歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:みなと未来21地区

前日、台湾の友人夫妻来浜→ ←これの続き。2日目。
台湾の友人夫婦が横浜に遊びに来てくれた2日目・・・
この日は朝から中華街のホテルに二人をピックアップし、藤子F不二雄ミュージアムに行って来た。
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ここは完全予約制で、ローソンでチケットを購入しないと入れない。
当日券は販売していない。来館者が快適に見学する為の配慮だ。
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まぁ、関連商品も沢山売っているので、御土産にも困らない。
小生の友人は日本が大好きでいてくれて、度々遊びに来てくれるのだが、今回訪問先と成った川崎・横浜・横須賀・三浦を含めた神奈川県は初めての旅行先だそうだ。
東京が近い弊害で東京より見る場所が多いのに海外の旅客にスルーされる事の多い我が県、何とか楽しんで欲しく、事前に友人(御妻君の方)と旦那さんの要望をリサーチして訪問先を分単位で計算して計画を立てていた。
しかし、この日は小生がドジをやらかしまくった。
高速で第三京浜川崎出口を降りた際、道路が複雑な進路変更が必要で道を間違えた。
更に、のちに話すが家系ラーメン総本山吉村家を食べさせてあげる事が出来なかった。
う~ん・・・
まぁ、話を先に進めると、友人(御夫君)が幼少の頃ドラえもんが大好きだったので、ここの存在を知った友人(御妻君)が小生に行きたい候補として事前に通知してくれていたのでチケットを予約しておいた訳だ。
入場料は1000円、安い。
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屋内展示物は写真撮影が不許可なので、屋外の展示物しか撮影出来ない。
しかしながら、多言語に対応した案内解説器具を各入館者に1台づつ渡して貰えたり、原画が多数展示されていたり、藤子F不二雄先生の生涯や、作業場等が再現された展示が有り有意義に時間が過ごせる。
子供向けと言う訳では無い施設だった。
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どちらかと言えば中学生高校生大学生等、進路に迷いがちな世代が来た方が良い場所。
最低限、小学校低学年程度の読み書きが出来ないと子供も理解出来ない展示が多い。
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でも屋外に出ると、子供も喜ぶ写真撮影の為の実寸のキャラクターが展示して有ったりする。
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ドコでもドアーとか・・・
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空地の土管とドラえもん。
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映画のワンシーン等も再現されていて親子連れや大学生位のカップルで賑わっていた。
でも入場制限がちゃんとかかっているので、酷く待ち時間が有る様な事が無いので快適に見学出来た。
小生も次ぎ来る時は、自分の恋人か奥さんと一緒に来られる様に頑張らねば(笑)。
まぁ、甥っ子姪っ子を連れてくるのが先に成りそうだな。
ここをいたく気に入った二人、4時間も滞在したので後の予定に少し影響が出た(笑)。
実はこの後、車で横浜駅西口の家系ラーメンの総本山である吉村家に向かったのだが・・・
月曜日店休日だった。
直弟子の店で吉村家発祥地の杉田家が年中無休なので当然やっているものと思い込んだ小生のミス。
この日二つ目のミスだった。
友人夫妻は「明日自分達で帰りに食べに行くから良いよ~」とは言ってくれたが悔やまれるミス。
時間的にも杉田家に回る時間が無いので、やむなく、藤子不二雄ミュージアムで購入したドラえもんのどら焼きと、ドラミちゃんのメロンパンで二人に間食して凌いで貰った。
目的地を3か所目の横浜市中区の国指定名勝の三渓園に移動した。
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※写真は昨年の写真。
ここまでの移動中、友人(御妻君)の勤務先の台湾の貿易会社が日本の顧客の会社のミスで少々トラブって、休暇中なのに電話が引っ切り無しに掛かってくる。
当然三渓園を友人(御妻君)はゆっくり見る事が出来ず少々可哀想だったが、御夫君の方は御妻君に指で指示を受けながらポイントを押さえて写真撮影に勤しんだ(笑)。
この後に城ケ島で富士山を見る計画だったので、三渓園は大急ぎの1時間のみの滞在と成り御団子も食べる事無く車に乗り込んだ。
う~ん、藤子不二雄ミュージアムの滞在が1時間長かったかな。
まぁ、三浦に行けば美味しい鮪料理も食べれるので、二人のテンションも下がらずに城ケ島には17時位に到着した。
本来ならコンナ↓風景を見せてあげられるはずだったのだが・・・
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・・・三浦に到着するや否や、雹と大雨のドシャ降り。
う~ん、富士山どころじゃなかったな。
傘さしてるとは言え二人とも外套(コート)の肩がビショビショ。
