歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:三浦按針

2年前に京都に転勤してしまった歴史仲間の車懸がゴールデンウイーク中当家へ3泊滞在し、一緒に歴史散策久しぶりにした2日目の6回目の記事。


この⤴前回の続き・・・
01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
07味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
——前回ココ⤴——
車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が大量なのは前回の説明通り。
——今回はココから⤵——
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11塚山公園と三浦按針・お雪サンご夫妻の墓所の安針塚。
12王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
13仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)
・・・今日は前回の続きで横須賀観光の一部分を書きたいと思います。
先ず今回のシリーズ一覧から・・・  
・・・まぁ上記の5回に分けて書いた通り、車懸来浜2日目は金沢区の史跡~横須賀の走水周辺と歴史散策して廻り、その後で浦賀港に回り今回書く千代ケ崎砲台を訪れた。
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千代ヶ崎砲台
上の写真はメインストリートの様な場所なので、色々と順を追って説明していきたいと思う。
先ず、車懸と小生は神社仏閣城塞が好きな歴史オタクなので、普通だったら車懸が千代ヶ崎砲台の様な場所に来ない訳が無いのだが、彼奴(キャツ)の転勤前には海自の施設として機能してたのが横須賀市の所有に移管されたばかりで未だ一般公開されていなかった。
そこから運よく今現在が上地市長と言う歴史文化財の保護に熱心な市長だったので、前回の記事で紹介された走水低砲台とココ千代ヶ崎砲台が史跡として一般公開する為の再整備が上地市長と横須賀市議の皆さんの御尽力と横須賀市教育委員会の努力によって週末限定だが公開に漕ぎつけた。
ただ、ここはアクセスが悪かった!
千代ヶ崎砲台位置関係
※クリックして拡大して下さい。
現在、元は私営の駐車場だった千代ヶ崎砲台駐車場が直ぐ近くに存在するが、千代ヶ崎砲台の公開開始当初はその駐車場は存在せず、御覧の通り最寄りは徒歩13分かかる燈明堂海岸の駐車場だった。

浦賀駅からバスだと最寄りバス停からも20分以上歩かなければならず、中々、本当の歴史好きでも無いと行く気に成らない立地に所在する。
でも私営の駐車場が開いた後で横須賀市がソコを借り上げてくれたので今では無料で車を直ぐ近くに止める事が出来る様になり自動車での訪問ならアクセスが格段に向上した。
更に開業当初から来客が少ないので(笑)、無料のボランティアガイドさんがマンツーマン状態で詳しい解説や見所を抑えて案内してくれるので非常に有難い。
例え男女2人のデートで行っても、絶対にガイドを付けた方が有意義な時間を過ごせるし思い出に成るので下心は一端押させて(笑)ガイドさんに案内してもらった方が絶対に良い!
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駐車場から坂を上って来ると、この様に土塁(どるい)を切通(きりとおし)した正門が有る。
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其処を入ると城郭で言う所の‟食い違い虎口”の構造に成っており敵兵が直進出来ない構造に成っている。
砲台とは言え、縄張り(なわばり:城の設計)的にも一応陸戦を想定した防衛機能を十分に持たせて作られている。
以前、小生はハツ訪問時にガイドさんに対して、これ等の構造体を見て小生は「戦国時代からの城塞を転用してませんか?」と質問していたのだが、わざわざ防衛省に問い合わせて調べて下さっていたそうで、当時は帝国陸軍に「築城部」と言う部署が有り、明治時代の陸軍は戦国時代の城塞跡を熱心に測量して廻っていた。なので一見すると千代ヶ崎砲台は西欧かぶれの西洋式近代要塞の様でも戦国時代の城の構造がふんだんに流用されており敵軍による砲台占拠に備え籠城戦も想定して戦国時代の城の殺人防衛機構が活用されているらしい。
但し、小生はここも浦賀城と対を為す要塞が平安末期~鎌倉時代~戦国時代を通じて存在していない訳が無いと地形的にも考えているので前身の無名要塞がだったと言う自説を曲げるつもりは毛頭も無いwww。
その証拠にここは幕末にペリー提督が横浜港に来た際に、幕府によって当地防衛担当の藩によって千代ヶ崎台場が築かれている。
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ちなみに正門の正面の虎口の土塁の下に見える井戸は雨水の貯水槽で、ここの建設時に最初に作られた飲用水確保の為の物だったとか。
この幕末の台場建設地はだいたいが平安時代や南北朝時代の戦乱期に要害化されていた場所が多い。
なので、千代ヶ崎台場建設以前に、鎌倉~室町時代にも三浦一族で浦賀城主だった横須賀氏や北条氏康公奏者で西浦賀の領主だった間宮宗甫公辺りによって前身の要塞は築かれていただろうな~と推測している。
その先にボランティアさん待機してる展示室が有って、色々と展示物も無料で見学出来る。
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ここからボランティアのガイドスタッフさんの案内が開始される。
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いや~構造的にも緑に覆われてる部分は本当に戦国時代の城にしか見えないんだわwww。
でも、この直ぐ先から景色が一変する。
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石積みが始まった途端に、もうこれはフランス積みで日本の築城技術ではない。
これは確かに俯瞰した時の縄張りは日本の城に似ているけれど、中に入ると立派な西洋式の要塞でしかも近代の軍事遺跡として保存状態が関東圏で随一の良い状態を保持している事が一目瞭然だ。
車懸もボランティアさんの解説を熱心に聞き入っていたので、京都からわざわざ来てくれて満足して貰えている様で一安心した。
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以前、猿島要塞を休日雑記のカテゴリーでブログに書いて紹介した事が有るのだが、猿島はジブリの天空の城ラピュタでロケハンされた場所とされているのだが、猿島より正直言って千代ケ崎砲台の方がラピュタ感が半端ない!
以前の記事⤵


それも海上自衛隊が近代の要塞を平成期に成っても丁寧に維持しながら利用していてくれていたからに他ならない。
海上自衛隊の皆さんに感謝!
で、どれくらいラピュタ感が有るかと言うと写真見て貰った方が早い(笑)。
下のは雨水を煉瓦の積み方によって集める貯水槽。
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ちなみにこの煉瓦の積み方はイギリス積み。
フランス積みは煉瓦の長辺と短編を一つづつ入れ替えて積み上げる。
対してイギリス積みは一つの段を全て長辺、次の段を短編と言った具合に並べて積み上げる。
どちらが強度的に強いかの議論も有るが、単純に元は徳川幕府に協力していたのがフランス人技師達だった事と、薩長土肥の倒幕派新政府の元勲達が幹部である明治政府は英国と親密だったので、この要塞を作る際に動員された日本人技師達が当時、英仏どちらの技術を学んだ人だったかで「場所により担当した人が異(こと)なるので建築方法も異なっただけ」と言うのが通説だそうだwww。
ところで貯水槽には今でもちゃんと雨水が集まり、澄んだ水を湛(たた)えている。
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結構深いので落ちたら溺れると思う。
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このトンネル状の両脇に兵舎や弾薬庫の機能を持つ部屋が設置されていた。
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こんな⤴感じ。
壁が白いのは湿気対策の漆喰が塗られていたから、ペンキじゃないよ。
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ちょっと特別感もあるでしょ?西洋の御城の中見たい。
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この正面の明かりの灯(とも)った凹みは昔は分厚いガラスがはめ込まれており、手前の広い空間は弾薬庫だった。
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明かり窓は弾薬に引火してはいけないので、わざわざ反対側に通路が作られガラスで遮断された上で裏側から照らす構造に成っていたそうだ。
よく考えられており、横浜に傾くマンション建てるような平成や令和の杜撰な土建屋の仕事より想像力をフル稼働した丁寧さだと思う。
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天井の穴には走水低砲台でも見た様なホイストの滑車が付いていて、ここから弾薬を上部砲台に荷上げしていた。
通路を進み歓談を登ると砲台部分に出る。
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う~ん、良い廃墟感。
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砲台部分の基礎の石がレリーフの様に模様に成っていて綺麗でしょ?
この様な立派な砲台遺構が千代ケ崎砲台には複数個所、良好な状態で現存されている。
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そしてこのラピュタ感。
巨神兵は頭ぶつかって歩けない高さだと思うけどwww。
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普通に近代西洋建築の遺構としても美しく見応えも有る。
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これも滑車のついていた跡かな?
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この煉瓦の色の違いは、強化煉瓦と普通の煉瓦の差で、積み上げた境目が色の違いでクッキリ見えているそうだ。
こんな情報も当時の築城部が経費削減も考えて外に面した部分だけを予算の高い強化煉瓦にしたんだろうとボランティアガイドさんの説明が有り、車懸や小生達には関心を引かれるところでもあった。
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同一丘陵に3門の砲台が有ったので似た様な構造が連続する。
只(ただ)、上部から見ると又少し雰囲気が異なる。
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何か古代神殿の跡みたいで不思議な空間。
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でも私有地化している旧入口の方を見ると明らかに戦国時代の堀底道を兼ねた三日月堀と丸馬出し構造に成っている。
馬出しとか堀切とか土塁とか言われても東日本の戦国時代の御城を知らない人には何の事だかチンプンカンプンだと思うので、御興味有る方は下の解説図付きの用語集を見て見て下さい。


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上の写真の煙突構造物は通気口の跡。
流石に東京湾防衛の拠点だったので眺望も良く房総半島まで見渡せる。
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更に私有地側に通じていた隧道の入口がさ、もう完全に千と千尋の神隠しとかに出てきそうな入ったら変な世界に連れてかれそうな雰囲気で・・・

