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タグ:三田家

先ず最初に御寺の解説よりも先に関東屈指の躑躅(つつじ)の景勝地の青梅市塩船観音こと大悲山観音寺で2018年04月26日現在、見頃で各種の躑躅がいっぺんに見られる最盛期を迎えている事を報告します。
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大悲山 観音寺
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今回、少しだけ御寺の紹介文を書いて、解説記事は金曜日に改めてこの記事をリニューアルする形で書く加えたいと思います。

さて、この観音寺、日本で初代の大僧正である行基大僧正が開いた凄い御寺で御寺の地形が船形の様に窪地なので地域一帯が塩船と呼ばれる様に成ったそうです。
青梅の山奥の御寺なのですが関わった人物は行基大僧正だけでも凄いのですが、実は人魚伝説のモデルでもある八百比丘尼(やおびくに)が住職を務めた時代も在ったと伝わる御寺です。
人魚と言えば昭和生まれは高橋留美子さんの❝人魚の森❞シリーズとか・・・
人魚の森 高橋留美子
・・・平成世代ならルパン三世の❝血の刻印 永遠のマーメイド❞とかで見た事も有る人もいるかな?
一応、近畿地方では若狭国(福井県の西部)が人魚姫と八百比丘尼伝説の舞台ですが、関東にも八百比丘尼が来ていた伝承が有るのが、この塩船観音こと大悲山観音寺なんです。一応、1000年の寿命の内200年を他人に譲って800生きて亡くなった八百比丘尼さんの供養塔か御廟所かは判りませんが塩船観音寺には墓所も存在しています、一般非公開だけどね。
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とっても広い御寺で、修験道の影響も受けた御寺なので神社も在り、更には近代化で破壊されずに奈良時代から続く山寺の雰囲気がすっごく素敵な御寺です。
戦国時代に北条家の家臣として白備え隊小机衆の与力に加えられ新横浜駅裏の篠原城代を任された金子十郎と言う殿様がいるのですが、その御先祖様の方の金子十郎公が平安時代末期~鎌倉時代に支援し、戦国時代には領主は代り勝沼城主の三田(さんだ)氏の庇護を受けた御寺でした。

・・・と、解説を書いていると寝る時間が無くなるし週末の皆さんのレクリエーションの参考に成る様にUPが間に合わなく成るので今回は御寺の雰囲気と開花状況だけ優先的に紹介する為に先ずは御寺と境内の多くの躑躅に囲まれた御堂のとても綺麗な2018年04月21日に撮影した写真を掲載します。

すご~い本当に躑躅が綺麗な御寺なのでゴールデンウイークの小旅行の参考にして下さい!
近くの二俣尾には天皇家の勅願所だった海禅寺さんや、羽村市は縁結びの武蔵阿蘇神社や、あきる野市には延喜式内社で武蔵国二ノ宮だった小川大明神こと二宮神社、秋川渓谷や高月城址の下の秋川ではバーベキューも出来たり圏央道あきる野インターチェンジ近くには東京都で珍しい千代鶴の酒蔵の中村酒造も存在し試飲も出来ますよ。
風景も空気も水も綺麗な奥多摩地方、是非塩船観音寺の躑躅見物と合わせて遊覧されては如何でしょうか?

こっからは写真だけ!最初に躑躅の写真を、後から御寺の参道から本堂までの写真を掲載します!
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・・・では金曜日にこの記事の文章をもっと関わった人物の事とか書き足します。
それと出来たら多目元忠公の記事も第③部を書きたいと思います。














