歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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カテゴリ: 歴史的教訓

想像力の無い教育委員会と、扇動されやすい大衆迎合主義バカ共の偽城郭ファンと俄ハイカーのせいで貴重な景観が失われた。

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竹田城址の有名な一本松が地面を踏み固められた事で枯れてしまった。
こうなる事は観光客が異常増加したのに立ち入り可能区域規制をしなかったので、多くの城郭ファン達は想像していたはず。

竹田城はアホな土木事務所が遊歩道建設の為に城郭の一部を損壊させたり、アホな観光客が事故起こしまくったり貴重な遺構を踏み荒らし前々から城郭オタクは警鐘を鳴らしていたんだが・・・

同地は安土桃山~江戸時代初期に横浜の殿様で徳川家康公の軍師だった間宮直元公が但馬奉行として治めた土地なのでハマっ子歴史好事家(マニア)としては非常に腹立たしい。

土木事務所と観光振興課の人、反省してね。
朝来市役所と県の各部署と城郭専門家を集めて色々想像して議論すれば、朝来市の
観光業と共存しながら未来に竹田城は保存状態良いまま残せるはずですよ!

ガラ携に熊本大地震被災前の熊本城の写真が残っていたいのでBluetoothでスマホに写真写しました。
なので、熊本城の以前の写真を貼るだけですが、皆にも見て貰いたいと思います。

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この長石垣も崩落したんだっけか?
確か、神風連の乱で反乱を起こした旧武士階級の多くがここで亡くなったはず。
小生が尊敬し、旧北条家臣の忠臣間宮家が統治した江島神社と江ノ島をこよなく愛した児玉源太郎閣下が反乱発生の翌日から指揮を執ると瞬く間に200人からの反乱武士は鎮圧された。
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枡形。ここに侵入した敵勢は前左右から鉄砲で狙撃され射殺される。鉄砲だけで無く弓矢を雨あられと射かけられ体中串刺しに成り、熱湯と沸騰した糞尿を掛けられ身体に高温の下痢糞がへばりついて深刻な火傷を負ってしまうんだな。
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多分、宇土櫓(うとやぐら)だったと思う。伝承では売国奸賊の小西行長の居城、宇土城から移築された旧宇土城本丸だとか説明が有った様に記憶しているが、年代的に整合性が無いと言う趣旨の説明をどっかで読んだような気もする。
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曲輪側から見た宇土櫓かな?この石垣は崩落したんだっけ?
崩落した箇所の耐震性不足の原因は昭和の無学な土木事務所が公園整備の際に地面掘り返して石垣裏の栗石(くりいし)を全て抜いたしまったせいで耐震性が弱くなっていたって専門家が解説していた。
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どこか解らないな~。本丸御殿では無いと思うので宇土櫓の内部だろうか?
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大天主、小天主の外観。
出来れば今回の被災を契機に鉄筋コンクリート製のこのビルも木造復興した方が良いとも思うが、先ずは石垣の復興が最優先。
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熊本県民の皆さんにとっては心の支えであり、日本人にとっては城郭の完成系であり宝とも言える熊本城、早く復興して多くの人が笑顔に成ります様に・・・

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まだ未参詣なのですが、海老名市今泉に浅間大神と言う神社様が在りまして、Twitterで御話してたら面白い事が解ったんで転載して見ます。
久良岐のよし 自作指輪アイコン
小生。自作の指輪をアイコンにする一般人素人歴史オタク。だから失礼な質問もしてしまいます。
間違いを色んな宮司様や和尚様に指摘して頂きながら民俗伝承史書実情を繋げるのが好きな人。

有鹿神社宮司様
有鹿神社宮司様、海老名の郷土史に御詳しく歴史学者よりも周辺民俗学に御詳しい方々と勉強会を開かれる熱心な方。

小生と有鹿神社宮司様とは直接関係有りませんが、有鹿神社奥宮の神秘的な様子が好きで参拝以来、Twitterでフォローしています。

さて、有鹿神社宮司様が海老名市今泉の浅間大神が農業にとってとても大切な神様だとTwitterで解説してくださっていました。しかし素人の小生には浅間権現=此花咲耶姫(このはなさくやひめ)命=富士山とステレオタイプで余り海老名の事はまだまだ知らないので普通にこんな疑問が湧きました。
「絶対に富士山が見える場所のはず」
所が御当地の“浅間大神様では富士山が見えない立地!”と衝撃の事実を御教授頂いた小生、そこから少し調べものしたら色々繋がりました…

以下はTwitterのやり取りの転載。

有鹿神社宮司様
浅間大神は、木花咲耶姫を祭神とし、また、海老名耕地の用水を守る位置に鎮座する、という問題について用意した回答です。
「山の森林に雨が降ると、雨は浸み込み腐葉土などで濾過され、酒清水の湧き出す泉となり、川となり、大地を潤し、また、海に流入し、漁場を形成する。 そうすると、山と水は関係するので、浅間大神は、山の神であって、水の神ということになります。」
   ↓
有鹿神社宮司様
海老名耕地は、今も、碁盤の目のように、古田条里制の名残りを示しています。古くは、有鹿の泉を水源の一つとする鳩川を用水としていました。いや、鳩川沿いに農耕地が広がり、海老名耕地にまで到達しました。 そのため、この用水の節や分岐点に鎮座する数多くの神社があり、浅間大神も一つです。
   ↓
有鹿神社宮司様
かって、世の男性が細君を「山の神」といっていたことがあります。 山の神の娘は、美人の「木花咲耶姫」ですね。自慢しているのでしょうか。 実は、もう一人娘がいます。それは、醜女といわれる「磐長姫」(磐長姫)です。 どうも、夫が謙遜して、こちらの方を行っているように思われます。
   ↓
久良岐のよし 自作指輪アイコン※ここで無学な小生がしゃしゃり出る。
木花咲耶姫命の存在そのものが神仏集合時代の富士山信仰の対象でして浅間権現と呼ばれていますので、寧ろ世の男性は御妻君を建てたのが山の神かなと。 そして・・・
山の神なので抗う事の出来ない存在=独裁者=恐妻=かかぁ天下 ・
・・と比喩で自分の存在を矮小化して失笑を誘う洒落かとも。
   ↓
久良岐のよし 自作指輪アイコン
宮司様には釈迦に説法、神に道を説くような無礼を失礼致します。 余談ですが磐や巖は山の象徴とされますから、磐長姫も含まれているかも知れませんね~。
結局、美人でも非美人でも奥さんには抗えない男性が今も昔も多いのかも。
小生は美人だろうが権力だろうが理不尽に従いませんが。
   ↑
(※小生の思考なぞどうでも良い余計な事を書く。馬鹿丸出し。)
   ↓
有鹿神社宮司様※ここで寛大な宮司様が無礼を看過下さりレスポンス下さる。
その通りです。有難うございます。
   ↓
有鹿神社宮司様
浅間大神は、古くは、海老名耕地の用水を守る神として祀られていたと考えられます。 その後、水神としての性格を維持しつつ、時の領主が信仰する浅間神社の神霊を勧請し、特に、浅間大神という名称で地域性を出しています。 神社の名称は、地名と同様に、時の権力者により変更されて来ました。
   ↓
久良岐のよし 自作指輪アイコン※ここで疑問を質問する。文字数都合で話し言葉の失礼な文。
富士山が見える場所に鎮座してらっしゃるんじゃないですか? 江戸時代の旧甲州街道沿い相模川上流の桂川沿いなんかも富士講の富士山遥拝地の御祓をした河原近くとか遥拝地跡には必ず浅間権現の石碑が在りますよ! もしかしたら、その浅間権現の在所は旧甲州街道に通じた道では?海老名だし。
   ↑
※本当は敬語で書きたかったんです(泣)!
   

