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タグ:ういろう

ブログネタ
今年のゴールデンウィーク、楽しみましたか? に参加中!
小田原城と言うお城が神奈川県小田原市にあります。
2015年05月03日に小田原城址公園で「小田原北条五代祭り」が開催されましたので、小田原城の解説と御祭りを紹介する記事とを書きたいと思います! 
※写真は小田原城復興天守閣
(注:復興天守なので鉄筋コンクリート製)
上の写真の様(よう)な建造物を「お城」と思い込んでる人もいますが、それは大きな誤りですよ〜!
写真の様なの様にそそり立つ建造物を「矢倉(やぐら)」と呼び、司令所の役割を果たす「本丸(ほんまる)」と呼ばれる場所に立つ物は特に「天守閣」と呼びます。
小田原城は戦国時代には既に、まだ珍しかった天守閣が有ったそうです。
しかも!
現在の小田原城址公園は戦国時代の小田原城域の「ほんの一部分」でしかありません。
北条家が治めていた当時は石垣城より殺傷能力の高い岩盤や土を削り出して建造する自然地形を利用した城塞で、守ると言うよりトラップだらけの「攻め手を如何(いか)になぶり殺す罠にかけるか」に重点を置いた攻撃重視の施設群で構成されていました。
つまり戦国時代の小田原城は…
例えるならば「防御側スナイパーによる敵兵射殺を行いやすくする構造」と「敵兵が自滅して事故死する構造」が幾重にも設けられていた訳です。 

以前書いた「滝山城」と「小机城」と「茅ヶ崎城」の記事を見た方は御理解頂けますよね?
御参考までに…
⚫︎滝山城の記事→「ココ 」←クリック!
⚫︎小机城の記事→「ココ  」←クリック! 
⚫︎茅ヶ崎城記事→「ココ  」←クリック! 

戦国時代に圧倒的に不利な兵力差で何回も攻められても敵は城を落とせなかった訳ですが…
先ず認識して頂きたい事が一つ!
※1万を超えたら戦国時代では大軍です。
で、小田原城の堅城ぶりを示す具体例は以下の通り!
⚫︎VS上杉謙信&以下関東管領連合軍11万
 
北条家は11万超の大軍を有する上杉謙信から小田原城を1ヶ月守り通した上に、偽報を用いて関東管領軍の各大名の協調を崩し上杉謙信が撤退せざるを得ない状況を作り出し防衛に成功。
更に敵軍から失地回復に成功。
※上杉謙信関連の過去記事は以下
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⚫︎VS武田信玄2万
※昔よく見たアレは畠山義綱と近年判明。
※近年では武田信玄の肖像画としてよくコレ↓が使われてます。 
武田信玄は2万超の大軍で八王子の北条氏照公の守る滝山城を攻撃するも落とせず、鎌倉の北条氏繁公の守る玉縄城は包囲しても玉縄城の堅城ぶりから撤退、小田原城に侵攻するも小田原北条家当主の北条氏康公の守る本城小田原城も当然ながら落とせず撤退。
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⚫︎VS豊臣秀吉軍(九州除く日本全土)20万
 
豊臣秀吉は20万の大軍を動員し、小田原城を本拠地にする北条家攻略軍を発する。
殆どの支城が無血降伏する中、落城せず頑強に豊臣軍に抵抗した成田長親と成田甲斐姫の物語、映画「のぼうの城」の 舞台の北条家臣成田家の忍城や…
北条氏規(うじのり)公の守る韮山城の攻防も本城小田原城の戦い並みに有名。
忍城では豊臣方石田三成軍28000vs北条方成田家3000で成田勢が防衛に成功。
韮山城では更に凄く豊臣方40000vs北条氏規公勢たった300で攻撃側を翻弄し防衛に成功している。
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更に本城の小田原城では秀吉軍20万を迎撃し、功を焦り攻め込んだ秀吉軍を痛撃し長期戦に持ち込んだ。
しかし重臣松田憲秀(のりひで)が裏切り内応しようとする事件が発覚すると北条家側に動揺が万延し、ついに降伏。
ただし、長期の籠城戦中、城に攻め込もうとした敵勢は全て返り討ちにしている。
因(ちな)みに、この戦国期の小田原城の縄張(なわば)り=城域は下の写真の茶色の線で区切られた広大な範囲でした。 
小田原城域 縄張り図 

…凄まじい範囲でしょう? 
東側は太平洋時戦争時の軍艦:酒匂の名前にも成った酒匂川(さかわがわ)近く久野川、西側は箱根温泉から注ぐ早川の急流を大外堀に、更に旧城下町を取り囲む長大な土塁と総掘(そうぼり)がそっくり後北条家の首府小田原を取り囲んでいました。 
当時の城下町は戦災の続いた京都から多くの文化人や学者、医者、鍛冶や職人が移住してきており大変栄えていたので、上杉謙信や武田信玄の攻撃を経験した小田原を市街地ごとソックリ守る戦国時代最大級の城塞へと小田原城は変貌していたんです。 
ですので、室町時代に移住してきた薬屋の中に、元々天皇家に御仕えし足利家一門の名跡を頂いた「外郎(ういろう)家」さんもいました。その外郎さんが高貴な人に出す茶菓子として製造していたのが現在の菓子の「ういろう」なんですね。 
その歴史を示す証拠が、実は外郎家の建物の形状そのものなんです。 
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八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋…
御城の天守閣と見間違えそうな造りでしょう? 
室町時代当時は建物の外見も庶民には規制が有りました、この建物の造りは特に天皇家がその使用を外郎家に対し「祝儀」代わりに許した造りだそうです。 
ですので、戦火や火災や老朽化で建て替える度に天皇家から下賜(かし=プレゼント)された文化として建築様式を受け継いで外観を変える事無く現代に伝わるそうです。 
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本当に立派なつくりですね。 
上級武士でも、このような邸宅はなかなか持てなかったですからね。 

この外郎家が現代商品としている「お菓子ういろう」は元々天皇家にも献上するものなので、明治時代になるまで朝廷の命令で販売は禁止されていました… 
          が! 
…それを知らない某地都市では偽物が江戸時代に横行し、彼等はその偽ウイロを現在では特産品と言い張っています。 
しかしながら、本家は小田原の外郎と言うのは歴史的見地から裁判でも証明されています。 
そして、元々京都にいたので、小田原の外郎家が足利家一門の名跡を継いだ後に小田原に移住する際、弟に京都の外郎本家を継がせたので「京都のウイロウは元祖」とも言えます。 
更に外郎家は京都時代に当時の管領代大内氏とも親交が有ったはずなので、「山口市のウイロウも本物」と言えると思います。 
偽物のウイロウはどこのものか…宮内庁に外郎家と天皇家の歴史を問い合わせれば解ると思います。 
因みに外郎家の家紋とウイロウの商標に使われている家紋↓のこれ… 
image 

…外郎家が天皇家より下賜された「五七桐紋」です。 
明治時代以前、まだ家紋や苗字を全ての日本国民が自由に使ってはいけなかった時代、この皇家所縁(ゆかり)の桐紋はとてつもなく格式の高い家紋で、その家柄が高貴な事を表す家紋でした。 
実際、外郎家は足利家一門として扱われ、滅んだ「宇野家」の名跡を継いでおり北条家からも1800貫の知行地(ちぎょうち=領地)=を与えられ武士として扱われていました。 
1800貫がどれほど凄いかと言うと… 

1貫=4石 つまり 1800×4=7200石 
戦闘に参加しないにも関わらず7200石も領地を所有していたんです!  
江戸時代、1万石で大名として扱われました。 
北条家で外交の筆頭を司った「白備え隊副将」で小机城代の笠原信為(のぶため)公の動員可能兵力が700と言われています。         
1万石の動員可能兵力は凡(およ)そ兵300と言われています。 
つまり北条家筆頭家老で2万3千石程度… 
同じく外交副使や鎌倉再建の奉行を務めた「黄備え隊副将」間宮家でも動員兵力300未満、1万石未満… 

徳川幕府の忍者を統括した服部半蔵正成でさえ8000石程度です。 
つまり、今の会社に例えると、外郎家はその家格と実績で部長職以上、常務とか役員待遇だったと言える訳です。 
そんな外郎家のお菓子ウイロウでは無く、本業の薬のウイロウは江戸時代には有名な歌舞伎俳優がその薬効に感動し、喉の病が完治した御礼に「外郎売りの口上」と言う演目を演じて江戸っ子にも大人気に成りました。 

