歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

カテゴリ:神様/偉人/武将 > 江戸時代の神様/偉人/武士

神奈川県横浜市金沢区が日本屈指いやいや天橋立以上の世界レベルの景勝地として平安時代末期~江戸時代の間、各時代の日本の文化人や歴史偉人達から愛されていたのを御存知の方は今では余り多くはありません。
かろうじて京浜急行電鉄の金沢八景駅の駅名が、その景勝地の内で特に優れた場所が八ヵ所有った事を今に伝えています。
実はこの金沢八景を開拓し景勝地として世に知らしめたのが鎌倉幕府を開いた源頼朝公と真言宗の超有名な高僧の文覚和尚様で、その景勝地としての価値を文化的に高めたのが鎌倉幕府重鎮の金沢北条実時公、そして観光地としての価値を向上させたのが金沢北条貞顕(さだあき)公や兼好法師の名で知られる吉田兼好でした。
その金沢区の景勝地は江戸時代に成っても有名で、江戸時代初期には満州族の清帝国初代皇帝ヌルハチによって明帝国が滅亡した際に日本に亡命して来た東皐心越(とうこうしんえつ)和尚様によって絶賛され、その称賛の句中で"金沢八景"の地名が名付けられました。
CIMG4700
そして、江戸時代も中頃に成り浮世絵が流行すると歌川広重によって金沢の八景、8つの景勝地が絵に描かれ江戸市民に大流行し、当時の人々が目指した場所が“能見堂”と言う建物でした。
能見堂からは金沢の8ヶ所の景勝が一望出来たそうです。
今では明治時代の廃仏毀釈と言う宗教差別政策と仏教弾圧によって能見堂は荒廃し潰されてしまいましたが、今でもその旧跡は残っています。
CIMG4701
その付近から見る地形は、昭和の戦後に無文化な極左閥の人間が横浜市や神奈川県の教育委員会や土地開発部門に多く入り込んでしまったせいで埋め立て地利権で海は埋め立てられて、関東を代表する景勝地だった金沢八景の眺望は失われてしまいましたが、今でも江戸時代の人々が金沢八景を一望する為に訪れた能見堂緑地からは昔、島だった山々を見渡す事が出来ます。
金沢地形図 久良岐のよし
昔の金沢区はこんな島と半島の素敵な観光地だったんですね。
頼朝公以来約800年も歴代の統治者が守って来た日本屈指の観光産業の資源である景勝の海を埋め立てた戦後の横浜市長って・・・
本当に戦後の横浜市教育委員会や、左派と在日ヤクザ勢力に推薦されて当選した部類の市長は無文化だったんですね。今の市長もアレな人が最大支援者で、その勢力が熱望するカジノを埋め立て地に作ろうとしていますが、日本文化の価値観では死罪に匹敵するのが博打(バクチ)でしたが、本当、ヤクザと関わりの有る勢力の支援受けた市長は神仏の祟りに遭って反省して欲しい。
さて・・・
話は脱線しましたが、能見堂に話を戻します。
CIMG4703
現在では埋め立て地の住宅街に辛うじて取り残された緑地帯の中に能見堂が有りますが、隣接地域の能見台の地名はこの能見堂が存在した事に由来します。CIMG4702
・・・う~ん、この林道から見える平地が全部海だったらどれ程綺麗だった事か。本当に戦後の横浜市外の都市から職員に採用されて役人に成った無文化な連中は大罪を犯したな。
さて、能見堂を訪問する目印としては阿王ヶ台自治会館や能見台南小学校の辺りを起点にすると解り易いかと思います。
CIMG4725
そこから東に尾根に沿って進むと能見堂緑地の林道入口が数本有りますので、現地の人に道を尋ねてみて下さい。
尾根道を進むと下の写真の掘削されて造成された人口削平地形にぶつかります。
CIMG4705
これ、能見台の地名の由来に成った能見堂の跡地なのですが、今回の記事は能見堂を紹介する【前編】記事なので余り触れませんが、ここは現地を歩かずに本を編集した城郭学者も知らない青ヶ台城の残存する曲輪址だと小生は推定しています。
曹洞宗の寺として江戸時代も利用されたのが能見堂なのですが、そもそも地域一体が昔は“青野台”と呼ばれていて現代の間違った地名の“能見台”でもなければ“阿王ヶ台”でもないし、城郭の学者さんが書いた青ヶ台と言う地名でもありませんでした。
ちゃんと江戸時代の地理学者で東大の前身の昌平坂学問所の頭取だった間宮士信公が編纂した“新編武蔵風土記稿”には“青野台”と書かれています。そして旧住所の小名で“赤坂”と呼ばれた谷間の急坂を挟んで西青野、東青野と二つの台地が向き合い、その東西の青野台の連結部分が有った事も書かれています。
では、何で現代に能見堂や能見台は青野から能見と地名が変化したのでしょうか?そして阿王ヶ台自治会館の台地だけに青野台の地名の名残が残ったのでしょうか?
まぁ、ここら辺は【後編】青ヶ台城もとい青野城の記事で説明します。
今回はあくまで能見堂の解説。
CIMG4704
まぁ、能見堂の方の名前の由来は多分中国語に由来します。