有鹿神社宮司様※又も寛大に小生の無礼口調を見逃して下さる宮司様。
ところが、富士山が見えないのです。だから、富士塚をつくりたいと願っております。
   ↓
ここから少し調べ物を始める小生…
   ↓
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面白い事が解りました。 海老名市今泉の浅間大神からは間違いなく富士山が見える様です。 正確に言うと、昔の人は富士山の位置を正確に把握していらっしゃった様です。 未だ参詣していなので余計に先入観無く調べる事が出来ました。 さて、御当社からは添付の風景が見える筈です。 大山。
海老名市今泉浅間大神は大山と富士山の遥拝所① 久良岐のよし
   ↓
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御存知の通り、石山権現大山阿夫利神社上社の御祭神、大山祇大神様と大雷神様が祀られてらっしゃいますが、浅間権現此花咲耶姫命様の御父神様に当たられます。 実は海老名市今泉の浅間大神から大山阿夫利神社上社を遥拝すると、その背後には富士山が存在しており、昔の人はこれを知る術がありました。
海老名市今泉浅間大神は大山と富士山の遥拝所② 久良岐のよし
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現代人の我々にとって富士山は休火山です。死火山ではありません。 古来の名の通り富士山は不死山な訳ですが… 浅間大神の御社が成立した時期をずばり質問致します。
   ↓
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富士山の延暦十九年~二十一年(800年 - 802年)の噴火の頃か…
貞観大地震が起きて噴火した貞観噴火の年、貞観六年~八年(西暦864年~866年)中もしくはその直後、或いは…
江戸時代の宝永四年(1707年)の富士山の宝永噴火の直後、そのいずれかの頃の成立ではありませんか?
   ↓
有鹿神社宮司様
延暦元年(782)と言われています。
※この成立年代で延喜式神名帳に掲載は無いが式外社だと間接的に教えて頂いている事に成る。
   

久良岐のよし 自作指輪アイコン
お!じゃあそれより前の噴火が有るかも知れませんね!

今検索した所、天応元年(781年)に大噴火が起きていますね! これに対応して神社が開かれたと推測出来ますね!
   ↓
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この歴史事件や地理に基づき考えると自ずと昔の人がどうやって大山山頂と富士山がピッタリ重なって見える位置に浅間大神様の御社を開いたかも解りますね。 つまり噴煙の位置が大山山頂から見える位置まで徒歩で移動して勧進した御分霊を祀ったと考えられます。
   ↓
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そして富士山と相模川と鳩川を挟んで反対側なのは、二段構えの火砕流防壁の願いも込められていたのではないかと思われます。 源頼義公が鎌倉材木座、昔は由比と言った場所に八幡社を勧進し源頼朝公が横浜市金沢区富岡に兵庫県西宮市の西宮神社から蛭子神様を勧進した防潮の願いと同じ防災祈願かと。
   ↓
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恐らくこうなる訳です。
①正確に富士山の位置が判る時代、噴煙の上がっていた時代に浅間大神の御社は造営された。
②富士山の噴火を恐れた防災の為の神社で、富士山と大山の遥拝所であり祭祀場所としてスタート。
③立地は火砕流予防の願いを込めて大河川のこちら側。
   ↓
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④天応元年(781年)に大噴火があり、社伝に延暦元年(782年)の造営と伝わるそうで、天応大噴火の鎮化を願った神様の可能性が高い。
⑤娘(富士山)さんが怒っているので御父(大山)さんに守ってもらおうとした。
⑥恐らくは江戸時代に宝永噴火等あり富士講に大切にされた。
※この段階で浅間大神の神様の農業用水守護としての役割が頭からすっ飛んでる小生。
   ↓
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こんな感じだと思いますが、夜分失礼しました。 宮司様、地理関係と噴火年代と神社の造営年代の一致、小生は偶然では無いと思いました。
ちょっと面白かったので、ブログにそのまま転載して掲載してみます。
   ↓
有鹿神社宮司様※寛大な宮司様、小生に農業用水守護の役割を思い出させて下さる。
いろいろと推測していただきましたが、有鹿神社から国分寺に続く一大縄を底辺とする三角形の頂点にあります。また、海老名耕地の用水の分岐点にあります。そこで、海老名耕地の稲作のための用水事情を背景として、水の神と考えています。
   ↑
※この宮司様のご指摘はとても大切で、農業用水に限らず小田原用水や玉川上水等の上水道も全ては最初の用水の幹線からの分岐点が最重要、そこに鎮座している事が凄く大切。
   

※これを受けて小生は思った。海老名の用水路はわざわざ富士山と大山が重なって見える場所に噴火の跡の農地復興の為に、噴火の鎮化と農業守護の目的で“有鹿神社~国分寺に続く一大繩を底辺とした大三角形”そこを頂点として浅間大神の神社が開かれ、そして神社の勧進と供に現在の用水路網の原型の建設が始まり、用水路と供に現在に至るのではないかと。
   ↓
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確かに農業用水の神様としての機能は主要な御神威だったでしょうね! 何せ富士山と大山が重なる。 富士山噴火開始の翌年の創建。当然、火山灰が大変な事に成って農地も存続の危機だから水の神様の大山阿夫利神社の大山祇大神と高お神様に富士山が隠れる位置が大切。 そして農業の聖地鳩川。その水で復興する海老名の農地。用水路も水田も再建され、復興の願いの込められた浅間大神様な訳ですね。
※鳩川は有鹿神社奥宮、縄文時代の遺跡のど真ん中に在る聖地の断崖から水の湧く有鹿窟を水源とした聖なる川で、流域の農業用水として活用されていた。
※大河川の相模川の河川敷からそう遠く無く、川近くの平原に弥生時代に人の定住は無かったと少し前まで歴史学者は発掘調査もせずに一笑に付していたが昨今、海老名市を始め相模川等の大河川近くの平原部からどんどん弥生時代の遺跡が発掘され神奈川県の古い神社の伝承が正しい事が多い。県内の河川近くの平地に従来の考古学の一般論が通用しない場所が多い事が近年、証明されている。
   ↓
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この条件が全部丸っとスッポリ治まるのが今泉の浅間大神様に成りますね。 恐らく宮司様達の伝承が主要な目的で、その為の鳩川を守る場所に富士山鎮火と大山阿夫利神社の降雨の御神威を勧進したのかなと。 それで富士山山頂、大山山頂の真っすぐ延長線上で、海老名の三角形頂点に置かれたのかなと。
   ↓
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凄く神秘的な立地でとても楽しかったです。 では本当に夜分失礼しました。また、重ね重ね御教示賜りありがとうございます。

以上、Twitterでのやりとり。
やはり地元の古い神社や御寺の当人や博物館の学芸員さんや御詳しい人と話すと、嘘も多い文字から想像するよりも発見が多い。無論、文書を読み込むのもすごく大切で、両方しないとダメ。
小生はいつもなら直接突撃訪問して色々と御教授頂くのだが、今年は何だか体力も無く仕事も忙しく自分の副業もやらないといけず、ジムにも行く暇が余り無い。
去年はそれでも仕事終わってから風呂だけ入って徹夜で遠出し、車中泊で1時間くらい仮眠したら朝から夜まで活動で来たのに…
今年は無理だ。体調悪いのかな?
う~ん楽しみたい。


さて、今回、有鹿神社の宮司様に色々とヒントを頂いたり、無知のままに偶然地図を見て位置関係を把握したり、こう言う楽しみが有るのが郷土史なんだな。
だから皆さんにも御近所の神社や御寺や御城の跡を散歩して、古代の人の痕跡と接して見たり、思いがけない場所でトンでもない歴史偉人の足跡を見つけたりしたら良い気分転換に成りますよ~って御薦めしたい!

そう言えば、2016年と2017年、神奈川県と横浜市によって破壊された史跡や破損させられた古文書も盗難に遭った文化財も沢山有りましたが、国や民間に寄って文化財指定や特別な場所として認定された場所が少し有るので紹介します!
●高部屋神社の社殿…国登録有形文化財 伊勢原市下糟屋
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●高麗寄日本書… 国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
●大乗起信論別記…国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
●華厳経問答…  国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
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●小机城…続日本100名城125番 横浜市港北区小机
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※小机城は全国的に横浜市内に在って奇跡的な保存状態である事や、歴史的にも北条家の軍団の小机衆の拠点として重要性が知られているのだが、未だに横浜市教育委員会が史跡登録や歴史文化財指定申請を行わない不可解な状態が続くので、市による建設利権の為の破壊が懸念される。

是非みなさん、お散歩に行って見て下さい~♪
無論、海老名の浅間大神の御社で神様にも御参りして大山を遥拝してみて下さいね~!

