歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

カテゴリ:城址・要塞・史跡・伝統文化 > 伝承・無形文化財

荒れまくりぃ~☝️=☝️⤴️
KIMG9625~2
・・・とIKKOの声が聞こえそう。
KIMG9625~3
荒くれ具合がカッケェ~ぜ!素敵♪
砂鉄の黒砂も鬼気迫る色合い。

こんなんでもサーファーいるよ~。
強ぇ~なぁ~!
良い波だけど気を付けてねぇ~。

七夕祭りは中止だけど、例年七夕の頃に平塚八幡宮に行ってるから御参りしに行った帰りの七里ヶ浜でしたぁ。
KIMG9610~2
屋台出てないから七夕に御参り行かないんじゃ毎年夏に御参りしてる応神天皇八幡大菩薩様にも何だか失礼だし・・・

織女(棚機津女:たなばたつめ)と牛朗(牽牛彦)も1年に1日漸(ようや)く夫婦一緒に過ごせる日に、知らない奴等がアレやコレや縁結びや大願成就の御利益に肖(あやか)ろうと集(タカ)られつつも何だかんだ皆で祝ってくれてたのが、今年は屋台出ないから誰も御目出度いの共有しないとか理不尽過ぎでしょ。

織女様~牛朗さん~今年は屋台で飲んだくれてる酒乱もいない七夕祭りです。
・・・暫し女夫(めおと)でごゆっくり~!
( ´꒳` )ムフっ♪

サムネのフリー素材⤵️
mixiチェック

ブログネタ
「秋を感じるひとこま」教えてください に参加中!

横浜市港南区~磯子区峰~金沢区氷取沢にかけて円海山と呼ばれる山がありまして・・・

風景がとても横濱と思えない綺麗さなんです。 IMG_5684
今では静寂な森の中の古道沿いにある阿弥陀寺と言う御寺と、昔は阿弥陀寺の奥院だった護念寺と呼ばれる御寺ですが、実は江戸時代~昭和初期まで凄く有名で、日々参拝客が蟻の行列の様に大量に列をなして訪れた名古刹なんです。

実はこの護念寺ですが、お灸治療の大本山とも言うべき御寺でして、古典落語「強情灸」の舞台でもあるんですね。
ですから、この御寺は「峰の灸」の別名でも呼ばれています。
IMG_5682
嘗(かつ)て、磯子区杉田〜港南区笹下にかけて点在した広大な杉田梅林は、江戸からの江戸っ子観光客で賑わっていました。

船で磯子区杉田の聖天川までクルージングし海からの屏風ヶ浦の美しい風景を楽しみながら、杉田梅林を見学に来る訳ですね。残念ながら杉田梅林は教育委員会が開発容認し消滅しました。…明治天皇や皇族もよくいらっしゃった美しい風景と最高級の梅のブランド杉田梅を教育委員会が消失させたんですね。

で、その江戸時代から昭和初期の観光コースに峰の灸も入っていたし、純粋な治療客も沢山いました。

横浜横須賀道路と言う高速道路の開通で阿弥陀寺と鎌倉古道が寸断され、鉄道の駅からも遠い事から、昭和の高度経済成長期に成ると段々、参拝客も減ってきてしまいましたが・・・
今でも慢性的に体の痛みがある人がココに来て治療を受ける、お灸の本場なんです。

もっとも・・・
小生はソンナ歴史も知らなかった20歳の頃、原付バイクでフラっと田舎道の風景を探して立ち寄って、その聖地のような清々しい空気感に呼びこまれて迷い込んだ御寺なんです。
その時は、竹林の風景の美しさと、何だか…
「あ~横浜市が久良岐郡と呼ばれた頃の風景はこんな感じで美しかったんだろうな~」
・・・と思っただけでした。
IMG_5706
この護念寺は清浄園と言う公園墓地に至るまでのアプローチが昔の鎌倉古道なので、とても神秘的な風景が残っているんです。
でも今じゃ落語の“強情灸”を知らない人の方が多いですよね?
せっかくの機会ですし、強情灸を御存(ごぞん)じ無い方(かた)の為にその噺(はなし)を紹介します・・・
IMG_5680

【強情灸】 
通りかかった知り合いが唸っているので、気になった男、家に招き寄せる。 
聞けば何でも体がだるいので、""という店に灸を据えてもらいに行ったらしい。


「このお灸な、凄まじく熱いんで評判なんだよ。気の弱い奴なんかな、一つ据(す)えただけで… 
「ギャー!!」
なんて天井突き破って飛んでっちまうんだと」 

余りにも熱すぎるので、せっかく来た人が怖気づくぐらいだが… 
それでも"効く"という評判のおかげで店の前は長蛇の列。 
仕方がないから、番号札を配って据えてもらっているらしい。


俺がもらったのが"への36番"行列のどん尻だぜ?これじゃ日が暮れちまう… 
「帰ろうかな」 
…って思ったらよぉ! 
先に並んでた綺麗なお嬢さんが先客が熱がってるんで心配(不安)に成っちゃったんだろ? 
…俺に 
「ねえ、アタシと代わってくれませんか」 
なんて… 
「ええ!ようござんす♪」 
…と、喜んで代わりましたとも。 

早速内に入ると、店の者が… 
「うちの灸は熱いですよ。大丈夫ですか?」


頭にきた友人、上半身裸になるや… 
「さあ据えてくれぃ!」 
…と怒鳴る。 

灸を36箇所に据えると言われ、なおも意気がった友人… 
「全部いっぺんに据えろ(怒)!」と一喝。 
啖呵に店の者も釣り込まれ、本当に全部いっぺんに据えてしまった。 

一つで飛び上がるような灸を、36個いっぺんに据えたんだからどうなるか?


身体中から煙が上がる…不動明王みたいになっちまったが…"ここで逃げたらカチカチ山のおタヌキ様"だ。 
我慢して唸ってたら… 
店にいた奴らがみんな寄ってきてヨ! 
「この人、本当に人間かい?」 
「神様の化身でしょう」 
…なんて感心してやがんだよ。 
…その中にね、さっき俺と札を取り替えたお嬢さんがいてさ、俺の顔を見てポーッとなってんだ。 
「あぁ…たくましい人ね、お嫁になるならこんな人が」 
…なんて思ってやしないかと。 

自業自得で熱い目に遭ってきて帰り道で唸っているような間抜けの(笑)、体(てい)もないノロケ話を聞かされ、呼び込んだ方の男は面白くない。 
元来こちらも同類の馬鹿である… 
「たかだか灸ぐらいで威張るな!」 
…と、奥から藻草(もぐさ)を持ってきて、腕に山盛りに積み上げるや早速点火(笑)♪


「活火山だよコリャ(笑)…見てろ!今に火が回ってくるから(笑)」 
火勢が強まり、煙が上がる。 
男、脂汗を流しつつ歯を食いしばる。

「うう(汗)…」 
「…灸ぐらいで威張るな、石川五右衛門なんか、油で茹でられたのに平気で辞世の句を詠んでたぞ!」 
「石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ…ってな!」 
「八百屋お七なんか、15歳で火炙(ひあぶ)りだぞ?」 

…それに比べりゃこんな物…お七…五右衛門…お七… 

ぎゃぁあぁっつ!」

とうとう辛抱堪(たま)らず藻草を払い落とし、なおも「五右衛門んん…」と唸っている男に、友人が意地悪く声をかける…

「五右衛門がどうしたって(笑)?」 
「…」 
「……」

「………さぞ熱かったろう」 

IMG_5683
円海山 清浄院 護念寺

・・・どうです?強情灸、バカでしょう~(笑)?
いつの時代も男は可愛い女性の前で良い顔したがる見栄っ張りってネタでした(笑)。
ところで、この写真の建物はが仮本堂であり現在も御灸の施術をする建物でもあるそうです。
昭和の頃迄は沢山の御客さんで賑わっていたそうですが、現在は要予約だそうです。
定休日は月曜日。診療は午前中のみ受け付けているそうです。
IMG_5714
境内の雰囲気とても素敵でしょう?
丸で鎌倉の隠れ家に来たような・・・
神様の住んでる御社(おやしろ)でもありそうな雰囲気ですよね?
秋には紅葉もチラホラとあり、この季節はここに来てヒンヤリとした空気を吸い込むと、何だか生きてる感じが凄く静かに感じられるんです。
IMG_5685
少しこの御寺の歴史を見てみましょう・・・
KIMG5301
ハイキングコース地図の右下に阿弥陀寺、その少し真ん中寄りに護念寺、右側中央に“道場丸”と“いっしんどう=一心堂”の地名が残ります。この一帯は阿弥陀寺の奥院だった護念寺の寺領だったのでしょう。恐らく御寺の収入減は大岡川や鼬川の水運を利用した木材の売却だった筈です。二つの河川を使う事で相模湾側の鎌倉や、江戸湾の江戸方面に材木を出荷出来て昔は大いに繁栄したのでしょう。
新編武蔵風土記稿の護念寺の項目に“この一帯の緑は寺の敷地だったから残った”と言う記載に円海山の森林が残されていた理由と整合します。
IMG_5691
今でも樹木に囲まれた御寺です・・・
この、静かに遠慮気味に色づく紅葉達の奥に御念寺の現代の本殿があります。
撮影した日は法事の車が数台とまっていたので御本堂の写真は写しませんでした。 
御本堂を過ぎるとマイナスイオンでヒンヤリとし、静寂な神聖な霊気を感じる様な竹の隧道が出迎えてくれます。 
IMG_5693
さて、この護念寺には幾つかの由緒ある仏像が有り、その一つが薩摩の大名どうやら島津家から拝領した威徳明王の1寸八分(545mm)の伝弘法大師作の彫像らしいです。
元々は護念寺の向かいの山の上に堂が有って、そこに祀られていた物だけど御堂が壊れたから護念寺に移したと言う事が新編武蔵風土記稿に書いて有ります。
昔は坂下バス停辺りに本院だった阿弥陀寺が在りました。
そこから登って来る護念寺の清浄園墓地側の道は現在廃道ですが、恐らく、そちらが江戸時代の参道だった筈です。阿弥陀寺の方は1400年代には旧所在地に存在したと伝承しています。
鎌倉の戦火で矢部野(洋光台~峯)一帯が戦火に巻き込まれて阿弥陀寺が現在の山の上に移転したのが1400年代だと伝わりますので、この鎌倉の戦火は鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義教公が対立した永享の乱か、足利持氏公の御子息で最後の鎌倉公方と成った足利成氏公の頃の話でしょう。
護念寺とその谷を挟んで反対の山上は現在の阿弥陀寺に当たり、既に阿弥陀寺は1600年代の頭には現在地に移転していたので護念寺の威徳天が祀られていた向かいの御堂は阿弥陀寺ではなさそうです。
では、どこでしょう?
一心堂位置関係 久良岐のよし
※画像クリックして拡大して下さい。
この威徳明王が祀られていたのは恐らく円海山の一心堂広場だろうと思います。
丁度現在も参道に使われている谷筋を登る道以外に私道になり廃道化してる道が有ります。
その谷道を挟んで一段高いのが“いっしんどう広場”=一心堂でしょう。
現在の位置関係で見てしまうと阿弥陀寺の場所が向かいの山に見えてしまいますが、時代的にも威徳明王が祀られた江戸時代には既に阿弥陀寺が存在していた為、阿弥陀寺の山ではなさそうです。
となると、向かいの山で更に“堂”の名前が付くので一心堂がその場所だろうと推測出来る訳です。
ちょっと今の阿弥陀寺との位置関係だと護念寺が阿弥陀寺の奥院として機能していた事が理解し難いのですが・・・
護念寺参道 久良岐のよし
・・・昔の阿弥陀寺は洋光台6丁目坂下バス停辺りに存在したそうで、確かに、その位置からだと真っすぐ直線状の背後の山に護念寺は所在しています。
画像に赤く引いた線は現在は廃道に成っている古い道で、実はそちらは切通状に成っていて重要な道だった事も解かります。
阿弥陀寺~護念寺位置関係
この道は明治時代初期の迅速測図にも-----の点線表記で護念寺の右手の舌状丘陵の尾根道として記載されています。
KIMG8344
その道がこの解体屋サンが並ぶ丘の道を更に一本裏側に入った場所です。
KIMG8343
今では草が鬱蒼としてしまっています。
KIMG8348
その先は円海山清浄園の墓地の先っちょ、この道に繋がっています。
昔は小道だったようですが、もしかしたら墓地造成で開削され、更に丘の入口が解体屋サンに払い下げられ今は使われなくなったのかも知れません。
一心堂の場所ですが・・・
KIMG8352
氷取沢側から見た円海山、鉄塔の辺りが一心堂広場の近くです。
KIMG8351
現在は遊歩道としては整備されていませんが、氷取沢側の農道から続く江戸時代の道は今でも生きています。
この道を登ると・・・
KIMG8349
ちゃんと昔の道標がわりだった交通安全の仏様の馬頭観音様が多分、昭和時代位に上の部分だけ作り直されて今も有ります。この場所がT字路に成っていて富士塚休憩所を経由して護念寺の墓地に成っている円海山清浄園の古道や鉄の道の尾根道に通じていました。
KIMG7585
又、迅速測図を見ると古代の尾根道の街道が悉(ことごと)く護念寺の辺りに集まっているので、前身の御念寺は逗子の岩殿寺や金沢区の浄願寺の様に山岳信仰的な要素が有り弘明寺や八菅山の様に山全体が聖地化されていて各所に御堂や神社が有った事が推測出来ます。
製鉄有る所に豪族有り、豪族有る所に神社仏閣有り・・・と言った所でしょうか。

新編武蔵風土記稿では阿弥陀寺の奥院だった護念寺の項目にこう書いて有ります。
コレ⤵️
宝暦二年(1752年)地頭星谷治兵衛智久志願に因(よっ)て、長野山(円海山)の内十丁四段二畝十九歩の地を寄付し、
又別に山、畠(畑)、永錢(永楽銭=戦国時代の通貨)一貫文を寺費に充(あて)つ、
且(かつ)當(当)寺城山に據(より)て往還便ならざれば、捷徑(ショウケイ/近道=間道)を開闢(カイビャク=開拓)して攀躋(ハンセイ=よじ登る=登山)の便宜(べんぎ=便利)とす。