そんな「外郎家の「本物のお菓子のウイロウ」、是非、小田原北条五代祭りの御土産に、「小田原曽我梅の梅干し」と共にお勧めですよ! 
そんな凄い職人や町人を守る為に、戦国時代の小田原城は強大且つ鉄壁の城塞と成長した訳です。 

さて、そんな小田原の城下町を守った総掘りですが、戦国期の総掘りと同じ時期に作られた大空堀の堀切(ほりきり=山伝いに敵が進入できないように尾根を切った空堀)が今も一部のこっています。 
今の神奈川県立小田原高等学校に行くと、その付近が戦国期の本丸と推定されている地域なのですが、そこから北西に徒歩2分くらいの距離に、当時の大空堀の一部が現存しているので撮影してきた写真をご覧ください。 
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この写真、戦国期掘り底から撮影したものです。 
つまり上杉謙信や武田信玄が攻めた頃の堀切ですね。 
あまり写真だと深さが解りませんでしょうか? 
今でのその深さは浅い場所で8、深い場所で10m以上ありますので、当時は空堀の深さは13〜15m前後はあったはずです。 
更によくみると「障子掘り」といわれる横移動出来なくするための形状の遺構の様なウネリも少し残っています。 
写真の部分はS字型にクランクが効いていますね。 
右上は昔は何らかの郭だったのだと思います。 

深さが解る写真を見てみましょう。 
撮影当日、たまたま地元の子供が散歩していました。 
小学校高学年くらいでしょうか? 
この子供と左手の切岸(きりぎし=人工的に作った崖地)を比較すれば、その深さが解りますよね。 
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現在でこそ樹木がしげっていますが、当時は土が剥き出しの壁面で、戦時には堀底に「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれる敵を串刺しにする仕掛けが設置され、空堀に水をぶちまけて泥壁にし敵の進入が不可能な状態にしてしまう訳です。

この付近には案内看板も沢山あり、戦国時代の縄張り図も掲示されています。 
まず県立小田原高等学校のある辺りに行ってください。
そうすると、付近に下の案内看板があります。
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小峰の大堀切と言うのが戦国時代の大空堀残存部分です。
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で、小田原高校が現在地と書いてある位置で、戦国時代に本丸が置かれた辺りに近い重要な場所だったのが解りますね。
写真真ん中辺りの「本曲輪(ほんくるわ)」と言うのが、つまり江戸時代の御城で言う所の天守閣や殿様の御殿が置かれる本丸に当たる施設があった所です。
戦国時代の小田原城の位置関係を現在の小田原城の本丸と比較するとこんな感じ…
大空堀位置
今の本丸は戦国時代は本丸ではなく、戦国時代はもっと山の上にあったんですよ。
すっごく、スンゴク!巨大な城域だったんです!

そして、この巨大な城郭の出入口が「大手門」と呼ばれる城門や、「虎口(こぐち)」と呼ばれる裏口です。
実は間もなく宅地開発で消滅する、北条時代の小田原城の虎口の「百姓曲輪(ひゃくしょうくるわ)」と言う史跡が幸運にも2015年05月03日の小田原城址祭りの日に消失前最後の状態を観察してこれたので、その百姓曲輪の構造を参考に虎口を解説したいと思います。
※写真の赤字現在地」のすぐ上、「北条期虎口」と「百姓曲輪」と表記の部分です。
百姓曲輪は今、発掘調査中で調査後は跡形も無くなります。
小田原城は範囲が広大過ぎる為、八幡曲輪や今の城址公園部分以外は「調査→開発」は正常なルーチンなので止むを得ません。
確認してきました現状としては、既に更地化された部分の土砂崩れを防ぐ為に雨水の誘導溝が掘られてしまってます。
御近所の住人の方にも確認しましたが、空堀の発掘調査ではなく土建屋による土砂崩れ止めだそうで、遺構破壊ではありますが止むを得ないと思います。
樹木の無い裸の斜面を放置すると災害が起きますからね。
八幡山古郭にある小田原城縄張り図と、今日、百姓曲輪と虎口を自分で見てきた結果、予想する縄張りの構造は下の衛星写真に枠線で記してみました。
戦国期小田原城 百姓曲輪 虎口
ただ、既にこの雨水の誘導溝、城史跡に無知な土建屋は発掘調査中にも関わらず、百姓曲輪の「右側の張出し形状の曲輪」跡や帯曲輪と思われる部分に掘ってしまっています。
左側に至っては、既にだいぶ削られ原型は失われています。
ここ↓右側の張り出し構造
この百姓曲輪、戦国時代の詰めの小田原城本丸、八幡山古郭や本曲輪に攻め込もうとする敵軍を久野地区側から挟み撃ちにする位置に在ります。
ですので、此方(こちら)側の丘陵も嘗(かつ)て曲輪群が有りました。
百姓曲輪の頂上には当時の尾根伝いの土塁遺構と思われる地形と、その百姓曲輪虎口の出入口と思われる尾根伝い土塁の切れ目が残っていました。
それより重要そうな地形が百姓曲輪と土塁を挟んだ丘の反対側斜面の虎口に成る筈の場所にやはり残っていました。
城跡のセオリー通り、重要な登城口や曲輪の跡に在りがちな家臣や地元民の子孫が史跡を守る為に建てる小さな「御社(おやしろ)」を見つけたので…

その場所、人工的に横長の長方形に空堀と切岸で地面が削り込まれた地形でした。
現地写真だと垂直に地面が切り込まれているの分かりづらいでしょうか?
この↓部分です。
写真縄張り図の丁度中心部ですね。
ただ、小生の見た印象だと…
縄張り図のような土橋遺構の有るような地形では無く、寧ろ前面の切岸と側面の空堀状の地形から「角馬出し」の様に見えました。
「角馬出し」とは四角形の曲輪の両側が出入口に成っている出撃し易く守り易い防御施設の事です。
そこに柵列と門を当時は設けていました。
城門に突入しようとする敵は、城門の前の「角馬出し」と呼ばれる防御構造に陣取る守備側の狙撃手から容赦無く鉄砲や弓矢で射殺されてしまう訳です。
そんな構造が良く解るのが、この「百姓曲輪」なんですね。

場所は「八幡曲輪」と「本曲輪」の在った神奈川県立小田原高校東側の谷を挟んだ反対の丘、養林寺と慈眼寺の間の更地一帯です。

…上杉謙信が攻めた時代の小田原城に話を戻します。

アホのwikipediaで小田原城の項目を編集した人間は蓮池門を上杉謙信軍の太田資正に破られ落城寸前なんて阿呆な事を書いていますが、蓮池門なんぞ当時一番外側の門を一つ破られただけ、言い換えると引き込んで殲滅出来る状態な上に、その先に幾重もの曲輪と殺人トラップが設置されていた訳で、落城とは程遠い状態だった事が解ります。
ですから、蓮池門の前で上杉謙信はわざわざ北条勢に対し余裕を誇示するパフォーマンに弁当を食べたなんて演技じみた事をする必要があった訳で、いずれにしても戦国期、総掘りがまだない小田原城も城塞部分の縄張りは鉄壁だった事を示している訳です。
では、その蓮池門を今の小田原市と小田原城址公園を基準に衛星写真と縄張り図で比較して解り易く特定してみましょう!
【縄張り図】
蓮池門縄張り図
【衛星写真】
蓮池門航空写真
さて、位置関係は解って貰えたでしょうか?
これを踏まえて、上杉謙信が攻めた頃の戦国期の小田原城の予想範囲の全体像を再度みて下さい。
初期小田原城予想範囲図
この赤線の範囲を上杉謙信軍11万が包囲した初期小田原城域と見積もっても、たかだか蓮池門一つ突破されただけで落城云々言うのは「片腹痛いわ!」と、思わず言いたくなりませんか?
この範囲を初期の小田原城の範囲と小生が仮定した根拠は、じつはこの範囲が一つの尾根で繋がってる連結部分だからです。
航空写真で見たうえで実際に徒歩と車を併用して見て回った上での予想です。

