歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:上杉家

こんな武士の動画⤴️がオススメに表示されたので一頻(ひとしき)り見てみたら商業的な事実と異なる演出のせいでツッコミ所しか無かったので、武士の現実を拡散したいと思います。
【武士の戦い】
武士の標準兵装は弓です。
槍は降りて使います。
馬上槍は曲芸披露くらいしか見せ場有りません。
騎乗しても速歩もさせません。
騎馬武者突撃は下級領主が個別に敵陣の眼前までゆっくり進み出てから敵陣の前で漸く駆け出し騎射で敵陣をスナイプして敵将を射撃し即離脱します。
流鏑馬を思い浮かべて下さい。
真っ直ぐ突進するのでは無く射程距離に入る時だけ早駆けしUターンして丁字に成り射撃し即離脱する、敵陣の弓の射程距離に入るリスクを時間的に減らすスキルで高度な乗馬と弓射技術を要します。
通常は現代人で下馬尚且つ静止状態での精密射撃が50~90mで競技化されていますが、鎌倉武士団は普通に80mを射抜き更に弓の使い方で射角を撃ち分け放物線状に射ぬいて後列の武将を射殺したり複雑な事も出来たそうです。
源頼朝公 拝借画像 久良岐のよし
源頼朝公が石橋山合戦で旗揚げした際に陣地で中心にいるはずの大将なのに今の北鎌倉駅辺りに住んでいた武将の首藤経俊に鎧を射抜かれたり、南北時代の新田義貞が眉間を射抜かれ絶命したのは、この様な現在では失われた武士の高度な弓射技術が有ったから起きた事なのかも知れないですね。
接近戦では山岳戦なら真田義忠公と俣野景久公の様に武将同士が最初から組打ちに突入しますが、野戦なら馬上の武士が太刀で敵を殴りつけ落馬させ複数の従者が一斉に薙刀を突き刺したり、坂東武者は馬上の主人と別に馬自身も敵の馬に蹴りかける等、兵器化していました。
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因みに、真田義忠公や源頼家公の遺児の公暁を打ち取ったのが上杉謙信公の祖先の長尾新六定景公で、戦国時代の玉縄城内に当たる鎌倉市植木の久成寺が定景公の菩提寺です。
上杉謙信
上杉謙信(長尾景虎)公の軍団も武田家と並び立って強かったのですが家臣団はいずれも鎌倉武士団の生き残り、それも鎌倉幕府を開いた武士団の子孫が主力です。
有名な宇佐美定満も室町時代に上杉与力として越後に移住した代表格です。
斯(か)く言う長尾家自体が源義家公の配下の名将の藤沢市村岡城主の鎌倉景正公の子孫で横浜市栄区長尾台の長尾城を本拠地にしていた一族だったりする訳です。この長尾城も戦国時代の玉縄城の一部に組み込まれています。
正に長尾・武田両家が鎌倉武士の家系の家臣団を抱えたから織田軍は当初手も足も出なかったのかも知れませんね。

武田家の弓矢の鏃(やじり)は刺さるだけでなく殺傷力の高い筋肉を切り刻む構造や複雑な反(かえ)しで一度刺さるとヤットコ(ペンチ)でも引き抜いて治療出来ない筋肉を巻き付ける構造や様々なバリエーションが存在しました。
極め付きに鏃自体を矢から抜け易くしておいたそうです。
もう現代の外科医でも後遺症残らず外科手術を成功させるのは困難なレベルかも知れませんね。
1280px-Battle_of_Nagashino~2
だから長篠合戦では織田軍は武田家臣団と比較して武術練度の低さと武田軍の弓の射程距離の優位を解消する必要が有り弓より遥かに射程距離の長く鎧も貫通する鉄砲を導入し対抗した様です。

武田方の指揮官武将の死傷率が異常に高かったのも、騎乗していたから狙い撃ちにされ、流鏑馬で突進する下級士官の武士も悉(ことごと)く射殺され軍団が瓦解する原因に成った事は容易に推測出来ますね。

そんな訳で軍馬は当時とても貴重でした。
人間も平均身長150チョイで小型でしたが馬は驢馬サイズでサラブレッドと比較に成らない小型馬ばかりなので、動画の様に遠駆けはしません。

【現代の1小隊辺りに占める兵装】
現代の1小隊は陸自も30人前後~50人です。
この小隊の隊長は丁度、戦国時代の1000石の高給取り武将の率いた兵力に当たります。
現在の1000石は江戸初期だと貨幣価値で6000万円位の中堅武将に当たります。
現代の軍人が薄給の様に感じますか?
それは少し違います。
何故(なぜ)なら1000石の武士は地区長サンとして行政も行わないといけないので、その6000万円から行政費用を賄う必要が有ったからです。
武田信玄
※武田信玄公⤴️
1000石級のメジャーな武将を例に挙げますと、武田家の名副将小幡虎盛クラスです。
有名な山本勘助は更にそれ以下の兵力の指揮官で皆さんのイメージは江戸時代に子孫が作った創作の虚構でした。

この1000石の小隊に騎上武者が何人いたと思いますか?
徳川葵紋
江戸幕府の役務だと1000石では雇用しなければいけない人数は以下の通り・・・
鉄砲兵2人(鉄砲1丁約1000万円)。

槍兵5人。

弓兵1人。

物資輸送担当2人。

雑兵(農民)10人。

騎馬武者1人(馬1頭8~10両=120万円)
合計21人。

自分自身。総勢22名編成。
騎兵は1~2名、指揮官クラスのみ。
これが現実です。

平和な江戸時代だからこれだけですが、戦国時代なら1000石50~70人も兵士を動員しなければいけませんでした。
そして、この人達を生涯雇用するだけでは無く当然子々孫々まで永久雇用する必要が有る上に、鉄砲のメンテナンス、数年に一度の馬の買い替え、安くても数十万円する鎧兜のメンテナンス或いはフルオーダーメイドで数百万円。
更には開墾する田圃の畦道や用水路の整備、文化の拠点として神社仏閣の整備。
・・・年収が6000万円でも、そこから途轍もない人件費が消えて行く訳です。
現代の価値観で言うと自転車操業の中小零細企業です。
隅立て四ツ目結び紋間宮家家紋
例えば戦国時代のこんな話が古文書に残ります。
小田原北条家の名将北条綱成公の寄子(部下)には付家老の間宮家を始め当主の北条氏康公の直臣達がつけられていました。
現在の横浜市中区本牧は橋本伊賀守と言う武士の領地でしたが度重なる戦費と畑しか作れない痩せた土地の苦しさからか武士を廃業し徴税権を放棄し帰農し網元の庄屋に成った様で、北条綱成公がその土地を知行(ちぎょう:徴税権を承認)されています。
橋本サンは元々水軍の武士だったかも知れません。その橋本サンが登場する葛網(鯛漁用の網)云々(うんぬん)が古文書に書かれていたりします。
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今の本牧と言うと本牧神社の辺りですが昔の本牧の中心は海沿いで、本牧神社も明治以前は本牧塙十二天社と呼ばれ今の中消防署北方消防出張所の裏山に在りました。
地名に鼻や塙と付く場所は海に付き出した岬の更に先端を意味し地形から自然信仰の対象に成るんですね。
まぁ、そんな訳で武士は贅沢なんて出来ず幕末にも黒字の大名の方が少なかったし皆武士は貧しかった訳です。
しかし現代の価値観で見てはいけないのは、当時“食えるだけ”、“飢えず生き残るだけ”で必死でした。
少ない食糧を奪いに来る敵がいた訳ですからね。
今の我々は幸せなんですよ。
我家の幕末~昭和初期の戸籍や系図を見ても昭和初期まで乳幼児の夭逝率が非常に高く如何(いか)に現代の医療と食糧事情が向上しているか解ります。
祖先が武士だった時代なんか更に戦死や一族の権力抗争も有った訳ですしね。
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徳川家康公なんか初期には配下の重臣達まで鋤(すき)で畑を耕していた話は余りにも有名ですよね?
因みに戦国時代だと1000石では50人前後の兵隊を雇用して、侵略戦争を行う際でも30人程度連れて行き更に食糧費も掛かる訳です。
北条氏康公
北条氏康公⤴️が率いた北条家では防衛戦争では1000石で70人動員する事も有った様です。
農民商人も一緒に籠城しますから、動ける奴は皆で戦った訳ですね。
更に北条家では延喜式内社の大山阿夫利神社や前鳥神社等の神社や修験道場の僧兵が援軍としても派遣される事が有りました。
つまり神社の宮司様も武士扱いだった訳です。
織田信長公
これに関しては織田信長公の所も同じでしたね。
桶狭間の戦いでは平安時代から熱田神宮の宮司家を務めた千秋家の千秋季忠公が今川軍の岡部隊等を釘付けにする為の玉砕陽動部隊として戦い、織田軍の今川義元公本隊への急襲を成功に導いています。
北条家が善政で徴税率が低い代わりに軍役が大きかったのは原因が有ります。
武田菱竹に雀紋
この2つの大名⤴️が生産力の高い北条領国に冬に成ると略奪放火人拐(さら)いに来たので必然的にそう成って行った様です。
武田家が通った後なんて村が壊滅し農民が居なくなって廃村に成ってしまった所に、税金免除を条件に農民たちの帰還や移住を促(うなが)す政策を行った事が古文書に残っていたりします。
三つ鱗紋
北条家では特に四公六民で武士は40%しか課税を許されて無かった善政なので武士団は非常に貧乏で、例えば初代の伊勢宗瑞(北条早雲)公を形容する話として・・・
「自己満足で贅沢な刀を購入するなら無名で実用性の高い丈夫な刀を多く買いなさい」
・・・と言う主旨の教訓を残したと伝わっている位です。
なので戦国時代も江戸時代も大名以外の武士は貧しく、更に軍役で騎馬武者なんて1小隊にせいぜい2人だった訳ですね。
つまり、この動画⤴️の状況では1000~1500石取りの1藩の家老クラスの武士が“非現実的な槍遊びをして無駄に馬を潰してるの図”に成り、明らかな馬鹿殿ぶりを発揮している事に成ります。
この鉄の塊を着込んだフル装備30kgのバカ殿はロバ位の騎馬を無駄に走らせ、更には食糧や陣地に使う材木や軍装を運ぶ荷駄隊と沢山の弓隊槍隊150人が置いてきぼり食らわせてる訳ですね~。
兵士(庄屋サン達が率いる農兵)達は必死にバテバテで走らされてる事に成る訳ですね。

