前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先②・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、大師堂~華厳山金剛寺~蟠龍山洞昌院公所寺~太田道灌公御廟)
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
洞昌院で御住職に新年の挨拶をし太田道灌公の御位牌を拝ませて頂く許可を頂き、御位牌で太田道灌公に御挨拶。その後に道灌公胴塚御廟にて、太田道灌公を供養した北条早雲公と万里集九禅師にも改めて道灌公と合わせて新年の御挨拶と、歴史オタクとして社会の役に立てる様に心願成就の御加護を御願いしたりした後の続き・・・。
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洞昌院の周辺は神話時代に当たる縄文~弥生時代からの祭祀遺跡やら古墳時代の墳墓が沢山発掘されていて、それ等の聖地を昔は境内地として守っていた神社やら、早くから人が住み着いた耕作地帯であり交通の要所でも有るので室町幕府鎌倉公方家の重鎮で関東管領も務めた扇谷上杉家の本拠地も一時、この直ぐ近くに置かれていた。それが糟屋館だな。
せっかく洞昌院に参拝したので、散歩がてら周辺の神社や史跡を散策する事にした。
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道灌用水と言われる。今、空堀と伝わる地形・・・
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
この用水路は空堀の在る洞昌院側の台地に存在するのだが、実は元々、この水源は外堀側に向かって流れていたそうだ。それを上流で空堀側に流し湿地化させて沼堀として機能させていたそうだ。
これは現地を歩かず民話を取材しないメジャー文献テンプレ学者は知らん事なのだが。扇谷上杉家臣の太田流の築城術の特徴は周りが沼地の台地を選んで城を作る、もしくは水を引き込み堰堤を作り水を堰(せ)き止めて強制的に沼地にするんだな。
これは扇谷上杉家の戦国時代以前の本拠地だった大庭城や、扇谷上杉家が乗っ取った佐原三浦家つまり三浦道寸公の本拠地だった伊勢原市~平塚市に跨る巨大城塞の岡崎城なんかがこの全てこの構造だった。太田道灌公の御父君の道真公が縄張りした川越城も、太田道灌公が江戸家から接収して改修した江戸城も同じ立地だな。
ついでに言えば旧扇谷上杉家家臣大森家の本拠地だった小田原城も小田原北条家によって総構えが建造される以前から湿地に囲まれる要害だった。
[小田原城]
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[江戸城]
江戸城
[川越城]
河越城縄張り図
[岡崎城]
岡崎城主要部分縄張り図
それに合わせて喰い違い状に屈曲させた大空堀で丘陵上に堀切と土塁を築くのが大庭城や長尾台城や高月城にも見られる構造で、この3城は地形も糟屋舘大城廓に似ている。
※以下日本城郭大系より拝借。
[大庭城]
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[長尾台城]
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[高月城]
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糟屋館跡は昭和の農地改良で見事なまでに台地上の遺構は削平破壊され土塁は削られ堀は埋められサッパリ解らなく成っている、が!この喰い違い構造の名残りと思しき物が上の画像で糟屋館の立原で不自然な直線がクランクしている農道が拡張されて道路だろう。
扇谷上杉家糟屋館地形 久良岐のよし
そして、この糟屋館の規模は神奈川県教育委員会は❝故意にか?❞言及しないが関東での戦国時代における城郭として、小田原城>岡崎城=江戸城=糟屋館=滝山城>河越城と推定城域が同程度の規模が有る名城なのだ。山内上杉家に糟屋館が狙われた際は、この城を守る為に扇谷上杉定正公は出張先から200騎だけの手勢だけで自ら危険を冒(おか)して急行し、1000余の山内上杉軍の先手を迎撃、撃破している・・・これが実蒔原合戦と呼ばれる扇谷上杉定正公が戦上手と呼ばれる所以の勝利なんだな。
まぁ・・・ここを守る間に弟の扇谷上杉朝昌公の守備する厚木丹沢方面の要所の七沢城は救援出来ずに失陥しているんだが。
