歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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カテゴリ:寺社/仏閣/城址/有形文化財/伝承と伝統文化 > 旧街道/歴史遺跡/日本建築文化財

横浜市金沢区の八景島シーパラダイスや鉄腕ダッシュに度々登場する柴漁港の近くには金沢園と言う元料亭が存在します。この金沢園は昭和四年(1929年)に桜木町から移転して来た料亭で、その開業年は何と大正五年(1916年)に遡(さかのぼ)ります。
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その金沢園は昭和~平成を通じてずっと金沢区柴で営業を続け、大正時代に桜木町で建設され昭和四年に現在地に移築された建物は文化財にまで成りました。
そして平成27年、旅館喜多屋としてリニューアルオープンし、料亭時代の厨房を利用してオシャレなcafeとしてもランチタイムやディナータイムに営業を開始しました。
昔は料亭内から海が一望で来た景勝地で、その景勝は鎌倉時代に清朝(満州族=女真族の愛新覚羅家)によって滅ぼされた中国の明帝国から日本に亡命して来た東皐心越によって「金沢八景」と愛称で呼ばれた程の絶景が金沢区柴~乙舳~小泉(釜利谷周辺)~六浦~野島~内川橋~平潟湾の一帯にかけて江戸時代には大変に多くの観光客で賑わいました。
そんな訳で現在、喜多屋と成っても店の建物は文化財として価値が有り美しい造りで宿泊客を持てなし、cafeでの食事を楽しみに来る御客様には昔の薪を焚いて火を起こす窯で調理していた時代の煤(すす)が磨き込まれて黒光りする雰囲気有る旧厨房で食事を楽しむ事が出来る、とてもオシャレな店として復活しました。
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駐車場には昔の料亭時代の名残の池と石橋も有ります。
さて、客は先ず暖簾(のれん)をくぐり下の写真の玄関で靴を脱ぎます。
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靴を脱ぎ振り返ると料亭の頃のとても煌(きら)びやかな掛け軸や壁の欄間が御客様を出迎えてくれます。
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この店は予約無くてもランチを食べる事が出来るので、八景島で遊んだり稱名寺を散歩する際に御薦めです。
玄関から中に入り右手に進むと旧厨房が“cafeぼたん”として営業しています。
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何と目の前で料理をしている所を見ながら食事が出来ます。これは外国人の御客様に好評でしょうね。
日本人でも見ていて楽しいし、料理が好きな御子様なんかを連れて行けば良い影響を受けるんじゃないでしょうか?
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メニューはオシャレだけど価格はとてもリーズナブル、御子様ランチも有るので子連れのママさん達も安心して子連れ友達同士で来る事が出来ます。
まぁ…元料亭、今も旅館のレストランなので「ぎゃーぎゃー」と騒ぐ子等は連れて行くべきでは無いと思うし、逆にママさん達が日本人らしく子供を厳しく躾(しつ)ける良い機会にも成るかと思います。
小生は写真撮影に訪問したこの日は“国産地鶏の幽庵焼きオレンジ風味”の定食にしました。
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料理も和風に洋食のエッセンスを足していて横浜の開港以来の鎌倉武士文化と西洋文化のコラボを楽しむ様(よう)な献立が多いですね。
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この幽庵焼き、とても美味しかったです!
これにデザートのジンジャープリンが付いて1500円はとてもお得。
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食器も料亭金沢園から引き継いでいるそうで、とても美しい鎌倉彫の椀に汁物が入っていました。
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この写真を知り合いの博物館の女性職員達に見せたら「うわ~綺麗♪」と感心していました。
価格の話もしましたが、女性達が魅力を感じる御店としてどうやらコンセプトの確立に成功した様ですね。

さて、食事が終わり、館内を従業員の方に案内して頂く事が出来ました・・・
実は小生、この写真撮影の為の訪問に際し、1ヵ月程前に直接御挨拶に訪問し日を改めて館内の見学と写真撮影の申し込み、つまり素人取材の御相談にあがっていました。
・・・なので、今回の訪問で従業員の方に御話を通して頂き、食事後に旅館の客室としてリニューアルした元料亭客室部分で空室チェックイン前の部屋を見学させて頂く事が出来ました。
※見学したい人は訪問前に事前に客室の見学の可否を相談して下さい。小生の場合は事前に交渉しアポをとっています。通例だと思わないで下さいね~。
先ず案内されたのが1Fの客室に通じる廊下。
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ともても風情が有る。
下は金沢区野島の伊藤博文公金沢別邸。
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やはり明治に建てられた同じ金沢区の野島公園にある伊藤博文公の別邸に少し似ている印象を受けた。
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1Fには2人部屋の客室。元々料亭だったので書院造だ。
昔の日本人は男性平均身長も160cm位で体躯も小柄だったし、これで十分に広かったのだろう。
書斎といった印象を受ける。
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通路に戻り奥に進むと厠(かわや)すなわちトイレが有る。
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ここも大正モダンな和風建築がそのまま活用されている。勿論、必要な部分は現代の物に成っている。
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2Fに上る階段の奥にも客室が在る。
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うん、良い感じ。今度関西や台湾の友達が遊びに来たら横浜市内の味気ないホテルじゃなくて、ここの喜多屋か三浦の民宿やペンションか横須賀の米国軍人が宿泊するホテルに泊めてあげよう。
きっと喜多屋に泊めてたら皆、横浜にこんな場所が有るのかと喜んでくれるだろう。
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こちらは少し広めの部屋。3人部屋の様だ。
昔はこの部屋で4~6人位で宴会をやったのだろう。
料亭時代から宿泊も出来た様で、風呂も大正の素敵なタイル貼りの浴室だった。
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まぁ、本格的な旅館では無かったので、2つ有る浴室の内のコチラは大浴場ではない。
窓のガラスは大正時代の色ガラスだそうで、何だか教会のステンドグラスの様で日光を取り込んで素敵な淡い色に光っている。
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コチラも窓のガラスが美しい!
浴室はもう一つ有り、こちらは少し広い。家族4人でも同時に入れそうだ。
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色が暖かい。
大山阿夫利神社の参道に多く有る宿坊も大正時代や昭和初期の再建の場所が多いが浴室はやはりコンナ感じだ。富士山の溶岩で浴槽周辺を装飾されタイル張り。
浴室を出て階段を上る。
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階段の上からは昔は海が見える絶景だった大広間が存在する。
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とっても!立派な部屋。
昭和の映画スターの勝慎太郎さんが良く宴会をしていた京都の老舗すき焼き店の三嶋亭の大広間もこんな感じだった。一昨年三嶋亭で友人と食事をした際に店の御厚意で店内を見学させて頂けたのでたまたま知っている。
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部屋の周りも雰囲気が良い。
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現在では目の前にマンションが建ってしまい、更にアフォの横浜市が景勝地だった海を埋め立ててしまい眺望は失われたが横浜市内に在って豊かな緑が残っている御庭。
これも外国人の観光客には好まれるだろう。
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大広間の書院造りは大名屋敷に負けない程に立派だった。
さて、店の解説はここまでにして、少し周辺の地理の解説をしようと思う。
…と、その前に店の住所と連絡先を紹介して置こう。

この喜多屋の前身の金沢園が料亭として栄えていた頃周辺の風景は景勝地として政治家や財界や多くの文化人に愛され、昭和の初期まで、その景勝は大半が残っていた。
その景観は素晴らしく小生の顕彰する戦国時代の関東最強武将、北条綱成公の家老だった間宮康俊公の親族が代々江島神社奥津宮別当を務めたのだが間宮一族の治めた江の島を愛した与謝野晶子サンや、高浜虚子が歌会を開いたり滞在されたりしていたそうだ。
その当時の金沢区の風景はこんな感じだった…
金沢地形図 久良岐のよし
…戦後の昭和に他府県カッペ移民役人だらけの横浜市に破壊される前の"日本屈指の景勝地"金沢八景の地形。
京都の天橋立(あまのはしだて)に瀬戸内海の風景を足した様な絶景が広がっていました。

残念ながら横浜市は現在の林文子市長を含め日本文化や武士文化や歴史に興味の無い極左派やヤクザの親類と交流に深い人物が市長を務める事が多かったり、県外からの移転者が市の役人として多く採用された弊害で神社仏閣を含めた宗教的な自然の境内地の価値や、鎌倉時代の武士や江戸時代の庶民や外国人から愛された景勝地を、建設利権の為に多く埋立て或(ある)いは破壊してきました。
昔、浮世絵師の歌川広重が乙舳帰帆(おっともきはん)や称名晩鐘(しょうみょうばんしょう)と言う絵で描いた美しい風景が昭和初期まで存在したり、源頼朝公が伊豆(静岡県三島市)の三嶋大社から勧進した御分霊を祀って開かれた瀬戸神社の鎮守の森の山も横浜市役所の役人達によって破壊されてしまいました。
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この風景は日本の名だたる歴史偉人達にも愛され、例えば近くの洲崎地域の龍華寺は前身寺院が六浦地区に在った頃、源頼朝公と文覚上人によってその景勝地を望む丘に御寺が開かれました。
新田義貞の鎌倉乱入等で新田軍等の放火と略奪の戦災に遭い廃寺と成った跡、横浜市と縁の深い菅原道真公の御子孫と関東最強の名軍師太田道灌公によって現在の寺町(洲崎)地区に龍華寺は復興されました。すると、その金沢八景の美しさは日本レベルで有名に成り北条早雲公、徳川家康公等が龍華寺に滞在され金沢八景の景色を楽しまれたそうです。
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鎌倉時代にも喜多屋の近くの金沢山稱名寺が鎌倉幕府の重鎮で執権も輩出した金沢北条家の邸宅に成り、後に邸宅は稱名寺として寺院化され現在に至るのですが、その景色も美しく江戸の市民が観光に訪れる場所の一つでした。そして、それ等の八ヵ所の景勝地として有名に成っていた風景を海の上から見た景色を歌川広重が絵にして“金沢八景”の地名は江戸から昭和初期まで南関東最高の景勝地として多くの人々の知る所と成っていたのですが…
戦後の横浜市役所に他府県出身の役人や、極左翼閥や非保守多国籍ヤクザと結託した役人や左派市長が横浜市を統治する度に不思議と海は埋め立てられ、金沢八景の景観は全滅しました。
そして海の公演も埋め立てられ、金沢園も商売が厳しくなった訳です。
この金沢区の埋め立てによる大景観破壊の被害、海の公園と八景島の建設による景観の悪化で客足も遠のいて、平成25年頃には経営がかなり難しく成っていました。そこを現在の喜多屋の運営会社さんが文化財と歴史を活かしてオシャレな店に復活させるプロフェッショナルな粋な企業だったのですが、その経営によって現在見事に復活した訳です。
同じ様な努力をされている西区の坂本龍馬の奥さんお龍さんが働いていた料亭田中家さんや、南区弘明寺の同じく料亭旅館で建築文化財に成るべき価値の有る中里温泉さんと3すくみで頑張って行って欲しいと思います。

本当に、この現在の喜多屋の運営者さんの努力は素晴らしいと思います。
そして料理も美味しい!
是非、この存在を皆さんに知ってもらいたく、お盆休み最後の週末に八景島や海の公園に訪れる人がいたら是非!ここでランチやディナーを召し上がれば良い思い出に成るので推薦させて頂きます。

今回金沢八景の解説で紹介した場所は過去に記事に書いていますので、ブログの「タグ」の一覧から興味の有るタグを選んでクリックして頂ければ関係の記事が出ると思います。

では、今回は喜多屋の解説でしたが、次回は金沢八景の地名の初出典と成った場所、能見堂と青ヶ台城の解説をしたいと思います!
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

2017年05月、鎌倉市に新しい歴史博物館がオープンした。
その名も鎌倉市歴史文化交流館。
どちらかと言うと地元民向けなのだが、歴史が好きなら観光客にもお勧めしたい場所が増えた。
実は、その歴史文化交流館の招待入場券を頂いていたので、昨日土曜日に訪問して来た次第だ。

