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タグ:三浦市

平安時代末期~戦国時代まで続いた相模国の小大名、三浦家の聖地と江戸時代に庶民の信仰を集めた神社仏閣や弁財天を祀る洞穴が、ねつ造された嘘の歴史を流布するカルト信仰によって乗っ取られる危機に瀕しています!

以下の事を行って、史跡乗っ取りを阻止して頂きたく、歴史好きの皆さんに拡散致します!

Google mapで以下の●の地名の場所を検索して見て下さい。
( )内が正式名称
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
以上の場所が明治時代設立のカルトを踏襲した新興カルトに乗っ取られ、Google map上で●表記の施設名称に書き換えれたり、小生や仲間達で正しい歴史を警告するとレビューから削除されます。

実は最後の三浦家の頭領の三浦義意公と房総半島の真里谷武田家出身の側室をモデルにして明治時代に書かれた架空歴史小説「桜の御所」に登場する架空ヒロイン小桜姫をカルトを用いて実在したかの様に広めカルト組織がそれぞれの史跡や別の神仏の崇拝場所を乗っ取ろうとしています。
実在せず、時代設定もハチャメチャな話をさも実話の様に信者や歴史に無知な女性に「縁結びの神」と悪質な情報で勧誘しては自分達の宗教施設の様に事実上乗っ取りにかかっています。
独身女性の結婚願望に付けこみ信者を増やそうとしている訳です。
ソイツ等は❝神奈川県神社庁や菩提寺、菩提寺宗派の曹洞宗とは全く無関係❞の新興宗教系統のカルトです。にもかからず、さも自分達の宗教施設の様に佐原三浦家関係の宗教施設へ、縁結び願望の有る女性達を連れまわしては歴史事実と異なる解説をして信じ込ませています。
このせいで、佐原三浦家最後の武将、三浦道寸公と三浦義意公の菩提寺の三浦氏三崎町小網代に在る海蔵寺は一般参詣不許可の対応をせざるを得ない状況に追い込まれています。

そこで以下のお願いです。
①下記3ヶ所をGoogle mapで検索して、小生達の歴史解説レビューに「」を押して頂けませんか?
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
②出来れば「情報の修正を提案」から小生が( )に示した正しい名前に戻すように名前を提案して下さい。
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
③可能ならばレビューに三浦家の歴史書に小桜姫の名前は登場しない事、三浦義意公の妻は真里谷武田家の姫である事、桜の御所の時代設定で架空人物の小桜姫の実家とされる金沢北条家は戦国時代の三浦義意公の佐原三浦家滅亡より200年も前に滅亡した事実、この三点をレビューに書いて頂ければ幸いです。

目的としては、縁結び目的の独身女性達がカルトに入信するのを防ぎ且つ正しい神社の名前と仏教施設としての名前をGoogle mapで取り戻し、史実を周知して頂いた上で女性の皆さんには縁結び祈願に安心して自分で来て頂ける様にする為の対抗策です。
ひいては三浦半島の観光が小説桜の御所の舞台として、そして源頼朝公や三浦家所縁の観光地として正しい形で活性化するのが最終的な目的でもあります。

無論、皆さんのお手を煩わせたく無いので出来る範囲の協力、又は拡散で結構です。

すみませんが、拡散協力願います。

三浦家について詳しい歴史は以下に纏め解説してあります。
http://yoshi-kanagawa.blog.jp/archives/64025466.html
上記URLの解説を参考にして頂ければ幸いです。

仮にカルトを利用してでも観光振興の為にやっているのならば、カルトを巻き込むのは三浦ブランドを落とすマイナス効果しか生まず、周辺自治体にも迷惑をかける行為に成ります。
三浦半島には元々源氏と平家の三浦家所縁の豊富な史跡群に加え、近代の要塞や、アメリカ文化の観光地、そして問題の三崎周辺は風光明媚な夏の観光地や冬のミカン狩りや鮪や松輪鯖や三浦大根のブランドが元々有名な場所です。もっと真っ当な宣伝をして城ヶ島や三崎をアピールして欲しいと願うばかりです。
三浦家滅亡の新井城址は日本最長の4年間に及ぶ籠城戦が展開された名城として歴史好きには有名な場所です。カルトが小桜姫の祠と名を変えて宗教活動に利用している場所も江戸時代に遭難した漁民を助けた強い御利益の在る弁財天様として庶民から崇敬された場所です。
諸磯神明社も天照大神を祀る大切な神社ですし、三浦義意公の奥方が北条勢に捉えられたと伝承する諸磯神明社摂社の若宮社も、鶴岡八幡宮の誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇=八幡大菩薩)の御分霊以外に何者でもありません。神道の信者にとってとても大切な神様達の御社です。
そこをカルトで汚さないで下さい。

三浦には沢山の景勝地と近代公園や自然公園、そして史跡とヤマトタケル神話や三浦家歴史の舞台の神社やと寺も有ります・・・
三浦海岸(海水浴場)
三浦市下浦町~三崎町周辺(西瓜と三浦大根の名産地、冬季はミカン狩り、初春は苺狩り)
江奈漁港(高級ブランド鯖の松輪鯖の漁港)
剣崎灯台周辺(神奈川の景勝50選)
盗人狩り(神奈川の景勝50選)
城ヶ島大橋と城ヶ島の景勝(神奈川の景勝50選)
城ヶ島のホテルや旅館(海に面したホテル、旅館、ペンション多数)
城ヶ島公園(景勝地、自然公園)
城ヶ島灯台(景勝地)
城ヶ島長津呂崎(景勝地)
城ヶ島北原白秋記念館(北原白秋三崎在住時代の解説展示館)
三崎漁港(鮪の水揚げ漁港、昔からの名産地)
三崎銀座商店街(鮪料理専門店が並ぶ商店街)
三浦映画社(三浦半島に映画ロケとドラマを誘致するNPO、過去ロケの作品の紹介場所)
三崎城址(北条氏規公居城)
本瑞寺(源頼朝公別荘跡、後に入舩地区に三浦義意公が開基し江戸時代に現在地に移転た寺院)
油壷湾(神奈川の景勝50選:昭和の映画スターのヨット遊び場)
油壷マリンパーク(皇太子殿下と雅子妃殿下始め皇族の方々のデート場所)
新井城址(佐原三浦家終焉の城)
荒井浜(流鏑馬神事が行われる)
海蔵寺(三浦道寸公開基の寺院、三浦道寸と三浦義意公の菩提寺)
小網代の森(原生林の遊歩道)
荒崎海岸(神奈川の景勝50選)
諸磯隆起海岸(フィリピン海プレートと太平洋プレートの衝突による隆起地形観察公園)
葉山マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場、商業施設)
大楠山(神奈川の景勝50選)
森戸神社(源頼朝公勧進の三島大社御分霊)
名島(源頼朝公別荘跡の水没した島)
森戸の夕照(神奈川の景勝50選:森戸神社から名島を見た夕景)
鐙摺城址(三浦義澄公拠点)
鐙摺城址出丸旗立山(伊東祐親公御廟所)
秋谷の立石(神奈川の景勝50選)
秋谷海岸(景勝地)
長者ヶ崎(神奈川の景勝50選)
佐島マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場、リゾートホテルとレストラン)
天神島臨海自然教育園(自然観察公園、佐島マリーナ横)
関口牧場(酪農家、アイスクリーム製造直売)
ソレイユの丘(BBQ等の複合レジャー施設)
披露山公園(神奈川の景勝50選)
住吉城址(平安時代末期三浦義澄公が籠城し、戦国時代に北条早雲公が籠城した城址)
逗子海岸(昔は明治の侯爵達の遊び場、昭和期は太陽族、今はチャラ男にチャラ女の聖地)
逗子マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場)
逗子市郷土資料館(徳川家別荘)
衣笠城址(平安~鎌倉時代の三浦本家の居城)
大善寺(衣笠城址に在る、鎌倉時代の三浦本家の学問所だった寺院)
満昌寺(源頼朝公が鎌倉幕府設立の立役者の三浦義明公供養に開基した寺院)
清雲寺(佐原三浦家の鎌倉時代~室町時代初期の菩提寺)
怒田城址(和田義盛公の平安時代の居城)
佐原城址(源義経の鵯越の逆落としの作戦を立案した佐原義連公の居城)
田浦梅林(今上天皇生誕記念に植林された4000本超の梅林の公園)
塚山公園(神奈川の景勝50選)
塚山公園按針塚(徳川家康公外交顧問のウィリアムスアダムス=三浦按針公と奥方御廟所)
どぶ板商店街(アメリカ第7艦隊の将兵が遊ぶアメリカ文化の商店街)
戦艦三笠(世界三大旗艦の一つ、東郷平八郎元帥の乗艦)
三笠公園(戦艦三笠が展示された公園、猿島へ渡る船の桟橋)
猿島要塞(明治時代の要塞、日蓮聖人の史跡、縄文時代の遺跡)
信楽寺(坂本龍馬室お龍さん菩提寺、土肥実平公持仏を祀る寺)
走水海岸(日本武尊と弟橘姫の神話の舞台)
走水神社(日本武尊の冠を社殿地下石室に埋蔵した神話の神社)
御所ヶ崎砲台史跡(日本武尊と弟橘姫の仮御所が在った、明治期に神社を壊し砲台設置)
観音崎(神奈川の景勝50選、昭和の映画スター達のリゾート地)
観音崎要塞(明治時代の要塞史跡)
観音崎灯台周辺(今上天皇と皇后様も訪問)
多々良浜(景勝地:貝殻で出来た真っ白な砂浜)
・・・等々、挙げればキリが無く・・・
どこも昭和のリゾート地として映画スター達に人気だった場所や現在の天皇陛下や明治の東郷元帥や三浦家と源頼朝公の大切にされた御寺や御城や別荘の跡、ばかりです。
もしも三浦市非公認のままの観光振興の心算なら、歴史歪曲は三浦ブランドを貶め神仏と歴史偉人を愚弄する行為です。
仮に嘘の歴史を教えられて小桜姫は実在しなかった小説の架空の人物である事を知らず、モデルが真里谷武田家の姫だと知らずに信仰してしまったなら、これからは真里谷武田家の姫様として、小説桜の御所のロケ地として三浦義意公と奥方の真里谷武田家の姫に縁結びを御願いしてみて下さい。

