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タグ:上行寺東遺跡

今月は休日も色々と遊びでは無くて人に会う用事が立て込み、週末なのにスーツや少しカジュアルだけどカチっとした格好で過ごし慌ただしかった。
そして今日(現時点では前日)10月27日の日曜日は久しぶりに休日らしい日を過ごす事が出来た・・・

今月中旬、はまレポの記者もやってるブロガーの❝知の冒険❞サンの中の人(笑)と初対面した時以来、やっと今月2回目の完全な休日だった。
知の冒険さんは近世~近代の色町の文化や、現代に影響を与えた民間事故の記録等を掘り下げるニッチなジャンルの歴史オタク記者で、小生の知らない事を多く知っていて記事も面白い。
知の冒険ホームページ⤵
https://chinobouken.com/

今日会ったのは知の冒険の中の人(笑)ではなくて、鎌倉市の文化的な仕事をしている歴史仲間と言いましょうか、何と言うか安心して色々と将来の事も話せる先輩と言うか、こんな大人に成りたいなと思う先輩。
日本と中国の歴史と文化が好きで小生より色々と詳しい人。
奥さんも美術品とか好きで御夫婦で文化的な事が好きらしい
共通する文化が好きな人同士で夫婦に成った先輩の話を聞いて正直に羨ましいなと思う。でも今日会ったのは旦那さんの方の先輩。
以前は仕事で御一緒する機会が良く有ったのだが最近は顔を合わす機会が無くて・・・
「どうされていらっしゃるだろうか~?」
「こちらも色々と人生の岐路に差し掛かり近況報告も有るし、お会いしたいなぁ~」
・・・と思い、久しぶりに今月中旬に連絡をとって約束をしていた。

朝方、午前11時に先輩が住む鎌倉市の浄明寺地区近くの某駐車場で待ち合わせをして先輩をピックアップした。当初の計画では何ヶ所か小生がランチの候補地を先輩に提案して、先輩は佐島マリーナの❝海辺❞と言う和食レストランをチョイスしたのだが朝方暴風雨で昼近くに成っても天気が安定しなかった事と、先輩はよりにもよって前日に飲み会で❝刺身❞をたらふく食べていて生物を立て続けに食べさせるのも悪いと思い予定変更を早朝にメールで提案しておいた・・・
「鎌倉から近い金沢区の❝柴漁港の天丼小屋❞か❝喜多屋❞にランチ変更しませんか?」
・・・と提案した所、喜多屋をチョイスされたので車で先輩をピックアップして朝比奈峠を越えて金沢区へと出発した。実はこの先輩が小生に博物館のチケットや鎌倉市の調査報告書等を下さる人なんだな。

先輩から15時迄に鎌倉に戻りたいと事前に申告されていたので、それに合わせて食事以外に何ヶ所か喜多屋付近の歴史観光地を車中で推薦した。
・野口英世博士がペストの日本上陸を食い止めた旧横浜検疫所の長浜野口記念公園
・金澤山彌勒院稱名寺
・野島の伊藤博文公金沢別邸
先輩は神奈川県立金沢文庫(博物館)は仕事で用事が有り珍しくも無いと思い、敢(あ)えて選択肢として提案しなかった。まぁ、仏像に詳しい御方だし。
で、浄明寺地区某所から車を走らせる事20分位だろうか?直ぐに長浜野口記念公園の長浜ホール(旧横浜検疫所)に到着した。
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長浜ホール(長浜野口記念公園内、旧横浜検疫所事務所棟)
ここに来るのは小生2回目で、今年初春にも紹介記事も書いている。
以前書いた記事⤵
旧長濱検疫所の細菌検査室  野口英世記念公園内に保存される明治時代の建築遺産にして医療文化史跡・・・横浜市金沢区長濱。
今年初頭に写真撮影に訪れた際は旧横浜検疫所事務所棟の❝長浜ホール❞はペンキ塗り直しで外観撮影が出来なかった。今日は外観も化粧直しされ、素敵な近代西洋建築としての価値を自負する様に立派な姿を見せてくれていた。
先ずは管理室の職員さんに確認して1Fの展示を見学した。
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綺麗な応接室の様な階段下のエントランス。
その横に簡単な説明が有り、詳しい内容は別棟の❝旧細菌検査室❞に展示されている。
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長浜ホールの方には福島県の野口英世先生の生家の模型とか・・・
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・・・明治時代当時の周辺のジオラマとかが展示されていて、埋立による地形変化前の様子が良く解る。現在は目の前に団地が広がる長浜野口記念公園だが、当時は埠頭に囲まれ横浜港に入港する前の船を停泊させて防疫検査を行っていたんだな。
言い換えれば明治時代の日本における感染病原菌防疫の最終防衛ラインが、この横浜市金沢区長浜地区だった訳だ。
長浜ホールをサクっと見学してから旧細菌検査室にも行き、野口先生の人生の解説展示をたっぷり見て、それから細菌検査室内にも先輩を案内した。
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簡単な野口先生の足跡。
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細菌検査室内の様子とかは以前の記事でも紹介したので端折るが当時の機材がそのまま展示されているのだが見学すれば皆例外なくこう思うはず・・・
「え~!当時こんなショボい機材でペストから日本を守ったの‼」
・・・ってね。本当に野口英世先生の偉大さが判るから、横浜市の小学校は付近の横浜市南部市場で働く人の見学と八景島シーパラ遠足と合わせて社会科見学遠足させるべきだと小生は思う。
見学を終えて先輩と車に戻り、そこから10分かかるかかからないかで喜多屋に着いた。
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喜多屋 & CaféDiningぼたん実はつい最近も知の冒険サンとオフ会で来たばかり!歴史好きな人はいくつか食事処を提案しても皆ここに来たがる。歴史好きだけでなく女性にも人気が有るので、着いた頃には若い女性の友達同士らしい二人組や近隣の夫婦らしい御客様で昼の12時前に既にほぼ満席の賑わいを見せていた。
先輩は昔からの横浜の名物の❝小柴の穴子❞の天ぷらを食べれるランチを、小生は秋刀魚を使ったランチを注文したのだが・・・
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御店の人の間違いで小生には横浜の新名物❝ハマポーク❞と柿のソテーが調理されて来た。一応、御店の人に注文と違う事を伝えた。
「僕が注文したのは秋刀魚の料理なのですが・・・」
「もし、まだ秋刀魚を調理して無ければコレでも結構です。でも一応、他の御客サンと間違えでは無いか確認して頂けませんか?」
・・・と申告した所、御店の調理担当の方の配慮で「秋刀魚の料理も後から出すのでハマポークのソテーもサービスさせて下さい。」と何ともラッキーな展開に成った。
「結構ですよ、御気遣い無く。」
・・・と再度言ったのだが店員さんが謝罪として料理を提供して下さったので、先輩と半分こして食べた。
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ハマポークも秋刀魚もとっても美味しかった!
でも・・・う~ん・・・男同士で料理シェアするって変な気分だった(笑)。早く奥さん見つけて奥さんと料理半分こ出来る様に成らんといけないなぁ(笑)。

この時に先輩にも披露した小話を皆さんにも紹介すると、心理テストで実は飲食店で間違えて提供された料理を店員に間違いを告(つ)げず食べる人は不誠実で異性に対しても恋人がいても別の異性から告白され浮気のチャンスが有れば拒まず肉体関係を安易に持ってしまう確率が高いそうだ。
そりゃそうだ、来る者拒まずって事だからね、そうなるだろう。更に食べてから店員に「自分が注文した物を出せ」と喚く奴は悪人で相手に間違いを告げず騙して食べてしまい食べてから言う訳だから妻子がいても相手に何も教えず不倫して、相手が本気に成ってから妻子がいる事を告げて異性を捨てるクソ野郎って事に成るな。
・・・先輩は笑いながら聞いていたが、本当に結婚前からの彼女とは結婚せずに別の女性と結婚し子供まで作りながら彼女と別れず不倫して、挙句の果てに「好きでも無い女と腐れ縁で結婚前から続いている」なんて言い腐る悪人も小生の知ってる男性にいる。

まぁ、そんな事を思い出したりした。
このランチは1500円でデザートも付く。小生と先輩は二人共、栗のクリームブリュレを頼んだ。
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これもとても美味しかった。
食事を終えてから文化財していされている喜多屋の館内を少し見学させて頂いたのだが、生憎(あいにく)と昨日は研修旅行客で満室になっており客室の見学は出来なかった。
しかし明治時代の建物で、大正時代には確実に存在して品川~横浜~現在地へと移築されて来た浴室だけは御厚意で見学させて頂けた。
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写真は以前の物だが、大正ガラスのステンドグラスがとても綺麗な御風呂。
喜多屋については以前、紹介記事を書いているので御興味有る方は其方も御覧頂ければ客室の写真が掲載して有ります。
これ記事⤵
金沢区の喜多屋は元料亭の日本建築文化財の旅館&cafe。
館内を少し見学させて貰ってから鎌倉の入口朝比奈峠へ向かう途中に在(あ)る横浜市がマンション建設容認して破壊させた上行寺東遺跡の模造復元地にも先輩を案内して来た。
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上行寺東遺跡模造再現地
ここを横浜市は遺跡として主張するが、正確には背後のマンション敷地が昔の遺跡跡地。破壊直前、高名な東大や有名大学の歴史学者や神奈川県の郷土史家や地元住民たちが多く保護を要求し破壊反対したのに横浜市は文化保護意識が低く、日本屈指の矢倉研究の貴重な遺跡だった上行寺東遺跡を消滅を容認させてしまった。その批判が殊(こと)の外(ほか)大きく成ると、今度は横浜市教育委員会は批判の矢面に立たされた事に恐怖して慌てて強化プラスチックで模(かたど)りして、この偽物遺跡を造った挙句に❝保護❞と嘘の主張を始めたのだが・・・

