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前回の休日雑記→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先①・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、永谷天満宮、円海山、有鹿神社編、八菅神社編)
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
・・・日本武尊によって開かれた明治以前まで修験道が管理した日本神話の聖地の八菅山七所権現こと、現在の愛甲郡愛川町八菅山に在る八菅神社を参拝し正月2日目にして日の出を拝んで出発した所からの続き。

八菅神社から車で20~30分も走ると次の目的地に予定していた華厳山金剛寺に到着する。
市を跨いでいるけれども旧愛甲郡の郡内を移動している上に正月早朝の田舎道なので渋滞どころか余り車とスレ違う事も無く順調に到着した。
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冬に来てもパットしないが此処(ここ)は桜の名所として知る人ぞ知る場所で、近所にも温泉が有り桜の季節には背後の飯山観音と合わせて桜鑑賞を兼ねて散策に来る客が多い。
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華厳山金剛寺
春には同じ参道の景色も全く違って見える場所。
歴史は古く、弘法大師空海和尚様が修行の為に滞在した草庵が寺の起源に成っている。でも現代人は余りこの御寺が凄い事を知らないし、神奈川県民でも存在すら知らない人が多い。
早くから宗教的な集落として開かれたので、鎌倉時代には養蚕が盛んな土地に成っており有名だった。
そして、ここを鎌倉時代に支援した武士が有名な安達盛長公で、この武士は源頼朝公の秘書官兼ボディーガードの様な役割を担っていた人物だった。安達家は鎌倉市街で発生した宝治合戦では当時最強と言われた三浦武士団を圧倒する戦上手振りを発揮し北条家の執権体制を確固たる物にし、結果的に元寇で日本を守った北条時宗公を執権にせしめた日本人にとっても功臣と言える偉人一族だな。
無論、その鎌倉幕府樹立の一番の功労者である三浦家がいたので現在日本が有る事も忘れてはいけない。だから小生は源氏将軍家も執権北条家も三浦武士団も安達家も其々の偉人を尊敬している。
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現代では金剛寺は衰退し別寺院の御住職の兼務と成っており庫裡には管理人サンが御住いだが農村部で過疎化が進み山門の修復も行き届いていない。
厚木市の財産と言える御寺なんだけれどね。
この山門の横には御墓が在る。
普段は御墓や御廟所の写真は殿様を盗撮する様な行為だと思っており掲載しないのだけれど・・・
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・・・大変に重要な御寺の実情を知ってもらう為にも殿様に失礼して御力添え頂こうと思う。
安達盛長公の物と伝わり、3年前だったろうか檀家サンと御話しした際もやはり、その様に伝承している事を説明して下さった。
盛長公の戒名も現代に伝わっており“盛長院三空道無大居士”と記した御位牌も有るそうだ。
源頼朝公は神道と修験道と真言宗と法華宗を支援した方なので、安達盛長公も当初は真言宗寺院‟だった”ここを大切にしたのだろう。
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御寺の寺紋は足利家の❝二つ両引紋❞、鎌倉幕府滅亡後は恐らく室町幕府の鎌倉公方足利家によって支援されたのだろう、学問所としてそれだけの重要な寺院だったから、しかし・・・
もしかすると、安達盛長公の法名が❝道無❞と成っている事から、源頼朝公の亡き後は北条家と縁戚の安達家は臨済宗に改宗していたかも知れない。
❝道〇❞と言うのは鎌倉で興隆した臨済宗の信徒が用いる法名だからな、有名な大田道灌公や同時代の横浜の間宮家の間宮道圓公がその代表例だ。因みに二人とも戦国時代初期の関東の武将だな。
・・・実は戦国時代に突入する契機と成った上杉禅秀の乱で最後の鎌倉公方足利持氏公と犬懸上杉家上杉禅秀公が対立した合戦や、後に残忍な人物として有名に成る室町幕府クジ引き将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏公の対立した事から永享の乱が勃発すると、現在の神奈川県央部一帯から横浜市域まで広大な範囲が戦場に成ってしまった。
