歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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カテゴリ:神様/偉人/武将 > 戦国時代:北条家五色備え

神奈川県鎌倉市のJR大船駅駅から、近くも無く遠くも無い位の距離に神奈川県民から「大船フラワーセンター」の俗名で呼ばれる植物園が有ります。
正式名称は「県立フラワーセンター大船植物園」なんですが・・・
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・・・2017年の3月初旬現在、“玉縄桜”と言う早咲きの「桜と梅が満開で同時に見る事が出来る」珍しい場所でもあります。
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昨年、母が子宮癌を患い、築地市場近くの国立がん研究センター病院に入院し子宮摘出手術を受けたのですが、小生は鎌倉市浄明寺地区の浄妙寺で淡島大明神を参拝し母の子宮癌平癒の祈願をした上で淡島大明神の御守りを買って母に渡していたのですが、結果として手術は成功し転移も無かったので、母の体力が回復した先月末に母を伴って御礼参りに行って来ました。
浄妙寺は昔から「婦人病治癒、女性の味方の神様」の「淡島大明神を祀る御寺」として「御婦人達の崇敬を集めていた」歴史を、たまたま横浜の殿様の間宮家と宅間上杉家の顕彰活動を通じて訪問した事で知っていたので、その様な行動をした訳です。
その帰り、幼稚園の頃に母と来たのが最初だった大船フラワーセンターに立ち寄って来ました。
この直ぐ近くの龍寳寺にも用事が有り、ついでと言うか、丁度“玉縄桜”が満開に成っているのを知っていたので見てきました。
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玉縄桜の名前の由来は、この直ぐ近くに戦国時代に存在した玉縄城と言う難攻不落の城の在った地域名に由来します。
玉縄城は上杉謙信10万の大軍、武田信玄2万3千の大軍の攻撃を城兵3000で防衛し、2回とも敵軍の上杉勢や武田勢を撤退させた堅城でした。
この城を守っていたのが小生が個人的に尊敬している北条綱成公で、その綱成公の率いる部隊は「玉縄衆」と呼ばれ軍旗等の軍装を黄色で統一した部隊で別名「黄備え隊」と呼ばれた軍団でした。
この黄備え隊の副将が、小生が顕彰活動をする殿様の一人である間宮康俊公でした。
間宮康俊公の姫は徳川家康公の側室と成り子を産んだ於久(おひさ)様、そして嫡孫は徳川幕府の但馬奉行や佐渡奉行を務め金山銀山経営で他の鉱山奉行と比べ物に成らない程に功績を残された間宮直元公でした。
直元公は大坂城外堀や真田丸の埋め立てを家康公に立案した名軍師でもありました。
そんな玉縄衆の気概を名前に受け継いだ風流な桜が、この玉縄桜な訳です。
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黄備え玉縄衆は、関東の覇者、北条家の中で重要な合戦には必ず参戦し先陣を切って戦ったり、最前線での苦難な籠城戦を防衛し切ったり、他の部隊の追随を許さない功績を挙げ常に前線で戦う部隊でしたが、玉縄桜も河津桜同様に先頭を切って満開に成る品種でもあります。
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今、正に大船フラワーセンターでは、この玉縄桜と植樹された様々な梅を同時に見る事が出来ます。
園内手前の方には玉縄桜の他に、「おかめ桜」も遊歩道に沿って数か所植林されています。
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この桜、名前は純和風ですが、実は桜観賞の文化に惚れ込んだ英国人の植物学者イングラムさんが英国に日本の桜を数種類持ち帰って混合させ生み出した品種なんです。
つまり人間に例えると日系英国人留学生って感じでしょうか(笑)?
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ハッキリとしたピンクが目鼻立ちがシッカリした英国人女性の様ですね。
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そして日本と同じ海洋国家で近代日本の随一の友邦だった英国の桜らしく、戦国時代関東最強の北条綱成公の城名をとった玉縄桜同様に先陣を切って咲く凛々しさも持ち合わせています。
う~ん・・・
解る人には解るけれど、桜版の戦艦金剛かな(笑)?
さて、大船フラワーセンターは牡丹や蓮も有名なのですが、今は季節ではないのでそのエリアを通り過ぎて一番奥の方に行くと色んな種類の梅の樹が植えられた並木道に出ます。
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小生が訪れた先月2月末は枝垂れ梅が見事でした。
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多分、今時分は更に見頃に成っていると思います。
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このエリアにも玉縄桜が有ります。
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綺麗でしょ?
どうです?
ちょっとお散歩に行ってみませんか?
この他にも孟宗竹や唐竹等、色んな竹を植えた小規模な竹林や・・・
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台湾原産の紅葉ばふう。
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そして、小生が気に入っている場所がもう一つ有り・・・
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熱帯植物の温室です。
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いくつかの部屋を円形に配置して分けてあり、多種多様な植物を見る事が出来ます。
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完全に外国人ぽい花・・・
人の顔も違えば花の個性も同じ様に原産国で変わるんだなぁ~とか考えるのは小生だけでしょうか?
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可愛らしい花も有れば・・・
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毒々しい色の奴もいたりします。
見ていて飽きません。
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蓮の仲間の展示エリアにはメダカみたいな魚も沢山泳いでいます。
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わざわざ下田とか行かなくても、実は大船駅周辺にこんな場所が有るって、今の若い子達は知らないんですよ。
きっとバブル世代の親は若い頃に、こう言う植物を愛でる様な育ち方をしていかなったので自分達も子供達に植物を愛でる文化を伝えたり出来ない人が多いのかも知れないですね。
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小生は、玉縄桜と梅と、このエリアが御気に入りです。
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あと、部屋で育てる鉢植えの植物も温室に展示されています。
温室の先、一週回って入口近くには盆栽を展示したエリアも有ります。
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小生、この黄梅と言う品種を知りませんでした。
一瞬「蝋梅」かと思ったら違うらしいです。
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盆栽もユックリ見ると良いもんですね!
しかし子供にはツマラナイかも(笑)。
ここはちゃんと子供が来て御腹が空いても平気な様に、フードコートが無い代わりに移動式店舗が数店営業しています。
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小さい子に植物見せるだけとか、ちょっとした「苦行」をさせる様なもんですからね(笑)。
小生も幼稚園の頃に担任の先生や親なんかとここに来ても全く楽しく無かったですから。
大人になって、段々小さい頃に見せて貰った物の美しさや大切さが理解出来る様に成ると、ふとした切っ掛けでそこを再訪したりするもんなんですよ。
だから、今小さい子がいるパパやママさんは、ここに子供を連れて来て御散歩して欲しいなぁ~とか
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こう言う小さいなパンジーも子供の時に見ておくと、大人になって再訪した時に当時の記憶として思い出したりするもんなんです。
親は自分より早く死にます。
でも、親が見せてくれた物を大人になって見ると、親の事も思い出して感謝も出来るって思うんです。
実際、小生が幼稚園当時の記憶で一番覚えていたのは、このパンジーと入口の花時計でした。

実は大船フラワーセンターこと県立フラワーセンター大船植物園は今年2017年7月で一旦閉園します。
そして改装後、2018年03月31日の再開予定なんです。
つまり、早咲きの玉縄桜を見るチャンスは今回を逃したら2年後に成ってしまう訳です。
今幼稚園の子も2年たったら小学生、そうなると親と一緒に遊んでくれなく成ったり習い事が大変で時間が無くなったりしますよね?
デートで来たいカップルも、2年後は結婚して子供が生まれていてとてもじゃないけど外出する余裕が無いかも知れない。
それに今の大船フラワーセンターの春の姿を見られるのは、今だけです。

ですから皆さん、是非、大船フラワーセンターへ行ってみませんか?

【県立フラワーセンター大船植物園】
住所:〒247-0072神奈川県鎌倉市岡本1018
電話:0467-46-2188
アクセス:駐車場有り
(徒歩)大船駅西口観音側下車16分
(バス)大船駅西口バスターミナル1番のりばから、神奈川中央バス「渡内経由藤沢駅行」または「公会堂前経由城廻中村行」、「岡本」下車徒歩3分
県立フラワーセンター大船植物園の地図 久良岐のよし
では皆さん!又、次の記事で御会いしましょう!


戦国時代の久良岐郡森村(横浜市磯子区中原)には泉蔵院桐谷寺と言う御寺が在ったのですが…
その御寺は正確には仏教ではなく源頼朝公が鎌倉時代に開いた修験道の道場でした。
戦国時代に成ると北条家臣で川崎~神奈川を治めた相模十四騎筆頭の間宮家が、一時的に川崎~神奈川を失陥して、現在の磯子区杉田~峯~田中~洋光台~港南区笹下に跨る地域に移住して以降、間宮家の鎮守の御寺として泉蔵院は間宮家から支援されました。
そこは頼朝公が熊野三所権現の御分霊を那智大社等から勧進して開かれた霊場だったので、泉蔵院の御住職は代々、今の和歌山県の那智大社や熊野大社等と交流があり、支援者だった間宮家は泉蔵院のつてで熊野詣(もう)でも行っていた様で以下の内容の文書が現代に残っています。

熊野先達泉勝檀那注文(米良文書)神3下ー六七一八
この文章に登場する間宮与七郎さんが誰か、現代には元服(成人)後の正式な名前が伝わらず、与七郎と言うのは昔の風習で元服する前に名乗った字(あざな)と呼ばれる幼名と言うか立派な大人としての名前じゃない名前です。
ですから、この与七郎さんにもきっと立派な名前が本当は有ったのだと思いますが、これが間宮家の誰と同一人物なのか現代ではサッパリ解らなく成ってしまっています。
小生は、この与七郎さんは間宮隼人で、その子が間宮元重公で、間宮隼人与七郎さんは早くに亡くなり、遺児の元重公を間宮康俊公が引き取って実子の様に育てたのではないかと推測しています。
そして、この間宮与七郎さんは江戸時代の地理学者で御庭番だった間宮林蔵こと間宮倫宋公の御先祖様と推測しています。
さて、上の文章は古文書を小生がWordで再現した文章です。ですから写真ではありません。
上の文章で「武州久良気之郡❝杉田❞郷」と出て来ます。
実は、この時代の杉田の「杉」の字は現在と異なり特殊な字体だったのですが、それを知らない低教養な近現代の学者や出版社の編集者が活版印刷にする際に「❝杉❞を❝松❞と読み間違えて字を誤植したまま出版」してしまったせいで、現代の学者さんも「松田郷」と書かれていると思い込んでしまっています。
賢い学者さんは書道の教養が無くても「おかしいな?」と気が付く様で、論文で「泉蔵院が間違って書いてる」と少し的外れですが字が間違ってる事をちゃんと指摘したりしています。
アホな学者は全く気が付かず、そのまま丸写しにして恥ずかしげも無く本に転載しています。
さて、今、小生が丸写し学者をアホ扱いしましたが、それは彼らが二次資料や三次資料を恥ずかしげも無く丸写し転載した挙句、歴史バカのコミュ障で実際に殿様達の御子孫や関係者に取材をしないから一次資料の確認もしておらず、小生が指摘した「松田✖」→「杉田〇」の様な間違いに気が付けないからです。
ハッキリ言って、素人の歴史オタクの小生を下回る調査能力と知能、そして歴史センスの無さで学者をやってる人は大勢いるのが、小生はたったこの3年間で良く解りました。
きっと、彼等は民間企業に就職していたら使い物に成らない様な人材だと思います。
さてさて、そんな中でも書道の知識が無くとも「松田」と言う活版印刷の書籍に誤って写された字が「杉田」だと気が付いた先生もいて、その人はきっとIQも高いしコミュニケーション能力も高い人物なのだと思います。
正直その先生の論文は、小生が最初の頃に間宮家の顕彰活動で御手本として大分、役に立ちました。
でも、その先生は書道の知識が無かったのと、間宮家の御膝下の現地まで行って関係者への取材までは行っていなかった様で、何で近現代の❝バカな官僚❞や❝歴史ガクシャ❞か❝いい加減な出版社❞の誰かが「杉田」の字に「松田」の字を誤植したか、その理由までは解らなかった様です。
その杉田〇の字を➡松田✖と読み間違えた理由、小生はとある人物の御好意で見せて頂いた古文書で知っています。

現代では本で読む字は全て楷書(かいしょ)と言って一文字々々々が単独の字で表現されていますよね?
実は、戦国時代~江戸時代の文書は今と違って、殆どが草書体です。
そして草書体には様々な字体が有り、戦国時代~江戸時代の❝久良岐郡杉田郷❞の地名として杉を書く場合は少し特殊な❝祥南書体❞と呼ばれる草書の書き方を元にした字体で書かれていました。
下は某寺の和尚様から御厚意で見せて頂いた古文書です。
写真撮影も個人的な信頼関係で許して頂けて保存して有るので皆さんに御見せして解説したいと思います。
戦国~江戸時代の「杉田」の字体。 久良岐のよし
御覧の通りですが、杉の書き方が現代の共通語での漢字の書き方とは字体が異なります。
これ、書道の知識が無いと「松」に見えても仕方がないんです。
恐らく下の小生がタイピングした文章の原本の杉田の「杉」の字体も上の写真と同じだったと思います。
熊野先達泉勝檀那注文(米良文書)神3下ー六七一八
それを受験勉強しかしてなくて教養の無かった昭和中期の・・・
❝国土交通省地理局の官僚❞
     か
❝本の出版に協力した歴史学者❞
     か
❝出版社の編集者❞
・・・その中の誰かが「杉」と読めずに「松」の字を誤植してしまったんだと思います。
昭和の出版物のミスに気が付いたのは「盛本昌広」先生と言う武蔵国~相模国の戦国時代の郷土史研究の第一人者です。
小生は勉強も嫌いで❝アフォ❞で❝バカ❞ですが、たまたま先人に対するリスペクトが強い事、そしてアホな行動範囲で気軽に活動する事、実際に現場に行って確かめないと気が済まない事、昔の人と同じ様に和尚様や宮司様を師として尊敬している事、自分より人間的に賢い人と話すのが大好きな事、歴史オタクな事から「お勉強」としての歴史では無くて実体験として、この「松」の字の問題に気が付きました。
無論、盛本先生の感には感服しており、知識的にも精神的にも研究の御手本にしております。
沢山、学者に直接会いに行ったりしましたが、まだ会った事のない盛本先生が一番熱心に研究して、古文書を書き写す段階のミスにも気が付いている様です。
・・・もっとも、小生も盛本先生が気が付いて無い部分もいくつか気が付いていたりしますが、ハッキリ言って小生の知識は偏りが有りバランスが悪く、とてもじゃないけれど学者には成れない所詮は歴史オタクの範疇を脱しないド変人歴史オタクです。
まぁ、歴史偉人の顕彰活動での熱意は学者共に負ける心算は有りませんがね、感情に任せて行動していますから。

まぁ、このブログ記事を見て「何を一文字の間違いに気が付いて偉そうに」と思った学者がいたら、「オメェ~素人の俺以下だから学者辞めちまえ(笑)」って言うしか無いですね。
だってね、寛政重修諸家譜って幕府編纂の武家の家系の記録や、新編武蔵風土記稿って地理と歴史と文化を纏めた本は、活版印刷に置き換える際にアリとあらゆる場所に字の誤植が有るんですよ。
特に元号ね。
天文〇→誤植→天正✖とか・・・
壱〇  →誤植→堂✖とか・・・
特に、草書体を読めない書道の教養が無い歴史バカ学者や出版社編集担当が誤読誤植しまくってるから。
更にそれを丸写しにして誤りにも気が付けないガクシャ先生もいたりして、もはや現代の歴史関連出版物は間違いだらけ。
ガリ勉でない人が好きで知能が高い先生や、虚栄心が無く本当に先人をリスペクトしていて現地を訪問する先生だけが間違いに気が付くみたいです。
小生の様に偏った知識を上回る知識を全体的広範囲に深く持っている本当の歴史顕彰家も兼ねた学者さんは人間的にも尊敬出来ます。

とりあえず、本を出版する時に関係先の御寺や神社や御子孫に、挨拶もしない様なガクシャは大体が研究態度が不真面目で、その手の誤字に気が付けない、年号の誤りにも気が付けない位の注意力の低さだから親戚同士の武将が叔父と甥の年齢が同世代に成ってしまう誤りに注釈いれないまま本に書いたりして恥をさらしていたりします。

なんだかなぁ~。
小生は3年、御偉いセンセイ方は40年以上一体、何をやってらしたんでしょう・・・
とりあえずさ、一次資料も読んでいない学者は先ずは、自分の研究している武将の御墓参りから始めろやボケ!

