横浜市民は地方生まれで就職の為だけに横浜市に住んでいる移住者が多くて横浜に何年住んでも地元意識や愛着を持たず郷土史や日本文化への関心も無くて❝横浜市は新しい町❞と言う偏見を死ぬ迄持っている人がいます。
とんでもない事です。
横浜市は半分は旧鎌倉郡、残りの半分の三分の一は久良岐郡、残りは橘樹郡と都筑郡から構成されています。
特に横浜市の中でも南区、港南区、栄区、戸塚区、泉区、瀬谷区、金沢区は全域や部分的に旧鎌倉郡だった時代が有る文化醸成地や鎌倉武士団の根拠地だった地域なので皆さんも良く知る歴史偉人が多く関与していた寺社仏閣が現存するのですが、明治政府の仏教弾圧や神社廃社統合により廃社廃寺に追い込まれたり、戦後の過度な自由主義で開発利権化され消えた場所が既に多く有ります。
横浜市に歴史偉人が関与した場所が多く有るのは意外かも知れませんが市内の旧鎌倉郡域や郡境には例えば鎌倉殿の13人の登場人物と近親者ですと・・・
頼朝公の実父の源義朝公、頼朝公の叔父の源為朝公と源行家公、源頼朝公、源実朝公、源範頼公、源義経公、頼朝公の御息女の大姫、頼朝公の幼馴染で相思相愛だった比企氏の丹後の局様、正妻で結婚後も頼朝公とラブラブだった実は性格は只のパリピで恋愛一筋だった北条政子様、頼朝公の親友で真言密教の高僧だった文覚上人、三浦一族で頼朝公の参謀だった岡崎義実公や初代の幕府侍所別当職だった和田義盛公、曽我兄弟の敵討ちの際に頼朝公を守り曽我兄弟を仁田忠常公と共に逮捕した平子有長、和田義盛公と共に源氏に忠誠を尽くした泉親平公、源氏の殿様を暗殺しまくり幕府の権力を簒奪(さんだつ:乗っ取り)に成功した北条家の北条時政公や北条義時公や北条泰時公や名越北条宗時公や金澤北条実時公等の鎌倉幕府を乗っ取った後に執権や参謀として日本を守った悪い殿様も善い殿様達にも関する史跡が幾つも❝有りました❞
・・・が!
東京のゼネコンが横浜や鎌倉の文化を軽視して開発したいと言えば以前の市長の数人が忖度したりして当該の地域だけでも蒔田城、笹下城、野庭関城、泉城等の重要な城跡が数多く消滅したり、刀剣の故郷である鎌倉郡だけあり神奈川県現存唯一であり日本最大の蹈鞴(タタラ)製鉄遺跡である上郷深田遺跡と言う史跡が令和四年(2022年10月現在)では現存しますが、2019年段階で地盤ごと削り取る開発案を林文子前市長の時代に市役所が前市長と容認する発言をしてしまった事も有ります。
これに関しては横浜市栄区民12万人に対してJR本郷台駅やJR港南台駅で行われた開発反対署名に11万人もの反対署名が集まりましたが、史跡の場所が栄区だからと言う理由で港南区で集めた評が無効票扱いされて6万票しかカウントされなくしたり地元住民に対する説明義務を遺跡から50mの範囲に留める等の日本史と日本文化と先人に対するリスペクトのかけらもない条例を作った国会議員と横浜市議がいます。
犯罪者でも良い事をする瞬間は有るし、友人には優しかったりする人もいるんですよね。
問題は反省し更生するチャンスを与えるに相応しいか、取り返しが付かない事をして多くの人を不幸にしてしまったかどうかと言う事ですね。
そう言う意味では、この歴史人物は取り返しの付かない事をした部類にも入るし鎌倉幕府設立に繋がる初期の頼朝公に兵を率いて与力した大功も有る複雑な人なのです。
この北条時政公がいなければ源頼朝公は死んでいただろうし、鎌倉幕府が設立されず、北条家の第五代執権と成った北条時頼公が生まれなければ上総之介誅殺に始まり幕府設立後も続いた御家人同士から北条家の身内同士にまで引き続いた内紛を治め、八代執権北条時宗公が元朝フビライハンと朝鮮王の従属勧告を拒絶して倭寇の戦いで日本が存続する事も無かった訳です。