来月に妹の方の甥っ子姪っ子を連れてキャンプ場に行く予定が有り、午前中は予約をしてから少しウダウダしていた。余り寝てないから二度寝した。
昼の12時頃、お腹も減ったので鎌倉の小町通りに以前から気に成っている葉山牛を出すステーキハウスが有り、ついでに、そこにも行こうかと思い出発の準備を始めた。
結局出発したのが1時過ぎだったので栄区方面から朝比奈峠へ入り鎌倉へ車を走らせた所、シッカリ週末の鎌倉の渋滞に嵌(はま)ってしまい結局近所なのに、駐車場の有る❝御成り町❞着いたのは2時近くだった。
ゴジラ御成町周辺 公式借り物 久良岐のよし
今日車を停めた駐車場が最近、丁度ゴジラに踏み潰された辺りだな(笑)。
御成り町の辺りは鎌倉時代は大名達の屋敷が立ち並び、問注所と呼ばれる裁判所が最初に設置された辺りだったりもした。
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近代に成ると多くの文豪が住み、これらの人を昔の❝鎌倉武士❞今の❝鎌倉文士❞と土地の人は言ったものだ。
まぁ、そんな訳で文化的な町で関西に例えるなら京都の哲学の道の様な雰囲気の有る地域だろうか?
銀閣寺周辺に似ている雰囲気かも知れないが、近現代の文化人が多く住んだので大正や昭和初期の近代西洋建築の私邸が多く残り、簡単に言ってしまうと❝上品な文化人と御金持ちの町❞と言った所だろうか?
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町を歩けば立派な邸宅が文化財指定されている看板をちょくちょく目にする。
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まぁ、一般の方の御宅も多いので公開されていない場合が多いが・・・
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古我邸の様に立派なフレンチレストランとして転用されている様に、飲食店として活用されている場所も少なくない。ここら辺は横浜の山手地区にも似た雰囲気なのだが、横浜の場合はガチの外国人居留地で鎌倉は元大名や財閥や文化人の大邸宅なので横浜の方とは違って何だかドイツの貴族の屋敷の様な雰囲気の規模と場所が多い。
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敷居が高い様に見えてランチは3800円と庶民の小生でも少し高いランチとして気張れば入れる。
本当はここで昼食でも良かったのだが・・・
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・・・生憎(あいにく)門前に「ウェディングパーティーで本日貸し切り」と看板が出ている。
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鎌倉で仙❝道❞だったら七里ヶ浜の鎌倉高校が湘北高校のモデルなのでスラムダンクっぽいが、この日の新郎は仙❝頭❞さんで一文字違い(笑)。
仙頭さん、宇山さん、オメデトウ♪
古我邸でランチするのは又の楽しみにして、当初の予定通り博物館見学後に小町通で葉山牛を食べる事にした。
古我邸を過ぎると緑も多くなって来た。
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直ぐに鎌倉市歴史文化交流館に着(つ)いた。素敵な石畳が続く。
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この素晴らしい自然に囲まれたデッカイ建物、実は最近まで某出版社社長の個人宅だったと言うから驚きだ。
この場所は古くは無量寿院もしくは無量寺と呼ばれた鎌倉時代の大寺院の跡だった。詳しい事は解っていないが、近くには鎌倉幕府の重鎮だった安達家の邸宅も在ったので安達家と関係の深い御寺だったのかも知れない。
その後、廃寺と成り、近代に三菱財閥の岩崎家が別邸を建てた。その為に敷地内の寺院としての遺構も良く残っていたので後で紹介しようと思う。
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中世の昔、御寺だった地形らしく谷戸(やと)に成っている。
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この博物館、案内状を頂いた際にパンフレットを読んでとても期待をする一言が書かれていた・・・
❝館内の展示物は全てフラッシュをたかなければ写真撮影自由❞
・・・この文言は普通の博物館では中々目にしない。
東京上野の国立博物館でも撮影は部分許可、ケチ臭い無文化な神奈川県と横浜市教育委員会の関わる横浜市歴史博物館や神奈川県立歴史博物館は撮影不許可。
流石、鎌倉の方々は子供を歴史を好きにさせる❝仕掛け❞を心得てらっしゃると思う。
中に入ると受付の女性は皆さんとても❝言葉遣い❞❝立ち振る舞い❞❝基礎知識❞等の接客を叩き込まれておりとても立派だった。そして愛嬌も有る美人さんで英語対応も可能だった。
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エントランスには鎌倉を代表する工芸品の鎌倉彫が展示されていた。
鎌倉彫りの彫刻って習える教室が沢山有るので彫ってみたいのだけど時間が無くて通えない。
こんな立派な入物、購入したらいくらするんだろう?きっと万単位の金額なんだろうな。
展示品だから数十万~数百万円はするのかも知れない。

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ホールの雰囲気はとても武士文化の鎌倉らしいレイアウト。
京都の下級貴族の侍(さむらい)の格好とは違う、関東武士の装いの流鏑馬の写真。
余り知る人は多くは無いが鎌倉市の扇谷地区には流鏑馬の武田流弓馬道場が有ったりする。
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ま、今回の訪問地は源氏山を挟んで反対側なので、そちらの説明はしないでおく。
歴史文化交流館は展示スペースの入口にも、非常に興味深い物が有った。
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日本を代表する名刀、正宗。その現代の工房、正宗工芸の社長が鍛えた刀と説明が有った。
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そしてもう一つ・・・
こちらはレプリカなのだが日本の歴史に登場する鎌倉にも関係の有る名将が着用した甲冑の完全なコピー。
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畠山重忠公着用の鎧の完全なレプリカ。
重忠公は源頼朝公から信任厚く、2代目の将軍と成った源頼家公の事を託された名将だ。
頼朝公の挙兵時に京都に居た為(ため)に止む無く平清盛の軍の指揮官として討伐軍に参加させられ、身内の三浦家と対立、三浦家の本拠地で有った現在の横須賀市衣笠の衣笠城を攻めて身内の三浦義明公を攻め殺す悲哀に見舞われた武将だ。この悲劇が頼朝公へ帰参後も後を引いて北条⇔三浦連合の陰謀により頼朝公亡き後に逆賊扱いされ横浜市の二俣川で数十人の手勢で数万の敵軍に囲まれ討死した。
その後は源頼家公は北条家に暗殺され、北条家と血縁の深い源実朝公が三代将軍に擁立された。
様は、野心は無かったのに権力争いに巻き込まれた悲運の武将と言う訳だな。
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この鎧の本物は現在も武蔵御岳神社に保管されており、現代に伝わる。
よく源義経が着ている鎧のイメージは、この重忠公の鎧のイメージだろう。
ついでに言えば源義経は猫背で明石家さんまみたいな顔だったと推測されているブ男だ。まぁ、義経は内面も私利私欲の塊だったんだがな。
他人の手柄を自分の手柄の様に報告する最低な今で言ったらモンスターパワハラ上司だったのは歴史が本当に好きな人には有名な話。
実際に俗説に❝鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし❞と呼ばれた迂回奇襲戦を立案したのは名軍師で三浦半島の佐原出身の三浦一族の佐原義連(よしつら)公だったし、その作戦を実行実現したのは摂津源氏で関東では横浜市都筑区センター南の茅ヶ崎城に住んでいた多田行綱だった。ましてや木曽義仲討伐戦で活躍したのも近江源氏の佐々木高綱公と我が郷里鎌倉郡の梶原景季(かげすえ)公だった訳だ。
まぁ、そんな事を畠山重忠公の鎧の色を見て思い出した。
最初の展示室に入ると鎌倉の歴史が解る年表が有る。
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小生が体得した歴史観と同じく、やはり鎌倉も弥生時代に海面下だった現在の平地部分が隆起している事が書かれている。
だから言う。日本武尊の東征は地殻変動に由って隆起した海底が湿地と成り、耕作地に向いたために現在の神奈川県中央部の新たな開拓利権で係争が起きて、そして佐賀牟国と磯長国の再統合と分離によって相模国と武蔵国の再編が行う為の大和朝廷に由る軍事介入だったと言う事を。
そして、それが証拠に現在恐らく❝武蔵国造の乱❞との名だけで伝わるこの係争を纏めたのが日本武尊で、実際は学者が言うよりも数百年前の話だろう。実際、武蔵国造の乱で朝廷に接収された久良岐郡や橘樹郡や多摩郡は非武装地帯の様に配置され、更には軍馬の生産地としても有名だった場所と港の有る土地だ。
まぁ、考古学を危険視する宮司もいれば、神道をコケにする左派歴史学者もいるが、小生に言わせれば考古学と日本神話は必ずリンクしているんだな。
つまり日本の神様ってのは、自然の聖地が神格化されて大切にされたパターンの他に、弥生時代~古墳時代の天皇家や豪族王後の貴族の弥生時代の祖先の事ってのが良く解る訳だ。
宮司さんの中には弥生時代を原始人の時代位の認識のトンデモ人間もいるが、日本の弥生時代末期は結構農耕も栄えた上に金属鋳造技術も獲得していたし、例えればギリシャのポリスみたいな連合体がいくつも有って原子国家が既に成立していたんだな。
まぁ、そんな事も年表見ながら考えていた。
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壁面には、こういった解説パネルに合わせて下に実物も展示されていた。
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こんな感じ。
中でも小生の興味を引いたのは、下の文書(もんじょ)。
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小生が毎日御参りする足利持氏公の文書。
戦国時代の幕開けとなる永享の乱を戦った鎌倉の将軍、くじ引きで室町幕府の征夷大将軍に成った比叡山の僧侶出身の残忍王とも言える足利義教と対立して滅ぼされた関東の将軍様だな。
この御子孫が、横浜の殿様の間宮家や吉良家が御仕えしていた足利成氏公な訳だ。
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まぁ、日本の歴史の中で国家の宰相に成ってまで同氏族同士で殺し合ったのは、後にも先にも、この足利家と藤原一族くらいだ。まぁ、足利尊氏公以後の足利家はハッキリ言って血縁的には半分以上の遺伝子が藤原遺伝子なんだけどね。
藤原が治めると日本は治まらないんです。
桓武天皇の御子孫の平氏か、宇多天皇や清和天皇の御子孫の源氏が統治しないと日本駄目なんだな史実として。
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まぁ、戦国時代に伊勢平氏の子孫の北条家が統治した土地はやはり善政が敷かれていたし。
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小生が顕彰活動をする玉縄北条家の北条綱成公の居城、鎌倉市大船駅近くの玉縄上司の縄張り図も玉縄城址まちづくり会議の荒井会長達が作成した物が展示されていた。
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あと建築利権と結びついた横浜市長と市の役人とは違い、鎌倉市は歴史風致を乱した過去の開発業者も曝し上げている(笑)。
本来、文化保護の為に教育委員会は斯(か)く在るべきだ。この施設の館長は良く解っている。
ここに来ると林文子横浜市長や横浜市役所の役人による城址破壊の許可と不保護、神社仏閣の関連する風致地区の破壊と商業開発が如何に文化的にレベルが低いかが良く解る。
だから横浜市は全国でもワーストの文化財保護法の設置の遅さだったんだろうな。
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ここは合戦で武士が着用していたと思われる武具の展示も有る。
恐らくコレを着用していた人物は死んだんだろうな。
これが和田合戦か宝治合戦か鎌倉幕府滅亡の時かは解らない。或いは安達家の滅亡の時かも知れないし。
まぁ、こう言った発掘されたまま修復せずクリーニングを施した展示物は生々しく血の匂いが伝わって来そうで現在の平和の有難みも解って良いと思う。本当に見せ方が上手い。
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この鎧は着用していない脱がれた状態で埋蔵された様だ。
形式から見て鎌倉時代の物だろう。
他にも色々あったので写真を張り付けて見る。
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まぁ、他にも沢山有り、適度な量を解り易い説明で展示されていて、とても頭に入り易い。
よく考えられた構成に成っていると思う。
中でも特に面白かったのがコレ・・・
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立体地形図にプロジェクションマッピングを利用して、各時代の様々な情報を地形図上に再現する。
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これは基礎知識も無い人でも本当に解り易いと思う。
ただ、言葉は大人向けなので対象年齢は中学生以上と言った所、馬鹿は大学生なら何言ってるか解らないだろう(笑)。
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他にも、多分、武士か商人のヘソクリみたいな4万枚の宋銭なんてのも有った(笑)。
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まぁ、本当に良い展示の仕方だよ。感心するばかり。レイアウトも綺麗。
これは若い女性の学芸員さんだったり、職員さん達が鎌倉の洗練された感覚を持ってるだからだろうね。センスが良い。
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近代まで全時代を網羅した博物館なので近代文学の事も紹介されている。
小生は横浜の有島武郎と、妹が大学時代を過ごした松山市を舞台にした坊ちゃんの夏目漱石の小説は高校生の頃にいくつか購入して読んだ。担任の先生に「オマエ、そんな趣味あるのか?」と驚かれたが嵌ったのは一時だけだった(笑)。
その後は孫氏の兵法や史記や心理学の本を何故か読み漁り、後は現代で言う所のラノベと言うジャンルの小説を読んでいたかな。
部活では格闘技をやっていたが、何をやっていたかは敢えて言わない(笑)。
さて、ここは博物館の建物自体も現代建築として価値の有る場所な訳だが・・・
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建物の中から御寺時代の名残も見える。気持ちいの良い谷戸と草原の風景。
そして面白いのが神社風の建物も有った。
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茶室か何かに使ったのかな?パっと見は神社建築の幣殿部分みたいな感じ。
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別館が有り、エントランスから庭に出て移動する必要が有る。
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少し散歩してみた。池が有る。
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鎌倉の寺院に良く見られるのだが、鎌倉市街は平地で井戸を掘ると昔海だった影響で塩分濃度が高く引用に適さなかったそうだ。そこで埋葬用の矢倉とは別に岩窟を掘る、すると鎌倉石は水を良く通すので岩窟に水が溜まる。その水を一か所に集めて生活用水にしたり、池を満たして庭園を整備した様だ。
まぁ、下の写真みたいに低所に有るのは石塔が建てられ石塔内に納骨された埋葬地だったのだろう。
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鎌倉時代の骨壺は、戦国時代や江戸時代に茶器として転用する目的で多く盗掘されてしまった。
横須賀市衣笠の三浦義澄公の御廟も石塔の納骨部が叩きわ割れてしまって中身が無くなっていた。
罰当たりな盗掘者はきっと不幸な死に方をした事だろう。
それと同じだよ、横浜市と神奈川県の役人と政治家で古代からの聖地や先人の歴史史跡を調査も保護もせずに開発利権の為に破壊する奴は。
まぁ、その話は置いておいて・・・
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別館も展示物が並んでいる。
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こちらは流通や経済や人々の暮らしが解る展示解説が多かった。
そして、綺麗で国際派美人の受付の御嬢さんに色々と親切に対応して頂き、とっても物腰柔らかく美人で皇族の眞子様の様な学芸員さんと色々と話し情報を交換したり、周辺の郷土史をレクチャーして頂いたり出来た。
本当に丁寧な接客をする施設だな。感心する。
そして個人的に女性は才色兼備で内面も出来た人が多いと思う。
そして人意外にも素晴らしいものがココには有った。
博物館の敷地には、昔の御寺時代の奥院だったんだろうか?稲荷神社の跡地が展望台に成っていた。
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ここに在った御稲荷様は、博物館の建設の際に宗教的な見地から同じ源氏山の山麓に在る葛原岡神社に遷宮したそうだ。
まぁ、そのまま稲荷様として鎮座して頂いて良かったとも思うけれど、神社として多くの人に拝まれる方が神様的には幸せかもしれない。
ただ、御稲荷様ってのは御祭神が宇迦之御魂(うかのみたま)神で、本来は水の湧く洞穴何かに祀られた湧水地の神様なんだな。そしてこの歴史文化館の稲荷社の跡の崖地からは水が湧いているので、宗教的な本来の意味から言えば、ここにいらっしゃらないと意味が無いんだとも個人的に思うのだが・・・
古代人とって飲用水の確保ってのは命を繋ぐ財産の確保だった訳だ。だから神様を奉って大切にした。それが宇迦之御魂神だった、それが弥生時代に稲作が普及すると、水の役割が農業用水としての重要性に代わって来た。
そして漢字の導入が始まると宇迦之御魂神の字に倉稲魂命が当てはめられる訳だ。財産が水から米に変わったからだな。
更に平安時代末期に成ると、貨幣経済の普及によって財産の象徴が米から貨幣に代わり、財神としての性格を持つ弁財天様が宇迦之御魂神様と同一視されて祀られる様に成った。
この経緯が良く解るのが❝銭洗い弁天❞こと宇賀福神社や・・・
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江ノ島の弁財天様だな。
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もっとも、弁財天様には軍神としての性格も強いので昔は弁才天と書いた訳だ。
頼朝公が弁財天様を信仰したのは、その為だな。まぁ、頼朝公は熊野信仰や富士山信仰、大山信仰等の山岳信仰マニアで横浜市金沢区六浦にも浄願寺って大寺院を山の上に建てたりしたんだが、そこもやはり横浜市教育委員会が多くの学者と地元民の反対を無視してマンション建設許可を出してしまったんだな。戦後に横浜市から消された歴史史跡と宗教史跡は数が多すぎる。
本当、横浜市の横浜市歌すら歌えないカッペ職員は罰当たりな奴が多かったんだよ、昔は。
今は市長がクソだけどな。
そこを行くと、左翼横浜市と違って昔から文化人の多い鎌倉市の教育委員会は鶴岡八幡宮や御寺さんと関係が密接な有り、文化保護や調査に対する意識が高い。
だから、この歴史文化交流館みたいな素晴らしい施設を創生する事が出来るんだろう。
さて、歴史交流館の稲荷社跡地には宝物が有る。
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それは鎌倉市街~材木座~由比ヶ浜~小坪~住吉城址を見渡す眺望だ。
この写真は小生の撮影技術の未熟さで余り良くないが、本当に素晴らしい景色だった。
ここは鎌倉の中央図書館からも近いので、又、文献読みに来る時に是非、立ち寄りたい。
さて、鎌倉市歴史文化交流館を後にして、腹もすいたので小町通に葉山牛を食べに向かった。
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途中、踏切を渡る直前に正宗工芸の前を通ったので刀の製造過程の展示の写真を改めて撮影して来た。
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ショーウィンドーに常設されているので誰でも見る事が出来る。夏季は刀を打たないので、冬季に成り予約をすれば製造している所を少し見せて貰えるかも知れない。
小生は幸運な事に高校生の頃に自分で電話番号を調べて刀が好きな事を伝えて見学させて頂きたいと伝えた所、粋な計らいで学生と言う事も有り機械のハンマーで鍛える行程と使用する道具、昔の道具を見せて貰う事が出来た。
本当は高校卒業したら刀鍛冶か宮大工に成りたかったのだが親の反対で断念した経緯が有る。
もし高校生の頃に戻れるなら親の言う事を無視して、正宗工芸に弟子入りしたいなぁ・・・。
この日は外国人のお客さんが牛刀を買って、社長と中で写真撮影をしていた。
ふむ・・・無文化日本人より親日家西欧人の方が日本文化に理解が有り、今では余り知る人もいなくなった名刀正宗の工房を訪ねて来る訳だ。
正宗工芸を過ぎて踏切に差し掛かると小町通が見えて来る。
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相変わらず週末は賑わっている。歩くのも少し気を付けないと人にぶつかりそう。
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目的のステーキ屋に着いた。そして絶望・・・
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・・・以前見た時はランチで3800円位のコースが有ったと記憶しているのだが、朝5時~7時とかとんでも時間に御試しコースが設定されていた。
そして通常のランチは一番安くても5000円前後だった。小遣い予算オーバーに成るので断念。
小生の味方、小町で小腹を満たす場所と成ったここ・・・