前回の辛垣城址編↓これの続き…

辛垣(からかい)城址の頂上で海禅寺の御住職に「10時位の到着に成ります」と連絡をして、城山を降りて御寺に向かった。
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海禅寺は現代では参道がJR青梅線に分断されている。
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こう言った事は良く有る事で、鎌倉でも臨済宗鎌倉五山第二位の格式を持つ円覚寺や、坂東平氏の祖先を祀る御霊神社の総本社である鎌倉坂の下の御霊神社も同じ様に江ノ電が参道を横断している。
まぁ御寺や神社の境内地は昔は広大だったので、明治~昭和初期にかけて鉄道開発をする際に線路を敷設しやすかったので政府に土地を接収されてしまう事が多かった様だ。
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だから昔の山門は場所を移して、現在は中央線の踏切に成ってしまった参道の左手に移設して現存している。
「不許葷酒入山門(酒を帯びて境内に入っちゃダメ)」
ふむ、禅宗寺院の昔の厳格さを忍ばせる石碑だ。
まぁ、今は禅宗寺院でも御酒を飲む和尚さんばっかだけどね。
小生は現代人の庶民だが「(酒を)飲む」「(博打を)打つ」「(女を)買う」を一切しないので、ある意味では仏様に好かれるのかも知れない。神様にもいつも礼拝しているし、神様にも好かれると思う。
じゃないと小生の様に仕事徹夜空けで遠征ドライブし山登りまくって、性格も喧嘩っ早いのに無事でいられたり過去8回ひき逃げや交通事故に遭って掠り傷だけで済んだりしないだろう。
でも幼少期にハチャメチャ過ぎて手を2回骨折してるし、医療技術の発達してなかった時代なら障害者に成ってたね。
まぁ~神様や仏様や尊敬する偉人と、幼少期に可愛がってくださった恩人や御先祖、友人達と御医者様に感謝しないといけない。
そもそも、今生きているのも北条綱成公の御蔭だし。
そんな訳で北条綱成公の顕彰活動を始め、家老の間宮家の顕彰活動も始め、その間宮家と関係が深い海禅寺サンに横浜から御参り&御住職様に取材に来た訳だ。
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海禅寺は三田氏の菩提寺とだけ伝わるが、それは曹洞宗の寺院として再興されて以降の歴史しか現代に伝わっていないからだろう。曹洞宗は荒廃したり戦火で消えた御寺を北条家の支援で多く曹洞宗寺院として復興(再開基)しているのだが、何せ一度消えた御寺を復興してる場所だらけで、それ以前の歴史が伝わらない場所は多い。
海禅寺も実際は天正三年(1575年)に天皇家の勅願所に定められている格式の“状況”から言って、昔、荒廃してしまった格式の高い前身寺院が必ず存在していたはずだ。
実はこのヒントが神奈川県横浜市と新編武蔵風土記稿に残されていて、その話も御住職に確認したかった。
例えば、この謎を解く例を挙げると…
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上の写真は神奈川県藤沢市大庭に存在する曹洞宗の宗賢院。
この御寺は詳しい歴史は戦国時代の復興以後の事しか解らない。しかしながら源頼朝公の御父君、源義朝(よしとも)公の重臣だった大庭景義公と弟の大庭景親公の居城だった大庭城址に近在し、更には大庭景親公が陣中で使用していた釜が寺宝として現存する。つまり平安時代末期には前身寺院が存在していたはずだ。
加えて延喜式内社の神社である大庭神社舊(きゅう=旧)跡の熊野神社が近くに存在する事から鎌倉時代は大庭神社別当寺(べっとうじ=神社を守る為の御寺)だった可能性が非常に高い。
この熊野神社が大庭神社の旧址だと言う事は江戸時代の人々にも認識されており、それは相模国五之宮であり古代の一之宮だった有鹿神社と、今の一之宮の寒川神社に証拠が残っている。
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江戸時代の相模国延喜式内社を網羅した掛軸、これは寒川神社の当時の宮司が書いた物だが大庭社熊埜天神と書かれている。熊野神社に成っているのは大庭神社旧跡、菅原道真公を江戸時代に習合しているのが現在の大庭神社本宮、つまり両方の名を合わせた大庭社熊埜天神と記載されている訳だ。
格の高い神社の傍には別当寺が必ず存在しているものなのだが、熊野社に成っている大庭神社旧跡の別当は室町以後~現代でこそ本宮の方と同じ別当寺だが位置的に不自然きわまりない。昔は宗賢院の前身寺院が旧跡の別当だったはずだ。
極め付きは宗賢院の寺紋(じもん=御寺の家紋みたいな物)が太田桔梗、そして山号が蟠龍山である事だ。
昭和初期までの神奈川県民と県役人達の認識でも、伝承や状況証拠でも大庭城は室町時代のある時代、永享の乱の頃まで扇谷上杉家の本拠地だった様だ。
戦国時代の扇谷上杉家は武蔵国に勢力を誇ったが、元々は武蔵国南部は宅間上杉家の支配地だった。
そして扇谷上杉家の家老だったのが太田家だ。
太田家の一番有名な太田道灌公の菩提寺は神奈川県伊勢原市の“蟠龍山”洞昌院公所寺なのだが、山号が同じで、やはり太田家から使用を許された太田家の家紋の太田桔梗を寺紋にしている。
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だから公所寺の本堂にも宗賢院と同じ太田桔梗紋が彫刻されている。
これ等の事は宗賢院が大庭城主扇谷上杉家の家宰(かさい=社長代理みたいなもの)だった太田家と関わりが深かった事を知る十分な状況証拠に成っている。
そもそも曹洞宗が明治政府の神仏分離令まで日本神話や聖地を大切にしていた歴史その物がある訳で宗賢院も曹洞宗な訳だから大庭神社の事も関係が有って当たり前なのだが、残念ながら昔は和尚様達は世襲制では無く宗派の有力寺院から派遣されて来ていたので歴史が全て正確に伝わる訳も無いし、そもそも曹洞宗が復興した場所は全部廃寺に成っていた場所ばかり。
だから以前の事は解らず、曹洞宗に成ってからの記録しか御寺自体には伝わっていない事が多い。
そして海禅寺も開基されて100年足らずで唐突に❝天皇家の勅願寺❞や❝10万石の格式❞に成れる訳が無いので必ず格式高い全身寺院か神道や修験道の聖地が有った筈(はず)なのだ。
まぁ、そんな訳で「グチャグチャ文献だけ読んでても良く解んねぇ~し仕方ねぇ~な(笑)」と言うのが小生のスタンスなので、自分で実際に毎回取材に行く訳だ。
すると神社も御寺も歴史史跡も、文献には載っていない事が多く口伝や証拠が伝わっていたりするんだなコレが。

