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カテゴリ:城址・要塞・史跡・伝統文化 > 伝承・無形文化財

前回の磯子の夜景の記事でベイサイドマリーナで撮影した2020年08月04日の満月の写真を載せた時に少し指摘した事なんだけれど・・・
陰暦の睦月の起点を太陽暦の1月に当てはめると漢字の意味が整合性が無くなり大混乱します。
和暦は旧正月を起点にし陰暦で用いないと意味が無いんです。
前回コンナ⤵事書いてました。
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お月様メチャ奇麗ね~!
イケメン!
「何でイケメン?」と思った人は欧米の文化を基準に生活してらっしゃる方かセーラームーン見て育った世代の女性でしょうか?
ギリシャ神話では月の神セレーネとアルテミスは女神様ですが、日本神話では御月様は太陽神の天照大神の弟神の月読神とされています。
月読は読んで字の如(ごと)く、日本は米国に開国させられる迄の暦(こよみ)はアジア諸国と同じ陰暦だったので昔は月を基準に生活していたんですね。
欧米諸国は太陽暦で、現在の日本は明治時代以降に太陽暦を導入し、中国の春節と同じ春の節分を行う春分が本来の“迎春”だった訳ですね~。
コレ⤴だけだと・・・
「ちょっと言いっ放なしで不親切だ」
・・・と思ったので
何が問題なのか解説を追記したいと思います。

歴史と長文嫌いな人は、ここで読むのを辞めて逃げて下さい(笑)。

今の日本は太陽を基準にしてカレンダーの日付を作ります。
しかし本来の日本はアジア諸国と同じで陰暦で1年の行事を行っていましたが現代では意味の有る旧暦は廃(すた)れてしまい、例えば睦月=太陽歴の1月と誤解している人もいます。
本来の和暦を陰暦で見れば漢字の意味で何で年始が睦月で何で年末が“しわす”と言うのかスッキリ解ります。
因みに師走の通説は間違いでしょう。
日本人は暦(カレンダー)の決め方すら長い歴史の中で数回変更している事を古代史で解説したいと思います。

まず睦月は和暦1月と言う表現で本を書いている人がいるから誤解を産む。
睦月は1月でなく睦月は睦月です。
陰暦の睦月でしかありません。 
閏月があるので太陽暦の12分割には当てはまらないんです。
陰暦と太陽暦は、そもそも元日の始まる時間軸から全く異なる別物です。

そして中国由来の陰暦導入以前の古代日本では1年を6ヶ月で区切っていたんですね。だから昔の事を現代の標準で話すのは根本的に無理な訳です。

先ずは写真を見て下さい。
冬に海ほたるPAの朝陽
満月の相模国一之宮寒川大社。
海ほたるの日の出と寒川大社のスーパームーン 久良岐のよし
当たり前ですが、太陽は昼に、月は夜に昇り二つは全く別物!
月と太陽をそれぞれ観測し暦を作り比較すると時間軸にズレが生まれ違う結果に成ります。
それが現在の元日と旧正月の差です。

イスラム圏ではキャラバン(商隊)が交易で長い長い距離、砂漠を旅する際に月と星の位置から現在地を割り出して次の目的地まで通う道標(みちしるべ)としました。
だから今もイスラム圏は月と星を重視していて国旗の意匠(いしょう:デザイン)に取り入れてる国が凄く多いですよね。
トルコ共和国トルコ
シンガポールマレーシア
パキスタンパキスタン
トルコの様な日本の無二の親友国も、マレーシアの様に成長目覚ましい国も、日本とは微妙な関係のパキスタンも、色んな国がイスラム教の考えを重視して国旗に取り入れてます。
極東アジアではイスラム教とは関係なく、月を観測して暦を区切っていました。

中国や台湾では陰暦の事を“農歴”と言い、作物の栽培の為に天体観測をして季節を定めていたので根本的に陰暦は季節感と切っても切り離せません。しかし農歴=陰暦には欠点もあり太陽暦よりも時間の誤差が生じるので、昔は閏葉月、つまり現代の感覚だと7月の延長期間が設けられたりしていました。
なのに1年間を12分割し今の1月1日が起点の太陽暦で決めた西洋由来の暦の月の区切りに対して、陰暦の睦月の名称を当て嵌めるのは根本的に成立しない訳です。
ついでに言えば中国文化が導入されるより更に古い時代の日本ではどうも12ヶ月で1年ではなく6ヶ月で1年としていた事が考古学的に解かって来ています。
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ですから今も日本の神社では夏越大祓と冬越大祓、2回に分けて行います。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が伝えて下さった祝詞(のりと)を唱えながら悪い物を切り裂く茅の葉で作った茅の輪を3回くぐる事で、半年間の自身の業(ごう:カルマ)により溜(た)まった心身の穢(けが)れを素戔嗚尊の御神威で払い清め、長寿健康と心の洗濯を行う季節行事として半年1年区分の古い時代の名残に現代人も触れる事が出来ます。

本当にそうなの?と思いますよね?
小生も思った事が有ります。

日本の歴史を見るには歴代天皇の寿命を見ると古代の時間軸が良く解ります。

   伝承没年齢 → 1歳=12ヶ月変換
神武天皇 127歳 → 63.5歳
綏靖天皇   84歳 → 42.0歳
安寧天皇   67歳 → 33.5歳
懿徳天皇   77歳 → 33.5歳
孝昭天皇 114歳 → 57.0歳
孝安天皇 137歳 → 68.5歳
孝靈天皇 128歳 → 64.0歳
孝元天皇 116歳 → 58.0歳
開化天皇 111歳 → 55.5歳
崇神天皇 119歳 → 59.5歳
垂仁天皇 139歳 → 69.5歳
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
履中天皇   70歳 → 35.0歳
反正天皇   75歳 → 37.5歳
允恭天皇   78歳 → 37.5歳
安康天皇   56歳 → 28.0歳
雄略天皇   62歳 → 31.0歳

この寿命の比較は後で解説しますが、差異を再計算すると面白い事に神話と考古学に整合性も出て、伝承を現実的に再解釈すると、途端に物凄くリアルな歴史の話に変わって来たりします。
中国文化を導入したと伝わる応神天皇と、中国の学問を学んだと伝わる仁徳天皇と菟道稚郎子御兄弟の次世代、履中天皇の世代から古代日本の6ヵ月=1年の暦が破棄され年齢の加算が12ヶ月=1年に成っている事が一目瞭然ですね。

日本の天皇家は公称でスタートしてから西暦2020年時点で
2680年継続しているとされています。
“天皇”の尊称を用いるのは天智天皇からです。白村江の戦で唐帝国と国交断絶して以後に成立した尊称です。
それ以前の時代の歴代天皇の尊称は大王(おおきみ)でした。
つまり、天智天皇以前の天皇の称号は、飛鳥時代以後に後から追贈された天皇号です。
例えば応神天皇の本来の和名は大鞆和気命や誉田別尊と言われ複数名前を変えていた様です。
応神天皇は古墳時代の天皇です。
弥生時代~古墳時代は日本では卑弥呼が活躍した時代です。
中国では漫画“キングダム”の秦の始皇帝や“赤龍王”の項羽と劉邦、横山光輝が漫画化した吉川英治の小説“三国志”の曹操・劉備・孫権の生きた漢帝国や晋帝国の時代に相当します。
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横山光輝三国志は平成一桁の生まれの人はギリ“三国志大戦”で知ってる人もいるかな(笑)?
日本の旧暦は中国から古代に導入された文明の一端ですが、漢の時代と日本の古墳時代の武装を比較すると日本は中国の影響を受けているのが一目瞭然です。
前漢時代の鎧
画像掲載元⤵
https://vitomag.com/military/gayow.html
これは中山靖王劉勝、つまり三国志の主人公に成る劉備玄徳の御先祖様で紀元前100年頃、正に日本の神話の時代に相当する人物の古墳から出土した甲冑の復原品です。小札(こざね)を皮鎧に赤糸で威(おどし)し編み付けた精巧な鎧ですね。中国が漢朝の時代、我々日本人の御先祖様は金属器は未だ少なく、一部の北九州や出雲地方で青銅器が使われていましたが、弥生時代の兵器は石斧や石鏃つまり石で作った刃物しか汎用されていませんでした。
下は古墳時代の日本の豪族の鎧で挂甲(けいこう)と言いますが、前漢の時代の鎧と構造が酷似していますね。
挂甲
画像掲載元⤵
https://costume.iz2.or.jp/costume/559.html
古墳時代に成っても金属鎧は豪族の王の古墳などから出土する程度でとっても高級品でしたが、西暦300年~500年頃の古墳時代の鎧に成って漸(ようや)く紀元前110年の漢帝の皇族である劉勝サンの鎧とデザインやクオリティが似てきます。
古墳時代の埴輪は甲冑を来ていますが、中国の甲冑を導入して改良を加えている事が判ります。
恐らく女王卑弥呼サンと臺与サンの時代に三国時代の魏の皇帝曹叡と
丞相司馬懿に邪馬台国の使者が曹叡の亡くなる1年前に謁見している事が三角縁神獣鏡に彫られている景初三年の元号から判(わか)りますが、魏の同盟国に成った際に様々な金属加工技術を技術供与され、そのまま魏の挂甲の軍装の設計が古墳時代の人に少しだけ改変されて形をほぼ変えずに使い続けられたんでしょう。この挂甲は上下にも伸縮するので騎乗した武者が着用するのに適した構造に成っており、恐らく弥生時代の終わり頃には九州や中国地方に馬も輸入されて軍馬の生産が開始されていた事が判ります。
下は昨年、上野の国立博物館で開かれた三国志展で展示されていた中国三国時代の古墳の副葬品です。
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三国時代の中国の古墳から発掘された工芸品の精巧さ、金属加工技術や宝石も当時の日本とはとてつもない技術力の差を感じざるを得ません。
更に驚愕するのは当時の中国の家屋を模した土器の建物は瓦葺屋根で2階建てや3階建ての御屋敷で、現代の京都の祇園とかに有ってもおかしくない外観。しかも今の神社建築が中国文化の影響をふんだんに受けている事が判る極彩色で、なんと残飯や人間の出す屎尿を利用して庭で養豚してる様子まで土器に作られていました。
そんな三国時代の魏から技術供与を受けた邪馬台国が今度は卑弥呼の没後に内紛が再発してしまい、女王の再登板が必要な事態が起きて臺与(とよ)ちゃんが出て来る訳ですが、その卑弥呼サンよりもチョビっとだけ早く中国との交流が始まっていた事が福岡で出土した金印の存在から判ります。

漢委奴国王印(
福岡市博物館所蔵 )
画像掲載元URL⤵
http://museum.city.fukuoka.jp/gold/
漢委奴国王印
この金印の“
漢委奴国王”を学者サン達はアレコレ深読みして邪馬台国近畿説と北九州説の論争の具にしていますが、小生は普通に“漢(皇帝)が奴婢の国の王に委(ゆだ)ねる”としか読みようが無いんですよね。
当時の日本は先程の武装の製造技術でも分かる通り未開の地でしたから、当然中国から見れば奴婢=野卑な蛮族の土地にしか見えなかったでしょう。
この金印は建武中元二年(西暦57年)に有名な中国の光武帝劉秀から贈られた物です。
ここで遅くともこの時代に中国文化の影響が日本に入り始めた事が判(わか)ります。

実は日本神話と中国の史書にかかれた古代日本の記述に、太陽暦だけでなく古代日本の暦の概念を当てはめると、面白い様に神話と中国古代史に登場する日本の歴史が符号したりします。

神奈川県~千葉県には倭建(ヤマトタケル)が東征に来ていた事が古事記や各神社仏閣の伝承に残ります。
三浦半島の走水に滞在した伝承が今でも有り太陽暦で逆算すると西暦2世紀の1月に当たると伝わります
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つまり関東地方に大和朝廷の国としての統治機構を設置しにいらっしゃった訳です。
卑弥呼達よりちょびっと早い時代の話に成りますが、しかし小生は神奈川に来た倭建は卑弥呼の時代の人だと考えています。

それは天皇家の寿命の解釈が間違って伝わってると思っているからです。
そこで、夏越大祓/冬越大祓の所で話題にした“昔は1年が半年だった”と言う事が関係して来る訳です。

では先ずは倭建と卑弥呼が何故同時代の人と思うのか、ちょっと当時の状況を整理してみましょう。

【卑弥呼】
倭姫=倭建の叔母で伊勢神宮の斎王
当時の伊勢神宮は今の三重県の伊勢神宮ではなく、まだ旧丹波国の元伊勢神宮だったかも知れない。
※斎王の原型が一代限りの女王職で神職の女性長官でしょう。
※斎王と同じく当時の女王は未婚の皇族から選ばれる、女性上位だが世襲ではなくローマ法王の様に大凡(おおよそ)の意思決定だけする神職に徹した歪(いびつ)な女王統治の社会と推測出来る。
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写真は伊勢神宮と同じく平安時代初期以来~室町時代迄の期間、皇女の斎王が祭祀を司る斎宮が置かれていた京都市の下鴨神社。
室町時代の足利家は宮中儀礼を軽視する政権だったのは有名で、斎宮は消滅したまま放置されました。
室町時代以前には下賀茂神社~伊勢神宮を斎王が季節ごとに往来したのが現在の京都の葵祭の原型に成っていて、下鴨神社の斎王は戦後に祭りの中で代理の女性が選出される形で名前だけ復興されました。
現在は三重県の五十鈴川沿いが伊勢神宮と呼ばれていますが、元々は丹波国の元伊勢神宮が置かれていました。
今の京都府に組み込まれている地域が宗教的にも当時の重要な地域だった時代が有った様です。
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※百度より画像転載
三国時代の魏皇帝が曹叡だった景初二年(238年)に遼東半島で公孫淵が魏朝に反逆し公孫淵に呼応した朝鮮半島の部族集団も加わり大規模な反乱に発展しました。魏の丞相司馬懿は兵を率いて北伐して公孫淵を討伐すると、公孫氏に横領されていた元々漢帝国の領土である楽浪郡~帯方郡を取り返し漢朝から政権を禅譲され引き継いだ魏朝の直轄地と成りました。
当時は古代中国人の歴史認識で倭国の一部だった朝鮮半島南部を経由して~帯方郡~楽浪郡~魏の首都洛陽に卑弥呼が朝貢(従属同盟)の使者を送っています。
“韓国北朝鮮の独自歴史解釈”を除いて東洋史の常識として楽浪郡帯方郡を含めた朝鮮半島には当時は朝鮮の統一王朝どころか朝鮮族もまだまだ存在しておらず、部族の首長が割拠していた状態で、そこを“漢帝国が帯方郡・楽浪郡を朝鮮半島に置き支配”していました。
なのでソウルは数年前に首尓と無理矢理漢字表記を変える以前には“漢城”と書いていましたし、今でも中国・台湾・香港は一般的にソウルを漢城と書きます。
又、中国の歴史書を見ても当時の“朝鮮半島南部は倭人(日本)の土地”と認識されており史書にも記録されています。
漢の時代から朝鮮半島では地元の部族が度々太守を殺害し反逆する等、魏にとっても害悪な地域だったので、卑弥呼が魏に冊封を求めて来た朝貢は軍事同盟としても朝鮮半島の土着豪族を背後から牽制するのに心強いWin-Winの同盟関係だった事が理解できます。
実際に司馬懿が卑弥呼との同盟の事を大変に喜んでいた記載も残ります。

【卑弥呼に唯一会える男性】
景行天皇=倭姫の兄弟で倭建の実父。倭姫が卑弥呼なら実質的に政務と軍事を司った“首相”の役割を果たしていた事に成る。
この頃の卑弥呼が当時の標準寿命の60年前後生きたとしても景初二年(238年)に魏に使者を送った当時には成人して国家元首に成っていたはずなので、少なくとも年齢は昔の成人年齢15歳以上で卑弥呼は290年頃には亡くなってるのでしょう。
247年の3月と9月に日蝕が発生しているので、天照大神の化身として権威を持っていたであろう卑弥呼(ヒミコ=日巫女)は少なくとも25歳以上に成っていましたが、大陽の化身を祀る存在だったので宗教的な求心力を失ったかもしれませんね。
卑弥呼以死大作家径百餘歩殉葬者奴婢百餘人
卑弥呼サンが亡くなって大墳墓が造営される様子が記録されていますが、死亡時期の記載は無くヒントも有りません。彼女が倭姫と同一人物だとすれば倭建の東征に力を貸す役割が残っているので、政治的な権力は失っても斎王として権威は持ち続けもう少し先まで生きたのかも知れません。
いずれにせよ卑弥呼さんは247年の日蝕で死んでいなくても、同一人物と思われる倭姫は太陽信仰の天照大神を祀る斎王だったと記録が有るで、日蝕により信頼を失い女王としての役割に抑えられ、中国風に男系男子が皇帝として国を取り仕切る制度に移行し卑弥呼さんの役割は宗教だけの斎王に抑えられたのかも知れませんね。
天照大神の神話に天照大神の憑代(よりしろ)である卑弥呼の話自体が習合されて伝わっている可能性が有るので、天岩戸神話は当時の日蝕と天照大神の失脚もしくは蟄居を比喩した伝承と考えると神話に現実味が吹き込まれて政争の話に変わりますね。
実務を執り仕切っていた景行天皇の権限が強くなり卑弥呼から宗教よりも強い決定権を禅譲されたかも知れない。もしかしたら、宗教的な求心力を失った卑弥呼は責任を感じて自害したかも知れない。
臺与まで景行天皇~成務天皇~仲哀天皇と三代は、魏志倭人伝の“男王の時代に再び倭国大乱と成った”記載とも合致してきます。
魏の滅亡は265年その政権を重臣司馬懿の一族に奪われ晋が建国されます。
晋朝は家祖の司馬懿が邪馬台国支持者だった上に朝鮮半島の諸部族に対する牽制に邪馬台国は必須です。
晋からすれば卑弥呼だろうが実弟の景行天皇だろうが晋にとっては邪馬台国が纏(まと)まる事の方が状況的には重要で、晋から見れば女王でも男王でも実力が有れば良く、司馬氏一族にとっては倭国が纏まらず朝鮮半島を挟撃出来る状況が整(ととの)わない事の方が問題だった訳です。
なので倭国の動向をずっと注視していた事が判る一文が魏志倭人伝に記載が有りますね?
この文章の情報は魏の倭国の支援を担当した帯方郡勤務の軍人である張政サンの報告だと思います。
卑弥呼以死大作家径百餘歩殉葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千余人復立卑弥呼宗女臺與年十三為王國中遂定政等以檄告喩臺與
この文章を解り易く砕けた武州弁に翻訳してみます♪
いやぁ~卑弥呼サン死んじゃってさ~!デッカイ家(古墳)作ってさあ~、直径100歩位の!
殉死者は奴隷(恐らく宮廷の女官か巫女)100人位だってョ!
更に後釜に男王に成ったんだけどさ、これが国全体に不人気で支持されなくてよぉ~。
(就任)当時に千人位(の豪族)で御互いの主張で殺し合いに成っちまってよ~。
しゃぁ~ねぇ~から又さ卑弥呼の親戚の女の子連れて来てヨ、十三歳なんだけど女王に就任してもらってよ!
そしたら、やっとこさ国中の混乱落ち着いてよ!
ウチから出張してる塞曹掾史の張政達が臺与チャンに演説で励ましてやったんだけどな。
つまり卑弥呼が倭姫だとすると卑弥呼が亡くなってから景行天皇が王に就任したけれど男王じゃ全く纏まらず、恐らく倭建と政務天皇の後継者争いの問題だと思いますが、その時に其々(それぞれ)を支持する派閥の豪族が1000人も暗殺や粛清し合って、卑弥呼サンの存在で纏まってた邪馬台国=大和朝廷が又荒れちゃったみたいですね。
本当に男ってバカ。
更に張政サンは帯方郡から出張して来てた魏の塞曹掾史と言う役職の軍人で、どうやら見るに見かねて卑弥呼サンの一族で才能有りそうな人材の臺与ちゃんを発掘してきて説得して女王に成って貰ったみたいな展開だった様ですね。
304年頃から劉淵の一族が晋国内で反乱を起こしまくって混乱を起こしているので、本来なら邪馬台国に朝鮮半島から北上して、帯方郡と楽浪郡を経由して今の北京辺りまで援軍を寄こして欲しかったのが晋朝の意図する所だったの思うのに、何だか知らないけど卑弥呼サン亡くなった後で景行天皇が継いだら成務天皇と倭建を支持する派閥に豪族が割れちゃって、全然ダメダメになっちゃったみたいですね。
そんで・・・
「男駄目なら元の女王に戻しちゃえよ!」
・・・って張政サン達が怒って、卑弥呼(倭姫)の跡継の臺与(神功皇后)を発掘して来た様です。
下は当時の天皇の寿命で、後で他の天皇と合わせて比較しますが、年齢左側が1年を6ヵ月換算で記録されていたであろう没年齢の記載、右がそれを1年を12ヶ月で再計算した没年齢です。
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
これを見ると当時の混乱の様子がうかがえます。
実績を上げた兄の倭建ではなく、何にもしてない弟の成務天皇が後継者に成り、更に成務天皇が倭建の遺児の仲哀天皇を後継者にせざるを得ない状況が発生し、その跡を継いだ仲哀天皇が不審な短命で亡くなっている一連の不可解な権力移譲の様子を忖度無しに簡潔に書いているのが張政さんの報告なんでしょう。
更立男王國中不服更相誅殺當時殺千余人
この一文ですね。
どうやら三国志の著者の陳寿さんが存命中に発生した事件の当事者の様な報告内容なので、魏に仕えていた張政さんも陳寿さん同様に晋にそのまま仕えたみたいですね。
しかし景行天皇の時代の歴代天皇の寿命を“1歳=6ヶ月”の換算で数えでは、遅くとも三浦半島走水神社の倭建命来訪の伝承が西暦109年に成るのと比較して、史実の卑弥呼の時代とは誤差150年前後が発生する事に成ります。
これが先程、景行天皇達中国の暦導入以前の寿命を昔のまま6ヵ月計算した誤差だとすると、中国文化制度を本格的に導入した伝承の有る応神天皇―仁徳天皇以前の天皇の寿命を古代の1年=6ヵ月→12ヶ月に変換するとピッタリ景行天皇=卑弥呼の時代と整合します。

