歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:三浦道香

これ⤵再生して曲聞きながら読んでくれたら嬉しいです。

百合と萱草の咲く季節
小生の個人的に好きな花。
一番好きな花が野萱草。
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痩せた海岸でも元気に咲く花。
だいたい好きに成る女の人は野萱草が似合いそうな人。
実は中華料理の食材の金針菜は萱草の蕾なのは余り知られてないですよね(笑)?
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昨日07月07日~週末は日本は新暦(太陽暦)に合わせた七夕まつり。
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平塚駅前~平塚八幡宮の商店街では日本三大七夕祭りの一つの平塚市七夕祭りが開催されているけれど、この記事を書いている時間以外は資格の勉強してるので今年は行けない。
そしてもう直ぐ11日。
1516年の7月11日は平安時代からの武家の名門の三浦家が壮絶な日本最長3年半の籠城戦を小田原北条氏相手に戦って玉砕した日。
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小生が尊敬する戦国武将の一人で三浦家最後の当主でもある三浦義意(よしおき)公が500年前、新井城と呼ばれていた油壺マリンパーク跡地の半島の要害に籠城し、1つの局地戦としては日本最長期間の戦いを展開していた。
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相手は北条早雲こと伊勢宗瑞(そうずい)公と北条家二代当主で城攻めの名手の北条氏綱公。
三浦家は先代で隠居の三浦道寸公が、最初は伊勢原市と平塚市の境界である岡崎に有った岡崎城で10年間抵抗する。
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しかし岡崎城が北条氏綱公により陥落させられると三浦道寸公は鎌倉に敗走し弟の道香公が城主を務める住吉城に籠もった。
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今の鎌倉と逗子の市境、リビエラ逗子マリーナ近くの小坪飯島公園のプールから見た背後の丘は要害化された住吉城だった。
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そこで三浦家は再起を期して戦うが再び敗走。
小坪の社寺位置関係小坪旧道廃道
この戦いでは今は廃道の古墳時代から昭和まで使われていた逗子マリーナ前の正覺寺〜海前寺を繋ぐ山腹の切通古道で激しい撤退戦が展開された。CIMG9369
この道は実は倭建命が東征の折に通った古代東海道と考えられている。
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今も海前寺の墓地には首供養の墓がヒッソリと存在する。
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ここから披露山に抜けると、披露山公園から逗子市新宿に降りる林道と浪子不動に降りる林道、それと旧名主高橋家の前を抜ける道がそれぞれ古代東海道だったと考えられている。
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披露山公園から見る富士山の景色も中々に綺麗だったりする。
古代の人々にも景勝地だったのかも知れない。
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三浦義意公道寸公の道寸と言うのは臨済宗系の法名つまり入道号で、彼の親友であり扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家臣として同僚でもある不敗の名軍師、太田道灌公も幼少期に北鎌倉にある室町幕府で将軍のみが住職の任命権を持つ鎌倉五山(臨済宗の東日本を統べる5つの寺院)の第一位であった建長寺で修業していたので道灌の法名を名乗っていた。
三浦道寸公の実弟で住吉城主だった道香公も実名ではなく法名が伝わっているので、どうやら仏門に入って入道号を称している訳だ。
因(ちな)みに北条家は歴代当主含め家臣団の大半の武士が初代の伊勢盛時公=北条早雲こと伊勢宗瑞公と同じく宗〇と仏教の法名を名乗っていたが、これは宗〇と言う法名が京都の臨済宗大徳寺や曹洞宗の当時の僧侶に多かったので、伊勢宗瑞公が大徳寺で修業していた事も有り家臣団は禅宗で教養を学ぶ機会が多く当時の北条家臣団が建立したり荒廃していた場所を再興した寺院も曹洞宗が多かったりする。
道香公に話を戻すと披露山に上って行く道は当時は3筋程有った様で、その内の1つが今では地域の若い人は名も忘れた秋葉神社の前の道だったりする。
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秋葉神社からの富士山と逗子マリーナの景色も又美しい。
道香公は兄と三浦家の将兵を三浦半島へ撤退させる古代の東海道での戦いの挙句、この古道のどこかで討たれたか自害した様だ。
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逗子駅近くには逗子大師こと延命寺と言う、始まりは行基サンの時代に行きつく寺院が有る。
延命寺には地元の人に慕われた三浦道香公とその家臣団の供養墓が今も守られており、御寺の檀家さんや歴史好きが現在も御参りに来る。
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この辺りは実際に古墳時代には砂州の半島か既に海の中に突き出して隆起した地形だった様で、発掘調査で古墳時代の遺物も周辺から見つかったりしている。