仕方なしに、三崎漁港の小生行きつけの寿司の名店「紀ノ代」に移動した。
そしたら臨時休業だった(笑)
もう、ここまで踏んだり蹴ったりだと笑えて来るのだが、事前に隣に在るマグロ料理居酒屋の「黒羽亭」の事も二人に紹介して置いたので、「そちらに行こう!」と二人が言ってくれたので助かった。
あぁ!エスコートしなきゃいけない側が、なんかフォローされて胸が苦しい。
でも二人はマグロ喜んでくれて大助かり。
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※顔は差し替えてあります。
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台湾で余り食べる事の出来ない“胃袋”“白子”“卵”を前菜に、珍しい骨髄・・・
あと三浦野菜とシラスのサラダ、鮪の刺身、鮪の刺身定食、サザエのつぼ焼き、トロカツ、顎肉のステーキ
それと二人にはキリンビールプレミアム横浜仕立て?とか言うのを注文。
二人の胃袋を一杯にして、店を後にして再び出発。
帰り道、横浜横須賀道路の横須賀PAに寄りたいと希望が有って立ち寄ったら19時閉店・・・
どうかしてるぜ横須賀PA!
24時間やれや!しかも大黒ふ頭PAも同じ。
この日、最終日なのに神奈川の夜を楽しめないで帰らせる訳にはいかず、鉄オタ御妻君友人が喜びそうなので前日に大さん橋から眺めたミナト未来地区へ移動。
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少し雨が降っていた事、平日の夜という事も有り、人もまばらで写真を撮るには良い環境だったので結果的には二人にとって良かったかも知れない。
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横浜市民でも余り知らない人が多いのだが、ここは伊藤博文公が整備した新港埠頭の鉄道史跡だったりする。
二人は鉄道が好きなので小生の解説に興味を持ってくれた。
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だから、気が付かない人も多いかも知れないが赤煉瓦倉庫の前には当時の汽車の線路が今も保存されていたりする。
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この建物の反対側に移動すると、横浜ベイブリッジも綺麗に1枚の写真に収める事が出来たり、その更に少し先に行くと、下の写真の場所が在って・・・
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暗くて上手く撮影出来なかったが、明治~大正時代の横浜税関の検査場の建物の史跡も在ったりする。
何より線路の上を歩きながら綺麗な風景を見られる絶好の観光スポットな訳だ。
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サークルウォーク(鉄橋の円形歩道橋)からの眺めも良い。
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そして、ワールドポーターズの前も嘗(かつ)ての新港埠頭の史跡。
だから、昔、貨物船が通っていたランドマークタワーの真下へ真っすぐ赤煉瓦倉庫から線路が続いている。
この道を歩いて、二人とランドマークタワー下のドックヤードガーデンへ移動。
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ここ、若い人や歴史に興味の無い人は只の野外コンサートホールだと思っている人も少なくないのだが実は、日本現存最古の造船所の史跡で重要文化財なのだ。
友人(御夫君)は建築企業の監督なので、これを見て「カッコいい!」と喜んでくれた。
実は友人(御夫君)は日本の歴史に精通しており、下手な日本の大学生よりも日本文化と歴史に対する理解が深い。御父上は中国大陸の上海出身なので中国の歴史に対する理解も深く、この前日に三笠公園で清帝国の戦艦“鎮遠”の弾頭を見て西太后の暴走独裁と頤和園の建設による近代化の遅れ等を直ぐに解説していたりした。
今回、改めて自分の県を回ってみて思ったのだが、横浜は非常に台北に文化が似ている。
だから彼らと価値観が合ったりするのかも知れない。
外国の租界が置かれた歴史、外国文化の流入
南宋滅亡時に元朝に寝返らなかった蘭渓道隆和尚達、鎌倉幕府へ亡命したた忠義の真の華人達と成熟させた鎌倉文化や、三渓園で見る事の出来る、その後の武家文化
そして自然豊かな三浦の景色
これを全部合わせると、台湾の歴史背景と文化背景、そして景色その物もなんとなく似ている所が多いのかも知れない。
友人は開港記念会館を見て、台湾の総督府に似ていると言っていた。
近代の建物で日本人のデザインだから似ているかもね~と言う話もした。
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上の2枚は2014年に台北に友人を訪ねて行った際に撮影した写真。
下の2枚は2015年にブログ素材様に撮影した横浜の写真。
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うん、やっぱりソックリ(笑)。
まぁ~台湾人は日本人と同じように神仏を信仰して、文化も似ている上に風景も似ているんだから友達として意気投合出来て当たり前なんだよなって改めて思い、そして2年ぶりの友人夫妻との再会を楽しんだ休日と成った。

