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タグ:三浦道寸

2017年07月11日・・・
昨年に引き続き三浦市三崎町小網代(こあじろ)の網代山海蔵寺を参拝。
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昨年の電話での交流から始まり、学僧気質の正しい禅宗寺院の在り様を大切にされておられる御住職様に気に入って頂けて以来、折に触れて参拝に上がっている。
・・・しかし、07月11日は小生にとっても御住職様にとっても大切な1日なのだ。
501年前のこの日、小生が尊敬し御住職様がその菩提を弔う三浦義同(よしあつ)入道道寸公と御曹司の三浦義意(よしおき)公が海蔵寺の直ぐ近くに在った新井(荒井)城で討ち死にした。
日本記録であろう4年間の籠城戦を戦い抜いた後、房総からの援軍が絶え兵糧も尽き、最後の1日・・・
決戦に及ぶ段に成り父上道寸公から当主の座を継いでいた義意公は責任の無い部下や下級武士や農兵を船で房総半島に逃がして、自身は手勢を率いて時間稼ぎをし命絶えるまで戦ったんだな。
これは途轍もない事で、先ず4年間、同盟者からの物資補給が有ったとしても城から出られない絶体絶命の状況で兵士の士気を保ち尚且つ支持を受け続けるだけの人望と才覚が有ったと言う事だ。
普通は籠城しても数ヵ月と持たない。
この三浦義意公を除いて他には、もう御一方尊敬する人物である玉縄城主北条綱成公が河越合戦の際に半年間の籠城に成功したことが“奇跡”とされる大活躍とされている。半年で奇跡の大活躍、それを4年間・・・

そして自分が楯に成り末端の部下を逃がす。そんな社長、今いるか?

海蔵寺はそんな三浦道寸公と三浦義意公の菩提寺な訳だな。

御住職に挨拶し少し雑談を交えてから、供養の納経用の海蔵寺専用の奉書を頂き御寺を後にした。
海蔵寺がこれからも多くの人に大切にされますように。
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現在は主要部分が油壷マリンパークと成った新井城址に移動。
この駐車場の右手に三浦義意公の御廟所が現存する。
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墓石の写真を載せる訳に行かないので卒塔婆(ストゥーパ)の写真を。三浦道寸公が御父上で事実上の最後の当主なので、その名前が書かれているが駐車場近くのコチラの御廟所が三浦義意公の御廟。
近くのスーパーで買って来た仏花と、持参した少し高い御香を焚いて三浦義意公に久しぶりの訪問の御挨拶といつも御守護頂いている御礼を申し上げた。
そして少し下に移動・・・
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ここは下の海岸に出る道なのだが、恐らく戦国時代当時は海からの虎口で船倉へ繋がっていた場所だ。
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途中、少し解説の有る看板も有る。
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この道は見事に食い違いに成っている。
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風化しているが土塁の名残と思しき盛り上がりも有る。
そこを進むと海へと降りる分岐点に三浦道寸公の御廟所が有る。
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これだけ遠くから撮影したら道寸公も「無礼!」とは怒らず、「致し方なし、許す。」と言ってくれそうなので、遠くからの様子の写真を掲載します。
まぁ、命日なので小生は訪問し、尊敬する御二人にいつも御守護頂いている御礼と尊敬の念を伝えに御挨拶に今年も来た訳だ。
道寸公の人生も波乱に満ちていて、御本人は扇谷上杉家の出身で養祖父の三浦時高公に当初は認知されていたものの、三浦時高が老齢に至った頃に遅い実子が出来ると、道寸公と実父の三浦高求公は廃嫡され追放された。しかし、同僚の大森氏頼公や太田道灌公や今川家臣の北条早雲こと伊勢盛時公からは才覚を支持されていたので逆に新井城を奪取し三浦時高公を追放して三浦家の乗っ取り実家に帰る事に成功した幼いころから波乱に満ちた人生を歩んだ人物だ。
更に波乱が有り、主君であり弟の扇谷上杉定正公が事も有ろうに主家の古河公方家や敵の山内上杉家と同盟したり離反したり親友であり主家の軍師だった太田道灌公を暗殺してしまったりハチャメチャな事をしまくったせいで扇谷上杉家家臣同士でも方針が混乱し敵味方に分かれて争う事と成り、当初は三浦道寸公と協力者だった伊勢盛時公とも敵対関係に陥り、結果的に武運無く負けて滅亡したのが1516年07月11日だった訳だ。
小生は特に建勲神織田信長公と東照大権現徳川家康公、そして太田道灌公、三浦家と争った北条早雲公や北条氏綱公、その跡継ぎの北条氏康公と義兄弟の北条綱成公、その綱成公の家老の間宮家の殿様達、他にも数人の殿様を尊敬しほぼ毎日、菩提寺や関係した神社で頂いた御朱印を御分霊とし、心の中で礼拝している。
部下達に好かれ、部下の命を大切にして逃がした二人の殿様達。
本当の英雄とはそういう人なのだと思う御二人だ。
そんな道寸公と義意公の眠る新井城址は風景が美しい・・・
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砂浜に降りて歩いた。夕刻16時位だったろうか。
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実はこの砂浜の岸壁にも歴史史跡が有る。
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この四角に掘られた穴、千駄矢倉と呼ばれた8つの物資保存庫として戦国時代には機能していた。
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今ではそんな事を知る人は少なく、ただただ美しい海と、そこに有る民宿と海の家に遊びに来る客で休日は賑わう。
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小生の訪問日は水曜日で夕刻だったので海水浴客はいなく静かでともてよかった。CIMG4576
素敵な海の家なのだが、まだ食事に来た事が無い。いずれ甥っ子と姪っ子を連れて宿泊に来たいと思う。
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三浦半島も三浦海岸等、東京湾も横須賀市や横浜市に近い場所は海水がクソ汚いしアオサだらけだが、城ヶ島や荒井浜や秋谷海岸等の相模湾側まで来るととても綺麗だ。
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本当に綺麗なんだな。
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周辺には民宿や旅館も多いので、個人的に首都圏の人や県外からマイナーな宿泊地域を探したい人にはおススメの場所が三浦市三崎町界隈だ。
海辺を後にして駐車場に戻る途中、辛うじて残された土塁の一部と神奈川の景勝地50選の石碑の横をいつもどおり通る。
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北原白秋が不倫からの略奪婚していた時期に三崎町の城ヶ島の対岸、今の三崎漁港に住んでいたので、三浦市内には北原白秋関連の場所がいくつか有ったりする。
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まぁ、こんな感じに新井城址にも説明も有ったりする。
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東大の敷地の中には土塁と空堀が少し残っている。
帰り、三浦家の御家臣の御子孫と雑談をした。頂いたコーヒーを飲みながら今年も色々と話して「来年も又来るね~!」と御挨拶。地元で殿様に誇りを持って下さってる人と交流するのは楽しい。
知らない人とも共通の話題が有ると直ぐに打ち解けられるのが小生の自覚できる唯一の長所だろうか(笑)。
但し、その話題も歴史に限るので大分と門戸は狭いがニッチな人は何処に行っても探せばいるので、特に和尚様や神社の神職の皆さんに気に入って頂ける機会が多かったりする。学者と異なって小生の場合本気で神社仏閣に関わった殿様や御姫様を尊敬して郷土史読み込んでから訪問したり知らない事は正直に「教えて下さい」って御願いして回るからね。営業と一緒だわ。
三浦の人々と話し終え車に乗り込み、この日の宿泊地で最終目的地の佐島へ移動・・・

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実はずっと宿泊したくて距離が近くてしていなかったホテルが有ったのだが、それが当日最終目的地だった。
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佐島マリーナホテルだな。
小生の様な貧乏歴史オタクが一人で宿泊するにはオンシーズンだと高くて尻込みする綺麗なホテルなのだが、実は佐島マリーナホテルはオフシーズンの梅雨時には一人での宿泊でも12000円で泊まれるプランが有ったりする。それに小生は旅行サイトのポイントが2000円分有ったので、今回はなんと10000円での宿泊を予約出来たのだ!嬉しい!
いつもは近くの“海辺”と言う風景の綺麗な食堂に食事に来て周辺の海岸を散歩して終りだったのだが・・・
まぁ、家から車で30分ちょいだしね。
今回は思いっきって連休に成る様に休暇申請もして宿泊に来てみた。安いし!
このホテルは本当に眺望が素晴らしい。
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これもホテル内から見た風景。
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これは南向きの部屋から見た風景。
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普段はヨットで遊びに来る宿泊客が多い。
凄く大きいホテルではないが清潔感と落ち着いた雰囲気が漂っていてとても良い。
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ヨットハーバーのホテルだけあって船に関する装飾品が多い。
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何とも可愛らしい。
小さいが御土産物屋も有ったので、観光先で手荷物持たないでもここで買って発送出来る。
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まぁ服はアレだな要らない。
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部屋はここ数年間で宿泊したホテルの中で一番広かった。
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小生の中国の友人が某市内最高のホテルマンの認定をされて支配人に成っていた奴なのだが、ソイツの力でホテルに泊めて貰う時以来の広さ(笑)。
あと中国の姉ちゃんに等しい「姉ちゃん」と小生が呼ぶ人の力で泊まるホテルとか(笑)。
いずれにしても自分の力じゃない(笑)。

まぁ、普段は大正昭和チックな旅館が好きで、そんな場所にばっかり宿泊するか、ビジネスホテルに宿泊して食べ物に御金を費やしているので、当然まともなホテルに来たのが国内で久しぶりな訳だ。
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お腹が空いていたので夕食どうしようかなぁ~と館内のレストランを見に来た。
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値段は死ぬ程高くない。しかし低予算庶民の小生(笑)、葉山牛ハンバーグディナー3630円に目を付け、一考・・・
「今から三崎漁港に行っても良いし、葉山マリーナに行って食事しても良いし、秋谷のDONに言っても良いな~。」
「でも三崎漁港は週末に納経に又海蔵寺行く帰りに寄れるし。」
「佐島マリーナに来て葉山マリーナに行くとか薄情だし。」
・・・と言う訳で出掛けるのも面倒臭くなり、このホテルのレストランで食事する事に決定!
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店内の様子を撮影し忘れた。
海に面した素敵なレストランだが既に日没で真っ暗だったから店の様子を撮影するのは明日で良いや(笑)!と思ったのかな。
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食前にジンジャーエールフロートを頼む小生は御子様なのだろうか?
以前も書いたが小生は酒が基本的に嫌い。神社での神事の際に有難く御神酒を頂くか、県内外各地の梅の名産地で梅酒を購入してきて香りを楽しむ為に飲む位。
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前菜から三浦半島尽くし!全て三浦野菜らしい。地産地消を地で行く店。良いね。
アホなので野菜の名前は忘れた(笑)。
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ビシソワーズ美味しかった。
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そしてお待ちかねのハンバーグ!ホテルのハンバーグやっぱり美味しいなぁ~。
比較したら双方に失礼だが、横須賀どぶ板通りのアメリカンなハンバーガーも美味しいが、やはり同じハンバーグでもホテルメイドとアメリカンなハンバーガーではカテゴリーが違うんだな~と味わいながらしみじみ。
先日、鎌倉で葉山牛ステーキランチを予算不足で食べ損なったばかりなので「取り返したぜ!」と一人で満足感に浸る(笑)。
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美味しいパンは御替りし放題で、小生遠慮して頼まなかったらウェイターさんが何度も小生の食欲を察したのか(笑)御替り勧めて下さり御腹も十分に満たされた。
ハンバーグのソースすくって食べちゃった(笑)!
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デザートも可愛く美味しかったですよ~。
う~ん。彼女が出来たら宿泊に来たいな。きっと喜んでくれるんじゃないかと思う。
しかし、恐らくは甥っ子と姪っ子達を連れて来て宿泊し、隣の天神島の海で遊ぶ「オジちゃん」としての再訪に成るだろう(笑)。
この日は部屋でユックリ寝る心算がアホな小生は普段連休無いのでここぞとばかりに持ち込んだPCでブログを更新したり間宮家と宅間上杉家と蒔田吉良家と玉縄北条家の顕彰文草庵を書きまくったり、気が付いたら寝ずに朝に成っていた・・・
せっかく泊まったのに(笑)。
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翌朝、忘れずにレストランの写真を許可を貰って撮影!
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う~ん!綺麗だ。
オフシーズンの平日と言う事も有り宿泊客は小生の他に家族連れが数組30人位いたかなと言う感じだったと思う。
なので、ウェイターさんから質の高いサービスをフル提供して頂けて大満足。
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朝食はビュッフェだが、三浦野菜が食べ放題で有難い。
オムレツやスクランブルエッグは来てから調理してくれるので当然暖かい。
パンと御飯が有った。死ぬほど品数が多い訳じゃないが普段、野菜をコンビニの袋のサラダでしか毎日食べていない家で食事をする暇の無い可哀相な人(笑)なので暖かい食事に嬉しく思ってしまう。
ウェイターさん、そしてホテルの皆さん、落ち着いた良い時間を過ごす事が出来ました。
ありがとうございます!又、御世話に成ります!
朝食を食べ終わったのが9時位、チェックアウトのリミットが11時だったので、少し外を歩いてから部屋で仮眠して置こうと思い先ずは外出。
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ホテルのすぐ横の天神島臨海自然教育園を散歩。もはやホテルのプライベート遊歩道状態(笑)。
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ハマオモトこと浜木綿(はまゆう)が沢山咲いていた。
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う~ん、プチ南国に来た気分。
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暴風雨が数日前に在ったので、海には流木が多かったが、それでも綺麗な海の景色と浜風に癒される。
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ホテルが見える。本当に海に突き出してるんだな。
そう言えば佐島マリーンナホテルのアドレスも掲載して置こう。

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もう少し歩いてみようと思い、公園を一周して見る事にした。
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快晴!う~ん気持ちが良い。
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時期的に山百合もとても綺麗だった。昨年のこの時期は三崎漁港に宿泊し城ヶ島を朝に散歩してやはり山百合を見ていたかな?三浦は半島はどこも綺麗だが、特に秋谷海岸と佐島と城ヶ島が小生は好きだし、都会の他府県から友人が来ると連れて行く。みんな城ヶ島や三崎の鮪にはとても満足してくれるし、この佐島の風景や城ヶ島の風景も気に入ってくれる。
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因みに砂浜も有るが三浦半島は他地域より隆起の速度が速いので砂浜よりも傾斜のきつい岩礁が多く磯の風景を楽しめる。
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小生は由比ヶ浜と七里ヶ浜の砂浜、三浦海岸琴音浜の砂浜、観音崎の多々良浜も好きだが・・・
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この佐島の天神島臨海自然教育園の砂浜も好きだ。ここは貝殻で出来た砂浜なので比較的白い砂浜なんだな。
まぁ、海水浴には向かない。岩礁だから。でも子供に自然観察させる水生生物を見るには適しているし海水がとても綺麗なので足を浸して磯遊びするカップルも稀に見かける。
メジャーな汚い海に行くより二人の時間を楽しめて良い選択だろう。
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沖合には笠島が見える。
近くにはこの風景を見ながら食事が出来る和食の食堂“海辺”が在って、そちらにはしょっちゅう来ている。
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本当にロケーションが綺麗な店で、小生の御薦めの場所だ。
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料理も美味しい。
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特に金目鯛の煮つけと刺身のついた定食が御薦め!
海辺のアドレスも紹介して置こう。

浜辺を散策し終り、ホテルに戻る途中に天満宮が在る。
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だから佐島マリーナの手前は天神島と呼ばれる。
ここの氏子さんは福本一族だらけ!
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他にも三浦半島には石渡と言う苗字も有るが、この石渡一族は三浦半島東側東京湾側に多く、福本一族は西側相模が湾側に多い。佐島の近くには福本寺なんて寺院も有ったりする。
福本氏は近世~近現代では漁師一族だが、戦国時代の三崎衆で横浜市港南区永谷城主であり祖先が足利尊氏公の従兄弟で関東管領も務めた宅間上杉家の永谷城の居住部分と推測されている伊予殿根と呼ばれた地域からそう遠くない鎌倉街道側防衛拠点となる丘近くには福本家が住んでいる。恐らく横浜市港南区の福本家は上官の宅間上杉規富(のりとみ)公に与力として仕え、この佐島界隈から現在の横浜、昔の鎌倉郡永谷郷に移住して現代に至るのだろう。つまり、この佐島が港南区の福本氏の出自だと思われる。
更に福本家の前身は恐らくは鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛公の水軍の将だろう。近くの長坂の無量寺は和田義盛公の開いた御寺だし、隣の芦名地区は和田義盛公の御子孫で奥州の大名芦名家の発祥地であり、最近宅地造成された辺りは芦名城の推定城域だったりする。
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港町なので猫チャンにも会えた。また来るねぇ~♪
1日宿泊した筈なのにホテルで1時間仮眠をして(笑)からチェックアウトして、三浦市下宮田の行きつけの農園、石井農園の直売所のザ作兵衛に立ち寄ったが生憎休みだったので、違う店某直売所で西瓜を買ったが美味しくなかったので写真載せない。
ザ作兵衛は外れ無く絶対に甘いのに・・・
週末に納経で海蔵寺再訪の際にザ作兵衛での西瓜購入にリベンジするとこの日の夜に誓った。
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さて、帰り、御昼時も少し過ぎていたので横浜横須賀道路の横須賀PAで名物を食べて帰る事にした。
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横須賀海軍カレーパン
横須賀ビーフシチューパン
湘南名物のグレープフルーツ、湘南ゴールドのサイダー
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しかしアレだな、写真で改めて見るとシチューだかカレーだが見分けが付かん(笑)!
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多分こっちがカレー。
両方とも美味しいので、横須賀PA立ち寄る機会が有る人には是非お勧め!
この時に新商品の岡山白桃ソフトクリームを発見して「横須賀で何故に岡山?」と思ったが、週末に再訪する際に絶対に食べるとこれも決定!
う~ん!
佐島マリーナの御蔭で夏季繁忙期と家での仕事で12時間働き内職の某執筆等で連日最低14時間以上働きボロボロの心身も癒され、美味しい物も食べて、殿様にも命日にいつも守って下さる感謝の挨拶出来て、海蔵寺の御住職様とも三浦の御家臣の子孫とも御話で来て良い休日に成った!
ちなみに小生は三浦の殿様も尊敬し同様にライバル北条家の殿様達も尊敬している。
だから、民百姓の為に働いた英雄は英雄で敵も味方も大好きなんだな。これを小生は自分で日本神道に近い考え方だと思っている。

さて、次は週末に海蔵寺に納経し、天然記念物地形の諸磯隆起海岸の写真撮影と三崎漁港海南神社こと筌籠辯財天の例大祭を見学し、紀ノ代で美味しい鮪を食べた休日雑記を書くと思います!

では、又、次の記事で~!
皆さん、蒸し暑い日が続きますので夏バテしませんように~!
ちゃんと御飯食べて、水分補給して下さいね~。

あと、週末は横浜市長選挙です。
ちゃんと林文子市長の支持母体がどんな人達なのか、連投させて問題な支持勢力が背後にいないのか、何でカジノ作りたがってるのに公約に掲載していないのか理由を調べて選挙行って下さい・・・
以下記事参考までに。



平安時代末期~戦国時代まで続いた相模国の小大名、三浦家の聖地と江戸時代に庶民の信仰を集めた神社仏閣や弁財天を祀る洞穴が、ねつ造された嘘の歴史を流布するカルト信仰によって乗っ取られる危機に瀕しています!

以下の事を行って、史跡乗っ取りを阻止して頂きたく、歴史好きの皆さんに拡散致します!

Google mapで以下の●の地名の場所を検索して見て下さい。
( )内が正式名称
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
以上の場所が明治時代設立のカルトを踏襲した新興カルトに乗っ取られ、Google map上で●表記の施設名称に書き換えれたり、小生や仲間達で正しい歴史を警告するとレビューから削除されます。

実は最後の三浦家の頭領の三浦義意公と房総半島の真里谷武田家出身の側室をモデルにして明治時代に書かれた架空歴史小説「桜の御所」に登場する架空ヒロイン小桜姫をカルトを用いて実在したかの様に広めカルト組織がそれぞれの史跡や別の神仏の崇拝場所を乗っ取ろうとしています。
実在せず、時代設定もハチャメチャな話をさも実話の様に信者や歴史に無知な女性に「縁結びの神」と悪質な情報で勧誘しては自分達の宗教施設の様に事実上乗っ取りにかかっています。
独身女性の結婚願望に付けこみ信者を増やそうとしている訳です。
ソイツ等は❝神奈川県神社庁や菩提寺、菩提寺宗派の曹洞宗とは全く無関係❞の新興宗教系統のカルトです。にもかからず、さも自分達の宗教施設の様に佐原三浦家関係の宗教施設へ、縁結び願望の有る女性達を連れまわしては歴史事実と異なる解説をして信じ込ませています。
このせいで、佐原三浦家最後の武将、三浦道寸公と三浦義意公の菩提寺の三浦氏三崎町小網代に在る海蔵寺は一般参詣不許可の対応をせざるを得ない状況に追い込まれています。

そこで以下のお願いです。
①下記3ヶ所をGoogle mapで検索して、小生達の歴史解説レビューに「」を押して頂けませんか?
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
②出来れば「情報の修正を提案」から小生が( )に示した正しい名前に戻すように名前を提案して下さい。
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
③可能ならばレビューに三浦家の歴史書に小桜姫の名前は登場しない事、三浦義意公の妻は真里谷武田家の姫である事、桜の御所の時代設定で架空人物の小桜姫の実家とされる金沢北条家は戦国時代の三浦義意公の佐原三浦家滅亡より200年も前に滅亡した事実、この三点をレビューに書いて頂ければ幸いです。

目的としては、縁結び目的の独身女性達がカルトに入信するのを防ぎ且つ正しい神社の名前と仏教施設としての名前をGoogle mapで取り戻し、史実を周知して頂いた上で女性の皆さんには縁結び祈願に安心して自分で来て頂ける様にする為の対抗策です。
ひいては三浦半島の観光が小説桜の御所の舞台として、そして源頼朝公や三浦家所縁の観光地として正しい形で活性化するのが最終的な目的でもあります。

無論、皆さんのお手を煩わせたく無いので出来る範囲の協力、又は拡散で結構です。

すみませんが、拡散協力願います。

三浦家について詳しい歴史は以下に纏め解説してあります。
http://yoshi-kanagawa.blog.jp/archives/64025466.html
上記URLの解説を参考にして頂ければ幸いです。

