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カテゴリ:神様/偉人/武将 > 戦国時代:北条家五色備え

今年も戦国時代の小田原北条家の白備え隊、小机衆と言う軍団の拠点だった小机城で日本の竹ファンクラブにより「小机城址市民の森 竹灯籠まつり」が開催されます。
本稿の最後の方で小机城で活躍した記録の残る武将達の紹介もしますが先ずは、御祭りの紹介を!
小机城址市民の森竹灯籠まつり 日本の竹ファンクラブ公式より転載
竹灯籠まつり詳細は以下リンクへ!
日本の竹ファンクラブ 小机城址市民の森竹灯籠まつり
Twitterに途中経過も掲載されていますので御興味有る方は御覧下さい!


さて、小机城址の竹灯籠まつり、余り御存知無い人の為に一応、過去の竹灯籠まつりの写真と、小机城に関するブログ記事リンクを掲載して置きます。



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以下、小机衆だった主だった武将の名前です。
【小机衆】
[歴代城主]
●北条 長綱公=入道号:幻庵宗哲
本光院殿(玉縄城主北条為昌)没後にその遺領も預かる。北条家の宿老で軍師。箱根権現(現:箱根神社)の別当を務め、彼の所領の傍には風魔忍者の屋敷が有った伝承が有る事から風魔忍者を統括していた事が読み取れる。
●北条 時長公(幻庵公実子)・・・早世
●北条 氏尭公・・・北条氏綱公の四男で北条幻庵公の甥に当たる。
[城代家老]
●笠原 信為公・・・官途は越前守。北条五色備え:白備え隊軍団長。小机城城代。大曾根城主。
鶴岡八幡宮再建では総奉行を務めた。北条為昌公の烏帽子親。詩歌に精通した風流な武将だった。
小机城近くに曹洞宗の父の菩提寺として雲松院を開いた。大倉山の龍松院の前身とされる文殊堂を開いたのもこの人物かと推測出来る。
●笠原 康勝公・・・官途は能登守。小机城代。大曾根城主。笠原信為公の実子。
弘治三年(1557年)に笠原信為公が没し菩提寺の神大寺に葬られると軍団と城代を継承した。大倉山に龍松院を開いた人物とされるが父の代に開かれた文殊堂を本格的に寺院化した人物と思われる。
[軍団重臣]
●笠原 弥十郎・・・領地は足柄上郡開成町岡野と静岡県田方郡修善寺町田代。
姓と出身地から推察するに笠原信為公の親類だろう。しかし諱(元服後の名前)は不明。
●金子 十郎 ・・・官途は出雲守。篠原代官(横浜市港北区東部を統治)、篠原城代。
●小野 与三郎・・・八朔代官(横浜市緑区北部~青葉区南部を統治)。
●陰山 又六 ・・・本郷代官(横浜市港北区小机町~都筑区南東部~緑区東部を統治)。
●遠藤 兵部丞・・・猿山代官(横浜市緑区中部を統治)。
●神田 次郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。領地は静岡県三島市内旧字名が長溝と平塚市土屋辺り。
●曽根 外記 ・・・領地は横浜市都筑区東部とセンター北駅周辺と川崎市中原区宮之内辺り。
●座間 弥三郎・・・茅ヶ崎城(都筑区茅ヶ崎)城代?官途は豊後守。領地は横浜市都筑区茅ヶ崎。
●猿渡 内匠助・・・佐江戸城(都筑区佐江戸)代?領地は横浜市都筑区佐江戸町。
●中田 加賀守・・・矢上城(慶應大学日吉キャンパス)城主、井田城城主?吏僚。領地は川崎市幸区鹿嶋田~中原区大倉町一帯と中原区下小田中一帯の他、保土ヶ谷区中央西部~旭区東部一帯、横浜市港北区北東部~川崎市西北部一帯。
下総国印旛郡臼井城主の千葉家分流臼居家に姫を嫁がせる程の家格を有した武将。元は太田康資公の家臣だったので祖先は太田道灌公の代以前からの太田家臣だったのだろう。太田康資公の北条家謀反後に北条直臣に成り、小机衆を経て北条家臣化した蒔田吉良家の与力と成った様だ。
●二宮 播磨 ・・・領地は埼玉県狭山市青柳周辺。吏僚。
恐らく延喜式内社相模国二之宮の川勾神社宮司家一族。小机城から程近い浄土宗の中本山格を有す小机町~緑区東本郷の区境に存在する泉谷寺を北条氏綱公と供に開いたとされる二ノ宮織部丞の子か?
二宮金次郎尊徳公の祖先の同族とも推測出来る。又、二宮家には間宮家から養子が入っているので間宮林蔵や杉田玄白とも祖先が同族である可能性が有る。
●市野 助太郎・・・領地は茅ヶ崎市赤羽周辺。市野四郎の近親か?
●市野 四郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。市野助太郎の近親か?領地は助太郎と同じ域内。
●市野 弥次郎・・・領地は港北区日吉本町。
●田中 伊蔵 ・・・領地は川崎市麻生区万福寺(新百合ヶ丘駅周辺一帯)。
・・・この他にも沢山の代官や北条家の被官が居まが挙げていたらキリが無いのでひとまずこれまで。
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小机城で活躍した現在では名も知られない武将達の御子孫達が横浜市の行政による宅地開発に抵抗し守って来てくれた小机城の城址で毎年開催される風流な竹灯籠まつり、皆さんも楽しんでみませんか?

さて、皆さんは川崎市に井田城と言う名の御城が存在した事を御存知でしょうか?
実は戦国時代の川崎市を含む多摩川と鶴見川の流域一帯には沢山の御城が存在していました。
井田城と言うのは、その中の鶴見川の支流である矢上川上流を抑える御城で、水運を利用する物流の要所だった事が窺(うかが)い知れます。
多摩川~鶴見川流域の城と神社仏閣 久良岐のよし
今では養護学校や宅地化によって城址としての遺構は乏しくなってしまいましたが、要害性在る高い断崖の上の台地が城域に成っています。
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落ちたら死にますね(笑)。
さて、この御城を目指すには“セブンイレブン川崎市井田2丁目店”さん横の神社を目指すと解り易いんでです。

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まぁ、セブンイレブンを目指せば良いんですが、何故(なぜ)この神社を目標に指定したかと言いますと、その先に在る井田城の“大堀切らしき地形”に行く事が出来るからです。
井田城址地形 久良岐のよし
このGoogle earthの立体地形画像だと大堀切の地形は良く解りますが更に地形が解り易い国土地理院の色別標高図を重ねて見ましょう!
井田城址地形図推定縄張り 久良岐のよし
※画像クリックして拡大して見て下さい。
この画像で示した人口地形へは神社からだと“井田さくらが丘公園”を目標に進むと、丁度、その人工の大堀切跡と思しき住宅街に辿り着く事が出来ますよ~。
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まぁ今では宅地化されてしまい標高差にしか面影は有りませんね。
こう言った地形を読むには等高線の有る地図を見たり、事前に国土地理院の標高図を見て置くと非常に参考に成ります。
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まぁ、そこら辺は自分で歩いて見て下さい(笑)。
一応、セブンイレブンからの順路のGoogle mapのナビ画像を添付して置きますので参考にして見て下さい。
井田城推定大堀切地形への順路 久良岐のよし
※水色の点線が当該の地形の北端を通るルート。
小生もこの周りを大分グルグルと周りました。2014年当時妹夫婦が小田中に住んでいたので、以前から井田城に興味が有り訪れて見たかったので行ったら宅地化されてるわ、台地上の城址は昭和の農地改良で削平されて大半が無いわでガッカリしましたが、それでも神庭緑地と言う地域に行くと幾(いく)らか城址の名残が有りました。
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同地は古墳などもある古代の遺跡でもあります。
実は、この一帯は古代の早い内から開けており日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と御妃様の弟橘姫(オトタチバナヒメ)様の神話の土地でもありますが、そこら辺は以前に記事に書いているので御興味有る方は以下のリンクから過去の解説記事を御覧下さい。
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川崎の橘樹神社の記事リンクimage
横浜の宝秀寺の記事リンク
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三浦半島の走水神社の記事リンク
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相模原の石楯尾神社の記事リンク

さて、井田城址の神庭緑地に関して話を戻すと・・・
小生達歴史オタクや城址オタクから見ると土塁にしか見えない場所には教育委員会の説明では古墳とは書いて有りました。
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城郭ファンには土塁と見張り台の跡にしか見えない。まぁ円墳を繋げた可能性は高いし実はこの古墳群は先程見て頂いた断崖の縁(へり)に沿って築かれていて、教育委員会が気付いているとは思えないが、この位置には大変重要な意味が有る。
橘樹神社と蟹ヶ谷古墳群の位置関係 久良岐のよし
実は断崖の縁に古墳を築く事で、日本武尊の御妃、弟橘姫様の古墳を背後に抱える橘樹神社を遥拝出来る。
井田城址蟹ヶ谷古墳群と弟橘姫御陵の位置関係 久良岐のよし
そして橘樹神社は三浦半島の走水沖で海を鎮める神事の為(ため)に入水自殺し人柱に成った弟橘姫様の髪飾りの一つが流れ着いた場所と伝承しており、この矢上川流域は弥生時代後期まで大きく東京湾が入り込んでいて現在の川崎区や中原区の平地部分は海だった事が推測されます。
つまり、この神庭緑地に古墳を築いたのは海を治めた古代の弟橘姫と同族の豪族達で、その古墳群が室町時代の井田城築城時に土塁で連結されたのでしょう。
橘樹神社は橘樹郡の郡衙(ぐんが=郡庁舎)の跡と推測されており、小生の推測と神話では井田城址と橘樹神社の間の湾曲した丘陵地帯は文字通り“曲がった海”=“湾”だった筈です。
実は小生と同じ事を考えている人達が居て、その人達は“考古学者ではない”のだ(笑)。地質学者の人達なんだな。
そこ等の海底の陸地化の速度は以前の休日雑記の“諸磯隆起海岸”の訪問時の解説で触れているので、興味の有る人は小生の取材の様子を過去記事で見て下さい。
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●諸磯隆起海岸と海底の露出速度の解説記事リンク→
小生や地質学者は神話と地質を合わせた意見から土地の隆起速度や土砂の堆積からの陸地化の速さに対して弥生時代の海の範囲を考古学者よりも内陸に予想している訳ですが・・・
陸の隆起の速さと海が川の土砂か古代人の埋め立て工事で海の陸地化が早かった事を証明する様な記事が室町時代の文書から垣間見えます。
江戸時代には陸地に成っていた川崎市の砂子、つまり堀之内地区より南側は海だった事が太田道灌公の書いた日記に記されているんですよ。そして標高にも曾(かつ)ての海は見てとれたりします。
下の色別標高図をGoogle earthに張り付けた画像をクリックし拡大して御覧頂ければ一目瞭然。
川崎市川崎区周辺の海抜0m地帯 久良岐のよし
色別標高図で青で表示されている場所は海抜0m地帯です。
海抜0mと言う事は標高が海面より下に有ると言う事に成るので津波が来たり多摩川や鶴見川が増水して堤防が決壊したら水没し壊滅し死傷者が多数発生する可能性の高い地域です。
なんでコンナ地形が出来てしまったかと言うと大河川は昔は自然に氾濫して長い時間をかけて継続して土砂が堆積して行きどんどん陸地が広がって行くのが普通なのですが、江戸時代に成ると治安も良くなり幕府は治水等に力を注ぎ都市や耕地を拡充する余裕が出て来た訳です。そして大河川に堤防を築くと川は氾濫出来ずに横に土砂を広げる事が出来ずにドンドン川底に堆積してしまい川が浅く更に広く成ってしまいます。すると人間は更に高い堤防を築いて更に川が地面よりも高い位置を流れる様に成ってしまいますが、この様な川を“天井川”と呼ぶ事は中学校の授業で皆さんも習った筈(はず)です。
そうすると堤防の内側の人工的な陸地や土砂の堆積で陸地化した場所の内で標高の低い所は、自然に標高が高くなる機会を失ってしまい、この様な危険な0海抜地帯が出来てしまう訳です。
東京都江東区の深川や越中島や門前仲町界隈の隅田川沿いなんかは0海抜地帯だらけなので、ありとあらゆる水路に防潮堤や水門が築かれていたりします。
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こんな感じの水門ですね。
多摩川や鶴見川下流の川崎界隈は、昭和の埋め立て工事以前から川崎市一帯は鶴見川と多摩川の土砂の堆積や江戸時代の埋立地の拡大で恐ろしい速さで海岸線が後退して行った様です。
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
※画像は小田原市の神奈川県立生命の星・地球博物館様が作成された縄文時代の海岸線の図をGoogle earthに重ね古代から存在する神社を表示した物です。
この画像で神奈川県域で内陸で白に塗られた地域が縄文時代の海岸線です。これを見ると橘樹神社や井田城址辺りの丘を除いて川崎市の中原区やや幸区や川崎区は古代には見事に海底だった事が判ります。
そして、古代に海底だった大河川の氾濫原に出来た平地は守備に不向きで築城には不適当な地形なので、古代の海岸線のリアス式海岸だった丘陵沿いに当たる井田の断崖の地に城が築かれた訳です。
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崖の上から住宅地の有る平地までは余裕で20m以上有るだろうか?傾斜角度も70°近いので甲冑を来た武者は登れなくて当然、健脚の農民や漁師ですら登る事は困難だろう。
そして目の前には矢上川が流れ、険阻な真に城向き地形をしている。
さて、この井田城址の神庭緑地内には城の遺構と思われる地形が土塁の他にも残っていました。
竹林は大堀切でそこから竪堀状に下に下っている地形に成っています。

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ここの説明から発掘調査には城郭専門家が加わっていなかったと推測出来るのですが、教育委員会の説明には空堀等の説明も無いんです。
まぁ、やっぱり発掘調査に神奈川県が例によって城郭の専門家を入れなかったんでしょう、宅地開発利権の為に。

さて・・・
以下は文字だらけに成りますが戦国時代の文書と江戸時代の文書の記録から、この御城に住んでいたのが一体誰だったかを予想してみましょう!同地は小田原所領役帳と言う文書に地名と武士の姓が登場します。
その小田原所領役帳には・・・
「拾(10)貫文 井田 沼上」
・・・と記録されている。
つまり姓が沼上で名は不記載の人物が治めたらしいですね。しかし新編武蔵風土記稿を読むと「中田加賀守の住した場所だった」可能性も指摘されています。しかし「世田谷の吉良家の与力だった」と否定的な見解も添え書きしてあります。
戦国時代に現在の川崎市域を含めた南関東一帯を統治した大大名の北条家ですが、この新編武蔵風土記稿を書いたのは北条家臣の間宮家の子孫の間宮士信です。つまり、新編武蔵風土記稿の内容は間宮家の認識と成ります。

この中田加賀守の所領も又、小田原所領役帳の御家中衆の小机衆の一覧に記載が有ります。
その所領は・・・
「拾壱(11)貫五百五十文 小机(領) 川島
 (※保土ヶ谷区~旭区の川島の地名の残る一帯)
 三貫八百七十文 小机(領) 矢上之内
 (※横浜市港北区日吉一帯)
           以上拾五貫四百弐拾文」
・・・と記載されています。つまり小机城を拠点とした小机衆の軍事管制域内だった様です。この地域を守備していたのが北条幻庵公や北条氏尭公と小机衆の拠点の小机城城代家老だった笠原信為公である事が判ります。
しかし、江戸衆の太田新六郎=太田康資公の所領にも中田領が登場します。
「一 太田新六郎知行
 (※以下中略)
   新六郎書立上被申員数辻 但此外私領之内を自分ニ寄子衆ニ配当候書立
 (※以下中略)
 稲毛(領)
 弐貫五百文 鹿嶋田借宿 中田分
 (※川崎市中原区刈宿一帯)
 同(稲毛領)
 小田中分 同人分」
つまり、中田さんは初期段階で太田康資公の直臣だった事が解り、江戸衆であった事も同時に解ります。
これ等の記載が登場する小田原所領役帳と言う史料は永禄二年(1559年)以後に編纂された物で、その資料の前後の期間の知行地に関しては不明。少なくとも1559年以後の数年間は中田加賀守は小机衆で矢上城に本拠地を置き井田には住んでいなかった事が判ります。しかし小田中は上小田中が蒔田吉良家の所領で下小田中が中田加賀守の所領なので御当地は吉良家の所領と接している事実も有ります。井田城と同じ川崎市中原区に存在する福聚山全龍寺と言う御寺は元々は蒔田吉良家の家臣が開いた御寺として有名です。
そうなると時代背景的に1559年頃の当主の吉良頼康公より以前の吉良成高公の頃の吉良家の版図と、吉良家が吉良氏朝公の代に世田谷城に拠点を移して世田谷衆が編成されているらしい史実を考えると、小田原所領役帳より以前か以後に中田加賀守が当地を治めた可能性は有る訳です。
若しくは沼上が中田加賀守の与力に編入され更に中田加賀守自身も吉良氏朝公の与力に再編されている可能性も有ります。
実は、この周辺は元々の戦国時代初期には太田家の統治下だった可能性が高く有ります。中原街道一帯~小机城址へ至る神奈川県東部沿岸部を太田家は自由に行き来していますからね。そして蒔田吉良家の所領だった横浜市南区蒔田と当時は蒔田湾(今の横浜市の吉田新田埋立地)を挟んで対岸の南区太田には太田道灌公の屋敷も存在しました。つまり江戸時代まで橘樹郡、都築郡、久良岐郡と呼ばれた川崎市~横浜市鶴見区~西区~中区~南区には太田家と蒔田吉良家の所領が入り乱れて存在していた様です。
そして蒔田吉良家の吉良成高公と太田道灌公が親友だった事も万里集九と言う禅僧の文化人が書いた“梅花無尽蔵”と言う文書から解っています。
だから太田道灌公の子孫の太田新六郎康資公の与力だった中田加賀守家は、安土桃山時代には勢力縮小していますが代々太田家の有力武将で奉行や代官の様な存在だった可能性が有ります。そして井田城の沼上家は旧中田家臣で太田康資公の謀反後に旧太田家臣団が小田原北条家の直臣や各軍団に再編されて行く中で中田家臣から北条直臣に分離され北条家親族に属す御家中衆に成り小机衆の与力に編入されたた可能性が有ります。