思わず音楽付けてインスタにUPしてしまった(笑)
一頻(ひとしき)り見終わりボランティアガイドさん達に御礼を述べて車に戻り、日没前に今度は塚山公園に移動した。
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三浦按針お雪夫妻の御廟所
三浦按針公は戦国時代末期、安土桃山時代~江戸時代初期のイギリス人で本名はウィリアム・アダムスと言い、オランダの商船の航海士だったのが乗船していた船が遭難して日本に漂着した際に徳川家康公に信頼されて外交顧問として登用されて日本に帰化した人物だった。
因みに当時の台湾はオランダ植民地だった。
現在の横須賀市逸見に当たる当時の三浦郡逸見村を領地として与えられたので帰化した際に苗字を三浦にし、アダムスを漢字の当て字で按針にした。
按針は御本人の職業である航海士や貿易船に必需品の方位磁石(コンパス)の意味も込められている。
妻女の日本人のお雪さんを非常に愛してくれて、二人の間には子供も生まれたが徳川家康公程には能力の無かった徳川秀忠公の代に成ると外交的に外国人との交流に対する制限が強い政策が打ち出されて、三浦家(アダムス家)も家系が絶えてしまった。
もし明治時代まで混血のアダムス家が存続していたらきっと新政府の官僚として活躍したでしょうね。
この三浦按針公は英国人で乗艦もオランダ商船なのでキリスト教の英国国教かプロテスタントの信徒でしょうが、日本での宗派は浄土真宗でした。
だから彼は横須賀市逸見に在(あ)る浄土真宗の浄土寺を支援していました。
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涛江山 浄土寺
因(ちな)みに、浄土寺は元々は平安末期~鎌倉時代初期の名将で源頼朝公の忠臣だった畠山重忠公により当初は天台宗の寺院として開かれた歴史が有る寺院です。
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後の室町時代に蓮如上人により浄土真宗に改宗していますが、畠山重忠公の時代からの歴史も大切にしている名古刹なので御朱印も拝受させて頂けます。
未だ浄土寺は詳しく個別解説記事にしてない場所なので、ここもその内に独立記事にしたいと思っていますが、今までの神社仏閣城跡や建築文化財の訪問箇所総計が千単位+写真数万枚+古文書のコピーやら集めたものが大量に有るからいつの事になるやら(汗)。
さて、もし皆さんが浄土寺を訪れるならば、当然ながら塚山公園とセットでの訪問をオススメしますし、春の梅の季節に田浦梅林と合わせて訪問すると尚、良いと思います。
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田浦梅林も景色が良いですしね。

田浦梅林に関しては本当に簡易的な紹介⤴を以前も書いているので御興味有る方は上のリンクから御覧下さい。
話を塚山公園に戻します。
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三浦按針お雪さん御夫妻の御廟所である安針塚の在る塚山公園からは眺望が良く、横須賀の汐入の軍港が良く見えてます。
実はここから見た景色が三浦按針サンの英国の故郷に非常に似ている事を以前小生は気が付いて記事に書いているので興味が有る方は読んでみて下さい。
これ⤵

この三浦按針公は、九州の日本人がキリスト教のカトリック教徒達に奴隷として売買している事を知ると我が事の様に憤慨して日本人を守って下った人物でもあり、更に自身が乗船していた商船から下したキャノン砲を関ヶ原の戦いで小早川秀秋の陣営に向けてブッ放す事を徳川家康公に進言して関ヶ原の勝利を導いた可能性も考えられている人物でもあります。
三浦按針公に関してより史学的にちゃんと知りたい人は以下のリンクから日文研の先生の考察を読んでみると面白いと思います。
ウィリアム・アダムス(三浦按針)は何を成し遂げたのか
日欧交渉史における役割の再検討

 国際日本文化研究センター教授
フレデリック・クレインス
https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/wp-content/uploads/50597e70ac9f48e3342eca4516dcd274.pdf
そんな人物なので日本人の歴史家のみならず愛国者からも尊敬されており、三浦按針公の御廟所の入口には立派な顕彰碑も建てられている。
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小生も尊敬しており、浄土寺で色紙に拝受した御朱印を他の歴史偉人が御祭神の神社や菩提寺の御朱印と一緒に壁に仏壇や神棚代わりに張り付けており毎日拝んでいたりする。
金八先生が坂本龍馬を拝んでいた様な感覚ですかね(笑)。
で、安針塚のある塚山公園は軍港が見えるので軍艦マニアの方々が海自の護衛艦や米海軍の空母を見に良く来る場所でもあったりします。

以前、米海軍のカールビンソンが寄港した時も、ここから写真撮影してる先輩方が沢山いました。
小生はカメラの性能が良くないのでアッサリ断念して普通に観音崎に移動して撮影しましたが(笑)。
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春の桜の名所としても神奈川の景勝50選の1つにも選ばれています。
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オススメの場所なので、是非皆さんも春に浄土寺~安針塚~塚山公園の展望所~田浦梅林とハイキングを楽しんでみては如何でしょうか?
実はここも車懸は初訪問だったので、来られて良かったと言っていた。
なかなか神奈川に遊びに簡単に来れる距離ではなくなってしまったし、小生も来年の秋まで資格の履修科目と国家試験の受験で忙しいので色々と時間も作れず、車懸だけでなく色んな友達に会う事も出来ず、今年は昔、天然理心流の稽古に参加させて頂いた際に同行したO型の経営していたカフェに今月学校が終わってから漸く日曜日に行けたのと、車懸がゴールデンウイークに来たのと、その後1回だけ出張で横浜に来た際に港南台のレストランで2時間だけ一緒に食べた以外、昼間仕事+夜オンライン学校+週末対面授業&毎回のテストで誰とも一切遊ぶ時間が無かった。
だから今月の中頃に発狂しそうになって(笑)、今月のテスト3件あった内1日分のテスト日程を来年に先延ばしして貰い、称名寺に突然散歩しにいったりしてた訳だ。

正直睡眠時間も今月今年の学校の授業が終わるまでは毎日4時間寝れるかどうかの生活をしてたので本当にキツかった。
で、ブログの更新も今年は皆さんに御容赦頂いて1ヶ月1回ペースに減らしていた訳です。
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塚山公園での歴史散策も終えて車懸も満足してくれたので、自宅への帰路の途上、吉村屋で修業した弟子の家系ラーメンの店の中でも指折りの名店の1つである王道之印で夕食をとる事にした。
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王道之印(王道横浜)
ここは家系創始者で家系総本山吉村家の吉村社長の下で長年重要な店舗を任せられていた鶴巻さんの御店で、吉村家発祥地杉田の地盤を引き継いだ津村さんの杉田家と吉村家は別格として横浜市内では双璧を為す家系の名店だったりする。
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小生は海苔増し+味玉+まぶし飯を注文、車懸は何か良く分からんがセットを注文してた(笑)。
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本当に杉田家と王道は美味しいので、もし八景島や金沢自然動物公園や横浜ベイサイドマリーナに用事が有って市外や市内でも遠方からくる方は召し上がって欲しい。
車懸は京都人のクセに(笑)豚骨醤油の濃い味も好きなので、ここは以前も一緒に来た事が有る。
食事が終わると、この日はせっかく横浜に来たんだから家風呂じゃツマランだろ!
・・・と言う事で、一度入浴用品を取りに家に戻ってから小生イチオシの名銭湯、南区の仲乃湯に向かった。
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仲乃湯
ここは以前、ちゃんと取材許可を貰って詳しい記事に書いているので、詳細はソチラを読んで貰った方が良いと思う。


この記事⤴は組合公式より写真と解説でより詳しく紹介出来てると思います。
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まぁ、とにかく凄い日本建築なので車懸も連れて行ってみた。
そんな感じで歴史観光2日目は終了し、帰宅して翌日は早朝から山北町河村城~御殿場市深沢城~三島市山中城~箱根神社~大涌谷と箱根の関所~大観山と・・・
・・・山城と神奈川のベタ観光スポット箱根をしたのだが、それは又次の記事で!
次回、車懸攻城用の後ろ姿だけ登場(笑)!
次回記事で紹介する訪問地⤵の写真一部
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では皆さん、次の記事でお会いしましょう~♪

――追記――
2023年中は余り記事を更新する時間も無く、古参の読者の方には申し訳なく思うばかりです。
来年2024年も夏過ぎ迄このペースでの更新を続けさせて頂く事に成るかと思いますが、2023年程仕事と学業の兼業のスケジュールがタイトには成らない可能性も有るので、出来るだけ色んな場所を紹介したいな~と思っています。

しかも今回でゴールデンウイークの記事は書き上げてしまうつもりだったのですが、ちょっと実家の用事で色々と忙しく結局1部しか記事を更新できませんでした。
御正月休み中に、最後の3日目山城巡りの記事を書きあげられたら良いなと思っていますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

では皆さん、現在令和五年(2023年)太陽暦の12月31日22時、太陰暦(農暦)令和五年 癸卯 霜月 十九日(2023年11月19日)、旧暦の農暦では正月は台湾や韓国と同じ春の節句=春節ですのでまだまだ先ですが、西欧化した日本では明日から真冬なのに正月です。
風邪を引かず、インフルとコロナに負けず、良い正月を迎えて皆さんにとって良い1年間に成りますよう、祈願致します。

では、本年もありがとうございました~!
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2013年にリリースされた艦隊コレクションがスマホで出来る様に成り8年遅れで始めて見た。
私は近代史~第二次世界大戦の日本軍の無残さを比較的知ってる部類。
艦これ
※DMM GAMES様より画像拝借
こんなクソロリ化され擬人化されてるゲームでも、少し歴史をかじってる小生なので実物の艦船の写真や模型なら全艦船を戦艦三笠の中の展示で見た事有るから、現実に戦役を経験した艦船の写真と脳内でリンクしてしまう。
擬人化された艦艇図鑑を開くと時間の流れを表した様な音楽が流れる。
この曲⤴️も相まって各戦艦毎の乗組員の皆さん数百~数千が戦死した事を思い泣いてしまった。子供の頃に近所の模型屋でプラモデルの箱の絵を見て育った世代でも有るので、大人に成って海戦の歴史を知ってからゲームやって、ゲーム内の艦船図鑑で簡易解説読んでると色々と考えてしまう。
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明治時代に活躍した戦艦三笠が展示されている横須賀の三笠公園には、誰が何処で何で戦死したか、その戦死した場所に死亡経緯と死亡時刻までが各所に解説までされている。
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実は歴史オタクに成った切っ掛けは“ブラック企業勤務での過労”だったんだな。
自分がリーマン破綻した時に勤めていた会社で人員整理が行われ自分の補助スタッフが解雇されて技術営業職で打ち合わせや引き取り納品で外回りに朝の始業時間前の8時頃から会社出発し、18時頃に会社に帰社してから自分含め1人で2人から引き継いだオフィスワークを自分本来の担当分と合わせてやらされて、毎日朝の6~7時までかかって寮に戻り、シャワーだけ浴びて1時間寝れたらラッキー、残業30時間超えない様にと会社から命令されて暗黙の圧力でタイムカード切っていつもサービス残業。
平日だけじゃ当然仕事終わらないので、休日も出勤。
洗濯する暇も無いからクリーニングに出したシャツを更に取りに行く暇さえ無くなり、シャワー浴びてから一昨日着てたスーツと洗ってないシャツにファブリーズだけして又来て、朝のラジオ体操が始まる前に自分は車で出発・・・
そんな生活をしてた時期が10年ちょい位前に3ヶ月間続いて会社辞めた。
これ小生が要領悪いと思う人もいるかも知れないけど、小生が引き継いだ業務の前任者は残業200時間超で勤務中に車で人身事故起こし相手死なせたり、姉妹企業では高速道路で追突事故起こして焼け死んだ人もいた時は少しニュースに成った。
ちなみに小生は前任者がとある大々大企業への納品遅延率が入荷LOT毎/40%超も有ったのを、そんな感じで仕事こなして1ヶ月で1%以下に減らした。
と、言うかソレぐらい働かないと改善出来ない状態だった。
で、納入遅延率を減らしたら誉められるどころか、会社の金で不倫してた直属上司と、その上司の子分に何故か目の敵にされて更に仕事増やされた。
ちなみに不倫クソ上司は自分が営業活動で高い試作品作った挙げ句に受注失敗した試作代金を、小生の受注した製品の利益で減価償却させる様な管理職としてもクソ野郎だった。
で退職してから暫く天気が良いと毎日のように三浦半島の琴音浜とか松輪の江奈湾とか鎌倉の七里ヶ浜に行っては何もせずボォ~っとして過ごしてる内に少しづつ元気に成った。
その頃に不思議な夢を見て、知らない御寺の門の前に「龍寶寺(りゅうほうじ)」と書かれた石柱がある夢を見て、それが強烈な印象に残っていて朝起きてからネットで調べたら自分が尊敬している北条綱成(つなしげ)公と言う戦国時代の武将の開いた御寺な事が解った。
ここね⤴。最初の頃に書いた記事だから内容薄いけど。
で、それから御寺に電話して、電話に出た御住職に少しオカルト的な話だけど全部話したら「御寺の裏山には綱成公の御墓も有るから是非御参りにいらして下さい」と言われて、そこから北条家の殿様達と北条綱成公の家老を務めた間宮康俊公が弘明寺に関わってたり中区~南区~港南区~磯子区の多くの神社仏閣に関わってた事を知り、顕彰活動を始めて歴史オタクに成り、既存の昭和の学者の言ってる事が現地の情報と整合性が無い事が多い事に気が付いて、実際に間宮家の御子孫や家臣団の子孫の人達に連絡をとったりピンポンして話を聞きに行く様に成って行った。
この時は自分が技術営業職として培った営業能力が本当に活かせた(笑)。