【再び倭国大乱に陥った原因の男王】
成務天皇=倭建の異母弟。
成務天皇は立太子され大王に成りましたが先代の景行天皇には他にも倭建等の子息がいた上、彼等は異母兄弟であり更に双方の母はそれぞれが異なる豪族の姫でした。
普通に功績を上げたのは倭建の方なので景行天皇の跡継ぎに関して望むと望まざると後継者争いが勃発するでしょう、それが魏志倭人伝に有る、卑弥呼の後に男王が就任したが再び世が乱れたの記載だと推測出来ます。
卑弥呼(倭姫)の跡を継いだ景行天皇が就任した時は混乱なく天寿を全うしている様ですね。
恐らく卑弥呼(倭姫)の跡を景行天皇が継いだ時はずっと補佐をしていた実力も有って纏まったみたいです。しかし子供の代で後継者争いが発生してしまった様です。
東征を無事に終えた倭建は恐らく戦争らしい戦争にすら成らず武威と統治能力で地方の郡衙(ぐんが:市役所みたいなの)と兵站(へいたん:補給網)となる駅=店屋(てんや:駐屯地)の設営に成功して凄まじい武勲を立てた後で暫く後の四道将軍や鎌倉公坊に似た役割で東日本に駐留していたんでしょうね。
父大王の景行天皇の危篤か崩御の一報が有り、重臣引き連れて東山道から帰還しようとし、関ヶ原を経由して畿内(関西)に入ろうとしたんでしょう。
来る時に通った東海道の海路や薩垂峠は焼津で焼き討ちされてるから二度と通りたくないでしょ(笑)。
ところが東山道を進んだら今の神話で伊吹山の神と表現される土地神(かみ:督=豪族)に軍事的に阻止され、倭建は武装せず敵対心が無い事を示して説得に行ったら、暗殺未遂で外傷を負ったか毒を盛られたかは解りませんが重症を負った様です。
二俣川で討死した畠山重忠公みたいな状況。
普通に神話を現実的に解釈すればそうなるし、美濃国~近江国境でそれを画策出来るのは只1人、成務天皇だけでしょう。
成務天皇の母は美濃の豪族の娘で八坂入媛(やさかいりひめ)ですから、異母兄の倭建を排除しないと自分が廃嫡されるか、既に景行天皇が崩御されている状況だったなら最初から後継者争いが起きる前に母方の豪族の協力を得て倭建の帰還を阻止したと考えられます。
最悪、倭建(ヤマトタケル)が立太子された嫡子だったのに、景行天皇が崩御した直後に成務天皇派は倭建の不在を好機として自派で武力クーデター起こして朝廷を制圧したか、存外、東征に参加が許されず朝廷に待機し武功をあげれなかった西日本九州の豪族王達から成務天皇は支持されたのかも知れませんね。
実際、東日本に開拓に入ってた豪族の苗字は各神社の伝承に残りますが九州系は皆無・・・
磯長国造(五十猛?)・鈴木・紀=熊野系(諏訪神系?)
古墳時代~奈良時代
((根国・狗奴国)→駿河~伊豆~相模西武(磯長国)・武蔵東部(橘樹郡・都築郡))
大伴=大鞆
古墳時代~鎌倉時代(神職化)
(摂津住吉郡・相模三浦郡~武蔵橘樹郡=佐賀牟国)
日下部
古墳時代~飛鳥時代
(高座郡南部)
丸子・小野=和迩
古墳時代~平安時代
(相模愛甲郡~相模高座郡~武蔵荏原郡=佐賀牟国→前九年後三年の役頃に東北に移住か?)
下毛野・上毛野・坂田=毛野
古墳時代~平安時代
(上野国・下野国・相模足柄郡・近江坂田郡)
笠原・布施=諏訪神族
古墳時代~奈良時代
(武蔵南部~相模東部~相模中部=佐賀牟国→武蔵と相模に分裂?)
若光=高句麗王族
飛鳥時代
(相模餘綾郡・武蔵高麗郡)
・・・ざっとこんな感じで、それ以後は桓武平氏と河内源氏が支配者として赴任定着しており、唯一九州と無理矢理結び付くのは大伴家=佐伯一族のみ。
天智天皇も天武天皇も後白河法皇も後醍醐天皇も後の天皇家も皇族間で権力闘争を行っている歴史事実から、この大王(天皇)家と各親派の政争→軍事衝突として見た解釈は極自然でしょう。
ウチの某国造系先祖もず~っと室町時代まで似た様な事してたし(笑)。
倭建を陥(おとしい)れた伊吹山の神とは美濃の豪族である成務天皇の母方勢力の軍勢を率いた人物でしょう。
倭建が丸腰で美濃の豪族王(伊吹山の神)を説得に行ってるのは、状況的に自分がそれを出来る“地位を既に景行天皇に与えられていたから”つまり本来の皇太子は倭建の方だったかもしれませんね。
いずれにせよ倭建は重症を負い、更に関ヶ原通過を諦めて、鈴鹿の関所側に遠回りして畿内に帰還を試みながら死亡しています。
この政争は神功皇后が出るまで続いた様で、更に後の時代の筑紫の国造はじめ邪馬台国黎明期の功臣である北九州の諸豪族が大和朝廷に反抗的に成るのは、この頃に成務天皇派についた事で仲哀天皇の代に政治体制から北九州の豪族が排除され関西優位化が進んだりした可能性も発生して来ます。
神功皇后は自分達とパイプの太い卑弥呼の一族だから成務天皇派は矛を納めたのに、倭建の皇子の仲哀天皇とまさかの婚姻関係に成り、北九州の諸豪族の既得権が失われた事が古墳時代~飛鳥時代の北九州勢力が大和王権に楯突く原因としてシコリに成った可能性が有ります。
香椎宮とか、元は伊都国とかの首府だったんじゃね?とも思ったり。
成務天皇は不可解に倭建の実子の仲哀天皇を後継者指名しなければいけない状況に成り、それでも国が纏まらないので張政サン達が卑弥呼サンの親戚で13歳の臺与ちゃんを見つけて来て卑弥呼さんの跡継の女王(斎王)に成って貰い、再び混乱しない様に仲哀天皇と結婚させて倭建の遺臣達の派閥を納得させるしか無かった、この一連の騒動が中国側の歴史記録や当時の天皇の寿命から読み解けたりする訳です。
成務天皇の業績とされている地方の政庁の整備は、どっからどう考えても日本中を転戦した倭建=日本武尊の功績が大王に就任した成務天皇に横領されていると考えた方が自然でしょう。
そりゃ~、東日本の地方豪族達は成務天皇を支持出来ないでしょうね。
そんでも和睦する為に仲哀天皇を跡継ぎに指名する条件を出したけど、成務天皇派は倭建派に権力が集中するのを成務天皇派が恐れたのか、仲哀天皇は他の天皇と比較しても異常に短命な26歳で亡くなっているので、神功皇后が応神天皇を妊娠した段階で暗殺されてしまったのかも知れませんね。
倭建派が主流に成るのを恐れた勢力がいたとしか状況的には考えられません。

【男系王朝が上手く行かず、一代女王(斎王)に就任した人物】
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写真は神奈川県大磯町の高麗権現社(現:高来神社)、昔は裏山の高麗山の上に社殿と僧坊が広がる神仏習合の修験道の聖地で、元は神功皇后の朝鮮征伐の際に倭国に服属した朝鮮半島からの帰化民が周辺に定着し神功皇后を御祭神に祀る神社。百済滅亡時も百済王族の若光が関わった場所でも有る。
神功皇后=臺与。景行天皇と倭姫を卑弥呼の記載に当て嵌めると、丁度時代的に神功皇后に合致する。
神功皇后は仲哀天皇の皇后で、景行天皇が西日本を再統一した卑弥呼の世話をする男性(男王)だとすれば、神功皇后は景行天皇の二世代後の西暦300年代後半位の人物と成る。そうなると正に広開土王碑文の年代と整合性が出て来て極めて神功皇后と臺与が同一人物の可能性が高く成る。
神功皇后がピンチヒッターとして当番せざるを得なかった理由も当時の天皇の年齢を1歳=6ヶ月で換算すると・・・
仲哀天皇の崩御年齢が53歳 →26.5歳となるので、まだ跡継ぎが幼齢だった為に皇后が大王代理を勤めるしか無い状況に陥っていた事も解る。
仲哀天皇は成務天皇に殺害されたであろう倭建の子なので、仲哀天皇自身も不自然な短命な事から何か政争に巻き込まれ暗殺されたのかも知れない。
その原因が、もしかしたら朝鮮半島の勢力や政治とも関係が有ったので邪馬台国の臺与=神功皇后による朝鮮征伐が敢行されたのなら、司馬氏の晋朝の不安定な政情ともつじつまが合ってくる。神功皇后の渡海北閥は、晋の司馬氏に反逆した匈奴の劉淵を背後から挟撃し牽制、晋朝を救援する目的が有ったと考えられる。
夫の仲哀天皇の子、応神天皇が日本で最初に本格的に漢学を導入した人物と伝わり、孫の菟道稚郎子が日本で最初に漢学を学んだ人物と伝わり延喜式内社の相模国四之宮である前鳥(さきとり)神社で仕事と学問の神として御祭神に成っており、菟道稚郎子の兄王である仁徳天皇は日本で最初に父である応神天皇を八幡宮の御祭神として祀らせる一国一社八幡宮設置の政令を出した事が、神奈川県の平塚八幡宮に伝わっている。この平塚八幡宮は相模国国府祭の神事に登場する八幡社でもある。
つまり、卑弥呼が始めた中国の工業技術や軍事制度の導入は卑弥呼の実弟の景行天皇、更に甥の成務天皇を経て、三代後の子孫の応神天皇と更に皇子の仁徳天皇の代に本格的な中国の国家制度や学問を含め暦や年齢の導入が始まり、仁徳天皇の子の履中天皇の代で"1歳=6ヶ月"とカウントする文化が廃止され、中国風の暦が導入され1歳=1年に移行しているんだろうと言う事が推測出来る。

【魏から下賜された魏の皇軍軍旗(黄幢)、金印、200枚の鏡、“二振りの神剣”】
ーー草薙の剣と天叢雲剣ーー
呉王宝剣 蘇州市博物館
写真は呉王剣と呼ばれる中国に現存する春秋戦国時代の青銅合金製の宝剣で三国時代には上級将軍達は鉄剣を装備したが、剣の形状自体には大きな変化は無い。
恐らく魏から下賜された2振りの宝剣が草薙剣と天叢雲剣の名前で伝わる天皇家の神剣の可能性が有るので熱田神宮に現存する倭建の佩刀だった草薙剣は呉王剣と似た形状だろう。
古代中国では王が配下の武将を大将軍に任命する際、戦斧を貸与する習慣が有った。倭建が叔母の倭姫から草薙の剣を拝受し天皇家の近衛部隊である大伴一族の水軍と先進知識に明るい吉備氏の軍勢を与力として元伊勢神宮で付けられたと伝承するのは、正に中国文化に由来する大将軍として統帥権を与える為に宝剣を与える一連の儀式を模している事も推測出来る。
この宝剣は魏から贈られた2振りの宝剣の内の一振りだったはずだ。
現在の天皇家の神剣に天叢雲剣と草薙の剣異なる2つの名前が有るのも、元々魏から贈られた宝剣が2振り有ったからと推測出来る。実は現在も熱田神宮と皇居にそれぞれ存在し、熱田神宮では新羅人の盗賊に盗難未遂に有った一度を除いて倭建の用いた草薙の剣は一度たりとも熱田神宮から持ち出された事は無いと主張している。それに矛盾して源頼朝公が実弟の源義経公に壇ノ浦の合戦で平家を討伐させた際に平家が持ち出した“天叢雲剣”は安徳天皇と共に関門海峡の海に沈み永久に失われている。これを怒った頼朝公が捜索させるが見つからず、後鳥羽天皇は三種の神器の一方の天叢雲剣が無いまま皇位継承の儀式を行う羽目に遭っている。仕方が無いので朝廷では伊勢神宮にレプリカを作らせたのか関係無い剣を献上させる形で失われた天叢雲剣とした歴史事実が有る。
つまり今現在、天皇家は源義経の失態のせいで本物の神剣ではなくレプリカと言う事に成るが、この事から元々神剣は二振り有り、倭建が倭姫=卑弥呼から拝受した神剣が草薙剣で、倭建が岐阜の豪族(伊吹山の神)の妨害により畿内に帰還できず、鈴鹿の関辺りで(暗殺か傷病死だと思うが)病没した際に、豪族尾張氏の拠点だった熱田神宮に草薙の剣が移され、以後門外不出が熱田神宮の伝承通り石棺に入れられ守られていると言う事に成る。
ちなみに走水神社の本殿の地下には倭建の冠を奉納した石棺が埋められていると伝承しているが、近年の社殿建て替えの際に神話通り本当に石棺の存在が確認されているので熱田神宮と走水神社の神器の状況的な整合性から熱田神宮の伝承は事実だろう。
石棺に納められている事実からも、正に倭建や卑弥呼が弥生時代から古墳時代への転換期の人物と言う事に成る。
天叢雲剣と草薙剣は最初から別々の剣で大和朝廷には天皇が所持する神剣と、大将軍に貸与する為に所持していた熱田神宮の草薙剣の二振りが存在している事が判る。
ーー神社で御神鏡を祀る習慣ーー
三角縁神獣鏡
恐らく魏から下賜された金色に輝く青銅の銅鏡200枚が卑弥呼配下の有力豪族に配布され、卑弥呼(日巫女)の主祭神である天照大神を崇拝する太陽神信仰の象徴として祀られたのが始まりだろう。
青銅は鋳造直後は黄金色に輝くし、金属の鏡は陽の光を反射して輝くので弥生時代末期の人には小さな太陽の化身の様に感じる貴重品だった事は容易に想像がつく。
魏皇帝曹叡が景初三年1月末に亡くなっている事から景初三年の三角縁神獣鏡が日本製とのたまう頭デッカチの学者がいるが、当時の魏の経済状況や倭国に朝鮮半島を挟撃して貰いたい状況を考えれば容易に景初三年の銅鏡が倭国に贈られた事が説明出来る。
司馬懿の公孫淵討伐と卑弥呼の使者が魏に到達したのが景初二年なのだから、普通に考えれば魏皇帝曹叡と丞相司馬懿が倭国の卑弥呼に朝貢の返礼と冊封の証として下賜する為に景初二年に製造を始めさせ景初三年に倭国に届けるつもりだったのが、景初三年の1月22日に死没したが、当時の魏は改めて銅鏡等の下賜する礼品に対して製造コストをかけれない状況に置かれていました。
洛陽の宮殿建設と度重なる戦争で経済が逼迫し内乱が起こり呉とも激しく戦を繰り返しており北にも南にも敵に囲まれていた魏にとって背後の朝鮮半島の安定化を急ぐ状況で景初三年のままの銅鏡で出荷せざるを得なかったと考えるのが一番自然です。
ーー幣殿に旗と鉾と楯を祀る習慣ーー
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社殿の内部で本殿前の幣殿部分に楯、鉾(ほこ)、旗を祀るが、これは明ら様(あからさま)に魏から贈られた黄幢(魏皇帝の錦の御旗)、漢代の中国兵が楯と剣or槍or戟(げき)or鉾で武装していたのを卑弥呼の頃に導入していた事に由来するだろう。つまり卑弥呼の時代の軍装が神社の神様を守る様に一揃え設置されている。
漢代の中国大陸では楯は歩兵の標準装備だったので、卑弥呼の時代には邪馬台国兵も魏の軍装を導入していた事が推測出来て、現代でも武具を神社に奉納するのと同じ様に、古墳時代に漢代の軍装を神様に奉納し社殿に設置する習慣が出来たのだろう。
平安末期に成ると日本では武士文化が開花し、攻撃特化した武装に変性していき鎌倉時代の武士は次第に歩兵が木楯を携行する事は無く成った。
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代わりに、日本刀の発展により刀身の側面の鎬(しのぎ)が頑丈に成り太刀打ちの際に楯を持つより刀で相手の刀を弾き返す耐久性が獲得された。
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大鎧の弓矢に対する防御力が向上され首を守る兜の錣(しころ)や流れ矢の顔面被弾を防ぐ吹き返し、前屈すると正面に対して隙間が無く体を覆い楯代わりになる大袖や草摺(くさずり)の構造が発展し楯は無用の長物に成った。
矢合戦の際に前線陣地に押し並べ据え置いて防御壁代わりに用いる程度に役割は衰退したが、卑弥呼の次代~古墳時代~飛鳥時代の軍装は、神社の中に神様を祀る文化の中で形式化され温存された。
ーー鳥居ーー
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中国の古い街の大通りには石造りの鳥居に似たゲートが必ず設置されているので、鳥居は中国文化由来で東アジア諸国に広まった街道や邸宅の入口に設ける門の習慣の名残りなのかも知れない。
そもそも日本の古代信仰はランドマークとなる奇岩や湧水地や川や入江の岬の先端などの自然信仰で、建造物すら存在しなかった事が考古学的にも解かっている。

