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タグ:上杉謙信

北朝鮮問題の軍事的解決は「想像絶する悲劇」もたらす-米国防長官
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この人の事は本当に尊敬しています。
日本の物も含めアジアの六韜三略や曹操が編集した孫子等の戦略教本、平家物語や太平記なんかの戦史も凄まじい数を所持熟読してらっしゃるとか。

更には敬虔なプロテスタントで、明治以前の臨済宗や曹洞宗や黄檗宗の僧侶の様な質素で清廉な生活をされ、浄土真宗以外の昔の仏教の様に不犯を守ってらっしゃるとか。
現代アメリカ人版の上杉謙信て所でしょうか?
上杉謙信

もっとも上杉謙信の場合は統治者としての所業は悪人でしたがね・・・
上杉謙信の場合は越後で飢饉が起きる度に掠奪目的で関東に来て、村々を焼き"女子供を拐(さら)って奴隷売買の公設市場を開いて年を越す"なんてトンデモ悪人の側面が有る。
彼が"義の人"と言われる由縁は政治的に権力が弱かった"剣豪将軍"足利義輝公に古今未曾有の忠義を尽くしたからで忠"義"の義なんだな実は。
・・・彼には正義は無かった訳だ。
頼って来た者が武田に侵略された領地に、"奪い返す"大義名分で攻め込んで支配下に組み込んでも実際には保護した者へ領地を返還せずに、代官として利用しただけだし。
そこへ行くと織田信長公は素晴らしい。
織田信長公

織田家が徳川家に度々援軍を送り更に遠江国の支配権を承認し恩賞に駿河を与えた事の寛大さが窺い知れるわな。
徳川家康公

裏切らず、兄貴分の織田信長公を信じて援軍を待ち続け、時には信長公の合戦に参戦した与党として誠実を貫いた本能寺の変以前の徳川家康公こそ正に「義」の人の称号は相応しい。
そこへ行くと徳川家康公の誠実さが良く解る不誠実で利己的な人物の代表は❝お艶の方❞だろう。
遠山家へ嫁いだ織田家の艶姫は酷い。女城主お艶の方として有名な人物だな。
おつやの方

遠山家臣団は織田家との関係を深める為に、艶姫を迎えて織田家と婚姻関係に成る訳だ。
城主は子が無く病弱(親武田派に毒を盛られていた可能性有り?)だったので、織田から見捨てられない為に❝織田信長公の実子の御坊丸を遠山家の養子に迎えた❞のだが・・・
織田包囲網が形成されて武田氏が織田領に侵攻して来るや、遠山景任公は戦傷が元で死ぬ。
果たして本当に戦傷が元なのだろうか?
この時期、織田家は岩村城救援の戦略で、明智光秀公や池田恒興公が東美濃で合戦に及んでいる。
しかし遠山家は情報過疎だったか武田領の信濃国木曽地方に隣接する所領を持つ親族衆達が鼻から武田派だったのか、当主倒れて後、秋山勢に屈し❝お艶の方と敵方の秋山信友の婚姻和議❞を画策して成立させてしまう訳だ。完全に保身の風見鶏。
織田が強ければ織田に靡き、織田が不利で武田が優勢なら武田に靡く。丸で某半島の国。
・・・決定的に酷いのは、お艶と秋山の縁談が纏まった際に❝信長公の実子の御坊丸を武田家に織田の人質として提供してしまう❞極悪非道な裏切り行為に出た訳である。
これで怒りに火が付いた織田信長公は、織田包囲網を打破する過程で裏切り者達の本拠地の岩村城を標的にする訳だ。そして殲滅戦を行い、風見鶏の様に信念も誠実さも無い遠山家の親族重鎮達を全て処刑し彼等に利用された艶を磔(はりつけ)にして獄門に処して裏切りの対価を払わせた訳だ。
岩村城に援軍を直接送らずとも戦略的に東美濃を奪還しようと奮闘した信長公と織田家臣団を利己的に裏切ったんだから当たり前だな。
この岩村城における織田信長公の戦略と事例と同じ事はマティス司令官もイラクで現地の酋長達に通達している。まぁ、現代人のマティス司令官の場合は軍事法廷に裏切者を引き出して裁判で処刑にするんだが。戦争中の基本的な事だな・・・
現代の軍隊なら世界各国どこも敵前逃亡と裏切りは軍事法廷で死刑は基本だ。
・・・但し裏切らず誠実に、そして勇敢に敵から領民を守った者は徳川家康公の様に評価され恩賞も貰えて信頼される訳だ。
この作戦を日本で早くから行った事で有名なのは坂上田村麻呂公だな。
坂上田村麻呂

