歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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カテゴリ:寺社・仏閣/城址・文化財の解説と紀行文 > 旧街道・歴史遺跡・日本建築文化財

朝比奈峠等が鎌倉時代に整備される以前、平安時代の鎌倉武士達が鎌倉に集結する際に使っていたバイパスの古道が今も横浜市栄区~港南区~磯子区~金沢区~鎌倉市朝比奈~十二所にかけて幾筋も現存しているのを皆さん御存知でしょうか?
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この写真の尾根道も、谷筋に降りる道も、実は昔々、武士のみならず多くの人が往来した古道です。
そして円海山の富士山と夜景の絶景地でもあります。
今回は随分前に歩いた際の写真を用いて、そんな富士山の絶景地を古道のスタート地点として選び解説したいと思います。
先ずは少し尾根道の話をします。
円海山の尾根の農道は武士達が往来した脇道でした。川沿いの鎌倉街道が平和になった鎌倉時代に整備される以前に使われていた“鎌倉上道”、“鎌倉中道”、“鎌倉下道”の鎌倉古道が存在し、更に毛細血管の様(よう)に張り巡らされたショートカットの道は全て水害に強い尾根道でした。
ですから今でも、この道を伝って1時間半~2時間くらい歩くと鎌倉市街地⇔横浜市栄区港南区磯子区金沢区を往来する事が出来ます。
鎌倉武士早駆けの道尾根道 久良岐のよし
第三管区海上保安本部関東統制通信事務所
※画像クリックして拡大して下さい。
このスタート地点、実は海上保安庁の通信事務所で普段は無人なのですが、この円海山の山麓には飛鳥時代~平安時代の長きに渡り大和朝廷に金環太刀や鏃(やじり)や馬具や鎧の軍事物資の材料となる玉鋼(たまはがね)を生産する“東日本最大のタタラ製鉄遺跡”の上郷深田遺跡と上郷猿田遺跡が2020年03月現在ではまだ存在しています。この地域は古代には鎌倉郡に属していました。
また横浜市最大最後の蛍の大生息地である瀬上沢の西側蛍生息地域も“まだ”存在しています。
・・・まだ、と敢えて言うのは東急建設が4月に遺跡と蛍のいる瀬上沢西側を削り取り商業地と宅地と人工池にする計画を横浜市が承認してしまう可能性が有るからです。
そこら辺りの歴史は以前、記事にもしているので興味の有る方は下のリンクから御覧下さい。
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鎌倉にある天下一の名刀「正宗」の工房…正宗工芸美術製作所
クリックで記事にリンク⤴

さて、こんな風に古代から製鉄拠点としての文化歴史と、更に横浜市最大最後の自然林を残す円海山の尾根だから鎌倉市街に通じる道が当時のまま風化しながら現存しています。
今回は以前歩いた時の写真を交えながら解説したいと思います。
因(ちな)みに昨年9月の台風で倒木が多発しましたが、横浜市側は素早く倒木を撤去し遊歩道を再整備しました。
しかし鎌倉市の松尾市長は特に文化財の保護に不熱心な方で、貴重な文化財の釈迦堂切通や北條時政邸城塞跡の衣張山~名越の遊歩道の復旧を怠っています。
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未(いま)だに原状回復整備を怠っているせいで今は名目的に通行止めでハイカー達が自己責任で登山を楽しまざるを得ない状態が続いています。途中には私有地も有るので鎌倉市には史跡保護と生活道路保全の意味からも至急復旧する義務が有るのですが・・・
もっとも、昔から円海山のハイキングを楽しんでた横浜市民も、鎌倉市側から六浦や港南台方面にハイキングを楽しんでいた鎌倉市民も今でも横浜まで歩いてくるので、海上保安庁の通信事務所のあたりで富士山を撮影していると挨拶を交わす機会が良く有ります。
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さて・・・
スタート地点の海上保安庁の通信事務所から南に進みます。
円海山~大丸山~関谷見晴台 久良岐のよし
※クリックして拡大して下さい。
最初の目標地点となるのは大丸山、その次が関谷奥見晴台です。
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この少し左手前の農道を降りて行った先の丘からは横浜港の夜景が一望出来ます。
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ではズンズン進みます・・・
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分岐点の所々にちゃんと道標(みちしるべ)が有るので迷う事は有りません。
寧(むし)ろ現地案内図よりGoogleMapなんかを見ていると山では迷ってしまいます。
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ちゃんと案内図有るから安心してください。
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もし変な場所は入っちゃったらさきに進まずに元来た道を戻って下さいね。
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たかだが横浜市内の標高300mの山でも昔の廃道とかに入ったら迷いますよ、本当に。
昨年、小生が昔の廃道を散策して遭難しかけましたから(笑)。
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こんな感じで景勝地や植生の解説も随所に有ります。
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横浜市でも貴重な自然が残されているのですが・・・
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・・・昭和期~平成の乱開発で庄戸地区等が宅地化され森林が消えた事で麓の生態系も変わってしまいました。
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でも歩いていると自然豊かで清々しい風景が続きます。
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道は前日の天候によってとんでもなくヌカるんでいたりしますので、いくら整備されていても注意して歩いてくださいね!
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横浜市側は割とサクサク歩けます。
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さて、看板に大丸広場と出て来ましたね。
前振りして置きますと、この大丸山は恐らく記録に残らない要塞の跡です。
それはもう少し後で話しましょう。
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荒れて通れなくなってる場所も有るので気を付けてください。
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こんな分かれ道もちゃんと手前の看板を見てくださいね!
間違えて降りた先が全然違う場所で目的地に行けなかったとか悲し過ぎますから(笑)。
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猿の腰掛が沢山木に寄生していました。
中国に売れば漢方薬ですね~。
さて・・・
そろそろ大丸山に話を戻します。大丸山一帯は恐らく周辺の地名“関”の由来になった尾根道を封鎖する関所=砦の跡でしょう。
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この付近で各方面に道が分岐するので、未だ鎌倉幕府が未整備で奥州だけでなく北関東武士団が敵だった時代に、円海山~天園ハイキングコースの鎌倉武士の古道を一歩鎌倉側手前の尾根が1本に纏まる大丸山に関所兼要塞を築いて鎌倉防衛網の一ヶ所としていたのでしょう。
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実は大丸山周辺まで来ると、尾根側面に人工的に竪堀(たてぼり)を掘って尾根道の道路を制限したような地形が増えます。そしてこの大丸山や見晴台は敵の襲来を伝える烽火台(のろしだい)の役割も有ったと小生は推測しています。
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何故なら・・・
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神奈川の橋100選の一つ“昇龍橋”と白山社古址という場所が有りますが・・・
ここと大丸山を経由し金沢区の白山古道に抜ける道が、どうやら平安時代末期に頻繁に使われ鎌倉時代初期に朝比奈峠の開通で廃れていた旧金沢湾に抜けるショートカットの道だった様です。
後に室町時代中期に戦国時代の発端となった永享の乱~享徳の乱頃に室町幕府最後の鎌倉公方と成った足利成氏公もこの古道を再整備して利用したようで、十二所~釜利谷~金沢称名寺や富岡並木千軒に通じる道の途中に“禅林寺”を、氷取沢側に“宝勝寺”を開いていたりします。
この道が大丸山一帯が旧尾根道古道の要所だった事を説明する為に鎌倉時代の事件を以前書いたブログの紹介を交えながら、少し解説します・・・
鎌倉幕府の成立数年後に鎌倉幕府執権北条家の陰謀で名将畠山重忠公が謀反の“冤罪”を着せられた事件が発生しました。
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※写真は旭区二俣川古戦場の畠山重忠公首塚。
御子息の畠山重保公は由比ヶ浜を北条家の手勢に襲撃されました。
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※引き潮の由比ヶ浜の風景
新編相模風土記稿では由比ヶ浜で交戦した伝承から重保公の討死の場所は恐らく由比ヶ浜の屋敷だろうと推測しています。しかし、それでは横浜市金沢区に畠山重保公が切腹した伝承地に供養の為の御廟所が昔から大切に地元民によって守られており由比ヶ浜での討死にでは整合性が無くなってしますます。
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※金沢区釜利谷の畠山重保公の御廟所
そこで小生が史跡と事件のパズルを組み合わせると、実は簡単に横浜市旭区と金沢区と鎌倉市の伝承の全てに整合性が有る事を開設する事が出来ます。
この伝承に、もう1つ、事件当日の伝承に登場していない場所を登場さてみましょう・・・
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実は鶴岡八幡宮の東側門前には畠山重忠公の館が存在しました。
恐らく鎌倉幕府執権北条家の与力武将達は、真っ先に鎌倉での畠山家武士団を無力化させる為に、留守居役であり指揮官の畠山重保公を討取るべく、鎌倉市での伝承通り由比ヶ浜の重保邸を急襲した事でしょう。所が当日もしくは翌日には畠山重忠公が鎌倉に入る予定だったので、重保公は恐らく自分の邸宅ではなく重忠公の屋敷で父上の到着に備えて色々と準備をしていたのだとしたら・・・?
由比ヶ浜の屋敷で畠山家臣団が襲撃され、北条家と交戦中に畠山配下の武士が鶴岡八幡宮横の畠山本宅に北条家急襲による危急を伝えたはずですね。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
※国土交通省関東地方道路整備局横浜国道事務所より拝借画像
上の画像は鎌倉街道が未整備だった平安時代初期くらいまでの主要街道です。
畠山重忠公は旭区の二俣川で八王子街道を下って来た愛甲季隆公や糟屋有季公の軍勢と衝突し討死にしていることから、埼玉県の秩父地方を出発して旧奥州街道から(町田の)店屋で鎌倉街道下道に迂回ないし、一度横浜市域のかなり鎌倉付近まで来てから知らせを聞いて秩父に戻る途中で交戦した事が判ります。
・・・すると由比の自邸が襲撃された事を知った重保公が逃げつつ父上に陰謀を知らせる為に進む道はおのずと大丸山に通じる“天園ハイキングコース”~“円海山”の平安時代の古道に限定されます。
大丸山地形 久良岐のよし
大丸山は今でも空堀地形が現存しています。そしてここを通過しないと鎌倉十二所方面から北側に抜ける事が出来ません。
畠山家史跡位置関係 久良岐のよし
※画像クリックして拡大し位置関係を確認して下さい。
新しく開削され通行しやすかった朝比奈峠は北条家の本拠地の衣張山直下の細い街道と歌の橋を越えなければ行けないので敵兵が待ち構えている事は間違いないでしょう。
更に円海山大丸山の要塞に北条家の兵士が既に配置されて居る事を想定すると、鶴岡八幡宮の横から畠山重保公が逃げ延びる道は鶴岡八幡宮から北東側の二階堂方面~十二所山中~円海山~白山古道1択しか残っていなかったはずです。
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今では畠山重保公が逃げた鎌倉武士の古道には横浜自然観察の森が有り、中にある上郷森の家には宿泊する事も出来ます。
白山古道周辺 久良岐のよし
この自然観察の森一帯が、北条家の陰謀で鎌倉に召還されて八王子街道~鎌倉街道下道を下って来ている最中の父上に北条家による罠だと言う緊急事態を伝える為に鎌倉を脱出した畠山重保公の逃走経路で、恐らく釜利谷西や関東学院大学金沢文庫キャンパス建設で消えた部分の白山古道でしょう。
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それよりも南に逃げてしまうと、浄願寺跡の上行寺東遺跡が存在する山が実は要塞でした・・・
六浦の港を守っていた権現山御伊勢山の荒尾城が存在し幕府の軍勢に捕まってしまいます。なので結局白山古道に入り、恐らく武士の屋敷か名も忘れられた寺院が有った様な谷戸地形の畠山重保公御廟所の場所に有った建物で束の間の休息をして、御父上に合流するのを諦めて自決したのかも知れませんね。
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大丸山の直ぐ近くには見晴台と言う広場があり、横浜港を遠望する事が出来ます。ですから、この一帯は烽火台にも適している訳です。
昔々、港南台や洋光台方面が開発される前は、ここの風景が東京湾を見る有名な場所だったのかも知れません。
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この見晴台の先に進むと鎌倉市との境目にたどり着きます。
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ここから先に進むには鎌倉市側の天園ハイキングコースに進まなければいけません。
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この先に進むと・・・
第一横浜霊園と鎌倉霊園の間を通過する鎌倉防衛網、鎌倉城の外郭にぶつかり、いよいよ鎌倉旧市街に入ります。
鎌倉市と横浜市の境、朝比奈トンネル 久良岐のよし
まぁ、実は自己責任で歩いてる人も多いしそんなに危ない訳でも無いので自分で行くか行かないかは判断してください。
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行く先には鎌倉武士が朝比奈峠開削以前に岩場を切り開いた切通も存在します。
さて・・・
長くなりそうなので鎌倉市域の天園ハイキングコースは、又、続きの記事を分けて書きたいと思います。次の記事、天園ハイキングコースで可愛い御婆ちゃんの休憩所を紹介するので楽しみにして下さい。

最後に今回解説した部分と関係の有る記事のリンクを以下に纏めて置きます。

興味の有る方は御覧下さい。
鎌倉にある天下一の名刀「正宗」の工房…正宗工芸美術製作所
蛍(ホタル)の季節到来!円海山瀬上沢で5月中旬から。
  東急建設の破壊計画で最後のチャンスかも?