しかも時政公も仏教を大切にして仏様に感謝する習慣が有ったし、神様も御祀りした事が今日紹介する場所には伝わっていたりします。
日野山 真如院 徳恩寺
春日神社
この徳恩寺と春日神社に北条時政は御参りしていて、恐らく先勝祈願をして成就したのだとおもいますが現在の寺宝を奉納しています。
今回は春日神社は徳恩寺の紹介として少し触れ、後日、春日神社について別記事を書きたいと思います。
先ず、この徳恩寺は春日神社の別当寺として歴史が始まりました。
・・・と言うか神社と御寺は同時に開かれました。
最初、康和元年(1099年)に京都の御室・仁和寺の僧侶、尋清僧都が延命地蔵菩薩の尊像を背負って関東を行脚(行脚した際に)鎌倉古道の間道である現在の鎌倉街道の中で横浜横須賀道路日野IC近くの当時は兎ヶ谷呼ばれた谷筋の沢道との合流地点の小高い丘が沢に囲まれた地域に聖地に相応しい事を霊感的に感じて御寺と御寺の御寺の神社を開いたのが始まりでした。
春日神社は当時は穂井神社と呼ばれていたそうです。
穂井と言いますと霧島神社の忍穂井が有名ですが、もしかしたら農業用水に関連した神社だったのかも知れませんね。
この徳恩寺と春日神社を開いた尋清僧都は京都の現在は真言宗御室派の総本山に当たる仁和寺の僧侶ですから、彼は仏教や密教と神事に対する教養が高かった訳で、そこに相模国司の武蔵守藤原成実公が彼に帰依して自分が守護神象として拝んでいて霊験あらたかだったので藤原成実公が自分の守護神象を尋清僧都に奉献し、以後は神社は藤原氏の氏神である春日神社の名で神社は呼ばれ、彼の奉納した御神像が主祭神として祀られる様に成ったそうです。
一帯は後にこの神社の存在から近代までの❝字(あざ)❞と❝小名(こな)❞の旧地番で小名を❝宮之前❞と❝宮脇❞と言う地名に変わりました。
春日神社は小さな神社ですが彫刻が文化財指定されているなど、単独記事にする価値が有るので改めて沢山の写真と一緒に紹介します。
さて、御寺と神社の始まりが解った事で先ずは現代の徳恩寺の施設紹介をして、後に何故ここに北条時政公が関与したか簡単に解る当時の地勢を解説します。
徳恩寺、実は最近まで数年かけて御本堂の再建をしていました。
最近見事に外観は完成し、あとは内装を整える段階になっていて今月、令和四年10月22日に落慶法要が行われます。
2019年の写真では未だ御本堂が有りませんね~。
徳恩寺は新しい御堂も魅力ですが、長屋門が見応えあります。
現代では長屋門を知る人も少ないかもしれませんが、中に部屋が有る建物の真ん中に通路が有り門として機能する建造物です。昔の庄屋さんの家等に良く見られ文化財指定されている場所も多く有ります。
取り敢えず今は車でも入れる御本堂前の通路が有りますから、ソチラから入るのが手っ取り早いでしょう。
そこから入ると右側に真如殿と言う建物が有ります。御本堂が新築される迄はコチラが仮本堂に成っていました。
この真如殿は即(すなわ)ち尋清僧都が最初に春日神社の別当寺として開いた当時の御寺の名前の真如坊で、坊の名前からも真言宗系の密教であり修験道の道場でも有った事が解ります。
実際、この徳恩寺とは明治時代の神仏分離令で法人的に分離した春日神社は松本家が宮司家ですが、この松本家は磯子区屏風ヶ浦の森浅間神社の宮司家です。