仮にカルトを利用してでも観光振興の為にやっているのならば、カルトを巻き込むのは三浦ブランドを落とすマイナス効果しか生まず、周辺自治体にも迷惑をかける行為に成ります。
三浦半島には元々源氏と平家の三浦家所縁の豊富な史跡群に加え、近代の要塞や、アメリカ文化の観光地、そして問題の三崎周辺は風光明媚な夏の観光地や冬のミカン狩りや鮪や松輪鯖や三浦大根のブランドが元々有名な場所です。もっと真っ当な宣伝をして城ヶ島や三崎をアピールして欲しいと願うばかりです。
三浦家滅亡の新井城址は日本最長の4年間に及ぶ籠城戦が展開された名城として歴史好きには有名な場所です。カルトが小桜姫の祠と名を変えて宗教活動に利用している場所も江戸時代に遭難した漁民を助けた強い御利益の在る弁財天様として庶民から崇敬された場所です。
諸磯神明社も天照大神を祀る大切な神社ですし、三浦義意公の奥方が北条勢に捉えられたと伝承する諸磯神明社摂社の若宮社も、鶴岡八幡宮の誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇=八幡大菩薩)の御分霊以外に何者でもありません。神道の信者にとってとても大切な神様達の御社です。
そこをカルトで汚さないで下さい。

三浦には沢山の景勝地と近代公園や自然公園、そして史跡とヤマトタケル神話や三浦家歴史の舞台の神社やと寺も有ります・・・
三浦海岸(海水浴場)
三浦市下浦町~三崎町周辺(西瓜と三浦大根の名産地、冬季はミカン狩り、初春は苺狩り)
江奈漁港(高級ブランド鯖の松輪鯖の漁港)
剣崎灯台周辺(神奈川の景勝50選)
盗人狩り(神奈川の景勝50選)
城ヶ島大橋と城ヶ島の景勝(神奈川の景勝50選)
城ヶ島のホテルや旅館(海に面したホテル、旅館、ペンション多数)
城ヶ島公園(景勝地、自然公園)
城ヶ島灯台(景勝地)
城ヶ島長津呂崎(景勝地)
城ヶ島北原白秋記念館(北原白秋三崎在住時代の解説展示館)
三崎漁港(鮪の水揚げ漁港、昔からの名産地)
三崎銀座商店街(鮪料理専門店が並ぶ商店街)
三浦映画社(三浦半島に映画ロケとドラマを誘致するNPO、過去ロケの作品の紹介場所)
三崎城址(北条氏規公居城)
本瑞寺(源頼朝公別荘跡、後に入舩地区に三浦義意公が開基し江戸時代に現在地に移転た寺院)
油壷湾(神奈川の景勝50選:昭和の映画スターのヨット遊び場)
油壷マリンパーク(皇太子殿下と雅子妃殿下始め皇族の方々のデート場所)
新井城址(佐原三浦家終焉の城)
荒井浜(流鏑馬神事が行われる)
海蔵寺(三浦道寸公開基の寺院、三浦道寸と三浦義意公の菩提寺)
小網代の森(原生林の遊歩道)
荒崎海岸(神奈川の景勝50選)
諸磯隆起海岸(フィリピン海プレートと太平洋プレートの衝突による隆起地形観察公園)
葉山マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場、商業施設)
大楠山(神奈川の景勝50選)
森戸神社(源頼朝公勧進の三島大社御分霊)
名島(源頼朝公別荘跡の水没した島)
森戸の夕照(神奈川の景勝50選:森戸神社から名島を見た夕景)
鐙摺城址(三浦義澄公拠点)
鐙摺城址出丸旗立山(伊東祐親公御廟所)
秋谷の立石(神奈川の景勝50選)
秋谷海岸(景勝地)
長者ヶ崎(神奈川の景勝50選)
佐島マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場、リゾートホテルとレストラン)
天神島臨海自然教育園(自然観察公園、佐島マリーナ横)
関口牧場(酪農家、アイスクリーム製造直売)
ソレイユの丘(BBQ等の複合レジャー施設)
披露山公園(神奈川の景勝50選)
住吉城址(平安時代末期三浦義澄公が籠城し、戦国時代に北条早雲公が籠城した城址)
逗子海岸(昔は明治の侯爵達の遊び場、昭和期は太陽族、今はチャラ男にチャラ女の聖地)
逗子マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場)
逗子市郷土資料館(徳川家別荘)
衣笠城址(平安~鎌倉時代の三浦本家の居城)
大善寺(衣笠城址に在る、鎌倉時代の三浦本家の学問所だった寺院)
満昌寺(源頼朝公が鎌倉幕府設立の立役者の三浦義明公供養に開基した寺院)
清雲寺(佐原三浦家の鎌倉時代~室町時代初期の菩提寺)
怒田城址(和田義盛公の平安時代の居城)
佐原城址(源義経の鵯越の逆落としの作戦を立案した佐原義連公の居城)
田浦梅林(今上天皇生誕記念に植林された4000本超の梅林の公園)
塚山公園(神奈川の景勝50選)
塚山公園按針塚(徳川家康公外交顧問のウィリアムスアダムス=三浦按針公と奥方御廟所)
どぶ板商店街(アメリカ第7艦隊の将兵が遊ぶアメリカ文化の商店街)
戦艦三笠(世界三大旗艦の一つ、東郷平八郎元帥の乗艦)
三笠公園(戦艦三笠が展示された公園、猿島へ渡る船の桟橋)
猿島要塞(明治時代の要塞、日蓮聖人の史跡、縄文時代の遺跡)
信楽寺(坂本龍馬室お龍さん菩提寺、土肥実平公持仏を祀る寺)
走水海岸(日本武尊と弟橘姫の神話の舞台)
走水神社(日本武尊の冠を社殿地下石室に埋蔵した神話の神社)
御所ヶ崎砲台史跡(日本武尊と弟橘姫の仮御所が在った、明治期に神社を壊し砲台設置)
観音崎(神奈川の景勝50選、昭和の映画スター達のリゾート地)
観音崎要塞(明治時代の要塞史跡)
観音崎灯台周辺(今上天皇と皇后様も訪問)
多々良浜(景勝地:貝殻で出来た真っ白な砂浜)
・・・等々、挙げればキリが無く・・・
どこも昭和のリゾート地として映画スター達に人気だった場所や現在の天皇陛下や明治の東郷元帥や三浦家と源頼朝公の大切にされた御寺や御城や別荘の跡、ばかりです。
もしも三浦市非公認のままの観光振興の心算なら、歴史歪曲は三浦ブランドを貶め神仏と歴史偉人を愚弄する行為です。
仮に嘘の歴史を教えられて小桜姫は実在しなかった小説の架空の人物である事を知らず、モデルが真里谷武田家の姫だと知らずに信仰してしまったなら、これからは真里谷武田家の姫様として、小説桜の御所のロケ地として三浦義意公と奥方の真里谷武田家の姫に縁結びを御願いしてみて下さい。

前回の記事が7月30日の休日雑記なので前後してしまうけれど、7月16日の休日雑記も兼ねた❝三崎漁港❞の❝海南神社❞の例大祭を紹介したい。

2016年07月11日が尊敬する三浦義意公の太陽暦での命日だったので連休を取り菩提寺への御参りと御廟所への献花をするがてら横須賀~観音崎~三崎~城ケ島~油壷~諸磯~三浦海岸を旅行した。
…横浜に住んでいるので車で45分程度の距離、本来は宿泊する必要も無いのだけれども三浦半島をたまにはユックリ旅して見ようと思った訳だ。
その時に、宿泊先の給仕係のオバちゃんと三崎城址のローカル知識を御教授下さった三浦市の教育委員会の方に、「週末16日に行われる海南神社の例大祭がとっても賑やかだから是非、見学に来られては如何か?」と観光の御推薦を受けていたので「是非にも!」と約束をした事を守る為にも、美味しい物を食べる為にも御祭りを見学する事にした。
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真ん中で鉾(ほこ)を持ち、天狗面で左右に部下を従えて立っているのが猿田彦(さるたひこ)を演じる氏子サン。
猿田彦は天照大神系の武御雷(たけみかずち)神等、敵方の軍勢を先導し出雲神族の神域への侵攻させた❝出雲系の神様❞で神楽等を司(つかさど)っていた。
だから祭りの先頭にたっているんだろう…

この日の祭りは12時から海南神社で神事がスタートすると三浦市役所の方に聞いていたので家を10時に出て、御寺で写経をして11時に横浜を出発したのだが、生憎(あいにく)と夏季の三浦半島の観光地はどこも繁忙期で高速道路も一般道路も全て渋滞…
三崎漁港の海南神社に到着したのは12時半頃だったが、まだ海南神社の境内では神輿の担ぎ手が気勢を発し大声を上げて町内の人々や観光客で盛り上がっていた。
どうやら三崎町の町内各地区に何基も神輿や山車が有るらしく、地区毎に順番に海南神社で出発の儀式をやるらしい…
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だから商店街にも待機している山車が沢山いたんだね…
先に出発した神輿も見かけたので「もう神社の御祭りは終わったのか?」と勘違い。
だってね…
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お好み焼きの屋台も、❝ちんちん❞焼き(笑)の屋台も観光客が全くいない!
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海南神社に向かう途中は焦って小走りに成ってしまった。
因(ちな)みに❝ちんちん焼き❞なんてハマっ子の小生も三崎町でしか見た事が無い(笑)。
なんか卑猥(笑)な名前だが、オノマトペで「ちんちんに熱い」とか言う熱さを表現する言葉が恐らく名の由来だろう。
しかし、そんな懸念は何のその、到着した海南神社は参道は人出溢れかえり、寧ろなかなか境内に入れない程だった。
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ものすっごい活気!
新興住宅地だれけの横浜市内では廃れてしまった昔ながらの御祭りの活気!
そして漁師町=三浦水軍=北条水軍の町だけあって、参加者の町民がワイルドな人が多い(笑)。
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担ぎ手たちが神輿を持ち上げ激しくゆする度に観客達から「オオぉ~っ‼」と言うどよめきと歓声と拍手が巻き起こる。
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海南神社は狭くはない境内、寧ろ中の上位の敷地が有る。この時は境内に神輿が3基残っていて氏子と参拝客と観光客でゴッチャゴチャ(笑)で狭く感じる程だった。
しかしながら、この様な活気有る御祭りは横浜に現存しないので非常に羨ましい。
実は❝ちんちん焼き(笑)❞の強烈な名前を見て思い出したのだが、多分、小生は過去に数回、この海南神社の例大祭を偶然見ていた。
この神社を支援した鎌倉時代の水軍大将で三浦家当主の三浦義澄公に引き寄せて頂いたんだなぁ~としみじみと思う。
病気で辛かった時期に、本当に三浦半島の海に癒されて回復する事が出来たのも御縁なのだろう。まぁ、当時の彼女さんの存在も有ったのだけれど、三浦家の殿様達にも、昔の彼女にも、三浦の風景にも、三浦の海にも、親切な三浦の人々に感謝しかない。
さて、海南神社はこの例大祭の外にも源頼朝公由来の❝チャッキラコ❞と言う神事が有る。2014-01-15-13-52-26
ユネスコに❝世界無形文化遺産❞に指定されている、町の御祭りだ。
※チャッキラコを紹介した以前の記事は「ココ」←クリック!
頼朝公の宿泊する各季節ごとの異なる別荘が三崎町内にいくつか在ったので、この様な頼朝公所縁(ゆかり)の祭りが伝承しているのだ。
因みに、三崎漁港だけでも❝桜の御所❞と❝椿の御所❞が嘗(かつ)て存在した。頼朝公もこの地の風景と人と食事が好きだったのだろう。同地は源頼家公や源実朝公も滞在されたそうだ。
現在では鮪の水揚げが海外勢に押され気味で江戸時代~昭和初期の活気は無いが、平安時代末期~戦国時代の鎌倉文化と水軍の町の色が現在も多く残る土地でもある訳だ。
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町の中にも幾つも山車や神輿が繰り出すので、次第に普段は過疎に成りつつある三崎漁港が全盛期の活気を取り戻していく…
その様にも感慨深いものが有る。

海南神社の夏季例大祭の賑やかさは伝わったと思う。

ここからを休日雑記代わりの07月16日の日記部分としよう。
御神輿に随伴しながら賑やかな御祭りをひとしきり見て満足したら、大好きな三崎漁港の商店街をプラプラ散歩、つい4日前にも、この三崎に宿泊した直後だけど飽きない。三崎漁港は良い…
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昭和の雰囲気を残す建物が多く有る。写真館とか蔵屋敷とか…
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駄菓子屋さんとか…
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玩具店も…
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懐かしい昭和のオモチャ屋さんぽい感じ。
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この町で育ったら、根性ねじ曲がった人間には成らなそうだ。何だか町全体で子育てしてるような人々の繋がりを感じる。
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三崎町は映画ドラマの撮影にも協力していてNPO法人❝三浦映画舎❞なんて団体がいて、休日だと上の写真の展示館で撮影された作品の撮影中の写真や芸能人のサイン等が展示されている。
仰げば尊し
現在放送中のドラマ❝仰げば尊し❞の撮影にも関与している様で、三浦半島の風景がドラマ中に多く登場する。
その事は最近、ブログで紹介したので御興味有れば見て貰うと、ロケ地が書いて有る。
】←ココをクリックで記事にリンク!

一しきり散歩して御腹が空いて来た所で、昼食をとる事にした。
昼食は城ヶ島でとると決めていた。
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前回、城ヶ島を散歩した際に気に成っていた上の写真、旅館の港屋さんが提供しているヤドカリの味噌汁。
これを食べて見たくて車に乗り移動…
港屋に行く前に北原白秋の歌碑と、記念館を見に行った。
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余り知られていないのだが城ヶ島にも砂浜が有って、そこに白秋記念館も在る。
行くには上の写真の石碑の建つ遊歩道を歩いて行くと良い。
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そこを抜けると城ヶ島大橋の橋脚の下の砂浜に出る。
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北原白秋は東京で隣家の奥方と不倫の後、その奥方の離婚成立を待って略奪愛の末に結ばれて、世間の批判から逃れる様に静かな三浦半島の最南端の三崎に新居を構えたそうだ。
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白秋記念館の職員の方に教えて頂いたのだが…
その時に作詞した歌❝城ヶ島の雨❞の歌詞の舞台がこの島なのだが、当時、姦通罪に問われたり父弟が商売に失敗したり暗い時期の作品なので歌詞も暗い描写に成ったそうだ。
…因(ちな)みに、その不倫の末、結婚した女性は松下俊子さんと言うのだが、1910~1914年の僅(わず)かな期間で結婚生活は終了したそうだ。

北原白秋関連の場所の見学を終えて、港屋に移動。
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港屋は眼前に磯が広がる。露天風呂も有り、親子連れが宿泊すれば良い夏休みを過ごせるだろう。上の写真は港屋の庭からの眺望。
しかし小生の目的はヤドカリ…
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でこれが、シラス丼とヤドカリ。
食べてみたら出汁が美味しかったが、ヤドカリはグロテスク過ぎて箸を付けれなかった(笑)。
シラス丼はただシラスを載せただけでなく、御飯に紫蘇の香りがして、とても美味しかった。
周りの客層は熟年夫婦~若いカップル、友達同士と見える連れ等、幅広い年齢層の御客さんで賑わっていた。
前回、この旅館に興味を持った時は平日の昼間に散歩に来たので余り活気は無かったが、この日は土曜日だったので非常に多くの観光客で賑わっていた。
どうも京浜急行電鉄と城ケ島・三崎町がタイアップしているらしく、その観光客が多いようだ。
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だからかは不明だが、多くの芸能人も宿泊しているようだ。
まぁ~これだけ眺望の良い旅館で新鮮な地魚料理を食べれるなら人気あるのも納得。
…いつか泊まりに来よう。

さて…
城ヶ島散歩と腹ごしらえも済み、小網代地区は移動する事にした。
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城ヶ島からは車で20分位だろうか?
小網代には戦国時代最後の三浦家当主である三浦道寸公が開基した海蔵寺と言う御寺が在るのだが、前回の訪問時が丁度、新井城落城から500年、三浦道寸公と三浦義意公の500回忌に当たり、御住職に納経を依頼されていたので約束を果たしに写経した般若心経を持参した次第だ。
小生の遠い遠い祖先は古事記にも登場する、国造で、嫡流の御子孫は大宮司家だったりするのだが、小生は延喜式神名張を編纂させ古代の信仰と文化を守ろうとなされた醍醐天皇の時代の価値観を大切にしているので宗教観的には平安時代の人々や鎌倉武士達と同じ神仏両方とも等しく大切に思っているので、神社も御寺も大好きだったりする。
それとは別に文化的な物が大好きなのでキリスト教の教会の荘厳さも又別格に好きだったりイスラム教のモスクも素敵だと思うし、キリスト教の慈愛の精神とイスラム教の友愛と互助の精神も大好きだったりする。
寧(むし)ろ無宗教の連中が嫌い…
宗教を下に見て先人への敬意も払わず文化と史跡を破壊して回るマルクス主義者とかね。
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海蔵寺は一般参拝不可、飛地の境内地の三浦道寸公・義意公の御廟所への立ち入りも一般は不可なのだが、小生は御住職に三浦家や先人に対するリスペクトと宗教的にも神仏を大切にしている事を認知して頂けたので、御寺への参詣と御廟所への参拝の自由の御許可を頂いている。
今回、尊敬する三浦家最後の殿様の御二人500周年に納経の機会を与えて頂いた事は非常に光栄だった。
どうやら、小生の納経した写経は他に依頼した32人の方の分と共に、経塚に入れられ名前が塚に残るそうだ。
これで殿様が三浦の民に愛された歴史が後世に伝わって行けば良いなぁ~と願いを込めて奉納した。
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小生は佐原三浦家と最期に敵対した北条家の善政も尊敬し、北条早雲公・北条氏綱公・北条氏康公と玉縄北条家の北条綱成公もリスペクトしている。そして北条家と対立した扇谷上杉家の中で最後の鎌倉公方に忠義を尽くした武士の鑑とも言える上杉氏定公、扇谷上杉家の家臣で北条早雲公と三浦道寸公の両方とも盟友だった名軍師の太田道灌公も尊敬している。
なので、写経の為書は三浦家の殿様の供養祈願と共に関わった方々の供養祈願ともさせて頂いた。
この様な敵味方問わずリスペクトするのが本来の神道の寛容な価値観でもあり、柔和で静かな哲学を基本とする仏教との親和性でもある訳だが、それこそ日本人の習俗の源だと思っている。
…良く遊び、最後に尊敬する方々へ日本の発展の一端を担って下さった事に対する感謝も感じた有意義な一日に成った。

帰路は横浜横須賀自動車道で帰るのだが、三浦縦貫道路を通らず、一般道から横横に移動した。
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目的は行きつけの農家、石井農園の直売所❝ザ・作兵衛❞に作兵衛ブランドの西瓜を買いに行く為(ため)だ。
ここの西瓜は独自の❝作兵衛ブランド❞で売っているのだが、本当に美味しい!
ここで夏は西瓜や瓜、秋~冬は大根や蜜柑、初春にキャベツを買いに来る様に成って、もう10年位に成ると思う。
毎年何回も買いに来る。近所に横浜南部市場や小柴ファームと言う産直の販売所が有っても、作兵衛には絶対に季節の果実と野菜を買いに来る。この石井農園が好きなんだな~。
今年は看板娘の御婆ちゃんは骨折して治療中、残念ながら会えなかった。無事に治ります様に…
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今年は家族様に普通のサイズを1つと、自分用(笑)に小玉西瓜を購入。
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中にスが入ってるから安くすると言われた通り割れていたがギッシリ実がつまっていて、しかも今年は特に良く出来ていて甘い!
てな訳で、八月中に又買いに行く事にした。
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三浦からの帰路、最早、恒例に成っている横須賀PAに立ち寄りって買い食い。
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湘南ゴールドと言う湘南地方で生産されているグレープフルーツのフレーバーのアイス。
悪くなかった。てか、なかなか美味しい。

ふむ、歩いて知識詰め込んで感謝して充実した良い休日を過ごせた。



小桜姫は明治時代の小説のヒロインであり歴史上実在しない架空の人物です!
それを利用した悪質なカルト宗教の独身女性の縁結び願望につけ入った宗教勧誘旅行が三浦半島で横行しています!


縁結びを三浦義意公と奥方様の御霊(ごりょう)に御願いするなら御二人に対する正しい歴史認識をここで学んで、カルトに騙されないで済む様に備えて下さい!
ここで正しい歴史と三浦家の聖地一覧を見て置けば、カルトと偽霊能者が如何に歴史的教養が無く嘘ばっかり吐いているかが解ります。

そして、どうすれば縁結びの強い御利益をより得られるか、嘘と本当を見分けて参考に成り良い彼氏さん旦那さんに巡り合える切っ掛けの縁結び祈願が出来るでしょう!
しかし、ちゃんと注意事項と解説も読まない人が、いくら異性との出会いを御願いしても無駄でしょうし、カルトに騙され続けて宗教に入信させられて終り自分で人生を台無しにして終わるでしょう。
※注意事項※
史跡と縁結びの神社の内、直接、小桜姫や三浦義意公に関係の有る場所は【紫色の字】で場所の名前を表示します。

小桜姫様への縁結びの礼儀
縁結びで願掛けをしたいのならば、ちゃんと御寺の場合は❝供養祈願の納経❞する為(ため)の写経した般若心経と御賽銭を、神社の場合は御賽銭を準備して置いて下さい。
まさか、神様にお願いするのに「クレクレ」言うだけで奉仕する心が無いなんて事無いですよね?