神奈川の橋100選の一つ“昇龍橋”と白山社古址。横浜市栄区長倉町
畠山重忠公の最期の時、畠山重忠公と愛甲季隆公の二人の名将が死力を尽くし戦いあった古戦場
  ・・・横浜市旭区役所周辺一帯。

畠山重保公の御廟所、横浜にも御縁が有る鎌倉武士の名門畠山家御曹司の供養塔
  ・・・横浜市金沢区。

【城郭ファンへ拡散】六浦山上行寺の解説と、間宮家臣荒井家の鎌倉武士時代の幻の城址❝荒尾城❞発見?の報告と協力要請。

では、皆さん、また次の記事でお会いしましょう~♪
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横浜市南区中村町に、それはそれは立派な建物の銭湯が今も営業しています。

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仲乃湯と言う銭湯です。
建物は宮大工さんが作った事で全国の銭湯ファンから知られているそうです。
小生は近くの中村天満宮の歴史を調べていて周辺の昭和チックな路地裏歩いてたら見つけてビックリしました。
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上の写真撮影した土曜日は休館日だったので、この日は帰宅し改めて入浴に行きました。
御店主にお伺いした所、多数ドラマやCMのロケにも使われているそうです。
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仲乃湯
 入浴料:470円(シャンプー等別売り。購入しても入浴料と合計600円未満)と安い!
※シャンプーやボディソープ、タオルは持参するか購入が必要。
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入口はこんな感じで下駄箱が並ぶ昭和な感じですね。
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先日亡くなった桂歌丸師匠の地元、真金町から歩いて直ぐなので寄席の宣伝なんかも貼ってありました。
ここは昭和24年つまり横浜大空襲で辺り一面焼け野原に成って、そこから復興が始まった時期に開業したそうです。今年で営業70年目ですね~凄い!
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今の建物は昭和32年の完成で宮大工さんが作った銭湯でスンゴイ立派なのですが、やはり❝これだけの建物を作れた時代❞、つまり宮大工さんがまだまだ沢山いた時代だから出来たんでしょうね~。
今では出来ない。
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そして真金町が色町で昭和33年の風営法施行以前まで多くの料亭や茶屋が有ったので、芸者サンや遊びに来る旦那衆も沢山この仲乃湯に疲れを取りに入浴に来たんでしょうね~。
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御店主に撮影許可を事前に頂いておいたので何枚か館内の写真も今回は御覧頂く事が出来ます。
これ見て、御朱印や御寺のファンは解ると思いますけど、もう西本願寺とかみたいに立派な社寺建築技術の天井の造りでしょう?
もうとにかく凄い!しかも、流石に風呂まで写真は撮れませんでしたが、内風呂の他に昭和の銭湯なのに露天風呂まで有るんですよ!
ここ、横浜市は文化財指定するべきだと思うんですよね~。
教育委員会の人にも一度入りに来て欲しい。
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やはりこれだけの建物な上に庶民的な雰囲気の場所なので沢山のドラマやCMの撮影に使用されているそうです。
一応、御店主がわざわざ紙に書き出して教えて下さった情報を有名どころだけ纏めてみます。
【CM】
JA貯金・・・ジャイアント馬場さん

【ドラマ】
世界一難しい恋      
・・・嵐の大野君、モデルの波留ちゃん
笑点ドラマスペシャル桂歌丸
・・・泉ピン子、尾上松也さん、水上あさみさん

【TV】
YOUは何しに日本へ
NHK夕時ネットワーク
・・・何か他にも有るそうですが、超有名な人や最近の番組だとそんな感じらしいです。
世界一難しい恋とかたまに見てたのに全然知らなかった。

まぁ、そんな場所なので全国的にファンがいて、何だか神社や御寺じゃないのに屋内の壁に沢山の“扁額”が掲げられていました(笑)。
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・・・てかYOUは何しに日本へとか、外国人にまで知られてるとか凄いですよね~?
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この下をくぐると男の世界がブラブラぶら下がってます(笑)。
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こんな感じ。一応、ドライヤーも据え付けのが1台男性の方にも有った。
そこの写真も撮影して置いたのですが、後ろにいた御爺ちゃんのブラブラした“モノ”がモロに鏡越しに映り込んでしたので掲載できません(笑)。
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小学生200円とか・・・小さい子供連れて来たら喜びそう。
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風呂上がりのジュースも有るしね~!
子供向けに御店主がクイズも出して下さるそうです。
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この問題の中から選んで解答に正解するとジュースが貰えるそうです。
小生はオッサンなのに特別にチャレンジさせて頂きましたが、外れました。
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残念賞に不二家のペロペロキャンディーを頂きました。これならクイズに正解できなかった子供もガックシは来ないで楽しく帰れますね~♪
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そうそう、番台の手すりのこの彫刻も、人間国宝に成った方の作品だそうです。
・・・そんだけ凄いんだよ、銭湯の建物なのに(笑)!

実は近所に横浜橋商店街と言う今でも寂れていない横浜市で最大級のアーケード商店街が有るのですが、調べているうちに解ったのですが、近くの中村八幡宮は新橋の芸子衆も御参りに来るほど昭和の横浜大空襲まで大規模な社殿を持って栄えていたそうで、その参道の商店街が今の横浜橋商店街の原型の様です。
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ちょっとパンフレットの画像も見にくいのですが、たしかに凄く立派な社殿を取り囲む、随神門と壁に本殿の台地が囲まれているんですよね。
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中村八幡宮の宮司サンにも色々聞いたので又、解説記事を別に書こうと思います。
中村八幡宮の宮司様は戸塚の品濃白幡神社の宮司職も兼務されているのですが、品濃白幡神社も以前、解説記事を書いていたので御興味有る方は以下の記事タイトルをクリックして御覧下さい。
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→商業街の中に在る戸塚区品濃の白幡神社と白幡山公園・・・実は凄い歴史偉人と関係有ります。
そして昭和初期まで真金町や中村町には劇場や料亭が沢山有り、周辺には真言宗の52ヵ寺の本山だった寶生寺や、他にも沢山の神社仏閣がある風流な京都の祇園とか清水坂みたいな場所が戦前の昭和初期~大正時代の中村町~真金町だったみたいです。
寶生寺に関しては以前に紹介記事を書いているので、御興味有る方は以下のブログ記事のタイトルをクリックして御覧下さい~。
寳生寺…横浜市南区にある鎌倉〜江戸時代の名将達が保護した古刹。
そりゃ~風流な京都の祇園と清水坂くっつけたみたいな場所だったんだから、宮大工も銭湯建築に手が回るだけいた筈だよ。
知の冒険
横浜市に限らず色町の文化と史跡研究に関しては“知の冒険”と言うブログを運営してる丹治君の方が詳しいので、彼のブログを見ると真金町界隈の事を沢山書いて有ると思いますよ~。
知の冒険→https://chinobouken.com/
彼はラジオにも呼ばれる人物なので、その道の文化研究ではプロです。

まぁ~、そんな昭和初期のいなせな男女の風流な雰囲気と、戦後の人懐っこい庶民の文化が混じった素敵な銭湯が、この仲乃湯さんです。
皆さんも、横浜橋商店街とかに買出しに行く事が有ったら是非!お風呂入りに行って見て下さい~!
きっと建物の凄さに感動しますよ!

・・・次いつか解りませんが、ネタの写真と調べた事は溜まりに溜まってるので、何かまた記事を不定期に書きます(笑)。

皆さん、次の記事で御会いするまで健康に実り有る日々を御過ごしくだされや~♪
では又!
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Twitterで朝日寺サンと言う志田峠に在る御寺の方に武田家vs北条家の大合戦、三増峠合戦の経過を時系列で話す機会が有ったので、そのツイートを画像に切り取って転載しときます。
    武田軍       北条軍
武田菱vs 三つ鱗紋
兵力  20,000                  20,000

死傷    1,000                    3,000
武田信玄が北条家の息子達を翻弄し、北条家も局地戦で黄備え玉縄衆大将の地黄八幡北条綱成公が活躍した合戦なのに結構、歴史ファン入門くらいだと知らない人も多い名合戦なんだけど。
因みに話題に登場する主要人物紹介。
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ゲームの武田信玄⤴
肖像画の武田信玄⤵
武田信玄

北条氏康
ゲームの北条氏康公⤴
肖像画の北条氏康公⤵
北条氏康公
北条氏政
高嶋政伸サンの北条氏政公(笑)
丸に三ツ鱗紋玉縄北条家

隅立て四ツ目結び紋間宮家
蔦の葉紋臼居家


では以下Twitterからの転載です。
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最初に蛍の飛ぶ綺麗な写真と今の現地の様子を見て下さい。

瀬上沢の蛍
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蛍の生息する栄区上郷の瀬上沢流域西側も、東日本最大の世界遺産登録すべき上郷深田遺跡も消滅の危機に瀕しています。

問題はこう⤵
●そもそも上郷~港南台の自然は昔を100として既に30%に縮小している事。
東急建設は20haの緑地を残すと言う開発すれば以前の20%に更に緑地が縮小する事。
●円海山の範囲は金沢区~磯子区~港南区~栄区に及ぶ。
  1960年代と比較すると残存森林面積30%に縮小どころか更に縮小している事。
●そもそもの目的が環状4号線の渋滞緩和なのに環状4号線が片側1車線で意味が無い事。
東日本最大級のタタラ製鉄遺跡の上郷深田遺跡が開発計画では切土(削り取られて)で消滅させる事。
●横浜市最大最後の蛍の大生息地の瀬上沢流域の西側も調整池の建設で自然の川を消滅させる事。
●開発計画支持者は「東急建設が緑地保全をしてくれるから東急に任せた方が良い」と主張していますが、東急建設自身が開発計画説明会で開発開始後は緑地や瀬上沢の保全は横浜市に任せ、東急は行わない」と丸投げを宣言している。つまり開発して掘ってコンクリで川と遺跡を潰した後の自然保全は一切しないと言う事を言ってるのを開発賛成派は理解出来ていない事。
●上郷深田遺跡の完全調査も保護も東急建設は行う気が無く「合法的に開発します」としか答えないが、未調査地域にも遺跡が広がってると普通に考えられ文化財保護法に抵触する可能性が高い事。
●開発自体が東急建設にとって不採算事業である事。
●横浜市民は代替地として横浜港と本牧の再開発を提案出来る事。そちらの方が東急グループにとって有利な事。横浜市と国の政策にも合致する事。

以下、東急建設が配布した開発説明資料と地図画像で解説します。

【現在の開発計画】
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
御覧の様に現存する森林湿地帯と横浜市最大最後の蛍の生息地域の瀬上沢の西側が削られ調整池にされてしまいます。
現段階で発掘された場所だけでも東日本最大の蹈鞴(タタラ)遺跡の上郷深田遺跡&上郷猿田遺跡の製鉄炉が集中する上郷深田遺跡は削られて無く成ります。

以前の写真と現在の写真、更に開発計画予定地を比較して見ましょう。
1960年代の円海山
1960年代の航空写真。まだまだ円海山の西側の上郷も緑豊かです。
2019年現在の円海山
現在では開発計画地点周辺だけでも既に円海山の森林が宅地化され大減少している事が解かります。
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
更にこれだけ開発されてしまうと、もう円海山西側の自然が蛍や遺跡を抜きにしても潰滅状態なのが御理解頂けるでしょうか?

では掘削と埋立地の計画を見て見ましょう。
これは東急の開発計画の説明会で配布された資料です。

2019年時点の切土盛土計画断面図
ここに上郷深田遺跡や瀬上沢西側の蛍生息地の地名は一切登場しません。
深田遺跡掘削範囲
しかも❝2019年5月時点の計画で変更される可能性もある❞と東急建設が明記しています。
つまり、現時点で緑地を残すと言っている東側も「いつでも開発予定地に組み込めますよ」と言っている訳です。加えて、そちら側は横浜市に買い取らせようとしてますがソレさえ上手く行っていません。

ではこの開発する場所が本当に遺跡や蛍の生息地とカブっているのか「東急建設の用意した遺跡と蛍の生息地が表示されていないワカリにくい断面図」ではなくて衛星写真に表示して解り易くして見てみましょう。
2019年時点の東急の開発範囲
写真をクリックして拡大して見て下さい。
赤い線―が開発範囲。この森と遺跡と川が削られ商業地と宅地と公園と調整池と公園にされてしまいます。
青い線―が東急が用意した断面図のラインです。これを見て見れば遺跡の位置と蛍の生息地に丸カブリなのが一目瞭然ですね。
ちなみに下の画像で左側の蛍の生息地で今年多くの人が衛星で位置確認をしながら蛍を鑑賞して下さっていますので、「この画像の蛍生息地がデタラメだ」等と東急建設の上郷開発事務所担当者や横浜市役所の役人が林市長や筆頭株主の東急電鉄に報告すれば虚偽の報告に成ります。
この青い線と遺跡の位置を見た上で、もう一度断面図を見て見ましょう。
2019年時点の切土盛土計画断面図
下の断面図の黄色い部分が削り取られる場所、上の衛星写真と比較すると本当に遺跡の溶鉱炉部分やら現段階で発掘された部分の主要部が丸々無くなる事が解かりますね。