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この路地を入った場所に有るシラスたこ焼きの店。
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たこ焼きの中にシラスが入っているのだが、正直シラスの風味は余り感じない(笑)。
でも京都に住んでいた事の有る小生からしても、ここのシラスたこ焼きは普通にタコ焼きとしてとても美味しい!
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先ずはこれを食べて、そして帰りにコロッケを別の店で食べると安く上がる(笑)。
食事を終えて、小町通にある芸林堂と言う行きつけの古書店に立ち寄ったのだが、生憎写真を撮影し忘れた。
しかも欲しい本が高くて手持ちの小遣いで買えず(笑)、何故かトンボ玉を買ってしまった。
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芸林堂を出ると、次は社塔と言う和紙専門店に移動。
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ここには1年間に2回位来る。
色んな要望に応えて下さるので助かる。
以前、御朱印の収納するアルバムを作成した時に千代紙をシールに加工して下さったり、特殊な御朱印を頂く為専用の色紙等を用意して下さったり、本当にお世話に成っている。この店は小生の土地神様の神社の宮司様から教えて頂いた場所だ。
今回は延喜式内社用の御朱印帳がいっぱいに成ってしまったので、分解してページを継ぎ足し外装も新調しようと思い改造用に和紙を購入した。
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綺麗でしょ?
和紙もちゃんと持ち運びに耐えれるように梱包して下さる。
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本当に親切なお店だし、品揃えが豊富で鎌倉で好きな御店の一つだな。
帰りにマメヤによって、青梅味の豆菓子を買い、帰宅前に寄る弟の所の姪っ子達の御土産にした。
無論、自分の家用も買って。
そして鎌倉を離れ横浜市域に戻り、弟の娘達に先日製作して上げたストラップと豆菓子を渡して来た。
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ふむ・・・
良い博物館が出来て嬉しい。
そして綺麗な風景も見れたし、綺麗な御嬢さんと沢山話せたし(笑)。
行動範囲は狭かったが良い休日に成った。

横浜市栄区長倉に江戸時代には経堂橋と呼ばれ、大正時代の補修以後は昇龍橋と呼ばれた橋が在ります。
この橋は上郷6号緑地沿いの遊歩道にかかっているのですが、旧鎌倉郡の原風景を見る事が出来る重要な場所で、上流の瀬上沢には自然の蛍も生息している貴重な自然公園に成っています。
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素敵な石橋でしょう?もう少し秋深く成った方が綺麗かも知れませんね。
石橋の左側の赤い筋は自然湧水の小さな滝です。
ここ等辺りの地盤は関東ローム層で鉄分が多く含まれているので鉄分のせいで酸化した赤い成分が沈着するんですね。ですから鎌倉は武士の首府だった時代に水質の良い井戸が少なくて、逆に水質の良い井戸には鎌倉十井と呼ばれた場所が出来たりしました。
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現地に行くと、栄区役所の熱心な御担当者がちゃんと調べた説明も有ります。素晴らしい。
この橋は横は風情があるだけでなく市内では最古の現存する石橋で、絶対に破壊させてはいけない文化財なんですね。
実はこの橋は白山社の旧参道で、その傍らには武士達が駆けた旧鎌倉街道の間道の1筋も残っていたりします。
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橋を渡った先に、白山社古址の石段が有ります。
何故、白山社“古址”と言う言い方をしたかと言いますと、もう廃社にされ神様は近隣の上郷地区の思金神社に合祀されてしまったんです。↓以前、思金神社を紹介した記事。

昔は、地域の殿様や庄屋さん達が神社に収入に成る土地を寄進して、その土地の田圃の年貢が神社運営費に成ったりしたのですが、明治政府の唯一の失政である宗教改革で、神社仏閣の土地は没収され多くの神社仏閣は運営困難に成り荒廃し、廃社や廃寺に成って行きました。
日本文化を大切にしようとした明治政府でしたが、この失敗で寧ろ日本文化と日本人の乖離(かいり)を招いてしまったんですね。そして多くの神社仏閣に止めを刺したのが敗戦後のGHQの統治とGHQ撤退後に行政に食い込んだ反宗教のマルクス主義者や左翼です。GHQは僅かに残った神社の土地の多くを更に奪いました。GHQの撤退後に市に返還されるのですが、この際、多くの市職員や政治家に戦時中の反動で左翼閥が多く成っており、GHQから返還された神社仏閣の土地を元に戻す事は無く、市の財産として売却してしまった場所がほとんどでした。
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この白山社も荒廃してしまったのですが、石段の様子を見るに古い時代からここに在った石材に見えます。
小生の経験だと摩耗の仕方から遅くても安土桃山時代か江戸時代初期ぐらいの石段じゃないでしょうか。
恐らく、鎌倉武士達も往来する際に、この白山社で御参りした事でしょう。
今では何も建物も石碑も、当然書物も無いですが、なんだか神秘的な雰囲気は漂っています。
何で小生が、ここを鎌倉武士達も拝んだと推測しているかと疑問に思う人もいるでしょうか?
ここには、鎌倉武士達が関与した証拠が残っています…
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最初の石段を登って境内に入ると左手には切り抜かれた箱状の穴が有るんですが、これは奈良時代~鎌倉時代末期までの武士の習慣で、矢倉と呼ばれる死者の供養塔を置くスペースだったんですね。
昔の鎌倉武士の御墓は御骨を骨壺に入れた後、地下に埋葬するのではなくて石塔(墓石とは形状が違う)の中の納骨スペースに骨壺を入れる事が多かったんです。
土地の狭い鎌倉に住んだ武士達らしい習慣ですね。
小生は偉人の御廟所の写真を普段は掲載しないのですが、一つ具体例として三浦義澄公の供養塔を皆さんに見て頂きたいと思います。
ちゃんと史跡保護しないと骨壺を海外への転売しようとする盗掘者や外国人犯罪者に破壊されるよと言う戒(いまし)めの意味も込めて…
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これは鎌倉武士の代表格、三浦家の棟梁、三浦義澄公の菩提寺だった薬王寺跡:横須賀市衣笠の写真です。
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御寺は明治政府の宗教政策の失敗で廃寺に成り、御墓は破壊され骨壺が盗まれてしまいました。
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納骨スペースが無残に叩き割られ石塔上部が直接おかれて中身が盗掘されています。
鎌倉武士達の御墓は西日本の文化と違って元来はこのような四角い石柱の中に空洞が彫られ、そこが納骨スペースに成っていて骨壺が納められていたんですね。
そして、供養の石塔が立てられる場所は先程の写真の様な壁面に掘られた矢倉と呼ばれる人工の半洞穴の中でした。
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だから、この矢倉が有る事で、この白山社が武士にとって大切な場所であった事が解るでしょうか?
この昇龍橋の少し下流には権現橋と言う橋が有ります。白山社はつい150年前に明治政府の宗教政策で神社と御寺が強制分離させられるまで多くが白山権現と呼ばれ神仏習合つまり神社と御寺の両方で祀られる神様でした。
そして、ここの昇龍橋も明治時代まで経堂橋と呼ばれた事から、この付近には御寺が在って白山社古址は白山権現を祀る御寺の経堂だった事が用意に推定出来ます。
白山社の矢倉は最初の矢倉を登った左手に在ります。正面を向くと、当たり前ですが神社?経堂?の跡の石段も現存しています。
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本当に残念ながら社殿は維持できずに取り壊されてしまい、今では武士達が歩いたであろう石段しか有りません。それでも、この境内に踏み入ると何だか陽が当たらずとも清々しい空気に満ちています。
さて、白山社古址と昇龍橋の説明からは少し離れて、周辺の遊歩道の風景を見てみましょう。
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白山社古址を正面に昇竜橋から左手を見た先が、遊歩道を瀬上池や瀬上沢に進む順路です。
それと反対方向の朝比奈峠側に歩いて行くと、下の風景が見られます。
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この一帯は小川の両岸が散策路に成っていますが、両岸に昔から道が有りました。
どっちかが崩壊してもどっちかが通れる様にする工夫でしょうかね?
暫く進むと権現橋が有ります。
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橋の先は今は民間に払い下げられてしまった様です。
橋の手前に辛うじて歩ける幅の遊歩道がギリギリ残っているだけ。
ふざけんな横浜市。
ところで、権現橋の奥には広い谷戸の削平地が広がっています。
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もしかしたら、ここに本来の白山社の仏教的な御堂や御本尊や御神体を祀っていた御寺が在ったのかも知れませんね。
今度、新編相模風土記稿を読む時に調べてみようと思いますが、果たして掲載されているかどうか…
さて、遊歩道として何となく歩いても良い場所ですが神社の建物は無くても雰囲気は残る事が伝わったでしょうか?
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川辺に降りる事も出来ますので、もし近くを通りがかったら散歩して見て昔の人の生活を連想してみて下さい。
この川辺で馬に水を飲ませる武士もいた事でしょうね…
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こんな恰好した鎌倉武士達が、ここを通って鎌倉と地元を往来したんですね。