蝦夷(えみし=アイヌ=縄文文化を続ける日本の民族)討伐でマティス司令官や織田信長公の戦略を先に行った人物。裏切ったり歯向かう敵は殲滅し、逆に縄文文化のアイヌ族でも友好的で協力的な豪族は朝廷に迎えて優遇し統治者として登用して行った訳だ。
因みに、この坂上田村麻呂公と同族と思われる古代の名将軍が神奈川県にも所領を持ち移住していた。
坂上石楯(さかのうえのいわだて)公だ。
藤原仲麻呂の乱で活躍して今の相模原市辺りを所領として賜り移住し、延喜式内社で相模原市の名倉に所在する石楯尾神社の近くに城館を構え、石楯尾(いわだておの)神社を支援した人物だ。
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上の写真は石楯尾神社は、そもそも日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰路、自らが装備していた草薙の剣と対に成る防具の天磐楯(あまのいわたて)を東国鎮護の印として現在の石楯尾神社の辺りに埋蔵し、それが神格化された事に信仰が始まる。その化身として烏帽子岩も信仰対象に成っていたが近代、交通網整備の際に破壊されてしまった。

まぁ、そんな訳でマティス長官は日本の名将達と類似の戦略なんぞ頭の中に常識として入っている訳で、御本人も誠実で潔癖な様、そして実際に名将としても人格者としてもイラク現地で酋長達からも民百姓からも慕われた訳だ。
マティス司令官は法治主義者であらせられるので上杉謙信と違いモラルも高い紳士で、中東でも与力のイスラム文化の酋長達からも一目置かれた訳だな。これは凄い事だ。
或いは北朝鮮の軍人すら交流すれば彼を尊敬するかも知れない。
上杉謙信を引き合いにだしたので北陸の武将に例えるなら・・・
どちらかと言えば生活態度は上杉謙信、内面は直江景続、武勇は柿崎景家公、統治実績は柴田勝家公並の善政てとこか。
・・・ただ、色欲が無いので英雄では無く名軍師の範疇に留まる様だ。
欲の有る者のみが1番上に成りたがる。
まぁ、だから生涯陪臣を貫き通した小早川隆景公や黒田孝高公や直江兼続等は妻帯しても愛妻家で側室を持たなかったんだろうな。
「吾も斯く在りたい」とは思いつつ・・・
まぁ、小生は完全に名軍師じゃなくて短慮浅学でアホな猪武者人格なんだ。
だから、せめて社会の役に立つ事を1つで良いから行って死にたい、そしてそれは「小生がやった」と世に知られる必要も無い。
結果的に知っている人だけが知っていてくれて「あ~アイツだったのか」とか「アイツらしい」と死んだ時に友人達や歴代の彼女(笑)と恩師達や関わった宮司様達や和尚様達に心の中で褒めて貰えると嬉しい。
それで十分。

マティス司令官の様に生きてみたいなぁ~。
でも食欲の権化だし自分に甘から、憧れの域を出ないな~。
だから自分なりに小さくても社会の役に立つ事をしてから死のう。

2017年04月19日(水)、前日深夜まで仕事をして午前3時に徹夜で寝ずに青梅市へ移動した。
寝ずに移動した理由は2つ。
1、もし寝たら起きれなくなり、行動予定を熟(こな)す事が出来なくなるから。
2、東名高速や圏央道等の高速道路は午前4時まで深夜割引で半額に成るから。
そんな訳で寝ずに移動した。後はついてから8時位の予定開始まで1時間~2時間寝れば良いやと思っていたので睡眠時間は気にしなかった。
どうせ仕事に行くわけじゃないので寝不足でも関係ない。仕事ならば睡眠不足はミスの元、プライベートは事故ろうがなんだろうが自己責任なので、眠たくなり危険だと思えばコンビニか高速のPAで車中寝れば良いだけ。
んな訳で青梅市の二俣尾駅近くのセブンイレブンに着いた。
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写真は撮り忘れたが二俣尾のセブンイレブンは軒先に薪(まき)が売っていて大変吃驚(びっくり)した。
横浜から来たのだが横浜ではコンビニに薪は売っていない事を伝えた上で…
「何で薪を売ってるんですか?」
…と店員の方に尋ねたら、こんな答えが返って来た。
「え?横浜じゃ売ってないんですか?」
小生…
「う~ん、売ってないです。」
…と答えると、店員さんが売ってる理由を教えて下さった。
どうも青梅市界隈は多摩川の上流で水も綺麗なので水遊びや釣りに来る観光客が多いそうで、キャンプやBBQの需要が非常に有るそうだ。しかしながら、横浜で売ってないんですか?と聞かれるとは思わなかったので正直少し驚いた。

