歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:ゆず

前回の休日雑記と同じ展開・・・

土曜日早朝、寝ていたら先週に引き続き又も姪っ子に奇襲された。
ガチャガチャガチャ!ガラガラっ!
「お~じチャ~ン!」

今回は何の事前情報も約束も無く母の手引きに因(よ)る姪の奇襲だった。
攻城戦において力攻めをする場合、門の守将を寝返らせて兵を城内に誘引させるのが常套手段なのだが、そもそも小生の家族は何故か皆小生の部屋の鍵を開ける事が出来る。
根(寝)城としても最早機能してると言えるのか解らない幼児が容易に大手門から攻め込める小生の家(笑)。

姪は土曜日午前中は英会話で午後はいつも書道があるのだが午後の書道が休みだそうで、勝手に義妹(弟妻君)と母と姪の3人が小生が土曜日休みなのを良い事に小生に事前相談も無く姪をランチ外食に連れて行かせようと決めていたらしい。
・・・裸で寝ず又、服着て寝てて良かった(笑)。

成人の日の妹と言い、義妹と言い、母と言い、姪も含めて我家の女性陣は小生の予定を無視すると言う迷惑甚だしい技を去年後半から使う様に成ってしまった。
まぁ~、懐(なつ)いてくれる姪が可愛く思うので良いかな(´▽`*)?

でも次に彼女出来たら引っ越して絶対に鍵はやらんからな!

さて、土曜日、当初の予定では前日に天候不順で行けなかった曽我梅林~小田原城天主閣✖センゴク権兵衛のコラボ企画見物~豊臣家の石垣山一夜城再訪~湯河原梅林の夜間ライトアップと見て廻る予定だったのだが、姪の奇襲により脆(もろ)くも、その野望は打ち砕かれる事に成った。
午前中は姪っ子の英会話送り迎えで拘束される事に成ってしまったからだ。しかも姪が英会話やってる10時位~12時迄は小生は“放ったらかし”にされる理不尽!
仕方ないので市内で1~2時間で廻れる観梅の名所に行く事にした。
弟の所の姪は本牧半島の何処かにある英会話教室に通っているので、素早く戻ってこれる範囲となると中区~南区~磯子区~港南区の狭い範囲に限定されてしまう。もうそうすると行ける場所は数少なくて根岸森林公園の梅林、三渓園の梅林、岡村梅林の3箇所しか行ける場所が無い。
実は三渓園は、この前日の03月01日に大船フラワーセンターと合わせて行っていたので後の選択肢は森林公園と岡村公園しかない。三渓園と大船フラワーセンターの梅園は日を前後するが又別に休日雑記に書こうと思う。
そして森林公園1箇所だと流石(さすが)に2時間も時間を潰(つぶ)せないので、今回は久しぶりに“ゆず”の町の岡村町散歩も含めて岡村梅林を見物に行く事にした。
“ゆずの町”散歩をするならJR磯子駅か京急と市営地下鉄の上大岡駅から徒歩20~30分位歩いて来るかバス、もしくは車での移動が選択肢なのだが、小生は車なので先ず岡村公園の駐車場に車を停めた。
岡村公園
岡村公園
ここの広大な公園敷地は元々は鎌倉時代の名将の三浦一族の平子有長公が開いた岡村天満宮と、戦国時代の名将の北条綱成公の開いた龍珠院と言う御寺の境内地だったが第二次世界大戦後に米軍基地として接収されて、その後、何故か神社と御寺ではなく横浜市に土地が返還されてしまい公園として整備されたので駐車場は十分広く駐車料金も安い。
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なので野球場も有ったりする。
この野球場の横の坂道を下って行くと、ここが岡村天満宮の旧参道だった名残が今も有って石の大鳥居が公園の坂道の入口に成っている。
この坂を下り始めると“ゆずファンの聖地”が沢山有って、歌の歌詞にも登場した場所だらけ。
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先ずこの坂道を含めた岡村天満宮~岡村公園の丘が“岡村ブギウギ”の歌詞に成っている場所。
その坂の下の大鳥居の裏側を観察して見る。
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昭和十二年十月建之とあり戦前に建てられているので岡村天満宮の旧境内地がここまで来ていた事が良く解る。
寄贈者の姓が気に成る。次の記事で書く戦国時代の北条家の重臣の一人で横浜~川崎に所領を持つ殿様でもある中田加賀守と同じ中田姓だ。1560年頃までは中田加賀守は港北区日吉に矢上城~川崎市高津区井田に井田城等の城を構え他にも保土ヶ谷区の川島町の地名の残る一帯を支配していた。戸塚区に中田の地名が残るので室町時代中頃か安土桃山時代に中田氏は川崎市西部~横浜市北部~鎌倉市東部の代官を務めた可能性が高いと言うのが小生や菩提寺の御住職や慶應大学で論文を書いている盛本先生等実際に地元を廻っている人間の共通意見だったりするが詳しい文物が既に失われていて状況証拠しかない。
しかし岡村町の岡村天満宮に中田姓の人物が石鳥居を奉納しているのは何ら不思議では無い。
実は岡村町の隣接地区の蒔田町は、室町時代に征夷大将軍の関東に於(お)ける代理を務める鎌倉公方の更に代理を務めた吉良頼康公の居城の蒔田城が存在した。
江戸時代に東京大学の前身と成った昌平坂学問所の地誌編纂部門で出世して頭取と成った間宮士信(ことのぶ)と言う学者が「中田加賀守は蒔田吉良家与力だった」と言う主旨の事を書いていたりするので、1560年代の前か後かは解らないが中田一族が岡村町近郷に所領を得て土着し昭和初期に単独で石の大鳥居を寄贈できる経済力を維持したまま一般人として生活していたと考えると経済力的にも全く不思議では無いし歴史的な状況から整合性も高い訳だ。
室町時代初期に岡村町は吉良家の領地だったのだが、北条綱成公の与力武将の行方(なめかた)家が岡村町を吉良家から買い取っている。恐らく、その後の安土桃山時代に更に中田加賀守の所属した小机衆が再編され中田家は江戸衆となり蒔田吉良家与力に再編され蒔田城付近に所領を与えられたが北条家が滅亡して戦国時代が終焉を迎え江戸幕府が開かると岡村近郷に土着した一族もいたのかも知れない。
詳しい住所は言わないが中田家の本家は今は川島町辺りに住んでいる。
中田加賀守の事は今晩、また菩提寺の紹介記事を書くので其処で紹介したい。
小机城と井田城紹介の過去記事でも触れているので、もし御城や戦国武将に御興味有る方は以下の記事タイトルをクリックして当該記事を読んで頂きたい。