さて、この昇龍橋が参道だった白山社は廃社に成ってしまった訳ですが・・・

神社や御寺と言うのは只の宗教施設では無くて、境内の石碑や建物、或いは所蔵されている文書に造営した武将達や地域の人々の生活が刻まれているタイムカプセルなんです。
そして、時に昔の人が未来の人、つまり私達へ当時の災害を伝えようとした警告の場所だったりする訳ですが…
残念ながら、現代人の信仰心が弱く成った事や、日本帰化民が多く働く土建屋にとっては邪魔な物が神社仏閣や城址で建設会社は史跡が出土しても教育委員会に届けずに破壊し宅地造成したり、史跡と解っていても届けずに破壊し宅地造成しようとします。

・・・悲しい事ですが、そうやって貴重な建築遺産や史跡が段々とこの世から消えていき、結果的に現代人にその代償が帰ってきます。

それが東日本大震災でした。

東日本大震災では昔の人々が経験した大津波の記録を石碑にして神社や道の傍らに建ててくれていたのに、多くの人間が神社仏閣に足を運ばなくなり、太平洋戦争の敗戦後GHQの制作で日本語の漢字の繁体字の使用が禁じられた為に石碑を読める人自体も少なく成っていたので、津波の到達地点の石碑より海抜の低い位置に多くの家が建てられており、1万3千人近くの人々が亡くなってしまいました。

小生は歴史偉人を尊敬し、神様と成られた前時代の日本人の偉人も崇拝しています。
それは現代人の生活が我々が突然手に入れた物では無くて、先人達の多くの悲しみと努力と別れの結果の少しの成功と喜びの上に成り立ってるからです。
今、小生が生きているのは神奈川県や日本を開拓して下さった神様に成った先人や武将達がいるからだと思っています。
ですから小生は歴史人物を尊敬しない人間以外、全て敬称を付けて呼びます。
歴史家は歴史偉人を物の様に呼び捨てにし、多くの観光協会は歴史偉人を商売で利用しても偉人の関わった神社仏閣は滅んでも良いと思っている連中ばかりです。特に先日喧嘩した社団法人〇〇県観光協会の管理職。
歴史オタクの小生と連中の違いは、歴史人物を生きていた人として尊敬して感謝しているかどうか、現実にいた人で御子孫達が居る事も考えて歴史に触れているかどうかだと思います。 
そして繰り返しには成りますが、先人が残して下さった物には東日本大震災で活用されなかった我々への警告も多く残っています。
だから大切にしたり、日頃から身近に感じる距離で散歩したりする事が 大切だったりすると思っています。

そんな思いで昇竜橋と白山社古址を紹介してみました。

では、次は愛知静岡旅行の休日雑記の続きを書きます。それでは又、次の記事で! 

平安時代の人からも古くて由緒有る神社と思われていたのが延喜式内社と呼ばれる普通の神社とは比べ物に成らない❝別格❞の神社です。
醍醐天皇が編纂させた延喜式と言う律令制度の改正法に定められた保護すべき対象の神社一覧が延喜式神名張に載る延喜式内社です。
又、延喜式成立以前から存在するが、当時は修行場や祈祷所と機能していたので祖先や神を奉る神社とは意味が若干異なっていていたり藤原家に不都合な歴史が有り掲載できなかった神社を延喜式内社に対して式外社と言います。
その神様の御神威と歴史が別格の意味に社殿の大小や現代の参拝客の多さは関係有りません。
多くの延喜式内社には縄文~弥生文化の遺跡が近在し、又、神社の宝物に日本神話の時代に当たる弥生時代に作られた祭器が有る所も少なくなく更には考古学的にも、その祭器が弥生時代や古墳時代初期の物だったり境内の遺跡が縄文文化の史跡と確認されている場所が多く有ります。

そんな延喜式内社が神奈川県には旧相模国内に13座、旧武蔵国(横浜市)に1座、式外社で古事記に登場する様な霊験あらたかな場所や歴代天皇の勅願所も数ヵ所有ります。
その中の一つで、現在も比較的大きな規模を誇るのが大和市の深見神社(ふかみじんじゃ)です。
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ここ深見神社は雄略天皇の時代(西暦500年前後)に闇神(くらおかみ)と倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を御祭神として創建された事が関係文献から解っている様です。
神は水神=雨乞いの神様として信仰されたそうですが、似た名前の神様に高神(たかおかみ)と言う神様が雨乞いの聖地だった大山阿夫利神社の御祭神として祀られています。
この二神は名前も似ていますが同じ様な御神威を御持ちの様です。
今年2016年の夏は水不足なので神奈川県知事や自治体の首長には御参りして欲しい所ですね。
さて…少し脱線します。
延喜式内社も凄いのでですが、式外社にも凄い場所が有ります。

特に凄い場所は以前も紹介した…
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日本武尊の仮御所近くに、日本武尊の冠を御神体として地下に埋蔵して創建された横須賀市の走水神社。
ここは最近の社殿建て替えの際に本当に地下に石室が有る事が確認されています。
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日本武尊の御妃様の弟橘姫の古墳が神社社殿の背後に控える川崎市の橘樹神社。
神奈川県教育委員会の怠慢と不見識で、大古墳は一部を除いて宅地化されてしまいましたが、古墳頭頂部の一部がかろうじて現存しています。
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そして歴代天皇が勅願所道場として信奉した師岡熊野神社です。
歴代の天皇家と源氏や小田原北条家、徳川家から信奉され、特に光孝天皇から「関東随一大霊験所熊野宮」の異名を与えられ、その勅額を頂いた周辺に聖なる池を多数抱える神社でもあります。
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今回紹介する深見神社は、この師岡熊野神社と同じ雨乞いの神様として古代人からも信奉された古社な訳ですが…
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伝承や郷土史研究者の意見では、この辺りも古代に海が入り込んだ入江だったので❝深い海❞が地名の深見に転化したと考えられていますが、小生の意見は少々異なります。
何故かと言うと古代の海岸線と深見神社の位置は離れているからです。
神奈川県名の延喜式内社と古代の海岸線 久良岐のよし
そこで小生が推測するのは、深見(ふかみ)の地名由来は❝深水(ふかみ)に嵌(は)まる❞の方の深水だと思うんです。
実は、この深見神社は重要な場所に在(あ)りまして、すぐ近くを❝境川❞が流れています。
延喜式内社と河川の位置 久良岐のよし
※拡大して見ると、河川と延喜式内社の位置が解ります。
古代は橋を架橋する技術が無かったので、大河川を渡河するには舟での移動しか有りませんでした。
若しくは…徒歩で渡れる浅瀬を探すかですね。
残念ながら神奈川県には相模川や鶴見川の様な巨大河川が幾筋も有り古代人にとっては交通の便の良い土地では有りませんでした。
それ故、この道を❝東海道=東の海の道❞と古代人が名付けた訳です。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
古代の東海道は何筋もの大河川を船で渡り、最後は走水から海を越えて房総半島に渡っています。
さて、そんな訳で深見神社の眼前には今も昔も境川が流れているのですが、これが上流部分が旧相模国と旧武蔵国の国境と定められた川だから❝(国)境(の)川❞と成った訳です。
この境川も相当な下流域は海でしたが、実際の所は深見神社の氏子サンや郷土史家の推測は海岸線の歴史事実と異なり、深見神社の眼前に入江が広がっていた歴史は存在しえません。
そこで小生の説は「❝川の深水❞が有ったから深見神社と名付けられた」と成る訳ですが…
「え?深水なんて別にありがたくも何も無いじゃん?」
…と思ったら、貴方は神道と日本の祭祀の歴史を全く解ってない。
古代人にとって川の❝淵❞や❝深水❞と呼ばれる地勢は聖地として信仰対象に成っていたんですよ!
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上の写真は江戸市民の水の供給源だった東京都羽村市の多摩川上流にある根搦前水田を横断している雨乞い街道です。旱(ひでり)の日は、聖地とされた深い淵で雨乞い儀式を行う習慣が有りました。
そして深見神社の御祭神の名前の❝闇神(くらおかみ)❞です。
神(暗い場所の水神様)と解釈出来る御名前から、鬱蒼とした樹木の下に流れる境川の水深の深い水辺を連想させますよね。
似た名前で同じ雨乞いの神様の高神は大山阿夫利神社の神様ですが、実は大山は標高1000mを超す場所に沢山の自然湧水や滝が有るんです。❝高❞い場所に水を湧かせる❝神(おかみ=龍神)❞様だから高神なんでしょうね。
恐らく、ミシェランガイドで三星の観光地認定された東京都日野市の高尾山の❝高尾❞は、大山阿夫利神社の❝高龗❞神と同じ神様を奉っていた歴史が古代に有ったんじゃないかと思います。多分高尾山は山岳信仰と雨乞いの対象だったんでしょう。大山と同じ様に天狗(てんぐ)信仰も盛んですからね。

話を深見神社その物に戻します。
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深見神社は北西から入ってくる変則的な表参道の横に石碑が有ります。
これは、この深見の江戸時代の領主が、この神社と周辺を大好き過ぎてアレやコレや寄進しまくった時に建てたそうです(笑)。
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その近くに立派な狛犬さんも鎮座していて参拝客を御出迎えしてくれます。
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凛々しい狛犬様。
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めっちゃ筋骨隆々だね。
参道から、社殿正面へ続く駐車場の傍(かたわ)らには大和市の保護指定を受けている大樹があります。
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すんごい立派ですね。
駐車場に車を止めると富沢稲荷と言う小さい摂社が有ります。何故か境内には遷座されていない。
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こちらは参拝客もまばらそうですが、小生は御城や神社や御寺を御参りする度に御稲荷様が鎮座していて、参拝客や地域の方々を守って下さっているのでちゃんと御挨拶をして御参りして来ます。
勿論、この時も御挨拶しました。
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現在では一見すると普通の少し広めの神社程度の境内ですが、参道の向きや周辺の森と道路の敷設されたルートを見ると、明らかに昔は周辺の住宅街全部が深見神社だった事が見てとれます。
深見神社推定旧境内 久良岐のよし
こんな感じかな?
ちゃんと現在の社殿前の鳥居の反対側にも、昔の参道が有り、先にも廃道が有る。
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現在は私有地に成ってしまっているので通れない。
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こう言うのは明治政府のせいなんだよ。
明治政府が神社の土地を接収しちゃって、更にその後で太平洋戦争で負けた時にも米軍に神社の土地は大きく接収されてしまったので、こんな風に古い参道が使えなく成って家が建っちゃった場所は少なくないんだな。

