歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

タグ:三会寺

廣嚴山 成願院 東泉寺と言う御寺が神奈川区羽沢に存在していますが、恐らく現代では地元の人しか知らないかも知れません。

IMG_1926
こんな風に旧街道らしい曲がりくねった尾根道の交差点の角に在(あ)る、今では敷地面積が小さく成ってしまった御寺なのですが、実は結構な由緒が有る御寺なんです。
実は何でこんな場所に由緒有る御寺が存在したかと言うと、恐らくこの御寺の右手の右に曲がる上り坂は室町時代位に重視された旧街道の一つで八王子に接続する八王子街道や旧中原街道や直(す)ぐ先の小机城や佐江戸城へと続く現代で言う所のバイパスだったと推測出来るからです。
IMG_1928
廣嚴山 成願院 東泉寺
そんな場所に位置する道に沿って実は幾つか重要な御寺が存在しています。
先ずは周辺の寺院や城跡の位置関係を見て頂きたいと思います。
東泉寺周辺 久良岐のよし
この東泉寺の前を南東~北西に貫く道に沿って戦国時代の関東の覇者、小田原北条家の重臣達の開いた御寺が幾つも並んぶ様に存在しているんですね。
では、その御寺や場所を北から南に向けて紹介しますと・・・
小机城・・・北条家初期の主力軍団、北条五色備え白備え隊の大将を務めた笠原信為公が城代の城。
北条家の外交を担った名家の笠原家が代々城代を務めた名城で、現代でも❝続日本100名城❞の一つに選定されているが何故か横浜市が城址として史跡指定や文化財指定しない横浜市唯一の大城郭遺構。
ここは戦国時代初期の名勝で無敗の軍師として有名な江戸城主、扇谷上杉家家宰の太田道灌公が攻めた城としても有名。
以前書いた解説記事⤵
●❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。

泉谷寺・・・北条家二代当主、小田原城主北条氏綱公と重臣二宮家が開いた御寺。
泉谷寺を二宮家に開かせた北条氏綱公は、戦国大名北条家を飛躍的に拡大させる基礎を築いた名称で、歴代北条家当主の中でも一番の攻城戦の名手で落とした城も関東最大級の小田原城、岡崎城、大庭城、新井城等超巨大城郭だらけの凄い武将でした。二宮一族は相模国の名家で二宮一族の現代の子孫と思われるのが二之宮川勾神社宮司家で今も代々務める神職の名家です。恐らく二宮金次郎の祖先も泉谷寺を開いた二宮家一族の子孫でしょう。
以前書いた記事⤵
松亀山泉谷寺…戦国大名北条家が支援した大寺院も現代には諸々歴史は途絶え。横浜市港北区羽沢。

豊顕寺(ぶげんじ)・・・多米元忠公と間宮宗甫公の御子孫の菩提寺
多米元忠公は北条氏康公の軍師で、初期の北条家主力部隊の北条五色備えの内の黒備え隊の大将を務めた名将でした。豊顕寺は多米元忠公の隠居宅を寺院化した事が起源し、江戸時代には大伽藍(がらん=寺院建造物群)を擁し広大な桜林を抱える法華宗の大寺院と成り多くの学僧が学ぶ場所として、そして観光の名所としても江戸市民にも人気でした。間宮宗甫公は還俗前の名前を間宮政光と言い、北条氏康公の奏者だった事が北条所領役帳にも記載が有ります。二人共に重要な人物だった事が解かります。
現代でも多米家と間宮家の御一族が御檀家サンに多く存在しています。
神奈川区斎藤分町と横須賀市浦賀港の紺屋町が間宮宗甫公の領地でした。斎藤分町の捜真学院小・中等部の敷地は中丸と呼ばれている事から間宮宗甫公の城砦が存在したであろう事が地名からも推測出来ます。
更に道を海側に下ると神奈川駅を挟んで幸ヶ谷公園~本覚寺は明治時代以前は地続きの半島で、多米元忠公の守備した青木城が存在しました。青木城の前身が間宮家が守備した権現山城でした。
その辺りは以前解説記事を書いているので参考にして下さい。
●北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説③】・・・多❝米❞元忠公と❝多米❞家の菩提寺の豊顕寺は江戸時代の大寺院・・・横浜市神奈川区三ッ沢西町【歴史学者は必ず見る可し!】
●間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績