・・・残念ながらその嘘は記録フィルムで拡散され、ライオンズヒルズ金沢八景が言うなれば壮大な事故物件に等しい程に開発中に敷地から夥(おびただ)しい武士や僧侶の人骨が掘り返された事は歴史家や正義の横浜市民達の知る所に成っている。
まぁ事故物件どころの騒ぎでは無いな、源頼朝公と文覚上人と言う鎌倉時代の偉人が建立した寺院跡なので壮大な聖地&墓地を破壊した訳だ。
横浜市は現在も12万人弱も開発反対署名が集まり、横浜市の有識者で評議し議決で過半数も反対した❝円海山瀬上沢流域一帯の横浜市最大最後の蛍群生地❞すら、林市長以下役人と東急グループはその反対を無視して東急グループに開発させ様としており、現在多くの横浜市南部地域の市民から東急諸共批判にさらされていたりする。
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詳しくは蛍観察出来る場所の様子や歴史を合わせて以前、記事で紹介しているので御興味有る方はソチラも御覧頂ければ宜しいかと思う。
これ⤵
円海山で蛍が観察出来る季節です。横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。
上行寺東遺跡のハリボテを文化財を大切にする鎌倉市に住む先輩はコンコン叩きながら笑っておられたが、横浜市の築地育ちでハマっ子ではない林横浜市長と同じく、現在の鎌倉市長も郷土文化歴史への知識が欠落した上に物事を自分一人で判断出来ない人で、釈迦堂切通しや釈迦堂口遺跡や名越邸址等の重要な歴史史跡&文化財の保護や住宅道路や散策路の再整備を行わず放置したまま❝とりあえず封鎖❞したまま放置していたり、先年から問題に成っている北鎌倉の隧道も市民と土建屋の板挟みのまま保護も補強もせずに放置して無能振りを晒して鎌倉市職員や教育委員会や文化意識の高い市民からも白い目で見られているそうだ(笑)。
一頻(しき)り上行寺東遺跡の❝ニセモノ(笑)❞を見物してから先輩を鎌倉に送る為に車に乗り込み、車中で先輩にずっと疑問に思っていた鎌倉市のとある遺跡について質問をした・・・
「そういえば今年の正月に鎌倉幕府初代政所別当の大江広元公の所領だった厚木の毛利台に行って来たのですが、大江広元公の御廟所の矢倉って法華堂では無くて十二所山中に有ると言うのは知っているのですが、場所御存知ですか?」
・・・と質問をした所、実際の所、伝承によって大江広元公の御廟所と伝わる矢倉が十二所山中に在るそうで先輩も調べに行ったのだが結局詳しい事は解らなかったとの事だった。でも十二所の朝比奈峠入口近くに「❝大江広元公邸址❞は在るよ、案内しようか?」と思いもよらない回答が出て来たので、近くのコンビニに車を停めて先輩の案内で石碑を見に行って来た。
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本当に熱心な大正時代の鎌倉町青年団、この先人の御陰で小生達現代の若い世代は史跡の場所を確認する事が出来る。先輩と鎌倉町青年団の先人達に感謝。
先輩を御自宅近くの某駐車場まで送り別れ、一度帰宅してから今度は夕刻に❝小机城址竹灯籠祭り❞を見物に行って来た。
2018年度小机城址竹灯籠祭りポスター
昨年は大雨で中止に成り見物出来なかったんだな、毎年行ってたのに。
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今年は5千本の伐採した竹で作ったキャンドルの展示の仕方を例年とは変え、順路の導線が混雑しない様に工夫されており非常に見易(やす)かった。
・・・あ~、来年の竹灯籠祭りは大切な女性を連れて来てあげられたら良いのになと思いながら一人で見物。
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今年は今までと少し違って時期的にハロウィンも意識しているのだろうか(笑)?
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綺麗綺麗!
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近所の小机小学校と城郷小学校の生徒達によるキャンドル作品も出展されていた。
うん!こう言う事を子供の頃にやっていると自分の地元に関わった歴史偉人が凄い人だったって大人になって改めて知る事が出来るんだな!
小机城代だったのは戦国時代の関東の覇者、北条家で家老と外交を務めた笠原家、特に有名なのは笠原信為公だな。KOEIは横浜の歴史ゲーム会社なのに歴史知識が浅い奴等ばっかで笠原信為公や間宮康俊公等、東海地方の武将を痛撃した名将達を登場させなかったり登場させて以後も実績に反して低評価のままにしていたりするのだが、こうやって子供の頃に歴史偉人の足跡を学ぶ機会を得ていると、人のデマや噂に騙されず自分で情報を確認する分析力も身に付く。
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何か可愛らしいキャンドルが多かったな。
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竹取物語の再現は少し不気味だった(笑)。
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でも今年は部分部分にキャンドルを集中さえた御陰で竹が幻想的に照らされとても見応えが有った!
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日本の竹ファンクラブの皆さん、今年もご苦労様でした。
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この活動は非営利団体❝日本の竹ファンクラブ❞がボランティア活動で行っている。
ホームページ→http://takefan.jp/
誰でも参加出来るので御興味有る方は是非、御連絡を!皆さん喜ぶと思います。
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今年は残念ながら昼まで天候不順で雨もパラパラしていたので屋台が無かった。
でも住宅街の駐車場で地元の人が焼き鳥の屋台を出していたので晩御飯代わりに6本購入して頂きました。
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とても美味しかったですよ♪
小机城に関しても以前に解説記事を書いているので、御興味有る方は記事を読んで見て下さい。
中には城の解説、各武将の関連解説記事へのリンクも貼ってあります。
コレ⤵
2017年度 小机城市民の森竹灯籠まつりは10月28日に開催!小机衆家臣団の紹介も!
城からの帰り道、月明かりと日産スタジアムが綺麗に見えた。
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もう涼しく成りスッカリ秋の夜空だなぁ~。
そうそう、先輩からこんな御土産を頂きました。
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鎌倉市の調査報告書。これ去年の奴なんでとても楽しみにしていた物。必要なくなった分を下さいました。内容も当然、小生の興味対象ばかり。
先輩、ありがとうございました♪