前日、台湾の友人夫妻来浜→ ←これの続き。2日目。
台湾の友人夫婦が横浜に遊びに来てくれた2日目・・・
この日は朝から中華街のホテルに二人をピックアップし、藤子F不二雄ミュージアムに行って来た。
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ここは完全予約制で、ローソンでチケットを購入しないと入れない。
当日券は販売していない。来館者が快適に見学する為の配慮だ。
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まぁ、関連商品も沢山売っているので、御土産にも困らない。
小生の友人は日本が大好きでいてくれて、度々遊びに来てくれるのだが、今回訪問先と成った川崎・横浜・横須賀・三浦を含めた神奈川県は初めての旅行先だそうだ。
東京が近い弊害で東京より見る場所が多いのに海外の旅客にスルーされる事の多い我が県、何とか楽しんで欲しく、事前に友人(御妻君の方)と旦那さんの要望をリサーチして訪問先を分単位で計算して計画を立てていた。
しかし、この日は小生がドジをやらかしまくった。
高速で第三京浜川崎出口を降りた際、道路が複雑な進路変更が必要で道を間違えた。
更に、のちに話すが家系ラーメン総本山吉村家を食べさせてあげる事が出来なかった。
う~ん・・・
まぁ、話を先に進めると、友人(御夫君)が幼少の頃ドラえもんが大好きだったので、ここの存在を知った友人(御妻君)が小生に行きたい候補として事前に通知してくれていたのでチケットを予約しておいた訳だ。
入場料は1000円、安い。
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屋内展示物は写真撮影が不許可なので、屋外の展示物しか撮影出来ない。
しかしながら、多言語に対応した案内解説器具を各入館者に1台づつ渡して貰えたり、原画が多数展示されていたり、藤子F不二雄先生の生涯や、作業場等が再現された展示が有り有意義に時間が過ごせる。
子供向けと言う訳では無い施設だった。
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どちらかと言えば中学生高校生大学生等、進路に迷いがちな世代が来た方が良い場所。
最低限、小学校低学年程度の読み書きが出来ないと子供も理解出来ない展示が多い。
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でも屋外に出ると、子供も喜ぶ写真撮影の為の実寸のキャラクターが展示して有ったりする。
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ドコでもドアーとか・・・
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空地の土管とドラえもん。
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映画のワンシーン等も再現されていて親子連れや大学生位のカップルで賑わっていた。
でも入場制限がちゃんとかかっているので、酷く待ち時間が有る様な事が無いので快適に見学出来た。
小生も次ぎ来る時は、自分の恋人か奥さんと一緒に来られる様に頑張らねば(笑)。
まぁ、甥っ子姪っ子を連れてくるのが先に成りそうだな。
ここをいたく気に入った二人、4時間も滞在したので後の予定に少し影響が出た(笑)。
実はこの後、車で横浜駅西口の家系ラーメンの総本山である吉村家に向かったのだが・・・
月曜日店休日だった。
直弟子の店で吉村家発祥地の杉田家が年中無休なので当然やっているものと思い込んだ小生のミス。
この日二つ目のミスだった。
友人夫妻は「明日自分達で帰りに食べに行くから良いよ~」とは言ってくれたが悔やまれるミス。
時間的にも杉田家に回る時間が無いので、やむなく、藤子不二雄ミュージアムで購入したドラえもんのどら焼きと、ドラミちゃんのメロンパンで二人に間食して凌いで貰った。
目的地を3か所目の横浜市中区の国指定名勝の三渓園に移動した。
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※写真は昨年の写真。
ここまでの移動中、友人(御妻君)の勤務先の台湾の貿易会社が日本の顧客の会社のミスで少々トラブって、休暇中なのに電話が引っ切り無しに掛かってくる。
当然三渓園を友人(御妻君)はゆっくり見る事が出来ず少々可哀想だったが、御夫君の方は御妻君に指で指示を受けながらポイントを押さえて写真撮影に勤しんだ(笑)。
この後に城ケ島で富士山を見る計画だったので、三渓園は大急ぎの1時間のみの滞在と成り御団子も食べる事無く車に乗り込んだ。
う~ん、藤子不二雄ミュージアムの滞在が1時間長かったかな。
まぁ、三浦に行けば美味しい鮪料理も食べれるので、二人のテンションも下がらずに城ケ島には17時位に到着した。
本来ならコンナ↓風景を見せてあげられるはずだったのだが・・・
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・・・三浦に到着するや否や、雹と大雨のドシャ降り。
う~ん、富士山どころじゃなかったな。
傘さしてるとは言え二人とも外套(コート)の肩がビショビショ。
仕方なしに、三崎漁港の小生行きつけの寿司の名店「紀ノ代」に移動した。
そしたら臨時休業だった(笑)
もう、ここまで踏んだり蹴ったりだと笑えて来るのだが、事前に隣に在るマグロ料理居酒屋の「黒羽亭」の事も二人に紹介して置いたので、「そちらに行こう!」と二人が言ってくれたので助かった。
あぁ!エスコートしなきゃいけない側が、なんかフォローされて胸が苦しい。
でも二人はマグロ喜んでくれて大助かり。
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※顔は差し替えてあります。
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台湾で余り食べる事の出来ない“胃袋”“白子”“卵”を前菜に、珍しい骨髄・・・
あと三浦野菜とシラスのサラダ、鮪の刺身、鮪の刺身定食、サザエのつぼ焼き、トロカツ、顎肉のステーキ
それと二人にはキリンビールプレミアム横浜仕立て?とか言うのを注文。
二人の胃袋を一杯にして、店を後にして再び出発。
帰り道、横浜横須賀道路の横須賀PAに寄りたいと希望が有って立ち寄ったら19時閉店・・・
どうかしてるぜ横須賀PA!
24時間やれや!しかも大黒ふ頭PAも同じ。
この日、最終日なのに神奈川の夜を楽しめないで帰らせる訳にはいかず、鉄オタ御妻君友人が喜びそうなので前日に大さん橋から眺めたミナト未来地区へ移動。
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少し雨が降っていた事、平日の夜という事も有り、人もまばらで写真を撮るには良い環境だったので結果的には二人にとって良かったかも知れない。
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横浜市民でも余り知らない人が多いのだが、ここは伊藤博文公が整備した新港埠頭の鉄道史跡だったりする。
二人は鉄道が好きなので小生の解説に興味を持ってくれた。
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だから、気が付かない人も多いかも知れないが赤煉瓦倉庫の前には当時の汽車の線路が今も保存されていたりする。
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この建物の反対側に移動すると、横浜ベイブリッジも綺麗に1枚の写真に収める事が出来たり、その更に少し先に行くと、下の写真の場所が在って・・・
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暗くて上手く撮影出来なかったが、明治~大正時代の横浜税関の検査場の建物の史跡も在ったりする。
何より線路の上を歩きながら綺麗な風景を見られる絶好の観光スポットな訳だ。
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サークルウォーク(鉄橋の円形歩道橋)からの眺めも良い。
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そして、ワールドポーターズの前も嘗(かつ)ての新港埠頭の史跡。
だから、昔、貨物船が通っていたランドマークタワーの真下へ真っすぐ赤煉瓦倉庫から線路が続いている。
この道を歩いて、二人とランドマークタワー下のドックヤードガーデンへ移動。
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ここ、若い人や歴史に興味の無い人は只の野外コンサートホールだと思っている人も少なくないのだが実は、日本現存最古の造船所の史跡で重要文化財なのだ。
友人(御夫君)は建築企業の監督なので、これを見て「カッコいい!」と喜んでくれた。
実は友人(御夫君)は日本の歴史に精通しており、下手な日本の大学生よりも日本文化と歴史に対する理解が深い。御父上は中国大陸の上海出身なので中国の歴史に対する理解も深く、この前日に三笠公園で清帝国の戦艦“鎮遠”の弾頭を見て西太后の暴走独裁と頤和園の建設による近代化の遅れ等を直ぐに解説していたりした。
今回、改めて自分の県を回ってみて思ったのだが、横浜は非常に台北に文化が似ている。
だから彼らと価値観が合ったりするのかも知れない。
外国の租界が置かれた歴史、外国文化の流入
南宋滅亡時に元朝に寝返らなかった蘭渓道隆和尚達、鎌倉幕府へ亡命したた忠義の真の華人達と成熟させた鎌倉文化や、三渓園で見る事の出来る、その後の武家文化
そして自然豊かな三浦の景色
これを全部合わせると、台湾の歴史背景と文化背景、そして景色その物もなんとなく似ている所が多いのかも知れない。
友人は開港記念会館を見て、台湾の総督府に似ていると言っていた。
近代の建物で日本人のデザインだから似ているかもね~と言う話もした。
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上の2枚は2014年に台北に友人を訪ねて行った際に撮影した写真。
下の2枚は2015年にブログ素材様に撮影した横浜の写真。
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うん、やっぱりソックリ(笑)。
まぁ~台湾人は日本人と同じように神仏を信仰して、文化も似ている上に風景も似ているんだから友達として意気投合出来て当たり前なんだよなって改めて思い、そして2年ぶりの友人夫妻との再会を楽しんだ休日と成った。

ホテルまで二人を送り、ロビーで暫しの別れの挨拶。
握手して「又ね!」と言ってバイバイした。
寂しいな。

残りの人生、二人に何回会えて何時間一緒に遊べるか判らないから。
一期一会の心掛け、出来るだけ、やれる事を!
さぁ、成さねば、自分の事・・・
又、元気な二人に元気に会えます様に。

先週末土曜日、学生時代の仲間との三浦半島弾丸日帰り小旅行。

友人を本牧の自宅に迎えに行き、三崎漁港に移動…
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個人的には1ヶ月間で3回目の訪問(笑)。
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三浦半島に来ると気分が晴れやかに成る。そして海風と日差しが気持ち良い。
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漁船やヨットが行き交う様も見ていて丘とは違う解放感を感じさせてくれる。
❝うらり❞と言う観光漁港の中に、小生オススメのB級グルメの屋台が有る。
鮪の串カツと鮪のコロッケだ。
その二つにサザエの壷焼を注文し、ブランチ?代わりの軽食ですきっ腹を大人しくさせた。
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写真をとっていないが、❝うらり❞の2Fはテーブル席が並んでいて、1Fで購入した特産品を食べる事も出来る。
何故外で潮風に当たりながら食べないかと言うと神奈川の三浦半島以東の海辺は非常に鳶(とんび)が多くて、折角購入した食べ物を盗られてしまうからだ。
腹を満たすと油壺に移動し新井城址の下の荒井浜を散策…
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…油壷マリンパークへ行く途中の、この道がクビレた部分は❝内の引橋❞と呼ばれる新井城址の遺構で、荒井浜の半島への敵の侵入を防ぐ❝堀切❞状の空堀の跡で、現在埋め戻されているが戦国時代当時は空堀に木製の橋が架かっていて、その橋は戦時に収納出来てしまう様に成っていた。その様な城址の橋を❝引橋❞と呼ぶ。
小生達はマリンパーク側に廻らず、新井城址の土塁残存部分側から荒井浜を目指した。
そちら側の風景は❝神奈川の景勝50選❞の一つにも選ばれている。
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この遊歩道を荒井浜目指して歩くと右手にある土と雑木林の傾斜が新井城の土塁の跡で、遊歩道敷設で削られたものの、上に登ると内側より少し高い土塁で有る事が確認出来る…
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解りずらいかな?写真の左手が土塁の海側、右手が半島陸側。
下の写真は空堀の跡。
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私有地とも市の地所とも判断がつかない境界にあるので登ってみるかどうかは個人の判断に任せます。
ここを過ぎて階段を降りると、普段は人の居ない(笑)荒井浜に夏のバカンスに来た若者や家族連れが溢れ、この時期ばかりは賑やかさに溢れている。
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小生達は、水着ギャルを❝後目(しりめ)❞に(笑)、更にこの荒井浜を通り過ぎて奥の険しい岩礁地帯へ行く。
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実は、その奥に遭難した漁師を助けた御利益の有る弁天様を祀(まつ)る洞窟がある。
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ここは中々皆見つけられない危険な場所に在る、だからこそ地元の人も大切にしている。
明治時代の小説、❝桜の御所❞に登場する小桜姫のモデル、三浦義意公の側室の真里谷武田家の姫様所縁の場所を事実誤認している人も多いが、ここは小説の小桜姫とは全く関係ない。
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しかしながら漂流した漁民を生還させたり、多くの参拝者が御縁を結んで頂けたのは事実なので、きっと新井城主だった三浦荒次郎義意公と小桜姫のモデルに成った真里谷家の姫様の御夫婦の御霊が、弁財天様を介して良縁をとりもって下さるのかも知れないね。

弁才天洞窟で小生も良縁を祈願。
これも今月2回目(笑)。
荒井浜でBBQを楽しそうにやってる水着ギャルや家族連れの前をすり抜け、海の家に立ち寄る事無く、小生達は本日のメインイベント❝ネイビーバーガー❞を食べに横須賀ドブ板通りへ移動…。
…「くそ!俺も奥さん見つけたら奥さんに水着着てもらってイチャイチャしてやる!」と思いながら(笑)。

夕食の時間が近づいて来たので、横須賀ドブ板通りを目指し車で再び移動…
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…ドブ板通りの異国情緒は神奈川県内なのに少しウキウキする。
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前回の横須賀宿泊旅行で見つけたネイビーバーガーの老舗、SURF TAKOに夕食の場所を決定。
実は、この日のメインイベントはこれだった!DSC_0019
この友人は通関士で小生とは貿易を一緒に学んだ仲間なのだが、彼とは一年に数度は会う。
小生は休日は略(ほぼ)予定がギッシリ埋まっていて、必ずと言って良い程家に居る事が無く1日に8ヵ所位の訪問地を事前に廻る準備をして訪問先でいつも最低5時間以上は歩き回っている。長いと8時間以上、運転時間を合わせると大体12時間は出掛けっぱなし。
そうで無い時は、鶴岡文庫か図書館か博物館の資料を漁って歴史関連資料をむさぼり読んでいる事が多い生活をもう3年近く送っている。もちろん、趣味の範疇。
なので、友人と遊ぶ事も少ないが、コイツとはたまに会う。
友人はチリビーンズバーガーを…
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…小生は照り焼きをチョイス。
やっぱウンマ〜(*´∀`)至福♪
この店のハンバーガーを食べたら、他所の店より遥かに美味くて衝撃を受ける。
そしてファーストフード店のハンバーガーが文字通りジャンクに感じてしまうかも知れない。

食べ終わって少し散歩しようとしたが、当日は丁度、横須賀花火大会でしかも開催時間目前…
客も町に多くてゴミゴミしていたので、我々は横浜側の横須賀港一望出きるシークレットスポットに移動。

DSC_0025
横浜市の横須賀港を一望出きる場所に移動。
ここからは横須賀港だけで無く八景島、伊藤博文公が大日本帝国憲法草案を纏(まと)めた場所である野島、夏島の夜景も全て一望出来る。絶景だ。
ヒントに上の写真を掲載する。興味の有る人は自分の足で歩いて探すと良い。
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三日月が綺麗だ。
散歩は郷土史に通じる。
さて、絶景で花火を楽しむつもりが…
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回りに客いない場所なので男二人で盛り上がらず数発見ると二人で・・・
「よし見たな、夏らしいことしたな。」
「そだな。みたな。」
「腹も満足だし充実したな。」
「帰るか。」
・・・終了(笑)。
友人を送り、まぁまぁ、充実した弾丸ツアーだった。

追記
DSC_3688
三浦から横須賀へ行く時に、行きつけの農家、石井農園の直売所のザ作兵衛で先月に引き続き又、小玉西瓜を買ったが当たり!
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三つ千円で凄く甘かった。
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石井農園の皆さん、おまけの茄子も美味しかったです。
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ありがとうございました!

ふむ、慌ただしく移動をした1日だったが振り返っても良い休日を過ごせたな。
今年の三浦の西瓜は当たり年、行くなら是非購入をお勧めする。

07月10日②の休日雑記の続き。

三連休をとり、三浦半島を旅行した11日最終日、朝は宿泊地の三崎漁港、その三崎に戦国時代に小田原北条氏が三崎衆を編成し戦国後期の三浦水軍拠点として運用した❝三崎城址❞周辺を散策し、鎌倉時代に源頼朝公が❝桜の御所❞と言う別荘を置き同地に戦国時代の初期に三浦義意(よしおき)公が開基した本瑞寺(ほんずいじ)を訪れた事、その本瑞寺と三浦義意公のイメージで創作されたのが小桜姫伝説の基に成った❝桜の御所❞と言う小説だと言う事を前回の休日雑記で紹介した…。

実はこの日、2016年07月11日は道寸公と義意公が、日本史上最長の4年間と言う籠城戦を戦い抜いた新井城(油壷マリンパークの半島が主要城址)の落城から500回忌に当たる。