この日の目的は大きく3つ有った。
1、海禅寺さんへの参詣、そして御住職様への取材。
2、羽村市の阿蘇神社へ熊本の御酒「通潤」を奉納し、熊本復興と熊本県民生活再建の祈願を祈祷して貰う事。
3、チューリップ祭の見学。
なので高速料金の安い深夜移動で横浜から青梅市まで向かった所、道路も予想以上に空いていて、ものの1時間半もかからずに到着してしまった。
当然、小生の到着時点で未だ時間は5時前、御寺を訪問出来るのは常識的に9時から。
そこでコンビニで朝食を買い車中で少し休憩して、その後は海禅寺から直ぐ近くの辛垣城(からかいじょう)の城山を登り、9時~10時位に御寺を訪問する事にした。

実は青梅市へ訪問前に地図を見て海禅寺の近所に“コーポ西乃城”と言うアパートが有る事に気が付いた。
西乃城と言うのは恐らく昔の小名で、城が在ったのだろうと推測した。
そしてGoogle mapで「城」と入力して検索した所…
「辛垣城(からかいじょう)」
…と言う城が検索結果に出て来て海禅寺から徒歩直ぐの裏山一帯が城山で有る事が解っていた。
手元に日本城郭大系の神奈川県の部分は持っているのだが、東京の部分は持っていないので調べる事が出来ず、ネットで検索したら城址一帯ハイキングコースに成っていると紹介されていた。
そして去年訪問した同じ青梅市の勝沼城を本拠地にしていた戦国武将、三田家の終焉の舞台だと言う事も紹介されていた。
この三田家は祖先が平将門(たいらのまさかど)公と伝わる。
この青梅の隣接市、羽村市の武蔵阿蘇神社は平将門公が開基の延喜式内社なので、三田家の出自は恐らく本当だろう。ただ、千葉家分流と言っているので、それは誤りだと思う。
千葉家の分流には相馬家がいる。それとは別に平将門公の直系の御子孫にも相馬家がいる。
両方共同じ家紋の九陽紋だ。
九曜紋
千葉氏の祖先は平良文(よしふみ)公だ。平将門公の叔父であり協力者であり菅原道真公と共に3名は宇多天皇と醍醐天皇の御親政奪還に与力された天皇家の忠臣だ。しかし藤原家の讒訴により謀反人扱いされ平将門公は討伐された。
菅原道真公と平将門公と言う宇多天皇と醍醐天皇を支えた智と武の忠臣の排除に藤原氏は成功したものの、全てが藤原氏の思惑通りにはいかず、醍醐天皇の気転で平良文公は鎮守府将軍に抜擢され関東を治める権限を持ち、平将門公の遺領を掌握した。つまり、藤原氏に天皇家一族の支配地を横領される事は防げた訳だ。
この平良文公の本拠地は今の神奈川県藤沢市村岡城址だった。その子孫には、鎌倉武士として有名な神奈川の三浦家や戦国時代の大名、上杉謙信や蘆名盛氏公、正木時茂公等の名将が多くいる。
まぁ、三田家の祖先が平良文公でも平将門公でも、どちらだったとしても桓武天皇の末裔で宇多天皇と醍醐天皇を支えた忠臣には変わりない。

