国者は何故か自国の歴史を知らず文化を愛さ無い人間が多い。
とにかく善悪の差が激しい。

こんな事も有った・・・
大型スーパーの客が「御釣りが1毛(日本人の感覚で1円みたいな)足りない」と騒ぎだし店員のネエチャン殴る。

更にコンナ事も・・・
食堂で客が「他の客より米が少ない」と騒ぎだし店員も店員で喧嘩腰に「んなわきゃ無ぇ」と言い返し、客が配膳台から米を分捕り、怒った店員がその客を突き飛ばし、逆上した客が空の御椀を持って店員を殴りつける。
店員はオデコがパックリ割れて流血。
周りの中国人は誰も止めず俺が暴れてる中国人を後ろからフルネルソンでクラッチして羽交い絞めにしてホールドし周囲で傍観してる薄情な連中にこう叫んだ・・・
「不要打了!」
(止めろ!)
「喂,你们快报警吧!」
(オイ、オメー等(他の客と店員)さっさと通報しろ!)
・・・と言うまで誰も動かない始末。

こんな事も有った。
中国では人力三輪車がタクシー替わりに使われている観光地も多いのだが、仲良く成った現地の女の子と二人で市場に夕食の食材を買い出しに行く途中で三輪車が窪地に嵌(はま)って出れなく成っていた。
それを小生が普通に後ろから持ち上げて穴から出した。
まぁ、日本人ならその三輪車を持ち上げられる力が有るか複数人いれば普通に小生と同じ事をするだろう。
ところが、一緒にいた女の子にコンナ事を言われた・・・
「何で助けたの?」
・・・これは小生は衝撃的だった。当たり前の事をしたのに怪訝そうに眉をひそめて聞かれたのだ。
当然、この女の子みたいなのばかりじゃなくて、小生と同じ事をする中国人もいる。でも、“そうじゃない奴もいる”国民性が有る土地なんだな。

あと中国に出張に行くと気を付けている事が有った。
中国のTAXIは日本より遥かに事故る頻度が高い。
もし事故に巻き込まれたら、さっさと料金を払い車降りないと口論に巻き込まれ警察が来れば更に面倒に成り立ち去れなく成る事が有る。
小生も一度、中国滞在中に乗っていたTAXIが事故に巻き込まれた。上海の環球金融中心と言う日本の森ビルが建設した高層ビルに行く用事が有ったのだが、そのTAXI発着場所の入口近くの交差点で一般車両と右折直進衝突された。
さっさと金払って降りた。

中国人も自国の文化を大切にする人、古典を読み本当に史料を読む程に歴史が好きだったり伝統芸能の評弾を聞きに行く様な若者は寧(むし)ろ日本人に対して偏見の無い人や客観的に物事を判断する人も多い。

逆に中国人なのに自国の文化に左程興味が無い奴程、自国の事も知らないし対外的に無差別に攻撃的だったりする。
そして迷信を信じる奴も、この部類に多い。

まぁ~あれだ。
日本人もそうだが、右翼って無文化な奴が多いし、左翼って文化破壊者が多いし、そのどちらも笑える事に民族主義者と民族逆差別主義者が多い。
万国共通だな。

歴史に興味の無い奴、文化に興味の無い奴、金と利益が絡まない事に対して無関心な奴、どこにもいるけど、中国の場合は特に差が極端。
文化的で良い奴と友達に成れば良いだけだし、日本や先進国での生活の長い中国人に対し素養を見分ける素材が“月子”“冷水”“刺身”の迷信を習慣として海外にいても是とするか非とするかで客観性が有るか順応性が有るか判断も出来るって体験談だな。

中国人はもっと本来の中国である明や唐や宋や漢の文化を大切に、そして政府や人からの情報では無くて自分で活版印刷されて読み易く成っている古文書を読んで、己の文化と現代中国の闇を知るべきだと思う。
これを日本人が好み中国人が忘れた中国の諺で温故知新、継往開来と言う。