新編武蔵風土記稿には以下の記載が有ります・・・
「此所をいりの上と云。五町四方ばかりの間にかたち残れり。
 (1)されど何人の居城なりしことをしらず。
 (2)此所の土中より壺の形したるものおよび種々の陶器のかけたるものを出すことあり。
 (3)この所はもしかの北条の家人中田加賀守某がをりし所にや。されどその伝ふる処もなければさして知(しり)がたし」
・・・とどのつまり、江戸時代に中田加賀守と同じ旧北条家臣の間宮家の子孫の間宮士信が江戸幕府官営の昌平坂学問所頭取として編纂した新編武蔵風土記稿編纂時にも「中田加賀守が住んでいたらしい」と口伝は周辺の村民に伝わっていたけれど遺物が無く何の確証も無かったらしい事が読み取れます。
少なくとも北条家の最期には中田加賀守は本領の矢上(慶應大学日吉キャンパスを含む周辺一帯)に城を築いていた事が判っています。北条家臣団の研究で有名な盛本昌広先生の書いた論文にも中田家の事が詳細に紹介されていますで、興味が有る人は慶応大学に問い合わせて見て下さい。
さて、恐らく井田を領した沼上と言う姓の武将を含めて周辺一帯の武将の寄親(よりおや=上司)として中田隊みたいな部隊が編成されていたので、江戸時代の伝承が残ったのだろうと言うのが小生の推測です。
そもそも所領役帳で中田加賀守は”御家中衆の中の小机衆”つまり北条氏康公直臣として小机衆与力に編入されているので、間宮士信サンの間宮家に伝わっている認識は所領役帳以前か以後の話である証明にも成ります。でも、江戸衆の太田康資公の与力としても記載が有ります。多分、永禄五年(1562年)に太田康資公は北条家に対して謀反を起こしているので、その際に本来は太田家与力だった中田加賀守家も巻き込まれ川崎市~横浜市北部にかけて大勢力を持っていた代官だったかも知れない中田加賀守家は北条家による太田家懲罰に巻き込まれ代官を解任されたり所領を削られたりしたのでしょう。
その混乱が伺えるのが中田加賀守の所領が“御家中衆(北条家直属部隊)”と“江戸衆 太田新六郎知行”の両方の部隊に分かれて登場してしてしまっている矛盾です。江戸衆太田隊が解体され、部分的に小田原北条本家直轄部隊に再編成されている事が予測でき、その短い期間に起きた太田家謀反事件のせいで両方の所属が併記されてしまっているのでしょう。つまり現代に写し本が伝わる小田原所領役帳は1559年~少なくとも1562年以降の年間に渡って検地(けんち=武士の所得調査)が行われて纏められた文書だと言う事が判ります。当然、これ以降に新しい検地帳も編纂されたでしょうが現存していません。
因みに、横浜市港南区野庭に移住し北条家臣化した千葉県の臼井城主の千葉家支族の臼居家と言う比較的高貴な家には中田加賀守の姫が嫁いでいます。
つまり中田加賀守家は少なくとも元小大名クラスと対等の家格を有していた証明にも成るんだな。

尚、新編武蔵風土記稿の解説に振った( )の数字で区切った内容を解説すると・・・
(1)されど何人の居城なりしことをしらず。
→実際の所は誰が住んでたかワカンねぇ~よ(※江戸時代時点)。

(2)此所の土中より壺の形したるものおよび種々の陶器のかけたるものを出すことあり。
→ここの地下からツボの形したのとか色々な陶器が見つかるんだよね。
※実は井田城址は神庭緑地と言って古墳時代の史跡でもある。間宮士信さんが陶器と言ってるのは江戸時代には井田城址の古墳時代の墳墓群や住居跡が畑地化されていて古墳時代の須恵器の土器の破片や土偶を農民が良く見つていたのを報告として受けて記録したんだろう。

(3)この所はもしかの北条の家人中田加賀守某がをりし所にや。されどその伝ふる処もなければさして知(しり)がたし
ココは北条家臣の中田加賀守の居た所だったかもだけど、伝える処(根拠)も無いから、ちょっとしかワカンね(笑)。
・・・こんな解説をしてらっしゃいます。

野庭城城下の臼居家を紹介した記事も以前に書いているので良かったら以下のリンクから御覧下さい。
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●臼居家の御子孫が営むcafeを紹介した記事リンク→
野庭神社の位置 久良岐のよし
●臼居家の居館の裏に存在する鎌倉時代~戦後時代の野庭関城と、そこに近年まで存在した旧:野庭高校の実話のTVドラマを紹介した記事リンク→

中田家に話を戻すと、小生の推測では中田家は代々の当主が加賀守を名乗った可能性も有るので中田加賀守が一人だとは限りません。
そして中田加賀守は吏僚として活躍している事も判明しているので、最初は江戸衆の江戸城城代太田家の家臣だったのが太田家謀反後に太田家臣団が解体され北条家直属の御家中衆を経て、間宮士信サンの認識の通り再び蒔田吉良家の北条家臣化後の部隊再編に伴って世田谷衆とも言うべき吉良家与力に再編された可能性も高い訳です。そして、その頃の居城が慶応大学日吉キャンパス一帯に在った矢上城だった訳です。
井田城址の前を流れる矢上川の下流に矢上城は存在しており鶴見川の水運を運用するに非常に便利な場所でした。
余談ですが日吉キャンパスは昭和にも重要な軍事拠点化して、海軍の参謀本部として大戦末期に地下基地が築かれており、その空気孔が石原裕次郎さんの映画にも映り込んでいたりします(笑)。

とどのつまり、中田さんが統括した沼上さんの所領だったのが井田城周辺って小生の説が一番自然な訳です。吉良氏朝公の時代の話に繋がっていくか、北条氏綱公の頃の古い話って事でしょう。

さて、歴史は記録に残っている事や発掘済みの場所の史料だけが全てでは無い事が良く解るのが、この川崎の謎の城、井田城址です。

きっと皆さんの御近所にも御城の跡の山や御寺や神社が有る筈(はず)です。その城跡は神様や仏様が祀られて昔の善政を布(し)いた北条家臣団の領主が民を守った様に、殿様達は神様仏様を通じて今も皆さんを守ってくれているかも知れませんね。
そして神社や御寺や城山には今も緑が多く残る場所が有り、散歩するだけでも気持ちが良く成ります。
皆さん、是非、御城の跡や神社仏閣を散歩して先人の武将達に御礼を伝えてみませんか?
きっと殿様達も自分の名前を憶(おぼ)えていてくれる人がいる事を喜んでくれるでしょうし、皆さんも良い気分転換にも成る筈ですよ~♪

では、又、次の解説記事で御会いしましょう♪

ブログネタ
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品川の次の駅の東海道新幹線の乗車駅は新横浜駅ですが…
その新横浜駅に「篠原口」と言う出入り口があります。

実はこの新横浜駅、すぐ裏が「篠原城」と言う御城の跡なんです。
皆さんご存知でしたか?
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2014-01-26-11-51-59

…とは言っても、他の城の例に漏れず、神奈川県教育委員会はちゃんと発掘調査もしない内に宅地開発を容認し存在すらスルーしやがったせいで、この城も他の県内の城同様に消えかけています。
神奈川県は特に"戦史として或いは所有した大名達の家格からして"超重要な城跡が比較的多く有りましたが、それらの城址は今、篠原城と同じ様に神奈川県教育委員会が重要性の認識が足らず保護を怠ったせいで大部分が破壊されたか、或いは完全に消滅、又は最後の残存部が消滅しかかっています。

以下に列挙する城址は神奈川県下でも特に重要だった場所です。

衣笠城址…平安時代~鎌倉時代の鎌倉幕府有力御家人三浦家の本拠城址。
…関連記事リンク→「ココ

小机城址…鎌倉~戦国時代の城址。畠山重忠公子孫豊島家築城風魔忍者管理人北条幻庵公の本拠地。
…関連記事リンク→「ココ

青木(権現山)城址…足利尊氏公が築城し、北条家臣間宮家が籠城し、北条家五色備え隊の黒ぞ備え隊の軍団長で名軍師の多目元忠公が改修し城主と成った城。…関連記事リンク→「ココ 

蒔田城址…足利家の一門の高家、蒔田吉良家の本拠地だった横浜市南区の城。
…関連記事リンク→「ココ

永谷城址…関東管領上杉家筆頭四家の一家、宅間上杉家の本拠地だった横浜市港南区に有った城。
…関連記事リンク→「ココ

笹下城址…北条家武蔵国水軍を統括した間宮家の横浜市港南区~磯子区にまたがる巨大な城。
…関連記事リンク→「ココ

玉縄城址…城主は名将北条綱成公で鎌倉市大船駅近くの武田信玄や上杉謙信を撃退した名城。
…関連記事リンク→「ココ

小田原城址…戦国時代の北条氏の本拠地で、現在の小田原城は江戸時代に戦国時代の城址一部分だけを残し規模縮小された言わば徳川家に破壊された城址。元の城域は現在を遥かに凌駕する規模だった。
…関連記事リンク→「ココ 」 

石垣山一夜城址…豊臣秀吉による小田原北条氏攻めの本拠。木造建築物は消失しているが、石垣の保存状態は極めて良好。
…関連記事リンク→「ココ 」 

七沢城址と糟屋館…関東管領扇谷上杉家の初期の本拠地で相模国の政治の拠点だった伊勢原市に有った重要な城。
…関連記事リンク→「ココ 」 

岡崎城址…鎌倉期岡崎義実公が築城し、戦国時代三浦家の本拠だった平塚市~伊勢原市にまたがる城。…関連記事リンク→「ココ 」 


新井城址…戦国時代、四年間にも及ぶ籠城戦の舞台に成った三浦半島にあった三浦家最後の居城。
…関連記事リンク→「ココ 」 

…これらの城址の内、"保護されたのはわずかに江戸期小田原城・衣笠城址・小机城址のみ"で、それ以外は城址の体を成さない程に破壊されつくされてしまいました。
保護されなかった城址の内、破壊前にちゃんと調査された城は"岡崎城址・七沢城と、小田原古城"だけですが、小田原古城以外は全容が解明されず部分的な調査の後、宅地開発容認され破壊されています。

今回の記事で取り上げる篠原城は、"教育委員会の働き掛けではなく地元の有志の自主的な保護活動の結果残存しました!"ので、真、有志の皆様には頭が下がるばかりです。
この篠原城と同様に、地元の地権者の方々が土建屋の開発を阻止し続けて城址として今日に残った城が先述の「小机城址」と、その内にブログで紹介するつもりの横浜市都筑区のセンター南駅前にある「茅ヶ崎城址」、「大和市の深見城址」です。 


この篠原城址も放っておいたら教育委員会が調査もせずに完全消滅していた訳です。

さて、この篠原城址ですが、やはり既に大半は破壊されてしまっています。
しかし残存部以外にも周辺に城塞の人工的な地形の名残は見て取れました。

例えば城址に至るセブンイレブンの後ろの旧道… 2014-01-26-11-25-48
…とクロスする登城口であっただろう細い坂道の横に駐車場が有るのですが、丘の斜面を人工的に削り込んだと思(おぼ)しき地形が有りました。
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この壁面は笹下城の本丸の切岸や小机城の横堀、榎下城の大堀切に酷似しています。
斜度は60°以上あるかな?
恐らく駐車場に整地する際に、空堀の反対側の土塁壁は土建屋に取り払われてしまったのでしょう。
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   ↑
この上の写真を見た後で…
下の笹下城本丸跡と小机城の横堀と見比べて下さい。
   ↓

(小机城の横堀) 
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(笹下城本丸直下切岸と空堀址で堀の切岸片側半分が団地建設時に消失している。)
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(笹下城本丸跡、通称"ハゲ山")
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※2017年時点で三井不動産レジデンシャルの宅地開発により切岸一部破壊と本丸空堀は消滅。
笹下城空堀の様子 久良岐のよし撮影
※因みに笹下城は完全な空堀遺構が2014年まで成就院側に有りましたが、教育委員会が不可解に史跡認定せず破壊容認し宅地化されました。
現在残る本丸の切岸も保護されておらず、土建屋の開発に目下さらされております。

篠原城址現存部に至る最初の登り口の写真、この小机城と笹下城の写真と角度や高さもソックリでしょう?
どうやら室町時代に造(つく)られた関東流の城は、似た傾向がある様です。
山を削り込み兵を展開できる中国や西洋の城壁の様な構造にする築城法は、既に平安時代の衣笠城ににもありましたが、この横堀構造は室町時代くらいから始まるみたいですね。

室町時代後半の北条流に成ると、これに更に障子掘りなのどの超個性的な防御施設が加わります。
この篠原城は、恐らく江戸城を築城し、扇谷上杉家の執事(しつじ=当主の代理人)と相模国守護代(しゅごだい=県知事の代理)を務めた大田道灌公が小机城を攻めた頃に築城されたのだと思います。
つまり、戦国時代の初め頃ですね。
だとすると、小机城や笹下城と同時代の築城なので似ていて当然と言う事に成ります。

篠原城址の残存部分=本丸?に至る道すがら本丸直下と思われる場所の駐車場には、他の関東の城址と同じく元々この地域に昔から住んでた住民の方々が城址を鎮護する為に勧進したと思われる"稲荷神社"がありました。
関東人、こと鎌倉武士の時代から地元の殿様をリスペクトする習慣があった移民では無い神奈川県民は、よく自分が仕えた殿様の家と城址を想いこの様に御稲荷さんを祀って、自分達のルーツを忘れない様にしたんですね。
ですから長尾城址にも小机城址にも、同じ様に人の入らなくなった様な斜面にも稲荷神社が在(あ)ったりします。
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この坂道を上り右手に切れるた住宅地の中の林が、篠原城址の残存部分です。
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   ↑
うっそうとしてますが、これ、土塁と土塁の間の堀底道です。
手前の盛り上がりは曲輪(くるわ=兵を置く防御スペース)と曲輪を繋ぐ空堀にかかる土橋の跡ですね。
これは土橋を下から撮影。
   ↓
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篠原城は有力武将の居城ではないので規模は大きくありませんんが、恐らく隣の大豆戸城と同じ丘陵上で余り離れていないので"二城一体"で八王子滝山城と高月城址の様(よう)な構造だったのだと思います。

この御城の空堀は、恐らく往時の深さは2~3m程度、土塁の高さも2~3m程度合計4~5m程度の深さだったと思います。

篠原城単体ではセンター南の茅ヶ崎城と同程度の規模か、それ以下の規模だったと思います。
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すでに城址の大部分が破壊されて、もうほとんど全容が解らないんですが、有志の方が推定図を書いていますのでネットで探してみると良いと思います。

付近の航空写真はこんな感じです。
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写真左下の新幹線の走る線路の直ぐ上、駐車場の有る建物がセブンイレブンです。
そのセブンイレブンの有る十字路を左右に突っ切っている道が旧道です。
その旧道をつっきり写真上にいくと先に載せた「切岸と思われる斜面」に行きつきます。

新横浜駅のすぐ裏に城跡が有ると言うのは、歴史を全く知らない移民の方には結構衝撃的だと思うのですが…
さて、ここから文字だらけに成ります。

この城を守っていたのは

戦国時代に北条家がこの城を接収して以降、“篠原代官”として金子出雲守が配置され、その子孫は現在に至るまで篠原城址付近に住んでいます。


江戸時代の新編武蔵風土記稿を編纂した昌平坂学問所(東京大学の前身)の頭取、間宮士信(ことのぶ)公の祖先も小田原北条家臣で相模国十四騎筆頭の間宮家だったが、その同じ北条旧臣が編纂した「新編武蔵風土記稿巻之六十六橘樹郡之九神奈川領の中の篠原村」の項目に“小田原所領役帳”に金子出雲守の記載が有る事が紹介されている。