話を海禅寺に戻す。
海禅寺はそもそも福禅寺と言う名前だった。
江戸幕府の役人がド阿呆で、幕府の寺に対する領地保証書を発行する際に❝海禅寺❞と書き間違えてしまったので、土地の権利を守る為に仕方なく当時の御住職は海禅寺の名に寺名を改めるしか無かった。
役人が別寺院宛ての文書を誤って発給したか、教養が無くて寺名を書いた資料の草書体を読めず間違えて福を海にしたかは今では良く解らない。
実は幕府を開いた直後に三河、遠州から来た徳川家官僚には、この手のミスが多い。
…と言うか、恐らくいつの時代も官僚の中に適当な奴がいる。小生の様に趣味でやってるブログでは無くて仕事なのに校閲もせず適当に仕事をして、色んな文書の元号や武将の名前や法名を書き間違えている事が多い。
しかし被害者が幕府に抗議すれば、それがたちどころに官僚は己のミスを隠して被害者側を❝謀反人❞扱いして武士なら所領、寺なら寺領、神社なら社領を没収されてしまう訳だ。
海禅寺と関わり深かった横浜の間宮家の間宮康俊公も恐らく幕府によって戒名を誤って認識されて、間宮家側が❝忖度(そんたく)❞して家系図を補修しなくてはいけなくなっていたりする。
まぁ、しかし海禅寺自体は格式高いだけでなく、昔から風流な寺として有名だったようだ。
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室町時代から花の寺として有名だった海禅寺、新編武蔵風土記稿の多摩郡三田領二股尾村に掲載されているが、風土記は「歴史の目次」みたいな物なので詳しくは掲載されていない。
こう言った郷土史調査は「他都市からの移住者で“横浜=近代”の先入観しか無い精神的カッぺが職員ばかりの横浜市教育委員会と横浜市歴代市長の中で左派思想の人物は文化財保護法の設置を最後まで拒んでいた建設利権に癒着した無文化で使えない連中」なのだが、他の自治体は郷土の人が職員に成るので青梅市の様に盛んに調査、保護が行われている。
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訪問時は4月下旬で既に桜は散っていたが、辛垣山城址登山前に踏切で小学生の交通整理をしてらっしゃった駐在所の御巡りさんと雑談した所、境内は桜が多く現代でも「花の寺」として有名だそうだ。
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山門も素晴らしい。もしかしたら構造的に仁王門にする心算だったのか?
本当に立派な楼門だ。
丁度、幼稚園の先生と園児達が鬼ごっこをしていて遊んでいた。
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可愛らしい光景に思わず顔がデレてしまった(笑)。
こんな良い環境で育った子供達は、きっと素直で優しい大人に成るんだろうなぁ~。
間違っても小生の様に「史跡不保護無文化市長」とか「無能な横浜市教育委員会」とか事実とは言え悪態を吐く自分の価値を貶める心の狭い発言をする人間には育たないだろう(笑)。
皆すくすく、優しい子に育ってねぇ~♪
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山門の脇には鐘楼が有った。こちらも立派だった。
屋根の構造を見るに昔は茅葺屋根だったんだろうと思う。
茅葺屋根は高級で保持には費用が嵩(かさ)むので、現代では御覧の様に銅葺きや瓦葺きに吹き替えている場所も多い。
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この説明文では三田家の中興と有るが、この規模の寺院は必ず元々は主家であった扇谷上杉家の支援の下で三田家が復興を果たしているはずだ。
そして戦国時代には北条家が必ず復興している筈だ。元:三田家臣何某だけで再興できる規模でも無ければ格の高い住職を招ける訳も無い。
歴史の解説の前に施設の紹介を進めよう。
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境内からの景色は良い。楼門と花々越しに青梅の山脈(やまなみ)が見えた。
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本堂も大きい。
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玉縄北条家の菩提寺龍寶寺や初期の北条家において神奈川領をまとめた間宮家の菩提寺の寶泉寺や宗三寺と同規模を誇っている。
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つまり軍団長レベルの部将でないと建てれない規模の御堂だ。
この規模の堂宇を一、三田家臣が復興出来る訳が無い。絶対に北条家の支援が入っている。
そして、先述の通り、戦国時代に天皇家の勅願所に成る時点で前身寺院が途轍もなく格式が高かった筈だ。これは後で前身寺院の推測を紹介する。
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境内には凄く立派な枝垂れ桜も有った。きっと桜の季節には見事な景色に成るだろう。
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境内の谷戸そこかしこ、本当に花が多かった。
素敵な御寺だ。

御住職に面会すると本堂に通され、色々と御寺の歴史にういて御教授頂いたり小生の推論を述べたり、地図を見て周辺を歩き、御近所の旧家についてや地形的な事等々、気に成った事を質問させて頂いたりした。
その御住職様とのやりとりを踏まえて小生の推論と合せて三田家と海禅寺の歴史を紹介しようと思う。

