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カテゴリ:神様・武将・歴史偉人の解説 > 戦国時代:北条家五色備え

前回の記事⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説②
・・・保福禅寺の解説。

・・・コレ⤴の続き。

前回の記事では中田家の菩提寺の一つで、中田加賀守の墳墓跡の直下に在る保福禅寺を紹介しました。
今回の記事ではいよいよ❝慶応大学敷地内❞と❝保福禅寺❞が慶応大学に貸している一之谷一帯に残る矢上城址=谷上城址の遺構を写真と古地図と色別立体図とGoogleMapの四段構えで解説して行きたいと思います。
小生は中田家の菩提寺の保福禅寺の山号が谷上山である事、矢上城跡の慶応大学が谷に囲まれた台地に存在する事から本来の城名は谷上城だったと推測し、以後、矢上城ではなく谷上城の名で紹介します。
先ずおさらいですが現在の城址周辺の航空写真です。
矢上城址 日吉駅 久良岐のよし
これでも御城が好きな人は「あ~食違いの大堀切が有るな~」とか「竪堀が有るな~」とか、結構見て取れます。でも余り御城の地形に詳しく無くて自然地形と見分けが付かない人の方が多いと思いますので、どんな地形が自然地形化を確認する所から始めましょう。
日吉周辺の地形 久良岐のよし
ボンヤリとした場所がザックリとした地形、矢上城址に関わる部分は詳細な地形を国土地理院の色別標高図から拝借し切り貼りして繋げてGoogleearthに表示してみました。
これを見ると良く解りますが、矢上城址は周辺の大河川が各時代に複雑に流路を変えて削られた地形である事、そして恐らく古代には矢上城址の慶応大学日吉キャンパスと矢上キャンパスの間の保福禅寺の存在する谷間には矢上川が流れていた時代が有った事が地形から解ります。
平らな部分は縄文時代には海だった部分で、弥生時代には隆起したり土砂の堆積で湿地帯に成り漸(ようや)く人が往来出来る様に成り始めた場所で、まぁ~人が住むには古墳時代位まで不向きな場所だった様で日本神話の日本武尊(ヤマトタケル)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)伝説のある近郷の川崎市高津区橘樹神社辺りまで西暦200年前後まだ海水の入って来る湾があった事が伝わっていたりします。
実は明治時代の迅速測図では更にハッキリ地質や地形が読み取れたりします。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
この地図は国土交通省国土地理院の電子国土賞と言うサイトで公開されている明治時代の迅速測図を転載したものです。
御覧の通り、本来は古い地盤である丘陵には水田は全く有りませんが谷間には水田が広がります。
実は一般的に南関東は平野部でも稲作には適していません。それは富士山が噴火する度に火山灰をまき散らして田圃(たんぼ)を作るのに適さない関東ローム層と言う地質が露出しているからです。そして台地上に用水路を引っ張る技術は当時まだ小田原城下にしか普及しておらず、江戸市街地の用水網に引く水が60km先の奥多摩地方、東京都羽村市に取水関が作られサイフォンの原理を用いて整備されるのは江戸時代に成ってからの話しです。その羽村市の取水関から水を引く用水道網のモデルは実は戦国時代に矢上城主だった中田加賀守の主君、小田原城主の北条家が既に確立していて小田原用水として日本史上初の飲用水道が戦国時代に整備されていました。
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小田原用水
※住所クリックすると位置が地図で確認できます。
小田原市と箱根山系の間を流れる早川から取水して小田原市街に引いた戦国時代の用水網は今も現地に残っていたりします。まぁ、実は小田原城の城下町も元々は古代に海だった場所な上に、谷上城より更に海岸から近いので井戸を掘ると海水が出てしまい飲み水を確保するのが困難だったので、戦国時代に既にあの狭い城下町で3万人の人口を維持する為に飲用用水路が必要に迫られて発展し北条家のインフラ整備技術が他大名家よりも頭一つ抜けて発展し水道網整備に至った訳ですね。
でも谷上城は多摩川と矢上川と鶴見川を利用した流通網を押さえ、渡河地点と今の綱島街道等の陸路を防衛にかかる要所で防御に適した地形を優先して築城された所謂(いわゆる)城堡(じょうほ)とか城砦(じょうさい)と位置づけする町を守るより道を守る城だったので用水網の整備も必要が無く、普段は中田家の殿様達も平地の谷地形、つまり保福禅寺~慶応大学の一之谷~蝮谷に谷戸(やと=谷の入口に城門を築いて守りを固めた居住区)に住んでいた様(よう)です。
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
しかし御覧の通り谷上城は多摩川、矢上川、早淵川、鶴見川の氾濫原(洪水の被害に遭いやすい場所)の山崎=つまり内陸の川に挟まれた半島状の丘地形に存在しているので海水の影響を受けるよりも淡水の河川流域地下水で飲用に適した水質の井戸を掘ったり、大河川の氾濫で出来た比較的新しい肥沃な地質の恩恵で水田耕作地帯として開墾する事が可能だったようです。
逆に言えば繰り返しに成りますが、湿地帯で人が住むには余り向かず、日吉の台地の丘の上も飲み水の確保が困難だったので明治時代まで人が余り住んでいなかった事が解かります。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
もう一度、谷上城だった慶応大学周辺の地勢を明治時代の迅速測図見て見ると解かりますが、明治時代にも人は住んでいなかったので江戸時代にも開発が入らずに近代も畑地にしかならず慶応大学が出来るまで山の山林として谷上城址が綺麗に保存され、第二次世界大戦の頃に横須賀鎮守府の海軍司令部が日吉の台地の地下に基地を作り台地上に軍人サンの宿舎や軍人サン達を相手にして商店街が形成されて行き現代に成って人が住む住宅街として開発されて来た事も読み取れます。
この人が長い間住めなかった城砦の丘は関東ローム層・・・
この関東ローム層が石垣を必要としない南関東独自の土を削り出し石垣よりも防衛堅固な城郭築城技術を生み出した地層でした。
そんな訳で、この平地部分には泥岩の層と砂岩が重なっていてとっても水捌けが悪かった事から戦国時代に成っても湿地が広がっていました。迅速測図でも関東平野なのに畑地ではなく水田が広がっている事が確認できますね。
そんな訳で、地質と地形の説明が完了したので、ここから小生の推測する矢上城域と遺構残存部を見比べて見ましょう。
色別立体図に小生色分けした茶色の部分が一目瞭然、大空堀の人工地形です。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
日吉Googlemap 久良岐のよし
GoogleMapの衛星写真と見比べると位置関係が良く解りますね。
恐らく守りの薄い比較的なだらかな丘陵の続く日吉駅の西側は矢上城の主要な防御施設は❝1つ❞だけしか無かったと思います。それが上の小生が色別立体図に書き込んだ一番左側の大空堀ですね。現代では日吉本町1丁目公園~日吉本町三丁目第二公園にかけて住宅街の道路に成っている谷地形が人工地形なのは色別立体図でもハッキリ解かりますが、これが現代の道路開削では無く、既に江戸時代にも存在したことが明治に成って直後の色別立体図でも解ります。
下の図のを見て下さい。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
このの大空堀が西の端の丘を断ち切り尾根伝いに敵が侵入出来なくする堀切りと呼ばれる空堀です。
「これ空堀なの?」
・・・と城に興味ない人は思うでしょうが、これは小田原北条家臣団と扇谷上杉家の南関東の城に多く見られる構造体です。現代では日吉の宅地化で真っ先に削られた場所なので比較的なだらかに成ってしまっていますが、地形のレントゲンと言うべき色別立体図と江戸期の地形を残した迅速測図の二つが証拠に成る上に迅速測図では北と南が掘り切られ、今では平坦な日吉駅から放射状に住宅道路が広がる場所には食違いに山を削り残された地形があった事が解かります。
拡大して見ましょう。
矢上城址周辺迅速測図① 久良岐のよし
道の場所で等高線が凹んでいて切通し状の道だった事が解かります。この堀切自体もL字に屈曲していますが、丘の下から登って来るで囲んだ登城口に当たる部分は直角にS字の食違いに成っています。
あからさまな人工地形ですね。
道を屈曲させる事で縦列で侵入して来る敵が細長く伸びる様にした上で敵は直進できずL字に屈曲した正面の崖の上から防衛側は弓や鉄砲で侵入者を❝なぶり❞獲物を狩る様に射殺して行く構造体です。
これが❝食違い❞や❝枡形❞と言われる城の防衛構造の一つです。
ここが西側の端っこで、まあ第一防衛ラインだった筈です。
2番目の防衛ラインは日吉駅の開かれた谷地形です。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の場所ですね。ここは現代に住宅街が造成される以前から広く比較的なだらかな台地だった様で、迅速測図でも等高線の緩やかな畑地が広がっています。
矢上城址西の堀切虎口地形 久良岐のよし
その欠点を改善する為に南北に大きく谷を掘り切って敵の侵入経路に成る丘をクビレさせて防衛戦としている事が解かります。
この大堀切地形には明治まで水源も在り用水地も存在したので戦国時代には堤を作って堀底が水堀か沼掘りに成っていた難攻不落の大堀切だった事が推測出来ます。
言うなればの日吉本町1丁目の最初の大外の堀切~この日吉駅南北の堀切までの範囲が谷上城の外郭だった事が解かります。無論、そこも平時は当時から畑地として利用されていたんでしょうね。
さて・・・
この範囲に外郭が存在する規模だと、関東以外の戦国武将の常識では3万石相当の代官の中田家に不釣り合いな城規模だったと感じますが、実はここには戦国時代の早い時期に重要な城を造る理由が有ったんです。
再度、谷上城の位置を見て見ましょう。
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
実は北条家の大曾根城と鶴見川を挟んで扇谷上杉家が周辺地域で争っていた時期が有った事が横浜市港北区大倉山~大曾根~太尾地区の旧家の深谷家や長光寺等には伝わっていて、その頃は綱島台地にも城砦が有ったそうです。
下は綱島台地の迅速測図です。
綱島台の城砦地形 久良岐のよし
今回は面倒臭いので(笑)綱島の城址は解説しませんが、迅速測図で見ると確かに見事なまでに連郭式(れんかくしき)城砦が明治に成っても綺麗に残っていた事が解かります。城の構造からみると掘り切りと竪堀が多用されている連郭式山城で、横浜市金沢区の称名寺裏山の金沢城址や三浦半島の衣笠城址、又は城址としては有名ではない鎌倉市の杉本城や逗子市桜山~葉山堀内に股がる鐙摺城の地形と全く似たような構造に成ってるので、多分、平安末期~鎌倉時代には存在したんじゃないかと思います。戦国時代にも改修されて利用されたんでしょうね。
綱島の城砦を含めて周辺を守る拠点が鶴見川と多摩川に挟まれた陸路の要所でもある矢上城だった筈なので、中田加賀守が三万石の代官だった時代と言うのは、扇谷上杉家と北条家が対立していた頃の話しなのかも知れません。そして東海地方や近畿の大名の城は配下の各豪族が私財で築城修築を行いますが、関東では北条家の支城なら北条家が、扇谷上杉家の支城なら扇谷上杉家での防衛拠点として大名によって築城され在地の城代を任されると言うのがセオリーだった様です。
又、北条家は経済規模に関係無い現在の会社員と同じ寄親(よりおや=上司)と与力(よりき=部下)制度でしたから、配下武将から大名が誕生する事はなく、配下武将の一族も細切れに別々の軍団に配置する事で謀反を防ぐ効果も有って、織田家の様な配下武将の大名取り立ては皆無でした。代わりに軍団を編成し更に軍団の下に中田家の様な代官による統治で配下の一族を細切れに分けて小机衆の様な大軍団の下に中規模部隊を編成していた様です。
なので代官個人の所得に不相応な城が北条家臣団の居城に成っているケースが多く見られます。
CIMG1239
これは上杉禅秀の乱、永享の乱、江の島合戦等が原因で関東が西国よりも先に戦国時代に突入する原因に成った事が関係しているでしょう。
戦国時代初期の関東の合戦は西日本の様な大名vs大名規模合戦では収まらず、常に関東八州を治める鎌倉公坊vs大勢力(室町幕府or関東管領)の衝突だった為(ため)に陣取り合戦で城が築城or改修される際に仮想敵数が万余で想定されていたので、神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県は特に巨大な城郭が多く成って行った事が分かります。
神奈川県でも・・・
平塚市岡崎城
伊勢原市糟屋館
藤沢市大庭城
鎌倉市玉縄城
逗子市住吉城
三浦市新井城
横浜市笹下城
横浜市蒔田城
横浜市小机城
横浜市榎下城
川崎市小沢城等
・・・どれも東海や関西の城と比較するととんでもなく巨大な城郭です。まぁ、日本城郭大系では土地開発する土建屋や不動産屋に配慮してか城域を伝承と実際の地形より狭く紹介したりしていますが。これ等の城は守備側は数千単位で守れる様に主要部分に近づく程に堅固な断崖で沼か大河川か海に囲まれた場所に在り南関東平野ならではの地質と地形が活かされた他地域では作りたくても同じ地盤と地形が無く同じ構造を土で造成するのは不可能だった訳です。だから富士山より西では高い城壁を作る為には石垣を用いらなければならず築城コストが関東の城よりかかってしまう経済的な理由もあったかと思います。更に同じ高さの石垣と土塁では土塁の方が登る事が出来ず殺傷能力の高い防御装置に成る訳です。
築城コストが安く防御能力高い南関東の扇谷上杉流&北条流築城術は富士山のお陰なんですね~。
まぁそんな訳で繰り返しに成りますが、矢上城=谷上城の中田家の最大時の経済規模は3万石相当と伝承しますが、それは代官として治めた領域の話しなので中田加賀守独力には不釣り合いな巨大な城規模を任されていたのだと思います。まぁ中規模部隊を任せられたんで配下の与力合わせたら3万石だと北条家では1500~2000が兵士の動員数に成ります。それでも城の守備範囲は広大なので独力では守れないので、北条家では初期には五色備え軍団や後に小机衆や江戸衆や玉縄衆が編制され軍団単位で守備した訳です。
余談ですが北条所領役帳には面白い事に中田家が旧扇谷上杉家の宿老だった太田家と北条家の両方から給料を貰っている事が記載されています。つまり、これを根拠に小生は戦国時代初期の中田家は扇谷上杉家の家臣で太田康資公の与力だったと推測する訳です。そして中田❝加賀守❞は一人の名前では無く中田家の殿様が祖先の官途の加賀守を代々世襲して名乗った屋号の様な通称だったと推測しています。なので江戸時代には既に資料の余り残らなかった中田加賀守に関する記載も北条家臣時代と話がゴッチャに成り「よくわからん!」と書かれたりしてしまってるのだと思います。中田加賀守が1人の人物として考えるとかなり混乱しますからね。
さて、谷上城に話を戻します。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
慶應大学日吉キャンパスの建設によって校舎の建ち並ぶ区域には余り地形は残存していませんでした・・・
が!
・・・蝮谷体育館~保福寺から借地してる一之谷、東側の熊野神社側の日吉町宮前自治会館側等には多数、大空堀と帯曲輪の地形が現存確認出来ました。先ず城の残存地形を見たいならば保福寺を御参りしてから下の写真の今は入口が封鎖されている中田加賀守の墓所入口側から散策すると良いと思います。
DSC_0285
この位置がの位置に当たります。
大学の敷地内は建造物に入らなければ自由に散策して良いと慶応大学には確認して有りますので、大学生じゃなくても自由に行内を散歩出来ます。
日吉台野球場 久良岐のよし
この上が日吉台野球場でキャンパス側よりも遺構が残りますが、中田加賀守御廟所の階段は封鎖されているので、野球場の下の人工的に切岸にされた谷底の道を左回りに進みます。
CIMG9308
すると・・・
KIMG0502
直ぐに左手に最初の堀切が見えます。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の場所です。でもココは登るの面倒くさそう(笑)なのでスルーします。
CIMG9314
もう少し進むと❝普通部の森❞と名付けられた谷が有ります。
位置的にはの空堀の間の扇形に凹んだ窪地(くぼ)です。
CIMG9316
白いハンドボール部の建物が普通部の森の遊歩道入口の目安に成ります。
CIMG9315
ここから登って行くと上の野球場とアメフト場の台地に出れます。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
恐らくここも空堀で東西に丘をブった切った堀切だったはずですが、上のアメフト場の造成の時に重機で空堀の土を幾らか削り出されて、ココの堀切のアメフト場部分を埋め立てたのだと思います。
それ故(ゆえ)に防御力が低くなる傾斜の少ない地形に今は成っているのかも知れません。
CIMG9317
しかし帯曲輪にも見え、現代の掘削なら遊歩道を真っすぐ付ければ良いのですが、階段よりも緩やかな路盤は右に折れて削平された土地と、今の遊歩道を進むと食違い状の大空堀④の真上のアメフトグランドに出る事が出来ます。
谷上城址最初の谷 久良岐のよし
の食違い状の大空堀が弓道場やボクシング部の道場が在る谷です。
普通部の森はアメフト場の左右をブチ抜いた堀切だった事が衛星写真だと良く解りますね。また、堀切右側の普通部の森は城としては不自然になだらかに左手内側に向かい逆扇型に整地されている事も解るので、やはり上のアメフト場の建設時に堀を埋める空堀の土を削り出した跡かも知れません。
CIMG9325
の谷、弓道場の更にもう一つ南側の谷が⑥の蝮谷と呼ばれているようです。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
その蝮谷との谷の間の地形も同じく扇谷上杉家と北条家が改修した小机城に同地形の空堀と空堀を繋ぐ細長い曲輪の防御構造が存在します。
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上は小机城の縄張り図、この小机城②や③の部分と・・・
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
・・・谷上城址である慶応大学日吉キャンパスの弓道場の谷と蝮谷の間の構造に酷似しています。
小生は恐らく谷上城はその部分、現在の慶応大学自動車部の敷地辺りが本丸だったんじゃないかな?と思いますが・・・
自動車部推定矢上城本丸? 久良岐のよし
でも慶応大学付属高校側の城の構造は現在では失われて確認できないので、其方側にも複雑な土塁やなんかが更に広大に広がっていて主郭だったかも知れませんね。
・・・普通に考えて主郭は余り大きくなく、外曲輪が一番大きく内側に來るほど小さく成ります。
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野球場やアメフトグラウンド側は現代の地形ではない、やや斜面がかった有る程度の広すぎないけど建造物を作ったり百人単位の兵士を駐屯されれる削平地が何段か存在します。
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誰もいない野球場からは元住吉や武蔵小杉方面が見えました。あちら側は戦国時代には蒔田吉良家の領地。
小生は現地に行くまで、迅速測図や色別立体図の地形からアメフトのグラウンド辺りが本丸だったかな?と推測していたのですが、慶応義塾大学高校の辺りと慶応大学の立派な陸上グランウンドの間の崖地も立派に裾切りされて崖に成っていたので、意外と宅地化された辺りも防御構造が豊富だったのかも知れません。でも扇谷上杉家の城の構造だと三浦半島の新井城址=油壷マリンパークを参考にするとやはり野球場やアメフト場や自動車部の在る側が重要だったので手薄な西側を厳重に大空堀で幾重にも断ち切り敵の侵入を防ぐ構造体を作っているのだと思います。
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一応、弓道場の横には住民も使う生活道路に降りる林道みたいな道が有りますが、今は学生は余りこの道を使っていない様です。
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弓道場の前に降りて自動車部側の複雑な大空堀に挟まれた重要そうな曲輪跡を見上げる所に何の神様かは判りませんが石祠が有りました。昔は神社でもあったのかも知れませんし、城跡なので諏訪神社や八幡様が祀られているのかも知れませんね。
弓道部の学生達は城跡の神様なのだから、この石祠の神様を大切にしたら武芸上達するんじゃないのかな~?日本文化の一部だから大切にしてあげて欲しい。
さて、ここから自動車部側に行きたい所ですが実際は登れません。てか登ったところで上にはフェンスが有って削平地に出られない(笑)。
そちらの側に❝弥生式住居跡群❞も在る事は解っているんだけど。困っていたらカメラを首にかけた絶対に怪しい小生を優しい慶応大学の女子大生が道案内を買って出てくれた。
ヒルサイド日吉側登城口 久良岐のよし
やはりボクシング部や弓道部の大堀切からは直接自動車部の方には登る道は無いそうで、そこの堀底道から階段を降りて一度、日吉町宮前自治会館側の平地に出てから、ヒルサイド日吉と言うアパートの裏の凄く目立たない階段を再度登らないといけないそうだ。
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こんな場所絶対に一人じゃ分からね~(笑)。
ありがとう!親切な慶應の女学生さん♪
この道も武者走りと思しき構造なんだけど、その話の前に④の谷の事を構造を考えたい。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
現地に行く前はの大空堀には自動車部の削平地とアメフト場の削平地を結ぶ❝引き橋❞が平時には掛かっていたんじゃないかと思ったけれど、良く考えると台地上は当時は人が住むには適さない場所だったからコストのかかる木製の橋を作る重要性が有ったかは疑問で、だとすると土橋が存在したのを弓道場を建設する際に切り崩してしまったんでは無いかと思い、帰宅して迅速測図を見直した。
矢上城址弓道部の大堀切④ 久良岐のよし
すると何やら完全に分断はされておらず、土橋の名残らしい距離感の等高線が刻まれていた。
恐らくこの構造からすると、やはり大堀切で断ち切られた自動車曲輪(笑)とアメフト曲輪(笑)には両者を繋ぐ土橋が有った様だ。今は底を断ち切ってしまったので、日吉四丁目側から箕輪町一丁目側に行くのに野球グランド側から丘伝いに行く事が出来ず、一度、日吉五丁目に降りてから階段を上がらなければいけなくなってしまったらしい。
CIMG9334
でもここ、アパート側の階段こそ現代の構造と道の付き方で判るんですが・・・
少し進むと途中から竪堀状の構造に付けられた武者走り城の道を利用した生活道路なのが解かった。
CIMG9338
登りながら途中で複雑な合流地点が有ったので「ん?これU字に掘られた竪堀の堀底道じゃね?」と思って少し道の横の藪を観察して見たら・・・
CIMG9339
ビンゴ!腰曲輪状の削平地が存在。絶対に現代人はこんな狭い湾曲した削平地をわざわざ作らない。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
ここがの場所。
城址を竹林にするのも土留めの為の昔の人の知恵。
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手前側U字に崖側面を抉(えぐ)った竪堀を挟む様に前後に削平地が有る。上の写真、見にくいかも知れないけれど奥にも削平地が有る。
そして、階段横の削平地が城だった当時を彷彿とされる物がたまたま現代にも存在した。
CIMG9341
境界を仕切る木柵が板塀になっていて、戦国時代の城の防御体を下から見上げている様な、竹藪を丸裸にした姿を想像すればリアルな復元城址みたいに成ってる(笑)。
因みに、日吉五丁目から登って来る階段の中腹で面白い物も見れた。
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丁度、新幹線の架橋線路のトンネルの真上!
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なのでコンナ写真も撮れた!
この新幹線の線路の真直ぐ先に見える丘が古代から水が湧き縄文時代から人が住んだ遺跡が発掘され天皇家の崇敬を集めた師岡熊野神社の森だな。つまり、綱島街道を押さえる陸路の要所である事を知れる指標になるのが谷上城址から見た新幹線の線路の先の森だったりする。
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上に出た。何か自動車部の方は入れなかったので取り合えず進んで見る。
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分かれ道にも微妙な勾配が有る。でも緩やか。
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テニスコートの横に大空堀状の地形をなだらかに盛土して作った様な住宅街。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
迅速測図で見るとやはり箕輪町一丁目の大空堀だった。ここ、迅速測図では判り難いが実際は鍵状L型に人工的に抉られてて、やはり自動車部側への侵入経路を狭くする構造に成っている。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の間が自動車部。今見てるのはの谷。
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宅地化されてない部分は角度がキツイまま。
慶應大学寄宿舎 久良岐のよし
そこをもっと南側に戻って進むと慶応大学の寄宿舎のある削平地に出る。
恐らくこの慶応大学寄宿舎の有る場所も曲輪だったと思うが、斜面を大胆に削ってしまってるはずだし、こちら側は防備の堅い断崖の北側と東側と異なって西側の坂から侵入経路に成ってしまう。なので小規模な曲輪がいくるも有った筈で、その曲輪の削平地が住宅地に成って行ったのだと思う。
因みに寄宿舎の庭からも新幹線が見える。
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むしろアングル的に斜めで、ここからの方がカッコよい新幹線の写真が撮れる。
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写真が良くないのは小生の腕がショボいから(笑)。
慶応義塾大学付属高校周辺 久良岐のよし
そこから慶應義塾大学付属高校を経由して大学側に行こうとすると、途中に弥生時代の住居跡が在る。
・・・と言うか、看板が有ると言われたのだが、何処にも見当たらず解らんので地元の御婦人に質問した。
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そしたら、このコンクリで固められてるのが竪穴式住居跡らしい。
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こんなん看板無いと解らん!小生、小さい時から縄文遺跡で遊んで育ったので山の中でも地面の凹みだけで住居跡判るが、こんなコンクリで固められてたら逆に解らんし!
でも面白い物が横に有った。
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たぶん、第二次世界大戦中の海軍の地下基地の遺構。通気口だと思う。コンクリートの劣化具合から判断したのと、こんなん意味不明な構造物他に無いわ(笑)。
ここを通り過ぎる。
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物凄く綺麗な慶應大学日吉グラウンド。・・・県立高校とは違うね。
少し住宅街の道路を通り慶應大学の校内に復帰する途中、可愛い洋館が在った。
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慶應大学のキリスト教会らしい。多分、昭和初期とか大戦後直ぐに作られてると思う。山手地区の洋館街の建物と外観の古さ比較したらそんな感じ。
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慶應大学の陸上競技場が下に有るんだけど、やはり古い地形が残る部分は人工的に裾切りされている。
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ので崖地。
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腰曲輪状の部分も有ったけど詳細は当然不明。
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慶應大学をゆっくり散歩しに来たの初めてだけど、高校も立派!なんかアメリカのゴシック建築の美術館かなんかみたい。
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映画の撮影にも使えそう。
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凄いね。横浜市中区の日本大通りとかだと、こんな感じの古い近代西洋建築沢山有るけど、それが高校なんだもんね(笑)。頭良くないりそう嫌味じゃなく(笑)。
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天文台まで有るし!
まぁ~そんな訳でだいたい、主だった谷地形と曲輪らしい場所を略(ほぼ)一周して来た。
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後は一の谷を降りて保福寺に戻るだけ。
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てか「東急グループよ~、官僚の子弟のいる慶應大学でだけ自然保護アピールですか(笑)?」あなた達は今現在、横浜市最大最後の蛍の群生地の磯子区~栄区~港南区~金沢区の円海山瀬上沢と同所の関東最大の蹈鞴製鉄遺跡の深田遺跡を開発の為に破壊しようとしてますよね~?
何の偽善ですかイヤらしい。浅ましいにも程がある。
コレな⤵
東急建設による蛍生息地と日本国内最大級のタタラ製鉄遺跡破壊計画を暴露します。
瀬上沢一帯に広がる日本最大級の蹈鞴製鉄遺跡の紹介パンフ転載。
円海山で蛍が観察出来る季節です。横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。
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東急の金持向け偽善の谷、一の谷を降りる。
ここを大切にする前に、横浜市の自然保護や日本レベルの貴重な蹈鞴史跡の歴史文化的な価値観を考えるなら、早く瀬上沢開発案を中止できる様に横浜市に代替地を要求したり、県内外の蹈鞴製鉄と古代史の専門家を連れて来て第三者による発掘調査しなさいよ。やらせたのヨコハマふるさと歴史財団って、よく貴重な遺跡を破壊容認する所でしょうよ(笑)。開発利権と密接な稲川会系埋地組組長の息子が最大支援者の某市長とズブズブだな~!
赤字事業なんだから、ちゃんと担当者は自分の責任隠さないで総本山に報告しなさいよ、それで経済世民、継往開来を実践して日本を守った東横神社の渋沢栄一公に謝れ!東急建設が円海山でやろうとしてる事は渋沢栄一公が嫌悪してた極左唯物主義者や無道徳な極右政治団体と同じだわ!
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ここを抜ければ保福寺に戻りますよ。
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さて、皆さんにも慶應大学に矢上城=谷上城の遺構が今も地形として残っている事が伝わったでしょうか?