この奥の谷間の地域は沼間と言う地名で、平安時代末に源氏が関東における本拠地を移す以前、源頼朝公の実父の源義朝公によって今の天台宗神武寺~日蓮宗法勝寺にかけての山稜が詰め城化されていて、屋敷地は神奈川県逗子市沼間2‐23辺りに置かれていたようだ。
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逗子市の沼間は当時は沼濱と書いたのでまだ満潮に成ると海水が入る干潟がだいぶ内陸まで川沿いに広がっていたようだ。
逗子駅周辺に話を戻すと、以前も紹介した六代御前不動院は平維盛公の遺児と真言密教の高僧で源頼朝公の友人でもあった文覚上人の菩提寺でもある。
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古代東海道の逗子側の山道の入口に当たりそうなのが延命寺~六代午前不動院の辺りだろうか?と個人的には考えている。
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今は市街化して平地部分の古東海道の詳細は良くわからないけれど、六代御前の墓の横には今もハイキングコースの入口が有る。
この山稜沿いに行くと鎌倉時代の三浦家の本拠地の衣笠城へ抜ける事が出来るが、三浦道寸公は海沿いを南下して葉山町へと出たようだ。
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この立石公園も富士山の景勝地として知られており、歌川広重が江戸時代に描いている事は古参の読者の皆さんは小生のブログでも読んだ事が有ると思う。
相州三浦秋谷
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道寸公は現在は少し内陸部に移転している正行院と言う寺院の旧所在地だった今の葉山の立石公園の先の秋谷海岸のマンション辺りの岬を要害化していた様だ。
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実はこの御寺、和田義盛公と再婚した巴御前の菩提寺でもあり、和田義盛公敗死後の生死は不明なものの彼女の遺髪塚が現在も守られている。
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現在では余り手入れが行き届いておらず、地形しか塚は残ってない。
まぁ、普通に考えて正行院が巴御前の隠居寺で、居所が現在の御寺の地所だったんだろうが古文書が残らないので良く分からない。
この御寺は秋谷海岸から移転している理由が正に戦火だろうと、再興時期から思う。
和田家関連で由緒が有るのに古文書や寺宝が残らないのは、この地域が正に鎌倉時代と戦国時代に異なる2つの北条家との戦いに巻き込まれて焼かれたからだろう。
道寸公は秋谷の城で戦った事は伝わっているので、その城と言うのが海岸に突き出した岬の旧跡地時代の寺院を要害化した物だったんだろう、其処で北条家を迎え討つが再び敗走。
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最後に三浦半島南端、小網代湾と諸磯湾と油壺湾に挟まれた荒井浜の丘上、旧油壺マリンパークの半島全てを城塞化した新井城が決戦地に成った。
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実は新井城の下の海岸、荒井浜も富士山の景勝地だったりする。
この新井城を守っていたのが小生の尊敬する歴史人物の一人である三浦義意公。
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彼は房総半島の小大名で三浦氏族の正木家から海路で三浦半島へ兵糧支援を受けつつ約4年間戦い抜いた。
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その兵糧を保管したのが千駄矢倉と呼ばれた横穴式の人工洞窟だった。
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現存する弁天矢倉もその1つ。
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北条家は旧三崎高校、今の引橋のバス停近くの三浦消防署〜ベイシア辺りに陣城を築き長期戦に持ち込み少しづつ三浦氏を孤立させる。
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最後の時、三浦義意公は共に戦った領民兵士や部下を荒井浜や胴網海岸から船で房総半島や横浜方面に逃すと、自身は僅かな部下と共に海岸直上の城の武者走りと呼ばれる隘路で最後に玉砕戦を仕掛けて兵士達の逃げる時間稼ぎを行う。
生きて帰る場所の無い絶望的な決死の戦いを始める。
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三浦義意公と部下達は槍や刀ではなく金砕棒で北条兵を殴り倒し、海岸の城から油壺の湾に突き倒し或いは撲殺し或いは部下達が弓で敵を射殺し、寡兵で北条軍500人を道連れにしたと伝わる。
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史料を読む前の2017年、おおまかな話をコロナで余り営業しなくなってしまった油壺の駐車場の御土産屋の御婆さん等、地元の方達から聴いて三浦道寸公と三浦義意公の墓参りをした帰りの車中•••
三浦義意公の指揮官としての覚悟と死に様を思い、彼の気持ちを考えて咽び泣いた。
•••実は小生は留学から帰国して就職した会社がブラック企業で前任者が残業200時間超働いた挙げ句、営業中に過失運転致死を起こして小生が引継ぎ、更に中国転勤の同僚の業務も引き継がされた小生は3ヶ月休み無し毎日20時間労働を強いられて過労で鬱になり、上司はお咎め無く小生が会社から早期退職応募の紙を送りつけられて会社を辞めた。