海禅寺はそもそも「福禅寺」と言う名前の寺院だった。
まぁ…既に御寺の旧名自体が前フリでネタバレなんだが。
それは後に説明するとして、御寺の主な檀家は三田家だった。
三田家の治める当時の青梅を含めた多摩地方は扇谷上杉家の与力衆の武将達の土地だった。
しかし天文十五年(1546年)の河越夜戦で三田家の旧主の扇谷上杉家が北条家によって滅亡させられると、その後は暫く八王子の高月城主大石家同様に北条家に臣従していた。
永禄四年(1561年)に杉謙信(当時の名は長尾景虎)の連合軍勢10万が北条攻めを敢行した際に、元々扇谷上杉家臣でもあった事も有り北条家を離脱して上杉謙信に寝返った様だ。なので上杉家与力衆の名を記した“関東幕注文”にも記載されている。
そして上杉謙信が小田原攻めに失敗して北条家の逆襲が始まる。
多くの多摩地方の武将は善政を布(し)く北条家に臣従していたし、一度、上杉謙信の大軍に恐れを成して北条家を裏切った成田家や千葉家の武将達も再び北条家に与力していた。
しかし、三田家の当時の当主の三田綱秀公は義理堅い人物だった様で、一度自分で謙信に付いてからはずっと謙信の援軍到来を信じて北条勢に頑強に抵抗した。
永禄六年(1563年)、とうとう北条家当主の北条氏康公の子で滝山城主の北条氏照公の軍勢が北条家から見て裏切り者の三田綱秀公の居城、勝沼城を攻めた。
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※写真は勝沼城址から見た青梅市の風景。2016年撮影。
すると勝沼城は小規模で鉄砲攻撃を受けた際の防衛にも耐えれないと判断し、辛垣山城へ兵を引いて籠城したそうだ。
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辛垣城は中世的な山城に北条家の築城術が加わっているので、三田家北条家臣時代に北条家による改修が入っていると考えられる。
後で和尚様に小生の推論を述べた時に「その通り」と太鼓判を頂いたのだが、今の登山道の入口辺りで激戦が展開されたそうだ。
しかし敗戦を悟ったのか三田綱秀公は子供の事を家臣団に託して、青梅の伝承では「北条家と一戦する為に埼玉県の岩槻城の太田家を頼って落ち延びて、そこで切腹した」そうだ。
だが、この話は少しおかしい。
1563年当時、太田家は上杉派の太田資正(すけまさ)公は北条派の嫡男の太田氏資公が対立しており頼れる状況ではない。
三田綱秀公は1563年に岩槻城で切腹したとされている。つまり、方針も決まっていない太田家が切腹させた事に成ってしまう。ましてや綱秀公が太田家を頼る筈が無い訳だ。仮に頼ったとしたら死亡年は実際は1564年だった筈だ。そして、家臣団と三田綱秀公の御子息達は開城後も全員生きている。
状況を整理する。
三田綱秀公は上杉謙信の大軍を見て上杉に付いた。しかし上杉謙信は小田原に攻め上がるまで多摩地方を含め東京や神奈川で略奪放火を行い多くの神社仏閣を焼き払い、婦女子を捕まえては上杉の軍兵が犯しまわり奴隷として売買した。常陸国の小田城下で上杉謙信は奴隷公設市場を開いたりしている鬼畜、不義の人だ。北条家でこういった事は無い。
北条家の統治と比べ、そんな上杉軍の無軌道な状況を快(こころよ)く思わない三田家臣団も多かっただろう。
そして己の判断ミスで三田家家臣団や農民達が今度は北条家から逆襲される羽目に遭った。
三田綱秀公は誠実な人柄だった様なので、旧主扇谷上杉の更に主家の上杉家を継いだ上杉謙信に味方した後はずっと上杉家に付いていた。しかし統治能力も無く関東で乱暴狼藉を繰り返した上杉勢にも疑問も感じただろう。結果的に上杉家は関東を支配する事に完全に失敗し瞬く間に北条家の逆襲が始まった訳だ。
三田綱秀公は家臣や兵士として徴用した農民が北条家から殲滅される事を回避しようとしたのだろう。
だから家臣に子を預け、北条家と交渉し、家臣団と兵として徴用した農民達の生命の安全保証の条件として“引き換えに自らの城の退去そして切腹”が北条家と確約されたのではないだろうか。
そして太田家を頼ったのではなく、1563年当時は北条家にも上杉家にも両属していた中途半端な太田家預かりと成り、1564年に第二次国府台合戦で再び太田資正公が北条家に背いて結果的に御子息で親北条派の太田氏資公に追放された時点で正式に切腹をしたのではないだろうかと思う。
