歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

カテゴリ:寺社/仏閣/城址/有形文化財/伝承と伝統文化 > 無形文化財/文化/伝承

前回【休日雑記】2017年11月22日の訪問先その②震生湖~福寿弁才天社~八坂神社~出雲大社相模分祀編・・・秦野市北西部の震災の生んだ紅葉名所と神社編。←コレの続き。
22日訪問その③
出雲大社本社の分社であり関東における出雲大社の拠点である出雲大社相模分祠での参拝を終えると車に乗り込んで最初に向かったのが源実朝(みなもとのさねとも)公の首塚だ。
実は源実朝公が鶴岡八幡宮の階段の大銀杏横で暗殺され首を切断された際に、その御首は紛失して行方不明に成ったとする学者がいたりするが、ちゃんと鎌倉と一見関連の無さそうな地域でも歴史を紐解くと実朝公の首塚が記載されていたりするもんなんだな。
現在では、その首塚は秦野市の田原ふるさと公園と成った広場の片隅に御廟所と石塔が有り地域の人に鎌倉時代からずっと守られている。
CIMG5611
普段なら初見の人は解りづらい農道と住宅街の道なのだが・・・
小生の訪問した11月22日は初見でも訪問し易い状況だった。
市指定史跡源実朝公首塚(田原ふるさと公園)CIMG5612
翌日の23日が鎌倉幕府第三代征夷大将軍の源実朝公の命日なので地域の人が総出で八百回忌の供養と毎年行われる実朝公顕彰の御祭りである“実朝まつり”の準備をしている最中で天幕やら実朝まつりと書かれた看板が用意されていたのだ。
この日は土曜日、小生は翌日の日曜日は仕事だったので1日早い実朝公の追善供養の参拝と成った。
実は偶然の命日直前の訪問。こう言った尊敬する先人の命日には何故か御縁が有る小生・・・
オカルト的なものじゃなくて、普段の尊敬から来る行動と興味でエンカウントする確率が自然に高くなるんだろうと思う。
小生は毎日、祖先神と母方の祖先が崇拝していた神様、そして両系統の御先祖様、自分が崇拝する土地神様、それぞれの時代の神様と仏様、妙法蓮華経、般若心経、無量寿経の題目、それに加え尊敬する歴史偉人、幼少期に御世話に成った義祖母と、学生時代の恩師の名を念じ、或いは心の中で唱え毎日の御挨拶と前日1日無事に過せて新たに1日を迎えられた御礼をする。
・・・その歴史偉人の中に横浜に深く関わった河内源氏の殿様達も含まれていて、特に源頼義公・源義家公・源義朝公・源頼朝公・源頼家公・源実朝公にも名を唱え感謝を伝える様にしている。
無論、時間が無い時は「源頼義公、義家公、頼朝公始め河内源氏の殿様方」と簡略化させて頂く場合も多いが。
だいたいスポーツジムでウォームアップに30分走る間に丁度、全部言い終わる位だ。勿論、ジムでブツブツと独り言を言っていたら危ない人なので(笑)そんな事はしない。周囲に人がいるなら心の中で唱える。
そんな訳で、源実朝公の命日の前日に御参りで来たのが偶然でも良かった、普段から守って頂いていると勝手に思っている感謝を伝えられたから。
因(ちな)みに「念」と言う言葉について一つ解説をしておきたい・・・
余談だが頭の中で言葉を読む事を“念じる”事だと勘違いして“念”の動詞を使う日本人が多いが、これは誤用で漢字の意味を間違っている。念(ねん)は中国語の念(Nian=ニエン)を古代日本人が朝鮮訛りで読んだ結果、先ず発音が念(ニエン)○ではなく念(ねん)×で伝わってしまった。そして次に意味も間違って用いられる事が現代では多い。
中国語で学習を促す時に「念書(Nian Shu)」と現代でも言う事が有るが、これは丸暗記する為に音読して精読する事を指す。
本来の“念”と言うのは声に出して唱える事を意味する動詞なのだ。
だから「念じろ!」と言われたら言葉に出して唱えないといけないのだ。決して「頭の中で念じる」と言う事は成立しない。あくまで“声に出して言う”事を“念”と言う。
もし教養が無く嘘ばかり言ってる偽霊能者が「頭の中で念じる」とか言ったら「コイツ馬鹿な詐欺師だな」と思って置けば良い。
そんな“念”の一文字が動詞として浸透したのが、丁度、鎌倉時代、源実朝公が生きた頃の話で浄土宗の開祖の法然上人と直弟子の親鸞上人、そして日蓮上人と踊念仏の一遍上人達が布教した念を精神修養に取り入れた“法華宗”にカテゴライズされた仏教の影響だな。
現代では完全版が伝わらない法華経の教えを元にした宗派で、源頼朝公や源実朝公そして北条義時公も大切にしていた経典だったりする。源頼朝公や河内源氏の歴代殿様は、法華宗の他に真言宗と修験道と神道も非常に大切に信仰していたりする。
源実朝公は法華経を“転読”しているので、つまり“題目を念じた”らしい事も現代に伝わっていたりする。
CIMG5830
上の写真は鎌倉市浄明寺地区衣張山の釈迦堂切通し。
北条義時公の子で鎌倉幕府第三代執権と成った北条泰時公が、北条義時公の没後に供養の為に付近に釈迦堂を建立した事に名前が由来する。
話を源実朝公に戻す。
甥っ子で出家していた公暁(くぎょう)に暗殺された際に首は持ち去られたとされている。ここまでしか調べない或いはメジャーな文献しか読まない連中は「首は行方不明」で終わっている。
2015-12-08-16-16-26
上の写真は鎌倉市の寿福寺の参道、今の季節は多くは無いが紅葉も美しい。
現在の源実朝公の菩提寺は鎌倉の亀谷山金剛寿福禅寺とされているが実は全く関係無い。まぁ、鎌倉市の扇谷地区に存在する“臨済宗南禅寺別格 鎌倉五山の第三位”の格式を歴代将軍から与えられていた御寺で由緒正しい事と母親の北条政子様の菩提寺なので合祀されているのだろう。寿福寺の所在地は元は源氏の邸宅跡でもある。
しかし本来の御廟所は鎌倉市浄明寺地区大御堂谷(おおみどうがやつ)に存在した廃寺:阿弥陀山勝長壽院(しょうちょうじゅいん)に亡骸が葬られたと記録されている。しかし御首は見つから無いまま亡骸が葬られたので勝長壽院には“胴塚”が存在したのだろう・・・
まぁ、源実朝公暗殺には伯父の北条義時公が不可解に鶴岡八幡宮参拝の式を途中で早退したとか中門で待機していたとか各文献の記載が矛盾していたり、肝心の実朝公の“首が見つかっていない”とされていた事からミステリー満載で実は首謀者とされる義時公が暗殺を察知し実朝公を逃がした生存ルートも小生は推測していたり・・・
北条義時公と三浦義村公が結託して源氏の血を根絶やしにした従来の有力説も有り得るとも思っている。
CIMG2984
写真は横須賀市衣笠城址の衣笠山大善寺。
大善寺は三浦一族郎党の学問所として機能した元は真言宗で現代は曹洞宗の寺院。
小生が実朝公の生存シナリオも有り得ると思うのは、実は暗殺の前に源実朝公は朝廷から高い官位をバンバン与えられているが・・・
実はこれは日本の歴史を見ると解るのだが、天皇子孫の平氏源氏等の元皇族や古代豪族有力者を藤原家が暗殺する際の悪い兆候なのだ。官位を上げておいて朝廷に参内させたり、官位受領する相手へ使者を送っておき使者によって相手の側近を内応させる。そして毒殺させたり謀反を起こさせたり陰謀に嵌(は)めるのが汚い藤原家の常套手段な訳だ。小生と多くの歴史家が指摘するが藤原家は蘇我嶋大臣馬子=蘇我馬子を暗殺し蘇我の財産と地位を乗っ取った“百済王族”と言うのが現代では説の1つに成っているが、彼等藤原家は古代から天皇家と血縁の有る豪族を陰謀で暗殺したり、天皇家から臣籍降下して源氏や平氏として豪族に成った関東の武士を平安時代から度々陰謀に陥れている一族だったいたりする。
