披露山公園
神奈川の景勝50選の1つ
逗子一の富士山の景勝地とハイキングコース
―以下は詳細な解説( ゚∀゚) ダョ♪⤵―
【交通】
訪問は若干不便なものの、晴天で海上の空気が澄んでいる季節に成ると、由比ヶ浜~稲村ケ崎~江ノ島の相模湾~箱根山系~富士山を一望できる絶景や夕陽を見る事が出来る。
もしデートで彼氏彼女や夫婦で行くなら電車で訪問し徒歩で逗子駅から近くの逗子海岸を歩き小説不如帰の舞台にも成った浪子不動こと高養寺からハイキングコースを登り披露山公園の展望台まで行くと感動するでしょう。
実際に多くの若い女性同士や御夫婦のハイカーが展望台から富士山と夕陽を眺めて感嘆の声を上げる様子を目にする機会が有りますよ♪
もしトレッキングが目的なら昼過ぎ位に逗子駅を出発し逗子海岸~浪子不動遊歩道~披露山公園で休憩~更に披露山庭園住宅を抜けて~大崎公園や逗子マリーナや材木座から富士山と夕焼けを見て帰るのも良いと思います。
もし歴史に興味が有るのでしたら、逗子駅から程近い六代山不動院も御参りしてから逗子海岸に出ても良いかも知れませんね。
以下が過去に紹介した六代山不動院、大崎公園、逗子マリーナ、材木座の富士山の景勝です。
下の地図に表示されている所では季節で水揚げが有れば御土産用のシラスを購入する事が出来ます。
【歴史】
この披露山公園は実は古墳時代に倭建(ヤマトタケル)命が通った古東海道と考えられています。
下の地図は国土交通省関東地方整備局サンが子供達の為に作っているホームページに公開されているもので略図ですが凡その経路が解り易く表示されています。
見やすいでしょう?
下にリンクを貼って置きますね!
国土交通省の推測は実は歴史を知っている人からすれば非常に整合性が有ります。
古墳時代以前からの聖地が神社化したとされる平安時代の醍醐天皇が政令で保護対象にした神社が網羅されている延喜式神名帳に掲載されている❝式内社❞と、古代の史跡をGoogleEarth上に表示し更に国土交通省の製作した古東海道図をGoogleEarth上に重ねると見事に整合性が有ります。
上の地図で住吉城と表示されているのが披露山公園の向かい側の山で、吾妻鏡に登場する畠山重忠公と和田義盛公が開戦した坂道の入口、すなわち名越の坂や古東海道の切通道を眼下に抑えた住吉城址です。この城名由来の神社が住吉神社です。
住吉神社
住吉城址に在る鎌倉郡総鎮守と伝わる古社
正覚寺の下にある現代廃道にされた切通道が古東海道と伝わります。
ここ等辺りは以前、小坪の歴史を調べ始めた時に少し記事にしましたので御興味有る方は下の記事を御覧下さい。
ところで住吉神社は小坪の郷土史を調べると、逗子市が鎌倉時代以前に旧鎌倉郡で三浦郡では無かった事が解り、更に住吉神社が鎌倉郡の鎮守の神社と元々は社格が高かった事も解ります。
つまり本当に古東海道がここを通過していたので、社格の高い神社や重要な御寺も逗子市には沢山存在したし現存もしているのでしょうね。
正覚寺の下の鎌倉時代の和田義盛公と畠山重忠公の古戦場でもあり、戦国時代の伊勢原市と平塚市に跨る大城郭の岡崎城主で岡崎城三浦道寸公と住吉城主三浦道香公の御兄弟と北条早雲こと伊勢宗瑞公と北条氏綱公親子の名将達が住吉城攻防で三浦家の撤退戦の大激戦地となったのが、この古東海道でした。
今では放置されて長い時間、草木が生い茂ってしまいましたが路盤は今も残っています。
逗子マリーナから見上げて段地になってる上のフェンスの中が古東海道、神話の道で名将達の住吉城争奪戦で主戦場と成った当時は写真を撮影してる位置が海で、海の上にそそり立った崖に穿たれた蜀の桟道の様な天下の険でした。