この森浅間神社は源頼朝公が帰依していた扇谷(おおぎがやつ)に当時はあった修験道の大本山の様な大道場だった権現堂の修験道僧侶に命じて不動明王を滝に祀らせて木花咲弥姫を祀り開かれた浅間神社で、歴代の権現堂の住職の就任前に必ず森浅間神社で神事を行ってから鎌倉で住職に就任していました。しかし鎌倉で戦乱が続いたので権現堂の本社機能を仮に森浅間神社に移し、戦国時代には間宮林蔵の祖先で当時の港南区~磯子区南部を支配した間宮康俊公の庇護下で別当職の代理を松本家世襲して明治まで修験道の御寺として権現堂は現在の市営地下鉄港南中央駅近くに存在しました。
戦前までは修験道系の武蔵国久良岐郡域と相模国鎌倉郡域の神社を合わせて60余社も統治したのが権現堂松本家でした。
しかし明治政府の命令で寺院機能を廃寺にして権現堂松本家も僧籍を放棄し頼朝公の命で明治時代まで祀っていた不動明王像も港南区港南の福聚院に移して祀って貰う事に成り、以後は松本家は現代に致まで神職として存続していますが、そこら辺りは泉蔵院や中村八幡宮の話でも過去に触れたと思います。
よって、真言宗系修験道に精通した間宮家の領地の権現堂家も真言密教系の修験道だったので、徳恩寺は仁和寺の僧侶が開いた御寺で神社部分は松本家に受け継がれた訳ですね。
この徳恩寺では御朱印も拝受出来ますよ~。
さて、徳恩寺の事は大体解ったと思いますが、この御寺には北条時政公との御縁が今も❝残っていまる❞んですよ!
御寺の説明にはこう書いて有ります。
恐らくは彼が某かの祈願を願ってか成就してか、それが源範頼公の謀殺や畠山重忠公の討伐かも知れませんし、又は普通に何か幸せな事が有ったのかも知れませんが、徳恩寺に在る春日神社の旧御神体の1つだった五大尊軸を奉納した様です。
小生は別の理由の可能性も考えています。
この五大尊軸を祀った理由が恐らく、直ぐ目と鼻の先にあった野庭関城の存在です。
この3名はそれぞれが悲しい事に合戦をする運命が待っていました。鎌倉殿の13人だとこれから起きる和田合戦と泉親平の乱と言う戦争ですね。
この和田義盛公、鎌倉殿の13人ではアホ扱いされて事実と異なる演出をされていますが、彼は築城の名手であり物流網を抑えた政治に長けており、彼が築城した城は全て街道や港を抑え立地も戦国武将に迄採用され使い続けられた名城ばかりでした。
この徳恩寺と春日神社の近くにも和田義盛公が侍所別当として鎌倉古道の尾根道と間道の谷道を抑える位置に築いた野庭関城が有り、この城は戦国の築城の名手の北条早雲こと伊勢宗瑞公や北条氏綱公、北条氏康公の代に成っても拠点として採用されて北条家の内政の名手、名奉行としてしらた安藤良整公や石巻康保公が城将を務めた程でした。
ソレに関しては先程、過去の記事で書いたのでリンクを貼りましたが、もう一度貼って置きますね!
この御城は和田勢の拠点な訳ですが、彼の失脚は恐らく北条家が時政公の時代から画策していたでしょうし、なので野庭関城への攻撃を想定して用意周到に付近の陣地に利用出来そうな神社仏閣を彼は常日頃から狩りをする等の名目や弘明寺へ御参りする等の名目で偵察していたでしょう。
※クリック→拡大して位置関係を見てみて下さい。
また対立とは無関係に幾筋も天候や事情によって交通に摘した道と休憩所に成る拠点を確保するのは当時の常でしょうしね。
結果的に泉親平の乱、和田合戦の頃には北条時政公は非嫡子で息子の北条義時公による政治的なクーデターで失脚していましたが、そんな理由が有って御参りしたと考えると極々自然でしょう。
泉中央公園
泉城(泉親平城館)跡
泉親平公の城跡と伝わる場所が泉区の泉中央公園で、住宅地化と❝公園化❞で地形事大半が破壊されましたがホンの一部の土塁と空堀の跡が現存しています。
まぁ、城や歴史に興味が無い人が見ても上の写真が土塁と空堀跡なの解らないですよね(笑)?