イオン東神奈川店・(地所:富家町)・・・間宮本家の所領と思われる。
実は戦国大名北条家の初期の家臣団で相模十四騎筆頭と言われた間宮家の本家の笹下城主間宮家で、戦国時代の鶴岡八幡宮再建事業や山中城籠城戦で活躍した安土桃山時代を生きた名将、笹下城主間宮康俊公の所領に❝富家❞と言う地名が記載有ります。現代では入西郡とか入東郡とか適当に江戸時代に注釈された郡名が写本によって異なる併記で書かれているので旧入間郡つまり埼玉県坂戸市戸宮だろうと推測しているガクシャが多くいるのですが、そもそも間宮家に所縁(ゆかり)深い旧神奈川領の神奈川区に❝富家❞の地名が存在している事を知らない人が多すぎるみたいですね。この地域、JR東神奈川駅一帯が昔から❝神奈川❞の地名で記載される事の方が多かったから文献しか読まず地図を見て現地を歩かない人は地所名を把握していない人が多いのですが、実はイオン東神奈川店の敷地だけには冨家町の旧名がそのまま現代になっても残り使われています。
文献しか読まなかったり江戸時代の適当な記載をテンプレするガクシャ(笑)よりも、❝図書館の優秀な司書の特に女性の人❞には詳しく調べる人もいて、記載の富家の検地が入間地方と一緒の時期に検地されていたから坂戸市の戸宮が有力だろうと根拠を示せる方もいます。しかし、そもそも間宮家の所領の富家の検地の順番がたまたま同時期に奏者によって北条氏康公に報告されただけの可能性の方が現に間宮一族の分散する神奈川区~鶴見区~川崎区沿岸部の東神奈川に富家の地名が現存してしまっている以上は強いのは事実です。

さて、こんな風に小田原北条家にとって重要な城や家臣団が関わった場所が繋がる道の上に東泉寺は存在するのですが、この御寺は元々は三会寺(さんねじ)と言う港北区鳥山地区の御寺の末寺でした。正確に言うと三会寺は鎌倉の鬼門に当たるこの地域を鎮護する目的で源頼朝公の命令によって平安末期~鎌倉時代の名将、佐々木高綱公が開いた御寺でした。
2002-05-09-06-25-16
佐々木高綱公と言えば源義仲公討伐戦の一つ宇治川の戦いで活躍した人物で、御子孫には乃木希典大将もいらっしゃったりします。
そんな高綱公が源頼朝公の命令で開いた三会寺は現代も小机城址祭りをバックアップしたりタイ王室と交流が有る等、とても文化的に重要な役割を果たしている御寺です。
三会寺や佐々木高綱公城館跡の鳥山八幡宮についてはブログ開始初期の記事で拙(つたな)い内容ですが記事にも書いています。
以前書いた記事⤵
横浜市港北区鳥山の八幡神社…鎌倉幕府の名将:佐々木高綱公の城跡
2015/04/02時点の横浜の桜名所状況

ですから現代では御寺の規模も小さくなってしまった様ですが、御本堂の屋根には室町時代に成っても関東を治めた鎌倉公方足利家から大切にされていた事が解かる証拠が残っています。
IMG_1934
足利家の家紋、二つ両引き紋の寺紋としての使用が許されている訳ですね。つまり、この御寺の住職には鎌倉公方から寺領(御寺の収入源の土地)が保証されていた事が推測出来ます。
では御寺の現代の様子を見て見ましょう。
IMG_1929
御寺の入口を入って直ぐに右側が庫裡(くり)つまり御住職御家族の居住スペースですね。
小生、たまたま小机方面から根岸方面へ抜けようとして東泉寺の前の道を走っていて御寺の存在に気が付き街道沿いなので・・・
「きっと歴史が有る筈!」
・・・と直感で初参詣して庫裡のインターホンをピンポンしてアポなしで御住職に色々と質問して御教授頂いたのが印象深く思い出されます。そして直感通り、以前は寺格の高い三会寺の歴代御住職の隠居寺だった事を教えて頂けました。同時に火災なんかで文献が残念ながら残っていない事も知りました。

IMG_1931
御本堂も敷地の規模よりも大き目で、中規模の寺院の御堂が維持されています。鎌倉時代以来の檀家サン達の資本と言う名の努力の賜物ですね~。
IMG_1934
彫刻も立派です!
IMG_1933
現代では鐘楼の無い御寺も在りますが、ここには今のちゃんと鐘が在ります。
きっともう直ぐ御正月に成りますが、年末の除夜の鐘を突きに来る御近所さんがいて、この御寺の存在によって小さな子供達にも日本文化が伝えられて行くのかな~と思うと何だかありがたい。

さて、御寺の施設の紹介は少なかったですが、町の中の何気ない御寺にも凄い歴史が有るっていう典型的な例を体現しているのが東泉寺さんって言うのが皆さんに伝われば良いな~と思います。