そうしてる内にスッカリこんな風に⤴歴史オタクに成り、そして直接話を聞かせて貰った戦中世代の御爺ちゃん達と話してる時に合戦=戦争の話も聞く事も有ったりして、話が広がり第二次大戦中の海戦に学徒動員で従軍した話しとか、15歳で学徒動員された時に一週間でモールス信号を覚えたから通信隊に入って戦艦に乗らずに済んで輸送船勤務で助かったけど、輸送船も沢山撃沈されて人が死んだ話とかも聞く事が出来た。
自分は生まれた時には祖父が二人とも亡くなっておりいなかったので、そうやって祖父代わり、活きた歴史の先生と知り合えた事も自分の財産に成ったのだけど、8年前、そんな事を始めて知り合った市村さん、内田さん、北見さん、金子さん等、横浜市域の旧間宮家臣の戦中世代の先輩方の多くは小生が訪れてから5年以内に小生に全てを引き継がせた様に亡くなってしまった。
あとはまだ御会いしてない間宮家の分家の御子孫の間辺工務店の社長サン、家臣の御子孫の田野井議員、山野井不動産の社長にはまだ御会いする機会が無い。
ウチは内田サンや市村サン達とは違い小生の父の代までは公務員家系で大戦中は祖父が満州鉄道の幹部だった。もう一人の祖父は八幡製鉄所に勤務してたが体を壊して退職して、ちょっとした地主の婿養子だったが離婚して満州へ渡り祖母に出会った。
つまり小生の祖父達は二人とも満州で生活した時期が有った。
満州で勤務した祖父は本当に日本と大陸の人の発展を心から願っていたから満州鉄道に勤務したと思う。
何の縁か、小生も中国に留学して中国語を有る程度習得したりした。
中国に留学した理由は別に1mmも祖父達を意識した事は無く(笑)、普通に当時「これからは中国語勉強したら金になるだろう」と思った今では的外れな打算と、三国志のゲームから中学生の頃から大好きに成ったから中国行きたかっただけだった(笑)。
まぁ、そんな中国もアメリカも第二次世界大戦中は交戦国だった。
今では日本と同盟国のアメリカや英国はかけがえのない友邦だけども、祖父の勤務した満州鉄道建設は朝鮮半島~中国大陸の鉄道開発利権争いを日本と米国との間に勃発させた。
英国は日本の満州宗主国統治を容認する代わりに中華民国を英日共通の同盟国として万里の長城(明帝国時代の漢民族領の国境)以内を攻めないと言う協定を外務省がとりつけていたので日中開戦まで有効な同盟国だったのだけど、帝国陸軍が万里の長城を超えて中華民国(現在の台湾政府)に攻め込んだ。
そして日中戦争が取り返しのつなかい完全開戦状態に陥る原因を作ったのが盧溝橋事件で、牟田口廉也と言うクソ陸軍人の暴走と判断ミスで、中華民国と戦争状態に陥り中国侵略を開始した。
その兵站を無視した中国大陸での戦争を行ったせいで日本は凋落する事が決定的に成った。
牟田口廉也と言う人物は日本軍を盧溝橋事件で日本兵の交戦範囲をカバー仕切れない程戦線を広げる失態の原因を作り、更にインパール作戦を無謀な兵站を考慮しない補給を無視した作戦を立案して自ら日本軍を窮地に陥れ、多くの日本兵士を餓死させた挙句、自分は愛人を連れて日本に逃亡したので連合国側諸外国では「連合国の勝利に貢献した人物」と皮肉を込めて評価されている。

その牟田口の独断専行を止めれなかったのが反原発で有名な細川護煕元首相の祖父の近衛文麿で、当時の首相だったが止める力も無くしかし世論の批判が集まると世論に靡くと無能な対応を繰り返した。
そして・・・ABCD包囲網で日本は経済封鎖された。

ABCD包囲網に参加したアメリカ、英連合王国、中華民国、オランダ、この4ヵ国は全て日本の同盟国であり、親友のような国だった。ついでに政治的には幕末から現代まで常に日本に対して侵略的な野心を持つフランス人もマリーアントワネットの時代から日本の文化や伝統工芸品を好む親日家は貴族民間人問わずおり、明治にはジャポニズム流行し現代でも日本アニメオタクは多い。ただし、IOCのバッハみたいな日本人を疲弊させる奴や企業や組織がいるのもフランスの反日的な面として事実有る。
友好的な国の中では特にオランダと英連合王国は三浦按針(あんじん)公が間を取り持って以来、昭和初期でも300年以上の安土桃山時代からの日本の友邦だった。
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横須賀の安針塚には三浦按針公と日本人の奥方の供養塔が有る。
この三浦按針公は英国人で徳川家康公に仕えて横須賀市に領地を与えられた白人の武士だった。
本名はウィリアムス・アダムス公。英国に家族を残したまま帰国出来ず、日本で於雪(おゆき)サンと言う女性と国際結婚し日本人の雪サンをとても大切にして下さり、御本人も日本人として日本を愛して下さった。
以前、平安時代末期の和田義盛公の築いた横須賀久里浜の怒田城(ぬまたじょう)と真福寺の紹介記事を書いた時に三浦按針公の事も紹介した事が有る。

三浦按針=ウィリアムス・アダムス公はカトリック宣教師と商人達から日本の植民地化と奴隷化を防いで下さり、大坂城攻めであぶれた西軍浪人武士達を徳川幕府が派遣する傭兵部隊として編制し東南アジアや台湾に派兵し日本周辺のミリタリーバランスを高度に調整して日本国の安寧を家康公の下で築いて下さった。
余談だが中華民国の英雄で明の名将軍の鄭成功は中国人倭寇の首領:鄭芝龍と日本人で長崎県人の母の間に生まれたハーフだった。彼の将兵にも日本武士や日本の武具で武装した兵がいたそうだ。

そんな日本人を外交と戦略で平和に導いて下さった三浦按針公は英国出身であり、オランダ商船リーフデ号の航海士として悪天候で船が遭難した際に縁が有って“止むを得ず日本に来た”だけなのに本当に日本の為に尽くしてくれた。
つまり、この時から日本人は三浦按針公を介して英国人とオランダ人には深い恩義が有った。
ちなみにリーフデ号に搭載されていたアームストロング砲と言う大砲は全て家康公の命令で船から降ろされているので、関ヶ原の戦いに投入されたと神奈川県の郷土史家達には考えれている。
小早川秀秋公の陣地の松尾山古城に威嚇で打ち込まれた大筒と言うのは、このアームストロング砲の砲撃だったかも知れない。
日本は徳川家康公と三浦按針公が存命中には横須賀の浦賀港と長崎港を交易地としていたが、家康公が亡くなり秀忠公の時代に成ると鎖国し、オランダと中国と朝鮮のみに貿易相手を限定して長崎の出島の中だけに交易地を制限した。
それから約200年、ペリー提督が日本に来るまで多くの外国と日本は関係を断つ事に成る。
ペリー提督
アメリカはペリー提督が日本に来た後で艦隊を侵略の為の派遣して日本の一部を武力で割譲させて植民地化する事も出来た。
でもしなかった。
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横浜に上陸した時に元町の庄屋の石川サンの御宅で石川サンと幕府の役人の新見サンに接待を受けて過ごした。
今も石川家は元町中華街駅の直ぐ近くに現存し、長屋門が文化財に指定されている。
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ペリーさんは横浜に滞在する間に横浜の桶職人の精巧な仕事を見て、横浜の人々の民度に触れて日本人に投資する価値が有ると思った事がペリー提督の日記に記されている。
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この神奈川県庁の辺りが神奈川運上所と呼ばれる、山下埠頭が開かれる以前に徳川幕府がアメリカの為に開いた保税地兼荷揚げ場が存在した。
ペリー艦隊の上陸
ペリー提督の横浜上陸当時の様子が絵に残っていて、この右手に描かれている木が実は開港資料館(旧英国領事館)の庭にある木だったりする。
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この木は震災や空襲を経て数代目らしいが、場所は同じ場所に植えられている。
そしてこの木の前に描かれている神社は“水神社”で、幕末に外国人居留地に成った跡、現在は場所は南区南太田に移転されて横浜水天宮として遷宮し、幕末より立派(笑)な神社に成っている。

英国もアメリカが日本に来た後、生麦事件を誘発させたと小生は陰謀だったと推測している。当時の英国艦隊は米国より精強で世界最強だった。


しかし英国は長州と薩摩を叩いた際に、三浦按針公以来400年ぶりの交流が不幸な再開の仕方だったとは雖(いえど)も日本人の好戦的な性格と、それに反して理智的な面と勤勉な面を非常に評価して下さった。この判断にはアメリカからの圧力も有ったろうし、そこにはペリー提督が残して下さったレポートの影響も有ったんじゃないかと思う。英国は明治維新政府成立後の日本政府に多額のODAを拠出し、日露戦争での対馬開戦の際にはロシア帝国のバルチック艦隊がスエズ運河を通行出来ない様にして更に英国と欧州諸国の植民地の港町でバルチック艦隊が補給出来ない様に工作して下さった御蔭でバルチック艦隊は日本近海に到着した際には既に疲弊しており、東郷平八郎元帥によるロシア帝国海軍の奇跡の殲滅戦を成功させ日本がロシア→ソ連の植民地に成らず現代に至っている。