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残念ながら日本ではコンナ⤴️フル装備の騎馬武者ONLYの編成で轡を並べてゾロゾロ、挙げ句の果てに馬上槍ごっこは有り得ません。
鎌倉時代の武士でも1人の騎馬武者には最低でも3人の薙刀や弓を持った雑兵が付き従っていたのですが、鎌倉時代は南北朝時代や室町時代よりも個人戦なので単騎で敵武士へ流鏑馬の様にスナイプを仕掛ける一騎打ちはしても騎馬武者ばっかり集まっての突撃は有りませんでした。
ゲームやヨーロッパの騎士の話しでしか通用しない。
歴史オタクとしては現実だけは知って置いてもらいたい所です。
太田道灌公
因みに関東で最強不敗の名軍師太田道灌公は日本で最初に雑兵の足軽に弓を装備させ現代の集団射撃の様に集団戦術での一斉射撃を導入し、敵を包囲して射殺する戦術を編み出した野戦の専門家でもあります。
太田道灌公は永享四年(1432)年~文明十八年(1486)年を生きた武将ですから、もう騎馬武者の優位性と言うのは室町時代には無くなっていた事も解りますね。

まぁ~そんな所で武士の現実を了解して頂けたでしょうか?
武士は貴族と違って搾取するだけの存在ではなく、そもそも一緒に山を切り開いて開墾し農地を広げていった開拓領主なので貴族の様に領民を雑に扱ったり苦しい徴税を課しては誰もついて来ないし、馬も大切にしてたので訓練以外では無駄に走らせないし、騎乗して槍を使う事も非現実的で何の訓練にも成りませんし、戦国武将達で騎乗していたのは指揮官だけだから鎧兜フル装備の騎馬武者だけで行動する事も無いですよ~!
・・・と言う御話でした。
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第4話の再放送には間に合わなかった第4話解説…
まぁ、明日の第5話には間に合うから良いか(笑)。

真田丸の第4回放送では、又々、ちゃんと作りこむべき合戦シーンが端折られてしまいましたね…
端折られたのは明智光秀が謀反を起こした「本能寺の変」です。
そして、何だか話の進み方が歴史的な経緯と比較すると尋常じゃない展開で進んでいる様な…

不満はさて置き、この第4回では真田家がいよいよ独立大名として歩みだす事を説明する物語と成っていました。
さて、その前に第3回~第4回の真田家の状況を理解する為に、まずは主要な城を各大名家の家紋で支配者を区別出来る当時の勢力図を見てみましょう…
真田丸勢力図 織田家全盛期2 久良岐のよし制作
※クリックして拡大して見て下さい。
※織田家と徳川家はこの時点で協力関係にあるので家紋を同一色で表示しています。
※羽柴秀吉の顔は、以前の大河ドラマ❝秀吉❞で秀吉の役をした時の竹中直人サンの画像です。
※重要な城だけ載せています。

この勢力図を見ると判(わか)る通り、織田家は❝真言宗の聖地の奈良県南部山間部や高野山❞と❝雑賀衆❞と呼ばれる鉄砲武装した豪族達が支配する和歌山県を除いて近畿地方もほぼ手中に収めています。
織田信長 織田木瓜
この時点での織田家の総石高は約700万石、展開可能な総兵力は21万以上有していたそうです。
滝川一益
既に、その支配地域は東は現在の群馬県に当たる上野国に及び北条家を従属させる事を成功させ、関東管領(かんとうかんれい=関東知事)として滝川一益公が厩橋城(現在の前橋市市役所の所在地)に配置しています。
前回も解説しましたが、滝川一益公は織田信長公が名古屋周辺の家臣達から酷い裏切りを何回もされていた時期からずっと信長公を支え続け、得意な鉄砲戦術と知略で勝利に貢献した名将でした。
真田丸第4話では、織田家の関東方面司令官として上野国に入り、真田家を傘下に置き岩櫃城や沼田城を接収していました。
羽柴秀吉
西は山陰山陽方面軍の司令官として羽柴秀吉を姫路城に配置し岡山城の宇喜多家を傘下に入れて、岡山城の目と鼻の先の備中国高松城を巡(めぐ)って山陰山陽地方の覇者の毛利家と対峙していました。
この時期の❝羽柴秀吉は、既に信長公の御子息を養子にしており織田家の親族として軍団長を務めていた❞のですが、余りその事実は語られません。
縁故主義より実力で出世した事にした方がロマンが有るんでしょうかね~?実際は彼の功績では無くて、織田家親族としての羽柴軍団を支えた竹中半兵衛や蜂須賀小六といった優秀な与力武将達の功績による所が織田家としては正常な評価なのですが…
柴田勝家
北は今の福井市の基礎設計をして市街地を整備した内政力も非常に高い柴田勝家公を配置し、現在の福井城に当たる北ノ庄城を拠点に北陸地方を支配させ、信越方面の制圧に取り掛かっていました。
しかし柴田勝家公は並みの武将より統率力や合戦の采配に優れていたものの、羽柴軍団の様な多彩な戦術や思い切った作戦を用いて合戦を出来る司令官ではありませんでした。
その采配で上杉家の前線の魚津城を攻略するものの、本能寺の変が起きても冬の北陸から近畿方面へ侵攻する手段を見出さず羽柴軍団の織田家乗っ取りの後手を踏み、勢力を拡大出来ずに終わる事に成ります。
明智光秀
そして明智光秀は、羽柴軍団と同じく❝信長公の親族❞として最も信頼される軍団長だったので近畿方面軍の司令官として、近江坂本城(現在の滋賀県大津市坂本町)を拠点に近畿地方の織田軍団を統括していました。
秀吉と同じく実力で出世したと見る方が多い武将ですが、❝明智光秀の出世は信長公正妻の帰蝶(きちょう)の従兄(いとこ)だった為に織田家の親族として外交面で重用された❞事実が一番大きいと思います。
名門美濃源氏土岐家の分家明智家として朝廷や足利家と将軍家との交渉役を担える武将だった訳ですが、血筋がサラブレッドと言える家臣の少ない織田家において織田家親族として外交を代表出来る人物は彼をおいて他に存在しませんでしたからね。
合戦も秀吉や柴田勝家程の実績は有りませんが、一般的な真面目で守旧派的な彼のイメージと事実は異なります。
当初は比叡山の権威を信長公に語りながら実は後に比叡山焼き討ちと皆殺しを積極的に進言したり、残虐な作戦も冷徹に行い時として敵に自分の母親を人質として渡す等、自己中心的な性格を垣間見える事実が多く残る武将でも有ります。

さて、第4話は、真田家が織田家に従属する所に多くの時間を費やしながら、恐ろしい速さで物語は展開し主人公真田信繁公の夢の中で急転直下、❝本能寺の変❞が起きて織田家が滅亡する所で終了しました。
…そのちょっと前に、諏訪の織田本陣に赴(おもむ)いた真田家の一行が、なんだかオカマっぽい明智光秀が織田信長公の折檻を受けて喜んでいる(?)ドMな場面に遭遇するシーンが有りましたが、あれは実際に起きた事件です。
実は織田家による武田家攻めは、その勝利はほぼ確定したものであり、織田家の御曹司(おんぞうし)である織田信忠公を2代目社長としての実績を積ませ箔付けするデモンストレーションでも有りました。
織田信忠
信忠公は優秀な2代目でしたが、傑出した将才が有ったかは現代でも疑問視され、御父上の信長公と比較されると微妙な立場でもあったので、❝強大な武田家を倒した功績を信忠公に積ませる❞事は織田家として内外に次代も盤石である事を示す目的が有りました。
ところが、明智光秀は自己中心的でKYな面が多々有ったのでやらかしてしまいます…
明智光秀←元祖KY
コイツ、信忠公の2代目襲名式みたいな甲州攻めの打ち上げの席で、あの❝折檻事件の原因に成った大失言をしている❞んですね…
コノKY野郎は、織田家に服属する武将や外様大名の使者達が参列する宴席でこんな事を言ってしまいました。
「いや~わざわざ私らが骨をおった甲斐が有りました~(笑)」
…もう、この一言で織田信忠公の事実上の2代目襲名披露儀式としての甲州征伐はオジャンですよね?
だって、「いや~わざわざ私らが骨をおった甲斐が有りました~(笑)」ってのは現在の会社の中のやりとりとして通訳しても…
「2代目だけじゃ力不足だから私らが頑張らなきゃいけなかった」
織田信忠←失言の被害者