この糟屋館と“館扱いされている”台地と周辺の寺院や外郭を含めた日本で最先端の❝平山城形式の大城郭❞は扇谷上杉家にとって重要な場所であり、佐原上杉家没落後に相模守護代と扇谷上杉家執事を兼務した太田道灌公が公務を行ったのが洞昌院であり主家は糟屋館にいた訳だ。
本来ならば規模からも歴史的意義からも伊勢原市役所に任せる様な場所では無くて“文化庁が介入すべき案件”であり“黒岩知事御自身が破壊容認する前に陣頭指揮を執って神奈川県庁が発掘と保護と公園化すべき場所”なんだが。
まぁ、そんな訳で洞昌院一帯を散策すると神奈川県と黒岩知事が認めず公表しない城跡と、古代からの神社が有るので散歩には事欠かないし伊勢原は大山の御膝下なので空気が綺麗で清々しい。
洞昌院から糟屋館の馬攻口へ向かって歩いて行くと、途中に七人塚が在る。
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七人塚CIMG6155
この七人塚は太田道灌公の忠臣達が一部のアホの歴史学者の不見識を暴露してくれる場所でもある(笑)。
大田道灌公は湯殿入(地名)側から馬攻口を降る道すがら、宿舎の洞昌院の塔頭寺院に向かう途中で主君の扇谷上杉定正公の手勢に襲撃された。風呂に入ってる最中に殺されたって通説は大間違い(笑)。
因(ちな)みに虎口ってのは小口が転訛した言葉でとどのつまり、敵勢を殺す機能を持った城門や通路の事だな。
一部のアホの歴史学者が「太田道灌公は湯殿入りで襲撃された」と言う記述を「入浴中に襲撃された(笑)」と頓珍漢な解釈をしているが、コイツ等は如何に現地取材をしていないかが良く解る(笑)。
❝湯殿入り❞ってのは郵政法制定以前に残っていた地名の字(あざ)の小名(こな)で台地上、空堀近くの地域の地名なんだな。
糟屋舘大城郭の虎口に当たる辺りの湯殿入り、つまり湯殿入りってのは糟屋舘の湯殿方面の虎口な訳だが、主君との面会を終えて宿舎の洞昌院の塔頭へ帰り際、その城門か食違い虎口の中で太田道灌公は恐らく弓矢で襲撃され一先ず堅固な洞昌院に瀕死の様態で逃げた訳だが、その時に自らも傷を負いながら主君の太田道灌公を逃がす為に追っ手を迎撃妨害した7人の忠臣達が眠るのがこの7人塚な訳だ。
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こうやって正しい事件の全貌を辿らせてくれる場所に眠る忠臣の名も伝わらない武士達に敬礼の意味を込めて参拝した。
七人塚の直ぐ近くには凄く立派な参道が残る上粕屋神社が在る。
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上粕屋神社CIMG6147
冬に来たから立派な木々の参道しか目に付かないが実はあの参道は桜の木々で春にはとても美しい景色に成る…
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・・・ほらね?だから皆さん、洞昌院一帯をお散歩するなら春が御薦めなんだな。
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この地域は“山王”と呼ばれる地区なのだが、現代では上粕屋神社と呼ばれるこの神社は本来は神仏習合の山王権現だった。
大同弘仁年間(大同806~810年、弘仁810~824年)に開かれた神社で、つまり延喜式式外社と成る古社な訳だ。延喜式神名帳に掲載されなかったのは山王❝権現❞として神仏習合のどちらかと言うと天台宗に近い修験道の道場だったのだろう。この小生の推測を補強するのが新編相模風土記稿に掲載されている方の異なる上粕屋神社の縁起で、そちらでは天平年間(729~749年)に良弁大僧都(だいそうず:超エライ和尚さんの役職)が開いたと伝わる。
恐らく上粕屋神社の始まりはこうだ・・・
良弁(ろうべん)和尚は東大寺を開いた歴史偉人だが、この伊勢原市を聖地として密接に関わり訪問している。伊勢原市の大山は現代では国定公園だが、古代からの聖地で大山山頂には神の化身の岩が祀られ縄文時代からの祭祀遺跡が出土する聖地なのだが、そこを守っていたのが大山寺石山権現大山阿夫利神社なんだな。
良弁の滝 Googlemap 久良岐のよし
そして大山には良弁大僧都が滝行を行った場所も今でもあるのだが、良弁大僧都は華厳宗の僧侶なのだが日本神話や聖地霊場を後の空海和尚様や蘭渓道隆和尚様や道元禅師同様に大切にされた人物の様だ。
だから大山にも来たし、上粕屋神社の前身の山王権現の更に前身と成った霊場を開いたのだろう。そして、その霊場と成った所縁の古墳や古代からの祭祀場が一帯には存在したのかも知れない。
もっとも、良弁大僧都がこちらにいらした理由は現実的な理由が大きかった筈だ。行基大僧正も近く八菅神社七所権現を天皇家勅願所に定めている・・・