しかし、これだけ状況証拠が残っていても卑弥呼と臺与の生きた西暦230年代~300年代と倭建が走水に来た109年では、走水の伝承をまま採用すると100~200年の差が発生してしまいます。
この誤差200年が、正に卑弥呼と臺与による中国式の制度が導入され、更に応神天皇の時に本格的な中国文化の暦が導入が開始されている事により発生する誤差に成るのが歴代天皇の寿命で説明できます。

中国の暦が導入されて・・・
1年=12ヶ月=1歳
・・・の基準が決まり、それ以前の・・・
1年=06ヶ月=1歳
・・・と差違が生じて誤解を生んだ境目なのだと思います。

応神天皇の頃まで歴代天皇の寿命は100歳超だらけ不自然な年齢ですが、それが1年=06ヶ月=1歳でカウントされてるからと原因が解れば話しは一気に超現実的に成ります。
1年=12ヶ月=1歳に圧縮するとザックリ見積もっても200年弱の歴史が短縮され現実的な歴史に成り倭建神話に卑弥呼の時代と整合性が出ます。

では、本当にこの推論が当てはまるか歴代天皇の古事記での寿命の記載を見て見ましょう。

※縄文→弥生時代の平均寿命30歳
     伝承年齢 → 1年=6ヶ月説適応
神武天皇 127歳 → 63.5歳
綏靖天皇   84歳 → 42.0歳
安寧天皇   67歳 → 33.5歳
懿徳天皇   77歳 → 33.5歳
孝昭天皇 114歳 → 57.0歳
孝安天皇 137歳 → 68.5歳
孝靈天皇 128歳 → 64.0歳
孝元天皇 116歳 → 58.0歳
開化天皇 111歳 → 55.5歳
崇神天皇 119歳 → 59.5歳
垂仁天皇 139歳 → 69.5歳
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳👈注目①!
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
履中天皇   70歳 → 35.0歳👈注目②!
反正天皇   75歳 → 37.5歳
允恭天皇   78歳 → 37.5歳
安康天皇   56歳 → 28.0歳
雄略天皇   62歳 → 31.0歳

こうやって見比べると、本当に中国の学問を学び導入した応神天皇、仁徳天皇の次代、注目②の履中天皇の寿命が急にそれ以前の天皇より短く成ってしまっているので、履中天皇の時代から日本人の年齢の数え方や暦の数え方が中国の制度が導入されている事が理解できます。
これは神話と成った伝承の通り、応神天皇の方針により中国の制度を学んだと伝わる仁徳天皇と菟道稚郎子の皇子御兄弟時代から国家運営に中国式の暦の制度や国家運営が本格的に導入され始めているようです。
この事から履中天皇~倭建の生きた時代の天皇、景行天皇の半年:1歳の和暦寿命と中国式の1年:1歳の差異を合計すると、倭建が西暦109年に走水に来たと逆算で伝承しているのが更に短縮される事も解かる訳です。
    古代和暦→陰暦年齢
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
年齢合計 557年 → 278.5年

昔の人が結婚するのは15歳~20歳が適齢期でしたから、子供を作る年齢もだいたいそれ位でしょう。
なので中国から導入された1年1歳の陰暦年齢合計から子作り年齢を引けば歴史の年代的な誤差が算出出来る事に成ります・・・

寿命合計278.5
この時代の天皇の人数(5人) × 20=100年
~すると~
278.5年ー誤差100年=178.5年

おんや~⁉
・・・何やら丁度、倭建の走水の逆算年代の伝承と三国時代の誤差200年に極めて近い“178.5年”と言う数字が出て来ましたね。

1歳=12ヶ月で数えた場合に倭建が走水に来たとされる109年に、この誤差178.5年を足してみましょう!

109 + 178.5 = 287~288年

つまり走水に倭建命と弟橘姫夫妻は287~288年前後に来ている事が推測出来ます。
完璧に倭建の父の景行天皇と倭姫=卑弥呼であろう倭姫の弟姉が活躍した三国志の魏朝が滅亡するまでの235年~265年~司馬氏の晋朝と時代が符号します。

三国志の著者である陳寿は233年生まれ~297年を生きて64歳で亡くなっている人物です。
238年に使者を送った卑弥呼が当時15歳~25歳の倭姫と景行天皇姉弟だとすれば、当時の結婚適齢期から倭建と三国志を書いた陳寿は略(ほぼ)同世代だろうと言う事も何となく見えて来ます。
となれば倭建が活躍したのは238年前後生まれ+20~50歳の間に当たる西暦250~290年頃の話と言う事が逆算出来ますね。

走水に倭建が奥さんの弟橘媛(おとたちばなひめ)と走水神社近くの御所ヵ崎で共に夫婦生活を送った西暦109年が古代日本1年=半年を踏まえると完全に三国志の直後の時代の287年位の話になります。
倭建命が40代後半、弟橘姫は恐らく年の離れた異母妹であり妻女でしょう。
景行天皇の皇女(姫)には“弟姫(おとひめ)”が存在します。古代は異母兄妹で近親婚する事が良く有ったので、弟姫と弟橘姫は同一人物でしょう。
1年=12ヶ月に古来の1年=6ヶ月の部分を修正すると、途端に神話が神話ではなく成り、天皇家の偉業と日本文化が古代から引き継がれている事が歴史事実となり、倭建と弟橘姫夫妻の功績を川崎市高津区橘神社~横浜市神奈川区六角橋~横浜市磯子区杉田~三浦半島横須賀市走水の人達が年代誤差も修正され1800年間も話の内容は変らず正確に口伝で伝承させてきている事が証明されます。

時系列を古代:6ヶ月=1年⇔現代:12ヶ月=1年の誤差修正すると、こんな感じなのかも知れません。
                                 
卑弥呼(倭姫)
(220~230年出生→247年禅譲→290年頃没?)

景行天皇 71歳
(220~230年出生~290年頃崩御)

倭建(日本武尊)    
(250年頃出生→300年頃崩御)
※走水に在住時点
古代歴・・・西暦109年
太陽暦・・・西暦288年前後

成務天皇 53歳
(250年頃出生→300年頃崩御)

仲哀天皇 26歳
(270年頃出生→310年頃崩御)

神功皇后    
(270年頃出生→340年頃崩御)

応神天皇 55歳
(300年頃出生→360年頃崩御)

仁徳天皇 71歳
(320年頃出生→390年頃崩御)

まぁ~これは全部小生の「あれ?古事記の記載はおかしいぞ?」と思った事を現実的に解釈した持論なので、全然、皆さんは異論が有って良いと思います。

肝心な事は・・・
「本に書いて有るからって、全部正しい訳じゃねぇ~かんな!」
「上司や親が言ったからって言い訳に出来ねぇ~から後悔しない様に自分で確かめて判断しろよな!」
・・・て言う事例の一つとして、和暦も色々変化が有るよってのを天皇家の歴史で示してみました。

そして・・・
「卑弥呼様ぁ~!」
卑弥呼様ぁ~Q太郎
・・・の次代の人達よりも更に古い時代の天皇家の御先祖様の神武天皇は弥生時代真っ只中を生きた皇族だった事が判りますね。
三殿台遺跡 縄文人女 久良岐のよし
当時の人の服装はこんな感じ。
やっと狩猟採取の生活から、稲作に転換し始めた時期です。中国から輸入された米穀の栽培によって食料の備蓄が可能に成り生存率が向上した半面で“財産”と言う概念が生まれて、更に農耕は大きな集団で協力して土地を開墾したり稲作を行う必要が有ります。
備蓄可能な食糧の出現が、皮肉な事に
リーダーの出現と村より大きな単位での集団の形成と、争いの無い縄文時代終わりを迎えて‟国”と言われた豪族が治める地方の単位が生まれ、地方同士の武力衝突と財産の奪い合いに発展して行き弥生時代=神話の時代に突入して行った訳ですね。
古事記に書かれている天沼鉾(あまのぬぼこ)を用いて伊邪那美神と伊邪那岐神が混沌とした場所で掻き混ぜて島を生み出した国産み神話は、正に土地開拓と鉾を交え戦を行った古代豪族の伝承の比喩だと小生は考えています。
この伊邪那美神と伊邪那岐神が神武天皇の更に御先祖様に当たる神様ですが、弥生時代の始まりは紀元前10世紀頃と今の考古学で解っているので、その頃の話がかいつまんで口伝で伝承されて今の国産み神話に成っているのでしょう。
組織的な集団を作り出し農耕や交易で“勢力”と言う大きな単位を作り出した偉大な先人である事が判ります。

日本神話を纏めた古事記では
日本国の元に成る弥生文化の時代、神話の黎明期に相当する歴代天皇の寿命が異常に長い事も1年=半年で再カウントすると何とも現実的な没年齢に話が変わって来ると同時に、いつの時代から中国と文化を共有しだしたのかの基準が推定出来たりする訳です。
それと同じで現代の太陽暦の12区分で陰暦の月の和名を当て嵌めれないので、太陽暦基準で1月=睦月にしてしまうと“水無月(みなづき)”なのに梅雨の真っ最中みたいな矛盾が発生する訳です。

ここで、本来の月の暦の話に戻ります。

和暦の12ヵ月の漢字を見て見ましょう。

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睦月 むつき 睦つぶ月 
旧正月、01月下旬~2月中旬に始まる月
旧正月は陰暦の為に太陽暦より誤差が大きく毎年数日単位で開始日が異なる。
睦月の“睦”の字は親睦を深めるとか和睦するとか、交流を育む様子を意味する漢字。
本来の睦月の意味は雪解けと共に梅の花が咲き始め春の訪れを知り、人間そのものの往来が増える事が表現されたているのが漢字の意味から読み取れます。

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如月 きさらぎ (前)月の通り
太陽暦の02下旬~03月下旬位。
梅の季節から桜の季節に変わって来て本格的に春の訪れる頃。
漢字では後ろに付く漢字と合わせて〇〇の様だ。の様な意味を持つ。
如月では意味が成立しないので、季節感が睦月と同じと言う意味だろう。

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弥生 やよい いよいよ生まれる月 
太陽暦04月~05月くらい。
晩春で躑躅の花が咲き誇る頃。
弥生の弥は訓読みで“いよいよ”と読む。
弥生を読み下すと“いよいよ生まれる”と言う意味に成る。
春の盛りで花が咲き本格的に暖かくなり農耕の作業が本格化し動植物の繁殖も始まる様子が、もうそのまま漢字にされている。

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卯月 うづき 卯の花由来説は後付け
4番目の月と言う意味。
太陽暦の05月~06月位くらい。
菖蒲の咲く季節。
卯月の卯の字は只単に昔の時間割や方角の割り付けで十二支由来、
卯の刻とか卯の方角とか、羅針盤(指南机)上で四番目を指す意味が有る。
ちなみに日本語で教授する事を“指南”と言うが、これは中国の最初の皇帝の前身と成った人物の黄帝が、敵対者と戦争する際に濃霧が発生する場所に敵軍を誘い込み前後不覚に方向感覚を失わせ混乱させたうえで自軍は迷わない様に南の方角を指示する歯車の仕掛けを作り、敵軍を駆逐した事から指南=教えると比喩されやがて動詞として使われる様に成った。
卯の花が咲くから卯月と言うのは寧ろ、四番目の月の卯月に咲く花だから“空木(うつぎ)”が卯の花と呼ばれる様に後付けされたと考えた方が極々自然。

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皐月 さつき 皐月の花由来は後付け
太陽暦の06月~07月くらい、梅雨の季節。
紫陽花の咲く頃。
夏の始まりだから夏王朝の皇帝の名前を用いて5番目の月の異称にしたのが解かる。
春は動物が交配し繁殖する季節なので、言って見れば淫乱な繁殖期。
夏の皇帝皐の先代皇帝孔甲は性格が淫乱の極みの様な人物だった。
孔甲の跡は皇帝“皐(こう)”が継いだ。
生物にとって春の繁殖期が終わり夏に成る季節だからだから夏王朝の淫乱で交尾ばっかりしていた暴君の皇帝孔甲と、跡を継いだ皇帝の皐の故事から初夏の最初の月が皐月と命名されているのが解かる。
“梅雨(つゆ)”は中国語由来の季節の表現で、太陽暦の6月下旬の中国の雨季は、梅の実収穫時期でもあった事に由来する。当然ながら現代中国語の漢字でも梅雨は梅雨。
現代日本人にとっては芽吹きの春ではなく、夏休みと冬のクリスマスのイベントが繁殖期の様だ(笑)。

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水無月 みなづき 文字通りの意味
太陽暦の07~08月初旬くらい。
海辺に野莞草のオレンジ色の花が咲き誇る季節。
昔の通りに陰暦の春節を睦月の起点にすると、水無月は文字通り梅雨明けの乾期に相当する。
それ以上でも以下でもない。
古代の一年の区切りで、夏越大祓の神事が各地の神社で行われる。

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文月 中国由来で七夕の書物を防腐する月
太陽暦の08~09月くらい。
旧暦の七夕の季節。
七夕の日の由来ではあるけれども短冊の話は日本での後付け旧暦の七夕。
中国では七夕の頃に書物をカラっと晴れた日に天日に干して防腐する習慣が有った。
つまり文月の文はこの中国から受け継いだ書物や文書を管理する月だったから付けらた事が判る。
そもそも論だが七夕自体も中国から日本に輸入された習慣であり伝説でもある。
端午の節句もそうだし、中秋の名月も、旧正月もう色々と季節の節目の行事は中国文化由来だったりする。
最近じゃ日本人はバレンタインデーやクリスマスなんて習慣も新たに取り入れたりしてるよね。
一体、生粋の日本文化ってのは現在、どれだけ残っているんだろうか?と言う次元の話。
小生の知る限り、相模国国府祭や武蔵国国府祭、有鹿神社の水引祭り、高部屋神社の潮汲み神事、寒川大社の追儺祭は生粋の日本の神事かも知れない。
特に高部屋神社と寒川大社の神事は弥生時代~古墳時代の文化の名残りかも知れない。

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葉月 夏が終わり青々とした葉が朽ち始める
太陽暦の9~10月くらい。
台風が頻発して葉っぱが飛ばされたり、葉っぱの色が枯葉の色に変わり始める季節。
関東では海の空気が澄み始めて富士山が奇麗に見える日が段々増えて来る。

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長月 小生にはちょっと意味が解らない
太陽暦の10~11月くらい。
多分、中秋の名月の季節で、気温も少し過ごしやすくなり、昔の人は“秋の夜長”を楽しみ和歌を詠んだり自邸の庭の池に船を浮かべて遊んだり、松明(たいまつ)を炊いて庭の木々を照らし夜景を楽しんだり、笛を吹いたりして貴族が夜を長く楽しむ季節だったからじゃないかとしか思えない。

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出雲大社
※画像掲載元→https://www.izumo-kankou.gr.jp/676
神無月/神有月(出雲国) そのまんま
太陽暦の11~12月くらい。
山の木々が紅葉し美しく萌える季節。
全国の神(かみ=督:神格化された古代の軍属豪族)が、出雲大社に参集して日本全国の年次方針を決めたから各地は無監督状態で神様不在だった事に由来するのは有名な話。
逆に出雲大社には全国から豪族将軍達が集まって来るから神有月。

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霜月 滅茶寒くて地面霜だらけの季節
太陽暦の12~01月初旬。
そのまま真冬で霜が降りる季節だから。
関東では雪化粧した奇麗な富士山を色んな場所から眺める事が出来る季節。

一休さん
師走 中国経由の仏教用語“臘月”由来。
太陽暦の01月下旬~02月下旬。
1年の終わりの月と言う意味。
僧侶が走り回る様に忙しいとかは丸っきり後付けのデマ。
昔は中国で臘月(LaYue:ラーユエ⇒ロウゲツ⇒しわつき)と書いて陰暦で年末最後の月の事を意味したので、ずばり中国の臘月=臘数
(しわす)が由来。
臘数の臘(しわ/ロウ)は中国由来の仏教用語で僧侶が出家して具足戎を受けてからの年数を数える節目の単位でもある。庶民には覚え難(にく)い漢字だったから僧侶が忙しくなる季節と言う表現の師走と言う字に臘数(しわす)の発音だけ誤植した挙句、いつの時代にか師走の字のデマが広まってしまった様だ。


まぁ~そんな訳で、現代の価値観と現代の時間軸で陰暦の暦を当て嵌めたり、太陽暦の1月1日に真冬なのに年賀状に「迎春」とか書いちゃうと整合性が無くなってしまう原因だったりする訳です。
昔の事は現代の価値観で見ても全然違うって事ですね。
昔の人は農業社会で天候と密接に生活していたので季節感が大切だったんですね。
そして日本の制度自体も各時代、外国の影響を受けて色々変わっていると言う事です。


日本の神社の神様には、仁徳天皇と菟道稚郎子に中国の兵法や学問を享受した漢帝国皇族の末裔の阿智使主もいれば、高麗や百済の滅亡時に日本に移住して来て高麗神社を開いた人たちもいます。
南宋が滅亡した時に鎌倉幕府の執権、北条時頼公や北条時宗公も南宋の亡命高僧や文化人を受け入れ南宋の軍事知識と文化を取り入れ鎌倉文化を発展させ元朝と朝鮮連合軍の日本侵略から国民を守った訳です。
実は日本人が生粋の日本文化だと思い込んでいる事の多くは少なからずインドや中国や朝鮮の文化と共通する部分が有り、古代に影響を受けながら日本風に変化させ日本文化を一緒に作り上げて来たのが歴史を辿ると良く解りますね。
だから“外国人”と言う事や“人種が異なる”と言う理由で在日外国人やハーフを外見でイジメたり攻撃するのは、本当の保守派の小生には受け入れられない只の差別でしかなく、寧ろ外国人差別をする人間が真の保守派の敵だと思っていたりします。

そもそも本当の日本文化ってのは自然崇拝ですから。
だから延喜式内社と言うジャンルにカテゴライズされる古い古い歴史を持つ神社は、どこでも自然崇拝の聖地に存在するんです。

水無月や師走の現代人の誤りを紐解いていくと、日本人と言う人種ではない括りの人間は色んな国からの帰化人が在来種の縄文人と協力して国を開拓し文化を昇華させた歴史にも辿り着けたりしますよ~!

そして疑問に思った事は何でも自分で調べましょう確かめましょう、人の言う事鵜呑みにして結果間違ったり判断ミスって人のせいにしたく成ったり悔しい思いするより良いしね。
ネットで調べるより現地に行って自分の目で見て、そんでも解からない事は一番精度の高い現地の人を質問責めにするのが一番早い!

百聞不如一見(百聞は一見に如かず)とは昔の中国の人も良く言ったもんだ。

今の中国は日本人について情報管理されててMSNのページも日本のニュースにアクセス出来なかったり田舎では反日ドラマばっかりやっていて不正確な情報ばっかりで日本に対する偏見強い人もいるけれど、昔の中国人と同じ様に高文化で素養高く親切な人も多くいる。
TikTokやWechatや華微(ファーウェイ)のスマホなんか規制しても良いし、日本人を差別する外国人には容赦なく反撃しても良いと思う。
でも人間は個人単位で評価しないといけないし、先生が言ってるからとか、本や辞書に書いて有る事が必ず正しいとは限らない。
自分で見て経験した物を信じ、知らない事はガンガン直接、現地や現場に見聞きしにいけばよいよ。
仕事もそうでしょ?