そんな経験があり、三浦義意公の様なちゃんと責任をとる上司の話を聞き、何だか咽び泣いてしまった。
丁度、野萱草や百合の花の咲く季節の歴史と自分の思い出の話し。


今年は命日にお墓参りには行けないけれど、三浦義意公の為に近所のお寺で明日はお線香をあげたいと思う。

過去に書いた関係記事⤵

 

写真も過去写真使いまわしで余り内容濃く在りませんが、七夕の季節の思い出です。
今回の話しで紹介した三浦半島の海岸には水質がとても良く隠しビーチの様な穴場の浜辺が沢山有りますが、昭和には栄えていたのに失われた30年で多くの場所が今の学生世代には知名度が有りません。
皆さんの夏の参考にコノ記事⤵が成れば幸いです。

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披露山公園
神奈川の景勝50選の1つ
逗子一の富士山の景勝地とハイキングコース

―以下は詳細な解説( ゚∀゚) ダョ♪⤵―
【交通】
訪問は若干不便なものの、晴天で海上の空気が澄んでいる季節に成ると、由比ヶ浜~稲村ケ崎~江ノ島の相模湾~箱根山系~富士山を一望できる絶景や夕陽を見る事が出来る。
もしデートで彼氏彼女や夫婦で行くなら電車で訪問し徒歩で逗子駅から近くの逗子海岸を歩き小説不如帰の舞台にも成った浪子不動こと高養寺からハイキングコースを登り披露山公園の展望台まで行くと感動するでしょう。
実際に多くの若い女性同士や御夫婦のハイカーが展望台から富士山と夕陽を眺めて感嘆の声を上げる様子を目にする機会が有りますよ♪
もしトレッキングが目的なら昼過ぎ位に逗子駅を出発し逗子海岸~浪子不動遊歩道~披露山公園で休憩~更に披露山庭園住宅を抜けて~大崎公園や逗子マリーナや材木座から富士山と夕焼けを見て帰るのも良いと思います。
もし歴史に興味が有るのでしたら、逗子駅から程近い六代山不動院も御参りしてから逗子海岸に出ても良いかも知れませんね。
以下が過去に紹介した六代山不動院、大崎公園、逗子マリーナ、材木座の富士山の景勝です。




下の地図に表示されている所では季節で水揚げが有れば御土産用のシラスを購入する事が出来ます。
【歴史】
この披露山公園は実は古墳時代に倭建(ヤマトタケル)命が通った古東海道と考えられています。
下の地図は国土交通省関東地方整備局サンが子供達の為に作っているホームページに公開されているもので略図ですが凡その経路が解り易く表示されています。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
見やすいでしょう?
下にリンクを貼って置きますね!