小生の様な歴オタ 兼 城オタの様な人間と御近所の人しか行かないマイナーな場所ですし、まぁ、正しい事をした歴史人物の館跡と知っていてくれれば良いのです。
和田義盛公や泉親平公は負けてしまいましたが、こう言う事の繰り返しが有って、北条家は北条泰時公の世代で善政を志す様に成ったのだと思いますから。
泉親平公は反乱を起こした側ですが立場的には源氏に忠誠を誓って北条を排除しようとした忠義の臣です。彼や和田義盛公や土肥実平公の御子息の小早川遠平公が反乱に失敗すると、その残存兵力と郎党は野庭関城に籠城して玉砕したと伝わっています。
その名残で昭和中期までは和田一族の子孫が野庭地区に旧家として残っていました。
また、弘明寺は頼朝公と彼女が御参りされた御寺でもあります。
戦国時代には、この日野郷一帯は北条幻庵公の所領だった事も北条所領役帳に記載されています。
この記事を書いている今は2022年10月16日ですが北条幻庵公と彼の御子息が関与した小机城は2022年の11月05日第一週土曜日に竹灯籠祭も開催されます。
小机城址竹灯籠祭に興味が有る人は下の過去記事に沢山写真が張り付けてあるので参考にどうぞ!
詳しい情報は下の公式アカウントを御覧下さい。
さて、鎌倉幕府の御家人とは性質が間反対で、口先では愛国心とか国防や日本文化を大切にしていますと騙りながら「マザームーン!」「真のお母さま!」とか言って日本人から搾取した金を外国に送金する新興宗教を賛美してしまう様な政治家が現代では当該地域にいたりして、野庭関城が消えたり徳恩寺や春日神社の森周辺も宅地化されてしまった様に数々の史跡がピンチで、新興住宅地に引っ越してきた人は全く横浜の歴史なんか知らない訳ですが実は横浜市域には鎌倉幕府の重鎮中の重鎮が往来し関わった場所が沢山有る訳です。
ん?
そう言えばマザームーン発言者を支援しているゼネコンは統〇教会と癒着してるのかな?
統〇教会の手下の反日企業なのかな?
まぁ、鎌倉時代の御家人は主導権争いで殺し合いはしたものの領国の発展と民百姓の暮らし向きの事は良く考え善政はしいましたからは、現代の当該地域の政治家は鎌倉御家人とは見ているベクトルが違いますね。
マザームーン野郎を批判してる野党も身内に統〇教会と癒着してる政治家がいるのに反省させていないので現代の政治家は全員、私利私欲のみで、日本が強国化する事や国民の生活向上の事なんか考えず禄寿応穏の概念が欠落した性根から腐ってる連中なんでしょう。
本当に国の経済発展と富の再分配と防衛強化と産業育成と外交的に敵味方に冷遇と友好を使い分けを的確に出来て総合的に国民と国の発展を実現してくれる良い政治家や軍人(自衛官)が増えて国賊や姦族佞臣が与野党問わず落選しまくると良いですね~。
日本武尊、仁徳天皇、菟道稚郎子、阿智使主、菅原道真公、源頼朝公、北条泰時公、北条時宗公、織田信長公、徳川家康公、河合継之助サン、斎藤一さん、西郷隆盛公、柴五郎中佐、東郷平八郎元帥の様に、日本を発展させる方々が実力主義と誠実さで適材適所年齢関係無く登用される社会に成ります様に~。
さて、きっと皆さんの家の御近所にも実は凄い歴史偉人と関係が有る神社仏閣や城址の公園が有ったりすると思います。
気晴らしに少し散歩しながら御寺や神社や城址の説明看板を読んでみませんか?思いがけず皆さんと歴史偉人を時を超えて繋いでくれるタイムマシーンの様な役割を果たしてくれるかも知れませんよ?
ですから、ちょっと御近所を散歩してみませんか~?