・・・って愚痴と、出版物の誤りの指摘でした。

戦国時代の北条家の家臣として活躍した間宮家は、江戸時代に間宮於久(おひさ)さんが徳川家康公の側室と成った事、それまでの活躍から徳川将軍家の直臣となり更に活躍したました。
しかし、徳川幕府の御役人に仕事が出来ない方々がいて系図を誤記したり検証をせずに誤った記載をして後世に混乱を与えている事柄が少なく有りません。
現代の学者の中にも人の書いた物を丸写しにするタイプの方が、この誤りを検証せずに誤記を丸写しにして結果的に恥をかいている事も多く、そう言った事が今後減ればとの思いから、根拠と成る資料や写真を掲載しながらここに少しづつ、史料文献と現代の書籍で判明している誤りを訂正しておこうと思います。
忙しいので少しづつ更新し掲載します。
特に寛政重修諸家譜は編集した役人の質が悪かった様で様々な誤編纂、誤字が多く有る上に恐らく入道号=法謚と戒名の違いすら理解してないと推測出来ますので、そのまま引用する資料にする場合は気を付けて下さい。

【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
            &
【間宮康俊公と間宮信俊公が同一人物の可能性との指摘】
            &
【間宮信元公の別名盛頼の使い分けの謎】
既に以下の内容は間宮家顕彰文のプロットで同様の記載をして数カ所の寺院に配布していますのでコピペ無断盗用はネタバレしますので御注意。
『寛政重修諸家譜 巻第四百三十三 宇多源氏 佐々木庶流 間宮の252項内誤編集』

●間宮康俊公の戒名
寛政重修諸家譜で間宮康俊公の戒名を「今の呈譜に宗閑に作る」としていますがこれは誤編集です。
前の寛政譜で「宗覚」と戒名の一部分が掲載されていますが、こちらが正しい戒名に近い物です。
‟新編武蔵風土記稿橘樹郡下末吉村寶泉寺”の項目正しい戒名の記載が有ります。
「今本堂二位牌アリ表二当寺開基間宮豊前守殿堂宿宗覚庵主
・・・この新編武蔵風土記稿の記載が正しい入道号として採用するべき物です。
しかし、これは俗名で戒名では有りません。極めつけは既にこの時点でも位牌の紹介するべき表と裏を見間違えている上に、その本来裏面の入道号も一字読み間違いが発生しています。新編武蔵風土記稿に書かれている「間宮豊前守殿‟堂”宿宗覚庵主」の「堂」は「壱」を書き間違えたか読み間違えています。
名を入道号と区切る場所も繋げて書いてあり後世に混乱を残す記載の仕方です。もっとも、その原因は徳川幕府の役人だけでなく、そもそもが江戸幕府旗本笹下間宮4代目当主の間宮正次公にも責任が有ります。それを説明するには、先ず寶泉寺の実物の位牌の話をしなければ成りません。
この寶泉寺は近年祝融(中国の火の神、転じて火災の比喩)に遭い本堂を全焼した際、この記録に残る位牌の戒名の元に成った康俊公の入道号として壱宿宗覚庵宿が登場する文書の康俊公の参禅問答の記録は焼失してしまって現存しないそうです。現在の本堂も再建された物です。
しかし、寶泉寺第二十五世祖道秀一大和尚が火災前の記憶を記した‟寶泉寺縁起”にも康俊公の法謚(ほうし=入道号)として壱宿宗覚庵主が登場します。
寶泉寺の火災前の戒名の記録と伝承によれば、間宮康俊公の入道号は‟壱宿宗覚庵主”とされており新編武蔵風土記稿の記載と整合性が高いものです。さらに戒名も位牌によって伝わっており普光院殿壱宿宗覚大居士とされます。つまり間宮士信公が記録したのは、この位牌の表面の戒名の普光院殿壱宿宗覚大居士ではなくて裏面の生前の名としての入道号の説明である間宮豊前守殿 ‟壱”宿宗覚庵主で、更に壱と堂を誤記か誤読している訳です。
そもそも戒名に‟間宮豊前守殿”なんて苗字と日本の官途名を全て含んで付けないのが一般的な上、当時の常識として・・・
仮に官位と官途名を含んだ戒名にする場合、正一位関白→相国一品、近衛~→羽林=御林~
・・・上記の様に中国の官途名で名付けられます。これについては京都市上京区の阿弥陀寺や東京都世田谷区の豪徳寺等に行って歴史偉人に日本の歴史発展を築いて下さった感謝を表しに御線香を上げに行くと良く解る筈(はず)です。
そもそも院殿号で‟殿堂”と言うの異質で奇抜で有り得ません。
‟⚪⚪寺殿”もしくは‟⚪⚪院殿”なら貴族武将の戒名として成立します。
上記の‟日本地誌大系記新編武蔵風土記稿”は、間宮一族で昌平坂学問所で総裁を務めた‟間宮士信(ことのぶ)公”によって編集されています。
つまり間宮一族で当事者である士信公が間違える可能性は‟誤字脱字”と位牌の‟裏面見間違え”による生前入道号と戒名の取り違え以外は極めて低い訳です。だから康俊公の入道号と戒名は宗覚が含まれるが正しい。
寶泉寺は安土桃山時代~18世紀の長きに渡り、毎年、間宮家臣団によって間宮康俊公及び累代殿様の法要が行われていた寺院で、間宮信冬公の開基、間宮康俊公の中興寺院です。
事実を元に判断するとこうなります。
康俊公の隠居時の入道号が‟間宮豊前守殿 壱宿宗覚庵主”で戒名は‟普光院殿壱宿宗覚大居士”だった訳です。
対して寛政重修諸家譜は幕府編纂です。
宗閑が戒名として採用される謂(いわ)れは、康俊公のもう一つの菩提寺の宗閑寺が御息女の於久の方の要望で徳川家によって開基された際に、康俊公の戒名を調査した幕府の役人が間違って康俊公の御父君である信元公の戒名と思われる普元院殿武月宗閑潔公に繋がる入道号の宗閑間宮家か関与した寺院で一番有名な弘明寺から探して来て誤ったまま引用し寺名とした可能性が非常に高い訳です。
寛政重修諸家譜では信元公の実名を‟某”とし法名を‟光林”としていますが、間宮家は北条家臣化以来歴代の入道号に‟宗〇”を名乗るのが伝統なので、この‟光林”は雅号を幕府の役人が誤って戒名として記載したと推測出来ます。更に、宗閑の法名の初出新編武蔵風土記稿‟久良岐郡本牧領弘明寺村蓮華院”の項目で記載有る‟弘明寺の扁額”の絵図に登場します。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
※現物は明治期の廃仏棄釈の被害で行方不明。
この扁額は大永元年(1521)年に奉納された物で、「本願宗閑同伴衆」と明記されています。つまり宗閑の法名を使う武将の与力衆が奉納している物に成ります。
間宮康俊公は天正十八年(1590)年に73歳で討死している事から、当時の日本人は数え年で年齢を計算しましたので生年は永正十五年(1518年)と解ります。宗閑の入道号が康俊公の生前の物だとして、当時3歳の康俊公が入道し更に多くの部下を従えて弘明寺に扁額を奉納するのは極めて不自然な訳です。
●間宮信元公の戒名
この事から、普元院殿武月宗閑潔公は信"元"の"元"の字が含まれる事からも康俊公の御父君の間宮信元公の戒名と推測が成り立ちます。江戸幕府の役人が徳川家康公の愛妾だった於久の方からの要望で康俊公の菩提寺を建てる際に、誤って弘明寺に記録されていた間宮信元公の戒名を記録して帰ったと考えられます。
当時も今も、役人の仕事には不手際が多かった様です。
以上の事に気が付いたのは、間宮家研究の第一人者である盛本昌広先生の著作‟間宮家由緒の形成”で当該の絵図に関する奉納期日の記載が有った事、そして寶泉寺第25代住職祖道秀一大和尚様の著作‟寶泉寺縁起”を現在の若様より頂いた事、そして先日他界された間宮家臣御子孫の市村氏から引き継いだ間宮家顕彰の熱意を合わせて諸先輩の記録と記憶を繋いだ結果です。
※以下は完全に推測の域を出ない事柄※
●間宮康俊公と間宮信俊公が同一人物の可能性

三島市側の箱根山中に在る山中城址には、間宮康俊公達の墓碑が在り以下の様に刻字されています。
北条氏直公幕下忠臣(徒←判読困難)
普元院殿武月宗閑潔公之
間宮豊前守康俊七十三歳
圓誉宗覚居士
康俊舎弟監物
天正十八庚寅年三月二十九日
依山中城落城為秀吉公討死
教誉宗〇(←存在しない字)居士監物嫡源十郎
檀主 間宮三郎兵衛尉正次為(師←判読困難)
開基 間宮(〇〇←判読不能)
山中城址間宮家廟所 久良岐のよし
※画像は山中城址の間宮家の御廟所の碑文です。
※上記の様に書いて有りますが、部分的に小生の撮影した画像では判読不能なので解読した方は小生まで御連絡願います。
この墓碑を建てた間宮正次公は本牧奉行を歴任した間宮家の嫡流で康俊公の4代後の子孫に当たり、兄君の間宮正信公の養子に成り家を継いだ人物です。
①間宮直元_②忠次_③正信_(兄弟)_④正次_⑤次信
御覧の通り、墓碑には幕府編纂の系図上の康俊公の弟に当たる監物こと間宮信俊公の戒名が中心に大きく彫り込まれており、不可解な墓碑と成っています。これでは重要な人物は圓誉宗覚居士こと監物信俊公で信俊公が惣領の様に成ってしまいます。しかも監物信俊公の戒名には寛政重修諸家譜以前の、寛政譜や寶泉寺に伝わる康俊公の入道号として伝わる‟宗覚”の二文字が信俊公の戒名として彫り込まれています。
実は新編武蔵風土記稿の弘明寺村蓮華院の項には、弘明寺の扁額以外にも間宮信俊公が修理した花瓶の絵図が記録されています。
新編武蔵風土記稿弘明寺の花瓶 久良岐のよし
間宮監物修理之
天正拾八年庚子二月吉日
・・・天正十八年二月、つまり山中城で間宮康俊公が討死する直前です。この監物は一般的に間宮信俊公を指すとされる官途名です。
間宮家は祖先が佐々木家で、佐々木家は鎌倉時代に真言宗の信徒でした。一方で北条家は曹洞宗の信徒で大半の家臣も公人としては曹洞宗を信仰し、それと別に祖先以来の宗旨も大切にした様です。
例えば間宮康俊公の嫡孫で初代の本牧奉行を務めて間宮直元公は壇林として有名だった横浜市南区の寶生寺を支援していますし、間宮家嫡流歴代の殿様も笹下城下に在る寶生寺の末寺の東樹院を支援していました。
間宮康俊公の‟康”の字は、主君の北条氏康公から一字拝領した名前です。
仮に北条家臣だった時代に、寺院の宗旨によって公私で名を使い分けていたとするならば、以下の謎も解けます。
曹洞宗  伝承名   他寺院  伝承名
宗三寺  間宮信盛  寶泉寺  間宮信頼
宗三寺  間宮盛頼  笹下地区 間宮信元
寶泉寺  間宮康俊  弘明寺  間宮信俊
間宮信元公の名は系譜に登場するが、寶泉寺の末寺だった川崎の宗三寺では盛頼と昔から伝わり、笹下の浄土真宗系寺院では間宮信元と伝わります。
更に間宮信盛公の名が宗三寺より早く間宮家と関わりの有った寶泉寺では間宮信頼と伝わります、これは末吉に間宮信盛公が居た時代は未だ大森家由来の間宮信頼を名乗っていて、後に川崎に赴任した頃に伊勢盛時(北条早雲)公から一字拝領して間宮信盛と改名したと推測が成り立ちます。
曹洞宗寺院で盛頼とされる信元公の名が笹下の浄土真宗系寺院に伝わっているのは、間宮家が鎌倉公方の旧臣であり、鎌倉公方の足利持氏公の子である古河公方足利成氏公の家系は浄土真宗寺院と関係が深く有りました。
一方で室町幕府と関係の深かった北条家は室町時代に高田派を除く浄土真宗寺院と敵対関係でした。
信元公の時代は室町時代です。
笹下東福寺と間宮家の関係は信元公の時代には疑問が有りますが、江戸時代に高田派に属している成就院は、そもそも戦国時代に弾圧を免れる為に高田派だった可能性も有り、であれば関係上は室町幕府幕臣今川家臣北条家与力間宮家としても問題が無いので当時から関係が有ったと檀家衆に伝わる伝承にも信憑性が有ります。いずれにせよ、笹下城址の成就院も東福寺も曹洞宗の寺院ではないので盛頼ではなく信元の名で関わりを持っていたのでしょう。そして恐らく真言宗の弘明寺や東樹院とも信元の名で関わっていた筈です。
当時の北条家は今川家臣(従属大名)でした。時期的には間宮家の当主が権現山合戦直前の信冬公だった時代に当たります。
この宗旨の問題と関連の有る間宮家の寄親の変遷を読み解くヒントが新編武蔵風土記稿に紹介されています。

新編武蔵風土記稿の‟舊家者百姓利兵衛”の項に登場する旧間宮家臣の内田對馬(つしま)サンと言う人物は永正5年三月二日:西暦1508年4月11日に他界していると解説が有った上で、この屋号が古門の内田家に発給された感状の記載が以下の様に紹介されています。

今度稀有之走廻就致之候、従御大途御褒美、自分之面目手前にも外聞にも候間、親子共受領官途申之付者也、仍如件、
 寅三月廿八日     信親(花押)
      内田對馬とのへ
      同源左衛門とのへ 
  
ここで登場する‟間宮信親”名で感状が発給されたのは旧暦寅年(永正6年)三月廿八日:西暦1509年04月27日と解り、それ以前の戦功に対しての恩賞だと解ります。
そして、この論功行賞まで1年間のタイムラグが有るのは、大きく三つの要因が考えられます。
①今川家の論功行賞の遅れの可能性。
今川家の為に北条家が三河遠征を数年間に及んで行ったものの、松平領の切り取りには成功していない為に、恩賞を巡って今川家と北条家の間で論功行賞に関して交渉が行われた可能性。そして結果的に北条家とその与力衆に対して領地の恩賞が与えられる状況では無かった。更にはこの感状発給の前年に今川家と北条家の関係を悪化させる時代が発生している為に所領恩給は無く、止む無く両属の士であった間宮家には1年後に今川家より官位が与えられた可能性が高い。
これが一番、現実的な可能性と思われる。
②根本的に内田對馬の過去帳を管理している東福寺に不備が有った可能性。
東福寺と最古の檀家で本来の大旦那の北見家自体の伝承と東福寺の証言ですら喰い違いが多く有るので、この東福寺に因る誤記の可能性は高い。過去帳紛失による再発行での混乱等も有ったかも知れない。その根拠として寺寶であった梵鐘すら江戸時代には消失していた始末。そもそも、浄土真宗の寺院が戦国時代当時に高田派以外の浄土真宗を弾圧していた足利幕府の家来の北条家の統治下で、寺院を運営出来ていた可能性は低い。古河公方足利家の統治時代ならば足利成氏公と浄土真宗の関係性から信憑性は有るが、残念ながら内田對馬は1508年に他界した人物なので、北条家統治下の笹下で東福寺の運営が行われていた可能性は低い。更に新編武蔵風土記稿内で太子堂として紹介されている場所は再建中と間宮士信公に証言しているが、そここそ古来、北見掃部家の墓所であったので縁起の信憑性に疑問が残る。
北見家発祥地についても、太子堂の管理についても北見一門と東福寺で揉めた経緯も有る。
管理しているはずの情報が北見家一族自体と異なる事例がこの様に有る事から、内田對馬の没年にも誤差が有る可能性は高い。。
③古門内田家の子孫による偽作の可能性。
そもそも、古門内田家は間宮家最古参の家臣故に、寛政重修諸家譜に登場しない間宮宗甫の所領とされた紺屋領分(西浦賀)の屋号を持つ分家の紺屋内田源次郎家も存在する。
古門内田家は内田対馬守家と内田源左衛門家が両方昭和初期まで存在した。源左衛門家は昭和期に破産し競売に掛けられ失踪し現当主は不明。
感状に登場する内田對馬と、その子の源左衛門の子孫と思われる屋号が両立すると言う事は、源左衛門が亡父の功績により官職を得たのではなく、亡父の嫡子と源左衛門が、それぞれ官職を公私で名乗れる官途状を与えられている事が解ります。つまり偽作の可能性は低く①の可能性が強くなると推測出来ます。
しかし、偽作とすれば間宮士信公は怪しい物は紹介しなかったり、間宮家との関係を捏造して評価を得ようとした神社などの書いた存在しない間宮の殿様の名前に関しては敬意を表さず容赦なく「某」として捏造者の主張を全く紹介していません。よって、信親は実は誰か思い当たる節が有る物の、北条家臣として一番古くに関わった寶泉寺にだけ伝わる間宮信盛公の別名間宮信頼、宗三寺に伝わる間宮信元公の別名間宮盛頼の様に、間宮家の主替えの歴史を憚って、間宮信親が誰かを特定出来ない形で紹介していると推測出来ます。
間宮士信公は散々、自称松田家の偽書と思しき文書等も見ている筈なのに紹介していないので、やはり本物と判断して掲載したと思われます。
尚、この古門内田家の家格を計る物差しとして、内田家が旧蒔田吉良家重臣の森家に養子を出した歴史が有るが、足利一門蒔田吉良家の家老クラスの重臣に養子を出せる意味は誰でも解る事。両者江戸時代に帰農しても現代に至るまで大地主や名刺だった事実も、その家柄を物語っています。

問題の寛政重修諸家譜に登場しない間宮信親公が書いた感状の内容は大凡(おおよそ)ザックリ以下の通り・・・
今度稀有之走廻就致之候、従御大途御褒美、自分之面目手前にも外聞にも候間、親子共受領官途申之付者也、仍如件、
 寅三月廿八日     信親(花押)
      内田對馬とのへ
      同源左衛門とのへ 
「今回の功績を(間宮家の更に上司の今川?の)大殿様から評価されて、(内田サン)親子両方に官職を与えられるよ。」