歴史事実と自称霊能者が広めた話しと異なる小桜姫神社の差異の解説
小桜姫について
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明治時代に村井弦斎と言う作家が❝都新聞=現在の東京新聞❞に連続架空時代劇小説として掲載した❝桜の御所❞と言う名前の小説架空の人物が小桜姫です。
架空のヒロインだが、小説内で夫とされている三浦義意公の実在の妻と側室の真里谷武田家の姫をモデルにして小桜姫を創作した可能性は否定出来ない。
小説❝桜の御所❞出版以前に、全ての歴史遺物に❝小桜姫❞の人物名は登場しない。又、一般的に歴史上、名前の記録が残る女性は極少数。小桜姫に関しては完全に明治時代以降に登場する名前で創作と確認出来る。
先ず、小説では小桜姫は武蔵国久良岐郡(現:横浜市金沢区)金澤城主楽岩寺の姫とされるが、この時点で創作の人物である事を明言できる。
先ず、金澤城と言うのは現在の金沢文庫駅近く、金沢文庫の地名の由来に成った金沢山稱名寺を取り巻く山に在った鎌倉時代の城砦の事で有るが、この金澤城を要塞として活用したのは歴史上、後にも先にも鎌倉時代の金澤北条(かねさわほうじょう)家のみである。
ところが小桜姫は楽岩寺家と設定されているので金沢城主たりえる事は全く不可能。
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※写真は稱名寺裏の金沢城址、稲荷山からの眺望。
戦国時代に金沢を所領にしたのは小田原北条家臣の伊丹家であり、更に周辺で水軍として勢力を誇っていたのは同じく北条家臣の間宮家や伊東家である。小説の金沢城主楽岩寺家の設定は❝これは完全にフィクションですよ❞と筆者から解り易いメッセージが込められている訳だ。にも関らず、歴史に無知だった偽霊能者はそれを本当と誤認して宗教活動を始めてしまった。
しかも金沢城を稱名寺の敷地に在った居館の詰め城にしていた金沢北条家は、三浦道寸公・三浦義意公の時代よりも約200年前に既に滅んだ家、架空の設定である事が解る様に小説にも書かれている。
当然ながら金沢北条家に“小桜姫”等と言う人物の記録は一行たりとも存在しない。金沢北条家が開いた東日本最大最古の私設図書館で現代の金沢文庫博物館の記録にも登場しない。つまり自称霊能者が媒介と成って小桜姫の言霊を著書にしているならば、その内容は“自称霊能者の虚言”か“自称霊能者が誤って別の自称小桜姫のキチガイ霊魂を召喚して偽称偽証”されられており頭も霊感も弱い三流霊媒師と言う証明に成ってしまう訳だ(笑)。
小桜姫を実在したかの様にデマを拡散する連中に止めをさそう。
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※写真は近世、赤坂と呼ばれた地域から同じく古くは東青野台と呼ばれた能見堂へ繋がる険阻な丘。
そもそも金沢北条家の金沢城は邸宅の詰めの城でしかなく、完全な軍事拠点は青ヶ台(あおがだい)城だった。青ヶ台城は横浜市が発掘調査も保護もせず全容が解らないまま消滅したが、場所は江戸時代まで青野台と呼ばれた能見堂址~東横レジデンス~釜利谷高校一帯の険阻な崖地の上の丘陵と解っている。
金沢城の話から実家とされた楽岩寺家の話に解説を移す・・・
決定的にフィクションと解るのが小桜姫の実家の武蔵国金沢城主楽岩寺家の設定で、楽岩寺家と言うのは武蔵国久良岐郡(横浜市中区~南区~磯子区~港南区~金沢区)に歴史的に存在しない武家である。楽岩寺家自体の姓も存在しない。但(ただ)し武田家と戦った信州の武将に楽巌寺一族はいるが、あくまで信濃国(しなのこく=現:長野県)の武将である。
小桜姫のモデルは実在した三浦義意公の側室で真里谷武田家出身の姫だろう。しかし真里谷武田家は房総の小大名、親戚の武田家とも支配地が違う上に決定的に楽巌寺家は武田家の敵対者だった訳だ。
仮に甲斐武田家の話に置き換えても、楽巌寺家が武田家従うのは武田信玄の時代の弘治年間(1550年代)の話で、当時既に小説で小桜姫の夫と設定された三浦義意公の治めた佐原三浦家は存在していない。
佐原三浦家は永正十三年(1516年)の07月11日新井城(現:油壷マリンパーク敷地周辺一帯)落城と共に滅亡している。史実だとしたら矛盾だらけな訳だ。
つまり、仮に小説の楽岩寺家の小桜姫のモデル人物が実在した千葉県の真里谷武田家の設定を甲斐武田家に置き換えたとしても、楽巌寺家の武田家従属より40年も前に三浦義意公の佐原三浦家は滅んでいるので❝桜の御所❞の著者の村井弦斎から「小桜姫はフィクションの人物設定ですよ~」と少し歴史を知っていれ解るメッセージがふんだんに盛り込まれている架空歴史ファンタジー小説な訳だ。
これを事実誤認した霊能者は、悪意が有ってやってなければ歴史知識が足りないまま嘘を吐いてしまって引っ込みつかないだけか、相当霊能力が乏しいのだろう(笑)。
更に止(とど)めを刺すと、久良岐郡の間宮家の一族で安土桃山時代の武将の間宮信高公は三浦半島の長坂(現:横須賀市長坂)に所領を持ち、実は小桜姫のモデルの人物の実家の真里谷武田家の御子孫、真里谷武田直信公の舅に当たる人物だ。
徳川家の水軍大将として活躍した人物で娘が真里谷武田家に嫁いだのだが、この間宮家の家系図にも歴史書にも一切、小桜姫の名は登場しない。
そして真里谷武田家は小説の仮名で小桜姫のモデル成った真里谷城主の武田家の姫の兄、真里谷武田信隆公の子である真里谷武田信政公と思われる“武田殿”が北条家から久良岐郡六浦木曽分127貫を与えられ北条家臣化し江戸時代にも徳川幕府に仕え愛甲郡に僅(わず)かな領地を貰い存続している事が確認出来る。
その真里谷武田信隆公の子孫は以下の様な系図に成るのだが・・・

【真里谷武田 信保】※上総国真里谷城主、法名“恕鑑(じょかん)”。三河守(みかわのかみ)。
戦国時代(室町末期)の人。
三浦義意公の最初の妻の父親。天文三年(1534年)に亡くなっている。
一般的に真里谷城主の座を巡って兄弟間で内紛が起きたのは、この人物の代とされる。
諸長子(長男だが母が側室)であり嫡子(後継者指名を受けた人物)では無い。
真里谷武田一族の北条家への亡命は、既に佐原三浦家の滅亡した後で御子息の信隆公と信応公の兄弟が真里谷城主の座を争って信隆公が敗北した天文六年(1537年)頃の事なので、真里谷武田家と三浦半島の三浦義意公が合戦をする事は歴史的に有り得ない事実。そして、その時代には既に真里谷武田恕鑑公もこの世にいない。

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【真里谷武田 信隆】※金沢区移住初代。官途は丹波守(たんばのかみ)を称する。
戦国時代(室町末期)の人。千葉に在った真里谷城主。
三浦義意公の二番目の妻の父親、時代的にこの信隆公の姫が小桜姫のモデルだろう。
永正十三年(1516年)の佐原三浦家滅亡後、父の恕鑑と叔父の争いの後、1537年に信隆公の代でも実弟の信応(のぶまさ)公との争いが起きた。実弟の信応公が父とも争っていた叔父の真里谷武田信秋公に支援され、その二人との争いに敗れ北条家を頼り久良岐郡の六浦(金沢区)に亡命。

最初に北条家に亡命し現在の金沢区に六浦木曾分127貫文の所領を与えられたのは時代的に、この人物だろう。その後、信隆公は北条家の支援を得て上総国(千葉県中部)の真里谷城主に復帰している事から、六浦木曾分127貫文は当初は亡命時代の所領だったと考えられる。
三浦義意公が亡くなった年に北条早雲(伊勢盛時)公の援軍を得て城主の座を争い内戦を戦っているので、房総の三浦一族である正木家との縁も切れている様だ。信隆公の代で一度は北条家の支援を得て真里谷城主に復帰したが、衰退。御子息の信政公の代には、正木家を従える里見家に敗北して父の隠居料だった元の亡命先の金沢区六浦の所領に逃げ帰り信政公の代から土着したと考えられる。

  ↓
【真里谷武田 信政】※官途は三河守を称する。
戦国時代(室町末期)の人。
恐らく里見家に敗北して真里谷城から駆逐され、元は父の亡命先であった現在の金沢区六浦の所領に逃げて来て土着した人物だろう。真里谷城を落ち延びてからは北条家から父の信隆公が一時亡命していた金沢区六浦に土地を与えられ以後は北条家の家臣化したと考えられる。
間宮家の所領の杉田郷と金沢は隣接地なので、間宮家との交流は信政公の代から始まっているのだろう事も推測出来る。

  ↓
【真里谷武田 信次】※官途は信濃守(しなののかみ)を称する。
戦国時代(室町末期)の人。
系図上は室町幕府最後の15代将軍、足利義昭に仕えたと改竄が有るが、生きた時代の参考には成る。
江戸幕府による系図編纂の都合上、良く解らない世代の説明の為に広意義で主家の北条家が足利幕府家臣なので、足利義昭に仕えると書き加えらえたと考えられる。
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【真里谷武田 直信】※妻が間宮信高公の姫。官途は兵衛尉を称する。
安土桃山時代~江戸時代初期の人物。
系図上は室町幕府最後の15代将軍、足利義昭に仕えたと改竄が有るが、生きた時代の参考には成る。
間宮信高公の姫を妻に迎えている事からも、実際は間宮信高公と行動を共にしたと考えた方が自然なので、北条家→甲斐武田家→徳川家と転々とした筈だろう。間宮信高公が一時武田家に仕えた縁も、真里谷武田直信公と甲斐武田家が同族である血縁に因(よ)ると考えると自然。
  ↓
【真里谷武田 信正→改姓→間宮 信正】※間宮姓へ改姓した初代。助左衛門を称する。
江戸時代初期、徳川幕府二代将軍の徳川秀忠公に仕えた人物。
徳川家臣として愛甲郡に所領200石を得る。
俗名の助左衛門の左衛門は間宮家が代々継いだ官途名でもある。
  ↓
【間宮 信敏】※半左衛門を称する。
江戸時代初期、徳川幕府四代将軍の徳川家綱公に仕えた人物。
  ↓
【間宮 信輝】※この世代で家が滅亡。※権之助を称する。
江戸時代初期、徳川幕府四代将軍の徳川家綱公に仕えた人物。
15歳で亡くなってしまった為に子供がおらず、久良岐郡と縁の有った真里谷武田系間宮家は信輝公の代で断絶した。

・・・久良岐郡と縁の有った真里谷武田家の系図は御覧の通りだ。
信政公の子に当たる直信公に間宮信高公の姫君が嫁いで、武田直信公と間宮信高公姫の御夫妻の御子息が真里谷武田信正公に当たる。この真里谷武田家は信正公の代に母方の間宮姓に改めている。
この信正公の改姓は造酒之丞家が徳川幕府内に置いて水軍を任される重要な侍大将に成っていた事と、間宮本家の笹下間宮家が間宮康俊公の姫君の於久方(おひさのかた)が徳川家康公の側室に有り徳川縁戚として久良岐郡北部や佐渡国や但馬国や摂津国や駿河国で奉行を任された家柄だったので、江戸時代初期に成り真里谷武田家は北条家滅亡後に元々は隣町の御近所同士だった間宮家を頼ったと推測出来る。
例えば当時の佐渡奉行職は先祖代々の給料の領地とは別に3000両もの大金が支給されるので、当然、親族や没落したが有能な旧北条家臣の縁者を雇って救済する事が出来た訳だ。
江戸時代初期の貨幣価値を今の円に換算すると、大凡(おおよそ)、1両=12万円前後と言われてる。だから例えば間宮本家の江戸時代最初の当主で佐渡奉行、但馬奉行、本牧奉行を務めて間宮直元公の基本所得は1000石たが少し計算するとどれだけ収入が有ったか現代でも推測出来て・・・
【笹下間宮家の基本所得】
1000石 ×(1石=米150kg)×(現代の大体の米相場1kg=400円前後)=年収:6000万円
【間宮直元公の奉行職】
本牧奉行(横浜市磯子区、港南区、南区、中区の経営)・但馬奉行(但馬国内の生野銀山、金山の経営)・佐渡奉行(佐渡金山の経営) 奉行職×3
佐渡奉行給与は3000両の手当てが支給されていました。これを参考に但馬奉行職給与も3000両。
3000両×2=6000両 6000両×12万円=年収:7億2千万円
町奉行は1000俵の米の現物支給
1俵=60kg×400円=24,000円 24,000円×1000=年収:約8400万円

7億2000万円(鉱山奉行手当)+8400万円(本牧奉行手当)+6000万円(基本給)=8億6400万円
間宮家の本家、間宮直元公の年収だけで8億6400万円の収入が有った訳だ。しかも奉行職については自分の基本給から人を雇わなくても幕府が与力を配置してくれる、なので人件費は掛からない。そして奉行職として自らに付く与力させる人物を幕府に推薦する事も出来ただろう、何せ間宮直元公は伯母であり名将の間宮康俊公の娘の於久様が徳川家康公の側室に成り姫を生んでいたので事実上の外戚扱いだった訳だ。但し基本給の6000万円の方は、幕府指定の人数の家臣団を常時雇っていなくてはいけなかったので丸々年収に成った訳では無く、相当経営は苦しかった筈だ。
因みに1000石だと雇用しなければいけない人数は以下の通り・・・
鉄砲兵2人(鉄砲1丁約1000万円)+槍兵5人+弓兵1人、騎馬武者1人(馬1頭8~10両=120万円)
そして雑兵(農民)10人+物資輸送担当2人。合計21人+自分自身。
この人達を生涯雇用するだけでは無く当然子々孫々まで永久雇用する必要が有る上に、鉄砲のメンテナンス、数年に一度の馬の買い替え、安くても数十万円する鎧兜のメンテナンス或いはフルオーダーメイドで数百万円。
・・・年収が6000万円でも、そこから途轍もない人件費が消えて行く訳だ。
因みに戦国時代だと1000石では50人前後の兵隊を雇用して、侵略戦争を行う際でも30人程度連れて行き更に食糧費も掛かる訳だ。
戦国時代の間宮本家は単独で200人動員したそうなので、北条家臣時代の給与は動員兵士数の200人から計算すると・・・
間宮家総兵力200人÷(1万石=300人)=1万石の66%の動員数
1万石=米150万kg=年収6億円
6億円×66%=3億9千600万円
所得全体の3億9千600万円から戦国時代は200人雇わなきゃいけなかったので、北条家の玉縄衆黄備え隊の副将だった間宮家でも殆ど贅沢は出来なかっただろう。この玉縄衆黄備え隊と言うのは解り易く言うと神奈川県中央~東部エリアの統括みたいな組織で、間宮家はその副統括だった訳だ。副統括でも生活は楽じゃなかった。しかし、江戸時代は沢山の奉行職を兼務させてもらっていたので、それ等の人件費を補って余有る奉行職の年収が有った訳だ。
この他にも間宮家では戦国時代に分家した隣町の杉田領の江戸時代最初の当主である間宮信繁公も徳川家康公の家臣と成って徳川幕府初代鷹匠頭の奉行職に就いていた。

・・・だから真里谷武田家はじめ安土桃山時代に北条家滅亡で失職した多くの旧北条家臣の同僚を間宮家だけでかなり救済出来た事が解る。
実際に間宮家旧領の横浜市磯子区~港南区~中区~南区一帯には間宮家臣の他に多くの旧北条家臣団と蒔田吉良家臣団の臼居・岡本・金子・北見(喜多見)・苅部(かるべ)・森・佐々木・並木・野本それ等の旧家名士が平成の世に成っても存続している。

その様な経緯が有って、真里谷武田家も間宮家と婚姻関係を結び与力と成り間宮姓に改めた事が推測出来る。しかし、間宮造酒之丞家と関わりの有った真里谷武田家は御覧の通り江戸時代初期の話でなので、三浦義意公や房総半島から嫁入りした真里谷武田家の姫様の室町時代末期の世代とは全く以(もっ)て混同しようが無い時代の差が有る事が解る。

そして江戸時代の武将、旧姓が真里谷武田の間宮信正公の所領が愛甲郡(厚木市~愛甲郡愛川町~相模原市西部)に200石の小録で存在した歴史が有るので、明治時代に愛川町や相模原市でも小説“桜の御所”のロケ地に比定した観光誘致宣伝として地元の本来の民俗伝承に小桜姫伝説を当て嵌め聖地捏造したのが容易に推測出来る。尚、そちらでは小桜姫のモデルを大江家の姫としているそうだが、そうなると更に歴史矛盾が拡大する(笑)。

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※写真は愛甲郡愛川町の中津川の渓流風景。
小桜姫が大江の姫と言う方の解説を採用すると愛甲郡を大江家が治めた時代は鎌倉時代のごく短い期間であり、戦国時代の武将で扇谷上杉家の血筋の三浦義意公の存在を全否定するしかなくなる。根拠作りに困って、この説を持ち出した自称霊能者の判断は実に浅慮で無知だし事実確認が全くされていない。
そもそも関東では鎌倉時代に滅んだ大江家と、戦国時代の三浦道寸公とその御子息が合戦をする事自体が物理的に不可能(笑)!
そのカルトは三浦道寸公の子息を三浦義光と言っているそうだが三浦道寸公の御子息に義光の記録は無い・・・
まして三浦家の所領は三浦道寸公が生きた戦国時代当時に愛甲郡には無い。主家の扇谷上杉家の所領が愛甲郡南西部~伊勢原市北部にかけて存在したので、仮に三浦家が愛川町~津久井~相模原に攻め込めば主家に反逆する事に成る訳だ。歴史的に完全に間違ってる"設定"な訳だ。
仮に本当に霊能者が霊媒と成って、小桜姫を称する霊にソンナ事を言わされたのなら、その霊が
明治時代の小説ヒロイン小桜姫の名声を利用して自分を拝ませようとする“狡猾な詐欺師的な霊”だろう。
更に設定の甘さを追及すると三浦義光って名前を捏造する際、鎌倉時代の大江広元公の御子息で愛甲郡毛利台を所領にしていた毛利季“光”(すえみつ)公の名前と、戦国時代の三浦道寸公の御子息の三浦“義”意(よしおき)公の名前を安易に+して割ってるな。詐欺女悪霊か女霊能者のどちらが決めた設定か知らんが適当過ぎて本当に設定が甘い。
・・・そんな基礎知識も無いから霊媒たる霊能者も簡単に悪霊に騙されるんだろう(笑)。多分、学校で歴史の成績が悪かった人なんだろう。仮に人を騙す心算で小桜姫信仰を小説に乗っかって捏造したなら設定の甘さが馬鹿過ぎる。いずれにせよダメ。反省するべき。
霊能者も霊能者で、ソンナ詐欺女悪霊の正体を見破れないのは歴史知識が乏しい不見識さから来るのだから、早く反省して断家譜、寛政重修諸家譜、北条五代記、小田原衆所領役帳、新編相模風土記稿、新編武蔵風土記稿位は最低読んで勉強する事をお勧めする。それを読んで置けば二度と悪霊に騙される事も、或いは自分が詐欺師なら"設置をミスる(笑)"事も無いだろう。
まぁ~落としどころとして、当該の霊能者は、悪霊の嘘を見抜けない自分の霊感不足や歴史知識不足の不甲斐無さを認めるべきだな。
先ずはちゃんとした宗教指導者に成るべく、神様に興味が有るのなら、この説を流布してしまった霊媒師と霊能者の方は國學院大學か皇學館大学に入り神職の資格を取得される事をお勧めする。
仏教的な知識習得と修行をしたいのであれば、仏教系大学に行くべきだろう。
高野山大学、駒澤大学、大正大学、立正大学、身延山大学、龍谷大学なんかが御薦めだろう。或いは修験道の総本山である奈良の蔵王権現こと金峰山寺で学ぶのも良いだろう。
何(いず)れにせよ、当該の説を流布した霊媒たる霊能者はちゃんとした場所で修行し直し、ついでに歴史も勉強するべきだな。
そして、自称霊能者の本人が歴史知識も嘘を見抜く霊感も無いんだから、ちゃんとした古来の権威ある神道の神社や仏教宗派寺院で、ちゃんとした神社庁に属す宮司様や旧来の仏教宗派の和尚様に払ってもらうべきだろう。
幸い、当該地域周辺には本物の聖地の八菅神社や、大江家旧領愛甲郡小野に延喜式内社の“閑香大明神小野神社”や金徳山光明寺も在る。その神社仏閣で宮司様に払って頂き神様の力で詐欺女悪霊を封じ込めて貰うか、釈迦牟尼仏の力で和尚様に悪霊を供養して貰い閻魔様に送って貰うと良いだろう。
小桜姫と実在しなかった人物名を自称する悪霊を憑依させてしまった霊感不足、知識不足の霊能者にはアドバイスしフォローして置く。

余談だが大江家が愛甲郡の中で所領としたのは現代では毛利台と言われる土地で、大江家は戦国時代の大大名、毛利元就公の祖先に当たる。つまり安芸の広島城主で後の長州藩毛利家の殿様の祖先の故地は神奈川県厚木市毛利台一帯なのだが、それを知る人は現代では少ない。
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愛川町は県内最高の水質を誇る中津川が流れており、キャンプやBBQや鮎釣りの客で夏休みの時期には多くの観光客で賑わう。
仮に愛川町がしかけた聖地捏造ならば、こんな変な宣伝をしなくても素晴らしい観光資源や八菅神社と言う古来権力者に支援を受けた霊験あらたかな聖地も存在する。又、武田家と北条家の三増峠の大合戦を模した三増合戦祭りも毎年行われる。愛川町は歴史探訪で方々を旅している小生から見ても魅力的な観光地として推薦しフォローして置こう。

まぁ、三浦の小桜姫伝承とは関係なので愛川町と厚木市の話から、小桜姫の設定そのものに話を戻す。
何(いず)れにせよ、間宮家と真里谷武田家の血脈にも文献にも「小桜姫の名は1つも登場しない」ので、佐原三浦家、金沢北条家、楽巌寺家、真里谷武田家、間宮家関連の文書を調べ尽くしても小桜姫の名は明治時代に村井弦斎先生による創作されたヒロインの創作名であり伝承は小説に乗っかった観光客誘致目的での悪質な明治時代以降の創作と真里谷武田家の姫の伝承の混同と断言できる。
恐らく、悪意無く小桜姫の存在を歴史事実と誤認した連中の場合は歴史的な知識が乏しく小説が文語で書かれているので「あ~これは歴史書だ!」と思いこんだのだろう。
明治時代に桜の御所の出版で、小説のロケ地巡りとして三浦旅行が流行したので小説に乗っかった明治生まれのカルト宗教や聖地捏造した観光業の連中に騙されたり明治~昭和の歴史知識の乏しい人々が事実誤認した結果が招いたカルト流入と神社仏閣聖地の乗っ取り縁結び旅が今の三浦市の惨状な訳だ。

補足として三浦義意公は扇谷上杉家から三浦家を乗っ取った三浦義同(よしあつ)入道(にゅうどう=僧籍に入る事)道寸公の子で三浦の正当な血統とも言えないが人望と武勇は高かった。しかし、それ以上に父の三浦道寸公は北条早雲公のライバルとしても太田道灌公の親友としても有名な人物で名将だった。

間宮信高公の父君、間宮康俊公は歴史上の名将として有名で地理学者で幕府の御庭番を務めた間宮林蔵公、蘭方医学者の杉田玄白、東京大学の前身と成った江戸幕府官営の昌平坂学問所の頭取を務めた歴史学者地理学者の間宮士信公達の祖先のに当たる。
つまり東大前身の昌平坂学問所で頭取を務めた江戸時代の地理と歴史の大ボスの間宮家は小説で小桜姫と仮名された真里谷武田家の姫と遠い親戚同士であり、その間宮家が江戸幕府の命令で編纂した歴史書にも、後に老中の堀田家が編纂した家系譜にも、各都市の郷土資料にも、問題の時代の北条家の詳細な歴史書にも微塵も小桜姫の名前は登場しない訳だ。