…って事を言って、織田家に挨拶に来ている真田家の様な他家の大名の使者や部下達の前で信忠公を馬鹿にしているのと同じ事に成るんですよね。
コレは…調子に乗った光秀はバカ過ぎるし、すべてを台無しにする一言でした。
それで、あのシーンに繋がる訳です。
織田信長←怒っちゃった
せっかくの2代目の晴れ舞台の事業を台無しにする明智光秀の「俺らの御蔭じゃね?」的な発言にブチ切れた結果の一言が、あの明智光秀の頭を掴んで廊下の欄干(らんかん=手すり)に頭ゴチゴチ叩きつけた折檻(せっかん)に繋がる訳です。
光秀シバキながら言ってましたよね…
「お前が何をしたぁ~(怒)!」
「申してみよぉ~(怒)!」
…って。
信長公は、情が深く身分の上下を気にせず庶民ともフレンドリーに接して下さったり法治主義を徹底して下さる代わりに、かなり感情的にキレ易い面も有りましたからね~。
原因の一つとして言われている事に、❝高血圧だったんじゃないか❞と推測されています。
実は信長公の好物は塩辛くて味の濃ゆぅ~い赤味噌を焼いた❝焼き味噌❞でした。
この焼き味噌、お茶漬けの具にしたりすると非常に美味しいのですが、高血圧の原因では?と言われています。
因みに、信長公は戦国時代なのに牛乳を飲んだ事でも有名ですね。
余談ですが、信長公は明智光秀がハゲ頭だったので「金柑頭(きんかんあたま)」と馬鹿にして折檻したそうです。
自己中でプライド高い明智光秀には耐えられない事だったでしょうね。
本能寺の変は、明智家の家老斉藤家と縁戚関係に有った長曾我部(ちょうそかべ)家や足利将軍家と貴族の山科言継(やましなときつぐ)の陰謀、泉州日蓮宗として安土宗論の仕置きに恨みを持っていた堺商人と日蓮宗の僧侶達やキリスト教宣教師の陰謀など複数の説も有りますが、小生は全ての説が関与して起きたのが本能寺の変だと考えています。
さて、本能寺の変に話が繋がった所で、第4話の直後の勢力図を見てみましょう。
※クリックして拡大して見て下さい。
真田丸勢力図 本能寺直前 久良岐のよし制作
上は❝本能寺の変❞を明智光秀が起こした直後の勢力図です。
北陸では柴田勝家公は上杉家の魚津城を奪取した直後で、反逆される恐れが有り近畿方面へ反転する事が出来ませんでした(羽柴軍団の様な外交が出来る武将が柴田軍団にはいなかった)。
しかも、第3話の解説でも説明した無能で残虐なだけの森長可が、信長公の死亡を聞くや己の行った悪事で信州の豪族達から復讐(ふくしゅう)される事を恐れて自己中心的に職務放棄し信州から撤退し、更に又々鬼畜ブリを晒(さら)して信州の豪族の妻や子を人質にとって美濃国まで逃げてしまいました。
鬼畜な森が職務放棄して逃げてしまったせいで、滝川一益公は前線の群馬県の厩橋城に取り残されてしまいました。
滝川一益公には、この時の誠実な御人柄を表す逸話が現在も伝承しています。
滝川一益 丸に竪木瓜

前線に取残され、退路の無くなった滝川一益公は、本能寺の変の直前まで部下だったり織田家に従属していた関東と信州の豪族や大名を集めてこう言う主旨の発言をされました…
「私は明智光秀を討伐し、信長公の遺子を守らなければいけません(しかし帰る道は閉ざされている)。」
「皆さんが私に協力して頂けるか離れて敵対するかは御任せするより無いので、敵対するなら私の首をとって手柄とするつもりで合戦をされても恨まない」
既に森長可が職務放棄してしまい織田本領と甲信越方面の兵站(へいたん=補給線)が寸断されてしまったせいで甲州では甲府を治める河尻秀隆が現地豪族の蜂起によって殺害されてしまっていました。
…森の愚行のせいで、一益公も河尻秀隆と同じ運命は避けられないと思っての御発言かもしれませんね。
出浦昌相
…しかし、この一益公の御発言に感動した後の真田家の家老と成る出浦対馬守は、滝川一益公が無事に信州から美濃国に辿りつける様に自軍を率いて護衛し見送られたそうです。
これに対して、徳川家康公や北条氏政公は森が職務放棄して空白地に成った織田家の甲信地方の遺領に侵攻し、支配地域の奪い合いを始めます。
徳川家康 北条氏政
二人とも不誠実の代表みたいな人ですね。
新府城址に行くと、この二人は今の山梨県北杜市に在った若神子城と韮崎市の焼け落ちた新府城跡に陣取って対立し、織田家遺領を巡って合戦を行った事が説明した看板が有ったりします。
真田家勢力図 本能寺直後関東 久良岐のよし制作
※拡大して見て下され。
森が逃亡したせいで甲斐国と信濃国には本能寺の変直後に徳川勢と北条勢が乱入している事や、滝川一益公が敵の真っただ中に取り残され、真田家より不利な状況に成っている事が解ると思います。
これが次回、第5回放送での真田家を取り巻く状況です。

本能寺の変はドラマでは端折られ合戦シーンは有りませんでしたので、せめて真田家も関わりの有る滝川一益公の神流川(かんながわ)の合戦くらいは、ちゃんと合戦をドラマで再現して欲しいなと個人的には思っています。
神流川の合戦 場所 久良岐のよし作成
この神流川の合戦は、関東で今の埼玉県川越市で起こった河越夜戦や、今の横浜市神奈川区神奈川駅一帯の本覚寺~幸ヶ谷公園周辺で起こった権現山合戦と並んで大規模な合戦でした。先述の2例が籠城戦なのに対して、この神流川の合戦は野戦としては特に大規模な例として有名です。
合戦は滝川家とそれに加勢する関東豪族勢vs北条家とそれに加勢する関東豪族勢によるものでした。
滝川一益 丸に竪木瓜
滝川勢…18,000前後
●滝川家…滝川一益公・滝川益重公・前田(慶二郎)利益(史実での在陣有無は不明)
●上野衆…真田昌幸公・北条高広公・小幡信貞公・倉賀野(くらがの)秀景公・安中久繁公・佐野宗綱公 等々。
北条氏政 三つ鱗紋
北条勢…50,000前後
●北条家…北条氏政公・北条氏直公・北条氏邦公・北条氏規(うじのり)公
●家臣団…石巻康保(やすもり)公・成田氏長公・大道寺政繁・松田憲秀 等々。

双方の兵士数だけ見ても凄まじい会戦だったのが理解出来ると思います。
そして、この合戦は真田昌幸公が人生で2番目に体験した大合戦であり敗戦でした。
もし!NHKと三谷幸喜サンが真田昌幸公が参戦した大戦(おおいくさ)の神流川合戦をドラマ真田丸の中で端折ったら、もう、ハッキリ言って大河ドラマとしてヤル気無いでしょうね。
この中で、前田慶次(利益)は作家隆慶一郎の小説❝一夢庵風流記❞の主人公であり、漫画化された事で歴史に興味が無い人にも有名な人物です。
真田丸で後に登場する直江兼続…
直江兼次
…彼とも親友だった武将なので、もしかしたら、その内登場するかも知れませんね。
あともう一人。
石巻康保(やすもり)公は、小生の住む横浜市と所縁の深い殿様で、北条家本家の重臣であり、横浜市港南区野庭に在った野庭関城の城代を務めた方でした。
もし、ドラマに登場したら個人的には嬉しいのですが、可能性は無いでしょうね。
この神流川の合戦や、若神子城や新府城での織田家遺領を巡る各大名の領地争いの事を❝天正壬午の乱❞と現代では呼んでいます。
おエライ学者様達は何でも名前付けたがりますね…
別に小生、一、歴史好事家としては、どっからどこまでとか線引きする必要なんか無いと思うんですがね。
もし天正壬午の乱で最大の合戦である神流川の合戦をNHKが真田丸で再現しなかったら…
マジくそ!
…以後、見なくて良いレベルですね。

さて、では、この本能寺の変と森の鬼畜バカのせいで発生した天正壬午の乱ですが、この乱後、織田家の遺領を巡った戦いから織田信長公の掌握していた権力を巡る織田家の内戦が勃発し、織田家臣団は分離独立して行く事に成ります。
その中で最大級の派閥が柴田勢と羽柴勢でした。
柴田勝家 二つ雁金
妻が信長公の妹の市姫。
織田家の生来の武士出身の派閥で最大の棟梁。
羽柴秀吉 太閤桐
尾張国愛知郡中村の村長の子で商人を経て、後に信長公の実質的な本妻の生駒お類(るい=別名:吉乃)様の実家に出入りする様になり、生駒家の鉄砲頭から織田家に仕官した。縁故主義だが稀代の出世頭。
太閤桐
この家紋↑太閤桐と呼ばれ、豊臣家の家紋です。
この時点では瓢箪(ひょうたん)や織田家から下賜された家紋を使っていましたが、真田丸では豊臣家は後に主人公真田信繁公の主家に成るので、この家紋に統一します。
勢力図を見てみましょう。
真田丸勢力図 織田家分裂後 久良岐のよし制作
上の勢力図で、東海地方の中で長島城だけが柴田勝家公の勢力下に置かれていますが、実は、関東から帰還した滝川一益公の本貫地(ほんがんち=所領)です。
柴田勝家公は織田信長公の側室の子供の❝織田信孝❞公を滝川一益公と共に支持し、織田家を乗っ取らんとする羽柴秀吉と対立します。
つまり、滝川一益公は亡き信長公への忠誠心から、関東退去時と同じく又も誠実な生き方を選んで織田家を乗っ取る羽柴秀吉と対立する道を選んだんですね。

この柴田vs羽柴の争いは、謀略と外交に巧みな羽柴勢に軍配が上がり、柴田勝家公は北ノ庄城で自害し、市姫様と娘達は小谷城での浅井家滅亡以来2度目の落城を経験しました…

さて、第4回の解説と、関連事項を紹介しましたが如何(いかが)でしたでしょうか?
NHKさんと三谷幸喜さんが真面目に合戦の壮大さと残酷さと、先人の悲しみと少しの幸せの上に現在の生活が成り立ってる事を演出して下さるのを、ただ願うばかりです。

もし神流川の合戦を端折ったら、真田丸はマジ糞ですね。

では…また次の解説で!
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第三回の放送の解説の前に❝真田丸❞制作者のNHKサンに憚りながら諫言致します。

❝真田丸❞の第3回放送、視聴率が低下したそうですね…
その原因、何処に有るかNHK様に於かれては御存知有るや無きや?