古来、伊勢原市大山や愛甲郡愛川町八菅山は自然信仰と神話の聖地として古代豪族や天皇家から崇拝され祭祀が執り行われたので“寄進(きしん=浄罪=金銭宝物)”も集め易かった訳だ。良弁大僧都と行基大僧正には金が、こと銅銭がこの時期必要だった。
・・・即ち東大寺の造営と東大寺大仏の建立だな。つまり伊勢原市大山や愛川町八菅山は行基財団の重要な拠点として機能していたのだろう。多分ね~(笑)。
そして上粕屋神社の始まりは恐らくこうだ・・・
伊勢原市周辺聖地史跡MAP 久良岐のよし
・・・現実的には目の前を旧大山街道が通るので、大山参詣の宿泊所として良弁大僧都が草庵として天平年間に開いて神様を祀っていた場所に、後に大同年間に天台宗系僧侶が大山詣りの修験道場や宿坊として運用する様に成り、比叡山の山王権現日枝神社を勧進したと推測すれば風土記と伝承の矛盾が解消され極自然な成り立ちと成るだろうとも思う。
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境内には立派な楠木も在り、参拝客に歴史を感じさせてくれる。
この上粕屋神社が大山詣り参道の脇の宿舎だったと推測する理由はもう一つある・・・
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神社の裏は糟屋館の空堀なのだが、この神社一帯が糟屋館の裏口、馬攻口だからだ。
堀は戦国時代当時は堀底道として機能していただろう。
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今でも食違い状に道がクランクしている。
そして糟屋館の台地~上粕屋神社の山王地区の台地には引橋(ひきはし=戦時に収納できる橋)が架かっていたかもしれない。
恐らくこの道は戦国時代から存在する道なのかも知れない。今も糟屋館の台地から続く比較的太い道が有り、近年開削された道も直ぐ近くを通る。
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上粕屋神社裏から堀底に続く道。これが道より以前の本来の“古代の道”だろう。
アスファルトの道は恐らく引橋で連結されていたであろうと小生が推測する理由は、台地と台地の同じ高さで連結出来る高さに合わせ開削されているので橋を架ける前提の構造なのだ。だから城砦化されて以後の道だと思う。
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降りて来ると空堀に出る。空堀を進んできてから上粕屋神社側一度登り、引橋を渡って湯殿入り虎口に入る構造だったのだと小生は現地を歩いて推測している。
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今では道路が大空堀を断ち切る様に有るが、これは後の人によって盛土されている事が明治時代の地形図を見ると未だ存在していないので良く解る。
迅速測図 上粕屋神社周辺 久良岐のよし
まぁ、そんな訳で小生はここに引橋が在ったと推測する訳だな。
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正月2日目、畑地と成った大空堀には霜が降りていた。
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ここを過ぎると食い違う道、そして右手には削平地が永遠段々に続く。これは城マニアが見るとどっからどうみても食違い虎口を開削して広げた道だろう。そして削平地は帯曲輪群が畑に成った物だろう。
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扇谷上杉家糟屋館大城郭址現在、黒岩知事に由る糟屋館大城郭は県道バイパス建設中で金網で仕切られ入れない場所が多いが、“城跡が現存するのは台地上では無く側面の崖地”なのでグルッと廻れる所まで周って見る事にした。
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小生が子供の頃にも伊勢原の義叔父の家に遊びに来ると、こうして畑の農道を散歩し田圃の用水路でザリガニ釣りをしたもんだ。
金網の範囲外でも結構歩ける場所が有った。
まぁ、大人に成ってカメラ持ちながら歩くと有るわ有るわ城の遺構。
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武者走り。
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破壊真っ最中の外堀側にも土塁が残っている部分も結構ある。