その後も扇谷上杉家と山内上杉家が直ぐ近くの七沢城や糟屋館で合戦を行って荒廃した時期が有った。
・・・そんな度重なる戦乱で荒れた後に戦国時代に北条早雲=伊勢盛時公と北条氏綱公の頃に愛甲郡一帯が小田原城主北条家の勢力下に組み込まれた際に北条家の支援を受けた様で、北条家の宗旨である曹洞宗寺院として再興開基された。もう、この頃には真言宗時代と同じ学問所としての機能は消失していただろう。
小生は伊勢原市の比々多神社にもここ数年間初詣を行っているので、八菅神社からの途中に在る金剛寺を素通り出来る筈も無く、弘法大師様と安達盛長公と釈迦牟尼仏様に御参りに来た訳だ。
山門の手前、参道左手には真言宗時代からの大切な御堂が神奈川県教育委員会が保護もせずに放置しておりボロボロに成っている。
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大師堂だ。
もう名前で解ると思うが、ここは弘法大師様が開いた草庵の場所で大同年間(806~809年)に現在の御堂が建てられ、弘法大師様が自らの容姿を写して木造を彫ったとか彫らせたとされる大師像が“散々な状況のまま”祀られている。
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今は御経をあげる仏僧も参拝者も来なくなったが、昔のままの御堂の中で弘法大師様が自ら手彫りされた御影彫像が周辺の人々を見守っている。
その左側には閻魔様=ヤマ(ヒンドゥー教の冥界の神様)と・・・
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右側には武将だか御公家さんだかの彫像。
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・・・前から思っていたのだが誰(笑)
この絶対に偉い人(笑)?家紋も見た事ない家紋で解らない。安達盛長公だったら御寺の由緒的にも自然なんだが眉毛が「麿(まろ)でおじゃる」とか言いそうな人なんだよな。でも公家にしては威厳が有る。

時代劇の“柳生一族の陰謀”に登場する烏丸少将みたいな人なら貴族でも納得なんだが(笑)。
日本に仏教文化の礎の一端を齎した歴史偉人であり日本神話を大切にする空海和尚と非常に関連深い御堂と大師像をこの様な環境に放置するのは正直、如何な物かと思う。これは曹洞宗云々と言うよりも県の教育委員会の保護意識が低く県の文化財指定を受けれない事や明治時代と第二次世界大戦敗戦後の宗教弾圧が関係していると思う。
昔の人は歴史を知っていたので神話の祭祀場後も自然信仰の聖地も神様も仏様も全部古代からずっと江戸時代が終わるまで大切にされたが、明治時代にプロテスタントと密接なキリスト教徒の政府高官達が教育改革と宗教改革を担当したせいでプロテスタントが自然崇拝と偶像崇拝を否定するのと同じように、明治に成り成立した国家神道では古来の神道の自然崇拝と仏教哲学は否定された上に神社の御神像は廃棄され、歴代多くの天皇が支援した自然崇拝の修験道は禁教にされ神社では御神鏡を御神体とする事が義務化された上に、仏教施設祀る神様も強制的に分離させられた。
この時に多くの文化財が日本から失われた。
そして社領寺領と言う収入減を取り上げられ衰退した場所が多い。
丸で戦国時代のバテレンの宣教師が豊後国で大友宗麟にやらせた寺社破壊を彷彿とさせる大惨事が明治時代に起こっていた訳だ。
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例えば金剛寺近くの龍藏神社だが・・・
この金剛寺も同じく寺領を取り上げられた上に塔頭寺院は神社に鞍替えしたりした。その一つが龍藏神社で昔の金剛寺の山門はこの附近だったそうだ。塔頭だったのに神社化したので御堂として仏様を安置出来なく成り寺宝の“仏像”を当時の宮司に成った人間が持ち去って自宅で私物化したり、もう悲惨な事に成った。
更に敗戦後の宗教政策で県がハチャメチャな地元民の勝手な土地登記を認めて御寺の境内地が勝手に切り取られ乗っ取られ縮小した。