要約すると・・・
「護念寺の在る円海山は城址」
「だから往来が不便で星谷智久公がショートカットの道を御寺の為に作りました」
・・・つまり円海山=長野山は城でした。
合わせて、この文書から調査した末端の記者か編集した人のミスも解かります。
永楽銭は明の皇帝、永楽帝が発行し日本では室町時代に輸入され江戸時代初期まで流通した通貨です。
織田信長公が積極的に経済活用に利用し旗印にまで使った事の有る通貨です。
そして一貫文と言う金額の単位も室町時代~安土桃山時代の貨幣の通貨単位です。
永楽銭
画像引用元⤵
https://shop.ginzacoins.co.jp/
星谷家が足利幕府の時代の輸入通貨の永楽銭を寄付しているのに、江戸時代も中期の宝暦二年(1752年)と調査した江戸時代の記者も編集者の間宮士信公も昭和の出版社も何故注意が向かなかったのでしょう?
その時代には既に江戸幕府発行の貨幣が流通しており単位も両・朱・分でしたし、永楽銭は廃れています。
つまり宝暦二年(1752年)に星谷家が永楽銭を寄付する事自体が変な訳です。
調べた記者か編集者かが他の元号と読み間違えた事は明らかです。
永楽帝の在位期間は1402年~1424年永楽銭の発行開始は1411年ですから、逆にそれ以前の話でもない事が判ります。なので宝暦の書体を読み間違えそうな元号を探して、取捨選択すれば正体が判明しますね。
康暦二年(1390年)→1411年以前
宝徳二年(1450年)→1411年以後
・・・宝徳を読み間違えたんでしょう。
では本当に徳と歴は草書体が似ているのでしょうか?
徳と歴 久良岐のよし
右の四角い枠で囲ったのが“歴”の字、左ので囲ったのが徳。
行書体が酷似してるので宝徳を宝暦と読み間違えて記者が取材し風土記の編集に間違えたまま峰村の説明にも反映されたみたいですね。
そのせいで現代にも混乱を及ぼしているのでしょう。
「そんな学者や編集者が間違える事有るんかい?」
・・・と思う人がいると思いますが、そんな事は現代でもしょっちゅうです。
江戸幕府の役人が書き間違えた杉田間宮家初代の名前を菩提寺や御子孫に調査すらせず間違えたままコピペ出版してる人もいます。
地名でも例えば阿弥陀寺や護念寺は昔は杉田郷と呼ばれた行政区分の地域でした。所が昔は現在とは字が異なります。
杉田=杦田
杉ではなく杦の字で表記したんですがコレが読めない学者サンが・・・
「“松”田とか書き間違えてる」
・・・と杦=杉を読めず杦を松と勘違いし“間違いじゃないのに間違えた指摘をする”事も有ります。
昭和のいい加減な仕事の出版物をコピペして終わってる学者サンいるんですね、それと武将の名前も江戸時代の幕府の誤記を子孫や御寺や神社に確認しないで誤記のまんまコピペしてる人もいます。
誰とは言いませんが横須賀市やNHKの歴史解説員をしていると自己顕示満々のプロフで宣伝してる勲章貰った学者サンとか。本当に歴史偉人をリスペクトしていて御墓参りすれば一発で気が付く事なんですんが。
さて、今回の間違いですが・・・
永錢が永楽銭と言う事は、戦国時代を好きな人は大概知っています。
徳と歴 久良岐のよし
永楽銭なら宝暦ではなく宝徳だと歴史学者でもなんでもない小生でも、この様に気が付きます。
これにより阿弥陀寺と奥院の御念寺は宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。
そして、この阿弥陀寺の奥院御念寺への寄進は応永二十三年(1416年)の戦闘によって阿弥陀寺は焼失後現在地の山の上に新しく御堂を建てて復興されたけれど、奥院の御念寺は一時は城塞化されていた不便な立地なので復興が遅れ、永享十一年(1439年)に永享の乱が終わり、鎌倉公方が一端途絶して平和な時代が来た宝徳二年(1450年)に漸(ようや)く再整備の手が回る様に成った状況が理解出来ますね。
余談ですが、戦国時代に旧間宮領にいて江戸末期に里正(庄屋)に成っていた旧北条家臣団の名字に星谷はいません。
ただし越前朝倉家臣に星谷家がいると沼津市では伝承しているそうですから、そもそも朝倉家の旧主斯波家臣に星谷家がいた可能性はあります。
北条家臣にも朝倉家がいるのは斯波家が南北朝時代に関東執事を務めていた名残りでしょう。
以前にコレ⤴️品濃白旗神社の記事で少し書いていますが、南北朝時代に近くの秋葉郷(戸塚区東戸塚~品濃辺り)に柴田勝家高経公が関わっていたり、足利尊氏公の御実弟足利直義公の頃に星谷家が杉田郷に関わっていてもおかしくはありません。
そして朝倉家は
右馬助(うまのすけ)朝倉政景が戦国時代の北条家臣として横須賀市の浦郷や追浜辺りや、伊豆半島三島市玉川辺りを支配していました。
この朝倉家の朝倉平次郎と言う武将が間宮家と玉縄衆と言う軍団で同僚だった事も解かっていますし、
南区太田にも朝倉又四郎と言う武将がいました。
ただ、峯町の星谷サンは北条家臣朝倉家の家来ではないでしょう。寧(むし)ろ旧間宮領にいる朝倉家は玉縄衆朝倉又四郎が豊臣秀吉による北条家改易後に本牧奉行、佐渡金山奉行、生野銀山奉行に成っていた間宮家を頼って江戸時代に移住して来て家臣化した一族かも知れませんね。

星谷の苗字を名乗る武将は戦国時代~江戸時代初期、そして現代に付近にいませんが、他の北条家臣団の苗字を持つ大地主達は現在も存続します。
この地域の地主は槙田家、塩沢家、大塚家、苅部(軽部)家、小原家です。
近くでは金子家、岡本家、野本家、内田家、市村家、荒井家、斎田家、北見(喜多見)家、朝倉家、笠原家、田野井家、山野井家、高梨家、武田家です。
もっと離れて南区まで行くと、森家、並木家、佐々木家等の蒔田吉良家臣団の名前が蒔田吉良家菩提寺の勝國寺の檀家さんに沢山いたりします。
加えて磯子区港南区地域では間宮一族分家や系図上養子が入っていると伝わる松本家、武内家、間辺家がいます。
沼津市の伝承では朝倉家臣星谷家がいるらしいですが朝倉はこの阿弥陀寺や護念寺近辺の峰地域に地主はいませんし、北条家臣朝倉家の更に家臣が杉田郷の地頭では北条家の公式記録の北条所領役帳に記載された間宮家の所領の歴史と整合性がありません。
どうも北条氏照公が元服前の藤虎丸時代に崇拝し、元服して北条氏照と名乗ってからも“陣屋”=“宿舎”としても利用していた座間市の星谷寺(しょうごくじ)辺りの現代の地名は“入谷”ですが、元々は星谷(ほしのや)が正式な地名なので、その辺りが出自でしょうか?
だとしたら、遠い祖先は横浜市港北区に移住して茅ヶ崎城代と成った座間家と親せきだったかも知れませんね。
この茅ヶ崎城主は平安時代末期~鎌倉時代初期には源頼朝公の協力者だった摂津源氏多田行綱公の関東における城館でしたが、戦国時代に入ると北条家臣座間家が城代を務めた場所でした。
 
駿河国戸倉城近く沼津市大平に、元今川家臣で後に北条家臣と成ったと言う星谷姓の武将がいて城館跡が有るものの出自は不明、沼津市では資料がなく、間宮や江川家と関わり深い伊豆の国市でも資料は無く、座間市にも全くありませんでした。
しかし現在も鎌倉時代位の星谷家の出身地域と思(おぼ)しき座間市~海老名市~寒川町辺りには星谷姓の家が点在するので、座間市入谷(旧:星谷)が出自“くさい”所ではあります。
偶然ですが、座間家の上官に当たる大曾根城主、小机城代だった笠原信為公の笠原家も伊豆出身で、その一族の笠原綱信公の養子、笠原政晴が戸倉城主を務めています。
何だか座間家と星谷家は笠原家与力として北条家で編成されてた家も存在した可能性があります。
しかし星谷家について現代では何も解りません。

・・・星谷家が座間市出身と仮定してすると・・・

南北朝時代に鎌倉公坊足利義詮公家臣になり・・・
関東執事の斯波高経公の与力として配属され南北朝時代に峰町辺り旧矢部野村を治めた分家の星谷家がいて・・・

足利尊氏公の二男、足利基氏公が鎌倉公方になり伊豆国一帯を自身の与力で固めた際に伊豆に入植した星谷家と、磯子区峯町一帯に地頭として残り室町時代初期まで存在した星谷家がいて、それぞれ別々の運命をたどり・・・
横浜市に残った鎌倉公方与力だったかも知れない星谷智久公は宅間上杉与力となり・・・

更にその後、永享の乱頃には扇谷上杉派の与力となり、北条氏綱公が扇谷上杉家と対立すると湘南に勢力を張っていた北条家臣間宮家により駆逐されたのかも知れません。
KIMG5535
※写真は伊豆半島、田方郡函南町“間宮町”の“間宮南”交差点。
もし、このプロセスならば阿弥陀寺を江戸時代に中興した苅部家の領主、間宮家が足利基氏公の家臣として近江国から伊豆国田方郡間宮、今の函南町間宮に移住し神奈川県東部に勢力伸長したプロセスと酷似しており有り得ると思います。
しかし新編武蔵風土記稿に話を戻すと、星谷家は室町時代末期にも杉田郷には名が見えず、安土桃山時代にも、江戸時代初期にも名が見えず、現代の地主にも名が見えず・・・
新編武蔵風土記稿の記載通りなら地頭なのに江戸時代中期の一時代だけいるのはおかしな話しだと個人的には思います。
・・・星谷家は北条家が武蔵国域を支配し杉田郷が間宮家臣団の支配地に組み込まれた頃には磯子区磯子城主の平子家と同じ様に駆逐されたと考えた方が自然でしょう。
平子家については以前書いた記事があります。
コレ⤵
 
仮に江戸時代に“地頭”と言うか在郷武士だったなら、隣の六浦には今も江戸中期に大名として入って来た米倉さんが横浜市大の近所の六浦藩陣屋跡に普通に現代の家を建てて住んでいますし、江戸時代中期に地主侍なら今も間宮家臣団の他の地主同様に現代の大地主としているでしょう。
KIMG3468
※江戸時代の六浦藩陣屋跡の旧藩主米倉サン家の石段。
米倉サン家のこの石段は陣屋(邸宅)の裏口だったらしいです。。
ちゃんと米倉さん家の奥さんに許可貰って撮影してますよ!
だから間宮家臣団や六浦藩主米倉家の事を踏まえると江戸時代の大地主なら今も大地主として住んでいるはずですから、星谷氏が護念寺の前身、御念寺や阿弥陀寺に関与したのは風土記の“宝暦”の記載は誤りで“宝徳”年間、永享の乱前後の話だと個人的には思います。

又、隣村の栗木村の項目でこうも書いて有ります・・・

古(いにしえ)は御料にて元禄九年に星合摂津守に賜い、今子孫鍋五郎知行す

・・・江戸時代の元禄の頃、徳川綱吉公の頃に磯子区栗木村に移住して来た星合サンと峯村の多分、南北朝時代~室町初期にいた星谷サンの項目は話がゴッチャに成ってるぽい雰囲気を感じます。
この古は御料にて元禄九年に星合摂津守云々~の御料は将軍直轄地と言う意味で“天領”だった、と言う事に成ります。

実は!
間宮家は鷹狩りに秀でた一族で氷取沢間宮家を開いた間宮綱信公は北条家の外交使者として織田信長公に謁見し鷹を献上したり、分家杉田間宮家が代々、徳川幕府鷹匠頭の職位を継承する程だったのですが、戦国時代~江戸初期に港南区~磯子区一帯を治めた間宮本家の笹下間宮家は下総国に転封され栗木を支配していなかったので、星合摂津守が一時期いた可能性は有ります。

まぁ~十中八九、星谷サンの話は間宮家が来る前の護念寺の前身の御念寺を復興した話と、似た元号と、隣村栗木村の星合サンの話を記者が頭の中でゴッチャのまま勘違いを書いちゃったのを昭和の出版社がそのまま丸写ししてそうな気がします。

しかし星谷知久公が足利幕府鎌倉府の家臣で在地領主として阿弥陀寺の奥院だった御念寺を支援したのだとしたら、それはそれで素晴らしい史話だと思います。
因みに、栗木のバッティングセンターは松坂大輔選手が横浜高校時代に練習に来ていたそうです


・・・話は飛びましたが(笑)・・・


護念寺と本院の阿弥陀寺は阿弥陀寺の旧境内地の逸話と元号の問題、そして星谷智久公の奉納したお金が永楽銭だった事実から、永楽銭が使われなくなっていた江戸時代中期の宝暦年間1750年代ではなくて宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。

しかし1400年代の開基では、江戸時代の人から見て“古刹”にはならないでしょう。
ですから鎌倉時代より前の平安時代には御念寺と阿弥陀寺は存在していたのでは無いかと、近隣の御寺の文書に残らない寺伝からも予想がつきます。
例えば以前にブログで紹介した間宮家の笹下城跡の本丸直下にある成就院・・・
・・・ここは現在は浄土真宗高田派ですが草創期は法相宗だったと伝わるので、下手したら奈良時代~平安時代初期位の行基大僧正に開かれていて真言宗開祖の弘法大師空海和尚や天台宗開祖の伝教大師最澄和尚達の時代より古い可能性が有ります。
他にも・・・
・・・ここ杉田商店街の東漸寺は鎌倉幕府の重鎮、名越北条家の名越北条宗長公によって正安三年(1301年)に開かれたと記録上される臨済宗の寺院で関東十刹に挙げられる名古刹ですが、実は境内にある法輪塔は更に古い時代の物で御寺の伝承でも名越北条家によって臨済宗として再興開基される以前に天台宗だった事が伝わっています。つまり鎌倉時代以前の平安時代から存在する事が法輪塔から証明されている訳です。
更に・・・
・・・同じく杉田の妙法寺は前進の牛頭天王社が弘法大師空海和尚によって開かれた事が伝承しており、文和元年(1352年)に荒井光吉入道日荷上人によって立派な堂宇が建立され寺院化しています。
他にも幕末の吹奏楽発祥地で国家君が代とテニスの発祥地の本牧の妙香寺・・・
・・・ここも元は真言宗でしたが日蓮上人が自ら滞在した際に御寺の大檀那(オーナー)だった佐藤家が日蓮上人に惚れ込んで門徒になり、日蓮宗に改宗した歴史が有る御寺です。滞在時の浴衣姿の日蓮上人の彫像が祀られている変わった御寺だったりもします。
この様に、横浜市域だけでなく鎌倉幕府~室町幕府の武士が多くいた地域の臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、法華宗等の鎌倉時代に流行したり起こった宗派は元々は更に古い奈良時代に始まる修験道や法相宗、平安時代に始まった真言宗や天台宗の寺院だった場所が多くあります。

更に護念寺と阿弥陀寺の歴史の証明となる星谷智久と言う“地頭”が護念寺の長野山が元々御城で不便だから色々ショートカットの道作ってあげた・・・と書いて有ります。
地頭職は鎌倉幕府以来の武士です。つまり鎌倉時代に既に地頭だった星谷氏が室町時代の宝徳二年(1450年)城跡と言っていると言う事は、既に室町時代には使われなくなっていた鎌倉時代か平安末期の城跡と言う事を言っている事に成る訳です。
鎌倉城防衛網円海山 久良岐のよし

護念寺の在る円海山と尾根伝いの円海山山系の観音山、大丸山、関谷見晴台、荒尾城(御伊勢山、権現山)、青ヵ台城(能見堂~阿王ヵ台~赤井)は完全に人の手が入って城塞化されていると小生はずっと主張している通り、鎌倉防衛網を構築し所々の要所が城塞化されており、護念寺の洋光台側の急峻な崖や各所の尾根道の掘切りも城跡だからと、この文章で証明されます。
本当、護念寺を取り巻く竹林の中には、竹林に成ったが故(ゆえ)に高速道路をブチ抜かれたり墓地を造成した場所以外は旧地形が良く残り、恐らく江戸時代には畑にも成っていたであろう、明らかにお城の帯曲輪郡と竪堀が幾筋も現存しています。
ここ円海山は飛鳥時代から東日本最大のタタラ製鉄遺跡の上郷深田遺跡猿田遺跡一帯で鉄が生産され、刀槍の材料となる玉鋼(たまはがね)を輸送するのが尾根道でしたから、流通や軍兵の交通を監視する要塞や関所が必要だったのでしょう。
実際、この尾根道だけを伝って昔は鎌倉に行きるだけでなく、更に尾根続きの鎌倉十二所からは元は真言や天台の修験者が御参りしていた岩殿寺や神武寺や鷹取山、更に三浦半島まで山の中の道が繋がっていました。
KIMG1347
ですから現在も鷹取山~神武寺の尾根道は修験者の人達や娯楽としてハイキングを楽しむ人達を見かける事が出来ます。