きっと皆さんの御自宅の何気ない神社さん御寺さんや城址の公園や山にも、凄い歴史人物と関わりが有る場所が必ず有る筈です。
御寺や神社や城跡の山は散歩するだけでもリラックスします。だから皆さん、少し御寺や神社や城跡にお出掛けして説明の看板を読んで見ませんか?そして歴史偉人と地元の繋がりを知ればきっと皆さんも地元に愛着が増すはずですyo~

では又ぁ~!
次のブログ記事で御会いしましょう~(•̥̑ .̮ •̥̑)ノシ

2017年03月18日、前日で台湾の知人が台北の日本式おでん居酒屋の写真を掲載していたのを見て六角橋商店街のオデン屋“かずさや”さんを思い出し無性に食べたくなり、六角橋に行く用事を作り、横浜市南部鎌倉近くの自宅から神奈川区六角橋界隈散策に行って来た。
image

この店で久しぶりの屋台風のオデンはとても美味しかった。
image
オデン種5つとドリンクで650円と格安!
image
久しぶりに来たので、玉子とハンペンを追加注文した。美味い!
神奈川大学が近在する事も有り、学生の町で夜には女子大生も地元の爺婆(ジジババァ)(笑)も集う愛すべき店なのだが・・・
image
実は小生の昔の彼女が神大の生徒で六角橋の白楽駅近くに住んでいた事も有り、この店を知り別れてからも一人たまに食べに来ていた(笑)。
image
 ・・・最近は女の子向けの雑誌にも載ったとかで、小生が店に入った時も若い女性客が友達同士二人仲良くオデンを食べに来ていた。
image
image
六角橋商店街裏通りの仲見世は、この通り昭和情緒に溢れる。
丁度、京都の錦市場と同じ程の道幅、同じ様な造り。昔の脇道と言うのは概(おおむ)ね、この様な道幅だった。
image
学生の街だけあって、色んな店が軒を連ねる。
大正~昭和風の職人さんが営む時計屋さん・・・
image
そして数年前に流行した和名:焼き小籠包こと生煎包(しぇんじぇんばお)。
image
三国志が好きで行った中国留学時代に好きで良く現地の店で食べていたので非常に懐かしい。
さて・・・
image
・・・このオデンを食べに行くのに小生が作った用事と言うのは2年振りの"塩嘗め地蔵"様と"寳秀寺"さんの参拝と写真撮影だった。
六角橋商店街にオデンを食べに行く前に、そちららを先に訪問してきた。
image

塩嘗め地蔵は昔から「イボ取り地蔵様」として地元の信仰対象として大切にされて来た。
塩を供え物にする変わった習慣が有る。
解説を読む限り、この御地蔵さんを守る人より小生の方が少々塩嘗め地蔵の歴史について詳しそうだ(笑)。
image
日本武尊(やまとたけるのみこと)が信奉した須賀神社は何処も大凡(おおよそ)が素盞嗚命(すさのおのみこと)や五十猛(いそたける)を御祭神として御祀(まつ)りしている。
この父子の神々は疱瘡(ほうそう=イボ皮膚病)治癒の神として昔から崇拝されて来た。
横浜市に唯一現存する延喜式内社(延喜式神名帳に記録された古い神社)の杉山神社の御祭神も五十猛神である地縁は、塩嘗め地蔵と無関係では無いだろう。
DSC_0027
杉山神社の方は今では参拝客も減り、ひっそりとしているが氏子さん達によって立派に守られている。
DSC_0032
以前書いた杉山神社解説記事→ 
image
塩嘗め地蔵前の道は戦国時代まで、その近くに存在した神大寺の参道だったそうだ。
神大寺は江戸時代の人が城址と間違える程に立派な規模を誇っていたそうだし、戦国時代に火災で焼失している事から戦火に巻き込まれているのだろう。つまり、要塞としても転用出来る程の大寺院乃至神宮寺だった筈。
image
そして塩嘗め地蔵尊の前の直ぐ下の道は古代~戦国時代の八王子往還の一筋であり、八王子の地名は素盞嗚命(すさのおのみこと)=牛頭天王(ごずてんのう)と、其(そ)の子の八人の神々を御祭神とした聖地、八王子神社に由来する。
2016-02-13-09-03-48
※写真は八王子城御主殿。2016年02月、親友O型君と訪問した際の撮影。
八王子神社は戦国時代に八王子城が築城され、その八王子地域の鎮守の神としても本丸に今も鎮座し古代から崇められている。
2016-02-13-10-33-11
※写真は八王子城本丸の八王子神社。2016年02月、親友O型君と訪問した際の撮影。
塩嘗め地蔵が参道入口だった神大寺の寺名から推測出来るのは、“神”“大”“寺”、つまり"神様を祀る大きな寺"だっただろうと言う事だ。恐らく牛頭天王=素盞嗚命か、素盞嗚命を信奉した日本武尊が祀られていたのかも知れない。しかし、戦国時代に火災で焼失し詳しくは江戸時代には既に解らなかった様で"間宮士信"公が編纂した新編武蔵風土記稿にも書かれてない。