では次に、本当にココに遺跡が存在しているのか知らない人の為に遺跡の過去の発掘調査資料の発掘結果の位置を表示して見ましょう。
まず遺跡の発掘調査状況です。
第1期
深田遺跡調査1期
第2期
深田遺跡調査2期
これを現地の衛星写真と等高線図に重ね合わせて見ましょう。
2019年時点の遺跡の発掘箇所分布図
御覧の通り、先に衛星写真で見た遺跡の表示地点が遺跡出土地点である事が解かりますね。
部分的な発掘しかされてない今現在で既に周りの建物と比較して巨大、東日本最大規模で世界遺産クラスのタタラ遺跡である事が一目瞭然となります。
しかも!まだまだ隣の丘にも未発掘の遺跡が広がっている可能性が高く有ります。
山手学院側にも存在しているはずですが、山手学院は遺跡の発掘調査要請や保存、瀬上沢や円海山の緑地保護の活動団体には非協力的だそうです。
県立栄高校の方が熱心とか笑えるwww事に成っているそう。
加えて・・・
2019年時点の東急の開発範囲
この通り山手学院の方まで森林が伸びていますが・・・
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
現段階の❝東急建設側だけの開発計画❞には含まれていませんが、山手学院の宿舎棟も再開発計画に含まれているとの事で、実際に不動産屋が視察に来ているのも瀬上沢基金の方々が目撃しています。
まぁ、そちらは既に自然がないので良いのですが、何となく非協力的な理由も見え隠れしますね。
運営は有隣堂が関わっているとか・・・
成る程、横浜市の地区センタ―や図書館の運営にも有隣堂が関わっているとの事を聞いた事が有りますので、昔は県の歴史等を出版していた有隣堂も今では不動産部門が横浜市や東急建設と連携して瀬上沢の蛍生息地や上郷深田遺跡破壊を容認している可能性も連想させてしまうエピソードですね。
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こっちの栄高校と舞岡上郷線を挟んで反対の上郷深田遺跡側の森は埋め立てられて消滅します。
湿地帯なので地下水をどうするのか謎ですが、昔、舞岡上郷線の建設時に産業廃棄物を道路に埋めた事を地元民は認識しているのですが、その舞岡上郷線を擁壁にするのが現在の計画です。
更に西側の川は川ごと掘削される&埋立られ消滅します。
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これで自然保護してると言い張ってる訳です。
因みに、過去、東急建設の説明会では賛成派に総会屋みたいな奴が動員されて「反対派がこの世から消えるのが自然保護」と「瀬上沢開発の反対はは死ね」と遠回しにいってる脅迫の様な発言をした事もあります。

実は開発計画以外に・・・
もう一つ深刻な問題が発生しています。
今現在、上郷深田遺跡の位置を確認したり蛍を見たい人が現地に行けない様にされる嫌がらせが組織的な規模でしか行えない速さで展開されています。
GoogleMap瀬上沢地図登録抹消現状
しかもGoogle mapで検索できない様に「瀬上沢蛍生息地」や「上郷深田遺跡」が削除されてしまいました。有志が何度も復元を試みましたが、毎回復元した地図登録が数十人単位のチームでしか行えない速度で削除されてしまいます。
の登録で文字が表示されない場所が何者かの「悪意で削除された」上郷深田遺跡や蛍の生息地の地名削除された場所です。今年、GoogleMapのナビ機能で現地に蛍を見に行くのに「お気に入り登録」された方も地点だけが表示されている状態のまま名前が非表示になっている筈です。
深田遺跡周辺、瀬上沢流域を破壊して造る調整池
こんな嫌がらせをする必要が有るのは「開発したい人」しかいないでしょうね。
ん~東急建設よりは横浜市役所かな?いやいや東急・・・www

まぁ、登録しなくても地図の座標でナビ機能が利用出来ますから、今回のブログにもYahoo!MapとGoogleMapのナビ機能を使える位置表示のリンクを貼って置きますね!
蛍が見れる場所!栄高校直ぐ下の瀬上沢
2019年現在蛍の生息地
栄高校の坂を下り切った場所が蛍の見える場所です。
画像左側瀬上沢の西側の木のトンネルは蛍を触れる距離で見れます。
画像右側瀬上沢の東側の森の方は高い位置に飛ぶ蛍を見れます。
yahoo map
 https://map.yahoo.co.jp/maps?lat・・・
●Google map
https://goo.gl/maps/bMKnCMMvQzg4GBX49
もし又、瀬上沢を開発したい集団のイヤガラセで上のリンクから蛍の生息地が表示されない場合栄高校の周囲の道の坂道沿いに下まで来てください
下りきった目の前の沢が瀬上沢です。
※2019年は7月位まで蛍が見られそうですよ!
さて・・・

こんな感じで2019年時点での東急側が用意した建設計画資料を使って(笑)彼等の現段階の計画のままでは神奈川が誇る世界遺産級の遺跡と蛍の生息する西側の瀬上沢が破壊される事が皆さんにご理解頂けたかと思いますwww。

あと追加で気に成る事が発覚しました。
放射能汚染土
横浜市は林市長と彼女の支持者の藤木企業の藤木会長が放射能汚染物焼却灰の受け入れを推進する発言を311東日本大震災当時話していましたが、それと無関係では無さそうですね。
実際に港湾地域にガイガーカウンター持って行くと放射線が普通より高いと、今日も港湾関係の知人に話を聞いたら言ってました。
このタイミングで瀬上沢を開発し、深田遺跡の森を“盛土”で埋め立てる開発計画を強行したい理由と、この放射能汚染土の問題の関連性を普通の人なら連想する様な出来事だと思います。
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この谷を11m近くの高さまで埋め立てるってのはナカナカの事ですよね~。
そして丘は遺跡もろとも削り取ってしまう。
因みに同時期に廃墟マニアに有名だった横須賀市の“田浦廃村”の谷の再開発も再燃しています。
そして最近は三浦市の小網代の森の横の蛍の谷が埋め立てられました。
・・・誰かガイガーカウンターで測った方が良い様な~。
なんせ横浜市内の放射能汚染土の一時保管されていただけの保育園の園児が同時期に2人白血病が発症した訳です。偶然とは思いにくい。

以前も書いたのですが、東急建設サンにとってこの瀬上沢開発は不採算事業な上に、既に芸能人にも知ってる人が広がりつつある訳です。横浜市民では当該地の栄区の総人口と同じ11万に及ぶ反対署名が集まっています。
一昨年までは東急建設の親分の東急電鉄さんの株主総会では瀬上沢開発計画は緑地を保護する活動と印象操作した動画広告を堂々と行っていたそうですが、昨年に凄まじい件数の反対署名が提出されると東急建設はその宣伝動画を東急電鉄さんの株主総会で展示しなくなったんですね。

小生が直接確認した訳ではないので「どことは言わない」ですが、小生達、横浜市や東急建設の強引な開発計画と説明会の不誠実な対応と日本規模の遺跡なのに横浜市全体に周知しない不見識さに怒った歴史ファンや瀬上沢西側にも蛍をずっと残したい人の中にも、まぁどことは言いませんが先方の職員もいる訳ですよ。
まぁ~市民の反感買いながら中国共産党の情報統制みたいな言えない事やってると大変に成るよ。
その内。

今年、蛍を見に来てくれた人は多かったですね。
ありがとうございました。
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ホタル3
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上郷深田遺跡の溶鉱炉跡の発掘時の写真。
上郷深田遺跡
※横浜市歴史博物館のページより転載。
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/qa/detail.php?seq=50
質問に曖昧にしか答えてませんが、鈴木館長は保護活動に協力しないと立場を明言しています。
上郷深田遺跡側の森
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さて本題に入ります。
瀬上沢と円海山の水源と森と遺跡破壊する開発を止めて市民の支持を得てIR事業と、みなとみらい線の延伸と本牧駅開設&A突堤周辺の再開発しちゃいなyo~♪
そしたら親分の東急電鉄サンが儲かるでしょ?
市長san~(笑)
東急建設上郷開発事務所の松尾san~鈴木san達yo~♪
・・・て事www。

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皆さん、この記事で蛍の大生息地と東日本最大の蹈鞴遺跡を守るため❝本記事の拡散の救援❞を要請します!
これから6月初旬、第二週の週末位になると蛍の飛び交う姿が最盛期を迎え、下旬に入り7月には蛍達は次第に命を終え数を減らします。
そんな蛍も生きる川を破壊されてしまえば、翌年から見る事も出来なくなります。

緊急性の高い意見書の提出と署名活動の存在を以下にPDFやホームページリンクで纏めますので、拡散を御願いします!



出来れば意見書提出や署名活動その物にも御協力にも御願い申し上げます!
以下は資料、及び意見書と署名フォーマットのリンクと説明。

これは皆も読んで見て下さい!⤵
東急建設意見書の素案のPDF
https://drive.google.com/file/d/1zymGCllhGO-_Gl7oWW61nYzzpOaBSfNN/view?usp=sharing
郵便なら上記のURLをクリックしてPDFを印刷して同封下されば簡単です。
同封する場合は意見書に「別紙に意見内容文書を同封」と書いて下さい。
・公的機関へのweb上の意見書は今回の公的機関用に意見書の素案の要件だけを纏めた文章を書いておきますので、それをコピペして貼り付けて頂くと便利です。
・むろん皆さん御自身の素晴らしい提案をされるのも好ましいです。


●東急建設への意見書提出フォーム【緊急!】
意見書フォームPDF⤵
https://drive.google.com/file/d/1FdbEU1o8K_ISN-KOxJo3lhkvN3QI06Ek/view
※A4サイズで印刷の上、郵便で2019年05月23日までに記載した住所への必着〆きり。
※宛先・・・〒247-0013横浜市上郷町725番 東急建設株式会社 上郷開発事務所
                担当:松尾、須藤、小林
※これを最優先で御願いします!
※小生の意見書素案PDFを提案される方は意見欄に「別紙意見同封」と書き添えて下さい。

付属の資料として以下の上郷深田遺跡の簡単な史料と過去の発掘調査記録も有ります。同封するかは皆さんにお任せします。
・上郷深田遺跡発掘調査概報PDF→リンク
・古代の製鉄所『上郷深田遺跡』を守ろう!+追加限定調査部分報告→リンク

●上郷深田遺跡製鉄遺跡の現状保存と公開を求める署名
書式PDF⤵
https://drive.google.com/file/d/1w25i423VDydeVcNckSj4nhHFSN9YqR5r/view
※A4で印刷して下さい。
※宛先はフォームに記載住所ではなく以下に記す“瀬上沢基金事務所”の住所に送付して下さい。
 基金事務所で集積してから代表者に追加提出をして貰います。
宛先・・・〒2340054 港南区港南台9-30-31 NPO法人ホタルふるさと瀬上沢基金事務所 角田まで

以下公的機関への意見フォーム
公的機関へ投稿する際は以下の文章をコピペして頂いても結構です。

【以下は自民党と各省庁向け要件コピペ用の素案】
「政府自民党政策‟文化財危機宣言”に基づいて以下の要請をします」
横浜市栄区に東日本最大のタタラ遺跡上郷深田遺跡と、横浜市最大最後の森林円海山の瀬上沢流域の蛍の群生地が、開発計画で消滅の危機に瀕しています。保護を要請します。
横浜市と開発を担当する東急建設は不採算事業に陥っており、又、世界遺産級の遺跡は開発計画で掘削と商業地建設で基礎によって破壊される区域に該当します。蛍の生息域も調整池の建設で川は消滅し別に人工川を設ける計画ですが蛍は死滅します。
都会に希有な水源森林と東日本最大のタタラ遺跡保護の国策での代替地提案として稼働率の低い横浜港の新山下~本牧埠頭への代替地準備助成金交付やIR事業推進を含め東急建設と横浜市へのIR事業発注を行い、円海山全域の森林と水源と瀬上沢流域の都会に希有な森林として国定公園化、日本屈指の上郷深田遺跡の国指定史跡化と博物館と史跡公園化による畑地利用を御検討頂きたく御願い申し上げます。
許諾が可能であれば市民活動でも保護の為の誘致の署名を行います。

 ●自民党へのご意見フォーム
リンク→https://ssl.jimin.jp/m/contacts?_ga=2.26174973.1582204468.1558159906-1246993790.1558159906

●文部科学省文化財全般ご意見
リンク→https://inquiry.bunka.go.jp/InputForm.aspx

●国土交通省・関東地方整備局:お問い合わせフォーム
リンク→https://www.ktr.mlit.go.jp/kyoku/contact/mail/index.htm


__以下横浜市の各所意見窓口__

【以下は横浜市と市長向け要件コピペ用の素案】
「政府自民党政策‟文化財危機宣言”に基づいて横浜市に要請をします」
横浜市栄区に東日本最大のタタラ遺跡上郷深田遺跡と、横浜市最大最後の森林円海山の瀬上沢流域の蛍の群生地が、開発計画で消滅の危機に瀕しています。
開発企業様の利益を保護しつつ当該地の自然と史跡の保護と国指定史跡、国定公園登録申請を要請します。
以下の案を提案します。
・❝政府自民党の政策のIR事業と文化財危機宣言❞を活用して助成金要請
・東急には現在の開発計画の用地を横浜市と代替地との交換を提案。横浜市では無く国策のIR事業推進の為に港湾の稼働率の低いA突堤か風光明媚なC突堤等の埠頭に等価値の代替地を用意する。
・環状四号線の渋滞問題解消によって金沢区~戸塚区~大船への利便性を向上し、上郷開発では阻止できない既に空家が増加してる桂台や本郷台地区の利便性を向上し栄区全体の人口増加につなげる。その際に渋滞の解決策として片側1車線の環状四号上郷区間の道路を高架化して片側2車線にする。上郷町199番地付近と上郷町1173番地付近に出入口を設ける事で環状四号線沿いの緑地も保護出来る。
・保護した上郷深田遺跡の完全な調査を行い、横浜市初の世界遺産登録を目指し第三セクターの史跡博物館を併設した上で上郷開発賛成派の住民も史跡保護の功績から運営側として雇用する。また他の大都市に類を見ない国定公園円海山全域の大森林を保有する市として世界にもアピールを行う。
以上ご検討御願い申し上げます。
横浜市と開発を担当する東急建設は不採算事業に陥っており、又、世界遺産級の遺跡は開発計画で掘削と商業地建設で基礎によって破壊される区域に該当します。蛍の生息域も調整池の建設で川は消滅し別に人工川を設ける計画ですが蛍は死滅します。更に東急建設の取得した緑地の大部分を現計画では横浜市が買い取る必要が有ります。ならば代替地を用意して史跡と自然環境の完全保護を目指した方が市政の評価も上がりますし国政としてIR事業を推進する事が可能に成り本牧地域の再開発で東急建設も横浜市と将来的な利益を享受出来ます。
都会に希有な水源森林と東日本最大のタタラ遺跡保護の国策での代替地提案として稼働率の低い横浜港の新山下~本牧埠頭への代替地準備助成金交付やIR事業推進を含め東急建設と横浜市へのIR事業発注を行い、円海山全域の森林と水源と瀬上沢流域の都会に希有な森林として国定公園化、日本屈指の上郷深田遺跡の国指定史跡化と博物館と史跡公園化による畑地利用を御検討頂きたく御願い申し上げます。
許諾が可能であれば市民活動でも保護の為の誘致の署名を行います。