先ずは横須賀の三笠公園に展示されている東郷平八郎元帥が乗船した世界三大旗艦の戦艦“三笠”。この船が有ったから日本はロシアに勝てた。
この三笠が英国製の戦艦だった事を知る日本人は今では少ない。
東郷元帥は、新撰組の生き残りの土方歳三サンや、徳川幕府艦隊を率いた榎本武明さん達の蝦夷共和国相手に刀剣を用いて相手の船に乗移り船を乗っ取る“移乗攻撃”を、恐らく全世界の近代海軍で最後に経験した人物の一人だったはずで、英国留学中に英国の士官候補生達から非常にリスペクトされたそうだ。顔も良かったし非常に英国の女性からもモテたそうだ。
東郷平八郎若い頃
若いころの東郷元帥⤴めちゃイケメンでしょ(笑)?
これ現代の女性でも惚れるでしょ?
因みに東郷元帥、祖先が桓武天皇で現在の神奈川県の藤沢市、村岡城主で鎮守府将軍だった平良文(たいらのよしふみ)公の御子孫に当たり、上杉謙信(長尾景虎)公とは同族に当たる。
年輩に成ってからの御写真が、もう謙信公の肖像画にソックリ!
東郷平八郎元帥上杉謙信
二人の生まれた時代は幕末と戦国時代で300年以上も差が有り、平良文公は西暦900年代の人で分岐してからの歴史は更に1000年近くもあるのに肖像画を見ると顔もポーズの癖も二人ともソックリでしょ(笑)?
桓武天皇の遺伝子って濃いんですね(笑)。
その東郷元帥と英国海軍と英国政府の共同作戦が対馬開戦の下準備、ロシア艦隊へ補給を断ちきる外交工作だった訳で、今の日本は英国無しには存在していなかった訳だ。
この戦いでは徳川幕府とフランス人も日本の勝利に貢献している。

そして第二次世界大戦開始以前の英国は日本を真の友邦と認識し、軍艦の造船技術まで技術移転して下さった・・・
この艦隊コレクションには、その英国政府が技術移転してくれ建造された船が幾つも登場する。
金剛型
※DMM GAMES様より画像拝借
・・・それが金剛であり、金剛の建造技術を英国から移転されて建造された霧島、榛名、比叡の姉妹艦達だ。
艦隊コレクションでは戦艦を擬人化する際に女性化しているが、実は欧米では船は女性に比喩されドイツ語等でも女性の単位として数えられる。これは歴史文化に興味の無い現代の無文化日本人には理解できない事かも知れないが、そう言うものなんだな。
先程少し話したがフランス人と徳川幕府も対馬海戦での勝利に貢献している。

ヴェルニー公園が江戸幕府が作った横須賀製鉄所の跡地だったりするのだが、神奈川県の公園の中でロケーションの美しさと軍港に停泊する潜水艦や護衛艦が見える特別さから小生は個人的に推薦する公園5本指に入ると思っている。この軍港と製鉄施設と造船施設を幕府の小栗上野介サンが残してくれたからロシアに勝てたと東郷サンが話している。
この横須賀製鉄所で日本帝国海軍が建造したのが山城と言う戦艦だった。
山城
※DMM GAMES、フジミ模型様より画像拝借
プラモデルも販売してるので、どんな船だったかは家電量販店や町の模型屋に行けば外観を知る事が出来ると思う。
山城の中に勧進された神様は京都石清水八幡宮の御分霊、つまり八幡大菩薩だった。奇しくも横須賀に展示されている戦艦三笠の守護神と同じ、三笠も館内の神棚には石清水八幡宮の御神霊が勧進されて今も祀られている。
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戦艦山城は横須賀製鉄所で建造され、その後は横浜での観艦式に参加した純国産戦艦だったのだが、悲しい事にレイテ沖海戦の際にスリガオ海峡で1500人の乗組員を乗せたまま米国艦隊の激しい空爆と砲撃を受けて沈没し生存者は10名しかいなかったそうだ。
日本と第二次世界大戦中に対立したのは米国だけでなく、ABCD包囲網参加全ての国と対立したので中華民国とも戦争状態に陥った。
親日家の孫文先生建国した国、今の台湾政府の前身が中華民国だ。
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写真⤴は留学中に撮影した南京の紫金山にある孫文先生の陵墓、中山陵。

下の写真⤵は台湾旅行に行った時に撮影した孫文先生を顕彰する中山記念堂。
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中華民国の孫文先生と蒋介石先生と中華人民共和国(共産党)の周恩来先生は御三方とも日本留学経験者であり、特に孫文先生と周恩来先生は靖国神社の御祭りが好きだったとおっしゃってた方で、靖国神社ではなく御祭りの日に縁日の屋台が建ち並び、そこに明治~大正~昭和初期の浴衣を着た女の子や男の子の手を引いて歩くお父さんやお母さん達の幸せそうな日本の風景を見て、そう感じて下さった訳で本当に日本と日本人の事を好(す)いて下さっていたんだろうなぁ~と思う。
だからこそ日本は周恩来首相の在職中に田中角栄さんと正式に関係改善に乗り出した訳だが・・・
もちろん台湾政府を樹立した蒋介石総統も日本に留学しており知日派であり元々は親日派だったと思う。
彼は蘇州と言う町に別荘を築いて南京を首都にしていた。

中華民国は袁世凱が孫文先生の政権を簒奪し帝位について、一時的に“尼港事件”等の対日本人無差別大量虐殺事件も起こす等の敵対国には成った。
しかし実は日本の天皇家が現在も存続し、私の家と同様に古代に天皇家と解れた豪族の末孫である多くの日本人が今も神社仏閣で御参りの機会があり御朱印を拝受できるのは袁世凱が没した後の中華民国の国家元首の蒋介石総統がマッカーサー元帥に対して「天皇家を滅ぼしてはいけない」と提言して下さった御蔭で昭和天皇が理不尽に命を奪われる事も無かった。
そして私の様に天皇家を慕う日本人達が連合国に対して徹底抗戦する必要も無くなり、今日のアメリカも台湾も日本の真の友邦と成り、米国の第八艦隊の職員や乗組員の皆さんとは横須賀で文化交流する事も出来る。
野球でも大谷君やイチローが活躍するのを一緒に喜んでくれる。
日本では日テレが“笑ってコラえて”と言う番組で特集して有名に成った京都橘樹高校吹奏楽部のマーチングバンドをアメリカ人が日本のTVより先に彼女達に注目し、マーチングバンドのワールドカップとも言えるローズパレードに招待して下さった際も例外的に異例の2回も招待してくれて、更に自国のマーチングバンドより盛大な拍手で素直に楽しみ平等に評価賞賛してくれて優勝の栄誉も与えてくれた。

日本にマーチングと吹奏楽を伝えたのは英国人で、横浜市中区本牧の妙香寺がその場所で薩摩藩士達が英国軍のフェントン軍楽団長に作曲しドイツ人のエッケルト音楽教師に編曲して貰ったのが現在の国家の“君が代”だったりするが、極右はソレを日本人がやったと歴史改竄するし極左は外国人の作曲編曲と知らず日本人の大和“民族主義”“右翼的”な曲と罵倒し無知を露呈してたりする。
このアメリカとの和解の切っ掛けを作ってくれたのが蒋介石総統であり台湾の人々だった訳だ。CIMG8902
横浜中華街のメインストリートの入口は“善隣門”が立っている。
お隣さん同士仲良くしましょうと言う意味の“親仁善隣”と言う成語の扁額が掲げられている門だ。
横浜の旧市街のド真ん中に「仲良く平和に助け合う」と言う、日本に暮らし中華街で働く架橋と日本人の方々の華人と日本人の共存共栄の願いが込められている。
言うなれば中華街全体が神社や道教の御神廟みたいな願いが込められた場所に成ってる様な象徴だ。
明治時代の中華街の近く中区山下公園の山下埠頭は物流拠点だったが、横浜港の山下埠頭に入港する前に貨物船は手前の金沢区の海で検疫を受ける必要が有った。
金沢区長浜~富岡東の平地は当時は海だった。
そこに戦国時代の北条家臣、柳下家や豊島家所縁の慶珊寺が今も有る。
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その慶珊寺の直ぐ前に当時は松方正義公の海に面した別荘が存在した。
更に近くの長浜の方には野口英世先生が世界で初めてペストの検疫に成功した長濱検疫所が有り、検疫港から孫文先生は日本に密入国した。

当時はまだ横浜中華街に清帝国が領事館を置いていたので正面切って横浜港山下埠頭の客船ターミナルから入港出来なかったんだろう、恐らく松形正義先生の手引きが有って、長濱から富岡へ上陸したのだろう。
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慶珊寺には、孫文先生上陸の顕彰碑が有る。
その後は日本に清帝国は朝鮮半島で戦争を起こし、海戦でも陸戦でも日本に負けて勢力を失った前後だろうか?
孫文先生は当時の東京市で日本政府の庇護を受けて靖国神社の御祭りを楽しまれたり、中華街に潜伏して辛亥革命の資金を今の中華街の経営者の祖先に当たる華僑達に募ったりしていた。
横浜中華街の生粋の架橋の先輩達なら皆さん教えてくれる事だ。
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日本中の中華街には台湾系華僑の人が建てた中山記念館の名を持つ建物が今も有る。
実は日中戦争開始の際に日本の国家元首だった昭和天皇も日中開戦に大反対した御方だった事を知らない日本人も多い。
昭和天皇は一度は当時の軍部の雰囲気に飲まれて対中開戦を承認したが、直後に命令撤回を通告し中華民国との開戦を止めようとしたが陸軍に「もう決まった事だから止めれません」とコロナ下のオリンピック強行開催した菅総理と同じ様な回答をされ、昭和天皇もそれ以上なにも出来なかった。
天皇家の歴史を見れば一目瞭然だが、天皇は簡単に時の権力者に殺害されたり孤島や僻地に幽閉されて来た歴史が有るからだ。藤原氏は数多くの天皇と皇族宰相を葬って来たし、北条家も足利家も天皇を島流しにした。そして近代では岩倉具視はおそらく孝明天皇を暗殺しているし西南戦争を誘発させる鹿児島の武士の暴発や大久保利通卿暗殺も裏で糸を引いていた可能性も有ると言われている。

当然、昭和天皇も精神的には八百万の神の依代(よりしろ)の頂点であり化身あるが肉体は人間なので軍部に殺害される恐怖はあり、そんな中でも「開戦撤回の要求」をして下さった訳だ。

