2年前に京都に転勤してしまった歴史仲間の車懸がゴールデンウイーク中当家へ3泊滞在し、一緒に歴史散策久しぶりにした2日目の4回目の記事。
この⤴前回の続き・・・
01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
——前回ココ⤴——
車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が大量なのは前回の説明通り。
——今回はココから⤵——
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
07味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
——ココまで⤴——
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
前回、歴史仲間の車懸を旧北条家臣の柳下家菩提寺である長昌寺と、昭和の海軍飛行隊の拠点建設で同じ富岡の富岡総合公園の反対側から長昌寺に遷座した芋観音を観光した部分を書いて、そこから先に参拝して富岡八幡宮に戻った。
このブログが初見の人の為に念の為解説しておくと、この日は最初の歴史散策に長昌寺の直ぐ側の富岡八幡宮を参詣し、社務所で付近の歴史散策の間、車を駐車させて頂く許可を頂いていた。
富岡八幡宮に戻って車に乗り込むと、三浦半島の横須賀市側、走水へ移動した。
この日は未だ朝食も食べていなかった。
当初は杉田家で朝ラーメンを食べる予定だったのだが営業してなかったので、先に金沢区の歴史散策を済ませて横須賀市に移動してから横須賀市観光協会のボランティアガイドの皆さんも行きつけの“味美食堂”でブランチに海鮮を食べる予定だったからだ。
走水神社
ここは倭建(ヤマトタケル)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)の聖地で、この神社の原型に成った現在では神明社とされている場所に御二人は参詣され、房総半島への渡海の準備を進める間、走水の御所ヶ崎を行在所(あんざいしょ)とされ滞在したそうだ。
そこ等辺の話しは何回も書いてる。
小生は倭建の叔母の倭姫は女王卑弥呼で伊勢神宮の斎王の原型の人物だと思っており、倭建と言うのは古代の大王(おうきみ=大君)の親族であり皇族将軍の総称で複数人の事業が一人の神の称号として混同されていると考えている話はチョクチョク持論を開陳しているので古参の読者の方々は良く知る所だろうか?
この写真は本殿前から撮影した走水漁港の写真だが、この本殿は建替えの際に伝承通り地下に石棺が安置されている事が確認されている。
神話化された郷土伝承によれば、倭建が滞在中に奉納した冠が御神体として石棺に収められて埋蔵されていると伝わるが、その石棺なのだろう。
本殿裏の山頂には明治の帝国陸軍による御所ヶ崎と旗山崎の砲台建設や元は半島だった吾妻島が海軍に基地化される際に、それぞれの場所に有った神社が廃社にされた。
下の画像は明治時代初期当時の海岸線と現代のGoogleEarth衛星画像とを比較できる農研機構サンがアプリ化した帝国陸軍が明治時代に作図した迅速測図の比較。
その画像上にGoogleEarthを使って各所の位置を表示してある。
皆さんも自分の住んでる地域が地盤が弱くないか、元はどんな場所だったか知りたい人は農研機構サンの比較アプリを見てみると面白いかも知れない。
さて、旗山崎、御所ヶ崎、吾妻島に有った神社が帝国陸軍によって廃社にされて要害化された際に、主に海軍の東郷平八郎元帥等が中心に成って遷宮と言う形で走水神社の裏山に作られた御社がある。
ここ走水神社と奥宮は車懸と初対面の日に歴史散策で遊びに来た場所だった。
初対面が2016年だったと思う。
もうそれから7年の付き合いだ。
一昨年、車懸は京都に転勤で戻り時間的にも距離的にも1年に1回遊べるかどうか、という感じに成っているが、SNSでは話せる時に仕事の話しや最近の近況報告は不定期にお互いに連絡し合ってる。
車懸と久しぶりの走水神社奥宮の参詣を終えてから、真っ直ぐ現代の参道には下りずに国道16号整備以前に走水から浦賀〜久里浜方面に抜ける古街道として利用されていた山道を下りる事にした。
走水神社奥宮の前に終戦直後まで使われていた古街道が有り、そこから現代では大泉寺の墓地に成った場所に古道の入口が繋がっている。
そこを下りて味美食堂に移動する事にした。
小生達の様に古道を山歩きをする人は歴史ファンには多くいて、その人種は予備知識が無くても地形を見た瞬間に「あぁ~そうね、古道だね」と思うだろう。
