歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:三浦義明

森戸神社名島と真名瀬の海
神奈川の景勝50選、森戸夕照と富士。
【森戸神社の海岸の眺望】
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長文ですが鎌倉時代のミステリー好きの皆さんに各地の史跡を交えて謎の多い人物の話を紹介したいと思います。

正直冒頭からディスってアレですがコレ⤴史実とはかけ離れているので“歴史”としては見ないで、歴史人物の名前を使ったコメディー“歴史ファンタジー”程度で見ないと大変な事に成ります。
ただ歴史人物は登場するけど小説や漫画と同様に「フィクション」として楽しめば良いかと思います。
例えばフィクションが嫌いな人にもNHK歴史大河には“坂之上の雲”の様に全ての人物を貶めない演出を採用し尚且つ歴史知識に裏打ちされた原作をドラマ化した良作も沢山有ります。

三谷脚本は演出とは言えないLVで笑いを取る為に史実に無い話の更に偉人を貶める描写を多量に差し込んでしまい歴史ファンタジードラマな訳ですが、知識が有ろうが無かろうが歴史偉人を特に尊敬していない人なら眉間にシワを寄せる事も無く楽しめるかと思います。
先人を尊敬している人や当該歴史偉人を祀る神社仏閣の等の関係先の御子孫や宗教者は悲しむ人が多く成る事でしょう。
古典芸能に例えると良く解ります。

司馬遼太郎原作は例えると神田伯山の講談です。
知識に裏打ちされた話しと演技力とオーラから客の感情を引き込みます。

三谷幸喜の脚本は林家三平の落語の様に本筋に関係の無い話を多用し爆笑を取る技術に長けると言った所でしょうか。ハッキリ好き嫌いの評価が割れる訳です。
小林聡美さんと離婚する前の三谷脚本は本筋と関係無い演出も歴史に無い部分を繋げる為に補填すると言った、人を貶めず好感を持てる部分を強調する演出は素敵でした。

更に彼の歴史と関係の無い古畑任三郎等は現代に見ても素晴らしい作品と言えるのではないでしょうか。
彼は歴史に成ると話を面白くする為(ため)に、歴史人物を使って史実で偉人達が話したりやった事と特に真田丸辺りから悪意の演出で真反対の事を脚本にしてしまう事も有るのですが、これは三谷脚本の大河ドラマはなく歴史人物ファンタジーとして視聴し史実と異なると思って楽しめば問題無いかと思います。
鎌倉殿源頼朝
特に小生はこの頼朝公を江戸時代までの人達と同じ様に宮司様に御分霊を勧進させて頂き白旗明神として自室に御祀りし拝礼ている人間なので、事前の告知番組で演者達が三谷脚本を史実として語り頼朝公を侮辱する言葉を連呼していたので見始める前から怒りが湧いていた口です(笑)。
そんな訳でして、三谷幸喜の脚本にも特色が有り視聴率を稼げるし面白おかしく描くので歴史に関心の無い人にもとっつき易い良い面。

悪い面として脚本を面白くする為に歴史偉人の行動や性格描写で史実に180°反する演出を加えて下衆な事をやらせる悪意の有る面。
この特徴から見る側によってハッキリ好みが分かれる訳です。
私は歴史偉人達の関係先の皆様に特に御恩が有るので偉人を貶め後子孫やそれぞれが祀られる神社や菩提寺の関係者の怒り悲しみを共有する側なので、ドラマの番宣を兼ねつつ史実と状況証拠と伝承を元にして解説し皆様に偉人達の実像を楽しんで頂きながら知って頂き偉人と関係者の名誉回復を図りたいと思います。
もしドラマより詳しく知りたい!と言う人は国立国会図書館デジタル図書で閲覧無料ですから以下のリンクから御覧に成ってみて下さい。
源平盛衰記⤵


で、今回の記事では史実に根本的に登場機会が少なく、作中に余り性格も描写されないまま多分“直ぐに死ぬ(笑)”から出番が無くなる北条義時公の片岡愛之助御兄ちゃんの宗時サンがどんな人だったか、皆さんと一緒に状況証拠から推測して見て次回の続きの記事では各地に伝わる伝承を交えて北条義時公に対して持つ皆さんの印象は善人か悪人かドッチですか?と皆さんに問いかけてみたいと思います。
では・・・
ここから、関係各所の小生が撮影した写真と史実とは関係無い面の多い歴史コメディー“ファンタジー”ドラマの“鎌倉殿の13人”の番宣を勝手に兼ねて、人物はキャストの画像を公式様より拝借し偉人たちの実像を皆さんと紐解いて行きたいと思います。
鎌倉殿北条宗時鎌倉殿北条義時
今回は先ずは小栗旬サン演じる北条義時公の御兄ちゃんの片岡愛之助サン演じる北条宗時公がどんな人物かを皆さんで考えてみましょう。
この人、あまり記録に残って無くて良く解らない人なんですよ。
北条義時公の墓所は源頼朝公の脇侍の様に頼朝公の墓所法華堂跡の丘の東面に存在します。

小生は北条義時公に関しては、もう既にコレが全てを物語っていると思うのですが、敢えて自分が義時公を善悪どちらで捉えているかは言わないで置きましょう。
北条義時公は鎌倉幕府を北条家中心の政権に変えた人物で有ると同時に、後に日本国がモンゴル帝国の植民地に成らずに済んだ元寇の戦いで元軍を個人戦闘力と作戦展開力で圧倒した鎌倉武士団の基礎を築いた歴史偉人ですが人物像については人によって意見が異なります。