源頼朝公
実朝公の父上の源頼朝公も落命前日と当日の症状はヒ素中毒が推測出来て、暗殺の容疑者は北条時政の婿の稲毛重成だろう。首謀者は北条時政。そして北条時政は色ボケと勘違い権力欲から源実朝公も暗殺しようとした悪人で子の北条義時公や孫の北条泰時公からも嫌われてロクに供養もされていない。
この老害の北条時政は京都に滞在していた期間が有り、藤原貴族に欲を突かれて煽動される動機が有るし性格的にも自己中心的で利己的な面が強いのでやりかねない。
暗殺事件発生の数年前、源実朝公が急速に官位が上がると側近の大江広元公と北条義時公は“不吉=暗殺”を憂慮していたので諫めている。この憂慮が後に実際の事件に成ってしまう・・・
建保七年(1219年)に鶴岡八幡宮に参拝した際に暗殺される。この参内に先んじて源実朝公に対して側近の大江広元公は「腹巻(歩兵用の体にフィットした胴鎧)を衣服の下に来て下さい」と用心する様に進言していたりする。更に北条義時公も中門に待機しているが中には入れない。
・・・結果的に甥の公暁に暗殺された(事に成っている)。
つまり実は大江広元公も北条義時公もアンテナを張っていたので何か察知していたのだろう。源実朝公は血縁的に北条家と縁が深く、兄で先代将軍の源頼家公は北条時政に暗殺されたのだが頼家公の方は比企家との縁が深かった。つまり鎌倉御家人達の間では“兄弟のどちらを傀儡(かいらい=飾り)将軍にするか”で自分達の出世が関わり権力闘争に図らずも巻き込まれていたのだ。
①従来の説通り北条と三浦に煽動された公暁に殺された。
②藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が守ろうとしていたが失敗。
③藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が実朝公の影武者を用いて南宋に逃がした。
④暗殺を察知していた源実朝公は波多野家と共謀し影武者を立て自力で南宋に逃げた。もしくは別人と成って生き延びた。
上記のどれかだろう。
暗殺の数年前から実朝公は南宋に渡航つまり亡命しようと試みた節が有るのも暗殺の兆候が有ったからだろう。
一般的に源実朝公は文化傾倒し武人らしからぬ暗愚の“迷”君と認識されがちだが鎌倉の町を歩くとそうでは無い事が非常に良く解る。
CIMG5868
鎌倉市の二階堂川に有名な逸話を残す石碑が有る。
CIMG5867
澁河兼守(しぶかわかねもり)と言う武将が幕府重臣の合議で謀反人の嫌疑をかけられた。
この事件の発端は先代将軍の源頼家公に忠義を感じる御家人や、源実朝公ー北条義時公ラインによる権力占有を懸念した“反北条派閥”による謀反が発覚した際に、渋川兼守公は無実の罪を着せられた訳だ。しかし貴族カブレの振りをしながら藤原家による幕府御家人内部分裂誘発の陰謀を察知していたのか、源実朝公は御家人達の団結を促したり権力で冤罪を晴らしてやったりして度々、父の代からの御家人の命を救おうとしている。
この澁川兼守公も真実が伝わる様に和歌好きな実朝公の目に入る様に和歌を10首程詠んで暗号を入れたかして当時は鎌倉から東に向かう時に参道の前を通る荏柄天神社に和歌を描いた紙を掲げておいた。
image
すると実朝公の耳目に触れ真実が伝わった様で、澁川兼守公は“実朝公の独断と権威による命令で命を助けられ”御礼に当時は通行不可能だった二階堂川に“歌の橋”を掛けて新たにショートカットの街道を開いて謝礼を表したりしている。
他にも畠山重忠公の御子息の畠山重慶公が謀反の容疑をかけられると、捕縛に向かう長沼宗政に「活かして捕縛する様」わざわざ指示を出したのに長沼は“将軍実朝公の命令を無視して畠山重慶公を殺害”してしまった。この際も実朝公は「何で殺したか!無実かも知れないだろう!」とかなり怒っているので、鼻から無実だと確証が有ったのだろう。
因みに長沼家は“藤原一族”であり反実朝公の人物だったんだな。
源実朝公は武士達の貴族の陰謀に乗っかった権力闘争に飽き飽きして南宋に亡命しようと画策した痕跡も有ったりする。
まぁ、そんな歴史が有って複雑なのだが、小生は実は実朝公暗殺は朝廷を私物化した藤原一族による御家人を巻き込んだ陰謀で、防げないと思っていた北条義時公により替え玉が準備されて“実は南宋に逃げた”ので“人物特定される首が行方不明”に成ったんじゃないか何て可能性も少しは有ると思っている。
仮に北条義時公が源実朝公暗殺の首謀者ならば、首を紛失させる意味が解らない。寧ろ、助ける側なら身代わりの人間の首を隠すのは意味が解る。
そして・・・
CIMG5620
そうだとしたら、替え玉と成って殺されたのは11月22日に訪問した、この実朝公首塚に眠っている人物のはず。
・・・実は首塚の有る“田原ふるさと公園”は鎌倉御家人で北条義時公に味方した波多野家の邸宅跡なのだ。
CIMG5613
ここの事を知らないメジャー文献しか読まない歴史学者も多いだろう。
CIMG5614
そして波多野家の詰め城も近い。
CIMG5615
仮に首塚に御首(みしるし)を葬られた人物が実朝公の替え玉なら、主君を藤原家の陰謀から救う為に北条義時公と隠密裏に実朝公を逃がす為に一族から犠牲を出した証拠に成り忠臣と成るだろう。
そして本当に源実朝公が暗殺された張本人ならば、御首を取り返し北条家に粗末に扱われない様に隠密裏に自家の邸内に埋葬した忠臣と成るだろう。
どちらの仮説を用いたとしても、実は当時の波多野家には源氏に対してそれだけ忠義を尽くす動機が十分に有る事を歴史オタクでもないと知らない。
波多野家は波多野義通公の姫が源頼朝公の御父上の源義朝公の側室と成って、頼朝公の兄の源朝長公を生んでいる。残念ながら源朝長公は保元の乱に参戦した際に傷を負い、それが元で発病し自害しています。そんな訳で源氏と縁が深い上に実朝公暗殺事件発生当時の当主の波多野義重公は妻が北条義時公の姪っ子だった。つまり北条義時公とも血縁が有った北条派=実朝派の先鋭だった訳だ。
・・・だから十分に一族から実朝公の替え玉を出すなり、首供養する成りの動機が有る。
CIMG5617
今では御廟所は綺麗にされて石碑も有る。
CIMG5621
立派な御神木も目印に成っている。実朝公は白幡神社の御祭神の内の一柱の神様なのでここは霊廟であり日本古来の価値観では白幡神社の代りの場所でも有る訳だ。
そんな首塚の近くには金剛寺と言う御寺が在る。
CIMG5623
正式名称は大聖山金剛寺・・・波多野家が建てた御寺であり、源氏所縁の笹竜胆を寺紋にする御寺だ。
大聖山金剛寺本来、笹竜胆紋は勝手に使って良い物ではない。だからコレも小生が「実朝公生き延びた説」と言う可能性の一つを示す証拠だと思う。つまり、実朝公御自身が自らの身代わりに成った波多野家の武者の供養の為に御寺の建立を事件直後に指示して源氏の笹竜胆紋の使用を許した可能性が有るなんて事も有るんじゃないかと少し思っていたりする。
CIMG5624
まぁ、今と成っては解らないから歴史は面白い。
CIMG5626
金剛寺は臨済宗の御寺なのだが、山門をくぐると右手に・・・