なので、この城を御寺に行く前に登って見る事にした。これが意外に険阻な山城だった…
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…しかし、城に行くまでの家々は、どこの家も綺麗な花が溢れており青梅市の方々の心の豊かさを垣間見る様な住宅街の様子だった。
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城山のハイキングコース入口にはちゃんと看板が有った。
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実は海禅寺の後方の山の地形もGoogle earthで見ていて人工的な凸凹地形が見て取れたのだが、この看板を見て自分の推測が当たっていた事が解った。海禅寺の裏手には枡形山と呼ばれる曲輪群が有った様だ。しかし、今回は御寺に行くまでの暇潰し程度に考えていて余り詳しく散策する心算(つもり)は無く、そちらへは訪問せずに真っすぐ頂上を目指す事にした。
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途中、枡形山の方を見ると自然では無い竪堀(たてぼり)地形が見て取れた。
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この橋の下の沢は道路を断ち切る様に流れているので、水掘りとして拡張された沢だったんだろう。
そして往時はここに引橋(ひきはし=戦時に引っ込めて撤去出来る橋)が掛かっていたのだろうと推測した。
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この辺りはまだ傾斜も緩やか、そして木陰で涼しく清々しい空気を満喫出来た。
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途中で小生が写真を撮りながらユックリ歩いていると、1人、登山客に先を越された。
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二つ目の橋。ここも当時の空堀の底の沢の流路を人工的に道を断ち切る様に変えている様だ。
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下を見ると「にしじょうにのはし=西城二之橋」と書いて有った。
どうやら辛垣状は東側の枡形山の曲輪群と西側の本丸と尾根の堀切等を分けて2城1体の構造で考えられていた城の様だ。確かに相模原市の津久井城に近い広大な城域を誇る山城なので、昔の人は西の城、東の城と分けていたんだろう。
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この城は現地に到着してから色々と地元の人に聞いて回ったが「何もないよ~」と言われていたので期待はしなかったが、上の写真の様に薬研堀形状の竪堀が山麓に沢山残っている。
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約9年前に森林再生事業も始まった様だ。
まぁ、そんなこんなで良い森林の中を気持ちよく散歩出来たのはこの辺りまで…
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少しづつ険しくなり
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途中、曲輪跡と思しき切岸も見ながら
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山の林道は段々と角度を益し
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尾根に出て「あ~ここからは楽だ」と思ったら荒れ道の始まりだった(笑)。
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この写真の部分はV字に尾根が掘り切られており、尾根を断ち切る空堀と引橋が有った様だ。
裾切(すそきり=尾根の両脇の傾斜を人工的に掘削し急にする事)された尾根道は階段などは未整備で滑ったら少し滑落して骨折とかするかも(笑)。
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登リ口(急坂)と書いて有る。
小生には崖にしか見えなかった(笑)。
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もう、戦国時代と違って杉の木が茂ってるし足場は枯れ枝で歩き難いし
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そして、この崖が恐らく、本丸入り口の木戸の城門が有ったで有ろう切通(きりとお)し状の林道。
ここは城の防衛の最終関門だった筈(はず)だ。
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頂上の本丸は江戸時代に石切り場に成っていたのか、看板が有って原型を留めていないと書いて有る。
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まぁ、登って見た感想も看板に書いて有る通り、削平された郭の遺構は少ないが、竪堀と堀切と裾切りした尾根は良く残っている山城の城址だった。
帰りも竪堀にかかる林道の橋を通過した。
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恐らく、この橋も戦国時代は引橋として似た様な簡素な橋梁が有ったはずだ。
この様な竪堀は山の斜面を敵が移動するのを防ぎ、橋を架ける事で進入路を限定し、戦時は橋を取り払い敵を足止めする訳だ。
この様な構造は奥多摩地方の北条家の城には良く見られる構造だ。特に北条氏照公が築城した八王子城に似た構造が多用されている。
下の写真が八王子城の竪堀と引橋。
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まぁ、八王子城の山城部分については構造は辛垣城と似た様な感じなのだが間宮綱信(つなのぶ)公が縄張りしたと伝わる御主殿等の居住空間は安土城を見て来た間宮綱信公らしく、総石垣で壮大な造りに成っている。
下の写真が八王子城の御主殿と引橋。
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もし完成していたら立派な城に成っただろうが、小生的には北条氏照公が滝山城を放棄し八王子城を築城した事に疑問を感じる。滝山城の防御構造と飲水の確保の方がよっぽど完璧だからだ。
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滝山城は侵入者を殺害する為の土の城だが、土の滝山城の方がよっぽど北条流の当時の先進技術が多用されており、堅固な造りに成っているので、仮想敵が織田に成り甲斐国からの敵進入を想定したとは言えあんな防衛施設の建設が限定される山城に拠点を遷(うつ)した事が小生は理解出来ない。
まぁ、山城ってのは高低差が有って敵も登山で疲れるし一見すると堅固に見えるけれど、実際は構築可能な防御構造と設置場所が限定されて余り城として強いとは言えないんだな。