コレ⤴くらい1人の人物について意見が違う事は現在も有りますよねwww?
まぁ、コレについては小生は「どっちもどっちだろ(笑)」?と思いますけど。
現代の話じゃないので、まぁ、これは見る人によって見え方が違いますよね?って具体例で挙げただけです。
鎌倉殿北条義時
北条義時さん、やった事は地味に凄い事してるんですが、そう地味なんです。
まともに肖像画も無い。
御兄ちゃんの北条宗時サンについては更に良く解らないんですよね~。
鎌倉殿北条宗時
結論から言うと⤴この人、ドラマで直ぐ死んでいなく成りますwwww。
と、言うか史実だとドラマ開始時点で既に亡くなってた可能性すら有る人物です。
登場したので石橋山の合戦と言う、後に頼朝公が反平清盛の軍勢を今の神奈川県足柄下郡湯河原町で挙兵して直ぐに敗北して箱根~甲斐国へ逃走する際に伊藤祐親公の軍勢に包囲されて殺害されます。
鎌倉殿伊東祐親
素人が編集しても良いアホのWikipediaでは宗時公は墓が伊豆半島の田方郡函南町に在ると言う先入観から函南町で死んだとか編集してる人がいますが、間違いだと思います。
頼朝公達と湯河原で分かれて箱根に入り山を下って桑原に出て早河で包囲され死んだとされていますが、これは普通に地理や当時の街道と装備の重さを解ってれば「違うんじゃね?地名の順番」とピンと来る事です。
鎌倉殿北条時政鎌倉殿北条義時
逃走経路を分けた兄⤵と親と弟⤴は生死の運命も分かれる。
鎌倉殿北条宗時
小生は戦国時代の北条綱成公と織田信長公から歴史好きなり、北条綱成公の副将間宮家の出身地が函南町間宮で有る事から、その一帯には良く行っており頼朝公が抑留された蛭ヶ小島周辺の事も有る程度は知っています。当然ながら小田原城下は観光地では無い場所も訪れているので偶然ですが自分の知る地名が伝承にリンクします。
実は現在も早河の地名は山梨県に存在しています。

しかし、こちらも早川で現在と字が異なる上に、普通に考えてここまで伊東家は追撃して来る訳が有りませんね・・・
「どんだけ兵糧持ったまま追撃戦やってんだよ(笑)?」
・・・と言う次元の移動距離ですから(笑)。この解釈を最初にした人間とソレをコピペしてる奴はハッキリ言って阿呆でしょう。
陸上自衛官のレンジャー部隊に聞いて見たらどうでしょう(笑)?私は自衛官、警官、医療関係が身内にも友人にもいますが・・・

「30kgのフル装備付けて、峠道往復220km追撃戦やれる?ねぇやれる?」
・・・と聞いたら即座に「アホか!敵を殺す前に死ぬわ!」と一蹴されるでしょうね(笑)。
先ず最初に平安末期は尾根筋が天候の影響を受けないので古代からの尾根道つまり峠道が未だに主要街道でした。
鎌倉幕府が出来てからは鎌倉周辺の尾根道も下の写真みたいに切通し状に岩盤が掘り抜かれて起伏も若干は歩きやすく成りますが、今みたいに平坦な場所が街道に成るのは江戸時代の話です。
KIMG7601
ちなみに上の道は円海山と言う横浜市最高峰の山系から尾根伝いに市境広場~鎌倉市街地に入る天園ハイキングコースの瑞泉寺口に繋がる道の途中、文献に乗らない無名の切通しです。
KIMG7585
まぁ、この道は鎌倉時代に再整備されておりなだらかなのですが箱根の古道は江戸時代の旧東海道の比でない難所です。
KIMG4225
鎌倉の古道ですらコンナ⤴道ばっかですからねぇ~、山梨県の早河で殺された説を言ってる人は体力がドラゴンボールの孫悟空やベジータ並みに有るから武士達の状況を考慮してあげれないんでしょうか(笑)?
そんな訳で・・・
「箱根山系越えで手荷物に持てるだけ兵糧で伊豆の伊東と山梨県の早川町を往復出来る訳が無いよね?」
「行軍は当時は1日15~30km程度、秀吉の中国大返しですら200km所要時間1週間」
「石橋山~山梨の早川片道110km往復220kmを各自腰巾着に携帯した兵糧だけで7日~10日かけて移動出来ると思いますか?」
「文献しか読まず当時の道を自分で歩いた事無いでしょ?」
・・・と隣に山梨県早河説を主張する人が居たら、私はその人に対する心の声が顔にも声にも態度にも出てしまうと思います(笑)。
鎌倉防衛網 久良岐のよし
この⤴鎌倉要塞網だって七里ヶ浜~大仏切通し~源氏山~浄智寺口~半蔵坊口~天園ハイキングコース~瑞泉寺口~釈迦堂切通し~祇園山~大町~名越切通し~住吉要害の市街1周すると、たった峠道24kmでも軽装で朝10時に稲村ヶ崎を出発して間に2時間弱の休憩挟んで住吉城下のリビエラ逗子マリーナに到着すると18時位に成るんだぞ(笑)?
峠道を実働5時間ちょい歩くだけで結構な疲労なのに、これと変わらん湯坂道の鎌倉古道で輜重隊(荷車輸送部隊)も使えないのに30kgの重装備付けて手持ちの食料だけで片道110km、休息無し徒歩24時間かかる山道を昼夜行軍出来るか!