では皆さん、また次の記事で御会いしましょう。
とんでもない事です。
横浜市は半分は旧鎌倉郡、残りの半分の三分の一は久良岐郡、残りは橘樹郡と都筑郡から構成されています。
特に横浜市の中でも南区、港南区、栄区、戸塚区、泉区、瀬谷区、金沢区は全域や部分的に旧鎌倉郡だった時代が有る文化醸成地や鎌倉武士団の根拠地だった地域なので皆さんも良く知る歴史偉人が多く関与していた寺社仏閣が現存するのですが、明治政府の仏教弾圧や神社廃社統合により廃社廃寺に追い込まれたり、戦後の過度な自由主義で開発利権化され消えた場所が既に多く有ります。
横浜市に歴史偉人が関与した場所が多く有るのは意外かも知れませんが市内の旧鎌倉郡域や郡境には例えば鎌倉殿の13人の登場人物と近親者ですと・・・
頼朝公の実父の源義朝公、頼朝公の叔父の源為朝公と源行家公、源頼朝公、源実朝公、源範頼公、源義経公、頼朝公の御息女の大姫、頼朝公の幼馴染で相思相愛だった比企氏の丹後の局様、正妻で結婚後も頼朝公とラブラブだった実は性格は只のパリピで恋愛一筋だった北条政子様、頼朝公の親友で真言密教の高僧だった文覚上人、三浦一族で頼朝公の参謀だった岡崎義実公や初代の幕府侍所別当職だった和田義盛公、曽我兄弟の敵討ちの際に頼朝公を守り曽我兄弟を仁田忠常公と共に逮捕した平子有長、和田義盛公と共に源氏に忠誠を尽くした泉親平公、源氏の殿様を暗殺しまくり幕府の権力を簒奪(さんだつ:乗っ取り)に成功した北条家の北条時政公や北条義時公や北条泰時公や名越北条宗時公や金澤北条実時公等の鎌倉幕府を乗っ取った後に執権や参謀として日本を守った悪い殿様も善い殿様達にも関する史跡が幾つも❝有りました❞
・・・が!
東京のゼネコンが横浜や鎌倉の文化を軽視して開発したいと言えば以前の市長の数人が忖度したりして当該の地域だけでも蒔田城、笹下城、野庭関城、泉城等の重要な城跡が数多く消滅したり、刀剣の故郷である鎌倉郡だけあり神奈川県現存唯一であり日本最大の蹈鞴(タタラ)製鉄遺跡である上郷深田遺跡と言う史跡が令和四年(2022年10月現在)では現存しますが、2019年段階で地盤ごと削り取る開発案を林文子前市長の時代に市役所が前市長と容認する発言をしてしまった事も有ります。
これに関しては横浜市栄区民12万人に対してJR本郷台駅やJR港南台駅で行われた開発反対署名に11万人もの反対署名が集まりましたが、史跡の場所が栄区だからと言う理由で港南区で集めた評が無効票扱いされて6万票しかカウントされなくしたり地元住民に対する説明義務を遺跡から50mの範囲に留める等の日本史と日本文化と先人に対するリスペクトのかけらもない条例を作った国会議員と横浜市議がいます。
上は過去に紹介した場所の極一部ですし、未だ取材したけれど紹介記事を書いていない神社仏閣も史跡も大量に有ります。
そんな中で今回紹介するのは鎌倉殿の13人が始まってから小生がディスり捲っていた北条時政公。彼にも功績が有り、それを評価や取上げないのは不平等と言う事で横浜市内の時政公所縁の御寺を紹介したいと思います。犯罪者でも良い事をする瞬間は有るし、友人には優しかったりする人もいるんですよね。
問題は反省し更生するチャンスを与えるに相応しいか、取り返しが付かない事をして多くの人を不幸にしてしまったかどうかと言う事ですね。
そう言う意味では、この歴史人物は取り返しの付かない事をした部類にも入るし鎌倉幕府設立に繋がる初期の頼朝公に兵を率いて与力した大功も有る複雑な人なのです。
この北条時政公がいなければ源頼朝公は死んでいただろうし、鎌倉幕府が設立されず、北条家の第五代執権と成った北条時頼公が生まれなければ上総之介誅殺に始まり幕府設立後も続いた御家人同士から北条家の身内同士にまで引き続いた内紛を治め、八代執権北条時宗公が元朝フビライハンと朝鮮王の従属勧告を拒絶して倭寇の戦いで日本が存続する事も無かった訳です。
しかも時政公も仏教を大切にして仏様に感謝する習慣が有ったし、神様も御祀りした事が今日紹介する場所には伝わっていたりします。
日野山 真如院 徳恩寺
045-842-1823
春日神社
045-844‐2140
今回は春日神社は徳恩寺の紹介として少し触れ、後日、春日神社について別記事を書きたいと思います。