同年、三田綱秀公の御子息も全員亡くなっている。恐らく、三田家旧臣領民の生命安堵の条件だった北条家と不戦の約定を太田資正公が破って国府台合戦に参戦したからだろう。
でなければ三田家臣団が悉(ことごと)く生き残り、更には徳川幕府にも仕えた状況は成立しない。
辛垣城開城後、三田家臣団は三田綱秀公の誠実な領主としての対応と引き換えに北条家に属していた筈だ。
そして、御巡りさんや御住職に聞いて回った所、やはり北条家に三田領が属した名残を二俣尾で発見した。
二俣尾には「福島家住宅」と言う江戸時代を通じて名主を務めた家がある。
東京都の有形文化財指定を受けている住宅だ。
福島家住宅 公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式ホームページより拝借。
この福島と言うのは、武蔵国出身で黄備え隊玉縄衆の軍団長を務めた北条綱成公の旧姓だ。
北条綱成公の弟君は福島弁千代として有名な後の北条綱房公だ。
この北条綱房公の足跡が1549年以後確認できる資料が無いそうだが、北条家では統治が行き届き戦火に巻き込まれなくなった地方の事が文献に登場しない事は良く有る。
例えば神奈川県の伊勢原市周辺もそうで岡崎城や北条一族の神保輝廣公の事、藤沢市の大庭城の事も良く判らなくなる。登場しないだけで、無かった訳では無いのだが学者は記録に残らない事を事実としても書けないので推論も書かない。しかし小生は学者で無くて、たまに学者に論戦で勝つ事も有る只の歴史マニアなので自由に書かせてもらえる。飯のタネじゃないからね、逆に学者さんが言いたくても言えない事も言っちゃう訳だ。
恐らく、北条綱房公は三田領の二俣尾、辛垣城周辺の統治に入っている。
そして北条家滅亡後は福島姓に復帰している。
玉縄北条家は奸臣堀内家により事実上の権力乗っ取りが行われ、江戸い時代には保科家から養子が入り北条綱成公の親族は駆逐されている。その際に福島家は奸臣堀内家の陰謀を逃れて旧知の人の多い二俣尾に逃れて来たのではないだろうか。
実は立川市柴崎町周辺は元々は福島と言う地名だった。つまり、福島姓のルーツのはずだ。
そして福島家は遠州堀内今川家の家来で後に扇谷上杉家を頼っていた一族のはずだ。
実は、那古野城、今の名古屋城は織田家以前は遠州今川家の城だった。織田に城を盗られて今川領に逃げて行ったのだが、その時に福島家も逃げたのだろう。更に堀内今川家は本家の今川義元と対立する。
その際に負けるのだが、福島家は恐らく旧主“遠州”堀内今川家と関係の有る扇谷上杉や北条を頼ったはずだ。だから、今も扇谷上杉家の最後の居城だった川越市には今も福島姓が多い。
実は戦国時代の覇者と成った豊臣秀吉の甥の福島正則公は青年期まで駿河や伊豆の国境の深沢城の城代を務め伊豆と駿河東部の守備を担っていた北条(福島)綱成公を頼って一時的に駿河国に行っていた事が菩提寺の愛知県の菊泉院に伝わっている。
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これも菊泉院の御住職様を訪問し、直接御教授頂いた歴史秘話だ。
秀吉は織田信長公に軍団長に抜擢され信長公の子を養子にとる「家格」が有ったはずだ。
そのヒントが福島正則公の話だろう。
恐らく、木下秀吉の実父は尾張国愛知郡中村の名主と伝わるが旧那古野城主の堀内今川家の旧臣だったんじゃないだろうか。そして福島正則公も。そして北条綱成公の実家の福島家も。
福島を櫛間と書くとか一部の学者は当字の表記に拘るが、実際、武将の名前も音だけ同じで違う文字を当てる事は文書中に良く有るので、そこは幅を持たせておけばいい。
とにかく、秀吉が織田家に仕える以前に今川家重臣松下家に仕える事が出来たり、後に信長公の実子を養子に迎える事が出来たり軍団長に成れるのは実力が有っても絶対に家格がそれなりに無ければ無理。
状況を見れば那古野城主今川家の旧臣、那古野の今川家の没落後に秀吉の実家は帰農、そして秀吉本人は今川家のつてを頼って松下家に仕え、福島正則公は同族で駿河東部の経略を担当していた北条綱成公を頼って駿河に赴き、❝福島伊豆守❞に保護されていた歴史等すべての話は小生の推測通りなら自然に繋がる。
因みに、福島伊豆守は恐らく「伊豆方面に居た北条綱成公の実弟、福島伊賀守勝広」こと北条綱房公の事だろう。