クリックで記事にリンク⤵
川崎市の井田城は小田原北条家の吏僚中田加賀守の城?
 ・・・川崎市高津区蟹ヶ谷~中原区井田。

❝続日本百名城❞の1つ小机城
 城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。

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そして、この旧参道の石製の大鳥居を正面から見て左手に“ゆずの聖地”がもう一つ在る。
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モンマルト
モンマルトと言う洋菓子店で交通の便が悪い岡村町に在っても磯子区では元々美味しいスウィーツ店として名が通っていたのだが、“ゆず”の二人が通っていたり北川悠仁君(以下北川君と呼称)のお姉ちゃんが美人で良く買いに来ていたのが有名だったりするんだな。
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正面には恐らく昔は農家だった立派な家が在る。
モンマルトは遠方からも“ゆずファン”が来るのでオーナーパティシエの御店主はとても親切で店内の写真撮影も快(こころよ)く許可して下さった。
・・・何回か来てたのに未(いま)だに写真撮影して無かったからね。
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春らしい装飾が少しされていた。繰り返すが許可貰って写真バシャバシャ撮影してるからね~。
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ゆず来訪時の写真も幾つか有る。
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最近は岡村隆史も一緒に来たらしい。
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美人なお姉ちゃんのエピソードも話題に成ったらしい(笑)。CIMG8268
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ケーキはどれも美味しそうなんだけれど今更ながら御店主に「二人の好物って有るんでしょうか?」と聞いて見たら快く教えて下さった。
大将曰く・・・
「ゆうじん(北川君)はいつもクレープ食べるよ~、こうチャン(岩沢君)はソッチのモンブランが好きだよ~」
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岩沢厚治君(以下岩沢君)が好きなモンブラン。
いつもコレを食べるそうだ。てかモ“ソ”ブランに見える(笑)。
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北川君が好きなクレープ。丸めて有るから素手でも食べれるね~。
で、ゆずファンとしては❝両方食べる❞と言う選択肢一択しかない(笑)ので去年27kgダイエットしたのに現在8kgリバウンド中なのだが“ゆず愛(笑)”から両方購入した。
で御店主に「食べて行く?」と聞かれたので「え?店内で食べていいんですか?」と聞き返してしまった。この御店、テーブルが無くて店内にベンチだけあるのだけど、ゆずファンと言うキーワードを発すると御店主の脳内で❝ゆずファン=遠方からの来客❞と認識が有るようなので一応質問するそうだ。
・・・そう言えば今迄ゆずファンって言う機会無かったな。
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トレーに乗せて提供して下さった。
モンブランは齧(かじ)りついた断面が汚くて、とてもじゃないけど写真を御見せ出来ないけど大粒の栗のグラッセが丸々1つ入っていてケーキの底はクッキー生地に成っており、ファンが来ても手で持って食べれる形状に配慮されて作られていた。味も甘過ぎず大人向きでとても美味しい。
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クレープは変な表現だが苺大福の洋菓子バージョンと言った感じ。こちらも甘さ控えめで美味しい!そして持ち易い(笑)。
御店主に「御馳走様でした~美味しかったです~」と挨拶してトレーを返却したら何とプレゼントを下さった!
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20周年記念の絵ハガキ。

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2枚も下さった!2人分食べたからだろうか(笑)?
御店主ありがとうございました~♪思えばこれが朝御飯だったな。
モンマルトを後にして2年振りに岡村天満宮に移動した。

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大鳥居の坂道を登って行くと左手の途中に今の参道の入口が在る。
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とっても❝神社らしい雰囲気❞の有る赤が基調の神社で、北野天満宮の御分霊と言うより雰囲気は稲荷神社ぽい。
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御花がそこかしこに植えて有るのは多分、境内に保育園が有るからかな?
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料理業組合からも崇敬されている様だが経緯は聞いてないから知らない。
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参道の階段を登りきると天満宮らしい梅が見えて来るが、ここは現代の岡村梅林とは又別。
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この横浜市教育委員会の解説は考察が不親切で、もう少し詳しい事を言うと時期的に岡村天満宮を開いた武将は源頼朝公の随兵=近衛兵を務めた平子有長公だろう。曽我兄弟の敵討ちと言う、源頼朝公暗殺未遂事件で犯人の曽我兄弟と最初に抜刀して切り合い逮捕して源頼朝公を暗殺の危機から救った武勇に優れた武将だった。
そこら辺りは以前、岡村天満宮の紹介記事で書いているので、それを読んで貰うと良いかと思う。
ゆずの地元の岡村天満宮の殿様の平子有長公…源頼朝公の忠臣。
 …横浜市磯子区岡村町

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階段上って現在の境内の削平地に出る社殿が見えて来て何やら賑やかな音楽と女性の声が聞こえて来た。
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丁度、園児達が先生と境内でダンスの練習をしていたんだね。
神様に見守られ、春の日差しと梅の花の下で女性の先生達と子供達が踊りの練習をする姿は何ともホッコリして微笑ましかった。