反対側は海前寺様に繋がっており、御寺が古道の出入口を守る形で存在している事からも正覚寺は江戸時代の記録に戦火に遭ったと記載が有るので戦国時代まで古道の入口の砦として利用されて戦火で廃寺に成り、約1世紀後に浄土宗寺院として再興されているようです。
海前寺様の墓地にも昔の道が残されています。
この墓地には戦国時代の住吉城址の攻防の将兵を弔う首塚が余り知られていませんが存在します。
この首塚の場所は元々は矢倉だったみたいですね。
さて、鎌倉時代にここで戦ったのは皆さんも鎌倉殿の13人で既に良く知っているかと思いますが初代鎌倉幕府別当の和田義盛公と畠山重忠公です。
三浦氏は家長の三浦義明公(89歳)の守る三浦半島の中央部の三浦家本拠地衣笠城を防衛する為に畠山重忠公の由比ヶ浜の対岸の披露山公園のある古東海道を守る住吉要害に陣取った和田義盛公と現在の葉山町と逗子市境界にある鐙摺城を三浦義澄公が守りました。
当初三浦義澄公は畠山重忠公は甥っ子に当たる為に開戦する心算は無かったと伝わりますが、源義朝公への忠誠心の高い和田義盛公が畠山重忠公へ宣戦布告をして開戦しました。
但し戦ったのは源頼朝公が鎌倉幕府を開く前の話です。
ちょうど最初の頃にこのシーンが和田義盛公の勘違いで開戦したように描写されていましたね。
さて、そんな訳で披露山は凄い歴史偉人たちが通過した場所なだけでなく、源より朝公が部下達に褒美を与えた宴会を開いた場所としてもしられ、それが披露山の披露の地名の由来と伝わります。
是非、頼朝公も見た景色を皆さんも見て見ませんか?
三浦半島には披露山を通過して房総半島んいと訪れる前に倭建命と弟橘姫夫妻が滞在した走水の御所ヵ崎と走水神社も有ります。
では、披露山公園の富士山の絶景や周辺に纏わる解説はここまで。
神奈川の景勝50選の1つ
逗子一の富士山の景勝地とハイキングコース
046-871-4941
【交通】
訪問は若干不便なものの、晴天で海上の空気が澄んでいる季節に成ると、由比ヶ浜~稲村ケ崎~江ノ島の相模湾~箱根山系~富士山を一望できる絶景や夕陽を見る事が出来る。
もしデートで彼氏彼女や夫婦で行くなら電車で訪問し徒歩で逗子駅から近くの逗子海岸を歩き小説不如帰の舞台にも成った浪子不動こと高養寺からハイキングコースを登り披露山公園の展望台まで行くと感動するでしょう。
実際に多くの若い女性同士や御夫婦のハイカーが展望台から富士山と夕陽を眺めて感嘆の声を上げる様子を目にする機会が有りますよ♪
もしトレッキングが目的なら昼過ぎ位に逗子駅を出発し逗子海岸~浪子不動遊歩道~披露山公園で休憩~更に披露山庭園住宅を抜けて~大崎公園や逗子マリーナや材木座から富士山と夕焼けを見て帰るのも良いと思います。
もし歴史に興味が有るのでしたら、逗子駅から程近い六代山不動院も御参りしてから逗子海岸に出ても良いかも知れませんね。
以下が過去に紹介した六代山不動院、大崎公園、逗子マリーナ、材木座の富士山の景勝です。
下の地図に表示されている所では季節で水揚げが有れば御土産用のシラスを購入する事が出来ます。
【歴史】
この披露山公園は実は古墳時代に倭建(ヤマトタケル)命が通った古東海道と考えられています。
下の地図は国土交通省関東地方整備局サンが子供達の為に作っているホームページに公開されているもので略図ですが凡その経路が解り易く表示されています。
見やすいでしょう?
下にリンクを貼って置きますね!