CIMG9622
醫王山 来迎院 神武寺

神武寺は現在も山の中で神秘的な雰囲気を保っています。
神武寺は神亀元年(724年)の開基(かいき=開かれる事)と伝わっています。
古代の街道は尾根道だったので、その中継拠点や湧水地だったので飲用水補給の聖地として神武寺は開かれたのでしょう。
・・・同じ様な立地の護念寺も、もしかしたら前身の御念寺は相当古いのかも知れませんね。

威徳明王が祀られたであろう一心堂の場所の話から威徳明王の像に話を戻します。
威徳明王の彫像は弘法大師の手彫りと伝承しています。
天長年間(824~834年)に弘法大師空海和尚が守敏僧都と法力争い(密教の問答だろう)をして威徳明王の威力で勝った事、更に威徳明王に関する宗論で守敏僧都を言い負かす事が出来たので掘った像が護念寺の威徳明王で嶋津又三郎の姫の竹姫様から元は鎌倉の浄土宗大本山光明寺の僧侶だった護念寺中興開山の淸蓮社浄譽圓海和尚(明和三年:1766年没)が拝領したと記載があります。

更に清和天皇(850~881年)の守り本尊だったのを嶋津家に伝えられていたと記載が有ります。
弘法大師は承和二年(835年)に亡くなっている事から亡くなる直前に彫られた仏像と言う事に成りますね。
そして、その後清和天皇に渡り、清和天皇の子孫の島津家にどういった経緯かは判らないものの伝わり、円海山に御縁が有って祀られる事に成った訳です。

次に竹姫は嶋津家=島津家の姫様は誰かと言う話ですが、実はココに誤解を生む罠が有ります。

この場合の竹姫の“姫”は父子関係ではなく尊称の“姫”なんですね。つまり御妻君も姫様と呼ばれるケースが有る訳です。例えば北条家から蒔田吉良家に嫁いだ“さき姫”や、前田家から義叔父の秀吉公の仲介で宇喜多秀家公に嫁いだ豪姫等は有名です。これを考慮すると謎は直ぐに解けます。

1766年に亡くなった浄譽上人が竹姫様から威徳明王像を貰っているから、威徳明王像が伝えられたのは1700年代と言う事が判ります。

この竹姫の“御身内”の嶋津又三郎サンですが、実は島津家歴代当主は“又三郎”を名乗っているので世代的には第五代薩摩藩主の島津継豊公の時代位の話しと解かります。
そして島津継豊公の継室(後妻)が竹姫なんです。しかも竹姫の人脈から更に凄い人達の名前が登場します・・・

御実家は権大納言と非常に地位の高い京都の貴族で、竹姫のフルネームは清閑寺竹姫、戒名が浄岸院です。
尚且(なおか)つ!徳川綱吉公の養女と言う立場に当たる人物です。そして薩摩藩主の妻。
凄いですね~!
当時の阿弥陀寺と奥院の護念寺の寺格の高さが解かるエピソードです。
何で竹姫が威徳明王を護念寺に寄進したか不明です。
もしかしたら・・・
御父上の継豊公が護念寺の圓海和尚に鍼灸治療をして貰ったのかも知れないですね。
圓海和尚の弟子で実際に護念寺の再興開基に寄与した法雲和尚と言う方は鎌倉の光明寺の僧侶だったそうですし、関東の浄土宗は織田信長公や徳川家康公が浄土宗(当時は法華宗として時宗や日蓮宗と一緒の別派閥と認識されていた)の信徒だった事から特に江戸幕府開府以来、他宗派よりも強く徳川幕府の庇護を受けていたので、その様な御縁が有っても不思議では無いんですね。
続きの阿弥陀寺の記事で書きますが、なんせ本院の阿弥陀寺の戦国時代の御住職は浄土宗のトップと京都知恩院で務めた任蓮社然譽了鑑大僧正ですから、この方の繋がりが有れば当然ながら徳川幕府とのコネクションは深いでしょう。
IMG_5705 
現代には護念寺の周りは私有地だらけになり横浜市の今の市長の政策では私道を遊歩道として通行出来なく成ってしまい円海山護念寺に通じる古道だらけですが・・・
今の道は今の道で素敵ですね。
この竹の道を過ぎると、清浄園と言う御寺の院号からとった墓地に辿(たど)り着きます。 
そこからは横浜港が一望でき、ランドマークタワーやベイブリッジが見えます。
IMG_5710
この日は生憎の曇天でしたが、紅葉に色づく円海山の眺望に満足できました。
IMG_5711
御住職は御灸の施術を予約すると直接面会出来ますし、色々と昔々の横浜の風景や文化の御話を聞けて楽しそうです。
今はこの奇麗な景色の中に有る古道は間にゴルフ場は横浜横須賀道路が出来たせいで完全に寸断されてしまっています。

IMG_5708
とにかく景色は良いですよ!
IMG_5712
実はこの円海山山系の大丸山含め、この地帯が昔の久良岐郡と現在の横浜市で一番標高の高い場所なんです。
・・・と、言っても海抜300mくらいですが、それでも海から2km程度内陸に入っただけの沿岸部なのでだいぶん高低差があります。
だから景色の素敵な場所でしょう?

護念寺の本院だった「阿弥陀寺」と「白山神社」の話は、また改めて別記事にまとめましたので別に御覧頂ければ幸いです! 


以上、久良岐のよしがお届けしました「強情灸」と「護念寺の凄い歴史」、楽しんでいただけましたでしょうか?
きっと皆さんの御自宅の近所にも凄い歴史偉人と繋がりの有る神社仏閣や御城の址の山が有りますよ!
ちょっと御近所を御散歩して、神社や御寺や城址の公園の看板を読んでみませんか?
思いがけず凄い人達と土地の繋がりを知れば、更に地元に愛着が湧くかも知れませんよ?

ではでは、次回は護念寺の本院だった円海山、峰の阿弥陀寺と白山神社の記事でお会いしましょう!


mixiチェック

名刀「正宗」をご存知ですか?
正宗工芸
※正宗工芸ホームページ画像
鎌倉時代から日本中に知れ渡った名刀で、安土桃山時代には豊臣秀吉が天下一の名刀と認定したことから全国の大名がこぞって入手した日本刀です。
正宗工芸美術製作所
今でも鎌倉駅のすぐ近くに工房があり、初代様から代々製法を受け継ぎ御子孫のダンディな刀匠が正宗を製作されています。
上の写真がそのお店の外観です。
今では規模は小さくなってしまいましたが、工房併設の店舗で日本刀も販売しています。
ここは映画もののけ姫で刀の鍛造の参考にロケハンに協力した工房でもあります。
現在は日本刀以外にも普段使いの包丁も製作されており、購入すれば日常生活に日本文化を取り込め有る意味財産で作る料理を食べられますね(笑)。
価格も1万数千円〜有り、少し良いお値段だけど手の出る値段です。しかも刀工の御店なので、ちゃんとメンテナンスもしてくださいます。
研(と)いで下さったり、研ぎ減り包丁の刀身が小さく成ったら「小刀」や「ペーパーナイフ」に改造して下さったりもします。
だから刀剣女子には持って来い(笑)!
小生は趣味で歴史散歩やグルメ以外にもシルバーアクセサリーを作るのですが、銀粘土を加工するのに正宗のペーパーナイフを使っています。
皆さん、鎌倉に訪れる際は是非立ち寄って見てください。
正宗工芸美術製作所がある事は神奈川県にとっては誇らしい文化的歴史的な遺産でもありますね。
CIMG3962
因みに、正宗工芸から歩いて15分位の鎌倉歴史文化交流館では正宗が展示してあります。
CIMG3961
そして平安末期~鎌倉時代の名将、畠山重忠公着用の鎧が武蔵御嶽神社に奉納されているのですが、甲冑制作師が制作した完レプリカの赤糸縅(あかいとおどし)大鎧も展示されています。
CIMG3963
この鎌倉歴史文化交流館の素晴らしい所は展示物が全て写真撮影可能な所です。
是非、鎌倉歴史文化交流館と正宗工芸、鎌倉観光の際にセットで訪れて見ては如何でしょうか?
CIMG3955
鎌倉歴史文化交流館
何でここを紹介するかと言うと、実はここは元は無量寿寺と言う大寺院の跡で、御寺が廃れた後は鎌倉時代~江戸時代迄正宗工芸の親方(社長)の御先祖様が住んでいて、ここで名刀正宗が生み出されていたんです!
CIMG4001
鎌倉歴史文化交流館の広い御庭の谷の奥、そこに刀の工房が在りました。
今は小町通の近くに在りますけどね~。
CIMG4031
無量寿寺跡の谷の台地の上には、名刀正宗の工房の守り神だった御稲荷様の台座だけが現存しています。神様はここが公共の施設に成る際に法律の問題で葛原岡神社に遷宮されました。
さて、実はこの正宗や平安時代の鎌倉で武士が佩刀した刀の鉄の産地も鎌倉郡に在りました。
上郷深田遺跡
上郷深田遺跡
飛鳥時代から平安時代の製鉄遺跡が発掘されており、後に武士達から軍神と呼ばれた源❝八幡太郎❞義家公達、古代の豪族や坂東武者達の武具の玉鋼の根源地だった場所があります。
ここは神奈川県現存唯一、関東最大の蹈鞴(たたら)製鉄遺跡である事が判明しています。更に30年前の調査発掘で最大規模だったのが更に追加調査で範囲も広がっています。また、山裾伝いに更に後の時代の蹈鞴遺跡も近在する可能性があり、その山の向こうには鍛冶ヶ谷地区が存在しています。
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
2019年05月現在、上郷深田遺跡も東急建設の開発計画で消滅の危機にされされています。
出来れば坂東武者達が身に付けた刀剣武具の産地であり、現在は横浜市に入っている栄区~港南区~磯子区~金沢区~鎌倉市にまたがるこの緑地、刀剣の文化と共に永久に存続する様に文化財指定して保護するべきだと思います。
ホタル10
ホタルが飛ぶ姿も見られるしね。
これから6月初旬、第二週の週末位になると蛍の飛び交う姿が最盛期を迎え、下旬に入り7月には蛍達は次第に命を終え数を減らします。
そんな蛍も生きる川を破壊されてしまえば、翌年から見る事も出来なくなります。
さて、正宗工芸!
小町通からも直ぐ近く!
2015-01-07-17-11-56
是非是非、鎌倉観光の際には訪れて、もし刀剣女子が彼女さんの男性や奥様が刀剣乱舞ファンの旦那様はプレゼントに❝正宗❞の包丁なんて如何でしょうか~!







mixiチェック

"本物の拉麺"の蘭州拉麺を中国本場の味で食べれる貴重な店が横浜市の伊勢佐木長者町に在ります。
KIMG1045
中国蘭州牛肉ラーメン 国壱麺
日本ではまだまだ少ない本格的な“拉麺”を食べられるお店ですが、横浜市ではもしかしたら、まだここしか“本物の拉麺”を食べれる場所は無いかも知れません。
日本のラーメンは拉麺とは呼べないスープ中華ソバと言う広いカテゴリーなんですよ、細かい事を言うと。そこら辺りは後で“面の種類”の解説をします。
KIMG1053

価格帯もセットで1000円前後とお手頃。
この写真は牛肉拉麺とツマミのお肉と豆腐の細切りがついています。これで1050円!
本当に伊勢佐木長者町は中華料理安くて美味しいのよ。
山椒で酸味が少しあるスープ。
とっても美味しいです!
小生は面の太さを“中太”くらいで頼みました。
KIMG2778
更に!セルフの🍧かき氷は無料で食べ放題!
KIMG1048
麺は目の前で打ってくれるので、太さを自由に指定できる。 
券売機での注文なので、良く解らない人も写真を見ながら選ぶ事が出来ます。
KIMG1047
券売機の画面にも表示されてますが“横浜ベイスターズの観戦チケットを持参すると割引き”のサービスを受ける事が出来ます!
国壱麺の拉麺は本当に中国で食べる蘭州拉麺と同じで美味しいんです。 
それもそのはずで、調理は中国から来た麺打ちのプロが行っていますからね。 
KIMG1046
小生のオススメは中太だけど、御店のオススメの太麺もモチモチして美味しいですね~♪
小生が良く行ってた上海や深圳なんかの南の方だと細い面が好まれています。
でも小生は太目のモチモチが好きなので中太を毎回チョイス!
KIMG2779
御店も綺麗でしょう?
KIMG1050
中国ではどの都市にも蘭州拉麺の店が沢山有ります。
日本ではまだ見る機会が有りませんが、拉麺は本来騎馬民族の文化由来の料理なのでトマトをふんだんに使用したパスタと焼き饂飩の中間の用な味付けの料理も多いです。
KIMG1051
御店の運営方式的には日本の立ち食い蕎麦屋の“富士そば”とかドライブスルーのフードコートみたいな感じで、そのまま御店を中華街のレストラン並みに綺麗にした感じです。スタッフは日本語が話せますが発音は良くない人もいます。恐らく言葉の問題を解消するのに券売機方式にしたんでしょう。
券売機は日本語、中国語ともに対応しています。確か英語も有ったと思う。
オリンピックに向けて、日本のファミレスなんかも英語対応の券売機方式を導入するか、ホールスタッフに ポケトークを持たせるべきなんじゃないかと思う。
御店の紹介はここまでにして・・・

・・・さて最近、新横浜ラーメン博物館と某学者が拉麺の文化について間違った事を流布しているので少し拉麺の事を解説します。
日本人が“拉麺(ラーメン)”と誤解しているのは“湯麺(たんめん=スープそば)”の意味で正しい拉麺の漢字の意味ではありません。
DSC_1109
家系豚骨ラーメンも拉麺ではありません。
実は拉麺(ラーメン)と言うのは面の製麺方法の種類を指すのですが、それを戦時中に中国に行ってた人達がラーメン=スープ中華ソバと誤解したまま戦後に中国から帰還した人達が中華料理やを開いて提供したので文字の誤植が発生したんですね。