・・・と、言う御話しでした。

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荒れまくりぃ~☝️=☝️⤴️
KIMG9625~2
・・・とIKKOの声が聞こえそう。
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荒くれ具合がカッケェ~ぜ!素敵♪
砂鉄の黒砂も鬼気迫る色合い。

こんなんでもサーファーいるよ~。
強ぇ~なぁ~!
良い波だけど気を付けてねぇ~。

七夕祭りは中止だけど、例年七夕の頃に平塚八幡宮に行ってるから御参りしに行った帰りの七里ヶ浜でしたぁ。
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屋台出てないから七夕に御参り行かないんじゃ毎年夏に御参りしてる応神天皇八幡大菩薩様にも何だか失礼だし・・・

織女(棚機津女:たなばたつめ)と牛朗(牽牛彦)も1年に1日漸(ようや)く夫婦一緒に過ごせる日に、知らない奴等がアレやコレや縁結びや大願成就の御利益に肖(あやか)ろうと集(タカ)られつつも何だかんだ皆で祝ってくれてたのが、今年は屋台出ないから誰も御目出度いの共有しないとか理不尽過ぎでしょ。

織女様~牛朗さん~今年は屋台で飲んだくれてる酒乱もいない七夕祭りです。
・・・暫し女夫(めおと)でごゆっくり~!
( ´꒳` )ムフっ♪

サムネのフリー素材⤵️
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ブログネタ
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横浜市港南区~磯子区峰~金沢区氷取沢にかけて円海山と呼ばれる山がありまして・・・

風景がとても横濱と思えない綺麗さなんです。 IMG_5684
今では静寂な森の中の古道沿いにある阿弥陀寺と言う御寺と、昔は阿弥陀寺の奥院だった護念寺と呼ばれる御寺ですが、実は江戸時代~昭和初期まで凄く有名で、日々参拝客が蟻の行列の様に大量に列をなして訪れた名古刹なんです。

実はこの護念寺ですが、お灸治療の大本山とも言うべき御寺でして、古典落語「強情灸」の舞台でもあるんですね。
ですから、この御寺は「峰の灸」の別名でも呼ばれています。
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嘗(かつ)て、磯子区杉田〜港南区笹下にかけて点在した広大な杉田梅林は、江戸からの江戸っ子観光客で賑わっていました。

船で磯子区杉田の聖天川までクルージングし海からの屏風ヶ浦の美しい風景を楽しみながら、杉田梅林を見学に来る訳ですね。残念ながら杉田梅林は教育委員会が開発容認し消滅しました。…明治天皇や皇族もよくいらっしゃった美しい風景と最高級の梅のブランド杉田梅を教育委員会が消失させたんですね。

で、その江戸時代から昭和初期の観光コースに峰の灸も入っていたし、純粋な治療客も沢山いました。

横浜横須賀道路と言う高速道路の開通で阿弥陀寺と鎌倉古道が寸断され、鉄道の駅からも遠い事から、昭和の高度経済成長期に成ると段々、参拝客も減ってきてしまいましたが・・・
今でも慢性的に体の痛みがある人がココに来て治療を受ける、お灸の本場なんです。

もっとも・・・
小生はソンナ歴史も知らなかった20歳の頃、原付バイクでフラっと田舎道の風景を探して立ち寄って、その聖地のような清々しい空気感に呼びこまれて迷い込んだ御寺なんです。
その時は、竹林の風景の美しさと、何だか…
「あ~横浜市が久良岐郡と呼ばれた頃の風景はこんな感じで美しかったんだろうな~」
・・・と思っただけでした。
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この護念寺は清浄園と言う公園墓地に至るまでのアプローチが昔の鎌倉古道なので、とても神秘的な風景が残っているんです。
でも今じゃ落語の“強情灸”を知らない人の方が多いですよね?
せっかくの機会ですし、強情灸を御存(ごぞん)じ無い方(かた)の為にその噺(はなし)を紹介します・・・
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【強情灸】 
通りかかった知り合いが唸っているので、気になった男、家に招き寄せる。 
聞けば何でも体がだるいので、""という店に灸を据えてもらいに行ったらしい。


「このお灸な、凄まじく熱いんで評判なんだよ。気の弱い奴なんかな、一つ据(す)えただけで… 
「ギャー!!」
なんて天井突き破って飛んでっちまうんだと」 

余りにも熱すぎるので、せっかく来た人が怖気づくぐらいだが… 
それでも"効く"という評判のおかげで店の前は長蛇の列。 
仕方がないから、番号札を配って据えてもらっているらしい。


俺がもらったのが"への36番"行列のどん尻だぜ?これじゃ日が暮れちまう… 
「帰ろうかな」 
…って思ったらよぉ! 
先に並んでた綺麗なお嬢さんが先客が熱がってるんで心配(不安)に成っちゃったんだろ? 
…俺に 
「ねえ、アタシと代わってくれませんか」 
なんて… 
「ええ!ようござんす♪」 
…と、喜んで代わりましたとも。 

早速内に入ると、店の者が… 
「うちの灸は熱いですよ。大丈夫ですか?」


頭にきた友人、上半身裸になるや… 
「さあ据えてくれぃ!」 
…と怒鳴る。 

灸を36箇所に据えると言われ、なおも意気がった友人… 
「全部いっぺんに据えろ(怒)!」と一喝。 
啖呵に店の者も釣り込まれ、本当に全部いっぺんに据えてしまった。 

一つで飛び上がるような灸を、36個いっぺんに据えたんだからどうなるか?


身体中から煙が上がる…不動明王みたいになっちまったが…"ここで逃げたらカチカチ山のおタヌキ様"だ。 
我慢して唸ってたら… 
店にいた奴らがみんな寄ってきてヨ! 
「この人、本当に人間かい?」 
「神様の化身でしょう」 
…なんて感心してやがんだよ。 
…その中にね、さっき俺と札を取り替えたお嬢さんがいてさ、俺の顔を見てポーッとなってんだ。 
「あぁ…たくましい人ね、お嫁になるならこんな人が」 
…なんて思ってやしないかと。 

自業自得で熱い目に遭ってきて帰り道で唸っているような間抜けの(笑)、体(てい)もないノロケ話を聞かされ、呼び込んだ方の男は面白くない。 
元来こちらも同類の馬鹿である… 
「たかだか灸ぐらいで威張るな!」 
…と、奥から藻草(もぐさ)を持ってきて、腕に山盛りに積み上げるや早速点火(笑)♪


「活火山だよコリャ(笑)…見てろ!今に火が回ってくるから(笑)」 
火勢が強まり、煙が上がる。 
男、脂汗を流しつつ歯を食いしばる。

「うう(汗)…」 
「…灸ぐらいで威張るな、石川五右衛門なんか、油で茹でられたのに平気で辞世の句を詠んでたぞ!」 
「石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ…ってな!」 
「八百屋お七なんか、15歳で火炙(ひあぶ)りだぞ?」 

…それに比べりゃこんな物…お七…五右衛門…お七… 

ぎゃぁあぁっつ!」

とうとう辛抱堪(たま)らず藻草を払い落とし、なおも「五右衛門んん…」と唸っている男に、友人が意地悪く声をかける…

「五右衛門がどうしたって(笑)?」 
「…」 
「……」

「………さぞ熱かったろう」 

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円海山 清浄院 護念寺

・・・どうです?強情灸、バカでしょう~(笑)?
いつの時代も男は可愛い女性の前で良い顔したがる見栄っ張りってネタでした(笑)。
ところで、この写真の建物はが仮本堂であり現在も御灸の施術をする建物でもあるそうです。
昭和の頃迄は沢山の御客さんで賑わっていたそうですが、現在は要予約だそうです。
定休日は月曜日。診療は午前中のみ受け付けているそうです。
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境内の雰囲気とても素敵でしょう?
丸で鎌倉の隠れ家に来たような・・・
神様の住んでる御社(おやしろ)でもありそうな雰囲気ですよね?
秋には紅葉もチラホラとあり、この季節はここに来てヒンヤリとした空気を吸い込むと、何だか生きてる感じが凄く静かに感じられるんです。
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少しこの御寺の歴史を見てみましょう・・・
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ハイキングコース地図の右下に阿弥陀寺、その少し真ん中寄りに護念寺、右側中央に“道場丸”と“いっしんどう=一心堂”の地名が残ります。この一帯は阿弥陀寺の奥院だった護念寺の寺領だったのでしょう。恐らく御寺の収入減は大岡川や鼬川の水運を利用した木材の売却だった筈です。二つの河川を使う事で相模湾側の鎌倉や、江戸湾の江戸方面に材木を出荷出来て昔は大いに繁栄したのでしょう。
新編武蔵風土記稿の護念寺の項目に“この一帯の緑は寺の敷地だったから残った”と言う記載に円海山の森林が残されていた理由と整合します。
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今でも樹木に囲まれた御寺です・・・
この、静かに遠慮気味に色づく紅葉達の奥に御念寺の現代の本殿があります。
撮影した日は法事の車が数台とまっていたので御本堂の写真は写しませんでした。 
御本堂を過ぎるとマイナスイオンでヒンヤリとし、静寂な神聖な霊気を感じる様な竹の隧道が出迎えてくれます。 
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さて、この護念寺には幾つかの由緒ある仏像が有り、その一つが薩摩の大名どうやら島津家から拝領した威徳明王の1寸八分(545mm)の伝弘法大師作の彫像らしいです。
元々は護念寺の向かいの山の上に堂が有って、そこに祀られていた物だけど御堂が壊れたから護念寺に移したと言う事が新編武蔵風土記稿に書いて有ります。
昔は坂下バス停辺りに本院だった阿弥陀寺が在りました。
そこから登って来る護念寺の清浄園墓地側の道は現在廃道ですが、恐らく、そちらが江戸時代の参道だった筈です。阿弥陀寺の方は1400年代には旧所在地に存在したと伝承しています。
鎌倉の戦火で矢部野(洋光台~峯)一帯が戦火に巻き込まれて阿弥陀寺が現在の山の上に移転したのが1400年代だと伝わりますので、この鎌倉の戦火は鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義教公が対立した永享の乱か、足利持氏公の御子息で最後の鎌倉公方と成った足利成氏公の頃の話でしょう。
護念寺とその谷を挟んで反対の山上は現在の阿弥陀寺に当たり、既に阿弥陀寺は1600年代の頭には現在地に移転していたので護念寺の威徳天が祀られていた向かいの御堂は阿弥陀寺ではなさそうです。
では、どこでしょう?
一心堂位置関係 久良岐のよし
※画像クリックして拡大して下さい。
この威徳明王が祀られていたのは恐らく円海山の一心堂広場だろうと思います。
丁度現在も参道に使われている谷筋を登る道以外に私道になり廃道化してる道が有ります。
その谷道を挟んで一段高いのが“いっしんどう広場”=一心堂でしょう。
現在の位置関係で見てしまうと阿弥陀寺の場所が向かいの山に見えてしまいますが、時代的にも威徳明王が祀られた江戸時代には既に阿弥陀寺が存在していた為、阿弥陀寺の山ではなさそうです。
となると、向かいの山で更に“堂”の名前が付くので一心堂がその場所だろうと推測出来る訳です。
ちょっと今の阿弥陀寺との位置関係だと護念寺が阿弥陀寺の奥院として機能していた事が理解し難いのですが・・・
護念寺参道 久良岐のよし
・・・昔の阿弥陀寺は洋光台6丁目坂下バス停辺りに存在したそうで、確かに、その位置からだと真っすぐ直線状の背後の山に護念寺は所在しています。
画像に赤く引いた線は現在は廃道に成っている古い道で、実はそちらは切通状に成っていて重要な道だった事も解かります。
阿弥陀寺~護念寺位置関係
この道は明治時代初期の迅速測図にも-----の点線表記で護念寺の右手の舌状丘陵の尾根道として記載されています。
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その道がこの解体屋サンが並ぶ丘の道を更に一本裏側に入った場所です。
KIMG8343
今では草が鬱蒼としてしまっています。
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その先は円海山清浄園の墓地の先っちょ、この道に繋がっています。
昔は小道だったようですが、もしかしたら墓地造成で開削され、更に丘の入口が解体屋サンに払い下げられ今は使われなくなったのかも知れません。
一心堂の場所ですが・・・
KIMG8352
氷取沢側から見た円海山、鉄塔の辺りが一心堂広場の近くです。
KIMG8351
現在は遊歩道としては整備されていませんが、氷取沢側の農道から続く江戸時代の道は今でも生きています。
この道を登ると・・・
KIMG8349
ちゃんと昔の道標がわりだった交通安全の仏様の馬頭観音様が多分、昭和時代位に上の部分だけ作り直されて今も有ります。この場所がT字路に成っていて富士塚休憩所を経由して護念寺の墓地に成っている円海山清浄園の古道や鉄の道の尾根道に通じていました。
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又、迅速測図を見ると古代の尾根道の街道が悉(ことごと)く護念寺の辺りに集まっているので、前身の御念寺は逗子の岩殿寺や金沢区の浄願寺の様に山岳信仰的な要素が有り弘明寺や八菅山の様に山全体が聖地化されていて各所に御堂や神社が有った事が推測出来ます。
製鉄有る所に豪族有り、豪族有る所に神社仏閣有り・・・と言った所でしょうか。

新編武蔵風土記稿では阿弥陀寺の奥院だった護念寺の項目にこう書いて有ります。
コレ⤵️
宝暦二年(1752年)地頭星谷治兵衛智久志願に因(よっ)て、長野山(円海山)の内十丁四段二畝十九歩の地を寄付し、
又別に山、畠(畑)、永錢(永楽銭=戦国時代の通貨)一貫文を寺費に充(あて)つ、
且(かつ)當(当)寺城山に據(より)て往還便ならざれば、捷徑(ショウケイ/近道=間道)を開闢(カイビャク=開拓)して攀躋(ハンセイ=よじ登る=登山)の便宜(べんぎ=便利)とす。


要約すると・・・
「護念寺の在る円海山は城址」
「だから往来が不便で星谷智久公がショートカットの道を御寺の為に作りました」
・・・つまり円海山=長野山は城でした。
合わせて、この文書から調査した末端の記者か編集した人のミスも解かります。
永楽銭は明の皇帝、永楽帝が発行し日本では室町時代に輸入され江戸時代初期まで流通した通貨です。
織田信長公が積極的に経済活用に利用し旗印にまで使った事の有る通貨です。
そして一貫文と言う金額の単位も室町時代~安土桃山時代の貨幣の通貨単位です。
永楽銭
画像引用元⤵
https://shop.ginzacoins.co.jp/
星谷家が足利幕府の時代の輸入通貨の永楽銭を寄付しているのに、江戸時代も中期の宝暦二年(1752年)と調査した江戸時代の記者も編集者の間宮士信公も昭和の出版社も何故注意が向かなかったのでしょう?
その時代には既に江戸幕府発行の貨幣が流通しており単位も両・朱・分でしたし、永楽銭は廃れています。
つまり宝暦二年(1752年)に星谷家が永楽銭を寄付する事自体が変な訳です。
調べた記者か編集者かが他の元号と読み間違えた事は明らかです。
永楽帝の在位期間は1402年~1424年永楽銭の発行開始は1411年ですから、逆にそれ以前の話でもない事が判ります。なので宝暦の書体を読み間違えそうな元号を探して、取捨選択すれば正体が判明しますね。
康暦二年(1390年)→1411年以前
宝徳二年(1450年)→1411年以後
・・・宝徳を読み間違えたんでしょう。
では本当に徳と歴は草書体が似ているのでしょうか?
徳と歴 久良岐のよし
右の四角い枠で囲ったのが“歴”の字、左ので囲ったのが徳。
行書体が酷似してるので宝徳を宝暦と読み間違えて記者が取材し風土記の編集に間違えたまま峰村の説明にも反映されたみたいですね。
そのせいで現代にも混乱を及ぼしているのでしょう。
「そんな学者や編集者が間違える事有るんかい?」
・・・と思う人がいると思いますが、そんな事は現代でもしょっちゅうです。
江戸幕府の役人が書き間違えた杉田間宮家初代の名前を菩提寺や御子孫に調査すらせず間違えたままコピペ出版してる人もいます。
地名でも例えば阿弥陀寺や護念寺は昔は杉田郷と呼ばれた行政区分の地域でした。所が昔は現在とは字が異なります。
杉田=杦田
杉ではなく杦の字で表記したんですがコレが読めない学者サンが・・・
「“松”田とか書き間違えてる」
・・・と杦=杉を読めず杦を松と勘違いし“間違いじゃないのに間違えた指摘をする”事も有ります。
昭和のいい加減な仕事の出版物をコピペして終わってる学者サンいるんですね、それと武将の名前も江戸時代の幕府の誤記を子孫や御寺や神社に確認しないで誤記のまんまコピペしてる人もいます。
誰とは言いませんが横須賀市やNHKの歴史解説員をしていると自己顕示満々のプロフで宣伝してる勲章貰った学者サンとか。本当に歴史偉人をリスペクトしていて御墓参りすれば一発で気が付く事なんですんが。
さて、今回の間違いですが・・・
永錢が永楽銭と言う事は、戦国時代を好きな人は大概知っています。
徳と歴 久良岐のよし
永楽銭なら宝暦ではなく宝徳だと歴史学者でもなんでもない小生でも、この様に気が付きます。
これにより阿弥陀寺と奥院の御念寺は宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。
そして、この阿弥陀寺の奥院御念寺への寄進は応永二十三年(1416年)の戦闘によって阿弥陀寺は焼失後現在地の山の上に新しく御堂を建てて復興されたけれど、奥院の御念寺は一時は城塞化されていた不便な立地なので復興が遅れ、永享十一年(1439年)に永享の乱が終わり、鎌倉公方が一端途絶して平和な時代が来た宝徳二年(1450年)に漸(ようや)く再整備の手が回る様に成った状況が理解出来ますね。
余談ですが、戦国時代に旧間宮領にいて江戸末期に里正(庄屋)に成っていた旧北条家臣団の名字に星谷はいません。
ただし越前朝倉家臣に星谷家がいると沼津市では伝承しているそうですから、そもそも朝倉家の旧主斯波家臣に星谷家がいた可能性はあります。
北条家臣にも朝倉家がいるのは斯波家が南北朝時代に関東執事を務めていた名残りでしょう。
以前にコレ⤴️品濃白旗神社の記事で少し書いていますが、南北朝時代に近くの秋葉郷(戸塚区東戸塚~品濃辺り)に柴田勝家高経公が関わっていたり、足利尊氏公の御実弟足利直義公の頃に星谷家が杉田郷に関わっていてもおかしくはありません。
そして朝倉家は
右馬助(うまのすけ)朝倉政景が戦国時代の北条家臣として横須賀市の浦郷や追浜辺りや、伊豆半島三島市玉川辺りを支配していました。
この朝倉家の朝倉平次郎と言う武将が間宮家と玉縄衆と言う軍団で同僚だった事も解かっていますし、
南区太田にも朝倉又四郎と言う武将がいました。
ただ、峯町の星谷サンは北条家臣朝倉家の家来ではないでしょう。寧(むし)ろ旧間宮領にいる朝倉家は玉縄衆朝倉又四郎が豊臣秀吉による北条家改易後に本牧奉行、佐渡金山奉行、生野銀山奉行に成っていた間宮家を頼って江戸時代に移住して来て家臣化した一族かも知れませんね。