・・・感状の発給者は間宮信親公とされていますが間宮士信公は、この信親と言う人物を敢えて‟俗称等詳しならず”と、この信親と言う名が公称だった事を示唆する注釈を添えています。つまり主君から名を一字頂いている可能性が有ります。
これは当時は恐らく正式に北条家臣では無く、間宮家は今川家臣だった事を暗に示しており、主君替えの不義理な名前を誰の当時の名前かと特定出来なく伝えているのだと思います。
そして、この信親と当時は名のっていた人物は世代的に間宮信冬公か間宮信盛公に当たります。
間宮信盛公は別名を間宮信頼と伝えられています。恐らく先に使用していたのは間宮信頼の名でしょう。
間宮家は北条家臣と成る前には古河公方家臣だったので、古河公方有力大名で隣接する大森藤頼公の与力武将だった事が笹下間宮分家竹内家の系図で解っています。つまり、間宮信盛公は北条家以前の上官だった大森氏頼公か子の大森藤頼公から一字拝領して間宮信頼と先に名乗っていたのでしょう。
同時に、この時期に間宮信元公も間宮盛頼と名乗っていた筈です。
当時の大森家は扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家に従属していました。
  ↓
その後は今川家の重臣の伊勢(北条)家の伊豆占領時に間宮家は今川家臣化し、伊勢家与力と成った。
※一般的には、この時点で北条家臣と成ったとされているが、古河公方家臣であり今川家臣北条与力で大森家の与力でもあったと考えられる。
この時期の伊勢家と大森家は友好関係に有り共に大森家の上司に当たる古河公方足利家の代行者たる扇谷上杉家に協力しています。
所が大森藤頼公が扇谷上杉家や今川家の敵である山内上杉(やまのうちうえすぎ)家に内通する事件が発生します。
これが伊勢盛時(北条早雲)公が小田原城を横領する大義名分と成り、文亀元年(1501年)に扇谷上杉家公認で裏切者の大森藤頼公を奇襲し以後、小田原城は扇谷上杉家の協力者、今川家臣北条家の支城と成り、二代氏綱公の居城と成ります。
恐らく、この時期に間宮信盛公か間宮信冬公が大森家と手切れをして主君と成った今川氏親公から一字拝領して「間宮信親」と名乗っていたのでしょう。
間宮信盛公の別名は寶泉寺では‟信頼”と伝わっているので、‟信親”の名を使用した可能性が有るのは間宮信冬公だった可能性が高い
  ↓
間宮家の寄親(よりおや=上司)、伊勢盛時入道宗瑞公は今川家の大将として三河国安祥城を永正三年(1506年)~永正五年(1508年)まで攻めています。
1508年で今川家が三河侵略を停戦しているのは、この年に上司であった征夷大将軍の足利義澄公が失脚し足利義稙(よしたね)公が将軍の座を奪う形で就任し、政局が混乱した為でしょう。
この合戦の討死か合戦後か、永正5年三月二日:西暦1508年4月11日に他界しています。
  ↓
この功績に対して行われたであろう感状の発給が1509年4月27日に行われています。ですから内田對馬サンの死後1年後に論功行賞が行われたのでしょう。
この感状では永正五年まで実は間宮信親公は三河安祥城攻めでの戦功に対して御大途(大殿)から内田對馬と子の内田源左衛門に対して下賜された官位を与えている事が解ります。
当時の今川と北条の関係性を考慮して、この感状の「御大途(大殿)」は今川氏親公、恐らく北条は「殿」又は「御館」と呼ばれていたのでは無いかと思いますが、北条早雲公現役の頃の感状をまだ拝見していないのであくまで推測です。
領地では無くて官位が褒美だったのは、今川家側の敗戦で領地が拡大出来なかったからでしょう。
しかし、この1509年以降北条家は今川家から独立し、二代目の北条氏綱公が姓を北条に改めて伊豆国と小田原支配の正当性を主張しなければいけない事件が起きます。
  ↓
伊勢家は九代将軍足利義尚公や大御所の足利義政公、日野富子の家臣として今川家の家督相続混乱の収拾に派遣されています。
義尚公の政策と敵対する行動をした堀越公方足利政知の血族者は敵に当たります。
しかし足利義尚公の没後、将軍職を継いだのは応仁の乱で足利義尚公と対立していた足利義視の子の足利義材や堀越公方の子、足利義澄公でした。
足利義澄公は日野富子や早雲公の本家に当たる政所執事の伊勢貞宗公の支援の下で将軍に就任しますが、足利義政公・日野富子・足利義尚公親子・伊勢貞宗公と対立した足利義材によって将軍の座を奪われてしまいました。
足利義材は名を足利義稙(よしたね)と替え将軍に復帰しますが、北条早雲公にして見れば敵勢力に当たる上に、それまで今川家臣として活動していた伊勢家(以下北条家とする)の伊豆国と小田原支配の正当性が、足利義稙政権下では無くなってしまいます。
更に同年1509年に北条早雲公の甥で主君の今川氏親公が足利義稙に完全に臣従し伊勢家の敵である義稙政権を支持する事で駿河守護遠江守護を認知される事件が起きました。
事、ここに至っては、北条家は今川家臣で有り続けると西湘地域と伊豆国支配の正当性を失い返上を命令される可能性も有りました。
  ↓
結果的に大名として力を付けていた北条家は今川家から独立して、領地支配の正当性を持つ必要が有り、同族で嘗ての鎌倉時代の支配者である北条家の名跡を継承して関東支配の正当性を主張して行く事に成ります。
間宮信冬公が間宮信親の正体かは確定する資料が有りませんが、仮に信親が信冬公の使った名前だとすれば、信親の名を捨た時期は、この今川家と北条家が手切れに成った時期でしょう。
間宮家は北条家に与力する事で西湘の二宮地区にも所領を拡大していたので、北条家に臣従し家臣化する事は当然の流れと言えます。
しかし旧主今川氏“親”公の「親」の字を頂いた名前を、今川家と手切れした後も名乗れる筈も無いので、以後は系図からもこの名前が消されたのだと推測出来ます。

これらは間宮家の武将の名前が、常に主家或いは間宮家自身の同盟関係、つまり扇谷上杉家与力の鎌倉公方旧臣大森家と今川家の影響を受けて変化している事が見てとれます。  
そして、本来の名前と、北条家臣としての名前も関与する御寺の宗派によって使い分けていた推測出来ます。
要点を纏め、改めて間宮康俊公の戒名の問題に話を戻すと以下の様に成ります。
①北条家臣時代の間宮家の当主は神社仏閣に関わる際に、公人と私人で名を使い分けていた。
公人・・・北条家臣として禅宗寺院に関わる際は主君から一字拝領し改名した名前。
私人・・・間宮家の祖先歴代が使用した「信」の字を含む初名、或いは族名として信の入る別名を使用した。
②曹洞宗以外の真言宗の弘明寺や他宗派に関与する際は信盛公は信頼、盛頼公は信元、康俊公は信俊をそれぞれ使用していた。
③入道号:宗覚 
間宮家の親族と家臣団は、生前からの間宮康俊公の入道号を(一宿)宗覚(庵主)と公然の事実として伝わっており、討死前から入道号が間宮豊前守殿(堂×→壱〇)宿宗覚庵主と名付けられていたので戒名を‟普光院殿壱宿宗覚大居士”として菩提を寶泉寺で弔われていた。
④入道号:宗閑
ところが御息女の於久の方が徳川家康公に、父の菩提寺の建立を要請した所、武蔵国に派遣された役人は康俊公が最後に御関わりに成った真言宗の弘明寺で調査を行った。ところが監物信俊公の名は有れど、当然、康俊公の名前は出て来ず又、同一人物とも気が付かない。結果的に、一番近い時代の記録として残る扁額に残る宗閑の記録か扁額と同時代つまり康俊公の一世代前の信元公の戒名を康俊公の戒名と断定し宗閑寺を造営してしまい、間宮家へは事後報告と成った。
⑤問題発生
徳川家が‟葵の紋”を寺紋として下賜して下さった上に、既に造営された宗閑寺の寺名に取り違えられている戒名の問題を指摘する事は、家臣の間宮家としては徳川家康公の側室と成っていた‟於久の方”や外戚として但馬奉行本牧奉行と成っていた‟間宮直元”公の立場を悪くする可能性が有るので、間宮家一門も家臣団も当然、徳川家に対して間違いを指摘する事は不可能。
本来ならば宗閑寺の寺名は普光院宗覚寺でないといけない訳ですが
しかし間宮家が徳川幕府に対して「入道号が‟間宮豊前守殿 壱宿宗覚庵主”で戒名は‟普光院殿壱宿宗覚大居士」です!等と訂正と寺名変更を申請する事なんぞ出来る訳も無く、止むを得ず両方の戒名を使う事にした。
徳川家のメンツを潰さない為に、幕府に対しては弟の名として康俊公の別名である信俊を使用し宗覚とした。
⑥更に問題悪化
間宮康俊公から4代後の子孫で、数えて5代目当主と成った間宮正次公は嫡子では無く死んだ兄の後を継いだ方です。兄が早世して自分が跡継ぎに成った事を不吉に思いたったのか山中城址の宗閑寺で祖先康俊公の追善供養を行って写真の墓碑を建立しています。
山中城址間宮家廟所 久良岐のよし
一見すると右から徳川家に造営された宗閑寺の寺名由来と成った戒名を優先している様で、実は寶泉寺や新編武蔵風土記稿に間宮康俊公の道号として伝わる‟宗覚”を使用した戒名が中心に据えており間宮家臣団と康俊公が直接かかわった寶泉寺で使用された戒名を主に弔っている刻文に成っています。
そして、徳川家に失礼に成らない様に、佐々木一族間宮家として真言宗寺院に関わった際の名の「信俊」を舎弟の名とする事で幕府に感づかれない様に粉飾したのではないでしょうか。
⑦正次公の善意の追善供養が後世に混乱を残した。
寛政期に幕府によって武士達の家系図が作成される際に、最初に間宮家から提出された物が最初の寛政譜だと思われます。しかし、間宮家の宗覚の戒名だけでなく恐らく他家でも幕府のメンツを潰す似た様な問題が有り幕府の誤った記録に基づいて訂正されたのが寛政重修諸家譜なのではないでしょうか?
その寛政重修諸家譜には、間宮正次公が本来は同一人物の信俊公と康俊公を分ける事で幕府の戒名取り間違えに対応した通りの家系図が作られてしまい、それが後に関八州古戦録等でも当然の様に山中城の戦いの記録に2人の人物名が登場してしまい、別人格として誤った系図が形成されて行ったのだと推測が出来ます。
・・・その後、間宮家は間宮正次公は突然、本牧奉行職を辞任したり所領を笹下や末吉から房総半島の印旛郡と安房国長狭郡の地方に転封左遷されているのは寛政重修諸家譜を御覧に成っている皆さんも知る所ですが、着目すべき所は間宮正次公の戒名も宗の字を含む‟宗淸”に成っている所だと思います。
やはり間宮信元公の戒名が光林と言うのは徳川幕府役人の誤植でしょう。
因(ちなみ)みに、皆さんも違和感を御感じに成られていると思いますが間宮信俊公の系図は以下の通り、間宮家有名人物の名前ばかりが登場します。
間宮信俊__間宮源十郎
     |   (弟、綱信公の字)
     |____間宮光信_ _ _間宮正信(三郎九朗、間宮直元公二男)
                                   (養子)
この信俊公の家系の系図の不可解さは、信俊として別人格に分けてしまった康俊公を、子孫の間宮正次公の代で帳尻を合わせて血統上で同一系統に戻せる様に粉飾した結果なのではないでしょうか?
そして、実在した御実弟の‟源十郎綱信公”の名前を登場させて子とする事で、普元院殿武月宗閑潔公の戒名が信元公の戒名で有る事を示唆する暗号とした。ところが、時代が下ると嫡流も傍流もこの事を口伝で伝承させる前に当主が早死にするケースも養子縁組で上手く行かないケースも発生し、更に一族は奉行職を辞して神奈川周辺を離れ家臣団との関係も菩提寺との関係も希薄に成り、結果的に時代時代に家系図を記録する習慣等当然無いし、移住する度に菩提寺も変えて来たので多くの間宮一族の中で後世には誤った記録だけが残ってしまった。
そして実際に各時代の菩提寺にも行かない、又はそれぞれの分家の子孫達に取材もしない学者達によって寛政重修諸家譜の丸写しが多発し混乱に拍車をかけているのが今現在と言う訳です。
〈康俊公戒名問題のまとめ〉
●恐らく普元院殿武月宗閑潔公の戒名は宗閑の入道号の初出年代から間宮信元(盛頼)公のものと思われる。
●間宮康俊公の入道号は宗覚で間違いない。
●間宮豊前守殿壱宿宗覚庵主は位牌の裏面生前名が表面として紹介されている。
●間宮家と家臣団が追善供養で使用した生前の入道号を重視した戒名は普光院殿壱宿宗覚大居士。
※以下は推測。
●恐らく間宮家は北条家臣時代まで曹洞宗と他宗旨の寺院で公私名前を使い分けていた。
●間宮信俊公と康俊公は同一人物の可能性が有る。
●宗閑寺の墓標の圓誉宗覚居士は恐らく隠居時の入道号フルネーム一宿宗覚庵主と没後の戒名の普光院殿壱宿宗覚大居士が暗号化された戒名で、目的は宗覚の字の入った戒名を墓標の忠臣に据える事で康俊公の入道号を宗覚と暗示する為。そして、御父君信元公を上位とする為に右列に普元院殿武月宗閑潔公の戒名を据えた。
●普元院殿武月宗閑潔公を信元公の名と示唆する為に、宗閑寺の墓標には‟教誉宗〇(←存在しない字)居士監物嫡源十郎”として康俊公の御実弟、源十郎綱信公の字(あざな)源十郎を使用し謎解きの暗号としている。宗〇と存在しない字を用いているのも本来の綱信公の戒名の字を書かないで済む様にしている意味が有る。
これが全ての真相だと思います。
以上、久良岐のよしに由(よ)る謎解きと解説でした。 

2016年11月26日は関東南部の平野部は絶好の紅葉狩りの1日と成った。

本来なら小生は早朝4時に友人のO型君と横浜市中区を出発し、伊勢原市の大山阿夫利神社の御神体である大山に山登りに行って紅葉のライトアップを見るか、あきる野市の秋留野渓谷に紅葉を見に行くはずだった。
前日の25日、小生にO型からメッセージが届いた・・・
「明日どうする?」
・・・と。
だから❝予定は早朝から出発、雨天なら世田谷豪徳寺か三渓園って1週間前に決めてあったろ~が!❞と思ったが、何かO型君が遠出を面倒くさがってそうなので「築地にセリを見に行かないか」と改めて新しい提案もしてみた。
O型:「英会話の予約9時に入れたから早朝は無理。」
何で予定入れるか!と思ったが・・・
小生:「あ~朝から動くの嫌なんだな」
・・・と思い、英会話優先して貰う代わりに貴重な休日を半日何もしないのは勿体ないので本日はO型君と別行動にして貰い、小生は1日個人行動をする事にした。
O型がちゃんと準備して紅葉を見に行く気が無いのなら、単独行動で別に人の多い日曜日じゃなくて小生は定休の水曜日に一人で行けば良いからね。
個人行動にしたので、今日は行かない心算だったが母の所に顔を出す事にした。
でも母の病院に行って築地で食事して終わりでは味気無い。
そこで思い付いたのが下の訪問先・・・
2016年11月26日訪問先位置関係
旧泉蔵院~弘明寺~寶泉寺~築地の拉麺屋❝若葉❞。
「そうだ!まだガラケー以来、デジカメで写真を撮影していなかった間宮家関連の神社仏閣を高速道路を使わずに巡りながら、築地まで下道で行こう!」
・・・と言う思い付き、これなら早朝出発し、午前中丸々と有意義に時間も使えるし築地の食事以外無駄遣いもしないで済む上、午後は病院に行ける。
で、出発の前に早朝に一仕事。
母も入院しているので自分の洗濯物3日分を、自宅洗濯機では洗わずコインランドリーでさっさと洗って、その足で出発する事にしたのが午前5時半くらいだろうか?
家じゃ夜中に洗濯機回せないし、コインランドリーだと大型洗濯機で洗濯して乾燥機で直ぐに乾くから便利だ。
まぁ、1回の洗濯に拉麺1杯と同じ700円かかるのは微妙だけど、時間を700円で買ったと思うと有意義だ。
コインランドリーでは洗濯を待つ間は缶コーヒーを飲みながら間宮家関連の古文書のコピーを読んでいた。
そうこうしていると、直ぐに洗濯➡乾燥が終了。フカフカで気持ち良い!
便利だなデカい乾燥機。