これは日本全国の神社仏閣で起きた大惨事だったんだな。特に神社は社領が乗っ取られたり武士階級がいなくなった事で小さな神社は支援者を失った上に、一村一社と言う庶民の信仰を集めた町中の神社を破壊する政策が成立され、それまでの各村の中の各地域で姓を同じくする一族の固まっている場所の氏神様の祠なんかが破壊対象にされて名目的には“合祀”や“習合”と言う言葉で誤魔化されて丸でキリスト教会の様に村の比較的大きな神社に集約され庶民が集まる形の信仰に模様替えされてしまい、逆に日本人と神様の距離が遠くなってしまった。そして御寺も悲惨な事に成った訳だ。
金剛寺の境内は現代でも町中の並の普通の寺院よりは比較的広い規模だが、元の広大な関東有数の仏僧の学問所として機能した頃の金剛寺からは考えられない程狭い境内地に成ってしまった。
実に開発利権の政治家と土建屋に都合の良い状態だな。そう言う目的も有っただろう。
京都市内の神社仏閣も大分と、この宗教改革で被害に遭っている。
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例えば京都の御土産購入スポットとして有名な錦市場近くの西京極商店街にある錦天満宮だが…
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境内地を乗っ取られたり接収されたりして石鳥居がビルに食い込む惨状。
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・・・錦天満宮の直ぐ近所の華嶽山東北寺誠心院も和泉式部と多くの人がその名を知る平安時代の才女で女官の歴史偉人の菩提寺なのだが錦天満宮と同じ悲惨な有様。全く明治時代のキリスト教派政治家の罪は重い。
そして多くの神社が戦後に、この金剛寺や錦天満宮と同じく有象無象の輩に土地登記を勝手にされ社領を乗っ取られたり、市に接収されたりした。
神奈川県には江戸時代まで誇張抜きで日本有数の聖地だった場所が有る・・・
愛甲郡愛川町“八菅山”と、伊勢原市‟大山”だ。こちらも神仏習合だったので弾圧の対象となり歴代天皇や将軍たちから支援され数十の社殿や御堂で満ちた山は荒廃してしまった。
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・・・そんな歴史を辿れる場所が、この金剛寺の大師堂な訳だ。
真言宗だった当時の名残で御堂を取り巻く様に石仏群が鎮座しているが、やはり粗末な扱いを受けている。本当、神奈川県か厚木市は白山温泉の金剛寺大師堂と御堂の仏像を調査して文化財指定出来ないか検討して欲しい。
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弘法大師様と安達盛長公に丸2年ぶりの御参りをしてから、御本堂に向かった。
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足利家の家紋だな。
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まぁ、散々プロテスタントと英米批判したのでフォローしておくと、英国が戦艦三笠を売ってくれたり東郷平八郎元帥の留学を受け入れて下さったので日本は明治時代にロシア帝国の植民地にされずに済んでいる。
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英国は日中開戦前夜も日米開戦前夜も仲裁に奔走していてくれた事実も有る。
それにアメリカの軍人サンは、日本軍人を非常に高く評価していて下さった。だから戦艦三笠の存続もニミッツ元帥達が中心と成って保護活動が広まり欧米社会の支援を受ける事も出来たんだな。
当然ながら敗戦からの復興にODAを注入してくれたのも欧米だ。
生麦事件を契機に江戸幕府に難癖付けて脅迫し慰謝料を脅し取ろうとしたのも英国だが、日本の近代化を支援してくれたのも英国、日本人を結果的に一番評価してくれた白人国家も英国だったんだな。
そして宗教改革に失敗した明治政府だって、経済改革と近代化を見事成功させ、階級差別を撤廃し法治主義を浸透させ見事に日本をアジアを代表する押しも押されぬ先進国に変貌させた訳だ。
・・・物事には万事一長一短有ると言う事だな。
御本堂でも釈迦牟尼仏様に御参りしてから次に七沢城址を目指すべくカーナビで目的地設定し出発した、とここで問題発生・・・
2018年01月02日 訪問先順路一覧 久良岐のよし
小生が実際に当日廻ったルートに七沢城は入ってない。実は小生の自動車企業純正カーナビが実にフザケタ無能な物で、iPod繋げればバグるわ~、首都高乗れば変な出口で降ろそうとするわ~で実に仕えない。そして又、やらかしてくれた。
・・・遠回りして目的地を行き過ぎる誘導しやがった(笑)!