実は日中戦争はその後も落とし所は有ったが止まれない暴走を招いたのが、後にインパール作戦を立案強行し多くの日本人兵士を餓死させた牟田口廉也と言う無能の権化の様な軍人だった。
この人物は小生の様な中道保守派からも、極右からも極左からも同じ様に“徴兵された国民を餓死させた悪人”、“日本人を苦境に陥れた奸臣”“愚将”として罵倒の対象に成っている。
この牟田口が日本の外務省の方針に反して盧溝橋事件を起こして陸軍の中国侵略の戦端を開いた。
この人間の判断力の無さで日本は蒋介石総統を敵に回す事に成り、更には未だ政府として機能すらしていなかった中華人民共和国の前身となる中国共産党の糾合巨大化に塩を送る形になってしまった。
更には無謀なインパール作戦の失敗で多くの兵士を餓死させている最中に本人は芸妓や売春婦と宴会を開いては飽食の限りを尽くし、自分がインドから撤退する際は兵士達は置いてきぼりにして芸妓等自分の愛人達だけを連れ帰った。

まぁ英国と違いフランスは国としては幕末~現代まで余り親日的では無く、薩摩を植民地にしようと幕府に交渉したり現代では日本の水道を利権化し乗っ取ろうとしたり、某フランス自動車企業が日本の日産自動車を機能停止させ乗っ取ろうとしたり、ゴーンが逃げたり、IOCのバッハが日本人には抑圧と経済拠出を強要しながら自分は銀座ブラブラ散歩したりハチャメチャな面は有り、有る意味中国より日本に対して酷いかも知れない。
https://www.tokyo-np.co.jp/article_photo/
https://www.tokyo-np.co.jp/article_photo/list?article_id=123184&pid=426049

こんな風に不幸な歴史は中華民国、中華人民共和国、オランダ、英国、米国との間に有る。

日本も攻撃したが、オランダ以外は全ての国が日本に対して軍事的に侵略や敵対的な先制攻撃を行った歴史が有った。
フランスは国としては現在進行形で日本に対して野心満々。
でも終戦後から76年経過する中で日台中米英蘭の色んな人達が御互いを評価し、御互いに戦争を回避しようと動き、御互いに友誼を回復しようと動き今の日本と世界が有る。
フランス人にも個人レベルでの親日家は多いしね。艦コレやって見てコノ⤴曲と戦艦の簡易解説を読んだ瞬間に、そんな諸々書いた自分の知る安土桃山時代~現代までの間に起きた事と日本に関わった自分の知る歴史人物と、南方戦線で戦艦と一緒に海に沈んだ無名の戦没者の事が一瞬で走馬灯の様に思い起こされ、泣いてしまった。
このゲーム中の音楽を聴いていて、図鑑で簡易解説を読んでると横浜大空襲で亡くなった南区中村地区界隈の戦没者を慰霊している中村八幡宮の写真を思い出したりする。
戦後、中村八幡宮は余り有名ではない普通の町の中の神社に成ってしまったが伝承では延喜年間以前には創建されていた事も周辺地域に知られており、更には幕末~昭和初期まで一帯が花街として栄えて真金町の遊郭街や永楽町の遊郭街が築かれ、非常に繁栄し新橋の芸妓サン達にも有名に成り新橋の芸妓衆や旦那衆からも多くの奉賛金が集まり非常に繁栄した八幡宮だった。
その中村八幡宮に忠霊祠が令和三年にも現存し祀られている。
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小生は歴史オタクに成ってから神道、真言宗、臨済宗、曹洞宗、浄土宗、日蓮宗の神官僧侶の人達に色々と教えて貰い可愛がって貰う機会が普通の人より多く有る。

・・・そして良く言われる事が有る・・・

「君は人より感受性と共感性が高い。」
「だから君が推測してくる事は説明した事も無いのによく当たる。」
「共感性が高いから過去の古文書を読んで自分の事の様に理解し感受性が強いから教えた事も無いのに理解してる。」
実はこの和尚さん達に言われた事は、小生に限らず真の歴史オタクの皆なら共通する特徴だと思う。
商売用の偽“霊能者”達とちがって、歴史オタクは後天的に直感は身に付くし“呼ばれる”んだよ。
我々フィールドワーク重視の歴史オタクはある時から“呼ばれる”様になる。
気に成った場所に遺跡が有ったり、何だかソワソワして予定と違う道を進んだ先に尊敬する人達に関わりの有る神社仏閣や史跡や“墓所その物”が有ったりする。“直感”の様に主体的に意識出来る事ではなく、訳も解らず気に成り“呼ばれる”感じ。
そして手を合わせて、現代人に日本文化を繋げてくれた事を御一人御一人に感謝する。DSC_0705

だから、色んな戦場や史跡を歩き、横須賀も散々散策して廻って来た小生や小生と同じ様な歴史オタクは、艦隊コレクションの図鑑の解説を聞くと全ての記憶がリンクしてしまい泣いてしまう人は少なくないんじゃないだろうか?
小生は海上自衛官の親友もいるし、身内に陸自の親戚もいる。

珍しい話ではないけれど小生の祖先は神話時代からの豪族で倭建命や足利尊氏公や豊臣秀吉とドンパチやりあった武家だったので命のやりとりはソンナ非現実的な話でもない。
そして敵だったいずれの武将もリスペクトしているし、祖先にも誇りを持っている。

そんな小生が偶然歴史オタクになった事で源頼朝公と源範頼公、鎌倉御家人の武将達と小田原北条家と北条綱成公と間宮家の顕彰活動の中で取材させてもらった人達は戦中世代で学徒動員で海軍に参加していた世代の方々もいて色々と戦国時代の話題から脱線し戦時中の話を聞く機会も有った。
もう、その話を聞かせてくれた御爺ちゃん達はこの8年間でほとんど亡くなってしまった。

もう直ぐ終戦記念日、政府のオリンピック強行で明らかに外国人要因で新型コロナ感染拡大してるけど、コロナとは別に世界が平和で有りますようにと願う。
そして自分の海上自衛官の親友と陸上自衛官の身内、日本を友邦として受け入れてくれてコロナ以前は地元住民と交流を大切にしてくれていた横須賀ベースのアメリカ第八艦隊の皆さんと、今TPPで経済的にも盟友に回復しようとしてくれいる英国政府と英国の皆さん、それと戦争中に敵対国のドイツと同盟をした日本を友好的に受け入れてくれいるオランダの皆さん、元は中華民国から来たのに日本大好きな人が多い台湾の人達と私の親友達、反日も多い中日本を好いていてくれる中国大陸の親日家の人達と友人達。

・・・皆、皆、幸せで平和でいられますように~!と願う。
コロナ対応失敗した菅総理も足引っ張ってただけの野党の政治家も、今後汚名返上の活躍をされ日本と日本の友邦がともに疫病の災禍から復興を果たし共存共栄しますように。
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さて小生がこの記事を書いている2018年12月25日はクリスマスです。
残念ながら独身で恋人もいない悲しい小生はイブも仕事、本日も仕事です。
皆さんはクリスマスは如何お過ごしでしょうか?
今頃は家族で子供達とお腹いっぱい美味しいご飯を食べたり、恋人や夫婦でイチャイチャして疲れて寝てるんでしょうか?
シングルベルの小生、今なら悔しい総統閣下の気持ちが解かる・・・
総統閣下 久良岐のよし
唐突なヒトラーの登場で困惑する人は元ネタ動画見て下さい(笑)

※注意!小生は保守中道派ですがナチは嫌いです(笑)。ロンメル元帥は尊敬していますけどね。
・・・さて、取り乱してしまいましたが今日はクリスチャンの皆さんと、全く宗教に信仰心が無い大半の日本人のカップルにも聖夜な訳ですが、実は神奈川県には江戸時代に既にクリスマスの習慣が有った事を知っている人が現代人の中にどれだけいるでしょうか?
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写真は神奈川県三浦半島の横須賀市吉井に在る怒田城址の一角に存在する眞福寺と言う寺院の抱子観音様です。
実はこの観音様、元々は江戸時代初期に開港して三浦按針ことウィリアム・アダムス公が活躍した浦賀港から江戸屋サンと言う廻船商人によって移され安置された観音様なのですが・・・
もう既にこの説明で勘の良い人は気づいていると思いますが、隠れ切支丹(キリシタン)や西洋人との関連が有ると言われている仏像で異名をマリア観音様と呼ばれているんですね。
障子の穴から撮影させて頂いたのでこの写真しか無いのですが、拡大して貰えるとマリア様と同じ様に赤子を抱きかかえています。
まぁ~只の観音様では無いですよね、仏教関係者なら尚の事理解出来ると思います。
しかしながら、日本神道も仏教もキリスト教徒も根源では人の幸せや安寧を願う宗派なのでこの観音様を見て嫌悪感を感じる人も少ないでしょう。
・・・さて、では何でこんな場所に隠れ切支丹のマリア様信仰に関係しそうな観音様が安置されているか解説させて頂きたいと思います。
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吉井山 眞福寺
この眞福寺、実は目の前に鎌倉街道の古道が通っているんです。
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この御寺の前の雰囲気有る道が平安時代末期~近代まで使われた鎌倉街道だそうです。
開基の時期は現在の御住職様は江戸時代に浦賀の廻船商人の江戸屋サンによって開かれたと申しておりましたが恐らく中興の時期が江戸時代と成るんでしょう。この江戸屋サンが浦賀港を本拠地としており現代で言う所の❝税関❞の役割を江戸幕府から委託されていたのですが、それだけでは食べていけないので廻船商人として海運で国内他地域と交易をして仕入れた物を流通に乗せ鎌倉方面や三浦半島に陸送する際に、この眞福寺の前の鎌倉街道を使って輸送したそうです。
浦賀~眞福寺 久良岐のよし
画像を拡大して頂ければ眞福寺と浦賀港が確かに近い位置に在る事が解かりますね。
でも当時は当然ながら車は有りませんので、馬に荷駄(にだ)を持たせて人が歩いて馬を牽引したので、この吉井地区の❝怒田(ぬまた)城址❞の丘を越えるのは一苦労だったのでしょう、この御寺は元々は休息用の目的も有って開かれたでしょうと御住職がおっしゃっていました。
江戸時代に御寺を再興したであろう江戸屋さんの別宅が直ぐ近くに在ったので、当時の地主サンの許可を得て江戸屋サンが御寺を整備したそうです。
ただ、御寺の開かれた年代については新編相模風土記稿では天文年間(1532~1555年)の開基と記載が有り、境内の説明では1522年、一方で横須賀市の認識としては1528年とされています。なので御住職の御話と風土記と横須賀市の話しを混ぜるとこんな経緯が見えて来ます・・・
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※写真は横須賀市安針塚に在る三浦按針公と日本人の奥さんの御廟所。
恐らく江戸時代以前、戦国時代の大永二年(1522年)~享禄元年(1528年)には御寺の前身と成る仏教系の草庵が存在し、天文年間(1532~1555年)に寺院化され、小田原北条家の滅亡により御寺を支援した領主が改易されると一時荒廃し、江戸時代初期に徳川家康公の外交参謀イギリス人サムライのウィリアム・アダムス=三浦按針公によって浦賀が諸外国向けに開港した頃に江戸屋サンが開業、禁教令と鎖国令が出て海外交易が長崎の出島に限定されてしまいます。すると三浦按針公や外国人が拝んでいたであろう抱子観音様も浦賀に置いておく訳にも行かず、かと言って廃棄する様な罰当たりも出来ず、江戸屋さんが江戸時代に自分の別荘の有る怒田城址の山深いけれど鎌倉街道伝いに日帰りで御参りに行ける場所に荒廃した眞福寺が在るに目を付けて、御寺を復興する資金を肩代わりして境内に観音堂設けて抱子観音様を密かに御守り移し安置されたのだろうと推測が成り立つ訳です。
眞福寺前の鎌倉古道と怒田城軍港跡の舟倉地区 久良岐のよし
地図を見ると眞福寺の前の林道の先に江戸幕府御用林の字も見えますよね?そして地図の左の赤く表示されている地区が舟倉で怒田城時代の海岸線で三浦水軍の軍港だった場所です。
・・・で、先程からシレっと怒田城の一部に眞福寺が在ると小生言ってますが、ここは平安時代末期に和田義盛公が築城した怒田(ぬまた)城の一角に当たり、新編相模風土記稿にも沼田城の当て字で記載が有るんですよ。
新編相模風土記稿 三浦郡巻之七 西浦賀分郷
このページに記載が在ります。