中国人の皆さん、もっと自国の本当の文化を自然を大切にして下さい。
私達日本人は和服を来て正月に神社仏閣を参詣したり、書道で書初めをしたりします。
小生は書初めはしませんが、ちゃんと写経もして御寺に奉納しますし神社も氏神様と土地神様と厄除けの神様と知恵の神様と御参りもします。
さて、中国で日常生活の中で唐装いを着て歩く女性がいるでしょうか?
普段から御先祖様が大切にした御神廟や御寺を御参りする若者がどれだけいるでしょうか?
そう言う所から、本当の愛国心に通じる自国文化を大切にする心は育まれるのだと思います。
そう言う所です。
明孝陵に行って中国人の自称愛国者は朱元璋洪武帝に礼拝するでしょうか?
洪武帝はモンゴル元朝を倒して中華を取り戻した大功労者ですよ?
きっと反日=愛国心と思っている人間には洪武帝の明孝陵の存在も知らない阿呆も多い事でしょう。
そして何で“月子”を中国人は行わないといけなくて、何で“生水”を飲んではいけないか理由すら考えた事も無いでしょう。

もっと自国の歴史から古来の文化も学んで下さい。
そして出来れば人民解放軍が行っているプロパガンダと異なり、実際に日本軍と勇敢に戦ったのが中華民国軍とアメリカ義勇軍だった事実も知って下さい。
中国からどれだけ貴重な歴史偉人の陵墓が文化大革命のドサクサに紛れ盗掘破壊され消えたか調べて下さい。

でね、折角日本に来たら御刺身も御寿司も美味しいから試しに食べて見て下さい。
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海鮮を生食しても腐って無ければ腹壊しません。
小生は中国人の同僚が帰国する際も来訪する際も、台湾の友人が遊びに来た時も、三崎で鮪を食べさせてあげました。
誰も御腹壊してませんよ。
アノサキス等がいるイカは刺身にする時にちゃんと化粧包丁いれて寄生虫駆除したり湯引きします。
先ずは体験してみて下さい。
中国出張中に買ったペットボトルの水が偽物で腹下したり、屋台の料理で腹下したり、別に小生は中国の不衛生な店も怯まずチャレンジしてますよ~(笑)。

まぁ、自国の物は大丈夫だって思いたいですよね。でも日本にも原産地偽装食品も有りますし、御互い、気を付けないといけないのは変わらないけど、迷信かも知れない通説も信じる前に自分で理由を考えて調べてみたらどうでしょうか?

では、又!