視聴率低下の理由は合戦シーンが無いからです。
NHKさん、いい加減に気が付きましょう。
戦国時代や太平記や源平系の歴史大河で合戦が無い、または合戦シーンがしょぼいのは寿司屋に行ってネタの無い舎利だけを食わされている拷問の様な物です。
いい加減ファンでも心が離れていきます。
最低限「葵徳川三代」の時の関ケ原合戦のシーンくらい毎回、予算投入して合戦を力いれれないならばやる必要有りませんから。

別に大河ドラマじゃなくて一か月に一回位、マイナーな俳優さん使ってもエキストラを大量に使って局地戦ごとに詳細に再現した「月1回の合戦絵巻ドラマ」の方がよっぽど良いですよ?
イギリスのBBC放送の制作❝The Battle of Sekigahara❞のクオリティと比較してNHKさん大分劣ってますよ?
The Battle of Sekigahara 開戦直前
御手本にされては如何ですか?
無名俳優さんを使っても、この合戦の迫力を何回も大河でやった方が視聴率も上がりますし、忠実な合戦の再現が出来ますよ?
The Battle of Sekigahara 松平忠輝 井伊直政
外国人制作の日本合戦史の再現ドラマに負けるって恥ずかしいですよね?
今後、大物俳優の登用は止めて、仮面ライダーの様に新人の登竜門にし公正なオーディションにより主役級を採用しませんか?
大物俳優を登用しない分で浮く人件費を大量のエキストラと、ロケ地のセット組み上げに使いませんか?

  謹白
  久良岐のよし

NHK様 
三谷幸喜様
 
さて、本題に戻ります!

❝真田丸❞第3回放送、残念ながら視聴率が大幅に低下したそうです。
これは理由がハッキリしていて、恐らく多くの視聴者が❝真田丸❞を見るのはヒューマンドラマを見たい訳では無く、真田と言えば防衛戦の戦術と戦時中の計略がどの様に再現されるかを期待してしているからです。
つまり…
合戦の再現を見たくて真田丸を見ているのに、全く合戦シーンが無いからです。
初回で高遠城が凄惨な落城の仕方をした防衛戦の様子くらい、ちゃんと風林火山の時のセットを再利用してロケすれば良かったんです。
東京からロケに行ける範囲の坂東市にも❝逆井城❞と言う立派に戦国時代の関東の城を復元した城址公園も有るんですから、それ位はしたら良いと言うのが一ファンとしての意見ですが…

まぁ、ヒューマンドラマとしての真田丸では、第三回放送は結構、重要な展開も有りました。
真田丸の最終回での主人公信繁の戦い方にも繋がる伏線が実は幾つも登場していたのに、歴史に余り興味の無い方は気が付いたでしょうか?
きっと小生と同じ歴史オタクの方々は、「おぉ~、そう説明するか?」と思う伏線を幾つも見つけられたと思います。
先ずは、新たな登場人物の整理と、第3回の物語から予想される第4回或いは第5回で登場すると思われる人物を紹介しておきたいと思います。

先ずは第3回での頻繁に登場した人物の内、真田側の武将達から…
今回は特に4人の重要な人物が登場しました。

●1人目…矢沢頼綱公 最重要人物
矢沢頼綱
この矢沢頼綱公は真田家において参謀的な役割を担(にな)った名将で、奇襲戦を大の得意とされた人物でした。現在の真田丸の時代より数年後に岩櫃城代も務めました。
合戦で重要な作戦を提案する役割、つまり軍資格の武将ですね。
この矢沢頼綱公は血縁上は…
真田信繁
❝真田丸❞主人公の真田信繁公の…
真田幸隆
(KOEIサンのゲーム画像拝借)
…御爺さん真田幸隆(ゆきたか)公の弟です。
真田幸隆 矢沢頼綱
この真田幸隆公と矢沢頼綱公は御兄弟ですが、その御両人の御父君は海野棟綱公です。
海野棟綱
(KOEIサンのゲーム画像拝借)
真田幸隆公も初名(しょめい=最初の名前)は真田幸❝綱❞でした。
元々、真田家や矢沢家は名門海野家の一族で、自分の領有した真田郷や矢沢郷の地名を苗字(みょうじ)にした訳ですが、これは由緒ある武士の伝統文化です。神奈川の名族三浦家も、その一族は支配地域から❝三浦❞❝和田❞❝佐原❞❝朝比奈❞❝芦名❞等の幾つかの苗字の武将に分かれ、その後の戦国大名に成っていきました。
海野一族の通り名は❝綱❞の字だった様ですね。それが真田幸隆公以降は祖先の海野幸氏公からとって❝幸❞の字に成った様です。
主人公の真田信繁は、主君武田信玄の弟で名副将だった❝武田信繁(のぶしげ)❞公に肖(あやか)って名付けられたそうなので、長男の真田信幸公を良く補佐する武将に育つ事を期待されて名付けられた事が窺(うかがい)い知れます。
この真田家の出自の海野家は、鎌倉時代には既に源頼朝公の御家人として活躍した信州の名族で、弓馬に長(た)けた4人の武将❝弓馬四天王❞の一人として祖先の海野幸氏(ゆきうじ)公の名が見えます。
その海野幸氏公が、真田信繁公の直系の祖先でした。
弓馬四天王の残りの3家も甲信の名族で武田信光(のぶみつ)公・小笠原長清公・望月(もちづき)重隆公です。
この内、武田信光公は第2話で亡くなった武田勝頼公の祖先です。
武田勝頼
武田勝頼公は清和天皇の皇孫に当たる名門清和源氏武田家の武田信玄と、諏訪大社の御祭神である建御名方神の御神孫の諏訪家の姫様の混血貴種で超サラブレッドです。
残りの小笠原家は信州守護(しゅご=知事)職を代々務めた武田家の分家筋に当たる名族で、第1話で俳優が登場しないまま既に小笠原家の子孫の武将が徳川家の家臣に成っている描写が、別の武将のセリフに有りました。
最後に望月家は、第3話で地図上の小県郡の勢力図の説明で❝望月家❞の文字だけが登場しましたが実は、この望月家の御子孫も恐らく❝真田丸❞最終回で大活躍する武将として登場するはずです。

●2人目…出浦昌相(いでうらまさすけ)公
出浦昌相
この人物、一般的には❝出浦 対馬守(つしまのかみ) 盛清(もりきよ)❞と言う名前の方が知られています。
ドラマ❝真田丸❞の第3回放送では、出浦昌相の名前で登場し独立勢力の領主として主人公の御父君の真田昌幸公を支持する協力者として登場しました。
昌相(まさすけ)の名には❝昌❞の字が含まれていますね。
これは後に主君に成る、真田昌幸公に臣従した際に名を頂いたと考えるのが自然です。
真田昌幸 出浦昌相
さて、この出浦昌相公はどんな人物だったか、第3回ではその紹介的な物語に成っていたのを皆さん覚えてらっしゃいますか?
真田信幸
大泉洋サン演じる主人公の兄の真田信幸公(劇中では15歳)は、父の策略を実行する為の❝ダシ❞に使われて、出浦公が計略を実行する演出が有りました。
更に、出浦公や信幸公が、真田昌幸公を訪れる際に真田家の館の至る所が忍者屋敷みたいな回転扉や秘密の入り口みたいな構造で演出されていた事に気が付いたでしょうか?
小生を含め歴史オタクはこの演出の意味を知っているのですが、実は出浦昌相公は一般的な人のイメージする処の❝忍者❞の役割を務め尚且(なおか)つ家老を務めた、真田家中でも重要な参謀の一人でした。
まぁ、忍者というのは…
影の軍団
※これは❝影の軍団❞と言うフィクション時代劇で服部半蔵を演じる千葉真一さん
…実際はこんな黒ずくめの忍者忍者した存在じゃありません(笑)。
いわゆる上のイメージの忍者というのは存在しません。
正しくは3タイプの忍者がいました。
1つ目…ゲリラ戦の得意な地方豪族で火薬を使った兵器を好んで用いて戦場で奇襲や攪乱をする武士。
伊賀や甲賀の豪族や、相模国箱根温泉辺りの風磨忍者、紀州の雑賀衆ですね。
このタイプの武士のゲリラ戦術が、今の有り得ない忍者のイメージに繋がっていきました。
このタイプは森林や湿地のゲリラ戦術が得意で、森林で振り回せる脇差や槍を使った戦い方や、鉄砲での狙撃を得意としました。
2つ目…庶民に扮装して敵領地に侵入したり戦場の敵陣で情報収集をするスパイ活動家。
このタイプの忍者が出浦昌相公でした。
出浦公は配下の忍者よりも先に敵情を偵察し正確な敵勢兵力数や布陣を把握してしまい、後に帰って来た部下の忍者の情報収集能力を採点する様なハイスペックな仕事の出来すぎるチート(凄い)武将でした。
更に凄いのが主人公真田信繁公の御爺さんの真田幸隆公で、地方領主なのに自ら当時の主家武田家の宿敵の上杉謙信が支配する越後国の春日山城下に忍び込み、好き放題に情報を収集した挙句(あげく)に上杉謙信の追っ手を庶民の変装で翻弄し、無事に真田郷に帰って来る大活躍をして上杉謙信を嘆(なげ)かせる程でした。
他に庶民に扮装する忍者に女忍者の❝くノ一❞もいて、先に紹介した望月家の戦国時代の棟梁の正妻だった❝望月千代女(もちづきちよめ)❞と言う人物は、武田信玄の命令で孤児(みなしご)や奴隷の女児を神社の巫女に扮したスパイとして育て上げ、敵対国で諜報活動をする❝くノ一❞を用いて活躍したそうです。
…望月家が真田丸最終回で活躍する伏線も、この望月千代女の逸話と関係が有ります。
3つ目…商人として活躍しながら敵の城の御用商人に成り、敵の財政や軍備を調べる。
このタイプの忍者を特に用いたのが上杉謙信で、彼はこんな言葉を残しています。
「商人として一流になれ、一流の商人に成って初めて敵に信用される」
これを象徴する逸話が❝敵に塩を送る❞の逸話です。
海の無い武田家が、当時の群馬や埼玉県の上杉家、神奈川県や東京の北条家、静岡県の今川家から経済封鎖されて塩を輸入出来ない窮地に陥った際に、越後の商人は武田家の領地の甲斐国へ塩を売りに行く事を武田家と敵対していた長尾景虎(ながおかげとら=後の上杉謙信)が禁止しなかった逸話から起こった諺(ことわざ)ですね。
この❝敵に塩を送る❞の言葉は現代では❝困っている人間は敵でも助ける❞みたいな意味に間違って解釈をされていますが、実は助ける意味ではなく、敵の窮地に乗じて商人スパイを送り込み武田家にスパイを商人として信じ込ませ、結果的に武田家の情報を具(つぶさ)に調べたに過ぎません。
ですから❝敵に塩を送る❞は、本来ならば❝敵の弱みにツケ込んで、敵の情報を盗む❞と言う意味の方が正しい訳です。
以上で、出浦昌相公の人物像と忍者の役割は御理解頂けたでしょうか?
では次の人物紹介にいきます。