●横浜市「市民からの提案」投稿フォーム
・横浜市役所市民局広聴相談課→mailto:kouchou2@city.yokohama.jp
 スマホ用→https://www.e-shinsei.city.yokohama.lg.jp/yokohama/uketsuke/sform.do?acs=shiminteiansmart
・栄区役所    区政推進課→mailto:sa-shiminteian@city.yokohama.jp
・港南区役所   区政推進課→mailto:kn-shiminteian@city.yokohama.jp

●市長の部屋 横浜市長 林 文子ー共感と信頼の行政を目指してー
・政策局秘書部秘書課→ss-hisyo@city.yokohama.jp
        FAX→045-641-2628



Twitterでリツイートしてくれた皆!もう一度だけこれを拡散して世界遺産級のタタラ製鉄遺跡である上郷深田遺跡と蛍群生の地の瀬上沢流域を含む円海山を助けて!

出来たら署名や意見書提出にも協力して下さい!

そして意見を支持してくれたら東急建設も横浜市も賛成派も反対派の地権者も歴史ファン刀のファンももアニメとゲームのファンも蛍を子供にみせたい若い御母さんも御父さんも皆で幸せに蛍と遺跡を見に来られて、誰も損をしないで済むと思う。

どうか御協力お願いします!
上郷深田遺跡
ホタル10
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こうやって夜景が綺麗なのは手前の円海山の森林が有るからです。
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いつまでもこの風景と武士文化の醸成地の東日本最大の蹈鞴遺跡の上郷深田遺跡と蛍が舞い飛ぶ瀬上沢と円海山の大森林を皆さん一人一人の行動で守ってください。

誰も損をしません様に、皆仲良く出来ます様に、後世に貴重な自然と遺跡を残せます様に~♪
東急サンへの意見書の提出期限が郵送で23日〆切と成っています。何卒よろしくお願い申し上げます。

・・・只の歴史オタク、~久良岐のよし~より

















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これから6月初旬、第二週の週末位になると蛍の飛び交う姿が最盛期を迎え、下旬に入り7月には蛍達は次第に命を終え数を減らします。
そんな蛍も生きる川を破壊されてしまえば、翌年から見る事も出来なくなります。
恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし

昨年公開の映画、❝恋は雨上がりのように❞でもロケ地に成った横浜市最高峰の山の円海山の麓、まだ宅地開発されず❝横浜市最大最後の蛍の群生地❞である瀬上沢流域と、日本屈指、❝関東最大で神奈川県現存唯一の蹈鞴(タタラ)製鉄遺跡の深田遺跡~猿田遺跡❞の森が存在します。
しかし今年2019年時点、東急建設と林文子市長によって破壊消滅の危機に晒されています。
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円海山 瀬上沢流域一帯 蛍群生地
例年、瀬上沢では5月中旬~6月中旬にかけて夕方~宵の頃、写真の様な蛍の乱舞を見る事が出来ます。
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この横浜市歴代市長が守って来た横浜市最後の水源地の原生林に住む蛍の群生地を東急建設が破壊を強行しようとしており、今年、是非皆さんに見て置いて欲しいんです。
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葉っぱに泊まり淡く光りメスを呼び、短い命を懸けて恋をする蛍は以前、円海山の麓の川では多く見られましたが今では庄戸地区の宅地化、港南台の宅地化で数は激減し森の面積も30%まで縮小しました。
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横浜市教育委員会は弱腰で林市長の開発容認と東急建設の開発計画にストップをかけませんでしたが、昨年まで神奈川県教育委員会が開発を反対し、何とか東急の三十年に及ぶ開発計画を阻止して来ました。横浜市も市長以外の有識者が毎回反対票を過半数投じて下さっていたので、市長の開発容認も実行されませんでしたが、昨年、林市長の支持派の横浜市議の松本研議員の兄の松本純国会議員が、横浜市長の裁量で開発を強行できる法案を可決させてしまいました。
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今年、皆さんが少しでも多くの蛍を見て感動してくれたら、出来たら横浜市に電話やファックスや手紙や署名で、東急建設による宅地開発の許諾をしないよう、又、他の大都市に誇れる自然保護区として自然公園指定と関東最大の蹈鞴遺跡の保護を陳情をして頂かないと、この蛍はもう、子供達も子孫も見る事が出来なくなり死滅します。
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この幻想的な風景、横浜市と鎌倉市が共有する最大最後の蛍の群生する地、円海山の瀬上沢流域。
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そして坂東武者達の関東最大の蹈鞴遺跡である上郷深田遺跡の周辺にはまだまだ鎌倉時代と室町時代の製鉄所遺跡が未発掘の可能性もあります。
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この遺跡の存在は既に30年前の発掘調査時に知られており、横浜市は建設計画の為に史跡認定をしてきませんでしたが日本有数の規模を誇り、現存する蹈鞴(タタラ)製鉄遺跡では神奈川県唯一、関東では最大規模を誇ります。しかも飛鳥時代~平安時代の数百年間に渡って大和朝廷や坂東武者達に軍備や農具の元になる鋼(ハガネ)を供給して来た歴史を持つので、本来はユネスコに世界遺産登録申請を行うべき所でもあります。
しかし横浜市教育委員会は完全に市長に対して弱腰忖度し破壊を容認しています。
瀬上沢西の森1112エンゼル
この森と道を挟んで同じ面積の森の二つの大森林の蛍生息地と蹈鞴遺跡を東急不動産と横浜市の都市計画課は消滅させようとしています。

下の衛星写真には蛍の生息範囲や蹈鞴遺跡の出土範囲もわかる地点登録がされています。
Google earthでも誰でも見れます。
円海山瀬上沢流域ホタル群生地と上郷深田遺跡の森蛍群生地衛星写真
衛星写真と東急建設の破壊予定範囲を比較して見ましょう。
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
御覧の通り!東急が遺跡や蛍の生息区域の保護に配慮しているなんてのは真っ赤な嘘です!
完全に❝計画❞には遺跡と蛍の群生地の瀬上沢が入っており、森林の伐採で鉄砲水の危険が生まれる為に川の流路すら破壊して人工的に溜池を作る計画です。つまり周辺住民の安全すら脅かすような宅地計画の為に川と森を伐採し人口の溜池をつくり本末転倒な事態に計画その物が陥っています!
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ホタルが存続できる様にする為には、先ず、皆さんに見て貰わないといけないんです。
そして興味を持ってくれたら、関係先に問い合わせて見て下さい。
SAVE!SEGAMI
SAVE! SEGAMI 
協力:パタゴニア社 
https://www.patagonia.com/home/

上郷・瀬上の自然を守る会©2017 認定NPO法人 ホタルのふるさと瀬上沢基金 
http://savesegami.com/

上郷深田遺跡を守る会
https://kana-reki.jimdo.com/
 
他賛同して下さっている名を明かせない日本の企業様達と一般の方々。

今週、5月17日(金)19時~と、18日(土)10時~に横浜市栄区栄公会堂で東急建設による一方的な開発計画説明会が行われますが、まだ横浜市は認可してませんし神奈川県教育委員会は大反対しています。

自然破壊の東急建設説明会
この東急建設に対する開発反対や、横浜市に不採算事業な上に市民を敵に回す事業を押し付けられた彼等の立場を考慮しての代替地提案の意見等は多く出た方が良いので、御興味の有る方は是非、17日と18日の開発❝計画❞説明会に参加して下さい。
東急建設による宅地開発で円海山瀬上沢の蛍群生地及び、日本屈指の規模の古代タタラ製鉄遺跡破壊する為の説明会開催日程は以下の通りです。

場所:栄区栄公会堂
※スマホ・PCで御覧の方は以下の住所をクリックして頂ければ地図で確認できます。
日時:2019年05月17日の19時~20時半
       05月18日の10時~11時半
※受付開始は説明会開始の30分前から。
問い合わせ先:045-892-4911
担当:東急建設株式会社 上郷開発事務所 松尾・須藤・小林
※この松尾・須藤・小林3名と面識の有る方は開発を止める様に説得を御願いします。又、横浜市最大最後の蛍生息地を破壊し、関東最大で神奈川県内現存唯一の蹈鞴遺跡を破壊する事に良心の呵責が無いか問いただして下さい。

瀬上沢の記事について興味が有る方は是非、以下のリンクから❝タグ❞が瀬上沢で縛ってある記事も御覧下さい!記事のタイトルをクリックするとリンクします♪
横浜の蛍生息地、各マスメディアと米国パタゴニア社等の雑誌記事で紹介!
瀬上沢一帯に広がる日本最大級の蹈鞴製鉄遺跡の紹介パンフ転載。
円海山で蛍が観察出来る季節です。
  横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。

東急建設による蛍生息地と日本国内最大級のタタラ製鉄遺跡破壊計画を暴露します。
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瀬上沢と言う横浜市最大最後の蛍の生息地が在り例年5月~6月は蛍の乱舞が観察できるのですが、東急建設と横浜市都市計画課と林文子市長が❝日本最大規模の蹈鞴遺跡❞もろとも破壊しようとしています。
教育委員会も建設関連部署との市庁舎内での部局間の政治力の問題で以前の市長の施政時代と異なり保護を強く市長に対して上申出来ない状況が発生しているそうです。
今回の試掘でも教育委員会の埋蔵文化財センターは発掘調査を一部だけ行い、全国の蹈鞴製鉄や工業史の学者や考古学者や製鉄文化の専門家に通知せず開催しました。それどころか遺跡が出土した主要な場所は埋め戻し公開せず、丸で日本全国の歴史学者や製鉄や工業の文化関連の有識者の耳目に触れない様に画策したかに思わる様に周辺住民が参加する慎ましやかな規模のまま説明会を行いました。
しかし林文子市長が統治する以前の横浜市長の施政下で教育委員会が行った試掘調査の資料を公開しており、それを元に瀬上沢の自然環境と合わせて猿田遺跡と深田遺跡の保護活動を行っている皆さんが作成した資料の転載の許可を頂いたので如何にスキャンした資料を添付し皆さんに紹介します。
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SAVE THE SEGAMI!ホームページ→http://savesegami.com/
瀬上沢の蛍生息地域と上郷猿田遺跡・深田遺跡の保護活動団体
下の衛星写真には蛍の生息範囲や蹈鞴遺跡の出土範囲もわかる地点登録がされています。
Google earthでも誰でも見れます。
円海山瀬上沢流域ホタル群生地と上郷深田遺跡の森蛍群生地衛星写真
衛星写真と東急建設の破壊予定範囲を比較して見ましょう。
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
御覧の通り!東急が遺跡や蛍の生息区域の保護に配慮しているなんてのは真っ赤な嘘です!
完全に❝計画❞には遺跡と蛍の群生地の瀬上沢が入っており、森林の伐採で鉄砲水の危険が生まれる為に川の流路すら破壊して人工的に溜池を作る計画です。つまり周辺住民の安全すら脅かすような宅地計画の為に川と森を伐採し人口の溜池をつくり本末転倒な事態に計画その物が陥っています!
さて、この❝上郷深田遺跡を守る会❞の資料より詳しい資料は、発掘調査を行った❝横浜市埋蔵文化財センター❞と❝横浜市教育委員会❞が情報を持っていますので、見学なさりたい方や詳細を知りたい方、はたまた保護活動に参加されたい方は要望や保護陳情を伝えたい方もいらっしゃると思うので以下に連絡先を紹介して置きます。

公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター

東急建設株式会社

横浜市建築局都市計画課

林文子市長への陳情窓口 

市長の部屋 政策局秘書部秘書課

横浜市教育委員会庶務課

税理士による林文子後援会

林文子市長支援者の黒岩神奈川県知事の窓口
黒岩裕治事務所

林文子市長を推薦した自民党の横浜市選出の菅義偉官房長官
横浜市部事務所
〒232₋0017 横浜市南区宿町2₋49
TEL:045₋743₋5550 FAX:045₋743₋5296
suga.yoshihide@gmai.com