元々青野台と呼ばれたこの土地の更に由来で有った能見堂の丘を海から仰ぎ見て呼ばれていた仰台(あおうのだい)の意味の地名を、寧ろ金沢八景を一望できると言う意味で能見台(能Neng見Jian堂Tang)=能(~する事が出来る)見(見る/会う)御堂と命名したのだろうと推察出来ます。
つまり(金沢の八ヵ所の景勝地を)一望出来たので能見堂と名付けたんでしょうね。
では能見堂の命名者ですが・・・
中国の仏僧は寺院の御堂に“堂”の字を使う事は有りません。一般的に広い御堂には“殿”を、神仏習合の場所や高僧や偉人を祀る場所には“廟”を、僧侶の居住区や塔頭には“坊”の字用いるので、“能見堂の命名者のセンス”からして中国から来た江戸時代の東皐心越和尚様でも無いでしょうし、それ以前に金沢北条家と同時代に近くの北鎌倉の建長寺にいた南宋からの亡命者の蘭渓道隆和尚様でも無いみたいです。
仮に御二人が命名するなら中国ネイティブのセンスから望景坊とか閲島坊と閲海坊とか名付けたかも知れませんね。
・・・恐らく、梅花無尽蔵に濃見堂として地名が登場するらしいので、漢文に造詣の深い万里集九と言う太田道灌公や北条早雲公と交流の深かった日本人の禅僧文化人によって日本風漢文で名付けられたんでしょう。この人物は室町時代の高文化な武士達と交流が深く東京都八王子市の高月城や神奈川県伊勢原市等の景勝地を観光して回った記録が有り、特に太田道灌公や鎌倉公方代理を務めた蒔田吉良成高公と親友だったので東京や横浜に所縁の深い人物でした。
そして後世、東青野の丘に能見堂址が有る事の方が有名に成り、現代人によって東青野台の地名が消され能見台とされたと言う訳だな。
CIMG4707
能見堂の近くには、昔の眺望を伝える説明の看板も設置されています。
・・・埋め立てた罪滅ぼしのつもりか?
CIMG4708
アンタ等教育委員会の仕事は破壊を止める事と市長に具申する事だろうが?ある意味三権分立の司法に近い存在で文化財と史跡と自然の景勝地を守るマインドが無いといけない筈なんだがな?
CIMG4706
能見堂の入口の手前には御覧の通り城時代の土塁が残っています。
ここを5m東に進むと、御寺時代の入口の階段が在ります。
CIMG4711
この細い階段を上って下さい。
CIMG4712
平安末期以来の景勝地を守る為に先人が建てた金沢八景根源地能見堂のこの石碑も、戦後の横浜市教育委員会と建設利権アホ左派市長のせいで無駄に成ってしまいましたね。つい最近の無力化。
CIMG4713
CIMG4714
CIMG4715
他にも先人達が各時代に、この景勝地を守る為に残した石碑が虚(むな)しく現存しています。
この先人達の努力も全て円海山の蛍の広域生息地の瀬上沢を開発利権の為に開発させようと保護を怠ってる林文子市長の様な以前の左派役人の埋め立て事業で無駄に成ってしまった訳です。
同様に最初の景勝破壊をした江戸時代末期の永島泥亀の罪も重いと思いますよ。
本当、戦後の横浜市のアホどもが移民だらけでは無くて金沢八景の景勝が残されていたら、今頃は東京から電車で30分の超絶景勝地として外国人観光客で賑わい、内陸部の六浦や金沢区の町屋や柴辺りや磯子区や港南区や栄区はリゾートホテルが残り栄えたでしょうね。
CIMG4716
まぁ、歴史にifは無い。今残るのは教育委員会の罪滅ぼしの説明看板のみ。
CIMG4718
CIMG4719
CIMG4720
こんな物でも埋め立てられた後しか知らない我々現代人の現役世代や学生にとっては貴重な情報源。
人間関係に例えるなら腐れ縁みたいな物だろうか。無くては困るけど、意味の無い物。
CIMG4721
この権現堂は多分、青ヶ台城の曲輪の一つだったので取り巻く様に土塁が残っている。
ここが城でなければ兼好法師は上行寺の境内地ではなくて、きっとここに住んでいただろう。
城で金沢北条家の晩年の軍事拠点だったので景勝地好きの兼好法師もここには来られなかった筈だ。
そしして江戸時代に能見堂を寺として支援した六浦藩の大名の米倉家は詰めの城として使う目的で青ヶ台城の土塁を権現堂周辺だけ残して寺院として機能保存したのだろう。
CIMG4723
城だったから飲み水の確保出来る井戸も有ったのだろう。
さて、今回は能見堂としての旧名青野台地区を紹介した。
CIMG4727
この通り本当に仰ぎ見る台地の尾根に能見堂の在って、その周辺が“東青野”と呼ばれた丘だった訳だ。
この界隈は地盤(断層)の動きで海没したり隆起する境目のはずなので、応長の大津波で近所の長浜千軒の港町が一夜で地盤沈下し海没した時の様に、昭和の埋め立て地もいつの時代か地盤が大地震で陥没して海に戻るかも知れない。
そう考えると・・・
失われた景勝が復活せず、多くの人が安寧に過ごせる様に金沢北条貞顕公や東皐心越和尚様の御霊に力を借りて神仏の御加護で次の関東大震災が来ても日本文化を愛する善良な部類の金沢区民の生命と財産を守って頂きたいと願うばかりだ。