もっとも…この青梅市の福島家の家系図では祖先は鎌倉時代まで遡(さかのぼ)れる生粋の武士で家系は源氏系に成っている。
しかし一般的に学者達の間では三田家と同じ坂東平氏の子孫、若しくは古代に神奈川県中央北部~北東部~東京都多摩地方に戦力を持っていた小野家(小野妹子の子孫)である武蔵七党じゃないかとする説が一般的だ。
青梅市教育委員会様の郷土博物館様にも御教授頂いたのだが、正直、江戸幕府に成ってからも家名を残した三田家ですら祖先の事は時代時代で色々と説が有るし、家紋も時代ごとに使い分けているので良く解らないそうだ。
まぁ、ここら辺りは小生の様な考え方も有るんじゃない?と言う可能性を残す事しか出来ないし学者さんも同じレベルで話してる程度の人が多い。
黒田基樹先生なんかは色々と資料を探し漁っている様だが、やはり完全な証拠は残ってないようだ。

歴史は紙で残っている事だけが全てではない。しかし、学者は仕事なのでそうも行かない。出典を明記しないと他の学者から❝イジメ❞に遭うからだ。
小生はガクシャセンセイでは無いので学者の利権を犯す立場にない。
だから自由に発言を出来るし、本当は学者さんが心の中で思ってる事を聞き出して代わりに言ってあげる事も出来るし、自分で文書に残らない各地の伝承を見たり教えてもらって廻りパズルの様に繋げ合わせて一つにして状況証拠で、こうやってブログに書く事も自由に出来る。
だからこそ利権と関係の無い小生は、金銭と関係なく思いだけで行動しているので色々な御住職様や宮司様達に気に入って頂けて学者も見た事ない文献や宝物を見せて頂いたり話を教えて頂いたける。
これはありがたい事だ。
さて、そんな訳で、恐らく尾張の福島はも北条綱成公の御一族と無関係では無いと思うのだが…
何でこの話をしたかと言えば、武将の話の様に御寺にも他の御寺や神社との❝血縁❞みたいな物が有って、それは必ずしも文章に残っているものだけでなく伝承も拾わないといけないと言う実例を挙げる為だ。
海禅寺は昔は福禅寺と言う名だったが…
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恐らく前身寺院が横浜市森浅間神社と同じだ。
森浅間神社の前身は鎌倉の扇谷に在った修験道の大道場だった❝福禅寺❞権現堂だ。
そして鎌倉時代の歴代の住職は歴代天皇の皇子つまり❝親王殿下❞が務めた訳だ。
恐らく、鎌倉で新田義貞の乱暴狼藉が有って福禅寺が焼けた際に寺の機能は青梅市に移転したのだろう。そして聖地道場としての機能は福禅寺の飛び地境内として存在した権現堂家の管理する浅間権現や天照大神宮で存続した。久良岐郡つまり今の横浜の磯子区森浅間神社や港南区港南に在る天照大神宮の遷座前の場所だ。これらを管理する権現堂松本家は間宮家から下賜された家紋を現在も使用している。
一方、恐らく青梅の福禅寺も前身は修験道福禅寺で永享の乱の頃に廃寺状態に成り後に三田家によって曹洞宗寺院として再興されたはずだ。
そして横浜の間宮家菩提寺と成った鶴見区下末吉の寶泉寺を開く際に、間宮家によって青梅の福禅寺の住職が招かれた記録が残る。だから遠く離れた横浜市の寶泉寺は青梅市の海禅寺の末寺だったりする。
戦国時代、再び三田家と北条家の合戦で再び燃え落ち、恐らく北条家の発願と支援を受けた旧三田家臣団により境内に立派な伽藍堂宇が復興され1575年には天皇勅願所に成る程に勢いを取り戻した。
しかし北条家が豊臣秀吉の小田原攻めで滅亡すると、徳川家のアホ役人が寺の領地の保証書の名前を書き間違えたせいで現在の寺名を使わなければいけなくなってしまったが、10万石格の格式だけは受け継がれた。
森浅間神社地形
この様に状況を纏めると前身寺院は推測だが格式から言って鎌倉の源頼朝公が開いた、その名も「福禅寺」と言う歴代住職を天皇の皇子である親王が勤めた関東の修験道の大本山とも言うべき大道場だ。
しかし、新田義貞の兵火に遭い鎌倉福禅寺は消滅している。
更に室町時代には完全に森浅間神社に機能移転して管理する権現堂松本家だけが横浜市に残った。
恐らく、福禅寺は焼けた際に兵火を逃れて青梅市で扇谷上杉家によって永享の乱以後に復興されたのかもしれない。
そして青梅の海禅寺の隣には…
同じく鎌倉の修験道の大本山だった山崎泉蔵院と同じ寺名の現在は真言宗の泉蔵院も在る。
…この 両方の寺は格の高さに反比例して中興開基より昔の事が戦火と火災や諸般の事情で伝わっていない。
山崎地区
…その鎌倉時代には鎌倉市山崎に有った泉蔵院も、室町時代には久良岐郡森村、今の横浜市磯子区中原に保有していた熊野社の道場に機能移転した。
泉蔵院(熊野神社)の地形 久良岐のよし
そして大霊山泉蔵院桐谷寺と名を一部改めたが、明治時代の神仏分離令廃仏毀釈の仏教弾圧で修験道の大道場だったのを寺院機能を廃止して泉蔵院の名を捨てさせられ、ただの熊野神社に成ってしまった。
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しかし当時の宮司の気転で、神殿の一つとして❝泉蔵社❞として残され、源頼朝公に繋がる歴史が残された。
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まぁ、そんなこんなで青梅の海禅寺や泉蔵院は由緒有る御寺のはずだが、格が高い事は江戸時代の記録でも間違いない。
ただ、その格の高さは小生の説を用いないと説明が出来ない。
参考までに以前、森浅間神社と泉蔵院の解説をした記事リンクを貼っておく。

 また、何か解れば追加報告を書きたい。

取り合えず、御住職と面会を果たし色々話を聞けて御礼を申し上げて海禅寺を後にし、次の目的地の阿蘇神社を目指す今年した。

では、次回はこの休日雑記の続きを書きます~! 

2017年04月19日(水)、前日深夜まで仕事をして午前3時に徹夜で寝ずに青梅市へ移動した。
寝ずに移動した理由は2つ。
1、もし寝たら起きれなくなり、行動予定を熟(こな)す事が出来なくなるから。
2、東名高速や圏央道等の高速道路は午前4時まで深夜割引で半額に成るから。
そんな訳で寝ずに移動した。後はついてから8時位の予定開始まで1時間~2時間寝れば良いやと思っていたので睡眠時間は気にしなかった。
どうせ仕事に行くわけじゃないので寝不足でも関係ない。仕事ならば睡眠不足はミスの元、プライベートは事故ろうがなんだろうが自己責任なので、眠たくなり危険だと思えばコンビニか高速のPAで車中寝れば良いだけ。
んな訳で青梅市の二俣尾駅近くのセブンイレブンに着いた。
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写真は撮り忘れたが二俣尾のセブンイレブンは軒先に薪(まき)が売っていて大変吃驚(びっくり)した。
横浜から来たのだが横浜ではコンビニに薪は売っていない事を伝えた上で…
「何で薪を売ってるんですか?」
…と店員の方に尋ねたら、こんな答えが返って来た。
「え?横浜じゃ売ってないんですか?」
小生…
「う~ん、売ってないです。」
…と答えると、店員さんが売ってる理由を教えて下さった。
どうも青梅市界隈は多摩川の上流で水も綺麗なので水遊びや釣りに来る観光客が多いそうで、キャンプやBBQの需要が非常に有るそうだ。しかしながら、横浜で売ってないんですか?と聞かれるとは思わなかったので正直少し驚いた。