さて、次回は何か歴史解説記事を書きたいなぁ~。




mixiチェック

間宮家臣荒井家、中世には荒井家単独で鎌倉幕府征夷大将軍と室町幕府鎌倉公方の崇敬を集めた瀬戸神社の琵琶島弁才天の二重橋の架橋を許され、それを建築奉納出来る家格と財力を誇った鎌倉~室町時代の荒井家の幻の城址❝荒尾城❞は金沢文庫駅~六浦上行寺裏の浄願寺跡~権現山~御伊勢山全域が城址と思われます!
横浜市が開発利権の為に存在を認めたがらない“荒尾城跡”と推測出来る地形が金沢区六浦に存在するのを小生は藪漕ぎして突き止めました。 
入口は横浜市金沢区六浦の六浦山上行寺を目印にすると良いです。
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六浦山 上行寺この御寺の前まで昭和初期まで海が広がっており鎌倉の外港の六浦湊(みなと)として機能し、平安時代末期~鎌倉時代初期までは坂東武者として武勇名高い千葉家の船着き場で大檀那は当時は千葉家臣だった富木(とき)家でした。
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なので本堂の前には船を繋いだ松の跡が日蓮上人の史跡として記念碑が建てられ語り継がれています。
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平安時代から存続し鎌倉時代~室町時代初期にかけて非常に栄えた寺院ですので、鎌倉文化らしい矢倉が境内や周辺の山中や隣接地の廃寺跡の“スシロー”駐車場等に多く存在しています。
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ここの境内には“旧六浦文化研究所”が在り、横浜市域に置ける中世文化保護の拠点として近年まで機能していました。現在、その役割は神奈川県立金沢文庫に引き継がれています。
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この上行寺の背後には“城マニア”が歩くとどっからどう見ても“山城”な人工地形で溢れ返っているのですが、横浜市は城として話題にすら上げません。その城址と尾根続きの尾根の前には、やはり横浜市が開発利権の為に消滅させた“浄願寺跡”が存在した。
上行寺東遺跡
(※遺跡と言うのは嘘で、横浜市が破壊容認した六浦山浄願寺跡の巨大プラスチック製レプリカ)CIMG6416
この浄願寺は源頼朝公と頼朝公の親友だった真言宗の高僧文覚上人が一緒に開いたとても格の高い寺院で、鎌倉時代末期には京都は仁和寺の僧侶で徒然草の筆者として有名な兼好法師こと吉田兼好も滞在した場所でした。
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当時は浄願寺跡のマンションの丘の眼前に広がる平地は六浦の港、兼好法師が日々眺めた風景は、さぞ綺麗な風景だった事でしょう。
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これらの事実が浄願寺の後継寺院で金沢区町屋に存在する龍華寺に伝承しているのにも関わらず浄願寺跡の上行寺東遺跡は約30年前に横浜市と某建設会社と某大手不動産会社によってライオンズヒル金沢八景が建設され消滅させられました。
この遺跡は東大歴史編纂所の故:山中裕教授等の多数の著名な歴史学者が保護を訴えたのにもかかわらず横浜市は消滅させました。
そして時代は下って34年後、小生はその背後に荒尾城址と思われる地形を発見した訳ですが、恐らく以前からも多くの城マニアや日蓮宗信徒の方や千葉家臣団や三浦水軍に興味の有る人は御存知の方もいた筈です。
上行寺には日蓮宗に改宗する切っ掛けと成った日蓮上人(以下日蓮和尚御存命当時の尊称の上人を用います)の有名な船問答の伝承が有ります。日蓮上人と同じ船に乗船した千葉家臣の富木胤継公が当時は真言宗だった上行寺を管理していたのですが、その見識と法話に感銘を受けて同寺への滞在を請い、そのまま改宗したそうです。
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本牧山 妙香寺・・・国家君が代、吹奏楽、テニスの発祥地
※太字御寺の名前をクリックすると以前書いた紹介記事にリンクします。
国家❝君が代❞の発祥地である横浜市中区本牧の妙香寺も前身寺院は弘法大師空海和尚が開いた東海寺と言う真言宗寺院でしたが、やはり日蓮上人の滞在が有り、当時の地頭の佐藤家が檀那だったので感銘を受けた佐藤家によって日蓮宗に改宗した歴史が有ります。恐らく、この妙香寺の本牧の丘のふもとに当時あった蒔田湾の港から船で金沢六浦まで移動したのでしょう。これが船中問答の発端に成った筈です。後に富木胤継公は出家し、日蓮宗の大本山、中山法華経寺の初代住職と成っています。
そして戦国武将で関東最強の北条綱成公の付家老で北条家相模十四騎筆頭だった間宮康俊公率いる間宮家の武将に荒井家がおり、その荒井家の祖先が六浦湊の上行寺を支援し杉田湊に妙法寺を開いた日荷(にちか)上人の俗名が❝荒井平二郎光吉❞でした。
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牛頭山 妙法寺
※太字御寺の名前をクリックすると以前書いた紹介記事にリンクします。
荒井家は恐らくは三浦一族の新井氏と同族で鎌倉時代、宝治合戦が起きるまでは三浦市三崎町油壷の新井城にいた一族の末でしょう。荒井と新井は両方とも水軍に長けた一族でした。
三浦本家が滅んだ際に佐原三浦家と供に北条家に臣従したのかも知れませんね。北条家宗家の領国には駿河国が有りましたが、実は和田合戦や宝治合戦で三浦一族と戦った北条家は三浦一族を自分の国で細々と家臣化させて生き長らえさせてた節があり、朝比奈や三浦や由比と言った三浦一族の姓を持つ武将が戦国時代まで存続しています・・・
磯子区杉田の妙法寺近くの杉田八幡宮の別当を代々継承したのが三浦家で、油壷の新井家は三浦一族と伝承します。そして妙法寺の開基は日荷上人であり大檀那は現在も荒井家です。そして江戸時代に荒井家を家臣としていた杉田間宮家の御廟所も未だに杉田妙法寺に存在しています。
荒井と新井は恐らく同族な訳ですが、更に荒井平次郎光吉公は平次郎の名を持つので歴史常識を照らし合わせれば平氏の人間であり、三浦家は平氏の一族です。
この日荷上人は出家前に鎌倉幕府の北条家の武将だったと伝わりますが、鎌倉幕府は1333年に滅亡しています。出家の時に師僧と成られたのは中山法華経寺の第三世住職だった日祐上人だったそうです。
この日祐上人ですが、後醍醐天皇により❝建武の新政❞が行われた建武四年(1337年)に日祐上人が六浦の荒井邸に滞在した事が“如来滅後五五百歳始勧心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)”と言う日蓮上人の遺産の写本から証明されているそうです。
・・・つまり、鎌倉幕府消滅の4年後に六浦に住んでいる旧北条家臣で荒尾城主だった荒井光吉公は、恐らくは北条宗家の北条高時公の旧家臣では無く、場所柄を考慮すると六波羅探題として関西を統治する役目を担った金沢(かねさわ)北条家の北条貞将公の旧家臣だったのでしょう。日荷上人は武士を辞してからは水軍を活かして廻船商人に転身していた様です。
この金澤北条家で一番有名な・・・と言うか、鎌倉時代最大の文化人として有名な北条実時公が邸宅の隣に日本初の私設図書館を開き、これが後の金澤文庫の地名由来と成り、邸宅が後に子孫によって稱名寺として寺院化されています。
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金澤山 彌勒院 稱名寺つまり、鎌倉幕府滅亡後に荒井光吉公は商人と成り、恐らく上行寺と同様に旧主金沢北条家の菩提寺として稱名寺を守りながら、その御縁で仁王門の仁王像を譲り受ける“賭け”に勝ち、身延山まで輸送し奉納したのでしょう。この仁王像、背中に担いで運んだと伝承が有りますが、まぁ~それは物理的に無理でしょうから人力で運んだ事の比喩が伝わっているんでしょう。
そんな自然信仰マニアの源頼朝公や仏教の偉人の文覚上人や日蓮上人や富木胤継入道日常上人や荒井光吉入道日荷が関わり宗教的にも大切な六浦の土地が宗教的な聖地な訳ですが、その地形は鎌倉の玄関口と成る金沢六浦湊を守るに適した地形に在ります。・・・ハッキリ言って城。
荒井光吉公が武士だった時代は鎌倉の玄関口としての六浦港を守る城だったんでしょう、そして領主は荒井光吉公、荒井光吉公の守備した城は荒尾城、と成れば御伊勢山~権現山~笠森稲荷~浄願寺跡の山が荒尾城だったと考えるのが自然です。
金沢区能見台~赤井稲荷~能見堂~釜利谷東の丘に存在した青ヶ台城(本来なら青野台城と呼ぶべき)の方が金沢北条家最後の居城として有名だったので、文献にも登場しない荒尾城は歴史家から着目されなかったのかも知れません。
青ヶ台城遺構の残るのが能見堂跡で、これは景勝地として江戸時代初期まで有名だった場所です。
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青ヶ台城址(能見堂跡~能見台森~釜利谷緑地)
※太字の城址名をクリックすると以前書いた紹介記事にリンクします。

話を上行寺裏の権現山に戻します・・・
城マニアの小生が見ると浄願寺跡~権現山~稲荷山地形はどっからどう見ても衣笠城や青ヶ台城と似ている鎌倉時代の山城なんですよ。
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戦後の横浜市は開発利権に忖度して隠蔽しようとしたのかは解りませんが議論される事はありませんでした。てか、横浜市は城址の発掘調査に城郭専門家入れない事ばかりなんですよ(笑)。
それでも20年前に城郭専門家ではない先生達は自然と文化財の密集する重要区域として保護を訴える形で“金沢八景御伊勢山・権現山周辺文化財調査報告書”を纏め上げて下さったので、小生達は横浜市立中央図書館に行けば調査報告書を読む事が出来ます。
これ等の先生方の偉業、小生が後世に伝えずして何の歴史オタクだろうか・・・
小生は只の行く先々の綺麗な風景と史跡と郷土料理を愛する食いしん坊な歴史オタクだ。
・・・と言うのが今回の記事の投稿の発端に成りました。小生の実名など世に知られず、金にも成らず、現世に生きる小生の手柄に成らなくて良いですよ(笑)♪ 
上行寺~権現山周辺地形 久良岐のよし
地形図で見ても竪堀や堀切が見える程!
城郭研究で権威ある人物による調査支援を求む!
てな具合で、先ずは昨日撮影して来た写真を並べてみたいと思います。
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この階段が上行寺東遺跡の跡地(浄願寺跡)への入口ですが、恐らく浄願寺も大手口の要塞として機能していたの思います。
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その直ぐ先にはクランクした切通し状の地形が有りますが、この地形は上行寺の御住職様に確認した所、昔から存在する道を拡張したもので以前からクランクしていたそうです。
・・・食い違い虎口ですね。
先に進むと階段が在り、そこに小さな御社が在ります。
その御社の反対側には浄願寺跡に向かって供養塔が在ります。
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恐らく、この平場は近年の削平ですが、この台地も昔は曲輪の一つだったと思います。
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下に降りるとさっきの食違いの場所。
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そこから西に向かって伸びる上行寺の墓地は帯曲輪状に成っており上行寺の境内まで続くので、どうやら上行寺も虎口だった様です。つまり寺であり虎口の防塁として期待された配置だった様です。
もしかしたら浄願寺も源頼朝公が聖地霊場としての意味と、六浦湊を守る権現山の要塞の大手口を守る機能も合わせて開いた御寺だったのかも知れませんね。
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先に進むと林道は藪化していますが、今の時期なら蚊も蛇もいないので藪漕ぎしながら安心して歩けます。
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人工的に切り残された岩盤が台地状に成っており、横をすり抜ける順路でしか先に進めないのでこの岩場も曲輪の名残りだと思います。
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山裾は全て海蝕岸壁と言う訳ではなくと、下には上行寺始め谷戸構えの寺院が存在し、おのずと鎌倉時代の裾切り山城に見られる城壁と化しています。
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ここは左右の崖地が前後より尾根より竪堀状に抉(えぐ)れていました。
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そしてココは明らかに尾根を断ち切り敵の侵入を防ぐ堀切地形で引き橋が架かっていたと推測出来ます。同様の構造は衣笠城にも有ります。三浦半島の観音崎多々良浜は三浦一族多々良家の所領で観音崎灯台や近代要塞へと続く尾根道も同じような裾切りされた細い尾根に加工されています。
金沢北条氏の初期の邸宅跡の稱名寺を囲む谷戸の稲荷山は金沢城と推定されており、やはり同じ地形に人工的に加工されています。
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ここは権現山方面に伸びる尾根ですが、やはりこの箱状地形を巻く様に道が付けられており、ここも曲輪だった事が推測出来ます。
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・・・落ちたら死ぬyo~♪
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竪堀状地形の尾根の抉れだったかな?
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まぁ、明らかに連郭式山城ですかね。
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権現山の頂上。ここから上行寺~御伊勢山~笠森稲荷側に分岐します。
ここは以前からの削平地で現代の削平では無いので、城址の重要な曲輪で恐らく本丸か二の丸の様な役割を担っていた場所だろうと思います。鎌倉幕府が終焉を迎えて荒井家が守備を放棄した後、小栗判官と照手姫伝説の頃には盗賊の拠点と成っていた熊野権現の御堂が有った事が解る記述が万里集九の書いた梅花無尽蔵に掲載されています。
神奈川県立金沢文庫の学芸員さんの論文によるとそんな景勝地の権現山に万里集九禅師も鎌倉観光のついでか遊覧に来て以下の漢文で詩を残しているそうだ・・・
題名:入武蔵
同日有山曰権現堂(山有りて権現堂と曰(い)う) 
即相武両道之界(すなわち相(相模国)武(武蔵国)の境界である)
古云群盗所聚也
今則不然也
蓋昔有堂歟
駅樹風声入武州
山名権現憩無楼
旅衣未脱昏鴉尽
聊借民爐嘗濁蒭
・・・これは万里集九禅師が金沢区一帯に伝わる小栗判官と照手姫の伝説の一説の舞台として当時は権現堂と言う盗賊の巣窟に成っていた御堂が有ったのですが、万里集九禅師が生きていた戦国時代初期には既に無くて云々と同地を訪問した際に一般人と話している様子を詩にしている訳です。
そこに「権現堂」の名と「相武両道之界」と説名が有り、六浦は正に相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の国境だったので、この一文が権現山の地名由来の説明とも成る訳です。
権現山~笠森稲荷~東照宮跡に向かう方の尾根。
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先にズンズン進みます。
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ここ!
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帯曲輪状の地形と竪堀だと思う。
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そしてココは東照宮跡方面と、もう一つ北側の横浜市大が在る尾根との谷間。大空堀状に成っている。
恐らく緩やかな傾斜だった場所を掘り下げ拡張して空堀にしていると思う。
ここから権現山に戻り反対側の御伊勢山方面へ・・・
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ここも尾根の先の方から来る敵を迎撃する構造に山が切り残されていた。
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道幅も狭く残雪で少し危険かな。
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そこを抜けると普通に山道に戻る。
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御伊勢山から見える多分、長生寺方面を見た風景。
まぁ、写真に撮り損ねた平場なんかも沢山有って山城好きな人が見たら完全に城なんだよね。
そして、江戸時代の六浦藩米倉家が金沢八景駅と笠森稲荷の辺りに陣屋を置いたのも、有事の際に要害性の高いと言うか城としての機能を手入れすれば使えそうな荒尾城址が権現山だったからだろう。
まぁ~小生一人の意見では何とも説得力が低いので、城ファンに援軍を請う訳だ。