では再び小桜姫の解説も戻ろう。
もう一度おさらいする・・・
モデルに成った人物は、どのような人物かと言うと御夫君の三浦義意(よしおき)公には、房総半島の小大名の真里谷武田家から来た正妻と側室がいた事実が有る。その姫様の内、側室だった方がモデルに成っていると推測出来る。
そして小桜姫の実家を楽巌寺家、或いは歴史的に最初で最後の金沢城主の金沢北条家と設定したのは、小説の舞台に成った時代に小桜姫のモデルに成ったであろう三浦義意公の実在の正妻と側室の生家である真里谷家が諸長子と嫡子の間で家督相続争いが起き、真里谷の姫の兄に当たる諸長子の真里谷武田信隆公が災難を逃れて北条家の支配する現在の横浜市金沢区金沢文庫辺りに亡命したきた事実が有る事を参考にし、同地の著名な鎌倉幕府重鎮だった金沢北条家の雅(みやび)なイメージをヒロインのイメージに取り込んだと思われる。
繰り返しに成るが、金沢北条家は佐原三浦家より約200年早く滅亡して同地に一族も生存していない。
久良岐郡(横浜市)の金沢城主も後にも先にも金沢北条家だけ。
楽岩寺家は戦国時代の小田原北条家の家臣に存在せず楽巌寺家は信濃国(長野県)の国人領主、よって三浦義意公の実在した正妻と側室の真里谷家の姫君がモデルなのは間違いない。
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※写真は小桜姫の実家として設定されている三浦義意公の時代より200年前に滅んだ❝金沢北条(かねさわほうじょう)家❞の邸宅跡、金沢文庫称名寺。江戸時代は真言宗の壇林として多くの学僧がここに学んだ。真言宗の別格本山の格式を持つ。
又、金沢文庫(かなざわぶんこ)の地名は金沢北条家の北条実時(さねとき)公が称名寺の隣の文庫ヶ谷(ぶんこがやつ)の谷戸(やと=谷間に木戸を設けた居住区)に開いた日本史上初の私設図書館❝金沢文庫(かねさわぶんこ)❞に由(よ)る。
小桜姫伝説を生んだ小説❝桜の御所❞のシナリオは、いくつかの異なった時代の三浦半島周辺の歴史を融合させて構成されていると考えられる。
房総半島の真里谷城主真里谷武田家から三浦半島の新井城主三浦荒次郎義意公に嫁がれた❝真里谷の姫の最後の悲話❞

三浦義意公の時代よりも❝約200年前に実在し鎌倉幕府滅亡と同時に既に滅亡した金沢北条家❞の高文化で風流な家柄のイメージ
そして…
義意公の没後に三浦家の一族が活躍した❝鶴岡八幡宮合戦❞と❝真里谷武田家の跡目争いの内紛❞の史実。
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※写真は鶴岡八幡宮合戦で里見家と三浦一族正木家の放火で一度は鎌倉の町とともに焼失した鶴岡八幡宮。北条氏綱公の差配の下、三浦道寸・三浦義意公の盟友だった蒔田吉良家や太田家、北条家の武将達、諸大名によって敵味方の垣根を超えて再建事業が行われた。
以上の解説の通り、複数の史話と地元伝承をモデルにして融合させ脚色した
と思われる創作小説に登場する架空の人物が現代の小桜姫のイメージで小桜姫伝説は史実では無いが郷土に伝わる真里谷の姫の最期が小説の名とすり替わり、小桜姫とされる様に成ったと推測出来る。しかし新井城や主人公三浦義意公、その約200年前の金沢北条家の存在が歴史上実在した為(ため)に明治時代に小説内の小桜姫の物語や実際の歴史伝承が歴史に疎(うと)い庶民や自称:霊能者に史実と誤解され、流行小説の舞台として観光客向けに明治時代に小説のロケ地と思われる場所が観光名所と成り、自称:小桜姫神社の舞台等が南関東に多数、登場した。
実際の小桜姫神社の舞台は真里谷家の姫の悲話の有る諸磯神明社の境内地と三浦家旧臣の御子孫と地元民も伝えている。
後世、歴史に疎(うと)い人間が、小桜姫の存在や小説ロケ地と自称する場所を歴史事実上の神社と誤認した後に、更に時代が下って平成に成ると、その人気小説の聖地巡礼の名残が更に事実誤認を生んで平成の自称霊能者が明治の自称霊能者の書いた本を鵜呑みにして戦国時代の昔から存続する実在の神社かの様な誤解を生んだのが、❝小桜姫伝説の真相❞です。
❝桜の御所❞執筆者が❝小桜姫を金沢北条家❞としたのは、時代の違う家をヒロインの実家にする事で架空小説であり歴史小説では無い事を明確に読者に理解させる意図が窺える。
にも拘(かかわ)らず、歴史に無学な一部の自称霊能者が事実と誤認して、平成に入ってから紹介してしまったので多くの縁結びを祈願する女性に誤解を与える事に成った。無教養と言うのは罪だと言う典型的な例が誤った小桜姫信仰だ。
しかし実在した三浦義意公の正妻と側室に真里谷武田家の姫がいたので、小桜姫を真里谷家の姫とするならば御利益は否定出来ない。
但(ただ)し、自称霊能者が小桜姫としているのは架空の戦国時代の金沢北条家の姫であって、真里谷家の姫では無い。仮に真里谷家の姫で有るならば、明治時代以前に小桜姫と言う名前は伝承していない。
更に自称霊能者やカルトや商業利用を目論む輩等によって小桜姫神社と誤って違う弁財天を祀る洞窟を紹介しているケースが有るので、本記事内で区別して指摘しておく。

小桜姫の名の由来について
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村井弦斎が小説❝桜の御所❞を執筆した場所が、現在の三浦市三崎町1丁目に所在する本瑞寺だった。
本瑞寺は平安末期~鎌倉時代に征夷大将軍の源頼朝公が桜の花見の為(ため)にに築いた別荘❝桜の御所❞跡地。往時は境内地と対岸の城ヶ島に多くの桜が植林されていたと伝承する。
本瑞寺は小説で小桜姫の夫に設定されている三浦義意(よしおき)公が、戦国時代初期に三崎町三崎漁港の入舩(いりふね)地区に開基した史実の有る御寺だが、江戸時代の三崎町の大火で享保4年(1719年)に現在地へ移転した。現在の本瑞寺境内にも観光客向けの歴史説明看板が有る。その義意公の事績と、源頼朝公時代の桜の御所のイメージが小説に盛り込まれた。

小桜姫の御主人、三浦義意公と佐原三浦家の歴史事実について
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※写真は三浦家の拠点の一つ住吉城址から見た相模湾の風景。
三浦義意(よしおき)公が継いだ佐原三浦家は、平安時代末期~鎌倉時代の有力武士の三浦家の分家に当たる家系で、鎌倉時代に本家が滅亡した後に佐原三浦家が名跡を継ぎ、室町時代に鎌倉公方の有力家臣として活躍した家。
但(ただ)し、三浦義意公の実父の三浦義同(よしあつ)入道(にゅうどう:僧籍に入る事)道寸(どうすん)公は、鎌倉公方の家老の扇谷(おおぎがやつ)上杉家から、佐原三浦家へ戦国時代初期に養子に入った人物。
関東に於(お)いて韮山城主の伊勢宗瑞(北条早雲)公、江戸城主の太田道灌公と並び称された名将が三浦道寸公だった。
佐原三浦家と伊勢(北条)家は、扇谷上杉家が山内上杉家と和議してしまった事によって伊勢(北条)家と古河公方家(こがくぼうけ=鎌倉公方足利持氏公の子孫)の外交的な問題で対立するまで扇谷上杉家と古河公方家を支えた盟友だった。
やがて古河公方家―山内上杉家連合の成立により孤立した伊勢(北条)家は独立し北条家を名乗り関東の領地の支配権の正当性を主張して大森藤頼を攻め小田原城を奪取する。すると三浦道寸公は実母が大森藤頼の実父大森氏頼の娘であり大森藤頼は義兄弟に当たる為に、三浦家はやむなく伊勢家と対立するしか無く成る。
ここに岡崎城に大森家を匿(かくま)った三浦家と、伊勢家の戦端が開かれ、以後、断続的に10年に及ぶ岡崎城の攻防が繰り広げられた。
その後、岡崎城が落城すると、瞬く間に北条家は藤沢市の扇谷上杉家の初期の居城だった大庭城、逗子市の三浦家の住吉城を攻め落として、新井城に迫り、新井城では名将三浦義意公の奮戦と指揮により日本最長の約4年間の籠城戦を展開した後に佐原三浦家は滅亡した。
しかし房総半島の佐原三浦家分家の正木家が戦国時代に小弓公方足利義明・里見義豊と結び逆襲し、三浦半島を一時取返し鎌倉まで攻め込んだ鶴岡八幡宮合戦を起こした。しかし里見義豊が源頼朝公以来の武家の八幡信仰の総本社格であった鶴岡八幡宮と鎌倉市街で放火の上乱暴狼藉を働いてしまった為に支配するに至らず、寧(むし)ろ北条氏綱による鶴岡八幡宮再建事業が行われるに至って北条家による相模国支配の正当性が確立されて、三浦家残党の正木家は三浦家の故地に復帰する機会を逸してしまった。
※横浜市磯子区域にも鎌倉以来の三浦家の一族である平子家(ひらこ/たいらこ)がいたが、小生は平子家も鶴岡八幡宮合戦で正木家に呼応して、後に北条家によって駆逐されたと推測している。

以下、小桜姫と三浦義意公、三浦家歴代の史跡、聖地の一覧


●二伝寺…神奈川県藤沢市渡内
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三浦家の全ての直系子孫の祖先、平良文(たいらのよしふみ)公と初期御子孫の菩提寺。
現在の二伝寺自体は北条氏時公(北条氏綱公御実弟)により開基され、浄土宗大本山、鎌倉光明寺の正空和尚が開山と成って造営された寺院。
それ以前の記録は残らないが藤沢市の蟠龍山宗賢院や伊勢原市の蟠龍山洞昌院公所寺の実例を踏まえると、同所に前身寺院や廃寺跡が有り再興開基した可能性は有る。
又、同所は、戦国時代に難攻不落を誇った玉縄城址の出城二伝寺砦でもあった。秀吉の小田原征伐による戦国大名の北条家滅亡後は徳川家臣、大河内松平家の菩提寺と成った。大河内松平家は日光街道に杉並木を植林した一族。

●村岡城址公園…神奈川県藤沢市村岡
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三浦家を含めた良文流坂東平氏系の武将の祖先、平良文(たいらのよしふみ)公の居城跡。
城址公園としては遺構は略(ほぼ)、児童公園化されてしまい存在しない。子孫に当たる明治時代の海軍の東郷平八郎の甥の東郷吉太郎海軍中将が揮毫(きごう=文章を直筆で代書する)した石碑が現存する。
平良文公の子孫には名将が多く、鎌倉幕府御家人や戦国時代の大名に成った家系も多い。
主だった子孫の家系と名将を挙げると…
太字は特に有名な人物
【三浦家一族】
三浦義次
三浦義明三浦義澄岡崎義実・真田義忠・和田義盛・朝比奈義秀・朝比奈泰朝佐原義連・平子有長・正木時茂芦名盛氏由比正雪
【鎌倉家一族】
鎌倉景正大庭景義大庭景親梶原景時梶原景季・俣野景久・長尾景春長尾景虎(上杉謙信)
【渋谷家一族】
渋谷重国・早川実重・東郷頼重・祁答院良重・入来院重嗣東郷平八郎
【中村家一族】

中村重平・土肥実平・小早川遠平(小早川隆景の家名上の祖先)・土屋宗遠(土屋昌続の家名上の祖先)
【秩父家一族】
畠山重忠・江戸重長・喜多見重政河越重頼(源義経の妻の実父)・葛西清重・豊島泰経・小山田信茂
【千葉家一族】
千葉常胤千葉胤富・臼居胤知・千葉周作(山南敬助・山岡鉄舟・清川八郎の剣術師匠)・千葉定吉(坂本龍馬の剣術師匠)
…等の何(いず)れも名将が多い。

●衣笠城址公園…神奈川県神奈川県横須賀市衣笠
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※写真は衣笠城址の本丸跡と伝わる辺り、右側に長い土塁の遺構と思われる風化した盛土が続く。
本家の三浦家歴代の居城。三浦本家が滅亡するまで三浦党の本拠地として機能したが、三浦家滅亡時に廃城と成った。
石橋山合戦での源頼朝公蜂起に呼応し、三浦党は和田義盛公を陸軍大将として三浦義澄公を水軍大将として援軍を送るも陸軍は敵の大庭景親居城大庭城を背後にして相模川を渡河出来ず石橋山合戦に間に合わず、水軍も酒匂川辺りで源頼朝公は敗退し海路を房総半島に逃走してしまった事を知った。更に北から畠山重忠公率いる伊勢平氏(平清盛)の大軍が迫って三浦勢は西と北東から挟撃されてしまう形に成った。それを知った三浦義澄公の水軍は鐙摺城(あぶずりじょう)に撤退、和田義盛公の陸軍は衣笠城に帰還。三浦勢と畠山勢が逗子市住吉城辺りで戦端が開かれたが寡勢(かぜい=少数)の三浦党は撤退し衣笠城に集結する。当時の長老、三浦義明公は88歳と高齢だったが一族を源頼朝公に合流させるべく水軍で房総半島に撤退させ、自(みずか)らは衣笠城に直属の手勢を率いて籠城し畠山軍を引き付け囮(おとり)に成り時間稼ぎをした後、玉砕した。この義明公の活躍により、頼朝公は三浦党の軍勢を旗下に組み込む事が出来たので関東の制覇に繋がり、そして鎌倉幕府樹立へと繋がって行く…。
現地には一部分、土塁遺構と思しき連続した風化した盛土と、切岸と思しき地形が残存し、伝:本丸の広大な削平地と物見岩も現存する。
※ただし城マニア初心者には只の山にしか見えません。
嘗(かつ)ては城域だった、衣笠城址公園と谷を挟んだ衣笠山公園は現在では桜の名所として有名で、衣笠城址にも多くの桜が植林されている。
周辺一帯には三浦家所縁(ゆかり)の神社仏閣と、廃寺史跡が現存する。


大善寺…神奈川県横須賀市衣笠
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衣笠城址内に現存する鎌倉時代の三浦家の学問所の機能をした寺院。それ故(ゆえ)に山号も衣笠山と成っている。三浦家の文化醸成地の址。
大善寺自体も、嘗ての衣笠城の曲輪の一部と考えられる地形に存在していて、急峻な石垣は平安時代の切岸に後から石積みされ参道の階段が設けられたと推測出来る。
大善寺の裏手には、衣笠城本丸や物見岩と伝承する場所への入口。
又、御当寺の周辺は石垣城では無い時代の城らしい人工的な切岸と思われる断崖地形が連続している。

清雲寺…神奈川県横須賀市衣笠
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三浦家本家、分家の佐原三浦家の菩提寺。
三浦家本家の菩提寺は本来は圓通寺だったが、明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈の煽りを受けて存続困難に成り廃寺と成った。その後、三浦分家の佐原三浦家の菩提寺として開基された、現在の清雲寺に明治時代に成り圓通寺の三浦本家の菩提は合祀された。
嘗ての圓通寺を吸収した名残で本殿は圓通閣と呼ばれ、屋根の寺紋は三浦本家の三つ引き両紋である。
多くの三浦家所縁(ゆかり)の重要文化財を収蔵している寺院でもある。

●満昌寺…神奈川県横須賀市衣笠
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源頼朝公への忠義第一の名将として有名な三浦義明公の菩提寺。源頼朝公によって三浦義明公の供養の為(ため)に開基された寺院。
現在も頼朝公御手植えの躑躅(つつじ)が現存していて、頭を躑躅に突っ込むと賢く成ると伝承している。境内の三浦義明公の首塚とされる場所からは遺品が多数出土しており、事前に拝観予約すると御住職様の予定が空いていれば見学出来る。

●佐原城址…神奈川県横須賀市佐原
佐原城址 久良岐のよし
戦国時代初期の大名、佐原三浦家の平安時代の居城。
源義経の❝鵯越の逆落とし❞を立案した名軍師の佐原義連(さはらよしつら)公の時代からの居城。室町時代に成ると佐原家は佐原三浦家を名乗り三浦家本家と成り、居城を三浦市三崎町油壷の新井城へ転居した。
城址は横須賀ダイヤランドテニスクラブ周辺一帯の山で宅地開発により城址遺構は確認出来ない。昭和初期まで地名にも城址の名残りが在ったが、地名の字(あざ)と小名(こな)の廃止により地名も現存せず。

●鐙摺(あぶずり)城址…神奈川県三浦郡葉山町~逗子市桜山
鐙摺城 久良岐のよし
平安時代末期に葉山マリーナ近くには小浜の入江と呼ばれた湊(みなと)が在り、同港は三浦党の相模湾側の水軍拠点として機能していた。
300年余りの歴史を有する有名な和食店日影茶屋の前面に鐙摺城出丸と思しき旗立山が有る。
源平盛衰記に❝旗立山は鐙摺山の北❞と記載されている事から嘗(かつ)ての鐙摺城址の城域は、現在の日影茶屋周辺の現在は桜山と呼ばれる逗子市の葉山町の堀内地区一帯の桜山全域に及ぶ事が、地名と地形から推測出来る。
源頼朝公が伊勢平家(平清盛)に対して挙兵した石橋山の合戦に、三浦党は同地の小浜から三浦義澄(よしずみ)公を大将とした水軍を派遣するが小田原市の酒匂川辺りまで達するも、救援間に合わず頼朝公は伊豆半島より海路房総半島へ敗走した。
それを聞いた三浦義澄公は鐙摺城へ撤退。小坪辺り(住吉城か?)で畠山重忠公率いる平家軍の大軍に遭遇した三浦党との間で開戦。その際に鐙摺城址の出丸と思われる規模の旗立山に三浦党の軍旗を掲げたのが旗立山地名の由来。

●旗立山(鐙摺城址の出丸か?)…神奈川県三浦郡葉山町
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※写真は日影茶屋から見た旗立山と登リ口の階段。
鐙摺城址の項目で説明した通り、平安時代の三浦家の要害の一部。
旗立山には源頼朝の初期の通婚の妻女の実父の伊東祐親公の御廟所が在る。
伊東祐親公は頼朝公と三娘の間に生まれた子、千鶴御前(頼朝公の男児と伝わるが名前の後に付く敬称が❝御前❞である事からして伊東祐親公の三女本人の名だろう、子は❝千鶴御前の子❞とするべき)を見て怒り狂って家来に命じて溺死さた上に、三女は源頼朝公と離縁させて江間四朗(後の北条義時)に嫁がせてしまったとされる。この江間家四朗を北条義時と別人とする説も有るが、鎌倉幕府2代執権の北条泰時は庶長子なのに北条得宗家の嫡流に成り幕府の首相と成っている事、又、生前の頼朝公から可愛がられ初名が❝頼時❞だった事から千鶴御前と推定する歴史ファンも多いが証拠は無い。
同地に伊東祐親の供養塚を築いたのは三浦義澄公で、伊東祐親の長女は三浦義澄公の正妻だった縁に由(よ)る。
※仮に北条泰時公が伊藤祐親三女と頼朝公の実子だとしたら三浦一族が源頼家公・実朝公の将軍家御兄弟を見殺しにしたり、和田合戦の際に北条義時・北条泰時親子に加担した事は伊東家の血筋を優先した利害関係に基づくと説明出来る為、小生も北条泰時公の頼朝公御落胤説を否定出来ない。

●怒田城址…神奈川県横須賀市吉井
怒田城 位置 久良岐のよし
三浦一族で三浦長者と呼ばれた初代鎌倉幕府侍所別当職の和田義盛公の築城した和田家初期の居城で三浦水軍の最重要拠点だった。
同地は縄文時代~平安時代末期の城として活用された時期まで、半島で城址は浪に現れていた入江を抱える港湾の城だった。
現在も城址の麓(ふもと)には❝船倉❞の地名が残り、衣笠~佐原~怒田各城址の下を流れる川は嘗ての湾の名残。
源頼朝公の石橋山合戦での蜂起に援兵を送ろうとしたが間に合わず参戦出来なかった三浦家は、畠山重忠公率いる伊勢平家(平清盛)方の大軍に攻められる。その際に、主城の衣笠城より堅固な和田家が水軍と共に管理する怒田城への撤退を族長の三浦義明公に進言するが却下された。
しかし、義明公が衣笠城へ敵勢を引き付けた事で三浦軍は房総半島へ逃げる事が出来て兵力温存に成功し、それによって源頼朝公の関東制覇が成功する事に繋がった。

●金剛山無量寺・・・横須賀市長坂
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三浦一族で大出世し鎌倉幕府の初代侍所別当を務めた和田義盛公が開いた御寺。
明治時代の小説で小桜姫のモデルに成った三浦義意公の奥方の実家である真里谷武田家に戦国時代に御嫁さんを嫁がせた間宮造酒之丞家の菩提寺でもある。
近世に成り間宮造酒之丞家は東京に墓所を移したが、現在も戦国~安土桃山~江戸時代初期の間宮家の御廟所が大切に守られている。
三浦氏族和田家も間宮造酒之丞家も水軍大将の家系なので、海に関係する仕事の人が御本尊と間宮造酒之丞家の御廟所を御参りすると御利益が有るかも知れない。

●和田長浜(わだなはま)海水浴場・・・三浦市初瀬和田3136
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神奈川県屈指の水質の良さを誇る海水浴場。実は背後の丘陵一帯は和田城址で鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛公と愛妻で女武将として有名な巴御前が暮らした場所だった。その二人の子供が鎌倉時代初期の名将として名高い朝比奈義秀公だったりする。
つまり、ここの海水浴場に思い人と遊びに来れば和田義盛公と巴御前の御威徳で良縁で結ばれたり、子宝に恵まれる事も有るかも知れない。聖地かどうかを抜きにしても風景も海水も綺麗な場所なので穏やかな時間を過ごせる場所である。

●扇谷山(せんこくさん)海蔵寺…神奈川県鎌倉市扇谷
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臨済宗の寺院で鎌倉公方足利持氏によって命を受けた、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏定公によって開基された。
井戸を掘ると海水が湧いてしまう事の有る鎌倉市街において水質の良さで十本指に入る事から鎌倉十井(じっせい)の一つと呼ばれた❝底抜の井❞や、❝十六の井❞と呼ばれる神秘的な洞窟の中の井戸を寺領に持つ寺院。
風景が綺麗で、観光名所にも成っている。
周辺には❝鎌倉七切通❞の一つ❝化粧坂切通❞と、平清盛の家臣で源頼朝公暗殺を画策した❝藤原景清❞が幽閉された石窟❝景清の土牢❞、三浦道寸公の盟友である太田道灌(どうかん)公の直系子孫で徳川家康公の側室と成った❝於梶(おかじ)の方❞が太田道灌公の鎌倉邸古址に造営した東光山英勝寺等の史跡等が近在する。