●3人目…高梨内記(たかなしないき)
高梨内記
本作では度々、真田家の重臣として登場します。
高梨家は、そもそも真田家の家臣ではなく独立した地方領主で、名族で清和源氏の一族でした。
一時期は武田家と直接対決する程の勢力を持っていた一族ですが、敗北すると高梨家の嫡流(ちゃくりゅう=本家)高梨政頼は上杉謙信を頼って越後に移住し、以後は上杉家臣と成りました。
この高梨内記も地域と苗字から、その高梨家の一族と考えられます。
そんなに実績を残した人物では…

●4人目…真田信伊(のぶただ)公
真田昌伊
この人物、劇中では主人公から「叔父さんの事を一番尊敬しているよ!」と言われていましたが、実際はそんなに仲が良かった訳では有りません。かなりの曲者(くせもの)で、劇中でもキャラ説明の為に演出されていましたが上杉や徳川や北条等、義理よりも利益に成りそうな場所にコネクションを作るタイプの実利重視の人間でした。
ただし、生き残る才能は一流で甥の松代藩主真田信之公とは別に、後に徳川家康公から5200石の領地を与えられ大身旗本として明治時代まで真田の血を存続させる事に成功しました。
更に、大阪城攻めでは豊臣方の真田信繁公に対し徳川家への内通を促(うなが)す使者として赴(おもむ)き、信濃国40万石の内10万石で内通する様に説得したりと、外交面で武田家臣時代~真田家独立時代~徳川家家臣時代と活躍した人物でした。

さて、第3回では真田家は織田家に臣従する事を決めましたね。
織田信長 織田信忠
次の話のネタばれに成る可能性が高いですが、織田家で真田家の寄親(よりおや=上司)と成ったのは…
森長可
森長可(もりながよし)と言う人物です。
恐らく次回か、その先に登場します。
この人物、官職が武蔵守(むさしのかみ)だった事から渾名(あだな)を❝鬼武蔵❞と呼ばれましたが、この鬼武蔵の❝鬼❞は甲信越地方で❝鬼の様に酷い奴❞と言う意味で名付けられていました。
実は、❝第1回❞❝第2回❞放送で合戦シーンが端折(はしょ)られた❝高遠城の戦い❞で、この森長可は逃げ惑う女子供を狙って惨殺しまくった極悪非道な人物だったんですね…
一般的に武士は敵でも非戦闘員の女性を殺害しません。殺害する場合は戦後処理で殿様の判決の上で死刑にします。
有名なところでは、明智光秀は本能寺で信長公を追い詰めた際に、寺から逃げてくる非戦闘員の女性達や僧侶に対し自軍明智軍の兵士達が危害を加える事を禁止しました。
ですから婦女子を狙って殺人しまくった鬼の様に酷い奴と言う意味で森長可は❝鬼❞の名で呼ばれる様に成りました。
彼は、高遠城で自ら行った極悪非道な行いによって後に痛い目に遭(あ)います。
本能寺で信長公が亡くなり織田家の威信が低下すると、自分のカリスマ性の無さや信濃攻めで行った極悪非道な行いから信濃国の豪族達に逆襲される事を恐れて、自分の領地を捨てて嫁の実家の美濃国池田家を頼って落ち延びて行く事に成りました。
まぁ~、酷い奴なんですよ。

第3回では…
第2回解説で予想した通り、小山田茂誠(しげまさ)サンが生きて帰ってきましたね(笑)。
小山田茂誠
真田丸では何かアホっぽいキャラに演出されていますが、実際歴史上の小山田茂誠公は理知的な上に義理に厚い真田信幸公の家老でした。
名前は小山田茂❝誠❞の字で登場しますが、この時代は小山田茂❝昌❞だったと推測されます。
真田家は後に関ヶ原の戦いで…
真田昌幸 真田信繁
真田昌幸公と次男の真田信繁公が石田三成に付き
         VS
真田信幸 徳川家康
長男の真田信幸公は徳川家康公に味方し対立します。
その際に徳川家に気を使い、真田信幸公は父の名前から貰った❝幸❞の字を捨てて真田信之と同音別字に改名します。
ですから小山田茂誠公も、この時点では真田昌幸公の娘婿と言う事も有り昌幸公から一時拝領し❝小山田茂昌❞と名乗っていたはずです。
因(ちな)みに、この小山田茂誠公は後に真田昌幸公信繁公親子が和歌山県の九度山に幽閉されると、ずっと資金援助し支援し続けた律儀で御恩を大切にする方でした。

第3回の解説はこんな処(ところ)でしょうか?
今回の解説、如何(いかが)でしたが?
冒頭でNHKサンに対して「目指す方向間違ってない?」と指摘してみましたが、皆さんはどう御感じに成りましたか?
もし、今回の解説を御覧に成って、真田忍者や伊賀忍者や風魔忍者に御興味を持ったら、是非!風磨忍者の主君の北条家の居城の小田原城や、真田家の上田城、伊賀の忍者屋敷に旅行されて見ては如何でしょうか?
御城や忍者のゲリラ戦術を学ぶと、より大河ドラマ真田丸を楽しめるかも知れませんよ!

では、また、次回の解説で!








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皆さん、真田丸第2話を御覧に成って「物足りないなぁ~」とか思われたでしょうか?
あんまり歴史人物に御興味(ごきょうみ)が無い人は「合戦のハデなシーンを見たい!」とか思われて、多少つまらない回だったと思われたかも知れませんね…
が、しかし!
実は第2回目の放送は凄く大切な要素がドラマ中に再現されていたんですよ!

まぁ…
そんな要素有ったっけ?
…って思われる方もいらっしゃると思うので、2つの要点を下に書いてみます。

要点1つ目
●武田家滅亡直前、武田勝頼公は「鎧兜」に手を合せて拝んでいた。
武田勝頼
実はこの行為は武田家の文化を忠実に再現している三谷幸喜さんの演出で、極めて歴史考証を重視されている証拠でもあります。

要点2つ目
●小山田信茂だけが処刑された。
小山田信茂
実は、この2つは大きな意味が有りました。
「小山田が処刑されたのだからそりゃ、物語として重要だろう?」と思った方はズレています。
重要なのは、織田家重臣で出世頭の「滝川一益」公が発言した内容です。
「お前は自分から主人を売った裏切者で、織田家と徳川家から内応の調略(ちょうりゃく=勧誘)を受けた穴山や木曽とは違う」と、言う主旨の事を言われて処刑されていました。

今回はこの2つの要点の解説と歴史事実との整合性の検証、最後に鎌倉~横浜に関係した登場人物と俳優さんを紹介しようと思います。

この第2話では大半を武田家滅亡までの武田勝頼公御自身の武田家の文化や価値観を表した行動描写に費やし、残りを小山田信茂の処刑までの行動の演出に費やしていました。

先ずは要点1つ目、勝頼公の行動について解説します。
武田勝頼
皆さんは、武田勝頼公が御屋敷の中で鎧に手を合せて拝んでいたシーンを覚えてらっしゃいますでしょうか?
歴史に興味が無いと意味が解らないシーンだったので一応、御説明差し上げますと、武田家には伝来の家法が有りまして、それが「盾無(たてなし)」と言われる鎧です。
武田勝頼公が拝んでいたのが、その家宝の「盾無」です。
実は現在でも現存していて、盾無は別名「小桜韋威鎧(こざくらがわおどしよろい)」と呼ばれています。
これは山梨県甲州市の菅田神社にて現在も保管されています。
※山梨県神社庁のホームページ「菅田神社」ここクリック!