沼田城蹟
村の西界。山上ニアリ。字(あざ)臺崎ト云(いう)。
内川新田開墾前ハ入海の出崎ニシテ要害ノ地ナリ。相傳フ三浦大介義明ノ持城ナリト

怒田城に関しては又、別記事として改めて城址紹介の記事を書きますが、平安時代には水軍基地だった海が江戸時代に埋め立てられて耕作地に成っている事も判ります。風土記では三浦義明公の城と説明されていますが、正確には三浦義明公の嫡孫の和田義盛公の築城した城でした。これは司馬遼太郎先生も紀行文❝街道をゆく❞シリーズの❝三浦半島記❞で紹介しています。
先ずは眞福寺と怒田城主要部分の位置関係を見て見ましょう。
怒田城址周辺地形 久良岐のよし
眞福寺の目の前を浦賀~走水方面から鎌倉に通じる街道が通っているのですが、この街道を抑える為に築城されたのが画像で眞福寺の右手の丘一体に広がっていた大城郭❝怒田城❞でした。
この怒田城は平安時代末期の築城ながら安土桃山時代の平山城と同じ様な構造をしていて、和田義盛公の戦術眼と築城術が当時としては革命的に先進的な物だったのが解かります。
城は連郭式(れんかくしき)と呼ばれる段々に成っている構造です。
まぁ、昔から重要な街道が有り、平安時代には軍港でもあった訳です。
そんな場所だから当然ながら税務所役人であり通関業者であり運送屋であり商人の江戸屋サンや浦賀の廻船商人達はこの眞福寺を支援した訳ですね。
そして先述の通り三浦按針公と浦賀港の歴史を経て、眞福寺に抱子観音様が安置された訳です。
では今度は眞福寺サンの風景その物を見て頂きたいと思います・・・
眞福寺サンの在る山は城址なので当然ながら籠城に堪える湧水も有り、今も農業用水として御寺の近くを流れています。
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そして御城が防衛した鎌倉街道の古道が山に向かって伸びています。
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その右手に❝三浦三十三観音霊場第十五番❞吉井山眞福寺が在ります。
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眞福寺サンは現代では浄土宗です。
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階段を上って山門代わりの石柱の右手には御地蔵様が並んでらっしゃいます。
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境内の御庭に入ると左手には素敵な雰囲気の観音様のいらっしゃる庭園と観音堂が見えます。
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奥津城観音と言うらしいですが、実は奥津城と言うのは神奈川県の聖地の渋田山の別称でして伊勢原市に現存する延喜式内社の高部屋神社の元宮の祠が在る場所だったりします。まぁ、関係有るかは知りません(笑)。
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観音堂の階段の右手には御寺の歴史と聖観音様と抱子観音様の解説が有ります。
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いかにも古い石段を登ります。
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すると明らかに怒田城の曲輪の一角だったと思われる平場に聖観音様と抱子観音様が安置された観音堂が在ります。現代では御墓に囲まれていますが、それでも雰囲気良いでしょう?
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彫刻も立派!
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実は障子に穴が開いていて観音様を拝見する事が出来ました。
有難い。
新編相模風土記稿では現在、聖観音とされる仏様は瀧見観音とされています。瀧見観音は三浦一族の菩提寺圓通寺に祀られていた三浦一族の持仏で、現在は横須賀市衣笠の清雲寺に安置されています。
江戸時代までの仏様の名前からも、御寺に三浦一族との前身寺院が存在した様な関係性が臭いますね。
是非、御朱印頂きに参拝される方は観音様を拝して頂きたい。そしてイギリス出身の白人サムライ三浦按針公が日本人を欧州人の植民地化から守って下さった御恩も感じて頂ければなとも。
又、浦賀が欧州からの貨物の集積地として賑わっていた歴史もここで感じる事が出来ます。
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今でも満々と水を湛える池、そりゃ城作るよ。
観音堂の台地から御本堂を見下ろすと雰囲気が良いんですよ~。
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庫裡(くり)の入口が昔ながらの造りで素敵ですね~♪
さて、一応、今回の解説はこんな感じですが、歴史好きの方は怒田城址見物と合わせて是非御参りしては如何でしょうか?
怒田城址 久良岐のよし
因みに怒田城は吉井貝塚部分より眞福寺との間の谷間に良く城址の地形が残っています。
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食違い状の削平地ですね。
小生の推測では、恐らくここが人工的に開削された大空堀で大手道だったと思います。そして眞福寺側が西門だったんでしょう。
怒田城址に関しては余り遺構が無いとか書いている阿呆が多くいますが、それは日本城郭大系を書いた学者さんが恐らく京浜急行電鉄に❝配慮❞して開発の妨げに成るのを避けて城域として指定した極狭い範囲だけを馬鹿正直に見たからでしょう。実際は周辺の山を歩き廻ると城として十分な構造体がそこかしこに残っているんですよ~。

さて、今回はクリスマスにちなんでマリア観音様と眞福寺さんと周辺の歴史を紹介して見ました。
きっと皆さんの御近所にも深い歴史や意外な偉人と繋がりの在る神社仏閣や城址の山や公園があるかも知れません。
ですから皆さんも歴史散歩してみませんか?凄い歴史偉人と地元の繋がりをしれば、地元愛も深まりますよ~♪

