歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:三浦義村

披露山公園
神奈川の景勝50選の1つ
逗子一の富士山の景勝地とハイキングコース

―以下は詳細な解説( ゚∀゚) ダョ♪⤵―
【交通】
訪問は若干不便なものの、晴天で海上の空気が澄んでいる季節に成ると、由比ヶ浜~稲村ケ崎~江ノ島の相模湾~箱根山系~富士山を一望できる絶景や夕陽を見る事が出来る。
もしデートで彼氏彼女や夫婦で行くなら電車で訪問し徒歩で逗子駅から近くの逗子海岸を歩き小説不如帰の舞台にも成った浪子不動こと高養寺からハイキングコースを登り披露山公園の展望台まで行くと感動するでしょう。
実際に多くの若い女性同士や御夫婦のハイカーが展望台から富士山と夕陽を眺めて感嘆の声を上げる様子を目にする機会が有りますよ♪
もしトレッキングが目的なら昼過ぎ位に逗子駅を出発し逗子海岸~浪子不動遊歩道~披露山公園で休憩~更に披露山庭園住宅を抜けて~大崎公園や逗子マリーナや材木座から富士山と夕焼けを見て帰るのも良いと思います。
もし歴史に興味が有るのでしたら、逗子駅から程近い六代山不動院も御参りしてから逗子海岸に出ても良いかも知れませんね。
以下が過去に紹介した六代山不動院、大崎公園、逗子マリーナ、材木座の富士山の景勝です。




下の地図に表示されている所では季節で水揚げが有れば御土産用のシラスを購入する事が出来ます。
【歴史】
この披露山公園は実は古墳時代に倭建(ヤマトタケル)命が通った古東海道と考えられています。
下の地図は国土交通省関東地方整備局サンが子供達の為に作っているホームページに公開されているもので略図ですが凡その経路が解り易く表示されています。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
見やすいでしょう?
下にリンクを貼って置きますね!

国土交通省の推測は実は歴史を知っている人からすれば非常に整合性が有ります。
古墳時代以前からの聖地が神社化したとされる平安時代の醍醐天皇が政令で保護対象にした神社が網羅されている延喜式神名帳に掲載されている❝式内社❞と、古代の史跡をGoogleEarth上に表示し更に国土交通省の製作した古東海道図をGoogleEarth上に重ねると見事に整合性が有ります。
昔の海岸線と古道 久良岐のよし
上の地図で住吉城と表示されているのが披露山公園の向かい側の山で、吾妻鏡に登場する畠山重忠公と和田義盛公が開戦した坂道の入口、すなわち名越の坂や古東海道の切通道を眼下に抑えた住吉城址です。この城名由来の神社が住吉神社です。
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住吉神社
住吉城址に在る鎌倉郡総鎮守と伝わる古社
正覚寺の下にある現代廃道にされた切通道が古東海道と伝わります。
ここ等辺りは以前、小坪の歴史を調べ始めた時に少し記事にしましたので御興味有る方は下の記事を御覧下さい。

ところで住吉神社は小坪の郷土史を調べると、逗子市が鎌倉時代以前に旧鎌倉郡で三浦郡では無かった事が解り、更に住吉神社が鎌倉郡の鎮守の神社と元々は社格が高かった事も解ります。
つまり本当に古東海道がここを通過していたので、社格の高い神社や重要な御寺も逗子市には沢山存在したし現存もしているのでしょうね。
正覚寺の下の鎌倉時代の和田義盛公と畠山重忠公の古戦場でもあり、戦国時代の伊勢原市と平塚市に跨る大城郭の岡崎城主で岡崎城三浦道寸公と住吉城主三浦道香公の御兄弟と北条早雲こと伊勢宗瑞公と北条氏綱公親子の名将達が住吉城攻防で三浦家の撤退戦の大激戦地となったのが、この古東海道でした。
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今では放置されて長い時間、草木が生い茂ってしまいましたが路盤は今も残っています。
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逗子マリーナから見上げて段地になってる上のフェンスの中が古東海道、神話の道で名将達の住吉城争奪戦で主戦場と成った当時は写真を撮影してる位置が海で、海の上にそそり立った崖に穿たれた蜀の桟道の様な天下の険でした。
CIMG9365
CIMG9363
反対側は海前寺様に繋がっており、御寺が古道の出入口を守る形で存在している事からも正覚寺は江戸時代の記録に戦火に遭ったと記載が有るので戦国時代まで古道の入口の砦として利用されて戦火で廃寺に成り、約1世紀後に浄土宗寺院として再興されているようです。
CIMG9369
海前寺様の墓地にも昔の道が残されています。
この墓地には戦国時代の住吉城址の攻防の将兵を弔う首塚が余り知られていませんが存在します。
CIMG9371
この首塚の場所は元々は矢倉だったみたいですね。
さて、鎌倉時代にここで戦ったのは皆さんも鎌倉殿の13人で既に良く知っているかと思いますが初代鎌倉幕府別当の和田義盛公と畠山重忠公です。
鎌倉殿三浦義村小鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿和田義盛
子 ⇔ 親:三浦義明公の子:叔父 ⇔ 甥
VS
実は三浦義明公の孫
鎌倉殿畠山重忠
この戦いでは畠山重忠公は由比ヵ浜に陣地を置いたとされるので極楽寺坂の下の長谷観音辺りに陣地を置いていたかも知れませんね。
三浦氏は家長の三浦義明公(89歳)の守る三浦半島の中央部の三浦家本拠地衣笠城を防衛する為に畠山重忠公の由比ヶ浜の対岸の披露山公園のある古東海道を守る住吉要害に陣取った和田義盛公と現在の葉山町と逗子市境界にある鐙摺城を三浦義澄公が守りました。
当初三浦義澄公は畠山重忠公は甥っ子に当たる為に開戦する心算は無かったと伝わりますが、源義朝公への忠誠心の高い和田義盛公が畠山重忠公へ宣戦布告をして開戦しました。
但し戦ったのは源頼朝公が鎌倉幕府を開く前の話です。

ちょうど最初の頃にこのシーンが和田義盛公の勘違いで開戦したように描写されていましたね。
さて、そんな訳で披露山は凄い歴史偉人たちが通過した場所なだけでなく、源より朝公が部下達に褒美を与えた宴会を開いた場所としてもしられ、それが披露山の披露の地名の由来と伝わります。
是非、頼朝公も見た景色を皆さんも見て見ませんか?
鎌倉殿源頼朝
「風景良いから皆も遊びにおいで!」
倭建命の聖地巡礼で訪れて古道として散策しても良いかもしれませんね。
三浦半島には披露山を通過して房総半島んいと訪れる前に倭建命と弟橘姫夫妻が滞在した走水の御所ヵ崎と走水神社も有ります。


では、披露山公園の富士山の絶景や周辺に纏わる解説はここまで。
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鎌倉殿の13人に名前と館跡の話だけ登場した源義朝公と彼の館の場所について記事を2回に分けて皆さんと観光地としての案内をしながら内容を検証して行きたいと思います~、どうぞ最後まで御付き合い下され~♪

