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カテゴリ:独り言 > 歴史的教訓

御朱印に対する個人的認識。
あくまで個人的な想いの話し。KIMG0551
小生は普通の御朱印だけでなく、特別な御朱印を頂く場合があります。
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普通の御朱印も沢山拝受していますよ~無論。
御朱印て鎌倉江の島七福神の御朱印色紙みたいに可愛い~のも有りますよね?
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でも小生が神社仏閣で特別に頂いてる物は皆さんは絶対に持っていません。
神仏へのリスペクト、開基様や中興開基様へのリスペクト、歴代宮司様や御住職様へのリスペクトが無い収集家は頂けない物です。
なので小生の御朱印帳も自作で皆さん見るとデカさにギョッとします。
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もう自立するしね(笑)。
そもそも小生が神社仏閣に行く理由も観光だけでは無いので、御朱印だけが目的の人とは少し違います。

小生の場合は神社仏閣行く理由の大凡(おおよそ)が其所に御関わりに成られた歴史偉人を尊敬して、宮司様、和尚様、氏子さん、檀家さん、今を生きる偉人の御子孫や其所の関係者に記録に残らない逸話や伝承を教えて頂きに上がるのが目的です。
つまり調べ物や取材です。
本当に尊敬してる人達がどんな人として人生を歩みどんな失敗や個人的な細やかな幸せを感じ、どんな事をしていたか、少しでも近付きたいから御子孫に話を聞きに行きます。
神様や仏様の神社御寺を守った殿様達、奥方様達、若様達、姫様達に出来るなら会いたいのです。
だから宮司様や和尚様から文献に載らない偉人達の御人柄が解る御話を聞かせて頂いた時は、何だか殿様達に御会い出来た様な気持ちに成りとても幸せに感じたりします。
泣くときも有ります。
殿様達が人の為に自分を犠牲にして最期を迎えた話を聞くと、帰りの車の中で殿様の気持ちや、殿様が犠牲に成る事で逃げて生き延びた人達の気持ちを考えて涙が止まらなく成る事が有ります。
そんな事を繰り返す内に、車で運転中に予備知識無く無性に気に成る道や山にハンドルをきると、その先には自分の尊敬する偉人の関係者達の関わっていた神社仏閣や史跡に行き着く偶然が多くなりました。

小生が行く先々では頂く御朱印は他の人とは違う物です。
自室に殿様達が大切にされた神仏の御分霊を御迎えするつもりで御朱印を拝受します。その際に其所に関わった尊敬する殿様達の事も拝みたいので、和尚様や宮司様の御厚意と信頼関係で殿様の御名前や戒名と神号を併記して頂いています。
御朱印研究家のこまいぬサンのアドバイスもあり、公開はしませんが。
小生は御朱印受領の御礼も普通より高く殿様との御縁で五百円と再度参拝の御縁を頂く為の五百円で合わせて千円、個人的な思いから御朱印代金を奉納するのが習慣です。
300円てさ、御勤め忙しいのに御朱印一つに対する拘束時間と組織としての利益を考えたら神社や御寺には負担かかり過ぎる位に安価過ぎると個人的に思うんです。だから御布施の意味も込めて1000円。

小生個人に限って言えば小生にとって御朱印を拝受するのは御神像や御神器、御仏像に等しい思い入れと、交流が出来た宮司様達や和尚様達へのリスペクトでもある訳です。
それで1000円は安いと思う。
そんな意識が有るから偉人の名前を呼び捨てにする文字バカ学者と違い、存在すら知らない非公開の古文書や所蔵品を先方から話題として切り出して拝見させて頂く事が出来たりします。
全て殿様達が大切にした神様や仏様や殿様達御本人が結んで下さる御縁だと思っています。

だから御朱印を書いて下さる神職僧侶やその御身内に対して「遅い」とか「接客が悪い」等と悪態をつく輩(やから)や令和元年御朱印を最初から転売目的で受領する輩の感覚もソレを買う輩の感覚も、全く小生には馴染みません。

まぁ~“客”として“モブ”に成るか「よし君きたよ~!」と御寺や神社の御家族に迎えて頂くの、どっちが嬉しいでしょうか?
多分、そこから価値観が違うから逆に特別に非公開の古文書や秘仏や社宝を拝見させて頂いたり特別な毎日の礼拝用に御朱印を頂けるのだと思います。
皆さんはお客様、小生は良く神社や御寺に遊びに来る変な子(笑)この差は本気で神社や御寺の神仏や関わった先人を好きで親しみを持ってるかどうかの差。利害関係が皆無な近所の古老とチビっ子の関係みたいなモンなんです。
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今日は尊敬する北条家の殿様の御寺でタケノコを頂きました(笑)!
「デっカイけど柔らかくて美味しいよ!」
・・・って下さいましたが買ったら1500円位しちゃうよねコレ。
感謝。
昨日も間宮の殿様の御寺で和尚様の出張の土産の椎茸の煮たの頂いた。
・・・田舎の親戚の付き合いみたいで、とても嬉しいんです。こう言う人間関係が大好きで殿様や殿様の家族に会いに行くみたいに、その御子孫や御寺や神社の御家族との雑談も大好きなんです。
だから御朱印を転売する人の感覚が馴染まない。

でも、御朱印ブーム、これも文化の一端に成りやがて御朱印コレクターが神社仏閣の神仏や関わり守った歴史偉人にも目を向ける余裕が生まれてくれるなら、後々の世にも神社仏閣の社殿や伽藍と共に歴史偉人の伝記が文化の一端に残り日本文化の為には成るのかも知れません。

御朱印収集家の皆様が少しでも多く歴史と文化好きに成り先人へのリスペクトを感じて下さいます様に~。

品濃白幡神社の解説で、鎌倉時代~明治時代まで横浜市南部の神社仏閣を守って来た権現堂と泉蔵院と言う修験道の道場と、そこを戦国時代から治めた北条家臣間宮家の子孫の松本家と関家に少し触れました。
その時の記事、クリックで読めます⤵
商業街の中に在る戸塚区品濃の白幡神社と白幡山公園
・・・実は凄い歴史偉人と関係有ります。


その権現堂と泉蔵院が何故、横浜市南部の神社仏閣を支配する事に成ったか解説したいと思います。

横浜市南部の神社の多くは鎌倉時代から修験道の2系統の家系によって管理されていたんです。
1つ目は亀谷福禅寺権現堂(かめがやつ ふくぜんじ ごんげんどう)
2つ目は大靈山山崎泉蔵坊(だいれいさん やまざ きせんぞうぼう)
この二つは何(いず)れも修験道の大道場で、とても由緒有る神社であり寺院としての道場機能も有していました。新編武蔵風土記稿を読むと解かりますが、旧鎌倉郡と久良岐郡域の内、江戸時代に本牧奉行間宮家本家と、分家で江戸幕府鷹匠頭の杦田(すぎた)間宮家が支配した地域では、権現堂と泉蔵坊が神社を分けて統治していた記録が有ります。そして、この両社は源頼朝公が支援した修験道道場でしたので、その支配は間宮家の統治によるものと言うよりは鎌倉時代からの統治機構の名残りだったのかも知れません。
更には、旧鎌倉郡江島神社を管理した岩本坊間宮家、旧高座郡に当たる海老名市の古代相模国一之宮今五之宮であり延喜式内社の有鹿神社が存在しますが、戦国時代に海老名の中心部は間宮家の所領でしたし間宮康俊と言う殿様の時代に一度途絶えた有鹿神社の水引神事が復興されています。そして、相模国二之宮の川勾神社宮司家や二宮尊徳を輩出した二宮家にも間宮家から養子が戦国時代に入っていたりします。
ついでに少し品濃白幡神社から話を逸れて、間宮家や旧北条家臣団が如何に神社や修験道に宗教的な影響力を持っていたかを知っていると色々と解る事も有るので説明して置きたいと思います。
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上の写真は旧杦田郷(すぎたごう)の現代の港南区と磯子区の境に跨る笹下城本丸跡地形。
この笹下城跡の本丸は三井不動産レジデンシャルによって右側の大空堀が掘削された後に盛土され一部破壊されましたが今も介護施設の裏山として存在しています。
安土桃山時代に豊臣秀吉の小田原北条家討伐戦で間宮家は、当時の笹下城主で間宮家当主の間宮康俊公が72歳の高齢で玉縄城主北条氏勝公与力の付家老として箱根山中(三島市側)の山中城に籠城します。
この時に間宮康俊公の寄親(上官)の北条氏勝公が敵前逃亡して玉縄衆兵3,000を率いて玉縄城に撤退してしまうのですが、間宮康俊公だけは山中城主松田康長を見捨てず山中城に籠城し続けました。
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写真はGoogle earthで見た山中城址の航空写真。
笹下城主間宮家臣団兵200、松田康長公の部隊兵100の合計300で籠城、豊臣秀吉本隊80,000の大軍勢を迎え撃ちます。
敵は本隊先方豊臣秀次隊・与力豊臣家小大名の中村一氏隊と家臣の渡辺勘兵衛隊・堀尾吉晴隊、山内一豊隊、一柳直末隊の合計26,000余。
右翼、池田輝政隊20,000。
左翼、徳川家康隊30,000。
援軍主将で間宮家の上官だった北条氏勝公が撤退していなくても戦力比は圧倒的不利でした。
北条氏勝公逃亡前 三千余 対 八万余の豊臣軍 
戦力比 1:26
つまり北条家は1人26殺しないと勝てない。だから北条氏勝公は家臣等に説得されてしまい小田原防衛網を放棄逃亡して自領に逃げてしまった訳ですね。
そして間宮家以外の玉縄衆が全部撤退してしまった後の山中城籠城勢 対 豊臣軍の戦力差は更に絶望的な物と成りました。
松田・間宮連合(山中城籠城勢) 300 対 26000 豊臣軍先方 豊臣秀次隊と与力小大名衆。
戦力比 1:86。
1人86殺、常識的には反抗するのも無理な次元での籠城戦、普通は誰も助けに来ない。

なんで品濃白幡神社の説明で戦国時代の間宮家の説明に成るんだろうな~?と歴史に興味が無い人はここまで読んで頓珍漢(とんちんかん)に話がズレてると思うでしょうが、実はここから品濃白幡神社のみならず神奈川県域の全神社にも繋がりが出てきます。
この超絶不利な状況で間宮家の籠城する山中城に僅(わず)かな援軍を出した勢力が一つだけいました。
・・・それが実は延喜式内社、大山阿夫利神社と別当寺の大山寺を守っていた神官僧兵達でした。
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写真は伊勢原市の大山国定公園遠景。大山の三角形の山体と頂上の石山権現と言われた奇岩が縄文時代からの信仰対象で、古来聖地として発展し、神道や修験道や真言宗の聖地として多くの僧兵を抱える一大勢力でした。
豊臣家による北条征伐の過程で発生した超絶不利な間宮家による山中城の防衛戦で間宮家を支援したのが決死隊として大山から参陣した神官僧侶を兼ねる修験者の僅かな部隊でした。
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写真は宗教、築城、鷹狩、有職故実に精通した間宮家が山中城防衛強化の為に三の丸の更に先に増築した岱崎出丸の先端、三日月掘りと言う構造体。
この岱崎出丸で先ず間宮家は修験者部隊と協力して豊臣軍26000の大軍を迎撃して鉄砲隊で散々に損害を与え、敵大名の一柳直末公を討取ってしまします。
更に間宮家・松田家・大山修験者僧兵達は一人残らず討死しますが、何と戦が終わった時には驚愕の籠城兵300で敵戦死者3000余、損害多数の戦果を残していました。
この事からも判りますが圧倒的に不利な合戦でも多くの神社仏閣を管理した大山阿夫利神社と大山寺の僧兵達から支援される程に宗教的な家格が高かったのが間宮家な訳です。
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写真は大山の参道に建つ宿坊の一つ、東学坊。大山名物の美味しい豆腐や猪の料理を食べられる旅館。
大山の修験者の多くは安土桃山時代に武器を捨てて僧兵を辞め、江戸時代に成ると先導師と呼ばれ聖地礼拝の観光客相手に宿坊と呼ばれる神社寺院機能を備えた旅館を経営し大山観光産業の一翼を担い現代に至ります。
江戸時代の神仏分離までは伊勢参り富士山参りに次いで大山詣でが江戸市民から人気の観光地でしたから今も関東の各都市には大山街道が残っています。
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間宮家所縁(ゆかり)の町ですと杉田商店街のメインストリートが近代に再整備された横浜~伊勢原線で大山街道の一つですね。
間宮家は、この山中城の戦いの活躍に加えて江戸時代に徳川家康公の旗本となり氷取沢間宮家初代と成った間宮康俊公の御実弟の間宮綱信公が北条家の外交官として織田信長公への外交使者を務めたり、徳川家康公にも外交使者を務めて名が知れていた事や、間宮家が武家にとっては貴重な材木と海運のノウハウに加えて宗教と宗教建築知識と鶴岡八幡宮再建事業での実績が有る事、そして極め付きが一般的な武将が保有しない武士の教養である鷹狩に必要不可欠な鷹育成の特殊技術を有していた事から分家の杦田間宮家の間宮信繁公が徳川家康公の参謀 兼 鷹匠頭として登用されました。
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写真は杦田間宮家菩提寺の妙法寺の山門。境内には今も杦田間宮家歴代殿様の巨大な御廟所が有る。
この杦田間宮家の間宮信繁公が、関ヶ原の戦いで徳川本隊3万の前進を進言して小早川秀秋公の東軍寝返りを実現させた名軍師でした。この小早川勢寝返りの工作を進めたのが間宮家と同族の宇多源氏黒田家の黒田長政公でした。
この間宮信繁公の姫が、初代久能山東照宮の大宮司の榊原照久公に嫁いでいる事からも宗教的な間宮家の家格の高さが解かりますね。
そして間宮本家の笹下間宮も名軍師を輩出します。

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写真は磯子区田中の妙蓮寺、間宮直元公と奥方の菩提寺。近年まで直元公の彫像を御神像とする御社が有ったが火災で焼失したが、奥方の墓所は現存する。
間宮直元公です。この人が徳川幕府による豊臣家攻め大坂城の戦いで真田幸村籠もる真田丸や大坂城総掘りの埋め立て作戦を直接徳川家康公に進言し、真田幸村の軍略を無力化させ豊臣家を滅亡させる留めを刺した名軍師でした。間宮直元公は間宮家の土木知識と水運技術を活かして二代目佐渡金山代官、初代但馬奉行、生野銀山代官、初代本牧奉行(神奈川奉行=横浜市長の前身)を務めた人物でもありました。
つまり間宮家は武家としても重要人物達と繋がりが有るだけでなく、中世の宗教者達とも希有(けう)な太いコネクションと信頼関係を築き、宗教建築や土木技術と教養も有した文武両道の学者気質武家の家柄だった訳ですが・・・
旧鎌倉郡に当たる品濃白幡神社や下永谷の神明社等を近年まで管理したのが関家で、この家も又、間宮家同様に‟旧北条家臣”の関一族でした。この関と言う家は北条家臣団でも最古参の部類で、北条(伊勢)家と同族の伊勢平氏です。間宮家は北条家臣中、相模十四騎筆頭と呼ばれた家でしたが、つまり関家も小田原北条家の重臣の一人でした。
品濃白幡神社を含めて横浜市域では権現堂家と関家が横浜市南部の神社の多くを近代まで支配下に置いて管理していました。
余談ですが江戸の宗教も旧北条家臣伊丹家が大きな影響を持っていて、浅草寺や深川の富岡八幡宮等はその伊丹家が関与した場所でした。伊丹家は戦国時代に北条家臣として金沢区釜利谷に所領を与えられていましたが、関西に残った同族の伊丹家の子孫からは仏師として有名な江戸時代の彫刻家の左甚五郎も排出しています。日光東照宮の社寺建築で大きな功績を残した名工ですね。この伊丹家は源頼朝公が開いた金沢八景駅前の瀬戸神社や、その御分霊を頂いて伊丹家が開いた手子神社を支援した家です。
その伊丹家や間宮家と同じ旧北条家臣で北条家と同族の伊勢平氏の関家で富岡八幡宮や品濃白幡神社や永谷神明神社に影響力を持っていて、間宮家が久良岐郡を江戸中期に離れてからは泉蔵院にも関わりが有りました。