皆さんの御近所にも必ず御城が在ったはずなので、興味が有る人は少し日本城郭大系と言う本を大きい図書館で調べて見たり、ネットで情報を見て見るのもいいかも知れませんよ!
まぁ・・・日本城郭体系はある種の「配慮」からか、実際より城規模を矮小化したり触れていない御城すらありますが。
でも地元に凄い殿様と関係の有る場所が有ったと解かれば、皆さんも郷土愛が深まると思います。

ですから是非、地元の神社仏閣や御城の跡の山や公園を散歩してみては如何でしょうか?

余談だが中田加賀守公の一連の調べ物で取材してた事も有り、保福寺の御住職や保土ヶ谷区の中田家の菩提寺の正觀寺の御住職に期間限定の御朱印とかお茶菓子とか沢山頂きました(笑)。
本来は中田加賀守公の所属した北条家の小机衆と言う軍団の軍団長だった笠原信為公や笠原康勝公の与力武将達所縁の寺院、旧小机領三十三ヶ所霊場の保福寺でも普段は御朱印をやってない御住職様からも御朱印を頂けた。
正觀寺の観音様の御開帳は来年なんだけど御住職様からも色々と親切にして頂いて、何だか中田加賀守公に「良く来たね~」と言われてる様で嬉しかった。
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殿様から御褒美を頂いた様に感じとても嬉しい。
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しかもこの前日は久しぶりに港北区鳥山の三会寺の御住職に会いに行って、真言宗の大僧侶、印融法印様の非公開の肖像画を拝見させて頂けたりした。

小生は殿様をリスペクトしてるから、殿様達が関係した神社仏閣に文献に残らない話も有るかも知れないと人に会いに行って見聞きしたり、御子孫に会ったりするんだけど・・・こういうささやかな御褒美みたいな事が有ると嬉しいね、やっぱり。

では又、次の記事で御会いしましょう~♪




















横浜市港北区の慶応大学日吉キャンパスは戦国時代~太平洋戦争にかけて重要な❝城砦❞だった事を知っている人は横浜市民でも今では余り多くは有りません。
日吉キャンパスの地下には❝地下迷宮❞とも言えるトンネルを張り巡らせた地底基地が存在し、第二次世界大戦中に横須賀鎮守府から逃げて来た帝国海軍本部が置かれ海軍の幹部達が終戦直前まで作戦を立てていた大規模な司令所として機能していました。ですから石原裕次郎サンが若い頃に主演した映画では日吉キャンパスがロケ地に成っているのですが、海軍司令所の換気口の煙突が大学のグラウンドに残っている風景が見切れていたり(笑)するんですよ。
矢上城地形 色別立体図&Googleearth合成久良岐のよし
※国土地理院色別立体図&Googleearth合成
上の画像は色別立体図と言われる地形を見やすく色分けした地図で、国土地理院が制作した物ですがネットで誰でも自由に閲覧する事が出来ます。
この画像を見て頂けると一目瞭然ですが、日吉~矢上の丘は鶴見川支流の一つの比較的な大きな河川である❝矢上川❞に東側と北側を囲まれ、南側は急峻な崖地で実に守りの堅い地形に成っています。
この地形に大戦中の海軍が目を付ける以前、実は既に戦国時代の名将がこの地に❝矢上城❞と言う城を築城して居城としていました。
その武将が小生のブログでも何回か紹介している小田原北条家の官僚型武将の中田加賀守で、記録の残らない戦国時代末期には3万石相当の代官を務めていたと地元や関係する寺院に伝承する北条家の大物武将の一人でした。正確には状況的に室町時代末期には北条家の大軍団の一つで軍旗を白い旗で統一した白備え隊小机衆と呼ばれる横浜市港北区小机の小机城を拠点にした軍団で重臣として勤務した後、安土桃山時代に成ると北条家滅亡直前には世田谷衆とも言うべき北条家従属大名の蒔田吉良家の与力家老として転属していた様です。
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写真は横浜市港北区の小机城址で毎年桜の季節に行われる小机城址祭り。港北区長が小机城代の笠原信為公に扮して行われる祭りです。
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小机城は横浜市教育委員会が保護を怠り半分が高速道路と鉄道建設で消失しましたが、今でも残存部分の保存状態が良く❝続日本の100名城❞の一つに選ばれたりしています。
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その小机衆として活躍した中田加賀守が3万石の勢力を誇ったのは何とな~く解る程度しか文献の記録は残っていません。なんたって北条家の記録は豊臣秀吉に負けたせいで余り残らなかった上に、後に関東を統治した徳川家が政治力無くて江戸時代中期に成っても関東の領民が旧北条家臣団と北条家の善政を慕っていたせいでヤキモチ(笑)やいていたってのは幕末の勝海舟サンも認識していた事実ですからね~。
徳川家臣団が入ってくると北条家の史料は更に無くなってしまった様です。
今回はそんな中田加賀守の居城だった慶応大学日吉キャンパス=矢上城跡と、そのキャンパスの下に今も現存する中田加賀守の菩提寺の一つの谷上山保福禅寺と言う曹洞宗の御寺を紹介したいと思います。

以前、中田加賀守については紹介した別の記事も有るので、興味が有る方は下のリンクから過去記事を御覧下さい!
※記事タイトルをクリックすると過去記事にリンクします⤵
補陀山 正觀寺は北条家の吏僚、中田加賀守の菩提寺
・・・保土ヶ谷区東川島町

川崎市の井田城は小田原北条家の吏僚中田加賀守の城?
・・・川崎市高津区蟹ヶ谷~中原区井田。

❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。・・・横浜市港北区小机
今回は中田加賀守が戦国時代に開いたと伝わる保福寺を先ず紹介して、その後で御城の説明をしたいと思いますが・・・
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谷上山 保福禅寺(略称:保福寺)
・・・中田加賀守の戦国時代に矢上城跡の慶応大学日吉キャンパスと矢上キャンパス周辺がどんな感じだったのか先ずは少し現代の国土地理院色別立体図の地形上に周辺の御城の位置を表示して確認して戦国時代の流通の御話しからしてみましょう~♪
神奈川県東部の城 久良岐のよし
この画像は国土地理院色別立体図に神奈川県東部の主要な御城を表示して有ります。
矢上城は画面右上辺りに表示されています。
北条家はだいたい3キロ毎に一つの御城を建設して防衛に当たりました。まぁ、だいたい半径1.5km毎に地域を統治する役所としても機能していたんでしょうね~。そしてこの直線距離3㎞と言う距離は烽火台(のろしだい)として煙を確認出来る距離でもあるので、敵軍が攻めて来た時に早急に北条五色備えと呼ばれた初期の五軍団や、後の八王子衆・津久井衆・小机衆・玉縄衆・江戸衆と言った各軍団に情報伝達し迎撃態勢や攻撃態勢を整える役割も果たしていました。
そして地形を見ると一目瞭然ですが、全ては房総半島や鶴見川や多摩川上流の敵勢力、扇谷上杉家や山内上杉家(上杉謙信が継いだ家)や里見家と言った敵勢力の経済活動を阻害する様に配置されています。
何でこの御城の位置関係が敵勢力経済活動の妨げに成っていたか?って余り歴史に興味が無い人は思いますよね~?
実は大正時代ぐらい迄は物流の❝水運❞が占める割合はとても高く、特に明治時代以前は主たる流通網は海も内地も全て船や筏(いかだ)による運搬だったんですよ。
しかも北条家の城は大河川の渡河地点近くに設置されていますから、敵が攻めて来れる川の渡し場の先に城を築城して迎撃態勢を万全にしてあった訳です。
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大師の渡し川崎の多摩川なんかは今は橋を渡れますが、江戸~明治時代は川崎大師の前に大師の渡しと言う船着き場が有って船でしか渡河出来ませんでした。明治に成ると現在の羽田空港敷地に在(あ)った穴守稲荷神社への直行便が大師の渡しから出ていたりしましたが、実はこの大師の渡し場は戦国時代には主要な渡し場ではなくて現在の川崎駅近くに北条家臣間宮家の川崎館跡地の堀之内地区があり、その周辺まで海が入り込んで来ていて渡し場もその付近だった様です。
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瑞龍山 宗三寺
その城館の有った辺りが宗三寺で、この御寺の寺号も間宮信盛入道宗三公の法名に由来しています。周辺の地域が❝堀之内❞なのは北条家臣間宮家の城館を取り囲む水堀の内側の地域で城跡だった事に由来しているんですね。
直ぐ近くには京浜急行とJR線の川崎駅が在り、江戸時代にも東海道の川崎宿となり砂子商店街が今も残りますが戦国時代から流通の拠点だったので流通網を抑える地域に城が設けられた訳です。もっとも、この場所は元々は鎌倉時代の名将で間宮一族の名目上の祖先として仰がれた佐々木高綱公の城館跡で、後に佐々木高綱公の甥の系統の佐々木泰綱公が領主に成っている事が鎌倉時代の古文書や宗三寺の梵鐘の文字から判明しています。つまり鎌倉時代から交通の要所だったみたいですね。
そして矢上城ですが・・・
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
御覧の通り、鶴見川の上流を抑える位置に在ります。ここを抑える事で上流の川崎市麻生区を拠点にしていた扇谷上杉朝興公の海運の通商を阻害出来たんですね。そして川崎市麻生区~稲城市の❝よみうりランド❞に在った小沢城を居城にした扇谷上杉家当主の上杉朝興公は討死して神奈川県域から扇谷上杉家の勢力は駆逐される事に成りました。つまり物流と地形的な観点から経済的にも軍事的にも重要な場所が矢上城だった事が解かります。
そんな場所なので戦国時代末期には3万石相当の代官を務める北条家重臣に成っていた中田加賀守公は矢上城を居城にしたようです。
Googlemap矢上城址付近 久良岐のよし
とっても険阻な台地が矢上川に守られる地形なのがGooglemapでも良く解りますね~。
さて、ここから先は又、続きの記事で紹介したいと思います。
次に続く⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説②
・・・保福禅寺の解説。




新編武蔵風土記稿巻之八十二 都筑郡之二 川島村
そこに横浜の殿様の一人である中田加賀守の名前と菩提寺の正觀寺と言う御寺の名前が登場します。
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補陀山 正觀寺
(小机領三十三観音霊場の第五番)
御寺の正式名称は補陀山 正觀寺と言います。現代では略して正観寺と呼ばれ字体も正觀寺⇒正観寺の現代日本体字が普段使われています。
宗派は曹洞宗の寺院で、曹洞宗は中田加賀守が仕えた主家の北条家(伊勢氏)の宗旨ですので、この御寺が豊臣征伐による北条家改易(かいえき=廃業)の前後直ぐに建てられている事が判ります。
正確に言うと中田家の菩提寺で、中田加賀守公の独立した墓碑は港北区の矢上城址(慶應大学日吉キャンパス)に在ります。DSC_0287
慶応大学に境内地を貸与しているのが同じく中田家が戦国時代に建てた保福禅寺と言う同じ曹洞宗の御寺です。そして正觀寺サンと同じ旧川島村の中の瑞流院と言う御寺も中田家の菩提寺でそれぞれで中田加賀守の菩提を弔ってらっしゃる訳ですが、特に御本家子孫と現在も直接的な関わりが深いのが正觀寺サンなんです。
色々と中田加賀守や旧:都筑郡川島村について解説したい所ですが、先ずは御寺の説明がされている文書と今の御寺の様子を写真から一緒に見て行きましょう~♪
正觀寺 久良岐のよし
新編武蔵風土記稿に登場する正觀寺の解説はコンナ感じです。
中田藤左衛門サンが開いた事が解かります。
現在の御寺の様子ですが・・・
住宅街の中、旧八王子街道の直ぐ近くに存在します。
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門の横には御寺の掲示板。曹洞宗なので曹洞宗のイベント広告が掲示されてますね。
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門の横に御寺の簡単な解説が有ります。
大体の説明はここに書いて有る通りですが、現在も行われる小机三十三観音霊場巡りの御朱印の由来は、元々戦国時代の北条家の家老で小机城代、大曾根城主だった笠原信為公の奥さんと御姫様が立て続けに亡くなってしまった供養の為に始まった文化だそうです。これは御寺を訪問するまで小生も知りませんでした。
笠原信為公は鎌倉市街地と鶴岡八幡宮が房総半島の里見家や正木家と海賊達の攻撃と略奪放火で炎上、灰燼に帰し(かいじんきす=燃え尽くされた)た際に、鶴岡八幡宮再建の総奉行を務め北条家だけでなく敵対する関東の諸大名にも指示を出して再建事業と鎌倉の復興を成功させた偉大な統率力と、北条家の外交官を務める高い教養と政治力を持つ殿様でした。中田家は近くの港北区の小机城に勤務していましたが、そこを拠点にした“白備え隊”と言う軍旗を白色で統一した別名:小机衆と呼ばれた軍団を実質的に統率したのが笠原信為公と、その御子息の笠原康勝公でした。
つまり現代も正觀寺サンには北条家の名将だった中田加賀守公の時代の文化が残ってる訳ですね~。
小机城や笠原家に関しては以前に解説記事を書いたので、御城に興味が有る方は是非読んで見て下さい♪
コレをクリックで記事にリンク!
❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。
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門を入ると正面に観音堂と墓地の在る段丘が在ります。段丘と言うか人工的に掘削された切岸地形ですね。
正観寺地形 久良岐のよし
地形的には急峻な丘の裾を切り開いた立地に在り、目の前を八王子街道旧道が通るので戦国時代には砦を兼ねた烽火(のろし)台が山上に有った事も予想出来ます。
御近所には鎌倉時代に木曾義仲の副将の今井兼平が源頼朝公に帰属して居城したと伝わる今井城址もあり、今井城は戦国時代も活用されていましたが、正觀寺の丘と同じ様な街道を抑える急峻な丘の立地です。
今井城址も以前、簡単な紹介記事を書いているので興味の有る人は読んで見て下さい。
コレをクリックで記事にリンク!
●今井城址…横浜市保土ヶ谷区今井…破壊される城址。
昨年末の参拝時点は観音堂と墓地に登る場所が工事中で足場が組まれていました。
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手水社も有りますが、この御寺は戦国時代の殿様の文化を大切にしていて、今でも神仏習合時代のまま神様も大切に祀っているので境内に神社が有ります。
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階段を上ると観音堂を立て直してる最中でした。以前の御堂は老朽化したんでしょうね。ちゃんと立て直せるだけの檀家サン達が中田加賀守と藤左衛門サンと笠原信為公由来の歴史を守ってくれていて嬉しく感じました。
ここから振り返ると昔の川島村に当たる地域を一望出来ます。
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殿様が村を見守って下さるよう、中田藤左衛門サンはここに御寺を築いたんですね~。
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さて、左手が現代の本堂で立派な鉄筋コンクリート造りです。東向き。
正觀寺 久良岐のよし
昔の記録では東向きの客殿に御本尊の観音様を祀っていると書いて有るので、客殿が現代では本殿に成り、元来は本堂として機能していた客殿の右側に在る少し小さめの観音堂は観音堂として存続し現在になり新築され直してる最中の様ですね。
昔は神明社=天照大神を祀る祠(ほこら)も有った様ですが見当たりませんでした。
写真撮影し忘れたかな?
でも豊川稲荷サンと、弁財天様を祀る水源地が鎌倉武士以来の文化の形式でちゃんと祀られてました。
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御稲荷様は多くの御寺でも大切にされていますね~♪
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小生も行く先々で旅の安全を御加護頂いており感謝し崇敬しています。
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そして開運弁才天様。日本では水源地は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が最初に祀られ安全な飲み水に適した聖地として古代の信仰を引き継ぎ、そこにヒンドゥー教由来の同じ水神で財神で軍神でもあり文化と男性にモテモテの水の女神様でもある弁天様が源頼朝公等の鎌倉武士によって同一視されて祀られる様に成りました。
そして明治時代にプロテスタント国家のイギリスの支援下で近代化が推し進められ宗教改革も行われ、日本古来の自然崇拝と偶像崇拝仏教の弾圧が始まり国家神道が成立する過程で、ヒンドゥー教由来の仏教の神様として弁天様の名前のまま祀る事が良くないと考える人間が英国のプロテスタントに影響を受けたキリスト教に改宗した政治家やプロテスタント形式の国家神道を支持する神職によって日本の水神である“市杵島姫命(いちきしまひめ)”に挿(す)げ替えられてしまったのですが、仮に彼等が正しい歴史知識が有ったのなら、市杵島姫命ではなくて宇迦之御魂神に名前を戻せば良かっただけの話しなんですがね~。
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この御寺はちゃんと江ノ島の弁天信仰や鎌倉の宇賀福神社(銭洗い弁財天)と同じく湧水を大切にしている所からスタートしているので今も湧き水を大切にしています。
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掘りぬいた洞穴から水を獲得するのは鎌倉武士の知恵なので洞穴も御住職様が武士文化を理解されていて武士の信仰と同じ形式で横穴から水源を掘り当てたので弁天様を近現代に成って勧請したのかも知れませんね。
弁天様に関してまぁ詳しい事は風土記に書かれていないので、小生の予想としては恐らく新しい神社でしょう。
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う~ん・・・
それとも、もしかして正觀寺は再興開基で真言宗の前身寺院が存在したのかな?
観音様を祀る場所は真言宗に多いですからね。
この訪問日は中田家の殿様の事ばかり御住職に質問したので、御寺の起源の詳しい事は質問してませんでした。先に中田家が開いたという文献を読んで来てたので先入観が有ったのと、殿様の事で頭が一杯だったんですね(笑)。
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境内には色んな石仏様達がいらっしゃいました。
御寺の様子の解説はここまで!

では此処(ここ)からは、この御寺を開いた中田藤左衛門サンを皮切りに、いよいよ中田家の解説に話を進めます。
御住職の話しによると御寺を開いた中田藤左衛門サンは中田加賀守公の御子息、つまり北条家滅亡後、二代目の中田家当主に当たる方でして、以後、中田家の本家歴代当主は屋号として藤左衛門の名跡を継承したそうです。そんな訳で当初は正觀寺サンも開いたのが中田加賀守の御子息の二代目か嫡孫(ちゃくそん=跡継ぎの孫)の三代目か混乱したそうなのですが、近年、御本家で歴代御当主の戒名を確認した際に正觀寺を開基(かいき:御寺や神社を建てる事)したのが二代目で初代藤左衛門サンだった事が確認できたそうです。
中田藤左衛門サンは‟藤”左衛門と藤の字を含みますので中田家は藤原一族だと言う事も判ります。
ですから保土ヶ谷区~旭区一帯に多く現在も住む中田一族の皆さんは藤原家の末裔と言う事になるようです。因みに家紋は少し変わった沢潟(おもだか)紋です。
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抱き沢潟紋抱き沢潟紋と言います。
普通の沢潟紋はこんな感じ立ち沢瀉
少し違うのは何か意味が有ると思うんですが、この区別の由来は詳しくは知りません。
因(ちな)みに鎌倉市大町と横浜市港南区野庭地域には戦国時代に中田家から御姫様が嫁いだ遠い遠い親戚が今も住んでいます。
蔦の葉紋臼居家です。
臼居家は元は房総半島の小大名で、平安時代末期以来の武家の名門大名の千葉家の分家に当たります。
戦国時代に臼居杢右衛門(もくうえもん)サンが小学校~中学校位の年齢の時に、外祖父の原サンが孫の臼居家を乗っ取ってしまい、更にその城を房総半島南部の里見家に奪われてしまい支配権も治める土地も無くしてしまい最初鎌倉市大町に移住して北条家に臣従し、安土桃山時代に成ると北条家も滅亡してしまいましたので自分の領地の野庭の支配権を維持する為(ため)に、関東全域の女性を助ける寺院として有名だった北鎌倉駅近くの梅の綺麗な境内を持つ“縁切寺”の松岡御所こと東慶寺の寺領として野庭の統治をする政治工作をして徳川家に承認され帰農し、幕末を迎え、現代も大町と野庭に御子孫が住んでらっしゃいます。
この臼居杢右衛門サンの奥さんが中田加賀守の御姫様だったんですね。
つまり今の臼居家の御子孫達は中田サン一族と御姫様の血縁で繋がっている訳です。奇しくも中田家は戦国時代の北条家を代表する名将の北条綱成公とその副将の間宮康俊公と同じ官職の左衛門尉(さえもんのじょう)に由来する屋号を継承しています。
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三増合戦古戦場石碑
臼居杢右衛門サンは武田家と北条家の大軍団が神奈川県愛甲郡愛川町で激突した“三増峠合戦”で臼井衆の軍代として参戦し兵300の侍大将として北条綱成公の軍勢に与力しています。一緒に戦った上官の北条綱成(つなしげ)公が左衛門大夫(さえもんたいふ)だったので、この綱成公から左衛門尉の官位は、臼居杢右衛門サンと中田加賀守の姫様が結婚した時に北条綱成公から中田家の御曹司だった藤左衛門サンに官職が与えられたのかも知れませんね~。
もしかしたら・・・
中田加賀守の御姫様と臼居杢右衛門サンの仲人(なこうど)となり婚姻の話しを勧めた恋のキューピットは状況的に北条綱成公だったかも知れませんね~♪
・・・確証何にも無いですけど(笑)。
旧鎌倉郡の大町も野庭も守るのは北条綱成公の居城玉縄城と、北条綱成公の副将の間宮康俊公の笹下城でしたからね~。立地的にも笹下城と中田家の川島村は近いし、臼居家のいた野庭の野庭城と北条綱成公の玉縄城と間宮家の笹下城と中田家の川島村は全て御近所ですからね~。
臼居家の解説については以前書いた記事が有るので、御興味有る人はソチラも読んで下さい。
コレをクリックしたら記事読めます
●臼井城主の子孫の店❝Cafeこやぎ❞は旧鎌倉郡域にある緑に囲まれたカフェ。
美味しい葛餅と焙茶(ほうじちゃ)が頂ける店。ランチも人気。…横浜市。


さて、御寺の事が書かれている新編武蔵風土記稿では都筑郡川島村の項に登場する訳ですが、そもそも川島村が何処(どこ)か現代人は横浜育ちで小学校で横浜市歌を叩き込まれて横浜市かを暗唱出来るハマっ子ですら旧:川島村の範囲がどこか知らない人も多いので、川島村の範囲を一緒に見て見ましょう・・・
保土ヶ谷区川島町~東川島町~西谷町~旭区川島町~西川島町~三反田町~鶴ヶ峰~左近山~桐が作
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・・・ザックリこの地図一帯を指します。結構広い範囲ですよね。
御寺は現代では保土ヶ谷区に所属します。
しかし保土ヶ谷区で川島の地名の付く範囲は2箇所で、川島町と東川島町だけです。
川島村
白い範囲が川島町と東川島町。残りの旧川島村は全て旭区所属しています。
川島村は北条家の時代には川島村を中田加賀守と山川淸九郎の二人が所領として分けて持っていたと風土記に関わていますが、詳しい事は北条家が滅亡したせいで江戸時代には既に文献も残っていなくて山川淸九郎がどんな武将だったか分(わか)らなかった様です。
同じ様に中田加賀守は北条家滅亡直前には3万石の小大名に匹敵する所領を持っていた事も書かれていますが、北条家臣団の所領は1560年前後の所領役帳の更に写ししか現存しないので、安土桃山時代の頃の滅亡直前の各家臣の所得は現代では調べる事が出来ず、小生や盛本昌弘先生や正觀寺の御住職様の緒様に状況証拠を書き集めて推測するしか知る手立てが有りません。
まぁ~泉区に中田の地名が残るので中田家の発祥地は泉区で、戦国時代末期には現在の横浜市北部~川崎市西南部を最終的には治めていた代官と言うか、与力衆を付けられた部将に成っていたらしい事が何となぁ~く判ります。
所領役帳を見ると1560年頃は小机衆に所属している事が判りますが、他にも「中田家が蒔田吉良家与力だった」と言う事も中田家と同じ旧:北条家臣の間宮家の子孫で江戸時代の歴史学者の間宮士信サンが書いているので、紆余曲折有って軍団の中の部将級にまで最終的に出世していた事も推測出来る訳です。
軍団も小机衆から蒔田吉良家の世田谷衆と言うか江戸衆と言うか?蒔田吉良家与力に編成され、その段階で蒔田吉良家の現在の横浜市域北部の所領を管理する代官で部将に抜擢されていたらしい事も何となく解ります。
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蒔田吉良家は東京都世田谷区豪徳寺の世田谷城と、横浜市南区蒔田の蒔田城の2つの城を両方とも根拠地にしていました。
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前回書いた【休日雑記】でも書きましたが蒔田吉良家の蒔田城から程近い磯子区岡村町の岡村天満宮の旧参道大鳥居を昭和13年に単独で寄贈した中田サンと言う昭和初期の資産家がいるので、寄り親の蒔田吉良家の居城近くに所領を貰って土着した一族がいたのかも知れません。
因(ちな)みに以前、別の記事でも紹介しましたが中田加賀守の1560年頃の所領は以下の通りです・・・
拾壱(11)貫五百五十文 小机(領) 川島
 (※保土ヶ谷区~旭区の川島の地名の残る一帯)
 三貫八百七十文 小机(領) 矢上之内
 (※横浜市港北区日吉一帯)
           以上拾五貫四百弐拾文」
そして江戸衆の太田新六郎=太田康資公の所領にも中田領が登場します。
「一 太田新六郎知行
 (※以下中略)
   新六郎書立上被申員数辻 但此外私領之内を自分ニ寄子衆ニ配当候書立
 (※以下中略)
 稲毛(領)
 弐貫五百文 鹿嶋田借宿 中田分
 (※川崎市中原区刈宿一帯)
 同(稲毛領)
 小田中分 同人分」
どうやら最初は太田康資(やすすけ)公の配下で太田家から所領を貰っていたけど所領役帳の検地が終わる前に太田家が謀反して北条家を裏切って国府台合戦を起こした事で太田軍団が解体されて、それぞれ武士が北条家の直接雇用化して中田家の配下武将も与力から解体されて所領が少なかった時代の記録が上記の北条家所領役帳時点での所領にだったみたいです。
川崎市中原区に所領が有りますが、同じ地域は元々吉良家の殿様の領地だったので、やはり吉良家の与力に成っていた時期が有ると考えるのは自然ですね。すぐ近くに井田城も有り、中田加賀守の持ち城だった伝承も残ってますから。