国土交通省の推測は実は歴史を知っている人からすれば非常に整合性が有ります。
古墳時代以前からの聖地が神社化したとされる平安時代の醍醐天皇が政令で保護対象にした神社が網羅されている延喜式神名帳に掲載されている❝式内社❞と、古代の史跡をGoogleEarth上に表示し更に国土交通省の製作した古東海道図をGoogleEarth上に重ねると見事に整合性が有ります。
昔の海岸線と古道 久良岐のよし
上の地図で住吉城と表示されているのが披露山公園の向かい側の山で、吾妻鏡に登場する畠山重忠公と和田義盛公が開戦した坂道の入口、すなわち名越の坂や古東海道の切通道を眼下に抑えた住吉城址です。この城名由来の神社が住吉神社です。
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住吉神社
住吉城址に在る鎌倉郡総鎮守と伝わる古社
正覚寺の下にある現代廃道にされた切通道が古東海道と伝わります。
ここ等辺りは以前、小坪の歴史を調べ始めた時に少し記事にしましたので御興味有る方は下の記事を御覧下さい。

ところで住吉神社は小坪の郷土史を調べると、逗子市が鎌倉時代以前に旧鎌倉郡で三浦郡では無かった事が解り、更に住吉神社が鎌倉郡の鎮守の神社と元々は社格が高かった事も解ります。
つまり本当に古東海道がここを通過していたので、社格の高い神社や重要な御寺も逗子市には沢山存在したし現存もしているのでしょうね。
正覚寺の下の鎌倉時代の和田義盛公と畠山重忠公の古戦場でもあり、戦国時代の伊勢原市と平塚市に跨る大城郭の岡崎城主で岡崎城三浦道寸公と住吉城主三浦道香公の御兄弟と北条早雲こと伊勢宗瑞公と北条氏綱公親子の名将達が住吉城攻防で三浦家の撤退戦の大激戦地となったのが、この古東海道でした。
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今では放置されて長い時間、草木が生い茂ってしまいましたが路盤は今も残っています。
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逗子マリーナから見上げて段地になってる上のフェンスの中が古東海道、神話の道で名将達の住吉城争奪戦で主戦場と成った当時は写真を撮影してる位置が海で、海の上にそそり立った崖に穿たれた蜀の桟道の様な天下の険でした。
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反対側は海前寺様に繋がっており、御寺が古道の出入口を守る形で存在している事からも正覚寺は江戸時代の記録に戦火に遭ったと記載が有るので戦国時代まで古道の入口の砦として利用されて戦火で廃寺に成り、約1世紀後に浄土宗寺院として再興されているようです。
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海前寺様の墓地にも昔の道が残されています。
この墓地には戦国時代の住吉城址の攻防の将兵を弔う首塚が余り知られていませんが存在します。
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この首塚の場所は元々は矢倉だったみたいですね。
さて、鎌倉時代にここで戦ったのは皆さんも鎌倉殿の13人で既に良く知っているかと思いますが初代鎌倉幕府別当の和田義盛公と畠山重忠公です。
鎌倉殿三浦義村小鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿和田義盛
子 ⇔ 親:三浦義明公の子:叔父 ⇔ 甥
VS
実は三浦義明公の孫
鎌倉殿畠山重忠
この戦いでは畠山重忠公は由比ヵ浜に陣地を置いたとされるので極楽寺坂の下の長谷観音辺りに陣地を置いていたかも知れませんね。
三浦氏は家長の三浦義明公(89歳)の守る三浦半島の中央部の三浦家本拠地衣笠城を防衛する為に畠山重忠公の由比ヶ浜の対岸の披露山公園のある古東海道を守る住吉要害に陣取った和田義盛公と現在の葉山町と逗子市境界にある鐙摺城を三浦義澄公が守りました。
当初三浦義澄公は畠山重忠公は甥っ子に当たる為に開戦する心算は無かったと伝わりますが、源義朝公への忠誠心の高い和田義盛公が畠山重忠公へ宣戦布告をして開戦しました。
但し戦ったのは源頼朝公が鎌倉幕府を開く前の話です。