この蓮池門跡は今現在、幸田門跡と名を変え商店街の中に存在しています。
現地には今でも蓮池門の曲輪跡の土塁が保存されています。
下写真↓この場所です…城跡には見えないでしょうか?
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現在でこそ水掘りは埋め立てられてしまっていますが、ちゃんと一部でも保存しようと言う小田原市民の気概が素晴らしいですね。

門跡の内側から外側の進入口だった商店街を見ると今は平和な風景が…
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そんな幸田門=蓮池門跡には城ファン以外の人にも城跡の一部分だと解るよう現地には看板もあります。

…心無い人に一部引き裂かれてしまっていますが、なんとか読めます。
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まぁ、しかし、小田原城で防戦指揮を執った名将の北条氏康公は、何とか軍神とも呼ばれた上杉謙信を撤退させる事に成功したとは言え北条家の支配地域の被害は甚大でした。
鬼畜の上杉謙信は北条家の小田原城と支城(しじょう=本拠地に付属する各地域の支配拠点の城)の城下町を焼き払い、至る所の神社や御寺や農家や商家を略奪して回り婦女子を奴隷として連れ去り売買したり、上杉謙信と、後に同じ事をする武田信玄の暴虐により農民がいなくなり廃村寸前になる村が沢山出てしまいました。
この反省を踏まえ、小田原城は安土桃山時代のには幾度の改修を加えられ茶線で囲まれた範囲に拡大され城下町ごと堀と土塁で取り囲む↓この範囲に成った訳です。
小田原城域 縄張り図
その改修過程で中期に、先述の「百姓曲輪」のある丘陵が外側の守りとして拡張された総構えに成っていたのだと思います。
百姓曲輪は出撃も出来る虎口「角馬出し」を有しつつ、別ルートから内側に侵入した敵を迎撃する構造のある郭が有り、更にその「角馬出し」と「百姓曲輪」の間に土塁で城門跡と思しき幅の出入口が設けられていましたからね。
恐らく上杉軍の「略奪」や「人取(ひとど)り=民間人の大量拉致」を経験し、農民を守る為に農民の収容先として想定されて造られたから名前に「百姓曲輪」の名残があるのでは?と、推測しています。
更に武田信玄による農村焼き討ちや略奪も経験し、最終形態の「総構え」に成ったのだと思います。

で、その総構えの外側の防衛施設「総掘り」の規模が先に紹介した戦国時代当時は深さ15m以上傾斜角度60度以上あったであろう「小峰の大堀切」と同規模かそれ以上のものだった訳です。
※一応、小峰の大堀切↓画像
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さてさて、では、ここからは皆さんが想像する「御城らしい御城」の部分、現在の小田原城址公園=江戸時代の小田原城復興史跡を見学する際の小生の御勧め見学ルートを辿りながら、構造を解説して行きたいと思います!
御勧めのルートは、まず最初に先ほど説明した「蓮池門=幸田門跡」を見学コースのスタートとしたルートです。
①幸田門跡
  ↓
②銅門(戦国~江戸時代の城門復興史跡)
  ↓
③馬屋曲輪
  ↓
④馬出曲輪
  ↓
⑤二の丸~本丸への進入口
  ↓
⑥本丸と本丸の売店(笑)
  ↓
⑦天守閣
  ↓
⑧御米曲輪
  ↓
⑨車の人は二の丸方面から三の丸へ抜けて退場、戦国時代の城域を見学したい人と電車の人は御米曲輪側裏口から退場。

※位置関係は↓コンナ感じ
小田原城見学

見学に際し気をつけて頂きたいのは…
JR小田原駅からだと裏門、小田原城址公園の市営駐車場からだと城正面の最近架橋された歴史の無い赤い橋から入場してしまいますので、遠回りでもまずは「幸田門跡」に行ってみて下さい!
さもないと昭和の高度経済成長期に破壊された殺風景な城らしくないただの公園を散歩しているような印象を受けかねません!

幸田門跡は既に解説したので改めて説明の必要はありませんね。
では幸田門跡~現在の小田原城址公園に歩いて行くと、そこは昔の三の丸の跡です。
そこでは、こんな風景が見えます…

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水掘りと石垣が見えますね。幸田門側から見たこの石垣側が昔の二の丸です。
そして、この端っこの一段高く造られた建物の土台の様な石垣は「隅櫓(すみやぐら)」と呼ばれる防御施設が有った遺構です。
この土台の上に、防衛側が鉄砲や弓の射撃手に敵を射殺させる為の防衛拠点が立っていました。
その建物は小さな天守閣の様な構造の物が多かったようです。

この隅櫓を横目に二の丸の水掘り沿いに進んで下さい。
そうすると下の「赤い橋」が見えてきます。
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注意!:絶対にこの橋から二の丸に入らないで下さい!
何故(なぜ)この橋を渡ってはいけないかと言うと、この橋は戦国代や江戸時代には存在しなかった偽物の建築物で、ここを渡っても御城らしい施設を見る事は出来ません!。
昭和の高度経済成長期、無知な当時の神奈川県行政は商業主義に走り史跡を破壊し、こう言った偽物の施設を史跡に沢山つくってしまったんです。
この橋を渡ると史跡を破壊し更地にした殺風景な広場があるだけです。

と、言う訳でこの「赤い橋」をスルーしてずんずん西側に進むと直ぐに江戸時代の城門を近年に復興した史跡が見えてきます。
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この漆喰塀の切れ目が見えたら、そこに江戸時代の城門があり、観光客もそこから城址公園に入場出来ます。
なお、この付近に下の看板があり、その「馬出門」と言う城門のと、「枡形虎口」と言う防御構造の解説が見れます。
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さっきの「赤い橋」じゃなくてこっち↓が本物の入口ですからね!
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ね?御城らしい風景に成って来たでしょう?
この「馬出し門」で見るべきポイントは2つあります。

一つは門を取り囲む城壁にある沢山の長方形と三角形の小窓。
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2つ目は馬出し門の最初の門を突破すると次の城門をぐるっと四角く取り囲む構造です。
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実はこの城門を四角く取り囲む城壁の構造が「枡形」と呼ばれる防御施設なんです。

滝山城の記事を書いた時にも触れましたが、「枡形」について改めて説明をさせて頂くと…
枡形と言うのは、城門を囲うように四方を壁で取り囲んだ施設で、進入してくる敵はその数を制限されてしまう上に、まさに防御側から見て攻撃側は「袋のネズミ」になり、防御側は城門を取り囲む枡形の城壁に設けられた射撃窓から雨あられと鉄砲玉と弓矢を射掛(いか)けて、侵入者を集団射殺してしまう恐ろしい構造です。
この枡形虎口は北条流の築城術の特徴です。
敵を引き込んで殲滅する、恐ろしい施設なんですね。

因みに、武田家は「丸馬出し」と言う構造を城門の前に多用していました。
※武田家最後の拠点「新府城」の縄張り図と丸馬出しの拡大図。
新府城
真田幸村(本名:信繁)が大阪城で徳川軍を散々に痛めつけた時に立て籠もっていた要塞「真田丸」も、この丸馬出しを巨大にした構造物でした。
北条流の枡形虎口が防御しながら敵を引き込んでなぶり殺し殲滅する」のに対し…
武田流の丸馬出しは敵を引き付けて、そこから全方位射撃を積極的に加える言うなれば相手をおびき出して集中砲火を加える「攻撃の為に敵をおびき出す」構造と言えます。
丸か四角かだけでも戦術が違うのが理解出来ますよね?