ここに名の掲載の有る方々にも立場があるので保護を表立って表明できないものの水面下では協力して下さっている方もいらっしゃるので“迷惑に成る嫌がらせ行為は行わないで”下さい。
自民党や公明党に関係する議員の方が多くいますが、当然ながら自民党にも瀬上沢と猿田遺跡深田遺跡の保護に熱心な方もいらっしゃいますが横浜市役所と東急建設のシガラミで表立って批判を出来ずにいらっしゃる方もいますし、自民党と対立軸の共産党にも多く保護を表明して下さってる方もいますが逆に言うだけ番長で何も実行して下さらない方もいらっしゃいます。

なので純粋に
集団見学の要請の他、関係先へは横浜市や神奈川県の❝オカカエガクシャ❞では無く日本の蹈鞴製鉄や考古学の権威による再調査要請や皆さん個人単位でも良いので保護の陳情を行って頂きます様に御願いします。

この保護活動には既に12万人の署名が集まっています。
菅官房長官の秘書官へも陳情を行ったのですが、菅官房長官の耳目にこの件が届いた形跡もないそうです。実は国の政策が変り、盛土による地形埋立土地開発が不可に決定したのですが、当該の瀬上沢と深田遺跡猿田遺跡の谷は横浜市の都市建設局のシガラミで東急建設さんは不採算事業にも関わらず撤退も出来ず、国の盛土建設否定政策が明示されても国の方針に逆らって盛土を推進するしか無く代替え地も用意して貰えないそうです。

党派を問わず自民党と共産党の政治家も保護に助力を表明して下さってる方もいます。自民党には反対に瀬上沢の貴重な自然と日本の遺産とも言うべき大規模蹈鞴遺跡の破壊を推進する法案を建議し通してしまった議員もいます。無論、自民党以外の議員にも賛成した議員はいます。
自民党の中区辺り選出の某国会議員の兄弟の市会議員が兄を通じて神奈川県庁が保護を指示していた瀬上沢区域を横浜市主導で開発が行える様に法案を通したせいで当該地域は昨年横浜市の林文子市長によって市街(緑)化調整区域から商業区域に登記を変えられてしまいました。

松本議員(あ言っちゃったwww)は横浜市南部の自然環境にも歴史文化や日本規模の遺跡にも全く興味が無い様で東急と林文子市長による最後の蛍大生息地の自然破壊と日本規模の蹈鞴製鉄籍の破壊に無頓着なのか意図的に法案を他の自民党議員に瀬上沢と日本有数規模の蹈鞴遺跡破壊を伝えずに通させてしまったのか分かりませんが、結果的に破壊容認を進めてしまいました。
対して高卒から一度就職してから夜間大学を卒業して政治家に成った苦労人の菅官房長官の地元の腹心的な瀬野間議員や田野井議員は保護に前向きだそうですし、党派を超えて共産党の皆さんも積極的に保護を訴えて下さってます。以前は民主党の議員も協力して下さっていたのに現在は民主党系議員は全く無関心に成っているそうです。
因みに瀬野間議員は室町時代初期の関東管領宅間上杉家の神社の氏子サンで、田野井議員の御先祖様は北条家臣の名将間宮康俊公の家臣の田野井家の御子孫です。

何で神奈川県選出、特に横浜市出身の政治家の皆さんは旧鎌倉郡に属す栄区と港南区に跨る横浜市に日本規模で貴重な大規模蹈鞴製鉄遺跡と、横浜市最大最後の自然と蛍の生息地が存在し、そこを完全保護すれば歴史的な偉業で後世に名を残せる上に12万人の票田に成り、更には瀬上沢と猿田遺跡深田遺跡の保護支援者12万人に留まらず円海山の保護活動を行う横浜市栄区民12万人・港南区民22万人・磯子区民16万人・金沢区民20万人の票田に波及し更に大きな支持を得る材料だと何故に気が付かないのでしょうか?
当該地域約70万人市民の内、瀬上沢の保護署名だけでも12万人です。
この活動は若い世代が加わりますので今年もの凄い速さで加速して波及して行きます。
左派の議員さんも口先の保護では無く実効性の有る協力をしないと信頼を失うし、仮に全国の左派系大学で考古学、特に渡来人と古代日本人が協力して文化を育んだ歴史の研究に熱心な学者さんに助力を仰ぐ等具体的な行動をして頂けて結果的に東急建設の瀬上沢と深田遺跡猿田遺跡破壊を止められれば、保護団体も日和ってる部類の自民党議員から票田を渡すとは何故に考えないのでしょうか?

・・・政治家の皆さん、そんなに横浜市民の為に自然環境と史跡を守るより港湾労働者のドンが怖いんですか(笑)?横浜市の第三セクターのFMヨコハマ、横浜スタジアム、TVKの経営トップが何で全部1人の林文子市長支援者の港湾労働者のドンなんでしょうか?
国会議員、県会議員、市会議員としておかしいとは思いませんか?
誰が市民の開発反対する瀬上沢開発の推進者か横浜市民は既に気が付き始めてますよ?
菅官房長官の秘書さん?何で菅さんに瀬上沢の問題が市民の反対票が凄まじい署名活動の数に成っている事実が耳に入らないんでしょうかね~?
さっさと菅官房長官に横浜市が部局越えて港南焼却場の跡地なり、埋め立て地なりに東急さんが瀬上沢の赤字事業を無理してやらなくて済む代替地用意できる様に横浜市に協力を要請して貰わないと東急さんも可哀相でしょ?
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さて小生がこの記事を書いている2018年12月25日はクリスマスです。
残念ながら独身で恋人もいない悲しい小生はイブも仕事、本日も仕事です。
皆さんはクリスマスは如何お過ごしでしょうか?
今頃は家族で子供達とお腹いっぱい美味しいご飯を食べたり、恋人や夫婦でイチャイチャして疲れて寝てるんでしょうか?
シングルベルの小生、今なら悔しい総統閣下の気持ちが解かる・・・
総統閣下 久良岐のよし
唐突なヒトラーの登場で困惑する人は元ネタ動画見て下さい(笑)

※注意!小生は保守中道派ですがナチは嫌いです(笑)。ロンメル元帥は尊敬していますけどね。
・・・さて、取り乱してしまいましたが今日はクリスチャンの皆さんと、全く宗教に信仰心が無い大半の日本人のカップルにも聖夜な訳ですが、実は神奈川県には江戸時代に既にクリスマスの習慣が有った事を知っている人が現代人の中にどれだけいるでしょうか?
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写真は神奈川県三浦半島の横須賀市吉井に在る怒田城址の一角に存在する眞福寺と言う寺院の抱子観音様です。
実はこの観音様、元々は江戸時代初期に開港して三浦按針ことウィリアム・アダムス公が活躍した浦賀港から江戸屋サンと言う廻船商人によって移され安置された観音様なのですが・・・
もう既にこの説明で勘の良い人は気づいていると思いますが、隠れ切支丹(キリシタン)や西洋人との関連が有ると言われている仏像で異名をマリア観音様と呼ばれているんですね。
障子の穴から撮影させて頂いたのでこの写真しか無いのですが、拡大して貰えるとマリア様と同じ様に赤子を抱きかかえています。
まぁ~只の観音様では無いですよね、仏教関係者なら尚の事理解出来ると思います。
しかしながら、日本神道も仏教もキリスト教徒も根源では人の幸せや安寧を願う宗派なのでこの観音様を見て嫌悪感を感じる人も少ないでしょう。
・・・さて、では何でこんな場所に隠れ切支丹のマリア様信仰に関係しそうな観音様が安置されているか解説させて頂きたいと思います。
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吉井山 眞福寺
この眞福寺、実は目の前に鎌倉街道の古道が通っているんです。
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この御寺の前の雰囲気有る道が平安時代末期~近代まで使われた鎌倉街道だそうです。
開基の時期は現在の御住職様は江戸時代に浦賀の廻船商人の江戸屋サンによって開かれたと申しておりましたが恐らく中興の時期が江戸時代と成るんでしょう。この江戸屋サンが浦賀港を本拠地としており現代で言う所の❝税関❞の役割を江戸幕府から委託されていたのですが、それだけでは食べていけないので廻船商人として海運で国内他地域と交易をして仕入れた物を流通に乗せ鎌倉方面や三浦半島に陸送する際に、この眞福寺の前の鎌倉街道を使って輸送したそうです。
浦賀~眞福寺 久良岐のよし
画像を拡大して頂ければ眞福寺と浦賀港が確かに近い位置に在る事が解かりますね。
でも当時は当然ながら車は有りませんので、馬に荷駄(にだ)を持たせて人が歩いて馬を牽引したので、この吉井地区の❝怒田(ぬまた)城址❞の丘を越えるのは一苦労だったのでしょう、この御寺は元々は休息用の目的も有って開かれたでしょうと御住職がおっしゃっていました。
江戸時代に御寺を再興したであろう江戸屋さんの別宅が直ぐ近くに在ったので、当時の地主サンの許可を得て江戸屋サンが御寺を整備したそうです。
ただ、御寺の開かれた年代については新編相模風土記稿では天文年間(1532~1555年)の開基と記載が有り、境内の説明では1522年、一方で横須賀市の認識としては1528年とされています。なので御住職の御話と風土記と横須賀市の話しを混ぜるとこんな経緯が見えて来ます・・・
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※写真は横須賀市安針塚に在る三浦按針公と日本人の奥さんの御廟所。
恐らく江戸時代以前、戦国時代の大永二年(1522年)~享禄元年(1528年)には御寺の前身と成る仏教系の草庵が存在し、天文年間(1532~1555年)に寺院化され、小田原北条家の滅亡により御寺を支援した領主が改易されると一時荒廃し、江戸時代初期に徳川家康公の外交参謀イギリス人サムライのウィリアム・アダムス=三浦按針公によって浦賀が諸外国向けに開港した頃に江戸屋サンが開業、禁教令と鎖国令が出て海外交易が長崎の出島に限定されてしまいます。すると三浦按針公や外国人が拝んでいたであろう抱子観音様も浦賀に置いておく訳にも行かず、かと言って廃棄する様な罰当たりも出来ず、江戸屋さんが江戸時代に自分の別荘の有る怒田城址の山深いけれど鎌倉街道伝いに日帰りで御参りに行ける場所に荒廃した眞福寺が在るに目を付けて、御寺を復興する資金を肩代わりして境内に観音堂設けて抱子観音様を密かに御守り移し安置されたのだろうと推測が成り立つ訳です。
眞福寺前の鎌倉古道と怒田城軍港跡の舟倉地区 久良岐のよし
地図を見ると眞福寺の前の林道の先に江戸幕府御用林の字も見えますよね?そして地図の左の赤く表示されている地区が舟倉で怒田城時代の海岸線で三浦水軍の軍港だった場所です。
・・・で、先程からシレっと怒田城の一部に眞福寺が在ると小生言ってますが、ここは平安時代末期に和田義盛公が築城した怒田(ぬまた)城の一角に当たり、新編相模風土記稿にも沼田城の当て字で記載が有るんですよ。
新編相模風土記稿 三浦郡巻之七 西浦賀分郷
このページに記載が在ります。

沼田城蹟
村の西界。山上ニアリ。字(あざ)臺崎ト云(いう)。
内川新田開墾前ハ入海の出崎ニシテ要害ノ地ナリ。相傳フ三浦大介義明ノ持城ナリト

怒田城に関しては又、別記事として改めて城址紹介の記事を書きますが、平安時代には水軍基地だった海が江戸時代に埋め立てられて耕作地に成っている事も判ります。風土記では三浦義明公の城と説明されていますが、正確には三浦義明公の嫡孫の和田義盛公の築城した城でした。これは司馬遼太郎先生も紀行文❝街道をゆく❞シリーズの❝三浦半島記❞で紹介しています。
先ずは眞福寺と怒田城主要部分の位置関係を見て見ましょう。
怒田城址周辺地形 久良岐のよし
眞福寺の目の前を浦賀~走水方面から鎌倉に通じる街道が通っているのですが、この街道を抑える為に築城されたのが画像で眞福寺の右手の丘一体に広がっていた大城郭❝怒田城❞でした。
この怒田城は平安時代末期の築城ながら安土桃山時代の平山城と同じ様な構造をしていて、和田義盛公の戦術眼と築城術が当時としては革命的に先進的な物だったのが解かります。
城は連郭式(れんかくしき)と呼ばれる段々に成っている構造です。
まぁ、昔から重要な街道が有り、平安時代には軍港でもあった訳です。
そんな場所だから当然ながら税務所役人であり通関業者であり運送屋であり商人の江戸屋サンや浦賀の廻船商人達はこの眞福寺を支援した訳ですね。
そして先述の通り三浦按針公と浦賀港の歴史を経て、眞福寺に抱子観音様が安置された訳です。
では今度は眞福寺サンの風景その物を見て頂きたいと思います・・・
眞福寺サンの在る山は城址なので当然ながら籠城に堪える湧水も有り、今も農業用水として御寺の近くを流れています。
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そして御城が防衛した鎌倉街道の古道が山に向かって伸びています。
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その右手に❝三浦三十三観音霊場第十五番❞吉井山眞福寺が在ります。
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眞福寺サンは現代では浄土宗です。
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階段を上って山門代わりの石柱の右手には御地蔵様が並んでらっしゃいます。
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境内の御庭に入ると左手には素敵な雰囲気の観音様のいらっしゃる庭園と観音堂が見えます。
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奥津城観音と言うらしいですが、実は奥津城と言うのは神奈川県の聖地の渋田山の別称でして伊勢原市に現存する延喜式内社の高部屋神社の元宮の祠が在る場所だったりします。まぁ、関係有るかは知りません(笑)。
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観音堂の階段の右手には御寺の歴史と聖観音様と抱子観音様の解説が有ります。
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いかにも古い石段を登ります。
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すると明らかに怒田城の曲輪の一角だったと思われる平場に聖観音様と抱子観音様が安置された観音堂が在ります。現代では御墓に囲まれていますが、それでも雰囲気良いでしょう?
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彫刻も立派!
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実は障子に穴が開いていて観音様を拝見する事が出来ました。
有難い。
新編相模風土記稿では現在、聖観音とされる仏様は瀧見観音とされています。瀧見観音は三浦一族の菩提寺圓通寺に祀られていた三浦一族の持仏で、現在は横須賀市衣笠の清雲寺に安置されています。
江戸時代までの仏様の名前からも、御寺に三浦一族との前身寺院が存在した様な関係性が臭いますね。
是非、御朱印頂きに参拝される方は観音様を拝して頂きたい。そしてイギリス出身の白人サムライ三浦按針公が日本人を欧州人の植民地化から守って下さった御恩も感じて頂ければなとも。
又、浦賀が欧州からの貨物の集積地として賑わっていた歴史もここで感じる事が出来ます。
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今でも満々と水を湛える池、そりゃ城作るよ。
観音堂の台地から御本堂を見下ろすと雰囲気が良いんですよ~。
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庫裡(くり)の入口が昔ながらの造りで素敵ですね~♪
さて、一応、今回の解説はこんな感じですが、歴史好きの方は怒田城址見物と合わせて是非御参りしては如何でしょうか?
怒田城址 久良岐のよし
因みに怒田城は吉井貝塚部分より眞福寺との間の谷間に良く城址の地形が残っています。
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食違い状の削平地ですね。
小生の推測では、恐らくここが人工的に開削された大空堀で大手道だったと思います。そして眞福寺側が西門だったんでしょう。
怒田城址に関しては余り遺構が無いとか書いている阿呆が多くいますが、それは日本城郭大系を書いた学者さんが恐らく京浜急行電鉄に❝配慮❞して開発の妨げに成るのを避けて城域として指定した極狭い範囲だけを馬鹿正直に見たからでしょう。実際は周辺の山を歩き廻ると城として十分な構造体がそこかしこに残っているんですよ~。