因みに家紋を比較すると色々と面白い宮司家の秘密が解かったりしますよ・・・

北条家:三鱗紋と対蝶文
三つ鱗紋対い蝶紋

関家 :揚羽蝶
揚羽蝶紋

揚羽蝶の家紋から両者が伊勢平氏で同族である事も判る様に成っている訳です。
では間宮家と福禅寺権現堂家の家紋も比較しましょう・・・
間宮家:隅立四目結紋
隅立て四ツ目結び紋
権現堂:丸に隅立四目結紋
丸に隅立て四ツ目紋

現代人には「家紋なんて好きに使えば良いじゃん?」って意味も理解していない人も居ますが、家紋は勝手に変えちゃいけないし、祖先や親戚の本家や上司から親族や重臣として認められて与えられないと勝手に使っちゃいけない物なんです。
ちゃんと自分が何処の出身のどの家系か、いつの時代に分岐したり活躍したかを辿(たど)れる言うなればレポートの索引のページを表す記号みたいな役割が家紋には有るんですよ。
因みに〇で囲みの有る家紋は一般的に本家から独立する時に分家が与えられた家紋だったり、神社仏閣の寺紋や社紋なら支援した殿様に重視され大切にされた証として〇で囲んだ殿様の家の家紋の使用許可を頂く場合が多く有ります。
例えば・・・
三つ鱗紋
北条家の三鱗紋ですが、鎌倉時代の鎌倉幕府執権北条家や戦国時代の北条家や分家の玉縄北条家や神保家が支援した御寺や神社では下の家紋が使われます。
丸に三ツ鱗紋
丸に三鱗紋。
これを使う神社は鎌倉幕府執権の北条時頼公が支援した鎌倉の宇賀福神社(銭洗い弁才天)や、金沢北条実時公と戦国時代の北条家と江戸時代の間宮家が支援した南区の寶生寺、玉縄城主北条綱成公が支援した磯子区の龍珠院、金沢区の伝心寺等が有ります。
ね?家紋にも意味が有るんですよ、家系や神社仏閣の歴史を辿れる。

・・・少なくとも戦国時代から最近までずっとそうだった訳です。
では権現堂家と関家の解説をしたいと思います。
1つ目、福禅寺権現堂と森浅間神社
権現堂は、元は源氏の元の本拠地の鎌倉市亀ヶ谷に在った修験道の聖地を管理した権現堂住職の家系で港南区港南に機能移転して来ました。
福禅寺は元は神仏習合の修験道の門跡寺院で鎌倉時代に源氏将軍家が暗殺され、九条(藤原)将軍が政略で失脚させられ、その後に天皇家から将軍を迎える様に成った時代に将軍家同様に皇族を住職に迎えた由緒正しい修験道系の道場、神様と仏様の両方を祀り天下泰平の祈祷を行う天下有数の道場でした。
この福禅寺の“名代”である権現堂を受け継いだ家系は現在姓を松本と名乗りますが、間宮家の家系図では江戸時代に本牧奉行を務めた間宮家の本家の笹下間宮家から養子が入っています。
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磯子区森(屛風ヶ浦)の森浅間神社は元々、権現堂の聖地霊場として源頼朝公によって開かれた場所なので、現在も権現堂家が宮司職を引き継いでいます。福禅寺歴代住職は就任する際に必ず森浅間神社で就任儀式を行っていました。
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写真は東京都青梅市二俣尾の海禅寺(旧:福禅寺)。
室町時代中期に東京都青梅市二俣尾に扇谷上杉家と三田家によって福禅寺が再興されますが、これが扇谷上杉家が滅亡してから後の北条家統治下の間宮康俊公の時代に唐突に‟天皇家勅願所”に成った事からも間宮家の宗教的な影響力が理解出来ます。
この福禅寺から戦国時代に間宮康俊公によって和尚様を招いて再興されたのが、間宮康俊公の曾祖父の間宮信冬公によって開かれたと伝わる鶴見区下末吉の寶泉寺です。
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これらは全部、歴史を辿ると繋がりが有ります。
そして権現堂は福禅寺名代の格式を得ていた事が当時の手紙に記されており、鎌倉時代には福禅寺は皇族の長円親王が住職を務めていた門跡寺院に成っていた歴史から格の高さが解かります。
それ故に旧久良岐郡の全ての神社の内、泉蔵院の統治した神社以外全ての管理を行っていました。その存在意義が関係する神社仏閣の歴史や関わった歴史偉人からも良く理解出来ます。

2つ目、大靈山 泉蔵院 桐谷寺(現:磯子区中原の熊野神社)
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ここは明治政府の宗教改革の失敗の代表例である廃仏毀釈で修験道道場寺院機能を廃止されて規模が縮小されてしまって今では住宅街の中の小さな熊野神社ですが、元々は鎌倉市山崎に存在し源頼朝公が福禅寺権現堂同様に重視した修験道の道場の山崎泉蔵坊の聖地として開かれた熊野神社でした。
鎌倉時代末期の新田義貞による神社仏閣の焼き討ちや、室町時代にも上杉禅秀の乱や永享の乱で鎌倉では戦火が治まらず寺院の維持が困難に成り、今の磯子区中原の熊野神社に山崎泉蔵坊の機能を移転して本拠地として大道場化し寺号も大靈山泉蔵院桐谷寺と改め明治時代まで繁栄しました。
久良岐郡域と鎌倉郡域で権現堂が支配した神社以外、修験道系神社は全て、この泉蔵院が統治していた事を新編武蔵風土記稿の中で間宮家の子孫で東京大学前身の昌平坂学問所頭取を務めた間宮士信公が書き残しています。
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この熊野神社や富岡八幡宮に強い影響力を持っていたのが関家でした。
この関家の一族は旧北条家臣団として間宮家同様に武蔵国域~相模国域まで広く分布していましたが、現代では宮司家としての関家は家系が途絶えてしまいました。
しかし例えば都筑区には関一族の末裔の旧家が文化財として残っていたりします。
sekikezenkei1 横浜市教育委員会より拝借
※画像は横浜市より拝借。
北条家臣団の城持ち級の武士の1560年前後の所得を記した北条家の所領役帳を江戸時代に写した小田原北条所領役帳と言う文献にも、関家も間宮家も一族の武将が領地名と一緒に登場します。
間宮家は別の解説記事で以前、所得を書いているので今回は関さんの領地がどんな感じに分布していたか現在の地名と照らし合わせて見てみましょう。

関新次郎
泉水寺領(地所不明)※小田原市、足柄下郡、南足柄市、足柄上郡の何処か
四宮長沼共ニ(平塚市四宮周辺)
富岡之内(横浜市金沢区富岡) 本郷買得ニ替而被下

関兵部丞
羽鳥辻堂(藤沢市羽鳥~辻堂の一部)
鶴間(相模原市~大和市の林間と鶴間の地名の付く地域周辺)
飯嶋(平塚市飯島)
北大繩(平塚市岡崎辺り)
一宮(地所不明)※多摩市一宮or寒川町
宿立(川越市山田)
岡郷(横浜市磯子区滝頭~岡村町一帯)

関弥次郎
新土今里(平塚市真土)
台之村(鎌倉市台)

関さんの土地は、まぁ~こんな風に埼玉県~東京都~神奈川県域に散らばって存在していた訳です。
安土桃山時代の記録は残っていませんが、北条家の所領も関東全域に広がって行ったので関東全域にも関さんの土地が有ったかも知れません。
そして、その土地に根差し分家に成って行った人達が多く江戸時代に庄屋サンとなり神社や御寺を守り、明治に成ると神社の宮司や地主として昭和の最初の頃まで土地土地の歴史を守って来た訳ですね。
そして関さんの一族は北条家滅亡後に御先祖様の出身地である伊勢神宮の在る伊勢国に移住した一族もいるので、北条家臣団の中でも元々、間宮家と同じく宗教的な知識を深く保有する家系だったのかも知れません。
領地がある場所も神奈川県域では延喜式内社の所在地や比較的有名な神社の在る場所ばかりですしね。
前鳥神社とか富岡八幡宮とか岡村天満宮とか。

まぁ~、関家が磯子区の泉蔵院や杉田周辺にどの段階で関与したかは不明ですが、近代には横浜市域の海苔の養殖等を振興し活躍された関寅吉さんの様な人物も排出したり、殿様じゃなくたってからも宗教文化でも地域振興でも活躍した家系だった様です。
間宮家も江戸時代に間宮林蔵や杉田玄白や間宮士信等の学者を輩出して、宗教では江ノ島の岩本間宮家が真言密教系修験道として明治まで寺院機能を保持して江島神社を管理していました。
そんな関家や間宮家と、泉蔵院と権現堂が横浜市南部の多くの神社を守って来たんですよ~と言う解説でした。

間宮家につてはタグ検索‟間宮”で色々と記事が有りますので御興味有る方は、下をクリックして関係記事を読んで見て下さい。
これクリックで間宮家の関係記事リンク→●間宮家

今回の記事は御寺や神社の‟歴史”に興味が無い人には本当に興味が湧かないかな?
でも実は横浜市南部の神社や御寺には源頼朝公以来の統治機構や、戦国時代からの家系がそのまま残っていた場所も多く有るんですよ~てのが皆さんには伝わったかな?

次は北条家臣で官僚だった横浜市北部の殿様の中田加賀守の関係先の御寺の紹介をしたいと思います。
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪

昨日は01月13日でした。
陰暦:建久十年一月十三日
陽暦:1199年02月09日
源頼朝公
820年前の昨日、源頼朝公が“落馬”して亡くなったと歴史に興味無い人は学校が教える事実確認してない適当な情報を擦り込まれる。

実は記録上は体調不良から死んでおり即死ではない。
頼朝公妻である北条政子様の妹、稲毛重成の妻が亡くなり供養も兼ねて相模川に橋がかけられ、その橋の開通式で落馬した。
昔の人は善行を行い死者を弔う事が有った。
つまり、開通式直前に稲毛重成の妻の、つまり義理の妹の供養の宴会に参加していた事が判る。そして体調不良に成る。
稲毛重成は後に源頼朝公の忠臣だった畠山重忠公に無実の罪を着せる讒言(ざんげん=他人を嵌めるデマ)を義理の父の北条時政等に言い、それにより畠山重忠公は殺害される。
更に稲毛重成自身がデマで畠山重忠を殺させたとして稲毛一族は北条家と当時はグルだった三浦家や伊豆の宇佐美に殺害される。
この時に稲毛一族を殺害して回った全員が工藤祐経公と伊東祐親公の遺産相続から発生した派閥抗争からみの人物だった。
曽我兄弟の敵討ち事件が北条時政による頼朝公暗殺未遂だと思われる一因でもある。
まぁ、この曽我兄弟事件の時は頼朝公の警護をした横浜市磯子区、歌手“ゆず”の岡村町一帯の殿様だった平子有長公の活躍で暗殺は阻止された。
そこ等辺は以前、平子有長公が開いた岡村天満宮の紹介記事でも触れている。
記事リンク⤵️
頼朝公の死亡の様子は小生は医療の専門化でも無く専門知識も無いが“落馬”する程の宴会からの急な体調不良は毒殺未遂だろう。
そこから急死してるので落馬に見せかけた脳挫傷や何かなら体調不良後→撲殺だろう。
“落馬”とされた相模川の橋の上の事件当時の随兵(親衛隊)が頼朝公を守れなかったと北条時政等幹部から言いがかりで、その場で全員粛清されてる。
これは随兵は戦闘に巻き込まれ殺害されていると考えた方が自然だろう。
状況的に法要の席で食事に混ぜたヒ素での暗殺が失敗し翌日式典で前後から視界を隠せる橋の上で随兵もろとも撲殺暗殺されたんだろう。 
実は頼朝公の没後に跡を継いだ御子息の源頼家公も同じ様に不可解な体調で危篤(きとく=意識不明)に成った事が有る。
そして頼家公は奇跡的に回復してから己が母方の北条家に暗殺されかけたと断定し「北条家討伐の密命」を和田義盛公等に出しているが、和田義盛公は三浦一族、そもそも、この時点で北条家のグルとまではいかなくても身内の三浦や縁の有る北条家を討つのに躊躇(ちゅうちょ)したのだろう。
和田義盛公の築城した城の造りは平安末期~鎌倉時代初期とは思えぬ、戦国時代の縄張りに酷似しており、所領は少なくとも街道に通行税を取り立てる関所を設けたり室町時代の武将の様に貨幣経済の概念を持っていたり理知的な人だった。だから和田義盛公は頼家公の密命の真相を“公平に確認しようとし”て北条家に密書を見せてしまう。
結果的に頼家公は北条家に薬殺ではなく、今度は入浴中に首を絞められ中々死なないので局部を切り落とされた挙げ句に惨殺される。
この直前、源頼朝公や頼家公が頼りにしていた比企能員公や梶原景時公も畠山重忠公同様に謀殺されている。
完全に計画的な将軍家潰しだろう。
欲にまみれた老害の北条時政とその子等が工藤兄弟や伊東祐親公の遺恨を利用した頼朝公暗殺による幕府横領を三浦一族と共謀したと考えた方が自然だろう。
そして、その陰謀の一つ畠山重忠公謀殺の実行犯が稲毛重成で稲毛重成の亡妻の父が北条時政に当たる。普通に考えて頼朝公は稲毛重成や北条時政に毒を盛られ暗殺未遂が起き、相模川の橋の上で護衛の武士もろとも殺害されたと考えた方が自然な訳だ。
そして全てを知る稲毛重成も謀殺された訳だ。

まぁしかし、北条家が天下を掌握しなければ北条時宗公は生まれなかったので、元寇から日本を守ったのは北条家とも言えるし、その政権の形を作り武士文化を生み出した源頼朝公はやはり偉大な人物だし、源頼朝公を初期に助けた最大の功労者の三浦義明公や三浦義澄公がいたから鎌倉幕府は成立した。
誤解される人も多いが実は源頼朝公は非常に恩情深い。敵対しても必ず事情を聞くし、相手側にやむを得ない事情が有り自分に矢を向けた武将も許し信頼し重用しているし、助命する事も多々有った。
畠山重忠公、伊東祐親公、大庭家なんかはその典型だ。
しかも頼朝公は口説いた女性は皆必ず大切にした。
決して冷淡な人ではなく理知的で人情にも厚い人だった。
逆に善玉と誤解する人の多い源義経は部下の手柄を自分手柄の様に報告するパワハラ、当時の武士は正義と礼儀が重要なのに戦いで打ち負かした敵の平家側の非戦闘員の女性をレイプした事がレイプされた女性の記録に残ってたり、口説いた愛人は何十人もいたり、その何十人の愛人を京都から逃げる時に同行させたのに脱落者を助けず見捨てたり。
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写真は金沢区の太寧寺。
別の弟の源範頼公は秦の翦将軍並みに優秀な大将だった上に、北関東の武士団に強く支持されていたので北条家や三浦家の南関東派閥から警戒され蟄居させられた上に、横浜市金沢区の太寧寺で自害に追い込まれた。
大寧寺の記事でその事は紹介しているので、興味の有る人は記事の下の“タグ「太寧寺」「源範頼」”をクリックすると太寧寺の記事を読めます。