・・・と言うのが文献に書かれている事を検証もしない現場に行かない人間に対する小生の皮肉タップリ込めた見解です。
では何故この様に文章コピペニキが誤解をする文章に成ってしまっているのか?これは石橋山古戦場周辺、足柄下郡を含めた足柄地域のローカル地名を知っていれば直ぐに解ります。
では先ず一緒に下の地図を見て位置関係を確認して見ましょう!
古戦場位置関係 久良岐のよし
はい皆さん、この位置関係覚えて置いて下さいね~。
先ず早河で死んだと言うのを漢字をそのままに解釈すると彼は既に源氏与力の武田家支配地の甲斐国に到達しており、そこで敗死する意味が解らない文章でしか有りません。
次に口伝を文書化する際に登場する地名が前後した為に混乱していると考えてみましょう、すると極々自然に移動距離や逃亡経路的にも説明がつく文書に修正されます。
Before⤵
北条義時公等と宗時公は箱根の湯坂で逃走経路を別にして、宗時公は山を下りて桑原に出た。甲斐国へ逃走する途中、早河で討たれた。
After⤵
北条義時公等と時宗公は箱根湯本の湯坂道の鎌倉古道に入る所で逃走経路を別にして、宗時公は山を下りて“早川を下り”小田原に入り“桑原”に出たがそこで捕まって殺された。
ね?こうすると不自然に片道110kmも伊東祐親公が追撃戦をやる解釈にしなくて済むでしょう(笑)?
実はこれ、武士の所領配置を見ると意味が解ります。
では先程の位置関係を更に範囲を広げて見て見ましょう~♪
鎌倉御家人位置関係 久良岐のよし
画面左手小田原城の下に源頼朝公を旗頭にして北条宗時公らが挙兵した石橋山古戦場が在ります。
その下に土肥実平公の館と裏山に詰城(つめじろ)の土肥城が在りました。
しとどの窟(いわや)は修験道の聖地で、現地の地理に詳しい土肥実平公が頼朝公達を連れて隠れた洞窟です。
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土肥椙山巌窟(しとどの窟)
鳳巣院は寺伝では土肥実平公により開基(かいき)された寺院と伝わります。
開基とは御寺や神社を開く際の出資者の事です。

その南西側も御子息で石橋山で戦死した佐奈田義忠公の真田城。大庭城は以前に紹介記事を書いているので訪問して見たい方は上のリンクから記事を読んで見て下さい、大庭城址公園は管理事務所に城の模型や解説が有って、昔は巨大な規模だった事を理解してから散策すると面白いですよ。
鎌倉殿の13人では石橋山合戦と関連するけど未だ登場していない重要人物も沢山います。
三浦義明公、岡崎義実公、真田(佐奈田)義忠公、梶原景時公、俣野景久公、長尾定景公、渋谷重国公、佐々木盛綱公、佐々木定綱公、佐々木高綱公達ですね。もし三谷幸喜がこの人達を登場させなかった場合、彼は全く当時の事を調べていないと断言出来る程の重要人物達です。
この中で長尾定景公は上杉謙信の祖先に当ります。
佐々木兄弟は子孫が戦国大名の六角家、京極家、尼子家、黒田家や北条家臣間宮家、更に間宮家の子孫の杉田玄白、間宮林蔵や東大の前身の昌平坂学問所頭取の間宮士信や明治時代以前の江之島神社の別当(長官)岩本坊間宮家等を輩出しています。

その佐々木家が近江国から落ち延びて来た際に匿(かくま)い、宇治川の戦い等で戦功を立てる切っ掛けを作ったのが米軍厚木基地が有る綾瀬市の早川城主渋谷重国公でした。ちなみに東郷平八郎元帥の御先祖様でもあります。
それ等の事は上の各リンク⤴記事で紹介しているので興味の有る方は御覧下さい。

今の所公式で発表されてる配役で石橋山合戦に関わるのは以下の人達ですね。
【源頼朝公与党】
伊豆国西部~南部・相模国中部~西部の武将達
総兵力300
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿土肥実平鎌倉殿安達盛長
鎌倉殿北条時政鎌倉殿北条宗時鎌倉殿北条義時
【源頼朝公援軍】
相模国三浦郡・武蔵国久良岐郡の三浦一族
総兵力500
鎌倉殿和田義盛鎌倉殿三浦義澄
          VS
【平清盛与党(相模国・伊豆国)】
相模国鎌倉郡~高座郡の元源氏与力の坂東平氏と伊豆国の工藤氏
総兵力3000
鎌倉殿大庭景親鎌倉殿山内首藤経俊
鎌倉殿伊東祐親鎌倉殿伊東祐清鎌倉殿河津祐泰
【平清盛与党(武蔵国)】
武蔵国久良岐郡と荏原郡と足立郡を除いた全域の秩父平氏と北関東の豪族。
畠山単独手勢500、総兵力20000前後と伝承。
鎌倉殿畠山重忠
ちなみに鎌倉時代の総人口は約800万人なので兵士数が少ないのは当然で、尚且つこの記録上と伝承上の数字は源氏や北条家にとっては敗戦なので故意に自軍の数を少なく敵勢を多く粉飾している可能性も有ります。畠山軍は三浦氏の本拠地の衣笠城を攻めた際には兵力20000に膨れ上がっていたと伝承しますがコレは多過ぎる気がします。
衣笠城の戦いについてはコレ⤵を御覧下さい。

例えば三浦勢は500、畠山勢も500とされますが、彼等の領地を戦国時代の石高に換算すると三浦家も武蔵国南部の久良岐郡を支配している他に房総半島にも飛び地が有った様なので少なく見積もって10万石程度=総兵力3000程度を戦国時代なら保有していた事が推測できます。これを戦国期の安土桃山時代の総人口が1200万人なので、それを根拠に再計算すると・・・
三浦家の戦国時代相当の総兵力3000×2/3=3000×66%=鎌倉時代の総兵力1980人と換算できます。
三浦家の平安時代の推定総兵力=約2000と概算出来ます。
そして当時は武士1人に対して足軽が3~4人ついていましたので、それを元に源平盛衰記に書かれた500騎の武者を再計算すると・・・
武者500騎+500×3人の雑兵=動員数2000と言う事が判り、だいたい10万石で計算した時の数値に整合性の有る兵力だった事が推測出来たりします。
それに対して畠山軍勢が500騎と言うのは三浦家と同様に10万石程度の筈なので兵力2000と換算すると整合性が有りますが、秩父平氏一族が武蔵国の久良岐郡と足立郡を除いた大半を支配していたとは言え衣笠城攻め総兵力20000と言うのは誇張が有ると思う訳です。
秩父平氏が大半を治めた武蔵国の石高は安土桃山時代で66万石でした。1万石で侵略戦争動員可能兵力は300人と言われているので・・・
66万石×300人=動員兵力19800です、これを先程同様に鎌倉時代の総人口で換算してみましょう。