この日の目的は大きく3つ有った。
1、海禅寺さんへの参詣、そして御住職様への取材。
2、羽村市の阿蘇神社へ熊本の御酒「通潤」を奉納し、熊本復興と熊本県民生活再建の祈願を祈祷して貰う事。
3、チューリップ祭の見学。
なので高速料金の安い深夜移動で横浜から青梅市まで向かった所、道路も予想以上に空いていて、ものの1時間半もかからずに到着してしまった。
当然、小生の到着時点で未だ時間は5時前、御寺を訪問出来るのは常識的に9時から。
そこでコンビニで朝食を買い車中で少し休憩して、その後は海禅寺から直ぐ近くの辛垣城(からかいじょう)の城山を登り、9時~10時位に御寺を訪問する事にした。

実は青梅市へ訪問前に地図を見て海禅寺の近所に“コーポ西乃城”と言うアパートが有る事に気が付いた。
西乃城と言うのは恐らく昔の小名で、城が在ったのだろうと推測した。
そしてGoogle mapで「城」と入力して検索した所…
「辛垣城(からかいじょう)」
…と言う城が検索結果に出て来て海禅寺から徒歩直ぐの裏山一帯が城山で有る事が解っていた。
手元に日本城郭大系の神奈川県の部分は持っているのだが、東京の部分は持っていないので調べる事が出来ず、ネットで検索したら城址一帯ハイキングコースに成っていると紹介されていた。
そして去年訪問した同じ青梅市の勝沼城を本拠地にしていた戦国武将、三田家の終焉の舞台だと言う事も紹介されていた。
この三田家は祖先が平将門(たいらのまさかど)公と伝わる。
この青梅の隣接市、羽村市の武蔵阿蘇神社は平将門公が開基の延喜式内社なので、三田家の出自は恐らく本当だろう。ただ、千葉家分流と言っているので、それは誤りだと思う。
千葉家の分流には相馬家がいる。それとは別に平将門公の直系の御子孫にも相馬家がいる。
両方共同じ家紋の九陽紋だ。
九曜紋
千葉氏の祖先は平良文(よしふみ)公だ。平将門公の叔父であり協力者であり菅原道真公と共に3名は宇多天皇と醍醐天皇の御親政奪還に与力された天皇家の忠臣だ。しかし藤原家の讒訴により謀反人扱いされ平将門公は討伐された。
菅原道真公と平将門公と言う宇多天皇と醍醐天皇を支えた智と武の忠臣の排除に藤原氏は成功したものの、全てが藤原氏の思惑通りにはいかず、醍醐天皇の気転で平良文公は鎮守府将軍に抜擢され関東を治める権限を持ち、平将門公の遺領を掌握した。つまり、藤原氏に天皇家一族の支配地を横領される事は防げた訳だ。
この平良文公の本拠地は今の神奈川県藤沢市村岡城址だった。その子孫には、鎌倉武士として有名な神奈川の三浦家や戦国時代の大名、上杉謙信や蘆名盛氏公、正木時茂公等の名将が多くいる。
まぁ、三田家の祖先が平良文公でも平将門公でも、どちらだったとしても桓武天皇の末裔で宇多天皇と醍醐天皇を支えた忠臣には変わりない。

なので、この城を御寺に行く前に登って見る事にした。これが意外に険阻な山城だった…
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…しかし、城に行くまでの家々は、どこの家も綺麗な花が溢れており青梅市の方々の心の豊かさを垣間見る様な住宅街の様子だった。
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城山のハイキングコース入口にはちゃんと看板が有った。
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実は海禅寺の後方の山の地形もGoogle earthで見ていて人工的な凸凹地形が見て取れたのだが、この看板を見て自分の推測が当たっていた事が解った。海禅寺の裏手には枡形山と呼ばれる曲輪群が有った様だ。しかし、今回は御寺に行くまでの暇潰し程度に考えていて余り詳しく散策する心算(つもり)は無く、そちらへは訪問せずに真っすぐ頂上を目指す事にした。
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途中、枡形山の方を見ると自然では無い竪堀(たてぼり)地形が見て取れた。
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この橋の下の沢は道路を断ち切る様に流れているので、水掘りとして拡張された沢だったんだろう。
そして往時はここに引橋(ひきはし=戦時に引っ込めて撤去出来る橋)が掛かっていたのだろうと推測した。
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この辺りはまだ傾斜も緩やか、そして木陰で涼しく清々しい空気を満喫出来た。
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途中で小生が写真を撮りながらユックリ歩いていると、1人、登山客に先を越された。
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二つ目の橋。ここも当時の空堀の底の沢の流路を人工的に道を断ち切る様に変えている様だ。
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下を見ると「にしじょうにのはし=西城二之橋」と書いて有った。
どうやら辛垣状は東側の枡形山の曲輪群と西側の本丸と尾根の堀切等を分けて2城1体の構造で考えられていた城の様だ。確かに相模原市の津久井城に近い広大な城域を誇る山城なので、昔の人は西の城、東の城と分けていたんだろう。
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この城は現地に到着してから色々と地元の人に聞いて回ったが「何もないよ~」と言われていたので期待はしなかったが、上の写真の様に薬研堀形状の竪堀が山麓に沢山残っている。
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約9年前に森林再生事業も始まった様だ。
まぁ、そんなこんなで良い森林の中を気持ちよく散歩出来たのはこの辺りまで…
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少しづつ険しくなり
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途中、曲輪跡と思しき切岸も見ながら
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山の林道は段々と角度を益し
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尾根に出て「あ~ここからは楽だ」と思ったら荒れ道の始まりだった(笑)。
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この写真の部分はV字に尾根が掘り切られており、尾根を断ち切る空堀と引橋が有った様だ。
裾切(すそきり=尾根の両脇の傾斜を人工的に掘削し急にする事)された尾根道は階段などは未整備で滑ったら少し滑落して骨折とかするかも(笑)。
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登リ口(急坂)と書いて有る。
小生には崖にしか見えなかった(笑)。
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もう、戦国時代と違って杉の木が茂ってるし足場は枯れ枝で歩き難いし
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そして、この崖が恐らく、本丸入り口の木戸の城門が有ったで有ろう切通(きりとお)し状の林道。
ここは城の防衛の最終関門だった筈(はず)だ。
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頂上の本丸は江戸時代に石切り場に成っていたのか、看板が有って原型を留めていないと書いて有る。
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まぁ、登って見た感想も看板に書いて有る通り、削平された郭の遺構は少ないが、竪堀と堀切と裾切りした尾根は良く残っている山城の城址だった。
帰りも竪堀にかかる林道の橋を通過した。
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恐らく、この橋も戦国時代は引橋として似た様な簡素な橋梁が有ったはずだ。
この様な竪堀は山の斜面を敵が移動するのを防ぎ、橋を架ける事で進入路を限定し、戦時は橋を取り払い敵を足止めする訳だ。
この様な構造は奥多摩地方の北条家の城には良く見られる構造だ。特に北条氏照公が築城した八王子城に似た構造が多用されている。
下の写真が八王子城の竪堀と引橋。
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まぁ、八王子城の山城部分については構造は辛垣城と似た様な感じなのだが間宮綱信(つなのぶ)公が縄張りしたと伝わる御主殿等の居住空間は安土城を見て来た間宮綱信公らしく、総石垣で壮大な造りに成っている。
下の写真が八王子城の御主殿と引橋。
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もし完成していたら立派な城に成っただろうが、小生的には北条氏照公が滝山城を放棄し八王子城を築城した事に疑問を感じる。滝山城の防御構造と飲水の確保の方がよっぽど完璧だからだ。
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滝山城は侵入者を殺害する為の土の城だが、土の滝山城の方がよっぽど北条流の当時の先進技術が多用されており、堅固な造りに成っているので、仮想敵が織田に成り甲斐国からの敵進入を想定したとは言えあんな防衛施設の建設が限定される山城に拠点を遷(うつ)した事が小生は理解出来ない。
まぁ、山城ってのは高低差が有って敵も登山で疲れるし一見すると堅固に見えるけれど、実際は構築可能な防御構造と設置場所が限定されて余り城として強いとは言えないんだな。