●岡崎城址…神奈川県伊勢原市岡崎~平塚市岡崎
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※写真は岡崎城本丸跡に移転した無量寺。
鎌倉時代に三浦義明公の御実弟で猛将名高い岡崎義実(よしざね)公によって築城された。
本丸跡の無量寺裏手には、三連の郭と、堀切が非常に良好な状態で現存する。寺境内地を外れ農道を回り込むと辿りつける。
縄張(なわばり=城の設計)は典型的な扇谷上杉家流の群郭式縄張と沼田に囲まれた平山城。周囲は縄文時代~弥生時代の古代に海だったので沼地だった。
室町時代には三浦家を相続した佐原三浦家の城と成った。
戦国時代初期に小田原を攻略した北条早雲・氏綱親子によって攻められるが、三浦道寸(どうすん)公が籠城する岡崎城は守り堅く、攻略に10年を要した。
佐原三浦家は相模守護として相模国内の大半に領地を保持したが三浦時高が当主の代に犬懸(いぬかけ)上杉家の上杉禅宗が鎌倉公方(くぼう=将軍)の足利持氏(もちうじ)公に反抗して引き起こした❝上杉禅宗の乱❞の際に、三浦時高は犬懸上杉家を支持した為に戦後、鎌倉公方によって相模守護職を解任された。
永享の乱の際に最初は足利持氏(もちうじ)公に属したが、後に相模守護を解任された経緯も有って裏切り、鎌倉を占領し山内上杉勢と室町幕府勢を誘引した。
時高は無嗣(むし=男児がいない)の為、戦後、元鎌倉公方家臣の扇谷(おおぎがやつ)上杉家の上杉氏定の孫の三浦高救(みうらたかもと)公が扇谷上杉家から三浦家に養子に入り継いだ。三浦高救公の実子が三浦道寸どうすん)公。
三浦道寸公の嫡子が明治時代に流行した架空時代劇小説❝桜の御所❞の主人公でヒロイン❝小桜姫❞の恋人役の❝三浦 荒次郎 義意(よしおき)❞公。
三浦高救公は実家の扇谷上杉家当主が討死した際に、三浦家を子の義同(道寸)公に相続せ御自身は三浦の家名を捨てて実家の扇谷上杉に復姓しようとするが、養父の三浦時高は所領が扇谷上杉家の傘下に入る事に成ってしまう事から怒り、三浦高救公・道寸公親子は三浦家から追放された。
暫(しばら)くして道寸公は、この岡崎城で挙兵し三浦家に復帰し三浦時高は死亡した。その後、岡崎城は小田原城の北条家によって落城させられる。

●住吉城址…神奈川県逗子市小坪
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※写真は住吉城址内に築城時から建っている住吉神社。
住吉神社には住吉城址の説明看板が有る。住吉神社の削平地と石段下の削平地も往時の城の曲輪の名残りと思われる。
築城年代は定かでは無いが、要塞としては鐙摺城の旗立山の逸話に登場する❝小坪辺りで三浦軍と畠山軍が開戦❞と有るので、その際に三浦家が陣取っていたのが、この住吉城址と推測出来る。つまり要塞としての歴史は平安時代末期に遡(さかのぼ)れる。
本格的に城として運用されたのは室町時代の様で、現在の京急神奈川駅付近に存在した権現山城(ごんげんやまじょう)で起きた権現山合戦時に、伊勢盛時(北条早雲)が後詰(ごづめ=救援部隊)として❝住吉要害❞に入城した記録が残っているので、この頃に改めて戦国時代の城として改修されたと思われる。
城址は正覚寺~シーサイドコート逗子望邸~海前寺に及ぶ山城で近年まで遺構も存在したが❝シーサイドコート逗子望邸❞の開発によって破壊された。
又、城址には❝住吉神社❞があり、その背後には馬場に通じる抜け道の隧道が存在するが封鎖されてしまった。寺の参道の目の前にも封鎖された古道が有り古代の東海道の街道の一部と考えられている❝切通し❞が現存するが、逗子市が城址と古道史跡の保護を怠(おこた)った為に宅地化され塞がれて通行不可能な状態に成ってしまった。
北条家と三浦道寸公・義意公親子の抗争時、この城には道寸公の実弟で義意公の叔父に当たる三浦道香が城主として在番しており岡崎城を落とされ逃げて来た兄の三浦道寸も共に籠城したが、結局は北条家によって攻め落とされ、三浦家終焉の舞台、新井城まで撤退する事に成った。

●網代山海蔵寺…三浦市三崎町小網代
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曹洞宗の寺院で三浦義同(よしあつ)道寸公によって開基された寺院で、三浦道寸公、三浦荒次郎義意公の菩提寺。
新井城址に当たる油壷マリンパーク近くに三浦道寸公と三浦義意公の御廟所を所有する寺院でもある。
新井城址北側の港である小網代湾の直ぐ傍に在る事から、往時は新井城址の北の鬼門鎮護の寺院だった事も推測出来る。
寺名から三浦道寸公の実家である扇谷上杉家が開基した臨済宗の鎌倉市に所在する扇谷山海蔵寺と無関係では無いと推測出来る。
本来、扇谷上杉家も佐原三浦家も臨済宗の信徒だが、この海蔵寺が曹洞宗なのは曹洞宗の信徒であった伊勢氏流北条家の伊勢宗瑞(北条早雲)公が道寸公・義意の供養として御茶湯領を保護した際に改宗して曹洞宗と成った可能性が有る。
※網代山海蔵寺は原則一般参詣不可、非公開。檀家信徒の参拝だけ可能。
明治時代の小説❝桜の御所❞の小桜姫伝説を流布した自称霊能者とカルト団体のせいで、道寸公と義意公に敬意も無ければ仏教に対する信仰心も無い観光客が本堂も拝まずに帰ったり、建築物だけ写真を撮って帰る等の乱入が相次いだ為の処置。
※私見だが歴史偉人の菩提寺としては当然の対応で、カルト団体と自称霊能者と商業利用しようとした連中に問題が有るので御住職の御心痛は理解出来る。


●新井城址…神奈川県三浦市三崎町小網代

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※写真は諸磯湾の対岸側から見た新井城址遠景。
佐原三浦家の室町時代の本拠地。同地は現代の神奈川の景勝50選の一つでもある。
日本史上最長の約4年間の継続した籠城戦の舞台。
城址の主要部分は現在、油壷マリンパークと東京大学関連施設のある断崖の半島上に築かれた連郭式平城だった。周辺の城塞群と引橋を含めた巨大な群郭式の体を成しており、南・北・西を諸磯湾・小網代湾・油壷湾に囲まれており堅固な城塞群だった。
遺構は略(ほぼ)消滅したものの、東大関連施設内には部分的に土塁が残存、又、周辺の地名に❝引橋❞や❝千駄矢倉(せんだやぐら)❞等が残る。周辺にも引橋を置いた堀切の痕跡と思われる道幅程に削平地の幅がくびれた場所が数ヵ所残る。小網代側には住宅街に井戸も有る事から、海に突き出した籠城戦に際しても水不足に成る心配は無かった事が窺(うかがい)い知れる。

三崎漁港側の三崎城まで城域に含むと主張する説が有るが同説は根拠が無い。完全に別の城である。同時期に運用された可能性は比定出来ない。
※新井城落城時の悲話
(老夫婦の自害)
現在の三浦市南下浦菊名の❝引橋バス停❞付近に戦国時代当時に新井城の外郭の引橋(ひきばし=戦時に格納し敵の侵入を防げる橋)が存在した。その近くで当時は❝六万本の坂❞と呼ばれており茶屋を営む老夫婦が居住していた。
ある日、その老夫婦は相手が北条家の密偵とは知らずに、城と殿様の自慢話をして新井城の事を根掘り葉掘り解説してしまった。後日、老夫婦は、その人間が北条家の密偵で有った事を知ると老夫婦は「殿様に申し訳ない事をした」と心中してしまった。
これと類似の話が藤沢市の大庭城の船地蔵にも有るので、北条家は敵城偵察の際に地元の老人に話を聞く事も諜報活動の一環にしていたようだ。この老夫婦の悲話を三浦市発刊の郷土資料でも正式に紹介している。
(三浦義意公の妻女(側室とも)の最期)
現在の油壷マリンパークの半島上に新井城の主要部分が存在した。いよいよ小田原北条家(小説と小桜姫伝説では金沢北条家)の兵が新井城の主要部分に攻め込んでくると成った時、城主の三浦義意公の妻女は船で諸磯側に逃げた。その場所が諸磯神明社の辺りと現地で伝承するが、結局、三浦義意公の妻女は敵方北条家に捕縛されてしまった。小説では自害と脚色されている。
尚、小説内では結婚すらして居らず相思相愛のまま敵味方として最後まで戦い、思い人三浦義意公が新井城落城後に自害し、小桜姫が後追い自害したシナリオに成っている。
実際は兄の真里谷信隆公が北条家に亡命して庇護下に在った事や、新井城落城から約50年後に武田信玄の水軍大将として駿河で活躍し江戸時代に徳川家康公の水軍大将に成り間宮造酒之丞家として存続した間宮家分家の初代の間宮信高公は娘が真里谷武田家に嫁いだ姫である事から、北条家中でも真里谷武田家の血縁者が凄惨な扱いを受け殺害されたとは考え難い。
小桜姫伝承には不自然で小説中の脚色が史実と混濁されていると考えると自然。恐らく自害しておらず剃髪し門跡寺院だった鎌倉の松岡山東慶寺辺りで尼に成るかして生き延びたと考えた方が当時の価値観からしても自然だろう。

個人的な希望としては間宮家や鎌倉に居た千葉家分家臼居家に再嫁して名の残らない女性人物として幸せに成ってくれていた方が、前夫三浦義意公も安心するのではないかと個人的には思うが・・・
・・・脚色としては夫を思い自刃した方が小説としては美しい悲話に成り盛り上がるのだろう。

●新井城址の荒井浜海水浴場・・・三浦市三崎町小網代(こあじろ)1036
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新井城址の油壷マリンパーク裏手に在る海水浴場。和田長浜と並ぶ神奈川県内屈指の水質の良さを誇る隠しプライベートビーチの様な神秘的な雰囲気の有る海水浴場。夏季は素敵な海の家も営業し、浜辺には蓼科高原の白樺湖畔のペンションの様な素敵な民宿も通年で営業している。
水質の良さから何と河豚(ふぐ)が産卵に来る程の場所でもある。
マリンパークの直ぐ横なので、恋人や子連れ家族でマリンパークの水族館やイルカショーを見学てから来ても良いし、周辺には海鮮料理のレストラン食堂も数軒有り、観光地としても良い。
この浜辺には新井城で生活した三浦義意公と奥方の真里谷武田家姫君も一緒に仲良く散歩したかも知れないので、思い人や恋人と一緒に散歩に来れば三浦義意公と真里谷武田の姫の御威徳に肖(あやか)れて恋愛も成就するかも知れない。普通に散歩に来るだけでも素敵な場所。

●新井城址の弁財天様(小桜弁財天と誤って紹介されている)…神奈川県三浦市三崎町小網代
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小桜姫に縁結びを求めてくる巡礼者の多い場所だが実際は小桜姫とは全くの無関係な弁財天様。
但(ただ)し強い御利益あり、遭難して行方不明に成った江戸時代の漁師の身内が霊夢を得て、御告げの通り、この洞穴に祀られている弁財天様の折れた首を繋げて差し上げた所、三浦で遭難した漁師は無事、藤沢市辺り(鵠沼海岸辺りか?)に漂着して、徒歩、油壷へ帰還した。人命救助でも強い御利益が有る上に、元来、弁財天様は男神にモテた印度神話のサラスバティー神なので、当然縁結びの御利益も期待出来る。
何より強い御神威を発揮された事績が有るので、縁結びで御参りすれば御利益が有るはず。
※但し、小桜姫と関係ないので弁財天様として参拝して然るべき。

●小桜姫神社(諸磯神明社の摂社:若宮社に合祀?)…神奈川県三浦市三崎町諸磯
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本家本元の小桜姫神社。しかし小桜姫の名前は一切無い。
神明社本殿裏手の摂社群の内、左から二番目の若宮社に小桜姫が合祀されていると教えられた。
明治時代に流行した❝小説:桜の御所❞のヒロインとして登場する架空の人物の小桜姫と、地元に伝承する史実では(小田原)北条家による新井城攻めの際に、三浦義意公の妻女か側室が諸磯神明社の土地に実際に逃げて来たものの敵勢に発見され最期を迎えたとされる。
諸磯神明社は説明看板の字の劣化が激しく、現在、何が書いて有るかサッパリ読めない。
神明社なので主祭神は天照大神で間違いないだろう。
この話の姫君を小説と混同し小桜姫と比定して若宮社に合祀したのが始まりだろう。
若宮社とは本来は鶴岡八幡宮の御分霊である。しかし明治時代の廃仏毀釈運動と神仏分離令のせいで多くの八幡社は弾圧の対象となり消滅した。理由は八幡宮の主祭神:誉田別尊(ほんだわけのみこと)応神天皇は明治時代以前まで❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の象徴であった為だ。
平安時代以来の日本全国の八幡宮の総本社である石清水八幡宮には現在も仏像を安置する部屋が残されているし、鶴岡八幡宮の境内は明治以前は現在の横浜国大付属中学の敷地全てを含み壮大な仏教施設を持つ神宮寺が併設されていた。
❝若宮❞と言うのは、鶴岡八幡宮は造営当初は現在地ではなく由比地区に存在し、源頼朝公によって現在地を本社とて新たに造営された為に、❝旧の社殿より若い❞と言う事から鶴岡八幡宮の別名が若宮八幡宮と鎌倉時代当時に呼ばれていた名残りだ。よって鶴岡八幡宮の参道は現在も❝若宮大路❞の名で呼ばれている。
由比の八幡社は現在❝由比若宮❞と名付けられ再建されているが、元々は❝元鶴岡八幡宮❞と一般的に呼ばれている。
つまり、諸磯神明社の小桜姫神社は本来は鶴岡八幡宮の御分霊を頂いた若宮神社だったが、神仏分離令による破壊を免れる為、もう一つは先述の通り地元の姫の悲話に、後から架空の小桜姫の名前が融合し、廃社の危機にあったであろう若宮社=八幡社に小桜姫を御祭神とする事で存続を図ったと思われる。
しかしながら実際の姫君に小桜姫の名が合わさった形式なので、真里谷武田家の姫君として若宮社を御参りすれば実在した真里谷家の姫君にも三浦義意公にも縁結びの御利益を授けて頂けるんじゃないかと思う。但し、若宮社の本来の御祭神は八幡大菩薩=応神天皇=大鞆別命(おおともわけのみこと)なので、先に八幡様に御挨拶した上で真里谷武田の姫にも御挨拶をするべき。

●本瑞寺…神奈川県三浦市三崎町
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三浦義意公が戦国時代初期に三崎町三崎漁港の入舩(いりふね)地区に造営した寺院。その後、江戸時代の三崎町の大火で享保4年(1719年)に現在地へ移転した。
移転先に選ばれたのが源頼朝公の❝桜の御所❞と言う別荘地だった現在地だった事もあり、鎌倉時代の三浦家以来の御寺と勘違いされる方も少なくない。
平安時代末期~鎌倉時代は本瑞寺の丘と、対岸の城ヶ島には桜が植林されており、源頼朝公・源頼家公・源実朝公の将軍家三代に渡って遊覧の地と成っていた。
御当地は戦国時代の北条氏規の居城の三崎城址の一部だった。昭和初期まで土塁も一部残存していた事が三崎町公認の三崎城の縄張図から確認出来る。

●小桜観音…神奈川県三浦市三崎町城ヶ島
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古くから縁結びの観音様として有名な場所だった様で、実際に現在も縁結びの御利益が有るとされる。
名は本来は観音様であり、洞穴内に観音菩薩像も有るが近年、小桜神社に列しようとする動きが有った様で神道形式の真新しい御神体(鏡)が観音様を横に置いて洞穴の入口に正対する様に設置されている。
あくまで観音様なので、観音様を拝むと縁結びの御利益も有ると思われる。
又、観音様へ小桜姫への願掛けを御願いするのであれば、小桜姫の名の初出展となる小説❝桜の御所❝の世界観を大切にしたいならば、実在した先人に対して不敬に成らない様に実在した三浦義意公の奥方の「真里谷武田家の小桜姫様」と祈願の際に御名を念じて然るべきだろう。
尚、当時の三浦家の居城は城ヶ島対岸の三崎城でも無いし城ヶ島でも無いので、明治時代に小説のロケ地として推定され小説のファンが訪れたのが、小桜観音の名で呼ばれる様に成った理由と推測出来る。
同地には小桜神社と小桜観音両方の名が有るが、小桜観音自体の石積み等文化的な状況が仏教文化なので観音様として祀られていた歴史が先である事が明らかに解る。
実際に縁結びの御利益が昔から有った場所だから、後に小桜姫ロケ地巡礼の一つに成った事も推測出来る。
※何れにせよ、強い縁結びの御利益が有るのだから、「観音様と、小説の小桜姫様と、実在した真里谷家の姫君」として三方の名を思いながら祈願すれば神仏の加護を得られるのでは無いかと思われる。

●三崎城址…神奈川県三浦市三崎町
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※写真は嘗ての三崎城下水軍基地だった北条湾からの三崎城址の丘の遠景
伊勢氏北条家(小田原城主)の一族で名将の北条氏規公の居城。
築城年代は不明。
三崎城下の入江は北条家の三浦水軍の基地だった事から、現在、漁船の係留地は北条湾の名で呼ばれる。
城址の遺構は土塁と空堀は大部分が宅地化や学校建設で破壊されたが、搦め手側に土塁が一部残り、大堀切や部分的な曲輪の地形も大体の形を残して生活道路に成っている。
築城年代に関しては、三浦氏統治時代にも新井城の一部だった説が有る。
三浦義意公の開基した本瑞寺が三崎城址内に移転したのは江戸時代の事なので、当初は入舩地区に本瑞寺が造営されている事もあり戦国時代初期の三浦家の統治下では現在のメインストリートである三崎銀座商店街より更に南の平地に所在したので、三浦統治時代は漁村程度で水軍の船溜まりが在った可能性は否定出来ないが城塞が在った可能性は低く、新井城の出城説は全く確証が無い。
又、近くの海南神社は元々は筌籠弁才天と呼ばれ平安末期~鎌倉時代初期に三浦一族の和田義盛公によって開かれた弁才天様として有名だったが、やはりこの海南神社の参道も入舩地区へと続いている。
三崎城を鎌倉時代からの新井城城砦郡として含めるのは無理が有り、小桜姫伝説を利用した観光誘致の為に、城ヶ島を組み込む目的で三崎城址まで新井城の一部と無理な解釈をする動きに見える。
仮に小規模な要塞が平安末期に存在したとしてもあくまで新井城とは別の城。

三浦市以外の小説:桜の御所の小桜姫伝説のロケ地と伝わる場所
●天野神社…神奈川県愛甲郡愛川町坂本
三浦義意公と恋仲に成った小桜姫は、北条家と三浦家の双方の所領を天野神社辺りで中津川を挟んで、待ち合わせの相図に御互いに手鏡の反射を用いて連絡として、恋仲の逢引(あいび)き=男女の関係を繰り返した。
しかし、有る時、三浦家の敵方に小桜姫は三浦家の本城の秘密を漏らしてしまった事から三浦義意公によって誅殺されたと伝わる。
※当時の愛川町一帯の領主は津久井城主内藤家の分家で、佐原三浦家の領地は愛川町には存在しない、当然相模原側にも存在しないので完全なフィクション。また、佐原三浦家の居城は初期は岡崎城、後に新井城なので津久井の内藤家は全く関係ない。
※三浦家の居城、新井城の構造を北条方の密偵に騙されて漏らしてしまったのは、現在の神奈川県三浦市南下浦菊名の❝引橋バス停❞付近に当時本当に在った新井城の外郭の引橋(ひきばし=戦時に格納し敵の侵入を防げる橋)の近くで当時は❝六万本の坂❞と呼ばれた場所に居住した茶屋を営む老夫婦だと伝わっている。
又、この老夫婦の逸話を三浦市発刊の郷土資料でも正式に紹介している。
※観光客誘致のモデルとして御当地の別の伝承に小桜姫と三浦義意公を混同させたと思われる。
※愛川町が小桜姫伝説を混同した原因と考えられるのは、平安時代には三浦半島の津久井を治めた三浦一族の津久井家と、津久井城を治めた内藤家も鎌倉時代から存続した家と家伝に伝えていた為に混同されたと思われる。尚、津久井城主内藤家は北条家臣に成ったので、この史実も小説:桜の御所の小桜姫と整合性が無い。更に、津久井城主内藤家は北条家の津久井衆を編成し統治を任される身分だったが、その祖先を鎮守府将軍藤原秀郷と明確に自称している事から、やはり愛川町の小桜姫伝説は小説の話と地元の実在した事件の伝承の混同か、観光地としてのロケ地化宣伝に由るものと推察出来る。
※当然、実在した人物の伝承を混同している可能性が当然高いので、昔から縁結びの御利益が有ったであろう天野神社を御参りすれば縁結びの御利益が得られる筈(はず)。

さて…
纏めると
●三浦義意公の実際の本妻と側室は真里谷武田家の姫君なので、真里谷家の姫君として小桜姫を参詣しないと歴史に矛盾が出るし、三浦義意公にも側室の姫様にも失礼です。
●油壷の弁財天は小桜弁財天はなくて、漁師を遭難から救った強い御利益の有る弁天様であり、弁天様自体が男神にモテまくった神様だし美しい女神様だったから当然、縁結びを御利益出来ます。但し、小桜姫じゃなくて縁結びの弁天様として御参りしてね。
●小桜姫神社の場所は、諸磯神明社の摂社です。場所は本殿の後ろに並ぶ摂社の左から2番目の若宮社です。ただし、モデルに成った元からある三浦義意公の奥さんに纏(まつ)わる地元の伝承の神社の場所が諸磯神明社なのであって、明治時代の神仏分離令や国家神道の都合上、主祭神は天照大神です。小説の小桜姫様=実際の真里谷武田家の姫様に御参りする場合は「小桜姫様と伝わる真里谷家の姫様」と名を呼んで差し上げて然るべきです。
●小桜姫伝説は根本的に明治時代の小説、❝桜の御所❞が初出典であり創作ですが、実在した様々な時代の戦史や人物がモデルに成っています。舞台も実在した新井城で主人公の三浦荒次郎義意公は武勇に長けた名将でした。なので、新井城主三浦義意公と奥方に敬意を持った参拝をして下さい。
●もし、本当に小桜姫のモデルに成ったであろう真里谷家の姫様は三浦家をリスペクトするのであれば、紹介した神社仏閣や城址を巡礼しては如何でしょうか?自分の都合だけで縁結びを御願いしても、神様や仏様に成られた先人からすれば「何、この自分勝手なお願いしかしない奴?」と成るでしょうから。

【小桜姫以外で三浦半島付近の日本神話に登場する由緒正しい縁結びの神様の聖跡】
小桜姫伝説とは無関係ですが、ちゃんと神奈川県神社庁に認められた延喜式外社の神社で日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)様の夫婦神に関する神社が存在します。当然、縁結びの御利益は最高でしょう。