では、又、次のブログ記事で!
次は多分、7月中旬の休日雑記。

毎日新聞記事 日中国交正常化45執念記念鑑真東渡
毎日新聞記事:[鑑真東渡]・・・日中国交正常化45周年記念オペラ
日中国交正常化45周年を記念した中国のオペラ「鑑真東渡(とうと)」日本公演(中日友好協会・江蘇省人民政府主催、ポラリス・毎日新聞社協力)が5日、東京都渋谷区のBunkamuraオーチャードホールで初日を迎えた。約1800人の観客は、苦難の末、日本に渡り戒律を伝えた鑑真和上の生涯を描いた叙情詩を楽しんだ。
    ↑  
小生はこの記事を読んで中国共産党に対して非常に憤りを覚えた。
鑑真和尚は日本の仏教文化のもたらした建築技術向上や精神教育や学問の発展に寄与して下さった偉人である。
小生の個人的な感覚から、その鑑真和尚を中華人民共和国の中国共産党が日中友好の題材にする事は非常に‟違和感と憤り”しか感じない。

鑑真和尚様は尊敬しているが、日中友好の演目に相応しくない。
現代の中国共産党は宗教と文化破壊集団でしかない。
中国共産党は信教の自由を保証しないどころか宗教に政治的に介入し恣意的に宗教指導者を選出しているんだがな?
また、イスラム教の新疆ウィグル自治区での新疆人への弾圧・・・
ウィグル自治区 Googlemap 久良岐のよし
及び仏教国チベットへの軍事侵略と併合と弾圧そして傀儡僧侶の擁立等々を行っている。
チベット自治区 Googlemap 久良岐のよし
どれをとっても、仏教的な事を含めて宗教的な要素を日中友好の演目にする資格は中国共産党にも中国人にも無い。

南宋が蒙古族により滅亡させられた際に、生粋の華人文化国再建を志した本来の仏僧や儒学者や忠義の士達は源頼朝公が開闢した日本武士の政権鎌倉幕府を頼り多く今の鎌倉市に亡命して来た。
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頼朝公が鎌倉の市街地整備の中心に据えたのが現在の鶴岡八幡宮だ。
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そして、その鎌倉に亡命してきた南宋の文化人であり元に屈服しなかった忠義の人々の中でも有名なのが蘭渓道隆和尚様や兀庵普寧和尚様達だ。
鎌倉幕府の第五代執権北条時頼公や跡を継いだ時頼公の子で第八代執権の北条時宗公に請われ世界最強の坂東武者が構成する鎌倉武士団に蒙古族が中国に建てた征服王朝の元朝の情報や兵法や中国語を教授し禅による精神力を叩き込んだ。
特に蘭渓道隆和尚様は鎌倉に住み、日本で最初に法治主義思想を政治的に実現した第三代執権の北条泰時公の菩提寺でもある粟船山常楽寺(鎌倉市大船)に住んだ。
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※粟船山常楽寺の山門、往古の様式を守り茅葺屋根のまま現存する。
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後に北条時頼公の庇護下に在った時に巨福山建長興国禅寺(北鎌倉の建長寺)を開いて武士に仏教、禅の精神、兵法、天文学、中国語等の学問と中国の惨状や蒙古の戦法を日本人に叩き込み、日本防衛と後の明帝国初代皇帝朱元璋による元朝打倒に繋がる偉大な一助を為し遂げられた訳だ。
この建長寺は鎌倉防衛最後の拠点と成る巨福呂坂(こぶくろざか)の切通しの手前に存在し、位置的にも鎌倉市街地にとって重要な場所だった。
更に蘭渓道隆和尚様は日本文化を大切にもされたので現在も神仏分離令の影響を乗り越え建長寺境内には稲荷社や近代に成って新たに建長寺守護神と成った半蔵坊権現等も存在し修験道や神道の文化も大切に受け継がれている。
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この建長寺は戦国時代にも偉大な武将を多数輩出しており中でも太田道灌公、間宮士信・間宮林蔵・杉田玄白の祖先に当たる間宮信冬公に学問を叩き込んだ寺院として依然として機能していた訳だ。
一方、兀庵普寧和尚様も北条時宗公の師として帰依を受け瑞鹿山円覚興聖禅寺(北鎌倉の円覚寺)を開いて日本独自の文化と成った鎌倉文化の醸成と学問の発展に寄与され訳だ。
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尚、円覚寺は後に北条時宗公の菩提寺とも成り御廟が開基廟として築かれている。
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仮に鎌倉幕府執権の北条家が宝治合戦で三浦家の諸将に負けていたら今日の日本が存在したかは解らない。なんせ、臨済宗を保護して蘭渓道隆和尚様や兀庵普寧和尚様から中国兵法や仏教等の学問を導入したのは北条時頼公と北条時宗公な訳だし、何よりも蘭渓道隆和尚達のもたらした蒙古軍の様子や中国語の学習も、戦時に敵の言語を理解し作戦を阻止し戦う為に斥候(せっこう)で非常に役に立った事だろう。