星谷の苗字を名乗る武将は戦国時代~江戸時代初期、そして現代に付近にいませんが、他の北条家臣団の苗字を持つ大地主達は現在も存続します。
この地域の地主は槙田家、塩沢家、大塚家、苅部(軽部)家、小原家です。
近くでは金子家、岡本家、野本家、内田家、市村家、荒井家、斎田家、北見(喜多見)家、朝倉家、笠原家、田野井家、山野井家、高梨家、武田家です。
もっと離れて南区まで行くと、森家、並木家、佐々木家等の蒔田吉良家臣団の名前が蒔田吉良家菩提寺の勝國寺の檀家さんに沢山いたりします。
加えて磯子区港南区地域では間宮一族分家や系図上養子が入っていると伝わる松本家、武内家、間辺家がいます。
沼津市の伝承では朝倉家臣星谷家がいるらしいですが朝倉はこの阿弥陀寺や護念寺近辺の峰地域に地主はいませんし、北条家臣朝倉家の更に家臣が杉田郷の地頭では北条家の公式記録の北条所領役帳に記載された間宮家の所領の歴史と整合性がありません。
どうも北条氏照公が元服前の藤虎丸時代に崇拝し、元服して北条氏照と名乗ってからも“陣屋”=“宿舎”としても利用していた座間市の星谷寺(しょうごくじ)辺りの現代の地名は“入谷”ですが、元々は星谷(ほしのや)が正式な地名なので、その辺りが出自でしょうか?
だとしたら、遠い祖先は横浜市港北区に移住して茅ヶ崎城代と成った座間家と親せきだったかも知れませんね。
この茅ヶ崎城主は平安時代末期~鎌倉時代初期には源頼朝公の協力者だった摂津源氏多田行綱公の関東における城館でしたが、戦国時代に入ると北条家臣座間家が城代を務めた場所でした。
 
駿河国戸倉城近く沼津市大平に、元今川家臣で後に北条家臣と成ったと言う星谷姓の武将がいて城館跡が有るものの出自は不明、沼津市では資料がなく、間宮や江川家と関わり深い伊豆の国市でも資料は無く、座間市にも全くありませんでした。
しかし現在も鎌倉時代位の星谷家の出身地域と思(おぼ)しき座間市~海老名市~寒川町辺りには星谷姓の家が点在するので、座間市入谷(旧:星谷)が出自“くさい”所ではあります。
偶然ですが、座間家の上官に当たる大曾根城主、小机城代だった笠原信為公の笠原家も伊豆出身で、その一族の笠原綱信公の養子、笠原政晴が戸倉城主を務めています。
何だか座間家と星谷家は笠原家与力として北条家で編成されてた家も存在した可能性があります。
しかし星谷家について現代では何も解りません。

・・・星谷家が座間市出身と仮定してすると・・・

南北朝時代に鎌倉公坊足利義詮公家臣になり・・・
関東執事の斯波高経公の与力として配属され南北朝時代に峰町辺り旧矢部野村を治めた分家の星谷家がいて・・・

足利尊氏公の二男、足利基氏公が鎌倉公方になり伊豆国一帯を自身の与力で固めた際に伊豆に入植した星谷家と、磯子区峯町一帯に地頭として残り室町時代初期まで存在した星谷家がいて、それぞれ別々の運命をたどり・・・
横浜市に残った鎌倉公方与力だったかも知れない星谷智久公は宅間上杉与力となり・・・

更にその後、永享の乱頃には扇谷上杉派の与力となり、北条氏綱公が扇谷上杉家と対立すると湘南に勢力を張っていた北条家臣間宮家により駆逐されたのかも知れません。
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※写真は伊豆半島、田方郡函南町“間宮町”の“間宮南”交差点。
もし、このプロセスならば阿弥陀寺を江戸時代に中興した苅部家の領主、間宮家が足利基氏公の家臣として近江国から伊豆国田方郡間宮、今の函南町間宮に移住し神奈川県東部に勢力伸長したプロセスと酷似しており有り得ると思います。
しかし新編武蔵風土記稿に話を戻すと、星谷家は室町時代末期にも杉田郷には名が見えず、安土桃山時代にも、江戸時代初期にも名が見えず、現代の地主にも名が見えず・・・
新編武蔵風土記稿の記載通りなら地頭なのに江戸時代中期の一時代だけいるのはおかしな話しだと個人的には思います。
・・・星谷家は北条家が武蔵国域を支配し杉田郷が間宮家臣団の支配地に組み込まれた頃には磯子区磯子城主の平子家と同じ様に駆逐されたと考えた方が自然でしょう。
平子家については以前書いた記事があります。
コレ⤵
 
仮に江戸時代に“地頭”と言うか在郷武士だったなら、隣の六浦には今も江戸中期に大名として入って来た米倉さんが横浜市大の近所の六浦藩陣屋跡に普通に現代の家を建てて住んでいますし、江戸時代中期に地主侍なら今も間宮家臣団の他の地主同様に現代の大地主としているでしょう。
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※江戸時代の六浦藩陣屋跡の旧藩主米倉サン家の石段。
米倉サン家のこの石段は陣屋(邸宅)の裏口だったらしいです。。
ちゃんと米倉さん家の奥さんに許可貰って撮影してますよ!
だから間宮家臣団や六浦藩主米倉家の事を踏まえると江戸時代の大地主なら今も大地主として住んでいるはずですから、星谷氏が護念寺の前身、御念寺や阿弥陀寺に関与したのは風土記の“宝暦”の記載は誤りで“宝徳”年間、永享の乱前後の話だと個人的には思います。

又、隣村の栗木村の項目でこうも書いて有ります・・・

古(いにしえ)は御料にて元禄九年に星合摂津守に賜い、今子孫鍋五郎知行す

・・・江戸時代の元禄の頃、徳川綱吉公の頃に磯子区栗木村に移住して来た星合サンと峯村の多分、南北朝時代~室町初期にいた星谷サンの項目は話がゴッチャに成ってるぽい雰囲気を感じます。
この古は御料にて元禄九年に星合摂津守云々~の御料は将軍直轄地と言う意味で“天領”だった、と言う事に成ります。

実は!
間宮家は鷹狩りに秀でた一族で氷取沢間宮家を開いた間宮綱信公は北条家の外交使者として織田信長公に謁見し鷹を献上したり、分家杉田間宮家が代々、徳川幕府鷹匠頭の職位を継承する程だったのですが、戦国時代~江戸初期に港南区~磯子区一帯を治めた間宮本家の笹下間宮家は下総国に転封され栗木を支配していなかったので、星合摂津守が一時期いた可能性は有ります。

まぁ~十中八九、星谷サンの話は間宮家が来る前の護念寺の前身の御念寺を復興した話と、似た元号と、隣村栗木村の星合サンの話を記者が頭の中でゴッチャのまま勘違いを書いちゃったのを昭和の出版社がそのまま丸写ししてそうな気がします。

しかし星谷知久公が足利幕府鎌倉府の家臣で在地領主として阿弥陀寺の奥院だった御念寺を支援したのだとしたら、それはそれで素晴らしい史話だと思います。
因みに、栗木のバッティングセンターは松坂大輔選手が横浜高校時代に練習に来ていたそうです


・・・話は飛びましたが(笑)・・・


護念寺と本院の阿弥陀寺は阿弥陀寺の旧境内地の逸話と元号の問題、そして星谷智久公の奉納したお金が永楽銭だった事実から、永楽銭が使われなくなっていた江戸時代中期の宝暦年間1750年代ではなくて宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。

しかし1400年代の開基では、江戸時代の人から見て“古刹”にはならないでしょう。
ですから鎌倉時代より前の平安時代には御念寺と阿弥陀寺は存在していたのでは無いかと、近隣の御寺の文書に残らない寺伝からも予想がつきます。
例えば以前にブログで紹介した間宮家の笹下城跡の本丸直下にある成就院・・・
・・・ここは現在は浄土真宗高田派ですが草創期は法相宗だったと伝わるので、下手したら奈良時代~平安時代初期位の行基大僧正に開かれていて真言宗開祖の弘法大師空海和尚や天台宗開祖の伝教大師最澄和尚達の時代より古い可能性が有ります。
他にも・・・
・・・ここ杉田商店街の東漸寺は鎌倉幕府の重鎮、名越北条家の名越北条宗長公によって正安三年(1301年)に開かれたと記録上される臨済宗の寺院で関東十刹に挙げられる名古刹ですが、実は境内にある法輪塔は更に古い時代の物で御寺の伝承でも名越北条家によって臨済宗として再興開基される以前に天台宗だった事が伝わっています。つまり鎌倉時代以前の平安時代から存在する事が法輪塔から証明されている訳です。
更に・・・
・・・同じく杉田の妙法寺は前進の牛頭天王社が弘法大師空海和尚によって開かれた事が伝承しており、文和元年(1352年)に荒井光吉入道日荷上人によって立派な堂宇が建立され寺院化しています。
他にも幕末の吹奏楽発祥地で国家君が代とテニスの発祥地の本牧の妙香寺・・・
・・・ここも元は真言宗でしたが日蓮上人が自ら滞在した際に御寺の大檀那(オーナー)だった佐藤家が日蓮上人に惚れ込んで門徒になり、日蓮宗に改宗した歴史が有る御寺です。滞在時の浴衣姿の日蓮上人の彫像が祀られている変わった御寺だったりもします。
この様に、横浜市域だけでなく鎌倉幕府~室町幕府の武士が多くいた地域の臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、法華宗等の鎌倉時代に流行したり起こった宗派は元々は更に古い奈良時代に始まる修験道や法相宗、平安時代に始まった真言宗や天台宗の寺院だった場所が多くあります。

更に護念寺と阿弥陀寺の歴史の証明となる星谷智久と言う“地頭”が護念寺の長野山が元々御城で不便だから色々ショートカットの道作ってあげた・・・と書いて有ります。
地頭職は鎌倉幕府以来の武士です。つまり鎌倉時代に既に地頭だった星谷氏が室町時代の宝徳二年(1450年)城跡と言っていると言う事は、既に室町時代には使われなくなっていた鎌倉時代か平安末期の城跡と言う事を言っている事に成る訳です。
鎌倉城防衛網円海山 久良岐のよし

護念寺の在る円海山と尾根伝いの円海山山系の観音山、大丸山、関谷見晴台、荒尾城(御伊勢山、権現山)、青ヵ台城(能見堂~阿王ヵ台~赤井)は完全に人の手が入って城塞化されていると小生はずっと主張している通り、鎌倉防衛網を構築し所々の要所が城塞化されており、護念寺の洋光台側の急峻な崖や各所の尾根道の掘切りも城跡だからと、この文章で証明されます。
本当、護念寺を取り巻く竹林の中には、竹林に成ったが故(ゆえ)に高速道路をブチ抜かれたり墓地を造成した場所以外は旧地形が良く残り、恐らく江戸時代には畑にも成っていたであろう、明らかにお城の帯曲輪郡と竪堀が幾筋も現存しています。
ここ円海山は飛鳥時代から東日本最大のタタラ製鉄遺跡の上郷深田遺跡猿田遺跡一帯で鉄が生産され、刀槍の材料となる玉鋼(たまはがね)を輸送するのが尾根道でしたから、流通や軍兵の交通を監視する要塞や関所が必要だったのでしょう。
実際、この尾根道だけを伝って昔は鎌倉に行きるだけでなく、更に尾根続きの鎌倉十二所からは元は真言や天台の修験者が御参りしていた岩殿寺や神武寺や鷹取山、更に三浦半島まで山の中の道が繋がっていました。
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ですから現在も鷹取山~神武寺の尾根道は修験者の人達や娯楽としてハイキングを楽しむ人達を見かける事が出来ます。

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醫王山 来迎院 神武寺

神武寺は現在も山の中で神秘的な雰囲気を保っています。
神武寺は神亀元年(724年)の開基(かいき=開かれる事)と伝わっています。
古代の街道は尾根道だったので、その中継拠点や湧水地だったので飲用水補給の聖地として神武寺は開かれたのでしょう。
・・・同じ様な立地の護念寺も、もしかしたら前身の御念寺は相当古いのかも知れませんね。

威徳明王が祀られたであろう一心堂の場所の話から威徳明王の像に話を戻します。
威徳明王の彫像は弘法大師の手彫りと伝承しています。
天長年間(824~834年)に弘法大師空海和尚が守敏僧都と法力争い(密教の問答だろう)をして威徳明王の威力で勝った事、更に威徳明王に関する宗論で守敏僧都を言い負かす事が出来たので掘った像が護念寺の威徳明王で嶋津又三郎の姫の竹姫様から元は鎌倉の浄土宗大本山光明寺の僧侶だった護念寺中興開山の淸蓮社浄譽圓海和尚(明和三年:1766年没)が拝領したと記載があります。

更に清和天皇(850~881年)の守り本尊だったのを嶋津家に伝えられていたと記載が有ります。
弘法大師は承和二年(835年)に亡くなっている事から亡くなる直前に彫られた仏像と言う事に成りますね。
そして、その後清和天皇に渡り、清和天皇の子孫の島津家にどういった経緯かは判らないものの伝わり、円海山に御縁が有って祀られる事に成った訳です。

次に竹姫は嶋津家=島津家の姫様は誰かと言う話ですが、実はココに誤解を生む罠が有ります。

この場合の竹姫の“姫”は父子関係ではなく尊称の“姫”なんですね。つまり御妻君も姫様と呼ばれるケースが有る訳です。例えば北条家から蒔田吉良家に嫁いだ“さき姫”や、前田家から義叔父の秀吉公の仲介で宇喜多秀家公に嫁いだ豪姫等は有名です。これを考慮すると謎は直ぐに解けます。

1766年に亡くなった浄譽上人が竹姫様から威徳明王像を貰っているから、威徳明王像が伝えられたのは1700年代と言う事が判ります。

この竹姫の“御身内”の嶋津又三郎サンですが、実は島津家歴代当主は“又三郎”を名乗っているので世代的には第五代薩摩藩主の島津継豊公の時代位の話しと解かります。
そして島津継豊公の継室(後妻)が竹姫なんです。しかも竹姫の人脈から更に凄い人達の名前が登場します・・・

御実家は権大納言と非常に地位の高い京都の貴族で、竹姫のフルネームは清閑寺竹姫、戒名が浄岸院です。
尚且(なおか)つ!徳川綱吉公の養女と言う立場に当たる人物です。そして薩摩藩主の妻。
凄いですね~!
当時の阿弥陀寺と奥院の護念寺の寺格の高さが解かるエピソードです。
何で竹姫が威徳明王を護念寺に寄進したか不明です。
もしかしたら・・・
御父上の継豊公が護念寺の圓海和尚に鍼灸治療をして貰ったのかも知れないですね。
圓海和尚の弟子で実際に護念寺の再興開基に寄与した法雲和尚と言う方は鎌倉の光明寺の僧侶だったそうですし、関東の浄土宗は織田信長公や徳川家康公が浄土宗(当時は法華宗として時宗や日蓮宗と一緒の別派閥と認識されていた)の信徒だった事から特に江戸幕府開府以来、他宗派よりも強く徳川幕府の庇護を受けていたので、その様な御縁が有っても不思議では無いんですね。
続きの阿弥陀寺の記事で書きますが、なんせ本院の阿弥陀寺の戦国時代の御住職は浄土宗のトップと京都知恩院で務めた任蓮社然譽了鑑大僧正ですから、この方の繋がりが有れば当然ながら徳川幕府とのコネクションは深いでしょう。
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現代には護念寺の周りは私有地だらけになり横浜市の今の市長の政策では私道を遊歩道として通行出来なく成ってしまい円海山護念寺に通じる古道だらけですが・・・
今の道は今の道で素敵ですね。
この竹の道を過ぎると、清浄園と言う御寺の院号からとった墓地に辿(たど)り着きます。 
そこからは横浜港が一望でき、ランドマークタワーやベイブリッジが見えます。
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この日は生憎の曇天でしたが、紅葉に色づく円海山の眺望に満足できました。
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御住職は御灸の施術を予約すると直接面会出来ますし、色々と昔々の横浜の風景や文化の御話を聞けて楽しそうです。
今はこの奇麗な景色の中に有る古道は間にゴルフ場は横浜横須賀道路が出来たせいで完全に寸断されてしまっています。

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とにかく景色は良いですよ!
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実はこの円海山山系の大丸山含め、この地帯が昔の久良岐郡と現在の横浜市で一番標高の高い場所なんです。
・・・と、言っても海抜300mくらいですが、それでも海から2km程度内陸に入っただけの沿岸部なのでだいぶん高低差があります。
だから景色の素敵な場所でしょう?

護念寺の本院だった「阿弥陀寺」と「白山神社」の話は、また改めて別記事にまとめましたので別に御覧頂ければ幸いです! 


以上、久良岐のよしがお届けしました「強情灸」と「護念寺の凄い歴史」、楽しんでいただけましたでしょうか?
きっと皆さんの御自宅の近所にも凄い歴史偉人と繋がりの有る神社仏閣や御城の址の山が有りますよ!
ちょっと御近所を御散歩して、神社や御寺や城址の公園の看板を読んでみませんか?
思いがけず凄い人達と土地の繋がりを知れば、更に地元に愛着が湧くかも知れませんよ?

ではでは、次回は護念寺の本院だった円海山、峰の阿弥陀寺と白山神社の記事でお会いしましょう!