色々、思惑が有り人の評価はねじ曲げられる。

一人一人の不幸なボタンの掛け違いが頼朝公暗殺や頼家公暗殺に繋がってしまったんだ。
ボタンの掛け違いは必ず最初からかけ直さないと大事故大事件に繋がる典型が源頼朝公の回りで起きた事件。

820年前の昨日はそんな日でした。

瀬戸神社の記事を書く前に・・・
突然だが小生は火鍋も好きだし中華街も良くご飯食べに行くし関帝廟も媽祖廟も御参りするし中国の古代史と中華料理は大好きだ。
そして、日本文化が好きでちゃんとビザを取得して日本に留学に来て苦学している台湾や中国の子等も応援したいと思う。
ニートで働かない日本人より❝親日で日本文化大好きな働き者の外国人❞に❝飛鳥~奈良時代の大和朝廷で活躍した外国人❞の様に働いて一緒に日本の御祭りを楽しんで貰ったりして、ゆくゆくは日本人に成って貰った方がよっぽど国益に適うとも思っている。
無論、日本文化に興味が無くいつまでたっても日本に馴染まず拝金主義の外国人が金を稼ぎ来て日本を切り売りする為に来るなら「どうぞお帰り下さい」と強硬に言う訳だが。
習近平サンが中国の❝領導(ボス)❞に成ってから中国政府による日本国と在中国日本企業に対する嫌がらせが頻発しているのが心底ムカつくんだな。
漢詩や中国文化が好きな上に季布や関羽や呂蒙や顧雍や丁奉や徐盛、岳飛や鄭成功や孫文先生や周恩来先生を尊敬している小生としては苦々しく怒りを感じるので嫌味を書いておきたくて日本神話と三国志の関連の話をして反日派の中国人に彼等の浅学振りをチクリと言っておきたいと思う。

突然だけど小生は卑弥呼の名は発音の漢字音読み表記で意図的に漢帝国~魏の皇帝に憚(はばか)り下賎な字を当てられて中国史書には記録されているのだろうと思っている。
そして卑弥呼は一人の名ではなく古代大和朝廷の元となる日本の一地方の原始国家時代から引き継がれた祭祀を司る巫女(みこ)であり女性の皇子(みこ)、つまり斎王の原形である原始信仰の女性法王的な役職名か現人神(あらひとがみ)としての❝生前の神号❞がヒミコだろうと推測している。
卑弥呼は多分、日本語で日巫女か日御子と言う当字するべき意味の発音なんだろう。
そして縄文時代~弥生時代に移る頃から大凡(おおよそ)それに当たる役割が女系か男系かは置いておいても古代神道の原形の原始自然信仰で選出された未婚の女児が役割を担って来たのだろう。

日本に文字普及する以前の記録に残らない数百年間の斎王がヒミコ=日御子/日巫女/日皇子(女性)で最後のヒミコに習合された人物だったのかも知れない。
或(ある)いは大王(おおきみ)つまり天皇の御先祖の息女だったかも知れないし邪馬台国連合国の盟邦の1ヵ国の中の王女から選出されたのかも知れない。
一人では無く、数世代いたはずだ。
同様に倭建(やまとたける)も古代の大将軍の役職名で数人が一柱に習合されていると思う。で、ヤマトタケルの日本武尊(やまとたけるのみこと)の方は仏教文化の影響で後に当て字された書き方だろう。

そして、その国家宗教の信仰上の役職としての❝ヒミコ❞の役割は恐らく太陽信仰の象徴で天照大神の化身としての現人神(あらひとがみ)だろう。
つまり、そんな歴史が有ったなら天照大神は紛れもなく肉体を持ち天皇家の祖先神を産む事が出来た女性の現人神か天照大神の依代(よりしろ)たる大いなる巫女だったはずだ。ただし、卑弥呼は未婚の巫女や斎王だったろう。
天照大神信仰の形式で日本で普及した太陽神信仰が始まったのは恐らく稲作文化が大陸から輸入され始めた縄文時代~弥生時代の転換点の頃の筈で考古学的な昨今の発見による稲作開始時期と大凡合致する。
稲作が普及して米が生産された事で“腐らない大量の食物”として備蓄確保出来る様に成り、更にその米は“大量輸送”可能で“軍事食料=兵糧”として“軍隊を遠征可能にさせ”原始国家を誕生させたのだと思う。
それ故(ゆえ)に稲作に大切な日照や旱魃(かんばつ)に関係する太陽信仰が、神々の父母たる縄文時代からの神様の伊邪那岐(いざなぎ)命や伊邪那美(いざなみ)命よりも重視される様に成って行ったんだろう。
ヒミコの跡継ぎのトヨが歴代の巫女の親玉と同じくヒミコを名乗れなかったのは恐らく信仰上の巫女資格の無い既婚者だったからだろう。

それ等を踏まえて“最後の卑弥呼”や跡継ぎの臺与(とよ)が正体の一端であろう神格化された神様の日本神話と台湾と中国の友好の歴史を絡め、反日中国大陸人の話をしたいと思う。

西暦238年6月夏
西暦239年
西暦248年9月5日

これらは何の日でしょう?

238年…
卑弥呼が三国時代の魏帝国に使者を派遣した年。

239年…
卑弥呼が魏皇帝曹叡から中華に従属する国王で最高職の親魏倭王の称号と金印紫綬を託された年。

248年…
日本の女王卑弥呼が死んだ日が9月5日。
この日は日蝕が観測されているので判明している。
天照大神の天岩戸の神話に酷似している。

251年…
日本の女王卑弥呼を支援した魏の丞相司馬懿が死んだ年。

これらの記載がある三国志正史の魏志にある記述や歴史背景に合致し、女王卑弥呼に批定される皇族が日本書紀にいる。
すなわち伊勢神宮を開いた倭姫か妊娠中に朝鮮半島征伐に渡海し成果を挙げた神功皇后の何れかだ。
またそれとは別に卑弥呼は天照大神のモデルと主張をする学者もいる。
仮に天照大神の化身が卑弥呼なら、チベットのダライ・ラマみたいに数世代血縁無く継承された宗教指導者と考えると納得行く。

238年6月、魏帝国に卑弥呼が従属同盟の使者に難升米(ナシメ)を送り魏皇帝曹叡つまり曹操の嫡孫から支持され支援を受ける。
最高従属同盟者の証である「親魏倭王」の称号と「金印紫綬」に加えて銅鏡100枚と5尺の宝剣を2振りを贈った。
この宝剣が草薙剣と天叢雲剣の正体かも知れない。この草薙剣と天叢雲剣が同一と思い込む人もいるが違う、歴史的に倭姫が倭建に貸与した草薙剣は熱田神宮に祀られて以後は朝鮮の新羅人盗賊に盗み出された一度を除いて動かされた事は無く、三種神器の天叢雲剣は皇居に安置されている。つまり別の剣な訳だ。
曹操は青紅の剣、倚天の剣の様に2振りの宝剣をセットで所持したので、同様に王と代行者の大将軍用の2振りを持つのが魏の文化だったりしたかも知れない。
余談だが神社の幣殿に備えて有る鉾と楯と旗、あれは古代史好きなら直ぐに解るが漢代の中国の軍装だな。神社の文化も御神鑑を祀るのは、古代に神格化された豪族に卑弥呼が配布した魏から供与された100枚の鏡が太陽信仰の象徴として祭器に成ったのかも知れない。
そもそも縄文時代以来の古代の日本の信仰は、病気に成らない清涼な飲料水を確保出来る湧水池や山岳の奇岩や河川の合流地点や半島の突端と入江の付け根の漁に出る船を係留できる地形で美しく神秘的な古代人の生活にとっても大切な❝場所❞が神格化されて石座(いわくら)や水神として祀られる様に成って行ったのが考古学的に解る。
だから神社の社殿にある文化は弥生時代~古墳時代の変革期に中国大陸の影響を受けた文化を垣間(かいま)見る事が出来る訳だ。

金印紫綬、卑弥呼に送られた金印は通常、皇族出身の王や高位の太守にしか与えられない物なので前代未聞の事だろう。

難升米(ナシメ)と言う人物の出身を少し推測する。
前漢の時代に漢帝国に朝貢し漢委奴国王(漢のイト国王/漢の委任する奴国王)の金印を得た人物で倭王帥升と言う人物の記録が中国の歴史書「史記」に書かれている。
恐らく古代邪馬台国の王の先祖か王族の1人だったのだろう。
伊都(いと)国と呼ばれた地方は昔の筑前国那珂郡辺りで現代の福岡県福岡市那珂川流域と博多近海の糸島(いとしま)等の小島を含めた辺り一帯であった。
その一帯は大和朝廷初期には、儺津(なのつ)と言う港の有る儺縣(ナンのアガタ)と言われた行政区域だった。奴国(なこく)はもしかしたら発音的には儺津に関係するかも知れない。
そして儺縣(ナンのアガタ)に居所を定めて住んでいたので難升米(ナシメ)は名字を「難=儺」と称したのだろうと思う。
これを考えると難升米は倭王の血を引く伊都国王か奴国王の帥升の子孫だったから先祖の名の升の字を代々継承し「升米」と称したのではないだろうか?名の米の字はもしかしたら稲作を普及させた人物なのかも知れない。帥升の帥は元帥の帥なので、王とか国を束ねる者とか言う役職を指したのかも知れない。

難升米(ナシメ)は、そんな重要な血筋で先祖が中華との外交を行った人物だったからこそ、邪馬台国女王代理として三国時代古代中華の魏帝国への同盟の使者の大役を担ったのかも知れない、まぁ状況証拠だけで何も確証は無い。
彼は魏帝国皇帝から率善中郎将の官位を得ているが、これは漢帝国や魏帝国に於いてもかなり高位の武官職であある。
率善中郎将は後漢の時代には設置された役職で、後漢に柵封された従属同盟国の王の直轄将校であり時として将軍の任務を代行し派遣される様な重役だった。
邪馬台国の使者の難升米(ナシメ)は更に魏皇帝曹叡から気に入られ黄幢(魏帝国の御旗)と詔書を直接下賜されているので、余程の才知か武勇に富んだ武将だったのだろう。
また当事の魏帝国は邪馬台国と連合して、反逆した朝鮮半島を共同で攻撃する必要もあり、太陽信仰の巫女の親玉で女王とされた卑弥呼と武将難升米を重用したのだろう。

この時期、三国志の英雄で魏の2代皇帝曹叡と配下で丞相の司馬懿の魏帝国は、遼東半島や北朝鮮一帯で叛乱した燕王公孫淵と公孫淵と同盟し魏の領土に侵攻した鮮卑(蛮族の意)と対立していた。
帯方郡の長官である太守劉夏が鮮卑に殺害される大事件が発生。
現在の中国の遼東半島には漢帝国時代から魏帝国当時は楽浪郡が置かれ、その更に南に帯方郡が置かれていた…
今のソウル辺りだ。
ソウルは、つい十数年前まで漢字で漢城と書いた。
古代には中国人が沢山いたからだそうだ。
今では歴史捏造大好きでプライド高い韓国人によって、「中国の従属国だったなんか認めたくないと言う屁理屈」から「首迩(ショウアル)」なんて訳の解らない当て字を用いて改名されている。

ところで楽浪郡と帯方郡の叛乱は中華の魏帝国にとっては一大事だった。
まだ南の呉帝国と西の漢帝国と争っていたので、東の蛮族である鮮卑に大きな兵力を割く余裕は無かったのだ。
その状況を知ってか知らずか卑弥呼は魏に従属同盟の使者を送った訳だ。
恐らく同時期に邪馬台国朝鮮半島領の混乱を鎮圧する為に朝鮮の鮮卑を魏に挟撃して欲しい旨を踏まえて、更にはソレ等の状況が魏帝国にとっても好ましい状況である事を全てを知った上での使者派遣だっただろう。

当事の日本は朝鮮半島南部の釜山一帯も漢帝国時代から中華に認められて支配していた。
今の韓国人や北朝鮮人に当たる朝鮮人や中国東北部旧満州を席巻した満州人の鮮卑が帯方郡太守劉夏を殺害したのだ。
この時代に朝鮮族と言う民族はまだ存在せずつまり韓国人も朝鮮人も存在せず辰韓・馬韓・弁韓(三韓)は倭国(邪馬台国)王の領土だった訳で、これらの在る朝鮮半島の叛乱は中国史観から見ても倭国大乱の時期と正に重なる。
卑弥呼の先代の王の統治が弱体化し、中国の公孫一族と結託し叛乱したのだろう。

それを裏付ける様に、238年(景初2年)8月23日には、鮮卑と結びついて叛乱を起こした公孫淵が魏帝国丞相の司馬懿に討伐され、死亡している。
また此の時に公孫淵に同調した朝鮮半島の三韓と呼ばれた地域は古代日本領土だったので、邪馬台国に攻めさせ公孫淵への朝鮮の新羅地方や百済地方からの援軍を断つ為に古代日本領の三韓から北伐し釘付けにするのは当然の戦略と言える。
神功皇后の神話はこの一連の戦略の中の一部分だろう。
もしかしたら神功皇后は卑弥呼ではなく次代の臺与かも知れないし、卑弥呼=倭姫、臺与=神功皇后の方が神話と整合性が有りそうだ。

この卑弥呼なり神功皇后の正体かも知れない臺与なりの功績を評価してかどうかは解らない。しかし後日、魏帝国は邪馬台国を上位従属同盟国とし厚遇し、卑弥呼が体調を崩し始めた出あろう246年に魏の官僚を派遣し技術投資をし邪馬台国を強化し南部朝鮮を支配させた。
それがつまり、この後に記す246年の出来事と247年の出来事だと推察出来る。
  
246年、卑弥呼の死去する2年前に三国志の魏王国帯方郡の武官で塞曹掾史(さいそうえんし)張政が邪馬台国に派遣される。
ちなみに難升米は官職で張政の上官に当たる。
派遣された魏の武官の官職で下士官に当たるので、これは邪馬台国への完全な救援行動だったのだろう。

247年には日本は再び混乱していたらしいので、恐らく246年時点で女王卑弥呼の健康状態に問題があり後継者問題が起きたか、敵対する狗奴国など地方自治王朝によって邪馬台国が不利に成っていた事で反攻戦略として再度、魏への銅剣と銅製甲冑等の先進技術の大量供与要請か生産技術移転要請や援軍そのものの要請を行ったのかも知れない。
その為に張政は日本に派遣され20年間駐在し邪馬台国建て直しに協力した後に中国へ帰国したのだろう。