明帝国の滅亡時にも日本に亡命して来た偉大な仏僧がいる。隠元隆琦和尚様だ。いんげん豆の名の由来の歴史偉人だな。
京都府宇治市の黄檗山萬福寺を開き、祖国の文化を日本でbackupした人物だ。黄檗宗は上杉謙信が真言宗と並んで帰依した宗派だったりするが今日の京都料理の発展に影響を与えたのが、隠元隆琦和尚様のもたらした明の発展した精進料理文化だった訳だ。
そして、明の忠臣であり日本人と華人混血児の名将軍、朱成功(初名:鄭森、後に鄭成功に改名、朱姓の名乗りを皇帝より許された忠義の名将軍)将軍は臺灣島をポルトガル植民地支配から奪還し根拠地を確保すると日本に度重なる援軍要請を出している。
仮に織田信長公や豊臣秀吉や徳川家康公が御存命、若しくは徳川忠長公が第三代江戸幕府将軍に就任していたら日本は明を助け、明と日本、南北から後の初代清帝国皇帝のヌルハチを挟撃し撃破した事だろうよ。
ヌルハチの元々の王都は現在の瀋陽市、昔の奉天市で当時は盛都と呼ばれていた。
瀋陽の位置 久良岐のよし
明を裏切った朝鮮人と征服者の清を、明が江南地方(江蘇省、浙江省、福建省、臺灣)から攻め上がり、織田軍団乃至徳川幕府が裏切り常習犯の犯徒朝鮮を攻め下り、嘗(かつ)て日本人大量虐殺と拉致をやった女真族の末裔のヌルハチを明に協力して撃破した筈だ。
そして明の復興を助け、白人によるアジアの植民地化を阻止した事だろう。
余談だが、徳川家光公と権力争いに敗れ切腹させられた徳川忠長公は鄭成功将軍支援に非常に熱心だった事が有名な人物なのだが、今は御廟所は群馬県高崎市に在るのだが、本来ならば静岡市の浄土宗の玉桂山華陽院に成った筈だ。
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華陽院は徳川家康公の祖母の菩提寺であり、又、徳川家康公が今川家人質時代に読み書きを習った御寺でもあり、徳川忠長公が生前に大変に大切にされた御寺だったので忠長公の御存命中は日本中の大名から寄進が相次いで一時期は寺領2万石と驚異の勢力を誇った名刹だ。しかし忠長公の切腹時に当時の御住職が幕府と家光公に対して忠長公の影響力で得た寺領を返還したので、現在は広大な境内を有している訳では無い。
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徳川家康公を可愛がり教育を施した祖母の源応尼様の御廟所や、近代の徳川家当主の徳川家正先生の御手植えの松等も存在する。
更には家康公の愛妾となり姫を生んだ"於久の方(おひさのかた)"こと"間宮於久"様の菩提寺でもある。
そして、間宮於久様の御父君は豊臣軍を痛撃した北条家の忠臣の間宮康俊公であり、間宮康俊公の曾祖父が建長寺で学問を学んだ間宮信冬公に当たる。
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※上の写真は間宮康俊公が城将の松田康長公と300の寡兵で籠城し豊臣秀次の大軍2万6千を痛撃し活躍した山中城址。
更に康俊公の姫である於久の方と同時期に駿府城で徳川家康公の寵愛を受けていたのが間宮信冬公と同時期に建長寺で学問を学んだ関東最強の名軍師だった太田道灌公の曾孫に当たる"於梶の方(おかじのかた)"こと後の英勝院様な訳だ。その法名の英勝院から隠居地の鎌倉市扇ヵ谷にある菩提寺は英勝寺と名付けられた。
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英勝寺の境内は本来は太田道灌公の鎌倉における邸址と伝わる。
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境内の竹林の辺りが、室町時代初期の太田家の御姫様達の居住区域だったそうだ。
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徳川家との縁から寺紋に太田桔梗紋と徳川葵の両方の使用を認められており、背後の源氏山には太田道灌公の供養塔も在る。
そして於梶の方、於久の方と徳川家康公の暮らした駿府城を後に治めたのが徳川忠長公であり、駿府城の経済を担う蒲原奉行を務めたのが間宮康俊公の曾孫の間宮忠次公だった。
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駿府城下の華陽院と徳川忠長公には各時代の徳川家攻防の記憶と建長寺以来の太田家と間宮家の国防意識の高さが受け継がれていた訳だ。
だからこそ、徳川忠長公の鄭成功将軍支援に繋がるのだろう。これは奇しくも明治天皇の明治政府による孫文先生支援にも繋がる訳だ。
中国南京市紫禁山中山陵 久良岐のよし
※上の写真は中国江蘇省南京市の中山陵、孫文先生の陵墓。同じ紫禁山の山中には明帝国の初代皇帝の朱元璋の陵墓である明孝陵と、三国志の英雄で呉の皇帝の孫権の陵墓の築山梅林も存在する。
今、中国に残る宗教指導者は南宋を裏切り、明を裏切り、華人の明帝国を滅ぼした満州族の清を取込み愛新覚羅溥儀を抑留し国家運営の大義名分とした逆徒「共産党」の建てた「中華人民共和国」に媚びへつらって今に至る連中な訳だ。
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※上の写真は台北市の中山記念堂。孫文先生や歴代中華民国総統に関する展示物が有る。
更に言おう。
鑑真和尚始め、歴代の華人の文化を取り戻したのは中華民国だ!
日本に留学し、小生の住まう横浜市の中の中華街等で漢族や日本人の支援を受け、満州族による征服王朝の清を政治的に打倒し華人の下に万里の長城内側の明帝国時代の国土を取り戻し 近代民主主義国家の中華民国の成立に寄与されたのは国民党初代総統の孫文先生だ!

つまり鑑真和尚や蘭渓道隆和尚や兀庵普寧和尚様や隠元隆琦和尚様の法脈を受け継いでいるのは中華民国臺灣の友人達しかいない!
南京の中山陵には先述の通り三国時代の呉皇帝孫権の陵墓址も存在するが、多くの三国時代の英雄達の陵墓や御廟は中華人民共和国に成ってから破壊され埋葬品は略奪された。
例えば江蘇省蘇州市、ここは古くは春秋戦国時代の呉の首都だった場所だが、三国時代にも建業の町が今の南京市に造営される以前の呉の首都として機能していたので多くの名将達の居宅や陵墓や御廟が“中華民国時代まで存在した”のだが文化大革命等の現代中国人による破壊で消滅した。
そもそも蘇州市中心部自体が呉王国の首都、姑蘇(グースー)城址であり、中国共産党の統治まで各時代に増築されたり改修された城壁等も現存した。
その失われた場所は・・・
・陸遜の陵墓
蘇州大学園区校区周辺、葑門址の近く。その門は春秋戦国時代の名将の伍子胥の死亡後にその目が吊り下げられた門でもある。
・周瑜の陵墓
蘇州市呉中区。
・孫権邸址
蘇州市議会の会議中心ホテル一帯。
・・・超有名どころだけでもゴロゴロ、他にも沢山の名将達に関する霊廟と宗教施設が中国共産党によって破壊され略奪された。

そして、今回の毎日新聞の記事で紹介されている「鑑真東渡」の上演は蘇州市の共産党の連中の支援で行われる訳だ・・・矛盾だらけ。

中国共産党は仏教にも全ての宗教にも関与するのを止めて信教の自由を保証すべきだ。
チベットとウィグル族への弾圧も止めるべきだ。
自国の文化財と自然環境を保護し、共産党の唯物主義、拝金主義、軍国主義、民族主義による侵略を止め改めるべきだ。

現代の中国共産党は日中友好の演目に鑑真和尚様を取り上げる資格は皆無だ。



皆さん、鎌倉行ったら「しらす丼」とか「あんみつ」とか御昼時に成ると頭をよぎりませんか?
「だって湘南だし~?」とか思います?
まぁ歴史的な話をすると、そもそも鎌倉市や藤沢市の江ノ島界隈は旧鎌倉郡で湘南にはカテゴライズされない地域です。鎌倉の人に対して・・・
「鎌倉は湘南」
 とか
「名物は"しらす"」
 とか
由比ヶ浜の発音を「ゆ↑いがはま」って発音で言ったら
・・・鎌倉の人から「あ~コイツお上りのカッペだわ。」って腹の中で思われて終了(笑)。
鎌倉の方が湘南よりブランド力有りますからね。昔からの武士と文化人の町ですから。
それに湘南は海鮮?いやいや!肉派の人にも葉山牛が食べれる美味しい店が有りますよ!
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今回はステーキの美味しい店を紹介しますが、湘南に触れたので少し先に解説します。
【湘南】
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※写真は大磯町の六所神社、相模国総社で近くの神揃山は聖地。一ノ宮寒川神社~五ノ宮格の鶴峰山(平塚)八幡宮の神様が勢揃いする神話の場所。
本来の湘南と言うのは地域的には現在の大磯町や二宮町の辺り、相模川から向こうの西側です。
その地域が明治時代に元大名家の華族や豪商の三井財閥の別荘が建ち並び日本初の海水浴地として人気に成ったのが始まりで、風景が中国湖南省の湘南地方に似ていたから文化人達から近代に成って渾名(あだな)された地域名です。実際に湘南と言う地域は存在しなかったのですが、昨今では湘南台などと言う地名も登場していますが藤沢市の湘南台は本来の湘南地域ではありません。
本来、湘南には藤沢や鎌倉は含まれませんし、逗子に至っては徳川家達公別邸が在ったりアチラ側とは又違う別荘地として早くから栄えたり旧三浦郡に属し日本武尊(ヤマトタケル)神話と所縁の地域なので、湘南と呼ばれるのは片腹痛い逗子の方がブランド力が有ると言う所な訳です。
【湘南名物】
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相模湾のシラス(鰯の幼魚)の水揚げ漁港は昔は江ノ島周辺で、後は大磯町や小田原市周辺でした。現在では相模湾で獲れるシラスのブランド化に成功した特産地は旧三浦郡の逗子市であり鎌倉名物とは呼べません。まぁ、湘南地区としてカテゴライズ誤認されて鎌倉辺りの名物とぼんやり思われています。
更に言えば、現代では湘南と誤認される江ノ島界隈での昔からの名物は❝サザエ❞です。
今でも昔の名残で❝江ノ島丼❞を提供する飲食店と民宿は多く有りますが、サザエの卵とじがのった丼を指します。
逗子市も湘南に誤認されていますが、逗子市の隣の三浦郡葉山町の葉山牛が相模湾東側の特産品として現代では有名に成っています。
【本来の鎌倉名物】
鎌倉で昔から有名だったのは❝夫婦饅頭❞です。名前の由来は解りません。御霊神社近くの力餅屋が今でも販売していて、司馬遼太郎先生も❝街道を行く❞の❝三浦半島記❞で紹介しています。