浅草と言えば浅草寺と芸人の町として昭和には有名に成り、ビートたけしサン始め多くの話芸の達人を生み出してきました。
そんな浅草の浅草六区と言う町に“ホッピー通り”と言う素敵な飲み屋街が在るのを皆さんは御存知でしょうか?
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写真はホッピー通りの名物、もつ煮込みの店の一つです。こんな感じで道に迫り出す様に屋根とテーブル席が設けられていて、昼も日中から(笑)多くの観光客と地元客が御酒とツマミを楽しんでいる風景を見る事が出来ます。
後で位置関係は地図で説明しますので、先ずはアドレスだけ紹介します。
【ホッピー通り】
小生も余り通っている訳では無いので、その店が特に美味しいと言う記憶が鮮明に有る訳では有りませんが、外国人の友人が東京に来た時に浅草寺を観光案内してからココに連れて来ると大変に喜んでくれます。まぁ~、モツ煮が口に合うかどうかは別にして。
この界隈は浅草六区と言う町な訳ですが、感の良い人は「浅草ロック座」って無かったっけ?と別の店の名前で思い出すかも知れませんね。
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この写真を拡大して頂くと解りますが、六区の街頭には昭和の名俳優と芸人の写真が掲げられています。
浅草六区は芸人の町なので話芸と演芸の芸人を育てる素地が有ります。
浅草ロック座と言うのは浅草六区に在る有名な“ストリップ劇場”の名前です。
小生はヤクザが大嫌いなので、裏社会と繋がりの臭うストリップ劇場はおろか、パチンコの類、キャバクラや性風俗店を保守派として敵視している人間です。ですから小生は一生、浅草ロック座の御世話に成る事は無いでしょう。しかしながら、この店は芸人を育てると言う事に置いて非常に大切な役割を果たして来ています。
昭和の話芸の芸人達は多くが浅草ロック座で司会や前座として話術を磨き、そして芸能界にデビューしています。例えば冒頭で名を挙げたビートたけしサンやアズMAXの御父さんの東八郎サンがロック座から出世して行きました。
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ですから、この界隈は下町の宗教文化の賑わいと、芸人達の下積みの場、そして美味しい御酒の合間った明るく不思議な、そして裏では血の滲む様な泥臭い努力をしている人達が集まる混沌とした魅力溢れる町なんですね。
この場所、行き方が良く解らない人が多いので少し解説しますが、先ずはついでに浅草寺の夜景も紹介したいと思います。
IMG_3607
浅草寺と言えば雷門ですが地下鉄の駅から雷門へ向かう途中、アサヒビールの“金ウンコ(笑)”とスカイツリーが見えたりします。
その近くには立ち食いソバの“富士そば”が在りますが、実は富士そばの隣の甘味処の“西山”は幕末創業160年以上の老舗だったりします。
IMG_3611
この西山は元々は穀類や豆類の問屋から始まっている事も有り、今でも小倉餡や団子は自社で材料の調達から加工、調理提供まで行っています。
すっごく美味しくて、他の店と比較すると味の良さが格段である事が判ります。
位置関係の地図は最後に載せるとして先(ま)ずはアドレスを掲載して置きます。
【甘味処 西山】
さて、西山をもう少し西に歩くと道路を挟んで雷門の正面着きます。
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・・・写真でポーズをとっている人は気にしないで下さい。
この門、現代では“雷門”と言う誤った名称が一般的に観光客には誤認されていますが、本来は風神と雷神を祀る門なので簡略化するのなら“風雷神門”と言う名称が正しい所です。
日が落ちた直後の浅草寺はライトアップされとても綺麗な事を結構、観光客の方は知らないんですね。
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浅草寺界隈ではフザケたTシャツも人気の御土産に成っています。
因(ちな)みに仲見世の通りには江戸時代には塔頭(たっちゅう)寺院と呼ばれる、大きな御寺の支店みたいな小さな御堂が沢山建ち並んでいました。
さて、仲見世を通り過ぎると左手前方に五重塔が見えて来ます。
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ここも昼に見るより夜来た方がとても綺麗なんですね。
実はこの五重塔、現在は浅草寺本堂に正対して左手つまり西側に建っていますが、元々江戸時代には右手東側に建っていました。大火災等を経て、配置も色々と変わっています。
この五重塔の手前左側に行く道の“伝法院通り”が在りますので、そちらに進むと浅草六区の“ホッピー通り”に行くことが出来ます。
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御不動様も夜光に照らされ更に威厳の有る御姿を見せて下さいます。
そして本堂に向かって進むと山門(参門)と呼ばれる内門に当たる宝蔵門が観光客を迎えて下さいます。
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夜の濃紺の空にライトアップされて赤と金に光る宝蔵門はとても映えますね。
浅草寺は元々は天台宗の寺院で現在の東京都内では現存最古の寺院です。戦後に天台宗から分離独立して聖観音宗と言う仏教宗派の総本山に成りました。
実は小生の住む横浜市とは縁が深い御寺です。
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横浜市金沢区には手子神社(旧名:手子明神社/小泉弁才天)と言う神社が存在し、元々は源頼朝公が開いた瀬戸神社と言う神社の大山祇神(おおやまづみのかみ)の御分霊を祀る神社として開かれました。しかし新田義貞の鎌倉乱入の戦火や永享の乱等、周辺は手子神社諸共、度々荒廃していました。
戦国時代に、この手子神社周辺を治めたのが小田原北条家の家臣の三河守(みかわのかみ) 伊丹永親(ながちか)と言う人物です。実はその孫に当たるのが江戸時代初期の浅草寺の高僧、權僧正(ごんのそうじょう)智樂院忠尊和尚様でした。その御縁から智樂院忠尊和尚様は祖父が治めた釜利谷の赤井村、坂本村、宿村の3ヵ村の総鎮守の神社だった手子神社の社殿を江戸時代初期に復興しています。
つまり神仏共に大切にする元は天台宗だった浅草寺の高僧らしい文化的な活動を、智樂院忠尊和尚様は祖先の故地、現在の金沢区釜利谷で行った歴史が有る訳ですね。
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ついでに手子神社境内には瀬戸神社の前に在る源頼朝公と北条政子様御夫妻が御息女の大姫の誕生祝に琵琶湖の竹生島から弁天様の御分霊を勧進して開いた琵琶島弁才天と呼ばれた琵琶島神社から更に御分霊を勧進した小泉弁才天の名で江戸時代に親しまれた弁天社が現存しています。
小泉夜雨 葛飾北斎 
この小泉弁才天は江戸時代に歌川広重によって“金沢八景の一つ、小泉夜雨”として景勝の地として浮世絵に描かれ江戸からの観光客で賑わいました。そんな訳で江戸時代初期には中国の明朝の滅亡時に亡命して来た高僧の東皐心越和尚様等によって紹介され全国的にも景勝地として有名だったので智樂院忠尊和尚様も祖先の治めた土地に誇りを持っていたんでしょう。
さて、そんな訳で浅草寺と横浜はとても偉い神仏共に大切にされた伊丹家出身の智樂院忠尊和尚様の御縁で結ばれているのですが、そんな神仏習合の文化を残す浅草寺宝蔵門の先に進むと、いよいよ浅草寺の本堂です。
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まぁ、ここまで紹介して何なんですが、夜間ライトアップの時間に成ると当然、本堂は閉門しており中に入って参拝は出来ません。
ですから小生の御薦めとしては先に一度、仲見世で御土産の購入を済ませて御本堂を参拝してからホッピー通りに行き夕食をとり、日没してから帰路に着くと夜の浅草寺境内を通って地下鉄の駅まで戻る事が出来て観光するには良いかと思います。
スカイツリーや上野動物園も見学するのであれば、そちらは早い時間に見学してしまう方が良いでしょう。