最初の訪問先は小生の住まう久良岐郡内に在った物凄く由緒正しい大寺院の❝跡❞、つまり廃寺に成った御寺の旧跡。
CIMG1453
その場所は現在では住宅地に成っている。
鎌倉時代は山崎泉蔵院と呼ばれ、源頼朝公が鎌倉のどの寺院よりも深く崇敬した修験道の寺院だった。
在る時期に戦火に捲き込まれて(恐らくは和田合戦か新田義貞の鎌倉乱入のどちらか)、鎌倉の山崎から道場の在った久良岐郡森村(磯子区中原)に移転して来た。
何故(なぜ)ここに移転したかと言うと、泉蔵院の山崎泉蔵坊は源頼朝公の命を受けて、この場所に熊野那智大社から熊野権現の御分霊を勧進したのだ。だから、この泉蔵院跡の熊野権現や屏風浦の森浅間神社は泉蔵院の支配地で、転居するのに便が良かった。
頼朝公の亡き後も、九条将軍や親王将軍の歴代から崇敬を集めた。
そして戦国時代には北條家臣の相模十四騎筆頭、間宮家から保護をされた。旦那が間宮家の頃に房総半島の里見家の海賊に略奪された歴史も有ったりする。新編武蔵風土記稿によれば、間宮家の奉納した太刀も寺宝に有ったようだ。
しかし明治政府の宗教政策神仏分離令と1村1社政策の失敗によって多くの神社仏閣が日本から消え失せたのと同じく、この磯子区中原に移転した泉蔵院も当時の僧侶が僧籍を捨て宮司に成った際に、社地確保の為に止むを得ず泉蔵院を廃寺にした上で更地にして頼朝公が勧進した熊野権現の名を熊野神社に改めて、神社としてだけ存続するしか無かった。
つまり、明治政府は水戸学と言うカルト宗派の影響を強く受けていたので、歴代天皇達が信仰した権現様の存在も山伏達の修験道も存在を弾圧した訳だ。
明治政府は概ね、外交と商業工業では日本の発展を成功させたが、日本文化を急速に弱体化させた罪は重い。
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ところで、この旧泉蔵院の宅地には修験道の道場だった頃の自然が一部保存されていて、緑地帯に成っている。
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余り歩く人も多くなさそうだが・・・
熊野神社の参道は、宅地化によって泉蔵院の頃とは恐らく違う、若干斜めに付けれている。
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ここは規模が大きい訳では無いが雰囲気が良い。
宅地化されたとは言え、背後に中原緑地が残り、鎌倉文化らしい谷戸地形に在る神社(元は修験道の道場)なので、早朝の凛とした空気と合わさって清浄な空気が漂う。
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ちゃんと、明治時代に泉蔵院を廃寺にして熊野神社だけを残して宮司に成った初代の宮司様は、歴史を残す為に境内社に泉蔵社として名前を一部残している。
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ここは(修験道の)寺院だった時は湧水地で修業の場として栄えた場所だった。
鎌倉幕府が滅亡して戦国時代には、横浜市南部の殿様で間宮林蔵達の祖先だった間宮家の殿様一族が深く信仰し、泉蔵院の山崎泉蔵坊泉勝は熊野那智大社に大旦那(スポンサー)として間宮与七郎と同平那隼人佑達を報告している。
小生はこの間宮与七郎こそが間宮林蔵の祖先に当たると推測している。間宮林蔵の祖先は間宮康俊公の子とされ実名は伝わらず間宮隼人とだけ官途名が伝わる。間宮与七郎も元服後の名と官途が伝わらず、字(あざな)だけが伝わっている。しかし部下と思われる同 平那隼人佑と記載される人物の官途が隼人佑なので、この部下に隼人佑の官職を授けれれると言う事は律令制度の隼人正(はやとのじょう)の官職を代々世襲した家系だろうか?
間宮一族は北条家中でも一番、鷹匠としての教養も備えた集団だった。間宮林蔵公の家系は鷹狩りに造詣が深かったと伝わる。
この間宮与七郎の名が登場する文書の年代は天文八年(1530年)なので、間宮康俊公は当時12歳で有る事から康俊公とは完全に別人だろう。恐らく、父の間宮信元公の字は伝わっていないので、この信元公本人かも知れない。若しくは信元公の兄弟か、名が登場する年代から康俊公の従兄くらいの関係だろう。
つまり、間宮林蔵の祖先が間宮康俊公とするのは誤りの可能性が高いが、少し惜しい外れで、正解はその父の間宮信元公の世代か康俊公の年長親族が間宮与七郎公が一番有力な祖先の候補に成ると小生は思っている。そして、間宮元重公の実父なのでは?とも思う。

泉蔵院の熊野権現への参詣を7時半頃に終えて、次は弘明寺に移動した。
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弘明寺と言うと京浜急行や横浜市営地下鉄の駅名や地名と認識されがちだが、元々は無畏三蔵法師と言うインド人の高僧が聖地と定め結界石を配置した場所に天平九年(737年)聖武天皇の時代に行基大僧正が開山と成って造営され後に天皇家の悪病平癒の勅願所だった。更に後の弘仁五年(814年)には弘法大師空海和尚が当地にて護摩を焚かれた記録が有る。
ここには新編武蔵風土記稿に❝弘明寺❞の字を建長寺の高僧玉隠が揮毫した扁額の裏面には奉納者達の名前が載っていて中心に❝本願宗閑同伴衆❞と刻まれ以下に同伴衆往嶋道徳面々の名も刻まれている。
同伴衆と言うのはつまり与力武将や家臣の事だ。道徳と言うのは臨済宗の入道号だな。
間宮家の家臣団の多くは、生前から入道号(禅宗修行僧としての名前)や、屋号を名乗る者が非常に多い。
そして屋号に川崎市由来の名を持つ者も多く、例えば間宮信親(信冬公と同一人物と推測)から感状を与えられている屋号が古門の内田対馬守の同族に、紺屋の屋号を持つ内田家がいる。紺屋と言うのは間宮家の旧本拠地の川崎の地名だ。
そして、その川崎の紺屋の地名の由来は三浦半島浦賀港西岸一帯の嘗ての地名の紺屋町の筈だ。
西浦賀(旧紺屋地区)は間宮家の所領だった。その紺屋を屋号に持つ紺屋内田家は現在も笹下城跡近くに住んで居て、近年までアパートを経営し、そのアパート名すら紺屋荘だったので小生は間宮家臣内田家のこの文書を読み古門内田家を探しに笹下を散策した際は、ものの3時間程度と直ぐに紺屋内田家を探し出し、そこから古門内田家と、高津間宮の間宮正秀公の遺骸を印旛郡高津村(八千代市高津)まで届けた源左衛門の祖先とおぼしき内田源左衛門家の足跡も探し出せた。
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❝本願宗閑同伴衆❞と扁額に書かれているそうだが、この宗閑と言うのは実は、間宮康俊公の戒名として現代に伝わる名だ。しかし扁額の奉納は大永元年(1522)年であり整合性が無い。3~4歳の間宮康俊公に同伴衆の大人が10人以上も連名で扁額を奉納するとは考え辛い。
実は間宮家は、近親ですら系図上で親や祖父、従兄弟の名や戒名を間違えて伝えた結果、寛政期の家系譜作成で同一人物と思しき人物の初名や改名後の名と思われる物が数人分有ったりする。
小生は、この弘明寺の扁額の記載事実から実は間宮康俊公の戒名が宗閑と伝わるのはそもそも間宮一族による事実誤認だと思っている。年代的に宗閑の戒名は康俊公の父の信元公の物であるべきだ。
恐らく康俊公には戒名が無かったのを、娘の於久の方が父の菩提を旦那様の徳川家康公に弔って貰う際に、誤って弘明寺に記録の在った祖父の入道号を父の入道号と事実誤認して以降、間宮信元公の入道号だった宗閑が、間宮康俊の戒名として後世に伝わってしまったと可能性が高いと推測している。
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何でこんな可能性を指摘するのかと言うと、弘明寺の寺宝だった花瓶にこんな文が書かれているそうだ。
「間宮監物コレを修理 天正十八年(1590年)二月吉日」と。この間宮監物と言うのは間宮家の寛政期の系譜上では間宮信俊と言う人物とされているが、小生の推測では間宮康俊公と同一人物だろう
❝信❞の字は間宮家の出自である近江源氏佐々木家の通し名であり、弘明寺の宗派真言宗は佐々木氏の本来の信仰する宗派である事から、北条家臣として主君北条氏康公から賜った❝康❞の字を使う間宮康俊の名と佐々木一族として神社仏閣と関わる際の間宮信俊としての名を使い分けていたのだろうと思う。
北条家では曹洞宗に帰依する事を家法とされていたので当然の事だと思っている。
つまり、康俊公が戦死した際に娘の於久様が父の近々の事績の残る寺院で父の戒名と成る入道号を知らなかった娘の於久さんが間違て調べて来てしまったか、後に追善供養を間宮正次公が行う際に誤って弘明寺の扁額に有る宗閑をもう一世代前の間宮信元公の戒名の可能性を考えずに間宮康俊公の戒名としてしまった可能性が高いと考えられる。
娘の誤解のせいで根本的に間宮康俊公には入道号も戒名もまだ現代に至っても実は無いままなんじゃないだろうか?
こう言う事が間宮一族には多過ぎる。
常に前線で戦う事を求められた一族だったので戦死者が多すぎて、一族内でも祖先達の氏名を間違えて追善供養を行ってしまったりしている。
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しかもよりにもよって、弘明寺の僧侶たちは歴史的な知識が欠如しているのか、この扁額をどっかにやって新調してしまったようで改めて訪問したが「弘明寺」と書かれた扁額が見当たらなかった。
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歴史を知らない神主や和尚が、宮司や住職に成ると起きる悲劇がここでも起きたのかも知れない。
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何はともあれ、弘明寺は巨大寺院だったのだが、こちらも明治政府の弾圧によって境内地が大規模に接収されてしまい、現在の弘明寺商店街と京浜急行電鉄の線路と駅が建設されてしまった。だから、現在でも普通よりは大きい規模の御寺では有るが、一時は無住職に成り廃寺の危機に陥った。
真言宗と修験道を崇拝した源氏の源頼朝公は度々、この弘明寺を参詣した。妻の北条政子も港南区の野庭関城の下の鎌倉街道下道を通って弘明寺を訪れている。或いは夫婦で参詣したのかも知れない。
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だから北条政子木像が有ったり・・・
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頼朝公を始め鎌倉武士が軍神として信奉した弁財天様が祀られれいる。
弘明寺で僧籍職員を質問攻めにしたが、全く歴史知識が欠如していて寺院を保護して下さった歴代の壇那様に対する感謝も無い。
むしろ、清掃していた事務員の方が詳しい始末。
僧侶がそんな事では御寺を維持するのは難しいだろう。その破滅の一歩が扁額の紛失かも知れない。
ちゃんと自分の御寺の歴史くらいは小生の様な素人一般人に突っ込まれない程度には学習するべきだと思う。
ところで、弘法大師様が護摩焚きした伝承が残る寺院や霊場(神道の聖地も含め昔は区別して無かった)では、不思議な事に自然湧水地と延喜式内社や式外社と日本武尊伝説の残る聖地が多い。
走水神社の辺りにも弘法大師は来ているが、走水は古代から飲用に適した湧水があり聖地とされていた。
尾張一宮真清田神社や横浜市港北区の師岡熊野神社や相模原市の有賀神社奥宮等の延喜年間以前からの天皇家の勅願所や祈願所も全て湧水地な訳だが、これは神社文化の成立を考古学的に考えると当然の事なん訳だ。
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古代人にとっては飲んでも御腹を壊さず清涼な生活水が確保出来る土地そのものが聖地であり、その湧水地を中心に集落が形成され、リーダーが生まれ豪族の住む場所が高床式の屋敷と成り、そこがやがて神殿となって行った訳だ。
空海和尚は、日本神話を大切にしておられたので自分で日本武尊伝承地を廻っている内に、恐らくそう言った歴史事実に考古学が存在しなかった時代にお気付きに成られていたのだろう。
そして弘明寺も、そう言った意味で凄まじい聖地である・・・
ここは昔からの温泉地だった。今ではそれを知る人も少ないけどね。

弘明寺で扁額の喪失の事実を確認してしまって大分、テンションが下がったまま、次の目的地の横浜市鶴見区下末吉の寶泉寺へ移動した。
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この御寺は間宮家で最初の武勇が記録に残る間宮信冬公の開基と御寺では伝えている。
つまり権現山合戦で活躍したあの間宮彦四郎だ。
所が、川崎大島村(現在の川崎駅前から徒歩20分超の大島町)の伊左衛門の官途名を屋号に持つ間宮家臣子孫達が毎年旧暦八月二十六日に箱根の山中城で討死した間宮康俊公の追善供養を行っていたそうだ。この大島村の伊左衛門は、弘明寺の扁額に間宮宗閑同伴衆として名を連ねた往嶋道徳(おうしまどうとく)の子孫だろう。
この大島家を始めとした家臣団の康俊公の追善供養と、開基の間宮信冬公の話がいつの間にか、寶泉寺の外で語られる寺の歴史が間宮康俊公開基と話が混同されてしまって、事も有ろうに昌平坂学問所の頭取で間宮家の子孫である間宮士信公が編纂した新編武蔵風土記稿でも同様に間宮康俊開基と紹介してしまっている。
しかしこれは誤りで、寶泉寺が正しく、恐らくは間宮康俊公は寶泉寺を❝中興❞されていたのだと小生は推測する。
間宮家が末吉や川崎辺りを本拠地にしたのは間宮信冬公や間宮信盛公の時代の話なので、やはり当事者である寶泉寺の寺伝が正しいだろう。
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ところで、この御寺は都会の中に在りながら、御庭は中々広く綺麗な御寺だ。
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手入れが行き届いている。素晴らしい。
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建築も素晴らしい。
そして寺紋は間宮家所縁の四ツ目結び紋に丸を配した物。
丸に四ツ目結びは紋は、間宮家の分家や家臣団が間宮本家から与えられる家紋だ。
分家の嫡流は間宮本家と同じ四ツ目結び紋。それ以外の末端の一族や有力家臣や神社仏閣が〇で囲ってある丸に四ツ目結び紋な訳だ。
だから間宮家の戦国時代の本拠地の磯子区や港南区の地主達は、この寶泉寺と同じ家紋が多い。
寶泉寺の現住職の若様と一しきり寶泉寺の事を話し込んで、御寺の寺伝を纏めた冊子を頂きました。
若様に感謝。
御参りと写真撮影を終えて、思い付きで川崎駅前の瑞龍山宗三寺もついでに寄る事にした。
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宗三寺は旧東海道の目の前に在り、直ぐ裏には京浜急行川崎駅も在る。
一帯は堀之内の地名が町名だが、これは間宮信盛公の城館が在った事に由来する。
そもそもは源頼朝公に与力した平安時代末期の名将、佐々木高綱公の城館が在った場所が現在の宗三寺の境内地だ。佐々木高綱公の引退後、この地を引き継いだのは甥っ子の佐々木信綱公だった。佐々木高綱公と間宮家の祖先とは祖先同士が親戚に当たる。
高綱公の祖父の佐々木秀定公と間宮家の祖先の佐々木行定公が御兄弟に当たる訳だ。
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宗三寺の場所に在った佐々木家は、信綱公の子、佐々木泰綱公の代に横浜市港北区の小机の開発願いを鎌倉幕府に届け出て承認されている。この川崎多摩川を利用した水運には適するものの、当時は砂州で耕作に適さなかったからだろう。その頃に関東に残った佐々木一族は小机を本拠に移したと思われる。
小机も佐々木高綱公の居城跡の鳥山八幡宮や高綱公が開基した三会寺が現存する。
川崎の宗三寺は、元々は勝福寺と言う真言宗の寺院だった。
佐々木高綱公の甥の信綱公の子、佐々木泰綱公が弘長三年(1263年)に同志5000人の寄付で梵鐘を鋳造させて勝福寺に奉納している。そんな川崎に間宮家が戦国時代に入ったのは北条家の事情に由ると思われる。
北条家が関東で勢力を伸張するに当たり、獲得した領地支配の正当性を主張する為に、古来の領主の子孫を故地に配属していたので、佐々木一族の間宮家を川崎に配置したのだろう。
ここを本拠地にしていたのは間宮信盛公だ。
そして間宮信盛公が元々真言宗の勝福寺を中興するのだが、その縁で信盛公の入道号、宗三をとって是(これ)を寺名と改め、宗旨も北条家の帰依した曹洞宗に改宗された。
さらに時代が下って子孫の氷取沢間宮家の一族、間宮孫兵衛盛重公が宗三寺を中興した。
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しかし、この間宮盛重公、とんでも無いミスをやらかしていて、間宮信盛公の墓碑に誤って間宮本家の名将、間宮康信公の名を彫り込んでしまっている。
しかも子の間宮盛正が元禄四年(1702年)に刃傷沙汰を起した挙句に預かり先の旧武田家臣、依田家で不可解な火災を起こして改易されている。
この一連の事件の責任をとってか、間宮家の本家や杉田間宮家は奉行職を同時期に辞任している。
更に同時期に高津間宮家の間宮信要も延宝四年(1677)年に刃傷沙汰を起し切腹されられている。
更に少し前の延宝元年(1673年)には大田区の善慶寺が菩提寺の間宮太郎兵衛達が起こした義民六人衆の事件が起きている。
小生は、これ等一連の事件を義民六人衆事件を契機に間宮家を敵視し、更に旧北条家臣団を敵視して金権政治を行っていた側用人達の陰謀と後に旧武田家臣の柳沢吉保の関与が有ったのではないかと推測している。
同じ時期の元禄二年(1700)年には間宮と同じ旧北条家臣で蒔田吉良家の与力だった世田谷の喜多見家が喜多見重政の代に2万石の大名から改易されている。これも柳沢吉保の陰謀と言われている。
写真を撮影し終わって、間宮信盛公の御廟所と本堂にも御参りして、築地に向かった。
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日曜日の築地場外市場は大盛況で、中々歩くのも大変な程だった。
小生の目的はもう少し歩き易い門跡通りの歩道に面した拉麺屋の❝若葉❞。
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ここは築地に始めて来た10年位前に気になって、母の入院以来ずっと食べるチャンスをう窺(うかが)っていたのだが毎回、お店が早すぎてもやってないし午後だとやってなくて食べれなかった。
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今回はやっと席に着く事が出来た。
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シンプルな醤油ラーメン。でもこれが凄く美味い!
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極細縮(ちぢ)れ麺が旨味の深い醤油スープを良く持ち上げてくれるんだな。
700円と築地に在りながら割と良心的な値段で味も凄く良く大満足。
しかし食べたりない小生は、この後、鶏肉の総菜で有名な鳥藤に移動・・・CIMG1571
チキンペッパーステーキを食べ歩きして・・・
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更に!
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イチゴ大福も食べました(笑)
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餡までイチゴが入っていて美味しかったよ。
御腹もいっぱいに成った所で国立がんセンター研究病院に移動。
母は火曜日に手術して4日目だが、何と、見舞いに行った日から食事が復活していた!
まだ柔らかいオカズが多かった様だが、回復の速さにビックリした。
帰りに病院のロビーで面白い展示物が有るのに気が付いた。CIMG1577
医療器具やら病院の歴史の展示。
こうやって時間系列での器具の発展や、病院解説なんかの展示してあると興味が注がれる。
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ここは今上天皇陛下御夫妻も見学に来られたそうだ。
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ふむ、予定通りの紅葉見学とは行かなかったが、尊敬する間宮家の殿様達の足跡を改めて辿り写真撮影を行えて、美味しい拉麺も食べて、母も回復しつつ有り、大変良い休日を過ごせた!
水曜日はあきる野に紅葉を見に行こう。

では!又、次の記事であいましょう!
そろそろ、何か解説記事書きたいな・・・


曽我梅林と小田原周辺の梅林は今が見頃ですよ!