さて深見神社の社殿はとても立派です。
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造りからすると多分新しい。ごく最近の再建。
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この時は春に差し掛かった頃に訪れたので、桜の花が咲いていてとても綺麗でした。
深見神社は江戸時代に周辺領主だった坂本家が武神の武御雷神を鹿島神宮から勧進した歴史も有るので一時、鹿島社の別名で呼ばれていた事も有ります。
そっちの神様はハッキリ言って深見神社や深見の土地と関係が無い。
寧(むし)ろ、相模国の延喜式内社と関係が有る戦神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)と五十猛(いそたける)神日本武尊と弟橘姫だからね。平安時代にも関東では武御雷神じゃなくて、八坂神社や浅間神社で素戔嗚尊が崇拝されたし、西暦700年頃からは弁才天様も崇拝されだした。
後から深見神社に引っ越して来たのが武御雷神。
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そこ等辺の事は説明の看板にも書いて有るけれど、元に成った記事を読みたい人は横浜の殿様間宮家の子孫の間宮士信が編纂した新編武蔵風土記稿を読むと、周辺の歴史も解って楽しいですよ♪
深見神社は手水舎にはちゃんと水道から新鮮な水が流れていて身を清めれます…
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…多くの延喜式内社が伊勢と関係ない神様で宮司様不在で寂れて水道も流れてないからね。
ここは他にも施設が沢山有ります。
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靖国社。靖国神社の末社かな?と思ったら全く違いました。
元々、この大和市や厚木市は大日本帝国海軍時代の厚木飛行場が有ったので、そこに空の神様として神社が建てられた航空神社を、戦後厚木基地が米軍に接収される際に引き取って当地に遷座したそうです。
それと、さっきの富沢稲荷様とは又違う境内社の稲荷大明神。DSC_0552
御倉大明神と言って、一時期、闇神がこちらに移されて、本殿には明治時代の国家神道と関係が深い武御雷神が本殿に祀られて優先順位と歴史的にアベコベにされていた様です。
現在は闇神様は本殿に無事帰還されています。

それと御神木…
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出ました!神奈川県の銘木100選。
小生の行く先々でちょくちょく登場する銘木100選、その一つが深見神社の現在の御神木の春楡(はるにれ)の大樹。
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春楡(はるにれ)が❝春を❞❝諭す=楡❞、つまり春の訪れを知らせる様に花が咲くからだそうです。
深見神社では種類が解らず「なんじゃもんじゃの木」と渾名されていたようです(笑)。

ここには、古代の文化を伝える神様がいらっしゃいます。
そして江戸時代に武士に崇拝された戦神様も後に同居されました。
古代から近代まで、色んな時代の人の記憶がつまった大切な場所、そして古代人の聖地だったはずの境川の淵の横に建てられた神社だったんだろうなと思います。

きっと皆さんの御近所にも、あんまり大きくなくても凄い歴史偉人との繋がりや、古代からの文化や遺跡を継承しているとんでもない神社や御寺が在ったり、近くの公園や山に行くとソコが平安時代~江戸時代に日本の文化を発展させた武士達の御城の古址だったりするかも知れません。
…御近所の神社仏閣や城址を散歩して、昔の人事を少し思い出してあげませんか?そして文化を大切にしてみませんか?
御参りして先人に「日本の発展に寄与して下さりありがとう」と御礼を伝えれるだけでも、偉人達や神様や仏様は喜んで下さるかも知れませんよ。

では、今日はここまで!
又、次の解説記事で御会いしましょう♪

司馬遼太郎先生も"街道をゆく"シリーズの"三浦半島編"で紹介した横須賀市の料亭、小松が焼失してしまった・・・
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※[ココ]クリックでニュースにリンク

幕末の戊辰戦争~明治に起きた日本最後の内戦西南戦争の動乱と敵味方の確執を越え、明治時代に海軍将校と成って協力した薩摩国島津家臣出身の東郷平八郎元帥や徳川親藩の伊予国久松家松山藩藩士出身の秋山真之参謀、會津藩出身の柴五郎中佐、西郷ドンの御息子の西郷菊次郎台湾宜蘭庁長等、それ等の日本や周辺国をロシア帝国による白人の植民地化から守った偉人達の内、海軍サン達が愛した店だ。
海軍は明治の元勲同様に料亭小松に通った井上成美サン始め諸将が、太平洋戦争開戦や中華民国との戦争にも外務省と連携し慎重だった事でも有名だ。
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もっとも、中華民国自体は尼港事件や三光作戦で日本人を含めた現地ロシア人や中国人を無差別虐殺して自滅する訳だが、それは又、別の話し。
2014-10-04-00-44-52

※写真は臺灣台北市の中正紀記念堂
奇しくも尼港事件でロシア共産主義者とソレに荷担する朝鮮兵と中華民国兵による、ロシア帝国国民と日本人への無差別虐殺を阻止すべく援軍に向かうはずだったのが東郷平八郎元帥が嘗(かつ)て乗艦した、三笠だった。
因(ちな)みに当時の中華民国国民党は既に孫文先生の実権が軍閥の袁世凱に乗っ取られ別物に成っていた。もはや民主化や近代化を目指した孫文先生のソレとは似ても似つかない政権だった訳だ。
中国南京市紫禁山中山陵 久良岐のよし

※写真は南京市に在る孫文先生の御廟所、中山陵
残念ながら三笠は流氷に阻まれ尼港に辿り着けず日本人は全て無惨にロシア共産主義者テロリストと朝鮮兵、中華民国兵に虐殺され、女は犯されてから同じく全て殺された。日本人は文字通り一人も残さず殺され、尼港は町ごと廃墟に成った歴史を知る人は現在では余りいない。
この事件は法治主義教育の大切さや右派左派問わずテロリストはテロリストと学ぶ事例でもある。
孫文先生の理念を引く継ぐ現在の台湾には、小生も多くの友人がいるが袁世凱の中華民国と違い皆さんも御存知の通り親日家が多く日本の漫画や居酒屋が多い。
つまり、人種よりも教育によって人間は残虐にも成ってしまうし逆に文化交流と同じく教育によって親しくも成れると言う事が中華民国の歴史を見ると良く解る。
そして、自国も自己主張をしないと、誤った歴史観を拡散されてしまったり相手の問題点を指摘する事も出来ないと言う日本人と日本政府の問題点も、台湾や幕末の偉人~東郷元帥や明治の元勲の歴史を通して見る事が出来る。
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因みに三笠は現在、アメリカやイギリスの支援も在り世界三大記念艦として、今回火事で消失した料亭小松の近くに在る三笠公園に展示公開されている。

話を小松や、明治~昭和初期の建築遺産の料亭の話題に戻そう・・・
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残る海軍料亭は今回燃えた小松を含め三軒、残る二軒は横浜市神奈川区旧東海道神奈川宿の田中家と横浜市金沢区の金沢園。
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その内、今回の小松と横浜市金沢区の金沢園は建物自体が重文指定するべき程に価値が有るものだった。
田中家近景

現在の田中家↑と幕末の↓田中家
東海道五十三次 神奈川宿 田中家

※「さくらや」と書いて有る店が田中家の前身の旅籠
田中家は坂本龍馬夫人お龍サンが未亡人に成ってから暫く働いていた店として有名だが、先日ブラタモリで店が紹介された際は、その歴史は紹介されなかった。

今回の小松の火事の事で明治時代の横須賀の歴史がクローズアップされたが、実は、お龍サンの御廟所が横須賀市に有る事を知る人は現代では少ない。
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お龍サンは、横須賀市大津に在る信楽寺(しんぎょうじ)で眠っている。
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お龍サンの亡夫:坂本龍馬サンの祖先は明智光秀の縁者と龍馬サンは自称していたそうだ、だから苗字も琵琶湖の畔(ほとり)に存在した明智家居城の坂本城の地名を冠しているのだろう。
その龍馬先生の妻君、龍子夫人が、明智家所縁の地名近江国の信楽(しがらき)や大津と類似した地名の地横須賀市大津で終焉を迎え現在も眠っているのは、坂本龍馬サンとの因縁を感じられずにはいられない。

右翼は戦史を敗戦の原因までも美化する阿呆が多いが、逆に糞左翼は良い歴史や尊敬すべき先人や歴史文化財までもタリバンがカシミール遺跡を破壊したのと同じ様に敵視し阻害し否定する。

・・・今回の小松の火災が愚かな共産主義者過激派や社会主義のキチガイ、反日朝鮮人過激派や反日中国人過激派による放火が原因で無いと信じたい。

建築文化財も歴史遺産も認識出来ない様な奴は、文化も文治も文民も語る権利は無いと知れ。

料亭小松は、そんな深い日本や周辺国の歴史の明暗や半ばの朝夕の美しさを省みる事の出来る場所であり、建築文化財だった。

再建を祈る。
・・・と、同時に横浜市金沢区の金沢園の重要文化財指定を切に願う。
金沢園も美しい内装の昭和建築遺産だ。

ブログネタ
「食欲の秋」のはじめに食べたい物は? に参加中!
食欲の秋…拉麺美味しいよね。

横浜市港南区下永谷に神勝軒と言う「つけ麺」の店が在ります。
「つけ麺」と言うジャンルを拉麺界に創生した偉大な拉麺職人の故:山岸翁の御弟子サンの店です。
ちゃんと大勝軒で修行された事と山岸翁へのリスペクトを店内の看板にも掲示している大勝軒系の血脈の店。
この様に創始者をリスペクトする姿勢は素晴らしい。
御当地横浜の家系には、家系創始者の吉村社長の弟子でも無いのに自称家系名乗る不遜な輩が溢れかえり偽家系だらけ…
この神勝軒の山岸さんへのリスペクトは評価に値する。

正統の大勝軒の暖簾分け1号店も横浜駅西口に在り、其方の店長サンは今は山岸翁の跡を継ぎ横浜だけでなく大勝軒本店の大将に…
なかなか横浜駅西口や大勝軒本店に行けない時に、神勝軒で腹を満たし、つけ麺文化を残して下さった山岸翁に感謝を示すのも風流でよし。
店内は建築古材を活用した内装で、落ち着いて雰囲気が良いです。
カウンターは木製の一枚板で高そうな材木です。…写真撮り忘れました(笑)。
厨房はこんな感じ。
この日は…
特製つけ麺に
中盛り 味玉 焼豚 海苔増し
…を頂きました。
美味しそうでしょ?
麺を完食したら…
「スープ割りお願いします!」
…と、言うと、スープにネギ等を足して飲むスープにしてくれます。
コレはつけ麺店ならではの風習みたいなもんで、大概のつけ麺自慢の店はやってくれますよね。

こちらの店で山岸翁の血脈の味を身近に感じて、大勝軒本店や大勝軒横浜駅西口店近く行く時は其方にも寄りたい。

余談ですが神勝軒のお向かいに在った家系総本山の吉村家の直弟子が店長だった環2家が8月30日で閉店しました。
閉店日から2日後だったのですが、灯りがついていました。
吉村社長、店を売却するとブログに書いていたので、もう売れたんでしょうか?
吉村社長の直弟子の本物の家系だっただけに残念です。
環2家は店員同士が仲悪く接客の際に怒号が飛び最悪な雰囲気だったが美味しい日は美味しかっただけに、吉村社長の下で接客マナー再建し続けて貰いたかった。
吉村社長のブログに書いて有った「光くん」と言う店員が辞めたのが、環2家をたたむきっかけらしいが…