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ですから鎌倉の名物は昔は饅頭でした。
後は鯵(あじ)の名産地でもあったので、今でも鎌倉市の鎌倉駅や大船駅に販売店舗に在る❝大船軒❞の❝鯵の押し寿司❞です。
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写真撮影技術がクソで申し訳ない。
この大船軒、松竹大船撮影所が有った時代には多くの映画スター達が好んで食べた名物駅弁でした。
現代の鎌倉市の御土産物屋さんも色々と頑張って更に新しい名物を生み出していますので、シラス等の海鮮も昔からの鯵の押し寿司や夫婦饅頭と一緒に新規開拓して皆さんで世の中に紹介して上げて下さい!
そういえば、鳩サブレや豆やの豆菓子も現代では名物に成っていますね!
【由比ヶ浜の発音】
由比ヶ浜(ゆいがはま)の発音は・・・
由比ヶ浜(ゆ↑いがはま)の様な❝い❞の発音が上がる読み方ではありません。
由比ヶ浜(ゆ↓い❝が❞はま)と❝い❞の発音は下がり❝が❞を強調します。
この発音の原因は、本来は由比(ゆい)と言う地名が有り、そこの浜辺だからです。由比ヶ浜と言う地名では無い訳です。これと同様に宅間谷(たくまがやつ)扇谷(おおぎがやつ)等の鎌倉市内の地名も❝が❞を強く発音し❝が❞の前の音は強調しません。これは有る意味方言の様な物で生粋の地元民や歴史に詳しい人で無いと知らない事でもあります。

さてそんな訳で鎌倉と周辺の湘南のプチ歴史解説はここまでにして、本日お勧めするステーキハウスの話題に移ります。
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鎌倉駅を降りて直ぐ・・・
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上の写真の御成町とは反対側、小町通りにその店は在ります。
因(ちな)みに江ノ電には600円の一日乗り放題乗車券が有るので、鎌倉江ノ島観光をされる方にはおススメです。
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長谷駅で降りて大仏様の高徳院と紫陽花の長谷寺見物してから❝関東の駅100選❞に選ばれた鎌倉高校前駅の七里ヶ浜で綺麗な風景を見て、更に江ノ島に行ったり色々と遊べますね。
今、鎌倉は紫陽花の季節なので今は人でごった返しています。
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小生は昨日17日土曜日、いつもは車で鎌倉に行くのですが江ノ電に久しぶりに乗りたくて大船から横須賀線に乗って鎌倉に行きました。
目的は某文庫で古文書の写しのコピーを頂くついでに長谷寺に紫陽花を見物に行く心算(つもり)でしたが観光客が多すぎて江ノ電鎌倉駅で入場規制が掛かり乗車40分待ち、これでは長谷寺も入場規制が掛かっているのは予想出来たので平日の休みに改めて行く事にして、先に食事をする為に❝MOTHER`S of KAMAKURA❞に向かいました。
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この店。これは前回、入店を断念した際の写真ですが店構え。
今回は観光シーズンと言う事も有るのかランチメニューが普通に15時少し前でもやっていました。
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値段は2500円からと良心的、小生は葉山牛コース食べたかったのですが古文書のコピーと余計な買い物して又もや5000円のランチは断念(泣)。でもステーキコース予算3300円は小遣いで捻出出来るのでテンダーロインのステーキコースを食べる事にしました。
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御店の内装は鉄板焼き屋スタイル、それぞれのテーブルにシェフが付き、お肉や野菜やシーフードを焼いて提供して下さいます。
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小生の写真撮影技術がクソ過ぎて伝わらないかも知れませんが、とても落ち着いたオシャレな店ですが多くのお客様で賑わっています。
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シェフの手捌きがカッコいい!
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お皿も可愛いんですよ(笑)。
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全てのメニューにサラダと食後のコーヒーが付きます。
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あと撮影し忘れましたがお味噌汁も付いてます。
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目の前でプロの手で焼き上げられる❝肉❞、見ていて実は魚派(笑)の小生もウキウキ。
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見た目だけでなく、とても美味しい!肉は柔らかく、味もシッカリしています。
ただ惜しくらむは小生だけステーキコース、周りの御客様は全員葉山牛コース。まぁそうなるな(笑)。
次回は誰か他地域の友達か海外の友達が来たら連れて行ってあげて葉山牛食べようと思います。
さて、こんな素敵な御店のMOTHER`S of KAMAKURA、以下にアクセス等まとめて置きます!
【葉山牛ステーキ MOTHER`S of KAMAKURA】
葉山牛ステーキマザースオブ鎌倉 場所 久良岐のよし
以上がMOTHER`S of KAMAKURAの紹介です。
この他にも肉料理では以前紹介したトルコ料理の店の❝ARKADAS(アルカダッシュ)❞が小町通の入口にも在ります。
【ARKADAS(アルカダッシュ)】
ARKADASの場所 久良岐の良し

日本の義兄弟国トルコ。ARKADASはトルコ(土耳其)料理の店in鎌倉小町通り
上記が以前書いた紹介記事です。
さて、昨日は食事を終えてから鶴岡文庫で小田原所領役帳と言う戦国時代の関東の事を書くのには絶対に必要な文書の一部をコピーさせて頂き帰宅しました。
鶴岡文庫の司書さんは気立ての良い日本美人さんでらっしゃるので鶴岡文庫へ向かう小生の足はいつも軽い(笑)。あと簡単な文献は大体が鎌倉市中央図書館や藤沢文書館に行くと閲覧出来ますよ!
横浜市には余り無いんですよ。金沢文庫博物館にはまだ少し歴史関連の専門書籍が揃っていますが、藤沢文書館か鎌倉幕府関連や室町幕府鎌倉府の事なら鶴岡文庫、鎌倉市中央図書館に行けば郷土史資料も充実しています。
帰宅してからは先週、御朱印帳のページ追加作成用に小町通りに在る和紙専門店の社頭で購入した千代紙と和紙で御朱印帳を改造しました。
こんな感じで裏側の表紙ひっぺがして・・・
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ページ追加して・・・
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ついでに最初のページに千代紙に飾り付けして、参拝した神社の名前を旧国別で書こうと思っています。
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相模国の一部分書いて面倒くさくなりました(笑)。
最終頁に小生の母方祖先の伊予水軍の棟梁達が崇敬していた大山祇大神を祀る、神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社の大山山頂上社と下社の御朱印を貼りました。

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空欄には大宮の氷川神社と熊本の阿蘇神社、そして他の空欄には既に参拝済みだけど、まだ御朱印を拝領していない神奈川県や東京都の延喜式内社と平安時代の坂東武者から崇敬された式外社の御朱印を改めて参拝し頂く心算です。足りなく成ったら又つぎ足す。
ページの追加の工作の仕方は、少し工夫が必要なので改めて工作カテゴリーで記事にしてみます。
さて、鎌倉の御店には葉山の特産の葉山牛のステーキを食べられる場所が有る事も伝わったかな?
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これは一昨年の写真ですが長谷寺の紫陽花も・・・
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・・・そして北鎌倉明月院も紫陽花が見頃を迎えています。
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是非!鎌倉へ紫陽花見物へお出かけ下さい!そして相模湾名物のシラス丼や葉山牛を食べて舌も目も満足な一日を過ごして下さい!
以下紫陽花名所の過去記事リンクです。

  ↑
上の項目をクリックすると記事が読めます。
では!又、次の解説記事でお会いしましょう!