話を辛垣城に戻す。
まぁ~辛垣城の構造は八王子城や津久井城に似ている。どうも三田家の最後の居城とは言われるが北条流築城術の改修が入っている様だ。竪堀を多用した構造もだが、この規模の城を地方豪族の三田家単独で築城出来る訳が無い。或いは北条家以前の扇谷上杉家時代に既に城は存在し、扇谷上杉家が滅亡後に北条家に三田家が臣従した後、北条家が甲斐国境を守る城として改修したのかも知れない。
三田家は上杉謙信が関東に攻め上って来る以前は北条家臣だったので、その時代の話だろう。
そして滅亡したのは長尾景虎(後の上杉謙信)10万の大軍が、3万の北条家に圧勝すると思ったので最後の三田家当主の三田綱秀公は長尾景虎に味方し北条家を裏切った所、小田原城は落城せず北条勢の逆襲が始まり、やがて滝山城主北条氏照公に攻められ勝沼城を放棄し更に辛垣城に籠り、最後は家臣と徴用した農民兵士達の生命の保証と引き換えに自ら城を退去して自害し、当主としての責任を全(まっと)うされたのだと思った。
寺に行く為に山を下りる際に珍しい事が有った。
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ニホンカモシカと睨み合いに成った(笑)。
鹿とは言っても牛の仲間なのでカモシカの体躯(たいく)は結構デカイ。
こんなんに突進されたら谷に落とされて終わるだろうな(笑)。
でも小生は睨み合いに勝った気がしたのでデジカメ取り出して「パシャっ!」と撮影した瞬間に音でカモシカは逃げて行きました。
う~ん、図体デカいけど臆病な生き物なんだね。
しかし、出会ったのが“月の輪熊”じゃなくて良かった。
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寺へ行くまでの林道の草花も綺麗でした。
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 う~ん!三田綱秀公の御蔭で新鮮で清々しい空気を満喫できたし、鹿にも会えた!
綱秀公、ありがとうございました!
綱秀公、現代の会社経営者、市の執政官や、県や都の知事には、貴殿の様に己の失政の責任を取り部下を守る為に腹を切る様な政治家も経営者もいません。
皆、自分の事、不正で私服を肥やしたり名誉欲に駆られた輩しかいません。
ですから、己が上杉に寝返った責任を取って部下達の命を守る為に切腹された貴方は本当に立派な殿様だったと思います。
そして、恐らく開城勧告をしに行った海禅寺(当時の寺名は福禅寺)の御住職様も、地域の農民と低級管理職の命を守る為に殿様に生命を奪う勧告を行われ菩提を弔った事は、現在の青梅市に生きる旧三田家家臣団の子孫達に生命を繋いだ立派な行いだったと思います。
御住職様、三田綱秀公。貴方なりの正義を約400年の時を超えて見せて下さりありがとうございました。

さて!
次回は、この続き、海禅寺訪問~へそまんじゅう総本舗~阿蘇神社~チューリップ祭りを書きたいと思います。 
では、又、この日の休日雑記の続きで 御会いしましょう~♪