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名刀「正宗」をご存知ですか?
正宗工芸
※正宗工芸ホームページ画像
鎌倉時代から日本中に知れ渡った名刀で、安土桃山時代には豊臣秀吉が天下一の名刀と認定したことから全国の大名がこぞって入手した日本刀です。
正宗工芸美術製作所
今でも鎌倉駅のすぐ近くに工房があり、初代様から代々製法を受け継ぎ御子孫のダンディな刀匠が正宗を製作されています。
上の写真がそのお店の外観です。
今では規模は小さくなってしまいましたが、工房併設の店舗で日本刀も販売しています。
ここは映画もののけ姫で刀の鍛造の参考にロケハンに協力した工房でもあります。
現在は日本刀以外にも普段使いの包丁も製作されており、購入すれば日常生活に日本文化を取り込め有る意味財産で作る料理を食べられますね(笑)。
価格も1万数千円〜有り、少し良いお値段だけど手の出る値段です。しかも刀工の御店なので、ちゃんとメンテナンスもしてくださいます。
研(と)いで下さったり、研ぎ減り包丁の刀身が小さく成ったら「小刀」や「ペーパーナイフ」に改造して下さったりもします。
だから刀剣女子には持って来い(笑)!
小生は趣味で歴史散歩やグルメ以外にもシルバーアクセサリーを作るのですが、銀粘土を加工するのに正宗のペーパーナイフを使っています。
皆さん、鎌倉に訪れる際は是非立ち寄って見てください。
正宗工芸美術製作所がある事は神奈川県にとっては誇らしい文化的歴史的な遺産でもありますね。
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因みに、正宗工芸から歩いて15分位の鎌倉歴史文化交流館では正宗が展示してあります。
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そして平安末期~鎌倉時代の名将、畠山重忠公着用の鎧が武蔵御嶽神社に奉納されているのですが、甲冑制作師が制作した完レプリカの赤糸縅(あかいとおどし)大鎧も展示されています。
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この鎌倉歴史文化交流館の素晴らしい所は展示物が全て写真撮影可能な所です。
是非、鎌倉歴史文化交流館と正宗工芸、鎌倉観光の際にセットで訪れて見ては如何でしょうか?
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鎌倉歴史文化交流館
何でここを紹介するかと言うと、実はここは元は無量寿寺と言う大寺院の跡で、御寺が廃れた後は鎌倉時代~江戸時代迄正宗工芸の親方(社長)の御先祖様が住んでいて、ここで名刀正宗が生み出されていたんです!
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鎌倉歴史文化交流館の広い御庭の谷の奥、そこに刀の工房が在りました。
今は小町通の近くに在りますけどね~。
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無量寿寺跡の谷の台地の上には、名刀正宗の工房の守り神だった御稲荷様の台座だけが現存しています。神様はここが公共の施設に成る際に法律の問題で葛原岡神社に遷宮されました。
さて、実はこの正宗や平安時代の鎌倉で武士が佩刀した刀の鉄の産地も鎌倉郡に在りました。
上郷深田遺跡
上郷深田遺跡
飛鳥時代から平安時代の製鉄遺跡が発掘されており、後に武士達から軍神と呼ばれた源❝八幡太郎❞義家公達、古代の豪族や坂東武者達の武具の玉鋼の根源地だった場所があります。
ここは神奈川県現存唯一、関東最大の蹈鞴(たたら)製鉄遺跡である事が判明しています。更に30年前の調査発掘で最大規模だったのが更に追加調査で範囲も広がっています。また、山裾伝いに更に後の時代の蹈鞴遺跡も近在する可能性があり、その山の向こうには鍛冶ヶ谷地区が存在しています。
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
2019年05月現在、上郷深田遺跡も東急建設の開発計画で消滅の危機にされされています。
出来れば坂東武者達が身に付けた刀剣武具の産地であり、現在は横浜市に入っている栄区~港南区~磯子区~金沢区~鎌倉市にまたがるこの緑地、刀剣の文化と共に永久に存続する様に文化財指定して保護するべきだと思います。
ホタル10
ホタルが飛ぶ姿も見られるしね。
これから6月初旬、第二週の週末位になると蛍の飛び交う姿が最盛期を迎え、下旬に入り7月には蛍達は次第に命を終え数を減らします。
そんな蛍も生きる川を破壊されてしまえば、翌年から見る事も出来なくなります。
さて、正宗工芸!
小町通からも直ぐ近く!
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是非是非、鎌倉観光の際には訪れて、もし刀剣女子が彼女さんの男性や奥様が刀剣乱舞ファンの旦那様はプレゼントに❝正宗❞の包丁なんて如何でしょうか~!







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"本物の拉麺"の蘭州拉麺を中国本場の味で食べれる貴重な店が横浜市の伊勢佐木長者町に在ります。
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中国蘭州牛肉ラーメン 国壱麺
日本ではまだまだ少ない本格的な“拉麺”を食べられるお店ですが、横浜市ではもしかしたら、まだここしか“本物の拉麺”を食べれる場所は無いかも知れません。
日本のラーメンは拉麺とは呼べないスープ中華ソバと言う広いカテゴリーなんですよ、細かい事を言うと。そこら辺りは後で“面の種類”の解説をします。
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価格帯もセットで1000円前後とお手頃。
この写真は牛肉拉麺とツマミのお肉と豆腐の細切りがついています。これで1050円!
本当に伊勢佐木長者町は中華料理安くて美味しいのよ。
山椒で酸味が少しあるスープ。
とっても美味しいです!
小生は面の太さを“中太”くらいで頼みました。
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更に!セルフの🍧かき氷は無料で食べ放題!
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麺は目の前で打ってくれるので、太さを自由に指定できる。 
券売機での注文なので、良く解らない人も写真を見ながら選ぶ事が出来ます。
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券売機の画面にも表示されてますが“横浜ベイスターズの観戦チケットを持参すると割引き”のサービスを受ける事が出来ます!
国壱麺の拉麺は本当に中国で食べる蘭州拉麺と同じで美味しいんです。 
それもそのはずで、調理は中国から来た麺打ちのプロが行っていますからね。 
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小生のオススメは中太だけど、御店のオススメの太麺もモチモチして美味しいですね~♪
小生が良く行ってた上海や深圳なんかの南の方だと細い面が好まれています。
でも小生は太目のモチモチが好きなので中太を毎回チョイス!
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御店も綺麗でしょう?
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中国ではどの都市にも蘭州拉麺の店が沢山有ります。
日本ではまだ見る機会が有りませんが、拉麺は本来騎馬民族の文化由来の料理なのでトマトをふんだんに使用したパスタと焼き饂飩の中間の用な味付けの料理も多いです。
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御店の運営方式的には日本の立ち食い蕎麦屋の“富士そば”とかドライブスルーのフードコートみたいな感じで、そのまま御店を中華街のレストラン並みに綺麗にした感じです。スタッフは日本語が話せますが発音は良くない人もいます。恐らく言葉の問題を解消するのに券売機方式にしたんでしょう。
券売機は日本語、中国語ともに対応しています。確か英語も有ったと思う。
オリンピックに向けて、日本のファミレスなんかも英語対応の券売機方式を導入するか、ホールスタッフに ポケトークを持たせるべきなんじゃないかと思う。
御店の紹介はここまでにして・・・

・・・さて最近、新横浜ラーメン博物館と某学者が拉麺の文化について間違った事を流布しているので少し拉麺の事を解説します。
日本人が“拉麺(ラーメン)”と誤解しているのは“湯麺(たんめん=スープそば)”の意味で正しい拉麺の漢字の意味ではありません。
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家系豚骨ラーメンも拉麺ではありません。
実は拉麺(ラーメン)と言うのは面の製麺方法の種類を指すのですが、それを戦時中に中国に行ってた人達がラーメン=スープ中華ソバと誤解したまま戦後に中国から帰還した人達が中華料理やを開いて提供したので文字の誤植が発生したんですね。

拉麺とは文字通り、拉(ひっぱる)麺(めん)と言う意味で“手で延ばし打つ手延べ麺”の意味であり、日本人が戦後に持ち込んだ拉麺は機械で製麺し裁断した物なので拉麺とは呼べないんです。
「日本のラーメンの元」と言うデマを新横浜ラーメン博物館と一緒に流布した文献しか読まない見聞乏しい学者に一言言わせて下さい。
拉麺は拉ひっぱる麺て意味で手延べ麺の事すよ。
あのね、文献ばっか見てるより、さっさと中国語勉強して現地取材して下さいね(笑)。
昔から百聞は一見に如かずと言いますけど、ラー博と某学者さん、それの悪例地で行ってますよ?
適当過ぎ。
歴史も文献ばっか読んで現地行かない、取材しない、子孫に聞き取りしたり保有してる文献を礼を尽くして見せて頂かず、ある文献の内容をコピペする学者ばっか(笑)。
そもそも、文献として残っているものは先人が先人に対して「騙す」為に書かれた物ばっか!その内容の真偽も調査せず・・・
見つかった!→はい、歴史認定~論文書いて発表ぅ~♪
・・・と言うロジックは普通に考えてバカ(笑)。数百年を経て又、騙されてるバカが権威を持ってると歴史が歪んで行く(笑)。やめてね本当に、ちゃんと現地行ったり当事者に聞いたり財産見して貰って確認して。
新横浜ラーメン博物館に「ラーメンのルーツ」て嘘を教えた文献しか見ないで現地の人にも聞かないし食べにすら行ってない学者(笑)さん、中国人に己の見聞の希薄さ晒して日本人に恥をかかせないで下さい。
中国人や中国駐在経験者なら「誰でも知ってる(笑)」事ですし、そもそも「漢字の意味見たら解りますよね?」て話しです。
拉麺てのは麺の製造の行程を表した言葉です(笑)。
日本人として他の日本人に恥をかかせないで下さいね、新横浜ラーメン博物館さん。
間違いは間違いです、さっさと訂正して下さい。

思うんだけど、日本の有名ラーメン店が国壱麺みたいな拉麺職人を導入したら工場制の物なんかよりコシが有って美味いスープに負けない最強の湯麵(タンメン)が出来ると思うんだけどな~。

では皆さん、百闻不如一见・・・百聞は一見に如かず。
是非是非、本物の面のモチモチを楽しんで見て下さい!
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本日、日本は旧暦の小正月。
いよいよ、旧暦の正月も終わり季節も本格的に花やぐ春に入ります。
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今年は猪年。
因(ちな)みに日本で猪(いのしし)の意味で使われている“猪”の漢字ですが、本来の意味は“豚”です。
“豚”の本来の漢字の意味は日本語の“瓜坊(うりぼう)=子猪”の意味です。
日本人の言う所の豚は漢字では白猪と呼ばれています。黒豚なら黒猪に成るのかな(笑)?
中国、台湾、香港、マレーシア等の中華文化圏では豚は富の象徴であり財運と結び付けられています。
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日本で言えば井伊家の殿様を出世させた事で幸運の象徴化された世田谷豪徳寺発祥の“招き猫”文化みたいなモノかな?
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まぁ、だから彦根市のゆるキャラは彦根城主の井伊家の殿様、井伊直孝公の兜(かぶと)を被(かぶ)った豪徳寺の招き猫をデザインした“ひこにゃん”なんですよ。
そこら辺は以前、豪徳寺紹介記事で解説してるので御興味有る方は読んで見て下さい。
下⤵️クリックで記事リンク

それと小正月は満月を見る古代の祭事に由来しているんですよ~♪

明晩は満月🌕ですね~♪
だから猪=豚+金色の満月=金豚=発財=財運向上の日です(笑)。
なので写真も金豚(笑)。

神話の時代は考古学の縄文~弥生~古墳時代に当たりますが、当時の人々の生活と神社に残る神事は実は密接にリンクしてるんです。

現代の太陽崇拝の影響を受けた太陽暦で活動する欧州文化圏の暦に明治時代に改められる以前は、タイや台湾等のアジアの友邦と同じく日本でも月の満ち欠けを暦の基準にした陰暦(旧暦)で世界を見ていたんです。
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この間の皆既月食の写真ですが、古代の人にとって皆既月食はさぞかし恐怖に感じたんでしょうね~。
渡来人が来て稲作が持ち込まれる以前の我々日本の本来の在来種は縄文系の海洋民族遺伝子なので、海の潮の満ち引きに深い関係の有る月が生活の基準で、太陽信仰よりも月読(つきよみ)の神様つまり月読命(つくよみのみこと)が生活基盤だった名残りが今も有るんですよ~♪
今でも神職の方々が念じる蘇民祭=半年毎の大祓神事で祝詞(のりと)の口上は、天皇家の直接の皇祖神の天照大神ではなく、日本の原形=民族集団=各氏族の祖先神(部族長)の治める村々=原初の国々を生み出した、つまり初期の統治機構や交易の流通網を作り出したであろう伊邪那美命と伊邪那岐命の女夫(めおと)神様の名前ですよね。
その女夫神様から夜の世界を任せられたのが月読命で、大祓神事で半年間の“厄除”“魔除”“悪行をチャラ(笑)に”する御利益を授けて下さる素戔嗚命(すさのおのみこと)=牛頭天王(ごずてんのう)=武塔天神(むとうてんじん)様が治められた“海の世界”の生活にも深く関わっているんです。

あぁ~そうそう。
小生は敢えて夫婦(ふうふ)の字で夫婦(めおと)と書かずに江戸時代迄の人と同じ様に女夫(めおと)と書きます。
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“めおと”に夫婦の漢字を当て嵌めるのも近現代の漢字誤植ですから嫌いなんですよ。
同じ意味だから当て嵌めちゃったんですね。
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鎌倉観光すると昔からの鎌倉名物は女夫饅頭なので知ってる人も多いかも知れませんね。
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溝(みぞ)と書いて溝(どぶ)と読ませるのも近現代の漢字誤植です。
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田舎の人や城廓ファンは知ってますがドブは発音の通り“土腐(どぶ)”と正しくは書きます。
これは漢語ではなく、ずっと使われている日本語です。
よく城の沼堀の解説なんなかで目にします。

そして大祓は半年毎ですが、古代の人の1年は半年間でカウントしてたのだろうと言うのが最近の考古学の説だそうです。

途中から天照大神が重視されたのは、卑弥呼の頃の弥生時代の終わり~古墳時代の始まりに稲作が大々的に普及して生活基盤が農耕に移行したから、作物の実りや農耕に必要な灌漑用水の水の確保に支障が出る旱魃(かんばつ)=日照り=気温や日照時間、つまり天候と直接関係関係深い太陽信仰が重視されたからかも知れませんね。

さて!
今日、明日が発展と財運向上の金豚(笑)の日、御目出度(おめでた)い日です。
我々日本人の使う平仮名、片仮名、和体漢字のルーツ、漢字発祥地の漢人や友邦台湾の人なら日本の恭喜發財の日(笑)かな?

そして明日の満月の日~水戸市では水戸梅祭りが始まりますね~。
土曜日は皇太子殿下が天皇に即位される前の皇太子として最後のお誕生日でもあります。

皆さんにとっとも小生にとっても世界中の親日国の人にとっても向上と進歩と実りと幸の多い1年間に成ります様に~。



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品濃白幡神社の解説で、鎌倉時代~明治時代まで横浜市南部の神社仏閣を守って来た権現堂と泉蔵院と言う修験道の道場と、そこを戦国時代から治めた北条家臣間宮家の子孫の松本家と関家に少し触れました。
その時の記事、クリックで読めます⤵
商業街の中に在る戸塚区品濃の白幡神社と白幡山公園
・・・実は凄い歴史偉人と関係有ります。


その権現堂と泉蔵院が何故、横浜市南部の神社仏閣を支配する事に成ったか解説したいと思います。

横浜市南部の神社の多くは鎌倉時代から修験道の2系統の家系によって管理されていたんです。
1つ目は亀谷福禅寺権現堂(かめがやつ ふくぜんじ ごんげんどう)
2つ目は大靈山山崎泉蔵坊(だいれいさん やまざ きせんぞうぼう)
この二つは何(いず)れも修験道の大道場で、とても由緒有る神社であり寺院としての道場機能も有していました。新編武蔵風土記稿を読むと解かりますが、旧鎌倉郡と久良岐郡域の内、江戸時代に本牧奉行間宮家本家と、分家で江戸幕府鷹匠頭の杦田(すぎた)間宮家が支配した地域では、権現堂と泉蔵坊が神社を分けて統治していた記録が有ります。そして、この両社は源頼朝公が支援した修験道道場でしたので、その支配は間宮家の統治によるものと言うよりは鎌倉時代からの統治機構の名残りだったのかも知れません。
更には、旧鎌倉郡江島神社を管理した岩本坊間宮家、旧高座郡に当たる海老名市の古代相模国一之宮今五之宮であり延喜式内社の有鹿神社が存在しますが、戦国時代に海老名の中心部は間宮家の所領でしたし間宮康俊と言う殿様の時代に一度途絶えた有鹿神社の水引神事が復興されています。そして、相模国二之宮の川勾神社宮司家や二宮尊徳を輩出した二宮家にも間宮家から養子が戦国時代に入っていたりします。
ついでに少し品濃白幡神社から話を逸れて、間宮家や旧北条家臣団が如何に神社や修験道に宗教的な影響力を持っていたかを知っていると色々と解る事も有るので説明して置きたいと思います。
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上の写真は旧杦田郷(すぎたごう)の現代の港南区と磯子区の境に跨る笹下城本丸跡地形。
この笹下城跡の本丸は三井不動産レジデンシャルによって右側の大空堀が掘削された後に盛土され一部破壊されましたが今も介護施設の裏山として存在しています。
安土桃山時代に豊臣秀吉の小田原北条家討伐戦で間宮家は、当時の笹下城主で間宮家当主の間宮康俊公が72歳の高齢で玉縄城主北条氏勝公与力の付家老として箱根山中(三島市側)の山中城に籠城します。
この時に間宮康俊公の寄親(上官)の北条氏勝公が敵前逃亡して玉縄衆兵3,000を率いて玉縄城に撤退してしまうのですが、間宮康俊公だけは山中城主松田康長を見捨てず山中城に籠城し続けました。
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写真はGoogle earthで見た山中城址の航空写真。
笹下城主間宮家臣団兵200、松田康長公の部隊兵100の合計300で籠城、豊臣秀吉本隊80,000の大軍勢を迎え撃ちます。
敵は本隊先方豊臣秀次隊・与力豊臣家小大名の中村一氏隊と家臣の渡辺勘兵衛隊・堀尾吉晴隊、山内一豊隊、一柳直末隊の合計26,000余。
右翼、池田輝政隊20,000。
左翼、徳川家康隊30,000。
援軍主将で間宮家の上官だった北条氏勝公が撤退していなくても戦力比は圧倒的不利でした。
北条氏勝公逃亡前 三千余 対 八万余の豊臣軍 
戦力比 1:26
つまり北条家は1人26殺しないと勝てない。だから北条氏勝公は家臣等に説得されてしまい小田原防衛網を放棄逃亡して自領に逃げてしまった訳ですね。
そして間宮家以外の玉縄衆が全部撤退してしまった後の山中城籠城勢 対 豊臣軍の戦力差は更に絶望的な物と成りました。
松田・間宮連合(山中城籠城勢) 300 対 26000 豊臣軍先方 豊臣秀次隊と与力小大名衆。
戦力比 1:86。
1人86殺、常識的には反抗するのも無理な次元での籠城戦、普通は誰も助けに来ない。

なんで品濃白幡神社の説明で戦国時代の間宮家の説明に成るんだろうな~?と歴史に興味が無い人はここまで読んで頓珍漢(とんちんかん)に話がズレてると思うでしょうが、実はここから品濃白幡神社のみならず神奈川県域の全神社にも繋がりが出てきます。
この超絶不利な状況で間宮家の籠城する山中城に僅(わず)かな援軍を出した勢力が一つだけいました。
・・・それが実は延喜式内社、大山阿夫利神社と別当寺の大山寺を守っていた神官僧兵達でした。
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写真は伊勢原市の大山国定公園遠景。大山の三角形の山体と頂上の石山権現と言われた奇岩が縄文時代からの信仰対象で、古来聖地として発展し、神道や修験道や真言宗の聖地として多くの僧兵を抱える一大勢力でした。
豊臣家による北条征伐の過程で発生した超絶不利な間宮家による山中城の防衛戦で間宮家を支援したのが決死隊として大山から参陣した神官僧侶を兼ねる修験者の僅かな部隊でした。
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写真は宗教、築城、鷹狩、有職故実に精通した間宮家が山中城防衛強化の為に三の丸の更に先に増築した岱崎出丸の先端、三日月掘りと言う構造体。
この岱崎出丸で先ず間宮家は修験者部隊と協力して豊臣軍26000の大軍を迎撃して鉄砲隊で散々に損害を与え、敵大名の一柳直末公を討取ってしまします。
更に間宮家・松田家・大山修験者僧兵達は一人残らず討死しますが、何と戦が終わった時には驚愕の籠城兵300で敵戦死者3000余、損害多数の戦果を残していました。
この事からも判りますが圧倒的に不利な合戦でも多くの神社仏閣を管理した大山阿夫利神社と大山寺の僧兵達から支援される程に宗教的な家格が高かったのが間宮家な訳です。
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写真は大山の参道に建つ宿坊の一つ、東学坊。大山名物の美味しい豆腐や猪の料理を食べられる旅館。
大山の修験者の多くは安土桃山時代に武器を捨てて僧兵を辞め、江戸時代に成ると先導師と呼ばれ聖地礼拝の観光客相手に宿坊と呼ばれる神社寺院機能を備えた旅館を経営し大山観光産業の一翼を担い現代に至ります。
江戸時代の神仏分離までは伊勢参り富士山参りに次いで大山詣でが江戸市民から人気の観光地でしたから今も関東の各都市には大山街道が残っています。
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間宮家所縁(ゆかり)の町ですと杉田商店街のメインストリートが近代に再整備された横浜~伊勢原線で大山街道の一つですね。
間宮家は、この山中城の戦いの活躍に加えて江戸時代に徳川家康公の旗本となり氷取沢間宮家初代と成った間宮康俊公の御実弟の間宮綱信公が北条家の外交官として織田信長公への外交使者を務めたり、徳川家康公にも外交使者を務めて名が知れていた事や、間宮家が武家にとっては貴重な材木と海運のノウハウに加えて宗教と宗教建築知識と鶴岡八幡宮再建事業での実績が有る事、そして極め付きが一般的な武将が保有しない武士の教養である鷹狩に必要不可欠な鷹育成の特殊技術を有していた事から分家の杦田間宮家の間宮信繁公が徳川家康公の参謀 兼 鷹匠頭として登用されました。
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写真は杦田間宮家菩提寺の妙法寺の山門。境内には今も杦田間宮家歴代殿様の巨大な御廟所が有る。
この杦田間宮家の間宮信繁公が、関ヶ原の戦いで徳川本隊3万の前進を進言して小早川秀秋公の東軍寝返りを実現させた名軍師でした。この小早川勢寝返りの工作を進めたのが間宮家と同族の宇多源氏黒田家の黒田長政公でした。
この間宮信繁公の姫が、初代久能山東照宮の大宮司の榊原照久公に嫁いでいる事からも宗教的な間宮家の家格の高さが解かりますね。
そして間宮本家の笹下間宮も名軍師を輩出します。