さて、今回はクリスマスにちなんでマリア観音様と眞福寺さんと周辺の歴史を紹介して見ました。
きっと皆さんの御近所にも深い歴史や意外な偉人と繋がりの在る神社仏閣や城址の山や公園があるかも知れません。
ですから皆さんも歴史散歩してみませんか?凄い歴史偉人と地元の繋がりをしれば、地元愛も深まりますよ~♪

では!又次の解説記事で!
・・・でも次は神社仏閣一覧を刷新するのに注力します。ですから御正月ですかね~、新しい記事を書くとしたら。

そんな訳で皆さん、本年中も御高覧ありがとうございました。
来る年が皆さんにとって小生にとっても発展の年と成り、健康を高める年と成り、自らを成長させる年と成ります様に♪
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皆さんは横浜市旭区役所が歴史的に凄まじく重要な場所に建てられている事を御存知でしょうか?
旭区役所周辺畠山重忠公史跡 久良岐のよし
現代の地図を見ても何でここで畠山重忠公が討死する事に成ったかは、多分、旧相模国住吉郡と愛甲郡の住人の方は解るかも知れません。
小生は現地を訪れた時に地図を見ていて「アっ!」と直ぐに解りました。
畠山重忠公を射殺し討ち取った鎌倉時代の名将の領地と附近を通る街道の名前がリンクしたからです。
先ずは事変の遠因と二俣川合戦の発生経緯の推測を説明します・・・
鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝公には政権内に頼りにする武将と目の上のたん瘤(こぶ)の様な親族がいました。
菅谷館周辺 久良岐のよし
頼りにした武将の一人が畠山重忠公で、坂東一の武士(もののふ)と異名で呼ばれた程の統率力と武勇を誇り理知的な武将でした。本拠地は埼玉県比企郡の菅谷館です。
今でも八王子街道の先には菅谷館に続く八王子ー比企郡を結ぶ鉄道の八高線が運行していますが、彼が鎌倉に出勤する際は必ず八王子を通過する八王子街道を経由して町田市方面から鎌倉街道中道か、更に八王子街道を上り厚木街道~鎌倉街道下道に経由する区役所裏の二俣川の鎧の渡しを通過する事に成る訳です。
どちらかを通りますので厚木街道~鎌倉街道下道を目指して来て合戦に成ったんですね。


そして頼朝公に特に頼りにされた武将が他に3人いて、その内2人が三浦半島出身の鎌倉御家人でした。
1人が三浦義澄公で三浦半島を根拠地にする三浦党の大将で三浦本家の代々の根拠地だった衣笠城を相続した武将です。
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衣笠城址&三浦家学問所の大善寺
三浦党の大将は三浦義澄公ですが、実際に嫡流に当たるのは和田義盛公でした。
その和田義盛公が源頼朝公に頼りにされたもう1人の武将で、幕府で初代侍所別当と成り三浦初音和田の和田城址を根拠地にして三浦本家の衣笠城は相続せず旧鎌倉郡や久良岐郡や高座郡や房総半島に多くの領地を持って最初の領地の和田を苗字にし別家を打ち立てていました。
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和田城址空堀跡前石碑
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和田城址入口の和田義盛の碑と神社
更にもう1人は鎌倉郡梶原~村岡が根拠地だった梶原景時公です。
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村岡城址公園
祖先の平良文公や鎌倉景正公が本拠地とした村岡城址を相続していた武将ですが、現在、村岡城址は城址公園の名は残りながら藤沢市が保護を怠り城址としての遺構は地形以外に皆無に成ってしまいました。
さて、実はこの和田義盛公と三浦義澄公の三浦一族は畠山重忠公とも親族でありながら和田家・三浦家にとって旧惣領であり和田義盛公の祖父で三浦義澄公の父に当たる三浦義明公の籠城する衣笠城を攻め殺した敵(かたき)に当たるのが畠山重忠公でした。
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衣笠城址本丸跡の御霊神社前の記念碑
畠山重忠公は当時は平清盛の支配下で関東の平家軍の大将と成っていたのですが、源頼朝公が現在の神奈川県湯河原町で旗揚げし石橋山の合戦を起こすと、北関東の諸将を率いて源氏勢力を掃討する命令を受けて少なくても数千、多くて2万と言われている大軍を引きいて母方の祖父に当たる三浦義明公の籠城する衣笠城を攻めて落城させ、三浦義明公は息子の三浦義澄公や孫の和田義盛公を房総半島に逃がし自らは囮(おとり)と成って最後は自害しました。
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義明山 満昌寺
その三浦義明公は大恩人として源頼朝公によって三浦義明公の為に建てられた衣笠の満昌寺に首が埋葬され供養されました。
つまり、三浦一族にとって畠山重忠公は同僚でありながら憎らしい前当主三浦義明公を殺した仇(かたき)であり、そして源頼朝公亡き後の幕府内での政敵でした。
源頼朝公は生前、跡継ぎの源頼家公の事を信頼する畠山重忠公に託し、更に畠山重忠公と近い場所に領地を持つ比企能員(ひきよしかず)公の息女若狭局(わかさのつぼね)は源頼家公の妻と成っていました。
つまり源頼朝公の勢力が脆弱だった頃から支えた三浦家や頼朝公の親族である北条家からして見れば、後から源氏軍団に参加して来た秩父方面の武士達の政治力が高まる事は、私怨が在るだけでなく初期功臣達の政治権力を脅かす危険な存在に成っていた訳です。
因(ちな)みに比企能員公の娘は畠山重忠公を射殺する事に成る愛甲季隆公と並び鎌倉御家人の中で屈指の武勇を誇る糟屋有季公に嫁いでいました。
その糟屋有季公の本拠地は現在の神奈川県伊勢原市一帯で、延喜式内社高部屋神社の在る丘陵を城砦化した❝千鳥ヶ城❞現在の丸山城址でした。
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高部屋神社(旧社名:高部屋八幡宮)&丸山城址公園
高部屋神社は醍醐天皇が平安時代に制定した延喜式と言う政令で当時の人から見ても古い歴史の在る由緒正しい保護するべき神社のリスト❝延喜式神名帳❞に記された神社の一つで元宮は大山山系渋田山の山中に在りました。糟屋有季公が現在の高部屋神社の丘陵を城砦化した際に鎮護の神様として渋田山かから現在地に移転して今に至りますが、2016年、社殿が国定文化財となった神社です。
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近年、国道246号線の開削で道を隔ててしまいましたが、背後の丸山城址公園には糟屋有季公の時代~室町時代までの城址としての遺構が発掘保存されて誰でも見る事が出来ます。
そこから車で30分程の距離に愛甲季隆公所縁(ゆかり)の場所も現存しています。
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閑香大明神小野神社
それが小野神社で、愛甲季隆公の領地は今の厚木市の小田急線の愛甲石田駅一帯を中心とした愛甲郡一帯で、延喜式内社でもある愛甲郡の閑香大明神と呼ばれ修験道の聖地でもあった、今の厚木市の小野神社には愛甲季隆公や隣接する毛利荘(もうりのしょう)の領主だった大江広元公が信仰し支援していた歴史が現代に伝わっています。
小野神社~毛利台周辺 久良岐のよし 
余談ですが、この毛利荘を相続した大江広元公の四男の毛利季光公が、戦国大名の毛利元就公の御先祖様です。現在では毛利の地名が残る範囲は御覧の通り狭く成っていますが、昔は毛利荘と言いもっと広大な行政区域を指しました。
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今も毛利台と名を変え名残は地名に残されており、尚且つ小野神社宮司家は“毛利サン”だったりします。
さて・・・
北条義時公は幕臣である愛甲季隆公や糟屋有季公を含めた武士団に嘘の情報を流します・・・
「畠山重忠が謀反した!至急迎撃せよ!」
・・・と、しかしこれは全くの嘘で畠山重忠公は冤罪だったと後の三代将軍源実朝公も認識し明言しています。そして北条義時公は逆に畠山重忠公にはこう連絡します・・・
「幕府で事件が起きた、手勢を率いて急行せよ!」
・・・と。この連絡を受けた畠山重忠公は謀略と警戒していたかも知れませんが手勢の内133騎の配下武士を率いて鎌倉に向け先行して出発します。騎馬武者だけで急行したのでしょう。
・・・しかし、此の時既に事件は進行していました。
畠山重忠公の御子息、畠山重保(しげやす)公が由比ヶ浜に在(あ)った邸宅を北条家の手勢に襲撃され、畠山重保公は朝比奈峠山中~北に逃げると見せかけて横浜市金沢区側へ迂回し、間道の白山道を抜け金沢区釜利谷で自害します。
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畠山六郎重保公廟所
実はこの重保公の御廟所、新編武蔵風土記稿では疑義をかけられていますが、小生は事件の経緯からも地形からも、重保公の御廟所はこの場所で正しいだろうと思っています。
恐らく北条家と共謀したであろう三浦家等率いる幕府軍は当初は町田方面から真っすぐ八王子方面に続く一方の鎌倉街道で大軍で待ち構えていた筈です。
しかし、其方に手が回っている事を畠山重保公の配下で生き残った武将が命懸けで何とか畠山重忠公に伝えていたとすれば、やはりこの朝比奈~円海山越え~白山道~久良岐郡六浦~氷取沢~矢部野(洋光台)~鎌倉郡野庭~永谷~鎌倉街道下道~鶴ヶ峰~二俣川~鎧の渡し~八王子街道~武蔵国比企郡菅谷館へと至る逃げ道で情報を伝える以外に抜け道は無い訳です。更にこのルートは一度西に回り鎌倉街道中道に行くと見せかけ鎌倉街道下道に行けるので敵の追撃を混乱させる時間稼ぎに最適なルートに成っています。
しかも、この白山道旧道は狭隘な山道と谷間の道だったので、畠山重保公が北条の手勢を食い止め僅かな時間でも追っ手を足止めして急報を畠山重忠公に伝えるにはうってつけの場所だった訳です。
余談ですが白山道の名の由来は金沢区金沢文庫~円海山釜利谷経由~円海山栄区八軒谷戸側に抜け~朝比奈峠の切通しに至る間道で、その由来は明治時代の廃仏毀釈神仏分離令の影響で廃社に成った白山権現が山道を抜けた先に在った事が街道名の由来だと推測しています。
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白山権現旧蹟&神奈川の橋100選の一つ❝昇龍橋❞
廃社白山権現は今では神社の基壇が在るだけで社殿は無くなり神様は近くの思金神社に移りましたが・・・
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旧白山権現の目の前の参道にかかる昇龍橋は神奈川県内最古の石橋として“神奈川の橋100選”の一つに選定され、昔の名残を留めています。
さて、一方で幕府軍ですが、重保公の使者が菅谷館に急報を伝えたり重忠公が鎌倉に駆け付ける際は釜利谷の鎌倉街道下道経由~朝比奈峠の切通し以外もう一つの経路が有り、町田市方面から境川沿い旧鎌倉郡に当たる鎌倉街道中道~大和市~藤沢市~を通過し、そこから巨袋坂切通、化粧坂切通し、極楽寺坂切通しの何(いず)れかを通過する進路が有りました。幕府軍集合場所だったであろう鎌倉の西方に急行中の愛甲季隆公や糟屋有季公が、幕命で畠山重忠公の鎌倉の進路が鎌倉街道中道を通過しなかった場合は鎌倉街道下道通過を予測して迎撃する場所を想定し直すでしょう。鎌倉の北条₋三浦の率いる幕府軍本隊の大軍到着より早く畠山重忠を迎撃するのに最適で厚木街道一本で愛甲勢と糟屋勢は渡河地点の二俣川鎧の渡しに向かう事が出来る訳です。
八王子街道から南下して来て多摩方面から川崎街道~経由で東海道に来る、若しくは八王子街道から厚木街道の接続する旭区役所付近を通過する鎌倉街道下道を通ると予測でしょうから、当然ながら二俣川を挟んで鶴ヶ峰の対岸を通る八王子街道と鎌倉街道下道が合流して渡河地点と成る場所へ向かう訳です。
この時、畠山重忠公を討ち取る為に謀略を仕掛けた北条義時公は、畠山重忠公を目の仇にしている三浦義澄公の跡継ぎである三浦義村の娘と、北条義時公の跡継ぎである息子の北条泰時公が夫婦と成り縁戚で結ばれており❝反秩父勢力派❞を形成していました。
この北条義時公率いる幕府の大軍は畠山重忠公がどちらを通過するか哨戒させながら軍勢を向かわせる先を思案していたと思いますが、町田方面の鎌倉街道中道を通過せず畠山重忠公は迂回路である下道(奥州街道)経由で来る事を捕捉したのでしょう。そこから万単位の大軍を渡河地点で迎撃し易い旭区の二俣川~鶴ヶ峰に進軍させたのだと推測出来ます。
畠山重忠公古戦場周辺二俣川旧流推定 久良岐のよし
旭区役所の周辺、現在は河川改修され本川が左右に直線的に成っていますが旧流が蛇行した住宅道路と成って残っているのが衛星写真だと解り易いかと思います。
そして二俣川と下川の合流地点、ここが鎧の渡しと成る訳です。
この更に西方数百m、鶴ヶ峰本町公園周辺には❝矢畑❞の地名が残っていますが、ここは北条家の軍勢が放った弓矢が地面に突き刺さり矢の畑の様な凄まじい光景に成ったからと地名由来が有るそうです。
つまり、北条ー三浦連合の偽報の策略に嵌(はま)った畠山重忠公は配下を本拠の菅谷に向かわせ軍勢の手配を準備させながら、一方で町田より手前で畠山重保公からの急報で事実を知らされ鎌倉街道中道は敵勢が満ちている事を察知して迂回、しかしそれを更に察知した北条軍が鎌倉から中原街道や厚木街道で急行し易い場所に所領がある愛甲季隆公や糟屋有季公や住吉郡、愛甲郡、高座郡を領地とする武将達の軍勢を二俣川の鎧の渡しへ向かわせたと推測出来ます。
この中世を含めた日本の古道や街道について❝国土交通省 関東地方整備局❞サンは昔から積極的に子供にも判る歴史解説のホームページを開いているので、御子さんがいらっしゃるお父さんお母さんは子供と一緒に拝見すれば良く道の歴史が理解できて良い参考に成るかと思います。
国土交通省関東地方整備局 関東の道路ホームページ
リンク→国交省関東地方整備局制作❝関東の道路❞PDF資料。
恐らく、地名の通り八王子から来た畠山重忠公と幕府軍が川を挟んで会敵して弓合戦と成ったのは二俣川の矢畑だったのでしょう。そこから畠山重忠公含めた畠山勢134人の手勢は数を減らしながら敵が川を渡って来る場所に成る旭区役所裏の二俣川と下川の旧流合流地点に在った❝鎧の渡し❞を敵勢に橋頭堡として確保されない為に応戦しながら戦略的に東に移動して行ったのでしょう。
そして川を渡らせない様に強弓でも名の知られた重忠公は弓で敵を射殺しながら、持ち堪えていたものの、厚木街道を急行して来た愛甲郡・住吉郡の軍勢の中の愛甲勢や糟屋勢と弓合戦に成ったのでしょう。
三人にはこんなやりとりが有ったかも知れません・・・
重忠公
「やぁやぁ、其処(そこ)に見ゆるは強弓の御二人、愛甲殿と比企殿が婿殿の糟屋殿ではござらぬか!此(これ)は如何(いか)なる事哉!」
糟屋有季公
「逆賊重忠、申す事等無し、尋常に勝負!」
重忠公
「吾にニ心無し!鎌倉殿より頼家公の後事を託されているこの身、神仏の名にかけて潔白である!先ずは待たれよ!」
愛甲季隆公
「是非に及ばぁ~ず!勝負!」
・・・川を挟んでの戦い、決戦は太刀打ちによるものでは無く弓合戦に以外には有りません。
この状況、多勢相手に寡兵でも畠山勢が粘れたのは畠山勢が関東最強の軍勢だったからでしょう、しかし愛甲季隆公は那須与一宗高と並び源頼朝公の遺臣中で三本指に入る腕を誇った弓の名手です。もう、一騎打ちに成ってしまうと幾ら並みの武将と比べて弓の名手として名の知られた畠山重忠公でも、最高のスナイパー愛甲季隆公を相手にしては勝機は無い訳です。
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この三合橋の辺りが❝鎧の渡し❞、つまり当時の渡河地点。川の合流地点なので合理的に通行が出来る。
八王子街道から南に登って来て応戦する畠山重忠公が川を挟んで北側、厚木街道を東に下って来た愛甲季隆公や糟屋有季公が南側、恐らく当時の和弓の集団戦術での放った矢の到達距離は120m、動く敵を名手は60m以上の距離で射殺出来たそうなので御互いに川から30m程度離れた距離、つまり完全に相手の姿が見える程に近い距離で撃ち合いに成ったと推測出来ます。
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二俣川と下川の小生の推定旧流路を衛星写真に書き込んで見ました。
二間俣川鎧の渡し、推定旧流路 久良岐のよし
旭区役所の在る旧❝鎧の渡し❞は渡河地点でありながら川の合流地点で東西南を自然の水堀に囲まれている砦同様に一番防御に適した地形なのも判ります。ここで130人で敵勢を向かい打てば渡河しようとする敵勢を狙い撃ちに出来ますし、少数の軍勢で高い防御力を発揮出来る❝円陣❞の防御陣形に成っています。
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ですから重忠公の首塚が討死地だとすれば、重忠公が合理的な守備陣形を取っていた事が推測出来ます。そして集団戦術では無く、スナイパーとして動く標的を狙う場合、弓の有効射程距離は名手で60m~鎌倉幕府最高のスナイパーの那須与一宗高公でも80m前後と伝承しますが、二俣川旧流路の一番くびれた南側から畠山重忠公首塚が丁度60m弱の位置に在るんですよね。
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もしかしたら本当に小生の推測通り首塚は戦死場所で、本当は首塚じゃなくて胴塚だったのかも知れません。首は万騎原に居た本隊の大将北条義時公に届けられた筈ですからね~。
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近くの薬王寺には重忠公の最後に鎧の渡しまで生き残って戦った畠山勢の最期134人の武士が葬られた土饅頭が6つ在ります。
更に近くには重忠公の奥方が逃げきれず自害し駕籠ごと埋葬された籠塚が近年まで在りました。
浄水場の建設で供養碑を場所を移されてしまいちゃんと発掘されたかは不明です。
この奥方の息子、重保公が自分の母と父への危急を知らせる使者を逃がす為の戦いが金沢区釜利谷、そして重忠公が最後まで戦ったのが旭区役所裏手の首塚の場所、訃報を聞いて奥方が駆け付け自害したのが籠塚の場所と言う訳ですね。
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さて、歴史的な教養が無い無学な阿呆や古来の日本神道の価値観を知らない無文化な馬鹿は、鎌倉武士達が各々正義と信念と勇気の為に戦って亡くなった聖地にも等しい場所を、何の霊力を持つ様な高貴な神職の血筋でも無いのに「幽霊が見える」とか先人の英霊を侮辱するデマを流しますが・・・
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古来の日本神道の価値観や仏教の価値観では、鬼神の様な活躍をした武将や信念をとして戦った英雄は荒神や武神として昇華され、その墓所や御廟所や祀られる御社は❝スポーツや勝負の御利益を下さる神様仏様❞として大切にされてきたものなんです。
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だからね!こうやって実際に現場に行くと神々しい光の玉が優しく出迎える様に写真に写り込んだりしていて、何だか重忠公と季隆公が「良く来てくれたね~」「我々の事を忘れないでくれてありがとう~」って言ってくれてるみたいでしょ?