国土交通省の推測は実は歴史を知っている人からすれば非常に整合性が有ります。
古墳時代以前からの聖地が神社化したとされる平安時代の醍醐天皇が政令で保護対象にした神社が網羅されている延喜式神名帳に掲載されている❝式内社❞と、古代の史跡をGoogleEarth上に表示し更に国土交通省の製作した古東海道図をGoogleEarth上に重ねると見事に整合性が有ります。
上の地図で住吉城と表示されているのが披露山公園の向かい側の山で、吾妻鏡に登場する畠山重忠公と和田義盛公が開戦した坂道の入口、すなわち名越の坂や古東海道の切通道を眼下に抑えた住吉城址です。この城名由来の神社が住吉神社です。
住吉神社
住吉城址に在る鎌倉郡総鎮守と伝わる古社
046-873-1111
ここ等辺りは以前、小坪の歴史を調べ始めた時に少し記事にしましたので御興味有る方は下の記事を御覧下さい。
ところで住吉神社は小坪の郷土史を調べると、逗子市が鎌倉時代以前に旧鎌倉郡で三浦郡では無かった事が解り、更に住吉神社が鎌倉郡の鎮守の神社と元々は社格が高かった事も解ります。
つまり本当に古東海道がここを通過していたので、社格の高い神社や重要な御寺も逗子市には沢山存在したし現存もしているのでしょうね。
正覚寺の下の鎌倉時代の和田義盛公と畠山重忠公の古戦場でもあり、戦国時代の伊勢原市と平塚市に跨る大城郭の岡崎城主で岡崎城三浦道寸公と住吉城主三浦道香公の御兄弟と北条早雲こと伊勢宗瑞公と北条氏綱公親子の名将達が住吉城攻防で三浦家の撤退戦の大激戦地となったのが、この古東海道でした。
今では放置されて長い時間、草木が生い茂ってしまいましたが路盤は今も残っています。
逗子マリーナから見上げて段地になってる上のフェンスの中が古東海道、神話の道で名将達の住吉城争奪戦で主戦場と成った当時は写真を撮影してる位置が海で、海の上にそそり立った崖に穿たれた蜀の桟道の様な天下の険でした。
反対側は海前寺様に繋がっており、御寺が古道の出入口を守る形で存在している事からも正覚寺は江戸時代の記録に戦火に遭ったと記載が有るので戦国時代まで古道の入口の砦として利用されて戦火で廃寺に成り、約1世紀後に浄土宗寺院として再興されているようです。
海前寺様の墓地にも昔の道が残されています。
この墓地には戦国時代の住吉城址の攻防の将兵を弔う首塚が余り知られていませんが存在します。
この首塚の場所は元々は矢倉だったみたいですね。
さて、鎌倉時代にここで戦ったのは皆さんも鎌倉殿の13人で既に良く知っているかと思いますが初代鎌倉幕府別当の和田義盛公と畠山重忠公です。
子 ⇔ 親:三浦義明公の子:叔父 ⇔ 甥
VS
実は三浦義明公の孫
この戦いでは畠山重忠公は由比ヵ浜に陣地を置いたとされるので極楽寺坂の下の長谷観音辺りに陣地を置いていたかも知れませんね。VS
実は三浦義明公の孫
三浦氏は家長の三浦義明公(89歳)の守る三浦半島の中央部の三浦家本拠地衣笠城を防衛する為に畠山重忠公の由比ヶ浜の対岸の披露山公園のある古東海道を守る住吉要害に陣取った和田義盛公と現在の葉山町と逗子市境界にある鐙摺城を三浦義澄公が守りました。
当初三浦義澄公は畠山重忠公は甥っ子に当たる為に開戦する心算は無かったと伝わりますが、源義朝公への忠誠心の高い和田義盛公が畠山重忠公へ宣戦布告をして開戦しました。
但し戦ったのは源頼朝公が鎌倉幕府を開く前の話です。
ちょうど最初の頃にこのシーンが和田義盛公の勘違いで開戦したように描写されていましたね。
さて、そんな訳で披露山は凄い歴史偉人たちが通過した場所なだけでなく、源より朝公が部下達に褒美を与えた宴会を開いた場所としてもしられ、それが披露山の披露の地名の由来と伝わります。
是非、頼朝公も見た景色を皆さんも見て見ませんか?
「風景良いから皆も遊びにおいで!」
倭建命の聖地巡礼で訪れて古道として散策しても良いかもしれませんね。三浦半島には披露山を通過して房総半島んいと訪れる前に倭建命と弟橘姫夫妻が滞在した走水の御所ヵ崎と走水神社も有ります。
では、披露山公園の富士山の絶景や周辺に纏わる解説はここまで。