後編へ続く→【後半:青ヶ台城編】世界屈指の景勝地だった能見堂と鎌倉幕府重鎮金澤北条家の居城青ヶ台城址・・・金沢区





野島稲荷神社
【御祭神】宇迦之御魂神=倉稲魂命(うかのみたまのかみ)・・・伏見稲荷大社の御分霊。
【御利益】経済的な繁栄(弥生~古墳時代に於いては食料の豊穣の神、更に古代には清涼な飲み水の神)
【開基】西暦1227年、鎌倉時代に長島頼勝による勧進。※泥亀新田開発者の永島祐伯の祖先か?
【中興】紀州徳川家
【住所】横浜市金沢区野島町23
【アクセス】シーサイドライン野島公園駅~徒歩10分。京浜急行金沢八景駅~徒歩20分。有料駐車場有り。
IMG_5254
野島と言う、昔は島だった場所に野島稲荷神社と言う規模の余り大きくは無く目立たない稲荷社が在ります。
その場所、実は紀州徳川家初代藩主の徳川頼宜公が崇敬した神社なんですが・・・
「何で紀州徳川家と横浜が関係有るの?」
・・・と思う人がきっと多いと思います。
そこで神社の説明の前に、先ずは野島の説明からしようと思います。

京浜急行電鉄に金沢八景と言う駅が有りますが、この駅名が昔、金沢区に在った八ヶ所の景勝地に由来する事を知っている人は現代では余りいないかも知れません。
その場所は・・・
●小泉夜雨(こいずみやう)=小泉弁才天(現:手子神社)の周辺の埋め立て前の風景。金沢文庫駅辺り。
●称名晩鐘(しょうみょうばんしょう)=称名寺の山を埋め立て前の海の公園辺りの海上から見た遠景。
●洲崎晴嵐(すざきせいらん)=現在の町屋町の龍華寺前に在る洲崎神社周辺の埋立前の景色。
●瀬戸秋月(せとしゅうげつ)=金沢八景駅前の瀬戸神社周辺の埋め立て前の景色。
●乙艫帰帆(おっともきはん)=現在の海の公園~洲崎辺りの埋め立て前の海から野島の乙艫町を見た風景。
●平潟落雁(ひらがたらくがん)=現在の野島周辺の宅地に在った湾の埋立前の風景。
●野島夕照(のじまゆうしょう)=野島の埋め立て前の風景。
●内川暮雪(うちかわぼせつ)=現在の内川橋周辺の埋立前の風景。
・・・歌川広重と言う江戸時代の著名な画家が、その景色を浮世絵にして販売した事で江戸市民にも大人気の旅行地と成りましたが、現在では昭和の埋め立て工事等で永遠に完全に消失してしまいました。
歌川広重 金沢八景:称名晩鐘
上の画像は今の八景島辺りが海だった時代、そこから見た金沢称名寺の山の風景です。
この風景はもう、現代人は永久に見る事が出来ません。
過去の風景を知るには、過去の人が残してくれた資料からしか様子を知る事が出来ないんですね。悲しいけれど。
金沢八景を知りたければ、3箇所、その風景画を見られる場所が有ります。
image
1つは八景島シーパラダイスに架かる連絡橋。
image
その欄干に歌川広重の金沢八景を金属板に起こした物が展示されています。
image
この展示はカラーでは無いので今一つ解らないかも知れませんが、絵の由来が説明されていて理解しやすいかと思います。
IMG_7269
2ヵ所目の金沢八景を見られる場所は、上の称名寺と下の金沢文庫博物館を繋ぐトンネルです。
DSC_1170
このトンネルの壁に、金沢八景の画の複製がはめ込まれています。
IMG_7290
※称名寺の記事は「ココ」←クリック!
このトンネルで見なくても、金沢文庫博物館に原本も所蔵されているので閲覧申請をすれば見られるかも知れませんが小生は試した事は有りません。
そして、詳しい情報が解る場所がもう1ヶ所あります。
そこが野島公園内に在る、初代総理大臣、伊藤博文公の別宅です。
2015-08-19-16-20-31
江戸時代の紀州徳川家の別荘地だった野島は、明治時代に伊藤博文公の別荘地でもあった訳ですが、この別宅の中に金沢八景を詳しく紹介した展示物が有ります。
※伊藤博文公の金沢別邸の記事は「ココ」←クリック!
2015-08-19-16-16-55
こんな感じ。八景島の橋の欄干のカラー版と言った所でしょうか?
因(ちな)みに、鎌倉時代~戦国時代にも金沢八景は景勝地として有名だったので、八景の一つ、洲崎の地に建つ龍華寺は兼好法師の別名で有名な吉田兼好、北条早雲こと伊勢盛時公や徳川家康公の宿泊地でもありました。
※龍華寺の記事は「ココ」←クリック!
ここまで読んで頂ければ、野島が如何に風光明媚な土地だったかが解るかと思います。
そんな訳で景勝地の一つだった野島に、徳川頼宜公が別荘を建てて風景を楽しんでいた訳ですが、その鬼門鎮護として紀州徳川家の崇敬を受けたのが野島の御稲荷様だった訳です。

この様な横浜市の景勝地は特に昭和期に多くが乱開発で消え失せました。
杉田梅林や、金沢の八景が最たる例です。
横浜市は現在の林文子市長を含め歴代に市長の中に、日本歴史文化や日本の風景を大切にしない土建屋や港湾関連の組織票を票田にしている人物が少なくありませんでした。つまり低文化で知識に欠け景色と歴史の重要性を理解出来ない風流を理解できない人達が歴代市長に居る訳ですね。
横浜市教育委員会を含めた横浜市職員は、当然ながら地方公務員なので市長によって人事権を掌握されているので、市長が無文化だったり反日的な人物だったりすると市長の意を組んで歴史遺産や景勝地や自然を土建屋に開発=破壊させての土建屋と政治家の建築利権を確保させてしまいます。
現在の林文子市長も、横浜市内で最大最後の自然植生の大森林で自然公園の円海山瀬上池~瀬上沢周辺を、東急グループに宅地開発させようと策動しています。現に、開発を擁護する発言をしてバッシングを受けているのは栄区民、磯子区民、港南区民、多くの神社や御寺の氏子檀家さん達の知る所です。
仮に開発されれば林文子市長や、与党の候補者は市民感情逆なでしヤリ玉に挙げられた上で、史跡と自然の破壊者として過去帳等に記録され後世に悪名を残す事に成るでしょう。

さて、そんな過去の景勝地野島に紀州徳川家と関連も有った野島稲荷神社が有る訳ですが、現在では参拝客も減ってしまい、本殿裏から野島の頂上に通じた道も通行止めに成ってしまったりしています。
IMG_5256
でも小生は、とても雰囲気の有るこの神社が好きです。
伊藤博文公の金沢別邸に抹茶を飲みに行くと、たまに野島の御稲荷さんにも足を延ばして散歩します。
IMG_5257
何だか、御狐様が巫女さんに化けて境内を箒(ほうき)で掃除してそうな雰囲気の有る神社なんですよ!
この本殿の裏に、小生の子供の頃まで登れた崖を削って作った小さな石段が有ったのですが、現在は通行禁止に成ってしまいました。
こうやって少しづつ寂れて、将来廃社に成ってしまうかもと思うと小生は凄く危機感を感じてしまいます。
現代人は神社や御寺で自分勝手に願掛けはするのに、昔の人の様に神仏に対して願いが叶った際の御礼参りと御布施すらしませんからね・・・。
そして学校教育には左派で日本文化迫害を好む教職者も多くいるようです。ですから、学校で歴史の話を語る時に絶対に御寺や神社の伝承や関わった人物なんて教えてもらえません。そうすると、自分の地元の神社仏閣が凄い歴史偉人と関わりが有ったり強い御利益が有ったり、古代の史跡の上に建っている事を知らずに育ってしまうので、反日的な教育を受けた某隣国系のヤクザが多く入り込んでいる土建屋と左派政治家の好き放題に日本の自然と史跡と宗教施設の旧境内地が破壊されて日本の風景がどんどん劣化して無機質な町が増えてしまい風流さも伝統の欠片も無いコンクリートだけの町に成ってしまうんですよ。

ですから皆さん、御近所の山や御寺や神社を是非散歩して見て下さい!
町中に残る山は平安時代~戦国時代の史跡で有る事が多いですし、神社仏閣は小さくても、鎌倉時代や戦国時代の英雄や御姫様と関わりが有る場所が沢山有ります。

この野島稲荷神社が、その典型的な例なので紹介して見ました。
町の中の小さな神様の御社や御地蔵様を見かけたら、心の中で声をお掛けして、手を合わせて見て下さい。

無論、神社仏閣だけでなく我々の住む横浜には幕末に英国によって建てられた山手聖公会教会等も横浜市の歴史の一部に成って行き、我々異国文化にも寛容な日本人に史跡/文化財として大切にされて行く事でしょう。

皆さん、町の中の御寺や神社や自然の湧水池や森や山を散歩してみませんか?
きっと其処は、過去の神様に成った縄文~弥生時代の偉人達や鎌倉武士や戦国武将と我々を繋ぐタイムマシーンに成ってくれるはずですから・・・
 