神奈川県鎌倉市のJR大船駅駅から、近くも無く遠くも無い位の距離に神奈川県民から「大船フラワーセンター」の俗名で呼ばれる植物園が有ります。
正式名称は「県立フラワーセンター大船植物園」なんですが・・・
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・・・2017年の3月初旬現在、“玉縄桜”と言う早咲きの「桜と梅が満開で同時に見る事が出来る」珍しい場所でもあります。
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昨年、母が子宮癌を患い、築地市場近くの国立がん研究センター病院に入院し子宮摘出手術を受けたのですが、小生は鎌倉市浄明寺地区の浄妙寺で淡島大明神を参拝し母の子宮癌平癒の祈願をした上で淡島大明神の御守りを買って母に渡していたのですが、結果として手術は成功し転移も無かったので、母の体力が回復した先月末に母を伴って御礼参りに行って来ました。
浄妙寺は昔から「婦人病治癒、女性の味方の神様」の「淡島大明神を祀る御寺」として「御婦人達の崇敬を集めていた」歴史を、たまたま横浜の殿様の間宮家と宅間上杉家の顕彰活動を通じて訪問した事で知っていたので、その様な行動をした訳です。
その帰り、幼稚園の頃に母と来たのが最初だった大船フラワーセンターに立ち寄って来ました。
この直ぐ近くの龍寳寺にも用事が有り、ついでと言うか、丁度“玉縄桜”が満開に成っているのを知っていたので見てきました。
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玉縄桜の名前の由来は、この直ぐ近くに戦国時代に存在した玉縄城と言う難攻不落の城の在った地域名に由来します。
玉縄城は上杉謙信10万の大軍、武田信玄2万3千の大軍の攻撃を城兵3000で防衛し、2回とも敵軍の上杉勢や武田勢を撤退させた堅城でした。
この城を守っていたのが小生が個人的に尊敬している北条綱成公で、その綱成公の率いる部隊は「玉縄衆」と呼ばれ軍旗等の軍装を黄色で統一した部隊で別名「黄備え隊」と呼ばれた軍団でした。
この黄備え隊の副将が、小生が顕彰活動をする殿様の一人である間宮康俊公でした。
間宮康俊公の姫は徳川家康公の側室と成り子を産んだ於久(おひさ)様、そして嫡孫は徳川幕府の但馬奉行や佐渡奉行を務め金山銀山経営で他の鉱山奉行と比べ物に成らない程に功績を残された間宮直元公でした。
直元公は大坂城外堀や真田丸の埋め立てを家康公に立案した名軍師でもありました。
そんな玉縄衆の気概を名前に受け継いだ風流な桜が、この玉縄桜な訳です。
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黄備え玉縄衆は、関東の覇者、北条家の中で重要な合戦には必ず参戦し先陣を切って戦ったり、最前線での苦難な籠城戦を防衛し切ったり、他の部隊の追随を許さない功績を挙げ常に前線で戦う部隊でしたが、玉縄桜も河津桜同様に先頭を切って満開に成る品種でもあります。
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今、正に大船フラワーセンターでは、この玉縄桜と植樹された様々な梅を同時に見る事が出来ます。
園内手前の方には玉縄桜の他に、「おかめ桜」も遊歩道に沿って数か所植林されています。
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この桜、名前は純和風ですが、実は桜観賞の文化に惚れ込んだ英国人の植物学者イングラムさんが英国に日本の桜を数種類持ち帰って混合させ生み出した品種なんです。
つまり人間に例えると日系英国人留学生って感じでしょうか(笑)?
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ハッキリとしたピンクが目鼻立ちがシッカリした英国人女性の様ですね。
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そして日本と同じ海洋国家で近代日本の随一の友邦だった英国の桜らしく、戦国時代関東最強の北条綱成公の城名をとった玉縄桜同様に先陣を切って咲く凛々しさも持ち合わせています。
う~ん・・・
解る人には解るけれど、桜版の戦艦金剛かな(笑)?
さて、大船フラワーセンターは牡丹や蓮も有名なのですが、今は季節ではないのでそのエリアを通り過ぎて一番奥の方に行くと色んな種類の梅の樹が植えられた並木道に出ます。
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小生が訪れた先月2月末は枝垂れ梅が見事でした。
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多分、今時分は更に見頃に成っていると思います。
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このエリアにも玉縄桜が有ります。
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綺麗でしょ?
どうです?
ちょっとお散歩に行ってみませんか?
この他にも孟宗竹や唐竹等、色んな竹を植えた小規模な竹林や・・・
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台湾原産の紅葉ばふう。
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そして、小生が気に入っている場所がもう一つ有り・・・
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熱帯植物の温室です。
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いくつかの部屋を円形に配置して分けてあり、多種多様な植物を見る事が出来ます。
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完全に外国人ぽい花・・・
人の顔も違えば花の個性も同じ様に原産国で変わるんだなぁ~とか考えるのは小生だけでしょうか?
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可愛らしい花も有れば・・・
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毒々しい色の奴もいたりします。
見ていて飽きません。
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蓮の仲間の展示エリアにはメダカみたいな魚も沢山泳いでいます。
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わざわざ下田とか行かなくても、実は大船駅周辺にこんな場所が有るって、今の若い子達は知らないんですよ。
きっとバブル世代の親は若い頃に、こう言う植物を愛でる様な育ち方をしていかなったので自分達も子供達に植物を愛でる文化を伝えたり出来ない人が多いのかも知れないですね。
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小生は、玉縄桜と梅と、このエリアが御気に入りです。
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あと、部屋で育てる鉢植えの植物も温室に展示されています。
温室の先、一週回って入口近くには盆栽を展示したエリアも有ります。
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小生、この黄梅と言う品種を知りませんでした。
一瞬「蝋梅」かと思ったら違うらしいです。
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盆栽もユックリ見ると良いもんですね!
しかし子供にはツマラナイかも(笑)。
ここはちゃんと子供が来て御腹が空いても平気な様に、フードコートが無い代わりに移動式店舗が数店営業しています。
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小さい子に植物見せるだけとか、ちょっとした「苦行」をさせる様なもんですからね(笑)。
小生も幼稚園の頃に担任の先生や親なんかとここに来ても全く楽しく無かったですから。
大人になって、段々小さい頃に見せて貰った物の美しさや大切さが理解出来る様に成ると、ふとした切っ掛けでそこを再訪したりするもんなんですよ。
だから、今小さい子がいるパパやママさんは、ここに子供を連れて来て御散歩して欲しいなぁ~とか
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こう言う小さいなパンジーも子供の時に見ておくと、大人になって再訪した時に当時の記憶として思い出したりするもんなんです。
親は自分より早く死にます。
でも、親が見せてくれた物を大人になって見ると、親の事も思い出して感謝も出来るって思うんです。
実際、小生が幼稚園当時の記憶で一番覚えていたのは、このパンジーと入口の花時計でした。

実は大船フラワーセンターこと県立フラワーセンター大船植物園は今年2017年7月で一旦閉園します。
そして改装後、2018年03月31日の再開予定なんです。
つまり、早咲きの玉縄桜を見るチャンスは今回を逃したら2年後に成ってしまう訳です。
今幼稚園の子も2年たったら小学生、そうなると親と一緒に遊んでくれなく成ったり習い事が大変で時間が無くなったりしますよね?
デートで来たいカップルも、2年後は結婚して子供が生まれていてとてもじゃないけど外出する余裕が無いかも知れない。
それに今の大船フラワーセンターの春の姿を見られるのは、今だけです。

ですから皆さん、是非、大船フラワーセンターへ行ってみませんか?