ちょうど最初の頃にこのシーンが和田義盛公の勘違いで開戦したように描写されていましたね。
さて、そんな訳で披露山は凄い歴史偉人たちが通過した場所なだけでなく、源より朝公が部下達に褒美を与えた宴会を開いた場所としてもしられ、それが披露山の披露の地名の由来と伝わります。
是非、頼朝公も見た景色を皆さんも見て見ませんか?
鎌倉殿源頼朝
「風景良いから皆も遊びにおいで!」
倭建命の聖地巡礼で訪れて古道として散策しても良いかもしれませんね。
三浦半島には披露山を通過して房総半島んいと訪れる前に倭建命と弟橘姫夫妻が滞在した走水の御所ヵ崎と走水神社も有ります。


では、披露山公園の富士山の絶景や周辺に纏わる解説はここまで。
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午前中に母と二人で義祖母の御墓を掃除してきた。
御正月に会いに行ってあげられなかったからね~。
お婆ちゃん、血が繋がって無いのに本当の孫同然に可愛がってくれて本当にありがとうね~。
家族で一緒に川崎大師に御参りしたり、八幡橋の八幡様御参りしたり、緑区にハマ梨の果樹園に梨狩りに行く時にいつも買ってくれたビスコかコアラのマーチかヨーグル、飽きてたけれど嬉しかったよ~。