話を小田原城の「馬出し門の枡形」に戻します…

敵を引き込み袋叩きにするのが枡形な訳(わけ)ですが、その敵を射殺する為に防衛側がスナイパーを配置する馬出し門の入口を狙う位置に有るのが下の写真の射撃用の窓です。

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長方形の窓が弓矢用、三角形の窓が鉄砲用だそうです。
恐らく長方形は弓矢を突っ込む為に必要な形状で、細長い筒状の鉄砲は先を出せる三角形の小さい窓で十分なんでしょうね。

この射撃口は内側が広く外側が狭く角度がついているので、見た目以上に射撃可能な範囲が広く、且(か)つ敵からの攻撃を受けにくい構造になっています。
別の写真で角度別に三枚その射撃範囲を御見せしましょう。
※正面向き
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※左向き
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※右向き
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ね?
こんな小さい窓で結構広範囲を射撃出来るでしょう?
しかも正面なんか城門入って来た敵を狙い撃ちに出来る位置ですよね。
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よく考えられて作られていますよね~。
ちなみに、この復興城門は北条家の戦国時代の縄張(なわば)り=設計を、江戸時代に徳川家臣で後に小田原城主に成った大久保家が改修して今の姿に成ったと言われています。
恐らく戦国時代は土塁=土壁か土塁の上に設置した板塀や漆喰塀にこのような小窓が設けられていたんでしょう。
これらの馬出し門枡形防御構造の有る「馬出し曲輪」を突破すると、次に見えてくるのが馬屋曲輪です。
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今でこそ土塁は取り払われてしまっていますが、当時はこの馬屋曲輪を取り囲む様に高い土塁が張り巡(めぐ)らされおり、その上にさっきの馬出し門と同じ様な射撃用の小窓のついた塀が設けられており、更に角には隅櫓が設置されていました。
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下の写真を見ると当時の構造が良く解ります。
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この石垣が馬屋曲輪の隅櫓が有った土台なんですね。
ここから三の丸に侵入した敵を捕捉(ほそく)し、ここを守る武将が周囲の守備兵に対し作戦命令を指示する訳です。

馬出し門の右手には、いよいよ二の丸に侵入する敵兵を迎撃する小田原城で一番立派な城門「銅門(あかがねもん)」待ち構えています。
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銅門も見ての通り「枡形」構造に成っていますが、枡形銅門の最初の門の手前には「住吉橋」がかかり、水掘りによって敵兵が容易に城門にとりつけなくする意地悪(笑)な設計になっています。
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住吉橋の門の上の漆喰塀にも沢山の射撃口が見えますよね?
この狭い橋には槍を持った敵兵は2列か3列でしか突入できず、その3隊列の先頭の人間から順番に射殺されてしまう訳です…
怖いですよね。

銅門を内側から見ると下の写真みたいな構造に成っています。
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櫓門(やぐらもん)と呼ばれる構造で、この建物は倉庫の機能と守備兵を収容する機能があります。
守備兵はこの建物の床に設けられた小窓から、進入してくる敵兵に…
「加熱し沸騰させて煮えたぎった油や糞尿
…を浴びせかけて大火傷させたり、弓矢で攻撃したり石を叩き付けて敵を撲殺したりするんですね。
守備兵に攻撃された侵入者は臭いし熱いし大火傷して痛いし、後ろは味方の兵士がいて逃げ帰る事も出来ず身動き出来ないまま皮膚呼吸出来なくなり痛みにのた打ち回りながら酸欠死するかショック死するか…
いずれにしても悲惨な事に成る訳です。
因みにこの糞尿&油戦法、太平記の時代に赤坂城や千早城で足利尊氏公を苦戦させた有名な南朝方の忠臣の楠木正成(くすのきまさしげ)公が得意とした戦術でした。

さて、この銅門を突破すると、いよいよ江戸時代の本丸と天守閣が見えてきます。
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でも勿論(もちろん)、すんなり本丸に辿りつける訳は無く、その手前には常盤門と言う城門が待ち構えており、更に!そこに至る前に又、泥の堀と土橋を突破しなければいけませんでした。
下の写真は昔、本丸下の泥の堀が有った場所で、今は埋め立てられて観賞用の花が栽培されている畑に成っています。
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銅門を抜け二の丸~本丸に至る土橋を渡ると…
侵入しようとする敵に再び「枡形」構造のある城門が待ち構えています。
この門は常盤木門と言います。
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常盤木門も櫓門(やぐらもん)」と枡形とが一体になって設けられています。



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もう、ここまで攻め込んで来たら確実に蓮池門で先頭に立っていた兵士は生きていないだろうね…
幸い歴史上ここまで攻め込んで来れた攻撃者はいなかったので沢山兵士が死なずに済んだ訳ですが。
実は、戦国時代の御城の大半は戦争を経験していません。
小田原城でも城内で交戦が有ったのは、先述の上杉謙信&関東管領連合軍旗下の岩槻城主太田資正(おおたすけまさ)公が攻め込んだ蓮池門と三の丸までです。
豊臣秀吉軍は攻め込もうとした武将もいましたが城門を一つも突破する事すら出来ませんでした。

しかしながら…
豊臣秀吉の軍は強大で、小田原城攻め参陣武将は…
さながら戦国武将百科事典の様相(ようそう)を成していました。
その総兵力22万
対する北条軍は総兵力6万、籠城兵は3万とも…
衆寡敵せず勝てる筈は有りません。北条家が兵11000で古河公方軍兵80000に大勝した時とは異なり、相手は歴戦の織田軍の生え抜き。しかも名将揃い。


兵の多さ云々以前に羽柴勢(豊臣)に参陣している武将がとんでも無く凄い… 秀吉の小田原攻め布陣図
豊臣秀吉・豊臣秀次・羽柴秀勝・宇喜多秀家・加藤嘉明
徳川家康・酒井忠次・榊原康政・奥平信昌・大久保忠世
織田信雄・織田信包
蒲生氏郷・丹羽長重・池田輝政・細川忠興・堀秀政・九鬼嘉隆
毛利輝元・長宗我部元親
更に秀吉本隊には軍師黒田官兵衛や、加藤清正、福島正則等々…

この合戦、最大の敗因は確かに松田憲秀一族の内応は有りましたが、それ以前に北条氏政公が敵の戦力と先述と状況の分析を見誤った事にあります。

実は小田原征伐以前、北条家は過去上杉謙信の10万の軍から小田原城を守り切った事や武田信玄を撤退させた時と同じ様に、北条家のとった戦術は各地の支城(しじょう=地方拠点)の防備を強化し野戦を行わず徹底的に籠城させる作戦にでました…
その作戦は敵の兵糧が尽きるのを待つ作戦です。
しかし!この豊臣秀吉は敵が経済的に優位で兵糧補給に事欠かず、しかも得意戦術は城攻めの際に敵城を包囲する陣城を構築し逆に籠城側を兵糧攻めにし戦意喪失させて離反者を増やし籠城不可能に陥らせる作戦なんです。
既に、戦術で逆転の目を潰されており完敗確定していたと言っても過言では有りません。
実はこの籠城戦術を強硬に主張したのが当時、北条家中で家老職に在り発言力の有った松田憲秀と、その息子なんですね。
彼等は当初、敵の戦力分析より過去の実績を盲信し、自分達の地位の保身の事を優先させたのでしょう。
しかし、この籠城には敗北しか無いんですよ。援軍も来なければ、敵軍の兵糧が枯渇し撤退する事も無いですからね。

以前との状況の違いを説明しましょう。
上杉謙信連合軍は参陣武将が寄り合い所帯の地方豪族ばかりで、個々の北条方が支城に戦力を分散させて籠城しても個々の豪族に北条家の支城を落とせるだけの戦力は有りませんでした。
この時の北条側の各支城の戦力は兵3000前後です。地方豪族の戦力もそれと同等でした。
しかし
豊臣秀吉軍は諸大名の連合軍を地方ごとに方面軍化し各大部隊が少なくとも2万以上の戦力を有していました。これは各方面軍がそれぞれ以前の武田信玄の最大動員数2万強に匹敵する戦力に成る訳で、その戦力でたかだか数千の支城を本気で攻めれば一般的には守りきるのは不可能に近い訳です。

しかも、以前と異なり、北条氏照公等各武将は小田原城に詰めてしまって居て、各支城は老兵や女子供ばかりな訳で普通にいけば秀吉の各方面軍には太刀打ち出来る要素が無いんですね。

もっとも…
こんな中で最後まで落城しなかった…
忍城  …成田長親公・成田甲斐姫3000vs石田三成軍20000⇒援軍到着後:石田三成軍50000
韮山城…北条氏規公300vs秀吉軍40000
この二城の戦果は通常ではあり得ない、防衛側の籠城成功からの北条家による開城命令で決着しました。
実は、この城以外の多くの城は戦わずに降伏してしまっていたんですね。
交戦した城は全て落城しています。八王子城や神奈川県相模原市の津久井城、伊豆の下田城、箱根の山中城、吉良家の世田谷区の世田谷城など、全て攻略されてしまいました。
落城した城の中で秀吉軍相手に健闘したのは、山中城の出城袋崎出丸で活躍した黄備え隊副将間宮康俊公の部隊200と、伊豆下田城に籠城した清水康英公の兵600くらいでした。
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上の写真は間宮康俊公が玉砕した際に活躍し名声を獲得した場所の山中城の衛星写真。