そして先日書いた休日雑記、“ゆずの町”岡村町を散歩した時の記事でも触れましたが・・・
コレ⤵
●【休日雑記】2019年03月02日の訪問先・・・❝ゆず❞の磯子区岡村町(モンマルト・岡村天満宮・岡村梅林・久良岐能舞台)~小田原市曽我梅林。
どうやら南区~磯子区辺りにも御一族が住んでいて有る程度大きな財力を昭和初期まで持っていたみたいです。岡村町の岡村天満宮は料理業組合が支援した神社だったので、小生の予想では磯子~根岸が富豪の別荘地で花街も有った頃に中田家が料亭とかを運営したのかも知れません。
ブロガーで歴史仲間の“知の冒険サン”の話しでは昔は岡村の隣町の弘明寺にも花街が有ったそうなので、料理業組合はそちらの可能性もあるそうです。
知の冒険さんは小生とは異なり主に色町、大人の世界の花柳界の歴史を調べてる歴史オタク(笑)でして、全く女遊びに興味の無い小生ですが歴史として実際に現地に行き取材をするスタンスが小生と同じで記事を読んでいて楽しいんです。
智の冒険サンのブログのホームページ⇒https://chinobouken.com/
まぁ、だから弘明寺に花街が有った事とか御存知な訳です。

中田サンに関しては岡村天満宮の宮司様に御教授頂けました。
岡村天満宮の宮司様の話では、岡村天満宮の大鳥居を寄贈した中田家は杉田の中原に戦前までは居た家だそうで、戦国時代末期に岡村町辺りに所領を得ていて土着した分家子孫がいて第二次世界大戦以前まで地主として高い経済力を維持していたのかも知れませんね。
そして杉田は戦国時代~江戸時代中期の間宮家の領地でした。この間宮家が崇敬した修験道の神社が杉田の熊野神社(旧:大霊山泉蔵院桐谷寺)で、この宮司家の杉原家が平安時代末期に泉蔵院=山崎泉蔵坊を鎌倉市山崎で運営していて源頼朝公から修験道の大道場として崇敬を得ており、頼朝公の請願で泉蔵坊が中原の熊野神社を開き現在に至ります。
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泉蔵院についても解説記事を書いて有るので御興味有る方は御覧下さい。
これ⤵
●横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。
戦国時代の北条家は各家の舎弟を別の家臣の与力として付ける事で相互に謀反を抑止させたり、各家が得意とする分野の技術や知識を共有するパッケージみたいな感じで家臣団編成をどうもしていた事が、間宮家や宅間上杉家や蒔田吉良家の与力衆の苗字をみていると判ります。
つまり中原に近代まで網元として水軍の名残りを残しながら存続し今は市会議員をやっておられる関家や岡村天満宮の宮司様の御話しで中田家も中原に分家が移住し間宮家与力として水軍に編成され、房総半島の里見家の海賊の乱入に備える武士団を組織し、北条家の解体後も杉田に分家が残っていた事が解かる訳ですね。
そして岡村天満宮の杉原宮司様の御本家は泉蔵院熊野神社の社家でして、御爺様の代に熊野神社の方の神職を継ぐ方が居なく成ってしまったので岡村天満宮と宮司職を兼任したそうです。
つまり、その御縁で杉田中原の中田家が地元の泉蔵院と合わせて商業の神様でもある岡村天満宮の境内社稲荷社を崇敬していたので、隣町の岡村天満宮に石の大鳥居を寄贈したそうです。

恐らく中田家御一族は横浜市各所に御分家がもっと沢山存続している事と思いますが、今解るのはここまでです。

でも補陀山 正觀寺の歴史を辿るだけで横浜市の色んな歴史も判って周辺の町との繋がりも出て来て歴史好きには楽しくて堪らないでしょう?
きっと皆さんの御近所にも同じ様に今は住宅街の御寺だけど、実は凄い歴史偉人と関わりの有る場所が沢山あるはずです。

ですから皆さん・・・
御近所の御寺や神社や城跡の山や公園を散歩して見ませんか?凄い殿様との意外な結び付きを知ると地元に対する愛着も深まるはずです。
・・・では、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪

※今回の記事は文字だらけです。
前回の記事⤵
北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説③】・・・多❝米❞元忠公と❝多米❞家の菩提寺の豊顕寺は江戸時代の大寺院・・・横浜市神奈川区三ッ沢西町【歴史学者は必ず見る可し!】
コレの続き⤴


最近、断続的に書いている多米元忠公の解説記事に「多米氏を調べてらっしゃる」と言う❝ヨツ❞さんと言う方からコメントが付きまして、そのヨツさんは多米元忠公は多米長宗公と同一人物じゃないかと、戸倉英太郎サンと言う❝先生❞の持論を御参考にされているとの事で、小生が何故(なぜ)「多目元忠公と多米元興が同一人物だ」と推測しているのかと言う質問を頂きましたので、そのやり取りで返信した内容に一部挨拶の加筆と多目元忠公と一体誰が同一人物かと言うのを各時代の北条家周辺の人物名と歴史とを新たに書き加えながら解説したいと思います。

さて、小生は某大宮司家の自分の祖先と、菅原氏、河内源氏や坂東平氏、鎌倉幕府北条家、金沢北条家、名越北条家、室町幕府将軍家と鎌倉公方足利家、蒔田吉良家と宅間上杉家と太田家、小田原北条家と玉縄北条家と間宮家と多米家と福島家、崇敬する織田信長公の織田家と生駒家、徳川家、それ諸家の殿様や奥方様や御姫様を尊敬する所から日本の歴史オタクに成って行きました。
素人なりに色々と御子孫様達にも御会いする事が出来たり、色んな御寺や神社で宮司様や和尚様達に優しくして頂ける御縁にも幸運な事に恵まれ、普通は見せて頂けない過去帳や文書を見せて頂いたりコピーを頂く機会にも恵まれました。
すると面白い事に、文字しか読まず取材しない部類の❝ガクシャ先生❞達が後生大事に丸写しテンプレして論文の根拠にしている❝寛政重修諸家譜❞やら❝風土記❞やら諸々江戸時代の記録と言うのは幕府の一部の役人が字を書き間違えていたり、昭和期に活版印刷にする際に文字の読み間違え誤植が多く有る事に気が付きました(笑)。
なので小生は実際の取材による聞き取りの重要性に気が付いて・・・
と言うよりも、そもそも自分で尊敬する人達の話を御子孫や御住職様や宮司様達の当事者に御会いしに行くのは数百年前の御殿様達に時代を超えて御挨拶する機会を頂いている様な気がして嬉しく、距離感なんか気にも成らずに「自分で会いたい!」と言う衝動に駆られてアポを取り挨拶に伺ったり、直接御参りに行くと❝すっごく!良くして頂ける❞機会に恵まれて来ました。

そして、殿様達の名前は例えば諏訪家ならば諏訪❝頼❞水とか諏訪家の❝頼❞の様に必ず❝家ごとの通し文字❞が有る事、そして殿様達の当時の近郷に住む上司や近隣有力大名からも❝一字拝領❞して例えば間宮家なら間宮❝康❞俊公の御名前は北条氏❝康❞公から頂いた一字である事から、いつの時代に特に重用される存在だったかとか推測する基準に成る事にも気が付きました。
更に、その上司や近隣大名と不和に成り決裂したり別の主君に鞍替えすると名前を元の名前に戻したり、子孫が元の名前の間宮❝信❞俊と伝え直してしまって各家で家系図に混乱を来(きた)してしまう原因に成り、更に徳川幕府に家の惣領が家譜を提出する際に止む無く❝康俊と信俊は兄弟だった❞みたいな帳尻合わせつじつま合わせをせねば無くなり、もうしっちゃかめっちゃかに成っている事も気が付きました。
・・・実は、この現象が多米家の伝承でも起きている事に小生は玉縄北条家の顕彰活動を通じて知った鎌倉時代には❝金沢北条家❞重臣だった間宮家臣荒井家や、扇谷上杉家臣太田家の太田道灌公暗殺の現地伝承と150年後の子孫の口述記録の差異、間宮家の家系図と各家の伝承の混乱を見聞きした経験から気が付きました。
そして得た名前と時代的な周辺の状況から「多米元忠公=多目元興公」と言う結論です。
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写真は多米元興公の隠居地と伝わる豊顕寺さん、そもそも多目元忠公の隠居地もここと伝わるので訪問すれば直ぐに解る事なんですが・・・
さて、では何故そう思うかを豊顕寺の事は置いておいて多米家の殿様の名前から改めて解説しますが、ここからはもう、ヨネさんに書いた返信をテンプレに写真と場所の解説も書き加えたりしてみます。

【多米元忠公と多米元興公が同一人物と考える理由解説】
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※KOEIさんの信長の野望での多❝目❞元忠公の顔グラ。名前間違ってるし(笑)。
小生の推測は歴史オタクで素人の域を出ませんが、世代の比較をすると小生は自説の様に思います。
まず、多米元忠公が元の名を改めて元忠と名乗ったのか、それとも元忠が先で元興or長宗と名乗ったかを考えれば小生の説に合点が行くかと思います。
さて、先ず小生は戦国武士の名前は近在する有力武将の従属勢力が本人として考えた場合に有力武将から一字を頂く事を大前提として話させて頂きます。
先ず小生が多米元❝興❞公こそ河越夜戦に参戦し一軍の大将を任せられた上で全軍の進退を主君に代わって指揮を執れる人物だったと思うのは、多米家でそれが可能な人は世代的に他にいないからなのですが、多米元❝興❞公の名前に着目して世代を推測してみましょう。
この元興公の字は小生は扇谷上杉朝❝興❞公からの一字拝領だと推測しています。

御存知の様に北条(伊勢)家は古河公方家と扇谷上杉家と山内上杉家の複雑な外交関係の上で勢力地拡大の大義名分を成立していた家です。
扇谷上杉家とは初期段階で共闘関係に在り、それ故に扇谷上杉家旧臣の大森家が山内上杉家に内応した頃に小田原城攻略の大義名分を得て西湘に進出しています。
仮に多米長宗公が扇谷上杉家との抗争の終局である河越夜戦で一軍を率いた上で全軍を統率するのは年齢的に無理です。
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写真は扇谷上杉家終焉地、河越城下の東明寺。ここで扇谷上杉家の頭領の扇谷上杉朝定公は討死します。重臣で後の岩槻城主太田資正公の養父同然の存在だった松山城主の難波田善銀公もここで亡くなりました。
そもそもは時宗の開祖の一遍上人の開いた聖地で、扇谷上杉家と時宗は臨済宗と曹洞宗に並んで深い関係が有る宗派でした。恐らく、扇谷上杉家の初期の本拠地だった旧鎌倉郡大庭城の近くには現在では藤沢市と鎌倉市の市境付近の時宗の総本山格である遊行寺が存在した事や、この河越城下に東明寺が存在した事から関係を深め扇谷上杉家によって支援されたのでしょう。
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稲荷山 称名院 東明寺
この河越夜戦で活躍したの多目元忠公は小生は多米元興公だったと推測しますが、恐らくは次代の多米❝長❞宗公の❝長❞の字は北条長綱入道宗哲(北条幻庵)公か、その子息の北条時長公からの拝領でしょう。
多米家が城主を務めた青木城の所在地は江戸時代には眼前の横浜駅一帯は当時は海で港湾としても機能した上に東海道旧道だった重要性から東海道❝神奈川宿❞が設置されていますが、江戸時代の区分は❝神奈川領❞とされています。
坂本龍馬先生坂本龍子(お龍)さん
幕末には坂本龍馬さん亡き後に未亡人お龍サンが働いていた田中家と言う料亭も今でも営業しています。
有名ラーメン店と城址と交通の相関地図
余談ですが、北条家の御城跡の傍には現代では拉麺の名店が多く有ったりします(笑)。これは交通の要所を抑えて城を造るのと、昭和の高度経済発展期以後の拉麺文化がトラックの運転手相手にした業態で発展した文化だから奇しくも重なる訳ですね(笑)。
そこ等辺は間宮家や宅間上杉家と尊敬する大勝軒大将の故山岸サン達の顕彰文の廉価版みたいな記事や、お龍サンの記事でも紹介しているので御興味がれば読んでやって下さい。
※タイトルをクリックすると記事に飛びます!
●間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績
●神勝軒:大勝軒山岸サンの弟子の店。…全ての拉麺繁盛店と御城の意外な関係。
●坂本龍馬サンの奥さん、お龍サンの御廟所:信楽寺(横須賀市大津町)と、京都・神奈川で見る「お龍サン」の生涯。
●旧城寺=榎下城址…横浜市緑区三保は上杉家の拠点
●北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。
間宮家顕彰文は正式版は出版物にします。
円海山の蛍生息地を東急グループが破壊した場合には工事責任者から営業担当者や経営者と責任者である市長と県知事と教育委員会教育長までの実名を併記して宗教と文化醸成と自然の聖地が消えた❝歴史事実❞として間宮家の歴史と一緒に永遠に語り継ぐコンテンツにするのが目的ですね。「破壊して宅地にしたら勝ち」と思ってる横浜出身じゃない築地出身政治家やその支援者や土建屋の人間は生粋の源氏平氏北条家の気質を受け継いだハマっ子、370万人の横浜市民をナメんなよ・・・
子々孫々までソイツの悪事の対価を背負わせてやるんだわ。
・・・極悪旗本木原家の様にな。そして100年後200年後と時間が過ぎる程に円海山の瀬上沢自然環境を破壊する奴は更に悪名を残す存在に成り、糾弾されるだろうよ。
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さて、間宮家や鎌倉武士団と所縁深い円海山の話は置いておいて、ここはそもそも足利尊氏公が南朝方と戦った際に城郭化し籠城し、後に戦国時代初期の間宮家が北条早雲(伊勢宗瑞)公の家臣として籠城した権現山城が前身な訳ですが、北条家が江戸城を奪取し安定するまでの初期段階では小机城を含めた領域も統治領域とした役割を持っていた筈です。
青木城から直ぐ近くの小机城は小田原所領役帳の成立時には❝小机衆❞を束ねる組織に成り、どうやらこの頃には❝北条五色備え❞も解体されている事が推測出来ます。

所で、この小机城、北条氏綱公が江戸城を制圧した帰りに笠原信為公を城代に据えています。つまり無城主だけど城として機能していた事が解ります。この頃には青木城の前身の権現山は廃城に成っていたのかも知れませんが神奈川斎藤領分を間宮宗甫公が領しておりますし更に北条早雲(伊勢宗瑞)公の時代の権現山合戦では間宮家の城として権現山城が登場します。青木城はまだ存在していません。
権現山城で活躍した間宮信冬公の子か弟か親類の間宮信盛公も多摩川渡河地点の今の川崎市川崎駅一帯の河崎堀之内館主、鶴見川渡河地点の鶴見区末吉一帯は間宮信冬公、そして神奈川権現山は間宮彦四郎(小生は信冬公と同一と推測)の城でした。
つまり北条早雲~北条氏綱公初期の世代では青木城が存在せず、小机城も城として存在しても無城主で城代は大曾根城主の笠原信為公、1560年以前に小机城主を務めたのが北条幻庵公の御子息の北条時長公です。ここで北条時❝長❞の長の字が登場しますね。
北条家の江戸城攻略は大永四年(1524)です。
小机城址市民の森竹灯籠まつり 日本の竹ファンクラブ公式より転載
小机城址では現代では毎年秋に竹灯籠祭りが行われたり・・・
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・・・春には笠原信為公を顕彰する小机城址祭りが開催されています。
●❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。
●2017年度 小机城市民の森竹灯籠まつりは10月28日に開催!小机衆家臣団の紹介も!
さて、小机城代を務めた笠原信為公は弘治三年(1557)に亡くなっているので、小机城と小机衆を取り仕切った期間は1524年~1557年と判ります。
そして1557年~1560年まで城主だったであろう人物が北条時長公となる訳です。
この小机には、北条時長公の没後も御父上の北条幻庵公の所領が有りましたが後に北条氏繁公に譲られています。状況的には北条時長公が赴任した後に幻庵公の土地に成っのでしょう。
つまり、多米家で青木城の近所に住む❝長❞の字を持つ有力者の影響を受けれる人物は1560年前後の短い期間に元服したりまだ改名しても不自然ではない若かった人物だと思われます。当然ながら1560年代に十代~三十代位の人物ならば小田原城の落城時に小田原城を守備していた多米長宗公がその世代の人物と考えれば極々自然でしょう。
多米長宗公は多米家通し字の❝元❞の名が入って無いので初名は多米元宗だったかも知れないですね。
河越夜戦布陣図 久良岐のよし作成
残念ながら多米長宗公は世代的に河越夜戦で全軍の指揮を執れる様な中年では有り得ないでしょう。
さて、では多米元興公はどうでしょう?
多米元興公の❝興❞の字が伊勢家⇔扇谷上杉家の友好的な時代に扇谷上杉朝興公から一字拝領した人物と考えれば、河越夜戦に参戦したのは多米元興公と考えるのが自然でしょう。そして古河公方足利家を頂点として管領格の扇谷上杉家に協力従属した伊勢(北条)家の武将が同世代の目上の武将から一字貰うのは当然普通に有り得る事ですよね。
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※写真は扇谷上杉家の戦国時代初期、北条(伊勢)家と協力関係に有り山内上杉家と対立していた時代の本拠地だった伊勢原市上粕屋の大城郭、糟屋舘址の大空堀。
糟屋舘は崖地系を人工的に切岸したり平地を掘削した大空堀の幅は余裕で50m有ります。糟屋の伝承地形は太田道灌公暗殺一部始終の現地取材を元に推定地を記事に書いて紹介していますが、2018年現在、神奈川県の黒岩知事による道路建設で破壊の真っ最中です。しかも事前発掘調査隊には城郭専門家は含まれていません。
●【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
では多米元興公に名前を与えたかも?知れない扇谷上杉朝興公はいつの時代の人物でしょう?
長享2年(1488)~天文6年(1537)を生きたのが扇谷上杉朝興公です。
では多米家はその頃に何をしていたでしょう?そこからはブログにも書きましたが…
永正三年(1506)~3年間、北条早雲(伊勢宗瑞)公は今川氏親公の名代として今川家の軍勢と伊豆と西湘の伊勢家軍勢を率いて三河安祥城の松平家を攻めています。

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※安祥文化のさと、ここの周辺一帯全てが三河安城市の市名由来と成った徳川(松平)家初期の岡崎尉移転以前の本拠地、安祥城。ここを訪問した時の記事は【休日雑記】として少し触れていたり、浄土真宗の寺院化した後の事も間宮家が関わった横浜市の梅花山成就坊の事と一緒に紹介しています。
●休日雑記 2016/09/29の訪問先 愛知県豊田市~安城市~刈谷市~豊明市~名古屋市緑区~熱田神宮~中区。
●横浜の梅花山成就院と愛知県三河安城市の大乗寺・・・戦国時代の徳川家と間宮家の❝本丸❞だった浄土真宗の寺院達。
この北条家の前身の伊勢家が今川家臣だった頃に活躍したのが❝三河の土豪❞だった多米元興公の御父上の多米元❝益❞公と伝わり、江戸時代に流布された❝伊勢神宮参りで伊勢盛時公と出会って以来の多米家と北条家の関係❞とか❝室町幕府で同僚だった❞とかは誤りな事が判ります。何たって、小生の三河土豪説は豊顕寺の歴代御住職に直接伝わってきた話で豊顕寺の説明の看板にすら紹介されている事ですからね(笑)。
多米元益公は❝伊勢七騎❞と呼ばれた北条早雲(伊勢宗瑞)公世代の今川家筆頭家老の伊勢家与力として活躍した人物です。もうこの時点で時代背景が判りますね。この頃、実際に北条家の運営をしていたのは二代目の北条氏綱公でした。その後、三河は松平家が制圧し、多米家を含めた親今川勢力は三河から駆逐されます。そして、その頃に相州の北条氏綱公を頼り扇谷上杉家とも友好な時代に生きていたと考えられるのは多米元❝興❞公を置いて他なりません。
多米家は「相模国に赴き北条家臣と成った」と伝承しており豊顕寺の説明にも書いて有ります。
余談ですが昭和の活版印刷版の寛政重修諸家譜とか新編武蔵風土記稿は編集者が天文と天正をしばしば誤読して字を誤植しているのも間宮家の御寺を廻って小生は良く知っています(笑)。なので一々、元号や武将の名前記載は江戸時代の役人の記述や昭和のいい加減な酒飲みながら残業した様なオッサンの仕事を鵜呑みにせずに、自分で御寺に行って過去帳や墓石を見て回らないとエライ目に遭ったり世の中にデマを流布する事に成りますよ~。御子孫には杉田間宮家初代の間宮常信公と名がちゃんと伝わる武将を、間宮信次とか間宮信常とか江戸の役人か昭和のいい加減なオッサンの誤植を丸写しして出版物に書いてしまってる人もいます(笑)。
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※写真は戦国時代の小田原城本曲輪前の東曲輪から見た、江戸時代の小田原城本丸。
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小田原城址公園
●小田原北条五代祭りと戦国時代の小田原城…防御力実積日本一の名城!
※以前書いた小田原城解説⤴
北条早雲公の時代の本拠地は伊豆国韮山城、北条早雲公の晩年に北条家の運営をしていたのは北条氏綱公、北条氏綱公以来の本拠地は❝相州❞の小田原城、多米元興公が相州に亡命し得る松平清康公による三河制圧も北条氏綱公の時代の話ですね。
もうここまで話せば御理解頂けるかと思いますが、青木城に赴任し得るのは多米元益公の次世代の多米元興公を置いて他におらず、元興公は扇谷上杉家の上杉朝興公の名を一字拝領していたが主家北条家と扇谷上杉家の対立が確定した時点で上杉朝興公との縁を切り名を多米元❝忠❞と改めたと考えれば極々自然でしょう。
そして青木城築城は永正五年(1508)の今川家の三河攻略失敗以降で更に永正七年(1510)の権現山合戦以降、小机城が小机衆として機能する大永四年(1524)迄の間と言うのが判ります。この時期は丁度、多米元興公が北条家を頼って相州に移住して来た頃とも重なりますね。
そして、多米元益公と北条早雲公が同時代に活躍した人物ならば、その子の多米元忠公は北条氏綱公や北条幻庵公と同世代か少なくとも北条氏康公よりは大分年長だったと推測出来ますから、その様な世代の人物が秀吉による小田原城攻略の頃まで生きていたとは全く考えられません。

多米家が勢力を抑えられたのは、もしかしたら多米元忠公と多米長宗公が関わったであろう本光院殿北条為昌公のせいかも知れませんよ?
そこ等辺も、その内に書きますね。
もし興味が有れば以前書いた❝ゆず❞の地元の龍珠院と金沢区伝心寺の記事とか小机城と篠原城の記事を読んで見て下さい。
ゆず
●❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区
●横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?
●篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。
これが小生の説で、実際に和尚様から聞いたり豊顕寺と多米家の伝承を紹介した文章から推測出来る事です。
これ、豊顕寺サンに御参りして色々と見聞きすれば直ぐに解ると思います。
江戸時代の人が狭い行動範囲で取材せずに書いた文献だけだと、ローカルな情報をカバーしきれて無い事が多いですしね。新編相模風土記稿も編集の過程で些末なエピソードは端折られてるでしょうし。
間宮に異常に詳しく書かれているのは、新編武蔵風土記稿の編集者が間宮一族の末裔の間宮士信サンだからでしょうね(笑)!