CIMG5625
御地蔵様がいらっしゃる。この様に御地蔵様が沢山入口にいらっしゃる場所は、元々は真言宗寺院か天台宗寺院だった場所が多い。河内源氏の殿様は真言宗と御縁が深く、古くから源氏の御家人だった武士の家は鎌倉時代初期までは真言宗を宗旨にしている武将達も多かったので秦野市東田原に在るこの金剛寺もスタートは真言宗だったのかも知れない。
なんと鎌倉の臨済宗の高僧の退耕行勇和尚様が中興開山と成って大きな寺院に成っているそうだ。
2014-09-28-14-38-16
鎌倉市大船に在る北条泰時公の菩提寺の粟船山常楽寺とも御縁の深い高僧だな。
つまり、この一、御家人の波多野家が開いた秦野の金剛寺には常楽寺と同等にする“それだけの格と意味が有る”と言う事だ。
実朝公を救ったか・・・実朝公を葬ったか・・・どっちにしても忠義に溢れた波多野家らしい御寺だな。

CIMG5627
現代の境内は整備されておりとても綺麗だった。
CIMG5631
可愛らしい小僧様。

CIMG5634
本堂も立派。

CIMG5635
本堂に向かって左手に寺務所。ここで御朱印を頂ける。
CIMG5639
生憎、当日は実朝公没800年の追善供養の前日で準備に慌ただしく、予め用意された紙の御朱印しか頂けなかった。
DSC_0034
又、桜の季節に弘法山を訪れて今度は御朱印帳に頂きたいと思う。
CIMG5643
金剛寺の御庭にもユーモラスな石仏?が有る・・・何だか千と千尋の神隠しに出て来る“坊”みたいだ(笑)。

CIMG5644
御庭はとても綺麗だった。
本堂の右手に庫裡(くり=厨=厨房=現代では居住部分の意)が在るのだが、その庫裡の裏にとても重要な神社の御社が在った。

CIMG5642
余り目立たないし、鐘も突けない様に成っているが実は臨済宗にとってとても大切な神社なのだ。
もしかしたら現在の御住職の御家族は知らないのかも知れない。
CIMG5641
半蔵坊権現と言い、臨済宗鎌倉五山第一位の格を有する鎌倉の建長寺こと巨福山建長興国禅寺の守護神が奥院の半蔵坊権現なのだ。
下の写真は鎌倉建長寺の奥院、半蔵坊権現の参道の写真。
image
山岳信仰の神様で、天狗信仰とも結びついている。だからもっと檀家さんにも御参りして貰いたいと個人的に感じた。
日本神話も大切にして来た臨済宗の寺院らしく、境内には稲荷社も在った。
CIMG5646
ちゃんと御参りして毎回行く先々で旅の安全を御守護下さる御礼を、この日も宇迦之御魂神に御伝えした。
その稲荷社の在る場所はどうやら“田原学校跡”と言う場所でもあるらしい。
CIMG5645
調べても判らなかったが、恐らく江戸時代末期か明治時代位に設立された学校の跡なんだろう。
寺子屋が昔は児童学問所の役割を果たしていたので、明治時代に小学校が設立される様に成ると多くの神社や寺院の境内が小学校建設に提供された歴史も有る。
まぁ、詳しい事は今もって何も解らない、今度、秦野市の教育委員会にでも聞いてみようと思う。
この金剛寺は当初の訪問予定には無かった場所だが車の中で地図を見ていて気が付き実朝公の首塚近くの御寺なので「もしや」と思い予定を変えて参拝したが、忠臣波多野家と実朝公の御縁を辿れてとても有意義な時間を過ごせた。
そう言えば波多野家の後日談だが・・・
波多野家は鎌倉幕府の中央ではなく、後に京都に赴任して六波羅探題(ろくはらたんだい=西日本監視の組織)に評定衆(ひょうじょうしゅう=役員)として活躍する事に成る。
室町幕府でも評定衆に成り、後に丹波国で大名化する。この大名化した波多野家と戦ったのが織田家臣だった明智光秀公な訳だ。明智光秀公は母親を波多野家に人質に出して、波多野家と停戦して織田家臣に成る様に独断で講和するが信長公は波多野家を許さずに決裂したことで明智光秀の母親も殺されてしまう。これが一説には本能寺の変の遠因に成っているとする場合も有るが、まぁ可能性の一つでもあるだろう。小生としては波多野家は足利家に忠節を示して足利義昭の煽動で反織田の姿勢を貫いたのだと言う可能性も有ると思うが、まぁ詳しい事は解らない(笑)。

こんな風に色々と歴史に思いを巡らす事が出来たり、実朝公に御挨拶出来て満足し、次の目的地の弘法山から見る紅葉と富士山の撮影、そして鶴巻温泉に日帰り入浴しに行く為に再び車に乗り込んだ・・・
DSC_3715-PANO
→次回その④へ続く。

ブログネタ
年末年始の過ごし方は? に参加中!
2016年更新版は以下のリンクをクリックして御覧下さい!

神奈川県内の凄い神社仏閣まとめて紹介…初詣に向けて。【2016年更新途中版】リンク

去年紹介間に合わず書けなかった神社仏閣追記紹介してあります!

ブログネタ
今年後半に向けての抱負は? に参加中!
今月06月30日は半年間の厄落し「夏越しの大祓え」と言う神事が全国の神社で行なわれます。
このお祭り、皆さん御存知でしたか〜?
お祭りと言いましても厄落しのお祓い儀式で、歴史は古く古代神話の時代にまで遡ります。

写真は横浜市内でも古い伝統を今に良く伝える永谷天満宮の大祓えの儀式の様子です。
※永谷天満宮についての記事と公式ホームページは以下にリンク貼ります。
⚫︎永谷天満宮記事「ココ」←クリック!
⚫︎ホームページは「ココ」←クリック!

※皆さんの御近所の神社で「夏越えの大祓え」が行なわれるか知りたい方はお住まいの県の「神社庁」のホームページから検索して見て下さい。
⚫︎神奈川県の神社「ココ」クリック!