この三連休、訪問の一番の目的は❝三浦道寸公と三浦義意公の命日❞の御廟所参詣と献花だった。
その為(ため)、車に乗り込み三崎漁港を後にして最終目的地の❝新井城址❞=油壷マリンパークの半島へ向かい、先ず予(あらかじ)め三浦道寸、義意公の御二方の菩提寺である❝海蔵寺❞に御住職を訪問する前に、道寸公の名を冠した❝道寸餅❞と言う銘菓を売る❝なこう❞と言う御当地の和菓子屋を訪れた。
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ここは小生、三浦に良く来るように成り始めた頃、道寸公の名を冠した看板が目に留まり道寸餅を購入して以来の御付き合いに成った。
小生は三浦家と北条家、不運にも主家古河公方家の内紛によって敵対した両家の武将に尊敬する偉人がいる。
特に崇拝しているのは、1人は小田原北条家の名将北条綱成公、もう1人が三浦義意公、両将とも智・仁・勇を兼備した名将だったが義意公は家運に恵まれず、韮山城主で北条家創業者の伊勢盛時公と其(そ)の子の氏綱公によって攻め滅ぼされる事に成った。
両家とも素晴らしい名将を多数輩出している。
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※道寸餅
道寸餅を自宅用と、海蔵寺様への奉納様に2揃(そろ)え用意して貰い、御住職との面会の準備も整い海蔵寺へ移動。
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海蔵寺は小網代の森の西の端、長い階段の上に所在する三浦義意公の御父君の三浦道寸公が開基した御寺だ。
道寸公と義意公の御廟所へ参詣の許可を御住職に頂いていたが、御寺と離れた御廟所を参詣する前に御住職に御挨拶に伺った。道寸餅は、その菓子折り。
御住職は小生と同じで、先人への尊敬や神仏への信仰心を持たない❝俄(にわ)か歴史ファン❞と❝エセ歴史学者❞が大っ嫌いな人物。
御住職がそう成ったのには、いい加減なデマの小桜姫伝説を広めた霊能者気取りの人間と、ソレを商業化しようとした連中に責任がある。
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この明治時代に流行した創作時代劇小説❝桜の御所❞を史実と鵜呑みにした無学な霊能者気取りの人物が書いた史実と全く異なる小桜姫伝説を信じ込んだ連中、つまり騙された人が大挙して押し寄せた事が有った。
先人を冒涜する行為に成る自覚もしない❝御寺マニア❞と❝縁結び巡礼の女性❞が、信仰心も先人への尊敬も無く大挙ズラズラと集団で御寺を訪問し、本堂も拝まずに帰ったり、油壷マリンパーク横の(新井城址)に飛地の海蔵寺寺領にある道寸公と義意公の御廟所に無許可で入る不法侵入が横行してしまったのだ。
御住職は、小桜姫を実在の人物と誤認して心霊スポットとして広めたエセ霊能者詐欺師に怒り、無礼不見識な女性達に嘆(なげ)いておられる。
だから、海蔵寺は一般非公開にせざるを得なく成った。
ちなみに、そのいい加減な小桜姫伝説に踊らされた霊能者気取りの人物はTVにも良く出る江原と言う人物だ。
でも本当に彼に霊感が有るなら、小説と史実の相違も気が付くだろうしウソくらい気が付いただろう。
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御住職様には、小生が平安時代の平良文(たいらのよしふみ)公以来、三浦義継公、三浦義明公等の歴代三浦家の殿様を尊敬し御廟所を参詣している事、道寸公の御実家である扇谷上杉家の所縁の神社仏閣も巡ってきている事は御存知なので❝海蔵寺参詣と御廟所への献花の自由❞を認めて頂いている。
それでも、御廟所を御参りする前には、ちゃんと御住職様には御挨拶に伺い、本堂で御参りしてから油壷の御廟所を訪問する事にしている。
この日も御住職に御会いして、改めて御廟所訪問の御許可を頂いた。
丁度御寺では500回忌もあり、経塚を建設されるそうで御住職様から小生へ最初の33人の納経者に成る様に光栄な役割を依頼されたので写経用の和紙を受け取り、一週間後に納経に来る約束をして海蔵寺を後にした。
新井城址と海蔵寺周辺の位置関係は下の衛星写真の通り近い。
正しい小桜姫神社の神社の位置新井城址周辺の位置関係 久良岐のよし
しかし、周辺は城址と言うだけあり、地形は複雑に谷が入組み直進は出来ず、車では10分程かかる。
海蔵寺の在る小網代湾は新井城址の北側の湾で、水掘り不要の半島城の頑強な守りを担っていた。
つまり海蔵寺~新井城址の遺構残存部は直線距離にして1km程と極近い。
現在、関東大震災による三浦半島の隆起と海岸の埋め立てで、小網代~新井城址まで徒歩で海辺伝いに行く事が出来るが、戦国時代は新井城址の半島の岸壁は海波に洗われていたので鎧武者の行く手を阻む海だった。
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駐車場に車を停めて、おみやげ物屋の御婆さんに久々の挨拶をしてから御廟所へ移動。
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花は近くのコンビニで売っていたので2揃え2組、合計4本の花束を購入した。
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先人への敬意から、御廟所の写真は撮影しない主義なので、御廟所入口に海蔵寺さんが建立した新井城合戦石碑を掲載する。
この奥に三浦義意公の御廟所、一段下がった恐らく戦国時代は物見曲輪か船着場だった場所に道意公の御廟所が在る。
無事、献花を終えてから、油壷の浜に降りて海沿いを散歩しながら地元の人々が弁天洞として崇敬する洞窟に向かった。
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弁天洞へは荒井浜から廻るのだが、この日は道寸公の御廟所の方の浜をユックリ散歩しながら遠回りして相模湾の景色を楽しむ事にした。
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この三浦半島の磯は場所々々で異なった風景を見せてくれて飽きない…
米が栽培できない地質なので、却(かえ)って様々な西欧野菜の栽培が盛んに成った。
東京湾と相模湾と太平洋の三方に面しているので、様々な種類の魚も獲れる。
その上、天気が良いと江ノ島~大山~丹沢~箱根~伊豆~富士山が一望出来る。
だからこそ、逗子・葉山・秋谷・佐島・三崎は明治時代~昭和中期まで別荘地として富裕層が集まった。
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そして、相模湾側は太平洋から直接潮流が流れ込む上に、人の多い湘南地区からも離れているので海水の透明度が高い。
この日は面白い写真が撮れた。
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波が、隆起した縦の地層にぶつかり真上に飛沫(しぶき)を上げる瞬間。
こんな場所をゆっくり散歩していると、岩場は段々険しく成り、そうこうするウチに❝江原が二重に勘違いして小桜姫神社と嘘の紹介をしてしまった弁天洞❞に辿(たど)り着く。
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小生はココ話しは三浦家家臣の御子孫に教えて頂いた。
一般人は探し出せないだろう。
昔からここは弁財天様が祀られる様に成ってから❝弁天洞❞だった。
先に正しい民話を教えて頂いていたので、❝霊能者気取りの人物が誤認して広めた誤った小桜姫伝説を歴史オタクの小生の知識とと三浦同寸研究会の見解で正しておく❞事にしよう。
この油壷の新井城址の弁天洞は小桜姫弁財天と言う名前では無い
ここの弁天様は昔から辨財天とだけ呼ばれていた
※何故辨財天が鎌倉文化圏で洞穴と遊水地に祀(まつ)られるか以前書いた【】の記事の中の【宇賀福神社=銭洗い弁財天】の紹介で触れているので、其れを参考にして貰いたい。
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この油壷、新井城址の弁財天様については、改めて独立記事で詳細に紹介するが、ここは❝漁師が遭難して行方不明に成った際に、折れていた弁天様の首を元通りに繋げて願掛けをしたら、行方不明に成った漁師が藤沢辺りの浜に流れ着き、生きて帰って来る事が出来た御利益の有る弁財天様❞であって、小桜姫伝説とは全く関係ない。
多分、霊能者気取りの人物は何かの明治時代の浅野と言う名のカルト宗教家が同じ様に小説❝桜の御所❞と言う本を読んで事実と誤解して書いた本か何かを更に鵜呑みにした挙句、良く調べもしないで新井城址に在る神社だから小桜姫神社として紹介してしまった訳だ
実は、小桜姫神社は油壷ではなく別にちゃんと諸磯神明社の摂社として存在する。
正確に言うと、そこは小説桜の御所の小桜姫と、地元の新井城址籠城戦の時に三浦義意公の奥方が避難した諸磯で敵勢に捕ってしった秘話が合わさり、小桜姫神社のモデルと成っている。
霊能者気取りの人間の事実誤認は御粗末過ぎて、多くの宮司様や和尚様、郷土資料を司る学芸員サンや司書サン達と交流のある小生からすれば…
「へぇ~霊能者ねぇ~(笑)」
「霊能者なら小説と本当の史実の相違点に気付くだろうに(笑)」
「まして小説の登場人物設定は金沢北条氏、この時代の北条氏は伊勢氏流北条氏で時代に誤差200年を筆者が故意に設定し事実誤認を招かない様にして下さっているのに(笑)」
「義務教育で散々習う❝鎌倉幕府❞と❝下剋上❞で勉強してる筈(はず)なのに無教養って不幸だね(笑)」
…と言った感想しか湧かない(笑)。

ところで、油壷の弁財天様は如何(いか)にも鎌倉文化圏らしい場所に祀られている。

この弁天様が洞窟にいらっしゃり、且(か)つ偶像崇拝の対象に成っているのは、三浦家や三浦半島の人々が鎌倉時代以前からの源氏の御家人であった事から、その文化を受け継いだ名残だろう。
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鎌鎌倉には銭洗い弁天=宇賀福神社と言う場所が在る。
そこを訪問すると文化の変遷に興味が無い人でも鎌倉文化の弁財天信仰には色んな神様が習合されているのが良く解る。
古代日本の豊かさの象徴の神様だったのは❝宇賀神=宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)❞だ。
宇迦之御魂神は別の漢字で❝=倉稲魂命(うかのみたまのみこと)❞と書くので、名前からしても縄文後期~弥生時代頃に米穀類の水耕栽培が始まって穀物を保存できる様に成った頃に誕生された神様だろう。
日本の神の系譜で倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は、須佐之男命=素戔嗚尊(すさのおのみこと)と神大市比売(かむおおいちひめ)の間に生まれた神様だ。
南関東の❝延喜式内社❞の古社全てが素戔嗚尊や其(そ)の御神孫の出雲系の神、又は日本武尊(やまとたけるのみこと)か伊勢系と異なる土地神様が主祭神だ。
この事実と考古学と神話の整合性から、素戔嗚尊が縄文時代から弥生時代に変革させた、つまり稲作を関東地方に導入せしめた人物が神格化さた神号(しんごう=偉大な人物に死後送られる神としての名)だろうと思っている。
素戔嗚尊が稲作を普及させた王だからこそ、その妻が奇稲田媛(くしなだひめ)と名に稲田の字が入り、子が倉稲魂命の漢字を当てられる神に成ったのだろう。
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その後、日本武尊は青銅器導入を南関東一帯に普及させて弥生時代を終わらせた人物だろう。走水神社の西暦100年代の伝承とも整合性が有る。この時代には既に先進地域だった北九州の王族達は中国と交易によって青銅器を導入していたから恐らく間違いない。古代の大将軍や関東知事として九州の叛乱を鎮定し東日本に青銅器を導入し軍事編成を整えた偉大な王子に当てられた神号が日本武尊だったのだろう。
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平安時代末期~鎌倉時代初期に成ると経済活動が米穀や海産物等の直接の備蓄出来る食物の物々交換から、❝貨幣経済❞に変わった事で豊かさの象徴が❝米穀❞から❝銭=金❞に変わった。だから源頼朝公によって財神として日本で信仰されていた宇迦之御魂神=宇賀神=倉稲魂命に、古代インドの財神である❝サラスバディー❞を漢字訳した弁財天が習合された。
だから、鎌倉文化圏や三浦半島では弁天様や宇賀神を湧水地や洞穴に祀る習慣が今も残る。

鎌倉時代~室町時代に成ると、武士達に弁財天は水神であり軍神でもある事から泉や海の航行の神様としても信仰される様に成った。
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その最も有名な場所が欽明天皇が勅願所と定めた霊場の洞穴に、源頼朝公が八臂弁財天(はっぴべんざいてん)を奉納し祀(まつ)った写真の江ノ島辨財天だろう。
関東の鎌倉御家人の関係した土地の弁天社は、この江ノ島弁財天の御分霊が多いはずだ。実際、関東の弁天社の大半は鎌倉武士団の居館跡や城址、又は武士が鶴岡八幡宮から勧進した八幡社に近在する。

幕末に成り武士の時代を変革しようとし始める維新志士たちの勢力が胎動しだす頃、伊勢神道による思想統制をされ、明治時代に成ると❝国家神道❞が正しいとされた事で水神様として弁財天と似た御神威を持つ❝一杵島姫(いちきしまひめ)❞が習合された。

明治時代に成り近代化が進むにつれて、時代遅れの印度由来~中国経由の仏教文化を否定する風潮が強く成り、更に明治政府の神仏分離令と廃仏毀釈運動で仏教経由の古代インドの神である弁財天が否定され、現存する昔は❝倉稲魂命信仰❞から始まった全国の❝弁財天❞信仰の御社(おやしろ)は❝一杵島姫❞に名を変える事に成った…

新井城址の洞穴の弁天様は遭難した漁師を生還せしめた強い霊験有る弁天様だ。
弁財天様=サラスバティー神は美の女神でもあり、2柱の男神と結婚した神話も有るので縁結びの神様としての御利益も有る
だろう。
ただし!ちゃんと小桜姫では無くて、弁財天様として崇敬すればだろう。
…それも一方的に「男と結婚させてくれ~良い彼氏と付き合わせてくれ~」と信仰心や、神社仏閣に関わった歴史偉人へのリスペクトも無くただ御願いする人は、神様にも仏様にも怒られるだろう。
小桜姫は小説の架空の人物だが、名前が小桜だったかも知れない、実在した三浦義意(よしおき)公の奥方と側室は別にいる。房総半島の小大名、真里谷武田氏の二人の姫君だ。
だから、小桜姫と呼ばれたかも知れない真里谷家の姫に縁結びを御願いする成らば、「真里谷の小桜姫様」と名を正しく呼んで、小説の架空の人物の金沢北条家の小桜姫と分けるべきだ。
もっとも、当時の女性が歴史書に名を残す事はほとんど無く、小桜姫の名が登場するのは明治時代の歴史ファンタジー小説❝桜の御所❞が最初なので、縁結びを姫君に御願いするなら「真里谷の姫様」に御願いするべきだろう。
ではどこに行けば❝三浦家の奥方様が逃げて来て敵に捕まった伝承の有る小桜姫神社のモデルに成った御社の所在地❞に行けるのか…
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明治時代に小桜姫神社のモデルに成った伝承の有る場所には、弁天洞を後にして、駐車場を戻る道すがら荒井浜の御洒落(おしゃれ)な海の家の前を通り、この新井城址を離れる必要が有る。