八幡橋八幡神社
【御祭神】
●大山祇神(おおやまづみのかみ)
●素戔嗚尊(すさのおのみこと)
●誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇=八幡大菩薩
●徳川家康公
【開基】欽明天皇の治世12年(西暦551年)以前
【中興】西暦1776年(安永05年) 小浜志摩守
【住所】横浜市磯子区原町10‐9
【アクセス】JR根岸駅から徒歩10分。駐車場無し。
683
磯子区原町、ほぼ中区根岸の場所に八幡橋八幡神社と言う八幡宮が在ります。
余り知る人もいないのですが、ここの歴史は古く伝承では西暦551年以前から存在するそうです。
そんな昔に大和朝廷の勢力が及んでいたのかと思う人もいると思いますが、有名な所では江ノ島の弁財天様の在る島全体が欽明天皇が聖地と定めた場所で源頼朝公が弁財天様を祀った洞窟が天皇家の勅願所だった歴史が有ったりします。ついでに鎌倉の杉本寺も欽明天皇の開基だったりします。
そんな訳で、欽明天皇の時代に神奈川県は積極的に大和朝廷から重要視された場所だった様ですね。
684
この八幡橋八幡神社、凄く古い神社ですが、八幡宮としての歴史はそんなに古くなくて、1766年に元々ここに在った神社に八幡宮が合祀された歴史が有ります。
八幡宮は比較的新しい神社ですから、南関東で西暦551年以前から存在する神社ならば素戔嗚尊か大山祇神が御祭神の神社だった筈です。
関東を開拓したのは大山祇神や素戔嗚尊の御神孫に当たる出雲族と言う事が関東の延喜式内社(えんぎしきないしゃ)を巡礼すると神話から良く解るのですが、延喜式内社と言うのは西暦900年代の醍醐天皇や当時の神職達から見ても「歴史が古い」と認識されていた神社の事で、延喜式内社は縄文時代や弥生時代の遺跡の中、又は傍らに神社が有り古代の文化を継承している場所が多く有ります。
そこら辺は…
「カテゴリ:寺社/仏閣/城址/有形文化財/伝承と伝統文化 > 神社(延喜式式内社と歴史千年以上の古社)
   ↑
ここに幾つかの延喜式内社を紹介した記事を書いて有るので興味の有る人は読んで見て下さい。
八幡信仰が広まるのは平安時代初期からなので、この推測はまず間違いないでしょう。
685
この八幡橋八幡神社は今も庶民に愛されており、しっかり夏祭りや年末年始の初詣では賑わいます。
何で、この現在は川岸の目立たない場所に神社が有るかと言うと、実は、この神社のある平地は江戸時代まで本牧半島、或いは久良岐の丘と呼ばれた丘陵でした。
江戸時代まで、今の中区関内地域より北側~南区吉野町辺りまで蒔田湾と呼ばれた海が広がっていたのですが、久良岐の丘を切り崩し、その土で蒔田湾を埋め立てて❝吉田新田❞と言う埋立地を造成したんですね。
その際に現在の川沿いの平地に成りました。
横浜の地名由来説明
上の写真が現在の関内地区で、赤い線で囲まれた地域が昔の横浜半島と呼ばれた砂州の後の地域です。
この上側が全部海でした。
そして、八幡橋八幡神社が昔在った丘の上は、古代の大和朝廷の軍馬の生産地だったんですね。
そんな訳で欽明天皇以前から大和朝廷にとっても大切な場所だった訳です。
地理的には昔から半島で、海に面していた為に、海の神様だった素戔嗚尊や、三嶋大社の御祭神の大山祇神が祀られ、更に平安時代に治水と海上交通の神様に成った八幡大菩薩が合祀されたんでしょうね。
江戸時代に小浜志摩守が地頭に成ると、東照宮から東照大権現(徳川家康公)の御分霊が勧進されました。
687
名前が八幡神社に改められたり、誉田別尊=八幡大菩薩=応神天皇が筆頭に挙げられるのは天皇家の祖先神だからです。
しかし古くから祀られたのは、以下の2神でしょう。
686
本殿は大きくは有りませんが、境内は住宅街の中に在って現在でも、それなりに広い境内を維持しています。
690
689
ここの狛犬さんは躍動感が有りますね!
もう一組狛犬さんがいらっしゃるのですが…
692
目が泳いでるし口が朱色で…
691
・・・何か怖い(笑)。
694
社殿の彫刻も立派です。昔ながら、江戸時代の雰囲気を残す神社です。
695
神社入口には敬神の石碑。東郷平八郎元帥の揮毫ですね。
696
ふむ。海の神様に相応しい、海軍の英雄の揮毫。
697
記念碑には、この神社の縁起が書かれています。
駅からも商店街からも外れ、住宅街と交通量の多い自動車道が目の前に在り、余り目立たない場所に在る神社ですが歴史は古いんですよ。

皆さんの家の御近所にも、絶対にとんでもない歴史深い神社や御寺が在ると思います。
是非、ご近所を散歩して、神社仏閣の石碑に目をやってみて下さい!

では!又、次のブログ記事で!

法光山善慶寺
【開基】1291(正応4)年増田三郎右衛門が開基。
【本尊】三宝祖師(日蓮上人)
【場所】大田区山王3-22-16
【アクセス】JR大森駅から徒歩10分

2016年10月26日、午前11時に大田区山王の善慶寺で檀家総代の間宮さんと面会予定が有り、大田区に行って来た。
江戸時代の1675年代に起きた事件の取材の為だ。
CIMG1074
・・・と、その前に少し主題から外れようと思う。
この地域と間宮家の繋がりを先に紐解こう。
実は大田区は江戸時代初期に徳川家康公の御鷹場だったのを知る人は今では少ないと思う。
横浜市磯子区の戦国武将で関ケ原合戦での徳川勢勝利に大貢献した間宮信繁(のぶしげ)公は実は徳川家康公の鷹匠頭だったのだ。鷹匠は戦国時代は山野の行動に特に精通した❝武士❞達だった。
信繁公は鷹匠頭として鷹匠衆を率いていた訳だが、この武士団を運用して関ケ原合戦では南宮山の毛利勢が内応した吉川勢に抑えられて前進しない事を確かめて徳川本体3万の前進行軍が可能な事を報告した。
関ヶ原合戦図
それによって間宮家分家の杉田間宮信繁公は更に家康公の信頼を得て、江戸入府後の家康公が鷹狩をする度に同行し、度々鷹匠衆が加増された。
善慶寺の檀家には多くの間宮家がいる。
善慶寺の在る山王や大森海岸辺りの大田区域に間宮姓が多いのは、おそらく、この事は大田区の土地が家康公の御鷹場だった事とは無関係では無いだろう。
系譜上では御本人達は現代では知る人はいないが、豊前守 間宮康俊(やすとし)公の子孫が善慶寺の間宮一族として笹下の間宮家御子孫の系図に記されている。
※大森の間宮家祖先は諸説有り、御子孫と伝わる家に混乱を与えるので以下康俊公の子孫とだけ記し、鷹匠を特技とした家系の紹介をします。問合せのメールを頂いた御子孫の方に感謝!※
間宮で杉田間宮以外に鷹匠に成った一族には康俊公の姫、間宮於継(おつぎ)様が古河公方重臣の豊前氏盛(ぶぜんうじもり)公と御結婚され生まれた間宮元盛公の御子孫や、康俊公の御子息の間宮元重公の系統の御子孫等が鷹匠を生業とした家系が有る。恐らく間宮康次公や間宮善十郎公にも系図には残らない子孫が居て、鷹匠に成った人物もいた事だろう。鷹匠は江戸時代は武士の職業だった事を知る人も現代では少ない。
豊前氏盛公は、古河公方家の外交官として北条家の応対に記録が見えたりする。変わった武将で、医者としての側面が有るのだが、本業が医者と寝言と言う文字バカ学者もいる。