さて、大祓えに話を戻します。
この神事は日本神話によると元々は素戔嗚尊(スサノオノミコト)が庶民と交流した「蘇民将来」伝説が元に成っています。
儀式自体は祝詞を念じ茅の輪をくぐるのですが、コレには茅の葉で厄を切り裂いて半年間の厄を払うと言う意味が有るそうです。
そこら辺は、どの神社でも宮司様や禰宜(ねぎ=宮司様の部下)様が説明して下さると思います。

さて、実は素戔嗚尊の祀られている神社の中には明治時代まで牛頭天王(ごずてんのう)の御社(おやしろ)として祀られて来た場所も有ります。
実は牛頭天王は神仏集合の神様でして、八幡神様や弁財天様なんかと似通ったインド由来の神様でした。
ですからヒンドゥー教とも関係が有ります。
ヒンドゥー教は仏教とも関係が有りますので、江戸時代までは多くの仏教僧侶も牛頭天王を信仰していました。
しかし明治時代に成ると、廃仏棄釈と言う外来宗教の排斥をした時期が有りまして、その頃、この「大祓え」の儀式を守る為に多くの神社の宮司様や氏子さん達が知恵を絞り、素戔嗚尊の蘇民将来伝説と牛頭天王信仰の蘇民将来伝説を結び付け日本の神様の素戔嗚尊として習合する事で、この日本の文化を今に守り伝えて下さったんですね。

一部外国から来た七福神なんかの神道や仏教やヒンドゥー教神様の中には、歴史は紀元前2000年位から記録が発見されている神様もいらっしゃるそうです。
神奈川県の湘南地方には外国から来た七福神を祀る神社仏閣を巡る御朱印集め「鎌倉江の島七福神巡り」なんてのも有りますね!

まぁ、日本の神様達は寛容で、外国から来られた親日の神様達とは昔から国境を越えて仲良くされるだけの器が有ったって事ですね♪
言い換えれば日本人は善良な移住者とは昔から仲良くして来た、摩擦が有るのは日本を貶めようとする国出身の中の一部の悪人とも言えます(笑)。

因(ちな)みに、大祓えで使用する「茅の輪」の「茅(かや)」ですが、稲の藁(わら)とは異なり大変高価な物なんですよ。
昔は豪農でも家の屋根を茅で葺(ふ)き替えるのは一生に一度の大事業だったそうです。
以前訪問した横浜市栄区鍛冶ヵ谷の旧名主の小岩井家住宅を訪問した際に教えて頂きました。
…今で言うとマンションを買う様な感覚ですかね?
大体、現代だと母屋(おもや)一棟葺き替えるのに4千万円くらいかかるそうです。
※鍛冶ヵ谷の古民家の記事は「 」←クリック!

さて…
皆さんも、今月06月30日に厄落ししてみませんか?
仕事や学校が有る方は諦めて、後日茅の輪をくぐらせて貰える神社や御寺さんを御参りしては如何でしょうか?

そして古代からの文化伝承を守り伝えて下さる神社や御寺で少し日本人としての安らぎを感じれたら良いですね〜♫

では又!次の記事でお会いしましょう!

ブログネタ
好きな魚の食べ方を教えて! に参加中!
鎌倉小町通りの鶴ヶ丘八幡宮側入口の近くに小田原の有名な干物専門の土産店の「山安」の鎌倉店があります。
今日、小町通りの和紙専門店に用事があり、ついでに山安に立ち寄った所、期間限定の「あじさいセット」と言う干物10匹詰め合わせが何と「1000円」で売っていたので思わず買ってしまいました!
開けてみたらポスター以上にビックリの内容でした!
これで1000円て激安じゃないですか⁉︎
思わず、この後に地元の殿様の事を教えて頂きに行く予定だった御寺さんの御土産分も含めて自分の家と、姪に食べさてあげたく弟の家の分と3セット買ってしまいました!

あじさいセットは、鎌倉の紫陽花(あじさい)寺として有名な長谷寺や明月院の紫陽花が見頃な間一杯便乗して販売するそうです(笑)!
しかし…紫陽花の季節は来月初旬〜中旬、まだまだ気が早いよ山安さん(笑)。

買いたい人の為に店の位置と目標(めじるし)を教えますね!
衛星写真だと位置的にはこんな↓感じ。
鶴ヶ丘八幡宮の鳥居の前を左手に真っ直ぐ行くか、小町通りを北に突き抜けるとすぐ左手に在(あ)ります。

山安店先では試食用の干物を自由に焼いて食べれる屋台が有るので、それも目標に成りますよ!
焼いてるオバちゃんは、いつもいるとは限らないので自由に試食用の干物を焼いて良いんです。

因みに山安から鶴ヶ丘八幡宮の鳥居を見た風景はこんな感じ。
逆に店頭から小町通り側を見るとこんな感じ。
判ります(笑)?
鎌倉行く予定が有って買いたい人は、鶴ヶ丘八幡宮まで行けばすぐ判りますよ!

さて、関係ないんですが、小町通りで「冷やし甘酒」が売ってました。
え〜?夏日に甘酒は無いよ〜!
…とか思いますか?
歴史好きは誰でも知ってるんですが、甘酒は江戸時代には夏バテ予防の夏の飲み物だったんです!
つまり、暑い日に甘酒を飲むのが江戸時代からの神奈川や東京圏の文化なんですね!
美味しくいただきました♪

さて、この記事はここまで!
又、次は小田原城の説明記事の続きを更新しますね!
では又!

三崎まぐろ鉄火巻き寿司作り大会
写真は標題とは無関係(笑)。

4月19日に三崎銀座商店街で開催され ます!今年は世界(日 ) 記録(笑)?を越える 555mの鉄火巻き作りに 1200人の参加者を募集して挑戦するそうです。
受付11時〜13時。14時スタート。
祭りに参加するも良し、又は三崎漁港のレストランや寿司屋や居酒屋でマグロ料理を堪能してから、近くの「城ヶ島の絶景散策」や、武地区の「イチゴ狩り」、油壺マリンパークにイルカショーを見に行くも良し!カップルにも家族連れにも最適な観光に成る事間違い無しですよ〜!
※因(ちな)みに写真な三崎漁港の毎年1月15日の祭事で、ユネスコ世界無形文化遺産の「チャッキラコ」です。

鎌倉まつり
※写真中央の鶴岡八幡宮能舞台は、昔、有名な源義経の側室(本妻以外の妻)の静御前が鎌倉武士団の前で舞を踊った舞台。
4月19日迄開催中です。 
場所:鶴岡八幡宮ほか鎌倉市内で開催。
⚫︎源義経側室の静御前の舞を再現する「静の舞」。
⚫︎騎馬武者による弓矢の射撃を伝承する「古式流鏑馬(やぶさめ)」の射的実演。
⚫︎今年の「ミス鎌倉」のお披露目など。
歴史が好きな人や、鎌倉の落ち着いた雰囲気や伝統文化が好きな人には最適なレクリエーションです。舞や流鏑馬見学の後で小町通りで食べ歩きや、江ノ電に乗ってスラムダンクの舞台、鎌倉高校前駅横の踏み切りの情景を散歩する小旅行なんて如何でしょう?

横浜大道芸
※写真は横浜大道芸の発祥地の野毛地区にある明治時代の建築群を代表する神奈川県立歴史博物館。
明日4月18〜19日、毎年恒例に成っている横浜大道芸が開催しれます。
場所:イセザキモール1・2St.、みなとみらい21、石川商店街アイキャナルストリート、吉田町通りにて、開催されます。
ジャグリングやパントマイム、手品など様々なパフォーマーが集まり小さい子供連れ家族も楽しめもすよ〜!
中華街の中華レストランや港の観光ホテル街のレストランで外食がてら、家族恋人にはもってこいのレクリエーション!

今回の記事は目前に迫ったお祭り紹介だけですが、次回は小田原北条五代祭りに向けて小田原城の記事を書こうかな…?

