歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

カテゴリ:旅館・飲食店・土産店 > スイーツ・和菓子・特産品

皆さんお疲れさま。
小生、とある資格の取得目指して週末は学校に行ってるのですが、学習時間足りずに冷や冷やしてましたが85点でとりあえず一つ目の科目合格してました~。
でも学習時間足りなくて、完璧に準備できた前半部分からの出題は全問正解でしたが・・・
科目の後半の半分つまり4分の1は正答率が70%くらい?
更に最後の4分の1は半分くらいしか正解してませんでした。
危なかった。
・・・で、毎日仕事しながら睡眠時間削り学習した自分を甘やかして良いだろう!と思い、数年ぶりにたい焼きを買って食べました。

今日(日曜日)は神奈川県立金沢文庫の企画展を見に京急で金沢文庫に行って来たのですが、あいにくと今日は雨でした。
旅する、大蔵経
小生は円海山の麓に住んでいるので金沢文庫に行くとなると、自転車なら30分くらいですが、面倒くさい事にJR港南台駅かJR洋光台駅までバスで一度行ってから、更にバス乗り換えて京浜急行上大岡駅に行き京浜急行に乗り換える必要が有ります。
・・・正直、電車より自転車の方が早い。
通勤で藤沢駅の近くに行くのも朝なら49分くらいでしたが、家からバス~根岸線~東海道線~徒歩よりも自転車の方が早いんですよねwww。
当然、家から金沢文庫行くのも自転車の方が早いのですが今日は雨なので20km以内くらいの近距離だと移動時間浪費するし人間の密集した空間が余り好きじゃない小生は電車とバスも好きではないのに今日は乗らざるを得ず、しかたなく好きじゃないバス&電車を楽しむためにポケモンGOを久しぶりにやりながら行ってきました。
金沢文庫に到着したら、駅前の❝すきや❞で鬼滅の刃フェアやってるの見つけて、御飯食べて無かったので特典欲しさに思わず入店してしまいました。

4月9日から刀鍛冶の里編が始まるので楽しみですね。
以前、鬼滅の刃の世界観を無理やり歴史事実で舞台特定や吾妻善逸の髪の毛の色が現実に有り得るのかを検証した事が有りましたが・・・


あ・・・そう言えば・・・他のキャラクターとか昭和以降に捏造された忍者のイメージは職業としては実在せず嘘だと言う史実の歴史公証もするとか言ったまま丸々1年間放置してた(笑)。
また書きたいと思います。
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ところで、すきやで苺ミルクのセットを頼むとステッカー貰えるって書いてあったので食べたのですが・・・
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正直、個人的には期待していたような物ではありませんが、小生より鬼滅の刃好きな人は嬉しいと思いますよ。
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小生は正直コレいらない(笑)。
姪も甥も鬼滅の刃には興味ないので、なんか勉強道具に張り付けておきます(笑)。
で、金沢文庫の展示の見学も済ませてまた面倒臭い上大岡駅まで戻って、久しぶりにデパ地下行って❝くりこ庵❞で鯛焼きを買ってみました。
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すんごい久しぶり、別に港南台にもあるんですけどね(笑)。
弘明寺の❝梅鉢流まみぃ❞で今川焼は良く買ってるんですが、鯛焼きは何故か数年間買ってなかった。
【くりこ庵 上大岡店】
暫く来なかったら、鯛焼きの餡も時代に合わせて色々と増えてるんですね~。
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何かカマンベールチーズとか、リンゴとか・・・
全部美味しそうでしたが、小生は、苺のあまおうのクリームと、シャキシャキりんごクリームを選びました。
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小生はシャキシャキ林檎クリームが本当に林檎がシャキシャキしていた個人的に好みでした。
くりこ庵は横浜市の御店で、市域南部の色んな所に有るので皆さんも是非試してみては如何でしょうか?

皆さん御察しだと思いますが、テストだったせいで週末はテスト後に同級生と居酒屋行って飲んで、今日は今日でお出掛け久しぶりにして電車バスで時間を浪費してブログちゃんと書く時間確保してませんでしたので、くりこ庵で胡麻化しましたwww。
来週は何か富士山の景勝地か歴史偉人の関与した余り有名ではない神社か御寺をを真面目に紹介したいと思います。

では皆さん、また明日から仕事も学校も頑張りましょう~!
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横浜に素敵なカフェが出来たと栄区の情報媒体で紹介されていたので行ってみました。

昔懐かしい喫茶店の雰囲気の外観とは異なり何だか日本風の造りを活かした小生が一時期住んでいた京都市左京区の下鴨神社に有りそうなcafeに近い雰囲気の外観でした。
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K2-7 de hitoyasumi
Uber Eats ホーム
https://www.ubereats.com/jp/store/k2-7-de-hitoyasumi/
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先に別の媒体で見た通りの前評判通り、お店の雰囲気はとても明るそうなのが伝わり住宅街の中に突然恵比寿とか京都に在りそうな喫茶店の登場に・・・
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「おお~ぅ・・・城下の村に京都とかに有りそうな素敵な御店が出来たね」
・・・といった雰囲気、昭和の日本のcafeの雰囲気の良さ+α、マスター御夫妻の若い世代らしい明るい雰囲気も持ち合わせたお店。
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コダワリの珈琲に手作りスコーンとケーキでもてなしてくれます。
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御主人は未だ三十代、脱サラしてパン屋で修業をしてから同じく同世代の奥様とコーヒー屋を週末限定で黄金町キッチンスタジオで開いていた所、港南台バーズの無印良品さんに認められて声をかけられ黄金町で営業を終えてから港南台の無印良品内のキッチンスタジオで週末限定の御店を開き、この度、笹下城下に御店を開かれたそうです。
小生は最初に頂いたコーヒーとスコーンがとても美味しくて又訪れた際に、今度はガトーショコラを頂きましたがこれも美味しかった!
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このコーヒーはベトナム式。
フランスの植民地だった影響で生まれた珈琲文化で、カップの下に予(あらかじ)めコンデンスミルクが入っていて、その上にドリップして頂いた珈琲を混ぜて飲むと言う変わった楽しみ方をする物でした。
再訪問した時には他にも中国雲南省の潞江坝(Lu Jiang Ba=ルゥジィァンバァ)と言う農村の特産品の珈琲も有りました。そちらは近代にベトナムから来たフランス人宣教師によって珈琲文化が根付いたそうです。
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K2-7 de hitoyasumi の御主人、コーヒーに非常に真面目らしく素人の小生の質問にも色々と丁寧に答えてくださいました。
とにかく雰囲気が良くて、小さな御店なのに周りのお客様の会話を聞いていたら遠方からも来客があるようです。
流石、復数の珈琲関連媒体やローカル情報媒体が目を付けるだけある。

可愛く明るい絵画で著名な芸術家の肥沼守先生や・・・


漫画家の金井たつお先生も黄金町時代でのオープンから既に関わりが有るそうです。


珈琲情報媒体の❝ひつじの珈琲タイム❞

小生の地元、円海山を中心にした栄区港南区の情報媒体❝号外NET❞

ついでに小生、広告付ければ収益100%自分の利益に成るのに広告一切付けず神奈川県の穴場景勝地や歴史観光支援の記事を書くアウトロー歴史的オタク(笑)な“久良岐のよし”www。

まぁ小生のブログは余計ですがK2-7 de hitoyasumiは横浜市やコーヒー関連のLocal媒体、それに文化人に既に注目されてる訳です。

ちなみ今回のK2-7 de hitoyasumi等の喫茶店とは関係ありませんが❝知の冒険❞と言う知り合いのブロガーは横浜を含む神奈川県周辺の花街や飲み屋街の歴史と言うニッチな文化歴史を研究し取材もしっかりしています。

彼はたまに横浜の花街の歴史散策のオフ会も企画したりしてます。

彼等の他にも横浜には❝はまれぽ❞と言うローカル媒体が有ります。
是非、横浜を地元として住み始めた初代の❝非ハマッ子❞の皆さんも、代々横浜に住んでいた武州人や鎌倉気質の方々も郷土のニッチな情報に興味が有る人はこれらも合わせて珈琲でも飲みながら読んでみてくださいな!

❝はまれぽ❞は今は無き、東京都民に御忍びで行ける天然温泉の宿として有名で弘明寺に有った❝中里温泉❞の記事を読めたりします。

記者の松宮サンは触れていませんが、この弘明寺公園の近くに有った中里温泉は彼女の取材後の2015年に閉業し2016年に更地にされるまで120年近い歴史有る旅館で明治期には明治天皇の保養地でもあったんです。更にK2-7 de hitoyasumiが店を開いた笹下は昔は笹下郷と言われ観光梅林として有名な杉田~港南台まで広がっていた杉田梅林が存在していたので、明治天皇等皇族の皆様が御来訪された際に御休憩所とされた石川楼と言う立派な料亭も有りました。

実はK2-7 de hitoyasumiが店を開いた港南区は近代西洋文化の中心だった横浜市に属しますが、半分は昔の鎌倉郡で鎌倉武士団の鉄工や海運の重要拠点を押さえる古街道の交通要所でした。
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿北条政子2
上永谷駅近くの永谷天満宮前の馬洗い川は北条政子様が夫の源頼朝公と源氏の戦勝祈願デートで弘明寺に御参りに行ったり隠居地の井土ヶ谷乗蓮寺と鎌倉を往来する際に馬を洗ったり涼をとった場所と伝承し、野庭地区は彼女の領地だった政所の地名も昭和初期の郵政法施行まで残っていました。
鎌倉殿和田義盛鎌倉殿巴午前3
その野庭地区には鎌倉幕府初代侍所別当職の和田義盛公が建設した野庭関城や、南区別所と港南区大久保との区境の餅い坂には彼の設けた関門の関所が嘗て存在しました。
鎌倉殿北条時政
更に野庭関城の近くの磯子区洋光台と港南区日野地区との区境には北条時政が支援した徳恩寺と春日神社が現存していますし、他にも上大岡駅近くには源頼朝公の叔父に当たる源為朝公の隠里と伝承し御霊社の祠が有ったり、市会議員の田野井一雄サンの御先祖は源行家公の家臣の子孫と伝承し元々は港南区日野辺りは源行家公の所領だった事は以前の記事でも紹介しました。
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源行家
興味の有る方は、カテゴリーの「歴史偉人」後ろの「+」を押して枝カテゴリー「平安~鎌倉時代」から記事を探して見て下さい。
この辺りの話は下の記事内にもリンクを纏めて貼って有ったはずです。