今年は梅花の開花が早いと、残雪の八王子城址で先週土曜日に確認したので…
神奈川県の梅花はもう見頃だろうと思い、曽我梅林のホームぺージを見た所、やはり今年は今週が見頃だった。
水曜日は小生の休日。
午前中に歯医者で定期健診を終えると、そのまま車で曽我にGO!
湘南は小田原の観梅の名所、曽我梅林に行って来た…
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東名高速を抜けて小田原厚木道路を走っている最中に俄雨(俄雨)が降って来たので、一時はどうなる事かと心配したが現地についたら雲も晴れ始め、雪化粧した美人な富士山が曽我梅林の向こうに姿を現してくださった。
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今年も去年と同じ位置から写真を撮影したが、この枝垂れ梅が凄く綺麗なんだな。
さて、この曽我梅林は梅農家が実の採集の為に植えている❝梅畑❞なだけあって範囲は凄まじく広大で、恐らく日本最大級の梅の木の本数、4万本超を誇ります。

現地案内看板ピンクの範囲が全て梅林なのですがGoogleEarthの衛星画像に看板の画像を貼り付けて範囲を見て頂くと解りますが、…
曽我梅林
凄い範囲でしょう?
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周辺には名所古跡いくつか有り、全部回れば1日費やせますね。
小生、たまたま小田原の石垣山一夜城址に行く予定だったので曽我梅林での梅花鑑賞だけでした。
以前も戦国時代の北条家の梅林文化を紹介した記事でも曽我梅林を紹介した事が有りますが、今日は曽我梅林自体の写真と歴史を紹介したいと思います。
※以前の曽我梅林と北条家の梅林文化を紹介した記事は「ココ」←クリック!
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先に説明しましたが、この曽我梅林は曽我が梅の実の生産地で有る為に、農家さんが集まってるので4万本超の梅の木を有します。
そして、梅まつり開催地域では、主に「杉田梅」「曽我十郎梅」「南高梅」と観賞用の「枝垂れ梅」と「小梅」が見られます。
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曽我別所梅まつりの開催期間中は上の植生エリアを説明した看板も掲示されます。
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綺麗でしょう?これが小田原名物の曽我十郎梅です。
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観賞用の枝垂れ梅が植えられた一角も在ります。
しかし梅の実の収穫用の木の方が圧倒的に多く有ります。
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開会中は農道にカップルやシニアの観光客と多くスレ違います。
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川岸にも梅畑が広がりますが、残念ながらこちら側は既に花が散っていました。
屋台や梅の製品の直売所も梅祭り開催中は多く出ます。
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小生は今回は直ぐに食べたかったので❝雲上❞と言う一粒300円位の少し高級な梅干しと、御土産用の❝曽我十郎梅の梅干し❞を買いました。
会場には、ジェラートの専門店も有ります。
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駐車場に在る上の写真の建物がジェラート屋さんです。
小生は梅の入ったジェラートを食べました。
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清涼感が有り、とても美味しかったです。
あと箱根名物足柄茶と、さっき買った梅干し雲上。
小田原の梅干しは武士文化の梅干しですので蜂蜜漬けでは無くて、昔ながらの酸っぱい梅干しです。
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でも雲上凄く美味しかったですよぉ~♪
露店直売所の目標は、梅林の中の下の写真の八幡様です。
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この八幡様の周りに食堂等も出店します。
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八幡様で御神体を拝んで参りました。
この神社の在る区画の北西、下曽我小学校の裏て側の区画には、曽我十郎梅の元に成った❝杉田梅❞と呼ばれる品種の梅林が有ります。
この杉田梅は昭和初期まで❝最高級ブランド❞として江戸の市民や皇族に愛された梅で、発祥地は横浜市磯子区杉田でした。
戦国時代の北条家臣、笹下城主間宮康俊公や間宮家分家の杉田間宮信繁公が横浜市南部に植林を始め、特に間宮信繁公の植林した杉田梅林は梅の実だけでなく梅林自体も江戸時代に江戸市民や明治時代にも皇族がだびたび観梅に来る程に観光地として有名でした。
しかし残念ながら神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会は不見識極まりなく、この杉田梅林の宅地開発を承認し全く保護せず地上から消し去ってしまいました。
左翼閥や開発利権と癒着した人間が過去(?)多かったんでしょうかね?
現在も扇谷上杉家の糟屋館城址を県道開通させ破壊する準備してますし、笹下城は三井不動産レジデンシャル等に破壊されている真っ最中ですし、現在も教育委員会にそんな人が多そうですが。
しかし・・
ここに来ると横浜に在った杉田梅林の往時の姿を想像させてくれる杉田梅の梅林が見られる訳です。
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これが杉田梅です。
接写するの忘れましたが、曽我十郎梅より若干花が小ぶりでした。
つまり、曽我十郎梅は杉田梅の中で花の大きい株を交配させて生み出された品種と言う事ですね。
所で、何故、ここ曽我別所に広大な梅林が有り、御当地横浜で滅亡した杉田梅が大量に生産されているかですが…
実は!
先に有名に成った間宮家の杉田梅林から、この曽我別所の地域に移植されたそうです。
※杉田梅林の記事は「間宮家の事績まとめ」「間宮信繁公の菩提寺妙法寺」←ここクリック!
そして、曽我別所の農家の皆さんが更に花の大きい株を品種改良して曽我十郎梅に育て上げた訳ですね。
…神奈川県と横浜市の教育委員会が滅亡させた杉田梅林の梅林文化を、小田原で守って下さった曽我別所の皆さん、ありがとうございます。
感謝。
北条氏綱公、北条氏康公、北条綱成公、北条氏繁公、間宮信冬公、間宮信康公、間宮信元公、間宮康俊公、間宮康信公、間宮綱信公、間宮直元公、間宮信繁公…
小生は貴方がたの残された文化を感じ生きられて幸せです。
ありがとうございます。

さて、次回は書くのを忘れていた伊勢原市高部屋神社裏の丸山城址公園の紹介をしたいと思います。
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では!又、次の記事で!

横浜市磯子区上中里に、地名を冠した上中里神社と言う神社があります。

近くには磯子高校や上中里団地があり、ベッドタウンとしてそれなりの人口の有る地域の神社なのですが…
目立たない参道の入口をずっと登ると、ひっそりとした鎮守の森の中に、ソコソコ大きい御社が有ります。
何にも知らずに行くと、参道からは祠くらいしか無さそうで予想外に立派でビックリすると思います。
昔はもっと社地も広かったんでしょうね…
御近所の磯子高校は昔の上中里神社の境内だったのかも知れません。
周辺が学校建設や宅地化で、表参道以外の道を失ったんでしょうかね?
神社の由来を見ても、少し昔まで地元民に熱心に崇拝されて人気も高かった様ですし…
この神社が寂れている問題点は行くと分かりますが、道が急斜面の参道一つしか無くて人の往来が無い事に尽きると思います。
近くに学校が有り、例えば、この神社の裏手が抜け道に成っていると学生が部活で参道の階段をトレーニングに使ったり出来ますね…
小生の中学生時代も御近所に御寺と神社が有り、柔道部時代に神社の階段を上り下りして体力作りに活用していました。
…神社の社殿裏手にでも、高校や住宅街からの間道を作れば良いのになと思いました。

さて、この神社、明治政府の愚策一村一社政策で潰された近隣の7つの神社を合祀し今に、その神様達と昔の村民達との絆を伝えていますが…
その内容は拝殿前の看板に書いてあります。
ただ、その神様が祀る御社が何で氷取沢町や上中里町に有ったかを説明する記載までは書かれていません。
以下は推測ですが、それはかなりの確率で戦国武将間宮家に関係が有るので少し解説します。
先ず、この上中里や氷取沢一帯を含む港南区磯子区を戦国時代に治めていたのは、小田原北条家の家臣の間宮家だったのを知らない人も多いと思います。
そして江戸時代にも間宮家分家の氷取沢間宮家がこの一帯を治めており、氷取沢間宮家初代の間宮綱信公は八王子城主の北条氏照公の家老として外交と内政で活躍し、織田信長公にも外交使者として面会しています。
近くには、その名残りで間宮寺と言う御寺がありました。
間宮寺は元は港南区笹下の真言宗東樹院の末寺でしたが檀家少なく、間宮家が支援し日蓮宗に改宗し杉田妙法寺の末寺として中興開基しました。
しかし江戸時代には廃寺に成ってしまいました。
その間宮寺の遺物が実は上中里神社に残っています。
参道階段の中腹左手にある石仏がそれです。
不動明王像ですね。
元々は間宮寺に有った物を廃寺に成った後に当時の村民の皆さんが、この上中里神社に移し守り続けたそうです。

さて、そんな訳で間宮家との関わりは解って頂けたでしょうか?
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さて、上中里神社に合祀されている神様達が何で間宮家と関わり有るかですが…
上の摂社に祀られている、それぞれの神様と間宮家の繋がりを個別に説明します。
判らない物は判らないと書きます。
⚫︎稲荷神社
…伏見稲荷神社の農耕の神様。
間宮家との関係は不明。
⚫︎明神社
…神明社と言えば天照大御神だが明神社なので何の明神様か不明。間宮家との関係も不明。
⚫︎駒形神社
…保食神(うけもちのかみ)。
飢饉回避の神様。間宮本家の笹下間宮家が江戸時代に転封され引っ越した先の下総国印旛郡の神様なので、江戸時代の間宮家と関わりが推測される。
⚫︎天神社
…菅原道真公。
氷取沢間宮家初代の間宮綱信公は奥さんが宅間上杉家の姫君。
宅間上杉家は今の港南区上永谷に永谷天満宮と曹洞宗の御寺天神山貞昌院を開いた武家で足利尊氏公の従兄弟に当たる方の御子孫の家系なので、宅間上杉家と関わりが深い氷取沢間宮家との関係が推測される。
⚫︎山王社
…恐らく蔵王権現。今の八王子市の御嶽神社。
間宮綱信公が与力・付家老として御仕えした北条氏照公は最初、八王子の滝山城を居城にしていました。滝山城には山王曲輪と言う防御施設が有り、そこは元々は源義家公が蔵王権現社を建てた場所で、氏照公は山王曲輪の場所から蔵王権現社を滝山城の外郭に遷座(せんざ=神社を移動する事)しました。
今でも滝山城外郭に蔵王権現が廃仏棄釈で御嶽神社に名を改め存在していて、氷取沢町に山王社があるのは滝山城に勤務した間宮綱信公との関係が推測される。

⚫︎八王子権現社
…牛頭天王と牛頭天王の8人の眷族(けんぞく)を祀る神社で、今の八王子市の八王子神社の昔の名前。
間宮綱信公が与力した北条氏照公は晩年、滝山城を廃城にし今の八王子神社の辺りに八王子城を築城し本拠地を移した。その関係で間宮綱信公も牛頭天王を崇拝し八王子権現社をの分霊を勧進(かんじん=神様の御霊を分けて貰い祀る事)した事が推測出来る。
※杉田間宮家菩提寺の杉田妙法寺も弘法大師空海様が勧進した牛頭天王を、祀る。
⚫︎山大明神社
祭神不明。
香川県屋島の蓑山大明神と関係有りか?
間宮寺は元々は真言宗だったので真言宗御室派大本山の屋島寺にある蓑山大明神を祀っていた可能性は有る。
又、間宮家は近江源氏佐々木家の鎌倉時代の名将佐々木高綱公を江戸時代中期まで先祖としていた(実際は高綱公の叔父の佐々木経方の系統)で、源平合戦の舞台屋島とも関係がない事は無い。

以上、多少なりとも上中里神社の摂社の神様の中には間宮家と関わりが有る神様が幾つか見受けられますね。

さて、上中里神社の本殿ですが、冒頭でも述べましたが結構立派でした。
拝殿はちゃんと一段高い場所にあります。
なんか神社と言うよりは御寺の本堂みたいな造りの本殿ですね。
せっかく、こんな立派な神社があるのですから、地域の方々にも御参りして欲しいな〜と思いました。
そして、夏祭りもここで開いて欲しいな〜。
その為には人の流れを作る事が大切です。冒頭でも述べましたが、裏に抜ける道を作り住宅街や磯子高校に繋げる道を作れば、この神社は活気が戻る様な気がしました…

本日はここまで!
では、又、次の記事で!

ブログネタ
風景写真 に参加中!
東京駅の近く、今の皇居は戦国時代には江戸城と呼ばれた御城が在(あ)りました。
きっと余り歴史に興味の無い人は…
「江戸城を築城したのは徳川家康と諸大名だろ?」
「何で安土桃山時代〜江戸時代に築城された江戸城が戦国時代から有るんだよ?」
…な〜んて思うかも知れませんが、それは違いますよ。
徳川家康公や徳川秀忠公をはじめ、黒田長政公や加藤清正公達は江戸城を拡張した「改修者」です。
今では江戸城は天皇家の皇居に成っていますね。
江戸城
…元々江戸城は、太田道灌(どうかん)公と言う戦国時代初期の名軍師として名高い殿様が築城した御城です。
道灌公は相模国や武蔵国南部を支配した扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家裁(かさい=首相)でした。
その太田道灌公が築城した当時の江戸城の一部が今も皇居に残っていて、正に天皇陛下の宮殿の横に在る水堀が戦国時代から今に残る、その名も「道灌濠(どうかんぼり)」と呼ばれる遺構です。
それが下の衛星画像。
実は太田道灌公は智謀と人望が非常に高かったので、器の小さい主君の扇谷上杉定正に恐れられ、更に他の奸臣(かんしん=悪事を働く家臣)に妬(ねた)まれ、今の神奈川県伊勢原市に在った扇谷上杉家の初期の本拠地七沢城に赴いた際に、別荘の粕屋館で入浴中に暗殺されてしまいました。

そんな事もあり上杉定正は更に家臣からの人望を失います。
結果、北条家が南関東に進出してくると間宮家や上田家、足利一門で太田道灌公の盟友の吉良家の離反を誘発してしまい、後に太田道灌公の一族も悉(ことごと)く北条家の傘下に入り江戸城も北条家の持ち城に成りました。
※吉良家と太田道灌公に関係の有る記事は「ココ 」←クリック!
※間宮家の記事は「ココ 」←クリック!
織田信長公達が活躍した所謂(いわゆる)戦国時代に江戸城に詰めて城代を務めたのが、北条家で5本指に入る戦功と智謀を誇った北条綱高(つなたか)公でした。
その功績は立派で、北条家の主力部隊五色備えと呼ばれた5色の旗指物や軍装で色分けされた部隊の内、赤備え隊の大将を務められた名将でした。
最初の頃は今の鎌倉市大船駅近くの玉縄城の城代を務め、後に世に有名な河越合戦後、今の東京都府中市や調布市や立川市の辺りの重要拠点だった深大寺城(現在の深大寺は戦国時代御城だった)を守備しました。
その際、深大寺城に攻め寄せて来た扇谷上杉家の重臣、難波田(なんばだ)家の軍勢を迎撃し撤退に追い込み、更に追撃して完勝しています。
又、伊豆方面の守備を担当する事も多く、最後は江戸城に詰めて、江戸城で79歳と当時としては長寿に数えられる年齢で亡くなりました。
綱高公の軍学の師匠は、今の京浜急行神奈川駅一帯に在った青木城主の多目元忠公で、この元忠公は北条家の軍師格だった知将でした。
※多目元忠公と青木城の記事は「ココ 」←クリック!

綱高公は智謀だけでなく、その武勇も評価が高く、関東で最強の武将だった義兄弟の北条綱成公と並ぶ評価を受けた方でした。
綱高公は元々は実家が九州の名族高橋(たかばし)家の血筋で、実父の代に北条家二代当主の北条氏綱公に仕えて才覚を気に入られ氏綱公の婿養子に迎えられて姓を北条に改めた方でした。
KOEIさんのゲームだとこんな感じ…

ゲームの絵なのに地味でしょ?
実は実績も名前も有名なんですが何故か人気が無くて、安土桃山時代はおろか江戸時代の肖像画も小生は見た事も無いんですよ。有るのかな?