【県立フラワーセンター大船植物園】
住所:〒247-0072神奈川県鎌倉市岡本1018
電話:0467-46-2188
アクセス:駐車場有り
(徒歩)大船駅西口観音側下車16分
(バス)大船駅西口バスターミナル1番のりばから、神奈川中央バス「渡内経由藤沢駅行」または「公会堂前経由城廻中村行」、「岡本」下車徒歩3分
県立フラワーセンター大船植物園の地図 久良岐のよし
では皆さん!又、次の記事で御会いしましょう!


平良文(たいらのよしふみ)公と言う平安時代の皇族臣籍降下武将をご存知でしょうか?
今の藤沢市村岡を本拠地にされ、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)や陸奥守(むつのかみ)を歴任された名将です。
今現在、御廟所は藤沢市の二傳寺(にでんじ)に在(あ)ります。
この↓御寺
良文公の御子孫は日本全国で有力大名や各大名の重臣に成りました。
その一部有名な方を数名あげてみましょう。
※良文公については別に「永谷天満宮(←クリック)」に関するスレでも紹介しています。
●鎌倉景政公
…関東では鎌倉市坂の下の御霊神社の御祭神として祀(まつ)られ関東全域の御霊神社で崇めらている。源義家公の与力の名将。
鎌倉御霊神社(←クリック)は別スレで紹介しています。
●上杉謙信
…元の名前が長尾景虎で鎌倉氏の分家の長尾氏の生まれ。長尾氏のルーツは横浜市栄区長尾台にあった長尾城址で、長尾城址は戦国時代に玉縄城の一部だった。
上杉謙信は言わずと知れた野戦で最強だった名武将。
長尾城址(←クリック)は別スレで紹介しています。
●大庭景義公
…源頼朝公の父君源義朝公の与力として活躍した武将で、藤沢市大庭城を本拠地にしていた。保元の乱で膝を負傷し弟の大庭景親に党首の座を委譲し茅ヶ崎市に居館を構えた。
●梶原景時
…源頼朝公に一番忠誠心が高く陰謀に長けた武将で敵勢力の有力武将や頼朝公に忠誠心の薄い武将の暗殺を実行した。源義経との仲が悪く讒訴した事でスッカリ悪人評価が定着。鎌倉幕府内でも嫌われ者に成ってしまった。徳川幕府における本多正信的な存在。昼ドラでヒロイン虐めるライバルみたいな扱いをされているが子孫に名将も多く、子の梶原景季や小田原北条家の水軍大将梶原景宗などがいる。
●三浦義明公
…言わずと知れた源頼朝公の一の与力。頼朝公の石橋山合戦に参加すべく三浦半島の横須賀市衣笠城で呼応し挙兵。援軍に行くも間に合わず、一族を頼朝公に合流させるべく房総半島に逃がし一族で一人だけ衣笠城に籠城し平氏軍を釘付けにし玉砕した。
衣笠城址の近所には源頼朝公が三浦義明公の菩提を弔う為に開いた満昌寺が在る。
衣笠城址は別スレで紹介しています。
満昌寺は別スレで紹介しています。
●千葉常胤公
…千葉県の県名の由来に成っている源頼朝公の与力で房総半島を束ねた名将。
●畠山重忠公
…良文公の子孫の秩父平氏の更に子孫で、源頼朝公に最も信頼され坂東一兵(つわもの)と言われた。北条義時の謀略により二俣川で討ち死にする。
子孫は関東管領上杉家の重臣豊島氏がいる。豊島氏は戦国時代初期の大名で領地は東京都豊島区北区を本拠地にし、横浜市北部まで及び、拠点は現代の石神井公園にあった石神井城だったが、扇谷上杉家の執事で名将の太田道灌公と対立し最後は横浜市港北区の小机城址で滅亡した。
小机城(←クリック)は別スレで紹介しています。
●佐原義連(さはらよしつら)公
…三浦氏の分家の佐原氏の人物で、今の横須賀市佐原城址を本拠地にした武将。源義経の活躍した神戸市福原攻めで勝因と成った「鵯越の逆落とし」奇襲を立案した名軍師。分析力に優れ、一族の和田義盛公や本家の三浦義村が北条義時の陰謀に次々と滅ぼされる中、北条義時と上手く距離を測り鎌倉幕府内で生き残った。彼のお陰で佐原氏が存続し三浦家の血筋が絶えずに済んだ。佐原氏の開基した清雲寺は三浦一門の菩提寺として現在も存続している。
清雲寺(←クリック)は別スレで紹介しています。
●正木時茂公
三浦氏の分家佐原義連公の更に子孫の相模の戦国大名三浦時高の孫。戦国時代房総半島の名将で里見八犬伝で有名な大名の里見氏の盟友。
水軍を率いて父祖の故地である三浦半島の城ヶ島に上陸すると短期間で三崎城〜鎌倉市街までを制圧した軍才に秀でた武将。戦死した国府台合戦でも小田原北条家を散々に痛撃した。玉縄城主北条綱成公の迂回奇襲に敗死するも朝倉宗滴から織田信長公等名将と並び称せらた名将。
●和田義盛公
…三浦氏の分家で、鎌倉幕府初代侍所所司。彼の築いた怒田城の縄張りや野庭城の立地を見ると、鎌倉時代に既に戦国時代の様な山城を築城し尚且つ主要街道や港湾の入口を見事に抑えており軍政家としての手腕が高かった事が垣間見える。
また彼は平安時代の武士の中でいち早く街道に関所を設け通行税を徴収するなど
、経済政策能力にも長けていた。
●葛西高清
…平良文公の子孫の秩父平氏の子孫、その中で今の葛西臨海公園辺りを治めたのが葛西氏。その後、室町時代には宮城県北部〜岩手県南部を治める30万石相当の大大名に成っていたが、葛西氏は伊達政宗の軍門に下り没落した。
●朝比奈泰朝公
…和田義盛公の子、朝比奈義秀公の子孫。今川義元家臣。朝比奈義秀は和田義盛公と元:源(木曽)義仲の奥さん巴御前との間に生まれた猛将で和田合戦で散々に北条家の武将を追い詰めたが敗戦、逃亡した。子孫の朝比奈泰朝公も祖先よろしく名将で、没落した今川家を最後まで支え掛川城に籠城し、実に5ヶ月間も徳川家康の猛攻を耐え抜き和議を引き出し暗愚な主君今川氏真の命を守り切った。
●芦名盛氏
…和田義盛公の子孫で祖先は三浦半島佐島マリーナ近くの芦名城址を居城にしていた。芦名盛氏は今の会津若松城を本拠地にしていた大大名で伊達政宗のライバルだった。他国と外交で伊達政宗を孤立させ窮地に追い込んだ名将。