先ず、この徳恩寺は春日神社の別当寺として歴史が始まりました。
・・・と言うか神社と御寺は同時に開かれました。
最初、康和元年(1099年)に京都の御室・仁和寺の僧侶、尋清僧都が延命地蔵菩薩の尊像を背負って関東を行脚(行脚した際に)鎌倉古道の間道である現在の鎌倉街道の中で横浜横須賀道路日野IC近くの当時は兎ヶ谷呼ばれた谷筋の沢道との合流地点の小高い丘が沢に囲まれた地域に聖地に相応しい事を霊感的に感じて御寺と御寺の御寺の神社を開いたのが始まりでした。
春日神社は当時は穂井神社と呼ばれていたそうです。
穂井と言いますと霧島神社の忍穂井が有名ですが、もしかしたら農業用水に関連した神社だったのかも知れませんね。
この徳恩寺と春日神社を開いた尋清僧都は京都の現在は真言宗御室派の総本山に当たる仁和寺の僧侶ですから、彼は仏教や密教と神事に対する教養が高かった訳で、そこに相模国司の武蔵守藤原成実公が彼に帰依して自分が守護神象として拝んでいて霊験あらたかだったので藤原成実公が自分の守護神象を尋清僧都に奉献し、以後は神社は藤原氏の氏神である春日神社の名で神社は呼ばれ、彼の奉納した御神像が主祭神として祀られる様に成ったそうです。
一帯は後にこの神社の存在から近代までの❝字(あざ)❞と❝小名(こな)❞の旧地番で小名を❝宮之前❞と❝宮脇❞と言う地名に変わりました。
春日神社は小さな神社ですが彫刻が文化財指定されているなど、単独記事にする価値が有るので改めて沢山の写真と一緒に紹介します。
さて、御寺と神社の始まりが解った事で先ずは現代の徳恩寺の施設紹介をして、後に何故ここに北条時政公が関与したか簡単に解る当時の地勢を解説します。
徳恩寺、実は最近まで数年かけて御本堂の再建をしていました。
最近見事に外観は完成し、あとは内装を整える段階になっていて今月、令和四年10月22日に落慶法要が行われます。
2019年の写真では未だ御本堂が有りませんね~。
徳恩寺は新しい御堂も魅力ですが、長屋門が見応えあります。
現代では長屋門を知る人も少ないかもしれませんが、中に部屋が有る建物の真ん中に通路が有り門として機能する建造物です。昔の庄屋さんの家等に良く見られ文化財指定されている場所も多く有ります。
取り敢えず今は車でも入れる御本堂前の通路が有りますから、ソチラから入るのが手っ取り早いでしょう。
そこから入ると右側に真如殿と言う建物が有ります。御本堂が新築される迄はコチラが仮本堂に成っていました。
この真如殿は即(すなわ)ち尋清僧都が最初に春日神社の別当寺として開いた当時の御寺の名前の真如坊で、坊の名前からも真言宗系の密教であり修験道の道場でも有った事が解ります。
実際、この徳恩寺とは明治時代の神仏分離令で法人的に分離した春日神社は松本家が宮司家ですが、この松本家は磯子区屏風ヶ浦の森浅間神社の宮司家です。
この森浅間神社は源頼朝公が帰依していた扇谷(おおぎがやつ)に当時はあった修験道の大本山の様な大道場だった権現堂の修験道僧侶に命じて不動明王を滝に祀らせて木花咲弥姫を祀り開かれた浅間神社で、歴代の権現堂の住職の就任前に必ず森浅間神社で神事を行ってから鎌倉で住職に就任していました。しかし鎌倉で戦乱が続いたので権現堂の本社機能を仮に森浅間神社に移し、戦国時代には間宮林蔵の祖先で当時の港南区~磯子区南部を支配した間宮康俊公の庇護下で別当職の代理を松本家世襲して明治まで修験道の御寺として権現堂は現在の市営地下鉄港南中央駅近くに存在しました。
戦前までは修験道系の武蔵国久良岐郡域と相模国鎌倉郡域の神社を合わせて60余社も統治したのが権現堂松本家でした。
しかし明治政府の命令で寺院機能を廃寺にして権現堂松本家も僧籍を放棄し頼朝公の命で明治時代まで祀っていた不動明王像も港南区港南の福聚院に移して祀って貰う事に成り、以後は松本家は現代に致まで神職として存続していますが、そこら辺りは泉蔵院や中村八幡宮の話でも過去に触れたと思います。
よって、真言宗系修験道に精通した間宮家の領地の権現堂家も真言密教系の修験道だったので、徳恩寺は仁和寺の僧侶が開いた御寺で神社部分は松本家に受け継がれた訳ですね。
この徳恩寺では御朱印も拝受出来ますよ~。
さて、徳恩寺の事は大体解ったと思いますが、この御寺には北条時政公との御縁が今も❝残っていまる❞んですよ!