さて、浅草のホッピー通りと西山、良い御店でしょう?
もし浅草寺界隈に行く機会が有ったら是非!立ち寄って見て下さい。
ホッピー通りと西山と浅草寺界隈 久良岐のよし
最後に位置関係。
☆マークが今回紹介した店や、超有名な料理屋さんです。

では、又、次の解説記事で御会いしましょう。


昨晩、綺麗な夜景を求めていつもと違う磯子界隈を走っていたら綺麗な夜景を見つけたので写真載せるだけの中身の無い記事ですが・・・
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JR磯子駅から徒歩だと少し無理な距離、東京ガス前バス停。そこから見たJXTG根岸製油所プラントの夜景。
夜景探してドライブしてたのにデジカメ不携帯のアホの小生、スマホ撮影。因って画質悪し。
この夜景の綺麗な場所は、東日本大震災発生当時に東北の人々を凍死の危機から救ったJR貨物と日本エネオス根岸製油所(当時)の人達の勤務場所なんだな。つまり現代の無名の英雄達の働く場所。
コレは明治時代の伊藤博文公や、東日本大震災時の根岸で働く無名英雄達の行動を紹介した記事。
  ↓

新磯子周辺 東京ガス前バス停位置 久良岐のよし
位置的にはこんな感じ、地図中央が東京ガス前バス停。
横浜市民にも知っている人は少ないけれど、実は、この先には良い海釣り公園が有ったり、東京ガスのISOGOエネルギープラザってのが有って、日曜日以外に施設が開かれていて火力発電の仕組みやなんかの模型の常設展示が見学出来たり出来るので小学生か中学生位の子供のいる家のパパさんママさんが家族で来ると良い場所だったりする。
そちらは手元に写真が無いので改めて写真撮影に行こうと思う。
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しかし綺麗だ。
昭和後期生まれには伝わると思うけれど“魔晄炉”みたいじゃない(笑)?
では!又、次のブログ記事で!