西暦247年当事は、古代中国魏帝国も前述の通り蜀漢と呉の3ヶ国に分裂しており、東北や西北には後のモンゴル族やトルコ人の先祖当たる勇猛な騎馬民族の匈奴や胡族…
南は今のベトナムやタイにあたる蛮越…
北朝鮮東部には鮮卑王朝の高句麗があり…
魏帝国は蛮越を除いた全ての異国と対立していた。
しかし、その御蔭で魏帝国には日本と言う輩(ともがら)が必要不可欠になり、当時の日本人は曹操の残した仕事方法や司馬懿の政治や軍略や農業や第二次産業である青銅器製造を学び弥生時代から古墳時代に文化発展する機会を得たのだろう。
これは日本人にとって非常に幸運な事だったと言える。
いきなり製銅製鉄技術や開墾に加え屯田兵制度、高度な木造建築や表現力豊かな漢字が導入できたのだから日本文化発展の礎(いしずえ)に成ったと思われる。

日本人の現代に置ける緻密な仕事の性質は、かつて中国が西夏・金・元・清など歴代異民族王朝に蹂躙されるまで本来の中国大陸の中原地域の人々が保有していたであろう曹操や司馬懿等の治めた事実を追求し問題を改善し法秩序に基づく魏の習俗が、日本人に日本独自の文化と共に継承されているのかも知れない。

中華民族王朝が異民族王朝や共産主義に侵略される度に中国国民の民度や文化は都度リセットされてしまったが、成金ではない元々歴代当主が知識階層だった家系の中国人の文化程度は高い。
それはやはり日本人同様に先祖から文化と礼儀の重要性を教わってきたからだろう。
劉少奇・周恩来・鄧小平・胡錦涛は歴史的に見ても比較的優秀な人材であったと思う。
しかし毛沢東や江沢民は…
己の失政が元で失脚するのを恐れたり出世に利用して積極的に中国の知識階層国民を虐殺した負の実績がある。
ちなみに江沢民が日本人を敵視すれば、即ち彼等の敵は曹操と司馬懿の仕事方法や戦略と歴代日本武士の精神を受け継いだ人間が彼等の前に立塞がる訳だが・・・

いくら江沢民や毛沢東が政治家として腐敗し無能だろうが、彼等がいなければ中国人にとって今の中国は存在しなかった。まぁ、日本人にとって毛沢東は名将として評価出来るが江沢民は評価の対象にする価値も無い。しかし毛沢東が文革を起さなければ中国国民の文化度は恐らく、明朝に敬意をはらった清朝から中華文化をそのまま継承し発展させられたはずだし…
江沢民によって天安門虐殺事件が引き起こされていなければ、今頃中国は民主政治で法治主義の浸透した先進国家で、尚且つ中国共産党も世界から白い目で見られなかっただろう。

越の杭州や呉の蘇州のように春秋時代からの文化醸成地だった所は昔から科挙の合格者を大量に輩出し、文化度の高かった人も多いが…
現代の中国では毛沢東と江沢民の失政のせいで、その絶対数は12億の国民数をもってしても民度の高い人材数は台湾1国に及ばないだろう。ただ、教育に御金を投資できる家庭が増えたので大陸も徐々に民度が上がって来ていて上海市では10年以上前に見た様な大きな交差点で我が物顔で赤信号無視して歩く歩行者も、デパートのトイレの洗面所で孫に糞尿させるクソジジイも見かけなくなった。
新幹線に乗っても昔の中国の鉄道みたいに床に食いカスが散らかっている事も無い。
もっとも大陸の中国の民度はまだまだ台湾には遠く及ばない。中華文化も日本文化も否定しなかった中華民国台湾省人の素養は非常に高く礼儀正しく、自国の文化に表面的な態度や自慢ではなく心から誇りを持ってる人が多いし日本文化に対する理解も有る。

散々に大陸の中国人の民度を批判したが、日本でも中国大陸同様に文化度の低い人間もいる。
多くの財産を得ても自国文化を破壊し、現代では貴重な自然を開発利権で消し去ろうとしたり原初の神道の理念なぞ微塵も心に無い腐った日本人が多く、利己的に産業形態を金の澱みが出来る形状に作り変え日本の産業構造を弱体化させ、日本国民の利益を阻害しても自分だけの集金能力を向上させる事に執着させる鬼畜は多い。

日本の明治時代の大商人は横濱の原三渓や淡路島の高田屋嘉兵衛の様に、災害発生時に自分の私財を投げ打って事業縮小しても民草や公共の為に社会貢献する気概が有ったのに…。
彼等の行動は魏の武官張政や鑑真和尚、明の鄭成功に通じる滅私報恩の心意気が有った。 

だから小生は、まかり間違って自分が財を成す事が有れば先人を見習い曹操の仕事、司馬懿の智謀、明治の日本の豪商原三渓と淡路の豪商高田屋嘉兵衛を模範とし行動したいと決めている。
ま…その前に自分を助けないとね(笑)。
 
さて・・・
実は日華の関係を悪くさせる事で自国に利益誘導を図る奴等がいて、ソイツ等は私的組織や個人では無くて実は某朝鮮半島の国の公的組織だったりする。
・・・そいつ等の名前をVANKと言う。
ここからは小生の拙い普通話(プートンホァ)で失礼する。

出生在大陸中国朋友們!請大家不要相心在日本活動的假装日本右翼的朝鮮族和利用日本国籍的原朝鮮族為了破壊日華的関係煽動的情報。 
請注意韓国VANK和朝鮮為了破壊日華関係活動的内容。
如果真的是日本保守派的人的話他們肯定不会看不起古代中華文化、中華料理和中国古代的歴史。連以前的原来武士的日本帝国軍人也過去跟貴国打仗時也没有看不起中華文化。只是第二次世界大戦当時的日本政府被帝国陸軍一夕会占領政治和軍事的人事大権、他們比明治政府的政治家非常利己的思考、只考慮自己的発展、利用天皇統帥権和日本国家。結果陸軍一夕会干部和理性的海軍干部的関係也変得不好,陸海双方的干部之間常常発生了問題,連天皇面前也有両個陸海双方的干部打架過的。這些事情是在日本特別有名的。
原來扶桑武士学習的文学都是漢学、日本的軍記和文学。
明治時代以前的日本人跟大陸人学過的文化可多。
 
愛国不是只有批評外国,会批評祖国的腐敗分子的人才有愛国心。
第2次世界大戦以后許多日本年軽人放棄了好戦的個性,放棄后已経過了好多年中共還不承認日本人的良心,可是日本年軽人之内会批評腐敗分子的人材増加了。
也可以説是有真正的愛国心的日本年軽人還是比中国多了。
在日本1個人都没有焼掉台湾和中国的国旗的日本年軽人。
在日本1個人也没有破壊台湾和中国的産品的日本年軽人。
在日本1個人也没有拒絶台湾和中国的旅客的日本年軽人。
在日本几呼没有討厭三国志演義等古代中国歴史上的英雄的日本年軽人。
在日本一般人1個人也没有去横浜中華街或者神戸南京町破壊中華料理店的、這種的壊蛋。
我們還保持跟中華文化圏国民的祖先学過的文化、所以不会看不起中国文化和親日派中国人。

請大家自己調査古代日本歴史和神話。日本的神社的❝神様❞之内還有従大陸過来的眷属。要是你們敵視日本文化的話,那些思考也可以説是根本不理解古代中国歴史和你們的祖先和日本人的友好之歴史。

我説、先開始侵略的不是日本人而是古代中国人唐朝時代侵略了古代朝鮮半島日本領的安東都護府(三韓)和日本盟邦百済国。然后元寇的時候也是貴国的元朝跟朝鮮一来襲到日本的了。再説倭寇也不是日本人。倭寇的領頭都是中国人和朝鮮人,所以明国皇帝対日本国室町幕府第三代征夷大将軍足利義満要求統帥日本武士軍団攻打在朝鮮半島南部的倭寇基地的事情。根拠古代日本領土,清朝以前你們中国人所説的倭人除了日本本地人以外還表示住在朝鮮半島南部的人,抗日派中国人怎麼連這様的簡単的古代中国歴史也不知道呢?因為全部都是江沢民開始的抗日教育跟在大陸国内統制情報的結果吧?
所以説抗日派太没有見識,也没有文化。

謝謝台湾人一直以来対我們日本人的熱情!
謝謝西安・洛陽・江南地区本地人的祖先過去給我們祖先的援助。

⬆️
一昨日の事件のニュース記事リンク。
楽しい旅行中の乗客は凍りついたろうな。

本当、酒の上なら許されるとか思い込んでる法治主義のカケラも理解出来て無い奴は、んなもん・・・
法の世界じゃ非常識な反社会的思考者なだけだわ!日本の恥。酒飲んで暴れる韓国人留学生集団と変わらん。
三國志じゃ張飛が酒で度々失敗し、最後も酔ってパワハラ指示部下に出して寝首掻かれて死んどる。
日本神話でも八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)は八塩折之酒で酔わせてから素戔嗚命が首を切り落とし殺し、熊襲長が倭建命に酔った所を暗殺され、酒天童子も源頼光公が八幡大菩薩応神天皇の御神霊から授かった神変奇特酒で酔わされてから寝首を掻かれ討伐されている。
酒は“万人之敵=万夫不当”つまり一騎当千を超えた一騎当万の名将軍張飛の判断力も奪い、日本神話の豪傑や荒神や鬼神すらも酩酊意識混濁させ、そしてそれらの全ての命を奪い去る道具に成った。
だ~か~ら~!
仏教では明治以前までは酒を禁じていたし、禅寺の入口には「酒の匂いさせて境内に入るなクソが」って意味の「不許葷酒入山門」がどこも有るんだよな。
2015-02-14-14-34-32
関東屈指の堅城、八王子の滝山城址に在る少林寺は北条氏照公が先立った奥方様の菩提寺として開いた御寺だが、やはりこの石柱が境内地入口に在る。
「不許葷酒入山門」
不許…許さず
葷酒…くさい/臭う+酒=酒臭さ=酔って
入……入る
山門…御寺の門
小生は基本的に大社格の某神社の宮司家一族の末裔だが、仏教の倫理観は大いに賛成だ。
まぁ小生も清めの御神酒は神事の時に神社で有り難く頂くよ、後は遠方から親友が来た時かJazz聞きに行ったら少しは飲むが基本的に車移動だから飲まないし酒は祖先も失敗してるから飲まないし父が酒飲むと他人の悪口を言うので飲みたく無いし、酒の席にも居たくない。
多くの神話の化物や歴史偉人が命を落とした酒、それでも「俺は大丈夫」「酒の席の事はチャラ」と言う輩がいる。何の自信だコラ?
いくら飲んでも全く酔わない小生でも飲まない酒を、酩酊したくて飲む奴はクズだ、最初から倫理観が欠如している。
「おい、オマエは張飛以上の豪傑かヤマタノオロチより酒強いんか?」
・・・「俺は大丈夫」「酒の席の事はチャラ」と言う思考の人間は弁護士や警官の知り合いに言わせると民事なり刑事なり少なからず法律に抵触する事をやりながら生活してるパターンの奴が多いそうだ。
最近、法律的な事に詳しい友人から色々話を聞く機会が有って非常に面白かったので酒乱の行動パターンを列挙してみる。
確かに当てはまるんだなコレが(笑)!
①業務中の不正・・・社内規定や法で定められた事項を違反する、労働時間申告の粉飾、休憩時間をとった時間を申告しない、業務をエスケープしてサボる、部下への管理責任違反やアルハラ等。
②不倫・・・まぁ民事だから相手か自分か自分の家族が不幸せに成る。必ず人生が狂う人間が出る。
③脱税・・・関係無い領収書を利用したり架空の経費計上するカス、年金保険料の滞納又は虚偽申告による軽減や免除詐欺。健康保険の不正還付詐欺。
④程度の酷い道交法違反・・・故意の車線変更禁止区域での車線変更や信号無視や一時停止や進入禁止の違反、警察に届けず当て逃げ、免停中運転や異常なスピード超過、飲酒運転、轢き逃げ。
⑤シンナー吸引、脱法ドラッグや違法な睡眠薬や向精神薬の入手と使用、麻薬や覚醒剤の使用。
⑥犯罪性の高い詐欺。
⑦傷害事件、殺人事件。
・・・確かに当てはまる奴がいる(笑)!
酒の席ならOKと考える思考の人間は、例え今やってなくても法治意識や倫理観が欠如しているので必ず上記の何れかに当てはまる行為をしながら生きている、若(も)しくは過去にやっていたが一時的にそれ等から離れているだけ。
「酒飲んだら何しても良いって」思考の奴は大なり小なり必ず民法か刑法に抵触する事をしながら生きてるって事だわな~確かに(笑)。
具体的に刑事事件だと言えばコンナ事するそうだ。
①酒飲んだから暴言が許される←侮辱罪だわな。
②酒飲んだから凶器を所持したり振り回して良い←普通に逮捕されるわ(笑)!
※今回の新幹線での記事は☝️コレな。
※少し前のコレ👇は①②に傷害罪が加わる。
③酒飲んだから後輩を説教の為にカラオケのリモコンで殴って良い←日馬富士山か!普通に傷害致傷だわ!
⑥酒飲んだから泥酔した女犯してよい←慶応大学生が葉山で事件起こしたけどな、普通に強姦罪だ馬鹿か!
⑦酒の席で喧嘩に成ったから相手を殴ったら死んじゃいました←たまに有るけどな、殺人だわ。

泥酔して判断力も記憶力も法治意識も理性も無くなる奴は一生酒飲むんじゃねーよ、最近そんな奴がいたな・・・そう言えば。

酒飲んでようが飲んでいまいが罪は罪なんだよな~。
本当に酒嫌いだし飲みたく無いし、その場にいたくないし酒乱死ねよと思う。
酒で暴言吐いて自分の最大支援者を失う事に成る奴もいるだろうし、日馬富士みたいに酒飲んで判断力無くなり他人に暴言吐いて勝手に逆上して凶器を手に取り暴行傷害事件や殺人事件を起こす人間の屑もいる。
酒なんて飲むな。特に鬱病経験者や依存症持ちはな。悪酔いして失敗するだけ。そんな奴をこの間も見たばかり。


酒は万人之敵と称された豪傑の張飛も殺す万人之敵の敵、普通の人間がコントロール出来る訳が無い。まして細身の渡来人骨格と一重瞼の遺伝子の人間は遺伝的にアルコール分解能力低い。小生の様な骨格がゴツく二重瞼の縄文系遺伝子の強い生粋の日本人やサモアン等太平洋の海洋民族と比較して酔い易く酒に弱い。
だから韓国人と同じ朝鮮半島渡来系の骨格や一重瞼の奴は酒飲んで暴言吐く奴も多い。
酒弱い奴は飲むな。
酒を飲んで酩酊する事を良しとする思考は不倫と軽犯罪の始まり。そして重大な犯罪への入口。