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写真は磯子区田中の妙蓮寺、間宮直元公と奥方の菩提寺。近年まで直元公の彫像を御神像とする御社が有ったが火災で焼失したが、奥方の墓所は現存する。
間宮直元公です。この人が徳川幕府による豊臣家攻め大坂城の戦いで真田幸村籠もる真田丸や大坂城総掘りの埋め立て作戦を直接徳川家康公に進言し、真田幸村の軍略を無力化させ豊臣家を滅亡させる留めを刺した名軍師でした。間宮直元公は間宮家の土木知識と水運技術を活かして二代目佐渡金山代官、初代但馬奉行、生野銀山代官、初代本牧奉行(神奈川奉行=横浜市長の前身)を務めた人物でもありました。
つまり間宮家は武家としても重要人物達と繋がりが有るだけでなく、中世の宗教者達とも希有(けう)な太いコネクションと信頼関係を築き、宗教建築や土木技術と教養も有した文武両道の学者気質武家の家柄だった訳ですが・・・
旧鎌倉郡に当たる品濃白幡神社や下永谷の神明社等を近年まで管理したのが関家で、この家も又、間宮家同様に‟旧北条家臣”の関一族でした。この関と言う家は北条家臣団でも最古参の部類で、北条(伊勢)家と同族の伊勢平氏です。間宮家は北条家臣中、相模十四騎筆頭と呼ばれた家でしたが、つまり関家も小田原北条家の重臣の一人でした。
品濃白幡神社を含めて横浜市域では権現堂家と関家が横浜市南部の神社の多くを近代まで支配下に置いて管理していました。
余談ですが江戸の宗教も旧北条家臣伊丹家が大きな影響を持っていて、浅草寺や深川の富岡八幡宮等はその伊丹家が関与した場所でした。伊丹家は戦国時代に北条家臣として金沢区釜利谷に所領を与えられていましたが、関西に残った同族の伊丹家の子孫からは仏師として有名な江戸時代の彫刻家の左甚五郎も排出しています。日光東照宮の社寺建築で大きな功績を残した名工ですね。この伊丹家は源頼朝公が開いた金沢八景駅前の瀬戸神社や、その御分霊を頂いて伊丹家が開いた手子神社を支援した家です。
その伊丹家や間宮家と同じ旧北条家臣で北条家と同族の伊勢平氏の関家で富岡八幡宮や品濃白幡神社や永谷神明神社に影響力を持っていて、間宮家が久良岐郡を江戸中期に離れてからは泉蔵院にも関わりが有りました。

因みに家紋を比較すると色々と面白い宮司家の秘密が解かったりしますよ・・・

北条家:三鱗紋と対蝶文
三つ鱗紋対い蝶紋

関家 :揚羽蝶
揚羽蝶紋

揚羽蝶の家紋から両者が伊勢平氏で同族である事も判る様に成っている訳です。
では間宮家と福禅寺権現堂家の家紋も比較しましょう・・・
間宮家:隅立四目結紋
隅立て四ツ目結び紋
権現堂:丸に隅立四目結紋
丸に隅立て四ツ目紋

現代人には「家紋なんて好きに使えば良いじゃん?」って意味も理解していない人も居ますが、家紋は勝手に変えちゃいけないし、祖先や親戚の本家や上司から親族や重臣として認められて与えられないと勝手に使っちゃいけない物なんです。
ちゃんと自分が何処の出身のどの家系か、いつの時代に分岐したり活躍したかを辿(たど)れる言うなればレポートの索引のページを表す記号みたいな役割が家紋には有るんですよ。
因みに〇で囲みの有る家紋は一般的に本家から独立する時に分家が与えられた家紋だったり、神社仏閣の寺紋や社紋なら支援した殿様に重視され大切にされた証として〇で囲んだ殿様の家の家紋の使用許可を頂く場合が多く有ります。
例えば・・・
三つ鱗紋
北条家の三鱗紋ですが、鎌倉時代の鎌倉幕府執権北条家や戦国時代の北条家や分家の玉縄北条家や神保家が支援した御寺や神社では下の家紋が使われます。
丸に三ツ鱗紋
丸に三鱗紋。
これを使う神社は鎌倉幕府執権の北条時頼公が支援した鎌倉の宇賀福神社(銭洗い弁才天)や、金沢北条実時公と戦国時代の北条家と江戸時代の間宮家が支援した南区の寶生寺、玉縄城主北条綱成公が支援した磯子区の龍珠院、金沢区の伝心寺等が有ります。
ね?家紋にも意味が有るんですよ、家系や神社仏閣の歴史を辿れる。

・・・少なくとも戦国時代から最近までずっとそうだった訳です。
では権現堂家と関家の解説をしたいと思います。
1つ目、福禅寺権現堂と森浅間神社
権現堂は、元は源氏の元の本拠地の鎌倉市亀ヶ谷に在った修験道の聖地を管理した権現堂住職の家系で港南区港南に機能移転して来ました。
福禅寺は元は神仏習合の修験道の門跡寺院で鎌倉時代に源氏将軍家が暗殺され、九条(藤原)将軍が政略で失脚させられ、その後に天皇家から将軍を迎える様に成った時代に将軍家同様に皇族を住職に迎えた由緒正しい修験道系の道場、神様と仏様の両方を祀り天下泰平の祈祷を行う天下有数の道場でした。
この福禅寺の“名代”である権現堂を受け継いだ家系は現在姓を松本と名乗りますが、間宮家の家系図では江戸時代に本牧奉行を務めた間宮家の本家の笹下間宮家から養子が入っています。
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磯子区森(屛風ヶ浦)の森浅間神社は元々、権現堂の聖地霊場として源頼朝公によって開かれた場所なので、現在も権現堂家が宮司職を引き継いでいます。福禅寺歴代住職は就任する際に必ず森浅間神社で就任儀式を行っていました。
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写真は東京都青梅市二俣尾の海禅寺(旧:福禅寺)。
室町時代中期に東京都青梅市二俣尾に扇谷上杉家と三田家によって福禅寺が再興されますが、これが扇谷上杉家が滅亡してから後の北条家統治下の間宮康俊公の時代に唐突に‟天皇家勅願所”に成った事からも間宮家の宗教的な影響力が理解出来ます。
この福禅寺から戦国時代に間宮康俊公によって和尚様を招いて再興されたのが、間宮康俊公の曾祖父の間宮信冬公によって開かれたと伝わる鶴見区下末吉の寶泉寺です。
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これらは全部、歴史を辿ると繋がりが有ります。
そして権現堂は福禅寺名代の格式を得ていた事が当時の手紙に記されており、鎌倉時代には福禅寺は皇族の長円親王が住職を務めていた門跡寺院に成っていた歴史から格の高さが解かります。
それ故に旧久良岐郡の全ての神社の内、泉蔵院の統治した神社以外全ての管理を行っていました。その存在意義が関係する神社仏閣の歴史や関わった歴史偉人からも良く理解出来ます。

2つ目、大靈山 泉蔵院 桐谷寺(現:磯子区中原の熊野神社)
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ここは明治政府の宗教改革の失敗の代表例である廃仏毀釈で修験道道場寺院機能を廃止されて規模が縮小されてしまって今では住宅街の中の小さな熊野神社ですが、元々は鎌倉市山崎に存在し源頼朝公が福禅寺権現堂同様に重視した修験道の道場の山崎泉蔵坊の聖地として開かれた熊野神社でした。
鎌倉時代末期の新田義貞による神社仏閣の焼き討ちや、室町時代にも上杉禅秀の乱や永享の乱で鎌倉では戦火が治まらず寺院の維持が困難に成り、今の磯子区中原の熊野神社に山崎泉蔵坊の機能を移転して本拠地として大道場化し寺号も大靈山泉蔵院桐谷寺と改め明治時代まで繁栄しました。
久良岐郡域と鎌倉郡域で権現堂が支配した神社以外、修験道系神社は全て、この泉蔵院が統治していた事を新編武蔵風土記稿の中で間宮家の子孫で東京大学前身の昌平坂学問所頭取を務めた間宮士信公が書き残しています。
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この熊野神社や富岡八幡宮に強い影響力を持っていたのが関家でした。
この関家の一族は旧北条家臣団として間宮家同様に武蔵国域~相模国域まで広く分布していましたが、現代では宮司家としての関家は家系が途絶えてしまいました。
しかし例えば都筑区には関一族の末裔の旧家が文化財として残っていたりします。
sekikezenkei1 横浜市教育委員会より拝借
※画像は横浜市より拝借。
北条家臣団の城持ち級の武士の1560年前後の所得を記した北条家の所領役帳を江戸時代に写した小田原北条所領役帳と言う文献にも、関家も間宮家も一族の武将が領地名と一緒に登場します。
間宮家は別の解説記事で以前、所得を書いているので今回は関さんの領地がどんな感じに分布していたか現在の地名と照らし合わせて見てみましょう。

関新次郎
泉水寺領(地所不明)※小田原市、足柄下郡、南足柄市、足柄上郡の何処か
四宮長沼共ニ(平塚市四宮周辺)
富岡之内(横浜市金沢区富岡) 本郷買得ニ替而被下

関兵部丞
羽鳥辻堂(藤沢市羽鳥~辻堂の一部)
鶴間(相模原市~大和市の林間と鶴間の地名の付く地域周辺)
飯嶋(平塚市飯島)
北大繩(平塚市岡崎辺り)
一宮(地所不明)※多摩市一宮or寒川町
宿立(川越市山田)
岡郷(横浜市磯子区滝頭~岡村町一帯)

関弥次郎
新土今里(平塚市真土)
台之村(鎌倉市台)

関さんの土地は、まぁ~こんな風に埼玉県~東京都~神奈川県域に散らばって存在していた訳です。
安土桃山時代の記録は残っていませんが、北条家の所領も関東全域に広がって行ったので関東全域にも関さんの土地が有ったかも知れません。
そして、その土地に根差し分家に成って行った人達が多く江戸時代に庄屋サンとなり神社や御寺を守り、明治に成ると神社の宮司や地主として昭和の最初の頃まで土地土地の歴史を守って来た訳ですね。
そして関さんの一族は北条家滅亡後に御先祖様の出身地である伊勢神宮の在る伊勢国に移住した一族もいるので、北条家臣団の中でも元々、間宮家と同じく宗教的な知識を深く保有する家系だったのかも知れません。
領地がある場所も神奈川県域では延喜式内社の所在地や比較的有名な神社の在る場所ばかりですしね。
前鳥神社とか富岡八幡宮とか岡村天満宮とか。

まぁ~、関家が磯子区の泉蔵院や杉田周辺にどの段階で関与したかは不明ですが、近代には横浜市域の海苔の養殖等を振興し活躍された関寅吉さんの様な人物も排出したり、殿様じゃなくたってからも宗教文化でも地域振興でも活躍した家系だった様です。
間宮家も江戸時代に間宮林蔵や杉田玄白や間宮士信等の学者を輩出して、宗教では江ノ島の岩本間宮家が真言密教系修験道として明治まで寺院機能を保持して江島神社を管理していました。
そんな関家や間宮家と、泉蔵院と権現堂が横浜市南部の多くの神社を守って来たんですよ~と言う解説でした。

間宮家につてはタグ検索‟間宮”で色々と記事が有りますので御興味有る方は、下をクリックして関係記事を読んで見て下さい。
これクリックで間宮家の関係記事リンク→●間宮家

今回の記事は御寺や神社の‟歴史”に興味が無い人には本当に興味が湧かないかな?
でも実は横浜市南部の神社や御寺には源頼朝公以来の統治機構や、戦国時代からの家系がそのまま残っていた場所も多く有るんですよ~てのが皆さんには伝わったかな?

次は北条家臣で官僚だった横浜市北部の殿様の中田加賀守の関係先の御寺の紹介をしたいと思います。
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
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朝方、伊勢原市の伯父宅で浴衣に着替えた。
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平塚七夕祭りに行く為にお着替え。
そこから岡崎城址の本丸址に建つ無量寺に御参り。
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尊敬する三浦義意公と義意公の御父君で岡崎城主だった三浦道寸公の御霊に御本堂で御参りしてから平塚八幡宮に向け移動。
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事前に平塚市観光協会に問い合わせし、崇善小学校が臨時駐車場に成るのを確認しておいたので難無く駐車完了。
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平塚八幡宮で御参りを終えると・・・
怒濤の食倒れ開始!
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78kg体脂肪率12%骨格筋肉量40kgに絞った身体が4000円分の飲み食いで帰宅したら5kgリバウンドしてたで御座る(笑)。
因みに食べた物と風景はこんな感じ・・・
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これ以外に大量に液体摂取してました。