・・・まぁ、これで納得して下さる方も多くいらっしゃるのでは無いかと思います。
現在小生は趣味の歴史以外の事(泣)で多忙なのでいつか、多米家の御姫様に取材できるようにアポイントをとれたら、色々と持論も御話ししながら多米家の事で各時代の歴史家が紹介していない事も記録に残せたらなぁ~と思っています。
皆さん、その時まで待っててね?
落ち着くの、2年ぐらいかかるのかなぁ~。

→その⑤に続く(多米家が重臣ながら貫高を抑えられた原因の推測を書く予定)
   

前回の記事⤵
北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説②】・・・多目元忠公が活躍した河越夜戦と敵対勢力の解説。
コレの続き⤴

今回は河越夜戦で全軍の総指揮を執り北条11000vs上杉80000で北条家に奇跡の勝利を齎(もたら)した多目元忠公の隠居地であり菩提寺でもある神奈川区三ッ沢西町の豊顕寺(ぶげんじ)を紹介します。
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法照山 豊顕寺・・・三つ沢壇林旧蹟
(だんりん=江戸時代の仏僧の大規模学問所)
北条五色備え 黒備え隊大将 多米元忠公と多米家の菩提寺
恐らく、この豊顕寺の寺名の読み方すら御存知無い方も幾らかいらっしゃると思います。
そして豊顕寺さんが多目元忠公の隠居地とは知らない人も多いでしょう。訪問さえすれば秀吉の小田原攻めで小田原城に籠城した❝多米長宗❞公が多米元忠公では無い事や、そもそも歴史学者が江戸時代の誤植した❝多目(ため)❞姓を現代では正式認定していますがコレが誤っており、正式には小田原所領役帳や新編武蔵風土記稿の記載の通り❝多米(ため)❞である事が直ぐ解ります。
又、小田原北条家の滅亡後は多米家は消息不明的なアホな事をテンプレ書き込みしている馬鹿学者もいますが大きな誤りであり、ソイツ等は先人を尊敬して文書にする際に菩提寺や氏神の神社を参拝して仁義を通したり取材して事実確認をしていない三文学者な事が歴史オタクには一目瞭然だったりもします。
今回、戦国時代の北条家研究をされる方にとって、多米家の事でとても大事な報告も有るので是非読んで頂きたいと思います。

27日の深夜にブログ更新する心算でしたが豊顕寺サンへ未取材のまま結局記事に書きたくなくて28日土曜日に御住職様に御朱印の拝領と合わせてアポをとり取材をして参りました。
色々と御話を聞けたし、実際に江戸時代までは江戸上野の寛永寺に匹敵する超大規模な壇林の三ッ沢壇林だった名残りが❝横浜市教育委員会が保護もせず放置したまま部分的に現存している❞事も確認して参りました。
そして、多米家嫡流の御子孫が戦国時代から現在まで筆頭の檀家として豊顕寺サンを歴代菩提寺にして来て御寺の歴代御住職も多米の殿様の御子孫の来訪時には丁重にもてなし続けている事も教えて頂く事が出来ました。そして今現在、❝多米家の直系最期の御子孫❞がいらっしゃり・・・

う~ん、多米の❝お姫様❞の話は先ずは置いておいて、御寺の歴史紹介から多米家のルーツを解き明かし、北条家臣化の通説とは違うプロセスの方が現実的と指摘したいと思います。
豊顕寺周辺 久良岐のよし
豊顕寺は正式名称を法照山 豊顕寺と言います。
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2018年04月28日(土)の躑躅が綺麗な日に訪問、横浜市営地下鉄ブルーラインの三ッ沢上町駅の目の前で、豊かな緑に囲まれた素敵な市民の憩いの場にも成っており、本日の参拝の折も横浜国大の生徒と思しきカップルが境内で仲良くデートしていました。
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なにやらスマホをいじくっていたのでポケモンGOでもやってたのかな?
この豊顕寺サン、元は三河国八名郡多米村(現:愛知県豊橋市多米町)に多米家の祖先の多米元興公が永正十二年(1515年)に多米家菩提寺として建てた❝本顕寺❞が存在しました。この永正年間に活躍した元興公の御父上の多米元益公には❝伊勢七騎❞と言う異名が有り、既に伊勢盛時宗瑞公の時代の元益公の代には北条家と“関わりの有る家”として活躍し重臣だった事が確認出来る訳です。しかし家臣かは別の話し。
多米家は伊勢国で伊勢姓時代の北条早雲の名で知られる本名:伊勢新九郎盛時公と出会ったと何だか書いているガクシャ先生もいますが、これは恐らく江戸時代に作られた俗説のデマを事実考証もせずにテンプレした結果の誤りでしょう。
そもそも永正十二年(1515年)頃に三河国に菩提寺を作っている多米家が永正年間頃に伊勢国で伊勢新九郎公と出会う訳が無いんです。
実は小生が間宮林蔵の祖先であり多米家と同じ横浜の戦国武将で笹下城主の間宮家の顕彰活動をする過程で、多米家が伊勢(北条)家の臣下に成る理由を発見していました。
永正年間の伊勢家は今川家臣ながら伊豆国と相模国西部の小田原城を手中に収めて今川家の従属大名として活躍していました。そして当時の伊勢家は北条早雲公の代には北条姓を名乗っておらず早雲公も正式な名前は伊勢盛時 入道号:早雲庵宗瑞が当時の御名前でした。
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この頃の伊勢家は永正三年(1506年)~永正四年(1507年)か永正五年(1508年)迄の足掛け3年間に渡って伊豆と相模の与力武将と今川家からの与力武将を従えて❝徳川家の祖先❞松平家と長期合戦の真っ最中でした。松平家初期の本拠地だった三河国碧海(へきかい)郡=現:愛知県三河安城市の安祥(あんじょう)城を攻め落とすべく今川家総大将として出陣しているんですね。
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現在、安祥城の本丸跡には大乗寺と言う浄土真宗の御寺が在ります。
この頃の今川家は東三河一帯を勢力下に置いていたので当然ながら多米元忠公の御父上と思しき多米元益公や多米元忠公御本人の別名と思われる多米元興公は、この時期に今川家臣と成ったと考えた方が自然でしょう。そして後に東三河は徳川家康公の祖父で戦上手で少々乱暴な人としても有名な松平清康公によって征服されて今川家が三河の領地を失陥(しっかん=戦に負けて城や領地を失う事)していますが、その前に松平家と当初は敵対していた戸田家によって先に豊橋市一帯は征服されているので、多米家は今川の勢力を離れた後で一時的に戸田家に従属し、更に今川家時代からの仇敵の松平家が一帯を征服したタイミングで出奔したタイミングもこの頃かと推測出来ます。
その時期は享禄二年(1529年)の松平氏による現在の豊橋市周辺併呑の頃でしょう。
当然ながら以前に松平家と敵対した今川家の総大将の伊勢盛時公に与力した多米家も松平家から領地を奪われて浪人したでしょう。
小生の推測では、この時に優秀だった多米元益公と多米元忠こと多米元興公は伊勢家を頼って伊豆の韮山城の北条早雲公こと伊勢盛時公か小田原城主で伊勢家二代目の北条氏綱公を頼ったのでしょう。小生思うに、親子は実力を買われたのと伊勢家が敗戦と浪人の責任から多米家を召し抱え重臣として取り立てたと考えれば伊勢家家臣化が極々自然に繋がると思います。
さて、小生が何故この事を気が付いたかと言えば全然関係ない久良岐郡の間宮家居城の笹下城の事を調べていて、中世武士の文化や北条家研究家として間宮家や中田家の事や久良岐郡研究で多大な成果を収められておられる盛本昌廣先生の論文と新編武蔵風土記稿の久良岐郡の笹下城下の事を読んでいたからでした。
内田対馬守家感状 久良岐のよし
この古文書の写しが新編武蔵風土記稿に紹介されています。
この内田対馬守は間宮家臣として笹下城下では代々続いた家でして、分家も多く本家は古門内田対馬守家として近年で知られた地主サンでした。
小生はこの古文書の写しを読んで間宮家臣古門内田家の御子孫を探しに港南区笹下町を訪れ朝から夕方まで内田姓の家を訪ね歩き回りピンポンしまくる怪しいセールスマン状態(笑)で御自宅を見つけ出し訪問していた事が有ったので多米家のルーツと繋がる❝今川家&伊勢家連合軍の松平家安祥城攻め❞に行き着いた訳です。まぁ、世界屈指のメーカーさん相手に企業営業の経験を積んだ小生に掛かればコンナ事は朝飯前(笑)!何にも恥ずかしくないし飛び込み営業と取材は何にも変わらん(笑)!
これが歴史オタクに活かせるスキルだとは思いもよらなかったし、研究職しか経験の無い学者サンが肩書が無いと仕事が捗(はかど)らないと思い込んでるのとの違いだなと今にしては思う。
この感状の古文書、年号が有りませんが寅三月ニ十八日と書いて有りますよね?
実はこれ、三河国碧海郡の安祥城攻めが終了した翌年の発行なんです。そしてこの寅三月の寅年がいつだったかは内田対馬守サンの死没年から特定できるんです。
三河安祥城攻めが終了したのは永正四年(1507年)とも永正五年(1508年)とも言われていますが、内田対馬守が死没したのは新編武蔵風土記稿に永正五年(1508)三月二日と記されています。つまり1508年を含むそれ迄の寅年、かつ永正年間で感状(かんじょう=感謝状と御褒美)を与えられる様な合戦が有った年と考えると推測が着きます。
この感状は死亡前の活躍に対して数ヵ月のタイムラグが有り、亡くなって初七日も終え暫くしてから今川家から送られている事も判ります。戦傷が元で亡くなったんでしょうかねぇ~?
内田対馬さんが感状には御大途(大殿様)と言う表現が有りますね?これは伊勢(北条)家が今川家の家臣だった頃に今川家から伊勢家与力の間宮家に発行されている事が解ります。当時の北条家臣団は北条早雲公に対して大殿様と言う表現を用いていなかったそうなので、間宮家の殿様の伊勢家の更に殿様の今川氏親公から下賜された官位に付随した書状である事が解ります・・・
「では質問!内田対馬さんが無く亡くなり今川家&伊勢家連合軍の松平家安祥城攻めが遅くとも終結した永正五年(1508年)の干支は何でしょうか!?」
・・・答えはね❝丙寅(ひのえとら)年❞、つまり寅年なんですよ!
だから今川家の殿様から内田対馬守の死没以前の活躍に対して感状が発行される寅年か前年の合戦は今川&伊勢連合軍の三河安祥城攻めしか無い事が解る訳です。
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※写真は駿府城、今川家の拠点が駿府城の前身とも言われるが定かでは無いと駿府城の学芸員サンがおっしゃってました。
この時期、今川家臣だった伊勢家は今川家の名代と言う名目と幕府の公認を受けていた古河公方家の支援と山内上杉家と扇谷上杉家の内紛鎮圧を大義名分に相模国東部~武蔵国久良岐郡に侵入し橘樹郡~都築郡と、武蔵国南部も浸食し始めていました。そして❝永正の錯乱❞と呼ばれる室町幕府管領細川家の内紛が起きて応仁の乱の西軍側の足利義稙公によって当時の室町将軍の足利義澄(よしずみ)公が征夷大将軍の職位を奪われ京都を追われる事件が発生します。
実は北条家が伊豆国を支配で来たのは、足利義澄公の母上の仇(かたき)であった異母兄の堀越公方足利茶々丸を討ち果たし仇を取ると言う❝大義名分❞が有ったからでした。その足利義澄公が将軍職を追放されてしまったので、伊勢家としては堀越公方やそれを支援する山内上杉家と戦い伊豆国と相模国の支配権を保持する正当性が無くなってしまいました。そして伊勢家の主君だった今川家は幕臣として室町幕府に仕えていましたが、足利義稙公と今川家との主従関係が確立されると山内上杉家は西軍との関係が良好であったので伊勢家と今川家の関係も問題に成って来てしまう訳です。
そして永正六年(1509年)頃から伊勢家は今川家臣としての活動を一切行わなくなり、この頃に断交している事も判ります。

さて、ここから多米家と北条家の歴史が繋がります・・・
この頃の永正五年(1508年)に徳川家康公の祖父の松平清康公が生まれ、大永三年(1523年)に清康公は父の松平信忠公の隠居を受けて15歳で松平家当主に就任すると享禄二年(1529年)頃に多米家の領地の有った三河国八名郡や宝飯郡を含む今の豊橋市界隈で一番有名な御城の吉田城の城主:牧野家も今川家臣でしたが松平家と縁戚の戸田家との合戦に敗れて降伏しています。そして八名郡や宝飯郡一帯は松平家の盟友の戸田家の領土と成ります。当然ながら今川家臣で旧伊勢家与力の多米家もこの時期に三河国の所領を失った筈です。
・・・そして永正十六年(1519年)に伊勢盛時入道宗瑞公も死没しているので、多米家は北条家二代目頭領で❝小田原城主の北条氏綱公を頼って北条家臣と成った❞と考えた方が通説よりも自然でしょう。
そこで大切なのが横浜市神奈川区三ッ沢西町の豊顕寺サンが三河国八名郡多米村から移転して来た時期です。
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恐らく多米元忠公の初名と思われる多米元興サンは天文年間(1532~1555年)に青木城主を隠居して、三河国の多米家菩提寺の本顕寺を現在の神奈川区三ッ沢上町駅前に移転させて、自分の隠居所としている事が寺伝や新編武蔵風土記稿の記載から解っています。

【新編武蔵風土記稿 橘樹郡之十三 小机領 豊顕寺の項】
豊顕寺
~冒頭省略~
もとは三河國八名郡多米村にありて、本顕寺と云(言い)てかの地の士多米権兵衛(元益サン?)が世々の菩提寺成り(豊顕寺伝承では1515年造営)、
~以下中略~
長氏(北条早雲公の本名:伊勢盛時の別名)後に相武等を併呑せしかば、権兵衛かの家人となりて一方の大将を承(賜わ)れり、(※この時点で北条家の相武併呑後(北条氏綱公の代の事業)に北条家臣化している事が書かれているが、早雲公が今川家臣だったの頃からの与力としての付き合いである事が先に紹介されているので現代の解釈の混乱に繋がっている模様)天文年間中よりこの地(青木城一帯)の領主となりしゆへ、かの本國(三河国八名郡多米村)にありし本顕寺を當(当)所へ引うつして名を豊顕寺と改めしとぞ、
~以下省略~
ここまで読めば今川時代に伊勢七騎と呼ばれた多米元益の世代から多米家と伊勢家の付き合いは有って、でも北条家の家臣化したのは北条家が武蔵国まで勢力拡大した頃の話である事が解ります。
更に多米❝権兵衛❞の様に当時の武家の各家系が名乗る屋号や官職名は代々引き継がれる物だったので、世代的に多米家で北条家臣と成ったのは天文十四年(1546年)に活躍した多米元興(元忠)公の時代の話である事も推定できます。そして青木城主に成ったのは天文年中での事で、その頃に隠居所の草庵の所に三河国の多米家菩提寺の本顕寺を三ッ沢に移転している事が解ります。
もしかしたら多米元忠公が御隠居されたのは河越夜戦で指揮をとった記録が有るので、天文十四年か翌年の天文十五年(1545年)かな?と考えれば自然ですよね。

つまり、豊顕寺サンとしての横浜市神奈川区三ッ沢西町でのスタートは、多米元忠公の引退時期の天文十四年~2年間の間の話だと推定できます。

そうそう、小生が参考にしている新編武蔵風土記稿ですが、そもそも新編武蔵風土記稿の近代の役人と出版社が編集した❝活版印刷版❞では❝本顕寺(ほんげんじ)❞の寺名すら誤植しています。❝本顕寺❞の草書体を本❝願❞寺と誤読した挙句に出版してしまっているんですね。更にソレを知らずにテンプレする歴史学者やら多米じゃなくて多目と書いてしまう学者やら・・・
コイツ等のせいで小生も豊顕寺の御住職に事実確認するまで「❝多目❞が正しいのかな?」と柄にも無く少数派で「❝多米❞だコノ馬鹿が!」とガクシャ先生を罵倒する事が出来なかった事を恥ずかしく思います。
よって今回の記事以降から多米家は全て多米姓で統一したいと思いますが、過去の記事の絡みも有り検索タグは❝多目元忠❞のままにして置きたいと思います。
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さて、多米家のルーツと豊顕寺の移転開基年代がだいたい推測出来た所で、もう一度御寺の参道の紹介から御寺その物の風景と施設を紹介しなおしたいと思います。
豊顕寺は市営地下鉄三ッ沢上町役を降りて国道一号線側から入ってくると外の大門代わりの石柱が有り、そこを入ると正面では無く右手に御寺が在(あ)ります。
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昔は大門を入ってくると真直ぐに丘の上に4万5千坪もの壇林(だんりん=学問所僧院の集合体)が存在していたのですが、明治のキリスト教徒政治家や戦後の宗教改革でアホの横浜市に接収され文化も史跡としての価値の高い大寺院群は上野の寛永寺同様に一部を残して徹底的に弾圧破壊されてしまいました。
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だから今も昔の壇林へと続く参道は豊顕寺市民の森の中に石畳と赤門だけが真直ぐ続き現存しています。
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先ずは御寺の風景を見てみましょう。
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緑豊かな豊顕寺の森に落ち着いた雰囲気の山門、昔は間宮家の杉田妙法寺や間宮家臣荒井家が鎌倉時代に中興した金沢区上行寺と同じく千葉県の中山法華経寺を開いた富木(とき)家出身の御住職が開いた前身寺院が存在しました。恐らく多米元忠公が御隠居された場所と言うのは、その前身寺院の事でしょう。
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山門をくぐると東を向いた御堂は初夏の午後16時頃の西日を背負って御寺に相応しい表現化は微妙ですが何だか神社の様に緑豊かな豊顕寺本堂は神々しい雰囲気に包まれていました。
山門から入って左手の竹の柵に囲まれた井戸が有りますが・・・
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この井戸はまだ現役で活用されています。
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手動ポンプで水も勢いよく出ました。
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・・・実はこの井戸の背後に歴代住職様と多米家嫡流で豊顕寺檀家の歴代御廟所が存在します。
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浄財寄進者名にはちゃんと多米家❝最後の御当主❞の御名前も刻まれていますが、予想外に❝間宮姓❞も多くいるので「何でだろな?」と思ったら、そう言えば神奈川区斎藤分町は間宮家の御分家の間宮宗甫サンの所領だったんです。これも御住職に取材をして解ったのですが、昭和初期まで神奈川区の間宮一族の中には大邸宅に住み使用人を住み込まれている家も有ったとの事なので地主と言う事を考えれば豊顕寺檀家の間宮さん達は笹下城主間宮康俊公の親戚の間宮宗甫公の御子孫達と考えられるでしょう。
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御本堂は戦災で焼けたのか鉄筋コンクリート造りの外観でしたが、屋根瓦に刻まれた地紋は北条家の三鱗紋でした。
丸に三ツ鱗紋
そして多米家の御廟所を参拝してから御住職にも確認しましたが、多米家の家紋は❝丸に北条三ツ鱗紋❞だそうです。
実は多米家の家紋を御存知無いガクシャ先生達が多いのですが、まぁ小生も昨日まで知らずにいたのですが、こうやって現地に行けば取材も出来るし、先人や歴史偉人や神仏を尊敬して神社や御寺を開いた殿様や歴代御住職様や宮司様に御参りするれば直ぐに家紋は判明するんですけどね。
ちゃんとした学者さんや博物館の学芸員サンは論文書く時に御墓参りしたり宮司様や御住職様に連絡したり御参りに行くから、素人の只の歴史オタクの小生と同じ程度の事は御存知なんですよ。
信仰心も先人への尊敬も無く、ただ飯のタネにしてる他地域からの移住して来たのに横浜を郷土として馴染み認識出来ない人ばっかの横浜市教育委員会の人達は知らないんですがね。
山門入って右手、多米家御廟所と反対側に庫裡(くり=居住空間)が在ります。
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庫裡の前にも真っ白な可愛い御花が咲いていました。
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とっても綺麗。
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その御花の前のベンチで和やかに時間を過ごす仲良さそうな大学生位のカップル。
羨ましいぞ!
誰か日本文化と歴史と散歩と旅行先の郷土料理食べるのと綺麗な風景好きな水商売経験や酒乱癖や違法薬物使用経験の無い真面目な女性、小生を婿にもろうてくれ(笑)。
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御寺の本堂の扁額には山号の法照山(ほうしょうざん)と書かれています・・・
読み様によっちゃ悩める人々の味方の「法テラス」とも読める(笑)。
・・・まぁ、弁護士サン達とは違う意味で人を精神的に助けれるのが宗教の良い所、ある意味で法テラスと同じ人助けの組織だね。
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御本堂の左手には日蓮上人像。あ、紹介し忘れていたけれど豊顕寺サンは法華宗です。
・・・豊顕寺サンの御本堂と庫裡の有る山門内はこんな感じ。
山門を出て旧三ッ沢壇林への参道の赤門前に戻ります。
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この赤門は江戸時代から第二次世界大戦の戦火も免れ存続し、老朽化で一度部材を解体して修理すべき箇所を手入れして組みなおした修復後の姿です。赤門と言うのは幕府の許可が無いと作れない寺格の高い御寺や医学書や大名屋敷にだけ許された特別な門でした。東京大学の赤門も加賀前田家の邸宅の門だったから朱塗りが許された門だったんですね。
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さて、豊顕寺から続く三ッ沢壇林の参道、横浜市は緑地として一部だけ残しましたがその山林の中には貴重な三ッ沢壇林の史跡が有るのを小生は確認してきましたが❝横浜市教育委員会は全く史跡として保護をしていません❞でした。アホなのかな?
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赤門をくぐると江戸時代からの壇林の参道を利用した遊歩道が在ります。
これを真っすぐ進まずに、最初の右手の削平地へ進んでみて下さい。
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左手に人工的に切岸にしてある段地を見ながら進むと・・・
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初夏には真っ赤な躑躅が咲く場所が在り、更に人気の少ないその奥には何やら削平地が有ります。
更にその奥に進んで下さい。
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・・・するとおそらく旧塔頭へと続く石段だったと思われる階段が登場します。
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近くで見ると石材を人力で加工した跡が有り、小生は江戸時代の石段だと思います。
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登り切ると不自然に階段は途切れ、少しずれて何かの私設の裏口が有ります。
これ、Google mapで見ると国土交通省関東地方整備局の施設らしいです。
三ッ沢壇林旧蹟衛星画像 久良岐のよし
この画像では北側が下に成っています。
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同じ角度で見た江戸時代の絵図だと、現在の豊顕寺サンの位置は手前右側の小さな御堂の集合体みたいな辺りで昔とは位置が違う様です。そして現代の立派な石段跡に続く国土交通省関東地方整備局の建物辺りに何か立派な御堂が有る事が解ります。
しかしこれ、何の御堂か新編武蔵風土記稿の豊顕寺の項目を読んでも良く解らないのですが、如何にざっと記述を載せて見ます。

三十番神堂 ・・・門を入りて左にあり
多米氏墓  ・・・門を入りて左にあり
多米彌七郎墓・・・同並の内にあり
蓮秀墓   ・・・前に言へる二基の間
運信齎日領墓・・・同並にて北のはしにあり
三澤壇林  ・・・境内の南の山上にあり
(赤)門    ・・・柱間一丈腕木つくり山上にあり
講堂 本院寮・・・講堂の表通りにあり今は廢せり
玄講寮   ・・・講堂の北下表通りの西側にあり
集講堂   ・・・同所の北の側にあり
條講堂   ・・・講堂の北下裏通北側にあり
自寮    ・・・十四棟
長屋    ・・・七軒

これを見る限り国土交通省関東地方整備局の辺りには講堂が在った様です。
その左手には何やら基壇が有りました。
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恐らくこれ玄講寮とか言う奴の基壇だと思うんですが、何んの説明も無いので不明です。
何故横浜市はこんな立派な基壇を保護も発掘もせずに風化させ放置するのだろう?
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周辺に削平地はまだまだ有るので、講堂周辺の御堂のいずれかの跡でしょう。
そして赤門をくぐり真っすぐ上まで行くと三ッ沢壇林の中心の御堂の石段と基礎が残っていました。
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これも保存する気無しの教育委員会、馬鹿なの?
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八幡広場と書いて有るので、往古は三ッ沢壇林の中心は多米元忠公の北条家が大切にした八幡大菩薩応神天皇が祀られた御神廟だったのかも知れませんね。日蓮上人と鶴岡八幡宮の結び付きも強いですし、法華宗の豊顕寺としても大切な場所だったのでしょう。
この様に、史跡としても学僧の聖地としても横浜市に破壊された三ッ沢壇林ですが、現在も放置された名残りは有るし深緑のとても気持ちの良い散歩道としても楽しめます。
そして豊顕寺を御参りすれば北条家の軍師だった多米元忠公に知恵の御利益を授けて頂く御釈迦様や八幡大菩薩応神天皇との橋渡しをして下さるかも知れませんね!

最後に戦国時代の北条家研究をしている歴史学者さんが見て下るかも知れないので一つ報告をします・・・
三ッ沢の豊顕寺で多米元忠公以来檀家として存続した多米家嫡流はもう直ぐ途絶えます。
御先代の男性当主がつい7年前に亡くなりました。そして現在の御当主は女性で残念ながら御子様に恵まれませんでした。
文字しか読まないタイプの学者には歴史上、江戸期の動向が良く解らないから断絶したとか言う人もいたりなんかする多米家ですが、ちゃんと多米家菩提寺豊顕寺では歴代の御当主を戦国時代からずっと事有る毎に来訪される旅にお迎えして来ました。
多米家を研究されたい学者さん、いますか?
もしアナタが本当に歴史が好きで先人を尊敬しているのならば、歴史偉人を呼び捨てにせずに敬称を付けて名を御呼びする様に態度を改め、豊顕寺を参拝し現在の御住職様に多米家最後の御姫様の女性当主様に連絡を付けて頂き家系図を見せて頂いたりする最後のチャンスですよ。
今やらないでいつやるの?
素人の小生が出来る事をアナタ達は何で出来ないの?
先人をリスペクトせず、神奈川県の史跡が開発の邪魔だから触れず?
歴史は飯の種で歴史人物も飯のタネだから敬称付けず人扱いせず呼び捨て?
それってさ、御子孫も菩提寺の御住職様も氏神様の宮司様も檀家サンも氏子サンも怒るよね?

歴史偉人も生きていた事を思い出し、そして子供の頃に憧れた戦国武将達への尊敬と日本の歴史を刻んで現在に繋げて下さった御恩を思い出して、敬称付けて名前を御呼びして自分で御墓に御参りする所から取材始めてみませんか?
多米家の事を調べるのは今しか無い最後のチャンスですよ。失礼な呼び捨てをするなら御寺とも御子孫ともコンタクト取るなよ。

・・・さて豊顕寺と多米家の歴史解説と推測の記事はここまで。
次回は多米元忠公の御子息達の重臣にしては所得が低めな理由を考察したいと思います。

北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説④】へ続く。



前回の記事⤵
北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。
  ↑
コレのの続きの第二部。
現代の感覚で言うと地理的には京浜急行電鉄神奈川駅と横浜駅と市営地下鉄三ツ沢上/下町駅の殿様の多目元忠公が活躍した河越夜戦と山内/扇谷上杉家解説が前回の記事です。

多目元忠公を語る上で外せないのが現在の川越市で起こった俗(ぞく)に日本三大奇襲戦の一つに数えられる❝河越夜戦❞です。
河越城縄張り図 
※この縄張り図は江戸期河越城の絵図を元に河越市立博物館に勤務する教育委員会の当時の学芸員サンが企画展用に地図上に起こした物です。戦国時代には新曲輪・中曲輪・追手曲輪と田曲輪は存在しなかったと推測されていますが、北条流の築城術と太田道灌流の築城術の城を見て来た小生の意見では田曲輪は部分的に外郭として存在していたと考えています。
二つ両引き足利家❝二両引き紋❞
竹に雀紋上杉家❝竹に二羽飛び雀紋❞
実は関東地方は近畿や東海地方よりも先に戦国時代に突入した地域でした。それは最後の鎌倉公方の足利持氏公と古河公方と成る足利成氏公の親子と上杉家の対立によって起きた❝上杉禅秀の乱❞、❝永享の乱❞、❝享徳の乱❞の3つの政治混乱と大軍勢同士の軍事衝突が配下の与力大名達の対立と私闘に繋がり領地の奪取戦へと混乱が拡大した事による結果でした。
この3つの大乱で鎌倉公方の配下でありながら関東の政治を乗っ取って反逆したのが犬懸(いぬかけ)上杉家、山内(やまのうち)上杉家、扇谷上杉家でした。
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※KOEIさんのゲームより拝借画像
山内上杉家は長尾景虎こと後の上杉謙信が養子に成った家として有名ですが根拠地は埼玉県北部~群馬県でした。更に上杉謙信の父上で越後守護代を務めた長尾為景公は北条家と協力関係に在りましたが、その上杉謙信の実家の長尾家の根拠地の新潟県も上杉家の領地でした。
山内上杉家と扇谷上杉家のアホの上杉内部抗争に嫌気がさした山内上杉家執事の長尾景春公や越後守護代だった長尾為景は「実際仕切ってるの長尾家だし、俺達の方が平和な世の中作れるんじゃね?」と思ったかは知りませんが、実際に戦上手の名将として知られた長尾景春公は伊豆~相模東部を支配していた伊勢盛時(北条早雲)公と連合して両上杉家に対し叛旗を翻しています。
これが青木城の前身と成った神奈川駅前の権現山城の合戦を含む❝長尾景春の乱❞でした。
この長尾景春の乱については扇谷上杉家の家宰で名軍師の太田道灌公に鎮圧されています。
※長尾家については以前に祖先の居城横浜市栄区の長尾城を紹介した記事が有るので御覧下さい。
 これクリックで記事読めます⤵
 横浜市栄区と鎌倉市大船にまたがる長尾城址…上杉謙信のルーツの城跡。