日本で生活する外国人を一色単に「在日」とカテゴライズし差別するのは良くない。 これには歴史オタクとして少々思い入れが有るし、隣の中国や朝鮮や欧米諸外国やアジアの友邦から日本に留学に来たり働きに来て生活する人の内で何割かに当たる反日朝鮮人や反日韓国人や反日中国人や欧米史観至上主義者とを区別せずに、親日の人まで一色単に攻撃する事に成る。
無論、民主主義の韓国政権と自称民主主義の北朝鮮金王朝が存在するのは、その国民の政治的な意思や正義を貫かない不正義の結果なので批判しても良いと思うし責任を取らせても良いと思うし見捨てて良いと思うが、人種差別的な発言は宜しくない。
その言い回しだと「古代の在日朝鮮人から帰化した亡命者」を愚弄する事に成る。 そして「日本人を悪と教育する現代の中・韓・北朝のロジックと同程度」の歴史弱者としか言えない。
伊藤博文公
更には明治時代に朝鮮王族を保護し、明治・大正の政府の外交戦略に反して朝鮮王朝復活の可能性も温存していた伊藤博文公まで侮辱する事に成る。
伊藤博文公&李垠殿下
伊藤博文公は日本政府の中で朝鮮王族の李垠(りぎん)殿下を保護し、朝鮮王族血統排斥派から守り通した人物なのを知る人は日本人にも少ない。
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李垠殿下は伊藤博文公を慕っており、良く横浜市金沢区の野島の伊藤邸へ遊びに行って海水浴をしたそうだ。野島は平安時代末期には源頼朝公が景勝地として御好きだった金沢(かねさわ)の海に浮かぶ島で、江戸時代以降は周辺と合わせ金沢八景と呼ばれる名勝と成り、紀州徳川家の別荘も在った。
昔から海鼠(なまこ)、蝦蛄(しゃこ)、穴子(あなご)の特産地として知られ、李垠殿下もそれらの海産物を御召上がり成り舌鼓を打たれたのだろう。
小柴の穴子天丼と小柴の蝦蛄刺身 久良岐のよし
今でも金沢区柴の柴漁港では小柴穴子の天丼を提供する“小柴のどんぶりや”や・・・
小柴のどんぶり屋 久良岐のよし
鎌倉時代に京の都を統治した武家最高の教養を誇る金沢北条家の邸宅跡の真言宗の別格本山寺院であり、東の正倉院の異名で歴史学者に重視される稱名寺の参道の文庫茶屋や・・・
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伊藤公の時代の与謝野晶子さんや海軍人達から愛された料亭“金沢園”の後継旅館である喜多屋で李垠殿下も食したはずの穴子料理を食べる事が出来たりする・・・
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・・・なので、小生同様に本当に歴史や神社仏閣や御城と古民家と日本料理が好きな“保守派”横浜市民は結構、この史実を知っている。
しかし、己の朝鮮民主主義人民共和国なり大韓民国なりの国家元首としての地位の保持の欲の為に国策として
嘘の反日歴史観を韓国国民や朝鮮国民に教えて普及させた李承晩や金日成の当該国籍の横浜市民達も当然この事実を知らない人間ばかりだろう。
伊藤博文公は当時の死に際し欧米のマスコミからも「朝鮮人の最良の友人であった」と批評されている事も、その真実が解る。
李垠殿下
李垠殿下は李皇帝の正式な跡継ぎとして戦時中には後継者指名を受けていたが、第二次世界大戦終結後も晩年まで帰国できなかった。それは李王朝復興に由(よ)って大統領の権限が脅かされる事を恐れた李承晩大統領が殿下の帰国を拒否し阻止したからだった。恐らく李承晩によるアメリカ合衆国への根回しも有っただろう。
小生は思う、李垠殿下が日本の無条件降伏後に米国の支援を受けれて直ちに韓国に帰国出来ていたら、明治時代に清王朝から独立して皇帝と成った韓国皇朝を復活させ見事に立憲君主制を実現させ、米国や昭和天皇や吉田茂総理や白洲次郎サンと協力して朝鮮半島の統一の原動力と成って民主化と先進国化を成功させる事が出来、現代の北朝鮮国民の餓死者も出す事も無く、キリスト教系カルト宗教の韓国人による日本の神社仏閣へのテロ行為を起こさせる事も無く、日本と韓国は真に対等で皇族同士が血縁も有る友邦と成り、古代の神功皇后こと息長長足媛命以前の日本ー朝鮮半島の様に素晴らしい盟友に成ったんだろうと思う。
・・・まぁ、何度も言うが歴史に「i f」は無いし、考えるだけ無駄。でも朝鮮には李垠殿下の名跡を継いだ李源サンがいらっしゃる。

伊藤博文公は李王朝の末裔達の命脈を保ったが、現代の日本人も助けている・・・
東日本大震災発生時に東北地方で一人の凍死者も出さずに済む要因と成った鉄道貨物輸送網整備は明治時代に横浜新港埠頭(みなと未来21地区)の赤レンガ倉庫を起点に整備された事業だった。
2011年03月11日に発生した2回の大地震と沿岸部の市町村を襲った津波に因って東北地方の鉄道網は壊滅した。その為(ため)に東北地方沿岸部を通る鉄道貨物輸送が利用不能に成り、東北地方は燃料補給が滞り救援物資輸送のみならず暖房の燃料すら確保出来ずに凍死者を多数出す危険性が迫り一刻を争う事態に陥っていた。
初春の東北の気候は関東や関西の冬の様に寒く厳しい。
この危機を救ったのが磐越西線だった。

これは明治時代に旧武士達まだ士分が保証されていた時代に明治政府が士分に与えた秩禄
(ちつろく)給与と言う旧武士階級特権と身分制度が廃止され四民平等に成り、旧武士へは金録(きんろく)公債の発行が行われ言わば退職金の手形が渡された。当時、その公債を売却した武士達が多くの民間銀行や鉄道会社を設立したが、磐越西線はそんな民間鉄道区間と伊藤博文公達の国家事業の合同の事業だった。
今でも小生の郷里に横浜銀行(旧:第二銀行)や信州には八十二銀行も健在だが、これらの漢数字を冠した銀行が当時、多くの民間鉄道会社と同様に日本の発展に寄与した幕末~明治の豪商や武士達によって設立されている事を知る人は歴史好きでも無いと少ないだろう。
はまぎん今昔写真 横浜銀行様ホームページより拝借
※横浜銀行ホームページ“はまぎん今昔写真”で近代と現代の横浜の風景の変遷を見られます。

因(ちな)みに横浜銀行を開いたのは原財閥で、幕末に生糸の貿易で日本有数の大家と成り財を成した集団だった。横浜銀行の他に昨年ユネスコに文化財認定された富岡製糸場ニューグランドホテル等も経営していた。そして関東大震災で横浜市街地が崩壊した際に政府よりも復興に寄与し私財を投げ打ったのも原財閥だった。
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そんな原財閥の当主、原三渓さんの個人宅だったのが現在の国指定名勝:横浜三渓園だ。
この原三渓サンの横浜銀行(明治七年:1874年)の創業から24年後に奥羽山脈の大森林と山川を切り開いて線路が引かれ磐越西線(明治三十一年:1898年)開通と成ったが、この区間は現在も無送電区間が有り、蒸気機関車やディーゼル機関車によって客車が牽引(けんいん)されている。そして川に架かる橋梁(きょうりょう)は正に明治時代の煉瓦造りやトラス鉄橋等が現在も利用されている。
その磐越西線を使い日本海側を通って横浜市中区の本牧埠頭に在るENEOS根岸製油所~根岸駅~関東平野を通り抜け~福島県~山形県~秋田県~青森県へと石油を大震災発災から僅か1週間で第一便が送り届けられた。無論、この事業を成し遂げたのは無能な民主党ではなく民間のENEOS根岸製油所JR貨物の職員達の独自の立案と迅速な判断に由(よ)る偉業だった。
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その根岸製油所は最近では若い女性から京浜工業地帯の夜景クルージングで人気のスポットだったりする。
ENEOSも又、明治時代創業の起業だ。明治の人達の国民の利益に寄与する公益世務の企業理念が活きている。そして彼等が東日本大震災でタッグを組んだのがJR貨物だ。
そもそも伊藤博文公等の明治政府の元勲等の起こした旧国営事業から後に民間会社化した神奈川臨港鉄道やJR貨物の職員達の企業精神の中には日本を支えるDNAが有り、それが東北の被災者を思う正義感として発揮された結果の迅速な対応だった訳だ。そして明治時代の人々の遺産で有り活きた鉄道史跡の磐越西線が東日本大震災で多くの東北の人を助ける事に成った訳だ。
・・・この旧国鉄貨物線の基礎を築いた伊藤博文公を始めとする幕末に佐幕派‐倒幕派の敵味方に分かれて戦い、後に協力して日本の近代化を成し遂げた先人に対する尊敬故(ゆえ)の願望で有る事は否めないが、いつか
韓国国民が歴史を直視して李王朝を復活させて今の国際条約を軽視する堕落した韓国が立憲君主政治国として皇帝の下で生まれ変り民主主義国法治主義国として成熟する事を、日本の真の友邦に成る事を、1人の歴史好事家(オタク)として切に望む。
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横浜のミナト未来21地区の赤レンガ倉庫の軌道や汽車道遊歩道が、正に伊藤博文公が整備した初代横浜駅の桜木町の先に築いた新港埠頭の貨物線の名残だったりする。
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果たして、ここをデートで散歩する現代人のどれだけが伊藤博文公の思いを理解している事か。
皆無だろうな・・・
古代の朝鮮からの亡命者、彼等の子孫には日本の天皇家の祖先に当たる大王家(おおきみ)の忠臣として活躍した人が多くいる事実を知らず、やたらめったら韓国人や朝鮮人や中国人を反日国の国民だからと言って敵対的に馬鹿にするのは歴史に対する知識が薄いと批判されて然(しか)る可(べ)き。
逆に在日外国人だからと言って差別するのは良く無いと言う主張だけして、実際に反日活動をする人間がいる事に目を瞑(つぶ)り無分別に擁護だけする人間もハッキリ言って内憂外患だし真面目に法律を守って留学したり働いてる在日外国人の為にも成っていない。
・・・極左派、極右派は両方とも問題だらけ。
我々の祖先には少なからず古代日本を心から好きで亡命して来た外国からの渡来人がいる。
彼等を受け入れ開拓の同僚として受け入れ、共に栄え日本国家と日本文化を築き上げた古来の豪族の子孫や天皇家から臣籍降下し鎌倉幕府の基礎を築いた天皇家の子孫の武士達人々が多くいる。
武士と成った人々の祖先達には渡来系も皇孫も多くいる訳だ。彼等が協力して元寇を撃退した訳だ。
だから、簡単に「朝鮮人を全て悪とする」するカテゴライズは、古代の天皇家を批判する事にも成る。 もし日本人を差別したり日本国や日本企業を転覆しようとする部類の朝鮮半島の国家の国民や中国大陸の中国人を批判するのであれば以下の言葉を必ず付け足すべきだと思う・・・ ●「反日思想の」+朝鮮人or韓国人or中国人or白人文化至上主義者or在日○○人 ●「反社会的勢力の」+在日○○人 ●「反日政治家に献金する」+在日○○人 ●「革マル派の/中核派の/オウム真理教系統カルトの/某韓国キリスト教系カルト宗教信者の/極左テロリストを支援する」+在日○○人 ●「偽右翼の/ヤクザの/廃人量産するパチンコやカジノ利権擁護の」+在日○○人or政治家 ・・・こうやって言葉を少し付け足せば、帰化してから古代の大王や天皇に忠誠を誓い日本の発展に寄与した渡来系古代豪族であり功労者の御子孫の一族を愚弄しないで済むのではないか? そもそも日本人の中にも多くの渡来人の遺伝子が組み込まれている。
エラが張っているのは朝鮮人と言う流言飛語を鵜呑みにする「ネトウヨ」や「低学歴者」もいるが、こんな事は中学時代に真面目に社会科の教科書を読んでいれば縄文人と弥生人の骨格の違いを学んでおり惑わされる事も無い。
三殿台遺跡 縄文人女 久良岐のよし
エラが張っている骨格は寧ろ日本在来種の縄文人である琉球人・隼人・熊襲・アイヌ等の生粋の九州人や東日本の土着民に多いのは周知の事実だ。
そして韓国人に日本の縄文系同様にエラが張っている人が多いのは「古代邪馬台国時代の釜山周辺がそもそも古代日本の国土だった」からと言う基本的な事実さえ知らない“中卒”程度の学力も無いネトウヨが多過ぎるのも真の保守派や右派から見ると恥ずかしい事実だ。
彼等に日本の縄文系遺伝子同様に顎の四角い骨格が多いのは当たり前、中国の三国志、魏志倭人伝でも「倭人」として登場する訳で、百済滅亡時に大和王朝が唐帝国と逆徒の新羅王朝連合軍に敗れ朝鮮南部の領土を失地するまで、彼(か)の地は遥か神話の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の頃の弥生時代より日本領土であり住んでいる人々も日本人だった訳だ。
その後、三浦半島の走水神社の近くの御所ヵ崎を仮御所にして一時期暮らした日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)は西暦100年代に走水から東京湾を超えて大伴氏や吉備氏の古代豪族の水軍を与力として房総半島へ渡航している。日本武尊は複数人の古代大和王権の皇族将軍が合祀された神号だと考古学的には推測されているが神奈川県の複数の日本武尊関係の延喜式内社の神話や社宝と周辺から出土する遺跡を考慮すると、走水に来た日本武尊と弟橘姫は恐らく初代の王族将軍で弥生時代の終わり~古墳時代の始まりの人と推測出来るので神話と考古学的な誤差100年前後と整合性も高く成る。丁度卑弥呼の時代の人なので、そうなると倭姫(やまとひめ)が卑弥呼らしい事も解る。つまり景行天皇が卑弥呼の弟で行政を担当した人物らしい事も窺(うかが)い知れる。
丁度、この時代を境目に青銅器が普及して古墳時代に突入する。
古墳時代の王族の甲冑
その古墳時代の発展によって大和王権の成立に古代の在来豪族と一緒に協力して活躍したのが大王家に忠節を尽くした渡来系豪族達な訳だ。だから、その頃に鉄器製造や騎馬文化が日本でも開始され根付いたし大和王朝統治下で渡来民族と兵庫や大阪や奈良や京都辺りの古代人は多く混血したので、今では近畿には一重瞼で卵型の顎の骨格を持つ日本人が多い。

この歴史をネトウヨと低学歴右翼は知らない。
彼等は当然、ギャーギャー人の言葉を借りて騒ぐ割には、左翼同様に日本書紀も古事記も読まず、古来の延喜式内社も式外社も御参りせず、事もあろうか古代人の聖地が天皇家によって霊場として寺院化された御寺を外来文化として排斥する罰当たりまでいる。コイツ等と天皇家を潰そうとしたり日本の宗教施設に油を撒いたり放火したり石仏や御神像を破壊するアホの左翼やキリスト教系カルト信者の韓国人のやってる事と実質的害悪として差は無い!