では、又、次の記事で御会いしましょう♪

ブログネタ
美味しいもの に参加中!
蘇州市と言う町を御存知でしょうか?
若い世代は平原綾香の歌う「蘇州夜曲」を聴いた人もいると思いますが、その歌詞の舞台の風流(だった)町です。

蘇州市は約2500年前に造られた都市ですが、昔の名前の方が日本人には馴染みが有ります…

綺麗でしょ?東洋のベニスと欧州人は呼びます。
でも環境汚染が酷くて、夏に成るとメタンガスがボコボコ湧きます。
しかし平江区や滄浪区、上塘街や同里など、古い町並みが残る地区の風景は本当に綺麗です。
蘇州の古い道を歩けば普通にこんな風景に出くわします。

蘇州の昔の都市名は春秋時代の「呉王国」の首都「呉」ですね。
諺(ことわざ)の呉越同舟や臥薪嘗胆は、この町から産まれた言葉です。
昔は孫子の兵法の名軍師「孫武」が住んでいた町です。孫武が使えた主君の呉王夫差(ふさ)が臥薪嘗胆の故事の由来に成った人物です。
ですから夫差の父君の呉王闔閭(こうりょ)の古墳「虎丘」も現存しています。
司馬遼太郎先生も、「街道を行く」シリーズの取材で、この蘇州を旅しています。

三国時代には呉郡と呼ばれた地域です。
三国志で有名な呉王「孫権」と劉備の後妻「孫尚香」の母親の「呉夫人」の出身地である為(ため)、孫権が母親の呉夫人の菩提を弔う為に建立した北寺塔と呼ばれる廟所の望楼(ぼうろう=展望台)も有ります。
※フィルム写真しか手元になくて掲載出来ません!

そんな町なので、蘇州市の中心部には未(いま)だ当時の呉城域を守っていた水堀に囲まれています。
外堀の形が完全に判(わか)るでしょ?
水堀の幅、最短でも実に30mを軽く超え最大幅50m超有ります。
更にその外堀は二重構造に成っており、侵入経路は陸路の城門と別に水門も設けられていました。
旧城域南東部、相王路と言う道の南端と竹輝路と言う道の交差点にある桂花公園に、当時の船舶用の城水門が復原され拝観無料で公開されています。

この蘇州、明の時代まで「美女の産地」としても有名でした。
現代ではブスも…ゲフンゲフンっ=3
美女もいますよ、そりゃ( ̄д ̄;)。
でも蘇州を含めた江南地方は奥さんは家事をせずお姫様みたいに大切にされる地域性なので、家事は旦那様、育児は祖父母がします。
呉王の家系の姓が「姫」氏だったからカカァ天下なんだろうか(笑)?

この町には、漢詩の授業で習う唐の時代の大詩人「李白」が太守(たいしゅ=市長)として赴任していた事もあり、彼が蘇州市園区の金鶏湖に建設した堤(つつみ)は今も現存し「李公堤」と呼ばれる観光名所に成っています。
綺麗な所でしょう?
でも自国文化に興味の無かった中国人、ここや平江区を観光地化再顕彰し始めたのはつい最近です。

この李公堤には、300年以上の歴史の有る蘇州料理の名店「得月楼」の支店が有ります。
店は綺麗だけど…
料理も美味しいけれど…
観光地価格で本店よりクソ高い!
友人と3人で2万円超えた!
本店なら3人で1万円位で良いもの食べれます。
食事するなら余り李公堤はお勧め出来ません!
ちなみに、蘇州料理と杭州料理は合わせて江南料理と呼ばれますが、明帝国初代皇帝の朱元璋がこの地方の建業=南京と言う町を首都にした事から、江南料理が宮廷料理の原型に成ったんだそうです。

もし蘇州で料理食べるなら以下が蘇州名物料理です。
⚫︎松鼠桂魚=白身魚の唐揚げ甘酢餡掛け
⚫︎小籠包
⚫︎茭白肉絲=マコモ茸と豚肉細切り炒め
※マコモ茸が特産品
⚫︎陽澄湖大閘蟹(螃蟹)=陽澄湖産の上海蟹
※上海蟹は蘇州の陽澄湖産が最高級品

で、得月楼の本店が有るのが…
下の写真の観前街。
因(ちな)みに得月楼の他に、観前街には「松鶴楼」など、「老字号」と呼ばれる古い名店がいくつも有ります。
四川料理の「川福楼」も、なかなか美味しいです。

観前街、その町の名前からも何となく解ると思いますが…
中心には仏教と道教の融合した廟所が有ります。
そして、この観前街は位置的にも蘇州市の中心部に在(あ)ります。
この、観前街こそが、小生は位置的にも廟所があり聖地化されている事からも、古代呉王夫差の王宮の所在地だったはずと推測しています。

因みに、この観前街には沢山のチャイナドレスをオーダーメイドしてくれる店が有ります。
シルクが特産品ですからね。
でも!
旗袍(チーパオ)=チャイナドレスは中国文化の衣装ではありません!よ。

セクシーでしょ?チーパオ。
だって、これ、満州族=女真族の庶民の女性が王様を悩殺して妃(きさき)に選ばれる為に作り出した男を口説く為の衣装ですから(笑)。
だから…
ボディコン+深いスリット=悩殺
…のデザインに成ってるんですよ。

この満州族のチャイナドレス、元はこんなエロくはないダボダボの普段着だったらしいです。
それを、清朝の初代皇帝ヌルハチの妃に成った女性が、こんなエロい感じにしたんです。
彼女は庶民だったんですが、ヌルハチの来訪予定をどう知ったかは分かりませんが、このボディコン太もも丸見えドレスを着て、これ見よがしにヌルハチの通り道で労働をしたそうです。
…で、ヌルハチは釣られたと。
この話、聞いた話なので真偽は不明ですが、とりあえずチャイナドレスが華人文化由来で無い事は間違えありません。

でも綺麗ですよね(笑)?
写真はネットからの借用ですが、昔、日本でもデビューしてた中国系アメリカ帰化人で女優の劉亦菲(リウ・イーフェイ)さんです。

チャイナドレスは清楚ってイメージでは無いですね。

本来の華人文化の女性の衣装は、唐装と呼ばれる衣装です。

日本の和服に似てますよね。
でも着こなしが、まだエロいです。
後宮(こうきゅう=皇帝のハーレム)の人達の衣装ですね、この衣装の参考資料。

更に時代を三国時代に遡ってみましょう…


又々、借り物画像で申し訳無いんですが…
写真は三国時代の赤壁の戦いをテーマにした映画「赤壁(レッドクリフ)」で孫権の参謀:周瑜の奥さん「小喬(しょうきょう)」を演じた時の台湾女優の林志玲(リン・ジーリン)さんです。

もう、三国時代に遡るとほぼ和服に近い形状ですよね〜。

日本の時代劇に出て来ても変じゃないレベル。
大和撫子そのもの。
※因みに三国時代の華人は日本文化と同じで椅子を普段使わず床で生活してました。

和服を来ている女性は上品に見えますが…
和服は別の呼び方で「呉服」と言いますよね?