武蔵国総兵力19800×66%=兵力13000で整合性が有りません。
武蔵国は秩父平氏以外に比企氏や足立氏や三浦氏が治めた地域が有ったので、まぁ少なく見積もって石橋山合戦~衣笠合戦に動員されたのは“兵力数千”と言うのが実際の所だと思います。
まぁ、それでも大軍なので、畠山重忠公旗下の武蔵国の秩父平氏軍数千が総兵力たった2000の三浦勢の本拠地を陥落させ様と南下して来たので和田義盛公と三浦義澄公は頼朝公敗走の情報を聞いた時点で鎌倉の住吉城まで兵を戻してしました。
衣笠城の戦い 久良岐のよし
上の画像をクリックして拡大して見て下さい。
鎌倉の明月院は山内首藤家の菩提寺が前身なので元々は山内首藤家の邸宅跡だった可能性が有ります。後に北条時頼公の菩提寺に成り現代では紫陽花の名所に成っています。
画面左上の藤沢市の大庭城は戦国時代にも北条早雲公によって改修され使われ続けた大城郭で、鎌倉時代の大庭家の本拠地でした。
畠山重忠公は南下して来て由比ヶ浜の西岸に布陣して、由比ヶ浜東岸の崖上の小坪地区住吉城の要害から和田義盛公が出撃し畠山家に攻撃を加えた事で戦闘が開始され、三浦家は鐙摺城に退き更に本拠地の衣笠城に集結し、老齢89歳の三浦義明公が僅かな手勢で囮と成り衣笠城に畠山軍の大軍を引きつける間に当時は海だった横須賀市吉井の怒田城下の船倉から海路三浦一族は房総半島に逃げる事に成功し、和田義盛公は相模湾側へと回り源頼朝公を収用する事に成功し、三浦一族は後の鎌倉幕府創立に大きな功績を遺した訳です。
鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿三浦義村鎌倉殿和田義盛
この三浦家全体が行った畠山家への陽動作戦で源頼朝公達に大兵力が差し向けられずに済んだ訳ですが、この功績と同じ事を一人でやってのけたのが北条宗時公に成る訳です。
鎌倉殿北条宗時
既にネタバレしまくってますが、もし片岡愛之助お兄ちゃんが自分の命を使って単独で東側に逃げて捕まる事で伊東家と大庭家の軍勢を引きつけ陽動に成功していなければ、3000の大庭勢と伊東の軍勢は全力で箱根山中を昼夜問わず山狩りして源頼朝公達は全員捕まって処刑されていたでしょう。
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿安達盛長鎌倉殿土肥実平

鎌倉殿北条時政鎌倉殿北条義時
これBefore⤵
北条義時公等と宗時公は箱根の湯坂で逃走経路を別にして、宗時公は山を下りて桑原に出た。甲斐国へ逃走する途中、早河で討たれた。
・・・は明らかに伝聞間違いか読み間違えなのは地形と地理でもう納得して頂けたと思います。
なのでAfter⤵
北条義時公等と時宗公は箱根湯本の湯坂道の鎌倉古道に入る所で逃走経路を別にして、宗時公は山を下りて“早川を下り”小田原に入り“桑原”に出たがそこで捕まって殺された。
石橋山古戦場 久良岐のよし
・・・この説の解釈でなければ宗時公の別行動が成立しない訳です。その行動は恐らく三浦義明公と同じ敵の目を欺き味方が逃げる時間を確保する時間稼ぎだった事もボンヤリ見えてくる訳です。
異説では宗時お兄ちゃんは、そもそも以前の戦争で片腕を失っており信濃国安積郡に閑居していたとも伝承があるそうです。この話も更に折衷すると、陽動作戦中に伊東家の攻撃で片腕失って「どうせ死ぬだろう」と放置されたけど生き残って後に北条家の家督を継げる身体でもないので廃嫡されて弟の傍に居ても政権運営に悪影響なので信濃国に隠棲してとかも考えられるかも知れません。
でも、いずれにせよ、もしも石橋山の合戦に参戦してた説が史実ならば、宗時お兄ちゃんは頼朝公や弟や仲間の先輩達を逃がす為に命を投げ捨て自分が囮になって皆を助けた様な、正義感で優しい人だったのかも知れませんね。

多くの人が言ってるから権威の有る人が書いてるからでコピペすると痛い目に遭うのが歴史ですが、当時圧倒的不利で少数だった源頼朝公達の様に自分達でちゃんと分析して人と違う事も言ったりやったりする勇気が必要なんだよって言うのも北条宗時公の話を追うだけで知る事が出来る訳ですが、きっと皆さんの御家の御近所の御寺や神社や城跡の公園にも、実は凄い歴史偉人と関わりが有るかも知れません。
ちょっと説明の看板を読んで見て興味を持ったら図書館にいって調べてみて下さい。
すると時代を超えて昔の人達と時間を共有出来た様な、不思議と嬉しい気持ちになれるもんです。

さて、また高島線瑞穂鉄橋の記事書かなかった訳ですが・・・(笑)。

・・・絶対に続き書きますので待ってて下さい。ちょっとメンドクセーな。と思って書いてないだけです。

オミクロン株新型肺炎が流行しています、各自衛生管理に注意して過ごし、外国みたいにはさせず正常に近い経済活動を続けられる様に今の段階で協力して対処していきましょう~。

では皆さんにとって、本年が幸多い1年になりますよう。或いは昨年まで苦労した方は昨年までの分も取り返す程良い事が有ります様に~♪

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前回の記事⤵
【休日雑記】07月11日~14日・・・三浦半島景勝地と聖地の旅(その③港屋~長津呂~馬の背洞門~城ヶ島商店街~楫の三郎山~灘ヵ崎散歩)。
コレの続き⤴