先ず結論から話します。
①鎌倉殿の13人のドラマ本編後のNHKアナウンサーによる所縁(ゆかり)の土地の解説では頼朝公の御父上の源義朝公の館跡が鎌倉の寿福寺とだけ紹介されていましたが、これは情報不足で視聴者に誤解を与える紹介の仕方で、実際は逗子市沼間にも館があり旧鎌倉郡だけでも少なくとも2軒の邸宅を持っていました。
当然ですが京都にも御屋敷は有り、その場所は京都市下京区左女牛井と伝わっています。

②吾妻鏡に登場する沼濱亭を、自分で現地に足を運ばず取材もせず発掘調査結果も読まず文献コピペする学者が多くいて誤りを流布しています。沼間の法勝寺が屋敷跡と比定されていますが、これは誤りです。
鎌倉時代から今も続く旧家が現地沼間には住んでおり、その一帯の平場が田越川を外堀として利用した武士団の館を構築しており、法勝寺と武道谷の山一帯が詰城として機能していました。
つまり沼濱亭と沼濱城は別個の存在であるにも関わらず沼濱城跡を沼濱の館と書いている学者が多くいて、根本的に平安時代~鎌倉時代の武士の生活様式と城のセオリーすら理解して無い訳です。
平安時代の坂東武者は河川を掘りとして利用した谷戸の平場に邸宅を築いて住み、その近くに詰城を築いていました。

③平安時代の城郭として未発達の詰城を安土桃山時代の中部~西日本の石垣城しか❝城として認識できない程度の城郭知識❞の文献考古学者が「ただの砦」と軽視したせいで神奈川県が過去に有していた大城郭は多く消えています。
中世初期の関東の城は立派な土塁(どるい)と呼ばれる土を盛って作った城壁すら設けていない場所も多く有りますが、そもそも当時の詰城には城館は無く室町時代末期や安土桃山時代の城の様に常時城内で暮らしを営む生活空間は特に備えていませんでした。
この平安時代の街道は現代人の感覚では街道とは呼べない細い道で、城は山の尾根に毛細血管の様に幾筋も通っていたので道が合流する要所要所の山の峰を裾切(すそきり)して細くし切通道や堀切を作って敵の侵攻を阻害し峰に削平地を設ける範囲を広く点在させ、当時の街道の山道を防衛側が少数兵力でも守り易い構造にする事が優先されていました。
つまり後の時代と比較して城の立地や役割の遷移過程で建築物を城内に持ってる持ってないの差が有る訳ですから、「ただの砦」と言う文献考古の人がいるならば、その人が城郭の様式の変化や関東ローム層地盤の特性を活かした土城の殺傷力を知らないだけと言う事です。
源義朝公や源頼朝公の生きていた当時は山麓の屋敷と裏山の詰城がセットに成っていた訳です。

今回の記事はでは、この①の事を観光地案内を兼ねて皆さんと一緒に見て行きたいと思います~。
次回の記事で②と③を解説します。

さて、皆さんは鎌倉殿の13人第8話で源頼朝公達が鎌倉に入府した頃の話を覚えてるでしょうか?

その回ではドラマに登場しない人の話が、登場人物たちのセリフとして名前だけ出てきました。
義朝パッパ⤵頼朝公のパパです。       
鎌倉殿源義朝
※以下略称パッパとします。
頼朝公と鎌倉武士団が鎌倉に入府した際に、この頼朝公のパッパの御屋敷に関する会話が有りました。
源義朝パッパは平治の乱で平清盛公に負けて関東に逃げる時、尾張国の武将で自分の部下の長田忠致(ただまさ)に裏切られてお風呂場で殺された方です。
これ以降、源氏の殿様は風呂場で無防備なフル〇ンの時に殺されるのが伝統芸に成ってしまいました。
ところで鎌倉殿の13人には登場しない後日談として、長田忠致は相応の報いを受けています。
伝承では長田は頼朝公の父上や忠臣の鎌田政清公を殺害した際に平清盛公に対して「美濃(みの)国、尾張(おわり)国をくれ」と身の程知らずな要求を行い却下され不満を漏らしました。
更に頼朝公が大勢力に成り上がると厚かましくも頼朝公に面会に訪れ頼朝公の家来に成る事を願い出ます。
その際に長田はこう言われました・・・
鎌倉殿源頼朝小
「頑張って働いてくれたらパッパ殺しても欲しがってたって言う「みの・おわり」をあげるよ・・・」
当然ながら長田は血の気の引いた様な思いで必死に戦いますよね。
頼朝公は長田と戦に成らない為に許す姿勢を見せて置いて長田家臣団と直接コネクション作りながら長田を使いつつ時を待っていたんですね。
余り知られていませんが頼朝公の幼名は❝鬼武者❞です。

頼朝公は全然ゲームの鬼武者⤴の金城武サン演じる明智秀満公みたいに強くない武将で、武人ではなく経営者タイプの武士です。思考的に組織全体を守る為に運営上、血縁でも勲功の序列を重視する現実主義の一面も有り良い意味で鬼に成れる人ではありました。
鎌倉殿源義経鎌倉殿畠山重忠
実弟の源義経に血縁が有っても彼が家臣である事を解らせる為に、畠山重忠公と一緒に馬を曳(ひ)かせたエピソードは有名です。
この頼朝公が長田にちゃんと義朝パッパの敵討ちをしない訳が有りませんね。論功行賞(給与支払い)の時に成って頼朝公は長田にこう言い渡しました。
「長田サン、約束通り❝身の・終わり❞をあげます」
うぅ~ん・・・
「ひぃいぃ~!」
・・・っとなるエピソードですよねコレ、落後並みに落ちは綺麗についてるのですが(笑)。
でも頼朝公は実際は自分の子供に限らず子供好きで面倒見が良かったエピソードが幾つか伝わっています。