そして山内上杉家の対立勢力だった扇谷上杉家は上杉定正公が本拠地を伊勢原市糟屋館や藤沢市大庭城に置き、相模国~武蔵国南部の河越まで影響下に置いていました。
太田道灌公
太田道灌公
扇谷上杉家の家宰(かさい=社長)が太田道灌公や父上道真公の太田家で、オーナーCEOが扇谷上杉定正公でした。この扇谷上杉家、実は後に小田原北条氏に駆逐されるものの扇谷上杉定正公と太田道灌公の主従が没するまで戦上手の家柄で知られた家でした。
上杉禅秀の乱の頃までは扇谷上杉家は鎌倉公方(関東を統治する将軍)の足利持氏公を助けて山内上杉家と戦った家なのですが、当時は大庭城を本拠地にしていた扇谷上杉氏定公(定正公の祖父)は山内上杉家との合戦中に重傷を追い行動不能に成り所領の藤沢で切腹、鎌倉公方の足利持氏公も佐原三浦家の裏切りで背後を突かれ本拠地鎌倉を占拠されてしまった事で降伏を余儀(よぎ)無くされ、称名寺で出家しましたが結局は山内上杉家に襲撃され亡くなりました。
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鎌倉市扇谷の海蔵寺は鎌倉公方の忠臣の扇谷上杉氏定公が造営した御寺で、現代ではとても風景の綺麗な若いカップルの鎌倉デートの散策コースとして人気に成っていたりします。
以前、海蔵寺や太田道灌公の屋敷跡の英勝寺を散歩した時の記事⤵
休日雑記 2016/06/15の訪問先…鎌倉市雪ノ下~小町通り~扇ヵ谷~佐助地区
この上杉禅秀の乱で扇谷上杉家は山内上杉家の影響下に下るのですが、後に足利持氏公の遺児の足利成氏公が室町幕府征夷大将軍によって鎌倉公方就任を認められ父の跡を継ぐと、足利成氏公は重臣の梁田等と謀議して父の仇の山内上杉憲忠や扇谷上杉家と対立色を強めて行きます。
そして勃発したのが❝江ノ島合戦❞でした。
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※写真は江ノ島奥津宮、源頼朝公が奉納した鳥居。
この江ノ島合戦では宇都宮家・小山家・結城家・千葉家・小田家等の平安時代から存続する関東古豪が挙(こぞ)って足利成氏公に与力し間宮家が別当を務める江ノ島に籠城、上杉家を撃退して忠節を尽くし、更には当時の室町幕府管領の畠山持国公が鎌倉公方支援派だったので足利成氏公の派閥が幕府からも支援されたのですが、ここで関西を衰弱させた応仁の乱の戦犯である細川勝元に管領職に就任し大混乱に発展して行きます。
細川勝元は❝応仁の乱❞で近畿地方を荒廃させただけではなく、実はそれまでの幕府の方針を捻じ曲げ足利成氏公を冷遇し始め奸臣の山内上杉家を自分の影響下に置く事で鎌倉府の支配権までも己が手に入れようとしてしまします。これが❝応仁の乱❞だけではなく関西より少し早く戦国時代に突入した関東の混乱に拍車をかける事に成ります。
只でさえ足利成氏公と関東武士団からすれば山内上杉家は先代公方の足利持氏公を殺害した仇(かたき)な訳です。その殺したくて仕方が無い奴が権力欲の塊で室町幕府を混乱に陥れる細川勝元と結託して再び鎌倉公方を蔑(ないがし)ろにし実権を奪ってしまった訳です。
・・・そして事件が起こります。
大晦日も間近に迫った享徳三年(1454年)の12月末、足利成氏公は自邸に山内上杉憲忠を呼び出して暗殺して亡父足利持氏公の敵討ちをしてしまいます。
鎌倉市西御門周辺 久良岐のよし
現在の西御門辺りに足利成氏公の邸宅が在ったと伝わります。
この事件が発端と成り山内上杉家と鎌倉公方足利成氏公の合戦は長期化し戦乱は享徳の乱と呼ばれる様に成りました。足利成氏公は非常に合で強かったので、この時は上杉連合軍を完膚なきまでに叩きのめしていますが、細川勝元の介入のせいで戦乱が長期化してしまった訳です。
さて、この享徳の乱では山内上杉家の味方に付いていた当時の扇谷上杉家の当主だった扇谷上杉顕房が敗死して、実弟の上杉定正公が跡を継ぎます。この扇谷上杉定正公は兄や父とは思考が異なり祖父で鎌倉公方家の忠臣だった扇谷上杉氏定公の思考に近い人物だった様で扇谷上杉家は方針転換し山内上杉家と再度対立する事に成って行きました。
この頃に扇谷上杉家が本拠地にしていたのが大庭城や糟屋館でした。
扇谷上杉家糟屋館地形 久良岐のよし
糟屋舘を紹介した時の記事⤵
【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
扇谷上杉定正公には名軍師の太田道灌公がいましたが、この太田道灌公は上杉定正公とは違う外交方針の人物で定正公の兄上の先代当主顕房公の路線を踏襲して勝手に山内上杉家と扇谷上杉家を和睦を勧めてしましました。そして主君の定正公に居城の糟屋舘に呼び出され暗殺されてしまいます。
関東の戦国時代を通じて多目元忠公を上回る❝最高最強の無敗の軍師が太田道灌公❞で、その太田道灌公と御父上の太田道真公が改修したのが沼に浮かぶ堅城❝河越城❞でした。この河越城が起点として現在の川越市の発展の礎(いしずえ)に成っているのですが、付近は豊かな穀倉地帯と水運と陸運の拠点だった事から扇谷(おおぎがやつ)上杉家と山内(やまのうち)上杉家の対立の場が武蔵現在の立川市周辺だったり河越辺りだった訳です。
その頃、鎌倉公方の足利成氏公は結果的に幕府の後押しを受けた山内上杉家に鎌倉を占拠され、現在の古河市に移住して古河城を拠点に古河公方と成り、更に古河公方家は成氏公の孫同士が争い小弓公方足利義明派と北条家や今川家の支援する古河公方足利高基公派に分断し関東の混乱は治まる事は有りませんでした。
この混乱の中で古河公方足利高基公を支援し扇谷上杉家や山内上杉家の所領を浸食していったのが北条早雲こと伊勢盛時入道宗瑞公と北条氏綱公の親子、日本初の下克上戦国大名伊勢氏でした。
伊勢(北条)家は小田城を大森家から奪取すると続いて扇谷上杉家と佐原三浦家の糟屋舘や七沢城や岡崎城を陥落させます。この伊勢原市の岡崎城は扇谷上杉家から佐原三浦家に養子入りしていた三浦道寸公の居城で北条早雲公親子をもってしても攻略に10年を要した沼に囲まれた堅固な平山城でした。しかし岡崎城が陥落すると三浦家も扇谷上杉家の両家とも北条家によって瞬く間に相模国域から駆逐され大庭城、住吉城が失陥、新井城で日本最長の4年間に渡る籠城戦の末に佐原三浦家は滅亡。
扇谷上杉家も家臣の太田家かから奪っていた江戸城に本拠地を移すも、そこも北条家二代当主の北条氏綱公によって陥落させられ、更に河越城へ移るも北条家によって奪い取られ、山内上杉家を頼って武蔵国北部に逃げて行きました。
そして勃発したのが・・・
河越夜戦布陣図 久良岐のよし作成
扇谷上杉家と和解した古河公方家と山内上杉家の大連合軍vs北条家の❝河越合戦❞でした。
1545年9月末、古河公方と関東管領の連合軍が河越城に来襲します。
その兵力差たるや絶望的に綱成公の守る河越城が不利…
三つ鱗紋
【北条家兵力】
・籠城部隊・・・3000  
 河越城主:大道寺盛昌公  
 白備隊大将:北条幻庵公  
 黄備隊大将:北条綱成公
・本隊援軍・・・8,000
    04月17日小田原出陣
    04月19日川越着陣、20日参戦
 本隊総大将:北条氏康公
    御馬廻り衆:福島勝広公等
    黒備隊大将:多目元忠公

二つ両引き竹に雀紋州浜紋
【鎌倉公方・上杉家連合兵力】
・関東諸大名・・・80,000超
 古河公方:足利晴氏公(北条氏綱公の娘婿)
 関東管領:山内上杉憲政
 松山城主:扇谷上杉朝定公
 小田城主:小田政治公・・・他
・参戦武将:梁田晴助公・長野業正公・倉賀野行定公・太田資正公・難波田憲重公・菅谷貞次公等
・・・河越城守勢の北条家の兵力はわずか敵方総兵力の約27分の1。
対する関東管領上杉家&古河公方足利家連合軍には関東の多くの大名達が参集し10万人に迫る勢いでした。この圧倒的劣勢の中、河越城守勢は綱成公の活躍で敵の攻城を半年間も防衛し続けました。その粘りもあり、敵方の関東管領連合軍に厭戦(えんせん=ダラけ)気分が蔓延し始めます。 敵が油断するのを待っていた綱成公の義兄で主君の北条氏康公が小田原城を4月17日に8000の兵を率いて出陣します。
この戦、兵力差だけでなく実は上杉陣営も足利晴氏公の家臣も可也(かなり)の名将揃いでして、参戦武将に列挙した武将達はどれもが武略と統率に優れていました。中でも群馬県の箕輪城主だった長野業正(なりまさ)公は単独で武田信玄の大軍を何回も撃退している軍事に秀でた武将でしたし、太田道灌公の子孫に当たる太田資正(すけまさ)公も謀略で城を奪い取ったり合戦にも高い能力を持つ武将でした。ですから、彼等が能力を発揮出来ない様にするには足利晴氏公、上杉憲政や上杉朝定公等を油断させ敵軍の統制と連携を断つ必要が有った訳です。
北条方の河越城守将は城主の大道寺盛昌公と小机城主北条幻庵公と玉縄城主北条綱成公。
この北条幻庵公は今の横浜市港北区の小机城主であり箱根権現別当を務め風魔忍者と関係の深い武将でもありました。横浜市港南区清水橋辺りは、昔、幻庵公の別宅と風魔忍者の詰所が在ったと伝わっています。
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小机城址では毎年10月に竹林と成っている城址の竹を伐採して数千本の竹キャンドルで城を幻想的に照らし出す❝竹灯籠まつり❞が行われます。
以前竹灯籠まるりを紹介した記事⤵
2015年10月24日は小机城址 竹灯籠まつり 今年も開催されます!
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北条氏康公は小田原城から出陣した当日、最初の宿泊を現在の江の島神社こと江の島弁財天の別当寺だった岩本坊に逗留し、その際に戦勝祈願をしています。
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既に解説済みですが、この岩本坊の別当職は間宮家の一族が務めていました。小田原所領役帳に登場する鵠沼領主の❝岩本❞と言う武将は、この佐々木間宮一族の岩本間宮家でしょう。岩本坊は現代、上の写真の鳥居参道に在る老舗旅館の岩本楼として存続しています。
岩本楼サンのホームページ→http://www.iwamotoro.co.jp/
氏康公の援軍は4月19日に河越城南方砂久保に着陣します。
しかし、河越城内の籠城兵と氏康公の兵力を合計しても敵の8分の1に過ぎません。
そこで氏康公は周到に謀略を巡らし敵勢が油断しきって酒盛りを始めた晩、夜陰に紛(まぎ)れて奇襲をしかけたと伝わります。この作戦立案者がもしかしたら多目元忠公だったかも知れませんね。
実際には戦闘は上杉憲政の軍勢が単独で北条氏康公の本隊に先に仕掛けて開始されている事が解っています。ですから、この氏康公の手勢の突出は恐らく上杉家本隊を突き崩す為の陽動作戦だったのでしょう。山内上杉憲政の軍勢の配置は南側ですが、当時は河越城の外郭が八幡曲輪までだっただろうと川越市教育委員会の某先生への取材でもおっしゃっていたので、その八幡曲輪の城門の前に陣取っていたのが上杉憲政治の部隊だった事が解ります。この山内上杉軍を城門前から北条氏康公が囮(おとり)と成り引きはがし・・・
それと同時に河越城から北条綱成公と副将の間宮康俊公の黄備え隊が出撃し、山内上杉家の手勢を背後から大混乱に陥れたのでしょう。そして氏康公率いる本隊と共に敵の関東管領連合軍を挟撃します。
この作戦で指揮を執(と)ったのが、先に間宮信冬公の活躍した権現山城跡に築城した青木城の城主で北条家の軍師格、「黒備え隊」大将も務めた多目元忠公だった訳です。
敵勢上杉軍は多いが北条氏康公と多目元忠公の謀略に嵌(はま)り油断しきっていて規律も乱れており、他の大名や与力武将との連携もままならず北条氏康公、綱成公の義兄弟の夜襲の前に瞬く間に壊滅したと伝わります。この作戦を可能にしたのは北条氏康公と北条綱成公の高い武勇と統率だけなく、挟撃作戦を成功させる為には城内籠城部隊と本隊の連絡を保持する必要が有ります。これは北条幻庵公の管理下にいた風魔小太郎等の風魔忍者達が民間人や修験者に扮したり敵軍をかいくぐって城内に潜入を出来たからかも知れませんね。
そして北条幻庵公と多目元忠公の謀略と軍略も有ったから成功を見たのだと思います。
この河越合戦での上杉家連合軍側の被害は甚大で・・・
・主要大名:扇谷上杉家→当主が討ち死にし滅亡。
・主要大名:山内上杉家→壊滅勢力大幅縮小。
・その他の関東管領連合軍に参加した大名も散り散りに逃走。
・・・いずれも大幅に勢力縮小する事に成りました。 北条氏康公は内政、武勇、統率、知略、采配の実績が桁違いに優れていましたが、初期に氏康公の直面した難局を打開する軍事作戦を立案し合戦の指揮を代行していたのが多目元忠公と現代に伝承する訳です。 菩提寺は横浜市神奈川区三ツ沢公園近くの豊顕寺(ぶげんじ)です。多目家は地元では多米家と異なった漢字で苗字が伝わりますが、多米姓は三河国出身で遠江の大名遠州今川家との関わりが推測出来る一族です。
この続きは多目元忠公の御子孫らしき人物達の所領が低く抑えられている謎と一緒に紹介したいと思います。それまでに三ッ沢の豊顕寺サンも訪問して写真を撮影し、合わせて紹介出来たら良いなと考えています。

だから中1週間程ブログ更新の間隔が空く可能性も有りますが、御了承下さいね!
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※昨年の写真、東京都羽村市根搦前水田のチューリップ祭り。
明日、東京都羽村市のチューリップ祭りを見に行くのでもしかしたら今年もその様子を報告する休日雑記を間に書くかも知れません。
・・・では!また皆さん、次の記事で御会いしましょう。

今回、多目元忠公の記事をリニューアルするに当たり余りにも膨大な情報量に成ったので、今回はユックリと記事を三部に分けて解説をしたいと思います。
①北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。
今回の記事⤴

今後追記予定の記事2部⤵
②多目元忠公が活躍した河越夜戦と山内/扇谷上杉家解説。
③多目元忠公は大活躍したのに子孫と思われる一族の禄高が低く抑えられている原因の推理。

そして、未訪問の三ッ沢に在る多目家菩提寺の豊顕寺さんの紹介記事もいずれ書きたいなと思います。

さて、では今回は多目元忠公の基本的な情報と当時の北条家の状況の解説、居城青木城と青木城前身の権現山城の構造と周辺の歴史を解説します・・・

戦国時代に神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県北部を統治した大名の北条家が100年後に日本を統治した徳川家よりも優れた政治で内政と軍政を行っていました・・・
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小田原北条家というのは戦国時代に既に初期の江戸幕府を凌駕する善政の統治機構を持ち、各方面で有事に別々に運用できる軍団制度を織田信長公の登場よりも早くから導入した内政と軍政に優れた大名家でした。
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現在も部分的に現存する❝小田原用水❞は日本初の上水道(飲用水道)として歴史学者には知られている存在です。又、城郭建築に長けた家臣団を多く持ち、更には修験道や神道の宮司も兼ねる有職故実に通じた由緒正しい教養高い家柄の重臣も多くいる民政と教養と城郭建築に特に長けた家柄でした。
この事は余り現代では歴史好き以外には知る人も少ないのですが、その北条家には五色備(ごしきそな)えと呼ばれた色別編成の主力部隊がいました。
この五色備えとは軍旗の色を、青色・黄色・白色・赤色・黒色の各色に分けて部隊編成された軍団で、この五色は仏教五色と呼ばれ当時神仏混合だった宗教観では仏教的な思想では唐時代の中国の高僧の不空三蔵法師が訳した経典で以下の意味が有り、その軍団には役目が有りました。
黄・・・皇帝
中心を指す、物事の本質を見抜き統率する知恵・・・北条綱成公、家中最高の統率力の名将
青・・・青龍
東方を指す、此の世の出来事を公平に見る知恵・・・富永直勝公、家中初期功臣家系の名将
白・・・白虎
西方を指す、此の世の全てを見極める為の知恵・・・笠原信為公、家中最高の文化人の名将
黒・・・玄武
北方を指す、此の世の物を完成させる為の知恵・・・多目元忠公、家中最高の知恵者の名将
赤・・・朱雀
南方を指す、此の世が平等である事を知る知恵・・・北条綱高公、文武の両面で優れた名将

この色分けと其々の方位を守る聖獣は横浜市民と神戸市民は良く知っていると思います。
横浜中華街仏教五色四方聖獣の門と黄色の善隣門位置 久良岐のよし
横浜中華街には東西南北の四方を守護する青龍・白虎・朱雀・玄武の門が在り、中心には善隣門が据えられており、この善隣門の屋根瓦は正に日本の神道にも影響を与えた中国道教と仏教で皇帝を表す黄色の瓦が用いられています。
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そして海側の大手口と成る朝陽門は鯱鉾(しゃちほこ)の部分の飾瓦が青龍のデザインで屋根瓦全体も仏教五色の青に成っています。
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安土桃山時代~江戸時代初期に織田信長公や豊臣秀吉や徳川家康公や徳川家光公によって寄進され神社建築遺産や居城だった安土城や伏見城等、海外との貿易が活発で華やかな色合いが好まれた当時の建築文化や仏像の極彩色装飾では、正にこういった道教と仏教の影響を受けた華やかな仏教五色を彩色された場所が多く有りました。
明治に廃仏毀釈で多くの華やかな社殿が消え官製神社に質素な色の鳥居や社殿が増えたのは実は明治の宗教改革をやった政治家がプロテスタントキリスト教徒で仏教を弾圧した影響なんですね。
日光東照宮の陽明門が正に現存する極彩色に装飾された建築文化財の代表例でしょう。
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織田信長公が社殿再建した京都府八幡市の男山、石清水八幡宮や・・・
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秀吉が社殿寄進した織田家所縁の愛知県津島市の津島大社とか…
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静岡市駿河区の久能山東照宮とか…
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神奈川県鎌倉市扇ヶ谷に在る徳川家康公に勝利の女神として大切に愛された側室の太田お梶の方の御廟所とかですね。
当時は神社仏閣で白黒と赤の基調の差は有れど、華やかな極彩色に彩られた場所が多く有った訳です。
色には宗教哲学や易学的な意味で方位守護を目的とした鎮護の意味が込められていたんですね。
北条家初期の北条五色備え軍団奇(く)しくも各軍団と大将は不空三蔵法師の仏教解釈の通りの色に符号した役割と能力を有しており、その為に軍団長として任命されている事も解ります。
北条氏綱公
そして
北条家二代当主でこの軍団編成をした北条氏綱公時代は、実際に色別に方角的な意味でも、それぞれの軍団は重要な合戦で各方角に出張する事が多く有りました。つまり、この五色備えは方角別に防衛や侵攻を担っていた事が解ります。
例えば青備え隊は初期は江戸城を後に葛西城を本拠地にしており、現在の東京都葛飾区辺りに居り北条氏綱公時代の領地の最東端に位置する地域の防衛を担(にな)っていました。
黄備え隊は武家の本拠地である鎌倉郡玉縄城に在り、主だった合戦では各方面に援軍として出張し主力として戦っていました。
白備え隊は甲斐武田家や後に徳川家に対する備えとして伊豆と相模の国境を守備する事が多い部隊でしたし、徳川家と北条家が激突した黒駒合戦でも黄備え隊と合わせて2万の大軍で相模国の西側の駿河国から甲斐国へ侵攻しました。
赤備え隊は初期の北条綱高公の時代には南方の要として江戸城で里見海賊の来襲に備え且つ、伊豆方面を守備する事が多く有りました。北条綱高公が江戸城で没した頃に小大名から北条傘下の軍団に組み込まれた世田谷城主蒔田吉良氏朝公の与力武将は江戸衆に成っていた様で豊臣秀吉の北条征伐の際には、やはり伊豆国下田の下田城防衛を担当し、城将清水康英公と共闘しています。又、蒔田吉良家には喜多見江戸家や河野家や杉田家や並木家等の水軍も保有しており江戸城周辺と品川港一帯東京湾中央部の防衛の要として機能していました。
そして多目元忠公の黒備え隊は北条家の知恵袋として良く本隊に組み込まれていましたが、北条早雲公や北条氏綱公の時代の初期の北条家北限が青木城周辺でした。北条家は当主自ら本隊を率いて敵軍と激突する事が多く、黒備え隊は遊軍でありながら隊長の多目元忠公が戦全体をコントロールする軍師としての役割を本陣で担う事が多かった軍団でした。秀吉の小田原攻めの際も多目家は小田原城に籠城していますし、小田原に籠城しなかった者は蒔田御所こと室町時代まで鎌倉公方代理だった蒔田吉良家の吉良頼康公の保護の為に近くの南区蒔田の蒔田城にもかけつけています。この時、吉良頼康公は水軍で城下の蒔田湾や磯子から出陣して単独で鎌倉防衛しようと無謀な構えを豊臣軍に対して準備していたので、もし多目一族が吉良頼康公を止めていなけらば、その後の江戸幕府高家の蒔田家→吉良家は存在しなかったでしょう。
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南区蒔田城跡の城下には太田道灌公の親友で戦上手として記録の残る吉良成高公が開いた勝國寺が現存しており、吉良成高公の先代の吉良政忠公から吉良頼康公までの御廟所と家臣団である佐々木家、森家、並木家等の御子孫達檀家サンの御墓が今でも殿様の御廟所を囲む様に存在しています。
以前書いた記事⤵
三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区の笹下川~大岡川流域蒔田湾の流通の拠点。
世田谷八幡宮所縁の殿様、吉良頼康公…東急世田谷線宮の坂駅と横浜市営地下鉄蒔田駅の殿様。
招き猫発祥の寺、世田谷区の豪徳寺…彦根藩井伊家の菩提寺で、蒔田吉良家所縁の大寺院。

今回紹介するのは北条家で最も有名な北条早雲公の時代の話でも無く、民政化として最も有名でありながら軍才に長けて北条家最強時代を築き上げた北条氏康公の時代の五色備えの黒備え大将だった武将の話です。
北条氏康
※KOEIさんのゲームより画像拝借。
・・・北条氏康公が小田原北条家第三代当主と成った頃、五色備え軍団の大将の内の3人の殿様と2人の名副将が現在の横浜市と成った昔の鎌倉郡・久良岐郡・橘樹郡・都築郡に居住していらっしゃいました。
 
1人目は旧鎌倉郡の内横浜市栄区長尾台に在った長尾城を外郭とし鎌倉市植木~玉縄~藤沢市村岡~小雀に跨る巨大城郭だった玉縄城主の北条綱成公。
北条綱成
※KOEIさんのゲーム画像拝借。
玉縄城主、黄備え隊の大将として活躍し各ゲームでも関東最強の武勇の評価をされる武将です。
そしてこの綱成公には名副将が二人いました。
実弟の福島勝広と北条本家家臣で付家老の間宮康俊公です。
弟の福島勝広公は河越夜戦で活躍した美少年として有名ですが、江戸時代の福島家の一族の中には現在の観光地デートスポットとして有名な江ノ島の江島神社の中津宮別当を務めた家もおり、明治以降は旅館を営みましたが廃業しました。
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豊臣秀吉子飼いの名将、福島正則公が少年時代に名古屋の甚目寺で殺人事件を起こして同族福島氏出身の北条綱成公を頼り駿河伊豆に落ち延びた際、当時深沢城代だった兄北条綱成公に代り直接福島正則公の面倒を見たのが小生はこの福島勝広公だと推測しています。
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愛知県あま市の福島正則公生誕地に在る菩提寺の菊泉院もやはり北条家の武将達が関わった御寺に多い曹洞宗で、御住職に面会に行った際に福島正則公の家臣団に伝わった北条家臣福島家との関わりを色々と教えて頂きました。
そして黄備え隊の副将で付家老が横浜市港南区~磯子区に跨る大城塞の笹下城主、間宮康俊公でした。
この間宮家は祖先が近江国の大名である宇多源氏佐々木家で、佐々木家氏神の延喜式内社沙沙貴神社宮司家を務め修験道にも通じた神道と仏教に精通し更には城砦建築と宗教建築の土木と海運と水軍と鷹の飼育、更に武勇に優れた武将を多く輩出した家柄で、学問気質でありながら豪胆な人物の多い家柄でした。子孫には学者の間宮士信や地理学者で探検家の間宮林蔵公や医学者の杉田玄白公がいます。
鶴岡八幡宮再建でも水運を利用して材木奉行を務めた北条綱成公の任務を代行している事が改元僧都記や蒔田吉良家臣団の伝承からも判っています。
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実際、間宮家江戸時代の当主で真田丸や大坂城総掘り埋め立て作戦を立案した徳川家康公の軍師の間宮直元は間宮康俊公の嫡孫(ちゃくそん=孫で跡継ぎ)に当たりますが彼は横浜市域の多くの神社仏閣を復興したばかりでなく、同族間宮一族の岩本間宮家(佐々木家=明治以降岩本に改姓)は江ノ島の奥津宮(本来の江島神社)と欽明天皇以来の勅願所の江ノ島の洞窟を管理する岩本坊で別当を務め、その家は明治に成るまで存続しましたが、明治政府の政策で仏教と神道的な場所が分離されると寺院機能を停止して宿坊として旅館業を営み始め有名旅館❝岩本楼❞として現代も江島に存続しています。初代江ノ島郵便局長で俳人としても有名だった間宮霞軒さんも御一族でした。
更に間宮家より家紋を下賜された久良岐郡松本村の松本家は笹下間宮家の陣屋を守っていた武内家に伝わる家系図でも間宮家から養子が入っている事が確認できるのですが、この家は源頼朝公が開いた修験道の大道場で門跡寺院だった鎌倉亀谷山福禅寺配下の重要な武蔵国域の大道場権現堂別当職を明治まで受け継ぎ、明治の廃仏毀釈後に権現堂は廃寺に成ったものの森浅間神社として権現堂の修験道場機能は神社化し存続しました。
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以前書いた記事⤵
森浅間神社…鎌倉幕府の陣所跡。磯子区屏風ヶ浦。
この歴史からか森浅間神社の所在地の横浜市磯子区森には神奈川県神社庁が置かれており、間宮家が室町時代から関東で担っていた宗教的な役割の重要さを窺い知る事が出来ます。
又、磯子区には福禅寺と同じく元々は鎌倉市山崎に所在し源頼朝公から崇敬を集め修験道の大道場だった山崎泉蔵院の重要道場だった中原村(磯子区中原)の熊野神社は後に泉蔵院が鎌倉から機能移転したことで大霊山泉蔵院桐谷寺と改名し室町時代から間宮家が領主となり保護し福禅寺権現堂と同じく明治の廃仏毀釈で泉蔵院が廃寺になり熊野神社に名を改めるまで存続していました。
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以前書いた記事⤵
横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。
福禅寺の寺院機能は東京都青梅市二俣尾に扇谷上杉家によって機能移転され三田氏が奉行と成り寺院が造営されたと小生は推測しており、同地には間宮一族と伝わる杉田家の初代が三田領に居た事も間宮家の子孫の間宮士信さんが新編武蔵風土記稿に書いています。
そんな青梅市二俣尾の福禅寺は江戸時代のアホの幕府役人が寺領保証の御朱印書きで寺名を誤記したせいで海禅寺と名前が変わってしまいました。
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以前書いた記事⤵
【第2部:海禅寺編】休日雑記 2017年04月19日の訪問先…【青梅市】辛垣城址~海禅寺~へそまんじゅう総本舗~【羽村市】阿蘇神社~チューリップ祭~【あきる野市】中村酒造
そう言えば、この二俣尾の江戸時代の名主さんも福島姓だったので、もしかしたら北条綱成公の御先祖様と二俣尾や近い立川市周辺の室町時代以前に福島郷と呼ばれた柴崎~昭島辺りは関係が有ったかも知れないと小生は推測していますが調べても文献が無く僅かな状況しか無いのですが、この海禅寺の前身の福禅寺からわざわざ間宮家は菩提寺と成る鶴見区下末吉の寶泉寺初代の住職を迎えているので福島家と間宮家の関わりからも亀谷山福禅寺と青梅の海禅寺は無関係では無い可能性が有ります。
さて、黄備え隊の事は又、色々記事が有るので御興味有る方はそちらを読んで見て下さい。