ここまでは港南区の北西半分の旧鎌倉郡の話で鎌倉時代の武将ばかりですが、更に港南区の南東側の半分は昔の久良岐郡で、こちらは安土桃山時代~江戸時代~明治時代の久良岐郡の中心地として機能した郡役所が有った上に、戦国時代には北条家最強部隊❝黄備え隊❞の副将で間宮林蔵や杉田玄白の祖先の間宮康俊公の居城の笹下城が存在した場所でした。
なので何気にK2-7 de hitoyasumiがある住宅街は武士の歴史も豊かな地域なんですね。
K2-7 de hitoyasumiの近所のファミマから見える崖は笹下城の本丸跡と伝わり間宮家臣の武内家や市村家や内田対馬守家のここ10年で亡くなってしまった世代の御子孫に小生が取材した時に伺った話では山上に防衛時に用いる投擲用の石礫が沢山残されていたそうです。
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まぁ、この様に実は只の住宅街に見えて、実はK2-7 de hitoyasumiの前の道路も昔の御城の外廓の空堀として用いられた谷地形の名残りだったりする訳です。
武州久良岐郡地名考 武内廣吉氏作図笹下城推定図 久良岐のよし
さて、K2-7 de hitoyasumi周辺の歴史の話をさせて頂きましたが、小生が特にオススメする媒体は歴史分野では自分のブログですが(笑)、他に面白いブロガー達の記事が読めるのは❝はまれぽ❞と❝知の冒険❞です。
是非、喫茶店で珈琲を飲みながら僕等の横浜ローカルブロガー達の記事を読み、BarやJazzや西洋式ホテルや洋食屋サンやアイスクリームや喫茶店をはじめ横浜が発祥だったり横浜で醸成された文化とハマッ子気質が、元々は鎌倉武士団から引き継がれ戦国時代の北条家の善政や先進的な文化を受け入れ古い文化も大切にする習俗に根差している事を感じて貰えたら嬉しいですね~。


K2-7 de hitoyasumiでも、中華街のJazz‐BarのWind Jammerでも、港の見える丘公園のKKRポートヒル横浜のカフェレストラン❝山手ローズテラス❞でも、文化財洋館のカフェ❝えの木てい❞でも、珈琲を飲みながら横浜らしい文化を感じ横浜の郷土史に触れてリラックスして欲しい。


話がK2-7 de hitoyasumi のファンに成ったローカル情報媒体の紹介に偏ってしまったので話を戻しますwww。

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もし港南台~洋光台方面か杉田方面に車で用事の有る人は訪れて見る価値が有るので今回紹介してみました!

店専用の駐車場は有りませんが、近くにファミマやコインランドリーの駐車場•••

・・・
ゲフンっ💨🤭。

駄菓子やジュースを買うついでに喫茶店で癒やされては如何でしょうか(笑)?

K2-7 de hitoyasumiでビックリしたのが小生が訪問した際に、御近所の小学生が御小遣いで友達同士でクリームソーダやスコーンを食べに来ていた事。
それだけ雰囲気が良く入りやすいんですね。

とにかくスコーンとか珈琲に合うように考えて作られていて美味しかったです。
是非、皆さんんも美味しい珈琲と焼き菓子を楽しんで下さい。

K2-7 de hitoyasumi はUberもやってるそうなので、UberからK27-de-hitoyasumiを探して下さい。


Uber Eats ホーム リンク⤵

https://www.ubereats.com/jp/store/k2-7-de-hitoyasumi/
他にも公式ホームページも有るので、直接御店の雰囲気を体験したい方は冒頭の方に張り付けた公式ホームページやFacebookやInstagramから問い合わせしてあげてみてください!

今後、喫茶店シリーズも銭湯シリーズみたいに記事にしてみようかな?と思います。

では皆さん、歴史散策のついで美味しい珈琲や郷土料理を楽しんで、神社や御寺や洋館で歴史偉人の残した文化に触れて、町の銭湯でサッパリして昭和の庶民文化を感じたり、日々に癒しをみつけて御給料の上がらない日本ですが楽しく(笑)生きていきまっしょい!

さて、いつもの景勝地や銭湯や歴史散策の記事以外にも、また良い御店の情報が有ったら発信するので、是非次回の記事をお待ち下さいね!

あ、小生、仕事しながらオンライン学校で資格を取得しようとしてるのですが学習時間が足りないのでもしかしたら今後、ブログ投稿頻度が2週間に1回位に減るかもしれません。学習時間が足りない。
でも、頑張るしかないですね~。
・・・とか言いながら、又直ぐ書いたりしてwww。

皆さん、又次の記事でお会いしましょう~♪

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丁度クリスマスだし。
シュトーレンとかクリスマスケーキの季節ですね。
横浜が誇る戦国時代の名将間宮康俊公の歴史顕彰で御寺神社訪問する際に見つけた美味しい店が何ヵ所か有ります。
場所と御店の写真だけでも載せて置こうと思い付き箇条書きみたいに紹介して見ようかと思います。

先ずは郷土史のレポートなんかを閲覧に神奈川県立金沢文庫に行く際に見付けて以来、海の公園や称名寺散歩の際に必ず寄るパン屋さん。
ブレーメンと言う御店です。
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金沢区の柴漁港や海の公園の目の前に在り“八景あんぱん”が薄皮で凄く美味しい。
掌サイズ、大福を大きくしたようなサイズ感でオヤツ代わりするのにいつも買いカバンに入れて海辺お散歩してます
他も美味しい、個人的にキッシュとかお気に入り。

次に間宮直元公の御神象が昭和に焼失するまで奉られていて、今も直元公の奥方の御廟の有る磯子区田中の妙蓮寺近くのパン屋さん。
間宮直元公木造 妙蓮寺旧蔵も火災で焼失 久良岐のよし
TVにも取り上げられた事のある“イルデパン”。
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この御店で特にオススメはチキンカレーパン。カレーパンが他の御店と比べて突出して美味い!他のパンも可愛く綺麗で美味しい。バゲットとか凄く美味しい。

イル・デ・パンのある中世の道“六浦道(むつらみち)”=笹下釜利谷道路沿いに関内方面に行く途中、戦国時代の間宮家居城笹下城下に当たる港南区“関”と言う地区の御寺“東樹院”がある。
戦国~江戸時代の「杉田」の字体。 久良岐のよし
東樹院は間宮家とモメたり(笑)豊臣秀吉の乱取り禁止の安全保証の古文書が火災に成るまで有った御寺で過去帳見せて貰いに何回か通った際に近くに“クロッシュデュボヌール”と言う舌を噛みそうな名前の御店を見つけた(笑)。
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 この御店で小生が気に入って車で環状3号線から六浦道を上って関内方面に行く時にオヤツ代わりに買って食べるのが片手サイズで運転しながらでも食べられる“アルハンブラ”と言うチョコレートケーキ。とっても甘くてラム酒の香りがして美味しいしビニール包装されてて片側だけ開けて押し出す様に食べると手も汚れない。
あと笹釜ロールと言うロールケーキも有り笹釜ロールは甘さ控えめで横浜市北部の神社仏閣の宮司さんや和尚さんを訪問する際に御土産に買って行くと喜ばれる。
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クロッシュデュボヌールから車だと5分くらい、戦国時代の笹下城の本丸や成就院と言う間宮家所縁のの御寺の直ぐ近くに去年位に出来たのが“パティスリーアレ”と言うケーキ屋さん。
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笹下城本丸下の梅林の有った地域の団地が数年前に戸建て住宅地に造成されて同時に開店した。小生は切って個売してるロールケーキが美味しくて近くを通りがかるとたまに購入して車で運転しながら食べたりしてるのだが、ここは御店は小さいのだけれど、どうやら昨日、御店の写真を撮らせて頂きに上がったら地元の奥さん方の人気店に成りクリスマスケーキも順調に売れている様で受け取りに主婦や御爺ちゃん達が続々と来ていた。
歴史を通じて知った御店がコロナでも頑張ってるのを見て嬉しくなった。

パティスリーアレさんから車でそう遠くない場所にも美味しい新しいパン屋さんが有る。
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古典落語“峯の灸”で有名な円海山清浄院護念寺や浄土宗の総本山知恩院の了鑑大僧正を輩出した阿弥陀寺の近く。環状3号線沿いにあるベーカリーYAWARAと言う御店。
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ここは御店が開店した当初はパンドゥと言う名前だったのだけど、御店主がオーガニックに拘ったり今後店内の喫茶店にフレンチレストランメニュー増やすとかで屋号を“YAWARA”に変えた。ここのパンは子供が喜びそうなデザインの物も多く、又、クリスマスにぴったりな“シュト―レン”も販売している。
生憎昨日行った際にはすでにシュト―レン人気過ぎて売り切れだった。
コロナが落ち着けば店内の喫茶も利用できるので、あの界隈には喫茶店が無いので近所の主婦には昼の社交場としても人気。

この環状3号線から小生が毎年初夏に蛍の記事を書く上郷瀬上沢の近くにも美味しいケーキ屋さんが有る。可愛い雰囲気の店内でコーヒーとケーキを食べさせてくれる“瑠璃庵(るりあん)”と言う御店。
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この御店で小生が御勧めしたいのは“ザッハ”で、店内で食べる場合は生クリームも添えて提供してくれる。ケーキは毎回写真撮らずに食べてしまっていたいのでどこの店も写真探したけど1枚も撮ってなかった(笑)。あと瑠璃庵はナポレオンも美味しいので御勧め!
実はこの御店のオーナー、神職の資格を持ってる変わった経歴の人でもあったりして小生と歴史の話しをすると話が長く成る。気さくな人で落語も好きだったりする。

この7年間、最初は戦国時代関東最強の武将の北条綱成公と、その家老で地元横浜の名将の間宮康俊公の歴史散歩から始め顕彰文書く為に取材してフラつき始めたら楽しみが増えて、こんな風に美味しい店や可愛い御店を見つける事もとても良い趣味に成った。
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小生のGoogleMapはこの数年間でだいぶ訪問都市のマーカーが増えました。
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気持ち悪い蛙の卵みたい(笑)。
黄色いのが行った場所だけど行き過ぎてバグって全部は表示仕切れない(笑)。
このマーカーのほとんどが間宮家顕彰文を書くために現地取材に行った場所、そして取材地増えすぎて記事にし切れてない場所(笑)。
多分歴史オタク達のGoogleMapは皆こんな感じよ、だから歴史オタクと観光するとスケジュールはハードだけと綺麗な写真撮影ポイントや美味しい店にピンポイントで連れてってくれるのよ(笑)。
このマップ表示範囲外にも愛知県方面とか京都方面とか後、旅行で行った香港台湾中国方面のマーカーも増えた。
小生以外も歴オタの行動半径とスケジュールは狂ってる(笑)。