話を辛垣城に戻す。
まぁ~辛垣城の構造は八王子城や津久井城に似ている。どうも三田家の最後の居城とは言われるが北条流築城術の改修が入っている様だ。竪堀を多用した構造もだが、この規模の城を地方豪族の三田家単独で築城出来る訳が無い。或いは北条家以前の扇谷上杉家時代に既に城は存在し、扇谷上杉家が滅亡後に北条家に三田家が臣従した後、北条家が甲斐国境を守る城として改修したのかも知れない。
三田家は上杉謙信が関東に攻め上って来る以前は北条家臣だったので、その時代の話だろう。
そして滅亡したのは長尾景虎(後の上杉謙信)10万の大軍が、3万の北条家に圧勝すると思ったので最後の三田家当主の三田綱秀公は長尾景虎に味方し北条家を裏切った所、小田原城は落城せず北条勢の逆襲が始まり、やがて滝山城主北条氏照公に攻められ勝沼城を放棄し更に辛垣城に籠り、最後は家臣と徴用した農民兵士達の生命の保証と引き換えに自ら城を退去して自害し、当主としての責任を全(まっと)うされたのだと思った。
寺に行く為に山を下りる際に珍しい事が有った。
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ニホンカモシカと睨み合いに成った(笑)。
鹿とは言っても牛の仲間なのでカモシカの体躯(たいく)は結構デカイ。
こんなんに突進されたら谷に落とされて終わるだろうな(笑)。
でも小生は睨み合いに勝った気がしたのでデジカメ取り出して「パシャっ!」と撮影した瞬間に音でカモシカは逃げて行きました。
う~ん、図体デカいけど臆病な生き物なんだね。
しかし、出会ったのが“月の輪熊”じゃなくて良かった。
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寺へ行くまでの林道の草花も綺麗でした。
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 う~ん!三田綱秀公の御蔭で新鮮で清々しい空気を満喫できたし、鹿にも会えた!
綱秀公、ありがとうございました!
綱秀公、現代の会社経営者、市の執政官や、県や都の知事には、貴殿の様に己の失政の責任を取り部下を守る為に腹を切る様な政治家も経営者もいません。
皆、自分の事、不正で私服を肥やしたり名誉欲に駆られた輩しかいません。
ですから、己が上杉に寝返った責任を取って部下達の命を守る為に切腹された貴方は本当に立派な殿様だったと思います。
そして、恐らく開城勧告をしに行った海禅寺(当時の寺名は福禅寺)の御住職様も、地域の農民と低級管理職の命を守る為に殿様に生命を奪う勧告を行われ菩提を弔った事は、現在の青梅市に生きる旧三田家家臣団の子孫達に生命を繋いだ立派な行いだったと思います。
御住職様、三田綱秀公。貴方なりの正義を約400年の時を超えて見せて下さりありがとうございました。

さて!
次回は、この続き、海禅寺訪問~へそまんじゅう総本舗~阿蘇神社~チューリップ祭りを書きたいと思います。 
では、又、この日の休日雑記の続きで 御会いしましょう~♪

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