●走水神社…神奈川県横須賀市走水
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走水は現存する関東の地名で唯一の古事記にも登場する場所。
日本武尊と弟橘姫の夫婦神が一緒に過ごした御所ヶ崎の近くに建つ縁結び、勝負運、交通安全、漁業に強い御利益が有る神社。
走水神社本殿の地下には日本武尊が奉納した冠を入れた石室が埋蔵されていると伝承したが、近年の本殿改修で実際に石室の蓋が発見された。開封されず社殿再建で石室を埋蔵し、そのまま地下に保管されている。
同神社近くの御所ヶ崎で御二人が過ごされ、かつて弟橘姫を単体で御祭りしていた御所ヶ崎の砂が縁結びの御守りとして無料で配布して頂ける。大伴黒主と伝わる人物が御二人を歓待したと伝わるが、同様の伝承が神奈川区六角橋にも伝わり、六角橋の地名由来は日本武尊が使用した箸が六角形で大切にされた事から六角橋の地名に転化したと伝わる。そして六角橋の久応山宝秀寺が日本武尊を歓待した大伴久応の邸址と伝わる。この六角橋の大伴久応と走水の大伴黒主は恐らく同一人物か一族だろう。
古代の大伴家は古代の天皇=大王の近衛部隊を率いた軍閥であり、一族の佐伯氏ともども水軍を率いた人物なので六角橋~三浦半島にかけて勢力を誇ったのだろう。
走水では大伴黒主は漁師で海鮮料理人でもあると伝わる事から、まず水軍関係者で間違い無いだろう。
走水神社は普段は宮司不在だが、氏子様が交代で在番しており御朱印も頂けます。

●宝秀寺・・・神奈川県横浜市神奈川区六角橋
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太平洋戦争等の戦火や各時代の火災で古い物は存在しないが、門前に神話の時代(弥生時代頃)に日本武尊一行を歓待した大伴久応の土饅頭=陵墓型の供養碑が有る。その大伴久王の邸址と伝承する聖跡に後世に成り寺院が建てられた。
実は背後の丘陵は戦国時代まで神大寺と言う恐らく権現山城(京急神奈川駅近く幸ヶ谷公園~本覚寺一帯に在った城)の戦いだと思われる戦火で焼けた大寺院が存在した。名前の通り神様との関係が推測される事から、神大寺は日本武尊と弟橘姫を祀る寺院化した聖地だったと推測出来る。これ等の推測と宝秀寺の伝承を補強する史実として周辺の三枚橋町辺りに“店屋”の地名が残り亀甲峠と呼ばれた神奈川区浦島~新横浜駅篠原口へ繋がる丘は古代の街道だった。そして店屋の意味は古代大和朝廷の官営の駅伝制つまり伝達手段の馬の交換地点の事で、既に弥生時代後期頃には古墳時代に駅伝制の基地が置かれる前身の集落が形成されていた可能性が高い。
更に、神話では日本武尊に大伴部と吉備家の軍団が与力として与えられている事実が日本書紀に記載されている。この大伴部の部は部落の部で有り、古代の部落と言うのは一族が固まって住む集落の意味であるので港湾を抑えた水軍一族の大伴家が全国から集まり日本武尊を援護した事が推測出来る。
これらの走水の伝承、宝秀寺の伝承、神大寺の存在と寺名、三枚橋町周辺の古代地名の店屋の全てはリンクしており、更に佐伯一族大伴家が水軍豪族だった史実と天皇の近衛武将だった事もリンクしている。
余談だが源氏所縁の鶴岡八幡宮も宮司家は戦国時代まで大伴家だった。

●橘樹(たちばな)神社…神奈川県川崎市高津区
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弟橘姫が、日本武尊の房総半島への渡海の神事で東京湾に入水した後に、遺品の装飾品が流れ着いた場所が現在の橘樹神社の所在地で、神社の社殿の真裏の宅地化されてしまった丘陵は弟橘姫の古墳と古来から伝承している。
時代を経て橘樹神社の境内地は縮小し、宅地化により古墳の大部分は消滅したが古墳の最頭頂部は部分的に現存し、保護されている。
弟橘姫の古墳なので、当然、縁結びの御利益は強い。

以上、❝久良岐のよし❞による小桜姫と三浦家関連の史跡群と史実と伝承の解説でした!

…まだまだ紹介しきれてない❝真のパワースポットを抱える神社仏閣❞が沢山あるので、早く書きたいと思っています。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

※本記事は時間が無くて写真未掲載ですが、順次、実際の場所の写真を差し込んで行きます。

07月10日②の休日雑記の続き。

三連休をとり、三浦半島を旅行した11日最終日、朝は宿泊地の三崎漁港、その三崎に戦国時代に小田原北条氏が三崎衆を編成し戦国後期の三浦水軍拠点として運用した❝三崎城址❞周辺を散策し、鎌倉時代に源頼朝公が❝桜の御所❞と言う別荘を置き同地に戦国時代の初期に三浦義意(よしおき)公が開基した本瑞寺(ほんずいじ)を訪れた事、その本瑞寺と三浦義意公のイメージで創作されたのが小桜姫伝説の基に成った❝桜の御所❞と言う小説だと言う事を前回の休日雑記で紹介した…。

実はこの日、2016年07月11日は道寸公と義意公が、日本史上最長の4年間と言う籠城戦を戦い抜いた新井城(油壷マリンパークの半島が主要城址)の落城から500回忌に当たる。

この三連休、訪問の一番の目的は❝三浦道寸公と三浦義意公の命日❞の御廟所参詣と献花だった。
その為(ため)、車に乗り込み三崎漁港を後にして最終目的地の❝新井城址❞=油壷マリンパークの半島へ向かい、先ず予(あらかじ)め三浦道寸、義意公の御二方の菩提寺である❝海蔵寺❞に御住職を訪問する前に、道寸公の名を冠した❝道寸餅❞と言う銘菓を売る❝なこう❞と言う御当地の和菓子屋を訪れた。
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ここは小生、三浦に良く来るように成り始めた頃、道寸公の名を冠した看板が目に留まり道寸餅を購入して以来の御付き合いに成った。
小生は三浦家と北条家、不運にも主家古河公方家の内紛によって敵対した両家の武将に尊敬する偉人がいる。
特に崇拝しているのは、1人は小田原北条家の名将北条綱成公、もう1人が三浦義意公、両将とも智・仁・勇を兼備した名将だったが義意公は家運に恵まれず、韮山城主で北条家創業者の伊勢盛時公と其(そ)の子の氏綱公によって攻め滅ぼされる事に成った。
両家とも素晴らしい名将を多数輩出している。
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※道寸餅
道寸餅を自宅用と、海蔵寺様への奉納様に2揃(そろ)え用意して貰い、御住職との面会の準備も整い海蔵寺へ移動。
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海蔵寺は小網代の森の西の端、長い階段の上に所在する三浦義意公の御父君の三浦道寸公が開基した御寺だ。
道寸公と義意公の御廟所へ参詣の許可を御住職に頂いていたが、御寺と離れた御廟所を参詣する前に御住職に御挨拶に伺った。道寸餅は、その菓子折り。
御住職は小生と同じで、先人への尊敬や神仏への信仰心を持たない❝俄(にわ)か歴史ファン❞と❝エセ歴史学者❞が大っ嫌いな人物。
御住職がそう成ったのには、いい加減なデマの小桜姫伝説を広めた霊能者気取りの人間と、ソレを商業化しようとした連中に責任がある。
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この明治時代に流行した創作時代劇小説❝桜の御所❞を史実と鵜呑みにした無学な霊能者気取りの人物が書いた史実と全く異なる小桜姫伝説を信じ込んだ連中、つまり騙された人が大挙して押し寄せた事が有った。
先人を冒涜する行為に成る自覚もしない❝御寺マニア❞と❝縁結び巡礼の女性❞が、信仰心も先人への尊敬も無く大挙ズラズラと集団で御寺を訪問し、本堂も拝まずに帰ったり、油壷マリンパーク横の(新井城址)に飛地の海蔵寺寺領にある道寸公と義意公の御廟所に無許可で入る不法侵入が横行してしまったのだ。
御住職は、小桜姫を実在の人物と誤認して心霊スポットとして広めたエセ霊能者詐欺師に怒り、無礼不見識な女性達に嘆(なげ)いておられる。
だから、海蔵寺は一般非公開にせざるを得なく成った。
ちなみに、そのいい加減な小桜姫伝説に踊らされた霊能者気取りの人物はTVにも良く出る江原と言う人物だ。
でも本当に彼に霊感が有るなら、小説と史実の相違も気が付くだろうしウソくらい気が付いただろう。
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御住職様には、小生が平安時代の平良文(たいらのよしふみ)公以来、三浦義継公、三浦義明公等の歴代三浦家の殿様を尊敬し御廟所を参詣している事、道寸公の御実家である扇谷上杉家の所縁の神社仏閣も巡ってきている事は御存知なので❝海蔵寺参詣と御廟所への献花の自由❞を認めて頂いている。
それでも、御廟所を御参りする前には、ちゃんと御住職様には御挨拶に伺い、本堂で御参りしてから油壷の御廟所を訪問する事にしている。
この日も御住職に御会いして、改めて御廟所訪問の御許可を頂いた。
丁度御寺では500回忌もあり、経塚を建設されるそうで御住職様から小生へ最初の33人の納経者に成る様に光栄な役割を依頼されたので写経用の和紙を受け取り、一週間後に納経に来る約束をして海蔵寺を後にした。
新井城址と海蔵寺周辺の位置関係は下の衛星写真の通り近い。
正しい小桜姫神社の神社の位置新井城址周辺の位置関係 久良岐のよし
しかし、周辺は城址と言うだけあり、地形は複雑に谷が入組み直進は出来ず、車では10分程かかる。
海蔵寺の在る小網代湾は新井城址の北側の湾で、水掘り不要の半島城の頑強な守りを担っていた。
つまり海蔵寺~新井城址の遺構残存部は直線距離にして1km程と極近い。
現在、関東大震災による三浦半島の隆起と海岸の埋め立てで、小網代~新井城址まで徒歩で海辺伝いに行く事が出来るが、戦国時代は新井城址の半島の岸壁は海波に洗われていたので鎧武者の行く手を阻む海だった。
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駐車場に車を停めて、おみやげ物屋の御婆さんに久々の挨拶をしてから御廟所へ移動。
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花は近くのコンビニで売っていたので2揃え2組、合計4本の花束を購入した。
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先人への敬意から、御廟所の写真は撮影しない主義なので、御廟所入口に海蔵寺さんが建立した新井城合戦石碑を掲載する。
この奥に三浦義意公の御廟所、一段下がった恐らく戦国時代は物見曲輪か船着場だった場所に道意公の御廟所が在る。
無事、献花を終えてから、油壷の浜に降りて海沿いを散歩しながら地元の人々が弁天洞として崇敬する洞窟に向かった。
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弁天洞へは荒井浜から廻るのだが、この日は道寸公の御廟所の方の浜をユックリ散歩しながら遠回りして相模湾の景色を楽しむ事にした。
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この三浦半島の磯は場所々々で異なった風景を見せてくれて飽きない…
米が栽培できない地質なので、却(かえ)って様々な西欧野菜の栽培が盛んに成った。
東京湾と相模湾と太平洋の三方に面しているので、様々な種類の魚も獲れる。
その上、天気が良いと江ノ島~大山~丹沢~箱根~伊豆~富士山が一望出来る。
だからこそ、逗子・葉山・秋谷・佐島・三崎は明治時代~昭和中期まで別荘地として富裕層が集まった。
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そして、相模湾側は太平洋から直接潮流が流れ込む上に、人の多い湘南地区からも離れているので海水の透明度が高い。
この日は面白い写真が撮れた。
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波が、隆起した縦の地層にぶつかり真上に飛沫(しぶき)を上げる瞬間。
こんな場所をゆっくり散歩していると、岩場は段々険しく成り、そうこうするウチに❝江原が二重に勘違いして小桜姫神社と嘘の紹介をしてしまった弁天洞❞に辿(たど)り着く。
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小生はココ話しは三浦家家臣の御子孫に教えて頂いた。
一般人は探し出せないだろう。
昔からここは弁財天様が祀られる様に成ってから❝弁天洞❞だった。
先に正しい民話を教えて頂いていたので、❝霊能者気取りの人物が誤認して広めた誤った小桜姫伝説を歴史オタクの小生の知識とと三浦同寸研究会の見解で正しておく❞事にしよう。
この油壷の新井城址の弁天洞は小桜姫弁財天と言う名前では無い
ここの弁天様は昔から辨財天とだけ呼ばれていた
※何故辨財天が鎌倉文化圏で洞穴と遊水地に祀(まつ)られるか以前書いた【】の記事の中の【宇賀福神社=銭洗い弁財天】の紹介で触れているので、其れを参考にして貰いたい。
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この油壷、新井城址の弁財天様については、改めて独立記事で詳細に紹介するが、ここは❝漁師が遭難して行方不明に成った際に、折れていた弁天様の首を元通りに繋げて願掛けをしたら、行方不明に成った漁師が藤沢辺りの浜に流れ着き、生きて帰って来る事が出来た御利益の有る弁財天様❞であって、小桜姫伝説とは全く関係ない。
多分、霊能者気取りの人物は何かの明治時代の浅野と言う名のカルト宗教家が同じ様に小説❝桜の御所❞と言う本を読んで事実と誤解して書いた本か何かを更に鵜呑みにした挙句、良く調べもしないで新井城址に在る神社だから小桜姫神社として紹介してしまった訳だ
実は、小桜姫神社は油壷ではなく別にちゃんと諸磯神明社の摂社として存在する。
正確に言うと、そこは小説桜の御所の小桜姫と、地元の新井城址籠城戦の時に三浦義意公の奥方が避難した諸磯で敵勢に捕ってしった秘話が合わさり、小桜姫神社のモデルと成っている。
霊能者気取りの人間の事実誤認は御粗末過ぎて、多くの宮司様や和尚様、郷土資料を司る学芸員サンや司書サン達と交流のある小生からすれば…
「へぇ~霊能者ねぇ~(笑)」
「霊能者なら小説と本当の史実の相違点に気付くだろうに(笑)」
「まして小説の登場人物設定は金沢北条氏、この時代の北条氏は伊勢氏流北条氏で時代に誤差200年を筆者が故意に設定し事実誤認を招かない様にして下さっているのに(笑)」
「義務教育で散々習う❝鎌倉幕府❞と❝下剋上❞で勉強してる筈(はず)なのに無教養って不幸だね(笑)」
…と言った感想しか湧かない(笑)。

ところで、油壷の弁財天様は如何(いか)にも鎌倉文化圏らしい場所に祀られている。

この弁天様が洞窟にいらっしゃり、且(か)つ偶像崇拝の対象に成っているのは、三浦家や三浦半島の人々が鎌倉時代以前からの源氏の御家人であった事から、その文化を受け継いだ名残だろう。
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鎌鎌倉には銭洗い弁天=宇賀福神社と言う場所が在る。
そこを訪問すると文化の変遷に興味が無い人でも鎌倉文化の弁財天信仰には色んな神様が習合されているのが良く解る。
古代日本の豊かさの象徴の神様だったのは❝宇賀神=宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)❞だ。
宇迦之御魂神は別の漢字で❝=倉稲魂命(うかのみたまのみこと)❞と書くので、名前からしても縄文後期~弥生時代頃に米穀類の水耕栽培が始まって穀物を保存できる様に成った頃に誕生された神様だろう。
日本の神の系譜で倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は、須佐之男命=素戔嗚尊(すさのおのみこと)と神大市比売(かむおおいちひめ)の間に生まれた神様だ。
南関東の❝延喜式内社❞の古社全てが素戔嗚尊や其(そ)の御神孫の出雲系の神、又は日本武尊(やまとたけるのみこと)か伊勢系と異なる土地神様が主祭神だ。
この事実と考古学と神話の整合性から、素戔嗚尊が縄文時代から弥生時代に変革させた、つまり稲作を関東地方に導入せしめた人物が神格化さた神号(しんごう=偉大な人物に死後送られる神としての名)だろうと思っている。
素戔嗚尊が稲作を普及させた王だからこそ、その妻が奇稲田媛(くしなだひめ)と名に稲田の字が入り、子が倉稲魂命の漢字を当てられる神に成ったのだろう。
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その後、日本武尊は青銅器導入を南関東一帯に普及させて弥生時代を終わらせた人物だろう。走水神社の西暦100年代の伝承とも整合性が有る。この時代には既に先進地域だった北九州の王族達は中国と交易によって青銅器を導入していたから恐らく間違いない。古代の大将軍や関東知事として九州の叛乱を鎮定し東日本に青銅器を導入し軍事編成を整えた偉大な王子に当てられた神号が日本武尊だったのだろう。
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平安時代末期~鎌倉時代初期に成ると経済活動が米穀や海産物等の直接の備蓄出来る食物の物々交換から、❝貨幣経済❞に変わった事で豊かさの象徴が❝米穀❞から❝銭=金❞に変わった。だから源頼朝公によって財神として日本で信仰されていた宇迦之御魂神=宇賀神=倉稲魂命に、古代インドの財神である❝サラスバディー❞を漢字訳した弁財天が習合された。
だから、鎌倉文化圏や三浦半島では弁天様や宇賀神を湧水地や洞穴に祀る習慣が今も残る。

鎌倉時代~室町時代に成ると、武士達に弁財天は水神であり軍神でもある事から泉や海の航行の神様としても信仰される様に成った。
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その最も有名な場所が欽明天皇が勅願所と定めた霊場の洞穴に、源頼朝公が八臂弁財天(はっぴべんざいてん)を奉納し祀(まつ)った写真の江ノ島辨財天だろう。
関東の鎌倉御家人の関係した土地の弁天社は、この江ノ島弁財天の御分霊が多いはずだ。実際、関東の弁天社の大半は鎌倉武士団の居館跡や城址、又は武士が鶴岡八幡宮から勧進した八幡社に近在する。

幕末に成り武士の時代を変革しようとし始める維新志士たちの勢力が胎動しだす頃、伊勢神道による思想統制をされ、明治時代に成ると❝国家神道❞が正しいとされた事で水神様として弁財天と似た御神威を持つ❝一杵島姫(いちきしまひめ)❞が習合された。

明治時代に成り近代化が進むにつれて、時代遅れの印度由来~中国経由の仏教文化を否定する風潮が強く成り、更に明治政府の神仏分離令と廃仏毀釈運動で仏教経由の古代インドの神である弁財天が否定され、現存する昔は❝倉稲魂命信仰❞から始まった全国の❝弁財天❞信仰の御社(おやしろ)は❝一杵島姫❞に名を変える事に成った…

新井城址の洞穴の弁天様は遭難した漁師を生還せしめた強い霊験有る弁天様だ。
弁財天様=サラスバティー神は美の女神でもあり、2柱の男神と結婚した神話も有るので縁結びの神様としての御利益も有る
だろう。
ただし!ちゃんと小桜姫では無くて、弁財天様として崇敬すればだろう。
…それも一方的に「男と結婚させてくれ~良い彼氏と付き合わせてくれ~」と信仰心や、神社仏閣に関わった歴史偉人へのリスペクトも無くただ御願いする人は、神様にも仏様にも怒られるだろう。
小桜姫は小説の架空の人物だが、名前が小桜だったかも知れない、実在した三浦義意(よしおき)公の奥方と側室は別にいる。房総半島の小大名、真里谷武田氏の二人の姫君だ。
だから、小桜姫と呼ばれたかも知れない真里谷家の姫に縁結びを御願いする成らば、「真里谷の小桜姫様」と名を正しく呼んで、小説の架空の人物の金沢北条家の小桜姫と分けるべきだ。
もっとも、当時の女性が歴史書に名を残す事はほとんど無く、小桜姫の名が登場するのは明治時代の歴史ファンタジー小説❝桜の御所❞が最初なので、縁結びを姫君に御願いするなら「真里谷の姫様」に御願いするべきだろう。
ではどこに行けば❝三浦家の奥方様が逃げて来て敵に捕まった伝承の有る小桜姫神社のモデルに成った御社の所在地❞に行けるのか…
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明治時代に小桜姫神社のモデルに成った伝承の有る場所には、弁天洞を後にして、駐車場を戻る道すがら荒井浜の御洒落(おしゃれ)な海の家の前を通り、この新井城址を離れる必要が有る。

せっかく、小桜姫伝説(江原の嘘を含む)の場所に2箇所も関わったので、明治時代の小説❝桜の御所❞の流行で正しい小桜姫神社の❝小説のモデルに成った舞台❞として明治時代以来、地元の人々に認知されている正しい小桜姫神社にも入ってから横浜に帰る事にした。
正しい小桜姫神社の神社の位置新井城址周辺の位置関係 久良岐のよし
正しい小桜姫神社の場所は、三浦義意公の奥方が逃げて来た伝説の有る油壷湾と反対側の❝諸磯湾❞側の❝諸磯神明社❞だ。
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こちら側から湾を挟んで新井城址が見える。
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又、詳しく小桜姫伝説と小桜姫神社の真相の解説は独立記事にするが、今回は重要な事だけ書いて置こう。
江原は恐らく小桜姫神社を探そうとしたが、新井城址に神社らしいものが無いから弁天洞を小桜姫ゆかりの場所と紹介してしまったはず。
そりゃそうだ、小桜姫神社なんか昔から存在しないが、モデルに成った神社なら存在する。
だから小桜姫神社の名前を探しても見つからなかった筈だ。
しかも、明治時代の❝小説桜の御所❞の流行による観光客の増加で観光客に対応する為に小桜姫神社とされている場所も、この諸磯神明社の摂社の❝若宮社❞だから名前も根本的に違う。
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※写真は鶴岡八幡宮、神仏習合の名残で仁王像=金剛力士像が安置されたいたであろうスペースは廃仏棄釈により随神門と成っている。
※鶴岡八幡宮の東側、鎌倉国宝館や横浜国大付属小の場所は鶴岡八幡神宮寺の寺院部分だった。
※八幡宮の総本社、石清水八幡宮の本殿横には今も仏像を祀る部屋が現存し保存されている。
若宮社と言うのは、源頼朝公の時代の「鶴岡八幡宮」の事だ。鶴岡八幡宮は元々は❝元鶴岡八幡宮❞=❝由比若宮❞に在った。それを頼朝公が現在の鶴岡に社殿を造営し御遷座され奉ったので、当時の人から見て新しい鶴岡八幡宮は❝若い鶴岡八幡宮❞=❝若宮❞と呼ばれた。だから、この時代に関東で鶴岡八幡宮の御分霊を頂いて造営された八幡社は現在も名前を❝若宮八幡宮❞とか❝若宮神社❞と呼ぶ場所が多い。
しかし、八幡宮の御祭神は明治時代に成るまで❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の神宮寺だったので、歴代天皇家の価値観を否定する明治時代の国家神道による神仏分離令や廃仏毀釈と言う愚かな政策で、其の多くが破壊された歴史が有る。
だから、今残ってる八幡社の多くは御祭神の名前を❝八幡大菩薩❞から→❝八幡大神❞に変更して純粋神道の神様としたり、八幡大菩薩が習合された❝誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇❞の名を改めて主祭神とする事で存続させる努力をした歴史が有る。
だから、諸磯神明社の若宮社は❝小桜姫の神社❞とする事で存続を計ったのだろう…
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なので、世間で小桜姫神社と呼ばれるこの御社は❝小桜姫若宮社❞と呼ぶのが正しいと思う。
その御社は、諸磯神明社の本殿後方に並ぶ摂社の左側から二つ目の上の写真の御社だ。
これは、郷土史も読まないで適当な事を言う❝エセ霊能者❞には解らないし探し出せない場所だろう(笑)。
或いは本当に偽霊能者達に霊能力が有れば、ここを探し出せたろうに(笑)。