でもこの分、ローカルな飲食店も綺麗な場所も見付けるし、やっぱ歴史散歩には美味しい御飯と綺麗な景色が付き物だよね~♪
これからも美味しい御店の情報、まだまだ紹介してない場所だらけなので少しづつ書いて行きたいと思います。



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杉田商店街のメインストリートが昭和初期まで重要な街道だった事を皆さんは御存知でしょうか?
そんな重要な街道を繋ぐ杉田商店街のメインストリートの脇道、少し住宅街に入った場所に杉田商店街が開かれる以前の古道が今も残っているのを横浜市民のどれだけの人が御存知でしょうか?
少し脇道に入ると今も頼朝公が歩いた聖地巡礼の古道です。
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杉田商店街、実は歴史的に重要な場所に立地しているんです。
源頼朝公が深く信仰した重要な修験道系の神社、現在の伊勢原市大山国定公園の大山阿夫利神社と大山寺の聖地の大山山頂を繋ぐ古道て、頼朝公が平安時代末期に杉田に開かせた由緒有る神社の参道の旧街道の交差点が今でも100均ローソンから徒歩3分の杉田の中原地区に今も存在しています。
その神社は明治に成る迄(まで)修験道系の聖地として大切にされ大靈山泉蔵院桐谷寺と呼ばれていました。明治時代の神仏分離令で只の熊野神社と名前を変えてしまいましたが、実は江戸時代に成る迄は❝泉蔵院❞の院号や❝山崎泉蔵坊❞の御坊としての名で多くの古文書に記録されています。
そして遠く杉田商店街から離れた同じ修験道系の聖地であり神道でも仏教でも大切にされて来た縄文時代からの神聖な場所、伊勢原市大山国定公園の全域が聖地の大山阿夫利神社と大山寺と言う神社仏閣が存在しますが・・・
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実は神奈川県内の修験道の聖地として大切な大山阿夫利神社と大山寺の在る大山と杉田商店街は一本の道で繋がっているんです。
歴史を知らない人が他所から来て市役所の役人に成る事の多い横浜市は、杉田商店街の発展には無頓着だし❝杉田梅❞と言う日本で最高のブランド梅の梅林が広がった杉田梅林の伐採許可を出して旧来の文化と歴史の名残は今では余り感じられませんが、実は杉田商店街を歩くとそんな歴史を少しだけ今でも垣間(かいま)見る事が出来るんです。
・・・実はね、杉田商店街のメインストリートは以前、杉田間宮陣屋の解説記事でも説明しましたが聖天掘(せいてんぼり)と言う川に蓋(ふた)をした暗渠(あんきょ)の上に敷かれた道なんです。この大工事の末に整備され今では横浜市がおざなりにしている道が源頼朝公が大切にされた横浜の修験道の聖地の泉蔵院~伊勢原市の大山阿夫利神社を繋ぐ近代の新道で名を❝横浜・伊勢原線❞と言う地方主要道路だったんです。
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大山阿夫利社(延喜式内社)大山阿夫利神社に関しては以前紹介記事を書いているので御興味有る方は御覧下さい。
これクリックで記事読めます⤵
大山阿夫利神社と灯籠祭りの夜景と参道温泉街…伊勢原市。
この横浜伊勢原線と呼ばれ、磯子区部分を杉田街道と呼ばれた道の起点が杉田商店街の国道16号線側からの入口です。
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ここが起点と成り、伊勢原市の大山阿夫利神社へと続く最後の宿場町の高部屋神社前、伊勢原市上北ノ根まで続いていますが、この事を横浜市役所の人間でも知る人は少ないでしょう。
横浜伊勢原線終点 伊勢原市上北ノ根 久良岐のよし
大山詣りをする人は古代から多く、大山山頂からは縄文時代からの神事の遺跡が出土し、神社の中でも延喜式内社と呼ばれる最古級の格を確認出来る大山阿夫利神社と別当寺だった大山寺が在り、奈良時代にも行基大僧正が上粕谷神社等の修験道系の❝大山道❞の中継地点と成る場所に宗教施設を設置し、一帯には国府レベルの史跡と祭祀遺跡と古墳がゴロゴロ出土しています。
そして最盛期は室町時代~明治時代の600年間位の期間で、正に地方主要道路❝横浜・伊勢原線❞は重要な宗教的な聖地を結ぶ観光や商業の道路として開かれた事が解かります。
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杉田商店街から久良岐(くらき)郡の名残を地名に残す❝栗木❞方面に歩いて行くと、明治時代の大工事の名残に出会う事が出来ます。
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よく観光地にある雷神堂と言う御煎餅屋さんを通り抜け、インドカレーの御店や飲屋さんや郵便局より更に先に行きます・・・
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すると上の写真の通り浜中学校の下の道が大きな切通地形に成っているんです。
実はここは明治時代に造られた❝隧道(すいどう=トンネル)❞が存在した名残で❝杉田街道❞と昔は呼ばれ知らない人がいなかった道の一部なんです。
ここは明治時代初期までは道は無く崖地で、当時の重要な道はこの道より北側の山の上を超える❝桐ヶ谷(きりがやつ)道❞と浜中学校側の山を登る道しか有りませでした。近代に成ると物流や人の移動に❝馬車❞が運用される様に成ります。そして明治天皇の全国行幸(みゆき)が開始される準備として多くの明治の新道が建設されました。国道16号線根岸~磯子~金沢地区の埋め立てが完了し泥亀のバイパスが整備され完成するのは昭和40年代初頭の話しですからね。
❝トンネル❞だったのですが関東大震災の際に崩落してしまったので、山を改めて削り取り❝切通し❞に生まれ変わりました。この歴史からも判りますが、現在も崩落危険個所指定を受けている崖地が杉田~笹下~屛風ヶ浦~磯子には多く有り、それは地盤が砂岩と泥岩の脆い地層で出来ているからなんです。
逆に言うと戦国時代には御城を造るには加工し易い地形で丘の平坦部分は地盤も強固で地震に強いし標高も高いので津波の心配も無い訳ですね。
そんな丘だらけの地形の不便さを解消するべく作られた杉田街道のトンネルは明治天皇の為に造られた物ではないでしょうが、当時の久良岐郡の役所は現在では区が解かれてしまった港南区笹下の❝関❞と言う場所に郡役所が存在し、皇族の方々は杉田梅林を見学する為に笹下の石川楼と言う料亭に宿泊され杉田梅林迄来られたので、トンネルは皇族の為に造られたのかも知れません。
戦国時代~江戸時代中期迄杉田郷を治めた間宮林蔵の祖先の間宮家とその一族が杉田梅林を植林したのですが、分家の杉田間宮家の菩提寺である杉田の牛頭山妙法寺には明治に皇族の方々が梅林へ度々観梅にいらっしゃっていた記念碑が今も有ります。
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さて、そんな杉田街道の起点も昔は川で、江戸時代までは源頼朝公が歩いた住宅街の中の❝古道❞と成っている❝桐ヶ谷道❞が残っていますが、少し判り難い位置に在ります。
では古地図を見て見ましょう・・・
明治時代初期のlumiereM周辺地図 迅速測図 久良岐のよし
印を付けた場所が旧街道の入口の交差点です。
これは迅速測図と言う明治新政府が全国の地形測量をさせた地図ですが、この地図が制作された頃はまで江戸時代の地形のままの場所が多く、修験道の神仏混交の道場だけが❝神社化された名前❞で表記されています。
御覧の通り、杉田商店街はまだ❝聖天掘=聖天川❞で一本南にズレた道がメインストリートだった事が判ります。丁度、セブンイレブン杉田3丁目店の前の道ですね。そして黄色い★印が聖天堀を暗渠にして繋げた杉田街道と修験道の聖地だった泉蔵院=熊野神社の古来の参道と繋がる桐ヶ谷道の交差点でした。
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今も昔の道路の名前が解かる道路標識が立っています。でもここの行き方解り難いですよね?
もう一度古地図を見て見ましょう。
明治時代初期のlumiereM周辺地図 迅速測図 久良岐のよし
印の在る杉田街道と泉蔵院時代の参道と桐ヶ谷道の交差点に成る所に今現在は小さな商店の長屋が存在していて、御店の有る場所が平安時代~戦国時代~明治時代~現代を繋ぐ時代の交差点でもあるんですね。
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水色のマーク「指定した地点」と表示されている場所が2ヶ所有りますが、左上は映画の「恋は雨上りのように」のロケ地で、右下が迅速測図の印の交差点に当たる場所です。
この交差点は、新杉田側から杉田商店街に入り~浜中学校~栗木方面に向い歩き、100均ローソン横の脇道の次の住宅街に入る道路との丁字路です。
その余り大きくはない住宅街の道路を真っ直ぐ進みます。
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すると上の写真の中途半端な「石碑かな?」と思う何も書いていない変な石が角に在る交差点に行き当たります。杉田商店街側から入って来ると石碑?の左手に曲がる少し上り坂に入っていく交差点ですね。
その上り坂が昔の杉田街道の前身と成った桐ヶ谷道の続きで、ここから山を越えて笹下釜利谷道路=金澤道(かねさわみち)=六浦道(むつらみち)へと続いて鎌倉に行く主要街道と、笹下釜利谷道路を田中方面~笹下~関の下~吉原~舞岡~戸塚と抜ける旧鎌倉街道に連結するとても大切な道の❝追分(おいわけ)❞がこの変な石の場所だったんですね。
この道は杉田街道が整備されて重要性が無くなるまでは笹下釜利谷街道へ行く為に徒歩で通行する人が多かった事でしょう。ここを桐ヶ谷道を西に進まず、更に商店街側から直進して北に行くと源頼朝公が開いた聖地の熊野神社、旧名:大靈山泉蔵院桐谷寺が存在します。
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熊野神社(旧名:大靈山泉蔵院桐谷寺)元々は鎌倉市大船駅前の丘の山崎地区に存在した修験道大道場の御坊様が源頼朝公の命令で久良岐郡杉田郷中原村に、この杉田中原地区の熊野神社を開きました。後に新田義貞の鎌倉焼討ち等の戦火で山崎の泉蔵坊が荒廃したので本社機能を現在の中原の熊野神社に移転し、靈山泉蔵院桐谷寺と名を改めました。その後も各時代の統治者に大切にされ、江戸時代に代々徳川幕府の鷹匠頭を務め杉田を治めた杉田間宮家の殿様や本家で久良岐郡北部や佐渡金山や生野銀山を治めた笹下間宮家の殿様から大切にされていたいので古文書にも度々登場します。
間宮敦信公泉蔵院宛て書状。久良岐のよし
熊野先達泉勝檀那注文(米良文書)神3下ー六七一八
これは古文書を小生が書き起こした画像ですが、まぁ、こんなものが沢山残っています。
この文書からも判りますが、間宮家が大切にしただけでなく、熊野神社の大親分である那智大社やなんかの熊野三山と呼ばれた修験道の聖地の神社ととっても関係の深い格式の有る神社だったんですね。
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そして泉蔵院の熊野社は少し高い場所に在るので江戸時代に杉田梅林を見物する観光地としても有名だったそうで、現在でも社殿の東側の崖地からは杉田の街並みが一望出来ます。
泉蔵院についても以前、紹介記事を書いているので御興味の有る方は御覧下さい。
これクリックで記事読めます⤵
横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。