結局、低学歴な右翼やオコ様ネトウヨは偽右翼に韓国人無差別排斥を煽る国際的に日本人を貶めるプロパガンダに利用され、朝日新聞や毎日新聞等の極左新聞社に良い様に書かれている。
ハッキリ言って、真の保守派からすれば左派や偽右翼同様に一部の低教養右翼は迷惑な存在だ。

寧ろ平安文化を築いた関西人の遺伝子は渡来系のエラが無い卵型の頭蓋骨に一重瞼(まぶた)の弥生系が多くて完全に帰化遺伝子が濃いんだがな・・・
近代に成って一重瞼が増えたってのは偽保守や在日右翼によるデマだ。在日右翼が自分の出自を粉飾する為の正当化に、低学歴右翼とオコサマネトウヨが騙されている訳だ。
先ず、本当の保守派ならば伊勢神宮や靖国神社だけでなく御朱印帳を購入して延喜式内社と式外社を巡拝して回るべきだ。合わせて各市町村の考古学関連の歴史博物館に行き、縄文人と弥生人の違いを学ぶべきだろう。
ここまでして漸く日本人の先人功労者を敬う精神を理解した上で最低限中卒程度の歴史知識が視覚的にも理解出来るだろう。
アイヌ人 
アイヌ人の服の文様は縄文時代の土器の文様にソックリだ。
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小生は子供の頃から近所の縄文時代~弥生時代遺跡で土器や石器を採取して遊んでいたので、写真でアイヌの人の服装や顔を見ると・・・
「あ~、素戔嗚尊の時代の縄文時代の終わり~弥生時代の人はこんな感じだったんだろうな~」
・・・と思う様に成った。丁度、青銅器の輸入やガラス製管玉の輸入も始まった時期だな。
弥生時代、後漢の時代に古代の九州の豪族達は漢帝国に朝貢して、これらの物資を得ていた訳だ。
考古学的には関西人は完全に弥生系の遺伝子が多い。だから一重瞼も多い。 対して生粋の九州人や東日本の人間は琉球人やサモア系人種と同じ海洋民族系の胴長短足でガッチリした体形、二重瞼、方形に近い顎を持つ頭蓋骨が多い。つまり縄文人系統だ。そして遺伝的に酒も強い。
例えばロサンゼルス五輪で金メダルを獲得した柔道の山下サン、彼を含めた熊本近辺に多い山下姓の一族は阿蘇家臣団であり阿蘇家の末裔と伝わるそうだ。尊卑文脈を読むと清和源氏と書かれているが、これは阿蘇家が神武天皇直系だと称しているので河内源氏の徳川家を憚り、同じ天皇家の一族だが古すぎて出自の良く解らない阿蘇家の事より源氏(天皇家の子孫)と江戸時代の学者が改ざんしてしまったのだろう。だから尊卑分脈と山下一族の伝承が異なる事態が起きたと推測出来る。
山下泰裕サンの実家はやはり熊本県出身で、出生地も阿蘇家の戦国時代の本拠地である岩尾城下の矢部町だったそうだ。
山下泰裕氏
この山下家が阿蘇家だと言う伝承を元にするならば、限りなく生粋の縄文人に近い遺伝子である事は九州中央部の出身である事からも推測出来るが・・・
同じく縄文人の遺伝子を引くサモアンのマークハント選手、K1やUFCで活躍した選手だが、この人の骨格や顔つきもやはり山下サンにソックリだ。
マークハント選手 UFC
実際、アチラの方には縄文時代に船で日本の方から祖先が移住して来たと伝承が有ったり、縄文文化が有ったと子供の頃に「世界ふしぎ発見!」で見た事が有る(笑)。
つまり、日本文化は先住民で海洋民族の南方から来た縄文人つまり生粋の日本人と、後に呉や秦や漢の滅亡時に移住して古代日本の大王家に服属し早い段階で日本人に成った中国大陸南部や西域からの渡来人。そして後から来た朝鮮半島系も一緒に協力して農耕を普及させ餓死者を減らし、日本文化を育んで行き南宋から亡命してきた蘭渓道隆和尚や兀庵普寧和尚等と鎌倉文化の中で南宋の失敗と中国伝来の兵法を学び、元軍を撤退させた訳だ。
そんな歴史が有る訳で、渡来系には卵型頭蓋骨一重瞼遺伝子の在日朝鮮人と同系統の祖先の人だけじゃなくて、海洋民族に似た胴長短足騎馬民族系統のモンゴル系もいるし、中国大陸からの渡来系だか「中国系」と一括りに出来ない中国の漢帝国成立以前に日本に亡命した秦氏もいれば、それ以前に来ている呉王系統の「臥薪嘗胆」の諺(ことわざ)で有名な夫差の子孫も居るんだわ。 当然、漢帝国滅亡時に日本に亡命した漢皇室系統の部族もいるしな。 それに南宋の滅亡時に鎌倉文化の発展に寄与して元寇撃退の一助と成った南宋時代の中国系渡来人もいるし、元朝の滅亡時に日本に来て室町文化発展に寄与した中国系渡来人もいる。当然、明朝の滅亡時に日本に帰化した中国系渡来人もいる訳だ。そして彼らは亡国の経験を日本に伝えた義の人であり、故国に対する忠義の人達でもある。 特に夫差の子孫の呉太伯は日本の天皇家のルーツである高天原(たかまがはら)に通じる高千穂峡とかが近い辺りに土着していた形跡が有るから、天皇家の祖先の大王(おおきみ)家を助けた忠臣に成っていた可能性も高いんだぞ? だから鹿児島県には太伯神社も有るだろう?隼人民族の強さのルーツは古代に兵法を理解していたからかもな。 逆に藤原家なんか初代の墳墓を見ても中臣氏の唐突な歴史の表舞台登場の時期を見ても「百済系」の状況証拠ばっかりだし、更に逆に蘇我氏は古代からの日本人だったとしか思えない方形墳墓だったり出雲大社の本殿の裏に古代の奥殿とも思える素我社が祀られていたりする訳だ。そして東日本は蘇我に通じる蘇我や須賀の漢字の付く地名が多い。 そこを平安時代に横取りしてるのが藤原氏な訳だ。古代の関東は製鉄と軍馬生産の先進地域だったからな。 蘇我氏を駆逐した後で何が起きたかは想像し易いだろう。例えば千葉県八千代市高津一帯は平安時代も軍馬生産地だったのだが、そこは菅原道真公を謀略で陥れた藤原時平の庄園に成っていた。千葉県には千葉市に蘇我の地名が残り神奈川にも小田原市に曽我の地名が残るし横須賀市が有り、福島県にも須賀川市が在る。 [画像:bd03d43d-s.jpg]
八千代市高津の高津比咩(たかつひめ)神社には菅原道真公を陥れた後に悲惨な目に遇った藤原時平一族が散り散りに成り、この地で時平の姫が隠遁生活を過ごした伝承が有る。
まぁ、蘇我家の旧領を藤原家が横領していた状況証拠だな。 中臣鎌足が暗殺した蘇我馬子のフルネームは「蘇我嶋"大臣”馬子」なんだが、これを見れば古代日本には大臣、中臣って官位の名残が伝わっていた事が判ったりすんだな。 ついでに言えば藤原家の家祖の中臣鎌足には苗字が無い(笑)。つまり古代大和王権に服属した何処ぞの小王国の末裔だから苗字が無いんだろう。恐らく百済人だ。そして蘇我家の財産を横領し蘇我家の古代爵位を歴史から消し去ろうとした事が状況証拠でバレバレなんだよ。 しかし蘇我が大臣の家柄なのは歴史書から抹消されてるが名前に残ってしまっている。 早くから原初の日本人に成っていたのに藤原氏の陰謀で日本書紀等で後に外国人扱いされた系統も有る訳だ。
じゃあ藤原氏は全て悪か?それは全く違う。平安文化を発展させたのは蘇我氏の財産を藤原氏が横領した後、志も結果的には受け継ぎ、蘇我氏が大臣の頃に招聘した外国帰化人官僚達と共に飛鳥~奈良文化を発展させ平安文化を花開かせた訳だ。そして平安時代の文化の成熟を経て武士文化が生まれ出る。
藤原氏も多大に文化発展に貢献したし、子孫にも日本を外国の侵略から守った人物を輩出している。

因(ちな)みに各豪族の系統を代表する人物の肖像画を同族同士で比較すると面白い位に遺伝子が受け継がれていて似ていたりする。
【葛原親王の御子孫の坂東平氏】 村岡(坂東平氏の氏神の鎌倉坂ノ下の御霊神社の元宮司家)・鎌倉・梶原・大庭・長尾(上杉謙信の実家)・三浦・佐原・朝比奈・蘆名・平子・熊谷・畠山(平姓)・足利(平姓)・豊島・稲毛・渋谷・江戸・喜多見・入来院・東郷(東郷平八郎元帥の系統)等
東郷平八郎元帥上杉謙信
分岐してから数百年も経つのに上杉謙信(長尾景虎)と東郷平八郎元帥は顔がソックリ(笑)。

【清和天皇の御子孫の河内源氏】 源・平賀・佐竹・足利(源姓)・吉良・今川・畠山(源姓)・武田(武田信玄の系統)・仁木・二木・榊原等
源頼朝公武田信玄 源頼朝公と武田信玄も顔面の骨格から髭(ひげ)の生え方まで似てたりする。

【摂津源氏】 多田・太田(太田道灌公の系統)・土岐・明智(明智光秀の系統、坂本龍馬さんの祖先?)等
太田道灌公坂本龍馬先生
太田道灌公と坂本龍馬も頭蓋骨のみならず禿げ具合(笑)までソックリ。

【敦実親王の御子孫の近江源氏】
佐々木・六角・京極・黒田(黒田如水の系統)・舟木・間宮(間宮林蔵・杉田玄白の系統)・乃木(乃木大将の系統)等
※家祖の敦実親王は延喜式内社で近江源氏の氏神である沙沙貴神社の御祭神として祀られる。
黒田如水公間宮林蔵公
黒田如水と間宮林蔵も顔がソックリ!実際に間宮家の御子孫には何人か御会いしたが現代の間宮サンもこの二人の肖像画に似ている。

【村上天皇の御子孫】
村上(村上義清・村上水軍棟梁家の系統)・北畠(北畠顕家の系統)・浪岡・白河・木造・田丸・藤方等
北畠顕家公村上義清公 北畠顕家公と村上義清公が似ているかは判断がつかない。

【素戔嗚尊の系統】
千家(高円宮典子様が嫁いだ出雲大社大宮司家)・諏訪家(諏訪大社大祝(大宮司)家)
※素戔嗚尊系統の御神孫一族が東日本を開拓した伝承が関東の延喜式内社には多く伝わる。
千家国麿氏
※写真は高円宮典子様と御成婚された千家国麿氏
千家さんは骨格がサモアン系で古い遺伝子が濃い様だ。

【野見家・土師家・和珥家系統】
菅原(菅原道真公の系統)・前田(前田利家の系統)・
和邇・和珥・丸子・能見・乃美・大江(大江広元公、毛利元就の祖先の系統)・毛利等
※採石や食器加工等に精通
※学問や文化的素養に精通した豪族。
※菅原道真公の功績を評価する醍醐天皇と、霊威を恐れた藤原貴族によって「天満大自在天」の神号を追贈された一族。
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前田利家
この二人も似ているかは解らない。菅原道真公の生前に彫られた彫像のレプリカは見た事が有るが太っているので痩せ型の前田利家と比較がつかない。

【忌部家系統】
織田(織田信長公の系統、平姓を僭称)・高河原等
※神事に精通した。古代の祭祀(葬礼)に深く関わった一族。
※戦国時代の信長公の代に伊勢神宮復興、御所復興、足利家が中絶させてしまった古代からの祭祀や有職故実を復活させた。
※明治天皇により織田家の功績に対して織田信長公が「建勲神」の神号を追贈され神に成った。
織田信長公

【大伴(おおとも)家・佐伯家系統】
佐伯・大伴・伴・大友(河内源氏を僭称、自称源頼朝公の御子孫)
※古代大王(天皇)家の近衛兵を率いた部落を纏め軍事や水運に精通した系統。
※古代に東日本を開拓した系統。
※応神天皇の天皇号成立以前の御名が大鞆別命(おおともわけのみこと)なので、血縁の可能性を窺(うかが)い知れる。
大伴家持公大友宗麟公
大伴家持と大伴宗麟、似ている気がするが生前に描かれた物かは解らない。

【賀茂氏】 賀茂(京都の上賀茂神社・下賀茂神社宮司家)・鴨(賀茂家の別字)・徳川(得川)=松平(東照大権現徳川家康公の系統、本来は賀茂一族、源氏を僭称)等
※賀茂氏系統は渡来人説が有る。現在の京都を早くから開発した一族。
土木や土地開発の伝承が多い。古代に東日本を開拓した系統。 トルコ人や新疆ウィグル族と同じく頬骨の出た骨格、秦始皇帝皇子扶蘇の后の骨格もウィグル族系統。
徳川家康公
鴨長明
徳川家康公と鴨長明、もうソックリ。

【物部家系統】
穂積・鈴木・紀(紀貫之の系統)・越智・河野・弓削・中原・曾禰・曽根等
※熊野信仰と水運に精通した系統。
※製鉄や学問に精通した一族、軍事にも精通した武士(もののふ)の語源と思われる一族。
※古代に近畿地方南部~東海地方~神奈川県域西部南部を開拓した一族。
紀貫之公
紀貫之

【宇治家・阿蘇家系統】
阿蘇(阿蘇神社大宮司家)・宇治・高森・中村・竹崎・山下等
※古代からの天変地異観察や文化的素養に精通した一族。古く婚礼の場で歌われた高砂のルーツの一族。
※土地開発の伝承も多い一族。
※神武天皇直系を称するが、古代の熊襲長(くまそたける)の一族から大和朝廷に服属した一族と考えられる。後に大王家からも血縁が入っているとも考えられている。
くまもん

【東漢家・秦家・百済王家系統】
大内(鷲宮神社旧宮司家/藤原家や佐伯家一族とする説も有る)・長曾我部・香宗我部・曾我部等
※文化に精通し中世以降は武士団として大変に活躍した一族。
※大内家は関東最古の大社である鷲宮神社宮司家を代々明治時代まで務め、歴代には徳川家光が利根川で溺死寸前の所を助けた大内泰秀等がいた。
※大内義興は与力の毛利家等小豪族を従えて応仁の乱を収束させた大功労者。
大内義興公長宗我部元親公
大内義興公(騎馬武者)と長宗我部元親公、そもそも系統が違う。

【中臣家系統】
藤原・
丈部・成田・児玉(児玉源太郎大将の系統)・菊池・近藤・首藤・工藤・伊東・伊藤・伊達等
※歴史的に名将を多く輩出している一族。藤原秀郷公、菊池武敏公、伊達政宗公等。
児玉源太郎大将
・・・ハンサムな児玉源太郎大将。東郷平八郎元帥と児玉源太郎大将は若い時から美男。

確かに現代の韓国政府と反日教育はクソ、北朝鮮政府と抗日勢力もクソ、その両方の親分のヤクザ国家中国共産党独裁政府もクソで、悪いのは反日教育を信じて日本人を差別したり攻撃したり、日本人のフリをして偽名を使いながら反日活動をしたり反社会的活動をする連中な訳で、中国人や朝鮮人の全てが悪い訳ではない。
ロシア帝国の東亜侵略と植民地化の野望から日本を守った児玉源太郎公等は恐らく百済王の子孫である可能性が高い中臣氏=藤原氏の末裔でもある。 神奈川県や東京都や埼玉県には古代から高麗権現社や高麗郡が在り、多くの朝鮮系渡来人が亡命して来て在来種の日本人と混血しながら土地を開拓して武士文化の基礎と成る騎馬文化が発展して行った。
そして元寇で活躍した鎌倉武士達には南宋から亡命して来た臨済宗の蘭渓道隆和尚と兀庵普寧和尚が南宋を滅亡させた元軍の戦術や、自分達の持つ中国兵法や哲学等が伝えられ元軍と朝鮮軍の侵略を撃退する事に成功している。
日本人は時代毎に中国系・朝鮮系・トルコ系・環太平洋の海洋民族の遺伝子を受け入れ共に発展し文化を築き日本国を外敵から守って来た歴史が有る。
だから日本人は、反日プロパガンダ活動や日本人を差別したり日本文化破壊を行う連中を「差別」では無くて親日の人とは「区別」して対応し批判するべきなんだと常々思っている。
そして当然、差別は良くないと言いながら「日本人を差別し日本文化を破壊する悪い奴を区別しない日本人」も同様に批判するべきだろう。
日本の原始国家の中には、我々「日本人と気の合う臺灣人の祖先と同じ呉‐越‐楚王国の亡命者の子孫」が居た事実を無視してはいけないし、臺灣の人々には敬意を払わないといけない。それを馬鹿な右翼とネトウヨは中国語=中国人とステレオタイプで己が語学力と知識不足から区別出来ない阿呆が多い。
中国人以外にも批判の対象にやたらめったらする朝鮮系の在日外国人だって、そもそも古代から高麗神社ってのが全国に有り、滅亡した古代日本の友邦だった百済王朝からの亡命者や、それ以前に息長長足媛命(おきながのたらしひめのみこと)=神功皇后(恐らく歴人上の卑弥呼の後継者女王の臺与(とよ))の新羅征伐で古代大和王権の善政を慕って新羅から亡命して来た騎馬民族が移住して開拓民に成り土地を切り開いた土地の開拓者の氏神だったりする訳だ。
だから重ねて言う、簡単に「朝鮮人や在日外国人を全て悪とする」するカテゴライズは、古代の天皇家の価値観を批判する事にも成る。
もし朝鮮人や中国人の政治や外交姿勢や日本人差別や日本文化破壊行為を批判するのであれば以下の言葉を必ず付け足すべきだと思う・・・
●「反日思想の」+朝鮮人or韓国人or中国人or白人文化至上主義者or在日○○人 ●「反社会的勢力の」+在日○○人 ●「反日政治家に献金する」+在日○○人 ●「革マル派の/中核派の/オウム真理教系統カルトの/某韓国キリスト教系カルト宗教信者の/極左テロリストを支援する」+在日○○人 ●「偽右翼の/ヤクザの/廃人量産するパチンコやカジノ利権擁護の」+在日○○人or政治家 ・・・こうやって言葉を少し付け足せば、帰化してから古代の大王や天皇に忠誠を誓い日本の発展に寄与した渡来系古代豪族であり功労者の御子孫の一族を愚弄しないで済むのではないか?