塩嘗め地蔵の直ぐ近く、六角橋には"久応山寳秀寺"と言う御寺が存在する。
image
この久応山の山号は神話の人物に由来する。
image
その境内が嘗(かつ)て倭建(やまとたける)命が滞在した大伴久応の邸址と伝承する。滞在時に食事に使用した"箸(はし)"が六角形の物で、大伴氏に神器として伝承していたそうだ。
この故事が六角橋の地名由来に成った。
image
現在は大伴久応の陵墓の土饅頭が寳秀寺山門の前に行ちょこんと現存するが「後世の供養ではあるまいか?」と推測する。しかしながら、形状は円墳で時代的血統的な事実とも整合する。
image
川崎市高津区子母口の弟橘媛を御祭神とする橘樹神社の背後に現存する弟橘媛の御陵もやはり、中国三国志時代以降の朝鮮半島渡来文化の影響が見てとれる。
倭建命は走水神社の神話と、それを編集に含も古事記や日本書紀の記載で西暦100年代の倭国の大王の太子だった人物とされる。
仮に、長い歴史の誤差で100年程度のズレなら文章に残らない古墳時代の人物に成り、三国志の記載と日本神話がリンクして証明と成ったりもす。
つまりこうだ・・・
倭姫(やまとひめ)
景行天皇の妹、倭建の伯母=卑弥呼(ひみこ=日巫女?)
※丹波国元伊勢神宮の斎王か?
大足彦忍代別大王(おおたらしひこおしろわけのおおきみ/すめらみこと)
倭建の父大王。倭姫の兄弟=景行天皇。
※三国志魏書倭人の項に登場する卑弥呼の実弟、唯一面会出来る男性とは古代神社の斎王制度の文化から見て景行天皇の事を指すのだろうと推測出来る。
※この時代に天皇の二字の称号は有り得ないので大王の二字に訂正し"すめらみこと(皇命)"の読み方のみ残す。
恐らく大足彦忍代別"天皇"の名は大化の改新時点で大王の二字が天皇に差し替えられ藤原氏に改竄されている。
倭健(やまとたける)命
景行天皇の次子、成務天皇の実弟、倭姫の甥。
そして景行天皇に指名された皇位後継権保有者。
※現在の神道に伝わる「命(~のみこと)」と言うのは、古代語で現代語の「霊位」「御霊」や仏教用語の「尊」の字に当たる言葉、つまり肉体を離れ現世で亡くなった神の霊魂を指すのだろう。日本の神様は我々の祖先だから、神様同士で喧嘩したり恋愛したり戦争して殺しあったり、海で溺死したり、酒に酔ったり、スケベだったり何とも人間らしい親しみを持てる日本の発展に寄与して下さった先人達を神格化した存在の事なんだが・・・
日本武尊は以下の通り少々悲惨な生涯の終え方をしている。
※東征からの帰路に伊吹山の神に妨害され病を得るのは、倭建の皇位継承を阻止し自ら皇位継承を画策した成務天皇による暗殺未遂乃至成務天皇派の豪族の王との合戦の傷に由るものと推測する。
仮に成務天皇派との合戦が起きたとすれば伊吹山の麓、関西へ抜ける関ヶ原の関所が舞台だろう。
鈴鹿の地で没したのは、関ヶ原通過を阻止されたので南側の鈴鹿の関を突破し河内王朝(応神天皇の代まで首府は河内国きんぺん)或いは大和国か丹波国の伯母の在所へ帰還中の事だろう。
大伴久応(黒主)
[六角橋の神話]
六角橋の伝承と寳秀寺の縁起では自邸に倭建を逗留させ歓待したとされる人物。
[走水の神話]
三浦半島の横須賀市走水に現存する走水神社の伝承では大伴黒主と名を伝えられ、やはり日本武尊(倭建命)に海鮮料理を振舞い歓待した人物と伝わる。やや倭建ははまぐりはまぐり蛤(はまぐり)の膾(なます)がお気に入りだったそうだ。故に現代では料理と漁師の神として祀られる。
[日本書紀]
日本武尊の東征に吉備一族、"大伴"部一族が与力として付けられている。大伴氏は和邇(和珥)氏の一族で佐伯氏とも同族であり、古代水軍拠点を治めた氏族。
六角橋周辺には丸子、大口の名を冠した町が有る。丸子は古語で"丸子(わに/わじ)"と発音する事から和邇氏の土地であった事が解り、大口は和邇氏の祖先神の大口納(おおぐちな)命に通じる地名でもある。
和邇(わに)は和珥(わに)と同義別字だが、和邇とは中国大陸の動物の鰐(わに)を転じて様子が古代の丸木舟に似ている事から"舟"の意味を指す事が用意に解る。この
解釈を用いると"因幡の白兎"の神話の元に成った話も容易に推測できる。
とどのつまり白兎(しろうさぎ/はくつ)=はくづ=ひゃくず=百済=百済国乃至百済人が和邇氏の統括する水軍を利用し隠岐国(隠岐島)を和邇氏の援軍により征服しようとしたが、バレて和邇氏に討ち取られ隠岐島が日本に帰属したと言う国の成り立ちが変化した例えの物語りだろう。因みに当時は朝鮮半島最南端まで漢帝国に倭人の土地と認知された邪馬台国(日本)領だった。
それ故に古代の中国語で日本国の事を扶桑(ふそう)=扶桑(FuSang=フゥサン )国、台湾を蓬莱島と呼んだが、現在でも名残として扶桑(フゥサン)に通じる中国語で釜山(FuShan)の町が在ったりする。
尚、新羅国は日本人により建国されたと中国語の史書に記されているが、古代、海の神でもあった素盞嗚命(すさのおのみこと)が朝鮮半島に渡った神話とも関連が推測出来る。