菅田神社の在(あ)る場所は現在の住所で甲州市塩山上於曽と言う地名なのですが、この上於曽の「於曽(おそ)」と言うのが地名であり、かつ武田家分家の於曽氏の苗字でもあるんですね。
そして、於曽家は武田信玄よりずっと前の歴代武田家当主から代々、この「盾無」の管理を任されていた一族でした。
江戸時代には盗難に遭って破損した事も有るそうですが、小生はレプリカしか見た事がありません。
では、五月人形作家の鈴甲子(すずきね)雄山と言う方の作られた端午の節句用のレプリカの画像を拝借して盾無とはどんなものか見て見ましょう。
※鈴甲子雄山氏の工房ホームページは「ココ」←クリック!
武田家家法「盾無」レプリカ
緑色ですね。
但(ただ)し実物は「鳩尾板(きゅうびのいた)」と「栴檀板(せんだんのいた)」と言うパーツが欠損しています。
この欠損した二つのパーツは肩紐(かたひも)と胴体を結ぶ部分に有る鎖骨を守る盾状の板の事です。
当然、実物の盾無鎧は国宝です。
武田家歴代当主が大切に守って来た鎧なのですが、実はこの菅田神社の盾無鎧、武田家の家祖で平安時代の名武将として名高い「新羅三郎」こと「源義光(みなもとのよしみつ)」公が着用していた実物だと伝わっています。
そして、この盾無鎧は武田家中では源義光公の化身の様に「御神体」として奉られていたんですね!
もう、ここまで説明すれば歴史に興味の無かった人でも解(わか)ると思いますが、ドラマ中に演出で武田勝頼公が盾無鎧に向かって手を合せ拝んでいたのは、御先祖様に対して御参りしたり誓いを建てているのと同じ正に神社で神様に参拝するのと同じ行為をしていた訳です。
これは武田家代々の伝統で、武田軍団は当主自らの出陣の前に必ず源義光公の遺品である❝盾無の鎧❞と❝日章旗の御旗❞の前で集合し、以下の言葉を述べる習慣がが有りました。
「御旗、盾無、御照覧あれ!」
つまり、❝御旗❞と❝盾無❞を完全に擬人化して神様として敬(うやま)っている事が良く解る逸話です。
これは角川書店が約30年位前に映像化した「天と地と」と言う川中島合戦の映画でも演出に登場します。
興味が有る人は、「天と地と」をレンタルして見て見て下さい。合戦シーンの迫力はたまらない映画です。

さて、この盾無を拝む文化が武田家に有ったから、真田丸での第2話の演出が有ったのは伝わったと思います。
ついでに兜と武田信玄の話しもします。
第2話では頻繁(ひんぱん)に❝虫の知らせ❞的な描写で武田信玄の霊が登場しました。
武田信玄
でも、この武田信玄像は現在では江戸時代に誤って伝えられたものだと判明しています。
先に「盾無の鎧」を説明したので、この武田信玄の容姿の誤解の元に成った「兜」の説明もしたいと思います。
現在、多くの人がイメージするこの一般的な武田信玄。
※武将画で有名な諏訪原寛幸さんの絵を拝借。
武田信玄(諏訪原寛幸氏画)
※諏訪原寛幸さんのホームページは「ココ」←クリック!
この赤赤しい(笑)武田信玄のイメージは誤りだった事が判明しています
「じゃあ、この赤い人は誰なんだよ(笑)?」
…って、成りますよね?実は、この兜は実在します。
「兜が実在するなら、この赤い人が武田信玄だろ!」
…って思うかも知れませんが、それでも違うんですね。
この武田信玄の真っ赤なイメージの元に成っている絵が現存します。
参考書籍が手元に無いのと絵が検索しても出て来ないので御見せ出来ませんが、ほぼ、上の諏訪原サンの書いた一般的な武田信玄のイメージと同じ色、同じ格好です。でも、鎧兜の家紋が武田菱じゃないんですね。
それは実際は能登国の畠山義続(はたけやまよしつぐ)の絵が誤って伝わったと判明しています。
それを、江戸時代に美術マニアの松平定信が❝武田と言えば赤備え部隊じゃね?❞と思ったかは知りませんが、武田信玄像として誤って紹介してしまったんですね。
この松平定信が誤認した事を証拠でもあり、事実誤認を助長した事実の証拠でもある物が有ります…
それが「諏訪法性兜(すわほっしょうかぶと)」と言う実在する重要文化財です。
武田信玄
武田信玄が被ってる兜、これが諏訪法性兜です。
諏訪法性兜は長野県の下諏訪町立諏訪湖博物館に所蔵
されていて、常設展示では完全なレプリカが置かれているので、どんな物か見学する事が出来ます。
※下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館の公式ホームページは「ココ」クリック!
この諏訪法性兜、既に科学的見地からも製作年代は西暦1500年代と特定されており、武田信玄や武田勝頼公の時代と符合します。
つまり、武田信玄か❝武田勝頼公所用の可能性は無きにしも有らず❞な訳ですが…
しかし問題が有ります。
兜の飾りは江戸時代の物と、本体とは別個の鑑定結果が出ているんです。
つまり、江戸時代に成って追加された飾りである可能性が高いそうです。
この諏訪法性兜は、先代の諏訪大社宮司だった守矢サンの家系が代々保管していたのを、修繕や保護の観点から諏訪町で買取り現在に至ります。
更には、一般的に歴史好きの間では❝武田信玄着用では無く、武田勝頼公が着用されていた❞との意見も有りますが、それも事実上なんの伝承も無ければ証明する証拠も無いそうです。これは諏訪湖博物館の学芸員さんにも確認した事実です。
そして、もう一つの事実。
諏訪湖博物館所蔵の諏訪法性兜は、この武田信玄のイメージの元に成っている兜と❝うり二つ❞だそうです!
小生、諏訪にも御縁が有って若い頃に御世話に成っていたので諏訪大社も何回か御参りしてましたが守矢宮司に御会いする機会は有りませんでした…

実は小生、諏訪法性兜が武田家と無関係では無いとすると同時に、武田信玄の実像が「赤(笑)」では無いと言う歴史事実を同時に証明する証拠が有る事も偶然知っていました。
以前、横浜の殿様達が鎌倉の鶴岡八幡宮の再建をした事を間宮家の事績顕彰の中で紹介しましたが、その中に登場する横浜市南区と東京世田谷の殿様❝吉良頼康(きらよりやす)公❞が諏訪法性兜の問題と、武田信玄の実像を結びつける事実と深く関係しているので紹介したいと思います。
※間宮家顕彰記事は「ココ」 クリック!
下は吉良頼康公と伝わる人物画です。
武田信玄(誤伝:吉良頼康)
※ネットの借り物画像です。
しかし、この伝承は高野山の御寺が犯した誤りによって人物を取り違えられて伝えられた事が現代では判明しています
東京都世田谷区は小田原北条家の統治下の関東で、鎌倉公方の代行者も務めた吉良頼康公の所領だったのですが、その頼康公の家臣の大平家の奥沢城の城址に建てられた九品山浄真寺と言う御寺に、返還された可能性が有るそうです。
実はこの絵、現物は武田信廉(のぶかど)が描いた武田信玄の肖像画の写しなんですね!
武田信廉とは武田信玄の実弟です。
あれ?
なんか残念?
頭ハゲ上がってるし(笑)?威厳が感じられない?
しょうがないじゃん!これが武田信玄の実像なんだから!
この絵、武田信廉が描いた実物を近くで見ると、武具のありとあらゆる場所に「武田菱」の家紋が描かれているそうです。
でも、この兜の絵を良く見て下さい…
諏訪法性兜比較
比較してみると良く解りますが、江戸時代に追加されたと言う「前立て(兜の前飾り」や「ヤクの毛」を取っ払って兜本体だけを武田信廉の絵と比較すると全く同じでしょう?
つまり兜を比較すると、伝吉良頼康像の兜が諏訪法性兜であり、武田信玄の実弟が信玄を描いた肖像画だと言う証明な訳です。
武田信玄は赤い人じゃないんです(笑)!
では何で、現在の諏訪法性兜が「ヤクの毛」や「前立て」が追加されたかと言う疑問が残ります。
それは多分、こう言う事だと小生は個人の意見として纏めます。
①諏訪法性兜は毛が無いオーソドックスな姿の兜だった。
  ↓
②江戸時代に小瀬甫庵と言う適当な歴史小説を書く作家の小説が流行して武田信玄と言えば「赤備え」と「騎馬隊」と言うイメージが定着した。別に赤備えったって鎧兜全部真っ赤にする訳じゃないからな(笑)。
  ↓
③肖像画を保管していた寺が「②のイメージで適当に武田信玄だろ?」と畠山義続の絵を武田信玄と誤って比定してしまった。
  ↓
④江戸時代末期に諏訪法性兜を補修する際に、②と③の要因のせいで保有者が「修理」する心算で前立てとヤクの毛を追加してしまった。
  ↓
⑤江戸時代後期に松平定信が美術品の記録を編纂した際に、それまでの②③の誤りに加えて④の補修が入った姿の諏訪法性兜の模写した絵を見て、そういうものだのだろうと疑わずに、そのままの姿で諏訪法性兜の姿として確定をしてしまい、以後誤認された追加装飾品付きのままの姿で現在に伝わる。
しかし、本体は戦国時代から武田家当主所用の兜だった可能性は、吉良頼康と誤認されていた武田信玄像の兜との相似から高いと思われる。
以上で、武田信玄のイメージが誤りで、本来は髷(まげ)を頭に結った一見すると人の良さそうな外見だったと解ると思います。
実際は関東や信州で女子供を捕まえては奴隷として販売したクズですがね。
織田信長公は武田勝頼公の滅亡時にこう言う主旨の発言をしています「親(武田信玄)が悪逆非道な事をしたから子が滅んだ」と。
それは次の要点2に繋がる訳ですが…