せっかく、小桜姫伝説(江原の嘘を含む)の場所に2箇所も関わったので、明治時代の小説❝桜の御所❞の流行で正しい小桜姫神社の❝小説のモデルに成った舞台❞として明治時代以来、地元の人々に認知されている正しい小桜姫神社にも入ってから横浜に帰る事にした。
正しい小桜姫神社の神社の位置新井城址周辺の位置関係 久良岐のよし
正しい小桜姫神社の場所は、三浦義意公の奥方が逃げて来た伝説の有る油壷湾と反対側の❝諸磯湾❞側の❝諸磯神明社❞だ。
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こちら側から湾を挟んで新井城址が見える。
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又、詳しく小桜姫伝説と小桜姫神社の真相の解説は独立記事にするが、今回は重要な事だけ書いて置こう。
江原は恐らく小桜姫神社を探そうとしたが、新井城址に神社らしいものが無いから弁天洞を小桜姫ゆかりの場所と紹介してしまったはず。
そりゃそうだ、小桜姫神社なんか昔から存在しないが、モデルに成った神社なら存在する。
だから小桜姫神社の名前を探しても見つからなかった筈だ。
しかも、明治時代の❝小説桜の御所❞の流行による観光客の増加で観光客に対応する為に小桜姫神社とされている場所も、この諸磯神明社の摂社の❝若宮社❞だから名前も根本的に違う。
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※写真は鶴岡八幡宮、神仏習合の名残で仁王像=金剛力士像が安置されたいたであろうスペースは廃仏棄釈により随神門と成っている。
※鶴岡八幡宮の東側、鎌倉国宝館や横浜国大付属小の場所は鶴岡八幡神宮寺の寺院部分だった。
※八幡宮の総本社、石清水八幡宮の本殿横には今も仏像を祀る部屋が現存し保存されている。
若宮社と言うのは、源頼朝公の時代の「鶴岡八幡宮」の事だ。鶴岡八幡宮は元々は❝元鶴岡八幡宮❞=❝由比若宮❞に在った。それを頼朝公が現在の鶴岡に社殿を造営し御遷座され奉ったので、当時の人から見て新しい鶴岡八幡宮は❝若い鶴岡八幡宮❞=❝若宮❞と呼ばれた。だから、この時代に関東で鶴岡八幡宮の御分霊を頂いて造営された八幡社は現在も名前を❝若宮八幡宮❞とか❝若宮神社❞と呼ぶ場所が多い。
しかし、八幡宮の御祭神は明治時代に成るまで❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の神宮寺だったので、歴代天皇家の価値観を否定する明治時代の国家神道による神仏分離令や廃仏毀釈と言う愚かな政策で、其の多くが破壊された歴史が有る。
だから、今残ってる八幡社の多くは御祭神の名前を❝八幡大菩薩❞から→❝八幡大神❞に変更して純粋神道の神様としたり、八幡大菩薩が習合された❝誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇❞の名を改めて主祭神とする事で存続させる努力をした歴史が有る。
だから、諸磯神明社の若宮社は❝小桜姫の神社❞とする事で存続を計ったのだろう…
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なので、世間で小桜姫神社と呼ばれるこの御社は❝小桜姫若宮社❞と呼ぶのが正しいと思う。
その御社は、諸磯神明社の本殿後方に並ぶ摂社の左側から二つ目の上の写真の御社だ。
これは、郷土史も読まないで適当な事を言う❝エセ霊能者❞には解らないし探し出せない場所だろう(笑)。
或いは本当に偽霊能者達に霊能力が有れば、ここを探し出せたろうに(笑)。

根本的な話しを強調し繰り返すが…
❝小桜姫❞と言う人物は歴史文献に一切出て来ないし、明治時代に成って初めて登場する名前だ。
史実では三浦義意公は、真里谷(まりやつ)武田家=房総半島の武田家の姫君が正室と側室として婚姻関係にあった。
この姫と、三浦家を攻めた北条家の立場を入れ替えて三浦家滅亡後に三浦半島~鎌倉を支配した北条家に逆襲し房総から攻め込んだのが正木家(三浦家分家)で、その合戦は❝鶴岡八幡宮合戦❞と呼ばれている。
この合戦や北条家と三浦家の立場を入れ替えて、かつ源頼朝公の桜の御所跡地に建つ本瑞寺のイメージと三浦義意公の新井城落城等を素材にして書かれたのが明治時代の小説❝桜の御所❞で、そこに登場するのが真里谷家の姫君と桜の御所のイメージをモデルにしたと思われる❝小桜姫❞と言う架空の人物な訳だ。
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※写真は城ヶ島の小桜観音。

だから、結婚したくて縁結びの小桜姫詣でをする女性陣には、いくつか諫言(かんげん)をしておこう
小桜姫の実家設定の金沢北条家は三浦義意公の生誕の約200年前に滅亡している、だから小説家も小桜姫を架空の人物でフィクションとして、色んな史実を混ぜて創作している事を念頭に置きなさい。

歴史家でも無いイカガワシイ人間が適当に書いた本を鵜呑みにしないで、自分で歴史書を読み込んで調べなさい。そんな姿勢じゃ❝ロクでも無い男に捕まる❞か❝結婚詐欺に遭う❞だろう。」

「確かに、弁天様や若宮社には御利益が有る、小説のヒロインの小桜姫の聖地(小説舞台)巡礼が流行したのが原因で、後に小説の存在と歴史を知らない後世の人によって、いつの間にか小桜姫が実在したと誤認される様に成ったが、実際には三浦義意公の奥方と側室の真里谷の姫がいたので、拝む事で真里谷の姫の御利益も得られるだろう。だから小桜姫の御名の下に縁結び祈願するなら小桜姫神社(神明社摂社社若宮社)で❝真里谷の小桜姫❞として拝みなさい。小桜姫と言う名が架空の名でも、正しい姓に美しい渾名(あだな)を加えるならモデルに成った真里谷武田家の姫様も喜んで願いを叶えてくれるだろう。」

油壷の弁天様は小桜弁天では無く弁財天なので❝弁財天❞として拝みなさい。

「普段から歴史や神様や先人に対して無関心な癖に願い事だけしている、その利己的な姿勢が出会いを遅らせるのでは?態度を改め、普段からの歴史と伝統を大切にして神社仏閣を御参りしなさい。」

「エセ霊能者に一々影響されず、利己的に縁結び巡礼するだけでなく、普段から自分の祖先神の氏神様と守護仏、或(ある)いは自分の崇拝する教会やモスクの神様を大切にして普段から信仰と文化と歴史を大切にしなさい。

まぁ、それだけ熱心に願掛けする情熱が有るなら、普通に普段から文化と伝統を大切にして、通りがかる神社仏閣を御参りしながら利己的な願掛けじゃなくて日常的に神様と仏様と御先祖様を大切にしてれば、歴史好きな男性や神職や跡取り和尚様等と知り合い、そこが男性との出会いの場に成るかもよ?

…そんな説教をしたく成る女性の何十人もの集団を見かけた三浦旅行最終日だったが、色んな神社の宮司様や御寺の和尚様と交流の有る歴史オタクの❝説教❞としてはそんな所かね。

帰りは横須賀PAで好物の日本蕎麦を食べて帰った。DSC_3598
信仰の在り方や、神社仏閣や先人に対する姿勢を考えさせられる最終日だったが、実際に廻った場所全て素晴らしく、行く先々で関わった人々も優しく親切で沢山色んな話を出来て良い三連休を過ごせた。

前回07月10日の休日雑記の続き。

07月11日の朝は、宿泊先の三崎漁港のホテルで迎えた。
ビジネスホテルでは無くPCを置くスペースが無く、酒や菓子を広げる程度のテーブルしか無かったので、夜は良く眠れた。
朝、5時頃目が覚めただろうか?
この日の朝はホテルの朝食時間の7時過ぎまで、ドライブ&対岸の城ヶ島散歩を楽しむ事にした。
出発時、当初は大好きな城ヶ島公園の方を散策するつもりだった、そちらからは富士山も見える。
しかし、城ヶ島へ渡る連絡橋を走っていて…
「いつもと反対側、そう言えば行った事無いなぁ~?」
…と気に成ったので、公園駐車場との分岐点でハンドルを切らず、正反対の島の西側に行って見る事にした。
城ヶ島周辺
「どうせ開拓するなら思いっきり反対側が良い!」と思い、本当に真西に向かって車を走らせると暫くして東側とは違う何やら昼間なら賑やかそうな商店街が見えて来た。
その商店街の辺りの駐車スペースに車を停めて散策する事にした。
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最初に来たのが❝楫(かじ)の鼻❞と言う岩礁辺り。
この地形を見ると三浦半島は南西から地盤が押し上げられ隆起し、北東は東京湾に向かって沈下しているのが
一目瞭然だ。地層が斜めに立ち上がっている。
この楫の鼻の地名の由来に成った場所が有る。
この岩礁の手前がその場所。
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楫の三郎山。
三崎町の鎮守、海南神社の御祭神でもある藤原資盈(すけみつ)公が関東に亡命して来る際に、船の楫(かじ)を操船していた三郎と言う家臣が、資盈公の安住を祈願した伝承に由来する場所。
大正時代位まで大蛇が住んでいるから登ってはいけないと言って人々は崇拝対象としてだけ拝んでいた場所らしい。
頂上には楫三郎の神社が在った。
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なんか、名の有る武将の御廟所の様な造りで普通の神社とは又違う。
思うに、ここ実は菅原資盈公か楫三郎の御廟所なんじゃなかろうか?
ならば大蛇伝説が有った事が理解できる。
さて、三浦半島の崖地には、そこかしこに黄色い綺麗な花が咲いている。
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供えられていた。
余り花に関する知識が無いので解らないが、多分、ユリ科の植物。昔から気に成っていたが、三浦半島では良く見かける花だ。
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少し歩けば直ぐに見つける事が出来る。
楫の三郎山を離れ、細い商店街の路地を抜け、港屋や城ヶ島京急ホテルと言う風景の綺麗さで有名な宿泊施設の有る方に歩いて行くと、城ヶ島西側の灯台がある。
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灯台のの前は西洋式の庭園に成っているのだが、多分、カップルの観光客を呼びこむ為に作られたであろう西洋式の庭園だった。
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早朝で観光客はいないが、灯台が開いてる時間にくれば人が多いのだろうか?
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池には綺麗な蓮の花が咲いていて、何とも西洋と東洋の混じった不思議な空間だが、赤い花弁が白い庭園にマッチしていて雰囲気が良かった。
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綺麗だな…。
ここ城ヶ島灯台は明治時代に建設された場所で、云わば建築遺産でもある。
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漁船や太平洋を往来する船達の安全の為に建てられた場所で有るから、当然古い習慣の安全祈願も残っていて、庭園内には恐らく灯台より先に、この丘の住人だったと思われる御地蔵様もいらっしゃった。
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末永く旅人と地元民を御守護下さる様に御参りして、散歩を続ける事にした。
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城ヶ島灯台の遊歩道を西側に抜けると素晴らしい眺望に行き当たる。
その周辺に城ヶ島京急ホテルや、港屋が在る。
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途中、真っ赤な素敵な大人びた雰囲気の花も咲いていた。南方の植物だろうか?
今回、こちら側に来たのは偶然だったが、とても景色が良く東側城ヶ島公園も素晴らしいが甲乙つけがたいと言うのが正直な感想だろうか?又、こちら側には宿泊に来たいと思う。
小桜姫観音周辺 久良岐のよし
位置関係は衛星写真の通りで、一目瞭然、どの旅館も眼前に磯と海が広がり素晴らしい景色を部屋から楽しめそうだ。
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小生は城ヶ島京急ホテルの前の遊歩道を歩く事にした…
遊歩道に縁結びの聖地❝小桜観音❞と書いて有ったので気に成ったのも有るが、楫の三郎山から此方(こちら)側を見た時に素敵な遊歩道が設置されており、そこに沢山のユリ?が咲いていたので歩きたいと思ったのだ。
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ふむ。やはり雰囲気の良い遊歩道だ。
❝観光橋❞と、言う名らしい。
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橋の傍の崖には沢山の鼻が咲いている。
小生、元来、梅の花が一番好きなのだが…
どうやら蝋梅(ろうばい)、山吹、そしてこの三浦半島の海岸に群生するユリの様な黄色い花の写真も沢山撮っているので黄色い花々も好みらしい。
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実に明るい、なんだか南洋の島の女性の様な雰囲気の、笑顔を振りまいている様な花だ。
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この橋の上からユリ?の花の崖伝いに奥の方へ眼をやると、何だか御社らしき物が目に留まった。
どうやらアレが小桜観音のようだ。
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橋の上から澄んだ海を見ながら、御社を目指した。
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近くに行くと何やらホタテ貝に恋人同士で祈願を書いた絵馬?代わりの願掛けがされていた。
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どうやら洞穴に作られた御社の様だが、名前も観音様であり周辺に石塔が有るので、神社としての機能は極最近に設けられたのだろう。本来は小桜観音と言う名の通り仏教的な聖地霊場だったのだろうか?
後で調べたのだが、ここは小桜姫伝説の舞台らしい。小桜姫と言うのが小生はパッとしないのだが、戦国時代の三浦家所縁の御姫様らしいと言う事は解った。
ただ、平安時代~戦国時代の三浦家滅亡までの主だった御寺の住職様や神社の宮司様と直接面識の有る小生の知識をフル稼働しても、その様な人物は三浦家には実在していなかった。
どうやら小生の尊敬する三浦荒次郎義意(よしおき)公の奥方とか側室とか伝承が有るようだが、歴史上、小桜姫と言う名の奥方様の記録は無い。
三浦義意公の奥方は本妻も側室も房総半島の小大名、真里谷(まりやつ)武田家の姫君だけだ。
民間信仰として小桜姫と名が伝わっているこの伝承の理由、この後に書くが三浦同寸研究会副会長と面会した際に、副会長の御教授と小生の知識で詳しく解る事に成った。
姫様の名前の由来は置いておいても、三浦義意公には確かに真里谷家の奥方様がいたので、その方がモデルで有るかも知れないし、仮に小桜姫として拝んでも真里谷の姫を拝んでいるのと同じ事…
きっと縁結びの御利益は有るに違いない。

散歩を進めよう。
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車に戻る途中で、商店街の港屋の支店売店の前に大量に海藻が干してあった。
天草(てんぐさ)だな。
これを煮詰めて干して寒天の原材料にする訳だ。
寒天は現在ではカロリー0のデザートとしても重宝されている。小生も御世話に成っている。
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看板を見て気に成ったのだが港屋サンではどうやら、ヤドカリをアマ蟹と言う名で料理して提供しているらしい。
気に成るので次回食べに来ようと決めた。
早朝の5時過ぎ~7時半位の約2時間の散歩だったが、綺麗な花と海を見て、思いがけず三崎町の歴史に深い関わりの有る神社と観音様を御参りする事も出来て気分良く一日の始まりを迎える事が出来た。

宿に帰ると既に朝食の準備をして下さっていた。
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小生は働く時間が不規則なので、宿に外泊する時の和食の朝食がとてもありがたく美味しく感じる。
特に三崎はマグロと干物が名物なので、このエボダイも大変美味しく頂きました。
「美味しいよ」と宿の朝食調理担当の叔母ちゃんに御礼を言うと、そこから打ち解ける事が出来て談笑しながら三浦の事を色々話しをした。
すると来週(07月16日土曜日)は三崎町の鎮守、海南神社の例大祭でとても賑やかだから是非にも見たら良いと勧められたので、翌週も来る事に決めた…
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部屋に戻り、壁の絵画を見ながらチェックアウトの準備をして、散歩でかいた汗を流す為に大浴場で贅沢な朝風呂を浴びてから、少し仮眠してチェックアウトの時間を待つ事にした…