神奈川県横浜市金沢区が日本屈指いやいや天橋立以上の世界レベルの景勝地として平安時代末期~江戸時代の間、各時代の日本の文化人や歴史偉人達から愛されていたのを御存知の方は今では余り多くはありません。
かろうじて京浜急行電鉄の金沢八景駅の駅名が、その景勝地の内で特に優れた場所が八ヵ所有った事を今に伝えています。
実はこの金沢八景を開拓し景勝地として世に知らしめたのが鎌倉幕府を開いた源頼朝公と真言宗の超有名な高僧の文覚和尚様で、その景勝地としての価値を文化的に高めたのが鎌倉幕府重鎮の金沢北条実時公、そして観光地としての価値を向上させたのが金沢北条貞顕(さだあき)公や兼好法師の名で知られる吉田兼好でした。
その金沢区の景勝地は江戸時代に成っても有名で、江戸時代初期には満州族の清帝国初代皇帝ヌルハチによって明帝国が滅亡した際に日本に亡命して来た東皐心越(とうこうしんえつ)和尚様によって絶賛され、その称賛の句中で"金沢八景"の地名が名付けられました。
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そして、江戸時代も中頃に成り浮世絵が流行すると歌川広重によって金沢の八景、8つの景勝地が絵に描かれ江戸市民に大流行し、当時の人々が目指した場所が“能見堂”と言う建物でした。
能見堂からは金沢の8ヶ所の景勝が一望出来たそうです。
今では明治時代の廃仏毀釈と言う宗教差別政策と仏教弾圧によって能見堂は荒廃し潰されてしまいましたが、今でもその旧跡は残っています。
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その付近から見る地形は、昭和の戦後に無文化な極左閥の人間が横浜市や神奈川県の教育委員会や土地開発部門に多く入り込んでしまったせいで埋め立て地利権で海は埋め立てられて、関東を代表する景勝地だった金沢八景の眺望は失われてしまいましたが、今でも江戸時代の人々が金沢八景を一望する為に訪れた能見堂緑地からは昔、島だった山々を見渡す事が出来ます。
金沢地形図 久良岐のよし
昔の金沢区はこんな島と半島の素敵な観光地だったんですね。
頼朝公以来約800年も歴代の統治者が守って来た日本屈指の観光産業の資源である景勝の海を埋め立てた戦後の横浜市長って・・・
本当に戦後の横浜市教育委員会や、左派と在日ヤクザ勢力に推薦されて当選した部類の市長は無文化だったんですね。今の市長もアレな人が最大支援者で、その勢力が熱望するカジノを埋め立て地に作ろうとしていますが、日本文化の価値観では死罪に匹敵するのが博打(バクチ)でしたが、本当、ヤクザと関わりの有る勢力の支援受けた市長は神仏の祟りに遭って反省して欲しい。
さて・・・
話は脱線しましたが、能見堂に話を戻します。
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現在では埋め立て地の住宅街に辛うじて取り残された緑地帯の中に能見堂が有りますが、隣接地域の能見台の地名はこの能見堂が存在した事に由来します。CIMG4702
・・・う~ん、この林道から見える平地が全部海だったらどれ程綺麗だった事か。本当に戦後の横浜市外の都市から職員に採用されて役人に成った無文化な連中は大罪を犯したな。
さて、能見堂を訪問する目印としては阿王ヶ台自治会館や能見台南小学校の辺りを起点にすると解り易いかと思います。
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そこから東に尾根に沿って進むと能見堂緑地の林道入口が数本有りますので、現地の人に道を尋ねてみて下さい。
尾根道を進むと下の写真の掘削されて造成された人口削平地形にぶつかります。
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これ、能見台の地名の由来に成った能見堂の跡地なのですが、今回の記事は能見堂を紹介する【前編】記事なので余り触れませんが、ここは現地を歩かずに本を編集した城郭学者も知らない青ヶ台城の残存する曲輪址だと小生は推定しています。
曹洞宗の寺として江戸時代も利用されたのが能見堂なのですが、そもそも地域一体が昔は“青野台”と呼ばれていて現代の間違った地名の“能見台”でもなければ“阿王ヶ台”でもないし、城郭の学者さんが書いた青ヶ台と言う地名でもありませんでした。
ちゃんと江戸時代の地理学者で東大の前身の昌平坂学問所の頭取だった間宮士信公が編纂した“新編武蔵風土記稿”には“青野台”と書かれています。そして旧住所の小名で“赤坂”と呼ばれた谷間の急坂を挟んで西青野、東青野と二つの台地が向き合い、その東西の青野台の連結部分が有った事も書かれています。
では、何で現代に能見堂や能見台は青野から能見と地名が変化したのでしょうか?そして阿王ヶ台自治会館の台地だけに青野台の地名の名残が残ったのでしょうか?
まぁ、ここら辺は【後編】青ヶ台城もとい青野城の記事で説明します。
今回はあくまで能見堂の解説。
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まぁ、能見堂の方の名前の由来は多分中国語に由来します。
元々青野台と呼ばれたこの土地の更に由来で有った能見堂の丘を海から仰ぎ見て呼ばれていた仰台(あおうのだい)の意味の地名を、寧ろ金沢八景を一望できると言う意味で能見台(能Neng見Jian堂Tang)=能(~する事が出来る)見(見る/会う)御堂と命名したのだろうと推察出来ます。
つまり(金沢の八ヵ所の景勝地を)一望出来たので能見堂と名付けたんでしょうね。
では能見堂の命名者ですが・・・