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城ヶ島を出発してから海南神社の例大祭を見物する為に最初に向かったのが三崎漁港の観光市場❝うらり❞の駐車場。更に駐車場から❝うらり❞に移動。
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うらり(観光市場)
うらりに来ると必ず食べる物が有って、今回もソレが目当てだった。
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三崎漁港名物の鮪を使った物で、鮪の串カツとコロッケだな。
コレが物凄くシンプルに美味い!何故、三浦市はこれをB級グルメグランプリに出店しないのか理解できない。訳の分からないトロ饅頭とか鮪ラーメンとか余計に手の込んだ鮪の良さを活かせない料理を出品してるのだが、鮪はカツやコロッケの方が調理も単純で名物として多くの店が販売させ易いし土産としても流通させ易いのは火を見るよりも明らかなはずなんだが・・・
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三崎に来た事が無い連中を連れて来ると毎回必ずコレを食べさせるが皆口を揃えて美味いと言う。
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うらりは1階のエントランスと2階に軽食出来るテーブルも有るし、買い食いにも適している。
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一応飲み物は申し訳程度の特保の御茶・・・
串カツを食べ終えて海南神社例大祭の❝屋台❞での買い食いの為に三崎銀座商店街に向けて移動開始。
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すると漁港と商店街の間に有るバス停周辺は既に活気に溢れ、山車(だし)が出て若い女性氏子衆が御囃子(おはやし)を演奏していた。
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そして屋台が沢山見える♡けれど食い気は一先ず置いておいて、神輿担ぎが始まってしまう前の氏子衆の神社への参集の様子を撮影するべく海南神社の参道へ移動・・・
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丁度、入舩地区の氏子衆が練り歩いて行く所だった。三崎漁港海南神社の例大祭は各地域がそれぞれ神輿を持ち出し、引率する役員の様な人物が小唄を謳い、それに大声で担ぎ手が呼応し掛声を上げながら神輿を高く激しく掲げ挙げ引き下ろし又持ち上げてを繰り返す。
この数組の神輿を持ち出して練り歩く様子も勇壮なのだが、その前の参集する際の各組ごとの小唄と掛け合いも見応えが有るんだな。
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ソレを見るのが目的・・・とは言え、神社の神事だし、そもそも海南神社を氏神としていた三浦家の三浦義明公や三浦義澄公、和田義盛公を尊敬する小生は神様達と殿様達の御霊に今年も参拝で来た御礼と御挨拶を申し上げる為に先ず社殿へと向かい氏子衆の横をすり抜け追い越し参詣した。
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海南神社
ここは平安時代の港だった❝うらり❞と入舩地区の間の船着き場の入江を守る位置に鎮座している。
近所に在る本宮神社が、別の主祭神として合祀される藤原資盈公と盈渡姫御夫妻の元宮で、この御夫妻は公家でありながら政争に敗れ三浦に落ち延びて来て、この地で文化発展に寄与され漁民達に教養を身に付けさせるべく現代で言う所の❝教育政策❞の一環として小唄や読み書きを教えたのが❝チャッキラコ❞と言う神事の前身と成った。
この藤原資盈公御夫妻が伝えた文化を鎌倉時代に漁民の母娘が踊り歌う様子を見物され褒め称えたのが近くの本瑞寺敷地に春の御所を構えていた初代鎌倉幕府征夷大将軍と成った源頼朝公で、これが毎年行われ現代にまで脈々と伝えられて神奈川県では恐らく数少ない❝世界遺産❞登録されユネスコ世界無形文化遺産と成った❝チャッキラコ神事❞に発展した。
平安時代末期には和田義盛公達三浦党の武将達が、源頼朝公の石橋山合戦での敗走を知り海路房総半島へ撤退する際に海を漂う中、兵糧尽きた際に漁に使う籠=筌籠(せんろう)を使って魚を捕食し命を繋ぐ事が出来たので、水神であり軍神でもあるヒンドゥー教由来の女神の弁才天様の御姿の彫像❝八臂弁財天❞と筌籠を御神体として祀った事から近代まで❝筌籠弁才天❞の別名の方が有名にも成っていた由緒有る神社だ。
世界無形文化遺産の❝チャッキラコ❞に関しては以前書いた紹介記事が有るので、興味の有る方は読んで頂くと幾らか参考に成ると思う。
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コレが以前書いた記事⤵
チャッキラコ!ユネスコに世界無形文化遺産登録されている三浦半島三崎町のお祭り。
さて、今回の例大祭に話を戻す。
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御参りを終えて鳥居の場所まで戻ると、丁度、最初の組が❝掛け合い❞の小唄を止まっては歌いしながら順番に神社境内に入って来る所だった。タイミング良いね♪
この組毎の❝掛け合い❞の迫力は音声が無いと伝わらないので、小生、今回YouTubeに動画を人生初投稿して見ました。
コレ⤵