想像力の無い教育委員会と、扇動されやすい大衆迎合主義バカ共の偽城郭ファンと俄ハイカーのせいで貴重な景観が失われた。

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竹田城址の有名な一本松が地面を踏み固められた事で枯れてしまった。
こうなる事は観光客が異常増加したのに立ち入り可能区域規制をしなかったので、多くの城郭ファン達は想像していたはず。

竹田城はアホな土木事務所が遊歩道建設の為に城郭の一部を損壊させたり、アホな観光客が事故起こしまくったり貴重な遺構を踏み荒らし前々から城郭オタクは警鐘を鳴らしていたんだが・・・

同地は安土桃山~江戸時代初期に横浜の殿様で徳川家康公の軍師だった間宮直元公が但馬奉行として治めた土地なのでハマっ子歴史好事家(マニア)としては非常に腹立たしい。

土木事務所と観光振興課の人、反省してね。
朝来市役所と県の各部署と城郭専門家を集めて色々想像して議論すれば、朝来市の
観光業と共存しながら未来に竹田城は保存状態良いまま残せるはずですよ!

ガラ携に熊本大地震被災前の熊本城の写真が残っていたいのでBluetoothでスマホに写真写しました。
なので、熊本城の以前の写真を貼るだけですが、皆にも見て貰いたいと思います。

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この長石垣も崩落したんだっけか?
確か、神風連の乱で反乱を起こした旧武士階級の多くがここで亡くなったはず。
小生が尊敬し、旧北条家臣の忠臣間宮家が統治した江島神社と江ノ島をこよなく愛した児玉源太郎閣下が反乱発生の翌日から指揮を執ると瞬く間に200人からの反乱武士は鎮圧された。
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枡形。ここに侵入した敵勢は前左右から鉄砲で狙撃され射殺される。鉄砲だけで無く弓矢を雨あられと射かけられ体中串刺しに成り、熱湯と沸騰した糞尿を掛けられ身体に高温の下痢糞がへばりついて深刻な火傷を負ってしまうんだな。
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多分、宇土櫓(うとやぐら)だったと思う。伝承では売国奸賊の小西行長の居城、宇土城から移築された旧宇土城本丸だとか説明が有った様に記憶しているが、年代的に整合性が無いと言う趣旨の説明をどっかで読んだような気もする。
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曲輪側から見た宇土櫓かな?この石垣は崩落したんだっけ?
崩落した箇所の耐震性不足の原因は昭和の無学な土木事務所が公園整備の際に地面掘り返して石垣裏の栗石(くりいし)を全て抜いたしまったせいで耐震性が弱くなっていたって専門家が解説していた。
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どこか解らないな~。本丸御殿では無いと思うので宇土櫓の内部だろうか?
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大天主、小天主の外観。
出来れば今回の被災を契機に鉄筋コンクリート製のこのビルも木造復興した方が良いとも思うが、先ずは石垣の復興が最優先。
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熊本県民の皆さんにとっては心の支えであり、日本人にとっては城郭の完成系であり宝とも言える熊本城、早く復興して多くの人が笑顔に成ります様に・・・

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

まだ未参詣なのですが、海老名市今泉に浅間大神と言う神社様が在りまして、Twitterで御話してたら面白い事が解ったんで転載して見ます。
久良岐のよし 自作指輪アイコン
小生。自作の指輪をアイコンにする一般人素人歴史オタク。だから失礼な質問もしてしまいます。
間違いを色んな宮司様や和尚様に指摘して頂きながら民俗伝承史書実情を繋げるのが好きな人。

有鹿神社宮司様
有鹿神社宮司様、海老名の郷土史に御詳しく歴史学者よりも周辺民俗学に御詳しい方々と勉強会を開かれる熱心な方。

小生と有鹿神社宮司様とは直接関係有りませんが、有鹿神社奥宮の神秘的な様子が好きで参拝以来、Twitterでフォローしています。

さて、有鹿神社宮司様が海老名市今泉の浅間大神が農業にとってとても大切な神様だとTwitterで解説してくださっていました。しかし素人の小生には浅間権現=此花咲耶姫(このはなさくやひめ)命=富士山とステレオタイプで余り海老名の事はまだまだ知らないので普通にこんな疑問が湧きました。
「絶対に富士山が見える場所のはず」
所が御当地の“浅間大神様では富士山が見えない立地!”と衝撃の事実を御教授頂いた小生、そこから少し調べものしたら色々繋がりました…

以下はTwitterのやり取りの転載。

有鹿神社宮司様
浅間大神は、木花咲耶姫を祭神とし、また、海老名耕地の用水を守る位置に鎮座する、という問題について用意した回答です。
「山の森林に雨が降ると、雨は浸み込み腐葉土などで濾過され、酒清水の湧き出す泉となり、川となり、大地を潤し、また、海に流入し、漁場を形成する。 そうすると、山と水は関係するので、浅間大神は、山の神であって、水の神ということになります。」
   ↓
有鹿神社宮司様
海老名耕地は、今も、碁盤の目のように、古田条里制の名残りを示しています。古くは、有鹿の泉を水源の一つとする鳩川を用水としていました。いや、鳩川沿いに農耕地が広がり、海老名耕地にまで到達しました。 そのため、この用水の節や分岐点に鎮座する数多くの神社があり、浅間大神も一つです。
   ↓
有鹿神社宮司様
かって、世の男性が細君を「山の神」といっていたことがあります。 山の神の娘は、美人の「木花咲耶姫」ですね。自慢しているのでしょうか。 実は、もう一人娘がいます。それは、醜女といわれる「磐長姫」(磐長姫)です。 どうも、夫が謙遜して、こちらの方を行っているように思われます。
   ↓
久良岐のよし 自作指輪アイコン※ここで無学な小生がしゃしゃり出る。
木花咲耶姫命の存在そのものが神仏集合時代の富士山信仰の対象でして浅間権現と呼ばれていますので、寧ろ世の男性は御妻君を建てたのが山の神かなと。 そして・・・
山の神なので抗う事の出来ない存在=独裁者=恐妻=かかぁ天下 ・
・・と比喩で自分の存在を矮小化して失笑を誘う洒落かとも。
   ↓
久良岐のよし 自作指輪アイコン
宮司様には釈迦に説法、神に道を説くような無礼を失礼致します。 余談ですが磐や巖は山の象徴とされますから、磐長姫も含まれているかも知れませんね~。
結局、美人でも非美人でも奥さんには抗えない男性が今も昔も多いのかも。
小生は美人だろうが権力だろうが理不尽に従いませんが。
   ↑
(※小生の思考なぞどうでも良い余計な事を書く。馬鹿丸出し。)
   ↓
有鹿神社宮司様※ここで寛大な宮司様が無礼を看過下さりレスポンス下さる。
その通りです。有難うございます。
   ↓
有鹿神社宮司様
浅間大神は、古くは、海老名耕地の用水を守る神として祀られていたと考えられます。 その後、水神としての性格を維持しつつ、時の領主が信仰する浅間神社の神霊を勧請し、特に、浅間大神という名称で地域性を出しています。 神社の名称は、地名と同様に、時の権力者により変更されて来ました。
   ↓
久良岐のよし 自作指輪アイコン※ここで疑問を質問する。文字数都合で話し言葉の失礼な文。
富士山が見える場所に鎮座してらっしゃるんじゃないですか? 江戸時代の旧甲州街道沿い相模川上流の桂川沿いなんかも富士講の富士山遥拝地の御祓をした河原近くとか遥拝地跡には必ず浅間権現の石碑が在りますよ! もしかしたら、その浅間権現の在所は旧甲州街道に通じた道では?海老名だし。
   ↑
※本当は敬語で書きたかったんです(泣)!
   

有鹿神社宮司様※又も寛大に小生の無礼口調を見逃して下さる宮司様。
ところが、富士山が見えないのです。だから、富士塚をつくりたいと願っております。
   ↓
ここから少し調べ物を始める小生…
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久良岐のよし 自作指輪アイコン
面白い事が解りました。 海老名市今泉の浅間大神からは間違いなく富士山が見える様です。 正確に言うと、昔の人は富士山の位置を正確に把握していらっしゃった様です。 未だ参詣していなので余計に先入観無く調べる事が出来ました。 さて、御当社からは添付の風景が見える筈です。 大山。
海老名市今泉浅間大神は大山と富士山の遥拝所① 久良岐のよし
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久良岐のよし 自作指輪アイコン
御存知の通り、石山権現大山阿夫利神社上社の御祭神、大山祇大神様と大雷神様が祀られてらっしゃいますが、浅間権現此花咲耶姫命様の御父神様に当たられます。 実は海老名市今泉の浅間大神から大山阿夫利神社上社を遥拝すると、その背後には富士山が存在しており、昔の人はこれを知る術がありました。
海老名市今泉浅間大神は大山と富士山の遥拝所② 久良岐のよし
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久良岐のよし 自作指輪アイコン
現代人の我々にとって富士山は休火山です。死火山ではありません。 古来の名の通り富士山は不死山な訳ですが… 浅間大神の御社が成立した時期をずばり質問致します。
   ↓
久良岐のよし 自作指輪アイコン
富士山の延暦十九年~二十一年(800年 - 802年)の噴火の頃か…
貞観大地震が起きて噴火した貞観噴火の年、貞観六年~八年(西暦864年~866年)中もしくはその直後、或いは…
江戸時代の宝永四年(1707年)の富士山の宝永噴火の直後、そのいずれかの頃の成立ではありませんか?
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有鹿神社宮司様
延暦元年(782)と言われています。
※この成立年代で延喜式神名帳に掲載は無いが式外社だと間接的に教えて頂いている事に成る。
   

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お!じゃあそれより前の噴火が有るかも知れませんね!

今検索した所、天応元年(781年)に大噴火が起きていますね! これに対応して神社が開かれたと推測出来ますね!
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この歴史事件や地理に基づき考えると自ずと昔の人がどうやって大山山頂と富士山がピッタリ重なって見える位置に浅間大神様の御社を開いたかも解りますね。 つまり噴煙の位置が大山山頂から見える位置まで徒歩で移動して勧進した御分霊を祀ったと考えられます。
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そして富士山と相模川と鳩川を挟んで反対側なのは、二段構えの火砕流防壁の願いも込められていたのではないかと思われます。 源頼義公が鎌倉材木座、昔は由比と言った場所に八幡社を勧進し源頼朝公が横浜市金沢区富岡に兵庫県西宮市の西宮神社から蛭子神様を勧進した防潮の願いと同じ防災祈願かと。
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恐らくこうなる訳です。
①正確に富士山の位置が判る時代、噴煙の上がっていた時代に浅間大神の御社は造営された。
②富士山の噴火を恐れた防災の為の神社で、富士山と大山の遥拝所であり祭祀場所としてスタート。
③立地は火砕流予防の願いを込めて大河川のこちら側。
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④天応元年(781年)に大噴火があり、社伝に延暦元年(782年)の造営と伝わるそうで、天応大噴火の鎮化を願った神様の可能性が高い。
⑤娘(富士山)さんが怒っているので御父(大山)さんに守ってもらおうとした。
⑥恐らくは江戸時代に宝永噴火等あり富士講に大切にされた。
※この段階で浅間大神の神様の農業用水守護としての役割が頭からすっ飛んでる小生。
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こんな感じだと思いますが、夜分失礼しました。 宮司様、地理関係と噴火年代と神社の造営年代の一致、小生は偶然では無いと思いました。
ちょっと面白かったので、ブログにそのまま転載して掲載してみます。
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有鹿神社宮司様※寛大な宮司様、小生に農業用水守護の役割を思い出させて下さる。
いろいろと推測していただきましたが、有鹿神社から国分寺に続く一大縄を底辺とする三角形の頂点にあります。また、海老名耕地の用水の分岐点にあります。そこで、海老名耕地の稲作のための用水事情を背景として、水の神と考えています。
   ↑
※この宮司様のご指摘はとても大切で、農業用水に限らず小田原用水や玉川上水等の上水道も全ては最初の用水の幹線からの分岐点が最重要、そこに鎮座している事が凄く大切。
   

※これを受けて小生は思った。海老名の用水路はわざわざ富士山と大山が重なって見える場所に噴火の跡の農地復興の為に、噴火の鎮化と農業守護の目的で“有鹿神社~国分寺に続く一大繩を底辺とした大三角形”そこを頂点として浅間大神の神社が開かれ、そして神社の勧進と供に現在の用水路網の原型の建設が始まり、用水路と供に現在に至るのではないかと。
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確かに農業用水の神様としての機能は主要な御神威だったでしょうね! 何せ富士山と大山が重なる。 富士山噴火開始の翌年の創建。当然、火山灰が大変な事に成って農地も存続の危機だから水の神様の大山阿夫利神社の大山祇大神と高お神様に富士山が隠れる位置が大切。 そして農業の聖地鳩川。その水で復興する海老名の農地。用水路も水田も再建され、復興の願いの込められた浅間大神様な訳ですね。
※鳩川は有鹿神社奥宮、縄文時代の遺跡のど真ん中に在る聖地の断崖から水の湧く有鹿窟を水源とした聖なる川で、流域の農業用水として活用されていた。
※大河川の相模川の河川敷からそう遠く無く、川近くの平原に弥生時代に人の定住は無かったと少し前まで歴史学者は発掘調査もせずに一笑に付していたが昨今、海老名市を始め相模川等の大河川近くの平原部からどんどん弥生時代の遺跡が発掘され神奈川県の古い神社の伝承が正しい事が多い。県内の河川近くの平地に従来の考古学の一般論が通用しない場所が多い事が近年、証明されている。
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この条件が全部丸っとスッポリ治まるのが今泉の浅間大神様に成りますね。 恐らく宮司様達の伝承が主要な目的で、その為の鳩川を守る場所に富士山鎮火と大山阿夫利神社の降雨の御神威を勧進したのかなと。 それで富士山山頂、大山山頂の真っすぐ延長線上で、海老名の三角形頂点に置かれたのかなと。
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凄く神秘的な立地でとても楽しかったです。 では本当に夜分失礼しました。また、重ね重ね御教示賜りありがとうございます。

以上、Twitterでのやりとり。
やはり地元の古い神社や御寺の当人や博物館の学芸員さんや御詳しい人と話すと、嘘も多い文字から想像するよりも発見が多い。無論、文書を読み込むのもすごく大切で、両方しないとダメ。
小生はいつもなら直接突撃訪問して色々と御教授頂くのだが、今年は何だか体力も無く仕事も忙しく自分の副業もやらないといけず、ジムにも行く暇が余り無い。
去年はそれでも仕事終わってから風呂だけ入って徹夜で遠出し、車中泊で1時間くらい仮眠したら朝から夜まで活動で来たのに…
今年は無理だ。体調悪いのかな?
う~ん楽しみたい。


さて、今回、有鹿神社の宮司様に色々とヒントを頂いたり、無知のままに偶然地図を見て位置関係を把握したり、こう言う楽しみが有るのが郷土史なんだな。
だから皆さんにも御近所の神社や御寺や御城の跡を散歩して、古代の人の痕跡と接して見たり、思いがけない場所でトンでもない歴史偉人の足跡を見つけたりしたら良い気分転換に成りますよ~って御薦めしたい!