因みに強硬に小田原籠城を主張した松田憲秀は、言いだしっぺなのに息子と秀吉に内応(ないおう=うらぎり降伏する事)しようとして幽閉切腹処分されています。

この小田原城包囲に用いた攻城戦術において秀吉は既に「小寺家の御着城攻め」「別所家の播磨三木城攻め」「毛利家配下吉川経家の籠城した鳥取城」で成功実績を挙げていました

もし、北条家の執政者北条氏政公が、事前に秀吉の実績と周辺大名の外交情報をちゃんと分析していれば、この籠城作戦をとらず織田政権時代と同じ様に早期に傘下に入っていたでしょう。
寧(むし)ろ、何で織田信長公の勢力版図より広い領土を手中に治め、周辺有力大名を屈服させていた秀吉に交戦したのか小生には個人的に理解不可能なんです。
恐らく、全ての戦犯は北条家中で権力を牛耳(ぎゅうじ)っていた逆臣松田憲秀による政治判断の誤りでしょう。
しかし、北条氏政公の戦力分析と状況判断に誤りが有ったのは間違い有りません。

実は…
この北条氏政公の情報分析力の欠点を早くから見抜いていた人物がいました
…それが御父君で名君と名高かった北条氏康公です。
こんな逸話が現代に伝わっています。
ある日、合戦の陣中で北条氏康公と北条氏政公親子は食事を共にとりました。
戦時中の食事なので白米に味噌汁をかけて食べるだけの簡単な物です。
この"猫飯(ねこまんま)"を食べる際、氏政公はご飯に味噌汁を2杯かけたそうです
すると!
北条氏康公「将たる者、白飯にかける汁の分量なぞ1回で決めれずなんとするか!」と激怒したそうです。

皆さん、何で氏康公が怒ったのか、もう御判(わか)りですよね?
つまりこうです…
「御椀に入った飯の量」…敵兵の戦力
「飯にかける味噌汁の量」…投入するべき自軍の戦力
…この分量を見誤る様では、合戦で敵味方双方の分析を見誤り敗戦を招いてしまう訳ですね。

然(しか)して、氏康公没後、秀吉による小田原北条家への降伏勧告と討伐戦の両方で、北条氏政公は双方の勢力分析と戦術分析を誤り小田原北条家の滅亡を招いた訳です。

因みに小田原北条家は滅亡しましたが、北条家自体は存続している事を御存知無い方も多いので捕捉説明させて頂きますが…
実は!
韮山城で奮戦し防衛に成功した北条氏規公が秀吉に3万石で大名として復帰させられ北条家は江戸時代を生き抜き、明治時代まで大阪府狭山市の狭山藩として存続しました
狭山と言う地名は北条家の旧領武蔵国にもあり、何だか因果なものですね。
今も御子孫がちゃんと生きてらっしゃいます。

さて…
今日はここまで!

次回はいよいよ本丸の風景とにうつります!
が!
すみません!
前回、前々回と戦国期小田原城の写真ばかり撮影して天守閣に登る時間がありませんでした!
ですので、本丸の写真だけでは寂し過ぎるので、今年中にもう1回、箱根温泉にでも宿泊に行くついでに天守閣に登って写真撮影したら小田原城の記事を更新します!


小田原城の記事は又年内以内に! 

では又!次のブログ記事で御会いしましょう!

速報です!
戦国時代の小田原城虎口遺構部分の「百姓曲輪」が間も無く宅地開発され消失します!
※写真の赤字現在地」のすぐ上、「北条期虎口」と「百姓曲輪」と表記の部分です。

今発掘調査中で、調査後は跡形も無くなります。
小田原城は範囲が広大過ぎる為、八幡曲輪や今の城址公園部分以外は「調査→開発」は正常なルーチンなので止むを得ません。
本日確認してきました現状としては、既に更地化された部分の土砂崩れを防ぐ為に雨水の誘導溝が掘られてしまってます。
御近所の住人の方にも確認しましたが、空堀の発掘調査ではなく土建屋による土砂崩れ止めだそうで、遺構破壊ではありますが止むを得ないと思います。
樹木の無い裸の斜面を放置すると災害が起きますからね。

因(ちな)みに、八幡山古郭にある小田原城縄張り図と、今日、百姓曲輪と虎口を自分で見てきた結果、予想する縄張りの構造は下の衛星写真に枠線で記してみました。
戦国期小田原城 百姓曲輪 虎口
ただ、既にこの雨水の誘導溝、城史跡に無知な土建屋は発掘調査中にも関わらず、百姓曲輪の「右側の張出し形状の曲輪」跡や帯曲輪と思われる部分にも穿たれていました。
左側に至っては、既にだいぶ削られ原型は失われています。
ここ↓右側の張り出し構造
この百姓曲輪、戦国時代の詰めの小田原城本丸、八幡山古郭や本曲輪に攻め込もうとする敵軍を久野地区側から挟み撃ちにする位置に在ります。
ですので、此方(こちら)側の丘陵も嘗(かつ)て曲輪群が有りました。
百姓曲輪の頂上には当時の尾根伝いの土塁遺構と思われる地形と、その百姓曲輪虎口の出入口と思われる尾根伝い土塁の切れ目が残っていました。
それより重要そうな地形が百姓曲輪と土塁を挟んだ丘の反対側斜面の虎口に成る筈の場所にやはり残っていました。
城跡のセオリー通り、重要な登城口や曲輪の跡に在りがちな家臣や地元民の子孫が史跡を守る為に建てる小さな「御社(おやしろ)」を見つけたので…

その場所、人工的に横長の長方形に空堀と切岸で地面が削り込まれた地形でした。
現地写真だと垂直に地面が切り込まれているの分かりづらいでしょうか?
この↓部分です。
写真縄張り図の丁度中心部ですね。
ただ、小生の見た印象だと…
縄張り図のような土橋遺構の有るような地形では無く、寧ろ前面の切岸と側面の空堀状の地形から「角馬出し」の様に見えました。
角馬出しとは四角形の曲輪の両側が出入口に成っている出撃し易く守り易い防御施設の事です。
そこに柵列と門を当時は設けていました。

場所は「八幡曲輪」と「本曲輪」の在った神奈川県立小田原高校東側の谷を挟んだ反対の丘、養林寺と慈眼寺の間の更地一帯です。

小田原駅から、それ程は離れていないので歩いて行けますし、車なら小田原高校周辺のスポーツ公園駐車場も使えます。
もちろん小田原城からも徒歩で八幡山古郭や小峰の大堀切と合わせて訪問出来る距離です。
無論、ちょっしたハイキングくらい歩きますが。
距離的には現在の小田原城本丸から1kmくらい、直行するなら徒歩なら30分かかりません。

因みに江戸期小田原城の見物後のオススメの散策順路とは以下の通り!
逆に回れば戦国期小田原城遺構を見てから、今の小田原城址公園の江戸期小田原城を巡るコースに成りますよ!

本丸天守閣から古小田原城散策スタート!
徒歩5分→戦国期東曲輪
徒歩5分→戦国期三味線堀遺構(小田原高校南東)
徒歩1分→戦国期本曲輪土塁遺構
徒歩10分→小峰の大堀切
徒歩15分→戦国期百姓曲輪と虎口(角馬出し?)
徒歩20分小田原駅/徒歩30分超小田原城址公園

ですので、小田原名物お土産の「外郎家」の「お菓子のういろう」

と山一の蒲鉾

は小田原城見学前か帰りに買うのがオススメです!
外郎サンとこには駐車場が有ります。
鈴廣の蒲鉾が欲しい人は小田原駅東口駅前に店が有りますよ!
曽我梅の梅干しは小田原城本丸の売店で販売してます。

では皆さん!
この百姓曲輪と北条期小田原城虎口遺構を見れるのは今の内だけですので、是非見学されてはいかがでしょう?