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階段上って左手の稲荷社に先ず御参り。
ここが周辺から商売の神様として御利益で有名だった稲荷社。だから料理業組合もここを崇敬していたのだと思うけど未確認。
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その手前に牛サン。皆に触られてツルっツルで気持ち良い♪
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境内は紅梅が凄く神社の雰囲気に合ってとても綺麗♪
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園児か先生が育ててるのかな?花壇も有る。
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う~ん、子供達と同じく元気に咲いてくれていて何だか見ていて嬉しくなる。
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本殿前で参拝して気が付いたんだけど・・・
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拝殿の扉のガラスが陽光で鏡みたいに成って踊りを一生懸命に練習する園児と女性の先生と梅が映り込んでいる。
本殿から見た神様の視点でこの風景が見えてるんだね~。岡村天満宮、菅原道真公と平子有長公の二人が温かく園児達が健やかに梅と一緒に育つのを見守ってくれている神社みたいに感じたので拝殿に移った境内の風景も写真に撮影して見た。
そう言えば何回か参拝に来たり歴史調べているのに、ここで御朱印頂いた事も無いし御守りも買ってなかったと思い社務所で御朱印と御守りを受領して来た。
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御朱印。それと・・・
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ゆずの町らしい“ゆずの幸せ守り”。ゆずの匂いがする匂い袋に成っているらしいのだけど花粉症で鼻詰まってる小生には何にも感じない(笑)。
まだ我が春は遠いのか?花粉症が治った頃に新しい彼女が出来たりして(笑)?
参道を降りて岡村梅林に移動しようとするとコレが目に入った。
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元々、ゆずの二人は伊勢佐木町に在った松坂屋の前で路上ライブをしてデビューの切っ掛けを掴んだのだが、その事から松坂屋が閉店するまで二人が活動していた証(あか)しとして松坂屋前に作られていた二人のライブ当時をモザイク画にした壁があった。しかし松坂屋が閉店したので、ゆず所縁(ゆかり)の岡村天満宮サンに引き取られて現在も保存展示されているんだな。
ゆずを満喫して、もう一箇所、岡村公園周辺でこの日のメインの岡村梅林に向け移動開始。
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途中、野球場の隣の歩道にこの石畳があるのだが、実は岡村公園のある❝久良岐の丘❞は富士山のビュースポットとしても有名なんだな。ここから空がガスって無ければ富士山が綺麗に見える。
生憎と昨日2019年03月02日は午前中迄雨だったせいで地面から蒸発する水蒸気が濃くて富士山が見えなかった。
この時点で午後に行く曽我梅林も富士山が綺麗な場所だが富士山が見えないだろう事が判った。
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岡村梅林は丁度、満開でとても綺麗だった。数百本なので大規模な梅林では無いが、平安時代の頃から貴族や武士は桜では無くて梅を見て春を感じたそうだ。今もその風流な文化を身近に感じられるのは岡村天満宮の氏子サンと横浜を代表するプラント企業の日揮が一度米軍に伐採されて消滅した岡村梅林を復興して下さったからだな。
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この入口は鎌倉街道側に在る。
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枝垂れも白梅も紅梅も有り、ちょっと散歩するには丁度良い。今の時期に❝ゆず巡り❞をするなら是非岡村梅林もファンの方には散歩して頂きたい。
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うん!梅の花はやはり可愛い♪
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この日は小規模だが茶会も開かれていたのだが、生憎と姪を迎えに行く前にもう1箇所岡村町内で見て置きたい場所が有り時間的な余裕が無かったので、運営者の紳士の方や女性に御誘いを受けたが又の機会に参加させて頂く事にした。
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和むとても良い時間を、岡村天満宮と岡村梅林とモンマルトで過ごす事が出来た。
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又、来年も散歩に来たいな。
そこから駐車場に戻り、車に乗り同じ岡村町内だけど少し離れた笹堀地区の久良岐能舞台に移動した。
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ここの辺りには昔の彼女が住んでいた(笑)ので良く来ていたのだが、昔尼寺が有ったり、水子供養の墓地が有ったらしいのだが風土記を読んでもそれらしい事が書いて無くて良く解らない。
そして小生のハンドルネームの❝久良岐のよし❞の由来と成った旧久良岐郡の地名が残る数少ない場所の一つでもある。
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ここは薪能(たきぎのう)等も行われて、知る人ぞ知る文化的な場所なんだな。なんせ交通の便が悪いので余り知っている人は多くないが、拝観だけなら無料で出来るし❝元御寺❞の境内なので日本庭園の名残も有り落ち着いた時間を過ごす事が出来る。
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久良岐能舞台
まぁ、ここがどうやら尼寺の跡らしい事を昨日まで知らなかったんだけどね。
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元は御寺の境内地で池も有ったり裏手の元本堂跡と思われる削平地には水琴窟も有ったりするが、それが果たして御寺時代の遺物か能楽堂として再スタートしてからの再整備かは職員の人も存じ上げないそうだ。
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まぁこの灯籠は昭和後期の物なので現代の物だけど、良い雰囲気を演出する役目を大いに果たしてくれている。
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実は御寺がここだったらしい事を昨日、訪問して職員さんに色々と質問をしてから周辺の歴史の雑談をしていたら教えて貰えた。
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境内には可愛いヤマアジサイが咲いていた。
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綺麗だね~。小さな提灯みたい。
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能舞台の入口に人懐っこい茶虎の猫チャンがいて沢山モフらせてくれた。
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腹丸出し無警戒ありがとう(笑)
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ちなみにこの温かい飲み物は缶ジュース(笑)だが、中には茶室もあり茶会も開催される。
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緑に囲まれた外で御日様を浴びながら御弁当持参して食べる事も出来る。
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日本家屋の構造体の説明も少しづつ有ったり。
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敷地には人の暮らした名残りの井戸も残っていたりする。
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この入口から入り、もし利用者がいなければ職員さんに御願いすると中の能舞台を見学させて貰える。出来れば事前に電話すると良いと思う。
以前は彼女の家に遊びに来る時に外からだけ見た事も有るのだけど、中を見学させて貰った事が無かったので改めて訪問して見た。
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まぁ由来とか書いて有るけど元々は宮越賢治さんと言う資産家の個人が土地や建物を取得して横浜市に寄贈したんだな。
横浜市の豪商は原三渓サンといい皆文化的な上に公共の利益と福祉に寄与する崇高な志を持つ人が昔は多かった。ぽっと出の成金とは大違い。
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来訪者が少なく利用者もたまたまいなかったので特別に小生一人の為に見物に当たり解説をして頂けた。
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中から見る風景も又良いね。山深い御寺の雰囲気が有る。
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この能舞台は東京芸大が練習用に使用していた物を新調する際にここへ寄贈して下さったそうだ。
そして知らなかったのだが、どこも能舞台の絵は松が定番らしい。
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松は神や仏が降臨する場所と言う考えが有るそうで、その為に能舞台は全て舞の奉納の場所の意味も有り松の絵が描かれるそうだ。
因みにこの松の絵は有名な日本画家の❝平福百穂(ひらふくひゃくすい)❞氏の作画だそうで、いつ文化財指定を受けても可笑しくない価値が有るらしい。
そして結界として舞台の周りは白洲で境目が作られる。例え屋内でも。
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知らなかったな~。
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屋外を想定された物なのでちゃんと屋根が有り、屋根事家屋の中に移築されている。
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檜皮葺で由緒正しい神社と同じ屋根に成っている。
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そして聖なる場所なので必ず白足袋を着用しないと舞台に上がる事は許されないそうだ。
色々と聞いて見ないと知らない事が多い。
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欄間はシンプルな造りだけど、これはこれで良い。
で、資料も見せて下さった。
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能舞台、実は足音が響く構造が地下に有るそうだ。
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昔の人も音響効果を考えていたそうで、能舞台と言うのはどこも音の反響を良くする為に地下に甕(かめ)が埋められているそうで、久良岐能舞台も同じ構造体が有るそうだ。
これも知らなかった。
何でも詳しい人に話をしてみるもんだね、こんなに詳しく色入りと解説して頂けると思わなかった。
これだから教養や何かの経験に優れた人と話すのは楽しい♪
能舞台を見学した後は茶室も案内して頂けた。
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う~ん、茶室狭いけど小生は別に生活空間茶室位綺麗なら四畳半でも嫌じゃないかも・・・
無論、一軒家やマンションに住んでて他にキッチンや風呂が有り自分の部屋の割り当てならの話しね。
・・・そんで奥さんや彼女が10畳の部屋とかに住んでたら、それはそれで不満を感じるのかな(笑)?
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裏庭も散歩したけど、こちらの方がより御寺の跡らしい地形が解かった。
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一段高い削平地。
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谷戸に成っており典型的な寺院跡の地形。
恐らくは禅宗寺院で鎌倉時代末期~室町時代開基の寺院だったんじゃないだろうか?
寺の名前も知らないけど。谷戸地形に寺院を作りたがるのは鎌倉文化圏の武士と禅宗の臨済宗と曹洞宗に多い特徴。
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裏庭の梅の大樹が立派だった。
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ここまでちゃんと見て廻った事無かったからな。
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水琴窟もこの裏庭の削平地に在る。
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見学すればパンフレットも貰えて簡単な説明も有るので、もし❝ゆず観光❞して時間が余るなら上大岡駅から電車に乗って帰る人は徒歩で久良岐能舞台見学してから上大岡駅まで行くのも良いかも知れない。
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丁度、見終わった時間から20分後位が姪っ子の英語の終わる時間なので、姪と母を迎えに行った。
姪と母をピックアップしてから曽我梅林迄、東名高速道路を利用したが事故渋滞で2時間ちょいかかってしまった。
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でも現地についたら丁度見頃!
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紅梅も・・・

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枝垂れ梅も。
母が鍵を用水路に落として紛失すると言うハプニング以外は概ね楽しく見物出来た。
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姪っ子も幼いなりに楽しんでくれたようだ。
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ちっちゃな可愛いワンちゃんとも触れ合えたしね~。
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ここ曽我梅林は❝神奈川の景勝50選❞に選ばれた場所の一つでもある。
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曽我梅林
なので本来は晴天だととっても眺望が良く、広大な梅林の向こうに富士山が見える。
こんな感じ・・・
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昼の梅林と富士山・・・
曽我梅林 久良岐のよし撮影
夕刻の梅林と富士山。
上の2枚の写真は過去の写真。今年はタイミング悪く前日と当日朝まで雨天だったので水蒸気で富士山が見えなかった。
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でも、まぁ午後は晴天にも恵まれて人手も多く賑わっていた。この時点で14:30位に成っていたが事故渋滞と母の鍵用水路で流す事件が発生したせいで、まだ昼食をとっていなかったので屋台と売店の食べ物を購入して昼食にした。
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全部粉物・・・帰宅したら午前中のケーキと水分と粉物で2kg体重が増えていた。
昨年79kgの体脂肪率15%の筋肉量60kgのバキバキ腹筋割れまで身体作ったのに、帰宅したら体重が87.5kgで体脂肪率も25%に成ってしまっていた(笑)。
・・・また、shape-up&Pump₋up始めます。2ヶ月で10㎏痩せる。
とりあえず今月中に5kgは脂肪だけ体重落したい。今日からジムで体組成測定再開して身体改造習慣報告記事を又書きたいと思う。

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まぁハプニングも有ったが梅も見れたので、小田原牧場のアイスを買いに移動した。
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小田原牧場アイス工房
ここのアイスがとても美味しくて、特に梅酒のアイスが御薦め!
最近は有名に成り土日はアイスだけ目的の車が来てしまうせいで、この時期の観梅客用の駐車場に停めようとする阿呆が続発して観光の妨げに成っていたりもする。
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まぁ~何とも言えないけどアイスは美味しい。
そして、この小田原牧場アイス工房側の曽我梅林駐車場から見る景色が綺麗なんだな。
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本来ならここから富士山が良く見える。
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御土産に曽我の梅干しを購入した。
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昔ながらの酸っぱい梅干しで小生の好物。はちみつ漬けは日持ちしないので梅干し本来の役割を果たしていないし、梅干しの本来の調味料としての役割でも使う事が出来ない。だから小生はオーソドックスな酸っぱい梅干しが好き。
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姪は屋台の食事が口に合わなかったらしく余り食べなかったので帰路、中井PAに寄って姪っ子に好きな物を選ばせて、下の姪っ子に車中食べる物と義弟夫婦への御土産を購入した。
ここは新鮮な野菜の直販もやっているので良い。
姪が買った物の写真は撮り忘れたが、まぁ喜んでくれたので良かった。
しかしここから又帰路、事故渋滞に巻き込まれて姪を弟の自宅に送り届けるまで2時間半位かかってしまった。着いた時には名はグッタリしていた。
御疲れ様!午前中の勉強と午後の勉強頑張ったね。