では…
要点2つ目の解説に移ります。
小山田信茂
こいつ↑は処刑されたのに…
…コイツ等↓は処刑されずに誉められた理不尽。
穴山梅雪 木曽義昌
別にこれ、理不尽じゃないんですよ。
特に、ドラマ中で処刑を命じていた織田信忠公と、その御父君の織田信長公にとってはね。
織田信長 織田信忠
織田信長公は、若い頃に那古野(なごや)城主でした。
那古野城ってのは今の名古屋城の場所に在った、昔の城名です。
信長公が若い頃に一番苦労したのは、家臣の裏切りだった訳です。
自分の家老として父親から補佐役に付けられていた林秀貞(はやしひでさだ=通称:通勝)に裏切られ、弟と織田家の遺産を巡って殺し合いをする羽目に遭ったり。
信頼していた伯父さんに裏切られたり。
助けてあげたバカ将軍に裏切られたり。
正に、裏切られる人生を送った人物な訳です。
そんな人生を送った信長公ですから、小山田信茂の様に主君を差し出して来る様なクソ家臣は許せない存在だった訳です。
そして、横浜の殿様の間宮家と笠原家とも関係の深い名将:滝川一益公が織田信忠公と一緒に、小山田に処刑を宣告していましたが、滝川一益公が出世出来たのも実力も有るし織田信長公の家臣の裏切りが酷かった時期に、ずっと信長公を支え続けたからなんですね。
滝川一益
そりゃ、織田信忠公や滝川一益からすれば、小山田信茂は許せないでしょうね。
※この信長公の実像や価値観は以前記事にしたので「ココ」←クリックして見て下さい!
穴山と木曽は、織田家から内応しろと条件出されてちゃんと個人的に交渉した結果の織田家への鞍替えで、別に武田勝頼公を売った訳じゃないですからね。
…もっとも、小山田信茂は武田家臣じゃなくて武田家の盟友だったんですけれどね。織田家にとっての徳川家みたいな存在が武田家と小山田家の関係みないな感じだった訳です。
しかも!
小山田信茂は祖母が武田家から来た人物ですが、実は母親は記録上は不詳で伝承上では「笠原清繁(きよしげ)公の元妻」とも言われています。
要点1の〆で信長公の発言「親(武田信玄)の悪行のせいで子(武田勝頼公)が滅ぶ」と言うのは、実は小山田家の事を指しています。
この小山田信茂の生母と伝わる笠原清繁公の元妻ですが…
実は、武田信玄が佐久地方の笠原家を滅ぼした際に、その笠原家の領民や家臣の婦女子を奴隷として販売をしているんですね。信玄マジ鬼畜。
その時に奴隷として販売された笠原清繁公の妻は、小山田信茂の実父の小山田信有が奴隷の叩き売りで落札して買取り自分の側室にされたそうです。
仮に、小山田信茂の生母が笠原清繁公の元妻と言う伝承が実話なら、この信長公の発言は全てを表していると思います。
武田信玄が奴隷売買なんぞしていなければ、小山田信茂は生まれていなかった訳ですからね。
しかし
実際、この武田家滅亡の直接の原因に成った小山田裏切り事件、どんな処理がされたかと言うと織田家では小山田信茂の裏切りは卑劣として死刑を宣告しながらも、武勇名高い武将として小山田信茂を評価していた為か切腹させています。
つまり、武士としてメンツを保った処刑をさせた上に、岩殿城と小山田家領民へは乱暴狼藉していません。
だから、第三話に繋がると思いますが、小山田茂誠公が生き残り…ゲフンゲフン!
ネタばれに成りそうだから、歴史知らない人の為に書かないで置きます。

さて、こんな感じで要点の解説はご理解頂けたでしょうか?

今回は小生、横浜市民として第2回放送の登場人物が横浜に関係が有ったので紹介しておきたいと思います。
第2回では、徳川家康公の愛人の「阿茶局(あちゃのつぼね)」さんが出てきましたね。
阿茶局
この人は本来武田家滅亡の前後に徳川家康公の奥さんに成っているので、あのタイミングで家康公の傍にいたかは小生解りかねます。
しかし、阿茶局なんかどうでも良い(暴言)!演じた斉藤由貴さんは神奈川県立清水ヶ丘高校の出身なんです!
清水ヶ丘高校は現在では統廃合で「神奈川県立横浜清陵総合高校」に名称変更されていますね。
え?
だからどうしたって?ハマっ子の俺からしたら重要なんだよ!…俺とか言ってしましましたが、小生は「おぉっ!」と思ったんです、いろんな意味で。
だってね、斉藤由貴さんは49歳なんです。でも阿茶局はこの時点で27歳なんですよ。
齋藤由貴さんが27歳て(笑)。…お綺麗ですね。

で、もう一人、先に少し話しましたが、今回登場した滝川一益公。
滝川一益
実は我々横浜市民としては横浜の殿様と関係が深かった方で、格上の織田家にも関わらず横浜の殿様を御親切に上方で接待して案内して下さった恩人に当たる人物なんです。
その時に関わったのが横浜南部沿岸部の殿様で笹下城主間宮康俊公の実弟、滝山城主北条氏照公の付家老だった間宮綱信公。それと横浜市北部の殿様で小机城代で大曾根城主の笠原家の殿様です。
この間宮家と笠原家は主家北条家の出来事の節目節目で外交や宗教儀式で総奉行と奉行をペアで務めた、北条家重鎮の家系でした。
もっとも、間宮家に関しては北条家の親族の各武将に腹心として分散して赴任させらていましたので、間宮家が独自に軍事行動をする事はありませんでした。
●間宮康俊公→北条家最強の北条綱成公の付家老。→伊豆山中城で討死に。子孫は徳川家康公に仕える。
●間宮綱信公→北条氏照公の付家老。→徳川家康公の旗本に成る。
●間宮信繁公→北条氏康公・氏政公の直属。→徳川家康公の鷹匠頭に抜擢され関ケ原で諜報活動でも活躍。
●間宮信高公→間宮康俊公の子と伝承。北条家から武田家の水軍大将に転仕。→武田家滅亡後は徳川家で船大将を務める。
※不幸な話で間宮信高公は小牧長久手の合戦時に、徳川家水軍大将として滝川一益公の蟹江城を攻めて討死にしました。協力関係に有れば、きっと素晴らしい連携が出来たかも知れませんね。
そんな訳で、横浜の殿様に良くして下さった恩人が滝川一益公な訳です。
因みにこの間宮家の子孫には他に、風土起稿を編纂した学者の間宮士信、間宮海峡を発見した間宮林蔵がいて、一族の子孫には杉田玄白もいます。
そこら辺りの話は、きっと「真田丸」最終回辺りで徳川家康公が行う大坂城攻めの作戦に関わるので以前書いた記事を参考までに読んで見て下さい。
※間宮家と笠原家の事績は「ココ 」←クリック!

以上、「真田丸」第2回放送の解説と余談でした。



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NHKの歴史大河ドラマ真田丸がいよいよ始まりました。
前回の記事で少し触れましたが、堺雅人さんは実は、真田信繁(幸村)公の肖像画に似ていると話しましたが、初回で判明した事は、今回のドラマでは作中使用される御城CG画像の縄張り(設計)を、実際の城址の遺構から忠実に再現している事が見てとれました。
新府城の再現CGの話しですね。
先ずは第1話の主な登場人物の紹介と、その人物の家の家紋を紹介します。
家紋は後で見て貰う勢力図で、各地の城の支配者を示すのにも使いますので参考にして下さい。

【第1話での重要な登場人物紹介】 
武田勝頼 家紋:武田菱
武田勝頼 武田菱
武田家の正式な当主では無く、母の生家の諏訪(すわ)家を継いでいたので、武田信玄の遺言で陣代(じんだい:臨時当主)に任命され武田家を継いだ。
合戦では父、武田信玄以上の功績を残したが、長篠の決戦で織田徳川連合軍に敗北して多くの重臣を失い領土の支配力が低下していた所から‟真田丸の第1話"はスタートする。
※演者の平岳大サンの御父さんは、昔、大河ドラマで武田信玄の役を演じたので、息子さんが武田勝頼公を演じるのはハマり役。

真田昌幸 家紋:六文銭
真田昌幸 六文銭
武田勝頼公の重臣で参謀。新府城を縄張り(設計)した。
若い内は武田信玄に小姓として仕え、武将としての戦略を学んだ。
真田信綱、真田昌輝と言う二人の兄が長篠合戦で討死にした事で真田家の家督を継いだ。
※演者の草刈正雄サンは、昔、真田幸村(信繁)の役を演じた事があるので、壮年に成って真田昌幸公を演じるのはハマり役。

小山田信茂 家紋:沢鷹紋
小山田信茂 立ち沢瀉
武田家に従属しながらも独立勢力として小山田家の当主だった。
武田家中で小山田軍は最強クラスに数えられる強さを誇った。投石部隊を持ち、敵軍の扇動や奇襲戦で多大な軍功を建てた智将。
小山田信茂の祖母は、盟主の武田勝頼公の祖父の武田信虎公の娘で、武田家とは血縁関係だった。
しかし「真田丸」第1話では武田勝頼公を擁護すると約束しながら裏切り織田家に内通し、武田勝頼公を自領に入れず支配地域から追放した。
 