※次回記事は書きかけの小田原城の記事を更新予定です!
その後は神奈川区神大寺跡の「塩嘗め地蔵尊」か、「小机城址祭りで見つけた美人ママさん女武者隊」の城と趣旨離れた記事書く予定です。
その他に持ちネタは…
⚫︎蒔田吉良家世田谷城址で招き猫発祥の地のである井伊家の菩提寺豪徳寺
⚫︎世田谷八幡宮を中興した吉良家と杉田八幡宮を中興した間宮家が鎌倉鶴岡八幡宮を再建した話し
⚫︎北条家赤備え大将北条綱高公の御廟が昔在った法華寺跡の東京都目黒区円融寺
…などです。
※書く順番は気分次第(笑)

では又、次のブログ記事で会いましょう♪

小田原には室町時代から伝統のお土産が3つありまして…
小生、本日、小田原北条五代祭りを見物して来たので全部買って来ました!

一つ目!ういろう
※まだ包装したままですいません(笑)。
前回紹介した戦国時代以前から天皇家と関わりがあり文字通り「本家本元のウイロウ」を製造販売している、その名も外郎(ういろう)家」の直系御子孫が今も社長を務める小田原名物お菓子のういろうですね。
コレを食べると歴史的な話だけでなく、小田原外郎家のウイロウが食感と味が格別に良いのが良く分かると同時に、どっかの地方都市のウイロウがネチョネチョ気持ち悪い食感で甘ったるいだけの偽物だと一口で判らしてくれます(笑)。
めっちゃくちゃ美味い!
ういろうの歴史解説記事は「ココクリック!

二つ目!カマボコ
江戸時代から富士山詣(もうで)で箱根越え前に小田原宿の旅籠(はたご=旅館)に宿泊する客が旅の目的の一つとして食べるのを楽しみにする程に有名だった小田原のカマボコ。
手作りだから板に盛り付けた姿もふっくらしてますが、食べるとコレまた食感がスーパーの大量生産市販物と異なり「ブリブリ」とした感覚と濃い魚の味が口に広がり感動するくらいです!
鈴廣(すずひろ)の蒲鉾(かまぼこ)が有名です。映画の小津安二郎監督が好物だったらしいですね。
小生は今回、外郎サンちの隣の老舗カマボコ屋の山一サンのを買いました。
小津安二郎監督の真似して板ワサにしてみました。
久しぶりの小田原蒲鉾、嬉しくて普段飲まないお酒も飲みました。

三つ目!小田原曽我梅の梅干し
室町時代〜明治時代まで梅干しと言えば横浜市磯子区南区港南区の特産だった杉田梅でした。
南高梅は関東では、つい最近流行り出した歴史の浅いブランドです。
杉田梅が横浜市教◯委員会のせいで消えた話は有名で、以前、神奈川の梅林文化を解説した記事や横浜の殿様間宮家の話でも紹介しました。
杉田梅は現代では姿を消しましたが、その杉田梅と同時期に盛んに植林され恐らく同じ品種だったのが小田原市曽我梅林の曽我梅。
甘ったるく蜂蜜漬けされた偽梅干しと違い甘くない昔ながらの酸っぱい系統の正統派ですが、曽我ブランドの梅は元々の果肉の旨みがあり凄く美味しいんです。
小生、さっき板ワサにした蒲鉾を、この梅干しを醤油代わりに食べてみましたが凄く美味しかったです!
因みに昔の人は生醤油が高級品だったので梅肉をつけて食べたり、梅干しと酒で「煎り酒」と言う調味料作って刺身を食べる人が庶民には少なくなかったらしいですよ。
※神奈川伊豆の梅林文化についての記事は「ココ」「ココ」「ココ」←クリック!

どうでした?
何か食べてみたいお土産はありましたか?

食べ物以外にも隣町箱根の寄木細工なんかもお土産として有名ですよ〜!
そうそう!
小田原市は湘南の一部なのでシラスと鯵も美味しいですよ!
もし車で行く人は西湘バイパスでの上り線の西湘SAで食べれる釜揚げシラス丼がオススメ!

以下に外郎家の歴史を纏めて置きます。
初代:陳延祐
元朝時官途:礼部外交院外郎 
長慶天皇の治世、正平二十三年(1368)年、元朝滅亡時に日本亡命。
医術、天文学に通じる。
博多に住す。
官職から陳外郎と日本では呼ばれる様に成る。
↓
後円融天皇の従弟、足利義満公により博多より京に招聘。
京に移住はせず博多に戻るが子を京に留める。
↓
子は京に留まり足利一門の断家、宇野の名跡と旧領を与えられ格を上げられた上で朝廷にも仕える。
外交使節の応対を担当。
足利一門の帰依していた禅宗に入門した事で法名は大年宗奇と伝わる。
父の初代延祐も禅宗に帰依し入道。
今は福岡市博多区に移転した、当時は太宰府に在った横岳山嵩福寺で剃髪、台山宗敬と名乗る。
※この入道号"台山宗敬"は恐らく陳家が浙江省台州出身の貴族である事に由来する。
※帰化後、本来は元朝の官職の外郎を苗字とし読みを官途の外郎(げろう)と区別し外郎(ういろう)にした。
※朝廷に上がる為に宇野を併用した。京極、六角に置ける苗字佐々木の併用に類似の事例。
↓
陳外郎宇野台山宗敬、享年73歳。
応永二年(1400年)七月二日没。
↓
後柏原天皇治世
永正元年(1504年)。
五代:陳外郎宇野藤右衛門定治の代に小田原の北条家より招聘され移住。
この際に弟の家を分家させ京に残し接待菓子や薬の製法も弟の家にも残した。
↓
しかし兵火により京の外郎(宇野)家は断絶する災難に遭う。
※当然、京都の財産や文書も消失。
この際に弟子が外郎の故知の博多、官領代として乱を沈静化させ当時の博多を傘下に置いた大内家により雇用され広まったと、外郎家では山口市と博多市の菓子の外郎を系統と社史で事実上公認している。
血脈は小田原のみ存続する。
天皇家の制約を守り菓子を販売せず。
薬の製法は明治まで一子相伝だった。
※明治時代の解説に繋がる。
↓
小田原でも北条家の外交使者接待担当。陳外郎宇野家は石高換算で江戸幕府の7000石超相当の格を継続して遇される。
※有職故実に通じたのでの江戸幕府に置ける高家対偶に類似。
※実際に其だけの所領を北条家でも与えられたとは考え難いので関東では室町幕府の格式の維持に留まったはず。実際、当時の石高換算の1貫=2〜4石の最大値で計算しても北条家臣筆頭の松田家で所領役帳で2798貫=11192石となり、やはり外郎家は格式に特化した保証を受けたと考えた方が自然。
↓
北条家、豊臣秀吉の小田原攻めにより改易、当主氏直公は蟄居。この際、士分の北条旧臣は小田原城下から退去を命ぜられるが朝廷との縁から特例で残留を認められる。
以後は医家として存続、嘗ての朝廷に置ける儀礼を守り透頂香と菓子も外郎の在所以外での販売をせず現代に至る。
この際に天皇家より医家にも関わらず以下の桐紋と建築様式の使用の御赦免を賜る。
八方八つ棟
表側三つ棟玉堂造り
唐破風に桐紋瓦
↓
江戸時代に至っても外郎家は高名で、今の市川海老蔵の祖先である二代目市川團十郎(元禄元年1688年〜寶歴八年1758年)が愛用し、享保年間に外郎の透頂香で喉の持病が根治した事を感動し歌舞伎の演目"外郎賣"を造り上げ以後は市川家十八番の演目の一つとして現代に至る。
↓
明治に成ると特許条例が制定されたが、天皇家との関わりで真っ先に特許承認された。
↓
外郎家系統の製法を受け継ぐ地方では外郎(ういろう)の名を使う事を憚(はばか)り、"ういろ"等と名を変えて敬意を近代まで払っていた。
その名残で今も「ういろう」と平仮名で書いても「ういろ」と発音する人が年配には多い。
但し、外郎家と無関係の名古屋は例に漏れる。


さて、次回は又、北条五代祭りの後に戦国時代の小田原上司の「虎口」と発掘調査中の「百姓曲輪」などを紹介したいと思います。
では!又、次の記事で!