又、叔父ちゃんと遊んでくれると嬉しい。
でもあと10年もすると彼氏出来て遊んでくれないだろうね~(笑)。

今回の休日雑記はここまで。
今晩、中田加賀守の開いた2つの御寺のどちらかの記事を書きます~。












さて、今回はタイトルと記事こそ分けて書きますが2つの御寺と殿様の歴史を2回セットの記事にして解説したいと思います。
1つは龍珠院、横浜市磯子区の御寺です。2つ目は伝心寺、横浜市金沢区の御寺です。
今回の記事では龍珠院と玉縄北条家についての歴史を解説します。
ゆず

皆さんは❝ゆず❞の地元の横浜市磯子区岡村町に戦国時代関東最強の武将が開いた御寺が在る事を御存知でしょうか?その御寺の名前は泉谷山 龍珠院と言います。
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泉谷山 龍珠院龍珠院を開いたのは北条綱成と言う武将です。この方を果たして皆さんは御存知でしょうか?
北条綱成
※画:KOEI信長の野望創造戦国立志伝より拝借
戦国時代末期の関東最強の武将として戦国時代の歴史好きや歴史シミュレーションゲーム好きには有名ですが、教科書に載る事は無いので歴史に興味の無い人は全く知らない小田原北条家の武将です。
北条綱成公は今のJR大船駅近くに在った玉縄城主で重要な合戦には必ず参戦していました。
三つ鱗紋
北条家三鱗紋
竹に雀紋
上杉家竹に二羽飛び雀紋
関東管領上杉家連合軍と北条家の抗争では不利な河越合戦で3千の兵を指揮して上杉連合軍8万を相手に半年間も河越城(現:川越市川越城址)の防衛戦に成功します。
そして義兄弟で主君でもある北条氏康公の援軍8千と合わせ1万1千で上杉連合軍を壊滅させ関東を制覇する契機を作り出した名将です。
北条氏康
※画:KOEI信長の野望大志より拝借
ゲームだと若い頃の渡哲也さん似に描かれている強面(こわもて)イケメンの北条氏康公、実はこの絵、肖像画に似ていない事も無いんです(笑)が、今回は氏康公の回では無いので肖像画解説は無し(笑)。
その他にも玉縄城主北条綱成公は武田家と同盟後の北条家で陣代(主将代理)として武田家救援軍を指揮して信濃へ遠征したり、武田家と北条家の対立後は玉縄衆家老の間宮康俊公や其の子の間宮康信公と共に武田家が浸食した今川領駿河国北部を瞬く間に奪還した名将でした。
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隅立て四ツ目結び紋間宮(近江源氏佐々木)家:隅立て四つ目結び紋
間宮家は鎌倉時代の名将として名高い佐々木高綱公の同族の子孫で、近江源氏佐々木家の氏神である沙沙貴神社宮司家の子孫から武士化して室町時代に初代鎌倉公方の足利基氏公の配下と成って伊豆に移住した一族です。
綱成公は河越城の合戦の後に、第二次国府台合戦でも軍師間宮康俊公を始めとした黄備え隊と共に参戦し、本隊が苦戦する中、迂回奇襲を仕掛けて北条軍を勝利に導く大活躍をしています。
更には深沢城の籠城戦では深沢城代として善戦し、敵の武田信玄を相手に圧倒的不利な戦力差にも関わらず武田勢を苦戦させる事に成功し後は北条家当主の北条氏政公の本隊援軍の到着を待って挟撃する寸前に戦況を持ち堪えさせた程でした。
が!深沢城防衛は結果的に失敗で、軍才と統率力が無い新当主の北条氏政公が率いる本隊の出発も行軍も鈍重で間に合わず、その上、武田家の金山で鉱石採取をする特殊部隊の工兵による水脈断ちを受けて堀の水や井戸水が不足し戦線維持が困難に成り撤退する羽目に成りました。
しかし、この北条綱成公の歴戦の戦績と武勇を当時高く評価していたのが敵だった❝武田信玄❞と❝上杉謙信❞でした。
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※画:諏訪原寛幸先生
武田信玄は深沢城を北条綱成公から引き渡された際に、北条綱成公の玉縄北条家と家老の間宮康俊公率いる❝北条五色備え❞の部隊の内、❝黄備え隊❞の軍旗である朽葉色(くちはいろ:濃黄色)に八幡大菩薩と書かれた❝地黄八幡❞の旗印が城に残されていたのを見つけました。その旗を手に取り、武田信玄が重用していた真田一族に対して「地黄八幡の武勇に肖(あやか)り真田の家宝とせよ」と旗を信州まで持ち帰らせたほどのリスペクト振りでした。余談ですがその旗は今でも長野県松代市の真田宝物館で大切に保管されていたりします。
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※画:諏訪原寛幸先生
そして、この深沢城の落城と北条綱成公の敗戦を誰よりも悔しがったのが❝上杉謙信❞でした(笑)。
実は上杉謙信は鎌倉市の玉縄城を12万の大軍で攻めた際に玉縄城を攻めあぐねて落とせず、仕方なく撤退して小田原城を目指さざるを得ない煮え湯を飲まされた経験が有る上に、度々、玉縄衆黄備え隊に苦戦させられた武将の一人でした。よっぽど悔しかったのか玉縄城の要塞が存在する藤沢の土地を朝廷に寄進すると言って見たり実効性の無い嫌がらせもしています(笑)。
まだ北条家と武田家が同盟していた時代に上杉謙信が信濃国の上田方面を攻めた際に武田家を救援したのも正に北条綱成公と黄備え隊だったんですね。
因(ちな)みに玉縄城で上杉謙信を迎撃して撤退させた上に、上杉連合軍が占領した現在の神奈川県東部を取り返した猛将は北条綱成公では無く、その子息の北条氏繁公でした。北条氏繁公も又、名将として高い実績を誇っているのですが何故かゲームでは戦闘力70代後半と過小評価されていたりします(笑)。
上杉謙信は度々、北条家最強部隊の玉縄衆黄備え隊と北条綱成公と北条氏繁公親子に局地戦で負けた経験が有るので、深沢城で武田信玄が北条綱成公を撤退させた事が大変悔しかった様で「地黄八幡が負けた・・・」とボヤいた事が現代に伝わっていたりします(笑)。
北条氏綱公
そんな北条綱成公の才覚を見抜いて養子にとり娘の婿に迎えたのが北条家二代目の北条氏綱公でした。
北条氏綱公は余り知らない人も多いかも知れません。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
氏綱公よりも、その父の北条早雲公や息子で三代目の北条氏康公が日本屈指の内政力と善政と勝負強さで有名ですが、実は北条家の中でも岡崎城、糟屋舘、大庭城、新井城等の関東有数の規模の堅城への攻城戦で実績を残したのは時代的には北条氏綱公の代の出来事だと解っています。つまり北条家の中で善政に長けているだけなく一番❝侵略❞に長けていた武将が北条氏綱公だったのですが、その方に見込まれて婿養子に成ったのが北条綱成公だった訳です。
さて、戦国時代の歴史を好きな人には北条綱成公が関わった神社や御寺として鶴岡八幡宮や菩提寺の鎌倉市植木の❝龍寶寺❞は有名です。
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陽谷山 龍寶寺
ブログ開始初期に書いた拙い解説記事→JR大船駅の殿様!黄備隊大将の北条綱成公と玉縄城。上杉謙信や武田信玄より強い。←クリックすると読めます♪
その龍寳寺と同じく玉縄北条家の支援の下で寺院として成立したのが横浜市磯子区岡村の龍珠院です。
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龍珠院には歴史を書いた石碑が御庭の真ん中に立てられています。
CIMG6739
しかし、この解説は少し間違っています。では歴史事実を文献から紐解いてみましょう。
新編武蔵風土記稿によれば以下の解説が有ります・・・
~前略~
(久良岐)郡内町屋村傳心寺末、泉谷山と号す、本尊十一面観音を安(置)す、本堂七間に五間、開山を養拙宗牧と號す、
~中略~
開基は北條氏にて、大永二年(1522年)造立すと云(言う)、北条氏繁が文書に據(拠:よっ)て考ふるに、其父上総介綱成が開基せしにや、
~以下省略~
さて、この新編武蔵風土記稿を編纂したのは北条綱成公や北条氏繁公の家老だった笹下城主間宮家の子孫で江戸幕府昌平坂学問所の頭取だった間宮士信と言う人物なのですが、この間宮さんの解説だと現在の御寺の石碑で「北条氏繁公の開基」とされている一文は実際には御寺の開基年代が大永二年(1522)なので不可能に成って来ます。
北条氏繁公の生年月日は天文五年(1536年)なので、氏繁公が生まれる14年前に龍珠院を開く事は不可能です(笑)。
更に父上の北条綱成公も永正十二年(1515年)生れと判明しており7歳で寺院を支援したとは考えにくいです。実は龍珠院の開かれた大永二年(1522年)の前年、大永元年(1521年)に旧今川家臣だった北条綱成公の実父が戦死して綱成公は北条家を頼り亡命し氏綱公に気に入られ養子にとられています。
では御寺を開いた人物が誰かと考えると当然ながら、その(義理の)父上と考えれば自然でしょう、つまり北条綱成公の養父北条氏綱公です。
北条氏繁公の開基ではないと言う意見では小生と江戸時代の学者の間宮士信サンも同意見だった様で、こんな古文書を態々(わざわざ)紹介しています・・・
龍珠院氏繁公文書 久良岐のよし
この北条氏繁公が龍珠院に対して発行した文書に注目して貰うと「老父」と言う言葉がしきりに登場し、それが北条綱成公と言う事が解ります。そして北条綱成公の代に既に「老父直々御寄附」つまり御寺に対して寺領と成る土地を寄進している事が解り、つまりコレを示して東京大学の前身である江戸時代の昌平坂学問所の頭取の間宮士信サンは龍珠院=北条綱成公が最初の支援者と解説している訳で、小生の意見とも異なりますが少なくとも北条氏繁公以前の北条家の人物である事は間違いなさそうです。
そして文書の内容は・・・まぁ、何と言うか玉縄北条家の与力の武将が武士として恥ずかしい行為をしていて、氏繁公が上司として御寺にゴメンね俺がちゃんと御寺の土地守る為に怒っておくからって内容なんですね(笑)。
その悪さしたのが「行肥」と書かれている武将で、これは苗字と官途名の略称で彼の渾名(あだな)みたいなもんでしょう。北条家臣には行肥と言う苗字の武将は存在しませんが行方(なめかた)と言う武将が小田原所領役帳に登場しています。