金剛寺から丹沢方面経由で行けば直ぐに行けるのにカーナビの通りに走ったら、何故か遠回しされ伊勢原まで来てしまった。
七沢城周辺位置関係
小生は織田信長公や徳川家康公や北条早雲公等の歴史偉人を崇敬しており毎日神様仏様と等しく拝んでいる。その中には横浜や神奈川県と関係の深い無敗の名軍師で築城家で高い教養の持ち主として有名だった太田道灌公も含まれるのだが、本来向かおうと思っていた七沢城址は太田道灌公を殺害した主君の扇谷上杉家の持ち城で城主も当主の扇谷上杉定正公の実弟の上杉朝昌公だった。
そこで思った・・・
「あ~太田道灌公や神様仏様が“ソッチ行くな”と言ってるのかも知れない(笑)」と、道を逆戻りするのが面倒なので勝手な解釈をして(笑)、反対に予定に組み込まれている伊勢原市三之宮比々多神社と途中に在る太田道灌公の菩提寺の洞昌院に正月の参拝に行く事にした。
洞昌院の正式名称は蟠龍山(ばんりゅうさん)洞昌院(どうしょういん)公所寺(ぐぞじ)と言う。
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蟠龍山洞昌院公所寺
ここは正に太田道灌公が生前に相模守護代として主君に代わって政務を行っていた御寺なので公所寺と言うのだろう。
・・・そして大城塞の糟屋館で主君に面会してから帰路、城の虎口で襲撃され、深手を負ったまま逃げて来てがたまたま御寺の山門が閉まっていて力尽きて息絶えた現場。御寺の境内では無く小生が写真を撮影している場所が太田道灌公が絶命した、その場所なんだな。小生の尊敬する先人の1人が絶命した現場。
詳しい事は御住職から御教授頂いた寺伝や現地の地名を含めて以前書いた解説記事が有るので、其方(そちら)を読んで頂ければ解り易く、江戸時代に現地訪問も取材もせずに適当に書かれ通説の解釈が誤りで有る事もスパッと御理解頂けると思う。
コレ→【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
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さて、現在の山門代りの石柱の横には立派な枝垂桜が有り、近くの上粕屋神社の桜並木や糟屋館と合わせて春には良い歴史散策の散歩コースと成るが、現在、太田道灌公を暗殺した主君の扇谷上杉家の居城だった糟屋館の巨大な城砦の舌状台地は神奈川県の黒岩知事による破壊の真っただ中に晒されている。
新東名に接続するバイパス工事で壁面の帯曲輪群や土塁が城跡認定されないまま既に掘削開始されているんだな。
昨年、発掘調査結果が出たが発掘調査した学芸員サン達の中には意図的にか城郭の専門家はおらず、調査報告の内容も既に農地改良された削平地の“道の跡しか無い”と言う事に成ってしまった。
実際に城好きが歩けば一目瞭然、彼等素人が❝自然地形❞と勘違いした大空堀は明らかに裾切りされているし壁面は帯曲輪や武者走りが沢山残っていて更には一部土塁も有るのに、故意にか解らないが調査対象から外されていた。伊勢原市サンの方では県の事業なので横槍も出せない状況なんだな。
・・・だから、カーナビに任せて遠回りしてコチラに来させられたのは「正月の間に城址の残存地形探して写真撮っとけ!」って太田道灌公に言われた様なもんなのかな?とか思ったりした。
・・・まぁ、車の純正ナビがクソ性能なだけだけど(笑)。有る意味丁度良かったのかも知れない。
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太田道灌公をリスペクトしていたライバルの北条早雲公が伊勢原市や厚木市一帯を支配地域に組み込むと、太田道灌公の親友だった万里集九と言う禅僧文化人を招待して太田道灌公の菩提を弔った。
北条家は曹洞宗に帰依していたので当然、こちらも復興される際は厚木白山温泉の金剛寺と同じく曹洞宗寺院に成った様だ。御住職の御話しでは建長寺で学問を治めた太田道灌公の御存命時は太田家所縁の寺らしく臨済宗だったそうだ。そもそも“道灌”の“道”は臨済宗に多い入道号だからな。
御住職様と面識が出来て以来、太田道灌公の文書で解った事の報告に来たりローカルな情報を色々と御教示頂いたりしているんだな。だから御正月に太田道灌公の御霊と御住職に挨拶差し上げに来れたのは有る意味幸運だったのかも知れない・・・ぽんこつカーナビの御陰(笑)?