この地域、実は拉麺文化発展させる地域とも言えます。
実は御城の在った地域には、美味しい拉麺店が近くに在るんです!
そして、それは地勢上の必然なんです。
其れは神勝軒の附近の周辺 文化と地理の 情報を先ず見れば一目瞭然なんですが…
先ずは見ましょう。
有名ラーメン店と城址と交通の相関地図
永谷の周辺街道
⚫︎古鎌倉街道
江戸時代の鎌倉街道成立より更に以前、平安時代から使われた鎌倉街道の古道がこの地域を貫いている。
⚫︎鎌倉街道
鎌倉時代迄の古鎌倉街道とは違う筋だが、現代、整備された鎌倉街道が永谷地区近くに通る。
⚫︎古東海道/東海道
江戸時代以前の古東海道を江戸幕府が再整備した東海道が、永谷地区の直ぐ近くに通っている。
⚫︎環状2号線
神勝軒は環状2号線に在る。現代整備された横浜の中心部から放射状に続く国道16号線、横浜上麻生道路、川崎街道、中原街道、八王子街道、鎌倉街道の一般道に加え第三京浜高速道路、横浜横須賀高速道路、東名高速道路、首都高速道路湾岸線&横羽線等のアクセス向上を目指して造られた新しい街道。
永谷周辺の有名ラーメン店と城址
※超有名店だけとりあえず記載しますが、地図上の印つけた店は全て雑誌TVに良く掲載される有名店です。
⚫︎新横浜拉麺博物館
日本最初の拉麺博物館。
永谷地区からは車で環状2号線を15〜20分程の距離の新横浜駅附近には拉麺博物館が在る。
新横浜駅は東海道新幹線「のぞみ」の停車する重要駅でもある。
⚫︎支那そばや本店
※港南区永谷地区は隣区の戸塚区との境界に位置する。
永谷地区から東海道を車で15〜20分程の戸塚駅近く。山岸翁と同じく拉麺の大家として名の知れた「拉麺の鬼、佐野実」こと故:佐野氏の「支那そばや」本店。この店の支那そば(醤油ラーメン)は一般的な醤油ラーメンのイメージから想像も付かない発展をさせた拉麺で、拉麺ブームの火付け役に成った名店。
残念ながら、つけ麺の大家:山岸翁が没すると、後を追うように佐野氏も世を去ってしまったが、その味は御弟子さんがシッカリと受け継いでいる。 
⚫︎杉田家(元:吉村家本店)
永谷地区から環状2号線と国道16号線を車で15分の距離。
豚骨醤油:家系拉麺の創始者の吉村社長が最初に店を構えた店舗。今は直弟子が支店として引継ぎ店長を務める。 家系拉麺の発祥地。
吉村社長のいる吉村家は、横浜駅西口近くで営業中でいつも大行列。
⚫︎環2家
永谷の神勝軒の目の前。環状2号線を挟んで対面に在ったが、先月2015年8月30日を以て閉店した。
家系拉麺創始者の吉村社長直弟子が店長を務める吉村家直営店で毎日大行列だったが、従業員の離脱により吉村社長が店を閉めてしまった。吉村社長のブログによれば店舗売却予定らしい。
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本牧家
元々、本牧家の屋号は吉村家の吉村社長の店だった事に由(よ)る。
元弟子の神藤隆が本牧家店長を任されていた時代に造反し、従業員引き連れて辞めて神奈川区六角橋に六角家を作ってしまった為、吉村社長が怒り狂って閉店、現在のオーナーに売却してしまった店。
正統な家系吉村家の系統とは別系統で「家系亜種」と呼ばれる家系の派生店。
六角家の方は新横浜ラーメン博物館の開店当初は、御当地横浜のラーメン店として同地には入店していたが現在は出店していない。六角家本店は名前の由来の神奈川区六角橋に営業中。
⚫︎壱六家
正統派吉村家系とは異なる家系亜種に分類される拉麺店。
昔からの人気店で、一時期は支店も多数出店した。現在は元々の国道十六号沿い磯子駅近くの本店は特に大人気営業中。
⚫︎貞昌院と永谷天満宮
永谷天満宮は全国の天神様の御祭神である菅原道真公の御子息5男、菅原淳茂公の居館跡の天神様。
そこに室町幕府足利尊氏公の従兄弟の御子孫で鎌倉府で関東管領も務めた家系の宅間上杉家の殿様が開いた天満宮。
御神体は道真公が鏡を見て遺品として自ら手彫りした道真公御自身の木製像。
この木像は日本に三体だけあり、福岡の太宰府天満宮、大阪の道明寺天満宮、横浜の永谷天満宮に其々安置され、以上三社の天満宮は日本三体天満宮と呼ばれる。
貞昌院は曹洞宗の寺院で永谷天満宮の別当寺。開基の宅間上杉家が曹洞宗に帰依した小田原北条家臣だった事による。
⚫︎永野城址
神勝軒の向い側の緑地は室町幕府創始者の足利尊氏公の従兄弟の血筋に当たる宅間上杉家の殿様の居城の永野城址。
⚫︎野庭関城址
永谷地区から車で5分の場所に曾て在った城。
鎌倉幕府の初代の侍所別当(防衛大臣)を務めた和田義盛公が築城した城で、鎌倉古道と鎌倉街道を押さえる位置に在る。
戦国時代まで活用され、安藤良整公等の名将が城代を務めた。
⚫︎笹下城址
永谷地区から車で5〜10分の笹下地区に曾て在った城で、北条家の水軍を纏めた間宮家の居城。杉田港や六浦道(笹下釜利谷道路)、鎌倉街道を押さえ鎌倉の防衛と東京湾防衛を担った城。
⚫︎今井城址
永谷地区から直ぐ車で10〜15分の環状2号線今井インター近く、保土ヶ谷区の平安時代末期の信州出身の武将の旭将軍こと源朝臣木曽義仲の重臣だった今井兼平の城址と伝わる。戦国時代末期まで城として機能し江戸時代に成り廃城すると陣屋が置かれた。
つまり当時も交通の要所だった。
義仲の妻の巴御前は幕府に投降し和田義盛公に再嫁しているので、今井兼平も投降した可能性は高い。又はその一族が城主か?
⚫︎鳥山城址と三会寺と鳥山八幡宮
全て 港北区鳥山地区、永谷地区から環状2号線を車で 15〜 20分程 離に在る歴史史跡
平安時代末期、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の与力、近江国宇田源氏の名将:佐々木高綱公が築城した居館が鳥山八幡宮の敷地で、その背後の丘は詰めの城。
三会寺(さんねじ)は源頼朝公が佐々木高綱公に命じて鎌倉の鬼門に当たる鳥山地区の旧街道沿いに築いた鎌倉鬼門鎮護の寺院。
⚫︎小机城址
永谷地区から車で20〜25分程の所。
新横浜日産スタジアム近く、室町時代〜戦国時代の城址で北条家白備え隊の居城。白備えは小田原北条家の主力部隊の1つ、北条家には五色の軍装で色分けされた5軍団が有り、その1つ。
城主は北条家の宿老であった北条幻庵公、城代は北条家の家老の笠原信為公。

※上記の城址は既に記事に書いてあるので
画面上、PCでは右側、携帯では下の方に表示される【カテゴリ】から「城址」「北条家五色備え」「神社」のいずれかから検索してみて下さい。
ここまで拉麺と関係ない事を、良く読んで下さいました(笑)。
では何で、この地域が拉麺文化発展の土壌に成ったかですが…
既に勘の良い方は地理と史跡を見て気が付いてますよね?
この地域は交通の要所だから、拉麺文化を客として下支えして来たトラックやタクシーの運転手の往来が多いんです!

この東海道(国道1号線)と環状2号線のクロスする附近は、拉麺文化醸成の地であり、奇しくも永野城、野庭関城、笹下城、小机城、鳥山城、今井城など交通の要所を押さえる位置に築かれた城が神勝軒の在る永谷地区や環状2号線周辺に在るのは当然!
現代の物流の観点と、武士達の街道を押さえる防衛観念はリンクしているからなんですね。
武士は敵軍の自領への侵攻を防ぐ為に、街道や水運の要所に城を築城(ちくじょう:城を造る事)します
そしてラーメン店はトラックの往来が多い街道沿いに運転手の来店が多く見込めるので、沢山の拉麺店が出店する事に成り、結果的に拉麺文化発展の土壌には城跡が近くに在る場合が多く成る訳ですね。

ね?
歴史と郷土の食文化って凄く関連が在るでしょう?
それが小生のブログタイトルの由来でもある訳です。

次は映画とドラマの「HERO」公開中につき、ロケ地の横浜の旧中心街の日本大通り地区の近代西洋建築遺産を紹介します。

では!又次の記事で!

ブログネタ
「夏の終わり」感じるのはどんなとき? に参加中!
横浜市金沢区の野島公園は、キャンプ場が有り夏はBBQで一家団欒を楽しむ家族連れや、近隣の大学生グループで賑わいます…
眼前には金沢八景島シーパラダイスがあり「海の公園」側やこの野島公園で潮干狩りをする人達も多くいます。
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実はこの野島公園が、江戸時代に徳川家康公の十男で、紀伊徳川家の初代藩主徳川頼宣公の別荘が在った場所だったり…
初代総理大臣の伊藤博文公の別宅があったり…
大日本帝国憲法の草案が纏(まと)められた場所であった事を知る人は今では少なく成ってしまいました。
また、太平洋戦争時の末期には隣接する横須賀市に横須賀鎮守府があった関連で現在の日産自動車工場追浜工場には横須賀海軍飛行場があり、野島には零式艦上戦闘機の防空格納基地が建設されました。

※その辺りの情報は以前の記事で紹介したので以下にリンクを貼ります。
●野島の零戦格納庫の記事は「ココ 」←クリック!

大きくは無い島で、現在はレジャーの島に成っていますが、こんな狭い面積に沢山の重要な歴史が詰まった場所なんです。
今回は夏も終わりに近づき、御抹茶を頂きながら海辺の夕涼みが出来る場所として、又、日本が法治主義国家を歩みだした、その場所としての伊藤博文公別邸を紹介したいと思います。

小中学生の残り少なく成った夏休みの自由研究宿題のテーマとしても役に立てるかな~と思います。
この施設や野島内の周辺史跡を見学して写真を撮影し、野島の歴史自由研究として時代と説明文を原稿用紙に書き、そこにプリントアウトした写真を貼れば十分、提出に十分足(た)る内容になるんじゃないかと思います。

では…
キャンプ場と反対側に閑静な松林が在ります。
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小生が子供の頃は、まだ眼前の八景島は無く、この豊穣な海では海苔の養殖が盛んに行われ、特産品の海鼠(なまこ)や小柴のシャコが沢山獲れました。
その横、駐車場の目の前の牡丹園と古民家が伊藤博文公の金沢別邸です。
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この伊藤公別邸は無料で拝観できます。
入口の係員の方に、抹茶を飲みたい事を伝えると客間で抹茶を頂けます。
御茶の料金は乾菓子のセットは300円、茶菓子のセットは500円で頂けます。
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小生は、この日は御乾菓子を頂きました。

さて、建物を解説します。
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建物自体は昭和まで良く見かけた、明治~大正期の日本建築で、入口からは解りませんが結構な奥行が有ります。
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この玄関、昭和生まれ世代は結構多くの人が御婆ちゃんの家を思い出すんじゃないでしょうか(笑)。
まぁ、実際、ここには明治~大正時代に伊藤家の御一家や、その後も管理人さんがいらっしゃったから生活感有って当たり前ですよね。
とは言いつつも、ここは一回老朽化で解体修理され復元再建された建築遺産でもあります。

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中には、各部屋や歴史の詳細な説明も個々に展示されています。
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玄関を入ると、純和風の廊下の両脇に、客室用の雪隠(せっちん=トイレ)や炊事場(すいじば=キッチン)が在ります。
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その廊下からは中庭が覗けます。
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素敵な小庭ですね。
昔の少し立派な日本家屋は京都の京町屋と呼ばれる様式でもそうですが、この様な中庭を作る事で風の吹き抜ける通り道を作り、エアコンの無かった時代に自然の力で十分に涼む仕組みが設けられていたんですね。
中庭の右手に見える配管は、浴室から延びる煙突です…
実はこの煙突も明治時代には画期的な仕組みの一部なのですが、その説明は又後で。
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これが炊事場の写真です。
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明治時代の炊事場ですが、江戸時代の炊事場と余り機能的に変わりは無いですね…
まだまだ井戸水を汲み上げて飲料水にし、薪と炭で煮炊きし料理を作っていたようです。
…当時の使用人さん達は大変だったでしょうね~。
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それでも台所の外側の土間(どま=土足で行動出来る部屋)に、この家専用の井戸が有るだけ、別の庶民の家より重宝した事でしょう。

で、反対側の客間用の雪隠(せっちん=トイレ)へ…
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これも又、江戸時代の御城に有るトイレと余り変わらない木製の和式で、この状態からトイレの文化は近代に急速に発展した事が良く解ります。
大(笑)
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小(笑)
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小生、ここに来るまで知らなかったのですが…
トイレは和名では2種類に分類されるそうで、時代劇や老人が雪隠や厠(かわや)と呼ぶのは、実はトイレのタイプによって区別が有るそうです。
こんな感じ…
雪隠(せっちん)…ボットン便所、汲み取り式で人糞を肥料に再利用出来る様にトイレ下に穴が掘られている。
厠(かわや)   …水洗トイレ、川の水流を利用したトイレ。
…川の小屋のトイレだから、略して川の小屋=かわや=厠なんですね。

さて、客間です。
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この写真では余り解りませんが、眼前には海が広がり当時は金沢八景と称され、江戸時代に歌川広重が浮世絵に描いた程の景勝地でした。
水戸徳川家の黄門様こと水戸光圀公が明の禅僧の東皐心越(とうこうしんえつ)和尚を御連れして、この一帯の風景を遊覧された程でした。

この客間の入口からも中庭が見えます。
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反対側から見る中庭はさっきと様子が少し違います。
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さっきの煙突、実は浴室から延びています。
客間からも居間からもすぐに浴室に行ける便利な構造に成っていますね。
そして風呂場が中庭に面していると言う事は、入浴中、涼しい爽やかな風が吹き込んできたんでしょうね~。
流れで浴室を紹介しましょう。
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この浴室の壁は人口の御影石で出来ています。
昭和期まで、日本家屋に多く見かけられた人工石ですね。コンクリートより高級感が有ります。
さて、さっきの煙突の正体ですが…
右側から延びる配管が、浴槽の中に入って行ってますよね?
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実はコレ!明治時代には画期的だった湯沸かし器の構造物なんです!
当時は庶民の家では五右衛門風呂が主流で、直接、竈(かまど)の上にでっかい鍋みたいな風呂を置いて直に火力で御湯を温めましたが、この機能はボイラーの熱を配管で送り浴槽内の御湯を温める仕組みなので、火傷する心配が有りません。
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そして温泉の様に檜風呂で入浴出来る画期的な構造な訳です。
現代のガス式風呂釜湯沸かし器に通じる構造ですね。
この配管を伝う熱源の排煙をするのが、先程の中庭の煙突と言う訳です。

さて、客間に戻ります。
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御茶はこの客間で頂けるのですが、ここからの眺望は凄く素敵で、小生はたまにここにノンビリと頭をリセットしに来させて頂いています。
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繰り返しに成りますが、目の前が海。
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ここで御茶を飲んでゆっくり…いいでしょう?