玉縄衆
一 行方与次郎
三百六拾壱貫弐拾四文江戸六郷大師河原共ニ
此内
三百貫文      自前々致来知行役辻

 六拾壱貫弐拾四文 自昔除役間可為其分 
 但出銭着致三百六拾壱貫弐拾四文可懸之
此外
六拾貫文 葛西 寺島

北条家研究家の盛本昌広先生が六浦文化研究所時代に書かれた❝戦国時代の久良岐郡❞と言うレポートに書かれた推測でも彼の正体は「玉縄衆の行方で、行肥の肥は官途名の肥前か肥後の略称だろう」と言う主旨の事を書いてらっしゃいます。それ以外には考えられないですからね。
さて、この小田原所領役帳の成立は永禄二年(1559年)ですが、龍珠院と行肥がモメたのは天正六年二月廿六日つまり1578年の出来事です。つまり、龍珠院と玉縄北条家与力の行方と思われる人物がモメた頃には龍珠院の辺りが行方家の領地に成っていた事、そしてそれ以前には北条綱成公の領地で一部が龍珠院に寄進されていた事が解ります。
では何で、こんな場所に直接北条綱成公が関わったのかと言うと、恐らくそれは蒔田吉良家が関係しています。
岡村町の直ぐ隣の蒔田には戦国時代に蒔田城が在(あ)り、別称:蒔田御所と呼ばれていました。
そこには吉良頼康と言う殿様が住んでおり、蒔田城下には今も吉良家の菩提寺の龍祥山勝國寺と言う御寺が存在しています。
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龍祥山 勝國寺以前書いた解説記事→三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区←クリックで読めます。
この御寺の背後に蒔田城址が有ったのですが、鎌倉公方代理の殿が住んだ歴史的価値の高い蒔田城も横浜市が保護しなかったので完全消滅してしまいました。そして何故ここが蒔田❝御所❞と呼ばれていたかと言うと、実は河越合戦で北条家が上杉連合軍に大勝した際に北条家を裏切って上杉家についた古河公方足利晴氏公は小田原市に抑留され、北条家の姫との間に子(足利義氏公)を授かっていましたが鎌倉公方としての役職には復帰させて貰えず、義氏公が成人するまで代わりに足利一族で身分の高い蒔田吉良頼康公が鎌倉公方代理を蒔田城で務めていたんですね。
ですから鎌倉将軍の代理である吉良頼康公に訪問する用事が当然ながら北条綱成公には有るので、宿舎が必要なので宿泊所としての機能も有る龍珠院が支援されたのでしょう。そして本格的に寺院化したのが北条氏繁公だったので、氏繁公の生年以前に既に存在した龍珠院ですが現代に北条氏繁公開基と誤って伝わっているのでしょう。
さて、龍珠院と玉縄北条家の殿様の関係が解った所で龍珠院の施設その物を見て見ましょう。
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入口には石標が有ります。
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素通りしそうですが、出来たら拝んで見て下さい!御利益に預かれるかも知れませんね。護国般若塔と書いて有るので国を守る為に精進する必要の有る職種の方々、例えば公務員全般や最先端の学問の研究をされている研究者や警備保障会社の人なんか御利益が有るかも知れません。
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反対側は金剛般若塔
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金剛力士の代りかな?それともダイヤモンドの様に硬い意思とか強さの象徴?
良く解らないけど、強さの象徴みたいなものでしょうか?
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山門代わりの扉は普段開いているので境内に入ると真ん中にコンモリした築山が在ります。

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ここには石碑が立っています。
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これが玉縄北条家部分のの解説に関しては少し間違えているけど龍珠院の歴史が書かれている物です。
その下には江戸時代の宝永噴火の事や関東大震災の記録等も彫られています。
・・・私達後生の人間が生きる教訓に出来る様に災害の記録を先人が残して下さったんですね。
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境内の庭から山門方向を見て見える丘が平子家の磯子城址の一部ですね…
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・・・こちらも横浜市が発掘調査も保護もしていないので完全に消滅しました。磯子区腰越の公園辺りまで御城だったと推測されています。
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鎌倉~室町の文化を色濃く残す立地の谷戸構えの地形ですが、現代ではその谷戸は墓地として活用されています。
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現代の御本堂は鉄筋コンクリート造りですが、歴史の名残を伝えるのが丸に三鱗紋ですね。
玉縄北条家から下賜されたのでしょう。
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庫裡はとても綺麗で、丁度御住職様も数年前に代替わりした様で、以前訪問した際とは別の若い御住職様に変わっておられました。とても気さくに話して下さる和尚様で安心しました。
御朱印も改めて禅宗寺院用の御朱印帳に頂いて参りました。
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さて皆さん、磯子区、それも❝ゆず❞の地元に上杉謙信や武田信玄を翻弄した最強の戦国武将が関わった御寺が在るとは思わなかったんじゃないでしょうか?

きっと皆さんの御近所にも今は小さかったり現代的な建物に成っていても、又は昔のままの雰囲気の神社仏閣も、実は凄い歴史偉人と関わりが有る場所が残っているはずです・・・
近所の山や公園も御城の跡かも知れませんし、何気ない池が古代から続く元は神社の聖地の池だった場所かも知れません。
・・・少し気分転換に御寺や神社や山を散歩して見ませんか?そして説明の石碑や看板を読めば、途端にその場所が歴史偉人と皆さんを繋ぐタイムカプセルの様な場所に成るんですよ~♪

さ、又、次は伝心寺の記事で御会いしましょう♪
では~!

この記事に続く→横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?