…小生、その不人気の原因は綱高公の菩提寺の江戸時代の対応に有ると考えています。
実は綱高公は御父君が元々幕臣だった関係か、当時の上方の室町幕府管領(三好家)の支配地域で信者の多かった日蓮宗を信心していました。
しかし日蓮宗が悪いのでは無く、その後の御寺の歴史の話なので先ずは我慢して読んでください。
綱高公の戒名(かいみょう=亡くなった時に貰う僧籍の名)も高栄院殿紗前礼治部浄德日真大居士と現代に伝わっています。
だから、その菩提寺(ぼだいじ=墓所の在る寺院)は碑文谷法華寺とハッキリ伝わっています。
今の御寺の名前は「円融寺」に変わり、宗派も日蓮宗から天台宗に改宗しています。
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円融寺の山門から続く参道は、綱高公の人物を表す様に落ち着いた趣(おもむ)きが有ります…
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当時の日蓮宗には対応に二種類の御寺が有りました。
一つは、一般的な参拝客も相手にする派閥
もう一つは、不受不施と言う檀家以外の参拝客からのお布施(寄付金等)を受け取らない自分達に非常に厳しく真剣に修行のみを追求した主義の御寺でした。
実は 、その主義の為に困窮する寺院が多数あり、更に、その主義を幕府より「排他的」と見做(みな)されてしまい不受不施だった法華寺は改宗する事に成り、日蓮宗から天台宗に改め御寺の名も現在の円融寺に改められたそうです。
天台宗に改宗した理由は、元々、法華寺の前身は天台宗の御寺だったからです。
元は日源上人と言う日蓮宗の有名な和尚様が、日蓮宗の御寺として再興開基したので江戸時代まで日蓮宗だった訳です。
この御寺からは日蓮宗で特に有名な「日進上人」様も排出しています。
日進上人と言えば、神奈川県鎌倉市の妙隆寺出身の有名な和尚様で、妙隆寺は七福神の寿老人を御祀りする御寺です。
鎌倉江の島七福神御朱印の一ヵ所にも成っていますね。
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そんな御寺が「菩提寺だった」ので、北条綱高公は戒名が日蓮宗の和尚さん風な訳です。
何で「だった」と言う表現は読み進めて頂ければ解ります。

この円融寺、宗派は変わっても今でもその規模は立派で、内門には仁王門も控えています。
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立派ですよね?
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正に綱高公の菩提寺に相応しいのですが… 2015-05-02-11-21-03
残念な事に、参拝した際に現在の円融寺の御住職に綱高公の御廟所の所在を伺(うかが)った所…
「現在、この御寺に俗名が北条綱高と呼ばれた人物の御廟所は無い」
…と衝撃的な回答が返って来ました。

最初、この回答を頂いた時に「あ~観光客とか歴史好きの訪問はウザいのかな?」とか解釈しましたが…
帰って調べてみたら、日蓮宗から天台宗に改宗した際に「日進上人の法脈は完全に途絶えた」と記載が有りました。
つまり!
天台宗に改宗した際に御廟所も全て廃棄されてしまったか、どちらかに移転させられてしまい、その際に日蓮宗の高栄院殿紗前礼治部浄德日真大居士と言う戒名だった綱高公の墓標も撤去された可能性が非常に高い訳です。

綱高公の御廟が不明に成れば、当然、江戸時代にも拝む人が来なくなり、やがて其の綱高公御自身もマイナーに成ってしまいますよね…

残念ですね…
宗旨が変わって偉大な人物の御墓を撤去や移転するとは。
当時の和尚さんが歴史に無知な方だったんでしょうかね?
他の宗派では、その様な事は余り聞いた事が無かったので少し「イラっ(怒)」としました。
関東の発展に寄与して下さった人物の御廟所を無下に扱うのは、小生の信条としては歴史遺産の破壊活動としか受け止められなかったので。

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でも日源上人の追善供養はなさっているんですよね~。
これはやはり、当時の住職が歴史に無知で御廟所を移転してしまうか撤去してしまったと考えるのが自然なんでしょうか…?

そんな訳で今では名将北条綱高公の御廟所はありませんが、円融寺の雰囲気は北条綱高公の御人格を今にも伝える様な雰囲気は感じる事が出来ました。

今日はここまで!
では、又、次の記事でお会いしましょう!



横浜市港南区磯子区に有った笹下城

間宮林蔵と杉田玄白の先祖の城


笹下城と言う御城が横浜市港南区と磯子区に在(あ)ったのを御存知でしょうか?小田原北条家の家臣で相模十四騎の筆頭とされた間宮氏の居城でした。
間宮家は近江源氏佐々木氏の出身で、伊豆の間宮に移住した一族が地名を姓にし、北条早雲公が伊豆の大名に成ると早くから配下として活躍し戦国時代の頃には小田原北条家の中で相模十四騎筆頭と言う旗本中で深く信頼を得る立場となりました。

写真は笹下城本丸部分です。

港南区笹下4丁目の旧I H I団地のあった場所の裏山、梅花山成就院と言う御寺と地続きの丘が本丸の跡です。その名残で、この付近には「御下公園」と言う地名が残ります。

近々この本丸の風景も野村不動産の宅地開発と介護施設建設で今の様には見る事が出来なくなります。

この笹下城、北条家の本拠地の小田原城、重要拠点の大船駅近くの玉縄城や八王子市の滝山城に近い規模を誇っていましたが、高度経済成長期の乱開発で史跡としての調査はされませんでした。
平成二十四年迄、成就院横に有った明確な遺構の大空堀も宅地化され消滅してしまいました。

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笹下城城域は、上の写真の現在の笹下中央公園に在った出城の北見掃部(かもん)屋敷跡の大切岸(きりぎし)と…

…下の写真の天照大神宮一帯に在った松本城の二つの砦を取り込む構えでした。  
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その規模は南北に1.5km前後、東西に1km程の範囲に笹下城要塞群が有りました。

笹下城の南端の正門は笹下川に架かる下の写真、現在の「元笹下橋」付近だと伝承しています。

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下の写真は元笹下橋から見た外堀の役割を果たしていた笹下川です。

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昔から横浜に住む人は笹下川と何百年も川の名前を伝えて来ましたが、近年、神奈川県が大岡川の本流と言う理由で大岡川にいつの間にか名称を改称してしまいました。


この笹下城は2つの仮想敵を想定して築城されました。
1つ目は扇谷(おうぎがやつ)上杉家、江戸方面から陸路で鎌倉街道を攻め上って来る敵勢力です。

2つ目は里見家と正木家、房総半島から水軍で来襲し、鎌倉の外港の六浦港(横浜市金沢区六浦に在った港)や三浦半島の走水海岸付近への上陸を狙う敵勢力です。
その2勢力を抑え今の横浜市域と鎌倉市域を東京湾側で防衛する目的で築かれたのが笹下城でした。

下の 写真は杉田側から侵入して来た敵を迎撃する関門だった若宮郭(わかみやくるわ)の跡にある若宮御霊神社です。
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元々間宮家の殿様が鶴岡八幡宮の若宮八幡宮と御霊神社をそれぞれ別に勧進し祀っていましたが、近代に合祀されて若宮御霊神社になりました。 

戦国時代に間宮家が仕えた北条家は、小田原城を本拠地に関東地方の大半を治めていました。その親族で関東地方最強の武将だった玉縄城主の北条綱成(つなしげ)公や、2代目の北条氏繁公の付家老を務めたのが間宮家でした。
北条綱成公は上杉謙信や武田信玄の大軍相手に度々勝利を収めた武将で、敵方からも「地黄八幡」の異名で畏敬の念を持って呼ばれる名将でした。

北条家には軍旗を青・赤・黄・黒・白の5色に色分けされた5つの主力部隊が有りました。

その内、黄備え隊の大将が玉縄城主北条綱成公と御子孫の玉縄北条家歴代当主だったので、付家老の間宮家も黄備え隊の与力として活躍しました。

鎌倉市大船一帯に在った玉縄城と、鎌倉を東西で対を成し鎌倉や横浜への陸海路の侵入口を防衛する重要な土地の久良岐郡笹下郷や杉田郷一帯の拠点として築かれた笹下城ですが、間宮信元公の代に築城されると、房総半島からの里見水軍・正木水軍の乱入による略奪は無くなりました。

今の横浜市や鎌倉市に当たる昔の久良岐郡や鎌倉郡の領民にとっては間宮家と笹下城は心強い存在でした。

そんな笹下城を拠点に活躍した間宮家には戦国時代に特に素晴らしい功績を残した武将が5人います。


1人目は今の京急神奈川駅の付近一帯に有った権現山城で勃発(ぼっぱつ)した北条家vs扇谷(おうぎがやつ)上杉家の権現山合戦で活躍した川崎駅前の堀ノ内に在った河崎館の城主間宮信冬公でした。
下の写真が、昔、海に突き出た半島だった権現山城址の青木山本覚寺側~幸ヶ谷公園の風景です。

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上の絵は権現山合戦で活躍する間宮信冬公の絵です。北条家が敗戦したものの、信冬公は敵陣への単騎突撃で名声を獲得しました。
この権現山城は古くは足利尊氏公が合戦の際に籠城したのが城塞としての始まりで、付近には江戸時代に東海道として整備された古東海道が通っていた為、戦略上の要所でした。
江戸時代には東海道五十三の宿場町の一つ神奈川宿が置かれ、幕末には勝海舟の設計で海上要塞の神奈川台場が建設された場所の直ぐ近くでもあります。
この権現山城は間宮家と所縁の有る土地でした。
古来、この一帯は県名の由来に成った神奈川と呼ばれた土地で、そこに間宮一族の間宮宗甫と言う武将が領地を有していた為、北条家家臣の間宮家の武将が参戦するのは当然でした。
系図上で信冬公の後継者として確認出来る人物が間宮信盛公です。
この合戦の後、先述の通り間宮家は間宮信盛公と、その次代を担った間宮信元公が川崎から陸路の要の横浜市港南区笹下や海運の要の磯子区杉田港に拠点を移し、間宮信元公により笹下城が築城されました。
下の絵図は権現山合戦の様子です。

権現山合戦

現在では権現山城址は往時の原型は無く、大半は幕末の神奈川台場建設の海埋め立ての為に城山を削られ、防御施設の遺構は消失しました。

更に国道と鉄道の建設で上の写真の本覚寺一帯~幸ヶ谷公園に続く半島は大きく掘り切られて分断されてしまい、周囲が宅地化され地形も当時の城域が解らなくなる程に破壊しつくされてしまいました。

周囲には幕末の横浜開港時、フランス公使館として利用された真色山甚行寺もあります。
権現山城を拡張した青木城主要部分と伝わる場所に建つ青木山本覚寺は、幕末にはアメリカ領事館として利用されました。
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権現山城の在った、この地域は昔の武士にとって重要な場所だった上に近代横浜開港の重要な舞台の一つであり、現代の横浜市民にとっても大切な歴史を伝える場所です。

間宮家で功績を残された2人目の殿様は
豊臣秀吉の小田原攻めの際に伊豆山中城の合戦で活躍した間宮康俊公です。

間宮康俊公が付家老を務めた北条綱成公の「黄備え隊」は何回も神がかり的な戦功を立て全国に勇名を轟かせました。

中でも有名なのが日本三大奇襲戦の一つに数えられている河越夜戦とも河越合戦とも呼ばれる決戦での活躍です。戦国時代、北条綱成公と間宮康俊公の御主君の北条氏康公は優れた民政により、民百姓の支持を得て関東で勢力を拡大しました。
その過程で旧勢力筆頭格の関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市)で激突します…
河越合戦布陣図

戦国時代、北条綱成公と間宮康俊公の主君北条氏康(うじやす)公は優れた民政により民百姓の支持を得て、関東で勢力を拡大します。その過程で旧勢力筆頭格の関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市に在った城)で激突します。 

1545 年9月末、古河公方と関東管領の連合軍が河越城に来襲します。

その兵力差たるや絶望的に綱成公の守る河越城が不利…
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・北条家兵力  3,000 (河越城籠城部隊) 

 籠城部隊…白備隊大将:北条幻庵公 黄備隊大将:北条綱成公     

・本隊総兵力  8,000(4月17日小田原出陣、19日川越着陣、20日参戦)
 総大将…北条家当主 北条氏康

 援軍武将…黒備隊大将:多目元忠公 等 

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・上杉家兵力 80,000
 総大将:古河公方足利晴氏・
・参戦大名:山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・小田政治等
 与力武将:梁田晴助・長野業正・倉賀野行定・太田資正・難波田憲重・菅谷貞次等


北条方の河越城守将は小机城主北条幻庵公と玉縄城主北条綱成公。

北条幻庵公は今の横浜市港北区の小机城主であり箱根権現別当を務め風魔忍者と関係の深い武将でもありました。横浜市港南区清水橋辺りは、昔、幻庵公の別宅と風魔忍者の詰所が在ったと伝わっています。

河越城守勢の北条家の兵力はわずか敵方総兵力の約27分の1。
…対する関東管領上杉家&古河公方足利家連合軍には関東の多くの大名達が参集し10万人に迫る勢いでした。
この圧倒的劣勢の中、河越城守勢は綱成公の活躍で敵の攻城を半年間も防衛し続けました。その粘りもあり、敵方の関東管領連合軍に厭戦(えんせん=ダラけ)気分が蔓延し始めます。敵が油断するのを待っていた綱成公の義兄で主君の北条氏康公が小田原城を4月17日に8000の兵を率いて出陣します。
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出陣当日、氏康公は現在の江の島神社こと江の島弁財天の別当寺だった岩本坊で戦勝祈願をしています。

実はこの岩本坊の別当職は間宮家の一族が務めていました。岩本坊は現代、上の写真の鳥居のすぐ傍、江の島神社の参道に岩本楼と言う旅館として存続しています。

氏康公の援軍は4月19日に河越城南方砂久保に着陣します。
しかし、綱成公と氏康公の兵力を合計しても敵の8分の1に過ぎません。

そこで氏康公は周到に謀略を巡らし敵勢が油断しきって酒盛りを始めた晩、夜陰に紛(まぎ)れて奇襲をしかけました…
同時に河越城から綱成公と副将の間宮家の黄備え隊が出撃し、氏康公率いる本隊と共に敵の関東管領連合軍を挟撃します。

この作戦で指揮を執(と)ったのが、先に間宮信冬公の活躍した権現山城跡に築城した青木城の城主で北条家の軍師格、「黒備え隊」大将も務めた多目元忠公でした。

敵勢上杉軍は多いが北条氏康公と多目元忠公の謀略に嵌(はま)り油断しきっていて規律も乱れており、北条氏康公・綱成公の義兄弟の夜襲の前に瞬く間に壊滅しました。

この河越合戦での上杉家連合軍側の被害は甚大で…

・主要大名:扇谷上杉家→当主が討ち死にし滅亡。

・主要大名:山内上杉家→壊滅勢力大幅縮小。
・その他の関東管領連合軍に参加した大名も散り散りに逃走。

…いずれも大幅に勢力縮小する事に成りました。 


このように間宮家の主君:北条氏康公と北条綱成公の御二方は内政、武勇、統率、知略、采配の実績が桁違いに優れていました。
そして綱成公の与力だった間宮康俊公も武勇で稀有な功績を残された方でした。

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上の写真は港北区のJR小机駅や小机城の近くの鳥山地区に在る端雲山三会寺(さんねじ)です。

開基したのは平安時代~鎌倉時代の鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝公に御家人として与力した佐々木高綱公です。
間宮家は高綱公の家系である近江源氏佐々木家の分家に当たり、祖先は宇多天皇、家祖は敦実(あつざね)親王、その敦実親王を御祭神として祀る滋賀県安土町沙沙貴(ささき)神社の宮司を務めた家系の子孫です。祖先の中には鎮守府将軍を務めた源扶義(すけのり)公もいます。佐々木高綱公の祖父に当たる嫡流の佐々木秀定公と、間宮家の祖先に当たる佐々木行定公が御兄弟でした。
高綱公は宇治川合戦等の活躍で有名な武勇に優れた名将で、頼朝公より深い信頼を得ていました。
その経緯で鎌倉の東北の鬼門に当たる交通の要所だった鳥山に鎌倉鎮護の寺院を築く事を命じられ三会寺を開基しました。
頼朝公と高綱公との御縁で三会寺の寺紋は、源家の家紋である笹竜胆紋の使用を許されています。
笹竜胆
河内源氏の家紋:笹竜胆紋
隅立四つ目結び
佐々木家/間宮家家紋:隅立四つ目結紋
この三会寺の近くには高綱公
の居館址に建てられた鳥山八幡宮や、高綱公が頼朝公より拝領した名馬の生唼(いけづき)を祀る馬頭観音堂も在ります。 高綱公と所縁の深い鳥山地区の近くには、戦国時代末期まで北条家の小机衆の軍事拠点として機能した小机城址も在り、古来この地域の交通網が軍事上とても重要だった事が解ります。
間宮家の祖先には真野姓を名乗った時代があり、その真野家時代に分かれた別流の子孫に江戸時代の解体新書の翻訳で有名な医学者、杉田玄白がいます。
杉田と名乗っている事から、戦国時代には間宮家一門衆として杉田郷に住していた事が推測出来ます。

佐々木家一族である間宮家の戦国時代の武将、間宮康俊公は武勇に秀でただけでなく内政手腕にも長けました。

鶴岡八幡宮合戦で焼失した鶴岡八幡宮の社殿再建にも参加し、現代人にとっても偉大な文化遺産と伝統を守る事績を残しました。
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上の写真は若宮大路から見た鶴岡八幡宮です。

再建事業では間宮康俊公を含めた横浜市では3人の殿様が活躍しました。

1人が笹下城主の間宮康俊公
間宮家は近江源氏佐々木家の分家に当たり家系が宇多天皇、更に敦実(あつざね)親王を祀る沙沙貴神社(ささきじんじゃ)の宮司を務めた家系でしたので、鶴岡八幡宮再建の任を務めるに相応しい血脈でした。
八幡宮再建奉行職は建築工事を行う上で宗教儀式的な知識も理解している必要が有り、間宮家一族が適任だった事が推測出来ます。
寄親の北条綱成公が材木奉行に任命されている事も有り、職務を代行し、材木の杉田港への集積管理で活躍した事績が伝承しています。
又、旧笹下城域に現在も存続する間宮家臣御子孫の御話しによると間宮家は築城技術集団でもあったそうで、鶴岡八幡宮再建の任務に当たっては土木技術面でも、北条幻庵公や北条為昌公、北条綱成公と並び、その名を連ねています。

2人目は総奉行を務めた笠原信為公

今の横浜市港北区の三会寺やJR横浜線小机駅のすぐ近くの御城、小机城の城代で大曾根城主と白備え隊の副将も務めた方で、和歌にも精通した文化人であり江戸城攻略に参加した名将でした。

当時の白備え大将、小机城主は北条早雲公の3男で北条家の長老だった北条幻庵(げんあん)公で、晩年幻庵公が老齢に成ると笠原信為公が政務と軍務を代行していました。
笠原家は小田原北条家に最も早くから仕えた家系で、北条氏康公が御当主(とうしゅ=君主)だった時代には外交面等でも筆頭を務めた家老の家柄でした。