拉麺とは文字通り、拉(ひっぱる)麺(めん)と言う意味で“手で延ばし打つ手延べ麺”の意味であり、日本人が戦後に持ち込んだ拉麺は機械で製麺し裁断した物なので拉麺とは呼べないんです。
「ラーメン=柳麺」と言うデマを新横浜ラーメン博物館と一緒に流布した文献しか読まない見聞乏しい学者に一言言わせて下さい。
柳麺は極細麺て意味ですよ。
あのね、文献ばっか見てるより、さっさと中国語勉強して現地取材して下さいね(笑)。
昔から百聞は一見に如かずと言いますけど、ラー博と某学者さん、それの悪例地で行ってますよ(笑)!
適当過ぎて草生えるwww!
歴史も文献ばっか読んで現地行かない、取材しない、子孫に聞き取りしたり保有してる文献を礼を尽くして見せて頂かず、ある文献の内容をコピペする学者ばっか(笑)。
そもそも、文献として残っているものは先人が先人に対して「騙す」為に書かれた物ばっか!その内容の真偽も調査せず・・・
見つかった!→はい、歴史認定~論文書いて発表ぅ~♪
・・・と言うロジックは普通に考えてバカ(笑)。数百年を経て又、騙されてるバカが権威を持ってると歴史が歪んで行く(笑)。やめてね本当に、ちゃんと現地行ったり当事者に聞いたり財産見して貰って確認して。
新横浜ラーメン博物館に「ラーメンのルーツは柳麺」て嘘を教えた文献しか見ないで現地の人にも聞かないし食べにすら行ってない学者(笑)さん、中国人に己の見聞の希薄さ晒して日本人に恥をかかせないで下さい。
中国人や中国駐在経験者なら「誰でも知ってる(笑)」事ですし、そもそも「漢字の意味見たら解りますよね?」て話しです。
柳麺と言うのは只の面の細さの種類でオーダーの仕方です(笑)。
日本人として他の日本人に恥をかかせないで下さいね、新横浜ラーメン博物館さん。
間違いは間違いです、さっさと訂正して下さい。

思うんだけど、日本の有名ラーメン店が国壱麺みたいな拉麺職人を導入したら工場制の物なんかよりコシが有って美味いスープに負けない最強の湯麵(タンメン)が出来ると思うんだけどな~。

では皆さん、百闻不如一见・・・百聞は一見に如かず。
是非是非、本物の面のモチモチを楽しんで見て下さい!
mixiチェック

本日、日本は旧暦の小正月。
いよいよ、旧暦の正月も終わり季節も本格的に花やぐ春に入ります。
wx_camera_1550525912934
今年は猪年。
因(ちな)みに日本で猪(いのしし)の意味で使われている“猪”の漢字ですが、本来の意味は“豚”です。
“豚”の本来の漢字の意味は日本語の“瓜坊(うりぼう)=子猪”の意味です。
日本人の言う所の豚は漢字では白猪と呼ばれています。黒豚なら黒猪に成るのかな(笑)?
中国、台湾、香港、マレーシア等の中華文化圏では豚は富の象徴であり財運と結び付けられています。
2015-05-02-21-32-59
日本で言えば井伊家の殿様を出世させた事で幸運の象徴化された世田谷豪徳寺発祥の“招き猫”文化みたいなモノかな?
4d33f3334018e
まぁ、だから彦根市のゆるキャラは彦根城主の井伊家の殿様、井伊直孝公の兜(かぶと)を被(かぶ)った豪徳寺の招き猫をデザインした“ひこにゃん”なんですよ。
そこら辺は以前、豪徳寺紹介記事で解説してるので御興味有る方は読んで見て下さい。
下⤵️クリックで記事リンク

それと小正月は満月を見る古代の祭事に由来しているんですよ~♪

明晩は満月🌕ですね~♪
だから猪=豚+金色の満月=金豚=発財=財運向上の日です(笑)。
なので写真も金豚(笑)。

神話の時代は考古学の縄文~弥生~古墳時代に当たりますが、当時の人々の生活と神社に残る神事は実は密接にリンクしてるんです。

現代の太陽崇拝の影響を受けた太陽暦で活動する欧州文化圏の暦に明治時代に改められる以前は、タイや台湾等のアジアの友邦と同じく日本でも月の満ち欠けを暦の基準にした陰暦(旧暦)で世界を見ていたんです。
CIMG6549
この間の皆既月食の写真ですが、古代の人にとって皆既月食はさぞかし恐怖に感じたんでしょうね~。
渡来人が来て稲作が持ち込まれる以前の我々日本の本来の在来種は縄文系の海洋民族遺伝子なので、海の潮の満ち引きに深い関係の有る月が生活の基準で、太陽信仰よりも月読(つきよみ)の神様つまり月読命(つくよみのみこと)が生活基盤だった名残りが今も有るんですよ~♪
今でも神職の方々が念じる蘇民祭=半年毎の大祓神事で祝詞(のりと)の口上は、天皇家の直接の皇祖神の天照大神ではなく、日本の原形=民族集団=各氏族の祖先神(部族長)の治める村々=原初の国々を生み出した、つまり初期の統治機構や交易の流通網を作り出したであろう伊邪那美命と伊邪那岐命の女夫(めおと)神様の名前ですよね。
その女夫神様から夜の世界を任せられたのが月読命で、大祓神事で半年間の“厄除”“魔除”“悪行をチャラ(笑)に”する御利益を授けて下さる素戔嗚命(すさのおのみこと)=牛頭天王(ごずてんのう)=武塔天神(むとうてんじん)様が治められた“海の世界”の生活にも深く関わっているんです。

あぁ~そうそう。
小生は敢えて夫婦(ふうふ)の字で夫婦(めおと)と書かずに江戸時代迄の人と同じ様に女夫(めおと)と書きます。
CIMG4335
“めおと”に夫婦の漢字を当て嵌めるのも近現代の漢字誤植ですから嫌いなんですよ。
同じ意味だから当て嵌めちゃったんですね。
CIMG4453
鎌倉観光すると昔からの鎌倉名物は女夫饅頭なので知ってる人も多いかも知れませんね。
CIMG4486
溝(みぞ)と書いて溝(どぶ)と読ませるのも近現代の漢字誤植です。
DSC_0952
田舎の人や城廓ファンは知ってますがドブは発音の通り“土腐(どぶ)”と正しくは書きます。
これは漢語ではなく、ずっと使われている日本語です。
よく城の沼堀の解説なんなかで目にします。

そして大祓は半年毎ですが、古代の人の1年は半年間でカウントしてたのだろうと言うのが最近の考古学の説だそうです。

途中から天照大神が重視されたのは、卑弥呼の頃の弥生時代の終わり~古墳時代の始まりに稲作が大々的に普及して生活基盤が農耕に移行したから、作物の実りや農耕に必要な灌漑用水の水の確保に支障が出る旱魃(かんばつ)=日照り=気温や日照時間、つまり天候と直接関係関係深い太陽信仰が重視されたからかも知れませんね。

さて!
今日、明日が発展と財運向上の金豚(笑)の日、御目出度(おめでた)い日です。
我々日本人の使う平仮名、片仮名、和体漢字のルーツ、漢字発祥地の漢人や友邦台湾の人なら日本の恭喜發財の日(笑)かな?

そして明日の満月の日~水戸市では水戸梅祭りが始まりますね~。
土曜日は皇太子殿下が天皇に即位される前の皇太子として最後のお誕生日でもあります。

皆さんにとっとも小生にとっても世界中の親日国の人にとっても向上と進歩と実りと幸の多い1年間に成ります様に~。



mixiチェック

品濃白幡神社の解説で、鎌倉時代~明治時代まで横浜市南部の神社仏閣を守って来た権現堂と泉蔵院と言う修験道の道場と、そこを戦国時代から治めた北条家臣間宮家の子孫の松本家と関家に少し触れました。
その時の記事、クリックで読めます⤵
商業街の中に在る戸塚区品濃の白幡神社と白幡山公園
・・・実は凄い歴史偉人と関係有ります。


その権現堂と泉蔵院が何故、横浜市南部の神社仏閣を支配する事に成ったか解説したいと思います。

横浜市南部の神社の多くは鎌倉時代から修験道の2系統の家系によって管理されていたんです。
1つ目は亀谷福禅寺権現堂(かめがやつ ふくぜんじ ごんげんどう)
2つ目は大靈山山崎泉蔵坊(だいれいさん やまざ きせんぞうぼう)
この二つは何(いず)れも修験道の大道場で、とても由緒有る神社であり寺院としての道場機能も有していました。新編武蔵風土記稿を読むと解かりますが、旧鎌倉郡と久良岐郡域の内、江戸時代に本牧奉行間宮家本家と、分家で江戸幕府鷹匠頭の杦田(すぎた)間宮家が支配した地域では、権現堂と泉蔵坊が神社を分けて統治していた記録が有ります。そして、この両社は源頼朝公が支援した修験道道場でしたので、その支配は間宮家の統治によるものと言うよりは鎌倉時代からの統治機構の名残りだったのかも知れません。
更には、旧鎌倉郡江島神社を管理した岩本坊間宮家、旧高座郡に当たる海老名市の古代相模国一之宮今五之宮であり延喜式内社の有鹿神社が存在しますが、戦国時代に海老名の中心部は間宮家の所領でしたし間宮康俊と言う殿様の時代に一度途絶えた有鹿神社の水引神事が復興されています。そして、相模国二之宮の川勾神社宮司家や二宮尊徳を輩出した二宮家にも間宮家から養子が戦国時代に入っていたりします。
ついでに少し品濃白幡神社から話を逸れて、間宮家や旧北条家臣団が如何に神社や修験道に宗教的な影響力を持っていたかを知っていると色々と解る事も有るので説明して置きたいと思います。
IMG_4205
上の写真は旧杦田郷(すぎたごう)の現代の港南区と磯子区の境に跨る笹下城本丸跡地形。
この笹下城跡の本丸は三井不動産レジデンシャルによって右側の大空堀が掘削された後に盛土され一部破壊されましたが今も介護施設の裏山として存在しています。
安土桃山時代に豊臣秀吉の小田原北条家討伐戦で間宮家は、当時の笹下城主で間宮家当主の間宮康俊公が72歳の高齢で玉縄城主北条氏勝公与力の付家老として箱根山中(三島市側)の山中城に籠城します。
この時に間宮康俊公の寄親(上官)の北条氏勝公が敵前逃亡して玉縄衆兵3,000を率いて玉縄城に撤退してしまうのですが、間宮康俊公だけは山中城主松田康長を見捨てず山中城に籠城し続けました。
e7634426
写真はGoogle earthで見た山中城址の航空写真。
笹下城主間宮家臣団兵200、松田康長公の部隊兵100の合計300で籠城、豊臣秀吉本隊80,000の大軍勢を迎え撃ちます。
敵は本隊先方豊臣秀次隊・与力豊臣家小大名の中村一氏隊と家臣の渡辺勘兵衛隊・堀尾吉晴隊、山内一豊隊、一柳直末隊の合計26,000余。
右翼、池田輝政隊20,000。
左翼、徳川家康隊30,000。
援軍主将で間宮家の上官だった北条氏勝公が撤退していなくても戦力比は圧倒的不利でした。
北条氏勝公逃亡前 三千余 対 八万余の豊臣軍 
戦力比 1:26
つまり北条家は1人26殺しないと勝てない。だから北条氏勝公は家臣等に説得されてしまい小田原防衛網を放棄逃亡して自領に逃げてしまった訳ですね。
そして間宮家以外の玉縄衆が全部撤退してしまった後の山中城籠城勢 対 豊臣軍の戦力差は更に絶望的な物と成りました。
松田・間宮連合(山中城籠城勢) 300 対 26000 豊臣軍先方 豊臣秀次隊と与力小大名衆。
戦力比 1:86。
1人86殺、常識的には反抗するのも無理な次元での籠城戦、普通は誰も助けに来ない。

なんで品濃白幡神社の説明で戦国時代の間宮家の説明に成るんだろうな~?と歴史に興味が無い人はここまで読んで頓珍漢(とんちんかん)に話がズレてると思うでしょうが、実はここから品濃白幡神社のみならず神奈川県域の全神社にも繋がりが出てきます。
この超絶不利な状況で間宮家の籠城する山中城に僅(わず)かな援軍を出した勢力が一つだけいました。
・・・それが実は延喜式内社、大山阿夫利神社と別当寺の大山寺を守っていた神官僧兵達でした。
2015-01-10-13-27-17
写真は伊勢原市の大山国定公園遠景。大山の三角形の山体と頂上の石山権現と言われた奇岩が縄文時代からの信仰対象で、古来聖地として発展し、神道や修験道や真言宗の聖地として多くの僧兵を抱える一大勢力でした。
豊臣家による北条征伐の過程で発生した超絶不利な間宮家による山中城の防衛戦で間宮家を支援したのが決死隊として大山から参陣した神官僧侶を兼ねる修験者の僅かな部隊でした。
DSC_2782
写真は宗教、築城、鷹狩、有職故実に精通した間宮家が山中城防衛強化の為に三の丸の更に先に増築した岱崎出丸の先端、三日月掘りと言う構造体。
この岱崎出丸で先ず間宮家は修験者部隊と協力して豊臣軍26000の大軍を迎撃して鉄砲隊で散々に損害を与え、敵大名の一柳直末公を討取ってしまします。
更に間宮家・松田家・大山修験者僧兵達は一人残らず討死しますが、何と戦が終わった時には驚愕の籠城兵300で敵戦死者3000余、損害多数の戦果を残していました。
この事からも判りますが圧倒的に不利な合戦でも多くの神社仏閣を管理した大山阿夫利神社と大山寺の僧兵達から支援される程に宗教的な家格が高かったのが間宮家な訳です。
2014-07-27-16-21-35
写真は大山の参道に建つ宿坊の一つ、東学坊。大山名物の美味しい豆腐や猪の料理を食べられる旅館。
大山の修験者の多くは安土桃山時代に武器を捨てて僧兵を辞め、江戸時代に成ると先導師と呼ばれ聖地礼拝の観光客相手に宿坊と呼ばれる神社寺院機能を備えた旅館を経営し大山観光産業の一翼を担い現代に至ります。
江戸時代の神仏分離までは伊勢参り富士山参りに次いで大山詣でが江戸市民から人気の観光地でしたから今も関東の各都市には大山街道が残っています。
CIMG6797
間宮家所縁(ゆかり)の町ですと杉田商店街のメインストリートが近代に再整備された横浜~伊勢原線で大山街道の一つですね。
間宮家は、この山中城の戦いの活躍に加えて江戸時代に徳川家康公の旗本となり氷取沢間宮家初代と成った間宮康俊公の御実弟の間宮綱信公が北条家の外交官として織田信長公への外交使者を務めたり、徳川家康公にも外交使者を務めて名が知れていた事や、間宮家が武家にとっては貴重な材木と海運のノウハウに加えて宗教と宗教建築知識と鶴岡八幡宮再建事業での実績が有る事、そして極め付きが一般的な武将が保有しない武士の教養である鷹狩に必要不可欠な鷹育成の特殊技術を有していた事から分家の杦田間宮家の間宮信繁公が徳川家康公の参謀 兼 鷹匠頭として登用されました。
2015-01-21-13-16-37
写真は杦田間宮家菩提寺の妙法寺の山門。境内には今も杦田間宮家歴代殿様の巨大な御廟所が有る。
この杦田間宮家の間宮信繁公が、関ヶ原の戦いで徳川本隊3万の前進を進言して小早川秀秋公の東軍寝返りを実現させた名軍師でした。この小早川勢寝返りの工作を進めたのが間宮家と同族の宇多源氏黒田家の黒田長政公でした。
この間宮信繁公の姫が、初代久能山東照宮の大宮司の榊原照久公に嫁いでいる事からも宗教的な間宮家の家格の高さが解かりますね。
そして間宮本家の笹下間宮も名軍師を輩出します。