ブログネタ
今年のGWの過ごし方は? に参加中!
今、北条五代祭りに向けて随時更新中の「小田原城」に関する記事の中の昨日書いた部分で、御菓子のウイロウはが本家だと言う歴史事実を紹介したのですが…
スイーツのカテゴリに分類したいので少し説明を補足して、今回独立記事として改めて立て直します。

さて、以下は小田原城記事からの抜粋と補足に成りますが…
先ずはウイロウは小田原が本家で京都が元祖だと言う歴史事実を説明します。

戦国時代、小田原城の城下町は応仁の乱で戦災が続き荒廃した京都から、多くの文化人や学者、医者、鍛冶や職人が移住してきており大変栄えていました。
その繁栄は小田原北条家初代の北条早雲(そううん)公の政策に由ると言われています。
三代北条氏康公の頃に成ると小田原城は上杉謙信や武田信玄の大軍による攻撃を複数回経験したので、小田原を市街地ごとソックリ守る「総構え」と呼ばれる土塁と空堀の城壁に囲まれた戦国時代当時、大坂城築城以前の日本最大の城塞へと変貌しており。 

そんな小田原城の城下町に室町時代に移住してきた薬屋が、元々天皇家に御仕えし足利家一門の名跡を頂いた「外郎(ういろう)家」さんです。
ういろう」が「お菓子の名前だと思ってる人」がいますがね…
ういろう=外郎=人の苗字です!

もう少し詳しく説明しますと、外郎と言うのは中国大陸の王朝、南宋王朝と元王朝の「礼部員外郎」と言う官職名由来の苗字です。
小田原市に現在住んで薬とお菓子のウイロウを販売している外郎家は、元は中国の王朝の官僚だった方で陳延祐と言う名の中国人でした。
陳延祐サンは今の中国浙江省台州市の出身で、元が明帝国に転覆され滅亡した際に日本に亡命し1368年、博多経由で嫡男(ちゃくなん=跡取り)の大年宗奇の代に天皇家に招聘され京都に移住しました。
伝承では、その頃、室町幕府三代将軍の足利義満公に提供したのが今の一般的に「ういろう」と呼ばれる外郎家が相伝で伝えた身分の高い客人の為に作っていた茶菓子だと伝わっています。
裁判でも、この小田原の外郎家の歴史事実は認定されています。
ウイロウは明治時代まで販売してはいけない物でした
あくまで身分の高い人をもてなす為だけに作られる菓子でした。
まぁ、現代ではウイロウが人の名前と知らない方が多く成ってしまいましたが。 
そして外郎家の本業はあくまで薬師でした。
元は高貴な人に出す茶菓子として製造していたのが現在の「ういろう」として大衆的に誤認されているものなんですね。 
小田原の外郎家では、菓子のウイロウは「お菓子のウイロウ」と言う名前で「薬のウイロウ」「外郎家そのものの苗字」とちゃんと現代でも分けています。

それ等の歴史を示す証拠が、実は外郎家の建物の形状そのものなんです。 
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八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋…
御城の天守閣と見間違えそうな造りでしょう? 
室町時代当時は建物の外見も庶民には規制が有りました、この建物の造りは特に天皇家がその使用を外郎家に対し「祝儀」代わりに許した造りだそうです。 
ですので、戦火や火災や老朽化で建て替える度に天皇家から下賜(かし=プレゼント)された文化として建築様式を受け継いで外観を変える事無く現代に伝わるそうです。 
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本当に立派なつくりですね。 
上級武士でも、このような邸宅はなかなか持てなかったですからね。 

繰り返しになりますが、この外郎家が現代商品としている「お菓子ういろう」は元々天皇家にも献上するものなので、明治時代になるまで朝廷の命令で販売は禁止されていました… 
          が! 
…それを知らない某地都市では偽物が江戸時代に横行し、彼等はその偽ウイロを現在では特産品と言い張っています。 
しかしながら、本家は小田原の外郎と言うのは歴史的見地から裁判でも証明されています。 
そして、元々京都にいたので、小田原の外郎家が足利家一門の名跡を継いだ後に小田原に移住する際、弟に京都の外郎本家を継がせたので「京都のウイロウは元祖」とも言えます。 
更に外郎家は京都時代に当時の管領代大内氏とも親交が有ったはずなので、「山口市のウイロウも本物」と言えると思います。 
偽物のウイロウはどこのものか…宮内庁に外郎家と天皇家の歴史を問い合わせれば解ると思います。 
因みに外郎家の家紋とウイロウの商標に使われている家紋↓のこれ… 
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…外郎家が天皇家より下賜された「五七桐紋」です。 
明治時代以前、まだ家紋や苗字を全ての日本国民が自由に使ってはいけなかった時代、この皇家所縁(ゆかり)の桐紋はとてつもなく格式の高い家紋で、その家柄が高貴な事を表す家紋でした。 
実際、外郎家は足利家一門として扱われ、滅んだ「宇野家」の名跡を継いでおり北条家からも1800貫の知行地(ちぎょうち=領地)=を与えられ武士として扱われていました。 
1800貫がどれほど凄いかと言うと… 

1貫=4石 つまり 1800×4=7200石 
戦闘に参加しないにも関わらず7200石も領地を所有していたんです!  
江戸時代、1万石で大名として扱われました。 
北条家で外交の筆頭を司った「白備え隊副将」で小机城代の笠原信為(のぶため)公の動員可能兵力が700と言われています。         
1万石の動員可能兵力は凡(およ)そ兵300と言われています。 
つまり北条家筆頭家老で2万3千石程度… 
同じく外交副使や鎌倉再建の奉行を務めた「黄備え隊副将」間宮家でも動員兵力300未満、1万石未満… 

徳川幕府の忍者を統括した服部半蔵正成でさえ8000石程度です。 
つまり、今の会社に例えると、外郎家はその家格と実績で部長職以上、常務とか役員待遇だったと言える訳です。 
そんな外郎家のお菓子ウイロウでは無く、本業の薬のウイロウは江戸時代には有名な歌舞伎俳優がその薬効に感動し、喉の病が完治した御礼に「外郎売りの口上」と言う演目を演じて江戸っ子にも大人気に成りました。 
「ウイロウ売りの口上」は今ではTVアナウンサーが朗読練習で必ず暗唱出来る様に練習する演目としても有名ですね。
因みに、内容は以下の通りです…

拙者親方と申すは、御立会の内に御存知の御方も御座りましょうが、
御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町を御過ぎなされて、青物町を上りへ御出でなさるれば、
欄干橋虎屋藤右衛門、只今では剃髪致して圓斎と名乗りまする。

元朝より大晦日まで御手に入れまする此の薬は、
昔、珍の国の唐人外郎と云う人、我が朝へ来たり。
帝へ参内の折から此の薬を深く込め置き、用うる時は一粒ずつ冠の隙間より取り出だす。
依ってその名を帝より「透頂香」と賜る。
即ち文字には頂き・透く・香と書いて透頂香と申す。
只今では此の薬、殊の外、世上に広まり、方々に偽看板を出だし、
イヤ小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと色々に申せども、平仮名を以って「ういろう」と記せしは親方圓斎ばかり。
もしや御立会の内に、熱海か塔ノ沢へ湯治に御出でなさるるか、又は伊勢御参宮の折からは、必ず門違いなされまするな。
御上りなれば右の方、御下りなれば左側、八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋を御赦免あって、
系図正しき薬で御座る。

イヤ最前より家名の自慢ばかり申しても、御存知無い方には正真の胡椒の丸呑み、白河夜船、
されば一粒食べ掛けて、その気味合いを御目に掛けましょう。
先ず此の薬を斯様に一粒舌の上に乗せまして、腹内へ納めますると、イヤどうも言えぬわ、胃・心・肺・肝が健やかに成りて、
薫風喉より来たり、口中微涼を生ずるが如し。
魚・鳥・茸・麺類の食い合わせ、その他万病即効在る事神の如し。
さて此の薬、第一の奇妙には、舌の廻る事が銭ごまが裸足で逃げる。
ヒョッと舌が廻り出すと矢も盾も堪らぬじゃ。