実は日本人が日本独自の文化だと思っている物には、多く中国文化由来の物が有ります。
例えば「琴」ですが…
これは、そのまんま中国の古箏(グージェン=古式の琴)です。
そして神前で奏でられる雅楽の竜笛や笙や太鼓でさえ中国の楽器です。
ですから本当に和楽器と呼べる物の中には実は多くの中国楽器が含まれています。
しかし、日本に残り中国で滅んだ華人文化も多いはずです…
唐装や礼儀や床上での生活様式の様に。
何故ならモンゴルや清朝の様な異民族に支配される度に華人文化は少しづつ放棄され、極め付けは文化大革命で前文化は抑圧されましたから。

和服は中国大陸が漢帝国だった頃の衣装に似ていますが…
実は昔、日本は絹織物を中国大陸生産の輸入品に頼っていたんです。
その輸入品産地が現在の中国江蘇省蘇州市なんです。
…つまり日本は北九州に在った委奴=伊都(いと)国もしくは奴(な)国の王が帥升の頃〜平安時代の初めまで、この蘇州一帯の絹織物を輸入していた訳です。
蘇州は今でも絹織物の産地ですが、日本でも当時〜日本の戦国大名の大内氏による中国交易の中心だった山陰山陽地方を今でも「中国地方」と呼び…
三国時代に呉からの亡命者を受け入れた町が「呉(くれ)市」と、その地名にも歴史背景が滲み出ています。

更に日本神話の天孫降臨の聖地高千穂の在る宮崎県には夫差の子孫と言う呉太伯の墓と呼ばれる場所が有ったり、鹿児島県には呉太伯を祀(まつ)る鹿児島神宮が有ります。
もしかしたら、呉→台湾→日本ルートで来日した呉太伯のモデルがいて、神様の中の1人くらいは夫差の子孫がいて稲作や金属加工を日本に伝えていたかも知れませんね。

ところで、蘇州は独自の文化芸術があります。
昆曲と評弾(ぴんたん)と呼ばれる芸能です。
写真は評弾を演じている所です。
評弾と言うのは日本の落語の様な内容の古典小噺(こばなし)を、楽器を演奏しながら蘇州語で歌う芸術です。
…小生は好きなのですが、中国の若者は口程の愛国心も郷土愛も文化意識もなく、聴きに来るのは地元の御老人ばかりでした。
評弾は観前街や同里、十全街の茶館か、平江区の戯曲博物館で聴く事が出来ます。

本来、蘇州は風流で良い文化が有るのにな〜。
…もったいない。
蘇州・無錫・上海一帯は点心も有名で小籠包も美味しいのにな〜。
餛飩(ホンドゥン=雲呑(ワンタン))も名物。
お勧めの店は「熙盛源」。
十全街と鳳凰街の十字路近くに在ります。
1人500円位で極ウマ小籠包がお腹いっぱい食べれます。
因みに本店は「無錫旅情(むしゃくりょじょう)」と言う曲で、年輩世代は知ってる人も多い蘇州の隣りの無錫市に在ります。

しかし、蘇州文化と風景と食事は日本人に合っていて、経験者として旅行先に推薦できます。
ま〜日中関係クソ悪いし、三国志や華人文化も好きな小生でも中国政府は胸くそ悪いですが…
もし中国旅行に行くなら蘇州は良い所ですよ〜と言う紹介と、日本と関係している文化歴史の紹介でした!
上海からも動車=パクリ新幹線で30分だから上海とセットで旅行出来ますしね〜。

では、又、次のブログ記事でお会いしましょう♫

ブログネタ
節分は豆まき派? 恵方巻き派? に参加中!
関東では節分に豆撒きをし、関西圏で恵方巻きを食べる様に、地域住民に根ざした文化は、それぞれ由来に成った文化醸成地が有ります。

横浜市港南区栄区金沢区磯子区にまたがり鎌倉に続く自然公園が有るのを皆さん御存知(ごぞんじ)ですか?
鎌倉横浜に古代文化の基礎を醸成した地域でもあります。
この円海山、実は横浜市で一番標高の高い山で、天気が良いとこの様に頂上近くからは富士山も綺麗に見えます。

実はこの山、歩いて鎌倉まで行ける遊歩道があり、それらは「鎌倉早駆けの道」と言う史跡でもあります。

更に‼︎

蛍(ほたる)の横浜市内での貴重な生息地なんです!
その場所は瀬上池と、その池に注ぐ自然の沢を集めた池から再び流れる貴重な水源地帯の瀬上沢です。
歴代市長から保護され多くの市民の憩いの場として解放されてますが、小生も子供の頃よく、ザリガニを採(と)りに来たり野山を駆け巡りに友達と遊びに来ていました。
子供が自由に川遊び出来る横浜南部の最後の水源地帯がこの円海山の沢で、特にこの瀬上沢と大岡川源流笹下川上流の金沢区の大谷戸(おおやと)側の沢が状態が良いんです。
写真は円海山大谷戸広場側です。
昔ながらの貴重な里山保存区域です。
綺麗な昔ながらの鎌倉近隣の原風景でしょ?
本当、貴重な自然と里山なんです。

今は冬で川で遊ぶ子供も流石にいませんが…
此処(ここ)瀬上沢には貴重な淡水の貝の化石群の地層が露出した場所があり、更に奈良時代の古代のタタラ製鉄の史跡も出土した場所でもあり…
灌漑水田史跡でもあり、重ねて言いますが平安〜室町時代の鎌倉早駆けの道と合わせて非常に貴重な史跡群でもあります。

以前の市長達により、瀬上池周辺は遊歩道や釣り用の桟橋が設けられていて新春にもなると釣りをする子供や、お弁当作ってピクニックに来た家族連れなんかで、ほのぼのとした空気が感じられる場所です。
今の横浜市長の林文子さんは、どうも保護に熱心ではなく寧ろ開発準備してる側のようですが、昔からの地域のボランティアが自主的に子供の遊び場を守って下さってます。
だから幼稚園小学生くらいのお子さんがいる御家族には暖かく成れば、オススメの自然の中の水遊び場ですよ!
この瀬上池は釣りが自由に出来て、フナや鯉なんかが小生子供の頃は釣れました。
…小生は、もっぱらザリガニ専門でしたが(笑)。

しかし、最近は今の林横浜市長の施政下で、倒木の処理などが放置され林道が通行止めにされてしまっている所が多くあります。
この下の写真の「尾根道から護念寺への道」も、さも通行出来るような案内板ですが、実際は鉄柵で封鎖され市民が通行出来なくされています。
別に道が崩落している訳ではありません。
横浜市が業者に開発させる前振り?

しかも、此(こ)の道の先は古典落語「強情灸」の舞台になり江戸時代から昭和初期まで、お灸治療の本場峰の灸として観光客と治療客で栄えた竹林の美しい円海山護念寺に通じているので、早く再開通させるべき所なんです。
※円海山護念寺の風景と歴史については「ココ」←クリック!

円海山で貴重な淡水の貝の化石群地層が露出している場所は、下の写真の場所です。
昔の人が、灌漑水田に水を引き入れる為に作った手掘りの隧道(すいどう=トンネル)のある壁面と地続きの山が全て化石群の地層です。

以前は子供も自由に出入りして遊べました。
周辺を東急が宅地開発しようとしはじめた頃に横浜市大が保護を試みましたが、最近は東急が自然環境保全地である事や市民の憩いの場である事を無視し、周辺から市民を締め出し開発準備を始めてしまっています。
マジなんだかな〜?
昔からの文化醸成地や市民の憩いの場を蹂躙する暴挙だろ、これ。

彼等がもし、無碍にこの瀬上沢一帯を開発したら、この自然環境は2度とは戻りませんね。

庶民に阻止は出来るか微妙ですが、もし開発すれば近隣に留まらず、貴重な自然公園に連なる遊歩道や沢の自然環境を破壊した歴史を事実としてどの政党が支持した、どの市長の時代に、どの土建屋が瀬上沢と遊歩道の自然環境を破壊したか我々で語り継いで行きたいと思います…
林市長、東急さん、きっと瀬上沢の重要性再認識してくれると…
…くれるかな〜?
皆んなで淡々と事実拡散するだけですね。
近隣の歴史を語り継いできた寺院や神社の鎮守の杜でもありますから。
過去帳にも歴史として残るし…。

さて、皆さん、円海山と瀬上沢の自然環境と風景と歴史が非常に貴重で、尚且つ子供が安心して遊べる自然公園である事は御理解頂けましたでしょうか?