歴代無教養系市長と横浜市教育委員会の城址破壊と自然公園破壊容認の悪事に抗い後世に自然と歴史の遺産を残す為、日本文化を愛する純潔日本人と親日外国人と富裕層と能力と見識の有る人々が蜂起して、力を貸して欲しい!

・・・本日、素人歴史オタクの小生のお散歩(調査)♪では同地の地形山々は全てが人工的に裾切りされた切岸、大きな竪堀が穿たれ、尾根には堀切、夥(おびただ)しい帯曲輪群、そして自然地形を裾切りし拡張大空堀が現存した。
そして新たに中世山城の荒尾城址として城郭ファンに知れ渡る事を期待する。
古代人や歴史偉人が守った横浜市域の古代からの自然崇拝の聖地と貴重な蛍の大生息地の水源と城址文化と歴史・・・
後世に残す為に城郭オタクと専門家、自然風景愛好家、蛍保護活動家の支援を求む!
目下横浜市長によって消滅の危機に瀕している円海山瀬上沢の蛍大生息地と、城址としての歴史を認めない今回の荒尾城、続日本100名城に選定された上で横浜市史跡認定が未だ行われない小机城、これらの場所が史跡認定されたり自然保護区域認定され、東急等の不動産会社の日本文化と宗教と歴史と自然環境軽視の開発利権から守り通せる様に我々横浜市民が守れと騒いでる場所へ援軍と成るリアクションを起こして欲しい!

_以下少しドロドロした市と開発業者への文句_

五十猛命、日本武尊、弟橘姫様、大伴久応黒主公、笠原直使主公、善無畏三蔵法師様、弘法大師空海和尚様、平高望王、平良文公、菅原景行公、菅原淳茂公、源義家公、久良木三郎通継公、源頼朝公、遠藤盛遠入道文覚上人様、和田義盛公、佐々木高綱公、多田行綱公、平子有長公、今井兼平公、佐々木泰綱公、金沢北条実時公、名越北条宗長公、見真大師親鸞和尚様、立正大師日蓮和尚様、富木胤継入道常修院日常上人様、覚山尼様、金沢北条貞顕公、金沢北条貞将公、守邦親王様、権僧都長円親王様、用堂女王様、荒井平次朗吉光入道日荷上人様、宅間上杉重兼公、宅間上杉憲清公、宅間上杉憲直公、万里集九禅師様、太田道灌公、蒔田吉良成高公、間宮信冬公、北条氏綱公、間宮信盛公、多目元忠公、間宮信元公、間宮常信公、笠原信為公、蒔田吉良頼康公、宅間上杉房成公、笠原政尭公、中田加賀守公、臼居久胤公、臼居杢右衛門公、中田鶴野姫様、宅間上杉富朝公、北条綱成公、間宮康俊公、間宮綱信公、北条氏繁公、間宮康信公、宅間上杉規富公、板部岡江雪斎公、石巻康保公、間宮信繁公、間宮於久様、間宮於継様、天秀尼様、間宮直元公、本願寺良如上人様、間宮忠次公、間宮士信公、任蓮社然誉了鑑和尚様、歌川広重先生、山岡鉄舟公、お龍さん、ジョン・ウィリアム・フェントン先生、ウィリアム・コープランド翁、伊藤博文公、大山巌公、渋沢栄一公、渡辺忠右衛門翁、浅野総一郎翁、原三渓翁、フランツ・エッケルト先生、有吉忠一公、渡辺はま子女史、島津忠秀公、柳家小さん師匠、中澤忠雄先生、桂歌丸師匠(笑)・・・
古代から中世の人々が守り伝え江戸時代の人々が保護し明治の元勲と聖商達が文化自然保護と開発を両立して大事にし近現代の文化人が語り継いで来た文化と史跡と貴重な自然と古代の聖地が、これ以上横浜から無文化市長と教育委員会と悪徳建築不動産関連企業に消されません様に・・・
多くの歴史と自然と日本宗教を愛する義士が蜂起し悪事を暴き出し拡散し、未調査、未自然保護区指定、未史跡指定の場所が市指定文化財や自然保護区域指定を受けられます様に・・・

そして、呪詛と言う訳では無いが…
歴史と日本文化と日本古来の宗教と聖地と自然を軽視し神奈川の事を調べもせずに無碍に開発を勧める企業担当者と経営者、それを容認する一部の教育委員会職員の中と一部の歴代市長と政治家に神様仏様とマリア様とキリストの神仏の罰が直撃し改心を促して下さいます様に。
・・・ん?呪詛だこれ(笑)。

まぁ~天罰神罰と言うのはオカルトな話だけでは無くて自分の心の中から湧き上がって来て抑えられなく成る物だ。それが失敗や動揺や判断ミスや病気を起こすもんだから逃げる事は出来ないわな。
困った時だけ厄払いしたとて何の役に立つものか(笑)。
仏教的に言えば利己的な邪(よこしま)な心が邪な物と不浄な物を呼び込むわけだ。
神道的に言えば普段から茅の輪も掲げず潜らずのままでも、忌むべき事が起きた後じゃ既に災難起きてるわな(笑)。普段から氏神様と土地神様と皇祖神に御挨拶して日々の生活を感謝してこそ、御先祖様や土地神様や諸々の神様が守ってくれるってもんだわな。

仮に遺跡や宗教聖地や自然を破壊した後で「ごめんなさい」と言っても取り返しがつかないが、日本古来の宗教でも「普段の行いから変えないと何にも変わらん」し「天罰食らった後で神様に御免なさいは既に不幸のどん底」なのだよ。
変えないとダメだし、データや心でモヤモヤ駄目だと感じたら停めてかいぜんする勇気も必要なのさ。
これね・・・宗教じゃないけどトヨタ生産管理方式でも同じ事言ってるよ。
目先の欲望や体面の維持は長期的には大損こくんです!