平塚七夕祭りは今夜一杯が最高潮の盛り上り、皆さんも暴飲暴食に要注意(笑)。

では!
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前回【休日雑記】2017年11月22日の訪問先その②震生湖~福寿弁才天社~八坂神社~出雲大社相模分祀編・・・秦野市北西部の震災の生んだ紅葉名所と神社編。←コレの続き。
22日訪問その③
出雲大社本社の分社であり関東における出雲大社の拠点である出雲大社相模分祠での参拝を終えると車に乗り込んで最初に向かったのが源実朝(みなもとのさねとも)公の首塚だ。
実は源実朝公が鶴岡八幡宮の階段の大銀杏横で暗殺され首を切断された際に、その御首は紛失して行方不明に成ったとする学者がいたりするが、ちゃんと鎌倉と一見関連の無さそうな地域でも歴史を紐解くと実朝公の首塚が記載されていたりするもんなんだな。
現在では、その首塚は秦野市の田原ふるさと公園と成った広場の片隅に御廟所と石塔が有り地域の人に鎌倉時代からずっと守られている。
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普段なら初見の人は解りづらい農道と住宅街の道なのだが・・・
小生の訪問した11月22日は初見でも訪問し易い状況だった。
市指定史跡源実朝公首塚(田原ふるさと公園)CIMG5612
翌日の23日が鎌倉幕府第三代征夷大将軍の源実朝公の命日なので地域の人が総出で八百回忌の供養と毎年行われる実朝公顕彰の御祭りである“実朝まつり”の準備をしている最中で天幕やら実朝まつりと書かれた看板が用意されていたのだ。
この日は土曜日、小生は翌日の日曜日は仕事だったので1日早い実朝公の追善供養の参拝と成った。
実は偶然の命日直前の訪問。こう言った尊敬する先人の命日には何故か御縁が有る小生・・・
オカルト的なものじゃなくて、普段の尊敬から来る行動と興味でエンカウントする確率が自然に高くなるんだろうと思う。
小生は毎日、祖先神と母方の祖先が崇拝していた神様、そして両系統の御先祖様、自分が崇拝する土地神様、それぞれの時代の神様と仏様、妙法蓮華経、般若心経、無量寿経の題目、それに加え尊敬する歴史偉人、幼少期に御世話に成った義祖母と、学生時代の恩師の名を念じ、或いは心の中で唱え毎日の御挨拶と前日1日無事に過せて新たに1日を迎えられた御礼をする。
・・・その歴史偉人の中に横浜に深く関わった河内源氏の殿様達も含まれていて、特に源頼義公・源義家公・源義朝公・源頼朝公・源頼家公・源実朝公にも名を唱え感謝を伝える様にしている。
無論、時間が無い時は「源頼義公、義家公、頼朝公始め河内源氏の殿様方」と簡略化させて頂く場合も多いが。
だいたいスポーツジムでウォームアップに30分走る間に丁度、全部言い終わる位だ。勿論、ジムでブツブツと独り言を言っていたら危ない人なので(笑)そんな事はしない。周囲に人がいるなら心の中で唱える。
そんな訳で、源実朝公の命日の前日に御参りで来たのが偶然でも良かった、普段から守って頂いていると勝手に思っている感謝を伝えられたから。
因(ちな)みに「念」と言う言葉について一つ解説をしておきたい・・・
余談だが頭の中で言葉を読む事を“念じる”事だと勘違いして“念”の動詞を使う日本人が多いが、これは誤用で漢字の意味を間違っている。念(ねん)は中国語の念(Nian=ニエン)を古代日本人が朝鮮訛りで読んだ結果、先ず発音が念(ニエン)○ではなく念(ねん)×で伝わってしまった。そして次に意味も間違って用いられる事が現代では多い。
中国語で学習を促す時に「念書(Nian Shu)」と現代でも言う事が有るが、これは丸暗記する為に音読して精読する事を指す。
本来の“念”と言うのは声に出して唱える事を意味する動詞なのだ。
だから「念じろ!」と言われたら言葉に出して唱えないといけないのだ。決して「頭の中で念じる」と言う事は成立しない。あくまで“声に出して言う”事を“念”と言う。
もし教養が無く嘘ばかり言ってる偽霊能者が「頭の中で念じる」とか言ったら「コイツ馬鹿な詐欺師だな」と思って置けば良い。
そんな“念”の一文字が動詞として浸透したのが、丁度、鎌倉時代、源実朝公が生きた頃の話で浄土宗の開祖の法然上人と直弟子の親鸞上人、そして日蓮上人と踊念仏の一遍上人達が布教した念を精神修養に取り入れた“法華宗”にカテゴライズされた仏教の影響だな。
現代では完全版が伝わらない法華経の教えを元にした宗派で、源頼朝公や源実朝公そして北条義時公も大切にしていた経典だったりする。源頼朝公や河内源氏の歴代殿様は、法華宗の他に真言宗と修験道と神道も非常に大切に信仰していたりする。
源実朝公は法華経を“転読”しているので、つまり“題目を念じた”らしい事も現代に伝わっていたりする。
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上の写真は鎌倉市浄明寺地区衣張山の釈迦堂切通し。
北条義時公の子で鎌倉幕府第三代執権と成った北条泰時公が、北条義時公の没後に供養の為に付近に釈迦堂を建立した事に名前が由来する。
話を源実朝公に戻す。
甥っ子で出家していた公暁(くぎょう)に暗殺された際に首は持ち去られたとされている。ここまでしか調べない或いはメジャーな文献しか読まない連中は「首は行方不明」で終わっている。
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上の写真は鎌倉市の寿福寺の参道、今の季節は多くは無いが紅葉も美しい。
現在の源実朝公の菩提寺は鎌倉の亀谷山金剛寿福禅寺とされているが実は全く関係無い。まぁ、鎌倉市の扇谷地区に存在する“臨済宗南禅寺別格 鎌倉五山の第三位”の格式を歴代将軍から与えられていた御寺で由緒正しい事と母親の北条政子様の菩提寺なので合祀されているのだろう。寿福寺の所在地は元は源氏の邸宅跡でもある。
しかし本来の御廟所は鎌倉市浄明寺地区大御堂谷(おおみどうがやつ)に存在した廃寺:阿弥陀山勝長壽院(しょうちょうじゅいん)に亡骸が葬られたと記録されている。しかし御首は見つから無いまま亡骸が葬られたので勝長壽院には“胴塚”が存在したのだろう・・・
まぁ、源実朝公暗殺には伯父の北条義時公が不可解に鶴岡八幡宮参拝の式を途中で早退したとか中門で待機していたとか各文献の記載が矛盾していたり、肝心の実朝公の“首が見つかっていない”とされていた事からミステリー満載で実は首謀者とされる義時公が暗殺を察知し実朝公を逃がした生存ルートも小生は推測していたり・・・
北条義時公と三浦義村公が結託して源氏の血を根絶やしにした従来の有力説も有り得るとも思っている。
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写真は横須賀市衣笠城址の衣笠山大善寺。
大善寺は三浦一族郎党の学問所として機能した元は真言宗で現代は曹洞宗の寺院。
小生が実朝公の生存シナリオも有り得ると思うのは、実は暗殺の前に源実朝公は朝廷から高い官位をバンバン与えられているが・・・
実はこれは日本の歴史を見ると解るのだが、天皇子孫の平氏源氏等の元皇族や古代豪族有力者を藤原家が暗殺する際の悪い兆候なのだ。官位を上げておいて朝廷に参内させたり、官位受領する相手へ使者を送っておき使者によって相手の側近を内応させる。そして毒殺させたり謀反を起こさせたり陰謀に嵌(は)めるのが汚い藤原家の常套手段な訳だ。小生と多くの歴史家が指摘するが藤原家は蘇我嶋大臣馬子=蘇我馬子を暗殺し蘇我の財産と地位を乗っ取った“百済王族”と言うのが現代では説の1つに成っているが、彼等藤原家は古代から天皇家と血縁の有る豪族を陰謀で暗殺したり、天皇家から臣籍降下して源氏や平氏として豪族に成った関東の武士を平安時代から度々陰謀に陥れている一族だったいたりする。
源頼朝公
実朝公の父上の源頼朝公も落命前日と当日の症状はヒ素中毒が推測出来て、暗殺の容疑者は北条時政の婿の稲毛重成だろう。首謀者は北条時政。そして北条時政は色ボケと勘違い権力欲から源実朝公も暗殺しようとした悪人で子の北条義時公や孫の北条泰時公からも嫌われてロクに供養もされていない。
この老害の北条時政は京都に滞在していた期間が有り、藤原貴族に欲を突かれて煽動される動機が有るし性格的にも自己中心的で利己的な面が強いのでやりかねない。
暗殺事件発生の数年前、源実朝公が急速に官位が上がると側近の大江広元公と北条義時公は“不吉=暗殺”を憂慮していたので諫めている。この憂慮が後に実際の事件に成ってしまう・・・
建保七年(1219年)に鶴岡八幡宮に参拝した際に暗殺される。この参内に先んじて源実朝公に対して側近の大江広元公は「腹巻(歩兵用の体にフィットした胴鎧)を衣服の下に来て下さい」と用心する様に進言していたりする。更に北条義時公も中門に待機しているが中には入れない。
・・・結果的に甥の公暁に暗殺された(事に成っている)。
つまり実は大江広元公も北条義時公もアンテナを張っていたので何か察知していたのだろう。源実朝公は血縁的に北条家と縁が深く、兄で先代将軍の源頼家公は北条時政に暗殺されたのだが頼家公の方は比企家との縁が深かった。つまり鎌倉御家人達の間では“兄弟のどちらを傀儡(かいらい=飾り)将軍にするか”で自分達の出世が関わり権力闘争に図らずも巻き込まれていたのだ。
①従来の説通り北条と三浦に煽動された公暁に殺された。
②藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が守ろうとしていたが失敗。
③藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が実朝公の影武者を用いて南宋に逃がした。
④暗殺を察知していた源実朝公は波多野家と共謀し影武者を立て自力で南宋に逃げた。もしくは別人と成って生き延びた。
上記のどれかだろう。
暗殺の数年前から実朝公は南宋に渡航つまり亡命しようと試みた節が有るのも暗殺の兆候が有ったからだろう。
一般的に源実朝公は文化傾倒し武人らしからぬ暗愚の“迷”君と認識されがちだが鎌倉の町を歩くとそうでは無い事が非常に良く解る。
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鎌倉市の二階堂川に有名な逸話を残す石碑が有る。
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澁河兼守(しぶかわかねもり)と言う武将が幕府重臣の合議で謀反人の嫌疑をかけられた。
この事件の発端は先代将軍の源頼家公に忠義を感じる御家人や、源実朝公ー北条義時公ラインによる権力占有を懸念した“反北条派閥”による謀反が発覚した際に、渋川兼守公は無実の罪を着せられた訳だ。しかし貴族カブレの振りをしながら藤原家による幕府御家人内部分裂誘発の陰謀を察知していたのか、源実朝公は御家人達の団結を促したり権力で冤罪を晴らしてやったりして度々、父の代からの御家人の命を救おうとしている。
この澁川兼守公も真実が伝わる様に和歌好きな実朝公の目に入る様に和歌を10首程詠んで暗号を入れたかして当時は鎌倉から東に向かう時に参道の前を通る荏柄天神社に和歌を描いた紙を掲げておいた。
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すると実朝公の耳目に触れ真実が伝わった様で、澁川兼守公は“実朝公の独断と権威による命令で命を助けられ”御礼に当時は通行不可能だった二階堂川に“歌の橋”を掛けて新たにショートカットの街道を開いて謝礼を表したりしている。
他にも畠山重忠公の御子息の畠山重慶公が謀反の容疑をかけられると、捕縛に向かう長沼宗政に「活かして捕縛する様」わざわざ指示を出したのに長沼は“将軍実朝公の命令を無視して畠山重慶公を殺害”してしまった。この際も実朝公は「何で殺したか!無実かも知れないだろう!」とかなり怒っているので、鼻から無実だと確証が有ったのだろう。
因みに長沼家は“藤原一族”であり反実朝公の人物だったんだな。
源実朝公は武士達の貴族の陰謀に乗っかった権力闘争に飽き飽きして南宋に亡命しようと画策した痕跡も有ったりする。
まぁ、そんな歴史が有って複雑なのだが、小生は実は実朝公暗殺は朝廷を私物化した藤原一族による御家人を巻き込んだ陰謀で、防げないと思っていた北条義時公により替え玉が準備されて“実は南宋に逃げた”ので“人物特定される首が行方不明”に成ったんじゃないか何て可能性も少しは有ると思っている。
仮に北条義時公が源実朝公暗殺の首謀者ならば、首を紛失させる意味が解らない。寧ろ、助ける側なら身代わりの人間の首を隠すのは意味が解る。
そして・・・
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そうだとしたら、替え玉と成って殺されたのは11月22日に訪問した、この実朝公首塚に眠っている人物のはず。
・・・実は首塚の有る“田原ふるさと公園”は鎌倉御家人で北条義時公に味方した波多野家の邸宅跡なのだ。
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ここの事を知らないメジャー文献しか読まない歴史学者も多いだろう。
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そして波多野家の詰め城も近い。
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仮に首塚に御首(みしるし)を葬られた人物が実朝公の替え玉なら、主君を藤原家の陰謀から救う為に北条義時公と隠密裏に実朝公を逃がす為に一族から犠牲を出した証拠に成り忠臣と成るだろう。
そして本当に源実朝公が暗殺された張本人ならば、御首を取り返し北条家に粗末に扱われない様に隠密裏に自家の邸内に埋葬した忠臣と成るだろう。
どちらの仮説を用いたとしても、実は当時の波多野家には源氏に対してそれだけ忠義を尽くす動機が十分に有る事を歴史オタクでもないと知らない。
波多野家は波多野義通公の姫が源頼朝公の御父上の源義朝公の側室と成って、頼朝公の兄の源朝長公を生んでいる。残念ながら源朝長公は保元の乱に参戦した際に傷を負い、それが元で発病し自害しています。そんな訳で源氏と縁が深い上に実朝公暗殺事件発生当時の当主の波多野義重公は妻が北条義時公の姪っ子だった。つまり北条義時公とも血縁が有った北条派=実朝派の先鋭だった訳だ。
・・・だから十分に一族から実朝公の替え玉を出すなり、首供養する成りの動機が有る。
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今では御廟所は綺麗にされて石碑も有る。
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立派な御神木も目印に成っている。実朝公は白幡神社の御祭神の内の一柱の神様なのでここは霊廟であり日本古来の価値観では白幡神社の代りの場所でも有る訳だ。
そんな首塚の近くには金剛寺と言う御寺が在る。
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正式名称は大聖山金剛寺・・・波多野家が建てた御寺であり、源氏所縁の笹竜胆を寺紋にする御寺だ。
大聖山金剛寺本来、笹竜胆紋は勝手に使って良い物ではない。だからコレも小生が「実朝公生き延びた説」と言う可能性の一つを示す証拠だと思う。つまり、実朝公御自身が自らの身代わりに成った波多野家の武者の供養の為に御寺の建立を事件直後に指示して源氏の笹竜胆紋の使用を許した可能性が有るなんて事も有るんじゃないかと少し思っていたりする。
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まぁ、今と成っては解らないから歴史は面白い。
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金剛寺は臨済宗の御寺なのだが、山門をくぐると右手に・・・

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御地蔵様がいらっしゃる。この様に御地蔵様が沢山入口にいらっしゃる場所は、元々は真言宗寺院か天台宗寺院だった場所が多い。河内源氏の殿様は真言宗と御縁が深く、古くから源氏の御家人だった武士の家は鎌倉時代初期までは真言宗を宗旨にしている武将達も多かったので秦野市東田原に在るこの金剛寺もスタートは真言宗だったのかも知れない。
なんと鎌倉の臨済宗の高僧の退耕行勇和尚様が中興開山と成って大きな寺院に成っているそうだ。
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鎌倉市大船に在る北条泰時公の菩提寺の粟船山常楽寺とも御縁の深い高僧だな。
つまり、この一、御家人の波多野家が開いた秦野の金剛寺には常楽寺と同等にする“それだけの格と意味が有る”と言う事だ。
実朝公を救ったか・・・実朝公を葬ったか・・・どっちにしても忠義に溢れた波多野家らしい御寺だな。

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現代の境内は整備されておりとても綺麗だった。
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可愛らしい小僧様。

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本堂も立派。

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本堂に向かって左手に寺務所。ここで御朱印を頂ける。
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生憎、当日は実朝公没800年の追善供養の前日で準備に慌ただしく、予め用意された紙の御朱印しか頂けなかった。
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又、桜の季節に弘法山を訪れて今度は御朱印帳に頂きたいと思う。
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金剛寺の御庭にもユーモラスな石仏?が有る・・・何だか千と千尋の神隠しに出て来る“坊”みたいだ(笑)。

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御庭はとても綺麗だった。
本堂の右手に庫裡(くり=厨=厨房=現代では居住部分の意)が在るのだが、その庫裡の裏にとても重要な神社の御社が在った。

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余り目立たないし、鐘も突けない様に成っているが実は臨済宗にとってとても大切な神社なのだ。
もしかしたら現在の御住職の御家族は知らないのかも知れない。
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半蔵坊権現と言い、臨済宗鎌倉五山第一位の格を有する鎌倉の建長寺こと巨福山建長興国禅寺の守護神が奥院の半蔵坊権現なのだ。
下の写真は鎌倉建長寺の奥院、半蔵坊権現の参道の写真。
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山岳信仰の神様で、天狗信仰とも結びついている。だからもっと檀家さんにも御参りして貰いたいと個人的に感じた。
日本神話も大切にして来た臨済宗の寺院らしく、境内には稲荷社も在った。
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ちゃんと御参りして毎回行く先々で旅の安全を御守護下さる御礼を、この日も宇迦之御魂神に御伝えした。
その稲荷社の在る場所はどうやら“田原学校跡”と言う場所でもあるらしい。
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調べても判らなかったが、恐らく江戸時代末期か明治時代位に設立された学校の跡なんだろう。
寺子屋が昔は児童学問所の役割を果たしていたので、明治時代に小学校が設立される様に成ると多くの神社や寺院の境内が小学校建設に提供された歴史も有る。
まぁ、詳しい事は今もって何も解らない、今度、秦野市の教育委員会にでも聞いてみようと思う。
この金剛寺は当初の訪問予定には無かった場所だが車の中で地図を見ていて気が付き実朝公の首塚近くの御寺なので「もしや」と思い予定を変えて参拝したが、忠臣波多野家と実朝公の御縁を辿れてとても有意義な時間を過ごせた。
そう言えば波多野家の後日談だが・・・
波多野家は鎌倉幕府の中央ではなく、後に京都に赴任して六波羅探題(ろくはらたんだい=西日本監視の組織)に評定衆(ひょうじょうしゅう=役員)として活躍する事に成る。
室町幕府でも評定衆に成り、後に丹波国で大名化する。この大名化した波多野家と戦ったのが織田家臣だった明智光秀公な訳だ。明智光秀公は母親を波多野家に人質に出して、波多野家と停戦して織田家臣に成る様に独断で講和するが信長公は波多野家を許さずに決裂したことで明智光秀の母親も殺されてしまう。これが一説には本能寺の変の遠因に成っているとする場合も有るが、まぁ可能性の一つでもあるだろう。小生としては波多野家は足利家に忠節を示して足利義昭の煽動で反織田の姿勢を貫いたのだと言う可能性も有ると思うが、まぁ詳しい事は解らない(笑)。

こんな風に色々と歴史に思いを巡らす事が出来たり、実朝公に御挨拶出来て満足し、次の目的地の弘法山から見る紅葉と富士山の撮影、そして鶴巻温泉に日帰り入浴しに行く為に再び車に乗り込んだ・・・
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→次回その④へ続く。
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日本で初めてラーメンを食べたのは誰なのか 水戸黄門だったという従来説が覆った?

経帯麺 東洋経済オンライン画像 

この記事読んで正直ラー博にも東洋経済オンラインにも失望した。

記事中、拉麺の起源を室町時代まで遡(さかのぼ)れるとし、その起源を「経帯麺」と解説している。
解説は中村正博さん、恐らく中国に行ってちゃんと食べ歩いた事も無ければ、麺料理のカテゴライズがちゃんと出来ていない程度の知識しかない「ラーメンオタク」であって「拉麺」を食べた事が無いひとなんだろう。

日本人が拉麺(ラーメン)と思っている食べ物は中国語で「湯麺」と呼ばれるスープに入った中華麺の事で文字の誤植だ。
一方、湯麺は何故か個別の中華ソバの料理名として成立してしまった。これは日本の中華屋に如何に本場で学んだ人間が昭和期に少なかったか解る事実だな。

そもそも拉麺と言うのは文字通り拉(la)麺(mian)で、拉の字の意味は「引っ張る」と言う意味だ。
そして拉麺と言うのは古今ずっと中国や新疆ウィグル自治区や台湾では、注文してから作る「小麦の手延べ麺」の事だ。
更に言おう、拉麺の起源は中華料理ですら無い。新疆ウィグル族やトルコ人の祖先達の突厥達騎馬民族の料理文化だ。保存に手間取らず携行出来る小麦粉を生地にして、必要な人数分だけその場で手延べして作る麺料理が拉麺だ。
中国に行けば現代でも拉麺を提供する店は多く有り、拉麺は一貫して手延べ麺の事を指す。そして、その店の多くは新疆ウィグル族の店や、その文化を受け継いでいる事が解る「蘭州拉麺」と看板を出す店が多い。蘭州とは三国時代で言う所の西涼辺り涼州や、唐の時代に栄えた石窟大寺院で有名な敦煌(トルファン)辺りだな。つまりウィグル人由来の料理であり、小麦を使ったナン等も彼等の得意とする料理だったりする。
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例えば台湾に行くと牛肉麺と言う料理を出す店が多い。見た目は完全に日本の拉麺のソレだが、これは拉麺では無い。煮て味付けした牛肉や牛筋の入った麺、そのままの内容を形容した料理だ。
コレが拉麺の麺を使用していれば名前が「牛肉拉麺」に成る訳だが、どうも、そういった基本的な知識が新横浜ラーメン博物館の広報の中村正博さんには足らない様だ。
別に知識が無い、中国や台湾やウィグル自治区で様々な拉麺を食べ歩きした事無いのは恥では無い!職務特権を使い出張出来るなら出張して今からド素人の小生達、中国経験者を超える知識と美味い店を沢山発見して日本で紹介すれば良い。
ラーメンは拉麺で手延べ麺、そして麺の調理法で刀削麺や餃子の様に名前が変わり、今では新疆ウィグル族の住むタクマラカン砂漠~内モンゴル~モンゴル国~中国東北地方(旧:満州)の騎馬民族文化圏のみならず中国大陸北部でも主食として親しまれる様に成った訳だ。
餃子も麺料理と列挙したが、日本人は誤解しているがアレはイタリア料理のペンネの様に麺料理で主食なんだな。だから焼き餃子を食べながら白米を食べる日本人の姿は中国人や台湾人には滑稽に映るし、本来の餃子は水餃子で余った分を翌日に油で煎って食べるので煎餃(jianジェン jiaoジャオ)と言う訳だ。
もっとも点心の発達した広東料理では点心のメニューとして煎餃もラインナップされている事は少なくない。
同じく点心の発達している福建省では、蒸餃(蒸し餃子)が主流だったりする。
拉麺や餃子や刀削麺等は面の打ち方の種別を指す、そして全て主食な訳だ。

だから重ねて言うがラー博の広報の中村正博さんの認識は事実誤認であり経帯麺は拉麺とは別料理!
きっと中村さんの知識では中国料理の湯麺が全てラーメンに脳内変換される程度の知識しかまだ拉麺にかんしては無いのだろう。無論、日本のラーメンに関しては素晴らしい博識でらっしゃるのだろう。

余談だが、弘法大師空海和尚様が持ち帰った品種の小麦の遺伝子はウィグル自治区の物と一致するそうだ。中国の唐朝廷時代に既に首都の長安(現:西安市)で、ウィグル人の麺料理人達が拉麺や饂飩の原型の様々な料理を作って漢族の胃を満たし、商売繁盛大活躍していた事が窺い知れる史実だな。
空海和尚様は僧侶だったので肉を食べる訳にも行かず、ウィグル族の作る麺料理に舌鼓を打って精進料理の代わりに楽しんでおられたのだろう。

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