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御本堂には太田家の太田桔梗紋。
庫裡に行く前に本堂で金剛寺に続いて釈迦牟尼仏様に改めて御参りしていたら御住職様がヒョコっと横から出て来られたので、はからずも立ち話しをする事に成り、そのまま新年の御挨拶をしたのだが・・・「太田道灌公の論文を週刊プレイボーイが掲載し写真使用許可の挨拶に来て読んだけど面白かったよ」
・・・と、まさかのグラビアとゴシップ中心の雑誌(笑)で真面目な太田道灌公がらみの記事が掲載された事を知らされた。全く縁の無い方面の雑誌なので意外だったが、やはり実際に色んな人に有って話をして回らないと自分だけで取捨選択する情報と言うのは偏りがちになるので幅が広がらないな。
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暫く話し込んで、再度新年の挨拶をしてから道灌公の御位牌が安置されている霊廟(歴住の御廟も兼ねる)への参詣許可を御住職に頂いた上で御堂の扉を開いて先ずは御位牌に新年の挨拶をした。
中には❝洞昌院殿心圓道灌大居士不退位❞と書かれた位牌が安置されている・・・
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つまり太田道灌公の戒名であり、普通見慣れないであろう❝不退位❞号は菩薩様の入口段階の位階を表す。太田道灌公は幼少期より鎌倉の巨福山建長興国禅寺=建長寺で学問学び精神を修練された“禅僧”でもあったんだな。
アホのWikipediaでは伊勢原の大慈寺が道灌公の首塚と伝わる事から大慈寺殿心圓道灌大居士と戒名を書いてしまっているが、近年の研究で大慈寺の道灌さんは江戸時代の別人じゃないのと疑義がかかっている(笑)。江戸時代にいた下糟屋の高部屋神社界隈を開拓した道灌さんと混同している可能性が高いんだな。
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写真は鎌倉市の英勝寺、徳川家康公の愛妾で太田道灌公の御子孫に当たる於梶(おかじ)の方が尼住職を務めた御寺だったが、この境内は室町時代の太田家の屋敷跡だったりする。
・・・そして決定的な事実として、道灌公の首塚は鎌倉市の太田道灌公の屋敷地である英勝寺に守られていて、昔から道灌公の鎌倉邸の直ぐ裏の源氏山に御首(みしるし)は埋葬されていると、鎌倉市と英勝寺と徳川幕府は認識していた。まぁ、そこ等辺は置いておいても大慈寺の件は地元民の太田道灌公リスペクトが生んだ伝承なので悪意も無いし、間違えられている人も有る意味光栄だろう。
・・・歴史学者の中は宗教に対する信仰心も先人へのリスペクトも無い人が可成りの割合でいて、御子孫や御霊を守る社寺の宮司様や和尚様や氏子サン檀家サンに向かって其処(そこ)に関わる歴史人の名を呼び捨てにする不届き者が沢山いる。それが小生は気に食わないので昔、とある歴史学者と喧嘩した事も有る。自分だけでも偉人の俗名を呼ばせて頂く際は“公”を付け様と心がけているし、世間に先人の正しい戒名も伝えたいと思っている。戒名には色んな意味が含まれているし、徳川幕府役人の中には教養が無い奴も仕事が出来ない奴も当然いて社寺領安堵の御朱印で寺社の名前を間違って発給したり法名の抜粋すべき所が解らず見当違いな部分を戒名から抜き取っていたり、有ろう事か戒名=入道号だと思っている奴までいて誤った記録が幕府編纂の諸家系図にも記載されてしまっていたりするんだな。
太田道灌公と歴住の御位牌を拝んでから御廟を離れ、境内に有る太田道灌公胴塚に向う途中で境内社の吉祥弁才天様に参拝。
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弁天様に昨年一年御加護御守護頂いた御礼を申し上げ新年の祈願を御伝えした。
弁天様と言えば江ノ島の八臂弁財天様と天皇家勅願所の岩屋だが、これを管理した別当岩本坊は代々、横浜の殿様の間宮家の同族の岩本坊間宮家が別当職を務めたので、横浜市民の小生にとっては弁天様は何よりも代えがたい勝利と開運の女神様なんだな。
吉祥弁才天様の奥に太田道灌公の胴塚が存在している・・・
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太田道灌公とライバルであり道灌公をリスペクトしていた北条早雲公と、道灌公の親友だった万里集九禅師が御一緒に道灌公の御首の無い胴体を改葬され御廟所とされた場所。