追伸、今月一杯、間宮家と宅間上杉家と蒔田吉良家関連の執筆活動で更新が遅くなると思います。
ジムも行かないといけないんだけど、今週行けてない・・・。

北朝鮮問題の軍事的解決は「想像絶する悲劇」もたらす-米国防長官
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この人の事は本当に尊敬しています。
日本の物も含めアジアの六韜三略や曹操が編集した孫子等の戦略教本、平家物語や太平記なんかの戦史も凄まじい数を所持熟読してらっしゃるとか。

更には敬虔なプロテスタントで、明治以前の臨済宗や曹洞宗や黄檗宗の僧侶の様な質素で清廉な生活をされ、浄土真宗以外の昔の仏教の様に不犯を守ってらっしゃるとか。
現代アメリカ人版の上杉謙信て所でしょうか?
上杉謙信

もっとも上杉謙信の場合は統治者としての所業は悪人でしたがね・・・
上杉謙信の場合は越後で飢饉が起きる度に掠奪目的で関東に来て、村々を焼き"女子供を拐(さら)って奴隷売買の公設市場を開いて年を越す"なんてトンデモ悪人の側面が有る。
彼が"義の人"と言われる由縁は政治的に権力が弱かった"剣豪将軍"足利義輝公に古今未曾有の忠義を尽くしたからで忠"義"の義なんだな実は。
・・・彼には正義は無かった訳だ。
頼って来た者が武田に侵略された領地に、"奪い返す"大義名分で攻め込んで支配下に組み込んでも実際には保護した者へ領地を返還せずに、代官として利用しただけだし。
そこへ行くと織田信長公は素晴らしい。
織田信長公

織田家が徳川家に度々援軍を送り更に遠江国の支配権を承認し恩賞に駿河を与えた事の寛大さが窺い知れるわな。
徳川家康公

裏切らず、兄貴分の織田信長公を信じて援軍を待ち続け、時には信長公の合戦に参戦した与党として誠実を貫いた本能寺の変以前の徳川家康公こそ正に「義」の人の称号は相応しい。
そこへ行くと徳川家康公の誠実さが良く解る不誠実で利己的な人物の代表は❝お艶の方❞だろう。
遠山家へ嫁いだ織田家の艶姫は酷い。女城主お艶の方として有名な人物だな。
おつやの方

遠山家臣団は織田家との関係を深める為に、艶姫を迎えて織田家と婚姻関係に成る訳だ。
城主は子が無く病弱(親武田派に毒を盛られていた可能性有り?)だったので、織田から見捨てられない為に❝織田信長公の実子の御坊丸を遠山家の養子に迎えた❞のだが・・・
織田包囲網が形成されて武田氏が織田領に侵攻して来るや、遠山景任公は戦傷が元で死ぬ。
果たして本当に戦傷が元なのだろうか?
この時期、織田家は岩村城救援の戦略で、明智光秀公や池田恒興公が東美濃で合戦に及んでいる。
しかし遠山家は情報過疎だったか武田領の信濃国木曽地方に隣接する所領を持つ親族衆達が鼻から武田派だったのか、当主倒れて後、秋山勢に屈し❝お艶の方と敵方の秋山信友の婚姻和議❞を画策して成立させてしまう訳だ。完全に保身の風見鶏。
織田が強ければ織田に靡き、織田が不利で武田が優勢なら武田に靡く。丸で某半島の国。
・・・決定的に酷いのは、お艶と秋山の縁談が纏まった際に❝信長公の実子の御坊丸を武田家に織田の人質として提供してしまう❞極悪非道な裏切り行為に出た訳である。
これで怒りに火が付いた織田信長公は、織田包囲網を打破する過程で裏切り者達の本拠地の岩村城を標的にする訳だ。そして殲滅戦を行い、風見鶏の様に信念も誠実さも無い遠山家の親族重鎮達を全て処刑し彼等に利用された艶を磔(はりつけ)にして獄門に処して裏切りの対価を払わせた訳だ。
岩村城に援軍を直接送らずとも戦略的に東美濃を奪還しようと奮闘した信長公と織田家臣団を利己的に裏切ったんだから当たり前だな。
この岩村城における織田信長公の戦略と事例と同じ事はマティス司令官もイラクで現地の酋長達に通達している。まぁ、現代人のマティス司令官の場合は軍事法廷に裏切者を引き出して裁判で処刑にするんだが。戦争中の基本的な事だな・・・
現代の軍隊なら世界各国どこも敵前逃亡と裏切りは軍事法廷で死刑は基本だ。
・・・但し裏切らず誠実に、そして勇敢に敵から領民を守った者は徳川家康公の様に評価され恩賞も貰えて信頼される訳だ。
この作戦を日本で早くから行った事で有名なのは坂上田村麻呂公だな。
坂上田村麻呂

蝦夷(えみし=アイヌ=縄文文化を続ける日本の民族)討伐でマティス司令官や織田信長公の戦略を先に行った人物。裏切ったり歯向かう敵は殲滅し、逆に縄文文化のアイヌ族でも友好的で協力的な豪族は朝廷に迎えて優遇し統治者として登用して行った訳だ。
因みに、この坂上田村麻呂公と同族と思われる古代の名将軍が神奈川県にも所領を持ち移住していた。
坂上石楯(さかのうえのいわだて)公だ。
藤原仲麻呂の乱で活躍して今の相模原市辺りを所領として賜り移住し、延喜式内社で相模原市の名倉に所在する石楯尾神社の近くに城館を構え、石楯尾(いわだておの)神社を支援した人物だ。
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上の写真は石楯尾神社は、そもそも日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰路、自らが装備していた草薙の剣と対に成る防具の天磐楯(あまのいわたて)を東国鎮護の印として現在の石楯尾神社の辺りに埋蔵し、それが神格化された事に信仰が始まる。その化身として烏帽子岩も信仰対象に成っていたが近代、交通網整備の際に破壊されてしまった。

まぁ、そんな訳でマティス長官は日本の名将達と類似の戦略なんぞ頭の中に常識として入っている訳で、御本人も誠実で潔癖な様、そして実際に名将としても人格者としてもイラク現地で酋長達からも民百姓からも慕われた訳だ。
マティス司令官は法治主義者であらせられるので上杉謙信と違いモラルも高い紳士で、中東でも与力のイスラム文化の酋長達からも一目置かれた訳だな。これは凄い事だ。
或いは北朝鮮の軍人すら交流すれば彼を尊敬するかも知れない。
上杉謙信を引き合いにだしたので北陸の武将に例えるなら・・・
どちらかと言えば生活態度は上杉謙信、内面は直江景続、武勇は柿崎景家公、統治実績は柴田勝家公並の善政てとこか。
・・・ただ、色欲が無いので英雄では無く名軍師の範疇に留まる様だ。
欲の有る者のみが1番上に成りたがる。
まぁ、だから生涯陪臣を貫き通した小早川隆景公や黒田孝高公や直江兼続等は妻帯しても愛妻家で側室を持たなかったんだろうな。
「吾も斯く在りたい」とは思いつつ・・・
まぁ、小生は完全に名軍師じゃなくて短慮浅学でアホな猪武者人格なんだ。
だから、せめて社会の役に立つ事を1つで良いから行って死にたい、そしてそれは「小生がやった」と世に知られる必要も無い。
結果的に知っている人だけが知っていてくれて「あ~アイツだったのか」とか「アイツらしい」と死んだ時に友人達や歴代の彼女(笑)と恩師達や関わった宮司様達や和尚様達に心の中で褒めて貰えると嬉しい。
それで十分。