江戸時代まで法華衆にカテゴライズされた浄土宗や浄土真宗や時宗は「南無阿弥陀仏」、日蓮宗系宗派の「南無妙法蓮華経」と唱えるのだって、悪事を悔いて反省して以後に念仏を唱えて善行を積むと言う考え方だわな。善行積まずに許される訳ゃ無ぇ~わな。
徳と言えば江戸時代には禅宗の臨済派と曹洞派とカテゴライズされた哲学だって禅問答を重視するか座禅その物を重視するかの差は有れど、普段の生活の「積徳積善」を大事にせぇ~よって考え方だわな。

そんなん神様仏様怒るような事しといて何の反省も無く改心も行動も無ければ神様も怒るわな!
浄願寺をぶっ壊した東急リバブルと同系列の東急不動産が横浜市最大の蛍生息地で水源の円海山の瀬上沢の自然環境を破壊して宅地開発しようとし、それを林文子市長が容認する発言をして栄区民と港南区民と磯子区民が怒り狂ってるわな!
仏教で前科に寛容で反省を促す宗派だって「やった後で御免なさいってのは反省して改心して日々の生活で善行を積んでナンボの物」だからな。
・・・オマエ等、上行寺東遺跡破壊から何も進歩してねぇ~じゃね~か!
現実に言い換えれば酒飲んで飲酒運転して警察に捕まってから「ゴメンなさい反省してます」は意味が無いわな。
東横神社の御祭神、渋沢栄一公は神道無念流の剣術の達人で元武士だったから、伊藤博文公や東郷平八郎元帥と同じく土地開発にも古来の自然信仰や文化や史跡に配慮してたんだぜ?
それを知らない今の東急グループの不動産と開発関連企業の経営陣な・・・
アンタ等、自分の会社の神様からも天罰食らうよ?
御地蔵様の姿した閻魔様や、道祖神様や土地の古代豪族の氏神様が至る所で日本文化と貴重な自然環境破壊をジッと見ているよ~。多分ね。
菅原道真公を左遷した藤原時平の一族郎党が天満大自在天神様と宇多天皇の御霊を怒らせてどんな目に遭った事か…
・・・祟りってな、身分上下関係無く、やった本人の家族にまで降りかかるんだぜ?心の中に自分のやった事で不安が沸き起こり健康と精神のバランス狂って仕事で重大なミスしたり事故起こしたり退職後に死ぬの恐怖してボケと病気の進行が早く成ったりな。
ほれ、三井不動産レジデンシャルの傾きマンション見て見な?

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小生の活動に賛同して下さる御寺と又、一つ五御縁を結べた。
鎌倉時代から続く横浜市金沢区六浦の名古刹、上行寺さんだ。
10日土曜日、午前中から動く筈だったが深夜に帰宅後、朝まで色々とやる事が有り結局寝たのは午前5時、起きたら10時位だった。
当初の計画では午前中から鎌倉に紫陽花を見に行き、2年ぶりに江ノ島に散歩に行こうと思っていた。
しかし不思議な事に車に乗り込むとなんだか「そわそわ」して思考が鎌倉に向かない・・・
まぁ、事前に鎌倉の長谷寺サンに問い合わせて現在の紫陽花の開花状況が5分咲きに届くかどうかと言う事を聞かされていたと言う事も少しは有るが、メインは鎌倉に車を停めて江ノ電で観光して回る事だったので、紫陽花は二の次だった。それに家から鎌倉はとても近いので又来週も見れるしね。
・・・で、途中から金沢区の建築文化財の料亭❝金沢園❞を旅館業に業種替えリニューアルした❝喜多屋❞と言う旅館に先日取材の下調べと挨拶に行った事も有り「今日、ランチ食べに行って見ようかな?」と思いついて栄区から鎌倉に続く朝比奈峠には行かず真っすぐ通り過ぎ金沢区八景方面に行く事にした。
これが昨日10日の運命の分岐点だった。
朝比奈峠の辺りから金沢八景に行こうとすると金沢区の六浦を通る。
この六浦と言う場所は江戸時代までは海が入り込んだ入江で商業港として機能していた場所だ。
鎌倉が武士の本拠地として機能した平安時代末期~鎌倉時代~室町時代初期まで大いに栄えた。
そして金沢八景の名で知られる景勝地として有名で、源頼朝公に始まり鎌倉公方足利家歴代、北条早雲こと伊勢盛時公、果ては徳川家康公まで金沢に滞在した歴史が有る。
歌川広重 金沢八景:称名晩鐘
その風景の美しさから金沢の八か所の景勝地を歌川広重等が浮世絵にしている。
現在、昭和のアホの横浜市教育委員会が風致保護せず更に市と土建屋が埋め立ててしまい金沢八景の景勝は全て失われた。
そんな事を思い出しながら車を走らせ、京都出町柳に住んでいた頃にたまに拉麺を食べに行ってた北白川魁力家の六浦店の前である事が強烈に頭をよぎった。
「そうだ、上行寺が近くに在るな。」
「デジカメ買ってからまだ写真撮影に行ってないし、御住職に荒井さんの事を確認したいな…」
「よし!上行寺に行こう」
・・・と、これは何と言うか完全に思い付きだね。と言うか、こう言う事は天啓の様な物で、思い付きに従った方が良いと小生は経験で思っている。
で、上行寺を御参りした。
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ここは茅葺屋根の山門が今も現存する貴重な御寺で、明治政府のせいで縮小してしまった旧境内地のスシロー辺りまで鎌倉~室町時代の矢倉(やぐら=坂東武者文化の横穴式の墳墓)群が大量に周辺一帯に現存している。
因みに、由緒正しい平安末期~鎌倉期前後から存在する御寺は鎌倉文化圏の旧鎌倉群~久良岐郡~三浦郡では茅葺屋根の山門が多い。まぁ、瓦葺に吹き替えても屋根の形状で時代は解る。
更に高級なのが真言宗の別格本山だった金沢区の稱名寺で、檜皮葺の塔頭の山門が在ったりした筈だ。
因みに以前、栄区鍛冶ヶ谷の旧小岩井家住宅を紹介した記事でも書いたが、❝藁葺(わらぶき)屋根❞では無くて茅葺(かやぶき)屋根の場合、一棟の御屋敷の母屋(おもや)の屋根を葺き替えるだけで4千万円程度するそうだ。