根本的な話しを強調し繰り返すが…
❝小桜姫❞と言う人物は歴史文献に一切出て来ないし、明治時代に成って初めて登場する名前だ。
史実では三浦義意公は、真里谷(まりやつ)武田家=房総半島の武田家の姫君が正室と側室として婚姻関係にあった。
この姫と、三浦家を攻めた北条家の立場を入れ替えて三浦家滅亡後に三浦半島~鎌倉を支配した北条家に逆襲し房総から攻め込んだのが正木家(三浦家分家)で、その合戦は❝鶴岡八幡宮合戦❞と呼ばれている。
この合戦や北条家と三浦家の立場を入れ替えて、かつ源頼朝公の桜の御所跡地に建つ本瑞寺のイメージと三浦義意公の新井城落城等を素材にして書かれたのが明治時代の小説❝桜の御所❞で、そこに登場するのが真里谷家の姫君と桜の御所のイメージをモデルにしたと思われる❝小桜姫❞と言う架空の人物な訳だ。
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※写真は城ヶ島の小桜観音。

だから、結婚したくて縁結びの小桜姫詣でをする女性陣には、いくつか諫言(かんげん)をしておこう
小桜姫の実家設定の金沢北条家は三浦義意公の生誕の約200年前に滅亡している、だから小説家も小桜姫を架空の人物でフィクションとして、色んな史実を混ぜて創作している事を念頭に置きなさい。

歴史家でも無いイカガワシイ人間が適当に書いた本を鵜呑みにしないで、自分で歴史書を読み込んで調べなさい。そんな姿勢じゃ❝ロクでも無い男に捕まる❞か❝結婚詐欺に遭う❞だろう。」

「確かに、弁天様や若宮社には御利益が有る、小説のヒロインの小桜姫の聖地(小説舞台)巡礼が流行したのが原因で、後に小説の存在と歴史を知らない後世の人によって、いつの間にか小桜姫が実在したと誤認される様に成ったが、実際には三浦義意公の奥方と側室の真里谷の姫がいたので、拝む事で真里谷の姫の御利益も得られるだろう。だから小桜姫の御名の下に縁結び祈願するなら小桜姫神社(神明社摂社社若宮社)で❝真里谷の小桜姫❞として拝みなさい。小桜姫と言う名が架空の名でも、正しい姓に美しい渾名(あだな)を加えるならモデルに成った真里谷武田家の姫様も喜んで願いを叶えてくれるだろう。」

油壷の弁天様は小桜弁天では無く弁財天なので❝弁財天❞として拝みなさい。

「普段から歴史や神様や先人に対して無関心な癖に願い事だけしている、その利己的な姿勢が出会いを遅らせるのでは?態度を改め、普段からの歴史と伝統を大切にして神社仏閣を御参りしなさい。」

「エセ霊能者に一々影響されず、利己的に縁結び巡礼するだけでなく、普段から自分の祖先神の氏神様と守護仏、或(ある)いは自分の崇拝する教会やモスクの神様を大切にして普段から信仰と文化と歴史を大切にしなさい。

まぁ、それだけ熱心に願掛けする情熱が有るなら、普通に普段から文化と伝統を大切にして、通りがかる神社仏閣を御参りしながら利己的な願掛けじゃなくて日常的に神様と仏様と御先祖様を大切にしてれば、歴史好きな男性や神職や跡取り和尚様等と知り合い、そこが男性との出会いの場に成るかもよ?

…そんな説教をしたく成る女性の何十人もの集団を見かけた三浦旅行最終日だったが、色んな神社の宮司様や御寺の和尚様と交流の有る歴史オタクの❝説教❞としてはそんな所かね。

帰りは横須賀PAで好物の日本蕎麦を食べて帰った。DSC_3598
信仰の在り方や、神社仏閣や先人に対する姿勢を考えさせられる最終日だったが、実際に廻った場所全て素晴らしく、行く先々で関わった人々も優しく親切で沢山色んな話を出来て良い三連休を過ごせた。

実は、神奈川県には日本の歴史上最長の4年間もの長期間に及んで継続包囲された城、つまり防御力に優れた堅城が存在した事を知る人は歴史オタク以外には現代では余りいません。
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その名も新井城です。
そして、この新井城は戦国時代の幕開けに関与した佐原三浦家の御城なのですが、その佐原三浦家の事と戦国時代が如何にして始まったかも学校では教えないの根本的に三浦家が戦国時代まで存続していて大名だった事すら知らない人が多いのですが…

神奈川県と東京都と埼玉県と千葉県

…この地域が戦国時代の始まりの地域である事を御存知の方は全国的には少ないと思います。
更に言えば、鎌倉市浄明寺地区が戦国時代の幕開けと成った永享の乱の舞台で有る事を知る神奈川県民も非常に少ないのが現実です。
そこで、新井城の風景写真を見る前に、先ずは当時の歴史状況を解説したいと思います。
足利持氏邸古址周辺 久良岐のよし
この戦国時代の幕開けに始終関与したのは鎌倉の将軍=鎌倉公方と、その鎌倉公方と対立したり支持したり離合集散を繰り返した2家の大大名と1家の大名です。
それが…

鎌倉公方足利持氏→鎌倉(古河)公方足利成氏。
二つ両引き
足利家の二つ両引き紋

山内上杉家:今の埼玉県北部~群馬県~新潟県の大名達を支配した室町幕府(京都の征夷大将軍)の直臣。
扇谷上杉家:今の神奈川県~東京都~埼玉県の大名達を支配した鎌倉府(関東東北を治める将軍)の直臣。
竹に雀紋
上杉家の竹に雀紋

三浦家:今の神奈川県中部~三浦半島が所領の大名で平安時代以来の古豪。
三つ引き両紋
三浦家の三つ両引き紋

…以上の大名達の政権争いに鎌倉公方の室町幕府将軍への反抗心が大規模な戦乱に繋がり、そこに室町幕府の将軍に成る権利をクジ引きで引き当てた足利義教と駿河今川家の介入が加わった事で、今度は関東の武士団が反上杉独裁体制で蜂起し鎌倉公方足利持氏公に加担し、戦国時代の幕開けと成りました。
この政治的要因の舞台が鎌倉に在った事の他に、戦国時代が始まる切っ掛けは日本産の銀相場の世界での暴落、地球規模で気候が小氷河期の様に成り作物が取れなかった事も関係が有りました。
つまり纏めると…
戦国時代は、以下の様にして起き段々と西日本へと波及して行きました。
小氷河期で作物が取れず政治が乱れていた時に、足利幕府征夷大将軍4代目の足利義持公の急死で、くじ引きで将軍に成った足利義教への諸大名の不支持。それに因(よ)る鎌倉公方足利持氏と征夷大将軍の対立。
征夷大将軍と鎌倉公方をそれぞれ支持する大名同士の対立。
銀相場の下落が、貨幣価値の混乱を招き、庶民が土蔵(両替商や金貸し)を襲った❝嘉吉の土一揆❞や、応仁の乱の京都市街戦で関西中部中国地方の武士による京都の商人や寺院への略奪で、経済の疲弊した馬借(陸運の物流商人)や寺院と庶民が権利回復の為に連合して起こした❝山城国一揆❞等に繋がって行きます。
三浦家勢力 久良岐のよし
※地図上の城は大まかに有名な場所だけ表示。
そんな戦国時代に最も早く入り、領土争いを繰り広げたのが伊豆の伊勢家(後の北条氏)と、現在の伊勢原市~三浦半島辺りまで支配していた三浦家の抗争です。
この抗争の発端は、古河公方と今川家の外交戦略によって起きました。
今川家と今川家臣だった北条(当時の姓は伊勢)家は、永享の乱で室町幕府に滅ぼされた鎌倉府公方足利持氏公の遺児で古河公方と成り、今の埼玉県の久喜市栗橋に在った栗橋城や古河城に居た足利成氏公を支持していました。
永享の乱については以前、榎下城の紹介記事にも少し書いています。
※永享の御興味有る方は「ココ」←クリックして榎下城の記事を御覧下さい。
鎌倉公方足利持氏公は切腹させられたものの、遺児の成氏公は後に幕府の8代将軍足利義政公により承認され鎌倉公方に成りました。しかし、御父君を切腹に追い詰めた関東管領上杉家との対立は解消されず、その後、関東管領上杉家連合vs鎌倉(古河)公方足利成氏連合の大規模な戦争に発展します。
それが、❝江ノ島合戦❞です。
この戦いでは鎌倉公方郡に付いた関東諸大名の活躍で、上杉家連合軍は敗北します。
そして元は鎌倉公方派であった扇谷上杉家が、山内上杉家と再び対立する事と成り、扇谷上杉家は古河公方に近づき、今川家と伊勢(北条)家も古河公方を支持しています。
その事が伊勢家が、古河公方と対立する伊豆の堀越公方を責める大義名分と成りました。
しかし…
二つ両引き竹に雀紋
しかし後に、古河公方と山内上杉家が和睦してしまった事で、山内上杉家が支持していた堀越公方から伊豆を奪った伊勢家は、伊豆支配の大義名分が無くなりかねない事態に陥りました。
それまでは三浦家と伊勢家は共に山内上杉軍と戦う事も有る盟友だったのですが、対立せざるを得なくなった様です。
二つ両引き竹に雀紋三つ引き両紋
    VS
 三つ鱗紋
伊勢家は伊豆支配の正当性を主張する為(ため)に鎌倉幕府執権北条家の伊豆に残っていた一族に婿養子に入る形式をとり名跡を継ぐ事で、その支配の正当性を保ちました。
これが、切っ掛けで伊勢家は2代氏綱公より北条氏綱を名乗る事に成り、1509年に古河公方足利家の内紛、❝永正の乱❞が勃発した混乱の中で、今川家からも独立し単独で大名と成り、領土を相模国へと広げて行く事と成り、岡崎城を巡って三浦家と北条家が争って行く事と成りました。
そこで、もう一度、この時点での神奈川県内の各大名の支配する城を見てみましょう。
三浦家勢力 久良岐のよし
この頃、上杉家も伊勢原市や厚木市に拠点が点在し、三浦家の拠点も岡崎城まで保持しています。
しかし、岡崎城を巡る攻防は断続的に10年間続いた後、等々、北条家によって陥落させられて、三浦家は東の今の三浦半島の付け根に位置する逗子市に在った住吉城にまで後退します。
この岡崎城も又、断続的とは言え名将北条早雲公が攻略に10年を要した事から日本屈指の堅城だった事が窺(うかが)い知れます。
※以前書いた岡崎城の解説ブログ記事は「ココ」←クリック!
更に住吉城も落とされると、最後は新井城に追い詰められ、ここで日本最長の4年間も三浦家は包囲されたまま過酷な籠城戦を展開します。そして、その新井城の堅城ぶりと、鎌倉武士三浦家臣団の維持と強さを見せつけて滅ぶ事に成る訳です。

…ここまでで、新井城を巡る攻防が如何にして発生したか、歴史背景は御理解頂けたでしょうか?
では、次は新井城その物の構造について写真と伝承を交えて解説していきます。
新井城は、三浦半島の特殊な断崖と谷戸に何重にも囲まれた細長い自然地形に手を加えた堅城で、その谷間は並みの城の空堀では到底及びもつかない深さを誇っていました。
DSC_0192
今でこそ、御覧の様に浜辺に❝磯❞が見えていますが、これは大正時代に起きた関東大震災の際に三浦半島が最小でも50cm隆起した事で、戦国時代の海底が露(あら)わに成っているんですね。
…つまり、昔の三浦半島の地形は、入江の一部を除いては断崖雪壁の下は本当に上陸する余地も無い海だった訳です。
しかも
新井城址の主要部分は現在の油壷湾の所在地、京急油壷マリンパークや東京大学大学院理学系研究科付属臨海実験所(地震観測所)の在(あ)る半島一帯です。
荒井城主の佐原三浦家は平安時代~の関東流の築城術を受け継いでいます。
他地域では余り無いのですが、関東流の築城術では山の尾根の崖の両側を垂直に削り込み、通路幅の狭い城壁の様に加工してしまうので、この様な断崖絶壁上の起伏を削り、隘路(あいろ)に敵を誘い込み、或いは空堀で遮断し、断崖から敵を突き落としたり逃げ場の無い場所で弓矢を射掛けてハリネズミにし敵を殲滅する構造が幾重にも設けられていた訳です。
そして極め付けが、敵勢の侵入を防ぐ何重にも設置されていた断崖絶壁に掛かる引橋です。
引橋の位置は、現在に伝わる伝承と残存地形から十分把握出来ます。
三浦子供風土記
この資料は、三浦市教育委員会が編纂した❝三浦子供ふど記❞と言う本です。
三浦市の教育委員会は素晴らしいですね、土地を開発する際もちゃんと事前に調査をして建設会社に有利な嘘の報告をせず、先人へのリスペクトと地元の伝承を後世に伝える努力を為(な)さってる。
全く歴史のスペシャリストをメンバーに入れない史跡破壊容認が得意な金満土建屋のお友達、横浜市教育委員会とは大違いだ。
さて、この三浦の歴史を子供にも解る様に纏(まと)めた本の中に、新井城の構造に触れる伝承が沢山掲載されています。
先ずは、城の守りの要、大きな空堀状の渓谷の交通を遮断する❝引橋❞は数カ所有った事が解ります。
一番外側は現在も❝引橋❞の地名が残っています。丁度、その場所には現在❝引橋❞のバス停が有る辺りです。
そして、伝承の❝合戦場(江戸時代の城の三の丸の様な場所)❞の前に、伝承通り堀切状の地形が残っている事から、そこが❝内の引橋❞で有る事が解ります。
外側の引橋には、昔、人の良い老夫婦が住んでいて、北条家の偵察と気が付かずに、そのスパイに色々と新井城や三浦家の殿様の自慢をして話してしまったそうです。この老夫婦は、北条家が攻めてくると自分が話した相手が北条家のスパイだったと気が付いた様で、「三浦の殿様に申し訳ない事をした」と後悔して夫婦で自害してしまった悲しい伝承が残っています。
実は類似した伝承が扇谷上杉家の居城の一つだった藤沢市大庭城近くの船地蔵地区にも残っていて、やはり北条家のスパイが老婆に根掘り葉掘り、城の構造を聞き出したそうです。
…ですから悲しい御話しですが、引橋の老夫婦の伝承は実話でしょう。
どうも、生粋の相模国人の気質と言うのは老人程郷土愛が強く成り、又親切心が強くおしゃべりな様ですね。

では、引橋と新井城主要部分の位置関係を見てみましょう。
新井城周辺 久良岐のよし
小生が確認出来ただけでも、最低4カ所は大堀切と引橋の遺構と思われる地形が現地確認出来ました。
先ず、【引橋&堀切地形】と書いた場所が該当する地形です。
大外側、が(1)とした部分で、そこの辺りに戦国時代に老夫婦が茶屋を営んでいた様ですね。
段丘に登って来る渓谷が幾筋も、その(1)の地形に集まっていますので、現在のバス停の名称「引き橋」とも整合性が有ります。
ついで、❝内の引橋❞と呼ばれる場所が(4)と示した場所です。DSC_0187
この現在は遊歩道の入り口に成っている、元・東大の地震観測所の入り口の手前に、記載通り、内の引橋の堀切と思しき地形が在ります。
DSC_0186
ね?当時かなりの深さの空堀が穿ってあったのが現在も判断できる地形です。
反対側はこんな感じ…
DSC_0185
やはり、谷間です。この現在の道路は、後世埋め戻されたんでしょうね。
しかし、この2カ所以外、その手前にも道路として埋め立てられたと思(おぼ)しき両側が堀切状の地形が2箇所有りました。それが(2)(3)です。
又、不明瞭ながらも堀切と怪しい地形も他に幾つか有りました。。

話題は逸(そ)れますが、この本の堀切の老夫婦の伝承を紹介している❝三浦子供ふど記❞中で戦国時代三浦氏の祖先として解説されている佐原義連(さはらよしつら)公は源義経と源範頼兄弟による今の神戸に在った福原攻めの際に、有名な作戦❝鵯越の逆落とし❞を立案し提言した軍師だった事が伝わっています。因みに、この作戦を成功させた功績も源義経では多田源氏の多田行綱公の実績だと現代では解っています。
堀切の説明はココまでにして…
城址の訪問方法と景色の紹介をします。
城址を訪れる場合は最寄駅からバスか、車で行く事に成ります。
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この看板の通り、油壷マリンパークの駐車場が便利です。
小生は現在地と書かれた無料の駐車場を利用しました。
ここにバス停も有ります。
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便数が以上に少ないので、電車バスで行く人は気を付けた方が良いですね。
因みに、この場所には売店が在りまして…
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この売店「はっとり」さん。
この看板娘の御婆ちゃんが三浦家の事を非常に御詳しく、三浦道寸(どうすん)公と三浦義意(よしもと)公の御廟所の場所を聞こうと思って話しかけたら…
歴史オタクの小生が話す前に、御婆ちゃんの口から出るわ出るわ、三浦家関連の拠点の話や三浦家の殿様が何で最後まで抵抗したかの理由なんかが。
…三浦の人は今でも郷土愛が強いんだね~。
だから、ユネスコに世界無形文化遺産登録された❝チャッキラコ❞って御祭りも現在に残っていたりするんだろうね。
そして、なんだか引橋の伝承の老夫婦も、この御婆ちゃんみたいな感じの優しい人だったのかも知れませんね~。
※世界無形文化遺産の御祭り❝チャッキラコ❞に関しては「ココ」←クリック!

さて、御城の解説の続きです。
ぶっちゃけ、城址としては遺構は余り現存していません。
しかしながら、先に紹介した❝内の引橋❞から遊歩道に入ると、いくつかの遺構が見られます。
DSC_0184
この場所の奥の左側に民宿等の看板が有ります。
DSC_0187
ここを入って下さい。
ここに入ると、神奈川の景勝50選の油壷湾を望むポイントに行けるのですが、そこまで行く手前に東大の研究施設の門が有ります。
DSC_0188
確認するには油壷の半島と反対側に行かなければいけないのですが、伝承では、この東大の施設沿いの遊歩道下の岸壁の中腹に穴倉が有るそうです。
その穴が❝千駄矢倉(せんだやぐら)❞と言われており、兵糧が貯蔵されていた遺構だそうです。
岸壁に矢倉を組んで穴を改修して穴倉として利用したんですね。
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この崖下に穴倉が有るらしい…
三浦市教育委員会の解説によれば、一駄は米2俵だそうで、つまり千駄とは米2千俵を貯蔵した場所と言う意味に成る様です。

2千俵を石高に換算して見ましょう。
1石=米俵で2.5俵です。
ちなみにkgに換算すると、1石で❝150kg❞です。
そして荷物の単位の1駄とは、輸送に使う馬に乗せれる量の単位で、米俵で2俵。
千駄=2000俵の米俵
2000俵÷2.5=800石
つまり、補給路が立たれても800石の臨時食料が保管出来ていた訳です。
小生の様な歴史好事家(オタク)でもないと石高で言われてもパッとしないでしょう?
では石高を動員可能兵力に換算して考えてみましょう。
だいたい、1万石で雇用可能な兵力を元にして考えると一般的な定説では以下の様に成ります。
防衛時…1万石=500人前後
遠征時…1万石=300人前後
では、これを元に800石で、どれくらいの兵力を雇えるか計算してみましょう。
新井城の戦いは城主三浦家が防衛側です。ですから防衛側動員数の基準です。
1万石=500人 800石=1万石の8% 500人×0.08=40人…
40人とか少なッ!
…と思った人!別に、この蔵の中の米は全兵士を養う為(ため)じゃなくて、非常食兼、城主と城詰めの職員の常備食ですからね!
戦時下では、各部隊がそれぞれ兵糧を持参しています。

米の話が出た所で、「何で4年も籠城出来たの?」と疑問が湧くでしょう?
それはですね…
新井城の地形 久良岐のよし
新井城の所在地は、現在でも御金持ちのヨットハーバーが有る港湾に適した地形なんですね。
だから備蓄米が底を突いても、水軍を保有する協力者が居て外部から食料と弓矢を補給し続ければ、勝敗が着くまで何年間でも籠城が可能に成る訳です。
そして、この新井城址には昔から民家も有ったので、恐らく塩水じゃない飲み水に適した淡水が湧く井戸が有ったのでしょう。

では、この新井城の三浦家を支援する同盟関係に有り、尚且つ三浦半島周辺を自由に航行出来る水軍を持つ勢力はいるのでしょうか?
新井城と房総の位置関係 久良岐のよし
います。
二つ両引き二つ両引き紋
この足利家の家紋を持つ三浦家の同盟者が房総半島の岡本港を掌握しています。
その名も❝里見家❞ですね。
この里見家は現代で言う所の小説家に当たる江戸時代の❝曲亭馬琴❞が書いた❝南総里見八犬伝❞のモデルに成った家でもあります。この南総里見八犬伝はバブル時代に❝里見八犬伝❞として薬師丸ひろ子サンと真田広之サン主演で映画にも成っています。
里見八犬伝
う~ん…薬師丸ひろ子サンが若くて可愛い。
この里見家と三浦家は協力関係に有ったので、房総半島の穀倉地帯から絶える事無く兵糧が運び込まれた訳です。
因みに、この新井城の攻防が因縁と成り、その後、小田原を本拠地にする北条家と里見家は戦国時代が終結するまで対立する事に成りました。
さて、この新井城が長期籠城に耐える地形的政治的条件に合致していた事が、ここまでの説明で御理解頂けたでしょうか?