昼寝して起きたら夕方に海と夕陽を見たく成った。
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由比ヶ浜、昔は由比ヶ浜だった材木座、その海岸に聳える砦跡だった住吉城塞跡に建つ正覚寺とその城址の寺院の更に奥にひっそりと佇む住吉神社を御参りして海と夕陽と富士山を眺めて来た。
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この風景が見える住吉城址は神奈川県の戦国時代を代表する武将で尊敬する先人でもある北条早雲公こと伊勢盛時公の小田原北条家と三浦義意公の三浦一族の激戦地に成った場所だ。
丁度、鎌倉郡と三浦郡の境目、つまりこの城を起点にして三浦半島に入る。
住吉城址と和賀江島 久良岐のよし
ここを攻め落とされたら三浦家は戦略敵に情況挽回困難に成る場所で、正に海の断崖に聳(そび)え立つ城のまま❝瀬戸際❞の城でもあった。そんな城だから相模の大名、佐原三浦家でも重要な武将、三浦道香公の居城だった。三浦道香公は当主の三浦道寸公の御実弟で小生の尊敬する武将の一人である三浦義意公の叔父上だった。
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しかし伊豆韮山城に隠居した北条早雲公の跡継ぎの小田原城主北条氏綱公は戦国時代初期に置いて攻城戦を得意とする屈指の武将で、この住吉城に至るまで関東最大級の大城郭であり湖沼に浮かぶ丘の城だった伊勢原市平塚市に跨る三浦家の岡崎城攻略を皮切りに、佐原三浦道寸公の実家の扇谷上杉家の大城郭、伊勢原市糟屋舘を攻略。更に糟屋舘や岡崎城や小田原城よりも巨大で堅固な大庭城も攻略し三浦道寸公を三浦家最後の拠点にして絶海の堅城新井城に追い詰めた。そして4年の包囲攻城を経て新井城は落城する。
住吉城の城名恐らく古代から存在したであろう正覚寺裏の住吉神社が存在した事に由来する。
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正覚寺の参道を登る。
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住吉山 悟眞院 正覚寺
ガラス戸で覆われた本堂を参拝し、生け垣の向こうを右手に折れ墓地を抜ける。
すると隠し道の様に住吉神社の参道が現れる。
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人の往来が途絶えた今、映画のロケ地にも使われそうな、神様の式神が帯剣して出迎えて下さりそうな雰囲気の漂う神秘的な神社。誰も参拝に来なく成ってしまったのでひっそりとしている。
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住吉神社(住吉城城名由来の古社)
でもこの神社には最低でも鎌倉時代に人の往来の在った証拠が有る。
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矢倉、納骨穴も確認出来る。
ここに船の往来の安全と土地開拓を見守る住吉神社が開かれたのは目の前が海で古代の街道だったからだろう。
そして城を築くのに相応しかった場所で有る事も湧水が有る事から解る。
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今では大切にはされていない神社だが、ここでは鎌倉時代や室町時代くらいまでは雨乞いの神事も行われたかもしれない。
城を降りて嘗(かつ)ての城壁の役割を果たしていた断崖絶壁を下から仰ぎ見る。
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古代東海道:住吉要害直下の切通し(廃道)
何回かここ住吉城址の❝古代❞の事を記事に書いた事も有るが、この城址下の廃道の切通しが古代東海道と考古学的に考えられていたのだが神奈川県と逗子市が交通封鎖してしまい日本武尊が通ったかも知れない古道はいまでは鬱蒼とした雑草に覆われ往古と同じ人の往来は絶えた。
この雑草の生い茂る廃道の上、崖の壁面にも大潮の日や台風の日も想定された恐ろしく幅の狭いとってもじゃないけど渡る気のしない切通しが2本開削されているのが解かるだろうか?実際に昔の写真にも乗っている道なので、あの崖の細道を人が往来した様だ。
・・・仮に現代、フェンスで通行止めに成っていなくても高所恐怖症気味の小生には無理だ。
そこから小坪飯島公園の海辺に降りて来た。
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小坪飯島公園小坪飯島公園の埋め立て地の突端からは綺麗に相模湾の由比ヶ浜の海~稲村ヶ崎~江ノ島~箱根山系~富士山が見える。
2年前、ここで地元の女子高生2人が夕日と富士山と一緒に写真のモデルに成ってくれたのを思い出した。
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あの子達は元気に大学生に成って頑張ってるだろうか?きっといつまでも親友で交流が続くんだろう。
お互いに子供を産み、御互いに家族で交流する様な、そんな末永い友情を育んで欲しいと思う。
昨日2019年の正月04日は雲は多かったが、それなりに良い写真が撮れた。
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1人は寂しいけれど少し爽やかな気分に成った。
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源実朝公も寧波に渡りたくて和賀江島で船を造船させて度々見に来ていた美しい風景、小生は鎌倉と横浜を行き来して今と過去を行き来しながら生きている・・・
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やっぱり歴史と綺麗な景色が好きだ~。
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冬凪に偉人も眺めし由比の富士
吾今に生き往古を活かす
作:俺氏
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冬望
作:俺氏

冬和風度由比濱
故人自此望寧波
海波在夕陽下萌
彩雲散歴歴富士
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ー自作の漢詩意訳するとこんな意味ー
冬望    作:俺氏
(冬に望む)
真意:厳しい時の細やかな望み。

冬和風度由比濱 
(冬、由比ヶ浜に優しい風が吹き渡る)
真意:厳しい情況でも鎌倉に来て景色や文化に触れると落ち着く。

故人自此望寧波 
(昔の人は此処から遠く寧波の海を見た)
※昔の人=源実朝公
真意:源実朝公は家臣達が殺し合い謀略飛び交う政権を嫌い、自ら地位財産名誉を捨て、此所の和賀江島で船を建造し寧波に行き南宋に亡命し個人として健やかに過ごす事を願って度々海を見に来ていた。