中国の仏僧は寺院の御堂に“堂”の字を使う事は有りません。一般的に広い御堂には“殿”を、神仏習合の場所や高僧や偉人を祀る場所には“廟”を、僧侶の居住区や塔頭には“坊”の字用いるので、“能見堂の命名者のセンス”からして中国から来た江戸時代の東皐心越和尚様でも無いでしょうし、それ以前に金沢北条家と同時代に近くの北鎌倉の建長寺にいた南宋からの亡命者の蘭渓道隆和尚様でも無いみたいです。
仮に御二人が命名するなら中国ネイティブのセンスから望景坊とか閲島坊と閲海坊とか名付けたかも知れませんね。
・・・恐らく、梅花無尽蔵に濃見堂として地名が登場するらしいので、漢文に造詣の深い万里集九と言う太田道灌公や北条早雲公と交流の深かった日本人の禅僧文化人によって日本風漢文で名付けられたんでしょう。この人物は室町時代の高文化な武士達と交流が深く東京都八王子市の高月城や神奈川県伊勢原市等の景勝地を観光して回った記録が有り、特に太田道灌公や鎌倉公方代理を務めた蒔田吉良成高公と親友だったので東京や横浜に所縁の深い人物でした。
そして後世、東青野の丘に能見堂址が有る事の方が有名に成り、現代人によって東青野台の地名が消され能見台とされたと言う訳だな。
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能見堂の近くには、昔の眺望を伝える説明の看板も設置されています。
・・・埋め立てた罪滅ぼしのつもりか?
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アンタ等教育委員会の仕事は破壊を止める事と市長に具申する事だろうが?ある意味三権分立の司法に近い存在で文化財と史跡と自然の景勝地を守るマインドが無いといけない筈なんだがな?
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能見堂の入口の手前には御覧の通り城時代の土塁が残っています。
ここを5m東に進むと、御寺時代の入口の階段が在ります。
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この細い階段を上って下さい。
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平安末期以来の景勝地を守る為に先人が建てた金沢八景根源地能見堂のこの石碑も、戦後の横浜市教育委員会と建設利権アホ左派市長のせいで無駄に成ってしまいましたね。つい最近の無力化。
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他にも先人達が各時代に、この景勝地を守る為に残した石碑が虚(むな)しく現存しています。
この先人達の努力も全て円海山の蛍の広域生息地の瀬上沢を開発利権の為に開発させようと保護を怠ってる林文子市長の様な以前の左派役人の埋め立て事業で無駄に成ってしまった訳です。
同様に最初の景勝破壊をした江戸時代末期の永島泥亀の罪も重いと思いますよ。
本当、戦後の横浜市のアホどもが移民だらけでは無くて金沢八景の景勝が残されていたら、今頃は東京から電車で30分の超絶景勝地として外国人観光客で賑わい、内陸部の六浦や金沢区の町屋や柴辺りや磯子区や港南区や栄区はリゾートホテルが残り栄えたでしょうね。
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まぁ、歴史にifは無い。今残るのは教育委員会の罪滅ぼしの説明看板のみ。
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こんな物でも埋め立てられた後しか知らない我々現代人の現役世代や学生にとっては貴重な情報源。
人間関係に例えるなら腐れ縁みたいな物だろうか。無くては困るけど、意味の無い物。
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この権現堂は多分、青ヶ台城の曲輪の一つだったので取り巻く様に土塁が残っている。
ここが城でなければ兼好法師は上行寺の境内地ではなくて、きっとここに住んでいただろう。
城で金沢北条家の晩年の軍事拠点だったので景勝地好きの兼好法師もここには来られなかった筈だ。
そしして江戸時代に能見堂を寺として支援した六浦藩の大名の米倉家は詰めの城として使う目的で青ヶ台城の土塁を権現堂周辺だけ残して寺院として機能保存したのだろう。
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城だったから飲み水の確保出来る井戸も有ったのだろう。
さて、今回は能見堂としての旧名青野台地区を紹介した。
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この通り本当に仰ぎ見る台地の尾根に能見堂の在って、その周辺が“東青野”と呼ばれた丘だった訳だ。
この界隈は地盤(断層)の動きで海没したり隆起する境目のはずなので、応長の大津波で近所の長浜千軒の港町が一夜で地盤沈下し海没した時の様に、昭和の埋め立て地もいつの時代か地盤が大地震で陥没して海に戻るかも知れない。
そう考えると・・・
失われた景勝が復活せず、多くの人が安寧に過ごせる様に金沢北条貞顕公や東皐心越和尚様の御霊に力を借りて神仏の御加護で次の関東大震災が来ても日本文化を愛する善良な部類の金沢区民の生命と財産を守って頂きたいと願うばかりだ。

後編へ続く→【後半:青ヶ台城編】世界屈指の景勝地だった能見堂と鎌倉幕府重鎮金澤北条家の居城青ヶ台城址・・・金沢区





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