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これがその記事。
だから江戸時代に瓦葺に吹き替えた場所は、手が掛かっていないんだな、寧ろ。
因みに今月の三十日(みそか)は全国の神社で❝夏越しの大祓❞の神事で茅の輪くぐりが行われる。
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今では茅は貴重な植物に成ってしまったので、昔でも高価だったのだが更に貴重な植物に成ってしまった訳だ。この植物は素戔嗚(すさのおう)尊が厄除けの道具として古代人に教えた事に始まる魔除けの植物でもある訳だ。
さて、突然訪問した上行寺、実は数回御参りに上がっているし間宮家と無関係では無いのに御住職様とユックリ御話する機会が今まで無かった。
なので、これも良い機会だと思い訪問を決めた瞬間から身が軽かった。
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山門をくぐると最初のこの供養塔が在る。❝船繋ぎの松❞が有った場所だが、真言宗時代の富木胤継公と後に御寺を復興した荒井平次郎光吉公の供養塔が在り、横に何世代目かの船繋ぎの松が在る。
何で❝船繋ぎ❞か、ちゃんと記事を熟読して下さっている人は解ったと思うが、昔は六浦は港だったと先に触れたが、この御寺は目の前が鎌倉時代の港で千葉家の武将達が鎌倉と房総半島の海を往来する際に船を停泊させた港でもあった訳だ。
金沢区の昔の海岸線 久良岐のよし
上の画像で白い部分が昔の海岸線。半島と沢山の島が入り組む湾は多くの文化人や大名から愛され、もし現存すれば京都の天橋立よりも美しい観光地として多くの外国人旅行客で栄えた事だろう。
そんな訳で上行寺は直ぐ目の前まで海だった。
折角なので、少し御寺のその時代の歴史に触れてみよう・・・
御寺は元は金勝寺と称した真言律宗の古刹で開基の当時は源平合戦の真っ最中の頃、その頃からの大旦那は房総半島千葉家臣だった富木(とき)家だったそうだ。
この富木、取材しない学者は富木(とみき)と読みかねない。
富木と書いて恐らくは土岐家の一族だろう。更に祖先は土気城の辺りを根拠地にしていたのだろうか?
千葉家の被官に成る以前はもしかしたら上総家の被官だったのかも知れない。
後に上総国で里見家の重臣と成った土岐家の祖先に当たる人物かも知れないが、この時点での姓は富木と書いて富木(とき)だった。その家の播磨守(はりまのかみ)富木胤継(たねつぐ)公が房総半島から船で鎌倉に向かう際に日蓮聖人様と同船されたそうだ。
そして仏法について御二方は熱く語り合い、船着き場兼御寺だった金勝寺へ到着後も話は盛り上がって夜に成り、富木公は自分が支援した金勝寺の当時の御住職の普識法印様に相談して御寺ごと日蓮宗に改宗し、寺名も現在の上行寺に改名、法華経布教の道場と成って真言宗風の御寺の立地条件の日蓮宗寺院としての歴史が始まり現在に至る。
明治以前の本山格は日蓮宗大本山の中山法華寺で、この中山法華寺の境内地が富木家の邸址だそうだ。
これは知らなかった。
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間宮家所縁の妙蓮寺や・・・
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・・・杉田の妙法寺も中山法華寺が本山に成っている。
明治時代に成るまで、日蓮宗も浄土宗も時宗も同じ法華宗と呼ばれ御寺の門閥として系統が解れていると認識されていた。禅宗も同様で臨済派・曹洞派・黄檗派等と呼ばれ記録に残っている。
因みに織田信長公と徳川家康公が特に信心していたのが、この法華宗で中でも浄土宗と日蓮宗の御寺を御二人とも良く支援してらっしゃった。
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上の写真は織田信長公の遺骸が葬られた朝廷公認の織田信長公と信忠公と家臣団の御本廟、京都市の蓮臺山阿弥陀寺。浄土宗。
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上は下鴨神社、下はその別当寺だった浄土宗大本山の知恩寺。阿弥陀寺と同じく京都市。
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知恩寺は後醍醐天皇の勅願所で、徳川家康公家臣で忠臣名高い鳥居元忠公の菩提寺でもある。
織田信長公と徳川家康公の御二人は法華宗だけでなく、天台宗や禅宗や真言宗の寺院も多く復興されている。
因みに知恩寺が菩提寺に成っている鳥居元忠公は間宮家で屈指の武勇を誇った間宮康信公を黒駒合戦で討取った名将でもある。
間宮、真田、鳥居の戦勝実績はジャンケンみたいな関係で特徴が有る。 真田家>間宮>鳥居>真田こんな勝敗の関係に成っている。
その間宮康信公は北条綱成公の家老ながら間宮家が単独で伊豆・駿河方面で武田勢を散々にボコボコに追撃したり三増峠で山県昌景公や馬場信房公の武田奇襲部隊を押し返して北条氏照公の窮地を救った当時の間宮家の若様だな。 この頃から真田丸と大坂城攻防の間宮と真田による北条武田の因縁の代理戦争は繋がっているんだな。
間宮家も織田信長公や徳川家康公と同じく多くの神社仏閣を守っていた。
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上は杉田間宮の間宮信繁公の姫が嫁いだ初代久能山東照宮大宮司の榊原照久公の菩提寺、照久寺。 こちらも浄土宗。
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そして横浜市磯子区の上中里神社は間宮家が廃寺に成っていた御寺を法華宗日蓮派寺院として復興した間宮寺の跡。
無論、鶴岡八幡宮を始め若宮神社を勧進したり神道は言うに及ばず、真言宗の本山格だった横浜市南区の寶生寺やその末寺だった笹下城下の東樹院等の真言宗や、横浜市磯子区の修験道の大本山格だった泉蔵院や福禅寺権現堂の森浅間社。更に北条家臣だった歴史から曹洞宗寺院は多くなり他にも例を挙げればキリがない。 そんな間宮家は水軍を管理した家系でもあったのだが、恐らくその水軍で主力を成したのが妙法寺や上行寺を開いて六浦港や杉田港に勢力を誇っていた荒井家だ。
詳しい事は伝わっていないが大まかには荒尾城主だった事、源頼朝公が三島大社の御分霊を勧進し瀬戸神社を開き大姫の誕生の際に琵琶湖の竹生島から勧進した弁天様を祀る琵琶嶋神社を開いた際に、枇杷嶋へ架かる橋を荒井家が単独で寄進した程、鎌倉時代には財力も有り家格もそれなりに有った訳だ。
豪商と江戸時代の記録に伝わるそうだが実際はれっきしとした❝武家❞だった筈だ。それも水軍を率いた。なので荒尾城と現代では場所の解らない城の城主だったのだが、この城跡と思しき場所も同日、小生は見つける事が出来たのだが・・・
御住職と色々と荒井さんの事の情報を共有し、話し込む内に小生の話を楽しいと評して下さった。
とても嬉しかった。
そして間宮家の顕彰文に間宮重臣荒井家の事を書かせて頂く御許可を頂き、そして活動を褒めて頂けてとても光栄と言うか恐縮と言うか・・・
素直に嬉しかった。
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帰りに境内の霊木の榧の大樹の実から精製した油や新茶や御寺の縁起の冊子等、沢山のお土産を頂いた。
霊木の榧は開山日荷上人の御手植えで、榧の油は檀家さんだけで共有している物だそうだ。
何だか色々と御世話に成ったのに却って多くのプレゼントを頂いて大変恐縮した。
でも、檀家さんだけで共有している霊木由来の油を頂き、檀家同様に扱って頂く様な大変有難い気持ちの込められたプレゼントで嬉しい。何だか勿体なくて使えない(笑)! 小生は本当に自分は短気だし馬鹿だし小者なのに、多くの神社の宮司様や色んな宗派の和尚様達に可愛がって頂ける運にだけは恵まれている。これは本当に何と言うか知識と文化と先人の大切さを教えて頂ける多くの師を学校を卒業しても尚、得ているのと同じ事。
「生まれて来て良かったと」
・・・そう思える事の一つでも有る。でもこれは自分自身でどうこうと言う運命では無くて、殿様達に会に神社や御寺に行くと自然に道が開けて来た、例えるなら「御導き」みたいな感じなのかも知れない。
小生本人は行き当たりバッタリ的な行動。今回の上行寺の再訪問もそうだ。
運転中モヤモヤして鎌倉へ向かう分岐点の朝比奈峠の入口で目的地の鎌倉と違う方向の六浦にハンドル切ったら「そうだ!上行寺に行こう!」と成った訳だから。
思えば歴史偉人の顕彰活動を始めたのも今生きているのも、北条綱成公のおかげ。綱成公の御廟所へ御墓参りをしたのが歴史が本当に好きに成り神社仏閣巡りを始める切っ掛けだった。そして横浜に北条綱成公の家老で大活躍し壮絶な最期を遂げた間宮康俊公が居た事を知り、その康俊公と間宮家の関連した神社仏閣を巡り宮司様や和尚様達に話を聞いて回る内にアレよアレよと今では師と思う宮司様や和尚様達に宗派をとわず沢山巡り会う事が出来、次第に可愛がって頂ける様に成った。宗派を問わず。
気が付いたら某大学で教鞭をとる名誉教授の宮司様や現役教授の法華宗系の某宗派の和尚様や新任神職研修の指導教官だった大きな神社の宮司様や某禅宗の人事部長さんや青年部長さんやら、某高野山でお勤めに成っていた偉い和尚様とか。
今回の上行寺の和尚様も本当に始終笑顔で色々と教えて下さり、そして笑顔や時に目を見開きながら小生の話を真面目に聞いて下さって、それだけでも感謝が今、文章をタイピングしながらも湧き上がってくる。
御住職様、ありがとうございます。きっと荒井の殿様の歴史、世に再び知って貰える様に書きます!
玉縄北条家や間宮家の顕彰文にも、そして、いつか三浦家の顕彰文も書く際にも。
荒井家の御子孫とも面識有るしやらないといかん。
さて、小生の主観的な事はここまで、上行寺の写真を紹介したい。
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古い御寺、それも真言宗の大寺院だったので戦後に縮小された現代の境内地でさえ、鎌倉の大寺院がそうである様に沢山の矢倉が残っている。
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鎌倉武士達の墓所の跡だな。
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御寺を日蓮宗に改宗させた富木胤継公の富木(とき)家は千葉家臣だった時代の歴史しか現代に伝わらないが、先述の通り多分、後に里見家の家臣と成った土岐家の祖先なのだと思う。
この矢倉群の主が誰か、今度、改めて御住職に教えを請いに行こうと思う。
資料が散佚して解らなければ、許可を頂いて墓石の文字を撮影させて貰い読んでみようと思う。
そして先に紹介した船繋の松の旧跡。
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この直ぐ前まで海だった訳だな。
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太平洋戦争で戦死した将校の供養碑。立派だ。
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山門からずっと綺麗な石畳が続いており、御本堂へ向かう手前の分岐点に鐘楼が在る。
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鐘楼の屋根の上には千葉家の家紋。富木家が千葉家の家臣だった事が良く解る。
上行寺と言う御寺は鎌倉にも在って、実際、鎌倉の大町の辺りには千葉家と関連の在る場所も少なくないし、戦国時代に成っても昔は下総国臼井城主だった千葉一族の臼居家の御本家が住んでいて今も光明寺の塔頭となった元は弘法大師所縁の真言宗寺院だった蓮乗院が在ったりするが、そこは臼居家の菩提寺で千葉常胤公の所縁の御寺だったと伝承する。
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御本堂の右手に庫裡、庫裡の屋根の作りからして少し前までは茅葺屋根だったんだろう。
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対して御本堂は破風が付いており、江戸期~現代の造りに成っているので比較的新しい様だ。
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本化殿・・・浅学の小生には意味が解らない仏教用語だったのだが、調べたら法華経の事を意味するらしい。言い換えると法華堂と言う所だろうか?
そういえば源頼朝公は熱心な真言宗と修験道の信徒だったが、法華堂を大倉御所の近くに建てていたりもしたので法華の教えも好きだった様だ。
政子様は真言宗が御好きだった様だが、阿弥陀仏を信奉していた形跡が浄妙寺の歴史からも紐解けるが思想的には不明。御息子の三代将軍実朝公は臨済宗で釈迦如来を本尊とした様だ。この実朝公と北条一族によって鎌倉の至る所の御寺は臨済宗に改宗されて行った。そして禅宗を取り入れた武家文化が確立され、元寇を撃退する知識の泉と精神力の根源と成り反抗戦の原動力と成り奇跡の勝利を生み出した訳だ。だから神仏を崇拝する全ての宗派が日本の歴史を構成していて、そして全てが有ったから今が有る。だから、宗派の優劣も無いし、その代わりに確かに得意不得意な分野は有るかも知れないが、その個性が個々の得意分野を更に昇華させて日本文化を成熟させて行ったんだな。
だから不要な物なんて何も無い。
上行寺は現代は日蓮宗だ。日蓮聖人は「南無妙法蓮華経と言ってさえいれば良い」と言った様な事を書くアホ学者や小説家も多いが、当時の法然上人や親鸞聖人もそうだが実際は密教や現代では宗派でカテゴライズされてしまい学ばなくなった多宗派の様々な知識も身に付けていて、だから親鸞聖人は鎌倉の仏僧の試験官として招聘されたり、日蓮上人が書いた密教的なものが根来に保管されていたりする。
更に法然上人が「念仏だけ唱えれば極楽に行ける」と言った様な事が言われているが、法然上人に帰依した熊谷直実公や土肥實平公等の名将の動向を見るに「やった事を反省し本当に悔いた上で更生し念仏を唱える事が大事」と言う意味だろうと小生は解釈している。
まぁ、法華関連の偉人を悪く言うこれらの言葉尻を捉えた様な話は、対立した宗派のプロパガンダだったんだろう。
では、鎌倉の禅宗はどうだっただろう?禅を「禅だけ練って質素な暮らしして精神修養だけしてりゃ~良い」とトンでも無い事を思う奴がいたら阿呆だ。
蘭渓道隆和尚も兀庵普寧和尚も退耕行勇和尚も座禅だけ組んでいた訳でなく、博識で武士達に現実社会で役に立つ思想学問や兵法や文化を叩き込んだ。そして元軍を打ち破るノウハウを鎌倉武士団は獲得した訳だ。禅宗は普段の生活も修行とし真面目に生きる事を教える宗派だ。それは臨済宗だけでなく曹洞宗も同じで、だからこそ曹洞宗を支援した戦国大名の北条家の政治も善政として有名だった。
天台宗も多くの学僧を抱え知識の泉として機能したし、真言宗は仏教の原型を出来るだけ保全して伝える言うなれば仏教界の考古学みたいな素晴らしさと日本の神様や文化も特に守って来た歴史を大切にする側面を備えている。
昔の仏教も神道も多宗派に非常に寛容だった事を、現代の宮司様や和尚様には知らない方もいるのかも知れないが、歴代天皇家は正に神様も仏様も色んな仏教門閥も其々の良さを見て大切にしていらっしゃった事は様々な歴史博物館や宗教施設の遺物を見て回ると理解出来る。
そんな訳で、昔の和尚さんや宮司さん達は大らかだった訳だが、上行寺も法華宗日蓮派に改宗した後も金沢山稱名寺とずっと交流が絶えなかった様だ。
だから、御寺を富木家の後に復興支援した荒井家出身の日荷上人が稱名寺とも交流が有ったのだろう。
しかも稱名寺には戦国時代に間宮信高公に姫が嫁いだ真里谷武田家の殿様が逃げて来て北条家次いで武田家に亡命した歴史が有る。何だか間宮家の歴史は荒井家ととても因縁めいている様だ。
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上行寺の前の道、六浦道と呼び、現代の笹下釜利谷道路の延長線上の終着点。
しかしここは昔は海だった訳だ。ここに千葉家の殿様達が船で往来していた当時と同じ様子の風景を見て見たかったが今では想像もつかない。
因みに富木家の子孫と小生が推測する土岐家、仕えた里見家と争った真里谷武田家の一門衆(しんぞく)には勝家がいる。恐らく幕末の安房守勝海舟先生の祖先だろう。もしそうなら間宮康俊公の御子息で間宮造酒之丞家の始祖と成った間宮信高公の奥方の真里谷家の姫君と勝海舟さんは遠い遠い親戚と言う事に成る。つまり間宮家と勝海舟先生も親戚って事だな。
所で土岐家は美濃の土岐家の戦国時代の分流と伝わるが、ハッキリした歴史は学者にも諸説有り解っていない。
だから小生は言う、富木は恐らく鎌倉時代に関東に残った土岐家の支流で美濃の土岐とはかなり早くに、それも鎌倉時代には分かれていた家だろう。
そして土岐では無くて富木の字を用いていたので歴史学者は気が付かないんじゃないかと。
まだ学者も知らない事が多い。北条綱成公の祖先の福島家が存在しないと実地見聞しない学者共はのたまうが、実際に福島家の子孫は多摩に存在する。子孫は庄屋に成って江戸時代も存続した。
❝文字に残っている事が全てでは無い!❞しかし学者は自己保身をしながら自説を論文に書かなければいけない不自由な職業の様なので、左翼弁護士の如く状況証拠で白黒判定する事を他の学者が許さない訳だ。つまり、歴史学なのにエジプト考古学や城郭考古学とは考え方が全く異なり嘘でも文書に成っていたら証拠として論文に書けるし文字に成ってる証拠しか拾えないと「変な空気に支配されている」チキンが多い訳だ。だから死んでも文字オタク歴史学者になんか小生は成りたくない。だから考古学者の先生達や無名でも博物館の学芸員を小生は尊敬する。
まぁ、小さい時から土器や石器拾って遊んでたしね。
と、言うか日本の歴史学者が左翼染みて居るのは、東大や京大を始め国立大学の教職員が左翼に学生闘争に参加し染まっていた連中が多く幅を利かせてそういう雰囲気を作ったんだと思う。
歴史は状況証拠の方が大切だと思うんだけどね、文字は後世の人間も騙そうとして意図的に制作されたり改竄複製されたりプロパガンダも沢山有る訳だから、客観的な状況証拠から実際に史跡を発掘する方が大切だろうと個人的には思っている。実際、凄まじい数の文献を見ている学者でも小生の様な学者で無い人間が知ってる武士達の名前の発音を知らずに読み仮名を想像で誤植して人名辞典に掲載している事も有るしね。実際に御子孫に会いに行くのが一番早いのにね。
少々、ここまで宗教的な解釈の話が多すぎたかも知れない。
上行寺を後にしてからの話に移ろう。
寺の背後の山中に伝承の荒尾城の遺構と思われる帯曲輪らしき多くの削平地や竪堀らしき地形も発見した。
それは又も偶然で横浜市教育委員会が破壊容認した上行寺東遺跡に行く時に道を間違えての事だった。
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ここが上行寺東遺跡の登り口。
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分岐する階段の上が遺跡のコピー、実際の遺跡はライオンズヒルのマンション建設で主要部分が破壊され消滅した。遺跡の前に小生が荒御城跡かな?と思った地形に至る道を紹介する。
右手の階段の上に遺跡のコピーが在るが小生は、ここで道を間違えて直進した。
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眺望が良く、上行寺の裏から昔海だった平地が見渡せる。
なんとなぁ~く海だった時代の風景が想像出来る。
少し行くと又もや階段が有る。
そこを登ると何かの神様が祀られている小さな御社が在った。
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思うに浄願寺や上行寺の関連なら御寺の守護神だった神様だろう。でも御社の名前も不明なので何の神様がいらっしゃるのか判断がつなかった。でもちゃんと御参りして来た。
頼朝公や千葉家の関係なので弁財天様だろうか?
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御参りが終わって階段を下り、誤った道(笑)を更に進むと完全に上行寺の裏手に回る。
ここら辺から道の様子が怪しく成ってくる。
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余り人の往来が有る形跡が無くなり始める。雑草が生え始める。
更に進むと・・・
ドンドン獣道に成って行く。