そりゃそりゃそらそりゃ、廻って来たわ、廻って来るわ。
アワヤ喉、サタラナ舌にカ牙サ歯音、ハマの二つは唇の軽重。
開合爽やかに、アカサタナハマヤラワ、オコソトノホモヨロヲ。
一つへぎへぎに、へぎ干し・はじかみ、盆豆・盆米・盆牛蒡、摘蓼・摘豆・摘山椒、書写山の社僧正。
小米の生噛み、小米の生噛み、こん小米のこ生噛み。
繻子・緋繻子、繻子・繻珍。
親も嘉兵衛、子も嘉兵衛、親嘉兵衛・子嘉兵衛、子嘉兵衛・親嘉兵衛。
古栗の木の古切り口。
雨合羽か番合羽か。貴様の脚絆も革脚絆、我等が脚絆も革脚絆。
尻革袴のしっ綻びを、三針針長にちょと縫うて、縫うてちょとぶん出せ。
河原撫子・野石竹、野良如来、野良如来、三野良如来に六野良如来。
一寸先の御小仏に御蹴躓きゃるな、細溝にどじょにょろり。
京の生鱈、奈良生真名鰹、ちょと四五貫目。
御茶立ちょ、茶立ちょ、ちゃっと立ちょ。茶立ちょ、青竹茶筅で御茶ちゃっと立ちゃ。
来るわ来るわ何が来る、高野の山の御柿小僧、狸百匹、箸百膳、天目百杯、棒八百本。
武具、馬具、武具馬具、三武具馬具、合わせて武具馬具、六武具馬具。
菊、栗、菊栗、三菊栗、合わせて菊栗、六菊栗。
麦、塵、麦塵、三麦塵、合わせて麦塵、六麦塵。
あの長押の長薙刀は誰が長薙刀ぞ。
向こうの胡麻殻は荏の胡麻殻か真胡麻殻か、あれこそ本の真胡麻殻。
がらぴぃがらぴぃ風車。起きゃがれ子法師、起きゃがれ小法師、昨夜も溢してまた溢した。
たぁぷぽぽ、たぁぷぽぽ、ちりからちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一干蛸。
落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食われぬ物は、五徳・鉄灸、金熊童子に、石熊・石持・虎熊・虎鱚。
中でも東寺の羅生門には、茨木童子が腕栗五合掴んでおむしゃる、彼の頼光の膝元去らず。
鮒・金柑・椎茸・定めて後段な、蕎麦切り・素麺、饂飩か愚鈍な小新発知。
小棚の小下の小桶に小味噌が小有るぞ、小杓子小持って小掬って小寄こせ。
おっと合点だ、心得田圃の川崎・神奈川・程ヶ谷・戸塚は走って行けば、灸を擦り剥く三里ばかりか、
藤沢・平塚・大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして、早天早々、相州小田原、透頂香。
隠れ御座らぬ貴賎群衆の、花の御江戸の花ういろう。

アレあの花を見て、御心を御和らぎやと言う、
産子・這子に至るまで、此の外郎の御評判、御存じ無いとは申されまい。まいまいつぶりまいつぶり、
角出せ棒出せぼうぼう眉に、臼杵擂鉢ばちばち桑原桑原と、
羽目を外して今日御出での何茂様に、上げねばならぬ、売らねばならぬと、息せい引っ張り、
東方世界の薬の元締、薬師如来も照覧あれと、ホホ敬って外郎はいらっしゃりませぬか。

…ね?江戸時代の人の認識でも外郎は小田原の外郎家の物だったんですよ。

そして何で小田原の外郎が近年全国に普及しなかったかと言うと、新幹線と家の格式のせいです。
朝廷との逸話から、明治時代になると外郎家のういろうが特許として内閣特許局にすぐに登録されました
しかし天皇家との関わりからウイロウは小田原の外郎家での直接相伝しかしないと言う伝統を守り販売も小田原外郎家の本店での直接販売しかしないと伝統を守って来た事が原因なんです。
新幹線は小田原は「ひかり」しか止まりませんからね…
そんな訳で某地方都市の偽物が新幹線開業を機会に大量生産する企業が多数参入し、歴史を御存知無い方々に事実誤認されてしまった訳です。


そんな「外郎家の「本物のお菓子のウイロウ」、是非、小田原北条五代祭りの御土産に、「小田原曽我梅の梅干し」と共にお勧めですよ! 
そんな凄い職人や町人を守る為に、戦国時代の小田原城は強大且つ鉄壁の城塞と成長した訳です。 

如何でしょうか?
ウイロウの歴史、御理解頂けたでしょうか?
念の為に以下に時系列で纏めて置きます。
初代:陳延祐
元朝時官途:礼部外交院外郎 
長慶天皇の治世、正平二十三年(1368)年、元朝滅亡時に日本亡命。
医術、天文学に通じる。
博多に住す。
官職から陳外郎と日本では呼ばれる様に成る。
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後円融天皇の従弟、足利義満公により博多より京に招聘。
京に移住はせず博多に戻るが子を京に留める。
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子は京に留まり足利一門の断家、宇野の名跡と旧領を与えられ格を上げられた上で朝廷にも仕える。
外交使節の応対を担当。
足利一門の帰依していた禅宗に入門した事で法名は大年宗奇と伝わる。
父の初代延祐も禅宗に帰依し入道。
今は福岡市博多区に移転した、当時は太宰府に在った横岳山嵩福寺で剃髪、台山宗敬と名乗る。
※この入道号"台山宗敬"は恐らく陳家が浙江省台州出身の貴族である事に由来する。
※帰化後、本来は元朝の官職の外郎を苗字とし読みを官途の外郎(げろう)と区別し外郎(ういろう)にした。
※朝廷に上がる為に宇野を併用した。京極、六角に置ける苗字佐々木の併用に類似の事例。
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陳外郎宇野台山宗敬、享年73歳。
応永二年(1400年)七月二日没。
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後柏原天皇治世
永正元年(1504年)。
五代:陳外郎宇野藤右衛門定治の代に小田原の北条家より招聘され移住。
この際に弟の家を分家させ京に残し接待菓子や薬の製法も弟の家にも残した。
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しかし兵火により京の外郎(宇野)家は断絶する災難に遭う。
※当然、京都の財産や文書も消失。
この際に弟子が外郎の故知の博多、官領代として乱を沈静化させ当時の博多を傘下に置いた大内家により雇用され広まったと、外郎家では山口市と博多市の菓子の外郎を系統と社史で事実上公認している。
血脈は小田原のみ存続する。
天皇家の制約を守り菓子を販売せず。
薬の製法は明治まで一子相伝だった。
※明治時代の解説に繋がる。
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小田原でも北条家の外交使者接待担当。陳外郎宇野家は石高換算で江戸幕府の7000石超相当の格を継続して遇される。
※有職故実に通じたのでの江戸幕府に置ける高家対偶に類似。
※実際に其だけの所領を北条家でも与えられたとは考え難いので関東では室町幕府の格式の維持に留まったはず。実際、当時の石高換算の1貫=2〜4石の最大値で計算しても北条家臣筆頭の松田家で所領役帳で2798貫=11192石となり、やはり外郎家は格式に特化した保証を受けたと考えた方が自然。
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北条家、豊臣秀吉の小田原攻めにより改易、当主氏直公は蟄居。この際、士分の北条旧臣は小田原城下から退去を命ぜられるが朝廷との縁から特例で残留を認められる。
以後は医家として存続、嘗ての朝廷に置ける儀礼を守り透頂香と菓子も外郎の在所以外での販売をせず現代に至る。
この際に天皇家より医家にも関わらず以下の桐紋と建築様式の使用の御赦免を賜る。
八方八つ棟
表側三つ棟玉堂造り
唐破風に桐紋瓦
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江戸時代に至っても外郎家は高名で、今の市川海老蔵の祖先である二代目市川團十郎(元禄元年1688年〜寶歴八年1758年)が愛用し、享保年間に外郎の透頂香で喉の持病が根治した事を感動し歌舞伎の演目"外郎賣"を造り上げ以後は市川家十八番の演目の一つとして現代に至る。
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明治に成ると特許条例が制定されたが、天皇家との関わりで真っ先に特許承認された。
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外郎家系統の製法を受け継ぐ地方では外郎(ういろう)の名を使う事を憚(はばか)り、"ういろ"等と名を変えて敬意を近代まで払っていた。
その名残で今も「ういろう」と平仮名で書いても「ういろ」と発音する人が年配には多い。
但し、外郎家と無関係の名古屋は例に漏れる。

では!又、次の記事で!

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