写真で正面に見える丘が妙法寺の境内地の裏山で、恐らく戦国時代には杉田間宮家が籠城する要害だったはずです。
まぁ、古文書にも登場し源頼朝公や間宮家が大切に守った修験道の聖地の一つ❝泉蔵院の旧参道❞と❝桐ヶ谷道❞そして日本レベルで大切な❝大山阿夫利神社❞を繋ぐその明治の❝杉田街道❞との❝聖なる交差点(笑)❞に立地するのが杉田商店街な訳です。
さて、小生、このブログ書く為に改めて浜中学校下の切通の写真撮りに行ったり、丁度腕が神経痛みたいに成ってたので久しぶりに町の銭湯にユックリつかりたくて熊野神社への参拝と浜中学校下の切通し写真撮影に合わせて杉田商店街の裏にある杉田湯に入りに来た訳です。
車なら円海山の麓の自宅から10分ちょい位なのでそう遠くないですしね~。
そして、この日は弟方の姪っ子がウチに来る日だったので御土産に杉田商店街の雷神堂で御煎餅を買って帰りました。
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雷神堂 杉田店
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小生の妹や弟妻君の義妹はどうも食べさせるものに煩(うるさ)くて、スナック菓子とか食べさせると良い顔しない。だけど御煎餅とかなら嫌な顔しないので、杉田の御土産にはいつも菓子一の❝うめさやか❞か雷神堂の御煎餅を買っている。
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菓子一
菓子一に行けば杉田間宮家の間宮信繁公が残して下さった梅林文化を今でも垣間見る事が出来るからね。
浜中学下の切通しの写真撮影をしたこの日、実は杉田商店街でずっと行きたくて訪問時間がいつも合わずに入りに行けなかった念願の杉田湯にやっと入れました!
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その場所は杉田商店街~泉蔵院熊野神社に行く旧参道を途中を少し曲がった場所に在る。
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杉田湯昭和30年代創業の昔ながらの銭湯、杉田湯さん。ずっとずっと、東漸寺さんや妙法寺さんや泉蔵院の御参りや雷神堂や菓子一に買物に来る度に地図で見て「行きたいな~」と思いながら、営業時間が午後15:30~21:00となかなか時間が合わずに入りに来る事が出来なかったんだな。
今回、杉田湯に初入浴!
入口はこんな感じ。
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う~ん良いね良いね~♪
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居酒屋の下駄箱みたいな下駄箱。昔は良く見たよね。
小生の実家の近くにも昔は銭湯が有ったのだけれど、今では全滅してしまった。スーパー銭湯も好きだけれど、昭和の風呂屋の情緒はやはり銭湯に行かないと味わえないよね。
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そして玄関入っていきなり女湯男湯に分かれる・・・
左を覗いてみたいとは思わないよ、うん、決して思わない。
覗くくらいならちゃんと彼女つくって存分に一緒に混浴して貰うから。見るだけで触れないで捕まるとか阿呆な痴漢の行動原理が理解不能。
・・・そして❝男湯❞の扉を開いて中に入って先ず最初にした事はトイレにいって💩うんちした(笑)。
この日はずっと港南台のホームセンターと杉田を小用で往復していてトイレ行ってなかった(笑)。
風呂場の写真も撮りたいけれど、流石に無理なので皆さんには御覧頂く事は出来ません(笑)。
一応、御風呂の情報としては昔ながらの銭湯なので❝石鹸❞とかアメニティーは一切合切持参するか、番台のオバちゃんから購入する必要が有ります。小生はハンドタオルとバスタオル持参してましたが石鹸とシャンプーが無いとは思わず準備不足でした。入浴料金は480円で木曜日定休だったかな?
浴場は昔ながらの木造の高い屋根に壁には富士山の絵、そしてスーパー銭湯と異なり地元の御客サンばかりなので騒がしくなくとてもノンビリとくつろげました。
番台のオバちゃんと話して杉田湯の歴史とか色々教えて貰って「又来るね~!」と小生が言うと、少し笑顔で「又宜しくね!」と言ってくれました。
妙法寺にもしょっちゅう殿様の御墓に御参りに来てるし泉蔵院にも御参りに来るし、雷神堂とか菓子一にも買物来るから必ず入りに行こうと思う。
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湯上りの至福の時、苺オレ。瓶のはもう無いんだね~。小生はフルーツ牛乳より苺オレ派。
そして帰宅して・・・
忘れてたんだけど、この日の夜に語学教室行かないと行けなくて、風呂でくつろぎ過ぎて横浜の学校についた時には30分遅刻してしまった。
杉田湯の番台のオバちゃん、又、御風呂入りに行ったら話し相手に成ってね~♪

さて、皆さん、まさか商店街が歴史の交差点だったなんて思わなかったでしょう?
きっと皆さんの家の近くにも思いがけず歴史偉人と繋がりのあるタイムマシーンみたいな神社や御寺や御城の跡の公園があるはずです。
・・・だから少しお出掛けして散歩してみませんか?

では!又、次の解説記事で御会いしましょう♪














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三浦半島の海水浴場も続々と海開き後に海の家も営業開始して、既に海水浴客で賑わっています。
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ザ・作兵衛(石井農園直売所)
三浦海岸から鮪料理を食べる為に三浦市下宮田に差し掛かると、石井農園と言う老舗の大農家が営む直売所が有ります。晩秋に成るとミカン狩りもやっているので結構、小さい子供のいる御家庭やデートのレクリエーションとして有名な農園だったりします。
恐らく平安時代から三浦家臣団だった石井農園の半農武士時代の御先祖様の名前を引き継いだ作兵衛と言う屋号を使った❝ザ・作兵衛❞と言う直売所です。何回か紹介した事が有るかも?
余談ですが、時代劇にも良く出る「兵衛(べえ)」と言う字を代々の名前に含む農家は、どこも明治や江戸時代以前に武士だった家の子孫で、本当に只の農民が勝手に名乗って良い名前では無いんですよ・・・
なんせ「左❝兵衛❞佐(さひょうえのすけ)」とか「右兵衛佐(うひょうえのすけ)」とか、貴族としての官職を与えられた平安時代以来の生粋の武家だった家か、戦国時代に武士として活躍した家だけしか名乗れませんからね。鎌倉~室町時代の三浦家や戦国時代の北条家の殿様がそれぞれの時代に滅亡した際に家臣が武士を辞めて自分の土地で農民として土地開拓をして江戸時代には豪農化していると、作兵衛みたいに代々の屋号として祖先の名前が残って更に苗字も受け継がれていたりする訳です。
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そんな石井農園のザ・作兵衛ですが、本日07月11日から丁度、大玉西瓜の収穫販売が始まっていました。
そして、西瓜も美味しいのですが今週が糖度の最盛期を迎えているのがメロンだそうです!
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1つ500円と安い!
小生も今年も買ってみましたがスンゴイ甘い!
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家族各1人1玉分づつ購入しましたが、安いし本当に良い御土産に成ります。小生は1玉一瞬で食べきってしまいました(笑)。
ホームページも有って、通販もやってるそうです。
ザ・作兵衛ホーム画像拝借 久良岐のよし
さて、このザ・作兵衛のメロン、今週末13日~14日が収穫時期で、それを過ぎると収穫しても美味しくなくなり廃棄しないと行けなくなるそうです。
今が一番、石井農園のメロンが甘い時期な上に今週末が収穫リミット!今週末に三浦海岸や荒井浜や和田長浜や城ヶ島の海水浴場に車で行く御客さん!是非買ってあげて下さい!
万が一に小生のブログのせいで(笑)売り切れていても同じ三浦市内の味の信頼出来る仲の良い農家さんを紹介して下さるそうですから安心して下さい!
本当にメロンも西瓜も言うまでも無く外れが無く美味しい農家さんが石井農園です。宅配もやってますので、冒頭で紹介したザ・作兵衛ホームページから詳細を確認するか、電話で問い合わせして見て下さい!
車で行かれる方は冒頭に紹介した住所をクリックするとGoogleMapにリンクしますので参考にして頂ければ幸いです。
ザ・作兵衛以外にも美味しいメロン作る農園は沢山有るので自分で探して見るのも良いし、外れが無い様に小生の御薦めのザ・作兵衛に行くのも良いし。そこは皆さん次第・・・
では!皆さんにとっても今年が夏の恵みを堪能出来て楽しい事もいっぱい有る良い日々に成りますように~♪
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皆さんは京急杉田駅で電車を降りた事が有りますか?