まぁ、ここは恐らく戦国時代に山頂が要害化されていたはずなのだが防大建設や明治の付近の要害化で何も発掘されずに山頂地形は改変されていると思うが、当時は堀底道=切通として防衛の役割も担った道だと思う。
※クリックして拡大して見て下さい。
この道もシッカリ迅速測図に表示されている。現代の衛星写真と比較して、上の迅速測図で大泉寺の裏にS字クランクした黒線で表記されているのが古街道。
以前、走水神社の現在70代後半の氏子サン達に色々と幼少期の話を教えて頂いた際に走水に学校が無くて、ここを通り山越えで通学していたそうだ。しかも山頂の畑には肥溜めが有って落ちる危険性が有ったと言う話を聞いた上で迅速測図で整合性を確認していた。
山城マニアの車懸もこの道は「戦国時代に要害化されてて空堀なのかな~」と感じていたそうなので、やはり走水は房総半島の里見家の海賊に備えて普通に要害化されていて古街道は防衛の都合も有り切通状を維持されたのだと思う。
一般に山道は人が踏み固めると、そこに雨の水が流れたりしてU字型に変形していき自然に切通化されて行く。
下の写真は横浜市磯子区と金沢区に跨がる観音山の林道。
典型的な自然の切通と人工的に切通化された両方見れる古街道。
現在は横浜横須賀道路の釜利谷ICと金沢自然公園に部分的に分断されてしまっているが、この道は鎌倉防衛網であり街道だった金澤道と六浦道の合流地点だった。
過去に観音山とか他の記事にも似た様な古街道の山道を写真で紹介してるので興味がある人はカテゴリーから過去記事を探してみて欲しい。
この切通状の地形が敵兵の侵入数を限定出来て縦列行軍しか出来なくさせる事で崖上の土塁から弓矢で敵兵を射殺しやすく防御力が高い事に武士達が着目した。
その結果、武士達により人工的に切通を掘り下げて造成され防衛施設に用いられたのが、鎌倉七口の切通だったりする。
奥宮から古街道を通り大泉寺をサクッと参詣して、味美食堂に移動した。
味美食堂
ここは小生のブログで何回も書いているので古参読者はアジフライの名店として良く御存知かと思う。
元々は漁師と兼業だった御店主が、余りにも需要が高いので食堂に専念して横須賀名物の鯵や地蛸の料理を提供している小さな名店で、小生は学生時代の京都の友人ITと猿島に行った時にボランティアガイドの方に推薦されて知った御店だった。
小生が好きな現代の政治家の一人なのだが元防衛大臣の小野寺五典サンが味美食堂までアジフライ定食を食べに来ていて店内にサインも有ったりする。
このボリューム感で1000円。
車懸と小生はそれぞれアジフライ定食を注文、アジフライはサクサクのホクホク、身も甘さを感じて美味しい。
これと別注で鯵刺し、アナゴ天も単品で注文してシェアした。
アジフライがフワフワなんだから当然ながらアナゴ天もフワサクっ!として美味い。
小生の中で神奈川県アジフライ四天王の1つ(笑)なだけある。
因みに小生の中で横須賀の味美食堂、横浜野毛町の文次郎(咲良)、横浜洋光台のかつ亭、三浦市の地魚料理松輪、が、アジフライの美味しい店BEST4。
ちなみに「かつ亭」は洋光台駅近くで磯子区だが、実は御店主が走水での釣りが趣味でアジフライは御自身が釣った鯵を提供してるので、いつもアジフライが食べられるとは限らない。
まぁ、そんなコンナで食事していると、どうもトライアスロンが趣味の若い女子大生位の二人と引率の男性(お父さんかな?)も味美食堂で御食事されていて「美味しかったぁ~」と満足されて会計を済まされて店を出て行った。
まぁ、歴史好きな人や、カップルで縁結びの御利益で走水神社を参拝されたい人は是非、味美食堂や以前紹介した近くの「かねよ食堂」で御食事されて帰ると良い思い出に成ると思う。
食事を終えて店を出ると、車懸と次は走水低砲台へ移動した。
ここは車懸が横浜勤務中はまだ近代史跡公園として整備されておらず週末公開開始前だったので車懸には初見だった。
さて・・・
今日の記事はここまで。
次回は走水低砲台~、浦賀の千代ケ崎砲台の部分を書きたいと思います。
さて、今日は2023年10月29日ですが、最近急に秋めいてきて涼しくなってきましたね。
皆さん風邪をひかない様に気を付けて下さい。
そうそう、11月04日に小机城址竹灯籠まつりが開催されます。
御興味ある方、詳細については下記のリンク記事を御覧下さい。
ついでに、紅葉シーズンなので紅葉の名所纏めと個別の解説もリンク貼っておきます。
上記に書ききれなかった鎌倉市内の紅葉名所も以下の個別解説に数ヵ所紹介してます。
秋の皆さんの余暇の参考に成れば幸いです。