マグロの水揚げ漁港として有名な三浦市三崎町のユネスコ無形文化遺産に登録されているチャッキラコの話1つをとっても、この世界遺産に成った神事は子供に優しかった上に庶民にも気さくに声をかけていた頼朝公の実際の性格に端を発している事が解りますし、甥っ子の北条泰時公も溺愛していた話が伝わっています。
鎌倉殿北条義時2鎌倉殿伊東八重
北条泰時公と言うのはドラマの義時公と八重サンの長男です。
この泰時公は元の名前が北条頼時と、源頼朝公から名前を一字頂いた事も伝わっています。
ドラマのネタバレに成るかは不明ですが八重サンは史実では義時公にポイって離婚されてしまいます。
義時公は美人と再婚してしまうので(ガッキー超える美女いる?)、八重ガッキーの息子の泰時公は嫡男(ちゃくなん:後継者)ではなく庶長子(しょちょうし:非後継者の長男)と言う分家を立てる立場の人間と伝わります。
ただ実際は八重さん離婚されたからって廃嫡されたのかどうかは良く解らないので、頼朝公と関係が深かった事から当初は後継者だったけど義時公が亡く成る頃は継母と異母兄弟の存在が政治的に強かったのかも知れませんね。
頼朝公が亡くなった後の政治体制は暫く北条家と三浦家の共同運営的な様相を呈する事に成ります。
鎌倉殿三浦義村←スケベ設定の善政家
八重ガッキーと小栗義時の子供が生まれた時に三浦義村公がポイってガッキーに預けた子がいましたよね?
あの子が今後、北条家のバディに成り和田義盛公を殺す三浦泰村公です。
北条家と三浦家の同学年コンビ北条泰時公と三浦泰村公が初期の鎌倉幕府を引っ張って行く事になるのですが、頼朝公が亡くなってから北条泰時公は元の名前の源頼朝公由来の北条頼時の“頼”の字を捨ててしまい、泰時と改名し義兄弟分の泰村公の世代で過去どの武将も使って無かった“泰”の字を名に使用し始めます。この事は何かを示唆してそうですね。
源頼朝公、源頼家公、源範頼公等、源氏との決別でしょうか?
三浦泰村公は更に北条家とも対立して宝治合戦で滅亡しますが泰村公よりも半世紀前、この三浦家は源義朝公に大そう信頼されていたようです。
特にこの二人の信頼関係。
鎌倉殿源義朝「義澄っ👍!」
鎌倉殿三浦義澄「あざっす!」
この信頼関係で三浦家は頼朝公を支えているのでドラマの様に三浦義澄公が頼朝公に恐れ戦(おのの)く演出とは実際は違って頼朝公と一々謀議して命令を遂行していたのが三浦家と北条家と梶原家だったと思います。
でも義朝パッパが一番信頼していたのは頼朝公と違って実はこの人でした・・・
鎌倉殿上総広常「ぶぇぃぶぇぃ💨」
・・・頼朝さんや幕府の中核にいる梶原景時公に殺されちゃいましたけどね。
この人から没収した領地は和田家と千葉家と北条家が分与されているので実際は梶原サン単独犯な訳はなく、頼朝さんの独断でもなく北条家を筆頭に御家人の総意と言うか御家人の要求だった可能性すら有ります。
ですから北条家は上総広常公の暗殺事件の1年間の記録を破棄して残しておらず全てを死んだ梶原さんに責任転嫁していたのでしょうね。北条さんは首謀者の一人でしょう。
そんな訳でドラマの演出では上総サン誅殺を頼朝公主導で演出され何ともやりきれない内容でしたが凄まじい迫力が有りましたね。
鎌倉殿北条宗時鎌倉殿北条義時
開始早々の鎌倉殿の13人は無邪気な愛之助宗時お兄ちゃんが癒しに成り、小四郎君は非モテキャラでイジラレ倒し三谷演出で史実を端折った部分も有りましたがユーモラスな演出も多々有りホームドラマ的要素が見られて、余り史跡巡りとかしない方でも楽しめたんじゃないでしょうか?
とくに「ぶえい!」の下りとかですね。
吾妻鏡では武衛(ぶえい)将軍て頻繁に書かれてるせいで鎌倉殿の13人でネタにされた訳です。
鎌倉殿上総広常鎌倉殿源頼朝
「今日から皆ぶえいだよなぁ、ぶえい!」
・・・この回くらいまでギャグドラマ化してたのが段々とキナ臭くブラッシュUPされて来てドラマの迫力が増してきました。
それが前回のブログでも検証した上総広常公暗殺の話です。

個人的な感想としては史実や地域の伝承に沿ってる部分とそうでもない部分は有ったとしても上総サン辺りから三谷脚本が過去作に無い凄みを増して、比較するのは良くないかもしれませんが既に時代劇として藤沢周作・池波正太郎越え始めてると感じています。
この殺されちゃった上総サンをパッパが凄く頼りにしていたので、パッパは坂東武者達から“上総御曹司(かずさおんぞうし)”と呼ばれていました。実はパッパは実弟で木曽義仲公パッパの源義賢公より格下扱いをされていた風な状況だったのですが上総サンの御蔭でメキメキと頭角を現して行く事に成ったんですね。
その後、鎌倉郡に移住した様です。

——話をパッパの屋敷跡に戻します——

今回の冒頭①で話した通り、NHKの解説では源義朝公の屋敷を大庭家一族のいた高座郡寄りの亀谷(かめがやつ)邸跡の寿福寺だけを紹介していました。
2015-12-08-16-14-15
亀谷山 寿福金剛禅寺
鎌倉五山第三位 通称:寿福寺

この寿福寺は東日本の臨済宗寺院を束ねる鎌倉五山で第三位の寺格が有ります。
鎌倉五山の各自の概略はコンナ感じ・・・

第一位 巨福山 建長護国禅寺
けんちん汁発祥地、太田道灌公もここで学問学んだよ!紅葉メッチャ綺麗。文化財だらけ!
座禅会で本物のけんちん汁食べさせて貰えるよ!
好天なら半蔵坊権現から富士山見える絶景。
半蔵坊権現は天園ハイキングコース入口で横浜市まで山の尾根道の古道歩いて行けるよ~。

建長寺の紅葉⇨https://www.instagram.com/

第二位 瑞鹿山 円覚興聖禅寺
モンゴル軍と戦う事を決めて日本人守った北条時宗公の菩提寺だよ。紅葉メッチャ綺麗。



第三位 亀谷山 寿福金剛禅寺
今回紹介してる元は義朝パッパの御屋敷跡だよ!義朝パッパの正式な菩提寺だった勝長寿院に在った源実朝公の御墓が勝長寿院の荒廃→横須賀市芦名に移転後に寿福寺に移されて来てるよ!
政子サンのお墓も有るよ!
隣の英勝寺は太田道灌公の屋敷跡で東照宮も有るよ!。


第四位 金峰山 浄智寺

室町幕府時代に歴代の関東将軍である鎌倉公方が就任前に必ず滞在した寺院だよ。
緑の景色がとても綺麗な御寺だよ!この御寺の先から鎌倉城砦網遺構の残る登山道に入れるよ!



第五位 稲荷山 浄妙広利禅寺
元は足利家の鎌倉時代の邸宅跡だよ!真言宗の仏教草庵を北条政子サンが臨済宗に改宗して仏様祀ったよ。足利尊氏公の実弟の足利忠義公の墓所も有るよ!茶室で庭園見ながら和菓子食べれるよ!


さて、これ等の鎌倉五山には建長寺や円覚寺と言う臨済宗の大本山も含むのですが、それと京都の南禅寺が別格本山として設置されて臨済宗の寺院組織を管理していました。又この鎌倉五山の住職の任命権は征夷大将軍のみ執行出来た事からも寺格の高さが解るかと思います。
この任命権を鎌倉公方の足利持氏公がクジ引きで将軍に成った凶人将軍足利義教をスッ飛ばして鎌倉府で独自に任命したら鎌倉府と京都の幕府とで足利家の同族間戦争に成っちゃった程でした。
それはに関しては以前、禅林寺の紹介ブログで少し解説してます。
これ⤵