そこには篠原城の遺跡についても言及されており以下の様に紹介されている。


〇篠原村

-以下中略-

小名(こな:昭和の郵政法成立による住所改定まで使われれ番地に相当)

城山 北方の村境にあり、金子十郎の城跡なることは後に出せり

-中略-

古城跡

村の北の方にあり、金子十郎家忠の城跡なりと云、家忠居住の地は多摩郡金子村(現:調布市)の外にも所々にあり、恐らくは金子氏の子孫が砦のあとか、または当所の代官金子出雲が壘址(るいし:砦の跡)などと言わばさもあるべきか、今見るところ僅(わず)かに四五段許(もと)の芝地域は断崖の所ありてから堀の形も残れり(恐らくコレがセブンイレブン近くの駐車場や山頂の堀切等の事)。

-以下省略-


以上の様に、この記載を以(もっ)て篠原城址として当地が比定される確固たる証拠と成る訳です。


実際に小田原所領役帳の"本光院殿衆"の欄には以下の記載が有あります。

“小机 三郎殿。八百八十八貫九百五十六文”

-中略-

百十弐貫四百八十文

猿山。代官遠藤兵部衆

八朔。同小野與兵衛。

本江。同陰山又六。

篠原。同金子出雲。(←篠原城代)

さて、この本光院殿衆と言うのは、北条綱成(つなしげ)公以前の玉縄城主で北条氏康公の実弟、北条為昌(ためまさ)公に付けられていた与力衆の軍団です。これが後の小机衆の原型に成った北条家五色備えの内の“白備え隊”でした。
その軍団長は初期に置いては小机城代の笠原信為公でしたが、状況的に北条為昌公が旗頭だったようですね。しかし北条為昌公は若くして亡くなってしまいましたので、その後は玉縄城主の座を妹婿で義弟の北条綱成が継ぎ、小机周辺の軍団の大半は名軍師で為昌公の叔父に当たる北条幻庵公に引き継がれました。これが小机衆編成の切っ掛けです。
余談ですが、当時の北条家当主は北条氏康公ですが、先代の第2代北条氏綱公の時代には「家臣団から見て為昌公の兄君の北条氏康公が少し変な人だったのでマトモな玉縄城主北条綱成公を跡継ぎにしようとする動きも有った」なんて伝承が有りますが、これは北条綱成公でなくて北条為昌公の誤りでしょう。
北条為昌公の名前は重臣の笠原信“為”(のぶため)公と大道寺盛“昌”(もりまさ)公が後見人と成っていたので御二人の名前を一文字づつ頂いています。つまり重臣を従え長男差し置いてクーデターを計画出来るのは為昌公しかいない訳です。しかし、為昌公は早死にしています。
・・・小生はこれを兄の北条氏康公か叔父の北条幻庵公による誅殺だと推測しています。事実、2代当主の北条氏綱公の代まで厚遇されていた笠原家は、これ以降は給与も抑えられ出世コースから外れて行く事に成りました。
因みに現代では金子出雲守の大将だった北条為昌公の墓所は解っていませんが、小生は金沢区町屋の伝心寺が墓所だと推測しています。
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ここは為昌公の次の次の代の玉縄城主2代北条氏繁公が大永元年(1521年)に開いたと伝わり、その墓所とされる石塔も現存します。が・・・
これは記録が誤っていて北条氏繁公は天文五年(1536年)の生まれですので伝心寺を開くのは不可能です。実は歌手“ゆず”の地元の磯子区岡村町に“龍珠院”と言う御寺が在るのですが、其方(そちら)は伝心寺の末寺でした。
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元々は北条綱成公が支援し、その綱成公の子である氏繁公が本格的に御寺として開いた事が確認されています。ですので現在の伝心寺の伝承は、末寺の記録を読み違えて伝えてしまっている事が解ります。
では金子出雲守の上司、北条為昌公が伝心寺を開いたのかと言うと、それも違って伝心寺が開基された大永元年(1521年)に対して為昌公の成年が永正十七年(1520年)なので1歳で権力を行使する事は有り得ません。つまり、伝心寺を開いたのは為昌公の御父上の北条氏綱公と解ります。そして恐らく北条氏繁公の墓と伝わるのが行方知れずの北条為昌公の御墓なのでしょう。
つまり、御墓の伝承と末寺の伝承を過去の和尚様がシッカリ伝えていなかったのでゴチャゴチャに成った挙句、度重なる戦火で記録が無かったので混乱したまま現在に伝わっている事も解る訳です。
下の画像は金沢区が作成した金沢歴史地図上に当時から有る神社仏閣を表示した画像です。
金沢区昔の海岸線 久良岐のよし
当時の金沢区は白い部分全てが海で、鎌倉の玉縄城の相模湾側の港として機能し、そして平安時代末期には風景の美しさから観光地としても有名でした。
為昌公が“政治的に処罰された”と考えれば、玉縄城下の御寺に御廟所を設けるのも憚(はばか)られるので北条為昌公の旧支配地で玉縄からは離れた景色の美しい金沢に父上氏綱公が建てた御寺に為昌公が葬られるのはごくごく自然な事だと思います。
さて・・・
金子出雲守の上司の解説はここまでにして、篠原城の話に話題を戻します。

・・・篠原城は肝腎の城址としては大部分が宅地化で消滅しましたが、ここ数年前、奇跡的に残存部が破壊を免れ発掘調査されたので、現在も間宮士信公が私達に残して下さった記録の空堀の跡等を見る事が出来ますね。

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個人的な意見ですが、太田道灌公が小机城攻めの際に詰めた"亀甲山城"はこの篠原城の事だと思う。

城郭に専門家は余り知る人もいないが、古代の新横浜一帯は海に突き出した半島と“亀甲峠”と言われた場所で、浦島太郎伝説の有る神奈川区浦島町や日本武尊神話の残る六角橋から続く峠道であり、鶴見区東寺尾中台~神奈川区三枚町には亀甲山の地名が現在も残り、その三枚町は江戸時代まで三枚橋と呼ばれ古代に“店屋”と呼ばれていた事が判明している。この店屋と言うのは古代の駅伝制の中継基地の事である。
下の画像は緑色の部分が古代の陸地で白い部分は神話時代の海だった低標高地域。
亀甲山推定範囲と城址の位置 久良岐のよし
※画像クリックすると拡大します。
画像の中央部が太田道灌公が攻めた小机城、その直ぐ右手東側が篠原城。

確かに、こうしてみると鶴見~神奈川区にかけての半島の形は亀の背中の様に見えなくもない。
つまり、この「鶴見区東寺尾中台~古代の半島一帯の広大な範囲が嘗ての亀甲山」と呼ばれていた事が解り、その峠越えの中継基地の古代の港が三枚町と六角橋に有った事が解る。
その証拠に、この旧亀甲半島の尾根には師岡熊野神社~六角橋の宝秀寺~神大寺~と延喜式外社や古刹寺院と旧跡、そして交通の要所である旧街道の入口を抑える丘の端に多くの城址群が存在しています。

古代の街道を太田道灌公は江戸から攻め上って来て、現代と異なり亀甲山と言われた地域の中でも店屋地区に近い場所にある北条政権下では篠原城と呼ばれた「亀甲山の城」を小机城攻めの付城にしたのでしょう。

尚、日本城郭大系では古代の茅ヶ崎城側の鶴見川対岸を古代に亀甲岬と呼ばれたので亀甲山城と名前の類似性から推定しているが、開発前に遺構が微塵も記録されていないので、これは誤って場所を推測してしまったと思われる。何せ亀甲山は神奈川区側なのだから。

それに対岸側に本陣の陣城を置くのは非常に問題が有る。
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※小机城残存部の推定縄張り復元図
当時の鶴見川は河川工事前の激流な上に流路が小机城の真下を流れていたので、太田道灌隊が小机城を攻めようとすると毎回危険を犯して鶴見川を渡り、退却の度に川を渡る時に追撃されてしまう訳だ。

流通遮断なら大曾根城と篠原城と茅ヶ崎城と佐江戸城と榎下城で十分だし、敵の補給と退路を断ち城を捨てさせて炙り出すには篠原城か大豆戸城に居た方が海へ出る事を阻害し鶴見川下流の港を押さえるのに都合が良い訳だ。
小机城包囲と城址の位置 久良岐のよし
更にこれより西南の西区、中区、南区は当時は完全に太田道灌公と同盟者の蒔田吉良家の勢力圏だったので小机城に籠城した豊島勢の残党は南や西には逃げられない。
道灌隊が行軍した際に在陣した道灌森も神奈川区側に有る。道灌森と言うのは、陣城にしていた現在の神大寺旧跡の場所の事なのだが、道灌公は江戸から進軍して来る際に、鶴見区海側から神奈川区域に入り亀甲山の尾根伝いに神大寺に入り陣地を構築し、篠原城や大豆戸城を攻略して港北区域に侵入した事が解る訳だ。更に御丁寧に佐江戸に陣城を築城させて小机城を完全に取り囲んでしまった訳なんだな・・・


まぁ、そんな事を考えながら文献読んだり現地訪問すると発見もあり楽しい訳だ。


・・・皆さんの御近所にも、必ず!こう言う文献から昔の英雄達の行動に推測を巡らす事の出来る御城の跡は沢山有るはずです。
なんせ神奈川県や東京都や千葉県や埼玉県の方々なら、鎌倉武士の本拠地の鎌倉がすぐ近所で、それぞれの町に鎌倉御家人が住んで居た訳ですしね。
まして!
この関東沿岸部一帯は古代から素戔嗚尊(スサノオウノミコト)が国を開拓したり、神武天皇が城を造りたいと言ったり、日本武尊が遠征に来たり、平安時代に醍醐天皇の命令で平良文公が鎮守府将軍として赴任して来ていた訳ですから。

今まであんまり歴史に興味の無かった皆さんが、もし!この記事を読んで下さったなら…
是非、これを機に、ご近所の御城を散歩してみませんか?

神奈川県鎌倉市のJR大船駅駅から、近くも無く遠くも無い位の距離に神奈川県民から「大船フラワーセンター」の俗名で呼ばれる植物園が有ります。
正式名称は「県立フラワーセンター大船植物園」なんですが・・・
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・・・2017年の3月初旬現在、“玉縄桜”と言う早咲きの「桜と梅が満開で同時に見る事が出来る」珍しい場所でもあります。
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昨年、母が子宮癌を患い、築地市場近くの国立がん研究センター病院に入院し子宮摘出手術を受けたのですが、小生は鎌倉市浄明寺地区の浄妙寺で淡島大明神を参拝し母の子宮癌平癒の祈願をした上で淡島大明神の御守りを買って母に渡していたのですが、結果として手術は成功し転移も無かったので、母の体力が回復した先月末に母を伴って御礼参りに行って来ました。
浄妙寺は昔から「婦人病治癒、女性の味方の神様」の「淡島大明神を祀る御寺」として「御婦人達の崇敬を集めていた」歴史を、たまたま横浜の殿様の間宮家と宅間上杉家の顕彰活動を通じて訪問した事で知っていたので、その様な行動をした訳です。
その帰り、幼稚園の頃に母と来たのが最初だった大船フラワーセンターに立ち寄って来ました。
この直ぐ近くの龍寳寺にも用事が有り、ついでと言うか、丁度“玉縄桜”が満開に成っているのを知っていたので見てきました。
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玉縄桜の名前の由来は、この直ぐ近くに戦国時代に存在した玉縄城と言う難攻不落の城の在った地域名に由来します。
玉縄城は上杉謙信10万の大軍、武田信玄2万3千の大軍の攻撃を城兵3000で防衛し、2回とも敵軍の上杉勢や武田勢を撤退させた堅城でした。
この城を守っていたのが小生が個人的に尊敬している北条綱成公で、その綱成公の率いる部隊は「玉縄衆」と呼ばれ軍旗等の軍装を黄色で統一した部隊で別名「黄備え隊」と呼ばれた軍団でした。
この黄備え隊の副将が、小生が顕彰活動をする殿様の一人である間宮康俊公でした。
間宮康俊公の姫は徳川家康公の側室と成り子を産んだ於久(おひさ)様、そして嫡孫は徳川幕府の但馬奉行や佐渡奉行を務め金山銀山経営で他の鉱山奉行と比べ物に成らない程に功績を残された間宮直元公でした。
直元公は大坂城外堀や真田丸の埋め立てを家康公に立案した名軍師でもありました。
そんな玉縄衆の気概を名前に受け継いだ風流な桜が、この玉縄桜な訳です。
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黄備え玉縄衆は、関東の覇者、北条家の中で重要な合戦には必ず参戦し先陣を切って戦ったり、最前線での苦難な籠城戦を防衛し切ったり、他の部隊の追随を許さない功績を挙げ常に前線で戦う部隊でしたが、玉縄桜も河津桜同様に先頭を切って満開に成る品種でもあります。
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今、正に大船フラワーセンターでは、この玉縄桜と植樹された様々な梅を同時に見る事が出来ます。
園内手前の方には玉縄桜の他に、「おかめ桜」も遊歩道に沿って数か所植林されています。
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この桜、名前は純和風ですが、実は桜観賞の文化に惚れ込んだ英国人の植物学者イングラムさんが英国に日本の桜を数種類持ち帰って混合させ生み出した品種なんです。
つまり人間に例えると日系英国人留学生って感じでしょうか(笑)?
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ハッキリとしたピンクが目鼻立ちがシッカリした英国人女性の様ですね。
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そして日本と同じ海洋国家で近代日本の随一の友邦だった英国の桜らしく、戦国時代関東最強の北条綱成公の城名をとった玉縄桜同様に先陣を切って咲く凛々しさも持ち合わせています。
う~ん・・・
解る人には解るけれど、桜版の戦艦金剛かな(笑)?
さて、大船フラワーセンターは牡丹や蓮も有名なのですが、今は季節ではないのでそのエリアを通り過ぎて一番奥の方に行くと色んな種類の梅の樹が植えられた並木道に出ます。
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小生が訪れた先月2月末は枝垂れ梅が見事でした。
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多分、今時分は更に見頃に成っていると思います。
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このエリアにも玉縄桜が有ります。
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綺麗でしょ?
どうです?
ちょっとお散歩に行ってみませんか?
この他にも孟宗竹や唐竹等、色んな竹を植えた小規模な竹林や・・・
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台湾原産の紅葉ばふう。
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そして、小生が気に入っている場所がもう一つ有り・・・
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熱帯植物の温室です。
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いくつかの部屋を円形に配置して分けてあり、多種多様な植物を見る事が出来ます。
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完全に外国人ぽい花・・・
人の顔も違えば花の個性も同じ様に原産国で変わるんだなぁ~とか考えるのは小生だけでしょうか?
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可愛らしい花も有れば・・・
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毒々しい色の奴もいたりします。
見ていて飽きません。
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蓮の仲間の展示エリアにはメダカみたいな魚も沢山泳いでいます。
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わざわざ下田とか行かなくても、実は大船駅周辺にこんな場所が有るって、今の若い子達は知らないんですよ。
きっとバブル世代の親は若い頃に、こう言う植物を愛でる様な育ち方をしていかなったので自分達も子供達に植物を愛でる文化を伝えたり出来ない人が多いのかも知れないですね。
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小生は、玉縄桜と梅と、このエリアが御気に入りです。
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あと、部屋で育てる鉢植えの植物も温室に展示されています。
温室の先、一週回って入口近くには盆栽を展示したエリアも有ります。
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小生、この黄梅と言う品種を知りませんでした。
一瞬「蝋梅」かと思ったら違うらしいです。
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盆栽もユックリ見ると良いもんですね!
しかし子供にはツマラナイかも(笑)。
ここはちゃんと子供が来て御腹が空いても平気な様に、フードコートが無い代わりに移動式店舗が数店営業しています。
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小さい子に植物見せるだけとか、ちょっとした「苦行」をさせる様なもんですからね(笑)。
小生も幼稚園の頃に担任の先生や親なんかとここに来ても全く楽しく無かったですから。
大人になって、段々小さい頃に見せて貰った物の美しさや大切さが理解出来る様に成ると、ふとした切っ掛けでそこを再訪したりするもんなんですよ。
だから、今小さい子がいるパパやママさんは、ここに子供を連れて来て御散歩して欲しいなぁ~とか
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こう言う小さいなパンジーも子供の時に見ておくと、大人になって再訪した時に当時の記憶として思い出したりするもんなんです。
親は自分より早く死にます。
でも、親が見せてくれた物を大人になって見ると、親の事も思い出して感謝も出来るって思うんです。
実際、小生が幼稚園当時の記憶で一番覚えていたのは、このパンジーと入口の花時計でした。

実は大船フラワーセンターこと県立フラワーセンター大船植物園は今年2017年7月で一旦閉園します。
そして改装後、2018年03月31日の再開予定なんです。
つまり、早咲きの玉縄桜を見るチャンスは今回を逃したら2年後に成ってしまう訳です。
今幼稚園の子も2年たったら小学生、そうなると親と一緒に遊んでくれなく成ったり習い事が大変で時間が無くなったりしますよね?
デートで来たいカップルも、2年後は結婚して子供が生まれていてとてもじゃないけど外出する余裕が無いかも知れない。
それに今の大船フラワーセンターの春の姿を見られるのは、今だけです。

ですから皆さん、是非、大船フラワーセンターへ行ってみませんか?