今回の訪問の目的からはズレるが、杉田間宮家と杉田玄白は何某(なにがし)かの御縁が有るのは間違いないと思っている。
杉田玄白の祖先は有る時期は真野姓を名乗り、ある時期から❝間宮❞姓を名乗り、ある時期から杉田姓を名乗った。この経緯は彼らの出自が間宮本家と同じでは無くても親類である事を物語っている。
間宮家の祖先は真野家の一族から分家し、更に分家を繰り返し、舟木姓の時代に足利尊氏公の二男の足利基氏公が鎌倉公方として鎌倉府に赴任する際に同行し伊豆国田方郡間宮に所領を得た事で、間宮と名乗る様に成った。
真野家の杉田玄白の祖先は、この真野一族出世頭の間宮家を頼って家臣化していたと推測している。

豊前氏盛公の一族の話に戻る。
古河公方家の喜連川転居に同行者として名前が登場しないので、古河公方家縮小の時代に当たる間宮元盛公の代に、母方の親類の縁で間宮家を頼って来たのではないかと思っている。そして、豊前家流の間宮さん、元重公の子孫の間宮さん、三浦郡不入斗を領していた間宮さんの何(いず)れかが、杉田間宮信繁公に大森の御鷹場の代官職の様な役割を貰って土着したのではないかと思う。その頃、江戸時代初期に、杉田玄白の祖先は真野信安の頃に豊前家流間宮家から医術を学んだ後、福井に転居し小浜藩酒井家の医師に成ったんだと推測している。

さて、善慶寺と全く関係ない話をしてしまったので本題に戻ろう。
CIMG1070
上の写真の道は真っすぐに善慶寺の山門に続き、この辺りの地名は小名で大門だった。
小生は電信柱を見て電信柱の名前から気が付いたが、後で間宮さんに地名を聞いて間違いないと確認している。
つまり、この善慶寺の石柱が有る場所が外門だった訳だ。
善慶寺の現在の境内と門は、本堂と庫裏(くり=厨=居住区)の周辺のみだが、昔は相当な大寺院だった事が現代でも解る。
CIMG1071
善慶寺には義人六人衆の御廟所が有る。江戸時代の領主、木原家が酷い領主で、年貢の検地(課税額確定調査)をする際に、田畑のみだけでなく農道までも耕作地として幕府に虚偽申告する事で農民達から不当な税率で年貢(ねんぐ)を徴収する不正を行ったのだが、これを、この地で帰農していた旧北条家臣団の間宮一族や酒井一族が将軍家綱公に直訴しようとした所を村の内通者に通報され木原家に惨殺された。
これを江戸時代表だって大森の人々は口に出来なかったのだが、何と、この時の直訴状が時代を超えて間宮新太郎さんの家に伝わっていた秘密の葛籠(つづら)の中から発見されたのだ!
そして江戸時代の領主の悪事が400年越しに暴(あば)かれる時が来る・・・
昭和の道路拡張で先程の石柱の裏にあった伝承の墓地を移転の為に発掘調査した所、伝承通り大きな甕に6人分の遺骨が入っていたそうだ。
これは御寺が勝手に言ってるのではなく、学芸員が一緒に発掘し、大田区の教育委員会も公認の事実なのだ。
つまり、約400年越しに木原の悪政と、間宮一族と酒井一族等、元北条家臣団の正義が証明された訳だ。
もっとも、現在の間宮さん達は、別に木原一族を当然責める意思はない様だ(当たり前)。
逆に、こう言う事を気にするのは悪人扱いされるのが気に障る加害者側の方だろうな。
CIMG1073
こいう言った怨讐で手本にして貰いたい話を一つしておく。
面白い事に、織田家の関連史跡の保護活動をしている織田木瓜紋会と言う組織が有る。
そこは織田家の子孫も絡んでいるのだが、その運営を手伝っている人物は❝明智さん❞なのだ。
あの仙台に生き延びていた明智光秀の子孫な訳だ。
今ではお互いに織田家の為に協力して、史跡保護に努めてらっしゃる。これこそ大物の子孫らしい、自分達のメンツよりも後世に歴史を伝える努力に努める心の広さだ。
織田さんも明智さんも偉いと思うよ。木原みたいに悪政をする悪人と、仕事は真面目で大物らしい謀反をした明智光秀との器を比べるのもそもそも違うか(笑)。
なんかね~。
たまたま御寺に有った掲示板の法話の「一乗の善に帰せよ」を明智さんは地でいってるよね。今にして思うと。
CIMG1072
善慶寺。本堂の正面に普通在る山門はずれている。
実は、これは理由が有る。
背後の山に熊野神社が有って、元々は、その参道だったと思われる。約800年前に善慶寺が熊野神社の別当寺に成って現代にいたるので、神仏分離令で神社の前が御寺の境内地に成り、背後の山は神社の境内地になったので、今の形に成った様だ。
CIMG1075
法光山善慶寺。
CIMG1076
山門の前に新井宿義民六人衆と当時の事件で木原家に処刑された人々の名前が掲載されている。
この戒名は実は御子孫達の間でも諸説有るそうだ。間宮さんの戒名が入れ替わってる可能性が有るそうなので、戒名は画像での紹介で済ませて置く。
小生は間宮家の武将の名前を見て来た経験から、この義士達の戒名とされる名前は生前の実名と道号で戒名では無いと個人的に感じた。
この義士達の内、間宮姓と鈴木姓はいずれも伊豆国田方郡出身の北条家臣、酒井家は旧里見家臣、第2次国府台合戦以降の北条家臣。平林は武田家臣に名が見えるが出自は辿(たど)れないので解らない。
CIMG1077
本堂は近年の建て替えだそうだが、木造で立派な物だ。将来、大田区の文化財に成るだろう建物。
この本堂の写真を撮影して居たら、御住職と紳士が玄関口で会話をしていて・・・
「奥さんに今日の11時に来客が有るから来いって言われたんだけど」
・・・と言う声が聞えて来た。
「あ、小生の事だ」
と思って御声がけしたら、その紳士が間宮太郎兵衛さんの御子孫の間宮さんだった。
間宮宗家が家譜を再編する際に、旧本牧奉行陣屋の地に住む分家御子孫の資料を参考にしているのだが小生もその写しを写真撮影してありExcelに打ち込んで見やすくした者を持っている。その家譜では確かに太郎兵衛サンの名前が康俊公の子孫として掲載されているのだ。
そんな訳で、間宮家の末孫と又、御一人知り合いに成った。
御住職と間宮さんはとても丁寧に6人の義士の説明をして下さり、小生にとても貴重な物をプレゼントして下さった。
CIMG1125
間宮新太郎さん宅の葛籠から発見された将軍への直訴状のコピーだ。
・・・一生の宝物にしないといけない。
毎日、尊敬する織田信長公を始め太田道灌公や間宮家の武将と姫様方、源頼義公を始めとする河内源氏の殿様と平良文公の御子孫の平氏系の殿様達、菅原道真公と景行公、敦茂公親子、足利尊氏公足利基氏公親子、北条家本家と玉縄北条家の歴代の殿様、蒔田吉良家の殿様と宅間上杉家の殿様、扇谷上杉氏定公と戦国初期の三浦道寸公と義意公の名の入った御朱印、そして神仏を拝し祈願している事が有る。
「神社仏閣と歴史史跡の保護と偉人の顕彰活動で世間に何か役に立つ事をさせて欲しい」
だから、この御住職から頂いた義士達の訴状の複写は宝物以外の何物でもない。