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伊勢佐木町や横浜橋商店街程の規模は有りませんが、近くにはIHIや東芝、ヤマト運輸や日本飛行機、そして横浜南部市場が在り、多くの仕事帰りのビジネスマンと労働者が立ち寄る飲屋が存在する商店街で規模以上に通行人と飲食目的の客で賑わっています。
又、杉田商店街の属す横浜市磯子区はベッドタウンとしても発展したので精肉店、御茶屋さん、弁当屋さん等、庶民の台所を支える昔ながらの店舗も元気に市民生活の支えと成り商店街を構成しています。
実はこの杉田商店街、現在でこそ一般的な商店街ですが元々は東漸寺と言う大寺院の境内で古来開かれていた六斎市(月に6回開かれる市場)が起源に成っている事を地元の政治家や横浜市教育委員会の職員にも知る人は多く有りません。
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東漸寺は立派な釈迦堂が在りますが、これが❝昔の東漸寺時代の本堂❞でして、現在の東漸寺の本堂は・・・
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霊桐山 東漸實際禪寺 塔頭(たっちゅう) 真楽庵
東漸寺釈迦堂の右隣の不自然な位置に存在しています。
こはれ明治時代の廃仏毀釈で仏教が弾圧されたせいで、❝霊桐山 東漸實際禪寺❞と言う大寺院を運営していた周辺の塔頭寺院(大寺院の支院)の一つ、真楽庵(しんらくあん)に運営が委託され他の塔頭寺院は明治政府により潰され土地開発の為に接収されてしまったので、本来の東漸寺本堂たる釈迦堂ではなくて塔頭だった真楽庵が東漸寺を名乗らざるを得ない状況に陥り現在に至る訳です。
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現在も厄除け地蔵様が駐車場に鎮座していますが、本来は現在の3倍超の境内地を有していた頃に、この御地蔵様の前で市場が開かれたそうです。
そして人が定着し、やがて戦国時代に成ると間宮林蔵や杉田玄白の祖先である間宮信盛公が川崎駅前の堀之内から杉田に本拠地を移し、間宮家が東漸寺や杉田一帯の神社仏閣を支援し武士達と商人職人が定着し町の基礎が確立されていった訳です。
東漸寺は以前に解説記事を書いているのでもし興味が有れば下のリンクから記事を御覧下さい・・・
杉田の元大寺院の東漸寺(とうぜんじ)と、鎌倉時代に御寺を開いた名越北条家と戦国時代に御寺を支援した間宮家。←クリックで読めます。
それと横浜市教育委員会の東漸寺に対する解説は誤りが有るので一個人ですが小生が歴史オタクとして訂正して置きます。
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東漸寺は鎌倉時代開基の御寺では有りません。
前身寺院は鎌倉時代以前に天台宗として開かれており、境内には石塔も現存しています。
その天台宗寺院を名越北条宗長公が鎌倉時代正安三年(西暦1301年)に禅宗臨済派の寺院として釈迦堂を建立し改宗させて現在に至るので、1301年の出来事は❝中興❞と言うべきなんですね。
さて、東漸寺は以前に解説も書いているので今回は詳しい解説は触れず、商店街の老舗と新しく可愛い御店の紹介、そして江戸時代に殿様が住んでいた場所である解説に移りたいと思います。
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杉田商店街を新杉田駅京急杉田駅側から入ってくると上の写真の場所に出ます。
さて商店街のアーケードに❝杉田❞と書いて有るので少し地名の解説をしたいと思います。
杉田の地名はそもそもは杦田(すぎた)と書きましたが、歴史学者でもこの杦(すぎ)の字を知らず古文書で❝松❞と誤読し❝松田❞と間違って書いてると馬鹿にする人が居たりしますが、実は馬鹿にしている御本人が❝杦田❞の正式な字を御存知無いだけなんですね。
これは、その学者さんが悪い訳では無くて明治~昭和初期に活版印刷で複製刊行された史書の編纂に携わった国の御役人のミスでしょう。
字の意味は同じなので、現代の字体では杉田で統一しているだけと認識した上で本来は杦田と書くと知っていれば良いだけです。
実はこの商店街のメインストリート、昔は川だったんですよ!
迅速測図 杉田周辺 久良岐のよし
これは迅速測図と言う明治初期に作られた測量地図の杉田周辺の様子です。
地図の右端に杉田が登場し❝杦田村❞と標記されています。そして、そこには東漸寺が記載されているので現在の杉田商店街の目標物にも成りますね。
もう少し拡大した画像を見て見ましょう。
迅速測図 東漸寺周辺 久良岐具のよし
東漸寺の右側には道とは違う海へと続くL字にクランクした川が流れているのが判るでしょうか?
見ずらいので川の部分を書き加えて見ましょう。
迅速測図 東漸寺周辺 久良岐具のよし
ではこの測量図は精密ではないので、日本城郭大系に掲載された聖天川の位置を現代の衛星写真に当て嵌めて見ましょう。
聖天川と杉田間宮陣屋位置 久良岐のよし
この通り、現在の杉田商店街入口が江戸時代の船着き場で、現在の新杉田駅は海の底だった事が解ります。
そして商店街のメインストリートは❝鳥メロ❞の辺りまで真直ぐに海から船が入って来て、そこから先が水堀として間宮信繁公の邸宅=杉田陣屋まで船で出入り出来る構造に成っていた事が解ります。
間宮信繁公は徳川幕府初代将軍徳川家康公の直臣であり参謀を務めた旗本で、更に初代の徳川幕府鷹匠頭を務め隠密行動も得意とした人物でした。実は関ヶ原合戦で徳川軍が勝利したのは間宮信繁公と、その同族の近江源氏黒田長政公の御二人の諜報活動と策略による活躍が大きく起因していました。
以前、間宮家の事績を簡単にまとめた記事に間宮信繁公の事も解説しているので御興味の有る方は以下の記事リンクをクリックして御覧下さい・・・
間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績←クリックで記事へリンク!
・・・そんな凄い間宮信繁公の邸宅跡は横浜市教育委員会が保護を行わなかったので、信繁公や間宮一族が造営した日本屈指の大梅林❝杉田梅林❞とともに消滅してしまいました。
間宮信繁公と御子孫の杉田間宮家の陣屋址には今は個人宅が並ぶ住宅地と成っていますが、道に名残を見る事が出来るので行き方を少し説明します。
先ず、新杉田側から杉田商店街に入ってくると左手に日高屋の横に❝居酒屋串まる❞の看板の小道が在ります。
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そこを入って下さい。
そこから暫く進むと野本園と言う御茶屋さんが在ります。
Googlemap 杉田間宮陣屋址 久良岐のよし
その野本園を左折すると、その道が海へと続く聖天川を引き込んだ杉田間宮陣屋=間宮信繁邸址の外堀の役目を担っていた聖天堀を暗渠化した川の跡です。
余談ですが、この野本園の御一族は恐らく鎌倉時代以来の名士で、金沢区富岡や杉田一帯に勢力を持っていた武士の御子孫に当たるはずです。御本人達が現在その事を御存知かは知りませんが、金沢区並木~富岡~杉田界隈は昔は野本家の領地でした。そして上司は状況的に記事冒頭で紹介した東漸寺を再興した名越北条宗長公の名越北条家だったでしょう。

話を杉田間宮陣屋に戻します。
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陣屋の跡は全くないですが、聖天堀の跡は住宅道路として残っていて、上の写真で手前の右から左に抜ける道と丁字に交差する白い軽自動車が走っている隘路(あいろ=狭い道)が聖天川から引き込まれた聖天堀の跡です。
武家屋敷の水堀の跡だから、暗渠化しても狭い道路のままなんですね。
さて、ここに住んでいた間宮信繁公に関する事は新編武蔵風土記稿や後北条所領役帳等の文献に記録が残っています。
【後北条所領役帳】
御馬廻り衆(北条氏康公近衛部隊)
一 間宮藤太郎
  五拾五(55)貫文 東漸寺分
  拾五(15)貫九百四拾六(946)文 同所壬寅増分
  以上七拾(70)貫九百四拾六(946)文

こはれ杉田間宮家の1559年迄の所得を示した記録で、当時の間宮家が仕えた北条家では100文銭=米1.4斗としていましたので、杉田間宮家の所得を計算して見ましょう。
1貫文=1000文 100文=米1.4斗 1斗=米15kg(現代) 米1kg=400円前後 
70貫946文=70946文
70946文=米993.244斗=米14898.66kg=5,959,464円
さて、杉田間宮家の1559年時点での収入は現在の年収に換算すると600万円弱と公務員と同じ位の現実的な夢の無い金額に成ってしまいます。しかしこれは1559年時点の話で当主は間宮信繁公でも無ければ当時の間宮本家は港南区笹下の笹下城主間宮康俊公698貫122文でしたので、時代的に1559年時点では杉田間宮家の当主は間宮信繁公の御父君の信忠公の世代に当たり、あくまで杉田間宮家は分家して2代目なので当然ながら所得も低かった訳です。

これが間宮信繁公が当主だった安土桃山時代に成ると様子が変わって来ます。
【新編武蔵風土記稿 久良岐郡 杉田村の項】
舊(旧)跡陣屋蹟
~冒頭省略~
北条氏に仕えて小田原水尾城を預かりて忠功あり(この時点で城代を任せられている)、文禄元年壬辰東照宮(徳川家康公)に召出され、舊領の内杉田中里村五百石の録を賜り、御使番御鷹方兼務む、慶長十五年正月十五日、武蔵国久良岐郡杉田村の内五百石、三河国碧海郡上條村七百石、近江国伊香郡の内五百石、合計千七百石、充行詑全可領知者也との御朱印を賜はる
~以下省略~
つまり間宮信繁公の代に成ると、徳川家康公の参謀や鷹匠頭として活躍した功績によって1700石に加増されている事が解るのですが、では1700石がどれ程の収入か計算して見ましょう・・・

1石=米150kg 米1kg=400円前後 間宮信繁公の総所得=1700石=米255,000kg
255000kg×400円=102,000,000円

・・・つまりですね、鷹匠頭と成った間宮信繁公の基本所得は現在の日本円に換算すると1億2百万円に跳ね上がってる訳です。そして鷹匠の奉行である鷹匠頭を務めたので当然ながら役職手当も有りましたが、鷹匠頭の役職手当は不明です。
例えば専門職の奉行で腰物奉行と言うのが有り、それは幕府の刀剣類を管理する部門の奉行職でした。
この管理職手当が米400俵でした。
1俵=60㎏ 60kg×400円=24,000円 400×24,000円=9,600,000円
鷹匠頭と同じ専門職の腰物奉行を参考にすれば960万円位の役職手当てだったかもしれません。
すると間宮信繁公の年収は・・・1億1千2百万円!とんでもない収入ですね。
無論、ここから約50人の兵隊を編成できるだけの武具を買い揃えないといけないので全部が全部生活に使って良い御金では有りませんが、基本的に奉行職に関しては与力が幕府から派遣され自分の所得から人件費を支出する必要は有りませんでした。
戦国時代に間宮本家から分家してから間宮信繁公は徳川家康公に信頼されて大変な出世をしているのが解ります。
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実は間宮信繁公の御姫様は久能山東照宮の初代大宮司と成り従二位の位を授かった榊原照久公に嫁いでいます。この事からも幕府内で旗本ながら杉田間宮家が高い地位を得ていた事が解りますね。
因みに本家の笹下城主間宮家の安土桃山時代の当主、間宮直元公は更に出世していて本牧奉行(横浜市長)、但馬奉行(朝来市長兼生野銀山社長)、佐渡奉行(佐渡市長兼金山社長)を兼務し、その所得は実に8億6400万円にも上りました。
杦田梅林 久良岐のよし
さて、そんな間宮信繁公が力を入れたのが梅の植林で、これが実は昭和初期まで横浜の特産品で関東で最高品質の梅として江戸で流通した❝杉田梅❞と成りました。昭和初期まで梅林は存続し、江戸時代を通じて江戸からのクルージングで旅行に来る多くの観光客で賑わい、船で杉田商店街入口に有った聖天川の船着き場で観光客は下船してから杉田梅林を観光しました。明治時代には明治天皇と皇族が杉田梅林まで観梅に行幸された程でした。
その梅林は横浜市教育委員会と神奈川県教育委員会が保護を怠り消えましたが、実は今現在(2018年2月22日現在)見頃を迎えている小田原市曽我梅林に大規模移植され存在しています。
曽我梅林 久良岐のよし撮影
曽我梅林
曽我梅林からは富士山も綺麗に見る事が出来ます。ここのブランド化に成功した曽我十郎梅は実は杉田梅を親木として品種改良された梅ですが、今でも杉田梅の広大な梅林も残されています。