そんな征夷大将軍や鎌倉公坊が関わっていた由緒正しい寿福寺が建立される前に同地には義朝公の亀谷の館が存在しました。
義朝公は鎌倉郡の中でも三浦家の本拠地三浦郡に近い現在の逗子市沼間にも沼濱亭を持っていたので、恐らくどちらが本宅と言うよりは時期によって滞在する頻度が異なり晩年は亀谷に滞在する頻度が多かったと言うのが実情かと思います。
・・・この理由は義朝公の初期に領地の鎌倉郡と大庭家の領地の高座郡大庭御厨(おおばのみくりや)の今の藤沢市と鎌倉市の区界争いの諍(いさか)いが発生していたので、頼朝公は三浦義明公や岡崎義実公の本拠に近い三浦郡寄りの沼濱亭を当初は多用していたものの、大庭家が屈服しドラマに登場しない大庭景親公の実兄で自身の忠臣と成る大庭景義公が大庭家の当主に成ると鎌倉郡の中で高座郡に近い亀谷に住む頻度が高く成ったのかも知れません。
笹竜胆
笹竜胆紋:源氏
三つ引き両紋
三引両紋:三浦氏
三大文字紋
三大文字紋:大庭氏
位置関係を見て見ましょう。
義朝公邸址と城の配置
※クリックして画像拡大して下さい。
沼濱亭は一目瞭然で三浦氏の勢力圏内に所在する事が解りますね。
対して源頼朝公の時代には高座郡と鎌倉郡北部を治めていた大庭氏は、鎌倉ではなく高座郡の大庭城を本拠地に平清盛公政権下では長尾家や梶原家や俣野家等の周辺の一族を傘下に収めていました。
鎌倉郡の現在の鎌倉市街に三浦一族が食い込んできたのは正に、源義朝公の時代の義朝公と三浦氏による大庭家領地紛争によって割譲されているのかも知れませんね。
いずれにせよ大庭家の当主が大庭景義公に成り長尾家や俣野家が従えば亀谷の館に普通に住んでも危険が無く成るので、滞在の頻度が逗子の沼濱亭より鎌倉の亀谷邸の方にシフトして行ったと言う事も有ったかも知れませんね。
CIMG9055
上の写真は米軍池子基地内の池子遺跡群資料館の展示物ですが、逗子市は今でこそ池子が米軍基地が有ったり海水浴の別荘地や観光地的な場所と誤解している人もいますが、実は古墳時代から桜山古墳群と呼ばれる巨大古墳が有ったり、鉄器も生産されており比較的武士の根拠地として適した場所だった歴史も有ります。
織田信長公が政治的な要因で岐阜城と京都を行ったり来たりしてた為に時期によって滞在頻度が異なったのと当然同じ状況が有ったはずです。
・・・因(ちな)みに後述しますが、源頼朝公と義朝公の更に御先祖の源頼義公の館が大蔵幕府の位置に有りました。
下の地図は江戸時代の地形が未だ残る明治初期に帝国陸軍によって測量された“迅速測図”と言うもので農研機構さんがリリースしてるGoogleEarthに表示する事が出来るサービスです。
御家人の配置 久良岐のよし
※画像をクリックして拡大して見て下さい。
上の図は源義朝公の頃の御家人の配置図ですが、大蔵幕府の位置が昔の源頼義公の屋敷跡です。
千葉家は何箇所も屋敷が有りますが、これが時代の変遷を表しています。
現在では浄土宗の光明寺塔頭の蓮乗院は元は蓮乗寺と言う真言宗で千葉常胤公の菩提寺だった事が伝わり常胤公の持仏を祀っています。
蓮乗院が光明寺より先に当地に存在し後に浄土宗大本山が出来る過程で宗旨替えをして以後は光明寺塔頭寺院として機能していました。
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天照山 蓮乗院 

この蓮乗院や光明寺の直ぐ横の弁谷と呼ばれる谷戸に初期の千葉家の邸宅が有りました。
戦国時代には千葉家分家子孫の下総国印旛郡臼井城主の臼居家が外祖父に城の経営権を乗っ取られると鎌倉に逃げて来て、蓮乗院の前の道から伸びる小町大路の大町に移住し子孫は小田原北条家臣と成り、更に主家の北条家が豊臣秀吉に改易されてしまった際は士分を捨て名主に成り旧鎌倉郡野庭郷の野庭城一帯を北鎌倉の女性守護の縁切り寺として有名な東慶寺に寄進する形で開発権を得て今も野庭一帯と大町に其々の御子孫が健在でらっしゃいます。

もう一つ、扇谷にも千葉家の屋敷地が有ります。
扇谷の薬王寺は近くに千葉家の屋敷が有ったと伝承し、元は夜光寺と言う寺院で、その向かい側の谷戸には沢山の矢倉が存在しますが、この範囲が広大な旧境内と考えられ現在は私有地に成っている崖沿いに立派な矢倉が群在します。
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大乗山 薬王寺 
薬王寺も千葉家の宗旨と同じ様に元々の夜光寺の時代は真言宗でしたが、千葉家が日蓮宗に改宗した様にこちらも鎌倉時代中頃から日蓮宗に改宗しています。
江戸時代には駿河大納言徳川忠長公(織田信長公の妹の孫)の相模国における菩提寺として忠長公の奥方の織田昌子(織田信長公の孫)様によって大寺院として再興されました。更に伊予松山城主の蒲生忠知公の奥方の松壽院殿と御息女の梅嶺院殿の供養塔も存在し、徳川家と蒲生家の菩提寺の一つとして現在も存続しています。
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相馬次郎師常矢倉
この薬王寺の更に直ぐ東隣の谷戸もが千葉家の鎌倉幕府時代の屋敷跡と伝わり千葉常胤公の御子息の相馬師常公の矢倉が有ります。
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その背後の私有地山上には材木座の蓮乗院から移されたと思われる千葉常胤公の宝輪塔を祀る矢倉も現存しています。
材木座だけでなく扇谷に千葉家が屋敷を持ったのは正に源義朝公が扇谷に亀谷邸を設けたタイミングか、頼朝公が大蔵幕府を開いたタイミングと地域性から推測出来ますね。
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相馬天王(現:八坂神社) 
相馬家は千葉家の分家なので鎌倉時代には独自の屋敷を構えたらしく、それが小町大路の源義朝公亀谷邸址の寿福寺の隣に在る相馬邸址の相馬天王社と呼ばれた現在の八坂神社です。
材木座に話しを戻すと来迎寺は今は時宗ですが、元々山の上に観音堂が有り三浦義明公と多々良重春公と言う三浦家の頭領と一門武将の供養の為に源頼朝公が真言宗の能蔵寺として開きました。
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随我山 能蔵院 来迎寺 
三浦氏の本拠地の衣笠城近く大矢部の三浦義明邸址にも源頼朝公が義明公の菩提寺として満昌寺を開いている事からも状況的に三浦義明公の世代の鎌倉での三浦邸は他の御家人同様に先に発展していた小町大路(大町~材木座)側に存在し、その場所が来迎寺=能蔵寺の所在地だと比定出来るでしょう。
境内には三浦家臣団の宝輪塔が無数に現存し供養されています。
佐竹邸についても元々佐竹家の祖先の源義光公御本人の館だった事が伝わり材木座から少し北に行った大町の中でも昔は名越と呼ばた地域に所在しました。
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随我山 能蔵院 来迎寺 
鎌倉時代にもここは源義光公の直系子孫の佐竹氏が屋敷地として受け継ぎますが、佐竹義盛公に養子に入った関東管領上杉家の佐竹義憲公と佐竹家直系分家の入山佐竹家との間で争いが起きて佐竹家の殿様達が鎌倉に常時詰めなく成ると隠居した佐竹義盛公によって佐竹邸址には多福寺と言う寺院が開かれ、一度廃絶後に日蓮宗の多福山一乗院大宝寺として再興され今に至ります。
この様に千葉家一つとっても各武家の屋敷地も時代によって場所が変遷したり、三浦家や佐竹家の様に居館跡は寺院に変わったりしている訳ですが、これは源義朝公邸址の寿福寺や法勝寺の話しともそのまんま同じ当時の文化ですね。
もう一度鎌倉市街の迅速測図に戻りましょう。
御家人の配置 久良岐のよし
地図に現在の“鶴岡八幡宮の一ノ鳥居”、“元鶴岡八幡宮”、“荒居閻魔堂跡”が表示されていますよね?
義朝パッパと源頼朝公の御先祖の源頼義公の時代、実はこの一ノ鳥居~元鶴岡八幡宮~荒居閻魔堂の間には入江が存在しました。それ故(ゆえ)に元鶴岡八幡宮の別称が由比若宮で由比ヶ浜から海が繋がっていた名残が社名に残っている訳ですね。
後にこの地域は入江(頼義公時代)⇒湿地と砂丘(義朝公時代)⇒陸(鎌倉時代)と変化して材木座と呼ばれる様に成りました。恐らく完全に陸地化するには源頼朝公等が幕府を開いてから干拓や埋立で湿地と砂丘の地盤改良を行ったのかも知れませんね。
明治時代と鎌倉時代は全く地形が異なりますが、鎌倉時代と平安時代も大分と地形が違ったんですね。
迅速測図を見てみたいけれどGoogleEarthが良く解らない方は下のリンクからWeb版を御覧下さい。