御住職と間宮さんは小生からの質問にも親切に答えて下さって、色々と謎が解けた事も有った。
それが大森が鷹場だった郷土史等だ。
この訴状の複写を頂いた後、本堂を案内して頂けた。
そこでは写真には納めなかたが(常識的に)、この訴状の原本を御住職が自らの手で開封して見せて下さった!
本当に光栄な事だ。
本堂には昔の写真も有った。
CIMG1080
昭和初期の本堂。面白いのは現在と向きが違い、熊野神社の参道だった現在の善慶寺の山門から神社への道に向かって本堂が建っている。江戸時代に熊野神社の別当寺だった歴史が写真に残っている訳だ。
CIMG1079
そして昭和5年に建て替えられた現在の本堂の写真。もう檀家さんが間宮さんだらけ(笑)。
開基した増田さんの一族と、義士の鈴木家の方の名も見える。
CIMG1078
この御怪我展示されていたのだが、この馬に餌をやる飼葉桶。
実はこの飼葉桶の主だった黒ちゃん、赤ちゃんと言う馬が、悲し歴史だが木原に処刑された義士達の遺骸を運んだのだそうだ。
ちゃんと残っているんだね~。
この赤と黒が居るなら、北条家の文化と仏教文化に沿えば黄、青、白もいたかも知れない。
この他に、伝承通り出土した、6人の義士の遺骸が治められていた巨大な甕も本堂で拝見した。
本堂で貴重な体験をさせて頂けた。こうやって生きている文献を見せて貰えるのは、殿様達から現代人の小生への御褒美だと思う。
一しきり寺宝を拝見した後、墓地に在る6義士の御廟所へ案内された。
御住職に写真を撮影して記事に紹介して良いと許可を頂いたので、今回は墓所を紹介したいと思う。
CIMG1083
表は、実は間宮一族の間宮藤八郎が自分の父母の供養塔に見せかけて特殊な構造で義士を弔うこの墓石を立てたそうです。
この藤八郎、名前からして杉田間宮家の人物だと推測出来ます。杉田間宮家の宗家は代々、藤太郎が屋号だったので、その分家で八男か何かの子孫でしょうか?詳細は解りません。系図にも残っていないので。
墓石は江戸時代当時、参拝者に見えない裏側に義士達の名が彫られました。
CIMG1084
裏面にも水入れが彫られているのですが、これは当時は見えませんでした。
この水入れが特殊な仕組みで、表のダミーの墓標の前で水を入れるとずっと此方(こちら)側の裏の水入れまで水の誘導穴が穿(うが)ってあるんですね。
つまり、表で普通に墓参りして、こっそり裏側の義士の墓参り出来る仕組みに成っているんです。
そして、毎年、旧正月頃に義士の子孫で集まって、葱のヌタを食べながら明治に至るまでヒッソリとこの義士の本当の話を語り継いだそうです。
そして、先に話した古文書や義士の遺骸が伝承通り、現代に成って出現した訳です。

ところで墓標の名前、これ、御寺では戒名とされていますが、小生の知識では、戦前の6人の名前以外の何物でも無いと思うのです。
嘯慶(天台宗の入道号)・道春(臨済宗の入道号)…右列