では、次の記事は又1ヵ月1回ペースの更新に成ってしまうと思いますが、皆さん、味覚の秋おおいに楽しんで下されやぁ~♪
続き⤵
この⤴前回の続き・・・
01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
——前回ココ⤴——
車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が大量なのは前回の説明通り。
——今回はココから⤵——
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
07味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
——ココまで⤴——
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11塚山公園と三浦按針・お雪サンご夫妻の墓所の安針塚。
12王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
13仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)
・・・今日は横須賀観光の一部分をサクッと書きたいと思う。前回、歴史仲間の車懸を旧北条家臣の柳下家菩提寺である長昌寺と、昭和の海軍飛行隊の拠点建設で同じ富岡の富岡総合公園の反対側から長昌寺に遷座した芋観音を観光した部分を書いて、そこから先に参拝して富岡八幡宮に戻った。
このブログが初見の人の為に念の為解説しておくと、この日は最初の歴史散策に長昌寺の直ぐ側の富岡八幡宮を参詣し、社務所で付近の歴史散策の間、車を駐車させて頂く許可を頂いていた。
富岡八幡宮に戻って車に乗り込むと、三浦半島の横須賀市側、走水へ移動した。
この日は未だ朝食も食べていなかった。
当初は杉田家で朝ラーメンを食べる予定だったのだが営業してなかったので、先に金沢区の歴史散策を済ませて横須賀市に移動してから横須賀市観光協会のボランティアガイドの皆さんも行きつけの“味美食堂”でブランチに海鮮を食べる予定だったからだ。
走水神社
046-844-4122
そこ等辺の話しは何回も書いてる。
小生は倭建の叔母の倭姫は女王卑弥呼で伊勢神宮の斎王の原型の人物だと思っており、倭建と言うのは古代の大王(おうきみ=大君)の親族であり皇族将軍の総称で複数人の事業が一人の神の称号として混同されていると考えている話はチョクチョク持論を開陳しているので古参の読者の方々は良く知る所だろうか?
この写真は本殿前から撮影した走水漁港の写真だが、この本殿は建替えの際に伝承通り地下に石棺が安置されている事が確認されている。
神話化された郷土伝承によれば、倭建が滞在中に奉納した冠が御神体として石棺に収められて埋蔵されていると伝わるが、その石棺なのだろう。
本殿裏の山頂には明治の帝国陸軍による御所ヶ崎と旗山崎の砲台建設や元は半島だった吾妻島が海軍に基地化される際に、それぞれの場所に有った神社が廃社にされた。
下の画像は明治時代初期当時の海岸線と現代のGoogleEarth衛星画像とを比較できる農研機構サンがアプリ化した帝国陸軍が明治時代に作図した迅速測図の比較。
その画像上にGoogleEarthを使って各所の位置を表示してある。
皆さんも自分の住んでる地域が地盤が弱くないか、元はどんな場所だったか知りたい人は農研機構サンの比較アプリを見てみると面白いかも知れない。
さて、旗山崎、御所ヶ崎、吾妻島に有った神社が帝国陸軍によって廃社にされて要害化された際に、主に海軍の東郷平八郎元帥等が中心に成って遷宮と言う形で走水神社の裏山に作られた御社がある。
ここ走水神社と奥宮は車懸と初対面の日に歴史散策で遊びに来た場所だった。
初対面が2016年だったと思う。
もうそれから7年の付き合いだ。
一昨年、車懸は京都に転勤で戻り時間的にも距離的にも1年に1回遊べるかどうか、という感じに成っているが、SNSでは話せる時に仕事の話しや最近の近況報告は不定期にお互いに連絡し合ってる。
車懸と久しぶりの走水神社奥宮の参詣を終えてから、真っ直ぐ現代の参道には下りずに国道16号整備以前に走水から浦賀〜久里浜方面に抜ける古街道として利用されていた山道を下りる事にした。
走水神社奥宮の前に終戦直後まで使われていた古街道が有り、そこから現代では大泉寺の墓地に成った場所に古道の入口が繋がっている。
そこを下りて味美食堂に移動する事にした。
小生達の様に古道を山歩きをする人は歴史ファンには多くいて、その人種は予備知識が無くても地形を見た瞬間に「あぁ~そうね、古道だね」と思うだろう。