ですから皆さん、受験生や武道やスポーツに励む学生は、文武両道活躍された畠山重忠公の旭区役所一帯の首塚や古戦場で重忠公を御参り尊敬の念を伝えたり、県外の御廟所や重忠公を討ち取った愛甲季隆公や初代政所別当の大江広元公の信仰した厚木の小野神社で神様と二人の御霊に御挨拶したら文武両道の御利益が有るかも知れませんね~。

あそうそう、畠山重忠公と愛甲季隆公が戦った二俣川古戦場の旭区役所裏に美味しい御飯屋さんを見つけました!
❝旬菜旬魚ほまれ❞と言う居酒屋が昼は定食屋さんを営業してました。
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旬菜旬魚ほまれ

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丁度御腹が空いたので小生は鰺フライ定食と別注で❝ちょこっとカキフライ❞だったかなんか2つカキフライを食べました。
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どちらもスンゴイ熱々で美味しかったですよ!
そうだ。
畠山重忠公に興味がある人は是非、旭区役所の生涯学習課に行ってみて下さい。
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こんな子供にも解りやすい刷子を無料で貰えますよ!この冊子には簡単な畠山重忠公の伝記や関わった事件の位置関係、そして旭区役所周辺の戦場史跡のアクセス等が親切に掲載されていました。
あと鎌倉市の鎌倉歴史文化交流館に行けば畠山重忠公の鎧兜の精巧な復原品を見る事が出来ますよ!
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鎌倉歴史文化交流館
ここは鎌倉時代の遺物を展示解説しているのですが、館長の青木先生や学芸員の大沢先生や最近国立博物館に転職された高橋先生が「子供にも歴史を身近に感じて欲しい」とのコンセプトを御持ちでスタートしたので博物館には珍しく展示物の写真撮影可能な上に、一部展示は直接触る事が出来る瓦や焼物の出土品も有ります。

旭区に御住まいの幼稚園~小学校の小さな御子様がいるお母さんお父さん、是非、鎌倉の紅葉の綺麗な華頂宮邸や鶴岡八幡宮白幡神社とか紅葉散策ついでに鎌倉歴史文化交流館で武士の文化に触れて、それから旭区役所で刷子を貰いお子さんと地元を散歩すれば、きっと親子で地元に関わった名将に敬意が沸き郷土愛も深まるかも知れませんよ~。

さて、きっと皆さんの御近所にも凄い歴史偉人の足跡を辿れる場所が有る筈です。
町中の御地蔵様にも石碑にも、すごい歴史が有り凄い偉人と現代を繋ぐタイムマシーンみたいな役割を果たしてくれるかも知れません。
ですから地元をちょこっとお散歩して見ませんか~?