下の写真は笠原信為公が城代を務めた横浜市港北区JR小机駅近くの小机城の縄張り図です。

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上写真が現在の小机城址公園です。
この小机城址は横浜市内最良の保存状態を誇り、市民が自由に散策出来る遊歩道が整備されています。
この白備え隊の笠原信為公が城代を務めた小机城と、黒備え隊の多目元忠公が城主を務めた青木城の中間地点に当たる神奈川区神大寺(かんだいじ)地区には笠原信為公の菩提寺だった神大寺と言う御寺が在りました。城址として昔の人にも誤認される程の規模を誇った大寺院だった様ですが、残念ながら戦国時代に既に焼失してしまい、更に現在では畑地の開墾と宅地化で跡形も無くなってしまいましたが、その地名に信為公の菩提寺が在った歴史を留めています。
神大寺の表参道だったと伝わるのが、下の写真の塩嘗地蔵(しおなめじぞう)一帯です。この直ぐ傍が神大寺の山門だったと伝承が残っています。
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この塩嘗地蔵の在所一帯は旧街道沿いでもあります。
現在も塩嘗地蔵は「イボ取り地蔵」として近隣住民に親しみをもって信仰されていますが、御塩を御供(そな)えする変わった習慣の有る御地蔵様でもあります。
この一帯は北条家の統治以前は、今の東京都練馬区や北区、豊島区等を治めた大名豊島家の影響下にありました。豊島家の居城は今の練馬区石神井公園に在った石神井城や練馬区の遊園地としまえん所在地に在った練馬城でした。
豊島家と、当時の江戸城主で関東屈指の名軍師だった太田道灌公が交戦状態に陥ると、豊島家は敗走して小机城まで落ち延びて来て、最終的に小机城も道灌公により落とされて滅亡しました。
太田道灌公が小机城へ攻め上る際に陣地を構築し休息をとったと言われる場所が、塩嘗地蔵の御近所に在る「道灌森」と言う場所でした。
この地域を通る旧街道は八王子街道や中原海道に連結しています。
その街道の先には間宮家や笠原家の御仕えした小田原北条家の宿敵である、太田道灌公の主君の扇谷上杉家の重臣達の居城である深大寺城や松山城、鉢形等が在った事からも、笠原信為公が主家北条家の勢力拡大の初期段階で既に深く信頼され、とても重要な土地を抑える役割を任されていた事が窺(うかが)い知れます。


3人目の殿様は吉良頼康公です。

室町幕府将軍の親族の吉良家の殿様で、北条家では「蒔田御所」と呼ばれ関東の将軍である鎌倉公方と同等の立場として重視された方でした。頼康公は水運商業の拠点として今の横浜市南区蒔田の旧成美学園の英和女学院と龍祥山勝國寺と言う御寺の丘一帯に在った蒔田城を拠点に東京湾北部沿岸部の要所を支配していました。
下の写真は横浜市南区蒔田に在る吉良家の祖先吉良政忠公菩提寺の龍祥山勝國寺と…

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…上の写真が蒔田城址に在る英和女学院裏の断崖です。

勝國寺を開基したのは吉良頼康公の御父君である吉良成高公でした。
太田道灌公の盟友で、江戸城を巡る攻防戦では道灌公の援軍として江戸城に入り留守の道灌公に代わりに指揮を執り、敵勢を撃退した記録も残る名将でした。
一方、吉良頼康公は全く合戦をしないで経済を重視した大名でした。
蒔田城崖下は、江戸時代には今の吉野町辺りまで海でした。江戸時代に埋めたれられ吉田新田が作られた事で海ではなくなりましたが、昔は考古学的には大岡湾、戦国時代の歴史では蒔田湾と呼ばれた入江が広がっていました。

鶴岡八幡宮再建時は水運に長けた喜多見家をはじめ森家、佐々木家、並木家等の家臣団を統率した吉良頼康公が、この蒔田城址の眼下に広がっていた蒔田湾から海運での材木輸送を取り仕切りました。
頼康公は鶴岡八幡宮だけでなく東京の世田谷八幡宮も中興されました。吉良家の殿様は内陸の中世の中原街道沿いを押える要衝を領地にしており、東京都世田谷区一帯、川崎市高津区や中原区周辺も治めていたので、世田谷城も吉良家の内陸部の重要拠点でした。
世田谷八幡宮は吉良家の下総移転後、徳川家康公の庇護を受けました。

下の写真が頼康公が中興された世田谷八幡宮と、吉良家世田谷城址でもある大谿山(だいけいざん)豪徳寺です。
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この豪徳寺は江戸時代には彦根藩井伊家の菩提寺に成り、招き猫の発祥地でもあります。
幕末の江戸幕府の大老井伊直弼(なおすけ)公は横浜を開港した方ですので、井伊家も又、横浜市に関係の有る殿様であると同時に間宮家の祖先の治めた滋賀県安土町一帯を江戸時代に治めた大名家でもあり、間宮家と地縁で結ばれた御殿様と言えます。

他に大道寺家も鎌倉で総奉行に名を連ねていますが、北条家を滅亡させた裏切者を輩出した家なので顕彰しません。

間宮康俊公は、その最期にも更に武名を全国に轟かせました。
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上の画像は静岡県三島市にある山中城址公園です。 

豊臣秀吉の小田原攻めの際に豊臣秀吉・秀次の率いる本隊8万を、黄備え隊玉縄北条家三代当主氏勝公と間宮隊は小田原城の手前の箱根の山中城に3千で籠城迎撃します。
しかし歴戦の間宮康俊公は圧倒的不利かつ救援の無い状況から敗戦を悟り大将の北条氏勝公を撤退させた後、事前に築城していた山中城出城の袋崎出丸に笹下間宮家手勢200人弱で籠城し敵勢を迎撃しました。この状況の中で有名な中村一氏隊・山内一豊隊・堀尾吉晴隊・一柳直末隊など、秀吉直属の小大名格の部将達を大苦戦させ、一柳直末(いちやなぎなおすえ)を討取り玉砕する大功を立てました。
結果この出来事が評価され、間宮家は徳川家康公の旗本として、康俊公の姫は家康公の側室として登用されました。

江戸時代の樺太、択捉を探検し間宮海峡を発見した間宮林蔵は、この間宮家の子孫です。

間宮家と直接の関係は有りませんが、太平洋戦争中に活躍した給糧艦の「間宮」は、この間宮家由来の間宮海峡の名を頂いた艦船でした。平和的な運用をされた補給艦なのに歴史に名を残す名艦船に成ったのも、何か間宮家との因縁を感じますね。

話を戦国時代に戻しますが、間宮家が付家老として御仕えした北条綱成公の開いた玉縄北条家菩提寺が下写真のJR大船駅近く鎌倉市植木に所在する龍寶寺です。

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境内には綱成公、氏繁公の御廟所と玉縄民俗資料館が在り、玉縄城の遺物や城縄張りの復元模型等が展示されています。江戸時代の学者新井白石とも縁の深い御寺でもあります。
玉縄城は間宮家が与力した黄備え隊大将:玉縄北条家歴代当主の居城でした。その為、北条綱成公の御廟所も龍寶寺内に在り、以前の山上から移設された新しい廟所には昔の石塔も安置されています。
この近くの鎌倉市玉縄地区の清泉女学院が玉縄城の本丸古址です。
龍宝寺の在る植木地区や玉縄地区一帯には蹴鞠場、諏訪壇、御花畠等の遺構が部分的に現存しています。

この玉縄城、範囲も広く西の端は二傳寺、東の端は長尾城と広大な範囲の丘陵と谷戸に切岸や空堀や曲輪群を配置した堅固な典型的な北条流築城術で築かれた城で、先述の通り上杉謙信軍11万、武田信玄軍2万に攻められても落城しなかった名城でした。
 この玉縄城の城主に与力した間宮家の笹下城も同様の築城術で築かれた城塞群でした。

…玉縄城の西の端は、下の写真の戒宝山宝国院二傳寺(にでんじ)の丘一帯を城塞化していた二傳寺砦でした。

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この二傳寺には関東の平氏系大名の祖先、平良文(よしふみ)公の御廟所があります。 

そして、その子孫には間宮家の信仰した御霊神社の祭神鎌倉景正(かげまさ)公がいます。

戦国時代の三浦・豊島・長尾・千葉・葛西・相馬・芦名などの関東東北の大名も平良文公の御子孫です。 上杉謙信も長尾家の出身で、この良文公の子孫に当たります。

二傳寺砦の城址は太平洋戦争中に陸軍の砲兵部隊が展開していた場所で、近代戦争でも重視される戦略上の要所でした。
近所は平良文公の居城跡の村岡城址公園も在ります。
残念ながら城址としての旧状は地形的に崖に面している以外ほとんど残っていません。

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実は明治時代の対馬海戦で当時の先任参謀だった秋山真之中佐の丁字型戦法を採用しロシア帝国バルチック艦隊を迎撃し完勝した東郷平八郎元帥も平良文公の御子孫だった御縁で、この村岡城址公園には東郷元帥の甥である東郷吉太郎少将が揮毫した顕彰石碑も有ります。
この玉縄城や二傳寺一帯が戦国時代のみならず、平安時代~近代にかけて戦略上の要所だった事が良く解る場所でもあります。

…玉縄城の東の端は、下の写真の長尾臺御霊神社(ながおだいごりょうじんじゃ)一帯に在った出城の長尾城でした。

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関東では一般的に御霊神社の御祭神は元は平良文公を含めた良文流坂東平氏の祖先を広く崇拝する神社でしたが、平良文公の御子孫の鎌倉景正公が前九年後三年の役で活躍し有名になると、後に景正公が坂東武者の鑑として武士達の崇拝対象と成り御祭神として信仰される様に成りました。
景正公を祀る御霊神社の本宮は現在も鎌倉市坂ノ下町に現存しており、鎌倉江の島七福神巡りの一所として現代では眼病治癒や恋愛成就の神様として一般庶民の信仰も集めています。
ちなみに長尾城を築いたのは、上杉謙信の祖先の長尾家で、長尾家も鎌倉景正公の子孫です。
言い換えれば上杉謙信が玉縄城を攻めたのは、祖先の御霊に弓引くような行為そのものだった訳です。
この長尾臺御霊神社の在る長尾城を支配した北条家も、実は鎌倉景正公の祖先の平良文公と同族の子孫です。
小田原北条家の祖先は元の姓は伊勢と言い、伊勢平氏で、良文公とは同族です。更に小田原北条家の家祖である北条早雲公が婿養子として継いだ伊豆の北条家の祖先は元皇族の平高望(たかもち)王です。高望王の子孫には平良文公がおり上杉謙信とは遠縁であり、祖先の代から因縁も有りました。

3人目の間宮家の有名な殿様は、杉田間宮家の間宮信繁公です。
下の写真は磯子区杉田の牛頭山妙法寺です。
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杉田間宮家歴代殿様の御廟所が有る間宮家の菩提寺で、日本武尊の伝承と空海和尚が牛頭天王社を建てた由緒の有る御寺です。

戦国時代、間宮家は北条家の武蔵国と伊豆国の水軍を率いる立場にあり、その間宮家の海の拠点が杉田湊(みなと)でした。
杉田間宮家の初代に当たる間宮信次公は笹下城を築城した間宮信元公の実弟で、水軍の将として活躍し三浦の走水海岸で玉砕しながらも里見家の海賊を撃退し敵軍船を多数鹵獲(ろかく)した記録が残っています。
信次公の孫に当たる間宮信繁公は杉田を中心に北条家の奨励した梅の植林と内政に力を発揮された武将でした。

信繁公により造営された梅林は江戸時代になると「杉田梅林」として有名になり、風光明媚な屏風ヶ浦の沿岸を海路、船でクルージングを楽しみ、杉田聖天川にあった桟橋で上陸し梅林を見学に来る江戸からの観光客で大変賑わったそうです。 そして杉田梅の実も、最高級のブランド梅として江戸時代 昭和初期にもてはやされたそうです。
明治時代になると、明治天皇をはじめ皇族の方々も杉田梅林を見学に行幸されました。その当時は国道16号線は開通していなかったので、六浦道(笹下釜利谷道路)を下って来られ、まだ横浜市が成立する以前の当時の久良岐郡の中心だった今の港南区笹下の関に有った「石川亭」と言う料亭に宿泊され、そこから杉田梅林を見学に出向かれたそうです。しかし昭和になると杉田梅林は保護されず宅地開発され、消滅してしまいました。
杉田梅林は消えましたが昭和初期まで続く文化醸成地を築かれた信繁公の功績は非常に大きいですね。


下の写真は小田原北条家の梅林文化を今に伝える、横浜市磯子区の岡村天満宮の一部だった岡村梅林と小田原市の曽我梅林です…
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上の
写真の岡村梅林を旧社地として抱えていた岡村天満宮ですが、その梅林の植林時期は杉田梅林と同時期と伝えられています。

しかし現在の岡村梅林は戦国時代末期や江戸時代初期から存続した物ではありません。

元々岡村梅林は広大な敷地を持っていた岡村天満宮の鎮守の森として、間宮家が江戸時代初期この一帯の奉行を務めた時期から存在していましたが…

太平洋戦争の敗戦後にアメリカ合衆国に接収され、米軍基地造営の際に破壊されました。

その後、岡村天満宮の社地は岡村天満宮に返還される事なく、米軍から横浜市に返還されてしまいました。

…その土地の一部を買い戻したのが岡村天満宮の氏子さん達です。土地を買戻し岡村天満宮に寄贈し更に市の公園部分にも梅を植林し北条家の梅林文化を再度復興し、小田原北条家~徳川家統治下の往時、間宮家がその発展に寄与した神奈川と伊豆の梅林文化を現在に残して下さいました。
下の写真が曽我梅林。
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小田原曽我梅林の梅花越しには坂東の民百姓から木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)の権化として信仰された富士山が見えます。

綺麗ですよね。

岡村天満宮は源頼朝公の忠臣で、曽我兄弟による頼朝公の暗殺を阻止した武将で、三浦家の一族の平子有長公の開いた天満宮です。

戦国時代に平子家は北条家により磯子一帯の支配権を奪取され越後に移住した様です。

岡村梅林の近くには泉谷山龍球院と言う御寺が在ります。
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御寺の寺紋が北条家の三鱗紋に丸で囲いを付けた物です。実は龍珠院は間宮家の寄親で玉縄城主の北条綱成公が小規模な御堂だった龍珠院の支援を始め、次代の北条氏繁公が本格的に開基した由緒を持つ御寺です。

何故、ここに玉縄北条家の御寺が在るかと言うと、このすぐ近くには間宮家と共に鶴岡八幡宮を再建した蒔田吉良家の殿様の居城蒔田城が在るのですが…
吉良頼康公は一時期、小田原北条家では古河公方の代行者を務めていた時期が有ります。
…その頼康公の蒔田城に訪問が必要だった北条氏繁公と、蒔田城近くの同地に御縁が有るのは歴史の必然でもあります。戦国時代、御寺は有力武将の寝所としても機能する場でした。


間宮信繁公の御話に戻ります…
北条家の滅亡後、間宮家としての康俊公の山中城での活躍や、間宮家が特に鷹狩りと鷹の飼育、鷹の献上の有職故実に精通していた事から、信繁公は徳川家康公に鷹匠の頭として家康公の直臣に取り立てられました。

この時代、鷹匠は庶民ではなく武士が担っており、山野を駆け巡る機動力に優れる上に殿様の鷹狩りに際し事前に地域住民に担当割り当てを交渉する等の実務に精通した集団でした。

信繁公は内政だけでなく、武将としても稀有な功績を残されています。
その鷹匠集団の特殊能力を活用し、信繁公は有名な「関ヶ原の決戦」で大功を立てました。
下の図は関ヶ原合戦時の東西両軍の布陣図です。
関ヶ原合戦図

家康公の率いる東軍は開戦当初、背後に陣取る敵の毛利家の大軍がいる事で釘付けにされ味方の細川、黒田勢が石田三成本隊からの大砲の砲撃に苦戦しているにも関わらず、 徳川本隊が前線の援護に参加できませんでした…

…この状況を打開する切っ掛けを作ったのが間宮信繁公です。

毛利家の陣地南宮山から狼煙(のろし)が上がるのを見ると、信繁公は鷹匠部隊の特殊能力を活用し敵陣をつぶさに偵察し、その陣容と状況を家康公に報告しました。
この事で事前に徳川家に内通していた吉川広家が毛利家の前進を約束通り阻んでいる事や長宗我部勢等も動きが無い事を把握し、徳川本隊の前進から松尾山の小早川勢1万 5 千の大軍への寝返り工作が成功し、関ヶ原決戦での徳川勢の大勝利に繋がっていきました。
事実、この後、徳川家康公は鷹狩りを行う度に随行する間宮信繁公の関ヶ原での戦功を称賛し、その度に信繁公と与力の鷹匠衆の領地を加増して下さった事が記録に残っています。
 
4人目の功績を残された間宮家の殿様は滝山城主の北条氏照(うじてる)公の付家老として活躍された方で、名前を間宮綱信(つなのぶ)公とおっしゃいます。
綱信公が与力として仕えた北条氏照公は北条家第4代当主氏政(うじまさ)公の実弟で、滝山城に兵3000で籠城し、武田信玄2万の大軍から八王子を守り抜いた実績の有る勇将で内政にも優れた手腕を発揮されました。
八王子市丹木町に現存する滝山城址は日本有数の規模と保存状態を誇っています。

下の写真は滝山城址の小宮曲輪の切岸と空堀と土塁です。

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上の図面は滝山城の縄張り図です。
滝山城址は現在、城址の至る所に当時の防御設備の説明看板が設置され無料で散策出来る東京都立滝山公園として整備されています。

綱信公は滝山城主北条氏照公の付家老として政務を担いながら北条家の外交官としても活躍しました。

下の写真は磯子区氷取沢の飯盛山宝勝寺です。
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宝勝寺は間宮綱信公が中興した御寺で綱信公の菩提寺です。
織田信長公に謁見する等、「内政」と「外交」で功績を残されました。信長公との面会に及び北条家からの献上品を差し上げた際に、信長公から北条家への返礼として大判金貨100枚や虎の皮等を拝領した記録が残っています。