宗圓(曹洞宗の入道号)・是信(間宮家の通名が〇信、恐らく実名)…中列

賢栄・椿?(ソウorねぎorあおい)/椿葱(ソウorスoroねぎorあおい)or椿荵(ジンorニンorしのぶ)…椿葱…左列
これ、タイピングして解ったのですが、恐らく義士の事を話しながら葱を食べたのは、生前の義士の1人の名前?多分、生前の歌人か画家としての雅号が椿葱だった事に由来していると思います。
もっと言うと、ここに書かれていない玄蕃と言う人物の法名は酒井家由来の玄を使った入道号を文字って官途として偽装して後世に伝えていると思います。
そして全く御寺の伝承とは異なるのですが、椿葱は女性の名前だと思うんです。
つまり、椿(つばき)サンと葱(ネギ)とかいて葱(あおい)サン、これ、伝承で家に火を放って自決した間宮太郎兵衛さんの奥さんと娘さんじゃないかと思うんですよ。
そして是信は酒井さんの名とされていますが、これこそ太郎兵衛さんか新五郎さんの生前の本名だと思うんです。間宮家は〇信と言うのが一族で受け継いだ名前ですから。
例えば杉田間宮家だと間宮常信(別名信次)さん、本家間宮家だと間宮康信さん等、有名な活躍をした武将がいます。
逆に酒井家の通し字は❝敏❞❝房❞❝胤❞の字を持つ武将ばかりなので、やはり是信が酒井家の名とは考え難(にく)い訳です。
宗圓と言う名も在りますが、これは間宮家の武将は代々の入道号が宗〇で、例えば間宮家では間宮信盛公が宗三、一番有名な間宮康俊公は宗閑、神奈川宿に住んで居たのは間宮宗甫だったりします。
ですから、そもそも戒名ではなく、この墓石に掘られてる部分に関しては生前の名だと思います。
まぁ、これは学者の意見とも違うので、あくまで小生の推測ですが。
この御寺の墓所と本堂の間の参道が、昔の熊野神社の参道です。
CIMG1085
熊野神社が有るので、ここは小生の経験と知識から御住職にこんな質問をしてみました。
「この辺りは湧水地だったんですか?」
ドンピシャ。
この辺りの土地は1mちょい掘ると直ぐに綺麗な淡水が湧くそうです。
そして、御寺の庫裏の前に湧水の井戸を池にした場所に・・・
CIMG1081
なんと蛍が自生しているそうです!
クレソンも自生していて、御住職に「食べてみな!」と言われて食べてみたら辛くて美味しかったですよ。
綺麗な水辺にしか自生しない。子供の頃、神奈川県伊勢原市の延喜式内社、大山阿夫利神社の御神体の大山の麓の小川にクレソンを摘みにいっていたのを思い出しました。
多分、この善慶寺は西暦1200年代の日蓮宗としての開基でしょうが、それ以前からの前身に成った古寺が在ったのかも知れないですね。そして、熊野神社は更に古い湧水地の聖地だったのかも知れない。
実は日蓮宗の御寺は、日蓮宗に成る前に別の真言宗とかの寺院だった場所が多い歴史事実が有りますから。
そして古仏教に属する真言宗と天台宗と修験道は特に神仏共に崇拝する傾向の強い宗派なので、熊野神社の御寺として存在していたとしても不思議ではないですしね。
日蓮宗も日蓮上人以来、千葉神社の御祭神である妙見大菩薩=妙見神=北斗星=天皇家を守護神として崇めていらっしゃいますね。
CIMG1082
現在の御住職様は、「日本古来の自然を大切にする習慣も大切だ」と小生が何か言う前に小生と同じ考えを話してました。
全くその通りだと思います。
こう言う立派な神社と仏教が融合していた時代の、昔の天皇達の信仰を今に伝える御住職様の御寺だからこそ、都会の中でも蛍も安心して住めるのかも知れないですね。
因みに、蛍の季節には整理券を配って人数規制は有りますが、公開もしているそうです。今年は2千人超も見学に来られたそうです。

義士の御寺で思いがけず都会で大切にされる自然も目に出来て、そして一生の寶に成る古文書の写しも頂けた。
この御寺の歴代御住職や檀家さんが義士の歴史を三百数十年間ひっそりと伝え守って来て、御寺を神社を守り通した様に、小生も偉人の顕彰活動や、今は廃れている神社仏閣や歴史史跡の保護や復興に役に立てる様に動き回らないといけないな・・・
と思った1日でした。

とりあえず、間宮家の顕彰活動と、信長公の愛妻の生駒お類様の久昌寺を廃寺の危機から救える手立てを探して動き回ろう。




東京都江東区に越中島と言う土地が在ります。
DSC_1426
上の写真がヒントかな?独力の成果ではないので一応ヒント代わりに御礼を…
江東図書館の司書様、個人名を出すのは控えますがありがとうございました!又、間宮家顕彰文に書き加える資料が見つかったのは、貴方の御蔭です。

さて、この越中島の土地は横浜市民には少々関係の有る土地である事を知る人は、今ではほとんどいません。
この越中島は、榊原照清と言う江戸時代初期の殿様の御屋敷が有った場所なのですが…
隅田川河口の守りを担う位置に江戸幕府より屋敷地を与えられて居住したのが❝榊原照清公で、その官途が越中の守だった事が現在の越中島の地名の由来”に成りました。
まぁ~郷土史だけ読んでも、照清公の御名前は出て来ないので郷土史家でも余り知らないでしょう。
ソースも意地悪で示さない小生(笑)。
越中島周辺
その屋敷地の所在地、元々の❝越中島❞と呼ばれた島は現在のヤマタネ株式会社の倉庫の所在地辺りです。
では何故、この越中島が横浜と所縁が深いかと言うと、それもやはり榊原照清公の御縁です。
実は、この照清公、母君が横浜の磯子区杉田出身の元北条家臣で徳川家康公の直臣にして鷹匠頭を務めた間宮家の分家杉田間宮家当主の間宮信繁公の御息女でした。
つまり、榊原照清公は横浜の間宮家の血を引いていた訳です。そして間宮信繁公の御姫様、つまり照清公の母上様が晩年住んでいた場所も、この越中島の御屋敷だったと成る訳ですね。
そして、何故、この場所が江戸幕府によって榊原越中守に当てがわれたかも、母上の家系、間宮家の家系を知っていると説明がつくわけです。
先に少し触れましたが、この越中島は江戸時代当時の江戸の大外堀りの役割を成した隅田川の河口に位置しています。
江戸時代の地図と現在の衛星写真を見比べてみましょう。
IMG_20160504_204034
DSC_1424
現在では埋め立てが進み大分様子が異なりますが、下の江戸時代の地形図面の左下の四角い島が元々の越中島です。
正に江戸の海防を担う当時の❝台場❞の一つだった事が解りますね?
実は榊原照清公の母上の御実家の間宮家は❝築城技術❞❝鷹の飼育❞❝外交儀礼❞❝水軍❞に精通した武家でした。水軍に精通した家系であった事から、この位置に間宮家のノウハウを得れる照清公が住まされたと容易に推測が出来るんですね。
DSC_1398
現在、昔の越中島に当たる場所にはヤマタネと言う企業が在ります。そこに掛かる橋の名前が❝練兵衛(れんべえ)橋❞なのですが、幕末、ここ越中島が砲兵の練兵場として使用されていた事が橋の名前として残った訳です。
つまり、幕末には砲兵の訓練をする場所であり江戸を守る台場としても機能していた訳ですね。
そんな要衝に居住した間宮の血を引く榊原照清公ですが…
間宮一族からは合戦や鶴岡八幡宮の再建、築城で活躍した内政と武勇に秀でた玉縄北条家の付家老を務めた間宮康俊公…
武田信玄や徳川家康公の水軍大将を務めた間宮信高公、この信高公は間宮康俊公の系図上の御子息です…
北条氏照公の家老を務め、北条家の外交官として織田信長公への使者を務めたり日本100名城の一つ八王子城の縄張り(設計)をした間宮綱信公、間宮康俊公の弟…
そして、榊原照清公の祖父に当たり北条家臣を経て徳川家康公の直臣として鷹匠頭を包めた間宮信繁公、間宮康俊公のハトコ等がいらっしゃいます。杉田間宮家も又、初代間宮信次公が水軍を率いて活躍された武将です。
DSC_1397
ヤマタネと交差する橋は巽橋、更に近所には隅田川に掛かる永代橋があります。