2人目は笠原信為公です。
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※毎年4月初頭に開催される小机城址祭りでは港北区長サンが笠原信為公の役を演じています。
高文化の北条家中で宿老の北条幻庵公と並び屈指の教養を持つ人物で詩歌に通じるばかりではく、寄親で初期の小机城主と思われる北条幻庵公に代り小机城代を務め白備え隊大将として統率力と実務能力も高い人物でした。その実務能力の高さから、蒔田城主で鎌倉公方代理の蒔田吉良頼康公や北条綱成公付家老間宮康俊公等を纏め上げて鶴岡八幡宮再建総奉行を務め見事に成功させた名将でした。
又、笠原家は間宮家と共に北条家中を代表して対外的な外交を担う事の多い家系だったので、高い外交力を有した家柄でもありました。
恐らく初期の北条家に置いて最高の内政力の高さの両方を有した武将は、この笠原信為公だったのでしょう。そして謀略と外交に長けたのが北条幻庵公だった様です。そして御二人とも北条家中最高の文化人だった訳です。まぁ、宗教的な教養では間宮家と関家が北条家中では最高クラスだった様です。

さて、長い前振りでしたが多目元忠公の事を紹介します(笑)・・・

今回のブログ記事では戦国大名小田原城主伊勢氏流北条家の家臣中で最高の軍師、そしてゲームでも関東最高の軍師として能力評価される事の多い人物と、その居城の横浜市神奈川区青木城と権現山城の事を解説しますが、先に多目元忠公の時代の北条家周辺状況と、その状況の発端とを知る必要が有ります。

黒備え大将、青木城主、多目元忠公。

※KOEIさんのゲーム画像拝借
多米元忠公の居城だった青木城は今の京浜急行神奈川駅と横の権現山と本覚寺を繋ぐ昔の半島と背後の台町の丘に在(あ)った比較的大きな御城でした。
鎌倉時代末期~室町時代初期には後の征夷大将軍と成り室町幕府を開いた足利尊氏公が権現山を城塞化し籠城した記録が残ります。
新編武蔵風土記稿には以下の記載が在ります・・・
橘樹郡巻十三 七軒町の項
ー冒頭省略ー
本覺寺
西側にあり海道より少し引いりて石段ありそこを上(あが)りて山の上なり曹洞宗小机村雲松院の末青木山延命院と號す
ー以下中略ー
裏門は東の方にありて門外は陸田とうちひらけし地も今城跡と云(言う)所あり永正七年上田蔵人入道か當(当)所權(権)現山に砦をかまえあたり近き本覺寺の地蔵堂をとりこみて要害とせしなといへること古戦の記にも見ゆるはさもあるへく覺(おぼ) ゆ猶(なお)古跡の條合せ見るへし

権現山砦跡
宗興寺の山につ々(続)きたる所なり永正七年長尾爲景蜂起の時上杉高救(たかもと)入道建芳か被官上田蔵人入道北條早雲と議して當所へ砦をかまえしことあり小田原記等の書を閲(けみす)るに此(この)時蔵人入道は神奈川へ打(うっ)て出熊野権現山を城郭にとりたて、謀反の色をたてけれは管領家謀議し主の建芳を打手(うって)の大将として加勢には成田下総守渋江孫三郎藤田虎壽丸大石源左衛門矢野安藝入道成田中務丞を始(はじめ)として武州南一揆を催し雲霞の如く取(とり)巻けり時に永正七年七月一日なり
ー以下中略ー
寄手は大勢なれはこと々もせす喚(わめ)きさけんて切(きり)て入(いる=切りて入る=突撃する)神奈川の住人間宮の某と名のり黒鎧に四ツ目結びの笠しるし(印)濱風に吹かさし木戸を開(ひらい)て出寄手(よせて=攻撃側)も是(これ)を討とれとて射向いの袖を差かして一面に切むすふ城中のつわもの共間宮をうたすなと聲々(声々)に叫(さけび)て追(おい)つまくりつ戦いけるが遂に討(うち)まけて引(ひき)て入寄手彌(に)勝にのりつ々いて城へ入らんとする所に襄平木戸ををろして大石をなけ出す寄手先陣
ー以下省略ー
まぁ、こんな感じでかなり詳細に北条五代記や新編武蔵風土記稿には合戦の様子が紹介されています。
・・・新編武蔵風土記稿の編集長が何たって東大の前身の昌平坂学問所で頭取だった間宮士信さんで間宮家の子孫だからね。
簡単に説明すると青木城は元は権現山城って御城で、その権現山城で永正七年(1510年)旧暦七月一日に勃発(ぼっぱつ)したのが北条家vs扇谷(おうぎがやつ)上杉家の権現山合戦でした。
※扇谷上杉を知らない人「ココ」←クリックして扇谷上杉の説明文を探して!
この権現山合戦で北条早雲公側の城将として活躍したのが川崎駅前の堀ノ内に在った河崎館の城主間宮信冬公でした。

 
北条家が敗戦したものの、信冬公は単騎突撃で名声を獲得しました。
その間宮信冬公の子孫が後の笹下城主間宮康俊公です。
※笹下城を知りたい人は「ココ」←クリック!
さて、そんな権現山城の戦いは北条側の敗戦に終わります。
ココ↓辺り木々に覆われた場所が全部権現山城址で後の青木城址の外郭出城。
この戦いは現在の本覚寺側、台町の方から敵が丘伝いに侵入して来て籠城側は防戦に失敗したと言われています。その反省から城主が多目元忠公に成った時代には本覚寺側の丘に防衛機能の主要部を移動して村名から青木城と改名した様です。
権現山城址~青木城址遠景(Google map)
Google mapで衛星写真を表示すると現在は明治の国道1号線開削と鉄道建設で分断された昔の青木城~権現山城の地形が海に突き出した半島地形で要害性の高い断崖だった名残が見て取れます。
現在の横浜駅や金港町辺りは江戸時代までは海だったんですよ。幕末に勝海舟さんが神奈川台場と言う要塞を築くために権現山城址の山を削り、更に明治時代に成ってから周辺の海は神奈川台場もろとも埋め立てられました。

この青木城主の多目元忠公は北条氏康公の軍師(ぐんし=参謀)で、史実では河越合戦において北条氏康公の手勢8000の内、兵2000もの大部隊の指揮を任されていました。
また元忠公は全軍に作戦命令を出せる立場にあり、河越合戦でも殿様の北条氏康公と全軍に対し彼が独断で攻撃中止命令を出せる程に信頼されていた名軍師でした。
北条氏康公は内政に優れていただけでなく武将として優れた武勇と統率力を有し直接危険な合戦で部隊指揮を担う事も有り河越夜戦では主力の内、本隊御馬廻り衆を率いて敵の扇谷上杉家や山内上杉家の大軍に突貫し壊滅させた程でした。この時に北条氏康公と敵軍を挟撃して大混乱に陥れたのが僅(わず)か3000の兵で河越城籠城を本隊8000到着まで半年間持ち堪(こた)え成功させた黄備え隊北条綱成公でした。
しかし北条家で最強の二入は敵軍と交戦状態に在り、乱戦の中で全軍の指揮をとれなかったので本陣で戦況をコントロールしたのが多目元忠公だった訳ですね。
つまり三国志で言えば劉備の徐庶や諸葛亮の役割を、孫権における周瑜や呂蒙や陸遜や徐盛や丁奉の役割を、曹叡における司馬懿や満寵の役割を担ったのが北条家では多目元忠公だった訳です。
KOEIのゲーム信長の野望天道PKにも以下の超高スペックで登場しています。
統率73 武勇40 知略97 政治46 義理90
…凄いんだよ結構。

SEGAの戦国大戦でも低コストなのに高評価↓コレね。
 
ちなみに…
しかし彼の子供達と思われる人物の所領は総合計しても玉縄衆黄備え隊の付家老だった間宮家に遥かに劣り、軍団長としては不可解な冷遇をされている可能性が有り、それがもしかしたら北条為昌公が起こしたかも知れない北条氏康公廃嫡運動=謀反未遂事件に関与したからかも知れません。
これは解説③の回で小田原所領役帳で多目姓の武将の所得と立場を見ながら解説します・・・

ここからは青木城周辺の地勢と歴史を解説し、それから青木城の❝縄張(なわば)り=構造❞の推測を解説したいと思います。

・・・戦国時代の名将多目元忠公と居城の青木城も江戸時代に成ると廃城に成りますが古くから海運と陸運の交通の要衝だったので青木城の在った場所には東海道「神奈川宿(かながわじゅく)」が置かれ、旅客で賑わいました。
実は古代には恐らく一帯は港として流通拠点と成って開けており、直ぐ近くの六角橋と言う綱島街道の旧道と東横線の駅に沿って伸びる商店街の辺りには日本武尊(やまとたけるのみこと)が西暦100年代に滞在した伝承が御当地の久応山寶秀寺と三浦半島の走水神社の神話に残っています。
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※以前六角橋商店街や神話の土地を散歩した時の休日雑記⤵
休日雑記 2017年03月18日の訪問先…【神奈川区】昭和の風情漂う六角橋商店街と安くて美味いオデン屋"かずさや"さんと塩嘗め地蔵と寳秀寺参拝で美味しい神話探訪。

冒頭の方で室町時代にも足利尊氏公が青木城の前身と成った権現山を城砦化して籠城し、更に室町期も戦国時代に突入すると北条家臣間宮信冬公が籠城した事も少し触れましたが、この付近が重要な地域だった事が解るのが青木城址の在る神奈川区の隣接区である鶴見区の長谷山寶泉寺と間宮家の歴史です。
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寶泉寺と間宮家の関わりを解説した記事→【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
戦国時代の北条家にも江戸時代の徳川幕府にも重視された神奈川宿には幕末にも超メジャーな歴史人物が関わっています。
昔の神奈川宿の東海道旧道沿いに現代も存続する「田中家」と言う料亭で働いていた人物です。

その人は坂本龍馬の奥さんで未亡人の「お龍さん」です、意外でしょ?
京都生まれのお龍さんの終焉の地は神奈川県なんですよ。お墓は横須賀市大津に在ります。
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以前書いたお龍サンの菩提寺、横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)の記事。
これクリックで読めます⤵
坂本龍馬サンの奥さん、お龍サンの御廟所:信楽寺(横須賀市大津町)と、京都・神奈川で見る「お龍サン」の生涯。
こんな歴史偉人達が関わった神奈川宿、その神奈川宿の下に成ったのが青木城の一部が江戸時代には今の本覚寺です。本覚寺は幕末にアメリカ領事館として利用されアメリカ公使のハリスサンやドール領事が住んでいました。歴史で誰でも習う人ばかりでしょ(笑)?
この本覚寺の山門がハリスさん達が住んでた頃にアメリカの一般住宅風に白いペンキで塗ったくられてしまうなんて珍事も発生してるんですよ(笑)。まぁ、仏教寺院は平安時代の昔は五色彩色され華やかだったので白く塗られる位は何て事無いのだけれど・・・
黒備え隊、多目元忠公の本拠地だからどうせなら黒いペンキの方がマシだったのかな(笑)?
実はここが生麦事件の重要な現場の一つにも成っています。
薩摩藩の大名行列と英国民間人の間で生麦事件が発生した際に、薩摩藩士に斬りつけられた英国人が逃げ込んだのが、この本覚寺でした。
生麦事件が起きた事により薩英戦争が勃発し、それまで攘夷派(じょういは=外国人拒絶派)だった薩摩藩はヨーロッパの実力を思い知り政策を180°転換し近代化の道を歩むことに成りました。
この幕末の攘夷運動の生麦事件や鎌倉事件も間宮家と関連有るのでが以前解説記事を書いて有ります。
これ⤵
幕末の生麦事件と鎌倉事件、そして江戸時代の梅花山成就院と安土桃山時代~江戸時代の本牧奉行・但馬奉行の間宮家…横浜市港南区、鶴見区、鎌倉市雪ノ下。
さて、こんな重要な土地だったので古代には直ぐに近所の六角橋に日本武尊が滞在し~室町初期の足利尊氏公の権現山城籠城~戦国時代の間宮信冬公と上田蔵人vs扇谷上杉家山内上杉家連合の権現山合戦~江戸時代の東海道神奈川宿設置~幕末の勝海舟による神奈川台場建設~日本初の新橋~横浜(桜木町)間の鉄道建設と神奈川駅設置~現代の瑞穂埠頭米軍基地と横浜中央市場の開設と全ての時代を通じて重要な交通と海運の要所だった訳です。
ですから戦国時代にも権現山城の落城後に地続きの丘を主要部に城を改修して❝青木城❞が改めて築城された訳です。
権現山城址~青木城址遠景(Google map)
画像はGoogle mapに衛星写真を投影した物です。写真の中央には現在の国道1号線=東海道とJR・京浜急行の線路が通っており、線路と国道を挟んで左右に伸びる細長い緑地の右手が本覚寺と台町の丘で青木城址の主要部分、道を挟んで左手の幸ヶ谷(こうがや)公園の丘が昔の熊野権現社の跡であり権現山城跡の主要部分です。
北条家臣の間宮信冬公と上田蔵人が上杉家2万の大軍をここで迎撃した際は権現山城の丘周辺は海で僅(わず)かな砂浜が在る程度の険阻な海に突き出した要害性の高い半島でした。その麓の砂浜が平安時代~江戸時代末期までの旧東海道で、当時は海だった横浜駅周辺は通れないので料亭田中家の前の坂道を登って生野が当時の道順でした。つまり権現山城時代から街道を抑える重要な拠点であり、水神信仰の熊野信仰の場所でも有った事から海に突き出した半島にも関わらず飲み水に成る湧水の泉か滝が存在した事が推測出来ます。
海道を抑える場所な上に、三方を海に囲まれた険阻な場所ながら飲み水が確保出来たからこそ、足利尊氏公、そして後に北条早雲公の命を受けた間宮信冬公が城を築城して籠城する事が出来たのでしょう。
権現山城址遠景(Google map)
権現山城の地形は今でも険阻な丘ですが、幕末の神奈川台場建設で海の埋め立ての為にだいぶ削られたので昔の高さも城の遺構も残っていません。
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でも幸ヶ谷公園に行くと、権現山合戦の現場である説明の看板が有ります。
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幸ヶ谷公園に登ると昔は地続きだった本覚寺や背後のマンションを含めた青木城の主要部分が良く見えて平地からの高さを確認する事が出来ます。
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青木城部分の本覚寺は幕末にアメリカ領事館に成っていましたが、実は権現山部分も外国の大使館に成っていました。
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浄土真宗高田派の堪行寺サンです。フランス公使館として機能していました。
この辺り一帯が戦国時代の青木城址だった名残りは少ないので現代では城跡で、しかも北条家の重要拠点だった事なんて現代の横浜市外から移民して来た横浜市民には余り知る人も少ないでしょう。
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でも明治時代に丘を掘り切って削り込んだ鉄道の広い線路の上に架かる橋は❝青木橋❞と言う名前なんですよ!
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橋の両端の交差点の名前にも成っていて交差点の信号に付いている看板を見ると、ここが青木城だった事を知る事が出来ます。
迅速測図 神奈川宿周辺 久良岐のよし
権現山を削って作られた神奈川台場は明治時代の迅速測図でも形を見る事が出来ます。
画像の右下の海に飛び出した島が人工島の神奈川台場と言う大砲を何基も据えた近代海上要塞でした。この台場の大砲は、外国人居留地と成っていた現在の山手~元町~横浜中華街~日本大通りの関内地区に向かって設置されていて、外国人居留地に駐留する英国軍やフランス軍が争乱を誘発しようとした瞬間に横浜港に停泊する外国軍船や貨物船や居留地を「砲撃で打ち払い駆逐するぞコラっ(; ・`д・´)‼」と言う虚勢と言うか無意味では無い威嚇の役割が有りました。
今では神奈川台場建設の見て取れない幸ヶ谷公園側にも恐らく城の遺構と小生が推測する場所が辛うじて一箇所だけ存在します。
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幸ヶ谷公園と創価学会東神奈川平和会館の間を貫く微妙な深さの道路ね・・・
これ、もしかしたら権現山城の先端部分と当時の主要部分を曲輪として分断する為の堀切を兼ねた堀底道の名残で山の切削で堀が浅く成ったものの生活道路として利用されてるんじゃないのかな?
・・・と城好きの小生には見えました。
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今は削られて真っ平らだけどね。新編武蔵風土記稿の絵を見ると丸いラクダの背中みたいな形の山だったんですよ。
さて、地形の名残の余り無い権現山城時代の主要部分と違い、JRと京急線の線路を挟んで反対側の本覚寺側には恐らく城の曲輪跡と思われる地形が沢山残っています。
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先ず、この本覚寺の登り自体も青木城の大手口の名残だと思います。
御覧の通り登って来て、山門と本堂の在る一段高い削平地を横切る形でS字クランクしています。
これは❝食違い虎口❞の跡だと小生は推測します。
青木城主要部分明治期 迅速測図 久良岐のよし
明治時代の迅速測図でも同じ地形なので、これは近代土木技術の無かった室町~江戸時代に作られた地形だったと言うのが小生の推測の根拠ですね。
そして本覚寺の庫裡と本堂はL字に配置されていますが、左手の墓地や周辺の段地や断崖地形も迅速測図で確認出来ます。
これをGoogle mapの立体衛星画像で見て見ましょう。
青木城主要部(Google map)
小生と同じく城好きな人、これどう思います?
墓地の中で本堂側に突き出した小さな半島状の突起構造は本堂背後に上がる道を塞いでいた城門の枡形虎口の片側遺構だと小生は睨(にら)んでいます。つまり切り残された❝土塁❞ですね完全に。
本覚寺の墓地の段地は完全に帯曲輪と武者走りの遺構ですよね?そして恐らく当時の本丸は背後の住宅街なの略略(ほぼほぼ)間違い無いでしょう?地形的に。
当時の本丸へのアプローチは本覚寺本堂裏手の半島の上の更に半島の様な地形の墓地の段地でしょう。そこの墓地への登り口が武者走りで、本覚寺は三之丸の様な場所、権現山城は青木城時代は出丸として機能し本覚寺本堂裏の墓地から段々に本丸の集合住宅地の台地最後部へ続く❝連郭式(れんかくしき)城砦❞つまり細長く段々に兵を配置する曲輪が設けられ、曲輪を順番に突破しないと本丸に辿(たど)り着けない城の構造だったと推測出来ませんか?
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この本覚寺墓地裏手の白い集合住宅の在る削平地の台地が本丸でしょう。恐らく左手の坂道は裏手の門へと続いた別の道だと思います。
青木城址遠景(Google map)
この坂道の有る本覚寺入口側では無くて青木城址の台地を反対側の衛星写真で北側から見ると良く解りますが、この坂道の先には大きくくびれた人口の竪堀(たてぼり=山裾をえぐり取り丘の侵入経路を細くしたり、山の斜面で敵の横移動を防ぐ構造)の大空堀と思われる地形が有りますよね?
本覚寺高島山公園周辺地形 久良岐のよし
丁度、高島山公園の辺りです。ここが丘側の城門が在った要所であり、高島山公園横の台地がV字に抉れた地形は人口の大空堀だと小生は推測します。
これ程大規模なのは自然地形でしょ?と北条流の築城術を知らない他府県、こと中部地方の人は思うかも知れませんが違いますよ。これは恐らく人工地形です。
戦国時代の北条家が末期に水軍の拠点にしたのは久良岐郡杉田湊(みなと:横浜市の埋め立てで消滅)、三浦半島の三崎城の北条湾、伊豆半島の下田城の下田港が特に有名でした。
その三崎城にも同様の大空堀が存在し、自然地形に見えますがV字の人工地形と三浦氏教育委員会も認識しています。
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縄張り図の右上のV字の谷が大空堀で人工地形です。
北条流の築城では台地に築城する際は台地側面を深く抉(えぐ)って大手と反対の防御の弱い地形の侵入経路を細くして虎口を作る事が多かった様です。
さて、御城としての名残を辿れるのはここまででしょうか?
では次に本覚寺さんを見て見ましょう。
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山門の横には高度経済成長期に歴史と文化の史跡の名残を少しでも残そうと尽力された細郷市長が揮毫(きごう=言葉とか名前を記念に書く事)された石碑が有ります。
横浜開港の主導者だった肥後守、岩瀬忠震(ただなり)公の記念碑ですね。
幕末にペリー提督達が日本に開港を迫った際に、遠い下田じゃ嫌だと言い出し交通の要所で江戸からも近い神奈川宿を無理に開港させようと圧力をかけて来た時に、江戸防衛上非常に問題に成るので対案として埋立地の吉田新田の中の水堀と海で外部と隔離出来て外国人の安全も保障できる上に港としても適している横浜村の開港を対案として提唱したのが岩瀬忠震公でした。
明治時代の有吉忠一市長や昭和期の細郷道一市長や後の高秀秀信市長は、今の史跡と自然破壊容認が得意技でヤクザを勢い付かせるカジノ建設に躍起の林文子市長とは違い、歴史と文化の見識が深く多くの史跡を保護或いは記念碑の建設と歴史を後世に伝える努力と街作りを両立された方々でしたので、細郷市長はこの様に日本近代化の舞台と成った本覚寺にも関わってらっしゃったんですね。
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この山門がアメリカ合衆国の役人に真っ白に塗ったくられた物だそうです(笑)。
柱に名残が少し残っていますね。
本覚寺は曹洞宗の神大寺の末寺としてスタートした小机城下の雲松院の末寺でした。
雲松院は神大寺の廃寺後に神大寺の機能が移転され、周辺の本寺と成ったので古い御寺と誤解される事も多いですが実際の所は白備え大将で小机衆の副将だった笠原信為公が父上の菩提寺として開いた神大寺の末寺です。
さて、そんな経緯が有って雲松院の末寺として開かれた本覚寺ですが、現代では山も削られ背後も住宅街に成り城だった戦国時代どころか江戸時代の昔とも随分と風景も違うでしょうが、御本堂は立派です。
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記録に無い情報もちゃんと取材しないと気が済まず現地に行く主義の小生、数年前にちゃんと御寺に御参りに数年前の取材の際に行って奥様と話しましたが、多目家との関わりは無いそうです。
まぁ、菩提寺は三ッ沢の豊顕寺と解っているので、やはり戦国時代には寺院機能は無かった様ですね。
でも曹洞宗の御寺なので、北条家の支援した宗派の御縁である事は偶然とは言え運命なのでしょう。
御寺の寺紋も鶴見の曹洞宗大本山総持寺さん由来の桐紋です。
多目家の家紋、小生はまだ存じ上げません。いつの日か、ちゃんと多目家の御子孫に御会いして家紋の事もお伺いし皆さんにも紹介したいと思います。


次回は青木城の解説から離れて城主の多目元忠公の活躍した合戦と、その合戦の事件背景を解説します・・・

北条家の五色備えは独立したカテゴリーにも成ってますので、御興味有る方はカテゴリー検索してみて下さいね!青備え隊の富永直勝公以外は既に紹介記事が幾つか有ります。
カテゴリー「戦国時代:北条家五色備え」
ここ⤴に記事有るので皆さんの興味を引く人物の事が書いて有るかも知れません。

その②に続く→北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説②】・・・多目元忠公が活躍した河越夜戦と敵対勢力の解説。





さて、今回はタイトルと記事こそ分けて書きますが2つの御寺と殿様の歴史を2回セットの記事にして解説したいと思います。
1つは龍珠院、横浜市磯子区の御寺です。2つ目は伝心寺、横浜市金沢区の御寺です。
今回の記事では龍珠院と玉縄北条家についての歴史を解説します。
ゆず