穴山梅雪 家紋:三つ花菱
穴山梅雪 三つ花菱
武田勝頼公の家臣で親族。妻は武田信玄の娘で、主君武田勝頼公とは義理の兄弟。
穴山家はそもそも、武田家の分家で血縁の家系。
親族衆の筆頭として武田信玄存命中は、戦場で本陣を守る等信頼を得ていたが、「真田丸」第1話では武田家を裏切り離反して徳川家に味方した。

木曽義昌 家紋:九陽紋
木曽義昌 九曜紋
木曽領主で武田家に従属した。正妻は武田信玄の娘の真理姫。
祖父と父の代に武田家に従属し、武田信玄の娘を娶っており、主君の武田勝頼公の義弟に当たり武田家とは縁戚。
木曽家は平安時代の名将の木曽義仲の子孫とも伝わる名家で信濃西部の古豪。
支配する福島城は、隣接する美濃国の織田領の前線で、重要な防衛拠点だった。
「真田丸」第1話では、長篠合戦での大敗北から回復途上にあった主家の武田家を見限り、優位な織田方に内応し味方し織田徳川連合軍の武田領への侵入を誘導してしまう。

織田信長 家紋:織田木瓜紋
織田信長 織田木瓜
度重なる苦境を、自軍の集団戦術化や現代の自衛隊にも通じる方面軍制度の導入で軍団編成し次第に劣勢を跳ね除け、ドラマ「真田丸」第1話では主人公真田信繁の主君武田勝頼公を長篠の決戦において鉄砲集団戦術で破り、武田家の勢力を大幅に弱体化させる事に成功していた。
更に、織田家の優位を利用し武田方の重鎮「木曽義昌」「穴山梅雪」「小山田信茂」を離反させる事に成功した。
歴史事実上は愛妻を自ら介護したり、町民と一緒に祭りで踊る等、大名らしくない人情家であり軍事においては合理性を追求し「味方の被害を減らす長槍/鉄砲隊の戦術」を確立、政治においては自由経済の導入と、旅人の為の街道整備を行った。

徳川家康 家紋:徳川葵紋
徳川家康 徳川葵紋
幼少より今川家や織田家で人質生活を送った苦労人。
今川家臣時代に桶狭間の合戦で主君の今川義元が戦死すると、自家の本拠地の岡崎城に帰国し独立。
織田家と同盟を結び、以後様々な合戦で活躍し三河を統一し支配した。
織田家と連合し長篠の決戦で武田家を撃破した。
「真田丸」第1話では、穴山梅雪を内応させる事に成功した。

上杉景勝 竹に雀紋
名将上杉謙信の養子で、実姉の子。同じく謙信の養子に北条家から入っていた上杉景虎を誅殺し上杉家の家督を継いだ。その際に、武田勝頼公と交流を持ち養父の代からの上杉家と武田家の対立を解消し同盟を結び、勝頼公の妹の菊姫を正妻として迎え、武田家とは縁戚関係にあった。
武田家と同じく織田家を敵に回し、養父の築いた北関東~越後~越中に及ぶ広大な領土の維持に苦慮していた。

北条氏政 家紋:三つ鱗紋
北条氏政 三つ鱗紋
小田原城主にして関東の覇者。初代北条早雲(伊勢盛時)公以来、二代で祖父の北条氏綱公、三代で父の北条氏康公の築いた広大な領地を徳川幕府に先駆けて官僚制による支配に成功した北条家の当主。
父祖の様な軍才は無かったものの、婚姻外交で領国経営の安定化に成功した。
氏政の「汁飯の食べ方」を見て父の氏康公が懸念した彼の分析力の低さが、のちのち豊臣家との戦力比較分析の甘さへと繋がり、北条家を衰退させる事に成る。

以上が、第一話での重要人物達です。
…え?主人公の真田信繁の紹介が無いって?だって一話目で物語の展開上、真田家の置かれた状況説明が主な内容だったので「真田信繁は第一話では重要人物では無い」って事で紹介しませんでした(笑)。
では、第一話のスタート直前の真田家周辺の勢力図を見て見ましょう。 真田家 長篠合戦直後
これは長篠合戦直後の勢力図です。
重要な城の在る場所を、それぞれ支配している大名の家紋に置き換えてみました。
こうみると、武田家とその協力者は強大な大名に囲まれている事が解りますね。
特に…
木曽義昌
木曽義昌の福島城(長野県木曽郡木曽町)と… 
穴山梅雪
穴山梅雪の江尻城(静岡県静岡市清水区)
小山田信茂
…小山田信茂の岩殿山城(山梨県大月市)
これらの城が敵勢と隣接する超重要な場所だった事が解ると思います。

第1話の流れはこんな感じで話が進みました。
1.木曽義昌が裏切って織田家に内通した。更にあろうことか血縁関係の濃い穴山梅雪までが徳川家に内通し裏切った。
2.それにより西側と南側の前線の防衛ラインが崩壊した。
武田家の領土に織田徳川連合軍の大軍が侵入。
3.高遠城や高島城も落とされた。
※この時点で上の勢力図で記した高遠城と高島城の位置を確認してみて下さい!武田家の本拠地新府城の直ぐ近くまで織田軍に攻め込まれている事が解ります。

4.家臣団が崩壊し、武田勝頼公は真田家の好意で信州へ逃げようと一度は思うが、親族でもあり堅城名高い岩殿山城を根拠地にする小山田家を頼る事にして真田家の人質を解放する。

5.小山田信茂が裏切り、武田勝頼公は笹子峠で立ち往生し真田領を目指して天目山の道へ逃げる事に成る…
※映像で再現された笹子峠は人が横に何人も並べる程の幅が有りましたが、実際の当時の笹子峠の峠道は人がやっとすれ違える程度の幅しか無い狭隘(きょうあい=狭い)の道で、小山田信茂に追撃されると武田勝頼公はにっちもさっちも行かなくなる状況。

さて、第一話はこんな感じでしたね?
この中で、一番のポイントは「武田勝頼公は何故(なぜ)?真田ではなく小山田の領地へ逃げようとしたか!」と言う事に成ると思います。
これは、真田家と武田家の過去の因縁を知れば、勝頼公の行動に納得がいきます…
実は、勝頼公の武田家は、昔、一度、真田家の本家の海野家を攻撃して滅ぼした経緯が有るんですね。
その事件は主人公の真田信繁公の父真田昌幸公の「更に父の真田幸隆公と更に更に、その父の海野棟綱公の時代」の話です。
真田家は元の苗字を海野家と言い、真田信繁の御爺さんの真田幸隆(ゆきたか)公が武田信玄の家臣に成って真田郷を治めた時に、苗字を真田に改めたんですね。
KOEIさんのゲーム画像を拝借して説明しますと…
真田昌幸(主人公の父親)
      ↓
真田幸隆(主人公の御爺(おじい)ちゃん)
      ↓
海野棟綱 州浜紋
(主人公の曽爺(ひいじい)ちゃん)。この時代の海野家の家紋は州浜紋。
これが真田家の家系です。
海野棟綱(むねつな)公は今の小県郡に海野城と言う城を築いて周辺の海野平(うんのだいら)と呼ばれる、高原の肥沃な盆地を支配していました。
そこに武田勝頼公の御爺ちゃんの武田信虎(のぶとら)公が、当時の武田家の同盟軍の諏訪(すわ)家や村上家と一斉に海野領へ同時侵攻し、海野棟綱公を追放してしまった経緯が有る訳です。 
武田信虎 
※武田勝頼公の祖父の武田信虎公。戦では天才的な才能を発揮したが、内政力が低く後に家臣と跡継ぎの武田信玄に追放された。 

真田家初期周辺勢力
…武田家諏訪家村上家連合軍に負けた時に真田幸隆公は、関東管領上杉家の家臣で上野(こうずけ)国の有力者である箕輪城主の長野業正(なりまさ)公を頼って亡命しました。
長野業正 檜扇紋
長野家の家紋は檜扇紋。
この長野業正公は戦上手で、武田信玄相手に毎回、勝利を収めた名将でした。
武田信玄
武田信玄は「業正の存命中は上州は落とせない(泣)」と業正公の実力を認めて嘆(なげ)く程でした。
真田家の頼った長野業正は、そんな名将だった訳ですが…
実は!真田幸隆公はだいぶん早い段階で、海野平に帰りたかったのか武田信玄の家臣に成り、真田郷を与えられて真田城主に成りました。
武田家臣に成ってからの幸隆公は活躍目覚ましく、上杉謙信の領内を自ら偵察して諜報活動で活躍されたり、城に敵を誘い込んで罠を仕掛け撃退する大活躍を果たしました。
つまり、真田家の敵を罠にハメる為の籠城戦の戦術は、既に幸隆公の代から用いられ昇華させられた事が窺えますね。

そんな訳で、勝頼公からしてみれば…
●武田家は真田家をイジメた事が有るから、仕返しされるかもしれない…
●真田家は、恩人を裏切った経緯が有るから余り信用できないかも…
●真田家よりは、血縁の小山田サン家の方が安心かも…
みたいな意識が有ったから、第一話終盤で、真田家の説得を無視して小山田家の岩殿山城へ向かう事に成ったんでしょうね。

さて、物語の展開の補足情報として少しは御役に立てたでしょうか?
この続きは、また来週!

次は多分、伊勢原市の岡崎城址か高部屋神社を紹介する記事を書きます!
では、又、次のブログ記事で御会い所ましょう♪
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