【県立フラワーセンター大船植物園】
住所:〒247-0072神奈川県鎌倉市岡本1018
電話:0467-46-2188
アクセス:駐車場有り
(徒歩)大船駅西口観音側下車16分
(バス)大船駅西口バスターミナル1番のりばから、神奈川中央バス「渡内経由藤沢駅行」または「公会堂前経由城廻中村行」、「岡本」下車徒歩3分
県立フラワーセンター大船植物園の地図 久良岐のよし
では皆さん!又、次の記事で御会いしましょう!


戦国時代の久良岐郡森村(横浜市磯子区中原)には泉蔵院桐谷寺と言う御寺が在ったのですが…
その御寺は正確には仏教ではなく源頼朝公が鎌倉時代に開いた修験道の道場でした。
戦国時代に成ると北条家臣で川崎~神奈川を治めた相模十四騎筆頭の間宮家が、一時的に川崎~神奈川を失陥して、現在の磯子区杉田~峯~田中~洋光台~港南区笹下に跨る地域に移住して以降、間宮家の鎮守の御寺として泉蔵院は間宮家から支援されました。
そこは頼朝公が熊野三所権現の御分霊を那智大社等から勧進して開かれた霊場だったので、泉蔵院の御住職は代々、今の和歌山県の那智大社や熊野大社等と交流があり、支援者だった間宮家は泉蔵院のつてで熊野詣(もう)でも行っていた様で以下の内容の文書が現代に残っています。

熊野先達泉勝檀那注文(米良文書)神3下ー六七一八
この文章に登場する間宮与七郎さんが誰か、現代には元服(成人)後の正式な名前が伝わらず、与七郎と言うのは昔の風習で元服する前に名乗った字(あざな)と呼ばれる幼名と言うか立派な大人としての名前じゃない名前です。
ですから、この与七郎さんにもきっと立派な名前が本当は有ったのだと思いますが、これが間宮家の誰と同一人物なのか現代ではサッパリ解らなく成ってしまっています。
小生は、この与七郎さんは間宮隼人で、その子が間宮元重公で、間宮隼人与七郎さんは早くに亡くなり、遺児の元重公を間宮康俊公が引き取って実子の様に育てたのではないかと推測しています。
そして、この間宮与七郎さんは江戸時代の地理学者で御庭番だった間宮林蔵こと間宮倫宋公の御先祖様と推測しています。
さて、上の文章は古文書を小生がWordで再現した文章です。ですから写真ではありません。
上の文章で「武州久良気之郡❝杉田❞郷」と出て来ます。
実は、この時代の杉田の「杉」の字は現在と異なり特殊な字体だったのですが、それを知らない低教養な近現代の学者や出版社の編集者が活版印刷にする際に「❝杉❞を❝松❞と読み間違えて字を誤植したまま出版」してしまったせいで、現代の学者さんも「松田郷」と書かれていると思い込んでしまっています。
賢い学者さんは書道の教養が無くても「おかしいな?」と気が付く様で、論文で「泉蔵院が間違って書いてる」と少し的外れですが字が間違ってる事をちゃんと指摘したりしています。
アホな学者は全く気が付かず、そのまま丸写しにして恥ずかしげも無く本に転載しています。
さて、今、小生が丸写し学者をアホ扱いしましたが、それは彼らが二次資料や三次資料を恥ずかしげも無く丸写し転載した挙句、歴史バカのコミュ障で実際に殿様達の御子孫や関係者に取材をしないから一次資料の確認もしておらず、小生が指摘した「松田✖」→「杉田〇」の様な間違いに気が付けないからです。
ハッキリ言って、素人の歴史オタクの小生を下回る調査能力と知能、そして歴史センスの無さで学者をやってる人は大勢いるのが、小生はたったこの3年間で良く解りました。
きっと、彼等は民間企業に就職していたら使い物に成らない様な人材だと思います。
さてさて、そんな中でも書道の知識が無くとも「松田」と言う活版印刷の書籍に誤って写された字が「杉田」だと気が付いた先生もいて、その人はきっとIQも高いしコミュニケーション能力も高い人物なのだと思います。
正直その先生の論文は、小生が最初の頃に間宮家の顕彰活動で御手本として大分、役に立ちました。
でも、その先生は書道の知識が無かったのと、間宮家の御膝下の現地まで行って関係者への取材までは行っていなかった様で、何で近現代の❝バカな官僚❞や❝歴史ガクシャ❞か❝いい加減な出版社❞の誰かが「杉田」の字に「松田」の字を誤植したか、その理由までは解らなかった様です。
その杉田〇の字を➡松田✖と読み間違えた理由、小生はとある人物の御好意で見せて頂いた古文書で知っています。

現代では本で読む字は全て楷書(かいしょ)と言って一文字々々々が単独の字で表現されていますよね?
実は、戦国時代~江戸時代の文書は今と違って、殆どが草書体です。
そして草書体には様々な字体が有り、戦国時代~江戸時代の❝久良岐郡杉田郷❞の地名として杉を書く場合は少し特殊な❝祥南書体❞と呼ばれる草書の書き方を元にした字体で書かれていました。
下は某寺の和尚様から御厚意で見せて頂いた古文書です。
写真撮影も個人的な信頼関係で許して頂けて保存して有るので皆さんに御見せして解説したいと思います。
戦国~江戸時代の「杉田」の字体。 久良岐のよし
御覧の通りですが、杉の書き方が現代の共通語での漢字の書き方とは字体が異なります。
これ、書道の知識が無いと「松」に見えても仕方がないんです。
恐らく下の小生がタイピングした文章の原本の杉田の「杉」の字体も上の写真と同じだったと思います。
熊野先達泉勝檀那注文(米良文書)神3下ー六七一八
それを受験勉強しかしてなくて教養の無かった昭和中期の・・・
❝国土交通省地理局の官僚❞
     か
❝本の出版に協力した歴史学者❞
     か
❝出版社の編集者❞
・・・その中の誰かが「杉」と読めずに「松」の字を誤植してしまったんだと思います。
昭和の出版物のミスに気が付いたのは「盛本昌広」先生と言う武蔵国~相模国の戦国時代の郷土史研究の第一人者です。
小生は勉強も嫌いで❝アフォ❞で❝バカ❞ですが、たまたま先人に対するリスペクトが強い事、そしてアホな行動範囲で気軽に活動する事、実際に現場に行って確かめないと気が済まない事、昔の人と同じ様に和尚様や宮司様を師として尊敬している事、自分より人間的に賢い人と話すのが大好きな事、歴史オタクな事から「お勉強」としての歴史では無くて実体験として、この「松」の字の問題に気が付きました。
無論、盛本先生の感には感服しており、知識的にも精神的にも研究の御手本にしております。
沢山、学者に直接会いに行ったりしましたが、まだ会った事のない盛本先生が一番熱心に研究して、古文書を書き写す段階のミスにも気が付いている様です。
・・・もっとも、小生も盛本先生が気が付いて無い部分もいくつか気が付いていたりしますが、ハッキリ言って小生の知識は偏りが有りバランスが悪く、とてもじゃないけれど学者には成れない所詮は歴史オタクの範疇を脱しないド変人歴史オタクです。
まぁ、歴史偉人の顕彰活動での熱意は学者共に負ける心算は有りませんがね、感情に任せて行動していますから。

まぁ、このブログ記事を見て「何を一文字の間違いに気が付いて偉そうに」と思った学者がいたら、「オメェ~素人の俺以下だから学者辞めちまえ(笑)」って言うしか無いですね。
だってね、寛政重修諸家譜って幕府編纂の武家の家系の記録や、新編武蔵風土記稿って地理と歴史と文化を纏めた本は、活版印刷に置き換える際にアリとあらゆる場所に字の誤植が有るんですよ。
特に元号ね。
天文〇→誤植→天正✖とか・・・
壱〇  →誤植→堂✖とか・・・
特に、草書体を読めない書道の教養が無い歴史バカ学者や出版社編集担当が誤読誤植しまくってるから。
更にそれを丸写しにして誤りにも気が付けないガクシャ先生もいたりして、もはや現代の歴史関連出版物は間違いだらけ。
ガリ勉でない人が好きで知能が高い先生や、虚栄心が無く本当に先人をリスペクトしていて現地を訪問する先生だけが間違いに気が付くみたいです。
小生の様に偏った知識を上回る知識を全体的広範囲に深く持っている本当の歴史顕彰家も兼ねた学者さんは人間的にも尊敬出来ます。

とりあえず、本を出版する時に関係先の御寺や神社や御子孫に、挨拶もしない様なガクシャは大体が研究態度が不真面目で、その手の誤字に気が付けない、年号の誤りにも気が付けない位の注意力の低さだから親戚同士の武将が叔父と甥の年齢が同世代に成ってしまう誤りに注釈いれないまま本に書いたりして恥をさらしていたりします。

なんだかなぁ~。
小生は3年、御偉いセンセイ方は40年以上一体、何をやってらしたんでしょう・・・
とりあえずさ、一次資料も読んでいない学者は先ずは、自分の研究している武将の御墓参りから始めろやボケ!

・・・って愚痴と、出版物の誤りの指摘でした。

戦国時代の北条家の家臣として活躍した間宮家は、江戸時代に間宮於久(おひさ)さんが徳川家康公の側室と成った事、それまでの活躍から徳川将軍家の直臣となり更に活躍したました。
しかし、徳川幕府の御役人に仕事が出来ない方々がいて系図を誤記したり検証をせずに誤った記載をして後世に混乱を与えている事柄が少なく有りません。
現代の学者の中にも人の書いた物を丸写しにするタイプの方が、この誤りを検証せずに誤記を丸写しにして結果的に恥をかいている事も多く、そう言った事が今後減ればとの思いから、根拠と成る資料や写真を掲載しながらここに少しづつ、史料文献と現代の書籍で判明している誤りを訂正しておこうと思います。
忙しいので少しづつ更新し掲載します。
特に寛政重修諸家譜は編集した役人の質が悪かった様で様々な誤編纂、誤字が多く有る上に恐らく入道号=法謚と戒名の違いすら理解してないと推測出来ますので、そのまま引用する資料にする場合は気を付けて下さい。

【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
            &
【間宮康俊公と間宮信俊公が同一人物の可能性との指摘】
            &
【間宮信元公の別名盛頼の使い分けの謎】
既に以下の内容は間宮家顕彰文のプロットで同様の記載をして数カ所の寺院に配布していますのでコピペ無断盗用はネタバレしますので御注意。
『寛政重修諸家譜 巻第四百三十三 宇多源氏 佐々木庶流 間宮の252項内誤編集』

●間宮康俊公の戒名
寛政重修諸家譜で間宮康俊公の戒名を「今の呈譜に宗閑に作る」としていますがこれは誤編集です。
前の寛政譜で「宗覚」と戒名の一部分が掲載されていますが、こちらが正しい戒名に近い物です。
‟新編武蔵風土記稿橘樹郡下末吉村寶泉寺”の項目正しい戒名の記載が有ります。
「今本堂二位牌アリ表二当寺開基間宮豊前守殿堂宿宗覚庵主
・・・この新編武蔵風土記稿の記載が正しい入道号として採用するべき物です。
しかし、これは俗名で戒名では有りません。極めつけは既にこの時点でも位牌の紹介するべき表と裏を見間違えている上に、その本来裏面の入道号も一字読み間違いが発生しています。新編武蔵風土記稿に書かれている「間宮豊前守殿‟堂”宿宗覚庵主」の「堂」は「壱」を書き間違えたか読み間違えています。
名を入道号と区切る場所も繋げて書いてあり後世に混乱を残す記載の仕方です。もっとも、その原因は徳川幕府の役人だけでなく、そもそもが江戸幕府旗本笹下間宮4代目当主の間宮正次公にも責任が有ります。それを説明するには、先ず寶泉寺の実物の位牌の話をしなければ成りません。
この寶泉寺は近年祝融(中国の火の神、転じて火災の比喩)に遭い本堂を全焼した際、この記録に残る位牌の戒名の元に成った康俊公の入道号として壱宿宗覚庵宿が登場する文書の康俊公の参禅問答の記録は焼失してしまって現存しないそうです。現在の本堂も再建された物です。
しかし、寶泉寺第二十五世祖道秀一大和尚が火災前の記憶を記した‟寶泉寺縁起”にも康俊公の法謚(ほうし=入道号)として壱宿宗覚庵主が登場します。
寶泉寺の火災前の戒名の記録と伝承によれば、間宮康俊公の入道号は‟壱宿宗覚庵主”とされており新編武蔵風土記稿の記載と整合性が高いものです。さらに戒名も位牌によって伝わっており普光院殿壱宿宗覚大居士とされます。つまり間宮士信公が記録したのは、この位牌の表面の戒名の普光院殿壱宿宗覚大居士ではなくて裏面の生前の名としての入道号の説明である間宮豊前守殿 ‟壱”宿宗覚庵主で、更に壱と堂を誤記か誤読している訳です。
そもそも戒名に‟間宮豊前守殿”なんて苗字と日本の官途名を全て含んで付けないのが一般的な上、当時の常識として・・・
仮に官位と官途名を含んだ戒名にする場合、正一位関白→相国一品、近衛~→羽林=御林~
・・・上記の様に中国の官途名で名付けられます。これについては京都市上京区の阿弥陀寺や東京都世田谷区の豪徳寺等に行って歴史偉人に日本の歴史発展を築いて下さった感謝を表しに御線香を上げに行くと良く解る筈(はず)です。
そもそも院殿号で‟殿堂”と言うの異質で奇抜で有り得ません。
‟⚪⚪寺殿”もしくは‟⚪⚪院殿”なら貴族武将の戒名として成立します。
上記の‟日本地誌大系記新編武蔵風土記稿”は、間宮一族で昌平坂学問所で総裁を務めた‟間宮士信(ことのぶ)公”によって編集されています。
つまり間宮一族で当事者である士信公が間違える可能性は‟誤字脱字”と位牌の‟裏面見間違え”による生前入道号と戒名の取り違え以外は極めて低い訳です。だから康俊公の入道号と戒名は宗覚が含まれるが正しい。
寶泉寺は安土桃山時代~18世紀の長きに渡り、毎年、間宮家臣団によって間宮康俊公及び累代殿様の法要が行われていた寺院で、間宮信冬公の開基、間宮康俊公の中興寺院です。
事実を元に判断するとこうなります。
康俊公の隠居時の入道号が‟間宮豊前守殿 壱宿宗覚庵主”で戒名は‟普光院殿壱宿宗覚大居士”だった訳です。
対して寛政重修諸家譜は幕府編纂です。
宗閑が戒名として採用される謂(いわ)れは、康俊公のもう一つの菩提寺の宗閑寺が御息女の於久の方の要望で徳川家によって開基された際に、康俊公の戒名を調査した幕府の役人が間違って康俊公の御父君である信元公の戒名と思われる普元院殿武月宗閑潔公に繋がる入道号の宗閑間宮家か関与した寺院で一番有名な弘明寺から探して来て誤ったまま引用し寺名とした可能性が非常に高い訳です。
寛政重修諸家譜では信元公の実名を‟某”とし法名を‟光林”としていますが、間宮家は北条家臣化以来歴代の入道号に‟宗〇”を名乗るのが伝統なので、この‟光林”は雅号を幕府の役人が誤って戒名として記載したと推測出来ます。更に、宗閑の法名の初出新編武蔵風土記稿‟久良岐郡本牧領弘明寺村蓮華院”の項目で記載有る‟弘明寺の扁額”の絵図に登場します。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
※現物は明治期の廃仏棄釈の被害で行方不明。
この扁額は大永元年(1521)年に奉納された物で、「本願宗閑同伴衆」と明記されています。つまり宗閑の法名を使う武将の与力衆が奉納している物に成ります。
間宮康俊公は天正十八年(1590)年に73歳で討死している事から、当時の日本人は数え年で年齢を計算しましたので生年は永正十五年(1518年)と解ります。宗閑の入道号が康俊公の生前の物だとして、当時3歳の康俊公が入道し更に多くの部下を従えて弘明寺に扁額を奉納するのは極めて不自然な訳です。
●間宮信元公の戒名
この事から、普元院殿武月宗閑潔公は信"元"の"元"の字が含まれる事からも康俊公の御父君の間宮信元公の戒名と推測が成り立ちます。江戸幕府の役人が徳川家康公の愛妾だった於久の方からの要望で康俊公の菩提寺を建てる際に、誤って弘明寺に記録されていた間宮信元公の戒名を記録して帰ったと考えられます。
当時も今も、役人の仕事には不手際が多かった様です。
以上の事に気が付いたのは、間宮家研究の第一人者である盛本昌広先生の著作‟間宮家由緒の形成”で当該の絵図に関する奉納期日の記載が有った事、そして寶泉寺第25代住職祖道秀一大和尚様の著作‟寶泉寺縁起”を現在の若様より頂いた事、そして先日他界された間宮家臣御子孫の市村氏から引き継いだ間宮家顕彰の熱意を合わせて諸先輩の記録と記憶を繋いだ結果です。
※以下は完全に推測の域を出ない事柄※
●間宮康俊公と間宮信俊公が同一人物の可能性