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黒岩知事が破壊承認した外堀を見下ろす農道に成っている武者走り状の地形。
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その下にも帯曲輪群が沢山現存していた。
実は2016年に神奈川県は道路建設による破壊に伴って“名目的に発掘せねばならず”発掘調査を行ったのだが、これが笑い話にも成らない発掘チーム編成で、発掘したチームの中には“1人も城郭専門家が含まれていない”まま行われた。結果的には当然、彼等が地形を見ても城の構造を理解出来る訳も無く、肝心の側面の帯曲輪群と武者走り群、そして彼等が自然地形としか認識できなかった城マニアが笑う(笑)顕かに裾切りされている地形は一切報告されていない。
「あれ?学者じゃない小生が歩いても沢山有るんですけど?巨大な城だった遺構が(笑)?」
これは考古学のチーム編成で発掘調査させた“神奈川県教育委員会が故意に城の専門家を入れなかった”んじゃないかと小生は容疑をかけている。
小生の推測通りならば極めて悪質だと思うし、巨大な城の存在なんて知らなかったんなら教育委員会は不見識で大学生からやり直した方が良いし、道路建設に伴って掘削しコンクリ擁壁で破壊する心算で故意に触れていないなら黒岩知事と教育委員会の担当者と開発担当者と土建屋には扇谷上杉定正公と太田道灌公と実蒔原合戦戦没者の英霊御霊の祟りと山王権現と大山祇神の天罰が落ちるかもな・・・なんてな(笑)。
まぁ、本当に黒岩知事や配下の役人が故意に城郭専門家をいれなかったんなら祟りに遭うだろう。
太田道灌公は北条早雲公と万里集九公によって神格として勧進され、現代では神様に成っている人物だし、扇谷上杉定正公も武勇采配に長けた歴史偉人なのだから御霊は“神道的な考え方ならば”荒神様として御神威が在る訳だ。
まして、ここを開発してる連中は地鎮祭すら行ってないし、太田道灌公にも扇谷上杉定正公にも御参りしてない訳だ。
・・・まぁ、神仏に天誅受ければ良いさ。天誅ってのは自分の心の中から沸いて来てとんでもないミスや事故を引き起こしたり、注意力が散漫に成って隠していた不正が露見したりする事にも繋がるからな。
確か黒岩知事は創価学会だったはずだ。彼は日蓮聖人の聖跡を歩いた事があるのだろうか?
日蓮聖人は非常に日本神話を大切にされ先人を尊敬していた人物として、日蓮宗以外の僧侶や神職の人々にも知られている。千葉神社を信奉し妙見大菩薩=天皇家を守護神と崇め、八幡大菩薩の御神威を崇拝し命を長らえた人物なんだな。そして立正安国論ってのは神仏への理解と愛国心から鎌倉幕府北条政権に提出された物だった訳だ。
神に成った東京横浜に所縁深い歴史偉人太田道灌公が大切にした場所、主の扇谷上杉定正公の御霊が坐す城跡を無かった事にして、そのまま破壊すれば、更に日蓮聖人も御怒りに成るだろうな。
・・・まぁ~、開発の認可を出した政治家と役人と業者が不幸に成ろうが小生には知ったこっちゃないので別に良い。大城郭糟屋館の遺構が存在する事実と破壊時の為政者の悪名と企業担当者氏名を個人的に記事にし公開したり関係先の神社仏閣の檀家サンや氏子サンと共有し子子孫孫まで伝え、末代まで黒岩家や担当者の子孫達に祖先の悪名を晒すだけだな。
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糟屋舘の台地から洞昌院へ向かって戻る途中、江戸時代の関東の人々が伊勢神宮、富士山、江の島と並び死ぬまでに行って見たいと人気の観光地化した聖地だった大山が綺麗に見えた。う~ん、太田道灌公も崇拝していた大山祇神様がいつも神奈川県民守ってくれてるんだな。

蟠龍山洞昌院公所寺に戻ると、小生の姿を見かけた御住職が出て来られて「ちょっと待ってな!」と小生に声を掛けて下さった。
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そして非売品の洞昌院の御守りを授与して下さった。何だか御住職を介して太田道灌公に正月参詣の御褒美に護符を頂いた様でとても嬉しかった。
駐車場で車に乗り込むと、次の目的地で毎年参拝している聖地、比々多神社に向けて出発した。
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ここから又、神社巡りに復帰する。

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先④に続く。