DSC_0884
写真は磯子区田中の妙蓮寺、間宮直元公と奥方の菩提寺。近年まで直元公の彫像を御神像とする御社が有ったが火災で焼失したが、奥方の墓所は現存する。
間宮直元公です。この人が徳川幕府による豊臣家攻め大坂城の戦いで真田幸村籠もる真田丸や大坂城総掘りの埋め立て作戦を直接徳川家康公に進言し、真田幸村の軍略を無力化させ豊臣家を滅亡させる留めを刺した名軍師でした。間宮直元公は間宮家の土木知識と水運技術を活かして二代目佐渡金山代官、初代但馬奉行、生野銀山代官、初代本牧奉行(神奈川奉行=横浜市長の前身)を務めた人物でもありました。
つまり間宮家は武家としても重要人物達と繋がりが有るだけでなく、中世の宗教者達とも希有(けう)な太いコネクションと信頼関係を築き、宗教建築や土木技術と教養も有した文武両道の学者気質武家の家柄だった訳ですが・・・
旧鎌倉郡に当たる品濃白幡神社や下永谷の神明社等を近年まで管理したのが関家で、この家も又、間宮家同様に‟旧北条家臣”の関一族でした。この関と言う家は北条家臣団でも最古参の部類で、北条(伊勢)家と同族の伊勢平氏です。間宮家は北条家臣中、相模十四騎筆頭と呼ばれた家でしたが、つまり関家も小田原北条家の重臣の一人でした。
品濃白幡神社を含めて横浜市域では権現堂家と関家が横浜市南部の神社の多くを近代まで支配下に置いて管理していました。
余談ですが江戸の宗教も旧北条家臣伊丹家が大きな影響を持っていて、浅草寺や深川の富岡八幡宮等はその伊丹家が関与した場所でした。伊丹家は戦国時代に北条家臣として金沢区釜利谷に所領を与えられていましたが、関西に残った同族の伊丹家の子孫からは仏師として有名な江戸時代の彫刻家の左甚五郎も排出しています。日光東照宮の社寺建築で大きな功績を残した名工ですね。この伊丹家は源頼朝公が開いた金沢八景駅前の瀬戸神社や、その御分霊を頂いて伊丹家が開いた手子神社を支援した家です。
その伊丹家や間宮家と同じ旧北条家臣で北条家と同族の伊勢平氏の関家で富岡八幡宮や品濃白幡神社や永谷神明神社に影響力を持っていて、間宮家が久良岐郡を江戸中期に離れてからは泉蔵院にも関わりが有りました。

因みに家紋を比較すると色々と面白い宮司家の秘密が解かったりしますよ・・・

北条家:三鱗紋と対蝶文
三つ鱗紋対い蝶紋

関家 :揚羽蝶
揚羽蝶紋

揚羽蝶の家紋から両者が伊勢平氏で同族である事も判る様に成っている訳です。
では間宮家と福禅寺権現堂家の家紋も比較しましょう・・・
間宮家:隅立四目結紋
隅立て四ツ目結び紋
権現堂:丸に隅立四目結紋
丸に隅立て四ツ目紋

現代人には「家紋なんて好きに使えば良いじゃん?」って意味も理解していない人も居ますが、家紋は勝手に変えちゃいけないし、祖先や親戚の本家や上司から親族や重臣として認められて与えられないと勝手に使っちゃいけない物なんです。
ちゃんと自分が何処の出身のどの家系か、いつの時代に分岐したり活躍したかを辿(たど)れる言うなればレポートの索引のページを表す記号みたいな役割が家紋には有るんですよ。
因みに〇で囲みの有る家紋は一般的に本家から独立する時に分家が与えられた家紋だったり、神社仏閣の寺紋や社紋なら支援した殿様に重視され大切にされた証として〇で囲んだ殿様の家の家紋の使用許可を頂く場合が多く有ります。
例えば・・・
三つ鱗紋
北条家の三鱗紋ですが、鎌倉時代の鎌倉幕府執権北条家や戦国時代の北条家や分家の玉縄北条家や神保家が支援した御寺や神社では下の家紋が使われます。
丸に三ツ鱗紋
丸に三鱗紋。
これを使う神社は鎌倉幕府執権の北条時頼公が支援した鎌倉の宇賀福神社(銭洗い弁才天)や、金沢北条実時公と戦国時代の北条家と江戸時代の間宮家が支援した南区の寶生寺、玉縄城主北条綱成公が支援した磯子区の龍珠院、金沢区の伝心寺等が有ります。
ね?家紋にも意味が有るんですよ、家系や神社仏閣の歴史を辿れる。

・・・少なくとも戦国時代から最近までずっとそうだった訳です。
では権現堂家と関家の解説をしたいと思います。
1つ目、福禅寺権現堂と森浅間神社
権現堂は、元は源氏の元の本拠地の鎌倉市亀ヶ谷に在った修験道の聖地を管理した権現堂住職の家系で港南区港南に機能移転して来ました。
福禅寺は元は神仏習合の修験道の門跡寺院で鎌倉時代に源氏将軍家が暗殺され、九条(藤原)将軍が政略で失脚させられ、その後に天皇家から将軍を迎える様に成った時代に将軍家同様に皇族を住職に迎えた由緒正しい修験道系の道場、神様と仏様の両方を祀り天下泰平の祈祷を行う天下有数の道場でした。
この福禅寺の“名代”である権現堂を受け継いだ家系は現在姓を松本と名乗りますが、間宮家の家系図では江戸時代に本牧奉行を務めた間宮家の本家の笹下間宮家から養子が入っています。
2015-06-10-09-06-23
磯子区森(屛風ヶ浦)の森浅間神社は元々、権現堂の聖地霊場として源頼朝公によって開かれた場所なので、現在も権現堂家が宮司職を引き継いでいます。福禅寺歴代住職は就任する際に必ず森浅間神社で就任儀式を行っていました。
CIMG7118
写真は東京都青梅市二俣尾の海禅寺(旧:福禅寺)。
室町時代中期に東京都青梅市二俣尾に扇谷上杉家と三田家によって福禅寺が再興されますが、これが扇谷上杉家が滅亡してから後の北条家統治下の間宮康俊公の時代に唐突に‟天皇家勅願所”に成った事からも間宮家の宗教的な影響力が理解出来ます。
この福禅寺から戦国時代に間宮康俊公によって和尚様を招いて再興されたのが、間宮康俊公の曾祖父の間宮信冬公によって開かれたと伝わる鶴見区下末吉の寶泉寺です。
CIMG1532
これらは全部、歴史を辿ると繋がりが有ります。
そして権現堂は福禅寺名代の格式を得ていた事が当時の手紙に記されており、鎌倉時代には福禅寺は皇族の長円親王が住職を務めていた門跡寺院に成っていた歴史から格の高さが解かります。
それ故に旧久良岐郡の全ての神社の内、泉蔵院の統治した神社以外全ての管理を行っていました。その存在意義が関係する神社仏閣の歴史や関わった歴史偉人からも良く理解出来ます。

2つ目、大靈山 泉蔵院 桐谷寺(現:磯子区中原の熊野神社)
DSC_1261
ここは明治政府の宗教改革の失敗の代表例である廃仏毀釈で修験道道場寺院機能を廃止されて規模が縮小されてしまって今では住宅街の中の小さな熊野神社ですが、元々は鎌倉市山崎に存在し源頼朝公が福禅寺権現堂同様に重視した修験道の道場の山崎泉蔵坊の聖地として開かれた熊野神社でした。
鎌倉時代末期の新田義貞による神社仏閣の焼き討ちや、室町時代にも上杉禅秀の乱や永享の乱で鎌倉では戦火が治まらず寺院の維持が困難に成り、今の磯子区中原の熊野神社に山崎泉蔵坊の機能を移転して本拠地として大道場化し寺号も大靈山泉蔵院桐谷寺と改め明治時代まで繁栄しました。
久良岐郡域と鎌倉郡域で権現堂が支配した神社以外、修験道系神社は全て、この泉蔵院が統治していた事を新編武蔵風土記稿の中で間宮家の子孫で東京大学前身の昌平坂学問所頭取を務めた間宮士信公が書き残しています。
DSC_1263
この熊野神社や富岡八幡宮に強い影響力を持っていたのが関家でした。
この関家の一族は旧北条家臣団として間宮家同様に武蔵国域~相模国域まで広く分布していましたが、現代では宮司家としての関家は家系が途絶えてしまいました。
しかし例えば都筑区には関一族の末裔の旧家が文化財として残っていたりします。
sekikezenkei1 横浜市教育委員会より拝借
※画像は横浜市より拝借。
北条家臣団の城持ち級の武士の1560年前後の所得を記した北条家の所領役帳を江戸時代に写した小田原北条所領役帳と言う文献にも、関家も間宮家も一族の武将が領地名と一緒に登場します。
間宮家は別の解説記事で以前、所得を書いているので今回は関さんの領地がどんな感じに分布していたか現在の地名と照らし合わせて見てみましょう。

関新次郎
泉水寺領(地所不明)※小田原市、足柄下郡、南足柄市、足柄上郡の何処か
四宮長沼共ニ(平塚市四宮周辺)
富岡之内(横浜市金沢区富岡) 本郷買得ニ替而被下

関兵部丞
羽鳥辻堂(藤沢市羽鳥~辻堂の一部)
鶴間(相模原市~大和市の林間と鶴間の地名の付く地域周辺)
飯嶋(平塚市飯島)
北大繩(平塚市岡崎辺り)
一宮(地所不明)※多摩市一宮or寒川町
宿立(川越市山田)
岡郷(横浜市磯子区滝頭~岡村町一帯)

関弥次郎
新土今里(平塚市真土)
台之村(鎌倉市台)

関さんの土地は、まぁ~こんな風に埼玉県~東京都~神奈川県域に散らばって存在していた訳です。
安土桃山時代の記録は残っていませんが、北条家の所領も関東全域に広がって行ったので関東全域にも関さんの土地が有ったかも知れません。
そして、その土地に根差し分家に成って行った人達が多く江戸時代に庄屋サンとなり神社や御寺を守り、明治に成ると神社の宮司や地主として昭和の最初の頃まで土地土地の歴史を守って来た訳ですね。
そして関さんの一族は北条家滅亡後に御先祖様の出身地である伊勢神宮の在る伊勢国に移住した一族もいるので、北条家臣団の中でも元々、間宮家と同じく宗教的な知識を深く保有する家系だったのかも知れません。
領地がある場所も神奈川県域では延喜式内社の所在地や比較的有名な神社の在る場所ばかりですしね。
前鳥神社とか富岡八幡宮とか岡村天満宮とか。

まぁ~、関家が磯子区の泉蔵院や杉田周辺にどの段階で関与したかは不明ですが、近代には横浜市域の海苔の養殖等を振興し活躍された関寅吉さんの様な人物も排出したり、殿様じゃなくたってからも宗教文化でも地域振興でも活躍した家系だった様です。
間宮家も江戸時代に間宮林蔵や杉田玄白や間宮士信等の学者を輩出して、宗教では江ノ島の岩本間宮家が真言密教系修験道として明治まで寺院機能を保持して江島神社を管理していました。
そんな関家や間宮家と、泉蔵院と権現堂が横浜市南部の多くの神社を守って来たんですよ~と言う解説でした。

間宮家につてはタグ検索‟間宮”で色々と記事が有りますので御興味有る方は、下をクリックして関係記事を読んで見て下さい。
これクリックで間宮家の関係記事リンク→●間宮家

今回の記事は御寺や神社の‟歴史”に興味が無い人には本当に興味が湧かないかな?
でも実は横浜市南部の神社や御寺には源頼朝公以来の統治機構や、戦国時代からの家系がそのまま残っていた場所も多く有るんですよ~てのが皆さんには伝わったかな?

次は北条家臣で官僚だった横浜市北部の殿様の中田加賀守の関係先の御寺の紹介をしたいと思います。
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
mixiチェック

朝方、伊勢原市の伯父宅で浴衣に着替えた。
DSC_0950
平塚七夕祭りに行く為にお着替え。
そこから岡崎城址の本丸址に建つ無量寺に御参り。
DSC_0951
尊敬する三浦義意公と義意公の御父君で岡崎城主だった三浦道寸公の御霊に御本堂で御参りしてから平塚八幡宮に向け移動。
DSC_0954
事前に平塚市観光協会に問い合わせし、崇善小学校が臨時駐車場に成るのを確認しておいたので難無く駐車完了。
DSC_0957
DSC_0958
平塚八幡宮で御参りを終えると・・・
怒濤の食倒れ開始!
DSC_0966
78kg体脂肪率12%骨格筋肉量40kgに絞った身体が4000円分の飲み食いで帰宅したら5kgリバウンドしてたで御座る(笑)。
因みに食べた物と風景はこんな感じ・・・
DSC_0959
DSC_0960
DSC_0961
DSC_0962
DSC_0963
DSC_0964
DSC_0965
DSC_0966
DSC_0967
DSC_0968
DSC_0969
DSC_0970
DSC_0975
DSC_0976
DSC_0978
DSC_0979
DSC_0981
DSC_0982
DSC_0983
DSC_0984
DSC_0985
DSC_0986
DSC_0987
DSC_0988
DSC_0989
これ以外に大量に液体摂取してました。