ここは小生にとっては思金神や莵道稚郎子命や天満大自在天神菅原道真公に次ぐ知恵を授けて頂く仏様であり高い教養と無敗の軍師としての道灌公に文化と勝負の御利益を授かる為の場所でもあり、何より尊敬する道灌公に御挨拶と報告と御礼をする場所なんだな。
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御廟所の枯れた大木は北条早雲公と万里集九禅師が二人で道灌公の供養に植えた松の枯れ木だ。
500年の時を超えて今も幹が大切にされており、ここでは太田道灌公、北条早雲公、万里集九公と時間を超えて空気を共にする事が出来るんだな。
今年は正月から御参りで来た御礼と、再び新年の心願を伝えた。
扇谷上杉家糟屋館周辺地形 久良岐のよし
この公所寺から太田道灌公が主君の扇谷上杉定正公に襲撃された糟屋館の湯殿入りの虎口は近い。
付近には道灌公の7人の配下武将が敵勢を食い止めようとして落命した場所の七人塚や、延喜式には掲載無いが延喜年間以前から存在した式外社の山王権現、現在の上粕屋神社も在る。
せっかくカーナビの御蔭で(笑)七沢城に行かなかったので糟屋館城址周辺で規制のかかってない無い地域を歩いて廻る事にした・・・

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先③に続く。





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神奈川県横浜市金沢区が日本屈指いやいや天橋立以上の世界レベルの景勝地として平安時代末期~江戸時代の間、各時代の日本の文化人や歴史偉人達から愛されていたのを御存知の方は今では余り多くはありません。
かろうじて京浜急行電鉄の金沢八景駅の駅名が、その景勝地の内で特に優れた場所が八ヵ所有った事を今に伝えています。
実はこの金沢八景を開拓し景勝地として世に知らしめたのが鎌倉幕府を開いた源頼朝公と真言宗の超有名な高僧の文覚和尚様で、その景勝地としての価値を文化的に高めたのが鎌倉幕府重鎮の金沢北条実時公、そして観光地としての価値を向上させたのが金沢北条貞顕(さだあき)公や兼好法師の名で知られる吉田兼好でした。
その金沢区の景勝地は江戸時代に成っても有名で、江戸時代初期には満州族の清帝国初代皇帝ヌルハチによって明帝国が滅亡した際に日本に亡命して来た東皐心越(とうこうしんえつ)和尚様によって絶賛され、その称賛の句中で"金沢八景"の地名が名付けられました。
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そして、江戸時代も中頃に成り浮世絵が流行すると歌川広重によって金沢の八景、8つの景勝地が絵に描かれ江戸市民に大流行し、当時の人々が目指した場所が“能見堂”と言う建物でした。
能見堂からは金沢の8ヶ所の景勝が一望出来たそうです。
今では明治時代の廃仏毀釈と言う宗教差別政策と仏教弾圧によって能見堂は荒廃し潰されてしまいましたが、今でもその旧跡は残っています。
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その付近から見る地形は、昭和の戦後に無文化な極左閥の人間が横浜市や神奈川県の教育委員会や土地開発部門に多く入り込んでしまったせいで埋め立て地利権で海は埋め立てられて、関東を代表する景勝地だった金沢八景の眺望は失われてしまいましたが、今でも江戸時代の人々が金沢八景を一望する為に訪れた能見堂緑地からは昔、島だった山々を見渡す事が出来ます。
金沢地形図 久良岐のよし
昔の金沢区はこんな島と半島の素敵な観光地だったんですね。
頼朝公以来約800年も歴代の統治者が守って来た日本屈指の観光産業の資源である景勝の海を埋め立てた戦後の横浜市長って・・・
本当に戦後の横浜市教育委員会や、左派と在日ヤクザ勢力に推薦されて当選した部類の市長は無文化だったんですね。今の市長もアレな人が最大支援者で、その勢力が熱望するカジノを埋め立て地に作ろうとしていますが、日本文化の価値観では死罪に匹敵するのが博打(バクチ)でしたが、本当、ヤクザと関わりの有る勢力の支援受けた市長は神仏の祟りに遭って反省して欲しい。
さて・・・