②へ続く。









前回07月09日の休日雑記の続き。

3連休をとり、初日09日は横須賀市汐入に宿泊して横須賀の軍港の風景とドブ板通りの異国情緒とネイビーバーガーを満喫。
翌朝は早くから宿泊地周辺の町を散歩、ヴェルニー公園、ドブ板通りの人気の少ない風景を満喫した。
余り知られていないのだが、実は横須賀鎮守府(現:アメリカ第七艦隊基地)やドブ板通りには明治天皇が行幸した歴史が有る。
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だから、宿泊した地域には飲み屋街だけでなく、そこかしこに明治天皇の聖跡(せいせき=天皇や神格化された人物の史跡)が残っている。
例えば宿泊したハーバー横須賀は汐入駅の近くに在るのだが、この1本裏手の汐入駅前の通りは明治時代の横須賀街道の明治の新道なので、まだ当時横須賀港が埋め立てられ拡張される前に新道に掛かっていた橋が形式的に保存され、明治以前、平安京に住んだ歴代天皇には余り考えられなかった明治天皇の御幸(みゆき=行幸=天皇が出掛ける事)の古址である事を示す石碑も残されている。
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橋の名前もそのまま御幸橋。
日本全国に在る❝御幸通り❞や❝御幸通り商店街❞と言う名の場所は、日本国民の近代化を鼓舞し幕末の旧幕臣の子孫を慰問したりする為に明治天皇が日本全国旅した時に通りがかった名残を道路名に冠している場所が少なくないはずだ。
さて・・・
この橋(跡=暗渠)を過ぎ、汐入駅前も通り過ぎてドブ板通りに入ると、ドブ板通りの少し外れにも明治天皇の史跡が在る。
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明治天皇が宿泊した行在所(あんざいしょ)の跡地だ。
この石碑はSURF TAKOと言うネイビーバーガーの名店の直ぐ近くに存在するのだが、写真で、この道と十字路に成って左右を貫いているのがドブ板通り。
この石碑を真っすぐ上がって行くと階段の上に❝御幸学園幼稚園❞と❝諏訪公園❞がある。この同じ壇の削平地一帯が、明治天皇が横須賀鎮守府に御来訪された際の御宿泊所=行在所だった訳だ。
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諏訪公園周辺は宅地化されたり学校建設で削平地の空地も縮小しているが、明治天皇の行在所だった事を後世に伝える石碑はちゃんと建っている。
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残念ながら、小生の横須賀在住の知人達は、この聖跡の存在を知らなかった。
ハマっ子の小生に教えられて驚いていた。

一しきり朝の散歩を終えて、ホテルに戻って入浴し、この日の行動計画をGoogle MapをPCで開いた。
昼前にランチに行って見たかったホテルランチバイキングの食事に観音崎に向かい、その後、三浦半島で日本武尊神話の残る東海岸の風景と無人島を楽しむ行動計画を時間軸で再計算し、無理が無い事を再確認…
11時に宿泊していたハーバー横須賀をチェックアウトして、この日の予定を楽しむ為に車に乗って出発した。

左手に宮崎県の日南に来たんじゃないかと錯覚する様な馬堀海岸の美しい遊歩道ごしの海の風景を楽しみながら車を走らせる事20分くらいだったろうか?
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最初の目的地は観音崎京急ホテル。
明治~昭和の観光地として有名だった観音崎の美しい景勝地に建つ、料理が美味しい事で有名なホテル。
実は小生の実弟は、ここで結婚式をあげている。
ランチに来た事が無かったので、絶対に来たかった場所の一つだった。
この付近には走水海岸の❝かねよ食堂❞や❝縁結びの走水神社❞、明治の観音崎要塞の史跡群や❝観音崎灯台❞と❝多々良浜❞等があり、正に昭和のリゾート地だった事を納得させる店や場所が多い。
今挙げた観光地は全て❝カテゴリー「旅行(風景/お祭り/食事/買物)」の中の「景勝地・公園・映画ドラマのロケ地」❞か❝カテゴリー「Restaurant/Jazz-Bar/Bar/Hotel 」❞の中に過去に書いた紹介記事が有るので、御興味有る方は其方(そちら)を御覧頂きたい。
さて…
この観音崎京急ホテルは観光ホテルなのでロビーに入ると三浦半島の物産がいきなり並んでいる。
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だから、御土産にも事欠かない。便利。
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現在はアニメか何かとコラボもしている様だ。どこも観光客誘致に熱心だ。横浜の大仏次郎記念館も似たような文豪なんちゃなかんちゃらってアニメとコラボイベントを行っていたな、確か。
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ランチバイキングは浜木綿(はまゆう)と言う、三浦半島を代表する植物の名を冠したレストランで食べる事が出来る。
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ホテルのレストランだけあって、落ち着いた内装で綺麗なのだが…
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この日は、どう言う訳か年配の御姉様方が大挙押しかけてらっしゃって、少々混雑して落ち着いた雰囲気ではなかった(苦笑)。
しかし、このレストランの眺望は素晴らしく…DSC_3207
眼前には東京湾の略(ほぼ)出口に位置する観音崎の綺麗な海が見える。
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何か知らないけれど、この日はパスタやパンを食べずにサラダと肉料理を沢山食べた。
無論、美味しかった。
この付近の走水が嘗(かつ)て、倭建命(やまとたけるのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)の夫婦神が房総半島目指して渡航する際に立ち寄った聖跡だったりする。
そんな訳で、この日のメインの訪問地は無人島猿島だったのだが、乗船する桟橋に移動する前に走水神社に用事も有ったので立ち寄った。
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用事は二つ有り、一つは海外から失恋💔して帰国した女性後輩が良縁に恵まれる様に、ソイツの縁結びを代理で行う事。
もう一つは、もう何回も来ているのに未(ま)だ御朱印を頂いた事が無かったので、御朱印帳に走水神社の御名前を加えさせて頂く為だった。
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御朱印に関しては既に色紙に書いて頂いた物を、倭建命と弟橘姫様の御分霊を頂いた心算(つもり)で大切にしているが、最近、延喜式内社と延喜式外社を再訪し御朱印を頂いて回っているので、自分の用事では無いが良い機会だった。
この走水神社も以前記事に書いているので、❝カテゴリー「寺社/仏閣/城址/有形文化財/伝承と伝統文化」の中の「神社(延喜式式内社と歴史千年以上の古社)」❞から探して貰えば縁結びの御所ヶ崎の砂の事を含めて書いて有るので興味が有る方は、そちらも見てくれば詳しい事が書いて有る。
さて…
猿島に渡るには、先ず、以前も紹介したが対馬海戦で東郷平八郎元帥が乗船し旗艦として活躍、現在は世界三大名鑑に選ばれて保存されている❝三笠公園❞に行く必要が有る。
三笠公園も以前の❝カテゴリー「戦艦」❞で記事に書いた。
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しかし、この日は観音崎京急ホテル同様に何故か、いつもは空いてる三笠公園駐車場が満車で、付近を車でグルグル廻り空き駐車場を探す羽目に成った…
SAIKAYAパーキングと言う場所に行き着いた。
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何か良く解らんが、アニメオタが好きそうな女の子をイメージキャラクターにしているらしく困惑したが、猿島フェリーに乗船すると駐車料金割引に成るらしく、非常に助かる。
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でも何か入り難い駐車場だ(笑)。しかしながら良い目標物には成りそうだな。
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乗船する桟橋は、戦艦三笠の真横、発券所もその近くにある。
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駐車場が満車なだけあって、フェリーも乗船客でごったがえしていた。
フェリーに乗るのは仕事で香港⇔深圳を行ったり来たりしていた頃以来、少し楽しみだった。
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出向すると海風が実に心地よい。
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乗船10分足らずだったろうか、あっと言う間に猿島に到着した。
凝灰岩の島。落石も多いが、要塞を作るには適している。
現在では緑豊かな島、そして法華宗とにとっては法華の大家の1人である日蓮宗祖師、日蓮上人所縁の霊場でもある。
しかしながら夏の猿島は…
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BBQを楽しむ若者達で賑やかです。
う~ん、猿島なんて絶海の孤島で鎌倉時代に修行の必要を感じた日蓮上人や、日本の守る為、首都東京を守る為に要塞としての猿島に赴任していた明治時代の軍人さん達は、今の風景を見ても怒りはしないだろう…
寧ろ、日本の国力が充実し自衛隊の防衛力が高まり、嘗て戦場で干戈(かんか)を交えた日米が連携して外敵が領海に入らない様に防衛している事で、横須賀近隣の市民や外国籍の観光客が幸せそうに一緒に余暇を過ごし、カップルは手を繋ぎデートしているのを見れば、走水の倭建命や弟橘姫様と一緒に喜んで彼等を見守って下さるんじゃないかと思う。

さて、この猿島、真偽の程は不明だがジブリアニメの❝天空の城ラピュタ❞でロケハンされた場所だとされている。
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豊かな自然と、コケ生(む)した煉瓦の要塞が何とも不思議な感じがする。
空気はすこぶる清々しく、鳥達の囀(さえず)りも癒される。
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とは言っても要塞なのだから当時の施設は軍事に関する物で、史跡として保護されている事も有り一部展示用に其(そ)の儘(まま)残っている。
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弾薬庫。
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このトンネル群は立坑もあり、上部の砲台に繋がっている。DSC_3287
円形の場所が砲台の跡。
現在では砲塔は撤去されているが、当時を偲(しの)ぶ有る工夫がされていて…
現地に看板をちゃんと読んで学習しながら散策しているとある事に気が付ける。
実はスマホアプリのQRコードが掲載されている説明書きが有って、そのQRコードからとあるアプリをダウンロードすると…
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スマホに映る風景に、当時の観音崎砲台の大砲や、ここ猿島砲台の大砲を画面上に再現出来る。
これを知っている観光客は少ない。
…と、言うか小生も知らないで来て説明板全て読んでいたら、その一つに仕掛けが有るのに気が付いた訳だ。
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自然を感じながら要塞を見学出来て良かった。
ただ、観音崎要塞の方が規模は大きいようだ。
観音崎要塞は以前、❝カテゴリー「近代西洋建築と文化/鉄道/艦船/史跡 」の中の「近代要塞/港/空港」❞で紹介して風景写真も掲載してある。観音崎には灯台もあり風景もより綺麗だが猿島はBBQやキャンプが出来る分、レジャー観光地としての楽しみが有って若者向けかも知れない。
海を楽しみたいのなら、猿島の方が良いだろう。
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釣りも禁止ではないようだ。
島の磯側には日蓮洞があって鎌倉時代の日蓮上人が修行をした史跡でもある。DSC_3299
日蓮宗の人にとっては訪れる価値が有る場所なんじゃないだろうか。
もっとも、落石が有るので進入禁止。
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他にも船着き場近くの休憩所には、猿島史跡に関する解説の常設展示が有って歴史好きには、こちらも楽しめる。
ふむ…
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有意義な時間を過ごせた。
猿島を離れ、あの怪しいSAIKAYA駐車場に移動する時、三笠公園から米軍横須賀ベース方向に繋がる歩道の噴水と池があるのだが…
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花が綺麗だった。
こんな↓碑文も在ったりする。
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童謡❝めだかの学校❞を作曲した茶木滋サンは、この横須賀市汐入の御出身だそうだ。
ここは何回も通っているのに、まじまじ読んだ事が無かったので良い発見に成った。
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SAIKAYAパーキングの近所が横須賀米軍基地で、信号待ちしてるとSEE YOU AGAINの看板が見送ってくれる。
アニオタSAIKAYAパーキングから車を脱出させ、この日の宿泊地である三崎漁港に向かって出発…
三浦縦貫道路と言う有料道路を使うと近いのだが、小生が好きで以前は毎週の様に散歩に来ていた三浦海岸駅から近い琴音浜を訪れた。
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ふむ、ここは変わらない。落ち着いた優しい海だ。
少し潮風に当たってから出発…
江奈漁港を経由して三崎漁港に行く事にした。
江奈漁港は江奈湾と言う荒々しい磯の海岸で、昭和中期くらいまでは富裕層が散歩に来たりする海岸沿いに遊歩道が有った。現在は自然の景観を壊す事から撤去されているが、小生は現在の江奈しか知らないので寧(むし)ろ自然の豊かな今の景観が好きだ。
…心が疲れていた時に頻繁に磯遊びに来ていた江奈漁港。
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この海と、当時の彼女にだいぶ救われた。
海に感謝をして、直ぐに三崎に出発。
途中、剣崎灯台の辺りには風力発電の風車が在ったりする。
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この付近からは、天気が良くて海上の水蒸気が少ないと富士山が綺麗に見える。
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たまたま雨天の翌日の快晴で、雲のかかり具合も水墨画の様に綺麗な夕時の富士山が見える事が出来た。
手前の延々と続く農地の風景も癒される…
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三崎漁港に着くと、既に宵の時間に成ろうかと言う頃だった。寄り道し過ぎたか?
宿泊するホテルは三崎漁港の市場の目の前。
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宿はサンポート三崎と言う、船員会館の様な船乗りの保険組合の保養所なので、1泊2食付7500円と格安だった。
ここは外観よりも内装が綺麗。
❝じゃらん❞で予約したのだが、
御酒を楽しみたい人やマグロの珍しい料理を食べたい人は、朝食付きだけのプランで宿泊して、三崎や城ケ島の商店街の寿司屋やマグロ料理専門店に行くのも良いと思う。
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小生は連休最大の目的が、翌日7月11日が油壷にあった新井城落城日から500年に当たるので、尊敬する武将の1人である三浦義意公の御廟所に献花する為に三浦に来た。
三浦に行くなら普段横浜から近く見落としがちな場所も宿泊して探訪してみようと思い立ち、横須賀や三崎に宿泊を決めた訳だ。
このサンポート三崎は家族連れや外国人の宿泊も想定しているのか、色んな柄の浴衣を自由に選べるシステムだった。
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これは女性が喜びそうだ。
部屋も綺麗だった。
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1人でツインに泊まっても仕方ないんだけどね…
ここしか空いて無かった。でも部屋の清潔感はそこそこの値段のホテルと同等くらい。
しいて言えば、コンビニが徒歩5~6分と微妙に離れているのと、料理屋の多い三崎銀座商店街も徒歩10分位離れているのが弱点だが、車で来ているので寧ろ、油壷~三崎町~城ケ島と廻る拠点には打ってつけの立地だった。
日曜日の朝にはホテルの目の前で朝市も開かれる。
食事前に、好きな三崎の商店街をフラついてみた。
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平日月曜日なので客はまばら…
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この❝黒羽亭❞はTVに良く出るマグロ料理の専門店で、目玉とか変わった部位も食べれる。
寿司が食べたい人に一押しの店が、黒羽亭の左隣の❝紀の代❞
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ここもマグロ水揚げ漁港ならではの変わった部位、マグロの皮や白子なんかも食べれるし、御店主は寿司職人としての技術も確かで人気店でもある。
小生は寿司を食べたくなると良くここに来る。
この2店は以前❝カテゴリー「和食全般/居酒屋/懐石料理/旅館」❞で紹介している。
腹時計が夕食を欲っする時間に成ったのでホテルに戻り、食堂で夕食を頂いた。
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この日の夕食の献立は、備長マグロの鍋やマグロの御造り、魚料理が数品と、写真とは別に汁物と御飯がついている。
一人旅には十分贅沢だ。これで7,500円は素晴らしいと思う。
三崎の商店街を散歩中に提灯が飾ってあったのが目に留まったので、ホテルで質問した所、2016年は7月16日が三崎町の鎮守、海南神社の例大祭だそうだ。
これを聞いて翌週の再訪を決めた。