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てか、都会育ちの人はコレ見て❝道❞とは認識しないだろう(笑)。小生が円海山の近くで育って山の中を駆けずり回って遊んでたから道に見えるだけ。実際は多分、遊歩道だったんだと思うが現在の林市長に成ってから円海山も遊歩道の整備が滞って通行止めの場所が増えたりしているので、ここも放置されてしまったんだろうか?
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昔の市長が整備した跡だろう。樹脂製のフェイクの木柵が有る。多分円海山と同じで中田市長かその前の高秀市長の頃の物だろう。
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暫く行くと昔の岩盤が露出したり、昔のままの道に行き着く。
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その辺りから、山腹のここかしこに小さな平場が散在する様に成るし、尾根道の両端が人工的に裾切りされた切岸に成っている事に気が付き始める。
これ等の平場は、どこからどう見ても❝帯曲輪❞だろう。こんなん、遊歩道でも無いし、こんな崖地に畑を作る訳も無い。
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稱名寺を囲む金沢城に似ているんだな。
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ここは上行寺の西側裏手辺り、写真では判り難いが明らかに竪堀だ。
尾根も細くクビレて敵の侵入を限定しやすい。
山頂に行くまでも竪堀らしき場所が数ヵ所有った。
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そして途中で気が付いたのだが、開削された遊歩道に成っている平場の片側、岩盤を削り残した側は全て当時の六浦湊(みなと)側で、港側への防衛を意識した土塁と言うか岩盤の防壁の様に見てとれた。
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写真では判り難いが土塁の名残りの様な地形も続いていた。
これ、文献には出て来ず上行寺の伝承に残る荒尾城何じゃないかと思う。
実は直ぐ近くの上行寺東遺跡は源頼朝公と文覚上人が開いた浄願寺の遺跡だった。
頼朝公は森浅間神社の様に陣屋を置いた要塞の傍に神様や御寺を勧進する❝習慣❞が有った様だ。
それは港北区の三会寺もそうだし、南区の若宮神社も傍に後の蒔田城が有る。
多分、ここは六浦湊を守る場所としてスタートした要塞が起源の城で、六浦湊に鎌倉時代まで勢力を持って栄えていた荒井氏の拠点だったんじゃないだろうか?ここに烽火台を置けば東京湾沿岸部とも連絡が取りやすいし。
荒尾城址か? 久良岐のよし発見の城砦と思しき地形。
改めてGoogle earthで見てみると、有るわ有るわ森に埋もれた城址に良く見られる空堀跡が森を横切り直線の凹みに成っている地形。今度、駒澤大学の某教授や御世話に成っている城郭縄張り図制作者の方に報告して置こうと思う。
さて、流石に城跡らしき地形は嬉しかったが「これ、絶対に浄願寺の遺跡には続いてない(笑)」と途中で気が付いていた。
なので丁字の分岐点まで登り、そこから引き返して改めて遺跡の入口に戻って来た。
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浄願寺廃寺は遺構も良好に最近まで現存した。
源頼朝公と文覚上人により造営された格式高い御寺で、誰でも国語の授業で習う❝徒然草❞の著者の兼好法師こと吉田兼好がここを気に入って滞在していた。吉田兼好は仁和寺の僧侶で浄願寺と同じ真言宗の和尚さんでもあった訳だ。何で吉田兼好が横浜市に滞在していたの?と思う人が少なくないと思うが、鎌倉時代当時金沢八景と呼ばれた、この地域一帯を治めていたのが金沢北条顕時(あきとき)公で、その邸宅が現在の稱名寺の場所だった。
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稱名寺は最初は金沢北条家の私邸で持仏を安置し拝む御堂としてスタートした訳だ。
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それが金沢北条家が熱心な学者でもあり、隣の谷に文庫を創設して日本のみならず世界中の文献を収集しまくったので、武家初の私設図書館と成り、現代では東の正倉院と呼ばれる程、鎌倉~室町~戦国~安土桃山~江戸の各時代を通じて仏僧と武士の一大学問所と成った。
その金沢北条家の北条顕時公の執事を務めたのが兼好法師の実兄の吉田兼雄公だったそうだ。
まぁ、そんな訳で六浦と金沢八景と金沢文庫と野島は平安~近代まで文化醸成地で景勝地だったのだが、その景勝は横浜市によって埋め立てられ先述の通り消滅した。
一方、浄願寺自体も新田義貞の兵乱で戦火に巻き込まれ略奪され多くの御寺と神社が消えたのと同じく、一度廃寺に成った。しかし戦国時代、菅原道真公の御子孫で太田道灌公に与力していた菅野家と太田道灌公によって金沢区洲崎に龍華寺として復興され寺脈は受け継がれた。
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その龍華寺には太田道灌公、北条早雲公、徳川家康公も滞在宿泊し支援した歴史が有る。
そんな歴史の浄願寺跡の上行寺東遺跡だが、ライオンズヒル建設準備中に横浜市が開発許可を出した事が明るみに成り、大きな問題と成った。
鎌倉市や横浜市の郷土史家や学者や文化人と市民が激怒し、大問題に発展させ新聞にも取り上げられたが開発利権が当時の市長に有ったのか無かったかは不明だが、破壊を強行され消滅した。
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遺跡と看板に書いてあるが事実は違う。
チキン横浜市教育委員会が己の悪行に自覚が有ったのか意味の無い張りぼてで消えた遺跡の一部を複製し神仏の天罰と市民の批判から己等の罪を粉飾するかの様に造ったのが上行寺東遺跡な訳だ。
だから上行寺東遺跡の主要部は意味の無い張りぼて。
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造形保存とか言ってるが、開発許可を踏みとどめられなかった教育委員会の体面保つ方便。
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この遺跡の入口には神社も有る。
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鳥居は神明造り。
でも何の御祭神化は解らない。海を守る場所、そして皇祖神系の神様を祀る神社に用いられる事の多い神明鳥居なので八幡社だろうか?恐らく御祭神は八幡大菩薩こと応神天皇、本来の御名前を大伴別命(おおともわけのみこと)と言い、別名の誉田別尊(ほんだわけのみこと)も有名な神様だろう。
源頼朝公の幕府設立に協力した千葉家や荒井家の祖先と思しき三浦家は皆、鶴岡八幡宮の八幡大菩薩を勧進して神社を造営したので恐らく、港を守るこの丘にも八幡様が迎えられたんじゃないだろうか?
看板が何も無いので神様も由来も解らない。
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残念。この御神紋も何の神様に用いる物なのか良く知らない。
八幡社なら波切紋の筈なんだけれどな・・・。
その左隣には小生をいつも守って下さる御稲荷様がいらっしゃった。
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ちゃんといつも守って頂いてる御礼と、次の訪問先で又無事に御会いする事が出来る様に御願いを申し上げた。
その御稲荷様の反対に上行寺東遺跡が在る。
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これ全部張りぼて。
こんな大規模なコピーする位なら市有地を土建屋に代替して開発諦めさせれば良かった物を・・・
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本当に勿体ない、完璧な鎌倉時代の御寺の文化だ。残っていればどれだけ貴重な史跡に成ったか。
鎌倉市の無量壽院址に匹敵する規模と保存状態だった筈だ、横浜市が容認するまでは。
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この矢倉は本物。
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映さなかったけど隣の矢倉は色々置かれてごみごみしてた。
一頻(ひとしき)り写真撮影をしてから、上行寺を再訪して荒尾城址と思しき地形の事を御住職に報告した。
六浦訪問の目的を全て終え、少し汗ばみ夕涼みしたく成ったので野島に移動した。
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野島の伊藤博文公の金沢邸の縁側で海を見ながらの夕涼みと、来月、甥っ子と姪っ子を連れてキャンプに来るので、ついでに案内所に手続きの事等を確認する目的も有った。