まぁ、ここは恐らく戦国時代に山頂が要害化されていたはずなのだが防大建設や明治の付近の要害化で何も発掘されずに山頂地形は改変されていると思うが、当時は堀底道=切通として防衛の役割も担った道だと思う。
※クリックして拡大して見て下さい。
この道もシッカリ迅速測図に表示されている。現代の衛星写真と比較して、上の迅速測図で大泉寺の裏にS字クランクした黒線で表記されているのが古街道。
以前、走水神社の現在70代後半の氏子サン達に色々と幼少期の話を教えて頂いた際に走水に学校が無くて、ここを通り山越えで通学していたそうだ。しかも山頂の畑には肥溜めが有って落ちる危険性が有ったと言う話を聞いた上で迅速測図で整合性を確認していた。
山城マニアの車懸もこの道は「戦国時代に要害化されてて空堀なのかな~」と感じていたそうなので、やはり走水は房総半島の里見家の海賊に備えて普通に要害化されていて古街道は防衛の都合も有り切通状を維持されたのだと思う。
一般に山道は人が踏み固めると、そこに雨の水が流れたりしてU字型に変形していき自然に切通化されて行く。
下の写真は横浜市磯子区と金沢区に跨がる観音山の林道。
典型的な自然の切通と人工的に切通化された両方見れる古街道。
現在は横浜横須賀道路の釜利谷ICと金沢自然公園に部分的に分断されてしまっているが、この道は鎌倉防衛網であり街道だった金澤道と六浦道の合流地点だった。
過去に観音山とか他の記事にも似た様な古街道の山道を写真で紹介してるので興味がある人はカテゴリーから過去記事を探してみて欲しい。
この切通状の地形が敵兵の侵入数を限定出来て縦列行軍しか出来なくさせる事で崖上の土塁から弓矢で敵兵を射殺しやすく防御力が高い事に武士達が着目した。
その結果、武士達により人工的に切通を掘り下げて造成され防衛施設に用いられたのが、鎌倉七口の切通だったりする。
奥宮から古街道を通り大泉寺をサクッと参詣して、味美食堂に移動した。
味美食堂
0468427008
元々は漁師と兼業だった御店主が、余りにも需要が高いので食堂に専念して横須賀名物の鯵や地蛸の料理を提供している小さな名店で、小生は学生時代の京都の友人ITと猿島に行った時にボランティアガイドの方に推薦されて知った御店だった。
小生が好きな現代の政治家の一人なのだが元防衛大臣の小野寺五典サンが味美食堂までアジフライ定食を食べに来ていて店内にサインも有ったりする。
このボリューム感で1000円。
車懸と小生はそれぞれアジフライ定食を注文、アジフライはサクサクのホクホク、身も甘さを感じて美味しい。
これと別注で鯵刺し、アナゴ天も単品で注文してシェアした。
アジフライがフワフワなんだから当然ながらアナゴ天もフワサクっ!として美味い。
小生の中で神奈川県アジフライ四天王の1つ(笑)なだけある。
因みに小生の中で横須賀の味美食堂、横浜野毛町の文次郎(咲良)、横浜洋光台のかつ亭、三浦市の地魚料理松輪、が、アジフライの美味しい店BEST4。
ちなみに「かつ亭」は洋光台駅近くで磯子区だが、実は御店主が走水での釣りが趣味でアジフライは御自身が釣った鯵を提供してるので、いつもアジフライが食べられるとは限らない。
まぁ、そんなコンナで食事していると、どうもトライアスロンが趣味の若い女子大生位の二人と引率の男性(お父さんかな?)も味美食堂で御食事されていて「美味しかったぁ~」と満足されて会計を済まされて店を出て行った。
まぁ、歴史好きな人や、カップルで縁結びの御利益で走水神社を参拝されたい人は是非、味美食堂や以前紹介した近くの「かねよ食堂」で御食事されて帰ると良い思い出に成ると思う。
食事を終えて店を出ると、車懸と次は走水低砲台へ移動した。
ここは車懸が横浜勤務中はまだ近代史跡公園として整備されておらず週末公開開始前だったので車懸には初見だった。
さて・・・
今日の記事はここまで。
次回は走水低砲台~、浦賀の千代ケ崎砲台の部分を書きたいと思います。
さて、今日は2023年10月29日ですが、最近急に秋めいてきて涼しくなってきましたね。
皆さん風邪をひかない様に気を付けて下さい。
そうそう、11月04日に小机城址竹灯籠まつりが開催されます。
御興味ある方、詳細については下記のリンク記事を御覧下さい。
ついでに、紅葉シーズンなので紅葉の名所纏めと個別の解説もリンク貼っておきます。
上記に書ききれなかった鎌倉市内の紅葉名所も以下の個別解説に数ヵ所紹介してます。
秋の皆さんの余暇の参考に成れば幸いです。
では、次の記事は又1ヵ月1回ペースの更新に成ってしまうと思いますが、皆さん、味覚の秋おおいに楽しんで下されやぁ~♪
続き⤵