翌日11日の休日雑記へと続く…











前回、前編で油壷マリンパーク一帯が戦国時代初期に日本史上最長期間の約4年間の籠城戦の舞台に成った新井城址だったと紹介しました。
※前回の新井城址の記事「ココ」←クリック!
その時に少し触れましたが、この新井城址でもある、現在の油壷マリンパーク周辺は若い人は知る人も少なくなりましたが、昭和の初期~バブル期頃、ヨット遊びをする富裕層にヨットハーバーとして人気だった場所でもあり、そして風光明媚な場所として明治時代から有名な観光地でもありました。
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その景色は❝かながわの景勝50選❞の一つに選ばれています。
小生の景勝地カテゴリーの他の記事にも、いくつかかながわの景勝地50選に選ばれている所もあるので、綺麗な風景に興味の有る人は見てみて下さい。
油壷マリンパークの手前に、この油壷湾に降りる遊歩道の入口が在(あ)ります。
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ちょっと解り難い、この場所が遊歩道の入口です。
ごちゃごちゃ民宿の看板が有る場所を目標にして下さい。
ここを歩いて行くと、新井城の解説や油壷の説明の看板が所々に有るので、それを見ると、この地域の事が少し解って良い散策に成ります。
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こんな感じ。
で、さっきの神奈川の景勝50選の石碑の場所は、エメラルドグリーンに光る油壷湾の入江地形を観察できる場所でもあります。
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ここの地形は変わっていて、三浦半島の西の端っこに、更に小さい半島が3つ分岐して並んでる珍しい場所なんですね。その3つの半島が更に小さい半島に分かれています。
新井城周辺 久良岐のよし
義務教育で習うリアス式海岸と言う地形です。
この半島の御蔭で入江が形成されており、波が穏やかなのでヨットハーバーとして人気な観光地だった訳です。
石原裕次郎さんや加山雄三さんが若い頃に、逗子マリーナや葉山マリーナや、この油壷ヨットハーバーに船で遊びに来ていたらしいです。
世代が違うので、聞いた話ですが。
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因みに、油壷マリンパークは現在も若いカップルに人気の水族館でイルカのショーを関東でもいち早く行った場所でして、皇族の秋篠宮殿下と御妃に成られた紀子様が若かりし頃にデートをされた場所でもあります。
因みに、当時、お二人が召し上がったのがカツカレーと聞いて「庶民的だなぁ~」と子供ながらに思いました。

さて、今回はメインは油壷の風景なので、マリンパークや港の話題はここまでにして、遊歩道と海岸の風景写真を紹介していきます。
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油壷周辺の散策路については、上の写真の看板がマリンパーク手前200m位の所にあるバス停留所に有るので、写メ撮って参考にして見て下さい。
無論、この画像を拡大して見ても良いと思いますが不鮮明でしょう?
油壷は、バブルが弾けて以降、大分と過疎ってますのでバスの運行数も少ないので先にチェックして置いて下さい。
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本当に少ないです。
駐車場はマリンパークの前にも有りますし、この停留所は平日は確か駐車無料かな?
小生はこのバス停前の駐車場を利用しました。
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で、遊歩道の先程の場所に話を戻します。
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ここは、明治の文豪にも愛された景勝地だったので、歌碑が立っていたりします。
そして、小田原に居住していた北原白秋が、この三浦も愛して三崎町に住していた時代も有り三崎町から程近い、この油壷を好んで散策に来たそうです。
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まぁ、本当に海岸を歩くと綺麗ですからね。
この歌碑を過ぎ遊歩道をズンズン歩いて行きますと…
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この分かれ道に出ます。
この道を右に降りて下さい。
そうすると…
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この砂浜に出ます。
この砂浜は両脇が岩礁の磯でして、その風景も又綺麗です。
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この磯が関東大震災で隆起した、明治時代には海底だった場所ですね。
この磯の横には、何かホテルっぽい建物も有りましたが営業はしていませんでした。
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冬だったので、夏に行けば何か有るのかも知れませんね。
その建物の手前には、遊歩道入口に書いて有ったBBQ施設か海の家と思しき建物も有ります。
多分、ここは若い人にはマイナーな砂浜なので、海水浴シーズンもゴチャゴチャせずゆっくりできるんじゃないかと思います。
砂浜の反対側を見ると、素敵な民宿が在ります。
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この民宿、ロケーション最高なので彼女彼氏とデートで宿泊に来ても、小さな子供連れの家族で来ても、海水浴シーズンには良い休日を過ごせそうですね。
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少し不便な場所に在るけれど、外観は本当に素敵でした。
多分、料理も三浦の地魚を出してくれるんじゃないでしょうか?
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手前の海の家みたいな場所は、冬も営業しているようですが、何か人がいませんでした。
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でもメニューは置いてあった。
今度行ってみよう。
この砂浜を降りてきた方向と反対に行くと、又、上に上がる道に出ます。
で、さっきのマリンパークの入口の横に出て来ます。
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上に上がらなくても、そのまま海岸を通っても遊歩道を真っすぐ行けばマリンパークの入口に行けます。
この入口を真っすぐスルーして行くと、反対側の海岸から登って来る遊歩道にブチ当たります。
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その遊歩道の入口の近くには、この新井城址の石碑と、三浦荒次郎義意(よしもと)公の顕彰碑が建っています。遊歩道を歩いていても、この石碑には辿り着けないので、写真を撮りたい人はマリンパークの駐車場の辺り、マリンパーク正門の右の方を探してみて下さい。
この三浦義意公は、落城寸前で敗戦が決定した最後の突撃の際、長く太い棍棒に鉄板と突起を張り付けた金棒を振り回し、北条方の敵兵300人を殴り殺したり海に突き落として討ち取った猛者でした。
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反対側の海岸へは、さっきの海辺を歩いても回ってこれますが、マリンパークの前を突っ切っても辿りつけます。
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こちら側は、うっそうとした三浦半島の植生を観察できます。
そこから回ると、三浦道寸公の御廟所も在ります。
ここはとくかく風景が綺麗なので、マリンパークだけ見て帰るなんて勿体ない事しないで、もし、油壷に来る機会が有れば是非!海辺も散歩して見て下さいねぇ~♪

ではでは!
又、次のブログ記事で!





実は、神奈川県には日本の歴史上最長の4年間もの長期間に及んで継続包囲された城、つまり防御力に優れた堅城が存在した事を知る人は歴史オタク以外には現代では余りいません。
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その名も新井城です。
そして、この新井城は戦国時代の幕開けに関与した佐原三浦家の御城なのですが、その佐原三浦家の事と戦国時代が如何にして始まったかも学校では教えないの根本的に三浦家が戦国時代まで存続していて大名だった事すら知らない人が多いのですが…

神奈川県と東京都と埼玉県と千葉県

…この地域が戦国時代の始まりの地域である事を御存知の方は全国的には少ないと思います。
更に言えば、鎌倉市浄明寺地区が戦国時代の幕開けと成った永享の乱の舞台で有る事を知る神奈川県民も非常に少ないのが現実です。
そこで、新井城の風景写真を見る前に、先ずは当時の歴史状況を解説したいと思います。
足利持氏邸古址周辺 久良岐のよし
この戦国時代の幕開けに始終関与したのは鎌倉の将軍=鎌倉公方と、その鎌倉公方と対立したり支持したり離合集散を繰り返した2家の大大名と1家の大名です。
それが…

鎌倉公方足利持氏→鎌倉(古河)公方足利成氏。
二つ両引き
足利家の二つ両引き紋

山内上杉家:今の埼玉県北部~群馬県~新潟県の大名達を支配した室町幕府(京都の征夷大将軍)の直臣。
扇谷上杉家:今の神奈川県~東京都~埼玉県の大名達を支配した鎌倉府(関東東北を治める将軍)の直臣。
竹に雀紋
上杉家の竹に雀紋

三浦家:今の神奈川県中部~三浦半島が所領の大名で平安時代以来の古豪。
三つ引き両紋
三浦家の三つ両引き紋

…以上の大名達の政権争いに鎌倉公方の室町幕府将軍への反抗心が大規模な戦乱に繋がり、そこに室町幕府の将軍に成る権利をクジ引きで引き当てた足利義教と駿河今川家の介入が加わった事で、今度は関東の武士団が反上杉独裁体制で蜂起し鎌倉公方足利持氏公に加担し、戦国時代の幕開けと成りました。
この政治的要因の舞台が鎌倉に在った事の他に、戦国時代が始まる切っ掛けは日本産の銀相場の世界での暴落、地球規模で気候が小氷河期の様に成り作物が取れなかった事も関係が有りました。
つまり纏めると…
戦国時代は、以下の様にして起き段々と西日本へと波及して行きました。
小氷河期で作物が取れず政治が乱れていた時に、足利幕府征夷大将軍4代目の足利義持公の急死で、くじ引きで将軍に成った足利義教への諸大名の不支持。それに因(よ)る鎌倉公方足利持氏と征夷大将軍の対立。
征夷大将軍と鎌倉公方をそれぞれ支持する大名同士の対立。
銀相場の下落が、貨幣価値の混乱を招き、庶民が土蔵(両替商や金貸し)を襲った❝嘉吉の土一揆❞や、応仁の乱の京都市街戦で関西中部中国地方の武士による京都の商人や寺院への略奪で、経済の疲弊した馬借(陸運の物流商人)や寺院と庶民が権利回復の為に連合して起こした❝山城国一揆❞等に繋がって行きます。
三浦家勢力 久良岐のよし
※地図上の城は大まかに有名な場所だけ表示。
そんな戦国時代に最も早く入り、領土争いを繰り広げたのが伊豆の伊勢家(後の北条氏)と、現在の伊勢原市~三浦半島辺りまで支配していた三浦家の抗争です。
この抗争の発端は、古河公方と今川家の外交戦略によって起きました。
今川家と今川家臣だった北条(当時の姓は伊勢)家は、永享の乱で室町幕府に滅ぼされた鎌倉府公方足利持氏公の遺児で古河公方と成り、今の埼玉県の久喜市栗橋に在った栗橋城や古河城に居た足利成氏公を支持していました。
永享の乱については以前、榎下城の紹介記事にも少し書いています。
※永享の御興味有る方は「ココ」←クリックして榎下城の記事を御覧下さい。
鎌倉公方足利持氏公は切腹させられたものの、遺児の成氏公は後に幕府の8代将軍足利義政公により承認され鎌倉公方に成りました。しかし、御父君を切腹に追い詰めた関東管領上杉家との対立は解消されず、その後、関東管領上杉家連合vs鎌倉(古河)公方足利成氏連合の大規模な戦争に発展します。
それが、❝江ノ島合戦❞です。
この戦いでは鎌倉公方郡に付いた関東諸大名の活躍で、上杉家連合軍は敗北します。
そして元は鎌倉公方派であった扇谷上杉家が、山内上杉家と再び対立する事と成り、扇谷上杉家は古河公方に近づき、今川家と伊勢(北条)家も古河公方を支持しています。
その事が伊勢家が、古河公方と対立する伊豆の堀越公方を責める大義名分と成りました。
しかし…
二つ両引き竹に雀紋
しかし後に、古河公方と山内上杉家が和睦してしまった事で、山内上杉家が支持していた堀越公方から伊豆を奪った伊勢家は、伊豆支配の大義名分が無くなりかねない事態に陥りました。
それまでは三浦家と伊勢家は共に山内上杉軍と戦う事も有る盟友だったのですが、対立せざるを得なくなった様です。
二つ両引き竹に雀紋三つ引き両紋
    VS
 三つ鱗紋
伊勢家は伊豆支配の正当性を主張する為(ため)に鎌倉幕府執権北条家の伊豆に残っていた一族に婿養子に入る形式をとり名跡を継ぐ事で、その支配の正当性を保ちました。
これが、切っ掛けで伊勢家は2代氏綱公より北条氏綱を名乗る事に成り、1509年に古河公方足利家の内紛、❝永正の乱❞が勃発した混乱の中で、今川家からも独立し単独で大名と成り、領土を相模国へと広げて行く事と成り、岡崎城を巡って三浦家と北条家が争って行く事と成りました。
そこで、もう一度、この時点での神奈川県内の各大名の支配する城を見てみましょう。
三浦家勢力 久良岐のよし
この頃、上杉家も伊勢原市や厚木市に拠点が点在し、三浦家の拠点も岡崎城まで保持しています。
しかし、岡崎城を巡る攻防は断続的に10年間続いた後、等々、北条家によって陥落させられて、三浦家は東の今の三浦半島の付け根に位置する逗子市に在った住吉城にまで後退します。
この岡崎城も又、断続的とは言え名将北条早雲公が攻略に10年を要した事から日本屈指の堅城だった事が窺(うかが)い知れます。
※以前書いた岡崎城の解説ブログ記事は「ココ」←クリック!
更に住吉城も落とされると、最後は新井城に追い詰められ、ここで日本最長の4年間も三浦家は包囲されたまま過酷な籠城戦を展開します。そして、その新井城の堅城ぶりと、鎌倉武士三浦家臣団の維持と強さを見せつけて滅ぶ事に成る訳です。