皆さんは❝ゆず❞の地元の横浜市磯子区岡村町に戦国時代関東最強の武将が開いた御寺が在る事を御存知でしょうか?その御寺の名前は泉谷山 龍珠院と言います。
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泉谷山 龍珠院龍珠院を開いたのは北条綱成と言う武将です。この方を果たして皆さんは御存知でしょうか?
北条綱成
※画:KOEI信長の野望創造戦国立志伝より拝借
戦国時代末期の関東最強の武将として戦国時代の歴史好きや歴史シミュレーションゲーム好きには有名ですが、教科書に載る事は無いので歴史に興味の無い人は全く知らない小田原北条家の武将です。
北条綱成公は今のJR大船駅近くに在った玉縄城主で重要な合戦には必ず参戦していました。
三つ鱗紋
北条家三鱗紋
竹に雀紋
上杉家竹に二羽飛び雀紋
関東管領上杉家連合軍と北条家の抗争では不利な河越合戦で3千の兵を指揮して上杉連合軍8万を相手に半年間も河越城(現:川越市川越城址)の防衛戦に成功します。
そして義兄弟で主君でもある北条氏康公の援軍8千と合わせ1万1千で上杉連合軍を壊滅させ関東を制覇する契機を作り出した名将です。
北条氏康
※画:KOEI信長の野望大志より拝借
ゲームだと若い頃の渡哲也さん似に描かれている強面(こわもて)イケメンの北条氏康公、実はこの絵、肖像画に似ていない事も無いんです(笑)が、今回は氏康公の回では無いので肖像画解説は無し(笑)。
その他にも玉縄城主北条綱成公は武田家と同盟後の北条家で陣代(主将代理)として武田家救援軍を指揮して信濃へ遠征したり、武田家と北条家の対立後は玉縄衆家老の間宮康俊公や其の子の間宮康信公と共に武田家が浸食した今川領駿河国北部を瞬く間に奪還した名将でした。
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隅立て四ツ目結び紋間宮(近江源氏佐々木)家:隅立て四つ目結び紋
間宮家は鎌倉時代の名将として名高い佐々木高綱公の同族の子孫で、近江源氏佐々木家の氏神である沙沙貴神社宮司家の子孫から武士化して室町時代に初代鎌倉公方の足利基氏公の配下と成って伊豆に移住した一族です。
綱成公は河越城の合戦の後に、第二次国府台合戦でも軍師間宮康俊公を始めとした黄備え隊と共に参戦し、本隊が苦戦する中、迂回奇襲を仕掛けて北条軍を勝利に導く大活躍をしています。
更には深沢城の籠城戦では深沢城代として善戦し、敵の武田信玄を相手に圧倒的不利な戦力差にも関わらず武田勢を苦戦させる事に成功し後は北条家当主の北条氏政公の本隊援軍の到着を待って挟撃する寸前に戦況を持ち堪えさせた程でした。
が!深沢城防衛は結果的に失敗で、軍才と統率力が無い新当主の北条氏政公が率いる本隊の出発も行軍も鈍重で間に合わず、その上、武田家の金山で鉱石採取をする特殊部隊の工兵による水脈断ちを受けて堀の水や井戸水が不足し戦線維持が困難に成り撤退する羽目に成りました。
しかし、この北条綱成公の歴戦の戦績と武勇を当時高く評価していたのが敵だった❝武田信玄❞と❝上杉謙信❞でした。
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※画:諏訪原寛幸先生
武田信玄は深沢城を北条綱成公から引き渡された際に、北条綱成公の玉縄北条家と家老の間宮康俊公率いる❝北条五色備え❞の部隊の内、❝黄備え隊❞の軍旗である朽葉色(くちはいろ:濃黄色)に八幡大菩薩と書かれた❝地黄八幡❞の旗印が城に残されていたのを見つけました。その旗を手に取り、武田信玄が重用していた真田一族に対して「地黄八幡の武勇に肖(あやか)り真田の家宝とせよ」と旗を信州まで持ち帰らせたほどのリスペクト振りでした。余談ですがその旗は今でも長野県松代市の真田宝物館で大切に保管されていたりします。
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※画:諏訪原寛幸先生
そして、この深沢城の落城と北条綱成公の敗戦を誰よりも悔しがったのが❝上杉謙信❞でした(笑)。
実は上杉謙信は鎌倉市の玉縄城を12万の大軍で攻めた際に玉縄城を攻めあぐねて落とせず、仕方なく撤退して小田原城を目指さざるを得ない煮え湯を飲まされた経験が有る上に、度々、玉縄衆黄備え隊に苦戦させられた武将の一人でした。よっぽど悔しかったのか玉縄城の要塞が存在する藤沢の土地を朝廷に寄進すると言って見たり実効性の無い嫌がらせもしています(笑)。
まだ北条家と武田家が同盟していた時代に上杉謙信が信濃国の上田方面を攻めた際に武田家を救援したのも正に北条綱成公と黄備え隊だったんですね。
因(ちな)みに玉縄城で上杉謙信を迎撃して撤退させた上に、上杉連合軍が占領した現在の神奈川県東部を取り返した猛将は北条綱成公では無く、その子息の北条氏繁公でした。北条氏繁公も又、名将として高い実績を誇っているのですが何故かゲームでは戦闘力70代後半と過小評価されていたりします(笑)。
上杉謙信は度々、北条家最強部隊の玉縄衆黄備え隊と北条綱成公と北条氏繁公親子に局地戦で負けた経験が有るので、深沢城で武田信玄が北条綱成公を撤退させた事が大変悔しかった様で「地黄八幡が負けた・・・」とボヤいた事が現代に伝わっていたりします(笑)。
北条氏綱公
そんな北条綱成公の才覚を見抜いて養子にとり娘の婿に迎えたのが北条家二代目の北条氏綱公でした。
北条氏綱公は余り知らない人も多いかも知れません。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
氏綱公よりも、その父の北条早雲公や息子で三代目の北条氏康公が日本屈指の内政力と善政と勝負強さで有名ですが、実は北条家の中でも岡崎城、糟屋舘、大庭城、新井城等の関東有数の規模の堅城への攻城戦で実績を残したのは時代的には北条氏綱公の代の出来事だと解っています。つまり北条家の中で善政に長けているだけなく一番❝侵略❞に長けていた武将が北条氏綱公だったのですが、その方に見込まれて婿養子に成ったのが北条綱成公だった訳です。
さて、戦国時代の歴史を好きな人には北条綱成公が関わった神社や御寺として鶴岡八幡宮や菩提寺の鎌倉市植木の❝龍寶寺❞は有名です。
2014-09-04-12-54-06
陽谷山 龍寶寺
ブログ開始初期に書いた拙い解説記事→JR大船駅の殿様!黄備隊大将の北条綱成公と玉縄城。上杉謙信や武田信玄より強い。←クリックすると読めます♪
その龍寳寺と同じく玉縄北条家の支援の下で寺院として成立したのが横浜市磯子区岡村の龍珠院です。
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龍珠院には歴史を書いた石碑が御庭の真ん中に立てられています。
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しかし、この解説は少し間違っています。では歴史事実を文献から紐解いてみましょう。
新編武蔵風土記稿によれば以下の解説が有ります・・・
~前略~
(久良岐)郡内町屋村傳心寺末、泉谷山と号す、本尊十一面観音を安(置)す、本堂七間に五間、開山を養拙宗牧と號す、
~中略~
開基は北條氏にて、大永二年(1522年)造立すと云(言う)、北条氏繁が文書に據(拠:よっ)て考ふるに、其父上総介綱成が開基せしにや、
~以下省略~
さて、この新編武蔵風土記稿を編纂したのは北条綱成公や北条氏繁公の家老だった笹下城主間宮家の子孫で江戸幕府昌平坂学問所の頭取だった間宮士信と言う人物なのですが、この間宮さんの解説だと現在の御寺の石碑で「北条氏繁公の開基」とされている一文は実際には御寺の開基年代が大永二年(1522)なので不可能に成って来ます。
北条氏繁公の生年月日は天文五年(1536年)なので、氏繁公が生まれる14年前に龍珠院を開く事は不可能です(笑)。
更に父上の北条綱成公も永正十二年(1515年)生れと判明しており7歳で寺院を支援したとは考えにくいです。実は龍珠院の開かれた大永二年(1522年)の前年、大永元年(1521年)に旧今川家臣だった北条綱成公の実父が戦死して綱成公は北条家を頼り亡命し氏綱公に気に入られ養子にとられています。
では御寺を開いた人物が誰かと考えると当然ながら、その(義理の)父上と考えれば自然でしょう、つまり北条綱成公の養父北条氏綱公です。
北条氏繁公の開基ではないと言う意見では小生と江戸時代の学者の間宮士信サンも同意見だった様で、こんな古文書を態々(わざわざ)紹介しています・・・
龍珠院氏繁公文書 久良岐のよし
この北条氏繁公が龍珠院に対して発行した文書に注目して貰うと「老父」と言う言葉がしきりに登場し、それが北条綱成公と言う事が解ります。そして北条綱成公の代に既に「老父直々御寄附」つまり御寺に対して寺領と成る土地を寄進している事が解り、つまりコレを示して東京大学の前身である江戸時代の昌平坂学問所の頭取の間宮士信サンは龍珠院=北条綱成公が最初の支援者と解説している訳で、小生の意見とも異なりますが少なくとも北条氏繁公以前の北条家の人物である事は間違いなさそうです。
そして文書の内容は・・・まぁ、何と言うか玉縄北条家の与力の武将が武士として恥ずかしい行為をしていて、氏繁公が上司として御寺にゴメンね俺がちゃんと御寺の土地守る為に怒っておくからって内容なんですね(笑)。
その悪さしたのが「行肥」と書かれている武将で、これは苗字と官途名の略称で彼の渾名(あだな)みたいなもんでしょう。北条家臣には行肥と言う苗字の武将は存在しませんが行方(なめかた)と言う武将が小田原所領役帳に登場しています。

玉縄衆
一 行方与次郎
三百六拾壱貫弐拾四文江戸六郷大師河原共ニ
此内
三百貫文      自前々致来知行役辻

 六拾壱貫弐拾四文 自昔除役間可為其分 
 但出銭着致三百六拾壱貫弐拾四文可懸之
此外
六拾貫文 葛西 寺島

北条家研究家の盛本昌広先生が六浦文化研究所時代に書かれた❝戦国時代の久良岐郡❞と言うレポートに書かれた推測でも彼の正体は「玉縄衆の行方で、行肥の肥は官途名の肥前か肥後の略称だろう」と言う主旨の事を書いてらっしゃいます。それ以外には考えられないですからね。
さて、この小田原所領役帳の成立は永禄二年(1559年)ですが、龍珠院と行肥がモメたのは天正六年二月廿六日つまり1578年の出来事です。つまり、龍珠院と玉縄北条家与力の行方と思われる人物がモメた頃には龍珠院の辺りが行方家の領地に成っていた事、そしてそれ以前には北条綱成公の領地で一部が龍珠院に寄進されていた事が解ります。
では何で、こんな場所に直接北条綱成公が関わったのかと言うと、恐らくそれは蒔田吉良家が関係しています。
岡村町の直ぐ隣の蒔田には戦国時代に蒔田城が在(あ)り、別称:蒔田御所と呼ばれていました。
そこには吉良頼康と言う殿様が住んでおり、蒔田城下には今も吉良家の菩提寺の龍祥山勝國寺と言う御寺が存在しています。
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龍祥山 勝國寺以前書いた解説記事→三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区←クリックで読めます。
この御寺の背後に蒔田城址が有ったのですが、鎌倉公方代理の殿が住んだ歴史的価値の高い蒔田城も横浜市が保護しなかったので完全消滅してしまいました。そして何故ここが蒔田❝御所❞と呼ばれていたかと言うと、実は河越合戦で北条家が上杉連合軍に大勝した際に北条家を裏切って上杉家についた古河公方足利晴氏公は小田原市に抑留され、北条家の姫との間に子(足利義氏公)を授かっていましたが鎌倉公方としての役職には復帰させて貰えず、義氏公が成人するまで代わりに足利一族で身分の高い蒔田吉良頼康公が鎌倉公方代理を蒔田城で務めていたんですね。
ですから鎌倉将軍の代理である吉良頼康公に訪問する用事が当然ながら北条綱成公には有るので、宿舎が必要なので宿泊所としての機能も有る龍珠院が支援されたのでしょう。そして本格的に寺院化したのが北条氏繁公だったので、氏繁公の生年以前に既に存在した龍珠院ですが現代に北条氏繁公開基と誤って伝わっているのでしょう。
さて、龍珠院と玉縄北条家の殿様の関係が解った所で龍珠院の施設その物を見て見ましょう。
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入口には石標が有ります。
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素通りしそうですが、出来たら拝んで見て下さい!御利益に預かれるかも知れませんね。護国般若塔と書いて有るので国を守る為に精進する必要の有る職種の方々、例えば公務員全般や最先端の学問の研究をされている研究者や警備保障会社の人なんか御利益が有るかも知れません。
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反対側は金剛般若塔
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金剛力士の代りかな?それともダイヤモンドの様に硬い意思とか強さの象徴?
良く解らないけど、強さの象徴みたいなものでしょうか?
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山門代わりの扉は普段開いているので境内に入ると真ん中にコンモリした築山が在ります。

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ここには石碑が立っています。
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これが玉縄北条家部分のの解説に関しては少し間違えているけど龍珠院の歴史が書かれている物です。
その下には江戸時代の宝永噴火の事や関東大震災の記録等も彫られています。
・・・私達後生の人間が生きる教訓に出来る様に災害の記録を先人が残して下さったんですね。
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境内の庭から山門方向を見て見える丘が平子家の磯子城址の一部ですね…
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・・・こちらも横浜市が発掘調査も保護もしていないので完全に消滅しました。磯子区腰越の公園辺りまで御城だったと推測されています。
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鎌倉~室町の文化を色濃く残す立地の谷戸構えの地形ですが、現代ではその谷戸は墓地として活用されています。
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現代の御本堂は鉄筋コンクリート造りですが、歴史の名残を伝えるのが丸に三鱗紋ですね。
玉縄北条家から下賜されたのでしょう。
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庫裡はとても綺麗で、丁度御住職様も数年前に代替わりした様で、以前訪問した際とは別の若い御住職様に変わっておられました。とても気さくに話して下さる和尚様で安心しました。
御朱印も改めて禅宗寺院用の御朱印帳に頂いて参りました。
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さて皆さん、磯子区、それも❝ゆず❞の地元に上杉謙信や武田信玄を翻弄した最強の戦国武将が関わった御寺が在るとは思わなかったんじゃないでしょうか?

きっと皆さんの御近所にも今は小さかったり現代的な建物に成っていても、又は昔のままの雰囲気の神社仏閣も、実は凄い歴史偉人と関わりが有る場所が残っているはずです・・・
近所の山や公園も御城の跡かも知れませんし、何気ない池が古代から続く元は神社の聖地の池だった場所かも知れません。
・・・少し気分転換に御寺や神社や山を散歩して見ませんか?そして説明の石碑や看板を読めば、途端にその場所が歴史偉人と皆さんを繋ぐタイムカプセルの様な場所に成るんですよ~♪

さ、又、次は伝心寺の記事で御会いしましょう♪
では~!

この記事に続く→横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?









梅花山南無佛院成就坊と言う横浜市港南区に存在する御寺を御存知でしょうか?
きっと地図を見ても、ネット検索してもヒットする事はないはずです。
この御寺、現在は院号と寺号が簡略化され梅花山成就院とされているからです。
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実はここ、戦国時代には北条家臣として武勇と築城と鷹の飼育で名を馳せた間宮家の居城だった笹下城の本丸だった地形の真下に存在する御寺なんです。
そして現在では成就院とされていますが、本来の梅花山南無佛院成就“坊”の方が浄土真宗の宗主であり戦国時代には軍閥化していた一向宗門徒の総帥に当たる本願寺家当主から直々に名乗りを与えられた由緒正しい名前なんです。
さて、御寺なのに“成就坊”って何?・・・って思う人が歴史に興味の無い人には多いですよね?
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写真は笹下城の本丸跡。成就院の直ぐ裏手の地形ですが、本丸の右側切岸と大空堀地形は三井不動産レジデンシャルによって宅地造成され2017年に完全消滅しています。
さて、本来は江戸時代までは成就院は成就坊と呼ばれた浄土真宗高田派の御坊だった御寺です。
御坊とは浄土真宗の寺院や道場を指した総称の事です。
現代でも僧侶を“お坊様”と呼ぶのは、この御坊や、昔は浄土真宗以外でも大寺院の回りには支院の塔頭寺院が“○○院”や“○○坊”と呼ばれた場所が多く在ったので、今でも僧侶の俗称として“御坊さん”を用いますよね?
そんな浄土真宗の御坊の一つだった成就院は間宮林蔵や杉田玄白の祖先の一門、江戸時代の間宮家の惣領の笹下間宮家と関係が深い寺院なんです。
では何で、成就院は御城の一部に取り込まれる険阻な防御力の高い地形に存在していたのでしょうか?
実は浄土真宗は戦国時代には軍閥化して守護職の大名や地方領主を攻撃し国を乗っ取り完全に坊官(ぼうかん)と呼ばれる僧籍の軍人が治める形であちこちで飛び地を持つ大名化していました。
その為に室町幕府は浄土真宗を禁教にしていた時代も有り、特に越前国・加賀国・越後国の北国街道方面と三河国・伊勢国の東海道方面での一向宗の軍事クーデターは苛烈を極めて長享二年(1488年)には守護大名の富樫政親公を敗死させ国を乗っ取る程の勢力と成りました。
・・・まぁ、こんな事やってれば当然、室町幕府に弾圧されるわな。
同じ様に三河では徳川家康公が一揆勢に苦戦し、重臣の中にも多くの一向宗門徒がいたので家臣の離反も相次ぎ参謀の本多正信公まで一揆に加担して敵対する様な事態を招いてしまいました。
この本多正信公、恐らく後に港南区笹下城址の成就院に関わりが有った筈なのですが、その話はまた後で。
さて、そんな風に軍閥化した仏教勢力の一つが浄土真宗な訳ですが、実は浄土真宗に属し江戸時代以前に成立している寺院には特に城砦化の傾向が多く見られます。
そもそも城址や要塞址に建てられているんです。
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写真は三河安城市の安祥山了雲院大乗寺と言う浄土真宗の御寺です。
・・・もう見た目からして御城ですよね(笑)?実はこの御寺、徳川家最初の本拠地だった安祥城の城址を乗っ取る形で寺院化しているんです。
まぁ大乗寺は平和に成った江戸時代の寛政四年(1792年)に開かれた御寺ですので、一向一揆とは全く関係していない御寺なのですが、浄土真宗が好んで城砦址に御寺を建てたがる具体的な例として写真を保有しているので挙げて置きます。
三河国の浄土真宗の寺院は一向一揆を盛んに煽動して軍閥化していたので、小領主達が坊官に城を差し出し要塞化した寺院として布教と交戦の場として特殊な発達の仕方をしていく事に成りました。
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・・・もうね、大乗寺に関しては完全に本丸乗っ取ってるんですね。
因(ちな)みにここは間宮家とも関係が有ります。
安祥城は同時期の関東の城郭と比較すると規模は矮小ながら周囲を水田と沼地に囲まれた堅城でした。
眼前が耕作地であり街道にも面しているので当然ながら豪族達の勢力争いの舞台と成る訳で、織田家vs松平家&今川家&北条家が壮絶な戦闘を繰り返し行った城としても有名です。
ここは小田原城主の北条家がまだ今川家臣で苗字も“伊勢”を名乗っていた頃に、北条家の伊勢盛時(北条早雲)公が今川家の総大将として永正三年(1506年)~永正五年(1508年)にかけて伊豆と小田原の伊勢家与力衆の軍勢を率いて攻めています。
実は笹下城址に建つ成就院の大旦那(おおだんな=スポンサー)だったと伝わる間宮家も北条家がまだ姓を伊勢と名乗っていて今川家臣だった時代に伊勢家の与力として参戦している事を伺わせる感状(かんじょう=表彰状)が新編武蔵風土記稿の久良岐郡雑色村の項に以下の記載が有ります・・・

舊(旧)家者百姓利兵衛
氏を内田と云(言う)、居住の地を土人(どじん=地元民)古門(ふるかど)と呼べり
~以下中略~
先祖内田對馬守(つしまのかみ)某(なにがし=名称不明)は永正五年(1508年)三月二日卒(そつ=死)す、法名淨元居士
~以下中略(※下の添付画像が感状の文面)~
内田対馬守家感状 久良岐のよし

・・・まぁ内容を砕いて現代口語に翻訳するとコンナ感じです。
  ↓
「今回はスゲぇ~活躍してくれたみたいだね。
 御大殿(今川氏親)様がメッチャ褒めてくれて俺のメンツも内外に対して立ったよ。
 (なので内田さん)親子に(御褒美として)官職をあげちゃうZぇえ~♪
 まっ、そんな感じだよ~ん。
 寅(丙寅年=永正三年=1506年)三月二十八日 ♡(←間宮信親公の花押の代り)
                             内田對馬守殿へ
         同源左衛門殿へ」
この内田対馬守家は現在も笹下城城砦群の城域の一角に住んでらっしゃいますが江戸時代までの居所とは場所が若干違うそうです。本来の古門内田対馬守家は入口が切通し状に成っていたそうで、別の間宮家旧臣の市村家の御子孫から聞いた話では笹下城と北見掃部屋敷と出城松本城と旧鎌倉街道の間道を守る位置に在り、市村家と内田家で洋光台方面からの敵の進撃を阻止し内田家と市村家の配置は虎口状に成っており侵入した敵を挟撃する位置に屋敷地が置かれているそうです。
源左衛門家も“ゲンザムさん”の屋号で近年まで存続していたそうですが、借金で逃散し競売にかけられ断絶したそうです。
実はこの古門内田家に対して発給された感状に登場する“御大途(おおおとの)”と言う表現が当時の北条家では使われていないので、この文章は偽書だと推定する学者さんがいますが、その方々は肝腎な事を忘れてらっしゃって、この時期に伊豆と相模国に勢力を持っていた元は古河公方の家臣だった間宮家は当時は今川家臣です。
そして北条家もまだ伊勢を名乗り、1506年当時は今川家臣でした。
・・・ですからこの感状の示す御大途は、当時の間宮家の寄親だった伊勢盛時(北条早雲)公を指す言葉では無く更に上の今川氏親公を指す言葉と考えた方が自然でしょう。
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そして永正七年(1510年)に現在の京急神奈川駅に在った権現山城で起きた“権現山の戦い”迄の間宮家の棟梁は間宮彦四郎信冬公か間宮彦次郎信盛公と世代的にも文書からの生存確認でも推測出来ます。
では内田對馬家に対して永正三年(1506年)に“間宮信親”の名、この現代の間宮家系図では名前が掲載されておらず誰の旧名か伝わらない名乗りを使った殿様は信冬公と信盛公のどちらか?と謎が湧いてきますが・・・
これは小生の推測では恐らく、間宮信冬公の旧名でしょう。
実は笹下城の築城された笹下村は室町時代まで“杦(杉)田郷”の一部でした。そして間宮家が川崎駅前の堀之内の城砦から今の京急杉田駅前で昔は寺家町と呼ばれた地域に本拠を移したのは永正七年(1510年)の権現山合戦で扇谷上杉家に敗北して杦田郷に逃げて来て以降の話です。
そして杦田郷を本拠にした初代は間宮信盛公で、権現山合戦以後に間宮信冬公の名前は歴史に登場しなくなるので大活躍の記録が残るものの討死した様です。
つまり、間宮信冬公が信盛公以前の間宮家の当主だった可能性が高い訳です。
そして間宮信盛公の別名も伝わっていて、間宮信頼=間宮信盛公とされています。
更に間宮信盛公と直接的に血縁上の親子では無いものの系図上で父とされるのが間宮信冬公なのですが、間宮信冬公と北条家以前の小田原城主だった大森藤頼公は義兄弟だった事も判っています。
つまり、間宮信冬公は元々は古河公方足利家の家臣で格上の同僚の大森藤頼公と仲が良かったので義理の息子か後に末期養子(まつごようし=死後に跡を継いだ人物)と成る程に目をかけていた近親の信盛公が元服する際に大森藤頼公から一字を貰い初名を間宮信“頼”と名乗らせていたと考えると自然でしょう。
そうなれば伊勢盛時(北条早雲)公の存命中の間宮家当主の間宮信親公は当然、今川氏親公の存命中の人物でも有りますし、今川家と協力関係に有った扇谷上杉家とその与力の小大名の大森家とも関係が深いのも自然な話に成る訳ですね。
つまり、間宮信親公は当時の間宮家棟梁だった間宮信冬公の初名でしょう。
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大乗寺の場所に在った安祥城を北条早雲公が今川家臣として攻めた初年度(永正三年:1506年)に、今川家臣として伊勢家に与力して従軍した間宮信親公の部下だった古門内田家の内田對馬守サンは息子の源左衛門さんと大活躍して褒められて朝廷の官職を貰った訳ですね。
まぁ、この安祥城争奪戦は永正五年(1508年)まで続き、結果的に今川家が諦めて敗北している合戦で領地も増えていなので、今川家の殿様も官位しかあげられるモノが無かったんでしょう。
さて、こうやって見て見ると、“御大途(おおおとの)”様が北条早雲公ではなく今川氏親公で間宮信親が間宮信冬公と推定出来ると小生が個人的に思っている事も何となぁ~く皆さんに伝わったでしょうか?
こんな感じで三河安城市安祥城址の大乗寺はじめ、横浜市笹下城址の成就院だけでなく多くの浄土真宗の御寺は城砦の跡に存在しています。
こんな文献に登場する事を辿れる場所が現在も笹下城の跡を訪れに港南区笹下に行くと残っています。
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内田対馬守家の御廟所と、その入口に建つ庚申塔馬頭観音様です。
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御墓は私有地なので勝手に入る事は出来ませんが、馬頭観音様の足元には江戸時代の内田家の御子孫達の御名前が彫られていますね。
そんな内田さんの家は間宮家臣で成就院は一向宗と言われた浄土真宗の御寺な訳ですが、軍閥化した仏教宗派は浄土真宗だけでは無いんですよ。
それに浄土真宗の中にも当然ながら高田派や西本願寺派の様に学僧として又は僧侶として修行と学問と布教に励むタイプの御坊さん達も多かった訳で、軍閥化したのは特定派閥の問題でした。
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※写真は西本願寺内に在る重要文化財の飛雲閣。飛雲閣は一般非公開で不定期に公開される。
だから豊臣秀吉も西本願寺を支援して自分の居城だった聚楽第の飛雲閣を寄贈したりしてる訳です。
浄土真宗の中でも例えば今回の解説で取り上げる成就院の属す高田派や、後の本願寺十一世宗主の本願寺准如上人に始まる西本願寺派等は穏健派として知られ細川政権~織田政権時の室町幕府や後の豊臣政権とも友好関係を維持し布教活動で宗教としての信頼と勢力を拡大する事に成功しています。
そして当然ながら東本願寺も(主に本多正信公の影響で)徳川家の支援を受けて江戸時代には平和でとても立派な修行を重んじる宗派に成って行った訳です。
まぁ、各時代の人の価値観を現代人の価値観で見ても何にも共感できない部分が有って当たり前なんですよ。
日馬富士の暴行を「格上だからやってよい」と肯定するモンゴル国民が多いのを、法治主義国家の日本国民が理解不能なのと同じです。

まぁ、浄土真宗だけが軍隊を持って暴れまわってた訳では有りません。
天台宗の総本山だった比叡山延暦寺も平安時代末期には軍閥化した上に度々、僧兵が京都市街で横暴を働いて困っていた様子が平安時代末期の白川天皇のこんな言葉として伝わっています・・・
賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの
・・・この山法師と言うのが比叡山延暦寺の僧兵で、彼らは延暦寺の守護神だった日枝権現の御神体を神輿に載せて担ぎだしては不敬にも天皇家に対して無理難題を強訴(ごうそ=武力で脅迫し採決させる事)していました。
比叡山は鎌倉時代には近江国守護の佐々木家と合戦をしたり・・・
鎌倉時代末期には天台座主として延暦寺に君臨した大塔宮(だいとうのみや)護良(もりなが)親王は軍事修練を好んだ人物で、自ら軍勢を率いて鎌倉幕府倒幕の戦争を起こしたり南朝の将軍として鎌倉に赴任すると北朝の光厳天皇派の足利尊氏公とも合戦をしています。
室町時代には天台座主だった足利義教がクジ引きで将軍に成ると、彼は無用な殺戮を繰り返し残虐さを露呈したり・・・
戦国時代にも延暦寺は佐々木家の子孫の大名の六角家と合戦を行ったり・・・
六角家が織田家によって近江から駆逐されると今度は織田家の対立勢力である朝倉家の軍勢を比叡山に招き入れ織田家に対して戦争を嗾(けしか)けたりしています。
・・・まぁ、結論から言うと天皇家の忠臣だった織田信長公によって御存知の通り誅され全山焼き討ちされ、その後に明智光秀公の女婿の明智秀滿が正体と言う説も有る天海大僧正と徳川家によって大復興されるまで、天台宗は完全に軍閥化していました。
因みに現代でも延暦寺はヤクザの山口組と関係が深かったりします。

他にも領土的な野心は無くても真言宗も紀州(和歌山県)の根来寺を本拠地にした根来衆と呼ばれた僧兵と傭兵集団は鉄砲で武装した強力な軍隊として存在していました。
この根来衆も後に徳川家臣の成瀬正成公の配下に組み込まれ活躍した“軍人”でした。成瀬家は後に犬山城主と成り尾張藩主徳川家の付家老を務めた徳川家の譜代大名ですね。