この組、珍しく歌い手が歌詞を忘れてしまって(笑)ユーモラスな感じに成りながらも氏子衆との掛け合いが迫力有りとても良かった。歌詞の内容も良く聞くと、氏子衆への体調管理や御祭りが無事に進行する願いを込めた物で平和で活気有りホッコリと勇ましさが両立され和やかな雰囲気に包まれていて良い♪
こう言った昔ながらの伝統が続く場所が神奈川県下では少なく成っているし、この規模の行事を維持出来るのは一重に海南神社の宮司様と氏子衆の努力の賜物だと思う。
その方々の御陰でこうして例大祭やチャッキラコを楽しませて頂き、一時の間、昔の人達と同じ文化同じ空気と時間を共有させて頂けるのは非常に幸せな事に感じる。
宮司様、氏子衆皆さん祭りを守って下さってありがとう。
一頻り見物すると未(ま)だ、神社に人が集まってる内に屋台(笑)に移動して色々と物色開始・・・
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子供喜びそうな御面、最近余り御面の屋台を横浜市では見なく成って来た気がする・・・
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商店街も営業中。
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たこ焼き食べたかったけど今回は保留。
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三浦ガラス工芸館Kirari
商店街を歩いて屋台で何を食べるか物色していると、Kirariの前を通った。今回は入らなかったが、ここではガラス製品の販売や体験学習を行っていて、確か予約しなくても簡単な物だったら飛び込みで作らせて貰えたと思うが確認してないので興味が有る方は事前に問い合わせしてみると良いと思う。
うらりや三崎銀座商店街で鮪料理を食べに来るだけでなく、ここでガラス工芸品を自作するとデートに来るカップルや子連れの家族には良い思い出に成ると思う。城ヶ島散策や京急油壷マリンパーク見物、荒井浜や三浦海岸等での海水浴のレクリエーションと合わせて来ても良いかも知れない。
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今回小生は数ある屋台の中から結局、お好み焼きをチョイスした。これ、今年一番の屋台お好み焼きだった!美味しかった。
食べ終えてから少し商店街を散歩・・・
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本瑞寺の入口。ここは鎌倉時代に源頼朝公の春の御所が有った丘の入口。そこに江戸時代に入舩地区に在った本瑞寺が火災で焼失後に移転再興された。架空歴史小説❝桜の御所❞を筆者の村井玄斎が執筆した場所でもある。何度も言うが小桜姫は架空の人物で、モデルは三浦義意公の奥方の真里谷武田家の姫君で、桜のイメージは執筆場所の本瑞寺が春の御所で当時は桜の名所だった城ヶ島を眺める為の頼朝公の別荘だったイメージと、小桜姫の実家のモデルが横浜市の桜の名所の金沢文庫稱名寺の境内地、金沢城址に設定されているからで時代設定も室町時代と平安時代が故意に混ぜてあり架空小説である事が解かる設定なのだが、ここは曹洞宗の寺院なのに、それが歴史に疎い浅学な別宗教のカルト信者には理解出来ず信者獲得の為の勝手に曹洞宗の寺院なのに自分の布教活動に悪用したりされている。
もっとも、歴史を知っている人には曹洞宗の由緒ある御寺としてちゃんと認識されており、正しい仏教信者が御朱印を頂きに上がったりする親しみ易く歴史ある御寺だったりする。
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海光山 本瑞寺
城マニアも訪問する人が多く、ここは戦国時代には隣の光念寺と合わせて三崎城の曲輪(くるわ)の一つとして防衛機能を担う場所だった。つまり戦国時代までは、この真直ぐな参道は無かった筈で、源頼朝公の時代には山の上側に入口が設けられていた筈なんだな。
ここで本瑞寺の曹洞宗の御本尊釈迦牟尼仏様、ここに在った別荘に滞在していた源頼朝公の御霊、そして元の入舩地区に前身寺院を建立した三浦義意公と三崎城主で安土桃山時代の関東屈指の名将だった北条氏規公の御霊に御挨拶の参拝をしてから屋台に戻った。
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本瑞寺参道の目の前には昔懐かしい昭和チックな駄菓子屋が今も営業している。
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去年出来たばかりの御店。
ここもKirari同様に手作りの物品を販売する御店。
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好きな人は好きだろう。特に女性とか。
可也(かなり)暑かったので、少し涼みたく成っていた所に、昨年の訪問時に新しくオープンしていて気に成っていたドーナツ屋の喫茶店に入って見る事にした。
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ミサキドーナツ三崎本店
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色んなドーナッツが有って去年も凄く気に成っていた。今年は水分補給に珈琲飲むついでの冷房泥棒(笑)に入店させて頂く事に・・・
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色々有って目移りしそうだが、小生は抹茶ラテドーナツとアイスコーヒーを選んだ。
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御店も綺麗で若い人から年配の人まで入り易く良い。
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ドーナッツもチェーン店の物より個人的に美味しく感じた。
又、次回御腹がいっぱいじゃなかったら立ち寄りたいと思う。
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例大祭見物と腹ごなしを終えて❝うらり❞の駐車場へと戻り、車に乗った。
帰り、道の駅❝すかなごっそ❞に立ち寄り更に買い食い(笑)!昼食オヤツと間隔を明けず夕食と成った・・・
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鰺フライ。
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足柄茶とネギトロ巻。
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すかなごっそで売ってるネギトロ巻が美味しいのは既に知っていたが、鰺フライがスンゴイ美味くて良かった!又食べたい。
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そして更に横須賀PAでソフトクリームを食べて1泊2日で3kgリバンドした小生(笑)。
そこから又、肉と野菜と煮干しと牛乳と納豆の食事とジム通いで元の体重に戻すのに3日間かかりました。

今回の三浦の旅もとても充実したものと成り良かった。残念ながら三浦義意公と道寸公親子と三浦北条両軍の供養の写経は書き損じて後日改めて納経する事には成ったが、城ヶ島商店街の人々は親切で港屋の御飯も美味しく、城ヶ島の山百合と海の景色もとても美しく、三崎の昔からの勇壮な神事の迫力も満喫出来て、新しい御店も開拓できた。
三浦半島は小生の精神の癒しの場であり、美味しい場所(笑)でもある。
何度でも何度でも通うだろう。
三浦半島には沢山、良い旅館と美味しい御店が有るのでこれからも少しづつ紹介して行きたいと思うし、それが小生に出来る神奈川県の発展と日本防衛の基礎を作って下さった源頼朝公や三浦家の殿様達への恩返しでもあると勝手に思っていたりもする。

次は三浦のどこに行こうかな?又、港屋には宿泊に来るし、長津呂荘や城ヶ島京急ホテルにも泊まりたいし、観音崎京急ホテルや横須賀のホテルも開拓したいなと思う。

皆さんも是非、三浦半島の景色、満喫して頂きたい。本当に癒されるから…

では!又、次の記事で~!