…ここまでで、新井城を巡る攻防が如何にして発生したか、歴史背景は御理解頂けたでしょうか?
では、次は新井城その物の構造について写真と伝承を交えて解説していきます。
新井城は、三浦半島の特殊な断崖と谷戸に何重にも囲まれた細長い自然地形に手を加えた堅城で、その谷間は並みの城の空堀では到底及びもつかない深さを誇っていました。
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今でこそ、御覧の様に浜辺に❝磯❞が見えていますが、これは大正時代に起きた関東大震災の際に三浦半島が最小でも50cm隆起した事で、戦国時代の海底が露(あら)わに成っているんですね。
…つまり、昔の三浦半島の地形は、入江の一部を除いては断崖雪壁の下は本当に上陸する余地も無い海だった訳です。
しかも
新井城址の主要部分は現在の油壷湾の所在地、京急油壷マリンパークや東京大学大学院理学系研究科付属臨海実験所(地震観測所)の在(あ)る半島一帯です。
荒井城主の佐原三浦家は平安時代~の関東流の築城術を受け継いでいます。
他地域では余り無いのですが、関東流の築城術では山の尾根の崖の両側を垂直に削り込み、通路幅の狭い城壁の様に加工してしまうので、この様な断崖絶壁上の起伏を削り、隘路(あいろ)に敵を誘い込み、或いは空堀で遮断し、断崖から敵を突き落としたり逃げ場の無い場所で弓矢を射掛けてハリネズミにし敵を殲滅する構造が幾重にも設けられていた訳です。
そして極め付けが、敵勢の侵入を防ぐ何重にも設置されていた断崖絶壁に掛かる引橋です。
引橋の位置は、現在に伝わる伝承と残存地形から十分把握出来ます。
三浦子供風土記
この資料は、三浦市教育委員会が編纂した❝三浦子供ふど記❞と言う本です。
三浦市の教育委員会は素晴らしいですね、土地を開発する際もちゃんと事前に調査をして建設会社に有利な嘘の報告をせず、先人へのリスペクトと地元の伝承を後世に伝える努力を為(な)さってる。
全く歴史のスペシャリストをメンバーに入れない史跡破壊容認が得意な金満土建屋のお友達、横浜市教育委員会とは大違いだ。
さて、この三浦の歴史を子供にも解る様に纏(まと)めた本の中に、新井城の構造に触れる伝承が沢山掲載されています。
先ずは、城の守りの要、大きな空堀状の渓谷の交通を遮断する❝引橋❞は数カ所有った事が解ります。
一番外側は現在も❝引橋❞の地名が残っています。丁度、その場所には現在❝引橋❞のバス停が有る辺りです。
そして、伝承の❝合戦場(江戸時代の城の三の丸の様な場所)❞の前に、伝承通り堀切状の地形が残っている事から、そこが❝内の引橋❞で有る事が解ります。
外側の引橋には、昔、人の良い老夫婦が住んでいて、北条家の偵察と気が付かずに、そのスパイに色々と新井城や三浦家の殿様の自慢をして話してしまったそうです。この老夫婦は、北条家が攻めてくると自分が話した相手が北条家のスパイだったと気が付いた様で、「三浦の殿様に申し訳ない事をした」と後悔して夫婦で自害してしまった悲しい伝承が残っています。
実は類似した伝承が扇谷上杉家の居城の一つだった藤沢市大庭城近くの船地蔵地区にも残っていて、やはり北条家のスパイが老婆に根掘り葉掘り、城の構造を聞き出したそうです。
…ですから悲しい御話しですが、引橋の老夫婦の伝承は実話でしょう。
どうも、生粋の相模国人の気質と言うのは老人程郷土愛が強く成り、又親切心が強くおしゃべりな様ですね。

では、引橋と新井城主要部分の位置関係を見てみましょう。
新井城周辺 久良岐のよし
小生が確認出来ただけでも、最低4カ所は大堀切と引橋の遺構と思われる地形が現地確認出来ました。
先ず、【引橋&堀切地形】と書いた場所が該当する地形です。
大外側、が(1)とした部分で、そこの辺りに戦国時代に老夫婦が茶屋を営んでいた様ですね。
段丘に登って来る渓谷が幾筋も、その(1)の地形に集まっていますので、現在のバス停の名称「引き橋」とも整合性が有ります。
ついで、❝内の引橋❞と呼ばれる場所が(4)と示した場所です。DSC_0187
この現在は遊歩道の入り口に成っている、元・東大の地震観測所の入り口の手前に、記載通り、内の引橋の堀切と思しき地形が在ります。
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ね?当時かなりの深さの空堀が穿ってあったのが現在も判断できる地形です。
反対側はこんな感じ…
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やはり、谷間です。この現在の道路は、後世埋め戻されたんでしょうね。
しかし、この2カ所以外、その手前にも道路として埋め立てられたと思(おぼ)しき両側が堀切状の地形が2箇所有りました。それが(2)(3)です。
又、不明瞭ながらも堀切と怪しい地形も他に幾つか有りました。。

話題は逸(そ)れますが、この本の堀切の老夫婦の伝承を紹介している❝三浦子供ふど記❞中で戦国時代三浦氏の祖先として解説されている佐原義連(さはらよしつら)公は源義経と源範頼兄弟による今の神戸に在った福原攻めの際に、有名な作戦❝鵯越の逆落とし❞を立案し提言した軍師だった事が伝わっています。因みに、この作戦を成功させた功績も源義経では多田源氏の多田行綱公の実績だと現代では解っています。
堀切の説明はココまでにして…
城址の訪問方法と景色の紹介をします。
城址を訪れる場合は最寄駅からバスか、車で行く事に成ります。
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この看板の通り、油壷マリンパークの駐車場が便利です。
小生は現在地と書かれた無料の駐車場を利用しました。
ここにバス停も有ります。
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便数が以上に少ないので、電車バスで行く人は気を付けた方が良いですね。
因みに、この場所には売店が在りまして…
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この売店「はっとり」さん。
この看板娘の御婆ちゃんが三浦家の事を非常に御詳しく、三浦道寸(どうすん)公と三浦義意(よしもと)公の御廟所の場所を聞こうと思って話しかけたら…
歴史オタクの小生が話す前に、御婆ちゃんの口から出るわ出るわ、三浦家関連の拠点の話や三浦家の殿様が何で最後まで抵抗したかの理由なんかが。
…三浦の人は今でも郷土愛が強いんだね~。
だから、ユネスコに世界無形文化遺産登録された❝チャッキラコ❞って御祭りも現在に残っていたりするんだろうね。
そして、なんだか引橋の伝承の老夫婦も、この御婆ちゃんみたいな感じの優しい人だったのかも知れませんね~。
※世界無形文化遺産の御祭り❝チャッキラコ❞に関しては「ココ」←クリック!

さて、御城の解説の続きです。
ぶっちゃけ、城址としては遺構は余り現存していません。
しかしながら、先に紹介した❝内の引橋❞から遊歩道に入ると、いくつかの遺構が見られます。
DSC_0184
この場所の奥の左側に民宿等の看板が有ります。
DSC_0187
ここを入って下さい。
ここに入ると、神奈川の景勝50選の油壷湾を望むポイントに行けるのですが、そこまで行く手前に東大の研究施設の門が有ります。
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確認するには油壷の半島と反対側に行かなければいけないのですが、伝承では、この東大の施設沿いの遊歩道下の岸壁の中腹に穴倉が有るそうです。
その穴が❝千駄矢倉(せんだやぐら)❞と言われており、兵糧が貯蔵されていた遺構だそうです。
岸壁に矢倉を組んで穴を改修して穴倉として利用したんですね。
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この崖下に穴倉が有るらしい…
三浦市教育委員会の解説によれば、一駄は米2俵だそうで、つまり千駄とは米2千俵を貯蔵した場所と言う意味に成る様です。

2千俵を石高に換算して見ましょう。
1石=米俵で2.5俵です。
ちなみにkgに換算すると、1石で❝150kg❞です。
そして荷物の単位の1駄とは、輸送に使う馬に乗せれる量の単位で、米俵で2俵。
千駄=2000俵の米俵
2000俵÷2.5=800石
つまり、補給路が立たれても800石の臨時食料が保管出来ていた訳です。
小生の様な歴史好事家(オタク)でもないと石高で言われてもパッとしないでしょう?
では石高を動員可能兵力に換算して考えてみましょう。
だいたい、1万石で雇用可能な兵力を元にして考えると一般的な定説では以下の様に成ります。
防衛時…1万石=500人前後
遠征時…1万石=300人前後
では、これを元に800石で、どれくらいの兵力を雇えるか計算してみましょう。
新井城の戦いは城主三浦家が防衛側です。ですから防衛側動員数の基準です。
1万石=500人 800石=1万石の8% 500人×0.08=40人…
40人とか少なッ!
…と思った人!別に、この蔵の中の米は全兵士を養う為(ため)じゃなくて、非常食兼、城主と城詰めの職員の常備食ですからね!
戦時下では、各部隊がそれぞれ兵糧を持参しています。

米の話が出た所で、「何で4年も籠城出来たの?」と疑問が湧くでしょう?
それはですね…
新井城の地形 久良岐のよし
新井城の所在地は、現在でも御金持ちのヨットハーバーが有る港湾に適した地形なんですね。
だから備蓄米が底を突いても、水軍を保有する協力者が居て外部から食料と弓矢を補給し続ければ、勝敗が着くまで何年間でも籠城が可能に成る訳です。
そして、この新井城址には昔から民家も有ったので、恐らく塩水じゃない飲み水に適した淡水が湧く井戸が有ったのでしょう。

では、この新井城の三浦家を支援する同盟関係に有り、尚且つ三浦半島周辺を自由に航行出来る水軍を持つ勢力はいるのでしょうか?
新井城と房総の位置関係 久良岐のよし
います。
二つ両引き二つ両引き紋
この足利家の家紋を持つ三浦家の同盟者が房総半島の岡本港を掌握しています。
その名も❝里見家❞ですね。
この里見家は現代で言う所の小説家に当たる江戸時代の❝曲亭馬琴❞が書いた❝南総里見八犬伝❞のモデルに成った家でもあります。この南総里見八犬伝はバブル時代に❝里見八犬伝❞として薬師丸ひろ子サンと真田広之サン主演で映画にも成っています。
里見八犬伝
う~ん…薬師丸ひろ子サンが若くて可愛い。
この里見家と三浦家は協力関係に有ったので、房総半島の穀倉地帯から絶える事無く兵糧が運び込まれた訳です。
因みに、この新井城の攻防が因縁と成り、その後、小田原を本拠地にする北条家と里見家は戦国時代が終結するまで対立する事に成りました。
さて、この新井城が長期籠城に耐える地形的政治的条件に合致していた事が、ここまでの説明で御理解頂けたでしょうか?

では防御施設その物の遺構の有無を見てみましょう。
ぶっちゃけ、土塁や空堀の遺構が現存するハズの東京大学の敷地は当然無許可で入れません。
しかし、曲輪の遺構と思しき盛り上がりのある地形は数カ所見て取れました。
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東京大学の敷地に入る裏口側は、堀底道を利用した?と思える地形でした。
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この空堀状の地形が現代に設けられた地形だとしても、両横の曲輪遺構と思しき台地状の地形はハッキリと残存していますね。
入らなくても、遠目にいくらか確認出来ます…入りたい。今度、東京大学に予(あらかじ)め連絡して許可を貰って見学させて貰おう。
三浦市の教育委員会は歴史の伝承に熱心なので、ちゃんと遊歩道には説明の看板が有ります。
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先に説明した関東大震災の事が書かれていますね。
この隆起した元海底の地形は、遊歩道から下の海岸に降りると見られます。
地形は【後編】で「神奈川の景勝50選油壷湾」と周辺の風景紹介として別記事に書きますね~。
他に丁寧にも説明が幾つも有ります。
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これは神奈川県民の中の歴史好きに有名な話。
油壷の地名の由来。
…実は、4年間の合戦中に戦死した兵士の死骸が現在の油壺湾に満ち満ちて、血油で丸で油の壺の様な風景に成ってしまったそうです。
防衛側も敵味方問わず戦死した将兵の遺骸を城内に置いておくと伝染病が蔓延してしまうので、当然放置できないので海に投げ入れて水葬したりしたんでしょうね。4年間も籠城戦をやれば結果的に、伝承通りに成ると思います。
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まぁ、そんな凄惨な攻防戦が行われた新井城址ですが、風光明媚で昭和には神奈川の景勝50選の一つに選ばれた場所なので、明治時代の文化人達からも愛された様です。
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さて、遊歩道を進むと二手に分かれますが…
DSC_0207
直進すると引橋の遺構の様な地形が有り、その先には狼煙台か何かに使えそうな地形が有ります。
この↓奥のこんもりした森ね。
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戦国時代当時は、この砂浜は海の底で、その森は小さな半島が堀切で断ち切られて離れ小島状の地形だった筈です。
新井城 狼煙台と思しき地形周辺 久良岐のよし
位置関係はこんな感じ。
まぁ、城址としての遺構は概ねこんな所でしょうか?
あと、一カ所、当時の退避用の船着き場と思しき地形が、三浦道寸公の御廟所近くに在りました。
位置は上の画像で確認して下さい。
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この京急油壷マリンパークのゲートを通らず、反対側の海岸に降りる遊歩道の先に在ります。
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この遊歩道を歩いて行くと、道寸公の御廟所の説明が有ります。
DSC_0230
この看板の先…
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ここが三浦家最後の当主、道寸公の御廟所なのですが、この地形も城塞の一部だった筈です。
この御廟所の右手が竪堀の様な地形で海まで下る斜面に成っています。
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この右の斜面。
当時は海面が今より高かった上に、大正時代の隆起で三浦半島は戦国時代より50cm隆起したので、その場所は昔は海に降りる斜面で、隠し船着き場かなんかだった様に思えます。
そして、この道寸公の御廟所が、正に、切腹の場所で有り、三浦道寸の跡継ぎだった猛将❝三浦荒次郎義意❞公の❝300人切り❞の活躍の場だと思います。
余談ですが、❝荒次郎❞と言う名前は平安時代から三浦家の次代の跡継ぎに成る人物が名乗る名前でした。
新井城で活躍した三浦義意公は、生粋の平氏の子孫の三浦家では無く、父の代に扇谷上杉家から三浦家に養子に入った人物でしたが、荒次郎を名乗っているので三浦家の伝統をちゃんと受け継いでいた様ですね。
実は、三浦義意公、刀や弓や槍では無く、木の棒に鉄板と突起を付けた棍棒状の武器で、最後の戦いで北条方の兵士300人を殴り殺した伝説が残っているんです。
この伝説も、普通に考えると嘘くさいのですが、この新井城の地形を利用すると可能に成る訳です…
つまり、敵兵が1人づつしか通行出来ない引橋や隘路の上で、長大な❝釘バット❞で殴り殺すのではなく❝海に叩き落とす❞戦術を取れば300人倒す事も現実的に成る訳です。
昭和世代には解ると思いますが、昔、❝風雲たけし城❞と言うバラエティー番組が有りましたよね?
風雲たけし城アドベンチャーゾーン 拝借画像
アレのリアル版ですよ。
細い道を落ちたら浅い安全な池じゃなくて…
30kgの甲冑や刀装備したまま海に落ちて溺れ死ぬ。
鉄の釘バットで殴打されても顔面や手や肩が骨折して悶絶する。
凄惨な風雲たけし城。
※風雲たけし城を知らない世代はYoutubeで検索して見て下さい。
…まぁ、バラエティーはさておき、義意公が何で一人で戦う様な無茶な事をしたのかも、現代に成っても地元にはちゃんと伝承していました。
その活躍を語るに当たり、最初の方で紹介した、御土産屋さんの御婆ちゃんの御話を紹介したいと思います。
その御婆ちゃんの新井城の戦いに関する御話はコンナ感じでした…