そんな訳で、戦国時代当時の仏教の宗派の中には武装して軍隊を持っている宗派もおり、中でも浄土真宗は城や要塞に寺院機能を置いて政庁や防衛拠点としていた訳です。
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さて、笹下城址の成就院に話を戻すと、隣には笹下城の大空堀の跡が近年まで有りました。
笹下城空堀の様子 久良岐のよし撮影
ここは港南歴史協議会が編纂した“こうなん道ばたの風土記”に挿絵があり、昔は畑地で良く空堀の形状が残っていたので、IHIが土地を買い駐車場にしても地形を見る事が出来ました。
この写真の風景も近年宅地化で盛土され消滅しました。
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写真の空堀跡の横のアスファルトの歩道は昔はもっと狭かったそうで、これが武者走りだったそうです。そしてこの空堀が畑地だった頃にはまだ梅の木も有ったのですが、実はこの梅の木が成就院の山号の由来と関係が有ります。
山号の由来は“杉田梅”です。
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写真は小田原市の曽我梅林に移植され今も残る“杉田梅”です。
室町時代~江戸時代初期の成就院(当時の名は“成就坊”)の大壇那だったとされる間宮家は主家が北条家の時代に北条家臣団に広まっていた梅の植林を実施していたので、成就院のみならず旧杦田郷の間宮領は全て広大な梅林が有り「杉田梅林」として有名でした。
間宮家と同時代の殿様で北条家臣化した蒔田吉良家の拠点にもやはり梅林が造営され今も梅林に関する地名や梅林そのモノが残っています。
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写真は世田谷の豪徳寺です。今の季節は紅葉の名所としても有名で、江戸時代は大名の井伊家の菩提寺だったので現在放映中の歴史大河ドラマ“おんな城主直虎”の影響で歴史に興味の有る観光客で賑わっています。
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招き猫発祥の御寺としても多くの参拝客で賑わいます。
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まぁ、本来の豪徳寺が発祥の招き猫は”厄除け”と“立身出世”の御利益で財運ではないんですがね(笑)。
豪徳寺は世田谷城だった訳ですが、そこを治めた蒔田吉良家は横浜市南区に存在した蒔田城を戦国時代まで本拠に後に、世田谷区の世田谷城(豪徳寺境内を含む一帯)を本拠にした小大名で足利家一族として高い家格を有した家でした。
そんな蒔田吉良家の居城跡の豪徳寺の周辺一帯の住所が今も“梅丘”で、蒔田城の近くの岡村天満宮には岡村梅林も残っています。
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成就院の梅林が杉田梅林と呼ばれたのは、先述の通り戦国時代には笹下村は杉田郷の一部だったからです。笹下村が笹下郷として分離するのは江戸時代に成って分家の杉田間宮家、氷取沢間宮家が成立してからの話で、それまでの北条家臣時代の古文書には杦田郷と笹下の地名の両方が登場します。
笹下と同じく間宮家旧領に当たる現在の港南台地域南西部にも近年まで梅林がいくつも存在していました。調べると港南台地区では小原サンと言う旧家が治めた一帯に特に梅林が多かったそうです。
これが小生の栄区に成ると、途端に梅林は無くなりますので間宮家が梅の生産に力を入れていた影響は近現代まで残っていた様ですね。
江戸時代には“杉田梅林”は日本規模で有名に成り笹下城址の梅花山成就坊や杉田の牛頭山妙法寺の杉田梅林は江戸からの観光客で大変に賑わい、第十三世本願寺家当主であり宗主の“本願寺良如上人は当時は日本屈指の景勝地だった金沢八景を遊覧した後に、杉田梅林に観梅に来られ成就坊に滞在された”歴史が有ります。
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特に杉田間宮家の菩提寺である杉田駅近くの牛頭山妙法寺はズバリ、杉田梅の名所として特に人気の有った観光地でした。しかしコチラも横浜市教育委員会が梅林を保護しなかったせいで戦後の宗教政策で御寺の土地を接収されて後に梅林は伐採され杉田の杉田梅林も消えてしましました。
現在の妙法寺の御住職様が境内地の山上に杉田梅林を僅かでも復興しようと努力されています。
この妙法寺は日蓮宗の御寺です。
杦田郷笹下村の梅林を見に来て成就院に滞在された良如上人は成就院の梅林の見事さに感動したそうで、以後、寺の山号を「梅花山」とし寺号を梅花山南無佛院成就坊と名乗らせました。
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※写真は曽我梅林、昔は笹下や杉田や港南台にもこんな広大な杉田梅林がそこかしこに広がっていて、明治には皇族も度々観梅に来た程でした。
しかし、その梅林を含む成就院の境内地は戦後の宗教政策で接収され、横浜市教育委員会が昭和中期に保護を怠りIHIに宅地開発されてしまった為に、悉く伐採され消滅してしまった訳です。

そんな間宮家が保護した成就院ですが、良如上人の逸話と浄土真宗が城跡を好んで御寺を建てる事を紹介したので成就院の宗旨の歴史についても調べてみましょう。
昔の宗旨と寺域についてですが、現在でこそ、明治政府の宗教政策と戦後の宗教政策で境内地を多く接収されてしまった為に境内の広さは普通の規模の寺院です。
しかし御寺の歴史は中世に浄土真宗に改宗するまで法相宗だった歴史が有る事から平安末期には存在した可能性が有あります。
法相宗だった当時の寺号は曲田山帶行寺と判明しています。
この曲田山の山号は地名由来です。新編武蔵風土記稿の久良岐郡雑色村の解説に以下の記載が有ります・・・
雑色村
高札場二ヶ所
 一は村の中程、
 一は北にあり、
小名(こな=住所の丁番地に相当) 曲田 村の東を云
・・・つまりですね、笹下郷の中の雑色村の中の東側だったそうです。そして、その更に東の先に立野(たての=館野)と呼ばれる地名が有ったのですが、これが現在のファミレスのバーミヤン等が在る辺りの様です。この曲田と立野の境目が笹下川だった様ですね。

成就院が“梅花山南無佛院成就坊”と呼ばれたのより更に昔の曲田山帶行寺と呼ばれた時代の宗旨だった法相宗は歴史の古い宗派です。奈良時代~平安時代初期が全盛期だった宗派で、その後は中国留学から帰って来た伝教大師最澄様が伝えた天台宗や、弘法大師空海様が伝えた真言宗が流行しました。
空海 公式ホームぺージより拝借 久良岐のよし
空海和尚と言えば来年公開される日中合作の映画の主人公に成っていたりします。
公式ホームページ→http://ku-kai-movie.jp/
まぁ、浄土真宗は空海和尚=弘法大師様の系統ではなく最澄和尚=伝教大師様の系統から分派した宗派です。成就院は鎌倉時代に親鸞上人の来訪時に法相宗から浄土真宗に改宗しています。
江戸時代の風土記稿の記録を見ると、最大時は本堂の他に、鐘楼、広大な境内地に塔頭寺院を境内に3寺持つ大寺院だった様です。
具体的に・・・
本堂 ・・・間口七間=12.7m、奥行き六間半=11.8、護摩壇が存在した。
     ※源頼朝公が一百座の護摩修行を行った日に壇上に守護仏の観音像を一体奉納。
鐘楼 ・・・享保五年鋳造の梵鐘
薬師堂・・・行基作の薬師如来を祀る。元は香林寺と称して境内の外の東側に在った塔頭。
     ※地震で倒壊し江戸時代も未再建。
     ※数度の賊難に遭っている
    (鎌倉時代に新田義貞が鎌倉幕府打倒で鎌倉に来襲した際に周辺に略奪放火を行ている)
    (戦国時代に房総半島の里見家の海賊が杦田郷で略奪放火繰り返す)
     ※承應年間に境内地に写し薬師堂と成った。
山門 ・・・四つ足の門、旧間宮家の笹下陣屋の邸門を、間宮家の下総転封時に移築した。
林貞寺・・・塔頭寺院。元和元年開基。
      境内の巽(たつみ=南東)の方向に在ったが江戸末期には建物は消滅。
乘船寺・・・塔頭寺院。艮(うしとら=北東)の方に在った。江戸末期には消滅。
      開基の乘船と言う人物は天文二年(1533年)八月二日に亡くなった人。
     ※実は乘船が実は墓所の解らない間宮信元公と同一人物の可能性有り。 

この様に全盛期には比較的大きな規模を有していた事が解る御寺なのですが、先代の檀家総代様に取材をした際に「無住職だった時代が有る」と教えて頂く事が出来ました。
実際、歴史的に間宮家主君の北条家は当初、室町幕府織田政権と同盟関係に有り浄土真宗と敵対関係に在ったので浄土真宗は禁教だった為に滞り無住職だった時期も有ったんですね。
織田政権以前も浄土真宗は越前国で朝倉氏と大規模な軍事衝突を起こしたり加賀国で富樫氏を滅ぼす等、軍閥化しており幕府から危険視されていましたから。
又、元は西本願寺派とされているのは良如上人の滞在で西本願寺だったと誤伝されたと考えた方が自然でしょう。
そもそも西本願寺派の成立は文禄元年(1592年)の本願寺光佐:顕如上人の入滅後に、教如上人が反織田~豊臣政権の姿勢を固持し穏健派坊官を悉(ことご)く排除した事に由来し本願寺光昭:准如上人が豊臣政権の支持で現在の西本願寺を建立して以降の歴史なので、それ以前の成立は有り得ない事を考えると当初から高田派として法脈は続いてんでしょうね・・・
高田派は織田政権や北条家に協力的な派閥で弾圧の対象にはされていませんから。
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その西本願寺派の初代と数えられる准如上人が、大阪佃村から移住した江戸の佃島の漁師達の協力で海を埋め立てて開いたのが現在の築地本願寺だったりします。まぁ、今の建物は近代建築ですが。
築地の名前の由来だったりもしますね。
・・・なので穏健派の高田派だったので、北条家に憚り大々的な間宮家の支援が無かった時代が有っても浄土真宗から改宗させられる事も無かったのでしょう。
しかし戦国時代を通じて破却も改宗もさせられずに存続した寺院なので当初から高田派に属し笹下城内の本丸や館地からも近い事から間宮家の持仏堂の様な役割で細々と存続していた訳です。
それが解るのが塔頭寺院として戦国時代に存在していた乘船寺の記載で、乘船寺を開いた乘船(間宮信元公か?)が天文二年(1533年)八月二日に亡くなったと書かれている事から北条家臣間宮家の時代に塔頭寺院を開く様な支援が有り成就坊が機能していた事が解る訳です。
信元公の御子息の間宮康俊公が天文五年(1536年)から間宮家を代表して鶴岡八幡宮の再建に参加しています。ですから間宮家が支援した成就院で塔頭乘船寺を開き1533年に亡くなったのは間宮信元公かも知れないと個人的に推測しています。
尚、間宮家旧主の足利成氏公が逆徒の上杉家により鎌倉から逐(お)われ移住した古河周辺は浄土真宗寺院が多い事から鎌倉(古河)公方の家臣時代の間宮家も浄土真宗を支援していたと考えると自然でしょうね。
後に支援者の間宮家が徳川家臣と成ると、徳川家重臣で熱心な浄土真宗門徒の本多正信公が玉縄城主成った事により、堂々と宗教活動を間宮家も支援出来る様に成ったと推測出来ます。
以後は江戸時代までは西本願寺派で、江戸時代初期には御門跡の本願寺良如上人や九条関白も成就院に滞在したとされ新編武蔵風土記稿にも“元は西本願寺派その後は高田派と成った”とされる解説が有る。
これについては先述の通り高田派だが同じ穏健派の西本願寺派からも重視された御坊だったと考えると、コレも自然。

ここからは成就院に関係した人物と関係者一族で歴史記録に残る人を見て見ましょう・・・
主たる支援者は室町時代からは間宮家と家臣団だった事は解っています。
間宮家は室町時代の初期には鎌倉公方の家臣、戦国時代に北条家臣だった。
北条氏康公の奏者を務めた間宮宗甫公。
玉縄城主北条綱成公の付家老間宮康俊公。
滝山城主後に八王子城主の北条氏照公の付家老として活躍した氷取沢間宮綱信公。
徳川家康公の参謀で江戸幕府初代の鷹匠頭と成った杉田間宮信繁公。
間宮家の一族は伊豆や神奈川県の二宮~大磯、海老名市国分寺、江ノ島界隈、横浜市磯子区~港南区~神奈川区~鶴見区、川崎市川崎区等に間宮一族の領土が有りました。
そして重要な江ノ島神社の別当も間宮一族が勤めていた。
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江島神社と聖地の岩屋の別当寺だった岩本坊は代々間宮家が宮司を勤め祭祀を勤める際は本姓佐々木を使い、明治に成ると間宮と岩本姓に分かれた。
岩本坊は廃仏棄釈で寺院機能を棄て宿望機能を活かし現代も名旅館岩本楼として存続している。
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室町時代に養子を送り込み縁戚と成っている相模国の二之宮の格を持つ川勾神社宮司家一族二宮家もいる。
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江戸時代には久能山東照宮宮司の榊原照久公の奥方に成ったのは杉田間宮信繁公の姫様だった。
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その東照宮宮司家初代の榊原照久公の菩提寺は浄土宗の宝台院別院。
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同じ浄土宗で駿府城近くの華陽院は徳川家康公の祖母の於満様の菩提寺であり、徳川家康公の愛妾となり姫を生んだ間宮康俊公の姫の於久様の菩提寺でもある。
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関東最古の大社の埼玉県久喜市の鷲宮神社宮司の大内泰秀公には間宮康俊公の御子息の間宮康次公の姫が嫁いでいます。
大内泰秀公は徳川家光公が利根川で溺れた際に救助して宮司ながら大名格を与えられた人物です。
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家臣の内田対馬守家の御子孫も旧蒔田吉良家重臣の森家に養子を出せる程の家格が有りました。

北条家が豊臣秀吉によって改易されると、北条家の後釜として関東を与えられた徳川家康公に直臣として取り立てられ一門からは家康公側室の於久の方や佐渡奉行-但馬奉行-本牧奉行を兼務した間宮直元公、江戸幕府初代鷹匠頭の杉田間宮信繁公等の名将を多数輩出しています。
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江戸時代に本家の笹下間宮家が奉行職を辞して、下総国に転封される際に笹下間宮陣屋の邸門を成就院に移築し、それが現在の山門である事は“新編武蔵風土記稿”に記載が有るのみで無く、戦後に成就院檀家と間宮分家と間宮家臣の子孫が資料提供や編纂に関わった“こうなん道ばたの風土記”にも記載が有ります。
しかるに第二次世界大戦の空爆による戦火で“山門は焼失した”とされますが、仏教用語で“山門不幸”等は御寺その物や御寺の家人に不幸が有った事を指す仏教用語です・・・
・・・戦災で焼けたのは本堂で、それは近年再建されています。
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しかし山門は戦後も存在していたのが“こうなん道ばたの風土記”に掲載されている事なんですけどね。
礎石を見ると修繕は間違いなくされています。
個人的な意見ですが、現代の山門は復興された門ではないかと感じる木材の腐食具合いと礎石の新しさなので、“こうなん道ばたの風土記”の記載は情報がアップデートされていないのだと思います。

さて、そんな浄土真宗高田派の成就院を支援した間宮家の宗旨についてですが・・・
実は浄土真宗以外の神道・仏教・修験道にも深く関わています。
・浄土真宗
先述の通り、徳川家臣化後は大々的に浄土真宗の寺院も派閥問わず支援して堂塔を復興して廻っている事も解る。
間宮家、本願寺良如上人、九条関白家と関わりの有った成就院の他に磯子区氷取沢の分家の菩提寺として江戸時代初期には宝勝寺が再興されているが、宝勝寺は伊藤博文公も度々参拝している。
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同じ笹下城砦群の中に位置する東福寺も間宮家との縁起を称する寺院で、間宮家分家で改姓した一族の菩提寺でも有り、旧間宮家臣も一部檀家に居る。内田家も御廟所は私有地だが東福寺檀家と新編武蔵風土記稿に書かれている。
・神道と修験道と真言宗
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間宮家は室町時代~江戸時代の終りまで天皇勅願所の江ノ島の岩屋を管理する奥津宮の別当職を間宮家の一族が代々継承した家系で、修験道や真言宗や神道とも関係が深い。

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祖先は近江源氏の氏神である敦実親王。その敦実親王の邸宅址で敦実親王を御祭神とする延喜式内社の沙沙貴神社宮司を出自とする武家でもある。沙沙貴神社は近江源氏一族の氏神であり佐々木家、六角家、京極家、間宮家、黒田家、乃木家等の氏神でもある。
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更に室町時代には相模国一~五之宮の内、二之宮川匂神社宮司家一族の北条家臣二宮家にも戦国時代に養子を出している。
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真言宗でも室町時代に横浜最古の寺院である瑞應山蓮華院弘明寺は間宮家が深く関わっていた寺で“宗閑”の名の初出展となる寺院だ。
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安土桃山時代には横浜最大の檀林で横浜の地名初出展の古文書や間宮直元公の古文書を所有する南区堀之内の寳生寺。
御本尊は間宮直元公が極彩色の檀那に成っている。
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江戸時代に蒲原代官を務めた間宮忠次公が南区井土ヶ谷の乗蓮寺を支援している。
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本来の名前を大靈山泉蔵院桐谷寺と言った磯子区中原の熊野神社。
ここは元々は鎌倉の山崎地区に在った修験道の大道場で源頼朝公の命令で当地に熊野権現が勧進され以来、泉蔵院の大道場として栄えた。鎌倉の本社である山崎泉蔵院が戦火で焼けると本社機能がここに移され、以後、大靈山泉蔵院桐谷寺と名乗った。ここも間宮家がずっと支援していた修験道の大道場で神谷信久公の古文書の記録も残っている。
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磯子区屛風ヶ浦の森浅間神社ここも又、戦国時代に間宮家が支援した修験道場の跡だが、鎌倉亀ヶ谷権現堂福禅寺の道場として源頼朝公によって開かれ霊場の滝に不動明王が祀られ、後に頼朝公の命令で富士山の化身である此花咲耶姫命の御分霊を勧進し浅間権現が開かれた。福禅寺はどうも鎌倉幕府最期の将軍守邦親王が森浅間神社に逃げて来ている事や弟君の長円親王が福禅寺の住職を務めている事や権僧都と比較的高い身分である事から“門跡寺院”だった事が推測出来る場所。
・曹洞宗
間宮家の旧主北条家の宗旨は曹洞宗で、家臣団は学問や精神修練の為に曹洞宗で禅問答等を行っていた様だ。
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間宮家も間宮信冬公が鶴見の寳泉寺を開き、曾孫の間宮康俊公が参禅したり堂宇を復興している記録が有る。そして旧家臣団によって毎年間宮康俊公の追善供養が行われた間宮康俊公の菩提寺でもある。
この宝泉寺を開く際に開山として招かれたのが青梅市の“福禅寺”の住職。
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福禅寺は今では瑞龍山海禅寺と称するが、これは江戸時代のアホで仕事の出来ない役人が朱印発給の際に寺号を誤記したせいで以後、この寺名を名乗らなければいけなかったから。
以前の寺号や戦国時代に突如天皇家の勅願所に成っている事から、室町時代にこの地で復興される以前の前身が鎌倉の権現堂福禅寺だった事が推測出来て、永享の乱の際に扇谷上杉家によって三田家を通じて当地に福禅寺の字名を復興した事が推測出来る。
つまり横浜の森浅間神社とは別れこそすれ同根から生じた由緒ある寺院と言う事だ。それを裏付けるのが宝泉寺開基の際に福禅寺の住職がわざわざ招かれていると言う事だと推測出来る。
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又、川崎駅前の堀之内は間宮家旧領で駅前の宗三寺を開いている。ここは鶴見区下末吉の宝泉寺の末寺として最初は開かれ、宝泉寺が火災に遭った後は氷取沢間宮家がこの宗三寺で間宮信盛公の追善供養を行っている。尚、宗三寺の寺名は間宮信盛公の戒名に由来し信盛公の菩提寺でもある。
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子孫の高津間宮家も千葉県八千代市高津に高津山観音寺を菩提寺として支援している。
高津間宮家は氷取沢間宮家の子孫に当たり、江戸幕府の昌平坂学問所頭取を務めた間宮士信を輩出した家だ。
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そして真田幸村隊と戦い討死した間宮正秀公は間宮士信公の祖先に当たり観音寺境内社の高秀霊神社に御祭神として祀られ墓所も兼ねている。
・日蓮宗
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安土桃山時代には旧主北条家が大阪の狭山市で小大名に返り咲くと、豊臣政権の影響からか日蓮宗寺院も支援して分家杉田間宮家が杉田の牛頭山妙法寺を菩提寺にしている。
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江戸時代初代当主間宮直元公の菩提寺として妙蓮寺も支援し境内に神道形式で直元公の彫像を祀っていた。
間宮直元公木造 妙蓮寺旧蔵も火災で焼失 久良岐のよし
他の旧北条家臣団の菩提寺で日蓮宗も多い。
幕末に活躍した間宮林蔵倫宋公の菩提寺の東京都江東区の本立院も日蓮宗。
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本立院の飛地境内には間宮林蔵公の被葬地の御廟所が有り東京府時代に史跡文化財していを受けている。
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間宮一族から帰農し江戸時代には豪農と成って東京の大森界隈を開拓し農民を旧北条家臣団の仲間五人と協力して守ろうとした間宮是信サンは悪人領主木原家に殺された後、一族にひっそりと大森の法光山善慶寺に埋葬された。
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明治に成り封建政治の終了とともにタブーが解禁されるや、義話伝承の通りに直訴状や遺骨が発掘され東京都指定文化財に成っている。
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この様に成就院を大切にした間宮家は他の宗旨の寺院や神社でも日本精神文化保護の事跡を残している。

なんにせよ、成就院は檀家にも間宮家臣の子孫が今もおり、更には幕末に当寺から還俗した僧侶が間宮家に養子入りしている事からも、間宮家が笹下を去って後も間宮本家と関りを深く持っていた事が御理解頂けたかと思います。
この成就院から還俗したのが間宮一さんで、鎌倉事件の犯人とされますが小生の予想では当時の神奈川奉行が依田盛克さんで、この依田家は武田家旧臣ながら氷取沢間宮家から江戸時代初期に養子が入っている家なので、江戸幕府と日本を守る為に間宮本家と所縁が深い成就院の身内が犯人として名乗り出て、英国政府との外交の為に人柱に成ったのかも知れないと小生は考えています。
まぁ、こんな風に成就院には間宮家に関する歴史資料が散逸してしまっている部分を埋めるかも知れないヒントが多く有る訳です。

面白い御寺ですよね?
きっと皆さんの御宅の周辺にも実は凄い歴史偉人と繋がりのある神社仏閣や城址が在ると思います。
是非、お散歩して見て下さい。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう♪

今年も戦国時代の小田原北条家の白備え隊、小机衆と言う軍団の拠点だった小机城で日本の竹ファンクラブにより「小机城址市民の森 竹灯籠まつり」が開催されます。
本稿の最後の方で小机城で活躍した記録の残る武将達の紹介もしますが先ずは、御祭りの紹介を!
小机城址市民の森竹灯籠まつり 日本の竹ファンクラブ公式より転載
竹灯籠まつり詳細は以下リンクへ!
日本の竹ファンクラブ 小机城址市民の森竹灯籠まつり
Twitterに途中経過も掲載されていますので御興味有る方は御覧下さい!


さて、小机城址の竹灯籠まつり、余り御存知無い人の為に一応、過去の竹灯籠まつりの写真と、小机城に関するブログ記事リンクを掲載して置きます。



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以下、小机衆だった主だった武将の名前です。
【小机衆】
[歴代城主]
●北条 長綱公=入道号:幻庵宗哲
本光院殿(玉縄城主北条為昌)没後にその遺領も預かる。北条家の宿老で軍師。箱根権現(現:箱根神社)の別当を務め、彼の所領の傍には風魔忍者の屋敷が有った伝承が有る事から風魔忍者を統括していた事が読み取れる。
●北条 時長公(幻庵公実子)・・・早世
●北条 氏尭公・・・北条氏綱公の四男で北条幻庵公の甥に当たる。
[城代家老]
●笠原 信為公・・・官途は越前守。北条五色備え:白備え隊軍団長。小机城城代。大曾根城主。
鶴岡八幡宮再建では総奉行を務めた。北条為昌公の烏帽子親。詩歌に精通した風流な武将だった。
小机城近くに曹洞宗の父の菩提寺として雲松院を開いた。大倉山の龍松院の前身とされる文殊堂を開いたのもこの人物かと推測出来る。
●笠原 康勝公・・・官途は能登守。小机城代。大曾根城主。笠原信為公の実子。
弘治三年(1557年)に笠原信為公が没し菩提寺の神大寺に葬られると軍団と城代を継承した。大倉山に龍松院を開いた人物とされるが父の代に開かれた文殊堂を本格的に寺院化した人物と思われる。
[軍団重臣]
●笠原 弥十郎・・・領地は足柄上郡開成町岡野と静岡県田方郡修善寺町田代。
姓と出身地から推察するに笠原信為公の親類だろう。しかし諱(元服後の名前)は不明。
●金子 十郎 ・・・官途は出雲守。篠原代官(横浜市港北区東部を統治)、篠原城代。
●小野 与三郎・・・八朔代官(横浜市緑区北部~青葉区南部を統治)。
●陰山 又六 ・・・本郷代官(横浜市港北区小机町~都筑区南東部~緑区東部を統治)。
●遠藤 兵部丞・・・猿山代官(横浜市緑区中部を統治)。
●神田 次郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。領地は静岡県三島市内旧字名が長溝と平塚市土屋辺り。
●曽根 外記 ・・・領地は横浜市都筑区東部とセンター北駅周辺と川崎市中原区宮之内辺り。
●座間 弥三郎・・・茅ヶ崎城(都筑区茅ヶ崎)城代?官途は豊後守。領地は横浜市都筑区茅ヶ崎。
●猿渡 内匠助・・・佐江戸城(都筑区佐江戸)代?領地は横浜市都筑区佐江戸町。
●中田 加賀守・・・矢上城(慶應大学日吉キャンパス)城主、井田城城主?吏僚。領地は川崎市幸区鹿嶋田~中原区大倉町一帯と中原区下小田中一帯の他、保土ヶ谷区中央西部~旭区東部一帯、横浜市港北区北東部~川崎市西北部一帯。
下総国印旛郡臼井城主の千葉家分流臼居家に姫を嫁がせる程の家格を有した武将。元は太田康資公の家臣だったので祖先は太田道灌公の代以前からの太田家臣だったのだろう。太田康資公の北条家謀反後に北条直臣に成り、小机衆を経て北条家臣化した蒔田吉良家の与力と成った様だ。
●二宮 播磨 ・・・領地は埼玉県狭山市青柳周辺。吏僚。
恐らく延喜式内社相模国二之宮の川勾神社宮司家一族。小机城から程近い浄土宗の中本山格を有す小机町~緑区東本郷の区境に存在する泉谷寺を北条氏綱公と供に開いたとされる二ノ宮織部丞の子か?
二宮金次郎尊徳公の祖先の同族とも推測出来る。又、二宮家には間宮家から養子が入っているので間宮林蔵や杉田玄白とも祖先が同族である可能性が有る。
●市野 助太郎・・・領地は茅ヶ崎市赤羽周辺。市野四郎の近親か?
●市野 四郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。市野助太郎の近親か?領地は助太郎と同じ域内。
●市野 弥次郎・・・領地は港北区日吉本町。
●田中 伊蔵 ・・・領地は川崎市麻生区万福寺(新百合ヶ丘駅周辺一帯)。
・・・この他にも沢山の代官や北条家の被官が居ますが挙げていたらキリが無いのでひとまずこれまで。
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小机城で活躍した現在では名も知られない武将達の御子孫達が横浜市の行政による宅地開発に抵抗し守って来てくれた小机城の城址で毎年開催される風流な竹灯籠まつり、皆さんも楽しんでみませんか?

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