平塚七夕祭りは今夜一杯が最高潮の盛り上り、皆さんも暴飲暴食に要注意(笑)。

では!
mixiチェック

前回【休日雑記】2017年11月22日の訪問先その②震生湖~福寿弁才天社~八坂神社~出雲大社相模分祀編・・・秦野市北西部の震災の生んだ紅葉名所と神社編。←コレの続き。
22日訪問その③
出雲大社本社の分社であり関東における出雲大社の拠点である出雲大社相模分祠での参拝を終えると車に乗り込んで最初に向かったのが源実朝(みなもとのさねとも)公の首塚だ。
実は源実朝公が鶴岡八幡宮の階段の大銀杏横で暗殺され首を切断された際に、その御首は紛失して行方不明に成ったとする学者がいたりするが、ちゃんと鎌倉と一見関連の無さそうな地域でも歴史を紐解くと実朝公の首塚が記載されていたりするもんなんだな。
現在では、その首塚は秦野市の田原ふるさと公園と成った広場の片隅に御廟所と石塔が有り地域の人に鎌倉時代からずっと守られている。
CIMG5611
普段なら初見の人は解りづらい農道と住宅街の道なのだが・・・
小生の訪問した11月22日は初見でも訪問し易い状況だった。
市指定史跡源実朝公首塚(田原ふるさと公園)CIMG5612
翌日の23日が鎌倉幕府第三代征夷大将軍の源実朝公の命日なので地域の人が総出で八百回忌の供養と毎年行われる実朝公顕彰の御祭りである“実朝まつり”の準備をしている最中で天幕やら実朝まつりと書かれた看板が用意されていたのだ。
この日は土曜日、小生は翌日の日曜日は仕事だったので1日早い実朝公の追善供養の参拝と成った。
実は偶然の命日直前の訪問。こう言った尊敬する先人の命日には何故か御縁が有る小生・・・
オカルト的なものじゃなくて、普段の尊敬から来る行動と興味でエンカウントする確率が自然に高くなるんだろうと思う。
小生は毎日、祖先神と母方の祖先が崇拝していた神様、そして両系統の御先祖様、自分が崇拝する土地神様、それぞれの時代の神様と仏様、妙法蓮華経、般若心経、無量寿経の題目、それに加え尊敬する歴史偉人、幼少期に御世話に成った義祖母と、学生時代の恩師の名を念じ、或いは心の中で唱え毎日の御挨拶と前日1日無事に過せて新たに1日を迎えられた御礼をする。
・・・その歴史偉人の中に横浜に深く関わった河内源氏の殿様達も含まれていて、特に源頼義公・源義家公・源義朝公・源頼朝公・源頼家公・源実朝公にも名を唱え感謝を伝える様にしている。
無論、時間が無い時は「源頼義公、義家公、頼朝公始め河内源氏の殿様方」と簡略化させて頂く場合も多いが。
だいたいスポーツジムでウォームアップに30分走る間に丁度、全部言い終わる位だ。勿論、ジムでブツブツと独り言を言っていたら危ない人なので(笑)そんな事はしない。周囲に人がいるなら心の中で唱える。
そんな訳で、源実朝公の命日の前日に御参りで来たのが偶然でも良かった、普段から守って頂いていると勝手に思っている感謝を伝えられたから。
因(ちな)みに「念」と言う言葉について一つ解説をしておきたい・・・
余談だが頭の中で言葉を読む事を“念じる”事だと勘違いして“念”の動詞を使う日本人が多いが、これは誤用で漢字の意味を間違っている。念(ねん)は中国語の念(Nian=ニエン)を古代日本人が朝鮮訛りで読んだ結果、先ず発音が念(ニエン)○ではなく念(ねん)×で伝わってしまった。そして次に意味も間違って用いられる事が現代では多い。
中国語で学習を促す時に「念書(Nian Shu)」と現代でも言う事が有るが、これは丸暗記する為に音読して精読する事を指す。
本来の“念”と言うのは声に出して唱える事を意味する動詞なのだ。
だから「念じろ!」と言われたら言葉に出して唱えないといけないのだ。決して「頭の中で念じる」と言う事は成立しない。あくまで“声に出して言う”事を“念”と言う。
もし教養が無く嘘ばかり言ってる偽霊能者が「頭の中で念じる」とか言ったら「コイツ馬鹿な詐欺師だな」と思って置けば良い。
そんな“念”の一文字が動詞として浸透したのが、丁度、鎌倉時代、源実朝公が生きた頃の話で浄土宗の開祖の法然上人と直弟子の親鸞上人、そして日蓮上人と踊念仏の一遍上人達が布教した念を精神修養に取り入れた“法華宗”にカテゴライズされた仏教の影響だな。
現代では完全版が伝わらない法華経の教えを元にした宗派で、源頼朝公や源実朝公そして北条義時公も大切にしていた経典だったりする。源頼朝公や河内源氏の歴代殿様は、法華宗の他に真言宗と修験道と神道も非常に大切に信仰していたりする。
源実朝公は法華経を“転読”しているので、つまり“題目を念じた”らしい事も現代に伝わっていたりする。
CIMG5830
上の写真は鎌倉市浄明寺地区衣張山の釈迦堂切通し。
北条義時公の子で鎌倉幕府第三代執権と成った北条泰時公が、北条義時公の没後に供養の為に付近に釈迦堂を建立した事に名前が由来する。
話を源実朝公に戻す。
甥っ子で出家していた公暁(くぎょう)に暗殺された際に首は持ち去られたとされている。ここまでしか調べない或いはメジャーな文献しか読まない連中は「首は行方不明」で終わっている。
2015-12-08-16-16-26
上の写真は鎌倉市の寿福寺の参道、今の季節は多くは無いが紅葉も美しい。
現在の源実朝公の菩提寺は鎌倉の亀谷山金剛寿福禅寺とされているが実は全く関係無い。まぁ、鎌倉市の扇谷地区に存在する“臨済宗南禅寺別格 鎌倉五山の第三位”の格式を歴代将軍から与えられていた御寺で由緒正しい事と母親の北条政子様の菩提寺なので合祀されているのだろう。寿福寺の所在地は元は源氏の邸宅跡でもある。
しかし本来の御廟所は鎌倉市浄明寺地区大御堂谷(おおみどうがやつ)に存在した廃寺:阿弥陀山勝長壽院(しょうちょうじゅいん)に亡骸が葬られたと記録されている。しかし御首は見つから無いまま亡骸が葬られたので勝長壽院には“胴塚”が存在したのだろう・・・
まぁ、源実朝公暗殺には伯父の北条義時公が不可解に鶴岡八幡宮参拝の式を途中で早退したとか中門で待機していたとか各文献の記載が矛盾していたり、肝心の実朝公の“首が見つかっていない”とされていた事からミステリー満載で実は首謀者とされる義時公が暗殺を察知し実朝公を逃がした生存ルートも小生は推測していたり・・・
北条義時公と三浦義村公が結託して源氏の血を根絶やしにした従来の有力説も有り得るとも思っている。
CIMG2984
写真は横須賀市衣笠城址の衣笠山大善寺。
大善寺は三浦一族郎党の学問所として機能した元は真言宗で現代は曹洞宗の寺院。
小生が実朝公の生存シナリオも有り得ると思うのは、実は暗殺の前に源実朝公は朝廷から高い官位をバンバン与えられているが・・・
実はこれは日本の歴史を見ると解るのだが、天皇子孫の平氏源氏等の元皇族や古代豪族有力者を藤原家が暗殺する際の悪い兆候なのだ。官位を上げておいて朝廷に参内させたり、官位受領する相手へ使者を送っておき使者によって相手の側近を内応させる。そして毒殺させたり謀反を起こさせたり陰謀に嵌(は)めるのが汚い藤原家の常套手段な訳だ。小生と多くの歴史家が指摘するが藤原家は蘇我嶋大臣馬子=蘇我馬子を暗殺し蘇我の財産と地位を乗っ取った“百済王族”と言うのが現代では説の1つに成っているが、彼等藤原家は古代から天皇家と血縁の有る豪族を陰謀で暗殺したり、天皇家から臣籍降下して源氏や平氏として豪族に成った関東の武士を平安時代から度々陰謀に陥れている一族だったいたりする。
源頼朝公
実朝公の父上の源頼朝公も落命前日と当日の症状はヒ素中毒が推測出来て、暗殺の容疑者は北条時政の婿の稲毛重成だろう。首謀者は北条時政。そして北条時政は色ボケと勘違い権力欲から源実朝公も暗殺しようとした悪人で子の北条義時公や孫の北条泰時公からも嫌われてロクに供養もされていない。
この老害の北条時政は京都に滞在していた期間が有り、藤原貴族に欲を突かれて煽動される動機が有るし性格的にも自己中心的で利己的な面が強いのでやりかねない。
暗殺事件発生の数年前、源実朝公が急速に官位が上がると側近の大江広元公と北条義時公は“不吉=暗殺”を憂慮していたので諫めている。この憂慮が後に実際の事件に成ってしまう・・・
建保七年(1219年)に鶴岡八幡宮に参拝した際に暗殺される。この参内に先んじて源実朝公に対して側近の大江広元公は「腹巻(歩兵用の体にフィットした胴鎧)を衣服の下に来て下さい」と用心する様に進言していたりする。更に北条義時公も中門に待機しているが中には入れない。
・・・結果的に甥の公暁に暗殺された(事に成っている)。
つまり実は大江広元公も北条義時公もアンテナを張っていたので何か察知していたのだろう。源実朝公は血縁的に北条家と縁が深く、兄で先代将軍の源頼家公は北条時政に暗殺されたのだが頼家公の方は比企家との縁が深かった。つまり鎌倉御家人達の間では“兄弟のどちらを傀儡(かいらい=飾り)将軍にするか”で自分達の出世が関わり権力闘争に図らずも巻き込まれていたのだ。
①従来の説通り北条と三浦に煽動された公暁に殺された。
②藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が守ろうとしていたが失敗。
③藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が実朝公の影武者を用いて南宋に逃がした。
④暗殺を察知していた源実朝公は波多野家と共謀し影武者を立て自力で南宋に逃げた。もしくは別人と成って生き延びた。
上記のどれかだろう。
暗殺の数年前から実朝公は南宋に渡航つまり亡命しようと試みた節が有るのも暗殺の兆候が有ったからだろう。
一般的に源実朝公は文化傾倒し武人らしからぬ暗愚の“迷”君と認識されがちだが鎌倉の町を歩くとそうでは無い事が非常に良く解る。
CIMG5868
鎌倉市の二階堂川に有名な逸話を残す石碑が有る。
CIMG5867
澁河兼守(しぶかわかねもり)と言う武将が幕府重臣の合議で謀反人の嫌疑をかけられた。
この事件の発端は先代将軍の源頼家公に忠義を感じる御家人や、源実朝公ー北条義時公ラインによる権力占有を懸念した“反北条派閥”による謀反が発覚した際に、渋川兼守公は無実の罪を着せられた訳だ。しかし貴族カブレの振りをしながら藤原家による幕府御家人内部分裂誘発の陰謀を察知していたのか、源実朝公は御家人達の団結を促したり権力で冤罪を晴らしてやったりして度々、父の代からの御家人の命を救おうとしている。
この澁川兼守公も真実が伝わる様に和歌好きな実朝公の目に入る様に和歌を10首程詠んで暗号を入れたかして当時は鎌倉から東に向かう時に参道の前を通る荏柄天神社に和歌を描いた紙を掲げておいた。
image
すると実朝公の耳目に触れ真実が伝わった様で、澁川兼守公は“実朝公の独断と権威による命令で命を助けられ”御礼に当時は通行不可能だった二階堂川に“歌の橋”を掛けて新たにショートカットの街道を開いて謝礼を表したりしている。
他にも畠山重忠公の御子息の畠山重慶公が謀反の容疑をかけられると、捕縛に向かう長沼宗政に「活かして捕縛する様」わざわざ指示を出したのに長沼は“将軍実朝公の命令を無視して畠山重慶公を殺害”してしまった。この際も実朝公は「何で殺したか!無実かも知れないだろう!」とかなり怒っているので、鼻から無実だと確証が有ったのだろう。
因みに長沼家は“藤原一族”であり反実朝公の人物だったんだな。
源実朝公は武士達の貴族の陰謀に乗っかった権力闘争に飽き飽きして南宋に亡命しようと画策した痕跡も有ったりする。
まぁ、そんな歴史が有って複雑なのだが、小生は実は実朝公暗殺は朝廷を私物化した藤原一族による御家人を巻き込んだ陰謀で、防げないと思っていた北条義時公により替え玉が準備されて“実は南宋に逃げた”ので“人物特定される首が行方不明”に成ったんじゃないか何て可能性も少しは有ると思っている。
仮に北条義時公が源実朝公暗殺の首謀者ならば、首を紛失させる意味が解らない。寧ろ、助ける側なら身代わりの人間の首を隠すのは意味が解る。
そして・・・
CIMG5620
そうだとしたら、替え玉と成って殺されたのは11月22日に訪問した、この実朝公首塚に眠っている人物のはず。
・・・実は首塚の有る“田原ふるさと公園”は鎌倉御家人で北条義時公に味方した波多野家の邸宅跡なのだ。
CIMG5613
ここの事を知らないメジャー文献しか読まない歴史学者も多いだろう。
CIMG5614
そして波多野家の詰め城も近い。
CIMG5615
仮に首塚に御首(みしるし)を葬られた人物が実朝公の替え玉なら、主君を藤原家の陰謀から救う為に北条義時公と隠密裏に実朝公を逃がす為に一族から犠牲を出した証拠に成り忠臣と成るだろう。
そして本当に源実朝公が暗殺された張本人ならば、御首を取り返し北条家に粗末に扱われない様に隠密裏に自家の邸内に埋葬した忠臣と成るだろう。
どちらの仮説を用いたとしても、実は当時の波多野家には源氏に対してそれだけ忠義を尽くす動機が十分に有る事を歴史オタクでもないと知らない。
波多野家は波多野義通公の姫が源頼朝公の御父上の源義朝公の側室と成って、頼朝公の兄の源朝長公を生んでいる。残念ながら源朝長公は保元の乱に参戦した際に傷を負い、それが元で発病し自害しています。そんな訳で源氏と縁が深い上に実朝公暗殺事件発生当時の当主の波多野義重公は妻が北条義時公の姪っ子だった。つまり北条義時公とも血縁が有った北条派=実朝派の先鋭だった訳だ。
・・・だから十分に一族から実朝公の替え玉を出すなり、首供養する成りの動機が有る。
CIMG5617
今では御廟所は綺麗にされて石碑も有る。
CIMG5621
立派な御神木も目印に成っている。実朝公は白幡神社の御祭神の内の一柱の神様なのでここは霊廟であり日本古来の価値観では白幡神社の代りの場所でも有る訳だ。
そんな首塚の近くには金剛寺と言う御寺が在る。
CIMG5623
正式名称は大聖山金剛寺・・・波多野家が建てた御寺であり、源氏所縁の笹竜胆を寺紋にする御寺だ。
大聖山金剛寺本来、笹竜胆紋は勝手に使って良い物ではない。だからコレも小生が「実朝公生き延びた説」と言う可能性の一つを示す証拠だと思う。つまり、実朝公御自身が自らの身代わりに成った波多野家の武者の供養の為に御寺の建立を事件直後に指示して源氏の笹竜胆紋の使用を許した可能性が有るなんて事も有るんじゃないかと少し思っていたりする。
CIMG5624
まぁ、今と成っては解らないから歴史は面白い。
CIMG5626
金剛寺は臨済宗の御寺なのだが、山門をくぐると右手に・・・

CIMG5625
御地蔵様がいらっしゃる。この様に御地蔵様が沢山入口にいらっしゃる場所は、元々は真言宗寺院か天台宗寺院だった場所が多い。河内源氏の殿様は真言宗と御縁が深く、古くから源氏の御家人だった武士の家は鎌倉時代初期までは真言宗を宗旨にしている武将達も多かったので秦野市東田原に在るこの金剛寺もスタートは真言宗だったのかも知れない。
なんと鎌倉の臨済宗の高僧の退耕行勇和尚様が中興開山と成って大きな寺院に成っているそうだ。
2014-09-28-14-38-16
鎌倉市大船に在る北条泰時公の菩提寺の粟船山常楽寺とも御縁の深い高僧だな。
つまり、この一、御家人の波多野家が開いた秦野の金剛寺には常楽寺と同等にする“それだけの格と意味が有る”と言う事だ。
実朝公を救ったか・・・実朝公を葬ったか・・・どっちにしても忠義に溢れた波多野家らしい御寺だな。

CIMG5627
現代の境内は整備されておりとても綺麗だった。
CIMG5631
可愛らしい小僧様。

CIMG5634
本堂も立派。

CIMG5635
本堂に向かって左手に寺務所。ここで御朱印を頂ける。
CIMG5639
生憎、当日は実朝公没800年の追善供養の前日で準備に慌ただしく、予め用意された紙の御朱印しか頂けなかった。
DSC_0034
又、桜の季節に弘法山を訪れて今度は御朱印帳に頂きたいと思う。
CIMG5643
金剛寺の御庭にもユーモラスな石仏?が有る・・・何だか千と千尋の神隠しに出て来る“坊”みたいだ(笑)。