まぁ、そんな義朝パッパの御屋敷に関しては2ヵ所存在したのですがドラマの中では大体の内容を端折(はしょ)って文字に起こすとコンナ感じの会話が有りました・・・
鎌倉殿三浦岡崎義実鎌倉殿北条義時
「頼朝公の御父君の義朝公の亀谷(かめがやつ)の館に御堂建てて義朝公の菩提を弔ってます」
「義朝公の住んでた亀谷に幕府を設置する様に取り次いで下さい」
鎌倉殿北条義時鎌倉殿三浦岡崎義実
「承(うけたまわ)りました~、伝えときます~♨」
鎌倉殿北条義時鎌倉殿源頼朝
「岡崎さんが御父上に倣(なら)って亀谷に幕府開きませんって言ってんですけど」
「どうしますアニキ(義兄)♂?」
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿北条義時
「家人(けにん)の言う事なんか聞いて一々決めてらんねぇ~よ(# ゚Д゚)ノシ!」
 (・・・配下に政治のイニシアティブ取らせる訳無ぇ~だろ!・・・)

——このやりとり史実では反対の展開です——

訂正すると史実でははコンナ感じ・・・
鎌倉殿源頼朝
「あのさぁ~皆聞いて!」
「僕はパッパを尊敬してるんだ・・・」
「パッパのお家が有った亀谷に僕も家(自宅兼幕府の役所)を作るよ!」
鎌倉殿上総広常鎌倉殿千葉常胤鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿和田義盛
「はぁ?ぶえい坊ちゃん何言ってんのかな?」
「アンナ狭い場所に皆の屋敷確保出来ないよねぇ~却下!」
「ぶえいのパッパの御先祖の一番エライ人の屋敷在った場所の方が広いでちゅよ~?」
「京都育ちの、ぶえい坊ちゃん何も知らないんでちゅね~。」
鎌倉殿北条義時鎌倉殿源頼朝小
「義兄さん、諦めも肝心じゃん?」
  (主導権もへったくれも鼻から無いねぇ~なオイ)  
  (俺等は家臣じゃ無ぇ~よ出資者で賛同者なの!)
  (アンタは只の神輿だよ黙って担がれてろっての・・・)
鎌倉殿源頼朝小
「・・・皆、流石に知恵が利くね、頼もしい!」
「解ったよ、義実がパッパの為に亀谷に作ってくれた御寺を修理して大切にしよう!」
「幕府は御先祖の住んでた大蔵が広いからそこに作ろう!」
  (コイツ等、組織理解して無いから絶対に解らせが必要だな)
  (ちょっとガクブルさせて上下関係ちゃんとしとかないと幕府簡単にブッ壊れんぞコレ。)
まぁ~こんな感じの流れが史実で、源義朝公の邸宅跡の亀谷寺(今の金剛寿福禅寺、通称寿福寺の前身)の在る亀谷に政府を置きたいと言い出したのは頼朝さんで岡崎義実公が父親の供養をしてくれていた事には感謝していたんですね。
この出来事が吾妻鏡の治承四年十月七日の出来事としてザックリ書いて有ります。
コンナ感じ⤵

【吾妻鏡(吉川本)】
七日、丙戌、先奉遥拝鶴岡八幡宮給、次覧臨故左典厩之亀谷御𦾔跡給、即點當所、可被建御亭之由、雖有其沙汰、地形非廣、又岡崎平四郎義實、爲奉訪彼歿後、建一梵宇、仍被停其儀云々・・・

——口語訳で意訳するとこんな感じ——
鎌倉殿源頼朝小
陰暦1180年9月07日に頼朝公は❝元❞鶴岡八幡宮を遠くから拝んだよ~
そん次に今は亡き義朝パッパの亀谷にある旧御屋敷を見に行かれたんだけどさ~
その建ってた所に御自分の邸宅を作るって・・・そうするって事だったんだけど~
そこ土地が広くねぇ~のよ!
鎌倉殿三浦岡崎義実鎌倉殿源義朝
「成仏して下され」「沼濱に魂いるよ」
そんでもって三浦氏の岡崎の爺ちゃんがソコに御寺作って義朝パッパの供養をしてくれてたりした。
鎌倉殿源頼朝小
んだからソレ見て頼朝公が「そんなら御寺壊すなしぃ~オマエ等ぁ~」って言いだして・・・etc