ブログネタ
日本の政治 に参加中!
今の日本の政治、ハニートラップやら政治能力と関係ない重箱の突つき合いやら…
真に以って下らない。
けど、昔はもっとエゲツなく、讒訴謀殺暗殺は当たり前に行われていました。
特に藤原一族は…
大伴氏・蘇我氏・橘氏・紀氏・和気氏・吉備氏・菅原氏・源氏・平氏の皇家忠臣のみならず!皇族や天皇すら姦計で陥れたり暗殺する事数えきれず。
…藤原一族がのさばらない今は平和ですね。

実は、小生、根拠が有って「源頼朝公は北条時政と義時父子に暗殺された説」を支持しています。
その話は又、今度。
今回は岡村天満宮に関係のある部分だけ話します。
実は岡村天満宮は、最初の頼朝公暗殺を阻止した人物が開基(かいき=開いた)したんですよ。

岡村天満宮は大凡(おおよそ)800年前に平子家の殿様に開基されました。
以前書いた「横浜市の自慢と嫌な事」を書いた記事とかぶりますが…
ここはゆずの地元の岡村町に在る天神様=菅原道真公を祀(まつ)る神社です。
神社は神聖な場所ですが、ここは、ゆずファンにとっても神聖な場所なんです。
上の壁画、以前、「横浜市の徽章(きしょう=マーク)がダサイ」と嘆(なげ)きの記事を書いた時に少し紹介しましたが…
ゆずが伊勢佐木町で、まだ路上ライブをしていた頃に歌っていた松坂屋の前に当時の様子を描いた壁画が展示されていたのですが、松坂屋が解体される際に、ゆずの地元の岡村天満宮に移設されたものです。
岡村天満宮の御近所には、ゆずファン御用達の岡中ジャージを売っているオリオンスポーツも有ります。

さて、岡村天満宮を開基した人物の話に戻ります。
鎌倉時代の岡村は、当然まだ横浜市も無く地名を「久良岐郡 屏風ヶ浦 岡」と言いました。
この岡村は鎌倉時代は平子家の領地でした。
平子家の居館跡は磯子小学校辺りで、背後の丘一帯に城が有ったと伝わっています。
昔は城の外郭(がいかく=端っこ)に神様や仏様を祀る神社仏閣を造りました。
ですから恐らく、岡村天満宮は磯子城の一番外側で、背後の守に堅い地形の丘は磯子城の一部だったと推測出来ます。
前回も使った航空写真で位置確認…
今は平子家の館跡地の磯子小学校の辺りは平地ですが…
実はその辺りは江戸時代は写真右手の本牧と久良岐(くらき)の丘が続いており間に川は有りませんでした。
…岡村天満宮と磯子小学校も同じ丘伝いに繋がっていたんです。

だから、正に城の外郭に置かれたのが岡村天満宮だったのだと思います。
そして、付近には源家与力の鎌倉武士の城址近くには必ず有る八幡宮も…
中区根岸の八幡様ですね。
現代の中区の地名八幡橋近くに在ります。
根岸の八幡様も岡村天満宮もほぼ区境に有るので、区を跨いでいますがどちらも磯子城跡の近くです。

中村川沿いですが、昔は平地ではなく中村川も有りませんでしたので、根岸の八幡宮も久良岐の丘の上に在りました。
つまり磯子区と中区の岡村町や滝頭町や中村町は巨大な久良岐の丘の上に在ったんです。

何で今は平地に成っているかと言うと…
江戸時代に岡村や滝頭や中村の丘の土を切り出し、海だった今の中区関内や吉野町や伊勢佐木町辺りを埋め立てたんですね。
だから今は平地に成っちゃったんです。
下の写真を見て下さい…
吉野町を上の頂点として、左右に大岡川と掘割川に挟まれて扇型の平地の中に横浜旧中心街の伊勢佐木町や関内が有るでしょう?
その扇型の川に挟まれた平地が昔の蒔田湾の跡の吉田新田(よしだしんでん)です。
3.11の大地震では、江戸時代の未熟な土木技術で埋め立てた土地の関内は、横浜市震度3時に震度5で揺れたそうですよ。

で、そんな訳で今は平地の岡村町、岡村天満宮は今でも丘の上に在りますが…
話を神社を開いた殿様に戻します。
現在、岡村天満宮は戦火により詳しい資料は無くなり、更に太平洋戦争後に米軍基地建設の為に敷地縮小されたりしました…
が‼︎
…平子有長公が開基したと判る伝承が神社に残ります。
「源頼朝公の部下が天神様を祀りたいと願い出て京都の北野天満宮から天神様を勧進(かんじん=神様の分霊を招く事)」した」
…と伝わっています。

もう、これで十分に誰が岡村天満宮を創建したか判(わか)ります。

平子有長公の事の前に、岡村天満宮そのものを先に紹介します。
※写真は現在の参道

この参道は昔の参道ではありません。
昔の参道は米軍に接収され基地に成り、後に岡村天満宮ではなく、何故か横浜市に返還された為に岡村公園に成っています。
航空写真で説明しましと…
写真には上下に3本の道が有ります。
この内、一番右側の道が旧参道の道です。ですから一番下に大鳥居も写っていますが、この道を真っ直ぐ行っても米軍基地跡の旧岡村天満宮社領に造られた岡村公園と復興岡村梅林しか有りません。
途中左折するか、真ん中か左側の道から岡村天満宮に辿(たど)りつけます。

現在の神社の参道の、この鳥居から階段を登ると…
岡村天満宮なのに杉山天満宮と書いた石碑が有ります…
実は、一時、源頼朝公が開いた杉山神社と合祀され名前も折衷(せっちゅう=両方合わせる)して杉山天満宮にされてました。
明治政府の失策「一村一社」の影響です。

階段を上がると素敵な天満宮天満宮した(笑)、本殿が見えます…
が!
先ずは左手を見ると…
可愛いらしい、お稲荷さんお稲荷さんした(笑)、白笹稲荷大明神様が鎮座しています。
こちらは商売繁盛に御利益有りと信仰を集めたそうですが、お稲荷さんは農業の神様です。
きっと、付近の農民に大切にされてきたんでしょうね…
今では付近に田畑は有りませんが、商売繁盛の御利益で、磯子や岡村、上大岡や蒔田の商人を見守ってくれてると思います。
…感謝。

お稲荷さんに挨拶をして先に進むと、次は天満宮の神様の天神様=菅原道真公が可愛がった牛車の牛さんが祀られています。
説明にも有りますが、菅原道真公は暗殺姦計が得意な藤原一族の藤原時平に暗殺されそうに成った時に、牛さんに助けられたんです。
どうやら、この牛さんは横浜の名工が掘った文化財らしいです。

道真公が腐れ藤原家の暗殺者に襲われた際、白牛が暗殺者を角で突き殺し道真公を守ったそうです。
頭の家紋は何じゃらほい?…不明。
牛さんは実際に知能が高い生き物で、芸を覚えたり道を覚えたり出来るらしいです。
因(ちな)みに、道真公は知恵の神様で、生前は優秀な政治家で文化人でも有りましたが、同じく智謀に長けた有名な戦国時代の名軍師の竹中半兵衛は、道真公と同じく馬ではなく牛さんに乗ってました。
もっとも、竹中半兵衛は直に乗牛(笑)?し、道真公は牛車に乗っていたんですが。

牛さんの頭を撫でたら本殿に着きます。
綺麗な本殿でしょう?

横は杉山神社ですかね〜?
境内はこんな感じ…

実は、この境内も米軍接収後の返還時に、岡村天満宮社領を横浜市が横領した被害から氏子さん達が買い戻し岡村天満宮に寄附したんです。
泣ける文化伝承の心意気。

駐車場側の入口も趣きがあります。
天満宮だし、元は広大な岡村梅林だっただけに、境内にはしっかり梅も咲いていました。
綺麗でしょ?
可愛いらしくも凛とした梅の花、良いなぁ♪

さて、ここからは文字だらけ…
何故、岡村天満宮の開基が平子有長公かと言う話しに戻ります。
1岡村に天満宮を立てる領地を持つ人物
2菅原道真公を祀る習慣が有る家柄
頼朝公の部下=頼朝公の時代の武将
4北野天満宮から分霊を持ち帰れる人物

以上の条件を全て満たす人は一人しかいませんからね〜!