マティス司令官の様に生きてみたいなぁ~。
でも食欲の権化だし自分に甘から、憧れの域を出ないな~。
だから自分なりに小さくても社会の役に立つ事をしてから死のう。

初めて卒倒した人がAEDで救助されてるのを見ました。
AED フクダ電子様画像拝借 久良岐のよし
昨日、出勤前に商業施設で後期高齢者の男性が倒れてAEDで救助されているのを見ました。
小生が見た時には自立呼吸をしていたのですが、意識が戻らない様でした。
この時に初めて知ったのですが、AEDは電気ショックだけでなく❝心電図❞の計測機能や❝救急救命処置の音声ガイダンス❞が流れ、素人の救助者が救護活動を適切に行える様にサポートする機能が備わっているんです。
これには不謹慎ですが非常に感心しました。
その施設のスタッフ数名がAEDを使い、必死に名前を呼んで❝命を繋ぐ呼びかけ❞をしていました。
AEDからは大凡(おおよそ)以下の様な内容で音声指示が流れていました…
「電気ショックの必要は有りません」
「心電図を計測します、身体から離れて触れないで下さい」
「人工呼吸をして下さい」
…命を繋ぐ機材でも、それが有効活用されなかったら意味が無いので、非常に有用な機能だと思い感心しました。

後は、患者さんが無事に意識を取り戻して下さり御家族に元気な姿を見せれる事を小生は願うしか出来なかったので、小生が信仰する日本の神々と仏様達、歴史偉人様達に患者さんが意識を無事に取り戻す様に願いました。

このAEDの機能は日本の歴史と同じできっと、多くの人の命が失われた上で追加され発展した機能なんだと思います。
過去に素晴らしい蘇生機材の機能が緊急時に一般人に使い方が解らず活用されず、きっと多くの心停止した助かる筈(はず)だった命の犠牲の上で追加された機能なんでしょう。
それはAEDを開発してきた技術者達の命を無駄にしたくないと言う義侠心と開発に対する情熱の結果なのだと思います。

我々、日本人の現在の生活もAEDの発展と同じです。
先人達の多くの失敗と災難と悲しみ、そして一握りの幸せの上で経験と技術と文化を積み重ねて成立している物なんです。
ですから歴史は技術の蓄積と同じく人間の失敗の歴史を知り、起こりうる天災に備え失敗を回避する手段を知る手掛かりでも有る訳です。
そして、その記録媒体に成っているのが日本全国の神社や御寺や歴史史跡で、それ等の宗教施設の伝承や古文書の中に過去の災害の情報が蓄積されている訳です。
東日本大震災で津波の被害が拡大したのは、昭和に成り無教養な政治家と教育委員会と土建屋が建設利権を優先させて先人達が残して下さった「これより下には津波が来るから住んではいけない」と言う❝多くの石碑の警告❞を無視して縄文時代に海だった低海抜平野を宅地開発した結果の❝人災❞でした。
大阪市内にも江戸時代の津波の被害を伝える多くの石碑が街角に建っていますが、その存在を知る人も戦前の繁体字の漢字の文章を読める教養が有る人も少なくなってしまいました。

無教養、歴史に対する無関心は罪です。
過去の人々が神社仏閣や史跡や街頭の石碑に残してくれた災害のメッセージを活用出来ませんから。
それと同じように素晴らしいAEDと言う装置が有っても使い方が解らなければ意味が無い訳で、その問題を解消した開発者サンは本当に尊敬に値すると思います。
政府は開発した業者では無くて、こう言った発想を実現した名も無き技術者を探し出し表彰するべきだと思います。
そして政治家と教育委員会は建設利権を抑制し、過去の史跡を大切に活用し先人の災害の経験から備えを構築するべきだと思います。

横浜市教育委員会、とりあえずオマエ等、金沢区並木町~八景島界隈の埋め立て地を住宅地にして人を住ませるのを止めさせるか埋め立て当初の計画通り堤防を再構築する様に無文化市長に過去の津波踏まえて提言しろや! 並木一帯の地盤は大地震が来る度に沈下するんだよ!その三浦半島東西で沈下と隆起する歴史を報告しろや!
城ヶ島砲台の放棄の歴史、そして三浦半島の相模湾側に何で磯が多く東京湾側に崖地と浜が多かったか、埋め立て前の地形を区分して報告しろ!
何の為に歴史を管理してんだオマエ等! 
応長の大津波の事、富岡八幡宮の本社である金沢区の富岡八幡宮つまり源頼朝公が西宮から勧進した蛭子神様の御社の歴史を調べて活用しろやボケ!
オマエ等大人数いる癖に、たった数名のAEDの開発した技術者や汎用性を追加した技術者より日本人の役に立って無いよな?
反省しろ!
そしてAEDと神社を見て良く自分達の行政に対する惰性で業務を行う姿勢と思考停止を省みろ!

さて…
津波発生の可能性が有る金沢区富岡~並木~長浜千軒の地域に津波発生の100年前に海を鎮める蛭子神様を勧進された源頼朝公、そして蛭子神様、そして医療の神でもある素戔嗚尊様と五十猛様、どうぞ昨日の患者さんが意識障害無く救われます様に御加護下さいませ。

東京都羽村市で現在、チューリップ祭が開催中です!
現在は6分咲きと言う事で、週末には見頃に成ると思います。
※場所やアクセス情報は文末に掲載します。
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周辺企業が多数スポンサーに成って地域活性化を兼ねた催事なのですが、その規模がとても大きく小生は横浜から今年も見学にいくつもりです。
場所は“根搦前新田”と言う水田で、休耕地を利用して開催されています。
羽村市周辺 久良岐のよし
カーナビでも根搦前水田で検索できると思います。
とにかく広大なチューリップ畑、一見の価値が有ります。
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多摩川から阿蘇神社近くで取水し羽根用水と言う用水路を使って水が引かれているのですが、昨年の大雨による多摩川増水で写真の場所の用水が決壊し、水が引けなくなり一時は開催も危ぶまれましたが、なんとか無事に今年も開催にこぎつけたそうです。
先ずは昨年の写真を添付しますので、どんな感じか御覧下さい。DSC_1113

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 まぁ、とにかく綺麗なんです。屋台も数件出るので子供も楽しめると思います。
そして近くには羽村市郷土博物館が有ります。
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ここは古民家の展示や・・・
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江戸時代~昭和初期まで利用された江戸の玉川上水の取水口だった町で、その仕組みの解説や模型も多数展示されている場所なので、チューリップ祭と合せて見学すると多摩地区が江戸市民の生活を支えていた歴史を学ぶ事が出来ます。
 そして根搦前水田(ねがらみまえすいでん)の直ぐ近くには関東地方で唯一の阿蘇神社が在ります。
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この阿蘇神社は平将門(たいらのまさかど)公が領民の平和を祈願して、肥後国(熊本県)の阿蘇山の神様である阿蘇神社から御分霊を勧進して開いた神社です。今でも宮司様達は肥後阿蘇神社と交流が有ります。
肥後の阿蘇神社と言えば、昨年の熊本地震であれだけの災害規模の震災でありながら、亡くなった犠牲者を100にも満たない最小限にとどめ熊本県民を守った強い御利益を発揮された神社でした。
しかし熊本の阿蘇神社の神様が多くの熊本県民の生命を守る為に、御自分の祀られている阿蘇神社の社殿や国宝の楼門を身代わりしたかの様に、境内の建物は倒壊してしまいました。
この時の御利益の強さと、その建物の立派さが全国に報道された際に、熊本復興義捐金と阿蘇神社再建義捐金を持って、羽村市の武蔵阿蘇神社に訪れた人が多かったそうです。
小生も熊本地震の鎮静と被災地の復興祈願の祈祷を行って頂く為に、昨年、宮司様を尋ねました。
その際に、偶然、チューリップ祭が開催されていて、その素晴らしさに感激して「来年も訪れよう」と決めていたんです。
今年も武蔵阿蘇神社を訪れ、御祭神の建磐龍神様と阿蘇国造様、阿蘇都彦様と阿蘇都媛様の夫婦神、それと宇多天皇の忠臣だった平将門公に熊本地震被災民の生活再建祈願を御願いして来ようと思います。
小生は土曜日に訪れる心算です。
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この阿蘇神社は裏側の参道が多摩川と羽根用水に面していて、風景もとても綺麗です。
チューリップ祭の会場から用水を遡(さかのぼ)って歩いて参拝するのも良いかも知れません。
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さて、熊本地震からも1年が経ちました。
皆さん、自身への備え、忘れていませんか?御油断無き様に。
どうでしょう?
熊本の被災地の復興祈願も兼ねて、羽村市にお出掛けして広大な敷地にチューリップが咲き誇るチューリップ祭りを見学して、ついでに災難除けに強い御利益の有る阿蘇神社様を御参りして御利益に授かり、熊本の被災者の人達の生活再建祈願もしてみませんか?
一応、熊本地震の義捐金募集公式ホームぺージリンク張っておきます→
熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページhttp://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