——単語を解説すると更に面白い事も解ります——

丙戌
[ひのえいぬ=長月(ながつき)=陰暦9月=太陽暦9月下旬~11月初旬]
(たてまつる=される/なさる)
遥拝(ようはい=遠くから拝む)
鶴岡八幡宮
この話は長月07日。鶴岡八幡宮の前身の由比若宮つまり元鶴岡八幡宮から現在の境内地の小林郷北山に御心霊を遷座したのは12日の事。
当時は未だ現在地の小林郷の鶴岡八幡宮は存在して無いので名称も異なる。
建久ニ年(1191年)に火災による社殿焼失を機に改めて大規模な社殿が造営されている。
由比若宮/元鶴岡八幡宮は大庭景義公の所領の懐島、現在の茅ヶ崎市の鶴嶺八幡宮の御分霊を頼朝公の御先祖の源頼義公が勧進して開かれている。この鶴嶺八幡宮の御神霊は源頼義公が京都の石清水八幡宮護国寺から御分霊を勧進し開いていて、元鶴岡八幡宮の元宮なので本元宮と呼ばれていた。
この事実を知らない鶴岡八幡宮職員も今では多い。
頼朝公が元鶴岡八幡宮から北山に遷宮した社殿と御神体が焼失した為に改めて京都の石清水八幡宮護国寺から御分霊を勧進しており、頼朝公が長月7日に遥拝したのは材木座の元鶴岡八幡宮を指し小林郷北山の今の位置の八幡宮では無いから鶴岡八幡宮ではない。
よって吾妻鏡の筆者は本来、由比若宮/元鶴岡八幡宮とすべきだったので完全に誤記。
ついでに言うと石清水八幡宮護国寺と同じく鶴岡八幡宮は明治時代まで大規模な寺院施設が併設されており正式名称は鶴岡八幡宮寺であり、扁額も明治時代の廃仏毀釈まで鶴岡八幡宮寺と書いて有った。
(たまわる)
(らんじる=見る)
(いどむ)
臨覧(りんらん=視察)
※吉川本活版印刷では“覧臨”と掲載しているがこれは恐らく誤字、臨覧で単語として成立する。
左典厩[(さてんきゅう=左馬頭)=(左馬頭=源義朝公)]
亀谷(かめがやつ=鎌倉駅の西北一帯、扇谷の一部)
御𦾔跡(ごきゅうせき=御旧跡)=(御𦾔跡=旧邸宅)
(すなわち)
(たてる)
當所(とうしょ=当所)
(べき/べく/べし/よし)
(~らるる/られる)
可+被(~らるる+べく/べき/べし)
御亭(ごてい=御邸=邸宅=御館)
※御亭が転化して館主が御主人/御亭主と成り男尊女卑年功序列思想の儒教導入後の価値観で既婚男性の人称代名詞の御亭主/御主人が生まれた。和製漢字単語。
之由(~のよし)
(その/それ)
沙汰(さた=命令)
非廣(非広=ひろくあらず/ひろからず)
(~のため/~なす/なる/する/つくる)
歿(ぼつ/しぬ)
梵宇(ぼんう=仏堂)
(なお/しきり/よる/よって)
被停(とめらるる/とめられる) 
其儀(そのぎ=そのことを)
云々(うんぬん=etc)

・・・どうでしょうか?
書いてある鶴岡八幡宮と言う名前の記載が、全く当時のリアルタイムでは無く大分と後世の北条家の人物が書いているせいで整合性がなく、源頼朝公が元鶴岡八幡宮の話である事を理解していない事も解りますね~。
権威の有る人の著書だろうがなんだろうが、時代問わず出版物鵜呑みにしたら痛い目見るのは自分なのが解りますね。
吾妻鏡にしても、この通り原本や写本じゃない明治~昭和に出版された吾妻鏡活版印刷版ですら間違いが有る訳です。
前例主義と思い込みと先入観を捨てて危険個所と改善点を探すって大切ですよね。
小生のブログの読者は小生が口酸っぱく「コピペいかんよ~」と言ってる意味が、この吾妻鏡のほんの僅かな一文切り抜きだけでも落とし穴だらけで、出版社か吾妻鏡筆者の誤記だらけなのがお解かり頂けたでしょうか?
小生は校閲せずに先にブログ記事リリースして、後で自分で読みながら誤字脱字を修正して行くタイプなのですが、書籍の場合は修正できず垂れ流しですから責任重大ですよね。
まぁ~、そんな他人のミスは放っておいて肝心の文章の意味を読むと内容的には、どうやら亀谷の邸址に岡崎さんが亡くなった源頼朝公のお父さんの義朝さん供養の為に既に御寺を建てた御寺が有って、その場所がそもそも義朝さんの御屋敷だったと言うのが解りましたね~。
そこが今では寿福寺に成っている事は先に解説しましたよね?
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寿福寺の参道は長く、雰囲気が有ります。
残念な事に観光寺としては機能が年末年始に限定されているので、御本堂を直に拝む事は出来ず門の前から参拝するだけです。
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御寺と神社を参拝して廻って御朱印300件近く拝受してる中級御朱印マニアでもある歴史ヲタの小生の個人的意見としては、建物や施設を劣化させない一番の手段は人が活用し続ける事だと経験則で思っており参拝させないのは逆に境内の景観の保存手段としては逆効果だと思います。
しかし寿福寺には理由が有って数年前までご高齢の御住職が体調が優れず御朱印すら拝受するのは困難でした。
御朱印に関しては現在は御嬢さんが書置きの御朱印で対応して下さり拝受できます。
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余談ですが小生は鎌倉五山の寺院を1位~5位まで順番に拝受してみたり工夫してみました。
KIMG2136
御朱印の話から亀谷邸の話に戻すと、岡崎義実公が源頼朝公の父君のパッパの御屋敷の後に義朝パッパ供養の為に建てた亀谷寺と言ったらしい御寺の有った場所に、正治二年(1200年)北条政子様が寺院の宗旨を臨済宗に改宗させ大規模な寺院建築を造営しました。
岡崎義実公の若かった時代には未だ臨済宗は鎌倉では流行おらず、修験道や真言宗の密教を崇拝してた源氏の影響で真言宗全盛でしたから元は亀谷寺も真言宗だったかも知れませんね。

NHKは鎌倉の寿福寺だけを源義朝邸として解説していましたが、あくまでソレは大蔵幕府設立の回の話だったので、幕府の候補地として解説され同地が源義朝公邸址であると紹介したのでしょう。
実際には旧鎌倉郡域の逗子市沼間にもう1ヵ所、吾妻鏡に登場する沼濱亭が存在したので、そちらも合せて解説してあげていたらより親切だったかも知れませんね~?

さて、今回は吾妻鏡の記載の話をして、源義朝パッパの邸址は2ヵ所あるよ~とNHKの解説を捕捉して見ましたが、もし未だ吾妻鏡を読んだことが無い方は、誤字も多そうですが活版印刷で楷書の文字で起こされた吾妻鏡が国立国会図書館のデジタルコレクションで読む事が出来ます。
PCなら無料でPDF版ダウンロード出来ますし、ダウンロードしなくてもそのまま国立国会図書館のプラットホームでWeb版を読めるので興味有る人は下のリンクから読んで見て下さい。





源平盛衰記も有るのですが、こちらはWeb版からプリントアウトは出来るのですがPDFデータをダウンロードする事は出来ません。



このダウンロード出来るモノと出来ない物の匙加減がちょっと意味わからないですけどね(笑)。

皆さん、機会が有れば余り有名では無いけれど歴史偉人が関わったパワースポット巡りをしてみては如何でしょうか?
次回は冒頭の指摘②③で挙げた逗子市側の沼濱亭の地形と伝承を皆さんと観察してみたいと思います。
では皆さん、又、次の記事で御会いしましょう~♪
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森戸神社名島と真名瀬の海
神奈川の景勝50選、森戸夕照と富士。
【森戸神社の海岸の眺望】
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南国リゾート風の富士山の景勝地
逗子マリーナと小坪漁港の夕景
【逗子マリーナ(小坪飯島公園)】
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由比ヶ浜材木座海岸~和賀江島からの富士
文化人、将軍 源実朝公の夢の址
【材木座海岸和賀江島】
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骨折したのも失業したのも良いチャンスなので骨繋がるまで語学資格ステップUPと、補助器具つけたまま筋トレ出来る部分をバッキバキにしてやるわい(笑)。