三島市側の箱根山中に在る山中城址には、間宮康俊公達の墓碑が在り以下の様に刻字されています。
北条氏直公幕下忠臣(徒←判読困難)
普元院殿武月宗閑潔公之
間宮豊前守康俊七十三歳
圓誉宗覚居士
康俊舎弟監物
天正十八庚寅年三月二十九日
依山中城落城為秀吉公討死
教誉宗〇(←存在しない字)居士監物嫡源十郎
檀主 間宮三郎兵衛尉正次為(師←判読困難)
開基 間宮(〇〇←判読不能)
山中城址間宮家廟所 久良岐のよし
※画像は山中城址の間宮家の御廟所の碑文です。
※上記の様に書いて有りますが、部分的に小生の撮影した画像では判読不能なので解読した方は小生まで御連絡願います。
この墓碑を建てた間宮正次公は本牧奉行を歴任した間宮家の嫡流で康俊公の4代後の子孫に当たり、兄君の間宮正信公の養子に成り家を継いだ人物です。
①間宮直元_②忠次_③正信_(兄弟)_④正次_⑤次信
御覧の通り、墓碑には幕府編纂の系図上の康俊公の弟に当たる監物こと間宮信俊公の戒名が中心に大きく彫り込まれており、不可解な墓碑と成っています。これでは重要な人物は圓誉宗覚居士こと監物信俊公で信俊公が惣領の様に成ってしまいます。しかも監物信俊公の戒名には寛政重修諸家譜以前の、寛政譜や寶泉寺に伝わる康俊公の入道号として伝わる‟宗覚”の二文字が信俊公の戒名として彫り込まれています。
実は新編武蔵風土記稿の弘明寺村蓮華院の項には、弘明寺の扁額以外にも間宮信俊公が修理した花瓶の絵図が記録されています。
新編武蔵風土記稿弘明寺の花瓶 久良岐のよし
間宮監物修理之
天正拾八年庚子二月吉日
・・・天正十八年二月、つまり山中城で間宮康俊公が討死する直前です。この監物は一般的に間宮信俊公を指すとされる官途名です。
間宮家は祖先が佐々木家で、佐々木家は鎌倉時代に真言宗の信徒でした。一方で北条家は曹洞宗の信徒で大半の家臣も公人としては曹洞宗を信仰し、それと別に祖先以来の宗旨も大切にした様です。
例えば間宮康俊公の嫡孫で初代の本牧奉行を務めて間宮直元公は壇林として有名だった横浜市南区の寶生寺を支援していますし、間宮家嫡流歴代の殿様も笹下城下に在る寶生寺の末寺の東樹院を支援していました。
間宮康俊公の‟康”の字は、主君の北条氏康公から一字拝領した名前です。
仮に北条家臣だった時代に、寺院の宗旨によって公私で名を使い分けていたとするならば、以下の謎も解けます。
曹洞宗  伝承名   他寺院  伝承名
宗三寺  間宮信盛  寶泉寺  間宮信頼
宗三寺  間宮盛頼  笹下地区 間宮信元
寶泉寺  間宮康俊  弘明寺  間宮信俊
間宮信元公の名は系譜に登場するが、寶泉寺の末寺だった川崎の宗三寺では盛頼と昔から伝わり、笹下の浄土真宗系寺院では間宮信元と伝わります。
更に間宮信盛公の名が宗三寺より早く間宮家と関わりの有った寶泉寺では間宮信頼と伝わります、これは末吉に間宮信盛公が居た時代は未だ大森家由来の間宮信頼を名乗っていて、後に川崎に赴任した頃に伊勢盛時(北条早雲)公から一字拝領して間宮信盛と改名したと推測が成り立ちます。
曹洞宗寺院で盛頼とされる信元公の名が笹下の浄土真宗系寺院に伝わっているのは、間宮家が鎌倉公方の旧臣であり、鎌倉公方の足利持氏公の子である古河公方足利成氏公の家系は浄土真宗寺院と関係が深く有りました。
一方で室町幕府と関係の深かった北条家は室町時代に高田派を除く浄土真宗寺院と敵対関係でした。
信元公の時代は室町時代です。
笹下東福寺と間宮家の関係は信元公の時代には疑問が有りますが、江戸時代に高田派に属している成就院は、そもそも戦国時代に弾圧を免れる為に高田派だった可能性も有り、であれば関係上は室町幕府幕臣今川家臣北条家与力間宮家としても問題が無いので当時から関係が有ったと檀家衆に伝わる伝承にも信憑性が有ります。いずれにせよ、笹下城址の成就院も東福寺も曹洞宗の寺院ではないので盛頼ではなく信元の名で関わりを持っていたのでしょう。そして恐らく真言宗の弘明寺や東樹院とも信元の名で関わっていた筈です。
当時の北条家は今川家臣(従属大名)でした。時期的には間宮家の当主が権現山合戦直前の信冬公だった時代に当たります。
この宗旨の問題と関連の有る間宮家の寄親の変遷を読み解くヒントが新編武蔵風土記稿に紹介されています。

新編武蔵風土記稿の‟舊家者百姓利兵衛”の項に登場する旧間宮家臣の内田對馬(つしま)サンと言う人物は永正5年三月二日:西暦1508年4月11日に他界していると解説が有った上で、この屋号が古門の内田家に発給された感状の記載が以下の様に紹介されています。

今度稀有之走廻就致之候、従御大途御褒美、自分之面目手前にも外聞にも候間、親子共受領官途申之付者也、仍如件、
 寅三月廿八日     信親(花押)
      内田對馬とのへ
      同源左衛門とのへ 
  
ここで登場する‟間宮信親”名で感状が発給されたのは旧暦寅年(永正6年)三月廿八日:西暦1509年04月27日と解り、それ以前の戦功に対しての恩賞だと解ります。
そして、この論功行賞まで1年間のタイムラグが有るのは、大きく三つの要因が考えられます。
①今川家の論功行賞の遅れの可能性。
今川家の為に北条家が三河遠征を数年間に及んで行ったものの、松平領の切り取りには成功していない為に、恩賞を巡って今川家と北条家の間で論功行賞に関して交渉が行われた可能性。そして結果的に北条家とその与力衆に対して領地の恩賞が与えられる状況では無かった。更にはこの感状発給の前年に今川家と北条家の関係を悪化させる時代が発生している為に所領恩給は無く、止む無く両属の士であった間宮家には1年後に今川家より官位が与えられた可能性が高い。
これが一番、現実的な可能性と思われる。
②根本的に内田對馬の過去帳を管理している東福寺に不備が有った可能性。
東福寺と最古の檀家で本来の大旦那の北見家自体の伝承と東福寺の証言ですら喰い違いが多く有るので、この東福寺に因る誤記の可能性は高い。過去帳紛失による再発行での混乱等も有ったかも知れない。その根拠として寺寶であった梵鐘すら江戸時代には消失していた始末。そもそも、浄土真宗の寺院が戦国時代当時に高田派以外の浄土真宗を弾圧していた足利幕府の家来の北条家の統治下で、寺院を運営出来ていた可能性は低い。古河公方足利家の統治時代ならば足利成氏公と浄土真宗の関係性から信憑性は有るが、残念ながら内田對馬は1508年に他界した人物なので、北条家統治下の笹下で東福寺の運営が行われていた可能性は低い。更に新編武蔵風土記稿内で太子堂として紹介されている場所は再建中と間宮士信公に証言しているが、そここそ古来、北見掃部家の墓所であったので縁起の信憑性に疑問が残る。
北見家発祥地についても、太子堂の管理についても北見一門と東福寺で揉めた経緯も有る。
管理しているはずの情報が北見家一族自体と異なる事例がこの様に有る事から、内田對馬の没年にも誤差が有る可能性は高い。。
③古門内田家の子孫による偽作の可能性。
そもそも、古門内田家は間宮家最古参の家臣故に、寛政重修諸家譜に登場しない間宮宗甫の所領とされた紺屋領分(西浦賀)の屋号を持つ分家の紺屋内田源次郎家も存在する。
古門内田家は内田対馬守家と内田源左衛門家が両方昭和初期まで存在した。源左衛門家は昭和期に破産し競売に掛けられ失踪し現当主は不明。
感状に登場する内田對馬と、その子の源左衛門の子孫と思われる屋号が両立すると言う事は、源左衛門が亡父の功績により官職を得たのではなく、亡父の嫡子と源左衛門が、それぞれ官職を公私で名乗れる官途状を与えられている事が解ります。つまり偽作の可能性は低く①の可能性が強くなると推測出来ます。
しかし、偽作とすれば間宮士信公は怪しい物は紹介しなかったり、間宮家との関係を捏造して評価を得ようとした神社などの書いた存在しない間宮の殿様の名前に関しては敬意を表さず容赦なく「某」として捏造者の主張を全く紹介していません。よって、信親は実は誰か思い当たる節が有る物の、北条家臣として一番古くに関わった寶泉寺にだけ伝わる間宮信盛公の別名間宮信頼、宗三寺に伝わる間宮信元公の別名間宮盛頼の様に、間宮家の主替えの歴史を憚って、間宮信親が誰かを特定出来ない形で紹介していると推測出来ます。
間宮士信公は散々、自称松田家の偽書と思しき文書等も見ている筈なのに紹介していないので、やはり本物と判断して掲載したと思われます。
尚、この古門内田家の家格を計る物差しとして、内田家が旧蒔田吉良家重臣の森家に養子を出した歴史が有るが、足利一門蒔田吉良家の家老クラスの重臣に養子を出せる意味は誰でも解る事。両者江戸時代に帰農しても現代に至るまで大地主や名刺だった事実も、その家柄を物語っています。

問題の寛政重修諸家譜に登場しない間宮信親公が書いた感状の内容は大凡(おおよそ)ザックリ以下の通り・・・
今度稀有之走廻就致之候、従御大途御褒美、自分之面目手前にも外聞にも候間、親子共受領官途申之付者也、仍如件、
 寅三月廿八日     信親(花押)
      内田對馬とのへ
      同源左衛門とのへ 
「今回の功績を(間宮家の更に上司の今川?の)大殿様から評価されて、(内田サン)親子両方に官職を与えられるよ。」

・・・感状の発給者は間宮信親公とされていますが間宮士信公は、この信親と言う人物を敢えて‟俗称等詳しならず”と、この信親と言う名が公称だった事を示唆する注釈を添えています。つまり主君から名を一字頂いている可能性が有ります。
これは当時は恐らく正式に北条家臣では無く、間宮家は今川家臣だった事を暗に示しており、主君替えの不義理な名前を誰の当時の名前かと特定出来なく伝えているのだと思います。
そして、この信親と当時は名のっていた人物は世代的に間宮信冬公か間宮信盛公に当たります。
間宮信盛公は別名を間宮信頼と伝えられています。恐らく先に使用していたのは間宮信頼の名でしょう。
間宮家は北条家臣と成る前には古河公方家臣だったので、古河公方有力大名で隣接する大森藤頼公の与力武将だった事が笹下間宮分家竹内家の系図で解っています。つまり、間宮信盛公は北条家以前の上官だった大森氏頼公か子の大森藤頼公から一字拝領して間宮信頼と先に名乗っていたのでしょう。
同時に、この時期に間宮信元公も間宮盛頼と名乗っていた筈です。
当時の大森家は扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家に従属していました。
  ↓
その後は今川家の重臣の伊勢(北条)家の伊豆占領時に間宮家は今川家臣化し、伊勢家与力と成った。
※一般的には、この時点で北条家臣と成ったとされているが、古河公方家臣であり今川家臣北条与力で大森家の与力でもあったと考えられる。
この時期の伊勢家と大森家は友好関係に有り共に大森家の上司に当たる古河公方足利家の代行者たる扇谷上杉家に協力しています。
所が大森藤頼公が扇谷上杉家や今川家の敵である山内上杉(やまのうちうえすぎ)家に内通する事件が発生します。
これが伊勢盛時(北条早雲)公が小田原城を横領する大義名分と成り、文亀元年(1501年)に扇谷上杉家公認で裏切者の大森藤頼公を奇襲し以後、小田原城は扇谷上杉家の協力者、今川家臣北条家の支城と成り、二代氏綱公の居城と成ります。
恐らく、この時期に間宮信盛公か間宮信冬公が大森家と手切れをして主君と成った今川氏親公から一字拝領して「間宮信親」と名乗っていたのでしょう。
間宮信盛公の別名は寶泉寺では‟信頼”と伝わっているので、‟信親”の名を使用した可能性が有るのは間宮信冬公だった可能性が高い
  ↓
間宮家の寄親(よりおや=上司)、伊勢盛時入道宗瑞公は今川家の大将として三河国安祥城を永正三年(1506年)~永正五年(1508年)まで攻めています。
1508年で今川家が三河侵略を停戦しているのは、この年に上司であった征夷大将軍の足利義澄公が失脚し足利義稙(よしたね)公が将軍の座を奪う形で就任し、政局が混乱した為でしょう。
この合戦の討死か合戦後か、永正5年三月二日:西暦1508年4月11日に他界しています。
  ↓
この功績に対して行われたであろう感状の発給が1509年4月27日に行われています。ですから内田對馬サンの死後1年後に論功行賞が行われたのでしょう。
この感状では永正五年まで実は間宮信親公は三河安祥城攻めでの戦功に対して御大途(大殿)から内田對馬と子の内田源左衛門に対して下賜された官位を与えている事が解ります。
当時の今川と北条の関係性を考慮して、この感状の「御大途(大殿)」は今川氏親公、恐らく北条は「殿」又は「御館」と呼ばれていたのでは無いかと思いますが、北条早雲公現役の頃の感状をまだ拝見していないのであくまで推測です。
領地では無くて官位が褒美だったのは、今川家側の敗戦で領地が拡大出来なかったからでしょう。
しかし、この1509年以降北条家は今川家から独立し、二代目の北条氏綱公が姓を北条に改めて伊豆国と小田原支配の正当性を主張しなければいけない事件が起きます。
  ↓
伊勢家は九代将軍足利義尚公や大御所の足利義政公、日野富子の家臣として今川家の家督相続混乱の収拾に派遣されています。
義尚公の政策と敵対する行動をした堀越公方足利政知の血族者は敵に当たります。
しかし足利義尚公の没後、将軍職を継いだのは応仁の乱で足利義尚公と対立していた足利義視の子の足利義材や堀越公方の子、足利義澄公でした。
足利義澄公は日野富子や早雲公の本家に当たる政所執事の伊勢貞宗公の支援の下で将軍に就任しますが、足利義政公・日野富子・足利義尚公親子・伊勢貞宗公と対立した足利義材によって将軍の座を奪われてしまいました。
足利義材は名を足利義稙(よしたね)と替え将軍に復帰しますが、北条早雲公にして見れば敵勢力に当たる上に、それまで今川家臣として活動していた伊勢家(以下北条家とする)の伊豆国と小田原支配の正当性が、足利義稙政権下では無くなってしまいます。
更に同年1509年に北条早雲公の甥で主君の今川氏親公が足利義稙に完全に臣従し伊勢家の敵である義稙政権を支持する事で駿河守護遠江守護を認知される事件が起きました。
事、ここに至っては、北条家は今川家臣で有り続けると西湘地域と伊豆国支配の正当性を失い返上を命令される可能性も有りました。
  ↓
結果的に大名として力を付けていた北条家は今川家から独立して、領地支配の正当性を持つ必要が有り、同族で嘗ての鎌倉時代の支配者である北条家の名跡を継承して関東支配の正当性を主張して行く事に成ります。
間宮信冬公が間宮信親の正体かは確定する資料が有りませんが、仮に信親が信冬公の使った名前だとすれば、信親の名を捨た時期は、この今川家と北条家が手切れに成った時期でしょう。
間宮家は北条家に与力する事で西湘の二宮地区にも所領を拡大していたので、北条家に臣従し家臣化する事は当然の流れと言えます。
しかし旧主今川氏“親”公の「親」の字を頂いた名前を、今川家と手切れした後も名乗れる筈も無いので、以後は系図からもこの名前が消されたのだと推測出来ます。