CIMG5644
御庭はとても綺麗だった。
本堂の右手に庫裡(くり=厨=厨房=現代では居住部分の意)が在るのだが、その庫裡の裏にとても重要な神社の御社が在った。

CIMG5642
余り目立たないし、鐘も突けない様に成っているが実は臨済宗にとってとても大切な神社なのだ。
もしかしたら現在の御住職の御家族は知らないのかも知れない。
CIMG5641
半蔵坊権現と言い、臨済宗鎌倉五山第一位の格を有する鎌倉の建長寺こと巨福山建長興国禅寺の守護神が奥院の半蔵坊権現なのだ。
下の写真は鎌倉建長寺の奥院、半蔵坊権現の参道の写真。
image
山岳信仰の神様で、天狗信仰とも結びついている。だからもっと檀家さんにも御参りして貰いたいと個人的に感じた。
日本神話も大切にして来た臨済宗の寺院らしく、境内には稲荷社も在った。
CIMG5646
ちゃんと御参りして毎回行く先々で旅の安全を御守護下さる御礼を、この日も宇迦之御魂神に御伝えした。
その稲荷社の在る場所はどうやら“田原学校跡”と言う場所でもあるらしい。
CIMG5645
調べても判らなかったが、恐らく江戸時代末期か明治時代位に設立された学校の跡なんだろう。
寺子屋が昔は児童学問所の役割を果たしていたので、明治時代に小学校が設立される様に成ると多くの神社や寺院の境内が小学校建設に提供された歴史も有る。
まぁ、詳しい事は今もって何も解らない、今度、秦野市の教育委員会にでも聞いてみようと思う。
この金剛寺は当初の訪問予定には無かった場所だが車の中で地図を見ていて気が付き実朝公の首塚近くの御寺なので「もしや」と思い予定を変えて参拝したが、忠臣波多野家と実朝公の御縁を辿れてとても有意義な時間を過ごせた。
そう言えば波多野家の後日談だが・・・
波多野家は鎌倉幕府の中央ではなく、後に京都に赴任して六波羅探題(ろくはらたんだい=西日本監視の組織)に評定衆(ひょうじょうしゅう=役員)として活躍する事に成る。
室町幕府でも評定衆に成り、後に丹波国で大名化する。この大名化した波多野家と戦ったのが織田家臣だった明智光秀公な訳だ。明智光秀公は母親を波多野家に人質に出して、波多野家と停戦して織田家臣に成る様に独断で講和するが信長公は波多野家を許さずに決裂したことで明智光秀の母親も殺されてしまう。これが一説には本能寺の変の遠因に成っているとする場合も有るが、まぁ可能性の一つでもあるだろう。小生としては波多野家は足利家に忠節を示して足利義昭の煽動で反織田の姿勢を貫いたのだと言う可能性も有ると思うが、まぁ詳しい事は解らない(笑)。

こんな風に色々と歴史に思いを巡らす事が出来たり、実朝公に御挨拶出来て満足し、次の目的地の弘法山から見る紅葉と富士山の撮影、そして鶴巻温泉に日帰り入浴しに行く為に再び車に乗り込んだ・・・
DSC_3715-PANO
→次回その④へ続く。
mixiチェック

日本で初めてラーメンを食べたのは誰なのか 水戸黄門だったという従来説が覆った?

経帯麺 東洋経済オンライン画像 

この記事読んで正直ラー博にも東洋経済オンラインにも失望した。

記事中、拉麺の起源を室町時代まで遡(さかのぼ)れるとし、その起源を「経帯麺」と解説している。
解説は中村正博さん、恐らく中国に行ってちゃんと食べ歩いた事も無ければ、麺料理のカテゴライズがちゃんと出来ていない程度の知識しかない「ラーメンオタク」であって「拉麺」を食べた事が無いひとなんだろう。

日本人が拉麺(ラーメン)と思っている食べ物は中国語で「湯麺」と呼ばれるスープに入った中華麺の事で文字の誤植だ。
一方、湯麺は何故か個別の中華ソバの料理名として成立してしまった。これは日本の中華屋に如何に本場で学んだ人間が昭和期に少なかったか解る事実だな。

そもそも拉麺と言うのは文字通り拉(la)麺(mian)で、拉の字の意味は「引っ張る」と言う意味だ。
そして拉麺と言うのは古今ずっと中国や新疆ウィグル自治区や台湾では、注文してから作る「小麦の手延べ麺」の事だ。
更に言おう、拉麺の起源は中華料理ですら無い。新疆ウィグル族やトルコ人の祖先達の突厥達騎馬民族の料理文化だ。保存に手間取らず携行出来る小麦粉を生地にして、必要な人数分だけその場で手延べして作る麺料理が拉麺だ。
中国に行けば現代でも拉麺を提供する店は多く有り、拉麺は一貫して手延べ麺の事を指す。そして、その店の多くは新疆ウィグル族の店や、その文化を受け継いでいる事が解る「蘭州拉麺」と看板を出す店が多い。蘭州とは三国時代で言う所の西涼辺り涼州や、唐の時代に栄えた石窟大寺院で有名な敦煌(トルファン)辺りだな。つまりウィグル人由来の料理であり、小麦を使ったナン等も彼等の得意とする料理だったりする。
2014-10-04-21-04-39
例えば台湾に行くと牛肉麺と言う料理を出す店が多い。見た目は完全に日本の拉麺のソレだが、これは拉麺では無い。煮て味付けした牛肉や牛筋の入った麺、そのままの内容を形容した料理だ。
コレが拉麺の麺を使用していれば名前が「牛肉拉麺」に成る訳だが、どうも、そういった基本的な知識が新横浜ラーメン博物館の広報の中村正博さんには足らない様だ。
別に知識が無い、中国や台湾やウィグル自治区で様々な拉麺を食べ歩きした事無いのは恥では無い!職務特権を使い出張出来るなら出張して今からド素人の小生達、中国経験者を超える知識と美味い店を沢山発見して日本で紹介すれば良い。
ラーメンは拉麺で手延べ麺、そして麺の調理法で刀削麺や餃子の様に名前が変わり、今では新疆ウィグル族の住むタクマラカン砂漠~内モンゴル~モンゴル国~中国東北地方(旧:満州)の騎馬民族文化圏のみならず中国大陸北部でも主食として親しまれる様に成った訳だ。
餃子も麺料理と列挙したが、日本人は誤解しているがアレはイタリア料理のペンネの様に麺料理で主食なんだな。だから焼き餃子を食べながら白米を食べる日本人の姿は中国人や台湾人には滑稽に映るし、本来の餃子は水餃子で余った分を翌日に油で煎って食べるので煎餃(jianジェン jiaoジャオ)と言う訳だ。
もっとも点心の発達した広東料理では点心のメニューとして煎餃もラインナップされている事は少なくない。
同じく点心の発達している福建省では、蒸餃(蒸し餃子)が主流だったりする。
拉麺や餃子や刀削麺等は面の打ち方の種別を指す、そして全て主食な訳だ。

だから重ねて言うがラー博の広報の中村正博さんの認識は事実誤認であり経帯麺は拉麺とは別料理!
きっと中村さんの知識では中国料理の湯麺が全てラーメンに脳内変換される程度の知識しかまだ拉麺にかんしては無いのだろう。無論、日本のラーメンに関しては素晴らしい博識でらっしゃるのだろう。

余談だが、弘法大師空海和尚様が持ち帰った品種の小麦の遺伝子はウィグル自治区の物と一致するそうだ。中国の唐朝廷時代に既に首都の長安(現:西安市)で、ウィグル人の麺料理人達が拉麺や饂飩の原型の様々な料理を作って漢族の胃を満たし、商売繁盛大活躍していた事が窺い知れる史実だな。
空海和尚様は僧侶だったので肉を食べる訳にも行かず、ウィグル族の作る麺料理に舌鼓を打って精進料理の代わりに楽しんでおられたのだろう。

mixiチェック

2017年05月、鎌倉市に新しい歴史博物館がオープンした。
その名も鎌倉市歴史文化交流館。
どちらかと言うと地元民向けなのだが、歴史が好きなら観光客にもお勧めしたい場所が増えた。
実は、その歴史文化交流館の招待入場券を頂いていたので、昨日土曜日に訪問して来た次第だ。

来月に妹の方の甥っ子姪っ子を連れてキャンプ場に行く予定が有り、午前中は予約をしてから少しウダウダしていた。余り寝てないから二度寝した。
昼の12時頃、お腹も減ったので鎌倉の小町通りに以前から気に成っている葉山牛を出すステーキハウスが有り、ついでに、そこにも行こうかと思い出発の準備を始めた。
結局出発したのが1時過ぎだったので栄区方面から朝比奈峠へ入り鎌倉へ車を走らせた所、シッカリ週末の鎌倉の渋滞に嵌(はま)ってしまい結局近所なのに、駐車場の有る❝御成り町❞着いたのは2時近くだった。
ゴジラ御成町周辺 公式借り物 久良岐のよし
今日車を停めた駐車場が最近、丁度ゴジラに踏み潰された辺りだな(笑)。
御成り町の辺りは鎌倉時代は大名達の屋敷が立ち並び、問注所と呼ばれる裁判所が最初に設置された辺りだったりもした。
image
近代に成ると多くの文豪が住み、これらの人を昔の❝鎌倉武士❞今の❝鎌倉文士❞と土地の人は言ったものだ。
まぁ、そんな訳で文化的な町で関西に例えるなら京都の哲学の道の様な雰囲気の有る地域だろうか?
銀閣寺周辺に似ている雰囲気かも知れないが、近現代の文化人が多く住んだので大正や昭和初期の近代西洋建築の私邸が多く残り、簡単に言ってしまうと❝上品な文化人と御金持ちの町❞と言った所だろうか?
CIMG3947
町を歩けば立派な邸宅が文化財指定されている看板をちょくちょく目にする。
CIMG3948
まぁ、一般の方の御宅も多いので公開されていない場合が多いが・・・
CIMG3953
古我邸の様に立派なフレンチレストランとして転用されている様に、飲食店として活用されている場所も少なくない。ここら辺は横浜の山手地区にも似た雰囲気なのだが、横浜の場合はガチの外国人居留地で鎌倉は元大名や財閥や文化人の大邸宅なので横浜の方とは違って何だかドイツの貴族の屋敷の様な雰囲気の規模と場所が多い。
CIMG3951
敷居が高い様に見えてランチは3800円と庶民の小生でも少し高いランチとして気張れば入れる。
本当はここで昼食でも良かったのだが・・・
CIMG3949
・・・生憎(あいにく)門前に「ウェディングパーティーで本日貸し切り」と看板が出ている。
CIMG3952
鎌倉で仙❝道❞だったら七里ヶ浜の鎌倉高校が湘北高校のモデルなのでスラムダンクっぽいが、この日の新郎は仙❝頭❞さんで一文字違い(笑)。
仙頭さん、宇山さん、オメデトウ♪
古我邸でランチするのは又の楽しみにして、当初の予定通り博物館見学後に小町通で葉山牛を食べる事にした。
古我邸を過ぎると緑も多くなって来た。
CIMG3954
直ぐに鎌倉市歴史文化交流館に着(つ)いた。素敵な石畳が続く。
CIMG3955
この素晴らしい自然に囲まれたデッカイ建物、実は最近まで某出版社社長の個人宅だったと言うから驚きだ。
この場所は古くは無量寿院もしくは無量寺と呼ばれた鎌倉時代の大寺院の跡だった。詳しい事は解っていないが、近くには鎌倉幕府の重鎮だった安達家の邸宅も在ったので安達家と関係の深い御寺だったのかも知れない。
その後、廃寺と成り、近代に三菱財閥の岩崎家が別邸を建てた。その為に敷地内の寺院としての遺構も良く残っていたので後で紹介しようと思う。
CIMG3956
中世の昔、御寺だった地形らしく谷戸(やと)に成っている。
CIMG3957
この博物館、案内状を頂いた際にパンフレットを読んでとても期待をする一言が書かれていた・・・
❝館内の展示物は全てフラッシュをたかなければ写真撮影自由❞
・・・この文言は普通の博物館では中々目にしない。
東京上野の国立博物館でも撮影は部分許可、ケチ臭い無文化な神奈川県と横浜市教育委員会の関わる横浜市歴史博物館や神奈川県立歴史博物館は撮影不許可。
流石、鎌倉の方々は子供を歴史を好きにさせる❝仕掛け❞を心得てらっしゃると思う。
中に入ると受付の女性は皆さんとても❝言葉遣い❞❝立ち振る舞い❞❝基礎知識❞等の接客を叩き込まれておりとても立派だった。そして愛嬌も有る美人さんで英語対応も可能だった。
CIMG3958
エントランスには鎌倉を代表する工芸品の鎌倉彫が展示されていた。
鎌倉彫りの彫刻って習える教室が沢山有るので彫ってみたいのだけど時間が無くて通えない。
こんな立派な入物、購入したらいくらするんだろう?きっと万単位の金額なんだろうな。
展示品だから数十万~数百万円はするのかも知れない。