では!又次の解説記事で!
・・・でも次は神社仏閣一覧を刷新するのに注力します。ですから御正月ですかね~、新しい記事を書くとしたら。

そんな訳で皆さん、本年中も御高覧ありがとうございました。
来る年が皆さんにとって小生にとっても発展の年と成り、健康を高める年と成り、自らを成長させる年と成ります様に♪
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4月5日、昼前に鎌倉に到着した。
最初の訪問先はミシェランガイドで三ッ星に成った報国寺。
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ここを訪問した理由は本当は「ついで」と言うか、本来の目的は浄妙寺で女性守護婦人病治癒の神様の淡島明神様に御参りして御守りを購入する事にあった・・・
しかし報国寺は浄妙寺の直ぐ近所。
・・・元々報国寺の竹林で抹茶を頂いてボぉ~っとして過ごすのが好きなのと、報国寺を開いた殿様が小生が顕彰活動を準備しており横浜の殿様でもある宅間上杉家初代の上杉重兼公と足利尊氏公の祖父の足利家時公だから御参りしない訳にはいかないのだ。
最近はミシェランガイドのせいで国籍問わず風景目的の参拝客が増えたので昔は静寂だった竹林も「ザワザワ」と人の話し声がする事も有り、本堂の前で殿様達に御参りして帰る事も多く、余り抹茶を飲んで帰る事も少なくなっていた。
この報国寺に来ても、最近はもっぱら抹茶を頂くのは浄妙寺に成っていたから。
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しかし、この日の陽気で一気に桜の花弁も開き庭の景色が綺麗なピンクで彩られていた事と、平日で人も余り多くは無かったので半年振り位に竹林で抹茶を飲んで帰る事にした。
丁度、臨済宗寺院専用に建長寺で改めて購入した御朱印帳も持参して来ていたので、そちらに御朱印を頂く間、竹林でゆっくりと待つ事にした。
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しかし、この桜は思いがけず御褒美を頂いた気分に成れた。CIMG2929
う~ん綺麗だ。
横浜市の桜の開花状況は、この日まだ3~5分咲きと言った所、この報国寺の在る鎌倉市浄明寺地区宅間谷は名前の通り谷合で少し涼しい場所なので、まさか桜が見事に咲いているとは思いもしなかった。
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可愛い桜、見せてくれてありがとね!来年もよろしく!
さて、一頻(ひとしき)り桜を見てホッコリしてから、凛と静かな空気の漂う報国寺の竹林へ・・・
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フランス人ぽい男性と日本人女性のカップルが竹林散策を楽しんでいらっしゃった。
二人で交代で写真を撮っていたので、「写真撮りましょうかぁ~?」声をかけたら笑顔で「お願いします!」と応じて下さった。やっぱり、恋人同士は一緒のフレームに写った方が嬉しいでしょ。
二人は再び笑顔で「ありがとうございました!」と日本語で元気に御礼を言って下さったので、何だか少し嬉しい気分に成って幸せを御裾分けして頂きました。
御二人さん、ありがと♪
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さて、竹林の中の茶屋は“休耕庵”と言う。
実は昨年改修工事が入って暫く営業していなかった。小生自身も半年来ていなかったので久々の訪問。
大きくは変わっていないが、建築用材が新しく成っていた。
ここでは“抹茶”と足利家の家紋を模した“落雁(らくがん)”を頂く事が出来る。
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先述の通り最近数年間は観光客が多く成り余り以前程のんびりするのも憚(はばか)られる事も有ったのだが、この日は小生以外に喫茶に来た観光客も3~4組しかおらずゆっくりできた。
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ここから見る竹林と谷戸構えの切岸の苔むした様子、そこに響く小さな水の流れ・・・
この風景が落ち着くんだな~。
・・・ふむ、久々に来て良かった。
竹林の石畳も再整備された様で歩き易く成っていた。
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可愛い御地蔵様達、このエリア以前と雰囲気が違う気がする?
比較する写真が無いので分からない。
写真撮影しているオッサン(笑)がなかなかどいてくれないので、諦めてオッサンごと御地蔵様を写真に収めさせて頂いた。この御地蔵さん達、近くでみたら少し可愛いいんですよ、御優しい顔で。
竹林を出て御朱印を受け取り、浄妙寺へ移動する事にした。
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報国寺で御朱印を頂くのは二度目。最初は宅間上杉家の顕彰活動で。
そうそう、本堂の横には名前は知らないけども綺麗な紫色の花が咲いていました。
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なんと言う名前なんだろう?
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御存知の方いらっしゃたら教えてください。
浄妙寺へ向かう時、報国寺交差点の手前の橋の上から滑川(なめりかわ)に目をやると菜の花がとても綺麗に咲いていました。
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近くで見たくて滑川の遊歩道に降りてみた。
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遊歩道に降りる階段横にも桜が咲いていた。
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生憎、遊歩道は菜の花の近くまでは伸びていなのだが、それでも花と同じ高さの目線で見れたので満足満足♪
う~ん、黄色が明るく爽やかだ!
この滑川の菜の花から徒歩1分で浄妙寺参道に着く。
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浄妙寺の参道も桜が咲き始めていた。こちらは未だ4分咲き位か?今週末4月の第2土曜日曜辺りは見頃に成っているだろう。鎌倉市観光協会にも確認したが、鎌倉市内の桜は概ね今週末位~漸く見頃だそうだ。
今年は気温の寒暖差が激しく鎌倉に限らず、どこも開花が遅れている様だ。
その分、大きな風が吹かなければ長い間花見も出来そうだ。
浄妙寺に着くと、山門をくぐって直ぐの拝観受付の場所で販売している淡島明神様の御守りを購入した。
無論、女性の親友達の縁者の健康祈願が主たる目的なので、御本堂に御参りした。
昨年母が子宮癌に成り手術を受ける前に、小生は御参りして母に淡島明神様の御守りを購入し渡しておいた。
その後、手術は上手く行き転移も無く、無事にいるので先月、母の御礼参りに付き合って参拝しに来たばかりだった。
その後、留学仲間の大阪の女親友の姉上が卵巣癌の手術をした事を知り、卵巣癌が遺伝性の病である事も知った。加えて愛知の歴史仲間でもある女親友の友人が子宮癌に成り転移も有った事を最近聞かされたので、友人達4人分の健康祈願と御守り購入に来た次第だ。
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淡島明神様は御本尊の並びの一番右端に鎮座してらっしゃる。
御参りに行けない人は、この写真でも良いから先ず健康祈願をして改めて参詣すると良いと思う。
御守りや、信心は要は自分の精神を健康に保つ、なんと言うか心の支え的な要素が大切なのだと思うから。
要は気持ちの問題。文字通り気持ちの問題で、ウジウジ一人で不安に成るより出来る事は何でもして、不安を払拭する事その物が既に御利益なのだろう。
そして、具体的に健康に向けて努力する。奢らず健康診断をちゃんと受け、ジムに通ったり運動をして健康を保つ、そう言う事なんだろう。
日本古来の神仏習合の神様で、まぁ~名前の通り淡路島が神格化された神様のはずだが、明治維新後の神仏分離令で、どの神様と同一視して神道に組み込むか全国の淡島神社では統一された御神格は無い。
だから小生は思うに神仏分離令は無理が有るのだよ。
日本文化から見て記録で遡(さかのぼ)れる範囲でも1400年以上は神道と仏教は融合していたののだし、そもそも大鞆別命(おおともわけのみこと)こと応神天皇の化身とされる八幡宮の神様なんか御神託で御自分の事を「八幡大菩薩」と名前を言った事が日本の記録に残っているのだから。
そして応神天皇の皇子の莵道稚郎子(じのわけのうらつこ)命なんて渡来の学問を日本で最初に導入した人物で神様に神格化された歴史が明白に成っているのだし。神話通り莵道稚郎子命が漢学を治めていたのならば仏教も学んでいただろう。少なくとも中国の道教や易学も学んでいたので、西暦300年~400年頃の古墳時代には既に日本の古代神道も大陸文化の一部が導入されていたはずだ。
無理に仏様も神様も分ける必要も無い。
本地水垂迹(ほんじすいじゃく)思想みたいに、どっちが本性とか議論する必要も無い。
日本人らしく大らかに八幡台菩薩を拝んでも応神天皇を拝んでも同じ神様で別名として認識すれば良いのだと思う。実際に、歴代の天皇家もそうされて来た訳だし。
この手の価値観は仏僧と神職でモメた事も有る様なので、小生は例えば素戔嗚尊(すさのおのみこと)ならば、もう全部の異名を一緒にして毎日御参りしている「素戔嗚尊牛頭天王武塔天神」と名を御呼びして遥拝している。
こうすれば、宮司さん達にも和尚さん達にも昔の人々にも失礼に成らないで済むんじゃないかと思ってる。
まぁ、そんな訳で、淡島明神様は淡島明神様のまま明神が付いていて良いと思う。

さて、ここからが小生のレクリエーション開始。
浄妙寺を後にして車に乗り込むと、一路、横須賀市の安針塚を目指した。
安針塚を目指す途中、住宅地の桜並木もとても綺麗だった。
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う~ん。ピンク。
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とても綺麗。なんと言うか、ブリッ子だな、この娘は。
小生は花を良く人間に例えるのだが・・・
この娘も可愛いが、小生は凛とした梅、または大木に成り人々の誇りとなる染井吉野がどちらかと言うと好む所ではある。
あと山吹や蝋梅も好きだ。紫陽花も綺麗。
でも一番好きなのは、やはり梅かな~。しかし人々を笑顔にする桜の林の存在価値も素晴らしいと思う。
ところで・・・
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この風景は按針台と呼ばれる安針塚の在る塚山公園周辺の風景なのだが・・・
安針塚と言うのは江戸幕府で徳川家康公に仕えた英国人サムライの三浦按針(あんじん)公の御廟所の事で、その御廟所の名前がそのまま京浜急行の駅名や地名に成っているのだ。
三浦按針公の本名はウィリアム・アダムスとおっしゃる。
まだ徳川家康公が豊臣政権の五大老だった頃、ウィリアム・アダムス公一行の乗った船が遭難し、九州に漂着した。家康公は彼を保護すると自らの領地である関東の相模国三浦郡に領地を与え家臣に加え海外通商の窓口、つまり外交担当の参謀として抜擢した。その際に姓も領地の在った三浦郡から三浦とし、元の姓のアダムスを日本風に文字って按針とした。
余談だが、この三浦按針公と共に家康公に仕えた白人サムライがもう一人おり、名をヤン・ヨーステンと言う。
彼も又、耶楊子(やようす)と日本風に漢字で名を改めたが、彼の居所が有った場所が東京駅八重洲口辺りだった。つまり東京駅八重洲口はヤン・ヨーステン=耶楊子公に由来しているが、これを知る人は現代でも結構多い。
そんな訳で、日本でサムライに成った外国人は数人いたのだ。
他にも宣教師が連れていたアフリカ系黒人のモザンビーク人奴隷を織田信長公が奴隷身分から解放して侍として己に近習させたのだが、この人物の名前は弥助と伝わる。元の名前はモザンビークにヤスフェと言う名前が多い事を世界ふしぎ発見!が紹介していた。この放送、とても楽しかったので良く覚えている。弥助は大砲の砲撃の名手だったそうだ。
更にイタリア人白人の山科羅久呂左衛門勝成と言う武将も織田信長公の娘婿の蒲生氏郷公に仕えていた。
外国人が登用されていた事を知る人は結構少ないが、古代の日本の朝廷でも新疆ウィグル族出身の人物が登用されていたりした歴史が有る。
まぁ、そんな事を思い出しながら車を降りてから山を登って行くと塚山公園に到着した。
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塚山公園の桜はまだ5分咲きだったが、花見に来ている人がそれなりに居た。
平日だったので、やはり人はまばらだった。
実は安針塚は初訪問。もっと墓地っぽい陰鬱な場所をイメージしていたがこれは良い!
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屋台も少ないが出ていた。
焼きそばの屋台を見て、後で昼食にしようと決め、先ずは三浦按針公に御挨拶に伺う為に御廟所を探した。
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う~ん良い所だ。
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程無く看板も見つかり、安針塚その物に関しては深い予備知識無く、現地の説明看板や石碑を読むのを楽しみにして来た。
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立派な石段、塚山公園内でも一際高所に位置する丘、この上に三浦按針公が眠ってらっしゃる。
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この説明を読む限り、この安針塚一帯は昔は逸見(へみ)村の一部だったらしい。
現在は逸見は安針塚の一つ前の駅名として残り、地域も安針塚は逸見から分離し成立した様だ。
しかし、御遺言で所領の三浦半島に戻って来られたのは、この地がイングランドに似ていたのだろうか?
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この石碑や、参道を整備したのは大正時代の人々だそうだ。
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別の石柱にも大正十三年と書いて有る。
昔の人は人種分け隔てなく帰化して日本の発展に寄与して下さった人物を、こうやって御祀りして大切に郷土の誇りとして後世に伝える努力をされていたのを、歴史が好きで色んな城址や史跡や神社仏閣を訪問すると思い知らされる。右左問わず現代の政治家とは大違いだ。文化も人も風景も平等に大切にされて守って来た大正時代の人々に感謝。
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有功国家・・・日本国に功績が有る=日本に功績を遺した。
永護江都・・・江戸の都を永きに渡り守る
・・・つまり、江戸と日本の発展を守る功績を遺された偉人と言う事だ。
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報以恩遇、東面其墓。
近代の人々も、三浦按針公の功績を感謝し、そして帰国出来なかった悲哀に色々と考えさせられたんでしょうね。
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小生の主義で御廟所の写真は掲載しないので、三浦按針公と奥方様の御廟の写真は今回も載せない。
しかし、女性の権利を守る思考が強かったプロテスタントの国出身の三浦按針公らしい、日本人の奥さんと隣同士手を繋ぐ様に並んでらっしゃった。
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そして、御廟所から後ろを見て解った。
按針公は、この丘から見る金沢八景の島々と海の風景が好きだったんだ。
もしかしたら、この風景が三浦按針公の故郷の英国ケント州ジリガムに似ているのかな?と思って調べてみたら・・・
ケント州ジリガム 三浦按針公の故郷 久良岐のよし
ビンゴ!半島と入り江に面した町で、湾内には金沢八景の様に島が幾つも有る。
三浦按針公は故郷に似ている金沢八景の見える、この丘が好きだったんだな。
御廟所で三浦按針公に、小生に神社仏閣や日本文化と史跡、日本の歴史偉人と神様に成られた先人達、そしてコープランドさんや按針公の様に日本の歴史に名を残し、発展に関与して下さった外国人の皆さん、それらの顕彰を通じて世の中の人に、昔の人々への感謝と日本文化の美しさと神社や御寺や城址の果たして来た役割を再度認識させる役割を担わせて頂ける様に、お力添えをお願いして来た。
それと、もし可能ならば日本文化や日本の風景が大好きで気の合う奥さんとも将来巡り合い、按針公の様に夫婦寄り添える人生を歩める様に縁結びも御願いし、最後に世界人種問わず親日家の人々が安寧に過ごせる様に平和の願いも伝えて来た。
御参りを終えて、御廟所の在る丘の直ぐ隣もう一つの丘に登って風景を見る事にして、有る事に気が付いた。
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実は塚山公園も神奈川の景勝50選の一つだった。
過去に小生が数か所紹介しているが、昨年末だと鎌倉の浄土宗大本山天照山光明寺裏山と周辺から見る由比ヶ浜の風景。