昔の家らしく、縁側も有ります。
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平成世代は余り見た事が無いかも知れませんね。
昔の人は、こういう縁側でゆっくりと贅沢な時間を日常的に過ごしたもんなんですよ。

この金沢別邸には伊藤公の私室も当然有ります。
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意外かも知れませんが、居間は広くはなく、普通の家と余り変わらない大きさです。
伊藤公は賭け事が大嫌いな性格だったそうで、個人でいる時は余り華美な生活を好まれなかった様ですね。
公人として西洋式の華やかな生活を送らなければいけないので、普段は落ち着きたかったのかも知れませんね~。
この居間側にも裏口があり、そこからも庭に出られます。
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御庭から見た客間越しの金沢の海。
御庭は牡丹園の名前で同じく無料公開されています。
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牡丹園側から見た、居間の様子。
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庭には綺麗な花が咲いていました。
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こちらの牡丹園側の入口、つまり勝手口が下の写真です。
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意外かも知れませんが実は伊藤博文公、外戚閔妃派と日本政府の関わりで伊藤博文公のイメージを悪く混同されていますが…
韓国初代大統領の李承曉のロビー活動による結果で、悪いイメージを持つ韓国人も多くなっています。
しかし実は朝鮮王室との関係は極めて良好でした
ですので、、朝鮮の最後の皇太子李垠殿下も御滞在された場所でもあります。
李垠殿下も伊藤公の私邸へ御宿泊され酒盃を酌み交わすほど信頼関係が深かった訳です。
余談ですが、戦時中も日本の太平洋戦争終結後の無条件降伏時も李垠殿下は日本でちゃんと王族として保護されていました。終戦後に奥方と韓国に帰国しようとした所、李垠殿下御夫妻の韓国復帰を阻止したのが、朝鮮王室復興による失脚を恐れた李承曉だった事を多くの韓国人は知りません。
親日派だった朴正煕大統領に成って、漸(ようや)く李垠殿下御夫妻は韓国に帰国出来ました。
つまり、李承曉自身が知日派の李垠殿下に帰国されると非常に困る事情が有った訳ですね。
李承曉がいなければ、併合後に朝鮮王室を李垠殿下が復興し、現在の日本の天皇家と復興した朝鮮王朝で友好的な王室外交が成されていたはずなんです。
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野島の眼前には、野島と同じく伊藤公が大日本帝国憲法草案をまとめた場所の一つである夏島が見えます。
その夏島の前にあるのが、旧海軍飛行場、現在の日産自動車追浜工場です。

ここ野島は日本の近代化や法治主義化の礎と成った舞台でも有り、良くも悪くも、両方の歴史を伝える歴史遺産群が密集した場所でもあるんですね。
先人の苦労と同時に、明治政府樹立による法治主義の開始や鎖国からの脱却の重要性や、防衛戦争の必要性と、戦争の負の側面も考えさせてくれる場所であり、そして又、前政権徳川家の紀州藩別邸跡の有った場所であり徳川家が御参りした野島稲荷神社が現存し…
金沢八景の一つであり文化醸成地だった、横浜市民のみならず日本国民にとっても大切な場所と言えます。

夏も終わりですね…
皆さん、体調を崩されませんように。
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

ブログネタ
日本の政治 に参加中!
円海山を御存知ですか?
今、その円海山と言う山の「瀬上沢」と言う沢で蛍を見る事が出来ます。
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画面ぶれててすいませんね、街灯の無い真っ暗な農道での撮影…携帯ではこれが限界でした。

6月7日、横浜市港南区磯子区栄区にまたがり鎌倉まで繋がる横浜最後の大森林、そして平安時代からの武士達の駆けた鎌倉早駆けの道の史跡が林道として残る円海山に蛍を観察に行ってきました。

蛍が見える場所は横浜市栄区の旧上郷高校、今の栄高校のすぐ下の谷に流れる瀬上沢です。
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この栄高校の有る場所一帯は奈良時代からのタタラ製鉄遺跡が出土した史跡だった場所であり、その瀬上沢も奈良時代から今に灌漑水稲耕作を今に伝える文化醸成地であります。
大げさでは無く、この一帯の田畑は農業の史跡であり、古代からの灌漑施設の史跡とも言えます。

今日、蛍は5~6匹出てきて可愛いオシリの優しい光をホワ~と照らしてくれました…
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携帯だから良く写せないけれど、それでも優しい光がわかりますよね~♪

小生が子供の頃は、良く瀬上池にザリガニを獲りに自転車で行って、みんなで瀬上沢で水遊びしたり瀬上池で釣りをしたり、林道を駆けずり回って遊んでいました。
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昔はもっともっと沢山の可愛い蛍が見れたんです。
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左上の2匹の蛍君達…オシリが光ってるの判りますか?
昔わね~瀬上沢には天然のフナもいたんですよ~!
今でも瀬上池にはいますけれど、もう、瀬上沢にはフナはいません…


この瀬上沢周辺、局地的に見るとぱっと見は有り余る自然に囲まれているようですが…
瀬上沢

少し離れて見てみると…
瀬上池の位置
…丘の上を宅地開発されてしまい自然環境が劣化したせいで蛍も激減し、フナも消えました。
沢蟹も減り、トンボの幼虫のヤゴのエサになるカワニナも減り…
この瀬上沢も自然環境が崩壊寸前、歴代市長の御蔭で首の皮一枚、繋がっている状況でした…

が!

近年、歴代市長や市民の意志を踏みにじり、ふとどきにも!この沢の自然環境にトドメをさして宅地開発しようとする業者とそれを止めない市長が出てきてしまいました。
東急グループと、その労組と、林市長です。

蛍を消し去る意志が無かろうが、宅地化した瞬間に間違いなく蛍は消えます。
結果的に消えてしまえば、自然環境を破壊したのは開発した業者」と、その業者の労働者の代表の「労組」と、歴代市長の「里山思想に基づく円海山の保護」と乖離した「開発容認する市長」です。
つまり、この瀬上沢においては「林文子市長」と「東急グループの労働者」と「東急グループの経営者」と言う事に成ります。

皆さん、横浜市にこんな素晴らしい自然環境が首の皮一枚つながった程度の危うい状況で残っているのを知っていましたか?
円海山は横浜市で一番高い山なので風景も綺麗です…
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この通り、まだ神社や御寺が生活に密着していた昔の古代~戦前、多くの関東地方の先人が「此花昨夜姫(このはなさくやひめ)」の化身として仰ぎ見た富士山も綺麗に見えます。

先に述べましたが、円海山の林道は鎌倉武士達が利用した古道の史跡で、今でも朝比奈峠の朝比奈切通しへ通じています。
皆さん、蛍を見に行って古代人から受け継いだ自然を鑑賞してみませんか?
可愛い蛍君達に、弱ってしまった自然の中、ギリギリ残った儚(はかな)い可愛さを見せてもらい、瀬上沢の自然の大切さを感じて見ませんか?

円海山に富士山を見に行って、先人達が女神さまとして拝んだその美しい姿を心で感じてみませんか…?

この円海山は文化醸成地だったので、以前のブログ記事で紹介した竹林の風景が美しく古典落語「峰の灸」の舞台に成った「円海山護念寺」と言う御寺や…
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元々は護念寺の本院だった安養山 峰の阿弥陀寺も在ります。
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この阿弥陀寺は浄土宗総本山である京都の知恩院の第四十六世、了鑑大僧正を排出した由緒の有る御寺でも有ります…

瀬上池と瀬上沢の近く、山の反対側には思金神社も有ります。
この神社の御祭神の「思金神」は日本神話で知性を司る神様で、天照大神が天岩戸に御隠れに成った際、天照大神を表に御導きする作戦を考え周囲の神々に指示を出した名参謀です。
こんな知識の神様が鎮座し、大僧正を排出し、古典落語の舞台にも成った円海山ですが…
可愛い蛍も「瀬上沢」で待ってくれていますよ~!

皆さん、鎌倉文化や古代人の歴史を刻んだ円海山、是非、この機に散歩しみて下さい。

注意!
蛍を鑑賞する際は以下の事を順守して下さい!

蛍を見に行く時は大人数で行かない!…大人数の集団だと虫さんがビックリして逃げてしまします!
暑くても長袖長ズボンに虫よけちゃんと塗って行くのをお勧めします。…自然の中、夏、当然、蚊がいます。
タバコを吸わないで!…火事の元な上に、匂いで虫が逃げます。そもそも条例で禁止されています。
火気厳禁!…当たり前。見かけたら通報します。
ゴミは持ち帰れバカ野郎!…そもそも自然公園でゴミを出すな。
夜中に騒ぐなバカ野郎!…風流の欠片も無い事をするなら来るな!騒ぐなら昼間の川遊びにしろ!てか祭りに行って騒げ!てか寧ろ日本人辞めてどうぞ!
以上、宜しく。



速報です!
戦国時代の小田原城虎口遺構部分の「百姓曲輪」が間も無く宅地開発され消失します!
※写真の赤字現在地」のすぐ上、「北条期虎口」と「百姓曲輪」と表記の部分です。

今発掘調査中で、調査後は跡形も無くなります。
小田原城は範囲が広大過ぎる為、八幡曲輪や今の城址公園部分以外は「調査→開発」は正常なルーチンなので止むを得ません。
本日確認してきました現状としては、既に更地化された部分の土砂崩れを防ぐ為に雨水の誘導溝が掘られてしまってます。
御近所の住人の方にも確認しましたが、空堀の発掘調査ではなく土建屋による土砂崩れ止めだそうで、遺構破壊ではありますが止むを得ないと思います。
樹木の無い裸の斜面を放置すると災害が起きますからね。

因(ちな)みに、八幡山古郭にある小田原城縄張り図と、今日、百姓曲輪と虎口を自分で見てきた結果、予想する縄張りの構造は下の衛星写真に枠線で記してみました。
戦国期小田原城 百姓曲輪 虎口
ただ、既にこの雨水の誘導溝、城史跡に無知な土建屋は発掘調査中にも関わらず、百姓曲輪の「右側の張出し形状の曲輪」跡や帯曲輪と思われる部分にも穿たれていました。
左側に至っては、既にだいぶ削られ原型は失われています。
ここ↓右側の張り出し構造
この百姓曲輪、戦国時代の詰めの小田原城本丸、八幡山古郭や本曲輪に攻め込もうとする敵軍を久野地区側から挟み撃ちにする位置に在ります。
ですので、此方(こちら)側の丘陵も嘗(かつ)て曲輪群が有りました。
百姓曲輪の頂上には当時の尾根伝いの土塁遺構と思われる地形と、その百姓曲輪虎口の出入口と思われる尾根伝い土塁の切れ目が残っていました。
それより重要そうな地形が百姓曲輪と土塁を挟んだ丘の反対側斜面の虎口に成る筈の場所にやはり残っていました。
城跡のセオリー通り、重要な登城口や曲輪の跡に在りがちな家臣や地元民の子孫が史跡を守る為に建てる小さな「御社(おやしろ)」を見つけたので…

その場所、人工的に横長の長方形に空堀と切岸で地面が削り込まれた地形でした。
現地写真だと垂直に地面が切り込まれているの分かりづらいでしょうか?
この↓部分です。
写真縄張り図の丁度中心部ですね。
ただ、小生の見た印象だと…
縄張り図のような土橋遺構の有るような地形では無く、寧ろ前面の切岸と側面の空堀状の地形から「角馬出し」の様に見えました。
角馬出しとは四角形の曲輪の両側が出入口に成っている出撃し易く守り易い防御施設の事です。
そこに柵列と門を当時は設けていました。

場所は「八幡曲輪」と「本曲輪」の在った神奈川県立小田原高校東側の谷を挟んだ反対の丘、養林寺と慈眼寺の間の更地一帯です。

小田原駅から、それ程は離れていないので歩いて行けますし、車なら小田原高校周辺のスポーツ公園駐車場も使えます。
もちろん小田原城からも徒歩で八幡山古郭や小峰の大堀切と合わせて訪問出来る距離です。
無論、ちょっしたハイキングくらい歩きますが。
距離的には現在の小田原城本丸から1kmくらい、直行するなら徒歩なら30分かかりません。

因みに江戸期小田原城の見物後のオススメの散策順路とは以下の通り!
逆に回れば戦国期小田原城遺構を見てから、今の小田原城址公園の江戸期小田原城を巡るコースに成りますよ!