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先週、衣笠城址を訪れた際に、近くの大矢部地区にある鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公が開基(かいき=建立)した満昌寺と言う御寺にも行ってきました。
こちらの御寺には平安時代後期の名将:三浦"大介"義明公の御廟所があります。
頼朝公お手植えの躑躅(つつじ)も境内に残っています。
坂東八平氏の一家である三浦義明公の三浦家だけあり、同族の鎌倉景政公を祀る御霊神社と同じく三浦義明公の御廟所も御霊神社でした。
当時の武士は自害を余りしなかったので、もしかしたら義明公の外孫でもあり討ち取った張本人でもある畠山重忠公が首供養していた義明公の御首(みしるし)を、源頼朝公が感謝の意を込めて手厚く再度供養したんでしょう。

満昌寺さんには、その御霊神社の建て替えの際に伝承の首塚附近から出土した遺品や義明公の等身大木造等の遺品も多く収蔵されています。
事前に電話で連絡を差し上げ、御住職の都合が宜しければ見学さして頂けます。

写真撮影は不謹慎なので御廟所は撮影しませんでしたが、此方(こちら)の鳥居の上にある御霊神社の裏に墓石が有ります。
此方で義明公への衣笠城址登城の御挨拶と、仏教的な意味でのお参りもさせて頂きました。

満昌寺の御住職はとても声が通りハキハキとされた方でした。
お忙しい中、御好意で親切に接して頂き色々と御話しを聞かせて頂き御朱印を頂く事も出来ました。

春に成って桜の季節に成ったら衣笠城址の桜を見に行きたいな〜。
そして満昌寺の義明公に御挨拶に伺う事が出来れば嬉しいなと思います。

近くのセブンイレブンの裏の住宅地の中の旧薬王寺(廃寺)の敷地だった場所には三浦義明公の次男で、三浦の家名を継いだ三浦荒次郎"新介"義澄公の立派な御廟所も有ります。
しかし、此方は教育委員会が保護を怠り、墓石には破壊され盗掘されてしまった跡があります。
平安時代の骨壷を花器として盗掘し投機対象として転売する不届き者がいる様です。
…そう言う無文化で不敬な犯罪者がいる事は悲しいですね。
そんな奴はバチが当たれば良い。

※関連記事リンク
●衣笠城址の記事は「ココ」←クリック!
●義明公以前の三浦家の菩提寺青雲寺さんの記事は「ココ」←クリック!
●三浦家の祖先の鎮守府将軍平良文公の菩提寺二傳寺の記事は「ココ」←クリック!
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横須賀市と横浜市を繋ぐ横浜横須賀道路と言う高速道路が有ります…
その高速の衣笠(きぬがさ)インターを降りると近くに衣笠城址と言う交差点が有りまして…
衣笠城址その地名のまんま、一帯は鎌倉幕府の重鎮である三浦氏の本拠地、衣笠城が有りました。
三浦氏は桓武天皇の系統皇族である平高望(たいらのたかもち)王の子孫の武家です。
三浦氏は鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の旗揚(はたあ)げ当初の同盟者の中で最大勢力を誇った武士団でした。
純粋な武士だけで500騎と言う兵力を誇ったそうです。
当時は騎馬武者1人に口取り(馬の引き綱持ち)と雑兵(ぞうひょう)3人位の編成なので…
騎馬武者1+雑兵3〜4=最低4人
武士500騎×4=2000人
足軽を含めた総兵力は約2000騎と推測出来ます。

当時の関東地方は富士山の火山灰が堆積(たいせき)した関東ローム層のせいで、水田の造成に適さない土地ばかりでした。
江戸時代に入っても依然、畑地ばかりでした。
言い方を変えると…
「関東では」身分の高い人間か軍人の為の
「持ち運び可能な戦時食料」だった
「米穀」を確保するだけの
「水田耕作に適さない土地」だらけで、
「大河川沿いか谷間の粘土質の地層が表層にある地形」でしか
「稲作開発をする土木技術しか無い」時代だった訳です。
しかも当時は今よりはるかに海面が高い時代でしたから、尚更耕作地は少ない訳です。
当然、衣笠城址の山も谷間を抱える様な地形に在ります。

当時の蝦夷(えぞ=北海道)国と琉球国を除いた日本国の総人口は700万人未満です。

三浦氏は、その動員可能兵力の2000人から安土桃山時代の石高に換算すると約7万石の大名に匹敵する勢力と成ります。
が、人口の少なかった平安〜鎌倉時代ではその比率は更に大きく成ります。
安土桃山時代の総人口は1200万人弱です。
つまり…
総人口1200万人の安土桃山時代と比較して…
総人口が700万人未満だった平安時代後期の人口は…
"安土桃山時代の約1.7倍相当の価値がある"ので…
平安時代末期の三浦家動員可能兵力2000人は…
2000人×1.7倍=3400人分の価値となります。
安土桃山時代の侵略戦争での動員可能兵力は「1万石=兵力300人」と言われています。
つまり、三浦家の支配地は三浦半島と横浜南部〜鎌倉附近だけだったにも関わらず"江戸幕府なら11万石相当の大勢力"だったと言えます。

その三浦氏の中でも最も有名な武将は三浦義明(みうらよしあき)公と呼ばれる武将です。
この↓人
義明公のフルネームは平朝臣(たいらのあそん)三浦大介(みうらのおおすけ)義明です。

名前の意味は…
平朝臣=朝廷の臣下の平家の人間
三浦介=相模国の三浦郡知事
義明   =個人名
…となります。

ですので余談ですが、現代人の「大介」と言う名前は…
①名付けた親が「大介」の意味を理解しておらず「何か強そう」だから訳も分からず音だけで付けたDQNネーム
②息子に県知事に成って欲しいと言う希望を持っている
③祖先から「◯◯地方の大介職」を継いでいた家系と言う事になります。

三浦義明公の場合、昔の人ですし三浦介と言う知事職を代々世襲したから大介を名乗った訳です。

さて、そんな名前の義明公ですが、歴史の大舞台で最も活躍するのは88歳の高齢で戦死した時でした。
義明公の最期(さいご)の舞台は衣笠城址の物見岩=本丸付近だと小生は推測しています。
この物見岩の近くには人工的に掘削された堀切(ほりき)り=尾根を断ち切る空堀に成っており、衣笠城址の最高部に位置します。
反対側と堀切で断ち切られていますが…
恐らく平安時代当時は、堀切を穿(うが)った岩盤の上に引橋(ひきばし=戦時には取り除ける橋)で繋いだ物見台が建っていたのだと思います。