御寺の説明にはこう書いて有ります。
つまり明治時代の仏教弾圧と小さな神社の廃社が横行した時代までは春日神社に祀られていた様です。五大尊軸五大尊を描いた紙幅。長さ100cm、幅42cmで極彩色。中央に釈迦如来、左右に地蔵菩薩と薬師如来、下部には虚空蔵と観音の二菩薩。昔、春日明神の本地であって、北条時政公所寄四ツ巴鎮守春日大明神御本地云々と墨書してあり、天保七年(1836年)八月に德恩寺法印・勧善が修覆し奉る
恐らくは彼が某かの祈願を願ってか成就してか、それが源範頼公の謀殺や畠山重忠公の討伐かも知れませんし、又は普通に何か幸せな事が有ったのかも知れませんが、徳恩寺に在る春日神社の旧御神体の1つだった五大尊軸を奉納した様です。
小生は別の理由の可能性も考えています。
この五大尊軸を祀った理由が恐らく、直ぐ目と鼻の先にあった野庭関城の存在です。
この3名はそれぞれが悲しい事に合戦をする運命が待っていました。鎌倉殿の13人だとこれから起きる和田合戦と泉親平の乱と言う戦争ですね。
この和田義盛公、鎌倉殿の13人ではアホ扱いされて事実と異なる演出をされていますが、彼は築城の名手であり物流網を抑えた政治に長けており、彼が築城した城は全て街道や港を抑え立地も戦国武将に迄採用され使い続けられた名城ばかりでした。
この徳恩寺と春日神社の近くにも和田義盛公が侍所別当として鎌倉古道の尾根道と間道の谷道を抑える位置に築いた野庭関城が有り、この城は戦国の築城の名手の北条早雲こと伊勢宗瑞公や北条氏綱公、北条氏康公の代に成っても拠点として採用されて北条家の内政の名手、名奉行としてしらた安藤良整公や石巻康保公が城将を務めた程でした。
ソレに関しては先程、過去の記事で書いたのでリンクを貼りましたが、もう一度貼って置きますね!
この御城は和田勢の拠点な訳ですが、彼の失脚は恐らく北条家が時政公の時代から画策していたでしょうし、なので野庭関城への攻撃を想定して用意周到に付近の陣地に利用出来そうな神社仏閣を彼は常日頃から狩りをする等の名目や弘明寺へ御参りする等の名目で偵察していたでしょう。
※クリック→拡大して位置関係を見てみて下さい。
また対立とは無関係に幾筋も天候や事情によって交通に摘した道と休憩所に成る拠点を確保するのは当時の常でしょうしね。
結果的に泉親平の乱、和田合戦の頃には北条時政公は非嫡子で息子の北条義時公による政治的なクーデターで失脚していましたが、そんな理由が有って御参りしたと考えると極々自然でしょう。
泉中央公園
泉城(泉親平城館)跡
045-800‐2323
まぁ、城や歴史に興味が無い人が見ても上の写真が土塁と空堀跡なの解らないですよね(笑)?