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ここは無料で見学出来るし縁側に座って夕涼みしてユックリ時間を過ごせる。
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まぁ、解説も充実してるし。
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建物の由来や、各時期の出来事とリンクした内容の解説は読んでいて面白い。
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ここで松越しの海と八景島を見ながら600円で抹茶と和菓子を頂いてボ~っとしに小生はたまに来る。
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金沢八景の解説や、伊藤博文公の生活やここで大日本帝国憲法の草案を起草した解説が有る。
ここに来ると伊藤博文公が朝鮮の王族と非常に友好な関係を築いていて、朝鮮王族が度々、伊藤博文公の金沢別邸に遊びに来て宿泊していた事実も知る事が出来たりする。
韓国人が知っても絶対に認めたくないだろう歴史事実だな。
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伊藤公の御蔭でゆっくり出来た。
建物を出て、キャンプ場の下見に移動。
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夏島が見える。あそこにも昔は旅館が在って、そこでも憲法の草案を考えていたそうだ。
風景綺麗だったんだろうね、本当に。
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その夏島の前に有るのが日産自動車追浜工場、昔の本社工場。そして戦前戦中を通じて横須賀鎮守府の海軍飛行場だった場所。
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だから戦時中に作られた零戦の格納庫が野島に現存していたりする。
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まぁ、今では存在を余り知る人はいない。
ここまでの徒歩5分程度の間に沢山の紫陽花を見る事が出来た。
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来週位には鎌倉の紫陽花も満開に成るだろう。
零戦の格納庫の前一帯がキャンプ場に成っており、予約すると誰でも利用する事が出来る。
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その奥には野島青少年研修センターと言う場所が有り、20人以上の団体から宿泊する事も出来る。
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大学生のサークルやボーイスカウトが良く利用するそうだ。
素泊まりなので食事は付かず、自炊。
施設内に炊事場も有るが、キャンプ場を予約しておけばBBQ施設を使う事も出来る。
詳しい事は職員に聞くかネットを見ると良いと思う。
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キャンプ場について職員さんに色々と質問をして無事確認終了。
後は当日の天気が良い事を祈るのみ。
てな訳で野島の野島稲荷神社に移動した。
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以前も個別の紹介記事で書いたが、ここは紀州徳川家の崇敬を集めた御稲荷様だった。
何故なら現在のキャンプ場の辺りには紀州徳川家の別荘が在ったのだが、それを知る人は今の横浜市民には少ない。
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大きくも小さくも無い神社だが、森に囲まれ雰囲気は良い。
御狐様が出て来そう(笑)。
小生が子供の頃はこの社殿の裏側の崖に掘られた階段を上って頂上まで行く事が出来たのだが、今は危険個所扱いされ進入禁止にされてしまっている。
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神様に御祈りを終えて野島を後にした。
帰りしな家系亜種の六角家の直弟子が営む金八家で家系拉麺を食べた。
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ここの店主が修行した六角家は、元々は家系拉麺の創始者の吉村家の吉村実社長の直弟子で信頼され本牧家を任せられていたのだが、有る時に従業員全員を引き抜き退職、吉村社長の恩を仇で返す様に六角家を開いた神藤と言う人間の店だが昔は吉村社長の弟子達の家系の中でも有名な店だった。
まぁ因果応報と言うか、現代では吉村社長の直営店や別の吉村社長の直弟子の店等に取り囲まれ閑古鳥が鳴いている。
しかし六角家は新横浜ラーメン博物館のオープン当初に入店したり、昔は人気だった。だが吉村家等が更に味に研鑽を積み発展した中で六角家は勢力を縮小して現在に至る。
吉村社長と全く関係ない工場でスープを作る❝偽家系❞のチェーン店が最近は多くなっているが、金八家の店主は言い換えれば❝本物の吉村社長の孫弟子❞で本当の家系❝亜種❞の拉麺を食べられる店な訳だ。
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内装はとてもオシャレ。
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これなら女性にも入り易いだろう。
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店のキャラクターも可愛いな。
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味玉増しで注文、本流の吉村家や杉田家と比べるとアッサリ目、醤油タレの強さは控えめで確かに女性向けなのかも知れない。
家系総本山吉村家とは少し違うが、これはこれでちゃんと血統を受け継いでいる分家の流派の味として家系のセオリーを守っていて美味しい。
店員の皆さんも明るく、雰囲気も良かった!
まぁ、師匠は不義を働いたかも知れんが、更に厚顔無恥な工場生産スープの偽家系に対抗する勢力として家系を守って欲しい!
改めて言う、とても美味しかったですよ!

この後スポーツジムに行き
運動して風呂入ってサッパリしてから帰宅した。
良い休日を過ごせたし、又、素晴らしい和尚様と御縁が結べた事が嬉しかった。
次の休日はどんな人に出会えるんだろう?
mixiチェック

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