一方杉田でも杉田商店街の中に今でも当時の杉田梅の文化を守る菓子一と言う和菓子屋さんが営業しています。
今回、「ブログ復帰の第一弾の記事を何にしようかなぁ~?」と考え思い付いたのが間宮家顕彰の原点でもある杉田間宮家の殿様の紹介で、そして一緒に殿様の商店街の菓子一サンの事も書きたいなぁ~と思い付き改めて御店に写真を撮影に行って来ました・・・
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この御店の御店主は老舗らしく杉田の文化にも御詳しく、そして商品にも昔からの文化を大切に取り込み残す努力をされていらっしゃいます。
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もし杉田梅に興味の有る読者の方がいらっしゃったら、折角の梅の季節なので曽我梅林や杉田商店街の菓子一サン、そして杉田梅を復興されようとされている杉田の牛頭山妙法寺の松本住職様を訪ねて見て下さい。妙法寺には間宮信繁公の御廟所と、御寺の山には松本住職様が復興の試みている杉田梅が植林されています。

この他にも今回は店の写真を撮影できなかった色んな個人店が杉田商店街には有ります。
おにぎり屋サンとか沢山の居酒屋も有る。
そして少し裏道を歩けば臨済宗鎌倉五山関東十刹第七位の格式を持つ東漸寺さんや・・・
源頼朝公が開いた熊野神社こと泉蔵院さん。
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熊野神社=修験道 大霊山 泉蔵院 桐谷寺
横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。
※以前書いた記事⤴
杉田間宮家陣屋址の堀の名残りの道路、杉田間宮家の杉田梅が有り巨大な御廟所もある牛頭山妙法寺も近い。
牛頭山 妙法寺
2015-01-21-13-16-37
妙法寺…日本武尊神話の有る後北条重臣間宮家の菩提寺…横浜市磯子区杉田。
※以前書いた記事⤴
杉田には色んな歴史偉人と関わる場所が有って、買物を終えて町のメインストリートを少し離れると家と店の只の往復からとても有意義な散策に変化して時間をユックリと楽しむ事が出来ます。

皆さん、是非、杉田商店街周辺、散策してみませんか?きっと有意義な時間が過ごせますよ!
では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!











・・・次は間宮家の上司の玉縄北条家の御殿様の事を書こうかな。











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浅草と言えば浅草寺と芸人の町として昭和には有名に成り、ビートたけしサン始め多くの話芸の達人を生み出してきました。
そんな浅草の浅草六区と言う町に“ホッピー通り”と言う素敵な飲み屋街が在るのを皆さんは御存知でしょうか?
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写真はホッピー通りの名物、もつ煮込みの店の一つです。こんな感じで道に迫り出す様に屋根とテーブル席が設けられていて、昼も日中から(笑)多くの観光客と地元客が御酒とツマミを楽しんでいる風景を見る事が出来ます。
後で位置関係は地図で説明しますので、先ずはアドレスだけ紹介します。
【ホッピー通り】
小生も余り通っている訳では無いので、その店が特に美味しいと言う記憶が鮮明に有る訳では有りませんが、外国人の友人が東京に来た時に浅草寺を観光案内してからココに連れて来ると大変に喜んでくれます。まぁ~、モツ煮が口に合うかどうかは別にして。
この界隈は浅草六区と言う町な訳ですが、感の良い人は「浅草ロック座」って無かったっけ?と別の店の名前で思い出すかも知れませんね。
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この写真を拡大して頂くと解りますが、六区の街頭には昭和の名俳優と芸人の写真が掲げられています。
浅草六区は芸人の町なので話芸と演芸の芸人を育てる素地が有ります。
浅草ロック座と言うのは浅草六区に在る有名な“ストリップ劇場”の名前です。
小生はヤクザが大嫌いなので、裏社会と繋がりの臭うストリップ劇場はおろか、パチンコの類、キャバクラや性風俗店を保守派として敵視している人間です。ですから小生は一生、浅草ロック座の御世話に成る事は無いでしょう。しかしながら、この店は芸人を育てると言う事に置いて非常に大切な役割を果たして来ています。
昭和の話芸の芸人達は多くが浅草ロック座で司会や前座として話術を磨き、そして芸能界にデビューしています。例えば冒頭で名を挙げたビートたけしサンやアズMAXの御父さんの東八郎サンがロック座から出世して行きました。
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ですから、この界隈は下町の宗教文化の賑わいと、芸人達の下積みの場、そして美味しい御酒の合間った明るく不思議な、そして裏では血の滲む様な泥臭い努力をしている人達が集まる混沌とした魅力溢れる町なんですね。
この場所、行き方が良く解らない人が多いので少し解説しますが、先ずはついでに浅草寺の夜景も紹介したいと思います。
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浅草寺と言えば雷門ですが地下鉄の駅から雷門へ向かう途中、アサヒビールの“金ウンコ(笑)”とスカイツリーが見えたりします。
その近くには立ち食いソバの“富士そば”が在りますが、実は富士そばの隣の甘味処の“西山”は幕末創業160年以上の老舗だったりします。
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この西山は元々は穀類や豆類の問屋から始まっている事も有り、今でも小倉餡や団子は自社で材料の調達から加工、調理提供まで行っています。
すっごく美味しくて、他の店と比較すると味の良さが格段である事が判ります。
位置関係の地図は最後に載せるとして先(ま)ずはアドレスを掲載して置きます。
【甘味処 西山】
さて、西山をもう少し西に歩くと道路を挟んで雷門の正面着きます。
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・・・写真でポーズをとっている人は気にしないで下さい。
この門、現代では“雷門”と言う誤った名称が一般的に観光客には誤認されていますが、本来は風神と雷神を祀る門なので簡略化するのなら“風雷神門”と言う名称が正しい所です。
日が落ちた直後の浅草寺はライトアップされとても綺麗な事を結構、観光客の方は知らないんですね。
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浅草寺界隈ではフザケたTシャツも人気の御土産に成っています。
因(ちな)みに仲見世の通りには江戸時代には塔頭(たっちゅう)寺院と呼ばれる、大きな御寺の支店みたいな小さな御堂が沢山建ち並んでいました。
さて、仲見世を通り過ぎると左手前方に五重塔が見えて来ます。
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ここも昼に見るより夜来た方がとても綺麗なんですね。
実はこの五重塔、現在は浅草寺本堂に正対して左手つまり西側に建っていますが、元々江戸時代には右手東側に建っていました。大火災等を経て、配置も色々と変わっています。
この五重塔の手前左側に行く道の“伝法院通り”が在りますので、そちらに進むと浅草六区の“ホッピー通り”に行くことが出来ます。
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御不動様も夜光に照らされ更に威厳の有る御姿を見せて下さいます。
そして本堂に向かって進むと山門(参門)と呼ばれる内門に当たる宝蔵門が観光客を迎えて下さいます。
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夜の濃紺の空にライトアップされて赤と金に光る宝蔵門はとても映えますね。
浅草寺は元々は天台宗の寺院で現在の東京都内では現存最古の寺院です。戦後に天台宗から分離独立して聖観音宗と言う仏教宗派の総本山に成りました。
実は小生の住む横浜市とは縁が深い御寺です。
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横浜市金沢区には手子神社(旧名:手子明神社/小泉弁才天)と言う神社が存在し、元々は源頼朝公が開いた瀬戸神社と言う神社の大山祇神(おおやまづみのかみ)の御分霊を祀る神社として開かれました。しかし新田義貞の鎌倉乱入の戦火や永享の乱等、鎌倉横浜周辺の神社仏閣は度々荒廃していました。
戦国時代に、この手子神社周辺を治めたのが小田原北条家の家臣の三河守(みかわのかみ) 伊丹永親(ながちか)と言う人物です。実はその孫に当たるのが江戸時代初期の浅草寺の高僧、權僧正(ごんのそうじょう)智樂院忠尊和尚様でした。その御縁から智樂院忠尊和尚様は祖父が治めた釜利谷の赤井村、坂本村、宿村の3ヵ村の総鎮守の神社だった手子神社の社殿を江戸時代初期に造営しています。
つまり神仏共に大切にする元は天台宗だった浅草寺の高僧らしい文化的な活動を、智樂院忠尊和尚様は祖先の故地、現在の金沢区釜利谷で行った歴史が有る訳ですね。
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ついでに手子神社境内には瀬戸神社の前に在る源頼朝公と北条政子様御夫妻が御息女の大姫の誕生祝に琵琶湖の竹生島から弁天様の御分霊を勧進して開いた琵琶島弁才天と呼ばれた琵琶島神社から更に御分霊を勧進した小泉弁才天の名で江戸時代に親しまれた弁天社が現存しています。
小泉夜雨 葛飾北斎 
この小泉弁才天は江戸時代に歌川広重によって“金沢八景の一つ、小泉夜雨”として景勝の地として浮世絵に描かれ江戸からの観光客で賑わいました。そんな訳で江戸時代初期には中国の明朝の滅亡時に亡命して来た高僧の東皐心越和尚様等によって紹介され全国的にも景勝地として有名だったので智樂院忠尊和尚様も祖先の治めた土地に誇りを持っていたんでしょう。
さて、そんな訳で浅草寺と横浜はとても偉い神仏共に大切にされた伊丹家出身の智樂院忠尊和尚様の御縁で結ばれているのですが、そんな神仏習合の文化を残す浅草寺宝蔵門の先に進むと、いよいよ浅草寺の本堂です。
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まぁ、ここまで紹介して何なんですが、夜間ライトアップの時間に成ると当然、本堂は閉門しており中に入って参拝は出来ません。
ですから小生の御薦めとしては先に一度、仲見世で御土産の購入を済ませて御本堂を参拝してからホッピー通りに行き夕食をとり、日没してから帰路に着くと夜の浅草寺境内を通って地下鉄の駅まで戻る事が出来て観光するには良いかと思います。
スカイツリーや上野動物園も見学するのであれば、そちらは早い時間に見学してしまう方が良いでしょう。