小生の様な歴オタ 兼 城オタの様な人間と御近所の人しか行かないマイナーな場所ですし、まぁ、正しい事をした歴史人物の館跡と知っていてくれれば良いのです。
和田義盛公や泉親平公は負けてしまいましたが、こう言う事の繰り返しが有って、北条家は北条泰時公の世代で善政を志す様に成ったのだと思いますから。
泉親平公は反乱を起こした側ですが立場的には源氏に忠誠を誓って北条を排除しようとした忠義の臣です。彼や和田義盛公や土肥実平公の御子息の小早川遠平公が反乱に失敗すると、その残存兵力と郎党は野庭関城に籠城して玉砕したと伝わっています。
その名残で昭和中期までは和田一族の子孫が野庭地区に旧家として残っていました。
「愛してるよ💛」⇨「私も好きっ💛」
他にも、この野庭関城の近くには馬洗い川と言う川が有って、北条政子様が弘明寺か別宅のだった井土ヶ谷の乗蓮寺に行く途中に馬を洗った滝が有った川が地名だけ残っていたりします。また、弘明寺は頼朝公と彼女が御参りされた御寺でもあります。
戦国時代には、この日野郷一帯は北条幻庵公の所領だった事も北条所領役帳に記載されています。
この記事を書いている今は2022年10月16日ですが北条幻庵公と彼の御子息が関与した小机城は2022年の11月05日第一週土曜日に竹灯籠祭も開催されます。
小机城址竹灯籠祭に興味が有る人は下の過去記事に沢山写真が張り付けてあるので参考にどうぞ!
詳しい情報は下の公式アカウントを御覧下さい。
さて、鎌倉幕府の御家人とは性質が間反対で、口先では愛国心とか国防や日本文化を大切にしていますと騙りながら「マザームーン!」「真のお母さま!」とか言って日本人から搾取した金を外国に送金する新興宗教を賛美してしまう様な政治家が現代では当該地域にいたりして、野庭関城が消えたり徳恩寺や春日神社の森周辺も宅地化されてしまった様に数々の史跡がピンチで、新興住宅地に引っ越してきた人は全く横浜の歴史なんか知らない訳ですが実は横浜市域には鎌倉幕府の重鎮中の重鎮が往来し関わった場所が沢山有る訳です。
ん?
そう言えばマザームーン発言者を支援しているゼネコンは統〇教会と癒着してるのかな?
統〇教会の手下の反日企業なのかな?
まぁ、鎌倉時代の御家人は主導権争いで殺し合いはしたものの領国の発展と民百姓の暮らし向きの事は良く考え善政はしいましたからは、現代の当該地域の政治家は鎌倉御家人とは見ているベクトルが違いますね。
マザームーン野郎を批判してる野党も身内に統〇教会と癒着してる政治家がいるのに反省させていないので現代の政治家は全員、私利私欲のみで、日本が強国化する事や国民の生活向上の事なんか考えず禄寿応穏の概念が欠落した性根から腐ってる連中なんでしょう。
本当に国の経済発展と富の再分配と防衛強化と産業育成と外交的に敵味方に冷遇と友好を使い分けを的確に出来て総合的に国民と国の発展を実現してくれる良い政治家や軍人(自衛官)が増えて国賊や姦族佞臣が与野党問わず落選しまくると良いですね~。
日本武尊、仁徳天皇、菟道稚郎子、阿智使主、菅原道真公、源頼朝公、北条泰時公、北条時宗公、織田信長公、徳川家康公、河合継之助サン、斎藤一さん、西郷隆盛公、柴五郎中佐、東郷平八郎元帥の様に、日本を発展させる方々が実力主義と誠実さで適材適所年齢関係無く登用される社会に成ります様に~。
さて、きっと皆さんの家の御近所にも実は凄い歴史偉人と関係が有る神社仏閣や城址の公園が有ったりすると思います。
気晴らしに少し散歩しながら御寺や神社や城址の説明看板を読んでみませんか?思いがけず皆さんと歴史偉人を時を超えて繋いでくれるタイムマシーンの様な役割を果たしてくれるかも知れませんよ?
ですから、ちょっと御近所を散歩してみませんか~?
では皆さん、また次の記事で御会いしましょう。