瀬上池手前に使われていない畑があります。
あそこを自転車用の駐輪場にし、山頂のスポーツ広場を休日に駐車場として解放し尾根道に歩道を繋げ、昔みたいに家族連れも行きやすい環境を整えて欲しいな〜とか改善案はあるんですがね〜。

円海山は横浜市民や鎌倉市民にとって大切な場所なんですね。

この綺麗な風景と自然と歴史…
我々が先人から受け継いだ様に、何とか次代の更に先の子孫達まで残してあげたいですね。
円海山は文化なんです。

あ、そうだ!
前回の記事投稿から10日も間を空けて済みませんでした!

では皆様、又、次のブログ記事でお会いしましょう!

羊肉串(やんろうちゅあん)って言う食べ物を御存知(ごぞんじ)ですか〜?
まんま、焼き鳥みたいに串焼きにした羊肉のスパイシーな食べ物です!
香ばしく焼かれた羊肉と香辛料の香りが鼻を抜けて、とても美味しいんです!

これ、下の写真の中華街の「一品閣」と言う店で食べれるんですが、焼鳥屋さんみたいに店頭で焼いて手渡しでも販売してくれます。
この中華レストラン、ラストオーダー深夜01時くらいなので、仕事終わりでも皆んなで安心して行ける上に…

目の前は生演奏が聴けるJAZZ-BARの名店「Wind Jammer」なんですよ!
※Wind Jammer記事は「ココ」←クリック!

だから、JAZZを聞きながらカクテルで少しホロ酔いに成った後、一品閣の羊肉串とビールで本気で飲み直し!
…とか、一品閣で羊肉串たべてから、大人な雰囲気のWind Jammerで飲み直しなんて逆パターンもアリアリなんです。

さて、店の場所ですが…
両方とも中華街のメインストリートの善隣門の近くに在(あ)ります。

羊肉串に話しを戻しましょう。
実はこの羊肉串、中国人は勝手に中国料理と思い込んでる人もいますが遊牧民の料理で、新疆ウィグル族や北疆蒙古族の料理です。
つまり、ルーツはトルコ料理に近い訳です。

中国人は麺料理も中国発祥と思い込んでいますが違います。
麺料理も新疆ウィグル族発祥です。
ですから新疆ウィグル族の料理には羊肉料理や麺料理が豊富に有ります。
麺料理である餃子や刀削麺や本当の拉麵でも新疆人の職人が中国で活躍していますし、中国北方の方が麺料理は発達しています。
あ、そうそう、餃子はイタメシのニョッキみたいに麺料理で主食なんですよ。
だから日本人が拉麵と餃子や餃子と白米をセットで食べるのは台湾人の皆さんや中国人からしたらちゃんちゃらオカシイ話しなんです(笑)。
さしずめ、饂飩(うどん)とオニギリ一緒に食べる様な…
あれ?
饂飩とオニギリは別に変じゃないな(笑)。

饂飩…
実は科学的に饂飩(うどん)の歴史を解明した面白い結果が有りまして…
饂飩が名物の「うどん県」こと香川県で昔から栽培されている小麦は、"中国が唐朝だった時代"に日本に真言密教を広めた"弘法大師空海和尚"が留学先の"西安=長安から持ち帰った小麦"なんです。
その小麦の品種が、遺伝子調査で"現代の新疆(しんきょう)ウィグル自治区の小麦と遺伝子が一致"していたそうです。
しかも!
日本の饂飩(うどん)と全く同じ製法で作る麺が新疆ウィグル自治区には今でも有るんです。
つまり、空海和尚が長安に留学していた当時すでに長安で新疆ウィグル族の麺職人が活躍していた証拠なんですね〜!
凄いね新疆ウィグル族!
麺料理の伝来はシルクロードで繋がり、仏教と共にアジアに拡散して行ったんですね〜。

…面白いですよね?

我々日本人は饂飩を日本料理と思い込み、中国人は麺料理と羊肉料理を中華料理と思い込んでる…
しかして、その実は両方とも新疆ウィグル族の料理(笑)。

新疆ウィグル族は、実は元々トルコ共和国と同じ国でした。
西暦1200年代にチンギスハーンに攻められて、西に逃げ、その後トルコ王朝を打ち立てたんですね。
トルコと言えば、三本指に入る日本の友好国ですが、トルコ料理も世界三大料理に数えられています。
…だからトルコ人と同族のウィグル族の料理が美味しいのは当たり前なのかな?

今日はそんな感じで、羊肉串からシルクロードと空海和尚の時代まで遡(さかのぼ)ってみました!

如何でしたか?
では!又、次のブログで!

前回、神奈川県のユネスコ無形文化遺産の御祭り「チャッキラコ」を紹介したブログで三崎漁港の御寿司屋さん
「紀の代」さんを紹介すると御約束したので、料理の写真を掲載します!
※チャッキラコの記事は「ココ」←クリック!

ここは鮪漁港ならではの部位の料理も食べれます。
本当に美味しいので、三浦半島観光の際は是非、立ち寄られる事をお勧めします!

丼は2つ選んで1000円くらいだったかな?
2014-01-15-14-29-19

鮪の胃袋…これ美味しくて毎回注文します。
2014-01-15-14-26-38

鮪のカマ焼き…二人分以上あります。
2013-02-10-14-51-54


これも美味しくて毎回頼みます!
鮪の皮の湯引きのポン酢和え。
上のは鮪の血合いのから揚げかな?
2013-02-10-14-44-20

鮪サラダ。
2013-02-10-14-47-09

これは・・・鯵(アジ)の刺身ですね(笑)。
2013-02-10-14-47-56

鮪の刺身!
2013-02-10-14-51-57

三崎漁港なら御寿司はここ、紀の代が美味しくて・・・
居酒屋なら「黒羽亭」がおすすめです!
黒羽亭記事は「ココ 」←クリック!

付近には観光漁港「うらり」や、観光地の「城ケ島」や水族館の「油壺マリンパーク」もありますよ! 
「うらり」ではサザエの壺焼きなんかも食べれます。
オススメは「鮪の串カツ」です。
レクリエーションに持って来いの観光地ですね!
城ケ島の記事は「ココ」クリック! 