そう言えば、2016年と2017年、神奈川県と横浜市によって破壊された史跡や破損させられた古文書も盗難に遭った文化財も沢山有りましたが、国や民間に寄って文化財指定や特別な場所として認定された場所が少し有るので紹介します!
●高部屋神社の社殿…国登録有形文化財 伊勢原市下糟屋
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●高麗寄日本書… 国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
●大乗起信論別記…国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
●華厳経問答…  国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
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●小机城…続日本100名城125番 横浜市港北区小机
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※小机城は全国的に横浜市内に在って奇跡的な保存状態である事や、歴史的にも北条家の軍団の小机衆の拠点として重要性が知られているのだが、未だに横浜市教育委員会が史跡登録や歴史文化財指定申請を行わない不可解な状態が続くので、市による建設利権の為の破壊が懸念される。

是非みなさん、お散歩に行って見て下さい~♪
無論、海老名の浅間大神の御社で神様にも御参りして大山を遥拝してみて下さいね~!

では、又、次のブログ記事で!
次は多分、7月中旬の休日雑記。

毎日新聞記事 日中国交正常化45執念記念鑑真東渡
毎日新聞記事:[鑑真東渡]・・・日中国交正常化45周年記念オペラ
日中国交正常化45周年を記念した中国のオペラ「鑑真東渡(とうと)」日本公演(中日友好協会・江蘇省人民政府主催、ポラリス・毎日新聞社協力)が5日、東京都渋谷区のBunkamuraオーチャードホールで初日を迎えた。約1800人の観客は、苦難の末、日本に渡り戒律を伝えた鑑真和上の生涯を描いた叙情詩を楽しんだ。
    ↑  
小生はこの記事を読んで中国共産党に対して非常に憤りを覚えた。
鑑真和尚は日本の仏教文化のもたらした建築技術向上や精神教育や学問の発展に寄与して下さった偉人である。
小生の個人的な感覚から、その鑑真和尚を中華人民共和国の中国共産党が日中友好の題材にする事は非常に‟違和感と憤り”しか感じない。

鑑真和尚様は尊敬しているが、日中友好の演目に相応しくない。
現代の中国共産党は宗教と文化破壊集団でしかない。
中国共産党は信教の自由を保証しないどころか宗教に政治的に介入し恣意的に宗教指導者を選出しているんだがな?
また、イスラム教の新疆ウィグル自治区での新疆人への弾圧・・・
ウィグル自治区 Googlemap 久良岐のよし
及び仏教国チベットへの軍事侵略と併合と弾圧そして傀儡僧侶の擁立等々を行っている。
チベット自治区 Googlemap 久良岐のよし
どれをとっても、仏教的な事を含めて宗教的な要素を日中友好の演目にする資格は中国共産党にも中国人にも無い。

南宋が蒙古族により滅亡させられた際に、生粋の華人文化国再建を志した本来の仏僧や儒学者や忠義の士達は源頼朝公が開闢した日本武士の政権鎌倉幕府を頼り多く今の鎌倉市に亡命して来た。
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頼朝公が鎌倉の市街地整備の中心に据えたのが現在の鶴岡八幡宮だ。
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そして、その鎌倉に亡命してきた南宋の文化人であり元に屈服しなかった忠義の人々の中でも有名なのが蘭渓道隆和尚様や兀庵普寧和尚様達だ。
鎌倉幕府の第五代執権北条時頼公や跡を継いだ時頼公の子で第八代執権の北条時宗公に請われ世界最強の坂東武者が構成する鎌倉武士団に蒙古族が中国に建てた征服王朝の元朝の情報や兵法や中国語を教授し禅による精神力を叩き込んだ。
特に蘭渓道隆和尚様は鎌倉に住み、日本で最初に法治主義思想を政治的に実現した第三代執権の北条泰時公の菩提寺でもある粟船山常楽寺(鎌倉市大船)に住んだ。
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※粟船山常楽寺の山門、往古の様式を守り茅葺屋根のまま現存する。
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後に北条時頼公の庇護下に在った時に巨福山建長興国禅寺(北鎌倉の建長寺)を開いて武士に仏教、禅の精神、兵法、天文学、中国語等の学問と中国の惨状や蒙古の戦法を日本人に叩き込み、日本防衛と後の明帝国初代皇帝朱元璋による元朝打倒に繋がる偉大な一助を為し遂げられた訳だ。
この建長寺は鎌倉防衛最後の拠点と成る巨福呂坂(こぶくろざか)の切通しの手前に存在し、位置的にも鎌倉市街地にとって重要な場所だった。
更に蘭渓道隆和尚様は日本文化を大切にもされたので現在も神仏分離令の影響を乗り越え建長寺境内には稲荷社や近代に成って新たに建長寺守護神と成った半蔵坊権現等も存在し修験道や神道の文化も大切に受け継がれている。
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この建長寺は戦国時代にも偉大な武将を多数輩出しており中でも太田道灌公、間宮士信・間宮林蔵・杉田玄白の祖先に当たる間宮信冬公に学問を叩き込んだ寺院として依然として機能していた訳だ。
一方、兀庵普寧和尚様も北条時宗公の師として帰依を受け瑞鹿山円覚興聖禅寺(北鎌倉の円覚寺)を開いて日本独自の文化と成った鎌倉文化の醸成と学問の発展に寄与され訳だ。
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尚、円覚寺は後に北条時宗公の菩提寺とも成り御廟が開基廟として築かれている。
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仮に鎌倉幕府執権の北条家が宝治合戦で三浦家の諸将に負けていたら今日の日本が存在したかは解らない。なんせ、臨済宗を保護して蘭渓道隆和尚様や兀庵普寧和尚様から中国兵法や仏教等の学問を導入したのは北条時頼公と北条時宗公な訳だし、何よりも蘭渓道隆和尚達のもたらした蒙古軍の様子や中国語の学習も、戦時に敵の言語を理解し作戦を阻止し戦う為に斥候(せっこう)で非常に役に立った事だろう。

明帝国の滅亡時にも日本に亡命して来た偉大な仏僧がいる。隠元隆琦和尚様だ。いんげん豆の名の由来の歴史偉人だな。
京都府宇治市の黄檗山萬福寺を開き、祖国の文化を日本でbackupした人物だ。黄檗宗は上杉謙信が真言宗と並んで帰依した宗派だったりするが今日の京都料理の発展に影響を与えたのが、隠元隆琦和尚様のもたらした明の発展した精進料理文化だった訳だ。
そして、明の忠臣であり日本人と華人混血児の名将軍、朱成功(初名:鄭森、後に鄭成功に改名、朱姓の名乗りを皇帝より許された忠義の名将軍)将軍は臺灣島をポルトガル植民地支配から奪還し根拠地を確保すると日本に度重なる援軍要請を出している。
仮に織田信長公や豊臣秀吉や徳川家康公が御存命、若しくは徳川忠長公が第三代江戸幕府将軍に就任していたら日本は明を助け、明と日本、南北から後の初代清帝国皇帝のヌルハチを挟撃し撃破した事だろうよ。
ヌルハチの元々の王都は現在の瀋陽市、昔の奉天市で当時は盛都と呼ばれていた。
瀋陽の位置 久良岐のよし
明を裏切った朝鮮人と征服者の清を、明が江南地方(江蘇省、浙江省、福建省、臺灣)から攻め上がり、織田軍団乃至徳川幕府が裏切り常習犯の犯徒朝鮮を攻め下り、嘗(かつ)て日本人大量虐殺と拉致をやった女真族の末裔のヌルハチを明に協力して撃破した筈だ。
そして明の復興を助け、白人によるアジアの植民地化を阻止した事だろう。
余談だが、徳川家光公と権力争いに敗れ切腹させられた徳川忠長公は鄭成功将軍支援に非常に熱心だった事が有名な人物なのだが、今は御廟所は群馬県高崎市に在るのだが、本来ならば静岡市の浄土宗の玉桂山華陽院に成った筈だ。
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華陽院は徳川家康公の祖母の菩提寺であり、又、徳川家康公が今川家人質時代に読み書きを習った御寺でもあり、徳川忠長公が生前に大変に大切にされた御寺だったので忠長公の御存命中は日本中の大名から寄進が相次いで一時期は寺領2万石と驚異の勢力を誇った名刹だ。しかし忠長公の切腹時に当時の御住職が幕府と家光公に対して忠長公の影響力で得た寺領を返還したので、現在は広大な境内を有している訳では無い。
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徳川家康公を可愛がり教育を施した祖母の源応尼様の御廟所や、近代の徳川家当主の徳川家正先生の御手植えの松等も存在する。
更には家康公の愛妾となり姫を生んだ"於久の方(おひさのかた)"こと"間宮於久"様の菩提寺でもある。
そして、間宮於久様の御父君は豊臣軍を痛撃した北条家の忠臣の間宮康俊公であり、間宮康俊公の曾祖父が建長寺で学問を学んだ間宮信冬公に当たる。
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※上の写真は間宮康俊公が城将の松田康長公と300の寡兵で籠城し豊臣秀次の大軍2万6千を痛撃し活躍した山中城址。
更に康俊公の姫である於久の方と同時期に駿府城で徳川家康公の寵愛を受けていたのが間宮信冬公と同時期に建長寺で学問を学んだ関東最強の名軍師だった太田道灌公の曾孫に当たる"於梶の方(おかじのかた)"こと後の英勝院様な訳だ。その法名の英勝院から隠居地の鎌倉市扇ヵ谷にある菩提寺は英勝寺と名付けられた。
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英勝寺の境内は本来は太田道灌公の鎌倉における邸址と伝わる。
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境内の竹林の辺りが、室町時代初期の太田家の御姫様達の居住区域だったそうだ。
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徳川家との縁から寺紋に太田桔梗紋と徳川葵の両方の使用を認められており、背後の源氏山には太田道灌公の供養塔も在る。
そして於梶の方、於久の方と徳川家康公の暮らした駿府城を後に治めたのが徳川忠長公であり、駿府城の経済を担う蒲原奉行を務めたのが間宮康俊公の曾孫の間宮忠次公だった。
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駿府城下の華陽院と徳川忠長公には各時代の徳川家攻防の記憶と建長寺以来の太田家と間宮家の国防意識の高さが受け継がれていた訳だ。
だからこそ、徳川忠長公の鄭成功将軍支援に繋がるのだろう。これは奇しくも明治天皇の明治政府による孫文先生支援にも繋がる訳だ。
中国南京市紫禁山中山陵 久良岐のよし
※上の写真は中国江蘇省南京市の中山陵、孫文先生の陵墓。同じ紫禁山の山中には明帝国の初代皇帝の朱元璋の陵墓である明孝陵と、三国志の英雄で呉の皇帝の孫権の陵墓の築山梅林も存在する。
今、中国に残る宗教指導者は南宋を裏切り、明を裏切り、華人の明帝国を滅ぼした満州族の清を取込み愛新覚羅溥儀を抑留し国家運営の大義名分とした逆徒「共産党」の建てた「中華人民共和国」に媚びへつらって今に至る連中な訳だ。
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※上の写真は台北市の中山記念堂。孫文先生や歴代中華民国総統に関する展示物が有る。
更に言おう。
鑑真和尚始め、歴代の華人の文化を取り戻したのは中華民国だ!
日本に留学し、小生の住まう横浜市の中の中華街等で漢族や日本人の支援を受け、満州族による征服王朝の清を政治的に打倒し華人の下に万里の長城内側の明帝国時代の国土を取り戻し 近代民主主義国家の中華民国の成立に寄与されたのは国民党初代総統の孫文先生だ!

つまり鑑真和尚や蘭渓道隆和尚や兀庵普寧和尚様や隠元隆琦和尚様の法脈を受け継いでいるのは中華民国臺灣の友人達しかいない!
南京の中山陵には先述の通り三国時代の呉皇帝孫権の陵墓址も存在するが、多くの三国時代の英雄達の陵墓や御廟は中華人民共和国に成ってから破壊され埋葬品は略奪された。
例えば江蘇省蘇州市、ここは古くは春秋戦国時代の呉の首都だった場所だが、三国時代にも建業の町が今の南京市に造営される以前の呉の首都として機能していたので多くの名将達の居宅や陵墓や御廟が“中華民国時代まで存在した”のだが文化大革命等の現代中国人による破壊で消滅した。
そもそも蘇州市中心部自体が呉王国の首都、姑蘇(グースー)城址であり、中国共産党の統治まで各時代に増築されたり改修された城壁等も現存した。
その失われた場所は・・・
・陸遜の陵墓
蘇州大学園区校区周辺、葑門址の近く。その門は春秋戦国時代の名将の伍子胥の死亡後にその目が吊り下げられた門でもある。
・周瑜の陵墓
蘇州市呉中区。
・孫権邸址
蘇州市議会の会議中心ホテル一帯。
・・・超有名どころだけでもゴロゴロ、他にも沢山の名将達に関する霊廟と宗教施設が中国共産党によって破壊され略奪された。

そして、今回の毎日新聞の記事で紹介されている「鑑真東渡」の上演は蘇州市の共産党の連中の支援で行われる訳だ・・・矛盾だらけ。

中国共産党は仏教にも全ての宗教にも関与するのを止めて信教の自由を保証すべきだ。
チベットとウィグル族への弾圧も止めるべきだ。
自国の文化財と自然環境を保護し、共産党の唯物主義、拝金主義、軍国主義、民族主義による侵略を止め改めるべきだ。

現代の中国共産党は日中友好の演目に鑑真和尚様を取り上げる資格は皆無だ。



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