本丸天守閣から古小田原城散策スタート!
徒歩5分→戦国期東曲輪
徒歩5分→戦国期三味線堀遺構(小田原高校南東)
徒歩1分→戦国期本曲輪土塁遺構
徒歩10分→小峰の大堀切
徒歩15分→戦国期百姓曲輪と虎口(角馬出し?)
徒歩20分小田原駅/徒歩30分超小田原城址公園

ですので、小田原名物お土産の「外郎家」の「お菓子のういろう」

と山一の蒲鉾

は小田原城見学前か帰りに買うのがオススメです!
外郎サンとこには駐車場が有ります。
鈴廣の蒲鉾が欲しい人は小田原駅東口駅前に店が有りますよ!
曽我梅の梅干しは小田原城本丸の売店で販売してます。

では皆さん!
この百姓曲輪と北条期小田原城虎口遺構を見れるのは今の内だけですので、是非見学されてはいかがでしょう?

※次回記事は書きかけの小田原城の記事を更新予定です!
その後は神奈川区神大寺跡の「塩嘗め地蔵尊」か、「小机城址祭りで見つけた美人ママさん女武者隊」の城と趣旨離れた記事書く予定です。
その他に持ちネタは…
⚫︎蒔田吉良家世田谷城址で招き猫発祥の地のである井伊家の菩提寺豪徳寺
⚫︎世田谷八幡宮を中興した吉良家と杉田八幡宮を中興した間宮家が鎌倉鶴岡八幡宮を再建した話し
⚫︎北条家赤備え大将北条綱高公の御廟が昔在った法華寺跡の東京都目黒区円融寺
…などです。
※書く順番は気分次第(笑)

では又、次のブログ記事で会いましょう♪

ブログネタ
春の花、どの花のどんな姿が好き? に参加中!
横浜市に「茅ヶ崎城址公園」と言う、奇跡的な保存状態を維持したまま公園化された御城の跡が在(あ)るのを御存知でしょうか?

史跡の保護と言うのは、その時の市長の文化度の高低によって左右されます。
例えば以前の市長さん達が文化や歴史に対する意識が高くても、一度(ひとたび)アフォで無文化な市長を選んでしまうと、それまで保存状態良く保たれていた史跡も無文化市長の政策で跡形も無く破壊されてしまいます。

特に横浜市は様々なタイプの市長が目まぐるしく変わりましたが、この茅ケ崎城址公園は地元民有志により奇跡的な保存状態が保たれた後、幸運にも高秀市長や中田市長の政策で公園化され、現在に至(いた)ります。

どの位に「奇跡的」な保存状態かと言うと、もう一枚、航空写真を見て貰うと良く解ります。
横浜市営地下鉄、センター南駅前の歓楽街が目と鼻の先に在るんですよ!
つまり、地域住民が土建屋の乱開発に抵抗し城址を守り抜き…
その後、再開発計画に参与した高秀市長や中田市長がたまたま郷土愛と文化度の高い市長さんだった奇跡の結果に成立した城址公園なんです!

徒歩で直ぐの距離には、義務教育の歴史で習う全国屈指の規模を誇る弥生〜縄文時代の遺跡「大塚遺跡」も在ります。
※写真は横浜市歴史博物館の展示物

で、更に同地域には徒歩圏内に横浜市歴史博物館があり、茅ヶ崎城址公園や大塚遺跡の出土品も展示されています。
横浜市歴史博物館については、いずれ改めて記事を書きたいと思います。

茅ヶ崎城址公園、小生は今回の訪問で2回目です。
今回は城址公園の写真撮影と、横浜市歴史博物館の企画展示を見学する為に再度の訪問となりました。

さて、上の写真の通り、茅ヶ崎城址公園はセンター南駅を東側に進むと目の前直ぐの「こんもりとした森」の様に見えているので誰でも辿(たど)り着(つ)けます。

今回、小生は歴史博物館に車を停めて、そこから川沿いに徒歩で訪問しました。
途中、河原には可愛らしい「菜の花」が群生し開花しており、天気は生憎の曇天でしたが心をパッと明るくしてくれました。
この川、「早渕川(はやぶちがわ)」と言う川で今でこそ河川改修工事され穏やかな流れですが、名前からしても…
早…流れが早く
渕…水深の深い渕(ふち)のある
…だった事が容易に想像出来ますよね。
この川が茅ヶ崎城の外堀の役割りを担っていた訳です。
川沿いには菜の花の他に、地元の方々から大切に守られ日々拝まれて来た「堰の元地蔵尊」と言うお地蔵様が鎮座してらっしゃいました。
別名「子育て地蔵」との愛称で呼ばれ、昔は七五三の御参りに来る親子連れが沢山いたそうです。
今でも河原を散歩する親子連れや塾通いの子供を見守って下さっていますね♪

さてさて、この川沿いの道を途中で南側の丘に向かうと、其処(そこ)に茅ヶ崎城址公園が在ります。

センター南駅側から来るなら、おそらく昔は城の一部だった円通閣と言う御寺さん側から入って来る事になります。

だいたい、この様な旧城域内の端には御寺が在り、昔は出城や殿様の屋敷が在った場所だったりするんですが…
伝承無く、更に無住職に成ってしまっている様なので詳しい話を教えを請うべき方が居らず、今では良く判りません…。

さて、城域の話題に触れたので、茅ヶ崎城の小生の想像する範囲を航空写真に赤線フチどりして見ました。
恐らく、この赤線が外堀と外郭だった範囲だと思います。

想定の参考にしたのは、事前に横浜市歴史博物館で見学した再開発直前の航空写真と↓コレね。

あと、城址公園にある茅ヶ崎城残存部の縄張り図にある等高線から重機ではない人の手による土木作業で削り出したと思われる地形と、その延長線上の予測から範囲内を想定しました。


ちなみに城址公園のある台地は城址らしく断崖絶壁に成っています。

下は消失してしまった郭(くるわ)と城址残存部の郭をつないでいた↓土橋の断面。
現在の城址公園は外郭(がいかく)部分が宅地化により消失してしまいましたが、それでも内郭に当たる主要部分の曲輪/郭(くるわ)群が状態良く保護されています。

城址に入ると、先ず北郭(きたくるわ)の平場が在ります。
此方(こちら)には公衆便所(笑)も有り、城址訪問の悩みの種のトイレに困る事も無く見学が出来ますよ〜♪。
小生、最初に来た時にこのトイレに助けられました…。
下は一応、説明文の写真。



北郭を抜けると正面に「中郭」にぶつかります。
今でも郭の高さ5mは有りますが、風化する以前の戦国時代は郭の上の土塁は今より1mは高く、更に今は遊歩道に成っている空堀は1〜2mは不可かったはずなので…
当時の高さは堀底〜土塁まで比高8m近く有ったはずです。

中郭を目の前に堀底道はT字路に成り左右(東西)に分かれますが、左の東郭側は本丸に当たり当時は直接登れないフェイクの道でした。

ですので正しい順路は右回り西郭側です。この↓道ね。

さて、城の本来の縄張り上の侵入経路を辿(たど)ると、その先に、此れ等の内郭群の防御拠点の虎(小)口と言う施設に行き当たります。
説明図の様に先に進む敵を左右の中郭と西郭から挟撃(きょうげき=はさみうち)にし、郭の上から防御側は弓矢鉄砲を雨あられと敵に打掛け殺害する訳です。

この虎口の道は先述の通り空堀の底です。
下の写真が虎口で、右手が西郭、左手が中郭です。
昔は中郭に侵入するには、防衛側に狙撃されながら道を進み遠回りするか…
この東西の郭に掛かっていた「引き橋」を渡るしかありませんでした。
しかし引き橋は戦時に収納してしまい、攻撃者の侵入を遮断してしまえます。
ですから、西郭の守りが危うくなると守備兵を中郭に撤退させ橋を引っ込めてしまう訳です。

下は西郭の入口です。
西郭に入ると下の写真の様に更に一段高い土塁が有り、中郭と同じ高さに至る構造に成っています。
今は薮化が激しく藪こぎしないといけないんですが…
 
…イテっ!と思ったら、写真の野バラがGパン越しに足に刺さってました。
皆さん、これから夏に近づきます、野バラだけでなく藪こぎする際はスズメバチにも気をつけましょう。

痛い植物も有れば、可愛らしい植物達も沢山さいています。

綺麗ですよね~♪


虎口を抜けると、いよいよ本丸の東郭へ続く中郭への進入口ですが…
 
恐らく、この道は公園化の整備を行った際に後から設けられた道だと思います。
根拠は土塁が無理やり切り取られている事と、こんな攻め込み易(やす)い構造にする訳が無いからです。
少なくとも、写真右手の遊歩道は無く急斜面と帯郭に成っていたはずと個人的に想像しています。
 
中郭南側には北条流の築城術特有の「二重土塁(にじゅうどるい)」と呼ばれる構造があります。
二重土塁とは土塁の内側に守備兵の待機スペースを更に一段設けた構造の土塁の事で、これにより守備側はしっかりした足場や弾薬補給役の兵士を配置できるので、鉄砲や弓矢で狙撃しやすくなる訳です。

東西北は一般的な土塁が設けられています。
戦時には、この土塁の上に柵列(さくれつ)を設け、更に其処に木盾や竹束を置き、攻城側の攻撃から身を守る事が出来る訳です。

上の写真は土塁の二重構造が解り易いですね。

 
この中郭は最大の面積がある郭で、此処では弾薬や兵糧を保管したと思われる倉庫の礎石や、食器の破片が発見されています。
下は説明看板。

これ等の出土品は横浜市歴史博物館で保管展示されています。

この他に、当時の生活で燃料にしていた炭の話の解説看板も有ります。
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で、中郭、実は本丸ではなく、更に奥に指揮所だったと思われる東郭があり、そこに繋がる土橋が現在も残っています。
中郭から東郭を見ると、東郭の方が更に高いのが解りますね。
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此処から周辺を見渡し、戦争指揮を執る事が想定されていたんでしょうね。

東郭から中郭を見ると、まだ桜が綺麗に咲いていました。
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丁度、東郭の斜面がムキ出しに成っていたのですが、これは良い関東流の築城術を説明する材料に成ります。
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今でこそ、どの城址も鬱蒼(うっそう)とした植物の林に覆(おお)われていますが、戦国時代当時は、このムキ出しの切岸(きりぎし=人工的に削った斜面)のように、植物は伐採され土が地表に出ていました。
こうする事で、敵は登れなくなる上に更に水をブチ撒けドロドロにして置くわけです。
そしてそして!
その敵が滑って落ちる切岸や空堀の底には「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれる敵を串刺しにする為のトラップが設置されていたんですね…。
足滑って滑落したら即!死亡あるいは重症確定!…みたいな、石垣の城よりエグイ、30代以上には通用する言うなれば「リアル風雲たけし城」だった訳です。

今では、茅ケ崎城址の様に保存状態の良い城跡は、横浜市内では小机城位になってしまいました。
小机城は港北区、茅ケ崎城は都筑区ですが、両区共に以前は「都筑郡」と「橘郡」と呼ばれた地域から分離した同じ文化背景を持つ地域です。
この2城が状態良く保存されたのは、地域住民の保護活動の結果です。
本当、旧都筑郡と旧橘郡の地元住民の皆さんは郷土愛が強いんですね。
頭が下がります。
2015-04-11-17-07-57

この城の中郭と東郭からは都筑区の町が見渡せます。
この城の殿様が、今の風景を見たら、こんなに変貌したのに城址を守って下さった都筑区民にきっと御褒めの言葉を下さるんじゃないかと思います。

では、皆さん又、次の記事で!

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