先ず1つ目!
岡村の鎌倉時代の領主は平子さんです。
2つ目!
関東で菅原道真公を祀る習慣が有るのは坂東平氏の子孫達か関東管領宅間上杉家です。
平子家の本家は三浦家、三浦家の祖先は鎮守府将軍平良文公で正に坂東平氏の祖です。
※坂東平家と菅原家の関係は以前書いた永谷天満宮の記事「コレ」←クリック!を読んで下さい。
※写真は源頼朝公
3つ目!
頼朝公部下で1と2の条件を満たす人物。
平子家、もしくは平子家本家筋の三浦家の中で頼朝公の時代の御家人を務めたのは…
平子有長さん、三浦一門で一番出世した和田義盛さん、三浦本家の三浦義澄さんか子の三浦義村さんか孫の三浦泰村さんです。
4つ目!
1〜3の全ての条件を満たす人で…
京都に上洛した事が有り、北野天満宮から天神様の分霊を持ち帰れた人。

全てに当てはまるのが平子有長さんです!

つまり岡村天満宮を開基した頼朝公の部下と言う人物は平子有長公なんです。
では有長公はどんな人物だったかと言うと歌舞伎の演目にも成っている「曽我兄弟の敵討ち」に頼朝公の忠臣として登場する人物です。
フルネームは…
平朝臣(たいらのあそん)
右馬允(うめのじょう) 
平子(ひらこ) 弥平(やへい) 有長(ありなが)
…サンと言います。
長いので以下、平子有長 公と省略します。
平子家は坂東平氏三浦家の分家です。

一応、名前を解説します。
平朝臣の「平」が姓、「朝臣」は天皇の家臣と言う意味です。
右馬允は律令(りつりょう)制の「官職名」です。
寮(めりょう)と呼ばれた皇軍の軍馬の管理をする部署 の中間管理職で、上には左馬頭(さめのかみ)と右馬頭が居ました。
今風に言うと戦車部隊の隊
平子が「名字」で、嘗て磯子区の地名の由来の磯子は五十子(いらこ)とか「平子」と書きましたので、つまり平子郷の領主だから平子を名字にした訳です。
有長公の家系と曽我兄弟の事件を分かりやすく系図みたいにすると↓コンナ感じ。
有長が個人名です。

桓武天皇
    ↓(子)
葛原親王
    ↓(子)
高見王
    ↓(子)
平   高望 王  臣籍降下 正親司 上総介
    ↓(子)                                         ↓(子) 
平   良文 鎮守府将軍(弟⇄兄)平  良門
※ 鎌倉郡村岡城主              ※前鎮守府将軍
    ↓(子)                                  ↓(子)
平   忠光                             平   将門
    ↓(子)                               ※神田明神祭神
平   忠通
    ↓(子)
三浦為通⇄(兄弟)⇄鎌倉章名
    ↓(子)                        ⇅鎌倉氏へ養子?
三浦為長⇄(兄弟)⇄平子民部太夫景通
     ↓(子)                     ↓(子)
三浦次(継)長           鎌倉権五郎景政
 ※ 久良岐三郎         ※ 御霊神社祭神
磯子真照寺を開基     上杉謙信の先祖
     ↓(曾孫)
平子弥平有長 右馬允→(家臣)→源  頼朝
(源  頼朝の御家人)                     ⇅(婚姻)
     ↓                                       北条政子
(曽我兄弟狼藉を逮捕した)        ⇅(親子)
     ↓                                       北条時政
曾我祐成(兄⇄弟)曾我時致        ↓(支援)
(亡父の仇工藤祐経に仇討ちをしたい)
     ⇅                          ↓
(敵対) ※有名な曽我兄弟の敵討ち発生
     ⇅                          ↓
工藤祐経→曽我兄弟の父の土地を強奪
(源  頼朝の重臣)         
     ↓
工藤祐経は「曽我兄弟の敵討ち」で曽我兄弟に殺害された。当初、頼朝も義弟北条義時の血縁者である曽我兄弟を助命しようとするも、重臣である工藤家の要求により兄弟を処刑。
     ↑
曽我兄弟の弟曽我時致の烏帽子親(えぼしおや=後見人)である北条時政と、北条義時による血縁一族曽我兄弟の為の敵討ちが…
相模川の橋で起きたであろう源頼朝公暗殺や家潰しと、幕府乗っ取り開始の原因なのかな?
 
頼朝公暗殺節は又、いずれ詳しく書くとして…                      

上の曽我兄弟を巡る家系図で有長公が頼朝公の代に源氏に与力した平子家の殿様で事は何となく伝わりましたよね〜?

次は北野天満宮を勧進出来た訳ですが…
源頼朝公が伊勢平氏=平清盛の一族を成敗し天下を静謐(せいひつ)に還すと、京都に上洛しました。
その際、随行の警護役に平子有長公も居ました。
つまり、有長公は京都にいたので、北野天満宮に分霊を許されさいすれば、関東に天神様を勧進出来た訳です。
しかし、北野天満宮の格式は高いので、坂東平氏の平子家とは言え、一、地方武士の身分では、北野天満宮に分霊を請うのは無理なので恐らく源頼朝公を介して要請したはずです。
そして、その手段は恐らく、頼朝公が北野天満宮の分霊を勧進し、更にその分霊を岡村に勧進したはずです。
…実はこの小生の岡村天満宮成立の仮説を証明してくれる存在が、正に鎌倉の荏柄天満宮なんです。

荏柄天満宮は1104年の創建ですが、源頼朝公が鎌倉幕府を開いた後に、鎌倉の鬼門の方角の鎮守として社殿を新たに造営しているんです。
鎌倉幕府成立は、頼朝公と平子有長公の上洛の後の話しです。
そして、上洛後の荏柄天満宮の社殿造営は恐らく北野天満宮で何がしか改めて宗教的な御朱印を受けたか分霊を受けた可能性が高いと思います。
でないと、社殿再造営する意味が無いですからね。
そして荏柄天満宮の社殿再造営の件と同時に岡村天満宮の為の分霊も受けたと思います。
そうでもしないと、平子家の官位や立場で北野天満宮の分霊を請うのは難しいですから。

まぁ、そんなこんなで、岡村天満宮は北野天満宮の分霊だし、勧進した平子有長公も歴史に名を連ねた勇敢な武士ですよ〜♪
…と、言うお話しでした!

では、又、次のブログでお会いしましょう!

ブログネタ
旬なニュース速報 に参加中!
横浜市磯子区岡村町にある岡村梅林と言う梅林が、次の日曜日位まで見頃です。
※2015年3月8日現在

この梅林は元々は、岡村天満宮の社領でしたが太平洋戦争後に米軍に接収され米軍基地にされたので、一度消失しています。
それを米軍から市に返還された際に、横浜市は何故か岡村天満宮に土地を返還せず公園化してしまったので有志で梅林を一部復活させたそうです。
広さは大きめの体育館くらい。
元々岡村天満宮の社領だったので、岡村天満宮と併せて御散歩するのに丁度良いくらいの敷地面積です。
岡村天満宮も鎌倉幕府御家人の平子家の殿様が開いた800年間の歴史の有る神社です。
恐らく、岡村天満宮が開基されたのは平子家の中の平子有長(ありなが)公の代の話しでしょう。
「曽我兄弟の敵討ち」の物語で頼朝公の忠臣として登場します。
箱根や小田原や鎌倉では有名な歴史事件で、狼藉に及んだ曽我兄弟を捕縛すべく最初に太刀を合わせた勇敢な武将でした。

曽我梅林のある小田原市曽我の領主曽我家と坂東平家の子孫の平子家が「梅で繋がる不思議な縁」を現代に伝えるタイムカプセルが岡村天満宮です。
岡村天満宮は次回の記事で詳しく書こうと思います。

現在8分咲き位かな?
別嬪(べっぴん)さんな梅さんばかり!
綺麗ですよね〜!
綺麗と言うよりは可愛らしく凜としていると言う印象でしょうか?

岡村梅林、実は数本、継木(つぎき)されている幹も有りまして…
この幹は下がピンクの梅、上は白梅ですね。
職人さんが見学者を楽しませようと趣向をこらして下さったんですかね〜?
この株は下が白梅、上は紅梅ですね!

岡村梅林は子供にも親しんで貰えるように子供向けの看板も設置されています。
良い取り組みですよね?