話は脱線しましたが、能見堂に話を戻します。
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現在では埋め立て地の住宅街に辛うじて取り残された緑地帯の中に能見堂が有りますが、隣接地域の能見台の地名はこの能見堂が存在した事に由来します。CIMG4702
・・・う~ん、この林道から見える平地が全部海だったらどれ程綺麗だった事か。本当に戦後の横浜市外の都市から職員に採用されて役人に成った無文化な連中は大罪を犯したな。
さて、能見堂を訪問する目印としては阿王ヶ台自治会館や能見台南小学校の辺りを起点にすると解り易いかと思います。
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そこから東に尾根に沿って進むと能見堂緑地の林道入口が数本有りますので、現地の人に道を尋ねてみて下さい。
尾根道を進むと下の写真の掘削されて造成された人口削平地形にぶつかります。
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これ、能見台の地名の由来に成った能見堂の跡地なのですが、今回の記事は能見堂を紹介する【前編】記事なので余り触れませんが、ここは現地を歩かずに本を編集した城郭学者も知らない青ヶ台城の残存する曲輪址だと小生は推定しています。
曹洞宗の寺として江戸時代も利用されたのが能見堂なのですが、そもそも地域一体が昔は“青野台”と呼ばれていて現代の間違った地名の“能見台”でもなければ“阿王ヶ台”でもないし、城郭の学者さんが書いた青ヶ台と言う地名でもありませんでした。
ちゃんと江戸時代の地理学者で東大の前身の昌平坂学問所の頭取だった間宮士信公が編纂した“新編武蔵風土記稿”には“青野台”と書かれています。そして旧住所の小名で“赤坂”と呼ばれた谷間の急坂を挟んで西青野、東青野と二つの台地が向き合い、その東西の青野台の連結部分が有った事も書かれています。
では、何で現代に能見堂や能見台は青野から能見と地名が変化したのでしょうか?そして阿王ヶ台自治会館の台地だけに青野台の地名の名残が残ったのでしょうか?
まぁ、ここら辺は【後編】青ヶ台城もとい青野城の記事で説明します。
今回はあくまで能見堂の解説。
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まぁ、能見堂の方の名前の由来は多分中国語に由来します。
元々青野台と呼ばれたこの土地の更に由来で有った能見堂の丘を海から仰ぎ見て呼ばれていた仰台(あおうのだい)の意味の地名を、寧ろ金沢八景を一望できると言う意味で能見台(能Neng見Jian堂Tang)=能(~する事が出来る)見(見る/会う)御堂と命名したのだろうと推察出来ます。
つまり(金沢の八ヵ所の景勝地を)一望出来たので能見堂と名付けたんでしょうね。
では能見堂の命名者ですが・・・
中国の仏僧は寺院の御堂に“堂”の字を使う事は有りません。一般的に広い御堂には“殿”を、神仏習合の場所や高僧や偉人を祀る場所には“廟”を、僧侶の居住区や塔頭には“坊”の字用いるので、“能見堂の命名者のセンス”からして中国から来た江戸時代の東皐心越和尚様でも無いでしょうし、それ以前に金沢北条家と同時代に近くの北鎌倉の建長寺にいた南宋からの亡命者の蘭渓道隆和尚様でも無いみたいです。
仮に御二人が命名するなら中国ネイティブのセンスから望景坊とか閲島坊と閲海坊とか名付けたかも知れませんね。
・・・恐らく、梅花無尽蔵に濃見堂として地名が登場するらしいので、漢文に造詣の深い万里集九と言う太田道灌公や北条早雲公と交流の深かった日本人の禅僧文化人によって日本風漢文で名付けられたんでしょう。この人物は室町時代の高文化な武士達と交流が深く東京都八王子市の高月城や神奈川県伊勢原市等の景勝地を観光して回った記録が有り、特に太田道灌公や鎌倉公方代理を務めた蒔田吉良成高公と親友だったので東京や横浜に所縁の深い人物でした。
そして後世、東青野の丘に能見堂址が有る事の方が有名に成り、現代人によって東青野台の地名が消され能見台とされたと言う訳だな。
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能見堂の近くには、昔の眺望を伝える説明の看板も設置されています。
・・・埋め立てた罪滅ぼしのつもりか?