歴史の教科書に載る超有名人物とゲームに登場するようなメジャー武将だらけですね。
源家が鎌倉幕府を開き日本全国を統治出来たのも、その与力武士団として平良文公の御子孫が加わり戦で活躍されたからなんですね。

さて、平良文公の御廟所ですが、冒頭で紹介した通り二傳寺の中にあるのです。

この石碑の裏山に御廟所があります。
お姿を拝みたい方はどうぞ御自分でお参りしてみて下さい。

実はこの御廟所、二傳寺のご住職のお話によると標高が藤沢市内最高地点で相模湾防衛に適した場所だそうで第二次世界大戦のおりにも米軍の首都上陸は相模湾から行われる事が想定され陸軍が二傳寺の廟所に砲兵を配置していたそうです。
そして実は戦国時代も武田信玄や上杉謙信を撃退した玉縄城の一部の二傳寺砦として機能していました。
玉縄城(←クリック)については別スレで紹介しています。
流石、醍醐天皇の信任厚く鎮守府将軍や陸奥守を歴任された名将…
はるか昔の平安時代に戦国時代ばかりか近代戦争にも通用する防衛拠点になり得る村岡郷を本拠地されるとは…。

みなさん、平良文公がいらっしゃったお陰で鎌倉幕府が成立し、生粋の日本独自の武士文化が発展したんですが…
神奈川県や東京都、千葉県の今日の発展の基礎を作って下さった平良文公の事と御廟所のある二傳寺と居城の村岡城址を頭の片隅に留め、近くに立ち寄った際は是非!御墓参りし感謝を心の中で良文公にお伝えしてみませんか?

因みにご住職は御多忙な方ですが、明るく優しい気さくな方で、村岡の地勢を詳しく説明して下さいました。
御近所には玉縄城主北条綱成公が開基された龍宝寺と、徳川家康が鷹狩の拠点に利用した長尾家の菩提寺久成寺もあります。玉縄城址探訪として3つの名寺を合わせてお散歩訪問されても有意義かなと思います。
御近所には大船フラワーセンターもありますよ〜!

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