ブログネタ
旬なニュース速報 に参加中!
みなさん、チャッキラコと言う御祭を御存知でしょうか?
多分、余り御存知無い方が多い御祭です。

毎年1月15日に行われるローカルな御祭なのですが、ユネスコに世界無形文化遺産登録されたお祭りなんです。
12月中に存在を皆さんに伝えておかなければ、御祭りを見学なさりたい方がいらっしゃった場合に開催当日までに予定が組めない方もでると思い、旬を先取りする形でブログに掲載します。

2014-01-15-13-48-11

このチャッキラコと言う神奈川県の鮪で有名な三崎漁港の海南神社で行われる御祭なんですが、実は!富士山より先に…
"ユネスコの世界文化遺産認定を受けた"
…由緒も正しく歴史も古い御祭なんです。


御祭は海南神社の有る場所に御住まいだった平安時代の貴族藤原資盈(ふじわらのすけみつ)公と鎌倉幕府の征夷大将軍源頼朝公に由来しています。

海南神社は御祭神も藤原資盈公と奥様の盈渡姫様です。
海南神社はこんな場所です…
2014-01-15-13-34-35

2014-01-15-13-33-55
三崎の観光漁港「うらり」とはバスターミナルを挟んで反対側、本来の三崎町である「三崎銀座商店街」の中に神社へ通じる参道があります。

こちらの神社の成立は清和天皇の皇位継承に関する政争に巻き込まれ敗北し、大宰府に左遷されるはずだった藤原資盈公が暴風雨に遭(あ)い三浦半島に漂着(ひょうちゃく)した事に始まります。
貞観6(西暦864)年の話です。
余談ですが貞観年間と言えば"貞観の大地震"が起き、東北地方では東日本大震災を上回る規模の地震と津波被害が有った時代です。

その時代に、三浦の三崎に辿(たど)り着いて来た資盈公は推薦を受け同地の長を務める事となり、その後、房総半島の海賊を討伐するなど活躍されたそうです。
この時代、三浦半島を含めた関東一帯は平高望(たいらのたかもち)王が皇族出身武家として治めていましたので、藤原資盈公を庇護したのは後に鎌倉武士団を形成する平高望王の御一族だったと容易に推測できます。
そして三崎領主として善政を布(し)かれ、今で言う教育と福祉政策に力を注いだ藤原資盈公は同地の住民達から深く慕われたそうです。

三崎の御祭り"チャッキラコで歌われる唄(うた)の歌詞には多くの和歌や昔話が盛り込まれています"ので、恐らく資盈公と盈渡姫は「チャッキラコ」を広める事で、当時文盲だった漁民達に文字を教えたり学問を広めたのではないかと推測出来ます。
現代にも残ったご夫妻のとても偉大な業績ですね。

しかし在任僅(わず)か2年間の統治の後、資盈公は亡くなってしまったそうです。
その際、公を慕う住民達は、公の亡骸を海に水葬し、祠(ほこら)を海岸に奉(たてまつ)りました。
すなわち!
その場所が現在の海南神社本殿とは別に、商店街の中にひっそりと佇(たたず)む本来の神社の在(あ)る場所だと推測される訳です。
ここ本宮神社ね
  ↓
2014-01-15-14-00-47

資盈公と盈渡姫の漂着についてですが…
まぁ、普通に考えれば、平安京~九州筑紫(筑前)国の大宰府への航路は瀬戸内海ですし、門司港辺りまでは陸路で行く方が安全だったはずなので、資盈公の三浦半島漂着は恐らく最初から狙って行(おこな)った亡命行為だったと考えるのが自然でしょう。
当時、すでに三浦半島と房総半島は"平高望(たいらのたかもち)王"を初代とする元皇族の坂東平家が統治しており、中央の政争に勝っている方の藤原政権と対立の火花が散り始めていましたからね。 

そして相模国鎌倉郡村岡城主で鎮守府将軍の平良文公と…
良文公の甥で房総の太守だった後の神田明神の神様になる平将門公の一族は、資盈公同様に中央で政略に巻き込まれて後に大宰府に左遷された菅原道真(すがわらのみちざね)公の一族を庇護しています。
三男:菅原景行(かげゆき)公と五男:敦茂公は平将門公や平良文公を頼って関東に亡命してきてますから。
同じ様に資盈公も、中央の藤原家が手出し出来ない、平高望王の子孫一門を頼って計画的に亡命されたのだと推測する方が…
地勢的にも政治的にも軍事的にも自然な事だと思います。
※平高望王の一族に関わるブログ記事は「ココ」と「ココ」←クリック!

さて、そんな藤原資盈公ご夫妻の教育政策であっただろうチャッキラコは御祭りとして残り、近年ユネスコの無形文化遺産に登録された訳ですが…
2014-01-15-13-52-26
2014-01-15-13-49-03

御祭り自体は未成年の"女性が舞を踊り唄を歌う"御祭りです
ですので…
何か見た目からしてロリコンっぽそうな外見の中年男性も観光客に多数いますが…
この御祭り自体は由緒も正しい御祭りなので、純粋に文化として楽しみましょう!

三崎銀座商店街の中には元廻船問屋の旧家を利用した「チャッキラコ三崎昭和館」と言う博物館や、NPO法人三浦映画社の展示館もあります。
実は三崎漁港は映画撮影のバックアップをしているんですね。
ご近所の旧三崎高校や漁港周辺で色んな映画が撮影されているので、ぜひ三浦映画社の展示館を見学されるのも良いかと思います。 
ちなみに旧三崎高校は三浦水軍の基地だった三崎城跡でもあります。

チャッキラコですが・・・
何でこの御祭りが幼女に舞わせるかと言うのも、ちゃんと由緒があるのです。
その昔、征夷大将軍と成り鎌倉幕府を開かれた源頼朝公は春の季節専用の御所を、この三崎町に持っていました。
その場所は現在「本瑞寺(ほんずいじ)」と言う御寺に成っており、鮪料理で有名な黒羽亭」のすぐ近くに有ります。 

本瑞寺の写真は生憎現在手元にありませんが、ろう梅がとても綺麗でしたので、その写真だけはありますので載せますね。
2009-02-28-15-23-29

さて、ここの春の御所に訪れた頼朝公が、ある時、土地の漁民女性に…
「何か楽しい事無い?」
…と聞いたそうです。
で、聞かれた女性が…
「私は何にもできませんが、娘に舞を披露させますよ!」
…と答えて、母親が歌い娘が舞を披露しました。
この事がきっかけで、「チャッキラコ」が鎌倉時代以来1月15日のお祭りとして行われる事に成ったそうです。
ですから…
別にロリコンが趣向で御祭りにみんな集まる訳じゃない!
…はず、と、結婚適齢期以上の女性が恋愛対象の小生は信じる事にしています。

三崎には浅間神社もありますよ。
…人口が減ったせいで神社も寂れてきてしまってますが。 2014-01-15-14-14-27


そして!
この三崎町=三崎漁港の醍醐味と言えば!「三浦野菜」と「鮪料理」ですよね! 
その他に高級魚「松輪鯖」も名物です。
小生は先程紹介した「黒羽亭」は居酒屋として利用させていただいてます。
実際、黒羽亭は鮪の色々な部位の料理を食べれる居酒屋ですので。

で、お寿司を食べたい時は黒羽亭のお隣の「紀の代」と言う御寿司屋さんに良く行きます。
本当に美味しい御寿司屋さんでして、小生は寿司を食べる為だけに横浜から行く事も有ります。

そちらに関しては別に記事書いて紹介しますね!

三崎は港町らしくニャンコもたくさん居る街ですよ~ 2014-01-15-14-42-02
2014-01-15-14-43-25
かわいいなぁ~

隣の城ケ島と言う風景の綺麗な島とも橋でつながっていますし、油壺マリンパークと言う水族館も近く家族連れで楽しめる観光地です。
新年の家族旅行や小旅行にチャッキラコ見学とセットで如何(いかが)でしょうか?
ただ…
平日の木曜日なんですよね、2015年の01月15日。

●城ケ島の絶景に関する記事は「ココ 」←クリック! 
●紀の代と言う一押しの三崎漁港の御寿司屋さんの記事は「ココ」←クリック! 
●黒羽亭と言う鮪料理居酒屋の記事リンクは「ココ 」←クリック! 

ではでは、又、次の記事でお会いしましょう!

↑このページのトップヘ