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アンタ等教育委員会の仕事は破壊を止める事と市長に具申する事だろうが?ある意味三権分立の司法に近い存在で文化財と史跡と自然の景勝地を守るマインドが無いといけない筈なんだがな?
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能見堂の入口の手前には御覧の通り城時代の土塁が残っています。
ここを5m東に進むと、御寺時代の入口の階段が在ります。
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この細い階段を上って下さい。
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平安末期以来の景勝地を守る為に先人が建てた金沢八景根源地能見堂のこの石碑も、戦後の横浜市教育委員会と建設利権アホ左派市長のせいで無駄に成ってしまいましたね。つい最近の無力化。
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他にも先人達が各時代に、この景勝地を守る為に残した石碑が虚(むな)しく現存しています。
この先人達の努力も全て円海山の蛍の広域生息地の瀬上沢を開発利権の為に開発させようと保護を怠ってる林文子市長の様な以前の左派役人の埋め立て事業で無駄に成ってしまった訳です。
同様に最初の景勝破壊をした江戸時代末期の永島泥亀の罪も重いと思いますよ。
本当、戦後の横浜市のアホどもが移民だらけでは無くて金沢八景の景勝が残されていたら、今頃は東京から電車で30分の超絶景勝地として外国人観光客で賑わい、内陸部の六浦や金沢区の町屋や柴辺りや磯子区や港南区や栄区はリゾートホテルが残り栄えたでしょうね。
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まぁ、歴史にifは無い。今残るのは教育委員会の罪滅ぼしの説明看板のみ。
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こんな物でも埋め立てられた後しか知らない我々現代人の現役世代や学生にとっては貴重な情報源。
人間関係に例えるなら腐れ縁みたいな物だろうか。無くては困るけど、意味の無い物。
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この権現堂は多分、青ヶ台城の曲輪の一つだったので取り巻く様に土塁が残っている。
ここが城でなければ兼好法師は上行寺の境内地ではなくて、きっとここに住んでいただろう。
城で金沢北条家の晩年の軍事拠点だったので景勝地好きの兼好法師もここには来られなかった筈だ。
そしして江戸時代に能見堂を寺として支援した六浦藩の大名の米倉家は詰めの城として使う目的で青ヶ台城の土塁を権現堂周辺だけ残して寺院として機能保存したのだろう。
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城だったから飲み水の確保出来る井戸も有ったのだろう。
さて、今回は能見堂としての旧名青野台地区を紹介した。
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この通り本当に仰ぎ見る台地の尾根に能見堂の在って、その周辺が“東青野”と呼ばれた丘だった訳だ。
この界隈は地盤(断層)の動きで海没したり隆起する境目のはずなので、応長の大津波で近所の長浜千軒の港町が一夜で地盤沈下し海没した時の様に、昭和の埋め立て地もいつの時代か地盤が大地震で陥没して海に戻るかも知れない。
そう考えると・・・
失われた景勝が復活せず、多くの人が安寧に過ごせる様に金沢北条貞顕公や東皐心越和尚様の御霊に力を借りて神仏の御加護で次の関東大震災が来ても日本文化を愛する善良な部類の金沢区民の生命と財産を守って頂きたいと願うばかりだ。

後編へ続く→【後半:青ヶ台城編】世界屈指の景勝地だった能見堂と鎌倉幕府重鎮金澤北条家の居城青ヶ台城址・・・金沢区





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