さて、浅草のホッピー通りと西山、良い御店でしょう?
もし浅草寺界隈に行く機会が有ったら是非!立ち寄って見て下さい。
ホッピー通りと西山と浅草寺界隈 久良岐のよし
最後に位置関係。
☆マークが今回紹介した店や、超有名な料理屋さんです。

では、又、次の解説記事で御会いしましょう。


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三浦半島の横須賀市長坂には乳牛を飼育してアイスクリーム等の乳製品を直売している関口牧場と言う場所が有ります。
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関口牧場
小さい乳業会社なのですが口コミでアイスクリームが美味しい事が広まって、最近では休日とも成るといつも行列が出来ています。
入口が少し判り難い上に駐車場が少ないのも厄介なのですが、それでも大人気の店なんです。
関口牧場・無量寺・佐島マリーナ・海辺の位置 久良岐のよし
場所は上の地図を参考にして頂けると良いのですが、車で佐島マリーナから10分、衣笠ICから20分程度の距離に位置します。比較的交通は不便な場所ですが、これから夏に向けて佐島や長者ヶ崎や三崎に行く用事が有る人にはおススメのスポットです。
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    ↑
道の入口はこんな感じ。
店は少人数で切り盛りしててコンナ感じ。
    ↓
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お姉さんが1~2人で頑張ってるので、ちゃんと整列して煽らず(笑)出来るだけ運営に協力して上げて下さい。
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この日、小生はココア味とバニラ味のダブルを注文しました。
これ、上下にトッピングされてますがツイストにもして貰えて、子供に選ばせれば喜ぶかも知れませんね!
飯田牧場同様、自然の甘みを重視しており、人工的に脂分の添加をしておらず不自然なクリーミーさは当然有りません。甘いのにサッパリしていて量は多いのですが美味しく平らげる事が出来ます♪
小生は最近、可愛がっている甥っ子(4歳)が総合格闘技の道場でレスリングを習い始めて中々、オジサン(小生)と遊んであげる暇が無くなってしまい(笑)まだ連れて来てあげれておりません。
牧場なのですが、前回紹介した藤沢の飯田牧場と同じで広大な放牧地が有る訳では無さそうです。

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でも牛舎が隣接していて、外から様子を見学できます。
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小さい子を連れてくれば、こうやって❝牛臭い(笑)❞場所で牛乳が生産されてる事を理解させる良い機会に成るかも知れません。
牛さんに感謝する心を教育する場としては良いと思います。
エサやり禁止なので厳守して下さいね~!
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もしかしたら牛舎の背後は放牧スペースかも知れませんが、店員のお姉さんが忙しそうだったので確認していません。
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牛の他にもヤギや鶏もいました。
三浦半島の南側の油壷マリンパークや三崎や城ヶ島、西側の葉山や長者ヶ崎や秋谷の海岸に行く機会が有れば、是非立ち寄って見て下さい!
【関口牧場】
業種:乳業、アイスクリーム製造と直売。
あと、車で10分と直ぐの佐島マリーナの入口に在る❝海辺❞と言う和食海鮮レストランも御薦めです!
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魚も美味しいのですがロケーションが綺麗なので、以下に各周辺観光地の過去記事と合わせてリンク紹介して置きます。
【海辺】
業種:和食海鮮レストラン(海に張り出したロケーションの眺望と新鮮な魚料理が特徴)
タグ:佐島マリーナの記事→一覧はココクリック!
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さて、小生のブログは少しは郷土史要素も入れて置きたい・・・

話を関口牧場に戻すと、ここを知った理由は戦国時代の横浜を治めた間宮家の一族の分家で間宮造酒丞(みきのじょう)家の菩提寺であり、鎌倉時代の名将の和田義盛公が開いた御寺だからだ。
信高公の御父君は間宮康俊公、有名な関東最強の武将の北条綱成公の付家老で自身も鶴岡八幡宮再建や山中城で活躍した間宮康俊公の家系図上の御子息だ。信高公は武田家に転仕して武田信玄の水軍大将務めた。武田家滅亡後には徳川水軍の大将格で活躍した人物で所領が関口牧場の所在地の横須賀市長坂、昔の三浦郡長坂村だった訳だ。
だから、その信高公の菩提寺と関口牧場は徒歩数分の御近所さん。
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金剛山 無量寺
浄土宗の金剛山無量寺と言う御寺が間宮信高公の菩提寺。
元々は鎌倉幕府で初代の侍所別当(防衛大臣)を務めた和田義盛公が開いた御寺だった。
だから和田義盛公の守り仏が御寺に祀られている。
山号と三浦家初期の宗旨から察するに多分、最初は真言宗の御寺だったはず。
浄土宗に成ったのは間宮信高公が徳川幕臣であり、織田信長公と徳川家康公が熱心な浄土宗信徒だったので徳川家臣に成った時点で自分の所領の無量寺を改宗させた上で土地を寄進して復興させたんじゃないかと思う。
間宮信高公は御妻君が房総半島の小大名だった真里谷武田家の姫君だ。実は戦国時代初期、三浦半島がまだ三浦家と北条家の係争地だった際に三浦家の大将だった三浦義意公の御妻君も真里谷武田家の姫様だった。真里谷武田家は内紛を起こして真里谷武田信隆公が房総半島から逃げて北条家に一時的に亡命している。
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その場所が上の写真の横浜市金沢区に在る稱名寺一帯な訳だ。
なので、その御縁で金沢区の隣接地域の杉田や笹下の現在の港南区~磯子区の殿様だった間宮康俊公の御子息と真里谷武田家の姫君が婚姻を結んだんだろう。
最初に御住職様に御会いしたのは、和田義盛公の顕彰活動で訪問した際だった。
その時は未だ無量寺が間宮信高公の菩提寺とは知らなかった偶然の訪問だった。
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まぁ、御住職と少し御話して和田義盛公の事を聞いたり、特別に御本堂に上げて頂いて色々と見学させて頂いた際に、何を思ったのか突然御住職が「実は間宮家~云々」と小生の顔をマジマジと見ながら話し始めた際は正直、大変に「ドキっ!」としたのを覚えている。
御住職様も何で小生が一言も「間宮」とも発していないのに、その話を始めたか解らないが、今と成っては信高公の御導きだったんだと思う。
この偶然が有ってから、間宮信高公の事を寛政重修諸家譜等から読み調べ始め、そして死地が愛知県海部郡蟹江町に在った蟹江城址と知って現地の教育委員会様に様々な情報提供を頂き、昨年、間宮家の顕彰文に信高公の事を掲載すべく蟹江城址へ写真撮影に行って来た。
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今も運河沿いに酒蔵や米問屋が残り城下町の風情の残る良い処だった。
実は蟹江城は天正年間、つまり間宮信高公が討死にした合戦直後に大地震で崩壊し消滅したのだが本丸の井戸だけが現存しているのだ。
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この井戸の写真撮影に蟹江町を訪問して来た。ついでに甘強酒造と言う昔ながらの武士が高級酒として飲んでいた味醂を製造している酒蔵も訪問して味醂を購入して来た。
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これらの御縁は全て関口牧場と同じ長坂に在る無量寺の御住職と和田義盛公と間宮信高公が導いて下さった地縁だった。御蔭で良い旅行が出来た訳だ。
因(ちな)みに、ウチの母にも土産で甘強酒造の本味醂と津島市の鶴見酒造が作る味醂、神鶴を購入して渡したのだが、両方とも普段使ってる味醂とは全く別物の美味さに驚いて母は自分の友人達にも紹介していた。小生はリキュールとして炭酸割り等にして飲んだが焼酎で作られていて風味良く美味しかった。
織田信長公や徳川家康公も飲んだであろう旧海部郡の味醂を現代に飲めて幸せだった。
まぁ、そんな訳で関口牧場の在る三浦半島の横須賀市長坂地区は昔から水軍を率いた武士の根拠地だった訳だ。そして昔は牛では無くて馬を生産していた牧場も有ったかも知れない。
佐島と長坂の間には❝蘆名(あしな)❞と言う地域が有る。ここは和田義盛公の御子息が治めた土地で蘆名城と言う城が有った。その蘆名家の子孫は東北に移住して奥州探題等を務めた大名と成り名将の蘆名盛氏公を輩出した。蘆名盛氏公と言えば伊達政宗公のライバルだった人物だな。

皆さん、関口牧場や佐島を訪れる機会が有ったなら、是非!和田義盛公や間宮信高と言う名将が昔、長坂に居た事を思い出して見て下さい!
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【中村酒造】
[住所]
 〒197‐0826 東京都あきる野市牛沼63
[電話]
 042‐558‐0516
[ホームページ]
 →リンク先←クリック!