では防御施設その物の遺構の有無を見てみましょう。
ぶっちゃけ、土塁や空堀の遺構が現存するハズの東京大学の敷地は当然無許可で入れません。
しかし、曲輪の遺構と思しき盛り上がりのある地形は数カ所見て取れました。
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東京大学の敷地に入る裏口側は、堀底道を利用した?と思える地形でした。
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この空堀状の地形が現代に設けられた地形だとしても、両横の曲輪遺構と思しき台地状の地形はハッキリと残存していますね。
入らなくても、遠目にいくらか確認出来ます…入りたい。今度、東京大学に予(あらかじ)め連絡して許可を貰って見学させて貰おう。
三浦市の教育委員会は歴史の伝承に熱心なので、ちゃんと遊歩道には説明の看板が有ります。
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先に説明した関東大震災の事が書かれていますね。
この隆起した元海底の地形は、遊歩道から下の海岸に降りると見られます。
地形は【後編】で「神奈川の景勝50選油壷湾」と周辺の風景紹介として別記事に書きますね~。
他に丁寧にも説明が幾つも有ります。
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これは神奈川県民の中の歴史好きに有名な話。
油壷の地名の由来。
…実は、4年間の合戦中に戦死した兵士の死骸が現在の油壺湾に満ち満ちて、血油で丸で油の壺の様な風景に成ってしまったそうです。
防衛側も敵味方問わず戦死した将兵の遺骸を城内に置いておくと伝染病が蔓延してしまうので、当然放置できないので海に投げ入れて水葬したりしたんでしょうね。4年間も籠城戦をやれば結果的に、伝承通りに成ると思います。
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まぁ、そんな凄惨な攻防戦が行われた新井城址ですが、風光明媚で昭和には神奈川の景勝50選の一つに選ばれた場所なので、明治時代の文化人達からも愛された様です。
DSC_0205
さて、遊歩道を進むと二手に分かれますが…
DSC_0207
直進すると引橋の遺構の様な地形が有り、その先には狼煙台か何かに使えそうな地形が有ります。
この↓奥のこんもりした森ね。
DSC_0214
戦国時代当時は、この砂浜は海の底で、その森は小さな半島が堀切で断ち切られて離れ小島状の地形だった筈です。
新井城 狼煙台と思しき地形周辺 久良岐のよし
位置関係はこんな感じ。
まぁ、城址としての遺構は概ねこんな所でしょうか?
あと、一カ所、当時の退避用の船着き場と思しき地形が、三浦道寸公の御廟所近くに在りました。
位置は上の画像で確認して下さい。
DSC_0227
この京急油壷マリンパークのゲートを通らず、反対側の海岸に降りる遊歩道の先に在ります。
DSC_0231
この遊歩道を歩いて行くと、道寸公の御廟所の説明が有ります。
DSC_0230
この看板の先…
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ここが三浦家最後の当主、道寸公の御廟所なのですが、この地形も城塞の一部だった筈です。
この御廟所の右手が竪堀の様な地形で海まで下る斜面に成っています。
DSC_0232
この右の斜面。
当時は海面が今より高かった上に、大正時代の隆起で三浦半島は戦国時代より50cm隆起したので、その場所は昔は海に降りる斜面で、隠し船着き場かなんかだった様に思えます。
そして、この道寸公の御廟所が、正に、切腹の場所で有り、三浦道寸の跡継ぎだった猛将❝三浦荒次郎義意❞公の❝300人切り❞の活躍の場だと思います。
余談ですが、❝荒次郎❞と言う名前は平安時代から三浦家の次代の跡継ぎに成る人物が名乗る名前でした。
新井城で活躍した三浦義意公は、生粋の平氏の子孫の三浦家では無く、父の代に扇谷上杉家から三浦家に養子に入った人物でしたが、荒次郎を名乗っているので三浦家の伝統をちゃんと受け継いでいた様ですね。
実は、三浦義意公、刀や弓や槍では無く、木の棒に鉄板と突起を付けた棍棒状の武器で、最後の戦いで北条方の兵士300人を殴り殺した伝説が残っているんです。
この伝説も、普通に考えると嘘くさいのですが、この新井城の地形を利用すると可能に成る訳です…
つまり、敵兵が1人づつしか通行出来ない引橋や隘路の上で、長大な❝釘バット❞で殴り殺すのではなく❝海に叩き落とす❞戦術を取れば300人倒す事も現実的に成る訳です。
昭和世代には解ると思いますが、昔、❝風雲たけし城❞と言うバラエティー番組が有りましたよね?
風雲たけし城アドベンチャーゾーン 拝借画像
アレのリアル版ですよ。
細い道を落ちたら浅い安全な池じゃなくて…
30kgの甲冑や刀装備したまま海に落ちて溺れ死ぬ。
鉄の釘バットで殴打されても顔面や手や肩が骨折して悶絶する。
凄惨な風雲たけし城。
※風雲たけし城を知らない世代はYoutubeで検索して見て下さい。
…まぁ、バラエティーはさておき、義意公が何で一人で戦う様な無茶な事をしたのかも、現代に成っても地元にはちゃんと伝承していました。
その活躍を語るに当たり、最初の方で紹介した、御土産屋さんの御婆ちゃんの御話を紹介したいと思います。
その御婆ちゃんの新井城の戦いに関する御話はコンナ感じでした…

「三浦家の殿様が何で逃げずに最後まで残ったか解るかい?」
「三浦家の殿様は、女子供や罪の無い身分の低い家来を全員船で房総半島に逃がす為に最後まで残って戦ったんだよ」
「今でも、その時に殿様に逃がされた家来の子孫達が日本中から御墓参りに来るんだよ」
「7月11日に成るとね、命日だから、又御墓お掃除しなきゃね~。」

その、御婆ちゃんが掃除すると言っていたのが先程紹介した道寸公の御廟所と、義意公の御廟所です。
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義意公の御廟所は、冒頭で掲載したこの写真の場所の横です。
親子で少し離れた場所に在るんですね。
小生、この御婆ちゃんの話を聞いて、自分が文書を読んで予想した事と、地元に伝わる伝承が合致してビックリしました…
「切腹したり逃げずに一人で戦うような無茶な事をするからには、何かを守る為に戦う以外に無い!」
…小生はそう推測していました。
それが、御婆ちゃん達、三浦家所縁(ゆかり)の地元の人々にちゃんと伝承していて、❝戦争に成った責任の無い身分の低い家来や女子供を逃がす為に最後の決戦に挑んだ❞と解り、小生の推測が伝承で証明された訳です。
この話を聞いて、帰路、車を運転しながら泣きました。
「最後の一人が逃げるまで、僅かな近習(きんじゅう=近衛兵)と共に敵兵に挑み、守るべき人達が逃げ切ったのを見て敵に突撃し討死した」殿様の気持ちを考えるとスンゴイ泣けました。

そしてこうも思いました。
神奈川県には源義家公や源頼朝公、平良文公や鎌倉景正公や三浦義明公、太田道灌公や北条早雲公や北条氏康公、北条綱成公みたいな有名な武将も沢山いらっしゃったけれど…
この三浦荒次郎義意公の事も、それと同じ程、後世に伝えて行かなければいけない、そんな名将だなと。
必ず、横浜の間宮家や蒔田吉良家や宅間上杉家の殿様達の事と、この三浦義意公の事を小説や顕彰文に起こして世間の人に再認識して貰う手助けや、御祭りを企画運営して地域産業としても殿様の名前を借りて三浦の油壷地区の町起こしを企画して、伝統に成る様な殿様の名前と事績の伝承の伝え方を創生したい。
そう感じた訪問でした。

【後編】油壷の風景は「ココ」←クリック!

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!






  


神奈川県伊勢原市には、名将北条早雲(ほうじょうそううん)こと本名:伊勢盛時公が攻略に11年もかかった岡崎城と言う鉄壁の城が在ったのを皆さん、御存知でしょうか?
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その御城の本丸跡は、現在、無量寺と言う御寺と2軒の民家に成っています。
この岡崎城、実は小田原城や玉縄城や新井城と並ぶ鉄壁の城でした。
…と、言っても戦国時代の先進地域が中部地方と大勘違いをしている戦国マニア初級の人も多いと思うので、少々説明をさせて頂きます。

実は関東地方は京都で応仁の乱のが収束し始めた頃、近畿地方や東海地方よりも先に戦国時代に突入してしましました。
当時は室町時代で、京都では室町幕府将軍が東海地方と信濃国を含む西日本を治めていましたが、東日本は鎌倉府と言う行政機関が現在の鎌倉市に別に置かれ政治が行われていました。
鎌倉府の行政区域は広大で、最大で駿河国より東側の伊豆国・信濃国・越後国以東~関東東北が統治範囲でした。
その長官が関東の将軍格で鎌倉公方と言われた人物でしたが、足利持氏と言う鎌倉公方が、くじ引きで京都の征夷大将軍に成った足利義教公と対立した❝永享の乱❞で敗北し自害したのを最後にして、関東の首府だった鎌倉府は滅亡する事に成ります。
鎌倉府周辺史跡 久良岐のよし
鎌倉府の所在地は現在では詳細に知る術(すべ)は有りませんが、鎌倉公方の居館の在った場所には現在も石碑が建っています。
その場所は鎌倉市の浄明寺(じょうみょうじ)地区と言う場所で、とても文化史跡の豊富な景勝地でもあります。
室町幕府よりはるかに昔の、まだ鎌倉幕府が存続していた時代からの足利家の氏寺であり、紅葉の名所の❝浄妙寺(じょうみょうじ)❞と言う御寺…
後の将軍足利尊氏公の祖父に当たる足利家時公と尊氏公の従兄の宅間上杉重兼公が開基(かいき=建設)した❝報国寺❞と言う竹林で有名なミシェランガイドで☆3つ評価された御寺や…
更には現在は通行止めですが、景勝地として有名だった❝釈迦堂切通し❞と言う御寺が在ります。
2008-12-12-14-46-45
足利持氏公はこの浄明寺地区で蜂起(ほうき)して京都の征夷大将軍足利義教公と相争い、結果敗北し、横浜の景勝地で武家初の図書館として有名な金沢文庫を有する金沢区称名寺に隠居します。
しかし将軍足利義教公の怒りは収まらず、鎌倉公方足利持氏は東京都世田谷区の永安寺に移送されて後に自害に追い込まれました。
この一連の事件を❝永享の乱❞と呼ぶ訳ですが、足利持氏の遺児の足利成氏(しげうじ)公と、京都の将軍の息のかかった関東管領山内上杉家が利根川水系を境目に関東を東西で割る形で対立すると、足利成氏方は現在の古河市に在った古河城を拠点に、山内上杉家と合戦を繰り返し関東は騒乱の時代に入りました。
この足利成氏公の一連の事件を❝享徳の乱❞と言いますが、すなわちこれが関東が他地域より早く戦国時代に突入する事に成った原因でした。

そんな戦国時代を早く体験する事に成った関東地方では、北条家の小田原城に代表される関東流の築城技術や太田道灌公の主君扇谷上杉家に見られる自然地形を利用した堅城がいくつも築かれ、同時期の西日本とは比較にならない長期間の籠城に耐えられる城がいくつも登場しました。
その一つが、この堅固な岡崎城でした。
岡崎城3
これは田中祥彦さんと言う方が作成された岡崎城址主要部分の復元縄張り図です。
現在では大部分の保護が怠られたので、このまま残っている訳ではありませんが、元の地形が見てとれる部分も多く有ります。
実は現在の皇太子殿下が学生時代に、この岡崎城址を御見学にいらっしゃっていて、殿下のみならず本当の戦国時代の歴史好き城好きには有名な城なんですね。
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これらの看板は無量寺の入り口に掲げられています。
この看板の説明を読んで頂ければ、この城の重要度がそのまま解ります。
小田原城発展以前の相模国の中心的な役割を果たした城は、この岡崎城だったんですね。
そして当時としては規模も最大級の城域を誇っていました。
では、先程紹介した田中氏作成の岡崎城主要部分と、周辺の出城群を現在の衛星写真に張り付けた画像と、そのままの衛星写真で比較してみましょう…
岡崎城縄張り図全体像衛星写真
これは現在の衛星写真です。これを見ても何処が城跡か解りませんが、実はこの広大な範囲の大半が岡崎城城塞群でした。
岡崎城縄張り全体像
この画像中、赤い線で記されているのが岡崎城の空堀や曲輪(くるわ=兵士が守備するスペース)の遺構です。
凄まじい範囲ですね。
そして、この城塞群の周辺は深田や土腐(どぶ)化した湿地帯に囲まれていて、攻城側は不用意に近づこうものなら足をとられ歩行不能に成った所を、瞬く間に守備側の兵士から弓箭で射殺されてしまいました。
それだけではなく、この城址の主要部分は超複雑な構造の空堀群が入り組んでいて、この構造は上杉家をはじめとした関東在地の大名によって発展させられた自然地形を加工し敵を空堀に引き込み、曲輪上から弓矢の雨を降らせ敵を殲滅する構造でした。
何故、この辺りが土腐だったかと言うと、それは縄文時代には周辺は海だったので弥生時代ぐらいから段々と海岸線が遠のいて行きましたが、湿地として名残があったんですね。
ですから前回の記事で紹介した同じ伊勢原市の高部屋神社でも太古の昔から明治時代に成るまで続いた❝汐汲み神事❞と言う宮司が海で海水を汲む行事が続いていたりもしました。
…幕末も伊勢原市は海から10km以上内陸でしたよ勿論、でも神話の時代の地形で行っていた行事を歴代宮司さんが明治の国家神道成立で中止を余儀なくされるまで守っていたんですね。
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ところで、この岡崎城は平朝臣三浦家一門の岡崎義実(おかざきよしざね)公が最初の築城者で城主でした。
この岡崎義実公の御父君も歴史に名を残した武将で、名を❝三浦義継❞とおっしゃる武将でした。
三浦義継公の代から三浦郡知事に当たる三浦介(みうらのすけ)の官職名から苗字を三浦と正式に名乗る様に成り、以後、三浦一族は子孫に多くの戦国武将や大名を輩出する事に成りました。
※三浦一族の記事は下のリンクから御覧下さい。
●三浦家の菩提寺横須賀市の❝清雲寺❞の記事は「ココ」←クリック!
●平安~鎌倉時代の三浦家の居城❝衣笠城❞の記事は「ココ」←クリック!
●鎌倉御家人達から武士の鑑(かがみ)と崇拝された三浦義明公の菩提寺❝満昌寺❞の記事は「ココ」←クリック!
●三浦家と多くの坂東平氏系大名祖先の平良文(たいらのよしふみ)公の御廟のある❝二傳寺❞の記事は「ココ」←クリック!
岡崎義実公は、源頼朝公と、その御父君の源義朝公に忠義を尽くした武将で、義朝公が❝平治の乱❞で敗走した先の今の愛知県知多半島で部下の長田忠致(おさだただむね)に裏切られ殺害された際に、現在の鎌倉市に在る寿福禅寺の場所に義朝公の菩提を弔う為の御廟を建てられた逸話が残っています。
旧岡崎城域に当たる、無量寺から北に徒歩8分位の場所に在ります。
岡崎城 岡崎義実公御廟所位置 久良岐のよし
もし、岡崎城址見学に来られた際は是非、御参りして神奈川県や武士文化の発展の基礎を築く一端として活躍された事を後輩として御礼されては如何でしょうか?
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現在では参拝客も少ない義実公の御廟所ですが、皇太子殿下はこちらにもいらっしゃっています。
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…殿下、歴史オタクなんでしょうか(笑)?
もし殿下が歴史オタクなら不敬かも知れませんが…
なんだか嬉しいなぁ~神奈川県の歴史に興味ない人は地元の人も知らない名将と名城の古址を訪れて下さった事は神奈川県民として非常に名誉だ…
実は皇太子殿下は、宅地開発が進み完全に消滅の恐れの有るJR大船駅近くの名城玉縄城の保護活動にも御参加下さった事が有ります。
…同じく県下で有数の規模を誇った扇谷上杉家の糟屋館や笹下城、蒔田城や青木城を破壊しつくした神奈川県教育委員会歴代幹部は恥知らずだと思います。
少しは神奈川県の城址や偉人の史跡に関心を御持ちの皇太子殿下を見習って、神奈川県教育委員会や横浜市教育委員会は己等の所業と不見識を恥じて頂きたい。
これは笹下城の完全破壊を土建屋に実行する認可を与え、更には扇谷上杉家の巨大城郭遺構の糟屋館跡に県道を作り破壊しようとしている黒岩県知事にも言いたい事でもあります。

さて、岡崎城に話を戻します。

戦国時代に、この岡崎城を拡張し戦国の城にしたのは佐原三浦家でした。 三浦家平安~鎌倉時代の城塞群 久良岐のよし
上の衛星写真に表示した城は、いずれも平安~鎌倉時代の三浦一族の城址です。
衣笠城を三浦本家が拠点にし、その麓まで当時は現在の川沿いに入江が入って来ていて、三浦水軍の拠点に成っていました。
その為に、三浦家で最も有力者だった和田義盛公の居城だった怒田城(ぬまたじょう)城址の麓の地名は今でも❝船倉❞と呼ばれています。
佐原三浦家と言うのは、現在の三浦半島の横須賀市佐原に在った佐原城を本拠地にした三浦家の分家の佐原家が、三浦本家滅亡後に三浦姓に復姓して三浦宗家と成った家の事を指します。
佐原家は歴代名将が多く、源義経が今の神戸市に在った平氏の拠点❝福原❞を攻めた❝鵯越の逆落とし❞は佐原家初代の佐原義連(よしつら)公の立案です。
それを実行に移したのは、兵庫県出身の武将の多田源氏の惣領❝多田行綱❞公と伝わっています。
源義経は本当に部下(与力)の手柄を自分の手柄の様に報告したカスだった様ですね…
因みに、多田行綱の関東での居城と伝わるのが、以前紹介した横浜市都筑区の茅ヶ崎城です。
その茅ヶ崎城の裏に在る正覚寺は関東での多田行綱公の菩提寺と伝わっています。
※茅ヶ崎城の記事は「ココ」←クリック!
この佐原三浦家の子孫に当たる武将が房総半島の槍大善こと正木時茂(ときしげ)公であり、佐原三浦家を継いだ養子の三浦道寸(どうすん)公は北条早雲公と相模国の覇権を争って、この岡崎城に籠城しました。
更に道寸公の嫡子三浦荒二郎義意(みうら あらじろう よしおき)公は、三浦半島の現在の油壷マリンパークに在った新井城の最後の戦いで、一人で500人を打ち取った豪将として名を馳せました。

そんな歴史上の多くの名将が関わった岡崎城址、神奈川県教育委員会の怠慢で破壊されていますが、実は部分的には当時の地形も見え、更に完全に残っている曲輪もいくつか有ります。
例えば…
岡崎義実公の御廟所から無量寺に帰る途中に、❝喰い違い虎口❞と、その❝土塁と空堀❞の遺構と思われる畑地と農道を通りました。
❝虎口❞と言うのは、小口とも書きますが城兵が安全に出撃したり敵兵の侵入数を制限し立ち往生させ射殺する施設で、多くの場合は城門が置かれていました。
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青く光っている場所が、小生が観察写真を撮影したポイントです。
上に無量寺が見えますので、位置関係は無量寺を起点にして探してみて下さい。
このポイントで撮影したのが下の写真です。
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右手には曲輪の遺構の小さな丘が保存状態良く現存しています。
その間をS字クランクで抜けるこの農道の左右には明らかに空堀の遺構である畑地が有ります。
そして農道のクランク左手(城外に向く側)には土塁遺構と思われる盛り上がりも有りました。
或いは、このクランク自体が土塁で右手の空堀状の畑地は右手上の曲輪下の❝帯曲輪(おびくるわ)❞だった可能性も有ると思います。
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小生の様な歴史好事家(こうずか=オタク)や御城ファン以外には只(ただ)の畑地でも、我々には完全に空堀か帯曲輪だと断言出来る保存の良さですよ本当。すごい!
この喰い違い虎口跡の可能性が高い場所の右手曲輪跡の藪の中に入って見て下さい… 2016-01-03-16-26-24
上の写真の位置に行くと、下の写真の明確な堀切の遺構が見れます。
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凄いでしょ?
結構残ってますよ!岡崎城の遺構!
この一帯をちゃんと整備し、柵や木盾を押し並べ、堀底に逆茂木を敷設した城址公園化したら有料でも御城ファンが散歩に来て、ドラマの撮影場所にも使え観光と史跡保護の一石二鳥に成ると思います。
さて、先にズンズン進みます。
この農道を先に進むと、岡崎城址本丸の無量寺裏の連郭式の三連曲輪が見られます。
岡崎城三連の曲輪
あくまで、義実公の御廟側の農道から来て下さい。
無量寺サンの直ぐ裏ですが、無量寺側からは侵入できないようにロープが張って有ります。
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三連の曲輪の空堀から見た曲輪遺構。
この反対側は無量寺。
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だから無量寺にある城山稲荷大明神の裏っ側が見える…
小生が上の写真を撮影したのは下の青い点の場所。
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緑の線が農道ですね。
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曲輪にそって堀底道が続きます…
空堀も埋まってしまい大分と浅くなり、普通の人には只の農道にしか見えないでしょうね。
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でも人工的に削岩された形状が素人目にも判(わか)ると思います。
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曲輪の上にはきれいな水仙も咲いていました。
なんだか、城跡と水仙て関東では良く見る組み合わせなんですねよ。
偶然だと思いますけれど。
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可愛い…
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上の場所で水仙が咲いていました。
訪問は1月2日でしたが、その先、三連の曲輪の2つ目の曲輪の端っこには、綺麗な紅葉も見られました。
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その下には真ん中の曲輪と尾根を断ち切り、敵の侵入を防ぐ❝堀切❞が在ります。
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堀切の堀底道には更に別の堀底道に繋がっていたので、嘗(かつ)ては城兵が往来していたんでしょうね…
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真ん中の曲輪は、下の段の、恐らくそこも何某(なにがし)かの曲輪だった柵平地に繋がる深い堀切りが見られました。
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でも藪漕(やぶこ)ぎする時間が無かったので当日はその先には行きませんでした。
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でも、この下の写真…
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小生のいる青い点の右手に在る柵平地の畑地、その左右に伸びる農道は真っすぐ青い点の下のうっすら見える堀切に続いているので、この堀切が間違いなく堀底道としても使われていた証拠だと思います。
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でも3つ目の曲輪には行かずここまで。 2016-01-03-16-41-42
曲輪の畑地を降りて農道をそのまま道なりに歩くと、無量寺の本丸の南端、民家の石垣に出て舗装された道に復帰します。
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この御宅の石垣、昔の本丸跡の石垣とは思いませんが、使われている石材自体は、昔の三浦家の殿様の御屋敷の石垣とかから転用したものだったらロマンが有りますね。
因(ちな)みに、この本丸南側から丘陵の麓(ふもと)に降りる道も❝喰い違い虎口❞遺構らしい道が在りまして…
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道路拡張して舗装したとは言え、車がスレ違うのに四苦八苦していました…
なんで、そこでスレ違おうと思ったんだろう?
軽トラックが手前の空地に待機すればスムーズに行くのに(笑)。
この岡崎城の高台からは、湘南の海に突き出す大磯町の高麗山公園の山が見えます。
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この高麗山も古代の山城の跡と言われていて、奈良時代に日本に亡命してきた百済人や朝鮮半島から帰化した先人の山城の遺構とも言われています。
朝鮮式の山城は別に百済帰化民の城と言う訳では無く、当時の大和政権は唐と対立した時に、香川県に築いた屋島城や福岡県に水城等を多く築城しています。
この大磯一帯は古代、一宮寒川神社と二宮川勾神社の辺りで何方(どちら)を国府にするかで豪族が争った場所でもあり、その伝承は神話と成り❝国府祭(こうのまち)❞と言う神事として神社の神様同士が一宮の座を争う内容が、現在にも受け継がれています。
尚、この神様同士の争いを仲裁したのが、岡崎城址から車で数分の場所に在る比々多神社神様で、現在も神様同士の争いを仲裁するのが比々多神社の神様の役割に成っています。
※比々多神社の記事は「ココ」←クリック!
湘南~西湘、今の伊勢原市辺りは古代からの聖地であったと同時に、戦国時代まで、旧相模国の大名三浦家の中心を為した拠点だった訳です。

では!
又、次の記事で御会いしましょう!





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