これらは間宮家の武将の名前が、常に主家或いは間宮家自身の同盟関係、つまり扇谷上杉家与力の鎌倉公方旧臣大森家と今川家の影響を受けて変化している事が見てとれます。  
そして、本来の名前と、北条家臣としての名前も関与する御寺の宗派によって使い分けていた推測出来ます。
要点を纏め、改めて間宮康俊公の戒名の問題に話を戻すと以下の様に成ります。
①北条家臣時代の間宮家の当主は神社仏閣に関わる際に、公人と私人で名を使い分けていた。
公人・・・北条家臣として禅宗寺院に関わる際は主君から一字拝領し改名した名前。
私人・・・間宮家の祖先歴代が使用した「信」の字を含む初名、或いは族名として信の入る別名を使用した。
②曹洞宗以外の真言宗の弘明寺や他宗派に関与する際は信盛公は信頼、盛頼公は信元、康俊公は信俊をそれぞれ使用していた。
③入道号:宗覚 
間宮家の親族と家臣団は、生前からの間宮康俊公の入道号を(一宿)宗覚(庵主)と公然の事実として伝わっており、討死前から入道号が間宮豊前守殿(堂×→壱〇)宿宗覚庵主と名付けられていたので戒名を‟普光院殿壱宿宗覚大居士”として菩提を寶泉寺で弔われていた。
④入道号:宗閑
ところが御息女の於久の方が徳川家康公に、父の菩提寺の建立を要請した所、武蔵国に派遣された役人は康俊公が最後に御関わりに成った真言宗の弘明寺で調査を行った。ところが監物信俊公の名は有れど、当然、康俊公の名前は出て来ず又、同一人物とも気が付かない。結果的に、一番近い時代の記録として残る扁額に残る宗閑の記録か扁額と同時代つまり康俊公の一世代前の信元公の戒名を康俊公の戒名と断定し宗閑寺を造営してしまい、間宮家へは事後報告と成った。
⑤問題発生
徳川家が‟葵の紋”を寺紋として下賜して下さった上に、既に造営された宗閑寺の寺名に取り違えられている戒名の問題を指摘する事は、家臣の間宮家としては徳川家康公の側室と成っていた‟於久の方”や外戚として但馬奉行本牧奉行と成っていた‟間宮直元”公の立場を悪くする可能性が有るので、間宮家一門も家臣団も当然、徳川家に対して間違いを指摘する事は不可能。
本来ならば宗閑寺の寺名は普光院宗覚寺でないといけない訳ですが
しかし間宮家が徳川幕府に対して「入道号が‟間宮豊前守殿 壱宿宗覚庵主”で戒名は‟普光院殿壱宿宗覚大居士」です!等と訂正と寺名変更を申請する事なんぞ出来る訳も無く、止むを得ず両方の戒名を使う事にした。
徳川家のメンツを潰さない為に、幕府に対しては弟の名として康俊公の別名である信俊を使用し宗覚とした。
⑥更に問題悪化
間宮康俊公から4代後の子孫で、数えて5代目当主と成った間宮正次公は嫡子では無く死んだ兄の後を継いだ方です。兄が早世して自分が跡継ぎに成った事を不吉に思いたったのか山中城址の宗閑寺で祖先康俊公の追善供養を行って写真の墓碑を建立しています。
山中城址間宮家廟所 久良岐のよし
一見すると右から徳川家に造営された宗閑寺の寺名由来と成った戒名を優先している様で、実は寶泉寺や新編武蔵風土記稿に間宮康俊公の道号として伝わる‟宗覚”を使用した戒名が中心に据えており間宮家臣団と康俊公が直接かかわった寶泉寺で使用された戒名を主に弔っている刻文に成っています。
そして、徳川家に失礼に成らない様に、佐々木一族間宮家として真言宗寺院に関わった際の名の「信俊」を舎弟の名とする事で幕府に感づかれない様に粉飾したのではないでしょうか。
⑦正次公の善意の追善供養が後世に混乱を残した。
寛政期に幕府によって武士達の家系図が作成される際に、最初に間宮家から提出された物が最初の寛政譜だと思われます。しかし、間宮家の宗覚の戒名だけでなく恐らく他家でも幕府のメンツを潰す似た様な問題が有り幕府の誤った記録に基づいて訂正されたのが寛政重修諸家譜なのではないでしょうか?
その寛政重修諸家譜には、間宮正次公が本来は同一人物の信俊公と康俊公を分ける事で幕府の戒名取り間違えに対応した通りの家系図が作られてしまい、それが後に関八州古戦録等でも当然の様に山中城の戦いの記録に2人の人物名が登場してしまい、別人格として誤った系図が形成されて行ったのだと推測が出来ます。
・・・その後、間宮家は間宮正次公は突然、本牧奉行職を辞任したり所領を笹下や末吉から房総半島の印旛郡と安房国長狭郡の地方に転封左遷されているのは寛政重修諸家譜を御覧に成っている皆さんも知る所ですが、着目すべき所は間宮正次公の戒名も宗の字を含む‟宗淸”に成っている所だと思います。
やはり間宮信元公の戒名が光林と言うのは徳川幕府役人の誤植でしょう。
因(ちなみ)みに、皆さんも違和感を御感じに成られていると思いますが間宮信俊公の系図は以下の通り、間宮家有名人物の名前ばかりが登場します。
間宮信俊__間宮源十郎
     |   (弟、綱信公の字)
     |____間宮光信_ _ _間宮正信(三郎九朗、間宮直元公二男)
                                   (養子)
この信俊公の家系の系図の不可解さは、信俊として別人格に分けてしまった康俊公を、子孫の間宮正次公の代で帳尻を合わせて血統上で同一系統に戻せる様に粉飾した結果なのではないでしょうか?
そして、実在した御実弟の‟源十郎綱信公”の名前を登場させて子とする事で、普元院殿武月宗閑潔公の戒名が信元公の戒名で有る事を示唆する暗号とした。ところが、時代が下ると嫡流も傍流もこの事を口伝で伝承させる前に当主が早死にするケースも養子縁組で上手く行かないケースも発生し、更に一族は奉行職を辞して神奈川周辺を離れ家臣団との関係も菩提寺との関係も希薄に成り、結果的に時代時代に家系図を記録する習慣等当然無いし、移住する度に菩提寺も変えて来たので多くの間宮一族の中で後世には誤った記録だけが残ってしまった。
そして実際に各時代の菩提寺にも行かない、又はそれぞれの分家の子孫達に取材もしない学者達によって寛政重修諸家譜の丸写しが多発し混乱に拍車をかけているのが今現在と言う訳です。
〈康俊公戒名問題のまとめ〉
●恐らく普元院殿武月宗閑潔公の戒名は宗閑の入道号の初出年代から間宮信元(盛頼)公のものと思われる。
●間宮康俊公の入道号は宗覚で間違いない。
●間宮豊前守殿壱宿宗覚庵主は位牌の裏面生前名が表面として紹介されている。
●間宮家と家臣団が追善供養で使用した生前の入道号を重視した戒名は普光院殿壱宿宗覚大居士。
※以下は推測。
●恐らく間宮家は北条家臣時代まで曹洞宗と他宗旨の寺院で公私名前を使い分けていた。
●間宮信俊公と康俊公は同一人物の可能性が有る。
●宗閑寺の墓標の圓誉宗覚居士は恐らく隠居時の入道号フルネーム一宿宗覚庵主と没後の戒名の普光院殿壱宿宗覚大居士が暗号化された戒名で、目的は宗覚の字の入った戒名を墓標の忠臣に据える事で康俊公の入道号を宗覚と暗示する為。そして、御父君信元公を上位とする為に右列に普元院殿武月宗閑潔公の戒名を据えた。
●普元院殿武月宗閑潔公を信元公の名と示唆する為に、宗閑寺の墓標には‟教誉宗〇(←存在しない字)居士監物嫡源十郎”として康俊公の御実弟、源十郎綱信公の字(あざな)源十郎を使用し謎解きの暗号としている。宗〇と存在しない字を用いているのも本来の綱信公の戒名の字を書かないで済む様にしている意味が有る。
これが全ての真相だと思います。
以上、久良岐のよしに由(よ)る謎解きと解説でした。 

2016年11月26日は関東南部の平野部は絶好の紅葉狩りの1日と成った。

本来なら小生は早朝4時に友人のO型君と横浜市中区を出発し、伊勢原市の大山阿夫利神社の御神体である大山に山登りに行って紅葉のライトアップを見るか、あきる野市の秋留野渓谷に紅葉を見に行くはずだった。
前日の25日、小生にO型からメッセージが届いた・・・
「明日どうする?」
・・・と。
だから❝予定は早朝から出発、雨天なら世田谷豪徳寺か三渓園って1週間前に決めてあったろ~が!❞と思ったが、何かO型君が遠出を面倒くさがってそうなので「築地にセリを見に行かないか」と改めて新しい提案もしてみた。
O型:「英会話の予約9時に入れたから早朝は無理。」
何で予定入れるか!と思ったが・・・
小生:「あ~朝から動くの嫌なんだな」
・・・と思い、英会話優先して貰う代わりに貴重な休日を半日何もしないのは勿体ないので本日はO型君と別行動にして貰い、小生は1日個人行動をする事にした。
O型がちゃんと準備して紅葉を見に行く気が無いのなら、単独行動で別に人の多い日曜日じゃなくて小生は定休の水曜日に一人で行けば良いからね。
個人行動にしたので、今日は行かない心算だったが母の所に顔を出す事にした。
でも母の病院に行って築地で食事して終わりでは味気無い。
そこで思い付いたのが下の訪問先・・・
2016年11月26日訪問先位置関係
旧泉蔵院~弘明寺~寶泉寺~築地の拉麺屋❝若葉❞。
「そうだ!まだガラケー以来、デジカメで写真を撮影していなかった間宮家関連の神社仏閣を高速道路を使わずに巡りながら、築地まで下道で行こう!」
・・・と言う思い付き、これなら早朝出発し、午前中丸々と有意義に時間も使えるし築地の食事以外無駄遣いもしないで済む上、午後は病院に行ける。
で、出発の前に早朝に一仕事。
母も入院しているので自分の洗濯物3日分を、自宅洗濯機では洗わずコインランドリーでさっさと洗って、その足で出発する事にしたのが午前5時半くらいだろうか?
家じゃ夜中に洗濯機回せないし、コインランドリーだと大型洗濯機で洗濯して乾燥機で直ぐに乾くから便利だ。
まぁ、1回の洗濯に拉麺1杯と同じ700円かかるのは微妙だけど、時間を700円で買ったと思うと有意義だ。
コインランドリーでは洗濯を待つ間は缶コーヒーを飲みながら間宮家関連の古文書のコピーを読んでいた。
そうこうしていると、直ぐに洗濯➡乾燥が終了。フカフカで気持ち良い!
便利だなデカい乾燥機。

最初の訪問先は小生の住まう久良岐郡内に在った物凄く由緒正しい大寺院の❝跡❞、つまり廃寺に成った御寺の旧跡。
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その場所は現在では住宅地に成っている。
鎌倉時代は山崎泉蔵院と呼ばれ、源頼朝公が鎌倉のどの寺院よりも深く崇敬した修験道の寺院だった。
在る時期に戦火に捲き込まれて(恐らくは和田合戦か新田義貞の鎌倉乱入のどちらか)、鎌倉の山崎から道場の在った久良岐郡森村(磯子区中原)に移転して来た。
何故(なぜ)ここに移転したかと言うと、泉蔵院の山崎泉蔵坊は源頼朝公の命を受けて、この場所に熊野那智大社から熊野権現の御分霊を勧進したのだ。だから、この泉蔵院跡の熊野権現や屏風浦の森浅間神社は泉蔵院の支配地で、転居するのに便が良かった。
頼朝公の亡き後も、九条将軍や親王将軍の歴代から崇敬を集めた。
そして戦国時代には北條家臣の相模十四騎筆頭、間宮家から保護をされた。旦那が間宮家の頃に房総半島の里見家の海賊に略奪された歴史も有ったりする。新編武蔵風土記稿によれば、間宮家の奉納した太刀も寺宝に有ったようだ。
しかし明治政府の宗教政策神仏分離令と1村1社政策の失敗によって多くの神社仏閣が日本から消え失せたのと同じく、この磯子区中原に移転した泉蔵院も当時の僧侶が僧籍を捨て宮司に成った際に、社地確保の為に止むを得ず泉蔵院を廃寺にした上で更地にして頼朝公が勧進した熊野権現の名を熊野神社に改めて、神社としてだけ存続するしか無かった。
つまり、明治政府は水戸学と言うカルト宗派の影響を強く受けていたので、歴代天皇達が信仰した権現様の存在も山伏達の修験道も存在を弾圧した訳だ。
明治政府は概ね、外交と商業工業では日本の発展を成功させたが、日本文化を急速に弱体化させた罪は重い。
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ところで、この旧泉蔵院の宅地には修験道の道場だった頃の自然が一部保存されていて、緑地帯に成っている。
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余り歩く人も多くなさそうだが・・・
熊野神社の参道は、宅地化によって泉蔵院の頃とは恐らく違う、若干斜めに付けれている。
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ここは規模が大きい訳では無いが雰囲気が良い。
宅地化されたとは言え、背後に中原緑地が残り、鎌倉文化らしい谷戸地形に在る神社(元は修験道の道場)なので、早朝の凛とした空気と合わさって清浄な空気が漂う。
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ちゃんと、明治時代に泉蔵院を廃寺にして熊野神社だけを残して宮司に成った初代の宮司様は、歴史を残す為に境内社に泉蔵社として名前を一部残している。
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ここは(修験道の)寺院だった時は湧水地で修業の場として栄えた場所だった。
鎌倉幕府が滅亡して戦国時代には、横浜市南部の殿様で間宮林蔵達の祖先だった間宮家の殿様一族が深く信仰し、泉蔵院の山崎泉蔵坊泉勝は熊野那智大社に大旦那(スポンサー)として間宮与七郎と同平那隼人佑達を報告している。
小生はこの間宮与七郎こそが間宮林蔵の祖先に当たると推測している。間宮林蔵の祖先は間宮康俊公の子とされ実名は伝わらず間宮隼人とだけ官途名が伝わる。間宮与七郎も元服後の名と官途が伝わらず、字(あざな)だけが伝わっている。しかし部下と思われる同 平那隼人佑と記載される人物の官途が隼人佑なので、この部下に隼人佑の官職を授けれれると言う事は律令制度の隼人正(はやとのじょう)の官職を代々世襲した家系だろうか?
間宮一族は北条家中でも一番、鷹匠としての教養も備えた集団だった。間宮林蔵公の家系は鷹狩りに造詣が深かったと伝わる。
この間宮与七郎の名が登場する文書の年代は天文八年(1530年)なので、間宮康俊公は当時12歳で有る事から康俊公とは完全に別人だろう。恐らく、父の間宮信元公の字は伝わっていないので、この信元公本人かも知れない。若しくは信元公の兄弟か、名が登場する年代から康俊公の従兄くらいの関係だろう。
つまり、間宮林蔵の祖先が間宮康俊公とするのは誤りの可能性が高いが、少し惜しい外れで、正解はその父の間宮信元公の世代か康俊公の年長親族が間宮与七郎公が一番有力な祖先の候補に成ると小生は思っている。そして、間宮元重公の実父なのでは?とも思う。