そして長距離ウォークが無理に成ったけど楽しみも見つけた。
昔のドラマもスマホとPCで見放題!
TVerも無料で見逃した番組スマホでもPCでも見れる。
今日は学習してから休憩に数回に分け・・・
一気見して見終わった⤵️
愛してると言ってくれ。
めちゃくちゃハラハラしたり
いたたまれなく成ったり
ホッコリしたり。
若かった頃のトヨエツ、男から見ても綺麗な顔!
二十代前半の常盤貴子サンも可愛らしいぃ~!
ドラマ見ててスレ違い続きに泣きそうに成ったし、自己中心的な登場人物が1人もいない分、余計にグサグサ見てるコチラの心が抉(えぐ)られる。

次はこれ見る予定⤵️
ドラマ見て~勉強して~又休憩にドラマ見て~みたいな?
背诵教材(語学の教科書暗唱)
息抜きドラマ
背诵教材
息抜きドラマ
・・・みたいな?
面白い ()♪
その次は仕事で使う資格も何かとろかな。 

今回は骨折してたけど御医者サンに・・・
「運が良かったね」
「下手したら死ぬか半身不随」
・・・と言われた。亀裂入っただけで済んだし良かった。
何か左胸も痛いって言ったら御医者サンに左肩動かすの禁止指令出されて今、右手だけで文字を入力中。

で骨折当日、当初は三浦海岸~三崎漁港の海沿い20kmコースを歩こうとして10kmチョイ歩いた剱崎で骨折した所まで休日雑記に書こうと思う。
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スタートは三浦海岸駅から。
三浦海岸駅を降りて直ぐに史跡が有るのを御存知の方は少ないと思う・・・
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この漆喰塀風の建物は三浦市役所の支所なのだが幕末の史跡でもある。
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海防陣屋跡(鎌倉三浦郡役所)
海防陣屋と言って、幕末にペリーさんが来た時に徳川幕府が設けた役所兼駐屯地だったりする。
こんな風に紹介しながら実は小生自身初めての訪問。
普段は三浦海岸は車でパって行っておわりなので先ず立ち寄らない。
KIMG9144
現代では史跡らしい物は何もないが、ここに関わった人物は有名人ばかり。
井伊直弼公に始まり、長州藩士だった頃の桂小五郎サンに伊藤博文元首相等凄まじい。
一応、三浦市の発行している本に縄張り図が掲載されており、市役所に問い合わせるとコピー貰えたりする。
興味の有る人は掘り下げて調べてみたら面白いかも知れない。
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少し歩くと、三浦海岸。
小生はここには泳ぎに来ないが今時分、本来なら海の家が立ち並ぶ。
しかし黒岩知事により完全予約制と業態に合わない規制が命令された事から海の家は営業困難になり、海水浴場設営は見送られた。

性風俗店規制しないで何のつもりだろ?
海の家なんてシャワー付きの居酒屋でしょ。
ベタベタするキャバクラより安全なのにね。
三浦市の観光客相手の飲食店来年まで持つかな?
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海の家が無い分、景色は良い。
散歩にはもってこいだった。
多分、三浦半島で一番長い砂浜はここだろう。
夏に本来の姿が見えるのも新鮮。
三浦海岸沿いを歩き数年前まで大好きで良く散歩に来ていた琴音浜を通過。
琴音浜は海水浴シーズンも海の家が建たないのでユックリ時間を過ごせる。
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先ずは大浦海水浴場を目指して歩く途中で沢山、綺麗な花と地域を守る御地蔵様を見かけた。
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緑に黄色は良く映(は)えるね!
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白い花、最初アロエの花?と思いビックリしたが違ったみたい。
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もう紫陽花(あじさい)の花が綺麗な季節感だね~。
残念ながら今年は鎌倉の明月院は2週間前に電話確認した所、拝観再開未定らしい。
三浦半島を歩いて思ったのは、早くから三浦武士団による開墾が進み昔は南宋から仏像が輸入される等、仏教文化が栄えた地域だからか御地蔵様がとにかく多く市民と観光客を見守って下さっていた。
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比較的新しく作りなおされた様で、コンクリート製の御地蔵様もいゃった。
KIMG9170
コチラは馬頭観音様ぽい。
江戸時代位の作りに見える。
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あと横穴もいくつか見かけた。
付近には横穴式古墳も存在するが矢倉ではなく、大戦中の防空壕ぽい。
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御地蔵様。
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何か解らないけど神様。
この神様の祠(ほこら)を少し過ぎた辺りに金田漁港と言う港が有る。

そこでたまたま木陰で休憩していた御爺ちゃんと打ち解けてアレコレ話す内に、三浦義村公の御廟や史料を管理する方がいる事等を教えて貰い立ち寄る事にした。
因(ちな)みに、この御爺ちゃんが元力士と変わった経歴の人だった。
KIMG9178
金田漁港の直ぐ近くの丘の上に義村公の御廟と三浦氏が崇敬した八坂神社=スサノオノミコト=牛頭天王の御社が存在する。
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階段を登ると右手に説明の看板。
意外かも知れないが、北条家に負けて宗家は滅亡し一族も組下に入れられた三浦家は開墾と善政を行い内政力が高かったらしく、どこに行っても800年経っても、その統治を現代人にも受け継がれ慕われ続け御高齢者から三浦氏賛美の言葉しか聞かない。
特に三浦義村公は武力が高いだけでなく歴代の中でも善政で名を残し今も顕彰されている様だ。
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階段を登ると右手に明らかに鎌倉時代の矢倉の中に良くある立派な墓石があるので、コレが義村公の御廟だと直感で思い御参りした。
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御墓の近くには小さな御社があり萱草(カンゾウ)が咲いていた。
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うん、可愛い!、三浦の初夏の風物詩の仲間♪
三浦の過疎った地域とか、市役所と農協と協力して山百合と野萱草(のかんぞう)を人工栽培して海の近い崖地の風通しの良い御寺とか神社の斜面や耕作放棄地の畑で名物にすれば、鎌倉の明月院や長谷寺の紫陽花、報国寺の竹林、大雄山最乗寺の紅葉に比肩し、尚且つ三浦独自の植生にマッチし東京や県内他都市では真似の出来ないオリジナリティー溢れる名物に成ると思うのだが・・・
今度、三浦市役所と知り合いの御寺に提案だけでもしてみようかな?
以前、城ケ島の野萱草が奇麗なので記事に書いた事も有った。
実はこの記事を書いた時に黄色の野萱草も色違いの山百合だと思って漢詩まで作ってた(笑)。


小さな御社の先に進むと社務所とも倉庫とも見える建物が有り、更に奥に三浦義村公の御高齢と八坂神社が見えた。
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で、「ん?」と成った。
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三浦義村公の廟所
こちらが御廟。
「なら、さっきの供養塔は三浦義村公の物では無いのだろうか?」
と、疑問を持ったが後で金田漁港に戻り元力士の御爺ちゃんに確認した所、実はここ立派な御廟は近年作り直したらしく、やはり小生の直感が当たっていた様だ。
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義村公の御廟と八坂神社さちゃんと御参りしてる人が絶えていないらしく、ちゃんと綺麗にされていた。
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岩浦八坂神社
大きくは無いが地域の人口を考えるとかなり立派!
維持大変だろうと思い頭が下がる。
御参りし終えて右手に廻ると・・・
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鎌倉文化圏らしい左岸をくり抜いた横穴に小さな神様の祠
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それと石仏か供養塔か神様の祠か今では判別不能。
この岩浦八坂神社の近くに三浦義村公の菩提寺があるのだが、電話しても御住職が御不在だった事と、時間的に先を急ぐ必要が有り又、日を改めて参拝する事にした。