ホテルまで二人を送り、ロビーで暫しの別れの挨拶。
握手して「又ね!」と言ってバイバイした。
寂しいな。

残りの人生、二人に何回会えて何時間一緒に遊べるか判らないから。
一期一会の心掛け、出来るだけ、やれる事を!
さぁ、成さねば、自分の事・・・
又、元気な二人に元気に会えます様に。
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ブログネタ
日本の政治 に参加中!

小生、皆様によく、このブログで御城を紹介しています。 
主に平安時代~戦国時代が多いですが、ちょくちょく近代の要塞も紹介しています。 

前回紹介した近代の要塞は横浜市金沢区野島公園にある、第二次世界大戦末期の要塞でした。 
この記事です⤵️

※クリック⤴️で読めます。

現代では映画版「釣りバカ日誌」で浜ちゃんが住んでいる場所ですが… 
今回は外国による日本植民地化侵略に備えていた明治時代の史跡です。

海に浮かぶ城塞史跡が、今でも東京湾に有るのを皆さん御存知でしょうか? 

東京湾第1~3海堡(かいほ)と言う史跡です。
東京湾へ侵攻してくる欧米列強の仮想敵に対して防衛の為(ため)に設置された要塞です。 
攻撃的な防御施設ですので、有る意味、本当の城址と言って良いと思います。 
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衛星写真で御覧頂いた通り、現在は第1~2海堡までしかありません。 
実はこの要塞、造られて間も無く"関東大震災で大破してしまった"為に利用された期間は極短かったんですね。 
しかし第3海堡は地震で消滅した訳でなく、平和的商業的な理由で石原慎太朗氏が都知事だった時代に彼の提案で撤去されたんですね。 

実は東京湾と東京港横浜港は世界でも類(たぐ)い稀(まれ)な暗礁(あんしょう=海中に隠れた浅い岩場)の多い、非常に航行の難しい海域なのです。 
ですから、東京湾に入港する船は、実はその船の船長が操船(そうせん=運転)するのではなくて、専門の操舵(そうだ)師と交代してから入港するんですね。 
そんな訳で、船舶の航路を拡大する為に撤去が必要だったんです… 

新聞やニュースでしか情報を得ない方々には意外でしょうが… 
石原さんも実は平和的な面でも結構、功績を残しておられるのですよ(笑)。 

石原さんのこの実績も、御存知(ごぞんじ)無かった方も多いかと思いますが… 
…これら東京湾海堡の存在自体を知らない方が多いですよね? 

実はこの第3海堡、史跡として解体移設し保護されています。 
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その場所が昔、横須賀鎮守府の海軍飛行場の在(あ)った日産追浜工場の横なんですね。 
住所的には夏島町です。 
この史跡保護事業は、当然!歴史史跡破壊容認が特技の神奈川県教育委員会が行った訳ではありません(笑)。 
民間人有志が費用を負担し移設保護して下さったんですね。 
※詳しくは「アクションおっぱま」と言う民間団体のホームページをご覧下さい。→「ココ 」クリック! 

この東京湾第3海堡の構造がどのような物だったのか、現地案内板に図面が有ります。 
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…すいません、反射と映り込みが激しくて。 

この図面の様に、船が接岸する為に波消しの埠頭が左右に設けられ、無数の砲塔が設置されていました。 
さながら固定された大戦艦と言う所でしょうか? 