さて、話を寶秀寺その物に戻そう。
image
境内には徳川家の三つ葉葵紋がふんだんに使用されているが、これが徳川家康公が浄土宗に帰依していて浄土宗に下賜した家紋だからか、それとも寶秀寺に直接徳川家から与えられた物かは未だ調べていない。
しかしながら近在する港北区鳥山地区の真言宗三会寺や浄土宗泉谷寺等は、戦国時代の鎌倉玉縄城主北条家の遺領を家康公の参謀、本多正信公が得た際、本多正信公を介して家康公から寺領保証の御朱印と家紋を頂いている事から、徳川家から下賜された寺紋なのかも知れない。
まぁ、三会寺に関しては徳川家より格上の源頼朝公から頂いた笹竜胆(ささりんどう)の源氏の家紋を寺紋としている。
2015-04-01-09-48-43
2015-04-01-09-48-51
なので三会寺サンに限っては徳川家の家紋を寺紋としては使っていないし、北条家の家紋も当然使っていない。まぁ、平安時代に関東の文化水準を飛躍的に向上させたのは頼朝公の功績、そして武士文化を確立させたのは蘭渓道隆和尚や道元和尚と執権北条家の功績。だから鎌倉幕府を樹立した頼朝公の方が武士としては徳川家と功績は同等でも血筋が上な分、優先される訳だ。
寶秀寺には立派なイヌツゲの植木が有り、これが横浜市指定の銘木古木に成っている。
image
その隣にも松の立派な植木が有る。
image
今は境内に墓地が有るが、本堂前の植木は昔は立派な庭園の一部だったのかも知れない。
image
本堂に参拝し、デジタル画像を撮影していなかったので境内の写真を一頻(ひとしき)り撮影させて頂いた。
image
立派な新しい扁額。
image
御本尊にもちゃんと御参りして・・・
image
江戸時代の歴代御住職様の御廟所にも御参り。

塩嘗め地蔵尊と寶秀寺で六角橋と神大寺地区の歴史浪漫を探訪し、その後オデンを食べに六角橋商店街に移動した。

帰りは着替えを持参していたのでジムで汗を流してから、露天風呂に入りに行った。

まぁ、美味しいオデンを食べ、神話と歴史浪漫に想いを馳せ、ジムで汗を流し、大浴場で露天風呂満喫し寛(くつろ)ぎ・・・
しみじみ良い休日と感じる1日を過ごせた。
日本武尊様、弟橘媛様媽祖様、大伴久応黒主様、ありがとうございました!

【備考】
走水神社、日本武尊、弟橘姫に関しては“タグ付け”しておくので、ブログ記事最後尾に付けられた「タグ」の中から興味の有るワードをクリックして昔の記事を御覧下さい!

↑このページのトップヘ