実はこの岡村梅林や岡村天満宮のある岡村町の丘陵は、戦国武将の北条氏繁が開基した龍珠院と言う御寺もあります。
岡村梅林や岡村天満宮から歩いて行けます。
※北条氏繁公の玉縄城と黄備えに関する記事は→「ココ」←クリック!
龍珠院の寺紋は、やはり北条家の「三つ鱗紋」ですね。
敷地内に下の石碑が有りまして、その内容を読むと氏繁公が開基された事が解ります。
龍珠院は谷戸構えの様(よう)です。
下の写真を見ると解りますが、掘削して城壁の様に垂直にした崖地に守られています。
恐らく、氏繁公は別荘代わりに此方を開基されたのだと思います。

何故なら、御近所に血筋的に足利将軍家の一族で高い位の吉良家の殿様が住む蒔田城も在(あ)りますから。
※蒔田城に関しては以前別記事でも書きました。
年賀の挨拶等、蒔田城の側に宿泊所が必要ですからね。
※蒔田城の記事は「ココ」←クリック!

だからこそ、この梅林も存在するのでしょう。
岡村梅林の最高部からは吉良家の蒔田城の丘も見えます。
以前書きましたが、近隣の三殿台遺跡からは吉良家の蒔田城、平子家の磯子城、太田道灌公の太田城が見えたから三殿台と呼ばれるのだと推測しています。
太田道灌公も又、吉良家の吉良成高公を上役として蒔田城に挨拶に来る立場だったので、別荘として京急南太田駅近くに太田城を築いていたのでしょう。
無題
因みに位置関係はこんな感じ・・・
どの城も三殿台から一望出来ます。

この岡村梅林が出来た時期も氏繁公の活躍した時期であり、恐らく杉田梅林を植林した間宮信繁公が同じく氏繁公の政策でこちらにも岡村梅林を開いたと思います。
江戸時代には広大な杉田梅林として岡村梅林、笹下城址梅林、峰の梅林も江戸からの観光客が船や陸路から観光に来ていたのでしょう。
全て戦国時代には間宮家の守護した地域ですからね。
※間宮家の記事は「ココ」←クリック!

岡村梅林は同時期に出来ているらしいので地域産業としての梅の果実生産としての植林であると同時に、吉良家の殿様を招いての春の連歌会を開いたりする場所だったのかも知れませんね…

以下岡村梅林の行き方です。

岡村梅林には入口は二つ有ります。
一つは鎌倉街道側

もう一つは旧岡村天満宮敷地の横浜市立岡村公園側です。

岡村公園の運動施設には安い有料駐車場も有るので車が有るなら此方(こちら)側の入口が便利かと思います。
 
写真上、「⚫︎6丁目」と表示されている場所が「岡村梅林」です。
写真左下の「緑の屋根が岡村天満宮」の現在の場所です。
この現在の岡村天満宮〜岡村公園〜岡村梅林の全てを含めた敷地が、戦前は岡村天満宮の敷地でした。

最寄バス停は…
京急バスの「岡村梅林入口」か
神奈中バス市営バスの「横浜岡村郵便局前」です。

最寄駅は…
京急と市営地下鉄の「上大岡駅」
か「市営地下鉄の弘明寺駅」
…ですが、いずれも駅かは徒歩20分〜30分かかると思うのでバスか車を御勧めします

では、又、次の記事でお会いしましょう!
次こそ岡村天満宮を書きたいな…
でも田浦梅林も書かないと梅の季節が…

ハマっ子の聖地が横浜市磯子区岡村町に有ります…

「ゆず」ファンにとっての聖地
…なんですな(笑)。だって二人の地元ですから。
真面目な話をすると、これ昔、デビュー前の2人が路上ライブやってた伊勢佐木町の松坂屋に、当時の思い出を残す為に描かれていた壁画なんです。
伊勢佐木町の松坂屋が閉店した後、この壁画が移設され現在、在(あ)る場所が岡村天満宮と言う800年以上歴史の有る神社なんです。 
だから有る意味、日本文化的にも聖地なんです…
このスポーツ用品店も、ゆず のファンには大切な場所なんです。
ゆずファンがライブに着て行く二人の出身校「岡村中学のジャージ」通称「岡中ジャージ」を売ってるオリオンスポーツと言う店がここです。
岡村天満宮のすぐ近く。

今回は、その岡村天満宮と戦前迄(まで)は岡村天満宮の敷地だった岡村梅林北条氏繁公の開基した龍珠院を紹介しようと思っていたのですが…
その話題は次回以降にします。

…横浜市ネタ書くに当たり、なんかずっと横浜市の気に食わない事が一つだけ有るので、その話をせずに先に進めない!

…てな訳で横浜市で1番ダサいと思ってる事を話します。

ゆず岡村町出身者なのは、生粋のハマっ子の皆さんなら「横浜市歌」と同じ位御存知だと思います…
てか、「ゆず」と「横浜市歌」を知らない人は何ちゃってハマっ子だと、直ぐにバレるレベルの話しです(笑)。
因(ちな)みに横浜市歌と言うのは、ハマっ子が小学校〜中学校の合計9年間、学校で国歌や校歌よりも歌わされ「横浜国民として洗脳を受ける(笑)歌」です。
いや、これ半分本当ですよ!
横浜市中区生まれの小生、生粋のハマっ子が自虐で話す鉄板ネタであり…
偽ハマっ子を割り出すフィルターとしても活用してます(笑)。

我々、横浜市民他地域の人から「どこ出身?と聞かれても、まず…
神奈川ですとは答えません(笑)!
だいたいが「ん?ヨコハマだけど?」みたいに「ヨコハマ出身者イヤミじゃなくて自然に神奈川県内他地域と区別して答えてしまいます(笑)
それ位、横浜育ちの市民は郷土愛が強い訳ですが…
もっとも、歴史オタな小生は、ハマっ子としての「ヨコハマ」よりは、旧行政区域の久良岐郡・鎌倉郡・橘郡・都築郡と言った方が誇りに感じます。

そんなこんなですが、ハマっ子の小生も横浜市で大嫌いな物が唯一有ります…
コレ↓横浜市徽章 ダサ過ぎ!
「何これ、ダサくね?」とハマっ子自ら自虐するレベル(笑)。
カタカナの「ハマ」を菱形にくっ付けただけとか…
しかも!問題なのはヤクザ山口組の代紋に似過ぎてんだよな〜(怒)!

何これ?似過ぎじゃね?
てか、横浜市の徽章考えた奴は発想がヤクザと同レベルって事(怒)?
センス無さ過ぎだわ!

どうせなら、嘗(かつ)て横浜市南部を覆う様に広大な範囲で存在した杉田梅の梅林から、梅の花や天満宮の紋を徽章にすりゃ良かったのにね。
コレ↓とか


コレ↑とか…
梅の方がスタイリッシュで可愛いじゃないか!

なんでコレ↓なんだよ⁉︎
ヤクザと同レベルのセンスって無いでしょ?
…どうなのコレ?他地域の人から見てもダサいんじゃないの⁉︎

しかも!
「ゆず」と、ほぼ同じ町内の磯子区滝頭出身の「美空ひばり」さんは実弟が山口組だったりするから、横浜市にとって山口組がらみはイメージ的に似てるだけでシャレにもならん!
あ、因みに美空ひばりさんのお墓は、横浜市港南区の日野公園墓地に有りますよ〜♪
毎日ファンの方々がお掃除してます。

美空ひばりさん、ゆず の2人が、この岡村周辺出身のハマっ子と言う事は、久良岐郡の地元民的にはかなり自慢なんですが…

横浜市民で唯一嫌なのが徽章のデザインがダサいし問題なんじゃない?みたいな愚痴でした。


次の記事は、また純粋に食べ物と歴史史跡ネタに戻りますよ〜。

記事は「ゆず」と「岡村天満宮」、もしくは「岡村梅林」と戦国武将「北条氏繁公の開基した龍珠院」の紹介か、戦国期/江戸期の小田原城址と曽我梅林の話です。

たまには、こんな本当の駄文も許してね。
ハマっ子として、本っんっ当にぃ〜‼︎
この横浜市徽章は、とにかくイヤなんです‼︎

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