照清公の榊原家そのものの血筋も凄く、御父君の叔父が徳川四天王と呼ばれた榊原康政公でした。
榊原康政公の兄上の榊原清政公が照清公の祖父に当たります。
この榊原清政公は、徳川家康公の御長男の徳川信康公に御仕えしていたのですが、その徳川信康公が織田信長公の敵である武田家に内通した容疑で切腹させられた際に、連座して責任を取らされて榊原家の惣領は後に徳川四天王と呼ばれた榊原康政公に移った訳です。
間宮の血を引く榊原照清公、その御父君で間宮信繁公の姫君を娶った人物は榊原照久公です。
以上の説明で、この越中島が横浜市とも殿様の御縁で繋がっている事は御理解頂けたでしょうか?
この江戸時代重要な場所だった越中島には現在、津波対策の水門と公園が整備されています。
DSC_1402
大島側水門です。
DSC_1404
越中島と永代通りを隔てる水掘りは現在では大島川と呼ばれているんですね。
後で説明しますが、これらの水掘りが江戸時代~昭和初期まで運河として活用されたので、この付近には昔からの商家が多く存在します。
DSC_1415
現在の越中島公園
満潮時には遊歩道まで海水に浸かるようですね、これは確かに水門を作らないと心配な地形です。
でも河口側は風景が綺麗な場所でしょう?
DSC_1413
屋形船も多く見られます。
そして、旧江戸の中心側を見ると…
DSC_1412
現在では高層ビルと美しい吊り橋の風景を見る事が出来ます。
川がこれだけ何本も集まる河口だったので軍事にも物流にも重要な場所だった訳です。
DSC_1416
現在では水運は余り利用されなく成り、隅田川にも多くの橋がかけられました。
さて、この越中島周辺は水運の拠点だったので、多くの商家の蔵屋敷が立ち並ぶ場所でした。
その名残を見る事が出来る場所が、越中島公園から徒歩5分の場所にあります。
DSC_1417
徳壽神社と言う名前の御稲荷様です。
実はこの神社の縁起(えんぎ=由来)その物がネタバレなので、先に史跡としての痕跡を紹介しますと…
この徳壽神社、実はですね、鰹節のメーカーとして現代でも有名な❝にんべん❞の発祥地に建てられた神社なんです。
ですから周辺には屋号や企業名のある自宅兼事務所みたいな建物だらけで蔵町の跡が残っているんでしょうね。
そして、この徳壽神社の縁起ですが…
江戸時代、稲荷大明神の御神像がこの付近で隅田川から引き上げられた際に、❝にんべん❞の境内に神社を建て祀ったのが、この徳壽神社の始まりでした。
つまり元々は、にんべん社や周辺の商家の守り神としてスタートしている訳です。
DSC_1419
思いがけない場所に、沢山の歴史が詰まってるでしょう?
これだから歴史訪問と神社仏閣の参拝や城址や史跡訪問は発見だらけで楽しいんですよ♪

きっと皆さんの御近所の神社にも、思いがけない歴史が詰まっていたり、歴史上の人物との繋がりが有るかも知れませんよ~?
ですから、御近所の御城跡や神社仏閣、里山を散歩して見ませんか?
…と言う、一、歴史オタクからの御誘いを以て今日の〆とさせて頂きます。

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう♪

最初の自己紹介記事で掲載した写真ですが、アレは、鎌倉市にある"七里ヶ浜"と言う砂浜で冬に撮影した写真なんです。
江戸時代に"葛飾北斎"と、"歌川広重"言う有名な画家が富士山ばかり描いた有名な絵が有りまして…
葛飾北斎の"富嶽三十六景"と言う画集の中の"相州江ノ島"と言う作品や、歌川広重が"富士三十六計"で"相州七里濱"と言う作品を描いた地点付近の現代の姿です。

その絵は下の画像です。
葛飾北斎の相州江ノ島
小生が撮影の現在の風景がコレ↓です。
 
そして歌川広重の相州七里濱
富士三十六景
三つとも略、同じ構図でしょ?
小生は砂浜が好きで良くドライブ&散歩に行くのですが、特にこの七里ヶ浜と三浦半島の秋谷海岸と琴音浜が美しく見ているだけで心が安らぐのでお気に入りの息抜きスポットに成っています。

他にも何枚か撮り貯めた写真を載せます。
夏の七里ヶ浜
この写真だとイメージ湧きやすいかと思いますが、サザンオールスターズの"稲村ジェーン"の舞台もこの場所です。
ここの鎌倉市街よりの手前側に稲村ガ崎と言う小さい半島が在(あ)るんです。
他にも写真を…
左上に見えるのが江ノ島。
中央右に富士山が見えます。

最初の自己紹介で掲載した写真
ラッセン画伯の絵みたいな夕景でしょ?
撮影者(小生)の腕が良いのか(笑)?
こんな美しい七里ヶ浜ですが、手前の稲村ガ崎は鎌倉幕府滅亡のおりに新田義貞公の逸話が残りました。

曾(かつ)ての鎌倉市街は切通(きりどお)しと呼ばれる防御施設の役割を兼ねた半(なか)ば隧道(トンネル)状の道しか出入りの経路が有りませんでした。
その為に後醍醐天皇の命令で鎌倉に攻め入ろうとした新田義貞は苦戦します。
そんな中で、彼は黄金で造った太刀を稲村ガ崎から海中に投げ入れ神仏に願をかけたところ、七里ヶ浜の潮が一気に引き海面の水位が下がった事で鎌倉市街側の由比ヶ浜へ、海から軍を侵攻させる事に成功しました。
その結果、幕府の北条家得宗高時は今の宝戒寺と言う御寺の在る場所で切腹し、鎌倉幕府を滅亡させる事に成功したと言う伝承が残っています。
事の真偽はさておき、ここは伝説が有ってもおかしく無い程、雰囲気が素敵な場所なんですよ!
是非、鎌倉や江ノ島を訪れた際は立ち寄って見てください!

江ノ電だと鎌倉高校前駅で下車です。
同駅は風景の綺麗な駅100選で1位に成った場所でもあります。

近くには珊瑚礁と言うサーファーに有名なレストランもあります。

↑このページのトップヘ