物見岩は看板が有り義明公の詠んだ辞世の句が書かれていました…
そこには小さな稲荷神社が有りました。
物見岩の上から削平地を見ると人工的に山肌をL字状に削られた一角がハッキリ見えました。
昔は何某かの曲輪で名前が有ったのかも知れませんね。

物見岩の下からは「御経を納めた筒」や「陶器の合子(ごうす)=薬入れ」等の宝物が発掘されています。
つまり重要な建物の床下だった証拠か、自害の舞台で其(そ)れ等の宝物を最期に隠したか、義明公の外孫でもあり義明公を討ち取った畠山重忠公か、義明公の次代の三浦家当主の義澄公が供養の為に埋めたと推測する訳です。

付近には三浦一族の本丸館跡と思(おぼ)しき平場と呼ばれる場所もあります。
小生はこちらよりも、井戸の近くの大善寺横の畑地の削平地に平時住む御殿が有ったんじゃないかなと思います。

本丸より一段下ですが堅固な切岸ですし上は可なり広い真っ平ら。


物見岩付近の本丸平場付近には、土塁(どるい)=土壁跡と思しき盛り上がりの続く地形も見れました。
衣笠城は自然の山とのたまう輩もいますが…
横浜市金沢区の鎌倉時代の金沢北条氏の居城跡称名寺や、室町時代の北条氏の玉縄城と同じく…
山の尾根の左右を切り込み急な城壁状の狭隘な通路にした地形だらけでした。
幅2m有りません…
しかもメッチャ急峻に削り込まれてるよ!
スゲー怖いよ!
足滑らしたら死ぬ‼︎

こんな場所を総重量30kg以上の鎧着て駆け回った三浦氏や、攻め込んだ畠山重忠公って…
「どんだけ〜⁉︎」
…と思いました。

この衣笠城址の一部分に大善寺さんがあるのですが…
…もうね、明らかに寺の地形じゃないよ。
昔は城の曲輪(くるわ)=防御施設の一つでしたみたいな感じなんです。
この大善寺さん、当然由緒ある御寺でして…
三浦氏一門と家臣団の教育場だったそうです。
江戸時代で言えば藩校、現代なら市立大学みたいな感じかな?

さて…
義明公が何で自害をする事に成ったかを少々話します。

平安時代末期…
源頼朝公が、今の静岡県と神奈川県の県境近くに在る"石橋山"で「反"伊勢平氏"」で挙兵(きょへい)しました。
その際に、伊勢平氏と敵対した平良文(たいらのよしふみ)公の子孫である三浦一族も、先祖の代から盟友である源氏の頼朝公に呼応(こおう)し三浦半島で挙兵しました。
その後、石橋山の頼朝公を救援しようと三浦義明公の命令で義明公の長男の長男、つまり孫に当る和田義盛(わだよしもり)公に騎馬武者300=兵1200位?を付けて援軍に向かわせます。
援軍は湘南海岸沿いに西へ向かうのですが相模川の横断に手間取ります。
恐らく石橋山に行く前に西上(せいじょう=京都方面へ行く)過程で、平家側に味方した藤沢市の大庭氏の居城である大庭城が空に成っていると踏んで落城させておこうとしたのでしょう。
大庭城を落とさないと相模川を渡河中に背後から攻撃され窮地に陥りますからね。
ところが…
大庭城は、後の戦国時代にも北条早雲公が利用した程の堅城だったので攻めあぐねる訳です。
そうこうする間に、今の埼玉県東松山方面から大庭氏の援軍に畠山重忠公率いる秩父平氏軍団が来攻(らいこう)するとの報が三浦軍に入り撤退を余儀(よぎ)無くされます。

援軍に行くはずの三浦軍が逆に東西から挟み撃ちにされる形に成ってしまった訳です。
そこで義明公は一計を案じます…

自らが衣笠城で囮(おとり)に成り、畠山重忠公の大軍を引きつけ、その間に衣笠城の近くの怒田(ぬまた)城に常駐している和田水軍を使い戦力と一族郎党を房総半島に退避温存させる事にしました。
房総半島には三浦氏と同族で婚姻関係にある盟友の上総広常と彼の統括する房総平氏軍2万と合流させる事にしたのです。

結果、三浦軍の温存撤退は成功しますが三浦義明公は衣笠城で玉砕しました。
衣笠城の近くに在る満昌寺と言う立派な御寺に義明公の首塚と伝わる御霊神社が有ります。
源頼朝公が義明公の供養の為に建立した御寺です。
首塚が有ると言う事は義明公の外孫でもあり義明公を討ち取った畠山重忠公が、後に源頼朝公と三浦氏に返還したと言う事に成る訳です。
この畠山重忠公と三浦家の遺恨が頼朝公と言うバランサーを失った直後の、重忠公讒訴や二俣川での重忠公謀殺に繋がるのだと思います。

義明公御自身に話しを戻しましょう。
義明公は衣笠城で玉砕する事により、自分の命と引き換えに三浦一門と軍兵千数百人を助け、更に戦略的に水軍を温存し壇之浦合戦で頼朝公の鎌倉幕府創業を助ける事に繋がって行った事に成る訳です。
偉業を為されたと言って過言では無いと思います。
三浦大介義明公は誠実で判断力深謀遠慮に優れた坂東武者の鑑だと思います。

…と、言うお話でした。
因(ちな)みに三浦義明公の御子孫は戦国時代に全国で大名や名門の重臣に成りました。
奥州の芦名氏
上総の正木氏
相模の佐原三浦氏
駿河今川家重臣の朝比奈氏、由比氏、三浦氏
…等が御子孫に当たります。

関連が有るので、以下のブログ記事もお手隙の際にどうぞ!
平良文公の記事は「ココ」←クリック!
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