更に信長公は名将滝川一益公に対し、綱信公一行への接待を御命じになり、綱信公一行は一益公の案内で安土の城下町を案内されたそうです。

実はこの際、北条家側から信長公への献上品に鷹が含まれており、間宮家が外交の際の献上用に飼育していた鷹だった可能性が有ります。

元は間宮家の旧主に当たる古河公方足利成氏公の子息が開基した由緒のある御寺です。

宝勝寺の近くには綱信公が徳川家康公に仕えるように成った際に隠居地として与えられた氷取沢陣屋が在りました。

この寶勝寺の西側、現在、団地が在る辺りが氷取沢間宮家の陣屋跡と伝わりますが、既にマンション開発によって陣屋跡は発掘調査されないまま消滅してしまいました。

寶勝寺は明治時代にも偉人の信仰を受けた寺でした。

実は近隣の金沢区金沢文庫一帯は、古来より景勝地として知られたのですが、その景勝地が8ヵ所在った事から、同地は金沢八景と呼ばれる様に成ったのですが、明治の元勲、伊藤博文公がその金沢八景の一つ野島に別宅を構え、そちらで日本帝国憲法の草案を纏め上げたそうです。博文公は、よく、この寶勝寺を訪れたそうで、博文公の武士時代の遺物が寄贈され現在も寺宝に成っています。
新編武蔵風土記稿や古今感状集を著書にもつ江戸時代の学者、間宮士信(ことのぶ)公は間宮綱信公の御子孫に当たります。


間宮家の5番目に功績を残された殿様は北条家が滅亡し、安土桃山時代も終焉を迎える頃の殿様です。
最後の笹下城主、間宮直元(なおもと)公と言う殿様です。間宮直元公は、北条家滅亡後、祖父間宮康俊公の跡を継ぎ徳川家康公に御仕えし、本牧奉行に任命されました。その頃、徳川家の支配下で既に関東地方での戦闘も無くなり、城としての役割を終えた笹下城の麓に拠点を移し笹下陣屋を設けました。
寶生寺周辺図
上の衛星写真の範囲が大凡( おおよそ)間宮直元公が統治した本牧奉行の管轄地域です。
この本牧奉行の役職の由来は、写真左上の本牧半島の地名に由来しますが、その支配地域は略( ほぼ)、旧久良岐郡の大半を占めていました。
現在の金沢区方面は金沢奉行と言う役職が置かれ、長谷川家が統治を任されていました。

本牧奉行を務めた直元公も、他の間宮家の殿様の例に漏れず神社仏閣の保護に力を入れていました。
その直元公の事績を今に伝える古文書に登場する御寺が下の写真の横浜市南区堀之内に鎮座する青龍山寶生寺です。

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寶生寺は平安時代末期、源頼朝公の御父君の源義朝公の時代に開基された御寺で、戦国時代初期の名軍師太田道灌公を初め、戦国時代は北条氏康公、江戸時代は徳川家康公の庇護を受けました。

ですから、御寺の寺紋も北条家の三つ鱗紋の使用を北条家より許され今も山門の上部には北条家の家紋と同じ寺紋が使用されています。
この寶生寺を間宮直元公が支援していた事や、直元公の叔母に当たる於久(おひさ)の方が徳川家康公の側室に成っていた事、加えて直元公御自身が本牧奉行以外に更に徳川幕府内の重要な役職である但馬奉行・佐渡奉行に就いており金山銀山の開発を担っており、その役職上、家康公と直接お話を出来る立場に在ったので、寶生寺が家康公より朱印状を賜り寺領を庇護された事に、少なからず本牧奉行としての間宮直元公との関わりが役に立ったのは間違い有りません。
武将としての事績としては、直元公は大坂冬の陣に井伊直孝公の与力として参戦しました。その際、徳川家康公より直々に呼び出され「坑道を掘り大坂城の櫓を崩せ」との命令を受けています。残念ながら、この作戦の成功を見る前に直元公は陣中で病没されました。もし、成功していたら間宮家の活躍により、旧主北条家の大大名復帰なんて事も有ったのかも知れませんね。作戦自体は成功を見る事は有りませんでしたが、この史話は家康公の直元公への信頼と関係性を示す逸話でもあります。


もし、機会があれば間宮家との所縁のある下の写真の港南区笹下の梅花山成就院一帯も散歩されてみては如何でしょうか?

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この成就院の山門は江戸時代の間宮家が本牧奉行を務めていた時代の笹下陣屋から移築されたものです。 近所には冒頭で紹介した旧IHI団地跡地に在る笹下城本丸跡が在り宅地化されてしまう前に見る事が出来ます。

成就院は幕末の笹下間宮家と所縁の深い御寺でもあり、昭和のIHI団地開発で破壊されるまで間宮家が植林を奨励した梅林に囲まれていました。

その梅林を江戸時代初期に京都から見学に来た西本願寺十三世良如上人と九条関白様が滞在された際に、北条家の梅林文化を伝える笹下城跡の梅林の美しさを絶賛した事から、山号を梅花山に改めた歴史が有ります。

間宮家の居城笹下城の本丸跡に、すぐ隣接する御寺で、間宮家とは地縁も深い御寺でもあります。


下の写真は港南区下永谷に在る永谷天満宮と、その横に在る別当時として永谷地区の歴史を守って来た天神山貞昌院です。
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関東管領も務めた宅間上杉家の殿様が創建した天満宮で、太宰府天満宮、道明寺天満宮と日本三躰(にほんさんたい)として数えられる天満宮です。
永谷天満宮を開基した宅間上杉家の殿様の居城は今の港南区永野小学校の一帯に在った永野城でした。

宅間上杉家の初代当主重兼公は足利尊氏公の従弟に当たる武将で、元は勧修寺家出身の家系に連なる殿様で、後に母方の実家の上杉家に養子に入られました。
宅間上杉重兼公は足利尊氏公の祖父の家時公とも関係が深い方でした。

重兼公の母君と足利尊氏公の母君が御姉妹で、上杉頼重公の御息女でした。

宅間上杉家は宅間富朝(とみとも)公の代に、先述の磯子区の宝勝寺を中興した間宮綱信公に御姫様が御嫁入りして、間宮家とも縁戚の関係になり更に軍事面でも間宮家と共に鎌倉を守る位置にありました。
この永谷天満宮の所在地に平安時代、元々居住していたのが天満宮の御祭神である菅原道真公の五男の菅原敦茂(あつしげ)公との伝承が有ります。
その菅原敦茂公の御主君が醍醐天皇でした。
醍醐天皇は貴族から権力を奪還し御親政(しんせい=天皇による政治執行)を行おうとした方で、その醍醐天皇の御実弟が間宮家の祖先の敦実親王でした。
ですから菅原敦茂公の居所一帯に建つ永谷天満宮は間宮家との御縁が深く、その敦茂公の古址に永谷天満宮を創建した宅間上杉家と間宮家が婚姻関係で結ばれ協力関係だったのは、醍醐天皇と間宮家の祖先の敦実親王御兄弟に結びつく数奇で宿命的な御縁なのかも知れません。

永谷天満宮と貞昌院の在る永谷地区から徒歩15分程度の近くの野庭地区には鎌倉幕府の初代侍所別当和田義盛公が築城した野庭(のば)関城も在りました。

下の写真は野庭( のば)団地の遠景です。

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この野庭関城は、鎌倉幕府の軍事教練所でもあり、鎌倉時代~戦国時代の貴重な史跡でしたが
昭和期に教育委員会が調査も保護もしないまま野庭城は宅地開発され消滅してしまいました。
その場所は市営野庭団地一帯、本丸は野庭中央公園付近だったと伝承しています。

数十年前まで城の土塁も現存したそうですが現在は破壊され存在しません。

戦国時代この野庭城は北条家の名官僚の安藤良整(りょうせい)公が城代を務めていました。

良整公は北条家領内の百姓の為に公平な徴税を行える安藤枡を考案された民政家で、村同士の水利権争いを裁いた名奉行として、その内政面での功績が有名な方です。

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上の写真は野庭地区から程近い、港南台の円海山の瀬上池です。

瀬上池の周辺は横浜市内で数少ない蛍を鑑賞できる沢のある自然公園であると同時に、その林道は平安 鎌倉 室町時代の武士が利用した史跡の道でもあります。
蛍は6月中旬から見られます。

この円海山は、鎌倉御家人達が利用した古道より更に古い史跡が出土しています。

瀬上池近くから古代の蹈鞴(たたら)製鉄の遺跡が出土しており、古くからこの地域が軍事拠点として重要な場所だった歴史を伝える史跡群を抱える場所でもあります。
港南区と磯子区と言う工業地商業地として発展していながら、その豊かな自然を誇りながら関東の鎌倉節文化の草創期からの歴史を伝える貴重な場所でもあります。

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この円海山の山頂からは北条家の梅林文化を守る小田原曽我梅林と同じ様に、関東の武士団が拝み見ていた富士山が綺麗に見えます。空気の澄んだ冬から暖かい春への変り目に当たる春分の頃には相模湾の遠望越しに、夕日が富士山山頂に沈むダイヤモンド富士を見る事が出来ます。

下の写真は磯子区円海山の峰地区側に在る、安養山峰の阿弥陀寺です。
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  この円海山の古刹、阿弥陀寺からは浄土宗総本山の知恩院第四十六世住職了鑑大僧正を排出しています。

そして円海山の名前の由来に成った下の写真、素敵な竹林と森林の参道を持つ円海山護念寺です。
元々この阿弥陀寺の奥院だった御寺で、古典落語「峰の灸」の舞台でもあります。
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この護念寺の道は鎌倉武士の古道で少し昔まで、その道を抜けると間宮家の氷取沢陣屋へと通じていました。

しかし現在、この林道は護念寺の私道に成ってしまった事と、その道の先の氷取沢側が宅地開発されてしまった事もあり車の抜道として利用出来ない様に封鎖されてしまい、現在は通り抜ける事は出来ません。

円海山の他の林道も部分的に倒木や路盤の劣化により封鎖されており、横浜市による再整備を要する状態にありますが、自然の中で散歩を楽しみ新鮮な空気に触れる事は出来ます。

この護念寺の道や円海山の尾根道を抜けると、下の写真の大谷戸広場に出ます。

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この氷取沢の大谷戸広場一帯は農地が広がり、付近には護岸工事されていない自然なままの渓流も残っていて鎌倉郡・久良岐郡の原風景を今に見る事が出来ます。
学校では郷土史を教えて貰える機会は有りませんが…

この様に横浜市には歴史史跡が沢山あります。
皆さんが普段何気なく生活されている、この横浜市には交通の要所だった事から由緒有る御城がいくつか在りました。その御城が現在無くなっても殿様達が保護してきた神社や御寺が今も残っています。
戦国時代~江戸時代の人が現代に伝えて下さった古代からの文化や歴史も神社や御寺の宮司様や和尚様が伝承として守って下さっています。
…もし横浜に愛着を感じたら、ちょこっと近所の御寺や神社、御城の跡を御散歩して、横浜市や鎌倉市の基礎を築いて下さった歴史偉人達に思いを馳せてみるのも風流かも知れませんよ。

                  

       筆失礼 久良岐のよし


 

































































ブログネタ
日記 に参加中!
横浜市には…
間宮康俊(やすとし)公
間宮信繁(のぶしげ)公
間宮綱信(つなのぶ)公と言う武将が戦国時代にいまして…
杉田玄白や間宮林蔵を輩出したのが、その「間宮家」の殿様です。
以前も紹介しましたが笹下城を根拠地に東京湾と鎌倉や三浦半島を守った殿様でした。
小生は、その地元横浜の殿様の北条家旗本相模十四騎筆頭の間宮家の殿様達
その上官で関東最強の武将だった黄備え隊玉縄衆侍大将の北条綱成公と御曹司北条氏繁公の顕彰活動を主にしておりまして…
横浜市内駆けずり回ってます。
因みに、小生の推測ですが上記3名の殿様はそれぞれ、御主君筋より名を一字賜(たま)わっていると思います。
間宮康俊公
      ⇅
北条氏康公=小田原北条家の君主

間宮綱信公
      ⇅
北条綱成(つなしげ)公=上官で氏康公の義兄弟

間宮信繁公
      ⇅
北条氏繁(うじしげ)公=綱成公の子で上官

で、間宮家関連の文献を読んでたら間宮の殿様に感状頂いた内田対馬守(つしまかみ)と内田源左衛門(げんざえもん)さんと言う家臣の名前が出て来まして…
「うん?そう言えば間宮家の旧領地内に当たるウチの周りは内田さんだらけだな…」
…みたいな。
で、小学校時代の同級生でデッカイお家の内田◯子ちゃん家に「ここいらの内田さんの御本家を教えて下さい」てな感じで訪問→内田対馬守と源左衛門さんの御子孫探しを、こないだの土曜日に開始しまして…
それから数軒回り政治家もやってた内田サンやら釣堀やってる内田サンやら、アパート数棟経営してる内田サンやら、色々聞いて回ったら対馬守さんの家が、ものの数時間位で見つかりました!

小生が小さい時に畑の大根を全部引っこ抜いて悪さし御迷惑をおかけした農家の内田さん家が屋号が「古門(ふるかど)」で、代々の名前が「対馬守」でした(笑)。
因みにアパート経営の内田サンの屋号は「紺屋」で、数代前まで引き継いだ名前は「源次郎」との事、恐らく源左衛門サンの血筋でしょう。
で、源左衛門サンの直系御子孫ですが…
紺屋サンと港南区の旧家北見サンに御教授頂いた所、最近まで御近所に「げんざむサン」の屋号で呼ばれた内田サンが居たそうです。
げんざむ→げんざえもん→源左衛門で間違えないと思います。
残念ながら源ざむサン家の屋敷は競売にかけられ、家名も断絶したそうです。
……
………
しかし…
「殿様の重臣の畑の大根全部引っこ抜くとか、俺、トンデモないクソガキだったんだな〜」とか、自分の子供時代にドン引きしつつ…
何だか戦国時代〜自分の幼少期まで歴史が繋がり少しホッコリした気分になりましたよ。

歴史って楽しいですよね〜♪
で、顕彰活動に使用する小道具関連で先日、鎌倉小町通りに買物の用事あり、訪問に触れ八幡様に失礼無き様に帰路に着く前に参拝した所、思いがけず結婚式(国際結婚)の幸せをお裾分けして頂く機会に恵まれました。
小生、この日没直後の鶴岡八幡宮の神秘的な雰囲気が好きなんですが…

結婚式には焚木(たきぎ)の明かりが灯(とも)り、巫女さんの先導する新郎新婦が歩く能舞台の回廊はより一層神秘的でした。

そして!
何と新郎はスリランカやインド人ぽいターバンを巻いた外国人の方でした!
何だか不思議な光景ですが、日本文化もリスペクトして下さり感謝したくなりました。
なんだか普通の結婚式では味わえない神々しさを、参列者も感じたんじゃないかな〜!

余談に成りますが…
この鶴岡八幡宮も又、間宮家の殿様と関係が深いんです。
鶴岡八幡宮合戦で焼失した八幡様を再建した時の奉行が間宮康俊公なんです。
再建に携わったのは…
⚫︎横浜市港北区都筑区の殿様の笠原信為公…総奉行
⚫︎港南区磯子区金沢区の殿様の間宮康俊公…奉行
⚫︎南区中区の殿様の吉良頼康公
この鶴岡八幡宮再建には、のべ5万人もの労働者が動員された大事業でした。
今の神奈川県の文化が存続しているのは、間宮家の殿様と殿様の上司や同僚、小生が大根引っこ抜いてイタズラした間宮家臣の内田対馬守サン源左衛門サン源次郎サン達と近隣の神社仏閣の神主様や御住職が文化や伝統を守って下さったからなんだな〜
…なんてシミジミ思う週末でした。

では、又、次の記事でお会いしましょう♪

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明日、2015年04月05日に小机城址祭りが今年も開催されます。
戦国時代、1500年代初めに小机城代を務めた笠原信為(のぶため)公を顕彰(けんしょう=リスペクト)したお祭りです。
殿様の信為公役は毎年、横浜市港北区長さんが演じます。
※小机城と笠原信為公について書いた以前の記事も有るので御参考にどうぞ!
⚫︎小机城址記事は「ココ」←クリック!
⚫︎笠原信為公の記事は「ココ」←クリック!
お祭りでは武者行列パレードがJR小机駅近くの鳥山町の三会寺(さんねじ)からスタートし、小机駅前を通り小机城址でイベントが行われます。
因(ちな)みに、小机城址近くの鳥山町も歴史偉人と関わりが深く、鎌倉幕府の初代征夷大将軍、源頼朝公の重臣として有名な佐々木高綱(たかつな)公が領主を務めた地域でした。
高綱公と言えば宇治川合戦などで大活躍した坂東武士の中の鑑(かがみ)と言っても過言では無い名将です。
実は三会寺や近くの鳥山八幡宮は佐々木高綱公の開いた寺社でもあります。
つまり、昔からこの地域は関東武士団の根拠地の一つだった訳です。

※佐々木高綱公の城跡の鳥山八幡宮と、開基した御寺の三会寺記事は以下を御参考にどうぞ。
⚫︎鳥山八幡宮の記事は「ココ」←クリック!
⚫︎三会寺を紹介した記事は「ココ」←クリック!

武者行列が住宅街を歩くシュールな絵面も何ですが、数十m置きに模擬鉄砲隊の砲撃演武も有りますよ。
小机城址の桜満開の本丸では出陣式などの演目等も行われます。
屋台も出ますよ!
近隣の小・中学生も可愛らしい武者に扮して参加してます(笑)。
横浜市民にとっては地元と誇りを今に伝えるローカルなお祭りですが、他地域の方も楽しめるので是非見学してみて下さい!
※雨天順延

では、又、次の記事で!

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