「三浦家の殿様が何で逃げずに最後まで残ったか解るかい?」
「三浦家の殿様は、女子供や罪の無い身分の低い家来を全員船で房総半島に逃がす為に最後まで残って戦ったんだよ」
「今でも、その時に殿様に逃がされた家来の子孫達が日本中から御墓参りに来るんだよ」
「7月11日に成るとね、命日だから、又御墓お掃除しなきゃね~。」

その、御婆ちゃんが掃除すると言っていたのが先程紹介した道寸公の御廟所と、義意公の御廟所です。
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義意公の御廟所は、冒頭で掲載したこの写真の場所の横です。
親子で少し離れた場所に在るんですね。
小生、この御婆ちゃんの話を聞いて、自分が文書を読んで予想した事と、地元に伝わる伝承が合致してビックリしました…
「切腹したり逃げずに一人で戦うような無茶な事をするからには、何かを守る為に戦う以外に無い!」
…小生はそう推測していました。
それが、御婆ちゃん達、三浦家所縁(ゆかり)の地元の人々にちゃんと伝承していて、❝戦争に成った責任の無い身分の低い家来や女子供を逃がす為に最後の決戦に挑んだ❞と解り、小生の推測が伝承で証明された訳です。
この話を聞いて、帰路、車を運転しながら泣きました。
「最後の一人が逃げるまで、僅かな近習(きんじゅう=近衛兵)と共に敵兵に挑み、守るべき人達が逃げ切ったのを見て敵に突撃し討死した」殿様の気持ちを考えるとスンゴイ泣けました。

そしてこうも思いました。
神奈川県には源義家公や源頼朝公、平良文公や鎌倉景正公や三浦義明公、太田道灌公や北条早雲公や北条氏康公、北条綱成公みたいな有名な武将も沢山いらっしゃったけれど…
この三浦荒次郎義意公の事も、それと同じ程、後世に伝えて行かなければいけない、そんな名将だなと。
必ず、横浜の間宮家や蒔田吉良家や宅間上杉家の殿様達の事と、この三浦義意公の事を小説や顕彰文に起こして世間の人に再認識して貰う手助けや、御祭りを企画運営して地域産業としても殿様の名前を借りて三浦の油壷地区の町起こしを企画して、伝統に成る様な殿様の名前と事績の伝承の伝え方を創生したい。
そう感じた訪問でした。

【後編】油壷の風景は「ココ」←クリック!

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!






  


三崎まぐろ鉄火巻き寿司作り大会
写真は標題とは無関係(笑)。

4月19日に三崎銀座商店街で開催され ます!今年は世界(日 ) 記録(笑)?を越える 555mの鉄火巻き作りに 1200人の参加者を募集して挑戦するそうです。
受付11時〜13時。14時スタート。
祭りに参加するも良し、又は三崎漁港のレストランや寿司屋や居酒屋でマグロ料理を堪能してから、近くの「城ヶ島の絶景散策」や、武地区の「イチゴ狩り」、油壺マリンパークにイルカショーを見に行くも良し!カップルにも家族連れにも最適な観光に成る事間違い無しですよ〜!
※因(ちな)みに写真な三崎漁港の毎年1月15日の祭事で、ユネスコ世界無形文化遺産の「チャッキラコ」です。

鎌倉まつり
※写真中央の鶴岡八幡宮能舞台は、昔、有名な源義経の側室(本妻以外の妻)の静御前が鎌倉武士団の前で舞を踊った舞台。
4月19日迄開催中です。 
場所:鶴岡八幡宮ほか鎌倉市内で開催。
⚫︎源義経側室の静御前の舞を再現する「静の舞」。
⚫︎騎馬武者による弓矢の射撃を伝承する「古式流鏑馬(やぶさめ)」の射的実演。
⚫︎今年の「ミス鎌倉」のお披露目など。
歴史が好きな人や、鎌倉の落ち着いた雰囲気や伝統文化が好きな人には最適なレクリエーションです。舞や流鏑馬見学の後で小町通りで食べ歩きや、江ノ電に乗ってスラムダンクの舞台、鎌倉高校前駅横の踏み切りの情景を散歩する小旅行なんて如何でしょう?

横浜大道芸
※写真は横浜大道芸の発祥地の野毛地区にある明治時代の建築群を代表する神奈川県立歴史博物館。
明日4月18〜19日、毎年恒例に成っている横浜大道芸が開催しれます。
場所:イセザキモール1・2St.、みなとみらい21、石川商店街アイキャナルストリート、吉田町通りにて、開催されます。
ジャグリングやパントマイム、手品など様々なパフォーマーが集まり小さい子供連れ家族も楽しめもすよ〜!
中華街の中華レストランや港の観光ホテル街のレストランで外食がてら、家族恋人にはもってこいのレクリエーション!

今回の記事は目前に迫ったお祭り紹介だけですが、次回は小田原北条五代祭りに向けて小田原城の記事を書こうかな…?

では、又、次の記事で御会いしましょう♪

ブログネタ
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みなさん、チャッキラコと言う御祭を御存知でしょうか?
多分、余り御存知無い方が多い御祭です。

毎年1月15日に行われるローカルな御祭なのですが、ユネスコに世界無形文化遺産登録されたお祭りなんです。
12月中に存在を皆さんに伝えておかなければ、御祭りを見学なさりたい方がいらっしゃった場合に開催当日までに予定が組めない方もでると思い、旬を先取りする形でブログに掲載します。

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このチャッキラコと言う神奈川県の鮪で有名な三崎漁港の海南神社で行われる御祭なんですが、実は!富士山より先に…
"ユネスコの世界文化遺産認定を受けた"
…由緒も正しく歴史も古い御祭なんです。


御祭は海南神社の有る場所に御住まいだった平安時代の貴族藤原資盈(ふじわらのすけみつ)公と鎌倉幕府の征夷大将軍源頼朝公に由来しています。

海南神社は御祭神も藤原資盈公と奥様の盈渡姫様です。
海南神社はこんな場所です…
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三崎の観光漁港「うらり」とはバスターミナルを挟んで反対側、本来の三崎町である「三崎銀座商店街」の中に神社へ通じる参道があります。

こちらの神社の成立は清和天皇の皇位継承に関する政争に巻き込まれ敗北し、大宰府に左遷されるはずだった藤原資盈公が暴風雨に遭(あ)い三浦半島に漂着(ひょうちゃく)した事に始まります。
貞観6(西暦864)年の話です。
余談ですが貞観年間と言えば"貞観の大地震"が起き、東北地方では東日本大震災を上回る規模の地震と津波被害が有った時代です。

その時代に、三浦の三崎に辿(たど)り着いて来た資盈公は推薦を受け同地の長を務める事となり、その後、房総半島の海賊を討伐するなど活躍されたそうです。
この時代、三浦半島を含めた関東一帯は平高望(たいらのたかもち)王が皇族出身武家として治めていましたので、藤原資盈公を庇護したのは後に鎌倉武士団を形成する平高望王の御一族だったと容易に推測できます。
そして三崎領主として善政を布(し)かれ、今で言う教育と福祉政策に力を注いだ藤原資盈公は同地の住民達から深く慕われたそうです。

三崎の御祭り"チャッキラコで歌われる唄(うた)の歌詞には多くの和歌や昔話が盛り込まれています"ので、恐らく資盈公と盈渡姫は「チャッキラコ」を広める事で、当時文盲だった漁民達に文字を教えたり学問を広めたのではないかと推測出来ます。
現代にも残ったご夫妻のとても偉大な業績ですね。

しかし在任僅(わず)か2年間の統治の後、資盈公は亡くなってしまったそうです。
その際、公を慕う住民達は、公の亡骸を海に水葬し、祠(ほこら)を海岸に奉(たてまつ)りました。
すなわち!
その場所が現在の海南神社本殿とは別に、商店街の中にひっそりと佇(たたず)む本来の神社の在(あ)る場所だと推測される訳です。
ここ本宮神社ね
  ↓
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資盈公と盈渡姫の漂着についてですが…
まぁ、普通に考えれば、平安京~九州筑紫(筑前)国の大宰府への航路は瀬戸内海ですし、門司港辺りまでは陸路で行く方が安全だったはずなので、資盈公の三浦半島漂着は恐らく最初から狙って行(おこな)った亡命行為だったと考えるのが自然でしょう。
当時、すでに三浦半島と房総半島は"平高望(たいらのたかもち)王"を初代とする元皇族の坂東平家が統治しており、中央の政争に勝っている方の藤原政権と対立の火花が散り始めていましたからね。 

そして相模国鎌倉郡村岡城主で鎮守府将軍の平良文公と…
良文公の甥で房総の太守だった後の神田明神の神様になる平将門公の一族は、資盈公同様に中央で政略に巻き込まれて後に大宰府に左遷された菅原道真(すがわらのみちざね)公の一族を庇護しています。
三男:菅原景行(かげゆき)公と五男:敦茂公は平将門公や平良文公を頼って関東に亡命してきてますから。
同じ様に資盈公も、中央の藤原家が手出し出来ない、平高望王の子孫一門を頼って計画的に亡命されたのだと推測する方が…
地勢的にも政治的にも軍事的にも自然な事だと思います。
※平高望王の一族に関わるブログ記事は「ココ」と「ココ」←クリック!

さて、そんな藤原資盈公ご夫妻の教育政策であっただろうチャッキラコは御祭りとして残り、近年ユネスコの無形文化遺産に登録された訳ですが…
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御祭り自体は未成年の"女性が舞を踊り唄を歌う"御祭りです
ですので…
何か見た目からしてロリコンっぽそうな外見の中年男性も観光客に多数いますが…
この御祭り自体は由緒も正しい御祭りなので、純粋に文化として楽しみましょう!

三崎銀座商店街の中には元廻船問屋の旧家を利用した「チャッキラコ三崎昭和館」と言う博物館や、NPO法人三浦映画社の展示館もあります。
実は三崎漁港は映画撮影のバックアップをしているんですね。
ご近所の旧三崎高校や漁港周辺で色んな映画が撮影されているので、ぜひ三浦映画社の展示館を見学されるのも良いかと思います。 
ちなみに旧三崎高校は三浦水軍の基地だった三崎城跡でもあります。

チャッキラコですが・・・
何でこの御祭りが幼女に舞わせるかと言うのも、ちゃんと由緒があるのです。
その昔、征夷大将軍と成り鎌倉幕府を開かれた源頼朝公は春の季節専用の御所を、この三崎町に持っていました。
その場所は現在「本瑞寺(ほんずいじ)」と言う御寺に成っており、鮪料理で有名な黒羽亭」のすぐ近くに有ります。 

本瑞寺の写真は生憎現在手元にありませんが、ろう梅がとても綺麗でしたので、その写真だけはありますので載せますね。
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さて、ここの春の御所に訪れた頼朝公が、ある時、土地の漁民女性に…
「何か楽しい事無い?」
…と聞いたそうです。
で、聞かれた女性が…
「私は何にもできませんが、娘に舞を披露させますよ!」
…と答えて、母親が歌い娘が舞を披露しました。
この事がきっかけで、「チャッキラコ」が鎌倉時代以来1月15日のお祭りとして行われる事に成ったそうです。
ですから…
別にロリコンが趣向で御祭りにみんな集まる訳じゃない!
…はず、と、結婚適齢期以上の女性が恋愛対象の小生は信じる事にしています。

三崎には浅間神社もありますよ。
…人口が減ったせいで神社も寂れてきてしまってますが。 2014-01-15-14-14-27


そして!
この三崎町=三崎漁港の醍醐味と言えば!「三浦野菜」と「鮪料理」ですよね! 
その他に高級魚「松輪鯖」も名物です。
小生は先程紹介した「黒羽亭」は居酒屋として利用させていただいてます。
実際、黒羽亭は鮪の色々な部位の料理を食べれる居酒屋ですので。

で、お寿司を食べたい時は黒羽亭のお隣の「紀の代」と言う御寿司屋さんに良く行きます。
本当に美味しい御寿司屋さんでして、小生は寿司を食べる為だけに横浜から行く事も有ります。

そちらに関しては別に記事書いて紹介しますね!

三崎は港町らしくニャンコもたくさん居る街ですよ~ 2014-01-15-14-42-02
2014-01-15-14-43-25
かわいいなぁ~

隣の城ケ島と言う風景の綺麗な島とも橋でつながっていますし、油壺マリンパークと言う水族館も近く家族連れで楽しめる観光地です。
新年の家族旅行や小旅行にチャッキラコ見学とセットで如何(いかが)でしょうか?
ただ…
平日の木曜日なんですよね、2015年の01月15日。

●城ケ島の絶景に関する記事は「ココ 」←クリック! 
●紀の代と言う一押しの三崎漁港の御寿司屋さんの記事は「ココ」←クリック! 
●黒羽亭と言う鮪料理居酒屋の記事リンクは「ココ 」←クリック! 

ではでは、又、次の記事でお会いしましょう!

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