東京都あきる野市に200年超の歴史を有する清酒“千代鶴”の蔵元、中村酒造と言う酒蔵が在ります。
車で行くならば東京サマーランドから直ぐ近くの場所に在ります。
 中村酒造場所Google map 久良岐のよし
ここは資料館も併設しており、そこで小売りもしています。
そして、この酒蔵は江戸時代の建物が残り、とても雰囲気が良く桜がとても綺麗な場所なんです。
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 入口には酒林(さかはやし)と呼ばれる杉の葉の“くす玉”が飾って有り、とても良い目印に成ります。
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先ずはせっかく酒林が登場したので、日本の酒作りと稲作の歴史から解説したいと思います。
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日本の神様を祀る神社の中でも弥生時代~古墳時代成立の古い延喜式内社や式外社には、現在も御祭神が酒作りと関係の有る場所が多くあります。
例えば上の写真の説明の通り日本最初の神社と言われる三輪神社、そして神奈川県では伊勢原市の比々多神社の御祭神に大酒解神と小酒解神の名を持つ神様が祀られています。
昔の考古学者の中でも論文ばかり書いて発掘しない学者は先入観で実地見分も行わず、「古代は河川の氾濫原に人は住んで居なかった」とか「縄文時代に農耕は始まっていなかった」とか「神社の伝承とはかけ離れた理論」をさも事実の様に展開していましたが、見事に現代の発掘調査で彼等論文バカ学者の石頭理論が「思い込みの嘘だった(笑)」事が続々と証明されています(笑)。
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例えば、この海老名市の有鹿神社、奥宮は相模原市磯部に在り縄文時代の遺跡を内包する聖地なのですが、海老名市の本宮の方は鳩川と相模川の「河川敷の旧境内地から弥生時代以後の遺跡が大量に発掘されています」が、その相模川の河岸段丘の下の河川傍の平地からは他にも弥生時代の遺跡が多数発掘されています。
つまり、文章しか読まなないコミュ障学者の言う事なんて、そいつのコミュ障ぶりと同じく価値が無いわけです。
だからちゃんと、色んな神社仏閣の伝承を調べて周辺の地形と、伝承を比較しながら昔の論文や書物に囚われず状況証拠から推測して発掘調査をしないといけない訳です。
実際に出世欲よりも探求心の強い学者さんは、固定観念に捕らわれず客観的に状況証拠を集めて遺跡の場所を特定して発掘調査に積極的に関わりますからね~。
登呂遺跡も日本神話をヒントにして発掘され発見された史跡です。
そんな事を踏まえると、関東で稲作が始まったのは古墳時代以降とか言ってる学者がまだ多くいるのはスンゴイ誤りで(笑)、比々多神社の御祭神の名前、寒田神社の日本武尊の弥生時代の木製酒杯、三輪神社の歴史、それらの状況を見れば関東でも水田では無く川沿いの氾濫原湿地帯で耕作が行われていた可能性だって十分に有る訳です。
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実は、神奈川県綾瀬市には台地上に神崎遺跡と言う弥生時代の遺跡、丁度、日本武尊神話の頃の遺跡が 存在しているのですが、これが弥生時代の遺跡なのに人が定住を直ぐに止めてしまった遺跡であり西日本からの移住者達の遺跡なのが判明しています。
ここは古代(古墳時代以降)に開かれた中原街道に面していて、神崎遺跡の先には寒川神社、前鳥神社、鶴峯山八幡宮(現:平塚八幡宮)等、古代の大規模集落を抱えていた地域の延喜式内社が在ります。
神崎遺跡と中原街道 久良岐のよし
上の画像の黄色い線が現代の中原街道旧道です。
白い部分は縄文時代まで海だった場所で弥生時代~古墳時代までにプレートが隆起し海岸線が後退して湿地に成り開発された地域です。
恐らく、古代の中原街道は神崎遺跡を通り古代湾だった寒川神社へ通じる谷間を抜けて前鳥神社へと通じていたと思います。
そして相模国府の在った有鹿神社の有鹿郷(後の海老名郷)~神崎遺跡~宇津母知神社~大庭神社を通過して鎌倉郡村岡へ通じ古代の東海道へ接続し、逗子市小坪の住吉神社の在る住吉城址前の切り通しを通過して、葉山から下山口~上山口を通過し横須賀市大津へ、そして先に在る走水神社へ続いていたと考えられます。
小生は神崎遺跡を最初から定住すのが目的の環濠集落ではなく、東へ開拓地を広める為の橋頭堡、もしくは既に開拓した寒川郷や有鹿郷を守る為の弥生時代後期の戦略拠点だったのではないかと思います。
これを証明するかのように、集落には有って然(しか)る可(べ)き方形周溝墓や竪穴式住宅に家ごと埋葬される事の多かった疫病で亡くなった人々の人骨も出土していません。
つまり稲作が始まり米と言う財産が出来た事によって開発利権の争いが起きていたと思っているから、この神崎遺跡は地勢的にも古代の物々交換の交易や豪族が軍事行動をする時に通過する街道を抑えて、県央の隆起して陸地に成った開発地域だった場所を守り、東側の勢力と戦う為の環濠要塞だったと考えています。
地形も舌状丘陵の先端に位置し、正に城を置くのに適した場所に在ります。
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地形や周辺の歴史の詳細は神崎遺跡資料館で見学出来ます。
では何で、この台地上の定住が直ぐに終焉を迎えたかと言えば、先程紹介した通り、有鹿神社周辺や相模川下流域の相模国一之宮寒川神社辺りに、この時期から続々と弥生時代の村が増えて行っているんですが、戦争の心配が無くなったからでしょう。
食料生産活動が狩猟採集から農耕に推移して、当然、戦争が無ければ集落を維持する必要も無く、水の確保出来ない丘は放棄され、稲作なり畑地の開墾なりに適した河岸段丘下の平地に人が下りて行ったと状況証拠は物語っている訳です。
そして、その平地には後に海老名郷と呼ばれた有鹿郷や寒川郷が開かれて行き、大きな豪族単位の国が出来上がって行った訳です。
米の生産と清涼な水が在る所に酒の生産地が発生します。だから古い神社の在る水の豊富な地域と酒造りは密接に関係が有ります。
中村酒造の在る「あきる野市」は古来より小河神社と呼ばれた今の二宮神社があり市内には湧水池が多く存在していたので酒造りが江戸時代にも盛んだったんでしょう。
同じ様に比々多神社や大山阿夫利神社の在る神奈川県伊勢原市は大山山系の清涼な水が昔から名水地として有名だったので、当然こちらも江戸時代から続く造り酒屋が現代にも存続しています。
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 さて、 酒作りの歴史講釈はこの程度にして、中村酒造の紹介に話を戻します。
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入口はこんな感じです。
既に風情が有ります。
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中に入ると此(こ)の通り、敷地内には販売所兼資料館に成っている蔵の前に綺麗な桜が咲いていて絵に成ります。この付近に来客用の駐車スペースも有ります。
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 資料館の入口は一度、外に出て道路側から入る事に成ります。CIMG3465
多分、御酒好きな東京人は聞いた事の有るかも知れない地酒“千代鶴”の名前。
立派な看板です。
中には酒造りに使用していた昔の道具が展示されています。CIMG3466

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販売員の方がいるので、質問にも応じて貰えますよ!
小生は今回の訪問時にちゃんと予約しなかったのですが、予約すると酒を造っている酒蔵の方も見学させて貰えます。まぁ、時期が有るので期間限定でしょうが。
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資料館の裏側の風景が桜と昔の酒造りに使用していた大樽の風景、これもタイムスリップした様で風情が有ります。
資料館の中では先述の通り物販も行っています。
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 店員さんは気さくに質問に答えて下さる方で、とても親切です。
 まぁ、こんな感じの場所なので、もし東京サマーランドなんかに遊びに行ったり歴史が好きで滝山城址を登りに行ったりするならば、車移動の人には小生御勧めの場所が、この中村酒造さんです。
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小生は御酒は好きでは無い(笑)のですが、この中村酒造んさんの雰囲気が好きなのと梅酒だけは飲むので今回も訪問し梅酒を購入しました。
これが焼酎では無く清酒で造った梅酒で、しかも“甘くない”んです。
甘くないので梅の香りが良く伝わり、甘い梅酒とは又、異(こと)なった美味しさが有ります。
色は琥珀色でとても綺麗です。
無論、清酒の千代鶴も父に御土産で購入して飲ませたところ「美味しい!」と喜んでいたので間違いないですよ~!
神奈川県も海老名市や愛甲郡愛川町や伊勢原市、秦野市や足柄上郡に日本酒の酒蔵が有ります。
東京も奥多摩地方は水が美味しくて、昔から酒蔵が有ります。
今迄、いくつか歴史探訪で訪れた町で見つけた蔵元が有るので、たまに解説記事で紹介したいと思います。

次回と、次次回は19日と22日に訪問した青梅市と羽村市と海老名市と綾瀬市と藤沢市の休日雑記を書きたいと思います。
では!又、次の記事で御会いしましょう!
 
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北鎌倉駅の真横に香下庵と言う、元々は茶室だった場所を茶店に改装した軽食甘味処が存在します。
先日、東慶寺と圓覚寺に観梅に行った際に・・・
「せっかく北鎌倉に来たのだから北鎌倉発祥の“けんちん汁”を食べて帰りたいなぁ~」
・・・等と思いながら歩いていた所、店頭に美味しそうなけんちん汁とデザートのリンゴのコンポートの1000円のセットの写真に魅(ひ)かれて入店して見ました。
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この狭い歩道を挟んで直ぐ店舗。
茶室だった部分を改装して店舗にしてるのですが、目の前が北鎌倉駅で横須賀線の往来を庭の梅の木越しに見る事が出来て、凄く旅行に来た気分に成ります。
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料理を待つ事暫く、期待通り、綺麗な盛り付けのリンゴさんと蕨の煮物の小鉢、そして焼餅の入った❝けんちん汁❞が来ました。
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見た目も綺麗でしょ?
食べた小生の感想として、この香下庵サンのけんちん汁は過去最高レベルの美味しさでした!
味が良く沁(し)みてとても美味しい!
そしてリンゴのコンポートも優しくとても美味しゅうございました♪
昼食としては男性には少な目かも知れ前んが、他にもアンミツや御団子も有るので甘味類を追加注文すると御腹一杯に成るでしょうし、一般的に旅客は鎌倉駅に移動して小町通りで食べ歩きしたりもするでしょうから、本当に旅の軽食としては持って来い、しかも鎌倉名物の料理を食べれて嬉しい御店ですね!
※ただし注意!
この❝けんちん汁❞は冬季限定だそうで、初春の頃、もうすぐ期間終了だそうです!
ですから、召し上がりたい方は梅の咲いている内に北鎌倉を訪れて、事前に電話連絡で食べたい事を伝えて有無を確認した方が良いと思います。
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ところで、食事の席から見た風景はこんな感じです。
梅の花の向こうに北鎌倉駅と東海道線の線路が見えます。
本当に旅をしに来た感じが味わえますよね~♪
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まぁ・・・
小生は横浜と鎌倉の境目に住んで居る上に、月に4度は古書を閲覧しに鎌倉の神社仏閣や周辺の図書館や博物館を訪れているので、毎週が鎌倉旅行状態なのですが(笑)。

でも、こうやって何となく季節の変わり目を感じられて、鎌倉市から遠方の人も近くに住む人も分け隔てなく癒してくれる仏様や神様と自然の風景と人の作った日本庭園の美しさを享受できるんです。
・・・これだけでも幸せだと本当に思います。
こういった文化と史跡を残して下さった明治時代以前の先人の皆さん、ありがとうございます。
そして、神社仏閣と自然の保護に努めて下さった歴代宮司様、和尚様、氏子サン、檀家さん、ありがとうございます。
源頼義公、義家公、義朝公、頼朝公、頼家公、実朝公、そして足利家鎌倉公方歴代将軍様、戦国時代の北条家の殿様方と配下の武将の皆様、徳川秀忠公、本当にありがとうございます。
皆さんの御蔭で現代人も心を休める事が出来ます。

そして、香下庵の女将さん、美味しい御雑煮風のけんちん汁、ありがとう!
出来れば・・・季節限定じゃなくて一年中食べたいなぁ(笑)。

香下庵茶屋
住所:〒247-0062 神奈川県鎌倉市山ノ内492
電話:0467-25-0411
香下庵茶屋場所 久良岐のよし
北鎌倉駅裏手、徒歩1分。円覚寺参道踏切を渡って左手。

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