CIMG3959
ホールの雰囲気はとても武士文化の鎌倉らしいレイアウト。
京都の下級貴族の侍(さむらい)の格好とは違う、関東武士の装いの流鏑馬の写真。
余り知る人は多くは無いが鎌倉市の扇谷地区には流鏑馬の武田流弓馬道場が有ったりする。
DSC_2509
ま、今回の訪問地は源氏山を挟んで反対側なので、そちらの説明はしないでおく。
歴史文化交流館は展示スペースの入口にも、非常に興味深い物が有った。
CIMG3961
日本を代表する名刀、正宗。その現代の工房、正宗工芸の社長が鍛えた刀と説明が有った。
CIMG3962
そしてもう一つ・・・
こちらはレプリカなのだが日本の歴史に登場する鎌倉にも関係の有る名将が着用した甲冑の完全なコピー。
CIMG3963
畠山重忠公着用の鎧の完全なレプリカ。
重忠公は源頼朝公から信任厚く、2代目の将軍と成った源頼家公の事を託された名将だ。
頼朝公の挙兵時に京都に居た為(ため)に止む無く平清盛の軍の指揮官として討伐軍に参加させられ、身内の三浦家と対立、三浦家の本拠地で有った現在の横須賀市衣笠の衣笠城を攻めて身内の三浦義明公を攻め殺す悲哀に見舞われた武将だ。この悲劇が頼朝公へ帰参後も後を引いて北条⇔三浦連合の陰謀により頼朝公亡き後に逆賊扱いされ横浜市の二俣川で数十人の手勢で数万の敵軍に囲まれ討死した。
その後は源頼家公は北条家に暗殺され、北条家と血縁の深い源実朝公が三代将軍に擁立された。
様は、野心は無かったのに権力争いに巻き込まれた悲運の武将と言う訳だな。
CIMG3964
この鎧の本物は現在も武蔵御岳神社に保管されており、現代に伝わる。
よく源義経が着ている鎧のイメージは、この重忠公の鎧のイメージだろう。
ついでに言えば源義経は猫背で明石家さんまみたいな顔だったと推測されているブ男だ。まぁ、義経は内面も私利私欲の塊だったんだがな。
他人の手柄を自分の手柄の様に報告する最低な今で言ったらモンスターパワハラ上司だったのは歴史が本当に好きな人には有名な話。
実際に俗説に❝鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし❞と呼ばれた迂回奇襲戦を立案したのは名軍師で三浦半島の佐原出身の三浦一族の佐原義連(よしつら)公だったし、その作戦を実行実現したのは摂津源氏で関東では横浜市都筑区センター南の茅ヶ崎城に住んでいた多田行綱だった。ましてや木曽義仲討伐戦で活躍したのも近江源氏の佐々木高綱公と我が郷里鎌倉郡の梶原景季(かげすえ)公だった訳だ。
まぁ、そんな事を畠山重忠公の鎧の色を見て思い出した。
最初の展示室に入ると鎌倉の歴史が解る年表が有る。
CIMG3965CIMG3966
CIMG3967
CIMG3968
小生が体得した歴史観と同じく、やはり鎌倉も弥生時代に海面下だった現在の平地部分が隆起している事が書かれている。
だから言う。日本武尊の東征は地殻変動に由って隆起した海底が湿地と成り、耕作地に向いたために現在の神奈川県中央部の新たな開拓利権で係争が起きて、そして佐賀牟国と磯長国の再統合と分離によって相模国と武蔵国の再編が行う為の大和朝廷に由る軍事介入だったと言う事を。
そして、それが証拠に現在恐らく❝武蔵国造の乱❞との名だけで伝わるこの係争を纏めたのが日本武尊で、実際は学者が言うよりも数百年前の話だろう。実際、武蔵国造の乱で朝廷に接収された久良岐郡や橘樹郡や多摩郡は非武装地帯の様に配置され、更には軍馬の生産地としても有名だった場所と港の有る土地だ。
まぁ、考古学を危険視する宮司もいれば、神道をコケにする左派歴史学者もいるが、小生に言わせれば考古学と日本神話は必ずリンクしているんだな。
つまり日本の神様ってのは、自然の聖地が神格化されて大切にされたパターンの他に、弥生時代~古墳時代の天皇家や豪族王後の貴族の弥生時代の祖先の事ってのが良く解る訳だ。
宮司さんの中には弥生時代を原始人の時代位の認識のトンデモ人間もいるが、日本の弥生時代末期は結構農耕も栄えた上に金属鋳造技術も獲得していたし、例えればギリシャのポリスみたいな連合体がいくつも有って原子国家が既に成立していたんだな。
まぁ、そんな事も年表見ながら考えていた。
CIMG3969
壁面には、こういった解説パネルに合わせて下に実物も展示されていた。
CIMG3970
こんな感じ。
中でも小生の興味を引いたのは、下の文書(もんじょ)。
CIMG3971
小生が毎日御参りする足利持氏公の文書。
戦国時代の幕開けとなる永享の乱を戦った鎌倉の将軍、くじ引きで室町幕府の征夷大将軍に成った比叡山の僧侶出身の残忍王とも言える足利義教と対立して滅ぼされた関東の将軍様だな。
この御子孫が、横浜の殿様の間宮家や吉良家が御仕えしていた足利成氏公な訳だ。
CIMG3972
まぁ、日本の歴史の中で国家の宰相に成ってまで同氏族同士で殺し合ったのは、後にも先にも、この足利家と藤原一族くらいだ。まぁ、足利尊氏公以後の足利家はハッキリ言って血縁的には半分以上の遺伝子が藤原遺伝子なんだけどね。
藤原が治めると日本は治まらないんです。
桓武天皇の御子孫の平氏か、宇多天皇や清和天皇の御子孫の源氏が統治しないと日本駄目なんだな史実として。
CIMG3973
まぁ、戦国時代に伊勢平氏の子孫の北条家が統治した土地はやはり善政が敷かれていたし。
CIMG3974
小生が顕彰活動をする玉縄北条家の北条綱成公の居城、鎌倉市大船駅近くの玉縄上司の縄張り図も玉縄城址まちづくり会議の荒井会長達が作成した物が展示されていた。
CIMG3977
あと建築利権と結びついた横浜市長と市の役人とは違い、鎌倉市は歴史風致を乱した過去の開発業者も曝し上げている(笑)。
本来、文化保護の為に教育委員会は斯(か)く在るべきだ。この施設の館長は良く解っている。
ここに来ると林文子横浜市長や横浜市役所の役人による城址破壊の許可と不保護、神社仏閣の関連する風致地区の破壊と商業開発が如何に文化的にレベルが低いかが良く解る。
だから横浜市は全国でもワーストの文化財保護法の設置の遅さだったんだろうな。
CIMG3978
CIMG3979
ここは合戦で武士が着用していたと思われる武具の展示も有る。
恐らくコレを着用していた人物は死んだんだろうな。
これが和田合戦か宝治合戦か鎌倉幕府滅亡の時かは解らない。或いは安達家の滅亡の時かも知れないし。
まぁ、こう言った発掘されたまま修復せずクリーニングを施した展示物は生々しく血の匂いが伝わって来そうで現在の平和の有難みも解って良いと思う。本当に見せ方が上手い。
CIMG3981
この鎧は着用していない脱がれた状態で埋蔵された様だ。
形式から見て鎌倉時代の物だろう。
他にも色々あったので写真を張り付けて見る。
CIMG3982
CIMG3983
CIMG3984
CIMG3985
CIMG3986
CIMG3987
まぁ、他にも沢山有り、適度な量を解り易い説明で展示されていて、とても頭に入り易い。
よく考えられた構成に成っていると思う。
中でも特に面白かったのがコレ・・・
CIMG3988
立体地形図にプロジェクションマッピングを利用して、各時代の様々な情報を地形図上に再現する。
CIMG3989
CIMG3990
CIMG3991
CIMG3992
これは基礎知識も無い人でも本当に解り易いと思う。
ただ、言葉は大人向けなので対象年齢は中学生以上と言った所、馬鹿は大学生なら何言ってるか解らないだろう(笑)。
CIMG3993
他にも、多分、武士か商人のヘソクリみたいな4万枚の宋銭なんてのも有った(笑)。
CIMG3998
CIMG3999
まぁ、本当に良い展示の仕方だよ。感心するばかり。レイアウトも綺麗。
これは若い女性の学芸員さんだったり、職員さん達が鎌倉の洗練された感覚を持ってるだからだろうね。センスが良い。
CIMG3994
近代まで全時代を網羅した博物館なので近代文学の事も紹介されている。
小生は横浜の有島武郎と、妹が大学時代を過ごした松山市を舞台にした坊ちゃんの夏目漱石の小説は高校生の頃にいくつか購入して読んだ。担任の先生に「オマエ、そんな趣味あるのか?」と驚かれたが嵌ったのは一時だけだった(笑)。
その後は孫氏の兵法や史記や心理学の本を何故か読み漁り、後は現代で言う所のラノベと言うジャンルの小説を読んでいたかな。
部活では格闘技をやっていたが、何をやっていたかは敢えて言わない(笑)。
さて、ここは博物館の建物自体も現代建築として価値の有る場所な訳だが・・・
CIMG3995
CIMG3996
建物の中から御寺時代の名残も見える。気持ちいの良い谷戸と草原の風景。
そして面白いのが神社風の建物も有った。
CIMG3997
茶室か何かに使ったのかな?パっと見は神社建築の幣殿部分みたいな感じ。
CIMG4000
別館が有り、エントランスから庭に出て移動する必要が有る。
CIMG4002
少し散歩してみた。池が有る。
CIMG4003
鎌倉の寺院に良く見られるのだが、鎌倉市街は平地で井戸を掘ると昔海だった影響で塩分濃度が高く引用に適さなかったそうだ。そこで埋葬用の矢倉とは別に岩窟を掘る、すると鎌倉石は水を良く通すので岩窟に水が溜まる。その水を一か所に集めて生活用水にしたり、池を満たして庭園を整備した様だ。
まぁ、下の写真みたいに低所に有るのは石塔が建てられ石塔内に納骨された埋葬地だったのだろう。
CIMG4004
鎌倉時代の骨壺は、戦国時代や江戸時代に茶器として転用する目的で多く盗掘されてしまった。
横須賀市衣笠の三浦義澄公の御廟も石塔の納骨部が叩きわ割れてしまって中身が無くなっていた。
罰当たりな盗掘者はきっと不幸な死に方をした事だろう。
それと同じだよ、横浜市と神奈川県の役人と政治家で古代からの聖地や先人の歴史史跡を調査も保護もせずに開発利権の為に破壊する奴は。
まぁ、その話は置いておいて・・・
CIMG4005
別館も展示物が並んでいる。
CIMG4006
CIMG4007
CIMG4008
CIMG4009
CIMG4010
CIMG4011
CIMG4012
CIMG4013
CIMG4014
CIMG4015
CIMG4016
CIMG4018
CIMG4021
CIMG4022
CIMG4023
CIMG4024
CIMG4025
CIMG4026
CIMG4027
CIMG4028
CIMG4030
こちらは流通や経済や人々の暮らしが解る展示解説が多かった。
そして、綺麗で国際派美人の受付の御嬢さんに色々と親切に対応して頂き、とっても物腰柔らかく美人で皇族の眞子様の様な学芸員さんと色々と話し情報を交換したり、周辺の郷土史をレクチャーして頂いたり出来た。
本当に丁寧な接客をする施設だな。感心する。
そして個人的に女性は才色兼備で内面も出来た人が多いと思う。
そして人意外にも素晴らしいものがココには有った。
博物館の敷地には、昔の御寺時代の奥院だったんだろうか?稲荷神社の跡地が展望台に成っていた。
CIMG4031
ここに在った御稲荷様は、博物館の建設の際に宗教的な見地から同じ源氏山の山麓に在る葛原岡神社に遷宮したそうだ。
まぁ、そのまま稲荷様として鎮座して頂いて良かったとも思うけれど、神社として多くの人に拝まれる方が神様的には幸せかもしれない。
ただ、御稲荷様ってのは御祭神が宇迦之御魂(うかのみたま)神で、本来は水の湧く洞穴何かに祀られた湧水地の神様なんだな。そしてこの歴史文化館の稲荷社の跡の崖地からは水が湧いているので、宗教的な本来の意味から言えば、ここにいらっしゃらないと意味が無いんだとも個人的に思うのだが・・・
古代人とって飲用水の確保ってのは命を繋ぐ財産の確保だった訳だ。だから神様を奉って大切にした。それが宇迦之御魂神だった、それが弥生時代に稲作が普及すると、水の役割が農業用水としての重要性に代わって来た。
そして漢字の導入が始まると宇迦之御魂神の字に倉稲魂命が当てはめられる訳だ。財産が水から米に変わったからだな。
更に平安時代末期に成ると、貨幣経済の普及によって財産の象徴が米から貨幣に代わり、財神としての性格を持つ弁財天様が宇迦之御魂神様と同一視されて祀られる様に成った。
この経緯が良く解るのが❝銭洗い弁天❞こと宇賀福神社や・・・
IMG_20160615_142609
江ノ島の弁財天様だな。
IMG_3526
もっとも、弁財天様には軍神としての性格も強いので昔は弁才天と書いた訳だ。
頼朝公が弁財天様を信仰したのは、その為だな。まぁ、頼朝公は熊野信仰や富士山信仰、大山信仰等の山岳信仰マニアで横浜市金沢区六浦にも浄願寺って大寺院を山の上に建てたりしたんだが、そこもやはり横浜市教育委員会が多くの学者と地元民の反対を無視してマンション建設許可を出してしまったんだな。戦後に横浜市から消された歴史史跡と宗教史跡は数が多すぎる。
本当、横浜市の横浜市歌すら歌えないカッペ職員は罰当たりな奴が多かったんだよ、昔は。
今は市長がクソだけどな。
そこを行くと、左翼横浜市と違って昔から文化人の多い鎌倉市の教育委員会は鶴岡八幡宮や御寺さんと関係が密接な有り、文化保護や調査に対する意識が高い。
だから、この歴史文化交流館みたいな素晴らしい施設を創生する事が出来るんだろう。
さて、歴史交流館の稲荷社跡地には宝物が有る。
CIMG4032
それは鎌倉市街~材木座~由比ヶ浜~小坪~住吉城址を見渡す眺望だ。
この写真は小生の撮影技術の未熟さで余り良くないが、本当に素晴らしい景色だった。
ここは鎌倉の中央図書館からも近いので、又、文献読みに来る時に是非、立ち寄りたい。
さて、鎌倉市歴史文化交流館を後にして、腹もすいたので小町通に葉山牛を食べに向かった。
CIMG4033
途中、踏切を渡る直前に正宗工芸の前を通ったので刀の製造過程の展示の写真を改めて撮影して来た。
CIMG4037
ショーウィンドーに常設されているので誰でも見る事が出来る。夏季は刀を打たないので、冬季に成り予約をすれば製造している所を少し見せて貰えるかも知れない。
小生は幸運な事に高校生の頃に自分で電話番号を調べて刀が好きな事を伝えて見学させて頂きたいと伝えた所、粋な計らいで学生と言う事も有り機械のハンマーで鍛える行程と使用する道具、昔の道具を見せて貰う事が出来た。
本当は高校卒業したら刀鍛冶か宮大工に成りたかったのだが親の反対で断念した経緯が有る。
もし高校生の頃に戻れるなら親の言う事を無視して、正宗工芸に弟子入りしたいなぁ・・・。
この日は外国人のお客さんが牛刀を買って、社長と中で写真撮影をしていた。
ふむ・・・無文化日本人より親日家西欧人の方が日本文化に理解が有り、今では余り知る人もいなくなった名刀正宗の工房を訪ねて来る訳だ。
正宗工芸を過ぎて踏切に差し掛かると小町通が見えて来る。
CIMG4039
相変わらず週末は賑わっている。歩くのも少し気を付けないと人にぶつかりそう。
CIMG4040
目的のステーキ屋に着いた。そして絶望・・・
CIMG4041
・・・以前見た時はランチで3800円位のコースが有ったと記憶しているのだが、朝5時~7時とかとんでも時間に御試しコースが設定されていた。
そして通常のランチは一番安くても5000円前後だった。小遣い予算オーバーに成るので断念。
小生の味方、小町で小腹を満たす場所と成ったここ・・・

CIMG4042
この路地を入った場所に有るシラスたこ焼きの店。
CIMG4044
たこ焼きの中にシラスが入っているのだが、正直シラスの風味は余り感じない(笑)。
でも京都に住んでいた事の有る小生からしても、ここのシラスたこ焼きは普通にタコ焼きとしてとても美味しい!
CIMG4043
先ずはこれを食べて、そして帰りにコロッケを別の店で食べると安く上がる(笑)。
食事を終えて、小町通にある芸林堂と言う行きつけの古書店に立ち寄ったのだが、生憎写真を撮影し忘れた。
しかも欲しい本が高くて手持ちの小遣いで買えず(笑)、何故かトンボ玉を買ってしまった。
image
芸林堂を出ると、次は社塔と言う和紙専門店に移動。
CIMG4047
ここには1年間に2回位来る。
色んな要望に応えて下さるので助かる。
以前、御朱印の収納するアルバムを作成した時に千代紙をシールに加工して下さったり、特殊な御朱印を頂く為専用の色紙等を用意して下さったり、本当にお世話に成っている。この店は小生の土地神様の神社の宮司様から教えて頂いた場所だ。
今回は延喜式内社用の御朱印帳がいっぱいに成ってしまったので、分解してページを継ぎ足し外装も新調しようと思い改造用に和紙を購入した。
image
綺麗でしょ?
和紙もちゃんと持ち運びに耐えれるように梱包して下さる。
image
本当に親切なお店だし、品揃えが豊富で鎌倉で好きな御店の一つだな。
帰りにマメヤによって、青梅味の豆菓子を買い、帰宅前に寄る弟の所の姪っ子達の御土産にした。
無論、自分の家用も買って。
そして鎌倉を離れ横浜市域に戻り、弟の娘達に先日製作して上げたストラップと豆菓子を渡して来た。
CIMG3944
ふむ・・・
良い博物館が出来て嬉しい。
そして綺麗な風景も見れたし、綺麗な御嬢さんと沢山話せたし(笑)。
行動範囲は狭かったが良い休日に成った。
mixiチェック

↑このページのトップヘ