この海堡の建設を計画したのは幕末の元長州藩士で維新志士だった、当時の明治政府帝国陸軍の山縣有朋陸軍大将です。 
伊藤博文公&李垠殿下

初代内閣総理大臣伊藤博文先生や山縣有朋の長州閥は、そもそも幕末の欧米人によるアジアの植民地化に抵抗し討幕を目指した後、海外列強との国力軍事力の差を長州vs連合国の戦争で思い知らされた事で政治主張を鎖国政策から180°転換し、近代化を目指す事に成りました。 

まぁ、会津の松平容保公や新選組の近藤勇さんと敵対しましたが、どちらも国の事を考えていた事には変わらないので、明治政府設立までの過程には取りあえず触れませんが、近代化した明治政府は直ぐに、欧米人の侵略を防ぐ為に日本全土の要塞化を進めます。 

勝海舟

…これには江戸幕府側だった勝海舟先生や榎本武明先生も協力したようです。 

勝先生は今の東京のお台場に台場(だいば=砲台)を設計した実績がありましたからね。 
ちなみに"京浜急行神奈川駅前の金港地区~横浜中央市場一帯は勝海舟先生が建設された「神奈川台場」の上にあります。

 お龍さん

神奈川台場の近く旧神奈川宿場の“田中家”と言う料亭には、お弟子さんの坂本竜馬さんの未亡人「お龍さん」が住み込みで働いていた時期も有ります。坂本龍馬先生

推測ですが、亡夫龍馬サンの師である勝先生の紹介で、龍馬サンが育てた海軍の後輩達が多く通う横浜に職を求めたのでは無いかと思います。

お龍サンの墓所は横須賀市大津町にあります。 
因(ちな)みに勝サン達が設計した幕末の台場と、明治政府の東京湾海堡では規模が全く違います。 

お台場をヨットに例えるならば… 
…東京湾海堡はさしずめ現代の戦艦や護衛艦程の体格差があります。 
解りにくいかな(笑)? 
じゃあ、言い換えれば赤ちゃんと大相撲横綱の白鳳関程も規模が異なります。 
なので当然、働く兵士も多く、彼等の居住スペースも確保されていました。 
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この明治時代、要塞だけでなく、今の横浜みなと未来21地区の基礎に成った新港埠頭や山下埠頭も建設されて行きました。 
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日産追浜工場のある夏島町から、三浦半島を望む風景。 
東京湾の海堡と同時期に整備されたのが日本最初の鉄道だった新橋駅~初代横浜駅(現:桜木町駅)で運用されたSL=蒸気機関車でした。 
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横浜の赤煉瓦倉庫の前には今も昔の
貨物列車の線路が残っているに皆さん気が付いてましたか?普通に歴史を知らずに遊びにいってるだけだと結構、知らずに見落としがちな鉄道史跡が赤煉瓦倉庫なんですよ。DSC_2686ここは今の山下公園~神奈川県庁に江戸時代、日本で最初の税関の江戸幕府神奈川運上所が開設され、更に近代に成り機能を移転され近代建築技術で税関の煉瓦倉庫を作り、日本最初の鉄道路線を延伸し引き込んだのが始まりなんですね。 

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この赤レンガ倉庫の有る旧新港埠頭の汽車道が、今の山下公園~ワールドポーターズへと繋がる遊歩道が外国から横浜に着いた貨物が輸送されていた線路の鉄道史跡なんですね。この山下公園の汽車道は平成初期の頃はまだ、そのまま残りまだまだ貨物列車も今の横浜ランドマークタワーの下を走っていました。 
日本近代化の先進地域が横浜の桜木町~高島町~野毛町~新港町~山下町だったんです。
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なのでランドマークタワーの真下には日本近代造船黎明期のドックを利用した“ドックヤードガーデン”も有りますよね?
このドックヤードガーデンの有るランドマークタワー~今の桜木町駅辺りが西郷さん達が東京新橋から乗車した日本初の鉄道の終着駅だった初代横浜駅の跡なんですね。
西郷隆盛