今思えば・・・
地元の御爺ちゃんと話して三浦義村公をこうして御参りし、お地蔵さんや神社や見かける度に御参りしたから、この後に高い場所から落ちても擦り傷と亀裂骨折だけで済んだんだと思う。
・・・御医者サンに死ぬか半身不随でもおかしくないとか脅かされたしね。
義村公、素戔嗚尊様、お地蔵様、話してくれた御爺ちゃん、ありがとうございました!
KIMG9204
上宮田金田三崎線を歩き、剣崎砲台跡の近くを通り過ぎる。
KIMG1554
これは去年の写真。
城ケ島や観音崎と違い、保護されず農家のゴミ捨て場に成っているので正直、見に行く事はお勧めしないガッカリな状態。
なので砲台跡をスルーして大浦海水浴場を目指して松輪地区の農道を歩く・・・
KIMG9208
神奈川の景勝50選が沢山ある道なので当然風景は奇麗。KIMG9210
もっとも、この日は剣崎灯台の近くで骨折し、剣崎以外の景勝は見れなく成る事をまだ、この時は知らない(笑)。
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・・・昨年の写真だが、
歩いて大浦海水浴場に行く途中に農道から、房総半島と東京湾を見渡すコンナ奇麗な風景も見れる。
KIMG9212
途中、猿田彦大神を祀る石塔。本当、三浦には日本の風景と文化が良く残る。
そこからちょっと谷を下り大浦海水浴場に到着!
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天気は微妙だけど奇麗。
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大浦海水浴場
人もいなくて静かで、これはこれで良いね♪
因(ちな)みに天気が良いと本当に‼この海は奇麗♪

去年の訪問時の記事⤴
この一帯は民宿も多いので家族連れやカップルにもお勧めだけど、今年は県の要請で海水浴場がやってないので閑散としていた。
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途中奇麗な花。
大浦海水浴場を離れ間口漁港へ・・・
KIMG9224
間口漁港は
地魚を食べれる食堂や船宿も有るが大浦海水浴場の直ぐ近くなので地図リンクは省略する。
間口漁港から劒崎灯台に向かう途中、可愛らしいカフェを見つけた。
KIMG9226
ウェークエンド カフェ フラミンゴ
KIMG9232
残念ながらこの日はやっていなかったが子供が喜びそうな御店。
もしかしたら海水浴場がやってないから御店もやってないのかな?
機会が有ったら又来てみよう。
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農道に戻りしばらく歩くと灯台が見えてくる。
実は明治四年(1871)に建てられた古い灯台なのだが二代目で、初代は徳川幕府時代にアメリカ・イギリス・フランス・オランダの要求によって江戸条約に基づき初代の灯台が建設されたそうだ。
KIMG9238
この奇麗な
風景は灯台に行く途中から見た片谷浜で、ちょうど名物ブランドの松輪鯖と黄金鯵で有名な松輪漁港の裏っ側。
もっと進むと鳶(トンビ)が沢山いて少し怖い。
KIMG9242
その辺りから不思議な建物が見える・・・
KIMG9244
何だろうね、これ?と思いちょっと観光協会とかに聞いたら灯台のレンズ格納庫とか色んな話が有るけど海保の所有物で、剣崎砲台の探照灯の格納庫だったそうだ。
何回も来ていたのに今迄気が付かなかったのは、車でしか来た事が無かったからだろう。
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そこから灯台はすぐそこ。
景色はとにかく奇麗。
KIMG9247
やっぱ暫く後に高い場所から足をとられ落ちても亀裂入った程度の骨折で済んだのは、運が良かったのでは無くて、事前に土地神様の三浦義村公に御参りしたからかな~?
本当に景色が美しいが、この30分後位に自分がここで骨折るとは微塵も思ってない(笑)。
KIMG9250
明治に敷設された石畳が今年は訪問者が少ないから雑草で覆われそうに成っている。
KIMG9252
山百合が奇麗だよね~本当、三浦半島は梅雨入り頃、快晴の日の海が野萱草と山百合が見れてとても奇麗。
KIMG9256
劒崎灯台
天気は微妙、雲が多く成って来ていた。
でもここは灯台と夕陽と一緒の良い写真が撮影出来た。
KIMG9264
灯台が燻銀(いぶしぎん)に鈍く光り格好良い♪
KIMG9258
皇太后殿下もいらっしゃっている様だが、ちょっと石碑の設置年号を見ていないので誰か解らない。KIMG9271
灯台の横から見る間口漁港も良いね~。
KIMG9275
灯台の横の鉄塔は海堡のレーダーらしい。
KIMG9276
良いね~。
そして、この直後に高い場所で転倒し落下(笑)。
折れたと思ってないから掌の擦り傷だけ歩きながら写真撮ってた。
KIMG9280
足の腫れてるのは体毛濃くて見る人を不愉快にしてしまうので掲載控えます(笑)。
足踏とられて前向きにつんのめって倒れ落ちたけど、受身とった御陰で表面的には膝と手の擦り傷くらい。
しかも折れた自覚も無く捻挫程度かと思い、まんま歩ける程度。
折れてると思わんかった(笑)。
歩きながら手と膝の皮剥けた写真撮影してるくらい痛くなかったのよね、歩きにくいだけで。

結局歩く気失せて(当たり前)、予定の半分の11kmしか歩かずバスに乗って三浦海岸駅に帰って終了。
翌日自分で運転して病院行ったら捻挫だと思ったのに折れてるって言われて「まじか~」と思い、車運転してたからギプス巻くのを翌日にして貰い、再度通院。
美人看護婦サン♥️にギプスして貰い・・・
「皆さん美人で優しい看護婦さんばかりでよかったです~(笑)」
・・・とか軽口言ってたら看護婦さん同士で照れてアノ人が美人、貴方の方が美人とかツッコミ役不在で美人の譲り合いに成って面白かった(笑)。
病院から帰って来たら、小さい時から御世話に成ってる近所の叔母チャンに丁度会って・・・
「ちょっと!そんなに成って何笑ってんの!」
・・・て泣く寸前の顔で怒られた(笑)。 叔母チャン、俺が失業したの心配してくれてたし(笑)。
もう1人居合わせた小さい時に遊んで貰った近所の兄ちゃんの叔母サンにも「ムチャすんな」とガチ切れで怒られた。

ゴメンね、叔母ちゃんズ!
昔、畑の大根抜いていたずらしたり、鬼ごっこで押されて畑の有刺鉄線にガンジガラメに成ったりしてたガキンチョだった時みたいに怒ってくれてありがと(笑)。
ちょっと嬉しかったよ。

死なずに又、生かされてるんだから人生楽しまないとね~。

報恩
報復
臥薪嘗胆
埋頭苦干
聴其自然
鉄杵磨成針一定能成針
世上無難事只怕有心人

今回は三浦義村公との御縁で偶然大した事ならず骨割れただけで助けられた命。
色んな御縁にも周囲の人にも感謝せねば。
やれる事をやり楽しめる事をやろう♪

骨折したけど、自分には必要で大切な時間になりそうです。
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