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それと葉山の長者ヶ崎の風景。
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それと油壷湾、油壷マリンパークの一帯は鎌倉~戦国時代の新井城址で、その風景も50選に入っている。
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横須賀市の神武寺~鷹取山の石切り場の奇岩群と大石仏。DSC_3029
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まぁ、こんな感じで全部合わせて50ヵ所も有るので挙げていると切りが無い。
親切な解説ホームページを作成して下さってる方がいるので、参考にすると良いかと思います。
http://heiwa-ga-ichiban.jp/kanagawa50/index.html
これ↑ね。
さて、話を塚山公園に戻し、安針公の御廟所とは違う展望台的な方の丘からの眺望を紹介したい。
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う~ん、こちらからの風景も綺麗だ!
桜越しに三浦半島の横須賀地域が見渡せる。
反対に目をやると・・・
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田浦梅林の山が見える。
田浦梅林については御興味の有る方はコレ→ をどうぞ。
綺麗な風景を見て満足したので、先程の屋台で焼きそばを購入して昼食にした。
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サービスで超大盛りにしてくれた(笑)。
いっつも年配の人に優しくして貰えるのは小生のキャラクターなんだろうか(笑)?
味は普通に美味しい屋台の焼きそば(笑)。
オバちゃん、御馳走様!美味しかったよ!普通に美味しいとか言ってゴメン(笑)。
食べ終わり、もう少し公園内を散策して見た。
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翌々見ると軍艦が見える。米国艦船かな?
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うん、塚山公園、良い場所だ!
また桜の季節に三浦按針公と奥方に会いに来よう。
公園から離れた場所に止めた車に戻る為、又、来たマンションの通りを抜ける。
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ベビーカーを押して花見に行く途中?の若夫婦。
幸せそうだが、実はパパさん、登り坂で結構辛そうだった(笑)。
でも羨ましいぞ!お幸せに♪
車にのり20分とちょと移動。
最終目的地の平安~鎌倉時代の三浦家の居城、横須賀市大矢部の衣笠城址に到着。
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衣笠城址、以前も紹介したのだが、旧城域に大善寺と言う御寺が在る。
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行基大僧正が開いた本は真言宗系の御寺で、分家の佐原三浦家が戦国時代の三浦家宗家と成り曹洞宗に帰依していたからか、現在は曹洞宗寺院に成っている。
そもそもは、三浦家の学問所としても機能していた学問の寺院でもある。
この御寺の副住職様に御話が有り訪問したのと、衣笠城址で最期を遂げた三浦義明公に御挨拶する為に城址の御稲荷様に3年振りに参拝する為の訪問だった。
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大善寺周辺には曲輪跡と思われる地形が沢山残っている。住宅や畑も昔の曲輪群だろう。
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御寺を訪問した際に、副住職様は若様の要件で外出中だったので、奥様に要件を御伝言頂く事にした。
前回同様、とても丁寧に応対して下さり感謝。
そして本堂で尊敬する三浦義継公と三浦義明公を始め、三浦義澄公等いつも個人的に御祈りを捧げている三浦家の尊敬する方々に御挨拶をして、御本尊様にも御参りした。
用事も済んだので、大善寺さんの裏手に在る城址残存部を久々に訪問、桜が有るので楽しみだった。
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江戸時代の城しか知らない人には城に見えない場所だけど、城好きが見ると尾根の自然地形を利用して裾切り下切岸や土塁の跡の盛り上がりなんかが見て取れる。

まぁ、興味の有る人は以前の記事↑を読んで頂けると要害性の有る地形が判ると思う。
ブログ始めたばかりの初期の記事で情報量も少ないが。
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上の写真、岩が物見の岩と伝わる場所を人工的に掘り切った反対側に当たる。
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物見岩に登ると御稲荷様の祠が在り、義明公の歌った詩が有る。
物見岩付近からは合子や経文が出土している。ここが小生の尊敬する偉人の一人である三浦義明公最後の場所だと、小生は推測している。
ここは見晴らしが良いので、戦時には指揮を執る場所だったと思う。
そして、そこを今では御稲荷様が城址に来る来客を出迎える様に待っていて下さる訳だ。
御稲荷様にいつも行く先々で御会いして旅の無事を守って下さっている御礼と、前回の参拝からの事等、色々御報告差し上げた。
御稲荷様、又、桜の頃に御参りに来ます。
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衣笠城址はまだ、桜は部分的にしか見頃では無かった。
知人から衣笠山公園の桜林は見頃だよ、と言われていたので其方(そちら)にも行くつもりだったが時間的に日没近い頃に成っていたので、この日は諦める事にした。
そうすれば、又、来年以降も衣笠山公園の桜を見るついでに義明公達と御稲荷様に会いに来る理由が出来るしね♪

ふむ。
良い休日を過ごせた。
帰り、車が赤信号で停車した所、面白い植木の有る家を見つけた。
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遊び心満載だなオイ(笑)!
きっとユーモラスな御主人なのだろう。家族思いのパパさんなのかもね~。

うん、色んな人の人生を辿りながら、綺麗な風景も見れて満足満足。
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ブログネタ
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横須賀市田浦にある田浦梅林が見頃で田浦梅林祭りが開催されています。


前回記事で少し触れましたが、田浦梅林は今の天皇陛下の生誕記念に植林された広大な梅林です。
昔は山の名前を按針峰(あんじんみね)とか何とか呼んだらしいです。
隣接する町に安針塚と言うのが有るからでしょうか?
安針塚の安針とは、ウィリアム・アダムスと言う人物のアダムスを和名風にした名前で、彼は江戸時代に徳川家康に仕えたイギリス人外交顧問でした。
因(ちな)みに東京駅八重洲(やえす)口も、ヤン・ヨーステンと言う同じく徳川家康に仕えた彼の同僚の名前を和名にしたものと伝わっています。

下の航空写真真ん中辺りの山が全部田浦梅林です。
京浜急行電鉄 田浦駅から徒歩15分くらい。
行く途中には前回紹介した「梅どら」と言う梅を使った美味しいどら焼きを販売している「ふじみや」さんが有るので、田浦梅林見学のピクニックの御供(おとも)に丁度良いですよ♪


田浦梅林は住宅街を抜けないとたどり着けず、少々入り組んだ場所に入口が在りますが、案内看板代わりの旗を目印に辿(たど)って行けばつきます。

上の写真の山裾が見えれば、もうすぐ!
ここの路地が入口です。
ここを入るとニ叉路に道が分かれますが、小生のお勧めは左回りの第六天神社経由登山です。

少し登ると鳥居が有ります。
此方(こちら)側から登山すると途中、梅の林越しに横須賀市田浦の昔ながらの里山の風景を楽しめます。
更に田浦梅林の発祥地である第六天神社の前では…
撮り鉄の人なら歓喜するであろう、梅林と京浜急行電鉄のコラボした風景が見られるんです。

以下、田浦梅林から京浜急行のトンネル出口を見た風景の連続写真です。

写真みたらフォルダ内ぐちゃぐちゃで進行方向分からなくて、逆再生かも…

逆再生かも知れませんが、珍しい綺麗な風景である事は伝わりますよね?

この風景の見れる神社の第六天神は、織田信長公が武田信玄との文通の口喧嘩の中で、武田信玄が自分を「天台座主(てんだいざす=天台宗のトップ)」と書いたのに対して、信長公がトンチを効かせて自称したのが第六天神社の祭神、第六天魔王です。

農民の信仰を集めた神様で、第六天魔王は仏教とヒンドゥー教の神様です。
天台宗等、法華経を重んじる仏教宗派では魔王であり、且つ、真面目に仏教の思想を守る人間には保護者になると解釈されているそうです。
だから信長公は武田信玄が天台座主と称した際に、法華経信者を裁く立場の第六天魔王を持ち出し上から目線で信玄が吹っかけた口喧嘩を買った訳です。
武田信玄は天台座主を名乗る事で、自軍の織田領への侵攻に大義名分を付加しようとした訳です。
ところで、神道では第六天魔王に高御産巣日神(たかむすびのかみ)や天狗を当てはめる事で神主様や氏子さん達が、明治政府の廃仏毀釈政策に由る外来の神様排斥から第六天神社の御社を守り、多くの社殿を破壊の危機から守ってきた様です。
実は…
関西には第六天神社が余り無いのですが一説には豊臣秀吉が織田家を乗っ取った際に、織田信長公の天罰を恐れた秀吉により関西の第六天神社は破壊し尽くされたそうです。
第六天神社を過ぎると、梅林の遊歩道沿いに水仙が植えられたエリアに入ります。
先週の写真ですが、少しだけ水仙も梅も時期が早かった様でした。
が、それでも綺麗な花が見られましたよ。

良い眺望(ちょうぼう=ながめ)です。
この先に広場や子供用アスレチックが有ります。

途中、鶯(うぐいす)の群れに出くわしました。
可愛かったですよ〜♪

で、頂上付近に来ると、梅林越しに横須賀市の海と、更にその向こうに横浜市金沢八景の八景島の絶景が見渡せます。
昔は海も埋め立てられておらず、更に綺麗な風景だったんでしょうねぇ…。
手前が夏島かな?
写真中央が野島…
二つの島は伊藤博文公の別宅があり、大日本帝国憲法の草案が纏められた、日本法治主義の基盤が作られた場所でもあります。

展望台もあり、そこからも東京湾を眺めるれます。

この田浦梅林、元は個人の所有地でしたが、今上天皇陛下生誕記念に横須賀市に寄贈され梅が植林されたので、その寄贈者の方の記念碑もあります。
良い所でしょ?

お弁当持って御花見散歩に行くには良い場所です。
家族連れや恋人同士には尚、良いレクリエーションとなる事必定!

今週末位までが見頃です。
是非、訪れて見てくださいね〜♪

では、又、次の記事で!
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