そして神奈川運上所だけでは税関機能も荷揚げ場としての機能が不足し、明治の元勲達の鉄道を利用して海運と鉄道輸送を融合させた輸送網を構築するに当たり新たに造成されたのが新港埠頭の赤煉瓦倉庫や横浜ハンマーヘッドの埋立地の新区画でした。
ちょっと
“農業環境技術研究所”サンのウェブページで明治時代に軍部が製図した迅速測図とGoogle社のGoogleEarthの画像で変化をみてみましょう。明治時代の横浜港 久良岐のよし2020年の横浜港 久良岐のよしこれをみると地図の中央やや下に大桟橋(国際客船ターミナル)と江戸時代の“イギリス波止場”史跡である“像の鼻パーク”が見えますね。

横浜駅は永久に工事してる”と他府県民からバカにされますが(笑)、元々は平沼湾を埋め立てた海の底だったから不安定な地盤なのも一目瞭然ですね~。

この地図でも分かる明治~大正時代の横浜駅の線路の一部は、今でもJR貨物列車の線路として利用されています。 
神奈川臨海鉄道本牧駅には、この路線を走っていたD51蒸気機関車が保存されています。 
d0e29225-s この“明治の元勲”達が築いて下さった鉄道輸送網、写真の部分は消失しましたが、実は近年でも大活躍し、東北地方在住の大勢の現代の日本国民と外国邦人の命を助けたんですよ。 


すなわち… 
ENEOS根岸製油所とJR貨物の活躍です。
ENEOS根岸製油所と言うのは、横浜市民も余り知る人のいない京浜工業地帯の湾岸の夜景の奇麗な場所です。
夜景スポットとしての紹介記事も有りますので、風景を見てみたい方は下のブログリンクをクリックして御覧ください。
合せて下のISOGOエネルギープラザの紹介記事も読んで頂くと、この地域の日本における重要性が御理解頂けると思います。
東日本大震災発災中、まだまだ寒い3月の東北、ライフラインが寸断され電気ガスが使えなくなり燃料が枯渇した東北地方の人々へ、JR貨物の有志と根岸エネオスの社員が一丸となり、JR京浜東北根岸線根岸駅~福島県内の架線の無い区間をディーゼル機関車を運用し津波の被害の無い日本海沿岸経由~東北の青森県の石油コンビナートへ燃料大量輸送を試みました。

つまり、この明治の元勲達の遺産である鉄道網を活用し被災地へ燃料を送り続けたんです。

この件は、陸上のトラック運送会社がスポンサーのマスコミは一切報道しませんでした。 


※この件に御興味の有る方は、以下に事のあらましを有志がCGドラマ再現した映像と、実写映像のリンクを張るのでクリックして御覧下さい! 
この件を知らない方は出来事の流れを見るにはCG動画を先に見る事をお勧めします。
●CG技術者有志による再現ドラマ

●鉄道マニア有志による記録映像(第1便)
横浜市中区:エネオス根岸製油所~根岸駅到着直後の盛岡行第一便

横浜市中区:桜木町根岸駅通過

東京都府中市:府中本庁駅通過

※磐越西線の無送電区間のみ第一便以外の映像です。
 
秋田県秋田市:秋田貨物駅通過

青森県:弘前駅停車~発車

青森県:津軽平野


もし、明治の元勲達がこの路線を開発して下さっていなかったら、東北地方の住民の多くは燃料補給不可能な事態に陥り救援物資が搬送困難に成り飢えに苦しみ暖房使用不可な状況に陥り、地震と津波に加え更に体力を奪われ東北の初春の冷気で多くの凍死者が数万人単位で発生していた事でしょう。 
そして、この路線を活用して東北の人を助けたのは菅直人や枝野の民主党では無く、民間のJR貨物とエネオス根岸製油所の名も無き英雄達だった訳です。
・・・福島第一原発の吉田所長と同じ民間の英雄です。

現代の民主党は日本をボロボロにしましたし、自民党も腐敗した面も有ります。しかし東日本大震災の東北で人々を助けた磐越西線を築いたのは、明治時代の政治や軍人や旧国鉄の職員だった訳です。
明治の政治は素晴らしかったんです。インフラ整備や国民の事を本当に考えていたんですね。