では、最後にチューリップ祭の会場等を張り付けておきます。

はむら花と水のまつり チューリップまつりチューリップ祭り 公式 拝借画像 久良岐のよし

開設期間:4月5日(水曜日)~23日(日曜日) 各日午前9時~午後5時30分

開設場所:宮の下運動公園グランウンド臨時駐車場

※チューリップまつり開催期間中は、環境整備費として1台500円がかかります。
以下のとおり無料臨時駐車場としてご利用できます。

開設期間:4月8日(土曜日)・9日(日曜日)・15日(土曜日)・16日(日曜日) 各日午前10時~午後5時

羽村市観光協会 電話:042-555-9667
羽村市観光協会ホームページ(別のサイトに移ります)

 

 

6年前の3月11日
高速総てストップ。
首都機能麻痺。
東北諸県被災地のインフラ崩壊。
まだ雪降る現地。
補給が滞り石油灯油が枯渇寸前で死線が近づく
生き残った人々。
そんな中、本牧半島、横浜市中区根岸の石油コンビナートのエネオス社員達が無能な当時の政権を見捨て、民間の力で被災地へ命を繋ぐ油を届けようと行動し出す。

発災2日目、エネオス社員とJR貨物社員が明治の元勲、伊藤博文公が整備した横浜を起点とした無電線区間の貨物列車網と言う偉大な遺産の活用に気が付く。
この路線は日本海側に繋がっている、つまり遠回りだが新潟県~山形県~秋田県経由で被災地へ、文字通り命の灯火と成る油を一気に大量輸送出来るのだ。
壊滅した太平洋側の軌道を使わずに済む。
根岸のエネオスとJR貨物と臨港鉄道の社員達は神がかった連携を見せる。
この区間は無電線、電車が走れない上に明治~昭和初期の近代に建造された"煉瓦製の橋脚"の橋を超重量の貨物編成で渡り、磐梯山を越える急勾配を通過しなければいけなかった。
発災3日目、エネオスの油の準備万端、いつでも貨物列車に充填出来る体制が整う。
JR貨物職員も何と1日で通過予定区域の煉瓦製橋脚の橋の耐久確認し、更には日本全国から時代遅れで退役予定の"ディーゼル機関車"をかき集め無電線区間の通過を可能にした。

かくして当時の無能な民主党政権が右往左往する間に、民間の社員達が会社の垣根を越え、更に時代を越えて伊藤博文公をはじめとした近代の政治家達と連携し、大地震と大津波発生から1週間も経たずに被災地へ横浜市中区本牧半島のJR根岸駅を出発した第1便の貨物列車により灯油と石油が届けらた。

色々と忘れちゃいけない事も有る。
そして、一見価値の無くなった様に錯覚する物にも必ず残さなきゃいけない物も有る。
それを忘れちゃいけないし、これからも油断しちゃいけないんだと思う。

http://www.msn.com/ja-jp/news/national/古文書本能寺の変、仏教界は喝采「信長は清盛の再来」/ar-AAmBsOG#page=2
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結論から言えば、記事にある島田と言う教授と当該の寺の現住職は・・・ 
宗教的に当時の天皇家の価値観と明治天皇の判断を否定し天皇家をコケにし、神道と真言宗と法華宗に喧嘩を売りたい訳だな? 

この古文書を書いたのは相当馬鹿な住職だったんだろう。 
曹洞宗寺院なので吉良家や北条家や今川家と同じ室町幕府と縁の濃い武将が大旦那な訳で、旦那の言う事を鵜呑みにした情弱振りが垣間見える。 
書いたのが1619年・・・ 
近江国出身・・・ 
な~る!六角家\(^-^)/万歳ってな環境で幼少時代を過ごした和尚だった訳だ? 
実際の所は信長公は当時は法華宗にカテゴライズされた浄土宗と日蓮宗と神道を大切にした偉人で、朝廷内の腐れ藤原貴族がないがしろにしていた有職故実や神事を多く復興した上に、天皇をないがしろにする足利義昭に説教染みた諫言をした程の人物。 
そしてキリスト教宣教師が神社仏閣を破壊させるのを防ぐ為に、自らの権化とした石を御神体に見立てた御社を作らせ、キリスト教布教の権利付与者を御神体にする神仏信仰を敵視出来ない釘を刺した神仏習合時代の日本文化守護者でもある。 

なのに、この古文書を書いた馬鹿住職は、神社仏閣を破壊させた切支丹大名の大内義隆や大友宗麟の悪逆非道には一言の批判も無い訳だ。 
つまり、宗教的な思考から来る批判では無く、若い時の偏見か、この寺を保護し帰依していた武将が信長公の御存命中に徳川家臣でありながら織田家に面従腹背し、丁度その時期に足利義昭が一向一揆と同盟した事に由る政治思想的な文章を追憶で書いた住職の生臭具合がプンプン臭う訳だ。 

この生臭住職が此の手の批判をしたと言う事は、即ち信長公と全く同宗派で同じ神仏習合の価値観を有していた東照大権現徳川家康公をもコケにした事に成る。
では、この古文書を書いたアホ住職は果たして家康公を批判しただろうか? 
恐らくしていない。 
何故なら寺に献金や寺領をくれる権力者の意に沿う事だけを言う俗物だったろうからな。 
臨済宗や曹洞宗は足利家と北条家等の室町幕府の家来がずっと大旦那だった、鎌倉時代からずっと。 
この寺の壇越だった殿様が織田家に面従腹背しており、神道と法華宗の保護者の織田信長公を敵視し、且つ反織田勢力が不利な情況だから面白くない訳だ。 
そして禅宗の親分の南禅寺や大徳寺や相国寺なんかの最大支援者の足利家棟梁の足利義昭が、天台宗座主の名跡を手に入れた武田信玄と、武田信玄と妻同士が姉妹の一向一揆の親玉の本願寺光佐とも同盟した。 
曹洞宗の最大支援者の北条家も、この時に一向一揆と和睦し同盟している。 
つまり、文の内容そう言う事だろ。 
政治的な宗教の権力争い的な事。 
だから織田家は敵、と言うタリバン的な御都合主義で書いたんだろう。 

曹洞宗も臨済宗も素晴らしい宗派で帰依して在家出家していた武将には名将も多いし、太田道灌公や伊勢宗瑞公や太原雪斎公なんか、ずばり、その代表格だ。 
北条家の武将達の内政も素晴らしい。 
この古文書を書いた和尚が極めて政治的な意図を書いている事が問題。 
「神道と仏教と朝廷儀式を復興」し、足利家が軽んじた「天皇の権威をも復興」させた「織田家、徳川家を否定する事を書いている」訳だ。 

因みに、織田信長公は死没直後に朝廷から功績を賞され一品相国を戒名に追贈されている、つまり正一位太政大臣だ。 
明治天皇からは更に建織田神(建勲神)の神号を追贈され古代文化復興と日本に平和の礎をもたらした神として祀られている。 
日本神話を大切にする真言宗も、現代に至るまで安土城址と高野山で織田信長公の菩提を守っている。 

つまり、この古文書を書いた馬鹿僧侶は究極的には天皇批判も行い、全ての神道信者と全ての浄土宗信徒、全ての日蓮宗信徒と、全ての真言宗信徒を否定している訳だ。 
つまりは、天皇に敵対する朝敵に該当する人物であり神道と真言宗と浄土宗と日蓮宗を敵視する人物が、この古文書の製作者であり、その古文書を支持する現代人も当時の価値観に鑑みて朝敵と同じと言う事に成る訳だが・・・ 

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