泉蔵院の熊野権現への参詣を7時半頃に終えて、次は弘明寺に移動した。
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弘明寺と言うと京浜急行や横浜市営地下鉄の駅名や地名と認識されがちだが、元々は無畏三蔵法師と言うインド人の高僧が聖地と定め結界石を配置した場所に天平九年(737年)聖武天皇の時代に行基大僧正が開山と成って造営され後に天皇家の悪病平癒の勅願所だった。更に後の弘仁五年(814年)には弘法大師空海和尚が当地にて護摩を焚かれた記録が有る。
ここには新編武蔵風土記稿に❝弘明寺❞の字を建長寺の高僧玉隠が揮毫した扁額の裏面には奉納者達の名前が載っていて中心に❝本願宗閑同伴衆❞と刻まれ以下に同伴衆往嶋道徳面々の名も刻まれている。
同伴衆と言うのはつまり与力武将や家臣の事だ。道徳と言うのは臨済宗の入道号だな。
間宮家の家臣団の多くは、生前から入道号(禅宗修行僧としての名前)や、屋号を名乗る者が非常に多い。
そして屋号に川崎市由来の名を持つ者も多く、例えば間宮信親(信冬公と同一人物と推測)から感状を与えられている屋号が古門の内田対馬守の同族に、紺屋の屋号を持つ内田家がいる。紺屋と言うのは間宮家の旧本拠地の川崎の地名だ。
そして、その川崎の紺屋の地名の由来は三浦半島浦賀港西岸一帯の嘗ての地名の紺屋町の筈だ。
西浦賀(旧紺屋地区)は間宮家の所領だった。その紺屋を屋号に持つ紺屋内田家は現在も笹下城跡近くに住んで居て、近年までアパートを経営し、そのアパート名すら紺屋荘だったので小生は間宮家臣内田家のこの文書を読み古門内田家を探しに笹下を散策した際は、ものの3時間程度と直ぐに紺屋内田家を探し出し、そこから古門内田家と、高津間宮の間宮正秀公の遺骸を印旛郡高津村(八千代市高津)まで届けた源左衛門の祖先とおぼしき内田源左衛門家の足跡も探し出せた。
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❝本願宗閑同伴衆❞と扁額に書かれているそうだが、この宗閑と言うのは実は、間宮康俊公の戒名として現代に伝わる名だ。しかし扁額の奉納は大永元年(1522)年であり整合性が無い。3~4歳の間宮康俊公に同伴衆の大人が10人以上も連名で扁額を奉納するとは考え辛い。
実は間宮家は、近親ですら系図上で親や祖父、従兄弟の名や戒名を間違えて伝えた結果、寛政期の家系譜作成で同一人物と思しき人物の初名や改名後の名と思われる物が数人分有ったりする。
小生は、この弘明寺の扁額の記載事実から実は間宮康俊公の戒名が宗閑と伝わるのはそもそも間宮一族による事実誤認だと思っている。年代的に宗閑の戒名は康俊公の父の信元公の物であるべきだ。
恐らく康俊公には戒名が無かったのを、娘の於久の方が父の菩提を旦那様の徳川家康公に弔って貰う際に、誤って弘明寺に記録の在った祖父の入道号を父の入道号と事実誤認して以降、間宮信元公の入道号だった宗閑が、間宮康俊の戒名として後世に伝わってしまったと可能性が高いと推測している。
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何でこんな可能性を指摘するのかと言うと、弘明寺の寺宝だった花瓶にこんな文が書かれているそうだ。
「間宮監物コレを修理 天正十八年(1590年)二月吉日」と。この間宮監物と言うのは間宮家の寛政期の系譜上では間宮信俊と言う人物とされているが、小生の推測では間宮康俊公と同一人物だろう
❝信❞の字は間宮家の出自である近江源氏佐々木家の通し名であり、弘明寺の宗派真言宗は佐々木氏の本来の信仰する宗派である事から、北条家臣として主君北条氏康公から賜った❝康❞の字を使う間宮康俊の名と佐々木一族として神社仏閣と関わる際の間宮信俊としての名を使い分けていたのだろうと思う。
北条家では曹洞宗に帰依する事を家法とされていたので当然の事だと思っている。
つまり、康俊公が戦死した際に娘の於久様が父の近々の事績の残る寺院で父の戒名と成る入道号を知らなかった娘の於久さんが間違て調べて来てしまったか、後に追善供養を間宮正次公が行う際に誤って弘明寺の扁額に有る宗閑をもう一世代前の間宮信元公の戒名の可能性を考えずに間宮康俊公の戒名としてしまった可能性が高いと考えられる。
娘の誤解のせいで根本的に間宮康俊公には入道号も戒名もまだ現代に至っても実は無いままなんじゃないだろうか?
こう言う事が間宮一族には多過ぎる。
常に前線で戦う事を求められた一族だったので戦死者が多すぎて、一族内でも祖先達の氏名を間違えて追善供養を行ってしまったりしている。
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しかもよりにもよって、弘明寺の僧侶たちは歴史的な知識が欠如しているのか、この扁額をどっかにやって新調してしまったようで改めて訪問したが「弘明寺」と書かれた扁額が見当たらなかった。
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歴史を知らない神主や和尚が、宮司や住職に成ると起きる悲劇がここでも起きたのかも知れない。
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何はともあれ、弘明寺は巨大寺院だったのだが、こちらも明治政府の弾圧によって境内地が大規模に接収されてしまい、現在の弘明寺商店街と京浜急行電鉄の線路と駅が建設されてしまった。だから、現在でも普通よりは大きい規模の御寺では有るが、一時は無住職に成り廃寺の危機に陥った。
真言宗と修験道を崇拝した源氏の源頼朝公は度々、この弘明寺を参詣した。妻の北条政子も港南区の野庭関城の下の鎌倉街道下道を通って弘明寺を訪れている。或いは夫婦で参詣したのかも知れない。
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だから北条政子木像が有ったり・・・
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頼朝公を始め鎌倉武士が軍神として信奉した弁財天様が祀られれいる。
弘明寺で僧籍職員を質問攻めにしたが、全く歴史知識が欠如していて寺院を保護して下さった歴代の壇那様に対する感謝も無い。
むしろ、清掃していた事務員の方が詳しい始末。
僧侶がそんな事では御寺を維持するのは難しいだろう。その破滅の一歩が扁額の紛失かも知れない。
ちゃんと自分の御寺の歴史くらいは小生の様な素人一般人に突っ込まれない程度には学習するべきだと思う。
ところで、弘法大師様が護摩焚きした伝承が残る寺院や霊場(神道の聖地も含め昔は区別して無かった)では、不思議な事に自然湧水地と延喜式内社や式外社と日本武尊伝説の残る聖地が多い。
走水神社の辺りにも弘法大師は来ているが、走水は古代から飲用に適した湧水があり聖地とされていた。
尾張一宮真清田神社や横浜市港北区の師岡熊野神社や相模原市の有賀神社奥宮等の延喜年間以前からの天皇家の勅願所や祈願所も全て湧水地な訳だが、これは神社文化の成立を考古学的に考えると当然の事なん訳だ。
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古代人にとっては飲んでも御腹を壊さず清涼な生活水が確保出来る土地そのものが聖地であり、その湧水地を中心に集落が形成され、リーダーが生まれ豪族の住む場所が高床式の屋敷と成り、そこがやがて神殿となって行った訳だ。
空海和尚は、日本神話を大切にしておられたので自分で日本武尊伝承地を廻っている内に、恐らくそう言った歴史事実に考古学が存在しなかった時代にお気付きに成られていたのだろう。
そして弘明寺も、そう言った意味で凄まじい聖地である・・・
ここは昔からの温泉地だった。今ではそれを知る人も少ないけどね。

弘明寺で扁額の喪失の事実を確認してしまって大分、テンションが下がったまま、次の目的地の横浜市鶴見区下末吉の寶泉寺へ移動した。
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この御寺は間宮家で最初の武勇が記録に残る間宮信冬公の開基と御寺では伝えている。
つまり権現山合戦で活躍したあの間宮彦四郎だ。
所が、川崎大島村(現在の川崎駅前から徒歩20分超の大島町)の伊左衛門の官途名を屋号に持つ間宮家臣子孫達が毎年旧暦八月二十六日に箱根の山中城で討死した間宮康俊公の追善供養を行っていたそうだ。この大島村の伊左衛門は、弘明寺の扁額に間宮宗閑同伴衆として名を連ねた往嶋道徳(おうしまどうとく)の子孫だろう。
この大島家を始めとした家臣団の康俊公の追善供養と、開基の間宮信冬公の話がいつの間にか、寶泉寺の外で語られる寺の歴史が間宮康俊公開基と話が混同されてしまって、事も有ろうに昌平坂学問所の頭取で間宮家の子孫である間宮士信公が編纂した新編武蔵風土記稿でも同様に間宮康俊開基と紹介してしまっている。
しかしこれは誤りで、寶泉寺が正しく、恐らくは間宮康俊公は寶泉寺を❝中興❞されていたのだと小生は推測する。
間宮家が末吉や川崎辺りを本拠地にしたのは間宮信冬公や間宮信盛公の時代の話なので、やはり当事者である寶泉寺の寺伝が正しいだろう。
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ところで、この御寺は都会の中に在りながら、御庭は中々広く綺麗な御寺だ。
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手入れが行き届いている。素晴らしい。
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建築も素晴らしい。
そして寺紋は間宮家所縁の四ツ目結び紋に丸を配した物。
丸に四ツ目結びは紋は、間宮家の分家や家臣団が間宮本家から与えられる家紋だ。
分家の嫡流は間宮本家と同じ四ツ目結び紋。それ以外の末端の一族や有力家臣や神社仏閣が〇で囲ってある丸に四ツ目結び紋な訳だ。
だから間宮家の戦国時代の本拠地の磯子区や港南区の地主達は、この寶泉寺と同じ家紋が多い。
寶泉寺の現住職の若様と一しきり寶泉寺の事を話し込んで、御寺の寺伝を纏めた冊子を頂きました。
若様に感謝。
御参りと写真撮影を終えて、思い付きで川崎駅前の瑞龍山宗三寺もついでに寄る事にした。
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宗三寺は旧東海道の目の前に在り、直ぐ裏には京浜急行川崎駅も在る。
一帯は堀之内の地名が町名だが、これは間宮信盛公の城館が在った事に由来する。
そもそもは源頼朝公に与力した平安時代末期の名将、佐々木高綱公の城館が在った場所が現在の宗三寺の境内地だ。佐々木高綱公の引退後、この地を引き継いだのは甥っ子の佐々木信綱公だった。佐々木高綱公と間宮家の祖先とは祖先同士が親戚に当たる。
高綱公の祖父の佐々木秀定公と間宮家の祖先の佐々木行定公が御兄弟に当たる訳だ。
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宗三寺の場所に在った佐々木家は、信綱公の子、佐々木泰綱公の代に横浜市港北区の小机の開発願いを鎌倉幕府に届け出て承認されている。この川崎多摩川を利用した水運には適するものの、当時は砂州で耕作に適さなかったからだろう。その頃に関東に残った佐々木一族は小机を本拠に移したと思われる。
小机も佐々木高綱公の居城跡の鳥山八幡宮や高綱公が開基した三会寺が現存する。
川崎の宗三寺は、元々は勝福寺と言う真言宗の寺院だった。
佐々木高綱公の甥の信綱公の子、佐々木泰綱公が弘長三年(1263年)に同志5000人の寄付で梵鐘を鋳造させて勝福寺に奉納している。そんな川崎に間宮家が戦国時代に入ったのは北条家の事情に由ると思われる。
北条家が関東で勢力を伸張するに当たり、獲得した領地支配の正当性を主張する為に、古来の領主の子孫を故地に配属していたので、佐々木一族の間宮家を川崎に配置したのだろう。
ここを本拠地にしていたのは間宮信盛公だ。
そして間宮信盛公が元々真言宗の勝福寺を中興するのだが、その縁で信盛公の入道号、宗三をとって是(これ)を寺名と改め、宗旨も北条家の帰依した曹洞宗に改宗された。
さらに時代が下って子孫の氷取沢間宮家の一族、間宮孫兵衛盛重公が宗三寺を中興した。
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しかし、この間宮盛重公、とんでも無いミスをやらかしていて、間宮信盛公の墓碑に誤って間宮本家の名将、間宮康信公の名を彫り込んでしまっている。
しかも子の間宮盛正が元禄四年(1702年)に刃傷沙汰を起した挙句に預かり先の旧武田家臣、依田家で不可解な火災を起こして改易されている。
この一連の事件の責任をとってか、間宮家の本家や杉田間宮家は奉行職を同時期に辞任している。
更に同時期に高津間宮家の間宮信要も延宝四年(1677)年に刃傷沙汰を起し切腹されられている。
更に少し前の延宝元年(1673年)には大田区の善慶寺が菩提寺の間宮太郎兵衛達が起こした義民六人衆の事件が起きている。
小生は、これ等一連の事件を義民六人衆事件を契機に間宮家を敵視し、更に旧北条家臣団を敵視して金権政治を行っていた側用人達の陰謀と後に旧武田家臣の柳沢吉保の関与が有ったのではないかと推測している。
同じ時期の元禄二年(1700)年には間宮と同じ旧北条家臣で蒔田吉良家の与力だった世田谷の喜多見家が喜多見重政の代に2万石の大名から改易されている。これも柳沢吉保の陰謀と言われている。
写真を撮影し終わって、間宮信盛公の御廟所と本堂にも御参りして、築地に向かった。
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日曜日の築地場外市場は大盛況で、中々歩くのも大変な程だった。
小生の目的はもう少し歩き易い門跡通りの歩道に面した拉麺屋の❝若葉❞。
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ここは築地に始めて来た10年位前に気になって、母の入院以来ずっと食べるチャンスをう窺(うかが)っていたのだが毎回、お店が早すぎてもやってないし午後だとやってなくて食べれなかった。
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今回はやっと席に着く事が出来た。
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シンプルな醤油ラーメン。でもこれが凄く美味い!
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極細縮(ちぢ)れ麺が旨味の深い醤油スープを良く持ち上げてくれるんだな。
700円と築地に在りながら割と良心的な値段で味も凄く良く大満足。
しかし食べたりない小生は、この後、鶏肉の総菜で有名な鳥藤に移動・・・CIMG1571
チキンペッパーステーキを食べ歩きして・・・
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更に!
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イチゴ大福も食べました(笑)
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餡までイチゴが入っていて美味しかったよ。
御腹もいっぱいに成った所で国立がんセンター研究病院に移動。
母は火曜日に手術して4日目だが、何と、見舞いに行った日から食事が復活していた!
まだ柔らかいオカズが多かった様だが、回復の速さにビックリした。
帰りに病院のロビーで面白い展示物が有るのに気が付いた。CIMG1577
医療器具やら病院の歴史の展示。
こうやって時間系列での器具の発展や、病院解説なんかの展示してあると興味が注がれる。
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ここは今上天皇陛下御夫妻も見学に来られたそうだ。
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ふむ、予定通りの紅葉見学とは行かなかったが、尊敬する間宮家の殿様達の足跡を改めて辿り写真撮影を行えて、美味しい拉麺も食べて、母も回復しつつ有り、大変良い休日を過ごせた!
水曜日はあきる野に紅葉を見に行こう。

では!又、次の記事であいましょう!
そろそろ、何か解説記事書きたいな・・・


曽我梅林と小田原周辺の梅林は今が見頃ですよ!

今年は梅花の開花が早いと、残雪の八王子城址で先週土曜日に確認したので…
神奈川県の梅花はもう見頃だろうと思い、曽我梅林のホームぺージを見た所、やはり今年は今週が見頃だった。
水曜日は小生の休日。
午前中に歯医者で定期健診を終えると、そのまま車で曽我にGO!
湘南は小田原の観梅の名所、曽我梅林に行って来た…
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東名高速を抜けて小田原厚木道路を走っている最中に俄雨(俄雨)が降って来たので、一時はどうなる事かと心配したが現地についたら雲も晴れ始め、雪化粧した美人な富士山が曽我梅林の向こうに姿を現してくださった。
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今年も去年と同じ位置から写真を撮影したが、この枝垂れ梅が凄く綺麗なんだな。
さて、この曽我梅林は梅農家が実の採集の為に植えている❝梅畑❞なだけあって範囲は凄まじく広大で、恐らく日本最大級の梅の木の本数、4万本超を誇ります。

現地案内看板ピンクの範囲が全て梅林なのですがGoogleEarthの衛星画像に看板の画像を貼り付けて範囲を見て頂くと解りますが、…
曽我梅林
凄い範囲でしょう?
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周辺には名所古跡いくつか有り、全部回れば1日費やせますね。
小生、たまたま小田原の石垣山一夜城址に行く予定だったので曽我梅林での梅花鑑賞だけでした。
以前も戦国時代の北条家の梅林文化を紹介した記事でも曽我梅林を紹介した事が有りますが、今日は曽我梅林自体の写真と歴史を紹介したいと思います。
※以前の曽我梅林と北条家の梅林文化を紹介した記事は「ココ」←クリック!
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先に説明しましたが、この曽我梅林は曽我が梅の実の生産地で有る為に、農家さんが集まってるので4万本超の梅の木を有します。
そして、梅まつり開催地域では、主に「杉田梅」「曽我十郎梅」「南高梅」と観賞用の「枝垂れ梅」と「小梅」が見られます。
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曽我別所梅まつりの開催期間中は上の植生エリアを説明した看板も掲示されます。
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綺麗でしょう?これが小田原名物の曽我十郎梅です。
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観賞用の枝垂れ梅が植えられた一角も在ります。
しかし梅の実の収穫用の木の方が圧倒的に多く有ります。
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開会中は農道にカップルやシニアの観光客と多くスレ違います。
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川岸にも梅畑が広がりますが、残念ながらこちら側は既に花が散っていました。
屋台や梅の製品の直売所も梅祭り開催中は多く出ます。
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小生は今回は直ぐに食べたかったので❝雲上❞と言う一粒300円位の少し高級な梅干しと、御土産用の❝曽我十郎梅の梅干し❞を買いました。
会場には、ジェラートの専門店も有ります。
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駐車場に在る上の写真の建物がジェラート屋さんです。
小生は梅の入ったジェラートを食べました。
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清涼感が有り、とても美味しかったです。
あと箱根名物足柄茶と、さっき買った梅干し雲上。
小田原の梅干しは武士文化の梅干しですので蜂蜜漬けでは無くて、昔ながらの酸っぱい梅干しです。
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でも雲上凄く美味しかったですよぉ~♪
露店直売所の目標は、梅林の中の下の写真の八幡様です。
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この八幡様の周りに食堂等も出店します。
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八幡様で御神体を拝んで参りました。
この神社の在る区画の北西、下曽我小学校の裏て側の区画には、曽我十郎梅の元に成った❝杉田梅❞と呼ばれる品種の梅林が有ります。
この杉田梅は昭和初期まで❝最高級ブランド❞として江戸の市民や皇族に愛された梅で、発祥地は横浜市磯子区杉田でした。
戦国時代の北条家臣、笹下城主間宮康俊公や間宮家分家の杉田間宮信繁公が横浜市南部に植林を始め、特に間宮信繁公の植林した杉田梅林は梅の実だけでなく梅林自体も江戸時代に江戸市民や明治時代にも皇族がだびたび観梅に来る程に観光地として有名でした。
しかし残念ながら神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会は不見識極まりなく、この杉田梅林の宅地開発を承認し全く保護せず地上から消し去ってしまいました。
左翼閥や開発利権と癒着した人間が過去(?)多かったんでしょうかね?
現在も扇谷上杉家の糟屋館城址を県道開通させ破壊する準備してますし、笹下城は三井不動産レジデンシャル等に破壊されている真っ最中ですし、現在も教育委員会にそんな人が多そうですが。
しかし・・
ここに来ると横浜に在った杉田梅林の往時の姿を想像させてくれる杉田梅の梅林が見られる訳です。
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これが杉田梅です。
接写するの忘れましたが、曽我十郎梅より若干花が小ぶりでした。
つまり、曽我十郎梅は杉田梅の中で花の大きい株を交配させて生み出された品種と言う事ですね。
所で、何故、ここ曽我別所に広大な梅林が有り、御当地横浜で滅亡した杉田梅が大量に生産されているかですが…
実は!
先に有名に成った間宮家の杉田梅林から、この曽我別所の地域に移植されたそうです。
※杉田梅林の記事は「間宮家の事績まとめ」「間宮信繁公の菩提寺妙法寺」←ここクリック!
そして、曽我別所の農家の皆さんが更に花の大きい株を品種改良して曽我十郎梅に育て上げた訳ですね。
…神奈川県と横浜市の教育委員会が滅亡させた杉田梅林の梅林文化を、小田原で守って下さった曽我別所の皆さん、ありがとうございます。
感謝。
北条氏綱公、北条氏康公、北条綱成公、北条氏繁公、間宮信冬公、間宮信康公、間宮信元公、間宮康俊公、間宮康信公、間宮綱信公、間宮直元公、間宮信繁公…
小生は貴方がたの残された文化を感じ生きられて幸せです。
ありがとうございます。

さて、次回は書くのを忘れていた伊勢原市高部屋神社裏の丸山城址公園の紹介をしたいと思います。
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では!又、次の記事で!