明治の政治家や軍人と昭和天皇陛下も激怒した昭和初期の暴走した一夕会が権力を独占した軍事政府と区別出来ずに、歴史を知らないアフォな輩は一色単(いっしょくたん)にしますが…。 

しかし、当時の明治政府の政治や軍隊は、元々敵国であった英国や米国からも称賛される程、優秀だったんですよ。 兵站無視して中国大陸で無謀な戦争をした昭和の軍人とは大違い。

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明治時代の軍人では柴五郎陸軍中佐は、義和団の乱と言う中国の今の北京で起こった中国人による外国人とキリスト教徒無差別大量虐殺事件に西太后が便乗し 連合国に戦宣布告し戦争に発展した事件で、僅(わず)かな日本国籍民間人の義勇兵と決起し、当時日本人が白人に差別されていた中、多くのキリスト教徒中国人や白人民間人を保護し籠城戦で活躍し、やがて周辺の欧米将校や大使から北京籠城の参謀総長に自然に抜擢され、沢山の人の命を守った功績から英国や米国を初め多くの国から勲章を送られ敬愛を込め「コロネル柴」と呼ばれました。 

東郷平八郎元帥

又、東郷平八郎元帥と秋山真之海軍中佐は対馬海戦で当時世界最強だったロシア帝国海軍バルチック艦隊が日本を植民地化する為(ため)に日本列島に迫った際、このをバルチック艦隊を撃破する「丁字型戦術」を提案し大勝利に貢献しました。 

この事は世界各国で称賛され様々な国から英雄として歓待されました。 
今でも当時ロシア植民地だったトルコ国民が親日でいてくれるのは、東郷元帥や秋山先生の功績も一因です。 
そして戊辰戦争で函館五稜郭攻めに加わっていた薩摩の侍出身の東郷平八郎元帥は英国留学時代に英国軍人達からも一目置かれ、見事に対馬海戦でロシアの日本侵略を阻止し間接的にトルコを開放し孫文先生からも称賛された人物でした。その名残でいまでもトルコ人にはトーゴーと名付けられた人が多く生きていらっしゃるそうです。

この様に、明治の元勲達が幕末の戊辰戦争と言う悲しい内戦を乗り越えて、仇敵味方の関係を乗り越え日本が欧米の植民地化されない様に防いでくれたから現在の我々がいるし… 
昭和の社会主義的な一夕会独裁軍事政府の外交ミスと成った日英間の条約違反の万里の長城を越えた中国侵攻が有ったから盟友の英国との対立を生み出し敗戦を招いた訳です。 

「あの時こうなってれば」と言う歴史の「IF」は有りませんし、考えるのはファンタジー脳なバカです。 
しかし、もし孫文先生が樹立した現在の台湾の元と成った「中華民国」が、日本国と英国の支援を受け、中国の近代化と民主化に成功していたなら… 
…と明治時代の史跡や、孫文先生を保護していた横浜中華街を訪れる度に、小生の脳裏をよぎってしまします。 

…もし中華民国が中国大陸を民主化していたら、今の日本と中国みたいに日本人と中国人は政治的に対立しないで済んだのかな~? 

・・・もし民主党政権時代に菅直人がパフォーマンスで福島第一原子力発電所に行こうとせず無駄な口を挟まず、故:吉田所長が御自身の計画通りベントを決行していたらメルトダウンしなかったかも知れません。

・・・もし民主党政権時代に福島第一原発がメルトダウンした際、放射能が飛散した事を枝野が隠蔽せずに正しく情報展開していたら、福島県の人は適切な対応が出来たかも知れません。

…でも「if」は考えるだけ「無駄」ですね。 

因みに、この東京湾第3海堡が移設され、かつて海軍の飛行場が有った夏島町ですが… 
実は、お隣の野島公園と、この埋立てられる前の夏島には伊藤博文先生の別宅や定宿があり、そこで大日本帝国憲法の草案が作成されたんですね。 
つまり、ここはGT-Rなど世界最高水準の日産車を生産する日産自動車の拠点であると同時に、日本国が法治主義国家の第一歩を踏みしめた日本人にとって大切な場所でもあるんです。

ではでは皆さん、又次のブログ記事で!

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