海波在夕陽下萌 
(海波は夕陽の下で萌えている)
真意:夕陽に照らされた青い海が緋に染まる様が、自分の落ち込んだ気持ちを明るくしてくれる。

彩雲散歴歴富士 
(彩雲も散り富士山もよく見える)
真意:綺麗な雲に隠れていた富士山も風に雲が散りハッキリと見えて来た様子が、モヤモヤした気持ちを吹き飛ばしてくれる。

源実朝公と自分は同じ鎌倉の文化や風景を見てる時代も立場も感じ方も違うけど、望みはささやかで同じ、二人とも人として健康に幸せに成りたいだけ。
健康で心休まる生活と信頼出来る人と家族が欲しい。
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夕陽を見て少し物悲しくも爽やかな気分を満喫して車に乗り込むと家路に着いたのだが、そう言えば今年は鶴岡八幡宮の源頼朝公や源頼家公の御神霊に新年の御挨拶を申し上げて無い事が気にかかり、大町の辺りで鶴岡八幡宮の前身の元鶴岡八幡宮=由比若宮が有る事を思い出し、ついでに以前から気に成っていたJR横須賀線の踏切近くに在る辻薬師堂にも御参りする事にした。
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往古は木食五行上人様も御関わりに成られた場所の様だ。未だ詳しい事は調べていない。
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それなりに大きな寺院が前身寺院だったと言うのは境内の掲示物で判った。
関わった木食上人と言うのは珍しい御方で仏僧でありながら、どの宗派にも属さず、仏像彫刻を極めた事で僧侶として高名に成られた方なので、今でいえば僧侶兼仏師と言った所だろうか?
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色んな神様の石祠も有り、神仏習合の場所として開かれた事が解かる。
この御寺が衰退してしまったのは、逆にどの宗派にも属さなかったせいかも知れない。
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掲示によると元々、この辻薬師堂に祀られている薬師如来様はは源頼朝公の建てた大寺院永福寺の塔頭の様な存在の僧坊に藤原一族の二階堂行光によって造営されたらしい。
現在の辻薬師堂は一見すると真っ暗で何も見えず正直余り期待せずに御参りしたのだが、御賽銭いれたらビビった!
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堂内が点灯し中の立派な薬師如来様と脇侍仏様がライトアップされて参拝者の小生に御姿を見せて下さった。う~ん粋な演出だね~!
一応、これからも辻薬師堂が多くに人に大切にされますように~とお祈りして来た。
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線路を渡り10mもしない所から由比若宮=元鶴岡八幡宮=鶴岡八幡宮元宮に入る参道に辿り着く。
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ここも古来の規模で社殿は大きくは無いが、関西ら八幡様の御分霊を源頼義公が勧進して開いた本当に本当に由緒正しい八幡宮だ。源頼義公の時代は鎌倉市街も材木座上りは海や入江の干潟だったので、鶴岡八幡宮元宮は治水・海の神様として高潮除けに勧進されている事が地理から良く解る。
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正月だったのでいつもやってない社務所が営業していて、販売員のお姉さん方と少し雑談をした。
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由比若宮=元鶴岡八幡宮ここが源氏の征夷大将軍への道の第一歩としても過言では無い由緒正しい神社だったりする。
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手水社は普通。
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でも軍神の異名を持った源頼朝公の四代御先祖に当たる源❝八幡太郎❞義家公が旗を立てた場所でも有ったりする。
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何にせよ由緒正しい場所で、関東地方や東北を含めた東日本全体の八幡信仰の起点はここで、ここから鎌倉武士団によって其々の国へ八幡信仰が拡散された歴史を辿れる場所にも成っている訳だ。
因みに近代、この場所には芥川龍之介の家が有ったそうだ。
だから明治の文豪が好きな人にも大切な場所かも知れない。

今回は訪問件数こそ多く無いが、それなりに充実した時間を過ごせた。


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