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
・・・そう言えば、相模原の津久井城と内藤家の記事を書かないと(笑)。
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杉田商店街のメインストリートが昭和初期まで重要な街道だった事を皆さんは御存知でしょうか?
そんな重要な街道を繋ぐ杉田商店街のメインストリートの脇道、少し住宅街に入った場所に杉田商店街が開かれる以前の古道が今も残っているのを横浜市民のどれだけの人が御存知でしょうか?
少し脇道に入ると今も頼朝公が歩いた聖地巡礼の古道です。
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杉田商店街、実は歴史的に重要な場所に立地しているんです。
源頼朝公が深く信仰した重要な修験道系の神社、現在の伊勢原市大山国定公園の大山阿夫利神社と大山寺の聖地の大山山頂を繋ぐ古道て、頼朝公が平安時代末期に杉田に開かせた由緒有る神社の参道の旧街道の交差点が今でも100均ローソンから徒歩3分の杉田の中原地区に今も存在しています。
その神社は明治に成る迄(まで)修験道系の聖地として大切にされ大靈山泉蔵院桐谷寺と呼ばれていました。明治時代の神仏分離令で只の熊野神社と名前を変えてしまいましたが、実は江戸時代に成る迄は❝泉蔵院❞の院号や❝山崎泉蔵坊❞の御坊としての名で多くの古文書に記録されています。
そして遠く杉田商店街から離れた同じ修験道系の聖地であり神道でも仏教でも大切にされて来た縄文時代からの神聖な場所、伊勢原市大山国定公園の全域が聖地の大山阿夫利神社と大山寺と言う神社仏閣が存在しますが・・・
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実は神奈川県内の修験道の聖地として大切な大山阿夫利神社と大山寺の在る大山と杉田商店街は一本の道で繋がっているんです。
歴史を知らない人が他所から来て市役所の役人に成る事の多い横浜市は、杉田商店街の発展には無頓着だし❝杉田梅❞と言う日本で最高のブランド梅の梅林が広がった杉田梅林の伐採許可を出して旧来の文化と歴史の名残は今では余り感じられませんが、実は杉田商店街を歩くとそんな歴史を少しだけ今でも垣間(かいま)見る事が出来るんです。
・・・実はね、杉田商店街のメインストリートは以前、杉田間宮陣屋の解説記事でも説明しましたが聖天掘(せいてんぼり)と言う川に蓋(ふた)をした暗渠(あんきょ)の上に敷かれた道なんです。この大工事の末に整備され今では横浜市がおざなりにしている道が源頼朝公が大切にされた横浜の修験道の聖地の泉蔵院~伊勢原市の大山阿夫利神社を繋ぐ近代の新道で名を❝横浜・伊勢原線❞と言う地方主要道路だったんです。
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大山阿夫利社(延喜式内社)大山阿夫利神社に関しては以前紹介記事を書いているので御興味有る方は御覧下さい。
これクリックで記事読めます⤵
大山阿夫利神社と灯籠祭りの夜景と参道温泉街…伊勢原市。
この横浜伊勢原線と呼ばれ、磯子区部分を杉田街道と呼ばれた道の起点が杉田商店街の国道16号線側からの入口です。
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ここが起点と成り、伊勢原市の大山阿夫利神社へと続く最後の宿場町の高部屋神社前、伊勢原市上北ノ根まで続いていますが、この事を横浜市役所の人間でも知る人は少ないでしょう。
横浜伊勢原線終点 伊勢原市上北ノ根 久良岐のよし
大山詣りをする人は古代から多く、大山山頂からは縄文時代からの神事の遺跡が出土し、神社の中でも延喜式内社と呼ばれる最古級の格を確認出来る大山阿夫利神社と別当寺だった大山寺が在り、奈良時代にも行基大僧正が上粕谷神社等の修験道系の❝大山道❞の中継地点と成る場所に宗教施設を設置し、一帯には国府レベルの史跡と祭祀遺跡と古墳がゴロゴロ出土しています。
そして最盛期は室町時代~明治時代の600年間位の期間で、正に地方主要道路❝横浜・伊勢原線❞は重要な宗教的な聖地を結ぶ観光や商業の道路として開かれた事が解かります。
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杉田商店街から久良岐(くらき)郡の名残を地名に残す❝栗木❞方面に歩いて行くと、明治時代の大工事の名残に出会う事が出来ます。
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よく観光地にある雷神堂と言う御煎餅屋さんを通り抜け、インドカレーの御店や飲屋さんや郵便局より更に先に行きます・・・
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すると上の写真の通り浜中学校の下の道が大きな切通地形に成っているんです。
実はここは明治時代に造られた❝隧道(すいどう=トンネル)❞が存在した名残で❝杉田街道❞と昔は呼ばれ知らない人がいなかった道の一部なんです。
ここは明治時代初期までは道は無く崖地で、当時の重要な道はこの道より北側の山の上を超える❝桐ヶ谷(きりがやつ)道❞と浜中学校側の山を登る道しか有りませでした。近代に成ると物流や人の移動に❝馬車❞が運用される様に成ります。そして明治天皇の全国行幸(みゆき)が開始される準備として多くの明治の新道が建設されました。国道16号線根岸~磯子~金沢地区の埋め立てが完了し泥亀のバイパスが整備され完成するのは昭和40年代初頭の話しですからね。
❝トンネル❞だったのですが関東大震災の際に崩落してしまったので、山を改めて削り取り❝切通し❞に生まれ変わりました。この歴史からも判りますが、現在も崩落危険個所指定を受けている崖地が杉田~笹下~屛風ヶ浦~磯子には多く有り、それは地盤が砂岩と泥岩の脆い地層で出来ているからなんです。
逆に言うと戦国時代には御城を造るには加工し易い地形で丘の平坦部分は地盤も強固で地震に強いし標高も高いので津波の心配も無い訳ですね。
そんな丘だらけの地形の不便さを解消するべく作られた杉田街道のトンネルは明治天皇の為に造られた物ではないでしょうが、当時の久良岐郡の役所は現在では区が解かれてしまった港南区笹下の❝関❞と言う場所に郡役所が存在し、皇族の方々は杉田梅林を見学する為に笹下の石川楼と言う料亭に宿泊され杉田梅林迄来られたので、トンネルは皇族の為に造られたのかも知れません。
戦国時代~江戸時代中期迄杉田郷を治めた間宮林蔵の祖先の間宮家とその一族が杉田梅林を植林したのですが、分家の杉田間宮家の菩提寺である杉田の牛頭山妙法寺には明治に皇族の方々が梅林へ度々観梅にいらっしゃっていた記念碑が今も有ります。
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さて、そんな杉田街道の起点も昔は川で、江戸時代までは源頼朝公が歩いた住宅街の中の❝古道❞と成っている❝桐ヶ谷道❞が残っていますが、少し判り難い位置に在ります。
では古地図を見て見ましょう・・・
明治時代初期のlumiereM周辺地図 迅速測図 久良岐のよし
印を付けた場所が旧街道の入口の交差点です。
これは迅速測図と言う明治新政府が全国の地形測量をさせた地図ですが、この地図が制作された頃はまで江戸時代の地形のままの場所が多く、修験道の神仏混交の道場だけが❝神社化された名前❞で表記されています。
御覧の通り、杉田商店街はまだ❝聖天掘=聖天川❞で一本南にズレた道がメインストリートだった事が判ります。丁度、セブンイレブン杉田3丁目店の前の道ですね。そして黄色い★印が聖天堀を暗渠にして繋げた杉田街道と修験道の聖地だった泉蔵院=熊野神社の古来の参道と繋がる桐ヶ谷道の交差点でした。
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今も昔の道路の名前が解かる道路標識が立っています。でもここの行き方解り難いですよね?
もう一度古地図を見て見ましょう。
明治時代初期のlumiereM周辺地図 迅速測図 久良岐のよし
印の在る杉田街道と泉蔵院時代の参道と桐ヶ谷道の交差点に成る所に今現在は小さな商店の長屋が存在していて、御店の有る場所が平安時代~戦国時代~明治時代~現代を繋ぐ時代の交差点でもあるんですね。
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水色のマーク「指定した地点」と表示されている場所が2ヶ所有りますが、左上は映画の「恋は雨上りのように」のロケ地で、右下が迅速測図の印の交差点に当たる場所です。
この交差点は、新杉田側から杉田商店街に入り~浜中学校~栗木方面に向い歩き、100均ローソン横の脇道の次の住宅街に入る道路との丁字路です。
その余り大きくはない住宅街の道路を真っ直ぐ進みます。
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すると上の写真の中途半端な「石碑かな?」と思う何も書いていない変な石が角に在る交差点に行き当たります。杉田商店街側から入って来ると石碑?の左手に曲がる少し上り坂に入っていく交差点ですね。
その上り坂が昔の杉田街道の前身と成った桐ヶ谷道の続きで、ここから山を越えて笹下釜利谷道路=金澤道(かねさわみち)=六浦道(むつらみち)へと続いて鎌倉に行く主要街道と、笹下釜利谷道路を田中方面~笹下~関の下~吉原~舞岡~戸塚と抜ける旧鎌倉街道に連結するとても大切な道の❝追分(おいわけ)❞がこの変な石の場所だったんですね。
この道は杉田街道が整備されて重要性が無くなるまでは笹下釜利谷街道へ行く為に徒歩で通行する人が多かった事でしょう。ここを桐ヶ谷道を西に進まず、更に商店街側から直進して北に行くと源頼朝公が開いた聖地の熊野神社、旧名:大靈山泉蔵院桐谷寺が存在します。
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熊野神社(旧名:大靈山泉蔵院桐谷寺)元々は鎌倉市大船駅前の丘の山崎地区に存在した修験道大道場の御坊様が源頼朝公の命令で久良岐郡杉田郷中原村に、この杉田中原地区の熊野神社を開きました。後に新田義貞の鎌倉焼討ち等の戦火で山崎の泉蔵坊が荒廃したので本社機能を現在の中原の熊野神社に移転し、靈山泉蔵院桐谷寺と名を改めました。その後も各時代の統治者に大切にされ、江戸時代に代々徳川幕府の鷹匠頭を務め杉田を治めた杉田間宮家の殿様や本家で久良岐郡北部や佐渡金山や生野銀山を治めた笹下間宮家の殿様から大切にされていたいので古文書にも度々登場します。
間宮敦信公泉蔵院宛て書状。久良岐のよし
熊野先達泉勝檀那注文(米良文書)神3下ー六七一八
これは古文書を小生が書き起こした画像ですが、まぁ、こんなものが沢山残っています。
この文書からも判りますが、間宮家が大切にしただけでなく、熊野神社の大親分である那智大社やなんかの熊野三山と呼ばれた修験道の聖地の神社ととっても関係の深い格式の有る神社だったんですね。
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そして泉蔵院の熊野社は少し高い場所に在るので江戸時代に杉田梅林を見物する観光地としても有名だったそうで、現在でも社殿の東側の崖地からは杉田の街並みが一望出来ます。
泉蔵院についても以前、紹介記事を書いているので御興味の有る方は御覧下さい。
これクリックで記事読めます⤵
横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。

写真で正面に見える丘が妙法寺の境内地の裏山で、恐らく戦国時代には杉田間宮家が籠城する要害だったはずです。
まぁ、古文書にも登場し源頼朝公や間宮家が大切に守った修験道の聖地の一つ❝泉蔵院の旧参道❞と❝桐ヶ谷道❞そして日本レベルで大切な❝大山阿夫利神社❞を繋ぐその明治の❝杉田街道❞との❝聖なる交差点(笑)❞に立地するのが杉田商店街な訳です。
さて、小生、このブログ書く為に改めて浜中学校下の切通の写真撮りに行ったり、丁度腕が神経痛みたいに成ってたので久しぶりに町の銭湯にユックリつかりたくて熊野神社への参拝と浜中学校下の切通し写真撮影に合わせて杉田商店街の裏にある杉田湯に入りに来た訳です。
車なら円海山の麓の自宅から10分ちょい位なのでそう遠くないですしね~。
そして、この日は弟方の姪っ子がウチに来る日だったので御土産に杉田商店街の雷神堂で御煎餅を買って帰りました。
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雷神堂 杉田店
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小生の妹や弟妻君の義妹はどうも食べさせるものに煩(うるさ)くて、スナック菓子とか食べさせると良い顔しない。だけど御煎餅とかなら嫌な顔しないので、杉田の御土産にはいつも菓子一の❝うめさやか❞か雷神堂の御煎餅を買っている。
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菓子一
菓子一に行けば杉田間宮家の間宮信繁公が残して下さった梅林文化を今でも垣間見る事が出来るからね。
浜中学下の切通しの写真撮影をしたこの日、実は杉田商店街でずっと行きたくて訪問時間がいつも合わずに入りに行けなかった念願の杉田湯にやっと入れました!
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その場所は杉田商店街~泉蔵院熊野神社に行く旧参道を途中を少し曲がった場所に在る。
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杉田湯昭和30年代創業の昔ながらの銭湯、杉田湯さん。ずっとずっと、東漸寺さんや妙法寺さんや泉蔵院の御参りや雷神堂や菓子一に買物に来る度に地図で見て「行きたいな~」と思いながら、営業時間が午後15:30~21:00となかなか時間が合わずに入りに来る事が出来なかったんだな。
今回、杉田湯に初入浴!
入口はこんな感じ。
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う~ん良いね良いね~♪
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居酒屋の下駄箱みたいな下駄箱。昔は良く見たよね。
小生の実家の近くにも昔は銭湯が有ったのだけれど、今では全滅してしまった。スーパー銭湯も好きだけれど、昭和の風呂屋の情緒はやはり銭湯に行かないと味わえないよね。
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そして玄関入っていきなり女湯男湯に分かれる・・・
左を覗いてみたいとは思わないよ、うん、決して思わない。
覗くくらいならちゃんと彼女つくって存分に一緒に混浴して貰うから。見るだけで触れないで捕まるとか阿呆な痴漢の行動原理が理解不能。
・・・そして❝男湯❞の扉を開いて中に入って先ず最初にした事はトイレにいって💩うんちした(笑)。
この日はずっと港南台のホームセンターと杉田を小用で往復していてトイレ行ってなかった(笑)。
風呂場の写真も撮りたいけれど、流石に無理なので皆さんには御覧頂く事は出来ません(笑)。
一応、御風呂の情報としては昔ながらの銭湯なので❝石鹸❞とかアメニティーは一切合切持参するか、番台のオバちゃんから購入する必要が有ります。小生はハンドタオルとバスタオル持参してましたが石鹸とシャンプーが無いとは思わず準備不足でした。入浴料金は480円で木曜日定休だったかな?
浴場は昔ながらの木造の高い屋根に壁には富士山の絵、そしてスーパー銭湯と異なり地元の御客サンばかりなので騒がしくなくとてもノンビリとくつろげました。
番台のオバちゃんと話して杉田湯の歴史とか色々教えて貰って「又来るね~!」と小生が言うと、少し笑顔で「又宜しくね!」と言ってくれました。
妙法寺にもしょっちゅう殿様の御墓に御参りに来てるし泉蔵院にも御参りに来るし、雷神堂とか菓子一にも買物来るから必ず入りに行こうと思う。
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湯上りの至福の時、苺オレ。瓶のはもう無いんだね~。小生はフルーツ牛乳より苺オレ派。
そして帰宅して・・・
忘れてたんだけど、この日の夜に語学教室行かないと行けなくて、風呂でくつろぎ過ぎて横浜の学校についた時には30分遅刻してしまった。
杉田湯の番台のオバちゃん、又、御風呂入りに行ったら話し相手に成ってね~♪

さて、皆さん、まさか商店街が歴史の交差点だったなんて思わなかったでしょう?
きっと皆さんの家の近くにも思いがけず歴史偉人と繋がりのあるタイムマシーンみたいな神社や御寺や御城の跡の公園があるはずです。
・・・だから少しお出掛けして散歩してみませんか?

では!又、次の解説記事で御会いしましょう♪














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