横浜市磯子区上中里に、地名を冠した上中里神社と言う神社があります。

近くには磯子高校や上中里団地があり、ベッドタウンとしてそれなりの人口の有る地域の神社なのですが…
目立たない参道の入口をずっと登ると、ひっそりとした鎮守の森の中に、ソコソコ大きい御社が有ります。
何にも知らずに行くと、参道からは祠くらいしか無さそうで予想外に立派でビックリすると思います。
昔はもっと社地も広かったんでしょうね…
御近所の磯子高校は昔の上中里神社の境内だったのかも知れません。
周辺が学校建設や宅地化で、表参道以外の道を失ったんでしょうかね?
神社の由来を見ても、少し昔まで地元民に熱心に崇拝されて人気も高かった様ですし…
この神社が寂れている問題点は行くと分かりますが、道が急斜面の参道一つしか無くて人の往来が無い事に尽きると思います。
近くに学校が有り、例えば、この神社の裏手が抜け道に成っていると学生が部活で参道の階段をトレーニングに使ったり出来ますね…
小生の中学生時代も御近所に御寺と神社が有り、柔道部時代に神社の階段を上り下りして体力作りに活用していました。
…神社の社殿裏手にでも、高校や住宅街からの間道を作れば良いのになと思いました。

さて、この神社、明治政府の愚策一村一社政策で潰された近隣の7つの神社を合祀し今に、その神様達と昔の村民達との絆を伝えていますが…
その内容は拝殿前の看板に書いてあります。
ただ、その神様が祀る御社が何で氷取沢町や上中里町に有ったかを説明する記載までは書かれていません。
以下は推測ですが、それはかなりの確率で戦国武将間宮家に関係が有るので少し解説します。
先ず、この上中里や氷取沢一帯を含む港南区磯子区を戦国時代に治めていたのは、小田原北条家の家臣の間宮家だったのを知らない人も多いと思います。
そして江戸時代にも間宮家分家の氷取沢間宮家がこの一帯を治めており、氷取沢間宮家初代の間宮綱信公は八王子城主の北条氏照公の家老として外交と内政で活躍し、織田信長公にも外交使者として面会しています。
近くには、その名残りで間宮寺と言う御寺がありました。
間宮寺は元は港南区笹下の真言宗東樹院の末寺でしたが檀家少なく、間宮家が支援し日蓮宗に改宗し杉田妙法寺の末寺として中興開基しました。
しかし江戸時代には廃寺に成ってしまいました。
その間宮寺の遺物が実は上中里神社に残っています。
参道階段の中腹左手にある石仏がそれです。
不動明王像ですね。
元々は間宮寺に有った物を廃寺に成った後に当時の村民の皆さんが、この上中里神社に移し守り続けたそうです。

さて、そんな訳で間宮家との関わりは解って頂けたでしょうか?
関連記事を見たい方は、記事画面の一番下に表示される「タグ」から「間宮家」をクリックしてみて下さい。
関係の有る記事が読めます。

さて、上中里神社に合祀されている神様達が何で間宮家と関わり有るかですが…
上の摂社に祀られている、それぞれの神様と間宮家の繋がりを個別に説明します。
判らない物は判らないと書きます。
⚫︎稲荷神社
…伏見稲荷神社の農耕の神様。
間宮家との関係は不明。
⚫︎明神社
…神明社と言えば天照大御神だが明神社なので何の明神様か不明。間宮家との関係も不明。
⚫︎駒形神社
…保食神(うけもちのかみ)。
飢饉回避の神様。間宮本家の笹下間宮家が江戸時代に転封され引っ越した先の下総国印旛郡の神様なので、江戸時代の間宮家と関わりが推測される。
⚫︎天神社
…菅原道真公。
氷取沢間宮家初代の間宮綱信公は奥さんが宅間上杉家の姫君。
宅間上杉家は今の港南区上永谷に永谷天満宮と曹洞宗の御寺天神山貞昌院を開いた武家で足利尊氏公の従兄弟に当たる方の御子孫の家系なので、宅間上杉家と関わりが深い氷取沢間宮家との関係が推測される。
⚫︎山王社
…恐らく蔵王権現。今の八王子市の御嶽神社。
間宮綱信公が与力・付家老として御仕えした北条氏照公は最初、八王子の滝山城を居城にしていました。滝山城には山王曲輪と言う防御施設が有り、そこは元々は源義家公が蔵王権現社を建てた場所で、氏照公は山王曲輪の場所から蔵王権現社を滝山城の外郭に遷座(せんざ=神社を移動する事)しました。
今でも滝山城外郭に蔵王権現が廃仏棄釈で御嶽神社に名を改め存在していて、氷取沢町に山王社があるのは滝山城に勤務した間宮綱信公との関係が推測される。

⚫︎八王子権現社
…牛頭天王と牛頭天王の8人の眷族(けんぞく)を祀る神社で、今の八王子市の八王子神社の昔の名前。
間宮綱信公が与力した北条氏照公は晩年、滝山城を廃城にし今の八王子神社の辺りに八王子城を築城し本拠地を移した。その関係で間宮綱信公も牛頭天王を崇拝し八王子権現社をの分霊を勧進(かんじん=神様の御霊を分けて貰い祀る事)した事が推測出来る。
※杉田間宮家菩提寺の杉田妙法寺も弘法大師空海様が勧進した牛頭天王を、祀る。
⚫︎山大明神社
祭神不明。
香川県屋島の蓑山大明神と関係有りか?
間宮寺は元々は真言宗だったので真言宗御室派大本山の屋島寺にある蓑山大明神を祀っていた可能性は有る。
又、間宮家は近江源氏佐々木家の鎌倉時代の名将佐々木高綱公を江戸時代中期まで先祖としていた(実際は高綱公の叔父の佐々木経方の系統)で、源平合戦の舞台屋島とも関係がない事は無い。

以上、多少なりとも上中里神社の摂社の神様の中には間宮家と関わりが有る神様が幾つか見受けられますね。

さて、上中里神社の本殿ですが、冒頭でも述べましたが結構立派でした。
拝殿はちゃんと一段高い場所にあります。
なんか神社と言うよりは御寺の本堂みたいな造りの本殿ですね。
せっかく、こんな立派な神社があるのですから、地域の方々にも御参りして欲しいな〜と思いました。
そして、夏祭りもここで開いて欲しいな〜。
その為には人の流れを作る事が大切です。冒頭でも述べましたが、裏に抜ける道を作り住宅街や磯子高校に繋げる道を作れば、この神社は活気が戻る様な気がしました…

本日はここまで!
では、又、次の記事で!

ブログネタ
風景写真 に参加中!
東京駅の近く、今の皇居は戦国時代には江戸城と呼ばれた御城が在(あ)りました。
きっと余り歴史に興味の無い人は…
「江戸城を築城したのは徳川家康と諸大名だろ?」
「何で安土桃山時代〜江戸時代に築城された江戸城が戦国時代から有るんだよ?」
…な〜んて思うかも知れませんが、それは違いますよ。
徳川家康公や徳川秀忠公をはじめ、黒田長政公や加藤清正公達は江戸城を拡張した「改修者」です。
今では江戸城は天皇家の皇居に成っていますね。
江戸城
…元々江戸城は、太田道灌(どうかん)公と言う戦国時代初期の名軍師として名高い殿様が築城した御城です。
道灌公は相模国や武蔵国南部を支配した扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家裁(かさい=首相)でした。
その太田道灌公が築城した当時の江戸城の一部が今も皇居に残っていて、正に天皇陛下の宮殿の横に在る水堀が戦国時代から今に残る、その名も「道灌濠(どうかんぼり)」と呼ばれる遺構です。
それが下の衛星画像。
実は太田道灌公は智謀と人望が非常に高かったので、器の小さい主君の扇谷上杉定正に恐れられ、更に他の奸臣(かんしん=悪事を働く家臣)に妬(ねた)まれ、今の神奈川県伊勢原市に在った扇谷上杉家の初期の本拠地七沢城に赴いた際に、別荘の粕屋館で入浴中に暗殺されてしまいました。

そんな事もあり上杉定正は更に家臣からの人望を失います。
結果、北条家が南関東に進出してくると間宮家や上田家、足利一門で太田道灌公の盟友の吉良家の離反を誘発してしまい、後に太田道灌公の一族も悉(ことごと)く北条家の傘下に入り江戸城も北条家の持ち城に成りました。
※吉良家と太田道灌公に関係の有る記事は「ココ 」←クリック!
※間宮家の記事は「ココ 」←クリック!
織田信長公達が活躍した所謂(いわゆる)戦国時代に江戸城に詰めて城代を務めたのが、北条家で5本指に入る戦功と智謀を誇った北条綱高(つなたか)公でした。
その功績は立派で、北条家の主力部隊五色備えと呼ばれた5色の旗指物や軍装で色分けされた部隊の内、赤備え隊の大将を務められた名将でした。
最初の頃は今の鎌倉市大船駅近くの玉縄城の城代を務め、後に世に有名な河越合戦後、今の東京都府中市や調布市や立川市の辺りの重要拠点だった深大寺城(現在の深大寺は戦国時代御城だった)を守備しました。
その際、深大寺城に攻め寄せて来た扇谷上杉家の重臣、難波田(なんばだ)家の軍勢を迎撃し撤退に追い込み、更に追撃して完勝しています。
又、伊豆方面の守備を担当する事も多く、最後は江戸城に詰めて、江戸城で79歳と当時としては長寿に数えられる年齢で亡くなりました。
綱高公の軍学の師匠は、今の京浜急行神奈川駅一帯に在った青木城主の多目元忠公で、この元忠公は北条家の軍師格だった知将でした。
※多目元忠公と青木城の記事は「ココ 」←クリック!

綱高公は智謀だけでなく、その武勇も評価が高く、関東で最強の武将だった義兄弟の北条綱成公と並ぶ評価を受けた方でした。
綱高公は元々は実家が九州の名族高橋(たかばし)家の血筋で、実父の代に北条家二代当主の北条氏綱公に仕えて才覚を気に入られ氏綱公の婿養子に迎えられて姓を北条に改めた方でした。
KOEIさんのゲームだとこんな感じ…

ゲームの絵なのに地味でしょ?
実は実績も名前も有名なんですが何故か人気が無くて、安土桃山時代はおろか江戸時代の肖像画も小生は見た事も無いんですよ。有るのかな?

…小生、その不人気の原因は綱高公の菩提寺の江戸時代の対応に有ると考えています。
実は綱高公は御父君が元々幕臣だった関係か、当時の上方の室町幕府管領(三好家)の支配地域で信者の多かった日蓮宗を信心していました。
しかし日蓮宗が悪いのでは無く、その後の御寺の歴史の話なので先ずは我慢して読んでください。
綱高公の戒名(かいみょう=亡くなった時に貰う僧籍の名)も高栄院殿紗前礼治部浄德日真大居士と現代に伝わっています。
だから、その菩提寺(ぼだいじ=墓所の在る寺院)は碑文谷法華寺とハッキリ伝わっています。
今の御寺の名前は「円融寺」に変わり、宗派も日蓮宗から天台宗に改宗しています。
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円融寺の山門から続く参道は、綱高公の人物を表す様に落ち着いた趣(おもむ)きが有ります…
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当時の日蓮宗には対応に二種類の御寺が有りました。
一つは、一般的な参拝客も相手にする派閥
もう一つは、不受不施と言う檀家以外の参拝客からのお布施(寄付金等)を受け取らない自分達に非常に厳しく真剣に修行のみを追求した主義の御寺でした。
実は 、その主義の為に困窮する寺院が多数あり、更に、その主義を幕府より「排他的」と見做(みな)されてしまい不受不施だった法華寺は改宗する事に成り、日蓮宗から天台宗に改め御寺の名も現在の円融寺に改められたそうです。
天台宗に改宗した理由は、元々、法華寺の前身は天台宗の御寺だったからです。
元は日源上人と言う日蓮宗の有名な和尚様が、日蓮宗の御寺として再興開基したので江戸時代まで日蓮宗だった訳です。
この御寺からは日蓮宗で特に有名な「日進上人」様も排出しています。
日進上人と言えば、神奈川県鎌倉市の妙隆寺出身の有名な和尚様で、妙隆寺は七福神の寿老人を御祀りする御寺です。
鎌倉江の島七福神御朱印の一ヵ所にも成っていますね。
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そんな御寺が「菩提寺だった」ので、北条綱高公は戒名が日蓮宗の和尚さん風な訳です。
何で「だった」と言う表現は読み進めて頂ければ解ります。

この円融寺、宗派は変わっても今でもその規模は立派で、内門には仁王門も控えています。
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立派ですよね?
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正に綱高公の菩提寺に相応しいのですが… 2015-05-02-11-21-03
残念な事に、参拝した際に現在の円融寺の御住職に綱高公の御廟所の所在を伺(うかが)った所…
「現在、この御寺に俗名が北条綱高と呼ばれた人物の御廟所は無い」
…と衝撃的な回答が返って来ました。

最初、この回答を頂いた時に「あ~観光客とか歴史好きの訪問はウザいのかな?」とか解釈しましたが…
帰って調べてみたら、日蓮宗から天台宗に改宗した際に「日進上人の法脈は完全に途絶えた」と記載が有りました。
つまり!
天台宗に改宗した際に御廟所も全て廃棄されてしまったか、どちらかに移転させられてしまい、その際に日蓮宗の高栄院殿紗前礼治部浄德日真大居士と言う戒名だった綱高公の墓標も撤去された可能性が非常に高い訳です。

綱高公の御廟が不明に成れば、当然、江戸時代にも拝む人が来なくなり、やがて其の綱高公御自身もマイナーに成ってしまいますよね…

残念ですね…
宗旨が変わって偉大な人物の御墓を撤去や移転するとは。
当時の和尚さんが歴史に無知な方だったんでしょうかね?
他の宗派では、その様な事は余り聞いた事が無かったので少し「イラっ(怒)」としました。
関東の発展に寄与して下さった人物の御廟所を無下に扱うのは、小生の信条としては歴史遺産の破壊活動としか受け止められなかったので。

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でも日源上人の追善供養はなさっているんですよね~。
これはやはり、当時の住職が歴史に無知で御廟所を移転してしまうか撤去してしまったと考えるのが自然なんでしょうか…?

そんな訳で今では名将北条綱高公の御廟所はありませんが、円融寺の雰囲気は北条綱高公の御人格を今にも伝える様な雰囲気は感じる事が出来ました。

今日はここまで!
では、又、次の記事でお会いしましょう!



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